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2018年の2018を目指して(11)

11月30日(金)晴れ、温暖

 昨夜は、ブログを書いているうちに寝てしまい、自分のはどうやら完成できたのですが、皆様のブログを訪問する時間が無くなってしまいました。あしからず。

 11月は9月、10月に引き続き、東京で1晩を過ごしている。1月からの通算では横浜で331日、東京(文京区)で3日を過ごしたことになる。とくに新たに出かけたところはなく、
 1都(東京)、1県(神奈川)、5市(横浜、川崎、小金井、三鷹、武蔵野)、8特別区(品川、渋谷、新宿、杉並、千代田、文京、港、目黒)と足跡を記した自治体の数に変化はない。鉄道会社も
 6社10路線(東急:東横、目黒、大井町/東京メトロ:半蔵門、南北/JR東日本:山手、総武・中央/横浜市営:ブルーライン/東京都営:三田/京急:本線)、乗降駅が19駅、乗換駅が4駅のままで増えていない。バスについても同様で、7社20路線25停留所という数字は変化していない。〔106〕

 この原稿を含めて30件のブログを書いた。1月からの通算では339件である。
 30件の内訳は日記が6件、読書が7件、『太平記』が4件、『神曲』が4件、『ユートピア』が5件、詩が1件、推理小説が3件ということである。コメントを1件頂いたので、1月からの通算ではコメントが21件、拍手コメントが4件ということになる。また、545の拍手を頂いた。〔365〕

 16冊の本を買い、読んだ本は10冊である。10月が14冊の本を買って11冊を読んでいたのに比べると読み終える割合が低下している。これは『アクセス独和辞典』(三修社)を買ったり、ヘーゲル『世界史の哲学講義(上)』(講談社学術文庫)や、根井雅弘『英語原典で読む経済学史』(白水社)のようなそう簡単には読めない本を買ったりしたことも関係している。1月からの通算では138冊の本を買って、108冊を読んでいることになる。11月に読み終えた本は:井伏鱒二『七つの街道』(新潮文庫)、階知彦『火曜新聞クラブ 泉杜毬見台の探偵』(ハヤカワ文庫)、井上尚登『ホペイロの憂鬱』(創元推理文庫)、吉川幸次郎・三好達治『新唐詩選』(岩波新書)、西條奈加『いつもが消えた日 お蔦さんの神楽坂日記』(創元推理文庫)、永嶋恵美『一週間のしごと』(創元推理文庫)、松尾由美『ニャン氏の童心』(創元推理文庫)、ミシェル・オクチュリエ『社会主義リアリズム』(文庫ク・セ・ジュ)、アリ・ブランドン『書店猫ハムレットの挨拶』(創元推理文庫)、馬場公彦『世界史の中の文化大革命』(平凡社新書)
ということである。〔110〕

 トマス・モアの『ユートピア』を読んだり、小松左京さんの『大阪万博奮闘記』を読んだり、2025年大阪万博と近くのテーマパークとに競合関係を懸念する新聞記事を読んだりしているうちに、<ユートピア>というのは紙上テーマパークであるという気がしてきて、モアの『ユートピア』、カンパネッラの『太陽の都』、アンドレアエの『クリスチャノポリス』、フランシス・ベーコンの『ニュー・アトランティス』をはじめとする16‐17世紀の空想社会文学について調べてみようと思いはじめた。そこで問題になるのが、『クリスチャノポリス』には日本語訳がないということで、むかし英訳を大学の図書館で借りて、大部分をコピーしたのだが、そのコピーがどこかへ行ってしまったので、レクラム文庫に入っているドイツ語訳で読んでみようと思い立ち、それで独和辞典を買いこんだというわけである。どうも気の長い話だ。

 『ラジオ英会話』を20回、『遠山顕の英会話楽習』を12回、『高校生からはじめる「現代英語」』を8回、『実践ビジネス英語』を12回聴いている。1月からの通算では、『ラジオ英会話』を218回、「遠山顕の英会話楽習』を98回、『高校生からはじめる「現代英語」』を90回、『実践ビジネス英語』を128回聴いたことになる。このほかに、4~9月放送の『入門ビジネス英語』を108回、1~3月放送の『短期集中!3か月英会話』を35回聴いている。〔677〕

 『まいにちフランス語』入門編を12回、応用編を8回、『まいにちスペイン語』入門編を12回、中級編を8回、『まいにちイタリア語』初級編を12回、応用編を8回聴いている。1月からの通算では『まいにちフランス語』の入門編を132回、応用編を51回、『まいにちスペイン語』の入門編を131回、中級編を16回、応用編を23回、『まいにちイタリア語』の入門編を37回、初級編を84回、応用編を39回聴いていることになる。〔513〕

 10月は、ギリシア語、ラテン語の学習を再開しようと考えたり、語学参考書を読み進もうとしたり、大いに野心的な計画を立てたのだが、どうも長続きしそうにない。まあ、できるところで努力を続けようと考えている。

 11月はまた1本も映画を見なかった。出かけた映画館は5館、見た映画は24本のままである。8月、9月に続いて今年になって3か月目のことである。10月は3本映画を見て、少し勢いを取り戻したが、また逆戻りしてしまった。〔29〕

 11月4日にJ2第42節:横浜FC対大分トリニータ、11月10日にJ2第43節:横浜FC対ファジアーノ岡山、11月11日に全国高校サッカー選手権神奈川県大会の決勝:三浦学苑対桐光学園の3試合を観戦した。すべてニッパツ三ツ沢球技場での対戦であった。また1054回のミニtotoBを当てた。〔45〕

 アルコール類を口にしなかった日は2日で、1月からの通算では39日ということになる。
 ハロウィーン・ジャンボは末等が当たっただけであった。
 
 これまでの数字を足してみると、2018年の2018はどうやら達成できそうである。上記のほか、展覧会やコンサートに出かけた記録もあるので、そちらのほうも視野に入れながら、2018の内容の充実に努めていくつもりである。
 
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永嶋恵美『一週間のしごと』

11月29日(木)晴れのち曇り

 11月28日、永嶋恵美『一週間のしごと』(創元推理文庫)を読み終える。その後、松尾由美『ニャン氏の童心』(創元推理文庫)を読み終える。2冊とも、11月23日に購入したので、読み終えるのに6日間かかったことになる。私の読書速度から言えば、かなり時間がかかったことになるが、その主な理由はこの『一週間のしごと』が入り組んだ語りになっていて、読み解くのに手間がかかったことによるものである。なお、この2冊のほかに、11月23日にはアリ・ブランドン『書店猫ハムレットのあいさつ』(創元推理文庫)も買っていて、これはまだ読み終えていない。読みはじめたら、かなり早く読み終えることができるのではないかと思っている。

 この作品は題名通り、登場人物たちが1週間のうちに遭遇した事件の経過を1日ずつたどっている。土曜日に彼らは事件に関わりはじめ、次の週の金曜日に事件が解決し、そして1か月後の土曜日に後日談が語られて、事件の全容がわかる仕組みである。
 高校入学直後、中高一貫の学校に高校から特待生として入学した開沢恭平は、クラスの中では浮いている存在であり、中学の時のカリキュラムの違いで内部生が部活や趣味的な課外活動に励んでいるあいだに、義務付けられている補習授業に出席しなければならない。外部生で男子生徒ではただ一人同じクラスの碓氷忍だけが気軽に話ができる相手である。父親が事故死したために、授業料免除の特権を得ようとこの学校に入学してきた恭平が勉強ができるだけが取り柄というタイプであるのに対し、それほどの勉強をせずにそれなりの成績を上げてきた忍は要領のよさに加えて、謎めいた部分をもつ生徒である。中学校時代のことはほとんど語りたがらないし、現在は年上の彼女と付き合っているので、「タダ飯」つきだなどという。校則の厳しい私立高校で禁止されていることを自慢気に打ち明けるのは、彼に心を許しているからであろうか。

 秋葉原に買い物に出かけた中学生の青柳克己は、見知らぬ男から18歳未満禁止のゲームを不正にコピーしたディスクを売りつけられる。残った小遣いの額を気にしながら総武線のホームを歩いていると、姉が通っている公立高校の制服を着た生徒とすれ違う。「こういっては何だが、いわゆる底辺校である。週末に制服で出かけるような奇特な生徒などいない。それで妙な気持がしたのだ。」(21ページ)

 克己の姉で高校生である菜加は友だちと映画を見るつもりで、渋谷にやってくる。ところがその友だちがカレシに呼び出されて、計画が変更になる。一人取り残された菜加が、うろうろしていると、若い女が「想像以上にすさまじい罵声」(24ページ)を自分の連れの子どもに浴びせかけているのに気づく。母親が子どもに背を向けて歩き出した途端に、子どもはそれとは反対方向に走り出していく。「やばいよ。迷子のパターンじゃん」(25ページ)と思った菜加は子どもに近づく。子どもは母親から「帰れ」と言われたといい、手には回数券をもっている。子どもは自分の家の位置をよく覚えていて、駅で降りた後の複雑な道を間違えずに通り抜けて帰りつく。ところが、菜加がふと、家の中をのぞくと、すさまじい散らかり方である。しかも家には誰もいない。菜加は子どもをいったん自分の家に連れて帰ることにした。ほとんど何も話さないその子どもを、那加はタロウと呼ぶことにする。夕方、いくらなんでも母親は帰ってきているだろうと、再び元の家に戻ってみると、やはり誰もいない。彼女はタロウを連れて自分の家に戻ることにする。

 第一章「土曜日に渋谷へ出かけ 見知らぬ子供を連れてきた」にはもう1つ、登場人物についての詳細が語られない、謎めいた一節が付け加えられている。年下の、学校に通っているらしい男のところにいる女性が、しきりに後悔している。男は女にしきりに飲み物を勧める。女は高校時代の親友だった女性のことを思い出す。飲んだ女は、気分が悪くなり「不意に、闇がやってきた。」(47ページ)

 夜が明けて日曜日の朝、菜加と克己とタロウが朝食を食べながらテレビを見ていると、世田谷で集団自殺事件が起きたというニュースが飛び込んでくる。事件があったのは、どうも昨日、菜加がタロウを連れて行った家らしい。すると、自殺者の中にはタロウの母親もいるのだろうか。菜加は隣の家に住む恭平に助けを求める。「あいつ、頭だけはいいんだから、絶対なんとかしてくれるはずだ」(51ページ)
 同じ年齢で幼馴染であるが、「まったく役に立たないものとか、むしろ処理に困るものばかりを拾ってくる」(54ページ)拾い癖をはじめとする「生意気と非常識が服を着ているような」(61ページ)菜加に悩まされ続けてきた恭平ではあるが、子どもを連れてきたとなると、これは誘拐罪になる恐れがあると、重い腰を上げる。克己は警察に届けようというが、極度の警察ぎらいの菜加はそれを拒み、恭平も警察を通さずに解決を図ろうと考える。こうして3人のティーンエージャーによるタロウの親戚探しが始まる…。 

 ところが恭平も克己も中間試験で手が離せない。と言って、方向音痴なうえに、他人の言うことをしっかりと聞かない菜加一人にタロウの家族を探させるのも 成功はおぼつかない。結局、途中から手伝うことになった恭平は、忍にアリバイつくりを依頼すると、彼は見事にやってのけるが、どうも忍には怪しげなところがある。
 忍の彼女である年上の女、克己にコピーディスクを売った若い男、怪しげな高校生、なぜこの物語に登場しているのかわからないような形で登場した男と一緒にいる女、そして彼女が唐突に思い出している高校時代の親友…それぞれが物語の進展の中で再び姿をあらわし、事件に何らかの形でかかわる。事件は集団自殺ではなく、殺人事件らしい。登場人物、特に菜加は言われたことをその通りにするというタイプではない。誤解や行き違いがしょっちゅう起きる。

 この作品は高校生(中学生も混じる)が探偵役を演じているし、事件は学校の外で起きているとはいえ、彼ら、特に恭平がどのようにして学校をごまかして探偵活動に取り組むかという学校側(特に養護教諭)との駆け引きが物語の展開の中で大きな比重を占めているから、広い意味で学園ものに分類されてよかろう。光原百合さんが解説で書いているように、この作品は2005年に単行本で出版されたとは言うものの、「児童虐待や集団自殺などこの本に登場するモチーフは、残念ながら昔話にはなっていない。むしろ、現在のほうが先鋭化した問題になっているかもしれない。」(370ページ) 若者を取り巻く現状についての作者自身の認識の反映なのか、登場人物たちの学校や教師に対する態度は冷淡である。菜加がタロウを連れて逃げ込んだ母校である中学校の用務員の渡辺さんだけが、登場人物によって親近感を寄せられている人物である。自分の行動を常に監視しているように思われた(実際にその通りなのだが)養護教諭が自分の味方であったと知って、恭平は最後に彼女に心を開くのだが、それでも彼女の名前は読者にわからないままである。

 探偵小説はもともと、犯罪捜査には素人であるはずの部外者が専門の警察関係者よりも優れた推理力を発揮して事件を解決に導くというありそうもない設定を楽しむ領域であったのだが、次第次第に現実の犯罪捜査についての理解が読者の中に浸透して、警察小説の要素が強くなってきたのは、御承知のとおりである。とくに学園物の場合は、事件の性質にもよるが、捜査に関係するのが人生にも犯罪にも(まあ当たり前だが)未熟な若者=学生・生徒であるから、素人と専門家の優劣はかなりはっきりしている。だから読者としては余計にハラハラドキドキするのである。事件が解決した後に恭平は、警察からも親からも、学校からも、早く警察に相談しなかったことをめぐり厳しく説諭を受ける(説諭の相手が間違っているのではないかという気がしないでもない)。しかし、そのあたりのことを忘れて、物語の展開を楽しむのがいいのではないかというのも事実である。光原百合さんはこの作品のシリーズ化を望むと解説で書いているが、作品の最後で、また新しいものを拾ったと話しはじめようとする菜加を、恭平は必死にとどめる。そこには、シリーズ化を拒否しようとする作者の意志が見え隠れしていると読むこともできる。

トマス・モア『ユートピア』(29)

11月28日(水)曇りのち晴れ

 1515年にイングランドの法律家トマス・モアは外交交渉のための使節団の一員としてフランドルに渡り、交渉の中断中にアントワープの市民であるピーター・ヒレスと友人になる。ある日、彼はピーターから、世界中を旅してきたという哲人ラファエル・ヒュトロダエウスを紹介される。ラファエルは2人との会話の中で、ヨーロッパ、特にイングランドの社会制度を批判し、これまで彼が見聞した中でもっともすぐれたものは、新大陸の近くにあるユートピアという島の制度であるという。そこでは私有財産が否定され、一部の例外を除いてすべてのものが農業を中心とした生産労働に従事している。人々は贅沢や虚栄を排して、質素な生活をしているが、島全体は豊かである。法律は少なく、重罪人は奴隷として働くのが一般的で、死刑はめったに執行されないなどと語る。

 今回はユートピアが近隣の国々とどのような関係をもっているかを語っている部分を取り上げる:
 ユートピアの政治・行政のもつ美点が近隣諸国に知れ渡っているので、それらの国々の中にはユートピアから期限付きで役人を借り受ける国が出てきたという。これらの国々の少なからぬ部分は、もともと僭主制の下で苦しんでいたのをユートピアによって解放された過去があるとも語られている。ユートピアの役人たちは貪欲と偏見とにとらわれず、公平な行政を行うことで、これらの国々に良い影響を与え、その任務を全うしているというのである。 
 「ユートピアの人々は彼らのところから統治者を迎える民族を盟邦(ソキウス)と称し、彼らがいろいろの恩恵を与えてやった他の民族を友邦(アミクス)と呼んでいます。他の民族がしばしば参加し、破り、また更新している同盟というものを、彼らはどこの民族とも結びません。」(澤田訳、199ページ)
 「ユートピアから役人や統治者を招いている国民をユートピア人たちは朋友(フェロー)と呼び、特に彼らが親切にしてやった国民を盟友(フレンド)と呼んでいる。/同盟というものは、他のところでは国と国との間で結ばれては破られ、破られては結ばれるといった工合に、反復常なきものであるが、ユートピア人はどこの国とも同盟を結ぶということはしない。」(平井訳140ページ)
 段落の区切りを含めて、少し気になるところがあるので、原文およびほかの翻訳にあたってみることにしよう。

 ラテン語のテキストを検索してみると、ここは
hos Utopiani populos, quibus qui imperent ab ipsis petuntur, appelant socios, ceteros quos beneficiis auxerunt amicos uocant.
foedera quae reliquae inter se gentes toties ineunt, ipsi nulla cum gente feriunt.
 ラテン語がよく読めないので、翻訳はやめておくが、この引用箇所には、「参加し、破り、また更新している」に相当する部分がないようである。これは『ユートピア〕のどのテキストを採用したかに関連する問題のようであるが、ここでは詳しくは立ち入らない(立ち入るだけの能力が私には欠けている。)

 ロビンソン訳では
These peoples which fetch their officers and rulers from them, the Utopians call their fellows. And others to whom they have been beneficial, they call their friends.
As touching leagues, which in other places between country and country be so oft concluded, broken, and renewed, they never make none with any nations.
(彼らからその役人たちと支配者たちを連れてくるこれらの人々を、ユートピア人たちは彼らの仲間たちと呼びます。そして彼らが利益を与えている他の人々を友人たちと呼びます。
 他の場所では国と国との間でしばしば締結され、破られ、そして更新されている同盟に関しては、彼らはどの国ともどんな同盟も結びません。) 平井訳は、ロビンソン訳からの重訳であることがよくわかる。

 ターナー訳はだいぶ変わっていて:
When the Utopians talk about their 'allies' they athese countries which they supply with administrators. 'Friendly powers' are countries that they've helped in any other way. But they never make any actual treaties of the kind that are so constantly being made, broken, and renewed by other nations.
(ユートピア人たちが彼らの同盟者」について語るとき、その「同盟者」というのは彼らが行政官たちを提供する国々を言います。「友好国」というとき、それはそうではないやり方で援助した国々を言います。しかし彼らはほかの国々が絶えず結び、破り、更新しているような種類の条約というものを決して結びません。)

 さらにローガン&アダムズ訳は:
The Utopians call these people who have borrowed magistrates from them their allies; others whom they have benefited they call simply friends.
While other nations are constantly making, breaking and renewing treaties, the Utopians make none at all with any nation. 
(ユートピア人たちは彼らから行政官たちを借りている人々を同盟者と呼びます、ただ恩恵を受けているだけの他の国々をごく簡単に友人たちと呼びます。
 ほかの国々は絶えず、条約を結び、破り、そして更新しているのですが、ユートピア人たちはどの国ともまったく条約というものを結びません。)

 つまり、他の国々と友好関係は保っているが、安全保障や通商関係に関わる条約は結ばないということのようである。ユートピア人たちが同盟あるいは条約というものを信用しないのは、人間にはもともと自然な信頼の絆があるのに、それ以上の文言を連ねて何の意味があるのかという議論に基づくものである。自然法は人為的な実定法よりも優位にあるという考えを国際法にも適用しようというわけであるが、私は法律が専門ではないから何とも言えない。ヨーロッパの国々の間で条約が頻繁に結ばれ、破棄されているという現状を認識しているかのような記述をしておいて、モアは、ローマ教皇の存在が条約に重みを与えていて、ヨーロッパでは同盟が重みをもっていると皮肉を述べている。

 そして赤道の向こうにある新世界では、同盟や条約が結ばれては破られ、更新されるという状態が続いているので、ユートピア人はそのような国際的な関係を信頼していないのだと述べている。これがルネサンスから宗教改革の時代にかけての戦乱の絶え間がなかったヨーロッパの状況に対する批判でなかったら、どのように受け取るべきであろうか。ユートピアを取り巻く国際関係について語った後、ラファエルは当然のように、軍事と戦争について語ることになる。それはまた次回。
 

ダンテ・アリギエーリ(須賀敦子・藤谷道夫訳)『神曲 地獄篇(第1歌~第17歌)』(5‐4)

11月27日(火)晴れ

 1300年の4月、「暗い森」に迷いこんだダンテは、彼の魂を救うために現れたローマ時代の詩人ウェルギリウスの魂から、彼とともに地獄と煉獄、また「よりふさわしいたましい」に導かれて天国を訪問するように告げられる。いったんは躊躇したダンテであったが、この訪問が聖母マリアの意志に基づくものであると知って、旅立ちを決心する。(第1~第2歌)
 地獄の門をくぐった彼らは、はっきりした善も悪もなさなかった死者たちの霊が天国にも地獄にも受け入れられないまま、空しく周辺を回っているのを見る。また、地獄を流れるアケローンの川を渡る船に死者たちの霊が急いで乗り込んでいるのを見る。(第3歌)
 次に彼らは地獄の第1圏であるリンボに達する。ここでは洗礼を受けずに死んだ幼児たちの魂と、古代異教世界の義人たちが静かに過ごしている。彼らの希望はいまは見ることができない、神を見るということである。(第4歌)
 そして彼らはミーノースが死者の魂に彼らの行き先を示している様子を見た後で、地獄の第2圏で愛欲者たちの魂が激しい風に吹かれて漂っているのを見る。無名の人々のたましいは椋鳥のようにそれぞれを見分けることができない群れとなって飛んでいるが、有名な人々のたましいは鶴のようにそれぞれを見分けることができる。その中に、ダンテは、1285年ごろに夫の弟であるパオロとの密会を夫に見つけられて殺された佳人フランチェスカのたましいを見つけ、話しかける。フランチェスカはラヴェンナ出身で政略結婚でリーミニの領主の妻となっていたのである。生前、強く愛し合っていたために「愛の神は私たち二人を同じ一つの死へと導きました。」(106行、98ページ)と語る。(第5歌これまで)

 苦しみあえぐたましいたちの話を聞くと
私はうなだれ、じっとしていた。
詩人が私にたずねた。「なにを考えこんでいるのか」
 私は答えてこう言った。「ああ、なんといたわしいことでしょう。
これほどの甘い思いが、これほどの望みが、
この人たちを悲しい道に連れ込んだとは!」
(109‐114行、98ページ) ダンテが「うなだれ」ているのはこのすぐ後でわかるように、涙を流して泣いているからである。

 そして彼は2人に向ってさらに問いかける。
「フランチェスカ、あなたの苦しみは
私を悲しませ、哀れのあまり涙がこぼれる。
 しかし、教えてほしい。あのためいきのころに
どのような成り行きで、あの疑いに満ちた願望を
愛の神があなた方に許したのか」
(116‐120行、99ページ) 「ためいきのころ」は解説注によると、「まだ愛が秘められていて、互いの愛に気がついていないときのことだそうである。ここで「愛の神」というのが異教の愛の神であって、キリスト教の神ではないことも念頭においてほしい。なお、この個所は山川訳では「…フランチェスカよ、われは汝の呵責を悲しみかつ憐みて泣くにいたれり/されど我に告げよ、うれしき大息(といき)たえぬころ、何によりいかなるさまにていまだひそめる胸の思ひを戀ぞと知れる」(岩波文庫版、上巻、40ページ)と少し違った訳し方になっている(文語分であることを除けば、こちらのほうが理解しやすい)。

 ダンテの問いは、フランチェスカの魂にとっては残酷な問いであった。そう言いながらも、彼女は、彼の問いに答えて、自分たちの愛の始まりについて語りはじめる。
 彼女は答えた。「悲惨のときに
幸福だったころを思い出すことほど
痛ましいことはありません。それはあなたの師もよくご存知です。
 しかし、もし私たちの愛の始まりについて
あなたがそれほど知りたいのなら
涙ながら語るもののようにお話ししましょう。
(121‐126行、99ページ) ダンテはよく、「中世最後の人」と言われるが、同じように「古代最後の人」と呼ばれるボエーティウスの『哲学の慰め』の中で「運《Fortuna》のあらゆる逆境のうちでもっとも不幸な種類の苦しみは、かつて幸福であったということです」と述べているという。「悲惨のときに/幸福だったころを思い出すことほど/痛ましいことはありません」はこの言葉を受けているという。「それはあなたの師もよくごぞんじです。」というのは二重の意味があって、ウェルギリウスの傑作『アエネーイス』にはアエネーアースと恋に落ち、そして彼に捨てられて絶望するディードーの姿が描かれている、故意の幸福から棄てられた絶望を味わう女性の気持ちをウェルギリウスはよく知っているはずだという意味と、ウェルギリウスの魂はリンボにいて、生前の幸福を思い出す立場にあるという意味とである。「涙ながら語るもののようにお話ししましょう」というのは、これもすぐ後に出てくるが、2人の魂の一方が話をしているときに、もう一方は泣いているという状態が踏まえられているのである。

 私たちはある日、楽しみながら
ランスロットがどのように恋にとりつかれたかについて、読んでいました。
私たちは二人きりでしたが、やましい気持ちは何一つありませんでした。
 読み進むうち、何度も私たちは目を
交わし、そのたびに顔色を失ったのでした。が、あるところまで来ると、
私たちは打ち負かされてしまいました。
(127‐132行、99ページ) ランスロットは6世紀ごろの人物と伝えられるブリテンのアーサー王の円卓の騎士たちの中で、最も優れた存在であった湖の騎士ランスロットを指している。ところがその彼が主君であるアーサー王の妃グィネヴィアと道ならぬ恋におちいったことから悲劇が拡大していく。アーサー王と円卓の騎士の物語は中世を通じてヨーロッパじゅうで読まれていたので、ここで2人が読むのは不思議ではない。この時代のことだから、パオロがフランチェスカに読み聞かせていたのであろうと推測される。読み進むうちに、二人が物語の内容に心を奪われて、ランスロットとグィネヴィアを自分たちの身に引き寄せていくようになったことが語られている。ここも山川訳を紹介しておこう:「われら一日こゝろやりとて戀にとらはれしランチャロットの物語を讀みぬ、ほかに人なくまたおそるゝこともなかりき/書(ふみ)はしばしばわれらの目を唆し色を顔よりとりされり、されど我等を従へしはその一節にすぎざりき」(岩波版、40-41ページ)

 焦がれた、笑みこぼれる唇に
あの恋人が口づけしたところを読んだとき
わたしから永遠(とわ)に離れることのないこの人は
 ふるえながら私の唇に接吻したのです。
あの本こそは、あの著者こそは、私たちのガレオット。
あの日、私たちの読書はもうその先に進みませんでした」
(133‐138行、99‐100ページ) 自分たちの恋について、最後まで語らないのはフランチェスカの慎み深さのためである。彼らの恋に同情する人もいるだろうし、罪は罪という人もいるだろう。ガレオットは、アーサー王の物語に出てくる人物で、ランスロットとグィネヴィアの仲立ちとなる存在であるが、興味のある方は、須賀・藤谷版の『神曲』の詳しい解説をご覧ください。フランチェスカは最後まで異教の愛の神を信じ、キリスト教の神を忘れていること、自分を殺した夫を許さず、自分の落ち度を認めていない(自分たちが道ならぬ恋に陥ったのも本を読んだせいにしている)ことなど、地獄に置かれる自由はあると解説されているが、解釈は自由である。

 なおロダンがこの場面に霊感を得て「接吻」という彫刻を制作した。もっともロダンの彫刻は、『神曲 地獄篇』を離れて、独立の作品として鑑賞すべきだと私は思う。このほかにも彼らを描いた芸術作品は多い。ロダンで思い出したのだが、そもそもイタリア語でLa divina commedia という作品名に『神曲』という日本語の書名を与えたのは森鷗外で、その鷗外は椋鳥が好きだったようである。(おそらくはドイツ語訳で『神曲』を読んでいたと思われる)彼が魂が椋鳥のように群れを成して飛んでいるという『神曲』第5歌の描写をどのような気持ちで読んだのかは、興味ある問題である。なお、鷗外はロダンが登場する「花子」という短編小説を書いている。

 一人のたましいがこれを言うあいだ
もう一人は泣いていた。憐れみのあまり
私は死んでいくかのように気を失い、
 死体が倒れるかのように倒れた。
(139‐142行、100ページ) 2人で1人の告白を聞いて、ダンテは気を失う。ダンテが意識を失うのは第3歌に続いて2度目である。彼が気を失うのは、フランチェスカとパオロと同じような精神の弱さを彼自身が持っているからであり、そのために彼らに強い同情を寄せているからである。しかし、その一方で、そういう自分自身の弱さを克服しようとする作者ダンテの目がなければ『神曲』は完成に至らなかったとも考えることができる。とにかく、これで第5歌を終る。第5歌に登場する人物の大半は、ダンテが影響を受けた、それ以上に当時の読書人たちが影響を受けた中世の恋愛文学の登場人物である。第5歌の展開は、ダンテによる彼に先行する文学作品の批判と受け取ることができるが、それとともに彼がそれらの文学から大きな影響を受け、その恩恵を被っていることも語っているのである。

『太平記』(238)

11月26日(月)曇りのち晴れ

 暦応2年(南朝延元4年、1339)8月、吉野で後醍醐帝が崩御され、12月に新帝(後村上帝)が即位された。越前では宮方の武士たちの動きが活発になり、新田義貞の弟の脇屋義助の家臣畑時能(はた・ときよし)が湊城を出て近隣を劫略し、由良光氏が西方寺城(さいほうじのじょう)を出て足利方の城を落とし、新田一族の堀口氏政が居山城(いのやまじょう)を出て勢力を張った。越前河合庄に集まった新田方の軍勢が足羽の黒丸城を包囲すると、越前守護で足利一族の斯波高経は加賀に落ちた。

 北国の宮方の勢いが盛んになり、斯波高経の黒丸城が陥落したという情報が京都にまで届いたので、足利方は大いに驚いて、急いで援軍を派遣しようという評定がなされた。そこで、四方の大将を決めて、軍勢催促に都合の良い国々の武士たちをその配下に置いた。
 大手(正面)の大将とされたのは高師直の叔父である高上野介師治(もろはる)で、甲斐を経て(北陸地方に出て)、加賀、能登、越中の軍勢を率いて、宮腰(金沢市金石町の旧名)に向かうことになった。〔岩波文庫版の脚注によると、古本系の写本では「甲斐」となっているが、流布本系では「加賀」となっているという。高経は加賀に逃げたので、幕府方の主力が加賀のほうに向かったというのはうなずけるが、越前を宮方が支配しているので、どうやって加賀に達するのかという点での疑問が残る。〕 
 搦手の大将とされたのは美濃の国の守護土岐頼遠で美濃、尾張の兵を率いて、求上(ぐじょう、現在の岐阜県郡上市)、穴間(福井県大野市朝日の九頭竜川上流域の古称)を経て、越前の大野郡(福井県大野市)へと向かった。〔本文では、穴間、求上とあるが、順序が逆だろうと思うので、直した。郡上の北を流れる石徹白(いとしろ)川沿いに進んで、石徹白川と九頭竜川の合流点である穴間(朝日)に出たのだろうと思う。〕
 近江守護である佐々木(六角)氏頼は、近江の軍勢を率いて木目(木の芽)峠を越えて敦賀の港から、越前に向かった〔これもなんとなくおかしい。敦賀から木の芽峠を越えて南越前に出るほうが普通ではないか。〕
 さて、佐々木〔塩冶(えんや)〕高貞は船路(水軍)の大将として、出雲、伯耆の軍勢を率いて、兵船300余艘を揃えて、三方から味方の軍が押し寄せてくるのに呼応して、海岸から敵の後ろを襲い、敵の陣営を分断して、短期間で戦闘を終了させようと、作戦をしっかりと固めたのである。

 陸から北国へと向かう三方の大将がすでに都を立ち、それぞれの領国の軍勢を招集したので、塩冶判官も自分の領国(出雲)に帰って、出陣の準備をしようとしていたところ、思いがけない事態が発生して、高貞は高師直のために討ち取られてしまった。なぜそんなことが起きたのかというと、塩冶が長年連れ添ってきた妻に高師直が横恋慕して、そのために師直によって理不尽にも討ち果たされたというのである。

 そのころ、師直は、ちょっとした病気で、将軍の執事の仕事も休んでいたのであるが、その間、彼に目をかけられている者たちが、毎日、酒肴を用意して、各種の専門の芸能者たちを呼び集め、それぞれの芸を披露させて、病中の師直の気持ちを慰めようとしていた。〔病気というのが何であるのかよくわからない。病気であるのに酒を飲んだり、歌や舞を見物したりというのでは、いよいよ病気が重くなると思うのだが、いったい何の病気なのであろうか。〕

 ある晩、月も高く上り夜も静まり、荻の葉を渡る風の音も身に染み入るような気分になる時間に、当時名人といわれた琵琶法師の覚一検校と、それに劣らぬ名手の真城の二人が連れ平家、つまり掛け合いで平家物語を語るという芸を披露した。その中で、次のような物語が語られた:
 近衛院(在位1141‐55)の治世の時代、内裏の正殿である紫宸殿の屋根の上に鵺(ぬえ)という怪鳥が飛んできて、夜な夜な鳴き声を立てた。(そのために、院が体調を崩されてしまったので)源頼光の子孫である頼政が院のご命令を受けて、この怪鳥を弓で射て退治した。上皇はこの上なくお喜びになって「この功績に対する褒賞としては、官位をあげたり、領国を与えたりするというのでは不足である。本当かどうかはわからないが、頼政は後宮の藤壺に仕える菖蒲(あやめ)という女房に思いを寄せ、恋焦がれていると聞く。今晩の褒美としては、この菖蒲を頼政につかわそう。ただし、頼政はこの女の評判だけを聞いて、本人を見たことがないということなので〔それでよく恋ができるものだと思うが、むかしはそうだったらしい〕、姿かたちの似た女房を大勢召し出し、頼政はあやめもかきつばたも見分けられる恋をするよと笑ってやろう」とおっしゃり、後宮の三千人の侍女たちの中から、花や月と美しさを競うような女房たちを12人、同じような衣装を着せて、なまじおぼろげにも見分けられないように、金の糸を混ぜた薄い絹織物の幕の中に座らせておいたのである。

 塩冶高貞の話が、高師直の話になり、高師直の話が源三位頼政の話になってしまった。脱線脱線また脱線という感じである。頼政の鵺退治の話は有名だが、これは『平家物語』ではなく、『源平盛衰記』のほうに見られる話だそうである。また、近衛院は夭折されたので、上皇にはなられていない。とすると、上皇というのは、近衛院の時代に院政を敷かれていた鳥羽上皇のことかとも思われるが、どうせ作り話であるから深く詮索するに及ばないといえばそれまでである。それにしても、上皇は悪いいたずらをされたものである。頼政の恋の行方はいかに(というよりも、勝手に下げ渡されようとしている菖蒲の前の方が気の毒だと思うのだが)、それはまた次回に。

日記抄(11月19日~25日)

11月25日(日)晴れ

 11月19日から本日までの間に経験したこと、考えたこと、以前に書いた記事の補遺・訂正等:

11月16日
 NHK『まいにちロシア語』の時間は、放送の最後の部分が次の時間(『まいにちイタリア語』など)を聴く直前に耳に入ってくるのを聞く程度にしか接触していないが、この日、講師の先生が私が考えているのと同じようなことを言っているので、うれしくなった。それは日本で明治維新が起きた1860年代というのは他の国々でも大きな社会的な変化が起きたということで、ロシアでは1861年にアレクサンデルⅡ世により農奴解放令が出されている。チェーホフの戯曲『桜の園』(1903)は19世紀から20世紀に移り変わろうとする時代のロシアの話であるが、この作品のわき役である老僕フィールスが農奴解放令について「自由のお触れ」として言及しているのが印象的であった(私が読んだのは湯浅芳子訳であり、小野理子先生の翻訳では別の呼び方がされているかもしれない。小野先生の翻訳を読んでみようと思う)。1860年代をはさんで、1850-64年には中国で太平天国の乱、1853年にヨーロッパでクリミア戦争、1857‐59年にインド大反乱、1861年にイタリア統一、1861‐65年にアメリカの南北戦争、1870‐71年に普仏戦争などが起きている。

11月19日
 『NHK高校講座 現代社会』は「日本の伝統思想」について取り上げていた。「伝統」という言葉は普通、「近代」と対比して使われ、日本の伝統思想といえば、明治の文明開化以前に、日本で有力であった思想ということになると思うが、ここで言われているのは、仏教や儒教が日本に伝来する以前に日本の人々が抱いていた思想、丸山眞男が日本思想の「基層」として探し求めていたようなものを指して言っている。神をまつるということを我が国の原初からの伝統として無批判に取り上げているが、それでいいのだろうか。ということも含め、内容や議論の進め方が独断的で、金曜日に放送されている『倫理』に比べて、問題が多いと思った。思想的な内容を取り扱う授業においては、(生徒が覚えきれないので)固有名詞はできるだけ制限する方がいいが、こういう主題を扱う場合には、津田左右吉とか、柳田国男とか、丸山眞男とかいう人たちが、どう考えて、どのようなことをいったかということについて基本的な内容を把握しておく必要があるのではないか。(それができそうもないというのであれば、「現代社会」という看板の下で、このような怪しげなイデオロギーの注中を試みることはやめた方がいいということである)。

11月20日
 『朝日』朝刊の”HUFPOST"のコーナーで「読まれている記事」として取り上げられていたのが、「●トランプ大統領、日本の記者の英語に「何を言っているかわからない」」というのが紹介されていた。トランプさんは、以前も日本の安倍昭惠氏について、英語がまったくできないようだと発言したことがある。昭惠氏は専門学校で英語を勉強したはずなので、何か知られざる問題がありそうである。それで、もっと詳しい事情を知る必要があるが、わかりやすい英語を話すといわれるトランプさんが、日本人の英語に難癖をつけるというのはどういうことか考える必要はありそうだ。

 同じ『朝日』朝刊に入管法改正に関連して、「失踪実習生2870人に聞き取り」という法務省の行った調査の概要が紹介されていた。発表に至る経緯に問題があり、しかも全容が公表されていないために、「不都合な真実がある」のではないかと取りざたされている、とはいうものの重要な調査であることには間違いない(一刻も早い全容の公表を望む)。ただ、問題点としては、「失踪」しなかった実習生の実態や意見についても調査する必要はないかということである。私自身も政府委託の調査に関わったことがあって、この種の調査が、問題があるとその問題をできるだけ狭く限定して調査を行うという制約をもたされがちであることに疑問を持ち続けてきた。予算と時間はかかっても、調査はできるだけ広範囲に行うべきだと思う。

11月21日
 『朝日』朝刊の「オピニオン&フォーラム」欄の「どう思いますか」のコーナーで、「英語を第一言語にする時が来た」という投書をめぐる議論が展開されていた。少子高齢化の中、日本を支える労働力として外国人労働者の導入が必要になってきている。しかし、そのような外国人にとって大きな壁になっているのが日本語である。そこで、「私は、いよいよ英語を第一言語にする時代が来たのではないかと考えます。英語は国際的に使われる言語で、外国人にとって、取得は日本語に比べ容易であると考えるからです。」 逆に日本人が英語を習得することもその国際的な進出にとって有利な条件になるだろうというのである。
 これに対する意見として、日本語を大事にしたうえで、第二言語としての英語のアップを図るというのが妥当な方策である、公用語をいきなり英語に切り替えることで日本語話者には不利益が生じるし、日本に集住する外国人に対してはその外国人の言語で接する方が妥当である、英語に限定せずに多言語の学習を推奨すべきである、日本語の理解を助けるのが先である(日本語はそれほど学習が難しい言語ではない、英語ができるようになることで日本人の海外進出が容易になるとは思えない)という4件の投書と、「多言語に寛容な社会へ」という社会言語学者の飯野公一さんのコメントが掲載されていた。これらの意見の中では、日本に働きに来ている外国人にとって、英語よりも日本語を使用することの方が役に立つという議論と、英語ができることで日本人の海外進出が容易になるとは思えないという議論が重要ではないかと思う。前者については、私が日常的に付き合っている外国人(中国人が多い)とはすべて日本語で話しているという事実があり、後者については、私と仲良くなったアフリカ出身の国際機関の職員が、ろくろく英語ができないおまえが自分の母国でそれなりの地位についているのはうらやましいというようなことを言っていたのが印象に残っているからである。個人的な経験からすべてを判断するのは必ずしも適切ではないが、夏目漱石が英語で教育を行うのは「英国の属国印度と云つたやうな感じが起る」(鳥飼玖美子『子どもの英語にどう向き合うか』、95ページより重引)と書いているのは、その通りだと思うのである。英語には英米(加・豪・ニュージーランド・南ア、それにアイルランド)の言語であるという側面と、国際言語である(さらに英米の植民地であった新興諸国の言語である)という側面があり、地域や社会階層による様々な変種があって、一筋縄でつかみきれるものではないということも念頭に置く必要がある。最後に、投書者に言いたいことは、英語を第一言語にすべきだと本当に思っているのであれば、英語で投書すべきではないかということである。

 NHKラジオ『実践ビジネス英語』の”Quote...Unquote"のコーナーで取り上げられた言葉:
A wise man will make more opportunities than he finds.
                          (from The Essays )
---- Francis Bacon (English philosopher and statesman, 1561- 1626)
(賢人は、自分で見つけるよりも多くのチャンスを、自分で作り出すものだ。)

11月22日
 NHKラジオ『まいにちイタリア語』応用編「イタリアで劇場に行こう」で
Le maschere sono molto importanti nel teatro occidentale.
(西洋演劇では仮面はとても重要だ。)
 と語られていたが、日本でも能は仮面劇であるし、古くは伎楽という仮面劇もあった。伎楽がどのような経路をたどって日本に入ってきたのかも興味ある問題であるし、さらに言えば、仮面劇は必ずしも西洋限定のものではないのではないかと思う。

11月23日
 『朝日』の朝刊の鷲田清一さんによる「折々のことば」は
 「誰が、いつ、どのように化けるのかわからない中で、いかに奇跡を信じられるかが肝だと思っています。」というファッション・スクールの主宰者の言葉を紹介している。集まっている若者たちが、ファッション・デザイナーを目指すというはっきりした目標をもっていることが重要である。だから、指導者の目の行届かないところで、努力を積み重ねているかもしれないし、それが一気に花開くこともあるのである。

 同じ『朝日』朝刊の『わがまち お宝館」で取り上げていた山梨中銀金融資料館(甲府市)の記事は興味深かった。「太鼓判」とか「金に糸目をつけない」とかいう言葉が、甲州に起源があるということを初めて知った。

 「イタリアで劇場に行こう」の続き。本日はイタリアの喜劇であるコンメディア・デッラルテ(Commedia dell'Arte)が話題になった。これひっぱんに日常生活を舞台に取り上げた戯曲で、楽しい場面、深刻な場面が次々と現れ、最後には円満に終わるというものだそうで、仮面をつけた登場人物が大勢登場する。登場人物の役柄は類型化されていて、それぞれに対応した仮面をかぶり、動作や、話し方も同じように限定されている。特筆すべきこととしては、女優が存在するということで、これは近世においては画期的なことであったという。
 シェイクスピアの時代のイングランドでは、女性の役は女形が演じていた…というのはオリヴィエの映画『ヘンリー5世』をご覧になった方はご存じのはずである。

 今夜の『NHK高校講座』の『古典』は『方丈記』、『倫理』はヘレニズム時代のコスモポリタン的な生き方、エピクロス主義とストア派の哲学、『国語総合』は漢文:故事成語の中から「守株」(←『韓非子』)という内容で、それぞれ面白かった。放送の中では触れられなかったが、「守株」に登場するおろかな農夫は「宋人」ということになっていて、この種の笑い話の笑われ役になるのはたいてい「宋人」か「杞人」であることの理由については、以前『日経』に阿辻哲次さんが書いていたのを紹介したことがある。「管鮑の交わり」で知られる斉の重臣:鮑叔は、杞人の子孫だそうで、杞人のDNAをもっていた人たちの中にも優れた人はいたということになる。ある地方の出身者に特定のレッテルを張ってばかにすることがくだらないことであるのは言うまでもない。

11月24日
 『日経』の一面トップに「薬局6万店 再編の風圧」という記事が掲載されていた。現在の日本では「社会のインフラ」と言われるコンビニよりも、医師の処方により医薬品を出す「調剤薬局」の数の方が多くなっているというのである。私も高齢に達したこともあり、いくつかのクリニックに通っているが、それぞれに門前薬局があり、そのどれを選ぶかという問題まで生じ始めている。『日経』の記事は、最近、厚労省が在宅医療の推進などの新しい施策に対応した、調剤薬局の再編を促そうとしているというものである。老人の独居や孤独死などの現象が顕著になっている中で、在宅医療の推進というのが適切な対策であるのかは疑問に思われるが、事態の推移を見守ろうと思う。
 その一方で、『朝日』の投書欄である「声」欄に女子高校生による「お薬手帳正しく使って健康管理」という投書が掲載されていた。「若い人もお薬手帳をもち、こまめに記入して置くことは大切だと思う。私も自分と、自分に薬を出してくれる薬剤師さんのために、お薬手帳をきちんと活用したい。」 果たして、この投書者が薬手帳を持っているのか、使っているのかは疑問である。さらに言えば、この投書を採用した『朝日』の担当者が薬手帳を持っているか、使っているかも疑問である。というのは、薬手帳というのは、建前としては個々人が記入すべきものであるかもしれないが、ふつうは薬局で薬剤師がシールを張って渡してくれるものだからである。私の薬手帳の一部を抜き書きしてみると:
■年月日 病院名 医師名
① ノルバスクOD錠5mg 1日2錠 狭心症の発作を予防する薬
                      血圧を下げる薬
② オルメテックOD錠20mg 1日2錠 血圧を下げる薬
   1日2回 朝・夕食後 60日分(以下略)
といったような内容で、「こまめに記入」などしていられるものではない。人間が生病老死の過程をたどる中での、薬とのつきあい方は多様である。一般論で片付けられるものではない。
                       
 『日経』1面のコラム「春秋」は、藤原道長の「この世をば我が世ぞと思ふ望月の欠けたることもなしと思へば」という歌が詠まれたのが「ちょうど千年前、今の暦に直せば11月の満月の日だったという。出張先で目にした京都新聞にあった』と記されていた。その満月の日が今年は11月23日だったというのである。道長の時代に使われていた暦は宣命暦(862-1685)であり、我々が旧暦と言っているのは天保暦(1844‐72)であり、京都新聞の記者がそこまで詳しく確かめて、書いていたのかどうかはわからない。などと書くのは、11月に月見の宴というのは少し寒くはないかと思うからである。
 このことは「同時代の貴族の日記」に記されているというが、その「貴族」が藤原(小野宮)実資で、日記が『小右記』であることは、歴史好きならばすぐにわかることである。この時代、道長ご本人は後に『御堂関白記』と呼ばれることになる日記を残し、道長と適当に距離を保ちながら、政局の調整役を務めた実資には『小右記』があり、実務官僚として一条天皇・道長を助けた藤原行成には『権記』という日記があるというのは以前にも書いたことである。まさに聖代にふさわしい陣容がそろっていて、しかもその主要メンバーが日記を遺したというのは素晴らしいことである。今の政治家・官僚はどのような日記を書いているのであろうか。

 歴史といえば、土曜日の『日経』に連載されている「日本史 ひと模様」は前田利家、利長に続き、利家の妻、利長の母であるまつ」を取り上げた(私などは芳春院というほうがしっくりくる)。歴史ドラマなどでは、関ケ原の戦いに際して、まつが利長を説得して徳川に就くように仕向け、自ら人質として江戸に赴いたことになっているが、おそらくは徳川に就くことを決心したのは利長で、豊臣派に担がれそうな末を江戸に送り出したのであろうと論じている。説得力に富んだ議論である。
 昔あるラジオの番組で、前田利家と芳春院を描いた舞台劇の評をしていて、2人が豊臣秀吉と北政所の夫婦とわが身を比べて、自分たちは天下はとれなかったけれども、百万石を得たと言っているのが結論のようだが、こちらは(つまり批評をしている側は)百万石でもうらやましいといっていたのを覚えている。山岡荘八の『徳川家康』では、二人が、秀吉に比べて自分たちには利長、利政という出来のいい息子が2人いると納得している個所があったと記憶する。それはその通りなのだが、皮肉なことに、前田家を継承することになったのは、利長・利政の異母弟(つまりまつの子ではない)利常であった。百万石でも十分にうらやましいというのは、私も同様で、「ゴーンさん、500万でも分けてくれ」というのが偽らざる心境である。

 同じく『日経』の文化欄で、戦後派の作家たちの再評価が進んでいるという記事が、この世代に属する作家の作品を読んで育ってきた自分としては興味深かった。とくに梅崎春生についての新しい評価がどのようなものかには興味がある。機会があったら、読んでみたいと思う。

11月25日
 2025年の大阪万博開催決定の報を受けて、『朝日』の「社説」は万博開催をめぐる「懸念に向き合ってこそ」と慎重論を唱え、『日経』は「未来の技術と生活を考える大阪万博に」とこれもかなり厳しい注文を付けている。また『朝日』の「天声人語」は「万博を喜んでいいのかどうか、正直言ってわからない」とさらに消極的な意見を述べている一方で、『日経』の「春秋」は「次も緊張感、自由闊達、挑戦心を以て準備に臨めるか。むかしを知る世代がしゃしゃり出過ぎないことがカギになる。」と期待を語っている(私は「昔を知る世代」なので、おとなしくしているべきなのであろう。) 「春秋」の書き手が、昨日の当ブログで取り上げた小松さんの『大阪万博奮闘記』をきちんと読んでいる様子なのには好感が持てたが、その小松さんらの奮闘に冷たい目を向けていた(らしい)堺屋太一氏の著書のほうを重視している様子なので、少し好感度を割り引きしている。
 「春秋」は万博をめぐり「国が一丸となった」わけではないと「反博(万博反対運動)」の存在にも触れていたが、小松さんとともに万博に大いなる関心を寄せていた加藤秀俊先生が、夏休みに信越線のグリーン車の中で羽仁五郎と隣り合わせたという話をされていたことを思い出す。羽仁五郎は大阪でハンパクに参加して、東京に戻りそれから、避暑地に向っていたところだということのようである。この話、いろいろと面白い。それから、万博で働いていた若者たちを中心に、従業員の労働組合が作られていたという話を記憶している人は少ないようなので、注記しておく。昨日、『雑兵』として働いたと書いたが、別に私はこの労組の組合員ではなく、それにも入れないような関連産業のアルバイトだったということである。

 11月23日に、横浜駅西口の宝くじ売り場で1055回のtotoのミニトトA、Bの券を購入しに出かけたら、時間切れで購入できなかった。あとで調べてみたところ、Aのほうは当たっていたのだが、支払予定額のほうが、賞金を上回っていた。運がいいんだか、悪いんだかわからないというお話である。 

小松左京『やぶれかぶれ青春記・大阪万博奮闘記』(4)

11月24日(土)晴れたり曇ったり

 2025年に大阪で万博が開かれることが決まった。1970年の大阪万博の際にいわば雑兵として働いたものとして、感慨深いものがある(もっとも、万博に全面的に賛成というわけではない。戦国時代の足軽が、戦争を喜んでいたわけではないのと同じである)。そこで、この万博の際にその押しかけ参謀として活躍された小松左京さんの回想を改めて取り上げるのも意味のないことではないと思う。
 1964年の春、まだ東京オリンピックが始まる前(東京オリンピックがはじまったのは10月10日のことである)、当時大阪のABC放送が発行していた雑誌『放送朝日』の肝いりで、小松さんは梅棹忠夫、加藤秀俊といった面々とともに、万博の研究会を始める。万国博覧会の性格、意義や理念、その社会的役割に知的好奇心を向けようというのである。東京オリンピックが東京という都市の再開発に大きな役割を果たしているのを見るにつけ、それに対抗して関西でも大きなイベントを開催しようという機運が高まってきた。また日本での開催は、それまで欧米中心に展開してきた万博の歴史の大きな転回点となるはずであった。それは国際的な文化交流の場として大きな可能性をもつと研究会に参加したメンバーは考えていた。 

 「40年の4月、大阪府の国際博準備事務局が発足し(注、このころまで、まだ『国際博』の名称が使われていた。私たちの会は最初から『万国博』を使っていた)、私たちのグループは大阪府、市、商工会議所担当者と非公式の会合をもった。」(282ページ) 「5月――パリBIE理事会で、70年の日本開催が本ぎまりになった。しかし、私たちは、まだ慎重にかまえていた。というよりは、・・・裏で知恵を貸すだけで、あとは逃げだすつもりでいた、といった方がいい。」(283ページ) なぜ「逃げだすつもり」だったかというと、この万博がポスト池田の政局ををめぐって激しい戦いを続けていた佐藤栄作首相と、党人派の河野一郎の2人の政治家の「政争の具」になる恐れがあったからである。しかし、先のことはわからないもので、河野が急死し、その翌月に国際博準備委員会が発足、研究会のメンバーは、「公式のブレーン」ということではなく、準備事務局との「接触」を続けるということにした。
「『婚約はしないが交際はする』
 という梅棹氏の名言がとび出したのはこの時だった。」(286ページ)

 研究会の方では純粋に知的好奇心からいろいろな知識を集めて、それが役に立つのであればということで準備事務局との接触を続けたのだが、この立場はなかなか理解されなかった。研究会としてもうるさいことからは身を引こうかという気持ちがあったのだが、結局裏でごそごそ接触しているよりも、表に出た方がいいということで、1965年9月15日に「万国博を考える会」の第1回というよりも最初にして最後の「総会」が開かれた。
 午前中の会合には35人が参加、午後に「万国博はいかにあるべきか」というテーマで、あらかじめ登録していた傍聴希望者にのみ公開のパネルディスカッションが行われ、小松さんが司会、パネラーとして岡本太郎、萩原延壽、吉阪隆正の3氏が登壇した。「岡本氏は、1937年パリ博で、有名なピカソの『ゲルニカ』を見ており、東西文化論と対極主義と、近代のつまらなさ、近代主義にスポイルされていない世界と人間のすばらしさを例によって『猛烈に』主張し、『万国博は実にやりがいのある仕事だ』と結んだ。吉阪氏は、何につけても日本のやり方の、なあなあ主義と理念、思想のほり下げの不徹底、その実現のための『きびしさ』のなさを難じ、萩原氏は70年日本万国博には、AA諸国はもちろんだが、なによりも『大陸中国』を参加させられるかどうか、『非政治的、文化的交流』の姿勢が、そこまで徹底できるかどうかは、これからの日本の外交上、大きな賭けだ、とのべた。」(292ページ、この三者三様の主張は、実際に万博がどのような姿をとって実現したかを考えるうえで興味深い。岡本の『太陽の塔』はこのイベントを代表するモニュメントとして長く記憶されることになったし、中華人民共和国はこの万国博には参加しなかった。)

 ところが、会の終了後、記者会見の要請があり、「ただ考えたい奴が集まって「考える」だけ」(293ページ)という「考える会」の側と、会合を開く以上は万博に対して何らかの意見・態度の表明があるはずだという記者陣との間で要領を得ない質疑が交わされることになる。
 9月から10月にかけて、テーマと基本理念の策定をめぐって動きが激しくなる。テーマ委員会の副委員長である桑原武夫に非公式の打診を受けて、非公式の会合が頻繁に開かれた。その際の会合費の一部は準備会が負担し、また後日、協会発足後に清算されたが、「なんとなく中っ腹で、要求しなかった」(298ページ)分もかなりの額があった。〔落語で「昔江戸の名物はと言いますと、武士鰹、大名小路広小路、茶店紫色紙錦絵、伊勢屋稲荷に犬のくそ、火事に喧嘩に中っ腹と申したものでございますが…」というが、「中っ腹」ということの意味が分からずにいた。ここで、関西人の小松さんが「中っ腹」と書いているので、意味を調べてみる気になって、調べてみたところ「むかむかしていること。心中に怒を含むこと」(広辞苑)だそうである。〕 このテーマ策定という突貫作業に取り組む際に、研究会によって蓄積してきた智慧が生かされたという。とはいうものの、これらの作業は報酬が得られるどころか、持ち出しになってしまったという。一方で「お国のため」という発想があり、焼け跡闇市派の小松さんとしては何が「お国のためだ!」と言いたい気分は強かっただろうと思う。とにかく「人類の進歩と調和」というテーマが滑り込みで承認されたが、まだまだ万博開催までの道のりは長く、この本もまだまだ終わらない…。

 既に小松さんはこの世を去られている。私も2025年には、生きていれば80歳ということで、そこまで寿命が持つかどうかはわからないが、生きていれば、大阪万博には出かけてみようと思っている。本当のことを言うと、2025年の万博はアゼルバイジャンのバクーで開かれるのを楽しみにしていたという事情がある。小学生のころにスヴェン・ヘディンの伝記を読んで、ヘディンがバクーの油田を訪問したという個所に出会って以来、この都市に行きたいと思っているのである。ただ、テロに出あうのは御免なので、やはりその可能性が低い大阪の方が選ばれたというのが正直なところの事情ではないか。平和裏に万博が開催され、多くの人びとの良い思い出として記憶されることを祈るものである。

鳥飼玖美子『子どもの英語にどう向き合うか』(6)

11月23日(金)晴れ

 2020年度から学習指導要領の改訂により小学校の英語が教科化されるだけでなく、幼稚園や保育園でも英語を教えようとするところが出るなど、子どもと英語をめぐる状況は大きく変化しようとしている。この書物は、そのような変化の中で自分の子どもと英語を取り巻く状況にどう向き合うかに不安を感じている父兄の方々を対象として書かれた書物である。
 第1章で子どもと英語を取り巻く問題全般について取り上げた後、第2章では日本人がどのように英語を受容してきたか、その中で英語教育がどのように変化してきたかが歴史的にたどられる。第1章では、江戸時代における通詞たちの世界の流れに追いつこうとする努力の中での英語学習の様子、また明治の文明開化の中での英語熱と、その後の鎮静化の過程が辿られていた。

 「英語が一気に普及した文明開化期から明治、大正、昭和と時代が進むにつれ、日本の英語教育は対米・対英関係に大きく揺さぶられるようになります」(96ページ)は、明治以後の英語・英語教育の動きの特徴を要約している。第2章の3「“敵性語”の時代」は太平洋戦争中に英語の教育が禁止されていたという通念をめぐり、一部の学校では依然として教育が続いていたことが指摘されている。
 鳥飼さんは同時通訳者の先輩である国弘正雄、村松増美の2人が(ともに昭和5年=1930の生まれで、戦争中は中学生であった世代であるが)太平洋戦争中に英語を学んでいたという話を聞き、戦争中は英語の使用と英語教育が禁止されていたというそれまでの知識とはまったく違う話だったので、びっくりする。(国弘は、神戸一中=現在の神戸高校で小松左京や高松忠夫さんと同期であったはずであるが、小松の中学時代の回想には国弘のことは出てこないし、授業よりも工場動員の話ばかりが詳しく語られている。) そこで、鳥飼さんは週刊誌を利用して、戦争中の英語教育をめぐる体験談を募集した。そこで分かったのは、戦争中も一部の学校では英語教育が存続していたということである。なぜ「敵性語」のはずの英語が一部の学校では教えられていたのか、それは当時の政府の政策が「二重の基準」(ダブル・スタンダード)を設けていたことによる。一般国民に対しては米英への敵愾心をあおるため、「鬼畜米英」「英語は敵性語」というイメージを植え付け、その一方で中等教育以上のエリートたちに対しては広い視野で世界を学ばせるためにきちんと英語教育を行っていた。職業系の学校や、陸海軍の士官学校でも同様であったという(この点では、旧制中学校や高等女学校の中で、英語教育がきちんと行われていたのは、伝統のある学校に多いことも付け加えておく必要があるだろう。)

 たしかに昭和に入って、日本の軍国主義的な傾向が強まる中、中等教育における英語の授業時間数は削減されてはいる。しかし、国が提言したのは削減であって、廃止ではなかった。「1943(昭和18)年度に中学校で使用された英語教科書の一覧を見ると、 「読本」「作文」「文法」「習字」の教科書がそれぞれ5種類ずつと、「副読本」が19種類、合計39種類もの教科書がずらりと並んでいます。」(102ページ) 1943(昭和18)年に出された「中等学校外国語科教授要目の解説」には大東亜戦争を完遂するためには、外国語の修得は不可欠であるとの文言があり、決して英語学習は否定されていないことがわかる。

 このような戦時中の英語教育の中で使用されていた英語教科書としてもっとも傑出していたのが『クラウン』(The New King's Crown Readers、三省堂)である。『クラウン』は国際色豊かで教養主義的な内容であり、戦時色を感じさせないものであり、中学校でこの教科書を使用して英語を学んでいた国弘正雄の証言もこのことを裏付けるという。
 国弘と村松の証言の中で、鳥飼さんは2人が文学教材によって異文化への関心へと誘われたということに注目している。最近の英語教育では、コミュニケーションが重視され、簡単な会話文が取り上げられることが多くなっているという(それはそれで悪いことではない)。文学が持つ他人の人生の疑似体験という面白さが、最近の英語教育の流れの中では等閑視されているのではないかという。学習指導要領の沿わない用語や文体が改変されてしまって、原作のもつ魅力が損なわれている例は少なくないのである(これは英語に限ったことではない)。「わからないながらも心惹かれる」(107ページ)というところに文学の魅力があると鳥飼さんは指摘しているが、私も全く同感である。そういうものを教材から排除されてしまったら、英語(に限らず外国語)教育は無味乾燥なコミュニケーションの練習だけになってしまう。

 当時は職業系の学校(実業学校といった)にむけて、それぞれの教育の目的に即した教科書が作成されていた。工業には工業、商業には商業に特化した英語が教えられていたのである(と、鳥飼さんは、書いているが、実業学校出身で大正2桁の生まれである田村隆一や、植草甚一が受けた英語教育はかなり教養主義的なものだったらしい)。これらの学校で教えられていた職業に特化した英語が、戦後の日本の経済復興に大きな貢献をするような人々を育てたということを鳥飼さんは強調しているし、それはその通りであるが、別の可能性も考えておく必要もありそうである。
 戦局の展開につれて、教科書の内容が変化したことが確認できるし、それにつれて授業のあり方も変わったと考えられる。それ以上に生徒が向上や農作業に動員されたり、空襲のために授業そのものが成立しにくくなっていったことも考えなければならない。そんな中で最後まで英語の授業を続けていたのが海軍兵学校であったというのも注意してよいことである。
 この時期の英語教育は困難ではあったが、授業そのものの水準は高かったということも(中等教育が義務教育でなかったという条件を差し引く必要はあるが)留意してよいことである。さらに戦時下に英語教育を受けた人々の多くが、そのときの先生の言葉や授業の様子をよく覚えていたというのも語り伝えてよいことであろう。

 つまり、戦争中、敵国の言語であっても、英語の重要性は認識されていたし、さまざまな困難を乗り越えて英語の授業が続けられていたことは、やはり無視できないことであると思われる。
 私の大学生時代の学生運動仲間で、英語は帝国主義者の言葉であるから単位をとらなくてもいいといって、留年を重ねていたのがいたが、そういうのは怠け者の居直りであって、帝国主義に反対しているからこそ、英語を学ぶべきだということもいえる。英語といってもいろいろな英語があって、そのことをどのように認識して、どのように英語を学び続けていくかということも大事な問題であるのだが、そのような考えに至る糸口のようなことを、この戦争中の英語教育についての考察を通じて結論できるのではないかと思う。戦争中の英語教育は我々にとって重要な経験であったのだが、そのときに、英語の多様な可能性について、例えば、英米だけでなく、オーストラリアにおける英語がどのようなものであるかとか、英国の支配下にいたインド人たちや、シンガポールの華人やマレー人がどのような英語を使っているのかというようなことに思いをはせていたら、別の展開もあったのではないかという気もするのである。

トマス・モア『ユートピア』(28)

11月22日(木)曇り、寒気襲来

 1515年、イングランド王ヘンリーⅧ世が派遣した外交使節団の一員としてフランドルに渡ったトマス・モアは、外交交渉の中断中にアントワープでその市民であるピーター・ヒレスと親交を結ぶ。ある日、彼はピーターから、世界中を旅行してきた哲人であるというラファエル・ヒュトロダエウスという人物を紹介される。ラファエルはモアとピーターに、彼が訪問した中でもっとも理想的な社会に想えたという新世界にあるユートピアという島の様子を物語る。そこでは私有財産が否定され、一種の哲人政治が行われている。ごく少数の支配者=哲人たちを除き、人々は全員が農業を中心とした労働に従事し、他の国々には見られないような富を築いているという。

 ラファエルによると、ユートピアでは厳格な一夫一妻制がとられており、離婚は長老会議による厳しい審査を経て初めて認められ、不倫はきびしく罰せられ、違反者は奴隷にされるという。
 「ほかの犯罪については、一定の刑罰を定めた法というものはなく、(そのつど)長老会議が犯罪の軽重を考慮して定めます。犯罪が非常に重大で、道徳的にみて公に処罰するほうが望ましいという場合以外は、夫が妻を、また親が子を懲戒します。」(澤田訳、194ページ) 罪刑法定主義の原則をもたないというのは、英米法の伝統だそうである。澤田さんの解説によると、軽罪の場合、夫が妻を、また親が子を懲戒するというのは、ラファエルが同行したというヴェスプッチの航海の記録に見られる先住民の慣習と反対であるというが、確認していない。ここで述べられているユートピアの法制度は、家父長的、封建的なものと言わざるを得ない。

 「ふつう、重罪の最もひどいものは奴隷刑で罰されます。この刑は、犯罪者を殺してさっそく問題をかたづけてしまおうと急ぐのと比べると、犯罪者にとっては同じように陰うつな罰であり、しかも社会にとっては死刑より有益であると考えています。なぜなら、犯罪者が死ぬよりも労働することのほうが役にたつし、また彼らの生ける見せしめのほうが同様な罪を犯さぬよう他人を抑制する点では、長期の効果があるからです。」(同上)と、ラファエルは話を続ける。この問題は、すでにユートピアにおける奴隷の存在について述べたときに語られている。その際に、この制度がスターリン時代のソ連における制度と類似しているというベルネリの指摘についても書いておいた。モアがソクラテスやボエティウスなどの処刑についてどのように考えていたか、また彼自身のその後の運命について何事か予感はしていなかったのかというのは気になる問題である。
 奴隷の地位に不満で反抗したり、暴れだしたりすると死刑になる。逆にこの刑罰に忍耐強く服し続けると、大赦を受けることもあるという。ということは、中国で行われている執行猶予付きの死刑に近い制度であると思われる。

 「淫猥な行為を他人に教唆することとそのような行為を行なうこととでは、その危険度の違いは皆無で、同様に処罰されます。」(澤田訳、195ページ) ここは、平井訳では「姦通を企てた者は実際に姦通を行った者と同様に厳罰に処せられる。」(平井訳、136ページ)とあり、これはロビンソン訳でHe that moveth advoutry is in no less danger and jeopardy than if he had committed adovoutry in deed. (Robinson, 102)となっているのを承けた訳であろう(advoutry = adultery 姦淫)。ターナー訳と、ローガン&アダムズ訳ではadulteryではなくseduction(誘惑)が使われており、もとのラテン語はstuprum(不名誉)であるから、ここは広く解釈すべきで、平井訳は具体的に過ぎる。全体としてこの問題をめぐるモアの態度はきわめて峻厳である。

 ラファエルの話は思いがけない方向に展開する。「彼らは道化を楽しみます。道化の気持ちを傷つけるのは常に曲がったこととされていますが、そのおろかさを楽しむことは禁じられていません。」(澤田訳、195ページ) 澤田訳およびローガン&アダムズ訳の中によると、モアは自邸に道化師を抱えていたそうである。モアよりも半世紀以上後の人物であるが、シェイクスピアの『リア王』に登場する道化を思い出してもいい。
 また他人の身体的な欠陥を嘲笑することはいやしい、不名誉なこととされている。さらに化粧によって自分を美しく見せようとすることも不名誉な脱線と考えられている。「妻が夫の目に好ましく映るには、どんな外面的な美でも廉直謙譲な性格には及ばないということを彼らは経験で知っているからです。」(196ページ) これはモアの個人的な意見が顔を出したと思われる個所であるが、ヘンリーⅧ世と彼の確執を描いた映画『わが命尽きるとも』(ロバート・ボルトの戯曲の映画化)には、モアがいい夫であろうとし続けているのを妻がうるさがる場面があったと記憶する。なお、モアは最初の妻の死後、再婚していて、ここで登場するのは再婚相手のほうである。

 彼らは刑罰によって犯罪を予防し、社会の安全を確保するとともに、市民的な義務をりっぱに果たした人物に栄誉を与えることによって彼らをよい方向に導こうとしている。その一方で、高い地位に就こうと猟官運動を行うことは取り締まられる。全体として役人は徳望のある人物ばかりで、人々から親しまれている(当時のイングランドとは反対であったということらしい)。

 「彼らに法律はごくわずかしかありません。あれほど教育ある人たちにはわずかの法で十分足りるからです。」(澤田訳、197ページ) この個所は、平井訳では次のとおりである:「彼らの法律はその数からいえばごく少ない。彼らのように法律的な訓練の行届いた国民にとっては、それで充分なのである。」(平井訳、138ページ)
 ここはラテン語原文では:
legens habent perquam paucas. sufficient enim sic instituti paucissimae.
 ロビンソン訳では:
 They have but few laws, for people so instruct and institute very few do suffice. (Robinson, p.103)
 ターナー訳では
 They have very few laws, because, with their social system, very few laws are required. (Turner, p.106)
 ローガン&アダムズ訳では
 They have very few laws, for their training is such that very few suffice. (Logan & Adams, p.82)
なお、ローガン&アダムズ訳には「よい教育は精緻な法律の体系を必要なくするという考えは、理想国を扱う文献において共通する」という注が添えられている。ターナー訳が他の訳と、この点で少し受け取り方が違っているのが気になるところである。

 さらに「事件を巧妙に扱い、法律条文をずる賢く解釈して論じたてるような弁護士はひとり残らず追放しています」(澤田訳、197ページ)ともいう。これも当時の英国の状態に対する風刺であろう。実は、モア自身が弁護士だったのだから、ここはかなり皮肉である。なお、ラテン語原文では”causidicos"(causidicus =法律家、弁護士 の複数対格)、平井訳では「代弁人とか弁護人」(平井訳、138ページ)、ロビンソン訳では"attorneys, proctors and sergeants at the law" (Robinson, p.103)、ターナー訳では”barristers", ローガン&アダムズ訳では"lawyers"とある。
 イングランドの司法制度は日本とかなり違い、barrister (法廷弁護士)とsolicitor (事務弁護士)の2種類の弁護士がいる。モアはbarristerの方であった。attorney,はコモン・ロー裁判所の事務弁護士、proctorは海事・宗教・検認・離婚裁判所の事務弁護士で、1873年の裁判所法によりsolicitorとしてまとめられた。sergeantは法廷弁護士の古い呼び方である。しかし、ここではそんなことは知らずに読んでも構わない。

 今回紹介した箇所で、モアは理想国の制度について述べているとも受け取れるし、当時のイングランドの社会制度に対する風刺をしているとも受け取れる。どちらかというと、私は風刺だという見方に傾いている。

井上尚登『ホペイロの憂鬱 JFL篇』

11月21日(水)曇りのち晴れ

 11月15日、井上尚登『ホペイロの憂鬱 JFL篇』(創元推理文庫)を読み終える。プロ・サッカー・チームのホペイロ(roupeiro : ポルトガル語で用具係のこと)である語り手の僕(坂上栄作)の身の回りで、大体はチームに関係して、ちょっとした、しかし奇妙な事件がつづけさまに起きる。それぞれの事件を何とか「解決」したことで、自分では自覚がないのに、名探偵にされてしまった語り手は、その度に解決のため走り回ることになる。

 11月4日付のたけジャパンさんのブログ「たけジャパンと右往左往・・・しま専科」には、その前日に浜松市の都田サッカー場で行われたJFLの公式戦:HONDA対ヴァンラーレ八戸の対戦を見に出かけたことが写真入りで紹介され、それだけでなくご本人も還暦を過ぎてなお、「還暦サッカー」の試合に出場されていることが記されていて、その元気な様子に感心させられた。それにJFLの試合を見に行くというのは相当なサッカー好きである。
 推理小説の紹介のはずなのに、なんでこんなことを書いたかというと、JFLというサッカーのリーグ戦の性質を知っているのと知らないのとでは、この小説の面白さがかなり違ってくるからである。

 作中の「僕」の説明を借りると:
 JFLは世界でも類を見ないユニークなサッカーリーグだ。
 J2を目指すプロのクラブと、テイサン自動車部品工業のような企業クラブ、それからプロをめざしていないが地域の同好の士が集まってはじめたクラブ、そして大学のサッカー部まで所属している。雑多といえば雑多だが、そこがJFLの面白いところだ。(133ページ)
 「僕」の見るところでは(おそらく作者の意見であり、同感する人も多いだろうが)、JFLの企業クラブがかなり強く、これがJリーグ入りを目指すプロのクラブチームにとって、越えるべきハードルになっている。ビッグカイト相模原は、Jリーグの準加盟チームなので、JFLで4位以上になれば、J2に昇格できる。その4位以上になるのがなかなか難しい。 

 この小説は2009年に単行本で出され、2010年に文庫本化された。そのため、作者が「あとがき」で書いているように、JFLのチームの置かれている状況は、現在とは違ってきているところがある。作中で政令都市を目指していると書かれていた相模原市は、すでに政令指定都市になっている。さらに、この時代はJ1とJ2しかなかったが、現在はJ3があって、JFL(日本サッカーリーグ)で4位以内に入り、一定の条件を満たしていれば、J3への昇格は可能である。その代わり、「J2には降格制度はないが、JFLには地域リーグへの降格がある。J2より厳しい環境にあるといっても過言ではない」(134ページ)というのはこの時代の話で、現在のところではJ2とJ3のいれかえはあり、JFLからJ3に昇格できるが、J3からJFLへの降格はない(将来的にはありうる)。
 それからJFLは既に述べてきたところからわかるように実在のリーグであるが、作品中に登場するチーム:「僕」の勤めているビッグカイト相模原とか、習志野FCとか、国立北村工業FCとか、町田キッカーズとかいうのは架空のものである。(とか言って、相模原SCというチームが現在J3に、町田ゼルビアがJ2に所属していることはご存知のはずである)。などと思って油断していると、実在のチームが出てくるから、その点にも目を光らせて読む必要がある。地名、駅名などは実在のものが多いはずであるが、ひょっとすると架空のものが紛れ込んでいるかもしれない。

 事件というのは、チームのエースで、元日本代表であったヤマケンさんが、以前はそうではなかったのに、最近は頻繁にスパイクを取り換えるようになったということ(「カンガルーの右足」)、ナイジェリアからやって来たストライカーのアモちゃんに近くの農業大学の畑の芋を盗んだという嫌疑がかけられたこと(「ヤム芋ストライカー」)、チームの名物サポーターの一人「旗振り」くんの旗が盗まれたこと(「迷惑フラッグ」)、持ち主が現れない高価そうな指輪の謎(「忘れ物リング」)、チームの宣伝のために選手の顔写真の入ったポスターを張っていたところ、それまでは盗まれることがなかったある選手のポスターが盗まれ始めたという謎(「盗まれポスター」)、ゲン担ぎには厳しい監督が大事にしていたぬいぐるみのクマが行方不明になった(実はそのぬいぐるみは…という「行方不明ベア」)というようなものである。

 主人公はそのたびに本職であるスパイクの手入れに専念できないまま、雑用係として駆り出され、てんてこ舞いする。美人でバストも大きいが、性格がひたすらきつい広報の三島(オニアザミ)撫子さん、気立てのいいボランティアの山岸奈々子ちゃん、突然現れた光惠さんというおばあさん(チームの前身である企業チームの寮母をしていたことがわかる)、高校でたての新人選手鈴木元気君など、性格を描き分けられた登場人物たちの協力を得て、それぞれの事件が解決に向かう。時には涙を誘うような、大体においてはほんわかした物語が展開するのだが、さて、チームはJ2に昇格できるのであろうか。
 貧乏チームで起きる悲喜こもごもの事件をユーモアたっぷりに、描き出し、しかもサッカー・チーム経営の裏方の姿を詳しく描きこみ、サッカーのファンの目を広げさせてくれるユニークな連作短編集である。

 本日は、これから研究会に出席するために、皆様のブログを訪問する時間的余裕がありません。あしからずご了承ください。
 

ダンテ・アリギエーリ(須賀敦子・藤谷道夫訳)『神曲 地獄篇(第1歌~第17歌)』(5‐3)

11月20日(火)晴れたり曇ったり

 1300年4月4日、「暗い森」に迷いこんでしまったダンテは、ローマ時代の大詩人ウェルギリウスの霊に出会い、異界を旅するように言われる。いったんはためらったが、この旅が彼の魂を救おうとする天国の貴婦人たちの願いに基づくものだと知り、旅立つ決心をする。〔第1歌、第2歌〕
 ウェルギリウスに導かれて地獄の門をくぐったダンテは、生前に目立った善も悪もなさなかった人々のたましいが、天国はもちろん、地獄からも拒否されて、地獄のまわりを空しく走り回っているのを見る。そして、地獄で罰を受けることになるたましいたちが、アケローンの川を渡ろうと、カローンの操る船に急いで乗り込んでいるのを見かける。稲妻に目がくらんだダンテは気を失う。〔第3歌〕
 ダンテが目を覚ますと、2人はリンボへの降り口に達していた。リンボで彼は、古典古代の有徳の異教徒たちに出会う。彼らは真の宗教を信じなかったために、神を見ることができないまま、ここに置かれているのである。〔第4歌〕
 地獄の第2圏では、悪魔のミーノースがやって来たたましいたちの行き先を決めている。第2圏には、愛欲の罪に溺れた人々のたましいが置かれている。彼は、アッシリアの女王セミーラミス、カルタゴの女王ディードー、エジプトの女王クレオパトラ、トロイア戦争の原因となったヘレネーら、古今の恋愛物語の登場人物の多くが、嵐の中をさまよっているのを見かける。その中で2つのたましいが、離れることなしに飛ばされているのを見て、彼らに話しかけたいと思う。ダンテの呼びかけに答えて、2つのたましいは彼らの許にやってくる。〔第5歌のこれまで〕

〔第5歌の続き〕
 ダンテの呼びかけにこたえて、ダンテ(とウェルギリウス)のもとにやって来た2人のたましいは次のように語る:
 「おお、優しき善意の方よ。
私たち世界を血に染めたたましいらを
黒き大気を通って訪ね歩くあなたよ。

 もしも宇宙の王なるお方[神]が私たちの味方であれば
私たちはかの方に祈るでしょう、あなたに平安をと。
あなたは私たちの道ならぬ罪を哀れんでくださるのですから。
(88‐93行、97ページ) 翻訳者は地獄めぐりをはじめたダンテに自分の心の懊悩を打ち明ける最初の存在がフランチェスカ(男女の女性のほう)であることに注意を喚起している。第3歌の地獄前地の魂たちとは会話を禁止されていたし、リンボのたましいたちは賢者であるので自分の悩みを口にすることはない。彼女が「優しい善意の方よ」と呼びかけるのは、自身の愛と、その愛がもたらした苦しみについてうちあけたいと思っているからであり、それを聞いてもらえれば、心の苦しみがいくらかでも和らぐからである。この後、ダンテは様々な死者の魂の苦しみを聴くことになるが、その最初のものが愛に関わる悩みであったのは、この叙事詩の主題とかかわっていると翻訳者はいう。「道ならぬ恋」がどのようなものであったのかは、これから語られることになる。地獄の魂たちは神を呪って冒涜の言葉を吐いたりすることが多い中で、フランチェスカは、できるのであれば神にダンテの平安を祈りたいと願っている。翻訳者は「地獄篇で最も魅力的な語り方をするのがフランチェスカである。そしてその素晴らしい女性がたった一つの過ちのために堕罪していく悲しみが描かれている」(108ページ)と記している。

 折よく、風がやんだので、魂は自分たちの物語を語りはじめる。
 私の生まれた土地[ラヴェンナ]は、ポー川が
供のもの[支流]たちを引き連れ、平安を求めて
くだりゆく海の辺(ほとり)に位置しています。
(97-99行、98ページ) フランチェスカはラヴェンナの領主であるグイード・ダ・ポレンタの娘でラヴェンナの南にあるリーミニの領主マラテスタの息子ジャン・チョットに嫁がせられる。ラヴェンナもリーミニも現在のエミーリア≂ロマーニャ州にある都市で、両者は抗争を続けてきたが、この結婚によってその対立を解こうとしたのである。
 地獄に堕ちたフランチェスカのたましいに平安(pace)はない。彼女はここで、「川でさえも平安を求めて海に帰っていくのに、自分たちの境遇はそれを過去のものとして思い出すほか許されていないのですと、「ポー川」に自身の気持ちを託している」(108ページ)のだという。ただ、気になるのは、現在のイタリアの地図を見ると、ポー川はラヴェンナのはるか北のほうで海に注いでいるのである。昔はもっと南の方を流れていたということであろうか。なお、ラヴェンナは(西洋史に詳しい方はご存知であろうが)西ローマ帝国最後の首都であり、そして、ほかならぬダンテの終焉の地でもある。

 優しき心にはすぐに入り込む愛の神が、この(私の)美しい肉体で
このひと[パオロ]を捉えたのです。その身[肉体]は荒々しく私から(死によって)
奪われてしまいましたが、今もその愛は激しく私を貫いています。
(100‐102行、98ページ)  原文を読むとわかるのだが、100行、103行、106行とすべて最初のことばはAmor(愛、あるいは愛の神)である。つまり、フランチェスカとその恋人であるパオロは、異教的な(キリスト教的ではない)愛の情念にとらわれてしまったということである。この3行は、印象に残る箇所でもあるが、わかりにくい。ちなみに山川訳では:
いちはやく雅心をとらふる戀は、美しきわが身によりて彼を捉へき、かくてわれこの身を奪はる、そのさまおもふだにくるし
(岩波文庫版、上巻、39ページ)とある。また、原元晶訳では
愛は、瞬く間に高貴なる心に燃え移るもの。
だから今は私から引きはがされた美しい私の現身(うつしみ)で
この人をとらえてしまった。その有様に今も私は苛(さいな)まれています。
(講談社学術文庫版、93ページ)とある。つまり、3つの訳を比べてみても、愛(あるいは恋)がフランチェスカの美しい肉体により、パオロをとらえたという解釈は一致しているが、その後が違う。フランチェスカの肉体が夫に殺害されたことで滅びてしまったと、須賀=藤谷訳、および原訳はとらえているが、山川訳はそのあたりが不明確であるし、最後も、山川訳と原訳が「おもふだにくるし」、「今も私は苛まれています」と同じように訳しているのに、須賀=藤谷訳は全く違う。〔いまもその愛は激しく私を貫いています〕という須賀=藤谷訳はひどく生々しく感じられる。

 愛された者が愛し返さぬのを許さぬ愛の神が、
このひと[パオロ]の悦びで私をかくも強く捕えたあまり、
ごらんのとおり、いまになってもまだ私を離れないのです。
(103‐105行、98ページ) 「人は、誰かから好意を寄せられると、その行為を寄せてくれる人を好きになってしまうもの」という一般的な原理が二人をとらえたという。ただ、フランチェスカとパオロの愛は、地上の愛(異教の愛)であり、神に向かう愛ではなかったために悲劇に至るということである。解説によるとダンテの時代「悦びpiacere」は「美」を意味していた。パオロがフランチェスカの美しさに惹かれたように、フランチェスカもパオロの美しさに惹かれずにはいられなかったのであるという。

 愛の神は私たち二人を同じ一つの死へと導きました。
カインは私たちの生命を消したものを待ち受けています」
たましいたちはこう語るのだった。
(106‐108行、98ページ)二人の肉体は亡びたが、魂は二人一緒になって、地獄で罰を受けている。カインは旧約聖書『創世記』に登場するアダムの子どもで、弟であるアベルを殺す。パオロは、フランチェスカの夫である兄ジャン・チョットによって殺された。もっとも、アベルは全く罪がなかったのであるが、パオロは兄の妻と不倫をしているのだから、同一視はできない。二人は地獄にいるが、まだ生きている彼らの殺害者=ジャン・チョットも地獄に堕ちるだろう。『神曲』に描かれたダンテの遍歴が行われたのは1300年であり、この時点ではまだジャン=チョットは生きていたので、予言の形がとられる。なお、ダンテが実際に『地獄篇』を書きはじめたときには、ジャン=チョットは没していた。語るのはフランチェスカだけだが、ダンテは「たましいたち」と表現する。それは2人が1つのたましいになっているからだという。

 第1歌から第4歌まではずっと3回ずつで読み終えてきたが、今回はもう1回かけて残りの部分を読んでいくことになる。それだけこの第5歌の内容が濃いということである。 
 

『太平記』(237)

11月19日(月)曇りのち雨

 暦応2年(南朝延元4年、1339)8月、吉野の後醍醐帝が病気になられ、16日、八宮義良(のりよし)親王への譲位などを遺言されて崩御された。〔本文には康永3年とあるが、これは誤りである。〕 帝に従っていた公家たちの落胆は大きかったが、吉野執行宗信が、諸国に宮方が少なくないことを説いて公家たちを励ました。12月、八宮が即位された(後村上帝である)。北畠親房が幼い帝を輔佐して政務をとり、諸国の宮方に先帝の遺勅を告げて戦闘の継続を促した。〔後醍醐崩御、後村上即位の時点で、親房は関東に滞在していたので、これも歴史的事実と異なる。〕 越前では、新田義貞の弟脇屋義助の家来の畑時能が、湊城を出て近隣を劫略し、由良光氏が、西方寺城を出て足利方の城を落した。〔後醍醐帝の崩御は8月であり、これらの動きは7月なので、日時に矛盾がある。〕

 7月7日に、新田一族の堀口氏政が、500余騎で居山(いのやま、福井県大野市日吉町にあった)城から出撃して、香下(かした、大野市上舌)、鶴沢(同市冨嶋=とびしまの古称)、穴間(あなま、同市朝日の九頭竜川上流一帯の古称)、川北(福井市河北町)の11か所に足利方が築いていた城を攻め落とし、降参してきた千余騎の人を引率して、河合(福井市川合鷲塚町)の庄に出て味方に合流した。

 総大将である脇屋義助は禰智(ねち、禰津ともいう、長野県東御市祢津出身の武士)、風間(信濃出身で越後に住んだ武士)、瓜生(福井県南越前町杣山に根拠地をもつ武士)、河島(鯖江市川島町に住んだ武士)、宇都宮(19巻に登場する泰藤らしい)、江戸(武蔵の武士、先祖は武蔵七党の中の秩父党の有力な武士であった)、波多野(はだの、吉田郡永平寺町に住んだ武士)ら3千余騎の大将として、国府(こう、越前市国府)から三手に分かれ、織田(丹生郡越前町織田、なお岩波文庫版では「おだ」とふり仮名が付けられていたが、私の記憶では現地では「おた」と言っていたように思う)、田中(同町田中)、荒神峯(こうじんがみね、福井市笹谷町)、安居(あご、福井市金屋町、日野川と足羽川の合流点をのぞむ場所である)の城、17か所を3日3晩のうちに攻略して、それらの城の大将のうち7人を生け捕りにし、士卒500人余りを誅して、河合の庄に到着した。

 7月16日、各地から集まってきた宮方の武士たちが合流し、6千余騎となり、三方から黒丸城の5つの城郭を包囲した。まだ戦わない先に、河合種経(たねつね)が降参して、畑時能の配下となる。畑は自分の率いてきた軍勢を連れて、夜半に足羽(福井市足羽)の乾(西北)にある小山に登り、夜通し、城の周囲をめぐって、鬨の声をあげ、遠矢を射かけて、あとから大勢の味方がやってくればまっさきに城に攻め寄せようと、その勢いを誇示して夜を明かした。

 上木平九郎家光は、加賀の武士でもともとは義貞に属していたのであるが、その戦死後は足利方に転じて黒丸城に留まっていた。その彼が、大将である斯波高経のもとにやってきて次のように述べた。「この城は、先年、新田義貞殿の攻撃を受けたときは、不思議のご運によって、勝利を得ることができましたが、その例に慣れて、今回も大丈夫とお思いなら、気がかりな考えです。と、申しますのは、先年この場所に攻撃をかけてきた敵兵は、ほとんどみな坂東や西国の武士たちであり、この土地の様子を知らない者たちであったので、深い泥田に馬を走らせたため、掘っておいた堀溝におちいって、(身動きができなくなり)最後には大将である義貞殿が流れ矢にあたって命を落とすということに相成りました士がいるかどうかをお。今回はかつての味方の多くが敵方に回っておりますので、寄せ手の側が城の近くの地理を知らないということはあり得ません。そのうえ、畑六郎左衛門(時能)という日本一の大力の号のものが、必死の思いでこの城の攻略に向ってきております。そういう時にあたって、この城内に畑に対抗できる武考え下さい。後詰の兵が救援にくるということもないうえに、平城に小勢で立てこもっていては、命を捨てるようなものです。これはあってはならない計略とお思いください。今のうちに、私の本拠地である加賀のほうに退却されて、京都から援軍が派遣されるのをお待ちになり、力を合わせて反撃されるほうが得策です。」 副将軍である細川一族の武士(名は不詳)、守護代の鹿草(ししくさ)兵衛助をはじめとして、黒丸入道と呼ばれた朝倉広景、朝倉彦三郎、越前の武士である斎藤三郎(藤原利仁の子孫)に至るまでこの意見に同意した。それで、高経は黒丸城の5つの城郭に火をかけ、その火を松明の代わりとして、夜のうちに加賀の富樫(金沢市富樫)にある加賀の守護富樫氏の城へと落ち延びていった。

 畑六郎左衛門の謀により、義助は、黒丸城を陥落させ、兄である義貞が高経を攻めて敗死した敵討ちを果たしたのである。

 斯波高経が退却したのは、脇屋義助の軍勢が多いうえに、自分たちの軍勢が少数で孤立していて勝ち目がないという上木の献策に従ったからで、畑六郎左衛門の方も特に謀を用いたわけではなく、自分たちの勢いを示しただけのことであるから、『太平記』の作者の言っていることはあまり要領を得ない。

 ほかにも今回取り上げた個所には気になる部分がある。畑六郎左衛門が足羽の乾の小山に登ったと記されているが、これはたぶん今日足羽山と呼ばれている山であろう(他に小山らしいものはないらしい)。だとすると、足羽川の中流域にある山であり、黒丸城は足羽川と日野川の合流点の近くにあったようなので、少し距離があり、畑時能が斯波高経たちが立てこもっている城の周囲を夜通し回ったというわけではないようである。ただし、黒丸城から、畑たちの動きはよく見えたであろうことは推測できる。

 あと、脇屋義助の配下にいた武士の中に永平寺とかかわりのある波多野氏の武士の名が見られる点も興味深い。源頼朝の兄である朝長の母親は波多野氏の出身であり、その本拠は相模の秦野であった。ところが治承寿永の乱の際に、波多野氏は源氏の味方をしなかったために、秦野から追われることになり、その一部が越前のほうに住み着くことになったのである。

 この個所に限らず、『太平記』に登場する武士たちを見ていくと、治承寿永の乱の時期に活躍した武士たちの末裔と思しき名前があり、その一方で戦国大名の先祖らしい名前もある。『太平記』はそういう意味でも、過渡期、変革期の文学であると思うのである。
 

日記抄(11月16日~18日)

11月18日(日)晴れというか、薄曇りというか、微妙な空模様

 11月16日から本日(18日)までの間に経験したこと、考えたこと、以前の記事の補遺・訂正等:
11月8日
 このに、BSプレミアムで映画『ワーテルロー』(1970、イタリア=ソ連合作、セルゲイ・ボンダルチュク監督)が放映された。この作品は、それほど出来がいいとは思わないが、ナポレオン失脚後に復活したブルボン王朝の国王ルイXⅧ世の役でオーソン・ウェルズが出演していて、その演技を見るだけでも価値があると思うことにしている。

11月16日
 英国の社会学者で日本の社会や教育についての研究で知られるロナルド・ドーアさんが13日、イタリアのボローニャの病院で亡くなられたことが分かった。一度、連合総研のシンポジウムで提案をされているのを伺ったことがある。文部省と日教組が対立している時代の日本では、その対立を目撃することによって児童生徒に優れた価値教育が行われていたと指摘されていたのが記憶に残っている。そのような立場から、近年の日本の社会と教育をめぐる動向についてはかなり幻滅されていたようである。また、研究の再検討に取り組みたいと思う。

 『朝日』の朝刊の「月刊 安心新聞+」のコーナーで、神里達博さんが<自己責任論>について論じ、日本では「自由に伴う責任」よりも「役割に伴う責任」の方が重視される傾向があるとしている。傾聴すべき意見ではあるが、昨今の<自己責任論>には、「役割分担から外れた人間の責任を問う」という性格が強いように思う。それも「役割に伴う責任」論の一端であるといえばそれまでであるが…。

 NHKラジオ『まいにちイタリア語』応用編「イタリアで劇場に行こう!」ではヴェネト州ヴィチェンツァにあるテアトロ・オリンピコが取り上げられた。ルネサンスの建築家アンドレア・パッラーディオによって設計され、ヴィンチェンツォ・スカモッツィによって完成され、1585年に開場した。È considerato il primo teatro stabile coperto. (初めて屋内に創られた常設の劇場と考えられている)とのことである。

 『NHK高校講座 古典」では、杜甫の「絶句」と孟浩然の「洞庭に臨む」の2編の漢詩を取り上げた。
 杜甫の「絶句」は吉川幸次郎・三好達治『新唐詩選』で吉川が最初に取り上げている詩であることを思い出し、放送後、その箇所を読み直してみた。講師と吉川とで訓読のしかたが違っているところがあった。
 江碧にして鳥愈(いよい)よ白く
 山蒼くして花然(も)えんと欲す
 今春看(みすみす)また過ぐ (吉川は「看」を「看(ま)のあたりに」とよんでいる)
 何れの日か是れ帰る年ならん (吉川は「何の日か是れ帰る年ぞ」とよんでいる)
 我流で日本語の詩に移してみると:
 流れ豊かに 深みどり その上を飛ぶ 白い鳥
 木々は早緑 競いあい 燃え立つばかり 桃の花
 去年も今年も 春は来て さまよう私を 置き去りに
 仮の住処の わび住まい 都へ帰る 日はいつか
 孟浩然の詩のほうは、どうも注意が散漫になって理解もいい加減になってしまった。

 『NHK高校講座 倫理』は「アリストテレス 現実を見つめて」。①プラトン哲学への批判 ②ポリス的人間の生き方 ③アリストテレス哲学の特徴。アリストテレスは、プラトンのイデア論に反対し、自然の世界の変化を肯定的にとらえた。彼はまた、ポリスという都市国家を小共同体として肯定的に評価し、共和政治が欠点はあっても現実的に誤りの少ない政治形態であると考えた。ごく常識的なアリストテレス理解が展開されていたが、実際にアリストテレスを読んでみると、また別の意見が出てくるかもしれない。〔もっとも「アリストテレスを読む」ということが、どういうことかも考えてみる必要があるだろう。〕

 『NHK高校講座 国語総合』は漢文の「訓読の基本」。一応、身につけているつもりである。

11月17日
 『日経』朝刊のコラム「大機小機」は「七不講とオーウェル流社会」として、中国の大学では学生に教えることが禁じられている「七不講」について取り上げた。①人類の普遍的価値、②報道の自由、③公民(市民)社会、④公民(市民)の権利、⑤党の歴史の過ち、⑥特権資産階級、⑦司法の独立 意味がよくわからない部分もあるが、もう少し自由を拡大しないと、中国の将来の経済的発展は望めないのではないかと思う。

 同じく『日経』の土曜日ごとの本郷和人さんによる連載記事「日本史ひと模様」では、前回取り上げた前田利家の後継者である前田利長が登場した。利長は、利家の陰に隠れがちであるが、豊臣政権から徳川幕府に至る過渡期をたくみに生き延び、加賀百万石を確立した優れた大名として評価されている。本郷さんは触れていないが、利長と丹羽長重の駆け引きなどは利長の政治j的な力量を物語るものと言えよう。武将としての能力は長重の方が上だったかもしれないが、そのことを念頭において、戦いを避けて平和裏の交渉に持ち込んだというあたりがすごいのである。

 『朝日』の朝刊・地方欄に掲載された「神奈川の記憶 134」は奥州藤原氏による支配に至る以前の100年ほどの東北地方は戦乱に明け暮れた時代であったことを、考古学的な調査から明らかにしている小口雅史さん(法政大学)らの研究を紹介している。そういう戦乱の中で前九年の役と後三年の役だけが記録されているが、これは征夷大将軍の地位を得た源氏による先祖顕彰の意味合いから記録が残されたとみるべきであるようだ。

 スポーツ新聞に俳優の三上真一郎さんの訃報が掲載されていた。まだ80歳になっていなかったので、少し早いという感じがある。小津安二郎の晩年の作品『秋刀魚の味』など松竹映画への出演で記憶されている。小津作品に出演した女優さんの存命者は多いが、男優となるとなかなか見つけがたくなってきた。また熊井啓監督によって映画化された『サンダカン八番娼館』の原作者である作家の山崎朋子さんの訃報も掲載されていた。

 中学・高校の同期会。一緒に卒業したのが170人。そのうち1割ほどがすでに故人になっている。今回案内を出したのが、120人ほどで返事が来なかった人もいるが、60人以上が出席しているとのことであった。在学時に指導を受けた先生方3人が出席されたが、それぞれ80代後半ということで、うーんまだ先は長いという思いを強くした。会場から駅までY君と話しながら帰る。実は、前回もそうだったので、不思議なつながりだと話し合った。彼は水産大学を受けようと思ったのだが、先生に無理だといわれて、医学部に進学して医師になったそうだ。入学試験の難しさとは別の、難しさというものもあるのである。

 この同期会のために、甲府まで応援に行けなかったのが残念であったが、横浜FCはヴァンフォーレ甲府を1‐0で破り、J2のシーズンを3位で終わり、J1昇格をかけたプレーオフに進むことになった。(1位の松本山雅、2位の大分トリニータはJ1に自動昇格。) 女子チームのシーガルズもなでしこリーグ1部への昇格をかけたプレーオフ進出が決まっているので、観戦の計画を立てるのが一苦労である。
 1054回のミニtotoBを的中させる。賞金は11110円とかなりの額であるが、ミニtotoAのほうは30169円とさらに大きな額である。

 吉川幸次郎・三好達治『新唐詩選』(岩波新書)を読み終える。高校時代に読んではいるが、改めて読むとまた新たな発見と感慨とがある。吉川の教え子である尾崎雄二郎先生、一海知義先生に中国語を習っているから、普通の読者よりも有利な立場で読むことができる。吉川は漢詩の解釈と鑑賞の助けとして、さまざまな英訳を紹介しているが、尾崎先生の中国語中級の授業で魯迅の『彷徨』を読んだ際に先生が魯迅全集の英訳を参照されていたことを思い出す。英訳の助けを借りるというやり方は先生が吉川から学ばれたものであろう。
 さて、吉川が紹介している漢詩の英訳者の1人、エミー・ローウェルはアメリカ東部の名門、ローウェル家の一員で、日本にやってきて能登半島を旅行し、帰国後は火星の研究に没頭したパーシヴァル・ローウェルの妹である。そのほか、翻訳者の中にエズラ・パウンドの名があって、パウンドが詩を書いていくうえで、日常的に翻訳作業に取り組むことの意義を強調した話は読んだことがあるが、彼が中国語ができたということを初めて知った。高校時代にこの本を読んだときは、エズラ・パウンドなんてどこの人?という感じだったのである。

1月18日
 『朝日』朝刊の「折々のことば」から:
 「既知」の領域が拡大するにともなって、「未知」の領域は狭まっていくどころか、逆にそれは正比例的に拡大する。(林達夫)
 知の体系を閉じた、完結したものととらえるのではなく、無限に広がっていくものと考えることで、この認識は成立する。世界を閉じた、完結した、有限で正解が必ず出せるものと考えるほうが教育は容易である。しかし、そう考えても、とらえきれない世界があるということを教えることも必要ではないだろうか。

 同じく『朝日』の「日曜に想う」というコーナーで、1964年の東京オリンピックを記録した市川崑監督の映画について、オリンピックの担当大臣であった河野一郎が批判を加え、それに高峰秀子が反論し、『週刊サンケイ』で両者が対談するに至ったという経緯が曽我豪記者によって記されていた。河野一郎は対談後まもなく死去、市川崑監督も、日本映画の斜陽化とともに舌鋒衰えた感のある高峰秀子も世を去り、それどころか、『週刊サンケイ』も姿を消した。

日記抄(11月12日~15日)

11月17日(土)晴れ、気温上昇

 本日はこれから中学・高校の同期会があるので、12日から15日までに経験したこと、考えたことをまとめて、簡単に書いておくことにする。

11月12日
 『NHK高校講座 現代文』では井上ひさしの短編「ナイン」を取り上げている。作者自身の経験を投影している人物らしい語り手が、昔その仕事場の2階を借りて住んでいた四谷新道の畳屋を訪問し、今は家業を継いでいるその店の息子をエースとしていた少年野球チームが区の少年野球大会で準優勝した時のことを思い出し、そのときの「ナイン」のその後をたどるという話らしい。講師の先生が考証していたように、語り手が畳屋を訪問したのは1984年のことで、少年野球のチームが準優勝したのは1966年のことであるというのは、物語のなかで触れられている地域の有名人:岩井半四郎とその2人の娘さんへの言及からも確認できる。というのは、その2人が岩井友見さんと仁科亜季子(明子)さんであるのは、すぐにわかることで、2歳違いのこのお二人がともに中学生であったのは1966年の1年だけだからである。
 物語の「現在」である1984年の時点では岩井半四郎は四谷から引っ越していたことになっているが、私はたぶん1976年のことだったと記憶するが、映画青年仲間の集まりの流れで、四谷の岩井半四郎の家の近くのアパートを借りていた友人のところで一夜を明かしたことがあり、その際に岩井の家の前を通ったのでその分余計に懐かしい気持ちがしたのである。

11月13日
 新しい「大学共通テスト」の試行調査が終わり、試験の輪郭がかなりはっきりしてきた一方で、試験の目的・内容や方法をめぐる疑問の声もやまないようである。それらについての意見がないわけではないが、私は大学教育の問題が、入学者の選抜方法の問題に集中する傾向があるのは、あまり良いことではないと考えている。高齢化が進み、生涯学習がより一般的な傾向になる中で、むしろ大学「教育」の質的な充実を図ること、さらにその前提となる大学の経営基盤の安定を築くことの方が重要ではないかと思うのである。

11月14日
 『日経』に学力テストの英語で、PCが未整備の学校があるために、「話す」力の調査は実施しないことになったという記事が出ていた。PCがあろうとなかろうと、「話す」力の測定は難しい。何でもかんでも正確かつ客観的に測定できるという考え(さらには、そうあるべきだという考え)そのものを捨てたほうがいい。

 大学に入学する学生の選考方法について考える以上に、大学の中での教育の在り方や、それを支える大学の経営基盤の確立のほうに関心を向けるべきだというのが私の考えであるが、本日の『日経』に北海道にある国立の3大学、小樽商科大学、帯広畜産大学、北見工業大学が統合するという記事が出ていた。こちらの方が長い目で見ると「大学共通テスト」の実施よりも重要な出来事となるかもしれない。

 同じく『日経』にインドの地下鉄網が急速に整備されているという記事が出ていた。とくに首都デリーの地下鉄網は東京を抜いて世界第4位となり、沿線、駅ビルの開発も伴って伸長、その規模の巨大さでニューヨークを猛追しているという。デリーは世界有数の車過密都市で、そのさまざまな問題の解決のためにも地下鉄網の整備が求められているのだそうだ。私は、地下鉄について愛憎相半ばする気持ちがあって、札幌、東京(2社)、横浜、名古屋、京都、大阪、神戸、福岡、ソウル、ロンドン、リヴァプールの地下鉄に乗っている一方で、最近はできるだけ地下鉄に乗らずに、バスに乗るようにしている。

 NHKラジオ『実践ビジネス英語』の”Quote...Unquote"のコーナーで取り上げられた言葉:
Vision is the art of seeing things invisible.
(from Thoughts on Various Subjects)
---- Jonathan Swift (Anglo-Irish satirist and churchman, 1667 -1745)
(ビジョンとは、目に見えないものを見る術である。)
 スウィフトの時代と生涯とを考え合わせると、色々、意味深長。

11月15日
 NHK『ラジオ英会話』では1969年8月15日から17日にかけて米国ニューヨーク州で開かれたウッドストック・フェスティバルの話題が取り上げられた。このコンサートのDVDを見ている父親と、ウッドストックについてまったく知らない娘との会話:
This is a DVD of one of the most famous rock concerts in history. (これは史上もっとも有名なロックコンサートのDVDだよ) 
The film image looks really old. When was the concert? (そのフィルム画像はとても古そうね。そのコンサートはいつあったの?)
In 1969. It was called Woodstock, and it was held for three days in the state of New York. When it ended, people said, "This concert will be talked about for years." And they were right. (1969年さ。これはウッドストックと呼ばれるもので、ニューヨーク州で3日間にわたって開催されたんだよ。コンサートが終わった時、みんなこういったんだ。「このコンサートは今後何年も語り継がれるだろう」とね。彼らの言うとおりだった。)
That's like half a century ago, Dad. (それは半世紀も前の話のようね、お父さん。)
Yes, but themusic is still considered cool. Many legends of rock and roll performed at Woodstock. You've heard of Jimi Hendrix, haven't you? (ああ、だけど、その音楽はいまでもかっこいいと思われているよ。ウッドストックではロックンロール界の伝説的なミュージシャンが何人も演奏したんだ。お前はジミ・ヘンドリックスって聞いたことがあるだろう?)
Jimmy who? (どのジミーのこと?)
 というわけで、父親と娘の対話はかみ合っていないのだが、それが時代の経過のなせる技であろう。しかし、ウッドストックのコンサートにはもちろん、出かけていないけれども、その記録映画を見て、同時代的にこのコンサートについて知っている私から見ると、この父親の説明には納得のいかない部分がある。つまり、ロックが中心ではあったが、ラヴィ・シャンカール(インドの音楽)とか、ジョーン・バエズ(フォーク)のようなジャンルのミュージシャンも参加し、カウンターカルチャー(対抗文化)の祭典という様相を呈していたということである。ジミ・ヘンドリックスが登場したのは、3日間の最後(つまり大真打とでも言うべきであろう)であったことも付け加えられてよい。さらに、記録映画の編集を担当したのがマーティン・スコセッシであったこと、何よりも約40万人という大勢の観客が集まったことなど記憶されるべきことは多い。

 『実践ビジネス英語』の”Quote...Unquote"の時間で紹介された言葉:
An ounce of action is worth a ton of theory.
---- Friedrich Engels (German social scientist and philosopher, 1820 - 95)
(1オンスの行動は、1トンの理論に値する。)
 それらの行動と理論とが、どのような意味をもつかにもよるのではないだろうか。

 井上尚登『ホペイロの憂鬱』(創元推理文庫)を読み終える。この作品については、機会を改めて詳しく紹介することにする。 

鳥飼玖美子『子どもの英語にどう向き合うか』(5)

11月16日(金)曇り

 2020年から小学校での英語が教科として教えられるようになるだけでなく、幼稚園や保育園でも英語を教えるところが多くなるなど、英語教育の低年齢化が進んでいる。親たちが経験しなかったことを子どもたちが経験しようとしているのである。このような事態にどのように対処すればいいか、長年、英語と付き合い、英語を教えてきた著者が、保護者の不安にこたえて、子どもに対する英語教育の歴史や問題点について述べ、「小さいころに英語をやったくらいで英語が上達するわけではない」(15ページ)のであり、子どもが英語嫌いにならないように落ち着いて対処することが重要であるという議論を展開している。

 第2章「英語教育史から探る」では、江戸時代から現代にいたる英語受容と英語教育の歴史をたどりながら、これまでに経験されてきた様々な問題を取り出している。前回は、江戸時代における「英語学習の始まり」を見てきたので、今回は明治時代の「近代化に揺れた英語」の諸相を概観した部分を見ていくことにしよう。

 黒船来航以前にも日本と欧米諸国との交流・接触はなかったわけではないことは、前回に触れたとおりであるが、ペリーの来航をきっかけとして幕府(そしてその後の新政府)は開国に踏み切り、欧米との外交・経済交流だけでなく、その文明を積極的に吸収する方向へと舵を切った。その結果、留学生や使節団が盛んに派遣されるようになる。とくに重要なのは1871年に欧米に派遣された岩倉使節団であり、多くの政府要人が国を留守にしてまで欧米の制度・文化を学ぼうとした。
 その結果、取られた方策の一つが、高等教育を受けるエリートたちに西洋の学問を学ばせることで、欧米から外国人教師を雇い入れて、彼らの国の言語で様々な専門分野の授業をさせた。東京大学の前身の一つである大学南校には19人の教師がいたが、そのうち14人が英米人であったというように、外国語で授業が行われた中では英語が優勢であった。毎日6時間ほど、このような授業が続くのだから留学しているようなものである。授業の後では翻訳の時間があり、外国語で学んだ内容を日本語に訳して確認していたという。外国語の習得ではなく、「内容を学ぶための外国語であることがよくわか」(77ページ)る。

 このように、朝から晩まで「英語漬け」にするやり方をイマージョンという(イマージョンは「浸礼」と訳され、キリスト教の一部の宗派で行われている全身を水に浸す洗礼のやり方である)。各地に官立の英語学校が設置され、また英語塾も設立された。この時期に教育を受けた世代に属する人々には、内村鑑三、新渡戸稲造、岡倉天心、斎藤秀三郎といった英語の達人の名が並ぶ。後に初代の文部大臣となる森有礼は、「国語英語化論」を唱えたりした。日本も英語を国語としなければ欧米列強の植民地となってしまうという議論である。これに対し、馬場辰猪をはじめとする人々が反論を加え、論争が起きた。〔一般に植民地では英語(あるいはフランス語、オランダ語…)を母語とする支配層がいて、英語(フランス語、オランダ語…)ができる中間層がいて、自分たちの言葉しか話さない大衆がいるという三層構造が出来上がっているという現実を、森は知らなかったらしい。あるいは、アメリカの学者ベラーが指摘しているように、中国や韓国と違って日本では儒教が民衆レベルまで浸透しているのが近代化の要因であったということを無意識のうちに自覚していて、日本は民衆のレベルまで英語が浸透するだけの制度をもちうると考えていたのであろうか。〕

 幕末から明治にかけてできた英語塾の中にはその後、高等教育機関として発展していったものも少なくない。代表的なものの一つが福沢諭吉の慶應義塾である。もともと蘭学者であった福沢が、横浜見物に出かけ、そこでオランダ語が全く通じないことに愕然として、一念発起、英語を勉強するだけでなく、自分の蘭学塾を英学塾に代えて英語を教えるようになるまでになる。鳥飼さんはその福沢の英語がオランダなまりの抜けないもので、会話力はあまり発揮しなかったが、彼が「英語を読むこと、読んで理解して自分自身の血肉とすることに優れた才能」(84ページ)があったと評価する。〔鳥飼さんは大まかにしか触れて書いていないが、福沢の蘭学の師である緒方洪庵が、まず漢学を学んでから蘭学を始めることを推奨していたこと、福沢が蘭学を志す以前に白石照山という優れた漢学者に学んでいることが、彼の「読む力」を育てたと考えてよい。また福沢の英語学習には国民を啓もうするための新知識を吸収するという強力な動機付けがあったーー逆に言えば、日本にとって好ましくないと思われるものを排除するだけの判断も備わっていたことも無視できない。〕

 国を挙げての積極的な英語教育推進は1877(明治10)年ごろに転機を迎える。日本人が欧米の文明を一応学び取り、日本人の教師が育ち、日本語で授業ができるようになると、外国人教師も、外国語による授業も急減する。一方鹿鳴館の設置に象徴される極端な欧化主義政策に対して、国粋主義的な風潮も強くなった。(明治15)年に創立された東京専門学校(→早稲田大学)は政治経済や理学などの授業を国語で行うことが謳われ、翌年には東京大学でも英語による授業が廃止された。1885(明治18)年には内閣制度が成立し、この時に文部大臣になったのはかつて英語国語論を主張した森有礼であったが、彼はその時点では「外国語制限論」を主張するようになっていた。ただしこの時代になってもミッション・スクールでは外国人宣教師による教育が行われていた。〔相馬黒光がフェリス女学院に入学したのは1890年代のことであるが、まるで外国の学校で学んでいるように思われたと彼女の伝記に書かれていたのを思い出す。そういう学校もあったのである。〕

 明治時代の初めごろは、英語によるイマージョン教育が行われ、一定の効果を上げていたが、内村鑑三が若い時代に英語の作文は得意であったが、日本語の作文が苦手というようにその弊害も現れていたという。この傾向は特に年少児に英語漬けの生活を送った人物に顕著であり、津田梅子や神田乃武のように「英語が完全に母語化したため、修正日本人あてにも英語の手紙を書き続けた」(89ページに引用)例もあるという。
 1894(明治27)年には岡倉天心の弟で英語学者の岡倉由三郎により、当時一部に広がっていた小学校英語の弊害を指摘する意見が述べられている。そこでは日本語の習得が不十分なまま英語を学ぶことの弊害、英語教師の確保の問題など、現代にも通じる問題が指摘されている。この結果、1912(明治45)年に小学校における英語はいったん廃止されたという。

 明治20年代から30年代にかけて、英語教育は様変わりをする。英語なしでも(翻訳で)欧米の学問を勉強できるようになったので、日本における英語教育は教養的傾向を強めていく。その一方で、英語習得の難しさや、英語学習は時間の無駄であるという英語不要論も登場する。自身英語教師であった夏目漱石は、明治の初めのころの英語で高等教育が行われていた時代に比べて、明治40年代に入っての英語の力が(一般的には)落ちているのは、日本が独立国としての体裁を整えてきたからで、仕方のないことだという意見を述べている。今日、検討してみる価値のある発言である。

 鳥飼さんは、最後の漱石の発言を含めて、今日の英語教育を考える上での問題の多くがこの時代に指摘され、議論されていること、明治時代の英語教育の経験から学ぶべきことは多いと論じている。明治時代といっても時間的に長く、そこでの英語教育実践もきわめて多様なので、掘り起こすべき経験はまだまだあるかもしれない。

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トマス・モア『ユートピア』(27)

11月15日(木)晴れ

 大航海時代が始まっていた1515年、イングランドの法律家であるモアは、フランドル訪問中に友人になったピーター・ヒレス(実在の人物である)からラファエル・ヒュトロダエウス(架空の人物である)という不思議な人物を紹介される。ギリシアの哲人たちの思想を学び、世界中を旅してきたというラファエルは自分が歴訪した中でもっとも理想的な社会制度を組織していると信じているユートピアという新世界にある島国ついて詳しく語る。ユートピアには私有財産というものがなく、みんなが農業を中心とする労働に従事することになっているという。

 病人には手厚い介護がなされるが、回復の見込みがないと判断され、これ以上生きていても苦しむばかりだと思われるような患者に対しては、司祭と役人から安楽死が勧められる。勧告に同意して死を選ぶ者もいるが、そうでない場合には安楽死は強制されない。この安楽死の場合を除いて、自殺は認めがたいものと認識されている。〔カトリックの信仰では、自殺は罪とされ、例えばダンテの『神曲』では自殺者は地獄におかれている。ただし、ダンテがそれぞれの事情に応じての斟酌を加えていることも『神曲』解釈上重要な点である。〕

 女性は18歳から、男性はそれより4歳上の年齢から(ということは22歳から)結婚することを認められる。婚前交渉はきびしく罰せられ、その罪状が確定された男女は生涯結婚を禁止される。またそれぞれの家父長と家母長も監督不行き届きで大いなる不名誉を見に招くことになる。放縦な同棲生活を厳しく取り締まらなければ、忍耐と我慢の必要な結婚生活に耐えうるような男女にはならないだろうというのがその理由である。〔このあたり、モア自身の結婚生活を引き合いに出して考えることも必要だが、『ユートピア』が風刺文学であることを念頭に置くと、『結婚十二の喜び』のような中世の結婚に関わる文学作品との内容・思想の関連性を検討してみる必要があるだろう。〕

 「さて、配偶者を選ぶにあたって、彼らは、きわめてばかげた、おかしな〔われわれにはそう見えたのです〕習慣を、まじめかつ厳格に守っています。つまり処女であれ未亡人であれ、女性は、品位あり名望ある貴婦人の手で裸にさせられ相手に見せられますし、同様に求婚者も有徳の士の手で裸にされて女性の前に連れ出されるのです。」(191ページ) 澤田訳では介添え人は女性の側が「品位あり名望ある貴婦人」、男性側が「有徳の士」であるが、平井訳ではそれぞれ、「謹厳貞淑な徳望家の夫人」、「思慮深い有徳の長者」となっている。ユートピアは貴族社会ではないから「貴婦人」というのは不適切な訳語で、やや古めかしい訳語を使ってはいるが平井訳のほうが適切ではないかと思う。ちなみに、ラテン語本文では"grauis et honesta matrona"(尊敬すべきかつ名誉ある既婚女性:ラテン語のgravisは「重い」というのがもともとの意味であって、重々しく威厳が備わったくらいの意味だろうと思う), "probus aliquis”(善良なだれか)となっている。 平井訳のもとになっているロビンソンの英訳では、"a sad and an honest matron"(悲しげで正直な既婚女性:個々のsadは明らかに誤訳である), "a sage and discreet man"(懸命で思慮深い男性)と訳されている。ターナー訳では”a respactable married woman"(尊敬にあたいする既婚女性), "a suitable male chaperon"(適切な男性の付添人)と訳されている。ローガン&アダムズ訳では"a responsive and respectable matron"(責任あり尊敬すべき既婚女性), "some honourable man"(だれか尊敬すべき男性)となっている。社会的に信頼できる人物と認められていればいいということであるが、女性の場合は既婚者であることが条件づけられているのに対し(澤田訳ではその点が不明確)、男性の場合はそうでもないようである。

 外から来た人間の目で見ると、結婚しようとする男女が裸で対面するというこの風習はばかげたものに思われるが、ユートピア人たちはしごく真面目である。結婚がたましいと肉体との両方の結合である以上、その肉体については包み隠しのないところを知る必要があるというのである。男女が出会う場合には形式を整え、表面を飾るのが普通であり、裸で会うというところに、モアなりの風刺が現れているとみるべきであろう。相手の健康状態を知る必要があるのであれば、健康診断書を交換すれば済むことである。ただ、むかしの日本の徴兵検査では、健康かどうかを見分けるという理由で受検者が裸にされていたことも思い出しておく必要があるだろう。

 離婚が認められるのは姦通と堪えがたいほどの虐待があったときだけである。「夫婦のどちらかがそのような行為で傷つけられると、その当人は、配偶者を変える許可を長老会議からもらい、加害者のほうは一生を不名誉と独身状態のうちに暮らすことになります。」(192ページ) ユートピアでは夫婦愛の絆が何よりも尊重されているので、その原則に従って問題は処理されていく。だから姦淫の罪を犯した者は、最も重い奴隷刑を受けることになる。

 モアが安楽死とか離婚など、当時も現在も論争的であり続けるような問題について取り上げているのは、『ユートピア』が風刺文学であるという一面とともに、論争のために材料の提供という性格も持っているからである。そのなかで、モアが彼の生きた時代の家族・男女関係を見ながら、できるだけ弱い立場にある人間に寄り添った解決を目指して筆を進めていることも見落とすべきではないだろう。彼が、自分の仕えていた国王ヘンリーⅧ世の結婚問題について自分の信念を曲げなかったために失脚し、処刑されるに至ったのはその意味においても皮肉である。 

ダンテ・アリギエーリ(須賀敦子・藤谷道夫訳)『神曲 地獄篇(第1歌~第17歌)』(5‐2)

11月14日(水)曇りのち晴れ

 1300年4月4日、「暗い森」に迷いこんだダンテは聖母マリアの願いにより彼の魂を救うために派遣されたローマ黄金時代の大詩人ウェルギリウスの魂に案内されて、異界への旅へと出発する。
 「われを過ぎるものはみな、すべての希望を捨てよ。」(第3歌9行、45ページ)と記された地獄の門をくぐった彼は、生前に目立った善も悪もなさなかった人々の魂が地獄での劫罰を受けることもなく、空しく走り回っているのを見る。そして地獄に堕ちる魂たちが、悪魔であるカローンの操る船に急いで乗り込み、アケローンの川を渡っていくのを見るうちに気を失う。
 目を覚ましたダンテは、ウェルギリウスに導かれて地獄の第1圏であるリンボへと下る。そこにはキリスト教を信じなかったために、神の顔を見ることを拒まれた古代の有徳の異教徒たちの魂が置かれていた。
 リンボを見聞したダンテは、地獄の第2圏へとさらに下降する。そこには「醜悪なミーノース」がいて、たましいたちの行き先を決めている。第2圏では、生前に愛欲の罪に溺れた人々のたましいが暴風に吹かれてさまよっているのが見えた。無名の人々のたましいは椋鳥のように、それぞれを見分けることのできない群れをつくり、歴史に名を遺した人々のたましいは鶴のように一つ一つを見分けることのできる列を作って、風に飛ばされていた。

そこで私はたずねた。「師よ、
黒い風に罰せられているこの人たちはいったい誰でしょう」
(第5歌、50‐51行、95ページ)
 この問いに答えてウェルギリウスは、群れの先頭をゆくたましいは、古代アッシリアの伝説的な女王であるセミーラミスであると述べた。彼女は夫であるニノス王の死後、淫乱かつ残忍なふるまいを繰り返し、それを正当化するために「各自の好むところを為すは合法である」という法令を公布したといわれる。

 次に触れられるのはカルターゴーの女王ディードーであるが、その名は明示されていない。しかも彼女について触れているのは2行のみである。彼女はトロイアがギリシア人たちの攻撃を受けて滅亡した後に地中海をさまよっていた英雄アエネーアースを助け、彼と恋に落ちたが、新たな地に自分たちの国を築く夢を抱くアエネーアースが去っていったため、自殺する。実は彼女の愛と死とを詳しく叙事詩に記したのは、ダンテの案内者であるウェルギリウスであり、一見そっけないこの取り扱いは、ダンテのウェルギリウスへの敬意の表明と解釈すべきであろう。ディードーについて知りたければ、ウェルギリウスの『アエネーイス』を読めばいいのであって、ここでくだくだと言葉を浪費すべきではないということではないか。

 次に来るのは情欲のクレオパトラ。
(63行、96ページ) エジプトのプトレマイオス王朝の最後の女王、クレオパトラは、日本での知名度という点ではこれまで登場した2人の女性を凌いでいるが、わずか1行で片付けられている。念のため、原文を示しておくと
poi è Cleopatràs lussuriosa.
解説注によると、「ヨーロッパでは色仕掛けによってカエサルやアントニウスを誘惑した妖婦とされ、古代末期には《情欲(淫蕩)のクレオパトラ》という定型的表現で、言わば永遠の帝国を誘惑する蛇のような存在と見なされた。」(103ページ) アクティウムの海戦で敗れたアントーニウスが自殺した後、彼女も自殺した。この『地獄篇』を貫く価値観によれば、自殺の方が愛欲よりも罪が重いはずであるが、ダンテは、愛欲の方が彼女の生き方の本質であると考えて、クレオパトラ(とディードー)のたましいをこの第2圏においているのである。

 次に名を挙げられるのがトロイア戦争の原因となった美女ヘレネーである。ここまで名を挙げられたのはすべて女性であったが、ウェルギリウスは「偉大なアキレウス」(66行、96ページ)、「そしてパリスやトリスタン」(67行、同上)と男性の名をあげる。アキレウスとパリスはギリシア神話のトロイア戦争で活躍した人物、トリスタンは中世の恋愛文学の登場人物であるが、この時代、ギリシア神話はそれほど一般的に普及していたわけではなく、ダンテが念頭に置いていたのは中世の恋愛文学であったと解釈できる。アキレウスやパリスのようなギリシア神話の人物も、中世的に変容した姿でダンテに理解されていたのである。

 ・・・こうして千以上の
愛ゆえにこの世を去った人々のたましいを
私にさし示し、名を教えてくれた。
 わが博学の師が、古代の女性ら
騎士らの名を口にするのを聞き
私はあわれ心迷うのであった。
(67‐72行、96ページ) ここでダンテは、中世の騎士と貴婦人たちの間で展開された恋愛物語に思いを寄せているのである。

 そこで、こう言った。「詩人よ、私は
二人連れだって行くそこの二人に話しかけたいのです。
風のまにまに漂うかのようなあの二人に」
(73‐75行、96‐97ページ) ウェルギリウスは2つのたましいがもっと近づいてきたときに頼むといいといい、そうこうするうちに「風が二人を私らのほうに押しやってきたので」(79行、97ページ)思い切って呼びかける。
・・・「苦しみあえぐたましいたちよ、
もしかの方〔神〕が許したもうなら、ここに来て話してください」
(80‐81行、97ページ)
 
 (巣に残した雛鳥への)望みに駆られ、翼を広げて
なつかしい巣に一目散にもどってくる鳩のように
空気をつらぬいて
 二人はディードーのいる列を離れ
地獄の空気を抜けて私たちの許へとやって来た。
(わが)愛情のこもった懇願はかくも強かった。
(82‐87行、97ページ) ふたりのたましいがダンテ(とウェルギリウス)のところにやってきて、彼らが地獄の第2圏にいるようになった次第を語ることになる。『地獄篇』の中でもよく知られるフランチェスカとパオロの悲恋物語が次に展開されることになる。

階知彦『火曜新聞クラブ――泉杜毬見台の探偵――』

11月13日(火)曇り
 
 11月11日、階知彦『火曜新聞クラブ――泉杜毬見台の探偵――』(ハヤカワ文庫)を読み終える。

 語り手である植里礼菜(うえさとれいな)は泉杜(せんと)高校の1年生。小学校時代のある経験のために、嘘が苦手になり、それが高じてフィクションが嫌いになって、<事実を記した>本ばかりを読むようになる。さらに自分でも者が書きたいという欲求にとりつかれ、小学校では学級新聞、中学校では生徒会広報誌の編集に参画してきた「新聞少女」となった。しかし、彼女の住む地方の新聞部の活動で有名な町辺南高校の学校祭で配られた学校新聞のあまりのレベルの高さにショックを受け、地方随一の進学校である町辺南への進学をあきらめて、二番手の新聞部のない泉杜高校に志望を下げて、無事合格・入学した。

 ところが入学後、「好奇心と天真爛漫が制服を着て歩いている」(12ページ)ような同級生の幡東美鳥(ばんどうみどり)から新聞クラブの結成と新聞の編集・発行に誘われる。学校の規定では同好会として認められるには4人以上の会員が必要で、美鳥は3年に在学している自分の兄の麻人(あさと)を連れてくる。秀才で何かと頼りになる存在である。あと1人は2か月以内に見つけるという条件付きで、新聞クラブが発足する。そして2人で取材活動を開始、記事を集め、編集作業を進め、5月下旬には第1号の校正用の仮刷りが印刷屋から届くことになった。

 受付で仮刷りを受け取った2人は束の間の感激に浸った後、校正作業に取り掛かる。第1号のトップを飾る記事は全校生徒たちの最大の関心事の駐輪場の建設をめぐるものである。また、2面には泉杜市が運用してきた移動図書館の運行ルートを一部廃止したのだが、廃止された毬見台ルートを通るマイクロバスを蔵書ごと買い取って継続させた人物がいるという記事を載せた。記事を書いたのは美鳥であったが、実は礼菜は小さなころ、この団地に住んでいたことがあり、彼女を変えた事件もそこで起きたのであった。
 校正作業中の2人のところに、麻人と、この同好会の特別顧問である美術科の非常勤講師の栗崎サエリ先生が現れる。駐輪場の建設が中止になりそうなので、駐輪場を扱った記事を差し替えられないかというのである。建設工事に必要な費用のうち1000万円を寄付するといってきた人物(どうやら生徒の父兄らしい)が、寄付を取りやめたのだという。学校側にこの情報が届く以前に、どうもそのことを知っていたらしい人物が一人いる。それは数学の非常勤講師である有島先生である。なぜ、彼がその情報を得たのかを確かめたくても、その日、彼は無断欠勤している…。

 新聞同好会の3人とサエリ先生は殺人事件に巻き込まれるのだが、意外なことにサエリ先生は泉杜警察署長の娘であった。そのため、父親に電話して、中学・高校を通じて同じ学校に通っていた蔵堂槻也刑事を派遣してもらう。蔵堂刑事の話だと、事件のあった夕方に急いで下校している姿を目撃された在学生がいるという。それは毬見台団地に住む3年の女子生徒であった。
 毬見台を通る移動図書館の記事を書いたのは美鳥だったが、その際に銀色の髪と青い瞳の高校1年生だという不思議な男子から様々な情報提供を受けたという。その高1(少年と呼ぶには抵抗があるなあ)御簾真冬(みす・まふゆ)が毬見台団地についての生き字引であるだけでなく、じつは名探偵でもあることを知った礼菜と美鳥は、事件の捜索に彼の協力を依頼する。当然のことかもしれないが、蔵堂刑事はいい顔をしない。

 この作品の特徴は「探偵」役が多いことである。表題の『火曜新聞クラブ』の2+1人、礼菜、美鳥、麻人はそれぞれの好奇心と推理力で事件にかかわる。礼菜と美鳥はあちこち走りまわって手掛かりを探し、麻人は秀才らしく推理を働かせる。副題の『毬見台団地の探偵」である御簾真冬は礼菜と美鳥が提供する手がかりをもとにさらに鋭い推理を展開する。サエリ先生には警察官の娘として、また教師として積み重ねてきた経験と勘がある。そして蔵堂刑事は犯罪捜査のプロである。というわけで、この作品には「探偵」が複数登場する。
 それぞれの登場人物が必ずしも足並みをそろえているわけではない。真冬と蔵堂刑事がお互いに真冬は礼菜に、「嘘を簡単に受け入れてしまうような記者は、この事件の解決に邪魔なだけだ」(140ページ)などと言い放つ。しかし、真冬と礼菜とは実のところ、かなり深い因縁をもっているのである。さらに言うと、御簾君が「すべては本陣の自白から得られる」(192ページ)というのは、江戸時代の目明しのような発言で、自白よりも物証を求めてきたのが探偵小説の本通であったはずである。

 もう一つ、この文庫本は書下ろしだというが、著者の意図が織り込まれているのか、編集者がたくらみを込めたのか、巻頭の登場人物紹介と物語の展開とが必ずしも同調していないということに、読者は気づくはずである。登場人物とされているのに、ほとんど姿をあらわさない人物がいるし、逆に物語で大きな役割を果たしているのに、紹介には姿を見せていない人物もいる。
 それだけでなく、犯人の逮捕を以て物語が終了せず、まだしばらく物語が広がり続けるのも特徴であろう。謎が重なり合いながら、物語を展開していく。そこにこの作品の特徴と魅力を見ることができる。
 かなり個性的な登場人物の性格をしっかり描き分けて物語を組み立てていく所から推測するに、この作品はあるいは初めからシリーズ化を意図して書き下ろされているのかもしれない。学園物のミステリーは読者の日常的な意識に訴えやすい半面で、大事件が設定しにくいところがある。この物語の延長線上に、作者がどのようなストーリーを組み立てていくのか、あるいはこれ一作で打ち切りとなるのかも興味あるところである。

『太平記』(236)

11月12日(月)曇り

 南朝の勢力が衰え、武家は公家を軽んじたため、北朝の朝儀も廃れた。とくに佐々木導誉は、些細ないさかいから延暦寺の門跡寺院である妙法院を焼き討ちするという暴挙に及んだ。延暦寺の強訴によって、道誉は上総へ流されたが、その配流の道行きは、物見遊山にでも行くような言語道断なものだった。そのころ、朝廷の祈願所である法勝寺が炎上するという不吉な前兆があった。果たして康永3年(南朝興国5年、1344)8月、後醍醐帝が病気に倒れられ、16日、八宮義良親王への譲位などを遺言して崩御された。〔歴史的事実としては、後醍醐帝の崩御は暦応2年(南朝延元4年、1339)のことで、康永元年(南朝興国3年、1342)に起きた法勝寺炎上よりも前の出来事である。〕 南朝の公家の落胆は大きかったが、吉野執行宗信が、諸国に宮方が少なくないことを説いて公家を励ました。12月、吉野では八宮が即位された(後村上帝)。

 即位に先立って11月5日に、先帝に尊号を奉った。在位されていた時の政治姿勢として、多分に醍醐帝の聖代を先例とされていらしたので、おくり名としてそれが最もふさわしいということで後醍醐天皇と諡し奉った。
 新しく即位された帝はまだ御幼少であった上に、先帝が崩御された後は、3年間の服喪期間中は政務をすべて摂政に委ねられ、自らは政務をとられない習わしであるので、天下の政務はすべて源大納言北畠親房が統率することとなり、洞院実世と四条隆資が執奏として帝と親房の連絡係を務めることとなった。〔実際のところ、北畠親房は常陸の小田城にあって東国の経営に専念していた。康永2年(南朝興国4年、1343)に彼は南朝による東北経営が失敗に終わったことで吉野に戻り、森茂暁『太平記の群像』によれば、しばらくは表面に姿をあらわさなかったようである。〕

 同年、12月27日に諸国の南朝に心を寄せる武士たちの手始めとして、新田義貞の弟である脇屋義助に綸旨を下されて、後醍醐帝の御遺勅が格別のものであったので、義貞の場合と同様に、南朝方の武士たちの恩賞その他のことについては、まず義助が差配してのちに帝に奏上するようにとの思召しが伝えられた。そのほか九州にあった征西将軍の懐良(かねよし)親王、遠江の国の井伊谷にあった妙法院(宗良親王)、兄である顕家の死後その仕事を継いで奥州の国司となった北畠顯信にも先帝の御遺勅にたがわず、引き続き忠義の戦いを進めるようにとの宣旨が伝えられた。

 越前にあった脇屋義助は、兄である新田義貞の戦死後、勢いが衰えていたとはいえ、各地の城郭にそれなりの数の将兵を配置しており、まだ勢力を保っていたので、「いつまでもこうしてはいられない。それぞれの城に分遣されている軍勢集めて、黒丸城(福井県福井市黒丸町)に立てこもっている斯波高経を攻めよう」と集まって軍議を開いていたところに、先帝崩御の報せが届き、茫然として、暗闇で松明を取り落としたような気分になった。そうはいっても、御遺勅に、諸国の他の武士に先んじて新田一族を頼りにするといわれていることのかたじけなさに奮い立ち、忠義の心をいよいよ心肝に刻み、何とかして斯波との戦いに勝利を得て、吉野の官軍の士気を高めたいと先帝の服喪期間の四十九日が過ぎるのを待ち受けたのであった。

 この2,3年というもの越前では、敵味方の城が30余か所あちこちに入り乱れて存在し、合戦の止むことがなかった。なかでも湊城(福井県坂井市三国町の三國湊にあった)は加賀、能登、越中、越前の4カ国の足利方の武士たちが攻めあぐねて引き上げたことがある城で、義助の家臣で剛勇で知られる畑六郎左衛門時能(ときよし)がわずか23人で立てこもっていた二町(200余メートル)仕法足らずの平地の城であった。「新しい帝が即位あそばされたはじめであり、天運が味方するときであるはずだ。みな早く城を出て各地で集合し、当国の敵を平らげて、他国へと打って出よう」と、大将である義助の方から連絡がされたので、7月3日、畑時能は、300余騎で湊城を出て、金津(あわら市北金津、南金津)、長崎(坂井市丸岡町長崎)、河合(福井市川合鷲塚町、足羽七城の一つ)、川口(あわら市指中)にあった12か所の城を陥落させ、首を切ること800余人、女性や3歳の嬰児まで残さずみな刺殺した。〔岩波文庫版の脚注にあるように、後醍醐帝の崩御が8月であるのに、越前では義助方の兵が7月に行動を起こしているのは矛盾している。吉野からの報せで発奮したというよりも、独自行動と考えるほうが無理がない。〕

 同じ月の5日に、新田の家臣で上野の武士由良光氏(群馬県太田市由良町に住んだ武士)が500余騎を率いて西方寺城(坂井市春江町木部西方寺)から出て、和田(福井市和田中町)、江守(福井市南江守町、足羽七城の一つ)、波羅蜜(福井市原目町、足羽七城の一つ)、深町(あわら市後山)、安居(あご、福井市金屋町、足羽七城の一つで、日野川と足羽川との合流点をのぞむ)の庄のうちに、足利方が築いていた6か所の城を2日間の間に攻め落とし、それぞれ入れ替わりに味方の兵を配置して守らせた。

 後村上帝の即位後の吉野の動きと関係があるかどうかはさておき、越前の宮方の武士たちが、脇屋義助を中心に再起をはかって動き出した。さらに呼応する動きも出そうな勢いである。これに対し斯波高経が、あるいは京都の尊氏・直義兄弟がどのように対応するかも注目されるが、それはまた次回以降に。

日記抄(11月5日~11日)

11月11日(日)
 11月5日から本日までの間に経験したこと、考えたことなど。
 全国高校サッカー選手権の神奈川県大会の決勝を見に行く予定なので、書けることを早めに書いておく。

11月5日
 『朝日』朝刊の「折々のことば」は「いかにしてわれわれが自分を幸福にすべきかではなく、いかにしてわれわれが幸福に値いするものとなるべきかという教え」というカントの『実践理性批判』のなかの言葉を取り上げている。
 このコラムを担当している鷲田清一さんは、樫山欽四郎の翻訳を採用しているが、私の元同僚の1人が樫山の指導を受けたことがあり、臨終の床に就いていた樫山が「カントが…ヘーゲルが…」とうわごとを言っていた、自分たちはその域に到達できそうもないという話をしていたのを覚えている。樫山自身がカントの言う幸福に値いすべく努力を重ねていたということでもあろう。

 哲学といえば、この日の『NHK高校講座 現代社会』は「哲学と人間」という題目の話であったが、まことに浅薄な内容で、ソクラテスは当時の権力者たちによって裁判にかけられ、死刑となったなどと述べていたので、半ば以上呆れて聞いていた。2日の『倫理』で講師がソクラテスについて話した内容の方が、まだましであった。しかし、講師によって話の内容が違う…ということが聴講者が自分の頭で考えるきっかけになるかもしれない…と思ったりもしている。
 高校から大学の前半の段階の授業では、むかしの哲学者がどのようなことをいったかを教えるよりも、自分の頭をどのように使って自分が直面する問題を解決していくか…というようなことに取り組んでいくべきであろう。むかしの哲学者がどんなことをいったかは、興味のある生徒・学生が自分で(先生の指導を受けることも必要かもしれないが)本を読んだり、文章を書いたりして取り組めばいいのである。

11月6日
 『朝日』『日経』の両紙が、東京国際映画祭について総括する記事を載せていて、映画祭としての性格があいまいで、後発の釜山映画祭に比べて人気・知名度などの点で引けを取っていること、コンペの出品作の質において日本映画が見劣りがすることなど、同方向の指摘をしていたのが気になるところである。

 昨日、今日と『NHK高校講座 現代文』では「マジ?』という「若者言葉」について考察した文章を読んでいるのだが、この問題と関連して、荻生徂徠の「なるべし」と、伊勢貞丈の「あるまじ」という江戸時代の学者の書いた2編の書物が紹介されていたのが興味深かった。現代文を読み解くにも、古典の素養が必要だということであろうか。

 同じく『NHK高校講座 英語表現Ⅰ』の”You know what"のコーナーでアメリカの高校の部活の話が出てきた。アメリカではシーズンごとに違う部活を選べること、スポーツの場合レギュラーと準レギュラーのそれぞれのチームが、それぞれ対校試合を行うことなどが日本と違うという話だった。ブラジル出身のセルジオ越後さんが『補欠廃止論』(ポプラ新書)という本を書いているが、試合に出られない部員がスタンドから応援するというのではなくて、彼らも何らかの形(たとえば2種のリーグ戦を拡大する)で試合に出られるようにした方がいいという議論には賛成する人が少なくないのではないかと思う。もっともそうなると、日程の組み方が難しくなるし、指導者の負担が大きくなるという問題もあるが…。

11月7日
 『日経』の文化欄に植月佐広さんという人が「角土俵 ノコッタノコッタ」という文章を書いている。岡山県の勝央町の植月地区に室町時代後期に造られた四角い形の土俵が残っており、日吉神社の秋祭りの余興として奉納相撲が行われているという。
 四角い土俵というと、南部の角土俵というのが有名で、私が子どものころに、8代目の春日野親方(大正時代の強豪横綱栃木山守也。春日野は9代目が栃錦、10代目が栃の海と元横綱の親方が継承したが、現在の栃の和歌は関脇どまりであった)が相撲雑誌で、南部の角土俵で相撲を取ったという話をしているのを読んだことがあり、そのころまでは残っていたようであるが、現在は廃れているらしい。

 NHKラジオ『実践ビジネス英語』の”Quote...Unquote"のコーナーで取り上げられた言葉:
And what is a weed? A plant whose virtues have not been discoverd. (from Fortune of the Republic)
      ―― Ralph Waldo Emerson
(U.S. philosopher, poet and essayist, 1803- 82)
(それでは雑草とは何か。そのよさをまだ発見してもらっていない植物のことである。)

11月8日
 『朝日』の朝刊の「記者有論」という欄に真鍋弘樹記者が「在住外国人250万人 やさしい日本語 社会のため」という文章を書いている。相手が外国人であろうと、日本人であろうと「やさしい日本語」を使う方がいいのは当然である。しかし、真鍋さんが言うように「主語を略さず、難しい文法は使わない」ように心がけることが、「やさしい日本語」につながるかどうかについては疑問がある。そもそも、日本語文法には「主語」というものがないのではないかという人が少なくないのである。たしかに、私が学校で習った文部省文法には主語=述語の関係というのがあったが、『日本語が亡びるとき』で水村美苗さんは日本語には主語がないということを繰り返し主張している。

11月9日
 『日経』の文化欄では新しく『大航海時代の絵画 十選」という連載が始まった。第1回目に取り上げられたのは茨木市の千提寺(せんだいじ)に伝えられた聖フランシスコ・ザビエルの画像である。千提寺のある地域はキリシタン大名だった高山右近の領地であったために、住民たちの間でキリシタンの遺物が保存されていたとのことである。現在はキリシタン遺物史料館が建てられているらしい。

 『実践ビジネス英語』の”Quote...Unquote"のコーナーで紹介された言葉:
The best preparation for good work tomorrow is to do good work today.
      ―― Elbert Hubbard (U.S.author, 1856-1915)
(明日もいい仕事をするための最良の準備は、今日いい仕事をすることだ。)

 『NHK高校講座 倫理』では「プラトン 永遠なるもの」という主題を取り上げた。主としてイデア論と哲人政治についての説明。ソクラテスとプラトンがデモクラシー(民主政治)の批判者であったということをもう少し詳しく説明してもよかったのではないか。彼らの批判に真剣に向き合ってこそ、デモクラシーはより輝かしいものになるはずである。

11月10日
 『日経』の土曜日の版に本郷和人さんが連載している「日本史ひと模様」では、このところ幕末明治期の人物を取り上げていたのが、今回は加賀百万石の礎を築いた前田利家について論じている。利家は織田信長と出会わなかったら、頭角を現すことがなかった、運のいい人物だという評価に対して、佐々成政のように信長に取り立てられて大名になったが、その後没落した人物と比べて、利家は自分がつかんだ運をさらに引き寄せていったところに見るべき点があると論じている。そういえば、松本清張が利家と成政を対比的に描いた小説を書いていたのを読んだことがある。

 同じく『日経』に「第4回東アジア文学フォーラム」で日中韓の作家たちが討議した内容が紹介されていた。その中で魯迅に対する評価に違いが見えたという郷原信之さんによる記事があったが、違いは郷原さんが書いているように国情の違いによる部分もあるだろうが、それ以上に魯迅の作品をどの程度読み込んでいるかということも関係しているのではないか。中国からの参加者である甫躍輝さんが述べているように魯迅は「読解が難しい」ということを、日本側の参加者がどれだけ理解していたかということも問題ではないか。

 ニッパツ三ツ沢球技場でJ2第41節の横浜FC対ファジアーノ岡山の対戦を観戦する。開始早々の前半3分に相手ゴール前に迫った横浜のレアンドロドミンゲス選手が絶妙のシュートを決めて1点を先行。その後も追加点の好機はあったが、そのまま1‐0で前半は終わる。後半49分にまたもレアンドロドミンゲス選手がゴールを決めて点差を広げた。その後、岡山の猛反撃にあってあわや引き分けという場面もあったが、GK南選手の好セーヴもあり、2‐1で勝利し、勝ち点3をあげて暫定3位へと順位を上げた。

11月11日
 スイスに本部のある国際語学教育機関「EFエデュケーション・ファースト」が実施した英語力測定テストによると、日本の英語力は英語を母語としない88カ国中49位で、5段階の下から2番目の「低い」という水準であり、「日本と他国との差は相対的に開きつつある」との指摘を受けているという。(『朝日』の藤原学思記者による記事) 任意の試験であり、試験の性格も受験者の中身もわからないから、確定的なことは言えないが、会話中心に重点を移しているはずの日本の英語教育改革がこれまでのところ、奏功していないという議論に勢いを与える結果であろう。

 予告通り、ニッパツ三ツ沢球技場で平成30年度(第97回)全国高校サッカー選手権の神奈川県予選の決勝を観戦した。三浦学苑と桐光学園の対戦である。既に10回全国大会に出場している桐光と、2度目の決勝進出(全国大会出場なし)の三浦であるが、高校総体の神奈川県予選では三浦が1‐0で勝って第一代表、桐光が第二代表ということであった。とにかく第一シード、第二シードとして二次予選の3回戦から出場した学校同士の対戦で、好試合となることを期待していたのだが、開始早々に桐光で2年生ながら背番号10をつけているFW西川選手がシュートを決めて先制、その後も桐光が得点を重ね、3‐0とかなり一方的な試合展開で三浦を下したのは、ちょっと期待外れだった。桐光がチームとして試合を進めていたのに対し、三浦はどうもバラバラな感じで、そのあたりに点差が開いた原因があるように思った。それにしても、会場が満員になるというわけでもないのに、入場者が長い列を作って並ぶということが毎年繰り返されているのは、どういうことか。主催者の工夫努力を促したい点である。

あの頃

11月10日(土)晴れのち曇りのち雨

あの頃

私鉄の駅と
国鉄の駅とを
(まだあの頃は国鉄だった)
つなぐ
狭い通路の
そのまた先の
階段を
毎朝
昇っていた
会社勤めを
始めたばかりだった
昇ってゆく流れと
下ってゆく流れ
人の流れは
あわただしく
活気に満ちていた

向こう側を
急いで歩いている
人たちの中に
ときどき
見覚えのある顔を見かけた
大学時代に
一緒にデモ行進をしたり
アルバイトで
一緒に荷物を運んだりした
そんな見覚えのある顔を
見かけた

みんな急ぎ足だった
私も急ぎ足だった
一緒に過ごした時と
経験とが
思い出したくない過去であったかのように
お互いに見知らぬ同士のような
顔をして通り過ぎた

そんな時代もあっという間に
過ぎてしまった
何年
十何年
何十年という
年月が過ぎた
急ぎ足で歩いていたころのことは
むかし話で
今は痛む足を引きずり
ゆっくりと歩く
過去
そのまた過去
そのそのまた過去のことを
様々に思い出しながら

鳥飼玖美子『子どもの英語にどう向き合うか』(4)

11月9日(金)曇り後雨

 小学校の学習指導要領の改訂により、2020年から小学校でも英語の授業が教科としての扱いを受けるようになる。それどころか、幼児教育の段階でも英語学習を導入するところが現れている。そのような新しい動向に対し、期待を抱く一方で、不安を感じる保護者は少なくない。この本は、そのような保護者の方々に対してこの新しい動向にどう向かい合っていくべきかを語りかけようとしている。

 「第2章 英語教育史から探る」は、江戸時代から現代にいたる日本人の英語と英語教育への取り組みをたどり、英語教育が伝統的に抱えてきた問題点とそれに対するこれまでの対策を概観している。第1章が外国語学習における母語での思考力の果たす役割の重要性、そのためには「読む力」の支えが不可欠であること、学習における動機づけの大切さなどを論じていたのとガラッと様子が変わった感じであるが、外国語学習に限らず教育が経験に基づく活動である以上、これまでの英語をめぐる膨大な学習経験を無視していいということはないのである。今回は江戸時代における英語圏諸国の人々との出会いと英語学習の歴史を扱った部分を見ていくことにする。

 英国船がオランダ国旗を掲げて長崎に入港して奉行所と長崎の町を威嚇した、1808(文化5)年のフェートン号事件に危機感を覚えた江戸幕府は長崎のオランダ通詞に英語とロシア語の習得を命じる。これが日本における英語学習の始まりと言われる。
 翌1809(文化6)年に長崎のオランダ商館にアイルランドの英国軍に4年間勤務したことがあるというブロムホフというオランダ人が赴任してきたので、彼を英語教育係として通詞たちの英語学習が始まった。はじめは大人数での授業を行っていたので、学習効率が悪く、のちには生徒を6人に絞っての教育に切り替えられた。1811(文化8)年には学習者たちの中で最年長であった大通詞本木庄左衛門正栄によって『諳厄利亜興学小筌(あんげりあこうがくしょうせん)』全10巻がまとめられて奉行所に献納された。日本で作成された最初の英語の手引書である。ここで示されている英単語の発音にはオランダ語の影響が強くみられるが、英語の本を読んだり訳したりするには差支えのない内容であった。わずかの年月でこれほどの事業が達成されたのはおどろくべきことである。

 1848(嘉永元)年にはラナルド・マクドナルドという米国人が非公式に来日している。スコットランド人の父とネイティブ・アメリカンの母の間に生まれた彼は日本を父祖の国だと考えて、入国を試み、北海道に漂着し、長崎に送られた。この時取り調べの通訳をしたのが、オランダ通詞の森山栄之助であった。彼は既に1845(弘化2)年にアメリカの捕鯨船マンハッタン号が浦賀に入港してきたときに、通訳を務めた経験があった。マンハッタン号の船長は、森山がはなはだジェスチャーに巧みであったと記している。森山はこのマクドナルドから英語を学ぶことを思いつき、仲間の通詞たちとともに、学習を開始した。この時の目付け役となったのが、本木庄左衛門正栄の息子の本木庄左衛門久美であったという。〔日本における活版印刷の開祖とされる本木昌造は久美の養子である〕.マクドナルドは在日わずか10か月でアメリカに送還されるが、その間に通詞たちが学び取った成果が発揮される場面がやってくる。

 1853(嘉永6)年、ペリー提督の率いるアメリカ東インド艦隊が浦賀に来航、外交交渉に向かった日本の船はペリーの乗った旗艦サスケハナ号をしっかり見分けただけでなく、通詞の堀達之助がI can speak Dutch.といったのをアメリカ側は聞き取り、記録に残している。もっとも、堀が発した英語はこれだけで、あとの外交交渉ではオランダ語を使った(ただし非公式の場では英語を使うこともあったようである)。ペリーの一行はこの訪日では開港を要求しただけであったが、翌年の来日の際にはいよいよ条約の締結を迫る。この緊迫した場面では堀以外にも何人かの通詞が起用され、その中には森山栄之助も含まれていた。ペリーの通訳者であるサミュエル・ウィリアムズの『ペリー日本遠征随行記』では「ほかの通訳がいらなくなるほど英語が達者で、おかげでわれわれの交渉は大助かりだ。」(69ページに引用)とその能力を高く評価されている。
 森山が首席通訳を、堀達之助が補佐を務めた外交交渉の結果、1854年3月に日米和親条約が締結される。「その英語力でアメリカ人を驚かせた森山も、正式な交渉に際してはオランダ語で綿密なやりとりを行いました。より自信のある言語を使うことの重要性を言語の専門家として熟知していたのでしょう。」(70ページ) その後の諸外国との交渉においても通詞の果たした役割は大きい。「外交の場において通訳者の役割が重要であるのは現代でも同じです。プロの通訳者を介さなければ、国益を著しく損なうことすらありえるのです。」(71ページ)

 ほぼ同時期に、別の形で英語を学び、身に着けた日本人がいる。漁師として乗り込んでいた漁船が難破して、アメリカ船に救助され、その船長に見込まれてアメリカで7年を過ごし、1851(嘉永4)年に帰国したジョン万次郎こと中浜万次郎である。彼は帰国後、土佐藩や幕府に出仕するなどした後、明治政府に招かれて開成学校で英語を教える。しかし、彼の手紙を見ると、高度な内容を伝えることはできていないように思われる。「英語を話したり聞いたりする環境に身を置くだけでは、外交や学問など公式の場で使えるようにならず、読み書きを意識的に学ぶ必要があるのです」(72ページ)と鳥飼さんは論じている。

 長崎の通詞たちがアメリカ人たちをうならせるほどの英語を話すことができたのは、日ごろ「読み書き」の勉強を営々と積み重ねてきたからではないかと鳥飼さんは言う。このような勉強はオランダ語の勉強方法を継承したものであったから特に目新しいものではない(福沢諭吉の『福翁自伝』などを読むとわかるが、蘭学塾の勉強方法は漢学塾とそれほど変わるものではなかったということも知っておく必要がある。福沢の師である緒方洪庵は、蘭学を学ぶ前に必ず漢学を学べと言っていたそうである)。

 現代の日本では、相変わらず「日本人が英語を話せないのは、英語教育が読み書き・文法に偏っているからだ」(74ページ)という批判が渦巻いている。実際のところは、1989年の学習指導要領改訂から、学校英語教育は「会話」中心へと方向転換しており、「オーラル・コミュニケーション」に大きく時間を割いている。現在の英語教育は「読む」「書く」よりも「話す」「聞く」の方に比重を置いているのである。ところが、この現状を認識せずに、学校現場では「文法訳読」の授業が続いているという思い込みが強く、オーラル・コミュニケーション偏重の傾向がますます強まっているという。

 このあたり、私としては、実際に中学や高校の英語の授業がどのようなものか知らないので、何とも言えないし、実際の授業も学校や先生の個性によって千差万別ではあるだろう。ただ、会話の学校や教室に出かけるとわかることだが、会話の前提として、かなり作文に習熟することが必要である。そこのところをあまり問題にせずに、ただ日常のあいさつだけを練習していても実用性は低い。そもそもどういう場合に英語で会話する必要が生じるかということを考えずに、ただ、英語、英語といっても仕方がないのである。会話が必要になる場面というと、主として観光とビジネスであって、それぞれに会話の内容についての工夫を迫られる(ビジネスの方が工夫の必要性は大きい)ことも忘れてはならない。
 ラジオの英語番組を聞いている限り、確かに著者の言うような傾向は否定できないが、『ラジオ英会話』、『遠山顕の英会話楽習』などの番組を聞いていれば、文法もなおざりにせずに番組が構成されていることに気づくはずで、教育の現場では、コミュニケーション偏重に対する自覚的な反省も生まれているようにも思われる。また、『NHK高校講座』の『コミュニケーション英語Ⅱ』、『コミュニケーション英語Ⅲ』を聴いていると、英語のコミュニケーション教育の実態や問題点がある程度把握できると思うので、英語教育の政策に関わっている人もせめてこのあたりの番組くらいには耳を傾けていただきたいという気がするのである。

 「江戸時代の英語教育史を振り返ると、外国語、とくに英語のように日本語と言語体系がまったく異なる習得するためには、読み書きが不可欠であることを、あらためて思い知らされます。」(75ページ)と著者はこの項を結んでいる。それはそうだが、漢学や蘭学など、異言語に取り組む学問の蓄積があったことが、日本人の英語学習をかなり迅速に進めることに貢献したことも否定できないのではないか。次回は明治時代における英語教育の問題を取り上げるが、現代の英語教育の直面する問題のほとんどがこの時代に出尽くしているのではないかという思いにとらわれるような内容となる…ということを予告しておく。

 m.k.masaさんのブログ「幼児教育あれこれ」で、当ブログによる鳥飼さんのこの本の紹介のことに触れていただいた。m.k.masaさんもこの本を読まれて、英語学習に限らず「動機づけ」の重要性を感じられたようである。英語のことはさておいても、ご自分の幼稚園での教育実践にこの読書の経験が何らかの形で生かされていくことを期待したい。

井伏鱒二『七つの街道』

11月8日(木)晴れのち曇り

 11月6日、井伏鱒二『七つの街道』(中公文庫)を読み終える。1956年6月号から1957年4月号までの『別冊文藝春秋』(隔月刊)に掲載された「篠山街道」、「久慈街道」、「甲斐わかひこ路」、「備前街道」、「天城山麓を巡る道」、「近江路」の6編に、それらより早く同誌の1952年12月号に掲載された「『奥の細道』の杖の跡」を加えた7編で構成されている紀行文集である。執筆時の井伏は50代で、「新潮文庫版あとがき」の中で、「自分としては旅に出たかったから・・・旅行記を書くために旅に出たのでなくて、旅に出たいために旅行記を書くことにしたのであった」(252ページ)とこの本のなりたちを語っている。旅が好き、釣りが好き、骨董が好き、文学が好き…の井伏がそれらの楽しみを盛り込んだ紀行文を集めたものであり、その中にあまり好きでないものがある読者にとっても面白く読ませるだけの腕が存分に発揮されている。ここでは最初の2編:「篠山街道」と「久慈街道」を取り上げる。

 「篠山街道」は「その昔、一の谷へ駆けつけた源九郎義経の足どりの跡を巡る旅」(10ページ)である。古い軍記物語に京を出発した義経は「二日路を一日に打たせ」て丹波路を進み、一の谷に迫ったと記されていることをめぐり、井伏はこれは急行軍を形容した表現だと書いたことがあるが、その際に読者から義経の行軍を実際に書きとめたものだと反論の手紙をもらったという。どちらが正しいのかを自分で篠山街道を歩いてみて、地元の人の意見を聞き確かめようという。丹波路の中でも篠山街道は武将たちが大急ぎで通って行った道だから、篠山街道を選ぶというのがこの道を選ぶ理由である。ところが途中で、篠山街道をそれて園部まで行き、釣りをしたり、園部城址を訪問したりして一泊する。福知山街道を北に進んで「和泉式部の墓」を見て、古墳、キリシタン大名内藤ジョアンの八木城址、亀岡の出雲神社(『徒然草』に登場する、丹波一宮である。宮司とは大学時代の友人だったというが、会わずじまいになってしまう)を訪れ、亀岡城址は素通りして、保津川を舟で下る、西国二十一番の穴太寺に立ち寄る。ここの住職が子どものころ出口王仁三郎と一緒に勉強したと思い出を語る。住職が本尊を拝観するように勧めるのを断って、寺を辞してから弁当を食べる。食べたあとは思い出したように篠山街道を西へ急ぐ。

 思い出したように義経の行軍をめぐる記録と推測を交えた記述が展開される。この時、義経に見いだされたという鷲尾三郎経春について、彼が修験者であったろうという推測など、興味深いものである。急いだといいながら、丹波立杭焼の窯元の窯場によって陶芸談義にふける。地元の人の話を聞いたところでは、幕末のころ立杭村から京都まで徳利を運ぶのに2日かかったが、そのことから考えると騎馬であれば、1日でやってくるのは不可能ではない。だから、井伏と読者の論争は読者の方の勝ちということになるはずであるが、そのことには触れずに、義経の軍は夕日を浴びながら行軍したという自分の推測が正しかったということだけを述べているのも井伏らしいといえそうである。

 篠山で泊まった旅館の近くに猪料理を出す店があるのを話題にしたところ、その料理店から猪の牙をもらう。「私の貰ったのは三十貫の猪の牙で、先はにすんぐらいだが根は長さがその三倍近くもある。牙は歯ぐきに深く頑丈に根をおろしていたようだ。こんなに歯の根が深くては、猪でも病気になることがあるから、歯槽膿漏の時大変だろうと気になった。」(33ページ)というのも井伏らしい気のまわし方である(それをいうのであれば、人間に鉄砲で撃たれて、料理されて、食べられることの方がよほど気の毒である。)
 その後、デカンショ節をめぐる考察、篠山城についての議論が展開される。井伏が城づくりについていろいろと勉強していたことが、のちの『武州鉢形城』などにつながっていくのだなと興味深く読み進んだ。

 「青森県に帰省中の三浦哲郎君から、都合がついたら久慈街道を見物に来ないかと云って来た。」(40ページ)と「久慈街道」は書き出されている。1961年に「忍ぶ川」で芥川賞を受賞する三浦哲郎はこの時期まだ、井伏のもとに出入りしている文学青年であった(三浦はもともと、同じ青森県――といっても津軽の出身である太宰治に師事していたのだが、太宰の死後、いわば大師匠である井伏のもとに出入りするようになったということらしい。早稲田大学の仏文に学んだという点でも三浦は井伏の後輩である)。この紀行文が版を重ねているうちに、三浦はしだいに文学者として独り立ちしていく。この文庫本の巻末に三浦自身の「久慈街道同行記」というエッセーが掲載されていて、影で「推敲魔」と言われていたという井伏がこの書き出しをどのように書き換えていったかをはじめとして、「久慈街道」取材の舞台裏が語られているのも興味深い。

 実際は、旅行先を探していた井伏の方から、三浦にどこかおまえの郷里にめぼしいところはないかと問い合わせてこの紀行が成立したのだが、そんなことはおくびにも出さない。冒頭の文に続いて「久慈街道は青森県の八戸から岩手県の久慈に至る往還で、江戸時代の名物である百姓一揆がたびたび八戸の城下に向って進んだ道路だそうだ。」(同上)と三浦から聞いたであろうこの街道の特徴について簡潔に語る。

 八戸では石田家という旅館に泊まる。三浦が書いているが、ここの主人というのは慶応の仏文に学んだという知識人である。そこで中里さんという郷土史家を紹介され、彼が持ってきた資料の中から幕末(天保年間)に八戸藩で起きた百姓一揆の始終を記した『野沢ほたる』と、その少し前に東北を旅行した『高山彦九郎日記』その他を借りる。『高山彦九郎日記』は寛政2年(1790)の旅行の記録であるが、その以前の天明の飢饉のあとの東北の農村の荒廃した様子が記されている。天明の飢饉の後でも東北地方では凶作が続き、人々の暮らしは困窮するが、文政年間に八戸藩が野村軍記という人物を登用して強行した仕法改革はそれに追い打ちをかけるもので、ついに天保5年に一揆が勃発する。一揆はまず久慈の代官所を包囲し、外出先から慌てて駆け戻った代官の説得に応じずにさらに北上、別の代官が差し向けた一隊も蹴散らして八戸城下にたどりつき、城を包囲する。大手門の目付け役が対応して、一揆の要求の大部分を受け入れ、ようやく沈静化に成功する。野村軍記は解任されて謹慎を命じられ、それが解けたという知らせが届いた時には自殺していたという。野村について、『野沢ほたる』には<奥州一の馬鹿侍>としてその苛斂誅求ぶりを批判している一方で、『八戸見聞録』という別の本にはその人物を絶賛する記述があるという。井伏は「人の伝記や藩の歴史は信用できない場合が多い。」(60ページ)と言い切っている。一揆の要求項目を三浦に頼んで、久慈一帯の方言に直してもらっていることから見ると、井伏は一揆の方により多く同情しているように思われるが、野村軍記や八戸藩の武士たちを憎んでいるわけでもないようである。

 丹波篠山街道は、司馬遼太郎も訪れて、その『街道をゆく 4』に旅の様子が記されている。また「久慈街道」についても『街道をゆく 3」で取り上げている。おそらく、司馬は井伏のこの紀行を読んで参考にしているはずであるが、そんなことは少しも匂わせていない。18世紀の終わりごろに凶作が続いたのは、浅間山の大噴火のせいだという話を聞いたことがある。人によっては、フランス革命の原因の一つとなった凶作も、この大噴火のせいだと主張するくらいである。ここでは司馬遼太郎の例を挙げたが、他にも篠山街道や久慈街道を歩いて紀行文を残した人は多いはずで、そうした紀行をできるだけ読み比べたうえで、自分でも実地を踏査してみるのもいいだろう。読まずに旅行してもいいとは思うが、そうすると見逃しが多くなるはずである。

 東北地方には三浦という姓の一族が少なくなく、それは頼朝の挙兵に従って鎌倉幕府の草創に貢献したが、北条一族のために追われた相模の名門三浦氏の後裔であるといわれる。三浦哲郎の来歴もそのあたりにあって、周辺に追いやられた人々に興味を持ち続けた作家である井伏が三浦に目をかけていたのもそのためかもしれないとも思う。野村軍記が江戸の四ヶ峯という力士を八戸藩のお抱え力士にしたという話を井伏は書きとめているが、この件をめぐっては別の機会に詳しく書くかもしれない。
 

トマス・モア『ユートピア』(26)

11月7日(水)曇りのち晴れ

 101年前の本日はロシアのペトログラード(→レニングラード⇒サンクトペテルブルク)で労働者や兵士たちによるケレンスキー政権を倒そうとする武装蜂起が始まった日であり、旧ソ連時代には革命記念日とされていた。当時ロシアではまだユリウス暦が使われており、この日が10月25日であったため「十月革命」という呼び方がなされる。11月7日というのはグレゴリオ暦による日付である。こうして誕生し、輝かしい未来を約束するはずであった社会主義のソ連邦はしかし、抱かれた夢とは似ても似つかない硬直した国家体制をもたらし、1991年に崩壊してしまう。
 さて、社会主義の入門書として長く読まれてきた『空想から科学へ』のもともとの表題が『ユートピアから科学への社会主義の発展』であることをご存知の方も多いはずだが、奇妙なことに『空想から科学へ』の中にはトマス・モアの『ユートピア』への言及はないのである。このことはすでに指摘したが、マルクスの『資本論』の第一部には、『ユートピア』の「羊は非常におとなしく、また非常に小食だということになっていますが、今や[聞くところによると]大食で乱暴になり始め、人間さえも食らい、畑、住居、町を荒廃、破壊するほどです」(74ページ)という、第一次囲い込み運動をやや遠回しに非難した箇所が引用されているので、マルクスとエンゲルスがモアの『ユートピア』を読まなかったことは考えられない。あるいは、今回紹介する、ユートピアにおける奴隷制度をえがいt部分が彼らにとって到底容認できる内容ではなかったので、故意に無視したとも考えられる。マルクスとエンゲルスとにとって、奴隷制度どころか、階級のない社会の実現こそが夢であった。また、アメリカの黒人奴隷の解放は、マルクスとエンゲルスの同時代の問題であったのである。

 ユートピアにおける奴隷の存在と、奴隷制度について、ラファエルは次のように語る:
「彼らが奴隷として保有している人たちは――自ら起こした戦争で捕えられた(自業自得の)捕虜は別ですが――戦争捕虜でもなく、奴隷の子孫でもなく、いわんや、他の民族から奴隷として手に入れることのできる人たちでもありません。それは、自分たちのところで犯罪を犯して奴隷身分になり下がったものか、他国の都会で何かの悪行のゆえに死刑の宣告を受けた人です[この部類の方がはるかに多い]。この部類の人たちを彼らはたくさん連れてきています。この連中は安い値で買うこともありますが、ただでもらいうける場合の方が多いのです。この部類の奴隷を彼らは絶えず働かせておくだけでなく、鎖でつないでいます。しかし彼ら自身のところで奴隷になったものは、もっと厳しく扱います。なぜなら、そういう連中は、これほどよい徳育をりっぱにほどこされたのにもかかわらず犯罪をおさえきれなかったのだから、普通以上に嘆かわしい人間である。したがって、他国の犯罪人よりきびしい刑を受けるに値するケースだと彼らは考えるからです。」(188ページ)
 おそらくモアはプラトンに代表される古典古代の理想国家論が奴隷制度を容認していたことをあまり深く考えずに受け継いだのであろう。『ユートピアの思想史』(Journey Through Utopia, 1950)の著者であるマリー・ルイズ・ベルネリ(Marie Luise Bernelli, 1918-49 したがって、『ユートピアの思想史』は彼女の死後の出版である)は「その奴隷階級は、リュクルゴスの国家におけるほど数が多くなく、またそれほどひどい扱いを受けていないにしても、その制度は存在している。労働は奴隷のみが果たしているのではなく、すべての国民がなんらかの有益な仕事にたずさわっているにしても、自由市民は誰ひとりとしてモアが考える「汚い仕事」はやっていないのである。」(ベルネリ、上掲、154ページ)と指摘している。これまで自由市民がかかわらない仕事として挙げられてきたのは動物を屠殺して、その血や臓腑などを洗い落とすこと(145ページ)だけであるが、他にもいくつか考えられる。なお、リュクルゴスというのは古代ギリシアのポリスの一つであったスパルタの社会制度を構成する法律を考えたという伝説的な人物で、その法律によってどのような社会が展開したかについてはプルタルコス(プルターク)の書いた彼の伝記に記されている(どこまで本当だったのかは疑ってもいいわけである)。

 ユートピアの奴隷には、以上述べた国内で重罪を犯したものと、国外で死刑の判決を受けたものを買い取ってきたり、もらい下げてきたものがいるという。彼らは自由を奪われ、(金や銀で作られた 157ページ参照)鎖や足枷につながれている。この少し後に出てくるように、ユートピアでは死刑はほとんど実施されず、奴隷刑が行われる。「なぜなら、犯罪者たちが死ぬよりも労働することのほうが役に立つし、また彼らの生ける見せしめの方が、同様な罪を犯さぬよう他人を抑制する点では、長期の効果があるからです。」(194ページ)
 死刑よりも奴隷刑というやり方をめぐりベルネリは「この方法は、統治の見地からも明らかに有利であるのに、今日に至るまで大規模に実施されなかったのは、驚くべきことである。」(ベルネリ、前掲、155ページ)と論評し、次のように続ける:
「しかし、このやりかたが実際に適用されたときには、ある規模において行われ、モアが予想しえなかったであろうような結果をおさめたのである。最近20年間に何十万という奴隷の大軍が、バルト海――白海運河を建造し、シベリア横断鉄道を複線にし、シベリア中心部に工場を建設し、またウラニウム鉱を掘り出し、地下工場をつくった。要するにその偉業の前では、ピラミッドの建設も子どもの遊びに等しいような仕事を成しとげたのである。しかし、経験はこの方法にはある種の危険があることをしめした。奴隷は最低の食事で、いっぱいにつめこんだバラックの中でも生かしておくことができるので、奴隷労働は安価であり、また自由な人なら夢にも受けいれようとしないような状況において、政府が仕事を遂行しようとするときはきわめて有効なのである。それゆえ、どこかの政府が、できるだけ多くの奴隷の大軍を獲得しようという気になるのは、当然のことでしかなく、そして犯罪者、特に凶悪犯の数は総人口と比較すれば常に少数なので、犯罪の数を倍加する方法が工夫されなければならなかったのである。(同上)」 ユートピアの奴隷制度に倣った、いやそれ以上の制度がスターリン時代のソ連の強制労働において実現したと、ベルネリは論じているのである。しかもそれは重罪をでっちあげて、多数の無辜の人々を死の労働に送り込むというあまりにも残酷なおまけ付きであった。またベルネリが論じているように、自由でない奴隷がいるということが、実は自由であるはずの市民の生活にも知らず知らずのうちに規制をもたらしていることも否定できないことなのである。

 彼らのほかに、「ほかの民族のなかで労働と貧困に明け暮れて、自発的に彼ら[ユートピア人]のところでの奴隷奉公を選ぶ人々です。彼ら[ユートピア人]は、この連中を、慣れている労働を多少多くやらせるという以外は名誉ある仕方で扱い、また(ユートピアの)市民に比べて慈悲深く待遇することもありません。[しばしばあることではないのですが]この連中のなかのだれかでユートピアを去りたいと望むものがあれば、彼らはそれを、当人の意に反してひき留めることも、空手で行かせることもしません。」(189ページ)

 これからも時々、ベルネリの議論を紹介することがあると思うが、モアの同時代の社会に対する批判の鋭さに共感しながらも、彼が描き出す権威主義的、全体主義的な理想社会像には共感しかねるという彼女の評価に基本的には賛成である。

ダンテ・アリギエーリ(須賀敦子・藤谷道夫訳)『神曲 地獄篇(第1歌~第17歌)』(5‐1)

11月6日(火)午前中から雨が降り続いている。

 1300年4月4日、「暗い森」に迷いこんだダンテは、聖母マリアの願いによって派遣された古代ローマの詩人ウェルギリウスの魂を案内者として異界への旅に出発する。
 「われを過ぎるものはみな、すべての希望を捨てよ」(第3歌、9行)と記された地獄の門をくぐったダンテは、生前目立った善行も悪行もせずに、「神にも、神の敵にも嫌われている/卑怯な人々」(同、62‐63行)が、天国にも地獄にも迎え入れられずに走り回っているのを見た。そして地獄に堕ちる魂たちが、急いで悪魔のカローンが操る船に乗り、アケローンの川を渡っていくのを見るうちに稲妻にさらされて、気を失う。
 目を覚ましたダンテは、ウェルギリウスに導かれて地獄の第1圏であるリンボに達する。そこでは自罪を犯さなかったものの、キリスト教徒とならなかった人々の魂が、罪の罰を受けることはない代わりに、神を見る喜びを奪われていることを嘆きながら留まっていた。その中には古典古代の偉人たち、さらにはイスラームの学者や勇士たちの姿もあった。ウェルギリウスの説明によると、復活する以前のキリストが、このリンボに下って、旧約聖書に登場する義人たちを天国へと連れ去ったとのことであった。

 今回から愛欲の罪で地獄に堕ちたたましいたちの置かれている地獄の第2圏を歌った第5歌に入る。
 このようにして私は第一の圏から
第二の圏に降りた。中は前より狭まり、
苦しみはもっと深く、人々は痛みに堪えかねて叫んでいた。
(1‐3行、93ページ) ダンテは地獄が逆円錐形の構造をしていると描いている。それで地獄の下に降りていけばいくほど、円周(圏)は小さくなる。その代わり、苦しみはより大きくなる。
 第2圏には「醜悪なミーノース」第4行)がいて、自分たちの生前の罪を告白した罪人たちの胴体を自分の尻尾で絞めつける。「いくつ巻いたかでどこへ行くかが決まる。」(12行) つまり、2回巻けば第2圏というように、しっぽを巻き付けた回数が、罪人たちが堕ちてゆく圏を表わす。
 ミーノースはここでは地獄の審判者として登場するが、ギリシア神話ではクレータ島の伝説的な王として、法の制定者であったとされる。ギリシア神話でも彼は死後、地獄の審判者となったが、ダンテはその役割は継承させながら、異教世界の存在である彼を下級の悪魔として描き出している。

 ミーノースはダンテの姿を見て、地獄の住人であるウェルギリウスを案内人としても無意味であると警告する。すると、ウェルギリウスは、自分が神の意を受けて、ダンテを案内しているのだと言いかえす。
…「なぜ空しく叫ぶ。
 運命がこの者に定めた旅を邪魔するな。
望まれることすべてが可能となるところ[至高天]で、
かく望まれているのだ。あとはたずねるな」
(21‐24行、94ページ)

 ダンテの目の前に地獄の第2圏に置かれたたましいたちが苦しむ様子が広がった。
 そのとき苦しみの節(ふし)が私に
聞こえてきた。いまや多くの嘆きが
私を打ちのめすところにさしかかっていた。
 あらゆる光が口をつぐむところ
逆風に荒れ狂う嵐の海のように
(風)うなるところに私は来ていた。
 休むことを知らぬ地獄の嵐は
息もつかせずにたましいたちを拉(らつ)し去り、
旋回させては互いをぶつけ合わせて苦しめる。
 やがて崩れた崖まで行くと
叫び、嘆き、呻いては
神の力を呪うのであった。
(25‐36行、94‐95ページ) たましいたちの生前の状態、自分たちの愛欲に負け、情念に身をゆだねたことが、死後の嵐となって吹き荒れている。「嵐」は激しく逆巻く情念の嵐であり、その嵐が彼らの心中で吹き荒れている。「逆風」は理性と情念のせめぎあいであり、「あらゆる光が口をつぐむところ」は、愛欲によって理性が盲目にされている状態を表わしているという。「休むことを知らぬ地獄の風」は愛欲の休まるところがない状態。「互いをぶつけ合わせて」は、愛する者が互いに駆け寄って抱きあうことの裏返し。現世での恋人同士の甘美な抱擁と結合であるものが、来世ではぶつかり合いという罰になっている。生前快かったものが、死後不快なものへと変貌し、彼らを苦しめている。このように寓意的に解釈される一方で、見たままの情景として受け取っても地獄にふさわしい荒涼とした様子が描き出されているところがすごい。
 なお、「崩れた崖」とそこでのたましいの叫び、嘆き、呻きが何を意味するかは不明だそうである。

 次の行では、たましいたちの生前の罪がより具体的に明らかになる。
 理性が情欲に打ち負かされ
肉の罪を犯した人々が、
このように苦しめられているのがわかった。
 寒い季節に椋鳥が空いっぱいに
横に列を作って翼に運ばれてゆくように
呪われたたましいたちは風にもまれ、
 あちらこちら、下に上にと、もてあそばれていた。
ひとつの希望も彼らを慰めない。
苦しみは止むことも、軽くなることもない。
 鶴が哀歌を歌いながら
空に長い線を描いてゆくように
泣き叫びながら
 その嵐に運ばれてゆくたましいたちが見えた。
(37‐49行、95ページ) ここで地獄の嵐に運ばれる魂たちは二種類に描き分けられている。一方は群れで飛ぶ椋鳥にたとえられ、無名の愛欲者たちである。中世のトルバドゥール(吟遊詩人)たちの作品やロマンス物語では、椋鳥は狂おしい愛のメッセージを運ぶ象徴的な鳥とされていることが、この比喩の背景をなしていると注記されている。
 もう一方は鶴にたとえられ、英雄的で貴族的な愛に生き、死んでいった人々の魂である。鶴にたとえられる魂は、一つ一つがはっきりと見分けられ、それがこの後紹介されていくが、その紹介は次回以降にゆずることにしたい。

『太平記』(235)

11月5日(月)曇り、今にも雨が降り出しそうである。

 南朝の勢力が衰え、武家は公家を軽んじたため、北朝の朝儀もすたれた。とくに佐々木導誉は、暦応元年(南朝延元3年、1338)の秋に、些細ないさかいから、延暦寺の門跡寺院である妙法院を焼き討ちするという暴挙に及んだ。延暦寺の強訴によって、道誉は上総に流されたたが、その配流の道行きは、物見遊山にでも行くような言語道断なものだった。そのころ、朝廷の祈願所である法勝寺(ほっしょうじ)が炎上するという不吉な前兆があった。果たして8月、後醍醐帝が康永3年(南朝興国5年=1344)8月、病に倒れられ、16日、八宮義良親王への譲位などを遺言して死去された。【歴史的な事実としては、佐々木導誉が妙法院を焼き討ちしたのは暦応3年(南朝延元3年、1340)10月、法勝寺の炎上は康永元年(南朝興国3年、1342)3月、後醍醐天皇の崩御は暦応2年(南朝延元4年=1339)のことで、『太平記』が記すのとは年月日も、出来事の順序も異なっている。】

 天下が長期にわたり戦乱に明け暮れるのは、末法の世の常であるから、ことさらに言うべきことではないと『太平記』の作者はいう。天皇親政のもとに王朝政治・文化が全盛であった醍醐・村上帝の時代(延喜・天暦の治)以来、徳が高く神のような力をもつ君主として先帝(後醍醐帝)に比べられるような方はいらっしゃらなかったので、何とかもう一度帝のご運開けて、おそば近くで忠義を尽くしてきた臣下の者たちがそれぞれの望みを達することにならないかと、みなが望みをつないでいたのであるが、帝が崩御されたのを見届けて、南朝の運も尽き、天皇のご恩の有難さをわきまえる人々もいなくなって、天下はみな魔物たちの手に落ちる世になってしまったと、がっかりした気分になって、多年南朝と行動をともにしてきた貴族たちも、みな隠遁したり、あるいは北朝に身を寄せようとしたり、身の振り方を案じ始めた。

 そのようなところに吉野の金峯山寺の寺務を取り仕切る吉水院の住持であった宗信法印は、このような情勢を伝え聞いて、急いで参内して次のように言上した。「先帝が崩御される際に、勅を遺され、第八の宮に帝の位を継いでいただき、朝敵を征伐するという先帝のご遺志を遂げるように告げられたことを諸卿は自分の目で確認されたはずです。それからまだ日が浅いのに、吉野を去ったり、隠遁したりということを考えられていると噂されていますが、心得違いも甚だしいものです。外国の例を引き合いに出して、わが国現在の状態を考えてみますと、周の文王が国の基礎を築き、その子武王が周王朝の国を建てました。また漢の高祖が崩じた後、長子である恵帝が後を継いで漢王朝を永続させました。今、先帝が崩御されたといっても、これまで辛苦を共にされてきた方々が、その功を捨てて、敵に降参するとはいかがなものでしょうか。」

 宗信法印はさらに言葉をつづけた。諸国には南朝に心を寄せる武士たちが大勢いる:「上野の国には新田義貞の長男の義興(実際は次男)、武蔵の国に義貞の家嫡である(三男の)義宗、越後の国には(義貞の弟の)脇屋義助の子息である義治、このほか、新田一族の江田、大館、里見、鳥山、田中、羽川、山名、桃井、額田、大井田、一井、金谷、堤、青龍寺、籠守沢(こもりさわ)の400余人が国々に隠れ、あちこちに立てこもって、常に忠義の心をもち続けています。
 新田一族以外では、筑紫(この場合は狭義の筑紫ではなく、九州という意味であろう)に菊池、松浦鬼八郎、山鹿、四国に土居、得能、安芸の国に有本、江田、羽床(はゆか)、淡路の国に阿間(あま)、斯知(しうち)、石見の国に三角(みすみ)、伯耆の国に名和長年の一族、備後の国には桜山、備前の国に児島、今木、大富、和田、射越(いのこし)、播磨の国に吉川(よかわ)、河内の国に和田、楠、倭の国に三輪西阿(みわのせいあ、大神神社の神官)、槙木宝珠丸(まきのほうじゅまる、紀伊の国には湯浅、山本、田辺別当、遠江には伊井(井伊)、美濃の国には根尾の入道、尾張の国には熱田大宮司昌能(まさよし)、越前の国に瓜生、河島、越後の国に小国、河内、池、風間、禰智、太田、叡山には南岸円宗院、このほかに、取るに足らないものまで入れると数えきれません。これらの武士たちの忠義の心は金石のように固く、一度も翻るということはありません。わたくしも不肖の身ではありますが、こうして金峯山の住持をしております以上、吉野に朝廷を置くということについては何も恐れる必要はありません。まず先帝のご遺勅に従い、跡継ぎの君を即位させ申し、国々に綸旨を下されいますように」。
 この言葉を聞いた側近の公卿たちはもっともだとうなずいた。
 そうこうするうちに、楠正成の長子である正行と、楠一族の和田和泉守が2千余騎の武士を率いて駆けつけて、皇居を守護し、平然と忠義を尽くす様子を見せたので、南朝の公卿たちは吉野を去ろうという思いを翻して、山中はまた平穏になった。

 同じ年の12月3日に、伊勢神宮に新帝即位の由を告げるための勅使が派遣され、第八の宮の義良親王が即位された(後に後村上天皇と諡される方である)。
 跡継ぎと決められた方が即位されるときには、様々の大礼が行われる決まりである。まず、新帝が受禅(新帝が先帝の譲りを受けて位に就くこと)の日、三種の神器(行為を象徴する宝器)を伝えて、御即位の儀式がある。その次の年の3月に亀卜をもって神祇官に仕える卜部家と、占筮を司る陰陽寮の長官である陰陽博士が、紫宸殿の渡り廊下で、大嘗祭に用いる新穀を献上する国郡を亀卜で定める。その後、大嘗祭を差配する役所の執務初めがあって、役人たちが定められた神事を行っていく。同じ年の10月に、鴨川に行幸されて、大嘗祭に先立っての新帝のみそぎが行われる。また神泉苑の北に斎庁所を立てて、先帝が一日神饌の初穂を見られる。〔ここは、岩波文庫版の脚注のまま記しているが、どうも意味がよくわからない。〕 大極殿前庭に龍尾壇という壇を作り、そこに新帝が沐浴する回立殿を建て、新帝が大嘗祭を行う神殿である大嘗殿に行幸される。7日沐浴され、その日ごとに朝廷に仕える楽人たちが上古の正しい音楽を演奏し、その音楽が演奏されると、堂上の舞人たちが、神事に仕える際に着る藍摺りの衣を肩脱ぎして、5たび袖を翻して舞を舞う。これを五節(ごせち)の宴水(えんすい)という。岩波文庫版の脚注によると、五節の豊明かりの節会で回れる少女の舞を五節の舞と言い、その後に行われる酒宴を宴水というのだそうだが、どうも前後の意味がはっきりしない。『太平記』の作者がこのような儀式になじみのない人だったので、自分でもよくわからずに書いているのではないかと勘繰ってしまう。新帝はその後で、大嘗宮に行幸されて、神に新穀を捧げ、自らも食される。その間神饌(神様にささげる食事)を献上する悠紀(ゆき)・主基(すき)の国に伝わる民謡を歌って帝徳を讃え、清浄な童女たちが神饌の餅を搗く歌を歌いながら神饌を献上する。

 以上が代々の皇太子が皇位を継承する際の慣例なので、三年に一度の大礼の一つたりとも欠かしてはならないのではあるが、 からは遠い吉野の山中では大嘗祭の儀式を怠りなく整えることはできないので、形どおりに三種の神器を拝されただけで、新帝は位にお就きになったのである。

 南朝は後醍醐帝が崩御されて、後継に後村上帝が指名され、即位される。兄宮が大勢いる中で(と言っても既に一宮の尊良、三宮の護良、恒良、成良の4人が世を去っている)の幼帝の即位である。なお、森茂暁『太平記の群像』によると、後醍醐帝には17人の皇子がいたということであるから、八宮でも上の方ではある。義良親王が後継者に選ばれたのは、後醍醐帝の寵姫阿野廉子との間に儲けた皇子であり、しかも同母兄弟の恒良と成良が世を去っているという事情からであろう。
 『太平記』の作者の記述はどうもしっかりとしたものではないのだが、天皇の即位をめぐってはいろいろと煩雑な儀式が慣例化されてきたことがわかる。おそらく、新たに皇位に就かれる方の即位の儀式はもっと簡単なものになるだろうが(そのように政府の方針が決められていると報じられている)、その意味する内容がどのように変化したものと受け取られるのか、問題は残りそうである。

日記抄(10月29日~11月4日)

11月4日(日)曇りのち雨が降ったりやんだり

 10月29日から本日までの間に経験したこと、考えたこと、以前の記事の補足・訂正等:

10月29日
 神保町シアターで『ちんじゃらじゃら物語』(1962、松竹京都、堀内真直監督)と『南の島に雪が降る』(1961、東京映画、久松静児監督)を見る。
 『ちんじゃらじゃら物語』は名古屋駅周辺が主な舞台で、伴淳三郎扮するパチンコの釘師を主人公とする物語。伴淳自身の企画により、小野田勇が原案を考え、若井基成、柴田夏余が脚本を書いている。釘師としての腕はいいが、お人好しのために妻(月丘夢路)には逃げられ、娘(島かおり)と2人暮らしの伴淳が、名古屋駅裏の闇市跡地の立ち退き問題や、戦友の隠し子騒動などで駆け回る。戦友に千秋実、その隠し子に芦屋小雁、千秋の秘書に若き日の黒柳徹子が出ているかと思えば、加東大介、フランキー堺、三木のり平、市村俊幸、有島一郎、岩下志麻!、玉川良一、山茶「花究、名和宏、八波むと志、宮城まり子‼、藤山寛美などなど、出演者の個人プレーだけで十分間が持ちそうな顔ぶれであるが、逆にいえばそこに演出者の持ち味を求めることもできる。堀内の助監督であった高橋治が書いているが、「大久保忠素、小津安二郎、佐々木康、堀内真直と師弟関係が辿れる。…小津一人がとび抜けた名声をもつ作家で、あとの三人はことごとくプログラム・ピクチャーをソツなく作ることで名高かった。」(高橋『絢爛たる影絵 小津安二郎』、文春文庫、17ページ) 堀内の作品としては風刺喜劇『正々堂々』を見ているだけだが、腹黒い人物ばかりが暗躍するこの物語の中で、ただ一人善人の鳳八千代が他の出演作におけるよりも美しく見えたという記憶がある。実は『ちんじゃら』でも社長の娘という役どころで特別出演的に登場する若き日の岩下志麻がごく単純な意味で美しい。出演者をへんに弄り回さないことでその魅力を引き出すというところに、プログラム・ピクチュア作家としての堀内の特徴があるのではないかと思ったりする。
 『南の島に雪が降る』は、このブログでも取り上げたことがある加東大介の従軍体験記をもとに、笠原良三が脚本を書き、小野田勇が劇化したという作品。もちろん、加東大介が本人の役で主演しているほかに、伴淳、有島一郎、西村晃、桂小金治、志村喬、細川俊夫、三木のり平、森繁久彌、三橋達也、小林桂樹、フランキー堺など、特別出演的な顔ぶれも含めて、出演者は多彩。なかでも、エノケン一座で活躍した如月寛多の名をかたる偽物の役が渥美清というのが場内を大いに沸かせていた。
 小林信彦さんが書いているが、渥美清は伴淳からかなりいじめられたようである。その伴淳が、お人好しの役を演じているというのも人間「喜劇」の一例として面白い。

10月30日
 『日経』朝刊のコラム「春秋」は松本清張が1980年から3年間の間書いていた日記をまとめた『清張日記』に触れている。清張は自分の身辺を明かすことを好まなかったというが、その一方で日記を公にしているのは、世の中の動きについての自分の意見を明らかにしておくことの意義を認識していたからではないかと思う。山本周五郎が自分がそれと知られることを嫌い、写真を撮影されることも避けていたというのは、取材の邪魔になるという面もあったのではないかと思う。阪東橋の近くに周五郎が一時通ったというソバ屋があって、私も入ったことがあるが、あまりおいしいとは思わなかった。周五郎のエッセーを読んでも、彼が食通であったとは思えないし、それはそれでいいのである。

10月31日
 『朝日』の朝刊は新しい大学入試制度の中での英語の民間試験の導入をめぐり、賛成・反対の両論を掲載している。そのなかで民間試験の導入推進派の遠藤利明議員が、「英語は欧米の人に理解してもらう必要があります」というのは英語の多様性をまったくもって理解していない議論であるということに、もっと多くのひとが気づく必要がある。他にもこの議員の発言には問題点があり、特に日本語として意味の通じないところがあり(あるいは聞き手の責任かもしれない)、英語教育について発言するよりも、国語をもっと勉強してほしいと思ったりした。

 東海林さだお『ひとりメシの極意』(朝日新書)を読み終える。東海林さんのすごいところは好奇心にまかせてあちこち食べ歩くだけでなく、自分でも料理する、それも他人のレシピを再現したり、自分で創作したり、融通無碍であるところではないかと思う。

11月1日
 『朝日』の朝刊に外国人の受け入れをめぐって連合総研が企業の従業員を対象としたアンケート調査を行ったところ、「現状維持」が過半数という結果だったという記事が出ていた。企業の中身がはっきりしないが、現状では問題があるから出入国管理法を改正して外国人労働者を増やそうという政策に対し、調査する側も、調査された従業員の側もあまりにも消極的な態度に終わっているという印象を否定できない。改正案について野党側は徹底抗戦の構えだというが、むしろ多文化共生の立場をより鮮明にして、外国人労働者の権利を擁護することを考えた方がいいのではないか。「万国の労働者団結せよ!」というではないか。

11月2日
 『NHK高校講座 古典』は漢文で『孟子』の中の「助長」という故事成語の由来となった説話を取り上げた。「助長」というのは「手助けしてかえって害を与える」ということで、ある農夫が作物の成長が遅いので引っ張って成長させようとしたが、作物は枯れてしまったという説話に由来する。実際に、こういうことはよくあるのではないか。ただ、「助長」を「助けて成長させる」という意味で使うこともある(「助長行政」などという場合は、こちらの意味である)ことも付け加えておいたほうがよかったのではないかとも思う。

 同じく『倫理』では「ソクラテス 哲学の始まり」として、ソクラテスの生涯や言説について取り上げた。講師も話していたように、ソクラテス自身は著作を残していないので、そのことを認識するならば、ソクラテスについて思い入れたっぷりに時間をかけて話すのは控えたほうがよいのではないかという印象が残った。(むしろプラトンの描き出したソクラテス像という形で詳しく話すべきである。)

 同じく『国語総合』では『宇治拾遺物語』の中の良秀という絵師が自分の家が焼けているのにもかかわらず、これで不動尊の背後の炎の真実に迫った描き方ができるようになったと喜んでみていたという説話を取り上げた。この話、なかなか複雑な内容を含んでいることが、講師と進行役の会話からもうかがわれた。

11月3日
 俳優の江波杏子(本名 野平香純=のひら・かすみ)さんが10月27日に亡くなっていたことが分かった。出演映画はあまり見ていないのだが、1970年に大阪で開かれた日本国際映画祭の開会式に大映を代表して舞台に立っていた姿を見ている。実際にその姿に接したことのある有名女優というと、岩下志麻さん、江波さん、松原智恵子さんがビッグ3だと思っていたので、残念である。また星由里子さん、今また江波さんと、私よりも少し年長の女優さんたちが続けて亡くなられているので、さびしい気分に襲われている。

 『朝日』朝刊のコラム「経済気象台」では「就活ルールにもの申す」、『日経』朝刊のコラム「大機小機」では「就活ルールだけが問題ではない」と題して、大学生の就職活動の日程だけに議論が集中している現状を批判し、もっと大局的に人材をいかに育成し・選考していくかという問題としての議論を進めるべきだという趣旨を両者一致して述べている。

11月4日
 『朝日』朝刊のコラム「折々のことば」では「欠点を治すことに一生懸命にならない」という将棋の羽生善治さんの言葉が紹介されている。欠点は「長所の裏返し」であることが多いので、無理に直そうとしないほうがいいというのは取り上げる価値のある意見ではないかと思う。

 『日経』の日曜日の文化欄に連載されている阿辻哲次さんのコラム「遊遊漢字学」で「杞憂」という言葉が取り上げられていた。題して「「杞憂」の裏に敗者の屈辱」。杞というのは中国の周時代に存在した諸侯国の1つで周の前の前の王朝である(と信じられていた)夏の子孫を集めて作られていた。周の前の王朝である殷の子孫を集めて作られた宋と同様、この国の人々を取り上げた説話には、敗者の子孫である人々をさげすむような雰囲気が漂っているという。そういえば、2日の『高校講座 古典』で取り上げられた「助長」の説話の主人公も宋人(この場合は「そうひと」と読むことになっている)であった。

 ニッパツ三ツ沢球技場でJ2第40節:横浜FC対大分トリニータの対戦を観戦した。点取り屋のイバ選手が累積警告で出場できない横浜は3-6-1(戸島)、対する大分は3-4-3というそれぞれ攻撃重視と思われるが、かなり違ったフォメーションを組んでの対戦となった。前半は一進一退の攻防が続いて0-0のまま折り返し、後半に大分が1点を先制したが、横浜が67分、73分、79分に得点を奪って逆転し、3-1で勝利、勝ち点3を挙げてJ1昇格への望みをつないだ。3得点のすべてに絡んだMFレアンドロドミンゲス選手の活躍が光った。それにしても当日券売り場に「S席完売」という張り紙がしてあったのに、見たところではメイン・スタンドの空席がかなりあったのはどういうことであろうか。 

美川圭『公卿会議――論戦する宮廷貴族たち』

11月3日(土)曇り、一時雨が降ったり、晴れ間が見えたり、変わりやすい空模様である。

 10月31日、美川圭『公卿会議――論戦する宮廷貴族たち』(中公新書)を読み終える。

 この書物は、律令制が変質して摂関政治が行われるようになり、その後の院政の開始、武家の台頭と鎌倉・室町幕府の成立の過程の中で、政治的な意思決定に至る一段階である公卿会議がどのように成立し、変質し、消滅していったかをたどっている。著者である美川さんも書いているように、公卿会議は現在の閣議に似ているところがあり、そのような関心も持ちながら読むと、面白く読めるはずである。一般に平安時代(とそれ以降)の宮廷貴族たちはなよなよとした姿と性格をして、日々遊び暮らしていたというイメージがあるが、実際は勤勉に政務に携わっていたこと、その仕事ぶりを描き出すことがこの書物の狙いである。

 このような会議の実態をある程度まで詳しく知ることができるのは、会議に参加する貴族の中に克明な日記をつけている人物がいたためである。「はじめに」で美川さんはそのような貴族として藤原(小野宮)実資とその日記である『小右記』に言及しているが、本文を読めば明らかなように、実資の上位者であった藤原道長も今日『御堂関白記』と呼ばれている日記を書き、彼らの下位にいて能吏として活躍した(それよりも能書家として知られる)藤原行成も『権記』という日記を書き残している。『御堂関白記』と『権記』に言及されていないのは、三者の中でもっとも詳しくこの時代の動きを書きとめているのが『小右記』だという判断によるものと思われる。もっとも『御堂関白記』と『権記』は講談社学術文庫に収められているので、比較的容易に読むことができるが、『小右記』は倉本一宏さんによる現代語訳が吉川弘文館から刊行中で、読むのに少し骨が折れる。現代のわれわれがそうであるように、当時の貴族たちも日記に本当のことだけを書いていたとは限らないのであるが、3人の日記を読み比べていくことで、(そのほかの古文書をさらに参考にしていくことで)、この時代の動きの一端はかなり正確に把握できるということである。

 この書物の構成は次のようなものである:
第1章 律令制の時代
第2章 摂関政治の時代
第3章 院政の始まり
第4章 院近臣と武家の台頭
第5章 鎌倉幕府の興亡と建武政権
終 章 公卿会議が生きていた時代

 第1章では本題に入る前に、藤原道長の事例を引き合いに出しながら、彼のもとでその形が整備されていった公卿会議の概要が説明されている。
 まず「公卿」とは何かという説明が必要であるが、上級の貴族たちであると理解しておいてよい。問題は「貴族」とはどのような人々かということで、これを説明するのは簡単ではないと美川さんは言う。その手掛かりとして持ち出すのが官位(官職と位階)である。藤原道長は康保3年(966)の生まれであるが、生まれた日はわからない。このとき彼の父の兼家は38歳(数え年)で、その官位は従四位下左京大夫であった。従四位下が「位階」で、左京大夫が「官職」である。

 もともと律令制の下では位階をもっている人が官吏であり、もっていない人が庶民であった。位階は正一位から少初位まで30階に分かれていて、5位以上が優遇されていた。奈良時代には5位以上が貴族であったと考えてよい。ところがこのような位階の価値が次第に下落して、道長が生まれたころの10世紀となると、5位以上がなんとか位として意味があるようになり、6位以下はどうでもよくなってきた。となると、4位や5位は一応貴族といっても、かなり下の地位ということになっていく。道長が生まれたころの、父親である兼家の地位はそれほど高いものではなかったということを押さえておく必要がある。
 しかし兼家は名門・藤原氏北家の出身であり、しかも彼の姉の安子が皇太子・憲平親王(後の冷泉天皇)の母親ということで、その外戚という立場でもあった。そして、憲平親王が即位すると、蔵人頭となり、出世街道を歩むことになる。というのは蔵人頭になれば、参議に欠員ができたときに、その欠員を埋めるべく昇進することが慣例だからである。そして、安和元年(968)、蔵人頭兼左中将(これを普通頭中将という。蔵人頭は2人いて、一方が頭中将、もう一方が頭弁である。蔵人頭というのは今日の内閣制度では官房副長官に似た役回りだと思われるが、その官房副長官職は政治家と事務官で構成されている。頭中将というのは政治家の方の官房副長官、頭弁というのは事務官の方の官房副長官と考えればいい。ただし、頭弁も参議以上に昇進できるから、この点が違う)のまま従三位となった。ここで『公卿補任(くぎょうぶにん)』という書物にその名が記載されることになる。

 公卿というのは、平安時代になると太政大臣、摂政・関白、左大臣、右大臣、内大臣、大納言(権大納言を含む)、中納言(権中納言を含む)、参議のことを言うようになるが、それらの官職についていなくても三位以上の者は公卿の列に加えられ、四位であっても参議であれば公卿とされた。
 また、この書物の中で重要なのが、議政官という地位である。これは太政官議政官会議に出席することができる立場にあるものということで、左大臣、右大臣、内大臣、大納言(権大納言含む)、中納言(権中納言含む)、参議を指す。三位以上であっても、名誉職的な性格の太政大臣、および摂政・関白、すでに大臣・納言・参議を辞職した前官者、非参議(三位以上で参議に任じられていないもの)は含まれない。

 道長が15歳で元服し、従五位下となったのは、天元3年(980)のことである。従三位となって、公卿となるのは一条天皇が即位した翌年の永延元年(987)で、22歳の時のことである。父親の兼家に比べるとかなり昇進のペースが速いが、これは兼家が一条天皇の践祚とともに摂政になったことが大きい。そして7歳の幼い一条天皇は兼家の娘(道長の姉)詮子が生んだ(兼家の)外孫なのである。道長はこの天皇の即位によって外戚の地位を得たことになる。そして翌年には参議を飛び越えて、一気に権中納言に任じられる。すなわち議政官になったのである。「これ以降、道長は外孫後一条天皇(一条天皇の皇子)の即位によって、その摂政に就任する長和5年(1016)まで28年の長きにわたって、議政官の地位にとどまることになる。」(9ページ)

 道長の出世とは違い、ごくゆっくりとした紹介・論評のペースになってしまっているが、これはこの研究が私にとってあまりなじみのない主題を扱っていることによるものである。著者は院政時代の研究家であって、摂関政治については専門家とは言えないが、先行研究を抑えてその特徴を簡潔にまとめている。倉本一宏さんの研究によると、道長は議政官の地位に長くとどまったことによってその政治的な地位を不抜のものにしたということであるが、美川さんもその見解を踏襲しているように思われる。とにかく、従来はそれほど注目されてこなかった議政官の会合の変遷をたどることで、その意義を確認しようというのは興味ある試みである。次回は、律令制の下での、つまり道長の登場以前の政治的な意思決定の過程について論じられることになる。知らないことが多いので、どの程度、論評を進められるか不安な面もあるが、その反面で現代に通じる合議制の問題も取り上げられているので、その点に興味をつなぎながら読み進んでいきたい。
 

鳥飼玖美子『子どもの英語にどう向き合うか』(3)

11月2日(金)晴れ

 2020年度から小学校での英語の学習が教科化される。英語の導入に張り切る子どももいるだろうし、苦手意識を持ってしまう子どももいるだろう。新しい変化に期待を寄せる一方で、戸惑いや心配を覚える保護者も少なくないはずである。この書物は、そんな保護者たち向けに書かれている。

 今回は、学習における「意欲」、「動機づけ」、それらを支える「自己効力感」について論じた個所を紹介・検討していくことにする。鳥飼さんは幼いころ「意欲ゼロ」の子どもだったという自分の経験から、この問題に関心をもったという。同時通訳として活躍し、その後は大学の先生として英語教育に関わった彼女が幼いころは「意欲ゼロ」だったというのは、読者をひきつけるに足りる話題である。

 小学校の頃、やる気のないのが一番の欠点だと親からも教師からも言われていた彼女が高校1年生の時に、雑誌で高校生のアメリカ留学便り」という記事を読んで、急にアメリカに行きたいと思うようになる。高校生が1年間アメリカに留学できる制度(American Field Service: AFS制度のことらしい)があると知ったので、さまざまな方法で英語の勉強に精を出すようになった。さらに内申書が必要だというので、ほかの教科もあわてて勉強するようになったという。

 努力の甲斐あって、再度の挑戦で合格、ニュージャージー州でホームステイしながら高校に通うことになる。単に勉強をしたというのではなく、「それまでは日本社会で、『まだ高校生』として家庭でも学校でも、『~をしてはいけない』という規則や制約の中で、一人前ではない子どもとして保護されて暮らしてきたのに、アメリカでは、『もう高校生』なのだからと大人扱いで突き放され、『あなたは何をしたいの?』『あなたはどう思うの?』とすべてにおいて判断を求められました。・・・高校生なのに信じられないほど自由だと驚嘆しましたが、その代わり、責任は自分にあることも思い知りました。」(44ページ) その後、英語教育に携わるようになって、自分の英語学習にとってこの1年が大きな意味をもっていたことを実感するようになったという。

 外国語学習には「自律性」が欠かせないと鳥飼さんは言う。「学習者が自律して学ぶとは、どういうことか。教師に言われてやるのではなく、自らが考えてあれこれ試して学習方法を選ぶ、自分の学習に自分自身が責任を持つ、というのが『自律性』です。/『自立』という漢字をあてることもありますが、広い意味での『自立性』(independence)と区別し、とくに外国語学習で自ら責任を持って主体的に学ぶという意味のautonomyは『自律性』と訳すのが妥当だと考えています」(45ページ)という意見である。

 周囲がどんなに発破をかけても、ご本人にその気がなければ学習ははかどらない。まして言語の学習は一生続くものである。「学校にいる間に学習が完結するほど外国語は容易ではありません。」(46ページ) 学習には時間がかかる。その時間は学校教育を受ける間だけで間に合うものではない(そもそも学校教育の中で外国語教育の時間が占める割合はそれほど大きいものではない)。「学校では限られた時間の中で、外国語の基本だけを教えます。卒業してからも学習を継続するには、一人で学ぶ力が必要になり、自立した学習者であることが前提となります。」(47ページ) つまり自分自身で色々と工夫して学習し、うまくいったとか、行かなかったとか、それはなぜなのかを考えて、さらに学習方法を工夫していくような姿勢を身につけることが求められるのである。

 その際に、必要なのは「自分ならできる、と感じる自己に対する信頼感」(48ページ)である「自己効力感」である。この自己効力感を高める要因として、心理学者のバンデューラが挙げているのが、「成功体験」、「代理体験」(他の人が成功しているのを見る)、「言語的説得」(他人から励まされる)、「生理的・感情的状態」(心身の状態が良好で高揚している)である。この4つの中でもっとも強い効力感が期待できるのが、「成功体験」であるが、それも努力を重ねて成功した体験の方が効果が大きいという。自己効力感を生み出す要因は特定できないが、鳥飼さんの経験では、日本よりもアメリカの方が子どもを取り巻く人々が子どもを頻繁に褒めているという。これは意外に大きいのではないかというのである。(ラジオの外国語番組で、学習者が自分で発言するような場面のあとで、必ずGreat jobとか何とか誉め言葉が続くのはご承知だと思う。)

 その意味では日本人は、私を含めて、学習者をほめるということが下手である。褒められた経験があまりないから、褒めることが下手だという意見もある。さらに私自身の経験で言うと、学生がこういうところをほめてほしいと思っているのはわかるのだが、この程度の達成度では褒めるわけにはいかないと思っていたことも多い。学習者の方ももっと努力するということも必要ではないかという気がする。つまりどっちもどっちという悪循環があるような気がするのである。
 ただ、日本の教育は欠点を矯正することの方に目を奪われて、長所を伸ばすというところにあまり目が向けられていないところがある。このあたりを考えていくことも必要ではないかと思う。 

トマス・モア『ユートピア』(25)

11月1日(木)曇りのち晴れ、11月に入ったというのにかなり気温が上がっている。

 ユートピア人たちは人生の目的を幸福の実現に置き、幸福とは快楽であると考えている一方で、霊魂の不滅を信じているので、最上の幸福を死後の世界における幸福だと考えている。彼らの快楽とは、自然が人間の心身に与える本来的な喜びであり、無制限に肥大する欲望の充足ではない。

 彼らは快楽を肉体的な快楽と精神的な快楽とに分けて考えている。彼らは精神的な、あるいは魂の快楽の方を重視するが、その主なものは徳を実行すること、善い生活を送っているという自覚である。一方、肉体的な快楽の基礎となるのは健康である。飲食の楽しみは健康を実現するという目的に従属するものであるとしながらもおろそかにはせず、肉体美、体力、敏捷さといったものもユートピア人は重んじている。他方、断食や苦行などは意味のないものとして退けている。
 このようなユートピア人たちの暮らしぶりを見たラファエルは、「これより幸福な社会はどこにもない」(182ページ)という。彼らは勤勉で、きびきびと働き、決して豊かではない土地を耕しながら、豊かな収入を得ている。彼らは「付き合いやすく愉快で機知、発明力に富み、憩いを歓び、肉体労働〔それが必要なら〕によく耐えられるけれども、それを不健全なほどに求めはせず、精神的な探求欲においては生むことを知りません。」(183ページ)

 このようなユートピア人たちの探求欲は、ラファエルたちがギリシア人の学芸を彼らに知らせたときに発揮された。
 「彼らが私たちからギリシア人の文学、高等学問について聞き知ったとき〔ラテン語のものでは、歴史と詩を除いて、彼らがとくに賛同していると思われるものは何もなかったのです〕、そういうものも習得したいから説明してほしい、となんと驚くべき熱意をもって、懇願してきたことでしょう。」(183ページ)
 ラファエルたちはこの要望に応じてギリシア語とギリシア人の学問を教えはじめたが、彼らはみるみるギリシア語に上達し、ギリシア人の学問の内容を習得していった。一つには、学習しているのが、彼らの中でも知的に優れた人々であったこと(ここでモアが、年配者であるとしているのが、外国語の学習は若い方が容易であるという考えと逆であることは興味深い)、ユートピアの言語がギリシア語と似たところがあることもその理由であったとラファエルは考える。
 「彼らの言葉は、全体的にはほとんどペルシア語のように聞こえますけれども、都会とか役職の名称にはギリシア語の痕跡をいくらかとどめていますから、あの民族の起源は、さかのぼればギリシア人に行きつくのではないかと私は憶測しています。」(184ページ) ユートピアの都市の名前とか、役職の名称とかは、モアがギリシア語から造りだしたものだから、「ギリシア語の痕跡をいくらかとどめてい」るのは当然のことである。それはさておき、モアはペルシア語を知っていた、あるいはペルシア語による会話を聞いたことがあったのだろうか。ご承知の通り、ペルシア語はインドの一部の言語(ヒンディー語、パンジャーブ語、ベンガル語など)やアルメニア語、クルド語などと同様にインド=ヨーロッパ語族に属する。ただあてずっぽうにいっているだけかもしれないが、ペルシア語とギリシア語(そしてラテン語と英語)は同じインド=ヨーロッパ語族に属している。
 ラファエルは航海の際に持って行ったギリシア語の本を全部、ユートピアに置いていったが、それらの書物を彼らは実によく学習した。とくに医学をはじめとする自然にかかわる学問に対して彼らが向けた関心の強さは大きかったという。また、彼らはラファエルの一行が教えたわずかな手掛かりから、製紙と印刷を学び取り、彼らが得た知識を本にしてすぐに普及していったという。いかにもルネサンスらしい記述である。

 ユートピア人は自分たちに何かを教えてくれるような人々の訪問は歓迎するが、自分たちの必要とするものは大体自給できるので、海外から何かを輸入する必要はほとんどないし、豊かな金銀を蓄えているので、外国の商人たちがユートピアの産品と交換できるものを持ち込むことも難しく、外部との通商はあまり盛んではない。彼らは「自分のところから輸出しなければならぬものは、他人に頼んで運んでもらうよりも自分たちの手で輸送する方が賢明だと考えています。そうすることによって、海外の諸民族についてもっと多くのことを知り、航海の技能や経験を失わないようにしたいからです。」(187ページ) 自分たちの用事は、自分たちでできる限りは自分で片付けるというのは、無用な摩擦や誤解を招かないためにも必要なことではないかと思う。

 モアの時代は、『ユートピア』という物語が、新大陸への航海から戻ってきたラファエルの話を記録するというスタイルで書かれていることでもわかるように、大航海時代の幕開けの時代であった。だからモアは太平洋の存在を知らず、アメリカの先住民たちの暮らしぶりについても十分な知識をもたず、おそらくはほとんど知らなかったようである。だから、彼等ここで展開しているのは、同時代のヨーロッパ、とくに彼の祖国であるイングランドの政治・社会への批判と再建のために提案であり、あまり直接的にいっては、問題を起こすだろうなぁ、しかし、こういう言い方をしておけば大丈夫だろうなどと考えながらユートピア人たちの生活と意見について描き出していたのであろう。この時代が、スペインやポルトガルがヨーロッパの外の世界へと進出(侵略)をはじめ、ほかの国々も同じようなことを企画していた時に、モアがユートピアを自給自足的で、完結した経済をもつ社会として描き出し、貿易を盛んに行って自国に金銀を蓄積しようという重商主義的な考えに反対するような経済観(もっとも、実はユートピアは貿易によって大量の金銀を蓄積しているのであるが)を見せているのはきわめて注目すべきことではないかと思うのである。
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