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2018年の2018を目指して(10)

10月31日(水)晴れ、かなり雲が多いがそれでも気温上昇

 10月は9月に引き続き、東京で一晩過ごしている。これまで304日間のうち302日を横浜、2日を東京都(文京区)で過ごしたことになる。また、従兄の偲ぶ会に出かけたので、小金井市、三鷹市、武蔵野市に足跡を記した。
 神奈川県では横浜市、川崎市、東京都では小金井市、三鷹市、武蔵野市、品川区、渋谷区、新宿区、杉並区、千代田区、文京区、港区、目黒区の1都1県、5市8区に足跡を記したことになる。
 新たに利用した鉄道会社、路線はないが、お茶の水、武蔵小金井、武蔵境の各駅を新たに利用した。6社10路線19+4駅を利用していることになる(+4というのは乗り換えた駅)。
 また、東京都営バスを今年になってから初めて利用した。それでバスは7社20路線25停留所を利用していることになる。〔106〕

 この原稿を含めて31件を投稿した。内訳は未分類が1、日記が6、読書が6、『太平記』が5、『神曲』が5、『ユートピア』が4、詩が1、推理小説が3ということである。コメントを3件、拍手を577、拍手コメントを2件頂戴した。1月からの累計は、投稿が309件、コメントが20件、拍手コメントが4件ということである。〔333〕

 14冊の本を買い、11冊の本を読んでいる。1月からの累計では122冊の本を買って、98冊を読んでいることになる。読んだ本を列挙すると:下川裕治『東南アジア全鉄道制覇の旅 インドネシア・マレーシア・ベトナム・カンボジア編』(双葉文庫)、小松左京『やぶれかぶれ青春記 大阪万博奮闘記』(新潮文庫)、西股総生『「城取り」の軍事学』(角川ソフィア文庫)、下川裕治『東南アジア全鉄道制覇の旅 タイ・ミャンマー迷走編』(双葉文庫)、清水由美『日本語びいき』(中公文庫)、田中啓文『力士探偵シャーロック山』(実業之日本社文庫)、鳥飼玖美子『子どもの英語にどう向き合うか』(NHK出版新書)、ピーター・アントニイ『衣装戸棚の女』(創元推理文庫)、愛川晶『黄金餅殺人事件 昭和稲荷町らくご探偵』(中公文庫)、東海林さだお『ひとりメシの極意』(朝日新書)、美川圭『公卿会議――論戦する宮廷貴族たち』(中公新書)
ということである。〔100〕

 『ラジオ英会話』を20回、『遠山顕の英会話楽習』を11回、『高校生からはじめる「現代英語」』を8回、『実践ビジネス英語』を12回聴いている。『入門ビジネス英語』は4月~9月の再放送なので、数にいれていない。1月からの通算では、『ラジオ英会話』を198回、『遠山顕の英会話楽習』を86回、『高校生からはじめる「現代英語」』を82回、『実践ビジネス英語』を120回聴いている。このほかに、『入門ビジネス英語』を108回、『短期集中! 3か月英語』を35回聴いている。
 『まいにちフランス語』入門編を12回、応用編を8回、『まいにちスペイン語』入門編を12回、中級編を8回、『まいにちイタリア語』初級編を12回、応用編を8回聴いている。1月からの累計では、『まいにちフランス語』の入門編を120回、応用編を43回、『まいにちスペイン語』の入門編を119回、中級編を8回、応用編を23回、『まいにちイタリア語』の入門編を37回、初級編を72回、応用編を31回聴いたことになる。
 このほか小倉博行『ラテン語とギリシア語を同時に学ぶ』、池田黎太郎『古典ギリシア語入門』をもとにギリシア語とラテン語の勉強を始めたのだが、なかなか進まず。島岡茂『英仏比較文法』、杉山理恵子『フランス語でつづる私の毎日』、三好準之助『日本語と比べるスペイン語文法』なども読み進もうとしているのだが、これまたなかなかはかどらない。〔1082〕

 神保町シアターで『太陽の墓場』(1961、松竹大船、大島渚監督)、『ちんじゃらじゃら物語』(1962、松竹京都、堀内真直監督)、『南の島に雪が降る』(1961、東京映画、久松静児監督)を見た。8月、9月に映画を見なかった分を取り戻すというところまではいかなかったが、ぼちぼちペースを上げていくつもりである。〔5館で24本、29〕

 J2の横浜FC対愛媛FC、横浜FC対大宮アルディージャの2試合を観戦した。これからのリーグ戦残っているホームの2試合は見に行くつもりである。そのうち1試合が、高校サッカーの神奈川県の準決勝と重なるのは残念だが、この際プロの方を優先するつもりである。しかし決勝戦は見に行こうと思う。また時間の都合がつかずに横浜FCシーガルズの試合を見に行けなかったのが残念であるが、入れ替え戦に勝利して1部昇格を果たしてほしい。また1048回のミニトトBと1051回のミニトトAを当てた。〔41〕

 アルコール類を口にしない日は3日で、1月からの合計では37日である。〔37〕

昨日の『朝日』の川柳の欄に「仮装して意味も分からず騒いでる」(溝内一弘)という川柳が出ていたが、ハロウィーンはHallowmas (All Saints' Day 諸聖人の祝日)の前夜祭である。子どもたちがお菓子をねだって家々を回る習俗は、その起源よりも、次第に短くなっていく昼を惜しみ、冬への英気を養うというような季節の変化に応じるということの方によるのではないか。ということで、私は子どもではないけれども、これから少し気分転換を図りに出かけるつもりである。
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ダンテ・アリギエーリ(須賀敦子・藤谷道夫訳)『神曲 地獄篇(第1歌~第17歌)』(4‐3)

10月30日(火)晴れ、気温上昇

 1300年4月4日、暗い森に迷いこんだダンテは、彼の魂を救おうと聖母マリアの願いにより遣わされたローマ時代の詩人ウェルギリウスの霊に導かれて、地獄・煉獄への旅に赴いた。「すべての希望を捨てよ」と記された地獄の門をくぐり、彼はこの世で際立った善も悪もなさないままにその生涯を終えた人々の魂が、天国から見放され、地獄から拒まれてさまよいつづけているのを見た。「死がこれほど多くの人びとを/亡ぼしたことに私はおどろいた。」(第3歌56‐57行、48ページ)。
 ウェルギリウスに導かれたダンテはいつの間にかアケローンの川を渡り、洗礼を受けずに死んだ幼児たちと、正しく生きたが信仰をもたなかった人々の魂の場であるリンボへとたどり着く。ウェルギリウス自身もその住人なのである。ウェルギリウスが帰還したことを知って、ギリシアの大詩人ホメーロスと、ローマの大詩人ホラーティウス、オウィディウス、ルーカーヌスの魂が迎えにやってくる。ダンテはこれらの詩人たちにその存在を認め、「彼らは私を彼らの列に迎え入れてくれた・・・/かくして私はかくも大いなる賢者たちの六番目に加わることとなった。」(第4歌101‐102行、68ページ)

第4歌(続き)
 6人は詩と文学について談笑しながら歩んだが、それはこの叙事詩の主題から外れる内容だとして、ダンテは語らない。
 我々が到ったのは高貴な城のふもとで
高い城壁が七重にこれを囲んでいて
周りには美しい小川が流れていた。
 この川を地面ででもあるかのようにわれわれは渡り、
七つの門からこの賢人たちと中に入って、
緑したたる芝草の野原にたどりついた。
(106‐111行、68ページ)

 「高い城壁」で囲まれた「高貴な城」というのは、知恵によって囲まれた人間の心の寓意表現だそうである。「七重」の7は、7つの丘に囲まれたローマを連想させ、また古代から中世にかけての学問の基礎となった七自由学芸(文法、弁証法、修辞学、算術、幾何、音楽、天文学)を意味すると同時に、四大徳(思慮深さ、正義、意志の堅固さ、自制心)と三大知(知性・学知・叡智)を象徴しているという。これらが心を守っている。「美しい小川」は現世の空しさ、はかなさを表している。
 ローマの七つの丘(ラテン語でSeptem Montes Romae,イタリア語でi sette colli di Roma)というのは歴史的に変遷しているそうだが、ローマ以外に(私の知る限りで)7つの丘があるといっている都市にはエディンバラとリスボンがある。
 リンボのこの城館には七つの門(のうちのどれか一つ)を通って入るが、この七つの門は七自由学芸を指すと注記されている。なおオイディプース伝説などの神話で知られる古代ギリシアの都市国家テーベ(Θηβαι:Thebai, 英語ではThebes)は七つの門をもつ都市として知られる。エジプト新王国時代の首都となった都市はギリシア人たちによってテーベと呼ばれ、ギリシアのテーベが「七つの門のテーベ」、エジプトの方は「百の門のテーベ」と区別された。ルイ14世の孫ブルゴーニュ公ルイの教育係を務めたフェヌロン(Fénelon, 1651‐1715)がそのルイのために、ギリシア神話から題材をとって書き下ろした物語『テレマックの冒険』の中に百の門のテーベのことが記されている。

 そこには眼差しの落ち着いた静かな人々がいた。
彼らの姿には威厳があふれ、
ゆったりと話すその声はやさしく、穏やかだった。
(112‐114行、68ページ) そのような姿や態度から、これらの魂の偉大さが見てとれた。「偉大なるたましいたちが私に指し示されたが/見るだけで私は身内が熱くなるのを感じた。」(119‐120行、69ページ) イタリア人たちの先祖(だと信じられていた)トロイアの英雄たち、トロイアから逃れてラティウムの土地に植民したアエネーイアース、そして先住民たちの英雄、ローマ共和政時代の人々、「眼光炯々とした将軍カエサル」(123行、69ページ、ダンテが最も尊敬した政治家だそうである)の姿があった。ここでダンテが取り上げているのはイタリア人の先祖たちであり、だから「身内が熱くなる」のであるが、移住者たちと先住者たちを区別せず、また男女を区別せず、偉大な魂は同等に取り上げているのが注目される。またダンテが支持した十字軍に敵対したイスラーム教徒の英雄サラディーンがこの列に加わっているのも注目してよい。
  
 そして、そこから少し離れたところに哲学者たちの集団が座っていた。その中心にいるのはアリストテレースであり、そのすぐ近くにソークラテースとプラトーンがいた。(このあたりにダンテの哲学についての見方がうかがわれる。) そして、古代の有名な学者たちが並んでいたが、ここでもイスラームの学者であるアヴィケンナとアヴェロエスの名が挙げられていることが注目される。学者たちの業績について説明するには紙幅が足りないとダンテは嘆く。
 六人の仲間は二組に分かれ
賢明な指導者[ウェルギリウス]は私を他の道に連れて行き
静けさ[高貴な城]を去ると、また空気がうち顫えるところに出た。
 そして光ひとつ射さない場所に来たのだった。
(148‐151行、70ページ)
 こうしてダンテのリンボ訪問は終わる。古典古代、および「異教徒」の世界についてのダンテの理解は不十分ではあったが、その限界の範囲内で、彼がその人間の業績についての公正で的確な判断を行おうとしていることがわかる。リンボでの経験をうたった第4歌は終わり、いよいよ本格的な(という言い方も変だが)地獄の旅が始まる。
 
 

『太平記』(234)

10月29日(月)晴れ

 南朝の勢力が衰え、武家は公家を軽んじたため、北朝の朝儀も廃れた。とくに佐々木導誉は、些細ないさかいから延暦寺の門跡寺院である妙法院を焼き討ちにするという暴挙に及んだ。延暦寺の強訴によって、道誉は上総に流されたが、その配流の道行きは、物見遊山にでも行くような言語道断なものだった。そのころ、白河院の創建になる朝廷の勅願寺である法勝寺が炎上するという不吉な前兆があった。

 康永3年(南朝興国5年、1344)8月9日から吉野の先帝(=後醍醐天皇)が御病気になられ、次第に病状が重くなって、どんな薬を飲んでも回復することなく、手の施しようがないという状態になった。
 帝の衰え方がひどく、晏駕(あんが=天子の遅いお出ましという意味で、その死去を忌んで遠回しにいう言葉)の時が近づいていることが明らかになったので、忠雲僧正が帝の枕元に近づいて、涙ながらに次のように申し上げた。「皇室の勢威が回復され、皇統の流れが正しくなる時が来れば、神仏を大いに尊崇されることになるだろうと、頼もしく思ってまいりましたが、医師たちの申すところでは、ご回復の見込みはないようです。帝がこの位にお着きになったのは前世の善行のためですが、その日々も終わろうとしています。今は仏の道を歩むことだけをお考え下さい。臨終のときに何をお考えになるかにより、衆生が輪廻する迷いの世界に再び生まれ変わるかどうかということが決まると経文にも書いてあります。それでお亡くなりになった後のために言い残すべきこと、心残りだと思われていることをみな仰せになって、その後はただひたすらに来世の極楽往生のことだけをお考え下さい。」

 これに対して後醍醐帝は、「妻子珍宝及王位、臨命終時不随者」(妻子も宝物も王位も、死ぬときには持って行けない。「大方等大集経」虚空蔵品の偈の一句)、これは釈迦如来の仰せになった金言であり、常日頃から私が心に思っていたことである。それで中国の春秋時代の秦の穆公のように旧臣を含めて大勢の殉死者を道連れにすること、秦の始皇帝のように多くの宝物をその陵に副葬させることは、私の望むところではない。ただ未来永劫にどうしても忘れられないことは、朝敵を滅ぼして、天下泰平を実現することである。私が命を終えた後は、八の宮(義良親王⇒後村上帝)を即位させ、その下で忠臣賢士が世の中のことを取り仕切り、(新田)義貞、(その弟の脇屋)義助が忠義を尽くして立ててきた功業を賞賛し、その子孫に不義の行ないがなければ、股肱之臣として天下の平定にあたらせるべきである。このことを思うがゆえに、私の身体は吉野山のなかで苔に埋められることになっても、魂は北方(京都)の皇居を見ていたいと思う。もし私のこの命令に背き、義を軽んじるようなことがあれば、天皇に皇位を継承する資格はないし、臣下の者は忠烈の真とは言えない」と詳しいお言葉を残されて、左のお手には法華経の五の巻(=提婆達多品)をお持ちになり、右のお手には剣をお持ちになって、8月16日の丑の刻(午前2時ごろ)に、御年52歳で、ついに崩御された。

 悲しいかな、天子の位は空の最も高いところにある北極星のようなものであり、その周囲を星が取り巻いて回っているように、百官がお仕えしているのだが、冥土への旅にお供する臣下の者は一人もいない。南朝の朝廷がおかれている吉野の山は都から遠く、多数の武士たちが集まっているとはいえ、煩悩の罪障が押し寄せてくるのを防ぎとめる兵というのは全くなかった。ただ川の中ほどで舟が沈み、波に漂うひょうたん一つしか頼る物がないような不安な、あるいは灯火の消えた深夜に外の雨に向き合うような暗澹たる気持ちである。

 葬礼のことについては、かねてから御遺勅を残されていたので、臨終のお姿のまま、柩の厚みを持たせ、お座りになった姿勢で、吉野山の麓、金峯山寺の本堂である蔵王堂の北東の林の奥に円丘を高く築いて、京都の方角である北向きに葬った。人のいない寂莫とした山のなか、鳥の啼き声を聞きながら、日が暮れてゆくのを見送る。墓は高い草に覆われて墓への小径は尽き、涙も尽きて出ないが、悲しみが尽きることはない。重臣たちや后妃たちの涙は尽きることなく、この世を去った帝のことを思って天を仰いでいた。そして帝の陵に吹き寄せる風に朝から夜まで、先帝との儚い別れを悲しんだのであった。

 物語を通じての最重要人物の一人である後醍醐帝が亡くなられた。崩御される際のご様子、葬送のしかたなど異例ずくめである。今は亡き網野善彦さんが後醍醐帝をめぐり、『異形の王権』という書物を書かれているが、まさにそんな感じである。実は後醍醐帝が崩御されたのは、『太平記』が記しているよりも早く、暦応2年(南朝延元4年、1339)のことだと注記されている。『太平記』は法勝寺の焼失が後醍醐帝崩御の前兆であったかのように書いているが、崩御の方が消失よりも先の出来事なのである。それから、後醍醐帝について「先帝」という言い方をしているし、「康永3年」と北朝年号を使用して日時を記しているのだから、この書物が一方的に南朝びいきの性格をもつとは言えないのである。もっとも、お読みになってわかるように、後醍醐帝とその周辺の人々に対して、かなり同情的な書き方になっていることも確かである。

 私が私立小学校に通っていたことは別のところで書いたことがあるが、その学校では5年生の終わり、6年生になる前の春休みに京都・奈良・吉野・高野山・伊勢神宮などを回る旅行をする習わしになっていた。その際に後醍醐帝の陵を見たことを覚えているが、その後、一度も陵の拝観どころか、吉野に出かけたことさえないのである。
 旅行に出かける前に、校長だった先生が行き先の寺社や旧跡について解説されて、予備知識を与えていただいた。その際に「歌書よりも軍書に悲し吉野山」という句を教わった。その時は、だれの句だったかまでは教えられなかったのだが、この句が耳に残り、後で、芭蕉の弟子の各務支考のものだと知った。同じ芭蕉の弟子でも、宝井其角の「平家なり太平記には月も見ず」とは対照的だと、いつも思っている。 

日記抄(10月22日~28日)

10月28日(日)晴れ、気温上昇

 10月22日から本日までの間に経験したこと、考えたこと、これまでの記事の補遺・訂正等:

10月22日
 『朝日』の朝刊に掲載された「百貨店の灯 消したくない」という投書を読んで、新潟市の大和百貨店がすでに閉店し、三越が閉店しようとしていることを知った(伊勢丹はまだ存続しているのだろうか?)。むかし新潟市に住んでいて、この両百貨店を利用したことのある人間としてさびしい。
 『日経』1面のコラム『春秋』欄では、流行歌の歌詞に固有名詞を紛れ込ませることの効果から、アメリカの百貨店チェーンであるシアーズの破綻について議論を展開している。議論はともあれ、都心の百貨店が流行の発信地ではなくなってしまっているということは否定できない。

 『朝日』の朝刊で性教育についての特集記事を組んでいる。児童生徒個人個人の発達の状態、家庭環境、地域社会の影響、それに価値観の違いなどが反映して画一的な指導の難しい領域である。そこへ「正しい」性教育などと画一性を持ち込もうとするからますます話が混乱するのである。私見では、できるだけ自由化して、各個人個人の違いに対応した指導ができるようにするのが望ましい。教師だってそれなりの経験を積んでいるわけだから、もっと現場の判断を重視すべきである。

 同じく『朝日』朝刊に映画界における女性の発言力の拡大を扱った記事が出ているが、その中の「日本の女性監督の作品」の選び方がかなり恣意的なのが気になった。女性監督と言えば、まず田中絹代の活動が無視できないはずだし、浜野佐知の作品が紹介されていないのも気になるところである。

 NHKラジオ『高校講座 現代文』で黒田三郎(1919‐80)の「そこに一つの席が」という詩を取り上げていた。黒田は戦後の詩壇に大きな足跡を残した『荒地』グループの一員であったが、長くNHKに務めていた。NHKと言えば、鈴木志郎康(1935‐)もNHKのカメラマンをしていた時代があった。詩人でNHKに務めていたという人は探せばもっといるかもしれない。黒田の詩をここで取り上げたのは、まさか彼がNHKの職員だったからではなかろうね。

10月23日
 元号が明治になった日付に因み、政府が「明治150年記念式典」を開催した。元号が明治になった時点では公式の暦は天保暦で、現行の暦とは違っていたはずだが、そこまで考えているのかどうか。ちなみに今年は大正107年、昭和93年でもある。私は昭和生まれ、私の父母は2人とも大正生まれで、しばしば登場する私の伯母は明治の末年に生まれて大正と昭和を生きながらえ、平成に死んだ。
 「降る雪や明治は遠くなりにけり」というのは、中村草田男(1901‐83)が1931年に大雪が降った際に母校である小学校を訪問して作った句だそうである。草田男がこの句を詠んだのは昭和6年であるから、大正は既に過ぎている。「大正は哀れ愛してちょうだいな」という川柳をどこかで見かけたことがあるが、だれの作品かわからない。むしろ「大正にデモクラシーの誇りあり」くらいの方がいいのではないかと思う。昭和という年号を織り込んだ俳句もしくは川柳を実感を以て詠むことができるようになるのは、平成が終わった後のことになりそうだ。

10月24日
 NHKラジオ『遠山顕の英会話楽習』の「今月の歌」はドリス・デイの”Que Sera Sera"を取り上げた。子どもの頃から歌詞はうろ覚えながらなじんできた歌である。自分が小さかった頃、将来はどうなるのとママにきいた。母親はケ・セラ・セラ、なるようになると答えた。自分が大人になって、恋人ができて、恋人に将来はどうなるかと聞いた。恋人はケ・セラ・セラ、なるようになると答えた。自分にも子どもができて、その子どもが私に尋ねる。将来はどうなるのだろう。私は答える、ケ・セラ・セラ・・・・。ユーモラスで楽天的な歌である。番組中でも触れられていたように、この歌はアルフレッド・ヒッチコックの『知りすぎた男』(The Man Who Knew Too Much)の中で歌われる。作品中でドリス・デイが歌う場面は、きわめて緊迫した場面で歌と場面とのギャップが効果的である。詳しくは映画をご覧ください。遠山さんの説明によるとQue sera seraはスペイン語やイタリア語をベースにした英語表現だとのことである。

10月25日
 NHKラジオ『実践ビジネス英語』の”Quote...Unquote"のコーナーで紹介された言葉:
There are two types of knowledge. One is knowing a thing. The other is knowing where to find it.
---- Samuel Johnson (English lexicographer and author, 1709 -84)
「知識には2つのタイプがある。1つは、物事を知っていること。もう1つは、それをどこで見つけるかを知っていることである。」
 サミュエル・ジョンソンが政府の助けなどを借りず、独力で辞書を作り上げる話は加島祥造『英語の辞書の話』に詳しい。上記の警句もこの書物の中で紹介されている。そういえば、『ナイルに死す』など推理小説の翻訳家としても知られる加島は、『荒地』に属する詩人でもある(最近は「タオ」関係の著書でもっぱら知られているようだ)。ついでながら、私が目標とする詩人を2人挙げると加島祥造と城米彦造である。
 サッカリーの『虚栄の市』は1810年代の初めに、そのヒロインたち、ベッキー・シャープとアミーリア・セドリがロンドンのチbekki-haジック・モールの女子アカデミー(これは架空の学校だが、当時の水準としては一流の学校という設定である)を出ていくところから始まる。アカデミーの校長であるピンカトン女史はジョンソン博士の友人であり、卒業生にはジョンソンの辞書を与えてきた。アミーリアは、この辞書を受け取るのだが、ベッキーには与えられない。ピンカトン女史の妹のジマイマが温情を見せて、こっそりベッキーに辞書を与えるが、ベッキーの方はそれを庭に投げ返す。ベッキーとアミーリアのその後の人生を象徴するような出だしである。
 なぜ、アミーリアとベッキーが差別されているかというと、アミーリアは高額の授業料・寄宿料を払う生徒であったのに対し、ベッキーは年季契約生徒で、寄宿代は無料、それどころか教師の手伝いをして手当をもらうという存在だったからである。そしてベッキーはガヴァネス(住み込みの家庭教師)となる道を選んで、学校を出ようとしているからでもある。もう一つ興味深いのが、この辞書が2ポンド9ペンスで売られていたということで、当時の英国の知的な水準がいかに高かったかということを示すものであろう。

10月26日
 NHK高校講座を『古典』(古文:『徒然草』第186段)、『倫理』(哲学すること――旅立ちの準備)と聴き続け、『国語総合』(『今鏡』)に到ってようやく、手ごたえを感じることができた。
 『今鏡』は『栄花物語』、『大鏡』、『水鏡』、『増鏡』とともに歴史物語に分類される。(『大鏡』、『今鏡』、『水鏡』、『増鏡』を<四鏡>と言い、『水鏡』を除いた3書を<三鏡>と称する。歴史物語は今日でいえば歴史小説に相当し、歴史的な事実に基づいて展開される文学作品であるが、説話集的な性格も持っている。(歴史書や軍記物語も、この説話集的な性格と無縁ではない。) 
 実は『大鏡』『水鏡』『増鏡』は読破しているが、『今鏡』はなかなか読むことができない。岩波文庫、講談社学術文庫に入っていたから、古本屋で探せば手に入るはずだが、それだけの時間的・精神的余裕がない(ネットで読むことはできる)。それで、今回の放送は、その中の「用光と白波」という部分を読んだだけなのだが、それでも面白かった。用光は篳篥(ひちりき)の名人で、白波は盗賊のこと、ここでは篳篥の名人が「沖の白波」=海賊に襲われたが、芸のために逃れることができただけでなく、海賊から礼物まで受け取ったという話である。

10月27日
 朝刊に今年の秋の文化勲章受章者・文化功労者が掲載されていた。文化勲章を受章された方々の中に、一度お目にかかったことがある作曲家の一柳慧さんの名があった。また、功労者の中に私の学生・大学院生時代の先生の1人がいる。私の同期生で、既に功労者に選ばれたのが1人いて、理科系と文科系とではこのような場合の評価がかくも違うものかということを考えさせられる。

 『日経』朝刊のコラム「春秋」で菅野仁『友だち幻想』のことが取り上げられていた。「友だち100人できるかな…」という歌詞に代表されるような友だち幻想→同調圧力が学校生活をかえって重苦しくしているのではないかという。言葉狩をするつもりはないが、「友だち百人は」現実的にも無理である。(そもそも、1学年どころか、全学年を集めても100人に満たない学校だってある。) 「どもだちたくさん」とか、「友だち何人」とか歌詞を変更して歌う方がいいのではないか。

 神奈川県のチーム同士の対決となったサッカーのルヴァン杯決勝で湘南ベルマーレが1-0で横浜F・マリノスを破り初優勝を飾った。優勝おめでとう! そして横浜FCもいつの日か。

10月28日
 『朝日』の朝刊の「日曜におもう」のコーナーで曽我豪さんが「原敬内閣100年 刻まれた執念」として明治憲法下で最初の政党内閣を組織した原敬の政治的な業績をたどっている。自民党の最初の総裁であった鳩山一郎が尊敬する政治家の1人に原敬をあげていたが(『日経』の名物連載「私の履歴書」の最初に登場したのが鳩山である)、現在の自民党は自分たちが自由党、政友会の政治的遺産の継承者であるという自覚がないらしい。
 ところで、この文章によると原は身近なところにあった紙にメモを書きつけて、休日にそれをまとめて日記を記しており、暗殺される前の10日間については便箋に記されたメモが残るだけだそうだ。いったんメモを取っておいて、それから日記を書く人は少なくない(実は私もそうである)。

 上記と対応するかのように、『日経』のコラム「政界風見鶏」は「長期政権『期待先行』の限界」という木村孝子記者の文章を載せている。難しい問題に誠心誠意取り組んでいるという姿勢を見せることで、国民の期待を支持に変えて長期政権を維持してきた安倍政権であるが、そろそろその限界が見えてきたのではないかという。

 『日経』の日曜特集「NIKKEI The STYLE」では「文学とシネマの迷い道」として函館出身の作家たち(長谷川海太郎、久生十蘭、水谷準の不良トリオ、石川啄木、亀井勝一郎、辻仁成、佐藤泰志)と、函館を舞台とした映画作品(佐藤泰原作の『海炭市叙景』(熊切和嘉監督)など)が紹介されている。「絵になる日常 映画の冒険 モダニズム香る 幻想の舞台」と見出し活字が掲げられている。それはそれでいいが、函館は北島三郎さんの故郷でもあると突っ込みを入れたくなるところがある。

 同じく「名作コンシェルジュ」ではフィリップ・ド・ブロカ監督の『まぼろしの市街戦』を取り上げ、「戦争に潜む狂気 ブラックに問う」とまとめている。この作品の脚本を書いたのがダニエル・ブーランジェであることを書いているが、ブーランジェは俳優でもあり、作品中に姿を見せていることにも触れてほしかった。フランソワ・トリュフォー監督、ジャンヌ・モロー主演の『黒衣の花嫁』にも出演していて、特徴のある容貌なので、すぐわかるはずである。この映画には主演のアラン・ベイツのほかに、のちにハリウッドに進出したフランス系カナダ人女優のジュヌヴィエーヴ・ビュジョルドが初々しい姿を見せている。実はこの女優さんが好きなのである。

 本日の『日経』は映画ファンには大サービスの号で、「山中貞雄と戦争の足音(中)」という記事では、山中の『河内山宗俊』を取り上げている。この作品は見たことがあるが、いまひとつ作品の評価の高さがぴんと来ないところがある。紙面にはこの映画の河原崎長十郎、原節子、中村翫右衛門の3人が登場する場面のスチル写真が掲載されている。まだ15歳くらいだったはずの原節子が大人びて見えるのが印象に残る。

 横浜FCはアウェーで徳島ヴォルティスと対戦、後半に戸島選手のゴールで挙げた1点を守って1‐0で勝利し、J1昇格に望みをつないだ。さらに横浜FCシーガルズは味の素スタジアム西で行われたスフィーダ世田谷戦で大瀧選手、橘選手が得点を挙げて、2‐1で勝利し、なでしこリーグ1部昇格のための入れ替え戦出場を決めた。また1051回のミニトトAを当てた。三重の喜びである。 

愛川晶『黄金餅殺人事件――昭和稲荷町らくご探偵』

10月27日(土)昨夜半に雨が降ったが、目を覚ましてみると晴天が広がっていた。気温も上昇。夜になると冷え込むかもしれないから気をつけなければ…。

 10月26日、愛川晶『黄金餅殺人事件――昭和稲荷町らくご探偵』(中公文庫)を読み終える。
 落語も推理小説も好きなので、両者を組み合わせた作品はできるだけ読むようにしている。それでも見落としはあるので、「神田紅梅亭寄席物帳」シリーズ、「神楽坂倶楽部」シリーズなどの落語ミステリを書いてきたという愛川さんの作品はこれまで1作も読んでいなかったが、この作品を読んで、今後新作を楽しみに待つ作家が1人増えたことを喜んでいる次第である。

 5代目古今亭志ん生(1890-1973)が没して6年目ということになっているから、昭和54(1979)年のことらしい。桃寿亭龍喜は33歳、桃寿亭龍鶴師匠に入門して13年目。再来月には真打昇進が決まっている。3月1日、神楽坂倶楽部の上席の初日。折からの雪で客足が悪く、それどころか寄席までたどり着けない出演者が続出。この上席で昼の部のトリを務めるのが師匠の龍鶴であるために、最初口(さらくち=前座の次に上がる出演者)として楽屋に入っていた龍喜は、万一の場合に対応するための「ヨビ」の二つ目が来られなくなってしまったために、その役割も引き受け、さらに楽屋に3人いるはずの前座のうち、最もキャリアが長く、進行を担当する立て前座もやはり来られなくなったため、そちらの方の手伝いもする羽目になった。

 予定された番組は乱れに乱れたものの、何とか中入り休憩も済ませ、昼の部の主任(トリ)の一つ前のところまでこぎつけた。「東京の寄席ではトリより一つ前の出番を『ヒザ』とか『膝代わり』と呼び、通常は漫才や音曲、太神楽など、いわゆる色物の芸人が高座に上がるのだが、今日は異例の形になってしまった。」(22ページ) 異例も異例、高座に上がっているのは8代目林家正蔵師匠。「人情噺や怪談話を得意とする昭和の名人の1人で、歌舞伎と同様の書き割りや三味線、太鼓などの鳴り物を用いた道具入り芝居噺の唯一の継承者でもある」(17ページ)。

 客席にいるのはわずか7人。そのうち4人は近くにある大学の学生らしい。正蔵の「語る口調はゆったりとしているが、めりはりが利いているため、若い世代のファンも多く、特に大学の落語研究会の学生には絶大な人気を誇っていた。芸の幅が広く、珍しい噺を多くもっているせいだろう。」(19ページ) 次の演者(つまりトリを務める龍鶴)が来るまで時間を持たせるのがしきたりであるが、正蔵はマクラを振らずにいきなり本題に入った。何を話しはじめるのかと思ったら、「やかん」、伸縮自在な噺で、切る場所によって演目名が変わり、最後のサゲまで演じれば「やかん」、途中までの場合を「無学者」と呼ぶ。

 この寄席の席亭が体調を崩しているので、「若旦那」と呼ばれる長男が取り仕切っていて、いつもは立て前座にすべてを任せているのだが、本日は緊急事態というので楽屋に詰めている。万一の事態に備えて、正蔵師匠に「代理撥ね」(略してダイバネ、トリ以外の演者が終演を行うこと)を依頼して、了承を得ているのだが、龍鶴の弟子の龍喜としては、そんなことにならないよう、早く師匠が到着することを願うのみである…。やっと、龍鶴が到着する。到着したという合図に、正蔵が高座の袖に放った羽織を引き寄せる。おあとが到着したという合図である。

 高座に上がろうと着替えた師匠の龍鶴を見て、龍喜は眼を見張る。龍鶴はめったに着ることのない黒紋付を着ている。そして、龍喜に向かって今日の自分の高座をちゃんと聞いておけという。どうもいつもにないことである。ありふれた滑稽話しか高座にかけることのない龍鶴がどんな風の吹き回しでこんなことをいうのか。しかし、正蔵に代わって、龍鶴が高座にあがったとき、落語研究会のメンバーだったらしい学生4人はひきあげてしまった。そんな中、龍鶴は客席に向かい、ちょいと珍しい噺を聞いていただきたいという。話しはじめたのは『黄金餅』である。

 龍鶴が『黄金餅』を高座にかけたのを聞くのは初めてであるだけでなく、その噺の中身がよく知られている5代目古今亭志ん生の口演とは異なっている。主人公の名前、その隣に住んでいる乞食坊主の名前、登場する地名、それぞれ違っている。とにかく、自分が知っている『黄金餅』とは違う展開なので、龍喜はいったい誰の型なんだろう? どの師匠に教わった噺なのだろうと疑問に思う。ところが、雪がいよいよ激しくなり、観客がみんな引き上げてしまう。無人になっては話を続けるわけにもいかない…。

 というところから、龍喜は師匠である龍鶴の一身上のトラブルと、そこから派生した事件に巻き込まれる。東北出身であまり器用ではない龍喜は、1歳年下の弟弟子龍丈に真打昇進で先を越されている。真打昇進と同時に師匠の前名の小龍鶴を襲名することになってはいるが、龍鶴を襲名するのは自分よりも実力が上の龍丈だろうと思うと、心安らかではない。黄金餅の謎、龍鶴師匠をめぐるトラブル、そして龍鶴の名をだれが継ぐのか、これらがもつれ合いながら物語が進行していく…あとは読んでのお楽しみ…ということにしておこう。昨日の当ブログでも書いたように、稲荷町の師匠こと8代目の林家正蔵が鮮やかな座布団探偵ぶりを見せる…というのと、この噺には、私がここまで書いたあらすじのさらに外の枠があるということを付け加えておこう。

 この小説に登場する正蔵は「無学者は論に負けず、無法は腕ずくに負けず」という古いことわざを引いてから、噺に入っているだけでなく、話の締めくくりにも「無学者は論に負けず」を繰り返している。「根岸」の尊称のほか、「やかんの先生」とも呼ばれた3代目三遊亭金馬はその名にたがわず(頭にもたがわず)「やかん」を得意としていて、話の最後にこの「無学者は論に負けず」を持ってきて締めくくっていたのを思い出す。正蔵の「やかん」を聞いたのは、一度だけ、それも戦前に録音されたレコードをラジオで放送した時のことだけである。

 もう60年くらい昔になるが、横浜駅西口の相鉄名品街(今のJOINUS)にあった寄席で、8代目正蔵の高座を聞いた記憶がある。正蔵一座というよりも、トンガリ馬楽一座という方が通りがいいようだが、その一員であった音曲の柳家小半治も高座に上がっていたという記憶があり、小半治は昭和34(1959)年に没しているから、それ以前のはずだが、どうももっと後だったように思われる。とすると、私が見たのは小半治以外の音曲芸人だったのかもしれず、真相は藪の中である。円生一門だがあまり師匠から可愛がられていなかったというさん生(現在の川柳川柳師匠)が一座に加わっていて、『ジャズ息子』の原型になる噺(どうも記憶が定かではないが、「エチュードナンバーワン」というような名前だったと思う)をやっていたのも貴重な記憶である。
 

心学三題噺

10月26日(金)曇り

 10月26日は、1977年にこの世を去った私の父の誕生日である。61歳でまだ会社勤めをしていたが、昼食休み中に倒れて死んだ。生きていれば103歳である。その父の姉である私の伯母は100歳を超えて生きていたが、晩年は認知症で、施設に入っていた。現在の私は73歳で、両者の中間の年齢である。いろいろと複雑な思いが胸中を去来している(何を書いていいのかわからないから、難しい言葉を使ってごまかしている⁉)・・・。

 10月25日、愛川昭『黄金餅殺人事件――昭和稲荷町らくご探偵』(中公文庫)を読み終えた。
 本日(10月26日)の『日経』に心学明誠舎理事長である堀井良殷(よしたね)さんが「心学が説く商人の道」という文章を寄稿されていた。その中に、心学明誠舎の理事で近畿大学教授であった竹中靖一(1906‐86)氏について触れられていた。実は竹中氏は非常勤講師として京都大学でも講義をされており、その授業に途中まで出席していた記憶がある。ついでに言うと、竹中氏はその講義の中で、江戸時代の心学者である柴田鳩翁(1783‐1839)の曽孫である日本史学者・京都大学(名誉)教授であった柴田実(1906‐97)先生についても言及していたが、その柴田先生の授業も2つほど聴講して、優と良を頂いた。
 同じ『日経』のスポーツ欄に、横浜FCの三浦知良選手が書いている「サッカー人として」というコラムにちょっと気になることが書いてあった。(『日経』のスポーツ欄のコラム、特に権藤博さんと三浦選手が担当する回は、注目すべき発言が見られることが多いので、見逃せないのである。)
 この3つを材料にして三題噺をでっちあげようというのが今回のたくらみである。

 教師と学生(生徒)の年齢差は20~30歳くらい開いているのが一番適切であると外山滋比古さんが書いているのを読んだことがある。つまり一世代、親子くらいの年齢差である。これには異論もあるし、この範囲外の年齢差であっても実際に教育活動は行われているのだから、絶対視するわけにはいかないが、私自身の経験から言っても、50代前半くらいまでは大学生の興味をつなぎとめる講義はできたが、60代になると難しくなったのを実感したという経験がある。なぜ、こんなことを書いたのかというと、親子以上に年が離れている柴田先生や竹中氏の授業はつまらなかったという印象がいまだに残っているからである。

 お二人が、立派な研究者であったことは、その業績が現在も記憶されていることからも明らかである。柴田先生は心学の研究や民間信仰の研究で知られ、先生の書かれた御霊信仰についての本は私の本棚にも収まっている。しかし、柴田先生が担当された『史学概論』の内容は一つも覚えていない。また、柴田(日本)→西田太一郎(中国)→西村(インドネシア)→望田幸男(ヨーロッパ)のリレー式で行われた「世界史」の授業では、柴田先生の担当部分だけが記憶から完全に欠落している。先生のご研究の一端の原稿を棒読みしたって、少しは面白いはずなのだが、どうも講義は先生ご自身の研究とは別物だったような気がする。

 竹中氏の授業を途中でやめたのは、その頑固さに辟易したというのが主な理由である。もっともこっちもかなり生意気な学生だったのかもしれないと、今にして思う。氏の授業は雑談が多く、そのこと自体は悪いことではない。私も大学の教師になってから、雑談をよくやったし、学生から授業の本筋よりも雑談の方が面白いといわれたことが何度かある。竹中氏の場合は、授業の本筋の方が雑談よりもはるかに面白かったから悲劇である。
 竹中氏は心学の研究をしているくらいだから、庶民の心性史のようなことに関心があり、落語の話とか、歌謡曲の話とかいうのを授業にさしはさむ。そういうことに私も興味があるから聞き耳を立てるのだが、そこで開陳される意見というのが私の考えていることと逆なのである。例えば、上方落語の方が東京の落語よりも断然面白いという。1960年代の後半、昭和40年代の初めごろの話だから、これは客観的にみてかなり偏見に満ちた意見である。(現在の時点で言えば、「断然面白い」とは言えないが、上方落語の勢いは無視できないものがある。) 教師と学生の意見が違うことは悪いことではなく、むしろそこから新しい知見が導き出されるかもしれないから、いいことである。しかし、どうも反論を許さないような独断的な態度が目立つ。また、自分の大学に学生を集めるために、高校の先生たちを接待して酒を飲ませて…というような話を自慢そうに喋る(学生を相手に喋るような話ではない)。それやこれやで、私は授業の聴講をやめてしまったが、心学についての関心は残った(そこが竹中氏の学者としての徳のなせる業かもしれない)。

 心学というと、まず思い出すのは、6代目春風亭柳橋(1899-1979)などが得意としていた落語の「天災」に登場する、「何事も天災と思ってあきらめなさい」という「心学者」の紅羅坊菜丸(この字でいいのかな?)。この「訓え」が心学の趣旨に沿ったものかどうかは疑問ではあるが、江戸時代の特に後半に、心学が庶民の間にいかに普及していたかということを知る手掛かりにはなるだろう。
 心学は石田梅巌(1685‐1744)を開祖とする(したがって石門心学ともいう)、庶民向けの平易な道徳思想で、梅巌自身は儒学を基本としていたようであるが、仏教やその他の教えも取り入れてわかりやすく、実践しやすい形で広められた。

 堀井さんの文章は企業の経営において心学の精神の果たしうる役割を強調するものである。当然、竹中氏の『石門心学の経済思想』は読んでいると思うのだが、その内容についての紹介はない。私が聴講をやめてから、本題に入ったのかもしれないが、竹中氏が、近・現代の日本の経営思想と心学の関係をどのように考えていたのかは知らずじまいになっている。
 日本の近代化の過程で、心学が果たした社会的な役割に注目したのが、アメリカの社会学者ロバート・二ーリー・ベラ―(Robert Neelly Bellah, 1927-2013)で、彼の『徳川時代の宗教』(Tokugawa Religion, 1957)である。「非西欧諸国の中で日本だけが、近代産業国家として自らを変革するために、西欧文化から必要とするものを全く急速に摂取した。この成功は…前近代の時代において、すでに後の発展の基礎を準備したいくつかの要素によるもの」(ベラー『徳川時代の宗教』、35ページ)だと考える学者が増えている。ベラーはマックス・ヴェーバーに倣って、宗教と近代の経済の関係についての考察を試みる。そこで問題になるのは「日本の宗教のうちで、何がプロテスタントの倫理と機能的に類似しているのかということである」(同上)という。

 ベラーは心学について、「経済的には勤勉と倹約を強化し、生産を評価し、消費を小さく見た。さらにそれは、正直の普遍主義的な水準と契約の尊重を主張し、これらを宗教的に強めた。このようにして、それは、都市階級の間において、世俗の仕事に対し規律を持ち、実践的、持続的な態度の成長するのに寄与すると考えられたに違いなく、経済が産業化の過程に入るにあたって、企業家と労働者の両方にとって重要であった。」(ベラー、331-332ページ)という。このような機能は西欧社会におけるプロテスタンティズムに相応すると言いたいようである。

 日本の近代化の過程もその背景をなした思想・精神も複雑であったことをベラーは知っていたし、また彼の議論もそれほど単純なものではないが、議論をわかりやすくするためには無理にでも単純化しないといけない。ベラーは心学を通俗化・平易化された儒教の変種とみているようである。そして、中国や韓国では儒教が官僚になることのできる社会層にのみ行き渡っていたのに対し、日本では商人や農民にまで普及していたところに違いを見ている。その結果、日本の方が識字率が高くなり、勤勉に働き、節度ある生活を心がける人々も日本の方が多くなる。中国や韓国は儒教が普及しているから駄目だという議論をする外国人がいたが、話は逆である。日本の方が儒教が浸透していたから、近代化が早まったのである。(儒教といっても、中国と日本とではその内実が違い、どう違うかも問題ではあるのだが、この点についてもベラーはかなり詳しい議論を展開している。)

 心学に中国思想のより具体的な影響を見る研究者もいる。中国の明代、特に万暦帝時代に三教(儒教・道教・仏教)合一の思想が盛んになり、この思想に基づいて多くの(勧)善書(善行を進め、悪行を戒める書物)が書かれ、日本にも輸入され、広く読まれた。とくによく知られているのが袁黄(了凡)の『陰隲録』である。この本には盛んに「陰徳」という言葉が出てくる。陰徳を積んだ人にはよい報いがあるという議論が展開される。
 昔、講談社から出ていた『明治大正落語集成』は、明治・大正時代の雑誌『百花園』に掲載された落語の速記を集めたものであるが、その中に、人をほめる言葉として「陰徳家」という言葉が盛んに出てくる。陰徳とは、人の目につかないように善行をすることであるから、他人に「陰徳家」だといわれるようではまだ修行が足りないのではないかといいたくもなるが、このことは、明治・大正時代の日本に陰徳思想がかなり普及していたことを証拠立てるものではないかと思っている。陰徳思想と心学とは近い距離にあり、相互の影響関係を見ていくと面白いかもしれないと思う。

 ということで落語の話に戻り、心学者の紅羅坊菜丸は架空の人物であるが、稲荷町の師匠と呼ばれた8代目林家正蔵が演じていた「紫檀楼古木」は実在の人物であるという説もある。狂歌の宗匠でもともとは、煙管の羅宇(らお)問屋の主人だったのが零落して羅宇のすげ替えをして生計を立てている古木が、ある日羅宇のすげ替えをした家の御新造さんと狂歌のやりとりをするという噺で、もっと詳しい内容を知りたい方はご自分で検索してください。話の内容が内容であるだけに、名人級の落語家が演じないと面白くもなんともない。正蔵のライバルだった6代目三遊亭圓生もこの噺を手掛けているので聞き比べるのも面白いかもしれない。

 8代目林家正蔵の大ファン「正蔵オタク」を自任する愛川晶さんの『黄金餅殺人事件』は、その正蔵が安楽椅子探偵ならぬ座布団探偵として難事件を解決するという趣向の物語である。この本についてもっと詳しく書かないと「三題噺」にならないが、機会があったら独立で書くことにして、もう一つの話に移ることにする。

 私が柴田先生や竹中氏の授業がつまらないと思ったというのは、一種の生意気さの反映で学生時代というのはそういうことの繰り返しではないかと思う。それで最後に、三浦知良さんの話だが、大宮アルディージャと1‐1で引き分けた10月21日の試合について「サッカー通でない知人でも『見ていて面白かった』と言ってくれた。互いに譲れない、負けられないという緊迫感が伝わったんだろうな。」と書いている。この試合を私も見ていて、まったく「知人」の意見に同感なのだが、私の近くにいた中学生らしい男女の一団は、試合そっちのけでおしゃべりをしたり、スタジアム内を歩き回ったりでまったく試合を見ていなかった。三浦選手の「知人」が緊迫感を感じたのは、その「知人」の人生経験がモノを言ったのだろうが、まだ人生経験の浅い中学生たちはそういう緊迫感を感じることがなかったのであろう。そういう態度を叱っても暖簾に腕押しになるのは眼に見えている。彼らが自分たちの目先の気楽さに心を奪われて好試合を見る機会を逃したことを後悔するとは思われない。若さとはそういうものである。だが、ひょっとすると何かのはずみでそれまでは気づかなかった自分の失策に気づいて、後悔するかもしれない…それも若さの一面である。むしろそちらの方を期待したいのである。

 三題噺というのは3つの題材をうまく組み合わせて1つの話にまとめるものだが、なにか3つの話を書き連ねただけに終わってしまった。まだまだ修行が足りない。 

鳥飼玖美子『子どもの英語にどう向き合うか』(2)

10月25日(木)晴れ、気温上昇

 子どもと英語をめぐる環境は激変しているといってよいだろう。小学校における英語学習は2020年から教科となる。このことは子どもの側から見ると、成績の評価が行われるということであり、教師の側の負担も大きくなる。親として子どもの英語学習にどのように対処するか、どうも気にかかるという人は多いはずである。この本は小学校段階からの英語教育の導入に批判的な立場をとり続けてきた著者が、そのような人たちを対象として、子どもの認知発達と言語の問題や、日本における英語教育の歴史など様々な情報を織り込みながら、子どもの英語学習の問題点を取り出したものである。

 前回の繰り返しになるが、著者はカナダの学者であるカミンズの考え方を取り入れて、日常的な対人「会話力」と抽象的な内容を話すことのできる「学習言語力」とを区別している。この両者の落差は、一般に考えられているよりも大きい。「文部科学省の英語教育政策も「会話力」を目指しているので、『学習言語力』がつかないのではないか、だから成果が上がらないのではなにかと危惧しています。/大人になってから英語で仕事をするには、日常会話力だけでは不十分で、どうしても仕事にかかわる内容を理解し分析し発信する認知的枠組みと、それに見合う言語コミュニケーション能力が必要になり、それには「読む力」が不可欠です。」(33ページ)という。この「読む力」(あるいは「読解力」)が、最近、人間社会に大きな影響を与えはじめているAI(人工知能)に対応するのにも必要な力であるということが次に展開される議論の主な内容になる。今回は、この部分を紹介しながら、それにかかわって私の意見も述べていくことにしたいと思う。

 著者は次のように書いている:
「AIの進歩で自動翻訳機や、それに音声認識を加えた自動通訳機が発達してきています。日本政府も2020年の東京オリンピック・パラリンピックに備え、各言語での自動通訳機の開発を急いでいます。そうなると、政府が現在の中学3年生に求めている英検3級、高校3年生に求めている英検準2級くらいなら、AIがすべて訳してくれるので、時間とお金とエネルギーを使って子どもたちが英語を学習する必要はなくなりそうです。」(34ページ)
 現実には高校3年生の過半数が英検準2級の域に達していないようであるし、最近、新しい大学入学共通テストの導入に対応して東京大学が受験生に求めている最低限度の英語力はCEFR(ヨーロッパ言語共通参照枠)のA2(英検3級に相当すると考えられる)であることを考えても、自動翻訳機・自動通訳機の開発は火急の問題になっているように思われる。オリンピックの開催まであと20か月ほどになってみると、『基礎英語3』(あるいはそれ以上のレベルの番組)と『英会話タイム・トライアル』のテキストを買って勉強するのと、オリンピック開催間際になって自動翻訳機・通訳機を買うのと、どちらが得かはかなりスリリングな問題になってきている(現状では、テキストを買って勉強する方が安上がりだが、2020年7月ごろには、機械の値段が2万円を切っている可能性はかなり高い)。CEFRが語学力判定の客観的な基準として妥当であるかどうかということをめぐっても、鳥飼さんは批判をもっているようで(ここでは展開されていないが、『日経』にこの趣旨の論説を掲載している)あるが、それはさておいて、AIに何ができるか、それに対して、人間は何をなすべきかをもっと真剣に考えなければならないというのがここでの議論の道筋である。

 AIはコンピューターであり、膨大なデータを保存し学習し、そこから確率と統計に基づき「こうなる」という答えを出すものであって、そのためには、あらゆる事象を数字に置き換えて指示しなければならない。人間よりも速く処理できる問題もあるし、人間のほうが早く処理できる問題もある。多量のデータを統計的に解析することではAIのほうが勝っているが、弱点もある。万単位で教えられてようやく一を学ぶことが可能になる(もっともその万単位を学習する速度が人間よりもはるかに速い)。決められた枠組みの中でしか計算処理ができない。「ロボットは東大に入れるか」人工知能プロジェクトを始めた新井紀子さんによると、「人間にはかなわない弱点」を持つAIが担えない部分が「読解力を基盤とするコミュニケーション能力や理解力」だという。ところが、現実には、「日本の中高生の読解力」は危機的な状況にあると新井さんは指摘する。母語である日本語についての「読む力」である。

 新井さんが実際に行った中高生の「基礎的読解力」についての調査は中高の教科書と、有力新聞の科学面や小・中学生向けの記事を使ったテストを課すもので、その結果は「中学校を卒業する段階で、約3割が(内容理解を伴わない)表層的な読解もできない」「学力注意の高校でも、半数以上が内容理解を要する読解はできない」「進学率100パーセントの進学校でも、内容理解を要する読解問題の正答率は50パーセント強程度」というものであったという。
 もっとも私自身が「進学率100パーセントの進学校」の生徒だったころのことを思い出してみても、数学や理科の教科書についてその内容を読みこなしていたかどうかは疑問で、読解力のない50パーセント弱のほうに入っていた可能性はある。そうやって考えてみると、案外、これは想定の範囲内に収まる結果であるのかもしれない。生徒の読解力を問題にするよりも、ユニバーサル化した高校の教科書はもっと優しく書かれるべきだと主張するほうが正しい対応なのかもしれない。〔実際に、私の高校時代の化学の先生は、自分の使っている教科書が、主として女子校で使われているものであることを授業中自慢していた。教科書は難しければいいというものではないのである。どうも話が余計な方向に脱線した。〕 少なくとも、教科書の文章を吟味して難しすぎるものはやさしく書き換えていくことも必要であろう(もっとも、何が何だかわからないほど難しいものを読むのも勉強の内だという議論もあるだろうし、何を難しいと思い、何をやさしいと思うのかについても個人差があるから、そのあたりの判断が難しいのである。)

 残念ながら、読解力をつける処方箋というのは新井さんには見つけられなかったという話である。病状を指摘して、処方はしてくれないのでは医療行為としてはどうも問題ではあるが、新井さんも「精読」が効果があるらしいということは言っている。読書感想文のコンクールのようなことは盛んではあるが、読書の方法をめぐる議論というのはあまり聞かない。伝統的には三読法といって、本は一度斜め読みをしてから、精読し、それから改めて読んで内容を確認するというやり方が勧められている。しかし、そんなことをしている暇はないという人も多いので、一読総合法というのを考えた人がいるが、どのくらいの人が実践しているかどうかはわからない。このほか、必ずしも読書法というわけではないがSQ3R法というのもあって、何が主題(S)であるか、その主題をどのように論じているか(Q)を見極めて、読み、その内容を思い出し、最後に論評する(3R)というやり方がある。個人的にはこの最後の方法が気に入っていて、読んだ(Read)本についてまずその内容を思い出し(Recite)、そのあとでその批評(Review)をブログに書くことにしている。「読書百遍意自ずから通ず」というのは昔から言い古された言葉ではあるが、同じ本を何度か繰り返して読むのも効果的である。(何度か読み返した後、少し時間をおいてまた読み返すのがいい。) それから読んだ本について友人に話したり、手紙(あるいはメール)で意見を交換したりするのもいいかもしれない。とにかく、完全な読書というものはないから、いろいろやってみるほうがいい。

 もともとの本で4ページと少しという個所について、多くのことを書きすぎたようだ。「読む力」に加えて、もう一つ「意欲」あるいは動機づけが大事だと鳥飼さんはこの後に書いているのだが、その部分については、次回に触れることにする。この後に書き連ねているのは、付け足しの感想である。いずれ、その箇所に達すれば詳しく書くことになると思うが、鳥飼さんは英語教育と国語教育の連携の必要性についても、示唆となることを書いている。ただ、彼女の示唆だけでは不十分で、『日本語びいき』で清水由美さんが書いているので知ったが、「日本語教育と国語教育では文法用語に少し違いがあ」(清水、4ページ)る。実はこのあたりに一番の問題があるのではないかと思っている。国語をめぐる現行の「文部省文法」では日本語教育はもちろんのこと、外国語教育にも対応できないのではないかという気がしているのである。
 さらにまた、鳥飼さんは自動翻訳機・通訳機は英検準2級程度の英語なら対応できると書いているが、それ以上の英語力をもつ人にとって、翻訳機・通訳機は無用なものかというと、どうもそうではないような気がする。むかし樹木希林さんと岸本加世子さんがやっていたCMの文句ではないが、「よくできる人はますますできるようになり、そうでない人はそれなりに」ということになって、英語力の格差はますます大きくなるのではないか。つまり英語力の高い人は、補助的な道具としての翻訳機や通訳機の使い方を工夫して効率的に英語を使用していくだろうし、低い人は機械に頼ってしまって学習しないから差は広がるだろうということである。
 『TOEIC亡国論』の中で著者の猪浦道夫さんが、通訳は陸上の短距離、翻訳は長距離に相当し、別の訓練を必要とする別の能力であるという議論を展開していたのを興味深く読んだ。ガイドとか、英語の教師は中距離ということになるのかな、などとまぜっかえして読んだのだが、英語が必要だといっても、学習者がどのような職種について生計を立てるかによって、必要な英語力も、そのための勉強の仕方も異なるのである。そうしたすべてのことを、学校教育に求めるのは無理なことであって、学習者の自覚的な努力が必要で、それをどのように支援していくかというのが親や教師の考えるべきことである。

トマス・モア『ユートピア』(24)

10月24日(水)晴れ、気温上昇

 ユートピア人たちは人生の目的として幸福を求めているが、それは自分だけのもの、また一時的なものであっていいとは考えていない。自分以外の人々の幸福も同時に考えるべきである、他人に不利益を与えるようなやり方で自分の幸福を求めてはならないとするし、また魂は不滅であるから、永遠の幸福に通じるような生き方をすべきであると考えているとラファエルはいう。ユートピア人たちの宗教・道徳観についての彼の話は続く。

 彼らは個人の間の契約を守らなければならないと考えているだけでなく、「よい君主が公平な仕方で発布したものであるか、または僭主政によって圧迫されておらず欺瞞で縛られてもいない民衆が集まって、その合意によって承認したものであるか、(成立のしかたは)そのいずれであれ、快楽の素材たる生活必需品の分配に関して作られた公法も同様に守られねばなりません。」(168‐169ページ) モアは法律家であるから、慎重な表現をとっているが、要するに正当な手続きを以て制定された公法は守らなければならないというのである。ここで、彼が君主制のもとでの立法であっても、(独裁者、扇動者に影響されない)民主制のもとでの立法であっても手続きが正当であれば、守るべき法律であるとの考え方を述べているのは興味深い。目的は手段を正当化しない。正しい手続きを踏まずに成立させた法律は無効である。
 もっともそう思っても、実際には悪法や、不当な手続きによって法律を成立させた人々は、自分たちの警察権力、司法権力をもっているのが常であるから、正しくないと主張しても、処罰されたり、処刑されたりする結果を招く恐れがある。怖いことである。

 法律を遵守することに加えて、公共の福祉について考えることも市民としての義務である。自分自身の快楽を追求するあまり、他人の快楽を奪い取るのは明らかに不正である。自分の快楽を抑えて、他人の幸福に尽くすことは、自分が味わうはずだった快楽以上の快楽を与えてくれるのだとユートピア人たちは考えている。肉体的な快楽よりも精神的な快楽を上位に置くのが彼らの快楽観である。こういうわけでユートピア人たちは快楽と幸福の問題を熱心に考えているという。

 「快楽と彼らが呼んでいるのは、人がそこにたたずまうのを楽しむように自然の導きのおかげでしむけられているような、肉体と魂のすべての運動と状態です。」(170ページ) どうも何のことかわからない。ターナー訳では
Pleasure they define as any state or activity, physical or mental, which is naturally enjoyable. (Turner, Utopia, p.93) 彼らが快楽と定義しているのは自然に楽しめる、肉体的あるいは精神的な状態あるいは行動です。) つまり、無理をしたり、自分を偽ったりせずに楽しめるような行動もしくは状態だという。
 ラファエルは感覚だけでなく、正しい理性が求めるようなものこそが快楽であるという。そして華美な衣服を着用するというような虚栄心や、「空虚で無益な」(171ページ)敬意の表明としての礼儀作法、虚栄心などを批判する(話が彼の時代のヨーロッパと、真理の感想から生まれる甘美さをの社会の批判に戻っている)。

 すでに語られたようにユートピア人たちは宝石を貴重なものとは考えず、賭博を軽蔑し、狩猟を動物を虐待する不当な快楽であるとして退けられていると、ラファエルは語り、これは当時のヨーロッパの王侯貴族の趣味とは正反対であると付け加える。

 ではユートピア人たちは具体的にどのような状態や行動を快楽と考えているのであろうか。彼らは快楽を魂の快楽と肉体の快楽とに分ける。魂の快楽とは、知性の活動と、真理の観想から生まれる甘美さが数えられるという。さらに善い生活を送ったという甘美な記憶と、未来の幸福に対する疑いのない希望が加わるという。
 どうもこの列挙は不十分である。モアは頭のいい人だったから、それだけで満足してしまって、あまりこの問題を深く掘り下げなかったのではないかと思う。例えば、世界の古典といわれるような文学作品:『ドン・キホーテ』を読めば楽しいし、その一方で、『封神演義』のようなゲーム的な展開の面白さをもつ作品を読んでも楽しい。しかし両者の楽しさは異質のものである。『封神演義』の例を挙げてみたが、この作品を『西遊記』と比べてみても、『西遊記』の方がより高次の面白さをもっているというようなことはいえる。そして、そのように批評する楽しみというのも加わる。推理小説の犯人当てゲームなどの例を思い出しても、知的なゲームというのは結構奥が深いのである。さらに言えば、果たしてゲームに没頭するというのは、ユートピア人たちが求める快楽にあてはまるのかという問題も出てくる。

 これに対して肉体の快楽については、かなり詳しい議論がされている。一つは五感を通じて得られる快楽であり、もう一つは「肉体のゆったりとした調和のとれた状態」(176ページ)であるという。音楽を聴く楽しみは、五感を通じて得られる楽しみであるとともに、魂に働きかける楽しみでもある。モアは健康を快楽と考えているようだが、さらにスポーツをして得られる楽しみをどのように考えるのかという問題も残る。
 「ユートピア人のほとんど全部は、これ[健康]を大きな快楽である、すべての快楽のいわば基礎であり土台であるとしています。健康はそれだけで、人生環境を平穏な、望ましいものにしてくれ、それがなくなれば、だれにとっても快楽の余地は皆無になるからです。」(177ページ) しかし、世の中には生まれつき体の弱い人々もいるし、現在の日本のように高齢化が進むと、「健康寿命」というようなことも問題になってくる。健康を強調しすぎるのも問題であるかもしれない。

 ということで、さらに議論が続くのだが、今回はここまでにしておこう。モアがユートピアを基本的に健常者の世界として描いているというのは重要な着眼点かもしれないと思い始めている。

ダンテ・アリギエーリ(須賀敦子・藤谷道夫訳)『神曲 地獄篇(第1歌~第17歌)』(4‐2)

10月23日(火)朝のうちは雨が降っていたが、その後は曇り空が続いている。

 1300年4月4日(月)、ダンテは暗い森の中に迷いこむ。5日の朝、森から抜け出て、昇る朝日を見るが、豹・獅子・雌狼に行く手を遮られて、また森の中に戻される。そこへ現れたローマの詩人ウェルギリウスの霊に助けを求めるが、彼はダンテが彼に従って地獄と煉獄を、また「よりふさわしい魂」に導かれて天国を訪問することが彼の使命であると告げる。(第1歌)
 いったんは旅立とうと決意したダンテであったが、自分には荷が重いと躊躇し始める。ウェルギリウスは、聖母マリアの願いによって、(ダンテの昔の想い人であった)ベアトリーチェの魂が、ダンテの異界への旅の案内人となることを彼に依頼したのだと述べて、ダンテに旅立つ決心をさせる。(第2歌)
 1300年4月5日(火)夜、ウェルギリウスとダンテは地獄の門を通ってアケローンの川岸に向かう。その間、天国に入ることもできず、地獄入りも拒否されている多くの中途半端な者たちの霊を見る。川岸に到着し、渡し守であるカローンの声を聞く。地獄に堕ちる魂たちにカローンは彼らを待ち受けているのは永遠の闇であると告げる。(第3歌)
 アケローンの川岸で気を失ったダンテが目覚めてみると、そこは地獄の縁であった。ウェルギリウスに導かれて彼は地獄の第一圏であるリンボへと下降する。そこには洗礼を受けずに亡くなった幼児たちと、正しくは生きたけれどもキリスト教徒にはならなかった男女の魂が、肉体的な苦痛は受けないが、神を見ることのできない悲しみに囚われながら日々を送っている。(第4歌のこれまで)

 第4歌の続き
 罪を犯さず、むしろ立派な行為を行った人物たちがキリスト教の信仰をもっていなかったというだけの理由で、リンボにいることを知り、ダンテは自分の信仰のもつ重大な意味に気づく。そこで、ウェルギリウスに次のように問いかける。
 「教えてください、わが師よ、わが主よ」
すべての迷妄を晴らす信仰について、
もっと正確に知りたいと考え、私はたずねた。
 「ここ[リンボ]から自らの徳ゆえに、あるいは誰かの徳ゆえに
外に出て祝されたもの、天国の住人になったものはあったのでしょうか」
私の言葉の裏に隠されていた意味を解した師は
 こう答えた。「私がここに着いてまもなく
ある王者[キリスト]がここへやってこられるのを目にした。
(46‐53行、65ページ) キリストは、人祖アダムとその子アベル、ノア、モーセ、アブラハムや王ダヴィデ、ヤコブとその父イサクやその十二人の息子たち、ラケルのような旧約聖書に登場する多くの人びとの魂を連れ出したという。
しかしそれ以前には、いかなる人のたましいも
救われたことはないことを知るがよい」
(62-63行、66ページ)という。
 「自らの徳ゆえに」という問いが意味しているのは、旧約聖書に出てくる父祖たちの徳をどのように評価するかであり、「誰かの徳ゆえに」というのは両親の信仰が幼児の魂を救うかどうかという問題である。前者についての問いは、ウェルギリウスによって応えられている。後者については、ダンテが天国に向かったときに、両親がキリスト教徒であって、洗礼を受けずに死んだ子どもたちのたましいに出あうことで、答えられている。
 「私がここに着いてまもなく」というのは、ウェルギリウス(前70-前19)が、この時代には紀元後33年に死んだと信じられていたキリストとそれほど時代的に隔たっていないことを示す。新約聖書には、キリストが墓に葬られて復活するまでの間のことはなにも記されていないが、「ニコデモ福音書」(外典)には地獄降りが描かれており、中世にはこの物語も真実と考えられていた。すなわち、キリストは金曜日に磔刑に処せられたが、日曜日に復活するまでの間に地獄を制圧し、死と悪魔に打ち勝ち、旧約の義人たちを地獄から解放し、彼らを天国へと引き上げたというのである。旧約の義人として名前を挙げられているのは代表的な人物だけであり、例えばアダムの妻のエヴァは、ここで言及されていないが、天国篇に登場して、彼女もまた天国にいることがわかる。

 師が話すあいだもわれわれは歩くのをやめず、
そのまま、たましいたちのひしめく
森を歩きつづけていた。
 眠りから覚めたところからさほど行きもせぬうちに
半球をなして暗闇に打ち勝つ
一つの火が見えた。
 そこ[火]からわれわれはまだ少し離れていたが
その場所を占めているのが誉れある人々であることが、
ぼんやりとではあるが、見分けられた。
(64-72行、66ページ) リンボのたましいたちは死後もその名声がたたえられている「高貴な城」に住む人々と、その周囲にうっそうと茂る森のようにひしめいている無名の一般人とに分かれている。「高貴な城」が火の半球であるのは、完全な球となる光明でない、キリスト教的な徳を備えていないたましいたちの住処であることを示している。

 この不完全ではあるが、光り輝く場所に住むのは何者のたましいなのかというダンテの問いに答えて、ウェルギリウスは死後もその名声が残っている人々であるという。
天は彼らをめぐみ、彼らを特別にもてなす」
(78行、67ページ)
 そのとき一つの声を私は聞いた。
「偉大なる詩人[ウェルギリウス]をあがめよ。
我らからはなれた、彼のたましいが帰ってくる」
(79-81行、67ページ)

 ふたりを迎えにギリシアの大詩人ホメーロス、ローマの詩人ホラーティウス(前65-前8)、オウィディウス(前43-後17頃)、ルーカーヌス(39-65)の4人のたましいがやってくる。ウェルギリウスはいう
 彼らはみな、かの一つの声が呼びかけた名称[詩人]を私とともに
分かち合っているからこそ、私に敬意を表している。
この意味で、彼らの行為はまことにふさわしいものだ」
(91-93行、67ページ) 彼らはしばらく言葉を交わし、ダンテの方を向いてあいさつを送り、
 それどころか、私に身にあまる誉れを授けてくれた。
というのも、彼らは私を彼らの列に迎え入れてくれたからだ。
かくして私はかくも大いなる賢者たちの六番目に加わることとなった。
(100-102行、68ページ) ホメーロスについては特に説明する必要はないだろう。ホラーティウスはウェルギリウス、オウィーディウスとともにラテン文学の黄金時代を代表する詩人で、とくに風刺詩で知られる。解説注には「ダンテは批判的精神の継承者としてホラーティウスの直弟子である。」(75ページ)と記されている。ラテン語を勉強することによって分かったことの1つは、ホラーティウスの偉大さがわかったということだと私は思っている。オウィーディウスは口をついて出る言葉はみな詩となったという天才詩人であったが、皇帝アウグストゥスの怒りをかってルーマニアのコンスタンツァに追放され、そこで没する。「彼の『変身物語』は中世を通じてヨーロッパでもっとも読まれた文学作品であり、その影響は無尽蔵である」(同上)と解説されているが、ギリシア語はあまりよく読めない人が、ギリシア神話について語る時に、手掛かりにしてきた書物である。ルーカーヌスは白銀時代の詩人で、哲学者のセネカの甥にあたる。皇帝ネローに仕えたが、共和主義的な傾向が強く、皇帝暗殺の陰謀に加担して自殺を命じられた。前1世紀半ばのローマの内乱を題材とした叙事詩『内乱』によって知られるが、彼の死によってこの叙事詩は未完に終わった。「何よりも、印象の強烈さ、パワフルさという点で、ラテン文学随一の作品ではないかと思う。まことに、夭折の惜しまれる詩人であった。」と大西英文さんがその作品と才能について評している(松本仁助・岡道男・中務哲郎編『ラテン文学を学ぶ人のために』、204ページ)。 
 ダンテがここで、みずからに先行する5人の詩人と自分を同列においているところがすごい。作中の語り手は、何となく頼りなく見えるのだが、その背後で叙事詩を組み立てている詩人はしっかりとした自信を持っている。古典の権威に依存しているようで、逆に中世の視点から古典を再評価しているように思われるところもある。第4歌のこの後の部分は、固有名詞の羅列になっているようにも思われるが、ダンテがウェルギリウスとともに古代の様々な人物に出会う興味深い場面でもある。

『太平記』(233)

10月22日(月)晴れ、気温上昇

 南朝の勢力が衰え、武家は公家を軽んじたため、北朝の朝儀も廃れた。とくに佐々木導誉は、些細ないさかいから延暦寺の門跡寺院である妙法院を焼き討ちするという暴挙に及んだ。延暦寺の衆徒たちの強訴によって、道誉は上総へ流されたが、その配流の道行きは、物見遊山にでも行くような言語道断なものだった。

 康永元年(南朝興国3年、1342年)、3月22日に岡崎の民家から急に火の手が上がり、四隣の民家に広がった。そのときに、ちょっとした細い屑が燃えながら、はるかに10町以上をとびこえて、法勝寺の九重の塔の上に落ちてそのままとどまった。しばらくの内は、灯篭の火のように、消えもせず燃えもしない様子であったので、寺中の僧侶たちが、どうしようもなくいらだった気分で、慌てながら迷っていた。塔は高いので、登るためのはしごもないし、水をかけて消そうにも届きそうもないので、ただ上の方から目を離さずに見あげて、右往左往していた。

 そうこうしているうちに、この細くずが、寺の屋根を葺いていた檜皮(ひわだ=檜の皮)に燃え移って、黒い煙が登り始め火の勢いが激しくなる。猛火が雲を焦がして燃え立つ色は、どこまでも高く燃え盛るようであり、九重の塔の最澄部に立てられていた九輪が燃え落ちて大地にたたきつけられた音の響きは、大地の奥深くまで聞こえるのではないかと思われるほどすごいものであった。折から強風がしきりに吹いて、毒気のある煙が四方に充満したので、金堂、阿弥陀堂、講堂、鐘楼、経蔵、寺内の数社の神をまとめて鎮守として祭った惣社宮、八本の柱で建てられた南大門、拾六間の廻廊、どれ一つとして残らず焼け失せて、その残骸が地を覆った。

 火事が燃え盛っている最中に、外からこの様子を見ると、煙の上に、あるいは鬼のような姿をしたものが、燃える火を諸堂に吹きかけ、あるいは天狗の姿をしたものが、松明を振り上げて塔の各層に火をつけていたが、金堂の棟の木の落ちたのを見て、同時に手を打ってどっと笑って、愛宕山、比叡山の最高峰である大嶽、吉野の金峯山を目指して飛び去っているのが見えた。その後、しばらくして、東山の花頂院の五重塔、伏見の醍醐寺の七重の塔も同時に焼けたのが不思議なことであった。光厳上皇は二条河原までおでかけになって、仏法を滅ぼすかのようなこの火災を傷心の思いでご覧になり、将軍の尊氏は自邸の西門の前に馬を控えて、火災の様子を不思議そうに見ていたのであった。

 さて、この法勝寺という寺は、天下の太平、ことに歴代の天皇の治世が平和に治まることを祈って、後白河院が建立された霊場である。それで金堂の建物は特に美しく荘厳に設計されていた。本尊となる仏像も金銀・宝石で飾られていた。とくに八角九重塔は、大規模なものであった(記録類によると、高さ27丈≒81メートルとある)。九重の塔の一層ごとに金剛界の9つの領域の各々を描いた曼荼羅が安置されていた。その堂塔が美しくそびえるさまは、インド・中国・日本の三国に並ぶもののない壮麗なものであった。この塔が初めて造りだされたときに、天竺の無熱池(大雪山=ヒマラヤの北にあり、竜王が住むとされる清涼な池)、震旦(中国)の昆明池(漢の武帝が水軍訓練のため掘らせた池)、わが国の難波の浦(大阪湾)に塔の姿が映し出されたという不思議が言い伝えられてきた。

 朝廷が仏教の興隆を通じて国家の繁栄を祈られて造営された祈願寺が、一時の火災で消えてしまうこと、ただ単にこの寺ばかりの荒廃とは言えないはずである。これからの世の中は、いよいよ乱れ、仏法も王法もあってないような状態になり、公家、武家共に衰微することになる前兆が、この出来事なのだと、嘆かない者はいなかった。

 法勝寺は本文にある通り白河院が建立した天台宗の寺院で、岡崎(現在の岡崎公園、京都市動物園のあたり)にあった。学生時代、動物園にはよく出かけたもので、特に猿山が印象に残っている。猿だけでなく、イノシシがいたり、飼い猫なのか、野良なのかわからない猫が日向ぼっこをしたりしていて、そんな様子がなぜか好ましく思われたことを思い出す。今はどうなっているだろうか。もちろん、公園内の美術館でいろいろと勉強したことも付け加えておきたい。
 閑話休題、聖武天皇が国家事業として造営された東大寺の塔でさえ、七重であったから、九重塔というのは白河院の勢威の大きさを示すものである。現存する最大の木造の塔は東寺の五重塔で高さは51メートル、それよりもはるかに高く、平安時代の人々にとっては天にも届くかと思われるランドマークであったことであろう。
 愛宕山は京都の西北の山。丹波との国境をなす修験道の霊場で、東の比叡山と相対する。落語の「愛宕山」の舞台としても知られる。8代目桂文楽が口演した「愛宕山」の中に、「狼に食われて死んじまえー」というセリフがあるから、むかしはオオカミが出たようだ。ここでは、鬼だか天狗だかの住処となっている。
 花頂院は京都市東山区粟田口にあった寺で、天台宗寺門派に属していたが、今ではなくなっているようである。なお、知恩院の山号が華頂山であり、東山36峰の中にも華頂山がある。醍醐寺は真言宗醍醐派の本山で、尊氏の護持僧であった三宝院賢俊の寺である。天台宗山門派、寺門派、真言宗の3つの宗派の主要寺院が焼失したということを、凶事としてだけでなく、さらなる大凶事の予兆とみているわけであろう。

 佐々木導誉の狼藉は『太平記』には暦応元年(1338)秋とされ、史実としては1340年10月)、法勝寺の焼失は康永元年(1342)3月のことであるから、だいぶ間が空いている。このあたり、『太平記』の作者は世も末だという意識を強調するために、事件の起きた年代を恣意的に操作しているように思われるのである。さて、次に記される事件はどのようなものであろうか。 

日記抄(10月15日~21日)

10月21日(日)晴れ

 10月15日から本日までの間に経験したこと、考えたこと、これまでの記事の補遺・訂正など:

10月15日
 NHK『ラジオ英会話』は今週から「動詞ing形」を取り上げることになった。この番組の講師である大西泰斗さんは「主語位置と目的語位置の動詞‐ing形を『動名詞』と呼ぶことがあります。主語・目的語は名詞が使われる典型的な場所だからです。また…就職後として使われる-ing形は「現在分詞』と呼ばれます。もちろん、用語に神経質になる必要はありません。「動詞-ing形も場所により機能が決まる」それで十分ですよ。」と述べている。
 動名詞と現在分詞を「動詞ing形」とひとまとめにして考える人もいるというのは文法書で読んだことがあるが、実際にそのような議論が展開されるのに出会ったのはこれが初めてである。
 個人的な意見としては、両者は区別されるべきではないかという気がする。中学時代に、dancing girl は「踊っている少女」で、この場合は現在分詞であるが、dancing-girl は「踊り子」という意味で、この場合は動名詞と考えられると習った。dancing shoesという場合も、これは「舞踏靴」であって、「踊っている靴」ではなく、動名詞と考えるほうがいいのではないか。
 ただ、教育の場で、文法上このように決まっているというように教えるのではなくて、こういう考え方とこういう考え方があるということを教えて、学習者に自分で考えさせるというやり方をとることがもっと採用されていいのではないかと思う。

10月17日
 NHKラジオ『実践ビジネス英語』の”Quote...Unquote"のコーナーで取り上げられた言葉:
One of the greatest pains to human nature is the pain of a new idea. (from Physics and Politics)
     ―― Walter Bagehot (british writer and economist, 1826-77)
(人間性にとっての最大の苦痛の一つは、新しい考えを受け入れる苦痛である。)
 考えだけの問題ではなく、制度や方法についても同じことが言えそうである。
 ウォルター・バジョットは19世紀英国のジャーナリスト、評論家、経済学者、思想家で、雑誌『エコノミスト』の編集長を長く務め、英国社会の特徴を的確にとらえた『英国憲政論』、『ロンバード街』などの著書で知られる。

10月18日
 NHKラジオ『まいにちイタリア語』応用編『イタリアで劇場に行こう!(Andiamo a teatro in Italia)はイタリア語を勉強中の日本人女性アキが、ミラノに住むイタリア人の友人夫婦、シルヴィアとパオロに勧められて、イタリアで初めて劇場に行くことになるという物語を扱う。シルヴィアとパオロは、ヴェルディの出世作であるオペラ『ナブッコ』のチケットを確保する。平土間で三つ並びの席が取れなかったから、2階のボックス席にしたという。もし、オペラを気に入ってまた行こうと思ったら、天井桟敷(の安い席)に行けばいいと続けて、自分たちの昔話をする。
Quando Paolo ed io eravamo giovani andavamo spesso in galleria.
(私とパオロが若かったころは、よく天井桟敷に通ったものよ。)
 ある時代、若い2人が金をかけずに長い時間を過ごすことができたのは、劇場の天井桟敷だったというのである。手元の『プリーモ伊和辞典』には、galleriaは「ギャラリー席(劇場の階段状の2階席・3階席)」とある。(19日の放送によると、galleriaはloggioneともよばれ、常連の熱心なオペラファンを指してloggionistaということもあるという。そのほか、balconataあるいは皮肉を込めてpiccionariaという別名もあるそうである。『プリーモ伊和』を見ると、loggioneには「天井桟敷」という訳語が記されていた。)
 ご存知の方も多いはずであるが、フランス語で「天井桟敷」はparadisという。ジャック・プレヴェールの脚本に基づき、マルセル・カルネ監督が1945年に発表した映画『天井桟敷の人々』(Les enfants du paradis)はあまりにも有名である。(この映画を『天国の子どもたち』と訳した人がいた!) この映画の中で、「犯罪大通り」にある劇場<フェルナンビュル座>に入ろうとやってきた青年フレデリック(・ルメートル、実在の名優である)に向かって、座長が言う。「それに、客がいい。彼らは貧乏だが、わしにとっては黄金の客だ。…ほら、見たまえあそこを、あの上の奥の方を、あれが天井桟敷だ。」(ジャック・プレヴェール『天井桟敷の人々』、38ページ) 天井桟敷の観客たちに鍛えられて、俳優たちは成長してゆく。そして彼らを見ながら、観客たちもその目を肥やしていく。
 アンデルセンの『自伝』には彼が子ども時代、演劇を舞台の真上の文字通りの「天井桟敷」からみた思い出が記されている。これも印象に残る話である。

10月19日
 「朝日」の地方欄に、1988年10月19日に川崎球場で行われたプロ野球ロッテ対近鉄のダブル・ヘッダーはその後、「10・19 川崎劇場」として一部のプロ野球ファンの間で語り継がれることになったが、30年が経過したのを記念してミニツアーなどの行事が行われるという記事が出ていた。そういえば、この試合をラジオで聴いていた記憶がある。

10月20日
 『東京新聞』の朝刊の「あの人に迫る」という欄に、ニュートリノに重さがあることを発見して2015年にノーベル物理学賞を受賞した東京大学宇宙線研究所所長の梶田隆章さんのインタビュー記事が掲載されている。
 「日本の研究環境は今、非常に疲弊していて、これをそのままにしていては絶対にいけないと思います。」という意見がもっと多くの人びとに共有される必要がある。また
 「基礎科学は、何が出るのかわからないところに水をあげるということです。」という言葉の奥深さをもっと多くの人びとに味わってほしいし、それがもっと大きな声になることを望む。むかし、といってもそれほどむかしではないが、朝永振一郎は「学問のだいご味は時に大きなものが釣れるところにある」といった。いつも、大きなものを釣ることを考えてはいけないのである。(なお、朝永さんは洒落で、「だいご味」を「大ゴミ」と書いたらしい。)
 
10月21日
 『朝日』の朝刊に新しい「大学入学共通テスト」で利用されることになる英語の民間試験を、同社の記者が受けてみたという記事が出ていた。業者によって試験のやり方が違い(料金も違い)、「相性いい試験選ぶ力大事?」との見出しも掲げられている。A記者がB1レベル、B記者がA2レベルという判定だったが、特に受験勉強をしたというのでなければまずまずの成績であろう。NHKの放送番組で言うと、B1は『ラジオ英会話』、『入門ビジネス英語』のレベル、A2は『基礎英語3』、『英会話タイム・トライアル』のレベルである。『高校生からはじめる「現代英語」』は「比較的やさしい」と言いながら、B1とB2の間くらいのレベルに設定されているので、実はかなり難しいのである。なお、東京大学はA2程度の能力が証明できれば、民間試験を受験しなくてもいいという方針を打ち出している。また、NHKラジオで放送されている英語番組で一番高レベルであるのはC1相当の『実践ビジネス英語』である。C2相当の番組はないが、ぜひ設けてほしい。自分がC2レベルの実力があるとは思わないが、やはりどのくらいのレベルなのかということを知っておきたいからである。もっとも、それよりも国際会議できちんと自分の意見を言ってこいと言われればそれまでであるが…。

 『日経』の朝刊に無声映画→トーキー初期の日本映画で活躍し、若くして戦病死した山中貞雄のことが取り上げられていた(2回連載のうちの上)。山中の作品で完全な形で残っているのは3本しかないそうで、だとすると、私はそのうちの2本を見ていることになる。まだ大学生だったころ(ということは50年ほど前)に知り合った映画好きの老人が、山中の『磯の源太 抱寝の長脇差』のすばらしさについて語るのを耳にしたことがある。この記事では触れられていない(下で触れられるかもしれない)が、山中は東映時代劇・仁侠映画などを中心に活躍した加藤泰の叔父にあたる。

 ニッパツ三ツ沢球技場でJ2第38節:横浜FC対大宮アルディージャの対戦を観戦する。一進一退の攻防が続き、後半に1点を先行されたが、その後北爪選手のゴールで追いつき、1-1で引き分け。これで順位を一つ落として7位に後退した。
 この試合に先立って日産小机フィールドで行われた横浜FCシーガルズ対ASハリマアルビオンの試合でシーガルズは1-0で勝利し、なでしこ2部での2位を保ち、1部昇格への希望をつないでいる。

ピーター・アントニイ『衣装戸棚の女』

10月20日(土)晴れ

 ピーター・アントニイ『衣装戸棚の女』(Peter Antony, The Woman in the Wardrobe)を読み終える。1951年に発表され、この時期にふたたび盛んになった密室もののミステリの中でも代表的な作品だという。

 イングランド南東部のサセックスの海岸に面した田舎町、アムネスティで事件は起きる。この町は漁師町ともいえるし、海浜の保養地ともいえる。ロンドンからやって来たお客たちが週末を過ごす《ザ・チャーター》ホテルはしばしば日曜新聞に話題を提供してきた。だが、そんな話題よりもはるかにセンセーショナルな事件がある日、起きた。

 この町で《ザ・チャーター》ホテルと並んで目立っている建物は、名探偵といわれるヴェリティ氏の《ペルセポリス》と名づけられた別荘である。そのヴェリティ氏が早朝のひと泳ぎのために海へと向かう途中《ザ・チャーター》ホテルの前を通ると、何やら怪しげなふるまいを目撃することとなった。「ワイシャツ姿の一人の男が、人目を気にしながらホテルの二階の窓から出てくるところだった。誰にも見られていないことを確かめると、男はバルコニー伝いにすばやく隣の部屋の窓に移動し、窓を押しあげて隣室に入りこんだ。そのあとで窓が静かに引きおろされた。」 (11ページ)

 並外れて好奇心旺盛なヴェリティ氏は、早速この出来事をホテルの支配人に通報する。ヴェリティ氏と支配人のミス・フレイマーが話していると、「一人の男が飛ぶように階段を駆けおりてきた。」(14ページ) 彼は、マクスウェルさんが死んでいるので、警察を呼んでくれという。その男(パクストン氏)はなんと、ヴェリティ氏がバルコニーにいるのを見た人物であった。
 電話がやっと、アムネスティの近くの町、キャリントンの警察署のジャクソン警部につながる。警部は現場をそのままにしておくようにというのだが、経験豊富なヴェリティ氏は現場を見に出かけようとする。マクスウェルの泊まっていた3号室までやって来たが、鍵がかかっている。どうしようかと思っていると、階下で取っ組み合いがはじまっている様子である。巡査が一人の男を取り押さえている。取り押さえられた男は自分は宿泊客の一人(カニンガム氏)であるといい、ミス・フレイマーもそれを認める。ではなぜ、巡査が彼を逮捕しようとしたのか。この男もまた、窓から出てきたところを、巡査に目撃されたのであった。
 とにかく、現場を見なければならない。ところが、ミス・フレイマーがマスター・キーの紛失に気付く。現場を見るのは、ジャクソン警部の一行が来てからの方がいいとヴェリティ氏は判断し、彼らの到着を待つ。

 ジャクソン警部の一行とヴェリティ氏が3号室にやってくるが、部屋は鍵がかかっていて、開けることができない。ジャクソン警部は、錠をピストルで撃ってこわすことを提案し、ヴェリティ氏がパクストン氏から取り上げていたピストルを使って扉を開ける。「目の前に現われたのは惨憺たる光景だった。」(26ページ) マクスウェルが血まみれになって倒れており、部屋の中は足の踏み場もない程に散らかっていた。しかも、開いていたはずの窓も閉まっていた。部屋の中を調べていると、衣装戸棚の中から「奇妙な呻き声とがさごそという物音が聞こえた。」(31ページ) 救出されたのはホテルのウェイトレスであるアリス・バートンという女性で、足首を縛られていた。手も縛られ、猿轡をかまされていたのをやっとほどいたところなのだという。彼女は美人で、上品なアクセントで英語を話す。根っからのウェイトレスではないようである。

 医師が呼ばれ、鑑識による調査が進み、ジャクソン警部とヴェリティ氏は関係者から事情聴取を進める。そしてヴェリティ氏の友人で、スコットランド・ヤードの腕利きとして知られるランブラー警部がちょうど休暇中なので、応援を求めることになる。こうして、事件の真相究明が進むが、マクスウェルが恐喝で金を稼いでいる悪い男であったこと、アリス、ミス・フレイマー、パクストン氏、カニンガム氏それぞれがマクスウェルとかかわりがあって、彼を殺害する動機を持っていることが次第にわかってくる。果たして、犯人は誰で、犯行はどのように行われたのか。

 ピーター・アントニイは実は劇作家として知られるアンソニー・シェーファー(Anthony Shaffer, 1926-2001)と同じく劇作家であるピーター・シェーファー(Peter Shaffer, 1926-2016) の双子の兄弟が合作をするときに使ったペンネームだという。アンソニー・シェーファーは舞台劇『探偵スル―ス』(Sleuth, 1970)と、その映画化作品『探偵スルース』(1973)のほかに、ヒッチコックの『フレンジー』(Frenzy, 1972)の脚本、アガサ・クリスティ原作の『ナイル殺人事件』(Death on the Nile, 1978、ジョン・ギラーミン監督)、同じく『地中海殺人事件』(Evil Under the Sun, 1980、ガイ・ハミルトン監督、なお原作邦題は『白昼の悪魔』で、原作の舞台も、地中海ではなくイングランドの海岸近くの島である)、同じく『死海殺人事件』(Appoint with Death, 1988、マイケル・ウィナー監督、なお原作邦題は『死との約束』である)の脚色を手掛けている。また、クレジットに名を出していないが、クリスティ原作の『オリエント急行殺人事件』(Murder on the Orient Express, 1974、シドニー・ルメット監督)の脚色も手掛けているそうである。
 ピーターは、『他人の目』(Public Eye, 1962、1972年にキャロル・リード監督によって『フォロー・ミー』(Follow Me!)として映画化された。その際の脚本も執筆している)、『エクウス』(Equus, 1973、1977年にシドニー・ルメット監督によって映画化)、『アマデウス』(Amadeus, 1979、1984年にミロス・フォアマン監督によって映画化されている、脚本もフォアマン監督と共同執筆している)などの戯曲を書いている。この2人が共同執筆したのだから、作品の出来栄えもさることながら、その執筆過程をたどるのも面白そうである。

 舞台となっている町がアムネスティというのは(そういう名前の国際NGOがあるが)、「大赦、特赦」という意味(おそらく、被害者が真の悪人で、だれが犯人にせよ同情の余地があるという作者の思いが込められているようである)、探偵の「ヴェリティ氏」はおそらくverity(真実性)の擬人化、その相棒の「ランブラー氏」は「ぶらぶら歩く人」という意味、これらのことからこの作品の持つ知的なゲーム性が浮かび上がってくる。ホテルの名前がチャーター(マグナ・カルタ=大憲章の英訳Great Charter)に因んでいる)であったり、バラ戦争の話が出てきたり、リチャードⅣ世を名乗る人物が登場したりという歴史的な色どりや、ヴェリティ氏の古美術収集の趣味の話が出てきたりして、物語が多彩に彩られている。リチャードⅣ世が登場しなくても、物語は十分にユーモアに富む展開を見せる。ヴェリティ氏とランブラー氏がホームズとワトソンというのではなくて、ほぼ対等の立場で協力し合いながら(それでもやはりヴェリティの方に主導権がある)、事件の解決に向かって前進していくのは、アンソニーとピーターの関係を反映するもののようである。そして全く意外な、本当に意外な結末…。

 第二次世界大戦後に、まだ25歳という双子の兄弟によって書かれた作品ではあるが、古き良き昔のミステリの雰囲気をたたえた注目すべき作品となっている。この兄弟がそれほど多くの合作ミステリを残さなかったのは残念ではあるが、それが時代の流れというものであるのかもしれない。  

小松左京『やぶれかぶれ青春記 大阪万博奮闘記』(3)

10月19日(金)曇り、不安定な空模様が続く。

 この書物は、小松さんの『青春記』(旧制中学・高校時代の思い出)と、作家として名を成してから1970年の大阪万博に関わった際の思い出の2つの部分から構成されている。第2回から、後半の大阪万博についての思い出を語る部分を取り上げている。

 1964年の春、まだ東京オリンピックも始まっていなかった時期に、小松さんは『放送朝日』の肝いりもあって、梅棹忠夫、加藤秀俊といった面々を誘って、万国博を考える会を発足させ、その意義や理念、社会に果たす役割などについての研究を始めた。オリンピックが東京で開かれ、都市としての東京の再開発に大きな役割を果たしているのを見るにつけ、万国博を関西圏で開こうという意欲が強くなってきた。さらにそれはアジアで初めて開かれる万国博として、欧米中心に開催されてきた万国博の歴史を塗り替える役割も果たすはずである。

 「たしかに、万国博をめぐってさまざまな方面で、すでに思惑が動きはじめた気配はあった。――開催の年が、一応昭和45年ときまった、ときいた時、私は思わず、まずいな、と腹の中で舌うちした。1970年は、安保改定の年だ。せめて、もう1,2年あとへずらせばいいのに・・・・・。」(274ページ)
 その一方メルボルンが1972年、フィラデルフィアが1975年の開催を目指しており、過去2度開催のチャンスをのばしている日本としては、何とか開催にこぎつけたいという衝動が抑えられないようである。
 折もおり、ある政治家が「安保の年に、こういう平和の祭をやるのはちょうどいい」といったとか言わなかったとかいう噂が流れてきた。

 考える会としても、安保体制と万国博の関係についても考えていた。日米の軍事的な関係は、長期的にはしだいに緩和され、最終的には消滅すべきものである。しかし、日本が国際関係の中でその安全を保障していくためには、(平和憲法のもとで)その軍事力を制限されている以上、非軍事的、平和的な関係を周辺諸国とどのように結び、強化していくかが重要な課題となるはずである。
 そうした非軍事的な関係の一つが経済的な関係であるが、これは利害の対立を招きやすい。特にAA諸国との間でうまくいくかという問題を抱えている。もう一つの関係は、「文化交流」であるが、この分野において日本は立ち遅れている。日本は民度が高く、海外の文化の紹介はかなり行き届いているが、こちらから日本の文化を紹介するという努力はあまりなされていない。〔現在はまったく事情が変わっているということも認識する必要がある。〕 「本当の意味での文化交流――芸術の紹介や、出版物の翻訳といったものだけでなく、お互いの生活をささえている文化を理解しあい、普通人としての「人情の機微」にふれあうような交流は、日本の海外経済活動を真に将来の平和的、人間的関係形成に有効たらしめるものである。」(276ページ、「日本の海外経済活動…」というところが何となくぎこちない文章に思われるのは、小松さんの本心が「『人情の機微』にふれあうような交流」までのところで尽きているからであろう。あとは外部の人を説得するために何とか付け足したという感じである。)
 とにかく万国博を、大衆レベルでの国際交流活動の場にする→「日本の大衆意識の国際社会への開放体制」の創出というのが考える会の考えた趣旨であった。
 一応の結論が出たのだから、会は解散してもよかったのだが、何となくそのままになっていた。そのために大騒ぎに巻き込まれることになる。

 東京オリンピックと前後して、世界中で、また日本国内で、さまざまな出来事が起こり、何となくある時代の終わりが告げられているように思われた。1964年11月、池田首相が病気のため退陣し、佐藤内閣が成立した。「政権交代のあわただしい時期の前後に、閣議は万国博の日本開催を決定、万国博条約の国会批准を取り付け、翌春パリのBIE(博覧会国際事務局)理事会に、通産省企業局長が派遣されることになった。いよいよ、万国博の日本開催が現実的なものになってきたのである。

 一応の結論が出たことに加えて、梅棹さんが病気だったということもあり、「考える会」は休業事態になっていたが、その何人かのメンバーはモントリオール万国博に出かけて、その様子を伝え、小松さんは万国博は「メッセージを伝える」場なのだという考えを強めたという。〔モントリオール万国博のテーマは「人間とその世界」で、これはサン=テグジュペリの随筆集『人間と土地』に因んだものだそうである。なお、モントリオール万国博の開催を「記念」してMLBにモントリオール・エクスポズというチームができた。現在は本拠地を移して、ワシントン・ナショナルズとなっている。〕 「その頃、私たちが、万国博にコミットするきっかけが訪れていた。」(278ページ)

 当時大阪府職員で、万国博の準備にかかわっていた広瀬智生氏が、ひそかに梅棹邸を訪ねて、万国博の「持ち方」について、どう考えたらいいか、知恵を貸してほしいと申し入れたのである。広瀬氏は、文明批評家としての梅棹さんの仕事に注目し、それまでも府の仕事の関係でいろいろと助言を得ていた。その一方で、広瀬氏は小松さんの三高・京大時代の同期生でもあった。彼はモントリオール万国博の際にテーマからプランまでが、国際的な協力によって作り上げられたという点に触発され、日本でも同じ子ことをやってみようと考えたのである。そして、梅棹さんだけでなく、加藤さん、小松さんもすっかり乗り気になった。「その時、実をいうと、私たちに――すくなくとも私に、万国博の「観察者」の立場から、場合によっては、裏方でもいいからコミットしてもいい、という「夢」が生まれたのだった。」(280ページ)

 日本の万国博を「全世界の知的精神的共同財産」として築き上げようというこの計画に、考える会のメンバーは大いに乗り気になったのだが、予算と時間切れであえなくつぶれてしまう。「だが、万国博というイヴェントの中核を「作る」うえでの国際知的共同作業をさせるという「夢」は、かなり長い間、私たちの中で生き続け、何かの場面で実現させられないか、と思いつづけた。」(281-282ページ) もっとも、この話をわきで聞いていた梅棹は、笑って、「つぶれるやろな」といったそうである。
 この本の解説で加藤秀俊先生は、「万博会場の跡地に国立民族学博物館を作るという構想も、梅棹さんはかなり早い段階で思い描いていたふしがある。」(377ページ)と、後になって思い当たったことを話されているが、小松さんが夢を持って歩んでいた一方で、梅棹さんは別の計画をもってそばで暗躍していたようである。とにかく、メンバーたちは、「考える」ところから「コミットする」ところへと移っていくことになる。

鳥飼玖美子『子どもの英語にどう向き合うか』

10月18日(木)曇り

 鳥飼玖美子『子どもの英語にどう向き合うか』(NHK出版新書)を読み終える。

 著者である鳥飼さんは、通訳として、また大学における英語教育者として長年英語に関わってきている。そして、ちょっと意外に思う人もいるかもしれないが、小学校における英語教育の導入のような最近の英語教育をめぐる動きには一貫して批判的な発言を繰り返している。子どもの内発的なやる気を無視して、外から英語を押し付けてはいけない、子どもの言葉と大人の言葉は違うので、子どもの時だけに英語を勉強しても意味はない、そもそも英語の国際社会における地位は相対的なもので、子どもたちが大人になったときも英語が世界で最も有力な言語であるとは限らないというようないくつかの論拠があって、そのようなことを書いたり、講演したりしてきた。しかし、講演の聴衆や、取材に来た記者たちは、一応話に納得するものの、どうも不安を抑えられない様子である。そういう人たちに向けて書かれたのがこの本である。

 きちんと取り上げていないが、私は今年に入ってからも英語教育(学習)、さらに外国語教育(学習)をめぐる、また日本語教育をめぐる書物をかなりの量読んできた。列挙すると:鳥飼玖美子『英語教育の危機』(ちくま新書)、中島文雄『日本語の構造』(岩波新書、英語学者の視点から日本語文法の問題を掘り下げたもの)、猪浦道夫『TOEIC亡国論』(集英社新書)、久保田竜子『英語教育幻想』(ちくま新書)、清水由美『日本語びいき』(中公文庫)、それにこの『子どもの英語とどう向き合うか』で6冊、このほかに、インドの日本語学校での教師体験から生まれた小説である石井遊佳『百年泥』(新潮社)を読み、牧野成一『日本語を翻訳するということ』(中公新書)を途中まで読んでいる。

 『TOEIC亡国論』では、日本語についてのしっかりとした理解を持たなければ、英語(やその他の外国語)の学習は困難であるという点の強調が印象に残った。それ以前から、日本語と英語はそれぞれ多くの違いをもち、どこがどう違うのかを理解しないと、日本語話者の英語学習(英語話者の日本語学習)は難しいという思いを持ってきたが、それをきちんと指摘してくれていると思ったのである。それから『英語教育幻想』では英語の学習は早いほどいいというかなり信じられている幻想が論駁されている。実のところ私は、(私立だったので)小学校から英語を学習しているが、たぶん、この幻想の打破には相当貢献しているはずである。(『子どもの英語にどう向き合うか』によると、鳥飼さんは私立小学校に2年生から編入したということで、あるいはやはり小学校から英語を勉強することの問題点を十分に知り抜いているのかもしれない。) 実際問題として、英語の修得には、早くからはじめるということよりも、学習の量の方が大きく関連していて、学校の勉強以外に、塾に通うとか、ラジオ・テレビの語学番組を聴くとかいうプラス・アルファの努力がモノを言うのであるが、それも学習者本人の自覚の問題であって、周りがいかに強制しても効果はあまりないということもわきまえておく必要があるだろう。
 日本語と英語の違いということでは、少し古い本であるが中島文雄『日本語の構造』は読みごたえがある。著者の意見に全面的に賛成するという人はあまりいないだろうが、考えの糸口にとしては好ましい書物である。清水由美『日本語びいき』は日本語教育の実践に携わる中で得た知見をユーモラスに描いていて楽しいが、著者は東京外国語大学で英語を勉強したという経歴の持ち主で、英語についても詳しいから、両者の違いを知るのに役立つ。英語と日本とではなく、スペイン語と日本語を比べている三好準之助『日本語と比べるスペイン語文法』は、本格的にこの問題に取り組もうと考える人にとってはいい本ではないかと思う(実は、なかなか歯が立たなくて悪戦苦闘しているのである)。

 最近の英語教育では「コミュニケーション」が重視されるが、「外国語でのコミュニケーションは、…母語でのコミュニケーション体験が基盤」(21ページ)となるという。「幼い子どもにとっての英語は『異質な存在』として触れることができれば十分です。あとは中学生になって本格的に英語を始めるときに嫌いになっていないことに留意するだけです。子ども時代は、『異文化コミュニケーション能力の根っこ』を英語で培う、かけがえのない時期であることを強調したいと思います。」(同上)というのが著者の出発点である。
 考える力は言葉で身につく。言葉と思考の関係をめぐっては、様々な学説があるが、この両者が深いところで結びついているというのは間違いがない。カナダの学者であるカミンズは言語力を「会話力」と「学習言語力」に分けている。
 「外国に住んで現地の言語に浸ると子どもの年齢が低いほどすぐに発音を習得することはよく知られていますが、日常会話は2年ほどで使えるようになるけれど、学校の勉強に必要な学習言語は、母語話者の子どもと同じレベルになるのに5年から7年はかかることを発見しました。発音などの音韻規則や日常会話は、子どもの場合、自然に獲得しますが、学習言語は自覚的に学習することが欠かせないのです。
 カナダに移住した日本人の子どもを調査した研究では、母語の読み書き能力を身につけてから移住した7歳から9歳の子どもが最も容易に最も短期間(平均3年)で現地の母語話者並みの読み書き能力に追いついたこと、3歳から6歳で移住した子どもの学習言語の習得は難しく11年以上もかかることが報告されています。」(28‐29ページ)
 要するに、「会話力」は比較的容易に習得できるが、「学習言語力」はそう簡単には身につかない。「会話力」が身につけば、いいじゃないかと思う人が少なくないと思うのだが、それだけでは不十分だということである。

 鳥飼さんは、気づいているのかどうかわからないが、どうも英語教育、特にその目的・目標の設定をめぐっては一種のボタンの掛け違いが生じていて、それが混乱や対立の原因になっているように思われるのである。例えば、NHKラジオ『高校生からはじめる『現代英語』』の講師の伊藤サムさんが、いつも「ここでは高校生レベルの比較的やさしい英語から」と番組中で発言しているのだが、「高校生レベルの英語」はけっして「比較的やさしく」はないのである。ここで目指されているのは、かなり高いレベルの英語力の育成であるが、それが日本人の英語力の実情に照らしてかなり高いレベルだという自覚が、伊藤さんにはないようなのである。(つまりそれだけご本人の英語力が高いということかもしれないが…) この類の問題というのは、かなりあるので、次回は、鳥飼さんの議論を紹介しながら、日本における英語教育の目的・目標設定が現実を無視して、かなり高くなっていて、それが児童生徒学生の実態を知っている現場の教員の考え方と食い違ってきているということをより具体的に論じてみたいと思う。

 さて、鳥飼さんが紹介しているカナダにおける日本人の子どもたちの英語の習得をめぐる研究は、トロント大学名誉教授の中島和子さんの研究であり、その中島さんが本日の『朝日』の朝刊の「私の視点」というコーナーに「子どもの日本語教育 母語に配慮しつつ推進を」という文章を寄稿している(何たる偶然の一致!)ので、ぜひ目を通してほしい。カナダに滞在する日本人の子どもが出会う困難と、日本に滞在する外国人の子どもたちが出会う困難は、基本的には同じ性質のものだ、その困難を解決するのが母語の教育を保障することなのだという視点を見落とさないようにしてほしいものである。

トマス・モア『ユートピア』(23)

10月17日(水)曇り、雨が降りそうで降らない。

 1515年、イングランド国王ヘンリーⅧ世が派遣した外交使節団の一員としてフランドルに渡ったトマス・モアは、外交交渉の中断中にアントワープに赴き、その市民であるピーター・ヒレスと親交を結ぶ。ある日、彼は、ピーターから、世界中を旅してきたというラファエル・ヒュトロダエウスという人物を紹介される。ラファエルは2人に、彼が新大陸で訪問したユートピアという島の制度や生活ぶりについて語る。それはヨーロッパ諸国の人々が平和で幸福な生活を送ろうと望むのであれば、ぜひ参考にすべきものだというのである。
 ユートピアの人々には私有財産というものがなく、都市と農村とが調和的に共存し、すべての人々が何かの職業について働き、その中でも農業は人々が定期的に取り組まなければならない義務となっている。すべての人々が母語で基礎的な教育を受け、すぐれた知力をもつ人々は学者身分として労働から免除される。彼らの中から役人が選ばれる。ユートピア人はヨーロッパの学者たちの名は知らないが、彼らはヨーロッパと共通するような学問的な成果を独力で導き出してきた。

 ユートピア人たちの道徳哲学はヨーロッパのそれと共通する部分が多いとラファエルは語る。善とはどういうものか、徳と幸福はどのようなものかなどが彼らの関心事であるという。「魂の善、肉体の善、そして外界物(エクステルニス)の善とはなにか、また善という名辞はこれらのすべてにあてはまるか、それとも魂の賜物だけにあてはまるかとたずねます。」(164ページ) この個所は、ローガン&アダムズの英訳の方がわかりやすい。They inquire into the goods of the mind and goods of the body and external goods. They ask whether the name of 'good' can be applied to all three, or whether it refers only to goods of the mind. (Logan and Adams (Tr.), Utopia, p.65、「彼らは精神的な善と、肉体の善と外界の事物の善とについて探求しています。彼らは「善」という名辞が三者のすべてにあてはまりうるものなのか、それとも精神の善だけについてあてはまるものかを尋ねています。)
 問題は、澤田訳で「魂」となっているところが、ローガン&アダムズ訳ではmindとなっていることである。 "the latin library"というサイトでラテン語原文を見たところ、ここはanimusという語が用いられている。animusには「魂」という意味と、「精神」という両方の意味があるから、どちらも間違いではなく、モアの論旨をどのように解釈するかという問題になる。ちなみにモアよりも少し後の時代に出たロビンソン訳ではsoulとなっている一方で、ターナー訳は次のように、逐語的というよりも意訳を行っている:
Having distinguished between three types of 'good’, pscychological, physiological, and environmental they proceed to ask whether the term is strictly applicable to all of them, or only to the first. (Turner, Utopia, pp.90-91. 心理学的、生理学的、および環境的な「善」の3種類を区別してからさらに進んで、彼らはこの言葉が厳密に考えるとそのすべてにあてはまるのか、最初のもの(精神的なもの)にだけあてはまるのかを問うています。)
 澤田さんの訳注によると、魂または精神、肉体、外界の事物の3つの善という議論はアリストテレスの『二コマコス倫理学』に見えるものだそうである。ここで肉体の善というのは、健康のことだと注記されている。

 続いて、「徳と快楽についても論じます」(164ページ)といい、さらに続けて、彼らが一番関心を寄せて、議論しているのは「どういうものに人間の幸福があるのか」(同上)という問題だという。ユートピア人たちはこの問題について、「公正な立場をはなれて快楽を擁護する学派の立場にやや傾きすぎているように見えます。」(同上) つまり古代のエピクロス派の立場に近いとのべている。
 これは解説注によると、ラファエルが同行したことになっているフィレンツェ出身の航海家アメリゴ・ヴェスプッチの新世界への渡航記に、先住民たちがエピクロス的な生き方をしていると記されていることに影響されたものだという。
 ラテン語原文では「徳」はvirtus、「快楽」はvoluptas、また「幸福」はfelicitasである。ロビンソン訳ではそれぞれvirtue, pleasure, felicityとなっている。ターナー訳ではvirtue, pleasureは変わらないが、「幸福」がhappinessになっている。ローガン&アダムズ訳も、ターナー訳と同じ訳語を使っている。

 問題は彼らが、「こういう感覚的な考えの根拠を宗教〔これは厳粛(gravis)、厳格(severa)でほとんど陰うつ(tristis)ないし峻酷とさえいえるものですが〕に求めていることです」(165ページ)という。「峻酷」と訳したラテン語の形容詞を澤田さんは示していないがrigidusである。つまり幸福を論ずるにあたって彼らは、宗教から引き出された一定の原理を理性的議論に基づく哲学と結合させずに論じることは決してありません。というのは、真の幸福を探求するためには、そういう宗教的原理を伴わないただの理性は不十分で弱いと考えているからです。」(同上) 
 言い換えると、ユートピア人たちは神の啓示によって始められた宗教と、人間が理性によって考え抜いた末に出来上がった哲学との両方が補い合って幸福(と道徳)の根拠を形成すると考えていると理解してよかろう。ユートピア人たちが宗教を持っていることがここで語られている。それがある種の啓示宗教であることは、この後で語られる。
 中世から近代への精神の歩みの一つは、人間の理性の働きの評価が高くなっていくこと、人間は自分の理性の力で善をなすことができると考えるようになることである。中世の人々は、人間は神の導きがなければ、自力で善をなすことができないと考えていたが、例えば、中世の最後期を代表する詩人であるダンテの『神曲』では、人間は理性の力によって罪を犯さない存在である(それだけでは不十分で、信仰がなければ天国へはいけない)と考えられている。その後は、人間には良心が生まれつき備わっているから、理性でよく考え、自由意思を働かせてよく決断すれば、道徳的に生きることは可能だというように考えられるようになった。モアにも、人間には生まれつきの理性や良心というものが備わっているという考え方が見られる。だから、キリスト教と接触していなかったユートピア人たちも、道徳的に生きているのである(これは、この時代の航海家たちが新世界に到達してそこの先住民たちの生き方を見て、抱いた感想と似ているのでは何かと思われる)。

 ユートピア人たちの宗教の基本的な原理は次のようなものだという。「魂は不滅であり、神の仁慈(beneficentia)によって幸福のために創られている。この現世の生活のあとで、我々の徳や善行には褒賞が、悪行には罰が与えられるようになると考えています。」(165ページ) このために、人間は死後の褒賞という最大の快楽を得ようと、生前の様々な快楽を我慢して苦しみに耐えることもするようになるという。
 また彼らの考える快楽は「善良で名誉ある快楽」(166ぺーージ)であるという〔ローマ帝政時代のストア派の哲学者セネカが『幸福について』で論じたように、エピクロス派の「快楽」がストア的に修正されているとみることができる]。「彼らは徳を、本性に従って生きることと定義し、人間はそう生きるように神に創られたのだとしています。」(同上) だから、できるだけ自然に、自分の本性に従って生きていけば、悪いことはしないはずだという性善説の主張となる。人間はもともと親切で思いやりのある存在だというのである。そして、困っている人間が快楽をとり戻せるようにすることもまた、親切にした人間にとっての快楽だともいう。少し、議論を飛躍させるが、「ですからユートピア人たちは自然そのものが、愉快の生活すなわち快楽を、我々のあらゆる行為の目標と定めてくれたと言い、また自然の掟に従って生活することを、「徳」と定義しています。しかし同時に、自然は人間に対し、より朗らかな人生を作り出してゆくさいに、相互扶助を勧めています」(168ページ)。

 ヘレニズム時代からローマ時代にかけて有力だった道徳哲学は、「禁欲的な」ストア派と、「快楽主義的な」エピクロスはであるといわれる。ただ、既に述べたように、ストア派の哲学者であるセネカの言説には、エピクロスを評価した部分もあり、この両者は現実的な実践倫理としては、次第に歩み寄っていったと思われる。その一方で、ストア派の哲学は、ローマの皇帝であったマルクス=アウレリウスと、乞食であったエピクテートスという極端な例を引き合いに出すまでもなく、世の中の厳しい現実の中で「耐えて生きる」哲学であり、エピクロス派の哲学は、そういう世の中を逃げ出して、「隠れて生きる」生き方を勧める哲学であったという側面もある。この意味では、モアは明らかにストアの流れに属する。
 それでも、彼の伝記を読むとモアは、家族とのだんらんの場では冗談をいったりして、その生活を楽しむところがあって、その意味ではエピクロス的な生き方に惹かれていたともいえよう。そして、前回も述べたのだが、英国の主流の思想となった功利主義は、エピクロス的な考えの延長線上にあり、モアの『ユートピア』もそういう思想的な流れの中に位置づけて理解するのが適切ではないかと思う。

 それからもう一つ、人間はキリスト教を信じていようといまいと、理性や良心を持っているから、信仰に関わりなく真理に到達することもできるし、善行を行うこともできるという考え方がモアにはある。だからキリスト教を信じていないユートピア人がキリスト教を信じているヨーロッパ人たちの模範になるような制度を生み出しているのだと考えているところに、モアの思想の核心を見るべきなのである。
 

ダンテ・アリギエーリ(須賀敦子・藤谷道夫訳)『神曲 地獄篇(第1歌~第17歌)』(4‐1)

10月16日(火)曇り

 1300年4月4日(月曜日)ダンテは暗い森の中にさ迷いこむ。翌朝、光に照らされた丘を見つけて登ろうとするが、豹、獅子、雌狼に行く手を阻まれ、森へ通し戻される。彼はそこに現れた古代ローマの詩人ウェルギリウスのたましいに助けを求めるが、ウェルギリウスは、ダンテが彼に従って地獄と煉獄を、またよりふさわしい魂に導かれて天国を旅するように言う。(第1歌)
 いったんは旅立つ決心をしたダンテであったが、自分がこのような大業にふさわしい人物であるかを疑い、ためらい始める。すると、ウェルギリウスは、地獄に堕ちるはずのダンテのたましいを聖母マリアが憐れんで、聖ルチアを通じてベアトリーチェにダンテを救おうという意思を伝え、この旅行の案内人となることをリンボにいるウェルギリウスに依頼したのだと告げる。ダンテはようやく旅の決心を固める。(第2歌)
 「われを過ぎるものはみな、すべての希望を捨てよ」と締めくくられる語句が記された地獄の門をくぐり、ウェルギリウスに導かれてダンテはアケローンの川岸に到着する。その間(地獄前地)には、積極的な善も行わず、悪も犯さなかった中途半端な霊たちがさまよいつづけている。彼らは天国へも地獄へも受け入れられないのである。アケローンの渡し守であるカロンはダンテが川を渡ることを拒むが、ウェルギリウスはダンテの旅行は神意を受けてのものであるといってカロンを説得する。そのとき、稲妻の閃光がきらめき、ダンテは気を失う。(第3歌)

 今回から第4歌に入る。1300年4月5日、まだ旅の初日である。

 頭の中に大いなる雷が轟き、
深い眠りから醒めた私は、むりやりに
起こされた人のように私は立ち上がった。
(1‐3行、63ページ) 「第3歌で稲光によって気を失ったダンテは、第4歌で雷鳴の音によって目覚める。これは《光の速度》対《音の速度》のズレの間だけ気を失っていたことを意味している。この一瞬の出来事のうちにダンテはアケローンの向こう岸に移動したことになる。意識を失っているあいだの出来事であり、ダンテ自身はどのようにしてここに来たのか記憶がない。」(71ページの解説注)

 彼は自分がどこにいるのかを知ろうとあたりを見渡す。
 私のいたのは、まさに
無限の災いの轟きわたる
谷底[地獄]の縁の上であった。
 その谷は暗く靄がかかっていて
首をのばしてみようとしても
なにひとつ見わけることはできなかった。
(7‐12行、63ページ) 「谷底[地獄]の縁」とは地獄の第1圏であるリンボを指す。リンボとは端・縁の意味で、地獄界で唯一肉体上の責め苦のない例外的な避難所のような場所である。」(71ページの解説注)

 ウェルギリウスはダンテに向かい、 
 「いざこの盲いた世界[本地獄]に降りて行こう」
(13行、63ページ)と呼び掛ける。ウェルギリウスの顔が蒼白であることに気づいたダンテが、
「私の疑いをなぐさめてくれえるあなたが
そのように恐れていてはどうやって行けるでしょうか」
 すると彼は私に言った。「この下にいる
人々の苦悩が、おまえが恐怖だと思った私の顔に
憐みの色となって現れるのだ」
(17‐21行、64ページ)と答える。「盲いた」(cieco)という形容詞には、自身の悪を見ない・見ようとしない地獄の魂たちの盲目性と、何も見えない暗黒性がかけられている。(解説注より) 前者は抽象的・精神的な盲目性であり、後者は物理的な暗黒である。この両者が一体になっているところに『神曲』の特徴があるように思われる。
 ウェルギリウスはもともと、リンボの十人であり、自分の居場所に戻ってきて、個人的な憐憫の上から顔が蒼白になっているのだと解説されている。古代や中世では、白は同情と恐怖の色と解釈されていたそうである。

 「さあ行こう。道は遠い。急がねば」
言いつつ彼は足を運び、その奈落のまわりの
第一の圏に、私を導き入れた。
(22‐24行、64ページ) こうして、2人はリンボに足を踏み入れる。
 「さあ、行こう。道は遠い。急がねば」と訳されているところ、原文では
Andiam, che la via lunga ne sospigne.
現代イタリア語では
Andiamo, poiche il viaggio è lungo e non abbiamo tempo da perdere.
となっている。〔何かの折に、引用してみようと調べてみたのである。〕

 そこでは耳をすますと、聞こえるものといえば、
悲嘆の声ではなく、ただ溜息ばかりで
それが永劫の空気をふるわせていた。
 その溜息は、幼児、婦人、男の
数々の群れにいるおびただしい人の
肉の苦しみを伴わぬ悲しみから発せられていた。
(25‐30行、64ページ) キリスト教の教義では、洗礼を受けずに死んだ幼児たちは、キリスト教徒となっておらず、現在をもったまま死んだので、天国に行くことはできず、地獄で罰を受けることもなく、リンボにおかれることになる。また、古典的な意味では正しく生きた人々であっても、キリスト教の信仰をもたなかった人々も、リンボにいる。彼らは肉体的な苦しみを受けることはないが、神にまみえることができず、それが彼らの悲しみになっている。

 ウェルギリウスはダンテに、これらの魂が何者であるかを訊ねないのかと促し、彼らは悪を行わず、善を行ったが、信仰を持っていなかったためにここに置かれているのだといい、自分自身もその一人であると付け加える。
 この過ちのせいで、他に罪はないが
我らは身を滅ぼし、この(不信仰の)罪だけのゆえに
希望なく、ただ思い焦がれている
(40‐42行、65ページ) という。
 これを聞くや私の心は深い悲しみにしめつけられた。
これほどのえらい人々が
このリンボで宙吊りとなっていることを知ったからである。
(40‐43行、65ページ) 「宙吊り」(sospeso)とは、歓びの状態(天国)でも悲しみの状態(地獄)でもなく、その中間におかれている状態を指す。また、sospesoは裁判の未決状態(最後の審判で決定される)にも使われ、この意味もかけられているという。ダンテはあらためて、自分の持っている信仰の重みを感じる。そして、信仰についてもっと知りたいと思い、ウェルギリウスへの質問を続ける。

『太平記』(232)

10月15日(月)曇り

 南朝の勢力が衰え、武家は公家を軽んじたため、北朝の朝儀も廃れた。とくに佐々木導誉は、些細ないさかいから、延暦寺の門跡寺院妙法院を焼き討ちするという暴挙に及んだ。「あなあさまし、前代未聞の悪行かな。山門の嗷訴今にありなん」と、云はぬ人こそなかれけれ。」(第3分冊、412ページ、何ともあさましいことだ。前代未聞の悪行であることよ。そのうち比叡山の衆徒(僧兵)たちが強訴してくるだろう」と言わない者はいなかった→みんながそのように噂しあった。)

 山門の衆徒たちはこのことを聞いて、「昔から今に至るまで、思いがけない喧嘩・衝突が起きることはあっても、門主・貫長(天台座主)の御所を焼き払い、出世(不妻帯僧)、房官(妻帯僧)たちを後ろ手に縛ってさらし者にするような暴挙をする者はいなかった。我々が相談して決めたところ、道誉、その長子の秀綱をわれわれに引き渡し、そのうえで斬罪に処すべきであるということになった」と、公家の方に訴え出て、武家の方にその趣旨が届くようにした。

 この門主(亮性法親王)も光厳上皇(と光明天皇)の御兄弟であったから、(上皇も)導誉の振る舞いをお怒りになって、断罪流刑にしなければとお思いになっていたのであるが、朝廷の一存で処罰するのが難しいご時世であり、力なく武家の方にその旨を伝えられたのであるが、将軍である尊氏も、その弟の実力者直義も、道誉をひいきにしているという実情であったから、訴えを聞き入れるはずもなく、山門は訴えを続けることに疲れてしまい、訴状は空しく山のように積み重なるという仕儀であった。道誉はというと、法で禁じられたことを無視して、好き勝手を続けていた。

 この状態を怒った比叡山の若い僧たちは、衆を頼んで日吉山王上七社の第一である大宮、第二である二宮、第四である八王子の神輿を根本中堂に上げて、このまま宮中に乱入しようかと協議し、比叡山の諸院御堂における仏法の学問をやめて、朝廷の祈願による仏事も停止し、末寺末社の門戸を閉じて、祭礼を取りやめてしまった。山門としても重大な決意を示したことになり、国家の一大事として、見過ごすことのできない事態が生じた。

 武家(幕府)もさすがに山門の強訴を無視することは難しいと思い、「道誉のことは、死罪一等を減じて、遠流に処せられるべきか」と朝廷に伺いを立てると、すぐにその旨の院宣が山門に下された。これまでの霊を考えると、衆徒の強訴はこれで終わりになりそうにはならなかったのであるが、「現在は時世が悪い。五刑(律令に定められた笞・杖・徒・流・死の五種の刑)の一つを以て、道誉を罰することになり、山門の訴えに理があることが認められたのだから、大勢の訴えが面目を施したようなものだ」と年功を積んだ僧たちが、若い僧たちをなだめ、4月12日(史実は暦応3年=1340,10月のことだそうである)、3つの社の神輿を日吉大社のある坂本へ戻したのであった。
 同じ月の25日に、道誉、秀綱の配流先が決まり、上総の国山辺郡に流されることになった。

 道誉が近江の国分寺(大津市国分にあった)に着いたときに、若党三百余騎が、見送りのためといって、前後に付き従った。その若党たちというのが、みな猿の皮の靭(矢入れ)に、猿の皮の腰当を身につけ、手ごとに鶯を入れた籠をもっていた。猿は日吉大社の神使ということで、強訴によって彼を流刑にした比叡山・日吉大社の人々にあてつけたのである。〔毛皮にされた猿がかわいそうである。〕 また鶯を飼うことが当時は流行していた。道中各地で、宴会を催し、遊女たちを集めて大騒ぎをして、その様子は、普通の流人とは違って、大変派手なものであった。これは、要するに幕府による処罰を軽んじ、山門の不満を嘲弄する振る舞いであった。

 むかしから、山門の訴訟の対象になったものは、10年以内に皆滅亡するという言い伝えがあるのを知らない者がいるだろうか。 治承の頃には、後白河院の近臣であった新大納言(藤原)成親、西光、西景、安元の頃には二条関白師通(これは誤りで、嘉保2年、1095に山門の強訴を武力で防いだために呪詛され、早逝したとされる)が主だった人々で、その他取るに足らぬ輩まで入れると数えきれない。それで道誉も行く末はどうなるかと、先を見通す知恵を持った人々は、注意して見守っていたのであるが、果たして、文和3年(正しくは文和2年、1353)6月13日に、後光厳院が山名時氏に襲われて、近江の国へ臨幸されたときに、道誉の嫡子である秀綱は、堅田で山法師に討ち取られた。その弟の秀宗は大和国内(宇智)郡で野伏たちに射殺された。嫡孫である秀詮とその弟の氏詮は摂津の国中島の合戦の時(興安元年、1361)に、南方の敵に討たれたのであった。
 これらはみな根本中堂の本尊である薬師如来と日吉山王権現の冥罰を蒙ったゆえだろうと、物知りの人々は、恐れおののいたのであった。

 藤原成親の話は鹿ケ谷の変に関連して『平家物語』に、また関白師通も『平家』に語られている。また『平治物語』には、伊豆に配流と決まった源頼朝が、さびしい思いを抱いて東に向かい、近江の建部大社に泊まるが、そこで後には天下をとるという夢を見て思い直すという説話が記されていて、それが結びとなっている。それに比べると、道誉の東下りは賑やかである。道誉の本拠地は近江の国の北の方にあったから、結局そこに引っ込んで、上総には赴かなかったようである。『太平記』の作者は比叡山あるいは天台宗と関係のある人物だったようで、比叡山と日吉大社の神仏の力を強力なものとして描きたいと思っている様子がうかがわれるが、作者の想いとは別に、比叡山を愚弄する道誉のバサラぶりの方が目立つ個所となっている。比叡山の強訴を受けた人物は10年以内に滅亡するとあるが、道誉の子・孫で10年以内に死んだのは、1347年に死んだのは秀宗だけで、あとは10年以上たってから戦死しているから、神仏の罰かどうかは定かではない。それに張本人の道誉は生きながらえているし、道誉の子孫の京極氏は江戸時代に外様大名として存続していくのだから、歴史的な事実によって、『太平記』の作者の思いは見事に裏切られていったといっていいのである。

日記抄(10月8日~14日)

10月14日(日)曇り、昨夜は雨が降ったようだが、夜が明けてからは曇天が続く。

 10月8日から本日までの間に経験したこと、考えたこと、これまでの記事の補遺・訂正等:

10月8日
 従兄の納骨式と偲ぶ会に出席する。司式をした牧師さんの言葉を借りれば、新しい人たちとの出会いの場でもあったのだが、あまりその機会を生かせなかったのは残念である。

 『日経』に連載されている「池上彰の大岡山通信」は池上さんの東京工業大学での学生たちへの講義の報告であるが、「動乱の1968年」を取り上げている。この年、世界中のあちこちで、学生たちの反乱がおきた(学生でなかった若者たちのことも忘れてはならない)。池上さんは若者たちが「叫んだ『変革』なんだったのか」ということで、この前後の政治的な動きと各大学における大学闘争の発端を丹念に拾いあげているが、この問題はもっと巨視的に取り上げる必要があるだろう…と当事者の一人であった私は思う(「高等教育の大衆化」という大きな動きの中での出来事の一つであったと思うのだが、具体的な展開をどのように解釈しているかをめぐっては、また別の機会に書いていくことにする)。

 清水由美『日本語びいき』(中公文庫)を読み終える。

10月9日
 NHKラジオ『遠山顕の英会話楽習』に出てきた重要表現:
There's never a dull moment. (いつも何かがあって忙しいですよ。)
That's a good advice. (それはいいアドバイスですね。)

10月10日
 NHKラジオ『実践ビジネス英語』の”Quote...Unquote"のコーナーで取り上げられた言葉:
We work not only to produce but to give value to time.
      ―― Eugène Delacrois (French Romantic painter, 1798 - 1863)
(われわれはものを生み出すためだけではなく、時間に価値を与えるために働くのだ。)
 ドラクロワは1830年のフランス7月革命に関わって『民衆を導く自由の女神』を描き、1848年の二月革命を経験した。彼の時代には、「時間に価値を与える」というのは大言壮語ではなかったようである。

10月11日
 『日経』の朝刊は、「人材強国への道」の特集連載の第2回として、「『未来の教室』待ったなし」「さらば詰め込み」の教育実践例を紹介している。学習者の生活と関連せず、その興味を掻き立てるわけでもない、雑多な知識を「詰め込む」のはいいことではないが、知識が多いこと自体は、悪いことではない。個々の知識が学習者の頭の中でそれぞれの位置に収まり、お互いに関連しあって、新しい知の創造に向かえば文句はないのである。
 
10月12日
 『太陽の季節』(1956、日活)などを手掛けた映画監督の古川卓己さんが4日に、心不全で死去されていたことが分かった。『鬼平犯科帳』(1969)などテレビドラマも多く手がけたとのことである。ご冥福を祈る。

 『朝日』朝刊に掲載されていた「いま読む漱石 新たな発見」は読みごたえがあった。「人と交われぬ孤独」が漱石作品に通底する主題だとする作家・奥泉光さんの指摘も興味深かったが、「坂と台地 高低差で心理描写」という早大名誉教授・中島国彦さんの見解は、漱石の作品だけではなく、日本近代文学の特徴の一つを捕らえているのではないかと思った。日本の都市のかなりの部分が坂が多い町であって、そのことをどう受け止めるかというのも考えていいことではないかと思う。

10月13日
 新聞の教育関係の記事というと、大学入試と「いじめ」に関わる記事が目につくという印象がある。最近は、医学系の大学の入試に関心が集中しているが、医学部を受験する大学受験者は全体の中でそれほど多くはないということも抑えておく必要があるだろう(だからといって、問題が大事ではないというわけではない。私も月に何度かクリニックに通っている身の上なので、この問題の重要性は認識しているつもりである。ただ、特定の問題に気をとられて、全体を見失わないようにしてほしいといっているだけである)。
 『東京』によると、文部科学省は東京医科大学以外の「複数の大学」で入試不正の疑いがあるとの調査結果を公表したが、その大学名は公表しなかった。どうもすっきりしない。受験生はもっとすっきりしないだろうと思う。

 同じく『東京』は、新しい「共通テスト」の英語における「民間検定』の受験という方向に反対する東京大学の阿部教授の意見を紹介している。「読む・聞く・話す・書く」の4つの技能を均等に磨いていくよりも、基礎に重点を置くべきだというのである。では、「基礎」とは何かという問題も出てきそうだ。ただ、「4つの技能を均等に」というのがかなり無理な要求であることは否定できない。

 『日経』朝刊に掲載されている浅田彰さんの「メディア都市とトランプ村」というエッセーの「マクルーハンの予想と違って、現代のネット社会は、ひとつのグローバル・ビレッジではなく、各々かなり閉鎖的なローカル・ビレッジズに分解してしまった(地域的にも関心領域別にも)」という指摘が情報と世論の形成をめぐる現代の問題の要点を捕らえているなと思った。
 大学を卒業するかしないかという頃に、よく出入りしていた先生の研究室の図書貸借簿を見ていたら、大学の新聞会の部員でもあったある先輩がマクルーハンの『グーテンベルクの銀河系』を借り出したという記載があり、うーん、さすがだねえと思った記憶がある。残念ながら、その先輩は物故したので、どんな印象を持ったのかは聞かずじまいであった。

 横浜FCはアウェーで愛媛FCに2‐0で勝ちJ2リーグでの順位を暫定で5位に上げ、J1昇格に望みをつないでいる。
 横浜シーガルズは保土ヶ谷公園サッカー場で湯郷ベルに2‐1で勝って、なでしこリーグ2部での順位を2位とし、1部昇格に大きく前進した。実はこの試合を見に行くつもりだったのが、歯医者の予約と重なって見に行けなかったのが残念である。

10月14日
 『朝日』の朝刊に、来日中のエジプトのハーリド・アブドゥルガーファール高等教育・科学研究相へのインタビューが掲載されていて、人口が増え続けているエジプトでは今後の教育をどうするかが問題になっている、「人に投資し、人を育てる日本の教育を見習いたい」ということであった。日本の政府が「人に投資し、人を育て」ていたのは大分昔の話で、その成果を食いつぶしているのが現状ではないか。アブドゥルガーファール氏の発言がどうも皮肉に聞こえるのである。

 同じく、中国の地方局のクイズ番組で習近平氏を礼賛する内容が放送されたが、これは個人崇拝につながるのではないかという記事が出ていた。毛沢東のように中華人民共和国の建国に功績があり、かなりの数の著作も残した(しかし、失敗もかなり犯した)人物の個人崇拝ならまだわかるが、習近平氏が何をしたのだという気がするので、神保町に出かけたついでに内山書店と東方書店を覗いて、習近平の著作にどのようなものがあるのかを見てきた。分ったのは、習近平氏は公式の行事での演説や談話を公にしているが、毛沢東のように哲学的な著作や、文芸論のようなものは書いていないらしい(もっとも毛沢東もゴースト・ライターを使っていたのではないかという疑惑は残る)ということ、毛沢東の著作がほとんど店頭に並んでいないということである。ただこれは日本の本屋をのぞいての話であって、中国の本屋に行ったらどういうことになるのかと思った。

 神保町シアターで「伴淳三郎と三木のり平 昭和に愛されたふたりの喜劇人」の特集上映から『太陽の墓場』(1960、松竹大船、大島渚監督)を見る。大阪・釜ヶ崎を縄張りとする暴力団の対立の中で、しぶとく生きる花子(炎加世子)を中心に、さまざまな人間模様が展開される。伴淳三郎が花子の父親を演じている。松竹大船製作作品であるが、映画のかなりの部分を大阪で撮影しているようである。釜ヶ崎を舞台にした映画というと、『当たりや大将』(1962、日活、中平康監督)、『極道ペテン師』(1969、日活、千野皓司監督)などを見ているが(なぜか、『がめつい奴』(1960、東宝、千葉泰樹監督)は見ていない)、この作品がいちばんドライな感じで、後から作られた作品ほど人情喜劇の要素が強くなっているのが奇妙である。ところが、作られた順序とは逆に作品を見たためであろうか、フランキー堺主演の『極道ペテン師』がもっとも強く記憶に残っている。

 1048回のミニtotoBが当たる。大体、本命に賭けたので、当たらないよりはましだという程度の賞金額である。
 

田中啓文『力士探偵シャーロック山』

10月13日(土)曇り、ときどき小雨

 10月12日、田中啓文『力士探偵シャーロック山』(実業之日本社文庫)を読み終える。

 斜麓山(しゃろくやま)は、銅煎(どういる)部屋に所属する力士。今や小結で部屋頭である。ところが、稽古嫌いでミステリが大好き。「小学校の時にシャーロック・ホームズを読んで衝撃を受けて以来、ミステリにはまった。アガサ・クリスティ、エラリー・クイーン、ディクスン・カーと古典を順番に読みこなし、今でも月に20冊は読む、というマニアである。日本のもの、翻訳もの問わずミステリと名がつけばなんでも読むが、本格(謎解き)小説)がいちばん好きらしい。」(27ページ) ホームズがやっていたものなら何でもやってみようと、大学ではフェンシングとボクシング、それに格闘技である「バリツ」まで始めた。その「バリツ」の全日本選手権で優勝したのを見ていた銅煎親方が各界入りを勧めたものの、相撲には関心がなく、ひたすら探偵にあこがれていた彼は断った。

 ところが、料理店を経営していた彼の父親が事故で急死、残った借金を銅煎親方が払うということで、条件が折り合って急遽角界入り。相撲経験はなかったが、長身で怪力、驚異的な相撲勘の持ち主である彼は、スピード出世を続けて関取に昇進した。そうなると個室に寝起きする身分となって、入門以来封印していたミステリ読書にまたもやふけるようになり、それまでの勢いはどこへやら、番付上の地位も一進一退ということになったが、何とか小結の地位までのぼってきた。しかし、ご本人は力士よりも探偵にあこがれる毎日を過ごしている。

 その彼の周辺に何やら不思議な出来事が起き始めた。それも、シャーロック・ホームズが遭遇した事件によく似た出来事である。というわけで、「薄毛同盟」、「まだらのまわし」、「バスターミナル池の犬」、「最後の事件」の4つの事件が書きとめられる。書き手は、斜麓山の付き人の輪斗山(わとさん)という力士である。

 この4篇が、シャーロック・ホームズのどの事件と類似しているかは、篇名を見ただけで明らかであろう。著者である田中啓文さんは、この作品の由来について、編集者との打ち合わせの際に、「『力士探偵シャーロック山』というのはどうでしょう」といったところ、「それいいですね、それでいきましょう」と即答されたことから「タイトルだけが先行している小説」を書くことになったと「あとがき」で述べている。ミステリに限らず、SFなど幅広い領域にわたる作品を発表している田中さんらしい力技がここでも振るわれているといえそうである。「きみは知らないかもしれないが、恐竜がいまでも生息しているという内容の小説『失われた世界』を書いたのは、シャーロック・ホームズの生みの親でもあるコナン・ドイルその人なのだよ」(198ページ)というセリフもある。 

 だから、この作品を読む楽しみというのは、作者のドイルとホームズに対する愛情を確認することに加えて、作者がどのようにホームズのもともとの話を日本の出来事に移し替えているかをたどり、そして、事件がどのように展開していくかを予想することに向けられる。薄毛連盟の話の依頼人が、元力士で今は神社の宮司というありそうもない身の上であることを、原話の質屋と比べてみたりすると、作者の想像力の豊かさが感じられて、それはそれで楽しいのである。のみならず、「薄毛連盟」は江戸時代の誰かさんの遺した埋蔵金の話に、「まだらのまわし」は因縁のある超豪華化粧まわしに、「バスターミナル池の犬」はネッシーを連想させる犬面魚の謎にと、物語が次第に原作離れしていく。(少し書きすぎたかもしれない。) 「最後の事件」では、斜麓山が優勝争いに絡む大騒ぎとなる…。

 「相撲もホームズもリアルさからほど遠いものであって、浮世離れしたそのふたつを組み合わせたらどうなるか……というのが本作である」(278ページ)とも作者は述べている。この作品を上質のエンターテインメントとみるか、たわごとととるかは自由だが、私は前者をとりたい。たわごとと決めつけてしまっては、金を払って本を買って読む意味がないことになるではないか。 

トマス・モア『ユートピア』(22)

10月12日(金)曇り

 1515年、イングランドから外交使節団の一員としてフランドルに渡ったトマス・モアは、外交交渉の中断期間にアントワープ市民のピーター・ヒレスと親交を結ぶ。ある日、モアはピーターから世界中を「プラトンのように」(58ページ)旅したというラファエル・ヒュトロダエウスという人物を紹介される。ラファエルはヨーロッパの社会が当面している様々な問題を解決するには、彼が5年間滞在していた新世界の島国ユートピアの人びとの制度を参考にすべきだという。モアとピーターの要望に応えて、ラファエルはユートピアの様子を語りはじめる。
 ユートピアの人びとには私有財産というものがなく、一部の例外を除き、全員が農業に取り組み、またその他の仕事に従事することになっている。人々の生活ぶりは質素であるが、みなが働くので、共同の財産は莫大なものであり、それを非常時に役立てている。金持ちが尊敬されることはないのは、制度のためでもあるが、また教育のためでもある。学識に優れた人々によって一種の哲人政治が行われている一方で、島民全員が母語による基礎的な教育を受け、また生涯にわたって自分の教養の形成に努めることができる。

 ヨーロッパで有名な哲学者たちで、ユートピアにまでその名声が到達しているような人物はひとりもいなかった。「それにもかかわらず、彼らは音楽、論理学、数学、幾何学においては、我々のところの古人たちが発見したのとほとんど同じことを発見しています。」(162‐163ページ) 澤田訳では「数学」であるが、平井訳では「算術」、ロビンソン訳、ターナー訳、ローガン&アダムズ訳ではarithmeticとなっている。arithmeticは数学の中で、「数」に関わる領域であり、もう一つの「形」に関わる領域=幾何が別に示されていることを考えると、ここは「算術」と訳すほうが適切であろう。
 この時代の学校教育で重視された七自由学芸(seven liberal arts)は、基礎的な三科(三学 trivium : 文法・修辞・論理)とより高度な学芸である四学(四科 qadrivium : 算術・音楽・幾何・天文学)とから構成されていた。これらを学んだあとに、医学、法学、神学のような専門の学問を修めていたのである。
 現代の日本の学校教育の中で、プラトンとかアリストテレスとかいう固有名詞は知っているし、その著書や考え方についても教科書や参考書に書いてある程度の知識を持っているという人は少なくないが、実際にその本を読んで、書かれている内容について考えをめぐらすという人は少ない。ユートピア人たちが、哲学者の名前を知らないけれども、彼らが考えていたようなことをやはり考えていたというのは、現代にも通じる風刺となっている。

 彼らは上述の領域において、古代の哲学者たちと同じような結論に達しているにもかかわらず、この時代のヨーロッパの学者たちの間で盛んであった精妙な論理学や、普遍的存在をめぐる議論は理解できなかったとラファエルはいう。
 これは澤田さんも訳注で述べているように、現実の社会における人間の生き方とかけ離れた空理空論にふけっている哲学者たちに対する風刺である。ユートピア人たちはきわめて現実的な人々なので、そのような空理空論が理解できないというのである。

 「しかし彼らは、星の運行、天体の運動については精通しています。また彼らは、太陽や月、そして視界に映るほかのすべての星の運動や位置をきわめて正確に確認できるようないろいろの形の機械をたくみに考案しました。」(163ページ) 現代に生きる我々にとって、天文学はそれほど生活に結び付いた学問ではないが、この時代(あるいはそれ以前の時代)には、生活と結びつく学問であった。
 ユートピア人たちが天文学に関心をもっており、高度な水準に達しているのは、規則正しい生活を送るために正確な時間を知ること、農業暦の作成のためであろうが、ほかにも測量や航海に際して、天体観測が役に立つということも理由として考えられる。機械というのは六分儀の類が念頭に置かれていると思われる。望遠鏡の発明はこの後のことである。

 その一方で、彼らは占星術の類は一切信じていないという。〔モアは、他に占星術を批判する詩を書いているそうで、この個所はモアの考えを反映していると思われる。〕 なぜ、モアが占星術を信じなかったかについては定かではない。もっと後の時代の人物、例えばケプラーのような偉大な天文学者でも、自分の研究と占星術を結び付けていたことを考えると、これはもっと注意を払って取り組んでもいい問題である。
 その他、気象や潮汐現象などについても、彼らは経験知を積み重ねて結論を出そうとしているが、ヨーロッパ古代の学者たちがそうであったように、新しい学説を提唱することもあるし、それぞれの問題について意見の完全な一致を見ているわけではないという。〔天気予報は現代でも百発百中というわけではない。〕

 以上、自然学を中心として、ユートピア人たちの学問について述べてきたが、ラファエルは続いて倫理学、神学などのいわば人文学といえる領域に話題を移す。それらの領域についてはまた次回に紹介することにする。
 これまでのところ、ユートピア人たちの学問の紹介を通じてうかがわれるモアの学問観は、現実の生活に役立つ学問を重視する、現実主義的なものであり、研究方法としても人間の経験の蓄積を通じて物事の本質の理解に迫ろうとしている点で、経験主義的・帰納主義的な傾向の強いものではないかと思われる。その意味で、モアはフランシス・ベーコンの先駆者といえそうである。 

小松左京『やぶれかぶれ青春記 大阪万博奮闘記』(2)

10月11日(木)曇り、気温上昇

 前回にも書いたが、この書物は本来2冊に分けて刊行されるべきものを無理に1冊にまとめたという感じである。それで今回は、「大阪万博奮闘記」の部分について取り上げるのだが、前回取り上げた部分の紹介は特に必要ないと思われる。「第2部 大阪万博奮闘記」を構成するのは、『文藝春秋』1971(昭和46)年2月号に掲載された「ニッポン・70年代前夜」と1966年ごろに万博協会主催の企業向けの説明会で講師を務めた際の原稿である「万国博はもうはじまっている」の2編である。大阪万博終了後に書かれた回想文と、準備期間に書かれた趣旨の説明とであり、発表された日時や内容から見て、順序が逆ではないかと思うのだが、たぶん、エピソードに富んでいるということで面白い方を先にしたということであろう。

 いずれにしても、これは小松さんが新進作家として、それ以上に多方面にわたって活躍する異能の文化人として名を知られるようになった後の話であって、第1部と第2部の間には相当な空白期間がある。(そのことを編集者も気にしたとみえて、巻末にまとめられている「年譜」によって、その間の空白はかなり埋めることができる。)

 1964年の4月か5月のこと、ある新聞の紙面に「東京オリンピックの次は、大阪で国際博?」という記事を見つけた小松さんは、持ち前の好奇心を働かせはじめる。この時期、大阪の朝日放送のPR雑誌であった『放送朝日』とのかかわりを通じて、京都大学の人文科学研究所の研究者たちとの交流があった小松さんは、当時まだ大阪市立大学にいた梅棹忠夫さんや、人文研の加藤秀俊さん(と呼んでおくが、私にとっては先生である)とともに万国博研究会を始めようと言い出す。それは人文研の研究者たちが『放送朝日』を舞台として展開してきた比較文化論と情報化社会・未来学をめぐる議論の延長線上に企画されたものであった。
 小松さんはこの時期に(特に梅棹が中心になって)人文研の研究者たちが主張した日本文化の再評価論が、同じ時期に活発になりはじめていた「日本大国論」や「日本再評価」の動きと違う、復古調ではなく、未来志向のものであることを強調している。さらにまた欧米の近代化の跡をなぞろうとする「近代主義」、国粋的な「復古主義」とは違う、土着的なものの強調に立脚した日本文化論であるともいう。〔ただ、梅棹さんの議論が、復古調の議論に利用されやすい側面を持っていたことも否定できないのではないか。また中立的・学術的な議論がそのことによって、逆にある党派に利用されるという恐れも計算しておく必要があるだろう。〕 この辺り(ご本人はそうは自称されていないが)<焼け跡闇市派>世代の小松さんの意地も感じられる。日本の社会と経済が豊かになったことを通じて、国民は「実感としての独立」を勝ち得たという観察も然りである。

 小松さん自身はSF作家としての道を進むにつれて、霊長類研究に関心を抱き、そこから自分の母校であり、霊長類研究で実績を積み重ねてきた京都大学の学問研究を再認識することになった。そして、多方面に向けられる興味と自由で学際的な「研究の流れ」の中に身を置くようになったというのである。

 「国際博」ではなく「万国博」を研究会の名称に取り入れたのは梅棹さんの発案だそうである。
 「『国際関係ちゅうと、特にインテリやエリートは、じきに欧米のことを思い浮かべるねン』と梅棹氏はいった。『中国との関係や、ネパールやザンビアとの関係を、国際問題と思いよれへん』」(255ページ) 〔いまではそうでもないだろうと思う。それから、普通6年かかる小学校の5年から中学に進学し、旧制では5年かかった中学校の4年から旧制高校に入った梅棹さんが、「インテリやエリート」を他者としてみているというのは、どうも不思議である。もっとも旧制高校で落第を繰り返したというのも事実ではあるが… とはいうものの、万国博の方が――実際には万博として定着したのであるが――大衆になじむだろうという見通しはおおむね正しかった。〕

 知的好奇心の赴くところ、オリンピックでもよかったのだが、1964年東京オリンピックの開幕間際のことで、研究対象とするには遅すぎる。関西でオリンピックというのはまだ雲をつかむような話で、だからこそ「間に合う」かもしれない。そこで小松さん、梅棹さん、加藤さん、それに川喜多二郎氏、多田道太郎氏、鎌倉昇氏にも発起人に加わってもらって「万国博を考える会」を発足させた。研究の内容は①万国博はどのようにして誕生したか、歴史的にどのような役割を果たしてきたか、今後文明の発展に対しどのような役割を果たしうるかという、いわば本質論、②第二次世界大戦後に世界各地(=ブリュッセル、シアトル、ニューヨーク)で開催され、1967年開催が決定して、その当時準備中のモントリオールの各万国博のケース・スタディ、③日本で開かれる万国博を「社会現象」としてとらえ、そのさまざまな側面を見ていく総合的研究、ということである。

 考える会では、加藤さんがその「整理学」を駆使して集めてくる材料をもとに、梅棹さんが鋭い洞察を展開する。そんなことを続けているうちにこれはなかなか大変なことだということがわかってきた。発起人はそれぞれの専門領域を生かしながら、自由に「考え」ていくことになり、しばしば意見交換を行っていた。その一方で、東京オリンピックが間近に迫り、「オリンピック関連投資」を使っての開発が急速に進行していた。それはもし、関西で万国博が開かれれば、関西がどのような未来を迎えることになるかという予想を膨らませるに十分なものであった。さらに調査を進めているうちに、日本人が江戸幕府の時代から万国博に参加し、博覧会好きの伝統を持っていることも分かった。そのくせ、「万国博」となると見た経験のある人は少ない。戦前どころか、戦後になっても、「万国博」は「当時の『世界の中心』ヨーロッパと大西洋岸アメリカでほとんど行われていた」(265ページ)からである。「90パーセント以上の日本人は、『万国』にふれずに一生を終えてしまうのである。」(同上) だとすれば、極東の日本で「万国博」を開く意義は十分にありそうだとの感想を会員たちは共通に持った。

 そのうち、万国博開催のアイデアが通産省の輸出振興課から起こったということが分かってきた。それは無理からぬことである。万国博が輸出振興につながるのは別に悪いことではない。しかし、基本的性格がこれでは何となく具合が悪い。19世紀に万国博は、産業、技術の一大情報交換の場であった。20世紀前半は、一種の過渡期であり、後半における博覧会は一方において「ますます大衆化されつつある世界――国際的大衆化社会」を基礎にし、他方において、その大衆を取り囲む世界についての問題提起と提案とを、展示、催しを通じて行う場という意義と性格が強まっていると、会員たちは考えはじめた。つまり「大衆的レベルにおける」新たな国際常識を生み出す場だということである。これが1964年時点での到達点であった。

 1964年というのは、私が大学に入学した年であり、右も左もよくわからずにうろうろしていて、梅棹忠夫も加藤秀俊も小松左京も名前しか知らずに、その後本人が案外身近にいることも気づかずにいた時期である。小松さんは日本人の大部分は「万国」を知らずにその一生を終えてしまうと書いているが、大学という知の宝の山にいても、ごく表面的なことだけに心を奪われたまま、卒業してしまう例も少なくはないのである。とにかく、この時点ではオリンピックのほうに目を奪われていて、万国博の関西開始を目指す動きが進んでいるということには気づかなかったし、近代主義の枠の中での思考にとらわれていて、ポストモダンの思想的な動きどころではなかった。ということで、今回では、紹介を終えることができず、私と小松さんのかかわりについてを含む、この後の内容については、次回以降に持ち越すことにする。

ダンテ・アリギエーリ(須賀敦子・藤谷道夫訳)『神曲 地獄篇(第1歌~第17歌)』(3‐3)

10月10日(水)晴れ、気温上昇

 1300年4月4日、<暗い森>に迷いこんだダンテは、古代ローマの大詩人ウェルギリウスの霊と出会い、彼とともに地獄と煉獄とを、また<よりふさわしい霊>に導かれて天国を訪れることを促される。(第1歌) いったんは、同意した彼であるが、自分がそのような遍歴にふさわしい人物であるかを疑い始める。その彼に、ウェルギリウスは、聖母マリアと、聖ルチアと、ベアトリーチェとがダンテにこの度を経験させるよう、ウェルギリウスに依頼したのだと説明し、ダンテはようやくウェルギリウスに導かれて歩み始める。(第2歌) 「われを経て、苦しみの都に到る。・・・われを過ぎるものはみな、すべての希望を棄てよ」と記された地獄の門をくぐったダンテの耳に、天国にも地獄にも入ることのできない「誹りもなく、誉れもなく生きた」人々の魂の悲惨な声が聞こえる。ダンテは、これらの人々の数があまりにも多いことに驚く。やがて2人は、大きな川(アケローン)の川岸に到着する。地獄への船を待つ人々は、なぜか先を急いでいるように見える。彼らを迎えに来た舟の渡し守であるカローンは、ダンテに向かい、おまえはここにくるべき存在ではないという。まだ死んでいないし、死んだとしても、地獄ではなく、煉獄に向かうはずだというのである。(第3歌のこれまで)

 ウェルギリウスはカローンに向かい、ダンテの旅が神の意志に基づくものであるので、彼を舟に乗せて対岸に運ぶべきことを言い聞かせる。カローンは黙ってその言葉に従うが、その表情から怒りは消えていなかった。その場にいたほかのたましいたちは、カローンの全ての望みを棄てろという恐ろしい言葉を聞いて、おののいていた。
 やがて一同はそろってひどく泣きながら
神をおそれぬ人々すべてを待ち構える
邪悪の川岸へと寄り集まった。
(106‐108行、50ページ) 

 悪魔のカローンは、炭火のような目(まなこ)を
投げかけて彼らに合図を送り、みなを(舟の上に)集め、
遅れる者は誰であれ、容赦なく櫂で打ちのめした。
 秋に葉が一枚また一枚と落ち、
最後には、枝をはなれた葉がすべて
地に積もるように、
 そのアダムの悪しき種たちは、一人また一人、
鷹匠の呼びかけに従う鳥のように、
その岸から呼ばれて(舟に)飛び降りる。
 こうして、たましいたちが暗い波間を揺られてゆき、
やがて向こうで舟をおり立つ頃には、
こちらの岸には新たな群れが集うのであった。
(109行~120行、50‐51ページ) 人間は女性から生まれてっくるのに、なぜエヴァではなく、アダムの子孫とされているのかといえば、現在は男性(精子seme)を通じて遺伝すると信じられていたからである。「現在の汚れは母親〔エヴァ〕にではなく、父親〔アダム〕に由来する」(トマス・アクイナス『神学大全』、55ページの解説注参照)

 ウェルギリウスはダンテに地獄へと向かうたましいたちがなぜ先を急ぐのかを説明する。
 一刻も早くこの川を渡ろうとするのは
神の正義に追いせまられて
恐怖が望みに転化するからだ。
(124‐126行、51ページ) 55‐56ページの解説注に詳しい説明がされているが、人間は悪事をなしたから地獄に行くのであり、その悪事は自分の自由意思で行ったものである。だから、悪事をなすのは、自分で地獄へ行くことを望んでいることになるということである。

 ウェルギリウスの言葉が終わったとき、突然地震が起きる。ダンテが『神曲』で描く世界では、地獄は地球の内側にあるから、当然地震が起きると考えられていた(地震は局所的な現象であるという経験知も、地震には震源があるという理解もなかったようである)。
 ・・・漆黒の野は、突如
揺れ動いた。その恐ろしさを思い出すだに
いまだに全身がじっとりと汗ばんでくる。
 涙にぬれた大地は風を起こし、
その風の中で、朱の光が一瞬きらめいた。
私のすべての感覚は深くうちのめされ、
 眠りにおそわれた人のように私は倒れた。
(130‐136行、51‐52ページ) 解説注によると、ダンテの時代の人びとはアリストテレースの説明に従って、風が大気中で発火して稲光となり、地中で発火して火山現象を生じさせると考えていた。「ダンテはいま、地中にいて、地下界での発火現象を目撃しているのである。風が吹き出てくる際に地震が生じ、その風が地下で発火して閃光が生じている。この自然現象にさらされたダンテは気を失う。」(56ページ)

 第4歌でダンテが意識をとり戻した時、彼は谷底(地獄)の淵の上にいる。そしてそこから、さらに下の世界へと降りてゆくのであるが、それはまた次回。

 8月に亡くなった私の従兄の納骨式が、一昨日あったことについてはすでに書いたが、そのときに司式をされた牧師さんが『旧約聖書』「詩篇」第90篇を読み上げた。その中の
私たちの齢は七十年。健やかであっても八十年
という個所に来て、そういえばこれは『神曲』冒頭の
Nel mezzo del cammin di nostra vita
 人の世の歩みのちょうど半ばにあったとき
のnostra vitaが普通には各個人の人生70年のなかばと理解されているのに対し、須賀・藤谷は人類の歴史と理解しているということを思い出していた。人生70年の根拠とされるのが、詩編のこのくだりなのである。日本で最初に『神曲』を英語から重訳した生田長江は冒頭部分を(2行目も含めて)
七十路の人の命の中ほどにして、正しき道を失へりし我は
と訳している。
 さて、このように書いてきて、気づいたことだが、納骨式の際に読まれた『詩編』の文面は、私の手許にある『新共同訳』とは違っているので、『新改訳』である可能性が大きいが、その種の宗教的な論争を展開するのは個人の霊(とご遺族)に対する礼を欠いた行為というべきであろう。というより、私はキリスト者ではないので、このような論争にはかかわらないことにしているのである。
 

『太平記』(231)

10月9日(火)晴れ、気温上昇

 南朝の勢力が衰え、武家は公家を軽んじたため、北朝の朝儀も廃れた。

 この頃(暦応元年、南朝延元3年、1338の秋)に、当時幕府内で実力者として重要な地位にあり、その派手で贅沢な暮らしぶりで世間を騒がせていた佐々木導誉の一族若党たちが事件を起こした。彼らが「例のばさらに風流を尽くして」(第3分冊、409ページ)西山、東山の紅葉を楽しんで洛中に戻ってきた帰りに、延暦寺三門跡の一つ、妙法院の前を通りかかった。「ばさら」というのは林屋辰三郎『佐々木導誉』によると、この時代に流行した美意識であり、「身分不相応に派手で、遠慮のない振る舞いのことである」(同書、94ページ)。「門跡」とは皇族・上級貴族の子弟が歴代の住持となる別格扱いの寺院をいう。妙法院は、青蓮院、三千院と並んで延暦寺三門跡に数えられ、現在は京都市東山区妙法院前側町(東山七条)にあるが、そのころは祇園に近い綾小路にあった。一行の主だったものが、従者たちに命じて、この寺の境内の紅葉の枝を折らせた。
 なお、『太平記』ではこの事件を暦応元年のこととしているが、林屋『佐々木導誉』、森茂暁『南北朝の群像』では暦応3年(南朝興国元年、1340の10月、この時代の暦では10月は冬である)のこととしている。これは中院通冬の日記『中院一品記』の暦応3年(1340)10月7日の条に前日のこととして書きとめられているのに基づいているという(森、前掲、268ページ参照)。

 その時ちょうど、妙法院の門主である亮性(りょうしょう)法親王(後伏見院の皇子、ということは、光厳上皇、光明天皇の兄弟にあたられるということである)が、御簾の内から夕暮れ時の庭の紅葉をご覧になって、「霜葉は二月(じげつ)の花よりも紅なり」(霜で赤くなった木の葉は二月の花よりもいっそう赤い)」(晩唐の詩人・杜牧の「山行」の詩行)と静かに詩を吟じて、感興にひたっていらした。ところが、ことのほか色鮮やかな紅葉の枝を無作法にも乱入してきた武士の家僕たちが折っているのが見えたので、「誰かおらぬか。あれを止めよ」とおっしゃった。
 そこで房官(寺務を差配する妻帯僧)が1人、庭に出て、「お前たちはどこの何者で、どんな理由で御所の中の紅葉の枝をこのように勝手に折っているのか」と制止しようとしたが、まるでいうことを聞かない。挙句の果てに、「御所とはなんのことか、片腹痛いことだ」と散々に嘲弄し、ますます大きな枝を引き折った。
 ちょうど、妙法院門跡に仕える叡山僧たちが大勢宿直にやってきていたが、これを見て、「憎たらしいやつらが狼藉を働いたものだ」ともっていた紅葉の枝を奪い返し、ぼこぼこにやっつけて、門より外に追い出した。
 妙法院側は平和裏に説得して引き取らせようとしたのであるが、佐々木家の下人たちが応じるわけもなく、結局叡山僧たちがやってきて決着をつけるという結果となった。初めから叡山僧が出て行って、追い返したほうがよかったのではないかという気もするが、ことはこれで収まらない。
 杜牧の「山行」は次のような詩である:
遠く寒山に上れば石径斜めなり
白雲生ずる処人家有り
車を停(とど)めて坐(そぞろ)に愛す楓林の晩(くれ)
霜葉は二月の花よりも紅なり
(家を離れて冬を迎えようとしているさびしい山に登ると、石だらけの小道が斜めに続いている。/霧のような雲がかかるこんな高いところでも民家がある/車を停めて、何気なく夕暮れの楓の林を眺める./霜がかかって赤くなった紅葉は、二月の桃の花よりも赤い。) これは、失意の中にいる人物が、それでも自分の心を慰め、励ましてくれるものを見つけて、希望を失わないで生きていこうと歌っている詩のように思われる。『太平記』の作者が、軍閥の台頭の中で、失意の日々を送る官僚・杜牧の心境と、武家の横暴の中で心静かに暮らすことのできない皇族出身の高僧の心境とを重ね合わせようとしているのかどうかはわからない。

 この一部始終を聞いた道誉は、「門主がどのような出身の方であろうと、この時勢のなかで、道誉の配下の者にあのような暴力をふるうことは許せない」と怒って、300余騎の武士たちを妙法院の御所に向かわせた。彼らは御所に火をかけた。
 事実関係から言って、自分たちの方に非があるということを認めようとせず、ただ、相手が皇族出身であることを根拠として自分の家来たちの狼藉をとがめたことに対し、怒っている。逆切れもいいところである。

 折あしく、風が激しく吹いていたので、妙法院から上がった煙があちこちに飛び火して、その西隣の建仁寺の輪蔵(回転式の経蔵)、開山堂(建仁寺の開山である栄西を祀る堂)、瑞光庵(不詳)も同時に焼けてしまった。門主は密教の修法の最中で持仏堂にいらしたのであるが、急に火の手が上がったので、急いで北門から徒跣(かちはだし)で御逃げになって、祇園社の南の光堂に入られた。門主の弟子として仕えていた若い皇族は、普段の御所にいらっしゃったのであるが、板敷の下に逃げ隠れられていたのを、道誉の子息である秀綱が走り寄って刺し殺し奉った(こんなところで敬語を使っても仕方がないと思うのだが、『太平記』の作者が敬語を使っているので、そのまま現代文に直した)。その他の出世(清僧=妻帯していない僧)、房官、児(ちご=高僧に仕える童形の少年)、侍法師(警護役の僧)たちが逃げ場を失って、許しを乞うているのを「許し乞いなどは言わせぬ」と追い回して、縛り上げた。

 夜中のことだというのにこの騒ぎで、鬨の声が洛中、鴨川の東岸一帯に響き渡り、火の粉が四方に飛び散った。京都に出ていた武士たちは、「何事が起きたのか」と慌て騒ぎ、京の南北を馬で走り回った。事情が分かって、宿所に帰った人々は口々に「どうもあさましいことだ。前代未聞の悪行である。いずれ比叡山の衆徒たちが強訴(武力で威嚇して朝廷や幕府に訴えること)に及ぶだろう」と口々に言い立てたのであった。

 もちろん、ことはこれで済まない。どのような展開を見せたのかはまた次回にお話をする。道誉とその一党の行動は、弁護の余地のないくらいひどいものである。だが、このような振る舞いの一方で、道誉は立花、連歌など、この時代に流行していた芸能の推進者であり、風流人・文化人でもあった。バサラ大名として名を馳せた人物というと、まず佐々木導誉、土岐頼遠、それに高師直であろうと林屋辰三郎は言う。土岐頼遠と高師直がこの後没落していくのに対し、佐々木導誉は長生きしただけでなく、『太平記』の中でもっとも長期間にわたって大暴れをした人物としてその名を遺す。以前にも紹介したが、『太平記』の主人公というべき登場人物は、楠正成、足利尊氏、佐々木導誉、細川頼之であるとも林屋は言う。道誉の活躍はむしろ、これからなのである。おそらくは林屋から多くの示唆を得ているのだろうが、吉川英治がその『私本太平記』の中で佐々木導誉を重要人物の一人として描き出しているのは、非凡な着想である。

井伏鱒二『厄除け詩集』にならって

10月8日(月)曇り

 8月に急死した従兄の納骨式・偲ぶ会に出席。ところが、偲ぶ会の席で従弟が倒れるという出来事があった。病院に搬送された後のことは聞いていない。大事に至らないことを願うのみである。亡くなった従兄は93歳。従兄弟(姉妹)の中で最年長。倒れた従弟は59歳。従兄弟(姉妹)の中で最年少。ある年齢を過ぎたら、みんな気をつけないといけないということがわかる。ちなみに、私は73歳。

 本の内容をまとめるというような、一つ一つ積み上げていく作業が難しく感じられる精神状態なので、日ごろ書き溜めているノートの中から、井伏鱒二の『厄除け詩集』をまねて、有名な漢詩の「翻訳」を試みたものの中から、2編を紹介する。井伏の翻訳と比べてみると、大分見劣りがするが、それでも彼我の距離を見定めることができる程度の作品にはなっていると思う。

静夜思     李白
牀前看月光
疑是地上霜
挙頭望山月
低頭思故郷

月の光に ふと気がついて
霜と間違う その白さ
山と月とを 望んでいるが
思いをはせる 故郷へ

勧酒       于武陵
勧君金屈巵
満酌不須辞
花発多風雨
人生足別離

とっておいたぞ この盃で
いやといわずに 飲んでくれ
月に叢雲 花に風
人生別れは つきものだ

 「金屈巵」というのは『新字源』によると、「曲がったとってのついた黄金製のさかずき」だそうである。友との別れに、秘蔵していた黄金の盃に酒を注いで勧める。何とか、豪勢なことをして、友を送り出したい。別れることは人生の定め。しかし、何とかその別れを美しく飾りたい。そんな気持ちがこの詩の中に込められている。

 「翻訳」というと、原文の意味しているところが抜け落ちたり、勝手に新しい意味が付け加わったりすることがしばしば起きる。そういうことが起きるという経験を重ねながら、言葉と言葉、文化と文化の距離を縮めたり、縮めないまでもその距離を移動することで視野に入る風景を楽しんだりすることが大事なのだろうと思う。

 従兄の一人に、おまえさんは格好をつけようとするのが欠点だといわれたが、その点は自覚して、欠点を長所に代えるべく努力を続けているということで、理解願いたいと思っている。 

日記抄(10月1日~7日)

10月7日(日)晴れ、気温上昇

 10月1日から本日までの間に経験したこと、考えたこと、これまでの記事の補遺・訂正など:

10月1日
 『朝日』の朝刊に中国の文豪魯迅について、彼が文学の道に志したのが日本においてであったことなどが紹介されていた。魯迅が近代日本の作家、特に森鴎外と夏目漱石の影響を受けていることは最近、よく指摘されていることであるが、逆に魯迅から日本の文学者が影響を受けているという側面も見逃さない方がいいだろう。

 今日から語学番組が新しい学期に入る。『まいにちフランス語』、『まいにちスペイン語』、『まいにちイタリア語』はそれぞれ2017年度の前期に放送したものの再放送だが、『まいにちスペイン語』だけは、2017年度に聴いていなかったので、初めて聴くことになる。

 下川裕治『東南アジア全鉄道制覇の旅 インドネシア・マレーシア・ベトナム・カンボジア編』(双葉文庫)を読み終える。実は、インドネシアの旅が大部分を占めている。とはいうものの、東南アジアの鉄道は格安航空社の台頭と、バス路線の整備の中で苦戦を強いられている。そういう実情がわかって、なかなか面白い。

 10月2日付『朝日』朝刊の「首相動静」、『日経』朝刊の「首相官邸」を見ると、この日の午前中に安倍首相は橋田俊彦気象庁長官と会見している。いったいどんな話をしていたのか、気になる。

10月2日
 京都大学の本庶佑特別教授がノーベル医学・生理学賞を受賞された。受賞はめでたいことであるが、学部は違うが、同じ時期に同じ大学で学んだものとしては劣等感を感じるというか、複雑な気分になるニュースである。むかしの長谷川町子の漫画『似たもの一家』で、散々な成績をとって帰ってきた甚六に向かい、伊佐坂先生が「なんだ、この成績は、特に物理は、同じ日本人でもノーベル賞を取った人がいるんだぞ!」と叱りつけると、そばで聞いていたうきえさんが「そうねえ、同じ作家でも文化勲章をもらった人もいるんだし…」といったので、先生のほうがおとなしくなってしまうというのがあった。私の同期生で、卒業研究のための実験を湯川秀樹と同じ花谷記念館でやっていたと子どもに向かって自慢したけれども、子どもから尊敬される気配は一向にないといっていたのがいる。
 本庶さんは常々、研究には6つのCが必要だといっているそうである。6つのCとはCuriosity (好奇心)、勇気(Courage)、挑戦(Challenge)、確信(Confidence)、集中(Concentration)、持続(Continuation)だという。これらのそれぞれが適切に発揮され、お互いがお互いを引き立てあうことが必要だということであろう。

 シャルル・アズナヴールさん死去。歌手としてだけでなく、俳優としても大きな足跡を残された方である。調べてみたところ、出演作品で私が見ているのは4本だけだが、何かもっと多くの映画を見たような気がする。それだけ存在感が大きかったということであろう。ご冥福をお祈りする。

10月3日
 NHKラジオ『実践ビジネス英語』の”Quote...Unquote”のコーナーで紹介された言葉:
Shallow men believe in luck. Strong men believe in cause and effect.
        ―― Ralph Waldo Emerson
                (U.S. philosopher, poet and essayist, 1803- 82)
(浅薄な人間は運を信じる。強い人間は因果関係を信じる。)

10月4日
 『朝日』の朝刊によると、新たに導入予定の「大学共通テスト」に対する大学側の懸念が強まっているという。一方で時代の要請や大学の期待に応えるような外見を整えてはいるが、内実に問題があるということのようである。特に英語の「民間試験」導入については批判が大きい。この件については、機会を改めて詳しく論じるつもりである。

 第4次安倍改造内閣で文部科学大臣に就任した柴山昌彦氏が、「教育勅語」について、「使える分野は十分にある」との発言をしたと『朝日』の朝刊が報じている。「勅語」は既に失効したものであるから、とやかく言うべき筋合いのものではないが、かつては天皇のお言葉とされていた(山形有朋らが作成したものであることが、のちの研究で明らかになっている)文書について「使える」というのはあまりにも礼を欠いた発言ではなかろうか。

 西俣総生『「城取り」の軍事学』(角川ソフィア文庫)を読み終える。関東地方を中心に「城」の実態が著者が実際に歩いて調べた結果を通じて語られている。

10月5日
 9月の北海道を襲った地震の際に起きた停電(ブラックアウト)について、『日経』朝刊の「かがくアゴラ」のコーナーで、東大の合原一幸教授の日本の電力網が「周波数が揺らぎやすいという問題を抱えている」という意見を紹介した記事が興味深かった。知らないことはいろいろあるのである。
 同じ『日経』に「グーグルに政治的な偏り」があるというトランプ米大統領の批判をめぐり、この主張に根拠がないことを立証している記事も大いに参考になった。

 『実践ビジネス英語』の”Quote...Unquote”のコーナーで紹介された言葉:
It is not enough to be busy; so are the ants. The question is: What are we busy about?
---- Henry David Thoreau (U.S. naturalist and writer, 1817 -62)
(忙しいだけでは十分ではない。アリだって忙しい。問題は、何をして忙しいのかということだ。)

 『NHK高校講座 古典』は『伊勢物語』を取り上げているが、本日はその第5段が考察された。昨日のブログ{森本公誠『東大寺のなりたち』(15)}を書くのに役立つ内容が多かった。

10月6日
 今年のノーベル平和賞は、性暴力と戦っている2人の人物、コンゴ民主共和国(旧ザイール)の婦人科医デニ・ムクウェゲさん(63)と、過激派組織による性暴力被害者で、被害者の救済を訴えるイラクの少数派ヤジディ教徒のナディア・ムラド・バセ・タハさん(25)に授与されることが発表された。
 コンゴ民主共和国というのはどうもすごいところらしく、MASAKI『独裁国家に行ってきた』(彩図社)には、「世界一危険で世界一残虐な国がある。元ザイールのコンゴ民主共和国と、元フランス領であるコンゴ共和国のコンゴ両国だ。204ヶ国に実際に行った視点から見ても間違いなく世界の危険な地域トップ3に入る国である」(176ページ)と記されている。コンゴ民主共和国を旅行した経験を語る箇所は「本物の警察が武装強盗」、「無実の罪で収監」など、見出しだけでも恐ろしさが伝わってくる。ムクウェゲさんが大変な環境で努力を続けられていることも推測できるのである。
 ヤジディ教というのはヤズィーディーとも言い、イスラーム以前のクルド人の宗教が残ったものといわれるが、周辺の様々な宗教の影響を受けているようでもある。イラクの中でクルド人は少数派であり、その中でヤジディ教徒はまた少数派である。タハさんの受賞がマイノリティー(の中の、特に女性)の状態の改善に役立つことを期待したい。

10月7日
 『日経』の日曜特集「美の粋」では「波 動と静」を取り上げていて、英国のターナーと、日本の北斎と、フランスのクールベの作品が紹介されていた。北斎の『富岳三十六景』の中の「神奈川沖浪裏」はあまりにも有名だが、実際にこのような情景が神奈川宿の沖合で見られたのか、それを北斎が実見したのかという点については、どうも疑問に思われる。逆にいえば、北斎の想像力を賞賛すべきなのではないかと思う。

 従兄の1人が8月に亡くなって、その「偲ぶ会」が明日(10月8日)に開かれるのに出席するため、本日、明日とみなさまのブログを訪問することができそうにありません。あしからずご了承ください。 

森本公誠『東大寺のなりたち』(15)

10月6日(土)晴れ、気温上昇

 東大寺は聖武天皇が夭折した皇太子・基親王の冥福を祈って建立した山房に起源をもつが、この時代に続いた天災やその他の不幸から、天皇が仏教、特に華厳教学への理解と系統を深められる中で、仏教に基づいた政治の中心地として位置づけられるようになった。東大寺の大仏の造立は華厳経に基づいて人々の苦しみを救おうと発願されたものであった。
 このように天皇の厚い保護のもとで東大寺は巨大な勢力に成長し、孝謙・称徳天皇と藤原仲麻呂との政争の中で、天皇側の勝利に貢献するほどの存在となったが、称徳天皇の崩御後、光仁天皇が即位されるに至り、状況は一変した。
 光仁天皇は仏教界の綱紀粛正をすすめられ、さらにその後即位された桓武天皇は一歩進んで政治への仏教の影響力を排除されようとした。そのため寺院勢力の強い平城京から長岡京への遷都を行おうとするが、不幸が重なって断念、延暦13年(794)10月に平安京に遷都の詔を発された。

 平安京に遷都しても天災地変はやまず、それらは桓武天皇によって排除された人々の祟りであると考えられた。天皇は都の造営を進める一方で、祟りを起こしている霊への鎮魂・名誉回復を進められた。
 また平安京遷都後は、新たな都に官大寺(東寺と西寺)を造営することとなり、その分、東大寺の封戸が削られることとなった。
 光仁天皇の娘で、聖武天皇の娘・井上内親王を母とする酒人内親王は絶世の美女であり、そのために同父異母の兄である桓武天皇の妃となった。彼女は奔放な性格ではあったが、聖武天皇の血を引いていることを忘れず、東大寺に篤く帰依し、嵯峨天皇時代の弘仁9年(818)には経典・土地・宝物を東大寺に施入しており、その施入帳は現存し、酒人内親王献入帳と呼ばれている。内親王が天長6年(829)に薨去されると、聖武天皇の血を引く人物はいなくなった。

 政府による圧迫を受けたことに加えて、東大寺にはもう一つの難問が生まれていた。それは大仏の仏体に亀裂が見られはじめたことである。そうしたところに地震が発生、ついに斉衡2年(855)大仏の首筋の亀裂が広がって、頭部がついに落下してしまった。実地検分の結果、大仏像は大破していて、新造するか修理するか、なかなか方針が定まらなかったが、忌部文山という人物がろくろの技術を駆使し、雲梯を巧みに組み合わせて落ちた仏頭を断頭に引き上げ、大仏の頸部に溶鋳して新造のようにするという修理計画を提出、それが採用された。

 「斉衡2年9月、修理東大寺大仏司検校、つまり修理事業の総監督に、僧侶では…真如、俗官では大納言兼右近衛大将藤原良相が任命された。真如は平城天皇の第三皇子高岳親王のこと。大同4年(809)4月、平城天皇が弟の嵯峨天皇に譲位したのに伴って皇太子となったが、翌年薬子の変によって廃嫡された。その後出家して東大寺羂索院に止住。勉学の志厚く、内外の学問を渉猟、律師道詮に三論宗を習い、のち空海から真言密教を学んだ。」(199‐200ページ)
 真如は藤原良相らとともに、文徳天皇(在位850‐858)に奏上、すべての民が「一文の銭・一合の米」であっても寄進することを勧め、その力で再建したいと願い出た。朝廷の側にも、東大寺は天武天皇系天皇による遺産だというようなこだわりはなくなっていた。そして、人々の力を借りて再建を進めたいという願いでは許された。

 真如親王や忌部文山の尽力により、修理事業は順調に進み、貞観3年(861)3月14日に大仏開眼供養会が営まれることになった。既に文徳天皇は亡くなられ、清和天皇(在位858‐876)の時代となっていた。「開眼会は貴賎の隔てなく布施に与れる無遮大会の形式を採り、その規模は天平の開眼会に勝るとも劣らない盛大なものとなった。」(201ページ)
 「御頭供養会はまさに官民挙げての大いなる祝賀であった。その祝意を太政官が全国的規模で徹底させようとしたことは注目すべきであろう。大仏の復興といえば重源上人による鎌倉期や公慶上人による江戸期の復興が思い起こされ、平安初期の地震という災禍からの復興はあまりよく知られていないし、ましてや功労者木工忌部文山の名はほとんど知られていない。しかし、天平の大仏開眼を去ること百有余年、天災であれ人災であれ災禍からの復興という、東大寺の歴史を貫く根幹的枠組みの祖型、つまり「東大寺のなりたち」が実はここに完結したのである。」(204ページ)と著者は結ぶ。聖武天皇の精神ではなく、真如親王によるその精神の再生こそが<東大寺のなりたち>だというかのようである。

 著者はさらに数行の記述を加える:
 「廬舎那大仏の復興と御頭供養会の催行という大役を終えた真如親王は、仏教の奥義を極めるため、入唐求法に旅立った。付き従う僧俗は六十人。洛陽・長安に滞在、さらに密教の疑義を正そうとインドへの渡航を企てたが、865年、羅越国(マレー半島南端か)で死去した。亨年67歳と推定される。」(204ページ) 高岳親王については、森本さんの師であった宮崎市定による考察があって、たぶんそれが森本さんの念頭に置かれてのことであろうと思う。

 なお、高岳親王の甥にあたるのが在原行平・業平の兄弟であり、清和天皇の后であった藤原高子は「二条の后」として『伊勢物語』の前半にしきりに登場する。都を奈良に戻そうとした平城天皇の孫たちは、政治的な権力争いにおいては敗者であったが、新しい文化の創造に貢献したのであった。さらに清和天皇の子孫たちは、源を氏として武士として活躍、さらに新しい社会を作っていく武士たちの棟梁となった。

 これで森本公誠『東大寺のなりたち』の紹介を終える。歴史的な出来事はそれぞれの関連性においてみていくと面白くなるということを改めて確認させられたという思いが浮かぶ。以前に書いたことがあるが、東大寺に関係する仕事をしていた時期があるので、この書物は興味深く、懐かしさも手伝って少し脱線してしまったかもしれない。昨夜(10月5日)の「NHK高校講座(古典)」で『伊勢物語』を取り上げたので、それに関連することも付け加えた。奈良で学会があったときに聖武天皇・光明皇后の御陵や、業平ゆかりの不退寺を訪問したことなども思い出す。奈良も東大寺も私にとってやはり懐かしい場所であり続けている。
 なお第1回で祐天上人が江戸時代の大仏再建に貢献したというようなことを書いたが、祐天上人がかかわったのは鎌倉の大仏の再建だけだったようである。
 


 

トマス・モア『ユートピア』(21)

10月5日(金)雨が降ったりやんだり

 ユートピア人たちは金や宝石は実生活の必要に役立たないという理由で軽んじるだけでなく、金持ちに敬意を払うこともしない。そのような考え方が定着したのは、社会制度のためでもあるし、また教育のためでもあるとラファエルはいう。では、彼らは年少者をどのように教育しているのか。

 既に述べたように、「ほかの全ての労働から免除されて高等学問だけのために選ばれたような人々」(162ページ)がいて、彼らはユートピアの指導階層を形成している(139ページ参照)。つまり、ユートピアは一種の哲人政治、それも哲人王の専制ではなく、哲人たちによる共和政が行われている国である。そのような人々は子どもの時から優れた才能を示す場合が多く、例外的な存在であると断ったうえで、それでもユートピアではすべての人々が基礎的な教育を受けているという。
 「それでも子どもたちはみんな学問への手ほどきをうけ、民衆の大部分は男も女も一生の間、前にも申した仕事から解放された時間を学問(リテラエ)に用いているからです。」(同上) 1世紀以上後になってモラヴィアの教育家であるヨハンネス・アモス・コメニウス(1592‐1670)が構想した、すべての人々が基礎的な学習をするだけでなく、生涯にわたって学び続ける社会がすでにここで描き出されている。コメニウスが同時代、および彼に先行する時代のユートピア文学から多くの影響を受けていることは多くの人びとにより指摘されてきたことであるが、ここにその一例が見いだされるのである。もっとも、生涯学習社会というのは、勉強の好きな人々にとっては地上楽園のようなものであるかもしれないが、勉強嫌いにとっては地獄であろう。

 このような基礎的な教育の普及と生涯にわたる学習を可能にするのが母語による教育である。澤田訳、平井訳ともに、ここでは「母語」ではなく、「母国語」という語を使っている。ルネサンスは、民族という意識が芽生え、国民(民族)国家への動きが活発になりはじめた時期でもあるから、「母国語」と訳すのもそれなりの理由はあるが、主権国家の数が200ほど、地球上で使われている言語の数が6千あまりという今日の世界の状況を考えると(つまり、複数の言語を公用語としてもまだ追いつかないくらいに言語の数の方が国家の数よりも多いという現状を考えると)、「母国語」という言い方はあまり適切とは言えない。なお、ロビンソン訳では
They be taught in their own native tongue. (彼らは彼ら自身の生まれたときから使っている言葉で教えられます)
とあり、ターナー訳では
Everything’s taught in their own language. (あらゆることが彼ら自身の言語で教えられます)
ローガン&アダムズ訳では
They study all the branches of learning in their native tongue. (彼らは彼らの生まれたときから使っている言葉で学問の全ての分野を学びます)
となっていて、前後の文脈の受け取り方を含めて、微妙に訳し方が違う。おそらくはラテン語原文にあいまいな部分があるのではないか。そうはいっても、「国語」という意識はあまり見られない。
 私見では、この時代、学校教育のかなりの部分がラテン語を学ぶことに割かれていたことを前提として、native tongueは「国民、民族の言語」というよりも、「俗語」に類するものとして理解されるべきであろう(そのくせ『ユートピア』という書物自体は、ラテン語で書かれていることを忘れてはならない)。現代の日本における英語教育を考えてみればわかるが、生まれつきの言語習得能力の違いとともに、英語を学習し習得する環境にはかなりの個人差がある。それが社会的な不平等と結びつかないように配慮するのが政策の課題であろうが、この問題を解決するのはそれほど容易なことではない。
 なお、『ユートピア』の出版に先立って、1492年にスペインの人文学者エリオ・アントニオ・デ・ネブリーハ(1441‐1522)が最初の俗語文典とされる『カスティーリャ語文典』(Grammátíca Castellana )を著している。俗語あるいは、それぞれの民族の固有言語の教育的な意義が考えられはじめた時代であったことも忘れてはなるまい。

 話が脱線するが、英語を英語で教えるという現在の文部科学省の方針に私は反対である。この時代のヨーロッパでラテン語をラテン語で教える教育が行われたことが、社会的な不平等の固定化と結びついたという実例があるからである。英語で英語を巧みに教えることのできる先生は少ないし、それを理解できる児童生徒も少ない。
 それに、言語意識を鍛えるには、教師も児童生徒もよく知っている言語を使う方が適している。この点をめぐっては清水由美『日本語びいき』(中公文庫)に面白い例が挙げられている。日本の標準語ではすべて「~している」というところを、飛騨高山の方言では「~しよる」(進行)と「~しとる」(結果)と違った形で表現する。したがって、「お茶、冷めよるよ。早よ、飲みない(=飲みなさい)」なら<進行>、「お茶、冷めとるな、新しいの淹れるさな」なら<結果>である。英語のbe going toは標準語の「~している」に置き換えるよりも、高山弁の「~しよる」に置き換えた方が適切である。だからここは、方言を使って教えるほうがわかりやすい。

 ラファエルによるとユートピアで使われている言語は、新世界では広く行き渡っている言語だということであるが、これはこの時代の新世界の言語状況をまったく知らずに組み立てられた物語である。新世界は、旧世界に劣らず、言語的に多様な世界であったし、今でもそうである。未発見の言語があるとすれば、それはアマゾン川流域か、ニューギニアで見いだされるだろうという話を聞いたことがあって、トマス・モアが知っている世界を手掛かりに展開する考察は見事なところがあるが、知らない世界を推測で展開している話は現実離れの机上論に終わっている場合が少なくないのである。

小松左京『やぶれかぶれ青春記 大阪万博奮闘記』

10月4日(木)曇り、今にも雨が降り出しそうな空模様である。

 10月3日、小松左京『やぶれかぶれ青春記 大阪万博奮闘記』(新潮文庫)を読みおえる。ともに、作者の自伝的回想であるという共通性はあるものの、人生の別の時期を取り扱った、目的も内容も全く異なった奮闘の顛末を記した、本来ならば2冊に分けて刊行されるべき書物が、1冊になって世に出るというのはどういうことであろうか。
 巻末に記載されている「刊行履歴及び底本」によると、『やぶれかぶれ青春記』は旺文社の受験雑誌『蛍雪時代』の1969年4月号から11月号にかけて連載された後、旺文社文庫に収められている。その後、ほかの出版社からも刊行されたが、今回は旺文社文庫版が底本になっているという。

 「やぶれかぶれ青春記」は小松さんが旧制神戸一中(現在の兵庫県立神戸高校)から旧制第三高校に入学し、そして、新制京都大学の入試に合格するまでの期間の回想である。同じ時期に神戸二中(現在の兵庫県立兵庫高校)に在学していたのが『少年H』の作者妹尾河童さんであり、戦前に神戸三中(現在の兵庫県立長田高校)を卒業したのが淀川長治である。また、小松さんの同期生だったのが高島忠夫さんである。こうやって見ると、神戸からはなかなか個性的な人物が出ていると思う(わざとそう言う人物ばかり選び出しているだけだともいえる)。

 しかし描かれているのは、そういう個性豊かな人物の自己実現がきわめて困難で、青年はお国のために奉仕し、死んで行くことを強制された時代の思いでである。作者一流のユーモアをまぶして描かれているのではあるが、戦時下の軍国主義的な色彩の強い中学校で教育を受けるだけならまだしも、戦争で働き手となるべき青壮年が出征してしまったという社会の事情から、農村に工場に労働に駆り出された日々、食糧不足による飢えと栄養失調、空襲下、毎日が命がけ、まことに陰惨である。終戦後はそれが一転して、民主化と混乱の時代となる。お前のような不良生徒は三高には合格できないという担任の言葉に反抗して(親の後押しもあって)三高を受験、そして合格。「自分の人生で一番すばらしかった一年」(173ページ)を送る。
 といっても、勉学に励んだわけでも、寮生活で自由を謳歌したわけでもない。アルバイトに追われながらも、京都のあちこちを散策し、寄席に通い、そして乱読にふける日々である(ダンテの『神曲』を生田長江の訳で読んで感激したという話も記されている)。小松さんが利用した三高の図書館は、私の学生時代には教養部の図書館と名を変えていたが、まことに充実した蔵書を揃えていて、ベラミーの『顧みれば』の岩波文庫版などここで借り出して読んだ記憶がある(もっと勉強していれば、もっとすごい本の存在に気づき、そして借り出して読んでいたはずである)。

 「ある日、西宮の自宅から下宿へ帰ってくると、同宿の友人の置き手紙があった。
――君は文学部志望らしいから遊んでいてもいいだろうが、俺は家の事情で法学部へ進まねばならぬ。君の遊びぶりは、実に楽しげで屈託がないが、君といっしょに住んでいては、とても勉強ができない。といって、面と向かってそれをいうのはつらいから、悪いけど留守の間に出て行く。床の間に、郷里の名物をおいておく・・・・。」(198‐199ページ)
 その友人の話を別の友人にしたことで、小松さんは大学受験が次の年に迫っているということを知る。旧制高校は3年(北杜夫の『ドクトルマンボウ青春記』に記されているように、戦争中2年に短縮されたが、戦後また3年に引き伸ばされた)あるのに1年とはどういうことかというと、学制が切り替わったからである。3年あるはずだと思っていた小松さんは慌てて受験勉強を始める。

 事業に失敗して生活苦にあえいでいた小松さんの父親は、法学部かせめて経済学部へ行け、そうでなければ学費を出さないという。「『卒業しても絶対に面倒を見んぞ。何をやるつもりだ?』/『いいです』と私はいった。『乞食をやります』/バカッ! と怒声が飛び、久しぶりに拳固が飛んできた。しかし、昔と違ってかわすのは簡単だった。」(202ページ)」
 発表の前日、合格の自信の全くなかった小松さんは徹夜でマージャンをする。そのおかげでフラフラしている彼を友人たちは肩を組んで、大学構内まで連れて行ってくれた。
「あったあった!」と友人たちは歓声をあげた。「何や、全員パスしとるぞ」(202ページ)

 「私の『青春記』は、ここで終わる。」(203ページ)と小松さんは宣言している。中学時代は陰惨だった。「中学の時よりも、もっと陰惨で、しかも、自分のことを『子ども』といいわけのできない、大人としての精神的、肉体的、生活的苦痛の日々がはじまるのである。それだけに、たった一年というあまりにも短い間で終わってしまった高校生活が、今でもすばらしく甘美な輝きを持って回想されてくる。そして、そのたった一年の「すばらしく豪奢な生活」が、ずっとのちまでも、私の人生の中で、「美しいもの」や「すばらしいもの」に対する無条件の肯定を…教えてくれたのである。」(203‐204ページ)

 確かにそうかもしれない。しかし、いかに陰惨であっても、小松さんの大学生活からは、大学だけでなく人生の後輩たちが学ぶべき、多くの教訓が読み取れるはずである。あるいは、大学時代のことをあからさまに書いてしまうと、『蛍雪時代』の読者たちが、大学進学の夢を断念してしまうかもしれないと思った可能性もある。とにかく、小松さんが作家として認められはじめるころまでのことをこのまま書き続けてくれていたらよかったのにと、その点が残念である。(『私の大阪万博奮闘記』については、また機会を改めて取り上げることにする。)

ダンテ・アリギエーリ(須賀敦子/藤谷道夫訳)『神曲 地獄篇 (第1歌~第17歌)』(3-2)

10月3日(水)曇り

 1300年4月4日、暗い森の中にさ迷いこんだダンテは、5日の早朝に頂上を明るく照らされている丘を見つけて登ろうとするが、豹・獅子・雌狼に行く手を阻まれ、また森の中に押し戻される。その彼の前に現れた古代ローマの詩人ウェルギリウスの霊が、ここを抜け出したければ、自分に従って地獄と煉獄とを、また「よりふさわしい魂」に導かれて天国を訪れることだといい、異界への旅に旅立つよう促す。(第1歌)
 いったんは旅に出る決心をしたダンテであるが、自分がそのような旅にふさわしい人物であるという自信がなくて、躊躇する。その彼に、ウェルギリウスはこのままでは地獄行きを免れないダンテの魂の行く末を心配した聖母と聖ルチアとベアトリーチェとがウェルギリウスにこの旅の案内役を依頼したのだと告げ、ダンテに決心を固めさせる。(第2歌)
 いつの間にか、ダンテはウェルギリウスとともに地獄の門をくぐっていた。門の上には「…われを過ぎるものはみな、すべての希望を棄てよ」と記されていた。ダンテの耳には恐ろしい様々な声が聞こえてくるが、それは生前に目立った善も悪もなさなかった人々の魂たちの声であった。彼らは天地創造直後に神に従いもせず、逆らいもしなかった「卑怯な天使たち」とともに、天国に昇ることも、地獄に堕ちることも許されずにさまよいつづけなければならないのであった。ウェルギリウスは、彼らを「ただ見て、過ぎよ」と言う。(第3歌のこれまで)

(第3歌続き)
 私がよく目を凝らして見ると、一もとの旗が
くるくると回りながら走っているのが見えた。
とどまるところをまったく知らぬかのようであった。
 そのあとには、ぞろぞろと人の群れがつづき、
死がこれほど多くの人びとを
亡ぼしたことに私はおどろいた。
(52-57行、47-48ページ) 解説注によると、ダンテの描いた世界像の中で地獄は逆円錐形をしているため、最初の円環、つまり善も悪もしなかった人々の魂が浮遊を続ける空間が最も多くの人口を内包している。これはいいかえると、この種の罪に陥る人間が最も多いことを示している。つまり、生を受けたものの、本当の意味での人生を生きることなく、善も悪もなさずに、人生の波風を経験したことのない人間が最も多いということである。

 死者たちの群れの中には、ダンテの見知った顔も見られたが、彼はその名を記さない。少し前にウェルギリウスが言っているように「この世は彼らの評判が残ることを許しはせぬ」からである。その中には、1294年に教皇に就くが、わずか5か月で辞任したケレスティーヌスⅤ世の顔もあった(がもちろん、ダンテはその名を記していない)。彼は本来終身職であるはずの教皇職に就きながら、その地位にとどまらなかった不作為のためにこのような断罪を受けている。
 解説注には「ここで見落としてはならないのは、ダンテが冥界に降りて来て最初に出遭った人間が「男」であり、現世で最も高い身分にあった「教皇」だということである。ここにダンテの明確な主張がある。神の判決は性差によらず、社会的地位によらず、人種によらず、血筋によることもない。魂だけが重要なのであり、性別も地位も家柄も富も関係ない。これは『神曲』全体を貫く基本的な思想である。」(55ページ)とある。 

 かつて真に生きたこともない、
この卑しむべき者たちは真っ裸で、
蜂や虻の大軍に、さしまくられていた。
 顔には血が筋をなして流れ
涙と混じりあい、足もとで
気味悪い蛆虫たちによって吸われていた。
(64-69行、48ページ) このような状態にはなりたくないと思わせる描写である。

 ダンテが、目をさらに向こうに向けると、大きな川〔アケローン〕とその川岸に集まっている人々の群れが見えた。ダンテは、その人々についてウェルギリウスに質問するが、ウェルギリウスはやがてわかることだと答えようとしない。

 すると突然、一人の老爺が舟に乗ってわれわれのほうに
近づいてきた。星霜によって髪も髭も白い
その老爺〔カローン〕は怒鳴った。「あきらめろ、邪悪のたましいどもよ!
 いつの日か天を仰げるなどと、ゆめゆめ望むな。
わしがやって来たのは、おまえらを向こう岸の
常世の闇へ、焦熱と氷寒の中へと連れ行くためだ。
 そこのおまえ〔ダンテ〕、生きたたましいのくせに、
死んでいるそいつ〔ウェルギリウス〕から離れろ」
しかし、私が立ち去らぬのを見てとると
 言った。「お前はほかの道を通って、ほかの港を通って
(別の)浜〔煉獄〕へ着こうぞ。お前が通るのはここではない、
もっと軽やかな舟がおまえを渡してくれよう」
(82-93行、49ページ) アケローンの川、その川の渡し守であるカローンはギリシア(→ローマ)神話の中の存在だが、キリスト教の叙事詩である『神曲』の中に取り入れられている。カローンは中立的な存在ではなく、(キリスト教叙事詩である『神曲』の中の位置づけでは)悪魔の一人であり、ウェルギリウスとダンテの旅について知らないようにふるまっているが、2人の旅の目的について知っているはずである。そして、一面の真実を語りながら、より大きな悪へとダンテを向かわせようとしている。このあたり、藤谷さんの解説注で詳しく論じられているので、興味のある方はお読みください。

 これに対してウェルギリウスが旅の目的を説明し、カローンに2人を乗せて川を渡るように言う。渡った先に何があるのかは、また次回に見ていくことにする。
 ギリシア神話では、へーラクレース、その後ではオデュッセウスのように冥府くだりをしてアケローンの川を渡った英雄はいるし、ウェルギリウスがその後半生を描き出した英雄アエネアースもアケローンの川を渡っている。アケローンの川は、「三途の川」を思い起こさせるところがあるが、三途の川を渡った死者たちの霊が閻魔様の裁きを受けるというようなことは、キリスト教の場合にはない。それから、バニヤンの『天路歴程』では天国に行く前に川を渡らなければならないという設定になっており、これが『西遊記』の最後のほうでl雷音寺に到着する前に川を渡るというのと符合しているのも興味深い。 
 

『太平記』(230)

10月2日(火)晴れ

 今回から第21巻に入る。最初の部分で、第20巻の主な内容を引き継いでその後の展開を書き足しているので、これまでのあらすじの紹介は省略する。

 暦応元年(南朝延元3年、1338)に奥州では北畠顕家が大軍を結集して上洛の兵を起こし、北国では新田義貞が勢力を拡大して、後醍醐天皇方の勢力挽回の機会が生まれたかに見えたが、顕家も義貞もともに流れ矢にあたって命を失い、奥州での3度目の大軍の結集を目指して船で下向した武士たちは途中で暴風に見舞われて難破してその多くが行方不明となった。このようなうわさを聞いて、奥州白河の豪族で後醍醐天皇が他の有力者であり、顕家を助けて上洛の兵を率い、その後は奥州に向かおうとして難破、伊勢の安濃津に戻って再起をはかっているときに発病して死んだ結城宗広の後継者である親朝は、父親の遺言(自分の墓前に朝敵の首を供えよ)に背いて、足利幕府に降伏した〔森茂暁『太平記の群像』によれば、親朝が足利側に款を通じたのは康永2年(南朝興国4年、1443)9月のことである〕。また後醍醐天皇方で活躍した宇都宮公綱の家臣で、清(せい)の党(清原氏の流れをくむ武士たちの一団)の旗頭である芳賀兵衛入道禅可(高名)も主人である公綱の子息・加賀寿丸(→氏綱)を幽閉して足利方につき、主従の礼を乱し、勝手に威勢をふるった。

 この時になっても、新田一族の武士たちはなお残っていて、各地の城砦に立てこもり、南朝方の皇族方が折を見て、各地に足を運ばれていたとはいうものの、虎が檻に閉じ込められ、世に知られない大鳥が飛び立とうとしても翼を削られて飛べないという状態になっていたので、後醍醐天皇方としては悔しい思いで眼に涙をため、望郷の思いではるかに遠い空の雲を見ては、時節の変化を待つばかりになってしまっていた。

 将軍の執事である高一族、外戚である上杉一族は、まだ天下の帰趨が定まっていない時期でさえ、世の中の人の謗りを知らずに驕りをきわめ、勝手にふるまっていたほどであるから、能も芸もないくせに序列を無視した報奨を与えられ、前例も法律も無視して、警察や司法の官職を得ていた。それでも初めのうちは、朝敵の名を得ることを警戒して、事ごとに帝のご意向を仰ぐという形式だけは整えていたが、武家方が圧倒的に優勢になってしまった今は、公家などというものは何の役にも立たないとばかり、公卿と殿上人、諸役人と親王・大臣家の下役人の所領はもちろんのこと、後宮の方々の領地までも、みな武家の人々が無理やりに支配下に置いてしまったので、3月3日の詩歌の宴である曲水の宴、9月9日の菊花の宴である重陽の宴も行われなくなり、正月7日に、帝が紫宸殿で左右馬寮の白馬(あおうま)をご覧になる儀式である白馬の節会、正月14日の男踏歌と16日の女踏歌という年始の祝言を歌い舞う儀式である蹈歌の節会も行われず、宮中と院の御所もさびれはて、参上して伺候する人々もまれになってしまった。

 それだけでなく、本来ならば朝廷が行うべき政治の主導権が武家の手に移ってしまったので、三家(中院・閑院・花山院)の大臣も、奉行頭人(幕府の訴訟審理の役人)に媚びへつらい、五摂家(近衛・九条・二条・一条・鷹司)の摂政も、幕府の執事や侍所の高官たちに賄賂を送る有様である。
 このような状態なので、武士たちは、大・中・少納言や参議などの言葉を聞いても「意得(こころえ)がたの畳字(じょうじ)や」(第3分冊、409ページ、こむずかしい漢字を使うことよ)と馬鹿にし、検非違使の役人や北面(院の御所警護)の武士と道で出会っても、「いやはや、(手首まで覆う)長い袖の衣を着た俎烏帽子(まないたえぼし=公家の立烏帽子を嘲った語)よ」と言い、話し方をまねたり、指をさしたりして軽蔑の意を表す。そういうことから、公家の人々は、いつの間にか言い慣れない関東なまりを使い始め、被ったこともない(武士の着用する)折烏帽子をかぶって、武家の人々と区別がつかないようにしようとしたのであるが、これまでの習慣がついつい表面に出て、立ち居振る舞いがなよなよとして、額深くかぶる立烏帽子の額ずれの跡が(折烏帽子の額の下に)はっきりと見えるので、公家らしくもなく、武家には見えず、いよいよ物笑いになってしまった。『荘子』に出てくる<邯鄲の歩>のようなお話である。

 武士たちに収入源を奪われた朝廷や貴族たちが、伝統的な儀式を続行できなくなったことを嘆くあたりに、『太平記』の作者が<下剋上>が盛んになってきた世の中の中で、守旧的な価値観を持ち続けようとしていることがうかがわれる。できたばかりの足利幕府の腐敗ぶりについての描写は、どの程度まで史料によって裏付けられるだろうか。幕府の中枢にいた足利直義は清廉な人物であったとするのが通説だけに、興味ある問題である。
 原文の「納言宰相」について、兵藤裕己さんの脚注は「大納言・中納言・少納言や参議」としているが、少納言は議政官ではないので、ここでは問題にならないのではなかろうか。
 公家の人々が「坂東声を使ひ」というのは、『徒然草』に登場す』る、もとは三浦のなにがしとか言う武士であった僧侶の話を思い出させるが、ここに記されているような情景が出現したのは、『徒然草』が執筆された時期よりも後のことである。
 公家の人々が陥ったどっちつかずの状態について原文では「ただ歩みを失ひし人の如し」(第3分冊、409ページ、まったく、歩き方を忘れてしまった人間のようである)と書かれているが、これはおそらく「邯鄲の歩」の故事を踏まえての表現であると思われる。むかし、燕の国の少年が趙の都の邯鄲に行き、都会人の歩き方を学んだが、その歩き方を覚えることができず、また自分の本来の歩き方をも忘れ、腹ばいになって帰ったという『荘子』のなかの故事である。実際にそんなことが起こりうるのかどうかという疑問がないわけではないが、物の喩としては面白い。
 

 
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