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2018年の2018を目指して(8)

8月31日(金)晴れ、暑い。汗でノートがベトベトになったりした。

 暑さのためにあえて何かをするという気持ちにならず、目立った動きをしなかった。とはいうものの、利用した鉄道・路線・駅に少し変化が出た。
 足跡を記した都県は2:(神奈川、東京)、市区町村は8か所:(横浜、川崎、港、品川、渋谷、千代田、目黒、杉並)のままである。
 今年になって初めて京浜急行を利用したので、利用した鉄道は6社10路線に増えた:(東急:東横線、目黒線、大井町線;JR東日本:山手線、中央・総武線;東京メトロ:半蔵門線、南北線;横浜市営地下鉄:ブルーライン;東京都営地下鉄:三田線;京急:本線)
 また乗り降りした駅は13駅である:横浜、武蔵小杉、渋谷、目黒、白金台、神保町、上大岡、新横浜、御成門、阿佐ヶ谷、反町、都立大学、神奈川新町)、このほか新宿駅で路線を乗り換えている。
 利用したバスの会社・路線・停留所は6社19路線23停留所のままである。〔88〕

 この記事を含めて31件を投稿した。内訳は日記が5件、読書が16件、『太平記』が4件、『神曲』が2件、詩が1件、推理小説が2件、未分類が1件ということである。コメントを1件、拍手コメントを1件頂いた。また頂いた拍手は522である。
 1月からの累計は記事が248件である。コメントの累計が15件、拍手コメントが2件ということである。〔265〕

 14冊の本を買い、11冊を読んだ。読んだ本を列挙すると:東海林さだお『メンチカツの丸かじり』(文春文庫)、三浦しをん『あの家に暮らす四人の女』(中公文庫)、小野寺健編訳『フォースター評論集』(岩波文庫)、マージェリー・アリンガム『ホワイトコテージの殺人』(創元推理文庫)、松山巌『須賀敦子の方へ』(新潮文庫)、島田裕巳『神社崩壊』(新潮新書)、真弓常忠『古代の鉄と神々』(ちくま学芸文庫)、和田裕弘『信長公記』(中公新書)、『主よ 一羽の鳩のために 須賀敦子詩集』(河出書房新社)、阿藤玲『お節介な放課後 御出学園帰宅部の献身』(創元推理文庫)、久保田竜子『英語教育幻想』(ちくま文庫)ということである。
 軽読書だけでなく、少し重い文学の本、宗教、歴史、語学教育など少しずつではあるが内容を充実させて入る。さらに一層、勉強を積み重ねていこうという意欲はあるので、いろいろと計画を立てているところである。〔80〕

 NHK『ラジオ英会話』の時間を18回、『遠山顕の英会話楽習』を11回、『入門ビジネス英語』を8回、『高校生からはじめる現代英語』を8回、『実践ビジネス英語』を12回聴いている。『英会話楽習』は聴き落としがあるので、9月1日の再放送で補うつもりである。1月からの通算では、『ラジオ英会話』が158回、『遠山顕の英会話楽習』が59回、『入門ビジネス英語』が66回、『高校生からはじめる現代英語』が66回、『実践ビジネス英語』が96回ということである。また1月から3月まで放送されていた『短期集中! 3か月英会話』を35回聴いている。
 また『まいにちフランス語』を12回、『まいにちスペイン語』を12回、『まいにちイタリア語』を12回聴いている。1月からの通算は『まいにちフランス語』入門編が97回、応用編が23回、『まいにちスペイン語』入門編が96回、応用編が23回、『まいにちイタリア語』入門編が97回、応用編が23回ということである。〔839〕

 8月はとうとう1本も映画を見ることがなかった。映画館に入ってしまえば涼しいことはわかっているのだが、そこまで出かける道のりの暑さを考えると、足が向かなかったというのが正直なところである。秋の訪れとともに再出発することにしよう。〔26〕

 ニッパツ三ツ沢球技場でJ2の2試合、なでしこリーグ2部の1試合を観戦した。
 依然としてtotoは当たらない。〔31〕

 酒類を飲まなかったのは1日だけであった。1月からの通算は31日ということになる。〔31〕

 〔 〕で囲んだ数字を合計すると1360となり、このまま数字を積み重ねていけば、2018という目標には到達可能なので、あとは内容の充実に努めていきたい。残暑はそれほど長く続かないという予報なので、早めに調子を取り戻すことができるだろうと楽観している。 
 
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森本公誠『東大寺のなりたち』(10)

8月30日(木)晴れたり曇ったり

 いよいよ開眼である。
 「『開眼』と声が上がると、開眼師が仏前に進み、介添の仏師と共に吊り籠に乗り轆轤(ろくろ)で引き上げられ、筆を執って眼に点じた。筆の一端には縹(はなだ)色の縷(る)が結わえられていた。参集人はその縷に手を添え、ともに結縁(けちえん)できた喜びに浸った。」(123ページ)
 著者である森本さんは、その師である宮崎市定から「たとえ異次元の世界の記録でも、目のまえに情景が浮かぶように訳さなければ、それは正確に訳しているとは言えないと心得なさい」(217ページ)と言い聞かされたという。一応の情景は眼に浮かぶが、具体的にみていくと、問題が残る。
 まず、「開眼」の声を発したのはだれであろうか。式次第が定められている以上、開眼供養の進行役がいたはずである。造東大寺司の官人のだれかであろうか、良弁あるいはそのほかの東大寺の僧であったのか、あるいはもっとほかの役人であったのか、ここには記されていない。森本さんにはある程度見当がついているのかもしれないが、だったら、その旨を書いてほしいところである。開眼師はもちろん、婆羅門僧正=菩提僊那である。仏師は大仏像の鋳造に功績があった国中公麻呂であろうか、あるいはその配下の仏師であろうか。ろくろで籠を釣り上げて、開眼師と仏師とを大仏の目の前に引き上げるというのはかなりの大技である。(既に述べたが、後に後白河法皇が開眼を行う時には足場を組んでそれに登っている。) ここは身軽でいざという時に対応できる人物が選ばれていると考えていい。これまたすでに書いたことだが、開眼の際に使用した筆は正倉院に現存する。またその筆に結び付けられた縷(る)も現存するそうである。縷は糸のことだそうであるが、この場合糸では頼りない。まあ、見ればわかることだ。縹(はなだ)色というのは薄い藍色と辞書にあるが、文献によっては、五色とするものもある。これまた、実物を見ればわかることである。人々は、菩提僊那が廬舎那仏像の開眼のため作法にのっとって動かしている筆と結びついた糸をもつことで、大仏開眼の盛儀に自らも参加したという実感をもつことができたのである。
 正倉院に残されている「開眼縷一条」の長さは200メートル弱だそうである。大仏像から中庭まで優に届く長さである。

 開眼作法が終わると華厳経講讃法要に移る。大仏殿の前庭の左右に高座が設けられ、講師の隆尊律師と読師の延福法師が左右に分かれて高座に登った。向かって左が講師、右が読師の座である。この時、前庭の外に待機していた僧と沙弥1万人弱が役人の引導によって入場する。雅楽が演奏され、香がたかれる中で、講讃が始められた。
 講讃が終わると、内外の歌舞音楽が演奏される。雅楽寮と寺院に属する楽人たちだけでなく、皇族や貴族たちもたしなみとして日ごろ練習してきた舞踏を披露した。なんと左大臣橘諸兄までが15人を率いて鼓を撃っている。
 さらに四伎楽隊による行道演舞や、倭歌舞、雑楽(外来の雅楽)の演奏が続いた。この時に使用された伎楽面は東大寺や正倉院に多く現存する。私も見たことがあるし、読者の方々のなかにもご覧になった方が少なくないはずである。こうして、開眼会は夕刻まで行われた。
 法会が終わり、太上天皇と皇太后は平城宮に還御され、東宮に入られた。一方、孝謙天皇は大納言藤原仲麻呂の田村の邸宅に入り、御在所とされた。

 開眼会から数日がたって、出仕僧らに使者が派遣され、大蔵省からの布施が支給された。この中では講師である隆尊の華厳経講説に対する布施の大きさ、それによって判断される評価の高さが注目されると森本さんは論じている。ただ、布施は個々の僧が私物化するのではなくて、寺の中で他の僧と分け合うはずであるということも考える必要があるだろう。

 大仏開眼について唐と新羅とに使者を派遣して伝えたことはすでにふれたが、開眼会直前の閏3月22日に、新羅が大使節団を派遣してきたという知らせが、大宰府から届いた。それまでの新羅との緊迫した外交関係を考えると、新羅が皇子を代表とする使節団を派遣するというのは極めて異例のことであり、しかも大人数であるだけでなく、王子とは別に貢調使としての大使も立てているという。日本は神功皇后時代という神話的な時代の出来事を根拠として、新羅を朝貢国と位置づけていた。新羅側には名を捨てても実を取る方が賢明であると思われるような国際的な事情があった。これまでも、新羅としては日本との外交関係の修復を図ってきたが、対外関係の変化に応じて、朝貢という形を取ったり、対等の関係をもとめたりしてきた。
 ここで、新羅が対等の関係を求めるという従来の姿勢を変化させて、朝貢という形をとるようになったかをめぐっては、新羅側の華厳経学の国教化、聖武天皇による廬舎那大仏の造立と『華厳経』の欽定化をきっかけとして、両者の接近が可能になったと新羅が判断したということであろうと森本さんは推測している。
 日本と新羅との間には、仏教の教学特に『華厳経』をめぐっては盛んな交流が続けられていて、「政治の上での外交は険悪であっても、仏教交流については新羅の先進性に自信もあって、日本の天皇による巨大な廬舎那仏の造像を好意的に理解し、『華厳経』の説く教説が政治の上でも生かされていると期待したのかもしれない」(131ページ)と森本さんは推測している。これは森本さんが華厳宗の僧侶であることを割り引いても、納得のいく議論である。

 ところが孝謙天皇を頂く日本側は新羅の深意をあえて探ろうとせず、新羅側に日本への臣従を迫ろうとした。「ここで重要なのは、孝謙天皇にこのような言葉を言わしめた当時の日本の政権担当者たちのことである。彼らは、聖武天皇が意図した『華厳経』による理念をまったくと言ってよほど理解していなかったといえる。譲位をした聖武天皇の限界と言わねばならないであろう。」(134ページ) 森本さんは書いていないが、そういわしめたのはおそらく藤原仲麻呂であって、彼は新羅征討を考えていたような人物であったから、両者の関係がうまくいくはずがないのである。

 大仏開眼から2年を経た天平勝宝6年(754)正月、鑑真が遣唐副使大伴古麻呂の船に乗って来朝した。2月1日に難波津に着いた鑑真一行は、唐僧崇道と行基の弟子法義の出迎えを受け、河内国庁を経て、4日に平城京入りし、東大寺に落ち着いた。東大寺で一行を迎えたのは良弁であったが、一行を大仏殿に案内し、廬舎那仏像の前で「これは聖武太上天皇が天下の人々を結縁して造らせられた金銅像で、高さが50尺ありますが、唐にもこのような大像はございますか」と尋ねた。この時通訳をしたのが遣唐使に加わって渡唐した藤原仲麻呂の六男、刷雄(よしお)で、鑑真のもとで出家して延慶と名乗っていた。鑑真は「ない」と答えて、自慢そうに言うのも無理のないことだと、日本における仏法興隆を確かめた。もっともこの話、刷雄と延慶を同一視することについては異論もあるそうである。

 3月に入ると、遣唐副使だった吉備真備が鑑真のもとを訪れ、授戒と伝律は鑑真に一任するという聖武太上天皇の綸言を伝えた。4月初めには大仏殿前に臨時の戒壇が設けられ、聖武太上天皇をはじめ、多くの人々に戒が授けられた。先の新羅との交渉では孝謙天皇が前面に出ているが、この鑑真来朝をめぐっては聖武太上天皇のほうが前面に出ている。「唐風好みの仲麻呂は鑑真を厚遇した」(135ページ)とあるが、皇帝>太上皇帝というのが中国風であることは当然、森本さんも知っているはずである。
 7月に聖武太上天皇の生母である藤原宮子が亡くなった。この年の10月になると、聖武太上天皇は体調の衰えから床に伏しがちであった。11月に左大臣橘諸兄の酒席における太上天皇に対する言動に範囲があるとの密告がなされたが、太上天皇は取り合おうとはされなかった。しかし、この件を知った諸兄は、翌年2月2日に孝謙天皇に辞任を申し出、天皇に許諾を得た。これはより大きな事件の前兆であった。

 5月2日に、聖武太上天皇が崩御された。遺詔により天武天皇の孫で、新田部親王の子、中務卿従四位上道祖(ふなど)王を皇太子とした。しかし、政治の動きは聖武太上天皇の意思とは別の方向に動き始めていた。皇太后は太上天皇遺愛の品をはじめ、宝物六百数十点を東大寺の廬舎那仏に奉献した。また同日、60種に及ぶ薬物も奉献した。このような献納は5回に及んだが、それぞれのたびごとに詳しい目録が作成された(今日、かなりの部分が正倉院御物として伝存する)。このような献物帳の中でも皇太后の願文と目録とから構成されている『国家珍宝帳』は圧巻であると森本さんは言う。一方で皇太后の切々とした思いが感じられ、その一方で、願文に続いて連署した官人たちの名前を見ていると、当時の現実の政治世界に引き戻されるという。「国家珍宝帳は光明皇太后を後ろ盾として権勢を振るう藤原仲麻呂の姿をまざまざと浮かび上がらせるのである」(139ページ)と森本さんは説く。

 政治の動きは聖武太上天皇の意思とは別の方向に、これまでのところ藤原仲麻呂の思惑通りに進んでいるようであるが、それに反発する動きも当然予想できる。これ以後の政局はどのように展開していくか、それはまた次回に取り上げることにする。それにしても、正倉院御物その他を通じて、我々は奈良時代の歴史についてかなり正確に復元でき、藤原道長・実資・行成の日記が残っていることによって、摂関時代の政治について多くのことを知ることができる。「取り戻せ!記録を大事にする日本」と声を大にして叫びたい。

トマス・モア『ユートピア』(16)

8月29日(水)曇り

 1515年に、イングランド国王の派遣した外交使節団の一員としてフランドルに渡ったトマス・モア(物語の語り手である実在の人物)は、外交交渉の中断時に、アントワープに出かけ、その市民であるピーター・ヒレスの歓待を受ける(ピーターは実在の人物であり、2人がアントワープで親交を結んだのも歴史的な事実である)。ある日、ピーターは世界中を旅してきた賢人であるというラファエル・ヒュトロダエウスという人物をモアに紹介する(ここから先は作り話である)。ラファエルの経験と知識とに感心した2人は、彼にどこかの王侯に仕えて政治を助けてはどうかというが、戦争を起こすことと庶民から収奪することにしか関心のない王侯に仕えるのは真っ平だとラファエルは拒否する。社会問題を解決する手がかりとして、ラファエルは彼が訪問した新世界のユートピア島の驚くべき諸制度について語る。そこでは人々がみな働き、私有財産はなく、自分たちの指導者は自分で選ぶことになっている。働かない人がいないし、皆が自分で自分の職業を選ぶことができるので、労働の効率は良く、労働時間は少なくて済む。

 ラファエルは、職業生活に続いて、市民生活の決まりについて語る。澤田訳では「相互のつきあいについて」という見出しが掲げられているが、市民間の交際や人間関係だけでなく、物の分配方式というところまで踏み込んでの説明である。ターナー訳では"social arrangements" (社会的な取り決め)という言葉が使われていて、この方がわかりやすい。
 「都市(キウィタス)は多くの世帯(ファミリア)から成っており、世帯は大抵の場合、血縁関係で構成されています。」(142ページ) 世帯はターナー訳でもhouseholdとなっていて、このように訳すのが適切であろう。女性は結婚すると、配偶者の世帯に入るが、男性は自分の世帯の中に残り、世帯の最年長者の権威に従う。最年長者がこの世帯の指導者であるが、彼の老衰が激しい場合には、次の年長者がその地位につく。
 都市の人口の縮小や過度の膨張がないように、それぞれの都市の6,000世帯の構成は、成人10人~16人と定められている。若し全体の人数が規定数を越えれば、他の都市への移住によって調整される。〔ということは各都市の人口は6万~10万人ということで、現在のイングランドの都市に比べてもそれほど小さいとは言えない。〕

 またもし全島の人口が適量を越えて増加することがあれば、すべての都会から一定の市民たちが選ばれて、近隣の大陸で、原住民が耕作可能な土地を有り余るほどもってはいるが、農耕はまだ行われていないというようなところに送られ、自分たちの法のもとに植民地(コローニア)をつくる。
 もし原住民たちが一緒に住むことを望めば、その植民地に受け入れられる。「共存を望む原住民たちと彼らは同じ生活方式、同じ風習で一つになり、容易に融合同化します。これは両方の人々に益するところとなります。」(143ページ) 移住者たちは原住民たちが不毛だと思っていた土地を肥沃に変えるからである。
 しかし原住民たちが移住者たちの法に従って生活することを拒否すれば、移住者たちは原住民たちを、自分たちで決めた境界線の外に追い出し、抵抗するものに対しては戦争を行う。その理由は、原住民たちが自然の掟に従って耕すべき土地を放置しておいて、その土地を耕そうとする移住者を排除しようとするのは、理に合わないということである。〔ここでは、土地が農耕が行われるべき場所であるという信念に基づいた、独善的な先住民排除の理由が正当化されている。〕
 もし疫病その他の理由である都市の人口が激減し、他の都市からの移住で補充できないほどであれば、植民地からの帰郷民によって補充される。「つまり彼らは、島の都会を一つでも衰退させるよりは植民地をなくしたほうがよいと思っているのです。」(144ページ)
 古代の都市国家においても、このような植民は行われたので、モアはそれを念頭に置いていると思われる。その一方で、彼の時代には新世界=南北アメリカへの移民が現実味を帯びてきていた。そこで移住者と先住民との間にどのような関係が生じたかは、『ユートピア』を評価する際に見逃すことの出来ない視座である。

 市民たちの共同生活は世帯を基礎として営まれている。妻は夫に、子どもは親に、年少者は年長者に従い仕える。すべての都市は4つの区に等分されており、各区の中心にはありとあらゆる物資を扱う市場がある。そこにあるいくつかの所定の建物にはそれぞれの世帯の働きでできたものが集められ、物資はそれぞれの種類別に倉庫に分納される。その倉庫から、どの家父長も自分と自分の世帯員が必要としているものを探 し出し、必要なだけ無償で手に入れることができる。
 各人が能力に応じて働き、必要に応じて受取るというのが共産主義の原則である。ここでは各個人の意思が世帯主に集約される形になっているが、ともあれ、その原則が実行に移されているようである。
 「貪欲と略奪心はあらゆる生物の場合には(将来の)欠乏にたいする恐怖から起こりますが、人間の場合には、必要もないのに、物を見せびらかして他人を凌ぐのを栄誉と考える高慢心だけで起こります。」(144ページ) のちにアメリカの経済学者であるソーステイン・ヴェブレン(1857‐1929)は「誇示的消費」(Conspicuous Consumption),という概念を作り出すが、その名でよばれるような行為はそのはるか以前からあったようである。とにかく、共産主義的な社会的分配の制度の中では、そのような高慢心は起こらないとモアは考えているようである。

 史上の隣には食料品市場があり、そこには野菜、果物、パンだけでなく、魚、鳥、四足獣で食用になるものなら何でも持ち込まれている。しかし、動物の場合、市外の所定の場所で、血や臓腑などを洗い清められたうえで市中に持ち込まれる。これらの動物が屠殺される場面に一般の市民が立ち会うことはない。それは市民たちの間の慈悲心を失わせないためであるという。(「獣の屠畜から我々は人間の首を斬ることを学んだ」(145ページ)とモアは見出しをつけているが、書いているご本人が首切りの刑にあうことになったのはどうも皮肉なめぐりあわせである。)

 食事は各世帯がそのためにつくられたホールで合同でとる。(なんとなく、むかしの中国の人民公社を思い出す。あるいはイスラエルのキブツを思い出す人もいるかもしれない。) このあたり実際に見聞された方のご意見を伺いたいところである。
 このような公共の行事として行われる食事の際に、ユートピア人が一番気にかけているのは病人であるという。各都市には設備の行き届いた公立病院が4か所に設けられている。食事がこれらの病院に入院している人々に届けられた後、残った人々が集まっているホールで食事は公平に分配される。

 食事をだれがどのようにして作るか、また食事の席はどのようになっているのかなどはまた次回に紹介することにしたい。モアは王侯貴族の邸や、大学の寮、修道院などでの大規模な食事になれていたから、大ホールでの食事ということにそれほどの抵抗感がなかったのであろう。この辺りは、物語と著者の思想の性格を考えていくうえで手がかりの一つになるのではないかと思う。

『主よ 一羽の鳩のために――須賀敦子詩集』

8月28日(火)雨が降り出しそうだが、まだ降っていない。

 8月27日、『主よ 一羽の旗のために――須賀敦子詩集』(河出書房新社)を読み終える。イタリア文学者として多くの翻訳を残し、また自分自身の経験をもとに書き綴られたエッセーによって数多くの読者を獲得した須賀敦子(1929‐98)の没後20年を記念して、彼女が和紙、タイプ用紙、ノートなどに書き記したまま、生前には発表することなく残しておいた詩を詩集にまとめたものである。

 1958年9月、留学生としてローマに到着した須賀敦子(1929‐98)はこの年の12月に、生涯の友人であり、詩人であったダヴィデ・マリア・トゥロルド神父と初めて会っている。1959年は大体ローマで勉強と友人たちとの往き来に明け暮れ、8月にはロンドンに遊学、スコットランドで遊んで10月に戻った。この詩集に収められている詩は、この年の1月から12月までに書かれたものである(この年以外に、彼女が詩を書いたかどうかは定かではない)。そして彼女が手元に残していた詩を、それぞれに書き付けられていた日付の順に並べて編まれている。それで、この書物の表題も、収められている詩の配列も、著者の意図を反映したものではない。しかし、そのような成立事情から、詩を書いたときの須賀の心情をあれこれ想像することはできる。

 異言語の中で孤立した状態が、自己内対話を促し、それが詩の姿を取って書き留められることになったというのは、2度ほど海外で単独生活をした私の経験からも想像できる。もちろん、それまで詩をはじめとする日本語の文学作品になじんでいたからそうなったのであって、もっと別の自己表現を試みる人もいるのは当然のことである。(藤田嗣治が絵手紙を盛んに書いたのは、よく知られている。) 1960年から彼女はトゥラルド神父の紹介でミラノのコルシア書店に出入りするようになり、そこでの新しい生活の進展が、いつの間にか彼女の「詩の別れ」の時を告げたように思われる。

 ここに収められた詩を読んでいて、気づくことの第一は、子どもの頃から草花や小動物に親しんで育ったらしい人物が持つことのできる、細かい観察が対象に及び、それがやさしい(優しい、易しい、どちらの意味もある)ことばで表現されていることである。
雨がやんで
ゆふやけのそらは
やっと
すひかづらの花むらに
あまい香を
もってかへる。それで
空気も
ほっと息をついて
町中に
子供らの
透明な声を
溢れさせる。
(雨がやんで 90‐91ページ)

 そのような観察眼が、イタリアの青い空や、ブドウ畑、オリーヴの木々、それまで目にしたことのない、新しい対象を得たときに、どのようにはばたくかは容易に想像できることである。しかし、彼女の詩は単なる叙景にとどまっていない。彼女の詩には、どこか童話的なところがあり、そして多くの作品に子どもたちが登場している。成人した彼女が、もう二度と帰ることのできない無垢な存在として、子どもたちは描かれている。そして、そのような子どもたちの姿が、彼女の独特のカトリック信仰のあり方と結びついて表現されているのが、「もしやあなたが…」と題された次の詩であろう。
もしや あなたが
かくれて おいでではないかと
午後の日射しの
乳母車を
ひとつ ひとつ
のぞいて とほる。
・・・
このくるまには
しのびわらひが
このくるまには
なき声が。

かくれておいでどころか
あなたは 小さな手で
わたしの胸を しかとつかまへ
あるいて、もっと
あるいてと
泣いてせがまれる。
(110‐112ページ)
 乱暴な言い方をしてしまうと、カトリックは神の愛を具体的に受け止めようとするところがあり、プロテスタントはより抽象的な思考の中に神の愛を描き出す。乳母車の中の赤子たちの中に神の子を見出そうとした須賀は、むしろ現実の子どもたちに引き寄せられる。セツルメント活動家としての須賀のもう一つの側面は、このあたりのことから始まったのかもしれないと思ったりする。信仰を性急な形で神の存在と結びつけるのはむしろ軽挙である。接近は慎重であるべきである。

 表題となっている詩は、ロンドンのヴィクトリア駅で他と違った羽色の鳩を見かけたことから作られた「同情」という詩の一行である。「主よ 一羽の鳩のために/人間 が くるしむのはばかげてゐるのでせうか。」(101ページ) セツルメント活動と書いたが、須賀には弱者・少数者の立場に立とうとする強い志があり、そのような気持ちは、ここに集められた他の詩からも読み取ることができる。あるいは詩を書くことよりも社会的な活動の方が大事だと思うようになって、須賀は詩を書かなくなっていったのかもしれない。
 私自身には、いろいろな経緯から、いったん書くことをやめた詩が、いつの間にかまた自分の近くに感じられるようになったという経験があり、須賀にはそんな機会がなかったのはなぜかという気がしないでもない。

 何度も読み返してみたい詩集である。
 

『太平記』(225)

8月27日(月)晴れ、暑い。夜になって雷鳴、雨が降りそうである。

 暦応元年(改元は8月なので、この時点ではまだ建武5年、南朝延元3年、1338)5月、新田義貞は、斯波高経の足羽城を攻めた。7月、越後勢を合わせた新田軍のもとへ、吉野から、八幡山の宮方に加勢せよとの勅書が届いた。義貞は延暦寺に牒状を送り、延暦寺から同心の旨の返牒を受け取ると、弟の義助を京へ発たせた。新田軍上洛の報せに、足利尊氏は八幡攻めの大将高師直を京に呼び返した。その際、師直は包囲していた八幡に火を放った。八幡炎上の報せを受けた義助は、敦賀まで来たところで引き返し、八幡の宮方も、河内へ退却した。
 斯波高経は足羽川流域に7つの城を築いて新田勢の来襲に備えていたが、比叡山の末寺でありながら、藤島庄の経営をめぐって対立していた平泉寺を味方につけた。平泉寺で調伏の祈禱が行われる中、義貞は不吉な夢を見た。閏7月2日、足羽攻めに向かう義貞の名馬水練栗毛が、にわかに荒れ狂うなどの凶兆が現れた。果たして足羽の藤島城へ出陣した義貞は、流れ矢に眉間を射られた討ち死にした。

 新田義貞の軍が引き上げて後、斯波軍では義貞の首を取った氏家光範が斯波高経の前にやってきて、自分は新田一族らしい敵の武将を討ち、首を取ってきた。誰であるとも名乗っていなかったので、名字はわからないが、立派な馬に乗り、物の具を身につけているだけでなく、従っていた武士が死骸を見て腹を切り、討ち死にをしたところから判断すると、どうも主だった武将であったように思われると、また血を洗い落としていない首と、泥の付いた金襴(金糸で模様を織り出した錦の織物)のお守りを添えて差し出した。

 高経は、この首をよくよく見て、不思議なことだ。義貞の顔つきによく似ている。もしそうであれば、左の眉の上にや傷の跡があるはずだと、自分で鬢櫛を取り、髪をかき上げ、ついていた泥を洗い落とさせて、これを見ると、果たして左の眉の上に傷の跡があった。どうもそうに違いないと、思いついて、武士が身につけていた二振りの太刀を、持ってこさせてみてみると、柄(つか)の部分は金と銀で飾って作ってあるが、一振りは、金の鎺(はばき、鎺金ともいう。太刀の鍔の上下にはめて鍔元を固定する金具)の上に銀で鬼切という文字が記されていた。またもう一振りは、銀の鎺金の上に、金字で鬼丸と記されていた。「鬼切」、「鬼丸」というこの二振りの太刀は、源氏代々の重宝で義貞のところに伝わっていたという噂であったのを、今ここで見たのは不思議である、さてはこの首の持ち主は義貞であることに疑いないと思い、さらにまた彼が肌身離さず持っていたお守りを開けてみると、後醍醐天皇が手ずから書かれた書状で、「朝敵征伐のこと、天皇が頼りにされているのはひとえに義貞の武功である。義貞にのみ期待し、他に代えようとは思わないので、できるだけ早く計略をめぐらすべきである」と書かれていた。これで義貞であることは間違いなくなったと、死骸を輿に乗せ、時宗の僧8人に担がせて、葬礼追善のために長崎の往生院(福井県坂井市丸岡町長崎にある往生院称念寺。北陸の時宗の中心発展し、長崎道場の名で知られた。新田義貞の墓所がある)に送った。首を朱の唐櫃の中に入れて、氏家一族の氏家重国にもたせて、ひそかに京へと上らせたのであった。
 「鬼切」は渡辺綱がこれで鬼の腕を切ったと伝えられる。第17巻では義貞が大宮権現に奉納したとされていた。「鬼丸」は北条時政が小鬼を切った太刀で、時行まで北条氏に伝わったという太刀で、源氏の重宝である。時行は、この時点ではまだ生きているので、なぜこの刀が義貞の手に入ったのか不思議である。往生院は室町時代につくられた縁起によれば、養老5年(721)に越の大徳と呼ばれた泰澄によって開かれ、正応3年(1290)に他阿真教によって時宗に改められたという。泰澄の伝記についてはよくわからないが、白山を開いたといわれ、福井県のかなりの寺が彼を開祖としているようである。往生院の門前に一時、明智光秀が住んでいて、その後仕官して、次第に出世していったという。それで(多分、『奥の細道』の帰りだと思うが)芭蕉が「月さびよ明智が妻の咄せむ」という句を詠んでいるそうである。

 義貞の弟の脇屋義助は、河合の石丸城(福井市石盛町にあった城)へ帰って、兄の消息を訪ねた。はじめのうちははっきりとしたことはわからなかったが、だんだん成り行きがわかってきて、戦死したといううわさが伝わってきたので、すぐに斯波高経の本拠である黒丸に押し寄せて、大将の戦死した場所で、我々も戦死しよう(そのくらいの意気込みで、敵を討とうということであろう)」といったが、士卒はみな途方に暮れて、茫然自失としてしまい、気勢が上がらなかった。

 そればかりか、いつの間にか裏切り者出てきて、石丸城に放火するものが現れ、一晩のうちに3度もそんなことがあった。これを見て、斎藤季基と彼の叔父である道猷は義貞の側近として、大将の近くに役所(詰所)を構えるような存在であったが、夜のうちにどこへともなく去っていった。これをはじめとして、将士の中のあるものは発心したわけでもないのに出家して、
往生院長崎の道場に入り、あるいは縁者を頼って、詫びを入れ、黒丸城の斯波高経に降参したりしたので、昨日まで3万騎を越えていた新田一族以外の外様の軍勢は、一晩のうちに逃亡してしまい、夜が明けてみるとわずかに2千騎足らずになってしまった。

 こんなことでは北国で勢力を伸ばすことは難しいというので、(鯖江市上戸口町の三峯山の)三峯城に河島維頼を置き、杣山城には瓜生一族を置き、九頭竜川河口の三國湊の城には畑時能を残して、7月5日の暮れ方に、義助父子は、禰智、風間、江戸、宇都宮らの武士たち700余騎を率いて越前の府(こう、福井県越前市国府)に帰ったのである。

 大将である義貞が戦死すると、大部分の将士は新田方を見限って去って行ってしまう。このあたり、いつものことながら、まことに現実的である。義貞は欠点も多かったが、剛勇に加えて、士卒をいたわり励ますことでは優れた大将だった。それに比べると弟の義助は大将としての魅力に欠けていたようである。とにかく、義貞という巨星が落ちてしまうと、北陸の宮方の劣勢は明らかになる。さて、これからの展開はどうなるのだろうか、というのはまた次回。 

日記抄(8月20日~26日)

8月26日(日)晴れ、暑い。

 8月20日から本日までの間に経験したこと、考えたこと、これまでの記事の補遺・訂正等:

8月15日
 この日の夕方、外出しようとして、蜂に刺された。気になるのでアレルギー外来もあるクリニックで見てもらったが、大事ないということであった。一応、蜂に刺されたあとに塗る薬をもらったが、効き目が実感できなかったので、使わずに時間を過ごすうち、治ったようである。

8月20日
 NHKラジオ『まいにちフランス語』入門編の8月放送分は、インド洋に浮かぶ(というよりもアフリカの東南のマダガスカル島に近い)レユニオン島(île de la Réunion)を舞台として展開する会話で構成されている。
 La cuisine réunionnaise, ça déménage, gràce notamment aux caris qui sont inspirés des currys indiens. N'oublions pas le rougail, un mélange épicé avec de la saucisse ou du poisson. (レユニオン島の料理はスパイシーで衝撃的です。特にインドのカレーの影響を受けたカリーという料理があるためです。忘れてはならないのはソーセージや魚が入ったスパイシーなあえ物、ルガイユです。)
 マダガスカル島の文化がアフリカというよりもインドネシアに近いという話を聞いたことがあるが、レユニオン島の場合はインドの影響があるようである。

8月21日
 『まいにちフランス語』の続き。男女2人連れがレユニオン島を旅行している。この島はストリート・アートで有名で、以前来た時に見かけた絵をもう一度見ようとすると、既に消されているらしく、見つからない。
Touriste 1 : Il y avait un dessin ici avant. Je suis sûre. (旅行者1: 前はここに絵があったんだけど。確かなんだけど)
Touriste 2: C'est éphémère, c'est la vie. (旅行者2:すぐになくなっちゃうよね、仕方がないよ。)
 最後の”C'est la vieは「しょうがないね」「仕方ないよ」という意味の慣用表現である。「それが人生だよ」という意味だが、「生きていれば、こういうこともあるよね」と嫌なことや残念なことがあった相手をいたわる表現にもなるという。

8月22日
 『日経』の朝刊の「ASIAトレンド」というコーナーに出ていた「ミャンマー映画産業が最高」という記事が面白かった。以前、イメージフォーラムでミャンマーの軍政に反対する大衆運動の盛り上がりを描いた映画を見たことがあるが、サスペンス映画や恋愛映画を見る機会があれば、やはり見てみたい。

 NHKラジオ『実践ビジネス英語』は本日からLesson 10: Work Smarter, Not Harder (懸命にではなく、賢く働こう)という新しいビニェットに入る。舞台となっているアメリカの企業で働く日本人社員が、久しぶりに帰国してみて、日本の職場文化が一変していたことに驚いたというところから話が始まる。
I was amazed to find that the workplace culture had changed drastically. (日本の職場文化が一変していたことを知って驚きましたよ。) 
 最近の政府の「働き方改革」に迎合した内容にならないことを希望する。

 この放送の”Quote...Unquote"のコーナーで取り上げられた言葉:
Wise men learn more from fools than fools from wise men.
      ―― Marcus Porcius Cato (Roman statesman, 234 -149 B.C.)
(愚者が賢者から学ぶより多くのことを、賢者は愚者から学ぶ。)
 マルクス・ポルキウス・カトーはローマの将軍・政治家で、大カトー Cato, the Elderと通称される。彼の同名の曽孫(95‐46 BC)は小カトー Cato, the Youngerと言われる。ダンテ『神曲 煉獄篇』第1歌に、煉獄の守護者として登場しているのは、この小カトーの方である。

8月23日
  真弓常忠『古代の鉄と神々』(ちくま学芸文庫)を読み終える。著者は京都の八坂神社や大阪の住吉神社の宮司を務められる一方、神道学者としても多くの業績を残されているが、特に古代の祭祀をめぐる研究によって知られる。住吉神社の宮司だった時期に、この神社に参拝に出かけたことがあり、一度お目にかかりたいと思ってはいたのだが、予約を取っていなかったので、断念した経緯がある。我が国の製鉄は、弥生時代から始まっており、銅鐸・銅剣・銅矛なども、実は鉄とかかわりが深いこと、神々の祭祀が古代の鉄文化のあとを明らかにすることが考察されている。

 昨日に引き続き、『実践ビジネス英語』の”Quote...Unquote"のコーナーで紹介された言葉:
Everybody is ignorant, only on different subjects.
         (from From Nuts to the Soup, The New York Times)
---- Will Rogers (U.S. actor and humorist, 1879 - 1935)
(人はみな、無知である。ただし、異なる事柄についてであるが。)
 むかしAKB48のメンバーで顔と名前とが一致するのは、篠田麻里子さんだけであった。彼女が「卒業」したので、誰一人として、顔と名前が一致するメンバーがいなくなった。無知を自覚するのには、それなりの知が必要なのである。
 昔勤めていた学校の同僚で、学生に対するガイダンスの際に、先生方は学生たちのことをよく知っているから、学生は身を慎むべきだと言い聞かせている人がいたが、これは無知の自覚がない例である。

8月24日
 この日、歯医者に歯の検診に出かけ、前回からだいぶ間隔があいていたこともあり、歯の状態が悪くなっていることが分かった。それだけが理由ではないが、ブログ訪問の時間が取れなかった。あしからず。

 またまた『実践ビジネス英語』の”Quote...Unquote"のコーナーから:
Not failure, but low aim, is a crime. (from For an Autograph)
    ―― James Russell Lowell
(U.S. poet, critic, editor and diplomat, 1819 - 91)
(失敗することではなく、低い目標をもつことが罪なのだ。)
 ジェームズ・ラッセル・ローウェルは、外交官として活動する一方で、文学活動に携わった。奴隷解放運動に関係する詩を書き、これは後の公民権運動にも影響を与えたといわれる。ローウェル家はBoston BrahminとかBoston Eliteとか言われる名門一族の一つであり、日本にやってきて能登地方の旅行記を書いたり、火星の研究をしたりしたパーシヴァル・ローウェル(1855‐1916)もこの一族の出身である。そういえば、Boys, be ambitious!といったウィリアム・スミス・クラーク(1826‐86)もローウェルの同時代人であり、同じくマサチューセッツ州の出身である。

8月25日
 『日経』の朝刊は8月22日の「ベネズエラ・デノミ「成功」発表」という記事に続き、「10万分の1 ベネズエラ・デノミの劇薬」という記事を掲載している。MASAKI『独裁国家に行ってきた』という本にベネズエラに出かけた一部始終についても書かれているが、新聞記者でも行きたくないという国のようで、この記事の記者もリオから原稿を寄せている。

 同じく『日経』の読書欄のコラム「半歩遅れの読書術」で大野晋編『古典基礎語辞典』(角川学芸出版)という辞書の執筆者の大半が女性であり、そのことがこの辞書に「変換できぬ気持ちを読む」という独特の個性を与えているという高橋秀実さんの文章が出ていた。この辞書を使ってみようと思う。

 ニッパツ三ツ沢球技場でなでしこリーグ2部第1節の横浜FCシーガルズとスフィーダ世田谷の対戦を見た。第1節というのは、本来3月21日に行われるべき試合が、悪天候のために中止になり、順延されたという経緯からである。現在2部の10チーム中4位のシーガルズにとって、3位のスフィーダ世田谷は1部昇格を果たすためにはぜひ勝利しなければならないチームであり、これまでの対戦成績から見ても、難敵の一つである。風が強く、前半風下を選んだスフィーダに攻め込まれる場面が多かったが、次第にペースをつかみ、攻勢に転じる。後半56分にフリーキックの機会を得て、キャプテンのMF加賀選手がゴールを決め、終盤には一部の選手の足が止まってしまい、どうなるかと思ったが、この1点を守って貴重な勝ち点3をあげ、スフィーダと入れ替わって3位に浮上した。
 この日、アウェーで松本山雅と対戦した横浜FCはDFのぺ・スンジン選手がイェロー・カード2枚で退場になって人数が一人少なくなり、前半に1点を先行されたにもかかわらず、後半3点を挙げて逆転勝利を飾り、これまた3位に浮上した。讃岐戦の渡辺一仁選手に続き、この試合でも田代選手がゴールを決めるなど、チーム力の上昇がうかがわれるのは頼もしいことである。

8月26日
 『朝日』朝刊の「視界良好」というコーナーでは担当記者が熊本県立劇場館長の姜尚中さんと「新しき村」を訪ねている。共産主義的な共同労働と、「人間らしく生きる」「自分を生かす」という理念とを両立させようとする「村」の実践が細々とではあるが、現在まで続いていることの意味が問われている。これから後継者が育つかどうかがその回答になるだろう。
 以前から書いていることであるが、武者小路が中国絵画の収集に見せた審美眼の素晴らしさに感心する気持と、それだけの金があったら、もっと「村」のために使ったほうがよかっただろうという気持ちとが相半ばしている。

 「朝日」朝刊の「声」という投書欄に「自虐も美化もせず歴史直視を」という71歳の無職の男性からの投書が出ていたが、歴史を直視する見解を歴史修正主義者たちが「自虐」と難癖をつけたという歴史的経緯をまず直視する必要があるだろう。投稿者は「団塊」もしくは全共闘世代に属する年齢であるだけに、これまでの歴史論争について無知であるとは思えないので、まず自分史を掘り起こすことのほうが重要であろう。

 『日経』の「美の粋」というコーナーでは新たに「山のリアル(上)」として江戸時代の画家、小泉斐(あやる、1770‐1854)とも池大雅(1723‐76)の富士山を描いた作品を取り上げていたが、興味深い企画である。

 同じく『日経』朝刊の「名作コンシェルジュ」は成瀬巳喜男監督の『乱れる』を取り上げている。神保町シアターで上映中なので、見に行くかもしれない。どうもこの劇場では、高峰秀子の出演作が一番人気があるようである。そう書いている私も、高峰秀子の魅力と実力をこの映画館での旧作上映を通じて知ったという思いがある。

 同じく、『日経』朝刊の文化欄に最近、映画『焼肉ドラゴン』を監督した鄭義信さんが「ソウル 夏日記」という文章を書いている。韓国では(というより、「韓国でも」のほうがしっくりきそうだ)、大手企業による再開発が進められていて、大きな問題となっているという。「僕の目から見ると、ソウルは十分に発展しているように見える。それでもなお再開発を推し進めようとする理由がわからない。誰のための再開発で、再開発の向かう先には何があるのだろう」という。
 私がソウルに出かけたのはもう10年以上昔の話だが、まだ「開発」の可能性はあるだろうという印象は持っている。むしろ、開発によって何が失われ、より「俗悪な」何物かが生まれる危険というものを、過去の様々な経験から語っていくべきではないかと思う。エドワード・モーガン・フォースターが英国の都市近郊における開発事業の展開を通じて、何が失われたかを書いた文章など参考になるはずである。 

山内譲『海賊の日本史』(6)

8月25日(土)晴れ、暑い。

 第4章「戦国大名と海賊」は章題の通り、戦国大名と海賊との関係を取り上げているが、この時代の東国と西国の違いに対応するように海賊にも違いがあることを述べているのが特徴的である。
 前々回は西国の海賊たち、瀬戸内海を中心に活動した村上三氏:独立性の強い能島村上氏;伊予の河野氏の重臣であったが、後に豊臣方に寝返って大名となった来島村上氏;毛利氏と結びつく因島村上氏、その他の海賊たち:生口氏、乃美氏、多賀谷氏、塩飽の海上勢力、忽那氏、二神氏、若林氏、岐部氏、渡辺氏などの活動を概観した。
 これに対して前回は東国の海賊たち、相模湾と江戸湾の大部分を支配し、駿河湾にも進出しようとした北条氏の水軍:愛洲氏、高尾氏、小山氏、三崎十人衆、山本氏、梶原氏などと、今川氏を駆逐して駿河の支配権を握ったために海上勢力を必要とするようになった武田氏の水軍:岡部(土屋)氏、伊丹氏、間宮氏、小浜氏、向井氏などの活動を概観した。また東西の中間と言える伊勢湾でも九鬼氏などの活動がみられたことが触れられた。

 今回は、この章の第3節「海賊から見る西と東」の内容を検討する。
 山内さんが西国と東国の海賊の違いとして挙げている第一の点は、西国の海賊が航行する船から通行料を取るという「賊」的な行為を日常的に行っていたのに対し、東国の海賊はそのような通行料を徴収することはなく、水軍としての役割を果たすだけであったということである。 
 もう一つ目につくのは、東国における海戦では、敵船を陸に追い上げるのが戦法であり、それに成功すれば勝利と考えられていたのに対し、西国では炮録火矢という塩硝・硫黄・炭などを混ぜて作った爆弾のようなものを相手の船に接近して投げ込んで、敵船を焼き討ちにする戦法が採られたということである。

 豊臣秀吉による天下統一=戦国時代の終わりは、当然のことながら各地の海賊のあり方にも影響を与えた。第4節「海賊たちの転身」はこのような時代の変化の中で海賊たちがどのような生き方をするようになったのかを追う内容である。
 瀬戸内海の海賊衆のうち、早くから毛利氏との結びつきを強めていた因島村上氏は毛利氏の家臣団の中に残った。来島村上氏も信長の毛利攻めの際に、秀吉の誘いを受けて織田方には知ったために、豊臣大名化することに成功した。
 これに対し、能島村上氏は秀吉の海賊禁止令の主な標的とされ、居場所を失って苦難の道を歩むこととなった。軍事的にも経済的にも既得権を失っていく。この海賊禁止令の影響を受けたのは、能島村上氏だけでなく、肥前の深堀氏も同様で、秀吉が、瀬戸内海だけでなく長崎近海を含めた広い海域での海上交通の安全確保を意図していたことがわかる。
 海賊禁止令以後、能島村上氏は瀬戸内海から離れざるを得なくなり、各地を転々としたが、秀吉が死去した後の慶長3年(1598)にやっと瀬戸内の安芸国竹原(広島県竹原市)に帰ることができた。この過程で能島村上氏は、毛利氏の家臣団の中に入ったものと思われる。

 一方、東国の海賊の場合はどうだったのかというと、北条氏の配下にあった山本氏の動向は不明で、梶原氏は紀州に帰って、土地の郷士として過ごし、海上に再び乗り出すことはなかったようである。
 これに対し、武田氏に属した海賊たちは、武田氏の滅亡後、駿河に進出してきた徳川家康に属して、新たな活躍の場を得る。小浜氏、向井氏、間宮氏、千賀氏などであるが、この後、小浜氏は大坂警固の船手衆となり、千賀氏は尾張徳川氏に仕えることとなり、向井氏が船手頭となって徳川幕府の水軍衆を率いることになった。(間宮氏については書いていないが、既に述べたように、徳川幕府の旗本となったはずである。)

 「秀吉の全国統一やそれにともなう海賊禁止令の発布が海賊の行く末を左右する第一段階であったとすれば、第二段階はやはり関ヶ原合戦である。」(181ページ) 
 来島村上氏は朝鮮出兵の時に水軍の主力として動員され、かなりの犠牲を払い、さらに関ケ原の戦いでは西軍に属したために苦境に陥るが、かろうじて豊後国内玖珠郡森(大分県玖珠町)に領地を得て、1万4千石の大名として存続することになる。(このことについては司馬遼太郎の『街道をゆく8 熊野・古座街道、種子島みち ほか』に所収の「豊後・日田街道」の中に触れられているので、興味のある方はお読みください。)
 能島村上氏は関ケ原以後、毛利氏が領地を削減され、家臣団を再編することになったあおりを受けて、一族や家臣の多くが離散することになった。こうして主家を離れた武士たちは出仕先を転々として過ごした例が少なくない。

 こうしてみると、幕藩制社会初期においては、幕府の海上軍事体制の主な部分は、依然として元の海賊たちによって支えられていたことがわかる。「近世社会にあっても近世社会なりに海上とのかかわりが必要とされ、その関連で一定の海上勢力の存在が求められたということであろう。」(187ページ) そのような海上勢力の具体的な姿については、部分的にではあるが、終章「海賊の時代」の第3節「海賊たちの遺したもの」で触れられている。それはまた次回に取り上げることにする。 
 

和田裕弘『信長公記――戦国覇者の一級史料』

8月24日(金)午前中、風雨。時々、強い風が吹いた。午後になって雨がやんで、晴れ間も見えてきた。

 8月23日、真弓常忠『古代の鉄と神々』(ちくま学芸文庫)、続いて和田裕弘『信長公記――戦国覇者の一級史料』(中公新書)を読み終える。ともに読みごたえのある書物であったが、内容について比較的まとめやすそうな後者をまず取り上げることにする。4章からなり、時代小説を読みなれていると、大体知っているような話が多いのだが、それでも実際はこうだったのではないかときめ細かい考察を展開していて、興味深い。今回は第1章の途中までしか紹介できなかったが、その面白さの半分くらいは実感していただけるのではないかと思う。

 『信長公記』はその名の通り、織田信長の一代記であり、信長にその弓矢の腕前を認められ、馬廻衆として仕え、後に信長の重臣である丹羽長秀の与力として奉行職も務めた太田牛一が、自分自身の日記や信長についての記録をもとにまとめた書物であり、著者が信長のそば近くにいた存在であることから、歴史的な史料として高く評価され、信長研究の基本史料の一つとされてきた。
 江戸時代以後、この『信長公記』の内容を小瀬甫庵が「増補」した『信長記』(この書物では『甫庵信長記』と表記)が一般に流布し、桶狭間の奇襲とか、長篠の戦における鉄砲三千挺など、ここから広がった説が少なくない。しかし、厳密な歴史研究を進めようとすると、信長側近の人物であった牛一の『信長公記』の記述を確認する必要がある。
 『信長公記』の伝本は多く、異同もあるが、著者は、最近急速に進んでいる『信長公記』研究の過程で、諸本の整理にあたった経験を生かして、大部にわたる著書の中の興味深い出来事を抜き出して、紹介して全体の紹介に代えている。

 序章「『信長公記』とは」で、以上述べたようなこの書物のなりたちや性格について概観した後、第1章「尾張統一と美濃併呑」では、『信長公記』の記述に加えて、他の史料も参照しながら、織田氏の起こりと一族の中での信秀、信長父子の台頭の経緯を概観し、信長による美濃進出と岐阜城を居城とするまでを記述している。
 織田一族はもともと、越前の劔神社の神職の家柄であったが、尾張・越前の守護である斯波氏の被官となり、斯波氏にしたがって尾張に移り、やがてその織田一族の中で織田伊勢守家と織田大和守家が守護代として実権を握るようになったが、大和守家の別家の出身でその三奉行の一人であった信秀が頭角を現して、尾張の国の旗頭的な有力武将にまでのし上がった。しかし、駿河の今川氏、美濃の斎藤氏との両面作戦が頓挫し、凋落の道を歩むことになる。それまでは信秀の武略に押さえつけられていた守護代織田家が反撃を開始したのである。それに織田家の他の流れや、駿河の今川氏、美濃の斎藤氏が加わり、信秀は四面楚歌の状態に陥った。しかし信秀は平手政秀の尽力によって、美濃の斎藤道三の息女を自分の息子である信長の正室に迎えることで局面を打開する。
 この結婚は有名なのだが、この時信長は16歳、斎藤道三の娘は15歳。道三の娘についてはその本名は確認できず、美濃から来た姫という意味で濃姫と通称される。山岡荘八原作の小説を映画化した『風雲児 織田信長』(1959)などで描かれる信長・濃姫よりも、実像はかなり若い(信長は中村錦之助、濃姫は香川京子。そんなことを書いているこちらの年がわかるというものである)。「信長の正室でありながら、その後の濃姫の動向は不明な部分が多い。」(27ページ) 濃姫ばかりではない。徳川家康の正室の築山殿についても本名はわからない。信長、家康に比べると、良質な史料があまり残されていないはずの豊臣秀吉の正室高台院についてはその本名がわかっているというのは、ご本人の実力のしからしむるところかもしれない。

 美濃の斎藤氏との間の関係を築き、駿河の今川氏に対しても将軍や朝廷の力を借りて和睦を進め、本家筋の清州織田家(大和守家)とも平手政秀の尽力によって何とか和睦にこぎつけた。というところで、信秀が天文21年(1552)に42歳の若さで没してしまう。信長が家督を相続することになるはずだったが、簡単には決まらなかった。信秀が晩年に居城とした末森城を引き継いだのは、信長の実弟の信勝で、柴田勝家、佐久間盛重とその一族という家老衆がつけられた。信長の家老は林秀貞、平手政秀らであったから甲乙つけがたい。「分割相続されたような印象である。」(30ページ) 信秀の病死によって、尾張国内は戦乱状態に戻る。信長の尾張統一への道は遠い。

 しかも信長の傅役であった平手政秀が、信長との関係がぎくしゃくしたことから天文22年(1553)閏正月に自害し、おそらくはそのことを心配した信長の岳父である斎藤道三が信長との会見を思い立つ。「戦国大名同士の会見というのは極めて珍しい。そんな要請をする道三もやはり信長同様に変わり者だった。」(34ページ) 会見場に先に到着していた道三は、町はずれの小屋で信長の様子を盗み見ようとした。予想通り、信長は人目を引くような、常識はずれの服装でやって来た。それどころではなく、槍、弓や鉄砲で武装した家臣たちを引き連れていた。

 会見場所についた信長は、そこで尋常な姿に着替えた。『信長の家臣はこの変化を見て、わざとたわけたふりをしていたことに気づき、肝を消すほど驚いた。」(35ページ) 信長に対する悪評は服装や行儀が悪かったというだけのことで、武将としてのものではなかった。
 しかし、会見場所で対面ということになると、服装は尋常になったが、行動そのものは、人を食ったものであった。お互いに<知らぬ顔>をしていたが、家臣の堀田道空が「これぞ山城殿にて御座候」と道三を紹介すると、信長は「であるか」と人を食った対応をする。対面して、湯漬けを食べ、杯を交わしたのち、再会の約束をして別れたが、道三は苦虫を噛み潰したような顔で不機嫌であった。道三の側近である猪子高就が、評判通りの「たわけ」でしたなぁといってご機嫌を取ろうとすると、道三は自分の子どもが将来、あの「たわけ」の信長の家来になるだろうといって、それ以後、信長の悪口を言わなくなったという。この猪子高就はその後、信長の家臣となり、本能寺の変の際に信長とともに死んでいるので、牛一はおそらく、猪子本人からこの逸話を聞いたのであろうと和田さんは推測している。

 岳父の道三から高い評価を受けた信長であったが、その道三が、実子の義龍に背かれ、長良川の戦いで敗死してしまう。しかも義龍は織田一族の岩倉織田氏と同盟し、さらに信長の異母兄信広や、同母弟信勝とも連絡を取って信長を脅かすことになる。

 最初に述べたように、第1章の半ばまでしか紹介できず、信長が尾張を統一するのは次回のことになりそうである。あまり関係のない余談を一つ:30代のはじめの頃に、勤務校の図書館に山岡荘八の『徳川家康』がそろっていたので、休み時間を使ったり、借り出したりして全巻を読んだことを思い出す。山岡の『徳川家康』は最初の方が面白く、だんだんつまらなくなる。後に、鷲尾雨工の『若き日の徳川家康』を読んだら、家康の母の伝通院に対する評価とか、織田の人質になっていた時の信長との出会いとか、鷲尾が書いていることのかなりの部分を山岡が引き継いでいることが分かった。鷲尾雨工は第2回直木賞受賞作家で、直木三十五の友人だったことから、その受賞についてはとかくの評判があるが、すぐれた作家であったことは間違いなく、もっと評価されてもいいと思っている(これが言いたかった)。黒田如水について、吉川英治、松本清張、司馬遼太郎がそれぞれ長編小説を書いているが、鷲尾雨工も書いていて、そういうところにも彼の歴史小説家としての着眼の非凡さが現れていると思っているのである。 

森本公誠『東大寺のなりたち』(9)

8月23日(木)晴れ、午後になって雲が多くなってきた。依然として暑い。

 天平勝宝3年(751)6月には廬舎那仏像の螺髪が出来上がった。螺髪は、大仏の頭部の縮れてにな(螺)の殻のように見える髪のことであり、本体とは別につくられていたようである。そしてこの年のうちに大仏殿もほぼ完成した。明けて4年3月14日には廬舎那仏の鍍金(金メッキ)が始まった。その1週間後、3月21日付で聖武太上天皇からの勅書が高位の使者によって大仏開眼会で重要な役割を演じることになる僧侶たちに届けられた。その勅書の内容が『東大寺要録』に採録されている。

 第1は菩提僧正を開眼師に招請するもので、皇帝が菩提僧正にあてたという書式になっているが、実際には聖武太上天皇が発したものである。『続日本紀』には天皇(=孝謙天皇)が出席・主宰されたと記され、聖武太上天皇・光明皇太后についての記事はないそうである。また開眼会は4月8日に行われることになっていたが、8日には仏生会が行われ、開眼会は9日に行われた。準備の都合でこうなったのだろうと森本さんは推測しているが、妥当な意見である。〔現在でも釈尊の誕生を祝うのは4月8日のことであり(上座部仏教の国では別の日が祝われている)、いつごろから、どのようにして定着したのかは興味ある問題である。〕
 注目されるのは、招請の理由が太上天皇が病弱で開眼供養ができないため、僧正に代役を頼むことにしたということである(この時期、僧正が僧綱の最上位にいた)。ということは聖武太上天皇は願主として自ら、筆を執って改元するつもりであったと考えられる。のちに、鎌倉時代になって、治承寿永の争乱で大仏の首が落ちたのを元に戻し改めて開眼供養が行われ時に、後白河法皇が自ら仏前の足場に昇って、正倉院に保存されていた天平筆で開眼を行われたのは聖武天皇の意思を継ぐものであったとも考えられる。

 第二の勅書は隆尊律師を華厳経講讃の講師に招請するもので、さらに道璿律師を呪願師に、景静(けいじょう)禅師を都講に招じる勅書も出された。景静は行基の弟子なので、大仏造立の勧進としての行基の功績を考えての起用と思われる。勅書が届けられたはずだが(記録に残されていない)、華厳経講讃の読師には延福法師が招かれた。延福は金鍾山房時代からの東大寺の僧侶であった。開眼師らの招請に合わせて、諸寺それぞれの僧侶たちにも開眼会への出仕が要請された。各寺では名簿の作成に追われたことであろうと森本さんは書いているが、各寺の列席することになった僧侶たちもあわただしく準備に追われたことと思われる。

 聖武太上天皇と光明皇太后とは早くも4月4日に平城京を発って東大寺に行幸された。現在では同じなら市内に属しているし、近鉄奈良線にのると、復元された平城京の主な建物を見ることができるから、距離感がつかめるはずであるが、要するにそれほど遠くへだった距離ではないのに5日も前に来寺されたのは、開眼会の準備の様子を自ら確かめようというお気持であったからであろう。7日には貴族の諸家から仏前への造花の献納がなされた。大仏殿内の飾りつけも着々と進行した。
 4月8日にはすでに述べたように仏生会が、太上天皇・皇太后の隣席のもとに行われた。これについては正倉院文書によって確認できるそうである。この際の本尊は東大寺が所蔵する国宝の誕生釈迦仏立像であったと考えられている。大仏開眼の際に使われた多くの品々が正倉院によって現在なお伝えられているのは(言葉のもともとの意味に即して)有難いことである。
 9日の開眼会当日、孝謙天皇も文武百官を率いて東大寺に行幸、聖武太上天皇・光明皇太后と合流された。

 いよいよ開眼会が始まる。開眼の作法は大仏殿内の廬舎那仏像に施すのであるが、儀式のほとんどは大仏殿の前庭で行われる。儀式はもっぱら元日に内裏の大極殿で行われる朝賀の儀、つまり新年の儀式に準じて行われた。文武百官の五位以上の貴族は礼服を着し、六位以下は位階に相応する朝服を着て前庭左右に居並んだ。
 聖武・孝謙・光明の3人が東大堂布板殿という仮設の建物に着座された。さらに既に招請されていた高位の式僧たちが、それぞれ所定の位置に座った。その数1020人。

 次いで輿に乗り白い天蓋を捧げられた開眼師の菩提僧正が、左兵衛率(かみ)の正五位下賀茂角足(つのたり)と右中弁の従五位上阿倍嶋麻呂の引導によって東門から、やはり輿に乗り白い天蓋を捧げられた講師の隆尊律師が、参議の従四位上橘奈良麻呂と従四位上大伴古慈斐(こしび)の引導によって西門から、同じく輿に乗った読師の延福法師が、参議の従四位下藤原八束と従四位下石川麻呂の引導によって東門から入り、堂前の幄舎=仮設の建物に着座した。

 また呪願師の唐僧道璿律師、都講師の景静禅師、維那師らも所定の座に着いた。開眼師ほかの重役僧6人を加えるとこの開眼供養に集まった僧侶は1026人である。彼らを引導した役人たちの地位の高さ、(必ずしも芳しいものではない場合もあるが)歴史に残した知名度など、この開眼供養の同時代と、後世に示した意義を語るものである。

 さて、いよいよ開眼ということになるが、「四聖」のうち行基はすでに入寂し、聖武太上天皇は本来演じるべき主役の座を菩提僧正に譲って前庭でこの盛儀を見守られている。インドから来朝した菩提僧正が開眼会の主役を務め、唐僧道璿律師が呪願師となかなか国際的な配役で儀式は進行している。それはいいけれども、良弁少僧都はどこで何をしているのか、気になるところである。次回は、開眼会のさらに続きについてみていく。

トマス・モア『ユートピア』(15)

8月22日(水)晴れ、暑い。

 1515年、イングランド国王が外交交渉のためにフランドルに派遣した使節団の一員であるトマス・モアは交渉の中断中にアントワープに赴き、その市民であるピーター・ヒレスと親しく付き合った。ある日、そのピーターからモアはラファエル・ヒュトロダエウスという人物を紹介される。ラファエルは新大陸の国々を歴訪して、セイロン島からヨーロッパへと戻ってきたという。ラファエルの経験と知識とに感心したピーターとモアは、彼にどこかの王侯の顧問としてその経験と知識とを実際の政治に生かすように勧めるが、ラファエルは王侯たちは戦争と自分たちの財産を増やすことにしか関心を持たず、その取り巻きたちはその鼻息を窺ってばかりいるので宮仕えはしたくないという。そしてヨーロッパの諸国、とりわけイングランドの社会の矛盾や問題について話すうち、それらの解決のための手掛かりとなるような国が新世界にある、ユートピアであるという。ピーターとモアは、ラファエルにそのユートピアについて話すように頼む。
 ユートピアは54の都市からなる島国で、もとは半島であったのが、ユートプスという指導者が出て掘削工事を行って大陸から切り離された。54の都市は適当な距離を保っており、都市間の土地争いは起きていない。そこではすべての人々が働き、特に都市の周りの農地では全員が交代で働くことになっている。住居は10年ごとにくじ引きで交換し、役人は経験豊かな市民たちの間から選挙でえらばれる。重要な事柄は、各都市の代表が島の中心部にあるアマウロートゥムという都市に集まって決めるが、必要があれば全島会議に諮られることもある。すべての人々がなにかの職業に従事することになっていて、農業が主な職業であるが、その他いくつかの職業に従事する人々がいる。

 ユートピアでは性別、既婚未婚の別がわかるようになっているほか、すべての人々が同じ形の服を着ているので、服を仕立てる専門の職業は見られず、各人がそれぞれの家庭で自分たちの衣服をつくる。農業以外にいくつかの職業があるが、その技能のうちのどれか一つを男女の別なくすべての人間が習う。女性は弱者として軽い仕事を選ぶことになるので、羊毛織か亜麻織を選ぶことが多い。一般には父親の職業を習うことが多い。「というのは多くのひとは自然の性向で父親の職業につきたがるからです。」(134ページ)しかし、もし子どもが父親の職業以外の仕事を習いたいと思えば、その仕事をしている家庭に養子として加わることができる。その際、できるだけよい養父を選ぶように実の父親も役人たちも配慮する。一つの職業を習い覚えた後、また別の職業を習うことも認められている。そうして2つ以上の職業につくことができるようになったものは、その片方が特に社会にとって必要だという場合を除き、自分のより強く希望する職業を選ぶことができる。

 30世帯からなる住民単位から選ばれた部族長の主な仕事は、一方では怠けて仕事をしない者がいないか見張ることであり、もういっぽうでは、働きすぎて疲れきっている者がいないかと注意しながら、働きぶりを監督することである。「そのような(働きすぎの)労働は奴隷的酷使よりなお悪いからです。しかし、それが、ユートピア人以外のほとんどすべての労働者の生活状態なのです。」(134‐135ページ) 
 ユートピア人たちは夜も含めて1日を24時間に等分し、そのうち6時間を仕事にあてる。そのうち3時間は午前中、昼食のために1時間休憩し、その後また3時間働いて、それから夕食の時間となるという。ちょっとわかりにくいが、実は彼らは1日の最初の時間を正午から数えるので、我々の時間で言うと正午から3時間働いて昼食のために1時間休み、それからまた3時間働いて夕食をとるいうことである。それで我々の時間で言うと午後8時ごろに就寝することになる。睡眠は8時間とる。(ということは、翌日の午前4時ごろに起きるということになる。)

 仕事と睡眠、食事の間の時間は、各人の自由裁量に任されている。たいていのユートピア人はこの時間を学問(リテラエ)のために使っている。(午前4時から正午までの時間は自由に使えることになるから、このようなことは可能である。) 毎日、早朝に公開講義が行われ、それは学問研究のために選抜された人々だけでなく、興味のある人々も参加できるようになっている。
 多くのひとが指摘しているように、またこのブログでも述べているように、ユートピアは実在のイングランドから夢想された世界である。イングランドは日本に比べて緯度が高いので、夏には午後8時くらいまで(サマータイム制をとっているので、実際には午後9時くらいまで)明るいのである。勉強好きなモアは、6時間働き、8時間睡眠をとって、(おそらく)3時間は食事のために休み、残りは勉強するというユートピア人たちの姿を描いているが、現実の英国人はテニスをしたりして体を動かしている例が少なくないようであった。逆に冬になると、日照時間は日本よりもはるかに短くなる。

 「夕食後の1時間を彼らは夏なら庭で、冬なら食事をとる共同ホールで遊んで過ごします。そこで彼らは音楽を奏でたり、会話を楽しんだりします。」(136ページ) だからユートピア人は、まるで遊ばないというわけでもないのだが、スポーツよりも盤戯が好まれているようである(この辺がモアの趣味なのであろうか)。

 6時間労働では十分な生産をあげることができないのではないかという疑問に答えて、ヨーロッパでは多くの人々が働いていないという現状を指摘して、すべての人間が労働に従事するようになれば、労働時間は現状よりもはるかに少なくなるはずだという。ここには権力の末端にいたり、権力に寄生したりして、怠惰に生活している人々へのモアの怒りが感じられる。さらに、日常生活で必要とされない贅沢品のために、多くの労働が浪費されているという現実も指摘される。
 部族長たちには、自分たちが模範となって他の市民の勤労意欲を掻き立てることが求められている。労働から免除されるのは、学問研究に専念することを認められた人々だけである。彼らがもし、その期待に背けば職人に戻されるが、逆に職人の中で学問研究で頭角を現す人が出れば、彼らは学者のグループに昇格することもある。そして公職への被選挙権があるのは、これらの学者グループに属する人々だけである。(一種の哲人政治である。)
 ユートピアでは建造物は絶えず補修され、また改修のための準備が行き届いているので、巨額の建築費をかけて新たに建築物を建てるということはほとんどなく、また衣類についても贅沢をしないので、費用は掛からない。
 彼らは全員が有益な仕事に携わっており、無駄やぜいたくが省かれているので、労働時間は少なくて済む。社会の目的が「公共の必要という点から許される限り最大限の時間を、肉体労役分から解放し、精神の自由と共用(来るとぅす)のために確保すること」(141ページ)であるので、余計な労働を強いることはない。精神の自由教養こそが人生の幸福であると彼らは信じているからである。

 モアの時代は、各国で農民の反乱がおきた時代であり、それは富の偏在とともに、労働の偏在が誰の目にも明らかであったからである。古代の哲学の知識と、同時代の社会の観察を組み合わせて、そのような社会の抜本的な改革を論じている点が注目されるのである。

浦島伝説の変遷

8月21日(火)晴れ、暑さが戻ってきた

 本日(8月21日)の『日本経済新聞』の文化欄に、苫小牧駒澤大学教授である林晃平さんの「浦島伝説 壮大な変遷」という興味深い論稿が掲載されている。浦島太郎の伝説をめぐっては、かなり多くの研究が積み重ねられていて、林さん自身も既に『浦島伝説の研究』(おうふう、2001)という著書を発表されている。この度、新たに『浦島伝説の展開』(おうふう)という書物を上梓されたそうで、600ページを超える大著だというから、年金生活者の私には手が出るような値段の書物ではなさそうで、この新聞記事の概要を見ていくことで我慢しておこう。

 浦島太郎はもともとは、亀ではなく、船に乗って竜宮に出かけていた。そもそも浦島太郎という名前になったのは、室町時代の御伽草子からで、古代の伝説の世界では水江(みずのえ)の浦島子であった。また行き先も竜宮ではなくて、常世の国あるいは蓬莱であった。その竜宮城も海底ではなくて、海上にあったという話もある。浦島太郎が開けた玉手箱から上がるのは白い煙ではなくて、五色の煙だったりする(『水鏡』では紫の煙である)。とにかく古代から現代にいたるまで浦島太郎の伝説は様々に語り伝えられてきた。

 そのような伝説の変遷を、主として御伽草子以後の展開に焦点を当てて研究してきたのが林さんであり、各種の絵巻物や絵本など、国内だけでなく海外に収蔵されるものまで探しながら、変化の様相をさぐり続けてきた。この論稿の中で強調されているのは、次の3点である:
 浦島太郎が亀にのって竜宮城に行くことになるのは、資料に基づく限り18世紀の初頭からである。同じ時期に「蓑亀」という長寿の象徴である亀の図像が流行したことと関係があるらしい。
 竜宮城は蜃気楼と関係が深い。北海道の小樽には以前、「竜宮閣」という遊園地があったが、このあたりから蜃気楼が見えることによる命名であったそうである。また幕末の錦絵には、当時蜃気楼の名所として知られていた四日市、桑名のあたりの伊勢湾と竜宮城を背景に浦島と乙姫を描いたものがあるそうである。
 浦島伝説は近・現代になっても語り継がれ、変容を続けている。太宰治が1945年に執筆した「浦島さん」などは、空襲にあった竜宮城を描いており、そうした変容ぶりの一例である。

 林さんとは別の角度から浦島太郎伝説に取り組んだ研究成果として、三舟隆之『浦島太郎の日本史』(吉川弘文館:歴史文化ライブラリー、2009)があるが、そこでも林さんの浦島が亀にのるようになったのは18世紀の初頭の文献からであるという見解が紹介されている。ただし、「蓑亀」の話は取り上げられていないから、「蓑亀」との関連は、その後の研究によって抱かれるようになった見解ということであろう。
 蜃気楼というと、むかしは大ハマグリ=蜃が気を吐いて、楼閣を描いたものと信じられていた。林さんが取り上げている伊勢湾岸の桑名はハマグリで有名な土地である。そこまで書いていないのは、話が荒唐無稽になるからかもしれないが、お伽草子には「蛤の草紙」という話もあって、浦島太郎と似ている点があるのが気になる。

 林さんはこの物語の多様な変遷ぶりを強調しているが、その点は三舟さんの研究も同様である。浦島についての情報(?)もしたがって錯綜しているが、ところどころ奇妙に詳しい。その結果として、ツッコミどころの多い物語になっている。たとえば、『日本書紀』によると、雄略天皇22年(478)に蓬莱国へ出かけたことになっており、奈良時代に『日本書紀』が成立した時点で彼が故郷に戻ってきたことも暗示されてはいる。『万葉集』の高橋虫麻呂の長歌も同様。ところがこれらよりも後に成立した『水鏡』では同じく雄略天皇22年の浦嶋子の蓬莱への出発を記すだけでなく、淳和天皇の天長2年(825)に浦嶋子が還ってきて、玉の箱を開けたところたちまち翁になったという話が出てくる。347年ぶりに帰って来たと記されていて、数字は合っている。『日本書紀』に浦嶋子のことが記されている理由については、神仙の記事を掲載することで史書としての体裁を整えようとした(現代の目から見れば、かえって歴史書としての価値が損なわれている)ものと言われるが、年代が詳しく記されているというのはどうも不思議である。
 また、浦島を迎えるのが乙姫であることも気になるところではある。乙姫というのは竜王の娘であるが、弟姫であって、兄姫(えひめ)はどうしたのだというツッコミが入ってよさそうである。竜宮というのは必ずしも一か所ではなく、俵藤太藤原秀郷の説話では琵琶湖の湖底にも竜宮があることになっていて、その家族構成も一様ではないかもしれない。

 林さんはかなり多くの絵画資料を収集し、また閲覧して研究をつづけたようで、図像の解析を通じて得られた知見も少なくないと思われる。私が突っ込んだところについても、著書の中で論じている可能性があるので、本屋で立ち読みをしてもう少し詳しく要点だけでもつかんでおきたいところである。

『太平記』(224)

8月20日(月)曇り、ときどき小雨

 暦応元年(8月改元なので、この時点ではまだ建武5年が正しい、南朝延元3年、1338)5月、越前で勢力を挽回した新田義貞は、足利方の越前守護である斯波高経の黒丸城をはじめとする足羽七城を攻撃した。7月、越後勢を合わせてえますます協力になった新田軍のもとへ、吉野の朝廷から、京都南西の石清水八幡宮のある八幡山に陣を構える北畠顯信(親房の子、顕家の弟である)、新田義興(義貞の次男である)の軍勢に加勢せよとの勅書が届いた。義貞は比叡山に拠点を置いて京都を攻略すべく延暦寺へ牒状を送り、同心の旨の返牒を受け取ると、弟の脇屋義助を京都に発たせた。新田軍上洛の報せを受け、足利尊氏は八幡攻めの大将高師直を京に呼び返したが、その際師直は包囲していた八幡山に火を放った。八幡炎上の報せを受けた義助は、敦賀まで来たところで引き返し、八幡の宮方も、河内へ退却した。斯波高経は、延暦寺の末寺であるが、藤島庄の年貢の貢納をめぐって争いが絶えなかった平泉寺を味方につけ、平泉寺の若い衆徒たちは足羽七城の中の三つの城に立てこもり、年長の僧たちは義貞調伏の祈禱を行った。そのためであろうか 、義貞は不思議な夢を見た。閏七月二日、足羽攻めに向かう義貞の乗馬水練栗毛が、にわかに荒れ狂うなどの凶兆が現れた。新田軍の計画では、3万余騎の軍勢を7手に分けて、足羽七城のそれぞれに向かい城を築き、徐々に攻略していくはずであったが、藤島城に立てこもっている平泉寺の衆徒たちが動揺している様子だったので、全軍が藤島城を攻撃した。しかし、衆徒たちも必死になって防戦したので、激しい戦闘が続いた。

 戦闘が続くうちに時間が立って、日は既に西山に沈もうとしていた。義貞は、東郷寺の前に控えて、味方の負傷者を見て回っていたが、藤島城の抵抗が予想以上に頑強で、新田方の軍勢がややもすると敵軍に追い立てられる様子なので、不安に駆られたのであろうか、馬に乗り、鎧を身につけて、わずか50騎ほどの軍勢を従えただけで、道を横切り、田を渡って、藤島城へと向かった。

 ちょうどそのとき、斯波高経の本拠である黒丸城から副将である細川出羽守、越中から応援に来ていた鹿草彦太郎の2人が、藤島城を攻めている寄せ手を追い払おうと、300余騎の軍勢を率いて、横縄手(他の間を横に通うあぜ道)を回って進んでいた。その黒丸城からの援軍と義貞の一行は田んぼの中でばったり出会った。細川方には馬に乗らず、楯をもった射手が多かったので、泥深い田に走り降りて、自分たちの前に携行用の持ち楯を並べて据え、矢じりを揃えて散々に射かけた。
 義貞の方では射手は一人もいないし、楯の一帖も持っていなかったので、前の方にいた兵たちが義貞の前を固めて自分たちが的になって大将を矢から防ごうとした。上野国の中野(群馬県邑楽郡邑楽町中野)の武士である中野藤左衛門が、大将に目で合図を送り、「千鈞の弩(ど)は、鼷鼠(けいそ)のために機を発せず」(第3分冊、378ページ、重い石弓でハツカネズミを撃つことはしない。大将は雑兵相手に戦うべきではない)といったのだが、義貞は聞き入れようとせず、「士率を死なせて私一人死を免れては、何の面目あって人に顔を向けることができよう」と、さらに敵の中に駆けいろうと、駿馬に鞭をあて前に進もうとする。

 義貞の乗馬は名だたる駿馬であったから、これまでは一丈や二丈(3~6メートル)の堀ならば簡単に飛び越えていたが、5筋も矢を射立てられてしまうとさすがに弱ったのであろうか、小さな溝ひとつを越えることができず、屏風を返したように岸の下に倒れてしまった。義貞はその左足が倒れた馬の下敷きになって、そこから起き上がろうとしていたところに白羽の矢が一筋、兜の正面の下、眉間の真ん中に刺さった。義貞は今はこれまでと思い、腰の刀を抜いて、自分で首を掻き落とし、田の泥の中に倒れ伏した。

 足利方で、宇都宮氏の一族である氏家光範(栃木県さくら市氏家に住んだ武士)がこれを見て、畔を伝って走り寄り、その首を取って、黒丸城へ馳せ帰る。新田方の結城上野守(福島県白河市に住んだ結城一族の武士らしい)、中野藤左衛門、金持(かなじ)太郎左衛門(鳥取県日野郡日野町金持=かもち出身の武士)の3騎が、馬から飛び降りて、義貞の死骸の前にひざまずいて、腹を描き切って重なり伏す。このほか、40余騎の兵たちが皆、堀溝の中に射落とされて、敵の一兵の命も奪うこともできずに犬死してしまった。

 義貞に従っていた3万余騎の軍勢は、みな勇猛な武士たちであったので、大将に代わって命を捨てようとしない者はいなかったが、小雨交じりの夕霧で、遠くの方を見ることができず、扇橋が見極められなかったので、大将が自分で戦って討ち死にしたことを知る由もなかったのは悲しいことであった。ただ遠くの方にいた郎等たちが、主人の馬に乗り換えて河合を目指して退却していったのを、数万の新田軍は遠くから見て、大将のあとに従おうと、戦況を見極めることもせずに、勝手に落ち延びていったのである。

 漢の高祖は、自ら淮南の黥布を征伐に向かったときに、 流れ矢にあたってその時に受けた傷がもとで、未央宮において崩じ、戦国時代の斉の宣王の太子は、自分自身で楚の短兵(短い武器を持つ雑兵)と戦って、戦死してしまった。このようなこともあるので、「蛟龍はは深淵の中に保つ。若し浅渚に遊ぶ則(とき)は、漁網釣者の愁へ有り」(第3分冊、380ページ、水中の龍は普段深淵の中におり、浅瀬に遊ぶと、網にかかったり釣り上げられたりする⇒すぐれた人物も、油断すると思わぬ失敗をする)という。
 義貞は、後醍醐天皇の手足となって働く家臣として、武将として高い地位についていたので、身を慎み、命を全うして、大事業での勲功を立てるべきであったのに、自分で進んでさほど重要ではない戦場に赴いて、身分の低い兵の矢によって命を奪われたことは、運が悪かったとはいうものの、感心できない振る舞いであった。

 南朝方の重鎮、というよりも主だった武将がほとんど戦死してしまった中で、ただ一人生き残っていた新田義貞が、不覚を取って死んでしまった。南朝にとってはこれ以上もない打撃であり、それは『太平記』の作者の記すとおりである。義貞は剛勇の武士であり、戦闘には巧みであったが、大局的な判断ができないということは何度も書いてきたが、とうとうそのために命を落としてしまったのは返す返すも残念なことである。この後、第21巻で脇屋義助の率いる新田軍が黒丸城を陥落させるので、余計、義貞の戦死は残念に思われる。前回も書いたが、執事であった船田義昌がすでに戦死しており、弟の脇屋義助とは別行動であったということも影響していたかもしれない。足利方から見ると、孤立した斯波高経が、泥の深い田に水を入れて騎馬が活躍しにくくしたり、道を自由に通行できなくしたり、溝を深く掘ったりして敵襲に備えていたことが、予期した以上の効果をあげたということになる。足利方では、首を取ったのが新田義貞だということはまだ分かっておらず、この後大騒ぎになるが、それはまた次回。

日記抄(8月13日~19日)

8月19日(日)晴れ、午後になって雲が多くなってきた。三ツ沢グランド付近からうっすらとではあるが、富士山を遠望できた。

 8月13日から本日までの間に経験したこと、考えたこと、これまでの記事の補遺・訂正等:

8月8日
 津川雅彦さんが亡くなったので、溝口健二監督の映画に出演したことがある男優はあとだれが残っているのだろうかと書いたが、どうもみな亡くなられたようである。私が調べたところで、溝口作品の出演者で現存しているのは次の方々である:
 月丘千秋さん(1947 『女優須磨子の恋』)
 久我美子さん(1950 『雪夫人絵図』;1954 『噂の女』:1955 『新・平家物語』)
 浜田百合子さん(1950 『雪夫人絵図』)
 京マチ子さん(1953 『雨月物語』;1955 『楊貴妃』)
 若尾文子さん(1953 『祇園囃子』;1956 『赤線地帯』)
 香川京子さん(1954 『山椒大夫」;1954 『近松物語』)
 小園蓉子さん(1954 『山椒大夫』)
 町田博子さん(1956 『赤線地帯』)
 久我さん、京さん、香川さんは小津安二郎作品、黒澤明作品にも出演している。月丘さん、小園さんは、それぞれ出演作品を見ているが、小さな役での出演である(とはいうものの、小園さんは小津安二郎作品にも出演している)。あと、『赤線地帯』に出演していた川上康子さんが消息不明になっていて、存命中かもしれないことを付け加えておく。

 この日のNHKラジオ第二放送『世界へ発信 ニュースで英語術』は、”Old tradition, young blood"として、各地で開催されている夏祭りに地元の人々が参加しなくなった一方で、地元以外からの参加者、それも若者の参加が目立ってきているというニュースを報道していた。その中で祭の主催者であるlocal communitiesを「地方自治体」と訳していたが、これは「地域社会」と訳すべきであろう。地方自治体は地域社会の中の一機関であって、地域社会にはその他多くの組織や団体が存在していると考えるべきである。最近の「阿波踊り」をめぐる徳島市と実行委員会の対立などを考えればわかることである。

8月13日
 マージェリー・アリンガム『ホワイトコテージの殺人』(創元推理文庫)を読み終える。1920年代初頭の秋の夕方、ケント州の小さな村をドライブしていたジェリーは一人の若い娘(ノーラ)に出会った。彼女を住まいであるホワイトコテージまで送った直後、殺人事件が起きる。被害者は、ホワイトコテージの隣にある灰色の建物=砂丘亭の主ロジャー・ウィリアム・クリステンセンである。ジェリーは、スコットランドヤードの主任警部である父親のW・Tとともに捜査するが、関係者には動機はあるが、決定的な証拠がつかめない…。
 アリンガム(1904‐66)は名探偵アルバート・キャンピオンが活躍する作品群で知られ、アガサ・クリスティ(1890‐1976)、ドロシー・セイヤーズ(1893‐1957)、ナイオ・マーシュ(1895-1982) とともにミステリの黄金時代に活躍した女流作家(Queens of Crime)に数えられる。この作品は彼女が23歳の時に書かれたというから恐れ入る。
 翻訳者(猪俣美江子)はホワイトコテージを「白亜荘」と訳しているが、cottageというのは、部屋がいくつもある立派な住宅ではあるが、その中で比較的簡素な住まいを指して言う言葉で、オースティンの『分別と多感』の主人公一家が親類を頼って移り住む家が思い出される。

8月14日
 『朝日』の朝刊に作家のV・S・ナイポールさんが死去(11日)されたという記事が出ていた。1932年にインド系移民の3代目としてトリニダード・トバゴに生まれ、英国に留学、第三世界の混乱や矛盾を描き出す小説やノンフィクションを発表し、1971年にはブッカー賞、2001年にはノーベル文学賞を受賞された。岩波現代選書の1冊として刊行されていた『インド――傷ついた文明』(India: A Wounded Civilization, 1977)は買って持っていた記憶があるのだが、読み終えたかどうかは定かではない。インドの社会と政治の矛盾について書いた内容についての断片的な記憶だけが残っている。毀誉褒貶の激しい作家だったようで、また作品を読み直してみようと思っている。

 『日経』朝刊の文化欄に、「街の御神木に根付く伝承」という文章を開発や整備で社殿を失い、そのまま都市の中に取り残されて立っている巨木の写真を撮り続けている山村善太郎さんが書いていた。山村さんは最近では「石神さん」の撮影にも取り組んでいるそうで、岩手県の県名の起こりである盛岡市の三ツ石神社の「鬼の手形」の写真が掲載されていたりして興味深かった。悪いことをして取り押さえられた鬼が、もう二度と悪事は働きませんと約束して岩に手形をおしたという伝説は、子どもの頃に読んだことがある。

8月15日
 終戦記念日。
 『朝日』の社説は「戦後73年とアジア」という見出しで「未来へ向け記憶を紡ぐ」ことを呼び掛け、『日経』の社説は「歴史を知り日本の針路に生かそう」と鈴木貫太郎の終戦工作、戦争放棄の発案者をめぐる諸説など、改めて歴史を掘り起こすことの重要性を説いている。

 開会式に先駆けて試合が始まっているジャカルタ・アジア大会のサッカー第一次予選で、日本のU21チームは、ネパールに1-0で勝利した。もっと点差が開いてもいいような気もするのだが、ネパールも結構強いということだろうか。ネパール人の知り合いがいないわけでもないので、その辺は複雑な気分である。

 『朝日』のコラム『ラジオアングル』は、「音楽生かす珠玉の選曲」という見出しで、ニッポン放送の番組「小林克也Music Machine Go! Go!」(土曜、朝8時)を取り上げている。ある日の放送で、シベリアに流刑にされたドストエフスキーの物語につなげて、ジョニ・ミッチェルの「青春の光と影」が流された。「私たちにはジュディ・コリンズの方が記憶にあるが、彼女の声にはどこか明るさがある。ジョニ・ミッチェルの陰影のある歌い方の方がドストエフスキーにはなじむ。この選択には納得だ。小林さんの選曲への美意識なのだろう。」という。「私たち」という言い方が気になるのだが、私もジュディ・コリンズのCDをもっている(昔はLPをもっていた)。 「青春の光と影」(Both Sides Now)はジョニ・ミッチェルが作詞作曲した歌で、その才能を見出したコリンズが彼女のアルバムの中にこの歌を収めたことから、有名になったということのようだ。この歌はホール・バートレットが1968年に監督した映画Changes (1969年に『青春の光と影』という題名で日本公開)の中で使われていて、歌っているのはジュディ・コリンズである。映画の細部は忘れているが、歌は記憶に残っている。

8月16日
 『日経』朝刊の「ZOOM インフラ」というコーナーで、韓国のソウルと仁川を結ぶ高速鉄道が4年で廃線になるという記事が出ていた。私が韓国に出かけたときは、まだ高速鉄道はなくて、バスで往復したことを思い出す。アジア諸国の中には高速鉄道の計画が進められているところもあるが、他の交通機関との関係を調整しながら慎重に進める必要があるということであろう。(日本も例外ではない。)

 松山巌『須賀敦子の方へ』(新潮文庫)を読み終える。須賀が1953年にフランスに留学するまでの半生を、イタリアから帰国後の彼女の言動をめぐる思い出を交えてたどっている。聖心女子大の1期生である彼女の同期生が、中村(緒方)貞子、渡辺和子、カトリック学生連盟での仲間が有吉佐和子、武者小路公秀(この組織の京都での中心人物だったのが後に長崎市長になった本島等だそうだが、須賀との関係はなかっただろう)ということで、彼女が国境を越える生涯を送ったことも理解できる。有吉のほか、庄野潤三や、遠藤周作の小説『おバカさん』のモデルと言われるネラン神父との交流など、須賀は「第三の新人」世代なのだが、文学者としての出発はかなり遅かったということになるだろう。

8月17日
 『朝日』朝刊に出ていた『週刊現代』9月1日号の広告は横浜が大地震に襲われたらどうなるかという特集記事を紹介している。私の見聞から言えば、横浜は埋立地が多いということを知らない人が多いのがまず問題である。また丘陵地は多いが、宅地造成のために掘り崩しているところが少なくないし、丘陵といってもそれほど高くないというのも気になるところである。横浜駅西口の商店街などでは定期的に避難訓練を行っているが、いざという時の心構えは常に持っている方がよさそうだ。

 アジア大会のサッカー、第一次予選D組で日本はパキスタンを4‐0で破る。大分調子が出てきた。女子はタイに2‐0で勝利した。

8月18日
 島田裕巳『神社崩壊』(新潮新書)を読み終える。富岡八幡宮で起きた殺人事件をはじめとする神道界の不祥事や、その背景をなす問題点について包括的に述べた書物であり、宗教と国家の関係や、神社本庁との結びつきの強い政治・言論団体の動きなどにも触れている。

 ニッパツ三ツ沢球技場でJ2横浜FC対カマタマーレ讃岐の対戦を観戦する。試合に先立って、チーム創立20周年を記念して、奥寺会長やリトワルスキー元監督など、チームのOBからなる横浜FCレジェンドとサッカー経験のある芸能人からなる横浜FCフレンズとの前座マッチが行われ、3-3でめでたく引き分けた。かつて横浜フリューゲルスで天皇杯決勝の決勝点を挙げた渡辺一平さんがオウンゴールでフレンズに1点を献上したりしたのは、年を取ってからだが言うことを聞かなくなったためであろう。
 横浜FCは序盤から優位に立って試合をすすめたが、讃岐の堅い守りに阻まれ得点できず、さらにときどきカウンターでゴールを脅かされていたが、後半の序盤で、イバ選手がFKのチャンスを作り、レアンドロドミンゲス選手が絶妙のシュートを決めて1点先行、さらに中盤になってゴール前でのもみあいから渡辺一仁選手がゴールを決めて(Jリーグ10年、247試合目での初ゴールだそうである)突き放した。外国人選手の活躍の目立った試合だったが、渡辺選手のゴールがこのさきの試合ぶりに期待をもたせた。

8月19日
 『日経』に連載されていた宮川匡司「ゴヤのまなざし」はスペインの画家の生涯と作品を概観するものだが、今回で完結。ゴヤが晩年の素描帖にコンテで描いていたというAun aprendo (私は今も学んでいるぞ)という絵が誠に力強く感じられる。

 同じく『日経』の「遊遊漢字学」で阿辻哲次さんが、春秋時代の宋の襄公の故事を引き合いに出して、「無用の情や過剰な親切心を発揮し、そのことで逆に自分が大きな被害を受けることを…『宋襄の仁』と呼ぶ。学校の道徳でも現実の社会にはめったにない『美談』や『美徳』を教えるより、『宋襄の仁』の故事を教えるほうがよほど人生の役に立つ」と書いているが、現在の学校の道徳の授業というのは、そういう「美談」を教えるやり方はしないのがふつうである・・・というより、道徳という教科は廃止したほうがいいのではないかという問題の方が本質を突くものであろう。
 

山内譲『海賊の日本史』(5)

8月18日(土)晴れ、さすがに少し涼しくなってきた。

 第4章「戦国大名と海賊――西国と東国」続き
 前回は瀬戸内海を中心に活躍した村上氏(能島村上・来島村上・因島村上の三氏に分かれる)をはじめとする西国の海上勢力について考察したが、今回は東国の戦国大名がどのような水軍を保持していたかについてみていく。とくに注目されるのは、相模湾を中心として西は駿河湾の一部、東は江戸湾の大部分で活動した北条氏の水軍(海賊)、また武田氏が今川氏に取って代わって駿河の支配権を握った後に組織した水軍(海賊)である。ただ、著者である山内さんも断っているように、この書物は「比較的著名な海賊を個別に」(8ページ)取り上げて考察するものであり、北条水軍と戦った里見水軍とか、武田水軍に取って代わられた今川水軍については詳しいことは記されていない。

 北条氏は関東地方の海岸部に勢力をもっていたので、領域支配を有効にするためには、相応の海上勢力が必要であったと考えられる。小田原北条氏の三代目である氏康時代の1559(永禄2)年に作成された『小田原衆所領役帳』には、「浦賀定海賊」すなわち浦賀を拠点とする海賊として、愛洲(あいず)氏、高尾氏があげられている。そのほかに海賊役を命じられるものとして、小山氏、三崎十人衆などがいた。ここから、この時期には浦賀(現在の横須賀市)が海賊の拠点として中心的な役割を果たしていたことがわかる。浦賀は、浦賀水道をはさんで房総半島と最短距離の位置にあるから、そのころ北条氏と対立していた里見水軍の動きに対応する基地としては最適だったのである。

 上記『小田原衆所領役帳』に海賊と明記されているわけではないが、伊豆半島西岸に本拠をおく山本氏や梶原氏も水軍として活動していた。山本氏は伊豆半島西岸の田子城(静岡県西伊豆町)を本拠とする、伊豆出身の海賊である。山本氏の当初の主要な活動領域は、里見氏と競合する三浦半島沖や江戸湾であったが、駿河湾に武田の勢力が及ぶようになると、活動の拠点を田子浦に移すようになった。
 
 梶原氏は紀伊出身で、湯浅湾に面した広村(和歌山県広川町)がその本拠と伝えられている。山内さんは「おそらく熊野海賊として活動した一族の流れをくむのだろう」(160ページ)と書いているが、梶原と聞いてすぐに思い浮かべるのは源頼朝の重臣であった梶原景時であり、その先祖発祥の地は相模国鎌倉郡梶原である。またWikipediaによると、景時の三男景茂の子孫が讃岐に進出して海賊として活躍したという。このあたり、さらに調査研究が必要ではないかと思われる。
 梶原氏は、外来の傭兵的な海賊衆としての性格を強く持っていたが、当初は三浦三崎を拠点にして江戸湾の警備にあたっていた。その後、駿河湾で武田氏との緊張が高まってからは、山本氏同様に西伊豆に拠点を移し、長浜城(静岡県沼津市)を本拠にしたらしい。長浜城は、伊豆半島西岸の付け根にあたる内浦湾に面しており、狩野川河口近くに位置する武田方の三枚橋城(沼津市)のあたりを遠望することができる。

 他方、北条水軍と対立した武田氏の水軍は急ごしらえの水軍と言えるようなものであった。武田信玄が1568(永禄11)年に駿河に進出して以降、東の北条氏の水軍、西の徳川氏の動きに対抗するために短時間のうちに体制を整えたからである。このような場合、他国の既成の水軍を招致する方が手っ取り早く、実際に、武田氏の水軍の主力は、北条氏以上に他国出身の水軍に依存することが多かった。
 芝辻俊六の整理によると、武田水軍を構成したのは:
・今川氏の船奉行であった岡部忠兵衛(後に土屋豊前守貞綱と改める)や伊丹氏などのような旧今川水軍。
・武田氏の伊豆侵攻時に武田方に誘引されたらしい間宮氏のような旧北条水軍。
・伊勢湾で活動していたのを招致した小浜氏や向井氏。

 このような武田氏の他国から招致された水軍の代表として、志摩出身の小浜氏をあげることができる。武田信玄の時代に、旧今川水軍の一員であった岡部忠兵衛を通して、海賊として伊勢から駿河に移って武田の支配に属そうとした海賊が、志摩国の小領主であった小浜氏であり、小浜(三重県鳥羽市)を本拠としていたが、織田氏の威を借りて島に進出してきた九鬼氏に敗れて、武田氏に仕えることになったと考えられる。武田氏のもとで小浜氏は厚遇を受けたが、そのことに彼らへの期待の大きさが示されている。

 武田氏の水軍が充実してきたことにより、北条氏の水軍との間で緊張が高まり、両者は伊豆半島西岸で何度か対戦した。この時期、武田氏は1581年3月に徳川家康の攻勢によって遠江の高天神城を失うなど、苦境に陥っていたが、海上においては北条氏に対して優勢な立場を維持していたようである。

  なお、西国と東国だけでなく、両地域の中間地帯といってよい伊勢湾沿岸にも海上勢力は存在していた(既に小浜氏の例が出てきた)。その代表が九鬼氏である。九鬼氏は紀州九鬼(三重県尾鷲市)を本貫とする。九鬼は熊野灘に面した紀伊國東端の地で、土地柄、熊野神社の影響力の強いところである。九鬼氏は、南北朝時代から志摩国の鳥羽浦(鳥羽市)に進出し、その周辺で勢力を伸ばしたが、戦国期に九鬼嘉隆が現れて強大になった。彼は信長の子で、伊勢の支配者となった北畠(織田)信雄の権威を借りて、小浜氏を含む島衆をあるいは屈服させ、あるいは追放して志摩一国を支配するようになった。その後、九鬼氏は織田信長、豊臣秀吉に仕え、豊臣大名にのし上がり、豊臣水軍の主力として活動することになる。九鬼氏が戦国大名の水軍として頭角を現したことはたしかであるが、海賊とは言えないのではないかというのが山内さんの見解である。

 西国と東国の「海賊」の違いについての山内さんの考察は、次回に詳しく検討することにするが、東国の方が「水軍」的な性格が強く、なぜそうなったかと言えば、海上を往来する船舶の量が違ったからではないかと思われる。
 後、今回取り上げた個所で気づいた点をいくつか書き記しておく。

 浦賀は、その後も長く江戸湾(→東京湾)の海上交通の要衝であり続けたのはあらためて言うまでもない。梶原氏についてはすでに書いたが、この後でもまた登場する。土屋貞綱は長篠の戦で戦死し、その養子の昌綱も信長・家康の甲斐侵攻の際に戦死したが、そのまた子孫は徳川時代に大名・旗本として存続したようである。間宮氏は宇多源氏佐々木分流の一族でいろいろな流れがあるようであるが、後北条氏が没落した後は、徳川幕府の旗本となった一家がある。横浜市内には間宮姓の人が多いのは、このあたりのことと関係するようである。なお、間宮林蔵は常陸の出身であるが、やはりこの一族から出ている。小浜氏、向井氏もこの後登場するので、ここでは省く。九鬼氏もこの後、また出てくるが、(山内さんが触れていないので)一つだけ書いておきたいのは、私の好きな哲学者の一人である九鬼周造がこの一族の出身だということである。私は三浦半島とはなじみ深い環境で育ったので、北条水軍についてはもっと詳しく知りたいと思う。

ウィルキー・コリンズ『月長石』再読(11)

8月17日(金)晴れ、依然として暑い。

 インドのヒンズー教寺院に安置された月天の像の額に飾られていた黄色いダイヤモンド=月長石は、人間の世が続く限りかわるがわる3人のブラーフマンによって見守り続けられ、この宝石に手を触れたものには、本人だけでなくその一族にまで災いが及ぶであろうと言い伝えられてきた。月長石はその後数奇な運命を経て、ヨークシャーのヴェリンダー家の令嬢レイチェルの手に彼女の18歳の誕生祝として贈られたが、その後、こつ然として姿を消し、その行方は分からないまま殺人事件まで起きてしまった。
 事件から2年たった1850年5月に当事者の1人であるフランクリン・ブレークは事件に関する証言をまとめて真相を明らかにしようと考え、ある家の記録から月長石が1799年5月の英軍によるインドのセリンガパタム襲撃の際に、英軍の将校であるジョン・ハーンカスルの手に入った経緯を見つけ出した。そしてそのハーンカスルの手からレイチェルのもとに月長石が届けられ、消失した経緯を手記にまとめるように、ヴェリンダー卿夫人の執事であるガブリエル・ベタレッジに依頼した。
 長くヨーロッパで暮らしていたフランクリンが、ヨークシャーのヴェリンダー邸を訪問することがわかったのは1848年5月24日、来訪の前日である。当日、フランクリンの到着以前に、3人の旅回りのインド人の手品師がヴェリンダー邸を訪問し、芸を披露したいというが、主人の留守を理由にベタレッジは断る。その後、彼らの様子を見ていたベタレッジの娘のペネロープは、彼らがフランクリンに対してよからぬことを企んでいるらしいと告げにやってくる。召使の中の変わり種である下働きの女中のロザンナ・スピアマンを探して海岸に出たベタレッジは、彼女と話しているときに、思いがけずフランクリンがやって来たのに出会い、フランクリンがジョン・ハーンカスルの遺言を履行すべく月長石をレイチェルのもとに届けに来たことを告げる。インド人たちの不審な行動を知り、またベタレッジがジョン・ハーンカスルに対して抱いている不信の気持ちを察して、フランクリンはベタレッジに、ジョン・ハーンカスルがどのような人物であったのか知る限り説明してほしいという。

 ハーンカスル家には5人の子どもがいた(これは物語のあらすじをわかりやすく紹介するために、先走りして紹介しておいたことである)。上の2人が男子、下の3人が女子であった。
Of the two sons, the eldest, Arthur, inherited the title and estates.
中村訳では、「二人の男のお子さまのうち、上のアーサーさまが家の称号と財産をおつぎになった。」(53ページ) このアーサーは、なぜかこの後の物語には登場しない。一族が集まったはずのレイチェルの誕生祝にも、アーサーあるいは(レイチェルから見ると従兄弟になる)その子どもたちは出席していない。
The second, the Honourable John, got a fine fortune left him by a relative, and went into the army.
中村訳では「下のジョンさまは、ある親戚からかなりの遺産をゆずられ、軍隊におはいりになった。」(同上)
 以上から推測できることを列挙していくと:
ハーンカスル家は伯爵以下(伯爵・子爵・男爵)の貴族である。これはベタレッジがヴェリンダー夫人の父親をthe old lordと呼んでいること、ジョンがthe Honourableと呼ばれていることからわかる。したがって、the titleはこの場合、爵位と訳したほうがいいようである。
the estate (財産権、不動産権)は限嗣相続でアーサーに渡った。ハーンカスル家は男系相続で財産権を継承しているようである。(シャーロック・ホームズを読むとわかるが、英国では男系相続が一般的だが、まれに女系相続の例がある。) armyは厳密には「陸軍」であるが、そのことについてはこの後で説明があるので、こだわる必要はないだろう。アーサーに子どもがいないまま死ぬと、爵位も財産権もジョンのものになるはずであるが、そうなっていないということは、ハーンカスル家は無事後継者を得て存続しているということになる。

 さてジョンは、ハーンカスル家の名折れになるような存在であった。
He was, I honestly believe, one of the greatest blackguards that ever lived.
中村訳では「ジョンさまという方は、それはそれはやくざな方だったと、私は心から信じている。」(54ページ) blackguardは「不良、ごろつき、悪党」という意味である。逐語的に訳せば、「彼は、私が正直に思っているところでは、これまで生きていた最大の悪党の一人だった。」ということになろうか。〔特にベタレッジは理由を示していないが、そう判断する根拠となるような悪行は数々あって、口に出すのもはばかられるということであろう。〕
 彼はthe Guards(近衛隊)に入るが、22歳になる以前にやめて、今度はインドに出かける。そしてセリンガパタムの攻撃に参加した。
Soon afterwards he changed into another regiment, and in course of time, changed again into a third. In the third he got his last step as lieftenant-colonel, and, getting that, got also a sunstroke, and came home to England.
中村訳では、「その後ですぐ別の隊にうつり、やがて、さらに別の隊にかわられた、そこで(中佐まで務めあげた途端、日射病にかかり、イギリスに帰国なさった。」(54ページ)となっている。中村訳は少し荒っぽいので、例によって逐語的に訳してみれば、「そのまもなくあとで彼は別の連隊に移り、時が経つ中で、彼はまたも3番目の連隊に移った。3番目の連隊で彼は中佐まで勤め上げた。そしてそれを得るのとともに、日射病にかかり、イングランドへと戻ってきた。」 
 問題が2つある:その第一は、彼が大佐と呼ばれていることで、中佐どまりであっても称号としては大佐と呼ばれるのか、それとも帰国してから名目的に大佐に昇進したのかのどちらかであろう。サッカレーの『虚栄の市』の主要登場人物であるウィリアム・ドビンはインドで軍人として働いて大佐まで昇進し、勲章をもらうが、ジョン・ハーンカスルについてはそういう記述はないから、優れた軍人としての業績は上げていないということになる。
 もう一つは、日射病(現在は熱中症というが)になったくらいで、退役するのかということである。

 帰国した大佐は、一族全ての者がつきあいを拒否するような人間になっていた。その排斥の先頭に立っていたのが、当時すでにヴェリンダー卿夫人になっていた末の妹である。彼女は兄である大佐を自分の家には一切出入りさせないと宣言していた。そのようにつまはじきされる理由がいくつもあったのだが、ここで問題になるのは、ダイヤモンドについて、彼が認めたがらないような手段に訴えて手に入れたということである。物語全体を通じて、彼がどのような手段でダイヤモンドを手に入れたかは、読者の創造にゆだねられている。
 ダイヤモンド―月長石を彼は他人に売ろうとしないどころか、見せようともしなかった。この宝石のために軍といざこざを起こすのを恐れていたのだ(自分の軍律違反が明るみに出る恐れがある)という説もあり、持っていることが明らかになれば、命を危険にさらすことになるという説もあった。
 実際、大佐はインドで2度までも生命を脅かされた。それが月長石に起因しているものとほかの人々は信じていた。帰国後、だれからも爪はじきされるようになったのも、月長石のせいだと信じられていた。男たちは、彼をクラブに入会させようとしなかったし、女たちは、彼からの求婚を拒絶したのであった。「友達や親戚のものたちは、道で会っても知らぬ顔をした。」(55ページ)
 クラブというのはある共通点(経歴とか趣味とか)をもつ人々が作る排他的な(つまりその共通点をもたないひとには門戸を開かない)組織であって、英国には今でもたくさん存在するようで、人名録などを見ると、その人がどんなクラブに入っているかがわかる。

 世間から全く孤立しても、大佐は屈することなく、インドでも英国でも、ダイヤモンドを手放さなかった。どんなことも、世間のうわさも全く無視し続けた。彼の周りにはいろいろとよくない噂が建てられた。アヘンを飲みふけっている(作者であるウィルキー・コリンズ自身がかなりのアヘン中毒者であった)、古い書物を集めているとか、妙な化学実験をやっているとか、ロンドンの最下層の貧民窟で最下等の貧民たちにまじって酒をあおって騒いでいるとかいうたぐいのうわさである。
 ベタレッジは1846年の6月にロンドンで、一度だけジョン・ハーンカスルに会ったことがあった。彼の死ぬ1年半前のことである。ロンドンのヴェリンダー家の家で(この時代、英国の貴族や地主は自分たちの土地と、ロンドンにそれぞれ家をもっていた)レイチェルの16歳の誕生祝いが開かれているときに、ベタレッジはfootmanから取次ぎを頼むこと紳士が来ているとのメッセージを受け取る。(footmanをas中村は「馬丁」と訳しているが、footmanは「馬車・ドア・食卓に侍る制服を着た召使」であって、馬丁=馬の口取りではない。この時期にはまだベタレッジは執事ではなくて、土地差配人だったはずであるが、難しいことは言わないことにしよう。) 
Going up into the hall, there I found the Colonel, wasted, and worn, and old, and shabby, and as wild and as wicked as ever.
中村訳では「玄関に出てみると、老いこんでみすぼらしくやせ衰えた大佐が、昔ながらの陰険野卑な姿で立っていた。」となっている。wastedは「衰弱した、やつれた」、wornは「(疲れ・心配で)やつれた」、shabbyは「みすぼらしい;卑しい」、as everは「相変わらず;例の通り」ということで、ベタレッジはそれまで大佐に会ったことはなかったのだから、「昔ながらの」とは言えないはずである。

 大佐はそれまで何度か、妹に対して仲直りをしたいという手紙を出していたのだが、ヴェリンダー卿夫人はそれを拒否してきた。そのときも、依然としてハーンカスル家の激しい気質を保っていた卿夫人は、ベタレッジに大佐を追い返すように言う。ベタレッジは卿夫人の指示をそのまま実行はせずに、丁寧にお引き取りを願ったが、案に相違して大佐はおとなしく引き下がったのである。

 大佐と一族、特にヴェリンダー卿夫人との関係についてはおおよそのことが語られた。このような関係であるにもかかわらず、なぜ大佐はレイチェルに誕生祝として月長石を送ろうとしたのであろうか。それはまた次回。 

森本公誠『東大寺のなりたち』(8)

8月16日(木)晴れたり曇ったり、気のせいか少し涼しくなってきた。

 「大仏造立ならびに大仏殿造営の工事が順調に進み、この分では、聖武太上天皇が望んでいる仏教伝来200年を期した天平勝宝4年(752)の大仏開眼供養会も可能だ。今や派遣すべき施設を任命して準備を整え、このことを近隣諸国に知らせてはどうか。そのような議論が朝廷内に起こったとしても不思議ではない。
 むろん聖武太上天皇に異論があろうはずはない。とりわけ新羅については、彼らも重視する『華厳経』の採用とその教主である廬舎那仏造立を彼らに実見させて、日本の尊厳的立場を保持しつつ新羅との極度に緊張した関係を平和裏に解決する、そのような願いを抱いてきた。そのうえ、仏教国にふさわしい戒師を唐から招請する件もまだ実現していない。天皇はそのような思いに駆られて、積極的に議論に加わったに違いない。」(115ページ)
 このあたり、著者が想像力を働かせて、推測で書いていると思われる部分が多い。大仏関係の工事が順調に進捗していたこと、日本と新羅の関係があまり良くなかったこと、新羅の仏教が華厳経を重視するものであったことは裏付けがある。それ以外については、たぶんこんな様子だったのだろうと想像されているだけであることを読み落とすべきではない。戒師の招聘をめぐっては波乱が生じたことはこの後論じられることになる。

 天平勝宝2年9月24日、遣唐使任命の人事が発表された。大使となったのは藤原氏北家の房前の第四子で従四位下・参議であった藤原清河、副使は従五位下大伴古麻呂、判官は大伴三笠ほか4名、主典も4名であった。この陣容では経験不足と心配されたのか、11月7日、筑前守に左遷されていた従四位上吉備真備が新たに遣唐副使に任命された。副使の方が大使よりも位階が上であることを森本さんは気にしているが、職分としては参議の清河の方が筑前守の真備よりも上である。唐における清河の活動について森本さんは書いていないが、彼は大いにその存在感を示しただけでなく、唐の朝廷に仕えることになり、ついに日本に戻ることはなかった。もし戻ってきたら、日本の歴史は変わっていたかもしれない…と思うのは私だけであろうか。(もっとも海外で活躍したけれども、日本ではダメだったというスポーツ選手の例もある。)

 遣唐使の出発は4艘の遣唐船の建造や艤装に時間がかかり、天平勝宝4年閏3月のことになった。一方、遣新羅使については天平勝宝4年正月25日に、正7位下山口人麻呂が任命された。それまで10年ばかりは新羅との間に正式な交流はなく、関係は冷え切ったままであった。使節がいつ出発したかは不明であるが、新羅側の反応は早かった。その件については、またあとで触れる。

 いよいよ大仏開眼に向けて具体的な準備が始まった。まず、僧による僧尼統制の機関である僧綱の整備が取り組まれた。僧綱は治部省玄蕃寮に属し、僧正、僧都、律師によって構成されている。天平勝宝3年4月22日に、孝謙天皇の詔により、菩提法師(菩提僊那)が僧正、良弁法師が少僧都に、道璿法師と隆尊法師が律師に任命された。〔神道は神祇官に属していたのだから、両者の扱いはかなり異なることになる。なお、玄蕃の玄は僧侶のこと、蕃は外国からの渡来者を指す。〕

 菩提僊那は南インド出身の僧ボーディセーナのこと。菩提、あるいは婆羅門僧正とも呼ばれる。婆羅門(ブラーフマナ)の出自ではあったが、仏教徒となりインドで修行を積むうち、かつてパルティアの王子であった安世高や中央アジアの支婁迦讖らが中国に行って仏典を漢訳し、仏法を広めたことに感激し、自らも中央アジアを経由して中国に渡っていた。そこへ天平5年(733)に日本を出発した遣唐使一行とめぐり合い、大使である多治比広成・留学僧理鏡らから伝戎師僧としての招請を受けて今度は日本にやって来た。彼の死後に弟子の修栄が作成した『南天竺婆羅門僧正碑文』によると、菩提はよく『華厳経』を読誦して心の要としたという。

 私の小学校6年の時の担任の先生が、曹洞宗のお坊さんで、大仏開眼の時に、インドから菩提僊那というお坊さんがやって来たと教えてくださったが、これは誤りで、彼は、後に述べるように久しく前 に来日していた。だから先生から教えていただいたことは正確な歴史的事実ではないのだが、菩提僊那という名前を覚えたことは有意義であった。前回にも書いたが、『大仏造立』のモザイク・スクリーンのスライドを製作した際に、東大寺の好意で「四聖の御影」を撮影させていただいた。四聖というのは東大寺では、本願の聖武天皇、開基の良弁、勧進の行基、導師の菩提僊那を言うが、そのとき東大寺の坊さんが婆羅門僧正と言われたのが記憶に残った。そういう言い方もするのかと思ったということである。〔その後、東大寺関係の展覧会を見て知ったことだが、「四聖の御影」というのは複数存在するのである。〕

 道譫は現在の河南省許昌市出身。出家後はもっぱら『華厳経』浄行品(じょうぎょうぼん)に説くままに日々の浄行に務め、洛陽の大福先寺に住んだが、遣唐使に従って入唐した留学僧の栄叡(ようえい)と普照(ふしょう)に出会い、その懇請を受け入れて来日した。菩提僊那と道譫は、今のベトナムから日本に来ていた林邑僧仏哲とともに天平8年(736)8月に来日し、菩提は大安寺の中院に、道譫は同じく西唐院に止住した。したがって、天平勝宝3年には彼らはすでに在日15年に及んでいた。
 栄叡と普照は井上靖の小説『天平の甍』の主人公となっている。この小説は後に熊井啓監督によって映画化され、昭和55年(1980)に公開された。普照を中村嘉葎雄、永叡を大門正明が演じていた。林邑はベトナムの中南部にあったチャンパ王国の中国側からの呼び名で、古代の日本で演じられた舞楽の中に林邑楽があるが、その起源・伝来をめぐっては不明な点が多い。一説には仏哲が日本に伝えたとされる。

 良弁は義淵の弟子で、東大寺の前身である金鍾山房に入り、天平12年には大安寺の審祥を招いて「華厳経」講説を催し、翌年に国分寺建立の勅が出て金鍾寺が大倭国金光明寺となると、その中心的な存在となって活躍、このころすでに大徳の尊号で呼ばれていた。さらに天平17年の平常遷都後、金光明寺が廬舎那仏造立再開地となって、大仏の造立と東大寺の造営に深くかかわった。これらのことが評価されてか、律師を経ることなく少僧都に抜擢された。

 隆尊は元興寺の僧で、『華厳経』の勉学に励み、その名声は大きく、聖武天皇によって抜擢されたものと考えられる。ここで新たに登用された僧侶たちは、それぞれ『華厳経』にゆかりがあり、大仏の開眼の際に重要な役割を果たすことになる。

 大仏造立は宗教行事であるが、国家的というよりも国際的な意義をもつものととらえられていたようである。私が『大仏造立』のスライド製作に携わっていた時期は、ちょうど1970年の大阪万博の準備期間と重なっており、その点で符合するものがあったが、その当時は仕事に追われていて、そんな自覚を持つどころではなかった。
 さて、いよいよ大仏開眼の盛儀が近づいてきた。次回にその詳細を語ることができるはずである。

トマス・モア『ユートピア』(14)

8月15日(水)晴れ、依然として暑い。

 1515年、イングランドの外交使節団の一員としてフランドル地方を訪問したトマス・モアは、アントワープの市民ピーター・ヒレスと交友を結んだ。ある日、そのピーターから、世界中を旅してきた哲人だというラファエル・ヒュトロダエウスという人物を紹介される。ラファエルは、ピーターとモアを相手に、ヨーロッパ特にイングランドの社会が直面している問題とその解決策について話し合い、これらの問題についてもっともよく対処するヒントを与えてくれる国は、新世界にある、彼も5年ほど住んでいたユートピアであるという。そしてラファエルは、ピーターとモアの要請にこたえてユートピアの事情について語りはじめる。
 ユートピアはもともと新大陸と地続きだったのが、ユートプスという指導者が現れて、掘削事業の結果、大陸から切り離された。島の名がユートピアというのは、ユートプスに因んだものである。島には54の都市があり、それぞれが程よい距離を保つ位置にあり、どの都市も似たようなものである。それで、各都市の代表が集まって協議する場所となっているアマウロートゥムの例をあげれば、他の都市の様子も察しが付く。都市の周りには農村があり、人々は交代で農業に従事する。農業が好きな人は、そのままずっと農業に取り組んでもいいことになっている。各都市には住民組織があって、それを基礎にして民主的に自治が営まれている。平素のそれほど重要ではない問題は代表者たちが協議して、方針を決めていくが、大事な問題については全島集会のような大衆討議が行われることもある。〔私有財産の廃止、全員がその能力に応じて働き、必要に応じてその成果を受け取ること、都市と農村の対立が全員が農業に取り組むことによって解決されていることなど、共産主義の原理が採用されている。〕
 
 ユートピアの人々は、全員が農業に従事することになっていて、そのために必要な知識や技能を身につけている。この点をめぐり、澤田訳と平井訳はかなり違っているので、平井訳のもととなったロビンソンによる英訳と、ロビンソン訳とは別の英訳であるターナー訳、ローガン&アダムズ訳についても取り上げて、比較検討してみることにする。
(澤田訳)
 ひとつの仕事は、すべての人に男女の別なく、ひとりの例外もなく課せられており、それは農業です。農業についてはすべての人が子どもの頃から教え込まれ、一部には学校での理論教育を通じ、一部には都会周辺の農村地帯に連れ出されて遊びがてらに教え込まれます。(遊びがてら)と言っても傍観しながらではなく、体力錬成の機会として実習しながら教え込まれます。(133ページ)
(平井訳)
 農業は男女の別なくユートピア人全般に共通な知識(サイエンス)となっている。彼らはみなこの道における熟練者である。すべて子供の時から教えこまれるが、学校で従来のしきたりや規則を教わる一方、また他方では都市の近郊に遊びがてら連れ出され、人々のやっているのを見るばかりでなっく、実際に自分たちの体を動かしてやってみることによっても習得するのである。(岩波文庫版、81ページ、なお、英語のscienceの語源となったラテン語のscientiaは「知識」というのがもともとの意味である。)
(ロビンソン訳)
 Husbandry is a science common to them all in general, both men and women, wherein they be all expert and cunning. In this they be all even from their youth, partly in their schools with traditions and precepts, and partly in the country nigh the city, brought up, as it were in playing, not only beholding the use of it, but by occasion of exercising their bodies practicising it also. (Everyman p.63)
(ターナー訳)
And now for their working conditions. Well, there's one job they all do, irrespective of sex, and that's farming. It's part of every child's education. They learn the principles of agriculture at school, and they're taken for regular outings into the fields near the town, where they not only watch farm-work being done, but also do some themselves, as a form of exercise. (Penguin Classics, p.73)[さて、勤労の状態について取り上げましょう。それで、彼らが男女を問わず、すべてしている仕事が一つあります。それは農業です。それは子どもの教育の一部です。彼らは学校で農業の原則を学び、町の近くの畑への定期的な遠足に連れていかれます。そこで彼らは農作業が行われるのを見ているだけでなく、活動の一部として自分たちでもいくらかの作業をするのです。
(ローガン&アダムズ訳)
 Farming is the one job at which everyone works, men and women alike, with no exception. They are trained in it from childohod, partly in the schools, where they learn theory, partly through field trips to nearby farms, which make something like a game of practical instruction. On these trips they don't just observe, but frequently pitch in and get a workout by doing the jobs themselves. (Cambridge Texts in the History of Political Thought, pp.48-49.)〔農業はあらゆるものが、男も女も同じように、例外なく働く仕事です。彼らは子どもの頃からその訓練を受けます。部分的には学校で、そこで彼らは理論を学びます。また部分的には近くの農園への遠足を通じて、そこでは実際的な教授のゲームのようなことをします。これらの遠足の中で、彼らはただ観察しているだけでなく、しばしば(農作業の)中に入って、彼ら自身で仕事をすることで運動するのです。〕

 この時代のイングランドを含むヨーロッパでは、農業は人口の大部分が従事し、それぞれの地方の主要な産業となっていたが、その作業は単調で過酷なものであった。しかも、収穫物の大半は、貴族や地主、教会や修道院によって収奪されていた。モアは、農作業に全員で取り組むようにすること(後で、出てくるように例外はある)、子どもの頃から農業についての教育訓練を徹底して行い、各人の農業に取り組む力を充実させること(各人の生産性を向上させること)によって問題の解決を図ろうとしている。それから子どもの教育については、この後詳しく説明されるが、実学的な内容を含むべきこと、その際理論的な学習と現場での実際的な経験を組み合わせるべきであること、その実際的な経験はできるだけ楽しいものにすべきであるなどの主張がみられ、それぞれ後世の教育論との関連で注目される内容である。

 さて、農業以外にはどのような職業があるのだろうか。これも、上記5つの翻訳に即してみていくことにしよう。
(澤田訳)
 農業〔いま申しましたように、これはみなに共通(の職業)です〕のほかに、だれもがなにか一つのものを自分の職能として覚えます。それは普通、毛織業、亜麻織業、石工職、鍛冶職、錠前職、または大工職です。ほかには、言及するに値するほど多数の人が従事している職業はありません。(133ページ)
(平井訳)
 農業のほかに(農業が彼ら全部に共通な知識であることは前に言ったとおりである)、彼らはみな例外なく、自分独自の技術として何らかの特殊な知識を習得しなければならない。ごく普通なのは毛織業・亜麻織業・石工職・鍛冶職・大工職といったところで、このほかには特にとりたてていうほどの職業はない。(岩波文庫版、81ページ)
(ロビンソン訳)
 Besides husbandry, which (as I said) is common to them all, every one of them learneth one or other several and particular science as his own proper craft. That is most commonly either clothworking in wool or flax, or masonry, or the smith's craft, or the carpenter's science. For there is none other occupation that any number to speak of doth use there. (Everyman, p.63)
(ターナー訳)
 Besides farming which, as I say, is everybody's job, each person is taught a special trade of his own. He may be trained to process wool or flax, or he may become a stonemason, a blacksmith, or a carpenter. Those are the only trades that employ any considerable quantitiy of labour. (Penguin Classics, p.75) 〔私が言いましたように、あらゆる人の職業である農業に加えて、各人はそれぞれの専門の職を教えられます。彼は羊毛あるいは亜麻を加工処理することを教えられてもいいし、石工、あるいは鍛冶屋、大工になってもいいのです。それらだけが相当量の働き手のいる職業なのです。〕
(ローガン&アダムズ訳)
 Besides farm work (which, as I said, everybody performs), each person is taught a particular trade of his own, such as wool-working, linen-making, masonry, metal-work or carpentry. No other craft is practised by any considerable number of them. (Cambridge Texts in the History of Political Thought, p.49) 〔(私が言いましたように、だれもが取り組む)農作業のほかに、各人は彼自身の特定の職業を教えられます。それらは羊毛に関わる作業、亜麻布作り、石工、金工、あるいは大工仕事です。その他の工芸は彼らのうちの相当数によって取り組まれてはいません。

 『朝日』で「夏の集中講座 ミライ×ヒト」という連載が昨日(8月14日)から始まり、その第1回が「AIと労働」というものであった。2030年になると、AIの発達により、これまで人間がやっていた仕事がなくなって、働きたくても働く場所がない人間が増えるであろうという。トマス・モアは万人が働く世界を理想としていたが、その理想は過去のものになる、むしろ働いていようが、いまいが、最低限の収入を万人に与えるべきである、労働以外の価値を肯定すべきだという駒澤大学准教授の井上智洋さんの意見が紹介されていた。モアが引き合いに出されていたので、びっくりしたのだが、彼が問題にしているのは、イングランドを含む当時のヨーロッパ社会では勤労大衆(その多くは農民)に寄生している不労所得者が多いという現実であった。第1部でラファエルが展開した議論に戻ることになるが、地主、貴族、僧侶に加え、そうした人間たちに寄生している取り巻きが多いということがモアの批判の対象であったのである。〔もっともジェイン・オースティンの小説を読んでいるとわかるが、地主という「職業」もそれほど暇なものではないことも確かである。〕

 その一方で、今回紹介した個所を読んでいると、勤労大衆の世界の事情について、モアが詳しかったとはどうも思えない。モアが農業を重視していることはたしかであるが、酪農の可能性についてどの程度見通していたかはわからないし、ユートピアで一般的な職業としてモアが挙げている業種はあまりにも少ない。それも農業以外は工業に限られていて、商業は(おそらく『ユートピア』の基本的な主張と関連するのであろうが)無視されている。それはさておき、漁業、林業、狩猟、鉱業、交通関係の仕事、教職など、モアの視野に今のところ入っていない職業は意外に多いのである。 
 

ダンテ・アリギエーリ(須賀敦子・藤谷道夫訳)『神曲 地獄篇(第1歌~第17歌)』(1‐3)

8月14日(火)晴れ、雲も多いが、それでも暑い。

〔第1歌のこれまでの内容〕
 人の世の歩みのちょうど半ばにあったとき
私は正しき道の失われた
暗い森の中をさまよっていた。
(1-3行、11ページ)
 地獄篇34歌、煉獄篇33歌、天国篇33歌、合計100歌からなる『神曲』の中で、この第1歌は全体の序歌の役割を占めている。通常この3行は、70年の人生の半ば=35歳を迎えたダンテが、暗い森の中にさ迷いこんだと理解されているが、ここではアダムが創造されてから6500年にあたる西暦1300年の出来事を描いていると解釈されている。
 森を抜け出したところに、日の当たる丘を見つけたダンテは、その丘に登ろうとするが、突然現れた豹(嫉妬の象徴である)、続いて獅子(高慢の象徴)、さらに雌狼(貪欲の象徴)によって歩みを遮られ、暗い森の中へ通し戻される。
 低きところ〔暗い森〕に落ちて行っていたそのとき
長き沈黙のためおぼろげに見える人が
忽然と私の目の前に現われた。
(61‐63行、14ページ)
 ダンテはその人間とも影(霊)とも見分けのつかない姿に対して、救いを求める。

 彼は答えた。「私は人間ではないが、かつて人間だった。
私の両親はロンバルディーアの出で、
ともに祖国はマントヴァであった。
 私はユーリウス(・カエサル)の御代に、ずいぶんおくれてではあったが生まれ、
賢帝アウグストゥスの御代にローマに生きたが、
嘘と偽りの神々を奉じる時代であった。
 詩人だった私は誇り高きイーリオン(の都)が焼け落ちたあと
トロイアからやって来たアンキーセースの
正しき息子〔アエネーアース〕を歌った。
(67‐75行、14‐15ページ)
 このように、彼の前に姿をあらわした存在は、自分が過去=ローマ共和制末から 帝政の開始の時期に生きていた人物であり、(キリスト教から見ての話であるが)異教を信じ、詩人としてトロイアからイタリア半島にやってきてラティーウムにローマのもととなる都市を建設したアエネーアースを主人公とする叙事詩を作り上げたと自己紹介する。まだはっきりその名を名乗ってはいないが、ダンテの前に現れた姿がローマ文学黄金時代の最大の詩人であるウェルギリウスであることが明らかになる。この自己紹介を通じて浮かび上がってくるのは、ローマ帝国の政治と文学の偉大さに対するダンテの尊崇の念と、にもかかわらず、そこでは異教が支配していたことへの非難とである。ダンテが、ローマにおける共和制についてあまり高く評価していないらしいことは、ウェルギリウスの語り方からもわかる。フィレンツェの政治にかかわる中で、強力なリーダーによる政治(善政)をダンテが渇望していたことが推測できる。そして、そのような尊崇と非難の対象であるローマの頂点に立つ人物の一人が、ウェルギリウスなのである。その彼が、長い沈黙を破って死後の世界からここに姿をあらわしたのはなぜか、それはしだいに明らかになる。 

 そしてウェルギリウスの霊は、ダンテに向かい、次のように問う。
 だが、どうして、お前はあの苦悶〔暗い森〕の中へ
舞い戻ろうとしているのか。どうして、すべての喜びの源であり
理由である、喜ばしい山に登ろうとしないのか」
(76‐78行、15ページ) 喜ばしい山というのは、ダンテが登ろうとした日に照らされた丘ではなく、『煉獄篇』で歌われる煉獄山、その山を登ることによって罪が清められる、頂上には地上楽園が存在する山である。

 ダンテは、ウェルギリウスに抱いている尊敬の念と、獣の攻撃から自分の身を守り、この暗い森から脱出したいという思いを打ち明ける。すると、ウェルギリウスは思いがけないことを答える。
 「おまえは別の道を旅する必要がある」
私が涙を流すのを見て彼は答えた。
「この野生の地から生きて出るには。
 なぜならおまえがどんなに叫んだとてあの獣は
道を塞いで誰一人通さない。それどころか、
散々邪魔だてした挙句、最後は殺してしまうからだ。
(91‐96行、15‐16ページ)

 そしてダンテがこれから旅することになる道のりを語る。
 それで、おまえにとって最善のことを慮って言うが、
私のあとに従うがよい、私がおまえを導いてやろう。
そしてお前をここから救い出し、永劫の地〔地獄と煉獄〕へと
 連れ行こう。・・・
(112‐115行、16‐17ページ)

 異教の詩人であったウェルギリウスに天国に足を踏み入れることは許されず、天国では「私よりふさわしいたましい」(=ベアトリーチェ)が彼を導くことになるという。
 そこで私は彼に言った。「詩人よ、あなたがお知りになることのなかった、
かの神〔キリスト教の神〕にかけてお願いします。
どうか私がこの悪や、さらなる悪から逃れることができますよう、
 今おっしゃったところに私を連れて行ってください。
そして聖ペトロの門や、お話になった
かくも悲嘆にくれる(地獄の)人たちをお見せください」
すると彼は歩きはじめ、私はあとに従った。
(130‐136行、17‐18ページ)
 「聖ペトロの門」は煉獄篇第9歌に登場する「煉獄の門」を指す。この門が救いの入り口であり、同時に天国の門を兼ねている。また、ウェルギリウスのあとに付き従うダンテという組み合わせは、いくつもの寓意が重ねられていると藤谷さんは注記している。それは、理性や枢要徳を先頭として進む<感情>であり、古典詩人を範として従う<現代詩人>であり、冥界降りの先達に従う<後継者>でもあるという。
 ちょうど、岩波文庫の山川丙三郎による訳を手に入れたところなので、対照のため、最後の7行(130行―136行)を山川訳から引用しておこう:
我彼に、詩人よ、汝のしらざりし神によりてわれ汝に請ふ、この禍ひとこれより大なる禍ひとを免れんため
ねがはくは我を今汝の告げし處に導き、聖ピエートロの門と汝謂ふ所の幸なき者等をみるをえしめよ
このとき彼進み、我はその後方(うしろ)に従へり
(岩波文庫版、上巻、17‐18ページ) 須賀=藤谷訳が、固有名詞について日本人になじんだ原語に近い表記を選んでいるのに対し、山川がイタリア語表記に固執しているのが印象的である。全体として、山川訳の格調が高いことはわかるが、文章が古めかしすぎて、ついていけないというのは多くの人々が言うとおりである。それにしても、ダンテが韻文で書いている『神曲』を日本語の韻文に移すというのはかなり無謀な企てなのであろうか。

 かくして、ダンテはウェルギリウスに導かれて、地獄と煉獄の旅に向かうことになる。その先には天国の旅が待っているはずであるが、それは彼がどのようにこの2つの世界を旅し、どのように自分を変えていくかにかかっているのである。

『太平記』(223)

8月13日(月)曇り、暑い。夕方になって雷鳴。

 暦応元年(南朝延元3年、1338)5月、越前で勢力を蓄えた新田義貞は、足利方の越前守護である斯波高経を攻めた。7月、越後勢を合わせてますます強大になった新田軍に、京都の南の八幡山に進出した宮方の北畠顯信、新田義興の軍勢に加勢せよとの勅書が届いた。義貞は延暦寺に牒状を送り、同心の旨の返牒を受け取ると、弟の脇屋義助を京へ発たせた。新田軍上洛の報せに、足利尊氏は八幡攻めの大将高師直を京に呼び返したが、その際、師直は包囲していた八幡に火を放った。八幡炎上の知らせを受けた義助は、敦賀まで来たところで引き返し、八幡の宮方も、河内へ退却した。
 斯波高経は足羽川流域に7つの城(足羽七城)を築き防備を固めていたが、平泉寺と延暦寺の所領争いを利用して平泉寺を味方につけた。平泉寺で調伏の祈禱が行われる中、義貞は不思議な夢を見た。側近の者は吉夢であると占ったが、斎藤入道道猷は中国の三国時代の諸葛孔明・司馬仲達の故事を持ち出して、「あながちに感心せず」といった。

 閏7月2日は、足羽城に攻め寄せようと、かねてから連絡が行き渡っていたので、越前中の宮方の軍勢が、河合庄(九頭竜川と日野川が合流する地点の北にあった荘園=福井市川合鷲塚町)に参集した。集まったのは雲霞のごとき大軍である。
 義貞は、赤地の錦の鎧直垂に、脇楯(鎧の胴の右脇の合わせ目の隙間にあてて塞ぐ防具)だけを身につけて、遠侍(主殿から離れたところにある侍の詰め所)の中に座り、その左の脇に脇屋義助が紺地の錦の直垂に、小具足だけを身につけて座っている。このほか、新田一族の山名、里見、鳥山、一井、細屋、大井田、三浦一族の中条、足利一族の桃井の武将たち30余人は、それぞれ思い思いの鎧、小具足を華美に着こなして、東西に列に分かれて列席していた。

 外様の大名は宇都宮泰藤、信濃の禰津・風間、加賀の敷地・上木、越前の瓜生・河島・伊自良、武蔵の金子・江戸、上野の太田など、総勢で3万余騎、旗竿をかたむけかたむけ、膝を曲げて、手をついて、殿上と庭先にかしこまっていた。そこへ新田の家臣である由良と船田に大幕を掲げさせて、大将である義貞がはるかに謁見し、会釈した様子は、そのおごそかないでたち、堂々たる礼とともに、まことに足利尊氏の天下を奪い取る人は、必ず義貞であろうと思わない者はいないほどのものであった。 

 その日の軍奉行を務めるのは、加賀の武士である上木平九郎家光で、人夫6千余人に、まくり楯(携帯用の楯=持楯)、掻楯(かいだて、垣のように連ねる楯)、埋め草(城の堀を埋める草)、塀柱(城柵に用いる柱)、勢櫓(せいろ=井楼、材木を井桁に組んで作る櫓)の材料と組み立てるための道具をもたせてやってきたので、総大将である義貞は、注文で鎧の上帯を締めさせた。そして愛馬である水練栗毛(水練には泳ぎが上手であるという意味がある。栗毛は赤茶色の毛色である)という肩までの高さが5尺3寸(≒160センチ、標準は4尺≒120センチ)という名馬にのろうとしたら、この馬が急に暴れ出して、舎人(馬の世話をする従者)2人の胸を踏んで半死半生にするなど大騒ぎになった。

 従っている軍勢は不思議なこともあるものだなあと思っていたが、行軍に移り、旗持ちが進んで足羽川を渡っていると、その乗馬が川の中で臥せてしまい、旗持ちが(おそらくは旗も)ずぶぬれになった。
 このように様々な変異が、凶兆を示していたのだけれども、既に戦いへと出発してしまった以上は、おめおめと引き返すべきではないと思って、武士らしく人並みに行軍を続けていたが、心に不安を抱かない者はいなかった。

 東郷寺の前で3万余騎の兵を7手に分けて、七城のそれぞれに攻め寄せることにし、それぞれの城の向かいに城をつくることにした。かねてからの手配では、前方の兵は敵と向かい合って合戦をし、後ろの足軽たちはやぐらを組み立て、兵を塗り、向かい城を建設したら、ゆっくりと敵の城を攻め落とすべしと命令がなされていたが、七城の中で平泉寺の衆徒(僧兵)たちが籠っていた藤島城(福井市藤島町にあった)がひどく動揺して浮足立った様子であり、今にも陥落しそうに見えたので、数万の寄せ手、これに勢いづいて、まず向かい城を建てるという計画を後回しにして、藤島城の塀に取りつき、堀に使って、喚き叫びながら攻め戦う。

 藤島城にこもっていた衆徒たちもはじめは逃げる気配を見せていたが、周囲を敵に包囲されて逃げることは難しいということを思い知ったのであろうか、とにかく必死に防御に取り組む。城柵の前まで寄せた官軍が、堀を渡って櫓の下に潜り込むと、衆徒たちは上から丸太を突き落とす。衆徒たちが、橋を渡って反撃しようとすると宮方は太刀で一斉に切り付けて防ぐ。

 こうして簡単に決着すると思われた攻防戦は膠着状態になってしまった。こういうことであれば、初めに決めた手はず通りに戦っていたほうがよかったのかもしれない。また新田勢では軍奉行を務めるべき船田義昌が戦死していて、外様の上木家光が務めているというのがどうも頼りない。大軍を擁しているとはいえ、統制がおぼつかないのである。呉座勇一さんの『応仁の乱』の中に室町時代における戦闘の具体的な姿が論じられているが、この足羽七城の攻防戦などを読んでいると、応仁の乱の特色となっている陣地戦のひな型のようなものが現れているようにも思う。
 東郷寺という寺は平泉寺の末寺のように思われるが、現存せず詳細は分からないようである。義貞は利根川の中流域を本拠としている武将であるから、その乗馬も泳ぎは得意だったはずである。九頭竜川とその支流である日野川、足羽川はかなり水量の多い川で、この物語の舞台となっているのは下流の水量のさらに多い一帯である。そのことも注意されたい。さて、藤島城の攻防戦はどのように推移するのであろうか。それはまた次回。 

日記抄(8月6日~12日)

8月12日(日)曇り

 8月6日から本日までに経験したこと、考えたこと、以前の記事の補遺・訂正など:
8月6日
 NHKラジオ『まいにちスペイン語』では、広島平和記念資料館を見学した日本人2人とキューバ人の若者3人が、その感想を語り合い、一人が次のように提案する。
Chicos, vamos a hacer grullas de papel para la paz
(ねえ、君たち、平和のために折り鶴を折りましょう。)
 chico, -a は「若者」、vamosはir(行く)の一人称複数現在形の変化で、vamos a +不定詞で「~しよう」という意味を表す。 hacerは「作;する」、grullaは「鶴」、deは「~の」、papelは「紙」、grulla de papelで「折り鶴」ということである。
 8月3日の『日経』朝刊に「原爆の子の像」のモデルとなった佐々木禎子さんと小学校で同級だった川野登美子さんが「平和の象徴になった級友」という文章を書いていた。佐々木さんは2歳の時に被爆し、小学校卒業間近で白血病で倒れ、入院中に回復を祈って1000羽を越える鶴を折ったが、その願いもむなしく12歳で世を去った。「原爆の子の像」は同級生を中心とした募金運動の結果建てられたものである。

 東海林さだお『メンチカツの丸かじり』(文春文庫)を読み終える。「日本のおもてなし弁当」にフライが入っていたり、漬物代表が松前漬けであったりする微妙な問題を突っ込んだ「ボートに乗ったおさかな」、馬肉料理専門店で合コンを開いている男女(の男たち)にざまぁみろという「馬を食べる人々」、本物のワサビを使って刺身を食べる人とチューブ入りワサビを使う人との格差を突いた「ワサビ、この階級社会」など、観察と描写の妙をこらした独特な文明批評が展開されている。「サッカー狂乱す」という文を読んでいてあれ!(文庫本になるのが)早いなと思ったのだが、これは2014年のW杯の際のエッセーであった。どうも我々は4年ごとに同じようなことをしているようである。

8月7日
 『朝日』の朝刊に日中平和友好条約を締結した後、帰りの飛行機の中で当時の大平正芳外相が「30年後大変に」なるだろうという見通しをつぶやいたという話が出ていた。東谷暁『予言者 梅棹忠夫』(文春新書)には大平が政権に就いた後に9つの政策研究グループを組織するという前例のない試みを実行した話が出てきて、そのグループの1つが梅棹を議長とする「田園都市構想研究グループ」であったという。1980年の選挙中に大平が急死したため、「田園都市構想」は立ち消えになったが、もう少しその成り行きを見てもよかったと思うのは、大平という予見力のある政治家と、梅棹という予見力のある研究者の結びつきはあまり例のないものだからである。

8月8日
 8月4日に俳優の津川雅彦さんが心不全のため死去されていたことが発表された。78歳。
 調べてみたところ、津川さんの出演した映画作品を10本見ているが、実兄である長門裕之さんの映画は21本見ている。なお、朝丘雪路さんの出演した映画で見たことがあるのは1本だけだが、南田洋子さんの方は12本ある。
 ただ、津川さんの出演作ではまだこの芸名を名乗っていなかった時代の溝口健二の『山椒大夫』のような古い作品から、『風が強く吹いている』とか、『0.5ミリ』のような比較的最近の作品も見ていて、長い期間にわたって付き合ってきた俳優だったとはいえる。『山椒大夫』で思い出したのだが、溝口作品に出演したことのある男優で存命者はあと、だれがいるのだろうか。

 三浦しをん『あの家に暮らす四人の女』(中公文庫)を読み終える。この作品については、機会があれば取り上げてみるつもりである。(そういえば、『風が強く吹いている』も三浦さんの作品であった。)

 翁長雄志沖縄県知事が死去された。

8月9日
 NHKラジオ『高校生からはじめる現代英語』は8月に第1週と第2週に特別企画としてカズオ・イシグロさんのノーベル賞晩餐会スピーチを取り上げている。
 イシグロさんは5歳の時に、絵本を読んでいて、母親から「ノーベルショウって、ヘイワを広めるものなのよ」と教わった(第1回)。
This was just fourteen years after our city, Nagasaki, had been devastated by the atomic bomb, and young as I was, I knew heiwa was something important; that without it fearful things might invade my world.
(これは私たちの市、長崎が原子爆弾によって壊滅させられてからわずか14年目のことでした。そして私は幼かったけれども、「ヘイワ」は何か大切なことであり、それがなければ恐ろしいものが私の世界に侵入するかもしれないと知っていました。)
 このスピーチは英語でなされているので、英語から見れば異言語である日本語の「ヘイワ」はイタリック体で表記されている。

 そしてノーベル賞の理念が幼い子どもでも理解できる単純なものであることに続いて、それを受賞するときの誇りがオリンピックのメダルとは違うともいう。同国人がオリンピックのメダルを受章した時に感じる誇りは、自分たちの部族(our tribe)が他の部族よりも優れているということであるのに対し、ノーベル賞の場合は、
Rather, it's the pride that comes from knowing that one of us has made a significant contribution to our common human endeavour. The emotion aroused is a larger one, a unifying one.
(むしろ、それは「私たち」の1人が、共通の人類の努力に意義深い貢献をしたと知ることからくる誇りです。(ノーベル賞受賞で)喚起される感情は、より大きな、(人類を)1つにするものです。)
という。(第2回)

 そして現代の世界が、「高まりつつある部族(間)の敵意の時代」(a time of growing tribal enities)にあるとしながら、ノーベル賞は「私たちを分断する壁」(our dividing walls)を越えて考えることを助ける理念であり、この理念に基づいての受賞を自分は誇りに思うという。受賞決定後、イシグロさんはノーベルショウについて初めて教えてくれた、そして91歳でまだ存命中の自分の母親(長崎での被爆者の1人である)に電話でこのことを知らせた。
I more or less grasped its meaning back then in Nagasaki, and I believe I do so now.
(私は、むかしのあの時に長崎で、多かれ少なかれその意味(ノーベル賞の意義)をつかみました。そして今、そうしている(意義を理解できている)と信じています。)
 そして次のようにスピーチを結んでいる。
I stand here awed that I've been allowed to become part of its story.
Thank you.
(私は、その(崇高な)物語の一部になることを許されて、ここに畏れおののき立っております。/(ご清聴)ありがとうございました。)

 「物語の一部」というのは、いかにも作家らしい表現である。イシグロさんはこのスピーチをもちろん、英語で行ったのだが、かつてアメリカの作家シンクレア・ルイスがノーベル賞を受賞した時、当時のことだから授賞式に向かう船の中でリンガフォンでスウェーデン語を学習し、スウェーデン語でスピーチをしたという話がある。ルイスはピューリッツァー賞を辞退した最初の作家であり、ノーベル賞を受賞したアメリカではじめての作家であったが、そういう行為には彼なりの理由があったのである。

8月10日
 小野寺健編訳『フォースター評論集』(岩波文庫)を読み終える。この中の「イギリス国民性覚書」(この場合のイギリスはイングランドということである)の中に、ジェイン・オースティンの『分別と多感』に触れた個所があり、『分別と多感』を読みたくなって読んだことはすでに書いた(はずである)。「これから二十年もすれば世の中は大きく変わって、イギリスの国民性もそう独自のものではない、もっと好感の持てるものになるのではないか」(83ページ)という予測は当たっているかどうか微妙なところである。
 アラビアのロレンス=T・E・ロレンスを回想した「クラウズ・ヒル」というエッセーの中で、ロレンスの隠れ家であるクラウズ・ヒルにある晴れた日、トマス・ハーディー夫妻がやってきたという個所など、怖いくらい役者がそろっているという印象がある。(「そりゃもう、どのくらい違うかってぇと、もう、トマス・ハーディとオリヴァー・ハーディぐらい違うの。え。どっちも知らない。あ、そう。ま、いいでしょ。」(筒井康隆『文学部唯野教授』、岩波現代文庫版、38ページ)
 プルーストやヴァージニア・ウルフについて論じた文章もそうだが、ジョージ・オーウェルについて論じた評論を読んでいると、まずオーウェルの書いたものを読んで考えておかないと、よくわからないという気がする。ま、当たり前と言えば当たり前だ。その当たり前のことを続けていくことにしよう。

8月11日
 『朝日』朝刊の番組案内のページのコラム「よこしまTV」に「障害者と『役に立つ』」という記事が出ていた。8月5日にEテレで放送された「バリバラ」では戦争中に障害者も徴用されたという事実を取り上げていたという。「戦争のときは、戦争の役に立つか立たないか。今は今で、経済的な活動の役に立つか」で人間が評価されるという問題提起は重い。人間、年を取るとますます「役に立たなく」なるので、余計この問いかけは身に染みる。

 『日経』の朝刊に郷原信之さんによる「アジアから見た 新しい世界史」という歴史観を問い直そうという論説が掲載されていた。それを言うならば、「アジア」という区分けの仕方がやはり問い直されなければならないだろう。東アジア、東南アジア、南アジアは異質な世界だし、東アジアの中でも日本と中国は違うということが言われてきているのではないか。

 横浜FCはアウェーでロアッソ熊本に5-3で勝利して勝ち点3を挙げ、5位に順位を上げた。5得点(イバ選手がハット・トリック達成といってもセット・プレーからのゴールが2、PKが1というものである、レアンドロドミンゲス選手が2得点)は評価できるが、3失点はいただけない。

8月12日
 日米通商協議をめぐる専門家の見方として『日経』に渡辺博史・国際通貨研究所理事長が「今の米国の政策は経済学的には無意味だ」というかなりはっきりした意見を述べていた。だから、協議は持久戦に持ち込んで、アメリカの国民(世論)がトランプの政策の本当の意味に気づくまで待とうということらしい。アメリカが短期決戦、日本が持久戦というのは太平洋戦争と逆の構図である。

 同じっく『日経』の「遊遊漢字学」という連載コラムで漢字学者の阿辻哲次さんが「衣食足りて礼節を知る」という格言をめぐり、これが『管子』(牧民)の中の「倉廩実つればすなわち礼節を知り、衣食足ればすなわち栄辱を知る」に由来すること、『管子』は春秋時代の斉の宰相であった管仲のことばをまとめた書物とされること、ここで展開されている思想は軽罪が豊かになれば、人心が落ち着いて社会が安定するというものであることなどが説明されている。しかし、最近の日本を見ていると、経済的には豊かだけれども、礼節や栄辱ということが人々に行き渡っているようには思えないと結ばれていて、いろいろなことを考えさせられた。現代の日本社会の豊かさが見かけだけのものだという見方もできるが、それよりも、物質的な豊かさが精神的な豊かさの基盤になるという考えを疑ってみた方がいいという考えに私は傾いている。

山内譲『海賊の日本史』(4)

8月11日(土)晴れ、暑い。

 今回は、第4章「戦国大名と海賊――西国と東国」を取り上げる。

 「戦国時代になると、瀬戸内海を中心に海賊の軍事面での活動が活発になる。」(140ページ) これは一方では一部の海賊集団が次第その勢力を拡大し、広い海域で仕事をぬかりなく行うために武装を強化していったという海賊側の事情があるが、それ以上に重要なのは、戦国大名が出現し、強大化する中で、海上の軍事力を必要とする者が現れ、その中には自力で水軍を養成したが、多くの場合海賊たちを自分の中に取り込もうとしたという外部環境の変化であった。

 瀬戸内海の場合、その中でもっともその存在を注目されたのが、芸予諸島の村上一族である。
 戦国時代になって、海賊の活動が活発になるのは瀬戸内海や西国だけでなく、東国でも同様であった。とくに領国の中に相模湾、江戸湾が取り込まれていて海とのかかわりが深い北条氏は、水軍力の整備に熱心であった。また、今川氏を逐って駿河を手に入れたのちの武田氏も、北条氏に対抗して駿河湾で活動する水軍を必要とするようになった。
 「戦国大名や戦国期の社会のあり方が東国と西国で大きく異なっていることはよく知られているが、海賊のあり方についても同様である。」(141ページ) そこでここでは、東国と西国の海賊を比較しながら、この時代の東国、西国社会の違いについても考えてみるという。

 西国の方が海の占める部分が大きいので、海賊の影響力も大きかったと思われるが、その中で代表的な存在は瀬戸内海中央具の芸予諸島を拠点として活動した村上氏である。村上氏は、俗に三島村上氏と呼ばれるように、能島(のしま)村上・来島(くるしま)村上・因島村上の三家から構成されていた。三家の系譜関係は明らかではないが、同族意識をもちながらも、連携や離反を繰り返していたことは明らかである。
 村上さん家の成立期の姿は伝承に覆われていて実像はつかみにくい。記録に残されたかぎりでは能島村上氏の活動は14世紀の半ばごろにさかのぼり、もっとも古いが、因島・来島両村上氏もこの時期までには活動を始めていたのではないかと山内さんは推測している。

 三村上氏の活動が最も活発に展開されるのは、戦国代になってからである。
 能島村上氏は、伊予大島と伯方島(はかたじま)の間の狭い水路上に浮かぶ能島(愛媛県今治市)を本拠とした一族であり、海上交通の要路をにらむ位置に勢力を張っていただけでなく、芸予諸島以外にも拠点を広げていった。能島村上氏は、村上三氏の中では最も独立性の強い一族で、どの戦国大名とも一定の距離を保ち、独自の行動をとることが多かった。能島村上氏が交渉をもった戦国大名は、伊予の河野氏、畿内の細川氏、阿波の三好氏、豊後の大友氏、中国地方の大内氏など様々だが、最も関係が深かったのは毛利氏やその一族小早川氏であった。
 能島村上氏の全盛時代を現出させたのは武吉子元吉・景親である。武吉は毛利氏と敵対して危機に陥った時期もあったが、その後関係を修復し、毛利氏が大坂本願寺に兵糧を搬入しようとして織田信長軍と衝突した1576(天正4)年の摂津木津川(淀川の下流)河口での合戦の際には元吉が出陣し、毛利方水軍の中核として大きな功績をあげた。この後織田信長の中国攻めが進む過程で、羽柴秀吉の調略を受けて元吉が動揺したこともあったが、最終的には小早川隆景と連絡を取りつつ、毛利方水軍としての姿勢を維持した。

 来島村上氏の本拠来島城は、今治市波止浜(はしはま)の入り江の入り口に位置し、芸予諸島南部の航路である来島海峡の出入り口をにらんでいる。来島村上氏の全盛時代を築いたのは通康(みちやす)とその子通房(みちふさ)・通幸(みちゆき)である。1555(天文24)年9月に、毛利元就と陶晴賢が安芸国厳島で雌雄を決した厳島合戦は、村上諸氏の水軍力が発揮された戦いとしてよく知られているが、この合戦における村上諸氏の参戦の実否には諸説がある。その中で少なくとも来島村上氏の通康については参戦した可能性が高い。その跡を継いだ通総は織田信長の勢力が中国地方に進出してくると、前線司令官であった羽柴秀吉の誘いを受けて織田方に寝返った。そのために来島城をはじめとする諸城は、毛利氏、河野氏、能島村上氏などから激しい攻撃を受けたが、それを切り抜け、秀吉の四国平定後には大名に取り立てられることになった。また、通総の庶兄通幸は、近隣の国人領主得居家を継いで得居通幸と名乗り、通総と行動を共にして3千石を与えられた。

 因島村上氏の本拠は、備後国因島の東岸に位置する中庄(なかのしょう、広島県尾道市)である。因島村上氏は、因島周辺のみならず、遠く離れた海域でも活動した。室町・戦国初期には、大畠瀬戸にめんした遠崎(とおざき、山口県柳井市)などを拠点にして、周防灘や伊予灘などの海域にまで活動範囲を広げていたことが分かっている。因島村上氏の活動拠点としてもう一つ重要なのが備後国鞆(広島県福山市)である。
 因島村上氏の全盛時代を築き上げたのは、吉充(よしみつ)と弟の亮康(すけやす)である。吉充は小早川氏や毛利氏との結びつきが強く、1582(天正10)年に来島の村上通総が離反した時にも毛利氏への忠誠を誓い、小早川隆景や毛利輝元から周防国内に領地をあたえ螺らている。また亮康は鞆を支配して「鞆津主」と呼ばれていたが、1574年に室町将軍足利義昭が信長によって境を追われ鞆に移ってくると、その護衛と監視も重要な任務になった。
 村上氏が組織的に倭寇とかかわったことを示す史料はないが、伊予など瀬戸内海の住人が何らかの条件の下で朝鮮まで出ていった可能性までは否定できない。

 芸予諸島には、村上諸氏以外にも毛利・小早川系の海上勢力の活動がみられた。因島の西隣の生口(いくち)島を拠点とした生口氏、小早川隆景の本拠三原の近くの忠海(ただのうみ)を本拠とした乃美氏が活動した。安芸灘では下蒲刈島の多賀谷氏が活動したが、多賀谷氏はもともとは東国武士である。備讃諸島海域では塩飽諸島の人々が水軍というよりも、水運で活躍した。〔先日の『朝日』の地方欄で、咸臨丸がアメリカに渡航した際に、塩飽の人々が多く水夫として貢献したという記事を読んだのだが、っ詳しいメモを取らずに見過ごしてしまった。〕 
 周防と伊予の間に点在する防予諸島では忽那氏が活躍した。忽那氏が南北朝時代に南朝方で活躍したことはすでに述べたが、戦国時代になる問よの戦国大名河野氏との結びつきを強め、同誌の水軍力の担い手となる。忽那島の南に位置する二神島は二神氏の拠点としたところで、二神氏も戦国時代には、河野氏の水軍の一翼を担った。〔昔勤めていた学校での同僚に、二神姓の人がいて、やはり愛媛県の御出身であったが、ときどき釣りなどをしていたのを思い出す。ナマズを釣ったけれども、猫も食べないなどと言っていた。大分以前に亡くなられた。改めてご冥福を祈る。〕
 九州沿岸では佐賀関半島や国東半島を拠点にした若林氏、岐部氏、渡辺氏などが活躍したが、それぞれ大伴氏の水軍として重要な位置を占めた。

 このように戦国時代の西国、とりわけ瀬戸内海には、海賊衆村上氏以外にも様々な海上勢力が存在したが、その性格をどのようにみるかは難しく、厳密な意味での海賊と呼ぶことはできないようである。このように多様な海上勢力が存在していたのが、西国の海の世界の特質であったということを見逃してはならないのである。

 西国の水軍ということで、毛利氏のために働いた村上氏や、河野氏、大友氏のために水軍として働いた海上勢力について触れられていたが、信長・秀吉の方も水軍をもっていたはずで、すでに登場した熊野海賊の流れをくむ九鬼氏などはそのような水軍の担い手であったが、そのことについては触れられていない。秀吉を先鋒とする信長の中国経略を一方の方からのみ描くのでは、全体像をつかむことはできない。このあたりが問題である。では、東国はどうなのかというのは、また次回に。 

森本公誠『東大寺のなりたち』(7)

8月10日(金)晴れ、暑さが戻ってきた。

 今回から第4章「廬舎那大仏を世界に」に入る。東大寺と言えば大仏=廬舎那大仏である。ということからすれば、この書物の中心部分といってもいい章である。個人的な思い出になるが、むかし近鉄奈良駅の駅ビルの上の方に、小さな博物館があって、そこで「大仏造立」というモザイク・スクリーンのスライドが上映されていたことがある。そのスライドの制作に助手として携わったのが私である。それで東大寺長老という高い地位にある著者とは別の意味で、東大寺の大仏には興味と愛着がある。

 廬舎那大仏がそのおおよその姿を表したとは言うものの、まだ未完成の段階で、仏像製作に必要な黄金が陸奥で産出されたことを政治的な好機として、聖武天皇は「三宝の奴」という形で仏法への帰依を表明された(天平21年、己丑、749)。また天平感宝への改元、「太上天皇沙弥勝満」という名乗りによる譲位と出家、阿倍内親王への譲位と孝謙天皇の即位、天平勝宝という新たな改元、天皇は一気呵成に重大問題の処理を続けられた。これによって聖武天皇から孝謙天皇へと、政治の頂点に立つべき人物が入れ替わった。「しかし、新天皇は吉備真備から帝王学を受けていたとはいえ、一抹の不安が残る未熟な存在であった。」(110ページ)

 「即位の当日、政府高官の人事異動の発表があり、正三位参議藤原仲麻呂が大納言に、従三位の石上乙麻呂と紀麻呂、それに正四位上多治比広足の三人が中納言に、大伴兄麻呂・橘奈良麻呂・藤原清河の3人が参議になった。」(同上)
 藤原仲麻呂は藤原不比等の長男で南家の祖である武智麻呂の次男。この後盛んに登場するので、それ以上の説明の必要はないだろう。
 石上乙麻呂(いそのかみのおとまろ)は左大臣・石上麻呂の三男。天平21年4月1日に廬舎那仏の仏前で左大臣橘諸兄とともに、聖武天皇の詔(この中に寺院に墾田の所有を許すという文面があった)を代読した人物である。『懐風藻』に漢詩を、『万葉集』に短歌を残す文化人であったが、翌年に死去している。彼の子息の宅嗣は大納言となり、自宅内に日本で初めての公開図書館である芸亭を設けたことで知られる(これは日本史の教科書に出てくるはずである)。なお、石上氏はさらにその昔の物部氏の子孫であるが、宅嗣の後は、公卿に昇るものは出なかった。
 紀麻呂はこの後しばらく活躍するが、その後死去。平安時代の学者である紀長谷雄の先祖にあたる。多治比広足(たじひのひろたり)は左大臣・多治比嶋の六男。この後、橘奈良麻呂の乱に連座して失脚する。大伴兄麻呂は大納言・大伴御行の子、万葉歌人である旅人の従兄弟にあたる。橘奈良麻呂は左大臣・橘諸兄の子。反仲麻呂派の中心人物で、この後も登場するはずである。なお、彼の孫の嘉智子は嵯峨天皇の皇后(檀林皇后)となり、仁明天皇を生んだので、現在の皇室にはわずかながら、奈良麻呂の血が流れているはずである。藤原清河は不比等の次男で北家の祖である房前の四男。天平勝宝2年(750)に遣唐大使となり、いろいろな事情が重なってそのまま唐の朝廷に仕えて高官となり、帰国できないまま客死した。

 「古代天皇の強みは何といっても人事権を掌握していたことである」(同上)としつつも、森本さんはこの人事が孝謙天皇ではなく聖武太上天皇の意向によるものであろうと論じている(中国では皇帝は安禄山の乱に直面した玄宗とか、宋の徽宗のようによほどのことがない限り譲位しないが、譲位後は新皇帝が優位に立つのに対し、日本では天皇が譲位して太上天皇=上皇になると、天皇よりも権勢をふるう場合が少なくなかった。聖武太上天皇と孝謙天皇の場合でも、この日本的な関係が表れているが、このほかに考慮すべき点もあって、それが次に述べられる。) 仲麻呂は紫香楽時代に官僚としての有能さが認められ、参議から中納言を飛び越えて大納言と二階級特進を果たした。これは聖武天皇による抜擢であろうというのである。 
 これで、すでに議政官の地位にあった左大臣橘諸兄らを加えた12名が新政権を担うことになった。その中で頭が切れて算術に詳しいという評判のある、新参者で野心家の仲麻呂が会議で発言力を強めていくのは当然のことであろう。

 孝謙天皇はあまりにも未熟だったようで、いざ新体制が発足してみると、太政官体制に軋みが生じたらしく、1か月ほどたつと、紫微中台という新しい役所が設けられる。これは従来の皇后宮職を拡充したものである。この新しい役所の長官には藤原仲麻呂が兼任の形で任命され、参議である大伴兄麻呂、同じく参議で式部卿の石川年足も次官である大弼を兼任することになった。9月に改めて紫微中台の官人構成及び相当位が定められ、総勢22名の四等官制がとられたが、任命された者には議政官、式部省、衛府の官人の兼務が多い。〔のちの蔵人所とちょっと似たところがあるが、蔵人所は実働部隊で、政策決定の権限はない。〕 石川年足(としたり)は権参議・石川石足の長男で、石川氏はかつての蘇我氏の末裔である。年足は能吏であったが、出世が遅く、仲麻呂が台頭すると、その遠縁であったために急速に出世して公卿にまで上り詰めた。

 新しい役所の長官になった藤原仲麻呂は、おそらく彼にとって叔母である光明皇后(この時点では皇太后)の後押しを受けての就任であったと思われる。病気がちの聖武天皇は光明皇后に孝謙天皇の後見を(洒落ではない)依頼し、皇后が頼りになる身内の仲麻呂を抜擢したという経緯であろう。そればかりか「政局の運営がやりやすいように行政組織の改編まで認めたようである。人事や職務の内容を見ると、かつての皇后宮職よりはるかに権限が強化されている。〕(111-112ページ)

 「沙弥となった聖武太上天皇のもと、皇后を置くことがあり得ない女性の孝謙天皇を支えるために、光明皇太后は自らを拠り所とした行政機関の創設を了承し、藤原仲麻呂が実権を振るいやすい政治体制を創り上げたといえる。事実、律令制での最高官庁は太政官のはずであるが、どうやらその権力の大半が紫微中台に奪われ、実権は藤原仲麻呂の掌中に帰したらしい。」(112ページ) 〔このような歴史の理解は特段に目新しいものではない。私が高校生の頃だったか、文学座が上演した有吉佐和子作の戯曲『光明皇后』はこれと似た政治環境を描いていたと記憶する。光明皇后を演じたのはもちろん、杉村春子、孝謙天皇を演じたのは加藤治子であった。〕

 孝謙天皇が即位された後の7月13日に、既に第3章でも触れられた諸寺墾田地上限額の制定という重要な決定がなされた。東大寺は他の寺院に比べるとは破格といってよい4000町という墾田の所有を認められた。しかし、墾田地をもっていいということと、墾田地をもっているということとは違う。墾田地が収穫をもたらすのは先の話である。当座をどうしのいでいくか、既に東大寺の僧侶集団の代表格であった良弁にとっては、孝謙天皇即位後のおよそ半年間は、心労の重なる時期であったと森本さんは推測している。

 廬舎那大仏の仏身は、10月24日に鋳造を完了する。そして12月には螺髪の鋳造が始まる。このような時期に、はるばる豊前(大分県)の宇佐から八幡神が入京し、12月27日に八幡神の神輿一行が東大寺を参拝した。この日、聖武太上天皇・孝謙天皇・光明皇太后も行幸され、百官・諸氏ことごとく東大寺に集まり、僧5,000人を請じて、礼仏読経の法会を営み、唐・渤海の音楽や伎楽が演奏され、日本古来の歌舞も奉納された。
 太上天皇は八幡神に、大仏造立をなし遂げられたのも、八幡神の託宣のおかげであると謝し、位として一品を献じた。「ここに神仏習合への道が開かれていく」(113ページ)と森本さんは論じているが、神仏習合の歴史をこのように単純に割り切っていいのであろうか。
 翌天平勝宝2年(750)正月からは仏身の鋳加え作業に入った。ちょうどこの時期に、等に留学経験があり、当時最も有能な人材とされた吉備真備が筑前守に左遷された。仲麻呂による追い落としである。

 陸奥国の黄金産出の知らせを受けてからちょうど1年という同年2月22日、聖武・孝謙・光明の3人がそろって東大寺に行幸され、これまでの封1500戸に、3500戸を加えて、計5000戸を施入された。天平勝宝3年には、孝謙天皇自身が東大寺に赴かれ、大仏殿建築の責任者である木工寮の長上神磯部国麻呂を貴族に叙した。造営への督励である。こうして大仏造立と大仏殿造営の工事が順調に進捗する。聖武太上天皇が望まれていた仏教伝来200年を期した天平勝宝4年(752)の大仏開眼供養会も可能だというところまでこぎつけた。
 仏教の公伝、つまり百済の聖明王が我が国に仏像・経論を伝えてきたのが、『日本書紀』によると欽明天皇13年(壬申)⇒552年のこととされ、『上宮聖徳法皇帝説』等では欽明天皇御宇の戊午年のこととされる。この記述にはいろいろと議論があるのだが、一応538年のことと考えられている。このどちらがより正確な年代であるかをめぐっても議論があり、現在では538年説の方が有力のようだが、奈良時代は552年説が有力であったのである。とにかく、この記念すべき年に大仏開眼供養会を行うことを近隣諸国に伝えてはどうかという議論が起きた。その結果、どうなったのかは、また次回。

 この時代の歴史を考えるときに、公地公民という律令制の建前と、自分たちの父祖の土地を維持しようとする古代貴族、さらに律令制の枠を利用して自分たちの勢力を拡大しようとする新興貴族という図式、墾田の永続的な所有が認められるようになると、新興貴族や寺院勢力の立場が強くなるといったことが浮かび上がってくるのであろう。
 むかし、中国語中級のコンパの席で、尾崎雄二郎先生が「中国は武士というものがいなかった国ですから」と言われたのは、いろいろな意味が含まれていると思われる(武士はいないが、軍閥というものはあった)が、先生もたぶん、宮崎市定の授業は聴講されたから、中国の歴史が貴族と官僚の対立の歴史(時々軍閥や異民族が絡む)であったくらいのことは耳にされていただろう。尾崎先生の発言は宮崎市定から先生が学ばれたことを先生なりに解釈し直した発言であろうと受け止めている。ということは、森本さんも、いくらイスラム教圏の歴史が専門だとは言っても、宮崎の弟子を自称されているから、中国の歴史をめぐる様々な講義は詳しく聴講しているだろうし、武士の出現しなかった中国と、武士が強い影響力を持つに至った日本という対比は念頭にあるのだと思う。それから、日本では寺社勢力というものがかなり強いということも、ご本人が僧侶であるから言いにくい部分があるかもしれないがご存じのはずである。歴史というものをただ単に、支配者の気質や性向によって動かされるものと考えてはいけないのであって、東大寺の歴史はその意味でも大きな広がりを持っているのではなかろうか。

ウィルキー・コリンズ『月長石』再読(10)

8月9日(木)曇り、午後になって晴れ間が広がる

 インドのヒンズー教寺院の神像の額を飾っていた黄色のダイヤモンド月長石(Moonstone)は、数奇な運命の果て、英国にわたってきた。そして、1848年のある夜、秘宝は持ち主であるヨークシャーのヴェリンダー家から忽然と消失してしまった。そして月長石の行方は分からぬまま、ついには殺人事件まで起きる。
 事件が一応決着した1850年に、ヴェリンダー卿夫人の甥であるフランクリン・ブレークは事件の顛末を記録に残すことを思い立ち、関係者の証言や彼らが遺した文書を集める。ある家の記録から1799年の英軍によるセリンガパタム攻撃の際にヴェリンダー卿夫人の兄であるジョン・ハーンカスルの手に入ったことが知られる。この記録の書き手は、ジョンが略奪が禁じられていたにもかかわらず、インド人たちからこの宝石を強奪したのではないかと怪しんでいる。

 1848年に起きた出来事について最初に執筆することを依頼されたのは、ヴェリンダー家の執事であるガブリエル・ベタレッジである。彼がその娘であるペネロープの助けを借りて、思い出したところでは:
 1848年5月24日に、ベタレッジはヴェリンダー卿夫人から長らくヨーロッパで暮らしていた甥のフランクリンが翌日にヴェリンダー家を訪問する。到着は夕方になるはずなので、その日、ヴェリンダー卿夫人と一人娘のレイチェルは外出するが、その留守中に、3人の旅回りの手品師らしいインド人が邸で芸を披露させてほしいとやってくる。留守番役のベタレッジは、主人は今いないのでと申し出を断るが、彼らの様子を怪しんでいたペネロープが、この3人を警察に逮捕するように通報してほしいといってくる。彼らは怪しい術を使って、フランクリンの到来を予測し、待伏せしようとしている様子だというのである。しかしベタレッジは取り合わない。
 次に彼のもとにやってきた台所係のナンシーが、(召使たちの)夕食の席に下働きの女中のロザンナがいないので呼んでくるように言われたというので、ベタレッジは彼女に代わってロザンナを探しに行く。ロザンナはヴェリンダー卿夫人がロンドンの犯罪者矯正施設から連れてきて雇っている召使である。ベタレッジが荒涼とした海岸の浜辺に座っていたロザンナと話していると、突然、一人の青年紳士が現れる。その姿を見たロザンナは、顔を赤らめてその場を去ってゆく。青年紳士は、ベタレッジが子ども時代のことしか記憶していない、フランクリン・ブレークであった。彼は邸でペネロープから話を聞き、詳しい事情をベタレッジから素人ここまでやってきたのである。そして、前日の出来事を聞いて、インド人たちが探しているのはこれだろうと、紙に包まれた月長石を取り出す。

 ベタレッジは驚いて言う。
  ’Good Lord, sir!' I broke out, 'how do you come to be in charge of the wicked Colonel's Diamond?'
  ’The wicked Colonel's will has left his Diamond as a birthday present to my cousin Rachel,' says Mr Franklin. 'And my father, as the wicked Colonel's executor, has given it in charge to me to bring down her.'
 中村訳によると:
「ほほう!」と私は思わず声をあげた。「どうしてまた、あの陰険な大佐のダイヤモンドが、あなたさまの手に入ったのでございますか」
「大佐の遺言によって、このダイヤモンドはレイチェルの誕生日のお祝いに贈られたのだよ。そして、ぼくの父が大佐の遺言執行人なので、ぼくにここへ持たせてよこしたんだ」(52ページ)
 ”Good Lord!は驚きを表す表現なので、「ほほう」などと落ち着いた感じで訳すべきではないだろう。「おやまあ」とか「これはこれは」あたりではないか。 ”in charge of"は「預かっている、受け持っている」という意味だから、「手に入った」ででも悪くはないが、「何でまた、あなたさまが持っていらっしゃるのですか」ということであろう"wicked"は「邪悪な、悪意のある」ということで、「陰険な」でも悪くはないが、「邪悪な」としておいた方がベタレッジの気持ちを表現する上で適切ではないかと思う。
 そしてその”wicked"をフランクリンが繰り返して使っているのが、中村訳では省かれている。「お前は邪悪だというけれども、何で邪悪だというのか、説明してほしい」という気持ちが現れているとみるべきであろう。
 フランクリンの父親については、すでに説明したし、実はその説明のもとになった箇所がこの後に出てくるから、ここでは説明しない。executorは「遺言執行者」で遺言者から遺言をもって遺言執行を委ねられた人物であり、裁判所によって任命された遺産管理人(administrator)とともに死者の人格代表者(personal representatives)と言い、死亡者を埋葬し、その遺産を管理し債権を取り立て債務を弁済し遺贈を支払った後、残余財産を遺言により権利ある人にい分配する義務を負う。誠実に任務を執行した場合には裁判所の命令により相当の報酬を受けると高柳賢三・末延三次(1973)『英米法辞典』にある。〔とともに、という言い方は誤解を招きやすい。もし死者が遺言を残さずに死亡するとか、遺言執行者に指定された人がそれを拒否した場合に、遺産管理人が指名されるのである。〕

 これを聞いてベタレッジはますます驚いて言う。「あの大佐のダイヤモンドがお嬢様にですって! それに、お父様が大佐の遺言執行人とは! お父様は見るもいやなほど毛ぎらいしていらっしゃったじゃありませんか。フランクリンさま、これにはいくらでも賭けてよございますよ!」
 「これはまたてきびしいな! 何か大佐に含むところでもあるのかい。ぼくと違って、お前はあの大佐と同じ年代の人間だ。大佐について知っていることをみんな話してくれないか。そうすればぼくも、父が大佐の遺言執行人になったいきさつや、そのほかのことも話すよ。ハーンカスルおじさんとこのダイヤモンドについて、ロンドンでいくらか分かったことがあるんだが、それがぼくの目にはどうも怪しいふしがあるんだ。それでおまえにそれを確かめてもらいたいんだよ。さっきおまえは大佐のことを『陰険な』と言ったね。さあ、よく思い出して、そのわけを話してくれないか」(同上)

 「これはまた手厳しいな!」と訳されていることの原文は’Strong language, Betteredge!' この場合のstrongは「激しい、冒涜的な」ということで、「お前にも似合わずに、厳しい意見を言うねぇ!〕というような感じであろう。死者に対して、あまりにひどい意見を言うべきではないという常識が、フランクリンにはある。「なにか大佐に含むところでもあるのかい?」というところの原文はWhat was there against the Colonel?で、「含むところがある」だと、ベタレッジ個人が何か彼に対して批判的にならざるを得ない事情があるような言い方になるが、原文の書き方は「大佐に対して何か不利になるようなことがあるのかい?」という意味だと思う。この次の回にベタレッジの口から語られるが、ベタレッジと大佐の間には深い関係はないし、会ったのも一度きりである。年齢的にみて、フランクリンよりもベタレッジの方がジョン・ハーンカスルに近いし、それだけよく知っているはずだとフランクリンは考えている。〔そうであるのならば、ベタレッジなどに聞くよりも、ジョン・ハーンカスルの兄が生きていれば、彼に聞く方がいいし、そうでなくても他に聞くべき人は大勢いるのではないかという気がする。とにかく、ジョン・ハーンカスルとベタレッジとでは、社会階級が全く違うということをフランクリンはあまり気にしていないようである。最初に挙げた、セリンガパタム襲撃の記録を残した人物の文書を、この時点で入手しているのだから、その筋から真相に迫ってもよかったのである。身分の低いベタレッジに大佐の人物像を尋ねるあたり、同じ社会階層の人間には評判が悪かったが、もっと下の社会階層の人間には評判がよかったのではないかというフランクリンの質問以前の下心が見え透いているようにも思われる。〕 フランクリンは、明らかに気安く話ができる相手だけを選んで真相を知ろうとしている。推測するに、フランクリンは自分が一番賢いと思っているために、他人の意見を聞かずに暴走するタイプのように思われる。〕 そしてもちろん、なぜベタレッジが大佐をwickedといったのかの理由も問いただしている。

 一族の中で大佐が嫌われ者だったことなどの事情についてフランクリンが真剣に知りたがっていることを知って、ベタレッジは事情を説明する。この後で明らかになるが、フランクリン自身は自分の伯父(母の兄)であるジョン・ハーンカスルに会ってもいないし、父親から話を聞くだけなのである。フランクリンの父親は、これからある程度詳しく説明されるが、別の、きわめて利己的な用件のために、義兄であるジョンをそれなりの利用価値にある人物だと思っていたふしがある。似たもの親子という言い方もあるが、父親も息子も、他人をあまり疑わない、わりに物事を楽天的に、悪くいえば自分に都合よく考えるところがあったようである。そもそも、父親は自分でダイヤモンドを運ぶべきであるし、引き受けたフランクリンはもっと事情をしっかり調べてからヨークシャーに出かけるべきであった。

 これから何が起きるかはわからない、しかし、身分の高いフランクリンの方が物事を楽観的にとらえ、身分の低いベタレッジの方が危険を感じているという受け止め方の違いは、この後の物語の展開に大きなかかわりを持っている。ジョン・ハーンカスルの邪悪な性格が物語全体にもたらす暗い雰囲気もさることながら、フランクリンの楽天的で軽率な性格が周囲の人々に及ぼす悪影響も無視しがたいものがある(と私は思う)。
 

トマス・モア『ユートピア』(13)

8月8日(水)雨、深夜に風雨が強くなるという予報である。

 1515年にフランドルを訪問したトマス・モアは、ピーター・ヒレスからラファエル・ヒュトロダエウスという世界中を旅してきた人物を紹介される。彼の経験と知識とに感心したピーターとモアは、どこかの王侯に顧問として仕えて、その政治を助けるように勧めるが、王侯の関心は戦争と蓄財だけであり、その取り巻きは追従をこととしていて諫言とは無縁であることを知っているラファエルは同意しない。彼はヨーロッパ諸国、特にイングランドの直面している社会問題に対して、もっともよい解決例を示しているのは新世界にあるユートピアという国の諸制度であるという。ピーターとモアの要請にこたえて、ラファエルはユートピア島のあらましとその諸制度について語りはじめる。
 ユートピアはもともとアブラクサという半島であったのを、ユートプスという指導者が現れてこの土地を本土と切り離し、新月(三日月)型の島にした。島はユートプスに因んでユートピアと呼ばれるようになった。島には54の都市があり、それぞれが同じくらいの規模で、程よい距離を保って位置している。島のほぼ中央にあるアマウロートゥムが各都市の代表者たちが集まって重要な問題を協議する場となっている。
 都市の周辺には農村が広がり、人々が交代で農業に従事するが、農業が好きなものはずっと農村にとどまってもよい。農産物は計画的に生産され、余ったランキング作物は無料で必要とする者に分配される。
 ユートピアの都市はどこも同じようなものなので、首都であるアマウロートゥムについて説明すれば全体の説明になる。アマウロートゥムはアーニュドルス川(ロビンソン訳ではアニュダール川)という川に面しており、それはロンドンとテームズ川の関係に似ている。アマウロートゥムは城壁で囲まれ、水道が完備し、よく整備された道路が通じている。人々は3階建ての立派な住まいに住んでいるが、10年ごとに住居を交換し、プライバシーというものはない。また住居には庭がついていて、人々はその手入れに夢中になっている。

 30世帯が1単位で毎年一人の役人を選ぶ。彼らの古い言葉でこの役職はシフォグラントゥス(長老)、新しい言葉ではフィラルクス(部族長)と呼ばれる。ロビンソン訳ではSyphograngrant, Philarch, 平井訳ではシフォグラント(意味は明瞭ではない)、フィラーチ(家族長)、ターナー訳ではStyward, Discrict Controller (地区取締)となっている。〔Stywardという語は辞書に出ていないが、Stewardの変形と思われる。Stewardは執事、家令、財産管理人など、「兵隊の位」で言えば下士官相当の役職で、世話役くらいが適当な訳であろうか。私の住んでいる地域の自治会に当てはめてみると、会長と班長の中間くらいの存在に思われる。〕

 さらに部族長10人ごとに昔はトラニボールス、今はトラニボールス(部族長頭領)と呼ばれる役職がある。そして200人余りいる部族長たちは、公益上最適任と考える人物を選ぶという宣誓をした後で、民衆が彼らに対して指名した4人の候補者の中から、秘密投票によって一人をプリンケプス(都市頭領)に選ぶ。このプリンケプスはラテン語で指導者という意味であるが、ロビンソン訳はprince(君主)と訳しているが、ロビンソン訳に基づいている平井訳はここでは市長とロビンソンの誤解を訂正している。ターナー訳もMayor(市長)と訳している。4人というのは、都会の4つの区(パルス)から各一人ずつ計4人が候補者として、セナートゥス(長老会議)に推薦されるからである。ロビンソン訳ではparsではなくquarterという言葉が用いられている(大した意味の違いがあるわけではない)。
 このセナートゥスはローマの元老院や、アメリカ合衆国の上院と関連する言葉であるが、唐突に出てきていて、部族長の会議であるのか、都市頭領の会議であるのか、あるいは別の組織なのか、はっきりしない。ローマの元老院は基本的には貴族の代表、アメリカの上院は各州から2人ずつ選ばれる議員で構成される。ローマの場合、貴族ではない騎士階級や平民も政治的発言力を持っていて、いわば二元的な政治体制であり、アメリカも下院は人口に応じて各選挙区から選ばれる議員によって構成されるという二元的な制度が採られている。モアが一元的な代議員制度をよしとしたのか、二元的な代議員制度をよしとしたのか、あるいはどちらとも決めかねていたのかはわからないが、決めかねていたからこのようなあいまいな表現をしていると受け取ることもできる。

 都市頭領≂市長の職は彼が僭主制を目指しているという疑いで失格にならないかぎり、終身のものである。僭主というのは、古代ギリシアの歴史で、都市国家を暴力によって支配した独裁者、あるいは寡頭政権の頭領たちである。これに対して、他の役職は1年任期で交代する。〔都市頭領≂市長になるのは老年者だから、それほど長くこの職を務めずに世を去るだろうという思惑があるのかもしれない。〕
 (部族長)頭領たちは3日おきに集まって会合を開くという。このようにできるだけ時間をかけて重要な問題を議論しようとしていて、立法を急ごうとはしない。重要な問題は、部族長頭領たちだけで決めずに、部族長会におろして議論され、さらに長老会議、時には全島会議が開かれることもある。
 長老会議には、動議が提出されたその日のうちにそれを議論しないで、次の会議まで待つという風習がある。これは軽率な提案をそのまま議論するのではなくて、少し考えてから議論しようという意図からであるという。『澤田さんは「動議」と訳しているが、「法案」とか「決議」などの「提案」と考えるほうが妥当であろう。

 ユートピアの地方組織は住民組織と結びついて考えられ、段階的に構成されているが、選挙に基づく民主的に選出された役員によって運営されていることが特徴的である。現在の日本でも住民の自治組織と、地方行政の組織の関係は単純なものではないが、民主主義の根幹にかかわるこの問題があまり表面化しないのはどういうことであろうか。
 中世から近世にかけてのヨーロッパ諸国には身分制の議会が設けられていて、英国の場合それが今日の国会の原型になっているのであるが、貴族(Lords、英国の上院はHouse of Lordsと呼ばれる)と平民(Commons, 英国の下院はHouse of Commonsと呼ばれる)の対立は、それぞれが相手をチェックするという効果も持っていたわけで、そのような二元的な制度をモアがどのように評価していたかも知りたい気がする。モアはヘンリーⅧ世という絶対君主に仕えながら、内心では民主制をよしとしていたわけで、彼が最後に反逆罪で処刑された本当の理由はこのあたりにあるのかもしれない。

ダンテ・アリギエーリ(須賀敦子・藤谷道夫訳)『神曲 地獄篇(第1歌~第17歌)』(1-2)

8月7日(火)曇り、時々雨、立秋にふさわしく急に涼しくなったが、台風13号の接近が心配である。

 前回は、須賀・藤谷訳『神曲 地獄篇』第1歌の最初の12行を、原訳、壽岳訳等の他の翻訳と比べながら、取り上げた。

 1300年4月4日(月)の夜、ダンテは暗い森の中をさまよっていた。彼は強い眠気に襲われていたので、なぜそのような森の中に迷いこんだのかは思い出すことができない。
 森に迷いこんだのちのダンテの経験を人生70年のなかば(具体的には35歳)での出来事とする解釈が一般的な中で、この須賀=藤谷訳は、1300年を人間の歴史の中間点ととらえているところが大きく違う。「暗い森」は各個人の暗い人生とともに、当時のフィレンツェを中心とするトスカーナ地方(ひいてはイタリア全体)を寓意している。前回、ダンテの時代のトスカーナ地方には「森」は存在していなかったとする原さんの言葉を引用したが、「暗い森」=イタリアというのは比喩的表現であるから、フィレンツェを森が囲んでいなかったとしても、問題はないのである(したがって、前言撤回)。眠気は、人間が神なしで自力だけで生きていけると思う高慢さのことだという。

 森に迷いこんだダンテは、しかし、自分の力だけでこの森を抜け出せるという希望をもちはじめる。

 だがまもなく、ある丘の麓に到った。
そこで、私の心を恐怖でさいなんだ
あの谷〔暗い森〕が終わっていた。
(13‐15行、11‐12ページ)

 その丘の両肩は、太陽の光(思い出すのも恐ろしい一夜の彷徨の後の朝日の光)を浴びていたので、その丘に登ってしまえば安心だという気持ちになり、ダンテは後ろの「暗い森」を振り向く。そして、丘の斜面を登っていこうとするが、その足取りは軽やかなものではない。光そのものを目指すべきであるのに、光に照らされた丘を登るというところに、ダンテの人間としての驕慢さが現れているという。(太陽が地平線上に姿をあらわすのはもう少し後のことになるが、丘の上の方はすでに光を浴びているという状態である。) 粟津則雄は『ダンテ地獄篇精読』の中で、「強く結晶した比喩と日常的で具体的な感覚との直截な結びつきは『神曲』全体をつらぬく」(粟津、4ページ)と指摘し、この個所で早くもその特色が発揮されているという。

 疲れた体を少し休めてから
私はふたたび道を取り、だれもいない斜面を進んだが、
動かない片足は常に低きにとどまっていた。
(28‐30行、12ページ)
 なぜか、ダンテは片足を引きずっている。これは霊的な跛行であると注記されている。「人類は原罪を負った結果、魂が十全に機能せず、魂の左足は地上的なものに惹かれやすくなったとされた。このようにダンテの旅は片足状態から始まり、煉獄界の地上楽園で初めて両足で立てるようになる。」(19ページ)

 その彼の前に豹(lonza)が現れて、前進を遮ろうとする。この豹は「嫉妬」を表しているとされる。しかし、その時に、朝日が昇りはじめる。
 時はまさに朝まだき[午前6時頃]で、
最初にすべての美しきもの[星辰]に
神の愛が動きを与えた[宇宙の創造の]時にも
 共にあったあの星座[牡羊座]を従えて太陽は空へと昇っていた。
(37‐40行、13ページ) 古代の人々は宇宙は春分の日(3月25日)に創造されたと信じていた。そこで神が宇宙を創造したとき、太陽は牡羊座の中にあったということになる。『神曲』の中で描かれる出来事は太陽が牡羊座の中にある3月下旬から4月初旬にかけて起きたことが示される。
 そして、登っていく朝日に励まされて、豹は恐れるに足りないと、ダンテは前へ進もうとする。
 しかし、今度は、一頭の獅子(leone)が現れて、彼に向かって咆哮する。この獅子は「高慢」を表しているとされる。それから、今度は飢えた雌狼(lupa)が現れて、彼を脅かす。雌狼は「貪欲」を表しているとされる。その様子とまなざしが発する恐怖に圧迫されてダンテは、丘に登る希望を捨て、暗い森の中に押し戻されてしまった。

 低きところ[暗い森]へ落ちていったそのとき
長き沈黙のためおぼろげに見える人[ウェルギリウス]が
忽然と私の目の前に現われた。
 どこまでもつづく荒野にその姿を見たとき
「私を哀れんでください」と私は叫んだ。
「影[霊]であろうと、本当の人間であろうと」
(61‐66行, 14ページ)
 この影が何者であるかは、67行以下で語られるので、「おぼろげに見える人」がウェルギリウスであると注記してしまうのもいかがなものかと思われるが、1万行を超える『神曲』の中でそんな数行の問題にこだわるべきではないともいえる。

 第1歌の大体真ん中の、ウェルギリウス(の霊)が登場すると
ころまで漕ぎつけた。ダンテはそれがローマ黄金時代の大詩人の霊であることをまだ知らない。第1歌後半ではダンテの問いに答えて、(キリスト教徒の目から見れば)異教の時代の、「沈黙の宗教」の詩人であるウェルギリウスが、長い沈黙を破って口を開く。

 前回、『神曲』の各種の翻訳の中では壽岳訳が一番なじむという粟津則雄の意見を紹介したが、今道友信『ダンテ『神曲』講義」(みすず書房、2004改訂普及版)は、山川丙三郎訳が最も優れているとしながら、ダンテの雰囲気が一番出ているのは英語からの重訳である生田長江の訳であるという感想も述べている。生田長江(1882‐1936)は翻訳家・評論家・劇作家・小説家として様々な仕事を残したが、最近は日本におけるフェミニズムの先駆者の1人として評価されている。ある研究会で生田長江の研究をしている女性からチョコレートを分けてもらったことがあって、それで関心を持続させている。
 

 

『太平記』(222)

8月6日(月)曇りのち晴れ、依然として暑い。

 暦応元年(南朝延元3年、1338)5月、新田義貞は、斯波高経の足羽城(あすわのじょう)を攻めた。7月、越後勢を合わせた新田軍のもとへ、吉野から、石清水八幡宮のある八幡山に陣を張る宮方の北畠顯信(親房の次男、顕家の弟)、新田義興(義貞の次男)の軍勢に加勢し、京都を南北から攻撃せよという勅書が届いた。義貞は延暦寺に牒状を送り、同心の旨の返牒を受け取ると、弟の脇屋義助を京都に発たせた。新田軍上洛の報せに、足利尊氏は八幡攻めの大将高師直を京都に呼び返したが、その際に師直は包囲していた八幡に火を放った。八幡炎上の知らせを受けた義助は、敦賀まで来たところで引き返し、八幡の宮方も河内へ退却した。

 義貞が京都への出発を急いだのは、八幡に陣を張っていた宮方の軍勢に加勢し、京都攻略の糸口を見出すためであった。しかし、その意図が達成できなかった以上、腰を落ち着けて北陸地方の足利方を一つ一つ退治して、そのうえで南方と連絡を取って、合戦をしようと、義貞も(福井市川合鷲塚町)へと進んで、まず足羽城を攻めようと考えた。

 斯波高経は、このことを聞いて、味方はわずかに300騎に足りない軍勢にすぎず、義貞の3万騎の軍勢に囲まれれば、千に一つも勝つことができそうもないと思ったが、新田勢がすでにあちこちの道路を封鎖したといううわさも入ってきて、落ち延びようにも落ち延びられそうもないという状態である。こうなったら、戦死を覚悟して、城に籠るよりほかに取るべき方途はないと、泥の深い田に水を流し込んで、馬の脚が立たないようにし、道を掘り切って、渡れないように深い溝を掘って、そうした相手の進撃を邪魔する仕掛けの中に7つの城(足羽七城=黒丸城、波羅蜜城、安居城、河合城、春近城、江守城、勝虎城)を築き、敵が攻めていけば、お互いに連絡を取り合って、包囲されれば後攻めができるようにして、準備を整えていた。

 この足羽というのは、その半分が九頭竜川の南一帯にあった荘園である藤島庄と境を接していて、城も半分ほどがこの庄内に入り込んでいた。藤島庄は源頼朝が流域の平泉寺に寄進した荘園であったが、その年貢の多くが本寺の比叡山延暦寺に分与されたため、領有をめぐって両寺の対立が続いていた。このため、平泉寺の衆徒の中から、「藤島庄は、この寺が長年にわたり比叡山と争論を続けてきた土地である。もし斯波高経がこの荘園を平泉寺のものと認めるということであれば、若い僧たちは入城させて軍功を立てさせ、長老の僧は堂にこもって一身に陀羅尼を誦して戦勝のための祈禱を行うつもりである」と申し出があった。

 斯波高経は大いに喜んで、今度の合戦では、ひとえに平泉寺の衆徒の力を頼りにし、祈禱を受けた霊神の援助を頼むのであるから、藤島庄は平泉寺のものと判定しよう。もし、勝ち戦の利を得ることになれば、重ねて恩賞を申し渡す」という(本来ならば将軍が発給する文書である)「御教書」を発給した。斯波高経は足利一族のなかでも、家格の高い人物なので、越権ともいえるような行為に踏み切ったのであろう。〔とにかく味方が欲しかったということもあるだろうが…〕 これに勇み立った衆徒たちのうちで、若い500人ほどは藤島に下って3つの城に立てこもり、長老の僧たち50人は怨敵調伏の法を行ったのであった。

 平泉寺の長老の僧たちが調伏の法を行っている最中に、義貞は不思議な夢を見た。ところは今の足羽辺りかと思われる川のほとりで、義貞と高経とが相対して陣を張っている。まだ戦わずににらみ合いながら数日を過ごすうちに、義貞が急に身の丈30丈(90メートル)ばかりの大蛇になって地を這う。高経はこれを見て、兵を退却させ、楯を捨てて逃げること数十里と見たところで、夢は醒めた。義貞は朝早く起きて、この夢を周囲の者に語ったところ、「龍は、雲と雨の猛威を起こすものである。高経は雷の響きに怖気づいて、逃げるということであろう。めでたい夢である」と夢解き占いをした(吉と占った)。

 その時、斎藤入道道猷(基傅)が、隣室でこの話を聞いていたが、眉をひそめていったことには、「これは全くめでたい夢ではない。天の災いを告げるものである。そういって、彼は中国の魏・呉・蜀の三国の故事を延々と語り、北国に新田、京都に足利、吉野に後醍醐帝の3つの勢力が鼎立している今の情勢は中国のこの時代に似ているという。特に、龍は万物が動き出し、外へ生じようとする陽気に向かって威をふるい、万物の動きが衰え、内へ籠ろうとする陰の気の時節には虫が地中に冬ごもりするように閉じこもるものである。時は、今(7月で)陰の季節に差し掛かる頃である。しかも、龍の姿で水辺に臥したという夢の中身であるが、蜀の名臣であった諸葛孔明が臥龍(がりょう)と呼ばれたのと符合している。ということで、おのおの方はめでたい夢だと占ったけれども、道猷はどうも感心しない夢に思われる」といった。この言葉を聞いた人々は、内心思い当たることがないでもないという気分はしたものの、これからの戦いにとって不吉な言葉なので、それに同意して、夢は凶夢であるというものはいなかった。

 今日は広島への原爆投下記念日なので、それにちなんだ記事を書こうかと思ったが、適切な内容も思い浮かばないので、『太平記』の紹介を続けることにした。もともと、戦乱の記録であるのに『太平記』と内容とは逆の題名がつけられているところに作者の平和への強い願いを読み取るというのが通説なので、これはこれでいいのではないかと思う。
 越前(福井県)の平泉寺はこれまでも登場したが、現在は白山神社になっている。渡部昇一と英語教育大論争を展開した平泉渉はこの神社の社家の出身である。越前をはじめとする北陸地方は、白山信仰、立山信仰と結びついて山岳修験が盛んであり、その拠点の寺院は侮れない力を持っていた。越前の斎藤入道道猷は言うまでもなく、『今昔物語』に登場する鎮守府将軍藤原利仁(芥川の短編「芋粥」のもう一人の主人公)の子孫で、『平家物語』に登場する斎藤実盛の一族である。『太平記』には、物語の要所要所でこの利仁流斎藤氏の武士が少なからず登場するのも、注目していい点かもしれない。)

 確か前々回に、新田義貞の次男である義興について、長男の義顕が死んだので、跡を継ぐ存在になったというようなことを書いたが、これは誤りで、義興は母親の身分が卑しかったので、三男の義宗が後を継ぐことになっていた。義興と義宗、それに彼らの従兄弟である脇屋義治は、この後、巻31辺りから再度活躍するはずである。義興は、武蔵国の矢口の渡しで最期を遂げることになり、その場所がどこかをめぐっては諸説あるそうだが、関東の人間にはこのため結構なじみのある人物である。
 新田義貞の夢の吉凶をめぐっては、解釈が分かれたが、結果的にはどうであったかというのはこれからの展開で分かる。旧暦(太陰太陽暦)では7月は陰の季節≂秋の始まりである。しかし、この年(暦応元年、南朝延元3年)は閏年で閏7月があるので、話がややこしくなる。なお、キリスト教世界でこの時代に使われていたユリウス暦では1338年は閏年ではないが、我が国の貞観4年(862)から日本で採用され、貞享2年(1685)まで使用されていた宣命暦では閏年になるのである。太陽暦の1年は365日だが、閏年には閏日が設けられて366日になるのに対し、太陰太陽暦の1年は354日で、19年に7回閏月が設けられる。さらに詳しいことを知りたいと思われる方は、ご自分でお調べください。

日記抄(7月30日~8月5日)

8月5日(日)晴れ、依然として暑さが続いている。

 7月30日から本日までの間に経験したこと、考えたこと、これまでの記事の補遺・訂正等:
7月30日
 まだ7月であるが、NHKの語学番組の放送は8月号テキストに掲載されている内容に移っている。
 『まいにちスペイン語』では「おもてなしのスペイン語」として、4月号ではスペイン人に東京を、5月はペルー人に京都を、6月はメキシコ人に仙台とその周辺を、7月はアルゼンチン人に札幌を案内する内容であった。8月は、これまで案内役を務めてきた日本人のカップルが広島でキューバ人と出会うという展開である。日本人2人がなぜかスペイン語で話しているので、それを聞きつけたキューバ人のホセが、次のように話しかける:
José: Disculpen.
¿Por aquí pasará la guagua que va al Museo Conmemorativo de la Paz?
(すみません。平和記念資料館に行くバスは、ここを通るでしょうか?)
 バスのことをスペインではel autobúsというが、キューバではla guaguaというそうである。このほか、「それはいいですね!」というのを!Super!(スペインでは¡Que bien!)、「わかりました」というのを{OK、(o kaと発音する)、スペインではMuy bienとかValeとかいう}というのがキューバのスペイン語の特徴だそうである。また、音節末の-sを弱く、ほとんど聞こえないように発音するのもキューバで目立つ特徴のようである。

7月31日
 青柳碧人『ウサギの天使が読んでいる』(創元推理文庫)を読み終える。シリーズ第2弾の『晴れ時々、食品サンプル』(創元推理文庫)をすでに読んでいるので、順序が逆になっているが、よくあることである。

8月1日
 『朝日』朝刊に、早稲田大学の入試改革をめぐって、沖清豪同大学入試開発オフィス長へのインタビュー記事が出ていた。大学での勉学に耐えうる学生をより多く選抜するという入試改革の趣旨に反対する者はいないだろうが、私がこれまで主張してきたように、大学での授業のあり方を改善する努力も必要であろう。さらにいえば、肥大化しすぎている早稲田の場合は、入学定員を減らし、より少数精鋭を期することの方が重要ではなかろうか。政経学部で数学を必須にするというのは、社会科学系でも数学が必要であることを踏まえれば当然のことだが、数学の中のどのような領域を重視するかということまで明らかにする必要があるだろう。そのあたりの説明責任が求められるところである。
 7月30日付の『朝日』に同大学の第17代総長に選ばれた田中愛治さん(政経学部出身だそうである)のインタビューが掲載されていたが、田中さんは早稲田に医学部をつくる(私立の医大を合併する)ことに前向きなようである。早稲田は戦後、日本医大との合併を考えた時期があって、実現していれば大学の様相もかなり変わっていたと思う。どこと合併することを考えているのかというのも気になるところではある。
 とにかく、大学改革の方向性はいろいろあるので、十分に議論をして(一部の担当者にまかせきりにせずに)、できるだけ大勢の関係者が納得する方向で進んでほしいものである。

8月2日
 NHKラジオ『実践ビジネス英語』はLesson 9: Helping College Students Graduate(大学生の卒業支援)というビニェットに入った。現在のアメリカには中途退学という深刻な危機がある。
No less than 60 percent of young people go to college these days, but students are up against some unprecedented challenges.
(近頃は、若者の60パーセントもが大学に進学していますが、学生たちはかつてない難題にいくつか直面しています。)
 一つは、学生ローンの問題で、その総額が1兆4000億ドルを超えているという事態、もう一つが
Only 55 percent of students graduate in six years? (6年以内に卒業するのは、学生の55パーセントにすぎない)
ことである。(アメリカの大学は日本と同様に4年制だから、6年以内というのは2回留年することまでを許容していることになる。) かなりの数の学生が、卒業証書をもらえずに、学生ローンだけを抱えて大学を去ることになる。しかも両親が大学で勉強した経験を持たないという学生の方がそうなる可能性が高いという。
That's three times the dropout rate for students whose parents are college graduates.
(この中途退学率は、両親が大卒である学生の3倍なのです。)
 そこで、ビニェットの登場人物の1人が、そのような大学生が4年間で卒業できるように学業支援の個人指導を始めたという展開になる。
 アメリカの大学における学業支援の問題は、既に20年以上昔に書かれたエミー・ガットマンの『民主的教育』(翻訳がある)の中で取り上げられているが、その時代にはまだ、運動の選手などで低学力で入学してきた大学生の問題であった。それが拡大しているというのである。

 ジェーン・オースティンの『エマ』を読み直し終える。オースティンが生前に発表した4作の長編小説のうちの最後のもの。他の3作に比べて、小説的な技巧がかなり緻密に張り巡らされているという感じがある。登場人物の性格や関係性についての評価が、主としてヒロインであるエマの視点からなされているが、読者はより客観的な見方をしながら、読み進めていく必要がある。その意味では、この小説は読み返せば読み返すほど面白くなるところがある。

8月3日
 『朝日』朝刊の「世界発」のコーナーでは「精神科病院のない国は今」としてバザーリア法(1978)によって精神病院が廃絶されたイタリアの現状を取り上げている。
 この記事では、触れられていないが、10年近く前にこの法律がもたらした変化について描いた映画が上映されている。病院が廃止されたことにより、患者たちの中には引き取り手がなく、行き場を失ったものもいたが、その受け皿として各地で社会連帯協同組合が発足し、そこで元患者たちは簡単な補助業務に携わる日々を送るようになった。一部では、「やればできる(Si può fare)」という合言葉のもとに、専門的な作業を手掛け成功を収めた組合もあった。2008年に制作され、2009年のイタリア映画祭で『やればできるさ』という題名で日本に紹介され、2011年に『人生、ここにあり!』として全国公開された映画Si può fareはこのような成功例を取り上げながら、制度の問題点をも浮かび上がらせた作品である。
 記事でも、日本からイタリアに視察に出かけている人々がいることが取り上げられており、ということは、既にこの法律について紹介した人がいるということであり、これまでの紹介例や、映画『人生、ここにあり!』の内容も踏まえて、記述を展開したほうが、もっと問題の核心に迫った内容になったのではないかと思う。

 『日経』の朝刊にサッカーの日本代表チームの監督に森保一さんが就任したことを受けて、三浦知良選手が「日本人監督が作る道筋」という文章を書いていた。横浜FCユースの出身で、横浜FC→レノファ山口を経て、ガンバ大阪入りをした小野瀬康介選手について代表入りもあっていいと言及していて、どうも真意は、チームも育成組織出身の選手をもっと起用すべきだというところにあるのではないかと思って読んでいた。横浜FCの観客動員が少ないことについて、カズさんが考えた結果の議論であろうが、私も賛成である。

 NHKラジオ『実践ビジネス英語』の”Quote...Unquote"のコーナーで取り上げられた言葉:
Difficulty is, for the most part, the daughter of idleness.
(from The folly of cowardice and inactivity)
---- Samuel Johnson (English lexicographer and author, 1709 -84)
(困難は、多くの場合、怠惰の産物である。)
 The folly of cowardice and inactivity (怯懦と怠惰という愚行)という書物は、日本語には翻訳されておらず、どんな内容かはわからない。サミュエル・ジョンソンは18世紀のイングランド文壇の大御所的存在で、独力で英語の辞書を編纂したことでも知られる。サッカリーの『虚栄の市』のはじめの部分でベッキー・シャープとアミーリア・セドリが学んだロンドンのチジック・モールの女子アカデミーの校長がジョンソン博士の友人を自称し、優秀な卒業生にはジョンソンの辞書を与えていたというエピソードが印象に残っている。

8月4日
 『朝日』朝刊の地方欄の連載記事「神奈川の記憶」に横浜市保土ヶ谷区にある第二次世界大戦中に日本軍の捕虜となり死亡した英連邦兵士たちの墓地での追悼礼拝をめぐる渡辺延志記者による記事が出ていた。この墓地は、小学生の時に学校行事で出かけたことがあるのだが、その正確な性格について知ったのは初めてで、そういう無知を情なく思う。

 『日経』の書評欄のコラム「ベストセラーの裏側」で吉田裕『日本軍兵士』が取り上げられており、日本軍が「ブラック企業」に重ねられていると紹介されていた。注目される視点である。

 同じく「リーダー 本棚」のコーナーで河野太郎外相が、愛読書の1冊として、鶴見良行『マラッカ物語』を取り上げていたのが目を引いた。(内容とは関係がないのだが、外相が慶応中等部の卒業生であるというのも気になった。河野一族は、代々早稲田に進学していたはずで、ついに早稲田を見限ったのかと思ったのである。)

 横浜FCはニッパツ三ツ沢球技場で町田ゼルビアと対戦、2‐3で敗れた。審判の判定に文句を言う感想が多かったが、レアンドロドミンゲス選手を前半出場させなかったタヴァレス監督の用兵に問題があったのではないかというのが個人的な意見である。これで3位から6位に後退した。 

8月5日
 『朝日』朝刊1面のコラム『折々のことば』で鷲田清一さんは「パッと言えてしまうようなことは大したことないんです」という大澤真幸さんの言葉を引用している。すぐに理解できるような知識よりも、「どうも腑に落ちない」という問題感覚の方が重要だという意見には賛成である。
 ただ、最近の一部の女性政治家の発言を意識して書いているとすれば、多少問題を感じる。おそらく彼女らは、私たちが考えている以上にしたたかに計算をして、発言しているのであって、「パッと言ってしま」っているわけではなく、ましてついつい口が滑ったというのは「ふり」に過ぎないのではないかと思う。ファッションと同じ感覚で、過激な発言をすることによって物議を醸し、味方の支持を集め、物の数ではない敵の嫉妬心を掻き立て、注目度をあげようとしているのだろう。そういうのを悪趣味という。
 そのうえで、いっておけば、LGBTに「生産性」がないというのは、明らかに概念のはき違えで、人間はすべて生まれてから死ぬまで社会における生産≂消費のプロセスに巻き込まれている。子どもを産んで、育てるのは「再生産」であって、「生産」ではない。それに、子どもを産んでも虐待するような親が少なくなくなってきているという現実が全く無視されている。「『生産性』あっても虐待では なお困る」(字余りの川柳――のつもり)

 同じく、日曜日の漫画「朝からドラえもん」で、ジャイアンがTVを見て甲子園のマウンドに立って活躍するのが夢だと言い出して、スネ夫を相手に投球練習を始める。この結果はどうなるかというので、ドラえもんが「タイムテレビ」を出して、高校時代のジャイアンの姿を見ると、甲子園で応援団の一員として応援をしている。「未来はかえられるんだ! たくさん練習してがんばれ‼」と励ますドラえもん。「でも、このマウンドにいるのは…」とのび太。
 「エース 出木杉‼ ここまで完全試合(ぱーふぇくと)です。
 タケシくん、学校が違うのに いつも応援ありがとう‼」(出木杉君の心の声)
 出木杉君のユニフォームに臙脂のWの文字、ジャイアンが空想の中で身につけているユニフォームにKの文字というのも、いろいろと想像力を掻き立てる。ジャイアンの性格のよさが、考えようによっては悲惨な物語の後味をよくしている。出木杉君の場合はTの方がいいという気もするが、東京六大学ではなくて、甲子園の話である。

 『日経』の朝刊によると、訪日客が増えても、それを運ぶ飛行機のパイロットが不足し、また飛行場の収容力が足りないそうで、「『空』の壁」ができているという。日本には空港と野球場とゴルフ場はやたらと多いのだが、その中で国際的な基準を満たしているのが少ないというのはどういうことであろうか。 

銭起「侠者に逢う」試訳

8月4日(土)晴れ、依然として暑さが続く。

 中唐の詩人銭起の詩「侠者に逢う」(あるいは「逢侠者」)は、河上肇の『第二貧乏物語』の最後に引用されていたり、井伏鱒二が「厄除け詩集」の中で自由訳を試みたりしていて、人口に膾炙している作品であるが、自分なりに自由訳を試みたので、以下に紹介してみる。旅先でたまたまであった人物と志が共通することを知り、熱心に語り合ったが、思うことを語りつくさないうちに、別れなければならないという内容である。国木田独歩の小説「忘れえぬ人々」で出会う作家の卵と画家の卵は、夜中まで語り合うのだが、この詩の中で出会った2人は、日暮れまでに別のところにたどり着かなければならないらしい。

侠者に逢う

燕趙悲歌の士
相逢う劇孟の家
寸心 言い尽くさず
前路 日将に斜めならんとす

たまたまであった お前と俺と
改革論じて 意気投合
思うところは 尽きないけれど
そろそろ日暮れが 口惜しい

森本公誠『東大寺のなりたち』(6)

8月3日(金)晴れ、依然として暑い。

〔前回までのあらまし〕
第1章 東大寺前史を考える
 東大寺は神亀5年(728)にその子・基親王の夭折を悼んで聖武天皇が造営された山房を起源とするが、次第にその規模を拡大し、天皇が仏教への傾倒と理解を深められ、国政の指針とされるだけでなく、諸国に国分寺を建立して、仏教に基づく国家建設を推進しようとされるに至り、総国分寺としての役割を担うことになった。
第2章 責めは予一人にあり――聖武天皇の政治観
 この時代に続いた干ばつや飢饉の中で天皇は仏教の社会に果たす役割を重視されるようになり、行基とその集団の活動に理解を示されるようになったほか、都に大仏を造立することを発願された。
第3章 宗教共同体として
 聖武天皇は律令制のもとで、経典を習い覚え、仏事方法を身につけ、一定期間の修業を積めば僧尼となることができるという制度が、実際には狭き門となっていることを認識し、また経典や仏教の儀式に通じていても、社会的な災厄に対して無力な僧侶の存在に疑問を抱いていたために、国家的な事業に奉仕することによって出家できるという特例を設けた。(以上前回まで)

 今回は第3章「4 国分寺と東大寺」についてみていく。
 聖武天皇は天平13年(741)に国分寺の創建についての勅を出されたが、そこでは民衆に仏教思想を啓蒙するという目的も込められていた。そのためには僧侶自身が民衆を救うためのあらゆる手段を身につけることが前提となる。そのためには新しいタイプの僧尼を養成する必要があると天皇は考えられたようである。

 僧侶の組織的な養成についてはよくわかっていないが、玄奘がインドから伝えた五明(=五つの学問)の伝統が日本にも伝わっていたと、森本さんは考えている。玄奘の『大唐西域記』(巻第二)によると、児童の教育はまず悉曇十二章からはじめられ、7歳以後五明の基礎が教えられるようになるという。悉曇というのは梵字・梵語の書法・音韻の学問で、古代インドの言語、具体的にはサンスクリットの学習と 考えてよいだろう。
 五明の第一は、声明(しょうみょう)で「現代では言語学や文法、外国語にあたる」(97ページ)と森本さんは説明しているが、これでは何のことかわからない。『広辞苑』には音韻・文法・訓詁の学とあって、こちらの方がわかりやすいが、問題はどの言語の音韻や文法が学ばれているのか、示されていないことである。森本さんは現在では声明は「節の付いたお経」(98ページ)という意味になっているとも書いているが、現在の仏教の経典は漢文に翻訳されたものが使われており、とすると、言語関係の学習は漢文中心だったのではないかと思われるが、その点についてはなぜか明言されていない(もちろん、悉曇学もある段階以上では兼修されていたはずである)。
 第二は工巧明(くぎょうみょう)は「技術・工芸・陰陽・暦数」で幾何学や建築、土木や天文などの学問・技術を含む領域である。
 第三は医方明(いほうみょう)で医術、薬草学、さらには鍼灸術にわたる領域である。
 第四は因明(いんみょう)で「正邪を考え定め、真偽をきわめしらべる」学問で、論理学にあたるという。
 第五は内明(ないみょう)で「五乗の因果の妙理を研究する」学問であり、仏教を主とした教学を指すというが、「五乗」というのがなんのことかわからないので、『広辞苑』で調べてみたところ、仏乗・菩薩乗・縁覚乗・声聞乗・人天乗または、声聞乗・縁覚乗・菩薩乗・人間乗・天上乗のことだという。つまり悟りに至る様々な方法ということのようである。
 これらのうち、声明はすでに述べたように意味が変わり、工巧明と医明は専門化して仏教の勉強からは離れ、因明と内明が論義法要として現在まで(仏教の学習の重要な部分として)残ったという。

 このようにかなり広い領域にわたって、高い水準の学問を地方の国分寺で教授することは不可能なので、都の国分寺である後の東大寺がその役割を担ったのである。12歳から20歳までの入寺希望の男子を優婆塞として受け入れた国分寺では、資格に堪える者を沙弥として得度させると、できるだけ都の国分寺に送り込んで教育を受けさせるようにする、おそらくはこのシステムを提言したのが道慈出会ったというのが森本さんの推測である。彼が唐で経験し、修得した様々の学問や技術をこのシステムを通じて普及し、そのことで仏法による国土の繁栄を期すというのがシステムの意図であったというのである。

 一定期間の基礎学習を終えると、沙弥は六宗にわたって仏教学を学んだ。日本史で「南都六宗」という語に出会ったかもしれないが、その六宗である。ここでの「宗」は教義上のいわば学派のことであり、後世(現在)における宗派とは異質のものであるという。奈良時代には六宗があり、平安時代になると真言と天台が加わった。(仏教の概説書として知られる凝念の『八宗綱要』はこの八宗について述べ、さらに禅と浄土教についても簡単に触れている。)
 六宗は華厳宗、法相宗(ここでは法性宗と表記されている)、三論宗、律宗、俱舎宗(薩婆多宗)、成実宗である。仏教の経典は経(仏の説いた教法を聞いたまま述べた典籍)・律(釈尊の制定した戒律の条例を収めた教典)・論(法や蔵を論述した聖賢の所説)に分けられるが、華厳宗はその中の華厳経、三論宗は竜樹の中論、十二門論と竜樹の弟子提婆の百論、律宗は律、俱舎宗は俱舎論、成実宗は成実論をその拠り所としている。(法相宗はこの点がもう少し複雑なので、ここでは説明しない。興味がおありの方は、ご自分で調べてください。)

 当時、東大寺には1,000人を超す僧侶がいたと推測できるが、その大半は沙弥であったと森本さんは考えている。東大寺は大安寺や興福寺に比べると後発の寺であったが、急速にその規模を拡大していった。東大寺にはまた奴婢と呼ばれる人々が多数施入されていたが、その内容を詳しく検討すると、いわゆる奴隷のように使役される存在ではなく、「もとはバラバラになった難民ともいうべき家族ではあったが、これからは東大寺で何らかの仕事をして面倒を見てもらうようにという、一種の社会的救済措置だった」(107ページ)と論じている。(著者が東大寺内部の人間なので、その点でこの議論は割り引いて考える必要があるかもしれない。)

 今回取り上げた部分で面白かったのは、「五明」の内容を見ていくと、ヨーロッパ中世の七自由学芸と共通するものが多いということである。両者を比べてみると、声明は七自由学芸の文法(と修辞)、工巧明は算術・幾何・天文学、医方明に対応する自由学芸はないが、中世ヨーロッパの大学の学部の一つが医学部であり、因明は論理学、内明はこれも学部段階の神学に相当すると思われる。また自由学芸の残る1科目である音楽も声明と対応するかもしれない。ということで、文化や宗教の違いにもかかわらず、学ばれる領域には共通性があるというのは興味深いことである。また、奈良時代の日本が、ヨーロッパでようやく平和がもたらされ、文化の華が咲き始めたカロリング朝ルネサンス(8世紀末から9世紀初め)よりも少し前の時代であることも注目していいことである。
 

ウィルキー・コリンズ『月長石』再読(9)

8月2日(木)晴れ、暑い。午後、次第に雲が多くなる。

 1799年の英軍によるセリンガパタム襲撃の際に、英軍の将校であったジョン・ハーンカスルの手に入った黄色いダイヤモンド=月長石は、もともとヒンズー教寺院に安置されていた月天の額を飾ったものであり、人間の世の続く限り3人のブラーフマンによって守られるべきこと、この宝石に手を触れるものだけでなく、その家族係累の者にまで祟りがあるだろうということが言い伝えられていた。ジョンの手で英国に運ばれた宝石は、彼の遺言によってその姪であるレイチェル・ヴェリンダーの18歳の誕生日(1848年6月21日)の贈り物として、彼の甥であるフランクリン・ブレークの手によってヨークシャーのヴェリンダー邸に運ばれたが、レイチェルの誕生日を祝う晩餐会の夜に、紛失し、その後奇怪な事件が連続することになる。
 事件が一応落着した後、フランクリン・ブレークは事件の一部始終についての証言を書き残すことを決心し、1850年5月21日にヴェリンダー邸の執事であるガブリエル・ベタレッジに事件について記憶していることを手記としてまとめるよう依頼する。

 1848年の5月24日にベタレッジは(当時まだ存命だった)ヴェリンダー卿夫人から、その翌日にフランクリンの来訪を知らされる。ヴェリンダー卿夫人はジョン・ハーンカスルの妹、レイチェルの母、フランクリンの叔母である。フランクリンはある事情から英国ではなく、ヨーロッパの学校で教育を受け、もともと移り気な性格であったために欧州各地を転々としていたのだが、数か月前に帰国してロンドンの父のもとに滞在中で、レイチェルの誕生祝に参加するために久しぶりにヴェリンダー邸を訪問するというのである。
 5月25日、フランクリンが到着する以前、ヴェリンダー卿夫人とレイチェルが留守中に、邸を1人の少年をつれた3人のインド人らしい旅の手品師が訪れ、芸を披露させてほしいというが、ベタレッジは断る。その後、印度人たちを怪しんで、その様子をさぐっていたベタレッジの娘のペネロープが、彼らはフランクリンに対しよからぬことを企んでいるようだから警察に通報すべきだというのをベタレッジはもう少し待って、フランクリンが到着してから事情を確かめようとなだめる。その後、下働きの女中のロザンナ・スピアマンが海岸の方に出かけて、夕食の時間になっても帰ってこないというので、ベタレッジは探しに出かける。このロザンナという女はロンドンの犯罪者の矯正施設でヴェリンダー卿夫人が引き取ってきた不幸な身の上の持ち主である。ベタレッジは、彼女が海岸で泣いているのを見かける。彼女は昔のことを思い出して泣いていたのだという。

 ベタレッジはロザンナに食事のために邸に戻るように言い聞かせるが、ロザンナはそっとしておいてほしいといい続ける。この海岸の「震える砂」と呼ばれる流砂が自分を待ち受けている墓のように思えると言ったりする。ベタレッジがなお、彼女の気持ちを変えようと話しかけ続けていると、彼を呼ぶ若い男の声が聞こえる。ロザンナははっとして立ち上がって、声のした方を見た。続いて立ち上がったベタレッジは、ロザンナの顔色がさっと変わり、「美しいまでに顔を赤らめていた」(47ページ)ことに気づく。二人ともに、「誰だろう」といぶかっていると、砂浜を一人の青年紳士が駆け下りてくる。そして、ベタレッジを抱きしめて、お前から7シリング6ペンス借りている男だよと名乗る(フランクリン・ブレークである)。フランクリンが予定よりも早く、やってきたのである。
 フランクリンの方ではベタレッジのことをよく覚えていたが、ベタレッジの方は記憶があいまいになっていることがわかる。今はシリングという貨幣単位はなくなってしまったが、伝統的に(1971年まで)英国の貨幣は1ポンド=20シリング、1シリング=12ペンスであった。(現在は1ポンド=100ペンス。)

 フランクリンは続いてロザンナに目を移し、ロザンナはますます顔を赤くしたが、そのままフランクリンに挨拶もせずに、立ち去ってしまう。「ふだんのロザンナとまるっきり違っている。ロザンナほど礼儀正しくて行儀のいい召使は、ちょっとほかにいないのだが。」(48ページ) フランクリンとベタレッジはロザンナの行動を不可解に思うが、その理由は(彼らの知性や経験にもかかわらず)わからないままである。ここで、2人がロザンナの行動の理由を理解できないことが、この後の物語の展開に影響してくる。

〔ここから第5章に入る。〕
 フランクリンとベタレッジの2人だけになったが、ベタレッジが腰を上げようとすると、フランクリンがそれを引き留める。二人きりで話したいことがあるというのである。
 フランクリンはその子ども時代の面影をあまりとどめず、顔の下半分はひげでおおわれており、背も低く、快活なところは昔と変わらないが、ベタレッジを少しがっかりさせるような姿であった(第一印象がかなり明るく好意的に描かれているのと対照的である)。
 予定よりも早くやってきた理由をベタレッジが尋ねると、フランクリンは、ここ2・3日、ロンドンで色の黒い連中に尾行されているような気がしたので、彼らをまくために予定を変更したのだと答える。それでベタレッジは、三人の手品師が何か良からぬことを企んでいるようだというペネロープの言葉を思い出す。
 フランクリンは3人の手品師のことを既に知っている。邸でペネロープに会って、彼女から話を聞いたというのである。フランクリンはペネロープが可愛い娘になるだろうと思っていたが、その通りになったといい、彼女は死んだ母親に似たのかいとベタレッジに尋ねる。ベタレッジは、死んだ妻は欠点の多い女で、特に飽きっぽいのが欠点だったと答える。中村訳は「ハエみたいに、一つところに尻が落ち着かないんでございますよ。」(54ページ) 原文は
She was more like a fly than a woman: she couldn't settle on anything. (p.38)
,(あれは女というよりもハエみたいなものでしたね。何事にも落ち着いて取り組めないんですよ。)
 フランクリンは、それならば自分と気が合ったかもしれないといい、お前は口が悪いとつづけ、ペネロープもそんなことを言っていたという(フランクリンは子ども時代にヴェリンダー邸で過ごしたことがあるので、ペネロープとは、当然、幼馴染である)。フランクリンがペネロープから3人の手品師について詳しいことを聴こうとすると、彼女は父親は年の割にしっかりしているから、きちんと説明してくれるだろうと、一部始終を父親に説明させようとしたという。それを聞いて、ベタレッジは面白くない気分になる。 
 仕方なく、インド人手品師たちの話をすると、話を聞くにつれて、フランクリンの表情が変わる。そして手品師が、少年にフランクリンがどの道を通るのかを訪ねたという話を気にする。彼らが言っていた「あれ」というのは、これのことではないかと、ハーンカスル大佐のダイヤモンドをくるんだ紙包みを見せる。

 フランクリンが月長石を持ってヴェリンダー邸にやってきたことが明らかになる。この宝石にまつわる言い伝えが真実であるならば、フランクリンとその周囲の人物には大変な危険が迫っていることになるが、フランクリンがどの程度自体を理解しているか、あるいはまったくの迷信だとして、意に介していないのか…それはまた次回に。
 この小説は19世紀の英国における社会階級の分断によって(宝石消失後の)刑事捜査が難航したことが、この時代の捜査の限界を示す例として言及されるが、植民地支配や女性差別の現実も視野に入れて、読まれていく必要があることを忘れないでほしい。作者であるコリンズの意識がどうであれ、奪われた聖なる宝石をとり戻そうとするインド人たちの行動が最高の正義であり、奪ったハーンカスルに加担する行為はけっして是認されないということ、またフランクリンが幼馴染であること、さらに主人と召使という関係にあることをいいことに、ペネロープに対してふざけた行為を仕掛けていること(ここでは省略したベタレッジの語りの中で語られている)、そのことをペネロープもベタレッジも特に怒ってはいないこと、またそのペネロープのさらに下位にロザンナがいることなどを書き留めているコリンズの視野の広さと深さも注目されてよい。それを英国における宝石消失事件という語句小さな枠の中でとらえてしまうと、問題の本質を見失うことになるだろう。
 
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