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2018年の2018を目指して(7)

7月31日(火)晴れ、暑い

 7月前半は大腸の内視鏡検査を受けたことの影響で、後半になると暑さの影響で、あまり動き回ることをしなかった。それで足跡を記した場所や利用した鉄道・バスの数に変化はない。
 1都1県(東京都、神奈川県)、2市(横浜、川崎)、6区(港区、品川区、渋谷区、千代田区、目黒区、杉並区)
 5社9路線(東急:東横線、目黒線、大井町線;JR東日本:山手線、総武・中央線;東京メトロ:半蔵門線、南北線;横浜市営地下鉄:ブルーライン)、利用した駅:12駅(横浜、武蔵小杉、渋谷、目黒、白金台、神保町、上大岡、新横浜、御成門、阿佐ヶ谷、反町、都立大学)、乗換駅:1(新宿)
 6社(横浜市営、東急、神奈中、相鉄、江ノ電、京急)19路線23駅ということである。〔84〕

 この記事を含めて32件の記事を書いた。内訳は日記が6件、読書が14件、『太平記』が5件、ダンテ・アリギエリ『神曲』が1件、映画が1件、詩が1件、推理小説が4件ということである。1月からの累計は217件である。〔232〕

 13冊の本を買い、11冊を読んだ。1月からの累計は67冊である。読んだ本を列挙すると:筒井康隆『文学部唯野教授』(岩波現代文庫)、藤谷治『全員少年探偵団』(ポプラ文庫)、赤塚りえ子『バカボンのパパよりバカなパパ』(幻冬舎文庫)、有馬カオル『気まぐれ食堂}(創元推理文庫)、西部邁『六〇年安保 センチメンタルジャーニー』、青柳碧人『晴れ時々、食品サンプル ほしがり探偵ユリオ』(創元推理文庫)、近藤史恵『スーツケースの半分は』(祥伝社文庫)、ロアルド・ダール『単独飛行』(ハヤカワ文庫)、望月麻衣『京都寺町三条のホームズ10 』(双葉文庫)、井伏鱒二『井伏鱒二全詩集』(岩波文庫)、青柳碧人『ウサギの天使が呼んでいる ほしがり探偵ユリオ』(創元推理文庫)
 読んだ本の数はまずまずのところであるが、軽読書が主になってしまっていて、もう少し重量感のある本を読まないといけないと反省している。多少言い訳のようなことを付け加えると、E・M・フォースターの『評論集』を読んでいたことから、ジェーン・オースティンの小説を読み返したくなり、『分別と多感』、『マンスフィールド・パーク』を読み終えて、現在、『エマ』の後半を読んでいるところである。フォースターの『評論集』、それに漱石の『文学論』など、じっくり読んでみようと思う本が少なくない。『NHK高校講座 古典』を時々聴いたりして、興味をつなぎながら、古典や外国語の本も読まなければいけないなぁとは思っているのだが、これも今後の課題ということになるだろう。〔69〕

 NHK『ラジオ英会話』を22回、『遠山顕の英会話楽習』を14回、『入門ビジネス英語』を10回、『高校生からはじめる現代英語』を8回、『実践ビジネス英語』を12回聴いている。1月からの通算は『ラジオ英会話』が140回、『遠山顕の英会話楽習』が48回、『入門ビジネス英語』が58回、『高校生からはじめる現代英語』が58回、『実践ビジネス英語』が84回ということである。また3月まで放送されていた『短期集中!3か月英会話』を35回聴いている。
 同じく『まいにちフランス語』を14回、『まいにちイタリア語』を14回、『まいにちスペイン語』を13回聴いている。1月からの通算は『まいにちフランス語』の入門編が85回、応用編が23回、『まいにちイタリア語』の入門編が85回、応用編が23回、『まいにちスペイン語』の入門編が84回、応用編が23回ということである。〔746〕

 7月は横浜駅西口のムービルで『ダンガル きっとつよくなれる』を見ただけで終わった。1か月に1本しか映画を見なかったのは久しぶりである。8月は少し頑張って挽回しなければならない。〔26〕

 7月11日にサッカーの天皇杯の3回戦:横浜F・マリノス対横浜FCの対戦を観戦、21日にJ2の横浜FC対FC岐阜の対戦をそれぞれニッパツ三ツ沢球技場で観戦した。11日は初めて、アウェー側のゴール裏での観戦を経験、また元横浜FC(大宮アルディージャ、ヴァンフォーレ甲府にも在籍)で活躍した内田智也さんを見かけたり、面白い経験が少なくなかった。そういえば、本日(7月31日)の『日経』のコラム「交遊抄」にみずほ総合研究所の高田創さんが私の母校で1970年代にサッカー部のコーチとして指導にあたられた神父さんのことを書かれていた。うちの学校は1960年代までは全国大会に出場するなど頑張っていたのだが、1970年代にはやや勢いを失っていたが、実際に競技している生徒にとってそんなことはどうでもよかったのであろう。〔そういえば、『散歩三昧』のAzTakさんの母校の硬式野球部が、甲子園に出場を決めたのは、他人事ながらめでたいことである。私は、高校野球の神奈川県の決勝戦は3回しか見ていないが、それぞれの対戦を列挙すると、法政二高対慶応高校、日大藤沢高校対慶応高校、桐光学園対東海大相模高校ということである。高校サッカーの方はずっと見続けているので、記憶が全く混乱している。それにしても、せっかく神奈川県から2校が甲子園に行けるというのに、その2校が横浜市内の学校になってしまって、これでいいのかなぁ。〕
 totoは1度もあてていない。1028回のミニトトBを買い損ねたが、予想は当たっていたのが残念である。〔28〕 

 酒類を口にしなかった日が9日ある。これは大腸の内視鏡検査を受けたためである。〔30〕 
 
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裸の大将

7月31日(火)晴れ、暑い。

裸の大将

あちこちを建物の陰で
切り取られた狭苦しい
都会の空の片隅で
懸命にアピールしている
夏の花火を見ていると
広々とした夜空いっぱいに広がる
長岡の花火を描いた
山下清の貼り絵を思い出す

テレビの『裸の大将』が好きです
山下清さんみたいに
日本中を旅してまわりたいです
新聞に載っていた
小学生の投書もついでに思い出す

兵隊の位にこだわった
山下さんのことだから
たとえ『裸の大将』でも
大将と呼ばれればうれしかっただろう

大尉は中隊長
大佐は連隊長
中将は師団長
裸の大将に部下はいない
部下はいないから
いじめることもしない
そして戦闘には加わらず
放浪を続けている

今年もあちこちで
花火大会が開かれ
夜空も街も
賑わわせる
夜空を見上げる人々の中に
『裸の大将』の放浪する魂も
紛れ込んでいるかもしれない

『太平記』(221)

7月30日(月)曇りのち晴れ、暑い。

 暦応元年(南朝延元3年、1338)5月、越前勢力を挽回していた新田義貞は、足利一族の斯波高経が守りを固めている足羽七城を攻めた。越後から新田一族を中心とする援軍が到着し、戦いは宮方に有利に展開したが、7月に、新田軍のもとへ、吉野の後醍醐帝から、八幡の宮方に加勢せよとの勅書が届いた。そこで、義貞は都に向かうことになった。

 児島備後三郎高徳(岡山県瀬戸内市邑久町、倉敷市児島あたりの武士。終始宮方に仕え、これまで何度も登場してきたが、なぜ、ここで出てくるのかよくわからないところがある)が新田義貞に向かって言うことには、「建武3年の京都の合戦の時に、宮方の軍が比叡山を支えきれなくなって退散したのは、戦闘の勝敗の結果ではない。ただ、北国への道を敵に塞がれて、兵糧を運ぶ道が閉ざされたためである。今後も、同じようなことが予測され、たとえ比叡山上に陣営を構えても、一昨年のように補給路を封鎖されるのは眼に見えている。そこで、越前、加賀の主だった城にはそれぞれ、軍勢を6千騎から7千騎ほど残されて(補給路を確保したうえで)、比叡山に陣を構え、京都を日夜攻撃するのが、着実な戦い方であり、(京都の南の石清水八幡宮のある)八幡の宮方の軍勢もまた力をつけ、足利方を滅ぼすことができるだろう。とはいえ、小勢で比叡山に上ることになると、衆徒(僧兵)たちは予想よりも軍勢が少ないと思って、味方から離れてゆくものが出るかもしれない。あらかじめ山門に書状を送って、衆徒の心持をさぐってみたほうがよいだろう」と語ったので、義貞は、「まことに貴殿の計略は緻密で思慮深い。そういうことであれば、ただちに書状を書いて、比叡山に送ることにしよう」と答えた。高徳はすでに心の中で草庵を練っていたのであろうか、筆を執って書状をしたためる。

 この書状は比叡山がその創建以来国家と朝廷のために貢献する使命を果たしてきたことを述べ、尊氏・直義に率いられた武士たちが後醍醐帝に反旗を翻したのに対し、比叡山が戦ってきた戦歴を称賛し、新たな協力を要請するものである。地方武士である児島高徳に豊かな修辞を凝らして、中国の故事を織り込み、比叡山の歴史をたどりながら宮方への支援を求める書状を書く力があったかは(既出の、有名な「天勾践を空しうするなかれ」の故事同様)、どうも当てにできないのだが、この書状を受け取った比叡山は喜び、東塔、西塔、横川の三塔が会合を開いて、協力を決議、義貞のもとに返信を送った。

 比叡山からの返信が越前の新田方に届いたので、義貞は大いに喜び、すぐに上洛しようと考えたが、このまま北国を留守にして上洛すると、斯波高経が必ずや後から兵を集めて、北陸道を封鎖するであろうと考えて、軍勢を二手に分け、一方は越前に残って北国の足利方の攻撃に備え、もう一方は京都を攻めることにした。義貞は3千余騎を従えて、なお越前に留まり、弟の脇屋義助が2万余騎を従えて、6月3日、越前の府(福井県越前市)を出発して、5日に敦賀の港に着いた。
 越前市を出発した翌々日に敦賀に到着するというのは、北陸トンネル開通後のことしか知らないのではあるが、山道を進んでいるとはいえ、進軍の速度が遅い。あるいは途中、杣山城に滞在するというようなことがあったのであろうか。岩波文庫版の脚注によると、このあたりの年月日の記述は矛盾が多いそうである。

 京都の足利尊氏は、北国のこの動きを聞き知って、(新田義興と北畠顯信が立てこもる)八幡の城をまだ攻め落とすことができず、わが軍の兵たちは戦いにつかれているときに、脇屋義助と比叡山が一緒になって京都に攻め寄せようとしているのは、由々しい一大事である。戦闘が始まって退却すれば、吉野の宮方が勝ちに乗じて勢いを得るだろう。まだ事態が大きく動く前に、早めに八幡の合戦の決着をつけて、京都に帰ってくるべきであると、執事である高師直に指示した。

 師直はこの指示を聞いて、もし八幡を攻め落とさずに引き返すことになれば、事態は南朝方に有利になるだろう。と言って、京都から八幡に兵を進めて、京都の防御を手薄にすれば、北国の敵にすきを窺われることになるだろう。どうすればいいだろうと、進退窮まった気持ちになったが、ある風雨の強い夜に、「逸物(いつもの)の忍び」(岩波文庫版、第3分冊、361ページ、すぐれた忍びの者)を八幡山に潜入させ、八幡宮の神殿に火をつけさせた。
 『太平記』ではことさらに悪役ぶりとして描かれている師直であり、この年の5月に北畠顕家を打ち破ったことが省かれているなど、武勲の方はできるだけ触れずに、悪行の方が強調されるきらいがあり、ここでも戦術として忍びの者を使って放火したということよりも、八幡宮という由緒ある神社(この時代は神仏混交しているから、神社と言い切るのは間違いであるが)放火したという乱暴狼藉の側面が強調されている。

 八幡大菩薩というのは、京都を守る寺社の一つで、応神天皇と神功皇后という皇室の祖先をまつる神社であり、足利家の先祖である源頼義が石清水八幡を崇敬し、自邸に勧請して以来、清和源氏の氏神とされてきた。だからまさか、敵が社殿に火をつけるとは思わずに、宮方の方でも油断していたものだから、放火されて大慌てになった。これをみて、八幡山を囲んでいた10万余騎の足利方は、山から分かれ出ている谷々から攻め上がり、城門近くまで攻め寄せる。この城は、三方は険しい斜面になっていて、敵は簡単に近づくことはできないので、防戦には有利である。西に流れる尾崎(山の尾根が下がってくる先端)は、傾斜が緩く続いているので、地面を掘って空堀を作ったのを頼りにして、北畠顯信の配下の500人当たりが防御していたが、大勢の敵の来襲に出会って、その勢いにしり込みして、退却しそうになってきた。
 城の中の宮方の武士の中に、多田入道という武士がいたが、その配下に、高木十郎、松山九郎という名を知られた兵が2人いた。高木は勇敢ではあったが、力が足りず、松山は力持ちではあったが、臆病であった。この2人がともに西の木戸を守る兵たちの中、一ノ木戸が破られ、二の木戸を何とか支えている、その二の木戸の部署にいた。足利方は逆茂木を引き抜いて、城中に侵入しようという勢いを見せていたが、これを見て松山は、臆病風に吹かれてふるえていて、戦おうともしない。
 そこで高木が怒って、刀を抜き、こうなればお前と刺し違えて死ぬと脅したので、松山も戦う気を起こして、そばにあった大石を持ち上げて敵をめがけて投げつける。この大石に打たれて、足利方の兵は将棋倒しになり、多数の死者を出した。こうして八幡山の宮方の軍勢は、陥落を免れたのであった。

 ところが、敦賀まで到着した脇屋義助の軍勢は、八幡山が炎上したという知らせを聞いて、陥落したと思い、情報を確認するために、数日間、ぐずぐずと進軍せずにその場にとどまっていた。八幡の宮方の軍は食料を焼き払われてしまっているので、残る兵糧がなく、一日も持ちこたえられない様子であったのだけれども、北国の軍勢が攻め寄せてくるという情報を頼りにして、4・5日間はまっていたが、あまりにも時間が長くかかってしまっているので、力なく、6月27日の夜半にこっそりと八幡を引き払い、また河内国に帰った。
 ここで、八幡の宮方の兵がもう少しの間頑張り続け、北国の軍勢はとどまることなく前進していれば、京都は容易に陥落したかもしれないのを、両者の連絡がうまくいかず、ともに引き返すことになったのは、後醍醐帝のご運がまだ開けないということであったのであろうか。どうにも不運なことであったと『太平記』の作者は記す。

 八幡の城を包囲している高師直の軍勢は10万余騎、これに対して八幡に立てこもっている宮方は500余騎、脇屋義助の率いる軍勢が2万余騎、比叡山が動員できるのは3千人くらいだろうから、どう考えても、幕府方の兵力に比べて宮方の戦力は見劣りするのである。だから、初めから宮方の劣勢は明らかなのだが、当事者の心理はまた別の動きをするということであろうか。
 気になったことを2つ書いておく。義貞が兵を二手に分けて、自分は越前に留まり、弟の義助を京都に向かわせたというのが判断ミスではないかという気がする。義貞が京都に向かい、義助を越前にとどめるほうがよかったのではないか。これはその後の展開と関係してくる。もう一つは、八幡城の宮方の中に多田入道という武士がいたということで、岩波文庫版の脚注には、「名は不詳。兵庫県川西市多田院を拠点として摂津源氏。多田満仲を祖とする」とある。摂津国河辺郡多田というのは清和源氏が最初に所領とした土地で、多田氏は源頼光の孫頼綱に始まる名門なのだが、多田行綱の代になって源頼朝に疎まれて所領を没収され、その後の詳しい消息が不明になっている。この時代には、南朝方に味方するものが多かったらしい。 
 

日記抄(7月23日~29日)

7月29日(日)曇り、その後晴れ間が広がる。暑い。

 7月23日から本日までの間に経験したこと、考えたこと、これまでの記事の補遺・訂正など:
7月23日
 『日経』朝刊の「経営の視点」というコラムで編集委員である太田泰彦さんが書いている「米中貿易戦争の結末は 森を見ず木を見よう」という論稿が興味深かった。貿易戦争で米中のどちらかが勝つかよりも、展開の中で米中のどの企業が生き残るかの方が注目すべき問題だというのである。木(目の前の小事)を見て森(大局)を見ずという近視眼的なものの見方を戒める諺があるが、実際は、森の中の樹木の観察から、森の性格を判断することができることもあるので、木も森もともに見ていくことが必要であろうなどと考えたりした。
 トランプ大統領の内政・外交政策をめぐっては、『朝日』朝刊のコラム『風』では沢村亙さんが「「大国疲れ」凡庸化する米国」という文章を書いているが、特にトランプ大統領の「政治漫談」としか言いようのない演説を「こんなに分かりやすかったのは初めて」と感激の面持ちで語った中年女性の話など、この大統領の人気のありかを示していて、興味深かった。また、『日経』朝刊は、『フィナンシャル・タイムズ』に掲載されたジャナニ・ガネシュ「トランプ外交の『賞味期間』」という論稿を転載していて、この大統領のかならずしも適切とは言えない内政が多くの国民の支持を集め、今後も継続されていきそうなのに対し、外交政策は大統領の交代によって見直しを迫られるだろうという見通しが述べられている。

 NHKラジオ『まいにちスペイン語』の"¿Cómo se comunica?"(ことばと場面)のコーナーでは、スペイン語圏の中での地域による食べ物や飲み物の語彙の違いが紹介された。
 じゃがいもはラテンアメリカ原産であるが、ラテンアメリカではla papaというのに対し、スペインではla patataという。〔余計なことを書くと、フランス語ではla pomme de terre=大地のリンゴという。la patate (douce)はサツマイモのことである。イタリア語ではla patataがジャガイモ、la patata dolceがサツマイモである。la patata americanaという言い方もあるらしい。〕
 トマトもラテンアメリカ原産であるが、メキシコではel jitomateと言い、その他のスペイン語圏ではel tomateという。〔フランス語ではla tomate, イタリア語ではil pomodoroである。スペイン語とイタリア語では男性名詞であるが、フランス語では女性名詞である。〕

7月24日
 『朝日』朝刊の「ネット点描」のコーナーで原田朱美さんが『高校卒業後 つまずく若者」という考察を展開している。日本の社会では高校までは指導者の言うことをよく聞くように言われるが、大学に入ると大人として自立した振る舞いをもとめられる。そのギャップの大きさが多くの若者にとって困難に感じられるというのである。
 私が大学の1回生だった時の秋に、学生有志の話し合いがあった際に、文学部のS君が同じようなことを言っていた。もう50年以上昔の話である。日本の社会では(おそらくは受験競争と相まって)全般に若者の社会化を遅らせる傾向があるが、どこかで社会化を促進するような措置を講じないと、この問題はいつまでたっても解決しない。
 日本の旧学制では、16/17歳になると旧制高校、あるいは専門学校、あるいは大学予科に進学したり、早いものは小学校卒業後に就職したりしたから、社会化は今より早く行われていたのである。しかし、今さら高学歴化傾向に歯止めをかけようというのも無理である。高校生活をもっと自由にして、生徒に責任を持たせるようにするとか、自治活動を推進するとか、ギャップ・イヤーを導入するとか、方法はいくつか考えられるので、こういうところで議論を活発にして方策を講じる必要があるだろう。
 ところでこのS君というのは、私の詩を高く評価してくれた友人の一人で、そのため、私は彼のことを忘れがたく思っているのである。

 脚本家の橋本忍さんを追悼して、『朝日』は山田洋次監督、中島丈博さん、野上照代さんの談話を、『日経』は山田監督の文章を掲載していた。橋本さんが先の先まで物語を考えて、脚本を書いていた話を山田監督が記していたのが印象に残る。

 『日経』朝刊の文化欄に猪又義孝さんという人が、「世界のしおり 形とりどり」という文章を書いている。布製、皮革製、金属製などのしおりがあるという。それぞれ私も持っているが、金属製のしおりには本のページを痛めるという問題点がある。
 そういえば、ロンドンの大英博物館の近く(あるいはTUC=労働組合会議の本部の近く)にBookmarksという左翼系の本屋があった。たぶん、今でもあると思う。ここのショウウィンドウにTony Bliarというポスターが貼ってあったのと覚えている。Blairのaとiを入れ替えたらこうなるという遊び心を込めた批判の意思表示であった。

7月25日
 外国人労働者が増加してきているので、法務省が受け入れ環境の整備のために入国管理局を庁に昇格させることを検討していることを各紙が報じている。特に『日経』朝刊は「実習生では限界 小売り・外食 人で不足補えず」とか、ベトナム政府と介護人材1万人受け入れの計画で合意、インドネシアにも打診など、外国人受け入れに積極的な報道を展開している。問題は、日本にやってくる外国人には変化があるということではないか。1980年代は、路上でアクセサリーを売るイスラエル人が多かったが、いつの間にか姿を消した。その後、街頭で音楽を演奏する中南米の人たちの姿をよく見かけたが、これも最近ではあまり見かけない(こちらが夜遅く外出しないせいかもしれない)。日系ブラジル人の出稼ぎも減少傾向にあるそうである。今、多いのは中国人と東南アジア・南アジアの人たちだが、2020年が過ぎれば彼らの数も激減するだろうという見通しが芹沢健介『コンビニ外国人』(新潮新書)に登場するあるアジア人によって語られていた。もしそうなれば、入国管理庁がまた管理局に逆戻りということにもなりかねないので、関係する国・自治体の諸機関は外国人労働者の受け入れについての実態調査を実施し、また多文化共生を推進する広報活動に務めるべきであろう。

 横浜FCはアウェーでツエーゲン金沢と0-0で引き分ける。依然として3位を保っている。

7月26日
 『日経』は全般的な傾向として外国人労働者受け入れに積極的な論調の記事が多いが、この日の朝刊のコラム「大機小機」は「外国人労働者受け入れの是非」として、受け入れの理由である「人手不足」について、消費も国内総生産(GDP)もほとんど増えていない現状があり、需要が伸びていないのに供給体制を維持しようとしていることが問題であるという議論を展開している。需要が増えていないというのはその通りかもしれないが、だから供給体制を縮小せよという議論にはならない。

 オースティンの『マンスフィールド・パーク』を読み直し終えて、『エマ』に取り掛かる。

7月27日
 『日経』朝刊一面の下にあるコラム「春秋」欄では、「批判」ということについて論じている。批判とは▼自分の振る舞いが適切であるかどうかを顧みる作業・・・自分で自分の思考や言葉にツッコミを入れる批判精神こそ、「教養」であるという。「こんなことをやっていて、いいのだろうか?」という反省する能力が教養で、世の中をよくする作業は教養の持ち主にしかできない」という。改めて考えさせられる指摘である。

 同じく文化欄の「スペイン 描かれた音楽 十選(8)」では、ピカソの「バレエ『三角帽子』のための緞帳」の部分が紹介されていた。『まいにちスペイン語』応用編で昨年の10月と、今年の4月にその一部が紹介されたPedro Antonio de Alarcón, El sombrero de tres picos をもとにマヌエル・デ・ファーリャ(1876-1946)が作曲したバレエの上演のために描かれたものである。ピカソもこの作品を読んでいたらしい。
 三角帽子というのは、両脇と後ろを折り返しているために、上から見ると三角に見える帽子で、近世のヨーロッパでは軍人をはじめ、民間人の間でも流行したという(ルイXⅣ世やフリードリヒ大王がかぶっていた)。『三角帽子』は19世紀のはじめにスペインにナポレオンが侵入してくる直前の話で、ナポレオン戦争後は、この帽子は被られなくなってしまったという。しかし、一部では儀典用に被る場合があって、日本でも宮内庁の儀装馬車の御者が用いているそうである。
 そのナポレオンが被っていたのが二角帽子であるが、これは(我が国を含む)多くの国の軍隊の制帽として着用されたが、今では時代遅れになってしまったようである。そういえば、7月14日のパリ祭のパレードの先頭を行進するエコール・ポリテクニーク(理工科学校)の学生たちの制帽が二角帽子であった。

7月28日
 『朝日』朝刊の「ひもとく」のコーナーでは早稲田大学教授の都甲幸治さんが、先日亡くなったアメリカの作家フィリップ・ロスの作品を取り上げていた。あいにく、彼の作品は読んでおらず、映画化された『さよなら、コロンバス』を見ただけなのである。ロスは、一時期、英国の女優クレア・ブルームと結婚していたが、そんなことには都甲さんは興味がないらしい。

 同じく「著者に会いたい」のコーナーで、『日本の星名事典』をまとめた北尾浩一さんが紹介されている(日本の星名については、すでに紹介したことがある)。りゅうこつ座(アルゴー座)のカノープスについての「紀州の蜜柑星」、「メラ星」(千葉)、「酔いどれ星」(八丈島)などの名称があるという。
 この星についてはすでにふれたことがあるが、中国では南極老人星として知られ、南極老人は『西遊記』や『封神演義』にも登場する。野尻抱影の本で、南極老人が都に現れ、酒をたらふく飲んでどこかへ姿を消したという説話を読んだことがあるが、「酔いどれ星」と言われることと関係はないだろうね。

 『日経』の本郷和人さんの連載記事「日本史ひと模様」は山名時煕という三宝院満済を支えた幕府の宿老について取り上げている。満済の日記は室町時代の研究の基本史料の一つであるが、満済がいつも本当のことを日記に書いていたかどうかはわからないと、しごく説得力のある(身に覚えのある人も多い)議論が展開されていて、興味深い。

 『井伏鱒二全詩集』(岩波文庫)を読み終える。所収の「按摩をとる」という詩の舞台になっているのは甲州の下部温泉で、彼の小説「四つの湯槽」をもとに清水宏が映画化した『簪』(1941)の舞台でもある。身延山に近いので、その参拝者が宿泊することが多いようである。映画でも参拝の団体に按摩をとられてしまって、その他のお客に按摩が回ってこないというエピソードがあった。

7月29日
 『日経』朝刊の「名作コンシェルジュ」はフリッツ・ラング(1890-1976)の『恐怖省』(1944)を取り上げた。この作品はラングがアメリカに亡命後の第二次世界大戦中に制作されたもので、英国が舞台となり、レイ・ミランドが演じる精神病院を退院したばかりの男が国際的なスパイ組織の陰謀に巻き込まれるという物語で、グレアム・グリーンの原作に基づいている。筆者の芝崎幹郎さんは「悪夢的なサスペンス」と要約しているが、ドイツ表現主義を代表する作品の一つである『カリガリ博士』に精神病院が登場することなどを考えると、ジークフリート・クラカウアーが『カリガリからヒトラーまで』にまとめたワイマール時代のドイツの映画の歴史が要約されているとも言えそうである。  

山内譲『海賊の日本史』(3)

7月28日(土)台風12号接近、昨夜遅く雨が降った後、午前中は降ることはなかったが、午後3時ごろになって雨が次第に強くなる。

 日本の歴史の中で、「海賊」は様々な姿を見せながら、史料の中にその活動を記されている。この書物は第1章では藤原純友、第2章では松浦党、第3章では熊野海賊、第4章では戦国大名たちの水軍と、比較的有名な海賊を個別に取り上げ、終章では古代から中世にかけての時代の変化の中で海賊像がどのように変化したかをまとめる。海賊が日本の歴史の中でどのような役割を演じ、またどのような遺産を我々の歴史の中に残したかを考察するのが本書の目的である。
 これまで、海賊が旅人や船を襲うだけでなく、彼らを保護することで収入を得ている場合もあったこと、平安時代の代表的な海賊とされる藤原純友がある時期までは海賊を取り締まる側にいたこと、海賊が当時の政治状況とのかかわりで考えられなければならないこと、松浦党が独特の結合形態をもつ武士の集団であり、平氏との結びつきが強かったこと、倭寇とは直接に関係がないこと、熊野海賊が熊野三山との結びつきが強く、熊野湛増の時代に、治承寿永の戦乱で源氏に味方したこと、さらに南北朝時代には南朝の有力な戦力であったことなどを見てきた。

 熊野三山は紀伊半島の南東の海(熊野灘)にそそぐ熊野川流域にあるが、熊野灘には船舶の停泊に適した入り江が数多く点在する。その中でも特に目立つのは潮岬の東方で熊野灘にそそぐ古座川でその河口近くの西向浦(和歌山県串本町)は小山(こやま)氏と呼ばれる海上勢力の本拠があったところである。小山氏は、鎌倉時代の巻頭の有力御家人下野小山(おやま)氏の一族がこの地域に定住するようになったものである。
 西向小山氏は熊野新宮との結びつきによりその地位を確保し、周辺の一族と連合し、活発な海上活動を展開した。その活動範囲は淡路島周辺や小豆島に及び、南北朝時代には南朝方の勢力として活動した。この時期、瀬戸内海西部で活動していた忽那氏などとともに、南朝方の海上ネットワークとでも言うべきものを形成していたことが知られる。

 一方、潮岬の西側の安宅庄(白浜町)を本拠としていた安宅氏は、山地に城砦を構えていたが、その領地を流れる日置川を通じて海と結びついてもいた。日置川の河口には川湊ができていたのである。安宅氏はもともと阿波国に所領を有していたが、鎌倉末期に海賊鎮圧のために紀伊に来住したのではないかと推測されている。このため、北朝方との結びつきが強く、幕府から淡路島周辺の海賊退治を命じられて出動したりしているが、この海賊は南朝方の勢力を指しているようである。なお、安宅氏は後には南朝方に転じて、阿波への出陣を命じられたりしている。

 その安宅庄よりもさらに上流の久木(白浜町)を本拠にしていたのが、西向小山氏の同族の久木小山氏である。久木小山氏は山間部を活動の場としていたが、海岸部にもいくつかの拠点を有していた痕跡があり、また山間部で造船のために材木の調達を行っていたという推測もある。さらに、鎌倉幕府の名を受けて紀伊水道における海賊の取り締まりを行っていたという文書も残されている。
 このような「山の中の熊野水軍」としての性格を持つ一族に色川氏がある。その本拠である色川郷は牟婁郡東部の山奥深くに位置していたが(現在の那智勝浦町)、木材には恵まれていたし、川を利用した交通も開かれていたようである。熊野地方の豪族の中では、このほかに鵜殿氏、塩崎氏、泰地氏なども海上活動を行っている。

 以上のことから、南北朝期位に、潮岬の西の日置川流域から東の新宮にかけての熊野灘沿岸に、その後背地の熊野山中を含めて、多くの海上勢力が存在していたことがわかる。その一部が、南朝からの催促を受けて遠く南九州まで進出して、その地の北朝勢力と戦ったのが、島津氏関係資料に記された「熊野海賊」ということになる。どの勢力がこの中に含まれていたかを確定するのは難しいが、活動時期や活動歴を考えると、西向小山氏が含まれていることは間違いないだろうと山内さんは論じている。鹿児島の東福寺城を攻撃した「熊野海賊」は、誇張はあるにせよ「島津軍をおびえさせるほどの大勢力であったことは間違いない。」(130ページ) 西向小山氏を中心とした熊野の海上勢力に、東瀬戸内海の勢力、そして西瀬戸内海の忽那氏をも巻き込んで、「数千人」という勢力が形成されたと考えられる。彼らは西日本各地の南朝方の海の領主の連合体であったが、それを島津氏の方で恐れと敵意を込めて「海賊」と呼んだと推測できるのである。

 以上は戦時における彼らの活動である。では、平時においては、海上活動を行っていなかったのであろうか。残されている史料が少なくて、断片的なものであるために、はっきりしたことは言えないが、那智山沖を航行する船舶から「海上々分高納」という名目で航行料を徴収していたこと、これを喜ばない「諸国廻船人」たちが室町幕府に迫って徴収をやめさせたところ、今度は那智大社から苦情が出て、撤回されたという経緯が記録されている。また瀬戸内海を航行する船舶の警護をめぐる文書も残されており、戦国時代までは瀬戸内海西部の村上水軍よりも、熊野水軍の方が瀬戸内海の水運や軍事を掌握していた可能性もあるという。

 なお、徳治3(1308)年から翌年にかけて、西国から熊野にかけての海賊が蜂起して幕府がその鎮圧を命じている文書があり、この事件の詳細はあまりはっきりしていないが、今後の研究の進展によっては思いがけない事実が浮かび上がってくるかもしれない。網野善彦はこの件について、「蒙古襲来後、西国の交通路支配を強化してきた北条氏によって海上交通上の諸権益を奪われ、活動を抑制された熊野山衆徒・神人を中心とする海上勢力の憤懣の爆発がこの蜂起の原因ではないかと述べている(「太平洋の海上交通と紀伊半島」)。」(138ページ)と論じているそうである。

 次回は第4章「戦国大名と海賊」についてみていく。これまで以上に身近な内容が述べられていくことが期待される。

森本公誠『東大寺のなりたち』(5)

7月27日(金)曇り、台風の接近と関係があるのか、ないのか、蒸し暑い。

 東大寺は神亀5年(728)聖武天皇の皇太子であった基親王が満1歳の誕生日を目前に亡くなり、その菩提を追修するために造営された山房を起源とするといわれる。聖武天皇は即位当初、経史に基づいた政治を志向されたが、打ち続く災厄の中で仏教への傾倒を深められ、特に華厳経の教えに基づいて、諸国に国分寺と国分尼寺を建立し、大和の国分寺である東大寺に金銅の大仏(廬舎那仏像)を造立することを計画された。
 天平21年(749)2月に、大仏鋳造に必要な黄金が陸奥国で発見されたという知らせが届き、聖武天皇は喜んで、自らを「三宝の奴」と自称する宣命を発せられただけでなく、墾田の私有を許可される意向を表明された。さらに、出家して譲位される意思を固められたのである。

 この年7月2日に、聖武天皇は大極殿において正式に譲位の宣命を宣され、阿倍内親王が即位された(孝謙天皇である)。4月に天平感宝と改められていた年号は、さらに天平勝宝と改元された。
 直後の7月13日、東大寺にとっても重要な決定がなされた。諸寺墾田地上限額の制定である。『続日本紀』によると、大倭国国分金光明寺(東大寺)4000町、元興寺が2000町、大安寺・薬師寺・興福寺・大倭国法華寺と諸国国分金光明寺が1000町、弘福寺・法隆寺が500町、諸国法華寺(国分尼寺)が400町であった。
 この決定を受けて、東大寺は早速墾田の占定にとりかかったが、おそらくは決定そのものが活発化していた寺院の経済活動に呼応して行われたものと考えられる。個人が所有することのできる墾田の上限は500町であったから、これは開墾において寺院が果たす役割に大きな期待が寄せられていたためであると考えられる。
 「原野の開墾を促進させ、広大な水田を確保するには、大規模な灌漑設備が必要で、それには資力と労働力が不可欠となる。そこで聖武天皇は、多くの人が集まり精神的な帰依所となる寺院を創設し、原野の開墾のような役割も寺院にもたせ、それによって仏法の興隆と民心の安定を図る、そうしたことを意図したのであろう。その根拠はかつての行基集団の活躍にある。今風にいえば、墾田を個人による経済活動の範囲に止めないで、大規模な展開が望める法人事業に開放するようなものである。」(84ページ)

 ここでは奈良にある東大寺、元興寺、大安寺、薬師寺、興福寺と総国分尼寺である法華寺が1000町を越える墾田の私有を認められたが、その中でも東大寺の4000町は別格と言える広大さである。(後に南都七大寺といわれるのは東大寺、興福寺、元興寺、大安寺、薬師寺、西大寺、法隆寺であり、西大寺はこの時点ではまだ建立されておらず、法隆寺はこの時点ではまだ評価が低かったということらしい。)
 それにしても東大寺の4000町というのは他の大寺院に比べても突出している。その理由を森本さんは2つのことに求めている。一つは、諸国の国分寺には20人の僧を置くことになっており、それらの僧侶の教育を行う場として考えられるのが問う大事だということである。したがってそれらの僧侶を教育する費用が捻出される必要がある。
 もう一つは、東大寺に所属する有能な僧侶に在家信者である優婆塞・優婆夷をつけて新たな占定地に赴かせて、大規模な開発を行わせることで、災害のために本籍を離れて流亡することになった民衆に生業を与えることができるからである。あるいは行基の死後、彼が自分に従う集団に身に着けさせた技術・技能を活用するという意図もあったかもしれない。
 占定された土地は一定期間内に開墾されてしまわないと、墾田として私有されないように規定されていた。したがって、開墾を迅速に進めるだけの体制を寺院の側でも整備していなければならない。

 この時代の寺院と僧侶は国家によって管理され、規制されていた。各寺院から国司に提出される僧尼帳(綱帳)によって国家が認定した官度僧についてはその数や動きを把握できているはずであったが、実際には2割程度の僧の名籍が不備であったとされる。しかし、律令国家がもっと重大な問題と考えたのは官許を得ずにひそかに得度をした私度僧たちである。養老元年(717)に元明天皇の名で発せられた詔には次のような理由で私度僧たち、彼らを率いている行基の行動が非難されていた。
 第一に、彼らは納税や労役の義務を逃れるために勝手に出家したとみなされていた。第二に、僧侶は寺院の中で仏教の学習と伝承とに励むべきであったが、私度僧たちは市中に出て説法をしている、第三に、病人の家を訪問して治療行為を行っていることが問題視された(僧尼が医療行為を行うこと自体は禁止されてはいなかったので、要するに無資格医療と見なされたということであろう)。
 しかし、天平3年(731)に聖武天皇はその詔で、行基たちの集団に寛大な措置を取ることを述べられた。これは、行基集団を利用する方が朝廷にとって得策だ(現実に、大仏造立など行基集団の協力により成功した事業は多い)と判断したという考えもあるが、森本さんは聖武天皇の仏教理解が進んで、寺の中でお経を読んでいるだけが仏教ではなく、土木事業や医療活動を通じて社会のために貢献することも仏教の趣旨にかなうものだと考えられたからであると論じている。

 行基の「弟子」たちとして、問題にされているのは、実際は優婆塞、つまり三宝に帰依して五戒を守りながら、いずれは出家したいと考えている在俗の男性信者(女性信者は優婆夷)たちであった。優婆塞・優婆夷は3年以上の修行など、一定の修行を積めば得度の機会を与えられるはずであったが、律令法の規定の運用が厳しく、いつまでたっても得度できないものが少なくなかった。法令上の建前から言えば、これでも問題はないはずであったが、天変地異が続く時代に、僧侶は経典を暗唱したり、仏事を行ったりしているだけでいいのかと聖武天皇は考えられたようである。

 天平13年(741)7月から恭仁京造営の一環として、木津川を渡る橋の仮設工事が行われたが、ここでは国家が徴発した役夫ではなく畿内・諸国から集まってきた優婆塞らを使役した。『続日本紀』によれば、橋が完成すると、彼らは得度が許され、正式の僧尼になったという。この時に得度を受けて沙弥となった優婆塞の一人が、後に大安寺伝灯法師兼近江大国師となった行表で、行表は後の最澄が近江国分寺で得度を受けたときに師主となった。そのため最澄の著である『内証仏法相承血脈譜』所収の「大日本国大安寺行表和上」の略伝にこのことが記されているという。

 こうして国家的な事業のために一定期間働けば得度の資格が得られるという新しい道が開けた。その期間は木津川の橋の工事が先例となっておよそ4か月とされるようになったようである。得度資格が得られても、出家できるとは限られないが、こうして出家の道が広がったことはたしかであり、そのような措置の背後には、仏教の社会貢献の意義を認めようとする聖武天皇の意向が働いていたことは否定できないだろう。
 話題が、少し東大寺からそれてきたようにも思われるが、次回では、また東大寺と国分寺の関係に戻ることになる。  

ウィルキー・コリンズ『月長石』再読(6)

7月26日(木)曇り、昨日から少し気温が下がったように思うが、依然として暑い

 インドのヒンズー教の神である月天の額を飾っていた黄色いダイヤモンド=月長石は、1799年の英軍のセリンガパタム襲撃の際に英軍の将校であったジョン・ハーンカスルの手に入り、彼とともに英国に渡ってきた。この宝石をめぐっては人間の世が続く限り、3人のブラーフマンが交代しながら守り続けており、宝石を手にする者だけでなくその係累にまで災いが及ぶであろうという言い伝えがあった。ハーンカスルはそのような言い伝えは迷信であると言い続けてきた一方で、どのようにして宝石を入手したかについては一切口にしなかった。
 この宝石は1848年にジョンの妹の娘(つまり姪)であるレイチェル・ヴェリンダ―にその18歳の誕生祝として遺贈され、誕生祝のパーティーの夜に姿を消した。その後、不思議な事件が続き、殺人まで引き起こされた。ジョンの遺言に基づいてヴェリンダー家に宝石を届けた(ジョンの甥で、レイチェルの従兄である)フランクリン・ブレークは関係者の証言を集めて、事件の真相を復元・記録しようと考える。そこで、セリンガパタムとジョンについて記した記録に続き、ヴェリンダー家の執事であるガブリエル・ベタレッジが最初の証言の文書を執筆することになる。
 1848年の5月24日にベタレッジは、翌日フランクリンがヴェリンダー邸を訪問するとヴェリンダー卿夫人から知らされる。フランクリンは(当時の英国の生年としては珍しく)ヨーロッパで教育を受け、その後は大陸各地を放浪していたが、最近、英国に戻ってきてロンドンの父親のもとで過ごしていたのである。
 25日、ヴェリンダー卿夫人とレイチェルは、フランクリンの到着は夕食時になると考えて、外出していたが、旅回りの手品師らしい3人のインド人の訪問を受ける。彼らは邸で芸を披露したいといったのだが、ベタレッジは主人たちが留守なので断る。ところが、彼らが帰った後で、ベタレッジの娘のペネロープがあのインド人たちは怪しげなふるまいをしていたので、警察に逮捕させた方がいいといってくる。ペネロープがこっそり覗き知ったところでは、インド人たちはフランクリンが「あれ」をもってやってくるかどうかを占っていたというのである。ベタレッジはフランクリンにこの話をするまでは何もしないようにと言って、ペネロープを落ち着かせようとする。彼女が言ってしまった後、今度は台所係の女中のナンシーがやってきて、下働きの女中のロザンナ・スピアマンが夕食の席にやってこないので、呼びに行かなければならないという。そこでベタレッジは、自分が言って連れてこようと言ってナンシーを夕食の席に戻す。

 ロザンナはこの事件では重要な役割を果たす人物の1人である(ということはいずれわかる)。彼女はヴェリンダー家では新参の召使である。この事件の4か月ほど前に、ヴェリンダー卿夫人はロンドンに滞在していたが、矯正施設(Reformatory)を訪問したことがあった。刑務所から出ても行き所がなくて、また悪の道に逆戻りしそうな身寄りのない女たちを誰か1人でも助けようというのである。その意図を知った婦人看守(matron)がヴェリンダー卿夫人に雇ってほしいといって薦めたのがロザンナであり、彼女は一度だけ犯した盗みの罪のために刑務所に入っていたのであった。
 中村訳では「奥さまはロンドンにおでかけになって」(39ページ)としているが、この事件の4か月前というと1月か2月であって、この時代の英国では社交シーズンであり、上流階級の人々はロンドンに集まるのが常であった。だからわざわざ出かけたわけではない。いつも通りに出かけたのである(原文はmy lady had been in London)。Reformatoryを中村は「感化院」と訳していて、これは間違いではないが、公設であろうと、民営であろうと、矯正施設一般をさしてよぶことばである。matronを中村さんは「保護司」と訳しているが、保護司は犯罪の予防のために民間人が無給で務める仕事であって、ここで使うのは不適当であろう。それからnot being the sort that get up the Companies in the Cityという個所を中村は「ロンドンの商業区で会社をつくる柄ではないし」と訳しているが、これは前後の文脈から見てどうも唐突である。the Cityというのは中村が受け取っているとおり、ロンドンの「シティー」であろうが、Companiesの方も大文字が使われているのだから、大文字で使われる場合の意味を探すべきであった。実は、どうもはっきりしないのだが、「シティーの警察を騒がせるような種類の事件も起こさなかったし」くらいの意味ではないのか。
 とにかく女看守はロザンナが機会さえ与えられれば、立派に更生する人間だと請け合ったので、ヴェリンダー卿夫人は彼女を召使として雇うことにしたのであった。そしてヴェリンダー邸に連れてこられて、下働きの女中として働くことになった。彼女の身の上を知るものは、ヴェリンダー卿夫人以外には、ベタレッジとペネロープの2人がいるだけであった。彼女を雇う際に、ヴェリンダー卿夫人はベタレッジにも相談したのである。
 こうしてロザンナはほかの召使と区別されることなく、同じように働き、体が弱くて、時々発作に襲われたりはしたが、自分の与えられた仕事は不平も言わずに、よく気を付けて手際よくやった。しかし、なぜかペネロープ以外の仲間の女中たちとはうまくいかなかった。ペネロープもロザンナと親しかったわけではなかったが、いつも親切にしてやっていた。

 ロザンナが女中たちの中で孤立している理由について、ベタレッジはいろいろと推測する。彼女は顔が醜いし(no beauty)、片方の肩がもう片方よりも大きく、そのような顔つきと体つきなので、他の女中たちから妬みを買うことはなかったはずだという。彼女は無口で、いつも一人ぼっちでいた。手の空いたときでも仲間とおしゃべりをするでもなく、本を読んだり手を動かしたりしていた。外出日には、たいていは静かにボンネットをかぶり、一人きりで出かけていた。ほかのものとはけんかをしなかった代わりに、いつも少し距離を置いて接していた。初めて彼女が邸に来た時に、他の女中たちは「気どっている」(Rosanna Spearman gave herself airs)と言っていたという。
 ベタレッジはロザンナが美しくないと言っているが、どうもご本人はそうは思っていなかったらしいことが後でわかる。この2人以外の証言を求めるべきであろう。後でわかるといえば、彼女の外出先の一つも後でわかる。そして彼女が全く孤独でなかったこともわかるのである。

 Our house is high up on the Yorkshire coast, and close by the sea. We have got beautiful walks all round us, in every direction but one. That one I acknowledge to be a horrid walk. It leads, for a quarter of a mile, through a melancholy plantation of firs, and brings you out between low cliffs on the loneliest and ugliest little bay on all our coast. (Penguin Popular Classics, p.32)
中村訳:「ヴェリンダー家のお邸は、ヨークシャ海岸の高台にあって、海がすぐ近くにあった。美しい小路が四方にのびていたが、ただ一本の道だけは美しいとは言いかねる。不気味な路なのである。この道は、暗い樅の林のなかを1マイルもつづいて、やがて、このあたりでもいちばんもの寂しい、見るかげもない、小さな入り江にのぞんだ低い崖のあいだに出る。(41ページ)
 中村訳で明らかに間違っているのは、a quarter or a mileを1マイルとしていることで、これは4分の1マイル、つまり約400メートルである。

 以上の描写だけでも不気味だが、その後の描写はもっとすごい。「そこから砂丘が海にむかって傾斜して、波の中に消えているところに、二つ向き合って突き出た岩の岬がある。いっぽうを北の岬、一方を南の岬と呼んでいる。この二つの岬と岬の間に、季節季節で大きく移動する、ヨークシャ海岸でも他に類を見ない恐ろしい流砂がある。潮の変わり目になると、はかりしれぬ下のほうでなにごとかが起こり、それが流砂の全面を肉眼でもそれとわかるほどはっきり揺さぶりふるえさせる。そのため、この地方の人々は『ふるえる砂』と名づけて呼んでいる。」(中村訳、41‐42ページ) 「流砂」と訳されているのはquicksand,「ふるえる砂」はthe Shivering Sandである。恐ろしい場所なので、近寄ろうとするものはほとんどいない。近くのコブズホールという漁村の子どもたちでさえ、ここへ遊びにこようとはしない。ところが、ロザンナ・スピアマンだけは、この辺を散歩するのが好きなのである。(コブズホールに彼女が心を許した友人がいるという事情もあるが、その話はおいおい出てくる。) それでベタレッジはロザンナを連れて帰るために、このあまり気味のよくない道を急いで歩く。

 樅林の中ではロザンナを見つけることができなかったが、砂丘を抜けて海岸に出てみると、ロザンナがいた。小さな麦わら帽子をかぶり、いつも着ている粗末な灰色の外套を着て、たった一人、流砂と海を眺めていた。
 ベタレッジが近づくと、ロザンナははっとして顔をそむけた。これは召使を取り締まる執事として見逃しがたいことである。ロザンナが泣いていたことを見て取って、ベタレッジはヴェリンダー卿夫人から頂いたという大型のハンカチbandana handkerchiefを取り出して、ロザンナに、一緒に海岸の斜面に腰を下ろそうという。涙を拭いてやるから、泣いていたわけを話しなさいと、ロザンナに話あっける。
 こうして二人は腰を下ろして、ベタレッジはロザンナの涙をぬぐってやろうとするが、まごまごしているうちに、ロザンナは自分の粗末なハンカチで涙を拭いてしまう。彼女はなぜ、一人で泣いていたのだろうか。
 中村は「麦わら帽子」と訳しているが、原文はstraw bonnet で我々が見るようなstraw hatとは違う種類の帽子のようである。ベタレッジは何とかしてロザンナの心を開かせ、他の使用人と心が通じるようにしてやろうと思っていて、そのことはロザンナもわかっているはずなのだが、どういうわけか、うまくいかない。世の中のあらゆることが善意で解決されるというわけではないし、時として何が善意かわからないことがありうる。読み進むうちに(すでにナンシーに対する態度を見てそう思った方もいるかもしれないが)、ベタレッジの俗物ぶりはよくわかってくるはずである。相手の善意はわかっているが、その善意が見え透いて見えるほどの俗物だから、余計にロザンナの方が信用したくない気持ちにさせられているのかもしれない。(俗物や偽善者が悪いというのは一面的な見方であって、偽善者こそが19世紀英国の繁栄を築いてきたともいえるのだが、そういう議論は、下層階級のはみ出し者であるロザンナには通用しないだろう。)

 さて、ベタレッジとロザンナはどのような会話を交わすのか、また、話の最中に新たな登場人物が出現するが、それはだれだろうか。それらはまた次回に。

トマス・モア『ユートピア』(11)

7月25日(水)薄曇り、依然として暑い。

 今回から、第2巻「社会の最善政体についてのラファエル・ヒュトロダエウスの話の第二巻」に入る。
 第1巻の内容は次のようなものである。1515年にイングランドからの外交使節団の一員としてフランドルを訪れたトマス・モアはアントワープの市民であるピーター・ヒレスから、世界中を旅してまわり、特に新大陸でヨーロッパとは全く異質の社会の制度を持つ国々を訪問したことがあるというラファエル・ヒュトロダエウスという人物を紹介される。彼の経験と知識とに感心したモアとピーターはどこかの王侯の顧問としてその政治に参画すべきだと勧めるが、王侯の取り巻きが追従とお世辞ばかり言っている現実や、ヨーロッパの王侯の目指すところが戦争による領土拡大と、民衆からの富の略取であることを知っているラファエルは、それを断り続ける。そしてヨーロッパの社会が抱えている問題を解決している国が、新大陸で彼が訪れたユートピアであるという。ピーターとモアは、ラファエルにユートピアについての話を詳しく語るように頼む。

 ユートピア人たちが住む島の形状について、ラファエルは「その中央部(一番幅の広いところ)で200マイルにわたって広がり、島の大部分を通じてこれよりもずっと狭くなることはありませんが、両端に向かうにつれてすこしずつ狭くなってゆきます。この両端は、周囲500マイルにわたる円を描いたようになっており、この島全体を新月のような形にしています。その新月の両先端のあいだに海が流れ込んで約11マイル幅の海峡で両岸をへだてて」(119ページ)と説明する。ここで問題になるのは、「新月」のような形ということで、「新月」ははっきりとした形のあるものとして見えないはずである。ここはロビンソン訳では、the new moonとなっており、ロビンソン訳からの重訳である平井訳では「新月」と訳して疑う様子を見せていないが、new moonには辞書を見ても「新月、朔」という意味のほかに、「朔と上弦の間の細い月」という意味がある。この場合は、こちらと受け取るべきであり、中公文庫版の24ページに掲載されている1518年版、ケンブリッジ政治思想史原典叢書(25ページに掲載されている1516年版の「地図」を見ても、「細い月」の方が正確なとらえ方であることがわかる。この点、Cambridge Texts in the History of Political Thoughtのジョージ・M・ローガンおよびロバート・M・アダムズの翻訳はcrescent-shaped, like a new moon (月齢が若い月のような、細い月の形)、ペンギン・クラシックスのポール・ターナー訳はa sort of crescent (一種の三日月形)としながら、注で三日月の両端は接近していないが、ユートピアの形状は両端が接近していて、トルコの国旗に描かれた月によく似ていると注記している。なお、ローガンとアダムズの翻訳では、ユートピアの形状が(あらゆる点においてではないにせよ)ブリテン島に似ていることが指摘されている。

 その新月(三日月)の両端のところに海が流れ込んで、内海が広がっており、波が静かなので、島の内奥部全体が港のようになっている。湾の入り口は狭く、入りにくく、かつユートピア人たちが守備のための部隊を配備しているので、外来者がユートピア人の水先案内人の協力を得ずに、湾の中に入ることは難しいという。

 この島は、むかしは海に囲まれていなかったのであるが、この島を支配するようになったユートプスという人物が、大工事を行って、島を大陸から切り離してしまった。それまでアブラクサと呼ばれていたこの土地は、ユートプスの名にちなんでユートピアと呼ばれるようになった。
 アブラクサはAbraxasと書くのが正しく、ギリシア語でαβραξαςと記されるが、α=1、β=2、ξ=60、ρ=100、ς=200だとすると、アブラクサスは365ということになり、これはグノーシス派の思想と関連することを澤田、ローガン&アダムズの両者が指摘している。澤田さんは「ユートピアのこの旧名は、このくにの非存在・虚無性とグノーシス底流を示唆する」(278ページ)としているが、ローガン&アダムズは”what 'Abraxas' actually means nobody knows" (Logan & Adams, p.42,「アブラクシス」が実際に何を意味しているかは誰にもわからない)と懐疑的である。なお、ターナーは、これをSansculottiaと訳している。フランス革命史に登場するサン=キュロットを意識した翻訳と思われるが、なぜこのように訳したかの理由は記されていない。

 「この島には54の都市があり、そのいずれも広大、豪壮で、言語、生活風習、制度、法を同じくしており、構成もみな同型で、それぞれの地方の事情が許す限り見かけも同じです。互いにもっとも近接しているものでも24マイル離れていますけれども、どれも、他の都市に歩いて1日で行き着けないというほどには孤立していません」(121ページ)とラファエルは語る。澤田さんは当時のイングランド、ウェールズにはロンドンを含めて54の州があったと記している。この点については平井訳も同じことを注記している。すでにローガン&アダムズがユートピア島の形状に関連して発言しているように、モアはブリテン島(スコットランドを除く)を下敷きにして、ユートピアを描いているようである。しかし、当時のウェールズではインド=ヨーロッパ語族の中のケルト語派に属するウェールズ語が今よりも多く使われていたし、イングランド西南端のコーンウォールでは、同じくケルト語派に属するコーンウォール語がまだ絶滅していなかったから、言語について統一のある状態ではなかった。(さらに言えば、今でもそうだが、イングランドの中での英語の方言の違いというのもかなりのものである。) ユートピアの言語が一つであるということが、モアの理想を示しているのかどうかは、今後読み進む中でさらに検討すべき課題の一つであろう。
 英国よりも広大な面積を持ち、人口も多い日本の都道府県は47、それ以前の分国は66か国2島であった。それを考えると、54というのは多すぎるようにも思われる。しかも現在の英国では地方行政の単位がさらに細分化されていて、100を越える。しかも、ロンドンを除くと、バーミンガムが人口100万人を超えているだけで、日本と比べて大都市と呼べるような都市はほとんどない。このような状態をモアが生きていたらどう考えるのかも興味あるところである。

 54の都会の間には適当な間隔があり、どの都市からも3人の年取った経験ある市民がこの島の共同の問題について論じるために、毎年アマウロートゥムに集まる。このアマウロートゥムというのはギリシア語のαμαυροω(暗くする、見えなくなる)から思いつかれた地名であると注記されている。一般には、「霧のロンドン」を連想させるといわれるが、アマウロートゥムが島の中心にあり、代表たちが集まるのに便利だと記されているのに対し、ロンドンはブリテン島の南東に偏りすぎている。それから「霧のロンドン」というが、ほかの都市でも霧に出会うことはまれではない。

 こうしてラファエルはユートピアについて詳しいことを語りだすが、それが新大陸のどこかにあったというだけで、詳しい位置を語っていないことに注意してほしい。ユートピアの描写がイングランドの様子に似ているところがあることは、しばしば指摘されるところであるが、意識的にそうなっているのか、それとも何となくそうなってしまっているのかは、これから詳しく読み込む中で明らかにしていきたいと思う。 

ダンテ・アリギエーリ(須賀敦子/藤谷道夫訳)『神曲 地獄篇(第1歌~第17歌)』

7月24日(火)曇りのち晴れ、依然として暑い

 河出書房新社から池澤夏樹さんの監修で『須賀敦子の本棚』という叢書の出版が始まり、その最初の巻としてダンテの『神曲』の最初の部分(『地獄篇(第1歌~第17歌)』が刊行された。須賀敦子(1929‐98)が大学の授業とは別に私的に『神曲』の講座を開いていたことは知っていたが、その受講生であった藤谷道夫さんが、須賀の死後に残された彼女が40代の頃に訳していた『神曲』の翻訳ノートをもとにしてまとめ直したのがこの本である。須賀さんのノートは彼女の理解がまだ十分ではなかった段階で作成されたものであり、彼女自身そのことによく気づいていたために、筐底深くにとどめられていた。しかし、須賀がダンテの研究にも取り組んでいたことを明らかにするためにこの本を刊行するのであり、ノートは『煉獄編』まで作成されていたが、『地獄篇』の後半になると間違いだと思われる部分が多くなるので、前半だけの出版とすることになった。その間の事情は藤谷さんが書いた「はじめに」に説明されているので、詳しくは述べない。『神曲』に限った話ではないが、翻訳は作者と翻訳者の個性のぶつかり合いであり、ただ正確に文意を伝えればいいというものではない。須賀のノートの誤りを訂正することによって、彼女の個性を消してしまったのではこのシリーズの趣旨に背くことになるということであろう。

 このブログでは2014年6月21日から2017年の12月13日まで足掛け4年をかけて、原基晶さんの翻訳による『神曲』をとりあげた。その中では山川丙三郎訳と、壽岳文章訳、特に後者についても時々触れていた。ここで新たに須賀・藤谷訳を取り上げるのは、これらとは違った訳業と解釈に触れることによって、『神曲』への理解を深めるとともに、改めてこの作品のすごさを味わいなおそうと考えているからである。

 1300年4月4日(月曜日)にこの叙事詩は始まる。

 人の世の歩みのちょうど半ばにあったとき
私は正しき道の失われた
暗い森の中をさまよっていた。
(11ページ)
 昨年の10月にNHKラジオで放送された『まいにちイタリア語』応用編「原文で読む古典の楽しみ」で、この叙事詩の冒頭の9行が取り上げられていたので、そのテキストとその際にとったメモを参考にしながら、この翻訳を見ていきたいと思う。
Nel mezzo del cammin di nostra vita
mi ritorvai per una selva oscura
ché la diritta via cra smarrita.
「原文で読む古典の楽しみ」の講師であった白崎容子さん(『須賀敦子の本棚』3として予定されているナタリア・ギンスブルグ『小さな徳』を翻訳することになっている)は、『神曲』の各行がすべて11音節からなり、3行ごとにABA BCB CDCと鎖の輪のように順に脚韻が連なっていく「連鎖韻」(rima incatenata)で構成されていると説明した。ただし、白崎さんは触れなかったが、各歌の最後は、三行詩ではなくて、一行でまとめられており、例えば『地獄篇』第1歌は45の三行詩と一行の136行から構成されている。これを『地獄篇』第1歌から『天国篇』第33歌まで、100歌つづけているのだからすごいとしか言いようがない。

 テキストと(不足している部分は辞書で調べて)言葉の意味を調べておくと、mezzoは「真ん中、なかば」、camminはcammino「道のり、歩み」、mi ritrovaiはritrovarsiの直接法遠過去1人称単数の形で、「たまたま居合わせる」、per - は「~のなかに」、selvaは「森」、oscuroは「暗い」、chèはperchéで「なぜなら」、dirittoは「まっすぐな;(比喩的に)正しい」、smarritoは動詞smarrireの直接法近過去1人称単数で「見失った」と注記されている。

 それでは、須賀と藤谷さん以外の翻訳では、この冒頭の部分はどのように訳されているか。白崎さんはこの個所を
人生の歩みのなかばで
進むべき道を見失い、気がつくと
私は暗い森の中にいた。
と訳していた。
 また、原基晶さんは
我らの人生を半ばまで歩んだ時
目が覚めると暗い森の中をさまよっている自分に気づいた。
まっすぐに続く道はどこにも見えなくなっていた。
(原訳『地獄篇』、26ページ)と訳している。あいにく、壽岳文章訳は原訳の『煉獄扁』まで進んだ時に参考にしようと思って『煉獄篇』を入手しただけであるが、粟津則雄『ダンテ地獄篇精読』(筑摩書房、1988)が壽岳訳が最も優れているとして、壽岳訳を使って書き進められているので、そこに引用されている冒頭の詩行を引くと「ひとの世の旅路のなかば、ふと気がつくと、私はますぐな道を見失い、暗い森に迷いこんでいた」(粟津、3ページ)となっている。

 この4人の翻訳を比べてみると、最初の1行をめぐっては須賀≂藤井と壽岳がnostra vitaを「人の世」、白崎が「人生」、原が「我らの人生」と訳し、解釈に対立がある、つまり叙事詩の発端となる1300年4月の復活祭前夜の出来事が「人の世」=13000年あるといわれる人類の歴史の中での6500年目という中間点と位置づけられるのか、ダンテの人生の中間点と位置づけられているのかという解釈上の対立があることがわかる。 ダンテが「私の」ではなく「我々の」という所有形容詞を使っているのはvitaがダンテ自身だけのものではないと考えられているということであるが、『旧約聖書 詩編』その他の章句を引用して、この時代には人生は70年と考えられていたと、「人生」派は反論するだろう。

 『神曲』のこの後の展開を読んでいっても、一方で終末論的に受け取れる箇所があり、もう一方で神の人間に対する救済計画の長期性を強調する部分もあって、どちらとも決めがたい。その意味では「人の世の」という訳し方は、人間の歴史という意味だけでなく、人生という意味も包含すると受け取れるので、こちらのほうが無難ではないかと思われる。

 「暗い森」について、個々人に立ち現れる暗い人生を意味するとともに、具体的にはフィレンツェをはじめとするトスカーナ地方(ひいてはイタリア)を寓意していると注記されている。この点は、原基晶さんがその『天国篇』の「あとがき」で書いていることと、対立するので、注意する必要がある。原さんによれば、1300年ごろには、フィレンツェの周辺には森はなかったという。「一般に、都市に自然が帰ってくるのは、化石燃料が大量に使用される現代になってからです。」(原訳『天国篇』、652ページ) この森が植物学的にどのような森であったのかというのも知りたいところだが、インターネットで調べても、イタリアには自然林はほとんど残っていない、むかしからの植生が残っているところはまれであるという。では、どこからダンテが森のイメージを得たかというのも、興味ある問題である。

 個人的なことを書くと、私が詩を書き始めた一つのきっかけが中学校の教科書に金子光晴の「しぐれた林の奥で/かつこうがなく。」という書き出しの「かつこう」という詩(清岡卓行編『金子光晴詩集』岩波文庫版、所収448‐450ページ)を読んだことである。とは言うものの、ダンテの『神曲』の出だしの暗い森と、金子光晴の「かつこう」という詩の林を重ね合わせることにはかなりの無理がある。しかし、どうしても重ね合わせたいところがあって、金子は過去に自分が接した女性たち、あるいは一緒に遊びに出かけたりした悪友たちとの思い出を引きずりながら、森の中をさまよっているのだが、ダンテもそうではないのかなどと、考えてしまう。

 136行ある、『地獄篇』第1歌の最初の3行だけでブログを終わらせてしまうのは、先が思いやられるので、大急ぎで次の6行についてまとめると、ダンテは森の中で迷っていたこと、森の恐ろしさ、それ以後の経験を思い出すのは苦痛ではあるが、しかしよいことも経験したので、とにかく語っていこうと歌う。
 さらに10行目で
私はあまりにも眠かったので
(11ページ)と自分が陥っていた眠気について語る。藤谷さんは「眠りはキリスト教の伝統において精神の眠りを意味する。神によって生かされているのではなく、自分自身の力だけで生きていると錯覚する高慢さは、眠りで表される」(19ページ)と注記している。また粟津さんはダンテが「どうしてそこへ迷いこんだか、はきとはわからぬ。ただ眠くて眠くてどうにもならなかった。まことの道を踏み外したあの時は」(既に断ったように、壽岳訳:10‐12行)と書いているように、自分自身の道からの逸脱を問題にしながら、他者の悪についても目を向けていることに注目している。つまり、詩人自身が客観的な観察者ではなく、叙事詩の展開と積極的にかかわる存在であることにこの作品の特徴を見ている。鋭い洞察である。

 このブログを始めて以来、読者の皆さんからいただいた拍手の合計が31,000に達しました。これまでのご愛顧・ご愛読に感謝するとともに、今後ともよろしくお願いいたします。

『太平記』(220)

7月23日(月)晴れ、依然として暑さが続いている

 暦応元年(南朝延元3年、1338)正月、奥州国司兼鎮守府将軍の北畠顕家が率いる大軍が、鎌倉の足利方の将兵を追い散らしたのち、さらに西上したが、敗れた足利方も軍勢を集めてその後を追った。顕家軍とその跡を追って西上した足利軍は、美濃国墨俣川、青野原一帯で戦い、足利方は、土岐頼遠と桃井直常の奮戦にもかかわらず敗れた。京都の足利方は、高師泰の進言により、師泰を大将として、顕家軍を近江と美濃の坂出迎え撃った。師泰は、嚢砂背水の故事を踏まえて、黒地川を背にして布陣した。顕家軍は、進撃して越前の新田義貞の軍と合流すべきところを、なぜか黒地川の敵と戦わず、越前へも向かわずに進路を伊勢に取り、吉野へ向かった。(以上19巻、この記事は必ずしも史実を反映しているとは言えないのではないかと本郷和人さんは論じている。青野原で高師泰軍と土岐頼遠軍に挟み撃ちにされて、北畠顕家軍が敗走したという可能性もある。)
 一方、越前の新田義貞は次第にその勢力を拡大していったが、暦応元年5月に越前の足羽川流域一帯に砦を築いて抗戦を続ける足利一族の越前守護斯波高経の足羽七城と呼ばれる城砦軍に攻撃をかけたが、斯波の軍勢に退けられた。(以上20巻)

 さて、越後は新田の本領である上野と接し、新田一族が充満しているうえに、元弘以後、帝からの恩賞として義貞の支配下におかれ、その支配が長く続いてきたので、この国の地頭、御家人は義貞の政治に従う期間も長くなった。義貞がいよいよ京都に攻め上ろうとしているという情報を得て、新田一族の大井田氏経、同じく義政、中条入道(新潟県長岡市中条に住んだ武士)、鳥山左京亮(新田一族の鳥山家成か)、風間信濃守、禰智掃部助(禰津、長野県東御市祢津出身の武士)、太田滝口(群馬県太田市出身の武士か)をはじめとして、その勢合わせて2万余騎、7月3日、越後の府(こう、新潟県上越市国府の辺)を発って、越中の国に進撃したが、足利方の越中の守護であった普門俊清が、国境にまちうけて、防ぎとめようとした。しかし、俊清に味方するものもなく、数において劣勢であったので、多少の戦死者を出し、松倉城(富山県魚津市松倉にあった山城)に退却し、そこに引きこもった。

 越後勢は、深追いせずに、すぐに加賀国へと向かう。足利方の加賀守護である富樫高家(石川県金沢市富樫に住んだ武士)がこれを聞いて、500余騎を率いて、阿多賀(小松市安宅町)、篠原(加賀市篠原町)の辺で迎え撃とうとする。これも、新田方に対抗できるような兵力ではなかったので、富樫の率いる兵が200余騎討たれて、富樫は奈多城(小松市奈谷町にあった城)に引きこもった。

 越後勢は越中と加賀における2度の合戦に勝利をおさめ、北陸地方の足利方は恐れるに当たらないと思った。そのまま、すぐに越前へと進撃すればよかったのであるが、ここから京都までは、これまでの長年の戦闘で土地が疲弊し、人々も疲れているので、兵糧がないだろうと考えて、加賀国にしばらく滞在して今後の兵糧を用意しようとした。そのため今湊の宿(白山市美川にあった宿場)に10日以上滞在した。その間、剣(白山市の金釼宮)、白山(白山市の白山神社の本宮、白山比瑪神社、「ひめ」の「め」は本来は口扁に羊という字を用いる)、その他各地の神社仏閣に押し入って、仏神のものを略奪した。「霊神怒りを為せば、災害岐(ちまた)に満つ」(岩波文庫版、第3分冊、351ページ)という言葉がある。越後勢の悪行を見ると、この度義貞が都を奪回するという大事業を成し遂げるのはどうであろうかと、前兆が現れる前に結果を洞察する人は、ひそかにこの言葉を思い出していたのであった。

 越後勢はすでに越前国河合(福井市川合鷲塚町の辺)に到着したので、義貞軍はいよいよ強大になり、足羽城を押しつぶすことは片手でもできるような簡単なことであると、人々はみな考えたのであった。斯波高経はというと、足利一族の一員としてその結束を守る決心は固いというものの、敵の手を逃れた小さな平城に、300余騎で立てこもっているが、その周囲四方を囲んでいる敵は3万余騎、籠の中の鳥が雲を恋い、水がないところにいる魚が水を求めるという言葉に譬えられるような状態である。どこまで斯波が敵の攻撃を持ちこたえられるか、敵はこれを見くびって憐れみ、味方はそれを言ってしまえばおしまいになると口を慎む様子である。

 この月の21日には、黒丸城(福井市黒丸町にあった)に攻撃をかけようと、城の外側を守る堀溝を埋めるために草を3万余荷、国中の人夫を動員して持ってこさせ、楯となる板3,000帖を作らせて、様々の攻撃の支度を整えていた折に、吉野の後醍醐帝から、勅使が遣わされた。そして伝えられたのは、「新田義興、北畠顕信以下の南朝軍が、石清水八幡宮のある男山(京都府八幡市)に立てこもっているが、京都を占拠している足利方が数を頼りにこれを包囲している。城中の糧食が乏しくなっていて、兵は疲れている。とは言うものの、将兵たちは北国から援軍が上洛してくるということだけを頼りにして、梅酸の渇を忍んでいる。もし新田軍の出発が延引すれば、男山の南朝軍の敗北は必至の情勢である。天下の安危はこの一戦にかかっている。越前での戦闘はこの際取りやめにして、すぐに京都へと向かって戦ってほしい」という仰せである。しかも帝自らしたためられた書簡であった。
 新田義興は、すでに徳寿丸として登場している義貞の次男である。義貞の長男義興は金ヶ崎城の落城の際に自害しているので、義貞の後継者ということになる。北畠顯信は親房の次男、顕家の弟。どちらもまだ十代のはずであるから、軍隊を指揮する実力はない、名目的な大将であろう。誰が実質的な指揮を執っていたのかは『太平記』を読む限りではわからない。これに対し、包囲している足利軍の指揮官は後を読んでいくとわかるが、高師直である。

 義貞は勅書を拝見して、「源平両家の武臣は、朝廷のために代々大きな功績を立ててきたが、帝が直接お書きになった勅書を下された例を聞いたことはない。これは新田家が子々孫々に伝えるべき名誉である。ここに至って、命を投げ出して戦わなければ、いつ戦う時があるだろうか」と、足羽の包囲戦を後回しにして、京都への進発を急ぐこととなった。

 新田義貞とすれば、金ヶ崎での敗北の屈辱を晴らし、斯波高経を殲滅する絶好の機会であったのだが、帝自らの要請を受けては致し方がない。この種の間の悪さというか、運の悪さ、あるいは判断のまずさというのが『太平記』の新田義貞には付きまとっている。義貞の実像がどういうものであったのかは定かではないが、『太平記』の作者がそういう不運や判断の悪さを義貞にかぶせていることは否定できない。斯波高経のほうは辛くも虎口を逃れたということである。さて、これからの展開はどうなるか、それはまた次回。 

日記抄(7月16日~22日)

7月22日(日)晴れのち曇り、暑さが続いている

 暑中お見舞い申し上げます
今年は例年にない暑さですが、皆様が、お元気でこの暑さを乗り切られるように願っております。

 7月16日から本日までの間に経験したこと、考えたこと、これまでの記事の補遺・訂正等:

 NHKラジオ『まいにちフランス語』テキスト7月号に映画『エヴァ』の紹介記事が出ている。ジェームズ・ハドリー・チェイスの小説『悪女イヴ』の映画化で、盗作によって名声を得た作家が、娼婦エヴァに人生を狂わされていくという物語、1962年にジョセフ・ロージー監督(1909‐84)がジャンヌ・モロー(1928‐2017)をエヴァに起用して映画化している(『エヴァの匂い』Eva)。ロージー映画の常連であるスタンリー・ベイカー(1928‐76)が主人公の作家を演じていたほか、ヴィルナ・リージ(1936‐2014)、ジョルジョ・アルベルタッツィ(1923‐2016、『去年マリエンバートで』が出演作として有名だが、ロージーの『暗殺者のメロディ』にも、メキシコの画家のシケイロスの役で出演している)といった配役には見ごたえがあった。今回は、ブノワ・ジャコー監督がメガフォンを取り、イザベル・ユペールがエヴァを演じている。『エヴァの匂い』は昔、京都の祇園会館で見たことがあり、原作も読んでいる。今回の映画化は、登場人物の名前をはじめ、いろいろな点で、原作とも、1962年の映画化作品とも違いがあるようで、見比べてみるのも面白そうだ(とは思っているのだが、この暑さでなかなか見に出かけられない)。なお、1962年版ではヴィルナ・リージの美しさが目立っており、この作品の頃の彼女が一番きれいだったという意見が少なくないことも付記しておく。

7月14日
 NHKラジオ『朗読の時間』で壷井栄の『二十四の瞳』を放送しはじめている。朗読するのは香川県出身の藤澤恵麻さんであるが、『二十四の瞳』の舞台は香川県といっても小豆島である。小豆島には50年近く前に、その頃勤めていた会社の慰安旅行で出かけたことがあるが、四国に初めて出かけたのはそれから20年ほどたってのことである。

7月15日
 青柳碧人『晴れ時々、食品サンプル ほしがり探偵ユリオ』(創元推理文庫)の中に、「ヌーベル・バーグの巨匠、アラン・レネ」(106ページ)という表現があるが、これは厳密にいえば誤りである。戦後のフランス映画の中では、ドキュメンタリー映画から劇映画に進出した監督(一括して「セーヌ左岸派」と呼ばれる)と、映画評論雑誌『カイエ・デュ・シネマ』から映画製作に進出した監督とが新風を巻き起こし、日本ではこの2つをあまり区別せずにヌーベル・バーグと呼んだが、厳密な意味でのヌーヴェル・ヴァーグは後者のみである(『カイエ・デュ・シネマ』の執筆者の中でも、クロード・シャブロル、フランソワ・トリュフォー、ジャン=リュック・ゴダール、ジャック・ドニオル=ヴァルクローズ、ジャック・リヴェットの5人のみが相当する)。アラン・レネはドキュメンタリー出身であって、『カイエ・デュ・シネマ』とは関係がない。逆に、フランソワ・トリュフォーがインタビューでエッフェル塔への愛着を語っていることに示されるように、『カイエ・デュ・シネマ』派の映画作家はパリでもセーヌ右岸のほうに愛着があるようである。

7月16日
 『日経』の朝刊に中央教育審議会の将来構想部会長である永田恭介さんに「高等教育の将来像」を尋ねるという記事が掲載されていた。現在の日本の大衆化し、多様化した高等教育の「将来像」をひと口にこたえるというのは至難の業なのであって、インタビューとは別にまとめられた「20年後の大学像 試行錯誤で示せ」という記者のコメントのほうが的を射ているように思われた。もし、それが狙いだったとすれば、かなり意地の悪い記事である。

7月17日
 『日経』朝刊に作曲家の中村節也さんが「作曲家・賢治の宇宙音感」という記事を書いていた。宮沢賢治は音楽が好きで、自分でもチェロを演奏したりしたが、花巻農学校時代には自分で作詞作曲した歌を生徒たちに歌わせたりした。賢治は楽譜が読めなかったので、彼の全集に収録されている作曲作品の楽譜は、歌についての関係者の記憶を頼りに採譜されたものだという。中村さんの専門家としての知見を駆使して、賢治作品の独特なリズムや音階について分析されているのが興味深かったが、賢治の「星めぐりの歌』(あかい目玉のさそり、ひろげた鷲のつばさ・・・)は、『銀河鉄道の夜」(アニメーション版)をはじめ、かなり多くの映画やTVドラマで使用・編用されているので、ご存知の方も多いのではないか。梅棹忠夫がこの歌が好きで、鼻歌で歌っていたという逸話を藤本ますみさんが書き留めている。考えてみると、賢治も梅棹もエスペランティストなのである。

 『朝日』のコラム「天声人語」では漫画『キングダム』を取り上げて、「ときは紀元前3世紀の春秋戦国時代…」と書き始めているが、「春秋戦国時代」よりも、「戦国時代の終わりごろ」のほうが表現として適切だろう。

 ジェイン・オースティン『分別と多感』を読み直し終える。面白くて、ついつい夜更かしをしてしまった。新聞に総理大臣の分刻みの日程が報じられているが、読んでいる本が面白くて、ついつい夜更かしをするなどという経験はできないだろうなぁ、ざまぁみろと思ったりした。 『更級日記』の作者の少女時代の思いが、老人になって理解できるというのも奇妙な話である。

7月18日
 ロアルド・ダール『単独飛行』(ハヤカワ文庫)を読み終える。『少年』に続く著者の自伝の第2弾。石油会社に入社したダールはタンガニーカ(現在のタンザニアの一部)に派遣されることになり、船の中で奇妙な植民地人種との遭遇を重ねた後、赴任地では(毒蛇やライオンが登場する)おかしくもスリリングな体験をする。第二次世界大戦がはじまると彼はRAF(英国空軍)に志願、長身の彼にはふさわしくないといわれながらも、戦闘機のパイロットとして東部戦線で任務に就く・・・。一緒に訓練を受けた、あるいは一緒に戦った仲間の多くが戦死した中で、彼が生き延びたのは運がよかったとしか言いようがない(のだが、そのおかげで、彼は個性豊かな作家としての活動を展開することになる。女優のパトリシア・ニールの夫になったりする→のちに離婚)。

 この本の最初の方に、紅海を航行中アビシニア戦線に従軍慰安婦を運ぶイタリアの船に出会ったという話が出ていて、イタリア映画『国境は燃えている』(La Soldatesse, 1965、ヴァレリオ・ズルリーニ監督)を思い出した。この映画は第二次世界大戦中のギリシア戦線の話で、休暇中だった中尉のトマス・ミリアンが各地に分遣されている部隊に慰安婦を運ぶ任務を与えられる。マリー・ラフォレ、アンナ・カリーナ、レア・マッサリといった女優さんたちが、慰安婦に扮していた。

7月19日
 『日経』朝刊にウィルタ族の木偶をモチーフにした人形を作り続けている大広朔洋さんによる「北方民族の祈りを彫る」という記事が掲載されていた。ウィルタはサハリン中部以北に住んでいた民族で、そのうち日本領であった南樺太に居住していた人々が、日本の敗戦後に北海道などに移住したが、それらの数についての正確な統計はないようである。同じような民族集団に二ヴフ(ギリヤーク)がある。ウィルタについて書いた『ゲンダーヌ ある北方少数民族のドラマ』という本は、むかし持っていたが、退職した時に処分してしまった。『ギリヤークの昔話』という本は持っているので、そのうち、紹介するかもしれない。

7月20日
 『朝日』の朝刊で俳優の常田富士男さん(81歳)が18日に、脚本家の橋本忍さん(100歳)が19日に亡くなられたことが報じられていた。ご冥福をお祈りする。

 望月麻衣『京都寺町三条のホームズ ⑩ 見習い鑑定士の決意と旅立ち』(双葉文庫)を読み終える。京都を舞台にしたコージー・ミステリのシリーズであるが、今回は「九州・超豪華寝台列車の旅」が主な舞台である。3月10日づけの当ブログで取り上げたロビン・スティーヴンス『オリエント急行はお嬢様の出番』に比べると列車旅行も、解決されるべき事件もスケールが小さいのはやむを得ないことかもしれない。

 NHKラジオ『実践ビジネス英語』の“Quote...Unquote"のコーナーで紹介された言葉:
Tact is the ability to describe others as they see themselves.
        ―― Abraham Lincoln (16th U.S. president, 1809 - 65)
(如才のなさとは、人のことをその人が思っているとおりに言い表すことのできる能力だ。)
リンカーンは、政治家であるとともに、人間と社会についての鋭い観察家でもあった。たぶん、若いころの苦労の積み重ねによるものであろう。

 オースティンの『分別と多感』に引き続き、『マンスフィールド・パーク』を読み直し始める。

 国会では「カジノを含む統合型リゾート(IR)」法案が可決・成立。それに先立つ内閣不信任案の審議で自民党の金田勝年議員は「政治の安定を図り、国民とともに政治を前に進めることが大切だ」と述べて反対したが、これは立憲民主党の山内康一議員が賛成討論の中で「大雨の警戒を呼び掛ける中で首相、防衛相、官房長官がそろって宴会とは呆れる」と述べたことと併せて、むしろ賛成の議論にふさわしい内容ではなかったかと思う。
 私は賭博行為にもカジノにも反対ではないし、もし金と暇に恵まれれば(ほとんど可能性はない)、カジノに行きたいと思っているが、日本国内にIRを設置することには経済的な合理性を認めないので、この法案には反対である。1980年代に日本各地にテーマパークが作られたが、そのどのくらいの部分が現在存続しているかを考えればわかるはずである。さらに言えば、アメリカでは多くのテーマ・パークが作られ、その多くが失敗したという歴史的な経緯をだれも参考にしなかった、つまり失敗例から学ぼうとしない知的怠慢を腹立たしく思う。

7月21日
 ニッパツ三ツ沢球技場でJ2第24節:横浜FC対FC岐阜の対戦を観戦する。試合開始早々にDFの北爪選手が右サイドから岐阜陣内深くに攻め入り、ボールがイバ選手から野村選手にわたって横浜が先制。さらに前半終了間際にまたも北爪選手が右サイドから攻め入って、ゴール近くに上がっていた武田選手がゴールを決めて横浜が2点目を挙げた。後半にも、イバ選手がゴールを決めて3点差となり、横浜が快勝した。 

7月22日
 『朝日』朝刊の「折々のことば」は評論家の三浦雅士さんの「自己認識とは大なり小なり自分を騙すことだ」という言葉を紹介している。しかし、騙すのにはそれなりの裏付けが必要ではなかろうか。
 三浦さんといえば、神保町の北沢書店で、私の先客であったことがある。店員の応対は私に対するほうが丁重だったが、これは買った本の金額が多かったためであろう。

 先週、今週とベトナムの絵画を歴史的に紹介した『日経』の「近代ベトナムの夢と理想」を面白く読んだ(上・中・下のうち上は読み落としたのである)。特に今回紹介されたグエン・ファン・チャンの「オーアンクァン遊び」という絵は日本画を思わせるような画調で興味深かった。ベトナム絵画がフランスとともに、日本の絵画からも影響を受けたということもあるだろうが、日本とベトナムの文化的な距離の近さということもあるかもしれない。
 梅棹忠夫が『東南アジア紀行』の中でベトナム人は日本人と外見的によく似ている(確かにそう思う)が、目の輝きがないという観察を述べている。この話をある友人にしたところ、「(少なくとも今では)逆だろう」、自分の勤めていた大学でのベトナム人留学生のまじめな勉学ぶりを語っていたことを思い出す。

 明末の「清言」の書である『菜根譚』の第一条は次のようなものである:
道徳に棲守する者は、一時に寂莫たり。権勢に依阿する者は、万古に凄涼たり。達人は物外の物を観、身後の身を思う。寧ろ一時の寂寞を受くるも、万古の凄涼を取ることなかれ。(岩波文庫版、25ページ、人生に処して、真理をすみかとして守り抜くものは、往々、一時的に不遇で寂しい境遇に陥ることがある。(これに反し)、権勢におもねりへつらう者は、一時的には栄達するが、結局は、永遠に寂しくいたましい。達人は常に世俗を越えて真実なるものを見つめ、死後の生命に思いを致す。そこで人間としては、むしろ一時的に不遇で寂しい境遇に陥っても真理を守り抜くべきであって、永遠に寂しくいたましい権勢におもねる態度をとるべきではない。)
 最近の政治の動きを見ていると、この言葉を思い出す。と、同時に魯迅の「狂人日記」の中の、歴史の本を読んだら、わかりにくい文字で「仁義道徳」というようなことが書き連ねられていたが、もっとよく読んでみると、「食人」(中国語の原文では「吃人」だろう)という文字が一面に書かれていたという個所も思い出す。
 

山内譲『海賊の日本史』(2)

7月21日(土)晴れ、暑さが続いている。

 この書物の中で、著者は日本史における海賊の姿とその果たした役割の変遷をたどっている。著者は海賊についてかなり限定的な定義を用い、各地の浦々に拠点を置いて、航行する船舶を襲う存在ととらえている。
 前回(7月7日)は、序章「海賊との遭遇」、第1章「藤原純友の実像」、第2章「松浦党と倭寇」を取り上げた。今回は第3章「熊野海賊と南朝の海上ネットワーク」の前半部分についてみていくことにする。

 第3章「熊野海賊と南朝の海上ネットワーク」は、貞和3年(南朝正平2年、丁亥、1347)6月に薩摩の東福寺城(現在の鹿児島市の市街地の北端)を数千人の熊野海賊が襲うという事件から書き起こされている。東福寺城を支配していたのは、薩摩守護でこの地域の北朝方の有力者であった島津貞久である。これをはるばる紀州から海賊がやってきて攻撃したというのである。当時、東福寺城の近くにある谷山城(鹿児島市)には南朝方の征西将軍であった懐良親王が拠点を築いていて、熊野海賊はその勢力と呼応して攻撃を仕掛けたのである。 
 建武3年(南朝延元元年、丙子、1336)に後醍醐天皇が比叡山を降りていったん足利方に降伏した後、また脱出して吉野に朝廷を構えた次第は『太平記』第18巻に記されているが、それに先立って第17巻では天皇が皇子たちに主要な廷臣をつけて各地に下らせ、勢力の温存をはかったことについても触れられている。懐良親王はこのようにして九州を目指すことになったが、おそらくは熊野の海上勢力に守られて、1339年ごろに伊予の忽那島(愛媛県松山市中島)に着いた。この島に3年間滞在した後、九州に向かい、興国3年(北朝康永元年、壬午、1342)に薩摩に到着した。この渡海にあたっては、忽那義範の率いる水軍が大きな役割を果たした。このように、懐良親王一行は瀬戸内の海上勢力に守られて、九州上陸を果たすことができた。

 親王の九州上陸後も、熊野海賊と忽那一族は連携しながら、親王と九州の南朝方を助けた。懐良親王は谷山周辺で5年ほどを過ごし、やがて九州制圧を目指して北上を始める。ここで注目されるのは、北上に先立って、既に述べた貞和3年(南朝正平2年)ごろから南朝方の海上勢力の動きが活発になっていたことである。今回の最初に取り上げた東福寺城の攻防戦はこのような動きの中で行われ、島津氏側の記録によれば、北朝方は敵の猛攻を辛くもしのいだのである。

 九州の北朝方の武士たちからこのように恐れられた熊野海賊とはどんな勢力なのだろうか。まず、熊野とは紀伊半島の南部、紀伊国牟婁郡が大体の範囲で、現在では牟婁郡は東西南北に四分され、東西牟婁郡は和歌山県に、南北牟婁郡は三重県に属している。この地域は山がちである一方で海にも面し、地理的な条件から海に関わる人々の活動が盛んであった。また熊野というと熊野三山(熊野本宮神社、熊野速玉神社=新宮、熊野那智神社)を指す場合もあり、熊野海賊という場合には、熊野三山の影響下にある海上勢力というニュアンスが含まれることもある。

 熊野で活躍した海上勢力の中でもっともよく知られているのは、『平家物語』に登場する熊野別当湛増である(ここでは触れられていないが、弁慶の父親であるという説もある)。平安末期、熊野三山を統括する熊野別当の地位は、新宮に拠点を置く新宮家と田辺に進出して別家を立てた田辺家によって争われていたが、田辺から出た湛増は、別当の地位をめぐる争いを有利にしようと、源平争乱の中に身を投じたのである。

 以仁王の令旨に応じて反平家の兵をあげた湛増であったが、弟の湛覚や新宮家との争いに敗れて一時は逼塞するが、海辺の武装勢力の味方を得て、熊野から平氏勢力の手薄な伊勢・志摩方面に進出して、平氏を悩ませた。〔以仁王の令旨を諸国の反平氏勢力に伝えて回ったのは、頼朝の叔父にあたる新宮十郎行家であったから、新宮家のほうが反応してもよかったと思うのだが、田辺家の湛増のほうが応じたというのは面白い展開である。〕 
 その後、湛増は源義経に協力、壇ノ浦の戦いで活躍するが、その前に田辺の新熊野神社(闘鶏神社)の神前で白い鶏(源氏)と赤い鶏(平氏)を戦わせて、源平の戦いの帰趨を占ったという話が有名である。

 「このような別当湛増の活躍の流れを受けて、南北朝時代に再び歴史の表面に現れてきたのが「熊野海賊」である。彼らの活動は、湛増のそれのように軍記にとどめられることはなかったが、その活動期間は湛増よりも長く、また活動範囲も広い」(115ページ)と著者は論じている。その更に具体的な活動については、また次回に触れることにしよう。
 今回の個所を読んでいて、興味深く思ったのは、東福寺城を必死になって守ったという記録を残した北朝方の武士である渋谷重興が桓武平氏の流れをくむ秩父一族の渋谷氏の末流らしいということである。渋谷重国は平治の乱の際に源義朝に従って戦った武士で、同じく義朝に従って戦った佐々木秀義が所領を失い、奥州に落ち延びようとしているのを引き留めただけでなく、秀義の息子たちが頼朝の挙兵の際に駆けつけるのを黙認し、石橋山の戦いで敗れて戻ってきたのを匿ったという武士である。その子孫は鎌倉幕府の御家人として活動し、やがてその一部が薩摩に定住することになった。重興はたぶん、その一人であろう。あらためて、両方に歴史があるのだということを実感した次第である。

森本公誠『東大寺のなりたち』(4)

7月20日(金)晴れ、暑さが続いている。

 東大寺の僧侶として70年近くを過ごす一方で、イスラム史家でもある著者による東大寺成立史の研究。これまでに紹介した第1章「東大寺前史を考える」では、東大寺の前身が聖武天皇の皇太子であった基親王の幼くしての死を悼んで建立された山房であったが、これはささやかなお堂というようなものではなく、一定規模の堂宇であり、その後金鍾山房と呼ばれる時代を経て、大和国分寺としての性格、また、総国分寺としての役割も持つようになった経緯が述べられている。
 第2章では聖武天皇の政治姿勢がもともと儒教的な徳治思想に基づくものであったのが、その治世のあいだに続いた災厄の経験を通じて、仏教、特に華厳経の教えに傾いていったこと、この経典に基づいて諸国に国分寺を建立し、また都の総国分寺に大仏を造立することを構想されるようになる。

 第3章「宗教共同体として」は、天平19年(747)に大仏の鋳造が開始された前後の政治の動きから書きはじめられている。作業が軌道に乗り始めた天平20年(748)に元正太上天皇が亡くなられた(聖武天皇にとっては伯母に当たり、聖武天皇の父である文武天皇の死後、聖武天皇の成人までの間の中継ぎとして天皇位につかれていた。律令制度の整備に貢献されるなど、その業績は無視しがたいものである)。聖武天皇はその冥福を願って、諸寺に誦経を命じるなどの措置を講じられた。さらに天平21年(749)に大仏造立においても大きな役割を果たしていた大僧正行基が遷化した。
 行基は長く民間布教に従事し、各地で土木工事を起こして人々の生活の向上に努めたが、その行為は僧尼令違反として官憲の弾圧を受けた。しかし、大仏造立事業に彼の力が欠かせないことで、彼の行動は公認され、大僧正の地位に起用されていたのであった。東大寺には「四聖の御絵」と言って、この寺の建立に貢献した4人の人物の姿を描いた絵が伝えられているが、その中に聖武天皇、良弁僧正、大仏開眼の際の開眼師であった婆羅門僧正(菩提僊那)とともに行基が描かれている。東大寺の歴史の中でその功績が高く評価されてきたことがわかる。 

 2人の死を悲しまれていた聖武天皇にそれを吹き払うような吉報がもたらされた。陸奥守百済王敬福(くだらのこにきしきょうふく)から陸奥の国で黄金が発見されたと知らせてきたのである。大仏の鋳造は順調に進んでいたが、廬舎那仏が光り輝く仏である以上、その仏像には鍍金するための黄金が必要である。しかし、それまで日本国内では黄金は産出されていなかった。天皇と国全体)が蒙ってきたこれまでの悲惨を考えると、天皇の喜びがいかばかり大きなものであったかが想像できよう。

 この年4月1日、天皇は文武百官を引き連れて東大寺に行幸され、まだ完成していなかった大仏像をご覧になる。この時の天皇の詔は自らを「三宝の奴」と位置づける画期的なものであった。(森本さんにとっては常識だが、このブログの読者にとっては必ずしも常識ではないと思うので、注記しておくが、「三宝」とは仏・法・僧である。ただし、仏のみを指して言う場合もあると『広辞苑』には記されている。) また詔とともに宣命を出されたが、その中で寺院に墾田地を許可したという点が注目される。僧侶や仏事が土地の所有者になるということは、仏教の本来の趣旨から外れたものだという批判もあるかもしれないが、教団を維持していくうえで、これは重要なことである。この後、寺院や神社が所有する荘園について詳しい記録を残し、それが日本史研究の重要な史料となってきたという点でもこの施策は重要である。

 4月のうちに、年号は天平感宝と改元された。さらに閏5月には大安・薬師・元興・興福・東大の五大寺を含む十二の有力寺院に施入を行い、それに願文を添えられた。この時の勅書のうち、おそらく大安寺に充てて交付されたものが現在まで残っており、当時の行政制度が文書の様式に至るまで中国の唐のそれに倣ったものであったこと、すべての経典の中で「華厳経」を最上位に置くという仏教観がみられることも重要であるが、さらに天皇が「太上天皇沙弥勝満」と自称されている点が注目されるという。実は聖武天皇の出家の時期や戎師をめぐっては議論があるからである。

 黄金の産出を機会にますます仏道への帰依を深められた天皇は、仏教研究を深めようと決心され、そのために出家の道を選ばれたと考えられる。おそらくは『華厳経』の最終章である「入法界品(にゅうほっかいぼン」に登場するある王が、如来の下で深遠な説法を聴いて菩提心を起こし、王位を太子に譲り、さらに在家のままでは法の真理を会得することは困難だとして出家するという逸話があるが、天皇はこれを規範とされたのであろう。もっとも出家といっても、天皇の場合は沙弥であって、大人の妻帯在家者の沙弥は正式の僧ではない。「現実問題としては太上天皇としての権力を保持しながら、表向きの儀式等の「まつりごと」を離れるだけで、政治から完全に身を引くわけではなかった。」(82ページ)

ウィルキー・コリンズ『月長石』再読(5)

7月19日(木)晴れ、暑さが続いている。

 「月長石」(the Moonstone)はインドのベナレスにあったヒンズー教寺院の月の神の額を飾っていた宝石であるが、数奇な運命を経て、イングランドに渡ってきた。この宝石に触れるものとその一族には恐ろしい災いが及ぶという言い伝えがあり、また3人のブラーフマンが次々にこの宝石を見守る役割を与えられているといわれてきた。ジョン・ハーンカスルから、姪であるレイチェル・ヴェリンダーに遺贈されたこの宝石は次々に奇怪な事件を呼び起こすことになったのである。

 1848年6月に起きた黄色いダイヤモンド<月長石>の紛失とその後に起きた事件をめぐる第1の証言はイングランドのヨークシャーに住むジュリア・ヴェリンダ―卿夫人の執事であったガブリエル・ベタレッジの手記である。
 1848年5月24日に、ベタレッジはヴェリンダー卿夫人から翌日、彼女の甥であるフランクリン・ブレークが彼女の娘であるレイチェルの誕生日を祝うために邸に到着すると知らされる。フランクリンはヴェリンダー卿夫人の長姉の子どもで、レイチェルには従兄に当たる。公爵の地位をめぐる訴訟に敗れた父親が、イングランドの社会を信用しなくなったために、フランクリンはドイツとフランスで教育を受け、ヨーロッパ大陸で気ままでいささか自堕落な生活を送っていたらしい。
 5月25日、フランクリンの到着は夕方になるだろうと予想したヴェリンダー卿夫人とレイチェルが外出した後に、邸をインド人の手品師の3人組が1人の少年をつれてあらわれる。彼らは邸で自分たちの芸を披露したいと申し出るが、ベタレッジは奥さまもお嬢さまもお留守だからと言って断る。彼らは街へと戻ってゆく。
 ところが、その後、ベタレッジの娘で、この屋敷でレイチェル付きの女中をしているペネロープが急いでやってきて、あのインド人たちはよからぬことを企んでいるようだから、警察に通報して逮捕してほしいという。彼らの姿を見て怪しいと思った彼女は、こっそり彼らの跡を付けて様子を窺ったのである。

 インド人たちは少年に手を差し出させ、その手のひらに黒いインクのような液をたらし、少年が石像のように体をこわばらせて立ったままでいるのを見て、少年に問いかけた。
「「外国から帰ったイギリス人の紳士が見えるか?」
「見えます」と少年は答えた。
「今日、その紳士が通るのは、この家にくる道か、それともほかの道か」とインド人が言った。
「今日、その紳士が通るのは、この家にくる道であって、他の道ではありません」と少年は言った。
 インド人はちょっと間をおいてから第二の質問をした。「その紳士は、あれを持っているか」(中村訳はでは「あれ」となっているが、原文はHas the English gentleman got It about him?となって、itではなくItと大文字で書かれていて、何か大事なものが話題になっているらしいことがわかる。)
 少年は、同じようにちょっと間をおいてから答えた。「はい」
 インド人は、第三の質問をした。「その紳士は、予定どおり、夕方ここへつくのか」
「それはわかりません」と、少年は言った。」(34‐35ページ)
 どうも彼らはフランクリンがヴェリンダー邸にやってくることをめぐって話をしていたらしい。ベタレッジはインド人たちがフランクリンがやってくるという予言を演じてみて、いくらかの金を屋敷の人々から引き出そうと考え、その練習をしていたものと推理する。そしてペネロープは騒ぎすぎで、父親の昼寝を邪魔しなければよかったのだと結論する。
 ところが、ペネロープは違う考えをしていた。彼女はインド人の言葉の中の「あれ」(It)に関心を示した。ベタレッジはフランクリンが到着してから、彼に直接聞いてみようといって、その場を収める。彼の頭の中には、あわて、心配している自分の娘を落ち着かせることしかなかったのであるが、その後、実際にフランクリンにあってこの話をすると、「あれ」というのは月長石のことだという答えが返ってきて、フランクリンもまたペネロープと同じように、問題を決して軽くは考えていないことがわかったと、ベタレッジは書いている(この時点ではまだフランクリンはヴェリンダー屋敷に到着していないのである)。

 ペネロープが行ってしまったので、ベタレッジはまた眠ろうとしたが、すでに夕食の準備が整い始めていて、食器類がガチャガチャいう音が聞こえはじめた。ここで夕食というのは、召使たちがとるもので、主人たちの前に夕食を摂っておいて、主人たちの食事の給仕をするわけである。ベタレッジは食事は自分の居間で摂ることにしているので、召使たちの食事には関係がない。ところが、一人の女性がベタレッジのもとにかけてきた。今度は彼の娘のペネロープではなくて、kitchen-maidのナンシーであった。(中村能三訳ではただ「女中」となっているが、原文は「台所係の女中」である。ヴェリンダー家は大勢の召使を抱えているだけでなく、その中での役割分担がかなりはっきりと決まっていることがわかる。ナンシーは、ちょうど彼女の通り道にいたベタレッジに向かって、通してくれと頼んで行き過ぎようとしたが、彼女がふくれっ面sulky faceをしていることに気づいたベタレッジは、召使の長として見過ごすことができないと、彼女に事情の説明をもとめなければならないと思った。〔この個所を見ても、ヴェリンダー卿夫人が目の行き届いた女主人で、ベタレッジがその信頼にこたえうる有能な執事であることがわかる。〕

 夕食の最中だというのにどこへ行くのか、何かあったのかというベタレッジの問いに答えずに、ナンシーが通り抜けようとするので、ベタレッジは立ち上がって彼女の耳を捕まえた。「女の子を心ひそかにひいきにしてやっていることを表わすのに、そういう態度をとるのが、私の習慣であった。ナンシーは、むっちりと肉づきのいい、かわいらしい娘なのである。」(中村訳、38ページ) ここは別の訳し方があるのかもしれないが、よくわからない。大筋において、中村訳は間違っていないと思われる。今日であれば、ベタレッジのしたことは問題があるかもしれないが、御当人同士は別に問題にしていない様子である。ナンシーは、下働きの女中second housemaidであるロザンナ・スピアマンが夕食の席に遅れてやってきていないので迎えに行くのだ、そういう厄介な仕事はみんな自分に押し付けられているという。
 不機嫌なナンシーが必要以上に荒々しい言葉で、ロザンナをつれてこようとするのを懸念して、ベタレッジは自分がロザンナをつれてきた方がいいだろうと考え、彼女に、ちゃんと時間を守るようにそれとなく言って聞かせるからと、ナンシーに言う。そして彼女に、ロザンナはどこにいるのだと尋ねる。ナンシーは、ロザンナが持病の発作を起こして、休んでいいという許可を得たので、浜辺で新しい空気を吸っていると答える。それでベタレッジは自分が呼んでくるという。それを聞いて食欲旺盛なナンシーは(夕食の席にすぐに戻れるので)嬉しそうな顔をし、そういう顔をするとなかなかかわいく見えるので、ベタレッジは彼女のあごの下をちょっとくすぐってやった。これは不道徳な気持からというよりも、単なる癖であるとベタレッジは弁解している。〔本当のところはどうだかわからない。〕

 この後、ベタレッジは海岸にロザンナを探しに出かける。ロザンナについては、次回にその詳しい身の上が語られることになるが、彼女はこの後の物語で重要な役割を演じることになる。彼女はsecond housemaidであるが、これはすでに述べたように「下働きの女中」という意味であって、「二番女中」などと訳すと間違いになる。中村さんは正しく訳しているが、シャーロック・ホームズの「マスグレイヴ家の儀式書の冒険」(The Adventure of the Musgraves Ritual)に出てくるマスグレイヴ家の使用人の一人レイチェル・ハウェルズについて「二番女中」と訳した翻訳者がいる。3人のインド人が少年に対して施した術は、説明が難しく、あるいはコリンズは一種の妖術として描いていたのかもしれない。このあたりが、この作品の近代的な探偵小説とは認めがたい特徴ではある。

トマス・モア『ユートピア』(10)

7月18日(水)晴れ、依然として暑い。
 1516年にルーヴァンで初版が発行されたこの書物は、著者であるモアが1515年にイングランドの外交使節団の一員としてフランドルを訪問し、その際にアントワープの人文主義者であるピーター・ヒレスの世話になったという事実に基づいている(ちなみに、ヒレスはモアの原稿をもとに、エラスムスと協力してこの『ユートピア』を出版した人物である)。
 物語はヒレスの紹介で、世界中を旅してまわった哲人であるというラファエル・ヒュトロダエウスという人物とモアがであったことから始まる。彼の経験と博識とに感心したヒレスとモアは、ラファエルにどこかの王侯の顧問としてその政治に協力してみてはどうかと勧める。しかし、王侯は戦争と蓄財にしか興味を持たず、その顧問たちも決してその意向に逆らわないということを知っているラファエルはこの勧めをはねつける。それでも国王の参事会員の一人として、自分の良心を貫こうとすれば、それが他の人々に良い影響を与えるのではないか(これはおそらく、モアの本心であろう)というモアの意見に対し、朱に交われば赤くなる、自分が堕落するだけだとすげなく答える。ユートピアという新大陸のまったく別の制度を持った国を訪問した彼は、ヨーロッパの国々の制度にはあまり期待を抱いていない様子である。

 ラファエルは自分の心の奥にあることを率直に言うと、「私有財産が存在し、すべての人がなんでもかでも金銭の尺度ではかるようなところでは、社会が正しく治められたり繁栄したりすることはほとんど不可能だと思えます」(110ページ)と、共産制の社会でなければ、正しい政治は行われえないという意見を述べる。
 「そういうわけで私は、ユートピア人たちの賢明しごくで尊崇にあたいする諸制度について心のなかで熟考するわけです。彼らのところではごくわずかの法で社会が書くもよく統治され、その結果、美徳に報酬が与えられながら、しかも物が平等に分配され、すべての人が何でも豊富に持つようになっています。」(110‐111ページ)
 それに引き換え、他の国々(つまりヨーロッパの国々)では、各人が自分の手に入れたものを自分の私有物と主張し、多くの法律がつくられているにもかかわらず、どれが誰の私有物であるのかわからない為に、訴訟が絶えないという現実があるとラファエルは言う。

 このようなことから、ラファエルは「公共福祉への唯一無二の道はすべてのものを平等な立場におくことだ」(111ページ)というプラトンのことばを再評価する気持ちになった。しかしそのような平等は、私有財産が認められている社会では実現されないだろう。そのような財産を守るための法律がつくられ、ある人々は多くの証書をかき集めてその財産をますます増やしている。しかも道徳的にみれば、つつましやかな生活をしている勤勉な貧乏人のほうが、貪欲で怠惰な金持ちよりも、多くの財産にあたいするはずだという。

 「ですから私は、私有財産制(プロプリエタス)がまず廃止されないかぎり、ものが、どんな意味においてであれ公正、正当に分配されることはなく、人間生活の全体が幸福になるということもないと確信しております。」(112ページ)  財産の所有に上限を設け足り、君主の権限を抑制したり、公職にある人々の腐敗を防ぐための手段を講じることによって、世の中は多少はよくなるかもしれない。「しかし各人のものが私有である限りは、そういう悪弊が快癒して、良好な状態に戻るという望みは皆無です。」(113ページ)とラファエルは世の中のすべての悪の根源であると彼が考える私有財産の廃止を強く訴える。

 それに対して、モアは反論する。すべてが共有の財産ということになれば、人々が自発的かつ勤勉に働くことはないのではないか。むしろそのことによって社会は貧しくなり、その混乱がひどくなるのではないか。
 これに対し、ラファエルはユートピアで数年を過ごしてみれば、そういう疑問はたちどころに溶けるという。それは信じがたい話だと、今度はピーターが反論する。我々の(つまりヨーロッパの)社会よりも優れた社会が新世界に存在するということは信じがたい。これは、この『ユートピア』という虚構の文学の世界だけの問題ではなく、「新大陸」を発見したスペインの為政者たちにとっても重大な問題であった。彼らがアステカやインカの文明に接して、どのような反応を示したかを思い出してほしい。〔大航海時代〕における「文明の衝突」は歴史の祖であるヘロドトスが取り組んだ衝突以上に深刻なものであり、現在のわれわれの世界が直面している問題も、この衝突の深刻さを引きずったものだといえるかもしれない。
 ピーターはさらに、ヨーロッパには「偶然のおかげで見つかった、人知のとうてい及びがたいような発見もいろいろあり、またほかに経験による発見がたくさんあるのです」(114ページ) 澤田さんはこれと同じような議論をアリストテレスが『政治学』第2巻第2章10の中で展開しているというが、これは澤田さんが実際にアリストテレスの原典に当たっていないことを証明するものである。『政治学』の第2巻の第1章から第5章でアリストテレスはプラトンの『国家』の思想に批判を加えている。とくに第5章でプラトンの「財産の共有」という考えに対して、徹底的に批判をしている。このあたり、Cambridge Texts in the History of Political Thought(ケンブリッジ政治思想史叢書)の中のGeorge M.Logan & Robert M.Adams (eds.)による『ユートピア』にはきちんと注記されているが、澤田さんは別のもっと当てにならない注釈書を信用したらしい。
 これに対してラファエルは、今を去ること1200年前に、数人のローマ人と1人のエジプト人とがユートピアに漂着したことがあり、ユートピア人たちは、彼らから当時のローマとエジプトのさまざまな学問・技術を学び取って、現在に至っているのだと答える。ユートピアにも、ヨーロッパ社会が経験したのと同じような偶然があったのだというのである。
 モアとピーターはますますユートピアについての興味をかきたてられ、ラファエルにそこがどのようなところなのかを詳しく語るように要請する。2人の懇願を受けて、彼らと夕食を共にした後、ラファエルはユートピアについて彼が経験し、知りえたことを詳しく語り始める。

 こうして、『ユートピア』第1巻は終わる。第1巻は、その当時のヨーロッパ社会、特にイングランドの社会の問題点や、その問題の解決をめぐる議論を概観していて、これはこれで読みでがある。とくに、プラトンの権威主義と財産共有の思想を引きずるラファエルと、アリストテレスの民主主義と私有財産の肯定を引き継いでいる人々の対立という構図もなんとなく明らかになってきたように思われる。中世のスコラ哲学やその影響下にあった政治思想が、アリストテレス的であったのに対し、ルネサンスはプラトンの再発見の時代であった。その中で、モアはこの2人の大哲学者の政治思想から何を学ぶべきかを悩んでいるようにも思われる。次回からは、いよいよ、ユートピアの地理や諸制度についての詳しい話が始まる。

『太平記』(219)

7月17日(火)晴れ、暑い。

 今回から『太平記』第20巻に入る。『太平記』は第1巻~第40巻から構成されているが、第22巻が欠けているので、全部で39巻ということになり、第20巻は折り返し点であるといってもいい。

 建武3年(南朝延元元年、1336)5月、九州から反攻に転じた足利尊氏・直義軍が兵庫で宮方の新田義貞の軍を破り、義貞を応援にやってきていた楠正成が戦死する。足利方が京都を奪回し、後醍醐帝は比叡山に遷幸され、京都への復帰を期して何度か攻撃を試みられるが、補給路を断たれて戦闘を継続できなくなり、京都に戻り、尊氏・直義兄弟によって花山院に幽閉される。しかし京都を脱出して、吉野の金峯山寺に落ち着かれた。一方、比叡山から恒良親王を奉じて北国に向かった新田義貞は、本拠としていた(現在の福井県敦賀市にあった)金ヶ崎城を攻略されたが、宮方の瓜生兄弟の拠る南越前の杣山城を足掛かりとして次第に勢力を挽回していた。建武4年(南朝延元2年、1337)8月に、奥州の北畠顕家が大軍を率いて都を目指し、利根川の合戦で足利方に勝利する。11月(史実は翌年8月)足利尊氏は北朝により征夷大将軍に任じられる。12月、北畠顕家の奥州勢が足利方の守っていた鎌倉を陥落させる。建武5年(この年、暦応と改元、南朝延元3年、1338)正月、北畠顕家の奥州軍が鎌倉を出発して西上、鎌倉から退却した足利方の武将たちがそれを追って西上、美濃の青野ヶ原で両軍が戦うが、数において勝る奥州軍が勝利を収めた。京都では、高師泰、佐々木(京極お)導誉らの軍勢を派遣、奥州軍はなぜか、対決を避けて伊勢方面へと迂回し、足利方が京都を守り抜くという結果となった。〔このあたり、当時の記録に即して、『太平記』の記述の信憑性の詳しい検討を必要とする。〕

 新田義貞は、暦応元年(南朝延元3年、1338)の正月のはじめ(実際は2月の中旬)に越前府(こう、現在の福井県越前市国府)の新善光寺城に拠る斯波高経との戦いに勝利し、その後、(越前)国内の城郭70余か所を攻め落として、その勢力をとり戻していた。比叡山からは、3000の衆徒が旧来のよしみをもってひそかに連絡してきていたので、まず比叡山に戻って衆徒たちと力を合わせ、都の南方の宮方の軍勢と呼応して京都を攻めれば、極めて容易なことと思われたのだが、義貞は、斯波高経がなお越前の黒丸城(福井市黒丸町にあった、小黒丸城ともいうようである)に踏みとどまって抗戦を続けていたので、これを打ち破ってから上洛するのでないと悔いを残すと、つまらない小事にとらわれて、大事を後回しにしたのは残念なことであった。
 『太平記』の中では義貞は、小さなことに意地を張って大局を見失うことの多い、武将として描かれているが、それはあくまで『太平記』の作者の描く義貞像であって、本物の義貞がどのような人物であったかについては別の意見があってもよいのではないかと思われる。それに、義貞にとって足利一族の中の重鎮である斯波高経は侮ることのできない強敵であったことも否定できない。

 5月2日に義貞は、自ら6千余騎の軍勢を率いて、国府(つまり越前市国府)へと進出、斯波高経が防御のために足羽川流域(越前国足羽郡・吉田郡)に築いていたいわゆる足羽七城のうちの波羅蜜(福井市原目町)、安居(あご、福井市金屋町)、河合(福井市川合鷲塚町の辺り)、春近(はるちか、堺市春江町)、江守(福井市南江守町)の5か所に5千余騎の兵を差し向け、足羽七城の攻略を目指す。
 まず一番に、義貞の妻である勾当内侍の兄弟である一条行実が500余騎で江守から押し寄せ、黒龍(くずれの)明神の前で戦闘を交える。行実の軍、劣勢で押し戻され、元の陣へ引き返す。
 一番の戦法にお公家さんを使うというのは、戦術的にまずいのではないか。案の定、戦闘を有利に展開できずに戻ってきている。黒龍明神というのは福井市西南部の足羽山東麓の毛谷黒龍(けやくろたつ)神社のことだそうである。実は私は、40年ほど昔、足羽山に登ったことがあるが、この神社については気づかなかった。その頃は、『太平記』には全く興味がなかったのである。

 二番目に、義貞の重臣である船田経政が、500余騎を率いて安居の渡りから押し寄せ、軍勢の半分ほどが川を渡っているときに、斯波高経の副将である細川出羽守が150騎で対岸にかけ向かい、高くそびえたった岸上に陣取って、矢を一斉に射かけたので、ただでさえ水量の多い川の水に難儀していたものだから、馬も人も足を取られ、溺れ、大勢の戦死者を出してしまい、これまた戦果を挙げることなく、引き返すことになる。
 安居の渡りというのは九頭竜川の大支流である足羽川と日野川が合流するあたりで、それほど急流ではないが、水量は多く、川も深いはずである。船田は一番手の一条行実と違って歴戦の武士ではあるが、かなり軽率な攻め方をしたといわざるを得ない。

 三番に新田一族の細屋秀国が、1000余騎を率いて河合の庄から押し寄せ、その北の端にある勝虎城(しょうとらがじょう、福井市舟橋町。九頭竜川西岸、北国街道の渡河地点にあった)を包囲し、一気に攻め落とそうと塀によじ登り、堀を渡ろうと攻撃をしているところへ、斯波の被官で越中の豪族である鹿草(ししくさ)兵庫助が300余騎で包囲軍の背後を突いて襲い掛かった。数においては劣勢であったが、必死の戦いぶりである。細屋の軍勢は、城を守っていた軍勢と、背後から襲い掛かってきた軍勢とに追い立てられ、これまた元の陣に引き返さざるを得なかった。

 このように足羽七城をめぐる攻防戦は、3回にわたり展開されたが、それぞれ新田勢は戦果を挙げることなく敗退した。この3人の大将は「皆、天下の人傑、武略の名将たりしかども」(第3分冊、349ページ)と『太平記』の作者は書いているが、これは贔屓目に見た記述であろう。それぞれ相手を見くびって、勝ちを急いだのが敗因だという。〔これは部分的にせよ、当たっている。〕 それで、後漢の光武帝が戦いに臨む際に、大敵を見ては侮り、小敵を見ては警戒したというのは、それなりに筋の通った意見であると思われたことである。〔この時代の知識人ならば、誰でも知っていたはずのことであるが、建武というのは後漢の光武帝時代の年号である。〕

 新田義貞は越前と北陸地方で力を増してきたが、まだまだ万全の体制を築いたとは言えない。義貞は武勇に秀でているが、軍略に優れているとは言えない(執事であり、有能な助言者であった船田義昌が戦死したのが痛い)。宮方全体に言えることであるが、どうも人材が不足している。さて、今後の展開はどうなるか? 足羽七城についてはインターネットで検索すると、その遺跡を探訪したという記事がいくつも見つかるので興味ある方は自分で調べてみてください。
 昨日(7月16日付の『朝日』朝刊に「『想定外』を考える 元気ない太陽 夏が消える」という記事が出ていた。この記事では触れられていなかったが、14世紀の初めのころというのは、地球の気温が異常に下がった時期だったのではないかという説がある(このために海面が後退し、新田義貞の稲村ケ崎での海岸線からの突破もこのことと関連があるのではないかといわれる)。比叡山から越前に向かう新田義貞の軍が途中で寒さに出会い、かなりの部分が凍死したというのもこのことと関連しているようである。

近藤史恵『スーツケースの半分は』

7月16日(月)晴れ、雲が多いが、それでも暑い。

 7月15日、青柳碧人『晴れ時々、食品サンプル』(創元推理文庫)を読み、さらに余勢をかって近藤史恵『スーツケースの半分は』(祥伝社文庫)を読み終える。

 「余勢をかって」などと書いては見たが、実はこの本を買ったのは5月13日のことで、読み終えるのに64日かかったことになる。私は読むのが早い方で、この手の本ならば、遅くとも4日あれば読み終えることができる。 それが64日かかったのは――途中で、本を投げ出して、また忘れることができずに手を取った――という経緯があるからである。

 ニューヨークでミュージカルを見るという夢をなかなか実現できないまま29歳を迎えてしまった主婦の山口真美は、大学時代の親友とあうために出かけたフリーマーケットで青いスーツケースを見かける。思い切ってそのスーツケースを手に入れた彼女は、いろいろと心配を並べる夫を振り切って、単身ニューヨークに旅立つことになる…という第一話「ウサギ、旅に出る」に始まって、この青いスーツケースにまつわる様々なエピソードが第九話まで並ぶ。当然、海外旅行の話が多いのだが、それだけではない。そして、さまざまな人間模様が展開される。「スーツケースの半分は空で行って、向こうでお土産を買って詰めて帰っておいでよ」(30ページ)というのは、真美の親友の一人で第四話の主人公になる悠子が真美に送ったメッセージである。お土産の品よりも、土産話のほうが心に残るものだが、品物が物語を思い出すきっかけになるかもしれない。
 
 第二話「三泊四日のシンデレラ」では真美の親友の一人でオフィスクリーニングの会社のマネージャーをしている中野花恵が(自分のスーツケースが壊れていたので)真美から青いスーツケースを借りて香港に旅立つ。第三話「星は笑う」では真美、花恵の親友で派遣社員をしながらあちこち海外旅行をしている舘原ゆり香が、真美の買ったスーツケースが「幸運を呼ぶ」のではないかという話を聞き、付き合っている彼氏の誘いでアブダビに出かけることになり、高級ホテルに泊まるということで、半信半疑の想いを抱きながらもスーツケースを借りることになる・・・。第四話「背伸びする街で」では大学時代の親友4人組の最後の1人、フリーライターの澤悠子が取材でパリに出かける。彼女はもちろん、自分のスーツケースを持っているが、他の3人がこれは「幸運を呼ぶスーツケースだ」というので、青いスーツケースを借りての旅である。第五話「愛よりも少し寂しい」は、その悠子にパリで会って話をした花恵の従妹で「留学生」の中野栞の話になる。悠子がホテルでチェック・アウトした後に青いスーツケースが行方不明になっているので、探してほしいと花恵に言われ、ホテルと交渉することになる…。

 映画好きであり、それだけになかなか詳しく、特にフランス映画に詳しい別府葉子さんが、コンサートの途中で『舞踏会の手帖』(Un carnet de bal, 1937)という映画についてしゃべったことがある。若くして未亡人になったクリスティーヌ(マリー・ベル)という女性が、20年前に16歳の時に経験した初めての舞踏会で踊った相手を手帳を手掛かりに探して、1人、1人訪ね歩くという話である。その作品を監督した名匠ジュリアン・デュヴィヴィエが第二次世界大戦中にアメリカにわたっていた時期に手掛けた『運命の饗宴』(1942、日本公開は1945)も同じように、さまざまな人生の転変が切り取られて描きこまれている作品で、フランスとハリウッドの違いはあるが、有名どころが名を連ねて出演しているのは共通している。ニューヨークで仕立てられた夜会服が、次々に様々な人物の手に渡って、それぞれの人生模様が展開される。この『スーツケースの半分は』を読んでいて、なぜかこの映画を思い出した。(もっとも、『運命の饗宴』という映画を私は、テレビで不完全な形でしか見ていない。) 

 このブログを書くというので、『運命の饗宴』について調べ直したのだが、『スーツケースの半分は』の青いスーツケースが「幸運を呼ぶ」のとは逆に、夜会服にはその服を作った職人の呪いが込められているという話であった。しかし、問題は、「幸運を呼ぶ」とか「呪いが込められている」とかいうことではなく、「幸運を呼ぶ」のも「呪いを呼び覚ます」のも結局はその持ち主の生き方だということではないだろうか。まじめに、一生懸命に生きているのだが、運の悪い人があるきっかけをつかんで人生を好転させるということがある。逆に、運がいいだけで生きていた人間の地金が、何かのきっかけで暴露されてしまうということもあるだろう。そのきっかけに目を奪われて、隠れていた生き方に目を向けないというのでは、人生の真実はつかめない。

 第六話「キッチンの椅子はふたつ」でスーツケースは元の持ち主のもとに返される。フリーマーケットでこのスーツケースを売ったのは離婚して娘と二人暮らしの獣医である星井優美である。スーツケースは彼女の義姉の形見分けだったのだが、そんなものはいらないと決め込んだ彼女はフリーマーケットで売りに出したのである。「私は幸運をちゃんともらったから、次からは自分で選んだスーツケースで行きます」(207ページ)。そういって、山口真美はスーツケースを元の持ち主である優美に返す。優美のほうにもスーツケースが必要になる事情が生じていた…。
 あと三話がどのような展開になるかは読んでのお楽しみということにしておこう。スーツケースを作った職人も登場するし、ほとんど旅行をしなかったはずの優美の義姉がなぜ目立つ青色のスーツケースを持っていたのか、それに、スーツケースの中に入っていた「あなたの旅に、幸多かれ」と書かれたメモは、だれがだれのために書いたものなのか…、さまざまな謎が解かれてゆく。

 スーツケースがらみで、次はどこで、どのようにして物語が展開するかを予想する楽しみを奪うような、かなりおせっかいな紹介になってしまった。自分なりの旅の思い出と重ね合わせて読んでもいいし、旅への夢を膨らませるために読んでもいいと思う。あと2つ余計なことを書いておくと、この文庫本の解説は大崎梢さんが書いていて、さすがに作家だから要点を捕まえて解説しているのだが、本文を読んでから解説を読む(それが当たり前だが)方が楽しみが多いだろうということと、235ページにベルギーの「ゲント」という地名が出てくるが、これは「ヘント」とオランダ語読みするのが普通ではないかということである(ある時、「ガン」とフランス語読みをしてしまったことをいまだに後悔しているといういわくがある)。あるいは、旅行歴豊富な近藤さんのこと、実際に現地で「ゲント」という発音に接したのかもしれず、そうであれば、こちらが余計な口をさしはさむ筋合いの問題ではない。

日記抄(7月9日~15日)

7月15日(日)晴れ、暑い。

 7月9日から本日までの間に経験したこと、考えたこと、これまでの記事の補遺・訂正等:

 この度の豪雨で亡くなられた方々のご冥福をお祈りするとともに、被害にあわれた方々の生活が一日も早く元に戻ることを切望しております。被害の大きかった土地の中には、現役時代に出張で何度か出かけた場所も含まれているだけでなく、住んでいる友人・知己も少なくないので、余計に心配です。

7月9日
 昨日は新聞の休刊日で、本日の朝刊は発行されないが、スポーツ新聞は別である。
 『スポーツニッポン』に俳優の加藤剛さんが6月18日に亡くなられていたという記事が出ていた。記事に紹介された映画の中では、『影の車』(1970、松竹、野村芳太郎監督)、『黒の斜面』(1971、松竹、貞永方久監督)、『忍ぶ川』(1972、俳優座=東宝、熊井啓監督)を見ている。リストに上がっていなかったが、『日本侠花伝』(1973、東映、加藤泰監督)では賀川豊彦の役を演じていた。松本清張原作作品への出演が多いが、なぜか『砂の器』(1974、松竹、野村芳太郎監督)は見ていない。何とか見る機会を作ろうと思っている。それが加藤さんへの供養になるのではないかという気がする(実は山口果林さんが見たいのである)。それにしても紙面に掲載されていた写真で一緒に写っている方々――クロード・ジャド、木下惠介、田中好子、愛川欽也、竹脇無我――皆さんが故人になられているというのはさびしい。ご冥福を祈る。

 同じ『スポーツニッポン』に「高校生女優」として浜辺美波さんの紹介記事が出ていた。「顔に特徴がない。だからどんな役にも変われる」というのが強みだそうだ。「個性のない普通の雰囲気」が重宝されたという香川京子さんのような大女優になるかどうかは本人の努力次第であろう。TV、映画での出演作品は見ていないが、週5回、ラジオの『ボキャブライダー』で声を聴いている(そんなことは記事には書いてなかった)。『エンジョイ・シンプル・イングリッシュ』で今年からナビゲーターをつとめている関根麻里さんに比べて、英語は下手だが、芝居は上手だという印象がある。

 有間カオル『気まぐれ食堂』(創元推理文庫)を読み終える。調理師の実果は、念願の三ツ星レストランで働きはじめた矢先にケガをして失業、恋人にも苦られてしまう。思いがけなく休みができてしまった彼女は、あてもないまま瀬戸内海の小島の民宿にしばらく滞在することにした。島民よりも猫の多い猫島で民宿を営む老夫婦と、料理を手伝ったり(これはお手の物である)、釣りに付き合っ(元漁師の老人との実力差を痛感させられ、猫達にまで馬鹿にされ)たりする。そんなある日、猫に誘い出されて道に迷った彼女は、気まぐれで営業しているという風変わりな食堂と出会う。主人らしき青年はいるものの、たいていは店を開けていて料理をふるまう様子もない。この食堂の正体は一体なんであるのか。ミステリーらしくないミステリーはこの謎を追って展開される。そしてそのなぞときの中で実果は料理人としての自覚を身につけていく… 

 西部邁『六〇年安保 センチメンタルジャーニー』(文春)を読み終える。シソーラスで調べてみると、sentimentalという言葉には、ロマンティックに美化されたとか、理想化されたとかいう意味があるのだが、60年安保闘争の際に共産主義者同盟(ブント)の圭の学生運動の指導者の一人であり、後に保守派の政治学者になった西部が、どのような感情をこめて、この時代の闘争と交友関係をsentimentalと形容しているのか、真意は確かめようがない。

7月10日
 『朝日』朝刊は現在、日本の学校で学ぶ日本語の特別な「指導必要な子」の数は4万3千人を超えていると報じている。子どもたちの母語が多様であるだけに、多様な指導が求められるわけである。同紙のコラムHUFFPOSTで関根和弘さんが「日本語る『外国人』は多様化」(だから、日本の文化と社会に対する意見も多様化しているはずだ)と指摘している一方で、『日経』朝刊のコラム「大機小機」は「外国人受け入れ 失敗から学べ」という見出しを掲げて「外国人労働者を使い捨てにできる『労働力』とみなすだけでは、将来大きな禍根を残す」と警告している。日本人同士の付き合いでもそうだが、批判的な意見を(それなりの好意をもって)行ってくれる人の存在を有難いと思うべきなのである。好意と書いたが、悪意の意見であってもその正しい部分を受け止めることができるだけの度量も必要であろう。

7月11日
 『日経』朝刊の文化欄のコラム『喪友記』で栗原小巻さんが同じ劇団の一員でもあり、何度も共演した加藤剛さんについて、「喜びも苦悩も」共にしたと思い出をつづっていた。とくに長い時間をかけて撮影された『忍ぶ川』では「撮影を通じて、経験した巡る季節、日本の四季はどこか人生に似ていて」というあたりに加藤さんへの哀悼の気持ちが感じられた。

 NHKラジオ『まいにちスペイン語』の「今日の会話」:
Nuestro próximo destino es la Universidad de Hokkaido. He oído que hay una alameda muy bonita. (私たちの次の目的地は北海道大学ね。とてもきれいなポプラ並木があるって聞いたわ。)
Sí, pero no sé cómo ir ahí (うん、でも行き方がわからない。).
¡ Che!, ¿no sabés que preguntando se llaga a Roma? (ねえ、人に聞けばローマに行けるって知らないの?)
 北海道大学は札幌駅のすぐ近くで、門にたどり着くだけならば、他の大学に比べて簡単である。むしろ門の中に入ってから、目的の建物に行くまでが大変だという印象がある。それだけ大学の構内が広いということである。

 ニッパツ三ツ沢球技場で第96回天皇杯の3回戦、横浜F・マリノス対横浜FCの対戦を観戦した。三ツ沢でアウェー側のゴール裏での観戦は初めての経験である。F・マリノスは主力をならべ、横浜FC は主力を温存して(どちらが格上のチームかわからない⁉)の対戦であったが、延長までもつれ込む接戦となり、マリノスが2‐1で横浜FCを破った。最終的にはJ1にいるチームとJ2のチームの個々の選手の経験と技術の差が出たという感じがある。試合開始前と終了後に、元横浜FCの選手で、現在はチームのスタッフになっている内田智也さんを見かけた。

7月12日
 『日経』朝刊のコラム「大機小機」に「大学と文科省」という見出しで、「そもそも、文科省が旗を振る『改革』はおおむね的外れではないだろうか。…18歳人口の減少がわかっているのに、大学の数も大幅に増やしてきた」と論じられていたのは、時機を失した感があるが、核心を突いた意見である。日本の大学の大衆化の中で、文教政策と行政がそのかじ取りを誤ってきたことは、日本の経済的な力に比して、日本の大学の国際的な評価が低いことで明らかではないか。いわゆる「新構想大学」の中で成功したといえるのは、筑波大学だけで、それも実は東京教育大学の研究・教育上の遺産を継承しているからこその成功であったのではないか。

 『朝日』、『日経』2紙ともに、その朝刊で「人口動態調査」の結果、外国人人口が過去最高の249万人に達したことを報じている。(約230万人という名古屋市の人口よりも多い!) 特に『日経』は東京では20代人口の1割が外国人であること、アジア出身者が多く、働き手としてその存在感が高まっていることを強調している。移民の受け入れには慎重であるべきであるという議論はともかく、受け入れに反対という議論をブログで展開している人がいるが、事実上日本は移民受け入れ大国になっていて、小売業界のかなりの部分が外国人労働者に依存せざるを得ないという状況になっているのが現状であって、その現実にどう対処するかという議論が今や求められているのである。

 NHKラジオ『実践ビジネス英語』の”Quote...Unquote"のコーナーで取り上げられた言葉:
Many of llife's failures are people who did not realize how close they were to succcess when they gave up.
---- Thomas A. Edison (U.S.inventor, 1847 - 1931)
(人生で失敗した人の多くは、自分がどのくらい成功に近づいているかに気づかず、あきらめてしまった人たちだ。)
 もっとも、失敗を成功と言いくるめることだけに成功している人もいなくはない。

7月13日
 『日経』朝刊の文化欄に川島秀一さんが「漁師の風習 深い精神世界」という興味深い文章を書いている。特に「寄り物」という語は、山内譲さんの『海賊の日本史』にも登場している言葉で、そこで使われている意味と、川島さんが調べたところでの意味と、どのように関連し、どのように違うのかは、調べてみる価値のある問題ではないかと思う。(山内さんによると新城常三という人が詳しく研究しているらしい。)

7月14日
 7月7日の当ブログで取り上げた山内譲『海賊の日本史』(講談社現代新書)について、『朝日』と『日経』の両紙が朝刊の書評欄で紹介している(『日経』のほうが詳しく内容に触れているとはいえ、論評の域には達していない)。この本については、また機会を改めて紹介・論評していくつもりであるが、最近の歴史書の中では面白い、読み応えのある本であることに違いはない。

7月15日
  『日経』の朝刊に窪田直子さんが書いている「近代ベトナムの夢と理想」という1925年にインドシナ美術学校(現在のベトナム美術大学)がハノイに開校して以来の一方でベトナムをはじめとする東南アジアの伝統、他方でフランスを中心とするヨーロッパの美術の動きの両方を融合して発展してきたベトナムの漆絵をはじめとする絵画の発展をたどる論文が興味深かった。好き嫌いは別にして、東南アジアの美術的な伝統について、知識を広げ、理解を深めることは大事なことではないかと思う。

  同じく『日経』の日曜日の朝刊に掲載されているコラム「遊遊漢字学」で、阿辻哲司さんがある外国語大学で起きたちょっとした事件を取り上げていて、興味深かった。日本語があまりよくできない中国人の先生が、学生に対して夏休みの計画を中国語で書くという課題を出した。大抵の学生は適当なことを書いて出したのだが、一人だけフランスに出かけるという学生がいて「仏国」に行くと書いたところ、先生がこの「仏」という字を読めない。そこで「佛」という旧字を書いたところ、先生は仏教国という意味だと思って、タイかミャンマーに行くのだと勘違いし、その話をはじめたという。中国語ではフランスのことは「法蘭西」と書き、「法国」と略すのだが、学生のほうはそれに気づかず、日本ではフランスのことを「仏」と略記することに先生のほうは気づかず、行き違いが続いたという話である。日本ではアメリカを米、フランスを仏、ドイツを独、イタリアを伊、ロシアを露と略記するが、中国ではアメリカは美、フランスは法、ドイツは徳、イタリアは意、ロシアは俄である。
 吉川幸次郎『漢文の話』(1962)という本の中に、狩野直喜が近衛文麿を追悼する文章を書いた際に、米、仏、独…という書き方をしたが、狩野は中国では美、法、徳・・・という書き方をすることを知っていたはずであり、わざわざそう書いたことには微意が含まれていたと考えられるという個所があったと記憶する。それで私は中国語を勉強する前から、日本と中国では国名の漢字表記に違いがあることを知っていた。阿辻さんが触れている外国語大学では、中国人の先生に中国語を習い、1年生の夏休み前にすでにまとまった中国語の作文ができる程度に中国語が上達しているなど、優れた教育成果をあげている一方で、50年以上昔の高校生が知っていたことを学生が知らないという知識の偏りができている。
 何が言いたいのかというと、中国語教育には(他の言語教育でも同じだが)、前人の積み重ねてきた様々な蓄積があり、それを無視して、いきなり新しい教育を行おうとしてもうまくいくわけのものではないということである。昔、NHKのラジオの中国語講座を担当していた黎波先生が、日本語の発音こそ中国人丸出しであったけれども、日本語と中国語の内奥に迫る知識と理解をもってユーモアたっぷりに中国語を教えていたことを思い出す。最近日本で中国語を教えている中国人の先生たちの中には、日本語の能力に問題がある人が時々見られるが、そういう少数の不幸な例外をなくすためにも、日本における中国語教育のための十分な事前教育が必要ではないかということである。〔もう一つ言えることは、外国語の教師はnative speakerでなければならないというのは絶対的な真実ではないということである。〕

 横浜FCはアウェーの新潟アルビレックス戦(新潟デンカ・スタジアム)で後半にFW戸島章選手のゴールで挙げた1点を守って勝利し、5位に順位を上げた。11日の天皇杯に続いての得点で、このところ、戸島選手の調子が上がっているようである。

ダンガル きっとつよくなる

7月14日(土)晴れ

 7月14日、横浜駅西口ムービル4で『ダンガル きっとつよくなる』(インド映画、ニテーシュ・ティワーリ監督)を見る。

 ダンガル(レスリング)の選手だったマファヴィル(アーミル・カーン)は、家庭の経済的な理由により(国による支援が得られなかったこともあって)、オリンピック出場をあきらめ、コーチをしながら若手の育成に励んでいた。そんな彼の夢は自分の息子にレスリング選手として、国際大会で金メダルを取らせることである。ところが、ご本人と村の人たちの期待とは裏腹に、生まれてきた子どもたちは4人とも女の子であった。夢をあきらめかけた彼は、自分の長女のギータと次女のバビータが、けんかで男の子をやっつけたことを知り、娘2人をレスラーとして育てることを決心する。

 朝5時に起きてのランニングに始まる体力づくり、食事の制限、厳しい練習に娘2人は当然反発する。しかし、娘たちが嫌がっても、周囲の人々が嘲笑しても、マファヴィルは自分の夢を貫こうとする。父親に反発する長女に対し、その友人の一人が言う:自分たちの親は私たち女の子を厄介者扱いにして、家事を手伝わせ、早く嫁に出そうとしている。嫁に行けば行ったで、子育てに追われることになる。あなた方の父親は娘の中に可能性を見出して、それを伸ばそうとしている。そこが違う。
 自分からやる気を起こしたギータとバビータは、練習に励むようになり、やがてギータは州、さらに連邦の選手権で優勝してナショナル・チームの一員となり、国立のスポーツ・アカデミーに入学することになるが、そのコーチの指導方針はそれまで彼女が受けてきた父親の指導方針とは違うもので、次第にギータの心は父親から離れていくが、インド代表として国際大会に出場するようになったギータは、なかなか一回戦を突破できない。コーチは、彼女は国際試合に向かないのではないかと言い出す…。

 この映画は実話に基づいているそうであるが、努力すれば強くなれるというスポーツ根性物語としての側面だけでなく、父親と娘の信頼関係、初めはレスリング一辺倒だった父親が娘をコーチしていく中で女性の権利一般に対して理解を深めていく変貌ぶり、世間一般の女性がスポーツをすることに対する無理解や偏見、スポーツへの補助金を出し渋る役所の消極性や怠惰への批判、最初は馬鹿にしたり、無関心な態度をとっていたのに、勝ち始めると手のひらを返したように態度を変えて熱狂する大衆の描き方などいろいろな要素を含んでいる。とはいうものの、基本的にはスポーツを含む文化の各分野における女性の力量形成を応援する映画と見ることができるだろう。そうはいっても、日本とは全く違うように見えるインドのスポーツ事情の描き出し方がいろいろなことを考えさせる。人気を集めているスポーツも違うし、オリンピックとは別に、コモンウェルス(旧英連邦)スポーツ大会での戦績が注目されるというところも違う。

 インドを含む南アジア、西アジアと中央アジアを東洋でも西洋でもない中洋であると論じたのは梅棹忠夫であったが、この一帯には伝統的にレスリングがスポーツとして高く評価されているが、それはどうも男性のスポーツとしてということであったようである。一方でスポーツにおける伝統を重視する風潮があり、他方で新しい動きがある。それが女性のスポーツ参加ということである。
 この伝統と新しい動きとがつくりだす混乱を面白おかしく描き出したのが、女子が男子のサッカー・ゲームをスタジアムで観戦することが禁止されているイランで、男装して試合を見に行こうとする女性たちを描いた『オフサイド・ガールズ』(2006、ジャファール・パナヒ監督)であった。同作品では、試合を見に行っただけで、女性たちが警察に逮捕されてしまう(もっともそこで映画は終わらないのであるが…)。イスラム教の権威を振りかざして、女性のスポーツ観戦を禁止する宗教的な権威主義国家のイランと、一応世俗的な(最近ではヒンズー原理主義の影響力が強くなっているといわれはするが)民主主義国家のインドの事情はまた違う。この『ダンガル きっとつよくなる』は、女性がスポーツをすることへの偏見を描いてはいるが、むしろその偏見を打ち破ったギータ、バビータ姉妹の活躍に刺激されて、インドの女子レスリングが盛んになり始めているということを告げて、終わっている。インドの女性たちが強くなっているということだけではなく、インドの民主主義の強さもこの映画は描き出していると考えるべきではないかと思うのである。

森本公誠『東大寺のなりたち』(3)

7月13日(金)午前中は雲が多かったが、午後になって晴れ間が広がり、気温も高くなる

 著者は主にイブン=ハルドゥーンの著作の翻訳や研究で知られるイスラム史家であるが、1949年に入寺し、東大寺別当・華厳宗管長をつとめたこともある東大寺の僧侶でもある。これは、その著者が70年近く寺の中で修行を続け、その中での見聞を踏まえて書いた、東大寺の成立史である。書物は以下の6章から構成されている:
第1章 東大寺前史を考える
第2章 責めは予一人にあり――聖武天皇の政治観
第3章 宗教共同体として
第4章 廬舎那大仏を世界に
第5章 政争のはざまで
第6章 新たな天皇大権の確立
 東大寺の前身は、聖武天皇が幼くして亡くなったその子・基親王の菩提を追修するために建立した山房であり、この参謀は現在の法華堂(三月堂)の原型と考えられる。さらに他の堂宇を加え、やがて金鍾山寺という寺院となり、さらに大養徳(大和)国金光明寺として大和の国の国分寺であるだけでなく、全国の国分寺の総元締めとしての地位を与えられるようになった。
 聖武天皇はもともと中国の政治にならって、経史に基づく徳治主義的な統治を目指したが、相次ぐ天変地異と人々の苦しみを見て、その限界を感じ、仏教、特に華厳経の教えに近づくようになった。

 天平6年(734)に聖武天皇は干ばつによる不作の連続で飢饉が起こり、民が罪を犯してしまうような事態に至った。その全責任は自分1人にあるという詔を出し、罪人たちに大赦を与えられた。
 この時代、国家の繁栄の要諦を冨民に置くという国家観が支配的であり、それを制度的に支えていたのが班田収授法である。土地は国家のものであり、国家は農民に土地を分け与えて(班田)、耕作ができるようにする。ところが班田収授法が施行されて数十年もたつと、人口増のためであろうか、公民に班給すべき口分田が不足してきた。そこで土地の開墾を促すための施策として、養老7年(723)に「三世一身法」が出され、開墾事業がこれによって進んで問題はある程度解決されたかに見えたが、根本的な解決には至らなかった。このような土地問題に加え、自然災害や疫病の流行が人々を苦しめ、重大な政治的課題となったのである。
 天平7年(735)には天然痘が流行し、全国で死者が続出した。穀物も不作で、天皇は困窮者の救済を目指す詔を発して、社会的な弱者に手をさしのべられた。しかし、なお、不運は続き、翌天平8年(736)も凶作となり、諸国各地で逃亡者や浮浪人があふれた。律令では離村者は本籍地に連れ戻すのが原則であったが、中には連れ戻そうにも、戸籍から削除されている浮浪人もいた。聖武天皇は浮浪人について、この8年の2月に、公民籍に編附することを停止し、別途、現住地での名簿に登録してよいと改めた。公民とは別個に、浮浪人を一つの身分として公認したのである。ただそこで問題になるのは、彼らにどんな正業を用意するかであった。本籍地に編附されていなければ口分田を分け与えられないからである。

 しかし、それでも災厄は終わりを告げなかった。天平9年(737)に再び天然痘が流行し、4月に参議の藤原房前が没した(房前は、不比等の次男で、北家の祖である)。天皇は5月に詔を出されて、またも米穀支給と減税措置などの措置を講じられた。それでも災厄は続き、7月には参議藤原麻呂(不比等の四男で京家の祖である)、次いで右大臣藤原武智麻呂(不比等の長男で、南家の祖である)が亡くなった。8月には中宮大夫兼右兵衛率(かみ)で橘諸兄の弟である橘佐為、続いて参議藤原宇合(うまかい、不比等の三男で、式家の祖。『懐風藻』に最多の漢詩を残し、『常陸国風土記』の編纂者であったのではないかと論じる人もいるなかなかの文化人である)が亡くなった。高校の日本史で習ったことを記憶されている方もいらっしゃると思うが、藤原氏の4兄弟がすべて没したのである。聖武天皇は8月13日の詔でこの不幸は「まことに朕の不徳の致すところである。百姓の正業が成り立つように、天下の今年の田租と公私の出挙稲の滞納額を免除する」(61ページ)と指示された。現代に直して言うと、税金を取らないだけでなく、滞納分も追徴しないということである。

 餓死者や病死者が出れば田は荒れ、そうなれば田租も減少するし、農民に貸し付けた稲も戻ってこない。中央政府は天平6年に通達を出し、国家が所有している官稲を国司に無利息で貸し出し、国司はその稲を農民に出挙、すなわち利息付きで貸し付けてもよいとした。そのような官稲は、各国の郡ごとに設けられている正倉に備蓄されていた。農民からとる利息が国司の収入となることを認めたうえでの措置であった。このような政策は天災による痛手をいやすために、農民を督励するよう地方行政官である国司に奮起を促すことを目的としていたが、それが実際に効果を上げ、農民たちに利益を与えたかは疑問である。
 とにかく、聖武天皇は窮民救済の具体策を次々に推し進められる一方で、神仏に頼るために様々な宗教的な行事を行った。この年、10月26日には、大極殿において、『金光明最勝王経』の講説を元日朝賀の儀に準じて盛大に催し、それ以後、天然痘の流行は下火になったのである。

 この年の年末に天皇は大倭国を大養徳国と改称した。基金や疫病の流行とともに、聖武天皇の気がかりであったのは人心であったと著者は推測する。この改称には、「災異に打ちひしがれ、あるいは生きる気力を失った天下の民をいかにして救えばよいかという天皇の苦悩が滲み出ている」(64ページ)という。天皇は物心両面を視野に入れた国家的事業を模索されてきたが、その結果として2つのプロジェクトを構想された。一つは、全国に釈迦を本尊とする国分寺を建立して、民に仏教思想を啓もうすることであり、もう一つは、新たな都を作り、その都の国分寺に廬舎那大仏を造立することであった。
 「天皇は胸中の構想を具現化するために遷都を決断した。莫大な費用を覚悟しなければならないが、人々は動かす12月ことができる。国力の疲弊した直後での遷都が無理な計画であり、失政だったことは、天皇がのちに自覚するところである。」(64‐65ページ)
 しかし、疫病が流行した後で、都を移そうとするのは、比較的理解しやすい発想である。むしろ巨大金銅仏を造立することのほうが問題ではないかと思うのだが、著者は東大寺の内部の人であるから、そういう風に考えないということであろうか。

 恭仁宮に遷都した天平13年(741)2月14日に、聖武天皇は国分寺・国分尼寺建立の詔を出された。その趣旨は、①天平7~9年の干ばつ・飢饉・疫病による極度に疲弊した天下万民の精神的支柱になることを目指して、国ごとに国分寺・国分尼寺を建立する。②立地は人々が集まりやすい勝地を択ぶ。③国分寺は寺号を「金光明四天王護国之寺」とし、20人の僧侶を置く。国分尼寺は寺号を「法華滅罪之寺」とし、10人の尼僧を置く。④毎月の六斎日は海も山も禁猟とする。
 国分寺の建立をめぐっては最近、須田勉さんの研究が出ているので興味のある方は、そちらをご覧ください(この書物の巻末の参考文献には挙げられていないので、注意を要する)。森本さんが重視しているのは、国分寺・国分尼寺が地域住民が参集しやすい場所を選んで建てられていること、国分寺の僧侶の定員が決まっているので、それらの僧侶の教育が必要となるはずであることの2店である。六斎日というのは1か月の中の8・14・15・23・29・30の6か日のことでこの日は、潔斎して心身を清浄に保つことが求められる。「国分寺建立は単に国家鎮護のためばかりでなく、一般の人々に対して、仏教思想を啓蒙する役割があった。つまり天皇は国分寺を人間教育の場にしようとしたのであった。」(68ページ) 人々が参集しやすい場所を選んで建てられたことの理由の一つがこの点に求められる。

 国分寺・国分尼寺の創設とともに聖武天皇が構想したもう一つのプロジェクトは、新都を建設して、そこに廬舎那大仏を造立するというものである。しかし、それ以前に処理しなければならない問題があった。それは口分田と墾田が混在する中で、墾田が荒廃しているという事実で、改めて国家が土地問題に取り組む必要があることを認識させるものであった。そこで、天平15年(743)に聖武天皇は墾田永年私財法を発布した。これにより公地公民という律令の定めた原則が崩され、墾田の私有権が認められたのである。この結果、公民籍を持たない浮浪人が墾田の所有者となる道が開けたことを森本さんは強調している。

 その後、聖武天皇は近江の紫香楽宮に行幸され、天平15年10月15日に廬舎那大仏造立の詔を出された。仏法の威霊の力をもって国家を平穏に保とうというのである。国分寺の本尊が釈迦仏であるのに対し、総国分寺の本尊は廬舎那仏であるのは、聖武天皇の仏教観に基づくものだと説明されていて、それはその通りなのだが、なぜそうなのかは、もう一つはっきりと説明されていない。聖武天皇が華厳経における菩薩に自らをなぞらえていて、その菩薩を導く廬舎那仏にすがろうとしているのだということのようであるが、今一つすっきりしないところがある。
 ところが、天平(745)4月27日に、大規模地震が発生し、このため、聖武天皇は周囲の勧めに従って都を平城京に戻した。しかし、それでも大仏の造立はあきらめず、平城京の東山麓にある大倭国金光明寺→東大寺において造立事始めの儀を行ったのである。
 森本さんは東大寺の大仏造立には浮浪人対策の大規模事業という意義があるとしているが、国分寺・国分尼寺の建立についての同様の意義があるはずである。それにしても、多くの国分寺が場所や建物が変わっても、現在まで続いているのに、国分尼寺のほうはほとんど廃絶しているということは、考えさせる問題ではないかと思う。
 華厳経というのは、日本よりも、(特に新羅時代の)朝鮮で重んじられた経典で、それが大仏造立の理論的な根拠になっているというのは興味深い問題である。(日本の仏教信仰の中で、一般にもっとも重んじられてきた経典は法華経である。) この問題、大仏と新羅の関係については、この本のもっと後のほうで考察されているので、その時にまた触れることにしよう。

 

ウィルキー・コリンズ『月長石』再読(4)

7月12日(木)曇りのち晴れ

 インドのベナレスのヒンズー教寺院の月天の額を飾っていた黄色いダイヤモンド――は「月長石」と呼ばれ、人類の世代が続く限り、3人のブラーフマンによって見守り続けられなければならず、この聖なる石に手を触れるものは、本人だけでなくその一族係累のものに災いが下るであろうといわれてきた。やがてこの宝石は、セリンガパタム(シェリーランガパトナ)のスルタンであるチッポー(ティップー)の手に入り、その短剣を飾っていたが、1799年5月4日にセリンガパタムが英軍の強襲を受けて陥落し、チッポ―が戦死した時に、英軍の将校であったジョン・ハーンカスルの手に入った。どのようにして手に入ったか、彼は語らなかったが、攻撃に同行した彼の従弟は、ジョンが兵卒たちの略奪を取り締まる役割を命じられながら、それに違反して宝石を強奪したのではないかという疑いを抱き、その旨を自分の家の記録に残す。

 ジョン・ハーンカスルはイングランドの貴族の次男であったが、この事件のために一族のものから除け者にされ、ダイヤモンドとともに帰国してからも孤独な生活を続けた。彼の妹のジュリアはヴェリンダー家に嫁いでいたが、死に際してジョンが甥であるフランクリン・ブレークに託して、月長石をジュリアの娘で、ジョンには姪にあたるレイチェル・ヴェリンダーの18歳の誕生日(1848年6月21日)に贈り物として与えた。ところが、その夜、月長石は所在不明となり、ロンドンのスコットランド・ヤードの刑事が載りだしてきても事件は解決せず…最後には死者まで出る…
 事件が一応「終わった」後の、1850年5月21日にフランクリンは、ヴェリンダー家の執事であるガブリエル・ベタレッジを訪問し、弁護士の勧めにより彼が事件の一部始終を語る証言集の編纂に取り組んでいること、既にある家の記録から月長石の略奪に関わる証言を得ていることを語り、宝石がヴェリンダー家にとどいてから紛失し、その後捜索が続けられた経緯を手記にまとめるようにベタレッジに依頼する。

 ジョン・ハーンカスルには3人の美しい妹があり、長女のアデレイドはブレーク家に嫁いで、フランクリンとその兄弟を儲け、次女のカロラインは銀行家のエーブルホワイトと身分違いの結婚をして、何人かの子どもを儲け、三女のジュリアはジョン・ヴェリンダー卿と結婚してレイチェルを儲けた。ベタレッジはもともとハーンカスル家に奉公していたのが、ジュリアがヴェリンダー家に嫁いだのをきっかけに、ヴェリンダー家で働くことになり、やがて土地差配人になり、さらに執事になったのであった。そして彼の娘のペネロープも成長して、レイチェルのお付きの女中となっていたのである。
 フランクリンは幼いころに、ヴェリンダー家で生活していたことがあるが、父親が公爵家の相続をめぐる訴訟に敗北したことがきっかけで、外国で教育を受けるようになり、さらにその後も外国を転々として生活をしていた。彼は陽気で社交的であるが、気まぐれで、あちこちで借金をつくってはいたが、人々から愛されて生活していたが、1848年にイングランドに戻り、しばらくロンドンの父親のもとに滞在していたが、5月24日(水)に、彼が翌日、ヨークシャーのヴェリンダー邸を訪問するという知らせが届く。ヴェリンダー邸の人々は、フランクリンの幼少時代のことしか知らないが、ベタレッジはいたずら好きでかわいいお坊ちゃんだったと記憶し、レイチェルは従兄が自分を手荒く扱ったことだけを覚えていた。

The Thursday was as fine a summer's day as ever you saw; and my lady and Miss Rachel (not expecting Mr Franklin till dinner-time) drove out to lunch with some friends in the neighbourhood. (Penguin Popular Classics, p.25)
(中村訳) 「木曜日はこれまでになくよく晴れて夏らしい日だった。奥さまとレイチェルお嬢さまは(フランクリンさまは夕食前にはお着きになるまいとお考えになって)近所のお友だちのところへ昼食によばれておでかけになった。」(31ページ)
 二人が出かけた後、ベタリッジはフランクリンを迎える準備に抜かりはないかを確認し、執事と兼任している酒庫の番人の役目を果たすべく(この仕事は他のだれにもさせたくないのである)、当家ご自慢のラツール(Latour)の赤ブドウ酒(原文はclaret=ボルドー産の赤ワイン)の瓶を取り出してきて、夕食までに冷え過ぎを和らげるため、あたたかい夏の空気(warm summer air)にあてておいた。
 物語の筋とは関係がないのだが、5月はsummerだと考えられていることが気になった。手元にある英英辞典のうち、Longman の辞書ではsummerについて、the season between spring and autumn, when the weather is hottestと説明しているのに対し、Collinsの方はwarmest season of the year, between spring and autumnとしている。イングランドでは気温についてhotという表現を聞くことはあまりなく、かなり気温が高くてもvery warmで済ませてしまうようである。だからhotというとむしろspicyという意味で使うことが多い。ラトゥールの赤ワインはボルドー・ワインの中でも一流の評価があるらしい。赤ワインは室温で飲むというのは、現在でも変わらないが、地下の酒庫に寝かしておくだけで、かなり冷えているので、陽に当てて温めようというのである。ところがだれか訪問者があるらしい様子で、ベタリッジは足を止める。

Going round to the terrace, I found three mahogany-coloured Indians, in white linen frocks and trousers, looking up at the house.
(中村訳=テラスのほうへまわってみると、まっ白いリンネルの上着とズボンをつけた、三人のマホガニー色のインド人がお邸を見あげていた。)(32ページ)
 3人のインド人たちのほかに、利口そうな(と中村は訳しているが、原文はdelicate-lookingでか弱そうな、とかかぼそそうなという意味ではないか) 顔つきで明るい色の髪をした英国人の少年がついていて、袋を持っていた。ベタリッジは、この3人が旅回りの手品師(strolling conjurers)で、袋を持った少年はその道具を持っているのだろうと考えた。3人のうちで英語が話せて、物腰も一番上品な1人が話しかけた言葉から、ベタリッジは自分の推測が間違っていないことを知った。彼らは、このお邸のご婦人方の前で手品をしたいが、お許し願えるかと尋ねたのである。

 この時、ベタリッジがインド人たちに対してとった態度とその説明が分かりにくい。彼は芸人に対して偏見を持つような人間ではないだけでなく、手品のような娯楽を楽しむのが好きだという。また肌の色が黒い人間に対して偏見を抱くようなこともないという。彼はヴェリンダー家の大事な食器を表に出しているままであったことに気づき、その英語を話すインド人の方が自分よりも物腰優れたことに気づいて、彼らに対し、奥様方は留守であるといって、引き払わせる。家の中が片付いていないので、客をあげたくないという気持ちであろうか。とにかく、インド人たちがおとなしく引き上げたので、ベタリッジは安心して、しばしの転寝を始める。

 ところが、彼は駆け足で近づいてくる足音にその眠りを破られる。近づいてきたのはほかならぬ彼の娘のペネロープである。彼女は、3人のインド人の手品師たちを今すぐ逮捕するようにしてくれという。その理由というのは、彼らはフランクリン・ブレークがロンドンからここにやってくるということを知っていて、彼に対して何か良からぬことを企んでいるように見えるということなのである。
 これを聞いて、ベタリッジは驚いて、眠気はどこかへ消し飛んでしまった。彼は娘にそんなことを言いだした理由をたずねた。

 ペネロープは(彼女の主人であるレイチェルが外出中なので)、門番(lodge-keeper)の娘と世間話(gossip)をしていた。lodgeというのは大邸宅の脇にある番小屋で、門番とか園丁とかが住んでいる。ところが、アガサ・クリスティーの時代になると、大邸宅の持ち主が自分の邸宅を貸し出して、自分自身は番小屋に住むという例が多くなってくる。
 二人の娘は、ベタリッジが追い出したインド人が例の少年を後ろに従えて出ていく姿を見つけた。先ほど指摘したことと関連するが、中村訳は「私の目には、ただかわいらしい利発そうな少年としかうつらなかったが、娘たちは、異国人たちに虐待されていると思い込み、お邸と道路を仕切っている生垣の内側を歩いてこっそり後をつけ、生垣の向こう側で、異国人たちが何をするかと見張った。すると、彼らは、これから述べるような奇怪な仕種をはじめたというのである。」(33ページ)となっているが、原文に当たってみると、Taking it into their heads that the boy was ill;-used by the foreigners - for no reason that I coulld discover, except that he was pretty and delicate-looking --the two girls had stolen along the inner side of the hedge between us and the road, and had watched the proceedings of the foreigners on outer side. Those proceedings resulted in the performance of the following extraordinary tricks.(Penguin Modern Classics, p.27)となっている。(少年が外国人たちに虐待されていると思い込んで、その理由というのは、私が見たところでは少年が小さくてか細いというだけのことしかなさそうであったが、2人の娘は我々と道路との間の生垣の内側をこっそりと歩いて、その向こう側で外国人たちがしていることの成り行きを見守った。その結果として以下に述べるような驚くべきトリックをやってのけたのであった。)

 delicateは、やはりここではfragileという意味で使われているとみるべきである。インド人たちのトリックがどのようなものかは次回に語ることにしよう。それから、作中人物は、この時点では誰も気づいていないが、読者はこのインド人たちというのが例の月長石を守る3人のブラーフマンであることに気づくはずである。少し先回りして書いておくと、少年というのは、このインド人たちがロンドンのどこかで見つけて連れてきた浮浪児らしいので、よほど贔屓目に見ないと「かわいくて利発」には見えないだろう、むしろ、2人の娘たちのように子どもが外国人に虐待されていると考えるほうが自然なのではないかと思う。人生経験豊かなベタリッジだが、少し寝ぼけている。若い娘2人の直感のほうが真相に迫っているというところが面白いところである。

トマス・モア『ユートピア』(9)

7月11日(水)晴れ、雲が多いが、依然として気温は高くなりそうだ。

 1515年、イングランド(当時の国王はヘンリーⅧ世)とカスティーリャ(当時の国王はカルロスⅠ世、神聖ローマ帝国皇帝としてはカールⅤ世)との間で起きた紛争の解決のため、フランドルに派遣された外交使節団に加わっていたトマス・モアは交渉の中断中にアントワープに赴き、この町の市民であるピーター・ヒレスの歓待を受けた。
 ある日、モアはヒレスから、世界中を旅してまわった哲人であるというラファエル・ヒュトロダエウスという人物を紹介される。世界の様々な国々、特に新大陸の未知の国々の制度の見聞を含む彼の博識と経験とに感心したピーターとモアは、どこかの王侯の政治顧問となるように勧める。
 しかしラファエルは、王侯の顧問というのは阿諛や追従をこととする連中であり、その仲間入りをしたくはない、それに王侯の周辺で行われている会話は戦争で自国の領土を広げることや、民衆に重税を課して収奪することばかりで、平和と幸福を願うラファエルにはそんな会話に加わることは苦痛である。

 国王は自分自身の富を増すことよりも、国民を豊かにすべきであり、新しい税金を作り出したり、古い税金を復活させたりして国民から収奪することを考えるべきではないとラファエルが、どこかの王侯の前で言い、さらにユートピアからそれほど遠くないところに住んでいるマカレンス人たちの法を紹介したらどうなるだろうかと、彼は言う。「彼らの王は、いついかなるときも千ポンド以上の金、またはそれと同価の銀を彼の金庫に貯えるようなことはけっしてしないようにと、統治開始初日の盛大な祭礼における宣誓で義務づけられています。」(104ページ) なぜならば千ポンドあれば国王は国内の治安を保つことができるし、国王が金銭をため込むことで、臣民の間でそれが不足することはないようにすることが大切だからである。この金額は自国を防衛するには十分だが、外国を侵略するのには不足しており、戦争の予防のためにはこれで十分だというのである。
 脚注によればMacarensesはギリシア語のμακαριος(幸福な)、μακαρες(幸福な人々)からの造語。μακαρων νησοι(幸福諸島)はエーリューシウムであり、エラスムスの『痴愚神礼賛』で演説した女神の生まれた島である。なお、ペンギン・クラシックスのポール・ターナーの英訳ではHappilandと訳されている。

 ラファエルの意見は、近代における「夜警(だけに専念する)国家」という主張と共通するものかもしれないが、この意見を王侯の顧問会議で提出したらどうなるかと、彼はモアとピーターに問う。たぶん、彼らはきく耳をもたないだろうというラファエルに対し、モアも同意する。「親友のあいだのうちとけた会話でならこういう観念的な哲学(フィロソフィア・スコラスティカ)も不快ではないでしょうが、大きな権威をもって大事が論じられる、君主たちの参議会では、そんなものが問題になる余地はありませんよ」(105ページ) プラトンの主張を引き合いに出して、哲学者が君主の政治に参画すべきだといっておきながら、哲学的な主張が君主たちの参議会では取り上げられないだろうというラファエルの主張を追認してしまう。〔最近の「小さな政府」という主張は、ラファエルの言っていることと似て非なるものである。なぜならば、「小さな政府」を主張する人は、福祉の増大には反対しているが、軍備の縮小には消極的だからである。〕

 「君主たちのもとでは哲学の入り込む余地はないと私が前に言ったのは」(105ページ)そういうことだとラファエルは言う。モアは、少し角度を変えて自分の主張を繰り返す。「どんな命題も通用すると考えるような観念的な哲学なら入り込む余地はありません。しかしもう一つの、もっと社会の現実生活に合った哲学があります。」(105‐106ページ) つまり会議の席で空気を読みながら演技をして、人々の意見を変えさせるような働きを演じることはできないだろうかというのである。ラファエルはそんなことをしていたら、「他人の狂気を癒そうと努力しているうちに私自身が彼らといっしょに狂ってしまう」(106ページ)のが落ちだという。自分は真実だけを語る、演技にせよ、嘘は言わないというのである。

 参議会の議員たちには、「私の話は喜ばれず迷惑がられるかもしれませんが、なぜ、ばかげた、とほうもないものと見られなきゃならないのか、私にはわかりません。もちろん、もし私が、プラトンが『国家』のなかで仮想していること、またはユートピア人たちが彼らの社会で実行していること、これらについて語った場合、いかにそれが優れたものであろうとも――事実優れているのはたしかですが――風変りに見えるでしょう。」(107ページ) なぜ、風変わりに見えるのか。ヨーロッパ社会では各人に私有財産があるのに、ユートピアではすべてが共有だからだという。

 しかし、「もしも人間の歪んだ生活風習のために風変りに映ることをみな途方もなくばからしいとして捨てねばならないなら、キリストが教えたもうたことの大部分を、私たちはキリスト者たちの間でそっと隠しておかなければなりません。」(108ページ) ここには福音書の伝えるイエスの教えに忠実であろうとしているという意味での福音主義者(現代社会で福音主義者と呼ばれる人とは、区別されるべきである)であるモアが、ラファエルの言葉を借りて、彼の時代のキリスト教信仰の実態と聖書の教えとの乖離に人々を気づかせようとする意図が込められていると見るべきである。
 ルターが「95か条の提題」を掲出して宗教改革の口火を切ったのは1517年の10月31日、モアがラファエルと話をしたとされる年の翌翌年、『ユートピア』が発表された年の翌年のことである。誠に皮肉なことに、この1517年に、モアはヘンリーⅧ世のもとで、ラファエルがその実態を批判しまくった(ラファエルの口を借りて彼自身が批判した)参議会の会員に任じられるのである。モアとしては「もっと社会の現実世界に会った哲学」を実践に移す機会であったのかもしれないが、それは彼が考えている以上に困難な実践であったようである。

 ラファエルはモアに向かって言う:「あなたは、たとえすべてを改善することができなくても、とにかくうまくさばいて、できる限りの範囲で悪くならないように努力すべきだとお考えのようですがね。」(109ページ) そのような現実的な道は、モア自身を堕落させることになるだろうとさえいう。それに「あの紆余曲折の道では、どんなことであれ、改善まではなかなか行きつけません。」(109ページ) 自分の望ましいと思う生き方はできない、社会もよくならない、虻蜂取らずだというのである。

 こうして、ラファエルの話は一方で、彼が王侯に仕えてその政治を助けるという意思はないことをはっきりさせ、もう一方で彼が見聞したユートピアの、彼にとって理想だと思われる制度について語る方向に進んでゆく。

『太平記』(218)

7月10日(火)晴れ、暑い

 建武4年(南朝延元2年、1337)8月、奥州国司兼鎮守府将軍の北畠顕家は、軍勢を集めて白河の関を越え、鎌倉管領足利義詮(尊氏の三男)の軍と利根川で戦って勝利した。北条時行(高時の次男)は伊豆で、新田徳寿丸(義興、義貞の次男)は上野で挙兵し、鎌倉の足利方は、敵の大軍を迎え撃ったが敗走した。
 建武5年(8月に暦応と改元、南朝延元3年、1338)正月、北畠顕家の大軍が鎌倉を発って西上したが、鎌倉で敗れた足利方も、軍勢を集めて西上した。顕家軍とその跡を追って西上した足利軍は、美濃国墨俣川、青野原一帯で戦い、足利方は土岐頼遠と桃井直常の奮戦にもかかわらず敗れた。

 京都の足利幕府は、奥州勢が上洛してくるという情報を得ていたが、美濃には土岐頼遠がいるので、大軍が西上してきても、一支えはできるだろうと当てにしていたところが、頼遠が、青野原の合戦に敗北して、行方不明になった、あるいは戦死したといううわさが伝わってきたので、京都方の慌てぶりは一通りではない。

 ということになると、宇治、瀬田の橋を落して防御を固めて待ち受けよう、そうでなければまず西国の方に引き退いて、四国、九州の軍勢を味方に加えて、そこから敵に対して反攻を仕掛けようなど、意見がいろいろ出て、軍議の結果が一つの案にまとまらなかったのであるが、この頃、侍所の頭人であった高越後守師泰(尊氏の執事師直の弟)が、しばらく思案してから、次のように述べた。
 「昔から今に至るまで、都に敵が攻め寄せてきたときに、宇治、瀬田の橋を落して戦うという戦術をとって戦ったことは数知れずある。とはいうものの、この川(瀬田川→宇治川)で敵を支えて、都を守り抜いたという事例をいまだかつて聞いたことがない。これは、攻め寄せるほうの軍勢は後ろを味方にして勢いに乗り、防ぐ方は、かろうじて洛中を維持して気力をなくしているからだ。敗戦続きの不吉な例を踏襲して大敵を都の近くで待ち受けるよりも、戦に勝つその機を窺って、急いで近江、美濃のあたりに駆けつけ、戦いを畿内の外で決めるほうがよい」といかにも勇気に満ちた様子で、理にかなった戦術を説いたので、尊氏も直義も、その通りだと納得して満足したのであった。

 そう決まったら時を移さず向かえということで、大将軍には高越後守師泰、高一族の播磨守師冬(師行の子、師直の猶子)、足利一族の細川刑部大輔頼春、佐々木(六角)大夫判官氏頼(時信の子)、佐々木(京極)佐渡判官入道道誉、その子息の近江守秀綱、このほか諸国の大名53人、都合1万余騎が2月4日に都を出発して、6月の早朝に近江と美濃との境となっている黒地川(黒血川)に到着した。奥州勢も垂井、赤坂に到着したという情報が得られたので、ここで待ち受けようと、前方に関の藤川(藤古川)、後方に黒地川という2つの川のあいだに陣を取った。
 兵法上の常識としては、戦闘に際して山を背後に、川を前方にして陣を取るのが常道であるが、そうせずに、大河(というほどの川ではないが)を背後に陣を取ったのは、それなりの戦術であったのである。
 ということで、『太平記』の作者は足利方の陣構えは、漢の高祖(劉邦)と楚の項羽とが天下を争ったときに、高祖側の大将韓信が採った嚢砂背水の陣の戦法に倣ったものだという。
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 そうこうするうちに、北畠軍10万余騎は、垂井、赤坂、青野原にあふれて、東西六里、南北三里に陣を張る。夜になって篝火を託様子を見ると、天の全ての星が落ちて、地上できらめているように見えた。この時、越前では新田義貞、脇屋義助兄弟が、北陸道の武士たちをうち従えて、天を動かし、地を治めるような盛んな勢いを見せていた。それで、奥州勢が近江と美濃の境の黒地に陣取る足利軍を追い払うのが難しいのなら、北近江を経由して越前に向かい、義貞と合流して、さらに比叡山に向かい、京都を北から見据えて、南方の吉野の宮方の軍勢と連絡を取り、東西から〔南北からというのが正しいと思うのだが〕京都を攻めれば、足利方は一日も持ちこたえられないと思われたのだが、顕家は、自分の功績が合流によって義貞に奪われるのではないかと嫉み心を起こしたのであろうか、北陸の宮方と合流することも考えず、黒地の足利方とも戦わず、急に士卒を率いて、伊勢から吉野の方に向かったのであった。

 その結果、これまで鬼神のように恐ろしいと評判であった奥州勢は、自分たちよりも少ない軍勢の黒地の足利方と戦いもせず、あらぬ方角に転進してしまい、しかも奥州軍の後から追いかけてきた足利方の軍が京都に到着したので、宮方は恐れるに足りないと、足利幕府の方では相手を侮り始めたのであった。

 かくして、『太平記』19巻は終わる。宮方の起死回生を狙って奥州からはるばる遠征してきた北畠顕家の企ては竜頭蛇尾の様相を呈してきた。それにしても、足利方が『太平記』では50万余騎、今川貞世(了俊)の『難太平記』でも30万余騎と記されている大軍を迎え撃つのに1万余騎の軍を派遣するというのは奇妙に思われる。それから、桃井直常、土岐頼遠が、北畠軍と青野原で戦ったと書かれている直後に、奥州軍が青野原と、そこから少し後退した垂井、赤坂辺に陣を張っているというのもおかしいといえばおかしい。前回紹介したように、本郷和人さんは、鎌倉からやってきた足利軍が猛スピードで進軍する奥州勢に追いついたこと、そして自分たちよりも大規模な軍勢に対し、小人数の軍勢の逐次投入をしたことの2つが合理的とは言えないと論じている。『太平記』では土岐頼遠に奥州軍が勝ったと記されているが、足利方の大将の一人であった今川範国の息子の貞世(了俊)が書いた『難太平記』には、足利軍が勝ったが、その功績は土岐頼遠に帰せられていて、今川家の武勲が軽んじられていると書かれている。さらに本郷さんは、『太平記』、『難太平記』よりも『保暦間記』の方が歴史的な事実を正確に記録しているとして、足利方が戦闘に勝って、北畠軍が伊勢に迂回することになったのだという解釈を示している。歴史的な事実がどのようなものであれ、このあたりの『太平記』の記述がどうも不自然な作為に満ちていることは否定できないようである。

 一つ付け加えておくと、京都から派遣された幕府軍の中に北近江を本拠とする佐々木(京極)道誉と、南近江を本拠とする六角氏頼が加わっていることが注目され、足利方が地の利を計算していることが見て取れる。特に京極氏は道誉の頃までは、伊吹山の南麓の柏原の清滝寺のあたりを本拠地としていた(道誉の代で、多賀大社の近くの勝楽寺城に移る)。『太平記』の作者は、高師泰の兄の師直とか、佐々木導誉とか、土岐頼遠のような婆沙羅大名たちを嫌っていたことは明らかで、彼らの武勇によって足利方が勝利を収めた青野原の戦いの歴史的な事実を歪曲してまでも、彼らの事績を歴史から抹消したいと思っていたと考えるのは、考えすぎであろうか。
 
 

フローベール『感情教育』(9‐3)

7月9日(月)午前中は雨が降ったりやんだり、一時激しく降ったが、午後は晴れ間が広がり、気温も上昇する。

〔これまでのあらすじ〕
 1840年に大学で法律を学ぶためにパリに出た18歳の青年フレデリック・モローは偶然のことからアルヌーという画商と知り合い、その美しい夫人に恋心を抱く。夢想家で芸術好きのフレデリックにとって、法律の勉強は興味を惹かれるものではなかったが、アルヌー家に出入りしたり、大学の内外の友人たちと付き合うことによって次第にパリの空気になじんでいく。一度は落第したものの、大学も無事卒業し、地元出身の有力者であるダンブルーズの知遇も得て、さてこれからという時に、彼は実家の経済的困難を知り、母親の懇願に負けて郷里の法律事務所で働くことになる。しかし、1845年の末に、裕福な叔父の遺産を相続することになり、またパリに戻ることにする。
 パリの様子は変わり、友人・知人たちの態度も変わっていた。高校時代からの親友であるデローリエは弁護士と復習教師をしながら、政治的な言論で指導的な地位に立つことを夢見、アルヌーは画商をやめて、陶器業者に転業していた。アルヌーが発行していた美術新聞を引き継いだのは、フレデリックの友人の一人であるユソネで、デローリエはその新聞を政治的な発言の場として利用しようと考え、フレデリックに援助を依頼する。

〔第2部3続き〕
 フレデリックはデローリエ(とユソネ)が新聞発行の資金とするために1万5千フランを用立てることを約束していたが、ル・アーヴルの公証人から1万5千フランを送金するという知らせが届いたので、そのことを彼に知らせに出かける。知らせを聞いたデローリエは、(おそらくもう当てにしていなかったのであろうが)大喜びする。そしてユソネとは別れることにしたいといい、彼自身の政治論を饒舌に喋りまくる。政治を科学的に検討すべきであるという。
 その当時のフランスには3つの党派があるとデローリエは言う。「もっか持てる者、もはや持たざる者、これから持たんとするものだ。呆れたことに、三者とも権力をやみくもに崇拝するという点では、意見が一致しているんだからな。」(光文社古典新訳文庫版、410ページ、) 「もっか持てる者」は立憲王政派(オルレアン派とその統治を理論的に支えようとしたギゾーに代表される保守的自由主義者たち)、「もはや持たざる者」は正統王朝派(ブルボン派)とナポレオン派、「これから持たんとする者」というのは共和派と社会主義者ということであろう。この小説の登場人物では「もっか持てる者」を支持する、あるいはこのグループに属しているのはダンブルーズとマルチノン、「もはや持たざる者」はシジー、そのほかの面々は「これから持たんとする者」で、セネカルのようにはっきりと社会主義を打ち出している人物もいるが、大半は共和主義と社会主義の間を揺れ動いているように思われる。
 気の回しすぎかもしれないが、このデローリエの言い方は、セルバンテスの『ドン・キホーテ』の中のサンチョ・パンサの有名なセリフを反映しているようにも思われる。「おらの婆さまがいつも言っていたことだが、世界には二つの家族しかない、持てるものと、持たざる者とだ」(続編第20章)

 そういいながら彼は、共産主義思想の先駆者といわれるマブリ、哲学者・幾何学者のウロンスキー(ロンスキーとも呼ばれるそうである)、サンシモン主義者のアンファンタン、同じくピエール・ルルー、当時の社会主義者の中での大物であったルイ・ブランらの主張の矛盾点を逐一指摘する。ひどく実際的、現実的な意見を述べる。
 「フレデリックとしては大いに反論したいところだった。だが、友の考えがセネカルの理論とはだいぶかけ離れているように思えたので、すっかり寛大な気持ちになった。そうした方針では各所からうとんじられるぞ、と言いかえすにとどめた。」(光文社古典新訳文庫版、411ページ)。右も左も蹴っ飛ばせというのが、デローリエのスローガンだが、フレデリックには彼の意見が左の方に厳しいように感じられる。だから、彼はデローリエの主張に強くは反論しない。フレデリックもダンブルーズのもとに出入りしているくらいだから、左翼的な主張をする連中とは距離を置きたいと思っていることは確かである。
 
 右も左も蹴っ飛ばすということになると、右と左の両方から攻撃を食らうだろうというのがフレデリックの意見で、だれだってそう考えるはずだが、自分の考えと計画とに夢中になっているデローリエはそうは思わず、それぞれの党派の主張を論駁する根拠を与えてやるのだから、各方面からの支持を得て、新聞は大成功するはずだと主張する。フレデリックにも批評分を書いてもらうつもりだといい、社会通念を打破したうえで、自分たちの雑誌の基本的見解を打ち出し、それから日刊の新聞に切り替える。自分の主張が世の中に受け入れられ、新聞は成功するに違いないと語るデローリエの熱気にあおられて、フレデリックもだんだんその気になってくる。「友のことばに耳をかたむけているうち、フレデリックはしだいに若さをとり戻していくような気がした。長いあいだ部屋に閉じこもっていたものが、いきなり戸外につれだされたような感覚だ。相手の熱情に感化されたのだろう。/「そうだな、きみの言うとおりだ。ぼくは怠けてばかりいた」/「そうこなくっちゃ!」 デローリエはさけんだ。「それでこそふれでりっくだ」(光文社古典新訳文庫版、413ページ)
 彼らが若い熱情と昔の友情をとりもどし、「ふたりは立ったまま顔を見合わせ、ともに心を動かされて、今にも抱きあおうとした。」(同上)

 ところが、思いがけない出来事が起きた。
 「ひかえの間の戸口に女の縁なし帽が現れた。 /「ん、どうした?」デローリエが言った。/愛人のクレマンス嬢だ。/たまたま通りかかったら無性に会いたくなって。そう答えると、一緒におやつを食べるつもりで持ってきたお菓子をテーブルの上に置いた。」(光文社古典新訳文庫版、413ページ)
 クレマンス嬢は、フレデリックたちが第1部の5でダンス場である<アルハンブラ>に出かけた帰りに、彼と二人きりになったデローリエが、「これから最初に出会う女をものにしてみせる」といって、その時に出会い、その後、付き合い続けている背の高いやせた女性で、軍需品に金の刺繍を入れる仕事をしている。

 デローリエは自分は今仕事中なので、邪魔をするなとクレマンス嬢に冷たい態度を取り続けて、ついに追い返す。彼女に同情するフレデリックに向かい、デローリエは彼の暮らしぶりを見せて、自分は貧乏だし、愛人などは必要としていないのだという。そしてフレデリックは金が届き次第、デローリエに渡すことを約束して、2人は別れる。
 フレデリックが第1部の3で大学の授業に幻滅して、友人たちを訪ね歩き始めたときに、最初に出かけたのがマルチノンの下宿だったが、マルチノンは若い女性と同棲していた。だから、デローリエとクレマンス嬢の関係はそれほど珍しいものではなかったと推測できる。フレデリックやデローリエが<アルハンブラ>に出かけたときに、彼らには同行していなかったマルチノンが容貌のよくない五十がらみの女性と一緒にいるところが目撃される。デローリエはマルチノンが見かけによらず世間ずれしているという。物語全体を通じて、マルチノンの世渡りは、フレデリックはもちろんのこと、デローリエよりも上手である。それが女性関係にも出ているとみるべきであろう。デローリエは、マルチノンよりも自分の方が優れていると思っているから、そのあたりのことを素直に認めたがらないが、デローリエの冷たい態度は、彼の人格的な欠陥の現れとも受け取れる。

 さて、フレデリックはデローリエに金を渡し、デローリエの夢がかなうのだろうか。しかし、デローリエが思っている以上に、彼のクレマンス嬢に対するつれない仕打ちは、フレデリックに彼に対する不信の念を抱かせたのかもしれない。続きはまた次回。

日記抄(7月2日~8日)

7月8日(日)晴れ、暑い。

 この度の豪雨で被害を受けた方々にお見舞い申し上げるとともに、復旧が速やかに進むことをお祈りします。
 
 7月2日から本日までの間に経験したこと、考えたこと、以前の記事の補遺・訂正等:
7月1日
 横浜FCはアウェーでレノファ山口と対戦、3‐0で快勝する。このところ、強いんだか、弱いんだかわからないような戦いぶりだが、まあ勝ったことで良しとしよう。これでJ2リーグの6位に浮上。

7月2日
 NHKラジオ『遠山顕の英会話楽習』に
I've always wanted to go to Shangri-Lala! (私、ずっとシャングリララに行きたいと思っていたの!)
という表現が出てきた。このシャングリララというのは、ジェームズ・ヒルトンの小説『失われた地平線』(Lost Horizon)に登場する架空の楽園Shangri-laから着想された地名だろう。この小説、たしか2度映画化もされているが、私は2度目の映画化作品の予告編しか見ていない。ある人が、最初の映画化作品の幕切れについて書いた文章を読んだことがあって、そのために見たいという気持ちが起きなかったのである。
 そういえば、米朝首脳会談の際に、アメリカのトランプ大統領が宿泊したのがシンガポールのシャングリラ・ホテルであった。

 桂歌丸師匠が亡くなった。もう40年くらい前に、新宿末広亭で師匠の「鍋草履」の口演を聴いたことがある。ご冥福を祈る。

7月3日
 『朝日』の朝刊の火曜日掲載のコラム「松村圭一郎のフィールド手帳」で松村さんが興味深いことを述べている。文化人類学を先行したいという学生には、異文化理解や異文化コミュニケーションに関心を持つものが多いという(結構なことである)。そこで、異文化とは何かという風に問うと、「外国の文化です」と答えてくるのが一般的な傾向だが、そこには文化は国ごとに違うという暗黙の前提が潜んでいるという。「相互理解を目指しているのに、日本人と外国人には最初から根本的な違いがあるという前提から始めている。それは本当に疑いのないことだろうか。」
 お互いに理解が容易ではないのは、同じ日本人同士、親しい仲間同士、家族でも同じことである。どこかにずれが生じる。その「ずれ」を説明するために、世代の違い、性差、血液型などを持ち出す。「文化」の違いというのも、その後づけの理由の一つに過ぎないという。
 「人は常に乗り越えがたい差異に直面する。国の違いだけが大きな障壁とは限らない。学生のみなさん、国際結婚でなくても、夫婦はいつも異文化コミュニケーションの現場なのだよ。」と松村さんは結んでいる。
 この文章を読んで、松村さんが一つかくしていることがあるなと思った。夫婦間のコミュニケーションも異文化コミュニケーションだと言うが、教師と学生のコミュニケーションだって異文化コミュニケーションだし、教育とはある世代から次の世代への文化あるいは生活様式の伝達だという考え方人立てば、異文化コミュニケーションではない教育は無意味だということになるということである。教育実習で実習校の先生から「生徒と一緒になって騒いでいる」とみられる実習生の評価が低いのは、この意味で当然なのである。

 『日経』の朝刊に久留米の機織り娘 そろばんの舞いについて、この踊りを伝承する団体の会長である今泉由美子さんが紹介していた。そろばんの舞には、よく音が出るということで、古いタイプの五つ玉のそろばんを使うというのが、私には興味深かった。

 NHKラジオ『まいにちフランス語』の7月放送分は、南仏のニースを舞台にして、年間の様々な行事を話題として取り上げる。今日はその2回目で、世界三大カーニバルの1つといわれるニースのカーニバルの話になった。また、ニースと言えばミモザの黄色い花が思い浮かぶということで、”ChloéとGeorgesのPetit pas culturel ~文化へ1歩近づこう~”のコーナーでは、パートナーの1人のクロエ・ヴィアートさんが次のようにミモザについて語った:
L'engouement pour le mimosa à Nice remonte au 19ème siècle. L'arbre est devenu un incontournable des jardins de la Côte d'Azur au point d'en devenir un symbole. Ses petites fleurs jaunes apportent de jolies couleurs à l'hiver. (19世紀からニースの人はミモザを愛しているんです。いまではコート・ダジュールを象徴するほどまでに欠かせないものとなっています。かわいらしい黄色い花は冬の季節に素敵な色どりをもたらしてくれるんです。) 
 そういえば、むかし『ミモザ館』(Pension Mimosas, 1935, ジャック・フェデー監督)という映画があった。フェデーは、ルノワール、クレール、デュヴィヴィエと並んでフランス四大巨匠の一人という評価を受けていたが、フェデーと『ミモザ館』の共同脚本執筆者であるシャルル・スパークのコンビをフランス映画史上もっとも忌むべき系譜であると述べたフランソワ・トリュフォーのことばもある。自分なりの評価をしようにも、映画を見ていないのでは仕方がない。なお、シャルル・スパークの娘が主としてイタリア映画で活躍したカトリーヌ・スパークである。

7月4日
 アメリカ合衆国のIndependence Day. だからどうっていうこともない。7日の大腸内視鏡検査に備えて、節食態勢に入る。

 筒井康隆『文学部唯野教授』(岩波現代文庫)を読み終える。大学で英米文学を教えながら、覆面作家としてひそかに純文学小説を書いている早治大学の唯野仁教授の文芸批評論の講義と彼の身辺で起きる騒動、特に女子学生との恋愛と、親友の就職あっせんをめぐる苦労が描き出される。さらに大学の先生のあいだでの様々な軋轢が描かれている(中国地方のある大学で起きた万年助手による教授殺害事件なども背景に描きこまれている)とはいうものの、1980年代の大学はまだまだよかったなぁという感じがする。(映画化された『横道世之介』を見ていて思ったのは、1980年代は都会の大学と地方の大学の学生のライフスタイルの格差が著しかったということである。教師についても同じことが言えるかもしれない。)

 NHKラジオ『実践ビジネス英語』の”Quote...Unquote"のコーナーで取り上げられた言葉:
Know thyself? If I knew myself, I'd run away.
  ――Johann Wolfgang von Goethe
(German poet, dramatist and novelist, 1749 - 1832)
(己を知れだと。もし自分のことを知ったら、逃げ出すだろう。)
  know thyself. は普通「汝自身を知れ」と訳されている。もともとはギリシア語のγνωθι σὲαυτονという格言で、デルポイのアポロンの神殿の前にこの言葉が刻まれていたという。自分自身を知るというのは重要なことだが、怖いことでもある。その両方の側面を、ゲーテはよくわかっていたようである。

7月5日
 『実践ビジネス英語』の”Word Watch"のコーナーではdonor fatigue(援助疲れ、支援疲労)という言葉を取り上げた。
People who have already supported one or two relief efforts may feel they either can't or don't have to offer any more help to disaster victimes. (1か所か2か所で既に救援活動を支援した人たちは、それ以上は被災者を援助できない、あるいは、援助する必要はないと感じるかもしれません。) こういうことが援助疲れと呼ばれているという。
 (形容詞・名詞)+fatigueの連語としては、driver fatigue (運転疲労)、metal fatigue (金属疲労)、eye fatigue (目の疲れ、眼精疲労)、occupational fatigue(仕事からくる心身の疲労、過労)などがある。近年使われるようになってきたchange fatigueは、会社から常に変化を迫られた従業員の疲労・倦怠感のことを言うそうである。

 藤谷治『全員少年探偵団』(ポプラ文庫)を読む。小学生の吉田君のお父さんは有名な宝飾デザイナーだが、最近はあまり仕事をしていない。おとうさんが海外に出ていって留守にしている吉田家をカクイと名乗る怪しげな男が訪問し、吉田君とおかあさんを自分が経営している芸能プロダクションのオーディションに誘い出す。その数日後、パリから帰ってきたおとうさんは自分が最近取り組んでいる仕事について家族に打ち明け、それで吉田君はますます心配になる。そんな彼の様子を見たクラスメートの野呂君と井上君が、吉田君の話を聞き、明智先生に相談に行こうと言い出す。この2人は少年探偵団の団員だったのである…。
 ということで分かるように、江戸川乱歩の『少年探偵団』もののパスティーシュというか、設定を現代に置き換えた続編というのが適切であろう。カクイのプロダクションが三軒茶屋にあったり、明智探偵が下北沢に住んでいたりと、何とか現実感をもたせようとしているが、むしろ現実離れのした物語の展開を楽しむべきであろう。明智探偵と小林少年、そして怪人二十面相(どこで出てくるかは、四でのお楽しみ)の知恵比べ、変装比べも読んでのお楽しみである。


7月6日
 『日経』朝刊に東大寺の建物を撮影した三好和義さんの写真が紹介されていた。紙面では構図の見事さが称賛されていたが、色彩もいいと思った。(この日のブログで森本公誠『東大寺のなりたち』を取り上げるつもりだったので、余計記憶に残っている。)

 NHKラジオ『エンジョイ・シンプル・イングリッシュ』の金曜日の放送は、日本文学の名作を取り上げているが、今回は有島武郎の『ひとふさのぶどう』が英語で紹介されている。この作品は子どもの頃からなじんできたが、大人になって、ハンガリーの詩人で映画評論家のベラ・バラ―ジュが書いた『本当の空色』という童話を読んで、両者が絵の具泥棒という同じ行為をもとに組み立てられていることに興味を持った。一度、両者を対比する文章を書いてみたいと思っている。

 『実践ビジネス英語』の”Quote...Unquote”のコーナーで取り上げられた言葉:
Don't judge each day by the harvest you reap, but by the seeds you plant.
---- Robert Louis Stevenson (Scottish novelist, 1850 - 94)
(毎日を収穫高で判断するのではなく、どれだけ種をまいたかで判断しなさい。)
 転がり落ちたところに根を下ろして大木にまで成長するドングリはまれである。
 それに比べれば、畑に蒔かれた種ははるかに成長の可能性を持っている。

 『高「校講座』「古文」は「俳諧 春夏秋冬」の第1回目。「和歌と連歌と俳諧」ということで、この3つのジャンルを一通り説明し、松永貞徳による「俳諧」の創唱に触れ、彼の代表的な句として「雪月花 一度に見する ウツギかな」を紹介した。これは言葉遊びの句で、ウツギの花は雪のように白く、その名には「月」(昔は濁点というものを使わなかった)を含み、そして花をめでる。(さらにウツギは夏の花であるから、春夏秋冬がこの句には読み込まれているというわけである。
 貞門の代表的な俳人の一人が北村季吟で、歌人、国学者としても知られ、特にその『源氏物語』の研究は優れたものである。彼の代表的な句としては、「年のうちへ 踏み込む 春の日脚かな」というのが紹介されている。これを講師の先生は、正月の小春日和を描いた句と解釈していたが、『古今和歌集』冒頭の在原元方の歌「年のうちに春はき゚にけりひととせを去年とは言はむ去年とは言はむ」(正月よりも前に立春が来てしまったので、これまでの一年を去年というのがいいのだろうか、今年というのがいいだろうか)を踏まえた歌と見るべきだろう。元方の歌は、正岡子規が下らないと罵倒したために、現在でも古今和歌集の最初に掲げられるのには荷が重いなどと評価する人が少なくないようだが、この時代の和歌が持っていた儀式的・政治的な性格を理解しない発言である。
 北村季吟は近江の人で、北村という姓の人は今でも滋賀県に多い。私の母の実家のあったあたりの人はたいてい北村か南村であったと母が生前話していたのを思い出す。そういえば義理の伯母の一人の実家の姓も北村である。

 赤塚りえ子『バカボンのパパよりもバカなパパ』(幻冬舎文庫)を読み終える。赤塚不二夫の一人娘の著者による父親の思い出。父親も母親も個性的、ギャグの英才教育を受けて育ったが、著者が8歳の時に両親は離婚。戸籍は父親のもとに残り、親権は母親が持つという複雑な環境ができる。母親の再婚、父親との再会、父親の再婚・・・。波乱万丈。「赤塚家では『バカ』が褒め言葉」(269ページ)ということで、『バカボンのパパよりもバカ』というのは父親に対する絶賛のことばと理解すべきである。

7月7日
 大腸の内視鏡検査を受ける。特に心配するようなところはないということで、ひとまず安心。

 検査を受けた後は、しばらくはおとなしくしていた方がいいということで、ニッパツ三ツ沢球技場で行われた横浜FC対モンテディオ山形戦を観戦に出かけず。後半に1点を先行されたが、アディショナル・タイムの最後の方になって佐藤選手がゴールを決めて追いつき、同点で引き分けた。順位は6位と変わらず。

7月8日
 『日経』の朝刊にアメリカでは学生ローンが巨額になりすぎて、国による上限の設定など、現行制度の見直し論が出ているという記事が出ていた。以前、ある英会話番組で米国人のパートナーが、日本では奨学金というけれども、実態としては学生ローンではないかと発言していたことがあった。両者の制度と実際の運用について、できる範囲で調べてみようと思う。

 新聞広告で見た限りの話だが、『AERA』7月16日号は「勝負は12歳か15歳か 中学受験vs.高校受験」を特集している。「子どものタイプ×家計×親の価値観」が判断の決め手となるという話のようだが、親が頓珍漢な価値観で子どもの個性や将来をだめにするという例もあるようだ。もっとも、私の周辺には、学校が子どもの個性をだめにすると信じている人も少なくない。
 私の場合は12歳組だったが、秀才の中でもまれて伸びたかというと、むしろ委縮したのではないかという気がしてならない。「子どものタイプ」というのはそういうことのようである。ただ、年を取ってくると、同じ中学・高校を出た医者が多いというのが結構心強いことになってくるので、学校歴というものは長い目で評価すべきなのであろうと思う。
 医者と言えば、文部科学省の局長が息子の東京医科大学への入学と引き替えに同大学を私立大学支援の助成対象としたという事件をめぐり、『AERA』は「親バカすぎる」、『週刊現代』(7月21・28合併号)は「本当のバカは『親父』か『息子』か『大学』か」、『週刊ポスト』(7月20・27日合併号)は「文科官僚『裏口入学』賄賂よりはるかに深刻な霞が関醜聞」として「『日朝外交敗戦』を招いた外務省「北東アジア課」分裂の全内幕」という見出しを掲げているが、こういうバカ競争が好ましいものではないことは言うまでもない。

 蛇足の一言、二言:ロシアでのサッカーのワールド・カップ、日本代表は健闘及ばず決勝トーナメント1回戦で姿を消し、初の準々決勝進出はならなかった。今後の課題としては、日本代表チームのこれが特色だというものを作り出して、さらに強力なチームを仕上げることが挙げられるだろう。とにかく、後、12年くらいは日本のサッカーに付き合っていきたいと思った戦いぶりであった(もっと付き合えればそれに越したことはない)。 

山内譲『海賊の日本史』

7月7日(土)曇り

 6月30日、山内譲『海賊の日本史』(講談社現代新書)を読み終える。表題が示すように、またこの本の一番最初のところに書かれているように「日本史上に現れる海賊の歴史をたどっ」(3ページ)た書物である。「海賊」という特定主題に対象を限定しているので、取り上げる時代がかなり広がっていても、このような取り組みは簡単そうに思われるがそうではないと、著者は言う。「海賊」と聞いて浮かぶイメージが人によって異なるからである。

 荒っぽくまとめると、現在使われている海賊という言葉には2つの意味がある。日本史上に実在した海上勢力についての呼び名というのが一つ、もう一つは、パイレーツを含めて世界各地に幅広く存在した、あるいは今なお存在する、海上で非法行為をなす武装勢力の総称である。後者を除外してしまっても、まだ問題は残る。なぜならば、日本の歴史の中で海賊と呼ばれた人々の行為は時代と地方によって異なるし、同じ人物あるいは集団がある時は法律の枠内で活動し、別の時には無法者となるという例もあるからである。

 そういうわけで、この書物の序章では、彼らの活動が最も活発であった戦国時代の瀬戸内海の様相が検討される。そして著者が海賊について把握しているおおよその姿を示したうえで、『海賊の日本史』がたどられることになる。目次を紹介してみよう:
はじめに――海賊とはなにか
序章   海賊との遭遇
第1章  藤原純友の実像
      1 純友以前
      2 承平の海賊
      3 天慶の乱
第2章  松浦党と倭寇
      1 平氏をささえた海上勢力
      2 「党」と一揆契諾
      3 海賊と倭寇
      4 海での生活
第3章  熊野海賊と南朝の海上ネットワーク
      1 薩摩の城を攻める海賊
      2 熊野灘の海賊
      3 熊野山と海賊
第4章  戦国大名と海賊――西国と東国
      1 瀬戸内の海賊
      2 北条氏・武田氏の海賊
      3 海賊から見る西と東
      4 海賊たちの転身
終章   海賊の時代
      1 海賊像の変遷
      2 『海賊』のニュアンス
      3 海賊たちの遺したもの

 今回は、以上のうち、第2章までを取り上げていくことにしよう。
 序章についてはすでに簡単に触れたが、海賊が船舶や旅人を襲って金品を強奪したという記録はあまり残されていないという。そういうことがなかった、あるいは少なかったというのではなくて、「あまりに当たり前すぎて、逆に記録に残されないから」(16ページ)であるという。その乏しい史料からわかることの1つは、瀬戸内海の海賊には狭い海域で活動し、通行料の徴収をこととする小規模で土着的なものと、瀬戸内海を広範囲に活動し、船舶に上乗りなどの行為によって警護料を徴収する有力海賊という2種類があったということである。上乗りはもともと、有力海賊の関係者が実際に船に乗り込むという形で行われていたが、後にはその代わりに「免符」「切手」など様々な名称で呼ばれる通行許可証のようなものを渡すという方法が出来上がったらしい。「免符」や「切手」を航行者に与えるに際しては、警固料が徴収され、それらは帆別料、駄別料、関役、津公事など様々な名称で呼ばれた。また、これらの通行許可証の代わりに、村上氏の家紋の入った旗を渡すようなこともあったという。このような旗はいくつか現存しているそうである。

 第1章では、平将門と東西呼応して中央政府に対する反乱=承平・天慶の乱を起こしたとされる藤原純友をめぐる近年の研究を踏まえて、彼がある時期までは海賊を取り締まる側に属していたことを明らかにし、その彼がなぜ海賊の側に身を投じたか、さらに彼の中央政府に対する姿勢などが論じられる。純友は承平海賊の鎮圧に功績をあげたが、その軍功が認められなかったために、反乱に至ったこと、関白になった藤原基経は純友の大叔父であり、その出自から政府との妥協をはかろうとしたのであるが、部下の暴走に引きずられて反乱に突き進んだと述べられている。
 著者は瀬戸内海とその周辺を主な研究対象としており、純友の活動した範囲についての考察など現地の事情をよく踏まえて取り組まれている。ところで、野口実『列島を翔ける平安武士たち』では、平将門の乱の平定に活躍した桓武平氏に属する坂東武士たちが<水軍>的な性格をもっていたとされること、彼らの一部は九州に移って活動したとされている。このような<水軍>的な性格は、ほかならぬ平将門にもみられたのではないか、とすると、著者のように将門と純友を対比的にとらえるのではなく、両者の共通点を掘り下げるほうが面白いのではないかという感想も出てくる。

 第2章では、鎌倉~南北朝時代の西海(九州西方海上)における松浦党の活動が主な関心事になる。松浦党の名が最初に現れるのは『平家物語』であるという。平清盛は瀬戸内海の航路の整備に意を注ぐなど盛んな海上活動を展開したが、それを支えたのは北九州の山鹿(山賀)秀遠、備後国鞆(広島県福山市)を拠点とする額(ぬか、史料によっては奴賀)入道西寂、阿波の有力者民部大夫重能ら各地の海上勢力であった。京都を追われた平氏が意外に長期間にわたって抵抗を続けることができたのも、瀬戸内海や九州の武士たちとその水軍力の支えがあってのことと考えられる。松浦党もそのような海上勢力の一つと考えられるが、必ずしも平氏一辺倒というわけではなかったらしい。最終的にこの戦いは源氏の勝利に終わるが、阿波の重能の裏切りとともに、伊予の河野氏を中心とする源氏方の海上勢力が次第に力を伸ばしていったことも大きな要因である。これらの海上勢力が「海賊」と呼んでよいような活動をしていたという証拠は見当たらない。海辺部に拠点を持ち、そこでの活動によって水軍力を蓄えてきた在地領主というのが妥当であろう。

 松浦党というのは、九州の西北部に位置する松浦地方を主たる活動の場とした中小武士団の総称である。松浦党の歴史は平安時代から戦国時代までに及ぶが、特に注目されているのは平安・鎌倉時代に見られた党という特異な武士集団の成立とその活動、南北朝時代に結ばれた広範な一族構成員による一揆契諾、さらに前時代を通じて見られた、漁業や交易など海に関わる活動である。
 そのように書いているが、この書物では「党」という独特の武士団の定義や性格についてはほとんど触れていない。「党」について、手元の角川日本史辞典は惣領の統制力のもとに結合した武士団で、例外的に松浦党のように共和的連合の例もあったと記している(私の持っているのは古い版なので、現行版では書き改められているかもしれない)が、安田元久は『武蔵の武士団』で、惣領・庶子の関係も明らかでない共和的結合を保っている武士団という定義をしている。安田は「党」は武蔵七党というように、武蔵にしか見られないとしているが、角川日本史辞典には紀州の湯浅党、隅田党の例を挙げている。このように「党」と呼ばれる武士団が散在しているのには何か理由があるかもしれず、しかもその理由が武士(団)の海上活動と関係するかもしれないので、さらにこの問題を掘り下げてほしいという気がする。
 詳しいのは一揆契諾の方である。「一揆契諾というのは、一族のものが共通の利益を守るために(後には松浦党以外のものも松浦一族を名乗るようになるが)、寄り集まって契約を結ぶことで、南北朝時代を中心に何回にもわたってこの契約が結ばれたことが知られている。」(78ページ) 意思決定に際して「談合」を行い、多数決によって行動の統一を図るという内容は共和的と言えるが、近年ではこのような性格は松浦党の本質にかかわるものではなく、鎌倉時代から南北朝時代にかけての松浦党の変質の中で出現したものだという説が有力なようである。このあたり、さらに研究の深化が望まれるところであろう。

 さて、松浦党は海賊かというと、そのように呼んだ例はあまり見当たらないが、海上での非法行為を働いた形跡はあるという。漂泊船やその積み荷を持ち主に返さずに私物化するのは非法行為とされたが、実際には漂泊地の住民が私物化する例は多かったと推測される。これは瀬戸内海を航行する船から通行料を徴収することが非法とされたのと似通う事例であるという。
 また松浦党は倭寇かというと、日本国内での所領の確保に全力を挙げていた松浦党が倭寇になったとは考えにくく、村井章介さんが論じているように「松浦党のもとにある住民層が戦乱や飢饉などによる社会的混乱時に、松浦党のくびきから離れて「境界人」としての特性を発揮したとみるべきだろう」(94ページ)という。
 それでは松浦党の人々は日常的にはどのようなことを生業としていたかというと、松浦党の一派であった青方氏の残した『青方文書』によると漁業と製塩、さらに船材を供給するための船木山を所有し、場合によっては造船も行っていたようである。

 以上、初めの方の部分だけしか紹介・検討できなかったが、新たに得た知見が多く、日本史を海から見直していくことの意義を教えられた一方で、まだまだ解明できていないように思われる謎も見いだされ、両方の意味で読みごたえのある書物ではないかと思う。

森本公誠『東大寺のなりたち』(2)

7月6日(金)雨が降ったりやんだり

 この書物は東大寺の僧として、この寺院の歴史を内側から知り、探索するようになった著者の体験と関心を語る「はじめに」の後、次の6章から構成されている:
第1章 東大寺前史を考える
第2章 責めは予一人にあり――聖武天皇の政治観
第3章 宗教共同体として
第4章 廬舎那大仏を世界に
第5章 政争のはざまで
第6章 新たな天皇大権の確立
 前回は、第1章の内容を見た。そこでは、聖武天皇が幼くして世を去った基親王の菩提を追修するために建立した山房がさらに国家平安を祈るための寺院となり、大養徳(大和)国の国分寺である金光明寺に発展した経緯が語られていた。今回は第2章を取り上げる。

 第2章「責めは予一人にあり――聖武天皇の政治観」は、まず聖武天皇が巨大な廬舎那仏像の造立を発願されたことの理由の探索からはじめられている
 日本の古代国家は、天智称制3年(663)に白村江の戦で敗戦して以来、中国(唐)にならって律令体制を採用しようとした。壬申の乱(672)の勝利者である天武天皇は日本独自の律令の制定に取り組むとともに、皇位継承をめぐる権力闘争を回避する手段として天皇の神格化を図った。この2つの流れは、その後も継承され、天武天皇の孫である文武天皇の時代に「大宝律令」が制定された。当時の宣命には天皇の統治権の由来は皇祖神にあり(いわば王権神授説である)、統治の責任を皇祖神に対して負うという考えが盛り込まれている。
 律令制の思想的な基盤をなしているのは「経史」である。「経」は儒教の経典、「史」とは中国古代の歴史書である。これらは中国の権力者たちが長年にわたり培ってきた統治のための哲学と経験則であり、これらを古代の日本は受け継ぎ、帝王学の内容としたのであった。
 聖武天皇は即位後、次々と新しい政策を出しているが、その内容は帝王学として学んだことを実際の政治に生かそうとするものであった。これらの政策は、罪人たちの刑罰を軽減したり、病人に医療を施したりという徳治主義的なもので、その背後には国家を家族になぞらえ、君主は父母として民の面倒を見るべきであるという擬制的家族国家観があった。これは中国の影響によるものである。
 さらに天皇は官人の綱紀粛正と官僚制度の改革を断行し、その過程で保守派の長屋王らを排除していった。このように聖武天皇は儒教的な徳治主義の政治を推進したが、その一方で「釈教」と総称されていた仏教についても一定の配慮を怠らなかった。
天皇は即位2年の神亀2年(725)に社寺の境内が穢臭に満ちているようでは神仏を敬う心は生まれないとして、国司の長官に社寺の境内の清掃を命じた。その際に、寺院については清掃に加えて『金光明経』を読誦して国家平安を祈らせるように、この経典がなければ新訳の『金光明最勝王経』でも構わないと明示した。『金光明経』には君主がその主権を神から与えられているという仏教による王権神授説的な政治思想が含まれているという。聖武天皇はこの考えに深く心を動かされたようである。

 基親王がなくなった翌年、神亀6年(729)は、2月に長屋王の変が起こり、8月には年号が天平と改元され、藤原光明子が皇后となった。〔藤原氏による権力の掌握が進んだと理解することもできる。〕 その一方で、班田収授法に基づく口分田班給が全面的に見直され、経済と国民生活に直接影響の及ぶ改革も進められた。
 このように多忙を極めたはずの時期に、聖武天皇は学習することを怠らず、中国文化の学習に励んでいる。すなわち、天皇31歳の天平3年(731年)には、六朝時代から唐代にかけての詩文集から145編を選んで書写している。正倉院に現存する『雑集』がこれで、2万余字に及ぶ長大なものだという。
 『雑集』に書写された詩文は仏教関係のものが多いが、その中で唐代の僧釈霊実の作品が30首収められていることが注目される。30首の中には開元5年(養老元年、717)と年紀が記されたものがあり、ほぼ同時代の作品といってもよい。森本さんは養老2年(718)に帰国した遣唐使一行に加わっており、大安寺造営の責任者に任じられていた僧侶の道慈が、釈霊実の詩文集を日本に持ち帰り、また聖武天皇に様々な新知識を伝えたのではないかと推測している。「『雑集』の中に、最新の中国仏教思想が盛り込まれている詩文を採録したことは、仏教思想を中国と同時代的に受容しようとした聖武天皇の意思を感じさせる。」(50ページ) しかも、この『雑集』の中には華厳経と廬舎那仏信仰に関わる釈霊実の詩文が含まれているという。既にこの時期に、聖武天皇は華厳経についてのかなりの知識を持ち、廬舎那仏の本質についての認識を深めていたことが知られるという。

 聖武天皇は、このような自身の研鑽と治世の実績で自信を得たのか、天平4年(732)正月の朝賀の儀に当たって、冕服(べんぷく)という中国の皇帝が身につけるのと同様の冕冠と礼服を着て臣下の拝礼を受けた。〔52ページに図が示されているが、横山光輝の漫画で中国の皇帝が着ているのと同じ服装だというのがわかりやすいのではないか。〕
 ところが、この年、干ばつが起き、それを自らの不徳の結果だと認識した聖武天皇は天神地祇をまつり、また罪人に減刑を行うなどの措置を講じるが、干ばつの結果としてその翌年に起きた飢饉を防ぐことはできず、天平6年(734)には大地震が起きた。これらのことから、天皇の気持ちはますます「相手の立場に寄り添って考える」という仏教の思想に近づいて行ったのではないかと著者は論じている。
 「かならずしもこれまでの律令政治の指針を捨てるということではないが、天平6年に至って、仏教を最上のものとして選択し、政治の基軸を仏教に移すと決断したのである。ときに34歳であった。これがその後に苛烈を極めた天災と疫病、そして何よりもそうした天変地異は為政者の政治が悪いからだとする災異思想の呪縛との戦いで、天皇の心の支えとなるのである。」(55‐56ページ)

〔もう少し、先まで紹介したほうがいいのだが、明日(=7日)に、腸の内視鏡検査を受けることになっていて、バタバタしているので、今回はここでやめておくことにする。 それで、明日はこのブログの更新ができるかどうかわからないし、また出来ても、皆様のブログを訪問する余裕ができそうもない。失礼をあらかじめお詫びする次第である。〕
 

ウィルキー・コリンズ『月長石』再読(3)

7月5日(木)曇り、時々雨

 1848年の6月にヨークシャーのヴェリンダー家の令嬢レイチェルの誕生日の贈りものとしてもたらされたインド伝来のダイヤモンド=月長石は、彼女の誕生祝の晩餐会が開かれた夜に突然、消失してしまった。その後、各方面の捜索にもかかわらず、宝石は見つからず、ついに殺人事件までが起きる…。
 事件が一応の決着を見た1850年5月に、当事者の1人であったフランクリン・ブレークがヴェリンダー邸を訪問し、この事件の真相を書き残す証言集をまとめようという彼の決心を語り、ダイヤモンドの消失の前後の事情についてまとめることを、邸の執事であるガブリエル・ベタリッジに依頼する。
 証言集は、ベタリッジの証言の前に、ある家の記録からフランクリンが探し出してきた「月長石」の由来についての文書を載せている:「月長石」と呼ばれるダイヤモンドは、もともとヒンズー教の「四本の手の神」である月天の神像の額を飾っていた宝石であり、月の満ち欠けとともにその光沢が移り変わると信じられ、またかわるがわる3人のブラーフマンがヴィシュヌ神の命令によりこの宝石を守っており、宝石に手を触れた神を恐れぬ者には災いが下るものと信じられてきた。やがて、この宝石はセリンガパタム(シェリーランガパトナ)のスルタンであるチッポ(ティップー)の手に入り、その短剣を飾っていたが、1799年にこの都市が英軍によって攻撃を受け、陥落した際に、英軍の将校であったジョン・ハーンカスルの手に渡った。そして英国に運ばれたものである。

 ベタリッジは、農民の出で幼いうちからハーンカスル家に奉公し、その3番目の令嬢であるジュリアに気に入られて、彼女がヴェリンダー家に嫁いだ後、ヴェリンダ―家の使用人となり、やがて土地差配人を務めるようになり、さらに執事になったのであった。早く妻を亡くしたが、娘のペネロープが無事に成長し、彼女もヴェリンダー家の令嬢であるレイチェルの召使として邸に務めるようになっていた。
 フランクリンの頼みを聞き入れて、手記の執筆にとりかかったベタリッジであるが、宝石の一件についてどのように整理して書いていけばよいのか、さっぱり知恵が浮かばない。そこで彼は娘のペネロープに相談すると、学校で教育を受けて日記をつける習慣を身につけていた彼女は、毎日の出来事をきちんと日を追って書いていけばいいと助言する。その日付については、ペネロープが自分の日記を見て教えるという。それならば手記をペネロープが代筆すればいいようなものだが、彼女には彼女なりの秘密があって、他人に自分の日記は見せられない様子である。
...her journal is for her own private eye and that no living creature shall ever know what is in it but herself. When I inquire what this means, Penelope says, 'Fiddlesticks!' I say, Sweethearts. (Penguine Popular Classics, p.23)
(中村訳) 日記は自分だけがそっと見るもので、何が書いてあるか、他の人には教えないのだといった。それはどういう意味なのかとたずねると、ペネロープは「知らない!」と言った。私はいい人でもできたんだろうと言った。(27‐28ページ)
fiddlesticksは古風な言い方で、怒りや苛立ちを表し、「しまった!」、「くだらん!」と辞書に説明されている。〔文字通りに訳せば、viddle=バイオリンの棒sticksということになる。バイオリンを弾くのは弓bowであって、棒でないのはご存じのとおりである。〕
 ベタリッジの発言には引用符がついておらず、sweetheartには「恋人」という意味もあるが、sweetheartsと複数形であるから「おやおや」というような親から子どもに対する呼びかけのことばとして理解すべきであろう。(随分、大人じみた理屈を言うじゃないか…くらいの気持ちを読み取るべきではないかと思う。)

 1848年5月24日(水曜日、調べてみたところ、確かに水曜日であった、日本では天保暦で嘉永元年(戊申)4月24日ということになる、時差があるが、そんなところまで付き合ってはいられない)、ヴェリンダー卿夫人がベタリッジを呼んで、フランクリン・ブレークが外国から帰ってきて、ロンドンの父親のところに滞在中だが、明日ヴェリンダー邸を訪問し、6月まで滞在してレイチェルの誕生祝に出席すると知らせてきたという。
 前回書いたことをもう一度おさらいしておくと、フランクリンは、ヴェリンダー卿夫人の長姉であるアデレイドの息子で、レイチェルには従兄にあたる。ベタリッジはフランクリンが幼いころのことしか知らないが、
He was, out of all sight (as I remembered him), the nicest boy that ever spun a top or broke a window.
(中村訳) あの方のことはよくおぼえているが、こんなかわいらしい坊っちゃまはないほどで、よくコマをまわしたり窓ガラスをこわしたりなさったものだ。
 どうもこの個所がよくわからない。out of all sightは、中村訳では省かれているが、「目の見えないところにいても」という意味であろう。spin a topは「コマをまわす」ということだが、break a windowは「窓ガラスを破る」ということでいいのだろうか。あるいは、次のように解釈すればいいのか:「あの方は、(私が記憶しているところでは)目の見えないところにいても、最も素晴らしい少年であった。コマをまわしていようと、窓ガラスを割ったりしようと。」 ところが、同席していたレイチェルは反対の意見を述べる。記憶する限りで彼女はフランクリンから乱暴に扱われたというのである。
 
 『月長石』という小説の特徴は、様々な人間の手記から構成され、それぞれの人間が自分の主観的な目で事件を回想している。そのために個々の人物の評価が、書き手によって異なり、読者はその異なる判断をもとに、事件の真相をつきとめなければならないというところにある。ここで、子ども時代のフランクリンをめぐり、ベタリッジとレイチェルの評価が分かれているのもその一例である。もっとも、レイチェルが自分の本心を隠していることもありうるのであるが…。
 もう一つ気をつけていいことは、1848年6月21日にレイチェルは満18歳の誕生日を迎えることになるが、フランクリンは25歳ということであり、両者には大体7歳の年の差がある。レイチェルが記憶するフランクリンは少なくとも11歳くらいにはなっているはずで、もしレイチェルが言うように彼が彼女を乗馬のように扱ったとすると、これは少年と幼女の遊び方としては異常に思われる。レイチェルの記憶があいまいになって、ほかのだれかの記憶と混同されていると考えるほうがいいのかもしれない。
 さらにもう一つ、フランクリンの幼年時代に、ベタリッジはヴェリンダー邸の執事ではなく、土地差配人だったはずで、家族の人々とどの程度日常的に顔を合わせていたかというのも疑問である。

 フランクリンが子ども時代をヴェリンダー邸で過ごし、その後、なぜ邸を訪問しなかったかというと、彼が外国で教育を受けていたからであるとベタリッジは言う。すでに述べたように、フランクリンの父はヴェリンダー卿夫人であるジュリアの姉アデレイドの夫であるが、大金持ちであるとともにある公爵家の一族で、現在の当主ではなく自分こそが正統の後継者であるという訴訟を起こし、その裁判の過程で夫人(つまりヴェリンダー卿夫人の姉)と自分の3人の息子のうちの2人をなくし、しかも訴訟は敗訴に終わったので、英国に復讐するつもりになった。しかも彼は子どもが嫌いだったので、一人だけ残った息子のフランクリンをドイツの学校に送ったのである(ご本人は英国の国会議員たちを啓蒙し、現在の公爵に対する声明書を執筆するために英国にとどまっていた。ベタリッジはかなり抑えた調子で書いているが、フランクリンの父はかなり独善的で思慮の浅い人物のように思われる。)

 いよいよ話題はダイヤモンドに及ぶことになる。
The Diamond takes us back to Mr Franklin, who was the innocent means of bringing that unlucky jewel into the house.
(中村訳)「ダイヤモンドというとフランクリンさまを思いだすが、あの方にしても、べつに悪気があってあの不吉な宝石をお邸にもちこんだわけではなかった。」(30ページ)
 持ち込んだ事情については、物語の進行につれて明らかになる。ただ、悪気がないにせよ、(父親譲りということであろうか)思慮が浅かったことだけは否定できない。

 フランクリンはドイツの学校で教育を受けたのち、フランスに移り、さらにイタリアに出かけた。文学、美術、音楽…あらゆることに自分は才能があると思い込み、手を出した。〔これは多少の才能がある人間にはありがちなことで、ゲーテやトルストイの青年時代のことを思い出せばいい。彼らはいろいろなことに本当に才能を発揮したのであるが、ただそう思っているだけで、実際にはすべて三日坊主に終わるという青年が多いことも否定できない。〕 そしてフランクリンはあちこちで借金を重ねた。「成年に達したとき、お母さまの遺産が(年額700ポンド)あの方のふところにはいり、まるでザルから洩るように、右から左へと消えてしまった。あればあるほど、お金をほしがられた。フランクリンさまのポケットには、どうにも縫いあわせようのない穴が開いていたらしい。」(30ページ)

 フランクリンのように英国の上流階級に属する少年は、家庭で親または家庭教師による教育を受けた後、パブリック・スクールに進学する例が少なくなかった。1848年に発表されたウィリアム・メークピース・サッカレーの『虚栄の市』に登場するウィリアム・ドビンは裕福な商人の息子であり、上流とは言えないが、19世紀のはじめごろに、やはりパブリック・スクールで教育を受けている。しかし、パブリック・スクールの教育が名実ともに英国の教育のdefining institution(定義的施設)になるのはトーマス・アーノルド(1795‐1842)がラグビー校の校長としてパイングランドのパブリック・スクールの改革を行った1828年から1842年にかけての後のことであるといってよい。『虚栄の市』に戻っていえば、ベッキー・シャープとアミーリア・セドリーはロンドンのチジック・モールにあったアカデミーで教育を受けており、19世紀の前半について言えば、アカデミーがパブリック・スクールを凌いで教育の主流になる可能性もなくはなかったのである。だから教育の水準ということで言えば、フランクリンは同世代の英国の紳士に引け目を感じることはなかったはずであるが、友人をつくるとか、社会のしきたりを知るとか、そういう意味での不利益を受けたかもしれないということを念頭においてほしい。それから、母親の遺産の年に700ポンドというのはかなり莫大な額であって、少し時代は前になるが、ジェーン・オースティンの小説の登場人物が年に約200ポンドの収入のある牧師禄を得たことで、結婚が可能になったという話を思い出してほしい。

 しかし、フランクリンは人好きのする青年であったので、あちこちで歓迎され、なかなか英国に戻ることはなかった。some unmentionable woman (あるいまわしい女性)が邪魔をしたのだと、少し遠慮しながらベタリッジは書いている。そして2度、帰国に失敗して、3度目にようやく帰国したのである。以上、ベタリッジが書いてきたことから浮かび上がるのは、人のいい、しかし思慮の浅い、ある意味でだまされやすい青年の姿である。人好きがするといっても、どんな人間から好かれるかということも問題である。とにかく、翌日、ということは1848年5月25日、木曜日にフランクリンはヴェリンダー邸にやってくるはずである。次回はそして何が起きたかを書いていくことにしよう。

 『月長石』を読んでいて、これが1848年に起きた事件を扱っていること、フローベールの『感情教育』とほぼ同じ時代の、同じ年代の青年たちを登場させていることに気づいた。『感情教育』は今のところ1846~7年の動きを追っているのだが、まもなく1848年の二月革命が起きる。フランクリンが1822年か1823年の生まれ、『感情教育』のフレデリックは1821年か1822年の生まれと考えられ、ほぼ同じ年齢である。しかし、両作品の中で描かれている社会の動き、主人公たちの思想と行動はかなり違うことに気づくはずで、それが国の違いによるのか、それとも作者の気質の違いによるのかを考えることは興味深い問題ではないかと思う。

トマス・モア『ユートピア』(8)

7月4日(水)曇り、時々晴れ、暑い。

 1515年、イングランドの法律家であったトマス・モア(1477/78-1535)は、イングランドとカスティーリャのあいだに起きた紛争を解決するための外交使節団の一員としてフランドルに赴き、会議の中断中に、アントワープの市民であるピーター・ヒレスの歓待を受ける。ある日、モアはヒレスから世界中を旅してきた哲人であるというラファエル・ヒュトロダエウスという人物を紹介される。彼は(1503年から1504年にかけて行われた)アメリゴ・ヴェスプッチの新世界への第4回目の航海に同行しただけでなく、帰国せずにそのまま現地にとどまり、さらに各地を周遊してヨーロッパに戻ってきたという。ラファエルの博識とその経験とに感心したモアとピーターはどこかの王侯に仕えてその顧問として彼の知見を活かすように勧めるが、王侯の取り巻きが無定見であることを知っているラファエルは固辞しつづける。モアとピーターはプラトンの哲人王の主張を引き合いに出すが、ピーターは国王に哲学を尊重する気持ちがあることはまれであるという。国王とその取り巻きたちの主要な関心は他国への侵略戦争なので、平和主義者のラファエルには耐えがたいものである。〔モアが1515年にフランドルに出かけたのは実際の出来事で、ヒレスも実在の人物である。というより、モアの書いた原稿をもとにエラスムスと協力して『ユートピア』という本を出版したのがほかならぬヒレスである。フィレンツェ出身のアメリゴ・ヴェスプッチは新世界に4回の航海を試み、それが欧州人には未知の「新」大陸であることを主張した人物であるが、彼が本当に4回の航海を行ったのかをめぐっては議論が続いている。とくにラファエルが参加したという4回目の航海は本当に実行されたのか疑問視されているようである。ラファエルがコロンブスではなくて、ヴェスプッチの航海に同行したという設定の中に、モアを含むルネサンス人の新大陸への航海をめぐる認識が現れていると思うのは私だけであろうか。〕

 前回の最後の方で触れたように、ラファエルは特にフランス国王がイタリア侵略を盛んに推進していることを非難している。そしてその国王に向かって、「イタリアなどは忘れるべきだ…フランス王国一つでさえも、一人の人間によってうまく統治されるには大きすぎるし、そもそも王はほかの国々の併呑などを考えなさるべきではないのだから自領に引っ込んでおられるのがよい」(97ページ)などといっても、その意見が採用されるわけがないという。まして、ユートピア人の島の南南東に住む、アコール人たちの法令を採用するように提案したら、どうなることであろうかという。

 アコール人と訳されているのはAchoriiでギリシア語のαχωρος(場所なしの)という言葉からの造語で、placeless peopleという意味だそうである。
 「アコール人たちは大昔に戦争をやり、古い血族関係をたてにして相続権ありと王が主張していたほかの王国を獲得しましたが、それをとってから彼らは、この王国を維持するための苦労や面倒は、獲得するために費やした苦労と比べて皆無といえないこと、やれ内乱だ、やれ外敵の侵入だというような混乱の萌芽が常に被征服者たちの間に萌してくるものだということ、つまり被征服者たちのために、または彼らに敵対して常に戦っておらねばならず、軍縮をする機会は決してないということを知ったのです。」(97-98ページ) しかも本国はというと経済的に疲弊し、金は海外に流出し、多くの犠牲を払ったのに、生活風習はむしろ堕落し、社会は安定を失ったという。つまりもともと領有していた国も、新たに獲得した国も両方ともその政治がうまくいかず、社会も不安定になってしまったが、「これも、王が2つの王国の面倒見で気が散っていて、どちらに対しても十分心を向けることができなかったからです。」(98ページ)
 これはアコール人たちの国などという作り話を設けなくても、その当時のヨーロッパではありふれていた現象である。ルネサンスすなわち古代の古典的な文化の復興が起きた時代は、その一方で各国で絶対主義王政がその形を整え、国民国家が形成されてゆく時代でもあった。わかりやすい記述として、Hendrik Van Loon, The Story of Mankindの中のこんな箇所をあげてみよう。「1500年という記憶しやすい年に、世界がどんな姿をしていたかを見てみると、この年は(神聖ローマ帝国の)皇帝カールⅤ世が生まれた年であるが、このようなものである。中世の封建的な混乱は高度に中央集権化された多くの王国の秩序に取って代わられていた。すべての君主の中でもっとも強力であったのは、当時はゆりかごの中の赤ん坊であった大カールである。彼は(アラゴンの)フェルディナンドと(カスティーリャの)イサベルの、また中世の騎士たちの最後の1人であるハプスブルク家のマクシミリアンの孫であった。マクシミリアンの妃のマリーはブルゴーニュのシャルル突進公の娘であり、突進公はフランスとの戦いを成功裏に進めたが、独立を目指すスイスの農民たちに殺害されたのであった。それ故にカールは地図の大部分の、アジア、アフリカ、アメリカにあるすべての植民地とともに、ドイツ、オーストリア、オランダ、ベルギー、イタリア、スペインにある彼の両親、祖父母、叔父たち、いとこたち、伯母たちの全ての領地の相続者として生まれたのであった。」(Loon, 1973, p.242) この時代にはアラゴンとか、カスティーリャとか、ブルゴーニュとかナヴァールとかいう小さな王国、公国が姿を消し、スペインとかフランスとかいうより大きな王国、帝国が成立していた。イングランド(とウェールズ)におけるチューダー王朝の支配の成立は、封建的な貴族の没落を意味していた。『ユートピア』はこのような統治形態の変化の血なまぐさい様相を目の当たりにしながら書かれている。〔ルネサンス時代に限らず、平和を守るとか、国際秩序を維持するというような一見したところでは非の打ちどころのない大義名分を掲げて、他国に恥知らずな軍事介入することは、現在でもまれではないことをご存じのはずである。〕 おそらくはあまり生々しい表現を用いることは、当局を刺激することになると、寓話的な表現をとることにしたのだと思われる。モア自身が政府高官の一人なのだから、よけい表現には慎重にならざるを得ないのである。

 結果として、この国王の参議会員たちは、国王に対し、2つの国のどちらかの統治をあきらめ、1つを選んでほしいと丁重に頼んだ。国王は賢明な人物であったので、この頼みを聞き入れ、もともと彼が治めていた国の方を選び、新たに獲得した国は彼の友人の一人に譲り渡した。
 もし、この例を、ヨーロッパのどこかの国の国王に語り聞かせたら、おそらく否定的な反応しか返ってこないだろうという。
 さらに国王たちの宮廷では、新たな税金制度を設けたり、貨幣政策を改めたり、様々な方策を用いて民衆をいかに収奪して、国王の富を豊かにするかについての方策が盛んに議論されているという。民衆を貧困な状態にすることこそ平和の要諦であると議論されている。さらに、ここでは軍隊を養うために金はいくらあっても足りないものであるというローマの大金持ちのクラッススの言葉が思い出されてよい(クラッススは、スパルタクスの反乱を鎮圧し、カエサル、ポンペイウスと第一次三頭政治を行ったローマの富豪、政治家であるが、澤田さんによると、ここでのラファエルの引用は、元の意味とは違った意味で用いられているそうである)。
 王侯の取り巻きたちは、こんな考えに賛同しているのだが、ラファエルの考えは違う。彼は「君主というものは、自分自身よりも彼の民がよく暮らせるように、いっそうの配慮をすべきものだ」(102ページ)と考えている。そして、貧しい民衆の支配者であるよりも、豊かな人々を支配することのほうが君主にとって名誉ではないかという。「王は人に迷惑をかけず自分の所得で生活し、支出を収入に合わせ、犯罪非行を抑えるようにすべきであり、犯罪非行を放置しておいて後で罰するよりも、民衆を正しく教育することによって、これを未然に防止すべきである。」(103-104ページ) 国王が自分自身よりも臣民たちの豊かさを重んじるようなありかたとしては、ユートピアからさほど遠くないところにあるマカレンス人の制度を見るのがいいだろうとラファエルは言う。次回は、そのマカレンス陣の制度についてみていきながら、さらにユートピアに近づいていくことになるだろう。

『太平記』(217)

7月3日(火)晴れ、暑い。

 建武4年(南朝延元2年、1337)8月、奥州国司兼鎮守府将軍の北畠顕家は、白河結城家の結城宗広をはじめとする奥州の軍勢を集めて、8月19日に白河関を発ち、鎌倉管領足利義詮(尊氏の三男、後の室町幕府二代将軍)の軍と利根川で戦って勝利した。〔戦闘がいつ、どこで行われたかを『太平記』の記事から知ることはできない。この時代の利根川の流れが東京湾に注いでいたことは知られているが、より具体的にどのようなものであったかを正確に知ることはできないようである。ただ顕家の率いる奥州軍は鎌倉街道の中の道を進んだと考えると、現在の栗橋市付近で戦闘が行われたと推測できる。中の道を進んだとすると、その後、顕家軍が武蔵国府に滞在して様子を見たということとも矛盾しない。『太平記』本文には、足利義詮が上杉憲顕を大将として派遣したとあり、義詮自身が出陣したとは書かれていない。〕
 伊豆では鎌倉幕府最後の得宗・北条高時の次男である相模次郎時行が、上野では新田義貞の次男徳寿丸(後の義興)が挙兵し、鎌倉の足利方は、敵の大軍を迎え撃ったが敗走した。〔鎌倉街道の上の道から攻め込んだ奥州軍に斯波家長が敗死し、その他の軍勢は散り散りになりながら逃げたと記されている。〕
 建武5年(この年8月に改元し、暦)応元年、南朝延元3年、1338)正月、北畠顕家の大軍が鎌倉を発って西上したが、鎌倉で敗れた足利方も、軍勢を集めて西上した。60万余騎の奥州軍が西へと急行し、そのあとを8万騎の足利軍(上杉憲顕、桃井直常、高師茂、坂東八平氏、武蔵七党、芳賀高名らの軍勢に途中から、今川範国、土岐頼遠らが加わる)が追いかけるという展開になった。

 北畠顕家の軍勢を追う関東からやってきた足利勢は、美濃の国に到着して軍議を開き、将軍足利尊氏はおそらく宇治、瀬田の橋板を取り外して、応戦されるだろう。この作戦をとった場合、奥州軍はなかなか渡河できず、無為に日々を過ごすことになるだろう。そうして敵が倦み疲れて弱ったところを川の向うの味方とあい呼応して攻め立てれば、たちどころに勝利できるだろうという話合いになった。
 その時、それまで黙って話し合いを聞いていた土岐頼遠が口を開き、「そもそも、目の前を進軍していく敵を、それが大勢だからといって、矢の一本も射かけないで、後になって疲れるまで待つというのは、昔楚の宋義が「虻を殺すには、その馬を撃たず」といったのと似ているのではないか。世間の評価は、この目の前の敵との一戦にある。都にいる味方がどう動くかはまだわからないのである。頼遠の考えでは、命がけの一戦をして、義によって(戦死して)さらすことになった屍を墓場の苔に朽ちさせようと思っている」と断固として言い放ったので、他の大将たちもその言い分を認めて、この意見に賛同したのであった。〔ここで頼遠が言っているのは、あてにならない先のことばかり考えて、事態の本質を見失うべきではない。目の前の敵と戦うべきであるということであろう。その意味で、この引用が適切かどうかは、また別の問題である。岩波文庫版の脚注に詳しい解説が出ているが、この話は『史記』の「項羽本紀」に出てくるそうで、『太平記』の作者が必ずしも正確に元の話を理解していなかったことが読み取れるが、詳しいことは各自で調べてみてください。他の大将たちは、利根川の戦い、鎌倉の攻防戦と連戦し、東海道を猛スピードで進撃する奥州軍を追いかけてきてへとへとになっているのに対し、頼遠はずっと美濃にいたので、元気いっぱいで、そのあたりの状態の差が意見の違いになって表れている。このように勇ましいことを言われると、なかなか反論をしにくいというのは、会議の中ではよくありがちなことである。〕」

 奥州勢の先陣は垂井、赤坂あたりについていたが、痕から追いかけてきた後攻めの軍勢が近づいてきたという情報が入ってきたので、まずその敵を退治せよということで、3里引き返して、美濃、尾張両国のあいだのあちこちに陣を構えて敵を待ち構えた。
〔足利勢は美濃で軍議を開いたと書かれているのに、奥州軍は美濃、尾張の両国の国境付近まで戻ってきたというのがどうも腑に落ちない。〕
 後攻めの勢(足利勢)は、8万余騎を五手に分けて、攻撃の順番を鬮(くじ)で決めたので、まず一番に信濃の守護小笠原貞宗と、芳賀禅可(高名)が2千余騎で、自貴(じぎ、食=じきともいう。岐阜県羽島郡岐南町の旧地名。したがってこの渡しというのは木曽川の渡しということになる)へと駆け寄せれば、奥州の伊達郡、信夫郡の兵たち3,000余騎が川を渡って対抗して戦い、芳賀、小笠原は散々にかけ散らされて、大敗を喫したのであった。

 二番手として、高(大和守)重茂が3,000余騎を率いて墨俣川(長良川)を渡河して攻撃をかけようとしたが、川を渡り終えないうちに相模次郎時行が5,0000余騎で攻めかかり、互いに笠符(かさじるし)を目印にした馬上の組討となり、組んで落ち、落ち重なって首を取る。約1時間余り戦闘は続いたが、大和守の頼みとしていた300余騎の兵が戦死したので、東西にばらばらになって逃げ、山を退却場として引き上げた。

 三番手として今川範国(貞世の父)、三浦新介高継が阿字賀(羽島市足近町)に進出して、横合いに攻めかかろうとしたが、奥州勢の南部、下山、結城宗広が1万余騎でこれを迎え撃ち、火が出るほどの激しさで戦った。三浦、今川はもともと少数だったので、この戦闘にも負けて、川から東へと引き退いた。

 四番手として、上杉憲顕、憲成の2人が武蔵、上野の兵たち都合1万余騎を率いて、青野原(大垣市青野町から不破郡垂井町一帯の野原で、後には関ヶ原と呼ばれるようになった)に攻め入った。奥州軍からは新田徳寿丸と宇都宮の紀清両党が3万余騎で立ち向かう。上杉の紋は、竹に対雀(むかいすずめ)、新田は大中黒、宇都宮は右三つ巴、両軍の武士たちはともに北関東の日ごろから知り合っている間柄だったので、卑怯なふるまいをして後々までの物笑いの種になるようなことはしまいと、互いに一歩も退かず、命の限り戦った。両者死に物狂いの戦闘が展開されたが、数に勝る奥州勢が勝利をおさめ、上杉方はついに敗れて、右往左往に落ちてゆく。

 五番手として桃井播磨守直常、土岐弾正少弼頼遠が精鋭ばかり1,000余騎をすぐって、はるかに開けた青野原に打ち出て、敵を西北に受けて控えた。ここには国司鎮守府将軍顕家卿、その弟の顕信、出羽、奥州の6万騎の軍勢を率いて迎え撃つ。敵味方の数を数えると、奥州勢1,000騎に足利勢1騎で向かっても、まだ足利方が足りないという様子であったが、土岐と桃井はひるむ ことなく、前に恐れるような敵はいないし、後ろに退こうとする心は全くないような様子であった。鬨の声を挙げる時間も惜しむ様子で、1,000余騎が一体になって敵の大勢の軍勢の中に駆け入り、半時ばかり戦ったが、さっと戦いを切り上げて敵中を駆け抜け、軍勢を点検してみると、300余騎が戦死していた。残る700余騎をまた一手にまとめて、奥州勢の副将軍である北畠顯信の控えていた3万余騎の中に駆け入り、東に敵を追い、南に駆け散らし、汗をかいている馬の足を休めようともせず、太刀の切り結ぶ音を止めるときもなく、や、という声を出して切り結び続けた。

 1,000騎が1騎になるまでも、引くな、引くなと互いに気を励まして、これが勝負の分け目と戦ったのではあるが、雲霞のような敵の大軍に圧倒され、ここかしこで包囲され、勢いがつき、気力も衰えてしまい、700余騎だった軍勢も次々に討たれて23騎に減ってしまい、土岐頼遠も左の眼の下から右の口脇、鼻まで切り傷を負い、長森の城(岐阜市長森)に退却する。桃井も30回を超える攻防に、率いる武士は76騎にまで減ってしまい、乗馬の尻や、鬣の下の部分まで太刀を浴びせられ、戦いにつかれたので、戦闘はこの戦いに限らないぞ。さあ、者ども、馬の脚を少しばかり休めようと、墨俣川(長良川)に馬を乗り入れて休ませ、太刀、なぎなたの血を洗って、日が暮れたので、野原にそのままとどまり、川を東側に越えることはなかった。

 本郷和人さんは、この『太平記』の記述について、次のように疑問を投げかけている。
「・・・第一に北畠軍がものすごいスピードで行軍しているとすれば、追いついたこと自体に疑いが生じます。
 第二に、軍勢を寡兵に分けて攻撃すること、つまり少人数の逐次投入は絶対にやってはいけない軍事の初歩です。多数の敵に対して兵力を分散して逐次攻撃をかけると、攻撃のたびに全滅させられる危険性が高いからです。その禁じ手をあえてやったと『太平記』は書いていますが、どこまで本当なのか首を傾げます。
 関東から追いかけてきた武士たちは、土岐頼遠らの幕府軍に合流したと考えるのがよいと思いますが、もしかしたら軍事の初歩を逸脱するような愚かな戦いをした可能性もなきにしもあらず、悩ましいところです。」(本郷『壬申の乱と関ケ原の戦い――なぜ同じ場所で戦われたのか』、84‐85ページ)

 第一の問題については、北畠軍が猛スピードで行軍すれば、当然その軍の中から脱落者が出る。その脱落者の運命はというと、次の3つの可能性が考えられる。①追いかけてきた足利軍に討ち果たされる。②足利軍に合流する。③そのまま郷里に帰る。
奥州軍が徹底的に略奪した後を追いかけた足利軍は、このような脱落者を捕まえながら、彼らの略奪分を当てにして補給行動を行っていたと思われる。『太平記』の他の個所を見ても、②の可能性というのが非常に高い。移動中は行動を共にして、戦場になると敵味方に分かれる事例というのも少なくはない。第二の問題については、『太平記』の作者の潤色がかなりあると考えたほうがよく、青野原での戦いとその前哨戦とを一緒にして(ある意味では確かに一つのまとまりなのだが)描き出しているのではないかと思われる。もう一つ、本郷さんは見落としているが、この5次の戦いで、戦場は尾張と美濃の国境から美濃と近江の国境近くまで移動している、そのことを考えると、実は足利方の方が有利に戦闘を進めていたとも考えられるということである。
 本郷さんも認めているように、土岐頼遠というのは非常に有能な武将であったが、軍議の際の彼の発言は、『太平記』の他の部分で描かれている彼の姿と少し違っているようにも思う。このあたり、さらに資料を探しながら、考えを深めていく必要がある。奥州軍の事実上の指揮官は、本郷さんの言うように結城宗広であっただろうが、足利勢は尊氏の従兄弟の上杉憲顕であったと思われる。その存在感が薄く、土岐頼遠と桃井直常の存在感が濃いところが一番の問題かもしれない。

 青野原での戦闘の報せに驚いた京都の足利幕府は防衛軍を派遣することになる。その結果はどうなるかというのはまた次回。 
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