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日記抄(12月28日~31日)

12月31日(月)晴れ

 12月28日から、本日までの間に経験したこと、考えたこと、これまでの記事の補遺・訂正など。本日は、高校サッカーを見に出かけるつもりで(地元の桐光学園高校が出場するため満員になって入場できない可能性はあるが)、時間が不足する恐れがあるので、書けるところから早めに書いておくことにする。「2018年の2018」については、2019年1月3日にまとめるつもりである。

12月28日
 『日経』朝刊の文化欄に魯迅と福岡県出身の日本人青年・鎌田誠一(1906‐34)との交流についての文章が掲載されていた(横地剛「魯迅 日本人青年との友情」)。「魯迅と誠一はともに絵画や版画が好きだったから、すぐ意気投合したようだ」とあるが、魯迅はかなり絵が上手だったし、鎌田誠一は美術学校の受験を考えたことがあったというから、両者ともに自分でも絵を描いたというのが大きかったように思う。眺めてみるだけでは、それほどの友情には発展しそうもない。

 同じ『日経』の「やさしい経済学」のコーナーの連載記事:「学歴と人生の格差」(大阪大学教授の吉川徹さんの執筆による)は8回目で、「非大卒層、外国人労働者と競合」という見通しを立てている。「非大卒層は、外国人労働者が増えれば、今の立ち位置を動いて、働き方を変えなければならなくなる可能性がある」というのである。具体的にどのように動けばいいのかを予測すべきなのではないだろうか。

12月29日
 ジェームス・M・バーダマン 里中哲彦『はじめてのアメリカ音楽史』(ちくま新書)を読む。アメリカのポピュラー音楽の通史で、音楽の形成の歴史のなかでの黒人の果たした役割を強調しているところに特徴がある。いろいろなジャンルの音楽について言及されているが、ハワイアンは取り上げられていないというのは、やはりアメリカの社会・文化の中で異質な音楽だということのようだ。

 さらに泉井久之助『ヨーロッパの言語』(岩波新書)を読み終える。この本については、機会を改めて取り上げるつもりである。

12月30日
 『朝日』朝刊の「しつもん! ドラえもん」は、「日本三大花火の一つが毎年8月に新潟県のある地方で開かれているよ。どこかな?」というものであった。「日本三大花火」がどれを指すかについては諸説あるが、秋田県大曲市、茨城県土浦市、新潟県長岡市の花火大会というのが一般的らしい。
 花火をこよなく愛した山下清は、大阪のPL教団の花火大会と、長岡の花火大会は欠かさず見ていたらしい。どちらも日本一だといっているけれど、どっちが本当なのだろうというのは、ごくまともなツッコミだと思う。長岡の花火大会を描いた山下清の貼り絵は私の好きな絵の一つである。

 同じく『朝日』の「天声人語」は、もし<暴言大賞>があったらという話題、その一方で『日経』の「春秋」は「日本レコード大賞」の話題を取り上げている。後者の「敗者すらドラマを生むのがこの賞か」というのは名言として記憶されるべきであろう。
 <暴言大賞>がもしあったらなどと言わないで、有志が集まって制定してはどうだろうか。そうなると、表彰式をどのように行うかが問題であろう。まあ、受賞者は来ないだろうね。

 『日経』の文化欄に最近『雪のことば辞典』(柊風舎)を上梓した秋田県在住の民俗学研究家・稲雄次さんの「雪のことば 日本に積もる」という文章が掲載されていた。新潟県では雪のことを、「イキ」、「エキ」、「リキ」、秋田県・山形県・岩手県では「イギ」、富山県では「イク」、岐阜県・長野県では「ウキ」、福島県・茨城県では「ズキ」というと記されていた。そう言っているというよりも、そのように聞こえるということではないかと思う。

12月31日
 予想通り(あまりこういう予想は当たってほしくはないのだが)、全国高校サッカーの試合は満員で入場できなかった。第2試合を見ることはできるかもしれないので、また出かけてみるつもりである(会場が近いと、こういう利点がある)。

 文聖姫『麦酒とテポドン 経済から読み解く北朝鮮』(平凡社新書)を読み終える。著者は朝鮮総連の機関紙『朝鮮新報』の記者をしていたことがあり、何度も北朝鮮を訪問してその詳しい実情に触れており(現在は韓国に国籍を変更したとのことである)、ビール好きで、そのあたりから北朝鮮の経済についての分析を展開している。ビールは韓国より北朝鮮の方がおいしい――2012年11月24日、英週刊誌『エコノミスト』(電子版)が伝えた記事は当時、韓国のビール業界にショックを与えた」(141ページ)という。「北朝鮮にとっては、テポドンに象徴される核・ミサイル開発か、『平和』の象徴である大同江ビールの輸出か、を国際社会から迫られているのだ」(153ページ)というのが、この書物の要点である。北朝鮮の改革・開放は可能だし、この国の未来はその一点にかかっているというのがここで主張されていることである。
 これで今年読んだ本は119冊となった。あと岩波文庫の『千一夜物語(一)』(マルドリュス版の翻訳)を読み終えて、目標達成にこぎつけるつもりである。

 第97回全国高校サッカー選手権の三ツ沢球技場での第二試合、福井県代表の福井県立丸岡高校と京都府代表の東山高校は試合開始早々にPKで得点を挙げた丸岡のリードがつづいたが、前半の終盤に今度は東山がPKで得点を挙げ、同点に追いつき、後半28分に2点目を挙げて、そのまま逃げ切るかに思われたが、終了間際に丸岡のMF宮永選手がシュートを決めて同点に追いつき、PK戦にもつれ込んだ結果、5‐4で丸岡が勝利した。好試合だった。

 これから東京に出かけて年を越すことになるので、本日中に皆様のブログを訪問することはできませんが、よいお年をお迎えください。 
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故旧忘れ得べき

12月30日(日)晴れ、昨日同様、雲は多いが一応晴れている。三ツ沢グランドの陸橋付近から、雲を被った富士山を見ることができた。

 12月28日に聴いたNHKラジオの『高校生からはじめる「現代英語」』では、”Songs of the Season”の第2弾として、前日放送した”The Water Is Wide"(水辺は広く)と同じくスコットランドの歌である”Auld Lang Syne"(懐かしい昔)を番組パートナーであるハンナ・グレースさんの歌唱で聴いた。
 この歌は40を超える言語に翻訳され、日本では(もともとの歌詞とは関係なく)「蛍の光」として歌われる。現在伝わる歌詞の原形は、スコットランドの国民的な詩人であるロバート・バーンズ(Robert Burns, 1759 - 96)が1788年にまとめたもので、古いノスタルジックな民謡のメロディーで歌われる。
 バーンズは「スコットランド語」で歌詞を書いたが、現在は一般的な英語に置き換えられていると解説されていたが、スコットランドでは、スコットランド英語もしくは英語のスコットランド方言のほかに、スコットランド・ゲール語(Scottish Gaelic)も話されているので、「スコットランド英語」という方が誤解を招かないだろう。

 日本では「蛍の光」というと「別れ」のイメージが強く、紅白歌合戦の締めくくりとして行く年を送る歌として歌われるが、英語圏では、新年を迎える歌として歌われるそうである。ニューヨークでは大晦日のカウントダウンの際に、the ball dropと言って、ビルの上に設置した巨大なボールを国旗のように降ろしていく毎年恒例の行事がある。ボールが落ちて、新年を迎えた瞬間にこの歌を一斉に合唱するのだという。〔新年を迎えて”Auld Lang Syne"を歌うというと、私はポール・ギャリコの小説の映画化『ポセイドン・アドベンチャー』を思い出す。そのくせ、映画の細部は忘れてしまっていて、歌を歌っている最中にカタストロフィが起きたのか、歌い終えてから起きたのかさえ、思い出せない。〕

 ほかにも『遠山顕の英会話楽習』の12月25日放送の回で紹介していたが、カウントダウンから、次のような流れになる(新年を迎えてすぐに歌うのではなくて、その前に「新年おめでとう!」を言う):
Three, two, one.
Happy new year!

Should auld acquaintance be forgot,
and never broght to mind?
Should auld acquaintnce be forgot,
and (days of) auld lang syne?

◆CHORUS
For auld lang syne, my dear,
for auld lang syne,
We'll take a cup of kindness yet,
for (the sake of) auld lang syne.

(古い友だちは 忘れられるべきか、
そしてもう決して心へ運ばれずに?
古い友だちは 忘れられるべきか
むかしの日々も?
◆コーラス
(懐かしい)昔のために 君
昔のために
飲もう 友の一杯を今 
昔のよしみで)

 どこかのパブで、子ども時代の友だちに再会した主人公が、昔を懐かしみ「友情」に乾杯するというのが歌の趣旨である。syneは普通「ザイン」と発音されているが、もともとのスコットランドの発音では「サイン」だそうである。

 ところで、この歌の最初の行を目にしたときに、私は高見順(1907‐65)の小説『故旧忘れ得べき』を思い出した。この小説の最後の場面で、登場人物たちが「故旧忘れ得べき⇒蛍の光」を歌うのである。
 時は昭和10年(1935)ごろ。昭和の初めに左翼運動に参加して弾圧を受け、転向した、あるいはさせられた元学生たちは、惨憺たる日々を過ごした挙句、少しばかり落ち着いた生活を送るようになる。そんな時に、むかしの仲間の一人が自殺したという知らせが届く。むかしの仲間たちが集まって、ささやかな偲ぶ会を開く。その席上、一人が「故旧忘れ得べき」を歌おうと言い出す。そんな歌は知らないぞ…「蛍の光」か…ということで、なぜ、この歌を歌うのか、わからぬまま一同はこの歌を歌う…。「歌うというより口を開けて胸のモダモダを吐き出すような侘しいヤケな歌声であった。」
 転向小説の代表作とされる作品の一つで、第1回の芥川賞候補に挙げられている(受賞したのは石川達三の「蒼茫」である)。

 この”Auld Lang Syne"という歌が使われている文学作品でもう一つ印象に残っているのが、スコットランド出身の作家ミュリエル・スパーク(Muriel Spark, 1918 - 2006) のLoitering with Intent である。ブッカー賞の候補にも挙げられた彼女の代表作の一つであるが、この表題は翻訳しにくい。河出書房新社から出ている木村政則さんによる翻訳は『あなたの自伝、お書きします』になっている(実は翻訳の方は読んでいない)。
 語り手でもあるヒロインは作家志望で、自伝協会(the Autobiographical Association)という団体の事務員に雇われる。ここの関係者には自分が書いている小説の参考になりそうな人物が何人もいるので、彼女はひそかにそのことを喜ぶ。ところが、協会のメンバーの言動が彼女の小説の内容通りになってきただけでなく、彼女の原稿が紛失してしまった…という話であるが、ヒロインの友人の一人がなにかというと”Auld Lang Syne"を歌うという設定になっていた。で、これも小説の最後の方で、パリに住んでいる語り手の住処まで押しかけてきて、夜中にこの歌を歌う…。

 この2つの小説の展開から読み取れることは、”Auld Lang Syne"という歌は<友情>の光と影とを歌いこんだ歌だということである。<友情>というのは、讃えるべきものであるだけでなく、暗いもの、否定的な側面も含んでいるということである。そして、そういう否定的な側面を含んだうえで、むかしからの友情を懐かしむ歌だということである。
 だから、この歌は行く年を送る歌としても、くる年を歓迎する歌としても理解し、歌うことができる。新しい年と仲良くしたいと思うのは当然のことだが、警戒の念を怠ってはならないというのも付け加えるべきだと思うのである。
 


高田の冬は霏々として

12月29日(土)昼過ぎ頃までは、三ツ沢グランドの陸橋付近から、雲に半分ぐらい隠れながらも富士山が見えるという程度に晴れていたのが、時が経つにつれて曇り空が広がってきた。

 「日記抄」で触れるつもりで、書きそびれてしまったのだが、12月23日の『朝日』朝刊に掲載された「しつもん! ドラえもん 3177 にいがた編」に「日本のスキーは新潟が発祥。スキーを伝えた外国の人はだれかな?」という問題が掲載されていた。
 日本に本格的なスキー技術を伝えたのは、アルペン・スキーの創始者であるマティアス・ツダルスキーの門下で、オーストリア≂ハンガリー帝国の陸軍将校だったテオドール・エードラー・フォン・レルヒ(1869‐1945)である。彼はオーストリア陸軍でスキーを採用することに尽力した人物であったが、日露戦争に勝利した日本の陸軍の事情を知りたいと考えるようになった。また、明治35年(1902)に八甲田雪中行軍遭難事件を起こした日本陸軍の側でもスキーに着目しはじめたという事情があり、交換将校として明治43(1910)年に来日、新潟県中頸城郡高田(現在の上越市)に置かれていた第13師団歩兵第58連隊(第13師団長:長岡外史、歩兵第58連隊長:堀内文次郎)で、スキーを指導することになった。翌明治44(1911)年1月12日に歩兵第58連隊の営庭を利用し、鶴見宜信大尉ら14名のスキー専修員を指導したのが、日本におけるスキーの発祥とされ、1月12日は「スキーの日」となっているそうである。なお、レルヒは来日時には少佐であったが、来日中に中佐に昇進したため、高田ではレルヒ少佐という呼び方が一般的であるが、その後、彼が指導にまわったところではレルヒ中佐と呼ぶところもあるそうである(帰国後、最終的には少将にまで昇進した)。また、彼はドイツ語圏では名門中の名門校と言えるウィーナー・ノイシュタットのテレジアーヌムの卒業生であるが、この学校についてはいずれ書くことがあるだろうと思う。

 ところで、レルヒが伝えたスキーはストックというか杖1本で滑るもので、『朝日』紙面に描かれていた漫画のドラえもんが2本のストックで滑っていたのは、この点から見るとおかしい。さらに言えば、「新潟」には大ざっぱに言って、①新潟県、②新潟市、③新潟市の中心部(旧新潟町)という3つの意味があり、「にいがた編」というよりも、「にいがた県編」というべきではないかと思う。

 さて、レルヒは歩兵第58連隊の営庭(昔の高田城の城内であろう)のほか、町のはずれの金谷山でもスキーの訓練を行った。旧制高田中学⇒新制高田高校の関係者の間で歌い継がれ、また市民の間にも広がった「高田の四季」という歌の4番に「金谷山頭 スキーに暮れて」と歌われているように、スキーは連隊の将兵だけでなく、市民の間にも広がり、親しまれるようになった。

 ところで、この「高田の四季」の4番の歌い出しは、この記事の見出しとして掲げたように「高田の冬は霏々(ひひ)として」というものである。ある時、宴席で何か新潟関係の歌を歌った方がいいということになって、然るべき人物に頼んだのだが、彼が「高田の四季」を歌うといって、一生懸命に歌詞を書いている。それで「ひひとして」の「ひ」というのはどういう字かというので、時間がたってしまったのを覚えている。「雨かんむり」に「非」と覚えてしまえば簡単なのだが、なかなか覚える気になれないところがある。なお、高田高校の校友会のホーム・ページを見ると「ひひとして」とひらがなで記されている。漢和辞典を見ると、「霏霏」は「雨や雪がはなはだしく降るさま」を言うそうである。それで思い出したのだが、高田で暮らしていたころに、雪の日に傘をさして歩いていて、傘が急に重くなったのでびっくりして雪を払い落としたことを思い出す。傘でなく、フード付きのコートを着て歩く方が賢明である。 

 さて、レルヒ来日中の第13師団長であった長岡外史(1858‐1933)は、それ以前の日清戦争中に大島混成旅団の参謀をしていたが、部下であった二宮忠八(1866‐1936)による偵察用飛行機の研究開発に予算を出してほしいという申し出を一蹴したことがあった。その後、彼は飛行機の軍事的な重要性を認識するようになり、退役後のことではあるが、二宮を直接訪問して謝罪したという。また日本における航空分野の初期の発展に尽力した。自分に非がある場合にはそれを認めて反省し、また必要な時には謝罪、態度を改めるというのは立派なことではないかと思う。
 その一方、彼はプロペラ髭と呼ばれる長大な髭を蓄えていたことでも知られる。法政大学の航空研究会の顧問をしていた内田百閒はこのことから、晩年の長岡と接触することがあったが、長岡が写真撮影に応じるときには、髭を撮影用にしっかり整えてから望んでいたと記しているそうである。そのあたりに内田独特の観察眼が働いているようである。そのような写真をもとに、製作されたのであろうか、上越市の高田公園内には、髭をぴんと伸ばした彼の銅像が立っている。

鳥飼玖美子『子どもの英語にどう向き合うか』(10)

12月28日(金)晴れ、三ツ沢グランド付近から、雲をかぶった富士山が見えた。

 2020年度から『学習指導要領』の改訂に伴い、小学校の5・6年生で実施されていた「英語活動」が教科「英語」となり、「英語活動」は3・4年で行われるようになる。また幼稚園や保育園でも英語を教える例が増えている。このように早期から英語を教える事例が多くなり、その内容や方法も、コミュニケーション重視という方向に沿って、以前とは違ったものになろうとしている。この本は、そのような変化に期待と不安を持つ保護者たちに向けて、このような英語教育が何を目指しているか、そこにどのような問題があるか、それに対してどのように対処すべきかを論じるものである。
 第1章「子どもと言語」では子どもと言語をめぐる様々な問題を考察し、外国語学習における母語による「読む力」の重要性を強調している。
 第2章「英語教育史から探る」では日本における英語教育の歴史をたどり、英語教育の多様で複雑な性格と、その中で蓄積されてきた英語教育の伝統から学ぶことの重要性が指摘された。
 第3章「2020年からの小学校英語」のこれまでのところでは、小学校及び中学校の「学習指導要領」で英語教育に何を期待しているかについて考察されてきた。

 さて、前回に続き、小学校『学習指導要領』の概要とその問題点とが取り上げられている。
 問題の第一は、学ぶことになっている内容が多すぎる、つめこみすぎであるということである。例えば、「音声」について学ぶことは、外国語学習として当然のことであるが、これまでの教職課程では音声学が必修とは定められていないので、中高の先生でも生徒に対して発音をしっかりとは教えられないのが現状である。であるのに、どうやって小学生に英語の発音やイントネーションを教えろというのか、疑問であるという。私の経験では、大学時代の同僚の英語の先生の1人が音声学についても研究していて、翌学生を研究室に連れて来ては、発音の分析実験に付き合わせていた。そういう教育を受けた学生がひとりでも多く、現場で英語の音声についての知識・技能を普及していくことが望まれるのだと思う。

 さらに5・6年生の段階で、「挨拶」「自己紹介」「買い物」「道案内」やもう少し複雑なやりとりに到る内容が含まれている。「異文化コミュニケーション学や社会言語学などの専門的な見地から見れば、相づちにしても、褒める、謝る、依頼する、断るなどにしても、それぞれの言語文化によって規範が違うので、日本語とまったく違う英語で謝ったり断ったりは相当に難しいことです。」(145ページ) アメリカと英国(あるいはオーストラリア、アイルランド、カナダ、ニュージーランド…)での違いがあるし、話し手の社会的な地位によってもコミュニケーションの取り方は違う。
 もっとわかりやすく、はっきりと、小学校ではここまで、中学校ではここまでと、教える内容を示すことが望まれると鳥飼さんは言い、同じことを繰り返すというのであれば、「小学校では基礎の基礎を知っておくくらいで良い」(146ページ)と考えておくべきであろうという。〔もっともその「基礎の基礎」というのがなにかというの問題ではある。〕

 もっとも単語数については、小中高ではっきり数字が示されている。小学校で600~700語、中学校で1600~1800語、高等学校で1800~2500語、合計して4000~5000語を学ぶということが指導要領には明記されている。とはいうものの、仕事で英語を使うには8000~10000語程度の知識が必要であると鳥飼さんは言う。〔たぶん、仕事の性質によって、必要とする語彙の性質も違ってくるから、8000~10000語といっても、その中でも違いがあることは否定できないと思われる。〕 「これだけの膨大な単語数を習得するのは、学校で暗記を強要されても実現しません。本人が『学ぶ意欲』を持って、『自律的に』、読んで書いて話してみるという地道な努力を続けることで可能になるものです。これは小学生には無理です。」(149‐50ページ) もっと長い目で単語の習得を考えるべきであるという。

 次に鳥飼さんは、「小学生にとって大切なのは英語の土台を作ること、そのためには母語である日本語の学びが不可欠です」(151ページ)と言い、英語教育と「国語教育との連携」の重要性を示唆している。「新学習指導要領では、『言語能力の育成』が謳われていて、外国語教育と国語教育との連携を目指した取り組みを呼びかけています。この方向性は本当に大事です。違う教科との連携は実際に具体化するのが難しいようですが、日本語と英語を材料に2つの言語の違いに気づく場を設けることは学習への動機づけにもなり得ます』(151‐152ページ)という。〔鳥飼さんは、「違う教科との連携は…難しい」と考えているが、小学校では担任が全教科を担当する立て前なので、中学や高校よりも、この連携は可能性が大きいはずである。〕
 新学習指導要領で「日本語と英語の違いに気づかせる、違いを知る」ことが示唆されているので、その一つの方法として、ローマ字の「ヘボン式」(英語教育で使われる)と「訓令式」(国語教育で使われる)の違いを示すことも一つの方法になりうるという。

 次に問題になるのは小学校教員が英語を教えていくために必要とされる研修をどのように行っていくかという問題である。小学校教員養成課程でも外国語(英語)についての指導法を学ぶことになった点は改善として評価できるが、その内容や2科目という量については問題があるという。教員免許法を改正しようということになると、時間がかかるので、応急措置でしのごうということであろう(改正入国管理法のように強行突破するというのも問題は大きい)。応急処置の第一は、正規の教員免許とは別枠で「特別免許」を、英語力のある人材に与えて小学校英語教育を担当できるようにするというものであるが、英語力があるからと言って小学生を指導できる力があるとは限らないし(小学生を教えるのは相当な力量が問われる)、英語力の有無をだれがどう判断するかという問題も残る。2つ目の措置は、教職課程を有する各大学に「認定講習」を委託し、小学校教員が講習を受ければ、英語教員免許を取得したとみなすというものである。講習というのがどの程度のものか書かれていないので、判断しにくいのだが、「短期間の講習を受けるだけで大丈夫なのか気になります」(155ページ)という著者の意見にうなずきたくなるところである。

 さらに文部科学省も小学校教員に対する研修を実施しているが、英国の対外文化機関であるブリティッシュ・カウンシルに兼修を委託し、核となる教員に受講させ、その教員が各地域に戻って研修内容を伝えることで、各校に広めていくというやり方をとっている。鳥飼さんはこの方式に2つの疑問点があるという。第1は、核となる教員が学んだことを他の教員にどの程度まで正確に伝えることができるかということ。もう一つは、なぜ、文部科学省が、日本の英語教育界がこれまで積み上げてきた実績を無視して、英国の機関であるブリティッシュ・カウンシルに英語教育の研修を委託しているのかということ。
 前者については、当事者の努力を信じるしかないのではないかという気がする。信じられないのであれば、もっと予算を獲得して、研修の機会を拡大するのが最善の策であろう。
 後者については、文部科学省に英語教育をめぐる説明責任を求めたいところである。思い当たるのは、行方昭男『英会話不要論』(文春新書)に紹介されている次のようなエピソードである。
 「国際的な会合で、主に英語非母語話者が熱心に何かについて議論していました。雰囲気は友好的で、時々笑い声や、冷やかしや、同意の喜びの声も聞こえます。ところが、二人だけ、議論に加わらない男女がいました。しばらく怪訝な表情を浮かべてから、イギリス英語で、「みんなどこの言語で話しているの? 聞いたような言葉だけど、僕には理解できないんだ」
 びっくりしたのは、周囲の人たちでした。「英語で喋っているのに!」と説明すると、男性はすごすごとその場を去りました。むっとしていたのかもしれません。女性は、やっぱりそうだったの、と納得しました。そしてそれからは、自分に当然理解できる言語だと、自分に言い聞かせて注意深く聞いたせいで、会話に参加できたそうです。」(行方、171ページ)

 国際会議の場合、この会議の使用言語は〇〇語(と△△語)であるとあらかじめ断っておくのが普通だと思うので、この話の出どころには疑わしいところがある。とは言うものの、英語を使用言語とする国際会議で英米人が浮いてしまう…というのは決してまれなことではなさそうだ…というのは個人的な経験からも実感できる(私は、そういう時沈んでいる方である)。
 要は、英語には、英米語である(もちろん英語にも米語にも様々な変種がある)という側面と、国際語であるという側面とがあり、そのどちらを学習の際に優先するかというのが、重要な選択なのだが、多くの日本人はそのことに気づいていないということなのである。なにか唯一正しい英語があるというような妄想に近い信念を持ってしまってはいけないということなのである。
 本当はもう少し書くつもりだったのだが、資料を探してさらに議論を深める必要があるので、ここで一応中断して、残りの議論は次回にゆずることにしたい。

日記抄(12月24日~27日)

12月27日(木)晴れ

 12月24日から本日までの間に経験したこと、考えたこと、これまでの記事の補遺・訂正等:

12月24日
 クリスマス・プレゼントにはオモチャという連想からだろうか、『朝日』の「天声人語」と、『日経』の「春秋」という1面に掲載されるコラムがともに、オモチャの話題を取り上げている。『朝日』は手製のおもちゃを作って子どもたちに送る「チクチク会」の活動を紹介し、『日経』がディズニーのアニメ『サンタのオモチャ工房』から、子どもたちへのプレゼント情報⇒GAFAの活動と連想を広げているのが、一方は手作り志向、他方は情報化志向というわけで、興味深い対比になると思った。 
 
12月25日
 外国人労働者の受け入れを拡大することを目指す出入国管理法の改正が成立したことをめぐり、『日経』の「迫真」のコーナーが「外国人と働く」という連載記事を掲載しはじめ、「『金の卵』始まった争奪戦」という見出しで、企業の取り組みを報じている。その一方で、『朝日』朝刊の「波聞風問」がこの改正では取り上げられなかった技能実習生の問題を取り上げて、「日本に残らない」という実習生の声を聞くべきだと論じている。実際に『コンビニ外国人』には2020年のオリンピックが終わってしまえば、日本にやってくる外国人労働者は激減するだろうという元実習生の声も書き留められていて、労働人口がどのように動くかは、その時になってみないとわからないところがある。
 
 田中啓文『えびかに合戦 浮世奉行と三悪人』(集英社文庫)を読み終える。

12月26日
 『朝日』の朝刊1面に哲学者の鷲田清一さんが執筆しているコラム「折々のことば」は、開高健が『開高開口』に書きとめているタイの諺を紹介している:
 3分の1は水に流す。
 3分の1は大地に戻す。
 3分の1は敵にくれてやる。
 曰く、自分で稼いだ金の3分の1で酒を飲む(水に流す)、3分の1は貯金する(大地に戻す)、3分の1を妻に渡す(敵にくれてやる)。
 『開高開口』は読んだつもりだが、こんな諺が引用されていたという記憶はない。記憶とは移ろいやすく、あてにならないものだ。

 『朝日』の朝刊は「教育 この1年」の大きな話題として、「医学部不適切入試」、「大学共通テスト」、「教員の働き方改革」の3つを取り上げている。いじめ、不登校の蔓延のようなもっと奥深い問題は、いわば慢性疾患というべきもので、「今年の」問題ではないということであろう。とはいうものの、慢性疾患が次第に深刻になっていることも、もっと掘り下げてよい問題ではないかと思う。

 NHK「ラジオ英会話」の本日の会話の一部。イアンのクリスマス・パーティーに参加したメグが、そろそろ帰ると言い出す:
Ian: The night is still young. Why don't you stay longer. (まだ宵の口だよ。もう少しここにいたらどう?)
Meg: I have to work tomorrow. (明日、仕事をしなくちゃならないの。)
Ian: But it's Christmas Day! (でも、明日はクリスマスなんだよ。)
Meg: Yes, but in Japan, Christams Day is not a holiday. (ええ、でも、日本ではクリスマスは休日じゃないのよ。)
 なぜ、この会話が26日に放送されるのか不明。なお、英国や(旧)英連邦の一部では、本日はBoxing Dayと言って(26日が日曜日の場合には27日になるが)休日であり、郵便配達員、ゴミ清掃員、使用人などにChristmas Boxを与える習慣があるそうである。
 
 坂井孝一『承久の乱』(中公新書)を読み終える。
 承久の乱(承久2年=1221)は、一般に理解されているように、朝廷の最高権力者(治天の君)であった後鳥羽院(上皇)が鎌倉幕府を倒そうとして起こした兵乱ではなく、幕府の執権であった北条義時を排除しようとして起こしたものであったこと、後鳥羽院は時代の流れの読めない傲慢で情ない人物ではなくて、諸芸能や学問に秀でた有能な帝王であったことなどを最近の研究に基づいて論証しながら、院政および鎌倉幕府の成立・発展という大きな歴史の流れの中で、乱がどのような意義をもったのかを検討した書物である。
 『太平記』の最初の方の部分が、『増鏡』および『梅松論』と重なり合う内容をもっていることは、別のところで書いた。ところで『増鏡』と『梅松論』は承久の乱について直接的に触れているが、『太平記』は間接的にしか触れていない。これは『太平記』という書物の性格を考えるうえで、重要な特徴ではないかと思うのだが、そんなことはこの本には書かれていない。ただ、鎌倉から西上している幕府方と、朝廷方の戦闘を描く部分で、どのあたりが主な戦場になっているかについての記述は、『太平記』を読むにあたっても役に立つところが少なくない。

12月27日
 以前にも書いたが、『高校生からはじめる「現代英語」』は、火曜と水曜の第1回目の放送を聴くことが時間的に無理なので、その他の曜日に聴いている。本日のこの番組は、”Songs of the Season"の第1回として、番組のパートナーであるハンナ・グレースさんがスコットランド民謡「水辺は広く」(The Water Is Wide)を歌った。大きな川の岸にたって、向う側に渡りたいが、川が広くて渡れそうもない…という愛の試練を渡河にたとえた歌である。ハンナさんの、この歌のsweet sadnessを味わってほしいという言葉が歌とともに耳に残る。
 スコットランドに行ったときに、スコットランド民謡集のような本を何冊か買い込んだが、店員が不思議そうな顔をしてみていたのを思い出す。明治以来の日本の音楽教育の中で、スコットランド民謡(をはじめとするケルト系の歌謡)が果たした役割というのはきわめて大きいのだが、それを英語で説明することができないのが、もどかしい限りであった。
 川といえば、イングランドとスコットランドの間にはTweed川という川が流れているという知識は持っているが、実際に見たことはない。英国の川で、比較的なじみがあるのはThames川とMersey川である。
 

トマス・モア『ユートピア』(33)

12月26日(水)晴れ

 1515年、イングランドの人文主義者で法律家であったトマス・モアは、国王ヘンリーⅧ世と、カスティーリャの君主であったカルロス(後の神聖ローマ帝国皇帝カールⅤ世)の間で生じた紛争の解決を目指す外交交渉のための使節団の一員としてフランドルを訪問し、交渉の中断中に、アントワープを訪問、この市の住人で人文主義者たちの間で評判が高かったピーター・ヒレスと親しく交わる。〔ここまでは歴史的な事実である。これまで触れなかったが、紛争というのは、羊毛の貿易をめぐるもので、先行するスペインを後発のイングランドがこの領域において激しく追い上げているという事情がこの物語の背景をなしている。何やら、最近の米中貿易紛争を思わせる出来事ではある。〕
 ある日、モアはピーターから、アメリゴ・ヴェスプッチの新世界探検に同行し、その後、探検隊から分かれて独自に世界を回ってきたというポルトガル人ラファエル・ヒュトロダエウスを紹介される。その経験と博識とに感心したピーターとモアは、どこかの王侯に顧問として仕えることを勧めるが、当時のヨーロッパの王侯たちが民衆からの収奪と、戦争にしか関心を示していないことを見抜いているラファエルは同意しない。
 ヨーロッパの国々の社会と制度を批判するラファエルは、新世界にあるユートピアという国が最も優れた制度を持っているといい、ピーターとモアの要請に応えて、その制度を「詳しく」語る。
 ユートピアではすべての人々が働き、私有財産というものはない。人々は質素な暮らしをしているが、公の財産は莫大なもので、それによって有事の際に備えることになっている。犯罪者はめったに死刑にされず、その代わりに奴隷の身分に落とされる。ユートピア人たちは流血の戦争を好まず、できるだけ敵を買収したり、攪乱したりして紛争を収めようとする。それでも戦闘を行わざるを得ない場合には、ザポーレート人のように戦闘を好む人々を傭兵として雇い、戦闘に従事させる。

 ザポーレート人というのが、この時代、ヨーロッパ各地で傭兵として「活躍」していたスイス人を暗に示しているのは、だれもが気づくことであり、中公文庫版の頭注はエラスムスとピーター・ヒレスがつけたものだと解説されているが、その中で、「スイス人とあまり違わない民族」と記している。先年、テレビを見ていて知ったのだが、ヴァティカンではいまだにスイス人を護衛兵として採用しているそうで、思いがけないところに歴史の痕跡があると思った(現在の国際法では「傭兵」は禁止されている。フランスの「外人部隊」はこの種の「傭兵」の定義に当てはまらないそうである)。〔スイスが独立主権国家として国際的に承認されるのは、1648年のヴェストファーレン条約においてのことであるが、それまでもスイスという国、あるいは国民がヨーロッパのほかの国、あるいは国民から認知されていたことに注目すべきであろう。〕

 「この連中がユートピア人のためならどんな人間を相手にしてでも戦うというのは、彼らの奉公はここで、他ではどこにもないほど高い報酬で雇って貰えるからです。ユートピア人は、善人を善用のために求めていると同様に、悪用のためにはこういう最悪の人間を求めており、必要とあれば、最高級の約束をしてこの連中を刺激して最も危険なところに送り飛ばしますが、大部分のものは、そこから決して生還しませんから、約束されたものを請求することもありません。しかし、生き残ったものにたいしては、また新たに同様な冒険に煽り立てるために、約束したものを誠実に支払ってやります。この連中がどれほど多く死のうが、ユートピア人は少しも気にかけません。もし、かくもいやらしく、極悪な人間のあらゆる残滓を取り除いて世界を清めることができれば、自分たちは全人類から最高級の感謝を受けるにすると考えているのです。」(澤田訳、210-211ページ) ユートピア人たちは、平和主義者でございという顔をしているが、とんでもない悪党ぞろいで、自分が戦わずに、他人を戦わせることばかり考えている。これを平和主義といえるかどうかは疑問である。

 次の記事はわかりにくい。「この連中のつぎに彼らが用いるのは、彼らがそのために武器をとって戦ってやる人たちの軍隊、そのつぎに他の友邦の補助軍です。そして最後に自分たちの市民たちをそれに加え、その市民のなかから筋金入りの勇士を全軍の指揮官を選びます。」(澤田訳、211ページ)
 ここは、平井訳の方がわかりやすい。「傭兵の次には戦争の原因となっている当の国家の兵隊を用いる。その次には他の友邦諸国の援軍を用いる。最後に自国の市民を戦線に参加させる。そしてこれらの市民の間から人格と勇気に秀でた人を一人選び、この人に全軍の支配・統治・指揮の権利を任せる。」(平井訳、151ページ)
 ただ、ターナー訳を見た限りでは、澤田訳の方が原文に忠実なようである。つまり、モアはかなり持って回った言い方をしていて、なぜそのような言い方をしているのかをめぐっては、読者に解釈を委ねていると考えてよい。

 ユートピアでは自国の市民を従軍させる際には、志願制度をとり、徴兵制度はとらない。「どの都市からも、自発的に従軍しようという市民が募集されます。」(澤田訳、211ページ) ここは平井訳では「兵隊は各都市の喜んで戦争へ行こうという志願者中から選抜したものであって、嫌がるのを無理に戦争に駆り立てたのとは違う。」(平井訳、152ページ) ここも、平井訳の方がわかりやすいが、どちらが原文の趣意を正しく伝えているかは、疑問が残るので、英訳を検討してみよう。
 まずロビンソン訳では:
They choose their soldiers out of every city those which put forth themselves willingly, for they thrust no man forth into war against his will. …
 ターナー訳では
The Utopian contingent is made up of volunteers from every town -- for no one is conscripted for military service abroad. (ユートピアの分遣隊はあらゆる町からの志願兵で構成されています――というのは誰も海外での兵役に徴集されることはないからです。)
 アダムズ訳では
Only volunteers are sent to fight abroad: they are picked men from within each city. No one is forced to fight abroad against his will, …(志願兵だけが海外での戦闘に派遣されます。彼らは各市の中から選ばれます。誰も自分の意思に反して海外で戦闘することを強制されません。…)
それぞれの翻訳がばらばらで、大筋での意味は共通しているが、細部が違いすぎる。英訳では、「海外で」という点が明記されているのに対し、日本語訳では、そこが訳出されていない。

 ただ、この記述からわかるのは、志願兵制とか、徴兵制とかいう以前に、この時代のヨーロッパではご本人の意思に反して若者を軍隊に引っ張っていくことが頻繁に行われていたということである。モアが批判したかったのはこの点ではないかと思われる。しかし、志願して兵役についても、実際に戦闘に従事して気持ちが変わるということは十分にありうることである。逆にいやいや戦争に駆り出されたのが、戦ってみて戦争好きになるということもあるかもしれない(こちらの方が困ったことである)。それから、モアが指揮官と、兵士について書いているが、軍隊の編成の中で必要な将校や下士官の役割について書いていないのは、この時代の軍隊組織がまだそれほど複雑ではなかったからかもしれないし、彼が軍隊とか戦争について、外からの知識しか持ち合わせていなかったからかもしれない。この点についてはさらに検討の必要がある。 

ダンテ・アリギエーリ(須賀敦子・藤谷道夫訳)『神曲 地獄篇(第1歌~第17歌)』(7‐2)

12月25日(火)晴れ

 1300年の4月4日、ダンテは「暗い森」の中に迷いこみ、進退に窮するが、聖母の言いつけにより現れた古代ローマの大詩人ウェルギリウスの魂によって窮地を脱し、彼とともに地獄、煉獄を、「よりふさわしい」魂に導かれて天国を旅するようにと言われる。いったんは自分には荷が重いと躊躇したダンテであったが、そのたびが天国の貴婦人たちの願いから出たものであることを教えられて、旅立つことを決心する。(第1歌、第2歌)
 「すべての希望を捨てよ」(45ページ)と記された地獄の門を通った2人は、生前に目立った善も悪もなさなかった死者たちの霊が天国にも地獄にもゆくことができず、空しく走り回っているのを見る。さらに地獄に行くためにアケローンの川を渡る渡し船に、地獄へ行くたましいたちが争って乗り込んでいるのを見る。(第3歌) 地獄の第1圏であるリンボでは、洗礼を受けずに死んだ赤子たちの霊と、キリスト教を知らずに死んだ義人たちの霊が、静かに時を過ごしていた。(第4歌) 地獄の第2圏では、生前に愛欲の罪に溺れた死者たちの霊が嵐に吹かれて漂っていた。(第5歌) 第3圏では食悦の罪を犯したたましいたちが泥のように地面に這ってその報いを受けていた。その中の一人、フィレンツェ出身のチャッコは故郷の市の暗い近未来を予言する。(第6歌) 地獄の第4圏では、貪欲者たちと浪費者たち、方向は違うが、金銭の奴隷として生きた人々がお互いをののしりあいながら、渦を作って衝突を繰り返していた。(第7歌のこれまで)

 ウェルギリウスはダンテに、この世の富は<運の女神>(フォルトゥーナ)によって委ねられた、束の間のたわむれに過ぎないものであるという。富のために人々が争うのは空しいことだというのである。
 これを聞いたダンテは、余計な好奇心を起こす。
 「師よ」と私は言った。「もっと教えてください。
あなたが今話された運の女神(フォルトゥーナ)とは、
世の富を両の鉤爪(かぎづめ)に抱えるその女神とは、いったい何なのですか」
(67‐69行、141ページ) これに対し、ウェルギリウスは次のように答えて、フォルトゥーナが何者であるかを語りはじめる。
 すると彼は私に言った。「おお、愚かな者たちよ。
どれほどの無知におまえらはむしばまれていることか。
(70‐71行、同上) 古来、フォルトゥーナは、善禍を偶然に、しかもしばしば不当に割り当てる目隠しをした女神や怪物として想像されてきた。ダンテの問いは、この古くからの通念を踏まえたものである。これに対して、ウェルギリウスは人々がフォルトゥーナを邪悪な力として表面的にとらえ、誤った迷信におちいっていることを指摘し、真の姿は違ったものであることをダンテに告げる。
 神は地球を取り巻く(『神曲』の世界はプトレマイオスの天動説に従って構成されている)9つの天球のそれぞれに9種類の天使の集団を割り当てた。
それと同じくこの世の富にも
これを司りこれを導き総べる管理者を据えられた。
(77‐78行、142ページ) フォルトゥーナこそ、この管理者であるという。

 ある人々は栄えに栄え、他の人々は萎えていくが、
その判断は、草のなかにかくれた蛇のように、
どこにあるかわからない。
 お前たちの知では彼女に敵わぬ。
彼女は先を見越して手はずを整え、判断を下し、他の神々[天使たち]が
自分たちの王国[天]を支配するように、自身の王国[地球]を司る。
 彼女は休む間もなく変化する。
すばやく在るほか存在し得ないからだ。
境遇の変わってしまう人が多々あるのも、このためである。
(82‐90行、142ページ) 彼女は人々から超越した存在であるという。
 余談になるが(既に一度紹介したことがあるが)、ダンテより200年ばかり後のフィレンツェ人であるマキアヴェッリは彼の「君主論」第25章で次のように言っている。
La fortuna è donna, ed è necessario, volendola tener sotto, batterla ed urtarla.
(運命は女だから。組み伏せたいと思ったら、叩きのめしてでも自分のものにする必要がある。)
 運命に対する見方が時代とともに変遷し、運命には積極的に立ち向かおうという考えが有力になってきていることがわかる。

 説明するうちに、時間が過ぎていることを知ったウェルギリウスは先を急ごうとする。
 われわれはその輪[第五圏]を横切り、反対の岸の
一つの泉の上に出た。泉は沸き立ち、
泉によってできた一つの堀へと水が流れ込んでいた。
 水は紫紺よりもはるかに暗かった。
われわれは黒く濁った流れに沿って
下り、荒涼とした道へと分け入った。
 この陰鬱な渓流はおそろしい灰色の
崖の下に落ちて、ステュクスという
名の沼に流れ込む。
(100‐108行、143ページ) ステュクスは「憎悪(嫌悪)、おぞましさ、陰鬱、悲しみ」を意味するギリシア語のstykosに由来する。ギリシャ神話では冥界を七巻きして流れる川であるという。泉とか、川とか言っても、清らかで澄んだ流れではないことは明らかである。というよりもむしろ、泥沼で憤怒の心を抱いた霊が、その怒りを鎮めないままに過ごしていた。

 かくして私たちは、泥をほおばる者たちを見わたしながら
乾いた岸辺と泥の間を進んだ。
きたない沼が描く大きな弧をめぐるうちに、
 やがて、私たちはある塔のふもとに着いた。
(127‐130行、144ページ) さて、まだ地獄の第5圏での経験は終わっていない。これから何が起きるかわからないということで、読者の気持ちを引き寄せながら、第7歌は終わっている。 

 『神曲』の描くダンテの異界旅行は復活祭に向けて展開されるもので、クリスマスには似つかわしくないかもしれないが、私はキリスト教徒ではないので、成り行きに任せることにした。とはいえ、来週の火曜日は元日なので、たぶん、次回は水曜日である2日に取り上げることにするつもりである。

『太平記』(242)

12月24日(月)曇り、時々雨

 暦応2年(南朝延元4年、1339)、越前では南朝に味方する武士たちが勢力をとり戻し、新田義貞の弟脇屋義助を大将として、足利方の越前守護である斯波高経の拠る足羽の黒丸城を包囲、高経は加賀へと落ち延びた。驚いた京都の足利方は、高師治、土岐頼遠、佐々木(六角)氏頼、佐々木(塩冶)高貞らを北国へ向かわせようとした。
 このころ、足利尊氏の執事である高師直は、病気で静養していたが、病中の慰みにと、琵琶法師の演奏する平家物語を聞き、その中に登場した源三位頼政が鵺退治の恩賞といて後宮に仕えていた菖蒲という美女を頂いたという話を聞き、自分もそのような美女を手に入れたいと言い出す。すると、師直のもとに出入りしていた侍従と呼ばれる老女房が宗尊親王の孫にあたる女性が絶世の美人であるという話をする。興味を持った師直が、その女性がどうしているかを尋ねると、地方の大名である塩冶高貞の妻になっているが、結婚してもなおその美貌は衰えないという。いよいよ思いを募らせた師直は、侍従にその女性とあって思いを遂げたいので、仲立ちをしてくれと頼む。しきりにせがまれて困った侍従は高貞の妻に事情をうちあけて、一晩だけのことならば表沙汰にもならないだろうと懇願したが、高貞の妻は聞き入れる様子もない。

 「錦木の千束(ちづか)を重ねば、人の心の奥もあはれと思し知る事もやと」(第3分冊、441‐442ページ、むかし奥州の夷が求愛のために錦木=五色に彩色した一尺ほどの木を毎日女の家の門に立て、それを千日続けると、女が求愛に応じたという例もあるので、まいにち通い続ければ、相手の気持ちも変わるだろうと)侍従は高貞の妻のもとに通い続けた。わたしに苦労を負わせ、酷い目にあわせておいて、後になってから可哀そうなことをしたなどと同情されても、割に合いません。御身分のある方にふさわしく、それなりの御返事をされた方がよかろうと思いますと、恨めし気に言上する。ここまで言われ続けると、高貞の妻も見過ごしてはいられなくなり、どうも気味が悪いことだ、なまじ気を持たせるような言葉をかけてしまうと後が面倒なことになりそうだと、相手が相手だけに困った様子を見せた。現代風にいえば、ストーカーに遭いかけているのだが、そのストーカーというのが、自分の夫よりも権力を持った人物なので困るのである。

 侍従が師直のもとにやってきて、これまでの次第を報告すると、師直はいよいよ思いを募らせてしまい、「度重なれば、情にほだされるということもあるだろうが、まず、手紙を書いてみよう」と、(彼の取り巻きで)兼好という名の能書で知られる遁世者を呼び寄せて、紅葉重ねの薄様の紙(表が赤、裏が濃い赤の上質紙)に取る手に香が移るほど香を焚きしめた懐紙を折り返しては、黒くなるほど文字を書き連ねた手紙を届けさせた。
 今か今かと返事を待っていると、侍従がすぐに戻ってきて、手紙をお渡ししたところ、手に取られたとは言うものの開けることもなさらずに、庭に捨てられてしまったのを、人目については大変だと拾って、戻ってまいりましたと復命した。
 師直は大いに機嫌を損じて、いやいや物の役に立たないのは手書き(能書家)とか申す輩である。本日から、兼好法師は出入り差し止めだと大いに怒った。『徒然草』の作者もとんだ災難である。

 そうこうするうちに、師直の家来の薬師寺公義という武士が所用があってやって来た。武蔵守である師直の、武蔵における守護代で、また歌人であった(第16巻では、湊川の戦において、楠正成に攻め立てられて足利直義が危地におちいったときに、救出した剛勇の武士でもある)。師直が、文を送ったのだが、なびく様子がない女がいるのだが、どうすればいいのだろうと相談すると、公義は人間というものは木石と違って情というものがあるので、詩歌には心を動かされるものです、もう一度文を送って御覧なさいと、今度は彼が師直に代わって文を書いたのだが、言葉はなくて、
 返すさへ手にふれけむと思ふにぞわが文ながらうちも置かれず
(読まずに返された文でさえ、あなたの手に触れたろうと思うと、わが文ながら捨てておかれず(前掲、443ページ、もう一度差し上げる次第です)。この歌は、公義の家集である『元可法師集』に収められているという)
 そこで侍従がこの文をもって高貞の妻のところに出かけると、彼女は今度は何と思ったのか、歌をつくづくとみて顔を赤らめ、懐に入れて立ち去ろうとしたので、侍従は袖を引いて引き留め、「さて御返事はいかに」というと、「重きが上の小夜衣」(前掲、444ページ)とだけ言い捨てて、部屋の中に入っていった。

 侍従は師直のもとにもどって、事の次第を伝える。師直は、思案に暮れて、「これはどういう意味であろうか」と、薬師寺に問うと、公義は、「これは新古今和歌集十戒の歌に、
 さなきだに重きが上の小夜衣わが妻ならぬ妻なかさねそ
(ただでさえ夜の衣は重いのに、自分のものではない褄(妻)を重ねてはいけない、『新古今和歌集』釈教、寂然法師の歌)
という歌の心をとって答えたものです。これは心はなびいているけれども、人目ばかりを憚っているということだと思います」と答えた(高貞の妻は自分は人妻だから、あなたの相手になりたくありませんという意味で言ったのであろうが、公義は師直の意を迎えて言いつくろっているのである)。師直は大いに喜んで、御辺は弓矢をとっては大変な勇者であるが、歌道もまた達者であったか。引き出物を進ぜようと、黄金づくりの団鞘(まるさや)の太刀一振りを自分で取り出して、公義に与えた。兼好の不運、公義の幸運、栄枯逆転の場面である。

 二条派の四天王に数えられるほどの歌人である兼好と、地方武士の薬師寺公義では歌人としての格の違いがあるはずなのに、ここでは兼好の惨敗である。昨年刊行された小川剛生『兼好法師』(中公新書)に、この記事についての詳しい分析があるので、その要点を紹介してみると、「兼好が師直のもとに出入りしていたこと以外は…虚構」(小川、148ページ)だとはいうものの、当時の武士に対して、艶書の書き方を教示するという役割も果たすくだりであるということである。
 「師直の艶書の料紙の『紅葉重ねの薄様』とは、表は紅、裏は青の薄い斐紙のことであるから、いかにも趣味が悪い。そして触れた手までが匂うほど香を焚きしめたのは明らかに行き過ぎで、しかも相手に初めて思いを伝えるときは歌だけで足りるのに文を「引き返し引き返し黒み過ごして」(散らし書きにするので長い文章だと紙面が黒く見えるのである)記したのは論外である。要はしてはいけないことをすべてしたのである。(「紅葉重ねの薄様」については複数の解釈があると岩波文庫版の脚注で触れられているが、先に述べた兵藤裕己さんの解釈と、ここで述べた小川剛生さんの解釈が違っていることにも注目しておいてほしい。)
 この逸話は当時の艶書がどのように製作されて受け取られるものであったか――艶書でさえきちんと様式化されていなければならないことを前提とする。作法を無視するものは受け取ってもらえないばかりか物笑いの種となる。了俊や良基が文章だけの艶書はかえって難しいとするのも留意すべき一つのポイントで、文で失敗した兼好と歌で成功した公義との明暗もここに収斂する。」(小川、150ページ)
 この話で、兼好は師直から出入りを禁止されてしまうが、小川が紹介しているところでは、『園太暦』の貞和4年(1348)12月26日条に兼好が師直の使者としてこの日記の記者である洞院公賢のところに、やってきて正月の幕府沙汰始の際の衣装のことを尋ねたという記事が出ているよしである。だから師直と兼好の関係は切れていない。基本的に兼好は公家と武士との間にあって、そのつなぎ役のような役割を果たしていた存在であり、武士であるとともに一流の文化人であった今川了俊や、摂関家の当主であり、一流の文化人でもあった二条良基よりも少し先の世代で、良基や了俊に様々な知識を伝授した側であるから、この種の失敗をするわけがないのである。

 この逸話は、兼好が文武の達人で、南朝の忠臣として後醍醐天皇を助けて活躍したという近世兼好説話の作者や読者たちからは排斥されたが、兼好が高師直の側近であったという歴史的事実だけは反映しているのである。そもそも、高師直が塩冶高貞の妻に横恋慕したというのは歴史的事実ではなく、いわば「艶罪(冤罪)」だということに目を向けるべきであった。しかし、そんなことはおかまいなしに、『太平記』は師直を悪役に仕立て続ける。そのための作り話はまだまだ続く…。

日記抄(12月17日~23日)

12月23日(日)曇りのち雨が降ったりやんだり

 12月17日から本日までの間に経験したこと、考えたこと、これまでに書いた記事の補遺・訂正等:

12月17日
 『朝日』朝刊に「『雑種』こそ日本の個性」と題して、加藤周一(1919-2008)の雑種文化論を再評価する村山正司記者による記事が出ていた。縄文・弥生という昔にさかのぼって考えてみても、日本の伝来の文化が一元的なものかどうかも疑ってかかる必要があると思うが、そういう考古学的な事実にもかかわらず、日本の思想には、外来の影響を受けない「基層」の部分があるはずだという議論もある。改めて、加藤の『雑種文化』を読み直してみようと思った。

12月18日
 『日経』朝刊の「やさしい経済学」というコラムに、阪大の吉川徹教授が『学歴と人生の格差』という文章の連載を始めた。第1回の今回は、4年制大学進学率が今後は同年代の半数を上回るという予測があるとはいうものの、 「大卒と非大卒はほぼ同じ比率、むしろ非大卒層の方が少し多い」という状態が続くだろうという基本的な統計を示している。まずは、この事実を踏まえて議論を立てるべきだというのが吉川さんの主張である。

12月19日
 NHKラジオ『実践ビジネス英語』の”Quote...Unquote"のコーナーで紹介された言葉:
I found your essay to be good and original. However, the part that was original was not good and the part that was good was not original.
    ―― Samuel Johnson (English lexicographer and author, 1709 - 84)
(あなたのエッセイやよく書けていて、独創的だと思った。しかしながら、独創的な部分はあまりよく書けていなかったし、よく書けている部分は独創的ではなかった。)
 よくある話である。

12月20日
 中島恵『日本の「中国人」社会』(日経プレミアシリーズ)を読み終える。新しく日本に住み着いてきた中国人を対象とするルポルタージュで、中国で加熱している受験熱についての記述や、その日本への波及など新たに知ったことも少なくない。

 『NHK高校講座 音楽1』では日本各地のわらべ歌・民謡について取り上げた。とくに音階やリズムについて説明した箇所が興味深かった。

12月21日
 『実践ビジネス英語』の”Quote...Unquote"のコーナーで紹介された言葉:
In this world nothing ccan be said to be ertain, except death and taxes.
     ―― Benjamin Franklin
(U.S. statesman, diplomat, inventor and scientist, 1706 -90)
(この世で確実だといえるのは、死と税金だけである。)
 税金が正確に徴収されるものだと認識される時代は、いい時代であるのかもしれない。このフランクリンの言葉よりも、ラ・ロシュフコーの「太陽も死も直視できない」という言葉の方が心に染みるような気がする。

 『NHK高校講座 古典」は『枕草子』の3回目。第25段:「すさまじきもの」の前半。ここで「すさまじ」というのは期待が裏切られた違和感のようなものを表現する形容詞だという(アイヴァン・モリスの英訳では”Depressing things"と訳されている)。『枕草子』にはこのように、物尽くし的な章段がいくつかあるが、そのすべてが清少納言の独創というわけではなく、中宮定子の周囲にいた女房たちのおしゃべりの中で出てきたものが筆録されたのではないかという。定子は明るい人柄で、その周囲に形成されたサロンも賑やかで才気に満ちたものであったようである。その後、定子の父道隆の弟、道長が娘の彰子を入内させ、その周囲に紫式部を初めとする女房たちを集めたのだが、定子のサロンに比べると年長者が多く、どうもどんくさい感じだったという。

 同じく『国語総合』は『徒然草』。三大随筆といわれる文章のうち2編が1日のうちに取り上げられることになった(『方丈記』も「古典」で取り上げられたことがある)。第1回目の今回は第51段「亀山殿の御池に大井川の水をまかせられんとて」、付近の住民たちに水車を作らせたのだが、うまく動かない。そこで水車づくりに定評のある宇治の人々につくらせたところ、役に立つ水車ができたという。この話は私も高校時代に授業で習った記憶がある。何事も専門の人たちの知恵と経験を尊重すべきだという教訓を含んだ話は『徒然草』には多い。

12月22日
 『日経』朝刊の「日本史ひと模様」は黒田官兵衛を取り上げた。関ケ原の戦いの際に、中津城にいた官兵衛(如水といった方が感じが出るが)は、それまで貯えていた金銀を全部はたいて、浪人を召し抱え(その中に宮本武蔵がいたという話もあるそうだ)、西軍の大友義統と戦い、勝利した。この連載の執筆者である本郷和人さんも書いているが、このあたりの経緯はまことにかっこいい。黒田如水については、吉川英治、松本清張、司馬遼太郎の3人が取り上げているし、大佛次郎が後藤又兵衛の半生を描いた『乞食大将』にもその姿は活写されているほかに、鷲尾雨工の描いた如水も忘れがたい印象を残す。それぞれの作家が、それぞれの個性で、自分の一番気に入っている如水の姿を切り取って描いている…というところに、彼の魅力の多面性がうかがわれるのである。

 横浜駅西口、JOINUSの地下道に、クリスマス用のお菓子のワゴンが並び始めた。

 インフルエンザの予防注射の予約をしていたのだが、クリニックに行こうとしたら、バスが遅れてなかなか来ずに、時間に間に合わなかった。さて、どうするか。年末が各種の薬がなくなる時期と重なっているので、なかなか大変である。

 『NHK高校講座 古典』は『枕草子』の4回目。「すさまじきもの」の後半。毎年、春になると地方官の人事(除目)が行われる。今年はどこかに赴任することになりそうだという噂がたてられた中級貴族の家には多くの関係者が集まるが、なかには、まてども待てども音沙汰がない…結局今年はだめだったという場合もあり、それが「すさまじきもの」の典型例として挙げられている。これは清少納言の父の清原元輔の境遇が織り込まれているというのが通説のようである。元輔はかなり長生きをして、70代も後半になってから肥後守になって任地で死去する。熊本には元輔を祀る清原神社があるそうである。元輔が優れた歌人であったために、作歌が得意ではない清少納言はかなり引け目を感じていたという話である。

 同じく『国語総合』は『徒然草』の2回目。第89段「奥山に猫またというものありて、人を食ふなる」を取り上げた。猫またという怪獣は山奥ばかりでなく、人里近くでも甲羅を経た猫が猫またになったのが出てくることがあると聞いた、臆病な法師がいた。ある晩、連歌の会の帰りに遅く帰ってくると、何者かに襲われたので、近くの川に転げ込んだ。大声で助けを呼んで、助け上げてもらい、這う這うの体で家に帰ったのだが…猫またと思ったのは自分の飼っている犬が、主人が戻ってきたので喜んで、飛びついてきたのであった。講師の先生は、ここに出てくる小川は「こがわ」という実際にあった川で、固有名詞であると説明していた。この法師が行願寺の近くに住んでいたということについては詳しく触れなかったが、現在革堂と通称されている行願寺(西国三十三番 第十九番札所)は、今は中京区寺町通竹屋町上るにあるが、むかしは京都御苑の西側の一条小川(こがわ)にあったという。今でも旧所在地付近には革堂町、革堂仲之町、革堂西町という地名が残っているそうである。この章段は高校時代に古文で勉強した記憶があるが、行願寺には京都に住んでいたころに何度も出かけているので、新たな関連を見つけたことで、また親しみがわいてきたのである。

12月23日
 第1062回のミニtoto Aが当たった。今回もA(ドイツのゲーム)をあてて、B(イングランドのゲーム)は外している。そのうちイングランドのゲームをあてることもあるだろう。

 田中啓文『えびかに合戦 浮世奉行と三悪人』(集英社文庫)を読み終える。この小説については機会があれば取り上げることにする。 
 

小松左京『やぶれかぶれ青春記・大阪万博奮闘記』(7)

12月22日(土)曇りのち雨

 この書物は太平洋戦争下と戦後の混乱期で過ごされた著者の旧制中学・高校時代の回想を描いた第1部「やぶれかぶれ青春記」と、1970年に大阪で開催された「万博」へのかかわりを綴った第2部「大阪万博奮闘記」から構成されている。まとまりは悪いが、それが多面的・多角的に活躍した文化人・小松左京の全貌を少しでも多く知らせるために必要な編集方針の結果だったようである。
 そしてその第2部はまた、万博終了直後に書かれた「ニッポン・70年代前夜」と、1966年に国内の企業に万博への参加を奨励するために行われた説明会の講師を務めた際の説明資料であると推測される「万国博はもうはじまっている」の2編の文章から構成されている。既に、「青春記」と「70ン台前夜」の紹介は済ませたので、最終回である今回は、「万国博はもうはじまっている」、加藤秀俊による解説的な談話の筆記「小松左京と走り抜けた日々」、それに巻末の「年譜」と、私個人の小松さんへの思い出などをまとめてみたいと思う。

 「万国博はもうはじまっている」は、まず、プロジェクトを推進していくさいに、情報が集められ、それが市民に普及していくことが大切だとの強調からはじめられている。情報の開示によって、それに接した市民の知識が広がり、意識が高まり、協力や参加も得やすくなるというのである。

 では万博の場合はどうか。万博においては、「この情報の意味が”二重構造”になっている」(349ページ)ところが特徴的だという。「万国博は、それ自体が巨大な、世界的な規模の、しかも文字通り『ユニバーサル』な情報イベントである。」(同上)
 万博は目的ではなくて手段、人類のより良い明日を創るための手段であるという。だからここに、全人類の歴史の流れ、情報を集めることが重要である。万国博を一過性の娯楽にしてしまってはいけない。人類が現在直面している問題を解決していくための、「よりよき明日への知恵」(352ページ)を集める場にしなければならないというのである。

 情報に関する二重構造というのは、万博が上記のような情報の集積の場であるとともに、その『情報』の集合体の中から、さまざまな新しい情報、知恵が生み出されることが期待されるということである。これを小松さんは「文殊の知恵」効果と呼ぶ。
 「文殊の知恵」効果には2つの側面がある。一つは、そこに展示され、表現されたものによって、観客が新たな知識を得たり、経験を広げたりする啓蒙的教育的な効果である。〔ここで私は、近世の「ユートピア」思想家であったカンパネッラの『太陽の都』やアンドレアエの『クリスティアノポリス』における大衆啓蒙装置を思い出すのだが、これは独り言ということにしておこう。〕 ここで小松さんが世界の多元性や多様性、異文化の異質性の認識を強調しているのは注目すべき論点である。
 そしてそのような異質なものとの接触から自分たちの社会が直面している問題の解決のヒントを得たり、新しい問題意識を形成したりすることも起こりうる。
 そしてまた、情報の収集と集積、接触と討論が万博の組織の過程、開催中だけでなく終了後もつづいていくことによって、新しい組織や運動の発展も視野に入る。この過程において異分野の交流や協同作業が重要な役割を果たすし、それがよりよい明日の社会を作るためのスタートともなるであろう。あらゆる分野の情報を「総合」する場である万国博には、新しい可能性が秘められていると考えるべきであると主張されている。

 万博というと思い出すのは、会場を走り回っていた電気自動車であり、実験的に利用されていたテレビ電話であろうか。両者とも10年後くらいには大規模な普及を見込んでいたような記憶があるが、実用化ははるかに遅れた。未来の可能性というが、どうも未来を予測するのは難しい。小松さんや加藤先生や梅棹忠夫が始めた未来学会は、まず未来学会そのものの未来を考える必要があったような気もする。

 その加藤先生の「小松左京と走り抜けた日々」であるが、小松さんと加藤先生とが「ばかばかしい話やファンタジーを楽しむ」(369ページ)という点で意気投合したというのだが、この点では小松さんの方が何枚か上手で、そのことを加藤先生が認めるだけの頭のよさがあったと解釈すべきであろう。負けん気ばかり働かせていると、友情は形成されにくい。
 加藤先生と小松さんが知り合うようになった、また万博研究を進めていた時代というのは、私の学生時代と重なる。その後、先生の授業に出席したり、研究室に出入りしたりするようになってから聞いた話で、今回の文章との関連で書きとどめておいたほうがよいことがある。ある時、日本の社会は比較的平等な社会であるという話になって、階層による差というのはあるけれども、まあ普通車とグリーン車のようなものだといわれた。ある時、軽井沢に向かう特急のグリーン車に乗ったところ、隣り合わせたのが羽仁五郎で、大阪で開かれたハンパク(大阪万博に反対する集会)に出席してきたところだという。その後、またグリーン車に乗ったら、隣に座ったのが大川博(東映社長=当時)であった。普通車とグリーン車の違いというのはその程度のものですよというのである。以前に書いたことがあるが、日本も英国も客車が1等、2等、3等に分かれていたのだが、ある時期に英国では2等を廃止し、日本は1等を廃止した。日本では、その2等をさらになくして、グリーン車にした。

 その大川博は万博に合わせて、日本で国際映画祭を開催することに熱心であり、大阪で世界19か国から20作品(フランスが2作品)を集めて日本国際映画祭が開催された。その開会式で大川がスピーチをしたことを覚えている。またとない機会だというので、上司に頼んで職場を早引きさせてもらい、全作品を見たのだが、そのおかげで、小松さんが私を使って実行しようと思っていたプロジェクトができなくなった。まあ、仕方がないといえば仕方がないことではあった。
 私と一緒に入社したA君がSFが好きで、小松さんにいろいろと教えていただきたいと思いますと言っていたのはいいのだが、結局、作品らしいものを見せるわけでもなく、SF論を書くわけでもなく過ごしていたようである。そういう時には、何か形になったものをもって行って読んでもらうというのが大事なことではないかと思う。

 小松さんのすごさに気付き始めたのは、ずいぶん年を取ってからのことで、加藤先生と共著で有名な学者たちへの聞き書き『碩学に聞く』を、発行からずいぶん遅れて読んだ時のことであったろうか。今回、この『青春記・万博奮闘記』の付録である「年譜」を読んでいて、小松さんが京大時代に学生運動に挺身し、のちの社会主義学生同盟の前身の一つである反戦学同の結成にかかわっていることなどを知って、改めてその奥行きの不気味さというのを実感した次第である。
 ちなみに、小松さんが高橋和巳(1931-1971)と同年で、旧制中学から旧制高校を経て、同じ新制京都大学文学部(小松さんはイタリア語・イタリア文学、高橋は中国語・中国文学)に学び、同じ同人雑誌の仲間だったという話はこの書物でも取り上げられているが、1年下の学年にいたのが大島渚(法学部:政治学の猪木正道ゼミ)、さらにその2年下に山崎正和(文学部哲学科)と、周囲にも得体のしれない可能性を秘めた学生たちが将来の飛躍に備えていたのであった。
 私が小松さんの身近にいた時代に、そういう話を少しでも聞き出しておけば、私自身の人生も少し違っていたかもしれない。そういうことはあったけれども、大まかにみた場合には、小松さんの言うとおり、大阪万博はいろいろな情報というか、情報以前の人間と事物の流れが混じりあう場であったし、そこから新しい人生が芽生えていったことは確かである。

井伏鱒二『川釣り』

12月21日(金)晴れ

 井伏鱒二『川釣り』(岩波文庫)を読み終える。
 以前、岩波新書の一冊として刊行されていたのを読んだことがあるはずだが、その記憶はあまり残っていない。短編小説の傑作と言われる「白毛」を読んだという記憶だけが確かなものである。
 この本は(昔は、岩波新書でも、こういう本を出していた)表題のごとく、「川釣り」に関する詩、随筆、感想、紀行文、小説など11編を集めたものである(問題は、随筆とも紀行文とも小説とも判然としない作品が少なくないことである)。昭和27年(1952)に書かれた「まえがき」で井伏は、釣りについて初めて書いた文章である「釣魚記」と、「ある釣宿の番頭の身の上をかなり脚色して扱った短編小説」(4ページ)である「掛け持ち」の2編を例外として、あとは戦後に書かれたものであるという。
 戦後の混乱した世相の中で、釣りに出かける井伏の胸中がどのようなものであったのか、というのは興味ある問題である。「まえがき」で井伏は、作品集の中での例外となるその2編を書いた時代(つまり昭和戦前)が「大してまだ悪くない時代であったように考える。あのころの釣場々々に、私はいまだに愛着の念をもっている。」(同上)と書いているが、まだ手付かずの自然が残されていたという意味のほかに、井伏自身が若く体力にあふれていたということも言えそうである。
 ところで、井伏がそのように回想している時点(昭和27=1952年)も、今から考えるとまだ自然がよく残っていた時代だと回想できるのではないか。旅館といっても暖冷房は整っているとは言えないし、冷蔵庫はまだ氷を使っていた時代、洗濯もたらいでしていた不便きわまりない時代であったのだが、その代わりに緑は豊かだし、環境全体が野趣に富んでいる。温泉宿の浴場が男女混浴であったのを特に喜びもしないし、迷惑がりもしないというところも井伏らしいといえそうである。

 私は釣りをしない。私の中学・高校時代の親友の一人が釣具屋の息子で、よく学校から一緒に帰った。途中、同期生で釣りをするのがやってくると、しばらく釣談義が交わされ、その間、私は取り残されてしまった…という思い出が残っている。計算してみると、そのころは、井伏がこの『川釣り』を出してから、10年もたっていなかったのである。
 不思議なことに、幸田露伴、井伏鱒二、開高健と私が全集を持っている作家のかなりの部分が釣り好きである。露伴と井伏は将棋を好んだという点も共通していて、特に露伴は臨終の床で木村義雄名人が負けて名人位を失ったことを嘆いていたそうである(ところが、私は将棋も、しないのである。いよいよ不思議なことである。)

 なお、11編のうちの「手習い草子」と題する文章は、これまた11編のスケッチ風の文章を集めたもので、その中の「湯河原沖」は湯河原に住んでいた音楽家の福田蘭童のところで、海釣りをするというものだから、「川釣り」ではない話も含まれているのである。アジだのホウボウだのフグだのを釣って、大漁だといって蘭童の家に引き上げ、蘭童夫人が料理した釣果を食べることになる。お気づきの方もいらっしゃると思うが、福田蘭童の夫人は女優の川崎弘子である。そして、川崎弘子は井伏の小説「四つの湯槽」の映画化である『簪』(1941、松竹、清水宏監督)に出演している。だからそういう話が出てきてもいいと、私などは思うのだが、まったく出てこない。たぶん、井伏はそんなことには興味がなかったのだろう。釣りに熱中していると、そこから自然や人間界のいろいろな様相が見えてくる。その代り、目に入らなくなるものも出てくる。そういう見える世界と見えない世界の落差が強く感じられる、 関心と無関心が奇妙に入り混じっているのも、井伏文学の特徴ではないかと思うのである。

 自分の関心のないことに付き合わされるのは迷惑この上もないことである。しかも、井伏が釣り場を求めてあちこちを移動している(かなり広い範囲で釣りをしているといっても、主に取り上げられているのは彼の郷里の広島県東部とか、一時疎開していた山梨県とか、伊豆半島とか、かなり限られている。しかし、行く先々で名人を探し出し、教えを乞うのは見習うべき態度である)。
 そうして彼が歩き回ったのは、戦後間もない、結構物騒な時代の話である。井伏の実際の体験がどのくらい反映しているのかわからない「片棒担ぎ」という小説。語り手は、4月1日のヤマメ漁の解禁日を待ちかねて、温泉宿に泊ったところ、男女2人連れの客と口を利くようになる。ところが、その翌日になって刑事が訪ねてきて、男の客というのが金庫破りをして捕まったのだといい、女のほうの身柄を確保したいが、その顔つきを知っている人物がほかにいないので、捜索に協力してほしいという。とんだ迷惑で、語り手は女を尾行する刑事に引っ張りまわされて、いつまでたっても釣りに出かけることができない。迷惑しているにしては、観察眼を働かせているのが面白いところである:「たぶん女はタクシー申込所からの電話で、男が路上で捕まって警察に連れて行かれたことを確かめたのだろう。次に果物屋の電話では、男が警察で取り調べられていて、共犯の有無をまだ白状していないことを知ったのかもわからない。この町から逃げないで蒲焼など注文しているところを見ると、第三者のように振舞って何かの手を打とうとしているのだろうと思われた。」(169ページ) 同情しているようでもあり、突き放しているようでもある、男女への距離の置き方が作者の心情と共鳴しているようにも思われる。

 そうかと思うと、「ワサビ泥棒」は民話風に語られている。とはいうものの、ここでも対象となる事件や登場人物(および動物)への距離の置き方に作者の気持ちを読み取ることができる。釣り好きの老人が、釣りに出かけてワサビ泥棒の現場に遭遇する、村の人たちに知らせて泥棒を捕まえるというだけの話なのだが、途中でコミックリリーフとして狸が出てくるところなどに、井伏らしさを感じる。「狸はワサビ自体を食べに来るわけでなく、沢ガニや、ムカデのような虫が出て来ます。ときたま、サンショの魚も小石の間に潜んでいます。狸はそれが大好物と見え、人げのないのに乗じ一家眷属こぞって石をひっくり返しにやって来ます。それを撃退するために案山子を立てておくのですが、ややもするとその案山子を侮ってワサビ沢を荒らします。」(36‐37ページ)
 泥棒の被害を受けたワサビ沢の所有者に同情するというよりも、せっかく育ったのにワサビの価値を知らない、泥棒に盗まれようとしたワサビの方に同情しているような書き方であるのがこの作者らしい:「――みんな発育のいいワサビでした。もはや茎の頭に四弁の花をつけておりました。総状花序に排列した可憐きわまる乳白色の花なのです。」(47ページ)

 自分の興味があるもの、同情を寄せているものに対する詳しい描写と、そうでないものに対する大まかだったり、投げやりだったりする描写をつなげながら、小説も随筆も書かれている。井伏の釣の師匠は釣りについてまったく興味のない私でもその名を知っている佐藤垢石だということで、一流は一流を知るということかなと思ったりもする(なお、解説を井伏の釣の弟子を自称する俳人の飯田龍太が書いている)。しかし、奥入瀬川の釣の案内をこの地の名人といわれる板垣金作という人物に頼むのだが、金作じいさんの方言があまりにもきつくて、釣りがうまくいかない。すべての場合に、人間と人間のあいだに適切な距離が成立するとは限らないというのは、喜劇でもあり、悲劇でもある。そのことを釣りに託しながら、井伏は語っているように思われる。

夜行最終急行列車

12月20日(木)晴れ

夜行最終急行列車

まだ最終電車には 間に合うはずだと
酔いをさましながら 駅の階段を 上がっていくと
背後に 先を急ぐ
どよめきと足音とが聞こえた
 
ホームには夜行寝台急行が止まっていて
これが西の国に旅立つ
最終列車だという
このホームは上り線で、
列車は東に向かうはずだと、心の中でつぶやく

ぼくの背を押して階段を駆け上り、
ぼくを押しのけてホームを走っていった
人々は、争って 寝台急行に乗り込んだ
ひとり分の寝台を、二人、三人が争っているのが見えた。

そしてゆっくりと、ゆっくりと、
まだ飛び乗ってくる乗客を待ち受けるかのように
急行列車は駅から離れていった。
窓の中に見える顔の苛立ち、怒り狂った顔が
次第に輪郭を失い、ぼんやりと見えるようになっていった。

列車は闇の中に消えた。
ホームも闇の中に消えた。
駅も闇の中に消えて、
ぼくはわけもわからず立ち尽くした。

あくる日、どうやって帰ったのかはわからないけれど、
ぼくはアパートで目をさまし、
最寄り駅で電車に乗って、
またその駅で降りた。
闇の中に消えたはずの駅は
ちゃんと建っていて乗客を送り迎えしていた。
夜行最終急行列車のことなど、だれも噂してはいなかった。

トマス・モア『ユートピア』(32)

12月19日(水)晴れ

 1515年、イングランドの法律家であったトマス・モアはイングランド国王ヘンリーⅧ世の命を受けて、カスティーリャ国王との外交交渉を行う使節団の一員として、フランドルに渡った。交渉の中断中に彼は、アントワープの市民ピーター・ヒレスと親しくなる。ある日、ピーターはモアに世界中を旅してきたというラファエル・ヒュトロダエウスという人物を紹介する。ラファエルは戦争と領主たちの収奪により、人々が窮乏にあえいでいるヨーロッパの事態を批判し、これまで彼が見てきた中ではユートピアという島国の制度がいちばん優れているといい、ピーターとモアの要請に応じて、ユートピアの様子を語る。
 ユートピアの人々は全員が(一部の例外を除いて)働き、私有財産というものをもっていない。人々は質素な暮らしをしているが、そのため国庫には非常時に備えて豊かな物資と財宝が蓄えられている。死刑はめったに執行されず、その代わりに罪人は奴隷として労働に従事させられる。

 ユートピア人たちは自分たちや友好国が侵略されたときには、自衛のための戦争を行うが、流血によってではなく、知性を働かせて勝利することを重視する。戦争が行われる際には、貴顕をできるだけ避けようとする。そこで、戦争が開始されると、敵国内にひそかに忍び込んで、要所要所にビラを貼りだす。そのビラには相手国の君主やその側近の重要な人物を名指して、彼らを暗殺したものには莫大な褒賞を与えると記されている。また指名された人物に対しても、自分たちの国を裏切ってユートピアに寝返れば、特赦と褒賞を与えるといって切り崩しを図る。このような工作によって、敵国の指導部の間に内訌が起きることがしばしばである。「賄賂はそれほど簡単にあらゆるたぐいの犯罪をやらせるものなのです。」(澤田訳、207ページ)

 「敵の首に賞金をかけたり買収したりする、こういう風習は他の民族のあいっでは堕落した心から出る残酷な行為だとして非難されますが、彼らは、こうすれば一回の戦闘も交えずに危険な戦争を終結させられるのだから自分たちは大いに賞賛されてよく、また非常に賢明にふるまっていると考えており、さらに、少数の犯罪人を殺すことによって、戦っていたら殺されていたはずの多くの敵、味方の無辜の生命をあがなうのだから人道的であわれみ深い行動だと考えています。彼らは敵の一般大衆を自分のところの市民とほとんど同じようにかわいそうに思っているわけです。というのは、そういう大衆は自分たちから進んで戦争を始めたのではなく、君主たちの狂気のおかげでそうするようにかりたてられたということを彼らは知っているのです。」(澤田訳、207‐208ページ)
 戦争に際して、君主のような指導層と、それに追随せざるを得ない大衆とを分けて考えるというのは注目に値する考え方である。ところで、「彼らは敵の一般大衆を自分のところの市民とほとんど同じようにかわいそうに思っているわけです」という個所は平井訳では「ユートピア人は、自分の国のそれと同じく、敵国の下層庶民階級に憐憫の情を禁じ得ないのである」(平井訳、149ページ)となっていて、この2つの訳は微妙に違っている。
 平井訳のもとになっているロビンソンの英訳では
For they do no less pity the base and common sort of their enemies' people, than they do their own
ターナー訳では
for they feel almost as much sympathy for the mass of the enemy population as they do for their own. (Turner, pp.111-112、というのは、彼らは敵国の大衆に対し、彼ら自身の大衆に対するのと同じくらいの同情を感じているからです。)
ローガン&アダムズ訳では
They pity the mass of the enemy's soldiers almost as much as their own citizens (Logan & Adams ,p.87、彼らは自分たちのシミたちとほとんど同じくらいに敵の兵士たちの一群に同情しているのです。)
 実は原文を見つけられなかったので、何とも決めかねているのだが、澤田訳ローガン&アダムズ訳が、ユートピアの「市民」と敵国の「大衆」と訳し分けているところに、微意を見つけ出している。『ユートピア』に描かれている社会の様子のすべてが、モアの理想社会の反映であるとは信じがたいが、少なくとも、この個所、戦争で苦しむことになる大衆の利益をまず第一に考えるべきだという考えは、モアの本音が出ていると私は思うのである。
 というのは、モアはエラスムスへの書簡の中で、ユートピアには大衆というものがいない(つまり、ほかの国々では大衆に相当する人々は、ユートピアでは自覚した市民である)と書いている。「どこにもない国」という意味での「ユートピア」を「理想社会」としての「ユートピア」たらしめているのは、このモアの信念である。

 敵の陣営の内紛を引き起こすような工作が、奏功しないとなると、「君主の兄弟か貴族のだれかひとりが王権獲得の望みをいだく王に(敵の内部に)分裂の種をまきます。」(澤田訳、208ページ) モアの時代は、ヨーロッパの各地で王位をめぐる紛争は絶えず、それが戦争に発展することもまれではなかった。例えば、モアが幼少であった(まだバラ戦争が続いていた)1483年にはシェイクスピアの歴史劇で有名なリチャードⅢ世がエドワードⅤ世を廃して、王位についている。
 ユートピア人たちは、金ならば有り余るほどもっているので、反乱者たちを支援するために金ならばいくらでも出すが、自分たちの国民を兵隊として派遣することは嫌がるという。「それだから彼らはありとあらゆるところから、兵隊を雇ってきて戦争に行かせますが、とくにザポーレート人たちのあいだから雇ってくる場合が多いのです。(澤田訳、209ページ) ザポーレートの「ザ」はギリシア語の強意語で、ポーレートは「売る人」、したがって、「何でも(自分自身を含めて)売る人」という意味だと注記されている。当時、ヨーロッパで傭兵として悪名高かったスイス人が意識されているというのがほぼ共通の認識である。実際にモアの本文にエラスムスとピーター・ヒレスが付けた見出しには、「スイス人とあまり違わない民族」と記されている(澤田訳、同上)。
 「このザポーレート人はユートピアの東500マイルのところに住んでおり、野蛮、粗野、凶暴で、自分たちが育ってきた険しい森林、山岳地方を好んでいます。彼らは、ねばり強い民族で、暑さ、寒さ、労働に耐え、奢侈品などはひとつも持たず、農耕には興味がなく、住居や衣服のことをかまわず、ただ牧畜にだけは関心を示しています。彼らは生活の糧の大半を狩猟と略奪から得ています。戦争のためにだけ生まれてきた彼らは、いっしょうけんめいそれに参加する機会を求めており、その機会に出くわすと熱狂してとびつき、大群をなして故郷を離れ、兵隊を求めている人があればだれにでも安く身売りをするのです。」(澤田訳、同上) スイス人が読んだら、怒り出しそうな記述で、そのためであろうか、1518年にスイスのバーゼルで出版された『ユートピア』ではこの見出しが省かれているという。彼らはより大金を出す雇い主を求めて転々としているので、ユートピア人にとっては利用しやすい傭兵である。ザポーレート人以外にもユートピア人はできるだけ外部の軍事力を使って戦いを進めようとして、自分たちは出馬しようとしないという。しかし、どうしても出兵しなければならないときになったらどうするか…という話は次回に紹介することにしよう。

ダンテ・アリギエーリ(須賀敦子・藤谷道夫訳)『神曲 地獄篇(第1歌~第17歌)』(7‐1)

12月18日(火)晴れ

 1300年4月4日、ダンテは「暗い森」に迷い込み、進退窮まった所をローマ時代の大詩人ウェルギリウスの霊に救われる。ウェルギリウスは、ダンテに自分とともに地獄、煉獄を、「私よりふさわしいたましい」に導かれて天国を歴訪するように説く。自分には荷の重い仕事であるといったんは躊躇したダンテであるが、天国の貴婦人たちが彼の魂を救うためにこの歴訪を思いついたのだと聞いて、旅立つ決心を固める。(第1歌、第2歌)
 地獄の門をくぐった2人は、生きているうちに目立ったいいことも悪いこともしなかったたましいたちが、天国からも地獄からも受け入れられずに、空しく走り回っているのを見る。また地獄に堕ちる魂たちが、悪魔カローンの操るアケローンの川の渡し船に急いで乗り込んでいるさまを見る。(第3歌) 次に彼らはウェルギリウスの魂のもともとの居場所であるリンボを訪れる。そこでは、洗礼を受けないまま死んだ嬰児たちのたましいと、正しく生きたが異教徒であったために地獄に置かれる魂たちが静かに時を過ごしていた。(第4歌) 2人は続いて、地獄の第2圏に到着する。そこでは生前、愛欲の罪を犯したたましいたちが暴風に吹かれて漂っていた。ダンテは、それエラのたましいの中の一人であるフランチェスカから、彼女の義理の弟であるパオロとの悲恋の次第を聞く。(第5歌) 地獄の第3圏に達した彼らは、食悦の罪の罰を受けているたましいを見る。彼らの中の、生前チャッコと呼ばれていたフィレンツェ市民がダンテに話しかけ、フィレンツェ市で今後起きるであろう党派間の闘争と、政治家たちの悲惨な運命について語った。2人は地獄の第4圏に達し、悪魔プルートーに出会った。(第6歌)

 プルートーは地上で語られているのとは違う言葉で、彼らに話しかける:「パぺ・サタン、パぺ・サタン、アレッペ!」(第1行、138ページ) 翻訳者はこの言葉をプルートーの地獄の神サタンに対する賞賛と礼賛と受け取っている。そこから、プルートーがさらに話を続けようとするのを、ウェルギリウスはさえぎる。2人の旅は、神意によるものであり、悪魔に邪魔されるようなものではないという。
 風をはらんだ船の帆が
マストが折れると、もつれて落ちるように、
酷い獣[プルートー]は地に倒れた。
(13‐15行、138‐139ページ) 山川丙三郎は次のように訳している。「たとへば風にはらめる帆の檣(しょう=帆柱)碎けて縺(もつ)れ落つるごとく、かの猛き獣地に倒れぬ」(47ページ) 帆が折れた帆柱にもつれて倒れる。このように非現実の出来事を描くのに、現実世界の出来事を比喩として用いるのが、ダンテの得意とする技法である。

 このようにしてわれわれは第四の崖に降り、
宇宙の悪をすべて容している
苦患の懸崖をより深くたずねて行った。
(16‐18行、139ページ) ダンテの目には、地獄がこの世の悪を詰め込むゴミ袋のように映る。この個所は山川訳では「かくして我等は宇宙一切の悪をつゝむ憂ひの岸をすゝみゆき、第四の坎(あな)に下れり」(47ページ)となっている。

 おお、神の正義よ! 私の見た新たな
苦しみと痛みを、いったい誰がこれほどかき集め得ようか、
われわれの罪はどうしてこれほどわれわれを損なうのか。
(19‐21行、139ページ) 
 地獄の第4圏の様子はというと、
・・・
ここの人々も円[渦]を描きながら踊りくるっていた。
 ここには他の圏よりもはるかに多くの人々が見えた。
群衆はあちらでもこちらでも大きな叫び声をあげながら
胸を押し当てて重りを転がしていた。
 左右から互いに進み来て、一点でぶつかり合う。
そののち、各自は向きを変えて、後ろに重りを転がしながら
罵声を浴びせあうのだった。「なぜ貯める」「なぜ捨てる」と。
 このようにして彼らは暗い環に沿って
両方の側から互いに対蹠点まで戻っては
呪いに満ちた言葉を吐くのだった。
 環の反対側にまわって、対蹠点に
たどりつくと、みなふたたび馬上槍試合[反対側の衝突点]へと向かう。
(24‐35行、139‐140ページ) たましいたちの2つの対立しあう群れがぶつかり合って、渦を形作っている。ここに集まっているたましいたちの数は地獄の他の圏に比べて多い。そしてお互いをののりしあいながら、衝突を繰り返している。

 ダンテは、ウェルギリウスにここにいる魂たちが何者であるかを問う。たましいたちの中には頭(の頂上)を剃っているものがいるが、彼らは聖職者であったのかともたずねる。ウェルギリウスは、彼らは理性の声を聞かず、金銭について何の節度も持たなかったたましいたちであるという。ダンテの左方にいる魂たちは貪欲の罪で、右方にいる魂たちは浪費の罪でここに置かれている。彼らの数が多いこと、お互いをののしりあっていることは、このことで理解できる。頭を剃っている者たちは現世において聖職者であり、教皇や枢機卿であったものも含まれているという。

 この説明を聞いて、教皇党の政治家でもあったダンテは、ここにいる魂たちの何人かは見分けられるかもしれないという。しかし、ウェルギリウスはそのようなことを考えても無駄だという。
見境なく過ごした生活のおかげで、生前、彼らは汚れ、
いまでは、どんなみわけもつかぬほど黒くなっているからだ。
(53‐54行、140ページ)というのである。第2圏にいた愛欲の罪を罰せられているたましいたちのように、見分けがつくというのではないのである。
 永遠にこの二種の人間たちはぶつかり合う。
(55行、141ページ)とウェルギリウスはさらに言葉を続ける。永遠に≂最後の審判のときまで、彼らは衝突し続けるだろうというのである。そして地上の富が、いかにはかないものであるかに思いを致すようにダンテに言う。

 貪欲者と浪費者の衝突を描くこの第7歌は、ダンテの生きた時代の様相を象徴的に描くものであるようにも思われる。彼の時代は商工業が盛んになり、その中で資本主義が芽生え始める時代であった。金銭欲のためにこの第4圏に置かれているたましいが最も多いというところも、そのようなダンテの文学の時代性を感じさせる。もっともこの点は、現代でも変わらないかもしれない。しかし、ダンテはこの第4圏についての描写もそこそこに、この第7歌の後半では第5圏にその舞台を移しているが、それはまた次回に。
 

『太平記』(241)

12月17日(月)雨のち晴れ

 暦応2年(南朝延元4年)、越前では宮方の武士たちが勢力を挽回し、足利一族で越前守護の斯波高経の拠る足羽(あすわ)の黒丸城を脇屋義助(新田義貞の弟)を大将とする武士たちが包囲すると、高経は加賀へ落ちた。京都の足利方は高師治、土岐頼遠、佐々木(六角)氏頼、佐々木(塩冶)高貞らを北国へ向かわせようとした。
 足利尊氏の執事である高師直は病気静養中だったが、病中の慰みにと平家琵琶で、源三位頼政が鵺退治の恩賞として、日ごろから思いを寄せていた菖蒲という宮中に仕える侍女を妻として与えられたという話を聞き、自分も美女を手に入れたいという感想を漏らした。すると、元貴族に仕えていたが、没落して師直のもとに出入りしている侍従という女が、弘徽殿の西の対に住んでいる宗尊親王の孫にあたる女性の美しさは往昔の菖蒲をはるかにしのぐという話をして、師直の関心を呼ぶ。

 師直は、侍従の話を聞いて機嫌がよくなり、さて、その姫宮は今はどこにお住まいであるか、またお年は何歳ほどになっているかとたずねた。侍従は、「近頃は田舎の武士の妻におなりになったので、雲の上の存在であった昔と比べてお姿も変わり、年齢的にも美しさの盛りを過ぎてしまわれたと思っておりましたが、ある時、物詣から帰るついでに立ち寄ってそのお姿を拝見いたしますと、結婚される以前の春を待ちわびている若木の花のような美しさが、(結婚されたことで)さらに色濃く咲き誇るように変わったと見受けられました。ちょうど夜のことで、月の光があたり一面を照らす中で、南向きのすだれを高く掲げて、琵琶をかき鳴らしておいででしたが、黒髪に隠された顔の、わずかに見える眉、蓮の花のように清らかで涼しげな目元、赤い花のような唇、それを見たならば、山奥の岩屋にこもって修業をされている上人様であっても、心を惑わされるに違いないと、同性の私が見ても目を奪われるほど上品で美しく思われました。
 それにしても残念で悲しいことには、縁結びの神様のお計らいです。後宮で然るべき地位に就かれるか、あるいは天下の券を握るような人の奥方になるかというほどの美しさであるのに、そうはならないで、異国の鳩のようなものの言い方をする、夜の友ねもさぞかし武骨で田舎びているであろう出雲の塩冶判官に、先朝(ということは、後醍醐帝らしい)から下しおかれて、粗末な田舎の住まいに身をお寄せになっているのは、漢の元帝の時代に後宮に仕えた美女である王昭君が匈奴の王妃として遣わされ、胡国で生涯を終えたというのも、このようなものであったのかとお姿を見ながら感慨にふけったのでございました。」

 師直はいよいよ目を細めて、相好を崩して、大変に興味深いお話をお聞かせいただいた、まず、引き出物をお渡ししようと、美しい筒袖の衣10枚、沈(じん)の香木で作った枕を添えて侍従の前にかけ広げさせた。侍従は突然のことながら、もうかったという気分にはなったが、話を聞かせただけだというのに過分の引き出物というのはどういうことかと不審な気持ちになり、判断がつかなくなって帰ろうとした。ところが、師直が、「しばらく、大事な相談があります」と云って来たので、辞去するわけにもいかず、そのままとどまっていた。
 師直は侍従を二間四方の部屋に呼び出して、次のように切り出した。「物語の面白さに、私の病気は参じたように思いますが、その代わりに、新たな恋の病が付きまとい始めました。このような次第なので、まげてお願いします。お話に出た塩冶判官の奥方を、どんな作戦を使ってでもいいから、何とか私のものにしてください。それが実現できれば、所領でも、財宝でもなんでもあなたの思い通りのものを差し上げましょう。」

 侍従は当惑してしまった。思いもよらないことだ、問題の女性は独り身でいるわけではない。どんなふうにこの一件を伝えればいいのかと思いながら、どのように策を廻らそうとも無理でございますなどと言って、けしからんと命を奪われてしまったり、そこまではいかなくても、ひどい目にあわされたりするのも嫌だと思い、とにかく、怖くて仕方がないので、「何とか申してみましょう」とだけ答えて、帰っていったのであった。

 ニ、三日というもの、侍従は、ああしようか、こう言おうかと、いろいろと逡巡しながら考えていたのだが、師直の方は熱心で、毎日様々な酒肴などを送り届けてきて、「お返事が遅い」と急き立ててくるので、やむを得ず、侍従は塩冶の邸に出かけて、こっそりと奥方に師直の話をうちあけた。
 「このようなことを申し上げるのは、私の思慮のなさがあからさまに知られてしまうので、気が咎めてならないのですが、このようにあなたさまに思いを寄せている人物がいるということを、どのように取り計らうべきでしょうか。ほんの少しの情のお言葉で、師直の気持ちも慰められるだろうと思います。また奥方のお子様たちの将来のことを考えても、道が開けるでしょうし、だれを頼ることもできない私のようなものも、何とか世の中を渡っていくことができます。あまり度重なれば、人目に立つ心配もございましょう。しかし、一夜の共寝をするということであれば、このようなことがあったとだれが想像するでしょうか」などと、言葉を選びながら慎重に説得に努めたのであるが、北の方は思いもよらないことを聞いたというような様子で、微笑んでいるだけで、つけ入る隙を見せなかった。

 その後の展開については、また次回以降に記すことにしたい。さらにこの説話には『仮名手本忠臣蔵』をはじめとするいろいろな尾ひれがついたことについて、またこの話の史実性についても次回以降に譲ることにしたい。ここで書いておきたいのは、一つは塩冶判官がすでに『太平記』の中に登場している人物であること、それから王昭君についてである。
 塩冶高貞は第13巻に、後醍醐帝に天馬あるいは龍馬と呼ばれるきわめてすぐれた馬を献上した人物として登場する。この馬は大変な名馬であったのだが、第14巻になって中先代の乱を平定した足利尊氏が鎌倉から京都に兵を進めるときに、尾張で敵を防ごうとしていた新田義貞に対し、京都にもどれという早馬として近江の愛知川の宿まで来た時に突然病気で死んでしまう。高貞はというと、最初は宮方で義貞に従って尊氏討伐のために東海道を下ったのだが、竹下の合戦の際に、足利方に寝返って、その勝因を作る。この当時の武士の常として、情勢によってどちらにでも転ぶような武士であったように見受けられる。

 昔、中国語中級の授業を履修していたころに、同じ授業に出席していたS君が作家志望の文学青年で、彼が加わっていた同人雑誌を買わされたことがあった。それ以前から、そんな話をしていたのだが、彼の同人仲間が王昭君についての小説を書いていて、何かいい資料はないかと探しているというのである。結局、資料というようなものは見当たらなかったようだが、できた作品は胡地で王昭君が幸福をつかむというような、菊池寛の「俊寛」に似た話であった。菊池寛は京大文学部の先輩だから、同じ大学の学生らしく、同じような話を書いたということであろうか。(菊池と同じく一高に学び、同じく中退した倉田百三も俊寛についての戯曲を書いているが、これは全く絶望的な話になっているのは、倉田が大学に進学しなかったからだ――とは言えないだろうね。) 

日記抄(12月10日~16日)

12月16日(日)曇り、午後一時雨、その後は晴れたり曇ったり、落ち着かない空模様である。

 12月10日から本日までの間に、経験したこと、考えたこと、これまでの記事の補遺・訂正など:

12月10日
 福澤一吉『論理的思考 最高の教科書』(サイエンス・アイ新書)を読み終える。

 NHKラジオ『まいにちフランス語』入門編”Bon voyage"(~フランス語で旅をしよう~)は2017年4~9月に放送されたものの再放送であるが、今週は「パリ植物園」(Jardin des Plantes)での会話が内容となる。通称は「植物園」であるが、正式には「国立自然史博物館」(Muséum d'histoire naturelle)といい、動物園や庭園を含んでいる。もともとは17世紀にできた王立薬草植物園が現在の場所(パリ5区)に移動し、革命期に科学的知識が市民に広く開放されることを目指して拡充され、動物園なども含む研究機関として再出発したものである。一般に公開されたのは1793年、動物園の開園は1794年である。動物園は(現存している動物園では)ウィーンのシェーンブルン宮殿にある動物園に次いで世界で2番目に古いものだという。進化論の先駆者であるジャン=バティスト・ラマルクはここの研究員であり、無脊椎動物の分類作業に従事したことから進化論の発想を得た。今日、植物園のセーヌ川に面した広場に彼の名前が付けられている。

 NHKラジオ『世界へ発信 ニュースで英語術』は”Saving Japan's Endangered Language and Dialects"(日本の消滅の危機に瀕した言語と方言を救う)というニュースを報じた。これは11月24日に、沖縄県の宮古島で、文化庁の主催で、沖縄県・その他の自治体・大学・研究機関の協力のもとに開かれた「平成30年度 危機的な状況にある言語・方言サミット(宮古島大会)」について報じたものである。番組の中で、シンポジウムで取り上げられたユネスコのリストに載っているという8つの言語・方言については列挙されていないようなので、調べてみたところ、アイヌ語、八戸方言、八丈方言、奄美方言、国頭方言、沖縄方言、八重山方言、与那国方言だということであった。これらの言語・方言をどのようにして次世代に引き継いでいくかが話し合われたそうだ。

12月11日
 順天堂大学の医学部は、「不適切入試」をめぐる記者会見を行い、女子はコミュニケーション力が高いから、入試の際の面接試験では男子が不利になるから「ある意味で男子に有利に」なるような措置を講じていたと弁明した。「コミュニケーション力」という語をどのような意味で使っているかというのも問題であるが、一般的にいえば、医師と患者、あるいは医療スタッフの間でのコミュニケーションが良好なのは好ましいことである。しかし、ここで大学側が言っているのは、入試の時点では一般に女子の方がコミュニケーション力が高いが、その後男子の方が追いつくという研究結果が発表されているので、それに基づいて大学入学後のことを考慮して面接試験であまり良い点数の付いていない男子に有利に計らったということのようである。ところが、その研究結果というのが、あまり当てにならない研究だという指摘もあって、批判が集中している。現在、私が受診している医師には順天堂大学出身の方はいないが、一般的な評判として、この大学出身の医師の評価は高いので、入試に際して根拠の乏しい学説に基づいて措置を講じていたことが明らかにされたのは残念である。
 今回の「不適切入試」で問題にされたのは、女子と二浪以上の受験生に対する措置であるが、私が現在診察を受けている医師の一人は、東大の医学部に二浪で入学したそうである。むかし、ある病気で入院した時に担当者だったのは女性の医師だったが、この人は患者によってたくみに話し方を変えて接するので、脇できいていて感心したものである。ただしすべての女医がこんな能力を身につけているわけではないのは確かである。要するに、受験生それぞれの個性を見るべきで、ある種のレッテルをはって仕分けるべきではないと思う。

12月12日
 落語家の三笑亭笑三師匠(本名=斧田道男さん)が10月24日に亡くなっていたことが分かった。92歳。2代目三遊亭円歌にあこがれて落語家を志したところが、紹介者の都合で8代目三笑亭可楽に入門、その後、一時円歌門下に入ったこともあるが、可楽門下に復帰、古典と新作の二刀流を使い分け、「上からも下からも三笑亭笑三」をキャッチフレーズに明るい、知的な芸風で活躍されていた。盟友であった初代林家三平、ウクレレ漫談の牧伸二にネタを提供していたことでも知られる。テレビでは時々、口演に接していたのだが、実際に寄席で芸風に接したことがないことが惜しまれる。

 『日経』が報じるところでは、政府は改正入国管理法の成立に基づき、来年4月に新設する在留資格「特定技能」をめぐり、まずアジア8カ国と二国間協定を結び、情報共有などを進めるとのことである。問題は、8か国のうちの7カ国(ベトナム、中国、フィリピン、インドネシア、タイ、ミャンマー、カンボジア)は決まっているが、あと1カ国が未定だということで、なぜそういうことになるのかよくわからない。

12月13日
 2018年「今年の漢字」として選ばれたのは「災」だそうだ。今年は「天災」にも「人災」にも少なからず見舞われたという記憶が強いのであろう。安倍首相は「転」、菅官房長官は「成」を選んだという。「災いを転じて福となせ」というのは、後に唐の太宗となった李世民が父親に言った言葉だそうだが、今、だれがこの言葉を誰に言うのが一番ふさわしいのであろうか。

 『朝日』の朝刊に「保育園民営化 根強い不安」という記事が出ていた。新自由主義的な政策が必ずしも好ましい成果をあげているというわけではないのだが、水道といい、保育園と言い、一部の政治家や行政官の中には民営化すればいろいろな問題が何でも片付いてしまうという信仰にも似た感情があるのではないかと疑わしい気分にさせられる。

12月14日
 NHKラジオ『まいにちイタリア語』応用編「イタリアで劇場に行こう!」では日本人女性のアキが演劇好きのイタリア人学生とともにピランデッロの『作者を探す六人の登場人物』を見に出かける。もとは倉庫だった建物を改造した劇場で上演されるという。観劇を通して、新たな体験をして、世界を広げることはよくあることかもしれない。
 番組では放送されなかったが、講師の石川若枝さんがテキストにマルケ州のアンコーナにナタリア・ギンズブルグの最初の戯曲『君が愉快だから結婚したのさ』Ti ho sposato per allegria)を見に出かけたときの想い出を書いているのが印象に残る。ギンズブルグは故人になった須賀敦子が私淑していた作家であり、河出書房から刊行中の『須賀敦子の本棚』シリーズに、白崎容子さんの翻訳したエッセイ集『小さな徳』が収められている。また、ピエル・パオロ・パゾリーニ監督の映画『奇跡の丘』にベタニアのマリア役で出演していたそうである。この映画を見たのは50年以上のことで、どの場面であったのかなどと思い出しようがない。機会があれば、もう一度見てみることにしよう。

12月15日
 『朝日』朝刊の「折々のことば」では、昨日・本日とベンガル語と英語という2つの言語の世界で育ち、イタリアで暮らすことを選んだインド系アメリカ人の作家ジュンパ・ラヒリさんの言葉を紹介してきた。今日紹介されているのは:
 彼らがわたしの言うことがわからないのはわかろうとしないからだ。
というものである。彼らは「大人たち」であり、わたしは「子ども」であるかもしれないし、逆に彼らが「子どもたち」で、わたしが「大人」であるかもしれない。彼らが「目上の人」であり、わたしは「目下」にいるかもしれないし、逆に彼らが「目下」にいる人々で、わたしが「目上」の人物であるかもしれない。いろいろと考えをめぐらすと、ラヒリさんの言っている意味を越えて、さらにさまざまな可能性が生まれてきそうな言葉である。

 外国人労働者の受け入れ拡大に備えて、政府が様々な対応策を講じている中で、日本語教育の水準向上を図るために、日本語学校への管理を強化するという記事が『朝日』の朝刊に出ていた。規制を緩めて、学校に自由にやらせて、あとは市場原理にゆだねるという選択もあるはずであるし、その他の向上策も考えられるかもしれない。

 昨日、本日と『NHK高校講座 古典」では『枕草子』を取り上げている。講師の先生がこの作品が好きで何度も読みこんでいることがわかるような番組の進め方で、聞いていて楽しい。「うつくしきもの」(現在の意味からいえば、むしろ「かわいいもの」に近いという)を取り上げた章段など、平安時代の子どもの姿がよく描かれている。むかし、田辺聖子さんが、紫式部と清少納言を読み比べると、清少納言は子どもをあまり知らないのではないかというようなことを書いていたと記憶するが、そんなことはないと思った。(田辺さんの『昔、あけぼの』は立ち読みだけで、詳しく読んではいないのだが、清少納言の子どものことまで触れていたと記憶する。田辺さんの意見も、彼女の読書の過程で変わっているということもあるかもしれない。)

12月16日
 三ツ沢陸上競技場で行われたなでしこリーグ1部・2部入れ替え戦日体大フィールズ対横浜FCシーガルズの第2戦を観戦する。第1戦で1-2で敗れているシーガルズは、前半0‐0で折り返した後、後半に1点目を先取したが、同点に追いつかれ、さらに2点目も終盤にCKから追いつかれて2‐2で引き分け、通算1分け1敗、3‐4で敗れて、1部昇格はならなかった。エース大滝選手が厳しいマークにあいながらも1得点を挙げるなど、攻撃には見るべきものはあったが、攻め込まれると慌てる守備ぶりには大いに改善の余地がある。GKとDFの補強が来年に向けての課題であろう。

 第1060回のミニtotoのAが当たる。Aがドイツのブンデスリーガ、Bがイングランドのプレミア・リーグの試合の予想だったのだが、ドイツのことはほとんど知らないのが、かえって幸いしたようだ。

小松左京『やぶれかぶれ青春記・大阪万博奮闘記』(6)

12月15日(土)晴れ

 この書物は、著者が太平洋戦争下と戦後の混乱の中で過ごした旧制中学時代、たった一年で終わってしまったが、その後ずっと「すばらしく甘美な輝きを持って回想されてくることになる」(203ページ)旧制高校時代を描いた「青春記」と、30代半ばで取り組んだ大阪万博とのかかわりをつづった「奮闘記」の2部から構成されている。しかもその、「奮闘記」は大阪万博終了後の1971年、『文藝春秋』2月号に掲載された「ニッポン・790年代前夜」と、万博が始まる以前の1966年に説明会の資料として作成された(らしい)「万国博はもうはじまっている」の2編を含んでいる。
 1964年、東京オリンピック直前に、小松さんは梅棹忠夫や加藤秀俊とともに万国博の研究会を始める。通産省(当時)や関西の財界の万博を日本で(できれば大阪で)開こうという動きとは独立した、純粋に好奇心に基づいての探求であった…はずなのだが、次第次第にこの活動は、1970年に大阪で開催される万博の準備活動とのかかわりを深めていく。そしてテーマやサブテーマの策定に小松さんはかかわるようになったのだが、そのかかわりの最もめだったものは、テーマ展示プロデューサーとなった岡本太郎の仕事を手伝ったことであるという。今回は、その岡本の仕事の手伝いについて語る部分を取り上げることにする。

 1967年のモントリオール万国博から帰ってきたころ、万博の準備体制がかわり、雰囲気も少し変わりはじめていた。そのころ、小松さんは京都にやってきていた岡本太郎と話し合う会合に呼び出された。出かけてみると、「考える会」のメンバーがそろっている。後から考えると、この頃、岡本はテーマ展示プロデューサー就任を働きかけられていたらしい。
 さらに、岡本が就任を引き受けた、たまたまそのときに、小松さんは、大阪で岡本と会って酒を飲んだという。
「『こりゃ、太郎さん協会相手じゃ満身創痍になりますよ』と私はひやかした。『知らないよ知らないよ。血圧に気をつけてくださいよ。一つ後進のために立派な斬り死にを見せてください』
『なにいってんだ。万国博ぐらいで死んでたまるか』
 と岡本氏は例によって、眼を三角にむいていさんだ。」(327ページ)

 ところが、その数日後、梅棹忠夫から小松さんのところに電話がかかる。岡本の仕事を手伝ってくれないかというのである。
「――正直いって弱ったことになった、という感じになった。・・・つい先日、アウトサイダーの気楽さで岡本氏をひやかしたのに、今度はこちらが『満身創痍』のお相伴をすることになる。」(328ページ)
 どうも岡本が京都へやってきて、「考える会」のメンバーを中心とする面々と話し合ったのは、自分がテーマプロデューサーを引き受けるにあたって精神的バックアップが得られるかどうかの瀬踏みをしていたらしいと感じる。いろいろと考えて、岡本に個人的に協力するという形でなら、いくらでも協力するということに決める。結局、「芸術家岡本太郎氏が『社長』になって、『現代芸術研究所』という会社をつくる。そこが、テーマプロデューサー岡本太郎氏の指名により、協会から『テーマ展示プロジェクト』を請け負わせる。私は『株式会社現代芸術研究所』と、このプロジェクトに関して契約をむすぶ。このプロジェクトの実施責任者は『社長』岡本太郎氏であり、監察責任者は『協会プロデューサー』岡本太郎氏である」(331ページ)というシステムが組み立てられる。

 小松さんは「テーマ展示サブプロデューサー」として、地下展示を担当することになる。地下展示のスタッフとして集められていたのは、「まだマスコミにそれほど売れていない比較的若い人たちばかりだった」(332ページ)が、「こんな臨時かきあつめの混成部隊で、よくこんなに気持ちのいい連中が集まったと今でもふしぎに思う」(333ページ)。
 すでに展示についてのアイデアはいくつか出ていたが、いったんそれは凍結して、小松さんは2週間余りの時間をかけて、テーマとサブテーマをめぐってのレクチュアと討論を展開する。その結果、集まっていたデザイナーたちは自分たちで自発的に資料を集め始めるほどに、テーマとサブテーマにのめり込みはじめる。

 展示についての取り組みは急速に進捗したが、問題が生じた。見積額が、地下展示予算の3倍になってしまったのである。折衝の結果、予算を削ることになり、当初予算の1.5倍というところまで削ったが、海外民俗資料収集のための予算には手をつけなかった。梅棹と泉靖一の指示を受けて40人余りの若い研究者が世界の60カ国余りに散らばっていった。「私にしてみれば、一種の『賭け』だった。しかし、このコレクションは、今でも、地下展示のうちでもっとも自慢できるものの一つになっている。」(341ページ)

 「1969年後半から『時間との闘い』がはじまった。私の内部では万国博はとうの昔に終わっており、地下展示の仕事は、いわば『後始末』だったが、それでもあの草ぼうぼうの竹藪だらけだった千里丘陵の上に、奇妙な色彩と形の、巨大な建築が姿をあらわしはじめ、肌の色、目の色、髪の色のちがった人たちの姿が、会場内に日に日にふえて行くと、やはり一種の興奮をおぼえた。」(341‐342ページ) 大晦日をヘルメットをかぶって万博会場をうろうろしながら、過ごした。「機器類を全部動かし、音楽、映像、照明をすべてつけて、展示の総合リハーサルができたのは、開会式わずか1週間前だった。・・・機器の故障がいたる所に出て、徹夜の手なおしの連続だった。――3月13日の深更、私は全展示場をもう一度見まわった。まだ誰一人観客のいない地下のスペースで、映像は点滅し、音楽は鳴りわたり、展示物はくるくると動いていた。――もう、どうしようもない。よくも悪くもこれで終わりだ。これが『私にとっての万国博』の本当の終わりだった。」(342-343ページ) 「――3月14日午前零時を期して、奇蹟のように一斉に開通した大道路を走りながら、ずいぶん『後始末』に手間を食っちまったものだとぼんやり考えていた。少し疲れ、少し年をとったような感じがした。――そして強い酒が無性に飲みたかった。」(344ページ)

 この時点で小松さんは39歳。まだ若い。深夜に強い酒を飲みたいと思うだけの体力を保持している。他人の策略に乗っかって、道化を演じても傷つかないだけの余裕はある。解説で加藤秀俊が語っているところを引用すると:「梅棹さんは先々まで見通して手を打つ人だった。洞察力があるといえば聞こえはいいが、要するにたいへんな『悪党』であった。岡本さんに小松さんをつけるという人事は秀逸だし、万博会場の跡地に国立民族学博物館をつくるという構想も、梅棹さんはかなり早い段階で思い描いていたふしがある。世界中に若い研究者を派遣して『お面』を集めてくるというのは、まさに万博後をにらんだ布石だろう。」(377ページ) 踊る阿呆に踊らぬ阿呆である。

 この前後から、私は小松さんが非常勤で重役をしていた会社でアルバイトとして勤めており、ときどき、まだ建設中の会場に出かけていたから、なにがしかの接点はあったはずなのだが、そのことについてのはっきりした記憶はない。とにかく自分の身の振り方のことで頭の中がいっぱいで、職場にしても、大学にしても周囲を落ち着いてみるだけの余裕はなかったようである。もったいないことをしたという気持ちがしないでもないが、その一方で、人生というのはそういうすれ違いの連続だという気がしないでもない。

鳥飼玖美子『子どもの英語にどう向き合うか』(9)

12月14日(金)晴れのち曇り

 2020年度から小学校で教科として導入されるなど、英語教育の低年齢化が最近の目だった傾向である。その背後にあるのは、早い時期から英語に親しむことにより、英語によるコミュニケーション力をつけさせようという考え方である。この書物は、そのような考え方のもっている問題点を、英語と英語教育に長く携わってきた中で得られた知見をもとに明らかにして、変化に不安を抱いている保護者に対処法を示す目的で書かれている。
 第1章「子どもと言語」では、子どもの思考力の発達に果たす母語の重要性が強調される。また言語力には会話力と学習言語力とがあり、外国語学習においては学習言語力が重要であると説かれている。学習言語力を強化するには、「読む力」が大きな役割を果たすが、それがどのように形成されるものかは、まだまだ分からないところが大きいという。
 第2章「英語教育史から探る」では、幕末から戦後に至る日本での英語受容と英語教育の歴史が辿られ、英語教育をめぐる様々な問題点の多くが、時代を超えて共通していること、英語教育には異常に高い要求が課せられている中で様々な教育方法が採用されてきたこと、英語の習得には学習者自身の自発的な努力が必要であることなどを明らかにしている。

 それでは、2020年度から実施されることになる小学校英語はどのようなものになるのか。第3章「2020年からの小学校英語」はまず「学習指導要領が定める英語教育」の概要を説明するところから始められている。新しい学習指導要領で際立っているのは、「思考力・判断力・表現力」が強調されていること、「学びに向かう力」も重視されているだけでなく、児童生徒自身の思考過程を自ら客観的に見定めて戦略を選んでいく「メタ認知能力」が着目されているところが特徴的であるという。
 子どもが将来的に身につけてほしい「資質・能力」〔鳥飼さんは述べていないが、「資質」というのは生まれつきのもので、教育によって作り変えられるはずのものではないという意見もある。ここで、「資質」というのは英語のaptitudeに対応する言葉で、「素質」とか「適性」とか訳されてきたのが、そういうと、生まれつきのものではないかというツッコミが入るので、「資質」にしたという経緯があるようだが、やはり同じような疑問が出されるのは決まりきったものである。問題なのは、子どもの生まれつき持っている「資質」をのばしていくような教育が望まれるべきなのに、教育制度や社会の側から「望ましい」「資質」を求めようとする教育の在り方ではないかと思う。〕 とにかく、小学校のうちからあまり過大で高邁な理想を押し付けずに、のんびり、ゆっくり教育する方がいいというのが(文科省の意向とは必ずしも合致しないかもしれないが)著者の意向のようで、それには賛成である。

 そこで小学校の英語であるが、その前に英語教育全般についての規定が検討されている。新しい学習指導要領でも、1989年告示の学習指導要領以来の「コミュニケーションに使える英語」が主眼となっていることに変わりはない。「外国語教育については、子供たちが将来どのような職業に就くとしても求められる、外国語で多様な人々とコミュニケーションを図ることができる基礎的な力を育成する」と宣言されている。「外国語」として英語以外の言語を勉強することもありうるが、英語を履修することが指導要領では原則になっているので、外国語=英語と考えて、話を進めていくという。
 現在の学習指導要領では、小学校5・6年生で「英語活動」が行われているが、新しい学習指導要領では小学校5・6年生では教科として「英語」が設定され、小学校3・4年生で「英語活動」に取り組むことになる。
 それでは「英語」と「英語活動」とはどこがどう違うのか。「外国語活動」(英語)の目標は、「外国語によるコミュニケーションにおける見方・考え方を働かせ、外国語による聞くこと、話すことの言語活動を通して、コミュニケーションを図る素地となる資質・能力を次の通り育成することを目指す」ということであり、「次の通り」というのは、①「言語や文化について体験的に理解を深め、日本語と外国語との音声の違い等に気づく」とともに「外国語の音声や基本的な表現に慣れ親しむ」、②「身近で簡単な事柄について、外国語で聞いたり話したりして自分の考えや気持ちなどを伝え合う力の素地を養う」、③「外国語を通して、言語やその背景にある文化に対する理解を深め、相手に配慮しながら、主体的外国語を用いてコミュニケーションを図ろうとする態度を養う」ことだという。

 こうやって紹介された指導要領の文章を読んで、そもそもこの指導要領の文章自体が意味不明、コミュニケーションに役立つ英語を強調するための日本語の文章が、日本語のコミュニケーションとしての用をなしていないという印象を持ったのだが、私の印象は後回しにして、鳥飼さんの説明を見ていくことにしよう。
 実際のところ、「英語活動」と教科としての「英語」の目標はほとんど同じで、細かいところが違うだけだという。「英語」と比べて「英語活動」のポイントとなるのは「気付く」「素地を養う」「態度を養う」と書いてあるところであるというのである。このことからすれば、子どもたちが「英語って、変わった音を出すな」と気が付けば十分なのではないか。「素地」や「態度」を養うというのは、一朝一夕にはできないので、周囲の人たちと日本語を使ってコミュニケーションをとることができるようになることも含まれると考えていいという。

 では、教科となる「英語」の目標はどうだろうか。
 「外国語によるコミュニケーションにおける見方・考え方を働かせ、外国語による聞くこと、読むこと、話すこと、書くことの言語活動を通して、コミュニケーションを図る基礎となる資質・能力を次のとおり育成することを目指す」というのが目標であり、「英語活動」の「聞くこと、話すこと」に「読むこと、書くこと」が加わり、「コミュニケーションを図る素地」の「素地」が「基礎」になっている。
 「基礎」の内容がどのようなものかも詳しく紹介されているので、そのまま書いてみることにしよう。
(1) 外国語の音声や文字、語彙、表現、文構造、言語の働きなどについて、日本語と外国語との違いに気づき、これらの知識を理解するとともに、読むこと、書くことに慣れ親しみ、聞くこと、読むこと、話すこと、書くことによる実際のコミュニケーションにおいて活用できる基礎的な技能を身につけるようにする。
(2) コミュニケーションを行う目的や場面、状況などに応じて、身近で簡単な事柄について、聞いたり話したりするとともに、音声で十分に慣れ親しんだ外国語の語彙や基本的な表現を推測しながら読んだり、語順を意識しながら書いたりして、自分の考えや気持ちなどを伝え合うことができる基礎的な力を養う。
(3) 外国語の背景にある文化に対する理解を深め、他者に配慮しながら、主体的に外国語を用いてコミュニケーションを図ろうとする態度を養う。
 鳥飼さんは、これが「『英語活動』に比べて詳細で、高度な内容なのに驚きます」(144ページ)と書いている。鳥飼さんの文も錯綜している感じがある(「驚きます」ではなく、「驚かされます」だろう)が、指導要領の文章は、さらにわかりにくい。「語順を意識しながら書いたりして」などというが、日本語と英語の語順の違いをしっかり認識しないで、英語の学習ができないのは自明のことで、このような中途半端な表現で済ませることはできないはずである。その後の「自分の考えや気持ちなどを伝え合う」というのも何かいい加減で中途半端な表現である。密室で一握りのお役人たちが間に合わせで書くのではなくて、もっと開かれた討論を通して教育の目標を設定することが望まれるのではないかと思う。
 鳥飼さんの文章から脱線してしまったが、もとに戻ると、小学校の英語の目的は「基礎的な技能を身につける」、「基礎的な力を養う」であるところが、「技能を身につける」、「力を養う」という中学校と違うという。つまり、小学校では、「あくまで『素地』を養い、『基礎』を養」(145ページ)うのだという。いやに「養う」が目立つが、そのあと中学校・高校の6年間かけて、じっくり英語を勉強すればいいのだと鳥飼さんは言う。つまり、小学校の英語は「入門」というか、「顔見せ」であると理解してよいということであろう。

 以前にも書いたことがあるが、私は私立小学校で英語を勉強したので、中学校のはじめのころは他の生徒に比べて英語の学習に苦労しなかったという経験があるが、そのうちだんだんその有利さがなくなってきたということも経験している。そういうことを含めて、小学校における英語教育にはかなりの歴史があり、それなりの経験の蓄積もあるはずであるが、小学校における英語の導入に際して、そのような知見がどれだけ利用されているかにはかなりの疑問がある。なんでもいいから早く勉強させればいいだろうというのでは、小学生が気の毒である。小学生に教えるのにはそれなりの方法論を確立して取り組む必要があるが、それがあるようには思われない。学習指導要領の文言を詳しく分析・批判するつもりだったのに、それをしている余裕がなくなってしまったのは残念であるが、とにかく、筋が通らない文言であることは否定できない。鳥飼さんの受け取り方を通じて、「小学校の英語は『顔見せ』」だと理解すべきなのかと私は書いたが、そのような位置づけで、どの程度英語の力が伸びるかということも含めて、小学校での英語教育については、もう一度考え直してみる必要があるのではないだろうか。
 

P・G・ウッドハウス『ジーヴズの事件簿 才智縦横の巻』

12月13日(木)曇り

 12月11日、P・G・ウッドハウス『ジーヴズの事件簿 才智縦横の巻』(文春文庫)を読み終える。あまり賢くない独身青年バーティ―と、天才的な従僕ジーヴズが遭遇する様々な事件を描いた短編集である。「事件簿」と題されているが、事件といってもせいぜい宝石の紛失くらいのもので、ミステリーよりもユーモア小説の要素が強い。

 おそらくは第一次世界大戦勃発以前の、ベル・エポックとしてその後長く回想されるようになる時代。友人たちからはバーティ―と呼ばれている上流階級(の中では下位に属する階層)の青年・バート・ウースターは、職に就くでもなく、ロンドンのウェスト・エンドのマンションに住んで、気楽な独身生活を送っている。倶楽部で友人と出会い、ときにはハイドパークを散策、夜はナイトクラブで過ごす。シーズンになると競馬の馬券を買って儲けたり損をしたりする。時々、地方にある親戚や友人たちの家を訪問する。

 周囲の人間は彼を陰で馬鹿にしている。彼の叔母のアガサに至っては、面と向かって忠告する。結婚してまともな生活を送るようにしろというのである。実際、彼は何人かの女性たちと婚約する…。だが、彼をまともな人間にしようと教育する女性や、みんなからバカだと思われている彼を春のそよ風のように慕わしく思う女性…それぞれが、それぞれに、どこか奇妙である。
 女性といえば、バーティーの古い友人であるビンゴは、出会った女性の半分くらいには恋をするという人物で、この7編からなる短編小説集の中で3回も恋をする(いや、もっとしているはずだ)。

 バーティーが直面する様々な問題を解決するだけでなく、ビンゴの出会った問題まで解決に手を貸す頼もしい男がジーヴズである。時には、バーティーと彼とは、着るものの問題をめぐって口論になることもあるし、ジーヴズのおかげでバーティーが恋人を失ったと、がっかりする(実は、あとでそれが賢明な選択だったと気付く)場面もある。とにかく、最初のうちは躓いたり、行き違いがあったりもするが、バーティーはジーヴズを「導師とも哲学者とも友人とも」(47-48ページ)思うようになっている。いろいろな仕事を重ね、特に様々な家庭で使用人として働いたことで彼が蓄積している知識と、使用人たちの間で築いているネットワークは大したものである。

 もっとも、ジーヴズの方が心の中で何を思っているかは別の話である。彼が用事があって家を空け、その期間中代理の男を使うことになる。そしてその代理の男に申し渡す言葉:「すぐに分かるだろう。ミスター・ウースターは…とても明るく優しい方だが、知性はゼロ。頭脳皆無。精神的にはとるに足らない――全く取るに足らん」(107ページ) うっかりキッチンの扉を半開き開けたままで話したために、バーティーの耳に聞こえたのだが、うっかりそうしてしまったのではなくて、意図的にそうしたという疑いも残る。

 このような、イソップ以来のあまり頭のよくない主人と賢い召使、我が国の狂言で言えば大名と太郎冠者、落語の「山崎屋」に出てくる若旦那と番頭、あるいはのび太とドラえもんのような主従関係は、喜劇的な状況を生み出すものである。しかもなぜか、バーティーが婚約すると、婚約相手はジーヴズを首にすると言い出す。そうなると、ジーヴズとしては考えざるを得ない。
 ここまで書いて、この作品のどこがおもしろいのかということを紹介しなければならないと思い、迷っているところである。とんでもない場面が設定されている場面もあるし、その中でドタバタが展開されている部分もあるし、文章の妙で笑わせる箇所もある。なかなかの配球である。どこをどのように紹介していいのかというと、ちょっと迷う。
 少し無理して一つ選ぶと、バーティーが心ならずも婚約した女性の父親である精神科医が彼のマンションをたずねてくる。この男性は猫が嫌いである。ところが、その父親がバーティーと話していると、猫の声が聞こえる。実はジーヴズが、ある男性の依頼を受け入れて、たくさんの猫をバーティーのマンションに引き入れたのである。その背景にはまた相当込み入った事情があるが、それは省略して、大事なことは婚約者の女性が結婚したらすぐに、ジーヴズを首にしようと考えていたということである。つまり、バーティーとジーヴズはどこかでつながっている。それがこの作品の妙である。また、このエピソードで活躍するバーティーの従弟の双子の兄弟クロードとユースタスは、大学生で、大学内で悪ふざけを繰り返しているために、一部の大学生には人気があるが、一方では鼻つまみである。その両方の評価が頭の中に入っていないと、この個所の面白さがわからないことも気を付けるべきであろう。

 古き良き時代の上流階級の浮世離れした生活ぶりを描いているようでいて(大体はその通りなのだが)、ところどころに時代の変化に対する鋭い観察眼が働いている。バーティーが迷惑がっている女性の高等教育への進出の記述がその一つであるし(そのことで、バーティーの人間性の底の浅さも判断できるのである)、その一方でクロードとユースタスの言動の描写に見られるように、英国のエリート大学の学生たちのヴァンダリズム(野蛮な傾向)を面白がっていることも念頭におく必要がありそうである。(要するに、作者の社会観は保守的、伝統的だということである。)

 そういうことを考えると、ジーヴズの活躍を描く短編集を皇后陛下が引退後、ときどき読みたいとおっしゃっていられるのはなかなか複雑な意味を含んでいるように思われる。大体、この作品群は皇族方が喜んで読まれるような、上品で高尚なユーモアに満ちているわけではなく、よく言えば骨太、悪くいえば野蛮なユーモアをたっぷりと盛り込んでいるのである(それが英国の上流階級の本質である)。おそらく、皇后陛下はこの作品を翻訳ではなく、英語でお読みになるのであろうが、だとしても、この作品が持っているどぎついユーモアは共通しているはずである。しかも、バーティーが片っ端から婚約破棄を繰り返しているというのは、どうもあまり芳しい展開とは言えない。さらに、この短編集の解説の終わりの方を読むと、第二次世界大戦中の作者ウッドハウスの言動をめぐる騒動が記載されているので、その点も視野に入れることが必要であろう。
 それにしても、私はこの短編集をバスの中で読んだり、寝床の中で読んだりしながら、時としてゲラゲラ笑って読んでいたのだが、皇后陛下はどのような場所で、どのような姿勢をとられながら、お読みになるのであろうか。またどのような笑い方をされるのであろうか。決して微笑や、微苦笑で終わらない内容をこの小説は含んでいるだけに、気になるところである。

 余計な話だが、バーティーがフランスの保養地であるロヴィル=シュル=メールにいる叔母のところに出かけるのに、カマーバンドをもっていこうとする。これを身につけると、スペイン貴族の雰囲気が出るといって、「ほら、ビセンテ・イ・ブラスコ・なんとかって言うじゃないか」(84ページ)というが、そのあと闘牛の話が出てくるのと合わせて、これはスペインの作家ビセンテ・ブラスコ・イバーニェスと彼の代表作の一つ『血と砂』を念頭に置いているのであろう。
 

トマス・モア『ユートピア』(31)

12月12日(水)雨

 1515年、フランドル地方のアントワープを訪問したイングランドの法律家で行政官だったトマス・モアは、友人であるピーター・ヒレスからアメリゴ・ヴェスプッチの新世界探索の旅に随行し、その後、アメリゴと別れて、新世界の各地を旅行し、ヨーロッパに帰ってきたというラファエル・ヒュトロダエウスという人物を紹介される。ラファエルは、ヨーロッパの国々、特にイングランドの政治や社会の様子を批判し、自分が見てきた中では新世界ユートピアという島国の社会制度がいちばん優れているという。そしてピーターとモアの求めに応じて、ユートピアの概略を語る。
 ユートピアでは私有財産が否定され、一部の例外を除いてみんなが働く。国の主な産業は農業で、都市の住民も、一生に一度は農業に従事しなければならず、農繁期には農業を手伝うことになっている。人々は質素な生活をしているが、公共の財産が豊かに貯えられているので、いざというときに困ることはない。彼らは他の国民と違って、戦争を好まないが、自分たちの国が侵略されたり、友好関係にある国々が侵略を受けたりしたときには戦争を行うことがある。

 ユートピア人たちが、自分たちの友邦である国々の関わる金銭問題にかかわる紛争についてはきびしい態度をとるのは、前回に述べたネフェロゲト人の商人へのアラオポリト人たちの仕打ちに対して憤激して起こした戦争とその結果を見れば明らかであるが、彼ら自身が不正な仕打ちを受けても、それほど怒ることはないという。なぜなら、彼らは私有財産というものを持たず、全体として豊かな公共の財産をもっているだけなので、少しばかりの損失に怒りを向けることはないのである。
 「けれども、もし自分たち〔ユートピア〕の市民が、どこかで暴力によって不具にされたり殺されたりすれば、そのような犯行を企てたのが公共の権力であろうと私人であろうと、彼らはまず使節に事実を調査させ、犯人が引き渡されるまでは満足しません。引き渡しが行われなければ直ちに宣戦布告です。引き渡された犯人は死刑または奴隷刑で処罰されます。」(澤田訳、205ページ)
 つまりユートピア人たちは財産よりも、自分たちの国民の生命や安全の方を重視するということである。ただ、これまでに語られてきたことから、ユートピア人たちは貿易活動に積極的ではないようであるし、海外に赴く可能性として一番多いのは、行政官として派遣されることであろう――ということを考えると、このような厳しい態度は別に不思議ではないのである。

 彼らは暴力を用いた戦闘を嫌い、知略によって勝利を収めることを好む。暴力で勝つのは動物と同じだというのである。この段落の最初の文は、日本語の2編の翻訳では
 「流血の結果得た勝利は彼らを悲しませるだけでなく、恥じ入らせます。」(澤田訳、205ページ)
 「彼らはたとえ勝利をうることができても、それが多くの流血を伴ったものであれば、単にそれを後悔するだけでなく、むしろ恥辱とさえ考える。」(平井訳、146ページ)となっているが、じつはラテン語原文はもっと長い。日本語訳はロビンソン訳で
They be not only sorry, but also ashamed to achieve the victory with bllodshed, counting it great folly to buy precious wares too dear.(p.108)となっているのを参考にしたものと思われる。ターナー訳は、ロビンソン訳よりも後の方まで文をつないで、
They don't like bloody victories - in fact they feel ashamed of them, for they consider it stupid to pay too high a price for anything, however valuable it is.(彼らは血なまぐさい勝利というものを好みません――実際、彼らはそれを恥じています、というのは、彼らはどのように貴重なことであろうと、何者かに高すぎる代価を払うことをおろかだと考えているからです。)
 またローガン&アダムズ訳は
 The Utopians are not only troubled but ashamed when their forces gain a bloody victory, thinking it folly to pay too high a price even for the best goods. (ユートピア人たちは彼らの軍隊が血なまぐさい勝利を収めたときに、たとえ最善のものを手に入れるためであってもあまりに高い対価を支払うのは愚かだと考えているので、困惑するだけでなく、恥じ入るのです。)
 ここで読み取れるのは、人間の命の方が財産よりも重要であるという、きわめて当たり前だが、忘れられがちな価値観である。

 次にユートピア人たちが戦争の際に目的とすることがなんであるかが語られる。
 「彼らが戦争で目指しているのはつぎのただひとつのこと、もし戦争以前に獲得していたら戦争を不要にしていたはずのものを確保すること、あるいは、もしそれが本来不可能であるとしたら、せめて責任ありと彼らが見なす人々に対して非常にきびしい報復を行い、その恐ろしさで相手が以後二度と同じことを繰り返そうと思わなくなるようにすることです。」(澤田訳、206ページ) この訳はわかりにくい。平井訳では、
 「彼らが戦争を起こす主な目的は要求事項の貫徹であって、それさえ前もってえられたらいたずらに戦争手段にまで訴えることはない。しかしそれが不可能な場合、彼らは徹底的に当の責任者に対する残酷な報復を試み、二度と同じことを繰り返させないようにする。」(平井訳、147ページ)と、一応意味は通じるのだが、澤田訳から読み取れることとずれがあるように思われる。
 ところで、この個所に対応するロビンソン訳は
Their chief and principal purpose in war is to obtain that thing, which if they had before obtained, they would not have moved battle. (p.109. 戦争における彼らの主要でまず問題になる目的は、もし彼らがそれ以前に獲得していたならば、戦争を起こしていなかったであろう物を獲得することである。) 平井訳がロビンソン訳からの重訳であることは何度か触れてきたが、ここではロビンソン訳と沢田訳が似通った文面になるという結果になっている。
 またターナー訳では 
Their one aim in wartime is to get what they've previously failed to get by peaceful means ---- or,if that's out of the question, to punish the offenders so severely that nobody will ever dare to do such a thing again. (p.111. 彼らの戦争における目的は、彼らが以前に平和的な手段によって獲得に失敗した事柄を得ること――あるいはもしそれが問題外であるのなら、違反者たちを厳しく罰して、だれもがこれ以上このようなことをしようと思わないほど厳しく罰することである。)
 さらにローガン&アダムズ訳では
The only thing they aim at, in going to war, is to secure what would have prevented the declaration of war, if the enemy had conceded it beforehand. Or, if they cannot get that, they try to take such bitter revenge on those who provoked them that they will be afraid ever to do it again. (pp.86-87. 戦争をはじめようというときに、彼らが意図する唯一の事柄は、もし敵があらかじめ譲歩していたならば、宣戦布告の理由とならなかったであろう事柄を確保しておくことである。あるいは、彼らがそれを得ることができなければ、戦争を引き起こした人々に厳しい復讐をして、彼らが二度とそういうことをしようと思わないようにすることである。)
 どうも翻訳者によって、訳された内容がかなり違っているのは、もともとのラテン文が難解なためであろう。それでも、ローガン&アダムズ訳が一番わかりやすいような気がする。

 では、ユートピア人たちはどのようにして敵を打ち負かそうとしているのかという話になるが、それはまた次回にゆずることにいたい。このあたり、モアは本気で書いているというよりも、彼の同時代の現実を批判し、それをユートピアの物語として裏返しにしながら、風刺していると考えるべきである。次回紹介する、戦争のしかたに、そのことがよく表れていると思う。

ダンテ・アリギエーリ(須賀敦子・藤谷道夫訳)『神曲 地獄篇(第1歌~第17歌)』(6‐2)

12月11日(火)曇り、夜になって雨

 1300年の4月の初め、「暗い森」に迷いこんだダンテは、彼の前に現れたローマ時代の詩人ウェルギリウスの魂から、彼とともに地獄と煉獄とを、また「よりふさわしい」魂に導かれて天国を歴訪せよと告げられる。あまりに荷が重い仕事だといったん躊躇したダンテであるが、地獄に堕ちることが予定されている自分の運命を変えるために、天国の貴婦人たちによって望まれている旅であると知って、決心を固める。(第1歌~第2歌)
 地獄の門をくぐった2人は、在世中目立った善も悪もなさなかったために、天国からも地獄からも受け入れられず、空しく走り回っているのを見た。また、地獄に堕ちて行くたましいたちが、アケローンの川を渡るために悪魔であるカローンが操る船に急いで乗り込んでいくのも見た。(第3歌) 次に 彼らは、ウェルギリウスの魂のもともとの居場所であるリンボを訪れる。そこでは洗礼を受けないで死んだ乳児たち、キリスト教以前の義人たちのたましいが、ひっそりと過ごしている。(第4歌) 
 彼らは続いて地獄の第2圏に入る。そこでは愛欲の罪を犯したたましいたちが嵐に吹かれてさまよっている。ダンテは、そのような魂の中の一人であるフランチェスカから、彼女の義理の弟であるパオロとの哀しい恋の物語を聞く。(第5歌) さらに彼らは、地獄の第3圏に入る。ここには食悦の罪を犯したたましいたちが、永遠に呪われた雨に打たれて地を這いまわっていた。そのような魂の中で、生前はチャッコと呼ばれ、ダンテと同じフィレンツェの出身だというたましいが彼に話しかける。(第6歌のこれまで)

 ダンテはチャッコの身の上に同情しながら、「もし知っていたら教えてくれないか」(60行、123ページ)と、フィレンツェの今後の行方を尋ねる。
誰か義(ただ)しいものはいるのか、そしてなにゆえに
あれほどの不和があの町を襲ったのか」
(63‐63行、123ページ) 当時のイタリアの諸都市では教皇派と皇帝派とが抗争を続けていたが、フィレンツェでは皇帝派の勢力は一掃されていて、教皇派の中で白派と黒派とが対立・抗争している状態であった。ダンテが旅行している1300年4月5日からわずか1か月もたたない、5月1日の五月祭において、この両派が対立し、亀裂は決定的なものとなる。両者は一進一退の攻防を展開するが、最終的には黒派が勝利を収めるという。
 その党〔黒派〕は長期にわたってこの町を治め、
他の党〔白派〕をひどく押さえつけるだろう。
彼らの嘆きや怒りにはおかまいなく。
 義(ただ)しい者は二人だけで、彼らの言葉に耳を傾けるものはない。
傲慢と嫉みと貪欲の三つが
人々の心に火をつけた火花だ」
(70‐75行、123ページ) この詩行が語っているのは、1300年4月の時点でのダンテの経験であるが、実際に、書かれたのはもっと後、白派の一員であったダンテがフィレンツェの町を追放された後のことである。だからここでのチャッコの発言は事後予言ということになる。

 ダンテは自分の故郷の都市のこの後の運命に暗い気持ちを抱きながら、これまでフィレンツェの姿勢に貢献してきた政治家たちのたましいがどうなったかをチャッコにたずねる。
善いことをする〔善政の〕ために才能を用いた人たちが
 今どこにいるか教えてくれないか。
私は天が彼らをなぐさめているのか、それとも地獄が
彼らを苦しめているのか、知りたくてたまらないのだ」
(81‐84行、124ページ)

 チャッコの答えは〔おそらくはダンテにとって〕おどろくべきものであった。
・・・「彼らはもっとも黒いたましいたちの中にいる。
色々な罪のために彼らは地の底にいる。
ずっと降りて行けば会えるだろう。
 しかしお前が楽しい世界[地上]にもどったなら、
いろいろな人に私の想い出を語ってくれ。
これ以上はもう話すまい、答えまい」
(85‐90行、124ページ) こう言って、チャッコのたましいは立っているのをやめ、ほかのたましいの中に紛れ込んでしまう。ウェルギリウスは、このたましいが次に目を覚ますのは最後の審判のときであるという。ダンテがその行方を聞いた、フィレンツェの政治家たちに、彼はこの後(チャッコに告げられたように)地獄の旅の中で出会うことになる。政治家として有名であろうと、市民として大きな貢献をしようと、それは地上における尺度に基づく判断であって、天の判断と一致するわけではない。政治的な能力は必ずしも道徳的な徳性の持ち主であることとは一致しない。解説注はトマス・アクイナスの『神学大全』から次のような引用を行っている:「政治的な能力の習性は、肉体から分離した死後の魂に残ることはない。なぜならこの種の能力は市民生活の場においてだけ有効なものだからである。それ故、こうした能力は現世を終えると存在しなくなる。」(130ページ)
 ダンテが尊敬したボエーティウスは、肉体の<第一の死>に加えて、人々からその記憶が消えてしまう<第二の死>について語っている。チャッコがダンテに、生きている人々に自分のことを語ってくれと頼んでいるのは、この<第二の死>を恐れるからである。

 ウェルギリウスは、チャッコのたましいが最後の審判のときまで眠り込むという。
…「この者が目をさますことはない、
天使のラッパが鳴りひびく〔最後の審判の〕ときまで。
そのとき、(悪の)敵なる強き者[キリスト]が現れると、
 各自はそれぞれの悲しい墓を目にし、
自分の肉体をまとい、自分の姿に戻って
永遠にひびきわたる(最後の審判の)ことばを聞くことになる」
(94‐99行、124‐125ページ) 

 こうしてわれわれは、雨とたましいたちの
混ざった汚い泥沼を、ゆっくりした足どりでわたった。
未来〔死後〕の生のことなどを、しばし語りながら。
(100‐102行、125ページ) ダンテは、地獄の魂の苦しみは最後の審判の後、ひどくなるのか、軽くなるのかとウェルギリウスにたずねる。ウェルギリウスは、ダンテが学んできた神学に基づいて判断すべきだといい、審判の後、天国のたましいたちは完全な善を感じ、地獄の魂たちは完全な苦しみを味わうことになるという。
 二人は話しながら地獄の環状の道を下ってゆき、地獄の第4圏の番人である悪魔プルートーに出会う。こうして第6歌は終わる。第4圏で、ダンテはどのような罪と罰とに出会うのであろうか。

『太平記』(240)

12月10日(月)曇り

 暦応2年(南朝延元4年、1339)8月、吉野の後醍醐帝が崩御され、12月に八宮が即位された(新帝=後村上帝)。北国、特に越前では宮方の武士たちが勢力をとり戻し、新田義貞の弟である脇屋義助を大将とする軍勢が、足利方の越前守護斯波高経を加賀へ逃亡させた。この報せに驚いた京都の足利方は、高師治、土岐頼遠、佐々木氏頼、塩冶高貞らを北国に向わせようとした。 
 この頃、足利尊氏の執事である高師直は病気で静養中であったが、病中の気晴らしに平家琵琶の演奏を聴いて、源三位頼政が鵺退治の恩賞としてかねてから思いを寄せていた菖蒲という美女を与えられたという話に感動し、そんな美女よりも所領を与えられる方がいいという近習の者たちをたしなめ、絶世の美女を自分のものにできればなあと羨ましがった。

 その場に居合わせたのが、もともとは権勢を誇っていた公卿に仕えていた女房で、今は公家の勢いが衰えて武家の時代になったために寄る辺をなくし、師直のもとに常日頃から出入りしていた侍従というものが笑って、「なんとも筋の通らないお心づもりでございますことよ」と言い出した。「物語の次第を伺っておりますと、むかしの菖蒲前というのはそれほど美人ではなかったように思われます。唐の玄宗皇帝の妃であった楊貴妃がいったんその顔に笑みを浮かべますと、後宮のその他の女性たちが顔色を失った(目立たなくなった)ということでございます。それで菖蒲の前が絶世の美人であるならば、たとえ千人万人の美女を並べても、頼政が選び出すのに迷うことなどなかったはずではないでしょうか。」 〔自分が世の中の事情によく通じていることをひけらかしたいのであろうが、あまりでしゃばるものではない。それでも、ここまでの議論はそれなりに筋が通っている。問題はこの後である。〕

 侍従(この女性の身近なところに、侍従の地位にある人物がいたことからその名でよばれることになったのであろう)は、さらに言葉を続けて、「先帝の御外戚にあたられる早田宮(宗尊親王)のお子様の娘で、弘徽殿の西の対に住まわれていた方の美しさをご覧になれば、唐土・天竺(中国とインド)と引き替えにしても、この方を自分のものにしたいとお思いになるでしょう。そのお姿の美しさは世にt食いないというのをご承知ください」という。宗尊親王(1242‐74)は、後嵯峨院の第一皇子で、1252年から1266年まで鎌倉幕府の将軍の地位にあった。皇族出身の最初の征夷大将軍である。後嵯峨院、宗尊親王は持明院統、後宇多院は後醍醐帝の父親で大覚寺統に属する方であることにも留意されたい。

 宗尊親王には男子2人と、女子が2人いて、男子の1人が親王の後に将軍職に就かれた惟康親王で、もう一人は出家、女子は二人とも後宇多院の後宮に入っていて、この時点では4人ともすでに亡くなられている。問題の女性は、文脈から言えば惟康親王の子どもという可能性が大きいが、歴史的な事実としては信じがたい。あるいはその女性に仕えている女房という記述が抜け落ちているのであろうか。いずれにしても、この当たりの記述が整合性を欠くのは、ここで語られている事件が作り話であるからかもしれない。なお、鎌倉幕府の内紛に関連して惟康親王が将軍職を解任されたあたりの事情は『問はず語り』に記されているそうである。宗尊親王の娘の一人である掄子女王についても、『増鏡』の第11「さしぐし」に源有房との情事が記されている。このあたり、詮索するといくらでも余計な話が出てくる。 

 侍従の話は続く。「先年、花が咲くのを待ちわびる所在なさの折、殿上人たちが集まって、天皇の御所、上皇の御所でおそばにお仕えする女性たちを、花にたとえて噂しあったことがありました。その時にあるいは<裏紫の本あらの萩>、<波も色なる井出の山吹>、あるいは僧正遍照(『古今集』の歌人、六歌仙の一人)がふざけて「われ落ちにき」とふざけてみせた<嵯峨野の秋の女郎花>、『源氏物語』の「夕顔」の巻で源氏が『白く咲けるは』とその名を問うた<たそかれ時の夕顔の花>、<見るに思ひの深見草>など色とりどりの花にたとえて、彼女たちの美しさを論評したのですが、<梅は匂いが深いが、枝がたわやかでないのが難点だ。桜は色が素晴らしいが、梅ほどの香りがない。柳は露を含んだ緑の糸を貫く枝に見どころがあるが、匂いもないし花も咲かない。梅の香りを桜の色に移し、柳の枝に咲かせたら、この西の対の女房の容姿に喩えられるだろう>という話になり、とうとう花に喩えることもできなかったほどで、その美しさはとても言葉に尽くせません。こういうお方であれば、二つとない命に替えても自分のものとしたいと思うのではないでしょうか」などと語った。 まあ、要するに西の対の女房がすごい美人だという話である。

 前回も触れたが、源三位頼政の説話には、いずれ菖蒲か杜若という美人に優劣はつけがたいという表現につながる、遊び心がある。ここでの宮廷につかえる女性の美しさをめぐる談義も、それぞれを花にたとえるだけでなく、古歌を踏まえた語句を交えて表現の巧みさを競うようなところがある。だから、貴族たちが教養があるふりをして、いい加減なことを言っているよと、話半分に聞き流せばいいものを、師直がこの話にすっかりのめり込んだために、悲劇が始まる…。とにかく何が何でも、一番美しい女性を手に入れようというのはさもしいとしか言いようがない。さて、物語はどのように展開するか。思いがけず『徒然草』の作者が登場したりして、一波乱も二波乱もある…。

日記抄(12月3日~9日)

12月9日(日)曇り

 12月3日から本日までの間に経験したこと、考えたこと、これまでの記事の補遺・訂正等:

11月30日
 NHKラジオ『まいにちイタリア語』応用編「イタリアで劇場に行こう!」に登場する日本人女性アキは、イタリアの劇場でコンメディア・デッラルテ(Commedia dell'Arte)の上演を見て、以前に日本でも見たことがあるかもしれないと気付く。俳優の身振りがとても滑稽で、楽しかったが、台詞がよくわからなかったという。同行のイタリア人女性ラウラが次のように答える:
Forse a causa del dialetto? Ogni maschera parla nel suo dialetto di origine
(方言が使われていたせいかしら? マスケラ(仮面役者)はそれぞれ自分の方言を話すの。)
 コンメディア・デッラルテのマスケラ(仮面役者)は、それぞれ決まった方言を話す。例えば、下僕役はベルガモ方言(bergamasco)あるいはロンバルディア方言(lombardo)を使う。下僕の代表的な存在であるアルレッキーノ(Arlechino)はベルガモ方言を話すが、ときにヴェネツィア方言を話すこともある。ヴェネツィアの老商人の役柄であるパンタローネ(Pantalone)はヴェネツィア方言(veneziano)を話す(赤い上着とぴったりしたズボンを身につけている⇒パンタロンの語源である)、ボローニャ出身の学者あるいは医者の役であるドットーレ(Dottore)はもちろん、ボローニャ方言(bolognese)を使う。
 また会話の続きでアキが見た舞台というのがゴルドーニの『アルレッキーノ 二人の主人を一度に持つと』(Arlecchino servitore di due padroni)であることがわかる。講師の石川若枝さんが生まれる前のことではないかと思うのだが、この戯曲は1962年に『一度に二人の主人を持つと』という題名で俳優座により上演されている。仲代達也さんが主演のアルレッキーノを演じたが、おそらく仮面劇としての上演ではなかったようである。
 なお、アルレッキーノはフランス語ではアルルカン(arlequin)、英語ではハーレクイン(harlequin)と呼ばれる。アガサ・クリスティーの作品に登場するクイン氏はハーレクインの後の方だけとった命名である。

12月3日
 『日経』朝刊に「ばかげた挑戦 革新を生む」という見出しで、京都大学特別教授の本庶佑さんのインタビューが掲載されている。「若い人に自由にやらせることが大切だ」というのは、その通りなのだが、そのような自由な挑戦をするだけの能力を身につけた若者が少ないことも事実なのである。

 同じ『日経』の「私見卓見」というコーナーに、中央大学の中川康弘さんの「日本語教師、専門人材の育成急げ」という文章が掲載されていた。日本人ならば、日本語が教えられるだろうというような考えを捨てて、専門性を持った日本語教師の養成に力を入れるべきだという意見で、同感である。

12月4日
 『朝日』朝刊の”HUFFPOST"のコーナーで「注目されている記事」として、ベンガル湾に浮かぶ北センチネル島(North Sentinel Island)に上陸しようとしたアメリカ人宣教師が殺害されたことが取り上げられている。「現代社会との接触拒む『世界最後の秘境』」だという。この記事を読んでピンと来た人がいると思うのだが、シャーロック・ホームズの『四つの署名』の中に登場するアンダマン諸島の原住民というのは、おそらくこの北センチネル島の住民についての情報が不正確な形で伝わったものであろうと思う。北センチネル島はアンダマン諸島の中の島であるが、住民の言語が他のアンダマン諸島に住む部族の言語と大きく異なるために、外部とは全く隔絶した生活を送っているという。2004年のスマトラ島沖地震の際に、この島に救援物資を送ろうとしたヘリコプターに対し、矢が放たれたというニュースを読んだことがある。「原始的な生活をする部族が暮らすインド洋に浮かぶ北センチネル島。そこに上陸したキリスト教の宣教師が、殺された。『秘境』と呼ばれる島はどんな所なのか」 「どんな所なのか」といっても、島の上空をヘリコプターで飛んだ人はいるとはいえ、島に上陸して無事に帰ってきた人はいないのだから、言いようがないだろうと思う。外部の世界から隔絶された地域が地球上にいくつかあっても、それはそれでいいと思うのだが、どうだろうか。

 同じ『朝日』に入管法改正をめぐり、首相はその提案理由として「深刻な人手不足が喫緊の課題」であることをあげているが、国内の労働力には潜在的に余力があり、それが十分に活用されていないだけではないかという疑問が総務省のデータ分析から得られるという記事が出ていた。この法律をめぐる国会の論戦が深まらないのは、外国人労働者の受け入れ拡大に熱心な財界と、それに反対する人々の両方の意見が、国会の中で戦わされない、国会で起きているのは一種の代理戦争でしかないからではないかと思う。私は外国人労働者の受け入れ拡大には反対ではないが、それを入管法改正という手段で実現しようとすることには反対である。国際化、グローバル化という目的は、手段を正当化しない。

12月5日
 NHK『実践ビジネス英語』の”Quote...Unquote”のコーナーで紹介された言葉:
Every wall is a door.
   ―― Ralph Waldo Emerson
(U.S. philosopher, poet and essayist, 1803 - 82)
(壁のひとつひとつが扉なのだ。)

 平松洋子『味なメニュー』(新潮文庫)を読み終える。首都圏を中心にあちこちのおいしいものを訪ね歩いたエッセー集であるが、特に立ち食いそばの店についての探訪記と、「ニュー新橋ビル」とのかかわりを記した文章が興味深い。

12月6日
 『朝日』の「天声人語」、『日経』の「春秋」という1面のコラムが、両方とも山手線の新駅の名前が「高縄ゲートウェイ」に決まったという話題を取り上げているのが興味深かった。さらに、「天声人語」が「『長すぎる』『山手線にカタカナなんて』の批判もあるが、そのうちなじむか、『高ゲー』などの略称で」、「春秋」が「さてこの駅名、人々はどう呼び習わすだろう。略して『高ゲー』?」と、略称について同じ見通しを立てていることも面白い。
 しかし、問題はむしろ現在の品川駅が港区高輪、京急の北品川駅の北に位置するということではないかと思う。まあ、今さら品川駅の名称を変更するわけにはいかないだろうが、品川を高輪、新駅を芝浦、あるいは芝浜とするほうがいいのではないかという気がしないでもない。

 『日経』朝刊の文化欄に掲載されていた国立民族学博物館特任助教の大石侑香さんの「トナカイは魚がお好き」という文章が面白かった。西シベリアに住む少数民族ハンティ人の生活誌を、特にそのトナカイとのかかわりに注目して語る内容である。彼らは1年中カワカマスやカワスズキというような魚を食べて暮らしているが、それだけでなくトナカイにも魚を与えているという。

 昨日に続き『実践ビジネス英語』の”Quote...Unquote"のコーナーで取り上げられた言葉:
Knowledge is power. (from Sacred Meditations)
  ―― Francis Bacon (English philosopher and statesman, 1561 - 1626)
(知識は力なり。)
 若いころは、ベーコンという人はあまり好きではなかったが、年を取るにつれてその偉大さがわかってきたように思う。どんな思想家も、とにかくその著書を読んで理解するまでは評価を急いではならないということであろう。 

12月7日
 『朝日』朝刊の「耕論」コーナーで、「万博 やってみなはれ」というテーマをめぐり、映画監督の上田慎一郎さんが「こんな未来を作ります」と一方的に指示するだけじゃなくて「どういう未来がいいと思いますか」と意見を募る場があってもいいと言っているのが印象に残る。

 『日経』朝刊の文化欄で、福岡市の福岡アジア美術館で開催中の「闇に刻む光 アジアの木版画運動 1930s-2010s」が紹介されている。見に行きたいが、どうも福岡は遠い。

 NHKラジオ『まいにちイタリア語』応用編「イタリアで劇場に行こう!」ではイタリアの劇作家ルイジ・ピランデッロ(Luigi Pirandello, 1867‐1936)と彼の代表作『作者を探す六人の登場人物』(Sei personaggi in cerca di mettere) のことが紹介されていた。この戯曲は日本ではあまり知られていないということであるが、戦前、築地小劇場で上演されて、大いに反響を呼んだという話を聞いたことがある。なお、小松左京さんの卒業論文がピランデッロにかんするものだったという。ピランデッロは1867年(慶応3年)の生まれで、日本では幸田露伴、夏目漱石が生まれた年である。なお、スペインではビセンテ・ブラスコ・イバーニェス(1867‐1928)が生まれている。(それからローラ・インガルス・ワイルダーもこの年の生まれである。)

12月8日
 ニッパツ三ツ沢球技場でなでしこリーグの1部2部入れ替え戦の第1戦、ニッパツ横浜FCシーガルズ(2部2位)対日体大シールズ(1部9位)の対戦を観戦した。先日の横浜FC対東京ヴェルディの対戦の際に、横浜ではレアンドロドミンゲス選手が先発どころかベンチにも入っていないので、なんとなく嫌な予感がしたのだが、この試合も、シーガルズの主将であるMFの加賀孝子選手が先発していない(ベンチには入っていた)ので嫌な予感がしたのが的中して、1点を先行したものの、前半のうちに同点に追いつかれ、後半に1点を失って1-2で敗れた。レベルの高いリーグで戦ってきた日体大の力が上回っていたということであろうか。なんとか、来週の第2戦での反撃を期待したいものである。

12月9日
 『日経』朝刊の「美の粋」の欄で「日本文化の象徴ともいえる茶の湯には、キリスト教の文化が入っていないか」という問題提起がなされている。こういうことを考える人は昔からいたようで、私が大学で教えていたころの同僚であった日本史研究家が、作家の三浦綾子から同じような質問を受けたと話していたことがある。

 同じ『日経』朝刊の文化欄に映画監督の吉田喜重さんが、小説執筆に挑戦したという「小説と映画のはざま」という文章を書いているが、その中で、大学卒業後、松竹の助監督試験を受けたときの面接官が木下惠介監督と大庭秀雄監督で、『君の名は』を見ましたか?という質問と、『二十四の瞳』を見ましたか?という質問に対して、両方とも見なかったと答えたという話が面白かった。それでも、何かの理由で高い競争率の中、合格できた。ある意味で、いい時代だったのである。

小松左京『やぶれかぶれ青春記 大阪万博奮闘記』(5)

12月8日(土)曇りのち晴れ

 2025年の大阪万博をめぐり、いろいろな意見がある中で、1970年の万博を知る人々があまり前面に出ない方がいいというようなことを言う人がいるが、1970年に中心になって働いた人の大部分は故人であり、そうでなくてもかなりの老人になっているので、その点についてはあまり心配する必要がない、むしろ、この小松さんの『奮闘記』のような文章から、教訓を読み取ることの方が有意義だと思うのである。特に読み取るべきは、小松さんがぶつかった主催者側の硬直した官僚的な体質とどのように向き合うかということである。
 東京オリンピックが都市としての東京の姿を変えている様相を目の当たりにして、また日本に万国博を誘致しようとする動きの中で、文明の生態史観の提唱者である梅棹忠夫や、日本に大衆社会論を持ち込んだ加藤秀俊らの学者と交流をもつようになっていた小松さんは、万国博が人類の文明の発展にどのような意義をもたらしうるのかに関心を抱き、万国博に関する研究グループに加わる。1964年のことである。1965年に万国博の大阪開催が決まり、万国博のあり方をめぐり、研究会に対して、準備委員会やその周辺から諮問や打診がなされるようになる。それどころかついには、桑原武夫を助けて、万博のテーマと基本理念を短期間でまとめ上げることになりさえする。

 万博のテーマが決まった後、そのテーマをどう展示に結び付けるかという「サブテーマへの展開」の作業があった。テーマ委員会の委託で専門調査委員会が組織され、梅棹と小松さんが行きがかり上、そのメンバーに加わることになった。この委員会が発足したのが1966年3月のことである。委員長はテーマ委員である阪大の赤堀四郎、同じくテーマ委員の桑原武夫が副委員長、梅棹、小松のほかに、コンピューター研究で有名な坂井利之(京大)、石谷清幹(阪大)、湯川泰秀(阪大)、永井道雄(東工大、のちに一時文相)、中根千枝(東大)などの学界からの顔ぶれに加えて、当時経済企画庁経済研究所長だった林雄二郎、建築評論家の川添登、西武百貨店の堤清二、名鉄常務の神野三男、伊勢藤紙工常務の小谷隆一といった顔ぶれで、物書きの中からは小松さんのほかに開高健が加わっていたが、開高は第1回の会合に出席して大声で発言した後は、二度と出席しなかった。永井道雄も同様で、欠席がつづいた。サブテーマの討議期間が2か月しかなかったために、委員それぞれが忙しいうえに、何を言っても無駄だという気分が強かったためであろうと思われる。2か月間で、これらの人々から意見を徴するには、それなりの工夫と支出が必要だと小松さんは力説したのだが、事務局にはそのつもりはなかった。「『国』が直接やるのでは「自由な民間の創意」が十分にくみつくせないというので、主催団体として発足させた財団法人万国博協会も、システムの根幹はやはり『お役所式』であり、民間会社のように『知恵やアイデアを買い切る』という行為は『システムとして』なかったようである。」(308ページ) 

 ここで、小松さん独特のお役所批判が展開されている。その当否はともかくとして、傾聴すべき意見だと思われるので、引用しておこう:「日本の『お役所機構』が二重三重の、それもきわめて意地の悪い監視によっていじけてしまっていること(これはタチの悪い『政治家』に責任の一半がある)、役人の数が多すぎて、しかも公務員の給与がやたら低いこと、そして『失敗』が絶対に許されない――それ故にマクロの失敗が起る――こと、などがある。おそらくは、歴史的なつみかさねによって析出してきたのであろうが、政治、官庁機構をつらぬく『性悪説の体系』は、一朝一夕では解体されないであろう。」(308‐309ページ) 「行政改革」やその後の一連の「改革」によって、「公務員の給与がやたら低いこと」などは解消されたかに見えるが、『性悪説の体系』がますます強力なものになっていることは、S官房長官の発言や態度などを見れば明らかである。

 サブテーマ委員会として、短期のうちに結論を出すことが求められているのだから、「膝つきあわせたホットな討論」の場を設けるべきだという小松さんの主張にもかかわらず、結局は「時間切れ」で事務局のあっせんで「有志」により原案を作成し、それを回覧して…という形になってしまう。とにかく「最終案」を作成して、サブテーマ委員会は解散する。あとは、事務局の問題である。
 小松さんは、梅棹とともに、加藤秀俊がチューターを務めるモントリオール万博視察団に出かけることになる。「現地できくと、モントリオール博にもいろいろ問題があるようだったが、テーマ館関係だけで百億円ちかくかける規模や、知恵やアイデアへの金のかけっぷりには、カナダという国の『文化』に対する意気ごみが強く感じられた。・・・あえてフランス語圏の中心のモントリオールで博覧会を開こうとするところは、・・・その『新しい国家のあり方』の中で、精神や文化や、知的創造活動といったものを、ポリシィとして重視しているように感じられた。」(321‐322ページ)
 万博との関係で人類の未来を考えていく必要を感じ、小松さんは梅棹に未来学の構想を語り、それから未来学のブームが始まることになるが、ここではそういうこともあったとだけ書いておこう。

 そうこうしているうちに、モントリオール万国博における日本館の展示の方法が、他のパビリオンと比べて、テーマと精神を理解せず、「見本市」みたいにあまり露骨な企業PR意識をむき出しにしているという非難がベルギーから寄せられ、ほかの国々からもそれに同調する意見がつづいた。いわゆる「モントリオール・ショック」である。企業側からは万国博協会に「企業が参加するなら、どういう展示をするべきか協会が指導しろ」という強い要望が寄せられ、協会は「期待される万国博像」というパンフレットをだした。日本の産業と技術を世界に誇示する大宣伝戦の場であると、作業会に発破をかけていた監督官庁筋も考えを改めなければならなくなってきた。「そのころから、いろんな方面でばたばたと様子がかわった」(326ページ) そして岡本太郎がテーマ展示プロデューサーを引き受けることになった。しかも、小松さんは岡本の仕事を手伝ってほしいと梅棹から頼まれ、引き受けざるを得なくなるのである。

 岡本太郎への協力は、小松さんにとって良い思い出になったようであるが、その詳細は次回に記すことにする。1970大阪万博がとにもかくにも「成功」した(その後日本で開かれたこの種の企てと比較すれば「成功」といえる)のは、実は、万博の理念についての掘り下げがあったからだというのが、小松さんの言いたいところのようである。そして、2025年の大阪万博を展望するとき、この問題はきわめて大きなものに感じられるはずである。

鳥飼玖美子『子どもの英語にどう向き合うか』(8)

12月7日(金)晴れ

 2020年度からの小学校での英語の教科化をはじめ、英語教育の低年齢化が最近の顕著な傾向である。その背景には、早くから英語に親しむことで、英語によるコミュニケーション力の向上を図ろうという意図が見られる。この書物は、このような動きに不安をもっている保護者を対象として書かれたものであり、著者である鳥飼さんの経験と、英語教育の実践の歴史、応用言語学、発達心理学の知見を踏まえて、現在の英語教育の政策と実践の問題点や、克服の取り組み方について概観したものである。
 第1章では外国語の学習には母語という土台をしっかり固めることが重要であること、言語力には「会話力」と「学習言語力」があり、英語を使用して仕事を進めていくには、「学習言語力」が必要であること、「学習言語力」を伸ばすには「読む力」が必要らしいということなどが論じらている。
 第2章では日本における英語教育の歴史が辿られ、江戸時代における黒船の到来以前からはじめられていた英語への取り組みを通じて、英語学習における動機づけの大事さ、読み書きを中心とした外国語学習の効用が語られている。文明開化とともに、英語は欧米の先進学術を受容する道具として熱心に学ばれたが、そのような文明の輸入が一段落すると英語熱は下火となった。

 1980年代ごろから盛んになってきたコミュニカティブ・アプローチでは読み、書き、聞き、話すという4技能がバランスよく習得されることがめざされているが、日本ではなぜか、それが会話中心のアプローチとして定着してしまった。また、このアプローチでは母語の使用を禁止していないのに、以前のオーディオ・リンガル・メソッドの場合と同様に、母語の使用を控える授業へのこだわりが見られている。
 正確に話すことにこだわったオーディオ・リンガル・メソッドに比べ、コミュニカティブ・アプローチでは目的達成のためのコミュニケーションが重視される。しかし、その分、教え方がシステム化されず、実際の授業では教師によってばらつきが出てしまうという問題がある。しかも、文法や読解は教えなくてもよいという誤解も付きまとっている。読み、書き、聞き、話すという四技能のどれをとっても、文法的な知識・理解が必要だということが忘れられているのである。コミュニカティブ・アプローチでは英語を使いながら、その過程でできるだけ自然に文法的な知識が身につくことが望ましいと考えられているが、それが難しいことが実践の積み重ねの中で分かってきて、どのように文法や音声などの形式を教えるか、そのような活動を組み込むかが問題になりはじめているという。

 さらに、言語の習得には、読み、書き、聞き、話すという四技能が必要だというという考えに修正を迫る意見も出されている。例えば、欧州評議会は、伝統的な四技能では、コミュニケーションの複雑な現実をつかみきれないとして、「受容」(reception 読む・聞く)、「産出」(production 話す・書く)、「やりとり」(interaction 話す・書く)、「仲介」(mediation 2つの言語を媒介する活動)の4つの活動を軸にコミュニケーションを考えるべきだとしている。〔この考えにたてば、日本の学校の授業で、英語を教えるのに英語しか使わないというやり方は、「仲介」の活動を放棄するもので、かえって、言語力の発達を阻害するということになりかねない。〕

 ところが、1980年代から始まった日本の「会話中心主義」の英語の流れはますます強くなってきている。「2003年には、5か年にわたる『英語が使える日本人』の育成のための行動計画」を文部省が開始しました。国民全員を「英語が使える」ようにするという壮大な目標が掲げられ、「話す」「聞く」学習が重視されるようになったのです。」(124ページ) それまでは企業が自力で社員の英語教育を行っていたのが、不況のためその余力がなくなり、学校教育にしわ寄せが及んだというのがこのような動きの背後にある事情である。ビジネスに仕える英語への要求は強く、英語教育関連の会議には必ず経済界からの顔ぶれが加わっているのである。

 大学生⇒社会人の英語力の低下は、英語の授業時間数が限られていること、文法・読解の軽視などの理由に基づくものであるということが認識されないまま、言わば最後の切り札として英語教育の低年齢化が導入されようとしている。このまま、会話中心の英語教育を続けても、国民全体が英語が使えるようになるという目標達成はおぼつかないし、通訳・翻訳などの英語の専門家の養成もできなくなるという。 

 英語教育の現状と、そこからくる将来の見通しについて、鳥飼さんは極めて悲観的な見通しを立てているのだが、英語教育政策を策定する側は、どのような目標をどのような見通しの下に設定しているのであろうか。
 「2012年に公表された「グローバル人材育成戦略」に基づき、政府が2013年に閣議決定した英語教育の到達目標は、「中学卒業段階で英検3級程度以上、高校卒業段階で英検準2級程度以上の英語力を持つ生徒の数を2017年度までに全体の半数にする」というものです。文科省はそれに従い「ブローバル化に対応した英語教育改革実施計画」を発表しました。
 ところが2017年度に全国の公立中高生を対象に実施された「英語教育実施状況調査」では、政府が目指している目標に達した中学3年生は全体の40.7パーセント、高校3年生は39.3パーセントで、政府目標の50パーセントに達していません。」(127ページ)
 問題は2つあることを鳥飼さんは示している。一つは、目標があまり明確ではないこと。英検〇級程度に達する生徒の割合が示されているというのはきわめて明確な目標に思われる。しかし、実際はそうではない。英検準2級は「日常生活に必要な英語を理解し使用できる」レベル、英検3級というのは「身近な英語を理解し使用できる」レベルとされている。「日常生活に必要な」とか「身近な」とかいうのは極めてあいまいな定義である。これを「初歩レベル」の会話と言い換えても、そのレベルに達している中高生が半数に達しないというのは、どういうことだろうか。鳥飼さんは、「1989年から30年近くにわたって続けられてきた英語教育改革が成功したとは言えません」(128ページ)と言っているが、教育政策の策定者の側はこれにどのように反論できるのであろうか。会話中心の英語授業が、会話のできない生徒を卒業させているというのが現状だというのである。

 鳥飼さんが指摘しているもう一つの点は、当局(あるいは世論)が英語教育にだけ高い目標を押し付けているということである。「小技術高と12年間も体育の授業を受けてきたのに、速く走れない」と怒る人はいない。ところが、英語については「6年間も習ったのに話せない」と思う人が多い。「日本人が、たかだか週3,4時間英語を勉強して、6年間で母語話者(ネイティブスピーカー)のように話せるわけがない、ということを理解してほしいと思います。」(129ページ) 目標が高ければ高いほど、必要な努力の量は多くなる。そのことを忘れて、高い目標だけを設定するのは無謀である。
 最近、大学受験における民間試験の導入をめぐって、議論があるが、東京大学が同大学を受験するには、CEFR(ヨーロッパ言語共通参照枠)のA2の英語力が証明できればいいといっているのが非常に興味深い発言である。CEFRを参考にして設定されたNHKの語学番組の枠組み(したがって同一ではない)に従っていえば、A2は「日常生活での身近な事柄について、簡単なやりとりができる」というレベルとされる。このレベルに対応する番組は、ラジオの『基礎英語3』、『英会話タイム・トライアル』、『エンジョイ・シンプル・イングリッシュ』、テレビの『おもてなしの基礎英語』である。これらの番組を実際にきいてみると、東大の判断が受験生の現実の英語力を踏まえたまことに妥当な意見であることがわかるはずである。さらに言えば、『NHK高校講座』の『コミュニケーション英語』や『英語表現』を聞くことも、英語教育の実情を知るのに役立つと思う。要するに、現実を踏まえない目標設定は避けるべきだということである。

 と、書いたところで、『ラジオ英会話』を聴くつもりで、その前の『基礎英語3』の終わりの方を聞いていたら、英検3級に再チャレンジしますという投書が読まれていた。『基礎英語3』は英検3級レベルの内容だといっていいのだろうが、それを聴いているからと言って、英検3級に簡単に合格できるわけではないのである。それに試験には運が付きまとうということも見落としてはならない。

 しかも言語は単なる道具ではなくて、文化と結びついている。母語以外の言語を学ぶことによって、「世界が広がり人生が豊かになる」(129ページ)という側面を無視できない。正体不明の実用的な価値というのではなくて、実用と教養のどちらか一方に偏らない英語教育の在り方が求められているというのが、英語教育の歴史をたどる中で得られた結論のように思われる。 

ミシェル・オクチュリエ『社会主義リアリズム』

12月6日(木)雨が降ったりやんだり

 「日記抄(11月26日~12月2日)」でも触れたが、11月29日にミシェル・オクチュリエ『社会主義リアリズム』(文庫クセジュ)を読み終えた。「リアリズム」という用語は、文学、美術、演劇、映画、写真など芸術の諸分野において今なお用いられているが、「社会主義リアリズム」というと、ほぼ死語になっているといってよい。「石崎徹の小説」11月26日付の「民主文学会」という一文の中で、新日本文学会と民主文学会の関係やそれぞれの活動について触れられているが、その中で「社会主義リアリズム」という言葉がまったく登場しないのは、このことをよく物語っている。

 この書物の著者であるミシェル・オクチュリエは「社会主義リアリズム」が「共産主義体制が崩壊するまでに存在した『人民民主主義』時代の公認芸術に適用されている。・・・社会主義リアアリズムを掲げ、その模範(モデル)となった文学、絵画、映像作品のほとんどは、いまではすっかり忘れられたか、骨董品状態でしか存在していない。」(7ページ)と書いている。オクチュリエは旧ソ連と東欧における展開だけに焦点を当てていて、同じ「人民民主主義」でも中国をはじめとするアジアの国々における展開は視野に入れていないように思われる。さらに日本でも、「社会主義リアリズム」をめぐって一定の取り組みが展開された。翻訳者である矢野卓さんはそのことをめぐり、「訳者あとがき」の中でこのことに触れている。これらのことについては、この文章の後段で論じるつもりである。

 そのような、視野の狭さという問題点はあるのだが、「社会主義リアリズム」を過去の遺物として扱うのではない、その中に含まれていた、今なお残されている問題に取り組もうというのが、オクチュリエの立場であって、それは評価されて然るべきものだと思う。彼は次のように書いている:「・・・社会主義リアリズムは、はたして美学的な問題なのか? 社会主義リアリズムを特徴づけているのは、むしろ折衷主義であって、独自の様式(スタイル)を欠いていることは、美学的な関心に対する政治的な要請や主題の指示の優位を表わしていないのか?」(同上) オクチュリエの問題提起はまだまだ続くのだが、まずここで切っておこう。
 つまり、社会主義リアリズムをめぐる問題の第一は、それが芸術創造上の方法であるのか、それとももっと別のものなのかということである。このことは、この問題をめぐる理論的な論争や、芸術上の実践の展開に反映されている。それから、社会主義リアリズムは、文学に即していえば、一方でマルクス主義や、ロシアの革命的民主主義、ヘーゲル美学の影響下にあり、もう一方でバルザックやフローベール、ロシアの作家で言えばトルストイに代表される写実主義という意味でのリアリズム文学の伝統を継承している。そういう意味で規制の様々な理念の折衷であり、あまり独自のものはないのではないかという指摘である。にもかかわらず、それが金科玉条として猛威を振るったというのは、やはり芸術に対する政治的な介入の道具としてではなかったかとも考えられるのである。

 もともとは新日本文学会の大阪支部の会員による同人雑誌として出発した『えんぴつ』が次第に新日文から離れていく過程は、故人になった谷沢永一が『回想 開高健』の中で、開高との交友の発展との関連で詳しく描いているが、労働者会員の職場の日常を綴る「作文主義」に対して、もっと何か別のものはないかという文学青年たちの疑義がそのような離別のきっかけになっているようである。良くも悪くも、作品評価における理論の優位性というようなことが新日文の会員たちには自覚されていた。単なる芸術主義の立場に立つのであれば、また話は別である(その場合でも芸術的な価値をめぐる論争があるかもしれない)。だが、一定の社会思想の現実化を目指して文学創造に励むというからには、社会理論に根ざした文学理論の優位性を認めなければならない。自分の身の回り、職場の様子をそのままに描き出す…それではまだ文学にはならない。加えて、職場の様子をありのままにつづった作文、それが即社会主義リアリズムとは言えないことも確かである。

 ロシア革命と芸術ということになると、(少なくとも私は)文学理論で言えばバフチンとかプロップ、詩人で言えばマヤコフスキーとかエセーニン、美術関係ではカンディンスキー、演劇ではメイエルホリド、映画ではエイゼンシュテインとジガ・ヴェルトフといった名前が挙がるのだが、この人たちの大部分が「社会主義リアリズム」とは無関係で、はなはだしきはスターリン時代に粛清されたり、国外に去ったりしたのである。個人的な感想をさらに続けて述べれば、未来主義とか構成主義とか呼ばれる芸術的な傾向に大いに興味を持つ一方で、それだけがロシアではない、あるいは革命ではないという気持ちもある。カンディンスキーはかなり好きな画家なのだが、抽象画に行く前の、ロシアの民話をモチーフにした作品群の方に興味があるというのも本当のところである。

 「訳者あとがき」で矢野さんは「社会主義リアリズムの本格的な実践は、野間宏、花田清輝、安部公房など、そうそうたる顔ぶれの作家たちが推進し、それは、戦後文学の運動のプログラムの中にしっかりと組み込まれました」(172ページ)と書いているが、この記述は文学史的な事実から少し外れている。リアリズムということでは本流に近いと思われる野間宏の場合でも、同時代のフランスの様々な文学潮流の影響は認められるし、花田清輝の場合は、「社会主義リアリズム」に批判された革命直後の前衛的な芸術運動のほうの一貫した支持者であったのだし、『鳥獣戯話』のような彼の作品のどこに「社会主義リアリズム」のかけらがあるのかを矢野さんは論証する必要がある。SF的な発想を展開した安部公房の場合はさらに「社会主義リアリズム」との距離ははっきりしている。「社会主義リアリズム」を言うのであれば、蔵原惟人の戦前からの議論を持ち出す必要があるだろうし、蔵原と中野重治との論争にも留意する必要がある。中野の作品にアンチ=ロマン的な要素があることはしばしば指摘されてきたところである。

 オクチュリエはさらに続けて問いかける:「社会主義リアリズムの問題となっているのは芸術なのか? あるいは単にイデオロギーなのか? 本当に「社会主義」を問題にすることはできるのか? むしろ、社会主義リアリズム芸術のモチーフは、1930年代から40年代のソヴィエト芸術と、ドイツのナチズムやイタリアのファシスト党の芸術に、明らかな類似が見られるような、全体主義の政治体制に共通するイデオロギーに従属していないのだろうか。」(7‐8ページ) 原文が悪いのか、訳文が悪いのか、日本語として意味が通じないところがあるけれども、芸術に対するイデオロギーの介入の悪しき例として、「社会主義リアリズム」をオクチュリエが理解していることはわかる。

 当事者でない人間にはわかりにくい部分もあるが、社会主義リアリズムという芸術的な教義が影響力をもったことは確かであるという。またその教義の内容と機能とを区別する必要があるともいう。内容の方はかなりの曖昧さをもっているが、機能の方がはっきりしていたのが問題だという。内容の曖昧さについては既にいくつかの点を指摘した。機能の方は芸術家たちが党の指導に従うように仕向けるということに要約できる。そしてそのことが、芸術創造の実際にどのような影響を及ぼしたのかということがこの書物の追求する問題となるのである。
 ということで、この本の「序論」に多少の私見(というよりも谷沢永一からの借用)を加えて、書物の趣旨についてあれこれと論じるだけで、今回は終わってしまった。この本に興味を持った方にお勧めしたいのは、この本を読み通すことよりも、ここで言及されている芸術家たちの作品に実際に触れて、自分の印象を固めることである。つまり、この書物は芸術をめぐる論争を紹介する者なのだが、おそらくはもっと重要なのは、芸術そのものに触れることだということである。その意味で、この書物はけっして意味のない著述ではないと思うのである。

トマス・モア『ユートピア』(30)

12月5日(水)晴れたり曇ったり

 1515年、イングランドの人文主義者で法律家であったトマス・モアは、国王ヘンリーⅧ世の命を受けて、カスティーリャ公カルロス(翌年、即位してカスティーリャ王カルロスⅠ世、1519年に神聖ローマ帝国皇帝カールⅤ世となる)との間の紛争を解決するための外交使節団の一員としてフランドルに渡る。交渉の中断中に彼はアントワープに赴き、そこの市民であるピーター・ヒレスと親しく交わる。ある日、彼はピーターから世界中を旅してきた哲人であるというラファエル・ヒュトロダエウスという人物を紹介される。世界中の様々な国々を訪問してきたというラファエルは、当時のヨーロッパ、特にイングランドの戦争が絶えず、貧富の格差が激しい社会の様子を批判し、それらに比べると彼が見聞した新大陸の近くにあるユートピア島の制度と社会は優れているという。モアとピーターはラファエルからユートピアの様子を聞くことにする。
 ユートピアでは私有財産というものがなく、人々はみな何かの職業をもち、都市の人々も農村で農業に従事する決まりがあるなど、全員が働いている。また、人々は贅沢を退け、質素な暮らしをしているが、公共の財産は緊急時に役立つよう豊かに貯えられている。重罪人が死刑になることはまれで、ほとんどが奴隷として使役されている。ユートピアは近隣諸国に対し、役人を派遣したりして、友好関係を保っているが、盟約を結ぶ関係になることはない。

 次にラファエルは、ユートピア人たちは平和を愛好する人々であるというが、そういう彼らでも戦争をすることがあるという:「戦争はまさに野獣的なものだけれども、どんな野獣でも人間ほど絶え間なくそれに従事しているものはないとして、彼らは戦争を極端に嫌っており、ほかのほとんどすべての民族の風習とは反対に、戦争で求められる栄光以上の不栄光は皆無と考えています。」(澤田訳、203ページ)
 ラテン語原文では:
bellum utpote rem plare beluinam, nec ulli tamen beluarum formae in tam assiduo, atque homini est usu, summopere abominantur, contraque morem gentium ferme omnium nihil aeque ducunt inglorium, atque petitam e bello gloriam.
 ロビンソン訳では:
 War or battle as a thing very beastly, and yet to no kind of beasts in so much use as to man, they do detest and abhor. And contrary to the custom almost of all other nations, they count nothing so much against glory as glory gotten in war. (p.107)
 平井訳では:
 戦争や戦闘は野獣的な行為として、そのくせそれを好んで用いる点にかけては人間にかなう野獣は一匹もいないのだが、彼らは大いに嫌い呪っている。そして他の国々の習慣とはちがって、戦争で得られた名誉ほど不名誉なものはないと考えている。(144ページ)

 とはいえ、彼らは一定の日を決めて軍事教練に励むなど、戦争への準備を欠かさないわけではないという。ここで軍事教練というのはラテン語でdisciplina、ロビンソン訳ではthe discipline of war、ターナー訳ではmilitary training、ローガン&アダムズ訳ではvigorous military training (本棚を整理していたら、アダムズの単独訳が見つかったが、そこでもvigorousという形容詞がついていた)、またこれも最近見つけたウットンWootton訳ではmilitary trainingである。もう一つ男女ともにというところ、ラテン語ではneque id uiri modo, sed feminae quoque 「男だけでなく、女もまた」となっているのを、澤田訳は「男も女も」、ロビンソン訳は"not only the men, but also the women”、平井訳は「単に男ばかりでなく女までが」、ターナー訳は"both sexes"と意訳し、ローガン&アダムズ訳(とアダムズ単独訳)は"both men and women!”とこれも意訳、ウットン訳は”not just the men but the women"としている。確かイスラエルでは男女ともに兵役の義務があるはずであるが、モアはここで彼の理想の制度を述べているのではなく、当時のヨーロッパ社会の男子が戦争に駆り出される状態に対する諷喩としてこのような発言をさせたものと考えられる。ただ、この時代、女性が男性について戦地に赴くことはごく一般的なことであったことも念頭に置かれるべきではあるだろう(大分時代が下がって、サッカリーの『虚栄の市』でアミーリアはナポレオンとの戦争に赴く夫に従って、ワーテルローの近くまで出かけるし、さらに後の時代に起きたクリミア戦争を描いたトニー・リチャードソンの映画『遥かなる戦場』でも一般人の女性――将軍の愛人ということではあるが――が戦場まで出かけている)。

 ユートピア人たちは正当な理由がなければ戦争はしない。その正当な理由というのは①「自分たちの国境を防衛するため」、②「友邦の領土に侵入した敵を撃退するため」、③「僭主制で圧迫されてい入る民族に同情して〔これは人情からします〕彼らを僭主制の桎梏と隷属状態から解放してやるため」(澤田訳、203ページ)ということであるが、これだけあれば、というよりも②と③を拡大解釈すれば、現代の戦争のほとんどは正当化できるはずである。
 友邦というのは、前回のユートピアの外交関係を述べた個所に登場するユートピアがいろいろの恩恵を与えてやった国を言う。友邦を援助するために出兵するのは、必ずしも国土を防衛する場合に限らず、友邦が他国から不法行為を受けた場合も含まれる。派兵行動に踏み切るのは、友邦のほうから相談を受けて、その交戦理由が正当だと認められた場合であるが、返還を要求しているものが返還されない場合も戦火を開くことがある。
 開戦の理由となるのは、敵の侵入で友邦が略奪を受けた場合だけでなく、「友邦の商人がどこかの民族のところで、悪法のこじつけや善法の曲解によって、正義の仮面のもとに不正な弾劾を受ける場合」(澤田訳、204ページ)の方が強い理由となるという。ローガン&アダムズ訳の脚注によると、戦争の正当な理由、正義の戦争とそうでない戦争の区別というのは古典古代の議論を復活させたものだという。モアがこのような交戦理由や、交戦に至る経緯をどこまで自分の考えとして述べているかは不明だという。そして、エラスムスは防衛のための戦争だけを承認するといいつつ、キケローの「不正な平和は正当な戦争にはるかに勝る」という発言を支持していたと書き添えている。またモアの友人でもあり庇護者でもあったジョン・コレットは、いかなる戦争もキリスト教信者にとって是認されるべきものではないと説教で述べたとも記されている。〔おそらくキリスト教徒同士の戦争が問題にされていたのであって、異教徒との戦争をどのように考えていたかを調べてみる必要がある。〕

 この後、ユートピアの友邦であるネフェロゲト人たちのために、アラオポリト人との間で戦争を起こしたという最近の例が語られる。つまりアラオポリト人たちのところにいたネフェロゲト人の商人に対して、正義の口実の下に明らかに不正な仕打ちがなされ〔ユートピア人にはそうと見えたのです〕、正、不正の問題が実際に事件の根底にあったかどうかはともかく、苛烈な報復戦争が行われたのです。」(澤田訳、204ページ) 近隣諸国を巻き込んだ戦争の結果、アラオポリト人たちは、もともと彼らに比べるとはるかに劣等な民族であったネフェロゲト人たちの奴隷とされたとモアは結んでいる。どうも穏やかならざる結末である。商人たちが起こした紛争が、国と国との間の戦争の発端となるというのは、エラスムスやモアのあとに続くフランスの人文主義者であるラブレーの『ガルガンチュア物語』の中のピクロコル戦争を思い起こさせる。戦争の展開の描写など、モアとラブレーの文学的想像力のけた外れの違いを示すものである。しかし、この戦争に勝利したガルガンチュアは敗者に対して、きわめて寛容な態度をとっているというのも重要な点ではないかと思う。

 モアは、この『ユートピア』を書いた後、イングランド王国の政界での地位を固め、1529年から1532年にかけて大法官(Lord High Chancellor of England)を務める。大法官というのは、最高裁判所の長官、上院(貴族院)議長、枢密院顧問官であり、国璽の保管者であるという極めて高い地位であり、国王の助言者であった。この地位に就くのは普通、僧籍にある人であったが、俗人で初めてこの地位に就いたのがほかならぬモアであった。モアはそのくらい有能で実際的な人であった。逆にいうと、そのために命を縮めたところがある(後に、『ニュー・アトランティス』の著者であるフランシス・ベーコンが1617年から1621年にかけて、やはりこの地位に就いている。) ユートピア人と戦争についてのラファエルの話はまだまだ続き、当時のヨーロッパの政治状況との関連で、いろいろと書くことも出てくるだろうと思う。ラファエルの意見、あるいは、その背後に見え隠れするモアの意見についての賛否は分れるところであろうが、もう少しお付き合いください。

ダンテ・アリギエーリ(須賀敦子・藤谷道夫訳)『神曲 地獄篇(第1歌~第17歌)』(6‐1)

12月4日(火)曇りのち晴れ

 1300年4月4日、「暗い森」に迷いこんだダンテは、聖母からつかわされたローマ時代の詩人ウェルギリウスの霊によって救われ、彼とともに地獄・煉獄、また「よりふさわしいたましい」に導かれて天国を歴訪するように言われる。自分にはそのような大任はふさわしくないといったんは躊躇したダンテであったが、聖母マリア、聖ルチーア、ベアトリーチェという天国の3人の貴婦人が自分の旅を望んでいることを知って、決心を固める。(第1-第2歌)
 「すべての希望を捨てよ」と記された地獄の門をくぐったダンテは、生前、顕著な善も悪もなさなかった人々のたましいが天国からも地獄からも受け入れられずに空しく地獄の周囲を走り回っているのを見る。また、地獄に堕ちる死者たちのたましいが先を争って、アケローンの川を渡るカロンの船に乗り込んでいる様子を見る。(第3歌)
 地獄の第1圏であるリンボでは洗礼を受けないまま死んだ赤ん坊たちや、異教徒のまま死んだが生前正しく生きた人々の霊が、静かに、しかし神を見る「希望なく、ただ思いこがれ」(42行、65ページ)て過ごしている。(第4歌)
 第2圏に降りたダンテは、愛欲の罪のために地獄に堕ちた人々のたましいが、あるいは椋鳥のように群れを成して、またあるいは鶴のように一羽一羽が見分けられるように、暴風に吹かれてさまよっているのを見る。その中にダンテにとっては身近な存在であったパオロとフランチェスカの2人の姿があり、ダンテはフランチェスカから彼らの悲劇的な恋愛とその結末について聞くことになる。(第5歌)

 第5歌で、フランチェスカの告白を聞いて気を失ったダンテが、意識を取り戻すと、すでに地獄の第3圏に到着していた。
 私がいたのは第三の環の中で
永遠に呪われた雨が冷たく重く降っていた。
その雨の降り方はいつまでも変わることはなかった。
 大きな雹が、黒い雨が、雪が、
暗い空から降っていた。
それを迎える大地は悪臭を放つ。
(7‐12行、120ページ)
 
 ダンテとウェルギリウスの前には地獄の犬ケルベロスが現れる。この獣はたましいたちに吠え掛かり、かみつき、彼らを四つ裂きにしていたが、ウェルギリウスは両手で土をすくって、ケルベロスの口に投げ入れ、この獣をおとなしくさせる。

 私たちは、重くるしい雨にねじ伏せられた
たましいたちの上を通って行った、
人の姿に見える彼らのまぼろしの上に足を載せながら。
 彼らはみなすべて地に横たわっていたが、
ひとりだけ、私たちがそばを通るのを見るが早いか、
起き上がってすわり込んだ。
(34‐39行、121‐122ページ) たましいたちは見たところでは本物の肉体を備えているようであるが、実際は中身のないうつろな像である。だから、踏まれても、痛みは感じないということであろうか。ダンテに気づいた魂は、彼のことを知っている様子である。そのことは、この次の個所で明らかになる。

 「おお、この地獄を過ぎゆくおまえよ、
私が誰だかわかるだろうか。知っているだろう、
私が滅びに到る以前におまえは生まれたのだから」
 そこで私はいった。「きみの苦しみゆえに
私は君が誰であるか忘れたようだ。
あったことは全くないと思う。
 このようにおそろしい場所にいて、
このように苦しんでいるきみは誰なのか、話してくれ。
これほど不快なものはほかにない」
(40‐48行、122ページ) たましいはダンテが彼のことを知っているだろう、あるいは忘れてしまったのかというのに対し、変わり果てたたましいが、生前に誰であったのか、わからないとダンテはいう。魂には、ダンテに対して言いたいことがあるようである。

 すると彼は私に言った。「今や袋から溢れるほど
嫉みそねみに満ちた君の都[フィレンツェ]が、
かつて、わが晴朗な人生を育んでくれていた。
 君たち市民は私をチャッコと呼び、
喰意地の罪のため
ごらんのとおり雨に打ちのめされている。
 このような罪のために同じような
罰を受けている哀れな亡霊はほかにもいる」
そう言ってたましいは口をつぐんだ。
(49‐57行、122-123ページ) このたましいは生前はチャッコと呼ばれる、ダンテの同郷人=フィレンツェの市民であった。この人物についての詳細は不明らしいが、生前は人々の人気ものであったが、道徳的には芳しくない(特に大食いの)人物であったようである。彼が地獄の第3圏にいるのは「喰意地の罪」であると自ら語っている。第3圏にいるほかのたましいも、この罪を犯したためにここにいるということである。注によると、『神曲』には33人のフィレンツェ人が登場するというが、チャッコはその第1号である。この後、彼の口から、都市フィレンツェのこの後の政変について語られることになるが、それはまた次回。

 食悦の罪はキリスト教で言う「七つの大罪」の一つであるが、飲食全般に関する罪であって、大食だけを対象としているわけではない。美食や奢侈な食事をはじめ、食事時間以外につまみ食いをしたり、おやつを食べたり、酔って醜態をさらしたり、ばか騒ぎや馬鹿話に興じたりすることなどもここに入ると注記されている。1回や2回そういうことをしても、後で後悔して行状を改めようと思えば、それでいいのであろうが、常習性になってしまうと問題であるということらしい。しかし、世界の相当数の人々が飢えに苦しんでいるのに飽食にふけるだけでなく、多くの場合食べ残しのごみを出しているよう人々はどうもこの地獄に行きそうである。というか、可能性としては私もここに行くのではないかと思うと、何となくいやな気分になる。もっと重い地獄に行くに決まっていると、言いたい人には言わせておくことにする。そういう風に人の悪口を言うのもいいことではないのである。
 

『太平記』(239)

12月3日(月)曇り、雲がだんだん厚くなってきた。

 暦応2年(南朝延元4年)8月、後醍醐帝が崩御され、12月、吉野では八宮が即位された(後村上帝)。新しい帝の下で、諸国の宮方の武士たちに蜂起が呼びかけられたが、越前では戦死した新田義貞の弟の脇屋義助が再び勢力を回復し、その家臣である畑時能が湊城を出て近隣を劫略し、由良光氏が、西方寺城を出て、足利方の城を落とし、新田一族の堀口氏政が居山城を出て勢力を張った。越前河合庄に集まった新田方の軍勢が足羽の黒丸城を包囲すると、足利方の越前守護であった斯波高経(足利一族である)は加賀に落ちた。黒丸城落城の報せに、足利方は高師治、土岐頼遠、佐々木(六角)氏頼、佐々木(塩冶)高貞らを北国に向わせた。ところが、塩冶高貞の身の上に飛んでもない事件が起きた。
 足利尊氏の執事である高師直は、ちょっとした病気で休養していたが、ある夜、その気晴らしに当時平家琵琶の第一人者と呼ばれた覚一と真城(しんじょう)とが、平安末に紫宸殿の上に飛来して帝を悩ませた鵺という怪鳥を源三位頼政が退治した話を演奏した。頼政の弓の腕前に感動した上皇がこの褒賞として、頼政がかねてから思いを寄せていた菖蒲(あやめ)という女房を与えようと仰せになった。ただし、同じような姿をした12人の侍女たちを見分けがつかないようにして並べ、その中から本物の菖蒲を見つけ出せというのである。

 さて、頼政を御所の清涼殿の孫廂の間(清涼殿の東に張り出た廂の間)に呼び出して、更衣を勅使として、頼政に次のような言葉を伝えた。「今夜の勧賞には浅香の沼の菖蒲草を与えよう。弓を引いた後で、その手は疲れているかもしれないが、自分でその女房の袖を引いて、自分の妻にしなさい」というのである。岩波文庫版の脚注によると、浅香沼(安積沼)は現在の福島県郡山市に存在したという沼で、歌枕として知られていた。江戸時代に芭蕉が探訪した時には、まだわずかに残っていたらしいが、現在は生滅しているという。この言いつけは、「金葉和歌集」所載の「あやめ草ひく手もたゆく長き根のいかで浅香の沼に生ひけむ」(あやめ草を引き抜こうとする手がつかれてしまった。なんと長い根であろう。どうしてこの草が浅香の沼に生えているのだろうか。)という藤原孝善の歌を踏まえたものだそうである。根が長くてなかなか引き抜くことができないというのは、恋の悩みをたとえているのであろう。しかし、あやめは乾いた草地に自生する草で、湿地に生えるのはカキツバタのほうである。「いずれ菖蒲か杜若」というが、この歌の作者も実は、あやめとカキツバタの区別ができなかったらしい。更衣というのは帝の着替えを手伝う女官というのが本来であるが、のちに天皇の妃の候補者=女御の下位の者(父親の身分が低い)を指すようになった。しかし、平安時代の中ごろ以後は、更衣は置かれなくなったいうことである。ここは、上皇が誰か女官を遣わして申し伝えたという風に理解しておけばいいだろう。

 前回も書いたように、上皇としては、頼政が見分けがつかなくて困るのを見て楽しもうという意地悪な趣向である。頼政は上皇の仰せなので、辞退することもできずに困ってしまった。そして清涼殿の孫廂の間(大床)に手をついてかしこまっていた。彼の目の前にいるのはどれも16歳くらいの絵にも書けない美しさをもった女房たちが、金と翡翠の飾りで美しく装い、桃の花のようになまめかしく並んでいたので、頼政はいよいよ心惑わされ、視線が定まらなくなり、どの女房があやめであるか見分けて、その袖を引くことなどできそうもない心持になった。
 これを見た更衣が笑って、水かさが増えれば、浅い沼という名の浅香沼でもあやめは区別できないでしょうといったので、歌人としても名高かった頼政は、とりあえず、
  五月雨に沢辺の真薦(まこも)水越えていづれ菖蒲と引きぞわづらふ
(五月雨が降り続いて沢辺の真薦さえ隠れ、どれが菖蒲か引き当てかねます)
と歌を詠んだ。すると、これを聞いた近衛関白太政大臣(藤原忠通かと脚注に記されている)が頼政の歌にとても感じ入り、手ずから菖蒲の前の袖を引いて、頼政に、この女性こそがおまえの妻となるべき女性だと、頼政に引き渡したのであった。

 頼政は鵺を射たことで、弓の名手としての名前を揚げただけでなく、歌を一首詠んで貴人を感動させたことにより、長年ひそかに恋い慕っていた菖蒲の前を妻とすることができた、彼が風雅の道にも通じていることは名誉なことであったと、真城が琵琶を最高音域にかき鳴らして歌えば、これに覚一は最低音域の琵琶を鳴らしながら唱和して、歌い終えた。この演奏のすばらしさに、横になっていた師直は枕を押しのけて聞きほれ、演奏する者も聞くものも一体となってこの曲のすばらしさに感動したのであった。

 平家演奏が終わった後、その場に残っていた若い武士たちや、師直の取り巻きの技芸をもった遁世者たちが、「それにしても頼政が鵺を射て退治した褒美として、美女を妻として与えられたのは面目を施したといえるのだろうが、所領を賜るのに比べるとずいぶん劣ることだなぁ」と言い出したので、師直は、この言葉が終わらぬうちに、「おまえたちは、ひどく道理のないことを言う者だなぁ。師直は、この物語に出てくる菖蒲に比べられるほどの美人が自分のものになるのであれば、国の10カ国、所領の2・30箇所であっても、それに代えてぜひとも賜りたいものだ」と彼らをたしなめた。

 ここから、ここで登場した菖蒲のような美人が現実にいるのかという話になって、物語は急転していく。師直の取り巻き連が、美女よりも所領といったのはごく正直な感想で、師直が言っていることは、実際に富も権力ももっている人間の贅沢な願望であり、両者を単純に比べるわけにはいかない。源三位頼政の説話を読んでいて感じるのは、和歌を詠むというような貴族の教養と、武士としての武芸の卓越とは本来であれば、まったく別の事柄で、比較できないものであるはずなのに、貴族の教養の方が優位にあるものと考えられていることである。ただ武芸だけというのではなくて、歌も詠めるということが、武士である頼政に高い評価を与えることになったのだろうが、では武芸に秀でた貴族が高い評価を受けることになったかというとそうではないという例はいくらでも見つけることができる。

 すでにご存じの方も少なくないと思うが、歌舞伎の『仮名手本忠臣蔵』は高師直と塩冶判官のこの説話を発端としている。実際の吉良上野介義央が老人であったのに対し、高師直は壮年で精力が余っている感じである。四十七士の一人大高源吾はその名でもわかるように、高一族の末裔であるというのが皮肉である。
 

日記抄(11月26日~12月2日)

12月2日(日)曇り

 11月26日から本日までの間に経験したこと、考えたこと、これまでの記事の補遺・訂正等:
11月21日
 『まいにちスペイン語』のExpresiones siempre a mano (まるごと表現)のコーナーよ
¡ Patata! (はい、チーズ!)
patataは「ジャガイモ」のことである。アルゼンチン、ウルグアイ、ベネズエラなどでは、こういう時に¡Whisky! というそうである。

11月26日
 『朝日』の朝刊に「思考力付けるには」、「先回りせず、何でもやらせる」ことだという灘中学・高等学校教頭の大森秀治さんの談話が掲載されていた。思考力をつけることも大事だが、その思考力を有効に使うことも大事である。それも自分で経験を重ねないと身につかないことかもしれない。

 行きつけの医院に出かける。体重は微減。

11月27日
 26日に、アカデミー賞9部門をさらった『ラスト・エンペラー』の監督であるベルナルド・ベルトルッチさんが亡くなられたと報じられた。作品の中では、まだ私が20代のときに見た『暗殺の森』、特にステファニア・サンドレッリとドミニク・サンダが二人で踊る場面が印象に残っている。彼女たちも20代だったのである。また、25日に、映画監督・脚本家で山田洋次監督の『家族』の脚本を書いたことなどで知られる宮崎晃さんがなくられたそうだ。お二人に弔意を送る。

 『NHK高校講座 現代文』では昨日から「短歌・俳句」を取り上げている。昨日が「短歌」で、今日が「俳句」で、ともに鑑賞だけでなく、自分でも作ってみましょうというのが趣旨であるが、個人的な実感として「俳句」のほうが相性がいいような気がする。と言って、あまりろくな俳句を詠んだ覚えはない…。

11月28日
 隣家に江戸川乱歩が住んでいて、言葉を交わしたという夢を見た。

 衆議院法務委員会、本会議を事実上の移民法案である出入国管理法改正案が通過した。具体的な内容がほとんど書き込まれず、あとで大事なことは省令で決めて、来年4月にはとにかく施行しようというのが政府の意図のようである。『朝日』の朝刊で法政大学の上林千恵子教授が指摘していたが、人口減という長期的な問題と、人手不足という短期的な問題がごっちゃになって提案されているという印象を否定できない。

 『日経』1面のコラム「春秋」は、そろそろ、来年の手帳を買いそろえる時期だという話題を取り上げていた。亡くなった山本夏彦さんが「人生は50冊の手帳程度のもの。積めば1メートル、広げれば1坪。」と書いていたという。
 私は、市販のノートをカバーにまとめてダイアリーにしており、手帳は使わない。持ち運びには不便だし、重いが、務めているわけではないので、少し重装備でもいいのである。
 勤めていたころは毎年、吉川弘文館の歴史手帳と、地人書館の天文手帳を買うことにしていた。提供されている情報を読むだけで、ほとんど書き込むことはしなかった。

11月29日
 NHKラジオ『実践ビジネス英語』の”Quote...Unquote"のコーナーで取り上げられた言葉:
The man who dares to waste one hour of time has not discovered the value of life.
   ―― Charles Darwin (Entlish naturalist and evolutionist, 1809- 82)
(平気で1時間を無駄にする人は、人生の価値をまだ見出していないのだ。)
 ダーウィンが医師になるためにエディンバラ大学に入学し、その後、牧師になるためにケンブリッジ大学に入学したという履歴の持ち主だ(医師にも牧師にもならなかった)ということを考えると、余計面白い。

 『NHK高校講座 音楽Ⅰ』で古典派の音楽とソナタ形式について取り上げたのを途中から聞いたが、ハイドン、モーツァルト、ベートーベンの楽曲が解説付きで流されて、なかなか面白かった。

 ミシェル・オクチュリエ『社会主義リアリズム』(文庫ク・セ・ジュ)を読み終える。ソヴィエト文学史の性格も持ち合わせた書物で、特に革命直後の時代の文学論争についての概観はいろいろと有益である。

11月30日
 『朝日』の「天声人語」で、安納芋は種子島が原産地(太平洋戦争で出征した兵士がスマトラ島から持ち帰ったといわれる)だという話題が語られていた。安納芋はサツマイモの一種だが、形はジャガイモに似ているというのが面白いところである。さつまいもは「薩摩芋」であるが、その「薩摩」では「琉球芋」と言い、琉球=沖縄では「唐芋」というという話は子どものころに知った。ちなみに、英国のスーパーなどでsatsumaとして売っているのは、温州ミカンである。
 英語でpotatoというのはジャガイモのことであるが(サツマイモはsweet potato, またはyam)、フランス語ではpatateというとサツマイモで、ジャガイモはpomme de terre(大地のリンゴ)という。もっともカナダのフランス語ではpatateはジャガイモのことだと辞書には出ている。芋の言語学というのも面白そうだ。

 同じく『朝日』の「オピニオン&フォーラム」では「ニッポンの宿題」として「岐路に立つ医学部」の問題を取り上げていた。その中で医師で福島県相馬市長の上昌弘さんが「優秀な理系の子どもがこぞって医学部を目指す現状は日本社会の将来を考えても、決していいことではありません。他の産業界に優秀な人材がいかなくなり、バランスの悪い社会になるからです」と言っているのが印象に残る。ただ、学校の評価における優秀さと企業や官庁、研究の世界での優秀さというのは違うこと、高校生の時に優秀だった人が、そのまま生涯優秀であり続けるわけでもないことも考慮に入れる必要があるだろう。

 NHKラジオ『まいにちスペイン語』中級編のパートナーであるニナ長谷川さんは落語を聞いて日本語を覚え、大学の卒業論文は落語に関するものだったという。メキシコにも、人を笑わせる話芸はあるのかという質問に対し、落語に対応する話芸はないが、漫才に似たものはある。また、メキシコにはカンティンフラスCantinflasというという有名な喜劇俳優をはじめ、多くの喜劇俳優がいますと答えていた。
 カンティンフラス(1911‐1993)は闘牛士上がりの喜劇俳優で、ハリウッド映画『八十日間世界一周』(1956)に主人公フォッグ氏(デヴィッド・二―ヴン)の従僕であるパスパルトゥーの役で出演したことでも知られる。アウダ役を演じていたのが、当時新進の女優であったシャーリー・マクレーンである(古い話だ)。また、カンティンフラスは、1978年にメキシコのアカプルコで開かれたミス・ユニバース大会の審査員を務めている。この時の日本代表が萬田久子さんだったというのは偶然にしても面白い。
 『八十日間世界一周』はジュール・ヴェルヌの原作の映画化であるが、この脚色に携わった一人が、映画監督で、脚本家でもあったジョン・ファローで、『ターザン』のジェニー役で知られるモーリン・オサリヴァンの夫、ミア・ファーローの父親である。

 アリ・ブラントン『書店猫ハムレットの挨拶』(創元推理文庫)を読み終える。ブルックリンの古書店を舞台として、探偵猫ハムレットが活躍するこのシリーズは、これで終わりになって、また別の探偵猫のシリーズが始まるらしい。

 馬場公彦『世界史のなかの文化大革命』(平凡社新書)を読み終える。学生時代に文革を経験したものとしては見過ごすことのできない書物である。著者は私よりも1世代ほど年下であるが、よく資料を揃えて読みこなしているなぁと感心する。文革期に一部の書店に山積みにされていた毛沢東語録や様々なパンフレットは、どこへ行ってしまったのであろうか。その当時は思わなかったが、今になって思うと、毛沢東は天才的な人ではあったが、どうも考え方に乱暴な飛躍があったようである。

12月1日
 『毎日』の報道によると、厚労省のワーキンググループは、児童虐待防止に向けて児童相談所の「介入」を強化する方針を打ち出したという。この問題をめぐっては、11月29日付の『日経』のコラム「私見卓見」に津崎哲郎さんが書いていたように、相談所の職員の専門性の向上を図ることも重要であろうと思う。」 

12月2日
 ニッパツ三ツ沢球技場でJ2のプレイ・オフ横浜FC対東京ヴェルディの対戦を観戦した。0‐0のまま後半ロスタイムに入り、7分間のロスタイムも6分が過ぎてヴェルディがコーナーキックから得点を挙げて、これが決勝点となり、J1で16位となったジュビロ磐田との入れ替え戦に進むことになった。横浜FCはなぜか、レアンドロドミンゲス選手が出場せず、これが最大の敗因ではなかったかと思う。逆にいえば、外国人や、他のチームから移ってきた選手を頼りにしたチーム作りの限界を思い知ってもいいのではないか。来年度以降のチーム作りに注目したい。また、横浜シーガルズのなでしこリーグ1部昇格に向けた試合はまだ残っているので、そちらのほうに期待をしたいと思う。 
 

 
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