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日記抄(9月24日~30日)

9月30日(日)目下のところ、雨も降らず、小康状態。その後、雨が降ったりやんだりの状態が続く。

 9月24日から本日までの間に経験したこと、考えたこと、以前の記事の補遺・訂正等:

9月23日
 加納朋子『ななつのこ』(創元推理文庫)を読み終える。

9月24日
 『日経』朝刊によると、「英語で英語授業」は、中学に比べて高校の方が出遅れているという。高校の方がより高次の英語を教えるから、それに対応して日本語で説明することもより必要になる――ということが、「英語で英語授業」を主張し、指示する人たちにはわからないらしい。久保田竜子『英語教育幻想』(ちくま新書)に英語教育をめぐる10の<幻想>が挙げられているうちの9番目が「英語は英語で学んだほうがよい」で、英語を英語だけで教えることを一律に強制することの問題点が指摘されている。

 NHKラジオ『まいにちフランス語』の中で使われたplacoterという動詞について、どういう意味かとたずねられたパートナーのクロエ・ヴィアートさんによると、
Les Français disent 《 bavarder》, mais les Belges diront 《 babeler》, les Suisses 《barjaquer》 et les Qu éb écois 《placoter》 ou 《 jaser 》,. Quelle richesse! Et les Alsaciens? Ils diront plutôt 《 ratcher》.
「おしゃべりする」をフランスの人は"bavarder"というけれど、ベルギーの人は”babeler"、スイスの人は”barjaquer"、ケベックの人は”placoter"とか”jaser"とか言います。たくさんの言い方があるんです。アルザスの人はというと、”ratcher”と言います。
とのことである。

 市井豊『人魚と金魚鉢』(創元推理文庫)を読み終える。T大学芸術学部(作者が卒業したN大学芸術学部がモデルになっているらしい)の文芸サークル第3部<ザ・フール>には個性豊かなメンバーがそろっているが、主人公である柏木君もその一人である。彼は他人の愚痴や不満を聞くことに長けており、それだけでなく、その「聞き屋」体質を生かして難事件を解決することがある。柏木君が祖父の七回忌に参列したことで、祖父に抱いていた謎が解けていく(この場合、「解いてゆく」よりも「解けてゆく」の方がふさわしい感じがある)「青鬼の涙」、「聞き屋」であるが故の失敗をしてしまう「恋の仮病」、子役スターの思いがけない恐怖の大将を突き止めていく「世迷い子と」、<ザ・フール>メンバーの熾烈なかくれんぼを描く「愚者は春に隠れる」(この話が一番面白いという人が多そうだ)、音楽学科の学生選抜コンサートの会場となるはずだった大ホールのステージが泡だらけになったことで…という表題作「人魚と金魚鉢」の5編からなる。美男の推理マニアで学生作家でもある川瀬は「愚者は春に隠れる」で悪役として活躍、その川瀬と柏木が同性愛関係にあると妄想する後輩女性部員「梅ちゃん」が新たに登場、など、<ザ・フール>のメンバーの描写も面白いが、特に印象に残るのは幽霊部員ならぬ幽霊のような女性部員「先輩」である。カバー(「人魚と金魚鉢」にインスピレーションを得ているようである)にも「先輩」が登場しているので、店頭でカバーだけ眺めるというのでもいいから、一度ご覧ください。

今宵は中秋明月
初恋を偲ぶ夜
われら万障くりあはせ
よしの屋で独り酒をのむ
(井伏鱒二) 「われら」と言いながら、「独り酒」を飲むところに酒飲みの微妙な心理が描かれている。

9月25日
 『朝日』の朝刊に、今年度から教科化された「道徳」の評価をめぐって現場の先生が悩んでいるという記事が出ていた。
 道徳の時間が特設されたのが、1958(昭和33)年で、この年私は中学生になったが、宗教系の学校だったので、「道徳」ではなくて、おそらく学習指導要領上は「宗教」ということになるのであろう「社会倫理」という教科の授業を受けた(私学の場合、「道徳」を「宗教」で代替できる)。学校ではその一方で、「操行」・「礼儀」という2つの生活面での評価を行っていた。それで、私は教科の方の成績は悪くなかったが、「操行」の方はあまり芳しくなかったという記憶がある。(ジャン・ヴィゴの『操行ゼロ』という映画があるが、ヨーロッパの昔の学校では、「操行」の評価がなされていたようである。)

9月26日
 NHKラジオ『まいにちフランス語』の入門編の前期の放送が終わる。締めくくりの部分で、パートナーのクロエ・ヴィアートさんとジョルジュ・ヴェスィエールさんが日本語を話し、講師の野澤督さんがフランス語を話した。じょうずに話すことは大事だが、話し相手にメッセージを届けることはもっと大事だという講師の考えからである。
 同じく『まいにちスペイン語』も入門編が終わる。スペイン語圏からやって来た人々を、日本人の男女が案内するという構成で、この男女は恋人同士なのだが、最後の長崎を舞台とした物語の中で仲たがいする、しかし、最後にはよりを戻し、¡ Colorín colorado ! (めでたしめでたし)となる。これはスペイン語の昔話の結びに使われる決まり文句だそうである。
 辞書で調べてみたところ、colorín は紅鶸という鳥のことで、coloradoは「赤い色の」という形容詞である。アメリカ合衆国のコロラド州は、コロラド川にちなんで名づけられ、コロラド川は山岳部から運ばれてきた沈泥によって赤く見えることから、この地を探検したスペインの探検家がこのように命名したそうである。この川は北アメリカ大陸南西部の4千万人の生活を支える水源となっているという。州名に限らず、アメリカの地名にはスペイン語起源のものが少なくない。
 同じく『まいにちイタリア語』の初級編も終わる。イタリアの語学学校で勉強していた日本人の主婦が課程を終える。
Arrivederci a tutti e ci vediamo a Tokyo! (みなさん、さようなら。東京でまたお会いしましょう。)

9月27日
 NHKラジオ『実践ビジネス英語』の”Quote...Unquote"のコーナーで紹介された言葉。
Bravery never goes out of fashion.
         ――William M. Thackeray (British novelist, 1811-63)
(勇気はけっして流行遅れにならない。)
 サッカリーの代表作『虚栄の市』はいずれ、このブログで紹介するつもりである。

9月28日
 『朝日』朝刊に「築100年超 退去に揺れる京大・吉田寮」という記事が出ていた。私は、京都にいた11年間を通じてずっと下宿暮らしだったから、寮とは縁がないが、寮に住んでいた友人を訪問した経験や、寮の食堂を利用した経験はある。古くからある寮を文化財として保存していこうという考えが全くこの経緯の中で読み取れないのが問題である。オックスフォードやケンブリッジと言わず、ロンドン大学の寮でも築100年を超えるものはざらにあるが、建築材料が違うということで比較にはならないということであろう。とはいっても、旧制第三高等学校時代から存続してきた建物を虱潰しに壊して建て替えようというのは、あまり感心したことではない。

9月29日
 『朝日』の朝刊に『朝、目覚めると、戦争が始まっていました』(方丈社)という本が紹介されていて、1941年12月8日の太平洋戦争開戦時の坂口安吾や井伏鱒二の感想が取り上げられていたのが興味深かった。ここでは戦争に反対した清沢冽の発言が取り上げられているが、太宰治のように複雑に紗をかけながら、戦争への疑問を口にした人物の発言は取り上げられていないようである。

 横浜FCシーガルズの試合を見に出かけなかったことはすでに書いたが、前半2‐0とリードしたものの、後半に3点を入れられて逆転負けした。こういう負け方はよくない。

 ミニtoto第104回はAが当たる(Bは外れる)。当てたのは久しぶりである。

9月30日
 ニッパツ三ツ沢球技場でJ2の横浜FC対レノファ山口の対戦を観戦する(雨の中、ご苦労なことだという人もいるかもしれない)。試合開始早々に山口が1点を挙げ、この1点が最後までものを言って、レノファが横浜FCを3‐2で下した。負けた試合ではいつも感じることだが、相手がチームとして機能しているのに対し、こちらは個々の選手が持っている力量を発揮しないまま試合を終えている。 

 
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島岡茂『英仏比較文法』(16)

9月29日(土)朝のうちはまだ降っていなかったが、その後、雨が降り出し、だんだん本格的になってきた。小机フィールドまで横浜FCシーガルズの試合を見に行くつもりだったが、取りやめにした。その分、30日の横浜FC対レノファ山口戦の応援に注力するつもりである。しかし台風の影響が心配である。

 この記事の第15回を掲載したのが、6月16日であったから、3か月以上も間隔をあけてしまった。これまでの内容を簡単に要約しておくと:
Ⅰ 原初の対応
 英語とフランス語とは、インド=ヨーロッパ語族に属し、同系統の言語である。しかし、その中で、英語はゲルマン語は、フランス語はロマンス語派に属するので、少なからぬ違いが生じた。
Ⅱ 語彙
 英語の語彙は25万、フランス語の語彙は10万と言われる。この違いにはいくつかの理由があるが、その中で一番大きいのは、英語がラテン語とフランス語から多くの語彙を取り入れてきたという事情である。イングランド、フランス共にローマ帝国の支配下に置かれたため、英語とフランス語とはラテン語の影響を受け、さらにキリスト教の影響によるラテン語の浸透、「ノルマンの征服」以後、イングランドがフランスの諸侯の支配を受けるようになったために、フランス語の影響を強く受けたことなどが、英語の語彙の増大をもたらした。
Ⅲ 語形成
 語形成には合成と派生の2つの方法がある。合成は2つ以上の語を組み合わせて1つの語を形成することであり、派生は1つの語をもとに接頭辞、あるいは接尾辞を加えて元の意味と関連するが、少し違った意味をもった語を形成することである。合成はゲルマン語系の言語で多く行われ、派生はラテン語に多く見られたために、その後継である諸語において多く見られる。
 英語の合成語はほとんどが独自に形成されたものであるが、派生語の場合はラテン語・フランス語から借入されたものが多い。したがって英語の語形成に及ぼしたフランス語の影響は、ほとんどが派生語を見ていけばいいことになる。
 接頭辞は語の意味を変えても、文法的な機能(品詞)まで変えることはできないのに対し、接尾辞は品詞を変えるだけでなく、呉の意味の抽象化を可能にする。語意の抽象化、品詞の自由な転換はすべては性によるもので、インド=ヨーロッパ語族の中ではギリシア語、ラテン語において顕著であった。これら2つの言語の影響はヨーロッパの他の言語に及ぶことになる。
 接頭辞は品詞に無関係で、2つ以上重なることはないが、接尾辞は自由に品詞を変えるため、4つまで重なることができる。
 §11 接頭辞
 §12 接尾辞
  Ⅰ 名詞 ⇒ 名詞(形容詞): -ier (-ière); -aire, -ary ; er, orなど
  Ⅱ 動詞 ⇒ 名詞: ion ; -ance, -ence 
 
 今回は、動詞から名詞を作る接尾辞の積み残し分を見ていくことにする。
▶ -ure (<-ura)
 ラテン語動詞の未来分詞の語尾で、ほとんどが女性形をとる。〔ラテン語の動詞には現在分詞、完了分詞、未来分詞の3つの分詞形がある。〕 分詞から造られる抽象名詞は、-io, -ia, -uraともすべて女性名詞になる。

 adventuraはadvenio →advenire 「起きる」の未来分詞で「起きるべき(こと)」を意味した。フランス語ではaventure, 英語ではadventure という形をとり、 「冒険」という意味になった。英語のventure「冒険的事業」は15世紀ごろ語頭消失によってできた語で、フランス語とは関係ない。〔フランス語のaventureには『プチ・ロワイヤル仏和辞典』によると①出来事、②冒険、③情事という意味があり、イタリア語のavventuraは『プリーモ伊和辞典』によると①冒険、②情事という意味が、スペイン語のaventuraには白水社の『西和辞典』(スペイン語の辞書だけ、少し古いものを使っている)によると①出来事、②冒険という意味がある。それぞれの語の特色が何となく出ている。『ドン・キホーテ』にはaventuraという語がよく出てくるようであるが、これはもちろん「冒険」という意味である。〕
 culturaはcolo →colere 「耕す」の未来分詞で、本来は畑を耕すことを意味したが、既に後期ラテン語では、この意味では分詞cultusから造られたcultivareにとってかわられた。フランス語のcultiver「耕す」はこれを受けたものであるが、名詞形cultivation 「耕作」は英語だけで、フランス語にはこれに対応する語はない。心を培う意味でのculture「教養・文化」のもととなったのは、ラテン語のculturaで、この語には「耕作」、「文化・教養」両方の意味がすでにある。フランス語のculture、英語でもcultureという形になった。現在では、cultureと言えば、「文化・教養」という意味で使われる方が一般的である。
 measure「尺度」は、ラテン語のmensura「尺度」に起源がある。この語は、metior → metiri 「計る」から派生したもので、最初は「計るべき大きさ、寸法、サイズ」の意味であったが、やがて現在のような広い意味範囲をもつようになった。フランス語ではmesureである。
 nature 「自然」のもととなっているのは、ラテン語のnaturaであり、動詞nasci 「生まれる」の分詞幹 nat- から派生した語である。「生みなすべき(力)」の意味で、そこから万物を生成する自然の意味が生まれた。〔この分詞幹 nat- からはnation「国民」が派生していることは既にみた。39ページ参照〕

▶ -ment (<mentum)
 この接尾辞はラテン語では女性ではなく中性名詞を形成し、(中性がない)フランス語では男性名詞になる。ただしこの接尾辞をとる語のほとんどは、後期ラテン語か、おそらくは古フランス語になって造られたものである。-ment方の特徴は先行する動詞が比較的はっきりわかることである。

 その中でaliment 「食物」は古典ラテン語から存在する語であり、動詞alo →alere (養う)から派生した語であり、そこから食物、栄養の意味が生まれたのである。このali- は近代のフランス語、イタリア語、スペイン語等の中に残っていないためにわかりにくい。alimentはフランス語では12世紀、英語では15世紀から使用され、さらに動詞化を経て-ion型名詞alimentation「食料品」に発展する。〔と、書いてあるが、alimentationという語は、生まれて初めて目にした。英国(とアイルランド)のスーパーの食料品売り場にはずいぶん足を運んだのだが、使われているのに気づいたことはない。『リーダーズ英和中辞典』で調べたところ、alimentation「栄養」の意味で使われることが多いようである。また『ロングマン英和辞典』にはこの語は出ていない。〕
 フランス語でgouvernement「政府」が使われるようになったのが12世紀、英語のgovernmentは15世紀。ラテン語の動詞goberno →gubernare 「舵をとる→支配する」がもとの語であるが、ラテン語での名詞形はguvernatioで-ion型である。-ment型をとるようになったのはフランス語が初めてである。
 フランス語のjugement「判断」は12世紀ごろに初めて出てくる。英語に入ってjudgementとなるのは中英語の時期である。ラテン語の動詞judico → judicare が基になっているが、フランス語のjuger 「裁く」、英語のjudge 「裁判する」ともに現在の動詞形が-mentに先立っている。これもフランス語が起源らしいという。
 フランス語のparlementは、フランス語の動詞parler 「話す」からの派生語で、「話すこと⇒話し合い→会議」と意味を拡大した。ラテン語とは直接関係はない。フランスでは封建時代には諸侯会議、王制時代には裁判所を意味したが、13世紀にparliamentの形で英語に入ると、やがて現在の「議会」という意味で使われるようになり、この意味が19世紀になって民主制が定着するとともにフランスに逆移入された。英語で-ia-が入るのは、移入された時代のフランスの俗語でparlareをparliareといった名残である。このiが発音されないのはフランス語と同じである。
 -mentは英語でも広く普及し、英語の動詞に-mentを加えることで、次のような語が造られた。
acknowlede 「承認する」→ acknowledgement 「承認」
entertain 「もてなす、楽しませる」 → entertainment 「娯楽」
settle 「解決する」 → settlement 「解決」

 これでやっと「動詞→名詞」の項を終えることができた。次回は「名詞(動詞)⇒名詞」についてみていくことにする。島岡さんはラテン語の動詞を不定法現在形で示しているが、辞書等では、一人称単数現在形を見出し語にしているので、いちいち調べて「見出し語→不定法現在形」の形で示しておいた。言語によって、文法用語や文法上の説明の仕方にそれぞれの学会での慣行があり、それを無視して議論を進めると誤解を招きやすい。どうも面倒なことである。
 

坂口安吾『不連続殺人事件』(3)

9月28日(金)晴れ、気温上昇。9月最後の週日なので、郵便局がやたら込み合っていた。

〔1 俗悪千万な人間関係〕
 昭和20年6月の終りに、語り手である矢代寸兵は、友人である詩人の歌川一馬から、その年の夏、地方にある彼の実家で(といっても東京の家は戦争で焼失している)過ごしてほしいという依頼を受ける。彼の父親の歌川多門は政治家であったが、戦後公職追放を受け、政界を引退している。とはいっても好色漢で、歌川家には先妻の子である一馬、後妻の子である珠緒の兄妹のほか、さまざまな関係の人物が住んでいるだけでなく、戦争中に歌川家に疎開していた文学仲間がこの夏も集まってきたので、何かが起きそうだというのである。矢代の妻はもともと、多門の妾であったという経緯があるので、矢代はこの申し出を断る。

〔2 意外な奴ばかり〕
 7月10日に、矢代は一馬から手紙を受け取る。事態が切迫しているので、京子と名探偵といわれる巨勢博士を連れてぜひ来てほしいという内容である。京子は承諾し、巨勢も1日遅れて出かけるという。
 7月15日の夜行に乗って、翌日、矢代がN町に着くと、歌川多門の元秘書である悪徳弁護士の神山東洋、歌川一馬の夫人あやかの元の同棲相手である土居光一(ピカ一)も来ている。どうも一波乱起きそうである。一考は山奥の辺鄙な場所にある豪壮な歌川家にたどり着く。疲れて寝てしまった矢代が目を覚ますと、夕食の時間になっている。
〔3 招かれざる客〕
 食堂に集まっていた一同の間ではちょっとした騒ぎが起きるが、やがて静まる。矢代夫妻の寝室を訪れた一馬は、自分の出した手紙が書き換えられて矢代のもとに届いているだけでなく、同じような文面の手紙が彼の筆跡をまねて書かれ、他の招待していない人物のところにまで届けられているという。神山も土居も巨勢も招待していないというのである。何者かが、犯罪を企んでいる気配がする。
〔4 第一の殺人〕
 7月17日、一同は朝早く、散歩に出かけ、病院から海老塚医師が戻って来たのに出会う。彼を加えて朝食の席に着くが、食事が終わることになってやっと珠緒が起き出してやってくる。同じようにまだ起きてきていない望月王仁を起こしに行った珠緒は、彼が死体になっていると告げる。一馬、矢代、海老塚医師が死亡を確認する。現場に落ちていたライターを証拠品として、珠緒は一馬の前夫人で、現在はフランス文学者三宅木兵衛の妻になっている(一馬に招待された一人である)秋子が犯人にちがいないという。望月の死体発見の報を受けて駆けつけた駐在の南川巡査は、本署に応援を求める。〔以上前回まで〕

〔5 猫の鈴:この回では事件を担当する本署の刑事たちと、「名探偵」巨勢博士が登場する。彼らの性格と捜査ぶりの描写を中心に紹介してみたい。〕
 本署から派遣される一行が到着するのに5時間以上かかる。その間、歌川邸に集まっていた一同は、南川巡査の判断で食堂にカンヅメにされる。

 11時半ごろ、1日遅れて出発した巨勢博士が到着する。小柄で、腰が低く、愛嬌たっぷりでおよそ、名探偵には見えない。矢代と一馬が、問題の招待状を見せても、「ウメエなア。本物と見分けがつかねえもの、大したもんですね」などと言っているから、「全然評判が悪い」(66ページ)。しかし「御婦人連には大もてで」、彼女たちのうっぷん晴らしに東京に残してきた恋人との関係など、詳しく質問されたりして、いろいろとからかわれている。

 「2時半に予審判事、検事、警官の一行が官用の自動車で到着。一馬から頼んで巨勢博士を警官なみに現場で入りを許してもらった。
 警察医の検視が終り、現場からかなり多くの指紋がとれた。捜査部長平野雄高警部は心眼の眼力、いかなる智能の犯行も一目でカングリ、二度三度、四度目にギロリと睨む時には見破ってしまう。田舎にはモッタイない探偵の大親分で「カングリ警部」といえば、その道では全国的に名が知れている。現場をジロリと三睨み四ッ睨みして、あれこれと綿密に捜査を命じる。」(67ページ)
 警察の捜査人の中で一番最初に紹介されるのが、平野雄高{(『近代文学』同人で評論家の平野謙+作家・評論家の埴谷雄高)による命名}である。平野謙は、昭和30年代に『毎日新聞』の文芸欄で毎月のベスト3小説を選定して、その中から開高健や倉橋由美子など多くの作家を発掘したことで知られる。埴谷は大長編思想小説『死霊』によって戦後の文学界に独自の地位を築き、その一方でその洒脱な人間性を示すような名評論を残した。坂口がこの2人から、警部の名前だけを借りたか、その性格の一端を借りているのかは興味あるところで、今後の活躍ぶりにご注目ください。

 解剖のため、屍体をトラックで県立病院へ送った。現場を調べていた刑事の一人が、寝台の下から真鍮の小さな鈴を拾いあげた。「この刑事は、荒広介という部長で、県内きっての探偵だ。どんな手口でも嗅ぎ分けて犯人を嗅ぎ出してしまう鋭敏な六感、刑事仲間で「八丁鼻」といえば一目おかれている敏腕家であった。」(68ページ) 
 章題となっている「猫の鈴」を見つけたのは荒部長刑事。その名も既に書いてきたように『近代文学』同人で評論家として活躍した荒正人と、文学だけでなく野球評論家としても活躍した大井広介の2人からとったものである。ちなみに私は大井広介というのは野球評論家だとばかり思っていて、本多秋五の『物語戦後文学史』を読んで初めて、彼が文芸評論家としてかなり大きな存在であることを知ってびっくりした記憶がある。

 そこで寝台の下にもっと何かないかということで、八丁鼻は後輩の「読ミスギ」とあだ名される長畑千冬刑事を寝台の下に潜り込ませる。「読ミスギ」というのはなかなか該博な知識を持っているが、「探偵のこととなるとけっして敏腕とは申されない。単純な犯罪を複雑怪奇に考えすぎ、とほうもなく難しく解釈して一人で打ち込んでしまうから」(68ページ)このあだ名がついた。しかし、今回のように東京から来たインテリ連の複雑な犯罪には、彼の個性がうってつけかもしれないとカングリ警部が考えて、彼を連れてきた。「八丁鼻は八丁先を鼻で嗅ぎ出す敏腕だが、根が慌て者の一人呑みこみ、田舎の犯罪にはカンは確かだけれども、インテリの計画犯罪には読み方の足らない憂いがあるのであった。」(69ページ)

 読ミスギはベッドの下に潜り込もうとして、ベッドの下に洋服の上着があることに気づく。その上着の一か所に埃がベットリついていて、何かを拭いた跡をとどめている。ベッドの下には、確かに何かを拭きまわした跡がある。上着は被害者=望月王仁のものであった。
 「現場の綿密な捜査を終ったのが夕方で兇器には指紋がなく、枕元の卓上のフラスコとコップから、いくつかの指紋が出た。一同の指紋をとって合せてみると、被害者の指紋のほかに珠緒さんと秋子さんの指紋がぴったり合う。秋子さんの指紋は明らかにフラスコを握ってコップに注いだものであった。フラスコにはごく小量の暗い褐色の液体が残っていた。」(70ページ)
 窓はずっと開いていたことが南川巡査の証言で確認された。しかし、蚊が多い場所であるにもかかわらず、蚊取り線香の灰は残っていない。机の上には50枚ほどの書かれた原稿と、500枚ほどの原稿紙が整頓しておかれていた。部屋をかき回した跡はなかった。

 「解剖の結果を待って正式に尋問を始めることにして、この日駐在所に泊まり込む数名を残して鑑識の一行はひきあげる。」(70‐71ページ) カングリ警部は、「どうもお歴々のインテリ御婦人が、マンジ巴とからんでいるから、こっちは苦手だ。アタピンに限る」(71ページ)と言って、本署の名物婦人探偵である飯塚文子、人呼んで「アタピン」を派遣するようにと指示する。「天才的な心眼で、なんでも頭へピンとくる。見たもの聞いたもの頭へピン。だまって坐ればアタマへピン。もっとも八割方はずれますけど、時々あたる。推理抜きの飛躍型、時々あたればたくさんさ」(71ページ)という大変な女性刑事である。彼女が登場すれば、話はさらににぎやかになること間違いない。ということで、この日の捜査は終わり、警察からの一行も一緒に夕食のテーブルに着く。八丁鼻も読ミスギも杯をあげる。カングリ警部は甘党であった。

 このあと、警察をあざ笑うかのように第二、第三の殺人事件が起きるのだが、まだ犯人を除く登場人物はその展開を予測できない。犯人は誰か、動機は何か、という興味とともに、この作品は安吾が自分の周辺にいる人物をモデルにして描き出したと思われる登場人物の、かなり個性的な性格の描写と、それぞれのドタバタ喜劇のような動きとを結構コミカルに描き出して、陰惨な物語展開の色を巧みに薄めていることも注目に値するのである。

森本公誠『東大寺のなりたち』(14)

9月27日(木)雨が降りやんで、曇り

 天武天皇系の最後の天皇である称徳天皇の崩御後、天智天皇の孫である光仁天皇が即位され、さらにその子である桓武天皇に皇位が継承されたことによって、天皇の仏教に対する姿勢・政策は大きく変わり、聖武天皇が打ち出した仏教による国家の再生という政策から、仏教や寺院勢力に対して統制を加えるという政策が採られるようになった。桓武天皇は寺院勢力の強い平城京から都を移すことを考えられて、延暦3年(784)5月に中納言の藤原小黒麻呂と藤原種継をはじめとする調査団を山背国乙訓郡長岡村に派遣された。遷都の地にふさわしいか見聞させたのである。
 6月には中納言藤原種継らを造長岡宮使に任命された。5位以上が10名、6位の官人が8名もいる大編成であった。いよいよ長岡京の造営が本格的に始まったのである。

 ところがそれから1年3か月後の延暦4年(785)9月に造営責任者の中納言藤原種継が何者かに射殺されるという大事件が起こった。天皇は斎王として伊勢に出発することになった皇女朝原内親王を見送るために、前月から平城京へ行幸中で、皇太子早良親王・右大臣藤原是公・中納言種継に留守役を命じられていた。その種継が暗殺されたのである。〔種継は藤原氏の式家の人物で、聖武天皇の時代に反乱を起こした藤原広嗣、光仁天皇擁立の立役者であった百川の2人は彼のおじにあたり、彼の娘が藤原薬子というから、どうもお騒がせ人間の多い家系である。〕

 この種継暗殺事件に関する記事は、大半が『続日本紀』から削除されてしまっている。しかし平安時代の終わりごろに編纂されたと考えられる『日本紀略』が事件の経緯を記載している。平城京から帰還された桓武天皇は、有司に命じて犯人を捜索させ、その結果、陸奥按察使鎮守将軍として任地で死亡していた中納言大伴家持が首謀者であり、皇太子早良親王が計画の上申を受けていたとされた。それが真相であるかは不明であるが、「天武系政治勢力の最後の代弁者として、桓武天皇が平城京を棄てて長岡京に遷都することに危機感を抱き、打倒桓武のクーデターを画策したとするのは十分ありうる話である。」(185ページ)と森本さんは論じている。 
 事件に関与されているとされた早良親王は、乙訓寺に幽閉され、みずから食を絶つこと十余日、船で淡路に移送される途中に没し、遺骸は淡路に埋葬された。親王は幼いころから東大寺に居住され、11歳で出家されていたが、宝亀元年(770)に光仁天皇の即位とともに親王号を与えられ、天応元年(781)兄である桓武天皇の即位とともに皇太子となっていた。東大寺の記録によると、親王は良弁や実忠と親しく、東大寺の造営事業に積極的にかかわっていたという。皇太子となって環境が一変したところで、悲劇に出会わられたといえる。

 森本さんは、この事件で首謀者の一人として名前を挙げられた林稲麿が造東大寺司の次官であったということに注目している。桓武天皇の命令によって進められた、事件の背後関係の究明の中で、造東大寺司や東大寺は当然その対象になったと推測される。「造東大寺司は聖武天皇以来規模の拡大を続け、巨大な官僚機構に成長し、単に東大寺の造営や写経などの諸事業に携わるというだけでなく、東大寺の僧侶集団と一体となって政治的発言力を強めていった。桓武天皇は道鏡を法王にまで据えた称徳天皇の仏教政策を否定する目的で、光仁天皇以上に仏教界の不正を厳しく弾劾してきた。そこへ向けての暗殺事件である。」(188ページ)
 仲麻呂の乱が起こると、東大寺は孝謙太上天皇方に味方し、良弁や安寛が活躍した。その東大寺と早良親王との関係、さらに早良親王が藤原種継暗殺に連座したことを桓武天皇は重視されて、東大寺と造東大寺司を危険な存在と考えられたと森本さんは推測している。その後、延暦8年(789)に造東大寺司は廃止される。『続日本紀』には廃止の事実だけが記され、その理由については触れられていない。一般的には東大寺の主要部の造営がほぼ完了したので停廃されたと理解されている。なお、造東大寺司の機能は造東大寺所が引き継ぐことになったそうである(司と所でどこがどう違うのかがよくわからない)。
 この通説に対して、森本さんは造東大寺司の停廃には桓武天皇の政治的な意図が働いていると考えている。造東大寺司の組織と技術は、長岡京の造営や蝦夷討伐の軍事目的に転用されたのではないかと論じている。

 しかし、種継暗殺事件後、桓武天皇には身内の不幸が重なる。また延暦8年(789)には蝦夷追討に派遣された征東将軍紀古佐美が大敗する。翌年である延暦9年の春には飢饉が起こり、また全国で天然痘が流行、多数の死者が出た。延暦11年には、新たに皇太子となっていた安殿(あて)親王が重病になり、卜占の結果、廃太子早良親王の祟りだということになった。親王の怨霊を恐れた桓武天皇は淡路の親王の墓に勅旨を派遣して、親王の霊に陳謝させた。「怨霊のことを『御霊(ごりょう)』という。政争に敗れ非業の死を遂げて怨霊となった人々の霊魂のことである。」(190ページ)
 それでも事態は好転しなかった。この年は雨が多く、桂川が氾濫、洪水が発生した。「早良親王の怨霊と天災に苦しめられ、桓武天皇は不吉な長岡京の放棄を決断した。延暦13年(794)10月には遷都の詔を出し、平安京と号した」(同上)。

 こうして、桓武天皇は長岡京から平安京に遷都することになる。やましろを山背ではなく、山城と書くようになるのは、この遷都後のことである。安殿親王は、桓武天皇のあとに皇位に就いた平城天皇であるが、この天皇は自分の妃の母親で、藤原種継の娘である薬子を寵愛して、自分の弟で後継者となった嵯峨天皇との間に紛争を起こす。平城天皇の皇子である高岳親王(⇒真如法親王)は、この書物の最後で登場される。
 今回でこの記事を終えるつもりだったが、なかなか調子が出ず、もう1回連載を続けることにした。確か9月7日のNHK高校講座の「古典」(古文)の時間に、講師の1人が日本の古典文学を読んでいると、歴史の中では敗者だった人の声が残っていることが印象深く感じられるというようなことを言って、『万葉集』の有間皇子の例を挙げていたのが記憶に残っている。その『万葉集』の編纂者に擬せられる大伴家持が今回登場するが、藤原種継暗殺という陰謀の首魁とされ(死後に)断罪を受けている。(その後、また復位したが、死んだ後のことなので、本人の文学的な人生とは関係がない。つまり、家持もまた歴史的にみれば敗者と言えよう。
 既に書いておいたが、被害者である種継は策謀好きの多い藤原氏式家の人間だというのがどうも皮肉である。さらに言えば、藤原式家も平安時代における、今度は他氏とではなく、藤原氏内部の抗争で勝ち残ることができず、学者の家としてかろうじて存続し、のちの時代になると消滅していった。勝ち残ったのは北家であるが、その北家の中で今度は勝ち組と負け組が現れてくる)。どうも因果はめぐる。私は森本さんと違って俗人なので、そんなことばかり感じてしまう。 

トマス・モア『ユートピア』(20)

9月26日(水)雨が降ったりやんだり

 そのようにはっきりと定式化して書いているわけではないが、ユートピアは全員が能力に応じて働き、必要に応じて受け取るという共産主義の原則が徹底している社会であり、その結果、貨幣は非常用に貯えられ、例えば戦争の際に外国人の兵士を雇ったり、敵の一部を買収して分裂を誘うための手段として用いられている。彼らの考えでは、金は鉄ほど役に立たないので、価値がない。自然は「例えば空気、水、大地のような、それぞれ最善の贈りものを公開して我々の手近なところにおき、空虚かつ虚無なるものをわれわれのもとからなるべく離れたところに遠ざけたのです。」(156ページ) だから金銀が希少だからと言ってありがたがるのは間違っているというのである。

 そうはいっても、もし金や銀がどこかに隠されていたりすると、それが貴重なものであると思う人々が出てくるかもしれないというので、ユートピア人たちはある手段を思いついた。彼らが食器に使うのは、「非常に優雅でしかも安い土器やガラス」(156‐157ページ)の製品であり、金や銀では、「共同ホールでも私人の家でも使われる便器とか、最も汚ない用途にあてるその他の容器を作るのです。さらにまた、奴隷をつないでおくための鎖や太い足枷も同じ金属で作られます。おまけに、何かの犯罪で名誉を失ったひとの耳には金の輪を下げさせ、指には金の指輪をはめさせ、首には金の鎖を巻きつけさせ、それから頭には金の帯をしばりつけます。このようにして、彼らは自分たちの社会では金銀を恥ずべきものとするようにあらゆる手段を用いてつとめています。」(157ページ) 従って自分の家で使っている金の器を供出する必要が生じたときに、それを惜しむようなユートピア人はいないという。
 確かレーニンが、同じようなこと、つまり金を便器に使うということを言っていたと記憶する。しかし、まじめな話、国家が急に必要になったからというので便器を供出させられたら、だれだって困るのではないか。食器が大事で、便器が大事ではないということはないだろう。どうもこの議論はピントがくるっている。事実として確認したわけではないが、イラン革命(1979)によって打倒されたパフラヴィ―王朝最後のシャーであるモハンマド・レザー・パフラヴィーは黄金の便器を使用していたという。これは黄金を軽蔑してではなく、自らの富を見せびらかそうとする行為であったと思われる。金で作られた鎖や足枷は、比較的簡単に断ち切れるはずで、ということは、ユートピア人たちは金をその性質に合わない、役に立たないやり方で使っているということになってしまう。
 逆に朝鮮の無名の陶工が作った日用の食器が日本の茶人に珍重されるということも起きたのだから、物の価値はモアが考えていたよりももっと複雑怪奇なきまり方をするのである。

 彼らは海岸では真珠を、あちこちの岩山ではダイヤモンドやルビーを集めたりもするが、偶然、見つかれば磨き上げることはするが、それを目当てに探すということはしない。このような宝石類は子どもたちのおもちゃにされる。彼らが成長すると、自分たちにふさわしくない飾りだと棄ててしまう。

 近隣の諸国の人々は、ユートピア人のこのような生活風習を知っているから、外交使節を派遣するときは、できるだけ質素な身なりをさせるようにしている。ところがユートピアから遠く離れたところに住んでいて、この風習を知らず、ユートピア人たちが質素な服装をしていているというのは、彼らが貧乏だからに違いないと思ったアネモール人たちは、ユートピア人たちを威圧するために華美で豪奢な服装をした施設を派遣した。そのことで、金銀を軽蔑し、宝石を子どもたちのおもちゃだと思っているユートピア人から散々な扱いを受けた。しかも、ユートピアにはきわめて大量の金銀・宝石が備蓄されていることを知り、すっかり恥じ入ったという。澤田さんの訳注によると、アネモール人は「大風呂敷」人ということだという。ターナー訳ではFlatulentines(腸が膨満している人たち、仰々しい、もったいぶった人たち)となっている。

 ユートピア人たちの方では、「誰でも自由に自分で好きな星でも太陽でも眺めることができるのに、つまらぬ宝石や小石の怪しい輝きを見て楽しんでいる人間があるということに驚いている」(160ページ)という。モアが言っているのは、自然の美に勝る人工の美はないということであるが、そうなると芸術否定論になってしまう。また趣味として、石を集めるのが好きだという人は少なくないし、実は私もその一人で、このあいだも小さな琥珀を買ったほどである。世の中にはもっと上手がいて、兄妹そろって東京から自動車でザクロ石を探しに近畿地方まで出かけた知人がいる。モアが自然に即した、禁欲的な生活をよしとしているのは考え方としてうなずけるが、彼が例えば石集めのような趣味を、ささやかな楽しみに含めない狭量さにはついていけないところがある。

 ユートピア人たちは、他の国民が金銀をありがたがるのを怪訝な気持ちで見ているという。彼らがさらに不思議がっているのは、貧乏人たちが金持ちを尊敬するという風習であるという。「金持ちは非常にけちで貪欲だからその莫大な金貨の山のなかの一円だって、生きているあいだはけっして自分にくれやしないということをはっきり承知していながら、それでもなお金持ちをあがめるあの連中の気違い沙汰を彼らは忌み嫌っているのです。」(161‐162ページ、一部不適切な用語があるが、原文を尊重)

 このようなユートピア人の考え方は、一方では社会の習俗の中で見に付いたものであり、もういっぽうでは教育と学問のおかげであるという。自然の美が人工の美に勝るといっておいて、今度は人為的な習慣形成を賛美するというのは首尾一貫していないような気もするが、そうした自分の都合の良いように原則を変更することは起こりがちのことである。
 金や貨幣、豪奢な生活や生活用品をありがたがる人々を揶揄した箇所を読んでいると、『ユートピア』は一種の風刺文学として読むのが一番いいように思われる。モアの議論が首尾一貫していないことを何度か指摘したが、そのように論旨が揺らぐのは風刺文学にありがちなことである。あまりまじめに付き合わない方がいいのかもしれない。

 本日は、これから研究会に出席するため、皆様のブログを訪問する時間的な余裕はないと思います。あしからずご了承ください。
 

ダンテ・アリギエーリ(須賀敦子・藤谷道夫訳)『神曲 地獄篇(第1歌~第17歌)』(3‐1)

9月25日(火)朝のうちはまだ降っていなかったが、その後雨が降り続く

 《われを経て、苦しみの都に到る。
われを経て、永劫の苦患に到る。
われを経て、呪われし人々のもとに到る。
 正義がわが高き創造主を動かし、
神の威力(ちから)が、至高の叡智と
始原の愛が、われをつくりぬ。
 永遠に創られしもののほか
わが前に創られしものなく、われは永久(とこしえ)に立つ。
われを過ぎるものはみな、すべての希望を捨てよ》
(1‐9行、45ページ)

 今回から第3歌に入る。1300年4月5日(火曜日)の夜、ダンテはウェルギリウスに導かれて地獄の門を通る。第3歌の最初に、地獄の門の上に書かれた言葉(としてダンテが創作した詩行)が掲げられている。この9行を山川丙三郎は次のように訳している。
我を過ぐれば憂ひの都あり、我を過ぐれば永遠(とこしへ)の苦患(なやみ)あり。我を過ぐれば滅亡(ほろび)の民あり
義は尊きわが造り主を動かし、聖なる威力(ちから)、比類(たぐひ)なき智慧、第一の愛我を造れり
永遠(とこしへ)の物のほか物として我よりさきに造られしはなし、しかしてわれ永遠に立つ、
汝等こゝに入るもの一切の望みを棄てよ
(岩波文庫版、25ページ) 両方の訳に共通の語彙が多い。例えば「苦患」(くげん)は、日常あまり使われない言葉であるが、須賀・藤谷も読み方を変えて、使用している。このことは、山川の訳語の選択がいかに適切であったかを物語るものであろう(粟津則雄『ダンテ地獄篇精読』で引用されている壽岳文章訳でも、「苦患」(くげん)が使用されている)。なお、この地獄の門の銘文は、漱石の初期の短編「倫敦塔」の初めの方、語り手がロンドン塔を訪問した際に、入り口にこの銘文が刻まれていたような気がするといって、かなり自由な形に書き換えられて引用されている。漱石は英訳を通じて『神曲』を読んだのであろうが、地獄の門とロンドン塔の門を同一視するのは大げさである。

 解説注にもあるように、「われ」は擬人化された門の自称である。「呪われし人々」は山川訳では「滅亡の民」であり、地獄に堕ちた人々を言う。彼らは神にまみえる可能性を完全に失った人々、善を用いるいかなる力も失った人々である。
 「永遠に創られしもの」とは、神が最初に創造したもの、すなわち、時間と空間、天使、第一質料の4つだそうである。これらが創造された直後に 四大元素(地・気・火・水)とともに地獄の門は創られたという。四大元素から作られたものは、転変し、消滅し、永遠ではない。
 「われを過ぎるものはみな、すべての希望を捨てよ」というのはあまりにも有名な詩行で、もともとのイタリア語では
Lasciate ogni speranza voi ch'entrate. 
という。むかし、務めていたころのこと、自分の研究室の扉に、この言葉を書いてはり出していた同僚がいた。あまりいい趣味だとは思わない。
 キリスト教では、ひとたび地獄に堕ちると永遠に解放されることはない。仏教の経典の中には、釈尊に敵対した提婆達多でさえ、悟りを開いて佛となると説くものがある。だから、仏教の地獄は、キリスト教(カトリック)の煉獄に相当するという人もいる。

 これらの文字を目にしたダンテは、その意味を理解することができず、ウェルギリウスに問いかける。すると、ウェルギリウスは、彼の心中を見抜いたように、次のように言う。
「ここではあらゆる疑念を打ち棄てねばならない。
ここではあらゆる怯懦は打ち殺さねばならない。
 私がおまえに話した、その場所に来たのだ。
おまえはこれから、知性の恩恵を失った者たちが
苦しみ懊悩するさまに出会うだろう」
(14-18行、25‐26ページ) ウェルギリウスは、ダンテがいま、地獄にいることを告げる。ここでいう「知性」は眼には見えないものを認識する能力であり、神を観想する霊的な力を指している。地獄にいる魂は、神を認識することができなくなっていて、そのために苦しみ悩んでいるが、その姿をありのままに見ること(その姿を叙事詩として再現すること)がダンテの使命だというのである。そして、喜ばしげな顔をして、ウェルギリウスはその手をダンテの手に重ねる。ダンテは勇気づけられて、地獄の奥底までも進んで、その様子を見届ける決心を固める。

 そこでは、星のない空いちめんに
うめき声、泣き声、甲高い悲鳴が満ちとどろいていた。
そのあまりの悲惨な音に、私はただそれだけで涙し始めた。
 様々な言語、ぞっとする奇声、
悲痛な言葉、憤怒の怒号、甲高い声、
弱々しい声、それらの声に混じって手で打擲する音、
 これらが一大音響となり、
時のない黒ずんだ大気の中を、つむじ風に舞いあがる
砂のように、果てしなく回っていた。
(22‐36行、26ページ) このくだりは迫真性に富んでいる。ダンテの描き出す宇宙の中で、地獄は地球の内部にあるから、星は見えない。それだけでなく、解説注によると、『神曲』の中で、「星」(stelle)は「人間の帰るべき最終目標地」という霊的な意味をもっている。『天国篇』まで読むとわかることであるが、ダンテは、人間の魂は星の世界から地上に降りてきたと考えている。「星がない」ということは、天に帰還する希望がないという意味になるのである。
 地獄の入り口で、ダンテがまずであったのは、まったく調和のない、不愉快きわまりない騒音の集合。しかもそれは悲しげな響きをおびている。「時のない黒ずんだ大気の中を、つむじ風に舞いあがる」という一行は、詩人としてのダンテの力量を見事に見せつけている(とはいうものの、こういう場面に立ち会いたくはないものである)。ダンテは、この音を立てているのが何者かをウェルギリウスに問う。

 音を立てているのは、地獄に堕ちるような悪行を働いたこともなければ、天国に行けるような善行を行ったこともない中途半端な人々の霊である。かれらは天国からも地獄からも受け入れられない「浮遊霊」となってさまよっている。その文学史的な位置づけについては、「第三歌解説」で藤谷さんが詳しく触れているので、ご関心のある方はお読みください。思い出すのは、芥川龍之介の短編「六の宮の姫君」のヒロインが地獄からの火の車に乗ることもなく、極楽往生もできぬまま死んでいくという結末である。なお、『今昔物語集』の原作では姫君は極楽往生するのだが、そうならないところに芥川の「近代」的な解釈があるとみることができる。しかし、本当に<近代>的な解釈が施されているのかどうかというのは疑問に思われる。
 彼らがともにいるのは、天地創造の後、神に従って善を行うことも、神に反逆することもしなかった中立の天使たちである。
 この者たちは、神に逆らうでもなければ
忠誠も見せず、ただ自分たちのためだけに存在した
あの卑怯な天使たちの群れに混ざっている。
(37‐39行、47ページ)

 善も悪もしていないというのであれば、それほど苦しむことはないのではないかという気もするが、ウェルギリウスは(作者であるダンテは)これらの魂を冷たく切り捨てている。
 このたましいたちには死の希望がないからだ。
彼らの盲(めし)いた生はあまりにも低劣なので、
自分以外のあらゆるものの運命をねたんでいる。
 この世は彼らの評判が残ることを許しはせぬ。
(天の)慈悲も(地獄の)正義も彼らを蔑む。
もう彼らについて話すのはやめよう。ただ見て、過ぎよ」
(46‐51行、47ページ)

 ウェルギリウスは、ダンテに自分で見て、判断することを指示する。他人の指示を仰ぐだけでよければ、わざわざ異界巡りをする必要はない。ここには何かを判断するために、物事を正確に見極めようとするダンテの態度が示されており、それは文学的なリアリズムにつながるものであるといえよう。また、「なす」ことによって自己実現を図ろうとする近代人としてのダンテの精神を認めてもよいのではないか。しかも、このような姿勢が、第2歌で歌われていた、ダンテ自身の怯懦に満ちた内面との戦いの過程で示されていることも注目しておいてよい。
 彼の遍歴は始まったばかりである。これからどのような体験が待ち受けるのであろうか。
 

『太平記』(229)

9月24日(月・振替休日)曇りのち晴れ、気温上昇

 奥州から大軍を率いて上洛を試みた北畠顕家は阿倍野(史実は堺の浦)で戦死し、越前で勢力を拡大しようとしていた新田義貞も失った後醍醐帝は、顕家に従って奥州から来ていた結城道忠(宗広)の進言で、7歳になる八宮(義良親王⇒後村上帝)を奥州に向かわせたが、伊勢の鳥羽から船出した一行は天龍灘で遭難し、八宮の船だけが無事に無事に伊勢に戻った。伊勢の安濃津に漂着した結城道忠は、再度奥州に向おうとしていたが、病気で倒れ、臨終の悪相を現じて他界した。道忠の縁者である山伏が不思議な経験をした。

 山伏は偶然に出会った律僧に導かれて「大放火寺」と山門に書かれた寺の中に入り、そこの旦過(修行僧を一夜だけ宿泊させる場所)で、律僧から与えられた法華経の如来寿量品を読誦していた。
 夜半を過ぎたころであろうか、それまで照っていた月が雲に隠されただけでなく、雷雨になってしまった。そこに現れたのは牛頭馬頭の阿放羅刹ども(頭が牛や馬の形をした暴悪な地獄の鬼たち)で、その数は何人いるかわからない。それがこの寺の広い庭に集まってきた。辺りは瞬く間に様子が変わって、厳しく周囲を固めた鉄の城が現れ、その周囲四方には鉄の網が張られている。何里あるかわからないような長い距離の間、猛火が燃え盛り、毒蛇が口から炎を吐き、鉄の犬が牙をむき出しにして吠え掛かってくる。

 山伏はこれを見て、恐ろしいことだ、これは地獄の中でも一番苦しい責め苦を受けるという無間地獄らしいと、恐れおののきながら見ていると、火の車に罪人を一人乗せて、牛頭馬頭の鬼たちが、轅を引いて空からやって来た。待ち設けていた悪鬼たちが、大きな岩のような鉄の俎を庭に置き、その上に罪人を一人乗せて、あおむけに寝かしつけ、その上にまた鉄の俎を重ねて、鬼たちがみんなで「えいやえいや」と上から押したので、俎の端から油を絞るように血が流れだした。この血を鉄の桶に入れて集めたところ、川の水ほどもあった。
 それから今度は、二つの俎を取り除けて、紙のように平たくされた罪人を、鉄の串に刺し貫いて、炎の上に立てて表と裏を返しながら、料理人が肉を料理するようにしっかりと焼いた。

 こうしてこんがりと焼いた後、また俎の上に置き、肉切包丁に鉄の魚箸を取り添えておいた。そこへ、ある鬼が寄ってきて、俎の上の罪人をおして平らにし、今度は細かく切り刻んで、銅のふるいの中に投げ入れたのを、鬼たちが「活々(かつかつ、「生き返れ、生き返れ」という意味であろうか)と唱えながら、ふるいでふるい分けると、罪人はたちまちによみがえって、またもとの姿になった。
 すると鬼は、鉄の鞭を取り上げて罪人に向かい、怒りの言葉を発した。「地獄というが、それは地獄ではない。地獄はおまえの心の中にある。お前の罪がおまえを責め立てているのだ」という。罪人は、その苦しみに耐えることができず、泣こうとしたが、猛火が彼の目を焦がしているために涙は蒸発してしまって、流れない。叫ぼうとしても、鉄の球がのどを塞いでいるので声を出すことさえできない。このような地獄の責め苦のほんの一端を語っても、その恐ろしさに聞く人は卒倒するだろう。

 一部始終を見届けていた山伏は、魂も抜けて、正気を失いそうな心地となり、律僧尼向って、「これはどのような罪人をこれほどまでに攻め苦しめているのでしょうか」と問うと、「これこそは奥州の住人結城上野介入道道忠というものが阿鼻地獄(=無間地獄)に堕ちて、責め苦を受けている様子である。もし、おまえが入道の縁者であれば、あとに残された妻子たちに、一日経(複数の人が法華経などを1日で書写し、死者を供養すること)を書いて供養して、この苦しみから救い出すようにせよと伝えなさい。自分はこの入道が今度、上洛の遠征に向かうときに、鎧の袖にその名を記した六道能化(りくどうのうげ)の主、地蔵菩薩である」と詳しくこの罪人(結城道忠)を救う手だてを教えた。

 この言葉がまだ終わらないうちに暁を告げる野寺の鐘が、松吹く風に響いてかすかに聞こえたかと思ったら、鉄の城壁はたちまちにかき消すように失せ、それまで山伏の前にいた律僧の姿も見えなくなり、野原の草の露の上に、山伏ひとりが呆然として立ちすくんでいた。

 夢のことか現実の出来事であるかははっきりしないが、夜が明けたので、地蔵菩薩が律僧に姿を変えてあらわれた不思議に驚いて、山伏は急いで奥州に向かい、結城入道の子である親朝(ちかとも)にこのことを語ったが、父の入道が死去したという報せが届く前のことだったので、おそらくは不思議な夢を見ただけのことか、幻覚にとらわれていたのだろうと、驚くこともしなかった。ところが、その後3,4日たって、伊勢から飛脚が下ってきて、父親の遺言、臨終の様子などを詳しく語って聞かせた。その語るところが、山伏の言うところと合致していたので、死後七日ごとに四十九日まで行う追善供養に、一日経を書いて供養して、孝行のために父親の菩提を弔う仏事を行ったのである。

 法事の際に導師は、法華経の中で釈尊は「もし法(のり)を聞くことあらん者は、ひとりとして成仏せずといふこと無し」と述べたが、法華経の有難い教えのおかげで、どのような地獄にいるものであっても、悪業の報いは消えることになるだろうと仏の徳を讃えるもので、聴衆である親朝以下の結城入道の遺族は随喜の涙を流したのであった。

 道忠が地獄で責め苦にあっている様子を、赤の他人である山伏が見るというのがどうも不思議で、初めから妻子が不思議な夢を見た方が話は早い。山伏ということで、多少は仏に近い存在だということであろうか。それにしても、道忠は入道(出家の身)であるから殺生を慎まなければならないのに、その戒律を守らなかったので地獄に堕ちたのであろう。
 こうして第20巻は終わり、この『太平記』紹介も半ばを越えたことになる。『太平記』はもともと朱子学の大義名分論に基づいて、天皇や公卿の政治と、それを支える武士たちの正しい関係について論じる物語であったはずだが、ここでは南朝の忠臣である結城道忠が、その生前の殺生を中心とした悪行の報いで地獄に堕ち、苦しむ様子、さらには地蔵菩薩と法華経による救いの道を描くことで、仏教が前面に出てきているように思われる。
 なお、森茂暁さんによると、結城宗広(道忠)と親朝の父子は仲が悪く、親朝は室町幕府と南朝の間で優柔不断を決め込み、最後になって幕府方につくことになる。宗広は、朝敵の首を自分の墓前に供えろと遺言したが、遺言をされた息子もまた朝敵になることをどこまで予測していたのであろうか。
 なお、これは一度、このブログで書いたことがあるが、上野の国は親王任国の国なので、実質的な長官は守ではなく、介になる。

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日記抄(9月17日~23日)

9月23日(日)
 9月17日から本日までの間に経験したこと、考えたこと、これまでの記事の補遺・訂正など。今日は墓参りに出かけるつもりなので、ブログを早めに書きはじめることにする。

9月17日
 15日に女優の樹木希林(本名:内田啓子)さんが亡くなられた。75歳。東京の人であるが、実家が桜木町駅の近くの叶屋という大衆割烹の経営者であることは比較的よく知られている。テレビの特別番組に出演中に、悠木千帆という芸名を売りに出して、樹木希林に改名すると言い出した場面を見ていた記憶がある。実は若いころの出演作はよく見ているのだが、演技に対する評価が高まってきた後期の作品はほとんど見ていないのであまり言うことがないのである。ただ、星由里子さんが亡くなり、今度は樹木さんが亡くなり、私とほぼ同年代の方々がひとり・ふたりと亡くなられているのはさびしい。ご冥福をお祈りする。

 ニッパツ三ツ沢球技場でなでしこリーグ2部第12節:横浜FCシーガルズとバニーズ京都FCの対戦を観戦する。書き忘れていたが、メイン・スタンドだけを開放して行われる無料の対戦である。試合開始早々、横浜が左サイドからボールを運んでセンタリングしたのを、ゴール前にいた中村みづき選手が決めて先制、これが結局決勝点となり、横浜が勝ち点3をあげた。序盤で得点したものの、追加点をあげられなかったのは問題であるが、これまで得点を挙げていなかった中村選手がゴールを決めたのは大きい。今後の活躍に期待しよう。

 NHKラジオ第二放送の文化講演会は静岡大学名誉教授の小和田哲男さんによる「徳川家康の戦略:関ケ原の戦いと大坂冬の陣・夏の陣」というもので、福島県の平市で行われたので、磐城平藩の藩祖である鳥居忠政の父親で関ケ原の戦いの前に伏見城を護って戦死を遂げた鳥居元忠の話が織り込まれていた。家康が 府での人質時代に、臨済僧で今川の軍師である太原雪斎に教育を受けたという話は山岡荘八の小説に描かれているが、歴史家の中には疑う人もいる。この点について小和田さんは肯定的であったこと、それから大坂の陣の際に、大阪城は堀を埋めれば陥落させることができると秀吉が言ったのを家康が覚えていて実行したという話は『徳川実紀』に書かれているという話が興味深かった。何度も聞いているような話でも、どこかに初めて聞くことや、話している人の意見がわかる部分があるので、注意深く聴く方がいいという例である。

 下川裕治『鉄路2万キロ』(新潮文庫)を読み終える。インド(ディブラガル⇒カンニャクスリ)、中国(広州⇒ラサ)、ロシア(ウラジオストク⇒モスクワ)、カナダ(バンクーバー⇒トロント)、アメリカ(シカゴ⇒ロサンゼルス)の長距離鉄道を完乗したという記録である。ここで下川さんが乗ったのよりももっと長い区間を走る列車があって、下川さんは旅行社に問い合わせて、そのうちの一路線である平壌⇒モスクワ間の列車に乗ろうとしたが、旅行社の方で手配できないといわれたそうである。長距離を旅するというだけでなく、豪華客車を選ばずに、できるだけ安い切符を買って乗っているので、鉄道旅行の決死隊という悲壮感さえ漂う。最初の方は元気がいいが、最後のカナダ、アメリカになると、かなり元気がなくなっているのが読んでいて伝わってくる。それでも、むかしは私も夜行列車が好きでよく乗っていたことを思い出し、何となく懐かしい気分になった。

9月18日
 眼科の検査を受ける予約をしていたのをすっかり忘れていて、夜になって眼科の検診を受けたというブログの記事を見てやっと思い出した。この種の物忘れは私の場合、結構起きることなので、これはボケの始まりだ…とは思わないことにする。

 藤岡換太郎『フォッサマグナ』(講談社ブルーバックス)を読み終える。いろいろと勉強になった。ただ、「フォッサ=大きい」、「マグナ=地溝」と説明しているのは、逆なので、訂正してほしい。あとがきで著者がこの本を書く上でお世話になった方々の名が列挙されている中に、私の中学・高校の同期生の名があったので、その顔を思い出したりした。

9月19日
 『日経』のコラム「大機小機」は「アベノミクスは第2の開国」という見出しで、「アベノミクスによる大きな変化のうち、だれもが目にすることができるのは、身近に外国人が増えたことだ」と指摘している。安倍政権の支持者の中には外国人労働者の導入に反対の人が少なくないが、この現実をどのように評価し、「移民」は受け入れないがなにがしかの「外国人労働者」は受け入れるというような首相のごはん論法をどのように解釈するのかを自問自答すべきであろう。
 
 夕方、眼科に出かけて事情を説明したところ、1日遅れで検査をしてくれた。めでたしめでたしと言っていいのかどうか? 〔検査結果は横ばいということである。〕

9月20日
 『日経』のコラム「大機小機」は「改革を忘れた高齢者雇用対策」という見出しで、年齢を理由として一律に解雇する定年制は、多くの先進国で「年齢による差別」として禁止されていると述べ、この定年制を放置したまま70歳まで一律に再雇用するのは悪平等主義だと論じている。

 NHK『ラジオ英会話』で取り上げた会話の中で、フィリピンからやってきた青年が
Mangos are much cheaper in my country than in Japan. (ぼくの国ではマンゴーは日本よりずっと安いよ。)
という。今回の会話の中ではdurian(ドリアン)も登場した。青年によると
You know durian has a really strong smell, but some people like the sweet and mellow flavor. (ほら、ドリアンってとても強烈なにおいがするけど、甘くて熟した風味が好きな人もいるんだ。)
 子どもの頃、東南アジア・南アジアの果物について触れた記事を読んだことがあって、マンゴー、ドリアン、マンゴスチンなどの果物が取り上げられていて、大いに好奇心をそそられたことを思い出す。その後、マンゴーは日本でも栽培されるようになったし、比較的身近な果物になったが、後の2つはあまりなじみのないままである。10年以上前にタイに出かけたときに、マンゴスチンをごちそうになったことがあったが、子どもの頃に想像していたほど魅力的な果物ではなかったという記憶がある。もっと若いころに、食べていれば、また感想は違っていたかもしれない。

 ヘスス・マロト/粕谷てる子『スペイン語で読む やさしい ドン・キホーテ」(NHK出版)を読み終える。2010年に出版されたもので、その直後に買ったはず(今はなくなってしまったJOINUS栄松堂のカバーがかかっている)だが、ずっとほったらかしにしていた本である。本文を大幅に削り、やさしく書き直したスペイン語と、日本語の対訳で、それでも多少なりとも原作の雰囲気は残しているように思われる。ドン・キホーテはスペイン(カスティーリャ)のラ・マンチャ地方に住む年老いた郷士(hidalgo)であるが、騎士道物語を読みすぎて、現実と空想の区別がつかなくなり、
Y decidió becerse caballero andante con el fin de enmendar este disparatado mundo. (そして、この乱れた世の中を正すために、遍歴の騎士になろうと決心するに至った。)
 いろいろな騒ぎの末、騎士への叙任を受けた(と信じ込んだ)ドン・キホーテは従者としてサンチョ・パンサを選ぶ。
Era Sancho Panza un honrado campesino, de gran sentido común y buen conocedor de refranes. (サンチョ・パンサは、常識をきちんとわきまえ、ことわざなどにもなかなか詳しい、善良な農夫であった。) 
 サンチョがことわざに詳しいというところが興味深い。ドン・キホーテが書物を読みすぎた人であるのに対し、サンチョは経験知の人なのである。実際に、『ドン・キホーテ』という作品を通じてサンチョは160近くのことわざを口にするという。
 『ドン・キホーテ』に出てきて、その後、スペイン語以外の言語にも広がったことわざも少なくない。特に有名なものの1つは
Hunger is the best sauce. (空腹は最良のソースである⇒腹の減ったときにまずいものはない。)
 これは、ドン・キホーテとサンチョ・パンサが遍歴をやめて故郷に帰ったときに、ドン・キホーテに影響されて色々と欲をもちはじめたサンチョに対し、その妻のテレサが言うセリフが基になっているらしい。
La mejor salsa del mundo es el hambre. (世界で最善のソースは空腹である。⇒この世で一番うまいソースはね、空腹で食べることなんだよ。) 逐次的に英語に移すと、The best sauce of the world is the hunger.となって、英語版と言葉の順序が逆になっているところが面白い。原を減らして、働きづめの生活であっても楽しみはあるという。ドン・キホーテの従者としてふらふら旅をするサンチョよりも、その妻のほうがさらに一層現実的な人間であるのは当然のことではあるが、なかなか興味深い。

9月21日
 『朝日』の朝刊によると、中教審は教科の数値評価を廃止する方向の検討をしているという。数値評価が悪いのではなくて、教師や生徒、その他教育関係者の数値評価に対する態度が問題なのではないか。カントの『啓蒙とは何か』で展開される議論を何となく思い出す。

9月22日
 『朝日』書評欄の「著者に会いたい」のコーナーに、『政治教育の模索 オーストリアの経験から』の著者である早稲田大学教授近藤孝弘さんが登場していた。わが国でも選挙権年齢が引き下げられたが、それに見合った政治教育が行われているかというとそうではないと近藤さんは考えている(最近の若年層の保守化は、まさに学校における「イデオロギー教育」の浸透の結果ではないかと思うので、この点では近藤さんの意見には多少の疑問がある)。それで、政治教育がかなり進んでいるドイツではなく、「半歩先」を行っている(と近藤さんが考えている)オーストリアを取り上げたという。「日本では選挙権年齢を引き下げながら、政治教育を放置し、道徳教育に社会秩序の維持を期待しています。道徳で民主主義社会は作れません。必要なのは政治教育ではないでしょうか」という。道徳教育の現状についてはそれほどの知識がないので、何とも言えないが、現在の日本の学校教育が潜在的なカリキュラムも含めて、イデオロギー教育として機能して、青年の保守化を促進する役割を果たしていることは間違いないのではないか。だとすると、「政治教育」をするか、しないかではなくて、どのような「政治教育」をするかということが問題なのではなかろうか。この辺りは、柳田国男と家永三郎の論争から戦後一貫して続いている問題ではないかと思う。近藤さんが取り上げている、そのオーストリアで(さらにはドイツにおいてさえも)極右勢力の台頭が著しいという現象、また政治教育だけでなく、学校及び、学校を取り巻く地域社会における自治的な活動(自治会、生徒会、PTA等…)が民主主義の形成にどのように貢献するかという点をめぐり、近藤さんの意見を伺ってみたいと思う。

 『日経』の解説記事「今を読み解く」で東京大学の福田愼一教授が「人手不足と外国人労働者」の問題を取り上げ、中長期の戦略的議論を展開することの必要性を論じているのは、まことにもっともなことであるが、一石を投じるつもりで、福田さんご自身のご意見をもっと語っていただきたいという気がしないでもない。

9月23日
 『日経』は「高校生プログラマー」が国際的な大会で活躍していて、産業界からも将来を期待されていることを報じている。それはそれとして結構なことであるが、誰からも期待されず、自分の好きなことをして、新しい道を切り開くというような若者が大勢出てくることも好ましいことではないかと思う。大人の期待に沿って進むだけが若者の能ではないのである。

 同じく『日経』の日曜特集の一つ「名作コンシェルジェ」で八代目三笑亭可楽の「らくだ」「富久」「士族の鰻」を治めたCDについて矢野誠一さんが取り上げていた。八代目の可楽は「江戸前」の芸風を代表する最後の落語家と言われ、一部に熱狂的なファンをもっていた落語家である。私は高座に接したことはないが、ラジオではよく面白がって聴いていた(八代目が死んだのが昭和39年=1964で、私が大学に入学した年だから、まだ、落語の本当の面白さというのはわからなかった時期である)。矢野さんは可楽が兄弟子である八代目桂文楽とその芸風を尊敬していたことを強調していたが、その文楽の磨き抜かれた芸にはない、何とも言えないおかしさが可楽の魅力であった。
 「江戸前」というのは「高座へ上ってもニコリともせず、ニガ虫をかみつぶしたような顔でまくし立てて下りてしまうのが、戦前までの東京落語家の一般的気風で、これを江戸前といった。昭和39年に死んだ八代目可楽が最後の見本」(宇井無愁『落語のみなもと』(中公新書、15ページ))というが、逆に上方の落語家は恵比寿さんのようなニコニコした顔で愛嬌たっぷりに高座を務めているのが普通だったようである。どっちがいいというものではないが、江戸前の芸風が廃れてしまったのはさびしいと思う。

 墓参りに出かける。今日は彼岸の中日だったので、お参りの人が多かった。

 横浜FCはアウェーでジェフ千葉と対戦し、後半に斎藤功佑選手があげた1点を守り切って、貴重な貴重な勝ち点3をあげた。外国人選手をはじめ、ベテランの活躍が目立つチームの中で、若手の活躍は今後に希望をもたせる。これで4位に浮上。 
 
 

和田裕弘『信長公記――戦国覇者の一級史料』(3)

9月22日(土)朝のうちは雨が残っていたが、午前中に病み、午後は晴れ間が広がった。

 『信長公記』は織田信長の側近であった太田牛一が自身の日記と記録とをもとに編纂したもので、その成立事情から信憑性の高い史料とされてきた。
 織田氏はもともと越前の織田の劔神社の神職の家柄であったが、越前・尾張の守護であった斯波氏の被官となり、斯波氏に従って尾張に移り、一族の織田伊勢守と織田大和守が両守護代として勢力を張ったほか、藤左衛門尉家、因幡守家、弾正忠家の三奉行の織田家など多くの家系に分かれた。
 弾正忠家の信秀は優れた武将で、尾張の中で頭角を現し、盟主的な存在にのし上がったが、美濃の斎藤道三との戦いに敗れて苦境に陥り、息子の信長の正室に道三の娘を迎えることでこの危機を凌いだ。信秀の死後、信長は同母弟の信勝との熾烈な跡目争いに勝利して、織田家の当主の地位を獲得した。しかし、舅である道三は実子の義龍によって亡ぼされ、その義龍や、駿河の今川などの強敵に囲まれて、信長の前途は明るいものではなかった。

 『信長公記』はその首巻で信長の元服とその後の動きを描いており、若き日の信長の行状描いた箇所は首巻における最も興味深い部分となっている。
 信長は幼名を吉法師と言ったが天文15年(1546)、13歳の時に、林佐渡守、平手政秀ら4人の家老を伴って、父信秀の居城である古渡城に赴き、ここで元服して織田三郎信長と名乗った。傅役である平手政秀の菩提寺の記録『政秀寺古記』によると、沢彦宗恩が「信長」の名前を選んだという。(沢彦宗恩は臨済宗妙心寺派の僧で、平手政秀の依頼を受けて信長の教育係を務め、その後は信長の参謀として働いたという。信長が平手政秀の慰霊のために建立した政秀寺の開山ともなった。もっとも、沢彦については『政秀寺古記』以外にあまり史料がないということで、どこまで信じていいのかはわからない。なお、「岐阜」の名付け親も沢彦だといわれる。)
 元服の翌年には初陣を果たし、今川方となっている三河の吉良大浜に侵攻して、周辺を放火し、一泊して帰陣している。この初陣も平手政秀が準備を整えたものだという。

 若いころの信長は風変わりな服装をしていたといわれるが、その出典となっているのが『信長公記』の「首巻」である。
 元服後16歳から18歳までは、朝夕馬術を稽古し、また3月から9月までは川で泳ぎ、水泳に長じていたという。竹槍の模擬合戦を見て、長柄の槍が有利と判断し、実際にそのような槍をつくらせている。〔武将にふさわしい生活態度だったといえる。〕 しかし、髪を茶筅髷にゆったり、奇抜な服装で出歩いたりしていた。
 乗馬と水泳だけでなく、弓、鉄砲、兵法を習い、さらに鷹狩りを好んでいた。鷹狩りは軍事演習を兼ねているほかに、民情視察や領内の地理を知悉する効用もあったと考えられる。だから決してバカ殿ではなかったのだが、どうも行儀が悪かった。立ち食いをしたり、人に寄りかかって歩いたりした。決して凡庸な人物ではなかったが、大名にふさわしいと思わない家臣たちも少なくなかったのである。
 この時代から、合理主義者としての一面と、激しい気性の一端をのぞかせる出来事もあった。

 永禄2年(1559)に信長は上洛して室町幕府第13代将軍足利義輝に挨拶した。『信長公記』「首巻」には80人の御伴衆を同行したとあるが、同時代の山科言継の日記には500人ばかりとある。
 この時、斎藤義龍が6人の刺客を差し向けて暗殺を図った。しかし、その存在を知って通報したものがいて、信長の家臣の金森長近が彼らの宿舎に乗り込んで恫喝、それだけでなく翌日、京見物をしていた信長一行と刺客の一団が遭遇、今度は信長がお前たちが自分を襲うのは「蟷螂が斧」であると脅しつけて、刺客たちの面目を丸つぶしにした。そのうえで、この一団が必死になって追いかけてくるのは必定と、急いで帰国したという。 

 次回は、桶狭間の戦いと信長について取り上げる。最後に、今回見てきた個所についてのコメントをいくつか書いておく。信長が尾張を平定し、天下人へと歩み始めるようになると、それまでの織田一族は、津田・柘植・中川・藤懸・島などに改姓していく。織田を名乗り続けるのは信長と、その弟の長益(有楽)の系統だけである。
 名古屋には何度も出かけているが、そのうち2回、政秀寺の前を通っている。もっとも、現在の寺は太平洋戦争後に名古屋市が再開発を行った際に移転してきたものだそうである。余談となるが、江戸時代の大学者太宰春台は平手政秀の子孫を自称していたという。
 沢彦について詳しいことはわからないというのはすでに書いたが、武田信玄と親しかった快川紹喜と兄弟の契りを結んでいたとされる。このような僧侶間の関係も、戦国大名の取引の中で利用されたことは十分に想像できる。
 山科言継はその克明な日記で知られる戦国時代の公卿で、西口克己の小説で映画化もされた『祇園祭』に主人公たちの相談相手として登場する。映画では下元勉が演じていた。
 金森長近は織田信秀、信長、柴田勝家、豊臣秀吉、徳川家康、秀忠に仕えた武将である。彼の息子の長則は本能寺の変で戦死しており、彼自身は賤ケ岳の戦いの際に柴田軍に属して戦い、降伏した経緯がある。それでも何とか生き延びて大名になったのは、それだけの能力があったということであろう。

坂口安吾『不連続殺人事件』(2)

9月21日(金)雨が降ったりやんだり

〔前回のあらまし:「1 俗悪千万な人間関係〕
 昭和22年6月の末に、語り手である作家の矢代寸兵は、友人である詩人・歌川一馬から、自分の周辺で何か恐ろしい事件が起きそうだから、歌川家に来てほしいという依頼を受ける。一馬の父親は多門と言って政治家で、戦後、追放処分を受けて地方で生活しているが、好色漢で、その結果として歌川家をめぐる人間関係は入り組んでいる。しかし、地方の金持ちであるか戦争中は一馬の文学仲間が大勢疎開していた。一馬の異母妹の珠緒が、そのときに疎開していた望月王仁、丹後弓彦、内海明という面々を呼び寄せ、彼らはこの夏をまたもや歌川家で過ごそうとしているという。一馬は彼の元妻である宇津木秋子と、その現在の夫である三宅木兵衛、劇作家の人見小六とその妻の明石胡蝶にも声をかけて、一緒に過ごそうとしているという。一馬は異母妹である佳代子が自分に寄せる思いを何とか振りほどこうと、彼女と仲のいい矢代の妻の京子の手を借りようとしている。しかしその京子は、多門の妾であったのが、寸兵と駆け落ちしてその妻となったという経緯があるので、歌川家の客になりたくはない。それで矢代夫妻は一馬からの招待を断る。

〔2 意外な奴ばかり〕
 7月に入って、一馬から矢代のもとに手紙が届いて、矢代夫妻と巨勢博士にぜひ来てほしい。切符を手配したから頼むという。
代夫妻は重ねての頼みなので、巨勢とともに出かけることにする。巨勢は名探偵として知られ、その腕前から仲間内で「博士」と「尊称」されている。だが、彼は1日遅れて出かけるという。
 矢代夫妻が手紙の指定通り、7月15日に夜行列車で出かけ、翌朝、歌川家のあるN町に到着すると、思いがけない人物に出会う。歌川多門の秘書をしていた弁護士の神山東洋と、その妻の木曽乃がその第一である。さらに、一馬の現夫人であるあやかの元の同棲相手であった土居光一(ピカいち)に出会う。彼も歌川家に滞在するという。
 歌川家に近づくと、歌川あやかと宇津木秋子が迎えに来る。光一はあやかになれなれしく近づき、抱きしめようとするが、あやかは拒絶する。
 歌川家に到着すると、来客たちは滝つぼに水浴に出かけたとのことで、一馬と内海だけが彼らの到着を待っていた。
 前夜の列車の中で立ち通しだった矢代は疲れ切っていて、昼食をとると、すぐに寝込んでしまう。目を覚ますと、もう夕方になっていた。一同はみなそろって、階下で酒を飲んでいるという。

〔3 招かれざる客〕
 酒を飲んでいる一同の中には文壇随一の嫌われ者の流行作家である望月王仁と、画壇の鼻つまみである土居光一がいて、社は「なるほど、こいつは趣向である」(45ページ)と思う。ところがなぜか、2人が角突き合わせてけんかをするという場面にならない。2人は競って、胡蝶や珠緒に言い寄り、騒ぎが続くが、夜も更けて騒ぎも静まり、それぞれ寝室に引き取る。
 ところが、一馬が矢代の寝室にやってきて、神山東洋夫妻にも、土居光一にも、さらに巨勢博士にも招待状は出していないという。矢代が念のために持ってきた手紙を改めてみると、一馬の手紙に何者かが書き足して、手紙を送ったようである。書き足された部分には犯罪の予告と、巨勢博士をつれてきてほしいという文言が記されている。事態は一馬の予測を越えて深刻なものになっているようである。

〔4 第一の殺人〕
 7月17日の早朝、一同は散歩に出かける。7時半の朝食のために戻ってくると、海老塚医師が庭で体操している。この医者は、前回にも紹介したが、歌川家の遠縁で、多門の二番目の妻の梶子(昭和21年8月9日に病死しているが、その死をめぐってとかくのうわさがある)が自分のために呼び寄せて開業させたという人物である。
 海老塚医師も交えて朝食が始まるが、王仁が顔を見せない。珠緒が様子を見に行木、彼が死んでいると蒼い顔で報告する。一馬と矢代、海老塚医師が確認に出かけると、王仁は裸体で、心臓を一突きにやられている。血はほとんど見られない。 
 廊下へ出て、腕時計を見ると8時22分であった。村の駐在に電話をかける。
 食堂で王仁が死んでいて、他殺だという報告を聞き、珠緒は秋子が犯人にちがいないと言い張る。王仁の枕元にはダンヒルのライターがあり、ダンヒルを使うのは宇津木秋子以外にはいないというのがその理由である。
 「駐在の巡査が駈けつけた。この南川友一郎巡査は探偵小説は愛読しているがほんものの事件にめぐり合ったのが始めてだから、全身緊張そのものにハリキッて、いと物々しく現場の扉にペッタリと封印の紙をはりつける。一同に向って現場を乱さないように心得をおごそかに申し渡して本署へ電話で連絡する。」(64ページ) 前回も書いたが、この巡査の名前は安吾の周辺にいた小説家の南川潤と井上友一郎の名を組み合わせて命名されている。井上友一郎という名にはかすかな記憶があるが、南川潤というのは全く知らない作家である。

 「5 猫の鈴」ではいよいよ本署から刑事たちが到着して捜索が始まる。その前に名探偵の巨勢博士も到着するが、真相の解明はまだまだ先のことになりそうである。とにかくこの5が長いので、今回はここで打ち切ることにする。
 終戦直後の昭和22年という時代背景を、坂口はできるだけ排除して、本格的な探偵小説の舞台を組み立てようとしている。地方の名士の邸宅で、物資には不自由しない生活を送る人々の間で起きる事件が描き出されている。そうはいっても、夜行列車で矢代が眠れなかったというように、できるだけ省かれているとは言うものの、この時代の様相が顔をのぞかせているのが、かえって面白い。その一方で、すでに書いたことだが、登場人物が多く、その関係が入り組んでいるので、分りにくいのと、やたら殺人事件が多いのが(なぜ、『不連続殺人事件』なのかというなぞは、篇中で巨勢によって解き明かされるので、そのときまでお待ちを――もっとも、そこまでこの連載を続けるかどうかはわからない)欠点と言えば欠点である。 

森本公誠『東大寺のなりたち』(13)

9月20日(木)雨が降ったりやんだり

 第6章「新たな天皇大権の確立」は、光仁天皇の後を継いで即位された桓武天皇の姿勢を、仏教に対する政策を中心に検討する内容である。
 第2章「責めは予一人にあり――聖武天皇の政治観」で概観されたように、聖武天皇ははじめ「経史」を根拠とする律令政治を推進されようとしたが、天災地変が続いたことから、仏教、特に華厳経への傾倒を深められ、仏教思想に基づく政治を志向されるようになった。諸国における国分寺の建立、平城京における廬舎那大仏像の造立などはその表れであり、建設事業を通じて土地を失って流浪している人々の救済を図ろうという意図があったことは、一連の仏教推進策とともに、墾田の私有をめぐる法令がこれと並行して出されていることからも理解できる。

 しかし、仏教重視の政策の結果、道鏡のような怪僧が現れて政治が混乱する事態も生じた。道鏡の追放後、政府の仏教政策は以前の律令制重視、律令に定められたように仏教を治部省の管轄の下に置き、締め付けを強めようとするものであった。現実に、政府としても仏教を全面的に否定することは難しかったが、厳しい態度をとるようになったのである。

 宝亀4年(773)閏11月、良弁僧正が遷化した。『続日本紀』には彼の卒去が記載されているにもかかわらず、本来ならばそれに付記されるはずの卒伝がない。「良弁に関する記録の少なさは異常と思えるほどで、僧正への補任の記録も含めて、『続日本紀』編纂時に恣意的に抹消された可能性が高い。/いずれにしても良弁を失った東大寺は、代わりが務まるような存在感のある人物を見出せず、苦境への道をたどることになる。」(172ページ) 
 孝謙上皇が藤原仲麻呂・淳仁天皇に対するクーデターを実行された際に、東大寺の僧侶が上皇方に属して活躍したことは既に述べたが、上皇が重祚されて称徳天皇となられた後、さらにその後任をめぐる道鏡の登場、光仁天皇→桓武天皇の即位に至る政争の中で、東大寺は政界の主流から排除されていったようである。森本さんはそのあたりの経緯を詳しく(書こうにも史料がないので書けないから)書いていない。しかし道鏡が良弁僧正の弟子であったことは書いているから、その関係での嫌がらせはあったかもしれない。良弁に代わりうる人物というと、お水取りを始めた実忠や、孝謙上皇のクーデターの際に活躍した安寛などがいるではないかと思うのだが、森本さんはそのようには書いていない。大先輩に対する遠慮があるのかもしれないが、なぜふさわしくないと判断するのかも書いてほしいところである。

 光仁天皇の下で、政府=太政官の仏教界への統制は、具体的には治部省を通じての僧尼籍の確認調査、さらに国分寺から東大寺に派遣されたまま既定の年限を過ぎても帰還しない僧尼の本国への送還、僧綱の綱紀粛清などの措置によって推進された。

 天応元年(781)光仁天皇は皇太子である山部親王に譲位、桓武天皇(←山部親王)が即位された。新天皇は同母弟の早良(さわら)親王を皇太子とした。この年の12月に光仁上皇が崩御された。その服喪期間をめぐって混乱が生じている中、塩焼王の子の氷上川継の謀反が発覚し、関係者が徹底的に処罰された。
 塩焼王についての詳しい説明はされていないが、天武天皇の皇子新田部親王の子で、一時期、孝謙天皇の皇太子であった道祖王の兄であり、その後、藤原仲麻呂に接近して仲麻呂によって淳仁天皇の代わりの天皇として担がれたが、敗死した人物である。塩焼王の妃で川継の母である不破内親王は聖武天皇の皇女であり、森本さんが紹介しているように「川継の謀反は桓武天皇側から仕掛けられた罠であるとする説」(177ページ)があるのも不思議なことではない。こうしてなお隠然たる力を保持していた天武天皇一族はしだいにその力をそがれていったが、逆にいえば、そうしなければならないほど桓武天皇にはまだ権威が備わっていなかったということでもある。

 天応2年(782)7月、服喪期間をめぐる問題は天皇の勝利に終わり、元号は延暦と改められた。(この元号は25年まで続き、歴代では昭和、明治、応永、平成に続いて史上第5位に相当する長い期間使用された。)
 「天皇としての権力を確実なものとしたとはいえ、それでこれまでの天皇が持っていたような権威も身に付いたかと言えばそうではない。桓武天皇はこの権威を獲得するために新たな手段を模索しなければならなかった。天智系皇統による新王朝の確立、母方の百済王氏族の称揚、交野(かたの)における中国式天帝祭祀、平城京廃都、と次々に新たな手段を講じていった。だがもっとも重視したのは、聖武天皇が培ってきた仏教勢力を政治から排除することであった。」(177ページ)

 桓武天皇による仏教勢力排除の政策は、光仁天皇時代から始まっていた仏教界の綱紀粛正の流れを引き継ぎ、さらには一層強化するものであった。仏教界の不正を弾劾することで、国家経費の削減が意図されていたという側面もある。しかも仏教界の不正や堕落は、中央地方を問わず、官僚たちの不正にもかかわることだと考えられた。さらに諸寺の利殖行為は厳禁された。そしてこれらの措置に違反する僧侶や官僚には厳しい処罰を行った。

 東アジア全体を見渡しても、仏教に対する政府の姿勢は必ずしも一貫していない。仏教が外来の宗教であること以外に、どのような問題があるのか、この辺りはさらに研究を深めてもいい問題であるかもしれない。

トマス・モア『ユートピア』(19)

9月19日(水)晴れ、気温上昇

 1515年にイングランド国王ヘンリーⅧ世が派遣した外交使節団の一員としてフランドルを訪問した法律家のトマス・モアは、外交交渉の中断中にアントワープを訪れ、その市民であるピーター・ヒレスと親しく付き合う。ある日、モアはそのピーターからラファエル・ヒュトロダエウスという世界を広く旅して様々な土地と人々の風習や制度を見聞したという人物を紹介される。
 彼の経験と知識とに感心したピーターとモアは、彼がどこかの王侯に顧問として仕え、その政治を助けるように勧めるが、王侯たちは彼の機嫌を取ろうとする取り巻きたちに囲まれて、外国と戦争し、民衆から収奪することだけを考えている。そんな王侯や取り巻きの仲間入りはしたくないとラファエルは拒否する。
 ヨーロッパの諸国は戦争や貧富の格差に苦しんでいるが、その解決策はないのか。その一つの手がかりが、ラファエルが5年間ほど滞在していた新世界のユートピアという島の制度にあると彼は言う。そこで、ピーターとモアの求めに応じて、ラファエルはユートピアの社会の概要を語りはじめる。
 ユートピアは54の都市からなる島国で、もともとは大陸と地続きだったのが、ユートプスという指導者が現れて掘削工事を行い、大陸から切り離された。この国の第一の関心事は農業で、人々はみな(少なくとも一定期間は)農業に従事する。農業以外の仕事に取り組む人もいるが、すべての人々が協力して働き、私有財産というものはない。衣服は簡素で、都市では食事は一か所に集まって共同で行われる。住まいは10年ごとにくじ引きで取り換えられる。

 すでに繰り返し述べてきたように、ユートピアでは全員が働く上に、無駄や贅沢は避けられているので、あらゆる物資が豊富に行き渡っている。またその物資は公正に分配されるので、貧しい人々、乞食をするような人は出てこないのである。しかも、アマウロートゥムの長老会議で、各都市の物資の量をめぐる情報を交換・討議して、もし不足があれば余っている地方から直ちに補足均分するようにされている。「こういうぐあいで、全島は単一家族のようなもおのになっています。」(153ページ)

 都市によって収穫の出来不出来があることを考えて、彼らは2年分の補給が完了しなければ十分だとは考えず、それが果たされて初めて、余ったものを外部に輸出する。それらはたとえば、「穀物、蜂蜜、羊毛、亜麻、木材、茜と緋の染料、毛皮、蝋、獣脂、皮革、それに家畜類である。
 これらの物資の7分の1を彼らは輸出地域の貧乏人たちに贈り物として与え、残ったものは安く売る。この取引で彼らは自分のところにないものだけでなく、多量の銀と金とを自国に輸入する。自国にないものというのは鉄以外にはあまりないということで、これはこの時代のイングランドの状況と一致しているという。こうして多量の金銀や貴金属を彼らは保有しているという。「その結果、彼らにとっては物を売る場合に支払金を直ちに現金で受け取るか一定の期日までに受け取るかはどうでもよいことになり、支払金の大部分を彼らは信用証書の形でもっています」(153ページ)という。
 余った生産物を安く売ることで莫大な富が築けるかどうかは疑問(このあたりモアの考えは理想主義に走りすぎているかもしれない)。国庫に金銀を集めるというのは、既にマキャヴェッリの『君主論』の中に見られる発想だそうだが、のちに重商主義の時代になる盛んに採用されるようになる政策である。しかし、モアの主張は重商主義の初めの頃に見られる重金主義主義とは一線を画するものである。

 信用証書は、私人の信用によらず、相手方の都会が正式に発行する保証書であり、都会が債務者である私人から負債額を徴収して会計金庫に収め、(債権者の)ユートピア人たちが取り立てにくるまではその利子を自分のものにする。ところが、ユートピア人はそのような債権の大部分を請求しないままにしている。自分たちにとって必要ではないもので、他人にとっては役立つものであれば、他人のものにしておいた方がいいと考えるからである。

 しかし、危急の場合、例えば戦争が起きるかもしれないという場合の防衛手段として、この財宝や債権をやくだてるのである。このような多額の金を使って、外人部隊を雇ったり、敵を買収したり、敵の一部を買収することによって内部から崩壊させたりして、自分たちの犠牲を少なくしようとするのである。ユートピア人の戦争への対処の仕方についてはまた後の方で触れられる。「外人部隊」について、平井訳では「外国傭兵」、ロビンソン訳ではstrange soldiers (異国人の兵隊たち), ターナー訳とローガン&アダムズ訳ではforeign mercenaries (外国人の傭兵たち)となっている。金銀で兵隊を雇うという発想は、モアよりも四半世紀ばかり遅れた日本で、関ケ原の戦いのときに九州で黒田如水が、それまでため込んだ金銀を放出して浪人たちを集めたという逸話を思い出させる。モアの時代には「傭兵」と「外人部隊」の区別などなかったが、現代の国際法では「傭兵」は禁止され、「外人部隊」は認められている。傭兵は<金でやとわれて、欲得ずくで戦う兵隊>であり、外人部隊は正規の軍隊機構の中に組み込まれた外国人たちによって編成された部隊である。第1巻でラファエルは、王侯の取り巻きが、王侯に向かって傭兵を使うことの得失を説く場面を否定的に描いているが、この個所、およびこの後で戦争について語られる場面では傭兵の使用について特に否定的なことは言っていない。この問題については、ユートピア人と戦争について論じた個所でより詳しく見ていくことにしよう。

 モアの考え方が重商主義とは一線を画するというのは、ユートピアでは貨幣が重んじられないとしていることである。「彼らは自分では貨幣を用いないで、起こるかもしれないしけっして起こらないかもしれないような事態のためにそれを貯めているのであって、そういう時まで〔貨幣の原料である〕金銀を、それらが自然本来もっている価値以上に尊重するような人はひとりもいません。こういう見かたからすれば、金銀が鉄に比べてはるかに劣っているということをわからない人がいるでしょうか。人間は鉄がなければ火や水がないのと同様に生きてゆけません。ところが、人間はその愚かさゆえに希少なものは価値あるものだと決めたから話は別ですが、自然は金銀に対して、我々が容易に無視できぬような大切な用途を与えはしませんでした。」(155‐156ページ) つまり、金銀よりも鉄の方が人間の生活に役立つから尊いのだとユートピア人は考えているというのである。この時代、すなわち大航海時代は、金銀と香料を求めてスペインやポルトガルの船が新世界やインドを探検し、略奪していた時代である。モアがこのような主張をラファエルの口を借りて語っているのは興味深い。さらに言えば、金や銀も現代人にとっては、それなりに役立つ金属であることも忘れてはならない。とにかく、ユートピア人たちは日常の生活に貨幣を使わず(日用品はただで手に入るので、使う必要がない)、鉄の方を金銀より大事にするということを記憶しておこう。これは経済学史的にどのように評価される思想なのか、今すぐにはわからないので、おいおい調べていくことにしたい。

 さて、ユートピアでは馬車よりも牛車の方が多く用いられるということを以前に紹介したのをご記憶であろうか。どうも不思議な感じがしたのだが、ヘスス・マロト/粕谷てる子『スペイン語で読む やさしいドン・キホーテ』(NHK出版)という本を読んでいたら、原作の全編の最後の方にあたる箇所で、ドン・キホーテを村に戻そうと追いかけてきた村の司祭と床屋が寝ているドン・キホーテを取り押さえて檻の中に閉じ込め、牛車(carreta)に乗せて運ぶという個所が出てきた。『ドン・キホーテ』は『ユートピア』よりも約100年ほど後の作品であるが、この時代のヨーロッパでは牛車が使われていたことを知ることができる。

ダンテ・アリギエーリ(須賀敦子・藤谷道夫訳)『神曲 地獄篇(第1歌~第17歌)』(2‐3)

9月18日(火)午前中は晴れていたが、午後になって雲が多くなってきた。気温上昇。

 本日で「地獄篇」第2歌を終わる。
〔第1歌〕
 1300年4月4日、語り手であるダンテは「暗い森」の中にさ迷いこむ。恐ろしい一夜を過ごしたのち、彼はある丘のふもとにたどり着く。その丘の上の方は、上がり始めた太陽の光に覆われているのを見て、彼は丘に登ろうとするが、豹・獅子・雌狼によって行く手を遮られ、再び暗い森の中へと後退する。すると、彼の目の前におぼろげな人の姿が現れ、ダンテの問いに答えて、自分はローマ時代の詩人ウェルギリウスの霊であると答える。そして、これからダンテをつれて、地獄と煉獄とを案内し、さらに別の案内者が天国を案内するだろうという。暗い森を脱出するにはほかに道がないというのである。
〔第2歌のこれまで〕
 いったんは異界への旅に出かけることを決心したダンテであったが、自分に人類の運命に関わるような旅を行う資格があるのかと疑問の思いに駆られて躊躇しはじめる。すると、ウェルギリウスはリンボにいた彼のもとに、天国からベアトリーチェが赴き、暗い森の中をさまよっているダンテを案内して、異界を遍歴させ、そのことによって自分の運命を変えることになる手助けをしてほしいと頼んだのだといって聞かせる。

〔第2歌の続き〕
 ウェルギリウスはベアトリーチェがなぜ、天国から自分の元へダンテの案内をしてほしいと依頼しにやって来たかの理由を問う。暗い森を出たところで三匹の獣に道を塞がれているダンテを哀れみ、「きついお裁きを破棄しよう」(96行、33ページ)と考えた聖母マリアが、ダンテが常にその信仰を寄せてきた聖女ルチーアを呼んで、彼を救い出すように言いつけた。それで聖ルチーアはベアトリーチェのところにやってきて、かつて(『新生』の中で)
あなたをあれほど愛し、あなたのために賊の群れから出でた
あの人〔ダンテ〕を、なぜ助けに駆けつけないのですか。
 彼の泣き叫ぶ苦しい声があなたには聞こえませんか。
海さえも打ち勝つことのできぬ
大河のそばで彼を襲う(精神の)死が見えませんか
(104‐108行、33ページ)と、ダンテの魂を救うための行動を起こすように言う。

 その言葉を聞いたベアトリーチェはすぐさま、行動に移る。彼女の行動は「きついお裁き」(=ダンテの地獄行き)を、彼を悔い改めさせることによって、修正しようという聖母マリアの意思を反映したものなのである。ベアトリーチェは
 私にこう言って
涙に光るその眼を私に向けられたので
私は急いでやって来た。
(115‐117行、34ページ) ベアトリーチェについての描写は「その両の眼は星よりもかがやき」(55行)で始まり、同じく涙に光るその眼」(116行)で終わる。そしてこの涙が、ベアトリーチェのウェルギリウスへの最後の言葉であると説く人もいる。『神曲』では「眼」が強調されていることは前回述べたとおりである。

 ウェルギリウスは、ベアトリーチェの依頼を受けて、すぐに暗い森にやってきて、
あの猛獣からお前を救い出したのだ。
 さて、どうして、どうしてお前は迷うのか。
どうしてそれほどにひるむ心をはぐくむのか。
どうして勇気と自信を持たぬのか。
 みたりの福なる女性〔マリア、ルチーア、ベアトリーチェ〕が
天の宮廷でおまえを見守り
私の言葉もこれほど大きな希望をおまえに約束しているというのに
(121~126行、34ページ) 121行から123行にかけて、「どうして」という言葉が繰り返されているが、これはもとのイタリア語ではperché (なぜ、どうして)である。それで、山川訳の当該箇所を見ると「しかるに何事ぞ、何故に、何故にとゞまるや、何故にかゝる卑怯を心にやどすや、…」(岩波文庫版、上、23ページ)となっている。

 ウェルギリウスに叱咤激励され、また自分の過去を知る天国の福なる女性が自分を助けようとしていることを知り、ダンテは気持ちを取り直す。
 夜の冷気にうなだれ、花弁を
閉じてしまったけなげな花たちが、太陽に照らされると
すっくと茎をのばしていっせいに花開くように、
 私の萎れていた力も、まっすぐに伸び上がり
みなぎる勇気が溢れんばかりに入り込んで来た。
(127~131行、34ページ) 旅立つ決心を固めたダンテは、ベアトリーチェと、ウェルギリウスに感謝の言葉を述べ、その決心を語る。
 あなたが、その言葉で、私の心に行きたいという
思いを吹き込んでくださったおかげで、
私は最初の志に立ち返ることができました。
 さあ、前進しましょう、意思は二人で一つです。
あなたこそ真の導き手、あなたこそわが主、わが師です
こう私は彼に言うと、彼は進みはじめ、
 私は深く険しい森の道に踏み込んだ。
(136~142行、35ページ、第2歌終り) こうして、ウェルギリウスに導かれて、ダンテはその旅を始める。山川訳を引用しておくと:「いざゆけ、導者よ、主(きみ)よ、師よ、両者(ふたり)に一の思ひあるのみ、我斯く彼にいひ、かれ歩めるとき/艱(かた)く廃れし路に進みぬ」(岩波文庫版、上、24ページ) この2つの役を比べると、ウェルギリウスとダンテがたどる道がどのようなものか、その描き方が全く異なっている。原文を調べてみると、142行は:
intrai per lo cammino alto e silvestoro.
であって、cammino(道)が第1歌冒頭部分と対応する語であることが分かり、altoは「高い」、silvestorは「森の」だから、この個所については須賀・藤谷訳のほうが原文の意味を正しく伝えているように思われる。それにしても、山川訳は格調が高いけれども、難しい言葉を使いすぎている。

 異界への旅にいったんはためらいを見せたダンテであったが、自分の旅にこれまでの異界旅行者たちの旅とは全く違う意味があることを知ったことで、彼の決意は固まる。『新生』でベアトリーチェへの愛と、そこから始まった新しい人生について歌ったダンテは『アエネーイス』という叙事詩を書いた古代ローマの詩人ウェルギリウスに導かれて、自分自身の叙事詩を創造するという新しい冒険に乗り出すのである。

『太平記』(228)

9月17日(月)晴れのち曇り、夕方になって雨が降り出す

 暦応元年(南朝延元3年、1338)閏7月2日、足利方の越前守護斯波高経の攻略に向かった新田義貞は、高経が築いた足羽七城のうち、平泉寺の衆徒たちが立てこもっている藤島城が攻略しやすいとみて攻め寄せたが、籠城している衆徒たちの必死の抵抗にてこずり、落城させることができなかった。このため義貞は藤島城の偵察に出かけたところ、高経の黒丸城から派遣された後攻めの兵に遭遇し、敵兵の矢を受けて落馬、自害を遂げた。
 義貞が討たれた新田軍では、裏切りが相次ぎ、義助は越前府(えちぜんのこう=現在の福井県越前市国府)に退却した。義貞の北の方勾当内侍(こうとうのないし)は、義貞からの迎えの使者に伴われて杣山まで来て、義貞の死を知った。京へ戻った内侍は、獄門に懸けられた義貞の首を見て尼となり、嵯峨に隠棲した。
 北畠顕家が阿倍野で戦死し、義貞も失った後醍醐帝は、結城宗広(道忠)の進言で、八宮(はちのみや、義良=のりよし親王、のちの後村上帝)の一行を奥州に向かわせたが、伊勢の鳥羽から船出した一行は、天龍灘で遭難し、八宮の船だけが無事に伊勢へ戻った。

 奥州に向かった一行が難破した中でも、結城宗広(道忠)が乗った船は悪風に吹かれて、7日7夜というもの広い海の上を漂流した。このまま海底に沈むか、人を食う悪鬼が住む島である羅刹国に堕ちるかと思われたが、風が少し静まって、これまた伊勢国安濃津(あののつ、三重県津市の湊)へと吹き戻された。 
 ここで10日余りを過ごし、それでもなお奥州に赴こうと、航海のための順風を待っていたのだが、その間に道忠は急に発病し、起き上がることができず、これ以上命を長らえることができそうもない見通しとなった。それで、知識の聖(仏の道へ導く僧)がまくらもとによって、「これまでは何とか助かると思っていましたが、ご病気が日々に重くなるので、今ではご臨終の日は遠くないと思われます。くれぐれも往生極楽のお望みを怠ることなく、念仏を唱えながら、三尊(阿弥陀如来、観音菩薩、勢至菩薩)が現れて浄土へと迎え入れるのをお待ちください。それにしても、この世に思い遺されていることもおありでしょう。思っていらっしゃることをおっしゃってください。ご子息の皆様にお伝えいたしましょう」と述べた。

 宗広(道忠)は既に目を塞ごうとしていたが、かっぱ(がばと)起きて、からからと笑い、震え声で言うことには、「自分も既に70歳に達して、富も名誉も手に入れたので、この世の中に思い起こすことは一つもない。とはいうものの、この度、顕家卿のお供をして上洛のための遠征をしたが、ついに朝敵である足利兄弟を滅ぼすことができず、そのまま空しく黄泉(あの世)への旅に出かけなければならないので、そのことが成仏はできず、永劫に苦界を輪廻転生する煩悩ともなるだろう。そういうことなので、愚息である親朝(ちかとも)にも、自分の後生を弔おうとするのであれば、仏に供え物をし、僧に施しをして、私のために追善供養をすることなどはやめてほしい。念仏を唱えたり、経を読んだりする追善供養も余計なことである。ただ朝敵の首を取り、私の墓の前にかけて見せるべしと遺言したと、伝言してほしい。」
 これを最後の言葉として、刀を抜いてその刃の方を手にもち、歯噛みをしながら死んだ。成仏の妨げとなる罪業がはなはだしい人は多いというが、息を引き取る時に、これほどの悪相を表わす人のことは、いまだかつて聞いたことがない。

 とにかくこの道忠入道の平生の振る舞いはというと、十悪五逆の大悪人である。鹿狩りをしたり、鷹を使って鷹狩りをしたりすることは、それを生業としている人もいることなので、(生き物を殺すということは、仏教でいう不殺生戒に触れることではあるが)とやかく言わないことにしよう。罪もない人を縛り、僧尼に危害を加えることは数えきれない。常に死人の生首を見なければ、気分が晴れないと言って、僧俗男女を問わず、毎日2・3人の首を切って、わざわざ自分の目の前に懸けさせる。そういう次第で、彼がしばらくの間でも腰を落ち着けていた場所は、死肉があふれて屠畜場のようになり、死骸が積み重なって墓場のようになっていた。

 結城宗広(道忠)の本拠は奥州の白河であり、伊勢で死んだという知らせは遠くのことなので、故郷に残してきた妻子のもとにはなかなか届かなかった。
 ところが、そのころ、道忠とゆかりのある山伏が不思議な経験をした。用があって武蔵の国から下総の国へと向かったのであるが、途中で日が暮れて、野原の真ん中で人家が見当たらない。どこか宿場にたどり着いて、一矢を過ごそうとうろうろしていると、律僧が1人現れた。(律僧というのは、律宗の僧侶であるが、この時代、時衆=時宗の僧とともに、しばしば死者の葬礼に携わる存在であった。) そうは「さあいらっしゃい。この辺に接待所(=旅の僧に食事をふるまったり、宿泊させる施設)がありますので、お連れしましょう」という。この山伏は喜んで、律僧についていった。かなりの距離を歩いたのち、僧は一軒の楼門(二階づくりの門)を開いた。その額には「大放火寺」と書かれていた。〔このあたりから、話が奇怪になっている。〕 中に入ってみると、きれいな玉を懸けた仏殿があり、その額には「理非断」(理非は正邪のことで、正邪を裁くという意味である)と書かれていた。律僧は山伏を旦過(たんが=修行僧を一夜だけ宿泊させるところ)に置いて、さらに中に入っていった。

 ややしばらくたって、その律僧が、中から螺鈿の箱に法華経が入っているのを持って戻ってきて、「これからここで、不思議なことが起きるはずです。どんなに恐ろしいと思っても、息を荒げることなく、三業(さんごう、身・口(く)・意)を静めて、この経を読誦しつづけてください」といい、山伏には「法華経」巻六・如来寿量品第十六(久遠成仏の釈迦仏を説く経文である)を読ませ、律僧自身は「法華経」巻八・観世音菩薩普門品第二十五(観音による衆生の救済を説く経文である)を読誦した。山伏は心のうちで、何事だろうと怪しみながら、僧の言うとおりに、口では経文を誦し、心の妄想を払って、無念無想の様子で時を過ごしていた。

 さて、山伏の目の前にどのような情景が現れるかというのは、また次回に語ることにする。
 すでに書いたと思うが、結城氏は近江三上山のムカデ退治で有名な(ムカデ退治は伝説で、平将門を討伐したという歴史的事実もそれに劣らず有名である)藤原秀郷の系譜に連なる。朝光の時に、源頼朝から下総結城(茨城県結城市)を安堵され、以後、この地を名字の地として、鎌倉幕府に重きをなした。朝光の孫広綱の時、その弟祐広(すけひろ)が陸奥白河に移り住み、本家筋にあたる下総結城氏と、分家である白河結城氏の二流に分かれた。宗広はこの祐広の子であり、白河結城氏は、鎌倉幕府打倒に大きく貢献、その働きを後醍醐艇に評価されて、結城氏の惣領職を白河結城氏に与えた。さらにその子、親光は建武新政における「三木一草」に数えられるほどであった。しかし、親光の兄の親朝は、優柔不断で(ということは現実主義者で)父親と仲が悪かった。父親は遺言で、朝敵の首を墓前に備えろといったが、そんなことをするような息子ではなかった。では、何をしたかは次回(以降)のお楽しみとしておこう。

 「羅刹国」というのは大げさに言っているわけではなく、古い地図を見ると、この時代の人は日本の周辺にこういう国があると本当に信じていたようである。結城道忠入道の最後の姿をどのように解釈するかは難しい。「河童と」というのは『太平記』によく出てくる表現で、「からからとうち笑ひ」というのも剛勇の武士らしいが、「わななきたる声」というのがどのようなものなのかの解釈は一定しないようである(岩波文庫版では語釈をしていない)。ここでは「震え声」と訳しておいた。最後の力を振り絞っての声であるから、その可能性が高いが、辺りを震わす声と解釈できなくもない。
 死後の極楽往生を望まず、生まれ変わっても朝敵を滅ぼすために戦うというのは楠正成の場合と同じであるが、『太平記』の作者がそのような生き方(死に方)をかならずしも肯定していないことは、前後の文脈から明らかである。最期に、刀を「逆手に持って」というのは普通は柄をもつのだが、刃の方を持ったと解釈した。十悪五逆というのは、岩波文庫版の脚注ではどれとどれだと具体的に説明されていないが、十悪は殺生、偸盗、邪淫、妄語、綺語、両舌、悪口、貪欲、瞋恚、邪見である。瞋恚というのは自分の心に違うものを怒り恨むことだそうである。五悪は五戒と同じで、殺生、偸盗、邪婬、妄語、飲酒である。両者の中には重なるものがあることも注意しておいてほしい。
 それにしても生首を見ないと気分が落ち着かないというのは大変な人である。こんな人とは付き合いたくない。山伏が武蔵の国から下総の国へ行くというのは大変な旅行のような書き方であるが、武蔵(神奈川県北東部、東京都、埼玉県)と下総(千葉県・茨城県の一部)というのは隣国である。山伏が途中で生き暮れるというのは、あまりありそうもないことで、このあたり、『太平記』の作者が現場を見知っていて書いたのかどうかは一考の余地がある。山伏がなぜ時宗の僧ではなくて、律宗の僧にあうのかとか、その律宗の僧が、箱の中にほかの経典ではなく法華経を入れて持ってきたのはなぜかとか、法華経の中で如来寿量品と観世音菩薩普門品が選ばれているのはなぜかとか、深く考えれば考えるほど、分らなくなる問題は多い。とりあえず、山伏が、宗広(道忠)のどのような後生を見たのかということを興味の対象として、次回に進むことにしよう。 
 

日記抄(9月10日~16日)

9月16日(日)曇りのち晴れ

 9月10日から本日までの間に経験したこと、考えたこと、これまでの記事の補遺・訂正等:
9月10日
 NHKラジオ『まいにちスペイン語』でホンデュラス出身のマリアが長崎を訪問中のナオトとアリサのカップルに次のように説明する:
Después de los portugueses y españoles, vinieron los holandeses a Japón.
(ポルトガル人とスペイン人のあと、オランダ人が日本に来たのよ。)
 厳密にいうと、ポルトガル人の方がスペイン人よりも早く来ている。もっと厳密にいえば、ポルトガルの船の方がスペインの船よりも早く来ている。日本にキリスト教を広めようとしたフランシスコ・ザヴィエルはバスク人(バスク人はフランスとスペインの両方にまたがる地域に住んでいるが、ザヴィエルの出身地はスペインの方である)であるが、ポルトガルの船で日本にやってきている。大航海時代において、航海者の国籍よりも、船の船籍の方が重要である。コロンブスはイタリア人(ジェノヴァ人、ユダヤ人だという説がある)であるが、スペインの船で新世界に向かい、マジェランはポルトガル人であるがスペインの船で世界周航の旅に出かけている。それからオランダ人のほかに英国人もやってきていることも忘れてはならない(たとえばウィリアム・アダムズ=三浦按針)。

9月11日
 最近、企業等の定年をこれまで以上に引き上げる動きがあり、私自身もあと数年は働けるところで、仕事をやめることになったから、そのことには賛成であるが、かといって、健康なうちはずっと働き続けるようにするというのもどうかと思う。『朝日』朝刊のコラム「波聞風問』に多賀谷克彦記者が「働ければいい、ではない」という文章を書いていたが、やはり、引退生活を一定期間、楽しむようにできるということも大切ではないかと思う。

 NHKラジオ『まいにちイタリア語』の時間に登場する、イタリアで語学修業中の主婦ユウコがルネサンス時代の画家ラファエロの作品「大公の聖母」(Madonna del Granduca)を見て、
La Vergine ha i capelli biondi...(聖母マリアは金髪です).という。
 聖母マリアが金髪であったかどうか、知る手掛かりはどこにもない。ただ、すべての髪の色の中で、金髪をもっとも美しいものとして尊ぶ心性が欧州人にはあるようで、イタリアの女優であるニコレッタ・マキアヴェッリがジョン・ヒューストンの『天地創造』にイヴの役で出演が決まりかけたが、イヴは金髪でなければならないという意見が出て、取りやめになったという話を読んだことがある。イヴの髪の色がどのようなものであったかは、『創世記』には記されていない。

9月12日
 『朝日』朝刊によると、ロシア・ウラジオストクで開かれている東方経済フォーラムに参加している北朝鮮のキム・ユンヒュク鉄道省次官が、朝鮮半島縦断鉄道とシベリア鉄道の連結は「政治的にも経済的にも条件が整った」として、その着工を促す発言をしたという。戦前は、東海道本線、山陽本線、関釜(下関・釜山)連絡船、朝鮮半島縦断線、満鉄を乗り継いで、シベリア鉄道からヨーロッパに向かうルートが存在した。朝鮮半島の政治的な分断によって、その旅は不可能になっていたので、鉄道旅行が好きな人は魅力的な提案だと思うかもしれない。とは言うものの最近は、LCCによる空の旅が広がっているので、実際的にはさほど魅力的な提案ではないようである。以前にも書いたことだが、東アジア各国の中で鉄道の整備が一番遅れているのが北朝鮮で、そのことと関連して実現にはまだ多くの問題があると思う。

 同じ『朝日』の紙面にエチオピアとエリトリアが20年ぶりに国境往来を再開したという記事が小さく出ていた。もう20年以上前にロンドンで研修していた時、もともとエリトリア人で、イタリアを経て、ドイツで生活をしているという学生と仲良くなったことを思い出す。彼がエリトリアの学校で習った歴史は、まったくエチオピアの歴史であって、「彼らの歴史」であったと話していたのを今でも記憶している。

 横浜FCはアウェーでアビスパ福岡と対戦し0‐0で引き分けた。依然として3位である。

9月13日
 『朝日』の朝刊に毎日掲載されている「しつもん! ドラえもん」の本日の問題は「かごしま編」で、「西郷隆盛、木戸孝允と並び『維新の三傑』と呼ばれる明治政府の初代内務卿はだれかな?」というもので、西郷=ジャイアン、木戸=ドラえもんという見立てになっていて、それぞれに違和感があるが、答えの大久保利通=スネ夫というのにはさらに大きな違和感がある。
 大久保の実子で、養子に出たのが牧野伸顕、牧野が福島事件の弾圧の当事者である三島通庸の娘と結婚して生んだのが、吉田茂夫人の雪子、その子である和子が麻生多賀吉と結婚して生まれたのが太郎である。

9月14日
 『朝日』朝刊のコラム「折々のことば」で鷲田清一さんが「彼」という言葉が、明治になって新たな意味を持つようになったという柳父章さんの意見を紹介している。特に田山花袋が「その語を駆使して、<私>を対象化する方法を小説世界に持ち込んだという。「彼・彼女」という語が<私>の新しい世界を開いたのだ」というのである。それはいいんだけれども、花袋は<かれ>という場合に「渠」という漢字を使っているということにも触れてほしかった。 

 『日経』朝刊の「かがく アゴラ」というコーナーで、デジタルハリウッド大学大学院教授の佐藤昌宏さんが、ITが進化すると、個々の生徒の学校での学習の進み方がすべて把握できるようになるから、上級学校の受験はなくなるかもしれないという見通しを語っている。問題は、高等学校までの学校と大学、大学と大学院では、望まれる学習(研究)態度が違うということである。

 同じく『日経』によると東京工業大学が授業料の値上げを検討中であるという。東急・目黒線の大岡山駅付近」からこの大学のグランドを眺めては、国立大学はいいなあと思っているので、値上げ幅が小幅で、入学しようと思う学生の門戸を狭めないようにしてほしいと切に思う。

9月15日
 『日経』朝刊のコラム「半歩遅れの読書術」で、ドイツ文学者の中野京子さんが「旅のお供に既読ミステリー」という文章を書いていた。アガサ・クリスティーの『葬儀を終えて〕ほかの作品の魅力を語っているのだが、なかなかよく読みこんでいるねと思って感心しながら読んだ。」

 『朝日』の「折々のことば」で鷲田清一さんが「何かを失い始めると、急スピードですべてを失ってゆくのね。」という歌手・女優のジェーン・バーキンさんの言葉を紹介している。ことによると、鷲田さんはジェーン・バーキンが好きなのかもしれないなと思って読んでいた。だとすれば、それは鷲田さんの愛すべき一面ではないかと思う。 

9月16日
 『日経』一面の「春秋」欄で、執筆者が10年以上前に訪れた少年院で出会った日系ブラジル人の少年が、「ここで初めてニホンゴ習った」と言った少年の表情が忘れられないと書いている。日本社会の一面も二面も物語っているエピソードではないかと印象に残る。

 同じ『日経』に連載中の美術記事「世界の神々(注)」で青木繁の「黄泉比良坂」が取り上げられていた。青木には日本神話に取材した作品が少なからずあるが、これは「時代精神」と重なるものだという。たしかに、明治の終わりから大正にかけての日本の美術・文学には日本の神話に霊感を得た作品がみられる。これが昭和になると横光利一の『日輪』のように興味がもう少し別のところに向かうようになる。

 同じく、後藤正治という人が(私よりも1歳ばかり年下で、同じ大学の卒業生らしい)、京都大学の学生と大学当局(とその背後にいる京都市)の立て看板をめぐる抗争について書いていたのが、共感する部分もあり、異論をさしはさみたくなる部分もあって面白かった。大学が、学生の多様な表現行動について寛容であるべきだというのは、同感できる。また、若者のエネルギーの噴出が
「一過性の消えゆくものなのか。意味あるものを社会に残していくのか。それは歳月を経て初めて分かるのだろう。」という感慨には、留保付きで賛成である(「歳月を経」なくてもわかる人にはわかるのではないかというのが私の意見である)。それから、このようなエネルギーの噴出や異議申し立てが、若者に特有なものであるという考えにはあまり賛成しない。むかし(私が20代の頃に)、年末になると大阪駅周辺で「天狗」と自称する中年男性が世相を斬る張り紙を出していたという話があるし、もっと昔の二条河原の落首という例もある。

 ニッパツ三ツ沢球技場で横浜FC対水戸ホーリーホックの対戦を観戦する。S席の入場券が「完売」という(それでも入場者数は8000人弱)ことで、A席での観戦。横浜は攻守の連携がちぐはぐで1-2で痛い星を落とす。選手の編成・起用方針としてもう少し守備に力を入れた方がいいような気がする。

本郷和人『上皇の日本史』

9月15日(土)雨

 9月10日、本郷和人『上皇の日本史』(中公新書ラクレ)を読み終える。
 9月15日、『日本経済新聞』に本郷さんが連載している「日本史ひと模様」で豊臣秀吉を取り上げ、中学・高校時代の同期生であるLIXILのCEO瀬戸欣哉さんと対比していたのが興味深かった。自分の身近にいる人物に、歴史上の人物を重ね合わせることができるというのも、歴史家としての素質の一つではないかと思ったのである。

 歴史家には様々な素質や能力が求められるのではないか。過去にどういう出来事が起きたかについて記憶するというだけではだめで、その意味を見抜くことができないといけない。そのため、たとえば、ある出来事の原因について疑問を抱くとか、その出来事が一過性のものか、それとも何度も繰り返されるものか、あるいはより大きな出来事の先触れであるかといった判断ができることが望ましい。古代ギリシアのヘロドトスはペルシア戦争がなぜ起きたかという疑問を抱いたことから、各地を旅行してその歴史をまとめたし、トゥキュディデスは、ペロポンネソス戦争が歴史上の大事件であると考え、後世に同じような出来事が繰り返されたときの参考として(歴史は繰り返す)彼の同時代史を書き記した。ここで本郷さんは、今上天皇のご譲位のご意向という出来事を端緒として上皇の歴史について探求しようとしているが、このような姿勢は、その歴史感覚の鋭さや深さを示すものと考えてよかろう。

 なぜそんなことを書くかというと、この『上皇の日本史』という書物が、あくまでも私の乏しい知見を基にしての評価であるが、従来の上皇・院政研究とは別のところに焦点を当てているからである。この書物の構成を紹介しておくと次のとおりである:
まえがき(天皇陛下の生前退位/「地位」が先か、「人」が先か/世界には類例のない『上皇』)
第1章 「ヤマト」の時代~平安朝
 1 上皇前史――大王の時代
 2 天皇と上皇の誕生
 3 平安遷都と藤原氏の台頭
 4 新しいことは悪――摂関政治の本質
第2章 上皇による専制――白河・鳥羽・後白河
 1 院政の始まり
 2 上皇の権力基盤
 3 上皇による政治の構造
 4 上皇と源氏・平氏
第3章 専制からシステムへ――承久の乱がもたらしたもの
 1 古代の政治空間
 2 承久の乱後の朝廷
 3 中級貴族が担った上皇の「徳政」
 4 両統の迭立と上皇、そして後醍醐の登場
第4章 朝廷と幕府――後嵯峨上皇の院政を例に
 1 九条道家の野望と計略
 2 道家の失脚と急死
 3 院政を支える人々
 4 才か徳か――徳大寺実基の考え方
 5 上皇の肉声
第5章 古文書から読み解く院政――官宣旨から院宣へ
 1 政策決定のプロセス
 2 幕府法廷の訴訟能力
 3 上皇が発給する文書
第6章 上皇による徳政の変容――両統迭立期~南北朝
 1 後醍醐天皇登場と徳政の断絶
 2 関東申次という権力者
 3 中世史研究における矛盾
 4 上皇を超越する室町将軍
第7章 存在を脅かされる天皇・上皇――バサラ・義満・信長
 1 バサラと上皇
 2 『上皇による政治』の終焉
 3 織田信長と「天皇・上皇」
第8章 権威としての復活
 1 秀吉の政権構想
 2 ギクシャクする江戸幕府と朝廷
 3 武から文へ
 4 明治維新へ
終章  近代天皇制の中で――終身在位する天皇

 目次を見て明らかなことは、この書物が承久の乱以後の上皇と院政のあり方を主な関心事としていること、そしてその政治の内容や政策決定のプロセスに踏み込んで、実証的な院政研究を試みていること、そのため、年代の進行を追わずに、同じ時代の出来事を何度か繰り返し分析している場合が出てきていることである。
 従来の研究というのは、上皇(といってもその中の1人=「治天の君」)が名実ともに我が国の最高権力者であった白河・鳥羽・後白河、あるいは後鳥羽院までの時代や出来事を扱うのが主流だったのではないか。そうではなくて、上皇による院政が一定のシステムをもって機能し始めた鎌倉時代後期に焦点を当てているところに、この書物の特徴がある。
 摂関政治も院政も政権の根拠は脆弱で、官僚機構も常備軍ももっていない。しかし、承久の乱以後、院政は専制的な性格を改め、統治(サービス)を行う存在に変質していったという。

 日本では律令制のもとで、公地公民が原則であったが、荘園が拡大してその原則が崩れた。荘園の支配を支えていたのが、上皇・天皇の権威である。土地の支配の構造はきわめて複雑であったが、それは一元的な支配を可能にする実効力が成熟していなかったからである。このような支配が可能になるのは信長・秀吉以後のことである。しかし、秀吉にとって、支配を完全なものにするために、天皇の権威を利用した新しいシステムを構築する必要があった。

 その後の徳川の平和を通じて樹立された伝統の中で、日本では「地位」よりも「人」の方が重視される傾向があり、「家柄」、「血筋」が優先された。明治維新に至って、ようやく「地位」が重視されるようになったが、現在はまた「世襲」の力が大きくなってきた。現在の政界は、明治政府とは基盤となる根本原理が異なるという指摘は興味深い。日本の政界は、善悪はさておき、歴史的伝統が復活してきている。このようなときに、上皇という古くて新しい存在とどう向き合うべきなのかというのが出発点になっている。

 個人的な関心からいうと、京都の東福寺を造営した(大仏を造立した)九条道家が鎌倉幕府と朝廷の間を巧みに取り持って摂関政治の復興を図った人物として、また『徒然草』に登場する徳大寺実基が「徳」と「才」をめぐる議論を通じて上級貴族の地位を安定させようとした人物として、取り上げられているのが興味深い。(本郷さんは触れていないが、『増鏡』の著者が鎌倉時代末期における日野氏をはじめとする名家の台頭について批判的な書き方をしていることの理由が、この書物の描いている上級貴族=摂関家、清華家と中級貴族=名家の対立から読み解くことができる。) 院政の下で能力の高い中級貴族が盛んに登用されるようになるが、彼らが上級貴族にとってかわることがなかったというのは、鎌倉時代の後半から南北朝時代の歴史に興味を持つ人間にとっては興味深い問題である。なお、本郷さんは羽林家を上級貴族に含めて考えているが、この考え方が一般的なのかどうかは、わからないので、これからよく調べてみることにしたい。

坂口安吾『不連続殺人事件』

9月14日(金)雨が降ったりやんだり

 9月3日、坂口安吾『不連続殺人事件』(新潮文庫)を読み終える。太宰治、織田作之助、石川淳らとともに<無頼派><新戯作派>などと呼ばれて戦後の文学界に光芒を放った安吾(1906‐55)は多彩な文筆活動を展開したが、探偵(推理)小説愛好家でもあった。その仲間の一人であった大井広介(廣介と書くのが正しい。本名=麻生賀一郎、麻生太郎の父親である多賀吉の従弟で、文芸評論家、野球評論家として活躍した。1912-76)によると、戦争中、大井の家に、安吾、平野謙、荒正人、檀一雄、埴谷雄高らが集まって、犯人当てゲームに興じたのだが、安吾は全くあてることができなかった(1回だけあてることができただけだった)という。

 その安吾が戦後、自分で探偵小説を書いた。それが『不連続殺人事件』で、雑誌連載中に自分で懸賞金を出して、読者に犯人当ての挑発をしているのはすでに書いたとおりである(当ブログ「日記抄(9月3日~9日)」)。その結果、7人が犯人を当てた。安吾によると「完全正解」が1人、「正解」が3人、「正解に近し」が1人、「部分的正解」が3人ということで、合計3万円の賞金ということになっている。「部分的正解」とされた1人が、大井広介で、その推理の方法について安吾は酷評して「犯人の名が当たったという以外にとりえのあるものではなかった」(362ページ)と切り捨てているが、大井の方では安吾が「私が犯人の名前をあげると、ペシャンコに」なったと書いていて、真相は藪の中ということらしい。

 「昭和22年6月の終りであった。私は歌川一馬の呼び出しをうけて日本橋のツボ平という小料理屋で落ちあった。」(11ページ) 語り手である作家の矢代寸兵が語り始める。一馬は詩人である。用件というのは一馬の家で一夏暮らしてほしいというものである。一馬の父親の多門は地方の素封家で、酒造業を営む一方で政治家でもあったが、戦後の公職追放にあって地元の邸で暮らしている。その家は、汽車を降りて、山路を6里ほどバスに乗り、バスを降りてからも1里近く歩かなければならないという不便窮まる山中にある。それで、語り手をはじめとする文士仲間数名が、戦時中その家に疎開していた。

 多門は最初の妻との間に一馬を、その死後に梶子という女性と結婚して珠緒という女子を儲けたが、梶子は昭和21年に死亡した。彼女は喘息もちで、そのその死をめぐってはいろいろと噂がくすぶっている。珠緒などは、一馬に面と向かって彼女の母親を殺したのは一馬だろうというほどである。その珠緒が、疎開仲間であった作家の望月王仁、同じく作家の丹後弓彦、詩人の内海明を呼び寄せ、一夏滞在させようとしているという。彼女は性的に奔放な女性で、何かたくらみがあるらしい。三人の滞在客はそれぞれ仲が悪く、衝突が絶えないのでやりきれない。いっそのこと、戦争中に歌川邸に疎開していた仲間を全員集めてはどうかということになったというのである。

 その結果、フランス文学者の三宅木兵衛、その夫人で作家の宇津木秋子、劇作家の人見小六、その妻で女優の明石胡蝶も歌川邸訪問を受諾したという。秋子はもともとは一馬の妻であり、木兵衛よりも王仁と交渉が深かったが、王仁も多情で珠緒とも関係があり、村の娘に言い寄ったりもしていた。一馬は秋子と別れ、彼にひそかに思いを寄せていた胡蝶が小六とともに東京に去った後、綾香という女性に出会って結婚していた。彼女は土居光一という俗っぽい画家と同棲していたが、貧乏が何よりも嫌いな彼女は一馬のもとに走った。その際、矢代が中に入って、15万円という「ミウケ」金を払うことで事は決着した。土居は、彼女は自分が忘れられずにまた戻ってくるだろうと豪語していたが、今のところ、一馬とあやかとは別れそうな気配はない。とはいえ、このようなドロドロした人間関係の中に巻き込まれるのはごめんだと矢代は思う。

 しかも「私」=矢代には、歌川邸に出かけたくないもう一つの理由がある。多門には京子という妾がいたが、彼女は戦争中多門の家に疎開していた矢代と駆け落ちして、その妻になっている。このため矢代は多門の怒りを買ってしまったのである。しかし、梶子夫人が死に、その後、多門は下枝という村の娘に目をつけて、無理矢理に自分の小間使いにしたので、だいぶ機嫌が直ったという話である。それでも、矢代にとって歌川邸の敷居は高い。

 一馬がどうしても、矢代に来てほしいと頼む理由は、次のような封書を受け取ったことだという。
 お梶様は誰に殺されたか。
 すべては一周忌に終るであろう。
 憎しみも呪いも悲しみも怒りも。
 差出人が誰かはもちろんわからないが、どうも一馬が梶子殺しの犯人であると言っているように受け取れる。梶子は前年の8月9日に死んだのである。だから8月9日までに決着がつくといっている。
 生前、梶子は自分の面倒を見させるために遠縁の海老塚という青年に医者の修業をさせ、医院を開かせた。山中の無医村での開業であるから、全科に通じていたほうがいいのだが、お梶が自分のために呼ぶ医者だといって、強制的に呼び寄せた。このため、医者は梶子を恨み、梶子との仲は険悪だったが、梶子のほうでは海老塚に逃げられると困るので不満もあるがこらえていたようである。そこに流れてきた諸井琴路という看護婦がいて、京子が出奔した後、どうも多門と交情があったようである。諸井は歌川家の一室を借りて昼間だけ、海老塚医院に通う。多門のこともあるが、梶子が死んでも、この家にはまだ2組の病人がいる。
 歌川多門には由良という妹がいて、南雲一松という人物に嫁いでいるが、この老人が義兄である多門のもとに疎開した後に中風で寝付いてしまった。市松・由良夫妻には一男四女がいたが、その中で末の千草という女性だけが未婚で、両親のもとにいる。この千草が不美人で、美人の珠緒と仲が悪い。
 さらに使用人の孫ということになっているが、実は多門が女中をしていた使用人の娘に産ませた加代子という女性がいて、美しいが、胸を病んでいる。その加代子がこともあろうに、異母兄である一馬を恋い慕って、一緒に死のうとまで言っている。そこで、彼女は京子と仲が良かったので、何とかその気持ちを鎮めるために、京子ともども来てほしいというのが一馬の頼みである。
 矢代は自分の一存で決めることはできないと、その場を収め、帰宅してから京子の意向を聞いたが、京子はもちろん、歌川邸に出かけたくはない。加代子のことは加代子の問題で自分の出る幕ではないと突き放す。それで、一馬は三宅木兵衛・宇津木秋子、人見小六・明石胡蝶の2組の夫婦とともに山中の家に帰っていった。

 1~28という部分からなる小説の最初の部分「1 俗悪千万な人間関係」の紹介をやっと終わった。誰もが認めることであるが、登場人物の数が多く、文庫版に掲載されている登場人物一覧表に出てくるだけで33人いる。(このほかの登場人物もいる)。しかもその関係が入り組んでおり、作者自身が断っているように、ろくな人間が出てこない。誰が犯人でだれが被害者でもいいような感じである。尾崎士郎ではないが、語り手が犯人というのもありそうな感じである。
 ろくな人間が出てこないと書いたが、安吾が自分の周辺にいる人間を観察して登場人物を造形していることも確かで、彼の周辺にいた人は、苦笑したり、怒ったりすることもあったのではないか。彼の周辺で探偵小説の犯人当てゲームをしていた文学関係者は、安吾と同様に無頼派と呼ばれた人々(太宰治、檀一雄)と、戦中に同人雑誌『現代文学』に結集し、戦後は同人雑誌『近代文学』の中心となった人物(平野謙、荒正人、埴谷雄高)で構成されていることが注目される。その中で、大井広介は戦後は、『近代文学』から距離を置いて、自由人を標榜して文筆活動を続けたのは、マルクス主義と近代主義とを両立させよう(広い意味ではマルクス主義も近代主義の一流である)とする『近代文学』の主張になじめなかったからではないかと思う。それで大井はゴシップ的手法による社会批判を行ったといわれる。私などは、大井の存命中はまだ若かったので、彼が文芸批評で大きな存在であったことを知らず、野球評論家だと思っていた。
 それはそうと、主義主張もさることながら、趣味の共通性というのが人間の結合原理として有効に働くことを、この小説の成立背景は物語っているように思われる。

森本公誠『東大寺のなりたち』(12)

9月13日(木)曇り、夜になって雨が降りだした。

 第5章「政争のはざまで」の続き。
 東大寺は、聖武天皇がその夭折した皇太子・基王の冥福を祈って造営した山房が発展した大養徳国金光明寺を前身とする。天皇は鎮護国家のために全国に国分寺を建立しようとされるが、大養徳国金光明寺にはその模範としての役割が期待された。この時代、天災が続発し、公地公民を原則とする班田収授法の行き詰まりが明らかになる中で、聖武帝は律令政治から華厳経に基づく政治へと政治指針を変更しようとして、廬舎那大仏の造立を企画される。造立の詔が出された天平15年(743)が、墾田永年私財法の発布の年であることは、天皇における政治と仏教の結びつきを示すものである。大仏造立の作業は、近江紫香楽宮で始められたが、地震により都が平城京に戻ったことで、大養徳国金光明寺で展開されることとなった。
 天平19年(747)に大仏の鋳造が開始され、同21年には陸奥で黄金が産出されて、造立の成功の道が開ける。天皇は皇太子である阿部内親王に譲位されて出家、天平勝宝4年(752)4月に大仏開眼供養が行われる。この前後から、光明皇太后の甥である藤原仲麻呂がその政治的な影響力を増大させる。天平勝宝6年(754)には鑑真が来朝、聖武太上天皇に菩薩戒を授けたのをはじめとして、仏教の基盤をさらに固めた。
 この年、長く政治の中心人物の1人であった橘諸兄が引退、その後、聖武太上天皇が崩御され、その遺詔で孝謙天皇(←阿倍内親王)の皇太子に道祖王が立てられる。しかし天平勝宝9年(757)に藤原仲麻呂は孝謙天皇と諮って、道祖王を廃し、代わりの皇太子として、自邸に迎え入れていた大炊王を立てる。仲麻呂の権力の増大に危機感を抱いた、橘諸兄の子・奈良麻呂はクーデターを企てるが、密告のために失敗、関係者はきびしい処断を受ける。
 天平宝字2年(758)8月に孝謙天皇が譲位され、大炊王が即位される(淳仁天皇)。3年に光明皇太后は自らの手の中にあった御璽と駅鈴を淳仁天皇に引き渡される。天皇の位にありながら、これらを手にすることがなかった孝謙上皇の胸中は複雑であったと想像される。天平宝字4年(760)6月に光明皇太后が崩御される。このあたりから孝謙太上天皇には直系皇族としての淳仁天皇への優越感と仲麻呂への不信感が芽生えたようである。
 天平宝字6年(762)2月に仲麻呂は正一位を授けられる〔歴史上、生前に正一位を授けられた人物は6人だけで、仲麻呂は3人目である。なお、6人目は三条実美で、授けられたその日に没している。〕 しかし、孝謙上皇と淳仁天皇(および仲麻呂)の不和が顕在化し、上皇は出家されるが、国家の大権は保持し、(名目的には淳仁天皇にあるが)実質的には仲麻呂の手にあった人事権を再び自分のものとして取り返すと宣言された。

 天平宝字7年(763)に藤原宿奈麻呂(⇒良継)を首謀者とし、佐伯今毛人・石上宅嗣・大伴家持らが加担した仲麻呂暗殺計画がくわだてられるが、事前に発覚、関係者はそれぞれ処分を受けた。
 その一方で、この年9月、少僧都慈訓(じきん)が解任され、その代わりに道鏡が少僧都に任じられる。『続日本紀』にはこの人事を行う詔が誰によってなされたかを記していないが、明らかに孝謙上皇によるものである。
 孝謙上皇は前年の6月に人事権をとり戻すことを宣言していたが、仲麻呂の影響力を排除して人事を行うことは困難であった。しかし、出家しているために僧界の頂点に立っていることから、僧綱の人事をその突破口としたのである。
 「道鏡は天平19年には良弁大徳の使い走りをする沙弥に過ぎなかったが、その後、呪術力によって急速に力をつけたらしい。・・・良弁の推挙を受けて・・・〔孝謙上皇の〕看病禅師として孝謙太上天皇の病気の治療にあたったようである。」(153‐154ページ)
 さらに天平宝字8年(764)正月の人事で吉備真備が造東大寺長官に任じられた。これは仲麻呂暗殺計画にかかわった人々が解任・降格させられた後の人事なので、仲麻呂の意向が反映しているはずであるが、真備は仲麻呂の長年の政敵であるので仲麻呂によって起用されたとは考えられず、孝謙太上天皇の意向が働いたものと考えられる。

 この年6月に授刀衛(後の近衛府)の長官(督)であり、仲麻呂の娘婿であった藤原御楯が死去する。御楯は、大尉(たいじょう=三等官の上位)の佐味伊与麻呂(さみのいよまろ)とともに、仲麻呂の軍事基盤の一角をなしていた。その佐味伊与麻呂は、孝謙上皇の態度に不安を感じていた仲麻呂が、淳仁天皇の勅旨を伝える役目につけたため、授刀衛から離れていた。それで、授刀衛の責任者は次官(佐)の百済足人(くだらのたるひと)となったが、彼は着任早々であり、当初は中立を保っていたらしい〔後に、太上天皇派に転じる〕。長官=不在、次官=中立、三等官=不在という状況の中で、残る幹部の四等官=少志弓削浄人(きよひと)は道鏡の弟で、太上天皇派であったことは言うまでもない。この後、仲麻呂派で固まっていた授刀衛は急速に孝謙上皇方に転じた。「太上天皇はいざというときの武力を手中にしたのである。」(155‐156ページ) 

 このような動きに仲麻呂は危機感を抱いた。同年9月に、彼は四畿内(大和・山城・河内・摂津、この時期、和泉は河内の一部であった)だけでなく美濃・伊勢ほか11カ国を管轄する都督兵事使に就いた。仲麻呂側も不穏な動きを示していたのである。
 9月11日、孝謙太上天皇は、御璽印や駅鈴の出納を任務とする少納言山村王に、淳仁天皇の手許にある印と鈴を接収させた。これを聞いた仲麻呂は、淳仁天皇に近侍していた息子の訓儒麻呂(くすまろ)に印と鈴をとり戻させた。印と鈴を奪われたと授刀舎人の物部磯浪から危急を聞いた太上天皇は、授刀少尉坂上苅田麻呂(かりたまろ、田村麻呂の父)・同将曹牡鹿嶋足(おしかのしまたり)らを遣わして訓儒麻呂を射殺、印と鈴を奪取した。仲麻呂は部下の中衛将監矢田部老(やたべのおゆ)に山村王を襲わせたが、授刀舎人紀船守が矢田部老を射殺、印と鈴は無事太上天皇のもとに10届けられた。太上天皇はすぐさま勅を発し、仲麻呂とその子・孫が謀反を起こしたので、官位を剥奪、藤原の姓を禁ずると命じた。〔この後、坂上苅田麻呂は正六位上から従四位下へと5階級昇叙され、その後も昇進を続けて、最終的には公卿に列する。彼の働きぶりへの評価がいかに高かったかがわかる。〕

 この御璽と駅鈴の争奪戦は、『続日本紀』には仲麻呂(恵美押勝)の謀反と記されているが、事件の経緯から、森本さんは孝謙太上天皇によって用意周到に準備されたクーデターだったと判断している。吉備真備が上皇により直ちに召し出され、参謀として軍略を練ったことはよく知られている。彼の軍略が奏功したことに加え、仲麻呂に反感を抱く人々が多かったことが、乱の鎮圧を早めた。森本さんは、東大寺の僧たちが正倉院の兵器を孝謙太上天皇方に進上することを提案、実行したこと、その中心人物が東大寺の上層にいた安寛や実忠(東大寺二月堂の修二会=お水取りを始めた僧)であったことを記している。
 ところが、この行動によって僧正に昇任したはずの良弁と大律師に抜擢されたはずの安寛の名が、『続日本紀』の論功行賞の一覧から抜け落ちている。これはいかなる理由によるものであろうかと、森本さんは問うている(ここでは答えを避けているのは、この後に展開する政争と関係するからである)。

 10月9日、孝謙太上天皇は兵部卿和気王・左兵衛督山村王・外衛大将百済王敬福らに兵数百を率いて淳仁天皇を捕らえさせ、廃位して、淡路国に幽閉した。翌年正月、太上天皇が重祚(称徳天皇)、天平神護元年(765)と改元した。10月、淡路に幽閉された淳仁廃帝を訪ねるもの多く、幽閉に耐えかねた淳仁は逃亡を図るが、失敗してその翌日死去した。〔この辺り『続日本紀』による記述であろうが、『続紀』には実際のところ、どのように書いてあるのか気になるところである。〕

 天平神護元年閏10月、称徳天皇は道鏡に太政大臣禅師の位を授け、文武百官に道鏡を拝礼させた。皇族出身者以外で太政大臣格の太師になったのは仲麻呂が最初であったが、称徳天皇は道鏡を自らの師と仰ぎ、仲麻呂と同じ位に就けようとしたのであろうか。〔太師という語には、天皇の師であるという意味がある。〕 その後、弓削寺に行幸された〔この弓削寺は道鏡の出身氏族である弓削氏の氏寺であったと考えられ、由義寺とも書かれるが、大阪府八尾市にあった寺院で、その遺構は今年になって国の史跡に指定されたそうである。〕

 「天皇の道鏡に対する態度は、仏教界に密教的な超能力者を求めるという風潮を世間に広める結果となり、あげくは僧基真のような希代の怪僧を生み出すもととなった。日本の仏教は今や変質への道を辿りはじめたのである。」(161ページ) 基真がどのような意味において「怪僧」であるのかの証拠となる事実は詳しく述べられていない。このあたりには、歴史学者としての森本さんの意見というよりも、華厳宗の僧侶である森本さんの仏教のあり方についての意見が込められているようである。最近、出版された馬場紀寿『初期仏教』にも述べられているが、「密教的な超能力」というのは本来の仏教の主張とは異なるものである〔だからと言って、いいとも悪いとも言えない。そういうことを言えば、念仏も、座禅も本来の仏教とは異なるものだからである。ただ、奈良時代の仏教が現在の仏教よりも、仏教本来の姿に近かったということは、『初期仏教』という書物を通じて読み取ることができた〕。

 孝謙上皇(⇒重祚されて称徳天皇)は一方で、自らの天皇としての地位が一時的なものであることを自覚され、その一方で自らが天武系草壁皇統を継承する唯一の存在であることも自覚されていたので、後継者の問題をめぐってさまざまに煩悶されたと想像できる。このため、皇位継承の選択肢として、天の加護を受けた出家者もありうるのではないかと考えられるようになった。その心中を推し量ったかのように道鏡を皇位につけるべしという宇佐八幡宮の神託をめぐる紛議が生じる。宇佐八幡宮と東大寺とは大仏造立をめぐって深い関係があり〔森本さんは書いていないが、東大寺の近くには手向山八幡宮がある〕、「八幡神託事件は東大寺にとっても疑念が持たれかねない政治事件であった」(161‐162ページ)。〔森本さんは余計なことは書かない方針のようで、称徳天皇が東大寺と対を成す西大寺を建立されたことなど、一言も触れていない。〕

 神護景雲4年(770)に称徳天皇が皇太子を立てないまま崩御される。後継者をめぐり吉備真備と藤原雄田麻呂(⇒百川)・永手・宿奈麻呂らとの意見が対立、結局、後者の意見が通って、諸王の中で最年長の白壁王(⇒光仁天皇)が立太子、さらに即位されることになる。光仁天皇の后である井上内親王は聖武天皇の皇女であり、支持が得られやすいという計算が合ったと考えられる。しかし、井上内親王と、その子で皇太子となった他戸(おさべ)親王は、あまりはっきりしない理由で廃され、山部(やまべ)親王(⇒桓武天皇)が皇太子となる。このような政争の展開は東大寺にも影響を及ぼすことになるが、それはまた次回。

 称徳天皇と道鏡の関係については憶測が乱れ飛んで、真相はわからない。上田正昭は両者が恋愛関係にあったという説を唱えたが、ある神社に参拝したところ、そこの神主さんが上田説に反対の方で、長い長い祝詞を書いて、この説に反駁を加えたという逸話がある。上田正昭は京都府亀岡市の小幡神社の宮司でもあったから、仲間喧嘩である。
 坂東三十三か所の第五番=飯泉観音(飯泉山勝福寺)は道鏡を開山としている。彼が失脚して下野国薬師寺に赴く途中で称徳天皇から賜った十一面観音を本尊としてこの寺を開いたという。10年ほど前に、東海道線の鴨宮駅から歩いてこの寺まで出かけ、その後、栢山の二宮尊徳記念館まで歩いたことがある。そのころは、まだ元気だったねぇ(などと言っている場合ではない)。 

トマス・モア『ユートピア』(18)

9月12日(水)曇り

 1515年にイングランドの法律家であるトマス・モアは国王から派遣された使節団の一員としてフランドル地方を訪れた。交渉の中断中、彼はアントワープでピーター・ヒレスと親しく付き合う。ある日、彼はピーターからラファエル・ヒュトロダエウスという人物を紹介される。ラファエルは新大陸への探検に加わり、世界中の様々な国々を旅した結果、それらの国々の風習・制度を知悉しているという。その経験と知識とに感心したピーターとモアは、ラファエルがどこかの王侯の顧問としてその政治を助けるように勧めるが、王侯たちの戦争好きと貪欲、その側近たちの追従ぶりも知っているラファエルは同意しない。戦争が絶えず、貧富の格差のために犯罪が蔓延しているヨーロッパ諸国の現状を打開する手掛かりを与えるのは、新世界でラファエルが訪問し、5年間にわたって滞在したユートピアの制度であると彼は言う。ピーターとモアの求めに応じて、彼はユートピアの社会と制度について語る。
 ユートピアはもともと半島であったのをユートプスという指導者が出て、本土と切り離す工事を行い、三日月形の島となった。その地形から、外からの侵略に抵抗しやすくなっている。島には54の都市があり、それぞれが適切な距離をもって他の都市と離れており、都市の周辺の農村の帰属をめぐる争いはない。島の一番の産業は農業で、すべての人間が一定期間農村で働くことが義務となっている。収穫の時などは、都市に住む人々を含めて全員で農作業に取り組むので、作業は短期間で終わる。
 都市は長年にわたって計画的に造営され、人々は住まいを10年ごとにくじで交換しているが、その家や庭を大事にしている。指導者たちは学識のある人々の中から、世帯単位で民主的に選挙でえらばれ、意思決定は慎重に進められる合議によってなされる。すべての人間が農業、あるいは農業ともう1つの職業に習熟している。全員が働き、質素な衣服で満足しているので、無駄な仕事というのは生まれず、労働時間は短くて済んでいる。人々は都市では共同の場所で老若(子どもは別)一緒になって食事をとる。農村では家族単位で食事をする。

 ラファエルは、ユートピアにおける共同食事の制度や、そこでの人々の様子について語った後、今度は彼らがどのように旅行をするかについて語りはじめる。「もしだれかが他の都市に住んでいる友人を訪問したいとか、その場所を見物したいと思ったら、なにか特別の不都合がない限り、部族長または部族長頭領から簡単に許可をもらえます。そうすると旅行者数名がまとまって同時に送り出されることになり、その際、旅行者は、都市頭領の令状を持って出かけます。令状には旅行許可が証明してあり、帰郷の日付が指定されています。」(151ページ) 旅行は基本的に集団での、管理された性格をもち、気ままな一人旅というのは認められていないようである。
 ユートピアのように、共産主義的、自給自足的な社会であれば、旅行はその必要がなくなるはずである。自給自足的な社会が展開していれば、そこに何かを持ち込もうとする行商人は生まれないはずである。澤田訳の解説注によると、プラトンはその『国家』において旅行を禁止したという。またこの時代に盛んであった旅行のもう一つの形態は巡礼である(モアに先立つこと100年以上以前の人物であるチョーサーはカンタベリーへの巡礼の人々が旅のつれづれに語る物語という形式で『カンタベリー物語』を書いている)が、エラスムスはその『対話集』において、巡礼の旅に出かけることで家族から離れることの弊害について論じているそうである。この点をめぐっては、ラブレーが『第一の書 ガルガンチュア物語』の中で同じ意見を述べている。
 ところで、そのラブレーの『第二の書 パンタグリュエル物語』では主人公のパンタグリュエルが各地の大学を遍歴しており、学生がヨーロッパ各地の大学を遍歴することは、当時普通に行われていた習慣であった。同じように職人たちその職業的な技能を磨くために各地を遍歴していたのであって、この点については『ユートピア』のこの次の個所がある程度、対応していると思われる。

 旅行者たちには荷車{平井訳が「馬車」としているのはロビンソン訳(とローガン&アダムズ訳)がwagonとしているのに引きずられたのであろうが、後述の理由により、不用意である。ターナー訳はsome sort of vehicleと慎重である)と、それを牽引する牛(英訳ではすべてOxenとなっていて、Bullsではない。ユートピアでは馬よりも牛の方がよく利用されているのは、既に述べたとおりである)、それに牛の世話をする公営奴隷が与えられるが、一向に女性が含まれていない場合には、この便宜を利用することはまれである。旅人たちは荷物をもたずに旅行するが、旅行中なにかに不足するということはない。「どこに行っても彼らはそこを我が家と感じるからです。どこかに一日以上滞在することになると、だれもがそこで自分の職業に精を出して働き、旅先の同業仲間たちから、非常にていちょうにもてなされます」(同上)。
 もし許可を得ずに不法に、自分の住む都市の境界の外に出ると、厳しく叱責されるという処罰をうける。同じことを繰り返すと、奴隷身分への格下げという処罰を受ける。
 自分の都市に属する農村地帯を歩き回るには、父親の許可と妻の同意を受ければよい。ただし午前中の仕事の割り当て、あるいはその地方で夕食前にすることになっている労働を行っていることが条件である。
 ここでは平等が強調され、地方的な差異までもが否定されているように思われる。中世の職人たちが各地を遍歴したのは、各地方の特色ある技能に触れて、自分の技能の幅を広げるためでもあったのだが、職人の世界やギルドの性格などについて、モアは無関心であったようである。 

 さらに続けて、ラファエルは言う。「さて、これで、どこに行っても無為に過ごす自由とか怠慢の口実とかいうものがいかにないかがお判りでしょう。居酒屋もビヤホールもなく、どこにいっても売春宿はなく、堕落する機会も、隠れ場所も、密会所もなく、かえってみんなの目がどこでも見ているので、人々はどうしても平生の労働に携わるか、または不名誉でない閑暇を楽しむか、そのどちらかを選ばざるをえません。」(152ページ)
 なおこの個所は、平井訳では次のようになっている:「こういうわけで、いかに彼らにぶらぶらと時間を空費する自由が許されていないか、また怠ける口実や言訳が与えられていないか、ということがお分りになったと思う。つまりここには酒場も居酒屋も女郎屋もない。悪徳にふける機会もなければ、いかがわしい潜伏場所も、陰謀と不法集会の隠家もないのである。あらゆるものが白日の下にあり、衆人環視の下に行われるのである。人々はどうしても日常の仕事に精を出さざるを得ないし、健康な明るい娯楽をもって心身を慰めざるを得ないのである。』(岩波文庫版、99ページ)
 両者を比べて、気になる単語を、手元にある3種類の英訳と並べて検討してみよう。
 澤田訳「居酒屋」、平井訳「酒場」、ロビンソン訳wine-taverns, ターナー訳wine-taverns, ローガン&アダムズ訳wine-bars
 澤田訳「ビヤホール」、平井訳「居酒屋」、ロビンソン訳ale-houses, ターナー訳ale-houses, ローガン&アダムズ訳ale-houses
澤田訳「売春宿」、平井訳「女郎屋」、ロビンソン訳stews, ターナー訳brothels, ローガン&アダムズ訳vrothels
 澤田訳「堕落する機会」、平井訳「悪徳にふける機会」、ロビンソン訳any occasion of vice or wickedness, ターナー訳no opportunities for seducation, ローガン&アダムズ訳no chances for corruption
 澤田訳「隠れ場所」、平井訳「いかがわしい潜伏場所」、ロビンソン訳lurking corners, ターナー訳には対応する訳語なし、ローガン&アダムズ訳hiding places
 澤田訳「密会所」、平井訳「陰謀と不法集会の隠れ家」、ロビンソン訳places of wicked councils or unlawful assemblies, ターナー訳secret meeting-places, ローガン&アダムズ訳spots for secret meeting
 平井訳がロビンソン訳からの重訳であることはすでに何度も触れているが、その限りにおいて、こなれた訳である。それに比べると澤田訳は堅苦しい。16世紀の英国と、現代の日本の風俗の違いを考えれば、「酒場」だの「居酒屋」だのと訳す必要はなくて、「ワインを飲む店」とか「ビールを飲む店」と訳しておけばいいところである(おそらく、前者の方が後者よりも「高級」な店であったのであろう)。しかし、そういうことを別にすれば、それぞれに特徴があって、あえて甲乙をつける必要がなく、比較しながら読めばいいのではないかと思う。
 『ユートピア』が描き出している社会が、きわめて健全な社会であるという感想を持つ方もいらっしゃるだろうし、常にだれかの監視の目が光っている恐るべき管理社会だという感想を持つ方もいらっしゃるだろう。ラファエルは旅人としてユートピアを訪問したのだが、そのユートピアの人々が旅人として、外の世界に出ていくことはあまりないというのは、この物語の論旨を不釣り合いなものにしているのではないかという気がしないでもない。

ダンテ・アリギエーリ(須賀敦子・藤谷道夫訳)『神曲 地獄篇(第1歌~第17歌)』(2‐2)

9月11日(火)曇り、風が強い。いつ、雨が降りだすかわからない空模様である。

 第2歌の続き。
 1300年4月4日、睡魔に襲われたダンテは、暗い森の中に迷いこみ、恐ろしい一晩を過ごす。明け方近く、頂上付近が明るく照らされている丘を見つけた彼は、夜明けとともにその丘に登ろうとするが、豹・獅子・雌狼という3頭の獣に前途を遮られる。そのために、また森の中に追いやられた彼の前に突然「おぼろげに見える人」が現れた。ダンテの問いに答えて、彼は『アエネーイス』の作者であるローマ黄金時代の大詩人ウェルギリウスの霊であると答え、ダンテがこの森を抜け出すためには、彼に従って地獄・煉獄を、そして彼よりも「ふさわしいたましい」の導きを受けて天国を旅しなければならないという。ダンテは、ウェルギリウスに従って歩み始めようとする。(以上第1歌)
 しかし、第2歌に入って、ダンテはいったん決心した異界への旅を躊躇しはじめる。彼はどのような歴史的使命をおびて、このような旅を行わなければならないのか。そのような旅にふさわしい人間であるのか。これに対し、ウェルギリウスの霊は、どのようなきっかけで彼がダンテの前に現れたかを説明しはじめる。

 私が中間状態に置かれた〔リンボの〕の者たちの間にいたとき、
貴き女性〔ベアトリーチェ〕に呼ばれた。美と至福に溢れ出るその姿を目にするなり、
私は、何なりと言いつけてくださるよう、申し出ずにはいられなかった。
(52‐54行、30ページ) ウェルギリウスは地獄第1圏のリンボにいる。リンボについては第4歌で詳しく描き出されることになるが、洗礼を受ける以前に死んだ幼児と、キリスト教の出現以前に死んだ義人の魂が、喜びもなく悲しみもなく、また肉体的な苦痛もなく過ごしている場所である。
 そのウェルギリウスの前にベアトリーチェが現れる。一目見て、その美しさが人知を超えたものであることを知ったウェルギリウスは、彼女の頼みが何であろうと、それにこたえようとする。ベアトリーチェは、ダンテが『新生』で彼女への(プラトニックな)愛を歌い上げた女性である。そこですでに彼女は若くして死んで、天国にいることになっていた。この「愛」を通じて、ダンテは生まれ変わったはずなのだが、その後、堕落の一途をたどった…というのが『神曲』の前提である。

 その両の眼は星よりもかがやき、
つつましく甘美に、
天使のような声で私にお話しかけになった。
 『おお、惜しみなきマントヴァのたましい[ウェルギリウス]よ、 
あなたの名声はいまも世界に残っていますが、
いつまでも消えることではないでしょう。
 幸運の友ではなく、私の友が
荒れ果てた野で、道を阻まれるあまり
恐怖にかられて逃げだそうとしているのです。
 そして彼について天で私が聞いたかぎりでは
もうすっかり迷い込んでしまっているために
私が助けに腰を上げるのが遅すぎたのではないかと危ぶんでいます。
 さあ進んで、あなたの立派な言葉と
彼を救うに必要な手だてをつくして、
彼を助けてやっていただけますまいか。私はほっとするでしょう。
 こう言ってあなたを送り出す私はベアトリーチェ。
ふたたび戻りたいと願う場所〔天国〕から参りました。
愛に動かされ、だまってはいられなかったのです。
 わが主のみまえに参じたときは
あなたのことをしばしば主に讃(ほ)めて話しましょう』
(55‐74行、31ページ) 美しい女性の「眼差し」に対する関心はシチリア派以来の伝統であり、ダンテもその一員であった清新体派が受け継いだ特徴である。「ダンテはベアトリーチェの美を表わすのに、人体のもっとも高貴な器官であり、人間の精神が最もよく映し出される「眼」の輝きを通して表現する」(37ページ)とこの個所の解説注は語る。
 ベアトリーチェの言葉は「慎ましく」、これは平明であることを意味している。ダンテがこの叙事詩を「俗語」(=トスカーナ方言)で描いたのも、平明で慎ましい言葉をよしとしたからである。
 「天使のような声」と言われても、だれも天使の声を聞いたことはない。読者の想像に委ねられた表現とみるべきである。
 「幸運の友ではなく、私の友が」とは「私を束の間の儚い外見で愛するのではなく、私そのものを私心のない無償の愛で愛する者」⇒「私の徳ゆえに私を精神的に愛するのであり、そこから(肉体的な)見返りを得ようとして愛しているわけではない真の友」を意味するという。ややこしいね。ダンテが『新生』で達したはずの「愛」の境地はこのようなものであった。
 しかし、ダンテはそのようないったん到達したはずの境地から逸脱を始めた。天にいるベアトリーチェには神の鏡を見ることで、ダンテの未来(=地獄に堕ちている姿)が見えている。このまま何も変わらなければ、ダンテは地獄に行くであろう。このために、彼女はウェルギリウスに、ダンテを救いの旅に連れ出すように懇願するのである。(運命は変えられるのである。)
 ベアトリーチェは、神にウェルギリウスのすばらしさを讃えるというが、(真の神を知らずにその生を送った)ウェルギリウスにとっては、神の命令に従うということ自体が喜びであり、報奨なのである。そして、ダンテを地獄・煉獄と案内していくことによって、またその旅の過程で多くの詩人たちと出会うことによって、ウェルギリウスは自らも学んでいく。「教師は教えることによって学ぶ。これこそがウェルギリウスにとって最大の報奨となる。」(38ページ)と解説されている。

 ウェルギリウスにとって、ベアトリーチェを通して、神の命令を伝えられること自体が喜びである。しかし、なぜ、天国にいるベアトリーチェがリンボまでやって来たのかという謎は残る。天国の存在であるベアトリーチェにとって、地獄は何の影響を及ぼすものではない。彼女は、聖母マリアがダンテの運命に心を痛め、その地獄行きの結末を何とか修正しようと考えられているのだと語る。次回は、聖母の意思がどのようにしてウェルギリウスに届けられ、ウェルギリウスの言葉に動かされて、ダンテが再び異界への旅に旅立つ決心を固めるに至るかを見ていくことにしよう。
 

『太平記』(227)

9月10日(月)曇り、一時は晴れたり、雨が降ったり、変わりやすい空模様である。16時ごろから本格的に雨が降り出す。

 暦応元年(延元3年)5月、新田義貞は、斯波高経の足羽七城を攻めた。7月、越後勢を合わせてますます強力になった新田軍のもとへ、吉野から八幡山の宮方に加勢せよとの勅書が届いた。義貞は児島高徳の献策に従い、延暦寺に牒状を送り、同心の旨の返牒を受け取ると、弟の脇屋義助を京へ発たせた。
 新田軍上洛の報せに、足利尊氏は八幡攻めの大将高師直を京に呼び返したが、師直は引き上げる前に包囲していた八幡に火を放った。八幡炎上の報せを受けた義助は、敦賀まで来たところで引き返し、八幡の宮方も河内へ退却した。
 斯波高経は足羽七城の守りを固め、平泉寺を味方につけた。平泉寺で調伏の祈禱が行われる中、義貞は不思議な夢を見た。人々が吉夢だという中で、斎藤道猷は凶夢だと判断した。閏7月2日、足羽攻めに向かう義貞の乗馬水練栗毛が、急に暴れ出すなどの凶兆が現れた。果たして足羽の藤島城へ出陣した義貞は、流れ矢に眉間を射られて討ち死にした。義貞が討たれた新田軍では、裏切りが相次ぎ、義助は越前府(えちぜんのこう=現在の福井県越前市)に退却した。義貞の北の方勾当内侍(こうとうのないし)は、義貞からの迎えの使者に伴われて杣山(福井県南条郡南越前町阿久和)まで来て、義貞の死を知った。京へ戻った内侍は、獄門に懸けられた義貞の首を見て尼となり、嵯峨に隠棲した。

 吉野の後醍醐帝は、頼りにしていた奥州の北畠顕家が安部野{現在の大阪市阿倍野区、ただし、史実では顕家は堺の浦(堺市)で戦死している}で戦死し、新田義興(義貞の次男)が北畠顯信とともに守っていた八幡も攻め落とされた目、将士の四季は衰えていたが、それでも北国の新田義貞が勢いを蓄えて攻め上ってくるという知らせを頼りとされて、今か今かとお待ちになっていたところ、義貞も足羽七城の攻略に失敗して戦死したという知らせが入り、蜀の後主が頼りとしていた諸葛孔明を失い、唐の太宗が名臣・魏徴の死を惜しんだのと同様に、そのお心は穏やかならず、臣下の者はみな望みを失った状態であった。

 この局面を打開しようと、奥州(白河)の住人である結城宗広(道忠)が参内して次のように申し上げた。宗広はすでに70歳を超えていたが、新田義貞とともに鎌倉攻略に功績をあげ、また北畠顕家が奥州から2度も長征を行った際には侍大将を務めた武将である:
「(戦死された)奥州の国司北畠顕家卿が、3年のうちに2回も上洛の兵を動かされたのは、出羽、奥州(陸奥)二国の将士が、みな顕家卿に従ったから可能になったことです。それで、奥羽二カ国の武士たちの心が変わらないうちに、宮様をお一方奥州に派遣されて、成功を収めた武士には直接恩賞を与え、不忠不烈の輩は根絶するようにすれば、奥州は平定されるでしょう。日本国の地図を見まするに、奥州54郡は、日本国の半分に及ぶ広さをもっております〔そんなことはない〕。若しある限りの兵が一方の味方をすれば、4/50万騎の動員にも達するでしょう。それで私、道忠が宮様を奉じ、この白髪頭に兜をかぶって兵を起こせば、またまた京都に攻め上り、これまでの敗戦の復讐を果たすことは、1年以内に可能となるでしょう」。
 この言葉を聞いて、後醍醐帝とその近臣たちはすべて、この提案は用いるべきであると賛成、実行に移そうとしたのである。

 そこで後醍醐帝の第八の宮・義良(のりよし)親王が今年7歳になられていたのを、元服させ、春日少将(北畠)顯信を扶弼(ふひつ=輔佐の臣)とし、結城道忠を衛府(護衛の武臣)として、奥州に下向させた。それだけでなく、新田義興、北条時行、宇都宮氏綱(公綱の子)の3人を、関東八カ国を平定して、宮の事業に助力すべしと、武蔵、上野の一帯に向かわせた。

 陸地を進もうとしても、敵の勢いが強くて通行が難しいというので、この軍勢は伊勢の国鳥羽の港に集まって、船を揃え、順風を待つ。8月15日の宵から、風がやみ、雲が収まって、海上が特に静かになったので、船乗りたちは纜を解いて、はるか遠方の東国へ向けて空翔けるように帆をあげた。兵船50余艘が、義良親王が乗船されている船を中心にして、天龍灘(遠州灘)を過ぎようとしたときに、海が急に荒れ狂い始め、逆巻く波は天にも届く激しさとなった。梶が折れて渦を巻く潮流に押し流される船もあり、また帆柱を吹き折られて、壊れていない片方の帆だけでただよって行く船もあった。日が暮れるといよいよ風が荒くなって、どこか一方に吹くということではなく吹きつのった〔というけれども、大体において西風であった〕。それで船は伊豆の大島、目羅の港(千葉県館山市米良)、亀川(今川家本には「神奈川」、横浜市神奈川区)、三浦(神奈川県の三浦半島)、由居浜(鎌倉市由比ガ浜)、あちこちに流されたのである。

 義良親王が乗船された船1艘は、大海原に流されて、いよいよ転覆しようかとしていたところに、盛んに光り輝く太陽が船の舳先に現れ出たかと思うと、風が急に逆方向に吹きはじめ、伊勢の国の突端、志摩半島の神風浜(伊勢市)に吹き戻されたのであった。多くの船が皆行方不明になる中で、この船だけが太陽の御加護を得て、伊勢の国に吹き戻されたというのは、ただ事ではない。この宮さまが皇位を継ぐお方として、天子の位に就かれるべきであることを天照大神がお示しになったものであろうと、すぐに奥州への下向を取り消され、後醍醐帝の吉野の御所へご帰還されるようにした。果たして、後醍醐帝が崩御された後、この八の宮=義良親王が即位された(後村上帝)のである。

 北畠顕家の2度にわたる征西については、すでに述べたように、『太平記』の記述をどこまで信じていいのか疑問なところがある。それぞれ、羽柴秀吉の中国大返しよりも長い距離を、かなりの大軍が相当な速度で移動していて、本当に大丈夫かと思われるからである。結城宗広(道忠)はこの2度の長征を経験しているので、3匹目のドジョウを狙ったのであろうが、兵站・補給が全く図られておらず(略奪で用を足している)、規律・統率も取れていない軍勢を大移動させるのは、沿道の人々にとって迷惑極まりない行為である。とにかく、道忠の企ては船団の難破によって水泡に帰する。
 難破して行方不明になったと書かれているが、吉野と連絡が取れなくなっただけで、生き延びた人々は少なくないようである。その漂着先として列挙されている中の一つが、神奈川(この場合、神奈川県ではなく、横浜市神奈川区の方である。京浜急行の神奈川新町から神奈川のあたりまでの海岸と考えればよい)が亀川と書かれている写本もあるというのが興味深い。神奈川には浦島伝説があるからである。 
 無事に伊勢に戻ってきた八宮のその後は記されているが、張本人の結城宗広はどうなったかというのはまた次回。

 

日記抄(9月3日~9日)

9月9日(日)晴れ、気温上昇、その一方で三ツ沢グランドの陸橋付近から富士山が遠望できるなど、秋の気配も近づいている。

 9月3日から本日までの間に経験したこと、以前の記事の補遺・訂正など:
 今日は重陽の節句なので、杜甫の「登高」を読み返してみた。むかし中国では、この日、家族や友人たちと近所の丘などに登って、酒を飲みかわす習わしがあった。その際につくられた詩で、丘の上で強い風に吹きさらされ、猿の悲痛な鳴き声を聞き、広がる林野やその先を流れる長江の流れを見つめながら、落魄の身を嘆く詩行が連ねられ、楽しみだった濁酒を飲むこともやめたばかりだと結ばれている。悲痛な歌である。こちらは、老いたとはいってもそんなに窮迫した御身分ではないが、病気に苦しみながら詩による自己表現をやめようとしない杜甫の気持ちを汲み取るのも悪いことではない。

8月22日
 NHK高校講座『コミュニケーション英語3』は”Let's Communicate"(8)で、「挑戦してみよう! 夢を語る」のコーナーでは、生徒役で出演している水口夕菜さんが、自分の夢を語った。世界中のいろいろな言葉を覚えて、世界を旅していろいろな人たちと交流したいという内容で、特に勉強したい言語として、Chinese, Korean, Spanish, Arabicをあげていたのが印象に残った。
 この番組は再放送を続けていて、録音時には高校生だった水口さんは、もう高校を卒業しているはずである。どんな進路を選んだのであろうか。

8月27日
 NHKラジオ『まいにちイタリア語』の時間に
La pizza Margherita è ottima. (ピッツァ・マルゲリータはとてもおいしい。)
という文が登場した。ピッツァ・マルゲリータのバジリコの緑、モッツァレラ・チーズの白、トマト・ソースの赤がイタリアの国旗のようだと、第2代イタリア国王ウンベルトⅡ世の王妃であったマルゲリータ・ディ・サヴォイア=ジェノヴァ(1851‐1926)のお気に入りだったということで、この名がついたといわれる。なお、彼女の誕生日である11月20日は「ピザの日」ということになっている。

9月1日
 NHKラジオ『朗読の時間』では、漱石の「草枕」が始まった。以前放送されたものの再放送ではないかと思うのだが、聞くたびに、新たな発見がある。

9月3日
 東京の病院に出かけ、診察、採血、栄養相談を受ける。体調は横ばい。

 NHKラジオ『まいにちスペイン語』入門編の9月放送分は長崎を舞台としていて、日本人のナオトとアリサのカップルが、この市に住んでいるホンデュラス人のマリアに市内を案内されるという設定である。これまでの日本人がスペイン語圏の人々を案内するという設定を逆転させたわけである。

 坂口安吾『不連続殺人事件』(新潮文庫)を読み終える。登場人物が多すぎるし、殺人事件も起こりすぎるという問題点はあるが、傑作と言ってよかろう。同じ作者の『樹の如きもの歩く』は未完であるが、もっと傑作だといわれる。そのうち探して読んでみよう。機会を見つけて本格的な論評を書くつもりでいるが、思いついたことを1つ2つ…:
 語り手の作家:矢代寸平の妻の名が京子であるが、むかし、新東宝に矢代京子さんという女優がいた(最近、シネマヴェーラ渋谷で催された新東宝映画の特集上映の際のトークショーに顔を見せたらしい)。たぶん、安吾の小説からの命名ではないかと勝手に推測している。
 この作品は1947(昭和22)年から翌年にかけて、雑誌『日本小説』に連載された。その際、安吾は読者および自分の知人に対して犯人を当ててみろという「挑戦状」を送った。特に名指しで挑戦状を送られたのは江戸川乱歩、木々高太郎、カングリ警部(作中人物で本名が平野雄高ということは、平野謙+埴谷雄高)、八丁鼻先生(これも作中人物で本名は荒広介ということは、荒正人+大井広介)、読ミスギ先生、アタピン先生(後二者も作中人物で、その名を借りた人物がいるのかもしれないが、未詳)
 その後、追加で挑戦状を送られたのが江戸川乱歩に犯人当ての名人だといわれた角田喜久雄、それに式場隆三郎。
 この犯人当ての評判が広がって、次のようなことになった:
「伊東の住人尾崎士郎先生、訪客に告げて曰く、坂口の探偵小説は、ありゃキミ、犯人は「私」にきまってるじゃないか。坂口安吾の小説はいつも「私」が悪者にきまってらア。だから、は、犯人はアレだ、「私」だよ、ウン、もう、分った。おい、酒をくれ。
 三鷹の住人太宰治先生。雑誌記者に語って曰く、犯人はまだ出て来やしねえ。最後の回に出てくる。たった一度、なにくわぬ顔を出す、そいつだよ。きまってるんだ。最後の回にたった一度、何くわぬ顔のヤツ。オバサン、ビール。じゃんじゃん、たのむ。
 この両探偵は作者の挑戦状を受けるだけの素質がない。一目リョウゼンだから、細説は略す。」(202ページ)
 家人曰く。そんなのは、回答を受け取った後で、犯人を適当に変更すればいい。
 せっかく、安吾が苦心して物語を作っているのだから、その筋立てを無視して乱暴な結論を導き出すのはやめませう。

9月4日
 『朝日』朝刊で新たに始まった火曜日掲載のコラム「呉座勇一の歴史家雑記」でベストセラー『応仁の乱』の著者は、「記憶力がいい…ではなく気質」という見出しで、歴史家だからと言って記憶力がいいわけではないが、マニア気質の人が多いということはたしかであると述べている。好きなことだと集中力が高まり、記憶もよくなるというのは歴史以外の領域においても当てはまることではないかと思う。さらに言えば、記憶を蓄えるだけでなく、活用する機会が多くなるのも好きだからこそである。

 『日経』に短期連載されている「絵画を彩る額縁 十選」は、ロココ様式の額縁に入れられたジョン・オノレ・フラゴナール「ブランコ」を紹介している。ブランコ(鞦韆)で遊ぶ人物を描いた絵画は日本画にもあり、比較してみるのも面白そうだ。

9月5日
 経団連の中西宏明会長が新卒学生の採用選考をめぐる指針を廃止する方向を打ち出したことについて、『朝日』は慎重論、『日経』は前向きの論調を展開しており(全部が全部そういう議論というわけではない)、今後の行方が注目される。この日は『朝日』の「天声人語」と『日経』の「春秋」がこの問題を取り上げていた。その内容・論調はさておき、「春秋」が小津安二郎のサイレント時代の作品「大学は出たけれど」に触れて、この映画の時代と現代で「案外世間が変わっていないことに気づく」と述べていたのが印象に残った。小津のこの作品は彼の伝記映画『生きてはみたけれど』に断片的に引用されているのを見た記憶があるが、そもそも70分の映画の11分余りの分しか残っていないそうで、残念でならない。

 円居挽『京都なぞとき四季報 古書と誤解と銀河鉄道』(角川文庫)を読み終える。大学のサークル「賀茂川乱歩」に所属する1回生の遠近君は、同じ1回生の青河さんに思いを寄せ、告白しようと思うのだが、なぜかドジが続き、誤解も生じて、そこを他人に乗じられたりして話が混乱する。そのうえ、サークル随一の美人である灰川さんとの距離が縮まったりする…。私の学生時代と比べてみると、建物が一新されただけでなく、サークル活動なども大いに様変わりし、学生の多くは下宿ではなくアパートに住むようになり、複数の牛丼屋も出現しているというようなことを考え、過去と現在とを対比しながら読んでいた。

 NHKラジオ『実践ビジネス英語』の”Quote...Unquote"のコーナーで紹介された言葉:
Be daring, be first, be different.   
   ---- Ralph Waldo Emerson
(U.S. philosopher, poet and essayist, 1803- 82)
(果敢であれ。最初たれ。他と異なっておれ。)

9月6日
 『朝日』朝刊の「オピニオン&フォーラム」では「学ぶ場所 学校だけ?」という見出しを掲げて、フリースペース「ひよこの家」教育相談員の芳村寿美子さんが学校に「なじめない子 救う場必要」という問いを発しているのに対し、聖心女子大の永田佳之さんが海外の例などを挙げて、多様な学びの場が確保されていることが、豊かな発想を生むと述べているが、これは問いを補強しているだけで、答えになっていない。「救う場」を設けるにはそれを設置する新しい法律を作るか、現行の法規を改正するか、あるいはその解釈・運用を変更する必要があり、ここは教育法規の専門家の出番なのである。具体的な法律論を述べる人が出てこないで、あいまいな理想論を述べる人が出てくるというのは、この問題がまだ解決から遠いということを示しているのかもしれない。

 『週刊文春』の広告見出しによると、「女が嫌いな女」2018の上位に安倍昭惠女史が進出している由である。本来、安倍昭惠のように目立った美人とはいえず、さして頭の働きがいいとも言えない女性は、「女が嫌いな女」にランク・インするタイプではない(まあ、目立ちたがりで、分ってもいないことについてやたら発言することは反感を買うかもしれないが…)。それが入っているというのは、社会心理学的に見て興味ある現象と言わなければならない。

 『実践ビジネス英語』の”Quote...Unquote"のコーナーで紹介された言葉:
He that is good for making excuses is seldom good for any thing else.
---- Benjamin Franklin
(U.S. statesman, diplomat, inventor and scientist, 1706 - 90)
(言い訳が得意な人で、他のことも得意な人はめったにいない。)
 フランクリンはこの種の人に腹をたてていたのだろうが、言い訳をせずに、嘘をついたり、他人のせいにしたり、逆切れしたりする、もっと悪質な人は少なくないようである。)

9月7日
 日本商工会議所の三村明夫会頭が、就活の採用指針は「必要」であり、それを示すことのできる団体は経団連しかないと発言した。どうしても必要ならば、自分たちで指針を考えてもいいくらいの覚悟をもってもいいのではないか。

 『朝日』の朝刊によると、山田洋次監督が『男はつらいよ』の50作目の撮影を考えているとのことである。それよりも、『面白い男 渥美清グラフィティ』とか何とか、俳優・渥美清の足跡を振り返る映画を編集してみてもいいのではないか。小林信彦さんなど、関係者のインタビューを交えるのは当然として、やはり出演作を総ざらいしてみるべきではなかろうか。私の見た映画では『つむじ風』(中村登監督)、『沓掛時次郎 遊侠一匹』(加藤泰監督)、『経営学入門より ネオン太平記』、『トラ・トラ・トラ!』(深作欣二・舛田利雄監督)、『家族』(山田洋次監督、「家族」が青函連絡船の中で出会う男)、『あゝ声なき友よ』(今井正監督)の戦友たちの手紙を遺族を探し出して届けようとする男)など硬軟いろいろな役があって面白い。川島雄三監督の『縞の背広の親分衆』のように出演しているということなのだが、どこに出ていたのか記憶のない作品もあり、見ていない作品も含めて、あれ、こんな映画にこんな役で出ていたのかというようなものも探し出して編集してみたら面白いだろうと思う。『男はつらいよ』でも、TV版と映画版とを比較してみるのもいいし、企画はどんどん出てくると思う。

 ルーテル市ヶ谷ホールで「別府葉子シャンソントリオ 2018 Summer Tour in Tokyo」を聴く。別府葉子さん(歌とギター)、鶴岡雅子さん(ピアノ)、中村尚美さん(ベース)のトリオに、東京公演の際だけの特別参加でヴァイオリンの会田桃子さんが客演。第1部はパリのダンス・ホールをイメージしたということで、少し古い歌を中心のプログラムだった中で、ルネ・クレールの『巴里祭』の主題曲が歌われたのが別府さんの映画好きの表れかとも思われた(その旨の解説がなかったのが残念)。また、オリジナルの「ファン・ゴッホに捧ぐ~ルララひとり」にはこの画家への思い入れが感じられた。(ゴッホの天才を認めるのにやぶさかではないけれども、どっちかというと私は、ゴーギャンのほうに興味がある。というのはゴーギャンの祖母は初期社会主義者で、フェミニズムの先駆者のひとりであったフロラ・トリスタンで、彼女の研究をしてみたいと思いながら、なかなか果たせないでいることのためである。)
 第2部は「百万本のバラ」に始まって、「パリ」、「ばら色のJE T'AIME!」(オリジナル)、「アルフォンシーナと海」、「白い恋人たち」、「ゴースト・ライダーズ・イン・ザ・スカイ」、アンコールに「アムステルダム」が歌われた。いつもながらの熱演であったが、昨年に比べて客席がやや寂しく、そのせいか盛り上がりが今一つだったのが残念である。次回の公演を期待することにしよう。

 『実践ビジネス英語』の”Quote...Unquote"のコーナーで紹介された言葉:
We are what we repeatedly do. Excellence then is not an act but a habit.
     ―― Aristotle (Greek philosopher, 384 -322 B.C.)
(人は繰り返し行うことの集大成である。だから優秀さは、行為ではなく習慣なのだ。)
 必ずしもそうとは言えないが、努力の積み重ねが重要だという意味で、記憶しておく必要のある言葉である。

 NHK高校講座『古典』は「古文」の部の新年度の学習のオリエンテーションで、3人の講師が古文を学ぶことの意義や、面白さ、どのように勉強していけばいいのかについて話していた。しかし、放送を集中して聞くこととか、テキストを手元に置いて時々メモを取ることとかいうのは、当たり前のことで、それを最初に指示しなければならないというのは、先が思いやられる状況だなぁと思った。(それを言えば、古文と漢文を「古典」としてひとまとめにするというのが問題ではないか。ヨーロッパの学校でラテン語とギリシア語を「古典」としてひとまとめにする例はあるが、両者は同じインド=ヨーロッパ語族に属する言語である。日本の古文と漢文は、系統論から言えば、まったく別の言語である。)

9月8日
 馬場紀寿『初期仏教 ブッダの思想をたどる』(岩波新書)を読み終える。仏教がどのようにして生まれたか、その初期における教説はどのようなものであったのかを知るのに手ごろな書物であり、その初期の思想と、現在の仏教が大きく異なっていることもわかるが、では、著者はなぜ、初期仏教を自分の研究課題として取り上げているのか、なぜ我々にとって初期仏教が学ぶべき対象なのかというところがもう一つよくわからない。(同じことをほかの宗教や思想に当てはめて問いかけてみるべきである。)

 横浜FCは味の素スタジアムで東京ヴェルディと対戦し、1‐2で敗れる。守備の乱れで先制点を許したというところが問題である。

9月9日
 『日経』の日曜特集記事「美の粋」で、「神話が書き立てる創造性」として、サンドロ・ボッティチェリの「ヴィーナスの誕生」、それに河鍋暁斎の「伊弉諾命と伊弉冉命」、アンコール・ワットの浮彫「乳海攪拌」を取り上げて、それぞれの神話の共通性を指摘していた。混沌とした<海>をかき回すことによって、新しいものを創造するという神話が、あちこちに広がっていることをめぐっては、既に多くの指摘があるが、それを自然発生的なものと見るか、文化の伝播によるものと見るかは、さらに検討を要する問題である(この記事では、かなり無批判に伝播によるものとしてしまっている。)
 素戔嗚尊が八岐大蛇を退治したという神話は、ギリシア神話のペルセウスが海の怪物を退治してアンドロメダを救ったという話に似ているが、多くの学者がこれを伝播によるものだと論じているのに対し、松本清張が偶然の一致だと論じた例もある。伝播だというのには、両者の距離が離れているので、その中間の場所にある類似の神話を見つけていく必要がある。

阿藤玲『お節介な放課後 御出学園帰宅部の献身』

9月8日(土)晴れ、気温上昇、その一方で風が強い。

 「日記抄(8月27日~9月2日)」の8月31日の項で、この本:阿藤玲『お節介な放課後 御出学園帰宅部の献身』(創元推理文庫)を読んだことについて触れた。推理小説としての出来栄えよりも、この本の中で触れられていた(おそらくは高校生くらいの時期に出会う、あるいは気づくであろう)問題の方に関心がわいたことについても書きとめておいた。
 その後、9月3日に坂口安吾『不連続殺人事件」(新潮文庫)、9月5日に円居挽『京都なぞとき四季報 古書と誤解と銀河鉄道』(角川文庫)を読んだ。推理小説としての面白さを優先させるならば、やはり『不連続殺人事件』を取り上げるべきであるし、私の母校である京都大学とその周辺の出来事を描く『京都なぞとき四季報』も捨てがたい魅力を持っているが、『お節介な放課後』の方を優先することにした。

 地方の小都市に存在する私立高校:御出学園には帰宅部が正式なクラブ活動として認められている。「授業が終われば速やかに帰宅し、成績は平均以上を取り、通学区域で何らかの社会奉仕活動をする」というのが、このクラブに参加するための条件である。顧問の先生もいるし、部員はそれぞれの通学経路や手段に応じて班に分けられている。その帰宅部の御出線B班に属する7人は、身辺で起きた不思議な出来事のなぞときに関わって、「お節介な放課後」を過ごすことが少なくない。メンバーが2年生に進級しても、この事情は変わらないようである(この作品はシリーズ2作目である)。

 帰宅部員であるが、学校の敷地のすぐ隣に家があるため、通学区域で社会奉仕活動をすることが難しいという相川タツヤ(御出線B班のメンバーではない)のために奉仕活動を見つけるが、そこからまた別の事件にぶつかってしまう…(「自宅部の彼」)。
 バレンタインデーの甘くない(本当に甘くない…ということは?)チョコレートに振り回される…(「さかさまバレンタイン」)。
 B班のメンバーの一人で美青年として女子の人気を集めている仁藤聖が年上美人とデートしていたという噂が広がる…(「瑠璃色の手紙」、これはメンバーが1年生の時の出来事=回想として描かれている)。
 学園内と商店街の七夕祭りで竹につける短冊をめぐって騒動が起き、自称”かもしれない名探偵”が登場する…(「マイナス十度の七夕」)。
 以上4つのエピソードが、メンバーの一人である佐々木幸弘の目を通して描かれ、それとは別に外部からの観察である「相川タツヤの備忘録」①~⑤が補足的に加えられている。前作が7人のメンバーの銘々伝的な意味あいがあったのに対し、今回は、異質な存在の介入によってメンバーの結束がかえって強まるという過程を描いているようでもある。

 さて、仁藤聖は小学校4年の時に母親が急死し、父親とは別れて叔父・叔母の家で暮らしている(同じ年の従姉妹である晶と一緒である)。小説家でもある叔父の発案で、私書箱を借りて、死んだはずの母親にそれぞれが、思い立った時に手紙を書いて送ってきた。ただの自己満足なのだけれども、それに気づかないふりをしてきた。ところが、それが明るみに出る出来事が起きる。そのことでショックを受けて、あちこちさまよった仁藤は、電車の中で遭った佐々木に「電車って、同じ方向を向いて走るよね。時間に似てると思わない」(199ページ)という。

「時間はだれにでも同じ速さで流れてはいないと思う。ほら、大人になったら時間がたつのが速いと感じるのは、経験を重ねたからだっていうけど、実は本当に速く流れているんだ。子供の頃は歩く速さで進んでいた時間が、中学生になって自転車に、高校生で各駅停車になる。そして大学生になると特急列車、大人になると・・・・・」
「うん、大人とか子供とかいう分類じゃいけないね。人それぞれに流れる時間の速さがある。子供の頃は、学校に通って集団で生活してるから、みんなの時間の速さが似ている。だけど大人になると、仕事や家庭なんかの関係で、時間の速さは人によって大きく違ってくる。個々人の事情は千差万別で、時間の速さも色々になるんだ」
「人の数だけ時間の流れがあるってことか」
「もしかしたら自分の速さに合った時間に乗り替えているのかも」
 ああ、それならわかる。どんなに急いでも乗っている電車の速さを追い越すことはできない。そんなもどかしさを、違う時間の流れにいる人にはわかってもらえないのだ。
「きっと数年後には、この手紙のことも、今日のことも笑い話になるだろうに。ちょっとついてない日だった、あのころこんなことで悩んでいたなんて、それだけのことなのに」
 何年かしたら取るに足らない思い出になる今日が、今はどうしようもなく重い。
「僕は遠ざかりたくて、佐々木君は近づきたいんだね」
 でも俺たちが乗っているのは同じ速さの電車だ。(199‐200ページ)

 引用が長くなってしまったが、時計で測るのとは別の時間の性格がここでは取り上げられている。学校で同じように時間を過ごしていると見えて、じつは一人一人の生徒の時間の流れ方は違うのではないか…など、作者の意見にかならずしも同意できない部分はあるのだが、「日常の謎」という「小さな」裂け目が、「時間論」という大きな落とし穴を隠しているような箇所で、大いに考えさせられた。

 仁藤聖の父親はスポーツマンで、仁藤聖も運動の能力が低いわけではない。だから、父親は自分と同じようにスポーツに励む息子を期待していたのに、息子は帰宅部に入る(とにかく女子にもてるので、うっかり部活動もできないという事情からの配慮があるのである)。父親(あるいは母親)の趣味を息子(あるいは娘)が継承する例もあるだろうが、そうならない例も多い。
 「離れて暮らしていると、相手の生活時間がわからない。ただでさえ父と息子の間に流れる時間は速さが違う。」(218ページ)
 一緒に暮らしていても、目が行き届かないことはあるだろう。あるいは、時間の過ごし方の変化を見落としたり、見ようとしていない場合もあるのではないかと思う。

 御出町と御出学園は、「日常の謎」を扱うミステリーにふさわしいどこにでもありそうな地方都市、学校に設定されているようでいて、(「帰宅部」の存在そのものが示すように)どこか非日常的な要素が紛れ込んでいるのはだれでも気づくことである。しかし、この第2作では、その非日常的な出来事の展開が、例えば時間とは何かというような問いを通じて、また日常の方に接近しているように感じられる。どちらかに安住せずに、行ったり来たりを繰り返す展開が、いかにも若者らしいともいえるし、その不安定な魅力はシリーズが続く限り、保ち続けてほしいものである。  

山内譲『海賊の日本史』(7)

9月7日(金)曇り、朝のうちに雨が降ったらしくその跡が残っていた。

 この書物は日本史上に登場する「海賊」の姿を歴史上特に有名な例を取り上げて概観している。序章「海賊との遭遇」で、戦国時代の瀬戸内海における海賊の実態を取り上げながら、この時代の海賊には狭い海域で活動し、通行料の徴収をこととする浦々の海賊と、瀬戸内海を広範囲に活動し、上乗り(船舶の航行の安全のために、船に海賊を乗せること)などの行為によって警護料を徴収する有力海賊という異なるタイプの海賊が存在し、彼らの間には一種の重層的な関係が成立していたことが述べられている。また、通行料あるいは警護料が徴収できない場合には、彼らが暴力に訴えることもあった。
 その後、第1章「藤原純友の実像」では、もちろん藤原純友、第2章「松浦党と倭寇」では平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての松浦党の活躍(倭寇との関係については否定的である)、第3章「熊野海賊と南朝の海上ネットワーク」では南北朝時代の熊野海賊、第4章「戦国大名と海賊―西国と東国」では、瀬戸内海海域で活躍した村上氏の3つの家、北条氏・武田氏の水軍が取り上げられ、西国に比べて、東国の「海賊」は水軍的な性格が強いことが語られる。豊臣政権の成立、さらに関ケ原の戦いを経て、多くの元海賊が陸上に上がったが、近世社会なりに海とのかかわりが存在していた限りにおいて、一定の海上勢力の存在が必要とされていた。

 終章「海賊の時代」は、これまでの内容のまとめと、その後の海上勢力の動向が記されている。
 まず、序章、第1章~第4章の内容をまとめる形で、海賊が4種類に類型化されている。
①海上を旅行する人々に接近して金品を要求するもの(略奪者としての海賊=土着的海賊)
②荘園領主や国家権力に抵抗するもの(権力への敵対者としての海賊=政治的海賊)
③航海の安全を保障するもの(安全保障者としての海賊)
④時の権力とかかわりをもつ水軍(水軍としての海賊)

 上記の4つのタイプの海賊像はそれぞれ歴史的に形成されたものであり、時間とともに推移していった。土着的海賊や政治的海賊は古代から存在するが、安全保障者としての海賊、水軍としての海賊は中世後期になってから登場する新しいタイプの海賊である。
 大ざっぱにみて14世紀に「政治的海賊」→「水軍としての海賊」という変化が起きた。これは、鎌倉幕府と室町幕府の海賊に対する姿勢の違いと関係している。鎌倉幕府は海賊を追伐の対象としているのに対し、室町幕府ではそのような事例はまれである。これは権力の側にとって海賊を自分たちの側に取り込むほうが有利になってきたことが理由だと考えられる。
 また同じ海上勢力が、平時においては安全保障者、戦時にあっては水軍としての性格をおびたということも考えてよい。
 歴史的にみると、土着的海賊は古代から存在し、政治的海賊は少し遅れて発生したと考えられる。

 「海賊」という語はもともと「賊」的(つまり悪い意味)で受け取られていたが、16世紀になるとそのニュアンスが変化し、有力者の幼名として使われたという例もある。特に、東国では海賊に悪い意味を読み取る傾向は希薄であったが、豊臣秀吉の海賊禁止令に見られるように西国では海賊の悪いイメージはけっして消え去るものではなかった。

 それでは海賊が後世に残した歴史的な遺産としてはどのようなものが考えられるか。一つは造船の技術とその伝統である。かつて海賊の根拠地出会った場所に、近代的な造船所が建設されている例は少なくなく、その伝統の継承を物語っている。
 第二は航海術であり、それを利用して近世以降水運に活路を見出す海賊の末裔たちも多かった。
 第三に、海賊たちの末裔の中にいは熊野灘での捕鯨に従事する者もあった。クジラ漁の組織や方法には、海賊としての経験が継承されているとみることもできるという。

 江戸時代の開運を担った弁財船などの大型帆船が西洋型帆船にとってかわられ、さらにそれが順次、汽船に変わっていくという日本海運史の大きな流れのはざまで、焼玉エンジンを装備した小型の(木造)機帆船が貨物輸送に盛んに用いられた。このような機帆船の運行に関わった人々の多くが、中世の海賊の活動した地域、あるいはその近くの住人であることも見過ごしてはならない。このような機帆船は、特に北九州や宇部で産出された石炭の運搬に関わった。「瀬戸内海という限られた海域において、数本のマストと簡便なエンジンを装備した小型舟を駆使して海に乗り出し、回漕業者の支配を受けながら、小回りの利く小型船の特性を生かして石炭などを運送し続けた機帆船の一杯船主の活動の中に、昭和の時代をたくましく生きた”海賊〟の姿を射る思いがするのである」(225ページ)と山内さんは書いている。
 このような機帆船による石炭の輸送は昭和の戦前には盛んで、戦争中は統制や徴用によって打撃を受けたが、戦後の船舶不足の時期には活況を呈するが、やがて鋼船にとってかわられることになる。
 山内さんは瀬戸内海海域について書いているが、東京湾でも私の子どもの頃(1950年代)には機帆船の姿が見られたような記憶がかすかに残っている。それがかつての北条水軍や徳川幕府の水軍の末裔によって運行されていたかどうかは定かではない。とはいうものの、三浦半島出身の知人の1人の祖父が咸臨丸の水夫だったという話を聞いたことがあり、塩飽のような瀬戸内海の人たちだけでなく、幕府の水軍関係者も咸臨丸に乗船していたのはたしかであるから、関東地方でも海賊の伝統は生き残っているといえるのではないかと思う。

 海賊の「長い歴史の中で蓄積されてきた知識や技術は、形を変えながら近世社会に受け継がれ、海に乗り出そうとする心性は、近世、近代を問わず日本人の心の中に生き続けることになったのだ」(225ページ)とこの書物は結ばれている。それを言えば、一番その種の伝統が残っているのは、旧帝国海軍と海上自衛隊ではないかと思うのだが、その点を含めて、さらに近代における海賊の遺産を追うことも、意味のないことではないと思う。
 この書物では「海」賊だけが取り上げられているが、水上勉の小説『湖笛』には(琵琶湖の水域で活動した)湖賊が描かれていたと思うし、他にもこのような例があるかもしれない。それも検討課題としていいのではないかと思われる。海賊の歴史は、一方では軍事的な歴史であり、他方では交通史・流通史でもある。この本を出発点として、著者の、また読者の中からの新たな研究活動が展開していくことが望まれる。

 

森本公誠『東大寺のなりたち』(11)

9月6日(木)晴れたり曇ったり。
 台風21号が去ったと思ったら、今度は北海道が強い地震に襲われました。被害にあわれた方に心よりお見舞い申し上げるとともに、一日も早い復旧を願います。

 今回から第5章「政争のはざまで」に入る。聖武太上天皇の崩御後、孝謙天皇が譲位されて、淳仁天皇が即位、さらにその淳仁天皇が廃されて、孝謙太上天皇が再び皇位に就かれ(重祚され⇒称徳天皇)、その崩御後、天智天皇の孫の白壁王が即位される(⇒光仁天皇)までの<政争>が東大寺の側から描き出される。この一連の過程は、高校の日本史の授業でも取り上げられているし、古代史の愛好家にはなじみ深いものであるが、東大寺の側からそれを描いているというところにこの書物の特徴がある。
 少し、<政争>の背景について補足しておくと、この時代、藤原氏が政治的な力を増して来たので、歴代の天皇は皇族に姓を与えて臣下に下し、これを藤原氏の対抗勢力としようとした。聖武天皇の時代に活躍した橘諸兄はその代表的な人物である。後で出てくる高階氏とか、清原氏も同様で、平安時代になると、源氏と平氏が登場する。古代から続いてきた氏族、大伴氏とか、阿部氏とか、小野氏とかいうのは大体、この派に加担した。このほか、地方豪族出身で聖武天皇に能力を評価されて登用された人々もいた。
 一方、藤原氏は南家、北家、式家、京家の4流に分かれ、この時代は嫡流である南家出身の藤原仲麻呂が力を得ていたが、藤原氏の中でもそれに反発する向きもあった。

 天平勝宝8年(756)5月に聖武天皇が崩御された。東大寺の本尊である廬舎那仏の開眼法会は天平勝宝4年に行われたが、大仏殿の周囲を囲む歩廊(廻廊)はまだできていない。孝謙天皇と、その背後にいる藤原仲麻呂は造営に対しどのようなたいどをとるのか。良弁以下の東大寺の当局者としては政局の推移をじっと見守るしか手立てはない。聖武上皇崩御の翌月、来年5月2日の東大寺での一周忌に間に合わせるように、大仏殿歩廊の造営を鋭意怠るなかれという孝謙天皇の勅が下った。

 天平勝宝9年(757)正月に、前左大臣橘諸兄が死去した。既に政界を引退していたとはいえ、藤原仲麻呂にとっては重大な政敵の1人が消えたことになる。3月に、孝謙天皇は聖武太上天皇が遺詔で立太子させた道祖(ふなど)王の素行が悪いことを理由に皇太子の位を奪い、数日後、舎人親王の子である大炊王を皇嗣とした。大炊王は仲麻呂が、死んだ自分の息子の妻であった粟田諸姉を娶らせて、自分の邸に迎え入れていた。5月、仲麻呂は自分が新たに設けた紫微内相という地位につき、軍事的な指揮権も得た。彼の専横に対して反発する勢力も当然出てくるが、その点についても彼は抜かりなく手を打っていた。

 6月の人事異動で仲麻呂は諸兄の子である奈良麻呂を兵部卿から右大弁に降格したのをはじめ、反仲麻呂派の降格・追放と、自派の昇任・抜擢を断行した。追い詰められた反仲麻呂派は奈良麻呂を中心にクーデターを計画する。孝謙天皇・光明皇太后は何とかこれを抑えようとするが、事態の進行を止めることはできない。7月に仲麻呂は反対派の2人を逮捕して、拷問にかけ、その後関係者を続々と逮捕・処刑した。ところが奈良麻呂についての記事が『続日本紀』には見えない。おそらく、彼の孫の嘉智子が嵯峨天皇の皇后(檀林皇后)となり、2人の皇子である仁明天皇が即位されたために、奈良麻呂についての記録が抹消されたものと考えられている。

 クーデター計画を鎮圧した後、仲麻呂の完全な独裁政権が成立する。彼は自分の実兄である豊成すら、大宰員外帥に左遷してしまった。年号は天平宝字と改元される。「翌2年(758)7月4日、孝謙天皇は皇太后の病気平癒を願い、殺生禁断の勅を出した。次々と繰り出す仲麻呂の異色な施策に、皇太后は心身ともに疲れ果てたのであろうか。病床に臥し、旬日を経ても起き上がれそうになかった。仲麻呂は考えた。機は熟せりと。」(146ページ)
 8月1日、孝謙天皇は譲位、皇太子大炊王が即位された。『続日本紀』に「廃帝」と記され、明治3年になってやっと「淳仁天皇」を追贈されたこの皇太子にも過酷な運命が待っていた。
 仲麻呂は右大臣にあたる大保という中国式の官名を持った役職に就任、太政官の筆頭となり、さらに恵美押勝という姓名を賜った。

 天平宝字3年(759)6月、淳仁天皇は主要官人を集めて、詔を発せられたが、そこでは光明皇太后が大炊王が天皇らしくなったとして、それまで手元に置かれていた天皇御璽印と駅鈴を淳仁天皇に引き渡したことが示唆されていた。「どうやら光明皇太后は娘孝謙をあくまで未熟として信用せず、仲麻呂による藤原氏の政権を優先させたのである。」(147ページ) 在位中これらを手にすることがなかった孝謙太上天皇の胸中は複雑だったろうと、森本さんは書いている。
 しかし天平宝字4年(760)6月に光明皇太后が崩御された。孝謙太上天皇には直系皇統としての淳仁天皇への優越感と仲麻呂への不信感が芽生え始めたようである。(と、森本さんは書いているが、押さえつけられていたものが、表面に出てきたという解釈もできる。)
 光明皇太后が崩御された翌月(7月)、仲麻呂は勅が下ったとして、東大寺の封5000戸の用途を定めた。この文書の原本が正倉院に現存している。文字の全てを仲麻呂が書き記しているという点で異例の文書であり、しかも他者の連署がない(これも異例)ことから、これが彼の独断によるものであることが知られる。それまで東大寺の造営が終わった後の用途について決まっていなかったので、1000戸を堂塔の造営修理分に、2,000戸を三宝ならびに常住僧の供養分に、2,000戸を官家、つまり天皇家が行われる種々の仏事分にと定めていた。これは東大寺にとって有利な決定ではなかった。その影響は後世にまで及んだ。

 天平宝字6年(762)に仲麻呂は正一位に進むが、このあたりから孝謙太上天皇と淳仁天皇の不和が表面化しはじめる。6月に、太上天皇は出家の意志を明らかにされる。その宣命によると、看病禅師であった道鏡との間を男女関係のように邪推されたことへの悔しさが述べられ、そのように邪推されるくらいなら出家するというのである。問題はこの宣命の後半部であり、太上天皇として保持する政治の大権は捨てることなく、むしろ天皇と二分して国家の大事は自分が担い、賞罰も行うと宣言されている。つまり聖武天皇が保持されていたが、現在は仲麻呂の手にある人事権をとり戻そうというのである。

 このような太上天皇の決意がどのような背景のもとになされたのかは興味ある問題であるが、人事権をとり戻すということになると仲麻呂一派との対立・衝突は避けられない。この後の事態はどのように推移するか。それはまた次回。
 大炊王=淳仁天皇の父である舎人親王は天武天皇の第三皇子で『日本書紀』の撰進者とされる。舎人親王の子である御原王の孫は清原氏の祖となった。天武天皇の子孫では、高市皇子から出た高階氏と、舎人親王から出た清原氏がその後、長く続くことになる。京都市伏見区にある藤森神社は舎人親王を御祭神の一柱としていて、菖蒲の節句の発祥地とされるが、なぜか今日では勝ち運と馬の神様としても知られているそうである。

 明日(9月7日)は別府葉子さんのコンサートを聴きに出かけるので、ブログの更新はするつもりですが、皆様のブログを訪問する時間的な余裕はないと思います。あしからずご了承ください。

トマス・モア『ユートピア』(17)

9月5日(水)晴れ、まだ風は強い。
 台風21号の風雨で被災された方々に心からのお見舞いを申し上げます。

 1515年に国王により派遣された外交使節団の一員としてフランドルを訪れたイングランドの法律家トマス・モアは、会議の中断中にアントワープでピーター・ヒレスという人物に出会い、親交を結ぶ。そのピーターからモアは、ラファエル・ヒュトロダエウスという世界中を旅してきた人物を紹介される。3人は、この時代のイングランドとヨーロッパが経験していた戦争や社会問題と、その解決について語り合ったが、ラファエルは、彼が新大陸で訪問したユートピアという国の制度には大いに学ぶべき点があるという。
 ユートピアの人々は私有財産というものをもたず、みんなが働いているので、労働時間は短くて済み、人々は争いもなく楽しく暮らしているという。彼らには何年か一度は農村で働く義務があるが、それ以外に何かの職業を身につけることを求められる。農業が好きなものは、それを一生の職業としてもよい。住まいはくじ引きで交換され、役人は適任者の中から選挙でえらばれる。重大な問題の決定は、全島会議に諮られるなど、政治的な意思決定は民主的に行われている。もし人口が過剰になれば海外への植民も行われるが、本島の人口が減ると、植民地を引き上げて戻ってくる場合もある。

 ユートピアでは病院に入院している人々と、一部の例外を除き、みなが共同でホールに集まって食事をする。例外というのは「都市頭領、司祭長、部族長頭領、それに外交使節とすべての外国人〔少ないし、めったにしかいませんが、とにかくいれば〕には特別の考慮が払われます。あそこにいる外国人には、彼らのために指定された調度つきの家が提供されます。」(146ページ)
 このように語っているラファエルは、ユートピアにおいては外国人であるから、共同の食事に参加していたのかどうか疑問に思われるところである。むかし「ソ連」が存続していたころに、ある日本人が書きとめたこんな話がある。旧ソ連でも外国人は特定の場所に居住区間を設定されていたのだが、そこには警官が派遣されている。ある時、この外国人居住地区に泥棒が入ったので、担当の警官に、泥棒をなぜ捕まえないのかといったところ、自分たちの役割は外国人を見張ることで、泥棒を捕まえることではないと答えたという話があった。

 「このホールには昼食と夕食の定刻に、病院か自宅で食事をとっているものを除く全部集団が、ラッパの大きな響きを合図に集まります。」(同上) 食事を家にもって帰ることは禁じられていないが、だれもそうしようとはしない。「このホールでは、多少とも汚い、あるいは骨の折れる労働はすべて奴隷がします。しかし、食事を料理し準備し、そして食事全般のお膳立てをする務めは女だけがすることになっており、それは各世帯が交代で受け持ちます。」(147ページ)
 昼食と夕食というのはロビンソン訳ではdinner and supperであり、ターナー訳ではat lunch-time and supper-time,ローガンおよびアダムズの訳ではat the hours of lunch and supperとなっている。dinnerは一日の中心的な食事で、モアの時代には昼食が一日の中心的な食事であったから、ロビンソン訳はそれを反映している。ラッパというのは、ロビンソン訳ではa brazen trumpetとなっており、ロビンソン訳をもとに翻訳されている岩波文庫の平井訳では「真鍮の喇叭」とそのまま訳している(どうせなら、ラッパよりもトランペットのほうがよかったかもしれない)。ターナー訳はa bugleで、軍隊などの喇叭、角笛という意味だそうである。ローガン&アダムズ訳もa brazen trumpetであるから「真鍮の喇叭」というのが最も穏当な訳と言えよう。
 食事の準備も、給仕も女性の仕事であるということの理由は示されていない。男女の食事の席は別で、特に女性が妊娠中だったりして気分が悪くなった時にはすぐに手当てを受けられるように配慮されている。

 子どもたちは乳母といっしょに食事をする。澤田訳、平井訳ともに「乳母」という語を使っているが、ロビンソン訳をはじめ、ターナー訳、ローガン&アダムズ訳ともにnursesであって、これは(今は「保育士」という言葉に取って代わられたが)「保母」という方に近い語である。ふつうは入寺には生みの母親が授乳するが、何か事情があってそれができない場合には、部族長の妻たちが乳母を探すのだという。乳母たちの部屋には5歳以下の子どもたちが集められている。

 「結婚適齢に達しないすべての男女も含めた未成年者たちは、食卓に座っている人たちの給仕をするか、年が若くてそれができない場合にも食卓のそばに立っています。しかも絶対沈黙を守って立っています。彼らは、(給仕するかしないか)いずれにせよ、食卓についている人たちから渡されるものを食べるだけで、他に特定の食事時間というものはありません。」(148ページ) この個所を読んでいて、私は大相撲の力士たちの番付順に食事をして、下位の者は上位の者の給仕をするというしきたりを思い出した。
 食卓では年少者が年長者の態度を見習うことができるように、若いものは大人と混ざって座ることになっている一方で、食事は年長者から順番に配られるのである。こうして「年長者は彼らにふさわしい栄誉を受け、しかも彼らのもつ特典はみんなに分かたれます。」(149ページ) 

 ユートピア人たちの食事は、何か彼らの生活にとって有益な書物の朗読で始められる。この朗読は退屈しないように短いものである(よく、宴会の前に長い話をする人がいるが、本人は自分の豊かな経験と知識を披露しているつもりでも、気が利かないと悪口を言われるだけである)。年長者たちはこの朗読を手掛かりに会話の口火を切るが、彼らだけが話すのではなく、むしろそれをきっかけとしてより若い人々の話を引き出そうとしているのである。そしてこのような会話を通じて、若者ひとりひとりの気質や才能を知ろうとするのである。
 昼食に比べて夕食の方が長い時間をかけて行われるが、これは昼食後には働かなければならないのに対し、夕食後は休養・睡眠にあてられるため、より健康な消化に役立つと考えられるからである。彼らは食事中に音楽を聴いたり、食後にデザートを食べたりして、夕食を楽しもうとしている。無毒な快楽は排除すべきでないという考えからである。
 実際にモアは自分の家庭での食事の際に、古典的な書物の一節を朗読してから、食事をはじめたそうである。ここには彼の理想とする食事の仕方が描かれているといえよう。

 最後に、このようなホールでの食事は都市におけるもので、農村ではそれぞれの家庭で食事が営まれると語られている。

 昼食と夕食の話は出てくるのだが、朝食については触れられていないのは、この時代にまだ朝食をとるという習慣がなかったからであろうか、あるいは、前回に触れたユートピア人たちの時間についての考えのためであろうか、各種の翻訳テキストを読んでもこの点についての解説は見いだせなかった。
 この個所は、面白いが、乳母の制度とか、年少者の食事とか、詳しく見ていくと齟齬があるように思われる個所もあり、もう少し考えを練って書いてほしかったという気がしないでもない。
 

 

ダンテ・アリギエーリ(須賀敦子・藤谷道夫訳)『神曲 地獄篇(第1歌~第17歌)』(2‐1)

9月4日(火)台風21号が上陸、雨はそれほど強く降っていないが、風が強い。

 今回から『神曲 地獄篇』第2歌に入る。
〔第1歌のあらまし〕
 1300年4月4日、睡魔に襲われたダンテは暗い森の中に迷いこんだ。恐ろしい夜を過ごしたのちに、彼は頂上が明るく日の光に照らされている山のふもとにたどり着き、山を登ろうとするが、豹(lonza)、続いて獅子(leone)、雌狼(lupa)という獣に行く手を阻まれる(この3頭の獣は、じつは1体の悪の変容する姿である)。身体に窮した彼の前に「長き沈黙のためにおぼろげに見える人」が現れる。助けを求めたダンテに、彼は自分が『アエネーイス』の作者ウェルギリウスの霊であると知らせ、自分が彼を導いて、地獄と煉獄とを旅させると告げる。ウェルギリウスの霊に従って、ダンテは旅を始める。

 日は暮れようとしていた。鳶(とび)いろの空気が
地上の生きものたちを、そのつらい営みから
解放するころ、私だけはただひとり、
 苦しみと憐憫との戦いに
臨もうとしていたのを
誤ることのない記憶のままに話してみよう。
(1行~6行、28ページ)
 ダンテが森に迷いこんだのが4月4日で、山に登ろうとして獣に行く手を阻まれ、ウェルギリウスと出会って、旅立とうとするまでが第1歌で歌われたのだが、既に5日の日が暮れようとしている。鳶いろというのは鳶の羽の色、つまり茶褐色だそうである。山川訳では「仄闇(ほのくら)き空」となっていてこちらの方がわかりやすい。

 この後、ダンテは次のように歌う。
 おおムーサたちよ、おお高き詩才よ、今こそ我を助けたまえ。
おお、わが見しことを書きとめてきた記憶よ、
ここに、汝の貴き力を見せよ。
(7~9行、28ページ) この3行は『神曲』という叙事詩の性格を考えるうえで、いろいろ重要な意味をもっているのではないかと思う。キリスト教徒であるダンテが、異教の女神であるムーサたちに呼び掛けているのは、古代の叙事詩が文芸・音楽・舞踊・哲学・天文学など人間の知的活動をつかさどる9女神=ムーサたちへの呼びかけから始まっているという形式を踏襲したものである。ただ、その呼びかけが叙事詩の冒頭に置かれずに、ダンテの個人的な事情を述べた詩行に続いて出てくるというところに新しさがある。9女神の中で叙事詩をつかさどるのはカリオペーであるから、この女神だけに呼び掛けてもいいような気もするが、そうはなっていなないところに、古代⇒中世の叙事詩文学の総合芸術的な性格が現れているのかもしれない。

 ホメーロスの『オデュッセイア』の中でオデュッセウスが、またウェルギリウスの『アエネーイス』の中ではアエネーアースが、それぞれ死後の世界を訪れている。そのウェルギリウス(の霊)が目の前に現われて、彼に死後の世界を案内するという。ダンテが、自分にそのような旅をする資格があるのかと問うたのはごく自然の成り行きである。
 ローマとその帝国は、地上に(と言っても、ヨーロッパのそのまた一部分だけにではあるが)平和をもたらし、キリスト教の中心地となった。そのローマの遠祖であるアエネーアースが死後の世界を訪問したのは当然である。また、キリスト教徒であるダンテは使徒パウロが死後の世界を訪問したという伝説を踏まえて、パウロが信仰の支えをそこから持ち帰ったのも当然のことであった。   しかし、どうして私が行かねばならぬのでしょうか。誰が私にそれを
許すでしょうか。アエネーアースでもなく、パウロでもない私が。
わたしとても、他の人も、私にそれができるとは考えません。
(31‐33行、29ページ) なぜ、ダンテが死後の世界に赴かなければならないのかというのが彼の問いである。いったいこの旅にどのような歴史的な意義があるというのか。

 こうして彼はいったん同意した旅への歩みを止めて、立ちどまる。
 一度望んだことをもはや望まず、
新しい考えのために考えを変え、
始めたことをすっかり翻す人のように
 私もあの暗い山の麓にあって考え直したのだった。
というのも、思いあぐねた挙句に、あれほどはやる気持ちで
始めようとしていた企てを思い切ることにしたからである。
(37‐42行、30ページ)
 
 ウェルギリウスは怖気づいているダンテを叱咤激励するために、なぜ彼がここにやってきて、彼の眼前にいるかを説明しはじめる。
 「もしおまえの言うことを私がよく理解したなら」
と、その偉大なる精神[ウェルギリウス]は答えた。
「おまえの魂は卑小さにとりつかれている。
 人はしばしばこれにさえぎられて、
ほまれある事業から身を退ける、
けだもの[馬]がありもしない影を目にして立ちすくむように。
 この恐れからおまえが解き放たれるよう
お前に話しておこう、私がなぜここにやって来たか、そして
何を聞いて、おまえを初めて哀れと思ったかを。
(43‐51行、30ページ) 解説によると、ここでは「偉大なる精神」=ウェルギリウスと「卑小さにとりつかれている」ダンテとが対比されている。ウェルギリウスが、自己や他者、苦難や運命を従容として受け入れる勇気ある人であるのに対し、卑小なダンテは、他を受け容れるにも、自分を受け容れるにも心の器が小さいため、小心、臆病、怯懦に囚われ、自分に自信がなく、自分を評価することも信頼することもできないという。

 ダンテの死後の世界への旅は、他者と向き合うことによって自己を発見する旅でもあるという。ではなぜ、彼がその旅の旅人に選ばれたのか。ウェルギリウスのことばは続いていく。

 

『太平記』(226)

9月3日(月)雨が降ったりやんだり、午後からは晴れ間が見えたりした。台風の進み方が速くなって、明日の午後には関東地方でも風が強くなるとの予報である。

 暦応元年(南朝延元3年、1338)、新田義貞は越前で勢力を挽回し、足利方の斯波高経に対し優位に立とうとしていた。高経は足羽川流域に7つの城を築き、平泉寺を味方につけて対抗しようとした。平泉寺で調伏の祈禱が行われる中、義貞は不吉な夢を見た。閏7月2日、足羽攻めに向かう義貞の乗馬である水練栗毛が、にわかに荒れ狂うなどの凶兆が現れた。果たして足羽の藤島城に出陣した義貞は、流れ矢に眉間を射られて討ち死にした。義貞が打たれた新田軍では、裏切りが相次ぎ、義貞の弟の脇屋義助は越前府(えちぜんのこう)に退却した。

 藤島で戦死したのが義貞だと知った斯波高経は、死骸を往生院に送って葬礼を営ませる一方で、首を家臣である氏家重国にもたせて、京都に上らせた。義貞の首が京都に着くと、足利方はこれぞ朝敵の第一の存在であると、獄門(獄舎の門)にかけた。
義貞は後醍醐天皇のもとで多くの武功をあげてその信頼を受け、また京都の町の人々にも人気があったので、その死を悲しむ人が多かった。

 中でもあわれをとどめたのは、義貞の北の方の勾当の内侍であった。勾当の内侍というのは後宮に仕える女官の職名で、内侍司の四等官(掌侍)が4人いる中の首位にあり、奏請・伝宣を掌る。後醍醐帝の側近であった一条行房(金ヶ崎城落城の折に自害)の娘である。義貞がその美貌にひとめぼれしたが、内侍は天皇に仕える身なので、恋が届きそうもないと煩悶しているのを知った帝が、彼女が義貞の妻となるように計らわれた。

 ふたりの仲は睦まじく、睦まじすぎて、義貞が、九州に落ち延びようとした足利尊氏・直義兄弟を追撃する機会を逃したという話は、第16巻に出てくる。(もっとも義貞の子どもである義顕、義宗は正妻の子、義興は別の女性との間に儲けた子であるから、他に少なくとも2人の妻がいたのである。) 義貞が北国に落ちる際に、道中の難儀を考えて、内侍を今堅田(滋賀県大津市今堅田)というところに残していった。一人残された内侍は敵の目を警戒し、また建武4年には父の行房が金ヶ崎で死去したことを知り、嘆き暮らしていた。

 義貞も、越前に入った後、できるだけ早く彼女を迎えようとは思っていたのだが、情勢が安定しないので延び延びになり、ときどき手紙のやりとりをするだけで済ませていたが、その年(暦応元年)の秋のはじめ(旧暦であるから七月)に、少し様子が落ち着いたということで迎えのひとを内侍のもとに使わした。待ちかねていた内侍は喜んで越前に向かい、まず杣山まで着いた。

 ところが、義貞は斯波高経の足羽七城の攻略に向かったということなので、杣山からさらに進んで、浅生津の橋を渡ろうとした。ここは原文では「杣山より輿の轅(ながえ)を廻らして、浅生津の橋を渡り給ふ」(第3分冊、390ページ、杣山から輿を引く轅の向きを転じて)とあるが、浅生津(現在の福井市浅水)は、杣山(南条郡南越前町阿久和の山)と、足羽七城の間、足羽七城よりの場所にあるから、方向転換の必要はないのである。岩波文庫版の第3分冊193ページに越前の地図が出てくるから、それでご確認ください。浅水は福井鉄道福武線の駅名でもある。
 浅生津の橋で、内侍は杣山城の城主である瓜生兄弟の一人、瓜生照(てらす)に出会った。照は馬を降りて、「どちらへ行こうとされるのでしょうか。新田殿は、昨日の暮れほどに、足羽というところで戦死されたのです」と涙を流しながら告げた。これを聞いた内侍は魂も消える思いで、涙をこぼすこともできない。輿の中に体を沈めて、半狂乱の様子であるのを、照は、輿を杣山に戻せと命じて、内侍を杣山城まで送った。

 杣山に戻った内侍は、城の中に義貞の生前の様子を偲ぶ手立てを見ては物思いにふけっていたが、次第に敵の軍勢が近づいてきて、杣山も安全とは言えなくなったので、京都に戻り、仁和寺に身をひそめることになった。
 都を足利方の軍勢が支配しているので、都にいても旅住まいのような気分であり、心はぼうっとして、袖は涙にぬれた状態で、むかしの知り合いの消息を訪ねて、大内裏の東門である陽明門のあたりにやって来た。
 すると、「あな、あはれや」などという人の声が聞こえるので、何事かとたずねてみると、越前まで訪ねていってあうことのできなかった義貞の首が獄門にかけられている。その変わり果てた様子に内侍は泣き倒れるのであった。近くにいた人々もこれを憐れまないということはない。こうして日が暮れ落ちるまで、帰ろうともせずに、泣きしおれていた。そのあたりにいた僧侶が、あまりにもおいたわしいことだと、自分の持仏堂に迎え入れたが、その夜のうちに内侍は髪を下ろして、出家したのであった。
 内侍は出家の後、しばらくの間は、まだ泣き悲しんでいたが、次第に仏心が悲しみに勝るようになり、嵯峨の奥、往生院のあたりで仏の道に専念することになったのであった。

 今回は義貞という重要人物の死後の動きが描かれている。義貞と勾当の内侍の恋物語が王朝風に語られているところに、『太平記』の作者の女性観・恋愛観が垣間見られるように思うが、それとは別に、この時代の女性たちが、男性同様に過酷な運命と立ち向かわなければならなかったという事実が、勾当の内侍という1人の女性を取り上げて語られていることに注目すべきである。護良親王の身近にいた南の御方、西園寺公宗の正室の日野名子、そしてこの勾当の内侍など、登場する紙面は限られているが、それぞれに必死になって過酷な運命と立ち向かう姿が印象を残す。(その中で日野名子は日記を残しているので、その個性をより詳しく知ることができる。) なお、勾当の内侍が仁和寺に隠れ住もうとしたというあたり、『徒然草』の作者とどこかですれ違ったと想像することもできる。

 ご存知の方も多いと思うが、『太平記』をもとにして山岡荘八が書いた『新太平記』は、勾当の内侍が義貞の死を知らずに、越前に向かうところで終わっている。吉川英治の『私本太平記』が、足利尊氏の死をもって終わっているのと対照的である。なお、この『太平記』は足利義詮が死に臨み、我が子義満の後見人として細川頼之に後事を託し、頼之の善政で天下が太平になるという結末である⇒実は、まだまだ紆余曲折があるのだが、作者が面倒になったので打ち切ったとも考えられる。多くの人たちが指摘しているように、『太平記』の後半は進行する事態が混乱して、作者の思想ではまとめきれないような事態が展開し、事態を追うのが精いっぱいという状態になる。その傾向がそろそろ明らかになってきている。

日記抄(8月27日~9月2日)

9月2日(日)雨、台風21号接近中、こちらにやってくるのは水曜日頃になるか? 被害が少ないことを願う。

 8月27日から本日までに経験したこと、考えたこと、以前の記事の補遺・訂正その他:
8月27日
 『日経』朝刊の連載記事「絵画を彩る額縁 十選」で、ロンドンのナショナル・ギャラリーにあるレオナルド・ダ・ヴィンチの『岩窟の聖母』が紹介されていた。ロンドンに初めて出かけたときに、一足先にこの美術館でこの絵を見た友人にぜひ、見ておきなさいと言われてみたのだが、確かにそれだけの価値のある絵だと思った。この絵を見てしまうと、館内の他の絵がかすんでしまって、レンブラントにしろ、他の誰にしろ(レンブラントはまだ名前を憶えていたが、他の画家は思い出せない)、その価値が実感できないというくらいとびぬけた感動を与えてくれる作品である。

 NHKラジオ『まいにちフランス語』で、フランスの海外県であるインド洋上のレユニオン島で話されているクレオール語のことが話題として取り上げられた。
Le créole réunionnais a maitenant le statut de langue régionale officielle.
(今、レユニオン島のクレオール語は公的な地域語と位置づけられています。)
クレオール語は、フランス語に様々な言語が混ざり合って生まれた言語であり、
C'est une langue protéiforme; il n'existe pas de transcription officielle.
(多種多様な形がある言語で、正式な書き方がありません。)
 正書法があるからいいというものではなくて、私は大学の第二外国語でドイツ語を履修したが、その時代とドイツ語の正書法が変わってしまったから、戸惑うことがある(不勉強を棚に上げている‼)

8月28日
 米メディアによると、劇作家のニール・サイモンさんが26日にニューヨークの病院で、肺炎による合併症で死去された。91歳。
 作品が映画化されたり、自ら映画脚本を手掛けたりされたが、その中で私は次の映画作品を見ている。
1963 ナイスガイ・ニューヨーク
1967 裸足で散歩
1968 おかしな二人
1969 スイート・チャリティー(原作) もっともこれはフェデリコ・フェリーニの映画『カビリアの夜』の翻案である。
1970 おかしな夫婦
1972 ふたり自身

 『ちびまる子ちゃん」で知られる漫画家のさくらもも子さんが、15日、乳がんのため亡くなられていることが分かった。53歳。〔その後、いろいろな追悼文が書かれていた中で、8月30日付の『朝日』朝刊で中森明夫さんが「平成の終わり感じる象徴」と述べているのが目を引いた。まる子ちゃんの世界は昭和時代の話で、それを平成になって回想しているという枠組みであるが、その枠組みが今やなくなろうとしているのである。〕

 功成り名遂げた感じのニール・サイモンさんと、まだまだこれからやりたいこともあったであろうさくらさんでは死の意味が違うという気がするが、お二人のご冥福をお祈りしたい。

8月29日
 『日経』に「早大生と歩んだソバ屋」である三朝庵が今年、112年の歴史にひっそりと幕を下ろしたといういきさつを、4代目の女将である加藤峯子さんが書き記している。井伏鱒二の話など興味深かったが、学生運動がまだ華やかに展開されていたころ、革マル派がおいていった竹竿が子どものおしめを干すのにちょうどいいと思っていたら、警察の人がみんな持って行ってしまったという話には井伏から学んだのではないかというユーモアが感じられる。早稲田大学漫画研究会時代の東海林さだおさんが酔っ払ってひっくり返っていたというのはこの店のことではないかと思う。この店の前を通ったことはあるが、中に入る機会がないままに店の方がやめてしまったのは残念である。

 『まいにちフランス語』のレユニオン島の話の続き。この島にはピトン・デ・ネージュ(3069メートル)と、ピトン・ドゥ・ラ・フルネーズ(標高海抜2631メートル)という2つの火山があり、ピトン・ドゥ・ラ・フルネーズは世界でも有数の活火山の一つだという。それで日本からも多くの火山学者、地震学者がこの島を訪れているそうだ。それで調べてみたところ、その中の一人が地震学者の安芸敬一(1930‐2005)で、土木工学者だった安芸皎一(1902‐85)の子息である。実は愚妹が、子どもの頃にピアノを習っていた先生の(一番年長の)相弟子が、敬一氏の姉妹であった。世の中、思いがけないところでつながっているという例である。 

 歯医者で割れてしまった歯を抜いた。血液をサラサラにする薬を服用しているので抜歯のために入院したという記事を読んでいたから心配したのだが、大丈夫ですよということで抜いたのである。とは言うものの、やはり薬が効いたのか、なかなか血が止まらなかった。

8月30日
 『日経』朝刊のコラム「大機小機」に「『格差』が生む利己主義」という論稿が掲載されていたのが興味深かった。社会が全般的にみれば豊かになっても、その中で貧富の格差が拡大すると、利己主義が蔓延するという研究があるそうだ。この研究を引用した後で、書き手は言う:「今年の内閣府『国民生活に関する世論調査』によると、日本国民の74.1%が現在の生活に不満を持っていない。日本では所得格差がまだ顕著ではないことの反映であろう。/格差こそが諸悪の根源なのだ。」 調査をする際には、そこで使われている言葉を吟味する必要がある。同じ言葉を違う言葉で受け取っている例が少なくないからである。ということで、この『国民生活に関する世論調査』をめぐっても、いろいろな意見があるようだが、それよりも、この調査の回答率が気になっているのである。ということで調べてみたら、63.2パーセントであった。回答しなかった36.8パーセントが、現在の自分の暮らしに満足しているとはいいがたい。それから、これは面接調査なので、調査員に面と向かって、自分の今の生活に不満があるとは言いにくいところがあることも付け加えておく必要がある(私だって、調査にこられたら、どう回答するかはわからない)。
 8月12日付「日記抄」の中で、同じ『日経』に掲載されている「遊遊漢字学」の「倉廩実つればすなわち礼節を知り、衣食足ればすなわち栄辱を知る」という『管子』牧民篇のことばを取り上げたが、現代人の心理は、春秋時代に比べれば複雑になっているということであろうか。

8月31日
 『朝日』の朝刊に法務省が日本語学校の設置を厳格化するという記事が出ていた。日本語学校は、学校と名がついているが、法務省の管轄下にある(それがいいことかどうかは議論の余地がある)。留学を名目とした就労目的の来日を防ぐための措置だそうだが、法務省管轄下の「学校」に入ることが「留学」と言えるのかどうかも考えてみる必要があるだろう。建前論を空回りさせるよりも、実態調査をまず先行させる方がいいと思うのだが、今の法務大臣はそんなことを考えるような人物ではなさそうだ。

 歯医者で抜歯したあとの消毒をした。

 阿藤玲『お節介な放課後 御出学園帰宅部の献身』(創元推理文庫)を読み終える。機会があれば、少なくとも次の2つの点について詳しく論じてみたい。①人間一人一人の中で「流れている時間」の速さは違う。②親と子どもの趣味は一致しないことがある。親は自分の趣味を子どもにも継承してもらいたいと思っているが、子どもは必ずしもそうではない。

 久保田竜子『英語教育幻想』(ちくま新書)を読み終える。日本の英語教育の中にしみこんでいる様々な幻想を、社会言語学的な知見をもとに一つ一つ論駁している。言っていることはごもっともなのだが、他人の研究の受け売りの部分が少なくないために、説得力が乏しいところがある。この本についても機会があれば、このブログで取り上げてみたい。

9月1日
 1923(大正12)年のこの日、小学校2年生だった私の父は、関東大震災に遭遇した。始業式が終わって、学校から帰宅した後のことだったそうだ。それで、あまりはっきりした内容ではなかったし、こちらもはっきり記憶していないが、震災の話は聞いた記憶がある。
 そういう話の中で、私の遠い親戚の誰かが、東北弁を韓国語と間違えられて、危うく殺されかけたという話があった。大震災後の朝鮮人虐殺は、「後世の歴史家がひもとく」までもなく、歴史的な事実であり、とばっちりを食って危ない目にあった日本人も少なくなかったし、俳優の千田是也(1904‐1994)などはその経験を自分の芸名にしたのである。さらに言えば、無政府主義者の大杉栄や、労働運動家の平沢計七が虐殺されたことも忘れてはならない。
 だからこの出来事は、あったかなかったかという歴史的な問題ではなくて、なぜこの出来事が起きたかという社会心理的な問題なのである。「関東大震災の混乱を経験した」ことから「対策を立てる前に、本質を知り、科学的に究明されねばならぬ」と論じた清水幾太郎の『流言蜚語』(ちくま学芸文庫)などの書物から学ぶべきところは大きいと書いている、本日の『朝日』の「災害と風評:平時に潜んでいた偏見や差別」は眼を通すべき文章である。

 午前11時から、保土ヶ谷サッカー場でなでしこリーグ2部:横浜FCシーガルズ対ちふれエルフェンさいたまの試合を見た。双方に守備の乱れがあって、それに乗じた点の取り合いとなったが、2-3でちふれに軍配が上がった。シーガルズは中央線を強化する必要がありそうだ。
 その後、いったん帰宅して、坂口安吾の『不連続殺人事件』を読んでいた。普通なら、ブログの原稿を書くのだけれども、疲れて気力がわかなかったのである。
 それでも、サッカーの試合を見るということになると、話は別で、18時から今度は三ツ沢球技場でJ2の横浜FCと京都サンガの対戦を観戦した。前半、横浜が1点を先行、後半同点に追いつかれたが、2得点を重ねて3-1で勝利した。各場面でのレアンドロドミンゲス選手の的確なプレーと、北爪選手の好走が光った試合であった。
 ハーフタイムに行われる観客サービスのフリ丸バズーカの景品のTシャツが手に入った。長いこと球技場に通っていると、こんなこともある。
 ひどく疲れて、ブログの原稿を書くのがやっとで、皆さんのブログを訪問することがかなわなかった。あしからず。

9月2日
 『日経』の朝刊に四方田犬彦さんが1970年代後半(昭和50年代前半)のまだソウルに地下鉄が開通していなかった頃のバスの思い出を書いていた。四方田さんは日本語学校の先生をしていたのである。バスの中で乗客たちがお互いに親切にすべしと、譲り合い助け合っていたのは、朝鮮戦争の際に慌てて避難した時の思い出が残っていたからであろうという。10年ほど前に私はソウルの地下鉄に乗ったが、一人分以上の席を占有したり、足を組んだり投げ出したりする乗客はいなかった。それで私は、これは儒教の影響かなと思ったのだが、四方田さんは別の意見をもつかもしれない。つまり、私はトクヴィルやウェーバーのように、人間の行為を体系的な思想と結びつけて説明しようとする傾向があるが、四方田さんの場合はもっと具体的な経験と結びつけて説明しようとしているということらしい(どちらが正しいというものではないと思う)。 
 

 

和田裕弘『信長公記――戦国覇者の一級史料」(2)

9月1日(土)曇り、夜遅くなってかなり強い雨。

 『信長公記』は信長の近臣の一人であった太田牛一が自分自身の日記や信頼できる記録をもとにまとめた織田信長の一代記であり、その史料的な価値について高い評価を受けてきた。ここでは、その膨大な情報を含む『信長公記』から興味深いと思われる記事を抜き出して、それに解説を加えている。さらに最新の信長研究の成果も取り込んで、信長の人間像を明らかにしようとするものである。
 織田一族は尾張守護の斯波氏の守護代を務める家柄であったが、いくつかの流れに分かれ、信長の父・信秀はその中の一支流、守護代の三奉行の一つである弾正忠家の三代目の当主であるが、非凡な能力の持ち主で他家を押しのけて尾張に覇を唱えるようになった。しかし、美濃の斎藤道三に敗れて窮地に陥り、打開策として、その道三の娘を信長の正室に迎えることで失地回復を図った。
 しかし、その信秀が比較的若くして病死し、尾張国内は再び戦乱状態に戻った。信長の尾張統一への道は遠い。
 一方、娘婿である信長の様子を心配した斎藤道三は信長と会見し、その人物が傑出したものであると見抜き、信長との連携を強める。しかし、その道三は実子である義龍に背かれ、敗死する。義龍は織田一族の岩倉織田氏だけでなく、信長の異母兄信広や同母弟信勝ともよしみを通じ、信長を苦しめることになる。

 ということで、今回は信長の兄弟についてみていく。信長の兄弟は、系図類によると11人であるが、あまり知られていない。しかし『信長公記』にはこの11人全員が登場している。
 三郎五郎信広。異母兄。天正2年(1574)、長嶋攻めで討死。
 安房守秀年。信広の同母弟。家臣に自害に追い込まれる。
 三郎信長。
 武蔵守信勝。同母弟。信長に誘殺される。
 喜六郎秀孝。家臣に誤射され横死。
 彦七郎信与(のぶとも)。元亀元年(1570)、長嶋の一揆に攻められ自害。
 三十郎信包(のぶかね)。同母弟ともいわれる。長野家の養子となり、長野信良と称す。
 九郎信治。元亀元年、討死。
 源五郎長益(ながます)。有楽斎。茶人として大成。
 半左エ門秀成。天正2年、長嶋攻めで討死。
 中根信照。信広の同母弟。のち大橋和泉守定永。
 又十郎長利。本能寺の変で討死。

 この書物では異母兄の信広、同母弟の信勝、喜六郎について取り上げている。兄弟の中で、信長が一家の惣領となった経緯や、彼の人となりを知るのに、この3人と比べていくのが一番適切であるということであろう。
 信広について。信長の母が正室であったので、信長が嫡男とされたといわれることが多いが、信長の母が信広の母に比べて家柄がよかったとは言えないと和田さんは論じている。しかし、信秀の三河侵攻への橋頭保である安城城の守備を任されていたが、今川方に敗北し、人質になるという失態を演じた(この時、織田の人質になっていた竹千代⇒徳川家康と交換されたといわれるが、ここでは触れられていない)。このため、後継者候補から脱落したと考えられる。
 信広はその後、斎藤義龍と結んで信長に離反したこともあったが、やがて降伏し、信長に忠実に仕えるようになったようである。『信長の天下統一を支える有力な一門衆だったが、天正2年(1574)の長嶋攻めで討死してしまった。」(45ページ) この長嶋攻めでは信長は多くの一族・家臣を失っており、忘れることのできない危機だったと思われるという。(逆に、その危機を乗り越えて、天下取りの道を歩んでいったところに、彼の非凡さが現れているとみることもできる。)

 信勝は、信長と家督を争い、最後は清州城で誘殺された。信秀の死後、信長は那古野城をそのまま継承したが、信j勝は信秀が晩年に居城とした末盛城を相続し、信長の家老衆にも匹敵する宿老衆が付けられた。信秀の法要の際に、信長は奇矯なふるまいを見せたが、信勝は礼にかなった作法でふるまったという。つまり常識的な物差しで測れる器であった。
 和田さんは、信長にとって最大の危難はこの弟信勝との稲生の戦いであったとしている。「大げさに言えば、九死に一生ともいうべき窮地であった反面、のちの信長の出発点ともなった重要な戦いでもあった。後年の天下人信長を成したのは、長篠ではなく、さりとて桶狭間でもなく、稲生の戦いの勝利だったといえるほどの戦いだった」(47ページ)と論じている。
 信長の一番家老である林秀貞が裏切り、信勝付きの柴田勝家と共謀し、信勝を家督に据える謀反を企てた。弘治2年(1556)に、信勝を警戒した信長は、その侵攻に備えて名塚に砦を築き、佐久間盛重に守備させたが、信勝方は大雨で援軍を送るのが困難と判断して、柴田勝家、林秀貞の弟の美作守がこの名塚の砦を攻撃した。しかし信長は援軍を率いて駆けつけ、劣勢の軍勢を叱咤して、各個撃破戦術を取って、勝家軍を破り、さらに林美作守の軍勢に攻めかかり、自ら美作守を突き伏せて討ち取る。その後、首実検で信長は美作守の首を蹴飛ばしたという(これは大将らしくない振る舞いだと、和田さんも認めている)。
 勝利した信長は、林秀貞、柴田勝家らとともに、信勝も許したが、信勝に対する警戒は怠らず、また信勝も範囲を抱き続け、最終的には柴田勝家の密告により、信長は信勝を清州に誘い出して殺すことになった。

 喜六郎は、信長、信勝の同母弟のようであるが、叔父である守山城主の織田信次が若い家臣を引き連れて川狩(川で魚を取ること)に出かけているところに、馬一騎で通りかかり、信次の家臣に無礼者だとして弓を射かけられて死んでしまった。間違いとわかって、信次は慌てふためき、そのまま逃亡して数年間浪人生活を送ることとなった。
 この事件に際して、信勝は、信長に相談もせずに、守山城下に駆けつけ、町に火をかけて守山城を孤立させた。信長も遅れて駆けつけたが、家臣の者から事情を聴き、喜六郎にも非があることを認めて、事態を丸く収めようとしたという。信長と信勝とを比べると、信長の方が格段に思慮深いというのである。

 信長の姉妹は十数人いたが、『信長公記』には一人も登場しないという。

 織田一族の中で傍流であった弾正忠家の信秀が、一族中最大の実力者にのし上がったように、信秀の子どもたちの中での競争を勝ち抜いて、信長が家督を勝ち取ったことがわかる。信長がその武勇と知略において優れた存在であることは分かったが、彼の天下人への道は、まだまだ遠い。  
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