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2019年の2019を目指して(2)

2月28日(木)雨

 2月はずっと横浜で過ごしたが、東京の病院に出かけ、そこから映画を見に出かけ、港区と千代田区に足跡を記した。1月からの累計では、1都1県、1市3区に足跡を記したことになる。
 新たに東急の目黒線、都営地下鉄の三田線に乗り、日吉で乗り換え、白金台、神保町で乗り降りしたので、利用した鉄道会社は3社、路線は5路線、乗換駅は3駅、乗降駅は4駅ということになった。
 新たに利用したバスの会社はなかったが、路線としては横浜市営35,83系統に新たに乗った。新たに乗り降りしたバス停はない。(1月は31、2月は10、累計は41)

 この記事を含めて28件の記事を書いた。内訳は日記が5、読書が1、読書(歴史)が7、トマス・モア『ユートピア』が4、読書(言語ノート)が2、『太平記』が4、ダンテ『神曲』が4、推理小説が1となる。1月からの通算では60件となり、内訳は日記が11、読書が7、読書(歴史)が8、トマス・モア『ユートピア』が8、読書(言語ノート)が6、『太平記』が9、『神曲』が8、推理小説が2、詩が1ということである。コメントを2件、拍手を550頂いた。1月からの累計はコメントが3件、拍手が1014ということになる。
 トマス・モア『ユートピア』が終わったので、次はトンマーゾ・カンパネッラの『太陽の都』に取り組むつもりであるが、すぐに始めるかどうかは思案中である。泉井久之助『ヨーロッパの言語』、白川静『漢字』、内田洋子『イタリア発イタリア着』、イタロ・カルヴィーノ『木のぼり男爵』など、中断しかけている記事も少なくないので、そのあたりをどうするかも考えていきたい。(1月は33,2月は30、累計は63)

 2軒の書店で12冊の本を買った。1月からでは、2軒で27冊を買っていることになる。10冊の本を読んだ。読んだ本を列挙すると:佐々木閑『大乗仏教』(朝日新書)、平松洋子『おいしさのタネ』(ちくま文庫)、渡辺淳子『東京近江寮食堂 宮崎編』(光文社文庫)、富田武『歴史としての東大闘争 ぼくたちが闘ったわけ』(ちくま新書)、本郷和人『承久の乱』(文春新書)、内田洋子『イタリア発イタリア着』(朝日文庫)、市井豊『予告状 ブラックorホワイト』(創元推理文庫)、元木泰雄『源頼朝』(中公新書)、藤生明『徹底検証 神社本庁――その起源から内紛、保守運動まで』(ちくま新書)、石井公成『東アジア仏教史』(岩波新書)
 宗教(特に仏教)、歴史(日本史)、イタリア、食べ物あたりが主要な関心の対象であるが、偶然、そうなっただけだともいえる。今後の方向性として、社会科学関係と外国語の本を優先させることにしたいと思うが、さて、どうなるか。(1月が11、2月も11、合計22)

 NHK『ラジオ英会話』の時間を20回、『遠山顕の英会話楽習』の時間を12回、『高校生からはじめる「現代英語」』の時間を8回、『実践ビジネス英語』の時間を12回聴いている。1月からの合計は『ラジオ英会話』が39回、『遠山顕の英会話楽習』が24回、『高校生からはじめる「現代英語」』の時間が15回、『実践ビジネス英語』の時間が23回ということである。
 『まいにちフランス語』入門編を11回、応用編を8回、『まいにちスペイン語』入門編を11回、中級編を8回、『まいにちイタリア語』初級編を11回、応用編を8回聴いている。1月からの累計は、『まいにちフランス語』入門編が20回、応用編が13回、『まいにちスペイン語』入門編が20回、応用編が13回、『まいにちイタリア語』初級編が19回、応用編が12回ということである。
 『NHK高校講座』の深夜(といっても0:40まで)の放送が再開したので、現代文、古典、国語総合、英語表現Ⅰ、コミュニケーション英語Ⅱ、コミュニケーション英語Ⅲ、倫理、政治経済、音楽Ⅰなどの放送を聴いている。(1月が80、2月は109、合計189)


 2月に入ってやっと、神保町シアターで『君の名は 第3部』を見て、見た映画が1本となった。(1月は0,2月は2)

 神保町のすずらん通りの檜画廊で丸木位里・俊展を見た。

 2月22日にJリーグが開幕したが、まだサッカーの試合を見に出かけてはいない。この間、1068回のミニtoto-B、1069回のミニtoto-B、1070回のミニtoto-A、1071回のミニtoto-Bをあてている。それで出かけた球技場は1、見た試合は2、あてたtotoは7ということである。(1月が6、2月が4、合計10)

 アルコール類を口にしなかったのは1日だけで、1月の7日に比べるとだいぶ後退している。(7+1=8)

 いまのところ各方面の向けて順調に取り組みを進めているので、できるだけこのペースを崩さないようにしたい。
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市井豊『予告状ブラックorホワイト ご近所専門探偵物語』

2月27日(水)曇り

 2月26日、市井豊『予告状ブラックorホワイト ご近所専門探偵物語』(創元推理文庫)を読み終える。

 「ご当地探偵」を自称する九条清春の「活躍」を、彼の「秘書」である渡会透子の目を通して描いた短編集である。

 「生まれも育ちも川崎市である透子は、人材派遣会社の登録社員として、地元にある九条グループの子会社に勤めていた。」(13ページ) ある日、社内ですれ違った老紳士に「きみ、いい目をしているね」と褒められる。それが九条グループの会長であると知った彼女の頭の中は真っ白になる。彼女のまじめな(まじめすぎる!)性格と勤務ぶりを知った会長は、自分の孫息子の始めた仕事をサポートしてほしいと持ち掛ける。

 探偵の仕事が好きで、素人探偵として全国を走り回り、数々の知能犯と対決して難事件を解決してきた清春は、急に疲労を感じて、「もっと日常に即した、身辺調査や失せもの捜しなどのささやかな仕事がしたいと思うようになり・・・事務所を立ち上げ、地元密着型の探偵になった」(24ページ)という。能書きは立派なのだが、見たところでは彼の生活ぶりは怠惰そのもの、事務所とご本人のだらしのない様子を見た透子は、「一目見て、この男とは気が合わないと思った。」(11ページ、書き出しの一行)
 祖父の言葉によると誰に似たのかマイペース(方向性が違うだけで、祖父とよく似ている)という九条清春は、仕事を始めるつもりはなく、給料だけは払うから自宅で待機してくれなどと持ち掛けるが、根っからの仕事人間である透子がこの条件を受諾するわけはなく、暖簾に腕押しの努力を始める…と仕事のほうから彼らのところに舞い込んでくる。

 ご当地アイドルに届いた謎の予告状の意味をめぐる表題作「予告状ブラック・オア・ホワイト」は川崎駅前のラゾーナ川崎が主な舞台となる。親友に箱を預けられたが、その親友が急死したので、箱を開けずに中身を突き止めたいというおばあさんの依頼にこたえて謎の解明にあたる「桐江さんさんちの宝物」、地元出身のオリンピック選手の失踪事件をめぐる「嘘つきの町」はどこにでもありそうな商店街の日常の謎が取り上げられる。夢見ヶ崎動物公園のリスザルをめぐる騒動を描く「おかえりエーデルワイス」では再び、川崎市に実在する場所が舞台となる。最後に収録されている「絵馬に願いを」では、川崎大師平間寺に奉納した絵馬の紛失事件が描かれるが、寺とその門前の商店街が主な舞台となる。

 作者自身が「あとがき」で述べているように、もともと作者の地元川崎市をモデルに、架空の都市で起きた事件とその解決を描くシリーズとして構想していたのが、川崎への愛着が強く、実在の地名を使った作品に書き換えたのだという。多摩川沿いをよく走っているし、カワサキ・ハロウィンのパレードは毎年見ているという。作品中にはハロウィンは登場しないので、あるいは続編が書かれるかもしれない。5編を通じて、清春と透子は波長が合わない。「絵馬に願いを」の依頼者が透子を美人だといって、思いを寄せ始めているようだし、清春のほうは、平間寺の巫女(お寺に巫女さんでいいのかな?)の船見芽衣という女性の観察力が気に入るので、続編が書かれると、思いがけない展開があるかもしれないと期待させられる。

 無意識的にそうなったのか、意図的にそうしたのか、作者自身は語っていないからわからないが、この作品の舞台になっているのは、川崎市の川崎区と幸区だけであって、その他の部分は描かれていない。たしかに本来の川崎はこの2区に限定されると思うが、中原区やさらにその西北のほうの地域も取り上げてもよかった、武蔵小杉周辺や等々力グランドや国木田独歩の「忘れえぬ人々」の舞台である溝の口なども川崎市内に含まれていることも忘れてはならないとも思うのである。

 私はラゾーナ川崎と川崎大師には出かけたことがあり、夢見ヶ崎動物公園にも興味があるが、こちらは出かけたことがない。ラゾーナ川崎では、109シネマ川崎に以前はよく出かけたのだが、最近はご無沙汰している。そういえば、もっと昔はミスタウンといった時代の(現在の)チネチッタでよく映画を見た。という程度に、この作品の舞台となった場所にはなじみがあるので、楽しく読むことができた。ただ、清春のように甘党ではないので、川崎大師門前の名物とんとこ飴(265ページに登場)よりも、どこか適当な店を見つけて飲みたいという気持ちのほうが強い。作者は本来の川崎に思い入れが強いのだろうが、府中街道沿いにもう少し舞台を広げてもいいのではないかという気はする。 

『太平記』(251)

2月26日(火)曇り、午後になって晴れ間が広がる。気温上らず。

 新田義貞の戦死でいったんはその勢いを失った北国の宮方の武士たちであったが、義貞の弟の脇屋義助を中心にその勢力を挽回し、足利方の越前守護斯波高経が籠っていた足羽の黒丸城を陥落させ、高経を加賀に敗走させた。このため、京都の足利方は、高師治、土岐頼遠らの軍勢を北国に向かわせ、暦応3年(南朝興国元年、1340)9月に、宮方の拠点であった南越前の杣山城が陥落し、義助は美濃に逃れた。足利方の優勢の中で、ただ一か所残った鷹巣城にこもった宮方の畑時能は、不思議な犬を使うなどして奮戦したが、流れ矢にあたって落命した。

 さて、脇屋義助は美濃の根尾城(岐阜県本巣市根尾神所にあった城)にこもっていたが、そこも落城して、郎等73人を率いて、身をやつしてひそかに旅を続け、熱田大宮司昌能の城である尾張国波津崎(はづがさき、愛知県の知多半島の突端にある羽豆岬)にきずかれた城に落ち延びた。
 熱田大宮司家は熱田神宮の神職の家柄であり、源頼朝の母親の実家であったことでも知られる。熱田大宮司家が宮方に心を寄せていたことは、これまでの経緯からもわかる。

 ここに十余日滞在しているうちに、敗軍の兵があちこちから集まってきたので、伊勢、伊賀を経て吉野の南朝の御所へとたどり着いた。そこですぐに、参内して後村上帝に拝謁したのであるが、帝はご機嫌麗しく、この5・6年の間の北国における戦功を他に抜きんでたものであると賞賛され、敗北して戻ってきたことが無念であるとは決して仰せにならなかった。
 それだけでなく、翌日、臨時の宣下があって、義助の位階を一等進められたのであった。それだけでなく、その場に参った一族や月従っていた兵たちにも、あるいは恩賞を賜ったり、あるいは官位を進めたりしたので、その場にいた皆が他人以上の面目を施したのであった。

 そのころ、殿上の間(殿上人の詰め所)の入り口に、人々が集まっていたが、いろいろと話に興じている中で、まだ左衛門督(さえもんのかみ)であった洞院実世が、この一部始終を嘲笑した。
 「そもそも義助は越前での合戦に負けて、美濃の国に敗走したのではないか。しかもその美濃の国でもまた追い落とされて、行き場がなくなって、吉野にやってきた。それなのに帝がその戦功を賞賛されて、官禄ともに重く褒美を与えられたのが、腑に落ちないことである。
 これに似たような例というのは、元暦の昔(治承4年が正しいと、脚注にある)、平重盛の息子維盛が大将軍として頼朝討伐に向かい、富士川で鳥の羽音に驚いて逃げもどってきたのを、祖父の清盛入道の計らいで右近衛中将に昇進したことがあり、それと変わらない」と、恩賞を与えるのはどうかと異議を唱えた。

 実世とともに南朝の公卿たちの中心人物であった四条中納言隆資はこの意見をよくよく聴いていたが、「過言一度口を出ださんは、駟馬追ふとも舌に及ばず」(第4分冊、48ページ、過ったことを口にすると、それが広まる速さは、駟=四頭立ての馬車もかなわない)といわれているのに、なぜそんな軽率な発言をされるのか。義助が北国で敗戦したのは、彼の戦い方に問題があったのではなく、十分な支援を受けられなかったからであり、それについては、吉野の公卿たちにも責任がある。一生懸命に戦ってきた武士たちをばかにするようなことをいうのは、控えた方がいいとたしなめた。
 そして孫子が呉王闔閭に対し、士卒は大将の命令を守ることが大事だと説いた故事、周の武王が殷の紂王を討とうとしたときに、太公望が大将の役割が重要であると説いた話を引き合いに出して、戦争における大将の役割が重要であることを説き、帝が義助の功を称されたのは、このような例にかなったことであると述べたので、学識ある人物として知られている実世もこの意見には反論できず、すごすごと退出したのであった。

 洞院実世(1308‐58)は、この時代の重要な史料である『園太暦』という日記を遺した太政大臣・洞院公賢(1291‐1360)の子で、『太平記』には右大将とあるが、南朝の左大臣にまで昇進している(つまり、そのことを『太平記』の作者は知らなかったらしい)。四条隆資(1292‐1352)は南朝の実務をささえるとともに、武士たちとともに戦い、最後は後村上帝を守って戦死している。彼の子どもたちも南朝方のために尽力したが、戦死したり、早逝したりして彼の一族は絶えてしまう。ところが、彼の娘は北朝方の中心的な公卿である西園寺実俊(西園寺公宗と日野名子の子)の正室となった。このあたり、なかなか複雑である。

日記抄(2月19日~25日)

2月25日(月)午前中曇り、午後になって晴れ

 2月19日から本日までの間に経験したこと、考えたこと、これまでの記事の補遺・訂正等:
2月19日
 本郷和人『承久の乱』(文春新書)を読み終える。ご本人も『日経』連載の「日本史 ひと模様」で書いていたが、昨年末に坂井孝一さんによる同名の書物(中公新書)が出ていて、競合関係にある。両者を読み比べた感想として、本郷さんはこの出来事の背景、院政と鎌倉幕府の関係を詳しく掘り下げ、乱後の両者の関係を含めて、大局的にその意義を論じているのに対し、坂井さんのほうは乱の背景も述べてはいるが、乱そのものの経緯についてかなり詳しい。ともに、後鳥羽上皇、源実朝、北条義時といった主要な人物の性格や行動については詳しく述べている。ということで、両者は補完関係にあると見ることができ、興味のある方は両方とも読んだ方が全体像はつかみやすいと思う。興味のない方は、両方とも読まないでおけばよいが、そんなことは言われなくてもわかっていらっしゃるだろう。

2月20日
 『日経』の朝刊の文化欄に伊藤なお枝さんという人が「南蛮服に見る清正の知性」という興味深い文章を書いている。熊本の本妙寺という加藤清正の菩提寺に彼が着用したと伝えられるシャツが残っているが、袖や前立てにくるみボタンが使われた瀟洒なデザインで、Sサイズという一般に想像される清正のイメージとは異なったものである。このシャツは16世紀にスペインで刊行された裁縫書に載っている型紙からつくられたものらしく、清正は原田喜右衛門という貿易商と交流があったので、そのあたりから入手したのであろうという。

 病院で診察、その後栄養指導を受ける。担当の医師は異動、栄養士は定年退職で、ともに4月から別の人になるそうだ。さて、どうなるか。

 神保町シアターで『君の名は 第三部』(1954、松竹、大庭秀雄監督)を見る。やはりこれは第1部から順を追ってみるべき作品だなと思った。出会いとすれ違いとが、かなり都合よく組み合わさったストーリーではあるが、登場人物が訪れる土地の風景が美しく描き出されていて、それなりに見ごたえがある。途中から登場する、九州弁を使う男性を演じている俳優の顔に見覚えがあって、誰かなあと思案をして、しばらくして大坂志郎だと思い出した。やはり、映画は始終見ていないと、記憶力が鈍るのである。

 NHKラジオ『実践ビジネス英語』の”Word Watch"のコーナーで、the London Underground(ロンドンの地下鉄)という語を取り上げた。1863年に世界で初めて開通したロンドンの地下鉄は、通例the Undergroundあるいはthe Tubeとよばれる。一方、ニューヨークなどの地下鉄はsubway、ワシントンDCの地下鉄はthe Metroというそうである。
 私は、札幌、東京(メトロ、都営)、横浜、名古屋、京都、大阪、神戸、福岡の地下鉄に乗っているが、なぜか仙台の地下鉄には乗ったことがない。海外では、ロンドン、リヴァプール(地下鉄といえるかどうか疑問ではあるが)、ソウルの地下鉄に乗ったことがある。パリでは残念ながら乗ったことがなく、万国を訪問したときにはまだ地下鉄ができていなかった。

2月21日
 『朝日』朝刊の「特派員メモ」はウルグアイのモンテビデオで開かれたベネズエラの問題を話し合う国際会議の後、呼びかけたEUの代表が会議についての記者会見を行った後に、メキシコの外相が単独で予定外の記者会見を行い、実はこの会議が波乱に満ちたものであることが暗示されたというところから始まり、この記者会見は当然のことながらスペイン語で行われたのだが、地元ウルグアイの記者の質問にメキシコの外相が「ちょっと待って、スペイン語が違うから、ゆっくり話して」と頼んだというところが興味深かった。
 ラジオの『まいにちスペイン語』を聴いていても、中南米諸国におけるスペイン語の違いということがかなり強調される傾向があるが、この記事によると、同じ中南米でもウルグアイやアルゼンチンのスペイン語は「発音や抑揚が特徴的で、半ば冗談で『字幕が必要』」だという人さえいるそうである。
 昔(1970年代)に私がスペイン語を勉強しはじめたころには、中南米あるいはスペイン国内におけるスペイン語の地域的な違いというのはあまり問題にされなかったように記憶するから、このあたりの認識が時間の流れとともに変化したということのようである。

 『日経』の朝刊に「高卒人材 争奪戦激しく」という見出しの記事が出ていた。昨年12月現在で、内定率は91.9とバブル期並みなのだそうだ。その一方で、「3年以内の離職」も4割に達しているという。学校と職場の連携の在り方も問題ではあるが、高校生の職業についての知識が限られていることや、将来の予測がかなり難しいことも影響しているのではないか。
 今週の『高校生からはじめる「現代英語」』は”College seniors worried AI could replace their jobs"(就活学生AIの影響を懸念)というニュースを取り上げていて、こちらは大学生の話だが、AIの普及によりとってかわられる職種が出てくるのではないかという心配は、大学生に限られるものではないだろう。

 文芸評論家の高橋英夫さんが2月13日に、老衰で亡くなられていたことがわかった。88歳。旧制一高の名物教師であった岩元禎を取り上げた『偉大なる暗闇 師岩元禎と弟子たち』や、作家たちの友情を取り上げた『友情の文学誌』など、その著書や文章にはずいぶんお世話になってきた。謹んでご冥福をお祈りする。

2月22日
 NHKラジオ『実践ビジネス英語』の”Quote...Unquote"のコーナーで取り上げられた言葉:
There are no eternal facts, as there are no absolute truths.
---- Friedrich Nietzsche (German philosopher, 1844 - 1900)
(絶対的な真理がないように、永遠の事実もない。)
 いかにもニーチェらしい言葉である。ニーチェは若いころ、スイスのバーゼル大学の先生をしていて、『イタリア・ルネサンスの文化』の著者である歴史学者ヤーコプ・ブルクハルトと同僚であり、2人は仲が良かったそうである。たぶん、お互いの気に障るような話題は避けていたのであろうと思う。

 笑福亭松之助さんが老衰のため、亡くなられた。93歳。手元に相羽秋夫『現代上方落語人録』(弘文出版、1981)という本があるが、この本に登場する落語家を列挙すると、笑福亭松鶴、桂米朝、桂春団治、桂小文枝(まだ文枝になっていなかった)、笑福亭松之助、露乃五郎(のちに鶴の五郎兵衛)、桂文我、桂文紅、森乃福郎、桂春輔(後に祝々亭舶伝)、桂枝雀、桂福団治、笑福亭仁鶴、桂春蝶(先代、当代の父親)、林家小染、桂朝丸(現・ざこば)、桂三枝(現・文枝)と続き、松之助さんがいかに長生きしたかがわかろうというものである。ラジオでよく落語を聞いたし、TVでは俳優としての姿によく触れた。名人とは言えなかったかもしれないが、印象に残る噺家であった。ご冥福をお祈りする。

2月23日
 『日経』の「日本史ひと模様」は上杉景勝を取り上げている。関ヶ原の戦いは、「大きな戦い」のための口実を探していた徳川家康が、標的として選んだ上杉景勝を「征伐」するために大軍を率いて登場した後、石田三成が反家康派の大名を結集して仕掛けたのであるが、それを知った家康が途中から引き返す。会津にいた景勝がなぜその家康を追わなかった(逆に北上して、奥羽地方における家康派の大名と交戦している)のかは謎だとしている。考えられるのは、①家康を追いかけた場合の兵站・補給の困難がある(徳川派の大名で固められた東海道をいかずに、中山道を行く秀忠を追いかけるとか、もともとの領地である越後を通って、北陸から西へ向かうという選択肢もあったはずだ)、②家康が江戸からなかなか動かなかったために戦機を逃した、③家康が上杉勢の抑えとして残した次男の秀康が、北関東の領主たちに一定の影響力を持っていたために動きにくかったということであろうか。

 『NHK高校講座 古典』は『更級日記』の第4回(最終回)。作者(菅原孝標の娘)はあこがれていた『源氏物語』の全巻をおばから送られて読みふける。ほかのことは頭に入らない。そして、自分も物語の中の女君のように生きることを夢想する(どちらかというと悲劇的な人物である夕顔と浮舟にあこがれるというのが文学少女的である)。そして老境を迎えて、そのころのことをあらためて客観視しながら、それでも懐かしく回想する。
 最近、『新古今和歌集』を文庫本でボチボチとよんでいるのだが、菅原孝標の娘の歌に出会うことがある。『更級日記』を読んだことがあるせいか、何となく知り合いに出会ったような気分になるのが奇妙である。

2月24日
 米軍普天間飛行場の移設計画をめぐり、名護市辺野古沿岸部を埋め立てる工事の是非をめぐる県民投票が行われ、反対が72.15%に当たる43万4273票を占めた。なぜ埋め立て工事が必要なのかという説明の責任を放棄して、既成事実を作ることにのみ専念してきた政府の責任は重い。今後、どのように問題に対処するか、その姿勢が問われるところである。首相もこの日の在位30周年記念式典に向けて、床屋に出かけるのが誠意の示し方ではないだろうと思う。

 サッカーのJ2の公式戦も始まり、横浜FCはアウェーでファーレン長崎に0-1で敗れた。幸先がいいとは言えない滑り出しである。こういうこともあろうかと想定して、この試合をトリプルで予想したミニtoto Bが当たって、9,035円という賞金を手にすることになった。ミニtoto Aの97,024円に比べると10分の1以下ではあるが、それでもかなりの額である。

2月25日
 今年の米映画アカデミー賞は作品賞が『グリーンブック』、主演男優賞が『ボヘミアン・ラプソディ』のラミ・マレック、主演女優賞が『女王陛下のお気に入り』のオリヴィア・コールマン、助演男優賞が『グリーンブック』のマハーシャラ・アリ、助演女優賞が『ビール・ストリートの恋人たち』のレジーナ・キング、監督賞が『ROMA/ローマ』のアルフォンソ・キュアロン、外国語映画賞が『ROMA/ローマ』と、分散した授賞となった。
 本日の『朝日』に「変わるアカデミー賞」、「作家色強い映画が受賞の傾向」、「興収と隔たり」という見出しで最近の傾向が記されていたが、かなりあたっていたように思われる。もともとアカデミー賞は不思議な賞で、受賞よりも、ノミネートされることに意味があるというのもその通りかもしれないが、映画の芸術性をめぐる評価とも、興収とも違う業界人のお祭りという性格は、むしろ一貫しているのではないか。
 『万引き家族』のキャスト・スタッフが、アカデミー賞のほうに気をとられて、フランスのセザール賞の授賞式に参加しなかったというのは、ポカというよりほか言いようがない。日程を考えて、参加者の分担を決めて、航空券とホテルの手配をするくらいのことは、できるだろうと思う。外国語映画賞を受賞しただけに、残念である。アメリカだけが外国だと思ってはいけないのである。

 映画といえば、ジーン・ケリーとのコンビで『雨に唄えば』を監督し、オードリー・ヘップバーンの出演作『パリの恋人』、『シャレード』、『いつも二人で』を手掛けたスタンリー・ドーネン監督が心不全のため、ニューヨーク・マンハッタンの病院で死去された。94歳。年に不足はないとはいうものの、やはり寂しい。
 ドリス・デイ主演の『パジャマゲーム』とか、『くたばれヤンキース』とかのミュージカル作品もあるが、個人的にはロマンチック・ミステリーが好きで、『シャレード』のほかに、グレゴリー・ペックとソフィア・ローレンが共演した『アラベスク』も面白く見た。『アラベスク』の中で、ソフィア・ローレンを追うグレゴリー・ペックがタクシーを捕まえて、あの車を追ってくれというと、運転手が、そういわれるのを待っていたといって張り切って車を走らせる場面が一番印象に残っている。一時期、横浜駅西口の地下街で、この映画の主題歌がよく流れていたことを思い出す。ご冥福をお祈りする。

 メガネが壊れたので、新しく作らなければならない。普段の生活では、メガネがなくてもそれほどの不自由はないが、映画を見るためには、やはり必要である。  

齋藤慎一『戦国時代の終焉 「北条の夢」と秀吉の天下統一』(5)

2月24日(日)晴れ

 戦国時代は、東国では応仁の乱(1466~77)に先立つ享徳年間(1452~55)から、天正18(1590)年に豊臣秀吉が小田原の北条氏を滅ぼすまでの、戦乱が列島を覆った時代を言う。
 この時代が終わりに近づいていた天正12(1584)年に、下野国(栃木県)南部で起きた<沼尻の合戦>は、関東地方の制覇を目指して北上してきた小田原北条氏と、北関東の伝統的な在地勢力である佐竹氏・宇都宮氏とが衝突した戦乱であるが、北条氏は徳川家康・織田信雄と結び、佐竹氏は秀吉と連絡を取るなど、この戦闘は単なる地方での衝突というだけでなく、中央における秀吉と信雄・家康連合との戦いである小牧・長久手の合戦と連動するものであった。
第1章 織田信長と北条氏政・氏直 天正10年まで
第2章 合戦の序曲 天正10年後半~11年
第3章 沼尻の合戦 天正12年
第4章 小牧・長久手の戦いとの連動
 (以上前回まで)

第5章 合戦の中に生きる人びと
 1 境目の領主
 沼尻の合戦は天正12年7月に和平が成立して、両軍が撤収するが、その後、北条勢がこの戦闘の原因を作った由良国繁の金山城と、長尾顕長の館林城を攻め、その年のうちに陥落させたのは、前回述べたとおりである。実の兄弟であった由良国繁と長尾顕長は、北条勢力とその敵対勢力の境界に勢力を築いていたため、当初は北条の最前線として佐竹勢と戦い、佐竹義重からの勧誘を受けて、沼尻の合戦では佐竹・宇都宮方に属して戦い、その結果として城を明け渡し、領地没収の憂き目を見た。
 同じように両勢力の境界に居城があった小泉城の冨岡六郎四郎は、その城を北条方に献上し、臣従することで自家の存続を図った。〔結局、由良国繁、長尾顕長、冨岡六郎四郎の3者はともに、小田原北条氏に仕えることになるが、その滅亡後、由良国繁は徳川家康に、長尾顕長は佐竹義宣に仕えたが、その後また浪人という運命をたどった。〕

 2 戦場の武士
 宇都宮国綱に従って沼尻の戦場に赴いた下野の多功(栃木県河内郡上三川町)身の武士(おそらく多功房朝という名であったと思われる)にあてて身近な縁者が送った手紙が遺されている。いったんは戦死を伝えられた武士が、生存していたことを喜びながら、その後の先頭についての心配も記された内容である。
 また、ある記録には北条方の放った忍びが佐竹勢に捕縛され、処刑されて、その首を戦意を喪失させるための道具として敵陣の前にさらされたことが書き残されている。
 その一方で、もともと今川の家臣であったが、武田家に属し、その滅亡後は北条氏を頼っていた天野景貫・忠景父子が氏直から戦功に対する感状を受けて喜んでいる記録も残されている。〔天野氏は鎌倉幕府に仕えて功績のあった遠景・政景父子の子孫であるが、こちらの天野父子のその後の動きは不明のようである。景貫が武田に属した際に、徳川に属した一族の中から、尾張徳川家に仕えた江戸時代の学者天野信景が出た。家康の家臣で「どちへんなき」と呼ばれた天野康景もこの一族だそうである。〕

 会津の蘆名盛隆からの援軍として佐竹義重のもとに派遣された岩橋盛重は戦功により義重から感状を得るが、佐竹氏の家臣となったその子孫はその感状を保存し、家臣としての家の由緒を高めるのに役立てたという。
 同じような事例は、佐竹義重の配下にいた浜野正杞という武士にもみられる。彼は沼尻の合戦で活躍して、義重の感状を得たが、佐竹氏が秋田に入封になった際に帰農した。しかし、この感状の存在は広く知られ、子孫は結局ふたたび秋田の佐竹氏に仕官することになった。
 「江戸時代、藩主が自らの祖先の出した文書の披見を所望するなど、藩祖の文書の所持は主君との縁を形成する機会を生み出していた。軍功によって得られた文書は、その手柄の主だけの褒美にとどまらなかった。時代が下がってもその子孫とそのときの藩主との繋がりを生んだ。先祖の軍功の文書が子孫の家格を上昇させ、家の繁栄を保証していたことになる。沼尻の合戦で得た軍功の文書は江戸時代までも影響をもたらしていたのである。」(100ページ)

 「戦国時代の終わりから江戸時代の初頭にかけて、合戦の参加者が自らの軍功を書き連ねた覚書が作成された。自らの軍功を後世に伝えるためであるとか、あるいは仕官の際の履歴書的に記されたものであろう。これらの中にも沼尻の合戦の記事が含まれる。」(101ページ)
 「秋田藩家蔵文書」のなかに「辻加賀守高名之覚」という覚書があり、辻加賀守が北条氏邦の家臣として北武蔵や上野国で活躍したが、その氏邦家臣としての高名の最後は藤岡=沼尻でのものである。その後、彼は直江兼続に仕えて高名をあげたという。その後、この武士は佐竹氏に仕えることになったらしいが、藩主の先祖と戦って、首級をあげたという記事を遺しているのはいい度胸だと著者は述べている。
 また桜井武兵衛という武士も覚書を作成しているが、その冒頭に「藤岡表=沼尻」での戦功が記されている。彼は小田原北条氏滅亡後(少し時間がたってからだと思われるが)、越前松平家に仕え、覚書は大坂の陣で終わっているという。「沼尻の合戦に始まって大坂の陣に終わる覚書はまさに中世から近世への移行期に生きた武士の記録といえる。沼尻の合戦が冒頭にあるということは、桜井氏にとって印象深い合戦ということにもなるのであろうか。」(102ページ) 

 3 戦場となった村落・寺社
 合戦につきものの乱暴や略奪から地域を守るため、戦争当事者である領主から禁制という文書を発給してもらうことが行なわれた。「わざわざ、戦争当事者のところに出向き、礼銭を納めて禁制をいわば買い取る。このような苦労があって地域では戦乱から身を守ることができた。」(103ページ) ずいぶん割に合わない話だと思うのだが、中世では村落や寺社にとってこれが自分たちの身を守るための重要な手段だったのである。

 沼尻の合戦に関連しても、足利氏にゆかりの足利氏の鑁阿寺にこの禁制が出ている。鑁阿寺の周辺の領主は長尾顕長であったが、なぜか鑁阿寺は沼尻の合戦に際しては、敵方の北条氏政・氏直から禁制を得ようとしている。そしてその仲立ちを古河公方家奉行人である芳春院松嶺に依頼した。松嶺は間宮綱信を介して北条氏照に頼むのがいいなど、丁寧に回答しているという。その一方で、鑁阿寺は、自分たちの領民である橋本郷の領民たちから、年貢の減免を求められている。その結果については定かではないが、農民たちが戦火によって荒廃された農地の回復のために活動していたことを知ることができる。
 間宮綱信は、小田原北条氏の一族で、玉縄城主であった北条氏照の家臣であり、現在の横浜市港南区にあった笹下城の城主であったが、小田原北条氏の滅亡後、徳川家康に仕え、その子孫は旗本として存続した。横浜市の南区には間宮という姓の人が多いというのは以前に書いたかもしれない。幕末の探検家・間宮林蔵もこの一族であるという。

 今回は、沼尻の合戦がそれにかかわった人々にどのように影響したかを見たが、次回は、合戦後の北関東の情勢がどのように変化したかをたどることになる。

トマス・モア『ユートピア』(41)

2月23日(土)晴れ、午後になって雲が多くなってきた。

 こうしてラファエルの話は終わった。しかし、それを聞いたモアの心の中には釈然としないものが残った。
「こうラファエルが話し終わったときに、あの民族の生活風習、法律のなかでずいぶん不条理にできているように思われた少なからぬ事例が私の心にうかんできた。」(澤田訳、245ページ) これはわかりやすい文章とは言えない。平井訳では、
「・・・しかしこのユートピア人の風俗や法律の中には、必ずしもその成立の根拠が合理的とは思われない点が沢山あるように、私には感ぜられた。」(平井訳、181ページ)
 澤田訳で「不条理に」となっている個所の原文はabsurdeで、「調子外れに、不条理に」という副詞であるが、英訳ではここがどう翻訳というよりも、解釈されているかというと、ロビンソン訳では
 Thus when Raphaerl had made an end of his tale, though many things came to my mind which in the manners and laws of that people seemed to be instituted and founded of no good reason, ... (p.135) 
とあり、平井はこれをほぼ忠実に訳している。though とあるのは、まだこの文が続くからで、とりあえず気にしないでいただきたい。
 ターナー訳では
 While Raphael was telling us all this, I kept thinking of various objections. The laws and customs of that country seemed to me in many cases perfectly ridiculous. (ラファエルが私たちにこのすべてを話しているあいだずっと、私はいろいろな反論を考え続けていた。あの国の法律と習慣とは多くの場合に、完全にばかげているように私には思われた。)
 ローガン&アダムズ訳では
 When Raphael had finished his story, I was left thinking that not a few of the laws and customs he had described as existing aong the Utopians were really absurd. (ラファエルが彼の話を終えたときに、彼がユートピア人の間で行われていると述べた法律や習慣の少なからぬものがじつに不条理であるという考えが私には残った。)
 ユートピア人の制度の中のどの程度の部分が、モアにとって受け入れがたいものであったのか、「少なからぬ」ものとしているのが、澤田訳とローガン&アダムズ訳であり、「たくさん」「多くの場合に」としているのがロビンソン、平井、ターナーで、原文をみると、haud paucaとあり、直訳すれば「ほとんど小さくない」ということであるから、「少なからぬ」のほうが原文の雰囲気に近いのではないかと思われる。「不条理」と訳しても、「ばかげている」と訳しても、モアがラファエルの描き出したユートピアの姿の中で、かなりの部分に相当な違和感をいだいていたように記されていることは注目しておいてよい。

 ラファエルの語ったユートピアの制度の中で、どの部分が腑に落ちなかったのかというと、
「戦争のやり方、礼拝や宗教、かれらのそのほかの制度においてだけではなく、なによりも、彼らの全社会制度の主要な土台になっているものにおいて、すなわち共同生活制と貨幣流通皆無の生活物資共有制においてである。」(澤田訳、同上) なんだ、ほとんど全部じゃないかという気がしないでもない。
 そして、ユートピアの制度をヨーロッパに持ち込んだら、社会の秩序が崩壊してしまうと半ば呆れながらの感想を述べる。
 とはいうものの、モアはラファエルが話し疲れていることを感じていたし、他人の発見にたいして何か異論を述べないと自分が賢くないように思われると信じている輩をラファエルが嫌っていることも知っていたので、その場での反論を避けた。
 「そこで私は彼ら(ユートピア人)の制度と彼の話を賞(ほ)めてから、彼の手をとって食堂に案内した。けれどもその前に、『この問題についてもっと深く考え、そのうえでいっしょにもっとくわしく話しあう時がまたあるでしょうね』といった。そういう機会がほんとうにいつかでてきてくれでもしたら有難いものである。」(澤田訳、同上)
 だから、モアは、ラファエルの話に同意せずに、もっと深く考えたうえで、再度議論ができればいいという意向をラファエルに伝えたということである。そして、彼がこの書物を書いている時点で、「容易に認めるのは…ユートピアの社会には、諸都市に対して・・・実現の希望を寄せるというよりも、願望したいものがたくさんある」(澤田訳、246ページ)との思いを述べて、彼の記述を終えている。

 このように『ユートピア』という物語は、モアとピーター(・ヒレス)という実在の人物が、ラファエル・ヒュトロダエウスという(架空の)人物から聞いた話という一種の枠物語になっている。ユートピアの制度を紹介するだけでなく、自分が見たものの中で一番いいと賞賛するのは、この架空の人物であるラファエルで、それに対して、モアは懐疑的な姿勢をもち続けている。ラファエルと、モアの距離をどのように考えるかが、この物語の本質とかかわっているわけである。

 中公文庫の澤田訳は、この後、モアがヒレスに書いた書簡を掲載している。そこでは、モアがある人物から『ユートピア』についての批評を受け、その批評について反論・批判を加えるという形で、自分の執筆意図を語るという手の込んだ細工をしていると澤田は注記している。その批評者は言う:
 「もしことがらが真実として報告されているなら、そこには半ば不条理なものを見る。もし虚構として報告されているなら、モアのあの正確な判断もかなりの点で不正確だと見る」(247ページ) もしラファエルが語っているユートピアの社会制度が実在するのであれば、書中でモアが書いているようにその制度には「不条理な」部分が少なくない。もし、書物全体が作り話であるならば、モアの判断には不正確なものが含まれているというのである。
 これに対するモアの反論はさらに手の込んだものであり、(逆説に富んだこの書簡には、そんなことは一言も書かれていないが)簡単にいえば、ユートピアは作り話だが、自分の判断は決して間違っていないつもりだということになる

 彼の翻訳の「あとがき」で澤田昭夫は『ユートピア』を「未完の対話」と規定している。澤田は、登場人物としてのモアと、著者のモアとを区別することにより、この書物を自身の分身である登場人物としてのモアと、同じく分身であるラファエルとの対話と考えている。たしかに、モアがラファエルとの再会の機会を探るが、なかなか会えないという内容をもつ、後日談としての書簡を含めて、この書物は「未完の対話」でありつづけている。そして、理想の社会とはどのようなものかを、この未完の対話を通じて、読者に考えさせようというのが著者の意図だというのは、よくわかる話である。だから、後は、私のブログを読み返すか、さらに『ユートピア』という本を実際に手に取って読んで、読者各位が自分でこの問題について考えるのをお勧めするだけである.。ということで、このブログでの『ユートピア』への論及はここで終りにするが、付け加えておきたいことがある。

 イタリア生まれで、第二次世界大戦中、戦争直後に英国で活躍した無政府主義系のジャーナリストであるマリー・ルイズ・ベルネリ(Marie Luise Bernelli, 1918-49)はモアの『ユートピア』を彼の生きた時代との関連で考察し、「われわれはモアを、彼自身が作り上げた一連の法律と制度とに対するよりも、彼の時代の社会への告発(indictment)のゆえに称賛することを好むものである」(Bernelli, Journey through Utopia, p.88)と論じている。『ユートピア』を読み終えて、この論旨にあらためて強い賛意を表したいと思う。

ダンテ・アリギエーリ(須賀敦子・藤谷道夫訳)『神曲 地獄篇(第1歌~第17歌)』(11‐2)

2月22日(金)晴れたり曇ったり

〔これまでの展開〕
第1歌 1300年4月4日、ダンテは「暗い森」に迷いこむ。やっと抜け出したと思ってほっとしたところ、前のほうに猛獣が出現して行く手を阻まれ、また森に逆戻りする。そこにローマ黄金時代の大詩人ウェルギリウスの魂が現れ、彼を異界への旅に出かけるように言う。 
第2歌 自分がそのような旅にふさわしい人物ではないと思ったダンテは、旅への出発をためらうが、ウェルギリウスはこの旅が天国の3人の貴婦人(聖母マリア、聖ルチーア、ベアトリーチェ)の意志によって企図されたものであるといい、ダンテに旅への決心を固めさせる。 
第3歌 「すべての望みを捨てよ」と書かれた地獄の門をくぐったダンテは、生前、目立った善も悪もなさなかった臆病者のたましいが、天国からも地獄からも受け入れられず、空しく走り回っているのを見る。そして、地獄を流れるアケローンの川を渡る船に死者の魂が争って乗り込もうとしているのを見る。
第4歌 リンボとよばれる地獄の第1圏に達した彼らは、洗礼を受けずに死んだ幼児たちのたましいや、異教を信じていたが、正しい生を送った人々のたましいが、静かに時を過ごしているのを見る。
第5歌 地獄の第2圏では、生前、愛欲の罪を犯した人々のたましいが烈風に吹きさらされて、漂っているのを見る。
第6歌 地獄の第3圏では、生前、食悦にふけっていた人々のたましいが泥にまみれていた。その中の1人でダンテと同郷のフィレンツェ市民だったというチャッコのたましいが、フィレンツェの暗い近未来を予言する。
第7歌 貪欲者と浪費者とが最後の審判のときまで衝突を繰り返す罰を受けている地獄の第4圏を過ぎて、高慢・嫉妬・憤怒・鬱怒の罪を犯したたましいたちが、泥の中に沈んでいるスティクスの沼(地獄の第5圏)の岸に出る。
第8歌 ウェルギリウスとダンテはスティクスの沼を渡って、ディース(悪魔の首領であるルチーフェロ)の城に達するが、悪魔たちは彼らを入城させようとしない。
第9歌 旅を成就させるために現れた天使の力で、ディースの城門は開き、悪魔たちは退散する。城の中では、異端の罪を犯した人々のたましいが石棺に入れられて、その罰を受けていた。 
第10歌 ダンテは、生前エピクーロスの哲学に従って快楽に身をゆだねていたために、地獄の第6圏で異端の罪の罰を受けているフィレンツェ出身の政治家ファリナータと言葉を交わし、政治的な立場の違いにもかかわらず和解する。また、ダンテの親友であるグイド・カヴァルカンティの父のカヴァルカンテ・デ・カヴァルカンティにも合う。ファリナータは、ダンテがフィレンツェから追放される運命にあることを予言する。
第11歌(前半) 地獄の第6圏から、第7圏を見下ろす断崖の縁にやってきたダンテは、下のほうから押し寄せてくる悪臭に慣れるまで、わずかな時間ではあるが休息をとる。その間、ウェルギリウスは彼に地獄の第7圏~第9圏で罰を受けているたましいたちの生前の罪がどのようなものであったかを説明する。第7圏では暴力、第8圏では欺瞞、第9圏では裏切りがその罰を受けているというのである。

 ウェルギリウスの説明を聞いたダンテは、地獄で受ける罰には区別があり、ディース城を境として、地獄も上層と下層にわかれていることについての疑問を投げかける。すると、ウェルギリウスはダンテがかつて学んだはずの、アリストテレスの哲学を忘れたのかという:
 ・・・「これはまたいつもと違って
なぜおまえの理解はそれほど道をふみはずれるのか。
それとも何かほかのことを思い描いているのか。
 お前の学んだ(アリストテレースの)『(二コマコス)倫理学』の、
あの言葉を忘れたのか。そこに敷衍されているではないか。
天の喜ばぬ3つの習性が
 《無抑制》と《悪意》と《凶暴な獣性》であることが。
そしてどうして《無抑制》の罪が(他の2つに比べて)
神に背く度合いもより小さく、その罰もより小さくなるのかが。
(76‐84行、248ページ) 「何かほかのことを思い描いているのか」というウェルギリウスの言葉は、「おまえは他の教義(ストア派の《罪に軽重なし》という教義(キリスト教から見れば異端))に注意が引き付けられていたのか」という意味で発せられたのであり、ぼんやり上の空で聞いていたという意味ではないと注記されている。
 《無抑制》は理性が本能に負ける自制心のなさであり、《悪意》は悪への意志を伴うために、それよりも罪が重いと注記されている。

 次にダンテは
「高利貸が神の善性[労働]を損なうというところで、
私の疑問を解いてください」
(95‐96ページ、248‐249ページ)と質問する。
 これに対して、ウェルギリウスは答える:
・・・「(アリストテレース)哲学は、それを理解する者に
一箇所以上で、いかにして自然が
その働きにおいて神の英知とその御業に
 従うかを説いている。
おまえの(アリストテレースの)『自然学』をよく調べれば、
あまりページを繰らぬうちにこう言っているのを見つけるだろう。
 すなわち、ちょうど弟子が教師に従うように、《人間の技は、
能う限り、自然に従う》と。
ゆえに人間の技は神の孫のようなものだ。
(97‐105行、249ページ)
 アリストテレースは『自然学』の第2巻第2章で「(人間の)技術は自然を模倣する」と述べているそうである。植物の種が地面に落ちると、やがてそこから新しい芽生えが見られるのを知って、自然のその営みをまねて、人間は種まきを始めた。つまり、農耕は自然の産出性をまねることから始まったという。「人間の技は神の孫のようなものだ」というのは、「神の技(親)→自然の技(子)→人間の技(孫)」ということであるが、そんな記述はアリストテレースには見られないとも注記されている。

 さらにウェルギリウスは言葉を続ける。
 『創世記』の初めを思い出してみるとよい。
この二つ――自然と技[労働]――から、人は生きるのに必要なものを得て
前に進むべく(神によって)定められている。
 しかるに、高利貸は他のもの「利子」に希望を託し、
別の[自然に反した]道を進むため、自然そのものと
自然に付き従うもの[労働]の双方を卑しめる。
(106‐111行、249ページ)
 『旧約聖書』「創世記」2:15に「主なる神は人を連れてきて、エデンの園に住まわせ、人がそこを耕し、守るようにされた」(新共同訳)とある。このときは、まだ人間はアダムだけであったのだが、やがて伴侶としてエバが現れ、禁断の果実を食べたために、エデンの園を追放されることになる。その際に神は「おまえは顔に汗を流してパンを得る/土に返るときまで。」(『創世記』3:19という。翻訳者はこの2つの個所を取りあげて注記している。それにしても、「異教徒」であるウェルギリウスが『創世記』に言及するのは奇妙である。
 高利貸は他人の労働の成果をいわば盗み取って、自分の代わりに他者が汗を流し、自分のために働いてくれることに希望を託して生きているのだから、自然に反し、さらには神の意志に反した生き方をしているということになる。

 ここまで説明して、ウェルギリウスはそろそろ旅を再開したほうがいいという。
 だが、もう行ったほうがよかろう。(東の)地平線には(うお座の)二匹の魚が跳ね、
大熊座[北斗七星]のすべての星々は
北西の上に沈みはじめている。さあ、私について来るがいい。
 ずっと向こうに、この懸崖の降り口がある」
(112‐115行、249ページ) 空の星の動きから、時刻は午前4時ごろだと考えられる。こうして、第11歌は終わり、2人はまた旅を進めることになる。地獄の第7圏ではまた別の世界に出会うことになる。

E..H.カー『歴史とは何か』(3)

2月21日(木)曇りのち晴れと思ったら、また雲が多くなってきた

これまでの概要
Ⅰ 歴史家と事実
歴史とは何か
 「歴史とは何か」という問いに対する答えは、答える人物の置かれている時代や社会によって異なる。
事実とは何か
 19世紀の歴史家たちは、事実を何よりも尊重していた。
歴史的事実とは何か ⇒ 歴史的事実が生まれる過程
 過去に起きた様々な事実の中から、歴史家が選びだした事実が歴史的事実である。
無智の必要について
 近代史の研究家は、多くの事実を捨てる必要がある。
文書が語るもの
 文書に記録された多くの事実や意見の中から、何を選び出すかは歴史家に委ねられている。

 今回は、「Ⅰ 歴史家と事実」の後半を見ていく。さまざまな事実の中から何を選んでいくかというのは、「歴史哲学」の問題であるが、19世紀の歴史家たちは、「歴史哲学」を軽視していたように見える(実はそうではなく、そう見えるような「歴史哲学」をもっていたということである。
19世紀の歴史観
 「歴史哲学」ということを言い出したのは、18世紀フランスの(啓蒙)思想家であるヴォルテールである。その後、この言葉は様々に解釈され、使用されてきたが、著者の考えでは、「歴史とは何か」に対する回答ということである。
 19世紀の西欧の歴史家たち、あるいは知識人一般にとって、彼らの時代は「自信とオプティミズムとが滲み出た居心地のよい時期」(22ページ)であった。ドイツの大歴史家レオポルト・フォン・ランケ(Leopord von Ranke, 1795- 1886)は歴史家は事実のほうを心配していればよく、その事実は神様によって(必ずや良い方向に)動かされているのだと考えていたし、スイスのこれまた大歴史家であるヤーコプ・ブルクハルト(Carl Jacob Chritoph Burckhardt, 1818‐1897)は「われわれは永遠の智慧を求めるという目的をいだいているのではない」(同上に引用、歴史家は個々の事実を正確に解明していけばよいのであって、歴史とは何かというような永遠の智慧は神の領域だということ)とのべている。さらに1931年になっても、英国の歴史家であるバターフィールド(Herbert Butterfield, 1900 -1979)は「歴史家は、事柄の本質などをあまり考えたことはないし、自分自身のテーマの本質もあまり考えたことはない」(22‐23ページに引用)と述べている。

 この書物は、もともとケンブリッジ大学のジョージ・マコーレー・トレヴェリアン講演(The George Macaulay Trevelyan Lectures)の一環として行われた講演にもとづいているが(これが歴史の理論をめぐる一連の講演であることはわかっているが、大学内でどのような位置づけをもっているのかがよくわからない)、カーの前の演者であったローズ(Alfred Leslie Rowse, 1903 - 1997)はチャーチルが第一次世界大戦について論じた『世界の危機』という書物が「個性、鮮明、生気という点ではトロツキーの『ロシア革命史』に匹敵するけれども、ある一点では劣っている、すなわち、これは『背後に歴史哲学がない』と述べて」(23ページに引用)いることを引き合いに出す。
 このあたりは、訳文が明解とは言えず、読みにくいのだが(翻訳者が歴史学者でないために、背景がつかめていない)、「ここでイギリスの歴史家たちを引き合いに出すわけにいかなかったのは」(23ページ)というのは、「出さないわけにはいかなかった」とすべきだろうと思う(実際に、英国の歴史家を引き合いに出しているからである)。
 とにかく、ドイツやスイスだけでなく、英国の歴史家たちを引き合いに出したのは、かれらが「歴史には何の意味もない」と信じていたからではなく、歴史の意味は言わなくてもわかっていると固く信じていたことを示すためであるという。
 「19世紀のリベラルな歴史観と申しますものは、自由放任の経済学説という、これまた長閑で自信に満ちた世界観の産物と深い関係がありました。誰でも自分の好きな仕事に精出すがよい。そうすれば、見えざる手が普遍的調和の心配をしてくれるだろう、歴史上の事実それ自身が、より高いものへ向う恵み深くかつ明らかに限りのない進歩という至高の事実を立証するものと見られていたのです。」(同上) これは、バターフィールドも問題にしたウィッグ史観(自由党的な歴史観)の特徴を述べているのである。したがって、「リベラルな」という訳は誤解を招く恐れがあり、「自由党的な」あるいは「自由主義的な」としたほうがよい。19世紀の英国の憲政史は、グラッドストーンの率いる自由党(←ウィッグもしくはホイッグ党)と、ディズレリーの率いる保守党(←トーリー党)の対立の歴史であり、この両者は社会の様々な部門において対立しあい、さまざまな制度や思想を生み出した。
 ここでカーが述べているのは、ウィッグ史観は、人類の歴史が限りない進歩の歴史だと信じてやまなかったということである。それが経済政策における自由放任主義と結びついていたという。ただし、これは19世紀の後半になると、かなりあやしくなってきたように私などは受け取っているが、著者はそのように主張しているということである。
 しかし、歴史の進歩を自明の事実として考える時代は終わり、現代の歴史家たちは歴史哲学を必要としているのだという。〔ついでに言うと、保守的な歴史観というのは、過去のある時代を「黄金時代」として美化し、そこへの回帰を主張するというものである。英国の元首相であるメージャーが、前任者のサッチャーを倒すときのスローガンが「ディズレリー(に帰れ)」であったことを思い出すといいかもしれない。

 ランケの本は岩波文庫に入っていて、読みやすかった時期には、興味がなく素通りしてしまったために読んでいないが、関心のある方は古本屋で探してみてください。ブルクハルトの『イタリア・ルネサンスの文化』は中央公論社の『世界の名著』シリーズで読んだことがあるほかに、レクラム文庫でも持っている――というくらいに私が強く感動した本である。西洋史関係の本では、この本とホイジンガの『中世の秋』(これは中公文庫に入っているはずである)が一番印象に残る本である。あとは、堀米庸三の中世史の本であろうか。
 閑話休題、ここで引用されているバターフィールドの発言は彼のThe Whig Interpretation of Historyという本からの引用で、この本は越智武臣ほかによって『ウィッグ史観批判――現代歴史学の反省』という表題で翻訳され、未来社から1967年に出版されている。社会学者である清水がカーのこの本を翻訳しているので、本流の西洋史学者たちが、素人になめられてたまるかというので、本の中で引用されているバターフィールドの本を翻訳したのではないかと、勝手に推測している。実はこの『ウィッグ史観批判』という本は昔読んだはずであるが、ほとんど内容を記憶していない。ただ、その後、この書物についての多くの論評を読んだので、まあ何となくこんな本ではないかなぁと思っているという程度である。さらに言うと、この本は英国の大学の構内の書店などでは普通に見かける本である。つまりそのくらいの名著として評価されているらしい。
 カーの論点と、バターフィールドの論点がどのように違っていて、どう切り結んでいるのかは、両者を読んでみないとわからない。ただし、両者の間には30年くらいの時間の隔たりがあることも考慮しなければならない(バターフィールドの本が出たのは1931年のことである)。バターフィールドにはほかに、The Origins of Modern Science: 1300 - 1800 (渡辺正雄訳『近代科学の誕生(上・下)』が講談社学術文庫に入っている)をはじめ、多くの著作がある。
 ローズは、労働党から下院議員に立候補したことがあるという政治的な立場の人なので、本文中に「正しい批判的精神的精神の持ち主」とあるのは、そのあたりのことと関連すると思われるが、彼の本もどうも読んだことがある、少なくとも、購入して自分の本棚に並べたことはあるようなので、探してみようと思っているところである。

歴史家が歴史を作る
 歴史の進歩を自明のこととして、歴史哲学的な探求を避けていた19世紀の歴史研究姿勢に対し、「歴史とは何か」と問い直す挑戦は1880年代、1890年代のドイツにおいて始まった。ディルタイに代表されるドイツの哲学者たちは、歴史における事実の優越性と自律性という考えを批判しはじめた。
 さらにこの批判を継承したのは、イタリアのクローチェ(Benedetto Croce, 1866 - 1952)であった。彼はすべての歴史は「現代史」であると主張した。「その意味するところは、もともと、歴史というのは現在の目を通して、現在の問題に照らして過去を見るところに成り立つものであり、歴史家の主たる仕事は記録することではなく、評価することである、歴史家が評価しないとしたら、どうして彼は何が記録に値いするかを知りうるのか」(25ページ)というのである。
 またアメリカの歴史家であるカール・ベッカー(Carl Becker, 1873 - 1945)も「歴史上の事実というものは、歴史家がこれを想像するまでは、どの歴史家にとっても存在するものではない。」(同上)と述べてクローチェと同じ見地に立った。彼らの主張は1920年代になって、ようやくフランスやイギリスで流行しはじめた。これは第一次世界大戦後の諸事実そのものが、楽観視できない性格のものであったために、クローチェらの思想に注目が集まるようになったということであろう。

 クローチェの影響を受けたのがオックスフォード大学の哲学者であり歴史家でもあったコリングウッド(R.G.Collingwood, 1889- 1943)である。彼が早く死んだために、その主張は十分な形で展開されずに終わったが、彼の死後にまとめられた『歴史の観念』(The Idea of History)という書物から概要をうかがうことができる。
 コリングウッドによれば、歴史哲学は「過去そのもの」を取り扱うものでもなければ、「過去そのものに関する歴史家の思想」を取り扱うものでもなく、「相互関係における両者」を取扱うものである。つまり現在と過去の相互関係で歴史哲学は成り立つということである。「ある歴史家が研究する過去は死んだ過去ではなくて、何らかの意味でなお現在に生きているところの過去である。」(26ページに引用)
 しかし、過去は歴史家がその背後に横たわる思想(というよりも「意味」であろう)を理解できるようになるまでは、歴史家にとっては意味のないものだという。歴史家の出発点となっている思想こそが、過去を再構成し、それが歴史になるのだという。
 カーは、コリングウッドに近い見解をいだいているというオークショット(Michael Joseph Oakeshot, 1901 - 90)  「歴史とは歴史家の経験である」(27ページに引用)という言葉を援用している。
 ここでカーは、歴史は、歴史家が自分の哲学に従って選択し、解釈し、再構成した過去の事実であるといっているようである。では、その哲学はどのようにして形成されるのか、あるいは形成されるべきだということになるのか。それもまた哲学の問題だというと、いつまでたってもこの種の議論が繰り返されることになる恐れもある。

 今回で、1を終るつもりだったのが、歴史的な事実を選択していく哲学という問題に絡みつかれて、なかなか前に進むことができなかった。歴史と思想との関係をめぐるカーの考察は、今後どのように展開していくか。それはまた次回に。

内田洋子『イタリア発イタリア着』

2月20日(水)晴れのち曇りのち雨

 内田洋子『イタリア発イタリア着』(朝日文庫)を読み終える。2016年に朝日新聞出版から『イタリアからイタリアへ』という表題で刊行された随筆集を宮田珠己さんの解説を添えて、文庫化したものである。大学でイタリア語を勉強し、学生時代にイタリアに出かけ、その後、日本のマスコミに、ニュースを送る仕事を始め、イタリアで生活するようになった40年余りの中での様々な経験が、そのときの感興にまかせて、雑然とまとめられている。あまり秩序だって書かれていないのも、イタリアらしいといえるのかもしれない。

 著者は学生時代にイタリアを旅行したときに、ローマから列車でミラノに向かい、ミラノ中央駅にたどりついた時のことを書いている。「さまざまなイタリアの欠片(かけら)を詰め込んだ電車に揺られること数時間、ようやく私はミラノの中央駅に降り立った。ローマはもうすっかり夏だったのに、ミラノの駅は薄暗く首筋がひんやりとした。」(14ページ) イタリアという国の見せる多様性の一端が、すでにここで感じとられている。そのときは、見るべきものの乏しい町だと思ったミラノに、今は住み着いているという。イタリア第二の都市であるミラノと、第三の都市であるナポリについては、それぞれの町の個性をかなりの紙面をとって書いているが、ローマについて記された部分はほとんどない。そのあたりが、雑然としていると、私が感じたゆえんである。著者には、積極的に取り組むという意欲に満ちている半面で、成り行き任せの所がある。それで、イタリアと相性がいいのかもしれない。

 著者の通った大学には1年間イタリアに国費留学できるという制度があった。文学や芸術が苦手だという著者は<南部イタリア問題>を研究するという題目でどうやら留学を承認される。行き先は幸運にもナポリ大学である。
 ところが実際にナポリにたどりついてみると、事態は予想をはるかに超えて雑然としている。大学に行こうとして、朝の渋滞騒ぎにぶつかる。「ナポリの朝は運命との賭けである。」(55ページ) 「予定などすべて未定で、不定なのである。」(57ページ)

 大学の校舎は前年の地震で壊れたまま、危険で授業ができない(それで、集まれる場所を探しては、授業をしている)。そんな中で、著者に親切にしてくれたのは東洋語学科の学生たちである。研究のためには、結局フィールド・ワークだと悟った著者は、級友たち(ほとんどが南部の出身である)の郷里の町や村を訪問してまわる。その中にはナポリの住人もいて、その家に泊めてもらった翌日の朝のこと、友人の母親が「不揃いなパスタ」と豆を煮込んでいる。イタリアでは、朝食は軽く済ませるのが一般的なのだが、この友人が子どものころ体が弱かったので、母親が栄養をつけさせようと朝食からこの料理を作るようになったのである。いろいろな種類が混ぜ合わされ(て、袋に詰められている)パスタは、ナポリでは常備食材なのだそうである。「毎朝、不揃いのパスタを噛み締めるたびに、どん底からも這い上がるナポリの底力が体に漲るように感じるんだ」(110ページ)とその友人は言う。

 大学の授業が休講になると、大学の裏通りにある老舗の菓子店に出かける。哲学者で歴史学者でもあったベネデット・クローチェも通ったというこの店は、ナポリの文化サロンの役割も果たしてきた。そこでの学生たちの談笑にあとから加わったシチリア出身の級友は、郷里のシチリアの自慢ばかりするので、ほかの連中から敬遠されているが、とうとう仲間たちをシチリアに誘い出す。彼の故郷は、シチリアといっても、「本島からさらに離れた小島なのである。対岸は北アフリカだ。」(114ページ)
 「連れ立ってやってきたのは、ナポリ生まれの6名だ。同じ南部だというのに、誰もこの離島には来たことがない。
 『イタリア南部というより、アフリカ北部と言ったほうが適切だな』
 慎重に坂道を行きながら、別の級友が言う。」(同上)
 何もない島で、「なければ、出ていく。残りたければ、自分で作り出す。/『南部問題? 何もないところには、問題すらないんだよ』」(116ページ)
 こうして著者は、その見聞を広げ、ますますイタリアにはまっていく。この本の残りの紹介は、また機会を改めて。 
 
 「個人的な話で恐縮だが、私はイタリアに行ったことがない」(294ページ)で始まる宮田さんの解説がじつによく書けていて、本を読まないでも読んだように気をさせてしまう。それで、この本を読む時は、解説を先に読まない方が楽しみが多くなると思う。実は私も(宮田さんとは事情が異なるのだが)、イタリアに行ったことはない。この本を読んでいて、イタリアに行きたいというよりも、まずもう少し熱心にイタリア語を勉強しようという気持ちの方が強くなった。

 本日は、病院に出かけて、その後(せっかく、東京に出たので)、すずらん通りの檜画廊で「丸木位里・丸木俊展」を見て、神保町シアターで『君の名は 第三部』(1954、松竹)を見たりした(本当は3部ぶっ通しで見たかったのですが、時間的な余裕がなく第3部だけで済ませました)ため、このブログを書くのがやっとで、皆様の所に訪問できませんが、あしからず。

『太平記』(250)

2月19日(火)曇り、時々雨

 新田義貞の戦死でいったん勢いを失った北国の宮方は、その後、義貞の弟の脇屋義助を中心に勢力を挽回し、足利方の越前守護である斯波高経を加賀へと敗走させた。これに対し、足利方は高師治らの武将を派遣し、暦応3年(南朝興国3年、1340)9月に、義助の拠点である南越前の杣山城を落城させた。
 こうして北國(北陸地方)が足利方一色になる形勢の中で、越前の鷹巣城(福井市高須町の高須山)には畑六郎左衛門時能がわずか27騎を率いて立てこもっていた。それに新田一族の一井兵部少輔氏政が13騎を率いて合流した。畑時能は剛勇で知られた武士で、それに彼の甥で所大夫快舜という同じく剛勇の悪僧、さらに悪八郎という中間がいて、これまた大力の持ち主であった。さらに犬獅子と名づけた不思議な犬がかれらを助けていた。
 越前をとり戻した斯波高経と、高師治らは、鷹巣城を包囲していたが、包囲の向かい城を夜になると、時能が犬獅子を使って偵察し、快俊、悪八郎とともに襲撃していたので、足利方の力は弱まり、包囲戦は長引いた。大勢を頼んで、城攻めを強行しても撃退されたので、いよいよ遠巻きにして包囲を続けた。
 包囲が長引き、戦局を打開すべく、時能は10月21日の夜半に16騎の兵を率いて出陣した。斯波高経はそれが時能の率いる鷹巣城から出撃してきた兵だとは気づかずに、22日の早朝に自軍を出発させたが、敵が小勢だとわかったので、勢い込んで攻め寄せた。

 時能は、敵が遠くにいたときは、自分の居場所を知られないように姿を隠していたが、敵がいよいよ1,2町(100メートルから200メートル)の所に近づいてくると、その厳重に武装した姿をあらわし、馬にも鎧を着せて、剛勇の武士たち16騎を従え、「畑の将軍これにあり。尾張守はいづくにおはするぞ」(第4分冊、44ページ)と呼ばわって、大軍の中に駆け入り、敵陣を縦横にかき乱した。

 この勢いに恐れをなして、高経の率いていた大軍はバラバラになりかけたが、大将の斯波高経とその被官で越中の豪族である鹿草(ししくさ)兵庫助が「敵がたとえ鬼神であっても、味方は3千、相手は16騎、それだけの小勢の勢いに負けて退却するということがあってはならない。みっともない。退却するな」と下知したので、斯波勢の3千余騎は、16騎を包囲して一人残らず討ち取ろうとした。
 兵力では劣っていたが、時能以下の武士たちは決死の意気込みで戦った。特に時能の乗馬は漢楚の戦いのときに楚の王であった項羽の乗馬であったという騅(すい)に劣らぬ名馬であったので、高経の率いる士卒を蹴散らし、踏み殺した。時能の太刀はどんな岩でも切り通すというくらいの名刀で、一打ちで2,3人を切り捨てるという切れ味を見せた。時能に従う16騎も、主人に劣らない剛勇の武士たちであったので、高経の兵を5騎、10騎と倒していった。負傷してもたじろがず、攻撃を続けていく勇気に満ちた戦いぶりはどんな大軍であっても打ち勝つことができないように思われたので、高経の率いる3千余騎は、東西南北に逃げ散って、川から西へと退却した。〔川というのは九頭竜川であろう。〕

 戦闘が終わって、陣地にもどり、兵を集めてみると、5騎は戦死し、9騎が重傷を負っていた。特にその中に旗がいちばん頼りにしていた所快舜が含まれていて、切り傷や傷が7か所に及び、ついにその日の暮れ方に絶命した。大将の畑も、脛あてのはずれ、小手のあまりなど、武具でおおわれていない部分の傷は数えきれなかった。少々の傷は、物の数とも思わなかったのだが、首筋から肩先にかけて体に刺さった白羽の矢の一筋が、どうやって抜こうとしても鏃が邪魔になって抜けない。3日間というもの苦しみ続け、叫びながら死んでいったのである。

 外国のことはわからないが、わが国において畑の勇力智謀に並ぶような人物はいなかったと思われるのだが、その平生の振る舞いというと、僧侶たちを殺し、寺や神社を打ち壊し、善根を施すような気持ちはひとつもなく、山のように悪事を積み重ねていたので、ついに天のために罰せられて、流れ矢の傷で死んでしまったのである。

 『太平記』の作者はこの後、あまり関係のない中国の故事を引き合いに出しているが、このエピソードの結びとして、「されば、開元の宰相宋開府が、幼君のために武を黷して、その辺功を立てざりしも、智慮の忠臣と云ひつべし」(第4分冊、46ページ、だからこそ、(唐の玄宗皇帝の初期の治世である)開元の時代の宰相であった宋璟が武を好む幼君(玄宗)武功を軽んじ、夷狄征伐の功を立てなかったことは、賢く先を見通した忠臣であったというべきであろう)と書いているのが、注目される。畑のような、また第20巻で死んで地獄の責め苦に苦しんでいる姿を描かれた結城道忠のような、殺生をこととし、仏法や僧侶を敬わず、善根を積もうとしない武士たちは、彼らの政治的な立場がどうであろうと、断罪されているのである。もともと朱子学的な名分論で出発したはずの『太平記』が建武の新政の失敗後の混乱を描く中で、仏教と応報思想に支配されるような書き方に変質してしまったことも気になるところかもしれないが、それ以上に、作者の平和を願う気持ちがなみなみならないものであることが示されていると思うのである。250回という節目の回なので、『太平記』がその名の示すように平和な世の中を望んで書かれた書物であることを改めて強調しておく。

日記抄(2月12日~18日)

2月18日(月)晴れ、温暖

 2月12日から本日までの間に経験したこと、考えたこと、これまでの記事の補遺・訂正等:
2月11日
 JOINUSの通路にヴァレンタイン・デーのチョコレートの売店が並びはじめた。昨年に比べて、少し店の数が減ったような気がするが、こういうことは定点観測的に調べていないと断定的なことは言えない。

2月12日
 競泳女子の池江璃花子選手がツイッターで白血病と診断されたことを公表した。「1日でも早く、また、さらに強くなった姿を見せられるように頑張っていきたいと思います。」(2月16日付の「朝日川柳」に載った句: そっとしておいてあげてと大騒ぎ(埼玉県 江口徹) 彼女の活躍に励まされ、一層の活躍を期待していたものとしてつらい気持ちになるが、病気と闘っているのはご本人であることを忘れずに節度を持って回復を祈ろう。

 『NHK高校講座 現代文』は夏目漱石の『こころ』の2回目。「先生」の遺書のなかで「先生」が哲学や宗教に関心を寄せる親友のKとともに千葉県(鴨川市)小湊の誕生寺を訪れたときのことが回想される。Kがなにか言ったのを「先生」が聞いていなかったので、とがめられたことが語られている。このことが、「先生」とKの心の隔たりをさらに広げる。誕生寺は日蓮宗の寺であることを考えると、ここは様々に解釈できるところである。講師の先生は、誕生寺を「たんじょうでら」と読んでいたが、「たんじょうじ」が正しいはずである。実は1958年の2月だか、3月だかに、私立小学校の卒業旅行で房総に出かけた折、このお寺に立ち寄ったことがある。もっと大人になってからでないと、訪問の意義も何もなかったのではないかという気がする。

 渡辺淳子『東京近江寮食堂 宮崎編』(光文社文庫)を読み終える。 

2月13日
 NHKラジオ『実践ビジネス英語』の”Quote...Unquote"のコーナーで紹介された言葉:
Young man, the secret of my success is that at an early age I discovered I was not God.
          ―― Oliver Wendell Holmes Jr. (U.S. jurist, 1841 - 1935)
(若者よ、私の成功の秘訣は、若くして自分は神ではないと悟ったことだ。)
 すべての若者がそうだというわけではないが、大学に入学したての頃は、自分が何でもできるような錯覚にとらわれていることが少なくない。成功したり失敗したりの経験を積み重ねていくうちに、自分が何に向いているかとか、何ができるかということがわかるようになるはずだが、そうならない場合もある。
 
2月15日
 『日経』朝刊の「文化往来」に「アジアから見た世界史」という記事が出ていた。1月に大阪大学で開かれた第4回「アジア世界史大会」の様子を紹介したもので、北京大学の李伯重教授はその講演で16世紀初め、明朝の西北域国境の守備隊が万里の長城内に撤退したことにより、シルクロードの経済的重要性が失われたと指摘したそうだ。これはシルクロードというヨーロッパの学者の「発見」に異議を唱えているようにみえるが、あるいは中国の現政権が進めようとしている「一帯一路」政策に対する歴史家による批判が隠れているのかもしれない。

 昨日に引き続き、『実践ビジネス英語』の”Quote...Unauote"のコーナーで紹介された言葉:
Nobody holds a good opinion of a man who has a low opinion of himself.
         ――Anthony Trollope (English novelist , 1815-82)
(自分自身を低く評価している人を高く評価する人はいない。)
 謙虚であることが美徳とされる日本社会では必ずしもそうではない。しかし、人間は一般に自分の能力を実力以上に評価しがちなものであって、それでも自分を低く評価するというのは箸にも棒にも引っかからないということである可能性が大きい。したがって、この言葉はかなりの場合にあてはまるのではないかと思うのである。
 アンソニー・トロロープは19世紀英国の人気作家。郵便局に勤めていたが、独自の執筆法で、多くの作品を書き、母親のフランセス・トロロープとともに多作で有名であった。

 『NHK高校講座 古典』は今回から『更級日記』を取り上げている。菅原孝標の娘は、父親が上総介(上総は常陸、上野とともに親王任国であったので、介が事実上の長官であった)に任じられたので、10歳の時に都から地方に下る。継母や姉が物語が好きで、彼女たちの影響で物語にあこがれをいだくようになる。そして、都に早く戻りたいと願う。

 『NHK高校講座 倫理』は「日本人のものの考え方」を取り上げた。いろいろな人がいろいろなことを言っている問題なので、できるだけ様々な考え方を客観的に並べて、それぞれの特色を指摘し、学習者自身に判断させるような教え方が好ましいと思うが、できるだけ早く正解を要求するような受験体制下の高校教育では難しいかもしれない。講師は①「おのずから」の世界観、②モンスーン的風土の特色(和辻哲郎の「砂漠型」、「牧場型」、「モンスーン型」という3類型)、③日本人の人間関係(和を重んじる、義理と人情、恥の文化)という3点に絞って、特色を概観していたが、それぞれに批判のある議論であることもほのめかしていた。講師は最後に丸山眞男の「次々になりゆく勢い」という言葉を引用して、時流に流されがちな傾向を批判し、単に周囲に合わせるのではなく、個人個人が自分の意見を持ち、主張することの重要性を指摘していたが、このような授業の展開ではその意図が達成できるとは思えない。

2月16日
 サッカーのスーパーカップは、昨年度Jリーグ・リーグ戦覇者の川崎フロンターレが、天皇杯優勝の浦和レッズを1‐0で破った。

 『日経』の本郷和人さんの連載記事:「日本史ひと模様」は和田義盛を取り上げているのだが、本文のほとんどを本郷さんの近著『承久の乱』(文春新書)が坂井孝一さんの同名の本(中公新書)に比べて評判が芳しくないということをめぐってのいいわけのような内容になっているのが、かえって面白かった。
 鎌倉の外港であった六浦周辺は、頼朝の弟の範頼が支配していたが、彼が粛清された後、和田義盛が領地とし、その後、金沢北条氏が支配するようになった。東京湾の主要港は六浦から次第に北に移動し、それが横浜港の起こりになったともいえるので、和田義盛は横浜とも関係のある人物である。なお、木曽義仲とともに奮戦した巴御前が、のちに義盛の妻になって朝比奈三郎義秀を生んだというのは俗説である。史実としては、義盛の妻は武蔵七党の一党である横山党の出身であり、本郷さんも触れている和田の乱の際に、横山党は和田一族とともに戦い、敗北・滅亡している。横山党の本拠は多摩地方にあったが、横浜市一帯にも影響力をもっていた。坂井さんの本は昨年、読み終えているが、本郷さんの本も目を通して、両者を比較してみようと思う。

 『NHK高校講座 古典』は『更級日記』の2回目。菅原孝標の娘は、13歳となり、父親の上総での任期が終わって都に帰ることになる。それは上総でいだいていた都と物語への夢の実現への第一歩であり、彼女の大人への第一歩であるともに、いつの間にかなじむようになっていた上総での生活との別れでもあった。彼女の「かどで」には複雑な内容が含まれていた。

 『NHK高校講座 政治経済』は今回から経済分野に入り、<資本主義>について概観した。講師は<資本主義>がアダム・スミスの『国富論』によって始まったというようなことを述べていた。スミスの時代には、すでに市場経済が発展していたが、当時の政府の重商主義的な政策がその健全な発展を邪魔していたために、自由放任政策を説いたというのが大まかな筋であろう。つまり経済のシステムとしての<資本主義>と、経済政策をささえる思想としての<資本主義>の違いを、講師は理解していないか、あるいはその点を故意に隠蔽しようとしているように思われる。

2月17日
 『朝日』朝刊の「視界良考」のコーナーで、徳川「19代」の家広さんが大坂城を訪問している記事が出ていた。なんとなく面白い組み合わせではある。

 古代史研究家の直木孝次郎さんが亡くなられた。短歌を詠み、『万葉集』についての研究もあり、「新しき村」の村外会員であった。旧制一高時代に日本史研究を志されたが、東大には平泉澄がいたので、京大に進学されたという。古代史の様々な問題を取り上げた著書を執筆されていて、何冊かを読んでいる。謹んでご冥福をお祈りします。

 1070回のミニtoto Aが当たっていたが、購入金額のほうが賞金よりも多かったため、依然として赤字状態が続いている。

2月18日
 『日経』に同紙が調査した主要都市における「外国人受け入れ体制」の状況が掲載されていたが、それ以前に市区町村別の外国人率が示されていて、興味深かった。①新宿区 12.1% ②大阪市 4.8% ③名古屋市 3.4% ④京都市 3.0% ⑤津市 2.9% ⑥甲府市 2.7% ⑦千葉市 2.5% ⑧横浜市 2.4%
 神戸市や浜松市が調査対象になっていないようなので、このまま受け取るわけにはいかないが、大体の傾向はわかる。

 東映を中心に『新幹線大爆破』、『人間の証明』など多くの映画を監督された佐藤純彌さんが9日に多臓器不全のため死去されたことがわかった。86歳。謹んでご冥福をお祈りします。

 富田武『歴史としての東大闘争 ぼくたちが闘ったわけ』(ちくま新書)を読み終える。東大闘争が主題になっているが、自分史的な様相が強く、その分、この時代の大学闘争を理解するには役立たないような気がする。終りのほうに「大学の大衆化は、貧弱な教育内容とお定まりのライフコースに対する学生の不満と疎外感をもたらし、学生反乱に火をつけた(1968年」(153ページ)とあるが、私ならば、このあたりをもっと掘り下げるところである。著者が私の中学・高校の同期生であること、同期会の折に「一浪したために、東大闘争に巻き込まれた」と話していたことはすでに書いたが、同期で慶応に入った連中は1年生の時に学費値上げ闘争に巻き込まれ、私は京大で大量留年の一員となりというように、大学の大衆化という大きな流れには様々な渦があって、われわれはそれに何らかの形で巻き込まれていた。学園闘争はその中の大きな渦の一つであったという認識をもたないと、全体像は把握できないのではないかと思うのである。 
 

齋藤慎一『戦国時代の終焉 「北条の夢」と秀吉の天下統一』(4)

2月17日(日)晴れ

 戦国時代も終わろうとする天正12年(1584)、天下統一へと進む羽柴(豊臣)秀吉は徳川家康・織田信雄の連合軍と小牧・長久手で戦った。秀吉の天下統一、その後の秀吉と家康の関係に重要な関係をもった戦いである。その同じ年、下野(現在の栃木県)南部で、小田原に本拠をもつ北条氏と、佐竹・宇都宮などの北関東の領主たちが関東の覇権を争って衝突し、「沼尻の合戦」が起きた。この2つの戦いは連動性をもち、もはや関東の問題が、関東だけのものではなくなっていたこと、すでに秀吉による関東領国化が進んでいたことを示すと著者は論じている。
 第1章 織田信長と北条氏政・氏直 天正10年まで
 第2章 合戦の序曲 天正10年後半~11年
 第3章 沼尻の合戦 天正12年
 (以上前回まで)

第4章 小牧・長久手の戦いとの連動
 1 秀吉陣営と家康陣営
小牧・長久手の戦い
 本能寺の変の後頭角を現した羽柴秀吉は、天正11年(1583)の賤ケ岳の戦いにおいて柴田勝家を破って体制を固め、次の矛先を織田家の継承を目指していた信長の次男・信雄に向けた。劣勢であった信雄は徳川家康と同盟し、秀吉と対抗しようとした。
 両者の戦端は天正12年3月6日に開かれ、13日に秀吉は犬山城(愛知県犬山市)を奪取、緒戦を有利に展開させた。信雄・家康は同日、清洲城(愛知県清須市)で会談し、17日には本陣を小牧山城に進めた。犬山城の秀吉と、小牧山城の信雄・家康の間で戦局は膠着状態となる。

 戦局を一新させようと、秀吉方の池田恒興(すでに登場した滝川一益の従兄弟である)・元助父子が、家康の本拠地三河国を攻め、背後から撹乱することを進言した。この作戦を採用した秀吉は、4月6日、甥の秀次を総大将として、総勢1万6千人の軍勢を派遣した。しかしこの作戦を察知した家康は、8日夜、ひそかに小牧山城から出陣し、9日早朝に長久手(愛知県愛知郡長久手町)で秀次軍を急襲した。秀次軍は池田恒興父子が戦死し、秀次は犬山に敗走するという大敗北を喫する。
 以後、局地戦は行われたが、大きな衝突はなく、11月に秀吉と信雄が和議を成立させ、その結果、家康は清洲城から撤退し、合戦は終結する。

 この戦いの主な戦場は愛知県内であったが、連動する合戦が各地で起きている。信雄は秀吉の背後を襲わせるため、四国の長宗我部元親に協力を要請している。また家康と連名で紀州雑賀一揆と根来衆に大坂城を攻めるように依頼した。そのほか、越中の佐々成政も家康と気脈を通じ、能登侵攻を画策した。これに対し秀吉は丹羽長秀・前田利家・上杉景勝と連携を取り、信雄・家康の外交戦略に対処した。
 関東の北条氏政・氏直父子は家康と同盟を結び、佐竹義重は秀吉と連絡を取り合っていた。つまり沼尻合戦の対立は、小牧・長久手の戦いの対立と結びついていたことになり、両者は連動した合戦だったのである。

佐竹義重と羽柴秀吉
 両者の外交関係は天正11年(1583)以前からあったようで、徳川・北条同盟の成立に対抗して関係が結ばれたと考えられる。秀吉は沼尻の対陣に関して一定の動きを示している。彼は上杉景勝を通じて、佐竹義重を援助していた。このあたりに天下人としての見通しと配慮を見ることができる。

北条家と徳川家康の連携
 家康と北条家のあいだには同盟が成立しており、それぞれ出陣の連絡を取り合っている。
 両者の交渉の窓口となったのは、氏政の弟である韮山城主北条氏規であった。氏規は、幼少期に家康と同じく今川家に人質として送られていた経緯があり、パイプ役として適任だったのである。さらに氏規は、その後は北条と秀吉の間の連絡にもあたることになる。
 信雄・家康軍は長久手での勝利にもかかわらず、兵力に劣り、全体としての形勢は不利であり、そのために北条父子にも援軍の要請がなされている。そのため、氏政・氏直は佐竹・宇都宮軍と対峙しながらも、絶えず上方の情勢を憂慮しなければならなかった。秀吉の背後からの援助を受けていた佐竹義重の状況とは著しく異なっていたと著者は論じている。

 2 沼尻の合戦の余波
巨海の攻防
 沼尻での戦況が膠着状態になると、周辺で関連する衝突が起こっていた。
 6月2日、由良国繁が巨海(こかい、群馬県邑楽郡大泉町古海)を攻めたが、北条の家臣である大藤政信に撃退された。

上杉景勝の信濃国出陣
 佐竹義重を支援する越後の上杉景勝も、後方撹乱に加わり、4月から5月にかけて東信濃に侵入した。旧武田家臣で、その後、景勝に従っていた海津(かいづ)城(長野市)の屋代秀正(1559‐1623)が徳川方に走ったのに呼応する動きを防ごうという意図もあったと考えられる。

真田昌幸への警戒
 氏政・氏直は上野の真田昌幸も攻撃したが、戦果を挙げることができなかった。その結果、彼の後方撹乱をおそれ、警戒策を講じるだけになった。

北条勢による後方撹乱
 北条勢の働きかけで、常陸国小田(茨城県つくば市)にいた梶原政景が寝返り、このことを北条勢は宣伝材料にした。
 このように沼尻での戦況が膠着状態に陥ったため、両者ともに後方撹乱の作戦を実施したが、戦局を打開できず、双方ともに後方に問題を抱えることになり、戦いを終結させる必要が生じた。

 3 和平と戦後処理
沼尻からの撤兵
 天正12年(1584)7月15日に、沼尻の戦場の北にある岩船山が北条勢の手に落ち、戦局は北条勢の有利に大きく展開する。このため、両者ともに決定的な戦果をあげないまま、引き分けの状態で合戦を終えることが選択される。氏政・氏直父子としては、信雄・家康への援軍の派遣も念頭にあったと思われる。和議の交渉が行われ、7月22日に合戦が終結、23日に両者が陣を解いた。

北条勢の金山城攻め
 両陣ともに沼尻からすぐに完全撤兵とはならなかった。それぞれ、軍勢を戦後処理に向かわせている。北条勢は、合戦の原因を作った由良国繁の金山城と長尾顕長の館林城を攻める。後世が本格的になった12月に、金山城は落城する。
館林城の陥落
 さらにその年のうちに、館林城も陥落する。
佐竹・宇都宮義重の小田城攻め
 北条方に走った梶原政景のいた小田城を佐竹義重がとり戻す。〔梶原政景はその後(かなり時間がたってからのことであるが)家康の次男の結城秀康に仕えることになる。〕

和平協定と「半手」
 大きな合戦が行なわれることもなく、戦果もはっきりしなかったが、両者によって起請文が作成され、和平協定が成立したことは間違いない。全体としては大きな領土の変化はなかったが、「半手」の地域が設定された点に著者は注目している。「半手とは境界地帯にある村落・土豪などが、両方の領主に半分ずつの年貢を納めて、両属の関係となることをいう。」(88ページ) 「一方的な勝利がなかった合戦である。『半手』が設定されたことは戦況に即した取り決めであったように思える」(同上)と著者は論じている。事態はさらに複雑なものとなってようである。

徳川家康への加勢
 沼尻の合戦後に、氏政・氏直父子がすぐに着手した問題がもう一件あった。小牧で対陣する徳川家康への加勢である。天正12年10月の段階では、北条家の重臣遠山直景が57名を率いて参陣する予定で、待機状態になっていた。しかし、11月に信雄が秀吉と単独講和したために、派遣は取りやめとなった。「しかし沼尻の合戦が終結した直後に加勢準備を実施した事実は動かない。北条氏政・氏直が沼尻の合戦を終結させたかった一因には、間違いなく徳川家康への加勢問題があった。北条氏政・氏直は正面に佐竹義重・宇都宮国綱を見つつも、背後に秀吉を見ていたのだった。」(90ページ)

 歴史の表面から消えかけていた沼尻の合戦を掘り起こし、その意義を、小牧・長久手の合戦との連動としてとらえるという著者の議論の中心となる箇所である。ところで、四国の長宗我部や、紀州の雑賀、根来衆との同盟において、働きかけたのが織田信雄であるとしているのは、初めて出会った意見である(従来の研究では、家康が主体になっていたと思う)。どのあたりに根拠が求められるのか、詳しく説明してほしい。

 歴史の皮肉というべきは、この時点では北条氏直に嫁いでいた家康の次女・督姫がその後、池田恒興の次男で(兄の元助が戦死したため)家督を継いだ池田輝政と結婚したことである。
 今回、名前が出てきた人物のうち、佐々成政についてはpiglet01さんのブログ『日本百名城の旅』で今、取り上げ中なので、そちらもご覧ください。そういえば、このブログでは、督姫の話も過去に取り上げられていた。北条氏規、屋代秀正は、その後、大名に列している(ただし、屋代家は後に失政を理由に領地を取り上げられ、その後は旗本になっている)。遠山直景は天正15年に没し、遠山家(遠山という姓はあちこちにあって、より厳密には武蔵遠山家)は小田原北条氏とともに没落するが、直景の一族は幕府の旗本として残ったといわれる。幕末に活躍した遠山の金さんこと遠山景元は、武蔵遠山家の流れだという説もあるが、明知遠山家だという説の方が有力らしい。〕

トマス・モア『ユートピア』(40)

2月16日(土)曇りのち晴れ

 1515年にフランドルを訪問したイングランドの法律家トマス・モアは、アントワープに立ち寄った際に、その市民であるピーター・ヒレスと親しくなる(ここまでは歴史的事実である)。ある日、ピーターはモアにアメリゴ・ヴェスプッチの新大陸航海に同行し、新大陸からさらに西へと進んで世界一周をして戻ってきたというラファエル・ヒュトロダエウスという人物を紹介する。ヒュトロダエウスの経験と知識とに感心したピーターとモアは、彼にどこかの王侯の顧問になることを勧めるが、戦争や民衆からの収奪にのみ関心をいだいている王侯が、自分の助言に耳を傾けるわけがないとラファエルはそれを拒否し、ヨーロッパ諸国、特にイングランドの社会の状態を批判する。そして、自分が訪問した中で最善の制度をもつ国は、新大陸にあるユートピアであるという。ピーターとモアの求めにこたえて、ラファエルはこのユートピアという国の社会や制度について語る。
 ユートピアはもともと半島だったのを、外敵からの侵入から自らを防衛しやすいように、開削によって島国となった。この島には54の都市があり、都市と農村の平衡が保たれている。すべての国民が(一部の例外を除き)農業を中心とする何らかの職業について働き、私有財産というものはなく、住居は都市では10年ごとに交換される。人々は質素な暮らしをしているが、共同の富として豊かな財産が築かれており、これは災害や戦争に直面したときに有効に使われる。死刑はめったに執行されず、その代わりに奴隷刑が科せられる。戦争をできるだけ避け、国民が戦闘に関わらないようにあらゆる手段が講じられる。信教の自由が認められているが、人々は一般に魂の不滅と、人間の死後の応報を信じている。他の人々の宗教を排撃することは禁止されており、異なる宗教を信じていても、同じ場所で礼拝をおこなうのが一般的である。

 こうして、ラファエルはユートピアについての話を語り終える。そこでは私有財産がないために、人々が絶えず公共のことを考えて生きているという。それは人々が口では公共の利益を語りながら、私利私欲を追求しているヨーロッパ社会とは正反対である。ユートピアには貧富の違いがなく、自分たちの生活の安全や幸福が子々孫々まで維持されることがわかっているから、人々は「あらゆる心配から完全に解放され、欣びに満ちた静かな心をもって生きてゆきます」(澤田訳、239ページ) また高齢で働くなった人々に対しても、手厚い配慮がされているという。

 「こういうわけですから、ユートピアのこういう公平さをほかの民族のあいだに見られる正義と比較しようなどという大胆な人がいたら私はお目にかかりたい」(澤田訳、239‐240ページ)とラファエルは言葉を続ける。贅沢な暮らしをする人々がいる一方で、貧乏でみじめな生活を送る人々がいるような社会の人々に正義や公平を語る資格があるのだろうかという。

 ラファエルは当時のヨーロッパ社会の不平等と不正への糾弾を続ける。「これこそ不正で恩知らずの社会ではないでしょうか。それはいわゆるジェントルマンや金細工師、その他同類の怠け者、居候、空疎な快楽用品生産者の連中にたいしてばく大な報賞を浪費しておきながら、百姓、炭鉱夫、日雇労働者、馬丁、鍛冶屋など、彼らなくしてはいかなる社会も存在しえないというような人々にたいしては、親切な面倒見は皆無という社会なのです。」(澤田訳、240‐241ページ)
 ここで列挙されている職業、身分については多少の疑問があるので、平井訳も見ておくことにしよう。
 「このような国家、すなわち紳士などと呼ばれている連中や金属商人や怠けることかお世辞をいうことしか知らない奴らやつまらない娯楽の創案者などに多額の報酬を払っているくせに、国家がたってゆくためにはなくてはならない貧しい百姓や工夫や人夫や鉄工や大工などに対しては何ら厚遇する道を知らない国家、…」(平井訳、177‐178ページ)どうもかなりの違いがあるので、ロビンソン訳(平井訳がこの英訳からの重訳であるのは何度も繰り返してきた)を見ると:
It is not this an unjust and an unkind pulic weal, which giveth great fees and rewards to gentlemen, as they call them, and to goldsmiths and to such other, which be either idle persons, or else only flatterers and devisers of vain pleasures, and of the contrary part maketh no gentle provision for poor plowmen, colliers, labourers, carters, ironsmiths, and carpenters, without whom no commonwealth can continue. (いわゆるジェントルマンにたいしてそして金細工師、また怠惰な人々であるか、あるいはおべっか使いもしくは空しい快楽の考案者たちのようなその他の人々にたいしては財産や報酬を与えるのに、その反対に、彼らがいなければどのような社会もつづいていくことができないような貧しい農夫、坑夫、工夫、荷馬車屋、鉄工(鍛冶屋),大工にたいしてはいかなる親切な備えもしないというのがこの不正義で、不親切な公共の福利というものなのです。)

 ターナー訳は:
Can you see any fairness or gratitude in a social system which lavishes such great rewards on so-called noblemen, goldsmiths, and people like that, who are either totally unproductive or merely employed in producing luxury goods or entertainment, but make no such kind provision for farm-hands, coal-heavers, labourers, carters, or carpenters, without whom society coudn't exist at all? (いわゆる貴族とか、金細工師とか、まったく非生産的であったり、ぜいたく品を作るため、あるいは娯楽のために雇われているだけの人々にはあんなにも多くの報酬をふんだんにあたえておき、それらの人々がいなければ社会がまったく存在できなくなるような作男(農場労働者)、石炭の荷揚げ人、工夫、荷馬車屋、あるいは大工のためにはそのような種類のものを提供しないような社会制度の中に公正さとか感謝の気持ちとかいうものを見ることができますか?)

 ローガン&アダムズ訳は:
Now isn't this an unjust and ungrateful commonwealth? It lavishes rich rewards on so-called gentry, goldsmiths and the rest of that crew, who don't work at all or are mere parasites, purveyors of empty pleasures. Ane yet it makes no proper provision for the welfare of farmers and colliers, labourers, carters and carpenters, without whom the commonwealth would simply cease to exist.(さて、これは不正で恩知らずな社会と言えないでしょうか? それはいわゆるジェントリー、金細工師、そしてまったく働かないか、ただの寄食者、空しい快楽の賄い屋でしかない残りの連中にたいしては豊かな報酬を惜しみなく与えます。そしてその反面で彼らがいなければ社会はまったく存在することをやめてしまうだろうような農夫たちと坑夫たち、工夫たち、荷馬車屋たち、鉄工たちと大工たちのためには適切な準備というものをしていないのです。)

 要するに社会を支えている多くの勤労者たちには、何ら手厚い報酬が与えられず、働かずに、その勤労者たちが作り出したとみに寄生しているような人々には多くの報酬が与えられるのは不公平だし冷たいといっている、その論旨はすべての訳が伝えているが、個別的な職業・身分については解釈の違いが見られる。そこで、私のおぼつかないラテン語も動員しながら、一つ一つ見ていくと、澤田訳の「ジェントルマン」はもともとのラテン語はnobilisで、名士とも訳せるし、貴族とも訳せる。身分の高い名望家、地主という意味で使っているのであろう。『リーダーズ英和中辞典』にはgentlemanについて、封建身分でKnightやEsquireより下位の者。のちにYeomanより上位で、貴族(Nobility)には含まれないが、家紋をつける特権を許されたもの)とある。ここではそれぞれの訳が貴族を最上位、ジェントルマンを最下位として、上流階級に属する身分をあてていることに注目すべきであろう。
 goldsmithはラテン語原文ではaurifexで、金細工師であるが、なんでこの職業が問題にされているかというと、これまた『リーダーズ英和中辞典』によれば、18世紀まではしばしば銀行業を営んでいたからである。つまりラファエルは、地主、銀行家と言えばいいのを遠回しにジェントルマン、金細工師と言っているのである。後はその取り巻きや寄生者が非難されている。
 「農夫」とされているのはラテン語ではagricolaで、まったくその通り。私の見ているラテン語の本文には「坑夫」に相当する語句は見当たらず(発見できず)、「馬丁」と澤田が訳しているaurigaは「馬車の御者」、また「大工」とも「鍛冶屋」とも受け取れるfaberというラテン語があった。どうもすっきりしないが、一生懸命働いている人々がそれにふさわしい報酬を受けていない世の中はおかしいという論旨ははっきりしている。

 ラファエルはさらに、それどころか、税金という名目のもとで、働かない人々が一生懸命働いている人々から多額の金をさらにとりたてていることを「社会に対する最大の功績を最悪の不義理で報いるというようなこと、それを彼らは今やすっかり歪曲して、公に発布された法律の力で正義にしてしまいました。」(澤田訳、241ページ)と指摘している。 現代にも当てはまりそうな話になってきた。

 金持ちたちは「まず、悪らつな手段でかきあつめたものを失う心配なく保持していくために、それから貧乏人たちみんなの労苦と労働をなるべく安く買ってそれを悪用するために、ありとあらゆる方法、術策を考案、案出します。そしてこれらの術策は、金持たちが公共――それには貧民も含まれます――の名においてこれを実施すると決定するや否や、法律になってしまうのです。」(澤田訳、241‐242ページ) 本来ならみんなのために分けても足りるだけのものを自分たちだけで山分けにしてしまったとしても、その結果はユートピア人の社会の幸福な状態からはどんなにほど遠いことでしょう。」(澤田訳、242ページ)
 そして、ユートピアでは貨幣が完全に廃止されているという(外国の貨幣を受け取り、それを国庫に貯蔵することは行われているはずである)。貨幣を廃止すれば、地上の諸悪はすべて消え去るという(現代社会の複雑に発達した通貨制度、キャッシュレス化を実現しようとする政策的な動きなどは、モアの想像を越えるものであろう)。
 「本来生活物資を手に入れるための素晴らしい発明であったあの聖なる貨幣が、生活物資に至るわれわれの通路を遮断する唯一の障壁になってさえいなければ、生活物資はきわめて容易に手に入れられるはずです。」(243ページ)
 このあたり、経済思想史的にみると興味深いところかもしれないが、そうした研究にはなじみがない。余計なものをいろいろ自分の身の回りにおいて、身動きができなくなっているよりも、必要なものだけで身軽な生活を送るほうがいいというのはその通りであるが、なかなかできない。なぜできないかの理由をモアは人間の心の中に巣くう高慢心に求めているが、そうとも思えない。

 ラファエルの話は高慢心の弊害の指摘をもって終わる。聞き終わったモアの心には、まだ釈然としないものが残っているが、それはまた次回に。法律が金持ち、強いものの利益を確保するためにつくられ、弱者を虐げているとラファエルはいうが、この後の人生でモアは、その法律を作る側の人間として活躍するのである。そのように法律を作る際にモアが自分の書いた『ユートピア』のことをどのように思い出していたかというのも興味ある問題である。

ダンテ・アリギエーリ(須賀敦子・藤谷道夫訳)『神曲 地獄篇(第1歌~第17歌)』(11‐1)

2月15日(金)雨が降ったりやんだり

 1300年4月4日、<暗い森>に迷いこんだダンテは、ローマの詩人ウェルギリウスの魂に導かれて、地獄と煉獄(さらには別のたましいに導かれて天国)を歴訪する旅に出発した。(第1~第2歌) 地獄の門をくぐった彼らは、真に生きたことのない卑怯な人々のたましいが天国からも地獄から設けれ入れられず、空しく走り回っている姿、さらに地獄を流れるアケローンの川の渡し船に魂たちが争って乗り込んでいる姿を見る。(第3歌)
 さらに彼らは、洗礼を受けずに死んだ幼児のたましいと異教の世界で正しく生きた人々のたましいが地獄の第1圏であるリンボで静かに時を過ごしているのを見る。(第4歌) 第2圏では愛欲の罪を犯した人々、第3圏では食悦の罪を犯した人々がその罰を受けているのを見る。第3圏でであったフィレンツェ人のチャッコはこの市の政治家たちが、地獄のもっと奥深くで罰を受けているという。(第5~6歌) 第4圏では貪欲の罪を犯した人々と、浪費の罪を犯した人々とが衝突を繰り返している様子を見、第5圏のスティクスの沼に、高慢・嫉妬・憤怒・鬱怒の罪を犯した人々が沈められているのを見る。(第7歌)
 ダンテとウェルギリウスはスティクスの沼を渡り、ディースの城に入ろうとするが、悪魔たちに入城を遮られる。(第8歌) 天の使いの力で2人はディースの城に入ることができる(ここから地獄の第6圏がはじまる)。そこでは異端の罪を犯した人々のたましいが石棺の中に入れられている。(第9歌) 最初に出遭ったのは生前エピクロス派の哲学に従い、快楽に身を任せて生きた人々のたましいである。その中にダンテは、フィレンツェの有名な政治家ファリナータと彼の親友であるグイド・カヴァルカンティの父親のカヴァルカンテであった。カヴァルカンテは息子が死んだものと勘違いして姿を消すが、ファリナータはダンテのフィレンツェ追放の未来を予言しながらも、さらにその後の幸運を祈る。(第10歌)

 前回の最後で、「ダンテは地獄の第7圏に進み」とあるが、実はこの第11歌ではまだ、第7圏に進まず、彼らの旅は小休止して、その間にウェルギリウスが地獄の罪について、またこれから彼らが訪れる地獄の様子について語る。

 私たちは高き断崖の際(きわ)にやって来た。崩落による無数の
巨岩がぐるりと円をなしてこの断崖を作り出していた。
そのはるか下にはさらにむごたらしい群れが集まっていた。
 その深淵から吹き出る
悪臭のひどさにたまりかねて、
私たちは後ろへと退き、とある墓石のふたのほうへと
 近づいた。
(1ー7行、244ページ) この「崩落」がどのような原因により起きたかは、後に語られる。訳注によると「むごたらしい」には受動と能動の2つの意味が欠けられていて、「さらに残酷に罰せられている」(受動)と同時に、「さらに惨たらしい行為で罪を犯した」(能動)第7圏の囚人たちという意味である。同じく、「悪臭」は罪の象徴であり、いままでよりもさらにひどい悪のため、臭いも一層ひどくなっているという。
 彼らが近づいた墓石には、教皇アナスタシウスⅡ世のたましいが入れられていた。彼が異端の信仰に傾いたというのは誤解だそうであるが、その誤解を信じていたダンテはアナスタシウスのたましいを地獄に置いた。誤解はさておいて、ダンテがたましいの不滅とキリストの神性の否定をもっとも罪深い異端と考えていたことがわかる。

 悪臭がひどいので、ウェルギリウスはそれに慣れるようにゆっくり降りて行こうという。ダンテが何かほかの手段を見つけてほしいというと、ウェルギリウスは、すでにそのことは考えていると答える。そして、彼らのこの後の旅で訪れる地獄について説明する。この後、彼らは第7圏、第8圏、第9圏を訪問することになるが、それらは同心円状になっていて、下に行けば行くほど環は小さくなる。「そのいずれも呪われたたましいに満ちている」(19行、245ページ)が、彼らがどのような罪を犯し、罰を受けているのかを簡単に説明しておこうというのである。
 悪意はなべて天の憎しみを買うが、
悪意の目的は他者の権利を侵害することにある。
暴力あるいは欺瞞で他者を悲しませることが、その目的のすべてなのだ。
 ことに欺瞞は人間に固有の悪として
神は(暴力よりも)いっそう嫌い給う。それで人を欺いた者たちは
ずっと底にいて、よりひどい苦痛にさいなまれているのだ。
(22‐27行、245ページ) 欺瞞は理性の悪用であるがゆえに、人間に理性を与えた神が嫌う悪徳なのである。

 彼らが次に訪問する第7圏には暴力者たちがいる。(欺瞞者たちはその下の第8圏、第9圏に置かれている。)
暴力をふるう対象は3種あるから
そこは3種の冠状帯に分けられている。
 すなわち暴力をふるう相手としては神があり、
それから自分自身と隣人がある。もっと言えば、その相手と
その所有者に対してだ。
(29‐33行、245ページ) 冠状帯というのは聞きなれない言葉で、山川訳では「圓」、原訳では「小圏」となっている。原文を見たところ、girone(環)という言葉の複数形が出てきた。環になっている第7圏が、さらに3つの小さな環に分けられているということのようである。

 第1の冠状地に置かれているのは、隣人たちやその財産に対して暴力をふるった人々のたましいである:
 隣人を暴力で殺したり、痛ましい
傷を負わせたりする。また隣人の財産を
滅ぼしたり、火を放ったり盗んだりする。
 人殺しや悪意から人を傷つける者、
破壊者や略奪者ら、それらすべてが、
第一の冠状地の中でそれぞれ異なる群れにわかれてさいなまれている。
(34‐39行、245‐246ページ)

 第2の冠状地に置かれているのは、自分自身と自分自身の資産に暴力を加えた人々、つまり自殺者と財産の蕩尽者、特に賭博者のたましいである。
 第3の冠状帯に置かれているのは、神、自然とその善性(労働)をないがしろにした人々のたましいである。 
・・・最小の第三冠状地は、男色者や高利貸しに、
また心で神を蔑み、口で呪うもの[瀆神者]たちに
(火の雨で)焼印を押している。
(49‐51行、246ページ) 「最小の」ということは、この冠状地が一番内側にあるということである。

 次にウェルギリウスは欺瞞の罪によって地獄で罰を受けているたましいたちについて説明する:
 すべての良心にとがめる欺瞞を
人は自分を信用している人に対しても、
信用していない人[他者一般]に対しても用いることができる。
 後者の欺瞞は、当然 のことながら、
(他者とのあいだに)自然に生まれる愛の絆をも滅ぼす。
それゆえ、その次の圏[第8圏]に入れられるのは、
 偽善[第23歌]、おべっか[第18歌]、占い[第20歌]、偽造[第29‐30歌]
泥棒[第24-第25歌]、聖物売買[第19歌]、汚職収賄[第21-第22歌]、
その他これに類する汚らしいことども[第26-第28歌]。
 一方、前者の欺瞞は、生まれながらの(人と人との)愛情
だけでなく、のちに加わる愛情をも忘れさせる。
その愛情によってこそ(人と人とのあいだに)特別な信頼が生まれるというのに。
 かくして、宇宙の中心にある最小の環[第9圏]には
ディース[ルチーフェロ]が座を占め、
すべて裏切り者はそこで永遠に責められる」
(52‐66行、246‐247ページ)
 ダンテは地球は丸いと考えていたが、その地球の内部に円錐状に地獄が展開しているというのが『神曲』の構想である。天地創造の直後に神に反逆したといわれるルチーフェロ(ルシフェル)が地球の中心(ダンテは天動説を信じていたから、同時に宇宙の中心)に置かれているというのは、注目すべき宇宙像である。

E.H.カー『歴史とは何か』(2)

2月14日(木)曇り、気温上昇せず。夕方近くなって、晴れ間が広がる。

 E.H.カー『歴史とは何か』(岩波新書)は、1961年に著者がケンブリッジ大学で行った講演をまとめた書物で、1962年に清水幾太郎による日本語訳が公刊された。歴史の根本問題にかかわる議論が含まれており、現在でも広く読まれているだけでなく、この書物の中で述べられている「歴史とは歴史家と事実との間の相互作用の不断の過程であり、現在と過去との間の尽きることを知らぬ対話(An unending dialogue between the present and past)なのであります」(40ページ)という言葉は非常によく引用されるそうである。
 とはいうものの、清水は英語よりもドイツ語に堪能な社会学者であったということで、ロシア・ソヴィエトの歴史の研究家であり、英国人のカーの著書の翻訳者として適切であったかという問題があり(ただ、単なる大学人ではなく、ジャーナリズムなど大学以外の世界でも活躍したという点で両者は共通していることも付け加えておく必要がある)、またこの書物が出てから50年以上の年月が経過したということで、その後の研究の進展(この書物の中で論敵として盛んに言及されているアイザー・バーリンの著作がその後、多数翻訳されて、今やカーの書物よりもよく読まれていることが特に注目される)、国際社会の歴史的な変化に照らして補うべきところもありそうなので、そんなことを考えながら、この書物を読みなおしていきたいと思う。
 この本はケンブリッジ大学出版局から刊行されたが、その後改訂を加えたものが、ペリカン・ブックスに収録され、これは今はどうかわからないが、20年くらい昔には、本屋で普通に見かける本であった。そのときに、買っておけばよかったと今になって思う。先のことは予想できないものである。

Ⅰ 歴史家と事実
 歴史とは何か
 1890年代に刊行された第一次の『ケンブリッジ近代史』に関わった歴史家のアクトン(John Acton, 1834 - 1902)は「今日では、どんな知識でも入手が可能ですし、どんな問題でも解決が可能になっているのですから」(2ページに引用)と、「完全な歴史」に向けての楽観的な見通しを語っていたが、1950年代の第二次『ケンブリッジ近代史』に関わったジョージ・クラーク(George Norman Clark, 1890 - 1979)は、より懐疑的な見通しを述べている。両者の違いは、この60年余りの間に「わたしたちの全体的な社会観」(3ページ)が変化したことを物語る。

 事実尊重の時代
 1890年代を含めて、19世紀は大変に事実が尊重された時代であった。事実を重視する実証的な歴史観がヨーロッパ諸国で有力であり、特に英国では経験主義の哲学と結びついて強い影響力をもった。とにかく確実な事実を手に入れることが歴史家の任務とされたのである。これは偉大なジャーナリストであったC.P.スコットの「事実は神聖であり、意見は自由である」という言葉を思い出させる。〔C.P.スコットは英国の高級紙の1つである『マンチェスター・ガーディアン』(現在の『ガーディアン』)の1872年から1929年にかけて編集長、1907年から1932年にかけて社主、「事実は神聖であり、意見は自由である」というのは同紙のモットーである。英国の知識人であれば、すぐにそのことを連想するはずである。なお、清水は「意見は勝手である」と訳しているが、これは「自由」でなければ意味をなさない。スコットが自由党の下院議員であったというだけの理由ではない。〕

 歴史的な事実とは何か
 我々の身の回りでは多くの出来事が起きているが、それらのすべてが歴史となるわけではない。「歴史家は必然的に選択的な」(9ページ)存在である。多くの事実の中から、特定の事実を選んでいる。

 歴史的な事実が生まれる過程
 1850年に起きた、路上で商売をしていた商人を野次馬が蹴り殺したという事件について、ある回想録に記載はされているが、それだけでは歴史的な事実とは認めがたい。ところが、キトソン・クラーク(George Kitson Clark, 1900 - 75)がこの事件を自分の講演の中で取り上げたので、あるいは歴史的な事実の仲間入りをするかもしれないと、カーは述べている。〔なお、カーとキトソン・クラークはケンブリッジのトリニティ・カレッジの同僚であった。〕 
 つまり、何が歴史的な事実であるかという問題は、その事実をどのように解釈するかという問題と結びついている。歴史的な事実と過去の事実は同じものではない。過去の事実の中の何らかの理由で選び出された一部のものだけが歴史的な事実となるのである。バラクロウ(Geoffrey Balaclough, 1908 - 1984, 清水は「バラクルー」と書いているが、「バラクロウ」の方が元の発音に近いようである)の言葉を借りると、「われわれが読んでいる歴史は、確かに事実に基づいてはいるけれども、厳密にいうと、決して事実ではなく、むしろ、広く認められているいくつかの判断である。」(14ページに引用)

 無智の必要について
 このような選択は古代史および中世史においては十分すぎるほど積み重ねられていて、研究者たちが取り組むべき対象はかなり限定されてきている。口の悪いリットン・ストレーチ(Lytton Strachey 1880 - 1932)は「無智は歴史家の第一の要件である。無智は単純にし、明瞭にし、選び、捨てる」(14ページに引用)と言った。古代史や中世史研究の専門的な進展は、だからこの無智のおかげと言えるのであるが、近代史の場合はそうではない。近(現)代史研究家には、「少しの重要な事実を発見して、これを歴史上の事実たらしめると同時に、沢山の重要でない事実を非歴史的な事実として棄てるという二重の仕事がある」(14‐15ページ)のだという。ここは、原文でどのように書かれているのか、わからないが、無智よりも蛮勇の方がしっくりくるような気もする。
 リットン・ストレーチは20世紀の初めに、ロンドンのブルームズベリーに集まっていたヴァージニア&レオナード・ウルフ、ウィリアム・モーガン・フォースターらを中心とする知識人・芸術家集団であるブルームズベリー・グループの一人で、自由で相対主義的な観点から、前時代(つまりヴィクトリア時代)の偶像的な存在であった人物の実像を描き出した『著名なヴィクトリア時代人たち』(Eminent Victorians)という本を書いた。ただし、このような執筆活動には副作用もあって、これまた口の悪い保守的な詩人・文芸批評家であるT.S.エリオットは「教師たちがリットン・ストレーチを読みはじめてから、生徒たちは落ちつかなくなった」というようなことを言っていたと記憶する。

 文書が語るもの
 19世紀の事実崇拝は文書崇拝と固く結びついていた。とはいうものの、文書をどのように読み、評価していくかは歴史家の仕事のである。
 このことをカーはワイマール時代のドイツの外相であったグスタフ・シュトレーゼマンが残した膨大な(たっぷり300箱)の様々な文書を引き合いに出して説明している。彼の功績を記念するために、その秘書であったベルンハルトが彼が重要だと思った部分を抜粋して『シュトレーゼマンの遺産』という書物にまとめた。その後、1945年にこの文書が英米両国政府の手に入り、これを写真に撮り、コピーがロンドンのパブリック・レコード・オフィスとワシントンのナショナル・アーカイヴズに収蔵されることになった。それでその気になれば、ベルンハルトがどのようにシュトレーゼマンの仕事をまとめたかが理解できるようになった。ベルンハルトは、シュトレーゼマンの西方政策(ロカルノ条約、ドイツの国際連盟加入、ドーズ案およびヤング案、アメリカ借款、連合国占領軍のラインラント撤退)については詳しく述べていたが、東方政策(ソヴィエト連邦との関係)についてはあまり成果を上げたように書いていない。ところが実際にはシュトレーゼマンはソヴィエトとの外交関係を重視していて、熱心な注意を払っていたことが、残された文書の分析から判断できるという。
 とはいうものの、ベルンハルトの仕事は貴重なものであって、ヒトラーが権力を掌握すると、シュトレーゼマンの業績は抹殺されてしまったが、彼の名声は西欧諸国では大きく、1935年に英国ではベルンハルトの著書の縮訳を出版した。この翻訳を担当したサットンは、シュトレーゼマンの対ソ交渉にかかわる部分をさらに削ったので、彼の東方政策の比重はさらに小さいものとして理解されてしまう結果となった。
 ところが、考えてみると、シュトレーゼマンの記録は、彼の側から書かれたもので、そこにはすでにシュトレーゼマンによる選択が行なわれている。彼の外交の相手であったソヴィエトの代表チチェリンの影は薄くなっているが、実際の交渉において、その通りであったかどうかは、定かではない。「本当に起ったことは、やはり、歴史家の心の中で再構成されねばならない」(21ページ)だろうという。「事実や文書が自分で歴史を形作るのではない」(22ページ)のである。

 「歴史家と事実」について1回で終わらせるつもりだったが、どうも2回はかかりそうである。それだけこの書物の中身が濃いということが言えそうである。前回の内容について、レインボーさんから、「歴史家と事実」について、日本ではどうなるのか、例えば邪馬台国の問題はどうかというコメントを頂いたが、カーのこの書物は近・現代史について書かれたものなので、邪馬台国のような古代史にどこまで適用できるかは何とも言えない。邪馬台国については、私の中国語の先生である尾崎雄二郎先生がいくつか論文を発表されていて、それは先生の著書である『中国語音韻史の研究』(創文社)などに収められていて、その論評の形で自分の意見を述べたいとも考えているのだが、何せ、先生の書かれている内容が高度で私のごときがとやかく言うべきものではないという気もして、手が付けられずにいる。

 最近、中学・高校の同期生である富田武さんによる『歴史としての東大闘争 ぼくたちが戦ったわけ』(ちくま新書)という本が出て、ボチボチと読み進んでいるのであるが、ロシア・ソ連政治史の研究家である富田さんにはカーの翻訳もあり、東大闘争についての本を読みながらでも、『歴史とは何か』について問い返さずにはいられないところがあると書いておこう。1967年2月11日に行われた建国記念日反対の戦いについて富田さんは1,000人以上の東大生が(休みにするという大学の決定にもかかわらず)登校したと書いた日記を引き合いに出していて、大いに劣等感を感じさせられた。幸か不幸か私はその当時の日記類はすべて廃棄しているが、京都大学の正門前で日の丸を掲揚しようとした大学当局とやりあった学生は数十人であったと記憶している。これらがどのように歴史的事実として記憶され、記録されるかは「歴史的事実」とは何かに決定的にかかわっている問題ではないかと思う。なお、富田さんの著書については、そのうち、読み終えたら、このブログで論評するかもしれないが、彼が「ぼくたち」という形で連帯を求めながら、その一方で、その「ぼくたち」の範囲をひどく限定しているように思える書き方なのに、腹が立っていて(私が東大を出ていないという僻みだといってしまえばそれまでであるが)論評する気があまり起きないというのも正直なところである。さらにその1年前(1966年)に私がドイツ語の単位を落して、留年する仕儀になったことはすでに何度か書いたことであるが、それがこの年、一部の国立大学で大量の留年者が出たという歴史的事実の一部として、岩波の『近代総合年表』などに記録されたのは、「歴史を作る」行為であったとはいうものの、どうもみっともないことであった。

白川静『漢字』(3)

2月13日(水)晴れ

これまでの概要
1 象形文字の論理
 漢字は基本的に表意的な象形文字であるが、仮借という表音的な表記法を取り入れることによって文字体系として確立され、今日に至っている。漢字はおそらく殷時代に、殷の文化圏の人々によって発明されたと考えられる。
2 神話と呪術
 漢字の文字の形象の中には、それを作り出した古代の人々の世界観が反映されている。
3 神聖王朝の構造(前半)
 漢字が生まれたと考えられる殷王朝の政治的な支配は祭祀を通じて行われた。殷王朝の王は、自分たちの氏族だけでなく、他の氏族の祖神もまた支配することによってその支配を維持していた。

 「3 神聖王朝の構造」の後半は、人間と社会のあり方をめぐる様々な文字のもともとの意味を探り、そこから古代の人々の考え方をあぶりだそうとしている。
 「聖」は人間としての理想の姿と考えられるが、もともとの意味は耳さとき人、耳がよく、いろいろな音や声を聴き分けることのできる人、さらには「神の声を聴きうる人」(71ページ)であった。楽官(音楽に従事する役人)もまた「耳さときひと」であり、その職は「師」と呼ばれた。これらは障害をもった人々であることが多く、「神意によって世につかわされた」(同上)とされることもあった。
 「臣」は大きな目の形であらわされている。臣はもともと神に仕える人であった。目は人の心のあらわれるところであり、邪眼はすぐれた呪力をもつものとしておそれられた。
 殷周期に「小臣」と呼ばれる身分呼称が見られ、のちに官名となっている。大小は長幼の順序と理解すべきで、「小臣」は「相続順位からはなれて、祭祀や軍事など、王朝の重要な職務を担当したようである。」(72ページ) 巫祝王の祭祀をたすける近侍の臣で、王族中、末子の家のものが当たるとされていたようである。 〔古代イスラエルのレヴィ族を想起させるところがある。ただし、レヴィはヤコブの末子ではない。〕

 「聖」の次に完成された人間と考えられるようになった「賢哲」は儒教では理想の統治者とされたが、もともとの意味は神への犠牲、神への奉仕者であった。「その字形は、文字が成立した当時の観念を、そのままに示している。文字の意味は、社会生活の変化、その意識の推移に連れて、流動してやまないのである。」(75ページ)

 古代の王朝が祭政的な形態をとったとしても、王朝の成立には軍事的な優越が不可欠であり、その体制を維持するためにも強大な軍事力が必要であった。殷周の軍事力は、王室の直属軍のほかに、各地の氏族軍に依拠するところが多かった。殷の直属軍は左・中・右の三軍編成で、司令官は「師」と呼ばれた。殷の軍の相当部分は、周に継承され、いわば外人部隊として、周の監視を受けながら、軍事活動を行っていた。

 軍は出発の際にも凱旋の際にも、「学」と呼ばれる場所で儀礼を行なっている。「原始の学は、軍事と密接な関係をもっていたことが知られる。学には、かつての将軍たちが祀られていた。」(78ページ)
 「学(學)」はその字形から、「千木形式をもつ建物の形」と考えられる。「それはかつて、氏族の若者たちが収容され、一般と隔離されて、特別の教育を受けていた機関であった。」(79ページ) そこでは氏族の伝統と、種々の儀礼について、また氏族生活の知識について教習が行われ、厳しい戒律と訓練が要求された。地方には氏族の、王都には地方の貴族の子弟のための学が存在したと考えられる。そこで指導に当たるのは老将軍(師)たちであった。

 『周礼』などによると、学には小学と大学とがあった。小学は貴族の子弟が8歳で入学し、舞楽や書を読むことを学んだ。大学はその上の段階の機関で、礼楽の教習の場であった(詳しいことは記されていない)。

 「漢の武帝が太学(だいがく)を開設したとき、この古代の学制を参考にして、五経博士をおいたが、その教科は経学を偏重する傾向があった。後漢になると、太学はマスプロ化して、修了者の就職も容易でなく、そのうえ当時の宦官の腐敗政治を快しとしなかったかれらは、ときに数千人の集団行動をもって王宮に示威行進を試みたりした。」(82‐83ページ) さらに党錮の禁などの事件が起きている。

 「学生運動は、もっと古い時代からあった。春秋のとき、鄭の郷校の学生が盛んに国政を批判し、騒ぎは収まらず、郷校は閉鎖されようとした。このとき子産は、言論の自由を抑止するのは、河水を塞ぐのと同様に危険であると警告して、閉鎖に反対し、これを阻止した。紀元前542年のことである。子産は、孔子が「古の遺愛なり」と賞賛した名政治家である。」(83ページ) 白川はさらに2例をあげている。
 この書物が出版されたのは1970年で、大学闘争の余燼が消えていなかった時期であり、おそらくは執筆中は、全国の大学闘争の中でもっとも苛烈であったといわれる立命館大学の闘争のさなかであったと思われる。白川は「伝統を尚び、秩序が重んぜられている社会では、老年者は尊敬を受けていたのである」(81ページ)とも書いている。その当時はまさにその伝統や秩序が動揺していたのである。〔これらの記述が大学闘争を意識してのものだと書いたが、それ以前に(あるいは両者の間に連動性を見る人もいるだろうが)中国の文化大革命についても意識していたと思われる。)
 大学教育の専門家に意見を聞いたところでは、大学というのはヨーロッパの中世に起源を有する、学位授与権に代表される自治をもち、また学問の自由を掲げる機関であって、それ以前のギリシアの学堂とか、イスラームの学校とかとは区別されるべきものだということであった。(実際問題として、カイロにあるイスラームの最高学府であるアル・アズハル大学が「国際的に」大学として認められたのは20世紀にはいってだいぶたってからのことである。) もっともこのように考えると、日本の大学は、一応「国際的に」大学として認められてはいるが、本当にその名に値するかどうかは疑問に思われるところがある。白川がこのあたりのことをどのように考えていたかは、今となっては知る由もないが、興味ある問題である。

 この章の最後に、白川は「五等の爵」について取り上げている。中国の古代の王朝では諸侯に対し、公・侯・伯・子・男という五等の爵位を授けていたとされ、さらにその下に卿・大夫・士という階層があって、ここまでが治者階級を構成していたと考えられてきた(孫文の『三民主義』でも、封建的な身分秩序はそういうものだと書いていたと記憶する)。
 しかし、卜辞や金文には五等の爵を実証するようなものは見当たらないという。諸侯としての封建を受けたものに与えられるのは「侯」のみであって、他はもともと爵号とは関係のないものであった。五等の爵制は春秋期に入って作られ、実際に行われたという説を紹介して、だとすれば、「それは主として王室との関係において、諸国間の国際的な儀礼の必要から起こったものであろう。それならば、五等の爵は王朝的天下の秩序として生まれたものではなく、むしろ王朝的な天下が崩壊したのち、列国間の国際関係の秩序として生まれたのであろう。ただその原型が、殷周期にすでに諸侯の号として存していたことは、当時の資料によって知ることができるのである」(90ページ)という。最後の部分に関わる「当時の資料」については紹介を省いてしまったが、関心のある方は、この書物を手に取ってお読みください。また卿・大夫・士についてもそれぞれに説明しているので、それもお読みください。余計なことを一つだけ付け加えれば、孔子は士の階層出身だったとされるが、彼が尊敬した子産(既に述べた鄭の賢宰相)は卿、晏嬰(斉の名臣)は大夫の階層であったといわれる。

『太平記』(249)

2月12日(火)曇り

 暦応4年(南朝興国2年、1342)、越前の南朝方が足利方の攻勢でほとんど姿を消し、大将の脇屋義助も美濃に移った中で、義助の家臣で大力剛勇をうたわれた畑時能は鷹巣城に立てこもり、それに新田一族の一井氏政が合流して宮方の孤塁を守っていた。
 少数でもあなどることができない危険な存在であると、足利方の越前守護の斯波高経、北国に援軍として派遣されていた高師治らは7千余騎の軍勢で、鷹巣城の周囲に向かい城を築いて包囲した。しかし、時能は彼と同じくらい大力の甥の悪僧・所大夫快舜、中間でやはり大力の持ち主である悪八郎、それに不思議な力をもつ犬の犬獅子の助けを借りて、防備に欠陥のある向い城を攻撃して、足利方を悩ませた。

 寄せ手の中で、加賀の国の住人である上木平九郎家光という武士は、(もともと新田方だったのが、足利方に寝返った経緯がああるので)、城へ数百石の兵糧を送ったという噂が広がり、誰がか知らないが、大将である高経の陣の前に「畑を討たんと思はば、まづ上木を斬れ」(第4分冊、40ページ、「畑を打つ(耕す)なら、まず植えてある木(上木)を切れ、という意味をかけている)と秀句(しゅうく=洒落)を書きつけた高札を立てたものがいた。

 これを見て高経も上木を警戒するようになり、朋輩の武士たちもうちとけない様子を示すようになったので、上木はそれを悔しいことに思って、2月27日の早朝に、自分の一族と手勢200余人を率いて、急ごしらえながらしっかりと武装し、真竹を打ち削り、それを楯の面に貼って、一斉に楯をかざし連ねて鷹巣城に寄せかけた。
 その他の寄せ手の武士たちは、城内の様子に詳しい上木が急に攻め込もうとするのは、必ずや陥落させようという所存だろう、上木一人の手柄にさせるな。みんなで続けと37か所の城の7千余騎が取る物もとりあえず、岩根を伝い、木の根にとりついて、険しい鷹巣の山坂18町を一息に上がり、切り立った険しい崖の下半町ばかりを攻め立てようとした。

 このように寄せ手は勇み立って城を急襲しようとしたのだが、城の中では「ただ置いて、事の様を見よ」(第4分冊、41ページ、したいようにさせて、様子を見よう)と、鳴りを潜めて音も立てないでいた。
 寄せ手が鹿垣(ししがき=鹿や猪など獣よけの垣を戦場に用いたもの)の近くまで登ってきたときに、畑時能、その甥の所快舜、妹尾新左衛門、若児玉五郎左衛門(武蔵国埼玉郡若小珠=埼玉県行田市/に住んだ武士)、鶴沢蔵人(福井県越前市に住んだ武士)の5人の武士が、思い思いの鎧に、太刀、なぎなたの切っ先を揃え、思い思いに名乗り、叫び声をあげて襲い掛かった。
 人数は寄せ手の方が圧倒的に多いが、作戦に基づいての意思統一はせずに先を急いで、急斜面を登ってきて息が切れているうえに、不意を突かれた形になってしまった。しかも、このように傾斜地で戦う場合には上の方から押しかけるほうが有利である。
 妹尾新左衛門というのは、異本によっては長尾と記されているらしい。長尾であれば、坂東八平氏の流れをくむ相模の長尾氏の一族であろうか。若児玉というのはその名から武蔵の児玉党との結びつきが思い浮かぶが、それを裏書きする資料が見当たらない。

 城に人はいないものと油断して、無警戒に進み近づいてきた先頭の100人あまりは、これに驚いてバラバラになり、お互いに助けをえようと今度は一塊になろうと集まりだしたのを見て、畑時能の中間の悪八郎が、直径8寸から9寸ばかり(30センチ弱)の大木を脇に挟み、50人がかり60人がかりでも動かないような岩があったのを、ひょいとばかりにはね起こして、石弓のように大岩を放った(まさかね!) その岩にぶつかって大木が4,5本折れて、斜面をごろごろ転がって行き、その音は雷が大地を揺るがすように聞こえた。岩に当たって砕けて落ちる石が、2・300に分かれて、兜を打ち砕き、楯を打ちひしぐ。これは仏教でいう転輪王の宝器である輪宝が山を崩し、ゴロゴロした岩を落ちつぶすことをほうふつとさせた。
 こうして打ち殺されたものが70余人、戦いの後に血を吐いて死んだ者、傷を負って運動の自由を失ったものは数えきれなかった。
 この攻撃の失敗後は、寄せ手は、この経験を肝に銘じて、これまでよりも向かい城を遠くに築き、決して攻撃をかけようとせずに包囲を続けることにした。

 敵の向かい城が近くにあったときであれば、夜な夜な夜討ちをかけて敵を疲れさせ、兵糧を常に城へと取り込むこともできたが、敵軍が向かい陣を、山を隔て、川を越えた場所に構えるとなると、時能は施す手段がなくなってしまった。かくなる上は、両者正面からたたかうような目覚ましい戦いをして、自分が戦死するか、敵をかけ散らすか、そのどちらになるか、運を天にまかせようと思ったので、鷹巣城には一井氏政を大将として11人を残し、自分は甥である所大夫快舜、悪八郎為頼以下の武勇に優れた者たち16騎を率いて、10月21日の夜半ばかりに、豊原(福井県坂井市丸岡町豊原にあった天台宗寺院、豊原寺)の北にあたる伊地智山(いじちやま=勝山市北郷町伊知地の鷲ヶ岳、実際は豊原の東南)に登り、新田の中黒の旗を2流れ立てて、寄せ手を待ち受けたのであった。

 斯波高経はこれを聞いて、畑が鷹巣城から自分の軍勢を分けてここまで出撃してきたとは想像できず、豊原寺と平泉寺(勝山市平泉寺町にある天台宗寺院、現在は平泉寺白山神社になっている)の衆徒たちが宮方に寝返って、挙兵したものと考えて、できるだけ早く対応しようと、急いで、同じ22日の卯の刻(午前6時ごろ)に、3千余騎で押し寄せた。最初のうちは敵の多少がわからなかったので、簡単には進むことができなかったが、小勢であると見極めたので、少しも恐れることなく、我先にと進んでいったのである。

 足利方の斯波勢は3千余騎、宮方の畑時能の率いるのはわずか16騎、数の上では勝負にならないはずである。とはいえ数を頼んで、作戦も十分に立てずに押し掛けると、少数だがえり抜きの決死の軍勢に思わぬ苦戦をすることがある。さて、この戦いの行方はどうなるか…というのは次回。

日記抄(2月5日~11日)

2月11日(月)曇り、ときどき雪

 2月5日から本日までの間に、経験したこと、考えたこと、これまでの記事の補遺・訂正など:

2月5日
 NHK『ラジオ英会話』の”Grammar in Action"(文法の実践)のコーナーで、「君はもう少しむっつりしていなかったら、もっとたくさんの友達を作れるのに」という文の英訳として、
If you were less grumpy, you would make far more friends.
という文が挙げられていた。ここで"grumpy"という単語が目を引く。番組中でも触れられていたが、ディズニーのアニメ「白雪姫」に登場する7人の小人の一人がgrumpyである。
 魔女である継母から逃げてきた白雪姫は7人の小人たちに助けられるが、「女は魔物だ」などといって一番警戒的な態度をとるのがグランピーである。その一方で、実は白雪姫のことを一番心配している存在でもある。森卓也さんが七人の小人のなかではグランピーが好きだと書いているのは、そういうちょっと屈折した性格表現の魅力のためであろう。

2月6日
 NHKラジオ『実践ビジネス英語』の”Quote...Unquote"のコーナーで紹介された言葉:
Seriousness is the only refuge of the shallow.
    ――Oscar Wilde (Irish poet, playwright and novelist, 1854 - 1900)
(まじめさとは、浅薄な人間の唯一のよりどころである。)
 ダブリンのメリオン・スクエアに面して昔ワイルドが住んでいたという邸宅が残っている。メリオン・スクエアにもワイルドの像や記念碑が立っているので、興味のある方は探してみてください。

2月7日
 『日経』に門井慶喜さんが連載している「ドームのある近代建築 十選」の第9回は、広島の原爆ドームを取り上げている。もともと大正4年(1915)に広島県物産陳列館として建設された建物である。

 NHKラジオ『まいにちスペイン語』中級編 ¡Japón por dentro! (もっとニッポン)の2月放送分は日本人青年ナオトが中米エルサルバドル出身の医師マリオとともに東北地方を旅行するという内容である。今回は弘前城を訪ねるという設定で
El folleto dice que el castillo actual fue edificado en 1810, y que es considerado por los expertos de Japón como uno de los doce castillos que conservan sus estructuras originales. (パンフレットによると、今の城は1810年に建てられて、日本の専門家によって、もとの姿をとどめる12の城の1つとされているんだって)とナオトがマリオに説明している。厳密には「12現存天守」の1つで、弘前のほか、松本、丸岡、犬山、彦根、姫路、松江、備中松山、丸亀、松山、宇和島、高知ということである。私は彦根の生まれで、友人が松本に住んでいたので、この2つの城には出かけたことがある。弘前といえば、子どものころ、伯父が住んでいて、冬になると木箱に詰めたリンゴを送ってくれたのを思い出す。

 『実践ビジネス英語』の”Quote...Unquote"のコーナーで紹介された言葉:
Genius is one percent inspiration and ninety-nine percent perspiration.
---- Thomas A. Edison (U.S. inventor, 1847 - 1931)
(天才とは、1パーセントのひらめきと99パーセントの汗である。)
 非常に有名な言葉である。

2月8日
 『朝日』のコラム「経済気象台」に「保険としての大学」という一文が掲載されていた。最近の大学をめぐる政策は実用本位になって、役に立たない研究が捨てられる傾向があるが、そのため「社会の知恵袋の大元ともいうべき大学のリスクヘッジ機能が弱体化してしまえば、元も子もないのではないか」という。傾聴すべき意見である。

 「ドームのある近代建築 十選」の第10回(最終回)は京都四条大橋西詰にある東華菜館を取り上げた。もともとは「矢尾政」という西洋料理店の建物として、1926年に建てられたもので、設計者はW.M. ヴォーリスという人物だそうである。現存最古のエレベーターが稼働していることでも知られている。
 いまから50年近く前、大学時代にお世話になった先生の研究室の店じまいの会がここで開かれたのだが、後にも先にもこの建物に入ったのはそのときだけである。そのとき、会費を払わずに食い逃げしたのが2人いて、そのうちの1人が松本に住んでいたという前出の人物である。
 高野悦子の『二十歳の原点』が東宝で映画化されたのを見ていたら、この東華菜館の建物が出てきたのでびっくりしたのを覚えている。その当時から、京都を代表する建築物の一つであったということであろうか。
 門井さんは抽斗の多い作家だとは思っていたが、その片鱗を改めて感じることができた。この連載で門井さんが取り上げた建物の半分くらいは中に入ったか、近くを通りかかったかの経験があり、そのおかげで面白く読んだ。

2月9日
 NHKラジオ『朗読の時間』は「織田作之助作品集」として、「夫婦善哉」(1~5回)を放送した。何度も繰り返して放送されるのは、やはり好評だからだろうか。主人公である柳吉はいまでいうB級グルメで、大阪のミナミのいろいろな店を食べ歩く。そこで名をあげられた店(例えば「たこ梅」、「自由軒」)の多くが現存していることでも彼の舌の確かさがわかる。性格的に商売に向いていないだけであって、ほかのことをさせれば才能を発揮したかもしれない。だからこそ蝶子が彼に惹かれた(もっとも、蝶子は柳吉をなにかの商売で成功させようと思っているので、いつまでたってもうまくいかない)のだというところを見落として、ただのダメ男と思ってしまうとこの作品の興趣は半減するだろう。

2月10日
 英国の俳優のアルバート・フィニー(Allbert Finney)さんが亡くなった。83歳。グレーター・マンチェスターの出身で、王立演劇学校(RADA = Royal Academy of Dramatic Art)で学んだ後、舞台で活躍、1960年に主演した映画『土曜の夜と日曜の朝』で注目を浴び、1963年の『トム・ジョーンズの華麗な冒険』ではヴェネツィア国際映画祭の主演男優賞を受賞した。1967年に「いつも二人で」でオードリー・ヘップバーンと共演。1970年の『クリスマス・キャロル』では主人公のスクルージ役でゴールデン・グローブ賞のミュージカル・コメディ部門の主演男優賞を受賞。さらに1974年の『オリエント急行殺人事件』ではエルキュール・ポワロ役を演じるなど、出演した映画作品はそれほど多くはないが、すぐれた作品が多く、存在感を見せていた。もっとも、私はポワロ役者としてはピーター・ユスチノフの方が好きである(これは個人の趣味の問題)。この後、私の方が映画を見なくなって、出演作をあまり見ていないが、年輪を重ね、存在感を増していったようである。それでも、2003年の『ビッグ・フィッシュ』は見ている。本当のところ、オードリーの共演者がまた一人、いなくなったかと思うと、彼女がますます過去の人物になったようで、そのことがいちばん寂しい。ご冥福を祈るとともに、機会があれば、出演作を見直してみたいと思う。

 1069回のミニtoto Bが当たる。しかし、Aが外れたこともあって、今年に入ってからくじを購入した金額が17,300円、賞金額が16,841円といよいよ損失が多くなってきた。2月9日の『日経』のコラム「大機小機」に癸亥(今年の干支である)という書き手が「税金と賭博の不思議な国」という一文を書いている。賭博のリスクよりも、投資のリスクの方をおそれるという心理を不思議がっているのだが、確かに、これからは人間の経済行動の心理学的研究が重要になるかもしれない。

2月11日
 平松洋子『買えない味3 おいしさのタネ』(ちくま文庫)を読み終える。簡単に読めそうで、なかなか読み終えられなかった。日常の生活、特に食生活で直面する様々な問題をいろいろな角度から書いたエッセーをまとめているのだが、書き手の経験の蓄積が、文章のあちこちににじみ出ていて、手ごわい。たいていは身の回りの出来事を題材にしているのだが、小説や映画が取り上げられていても、こんな世界もあるの夏、こんな考え方もできるのかと思うことが少なくなかった。終わり近くに収録されている「路地 街の廊下」という文章が特に印象に残った。「迷う 人生のY字路」という文章で取り上げられている5代目古今亭志ん生の「鰻の幇間」は聞いたことがないので、聞いてみたい(この噺、8代目桂文楽の所演が定番だと思う)。 

齋藤慎一『戦国時代の終焉 「北条の夢」と秀吉の天下統一』(3)

2月10日(日)晴れ

 戦国時代を関東を中心に見直して、その発端を応仁の乱に先立つ享徳の乱に求めたのは峰岸純夫さんであったが、この書物はその峰岸さんの激励を受けて、戦国時代の終わりを関東の側からたどろうとした試みである。戦国時代を関東から見れば、こんな風に描き直せるというのがこの書物の趣旨であり、その中で戦国大名である小田原北条氏が支配する南関東と、佐竹氏・宇都宮氏など伝統的な在地勢力が支配する北関東との対立を浮かび上がらせた。その対立がはっきりした武力衝突となったのが、天正12年(1584)に下野国(栃木県)南部で起きた沼尻の合戦である。しかもその対立は単なる地方的な覇権争いではなく、中央における織田信長亡き後の覇権争い、羽柴(→豊臣)秀吉と織田信雄・徳川家康の対立と結びつくものであった。このような地方と中央の情勢の連動の中で、著者は「戦国の終焉」への道筋を描き出そうとしている。

第1章 織田信長と北条氏政・氏直 天正10年まで
 天正10年(1582)3月に武田勝頼が滅亡後、北条氏政・氏直父子が信長と同盟することで、関東の覇者になるという「北条の夢」を実現しようとするが、信長は上野に滝川一益を入国させ、関東地方全体の統制にあたらせようとした。北条氏の勢力の北上をおそれていた北関東の領主たちは、一益に接近し、北条氏もまた一益と結びつこうとするが、6月2日の本能寺の変のあと事態は一変する。中旬に神流川で滝川一益の軍勢と北条氏直の軍勢とが激突し、敗北した一益は、再起を期することなく伊勢へ敗走する。

第2章 合戦の序曲 天正10年後半~11年
 神流川の合戦の勝利の勢いに乗った北条氏直はそのまま信濃に侵入し、さらに甲斐へと進撃しようとした。これに対して東海の大名である徳川家康が、甲斐に兵を進め、両者が遭遇、数的には北条が優勢であったが、徳川は局地的な戦いで勝利し、また相手陣営からの離反を指そうなどの駆け引きで反撃を試み、結局両者の和議が成立して、徳川=北条の同盟が結ばれることとなった。この結果、それまで家康と気脈を通じていた北関東の領主たちの多くは、中央における豊臣秀吉の力を頼ろうとするようになった。〔以上、これまでのあらまし〕

第3章 沼尻の合戦 天正12年
 1 北条の脅威
厩橋城落城
 北条氏による厩橋城攻撃は執拗なものであり、氏直自身が出馬して攻撃を続けた結果、天正11年(1583)9月に城が明け渡される。氏直は城を改修して、拠点として活用しはじめた。「厩橋城が北条勢の拠点となったことは、反北条勢の危機感を著しく高めた。」(53ページ) 北関東の領主たちのなかには北条氏と交渉を始めるものが続出、情勢は北条に有利に推移していた。
佐野宗綱の説得
 北条有利の情勢を打開するため、下野佐野の領主である佐野宗綱は上野新田領の金山城(群馬県太田市)の由良国繁(1550‐1611)とその実弟である館林の領主長尾顕長(?ー1621)の兄弟に必死の説得を試みた。兄弟は北条と反北条の間で動揺を続けていたのである。

 2 合戦の勃発
前哨戦
 天正11年(1583)11月27日、北条方の冨岡六郎四郎が拠る上野の小泉城(群馬県邑楽郡大泉町)を反北条の軍勢が攻撃して、合戦は始まった。
佐野宗綱の小泉城攻め
 由良国繁、長尾顕長兄弟の説得に成功した佐野宗綱は、兄弟と連合して小泉城の攻撃に参加した。しかし、小泉城の守りは固く、攻撃は成功しなかった。
北条氏直の出陣
 小泉城の攻囲戦が長期化したため、北条勢は準備を十分に整えることができた。天正12年(1584)3月に北条氏直が出陣する。反北条勢は利根川が融雪で増水して渡河が困難になるのをあてにしていたが、北条勢は一気の攻勢をかけようとした。
足利城攻め
 利根川を渡河した北条勢は小泉城の救援に向かい、そこから長尾顕長の本拠地である足利城に向かった。さらに矛先は佐野宗長の佐野にも向けられた。下野では氏政の弟の氏照が攻撃の中心となり、氏政と氏直は上野に侵入した。

 3 沼尻の合戦の様相
佐竹義重・宇都宮国綱の出陣
 北条勢の動きに対して、佐竹義重、由良国繁、長尾顕長らの動きも迅速であった。北条勢が小泉城の救援と由良・長尾の問題を重視して上野に兵を展開したのに対し、佐竹、宇都宮は小山など下野の南部に意識を向けていた。
両者の沼尻着陣
 北条方は上野国東部を、佐竹・宇都宮は下野南部を目的地として行動していたが、相手の動きを見て方向を転換し、双方が目的とした地域の接点で衝突する。それが三毳山の南山麓、佐野・藤岡間の交通の要地である沼尻である。
 両軍は5月上旬に沼尻に着陣した。両軍ともに大軍を動員していたが、佐竹義重は陣城を築いており、短期で戦闘が決着する可能性は低かった。
戦場の景観
 三毳山の麓の沼をはさみ、東側に佐竹・宇都宮が、西側に北条が兵を展開した。
長期化する対陣
 「双方ともに陣城を構えて対陣するが、ともに戦場での決め手を欠き、事態は膠着状態となっていった。」(69ページ) 両者ともに陣城を築いてにらみ合い、戦闘により一気に事態が動く状況ではなくなり、両軍の間には厭戦気分が漂い始めた。

 さて、この下野南部における北条と反北条のにらみ合いは、濃尾平野における秀吉と信雄・家康の連合軍の戦いである小牧・長久手の戦いと連動するものであった。次回はその小牧・長久手の戦いについて述べることになる。
 今回登場する長尾顕長は由良成繁の子で、長尾景長の養子となったのだが、この長尾氏は坂東八平氏の流れをくむ鎌倉氏の一族が相模国鎌倉郡長尾庄(現在の横浜市栄区長尾台町)に住み着いたのを起こりとし、その後上杉氏の家臣となった。さらに越後長尾氏の景虎が上杉の名籍を譲り受けたのはよく知られている。
 それから小泉城はその城主に因んで冨岡城とも呼ばれているらしい。遺構が残っているようなので、ご関心の向きはお出かけください。

トマス・モア『ユートピア』(39)

2月9日(土)曇り、ときどき雪が降っていたのが、次第に本格的に降り出す。しかし、降り積もるほどではない。

 1515年にイングランド王の外交使節団の一員としてフランドル(英語でフランダース、オランダ語でフランデレン、ベルギー西部、オランダ南西部、フランス北部を含む北海沿岸地域。中世にはフランドル伯領として、国家的なまとまりがあった。この時代にはハプスブルク家の所領の一部であった)を訪問した法律家で、地方行政官でもあったトマス・モアは、外交交渉の中断中にアントワープを訪れ、その市民であるピーター・ヒレスと親しく交わる。ある日、モアはピーターからラファエル・ヒュトロダエウスという地球を一周してきたという人物を紹介される。各地を歴訪して様々な社会とその制度を見聞した経験と知識とに感心したピーターとモアは、彼にどこかの王侯の顧問として助言を与えるように勧めるが、ラファエルは王侯たちが戦争と収奪による蓄財にのみ関心を寄せているといって、宮仕えを承知しない。そしてヨーロッパ諸国の社会の状態や政治を批判した後に、彼が最善の社会だと思っているのは新世界で彼が5年間住んでいたユートピアという島国であるという。ピーターとモアの求めに応じて、ラファエルはユートピアの社会制度について語る。そこは一部の例外を除いてすべての人々が働き、私有財産というものをもたない独特の制度をもつ国である。ユートピア人の生活と制度についていろいろ語ったラファエルは、最後に彼らの宗教について語る。かれらは宗教の自由を認めているが、全体として、霊魂の不滅を信じ、この世の中の行ないは来世においてその応報を受けると信じている。キリスト教にも関心を寄せているが、自分たちが信じているのと違う宗教を攻撃することは国法で禁じられているという。

 ユートピアでは月の最初の日と、最後の日が祝日になっているが、その「最後の祝日」には神殿に出かける前に、「自分の家で妻は夫の足もとに、子どもは親の足もとに身を投げ出して、何かあやまちを犯したとか、義務をいいかげんにすませたとかいうように、犯した罪を告白し、犯したあやまちにたいする許しを乞い求めます。ですから、もし家庭不和の暗雲が広がっていても、このような償いで一掃され清く朗らかな心で礼拝に参列することができるわけです。」(澤田訳、234ページ)
 罪の告解はキリスト教における重要な秘蹟の一つであるが、それをモアはユートピアでは家族単位で行われるとしている。家族の問題は家族で解決すべきだということであろうか。(ユートピアの司祭が告解という秘蹟を行うかどうかは触れられていない。そもそも、ユートピアはキリスト教国ではないから秘蹟というものが存在しない。) では、家族の告白を受け入れる立場にある家父長自身の良心の呵責はどのようにして解決されるのかという問題は触れられていない。モアの家父長主義的な家族観がうかがわれる個所であるが、と同時に彼が人間の内面の良心の問題を重視していたことも見逃すことができない。

 神殿における礼拝は男女に分かれ、家族単位で席につき、それぞれ家父長、家母長の監督下で厳粛に執り行われるという。特に子どもは勝手にふるまうように放任されることはない。神々への宗教的な畏敬心こそが徳を実践させるための刺激となりうるのだし、そのような気持ちを植え付ける場として、神殿における礼拝に勝るものはないからである。

 彼らは動物を神への供犠にすることはしない。動物の命を奪うことが神の慈悲心にかなうと考えないからである。その代わりに、何種類かの香を焚き、またたくさんのろうそくに火をともす。そういうことが信仰心を高めると考えているのである。

 「神殿のなかで会衆は白衣をまとい、司祭は、形やしあげの点ではすばらしいがそれほど高価ではない生地でできた多彩色の祭服をつけています。」(澤田訳、235ページ) この祭服にはいろいろな鳥の羽が織り込まれており、その織り込み模様には、「ある不可視の秘儀がかくされている」(澤田訳、236ページ)。司祭にその意味を教えられることにより、ユートピア人たちは「彼らにたいして与えられた神の恩恵、また逆に神に対する彼らの信心とお互い同士の相互義務について教え諭される」(同上)という。

 司祭が祭服を着て内陣から出てくると、会衆は一斉に床に平伏し、それから司祭の合図で立ち上がり、神への賛美を歌で歌う。それは心からの歌声である。
 そして最後に、司祭と会衆が一緒になって祈りを唱える。祈りの言葉は、各人が納得して唱えられるように工夫されたものである。その祈りは、世界の創造者であり、支配者である神を賛美し、ユートピアにおける彼らの幸福な生活と彼らの信じている宗教が神の恩恵によるものであることを感謝するものである。しかし、もっとよい社会制度や宗教が存在するのであれば、それを自分たちに知らせてほしいといい、また自分たちのものが最善であるのならば、それをいつまでも維持できるように取り計らってほしいとも付け加える。さらにほかの国々の人々も自分たちと同じ制度や宗教をもつように計らってほしいともいう。しかしこの祈りにも次のような留保が付け加えられているのが注目される。「さまざまの宗教があるということのなかに彼(神)の測り知れぬ御旨をお喜ばせするものがあるのでない限り」(澤田訳、237‐238ページ)。つまり、世界に様々な宗教があるということ自体が、神意に基づくものである可能性を否定していないのである。
 そして自分が安らかに一生を終えることができるように祈りの言葉を添え、祈り終えるとまた平伏し、しばらくすると起き上がって、昼食をとり、その後の時間は遊戯にふけるか、軍事教練をして過ごすという。なお、澤田訳では「遊びとか軍事教練」(238ページ)となっているが、平井訳では「団欒と武術の練習」(平井訳、175ページ)、ロビンソン訳では”plays and exercises of chivalry" (p.130)とやや含みを持たせた訳し方になっている。しかし、 ターナー訳では"recreation and military training"(p.128), ローガン&アダムズ訳では"games and military training"(p.103)とあるので、ここは澤田訳の方が原文の趣旨に近いと考えられる。

 こうして、ユートピア人の宗教について語り終えたラファエルは、次のように自分の話を締めくくりはじめる。
 「これで、最善であると私が確信している社会、またそれだけでなく、私の判断では公共社会(レスプブリカ)という名称を自らに対し正当に主張請求することができる唯一の社会の形態を、できるかぎり真実どおりに皆さまにご説明申しあげたわけです。唯一のものと申したのも、ほかのところではどこでも、公共の福祉について語っている人々がかまっているのは私の利益だからです。」(澤田訳、238ページ) 
 この個所は、平井訳ではかなり違った形になっていることに注目すべきである。
 「以上、私はユートピアの国家形態とその組織をできるだけ正しく説明した積りである。思うに、この国は、単に世界中で最善の国家であるばかりでなく、真に共和国(コモン・ウェルス)もしくは共栄国(パブリック・ウィール)の名に値する唯一の国家であろう。いかにも共和国(コモン・ウェルス 公共繁栄 コモン・ウェルス)という言葉を今でも使っているところは他にいくらもある。けれども実際にすべての人が追求しているものは個人繁栄(プライヴェイト・ウェルス)に過ぎないからだ。」(平井訳、176ページ)
 何度も書いてきたように、平井訳はロビンソン訳からの重訳なので、そのロビンソン訳はどうなっているかというと:
 Now I have declared and described unto you as truly as I could the form and order of that commonwealth, which verify in my judgement is not only the best, but also that which alone of good right may claim and take upon it tne name of a commonwealth or public weal. For in other places they speak still of the commonwealth, but every man procureth his own private gain. (p.130)
 ターナー訳では
 Well, that's the most accurate account I can give you of the Utopian republic. To my mind, it's not only the best country in the world, but the only one that has any right to all itself a republic. Elsewhere, people are always talking about public interest, but all they really are about is private property. (さて、これがユートピア共和国について私がお話しできるいちばん正確な説明です。私の考えでは、それは世界で最善の国であるばかりでなく、共和国と自称する権利のある唯一の国です。ほかのところでは、人々は常に公共の利益について話していますが、彼らが実際に気にかけているのは私有財産なのです。)
 ローガン&アダムズ訳では
 Now I have described to you as accurately as I could the structure of that commonwealth which I consider not only best but indeed the only one that can rightfully claim that name. In other places men talk all the time about the commonwealth, but what they mean is simply their own wealth; (さて、私はできるだけ正確に、私が最善であるというだけでなく、実際にその名を正当に名乗りうると考えている共和国の構造について説明しました。他の場所では、人々は公共の富について常に語っていますが、彼らが内心で考えていることはただ単に彼ら自身の富なのです。)

 英語のrepublic(共和国、国家)の語源となっているラテン語はres publica でこれが「公共の事柄」という意味であるのはご承知であろう。ここでしばしば使われているcommonwealthも国家、共和国という意味をもつ。wealは「福利」(やや古い言葉のようである)、wealthは「富」である。なお、アメリカのマサチューセッツ、ペンシルヴェニア、ヴァージニア、ケンタッキーの4州はそれぞれ公式名としてStateではなくCommonwealthを採用している。

 ユートピアの宗教について語り終えて、ラファエルは自分の話の締めくくりを始める。ユートピアの社会制度がなぜヨーロッパの諸国に比べて優れたものであるといえるのか、全体を要約するような語りが続くことになるが、それはまた次回に。次回でこの紹介が終わるかどうかは予測できないところがあるが、読み終えての意見・感想を述べる場も設けたいので、たぶん、あと2回は続くことになりそうである。  

ダンテ・アリギエーリ(須賀敦子・藤谷道夫訳)『神曲 地獄篇(第1歌~第17歌)』(10ー2)

2月8日(金)曇り

 1300年4月4日、<暗い森>に迷いこんだダンテは、天国の貴婦人たちによって彼の魂を救うためにやってきたローマ黄金時代の大詩人ウェルギリウスの魂に出会い、彼とともに地獄と煉獄を、「よりふさわしいたましい」に導かれて天国を歴訪する旅に出発する。
 地獄の門をくぐってまず目にしたのは、生前目立った善行も悪行もなさなかったために天国にも地獄にも受け入れられないたましいが空しく走り回っている姿であり、次に地獄の川アケローンを渡る船にたましいたちが争って乗り込んでいる姿であった。
 ウェルギリウスとともに彼は地獄の第1圏(リンボ、異教徒であったが有徳の人生を送った人々、洗礼を受けないまま死んだ幼児)、第2圏(愛欲の罪)、第3圏(食悦の罪)を訪れる。第3圏で出会ったチャッコというフィレンツェの元市民は、この都市の有名な政治家たちがもっと重い罰を受けていることを告げる。
 さらに第4圏(貪欲・浪費の罪)、第5圏(スティクスの沼、高慢・嫉妬・憤怒・鬱怒の罪)で生前の罪の罰を受ける魂たちを見たのち、ディース城に入ろうとするが、悪魔たちに阻まれ、天使の介入によってこの城に入城できる。地獄の第6圏をなすこの城の中には、異端の罪を犯したたましいたちがおかれている。その中の快楽主義者たちのなかから、ダンテのトスカーナ方言を聞いた一人のたましいが彼に話しかける。チャッコが「ずっと降りていけば会えるだろう」(第6歌、87行、124ページ)といっていたフィレンツェの偉大な政治家ファリナータ(1264年に死んだ皇帝派の政治家ウベルティ)であった。教皇派のダンテと皇帝派のファリナータは対立するが、次第に理解しあうようになる。2人の会話を聞いていた隣のたましいが自分の息子の安否を問う。それはダンテの親友グイド・カヴァルカンティの父親のカヴァルカンテであった。ダンテの言葉を誤解したカヴァルカンテは自分の息子がすでに死んだと思って姿を消す。

 カヴァルカンテは姿を消したが、ファリナータのたましいは依然としてダンテと言葉を交わそうとしていた。
 しかし先に私の足をとめさせたあの
大いなる矜持の持ち主は微動だにせず、表情一つ変えることもなければ、
首を動かすでもなく、胸を折りまげるのでもなかった。
(73‐75行、213‐214ページ) その態度は彼の気概を示すようにも思われたし、傲岸不遜さを表わすようにも受け取れた。彼は自分の隣人であるカヴァルカンテの落胆ぶりにも無関心な様子であった。

 そして、ファリナータは自分の子孫たちがフィレンツェに帰還できないままでいることを残念がった。それは
このいまいる(炎の)寝床よりも私にとってはずっとつらいことだ。
(78行、214ページ)という。故郷の都市に帰還できないことは、地獄の業火に焼かれるよりも苦しいことだというのである。そして、故郷の都市に帰る術を学ぶことが
いかに大変か、君にも判ることだろう。
(81行、214ページ)と矛先をダンテに向ける。ダンテはファリナータに、彼の子孫たちがフィレンツェを追放されたという彼の死後の(現在の)様子を語ったのだが、ファリナータは、ダンテもまたフィレンツェの町を追放され、帰還できなくなるだろうとその未来を予言するのである。〔ダンテが『神曲』を書きはじめたのは、彼がフィレンツェを追放されて以後のことであるから、このファリナータの予言は事後予言である。〕 そう言いながら、彼は次のように付け加える。
 君がいつの日か甘美な世界に帰りつくよう願っている。
(82行、214ページ) 原文では”E se tu mai nel dolce mondo regge”である。地獄でダンテがであった死者たちの中で、ダンテの前途の平安を祈るのは、地獄の第2圏で出会ったフランチェスカと、このファリナータ、この後に登場するダンテの師ブルネット・ラティーニの3人だけだそうである。〔自分の親友の父親や、先生を地獄の登場人物にするのはあまりいい趣味だとは思わないけれども、ダンテにはそうせざるを得ないような事情があったのであろう。〕
 ダンテはファナリータの属するウベルティ一族がフィレンツェを追放された次第を語り、
 「ああ、どうかあなたの御子孫に平安が訪れますように」と
(94行、214ページ)と結ぶ。いったんは反目しあった2人であったが、お互いに相手(の一族)の前途を祝福しようとしている。

 ところで、ダンテには現在のことはわかるが、死者は現在のことがわからない代わりに、将来が予見できる。死者に未来が予見できるというのは当時の通念だったようだが、このことについてダンテが尋ねると、死者には遠くのことは(老眼の人間のように)よく見え、近くのものが見えない。生者はいわば近眼の人間と同じような状態にあるのだという。
 ダンテは、ファリナータにカヴァルカンテに対し、彼の息子が生きていることを伝えてほしいと頼む。こうして2人は別れる。

 ダンテはファリナータが、ダンテ自身もフィレンツェから追放され、帰還できなくなるだろうと仄めかした予言の意味を考えこむ。ウェルギリウスは、その言葉をよく覚えておけと命じる。やがて彼がベアトリーチェにあったときに、彼の人生の旅の意味を教えてくれるだろうという。
 われわれは城壁をあとにして、(墓と墓との間の)小径を通って、
(圏の)中心へと向かった。小径は深い谷「第7圏」までつづいていたが、
谷からは、この上(第6圏)まで耐えがたい臭気が立ち昇っていた。
(134-136行、216‐217ページ)

 こうして第10歌は終わる。ダンテは地獄の第7圏に進み、第11歌がはじまる。 
 

E.H.カー『歴史とは何か』

2月7日(木)薄曇り、次第に晴れ間が広がる。

 1月31日、E.H.カー(清水幾太郎訳)『歴史とは何か』(岩波新書)を読み終える。著者(Edward Hallett Carr, 1892 - 1982)が1961年にケンブリッジ大学で行った「歴史とは何か」(”What Is History")と題する連続講演の内容を本にまとめたもので、清水幾太郎(1907‐88)による日本語訳は1962年に刊行され、今日まで版を重ねて私の手許にあるのは第88刷である。「はしがき」で清水が言うように、歴史に関わる根本問題を一つ一つ綿密に論証した歴史的な著作であり、歴史研究に興味を持つ人々が避けて通ることのできないような問題が取り上げられている。

 とはいうもののこの書物がまとめられてから50年以上(四捨五入すれば60年に近い)年月が経って、その間にも新しい歴史が積み重ねられているし、この書物が日本に紹介されていなかった頃にはまだ翻訳されていなかった海外の書物が日本語で読めるようになり、歴史についてのわれわれの見方や立ち位置も大きく変化していることは否定できない。さらに、この翻訳が出たころにはまだまだ論壇における一方の雄としての清水の地位は高かったとはいうものの、社会学者である彼の歴史書の翻訳が、歴史家である著者の真意をどこまで捕えているかをめぐっても疑問がある。「はしがき」で清水は謙虚にも、「E.H.カーの恐るべき博識に私が追いつけぬため、とんでもない誤訳がありはしないかと心配している」(ⅴページ)と書いている(清水は旧制中学でドイツ語を勉強したため、英語よりもドイツ語の方が得意だったという事情も考えなければならないだろう)。だから、清水が没して30年以上を経過した今、彼の翻訳を生かしながらも、さらに新しい知見を加えて改訳がなされるのが適切だと思う。これから展開する論評は、そのことを常に意識しながら、展開していきたい。

 歴史に関わる根本問題と書いたが、この書物は次のような構成をとっている:
Ⅰ 歴史家と事実
Ⅱ 社会と個人
Ⅲ 歴史と科学と道徳
Ⅳ 歴史における因果関係
Ⅴ 進歩としての歴史
Ⅵ 広がる地平線

 章題を見ればわかるように、歴史研究における「事実」とはどういうものか、歴史における社会と個人の関係、歴史研究は科学であるか、歴史に道徳的判断を持ち込むべきかというような問題が取り上げられているが、それ以前に気になるのは、この書物の標題紙と「はしがき」の間に、次のような言明(あるいは引用)が挿入されていることである。
 「八分通りは作りごとなのでございましょうに、それがどうしてこうも退屈なのか、私は不思議に思うことがよくございます。」
   キャサリン・モーランド歴史を語る
    (ノーサンガー・アベイ 第14章)
『ノーサンガー・アビー』(Northanger Abbey)は1803年に完成したが、さまざまな事情で出版されないまま、結局作者の死後に公にされたジェイン・オースティン(Jane Austen 1775 - 1817)の最初の長編小説である。キャサリン・モーランドは比較的裕福な地方牧師の娘で、田舎育ちのごく平凡な17歳の少女であるが、性格がよい半面で小説を読みすぎて、現実と空想の区別がつかなくなるところがある。その彼女が教養豊かな若い地方牧師であるヘンリー・ティルニーと出会い、恋に落ちる。
 引用箇所は、物語の中盤、キャサリンがそのヘンリー、ヘンリーの妹で美人で教養もあるエリナーと3人で散歩をしながら、どんな本が好きかという話題で盛り上がる場面である。キャサリンはゴシック小説の傑作とされるアン・ラドクリフ (Ann Radcliffe 1764-1823)の『ユードルフォの謎』(The Mysteries of Udolpho, 1794)を愛読しているといい、ヘンリーもエリナーもこの本を高く評価していることを知り、安心する。〔まったくの余談になるが、この『ユードルフォの謎』という小説も日本語に翻訳されているようである。〕

 そして、エリナーの質問に答えて、自分は小説や戯曲は読むし、旅行記も嫌いではないが、歴史書はどうも好きになれないという。彼女の言い分がなかなか面白い:「義務的に少しは読みますけど、いやなことや退屈なことしか書いてないんですもの。どのページを開いても、教皇や国王たちの争いや、戦争や疫病のことばかりで、男はみんなろくでなしで、女はほとんど出てこなくて、ほんとにうんざりするわ。でも、よく不思議に思うの。歴史書の大部分は作り話なのに、なぜこんなに退屈なんだろうって。英雄の言葉も考えも計画も、ほとんどが作り話だと思うわ。それなのになぜあんなに退屈なのかしら。ほかの本に書かれた作り話はすごく面白いのに」(中野康司訳、ちくま文庫版、163‐164ページ、下線は、この個所がカーの引用と重なることを示すために私が引いたものである。)

 これに対して、エリナーは優等生の淑女らしく次のように答える:「つまりあなたの考えだと…歴史家は想像力の使い方が下手だというわけね。歴史家は想像力を発揮しても、読者の興味をかきたてることができないというわけね。でも私は歴史が大好きよ。そこに書かれた真実も作り話も両方とも大好きよ。主要な事実は、語り継がれてきた歴史と記録が元になっていて、それを自分の目で見たわけではないけど、十分に信頼できると私は思っているの。それからあなたの言う粉飾について言えば、それは確かに粉飾だけど、私はそういう粉飾も大好きなの。英雄の言葉が面白く書かれていたら、それを書いたのが誰であろうと、私はそれを読んで大いに楽しむわ。カラクタクス
(AD50ごろ、ローマ軍に抵抗したブリテンの族長)やアグリコラ(40‐93。ブリテンを平定したローマの将軍)やアルフレッド大王(849‐899 デーン人侵略から国を守ったウェセックス王)の本当の言葉よりも、デイヴィッド・ヒューム(1711‐1776 『人性論』で知られる哲学者だが、『英国史』全6巻も有名)やウィリアム・ロバートソン(1721‐1793 スコットランドの歴史家)が粉飾した言葉の方が気に入るかもしれないわ」(中野康司訳、ちくま文庫、163‐164ページ) なお、アグリコラはローマ白銀時代の大歴史家タキトゥス(56頃‐120頃)の義理の父親で、タキトゥスは『アグリコラの生涯』という伝記を書いている。オースティンがそこまで知っていてこの個所を書いていたかどうかはわからない。

 歴史は大部分が作り話であるのにつまらないと主張するキャサリンに対し、歴史の核になっているのは事実であるし、それを再現していく歴史家の筆の運びにも魅力があるとエリナーは反論する。この議論は、毎日起きている様々な事件がどのように歴史として語られるものの部分になっていくかという「Ⅰ 歴史家と事実」と直接に重なっているし、それだけでなく、歴史とは何かという議論と密接に関連するものとして、歴史は面白いのかつまらないのかというもっと大きな問題を提起しているようでもある。
 ということで、前宣伝で終わってしまった感じがあるが、次回は「Ⅰ 歴史家と事実」についてみていくことにしよう。

白川静『漢字』(2)

2月6日(水)雨、午後になってやむ。

 これまでの概要:
 1 象形文字の論理
 漢字は原始から現代までを一貫して生き続けてきた唯一の文字体系である。それは基本的には象形文字であるが、象形・指事・会意という表意的な方法にとどまらず、仮借という表音的な方法に表記法を拡大することによって、成立したのである。現在、見出しうる最古の漢字=甲骨文字は殷代の遺跡から発見されるものであるが、漢字の文字としての形象・構造を分析すると、それが元沿海族である殷人の手によって成立したと考えられるのである。
 2 神話と呪術
 古代の文字の形象の中には神話と呪術の面影がとどめられている。殷王朝の下での社会と文化がアニミズム的な世界観や、精霊の観念があったことは考古学的な発見から裏付けられるが、当時の文字の形象のなかにも、その痕跡が認められる。

 今回は、「3 神聖王朝の構造」の前半を見ていく。殷周期における宗教と政治の関係、それが漢字にどのように反映されているかを論じるこの章の全体を紹介しようと思ったのだが、日本の古代を考えるうえでも豊かな示唆に富む、この章の内容を乱暴に要約するのが憚れて、途中までの紹介にとどめるになった。

 3 神聖王朝の構造
 「地下のピラミッド」と呼ばれる殷代の陵墓の壮大な規模は、国王の絶大な権力を想起させる。このような国王の権力は、王の神聖性の結果として生じたものである。「王は自然の秩序を人間の生活に適応させるために、神につかえるものとしてえらばれた。」(59ページ) 王はもともと天災が起きたときにはその責任を負う巫祝王であったが、やがて儀礼に参加するだけで、権力を行使する司祭者となった。「殷代には、王は巫祝王であるよりも、むしろすでに司祭者であった。」(61ページ) しかし、政治は神意を反映するものという性格をもち続けたのである。

 殷王朝の下で、国の大事は祭祀と軍事であった。殷は農耕を基礎とする王朝であったので、祖霊の観念、祖先崇拝の祭祀化など、定着的な農耕社会の成立に伴って生じる宗教的な現象が拡大していった。社会の拡大に伴い、祭祀の規模も拡大していったのである。中央における王室の祭祀だけでなく、地方にも使者が派遣され、その祭祀を取り仕切った。このような祭祀の形式を通じて、政治的支配が行われていった。「古代の王朝が、祭政一致の形態をもつといわれるのは、具体的には祭祀権の掌握が政治的支配を意味するものであったからにほかならない。」(68ページ) 
 
 「古代にあっては、国を滅ぼすことは、その民人を滅ぼすことではなかった。その奉ずる神を支配し、その祖霊を支配することであった。神霊は滅ぼしうるものではない。それで滅亡した国の子孫を残し、その聖処の社には光をおおい、先祖の祭祀はつづけさせた。王朝のまつりのときには、その神霊にもまつりに参加させて、その威霊を新しい王朝のためにささげさせるのである。それで異族神は、王朝の祭祀に招かれ、舞楽などを献ずるのであった。」(69ページ) 白川は周の祭祀における客神としての殷の祖神=白鷺の参加と舞楽の献納の例、さらに我が国の古代における国栖の舞、隼人の舞の献上の例をあげている。
 
 「王朝は、まつりの使者を各地に派遣して、その祭祀を行なわせることによって、いわば空間的な支配を成就した。それは祭政的支配の体系の一環をなしている。また客神をそのまつりに参加させることによって、その支配を時間的にも遠くさかのぼらせ、すべての伝承の権威を、この祭儀に集約させる。いわば歴史的に、その支配を完成するのである。」(70ページ)

 「まつりの使者は、古くからの氏族が伝承するそれぞれの聖地に向かって派遣された。地方の信仰の中心である山岳や河川、あるいは森や泉、氏族神の祀られている聖処などで、王室の司祭する祭祀が行なわれた。古代王朝の子孫たちは、二王三恪(かく)とよばれる古帝王の後裔として、客神として王廷のまつりに招請されたが、他の群神に対してはまつりの使者が派遣され、その祭祀の執行を通じて支配が行なわれた。そして同時に、かれらのもつ神話伝承も、王室の祭政的支配の体系の中にくみこまれてゆく。そこに国家神話が生まれる。中国の古代神話は、わが国の神話と同様に、その本質において国家神話であった。」(70‐71ページ)
 「二王三恪」というのは、過去の王朝の子孫を礼遇するという思想であり、周王朝で言えば、その前代の殷王朝の子孫を「宋」、さらにその前の夏王朝の子孫を「杞」という諸侯に封じ(ここまでが二王)、その前の統治者である舜の子孫を「陳」、尭の子孫を「葪(けい)」、黄帝の子孫を「祝」というこれまた諸侯に封じた(三恪)といわれるのがこれにあたる。
 とはいうものの、漢文を少し勉強した人ならばご存知の通り、「宋人」というのはおろかもののたとえ(たとえば、「待ちぼうけ」の歌で知られる「守株」の故事)であり、「杞憂」という成句で知られるように杞の人々も評判は良くなかったようである。
 なお、この件を考えるうえで手掛かりとなる夏よりも前の中国の統治者である「三皇五帝」に誰を当てはめるかというのには諸説あり、興味のある方はご自分で調べてみてください。

 白川の言うように、日本の『古事記』、『日本書紀』等に展開される神話も氏族の伝承する神話、地方の神話などを統合して出来上がったものである。この意味で、中国の神話研究は日本の神話研究にとって重要な手掛かりを提供するものであり、漢字にはその関係の一端が潜んでいるというのも確かなことなのである。次回は神話と文字をめぐり、もう少し具体的な話を展開することになる。

『太平記』(248)

2月5日(火)曇り

 暦応2年(南朝延元4年、1339)、宮方の脇屋義助(新田義貞の弟)が越前の黒丸城を攻め落とし、足利方の越前守護であった斯波高経を加賀に退却させた。京都の足利方は、高師治、土岐頼遠、佐々木(六角)氏頼、佐々木(塩冶)高貞らを北国に向わせようとしたが、塩冶高貞は高師直によって謀反の嫌疑を着せられ、山名時氏に討伐された。〔以上21巻〕
 足利方と脇屋義助の戦闘は、足利方の優勢のうちに推移し、暦応3年9月には、義助の本拠である越前の杣山城も落城して、義助は美濃に逃れ、根尾城で抗戦を続けたが、ここも陥落して、吉野に逃れていった。〔欠巻となっている22巻に記されていたと思われる内容〕

 暦応3年(南朝興国元年、1340)9月に杣山城が落城し、越前、加賀、能登、越中、若狭5カ国(現在の福井、石川、富山県)の間に宮方の武士たちが占拠する城は1つもないという有様となったが、その中で脇屋義助の家臣で剛勇をもって知られる畑時能がわずか27人を率いて立てこもっている鷹巣城(たかのすじょう、福井市高須町の高須山にあった)1か所だけが宮方の城として残っていた。
 新田一族の一井氏政は、杣山城から平泉寺(勝山市平泉寺町にあった天台宗の寺、明治の神仏分離令の結果、平泉寺白山神社となった)に移って、平泉寺の衆徒たちを味方に引き入れようとした(斯波高経が平泉寺を味方につけた次第は、20巻に記されている)。しかし、越前の宮方の力が弱っている状態では、あえてその見方をしようという衆徒も現れず、結局、13騎を率いて鷹巣城に合流することとなった。

 時能の怪力と剛勇、氏政の大胆かつ不屈の気性の両者が結びつくと、兵力がわずかでもどのような危ないことが起きるかもしれないと、斯波高経、高師治が北陸道7カ国(若狭・越前・加賀・能登・越中・越後・佐渡)の7千余騎の軍勢を率いて、鷹巣城を厳重に包囲し、30か所もの向かい城(敵城を攻める時に相対して築く城)を築き、遠巻きにして戦闘態勢を固めた。

 この畑時能というのは、もともとは武蔵国の住人であったが、16歳のころから相撲を取らせると、坂東8か国(相模・武蔵・安房・上総・下総・常陸・上野・下野)の中に、彼に勝てるというものはいなかった。腕の筋肉は隆々とたくましく、腿の筋肉もそれに劣らずたくましかったので、平安時代の伝説的な力士である薩摩氏長もこのような存在であったのではないかと思われるものすごさであった。

 その後、信濃の国に移住して、当時の武士たちが平素のたしなみとしていた三つ物(流鏑馬、笠懸、犬追物)に代わるものとして山中での狩に励み、長年過ごしたので、馬に乗って邪魔な石を取り除くさまは神業のように見えるほどであった。さらに水練と弓にも優れ、兵法にも明るく、他の武士たちの信望を集める統率力も秀でていた。

 類は友を呼ぶというが、彼の甥である所快舜というのが時能に勝るとも劣らぬような力をもつ悪僧(勇猛な僧)であった。また中間(ちゅうげん=侍と小者の中間の者)として召し使っていた悪八郎という人物は、兎唇という顔つきであったが、これも大力であった。さらにこのほかに、犬獅子(けんじし)と名づけた不思議な犬が1匹いた。この3人は夜になると闇に紛れて出没したのであるが、大鎧に七つ道具を身につけていることもあれば、帽子兜に鎖帷子を身につけただけの身軽ななりで出かけることもあった。

 そういう時にはまず犬獅子を先頭に立て、向かい城の用心の様子を探るのであった。警戒厳重で、そう簡単には隙を見せないような城には、この犬獅子は一声、二声吠えて走り去ってしまう。用心が十分ではない城になると、そのまますっと走り込んでいき、兵たちが詰めている場所を嗅ぎまわって走り帰り、尾を振って城に案内し、3人はともにこの犬を先導として、塀を上って越え、城の中に乱入して、騒ぎ立て、縦横に暴れまわるので、数千の敵軍は、驚き騒いで、ついには落城してしまうのであった。そもそも犬は外敵を防ぐゆえに人に飼われるという。動物に心はないというが、恩を忘れず、飼い主の気持ちにこたえようとする心はあるように思われる。
 『太平記』の作者は、『後漢書』に見られる伝説の皇帝・高辛氏が危機に陥ったときに、かわいがっていた犬が敵将の首を取ってきたので、自分の娘を与えたという説話をここで引用している。

 23巻に入った。岩波文庫版では第4分冊に入ることになる(29巻までを収録している)。今回は畑時能の剛勇ぶりが語られる。武蔵国秩父郡出身ということだが、その家系について詳しいことはわからないようである。戦闘に際して、犬が活躍するというのは、実際にもあったことなのだろうが、『八犬伝』など後世の物語への影響も見逃せないところである。斯波高経は鷹巣城を大軍で包囲し、長期戦に持ち込んで確実に勝利しようと考えていたのが、30か所以上設営した向かい城が1つ1つ破られていくので、気が気ではない。さて、この包囲戦の結末はどういうことになるのか、それはまた次回。 

日記抄(1月29日~2月4日)

2月4日(月)立春/晴れ、温暖

 1月29日から本日までの間に経験したこと、考えたこと、これまでの記事の補遺・訂正など:
1月29日
 作家の橋本治さんが亡くなった。作家として発表した作品はまったく読んでいないが、橋本さんが東大在学中の1968年に駒場祭のポスター「とめてくれるなおっかさん 背中の銀杏が泣いている 男東大どこへ行く」はその横尾忠則風のイラストもさることながら、大衆化が進んで行方が見えなくなった大学の姿をとらえたコピーのセンスが光っており、今でもよく記憶している。(「男東大」というのを問題にする人もいるかもしれないけれどもね…)
 作品は一向に読んでいないと書いたが、インタビューなどでその人となりにはよく接していたし、雑誌『ちくま』に連載されていたエッセー「遠い地平、低い視点」は愛読していた。最近の2019年1月号でも渋谷駅前のスクランブル交差点に観光客が集まる現象について批判的な感想を述べていたのが記憶に残るところである(この号が連載の最後になって、2月号には掲載されていなかった。病状が重くなっていたのであろう)。ご冥福を祈るとともに、橋本さんの批判精神の幾分かをすくなからぬ人たちが継承して、言論活動を展開することを期待するものである。

1月30日
 ジム・ロジャーズ『お金の流れで読む日本と世界の将来 世界的投資家は予想する』(PHP新書)を読む。この著者による「冒険投資家ジム・ロジャーズ 世界バイク紀行』と、自動車で世界各国の実態を見て回った『冒険投資家ジム・ロジャーズ 世界大発見』は何度も読み返すだけの面白さがあった。「いつか『安倍が日本をだめにした』と振り返る日が来る」、「朝鮮半島はこれから『世界で最も刺激的な場所』になる」、「中国にはまだまだ爆発的成長の可能性がある」、「インド経済はどうなる 『一生のうちに一度は訪れるべき国』だが、いまだ本物の国家ではない」、「ウラジオストクの可能性」など注目すべき洞察・予見が展開されている。

1月31日
 E・H・カー『歴史とは何か』(岩波新書)を読み終える。高校時代に読んだことがあるが、ほとんど理解できなかったという記憶がある。この本が出版されて以来50年以上の時間がたち、この本の中で言及されている書物のかなりの部分が日本語に翻訳されて読めるようになっているので、私だけでなく、多くの読者にとって理解は容易になってきたはずである。既に予告したように、この書物については機会を改めて取り上げていくつもりである。

 NHKラジオ『実践ビジネス英語』の”Quote...Unquote"のコーナーで紹介された言葉:
Great minds have purposes, others have wishes.
             ―― Wahshington Irving (U.S. writer, 1783 - 1859)
(偉大な人たちは目的をもち、そうでないひとたちは願望をもつ。)

 さらに池上俊一『情熱でたどるスペイン史』(岩波ジュニア新書)を読み終える。中学生向けに書かれた本だとはいえ、スペインの歴史を本格的に勉強したことはないので、大いに教えられるところがあった。
 
2月1日
 毎月1日に、『朝日』と『東京』(他紙にも出ているかもしれない)に雑誌『選択』の内容を紹介する広告が掲載されていて、広告だけでもいろいろと参考になるのだが、2月号では、「WORLD」のコーナーに「ロシア極東は危険すぎる『荒廃地』――日ロ交渉『経済協力』の落とし穴」という記事が掲載されていて、「シベリア地方には、大きな機会がある」(ジム・ロジャーズ、179ページ)というジム・ロジャーズの見通しと全く反対の見解を述べているなと思った。

 サッカーのアジア杯決勝で日本はカタールに1-3で敗れ、2年ぶり5度目の優勝を逃した。今回の大会では湾岸諸国の進出が目立っているなと思っていたが、まさかこの結果になるとは思わなかった。中央アジア諸国も健闘した一方で、韓国は不振であったなどアジアのサッカー地図が塗り替えられはじめているのかもしれない。

2月2日
 『日経』の文化欄のコラム「文化往来」にイランを離れて国外で活動しているナデリ監督が、イタリアで新作『山』を作ったと報じられていた。彼がイランで撮った『駆ける少年』(1984)は傑作だったと思う。『山』はどんな出来栄えの映画になっているのか、見に行きたいと思う。

2月3日
 『日経』に四方田犬彦さんがブルキナファソでアフリカ映画祭が開かれたのに参加した経験を書いていた。隣国であるコートジボアールに比べると貧しいが、文化で立国しようという意気込みを感じるという。

 宮崎でキャンプ中の横浜FCはデゲバジャーロ宮崎との練習試合に0‐2で敗北した。

 1068回のミニtoto Bが当たる。賞金額は3,331円である。1067回にミニtoto Aの賞金額が89,993円、今回のミニtoto Aが76,849円と高額の賞金が続いているが、こちらには縁がない。これまでの戦績はというと、1064回から1068回まで9通り応募して、15,500円使い、15,275円稼いでいる。少し赤字になっているとはいうものの、ほぼ五分五分の結果になっているのは健闘というべきか。

2月4日
 『朝日』朝刊のコラム「政治断簡」に佐藤武嗣記者が「『統計でうそをつく法』を知る」という記事を書いていた。安倍首相の施政方針演説のなかの「児童扶養手当の増額、給付型奨学金の創設を進める中で、ひとり親家庭の大学進学率は24%から42%に上昇した」という部分の抱えている問題点を指摘していて、読みごたえがある。
 大学の教養部にいたころ、足利末男先生の社会統計学という授業を受講した。その中で、社会調査のやり方として、調査員を使って個別に面接調査をするというやり方があるが、調査員がまじめに調査をするかどうかはわからないという内容があったと記憶する。諸君もそういうアルバイトをするかもしれないから、そのときになったらよくわかることだと言われた。しかし、私は調査員のアルバイトはせずじまいで終わった。

 『朝日』に掲載されていた『週刊ポスト』2月15日・22日合併号の広告の中にあったビートたけしさんの言葉「ニッポンには”アイドル〟が多すぎねぇか」 ごもっとも、ごもっとも。

齋藤慎一『戦国時代の終焉 「北条の夢」と秀吉の天下統一』(2)

2月3日(日)晴れ

 本日は、第2章「合戦の序曲 天正10年後半~11年」についてみていく。「合戦」というのは天正11年(1583)から12年にかけて相模国小田原に本拠地を置いた戦国大名北条家と、北関東の佐竹・宇都宮などの伝統的な在地勢力とが北関東の覇権をかけて戦った<沼尻の合戦>を指す(その経緯については第3章で述べることになる)。この書物は関東における<沼尻の合戦>が、同じ時期に起きた羽柴秀吉と徳川家康・織田信雄連合軍の<小牧・長久手の戦い>に連動するものであり、北関東における主導権をめぐる争いに限定されず、全国的な意義をもち、また全国的な情勢に影響されたものであったことを立証しようとしている。
 第1章「織田信長と北条氏政・氏直 天正10年まで」では、天正10年における甲斐の戦国大名・武田勝頼の滅亡以前から、北条氏が織田信長と交渉をもっていたこと、その背後には、織田政権の枠組みの中で、関東の主となって関東を統一したいという「北条の夢」が込められていたことが述べられる。北条氏は、南関東(と伊豆)に基盤を築きながら、次第にその支配圏を北へと広げていたのである。しかし、信長は、勝頼の滅亡後、滝川一益を上野に派遣し、関東での新しい秩序の構築に取り組ませる。ところが天正10年の本能寺の変は事態を急変させ、北条氏直と滝川一益が戦った神流川の戦いで、氏直が圧勝、一益は領国である伊勢へと敗走する。

第2章 合戦の序曲 天正10年後半~11年
 1 北条氏直対徳川家康
  北条氏直の信濃国進出
 神流川の合戦で勝利して勢いを得た北条氏直はそのまま上野の西部をおさえ、碓氷峠を越えて信州に入った。この進軍で佐久郡の領主たちを帰属させたほか、武田氏の滅亡後、一益に従ってきた真田昌幸が氏政・氏直父子に従うとの趣旨を使者を通して伝えた。さらに北信の主だった領主たちが氏政・氏直に帰属し、北信は北条家の勢力圏となった。氏直はさらに信州南部、甲斐へと進軍する意向を見せた。この動きに対し、越後の上杉景勝(1555‐1623)が警戒を示し、川中島付近での合戦を想定して出陣した。しかし、氏直は景勝との直接対決には積極的ではなかった。

  若神子の合戦
 氏直が景勝との合戦に積極的でなかったのは、東海の大名である徳川家康(1542‐1616)に背後をつかれることを警戒したからである。氏直が信濃から甲斐へと兵を進める動きに即応して、家康は7月内に古府中(山梨県甲府市)に入った。氏直はその軍勢を南下させ、8月2日には、甲斐の北谷表で前哨戦が行われる。6日に北条勢は、新府城(山梨県韮崎市)から1里ほど北に隔たった地点に迫った。家康側では氏直の軍勢を2万余と把握していた。
 新府城は武田勝頼が最後に本拠として築いた城館で、要害堅固な地にかなりの土木工事を実施して築城されていた。約1万人の兵力をもっていた家康側の中から、2千人余がこの城に派遣されていた。数において北条側が優勢であったが、10日に家康は新府城に入城し、翌日には出城を築いた。「戦況が不利であるにもかかわらず、前線に駒を進めるという行動は後の関ケ原の合戦にも共通する。」(36ページ)
 家康の進陣により、八ヶ岳山麓の若神子(山梨県北杜市)で合戦が行われる可能性が高まった。両軍は約3か月間にわたり敵陣に向けて鉄砲を放ちつづけ、にらみ合いが続いていた。
 8月12日、北条勢が対陣の背後をつくように、都留郡から甲府盆地に向けて軍勢を動かした。古府中に陣を張っていた一部の徳川勢が出陣して、黒駒(笛吹市)で合戦となり、徳川勢が北条勢を撃退することに成功した。黒駒は、若神子から小田原に進む最短距離上の要地であり、北条勢は街道を確保しようと、御坂峠に城を築く。その完成は合戦終盤の10月下旬であった。
 対陣は、武田勝頼が心血を注いだ新府城に拠った数に劣る家康勢を、大軍の北条勢が攻めるという構図であった。数の上では優位であっても、北条勢は新府城を攻めあぐね、次第に長期戦の様相を呈してきた。

 真田昌幸の寝返り
 数的に劣勢であった家康は徐々に状況を挽回しはじめる。8月22日、それまで北条氏政・氏直父子に通じていた木曽義昌が徳川家康に通じた。義昌は信長の三男、信孝にも通じ、三者で連絡を取り合っている。また9月中旬には信濃国小県郡から上野国吾妻郡にかけて勢力を張っていた真田昌幸が、北条から徳川に寝返った。家康はこの離反を上杉景勝ほかに連絡している。戦局を大きく変える動きであった。

 北条氏直の苦戦
 氏直は大軍を率いていても、前方に家康、後方に真田昌幸、さらに上杉景勝の存在があり、孤立した状態となった。各地で戦闘が展開されたが、若神子に釘付けにされた北条氏直を取り巻く情勢は、次第に悪い方向へと向かっていた。この状況を作り出したキーマンは真田昌幸であった。戦場での家康は劣勢ではあったが、その政治力を生かして次第に北条氏政・氏直を追い詰めていった。

2 北条・徳川同盟
 和議の成立
 若神子における約3か月の対陣の末、両者は10月中旬に和議を結ぶことになった。和議に際して結ばれた領土協定は、甲斐・信濃両国は家康の「手柄次第」とする、上野国内については氏政・氏直の「手柄次第」とするというもので、「手柄次第」とは自力で切り取ることを意味する。これまで上野・信濃で活躍して大きな影響力を発揮した真田昌幸の貢献が認められず、上野の真田領は氏政・氏直に割譲すると取り決められたのは、真田昌幸にとって到底納得できるものではなかった。「それゆえに真田昌幸は家康に敵対する道を選び、真田領維持のため新たなる方策を求めることになる。」(42ページ)
 協定に際して、北条氏政・氏直と家康が今後に同盟関係を結ぶことが盛り込まれた。そして、家康の次女である篤姫と北条氏直の縁組が取り決められている。

 家康の北関東政策
 和議成立まで、家康は関東の反北条勢力と連絡を取っており、和議成立に際して、これらの領主たちとの飛脚の通行許可を求めている。また結城晴朝の家臣である水谷正村(1521‐96)と下野の領主である皆川広照(1548‐1628)が家康の陣営にいたのを帰郷するための自由を認めるということも取り決められているのが注目される。家康が広い範囲の領主たちと連絡を取り合い、味方に引き入れている政治力には驚くべきものがある。

 信長後の体制
 徳川・北条とも、信長から受けた恩義を重視する点での認識の違いはなく、両者ともに織田信雄を盛り立てて、織田家の態勢を維持することを意識していたと考えられる(しかしこの時点で、清須会議の結果、嫡孫三法師(→秀信)を推す羽柴秀吉が優位に立っていた)。「政治情勢が不安定ななか、自らの判断で自らの方向性を築き出していく家康の行動力はさすが天下人の資質と言えよう。」(45ページ) しかし、この家康に方針転換に佐竹義重などの北関東の領主たちは当然のことながら反発した。北条氏政・氏直父子と同盟を結んだ家康にとって、これら北関東の諸家との関係維持はきわめて困難になったのである。

 北条家の選択
 北条家の側から見ると、信長との血縁を築くことから、織田信雄、徳川家康と連携する位置に自分たちを据え、秀吉と対抗する路線を選んだことになる。このように枠組みを変えながら、なおも関東の統一という「北条の夢」を追い続けたのである。

3 北関東への侵攻
 真田領の分断
 若神子から帰陣の後、北条氏政・氏直は素早く行動し、11月15日ごろに小田原に帰城したが、閏12月中旬には西上野へと攻め入っている。家康との協定で確認された上野国内の「手柄次第」の実施である。真田昌幸としては、自分の領地を北条に差し出すのは面白いわけがなく、理由をつけては引き渡しを拒否し、北条側は一族の氏邦を中心に上野の武力による制圧を目指して行動を起こす。目標は毛利北条(きたじょう)高広の厩橋城(まやばし、群馬県前橋市)と真田昌幸の沼田城であった。

 毛利北条高広攻め
 天正11年(1583)正月に北条氏政が厩橋城を攻撃する。毛利北条高広は上杉景勝に救援を求め、かつ北条勢に必死に抵抗したが、北条方とひそかに連絡を取っているというような風聞が広がり、厩橋をめぐる情勢は厳しいものであった。

 上野国沼田城へ
 厩橋攻めが一段落した天正11年3月ころから沼田攻めが再開された。この時期、毛利北条高広からは上杉景勝に援軍を養成する書状が盛んに出されている。北条勢は沼田攻めの新しい城を取り立て、6月には氏直が出陣して、攻略までは間もないと思われていた。

 孤立する厩橋
 このような上野国東部における北条氏の軍事行動の結果、厩橋城は孤立していった。

 第1章には登場しなかった徳川家康が姿をあらわし、北条氏直と戦った後、徳川(と織田信雄)と北条の間に同盟が結ばれることになる。この同盟は関東における諸勢力の力関係に大きな影響を与えるものであった。武田勝頼が放棄してしまった新府城を拠点として活用したり、北条氏直よりも少ない軍勢で互角以上に戦うなど、武将としての能力に秀でているだけでなく、情報網の構築や、勢力関係における優勢を築くために駆使した構想力には天下人にふさわしいスケールが認められる。
 家康のような天下人とはスケールが違うが、関東地方における戦乱の中で光芒を放ったのが真田昌幸である。家康が北条との戦いでその政治力を最大限に使いながら、戦後処理の中で真田昌幸の存在に配慮しなかったのは、禍根を残す失策であった。
 次回はいよいよ<沼尻の合戦>について取り組むことになる。

トマス・モア『ユートピア』(38)

2月2日(土)晴れ

 1515年、フランドルを訪れたイングランドの法律家トマス・モアは、アントワープの町で新たに友人になったピーター・ヒレスから、ある日、世界中の様々な国々の制度・風習を見聞してきたというラファエル・ヒュトロダエウスという人物を紹介される。ラファエルの経験と知識との感嘆したピーターとモアは、彼にどこかの王侯に仕えて政治上の顧問となるように勧めるが、ラファエルは王侯たちは戦争と民衆からの収奪に余念がなく、側近からは甘言しか受け入れようとしないので、宮仕えはしないと言い張る。
 そして彼がこれまで訪問した国々の中で、最も優れた社会制度を備えているのは新世界にあるユートピアという島国であるといい、ピーターとモアの求めに応じて、この国の様子を物語りはじめる。
 そこでは私有財産というものがなく、一部の例外は除いてすべての人々が働いている。人々は質素な暮らしをしているが、公共の財産として豊かな富が蓄えられている。宗教をめぐって信教の自由が認められているが、多くの人々は霊魂の不滅と、死後の世界における生前の善行・悪行の応報を信じている。ラファエルたちがキリスト教について話すと、それに帰依しようとする人々が少なからず現れた。かれらの世界における司祭は数が少なく、選ばれた人々からなり、社会と青少年の道徳的な指導者としての役割も果たしているという。

 ラファエルの話は続く。ユートピア人の間では司祭の職に就くものが最も尊敬を受けており、司祭の妻もまた民衆の中でえり抜きの女性である。当時のヨーロッパ世界では司祭は独身であることとされていたが、実際には様々な問題を起こし、エラスムスはこのような不品行を考えると、司祭の妻帯が次善の策であると考えた(彼自身が、司祭の不品行の結果としてこの世に生を受けたことが、微、妙に関係しているのかもしれない)。これに対し、モアは妻帯よりも独身の方が神意にかなうものと考えていたと澤田は注記している。女性も司祭になることはできるが、その数は少なく、なるのは未亡人か高齢者に限られているという。
現在でもカトリック教会では司祭は妻帯しない。これに対して、イングランド国教会(聖公会)では司祭の結婚は認められているし、それどころか、女性の司祭(さらには司教)の叙任も認められている。現在ではむしろ、女性の司祭の方が多くなっているそうである。
 ユートピアでは司祭は少数の選ばれた人々だけがなるので、もし重大な犯罪を犯したとしても、公法上の裁判にはかけられず、神と自分とだけに責任を取らされるという。司祭の数はきわめて少ないので、こういうことも可能なのである。それに引き換え、ヨーロッパでは数多くのいい加減な司祭がいることが嘆かれている。

 ユートピアの司祭は、外国人たちからも尊敬を受けている。彼らは戦争の際に、戦場からそれほど遠くないところで「何よりもまず平和を、次いで祖国の勝利を、しかしいずれの側にもあまり流血のない勝利を祈り求めます。自分の側が勝てば、前線まで走って行き、敗者に対して暴行を加えるなと命じます」(澤田訳、231ページ)。司祭にすがるものは、それだけで命を助けられる決まりであるという。自軍が不利になったときに、司祭たちが両軍の中に割って入り、戦闘の終結と公平な条件での平和条約の締結をもたらしたこともある。それが可能になるのは、両方の側でユートピアの司祭が尊敬されているからである。

 ラファエルは話を続ける:「彼らは毎月の最初の日と最後の日、また毎年最初と最後の日を祝日として祭ります。1年は、月の運行に従って1月、2月というふうに分割されています。」(澤田訳、232ページ) 
 平井訳によると:「ユートピア人は年を太陽の運行によって測り、月を太陰の運行によって測るが、さらに一年を月々に分け、毎年毎月の初めと終の日をそれぞれ祭日と定めている。」(平井訳、171ページ)
 ローガン&アダムズ訳によると:
 The Utopians celebrate the first and last days of every month, and likewise of each year, as feast days. They divide the year into months, which they measure by the orbit of the moon, just as they measure the year itself by the course of the sun. (ユートピア人たちは毎月の、同様に毎年の最初の日と最後の日を祝日として祝います。彼らは1年を月に分けますが、それを彼らは月の満ち欠けによって測定します。同様に彼らは1年を太陽の運行によって測定します。)
 澤田の訳注によると、「年に26日の祭日しかもたぬユートピアは、日曜のほかに40以上もの祭日をもっていた当時のキリスト者への批判になる」(澤田訳、293ページ)。モアがユートピア人の暦として、当時ヨーロッパで行われていたユリウス暦と同じようなものを考えていたことは確かであるが、1月1日は年の初めであるとともに1月の初めの日であり、12月31日は年の終わりであるとともに12月の終わりであるということを考えると、どうもこのあたりの記述はすっきりしない。月初めと月の終わりを祭日にすると、つまり2日連続で祭日ということになり、祭日を少なくするという趣旨からすれば、月半ばの15日あたりを祭日にするほうが合理的に思える。ローマの暦では毎月の半ばをIdus(イードゥース)と呼んで区切りにしていたことを、モアが知らなかったわけはないと思うのだが…。週と曜日について触れていないのも気になるところである。

 次にラファエルは神殿(delubrum)について語る:「あちらではすばらしい神殿が見られます。技術的に凝っているだけでなく、その数が少ないので、当然のことながら、大会衆を収容できるようなものです。」(澤田訳、232ページ) 会衆たちの気持ちを集中させるために、内部は薄暗くなるように設計されているという。アイルランドのダブリンの聖パトリック大聖堂(聖公会)を訪ねたことが2度あるが、その薄暗さに大いに感動したことを覚えている。ただし、『ガリヴァー旅行記』の作者であるスウィフトは、この寺院のDean (首席司祭)であったが、自分の説教中に居眠りをする信者の数の多さに悩んでいたという話を聞いたことがある。薄暗いと自分の意識を神様に集中するよりも、居心地が良くて居眠りをするという人の方が多いのではないか。
 delubrum (原文では複数形のdelubra)を澤田は「神殿」と訳しているが、ロビンソン訳、ターナー訳、ローガン&アダムズ訳と英訳ではすべてchurchesである。また、平井訳では「会堂」と訳している。church (教会)には信者の集合体という意味と、建物という意味があり、ここでは建物の方の意味なので、「神殿」、「会堂」という訳語が考えられているのであろう。
 寺院にはあらゆる宗教の人々が集まり、それぞれの宗教に共通するやり方に従って礼拝式を行う。自分の宗教に固有の礼拝は自分の家で行うという(ユートピア人たちは大家族で生活しているという以前の記述とどのように整合させるのか、気になるところではある)。「神殿のなかには神の像のようなものはひとつもありません。信心の極致において神様をどんな形で考えようが、各人の自由に任せておくためです。」(澤田訳、233ページ) そして各自が自分たちの神に祈りを捧げ、他人の神を傷つけるようなことは口にしないという。

 このように神殿にユートピア人たちが集まるのは、月の終わりの祝日の夕方で、食事をとらないでやってくる。「この祝日で終わる1年や1か月をめでたく過ごせたことを神に感謝するわけです。翌日、つまり「最初の祝日」には朝のうち神殿に押し寄せ、この祝日で始まる次の1年間、1か月間が幸運、幸福なものでありますようにと祈ります。」(澤田訳、234ページ) 除夜の鐘や、初もうでを思い出させるところのある記述である。月の終わりと初めに、連続して祝日があるのはこういうことを考えてのことのようである。
 このように、モアが小異を捨てて大同につく様な形での、寺院での礼拝を考えているのは、信教の自由の主張とともに興味深い。ユートピア人の宗教についてのラファエルの話は、まだもう少し続く。 

ダンテ・アリギエーリ(須賀敦子・藤谷道夫訳)『神曲 地獄篇(第1歌~第17歌)』(10‐1)

2月1日(金)晴れ、朝は冷え込んだ。三ツ沢グランドの陸橋付近から富士山が見えた。

 1300年の4月、「暗い森」に迷いこんだダンテは、ローマ黄金時代の詩人ウェルギリウスの魂によって危地を救われ、彼に導かれて地獄と煉獄を、また「よりふさわしい」魂に導かれて天国を見聞する旅に出発する。
 「すべての希望を捨てよ」(第3歌、9行、45ページ)と書かれた地獄の門をくぐった彼は、生前、目立った善も悪もなさず怯懦のうちに生きた人々のたましいが、天国からも地獄からも受け入れられず、空しく走り回っているさま、地獄を流れるアケローンの川を渡る船にたましいたちが争って乗り込んでいるさまを見る。そして、地獄の第1圏(リンボ)で古代の有徳者たちと出会う。かれらはキリスト教を信じなかったためにここに置かれ、静かに死後の世界を過ごしているのである。さらに、ダンテは地獄の第2圏(愛欲の罪)、第3圏(食悦の罪)、第4圏(貪欲と浪費の罪)、第5圏(スティクスの沼、高慢・嫉妬・憤怒・鬱怒の罪)を過ぎ、ディースの門で悪魔たちに行く手を阻まれるが、天の使いの出現により、門の中に入り、第6圏(異端の罪)へと進むことになる。

 いまや、都市(ディース)の城壁と並ぶ石棺のあいだの
隙間にできた隘路を進み行く、
師が先を、私はその後から。
(1‐3行、210ページ)
 山川訳では
 さて城壁と呵責の間のかくれたる路に沿ひ、わが師さきに、我はその背に附きて進めり
(64ページ)とあり、原基晶訳では
今や我が師は狭い小径を通り、
城壁と拷問の間をぬって、
進んでいた。そして私はその背中に従っていた。
(152ページ)とある。ウェルギリウスに導かれてダンテはディース城の中の狭い道を進むが、城壁はいいとして、「呵責」(山川訳)、「拷問」(原訳)では、意味が通じない。須賀・藤谷訳の方がわかりやすいが、なぜこういうことになったのか、気になるところである。(原文にあたってみたいところだが、先を急ぐ。)

 ダンテはウェルギリウスに、石棺の中に横たわっている人々を見ることができるのかと問う。ウェルギリウスは、このあたりの墓には「たましいが肉体とともに滅びると信じるエピクーロスと/追従者たちがことごとく収められている」(14‐15行、210‐211ページ)という。翻訳者も訳注で書いているように、ここにはエピクーロス主義=快楽主義という根強い誤解があるとともに、神の存在を認めないエピクーロス派の哲学に対するダンテの強い敵意が見える。ウェルギリウスが青年期にエピクーロス派の学校に学んだ(松本仁助・岡道男・中務哲郎編『ラテン文学を学ぶために』、108ページ参照)と言われることも付記しておこう。
 そして、口には出さないが、ダンテが知りたいと思っていることを含めて、知りたいことをすぐに知ることができるだろうという。ダンテは、これまで何度かつまらないことを口にして、ウェルギリウスに注意を受けてきたが、その注意に従って、口数を慎むようにしているのだと答える。

 すると石棺の一つの中から声が聞こえる。
 「おお、火の都(まち)を生きたまま
かくもうやうやしい言葉遣いで通り行くトスカーナ人(びと)よ、
もし差支えなければ、ここに立ち止まってはくれまいか。
 その話しぶり[方言]から、君があの高貴な国[フィレンツェ]の
生まれだとよくわかる。
私は、その故国をあまりに苛んでしまったかも知れぬが」
(22‐27行、211ページ) 突然、この声を聞いたダンテは怖気づくが、ウェルギリウスは、それがファリナータとあだ名されたフィレンツェの政治家マネンテ・ディ・ヤーコポ・デッリ・ウベルティ(?-1264)の魂が発した声で、彼が「あそこに立ち上がっている、/腰から上が全部見えるだろう」(32‐33行、211ページ)とダンテの注意を向けさせる。ファリナータの名は既に、第6歌でダンテが同郷のチャッコの魂と対話した際に、その魂の行方を尋ねている人物である(第6歌、79行)。ダンテは1265年生まれと考えられているから、ファナリータを直接知らないはずであるが、「子供の頃から、ファリナータのことを伝説的な人物として聞かされて育ったのであろう」(220ページ訳注)。

 ダンテはファリナータの姿をまっすぐに見つめる。
彼はまるで地獄を軽蔑しきっているかのように
胸を張り額をあげて起き上がっていた。
(35‐36行、212ページ) 地獄に堕ちても、傲然とした態度を保ち続けるファリナータに対して、「ふさわしい言葉を使って話すように」(39行)という忠告を受けたダンテは、彼の問いに答えて、自分の一族(アリギエーリ家)について語る。ファリナータは皇帝派の政治家であり、ダンテは(アリギエーリ家の伝統に従って)この時期教皇派に属していた。「両者は互いに期待しながら、互いに失望し合う。そこから緊張と対立関係が生み出されていく」(220ページの訳注) アリギエーリ家は何度かフィレンツェを追放されたが、そのつど復帰を果たした。ファナリータの子孫はフィレンツェを追放されたままである。

 すると、別の石棺からもう一つのたましいが姿を見せる。ダンテの先輩であり、彼を詩壇に引き入れた人物であるグイード・カヴァルカンティ(1255頃‐1300)の父親であるカヴァルカンテ・デ・カヴァルカンティ(-1280頃)のたましいである。自分の息子の親友であるダンテが、生きたまま地獄を訪問しているという稀有な事実を目の前に見て、彼は自分の息子(グイード)も一緒にいるのではないかとの期待をもつ。
 彼は、誰か私のそばにいないか
探しているかのように私の周囲を見回したが、
まもなく期待がことごとく潰えてしまうと
 泣きながらこう言った。「もし君が高き詩才によって
この暗い牢獄を通って行くのなら、教えてくれないか、
わが息子がどこにいるのか、どうして君といっしょにいないのか」
(55‐60行、213ページ)

 そこで私は答えた。「私は自分の力で来たのではありません。
あそこで待っている方[ウェルギリウス]が私をここを通って導いてくださるのです。
しかし、あなたのグイードはその方を軽んじて《いた》ようなのです。」
 彼の言葉からも受けていた罰からも
もうその人物の名を察していたので
私はそれほどはっきりと返事をしたのであった。
(61‐66行、213ページ) カヴァルカンテが言うように、「高い詩才」のゆえに、ダンテが生きているのに地獄を訪問することになったのであれば、ダンテの好敵手であったグイード・カヴァルカンティも同行してよいかもしれない。しかし、彼の訪問は天意によるものである。「あそこで待っている方」を須賀・藤谷はウェルギリウスと解釈しているが、原によると、ウェルギリウスと考える人びとと、ベアトリーチェと考える人びとがいるそうである。ここでは須賀・藤谷に従って、ダンテはローマの詩人たちの業績を尊重し、学んでいたが、グイード・カヴァルカンティはそうではなかったと解釈しておくことにする。

 彼はすぐに身を起こして叫んだ。「なんと?
君は《いた》と言ったのか。息子はもう生きていないと。
息子の目はもう甘美な光を見ていないと」
 私が答えを少しばかり
まごついているのに気づくと
彼はばったりと倒れてもう二度と現れなかった。
(67‐72行、213ページ) ダンテの言葉を間違って受け止めて(詳しくは、訳注をご覧ください)、カヴァルカンテは彼の息子であるグイードが死んだものと思う(実は、この時点では、まだ生きていた。ある事件の責任者として、フィレンツェを追放されたグイードは、追放先でマラリアにかかり、フィレンツェに帰国後、この年の8月27日か28日に没する。だから、この4月の時点では生きていた。ダンテがこの『神曲』を書いていた時点では死んでいたという複雑な事情がある)、すっかり気落ちする。それが誤解だということができずに、ダンテは親友の父親の霊と別れることになる。しかし、ファナリータのたましいはまだ立っていて、ダンテとの会話を続けることになる。
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