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2019年の2019を目指して(1)

1月31日(木)雨が降ったりやんだり

 元日、東京都(文京区)から横浜に移動し、その後はずっと横浜で過ごしている。それで足跡を記した都県は1都1県、市(特別)区も1市1区である。
 利用した鉄道は2社(東京メトロ、東急)、3路線(南北線、半蔵門線、東横線)、乗り降りした駅は2駅(本駒込、横浜)、乗り換えた駅は2駅(永田町、渋谷)である。
 バスは3社(横浜市営、神奈川中央、相鉄)、7系統(横浜市営34,44,50,202;神奈中1;相鉄 浜1,浜5)、8か所の停留所で乗り降りしている。〔31〕

 この原稿を含めて32件を投稿している。内訳は、日記が6、読書が6、読書(歴史)が1、読書(言語ノート)が4、『太平記』が5、『神曲』が4、『ユートピア』が4、詩が1、推理小説が1ということになる。コメントを1件、拍手を464頂いている。
 鳥飼玖美子さんの『子どもの英語にどう向き合うか』の紹介が終わったので、次はE・H・カー『歴史とは何か』の紹介に取り組むつもりである。以前にも書いたが、トマス・モア『ユートピア』も間もなく終わるので、その次はトンマーゾ・カンパネッラの『太陽の都』を読んでみようと思っている。このほか、昨年中に連載が中断してしまったフローベールの『感情教育』を再開することも考えているし、もし読者の方々からのご要望があれば、予定は柔軟に変更して対応していきたいと考えている。〔33〕

 15冊の本を買い、10冊を読み終えている(読んだ本のすべてが、今月購入したものとは限らない)。本はすべて紀伊国屋横浜店で買っている。読んだ本の内訳は:イタロ・カルヴィーノ『木のぼり男爵』(白水社uブックス)、内田洋子『イタリアのしっぽ』(集英社文庫)、高井忍『京都東山 美術館と夜のアート』(創元推理文庫)、齋藤慎一『戦国時代の終焉 「北条の夢」と秀吉の天下統一』(吉川弘文館:日本史を読みなおす)、白川静『漢字』(岩波新書)、望月麻衣『京都寺町三条のホームズ⑪ 』(双葉文庫)、『太平記(三)』(岩波文庫)、ジム・ロジャーズ『お金の流れで読む日本と世界の将来 世界的投資家は予想する』(PHP新書)、E・H・カー『歴史とは何か』(岩波新書)、池上俊一『情熱でたどるスペイン史』(岩波ジュニア新書)である。〔11〕

 『ラジオ英会話』を19回、『遠山顕の英会話楽習』を12回、『高校生からはじめる「現代英語」』を7回、『実践ビジネス英語』を11回聴いている。このほかに『入門ビジネス英語』も聴いているが、昨年度前半に放送したものの再放送なので数の中に入れていない。また『ボキャブライダー』、『英会話タイム・トライアル』、『エンジョイ・シンプル・イングリッシュ』、『世界へ発信 ニュースで英語術』も聴いているが、さまざまな理由で勘定に入れていない。
 『まいにちフランス語』入門編を9回、応用編を5回、『まいにちスペイン語』入門編を9回、中級編を5回、『まいにちイタリア語』入門編を8回、応用編を5回聴いている。
 NHK第二放送がこのところ23:40で放送を終了しているため、数には入れてこなかったが、『NHK高校講座』が聴けなくなったのが残念である。「生涯学習化」という社会の趨勢に逆行するものとして厳しく糾弾されるべきであろう。〔80〕

 ニッパツ三ツ沢球技場で、第97回全国高校サッカー選手権の2回戦2試合を観戦している。
 1064回のミニtoto B、1065回のミニtoto A、1066回のミニtoto Aをあてている。(残念ながら1067回はAもBも外した。) 〔6〕

 風邪をひいたために、アルコール類を口にしない日が7日あった。〔7〕

 今年も、その年にしたことを、西暦の年数に合わせてまとめようと思うが、風邪をひいたこともあって、滑り出し順調とは言いかねる実績である。特に映画を見ていないのが問題で、昨年はその分、サッカーの試合を見たのだが、サッカーの方も昨年は高校サッカーの試合を見に等々力まで出かけているのに、今年は足を延ばしていないというように、元気というか、基本的な体力がなくなっているような気がするので、この後どのように展開していくか、思案をこらしている。数が伸びない場合、中国語かドイツ語の番組を聴いて、補うというのがこれまでのやり方であったが、それができるだけの体力が残っているかちょっと自信がなくなっているということである。 
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鳥飼玖美子『子どもの英語にどう向き合うか』(14)

1月30日(水)晴れ

  序 親の役割
第1章 子どもと言語
第2章 英語教育史から探る
第3章 2020年からの小学校英語

 今回は「終章 未来を生きる子どもたちと英語」を読んでいく。
 最初は「1 子どもと英語をどう考えるか」という問題が取り組まれている。既にみてきたように2020年から小学校では英語を教えることになったが、英語が専門ではない学級担任が教え、児童教育が専門でない人たちが手伝うというように、その実施の方策には問題が多い。準備体制が十分に整備されないまま見切り発車しているという感じが否定できない。これまでの実績を振り返ってみても、中学や高校では「使える英語」をめざして改革を続けてきたのに英語力が向上したとは言えない現状がある。大学入試に民間試験を導入するというのも問題が多い。親としては頭を抱えるような問題ばかりである。

 「日本社会の今の流れは英語一色です。それも民間の英語検定試験の点数や級だけが評価の対象です」(191ページ)という現実がある。英語教育の低年齢化はどんどん進み、子どもたちは英語と付き合わざるを得ない環境に置かれている。中にはかなり無理に英語を教え込もうとしている例もみられるという。
 そのような状況は認識しなければならないにせよ、親としては長い目で将来を見据える姿勢が必要ではないかと鳥飼さんは言う。その中で、何を判断の軸にすればよいかを次に論じている。

 言葉を学ぶというが、母語と外国語では決定的な違いがある。母語は<自然に>「獲得」されるのに対し、外国語は<意識的に>「習得」される。普通の状態で育った幼児は生後5~6年で母語を使えるようになるが、なぜそうなるかをめぐってはいくつかの学説がある。一つは、行動主義的な観点からの「模倣説」、これに対して人間の脳には言語獲得の装置が生来的にプログラムされているという「生得説」。もう一つが生得的な学習能力は言語環境の中での相互作用を通じて発達していくという「相互作用説」である。このように我々にとって身近すぎるような母語の獲得を巡ってさえも、異なる見解があり、ことばを学ぶメカニズムは謎に満ちている。
 まして、意識的に学習する外国語となると、関係している要因が多いので、その習得の過程は複雑で何が成功の決め手になるか、まだ決定的な結論は出ていない。母語と外国語の両方にかかわるバイリンガル(二言語使用者)についても、個々の違いが大きく一概には説明できないという。さらにバイリンガルといっても、子どもが育つ地域や二つの言語の力関係などがかかわるので、単純ではない。

 そのようなバイリンガル研究を踏まえて英語学習を考えると、日本の子どもが置かれている現状をもっとはっきりと見極める必要があるのではないかと鳥飼さんは言う。第一に、日本の子どもたちの言語環境は日本語だけで暮らして何ら支障のないものである〔地域によっては外国語の必要がある場合もあるが、その場合は英語以外の、(比較的力関係において弱い)外国語である可能性が大きいのではないかと思う〕。
 第二の点はもっと重要ではないかと、私は思うのだが、日本語と英語では発音から語順、コミュニケーション・スタイルなどすべてが違う。鳥飼さんは米国の連邦政府職員を対象にした国務省の外国語訓練機関の話を引き合いに出して、英語母語話者がフランス語やスペイン語などを集中して学べば半年で何とか仕事に使えるレベルになるが、日本語や中国語、韓国語は英語母語話者にとって極めて困難な言語で、集中訓練を2年くらい実施し、なおかつ現地での学習が必要とされるという例を挙げている。
 このような日本語と英語の違いを考えると、子どものうちから英語を勉強させれば何とかなるという考えは甘いものだといわざるを得ないと鳥飼さんは言う。「内容の伴った、意味のある英語を相手にわかるように話すには、読み書きを通して必要な語彙を学び、論理的な組み立てを習得する必要があります。お子さま英語では間に合いません。」(198ページ) これは日本語に引き付けて考えればすぐにわかることだという。子どもの時に話すような日本語をそのまま大人になっても使っていては、相手にされないのはわかりきったことである。社会の中でどのような言葉遣いをすることが期待されるか、暗黙の規範や規則を経験を通じて学んでいく努力が必要であり、それは母語の場合はもちろん、外国語ならばなおさら強く要求されることであるという。この問題は、鳥飼さんが書いている以上に深刻かもしれないのだが、それは機会を改めて論じることにする。

 最後に「2 未来へつながる英語力を育むために」という見出しを掲げて、これからの世界の中での英語と英語教育の問題が論じられている。グローバル化の中で英語ができなければ、生き残れないというのは現代日本社会特有の思い込みであると鳥飼さんは診断している。国際社会の中で有力な言語は歴史的に推移しており、18世紀以降、第一次世界大戦の終わりまでに外交用語であったのはフランス語であったのが、パリ講和会議の際にフランス語ができないウィルソン米大統領とロイド=ジョージ英首相が出席したために、英語が使用されるようになったという経緯が紹介される(まあ、そうでなくても、英語がフランス語にとってかわるのは時間の問題であったことは確かである)。

 英語には、英米カナダというG7のうち3カ国の言語である(もっともカナダではフランス語も公用語であるが)という側面と、国際的な場面で使われる言語であるという側面との2つがあり、これは必ずしも同調する性格ではないということは何度か書いてきたが、鳥飼さんは国際語としての英語という側面を重視しているようである。その一方で、国際社会における英語の優位が未来永劫に続くかどうかは疑問であるとも書いている。実際問題として日本の一部の商社では社員に中国語を学ばせているという例もあるといい、未来をめぐっては不確実な要素が多いと釘をさしている。〔現実問題として、私が自分の周辺で一番よく耳にする日本語以外の言語は中国語である。英語はというと、むしろインターネットで読むことの多い言語である。それぞれの活躍する場面があることを理解する必要があると思う。〕

 日本の、特に若者社会では「コミュ力」というと空気を読んで状況に対処する能力という意味に矮小化されているが、本来のコミュニケーションは「異質な他者との関係構築」と定義できるものである。外国語で「コミュニケーションをとろうとする」意欲をどのようにして育むかは大きな課題であり続けるだろうという。
 全体としてみれば、子どもの英語は小さな問題であって、学習指導要領のことばを使えば「素地」になればいい――もし、本人がその後、必要を感じて勉強するときに、基礎として役立てばいいのであるという。小学校の段階では、間違った英語を身につけないこと、嫌いにならないことを、親としては気を付けるようにすべきである。
 英語は日本語と違う言葉であり、それだけに習得は難しいが、違っているから面白いと気持ちを切り替えることが必要であろう(違っていても同質な部分もあるというとらえ方もあるかもしれない)。子どもの成長を長い目で見守り、本人の意欲を大事にして、長所を伸ばしていくことを心がけるべきである。家庭教育にせよ、学校教育にせよ、結果が出るまでには時間がかかる。「母語の重みを認識すること、そして言語とは一生を通して学ぶことであることを理解すれば、英語学習について焦る必要はない」(207ページ)という。
 これからは簡単な英語であれば、AIを使って理解したり、交流したりすることができるようになる。しかし、「読解力」や「コミュニケーション能力」はAIよりも人間の方が勝っているものであり、それらの能力は母語でこそ培われるものである。「そのうえで、AI時代に英語を学習する意味を考えると、スキルだけにとどまるのではなく、『異質性』を学ぶことに集約されるように思います。多文化多言語共生社会を持続可能にするための『他者理解』への第一歩が、異質な言語である外国語の学習です」(208ページ)。自分とは違う、そういう世界もあるのか、そういう考え方もあるのかという気付きへの第一歩として外国語学習に取り組むべきだということであろう。

 鳥飼さんは「あとがき」で、この書物では子どもを対象とした英語教育の現状や問題点を保護者に向けて書いたと述べているが、それを読んで自分の子どもの英語教育にどのように取り組んでいくかは、読者である保護者の判断にゆだねられていると考えるべきであろう。そのためには、本を何度も読み返してみたり、読んだことを周囲の人々と話し合ったりして理解を深めることも必要なのではないかと思われる。
 

『太平記』(247)

1月29日(火)晴れ

 暦応2年(南朝延元4年、1339)、出雲の守護であった塩冶高貞は北国の脇屋義助を大将とする宮方の討伐に向おうとしていたが、彼の美貌の妻に横恋慕した足利尊氏の執事・高師直によって謀反を企んでいると讒言を受け、出雲に逃げ帰ろうとした。妻を丹波路(山陰道)から落とし、自らは播磨路(山陽道)から落ち延びようとしたが、将軍の命令で、丹波路は桃井直常が、播磨路は山名時氏が追手として向かい、塩冶の妻は播磨の蔭山(姫路市の東北部)で桃井直常の襲撃を受けて落命した。塩冶高貞も山名時氏に追われていたが、郎等たちがよく時間を稼いで彼の逃亡を助けていた。
 山名時氏は湊川で馬を休ませるべく一泊したが、その子である師義は塩冶の一行を休まずに追い続けるべきだと考えて、身近な郎等を連れてさらに西へと向かい、加古川の流れを渡って先を急いでいる塩冶の一行を見つける。しかし、塩冶一族の塩冶六郎の率いる七騎の武士が行く手を遮って、塩冶の一行を逃がす。

 この間に塩冶高貞は50町(1町を109メートルとすると、5~5.5キロ)ばかり落ち延びたけれども、彼に付き従っていた郎等たちの馬がくたびれ切って、動けなくなってしまった。そこでやむなく、馬を乗り捨てて道端に置き去りにし、家臣たちは徒歩で従うことになった。このまま山陽道を進んでいけば、山名に追いつかれるはずだと考えて、御着(ごちゃく=兵庫県姫路市御国野町御着)の宿から方向を変えて、小塩(おしお)山(姫路市夢前=ゆめさき町)へと昇る道を選んだ。
 しかし時氏は追走を続け、小塩山の山道を追ってきたので、塩冶の郎等たちのうち3人がここで引き返して、松がちょうどいい具合に生えているのを相手の矢を防ぐ楯の代わりにして、矢を次々に弓につがえて、放ちまくった。先頭を進んできた6騎を射て落とし、矢種が尽きてしまったので、今度は太刀を抜いて山名の一行に切りかかる。
 こうして郎等たちが命をかけて戦い、主人を逃れさせようとしたので、高貞は落ち延びることができた。追う山名は、馬も疲れてきたので、無理に追いつこうとするのをあきらめて、ゆっくりと敵の本拠を目指すことに方針を転換した。

 (暦応3年)3月30日に塩冶は出雲の国に下着したが、4月1日に追手の大将である山名時氏とその嫡子師義が300騎を率いて、同じ出雲の屋杉(島根県安来市)の庄に到着した。時氏は早速国中にお触れを出して、「高貞の幕府への謀反が明らかになったので、自分はその討伐のために派遣されたのである。高貞を討ってその首をもってきたものには、その身分にかかわらず厚い恩賞を与えるであろう」と宣言した。このため、出雲の武士たちは、塩冶一族ではないものはもちろんのこと、一族の中にもこれまでの行き掛かりは忘れて、高貞を裏切り、彼を討ち取ろうと道を塞いだり、待ち伏せをしたりして、討伐を企てるようになりさえしたのである。〔前回にも書いたが、時氏は出雲の隣の伯耆の国の守護であり、当然、出雲の国の守護の地位をねらっていた⇒高貞討伐後、実際に彼はこの地位に就くので、着々と手を打っているとみるべきであろう。京都を出発した時は7騎だったはずで、それがいつの間にか300余騎になっているのは、あとから追いついてきた郎等がいたこともあるだろうが、自分の所領から呼び寄せたことも想像できる。〕

 出雲の国内だけでなく、一族からも孤立してしまった塩冶高貞は、1日だけでも自分の身を隠す場所さえなくなってしまった。最後は追手と戦って討ち死にするにせよ、自害するにせよ、しばらくは要害の地に立てこもって時間を稼ぎ、妻と子どもたちの行方を聞きたいものだと、出雲の佐々布山(さそうやま=松江市宍道町佐々布)に立てこもろうと、馬を急がせていた。そこへ、彼の妻とともに落ち延びようとしていた中間の1人が追いつき、近寄って、塩冶の馬の轡をとらえ、「いったい誰のために自分の身の上を大切になさって、城に立てこもろうとされているのですか。奥方様とともに落ち延びようとした者たちは、播磨の国の蔭山というところで、敵に追いつかれて、奥方様もお子様もみな刺殺してしまい、全員が自害を遂げました。わたしもそのときに死のうと思ったのですが、このことを知らせなければならないと思ったので、ここまで生きながらえて、ここまで参りました」と言い捨て、腰に刺していた短刀を抜いて腹を切り、馬の前に倒れ伏したのであった。

 高貞はこの知らせを聞いて、「一刻たりとも離れたくないと思っていた妻子が死んでしまっては、生きている価値はまったくない。腹立たしくてならない。こんなことならば、京都にいたときに高師直の邸に押しかけて、刺し違えて死んでいればよかった。ここまでずるずると落ち延びてきて、あちこちで一族のものが命を落とすことになったのが残念だ。こうなってしまっては、最後に一合戦をするまでもない」と小高い山の上で馬をおり、「師直においては、七たび生まれ変わっても敵となり、思い知らせてやるぞ」と、念仏を百回ほど唱え、腹十文字に掻き切り、ついに死んでいったのである。〔恨みを込めて相手を呪うことと、念仏を唱えることは矛盾しているように思えるが、そんな分別を働かせるような場合ではないということであろう。〕

 最後まで高貞に従っていた若党が30余騎いたが、あちこちで討たれたり、あるいは、城作りに都合の良い場所を探してこいと言われて主人の下を離れていたので、結局身近にいたのは重臣である木村源三だけであった。彼が馬より飛び降り、高貞の首を取り、鎧直垂の袖に包んで、遠くの田んぼの泥の中に埋めたのちに、腹を掻き切って高貞の首の切り口を隠し、上に討ち重なって倒れ伏した。こうして高貞の首を守るとしたのだが、時氏の部下たちが、木村の足の泥の汚れを手掛かりに、田んぼを掘り返して高貞の首を探し出して、師直の下に送ったという。

 幕府のために多くの手柄を立ててきた(その前には後醍醐天皇に仕えて、功績が大きかった)塩冶高貞であったが、罪もないのに讒言を受けて、長かるべき命を奪われたのはあわれとしか言いようがない。一方、高師直は尊氏の執事として権勢をふるい、何事も自分の意のままにできる地位にあった。そのような身分であれば、私心を捨てて正しい政治を心がけるべきであり、そうしてこそ、子孫も繁栄するはずであったのに、自分の権勢をかさに着て好き勝手にふるまったので、人々の反感を買うようになった。これは第29巻に記されていることであるが、有力守護大名たちの反感を買った師直は、都を離れることとなり、武庫川(兵庫県尼崎市を流れる川)の川端で一門ことごとくが討ち取られる末路をたどることになったのである。
 何事にも報いがあるというが、塩冶高貞が自害するときに「七たび生まれ変わっても敵となり、思い知らせてやるぞ」といったことが、実現したのであり、その言葉の恐ろしさが実感されるところである。「相構へて相構へて、人は高きも賤しきも思慮あつて振る舞ふべきものなり」(第3分冊、463ページ、よく注意して、よく注意して、人間は身分が高くても低くても、思慮ある振る舞いをすべきである)と『太平記』の作者は結んでいる。

 何度も書いてきたが、塩冶高貞が出走・自害したという事件は歴史的な事実として、当時の資料により確認できるが、実際に起きたのは暦応4年(1341)のことであり、事件の真相については謎の部分が残っているが、森茂暁さんは「守護職をめぐる山名と佐々木の抗争が基底にあるのではないかと憶測している」(森『南北朝の群像』、角川文庫版、167-168ページ)としており、私も今のところでは、この意見が最も真相に近いのではないかと思っている。とにかく、高師直は横恋慕事件をでっちあげられ、悪役の典型として『仮名手本忠臣蔵』にまでそのレッテルが尾を引くことになってしまった。考えてみれば、こちらのほうがよほど気の毒である。

 『太平記』の21巻はこれで終わる。また6分冊からなる岩波文庫版『太平記』の第3分冊がこれで終わる。『太平記』の諸本を検討した亀田純一郎の研究(1932)以後、『太平記』には大別して<古態本>と<流布本>の2系統があると言われているが、このうちの<古態本>の特徴は全40巻からなる『太平記』の22巻が欠けているということである。岩波文庫版の『太平記』は<古態本>の中で最も古い写本であり、信頼性の高い「西源院本」に基づいているので、21巻は欠巻であり、次回は、23巻に話が飛んで始まることになる。 

日記抄(1月22日~28日)

1月28日(月)晴れ

 1月22日から本日までの間に経験したこと、考えたこと、これまでの記事の補遺・訂正等:

1月22日
 『日本経済新聞』の文化欄に、ドキュメンタリー映画『岡本太郎の沖縄』を監督した映画作家の葛山喜久さんが「『岡本太郎の沖縄』たどる」という文章を書いている。太郎は「沖縄の中にこそ、失われた日本がある」、「沖縄で、私は自分自身を再発見した」と語ったそうである。日本文化の本質について考える際に、心に留めておくべき言葉ではないかと思う。

 同じく『日経』の文化欄では作家の門井慶喜さんによる「ドームのある近代建築 十選」という連載コラムがはじまった。第1回はニコライ堂で、だれがどう考えてもこれ以外にはないという選定である。

 雑誌『暮しの手帖』は初心を忘れないために通巻100号を迎えると、また1号からやり直すという発行方針を続けてきた。今年の5月で4度目の100号を迎えるこの雑誌の現在の編集者の澤田康彦さんのインタビューが『朝日』に掲載されていたが、この人椎名誠さんの「あやしい探検隊」の「ドレイ」だったという前歴はよく知られていて、本人も大分気にしているらしい。

 『朝日』の”HUFFPOST"のコーナーで数学の三角関数を教えなくてもいいのではないかという議論が取り上げられていたが、教えることはかまわないのであって、それが上級学校の入試の中でどのように取り扱われるかが問題ではないかと思う。昨年の12月1日付の『日経』に文系の学生にも数学を勉強させるべきだという経団連の意見が紹介されていたが、それが「選択」を意味するのであれば賛成、「必修」を意味するのであれば反対である。学問領域の中には数学的な処理を必要とするものもあるし、そうでないものもある。同じ学問領域の中でも数学的な方法を使って考えていく人と、そうでない人がいてよい。数学ができるとか、できないとかいうのは「個性」の問題である。自分ができないから、若い人たちには努力してできるようになってほしいという発想は誤りである。自分ができないことは、若い人たちもできない可能性がかなりあると考えるべきである。人間の素質は多様であるから、同じ努力をしても、できるようになる人とならない人がいるということを認識すべきである。

 1月23日
 『日経』のコラム「私見卓見」に経済産業研究所理事長の中島厚志さんが「人生100年、義務教育の延長を」という所説を述べているが、義務教育期間を延長するよりも、だれでも、いつでも、無償で(あるいは、適切な対価で)、学びたいときに学べるリカレント教育の仕組みを生かした生涯学習社会を構築していくことの方が大事だろうと思う。

1月24日
 NHKラジオ『高校生からはじめる「現代英語」』では”Greek PM confident on economy" (ギリシャ首相 経済(再建)に自信)というニュースを読んだ。
Alexis Tsipras visited the island of Ithaca for a televised address to the nation.
He said Grece has gone through a "modern-day Odyssey." In Homer's epic poem "The Odyssey," the island's king returns home from the Trojan War after a long and difficult journey.
 (アレクシス・チプラス(首相)は、国民向けのテレビ演説のためにイサカ(イタキ)島を訪れました。
 彼は、ギリシャは「現代のオデュッセイア」を耐え忍んだと述べました。(古代のギリシャ詩人)ホメロスの叙事詩『オデュッセイア』ではこの島の王(オデュッセウス、トロイの木馬作戦を発案した英雄)がトロイ戦争から島へ戻りますが、(10年という)長く困難な旅を経た帰還でした。)
 問題は、現在のイサカ島が、ホメロスの描いたオデュッセウスが王であったイタケー島と同一の島であるかははっきりしないということではないかと思う。

1月25日
 AP通信によると、23日、リトアニア出身で米国で映像作家、詩人として活動されたジョナス・メカスさんがニューヨーク州の自宅で死去されたそうだ。第二次世界大戦中はナチスの強制収容所に入れられたりしたが、戦後、ニューヨークに移住、日常を映像に記録する日記映画を製作する一方で、『映画日記』を執筆されてきた。
 私がこれまでに見たアメリカ映画の中で印象に残った作品を3本あげると、『風と共に去りぬ』、『市民ケーン』そしてメカスさんの『リトアニアへの旅の追憶』ということになる。小津安二郎が、戦争中にシンガポールで『風と共に去りぬ』と『市民ケーン』をみて、「へのへのもへじや」(手も足も出ない)と言ってその技術的な達成の水準に感嘆した話はよく知られているが、小津がもう少し長生きして、メカスの個人的というよりも私的な映画作りについて知ることがあったら、どんな感想をもったのかを知りたいと思う。と言っても、それはかなわぬ夢なので、また機会があれば、メカスさんの作品を見たいと思う。

 『日経』の地方欄のコラム「ぐるっと首都圏」に東京にあるイスラム教のモスクである「東京ジャーミー」が紹介されていた。日本にやって来たイスラム教徒の人から、どこにあるのかと聞かれることがよくあるので、一度正確な場所を確かめておこうと思う。

 同じ『日経』の文化欄に浜松市の山間の西浦(にしうれ)地区で伝承されてきた西浦田楽のことが紹介されていた。奈良時代に行基がこの地を訪れて、その後神事として継承されてきたという(神仏が入り混じっている)。いろいろな演目が演じられるらしいが、足掛けの付いた一本棒に乗り、2人で問答しながら跳ねる時間の長さを競う「高足のもどき」など、昔の田楽の姿をとどめているのではないかと思われる。

1月26日
 齋藤慎一『戦国時代の終焉』には武田氏滅亡後の関東地方の処理にあたるべく織田信長によって上野に派遣された滝川一益のことが出てくるが、1933(昭和8)年に京都大学で起きた思想弾圧事件である「滝川事件」で弾圧の対象となった滝川幸辰は、一益の子孫だそうである。
 私が京大に入学した時の学生部長は、のちに高知大学の学長になった山岡亮一先生であったが、ガイダンスの際に先生が学生時代に遭遇された滝川事件の話をされたのを今でも記憶している。

1月27日
 『日経』の「美の粋」で特集されてきた「ブリューゲルのまなざし」が第4回をもって完結した。今回はピーテル・ブリューゲル(父)のほかに、息子であるヤン・ブリューゲル(花のブリューゲル)とピーテル・ブリューゲル(子)の業績についても触れている。ピーテル(父)の「死の勝利」が紹介されていたが、この画題で他の画家も多くの作品を残しているのではないか。エラスムスの『痴愚神礼賛』の挿絵も描いたホルバインにも「死の勝利」という作品があり、リストの同名の音楽に霊感を与えたといわれている。あまりホルバインという画家には興味がなかったのだが、改めて彼の画業をたどりなおしてみるのもいいかもしれない。

 仏メディアによると、26日、フランスの作曲家で数多くの映画音楽を手掛けたミシェル・ルグランさんがパリの自宅で死去された。86歳。『シェルブールの雨傘』などフランス映画のほか、『華麗なる賭け』などアメリカ映画の音楽も手掛けられていた。ご冥福を祈りたい。

 1066回のミニtoto Aをあてる。今年に入ってから3回連続してあてている。昨年、まったく当たらなかったのだから、サッカーの予想も奥が深い。

1月28日
 『朝日』は「社会人の『学び直し』 高まる関心」として、大学がリカレント教育への取り組みを強化していることを報じ、『日経』は「女性や高齢者の『学び直し』」として、女子大学が果たしうる新しい役割についての笠原清志跡見学園女子大学長の論説を掲載している。方向性は同じなのだが、どのような方策をとって実現していくかという道筋の付け方が違っているところが注目される。

 『日経』の特集「ドキュメント日本」は公立の夜間中学の生徒が全般的に減少している中で、その中での若い外国人の占める割合が増加し、今や全体の7割に達していることを報じている。

 『日経』の門井慶喜さんの連載コラム「ドームのある近代建築 十選」は神奈川県立歴史博物館(横浜市)を取り上げている。もともとは横浜正金銀行の本店であったという。横浜正金銀行は現在の三菱UFJ銀行の前身の一つである。この建物には入ったことがあるはずだが、あまり記憶がはっきりしない。

白川静『漢字』

1月27日(日)晴れ、三ツ沢グランドの陸橋付近から富士山が見えた。

 白川静『漢字』(岩波新書)を読み終える。碩学・白川静(1910‐2006)が、その漢字と古代の中国の文化・社会についての膨大な学識の一端を語った書物である。あまり読みやすい本ではないが、とにかく含まれている内容が豊かで示唆に富むものが多いこと比類がない。
 1970年に岩波新書の1冊という比較的手に入りやすい形で刊行されたこの本を、70歳過ぎるまで読まずに過ごしたというのは私の怠慢以外の何物でもないのだが、白川の業績にはかなり早い時期から触れてきたことも書いておきたい。今から40年以上まえ、白川の『中国の神話』を読んで、なるほどこんな考え方もできるのかと思って大いに感心した。それで、同僚の漢文の先生にその話をしたら、白川さんというのは学界では異端の学者とされていて、よくそんな人の本を読みましたねぇなどと感心したような呆れたような感想を返されたことを覚えている。その後、白川の学説はしだいに支持を集めるようになり、漢字についてはもちろん、中国古代の文化・思想について考える時に、彼の見解を避けて論じることはできないほどの存在になった。

 それで、私が白川の本を読んで感心したのはどういうことかというと、それは実はこの『漢字』の中にも書かれていることで、「殷王朝の秩序の原理は、その神話であり、祭祀の体系であった。神話は古くからの諸氏族の信仰と伝承の上にきずかれてきたが、王朝はそれを王朝的な規模にまで拡大して、王朝存立の基礎として体系づけたのである。そこに国家神話が成立した。」(114ページ) ところが、周が勢力を拡大し、西方の諸族と連合して殷を倒し、新たな王朝をたてる。「しかし周には殷に代わりうる神話がなかった。神話は、種族の生活の中から生まれ、久しい伝承を通じて形成されるものである。かれらは、その王朝の秩序の基礎として、新しい原理を求めなければならなかった。王たることは、ただ帝の直系者たるその系統の上にのみ存するのではない。それは帝意にかなえるもの、天命を受けたものに与えられるべきものではないか。天命は民意によって示される。民意をえたものこそ、天子たるべきものではないか。民意を媒介として、天の認識が生まれる。そこに天命の思想が成立する。天命の思想は、殷周の革命によって生まれ、革命の理論であるとともに、周王朝の支配の原理でもあった。」(116‐117ページ)

 つまり、国家の原理として<神話>を掲げていた殷が滅び、<天命>を掲げた周が取って代わったことで、中国の神話の発展は終わったというのである。白川が『中国の神話』の中でその業績について言及している袁珂(1916‐2001)は、中国の神話が断片的にしか伝えられなかった理由をその『中国の神話伝説』(青土社)の第3章で魯迅(1881‐1936)の『中国小説史略』における所説に求めている(実は魯迅のこの説の相当部分が沈雁冰(=茅盾 1896‐1981)の説に依拠しており、袁珂の『中国古代神話』(みすず書房)ではそのことにも触れているのに、こちらでは触れられていないのはどういうことであろうか)。その理由というのは①中華民族の祖先は生活が苦しかったので、現実を重んじるあまり、想像を軽んじ、伝説から神話文学を構築することができなかった、②「怪力乱神」を語らない儒家の思想が中国では支配的になったので、神話は発展しなかった、③中華民族は神と鬼(き)を区分しなかったので、新しい伝説が常に現れて古い伝説にとってかわり、神話として累積されることがなかった。もっとも、袁珂は①については同意しているわけではないようである。詳しい議論は省くが、白川の所説は、この②と重なるけれども、強い独自性をもっていると思われる。今、『中国の神話』を読み直してみて、そのころの私が十分にこの書物の意図を読みぬいていたかどうかは疑問に思われるが、白川の考えが、中国の古代神話について、また日本の古代と神話の問題を考えるうえで重要な示唆を与えてくれるという印象はおおむね正しかったと思うのである。

 さて、この書物は「漢字」の成立と、個々の漢字が、古代(殷と周の時代)の中国人の生活と文化についてどのような情報を与えてくれるのかということを、さまざまに語るもので、目次を示しておけば、
 1 象形文字の論理
 2 神話と呪術
 3 神聖王朝の構造
 4 秩序の原理
 5 社会と生活
 6 人の一生
ということであり、文字としての漢字の成立が神の世界と結びついていたこと、漢字が神聖な役割を演じていた時代について語っている。ここでは1と2を取り上げておこう。

 「象形文字の論理」では、古代の文字がいずれも象形文字であったこと、その中で現在まで生き延びて使われているのが漢字だけであること、発見された最古の漢字である甲骨文字はすべて絵画的な手法で書かれているが、象形的な方法だけでは文字の体系を組み立てることはできない、実際に漢字の中で象形によるものは少なく、指示、象形文字を組み合わせた会意を加えても表意文字としての漢字の数は実は少ない、漢字がその文字としての役割を果たしうるのは表音的な用法の発見を待ってであることなどが語られている。漢字は中国で生まれ、広がったものであるが、中国の中で、主としてどの地方でどのような事情のもとに成立し、発展していったかをめぐっては謎が多い。例えば「文」という文字はもともと文身を起源としていることは、文身の風俗が行われている地方でこの文字が成立したことを推測させる。文身は中国の東の海岸部に行われる風俗であるという。 また財宝の観念が貝によって示され、その「貝」が子安貝の形象を示していることからすれば、この字が子安貝の流通する範囲の文化圏でできたものだと考えるべきである。様々な手掛かりを手繰って、白川は「漢字がもと沿海族である殷人の手に成る」(24ページ)であったと考えている。この問題は、日本の古代文学を考えるうえでも重要であり、古代文字は宗教民俗学の研究と関連させて行うことによって多くの謎を解くことができるとしている。

 「神話と呪術」では、漢字と神話・呪術の結びつきが様々な手掛かりから考察される。(中国の)古代の人々は自然の中に神が宿る(アニミズム)と考え、そのような考えが漢字の中にも反映されているという。人々が自然のいぶきであり、神のおとずれであると考えていた「風」にまつわる漢字、そのような風に乗って訪れる神々の使者である「鳥」にまつわる漢字、陵墓や境界における犠牲などに見られる呪術的な習俗には、殷時代の人々のものの考え方が反映しているという。

 特に印象に残るのは次の個所である:「風を鳥形をもって示すその形象のうちに、古代的な四方風神の観念があり、またその風神観念の成立の背景に、モンスーン地帯特有の感覚があったようである。『詩経』にしても『万葉集』にしても、風を歌うものが多い。それらは自然の風としてでなく、ある霊的なもののおとずれ、あるいは暗示として歌われている。のちの時代においても、東洋人は風に対して、独自の感覚を示している。われわれはそこに、この地域特有の自然観の伝統を見ることができるように思う。」(30ページ) 
 この場合の東洋はモンスーンの影響下にある東アジアの大部分(東南部)と東南アジアを指すと考えていいのであろう。そういえば、むかし毛沢東は「東風西風を圧す」といったが、この発言には東アジアの伝統的なものの考え方が反映しているといえるのかもしれない。

齋藤慎一『戦国時代の終焉 「北条の夢」と秀吉の天下統一』

1月26日(土)曇りのち晴れ、気温上らず

 1月25日、齋藤慎一『戦国時代の終焉 「北条の夢」と秀吉の天下統一』(吉川弘文館:読み直す日本史、2019)を読み終える。2005年に中公新書の1冊として刊行されたものの再刊であり、初版にあまり手を加えてはいないが、著者のその後の研究を踏まえた「補論」が巻末に付け加えられている。

 この書物は、関東地方を主な舞台として、戦国時代の終焉の過程を描いたものであり、特に天正12年に下野国(現在の栃木県)南部で起きた「沼尻の合戦」に焦点を当て、関東地方に覇を唱えようと北上してきた小田原北条氏と、伝統的な勢力である佐竹・宇都宮などの北関東の豪族とのこの戦闘が、信長の死後、その後継者として台頭してきた羽柴秀吉と、それに対抗しようとする徳川家康・織田信雄の連合軍との戦闘であった小牧・長久手の戦いと関連するものであったこと、そしてこの合戦が結果的に豊臣政権による全国統一に道を開く結果となったことを明らかにしようとしている。

 滝沢馬琴の『南総里見八犬伝』の書き出しは、「京の将軍鎌倉の副将、武威衰えて偏執し、世は戦国となりしころ」で、これは戦国時代の特徴のなかなか見事な要約だと思っている。室町幕府の支配体制は、基本的には二頭制であって、単純に将軍の支配が衰退しただけでなく、関東管領の支配も衰えたことで、戦国時代が始まったのである。近畿地方と関東とは、文化や歴史的伝統において違いがあり、例えば、関東地方では下克上はそれほど一般的な現象ではなかった(上杉謙信が関東管領職を引き継ぐという例はあった)のであるが、それぞれの動向が連動しあい、影響しあっていたことも否定できないのである。
 著者の言葉を借りれば:
「沼尻の合戦の前後の情勢は、東国における中世の終焉と近世の幕開けをさまざまな角度から語っている。さらには北関東という限られた地域から中央の歴史の変動をも描いている。「豊臣の天下」と「北条の夢」という対立する2つの事項には、戦国時代末の「中央の論理」と「地方の自立」という相剋関係が照射されている。中世から近世へという「時代の移り変わり」の難しい局面を私たちに語りかけてくれる。」(6ページ)

 この書物は次のような構成をもっている:
第1章 織田信長と北条氏政・氏直 天正10年まで
 1  織田信長と東国
 2  北条氏政の領国拡大
 3  滝川一益の関東入り
第2章 合戦の序曲 天正10年後半~11年
 1  北条氏直対徳川家康
 2  北条・徳川同盟
 3  北関東への侵攻
第3章 沼尻の合戦 天正12年
 1  北条の脅威
 2  合戦の勃発
 3  沼尻の合戦の様相
第4章 小牧・長久手の戦いとの連動
 1  秀吉陣営と家康陣営
 2  沼尻の合戦の余波
 3  和平と戦後処理
第5章 合戦の中に生きる人びと
 1  境目の領主
 2  戦場の武士
 3  戦場となった村落・寺社
第6章 沼尻の合戦後の東国
 1  佐竹義重・宇都宮国綱の焦り
 2  北条のさらなる北進
 3  羽柴秀吉の思惑
第7章 秀吉による東国の戦後処理
 1  佐野領の北条領国化
 2  徳川家康の立場
 3  豊臣秀吉の東国政策
 4  北条の対豊臣和平交渉
第8章 「豊臣の天下」と「北条の夢」 天正17年
 1  足利事件と「惣無事令」
 2  「御赦免」の影響
 3  豊臣秀吉の沼田裁定
 今回は、第1章のあらましを紹介する。

 第1章 織田信長と北条氏政・氏直
  1  織田信長と東国
 戦国大名北条氏の4代目当主氏政(1538-90)は、天正8年(1580)に家督を息子の氏直(1562-91)にゆずったが、実権を保ち続け、氏直との二頭体制で戦国末期の難局に対処しようとした。氏政は織田信長と接触をもち、織田政権の枠組みの中で、関東の主となって、関東を統一したいという意向をもっていた。天正10年(1582)に戦国大名武田勝頼が滅亡するが、この時、北条氏も信長に呼応して駿河の東部の武田支配圏に派兵している。
 北条氏はまた、北関東の上野(群馬県)にも勢力を拡大しようとしたが、この地域には北条高広(きたじょうたかひろ)と真田昌幸という2人の重要人物がいた。そして、信長は勝頼滅亡後、上野に滝川一益を入国させる。「この時点で織田信長と北条氏政・氏直の考えに隔たりが生まれたのは間違いないだろう」(17ページ)と著者は推測している。
 「北条の夢」は関東の国守となることであり、目的は地方の支配であって、天下統一ではなかった。
 なお、この節の最後の部分で当時は北条の家臣であった板部岡江雪斎(1536-1609)が登場しているが、この後何度も登場するので、以後気を付けて読むと面白いかもしれない。

 2 北条氏政の領国拡大
 永禄年間(1558~70)には上杉謙信がしばしば関東平野に攻め込んだ。これを越山と通称する。そのたびに北関東の領主の帰属が変わるという、献身と北条氏康(氏政の父)の対立が鮮明な時代であった。北関東の佐竹義重を盟主に、宇都宮国綱や小山秀綱といった諸領主が謙信の助力を得て、北条氏の圧力に対抗していたが、越山は天正2年が最後となる。北関東の諸領主は謙信の助けを得ずに、自力で自分の基盤を守らざるを得なくなってくる。
 天正2年に下総国関宿城(千葉県野田市)が北条氏政に下り、城が明け渡される。次に標的となったのは、下野国祇園城(栃木県小山市)で、城主の小山秀綱は反北条の立場をとっていたが、抵抗むなしく、北条勢の一方的な勝利に終わる。天正5年ごろに祇園城には氏政の弟で北条家の最盛期に重要な働きをすることになる北条氏照が入城する。
 小山秀綱を庇護した佐竹義重は、周辺で反北条の立場にあった佐野宗綱、皆川広照、宇都宮広綱らの下野の国の領主、結城晴朝、真壁氏幹らの下総国・日立の国の領主たちの援助も得て、軍事活動を活発化させる。しかし、なかなか祇園城を奪回することはできないままであった。
 佐竹義重は戦線を拡大させ、天正8(1580)年9月、佐野宗綱とともに上野の国館林(群馬県館林市)を攻めた。館林城は北条方の長尾顕長の本城であったが、義重は軍事的攻略を図るだけでなく、顕長とその実兄である由良国繁の反北条への切り崩しの画策も行っていた。この時点では佐竹義重の優勢が徐々に見え始めていた。

 3 滝川一益の関東入り
 「天正10(1582)年、織田信長家臣である滝川一益が箕輪城(群馬県群馬郡箕郷町)に入城し、上野国が織田領国に編入される。中央の政治秩序が関東にもたらされた。一益を中心に関東での新たな秩序が目指されていた。事態は大きく変わろうとしていたのである。」(26ページ) 一益が「関東八州の管領職」に任じられたという記述もあるが、東北地方のもその管轄範囲に含まれていたことから、実際には関東管領以上の権能を期待されていたのであろうと思われる。しかし、茶人である一益はこの任命を喜んではいなかった。こういう食い違いはあまりいい結果をもたらさないものである。

 関東各地の領主たちは、この新しい支配者の下に競って出仕を申し出る。その中では真田昌幸の名が注目される。このほか、小幡信真とあるのはこの書物の199ページ以下に登場する小幡信定の一族であろう。北関東だけでなく、房総の里見義頼や陸奥の伊達輝宗なども接触を図っているし、下野国佐野一族の天徳寺宝衍のように一益の下で補佐役を買って出る人物も登場しはじめる。このように一益の関東支配体制は軌道に乗りはじめていた。

 5月上旬、上野の厩橋城で領主たちを集めて能興行が行われた。ここでは招かれた領主たちの客席における序列づけによって、支配を明確に示すという意図が込められていたと考えられる。この興行には北条氏からも参加者があった。
 その一方で、古河公方足利家はここに招待されず、おそらくは対応に苦慮していたと考えられる。この点では北条氏政・氏直父子も同様であったと思われる。「そもそも滝川一益の上野入国は『北条の夢』の挫折を意味していた。心中穏やかならざるものがあったはずである。」(31ページ) 織田信長は「北条の夢」を認めようとしなかった。このあたりに中央政権と氏政・氏直の目指す路線の分岐点があったのかもしれないと著者は説く。さらに一益は北条に属していた祇園城を小山秀綱に返還させようとするなど、独自の秩序の構築を目指す動きを見せた。 

 天正10年(1582)の本能寺の変の報せはすぐに氏政に伝わり、氏政はその旨を滝川一益に伝えるが、一益はこれを謀略と考えて、神流川で両者が激突することになる。6月18日の最初の大きな合戦は滝川勢が勝利したが、19日には北条側が滝川勢を切り崩し、惨敗を喫した一益は上野から織田領内に逃げ帰ることになる(この不面目のため、清須会議にも出席できないという事態を招き、滝川氏は没落してゆく)。

 ここでは関東地方における北条氏の進出と、それに対抗する勢力が中央権力と結ぶことによってその進出を食い止めようとしている様相が描き出されている。北条氏は彼らなりに中央権力との関係を築こうとしているのだが、果たしてどちらの側の働きかけが中央権力の意に沿うことになるのだろうか。そのあたりも興味のもたれるところである。北関東の最前線に信長がなぜ、有力な家臣であるとはいえ、文化人的な滝川一益を派遣したのかは謎である。あるいは、関東の状況をそれほど深刻に考えていなかったということであろうか。

トマス・モア『ユートピア』(37)

1月25日(金)晴れ、雲がかなり多く、気温上昇せず。

 1515年、イングランド王ヘンリーⅧ世とカスティーリャ公カルロス(のちの神聖ローマ帝国皇帝カールⅤ世)の間に起きた貿易上の紛争をめぐる外交交渉に関わる使節団の一員としてフランドル(現在のベネルクス3国に相当する地域で、当時は神聖ローマ帝国の一部であった)に赴いた法律家で行政官でもあったトマス・モアは、交渉の中断中にアントワープを訪問し、その市民であるピーター・ヒレスと親しく付き合った。(ここまでは歴史的な事実である。) 
 ある日、モアはピーターから、ラファエル・ヒュトロダエウスという世界中を旅行して様々な国の制度を見聞してきたという人物を紹介される。ラファエルは、彼が訪問した国々の中で、いちばん優れた社会制度を発展させているのは、新世界にあるユートピアという島国であるといい、モアとピーターの要請にこたえて、ユートピアの様々な社会制度について語る。
 ラファエルは、ユートピア島の地勢について、首都アマウロートゥムに代表されるその都市について、役職について、職業について、市民相互のつきあいについて、ユートピア人たちの旅行について、奴隷について、戦争と軍事について語り、最後に彼らの間ではどのような宗教を信じようと自由ではあるが、霊魂の不滅と生前における行為の善悪をめぐる死後における応報とを信じる人々が多く、キリスト教について知ると、進んで信じようとするものが少なくなかった。しかし、ユートピアでは国の基本的な法として、他の宗教のことを悪くいうことは、紛争のもとになるので厳しく禁じられているという。

 ラファエルの話は続く。ユートピア人たちの中には、「仕事をすること、他人に対する善行の務めを果たすことによってのみ死後の幸福を得る」(澤田訳、227ページ)ことを求めている人々がいる。「この連中のあるものは病人を看護し、あるものは道路を改修し、どぶを清掃し、橋を修理し、雑草や砂や石をとり払い、木を切り製材し、材木や穀物、その他のものを都会に運搬するなど、要するに、公共のためのみならず私人のためにも、奴隷以下のしもべとして働きます」(澤田訳、同上)という。
 ユートピアではすべての市民が働き、また奴隷制度も存在するので、いやでつらい労働に自発的に従事する人々がわざわざ出現することはないと思うのだが、このような人々の存在はキリスト教社会における修道会の存在を念頭に置いて書かれていると思われる。とにかく、つらい、汚い、人が喜んで引き受けそうもない仕事を彼らは喜んでやってのけるというのである。

 ところがこれらの人々の間には2つの派があるという。「その一つは独身派で、肉体関係に対して完全な禁欲を守るだけでなく、肉食も避けその中のある人々は動物からつくられたものさえもいっさい控えています。現世の生活のすべての快楽を有害なものとしてしりぞけ、徹夜の祈りと汗水流す労働に没頭して来世の快楽だけを求め、まもなくそれを手に入れられるという希望をいだいているので、そういう生活を送りながらも彼らは快活で勢力旺盛です。」(澤田訳、227‐228ページ)
 「動物からつくられたものさえもいっさい控える」ということになると、卵も、チーズも、ヨーグルトも、蜂蜜もだめだということになる。この辺りは、議論の分かれるところであろう。彼らが欲する来世の快楽というのがどのようなものかというのがいまひとつわからないのも問題で、現世では禁欲生活を送っているが、来世ではどんな快楽をむさぼってもいいというのでは、大変な偽善者だといわれかねない。

 もう一つの派は、独身派と同様に労働を好むが、結婚生活を送ることを選ぶものである。「なぜなら彼らは結婚の慰めをあなどらず、自然に対しては仕事を、祖国に対しては子供を提供する義務があると考えているからです。」(澤田訳、228ページ) また肉食の方が体力を作るのに役立つと考えているので、肉食も避けないという。
 ユートピア人たちはこの結婚もするし肉食もするという人々を「より賢明な人々」(澤田訳、同上)、独身をつらぬき肉食はしないという人々を「より聖なる人々」(澤田訳、同上)と呼んでいる。ロビンソン訳では前者が”wiser", 後者が”holier"(p.124)、平井訳では前者が「賢明派」、後者が「敬虔派」と訳されている(平井訳、167ページ)。ターナー訳では前者が”more sensible"(より思慮深い)、後者が”more devout"(より信心深い)、ローガン&アダムズ訳では前者が"more sensible"、後者が"holier"となっている。
 ユートピア人たちは彼らがこのような生活を送ることを、理性に基づいて説明するのではなく、宗教的な動機によるものだと説明していることを尊重し、彼らを尊敬しているという。「なぜといって、宗教的確信についてはどんなものであれ、それに対して軽率に意見を述べないこと、彼ら(ユートピア人)がこの点以上に細心に気を付けていることは皆無だからです。」(澤田訳、228ページ)
 このように信仰と労働に専念している人々をユートピア人たちはブートレースカと呼んでいるが、キリスト教社会における修道士(レリギオースス)に相当する存在であるという。 
 ユートピア人の宗教問題、修道士に対する態度は極めて慎重であるが、それはモア自身の姿勢でもあったと考えられる。ルターがヴィッテンベルクの教会の扉に95か条の論題をはりつけて、宗教改革の火を切ったのがこの2年後の1517年のことである。モアはルターを論難するヘンリーⅤ世の論文を代筆したといわれるが、だとすれば、この慎重さがどこかで崩れたのかもしれない。そしてそれはきわめて危険なことでもあった。

 司祭は極めて神聖な存在だと考えられているので、その数は各都市において13人とかぎられている。ただし戦争に出かけるときは別で、13人のうちの7人が従軍し、その分だけ人員が補充されるという。戦争が終われば、従軍していた司祭たちが帰還するから、補充されていた司祭は司祭長(ボンティフェックス)の同伴者(コメス)として働く。司祭長というのは、つまり他の司祭の上に立つ役職だという。ここで澤田さんが司祭長と訳している役職について、ターナーは司教(bishop)と訳し、ローガン&アダムズは高位の司祭(high priest)と訳している。ラテン語の辞書でpontifexの語義を調べた限りでは、ローガン&アダムズの翻訳が一番適切であるように思われる。
 当時のカトリック教会の機構も、現在のカトリック教会あるいはイングランド国教会の機構ももう少し複雑で、モア自身もそんなことは十分に承知していたはずであるが、モアはユートピアの教会の制度をヨーロッパの教会の制度とは別のものとして構想している。

 「司祭はほかの役人と同様、個人的対立感情を避けるために民衆が秘密投票によって選挙し、選ばれた人たちは司祭団の手で叙階の秘蹟を受けます。司祭は礼拝祭儀をつかさどり、宗教生活の世話を行ない、生活慣習(モレス)に関する審査官(ケンソール)の役を果たします」(澤田訳、229ページ)。ただ、犯罪を犯した者の取り締まり・処罰はほかの役人の仕事になる。つまり市民の道徳的・宗教的な生活の指導者の役割を演じるのである。
 「子どもや青少年は彼らの手で教育され、その際、学問への配慮が生活風習や徳への配慮に優先せぬように注意されます。司祭たちは、まだ柔軟で、指導しやすい子どもの魂に、初めから良い考え、社会の保全に役に立つ考えを注入すること、これに最大の努力を払うわけです。」(澤田訳、229‐230ページ) 知育よりも徳育重視というのも、モアの教育観の特徴と考えていいのかもしれない。

 全体として、モアが考えているのは宗教的な存在によって指導される禁欲的な共同体であると推測できる。これは、ラブレーの「テレームの僧院」などと比べるとかなり堅苦しく、窮屈に思われるのだが、それが彼の理想の生活であったということであろう。ユートピアにおける宗教をめぐるラファエルの話はまだ続くが、それはまた次回に。

ダンテ・アリギエーリ(須賀敦子・藤谷道夫訳)『神曲 地獄篇(第1歌~第17歌)』(9‐2)

1月24日(木)晴れ

 1300年4月4日、「暗い森」に迷いこんだダンテは、彼の魂を救うために天国の貴婦人たちによって遣わされた古代ローマの詩人ウェルギリウスの魂に助けられ、彼に案内されて地獄と煉獄を、「よりふさわしいたましい」に導かれて天国を旅する使命を与えられる。「すべての希望を捨てよ」(第3歌、9行)と記された地獄の門をくぐったダンテは、ウェルギリウスに案内されて、地獄の第1圏(リンボ:古代の有徳の異教徒たちのたましいが住む)、第2圏(愛欲の罪を犯した人々のたましいが置かれている)、第3圏(食悦の罪を犯したたましいたちが置かれている)、第4圏(貪欲と浪費の罪を犯したたましいたちが衝突しあっている)、第5圏(ステュクスの沼:高慢・嫉妬・憤怒・鬱怒の罪を犯したたましいが沼の中に沈められている)を経て、ステュクスの沼を渡って、下層地獄への入り口であるディース城に入ろうとしたが、悪魔たちが城の門を閉めて、入ることができない…。
 そのときすでに濁った波の上を、耳を聾するばかりの
恐ろしい騒音が伝ってきた。
そのため両岸が振動するほどであった。
(第9歌、64‐66行)

 濃い霧の中から、ある姿が現れようとしているのを見よと、ウェルギリウスはダンテに言う。2人の行く手を妨害していた亡者たちのたましいは、恐怖に駆られて逃げ去っていった。その姿は
 顔にまとわりつくあの濃い霧を
左手で振り払いながら進んできたが、
それだけが煩わしく鬱陶しいように見えた。
 わたしはこの方が天の使いだとすぐにわかったので
師のほうを向くと、彼は手まねで、
しゃべるな、そしてお辞儀をしろ、と言った。
 ああ、御使いはなんと蔑みに満ちていたことか。
扉のところへ行くと、右手の細い小杖で、
それをなんの抵抗もなく開けてしまった。
(82‐90行、191ページ) 天の使いにとって、神の意志に基づく行動であっても、神から離れて地獄に赴くというだけでなく、地獄の霧を左手で振り払いながら進むのは鬱陶しい限りであった。彼はその名を名乗ることもなく、ウェルギリウスとダンテに声をかけることもなく、神から与えられた自分の任務を簡単に遂行する。

 そして彼は悪魔たちに対し、彼らが神の意志に歯向かおうとした驕慢とその空しい結果を見よと言い放ち、その場を後にする。
 それから、ふりかえると、(ステュクスの)泥水の道へと取って返した。
われわれに言葉もかけず、いま自分の目の前にいる者に対する
気遣いよりも、他のことに気をとられ、
 心を煩わしている人のように。
(100‐103行、192ページ) 用を済ませた天の使いは、まっしぐらに帰っていく。

 2人の行く手をだれも妨害できないという天の使いのことばを受けて、ウェルギリウスとダンテはディースの国へと足を踏み出した。(ディース城の門をくぐったときから、今度は地獄の第6圏に足を踏み入れることになる。)
 われわれはまったくたたかうことなく中に入った。
そして私はこのような砦に固く閉ざされている
内部になにがあるのか、かねてから見たくてたまらなかったので、
 中に入るや、あたりをくまなく見まわした。
だが、そこに見えたのは、広々とした野ばかりで、
どちらを見ても嘆きとおそろしい苦しみに満ちていた。
(106‐111行、192ページ) 訳注では「悪魔たちが堅固な扉で必死に守っていたものは、渺茫とした荒野でしかない。あるのは墓だけである。要するに、悪魔は<虚無>を死守していたのである。」(201ページ)と注記している。示唆に富む指摘である。

 しかし、そこはただの野原ではなくて、無数の墓が大地に起伏を与えている墓地であった。地上で目にすることのできるだ規模な墓地と違って、そこは灼熱の炎があちこちにめらめらと燃え上がっている、比べようもないほど悲痛な眺めを見せていた。
 墓のふたはどれも持ち上げられて[開いて]いて、
そこからはひどい呻きが漏れ出たいた。そのあまりの
痛ましさから、重い劫罰に処せられた者たちだとすぐに察せられた。
(121‐123行、193ページ) ダンテはここで罰を受けているのは、どのような罪を犯した者のたましいなのかを問う。すると、ウェルギリウスは
 ・・・「ここにいるのは異端の創始者たちと
その追従者たちだ。あらゆる分派がいるが、どの墓にも
おまえが想像する以上に多くが詰め込まれている。・・・」
(127‐129行、193ページ) と答える。異端は隠れた罪であるから、眼に見えるものよりも、眼に見えないものの方が多いというのである。〔何が正統で、何が異端かというのは中世を通じて、多くの知識人たちを悩ませた問題であるが、そんなことで悩まないで、思想の自由や多様性を認め合う方がより建設的ではないかと思う。だから、ここではダンテが偏狭な考え方しか展開していないことが残念に思われる。〕
・・・わたしたちは
 苦悩の墓と高い城壁の間を通って行った。
(132‐133行、193ページ)
 こうして第9歌が終り、つづく第10歌で、ダンテは地獄の第6圏で罰を受けている異端者たちのたましいと対峙することになる。

鳥飼玖美子『子どもの英語にどう向き合うか』(13)

1月23日(水)晴れ

  序 親の役割
第1章 子どもと言語
第2章 英語教育史から探る
第3章 2020年からの小学校英語
 1  学習指導要領が定める英語教育
 2  小学校で使われる英語の教材
  2020年度から英語は小学校でも「教科」として教えられることになるので、検定教科書が使われるはずである。現在のところは、教科ではない「外国語活動」などで、文部科学省が作成した教材が使用されている。教材全体としてコミュニケーション重視の姿勢が読み取れるが、もっと長い目で見て子どもの成長を考えることが必要ではないか。

 ということで、今回は英語力の発達をめぐり、発達心理学の研究成果を紹介しながら、考えていく。
 内田伸子さんの研究によると、小学校時代に英語塾に通ったり、海外で生活したりした<英語既習者>と英語を習ったことのない<英語未習者>の2つに分けて、中学校1年生の終わりごろに英語学力テストを実施したところ、両方のグループの間にまったく差はみられなかったという。その後もさらに追跡調査を続けたが、教科の成績と最も強く相関していたのは、自宅での学習習慣の有無であるという結果が出た。

 鳥飼さんはこの結果は彼女の個人的な経験からも裏付けられると書いている(個人的な経験だとははっきりは書いていないが、そういうことだろう)。私立の小中高一貫の学校で、中学では小学校から英語を勉強している生徒と、中学校から英語を始めた生徒とでは、最初のうちは既習グループの方が有利だが、次第に未習グループが追いつくというのはよくあることだという。未習グループの場合、中学入試を通じて自分で勉強するという習慣がついているので、英語の上達も早いのだという。なお、私も小学校で英語を勉強したので、中学校の初めのうちはわりに楽に勉強していたが、そのおかげで、油断もあって、多くの同期生に後れを取ることになったという経験がある。ただし、今後は、全員が小学校で英語を勉強するということなので、新しい事態が生まれてくるかもしれない。〔2020年からの小学校での英語「教科化」に対応して、一部の私立中学校では入試に英語を課すことにしたというが、どのような結果が生じるのかが、注目されるところである。〕 

 幼児期・児童期は日常生活の中での会話や、もう少し意図的な絵本の読み聞かせ、言葉遊びなどを通じて母語による語彙力を発達させるべき発達段階であるという。母語の重要性をめぐってはOECDのPISAによる子どもの生活習慣と学力をめぐる追跡調査の結果もそれを後押ししている。5歳児における語彙力のテストの結果によると、習い事をしている子どもの方が、していない子どもよりも優れているが、その習い事の性格による違いは見いだせなかったという。つまり、習い事をすることによって、より多くの大人たちと付き合う場面が増え、コミュニケーションの機会が豊かになったことが、語彙力を育てたと結論できるという。

 保育の場の違い、幼稚園か、保育園かということをめぐる違いはなかった、むしろ、保育形態の方が問題であったと報告されている。つまり、子どもの自発的な遊びを重視している「自由保育」の方が、決められた時間割でしっかり勉強させようとする「一斉保育」よりも子どもたちの語彙力の発達が著しいという。また、親子の触れ合いを大切に、子どもと楽しい経験を共有するという「共有型しつけ」の方が、子どもに対して将来の大人としての生活に備えさせるために厳しく接し、ときに罰を与える「強制型しつけ」よりも語彙力を育てるとも報告されている。
 昔ある短大で教えていた時に、家庭教育というのは家庭で子どもに勉強を教えることだと思っていたという学生が少なからずいて、そのときはわりに軽く受け止めていたのだが、もっと深刻に考えるべきだったと後悔している。昔、私が教育学を教わった先生は「教育は愛である」ということを強調されていたが、実はそのことを実感をもって教えるのは大変に難しいことなのである。家庭教育の要諦は、子どもを親の愛情で包み、そのことを子どもに実感させることなのだが、主観的に子どもを愛していると思っていても、実はその気持ちが子どもに通じないことがしばしばあって、それをどのように調整していくかというのが大事なことなのである。実際のところ、愛情を注いでいるつもりでも、親が自分で考えた型に子どもをはめようとしているだけということが少なくない。大学で教えていると、そのあたりのことが顕在化した親子関係に出会うことが多い。子どもは親の考えはわかっているが、それに従うつもりはない。かといって親を説得する自信もない。それで学生の方で(あるいは親の方で)教師を頼ったりするが、子どもの方から当てにされても、親の方から頼られてもこちらは困るのである。

 さらに小学校入学後の学力の伸びを見ても、「共有型しつけ」「自由保育」を受けた子どもの学力の伸びの方が著しい。家庭教育、幼児の保育を通じて、子どもが自分で考え、問題を解決できるようにしていくことが大事であるという。このような影響はかなり遠大なもので、難関大学への進学者や、専門的な試験の合格者を見ても、親が子どもと一緒になって遊び、子どもの好きなことに取り組ませるというような子育てをした家庭の子どもの方がたかり合格率を見せているそうである(方法以前に、親が子どもと一緒にいられる時間を確保できるという経済的な余裕の方が問題かもしれない)。 子どもの最大の自発的な学習は遊びの形をとるということを忘れてはならないということを鳥飼さんは強調している。子育ては長い時間をかけてやっとその成果が現れるものであり、焦りは禁物であるということも付けくわえられている。

『太平記』(246)

1月22日(火)晴れ 

 暦応2年(南朝延元4年、1339)、出雲の守護である佐々木(塩冶)高貞は北国の新田勢の討伐に加わろうとしていたが、その妻の美貌に心を奪われて横恋慕した高師直によって謀反の疑いがあると讒言を受け、逃れられぬ命であれば本国に戻って一旗揚げて死に花を咲かせようと、自分は播磨路を落ち延び、妻子は丹波路を出雲へと向かわせた。
 師直の讒言を信じた足利尊氏・直義兄弟は、塩冶の追手として山名時氏と桃井直常を差し向けた。両者ともに急の命令だったので、準備が間に合わなかったが、桃井直常は丹波路を、山名時氏は播磨路を急行した。桃井は塩冶の妻が丹波から播磨に出て、蔭山にさしかかったところで追いついた。しかし、塩冶の妻子を守っていた若党たちは激しく抵抗し、3歳になったばかりの塩冶の次男を修行者に託して落ち延びさせたほかは、一党が全滅するまで戦った。

 桃井の一行は塩冶の一隊が放った火を消して、彼らが最後まで籠っていた民家の焼け跡に立ち入り、焼け跡の灰を取り除いて辺りを見聞すると、女性らしい姿をとどめた焼死体が妊娠中だったと見えて、胎内の子どもをかばうようにして倒れているのが見えた。その子どもは刃の先にかかりながら、半分ほど母親の体から姿をあらわし、血と灰にまみれていた。目も当てられない様子である。また腹を切って重なり合って死んでいる武士たちの中に、幼い子を抱いて、自分とともに刺し殺している武士がいた(前回登場した塩冶宗貞であろう)。これはきっと塩冶判官(高貞)であろうと桃井は思ったが、焼け残った首なので、取って帰るには及ばないと考えて、京都に戻ることにした。桃井が引き連れていた武士たちは、木石ではないので、塩冶判官の家族の悲惨な運命に同情して、涙を流さない者はいなかった。

 塩冶判官を追って山陽道(播磨路)を下って行った山名時氏とその一行が、山崎の財寺(たからでら=京都府乙訓郡大山崎町の宝積寺、通称宝寺)の近くを通り過ぎようとしたときに、後ろから呼ぶ声がしたので、立ちどまって後ろを見ると、扇をあげて手招きする様子である。「何か用でもあるのか」と、それぞれの武士が馬の歩みを止めて、待っているところに、2,3町ほど近づいてきて「自分は執事(師直)からの使いのものである。急いで追いかけてきたので、苦しくなった。ここまで引き返していただきたい。大事な用件があるので、近くに来られてから、詳しいことを申し上げる」と自分の方に招き寄せようとする。「それでは、近くに出かけて用件を承ろう」と、若党を4,5騎後戻りさせた。ところが追ってきた武士は、「人づてに言うことではない」と言って、時氏に直接話したいという。

 そこで時氏自ら馬を方向転換させて、追ってきた武士に近づいて「何事であるか」と問いかけると、武士はにっこりと笑い、「執事の使いなどではあるものか。自分は新規に塩冶殿の家臣となったものであるが、謀反の嫌疑を受けて落ち延びられたということを知らずにいたために、出雲へと同行できなかった。どこで死んでも同じことだと思うので、ここで追手の一隊と切り結んで討死して、冥土で塩冶殿にこの次第を語ろうと思う」と言いも終わらず、太刀を抜いて切りかかった。
 「さては謀りであったか。さらば、この者を討ち取れ!」と時氏は、自分の郎等を左右に散開させ、矢を射かけて討ち取ろうとした。雨具にする蓑の毛のように、矢が鎧の上に刺さったが、物ともせず、この武士は時氏配下の武士に近づいては切りかかった。多くの者に手傷を負わせたが、衆寡敵せず、もはやこれまでと思ったのであろうか、腹を掻き切って死んだのであった。

 後になってわかったことであるが、この武士は前年に塩冶と主従の契約を結んだのであるが、新参のものであったために塩冶が心を許していなかったのか、あるいは彼の宿所が塩冶の邸から遠かったからであろうか、出雲へと同行させなかったのを内心では不満に思っていた。そこへ、早速討手が差し向けられたという噂を聞いたので、このままでは塩冶判官は討ち取られるだろうが、自分は一日なりとも家来の列に入れられたのに、何の役にも立たぬと見限られたのか、自分の能力が評価されなかったのか、今、ここで逃れられたとしても百年も生きることはできない。何とかして追いついて、主君と一緒に討死しようと思い、馬の一党も持たない身分であったので、山陽道を一人で駆け下っていたのであるが、山名時氏に追いついたので、ここで自分が時間を稼げば、わずかの時間でも塩冶高貞が落ち延びる機会が大きくなるだろうともったので、かなりの時が過ぎるまで戦い続けたのだということであった。日本一の大剛のものであるよと、人々はこれを聞いて大いに賞賛したのであった。〔それにしても、馬を急がせている時氏の一行に、走って追いついたというのは、大変な健脚ぶりである。〕

 この武士の謀に時間をとられたので、塩冶たちはさらに先の方に落ち延びているだろうと、時氏一行はいよいよ馬を急がせて追跡を続けた。京都から湊川(神戸市兵庫区湊川町にあった宿場。ここで建武3年(南朝延元元年、1336)5月に楠正成が足利直義の軍勢に敗れて自害する様子は、16巻に描かれている)まで18里の道のりであったが、この距離を約6時間で走り抜けてきて(そのうちかなりの部分は山崎で浪費している)、馬が相当に疲れたので、「今日中にはとても追いつくことはできないだろう。このうえは一晩馬を休ませた方がいいだろう」と時氏は湊川の宿に泊まることにした。
 しかし、時氏の嫡男である師義は血気盛んな若党たちを何人か呼び寄せて、次のように言った。「逃げる敵はあとから追いかけてくるのをおそれて、昼夜兼行でひたすら逃げていく。われわれは馬を休ませて、のんびりと夜明けを待っている。こんなことをしていては、追い詰めて討ち果たすということはできそうもない 。乗馬が得意なものたちは、これから敵を追いかけていくので、自分と同行せよ。父親の伊豆守(時氏)には知らせる必要はない。今夜中に敵を追い詰めて、旅の途中で討ち果たそう」と言い終わらないうちから、馬を引き出させてまたがった。すると、重臣である小林重長をはじめ12騎が、我も我もと賛同して、夜の追跡行に加わったのであった。

 湊川から賀古川(兵庫県加古川市を流れる川)まで16里の道を一晩で駆け抜け、夜も早あけ始め、川霧のかなたに人の影が見えるようになった。そこで向こう岸の人の動きに目をこらすと、ただの旅人らしくもなく、騎馬の武士が30騎ばかり、馬の足が乱れがちで、先を急ぐ様子の一団が見えた。「見つけたぞ、あれが塩冶の一行にちがいない」と判断した師義は川岸に馬を止めて、「馬を急がせておられる一団は塩冶判官殿の一行と見たが、見誤りであろうか。将軍に謀反を企て、我らを追手として追われる身であり、どこまで落ち延びることができるだろうか。踏みとどまって立派に討ち死にを遂げて、加古川の流れに名を残すべきではなかろうか」と言葉をかける。
 これを聞いた塩冶高貞の弟の塩冶六郎が、若党たちに向かって次のように申し渡した。「それがしはここにてまず討ち死にを遂げる所存である。各々方はこれからの退路の要所要所で防ぎ矢を射て、判官を落ち延びさせてほしい。全員が一度に討ち死にするようなことはしてはならない」と、自分が討ち死にした後のことまでも詳しく計画をめぐらしておいてから、主従7騎で引き返し、山名師義の率いる追手に立ち向かおうとする。

 師義の率いる兵12騎は一度に川に乗り入れて、轡を並べて渡ろうとしたので、塩冶六郎とその郎党は向こう岸から矢じりをそろえて一斉に矢を射かける。師義は兜の吹き替えし(兜の綴の前面の,左右に開いた部分)と、左側の鎧の袖に矢を3本受けたものの、かまわずに岸上にさっと駆け上がる。塩冶六郎が太刀を抜いて、これに切り結ぶ。両者の太刀技が伯仲してなかなか勝負がつかない。山名の家来の小林が塩冶に切って落とされ、あわや命を落としそうになったのを、師義が駆けつけて小林を守り、塩冶六郎を切り捨てる。残る7騎の武士たちもそれぞれ討ち死にしたので、道端にその首をさらして、時を移さず追いかけていく。

 山名氏は新田氏の庶流であるが、足利尊氏・直義の母上杉清子が時氏の従姉妹という関係があって、早くから足利氏に味方し、時氏の活躍もあって、足利幕府の中で重きをなすようになる。といっても、時氏は尊氏に常に忠実ではなくて、南朝の味方をしたり、あちこち転々としたというように食えないところのある人物である。塩冶高貞をゆっくり追いかけて行こうとする時氏と、早めに討ち取ろうとする師義の親子の対立は、年齢的なものとも性格的なものとも解釈できるが、塩冶討伐だけでなく、自分の勢力の拡大というより大きな目標をもってことにあたっている時氏の武将としての器量の大きさを読み取ることもできる。
 以前にも書いたが、高崎から上信電鉄に乗って西に向かうと山名という駅があり、その近くに山名八幡宮があって、そのあたりが山名氏の発祥の地である。山名氏は、山陰の豪族というイメージが強いが、もともとは北関東から出た武士なのである。
 その後、山名氏は、赤松氏、一色氏、京極氏とともに室町幕府の侍所の長官を交代で務める四職と呼ばれる家柄に属した。四職に伊勢氏、上杉氏、土岐氏を加えて七頭と称し、足利一族の斯波、畠山、細川の三管領とともに、室町幕府の宿老として中央政治に参与した。応仁の乱の東軍を率いたのが細川勝元で、西軍を率いたのが山名宗全であったというのは誰もが知っていることである(その後のことは、呉座勇一さんの著書をお読みください)。 

日記抄(1月15日~21日)

1月21日(月)晴れ、温暖

 1月15日から本日までの間に経験したこと、考えたこと、これまでの記事の補遺・訂正等:
 1月13日ごろから体調を崩し、なかなか本復しない状態が続いている。回復が遅れているのは、やはり年をとったせいだろうと思う。

1月15日
 歌舞伎の市川海老蔵さんが来年5月、市川團十郎を襲名すると発表された。
 わたしも生涯のうちに年号三代、三代の団十郎を経験することになりそうだ。
 三代を重ねし年号 団十郎

 横浜駅東口ポルタの玉泉亭でタンメンを食べる。玉泉亭は伊勢佐木町に本店のある、老舗中華料理店で、サンマーメン発祥の店として知られているが、もともとは三国料理(日本・中華・西洋のメニューをそろえる)の店として発足したそうで、本格的な中華料理というよりも、日本化した中華料理の店である。伊勢佐木町の店も一度覗いてみたいと思うが、なかなかその暇ができない。病みつきになるほどの魅力というのはないにせよ、この店なりの特色があるから、ときどき立ち寄るのである。

1月16日
 『朝日』朝刊の「天声人語」は東洋大学が毎年選んでいる「現代学生百人一首」の中から何首かを紹介している:
月曜は19時半の越後線1号車には君が居るから
 他の学校に通う生徒に思いを寄せる高校生の気持ちを詠んだものであろうか。大人になってからの話であるが、越後線の沿線に住んでいたことがあるので、懐かしく感じた。着任当時は越後線はまだ電化されておらず、単線運転だったので、はるばる来ぬるものかなという思いを強く持ったことも思い出される。

 NHKラジオ『実践ビジネス英語』の”Say What You Mean"のコーナーで、ビニェットに出てきた語句を説明する次のような文が登場した。
 We can use (trump) to mean defeat, win out over something else. Such as "Company A always (trumps) Company B in annual sales. (他のものを負かす、ほかのものに対して勝利を収める、という意味で、trumpを用いることができる。例えば、「年間売り上げで、A社はいつもB社に勝っている」のように。) trumpに「・・・に勝つ」という意味があるのは、トランプ米大統領支持者にとって縁起のいい話だろうが、名前負けというのもよくあることである。

 『NHK高校講座 コミュニケーション英語Ⅲ』で『オズの魔法使い』を英語で紹介していたのが終わった。英語で書かれた名作を紹介するといいながら、ここで取り上げられていたのは、MGMによる映画化の要約であって、フランク・L・ボームが1900年に発表した童話ではなかった(両者には目に見える違いがある)。原作にかなり改変を加えているとはいうものの、映画はハリウッド全盛期を代表する名作に数えられているのだから、それはそれでいいけれども、原作と映画が違うのだということについて、一言断る必要があったのではないか。今回は映画のあらすじを紹介しましたが、原作はこれとは違った展開の部分があります。自分で読んで確かめてみてくださいとかなんとかね。

1月17日
 NHKラジオ『まいにちスペイン語』応用編¡Japón por dentro !(もっとニッポン!)の1月放送分は日本人女性のアリサが、南米のパラグアイ出身の女性アスンと沖縄を旅行するという設定であるが、パラグアイでは先住民の言語であるグアラニー語も広く使われていて、パラグアイ人の多くはスペイン語とグアラニー語の両方を話すという。放送の中でもグアラニー語のmenerã<恋人>という語が、スペイン語に混ざって使われていた。

1月18日
 AKBの握手会に参加した後で、体の変調に不安をもって診察を受けた青年が「はしか」にかかっていることが分かったというニュースが報じられていた。アガサ・クリスティーの『鏡は横にひび割れて』は、ある女優の熱心なファンである女性が、風疹に罹って入院中、病院をごまかして、抜け出し、その女優に会いに出かけたことから起きる悲劇を描いている。ご本人が「ファンならばこの程度のことはしても当然だ」と信じ込んでいるところに、悲劇の根の深さがある。
 人生は長く、AKBの人気もまだしばらくは続くだろう。握手会に出かけるのは、病気を治してからにしよう。

1月19日
 『日本経済新聞』の文化欄に「台湾文学 アジアの交差点」(郷原信之)という台湾文学の最近の動向を紹介する記事が出ていた。「アジアの多様な文化が交差する舞台として、台湾文学の存在感が高まっている」のだそうだ。台湾文学の担い手は台湾人だけでなく、東南アジアから台湾に働きにやってきている人たちも含まれているということから、2014年には「移民工文学賞」が創設されたという。
 「台湾には有期の労働ビザを取得してフィリピンやインドネシア、ベトナムなど東南アジア諸国からやって来た労働者が70万人いる。介護や製造業、建設業などの現場で働く彼らは総人口の3%を占め、台湾経済を支える存在だ」という。注目すべきことは、彼らが経済だけでなく文化にも貢献しはじめていることだろうと思う。

 内田洋子『イタリアのしっぽ』(集英社文庫)を読み終える。ミラノ(ロンバルディア州)を中心にリグリア州の山間部、サルデーニャ州、ヴェネツィアなどでの生活とその中での様々な出会いがつづられている。動物の登場する話が多く、犬や猫だけでなく、タコを買っている人まで登場するので、描かれている人生の様相もかなり多彩である。

1月20日
 『日経』の美術記事「美の粋」は「ブリューゲルのまなざし(3)」でピーテル・ブリューゲル(父)の「バベルの塔」などの絵が紹介されていた。既に壊れはじめている塔を描く、この絵の左下の隅の方に、ニムロド王と塔を建設している職人たちが何やら話している場面が描かれている。旧約聖書を丁寧に読めばわかることだが、ニムロド王とバベルの塔は連続して登場するが、両者の間に関係はないのである。それを早とちりして、ニムロド王が塔の建設を命じたように理解している人が多いのはどういうことであろうか。ジョン・ヒューストンの映画『天地創造』でさえ、この誤った解釈を採用しているのは困ったことである。

 1065回のミニtoto Aが当たった。あまり大した賞金が当たるわけではないが、それでもないよりはましである。

1月21日
 『日経』の教育欄の「学びや発」は(小学校における)「英語の教科化」の問題を取り上げている。これまでの「外国語活動」としての英語の中では、英語を「書く」という活動は取り入れられていなかったので、中学校の英語で英単語のつづりにつまずく生徒がかなり多く出ている様子である。音声とコミュニケーション重視の外国語活動にはそれなりの利点もあるかもしれないが、英語の丹との綴りと発音の複雑怪奇な関係の学習を先延ばしにしているという非難も寄せられるかもしれない。「教科化で、子どもたちにどんな変化が起こるのか。分かるのは数年先」と執筆者は記していたが、確実なことが言えるのはもっと先のことになるかもしれない。

泉井久之助『ヨーロッパの言語』(3)

1月20日(日)晴れ

 ヨーロッパがその言語および文化において特色を発揮しはじめるのは、古代ギリシアの文明が花開いて以降のことであるが、その後のヨーロッパの言語と文化の発展は東西の2つの道を通って進むことになった。西へと向かった道では、ローマが巨大化するとともにラテン語がギリシア語にとってかわり、ラテン語はやがてキリスト教の言語ともなって、各地に広がっていき、またそれぞれの固有の言語にも影響を及ぼした。東の世界では、ギリシア語がその力を保ち続け、キリスト教の教会の布教活動とともに少しずつゆっくりと道が開拓されていったのであった。こうして、ヨーロッパの西側における言語と文化は改革と革新を重ね、自由で洗練されたものになってきたのに対し、東側は保守的で停滞的な状態が続いた。

 これまでの個所で泉井はヨーロッパの言語文化を大ざっぱに2分して、その特徴を以上のように述べた。そして、個々の言語を取り上げてさらに詳しく論じようとするのだが、その前に、ヨーロッパの言語の中で英語の占める位置について述べている。
 泉井が強調しているのは、ヨーロッパの諸言語(この場合、ヨーロッパで使われている言語という意味もあるが、インド=ヨーロッパ語族に属する言語という意味合いの方が強い)の中で、英語がいかに例外的な言語であるかということである。英語はいかにもヨーロッパ起源の言語ではある。ヨーロッパの一角で盛んに使われている。しかし、インド=ヨーロッパ語族に属する言語としてはその文法が簡単になりすぎているというのである(つまり、昔はもっと複雑だったのが、歴史的な変遷を経て、簡単になった⇒なりすぎたということである)。したがって、「この言語の今日の構造的な姿を標準にして言語的ヨーロッパを考えることは、大きい誤りに導かれることになる。」(9ページ)

 日本人の多くは、中学校以来(最近では小学校以来)、かなり苦労して英語を勉強してきているので、その勉強がほかの外国語を勉強するときにも役立つと思っている(そうとでも思わないと報われない気分になる)人が多いようであるが、そんなことはないというのである。泉井よりももっと手厳しいことを言ったのが岩波文庫の『ヨーロッパの言語』の著者であるフランス人のアントワーヌ・メイエで「文法構造の点でも発音の点でも、英語はドイツ語とまるで異なる型となった。これは別の言語であるだけではなく、異なる性質の言語である。語彙の点で少し有利なことは別として、ドイツ語を知っているからと言って、英語の習得がさして楽になるわけでもなく、逆の場合も同じである。」(メイエ、58ページ) あるいは、彼はこんなことも書いている:「英語の音声体系は、印欧祖語の音声体系とも、また世界中のどの語族の言語の音声体系ともほとんど共通点をもたない。英語の文法体系は、印欧祖語よりも中国語かスーダン語の文法と似ているくらいである。」(同上、169ページ) 英語の発音の練習には苦労するが、その苦労は英語だけのものだというのである。ヨーロッパの言語はもちろん、世界の言語にはそれぞれの発音の困難がある。中国語の発音や、韓国語の発音を勉強するときには、また別の苦労が待っている。英語の苦労が横滑りしてはくれない。

 インド=ヨーロッパ語族の言語の名詞と形容詞には性・数・格に応じた変化というものがあり、ドイツ語やロシア語を勉強すると(ラテン語でも同じことであるが)この変化というのを嫌になるくらい練習させられる(いやだといって練習しないと、結局その言語をものにできない)。フランス語やスペイン語やイタリア語だと、格変化というのは消えているし、性も男性と女性だけで、中性はない。まあ、そういうわけで、私はフランス語やスペイン語やイタリア語は、今なお勉強しているが、ドイツ語は大学時代の第二外国語だったにもかかわらず、優先順位はかなり下げている(ラテン語だけは、必要上、仕方がないから勉強を続けている)。

 実際のところ英語にも昔は、格変化があったが、時代の変化とともになくなったのである。ほかの言語も次第にこの道をたどることは予測できるし、格変化の代わりに前置詞を使うことが増えてくるであろうと思われるという。
 このように格の使用が衰退してきたのは、その用法が深く踏み込んで考えると多義的であり、また互いに重複もしている、だから微妙な感じ分けをするのに適しているともいえるのだが、意味が複雑で混乱しやすいからである。それで、様々な人々によって使用され、その間の交流のために使われてきた英語の場合、格の理解と使用に関するわずらわしさと混迷を避けるために、核変化を使わないようになってきた。この傾向はさらに進んで、泉井は英語で、今も格形を残すのは、who, whose, whomのような主として人称に関する代名詞だけとなり、そのwhomも口語では今やすたれていると書いている、これは『ラジオ英会話』で確認できる。 
 1月16日放送分によると、「あの人は私が新幹線の中であった男性です。」というのに、
 That's the man I met on the bullet train. がもっとも口語的で気軽な言い方。以下、
 That's the man that I met on the bullet train.
That's the man who I met on the bullet train.
That's the man whom I met on the bullet train. としだいにフォーマルな言い方になるという。

 名詞や形容詞だけでなく、英語の場合動詞もほかの言語に比べて変化が少ない。しかもその中で規則変化の占める割合が多い。このような変化にも、歴史的な経緯があるのだが、詳しいことは省略する。「要するにいずれの点から見ても、今の英語を標準として、古今のヨーロッパの言語世界をはかることはできない」(22ページ)と著者は述べている。ついでに言うと、ヨーロッパで話されている言語は、すでに述べたように、インド=ヨーロッパ語族に属する言語だけではない。田中克彦 H・ハールマン『現代ヨーロッパの言語』(岩波新書)によれば、ヨーロッパで12番目に多くの人々に話されている言語であるハンガリー語(ヨーロッパ全体で見ると約1300万人が母語としている)、22番目に多くの母語話者をもつフィンランド語(約470万人)、28番目のタタール語(約275万人)、34番目のエストニア語(約107万人)、35番目のチュワシ語(約99万人)、38番目のバスク語(61万人)、40番目のバシキール語(58万人)、42番目ノウドムルト語(52万人)、43番目のモルドヴィン語(45万人)、45番目のマリ語(40万人)、46番目のコミ語(39万人)、48番目のマルタ語(33万人)などはインド=ヨーロッパ語族には属していない。この書物に現代ヨーロッパの言語として取り上げられている67言語のうち、インド=ヨーロッパ語族に属するのは44言語で、23言語はそうでない(その大部分は上に紹介したが、話し手の数が少ないために取り上げていない言語もかなりある)。
 このような非インド=ヨーロッパ語族の言語を見わたしても、「その形態法が、英語に見られるほど簡単化されて裸となり、照応の現象を英語ほど失ってきたものはない」(23ページ)という。とにかく、英語はインド=ヨーロッパ語族に属する言語の中では例外的な存在であるということを、肝に銘じておく必要がある。
 そこで、次回はヨーロッパの言語間の系統的な関係などについて話題にすることになる。



イタロ・カルヴィーノ『木のぼり男爵』(2)

1月19日(土)晴れ

 1767年の6月のある日、イタリアの西北部のリグリア州オンブローザの貴族の別荘で、語り手の兄であるコジモ・ピオヴァスコ・ディ・ロンドーは意地悪な姉バッティスタが料理したカタツムリを食べることを拒否して、家族の昼食の席を飛び出し、そのまま庭の樫の木に登って、その後二度と地上には下りないと宣言した。〔1〕 木の枝を伝って自分の行動範囲を広げていったコジモは、隣の別荘に住む金髪の少女ヴィオーラ(ヴィオランテ)と知り合う。そして彼女にも、自分は木から降りないと宣言する。〔2〕 コジモは弟に様々の道具や毛布を運ばせて、樫の木の上の自分の本拠地を整備していく。〔3〕 コジモは自分の行動範囲を広げていくうちに、果物泥棒の少年たちの一団と出会う。彼らはシンフォローザと呼ばれる別荘に住む少女たちの手引きを受けているという。コジモはこの少女に興味を抱く。〔4〕 果物泥棒の少年たちがシンフォローザと呼んでいたのは、ヴィオーラのことであることにコジモは気づく。彼女は別荘で家族と暮らしているときと、白馬に乗って遠乗りをして家族から離れているときでは性格が変わったようになるのである。馬で走り回るヴィオーラと、樹上を動き回るコジモはしだいに仲良くなる。〔5〕

〔6〕
 コジモの樹上生活と敵対する隣人であるオンダリーヴァ侯爵家の別荘の庭への出入りに苛立った父親の男爵は、庶弟である騎士エネーア・シルヴィオ・カッレーガに従僕の一隊を引率させてコジモをとらえに出かけさせるが、オンダリーヴァ侯爵に柳に風と受け流されてしまう。幽閉されえたヴィオーラにそっぽを向かれたコジモは怒りに駆られて樹上を飛び歩くうちに山猫に出会い、市党の末にそれを倒す。ところがこの戦利品を見せようとしたヴィオーラは、一家とともに別荘を去っていくところであった。コジモは、山猫の毛皮から帽子を作り、その後、生涯この種の毛皮帽子をかぶるようになった。

〔7〕
 コジモをとらえようとする最後の試みを行ったのは、バッティスタであった。彼女はコジモが立ち寄りそうな木の枝に鳥黐(もち)を塗り付けたのだが、この企ても成功しなかった。
 コジモが家に戻らないことは、明らかになり、彼は長男で爵位の継承者であったから、父親である男爵の心配は一通りではなかった。しかし、客観的にみると、土地の人々の生活にとって男爵家の存在などはどうでもいいものであり、住民と貴族とはお互いに干渉しあわずに、自由に生活できるはずであった。
 オンブローザの民衆たちは、金持ちたちのあいだでレモネードを飲む習慣が広まってきたので、レモンがよい値段で売れることを知り、レモン栽培に熱中していた。こうした社会の変化の中で、父親の男爵は自分には何か演じるべき役割があると妄信していたが、実際には、だれからも相手にされなかった。そして宗教的な論争に関わって被害妄想を抱いていた。
 男爵が心から信頼しているのは、カッレーガ騎士だけであった。彼は弁護士であり、水利技師であり、長い間トルコ軍の捕虜であったといわれ、数奇な運命を経て兄男爵の下に戻ってきたといわれるが、本当のことはよくわからない。とにかく、彼は男爵家の差配として農奴たちを管理していた。

〔8〕
 コジモは樹上生活を始めて以来初めて、父親の男爵と対面する。和解か相互理解の場となるかもしれない再会であったが、物別れに終わる。
 コジモの母親の将軍令嬢(オーストリアの将軍の娘であった)は、雨に出会ったコジモを心配して、語り手に毛布を届けに行かせる。
 その後、コジモは弟が家庭教師のフォーシュラフルール師(ヤンセン派=ジャンセニスト派の司祭)に勉強を教わっているときに、一緒に勉強をするようになる。しかし、先生を木の上に置き去りにしてコジモがどこかへ行ってしまうというようなこともあった。

〔9〕
 コジモは樹上生活に慣れるとともに、次第に村の人々との距離を縮める。そして彼らの頼みごとを聞いてやるようにさえなる。また定住民たちだけでなく、放浪民たちとも仲良しになり、彼らの伝言を伝えたりするようにもなった。
 こうして、男爵家の後継ぎが樹上生活をしているという噂が広まっていったのに、男爵自身はそれを何とか秘密にしておこうと努力をしていた。
 ある時、デストマック伯爵の一家が、ディ・ロンドー男爵家を訪問し、男爵はコジモのことを猟に出ているなどと言って隠し通そうとしたのだが、ご本人が姿をあらわしてしまい、樹上を道具を背負いながらたくみに歩いて渡るコジモの姿を見て、伯爵は「木の上を歩くなど、まったく立派な青年だ!」(104ページ)と大いに愉快がる。」
 伯爵の気取り屋の後継ぎがしゃっくりを起こし、バッティスタが生きたままのトカゲをシャツの下に入れて、直そうとするという一幕が起きる。この訪問で、コジモの樹上生活のうわさは、ヨーロッパじゅうの宮廷の話題となる。男爵はこのことを恥じたが、それは理由のないことであった。「事実、デストマック伯はわたしたち一家に好ましい印象をもっておられて、やがてバッティスタ姉上は若伯爵と婚約することになったのだった。」(105ページ)

〔10〕
 コジモは樹上生活にますますなじんで、それぞれの木の特色をよりよく知るようになった。
 冬、彼は自分が仕留めた獣の毛皮を使って、上着やズボンを縫い、さらに靴まで作った。夜は、テントや小屋を使わずに、枝から内側に毛皮をつけた袋を下げて、その中で眠った。
 滝のような流れから、筧を使って樫の上まで水をひいていたので、朝はそれで顔を洗い、水を飲んだ。石鹸も持っていたし、たらいまで枝の上に持ち運んで、それで時々は洗濯もしていた。
 さらに木の上で火を使って料理ができるように工夫を施した。牝山羊から乳を、牝鶏から卵を確保できるようにしていた。
 また、排せつ物の処理にも都合のいい場所と流れとを見つけていた。
 このようにいろいろな事柄に不自由が亡くなっていた彼の生活ぶりであったが、不足しているものが1つあった。それは猟犬であった。ところがある日、彼は他の猟犬たちから仲間外れにされている犬を見つけて、自分の飼い犬にする。オッティモ・マッシモと名づけられたその犬は、もともとはヴィオーラが別荘で買っていた犬で、彼女が別荘を後にしたときに置き去りにされていたのであった。犬は木に登ることはできなかったが、それでもコジモになつき、その信頼にこたえようとしていた。

 カルヴィーノは子どもの頃スティーヴンソンの『宝島』を読んで感動したということだが、『ロビンソン・クルーソー』も読んだだろうし、コジモの樹上生活の様々な工夫の描写にはロビンソンの影響が見られるように思う。面白いのは、コジモの生活が絶海の孤島ではなく、貴族の別荘の生活のすぐ近くで展開されていること、そういう生活の場の近くにも目をこらせば様々な発見の余地があることを語っているように思えるのが興味深い。それから、いままでのところ、海は前面には出てこないが、まもなく物語の主な舞台の一つとして、海も登場することになるので、ご注目ください。
 

トマス・モア『ユートピア』(36)

1月18日(金)晴れ

 このブログを始めて以来、皆様から頂いた拍手の合計がお陰様で、34,000を越えました。今後ともよろしくご愛読のほどをお願いします。
 風邪はこれまでの例の通りならば、もう完治しているはずなのですが、まだ完全には治りきっていません。自分の気づいていないところで体の老化が進んでいたということでしょう。初春に咳が長引く悪い癖
 体を休めながら、少しずつ前進していくことを心がけたいと思います。

 1515年にフランドル(現在のベルギー)を訪問したイングランドの法律家で行政官でもあったトマス・モアは、仕事の合間にアントワープに赴き、ピーター・ヒレスという人文主義者と知り合う。ある日、ピーターはモアにラファエル・ヒュトロダエウスという世界中を旅してきたという人物を紹介する。当時のヨーロッパの社会の様子、王侯たちが戦争と自分たちの貪欲を満足させることだけのために政治を行っていることなどを語り合ううちに、ラファエルは彼が訪問した世界中の国々の中で、最善の制度をもっているのは新世界にあるユートピアという国だという。モアとピーターの要請にこたえて、ラファエルはユートピアの様子や、その制度の概要を語る。
 ラファエルはユートピア島の地勢について、その首都であるアマウロートゥムをはじめとする都市について、社会の役職について、職業について、市民相互のつきあいについて、ユートピア人の旅行について、奴隷について、軍事(戦争)について語り、最後に彼らのいろいろな宗教について語りはじめる。
 ユートピアでは信教は自由であり、いろいろな宗教が行われているが、一番有力なのは人間の精神を越えた、唯一絶対の存在をあがめるものである。ラファエルたちからキリスト教について知ったユートピア人たちの中からは、積極的に帰依しようと言い出すものが相次いだ。これは集団生活に慣れている彼らが、キリスト教の修道生活に自分たちがなじみやすいものを感じているからではないだろうかとラファエルは言う。キリスト教の布教に際しての障害はないが、他の宗教の悪口を言うことだけは禁じられているという。

 自分の信じている以外の宗教を悪く言い、攻撃することは、ユートピアでは国の原則として厳禁されてきた。それは島の立法者であるユートプスにさかのぼるものである。
「ユートプス王はその治世の初めに、この島の住民たちは彼がやってくる以前には宗教上の問題でいつも争いあっていたことを知り、また島民はみんな分裂して、祖国のために戦う時にもそれぞれの分派に分かれて戦うという状態だったこと、そしてそのことが全島民をひとからげに征服する機会を彼に提供してくれたことにも気がついていたからです。」(澤田訳、221ページ) つまり宗教上の対立は社会を分裂に導きやすいし、そのことが社会の危機を招くことにもなるというのである。
 なお澤田さんは「ユートプス王」と訳し、ロビンソン訳、平井訳、アダムズ訳も同様であるが、ターナー訳はUtoposと表記して「国王」であったとは述べていない。ラテン語原文はUtopusであり、ここにも国王という語は出てこない。ユートプスを「王」と考えるか、スパルタにおけるリュクルゴス、アテナイにおけるソロンのような指導者、立法者と考えるか、材料が少なくて、どちらとも判定しかねる。ただし、ラファエルが訪問した当時のユートピアは王国ではなかったように描かれている。もともと王であったのが共和国になった例は、ローマをはじめ古代にも少なくはなかった。

 そこで、ユートプスは島民たちに信教の自由を認め、また自分の信じる宗教を布教する自由も認めた。そのような布教の努力は、「自分の宗教的確信)を温和に慎み深く合理的根拠をもって論証し、他の(宗教)を手荒に攻撃せず、説得で納得させられないからといってもいかなる暴力をも行使せず、悪行暴言を控える限り許されること、こういうことについてあまりに激烈に自己主張を する者は追放または奴隷刑で処罰されること」(221‐222ページ)。

 このような規則を彼が定めたのは、宗教の対立に基づく紛争を防ぐという意図もあったが、それとともにこのように決めることが宗教自体のためにもなるのだと洞察したからであるとラファエルは語る。ある宗教が真実を語り、ほかはそうでないとすれば、それは時間の経過の中でおのずから明らかになるはずであるとユートプスは考えた。ところが最悪の宗教が暴力で自分たちの主張を広めようとしたりすると、この自然の過程がゆがめられ、正しい宗教が逼塞することになるのではないかと恐れたというのである。(確かにこの恐れは当たっている。) 正しいことならば、暴力的に相手を従わせてもいいという考え方は、長い目で見ると危険である。目的は手段を正当化しないというのはキリスト教世界がその長い経験を通じて身につけた優れた知恵の一つであると私は思う。

 真実の宗教がどのようなものであるかはユートプスにもわからなかったから、彼はその限りにおいて信教の自由を認めた。何を信ずべきかはユートピアの個々の市民の自由とされたのである。「しかし、彼がおごそかに、きびしく禁じたのは、人が人間本性の尊い価値の(高み)からみずからを引きずりおろして、魂は肉体とともに滅びるとか、世界は(神の)摂理なしに偶然に動いているなどと思うことです。したがって彼らは、この現世の生涯のあと、悪行には罰が定められ徳行には褒賞が設けられていると信じています。これに反対意見をもつひとを彼らは人間の数に入れません。」(澤田訳、223ページ) これはモアの考えそのものであろう。しかし、異論を唱えたくなる方もいらっしゃるのではなかろうか。善とか、悪とかいうことがはっきり判断できれば良いが、善意で配慮したことが、悪い結果を生んだり、悪意が思いがけない結果をもたらして相手から感謝されたりということも人生の機微の中にはある。
 しかし、このようにたましいの不滅を信じない考え方をもつ人々がそう考えることは自由だし、その考えをもって僧侶たちと論争することも認められているという。結局は狂気であっても道理に道を譲るというのがモアの考え方であった(実際には逆になることもまれではないらしい。それにしても、たましいの不滅を信じないのを「狂気」と断じるのは偏見ではないかと思う。) 

 例外はあるが、ユートピア人たちの大部分は魂の不滅と来世を信じているので、正しく生きた人々の葬儀や記念を重んじ、死者の魂は自分たちとともにあると考えている。「また、死者は生者のあいだを、生者の言行の監視人として歩きまわっているとも信じています。」(澤田訳、226ページ) 
 彼らは他の民族の間で盛んな占い術の類を信じてはいない。その一方奇跡の存在を信じており、実際に彼らの世界では奇跡はしばしば起きるという。「重大なことだがどうしてよいかわからないというような問題があると、彼らはときどき公の祈願式を行ない確信と信頼をもって奇跡を願い求め、その結果、願いはかなえられます。」(澤田訳、226ページ) ユートピアにおける奇跡には神の摂理が働いているとモアが考えていたことがここからわかると澤田さんは注記している。ということは、ユートピアには神の直接的な啓示が及んでも不思議ではないし、モア自身もそう考えていたように受け取れなくもない。

 ラファエルはさらにユートピア人たちの宗教についての話を続けるが、それはまた次回。
 『日本経済新聞』の日曜版に掲載されている美術特集記事「美の粋」は1月6日、13日とピーテル・ブリューゲル(父)を取り上げたが、彼の初期及び中期の活動の場がアントワープであることを知った。モートンが『イギリス・ユートピア思想』で論じているように(ブリューゲルはフランドルの画家であるが)、中世から近世にかけての民衆の夢想したユートピアを図像化した画家であるブリューゲルの活躍した都市が、モアがヒレスと出会い、『ユートピア』を着想し、執筆を進めたのと同じ都市であったというのは、なかなか興味深いことである。ただし、ブリューゲルが生まれたのは1525‐30年のことと考えられているから、モアとヒレスが話し合っているときには、彼は生まれていなかったのである。
 ということで、アントワープに出かけてみたくなったが、死ぬまでに出かける機会はあるだろうか。

ダンテ・アリギエーリ(須賀敦子・藤谷道夫訳)『神曲 地獄篇(第1歌~第17歌)』(9‐1)

1月17日(木)晴れ
  
 1300年4月、「暗い森」に迷いこんだダンテは、ローマの大詩人ウェルギリウスの霊に救われる。天上の貴婦人たちの要請にこたえて、ダンテの魂を救うために派遣されたウェルギリウスに従って、ダンテは地獄・煉獄を歴訪することになる。地獄の門をくぐった彼は、地獄の第1圏(リンボ)で古典古代の有徳の異教徒たちが静かに過ごしているのを見る。次に第2圏では生前、愛欲の罪を犯した人々、第3圏では食悦の罪を犯した人々がそれぞれの罰を受けるさまを、第4圏では貪欲の罪を犯した人々と浪費の罪を犯した人々が最後の審判のときまで続く衝突を繰り返しているのを見る。 地獄の第5圏の、高慢・嫉妬・憤怒・鬱怒の罪を犯したたましいたちが罰を受けているステュクスの沼を、悪魔プレギュアースの操る船で渡ったウェルギリウスとダンテはディースと呼ばれる罪の重い市民と悪魔の都市(砦)にたどりつく。この都市は地獄の第5圏と第6圏との、また上層地獄と下層地獄との境界をなすものである。ところが、悪魔たちはまだ死者ではないダンテを受け入れようとしない。ウェルギリウスが交渉に向かうが、彼らは門戸を閉ざして、城の中に退却し、閉じこもってしまう。ダンテのところに戻ってきたウェルギリウスは、やがて神の使いが到着するはずなので、それまで待とうと告げる。(以上第8歌まで)

 ウェルギリウスがディースの門の中に入ることができずに戻ってきたのを見たダンテは、酷く落胆する。しかしその気持ちをすぐに読み取ったウェルギリウスは神の使いが到着するはずだといいながら、それが遅いのに苛立つ。神の意志が必ず達せられることを信じることのできないダンテの心は恐怖心でいっぱいになる。これに対し、ウェルギリウスは、自分はこの道を以前に一度来たことがあるのでよく知っており、心配することはないという(ウェルギリウスが地獄めぐりをするルカーヌスの文学作品が念頭に置かれている)。

 すると、ディースの高い塔の頂上に3人の地獄の復讐の女神の姿が現れた。彼女たちは、ダンテを石にしてしまおうと口々に叫ぶ。彼らは見るものを石に変えるというメドゥーサを呼ぼうとする。これにはウェルギリウスもさすがに心配して、
 「後ろを向いて、眼を閉じよ、
ゴルゴン(メドゥーサ)が現れて、もしおまえがその顔を見ようものなら
上界には二度と戻れぬ」
 師はこう言って、自身で
私を後ろに向かせ、私が自分の手で掩うのを
信用できぬかのように、自身の手でまた私の顔を掩った。(55‐60行、190ページ)
 ここは、山川訳も紹介しておこう:
身をめぐらし後ろにむかひて目を閉ぢよ、もしゴルゴンあらはれ、汝これを見ば、再び上に帰らんすべなし
師はかくいひて自らわが身を背かしめ、またわが手を危ぶみ、おのが手を持てわが目を蔽へり
(山川訳、60ページ)

 この時、地獄に大音響がとどろく。それは何の前触れであろうか。
 そのときすでに濁った波の上を、耳を聾するばかりの
おそろしい騒音が伝ってきた。
そのため両岸が振動するほどであった。
 それは、相反する温度の大気[寒気と熱気]がぶつかり合って
烈風が引き起こす轟音に似ていた。
森を傷め、抗うものとてないままに、
 枝を折り、木を打ちたおし、吹き散らし、
ちりを舞い上げては高々と進み、
猛獣も牧人らも逃げさせる烈風と同じであった。
(64‐72行、190ページ) 地獄の嵐は超自然の出来事であるが、ダンテは地上の自然現象の描写を当てはめている。どうやら、この嵐とともに天の使いが到着したらしい。天の使いも、地獄の魂たちには容赦しないのである。

 今回紹介している須賀敦子・藤谷道夫訳は第17歌までの部分訳であり、9歌の中間まで見てきたことで、その半分に達したことになる。もう半分と思えば気は楽だが、描き出される罪と罰とはますます重く厳しいものになっていく。それを考えると気が重い。

鳥飼玖美子『子どもの英語にどう向き合うか』(12)

1月16日(水)曇り

  序 親の役割
第1章 子どもと言語
第2章 英語教育史から探る
第3章 2020年からの小学校英語
 1 学習指導要領が定める英語教育
 2 小学校で使われる英語の教材
 前回は小学校3・4年生で履修する「外国語活動」(英語)の教材である”Let's Try!"の内容を検討した。

 小学校5・6年生で使用する教科書は、2020年度からは検定教科書になる予定であるが、現在は文科省初等中等局が作成した”We Can !" ①②が使用されており、検定教科書もこれに準拠した内容になるはずである。

 5年生で学ぶ”We Can !"①は次のような構成になっている。
Let's Watch and Think, Let's Listen, Chant, Sing: デジタル教材を視聴
Let's Play : 聞いたことをもとにいろいろな活動をする
Activity: すでに習った表現を使って友だちとコミュニケーションを図る
Story Time: 絵本の読み聞かせ
 教材には付属のデジタル教材がついているだけでなく、QRコートで音声を聞くことができるので便利である。指導書には指導者が使える表現例も記載されているという。

 「外国語活動」としての英語と「教科」としての英語で共通して導入されているのが絵本の読み聞かせであり、3年生から6年生まで一貫して組み込まれている。この活動の利点として、文科省は「児童に良質なまとまりのあるインプットができること、絵の助けを借りながら英語で内容を理解する体験をさせることができる」ことにあるとしている。高学年では、これに加えて「音声に十分慣れ親しんだ語彙や表現を自分で読む力につなげる」ことも利点とされている。
 これらの点をめぐって鳥飼さんは特に意見を述べていないが、小学校の高学年で絵本の読み聞かせというのは、児童によっては反発する可能性もあるし、どのような絵本を選んで読み聞かせるかによってその教育的な効果が大きく左右されることも容易に推測できる。

 3・4年生では絵本を題材にした単元が一つあるだけだが、5・6年生では、各単元に絵本を1ページずつ記載している。
 「絵本の読み聞かせ」というから、英語の絵本を何冊か選んで、その中の1冊を教師が読み聞かせるのかと思ったら、そうではなくて、教材に絵が描いてあって、それにまつわるストーリーを英語で語って聞かせるということらしい。それを「絵本の読み聞かせ」というのは詐欺に近い言い方である。絵本にもいろいろあることはわかるが、作家や画家が工夫を凝らして作り出した作品であることに違いはなく、それ単なるコミュニケーションの手段に格下げしてしまっているところに怒りさえ感じるのである(鳥飼さんはそこまで怒ってはいない)。
 鳥飼さんが危惧しているのは、英語による読み聞かせにおいて、読み手の言語能力や表現力が大きく影響することである。読み聞かせよりも、リスニング教材を聞かせるだけにするほうが安全だというのはその通りであろう(幸い、良質なリスニング教材はかなり多くそろっているはずである)。

 6年生の”We Can!"②ではSounds and Lettersのように文字と音の結びつきを教えようとしたり、段階を踏んで英文を読んだり書いたりすることに取り組ませたりする。これらの取り組みについては鳥飼さんが紹介だけして、あまり議論していないのは、実施の経過を慎重に見守りたいという意図からであろうと思われる。こんなことでいいのかという気がする方もいらっしゃるだろうが、まずは様子を見てみようということである。

 また6年生では、児童用の教材には出てこないが、教師用の指導書にsmall talkを行なうことが指示されている。「英語で言うsmall talkは、大して意味はないけれど、ちょっとしたおしゃべりで人間関係を円滑にする世間話や雑談のことを指しますが、小学校6粘性が授業で行うSmall Talkは少し違うようで、会話の定型パターンを覚えて使うような印象を受けます。」(168ページ) しかし、実際に子どもがその定型パターンをそのまま使えるような場面に出会えるかどうかは不確定要素が多く、その一方で暗記中心になってしまっては授業を様々に工夫してきた意味がなくなってしまう。「もっとも小学生が週に2回ほど教室で英語を勉強したくらいでコミュニケーションは無理ですから、ないものねだりはせず、基礎固めに集中すれば十分ということでしょう」(169ページ)

 次に実際の単元の様子が概観される。
 5年生向けの”We Can !"①はUnit 1のHello, everyone.から始まる。ここでは自己紹介の英語を学び、自分の名をどのように書くかを尋ねられることから、アルファベットを学んでいく。
 Unit 2は、When is your birthday? と誕生日がいつかを質問する。
 Unit 3では、What do you have on Monday? という質問があり、鳥飼さんは何のことかわからなかったが、月曜は何の授業があるのかと聞いているのであったと書いている。〔たしかに、この質問では、月曜日には何を食べるのか?という意味にも受け取れるし、そのほかにも受け取り方はありそうだ。〕
 Unit 4ではWhat time do you get up? と朝、何時に起きるかをたずね(余計なお世話だ)、Unit 5では誰が何を得意としているかを話し合うことになる(何も得意ではないという子どもはどうするのかという基本的な問題がある)。
 Unit 6では行きたい国を聞き、 Unit 7では宝さがし、Unit 8では食べ物の好みを聞いたり、値段を訪ねたりという内容、Unit 9ではWho is your hero? であこがれの人は誰かを話し合う設定になっている。
 どうも思い付きに基づくのではないかという質問も含まれているが、その点は実際の授業の様子をフィードバックして改めていけばいいといいうことであろう。ただ、「行きたい国」というのは難しい質問だと思う。というのは私は、エジプトやイラクには出かけてみたいと思うが、テロが怖くて行く気がしない、小学校5年生ともなれば、その程度のことは考えるだろうから、話は難しくなるのではないか。あこがれの人についても子どもの内面に立ち入りすぎた質問になる恐れがあるし、逆にそんな人はいないという子どもも少なくないかもしれない。

 小学校6年生対象の”We Can !" ②となると少しレベルが上がる。Unit 1が自己紹介から始まるのは同じだが、I'm from Shizuoka.などと出身県を言ったり、I like soccor. と好きなことを言ったり、My nickname is Ken.というようにニックネームを紹介したり、内容が少し詳しくなる。
 鳥飼さんが問題にしているのはUnit 5の夏休みsummer vacationの思い出である。「夏休みにしたことがいろいろ出ている中で、I went to the sea.という例文が出ています。日本語で「海に行った」というときには、泳いだり浜辺で遊んだりの海水浴を指します。これを英語でどう表現するかは、いろいろです。よく使われるのはI went to the beach.なので、例文に違和感を持つネイティブ・スピーカーもいるようです。もっともイギリス英語ではI went to the seaside. もありますし、I went to the sea.が使われることもありますが、ことばの使い方は難しいものです。日本の英語教科書はアメリカ英語が多いのに、なぜここではアメリカで一般的なthe beachが使われていないのかは不明です。」(171‐172ページ)
 鳥飼さんがわからないといっているのだから、読者にもわからないことであるのだが、念のため手元の『ロングマン英和辞典』で調べてみると:「go to sea 船乗りになる ! 「海に行く」の意味でgo to seaは不可。通例、go to the beach,またはgo to the seaside ⦅英⦆とする。」とあって、鳥飼さんの発言と同趣旨のことが記されている。

 Unit 7では小学校時代の思い出を語り合い、Unit 8は将来の夢を語る。小学校時代についての楽しい思い出があればいいのだが、そうでもないという子どももいるかもしれない。いじめが蔓延する小学校生活について、英語の時間でも何か配慮する必要があるのではなかろうか。将来の夢が持てないという子ども・青年が増えているのも事実のようである。そういう現実も踏まえて英語教育を考えて行ってもらいたいものである。
 余談だが、将来の夢についてI want to be an astronaut. (宇宙飛行士になりたい)というのはいかにも大人の意を迎えた回答で、あんなモルモットみたいなものにはなりたくないと憎まれ口をたたく方が将来有望に思える。私の父親が小学生のころ(大正の終わりか、昭和の初め)授業で、将来何になりたいかと先生が質問した際に、クラスで一番パッとしない男の子がさっと手をあげて、「はい、陸軍大将であります」と答えたのでびっくりしたと語っていたことがある。私の中学・高校の同期生で防衛大学校を出て自衛官になって、空将補までいって退職したのがいるが、昔風にいえば少将ということになるだろうか。そこまで行くのも大変だったろうと思う。並大抵のことでは大将になれないということを人生のどの段階で理解するのかも重要な問題ではあるだろう。

 教材を通読して、「英語によるコミュニケーションという実用性を目指して指導案が考えられている印象が強いのですが、小学生なのですから、性急に結果を求めるのではなく、長い目で見て人間としての成長という視座から、英語を考えたいと思います」(173ページ)ということで、次に発達心理学の知見を踏まえての英語教育への教訓が語られることになるが、それはまた次回。
  

『太平記』(245)

1月15日(火)曇りのち雨、午後になって晴れ間が広がる。

 本日の『日本経済新聞』文化欄に、松尾正春さんという方が、幸若舞について書かれていた。織田信長が今川義元軍の尾張侵攻の報せを聞いた際に、「人間五十年 下天のうちを比ぶれば、夢幻の如くなり 一度生を享け、滅せぬもののあるべきか」と幸若舞の「敦盛」のこの一節を歌い舞い、その後、陣貝を吹かせたうえで具足をつけ、立ったまま湯漬けを食べ、さらに甲冑を身につけて出陣したというのは『信長公記』に見られる記述で、広く知られている。
 幸若舞は越前で生まれた芸能で、軍記物語に節をつけて歌う曲舞の一種だという。室町時代から江戸時代にかけて武士の間で愛好されたが、明治維新後、姿を消してしまい、いまでは福岡県みやま市瀬高町の大江地区に伝承されるだけだという。松尾さんはその幸若舞の家元だそうである。
 この記事を読んでいてびっくりしたのは、「地元の資料によると、幸若舞の名は創始者で南北朝時代の武将、桃井直信の幼名幸若丸に由来する。大江地区に幸若舞が伝わったのは1787年。直信の父、直常を初代家元とする大頭(おおがしら)流という一派である」という記述を見つけたからである。桃井直常といえば、『太平記』第21巻の、つまり現在読んでいる個所の塩冶高貞とその妻が都から逃亡するのを山名時氏とともに追跡する役目を言いつかった武将である。〔なお、大江地区に伝わる伝承には様々な錯綜があるらしく、例えば、直常と直信は親子ではなくて、兄弟である。桃井氏は足利一族ではあるが、上野の国の桃井(群馬県榛東村)を本拠としていて、一族の中には新田方についたものもいる。直常は、ここでは尊氏・直義兄弟の下知に従って行動しているが、その後、観応の擾乱で尊氏・直義兄弟が反目すると、直義側につき、その後、足利幕府への敵対を続ける。Wikipediaによれば、幸若舞の創始者は直常の孫の桃井直詮であるというのは、江戸時代に作られた伝承であるという。直詮は越前の出身で幼名を幸若丸といったというから、話はよく合うが、よく合うように作り話を作り上げた可能性もかなり大きい。信長が幸若舞を謡い舞ったのは、当時の武士たちのあいだで幸若舞がすでに定着していたことを示すものであろうが、織田家はもともと室町幕府三管領の斯波氏の守護代であり、斯波氏が尾張と越前の両方の守護をしていたころにその家臣となった越前出身の武士であることも多少は関係しているのかもしれない。〕

 さて、足利幕府に対する謀反を企てていると高師直に讒言された塩冶高貞は、妻子を山陰道から自分の本拠である出雲へと落ち延びさせ、自分は信頼できる若党たちを率いて、山陽道を出雲へ向かっていった。たまたま、将軍のもとに参上した山名時氏と桃井直常(もものいただつね)の2人が彼らを追跡することになり、とるものもとりあえず旅立った。

 高貞の妻を警護していた若党たちは、後ろから追手がかかることは覚悟の上で、一足でも早く逃げようと気は急くのだが、女性と子どもを連れての旅行であるため、あれこれの支度に手間取って、播磨の蔭山で追いつかれてしまった。現在の姫路市の東北部の船津町・山田町のあたりである。岩波文庫版の脚注は「一行は丹波から播磨へ出たことになる」としているが、もともと塩冶高貞は一行に丹波路を落ち延びさせたので、そのまま山陰道を進めばいいものを、山陽道に方向転換しようとしている。〔いくらこの時代が殺伐とした時代であるとはいっても、女性に危害は加えないのが通例で、北条氏が滅亡した際でも女性は命を長らえているし、護良親王のそばにいた南の御方や、西園寺公宗の妻の日野名子なども同様である。だから、どこか信頼のできる尼寺にでも預けておけばよく、出雲まで妻を逃がそうとしたのは、よほど愛情が深かったか、頭が混乱していたかのどちらかであろう。〕 

 塩冶の郎等たちは追手が迫ってきたのを見て、これではもう逃げ切ることはできないと思ったので、道端の小さな家に輿を入れて、迫ってくる敵に立ち向かおうとした。敵を近づけまいと上半身の着物をはだけて、肌を表わして弓を引き、散々に射かける。追手の兵は急に出かけてきたので物の具をつけているものは少なく、近づいては矢にあたって死んだり傷ついたりするものが続出した。太刀を抜いて攻めかかるのだが、たちまちにして12人が命を落とし、手傷を負ったものは数を知れないという有様である。
 そうはいっても塩冶の妻を護っている武士たちは20人をわずかに超えるくらい、追手は50余騎というので、数の優劣が次第に表れ始め、塩冶側は矢も既につき、みな、家の中に入って塩冶の妻子を殺し、自分たちも腹を切ろうとした。
 塩冶高貞の妻は悲しみに暮れた様子で刺し殺さなくても一人で消えてしまいそうな美しくもはかなげな姿に見え、膝のかたわらに幼い子ども2人を抱えて、途方に暮れたような様子であったのを見ると、武士たちも主人の妻を殺して自分たちも切腹しようという決心が鈍るのであった。しかも、塩冶の妻は妊娠して7か月になっていた。〔おそらく、塩冶高貞が出雲に逃げたときに、別途彼の妻も出雲に向かったというのは事実であるが、高師直の横恋慕というのは作り話であることがこのあたりからもわかりそうなものである。〕

 そうこうするうちに、追手の兵たちが家の周囲を取り囲み、「この戦闘の目的は何か。たとえ塩冶を討ち果たしても、その妻を奪い去らなければ、師直さまのご意向にかなうことはないだろう。慎重に対処して、取り掛かれ、このことを徹底させよ」などと指示しているのが聞こえてくる。塩冶一族で宗村(岩波文庫版の脚注に、高貞の甥の宗貞かとある)というものが、「主人の奥方を敵に奪われて、後世にまで恥をさらすよりも、ここでわれわれの手にかかっていただき、来世でめぐり合う因縁を深くする方がましだ」と言って、もっていた太刀を取り直して、雪よりも清く花よりも妙なる塩冶の妻の胸の下を、切っ先に紅の血をそそいで突き通せば、「あ」という声がかすかに聞こえて、薄絹の下に倒れ伏す。5つになる幼い長男が、太刀が振るわれたのに驚いてわっと泣いて、「お母様、ねえ」と、すでに絶命した母親に取りすがったのを宗村が心を鬼にして抱きしめ、自分とともに太刀で貫いて命を共にしたのであった。

 残る22人の武士たちは、これで奥方を奪われる心配はなくなったと安心して、髪を乱し上半身裸になって、敵が近づけば、走りかかり走りかかり、火を散らして切り結ぶ。とても逃れることのできない命である。このように殺生ばかりして罪作りをしてどのような意味があるのだろうと思わないわけではないのだが、ここで少しでも時間を稼げば、主人である塩冶高貞が少しでも落ち延びやすくなるだろうと思い、「高貞ここにあり。討ち取って師直に見せよや」と主人の名を名乗りながら、時移るまで戦い続けた。
 また3歳になる高貞の次男が何も知らずに血まみれの母親の死骸に取りすがって泣いているのを、家来の一人が抱きかかえ、道端の仏堂に修行者がいたので、「この幼児を貴僧の弟子にして、出雲に連れて行って命を助けてください。必ず所領一緒の主になるはずです」と言い、小袖を一重ね与えて依頼した。修行者はそれを受け取って、「承知しました」と言ったので、この家来は大いに読六根で、また元の小家に立ち返り、今はこれまでぞ。いざや人々、打ちつれて冥土の旅に赴かんと、家の戸口に火をかけて、22人の武士たちは思い思いに自害し、あるいは猛火の中で焼け死んだのであった。

 この時、生き延びた高貞の次男は、出雲ではなく越前の国の南条で育ち、その後足利義詮に仕えて、多くの武功をあげ、伯耆の国に領地をあたえられた。同国・羽衣石城に拠点を置いた国人・南条氏の始祖南条貞宗だといわれる。もっともこれに疑問を唱える人も少なくないようである。
 追手を率いていた桃井直常はおそらく足利直義の偏諱を受けて、このように名乗っていたと思われ、すでに書いたように、のちに観応の擾乱では尊氏・師直ではなく直義方で戦っている。このため、その最後については不明だという(横浜市港北区に墓があるという話もある)。その弟の直信も同様に直義方で戦ったが、のちに足利幕府に帰順し、桃井氏は室町幕府の奉公衆のうちの二番衆(五番衆まであったそうだ)の番頭になっている。

 風邪が治りきらないので、今夜も早く眠る予定で、皆様のブログへの訪問は休ませていただきます。 

日記抄(1月8日~14日)

1月14日(月)晴れ

 1月8日から本日までの間に経験したこと、考えたことなど:

1月8日
甲比丹もつくばはせけり君が春
 高柳克弘『365日入門シリーズ 芭蕉の一句』(フランス同)の1月8日の項に掲載されていた。『俳諧江戸通り町』所収の芭蕉の句。甲比丹(カピタン)は長崎出島のオランダ商館長。毎年、正月になると、将軍に年賀の挨拶のために江戸に赴く。遠く、異国のカピタンもひれ伏すほどの君徳、しかも今はまさに新春、なんとめでたいことだろうという句意。カピタンという外来語を句に取り入れているところにこの句の面白さがある。高柳さんは芭蕉の好奇心の旺盛さを賞賛している。

名古屋グランパスの楢崎正剛選手、横浜F・マリノスの中澤佑二選手の引退が発表された。ともに長く日本代表としても活躍してきた。楢崎選手は1999年1月1日の天皇杯決勝を制して横浜フリューゲルスが優勝した時のGKであった。横浜FCに在籍したことはないのだが、名古屋グランパスとの対戦で出場者として楢崎選手の名がアナウンスされると、拍手が起きていた(私も拍手していた)ことを思い出す。

1月9日
 『朝日』の「天声人語」は、前日に行われたカルロス・ゴーン前日産会長の勾留理由の開示手続きについてとりあげながら、「英語と日本語が飛び交う法廷で、御当人や裁判官、弁護人よりも多く長く言葉を発したのは、法廷通訳の女性だろう」と法廷通訳という仕事の重要性に読者の目を向けさせている。ゴーン氏がフランス語でなく、英語で発言したというのもすごいと思うのだが、法廷通訳はその点も考慮しなければならず、その苦労は並大抵のものではなかったのではないか。法廷通訳は全国で3800人、扱う言語は62に及ぶが、安定した職ではなく、最近5年間で200人も減少しているという。その法廷通訳がいちばん苦労するのが「二重否定を頻用する」検察官の発言だそうである。日本社会の国際化が進むとともに、法廷通訳の職の安定が確保されることが望まれるが、検察官も言語慣習を改めることが求められるのではないかと思ったりした。

 『朝日』の「デジタル版」に京都に別荘を持ちたいという中国人が増えているという記事が出ているそうだ。日本の古代の都は中国の都城をモデルにして建設されたというが、中国と違って城壁がないのが特徴的である。たしか、吉田健一が書いていたが、中国人から見ると、これは尭や舜などの古代の帝王の政治を実現したものに思えるそうである。現代の中国人にも、堯舜の治世を理想とするような考え方が、残っているということであろうか。 

1月10日
 『朝日』にシリアの伝統的な影絵芝居のただ一人の継承者になってしまったシャディ・ハラクさんのことが取り上げられていた。シリアの影絵芝居がどういうものか、一度見てみたいと思う。

 NHK『実践ビジネス英語』の”Quote...Unquote"のコーナーで紹介された言葉:
There is only one thing in the world worse than being talked about, and that is not being talked about.
      ―― Oscar Wilde (Irish poet, playwright and novelist, 1854 - 1900)
(この世には、話の種になるより悪いことが1つだけある。話の種にならないことだ。)
異論のある方もいるのではないか。

1月11日
 『朝日』の「天声人語」は1月5日に亡くなられた兼高かおるさんの独特の上品な語り口を偲び、『日経』の「春秋」は全日空の機内安全ビデオの工夫と面白さについて語っている。性格は違うが、自分のメッセージを他人に伝えるにはそれなりの努力が必要だということだろう。

 講談の一龍斎貞鳳(本名=今泉正二)さんが2016年12月27日に、90歳で死去されていたことが、遺族から公表された。講談よりも、物まねの江戸屋猫八、落語の三遊亭小金馬(現在の金馬)とともに<お笑い三人組>として活躍していたことの方が記憶に残っている。「間抜けな二枚目」というのがキャッチ・フレーズで二枚目半的な持ち味を出していた。将来を嘱望されていたが、国会議員になったりして高座から遠ざかり、芸の上で大成したとは言いかねるのが残念である。そういえば、ラジオの『素人寄席』にゲストとして出演した時に、「故人または故人に近い方の」物まねをやるといって、他の講釈師の物まねをしたが、その中にこの番組の審査員であった神田松鯉(先代=二代目)が含まれていて、途中から姿をあらわし、「故人に近い方」というのが気に入らないと文句を言ったのを覚えている。そんなことはよく覚えているのである。ちなみに、猫八の相手役が楠トシエ、貞鳳の相手役が音羽美子、小金馬の相手役が桜京美であった。

 横浜FCの新体制が発表された。開いている背番号もあるので、今後補強があるかもしれないとも思われる。

 『NHK高校講座 古典」は『枕草子』の5回目。日記的・回想的な章段に分類される「中納言参り給ひて」の段を読んだ。ここで「中納言」というのは、清少納言が使えた中宮定子の弟の隆家のことである。隆家が定子に扇を献上するという。これまでに見たこともないような骨を手に入れたので、それにふさわしい紙を見つけて扇にして献上するというのだが、骨について具体的なことは一つも触れない。清少納言が、それではクラゲの骨のようなものではありませんかというと、隆家が喜んで、その冗談は自分が言ったことにしようといったという話。隆家が兄の伊周とともに、政治的に苦境に陥る以前の話であろうが、それでも彼の明るい、物にこだわらない、ユーモアを理解する性格がよく捕えられているという。

1月12日
 体調が悪いので、薬食いをして直そうと思ったが、うまくいかず。

 『NHK高校講座 古典』は『枕草子』の第6回(最終回)。「おほん方々 公達」の章段を読む。清少納言の中宮定子への気持ちがよく表れた章段である。紫式部が清少納言を悪く書いているのは、中宮定子を中心とする女房たちのサークルが政治的には敗者であったかもしれないが、明るく機知にとんだ集団として長く記憶されることになり、そのことにプレッシャーを感じていたからであるという。そんな推測も含めて、講師の『枕草子』に対する傾倒ぶりと理解がうかがわれる放送で面白かった。

1月13日
 『日経』の朝刊には「神々に門戸を開いた都市」として、神戸を特集する記事があり、もう四半世紀以上昔のことであるが、神戸のジャイナ教、イスラム教、ユダヤ教などの施設を訪ね歩いたことを思い出した。そのときは気づかなかったが、ゾロアスター教の施設もあるらしい。

 1月6日に、歌手・俳優の天地総子(本名=岩澤総子)さんが亡くなられていたことが分かった。童謡やCMソングのほか、『オバケのQ太郎』でオバQ(二代目)を演じていたことでも知られる。むかし、昼のバラエティー番組で、前田武彦が女性タレントをいじめてばかりいるので、みんなでキスマークの連判状を作って糾弾するという話があり、その中で2人だけ大きいのがあって、天地総子と京唄子だというのをなぜか、記憶している。岸田今日子なども口は大きかった。みんな故人になってしまったのが寂しい。、

1月14日
 風邪はなかなか治らない。悪いこともあれば、いいこともあって、1064回のミニtoto Bが当たっていた。賞金は5千円を超えていて、ちょっとした小遣いになる額である。

 女優の市原悦子さんが1月12日に亡くなられていたことが分かった。基本的には舞台の人なのだが、死亡記事でその点を強調していなかったのが気になるところである。調べてみたところ、出演した映画を9本見ている(もっと見ているかもしれない)。『黒の斜面』(1971、貞永方久監督)の演技がうまかったこと、また『遺書 白い少女』(1976、中村登監督)で、手紙をへたに読む場面があって、朗読のうまい人がわざと下手に読むのは、相当な芸だなぁと感心したのを覚えている。

 風邪のため、早く寝るつもりなので、皆様のブログを訪問することは控えさせていただきます。あしからずご了承ください。

イタロ・カルヴィーノ『木のぼり男爵』

1月13日(日)晴れ、温暖

 イタロ・カルヴィーノ『木のぼり男爵』(白水社Uブックス)を読み終える。このブログですでに取り上げた『まっぷたつの子爵』(岩波文庫)、『不在の騎士』とともに、三部作『我々の祖先』を構成する作品であり、『まっぷたつの子爵』よりも少し後の時代、18世紀の終わりから19世紀の初めにかけてのイタリア西北部のリグーリア地方を舞台として、父親とのいさかいから樹上生活を送るようになった人物の生涯を、その弟の目から描いている。虚構の物語ではあるが、ヴォルテールやナポレオンのような歴史上の人物が登場したり、トルストイの『戦争と平和』の登場人物が姿を見せたりする。


 「わたしの兄、コジモ・ピオヴィスコ・ディ・ロンドーが、わたしたちにまじって最後に席を占めたのは、1767年の6月の15日のことだった。」(5ページ)
 リグーリア州のオンブローザにある男爵家の別荘での出来事。この日、料理上手ではあるが意地悪な、兄弟の姉バッティスタが昼食の席に出したカタツムリの料理を食べることをコジモは断固拒否した。兄弟は、「ひんむかれたあわれな動物」(15ページ)の運命に同情して、カタツムリを逃がしてやろうとしていたのに、バッティスタはそれを摑まえて料理してしまった。しかも父親は、そのカタツムリの料理を食べろと兄弟に命令するのである。
 「超人的な頑固さ」(18ページ)の持ち主であったコジモは、カタツムリを食べることを拒否し、食卓から立ち去れと命令されるとそのまま背を向けて、庭に出て、樫の木によじ登っていった。
 そんなコジモに父親は「疲れて気の変わるまでそうしていなさい!」(19ページ)と声をかける。「気は決して変えません!」(同上)とコジモは答える。「降りる時は、覚悟をしておきなさい!」(同上)と言われて、コジモは「『じゃあ、ぼくはもう降りません!』 そしてその言葉をまもった。」(20ページ)
 この時、コジモは12歳、語り手の「わたし」(ビアージョ)は8歳であった。物語は、そしてコジモの樹上生活は19世紀の初めまで50年近くつづくのである。


 樫の木に登ったコジモは、木の上からの眺めが地上からの眺めと違うことに満足した。彼は樫の木の隣の楡の木に乗り移り、さらに枝から枝へと移って行って、ロンドー男爵家に隣接するオンダリーヴァ侯爵家の庭園へと入り込み、木蓮の木の下でブランコ遊びをしていた10歳くらいのブロンドの少女ヴィオランテ(ヴィオーラ)に出会う。ロンドー男爵家とオンダリーヴァ公爵家とは反目を続けているのだが、コジモとヴィオーラは口では喧嘩しながらも、気持ちが通い合うようである。そしてヴィオーラにも、コジモは、自分は絶対に地面に足を触れないと宣言する。


 コジモは語り手である弟にいろいろな道具を運ばせて、樹上生活の態勢を整えていく。彼は樫の木の洞穴を当座の連絡先にして、樹上生活を続けようとする。一人ぼっちで過酷な環境の中の生活を続けていこうとするのである。


 そのころのオンブローザ一帯は様々な樹木が繁茂していたので、コジモは樹木を伝って長い距離を移動することができた。そうして移動した結果、彼は果物泥棒の少年たちの一団と出会う。彼らは、別荘に住むシンフォローザと呼ばれる少女の手引きで泥棒を働き、果樹の木の持ち主たちの追及を逃れているのだが、シンフォローザは気まぐれで、いつも彼らの味方をしているわけではないようなのである。


 果物泥棒の少年たちがシンフォローザと呼ぶ少女は、ヴィオーラのことであった。白い馬を乗り回して大人たちの勧賞から逃れているヴィオーラは、樹上生活を続けるコジモと仲良くなり、一緒に遠出をしたりするようになる。

 主人公が父親への反抗から樹上生活を続けるようになり、決して降りようとしない(何度か、木の上から落ちそうになるのだが…)という設定が奇抜である。ヴィスの『スイスのロビンソン』は樹上で生活をする一家のロビンソン物語(その後、洞窟をすみかにしたりする)が、『スイスのロビンソン』がニューギニアあたりを舞台に設定している一方で、そこで描かれる動植物が一向に、それらしくないのに比べると、リグーリア地方で育ったうえに、両親とも植物学者であったという家庭環境のために、この作品における植物の描写は精緻で豊かである。そして翻訳者である米川良夫さんが解説で書いているように、「失われてゆくリグリア地方の自然の景観、そのゆたかであった緑への哀惜の響き」(343ページ)が作品中に流れていることも否定できない。

「当時は、どこへ行っても、わたしたちと空のあいだには必ず、枝や葉の茂みがあった。いちばん低い木の生えている場所といえば、ただ一つ、レモン畑だったが、それでも、その真中にいちじくの気が身をくねらせて立っていて、その鬱陶しくおい茂った葉の丸屋根(クーポラ)で、レモン畑の空をすっかりおおいつくしていたものだ。いちじくでなければ、葉の赤いさくらんぼの木か、もっと柔らかいマルメロ、桃、アーモンドや、まだ若い梨の木、豪勢な杏の木、あるいは、また山桑か年へた胡桃(くるみ)でなければ、七竈(ななかまど)や蝗豆(いなごまめ)が植わっていた。果樹園が尽きると、丘の中腹にただよう雲のように、銀灰色のオリーヴ畑が始まった。その奥底に、町の家並みが足もとの港と、上のほうの岩山とのあいだで重なるようにしていた。そして、そこでも、屋根と屋根とのあいだに、木立ちの波のざわめきが続いていた。樫、鈴懸、それにロシア樫。つまり、こちらのほうは、いっそう、無欲恬淡として気品のある木立ちが、貴族たちの別荘のたち並び、鉄柵でその庭園の囲われている一区画に、そそり立って――といっても、整然と――いるのだ。」(44-45ページ)
 米川さんは「自然」と書いているが、果樹園や庭園の樹木は、人間と自然の相互作用の産物であって、自然そのものではない。作者が語り手の口を借りて嘆いているのは、自然に対する人間のかかわり方の変化である。ともあれ、コジモの樹上生活は次第次第に板についていく。次回はそのことについて触れることになるだろうが、彼の環境とのかかわりが至れり尽くせりであることがますます明らかになるはずである。

トマス・モア『ユートピア』(35)

1月12日(土)曇り、今にも雨が降り出しそうだが、まだ降っていない。と思っていたら、次第に雨が降り出した。

 1515年、カスティーリャとの外交交渉のための使節団の一員として、イングランドの人文主義者で法律家だったトマス・モアはフランドルに渡る。交渉の中断中、彼はアントワープ市に赴き、そこの市民で同じく人文主義者として知られるピーター・ヒレスと親しく付き合った。ある日、モアはピーターから、世界中を旅行してきたというラファエル・ヒュトロダエウスという人物を紹介される。ラファエルはヨーロッパ社会の状態や、絶え間なくつづく戦争を批判し、自分が訪問してきた様々な社会の中で、最も優れた制度を持つのは新世界にあり、彼が5年間暮らしていたユートピアという島国のものだという。モアとピーターの要請にこたえて、ラファエルはユートピアの人々の生活と制度について語る。
 ラファエルは、ユートピア島の地勢について、都会について(特にその首都であるアマウロートゥムについて)、役職について、職業について、相互のつきあいについて、ユートピア人の旅行について、奴隷について、軍事について語る。そして、話も終わりに近づき、彼はユートピア人たちの宗教について話しはじめる。

 ユートピア人たちの宗教について論じる部分には、新大陸の発見によって、ヨーロッパ人にとっては未知の宗教世界が知られるようになったこの時代の宗教観が、この時代に再発見されていたギリシア・ローマ時代の宗教の状況や宗教観とともに反映されているように思われる。ルネサンスを通じて、人間は自分の理性の力だけで、善をなし、悪をなさない判断ができるかどうかという問題が議論され続ける。ラファエルの語るユートピア人の宗教の問題も、この議論の延長線上にあると考えるべきである。

 ラファエルは言う。
 「宗教観は全島を通じてだけでなく、各都会の中でもいろいろです。」(澤田訳、218ページ)
 ラテン語原文では
 religiones sunt non per insulam modo, uerum singulas etiam urbes uariae...
ロビンソン訳では
 There be divers kinds of religion not only in sundry parts of the island, but also in divers places of every city. (p.117)
ロビンソンに基づく平井訳では:
 「ユートピア島の各地だけでなく、同じ都市の各方面においても、いろいろな宗教が行われている。」(158ページ)
ターナー訳では
 There are several different religions on the island, and indeed in each town. (p.117、島では様々の宗教が行われ、それだけでなく各都市においても同じことです。)
アダムズ訳では
 There are different forms of religion throughout the island, and in each particular city as well. (p.72、島の至るところに様々な形の宗教があり、それぞれの都市でも同様です。)
 ここは澤田訳の方が平井訳よりもわかりやすい。ただ、澤田訳が「宗教」ではなく、「宗教観」としていることの意図がわからない。とにかく、ユートピア人たちの間では様々な宗教が信じられている。

 あるグループは太陽を、別のグループは月を、さらに別のグループは他の惑星を信じ、あるいは歴史上の有名人を最高神としているという。これは日本の八百万の神について、あるいはギリシア・ローマの神々について考えれば、理解できることで、モアは、自然を崇拝する宗教的な心情が世界中に見られることを神の存在の証明と考えていたと澤田さんは注記している。

 しかし、大部分のより賢明な人々は、「唯一の、知られざる、永遠無量で、説明不可能な、ある神的存在」(澤田訳、同上)を信じているという。人間の認知能力や、経験を越えたところにある普遍的な存在としての神を信じているということであろう。
 信じている宗教の形態はさまざまであるが、次第次第に人々は、唯一最高の神の存在を信じる方向に向かっているという。それを彼らは「ミトラス」と呼んでいるという(ペルシアの太陽神で、ローマ帝国時代の終わりごろには、この信仰は地中海沿岸にまで浸透した。Mithrasをギリシア文字で表記するとΜιθραςであり、M=40、ι=10、θ=9、ρ=100、α=1、ς=200で合計すると360になる。澤田さんは291ページの訳注で365になるというが、私の計算に間違いがなければ、360である)。

 そして全体としてみると、「ユートピア人たちは、あのいろいろの迷信的考えからだんだんに脱却し、理性的にみて他の宗教に勝っていると思われる唯一の宗教に合一しつつあります」(澤田訳、219ページ)。
 しかも、ユートピアを訪問したラファエルたちが、キリスト教について教えると、彼らの多くが進んでキリスト教に帰依しようという意向を示し始めたという。「これは、彼らに神のひそかな照らしがあったためか、それともキリストの教えが彼らの間でもっとも支配的な教えに一番近いと、彼らの目に映ったためでしょうか。」(澤田訳、同上)
 「ひそかな照らし」というところは、ロビンソン訳ではthe secret inspiration of God (p.118), ターナー訳ではsome divine inspiration (p.118), アダムズ訳ではthe mysterious inspiration of God (p.73)と共通して、inspiration(霊感)という語を用いている。それぞれがこの名詞に、secret =秘密の、divine =神の、mysterious =神秘的なと、別の形容詞を与えているのも注目される。
 どちらかの理由に基づくのかはわからないとラファエルに語らせているところに、モアの慎重さが表れている。

 ユートピア人たちがキリスト教に惹かれる理由の一つは、この宗教の中で信者たちの「共有生活」が営まれていて、そのことが彼らにこの宗教を受け入れやすくしているのではないかとラファエルは推測している。ところが、ラファエルの仲間たちはすべて俗人であって、洗礼のような司祭でなければ行うことのできない秘跡をなしえない。それで、キリスト教に関心を持つユートピア人は、信者にならないままであるという。ラファエルの仲間も、新たにキリスト教に関心を持つようになったユートピア人も、他から迫害を受けるようなことはなかったが、一人だけ、キリスト教を狂信的に宣教師、他の宗教を攻撃したために追放刑を受けた者がいた。ユートピアの基本的な規定の一つは、ユートピア人には信教の自由があるが、その宗教を擁護するあまりに、他の宗教を手荒に攻撃することはせずに、あくまで合理的に論駁するようにすべきであるということであるからである。そして暴力をふるうことはもってのほかだという。

 ここまで見てくると、モアがヘンリーⅧ世のローマからの独立、修道会・修道院の廃止に賛成しなかった理由がかなりはっきりわかるのではないか。モアは、修道会・修道院の改革には熱心であったが、それがキリスト教と教会に対し果たしうる肯定的な役割を認めていたので、ヘンリー流の宗教改革には賛成できなかったものと考えられる。モアはさらに、彼自身の宗教観を、この基本的な規定を定めたユートプス王の考えを紹介することで述べようとするが、それはまた次回にゆずることにする。モアの宗教観がきわめて深い洞察に基づくものであることを今回、初めて知って、大いに恥じ入っているところである。 

ダンテ・アリギエーリ(須賀敦子・藤谷道夫訳)『神曲 地獄篇(第1歌~第17歌)』(8‐2)

1月11日(金)晴れ

 1300年4月4日、「暗い森」に迷いこみ、進退窮まったダンテは、そこに現れたローマ黄金時代の詩人ウェルギリウスの霊によって救われる。ウェルギリウスは、ダンテに、彼とともに地獄と煉獄を、彼よりもよりふさわしいたましいに導かれて天国を旅するように告げる。自分がそのような重責に耐える存在ではないと、ダンテは躊躇するが、この旅行が聖母マリアと天国の貴婦人たちによって企図されたものであることを知り、旅立つ決心を固める。(第1/2歌) 「すべての希望を捨てよ」(9行、45ページ)と記された地獄の門をくぐった彼らは、地獄を流れるアケローン川の川岸に達する。その途中、生前に目立った善も悪も行わず、天国からも地獄からも受け入れられない人々のたましいが空しく走り回っているさま、また地獄に赴くたましいが悪魔カローンの操るアケローン川の渡し船に争って乗り込んでいるさまを見る。(第3歌) 地獄の第1圏はリンボと呼ばれ、洗礼を受けずに死んだ乳児たちのたましいや、キリスト教に触れることはなかったが、理性に従って正しく生きた人々のたましいが静かに過ごしている。(第4歌) 地獄の第2圏では、生前、愛欲の罪を犯した人々のたましいが暴風に吹かれている。その中のリーミニの領主の妻であったフランチェスカは、義弟であるパオロとの悲恋について語る。(第5歌) 地獄の第3圏では食悦の罪を犯したたましいたちが罰を受けているのを見る。ダンテの同郷人であるチャッコが、フィレンツェの暗い近未来を予言する。(第6歌) 第4圏では貪欲と浪費の罪を犯したたましいたちが、衝突しあい渦を作っているのを見る。2人はそのまま第5圏へと進み、陰鬱な渓流から流れ出た黒く濁った水が流れ込むステュクスの沼にたどりついた。沼の中には高慢・嫉妬・憤怒・鬱怒の罪を犯した人々のたましいが沈められていた。(第7歌) 沼の岸に立った2人は、プレギュアースと呼ばれる悪魔の漕ぐ舟で、沼を渡ろうとする。ダンテと同郷のフィリッポ・アルジェンティのたましいが、彼の行く手を遮ろうとするが、ウェルギリウスに阻まれる。ウェルギリウスは2人が、ディースと呼ばれる地獄の都市に近づ射ていると告げる。(第8歌のこれまで)

 ウェルギリウスの言葉を受けて、ダンテは言う。
・・・「もうあの回教寺院の尖塔の数々が
あそこの谷[下層地獄]の中で光っているのがはっきりと見えます。
まるで炎からとり出したように真っ赤です」
(70‐72行、169ページ) 赤は炎と血の色である。ウェルギリウスは、都市の内部の永劫の火が、この都市を赤く染めているというこの都市は、戦いに明け暮れる都市であり、しかもその闘争は市民の内部での抗争なのである。あとで、ダンテが『煉獄篇』第6歌に歌うように、このような様相は、イタリアの諸都市と同じものである。
 それにしても「回教寺院」というのは訳語としては問題があるのではないか。原基晶さんはここを、
・・・師よ、すでにそのモスクの群れが
かなたの谷の中にはっきりと見分けられます。
鮮やかに紅く、さながら火の中から。
(原基晶訳、講談社学術文庫版、130ページ)と訳しており、山川訳では
我、師よ、我は既にかなたの渓間に火の中より出でたる如く赤き伽藍をさだかにみとむ
(山川丙三郎訳、岩波文庫版、54ページ)とする。ダンテが地獄の都市の建物をイスラーム教のモスクに似たものとして描いた宗教的偏見も問題ではあるが、それをどのように訳すかに作者の宗教観がうかがわれるのではないかとも思う。

 ダンテとウェルギリウスはこの都市を囲んで設けられた深い堀をその内側にある城壁に沿ってぐるりとまわり、ある地点で舟から降ろされる。そこが、ディースへの入り口であった。
 城門の上には、千を超える悪魔たちが並び、叫んでいた。
(悪魔たちは)みなかんかんになって言った。「死ぬことなくして
 死の人々の国を歩く、この者は誰だ」
(84‐85行、170ページ) そこでウェルギリウスは、自分1人だけで、悪魔たちと話したいという意向を伝える。
 悪魔たちはその語調を少し緩めるが、ウェルギリウス一人だけが城内に入り、ダンテは一人だけでもと来た道を戻るべきだという。
読者よ、どれだけ私がうろたえたか想像してみてほしい。
地上にはもう戻れぬと思った。
(95‐96行、171ページ)

 心細くなったダンテは、ウェルギリウスに自分を一人置き去りにしないようにと頼む。悪魔たちが門を開けないのならば、もと来た道を引き返そうとまで言う。そういうダンテをウェルギリウスは次のように励ます:
・・・「恐れるな。われわれの行く道を
阻むことは誰にもできぬ。かのお方[神]が許されたのだから。
 ともかく、少しここで待っていなさい。そして善き希望を
食して、萎えた英気を養うがいい。
わたしは決してこの下界「地獄」におまえを置き去りにはしない」
(104‐108行、171ページ)

 そういって、ウェルギリウスは悪魔たちのところに向かう。彼が何を彼らと話したのかはダンテの耳には聞こえなかったが、交渉は不調に終わったらしい。彼らは市の門を閉ざし、城の中に逃げ去っていった。ウェルギリウスは、落胆した様子でダンテの立っている場所にもどってくる。しかし、
・・・私がいかに苛立とうとも
恐れてはならぬ。この試練に必ず勝ってみせる。
(121‐122ページ、172ページ)と気を取り直し、そのようにダンテに言い聞かせる。この個所は、山川訳および原訳とは少し違う。
 山川訳では:
・・・わが怒るによりて汝恐るゝなかれ
(山川、前掲、56ページ)
 原訳では:
・・・「おまえは、私が怒っていることで
狼狽してはならぬ。なぜなら私はこの試練に打ち勝つからだ。」
(原、前掲、135ページ) 山川訳、原訳ではウェルギリウスが「怒って」いることになっているが、須賀・藤谷訳では「苛立つ」とニュアンスの違いがある。どちらが適切かは、ほかの訳も参照しながら、考えていくことにしたい。
 ウェルギリウスは、ダンテはそのとき意識を失っていたが、地獄の門の手前でも同じ(悪魔たちが門を閉ざして入城を拒んだ)ことが起きたのだという。そのときに、現れたように、天の使いが、再び現れるだろうと告げる。
 こうしてディース城の前で第8歌は終わる。ダンテは疑っているが、ウェルギリウスは、この城の中に入れると断言する。果たして第9歌ではどのような事態が展開するのであろうか。

 昨日はルーターの不都合が起きて、皆様のブログを訪問することができませんでした。あしからず、ご了承ください。

泉井久之助『ヨーロッパの言語』(2)

1月10日(木)曇り

 「ヨーロッパの言語」とは、ヨーロッパという地域で使用されてきた言語ということであって、比較言語学で言うインド=ヨーロッパ語族に属する言語が多いけれども、そうでない言語も含まれている。言語そのものも、その分布も歴史的に大きく変遷してきた。20世紀に入っても、この傾向は変わらず、21世紀にもそれが続いている。その発展の経緯は、ローマ帝国とか、キリスト教とかいう歴史的な遺産と結びついている。

 今回は、「はじめに」の最初の部分についてみていくことにする。「ヨーロッパとその言語史」と題されているが、言語史全般を概観しているのではなくて、その中の大きな2つの動きについて述べているところに特徴がある。また、あくまで「文字」をもつ言語の歴史、「文明化」された言語の歴史をまとめようとしていることも特徴的である。

ヨーロッパとその言語史

「古来ヨーロッパにおいていかにもヨーロッパらしい性格をもつ文明は、やはり…ギリシャから起こっている」(1ページ)とこの書物は書き出されている。ところが、この文明がヨーロッパに波及していくには2つの道があった、西に向かう道と東へ向かう道とであったという。西へ向かう第一の道は、ローマを経たので、ギリシャ語がラテン語に乗り換えられ、「そこでギリシャの文明が大きく(そして時にはいくらか粗大に)増幅され、エネルギーを高められてから」(同上)さらに西へと進んでいった。やがてローマはキリスト教化されたが、キリスト教はラテン語に乗って広められ、「宗教とラテン語とのこの関係は、そのとき以来だいたい今日まで続いている。」(同上、泉井がこの本を書いた時は、まだこの関係が残っていたが、現在はかなり弱まっている)  東へ向かう第二の道の方は、これとは逆の進み方をした。ギリシャ正教(東方教会)の僧侶が、ヨーロッパの東方の内陸部にキリスト教を広めるために、これらの地方に住む人々の言語を記すための文字を工夫して携えて布教に励んだ。

 こうしてヨーロッパの諸言語はしだいに文字を持つようになり、文明への道を歩み始めた。
 このような歴史的な経緯を踏まえると、ヨーロッパの言語としてまず取り上げられるべきであるのはギリシャ語である。ギリシャの影響を受けて文明を築いたローマは、やがてギリシャを占領するに至るが、そうなってもまだギリシャの文化はローマに影響を与え続けた。地中海の東部はギリシャ語の影響の強い地域であり続け、その影響力が弱まったのは、ローマ帝国の時代が過ぎてからのことである。

 西へと進む道の沿道の人々は、次第にラテン語を使用するようになったが、今度はそのラテン語が分化作用をはじめ、ロマン諸語が生まれはじめた。東の方の道は山野をめぐる道であり、ギリシャ語は西方におけるラテン語のようには浸透せず、ギリシャ文字の影響を受けて工夫された文字だけが、人々のことばを記すために定着した。

 「概して西の道には西欧的な洗練さがあり、自由の長い歴史と、進取の精神があり、改新の経験の累積がある。原則として法の遵守を尊ぶ精神も形式的にはローマの伝統をひいている。我々が西欧的というのも、大体この状態を指している。それはひとえに守旧的な東の道では比較的少なかった。しかも東ローマの文明には特に東洋的な要素がすでに多かった。1054年、東西の教会が決定的に袂を分かつようになったことは二つの間の大きい差異を精神形態的にも20世紀にはいるまで長く固定させるものであった。それは姿を変えて異なる様相の下に今日までつづいている。その合一への胎動も物象的な科学技術を通じてようやく始まったところである。それもピョートル大帝以来、東は常に西に対して受け身であった。」(7ページ)
 ヨーロッパの言語・文化を概観する場合に、それを東西の2つのまとまりに分ける二分法と、ロマンス語圏、ゲルマン語圏、スラヴ語圏に3分する考え方とがあるように思うが、泉井は二分法をとっており、これはこの書物が書かれた当時はまだ米ソの冷戦下に置かれていたこととも関連するようである。もちろん、どちらの区分を取るにしても、それぞれに例外が付きまとい、事態は詳しく見れば見るほど複雑であり、その複雑な部分から泉井が目を離していないことも注意すべきであろう。

 「いずれの道に沿うにせよ、早く文明語化し、またしようとした言語ほど、その言語による古い文献を残している。従ってその言語史もそれだけ遠く確実に遡って、相互の影響も次代への継続関係も、併せて明らかにすることができる。」(8ページ) 古くまでその歴史をたどることができる言語は、西の道に沿った言語に多く、東側は遅れているという。このような一般的な特徴を前提として、ヨーロッパ各地における言語を取り上げ、それぞれの言語が示す特徴をヨーロッパの他の言語との関連で記述し、まとまりをもったヨーロッパ言語の概観をまとめようというのが著者の意図である。

 ヨーロッパ諸言語の一つで、我々が一番なじんでいるのは(たいていの場合)英語であるが、その英語はヨーロッパの諸言語のうちでは、それに似つかわしい特徴をきわめてわずかしかもっていない、「形態法の簡素化が進んだ」(8‐9ページ)言語であるという。英語以外のヨーロッパの言語を学ぶ際に英語に頼りすぎるという傾向に我々は陥りやすいが、それを避けるための注意も含まれていると思われる。このようなことも含めて、次の「英語の構造的孤立とその由来」は、英語とその他のヨーロッパの諸言語との構造上の違いについて概説している。詳しくはまた次回に。

『太平記』(244)

1月9日(水)晴れ、三ツ沢グランドの陸橋付近から富士山が見えた。

 暦応2年(南朝延元4年、1339)、京都の足利方と、吉野の宮方の対立が続く中で、越前では新田義貞は戦死したものの、その弟の義助の下で宮方が勢いを取り戻し、足利方の越前守護斯波高経の拠る足羽の黒丸城を包囲したので、高経は加賀に落ちた。この知らせを受けて、足利方は高師治、土岐頼遠、佐々木(六角)氏頼、塩冶高貞らを北国に向わせようとした。
 ところが、高師直が塩冶高貞の妻に横恋慕し、艶書を送りつけるという事件が起きた。高貞の妻がなびかないので、師直は高貞が謀反を企んでいると尊氏・直義兄弟に讒言をした。

 ある夜のこと、高貞の妻は寝物語に、 師直から正気とは思われないようなことを言いよられ、受け取った手紙は既に1000通を超えている(これは多いという、ものの喩で言っているので、そんなに多く受け取るわけはない)、正気の沙汰とは思えない、自分は師直になびくようなことはしないつもりだけれども、あなた(高貞)はどうお思いになるだろうか、言うも恥ずかしいことではあるが、打ち明けなければならない…などと語った。
 これを聞いた高貞は大変なことになった、とてもこの災難から逃れることはできそうもないと思った。かくなる上は自分の領国である出雲に帰って、軍勢を集め、師直と一合戦しなければ武士としての面目が立たないだろうと覚悟を決めた。それで暦応3年の3月27日の早朝に、自分に忠誠を誓っていると思われる若党を30人あまり選び、狩に出かけるような装束をさせて、手に手に隼などの小型の鷹を止まらせ、蓮台野(京都市北区紫野の船岡山の西の野原)、西山(桂川の西岸の山)辺りで鷹狩りをするために出かけるように見せかけて、寺戸(京都府向日市寺戸町)から山崎(京都府乙訓郡大山崎町)へ方向を変えて、播磨路(山陽道)を通って落ち延びていこうとした。
 一方、この他の身近で仕えている郎等20人ばかりは自分の妻と子どもにつけて、どこかの寺社に物詣するように見せかけて、あとから遅れて邸を出て、丹波路(山陰道)を落ち延びさせた。

 この頃の人々の心のなかの様子というのは、子は親の敵となり、弟は兄を亡き者にしようという肉親同士が対立しあうことも不思議ではないものであったので、塩冶高貞の弟の貞泰が、急いで師直のところに出かけ、高貞がこのようなことを企てましたと、ありのままに告げた。師直はこれを聞いて、自分があまりに長々と考えあぐんで、高貞もその妻も取り逃がしてしまったことを無念に思ったので、急いで尊氏のもとに出かけ、次のように述べた。
 「高貞は以前から謀反を企んでおりましたが、このことがすでに露見したために、今日の早朝に、西国をさして逃げ下っていきました。直ちに、討手を遣わされるべきです。高貞が出雲、伯耆にたどりつき、一族を集め、城に立てこもるようなことがあれば、大変な事態が起きかねません」
 尊氏はこれを聞いて、驚き、直ちに行動を起こすべきだと思い、「さすれば、だれを追手として遣わすべきか」と、ふさわしい人物を選んでいたところに、たまたま、山名時氏と桃井直常が出仕してきた。山名氏は新田一族であるが、早くから足利方に属していた。桃井氏は足利一族である。〔なお「ももい」ではなく、「もものい」と読むのが正しい。〕
 尊氏が2人に対して言うことには:「高貞が、たった今、西国をさして逃げ下って行った。どこまで行こうとも追い詰めて、討ち取ってまいれ。」
 両人ともに一も二もなくこの命令を承った。

 実際のところ、山名時氏は、こんなことを言いつかるとは夢にも思わずに、偶然、参上したのであり、武士の平時の服装である直垂姿で、騎馬の郎等6人を連れているだけであった。宿所に帰り、武具を身につけ、若党たちに知らせて軍勢を集めていると、時間がかかってしまい、追いつくことは難しくなる。自分一人だけでも追いかけて、敵の姿を視野に入れることができれば、その行く手を遮って討ち取ってみせるぞと大変な意気込みで、師直が自分の若党に身につけさせていた鎧などの武具を譲り受けて、潟に討ちかけ、馬上で鎧の上帯を締め、将軍の御所の門前から早くも馬を急がせ、主従七騎、播磨路にかかって、高貞の跡を激しく追い上げた。

 桃井直常も自分は宿所には帰らず、中間を一人宿所にもどらせて、乗り換え用の馬、物具などあとから持ってきて追いつけと下知して、高貞の妻の行方を追って丹波路を急いだ。道で出会う人ごとに、不審な人々が通ってゆかなかったかと問うたところ、「女性だと思われますが、輿に乗った人を先に立てて、22・3騎の武士が、馬を急がせて通ってゆきました。その一行は、今は5,6里ほど先を進んでいると思われます」という答えが返ってきた。「それでは、いくらも落ち延びていまい」と、あとからやって来た武士たちを待ちつれて、50余騎となり、落人の跡を追い求め、夜となく昼となく追走を続けた。
 この時代の1里は36町とは決まっていなかったので、ここで言う5・6里がどのくらいの距離かを判断するのは難しい。36町であれば、20~24キロであるから、箱根駅伝の1区間くらいの距離ということになり、5町とか6町とかいうことになると3キロから4キロということになるだろうか。

 『太平記』の文脈から言えば、この出来事はすでに書いたように暦応3年(1340)ということになるが、史実として塩冶高貞が討伐されたのは(何度も書いているように、高師直の高貞の妻への横恋慕は創作)、暦応4年(1341)のことである。山名時氏が塩冶高貞を討伐したのは歴史的な事実であるが、高貞が出雲守護であるのに対し、この時期、時氏はその隣の伯耆守護であったので、ここに書かれているように、まったくの偶然で追討を命じられたとは考えられない。
 いずれにしても、塩冶高貞とその妻は別々の道を通って、高貞の本拠地である出雲に戻ろうとしているが、かなり早い段階で追手が派遣され、追跡を急いでいる。果たして、彼らは出雲に帰り着くことができるだろうか。特に妻のほうは騎馬ではなく、輿に乗って移動しているのが気がかりである。

鳥飼玖美子『子どもの英語にどう向き合うか』(11)

1月8日(火)晴れ

 序   親の役割
 第1章 子どもと言語
 第2章 英語教育史から探る
 第3章 2020年からの小学校英語
 1 学習指導要領が定める英語教育
                 (以上前回まで)

 2 小学校で使われる英語の教材
 小学校の英語では、学習指導要領に対応した教科書が使われる。現在は移行期間なので、文科省初等中等局が作成した”We Can!"という教材が使われることになっているが、2020年度からは教科書会社が作成する検定教科書が使われる予定である。
 3・4年生対象の「外国語活動」(英語)教科ではなく、英語に親しむための活動であるが、文科省が教材を作成しており、移行期間中である現在は、文科省作成の教材”Let's Try!"が使用されている。
 「小学校中学年(3・4年)における外国語活動の指導のポイント」という説明は次のようなものである:
「コミュニケーションを図る素地となる資質・能力の育成が目標である。「聞くこと」「話すこと(やりとり)」「話すこと(発表)」の3領域における言語活動を通して、その目標を達成しようとするものである。」(158ページ)
 〔以前から書いていることだが、この「資質」というのがどうもよくわからない。一般的な理解では「資質」というのは生まれつきのもので、「育成」できないというよりも、「育成」しようと思っても、すでに手遅れになっている部分を言うのではないか。態度とか姿勢とかいうのならばわかるが、そういう意味で使っているのであれば、そのようにはっきりと書くべきである。〕

 「指導のポイント」として挙げられているのは次のような事柄である:
 ・扱う語彙や表現が聞いたり話したりされる必然性のある場面を設定する。(157ページ)
 そのための映像教材が用意されているという。〔ここで言われていることは、外国語学習一般において共通する、非常に大事なことなのだが、それ以前に、英語を使う「必然性」がある場面というのが、われわれの日常生活の中でそれほど多くはないことをどのように考えるのかという問題がありそうだ。〕
 ・言葉を使うことで慣れ親しませる。(同上)
 これも大事なことではあるが、鳥飼さんは「誕生前から聞いて育つ母語と同じ程度に聞く機会を与えることは物理的に不可能」(同上)とやんわりとではあるが、このポイントの実現困難性を指摘している。
 ・指導者は、英語を使おうとするモデルになる。(同上)
 そんなことを言われても困るという先生が多いのではないか。先生が自分の気持ちを英語で伝えようとするその姿勢が子どもたちにいい影響を与えることを期待するというのであるが、鳥飼さんと同じように「そうなると良いのですが…」(158ページ)としか言いようがない。私の経験を言えば、そんなにしてまで伝えたいという気持ちが、そもそもあまりないのである。

 さらに指導者の留意点として、ジェスチャーの多用を促している。「児童が『不慣れな英語を理解する大きな手助けとなるから』というのが理由ですが、自分自身が『英語に不慣れな』小学校教師にそこまで求める必要があるのでしょうか」(同上)と鳥飼さんは疑問を投げかけているが、確かにそのとおりである。様々なジェスチャーが何を意味するかは、文化によって異なるが、異文化コミュニケーションの専門家が少なく、その知識も乏しい状況の中で、どこまで教えることができるだろうか。無理することはないというのが著者の意見である。

 Unit7では、グリーティング・カードについて知る活動がある。〔グリーティング・カードは日本語で贈答してもいいのだから、英語だけで取り上げるというのも問題ではある。〕 その中で鳥飼さんはMerry Christmas!というのを問題にしている。キリスト教信者同士であれば問題はない〔Happy Easter!というのも同様〕が、最近の英語世界における宗教・文化の多様化に対応して、別のあいさつをとるべきではないかという。
 多様な文化について知るということをめぐっては〔日本語だけでなく、英語を学ぶということは、それだけ多様な文化に触れる可能性が拡大するということであるが〕、文科省の側でもその必要性は認識していて、「Let's Try! ①」の最初では、世界の国々でどのような挨拶をするのかを映像で見て、さまざまな言語があることに『気付いて』から、名前を言って挨拶する練習をします。世界にさまざまな宗教や習慣があることを併せて教えても良いのですが、指導者には負担が大きくないでしょうか」(162ページ)という。できるならば実施したほうがいいが、無理することはないということであろう。〔挨拶というのは、文化だけでなく、帰属する集団の結びつき方とか、個人の性格によっても違いがあるので、一律にこの国・文化においてはこのように挨拶をするという知識を持ってしまうよりも、一つ一つ自分自身の試行錯誤を通じて覚えていくほうがいいとは思うのである。〕

 4年生用のLet's Try!②も、基本的には①と同じような構成であるという。「教材の裏ページに『外国語活動の授業でどんなことを学びましたか』という質問があり、例として『ことばっておもしろいと思いました』という感想が出ています。英語で何も言えなくても構わないので、「面白い」と思ってくれたら、それで十分だと思います。」(同上)と著者は言う。「面白くない」、「英語は勉強したくない」という感想も当然、あるわけで、それに対してどのように対処するかを考えることも必要であろう。人生100年、10歳の時に英語が嫌いになっても、どこかで、考え直す時点はあるだろうし、逆もまた真なり。そんなことを繰り返しながら、ことばと付き合っていくという柔軟かつ、気の長い姿勢が最も望まれることであるのかもしれない。

日記抄(1月1日~7日)

1月7日(月)晴れ

 1月1日から本日までの間に経験したこと、考えたこと、その他これまでの記事の補遺・訂正など:
2018年12月26日
 NHKラジオ『実践ビジネス英語』の”Quote...Unquote"のコーナーで紹介された言葉:
It is far safer to know too little than too much.
                (from The Way of All Flesh)
---- Samuel Butler (English author, 1835 - 1902)
知りすぎるより、知らなすぎるほうが、はるかに安全だ。
〔反ユートピア小説『エレホン』の作者らしい意見。大衆民主主義の時代になると、そうも言っていられなくなる。〕

12月27日
 昨日に続き、『実践ビジネス英語』の”Quote...Unquote"のコーナーから:
Opinion is ultimately determined by the feelings, and not by the intellect. (from Social Statics)
---- Herbert Spencer (English philosopher, 1820 - 1903)
意見というのは、最終的には知性ではなく感情で決まる。
〔昨日紹介されたバトラーとほぼ同時代の、同じ国の人の意見。だから、怖いのだと思う。〕 

12月31日
 『千一夜物語(一)』(岩波文庫)を読み終える。

2019年1月1日
 新しい年を迎える。
 退職して10周年となるので、元日から原稿の催促に追われることもなく、かといって何もしないのも退屈で、あれこれ思案にふけりながら過ごす。

1月2日
 ニッパツ三ツ沢球技場で、第97回全国高校サッカー選手権大会の2回戦、日章学園(宮崎)対矢板中央(栃木)、青森山田(青森)対草津東(滋賀)の2試合を観戦した。第1試合は2‐1で矢板中央が勝利。積極的な攻撃が功を奏したという感じ。第2試合は6‐0で青森山田が勝利。6得点すべてを違う選手が挙げたというところにこのチームのすごさを感じる。昨年青森山田に0‐5で敗れた、草津東は雪辱どころか、さらに1点失点を増やしてしまった。私は滋賀県の生まれなので、どうも残念である。時間をかけてでも、強いチームを作り上げるという気持ちで、頑張ってほしいと思う。

1月3日
 『朝日』の「ザ・コラム」欄に大阪万博の跡地の利用法について、東京の西洋美術館に対抗して、国立東洋美術館を建ててはどうかという加藤秀俊先生の意見が紹介されていた。まだ本番開始前から、跡地の利用を考えるのは気が早いとは思うのだが、東洋美術館というのは悪い発想ではないと思う。中国の絵画などについては、既にほかの美術館で相当なコレクションがそろっているので、もっと別の国の未知の美術作品を集めていくと、面白いかもしれない。既成の作家の作品を集めるよりも、新進作家を育てて行くという見地も必要であろう。(結局、私も気が早い…)

1月4日
 『読売』朝刊に政府・自民党が高校の普通科を抜本的に改革し、新しい学科や専門的なコースを設けて、専門性を高めることを構想しているという記事が出ていた。全体的な方向性としては賛成だが、具体的にどのような案が出てくるかを慎重に見守る必要があるだろう。

 中国の無人月探査機「嫦娥4号」が3日午前10時26分(日本時間11時26分)、世界で初めて月の裏側に着陸した。1969年にアメリカの探査機が月への有人飛行に成功し、70年の大阪万博では「月の石」が目玉商品の一つになったことを考えると、技術的にはそれほど難しいことではなくて、別の問題があって実現しなかったように思う。
 ところで、『新字源』によると、嫦娥はもともと姮娥(コウガ)と書き、月に住むという美人の名であった。伝説によると、大昔の英雄で弓の名手であった羿(げい)の妻で、羿が西王母から得た父子の薬を夫の留守中にこっそり飲んで、月の仙女になったという。漢の時代に皇帝となった文帝の名の恒を避けて、嫦の字を作り、後に「ジョウ」という俗音ができたのだという。そういえば、袁珂の『中国古代神話伝説』にも嫦娥について同じことが注記されている。皇帝を否定しているはずの新中国がなぜ月探査機を「嫦娥」と命名しているのか、このことを踏まえると不可解に思われる。 

1月5日
 『朝日』の朝刊の「オピニオン&フォーラム」欄で、作家の恩田陸さんが開発・再開発によって都市(とは限らないが)の風景が「根こそぎ変わる」ことへの「悲しみ」の気持ちを記していたが、まったく同感。今、イタロ・カルヴィーノの『木登り男爵』を読んでいるのだが、イタリアの森が人間の手で斧を入れられ、変化していく、あるいは姿を消していくことへの哀惜の念が物語の基調をなしているように思う。極めて長い時間の移り行きの中で、自然と人間の相互作用の結果としての景観が変化していくことは否定すべきではないが、あまりに急激な変化を繰り返すことは、そこで育っていく人間の精神に良い影響を及ぼさないのではないかと思う。

 『日経』の文化欄のコラム「文化往来」に「小津映画支えた斎藤高順ピアノ曲集 CDに」という記事が出ていた。以前にも書いたことがあるが、斎藤高順(1924‐2004)は、私が通っていた小学校の音楽の先生であった。とはいえ、私は斎藤が担当しない学年の児童だったので、授業を受けたことはない。ただ、斎藤が作曲した母校の校歌はしっかり覚えている。

 バスを待っていたら、同じくバスを待っている人から、今日は何曜日かと聞かれた。昨日まで、横浜市営バスは正月のため休日ダイヤで運行していたのだが、本日から平常のダイヤに戻ることになった。ところが、本日は土曜日なので、平日ダイヤではない。なんだかややこしい。6日まで特別ダイヤを続けるほうがわかりやすいのではないか。

1月6日
 『日経』の「美の粋」の欄で、ピーテル・ブリューゲル(父)の絵画を取り上げ、彼が農民の日常生活の様々な断片をうまく組み合わせて自分の絵画世界を構成している(したがって、まったくの写実ではなくて、ある意味を表現するものとなっている)ことが論じられていた。この記事の中で紹介されていた「雪中の狩人」は私の好きな絵である。

1月7日
 『朝日』の「天声人語」が宮中の「歌会始」について、『日経』の「春秋」が職場の「仕事始め」について取り上げているのが対照的で興味深かった。後者について、官庁と同様に4日から始めるところ、従業員の休養を重んじて7日から始めるというところ、業務の性格から正月返上というところの3通りに分かれるという。どれが一般的な例だとは言えない比率になっているところがいろいろと考えさせる。

 『日経』の朝刊に京都大学学長で国大協会長の山極寿一さんが「転換点の日本の大学」という論説を書いている。この50年の大学について考えると、点ではなくて線ではないかという気がしないでもない。 大学改革における財政の重要性を強調する点は同意できるのだが、産官学の連携によって改革を実現するという方向性には多少疑問がないわけではない。山極さんは中国、フランス、ドイツの大学改革について言及しているが、この点についてはもう少し視野を広げる必要があるのではないか、アジアの中国以外の国の成功例から学ぶことも必要だし、失敗例からも学ぶ必要があるのではないかという気がしないでもない(もっとも、一番の失敗例はほかならぬ日本なのであるが…)。

 同じく『日経』の「池上彰の大岡山通信」で、池上彰さんが「日々のニュースを常に歴史のなかに位置づけて考える。今年からそんな努力をお勧めします」と書いているのが注目される。歴史的な目で現代の出来事を見るといっても、短期的、中期的、長期的…様々な見方があるわけで、それぞれの見方に立つ論者の意見の交換が望まれるところではないか。

 同じく『日経』の「データで見る地域」というコラムが「地元大学への進学率」を比べていて、一番高いのが愛知県の72%、一番低いのが和歌山県の11.4%という対比が興味深かった。大学がその都道府県に何校設置されているかも問題なのだが、江戸時代に三百諸侯の中で一番裕福だったのが、紀州の殿様だったということを考えると、その財力が教育に生かされなかったように思われるのが残念である。

初夢

1月7日(月)晴れ

初夢

峠の頂にたどりついて
遥かに白くかすむ雪の山を見る――
緑を通り越して黒く広がる森を見下ろして
高く悠々と飛ぶ――

狭い裏通りを必死で駆け抜けて
追手から逃げ切ろうとする――
むかし乗り降りしていた
駅で降り、駅前の雑踏から離れて
懐かしい道を歩む
そして見覚えのある顔、顔、顔に出会う――

どれもこれも、私の初夢ではなかった
夢を見たことだけは記憶にあるが
どんな夢だったかは忘れてしまった――
旧約聖書のネブカドネザル王が
占い師たちに解かせようとしたような
御大層な夢ではなかったことだけは確かだ

すっきりと目を覚まし
一日を始めることができたことを
よしとしよう
ぐずぐずと夢にこだわり続けなかったことを
よしとしよう

 「日記抄(1月1日~7日)」の中に含めるつもりだったが、長くなったので独立させた。


トマス・モア『ユートピア』(34)

1月6日(日)曇り

 1515年、イングランドの人文主義者で法律家であったトマス・モアは、イングランド国王ヘンリーⅧ世とカスティーリャ公カルロス(後に神聖ローマ帝国皇帝カールⅤ世)との間に生じた貿易上の紛争を解決するための使節団の一員としてフランドルに渡った。交渉の中断中に、彼はアントワープに赴き、そこの市民であり、人文主義者のピーター・ヒレスと親しく交わった。ある日、ピーターはモアに、アメリゴ・ヴェスプッチの新大陸発見の航海に加わり、その後世界を一周してヨーロッパに戻ってきたというポルトガル人ラファエル・ヒュトロダエウスを紹介する。
 ラファエルは当時のヨーロッパの社会制度を批判し、新大陸で彼が訪問したユートピアという国の制度が最も優れたものであると語る。ピーターとモアは、彼からユートピアの話を聞くことになる。
 ユートピアでは私有財産というものがなく、一部の例外を除いて、すべての人々が働いている。国の主要な産業は農業で、だれもが一生のうちに一定期間は農業に携わり、その後は都市に住むことになっても農繁期には農村で作業に従事する。人々は質素な暮らしをしているが、非常時に備えて、共同の倉庫には豊かな財産が蓄えられている。
 彼らは平和を愛する国民であるが、自国や友邦が侵略を受けたり、その権利が侵害されたりすると、戦争を行うことがある。その際、まず、敵の国のかく乱を図って、平和裏に敵が壊滅することを目指し、それでも戦闘行為が避けられないときには、傭兵を投入する。さらに友邦の軍隊に頼り、自分たちの軍隊を投入するのは最後のことである。

 ユートピアでは、その方が勇敢に戦う兵士たちを得られるということで、志願兵制度がとられている。臆病な人間を強制的に徴兵しても、その臆病が仲間に伝染するだけだという理由からである。また夫とともに兵役に就きたいと願う妻は家族とともに従軍し、夫とともに戦うことを許される。したがって戦闘は家族ぐるみのものとなり、白兵戦が展開されるようなことになると、きわめて凄惨な場面が現出することになる。家族を故郷に残している場合でも、彼らが社会の手でしっかり守られていることから、兵士たちは思い残すことなく勇敢に戦うことができるという。また彼らは子どものときから軍事教練と道徳教育を施されているので、戦地に送られても動揺することはないのである。

 戦闘をできるだけ早く終結させるために、選り抜きの青年の一団が敵の指揮官を探して、攻撃を加え、戦死させるか捕虜にしようとする。勝利を収めても、彼らは深追いせず、逃げていく敵兵を殺さないで捕虜にする。深追いをしないのは、敵が伏兵を隠している危険を避けるためであり、追撃をする場合でも用心のために補充のための軍隊を残しておくのが常である。

 「城塞は、きわめて念を入れて堅固につくり、非常に深く広い濠を掘りめぐらし、掘り起こした土は陣地の内部に投げ入れます。そのためにふつうの従僕の労働など用いず、兵隊が自分たちの手でかたづけます。敵の奇襲に備え、武装して城壁の前で警戒にあたるものたちを除いて、全軍の兵士が働くのです。このように、非常におおぜいの人が協力しますので、広大な土地を占める大きな城砦も、信じられぬほど速くできあがります。」(澤田訳、215ページ)

 彼らが身につける甲冑はきわめて堅牢だが、動きやすく、身につけたまま楽に泳ぐことができる。遠距離の戦闘における主な武器は遠矢で、白兵戦になると手斧が用いられる。「彼らは新兵器の発明に巧みですが、できあがった兵器は非常に気を配ってかくしておきます。これは戦況に応じて必要になる前に世に知れわたり、その結果威力を発揮するどころか、物笑いの種になるというようなことがないためです。こういう兵器の製作にあたって何よりも注意するのは、移動が簡単であること、回転性が大きいということです。」(澤田訳、215‐216ページ) 「回転性が大きい」というのはわかりにくいので、ターナー訳を見てみると”easy to operate" (p.116 操作しやすい)とあった。〔操作が簡単すぎるのも問題で、外国で幼児が自宅にある拳銃で家族を撃ったなどというニュースを時々耳にす

 ユートピア人たちは停戦条約は厳守する。戦闘に加わったり、スパイを働いたりしたものは処罰し、財産を没収するが、敵の領地や、非戦闘員は大事に扱い、略奪を行なったりはしない。ユートピア人は私有財産を持たないので、戦利品を要求したりすることはない。〔このような戦後処理のしかたは、ラブレーの『ガルガンチュア物語』に出てくるピクロクル戦争の戦後処理と共通するところがある。ラブレーはモアを詳しく読んでいたと考えられる。〕 

 戦争が終わった後に、戦費は、その国のためにユートピアが戦った友邦に対してではなく、敗者である敵国に請求される。「この支払い請求権の名において彼らは一部を現金、一部を土地で請求し、現金は同様な目的、つまり戦争目的のために積み立てておき、土地は敵中にある彼らの永久領土となって少なからぬ年収をもたらすことになります。」(澤田訳、216‐217ページ) こういう土地にはユートピアから財務官という肩書の役人が派遣されているが、年収の多くは敗戦国民への貸付金として活用される。

 このようにして、ユートピア人がどのように戦争をするかというラファエルの話は終わる。モアがここで述べているのは、戦争に対する風刺と合理的批判であり、積極的な提案と受け取るべきではない。モアが戦争を嫌っていたこと、やむを得ない戦いでも、その災禍をできるだけ小さくしようとしていたことにここでは注目すべきであろう。次に、ラファエルからは、最後の締めくくりとして彼らの宗教についての話が語られるが、それは次回以降に回すことにしよう。

2018年の2018のまとめ

1月5日(土)晴れ

 【所在と移動】
 2018年は横浜で361日、東京(文京区)で4日を過ごした。12月については横浜で過ごしたのが30日、東京が1日ということである。
 このほか足を運んだところを加えると、
1県(神奈川)、1都(東京)
5市(横浜、川崎、小金井、三鷹、武蔵野)、8特別区(品川、渋谷、新宿、杉並、千代田、文京、港、目黒)
で活動したことになる。

 利用した鉄道は
6社10路線(東急:東横、目黒、大井町/東京メトロ:南北、半蔵門)/JR東日本(山手、総武・中央)/横浜市営(ブルーライン)/東京都営(三田)/京急(本線)
 乗り降りした駅は
19駅(横浜、反町、武蔵小杉、都立大学、渋谷、目黒、白金台、市ヶ谷、本駒込、神保町、表参道、お茶の水、阿佐ヶ谷、三鷹、武蔵小金井、上大岡、新横浜、御成門、神奈川新町)
 乗り換えに利用した駅は
4駅(自由が丘、大岡山、永田町、新宿)
 利用したバス会社は
7社(横浜市営、川崎市営、東急、相鉄、神奈川中央、江ノ電、京急、東京都営)
である。路線と停留所については、含めないことにした。〔61〕

【ブログ】
 12月に31件のブログ原稿を書いたので、年間の合計は370件ということになる。コメントを1件頂いたので通算の合計は24件、拍手コメントも1件頂き、5件ということである。12月のブログの内訳は未分類が2、日記が6、読書が10、『太平記』が4、ダンテ『神曲』が4、トマス・モア『ユートピア』が4、詩が1ということである。
 今年中に、トマス・モア『ユートピア』の連載が完結するので、次は同じく近世のユートピア文学として知られるトンマーゾ・カンパネッラの『太陽の都』を取り上げるつもりである。また『神曲 地獄篇』の後は、ラブレーの『ガルガンチュアとパンタグリュエル』を取り上げる予定である。〔399〕

【読書】
 17冊の本を買い、12冊を読んだ。読んだ本を列挙すると:
 平松洋子『味なメニュー』(新潮文庫)、福澤一吉『論理的思考 最高の教科書』(サイエンス・アイ新書)、P・G・ウッドハウス『ジーヴズの事件簿 才智縦横の巻」(文春文庫)、P・G・ウッドハウス『ジーヴズの事件簿 大胆不敵の巻』(文春文庫)、中島恵『日本の「中国人」社会』(日経新書)、井伏鱒二『川釣り』(岩波文庫)、田中啓文『えびかに合戦 浮世奉行と三悪人』(集英社文庫)、坂井孝一『承久の乱』(中公新書)、ジェームズ・M・バーダマン 里中哲彦『はじめてのアメリカ音楽史』(ちくま新書)、泉井久之助『ヨーロッパの言語』(岩波新書)、文聖姫『麦酒とテポドン 経済から読み解く北朝鮮』(平凡社新書)、『千一夜物語(一)』(岩波文庫)ということである。
 1月からの合計では155冊の本を買い、120冊を読んだことになる。読んだ本のすべてが今年買った本ではなく、昨年買った本が2冊、それ以前に買った本が2冊入っているので、今年買って、読み終えた本は116冊ということになる。155冊のうち1冊が贈呈によるもので、あと1冊を除いてすべて、紀伊国屋そごう横浜店で、残る1冊はすずらん通りの東方書店で購入した。
 120冊のうち1冊だけが、スペイン語と日本語の対訳で、残る119冊は日本語で書かれた本である。そのうち8冊が英語、3冊がフランス語、2冊がラテン語、1冊がロシア語からの翻訳である。
 著者別では、井伏鱒二、田中啓文、下川裕治、東海林さだお、円居挽がそれぞれ3冊、門井慶喜、青柳碧人、西條奈加、鳥飼玖美子、望月麻衣、司馬遼太郎、P.G.ウッドハウス、平松洋子がそれぞれ2冊ということになる。
 年末の新聞に「私の選んだ3冊」などという特集記事が出たりするが、私の読んだ本と重なることはほとんどない。新しく話題になる本を読むのは悪いことではないが、古くからその価値を認められている本を読むことの方が意義深いのだと思うようにしている(とか言って実際には新しい本を読むことの方が多い)。2018年について言えば、エラスムス『痴愚神礼賛』とトマス・モア『ユートピア』を丹念に読んだのは、よかったと思う。これらの読書を歴史や、思想史の書物へと結び付けていくことも心がけていきたいものである。 〔122〕

【外国語】
 『ラジオ英会話』を20回、『遠山顕の英会話楽習』を12回、『高校生からはじめる「現代英語」』を8回、『実践ビジネス英語』を12回聴いた。1月からの通算では、『ラジオ英会話』を238回、『遠山顕の英会話楽習』を110回、『高校生からはじめる「現代英語」』を98回、『実践ビジネス英語』を140回聴いたことになる。このほかに、4月~9月放送の『入門ビジネス英語』を108回、1~3月放送の『短期集中! 3か月英会話』を35回聴いている。〔729〕
 『まいにちフランス語』(入門編)を11回、応用編を8回、『まいにちスペイン語』(入門編)を11回、中級編を8回、『まいにちイタリア語』(初級編)を11回、応用編を8回聴いた。1月からの通算では『まいにちフランス語』の入門編を143回、応用編を59回、『まいにちスペイン語』の入門編を142回、中級編を24回、応用編を23回、『まいにちイタリア語』の入門編を37回、初級編を95回、応用編を47回聴いたことになる。
 2018年の前半はポルトガル語の学習、後半は古典ギリシア語の学習に取り組んだが、うまくいかなかった。外国語の学習は拡散よりも集中の方が効果があるので、どのように意欲と努力とを集中させていくかが課題となるだろう。〔575〕
 
【映画】
 12月もついに映画を見ることがなく、出かけた映画館は5館、見た映画は24本のままで止まってしまった。サッカーの試合を見に行くか、映画を見に行くかという二者択一を迫られることが多かったことと、体調が芳しくないことが理由であるが、2019年はそんなことも考えに入れながら、ぼちぼちと数を増やしていきたい。〔29〕
 
【サッカー】
 12月は、なでしこリーグ1部2部入れ替え戦2試合を観戦した。すなわち、12月2日ニッパツ三ツ沢球技場で、横浜FCシーガルズ対日体大フィールズ、8日に三ツ沢陸上競技場で日体大フィールズ対横浜FC,シーガルズの対戦を観戦した。また、12月31日に第97回全国高校サッカー選手権の第1回戦、福井県立丸岡高校対東山高校(京都府代表)の対戦を観戦した。それぞれ緊迫した好試合であった。
 また1060回のミニトトA、1062回のミニトトAをあてている。
 横浜FCもシーガルズも、1部昇格まであと一歩というところまで行ったので、応援に通うのも張り合いがあった(そのしわ寄せが映画の方に行ったようである)。2019年はさらに応援のし甲斐のあるシーズンであることを期待している。〔54〕

【その他】
 12月、酒を飲まなかったのは2日で、1月からの通算は41日となった。
 7月に大腸の内視鏡検査を受けた。
 8月に最年長の従兄が物故し、10月に偲ぶ会に参加した。
11月に中学・高校の同期会があった。
 3,5,7,9,11月に研究会に出席した。〔49〕
 以上を合計すると、2018になる。このほかに、ジャンボ宝くじを250枚買って、300円の末等を25枚、3000円を2枚あてた(こういうのをあたったといっていいのかどうかはわからない)。当てるといえば、『まいにちスペイン語』のテキスト巻末のクイズを1回、また、横浜FCのホーム・ゲームのハーフ・タイムのフリ丸バズーカでTシャツを1枚あてている。
 2019年こそは、宝くじが当たることを期待したいが、ある程度以上の賞金が当たった場合は、もちろん、このブログには書かないこともはっきりしている。

ダンテ・アリギエーリ(須賀敦子・藤谷道夫訳)『神曲 地獄篇(第1歌~第17歌)』(8‐1)

1月4日(金)晴れ

 1300年の4月4日から5日にかけて、ダンテは「暗い森」をさ迷い歩き、進退に窮した時に、ローマ時代の大詩人であるウェルギリウスの霊に救われる。ウェルギリウスの霊は「お前は別の道を旅する必要がある」(第1歌、90行、15ページ)と言い、彼に従って地獄と煉獄を、また「よりふさわしいたましい」(第1歌、122行、17ページ)に導かれて天国を旅するように言う。自分にはあまりにも重い任務であるといったんは躊躇したダンテであったが、この旅が彼の魂を救うために聖母マリアと天国の貴婦人たちが計画したものだと聞き、旅立ちの決心を固める。(第1歌~第2歌)
 ウェルギリウスに従って彼は「すべての希望を捨てよ」(第3歌、第9行)と記された地獄の門をくぐる。そこで彼は、生前目立った善も目立った悪もなさず、天国からも地獄からも迎えられることのないたましいたちが、叫び声をあげながら空しく走り回っている様子を、また地獄に赴くたましいたちが、先を争って悪魔カローンの操る渡し船に乗り込んでいくのを見た。(第3歌)
 次に二人は、ウェルギリウスの魂がもともと置かれていたリンボに到着する。そこでは洗礼を受ける以前に命を失った乳児の魂と、キリスト教を知らないままで死んだが、生前正しく生きた人々の魂が静かに過ごしていた。ここでダンテはギリシア・ローマの大詩人たちと語り、また偉大な哲学者や英雄たちの姿を見た。(第4歌) 
 地獄の第2圏に達した彼らは、生前愛欲の罪を犯したたましいたちが、暴風に吹かれて漂っているのを見た。その中のフランチェスカの魂が、彼女と義弟であるパオロの間の悲恋について語る。(第5歌) 第3圏では、食悦の罪にふけっていたたましいたちが、泥沼の泥のようになってその罰を受けているのを見る。その中のもとはフィレンツェ市民でチャッコと呼ばれていた男のたましいが、同郷のダンテに向かい、市の暗い近未来について予言をする。(第6歌)
 続いて彼らは第4圏を抜けて、第5圏へと達する。第4圏では生前貪欲の罪を犯した人々のたましいと、浪費の罪を犯した人々のたましいとが衝突を繰り返していた。第5圏にさしかかると、そこにはステュクスと呼ばれる泥沼が広がっていて、その岸に立っている塔のふもとに2人はさしかかった。(第7歌)

 ここに来る前に、ダンテには塔と、その頂上で燃えている2つの火が見えていた。そしてその2つの火にこたえて、もう一つの炬火が燃えていたが、それは
あまりに遠く、目にやっと入るほどであった。
(5行、166ページ)
 炬火が何を意味しているのか、ダンテはウェルギリウスに問うが、ウェルギリウスはすぐにわかるとだけ答える。そして
 結弦から放たれた矢が、
これほど速く空気をつらぬいたことはないと思わせるように、
小さな船が現れて、
 私たちめがけて水の上をやって来た。
漕いでいるのは船頭たった一人で、
こう叫んでいた。「さあ、おまえを摑まえたぞ。よこしまなたましいよ」
(13‐18行、166‐167ページ) プリュギアースはギリシア神話中の人物で、地獄の悪魔の一人としたのはダンテの創作上の工夫の一つである。ウェルギリウスは彼ら2人がここにいる理由を語り、プリュギアースは自分が天国のたましいによる計画のために利用されることを悔しがる。
 
 私の案内者は舟に降りて行き
つづいて私をそのそばに迎え入れた。
船は私が乗り込んだときだけ重さに揺れた。
 私と案内者が舟に乗り込むやいなや
その太古の舳先は、たましいたちを乗せたときとは違って、
いっそう深く水を切り裂いて進む。
(25‐30行、167ページ) たましいには重さがないが、まだ生きている人間であるダンテには体重があり、船はその重さを受けて揺れ、より深く水のなかに沈む。

 澱んだ水を進むうちに
私の前に泥に覆われた男が出て来て
こう言った。「時が到らぬのに来たおまえは誰だ」
 私は答えた。「ああ、私は来たが、ここにとどまりはせぬ。
だがおまえの方こそ誰だ。なぜそのように汚くなった」
答えはこうだった。「俺はここで泣いているものだ」
 そこで私は言った。「呪われたたましいよ、
涙と嘆きのうちにとどまれ。
それほど汚れてはいても、私はおまえが誰かおぼえている」
(31‐39行、167‐168ページ) 後で、はっきりするが、ダンテに話しかけたこのたましいはフィレンツェの市民であったフィリッポ・アルジェンティであり、政敵同士であった。解説で詳しく述べられているが、両者はお互いに知っているが、それぞれに名乗りたくないので、このような持って回ったやりとりが続く。

 ウェルギリウスはこの人物を追い払い、彼が生前きわめて傲慢な人物であったためにこのような罰を受けているのだという。そして第5圏の、この男の周辺にいたたましいたちが、「フィリッポ・アルジェンティをやっつけろ」と叫び出すことで、彼が自分の名前を隠していたことも、無駄になってしまった。
 フィリッポのたましいを後に残して、舟は先を急ぐ。
だが、そのとき、私の耳を新たな呻きが打った。
そのため、私はけんめいに目をこらして先を見た。
 優れた師は告げた。「いまや息子よ、
ディースという名の市(まち)が近づく。
罪の重い市民らと悪魔の大群とが」 
(65‐69行、169ページ)

 ディースはローマ神話に登場する冥府の神であるが、ダンテはギリシア・ローマ神話に登場する神々と同様に、このディースも悪魔のなかに入れている。ディース市は、地獄に設けられた悪魔の都市である。

 

泉井久之助『ヨーロッパの言語』

1月3日(木)晴れ

 昨年末の12月29日に、泉井久之助『ヨーロッパの言語』(岩波新書・青版)を読み終えた。1968年に出版された本で、たぶん、大学院時代に買って読んだはずであるが、古本屋に売ってしまったか、どこかに紛れ込んでしまったかで、私の手許には見当たらなかったので、第14刷が刊行されたのを機会に、新たに買って、読み直してみたということである。
 岩波書店からは他に、田中克彦/H・ハールマン『現代ヨーロッパの言語』(岩波新書・黄版)が1985年に、アントワーヌ・メイエ(西山教行訳)『ヨーロッパの言語』(岩波文庫)が2017年に刊行されている。ただしメイエの本は1918年に初版が、1928年に第2版が出版されたもので、泉井の著書の「あとがき」でも言及されている。

 ここで、<ヨーロッパの言語>と言われているのは、地球上のヨーロッパと呼ばれる地域で、古くからこの地域に住んでいる人々によって使われている諸言語の総称であり、比較言語学でインド=ヨーロッパ語族に分類される諸言語に属する言語というような意味合いではない。泉井の場合は言語史と文化史との関係に関心を払っており、メイエの書物もこの立場に近い。田中・ハールマンの場合は社会言語学的な関心からまとめられていたことが述べられている。3冊ともに、言語と文化・社会との関係に関心を払って書かれた書物だといえる。
 社会・文化は切り捨てて、もっぱら言語そのものに焦点をあてて、インド=ヨーロッパ語族の諸言語について論じた書物としては、高津春繁『印欧語比較文法』のような書物を見ればいい。ということになると、地理的にどこからどこまでがヨーロッパかということが問題になる。この書物はつぎの6つの部分から構成されているが、その表題を見れば、自ずから、ヨーロッパの地理的な範囲として泉井がどのような地域を想定しているかがわかるだろう。

 はじめに
 Ⅰ 言語的ヨーロッパ
 Ⅱ 南イタリアのギリシャ語
 Ⅲ バルカン半島
 Ⅳ 黒海から大西洋まで(Ⅰ) ――東部
 Ⅴ 黒海から大西洋まで(Ⅱ) ――西部
 Ⅵ バルト海と北海 ――ロシア語と英語
 つまり、東は黒海とウラル山脈、西は大西洋、北は北極海、南は地中海を境界としてヨーロッパを考える(ということはトルコはヨーロッパに含まれ、ヴぉスポラス海峡を境界としてヨーロッパとアジアを分けるというよりも少し東寄りにヨーロッパの範囲が設定されているということである。したがって(あまりしたがってでもないのだが)、アルメニア語やジョージア語は、ヨーロッパの言語に入るが、シリアのアラビア語はヨーロッパの言語には入らない。なお、このヨーロッパについての考え方は、泉井独自のもので、メイエも、田中・ハールマンもトルコ語はヨーロッパの言語のなかに入れていないことを断っておく(トルコ共和国で話されている言語ということになると、クルド語も含まれてくるし、クルド語はインド=ヨーロッパ語族に属しているから話が余計に面倒である)。

 ヨーロッパの言語事情と言語そのものも、時々刻々と変化しており(私が学生の頃は、フランス語の否定文はne...pasという形をとると習ったものであるが、現在のフランス語ではneを省く用法が多くなっているというのはその目立った例である)、これら3冊を読んでも捕らえられないような言語の問題もある(たとえば、イベリア半島の言語事情などは、これら3冊を読んでもわからないところがあり、専門の書籍を読まないといけないようである)。そうはいっても、大体のところをとらえるのに、最も適しているのは、かなり古い時期に書かれたにもかかわらず、やはりこの泉井の書物であろう。

 泉井のこの書物では、ヨーロッパの各言語の歴史や、その文法的な特色が概観され、それぞれの影響関係についても論じられているのであるが、「ポルトガルのリスボン(リ ジュボア,Lisbon)の港は少し様子が変わっている。ここにはよその港には見られない雰囲気がある。海に面して――といってもそこはまだタホ河(ポルトガル語ではテジュ河,Tejo)の幅の広い河口であるが、――そこには広い『通商広場』(Praça do Comercio, プラサ・ドゥ・クメルシウ)がある。」(43ページ)など、自己の現地への旅を語る箇所とか、ローマの大詩人オウィディウスの黒海沿岸への流謫のような過去の出来事を物語風に語る部分とか、バルト海の琥珀についての考証とか、様々な話題が織り込まれていて、読んでいて飽きない。

 私の大学の先輩にあたる知人が、学生時代に合唱団に属していて、泉井の令嬢がやはり合唱団の団員であったと話していたことがある。そのときに、知人は泉井がラテン語の先生であるというようなことを言っていて、確かにラテン語関係の研究業績や著書は多いのだが、基本的には言語学者である。それで、この書物でもヨーロッパの言語をめぐる状況に及ぼしたローマ帝国の影響の大きさが強調されているのは興味深い。また、この点から、ヨーロッパの統一に向かう傾向に好意的で、分離に向かう動きには警戒心を隠していないようにも思われる。

 泉井は「ヨーロッパは、…その面積と人口に比較して言語の数が多きにすぎ言語事情の交錯が複雑に過ぎる」(216ページ)とヨーロッパの言語事情の複雑さを指摘しているが、世界の言語の数が5000~7000(学者によって違う)といわれ、ヨーロッパの言語が70から80(数え方によって違う)あまりであることを考えると、世界の他の地域における言語事情はもっと複雑であることが予期できる。
 そもそも、ヨーロッパの言語を取り上げる書物が何冊も書かれているということは、問題の重要性とともに、(相対的なものだが)研究しやすさ、まとめやすさを示すものではないか。アジアの言語状況についてわかりやすくまとめるというのは、至難の業のように思われる。
 世界各国の言語状況は多様で、少数民族や先住民の言語を主流のメディアから締め出したり、言語の使用そのものを圧迫している国の例がないわけではないから、一概には言えないが、言語をめぐる紛争が顕在化しているのは、それだけ少数者の権利の要求が強いということで、否定的にとらえるべきではない。多様性をもっと肯定的にみることができないかというのが、この書物について抱く疑問の一つである。
 この書物にも書かれているが、泉井にはヨーロッパ以外の地域、例えばミクロネシア、マライ・ポリネシアの諸言語を研究した経験もあり、そこからヨーロッパについての別の視点を持つことも可能ではなかったかと思うのである。

 とにかく、今回はこの書物を大ざっぱに概観しただけで終わることにする。どのようなことが書かれているかについての詳しい議論は、次回以降展開することにしたい。

 昨年末に「2018年の2018」をめぐる総括は1月3日に行う予定であると書いたが、5日まで遅らせることにしたいので、ご了承ください。
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