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2018年の2018を目指して(6)

6月30日(土)晴れ、暑い。

 先月に引き続き、6月は目立った動きといえるようなことをしなかった。それで、足跡を刻んだのは神奈川県と東京都の2都県、横浜市、川崎市、千代田区、品川区、港区、渋谷区、杉並区の2市5区に留まっている。
 新たに利用した鉄道もなく、東急(東横線、目黒線、大井町線)、JR東日本(山手線、総武・中央線)、東京メトロ(半蔵門線、南北線)、東京都営地下鉄(三田線)、横浜市営地下鉄(ブルーライン)の5社9路線、乗り降りした駅は12駅、乗り換えた駅が1駅と変わらず。
 バスも横浜市営、東急、神奈川中央、相鉄、江ノ電、京急の6社は変わらないが、横浜市営バス39路線を利用したので、1路線、1停留所を新たに利用し、19路線23停留所を利用したことになる。〔84〕

 このブログを含めて、30件の原稿を投稿した。1月からの通算は185件である。
 内訳は日記が5、読書が16、『太平記』が4、映画が1、推理小説が4ということであり、それぞれ1月からの通算は日記が32、読書が113、『太平記』が27、映画が2、詩が4、推理小説が6、未分類が1ということである。
 コメントを3件、拍手を522拍手いただいた。トラックバック、拍手コメントはない。1月からのコメントの合計は14件、拍手コメントは1件である。ずっと返信・お礼を書いていないのを何とかしようと思っているところなので、今少しお待ちください。〔200〕

 11冊の本を購入し、1月からの通算は72冊となった。本を買った書店は通算で2店と変わらず。読んだ本は10冊で、列挙すると:猪浦道夫『TOEIC亡国論』、紅玉いづき『現代詩人探偵』(創元推理文庫)、遠藤彩美『イメコン』(創元推理文庫)、樋口有介『海泡』(創元推理文庫)、瀧音能之『風土記から見る日本列島の古代史』(平凡社新書)、小方厚『音程と音階の科学』(講談社ブルーバックス)、芹沢健介『コンビニ外国人』(新潮新書)、森本公誠『東大寺のなりたち』(岩波新書)、佐藤弘夫『「神国」日本」(講談社学術文庫)、山内譲『海賊の日本史』(講談社現代新書)である。前半は推理小説、後半は歴史書中心の読書だったということになる。英語教育やグローバル化の中での日本社会の問題についても引き続き情報を集め、考えを深めていきたいと思う。1月から通算で56冊の本を読んだことになるが、1月10冊という目標にに少し足りないので、後半挽回したいと思っているところである。〔58〕

 『ラジオ英会話』を21回、『遠山顕の英会話楽習』を12回、『入門ビジネス英語』を8回、『高校生からはじめる現代英語』を9回、『実践ビジネス英語』を13回聴いている。1月からの通算は『ラジオ英会話』が118回、『遠山顕の英会話楽習』が34回、『入門ビジネス英語』を48回、『高校生からはじめる現代英語』を50回、『実践ビジネス英語』を72回聴いたことになる。また3月に放送を終了した『短期集中!3か月英会話』を35回聴いている。
 『まいにちフランス語』を12回、『まいにちスペイン語』を12回、『まいにちイタリア語』を12回聴いている。それぞれ入門編だけの数で、応用編は再放送なので数に入れていない。1月からの通算では、『まいにちフランス語』の入門編を71回、応用編を23回、『まいにちスペイン語』の入門編を71回、応用編を23回、『まいにちイタリア語』の入門編を71回、応用編を23回聴いていることになる。『ポルトガル語講座』はなかなか聴く時間が取れないので、またの機会に勉強することにした。〔639〕

 映画はラピュタ阿佐ヶ谷で『江分利満氏の優雅な生活』(1963、東宝、岡本喜八監督)を見ただけにとどまった。ただし、この後で、横浜駅西口のムービルに映画を見に行く予定なのでもう1本増えることになりそうである。1月からの通算は19本ということである。1年に60本の映画を見るという予定を考えると、目標達成水準をだいぶ下回っている。気分と体調が映画を見る方向になかなか進まないのが問題である。足を運んだ映画館はムービル、神保町シアター、シネマヴェーラ渋谷、イメージフォーラム、ラピュタ阿佐ヶ谷の5館に留まっている。こちらももう少し増やさないといけない。
 と、書いてからムービル1で『空飛ぶタイヤ』(2018、製作委員会=松竹、本木克英監督)を見た。これで1月からの通算は20本になった。〔25〕

 サッカーの試合はニッパツ三ツ沢でJ2の横浜FC対東京ヴェルディ、横浜FC対ヴァンフォーレ甲府、小机日産フィールドでなでしこリーグ2部の横浜FCシーガルズとちふれエルフェンさいたまの対戦の合計3試合を観戦した。1月からの通算ではニッパツ三ツ沢、等々力、保土ヶ谷公園、小机日産フィールドの4か所で、19試合を観戦したことになる。また1013回のミニトトBを当てたので、1月からの合計で4回、あてたことになる(券を買いそびれた1018回のAとBの両方を当てていたのが、まことに悔しい)。〔27〕

 酒を飲まなかったのが3日あり、1月からの通算では21日ということになる。〔21〕 
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森本公誠『東大寺のなりたち』

6月29日(金)晴れ、風が強い

 6月25日、森本公誠『東大寺のなりたち』(岩波新書)を読み終える。著者はイブン・ハルドゥーンの研究・翻訳で知られるイスラム史家であり、2004年から2007年にかけて東大寺大218世別当・華厳宗管長をつとめた僧侶でもある。イスラム史研究家による仏教寺院の歴史研究というのは、少し戸惑いを感じさせるところがあるが、正倉院御物の中には西域に由来するものもあり、東大寺の大仏造立はアジアの広い地域に根を下ろしていた仏教界の一大事業であったのであり、また著者が昭和24(1949)年以来70年近く東大寺の一員として過ごしてきたことから言えば、東大寺のなりたちについて語るのにこれ以上にふさわしい著者を見出すことは難しいともいえる。

 その著者が入寺して以来の僧侶としての修行の次第について触れながら、日本の歴史の中で東大寺が担ってきた役割を語る「はじめに」が読みごたえがある。とくに東大寺の建立や復興に尽力した人物の名を記した東大寺上院修中過去帳の紹介と、それを読み上げる役を果たした経験が語られているのが印象的である。この文書の初めの方の写真がⅳページに掲載されているのが、いかにも東大寺の内部の人間の著書らしく感じられる。〔東急東横線の駅名で知られる祐天寺にその名を遺した祐天上人も江戸時代の東大寺再建に尽力した僧侶であるが、その名もこの過去帳に記されているのであろうと思うと、印象がより深くなる。〕

 以下に紹介するこの書物の目次から明らかになるように、著者は『東大寺のなりたち』をかなり長い時間枠の中でとらえようとしており、この時間枠の中で東大寺はその性格を変化させ続けた。このためこの書物は(相当量の情報を省略していることも明らかではあるが)かなり多くの内容を含んでいる:
第1章 東大寺前史を考える
 1 山房の時代
 2 金鍾・福寿寺の時代
 3 大養徳金光明寺の時代
第2章 責めは予一人にあり――聖武天皇の政治観
 1 学習の時代
 2 政治の真価とは何か
 3 仏教思想による民心の救い
第3章 宗教共同体として
 1 天皇の出家と譲位
 2 寺院と墾田地
 3 寺院形態への模索
 4 国分寺と東大寺
第4章 廬舎那大仏を世界に
 1 開眼供養会へ向けて
 2 大仏開眼会の盛儀
 3 新羅はなぜ大使節団を派遣したか
 4 聖武太上天皇の晩年
第5章 政争のはざまで
 1 権謀術数をめぐらす仲麻呂
 2 仲麻呂の排除
 3 称徳天皇重祚
 4 政争ふたたび
第6章 新たな天皇大権の確立
 1 仏教界の綱紀粛正
 2 仏教勢力の排除
 3 藤原種継暗殺事件
 4 平安京で構想新たに

 第1章ではまず、東大寺の前身となる山房が、聖武天皇の皇太子の1歳にも満たない年齢での死後、その冥福を祈るために建立されたものであることが語られる。この山房がその後発展して東大寺の前身寺院である金鐘寺、さらに金光明寺になったと主張したのは家永三郎(1913‐2002)であるが、平安時代後期に編纂された『東大寺要録』のなかの記述から、山房→金鐘寺→東大寺という展開が東大寺の内部では言い伝えられていたのではないかと推測する。『要録』には、天平5年(733)に聖武天皇が良弁のために羂索院を創立し、この堂舎が古くは金鐘寺と呼ばれ、東大寺最古の建物であることが記されている。

 羂策院は後に法華堂(三月堂)と呼ばれることになったが、平成22年(2010)年度から24年度にかけて行われた法華堂須弥壇の解体修理の際に行われた調査の結果、この堂舎が730年ごろに創建されたという可能性が高くなってきた。また、もともとの「山房」がささやかなお堂ではなく、複数の堂舎をもつ寺院として創設されたことも別の資料から確認できるという。さらに「山房」と呼ばれていた寺院には、後に香山寺として知られることになる薬師信仰の寺も含まれていたという。

 天平8(736)年ごろまでは山房は聖武天皇にとっては観音信仰の、光明皇后にとっては薬師信仰の、さらに2人にとっては阿弥陀信仰の、それぞれ亡き皇太子を偲ぶ霊場であったことが確認できる。ところが、その後、その考えに変化が起きたようだという。正倉院文書の中に、福寿寺と金鍾山房とが皇后宮職に関連することを示すものがあり、山房のおそらく一角が解消されるような事件が起きたことを推測させる。光明皇后はその政治的な立場との関係で深く仏教を信仰されていたが、天平10(738)年には皇后宮職内に「写経司」が成立する。これは阿部内親王(後の孝謙・称徳天皇)の立太子という政治的な危機を招きかねない事態に際して、写経という形で国家の安定を図った結果と考えることができる。一方、天平10年の立太子直後には、金鍾山房と近接して福寿寺が造営されたという記録が正倉院文書に残るが、他にこの寺にかかわる文書はなく、なぞの寺である。
 さて、この書物では(それを反してこのブログでも)金鍾寺、金鐘寺という2通りの書き方がされてきたが、この2時は同音だが、意味は異なる。聖武天皇も光明皇后も自ら経典を筆写されるなど仏教を深く信仰されていたので、命名の根拠は経典にあると考えられ、その点からみると金鍾寺の方が正しいというのが著者の考えである。金鍾は黄金の瓶であり、旧訳の華厳経に現れる(『大正新脩大蔵経』では「鐘」になっているというからややこしい)。いずれにしても、金鍾山寺という命名には聖武天皇の華厳経理解の深化がうかがわれるという。

 さて聖武天皇は天平12(740)年に恭仁宮に入り、ここを新都と定める。〔この書物には記されていないが、山背国相楽郡(現在の京都府木津川市加茂地区)にある。〕 『続日本紀』によると、天平13(741)年には藤原不比等家が一族の広嗣の謀反(天平12年)を詫びて、食封(じきふ)5000戸を天皇に返上すると申し出る。しかし天皇はそのうち2000戸は旧来通り藤原家にとどめ、残り3000戸は諸国の国分寺に施入して、天平9年3月の詔で指示した丈六釈迦仏の造像費用に充てることとした。〔恭仁京は当時の右大臣橘諸兄の本拠地であったといわれ、このあたり、藤原氏と橘氏の激しい対立が推測される。〕 丈六釈迦仏は、各国分寺の本尊となるべき仏像である。この時代、全国は約60国に分けられていたので、それぞれの国分寺に50戸ずつを支給すると3000戸となって勘定が合うのである。

 天平9年に大倭国を大養徳(やまと)国と改めさせ、同12年には諸国に『法華経』の書写と七重塔の建立を命じた。これらは疫病大流行ののちの諸国の安定を図り、また藤原広嗣の乱の鎮定を祈るものでもあったが、現実には諸国国分寺の建立は遅々として進まなかった。〔それでも最終的には何とか形がつくのだから、大したものと言わなければならない。〕 しかし、天皇の直轄地ともいうべき大養徳国(大和国)の場合は事情が違い、しかも諸国国分寺が新築を原則としたのに対し、大養徳国混交名字の場合には、既存の福寿寺と金鍾寺を転用することにした。しかもこの寺は大養徳国一国のための国分寺ではなくて、天皇家が係わる特別な寺院と位置付けられた。しかし国分寺であるからその金堂には前記のように丈六釈迦像が置かれていたはずで、そのことは正倉院文書から確認できるという。ところがその丈六堂の痕跡は全く知られていない。著者も書いているように、現在の大仏殿のあたりしか適当と思われる場所は見つからない。

 うち続く天変地異に生きる気力を失った天下の民を救う手段として、聖武天皇は全国に国分寺を建立するとともに、新たに都と定めた恭仁京に盧遮那大仏を造立することを計画された。〔疲弊と不安とで仕事どころではないという人も少なくなかっただろうが、巨大プロジェクトを起こすことによって人々に仕事を与え、一時的にせよ生計が立つように計らったということである。〕 当初、恭仁京で大仏造立を企てられたが、計画を変更され、近江国甲賀郡紫香楽宮で大仏造立を発願された。天平15年10月15日のことである。天平17年正月には紫香楽宮を新京と宣言、この年4月には、のちに東大寺大仏の大仏師として活躍する国君麻呂を6階級特進させて、従五位下に叙した。「おそらく原型となる塑造の大仏造立に功績ありと認められたからであろう」(32ページ、著者は「国君麻呂」と表記しているが、「公麻呂」という表記のほうが一般的である。当初、無姓であったが、後に国中連となる)。

 ところが突如大地震が起きて、人々は紫香楽宮から恭仁京へ、さらに平城京へと去っていき、聖武天皇は周囲の人々の勧めもあり、平城京に都を戻さざるを得なかった。それでも天皇は大仏造立を諦めることなく、最終的に現在の東大寺大仏殿の地に盧遮那仏像を本尊とする堂宇を建てることになったと考えられる。盧舎那仏を本尊とするということであれば、金鍾寺には、華厳経講説の伝統が根付いていた。
 この辺りは、記録の裏付けのない、たぶん、こうだったのだろうという推測の世界であるが、丈六堂の本尊の金銅仏は大量の銅が必要となる盧遮那大仏像の材料にされ、他の脇侍菩薩像については、羂索堂に移されることとなった。天平17年8月23日に大仏土座築造始めの儀式が行われ、造立工事が再開される。天平18(746)年には大仏像の原型となる塑造の廬舎那仏像の燃灯供養が行われた。天平19(747)年に大養徳国はもとの大倭国に改まった。東大寺という字名が分権の上に現れるのはこの年の12月からであるという。いよいよ本格的な東大寺の歴史が始まることになる。

 結局、今回は東大寺の「前史」について述べた第1章の紹介で終わることになってしまった。東大寺には多少なりとも縁があるので、細かいところに興味が集中してしまって、余計なことを書きすぎたかもしれない。言い訳のようになるが、この本はどちらかというと、後半のほうがおもしろいので、前半は退屈だと思われても、そこは我慢してお付き合いいただきたいと思っているところである。 


 

ウィルキー・コリンズ『月長石』再読(2)

6月28日(木)曇りのち晴れ、暑い

 1799年5月、インド駐在の英国軍は英国人たちがセリンガパタムと呼んだ南インドのシェリーランガパトナを攻撃し、この都市の領主で反英闘争の中心人物であったティップー・スルタン(作品中ではチッポと呼ばれている)を敗死させた。このスルタンの宮殿の兵器庫には月長石と呼ばれる黄色いダイヤモンドを象嵌した短剣が収められていたが、このダイヤモンドはもともとはヒンズー教徒たちの尊崇する神である月天の像の額を飾っていたものであり、聖なる宝石として、これに手を触れるものとその一族には災いが下るであろうと言い伝えられてきた。そして、かわるがわる3人のブラーフマンたちがこの聖なる宝石を見守ってきたといわれる。英国軍の中に加わっていたジョン・ハーンカスルはこのような伝説を迷信として信じない人物であり、シェリーランガパトナ襲撃の際に、略奪を止める役割を命じられていたにもかかわらず、短剣を守ったいていた人物を殺して、それを奪い取ったようである。少なくとも、同行した従兄弟の英国人はこのように推測した。これはあくまで推測であり、軍律違反として告発するだけの証拠がないので、そのままになったが、この一件をきっかけとして自分はジョンと絶縁したという手記をある家の記録の中に残した。

 ジョンはハーンカスル家の5人兄弟の次男坊であり、長男のアーサーがハーンカスル家の称号と財産とを継承し、彼は親せきの誰かからの遺産を継承して軍隊に入ったのであった。長女のアデレイドは財産家で公爵家の一族であるブレークと結婚し、3人の息子を生んだが、フランクリン(この物語の主人公である)だけが生き残った。次女であるカロラインは貴族ではない銀行家のエーブルホワイトと(身分違いの)結婚をしてたくさんの子宝に恵まれた(その中で次男のゴドフリーがこの物語の主要登場人物の1人となる)。三女のジュリアはジョン・ヴェリンダ―卿と結婚し、一人娘のレイチェル(この物語の主人公である)が生まれた。
 中村訳ではハーンカスル家の称号とあるが、もともとの語はtitleで、「称号」、「肩書」という意味と受け取れる。ここでは爵位のような世襲の地位を指していると思われる。英国のホテルに泊まると宿泊カードにtitleを書かされることがあり、これはお客に失礼がないようにという宿側の配慮の現れなのであろう。私の場合Professorなのだが、どうも極まりが悪いのでMrにしている。前後の経緯から考えて、ハーンカスル家は貴族であろうが、厳密な意味では貴族ではない従男爵(baronett)かもしれない。ジョン・ヴェリンダーはSir John Vellinderと書かれているから、従男爵らしい(その下のナイト爵の場合もSirで呼ばれるが、こちらは世襲ではない。ジョン・ヴェリンダーが世襲でなくて、Sirと呼ばれる身分になりえたとは考えにくいので、代々の従男爵なのであろう)。

 小説の叙述の前後関係を離れて、宝石とジョン・ハーカスルの行方を説明しているのだが、とにかくインドでの所業が一族の間で噂となり、兄弟をはじめ、その他の親戚のだれもがジョンとは付き合わないようになる。特に強くジョンを排斥したのが、ジュリア・ヴェリンダ―であった。それは彼が大佐まで昇進して、インドから英国に帰国してからも続く。あとでもういちどくりかえすかもしれないが、1847年の12月にジョンは死に、インドから持ち帰った宝石を甥のフランクリンに託して、姪であるレイチェル・ヴェリンダ―に遺贈する。1848年の6月21日がレイチェルの18歳の誕生日であったが、この日のお祝いにレイチェルは月長石を身につけて現れる。ところが、その夜、この宝石の行方が分からなくなり、騒ぎが大きくなって、ロンドン警視庁からカッフ部長刑事(中村訳、Sergeantは巡査部長と訳すほうが適切なようである)が捜索に乗り出してきたりするが、真相はわからず、宝石も戻らないままに事態は過ぎていくが、自分が犯人だと疑われていることに気づいた登場人物の努力によって、次第に真相が明らかになり、1849年に事件は意外な結末を迎える。

 この小説は、事件が一応「解決」した後に、フランクリンが関係者に依頼してそれぞれの記憶している事実を手記としてまとめ、それを集めて事件の真相を明らかにしていくという体裁をとっている。
 月長石がどのような来歴をもち、どのようにして英国人の手に入ったかを語る或る家の記録は、第1回で紹介した。それは「事件」解決後にフランクリンが探し出したものである。そしてフランクリンは、ヴェリンダ―家に月長石が届いた前後の事情について、ヴェリンダ―家の執事であるガブリエル・ベタリッジに執筆を依頼する。ベタリッジは子どもの頃にハーンカスル家に奉公するようになったが、ジュリアに気に入られて、彼女がヴェリンダ―家に嫁いだ際に、今度はヴェリンダ―家で働くことになった。ヴェリンダ―家では土地差配人(bailiff)の助手をつとめたが、まじめに働いたので次第に信用を得て、差配人が年を取ったので、その後任になる。生活が落ち着いてきたので、妻を迎え、一人娘のペネロープが生まれるが、結婚5年目に妻が死んでしまう。その後まもなくジョン・ヴェリンダー卿も世を去る。ペネロープはヴェリンダー夫人にかわいがられて、学校で勉強することができ、やがてレイチェルのお付きの女中(Miss Rachel's own maid)となった。中村訳では省略されているが、made a sharp girlとも書かれていて、「よく気の付く娘になり」くらいが適切な訳であろう。

 こうしてベタリッジは土地差配人の仕事を続けていたが、1847年のクリスマスの日に長年の仕事ぶりを褒められて、ヴェリンダー夫人から手編みの毛糸のチョッキ(woollen waistcoat)を贈られる。実は、この贈り物には下心があって、ベタリッジを土地差配人の仕事から引退させて、邸内の執事にしようという目論見があったのである。「安楽に暮らすなどという辱めに対して、私は力の限り抵抗を試みた」(中村訳、25ページ、I made as good a fight of it against the indignity of taking my ease as I could.)。しかし、ヴェリンダー夫人の説得が功を奏して、ベタリッジはよく考えてみますという返事をしてしまう。

 彼はもう6冊も読みつぶし、今持っているのが7冊目というほど、デフォーの『ロビンソン・クルーソー』を愛読していて、人生の重大事にはいつも、この書物を読んで占いをすることにしている。そこで、夫人が帰った後、この書物を読んでみると、「明日は嫌いになるものでも、我々は今日は好むものである」(To-day we love what to-morrow we hate.)(創元推理文庫版、26ページ、Penguin Popular Classics, p.22)という語句に出会う。「明日は明日の風が吹く」(Take myself to-morrow while in to-morrow's humour, and the thing was done.) (創元推理文庫版、26ページ、Penguin Popular Classics, p.22) こうして彼は執事としての仕事を引き受けるようになる。[この後に彼が出会う事件の経緯からいうと、1847年に執事になったというのではつじつまの合わない事柄もあるが、それはその時に指摘する。」

 ここまでベタリッジが書いた文章を、後ろから覗き込んだペネロープがよく書けているが、フランクリンから頼まれたダイヤモンド事件については何一つ書いていないではないかと指摘する。そこで、いよいよベタリッジは事件について書き始めようとする。[「ダイヤモンドの紛失(1848年) ジュリア・ヴェリンダー夫人の執事 ガブリエル・ベタリッジの手記」 第2章まで終わり] 

 ダイヤモンドの事件については語られていないが、この小説の主要な登場人物の1人であるヴェリンダー邸の執事ガブリエル・ヴェリンダーがどのような人物であるかは読者によく理解されるはずである。農民出身で、貴族=地主の使用人として長年仕え、おそらくは様々な人生を見、自分でも経験を積むことによって世間知を身に着け、『ロビンソン・クルーソー』を人生の指針にするなど、決して無学ではなく、多少俗物的なところは感じられるかもしれないし、鋭敏とは言えないが、なかなかしっかりとした観察眼を備えた人物である。そのような観察眼の持ち主であるから、記録の最初の書き手として選ばれたことがよくわかる。次回からいよいよ1848年6月に何が起きたかが語られ始める。 

トマス・モア『ユートピア』(7)

6月27日(水)晴れ、雲が多く、風が比較的強い。

 1515年、イングランドとカスティーリャの間の紛争解決のための外交使節団としてフランドルに赴いた(物語の書き手である)モアは、アントワープの市民であるピーター・ヒレスの世話になった。ある日、ピーターはモアに世界中を旅行してきた哲人だというラファエル・ヒュトロダエウスを紹介する。モアの宿舎で3人は語り合うが、ラファエルの経験と知識とに感心したモアとピーターは、彼にどこかの王侯の顧問として仕えてはどうかと勧める。しかしラファエルは、王侯貴族の鼻息ばかりうかがって自分の定見というものをもたない取り巻きたちにはうんざりしているといって、彼が昔イングランド滞在中にモートン枢機卿のもとに身を寄せていた時の思い出を語る。モートンはモアが、その子ども時代に小姓として仕えた人物でもある。
 モートンのもとで行われた議論というのは、犯罪者やその予備軍である浮浪者たちをどうすれば減らせるかという問題をめぐるものであった。犯罪者は厳罰に処する以外に方策はないと主張する法律家に対し、現行の法律は犯罪者にとって過酷すぎるし、犯罪の防止策としては不十分である。貴族や地主たちが必要以上の使用人を雇うことをやめさせ、土地や仕事を失った人々に正業を与えることが犯罪の予防策であり、犯罪に対する刑罰も強制労働中心にして、社会復帰の道も開くべきであるとラファエルは述べた。枢機卿はこの意見に賛意を表し、浮浪人に対しても同じように強制労働を課してはどうかと提案する。すると一座の議論は、老齢や病気のために生計を立てられなくなっている人々をどう扱うかという方向に移る。するとある道化師が、そんな連中はみんな托鉢修道会の修道院に入れてしまえばよいといったので、一座の中にいた1人の托鉢修道士が怒り出す。

 托鉢修道士は乞食も同然だといわんばかりの発言(これをラファエル←モアは、ローマの大詩人ホラーティウスの表現を借りて、「イタリアの酢に漬けられた」(鋭い風刺を向けられた)と表現している)に、托鉢修道会に属する神学者であった人物が怒り出す。そして聖書の言葉を使てって道化師を非難し続ける。すると道化師は、怒りを抑えよというのが聖書の教えではないかとやり返す。そして怒ったかもしれないが、自分は罪を犯してはいない…と枢機卿の制止も聞かずに自分の意見を述べ続けようとするので、とうとう枢機卿は議論を打ち切らせ、道化師を席から立ち退かせたのであった。
 ここで托鉢修道士の発言のうち、「一人だけ禿頭だったエリゼウスを嘲笑した多数の人が、その禿頭のいかりを感じたというなら、禿頭ぞろいの大勢の托鉢修道士を嘲笑する一人の男はどれだけ多くのいかりを感じることでしょう。」(93ページ)とあるのは、『旧約』の「列王記」(2:23‐24)に出てくる預言者エリシャの説話を踏まえているのだが、なぜかそのことが解説注に記されていない。なお、岩波文庫の平井正穂訳では「禿頭と申しましても、たった一人のエリシャを嘲ったために、あれほどたくさんな者が禿頭の熱心(のろい)を受けたのでございます。」(岩波文庫版、44ページ)と訳していて、こちらの方がわかりやすい。もっともこちらも注はついていないから、これがもともと旧約聖書の中の説話であることは、知らない人にはわからない。(キリスト教には我々以上に詳しいはずの英語圏の人々を対象にしているペンギン・クラシックスのターナー訳には、きちんと注がついている。)

 自分のイングランドで体験した話を語り終えて、長話を詫びながら、ラファエルは王侯貴族の取り巻きというものが、その主人の意向次第でどちらにでも意見を変える無定見な連中であることにうんざりして いるというのである。ラファエルの話を聞いたモアは、自分がモートン枢機卿のもとで(澤田訳は「宮廷で」、平井訳は「お屋敷で」、ロビンソン訳は”in whose house"、ターナー訳は"in whose household"となっていて、枢機卿が大勢の側近を抱えていることを考えても、澤田訳の「宮廷」は大げさである。ここも平井訳のほうに軍配が上がる。)子ども時代を過ごしたので、ラファエルに一層親近感を感じるといい、それでもなお一層、ラファエルにどこかの王侯に顧問として仕えてほしいという気持ちに変わりがないという。そして「あなたのお気に入りのプラトンは、社会というものは、哲学者たちが統治するか、また王たちが哲学するときに初めて幸福になるだろうと考えています。ですから、もし哲学者たちが、王たちに助言を与えることさえも学者のこけんにかかわると考えるようだったら、幸福ははるかに遠ざかってしまうでしょう」(94‐95ページ)とプラトンを持ち出して説得に努める。

 ラファエルは、哲学者たちは王侯が彼らの意見に耳を傾けようとすれば、それに応じて助言を行ってきたが、実際には若い時から間違った考えを吹き込まれ、それに染まっている王侯たちが、哲学者たちの意見を素直に聞き入れることはまれであると王子、ほかならぬプラトンでさえ、シュラクサイの僭主ディオニュシオスを哲学的に教育しようとして失敗してひどい目にあったという例を挙げる。

 そしてラファエルは、自分がもしフランス王の顧問になったとすると、その参議会では戦争の話ばかりしていて、どうすれば効果的に自分たちの影響力を強めることができるかとの議論が盛んだが、そこで戦争をやめた方がいい、領土の拡大などもってのほかだ、今あるもので満足しろと主張したらどうなるかは想像がつくだろうというのである。ヨーロッパの覇権を築くために戦争をして勝ったり負けたりというのが、この1515年に即位したフランス王フランソワ1世(1494‐1547、在位1515‐1547)の一面で、ピーター←モアは即位したばかりのこの国王の軍国主義的な傾向だけに注目しているが、彼はイタリアからレオナルド・ダ・ヴィンチを招いたり、ラブレーを保護したり、モアの友人のビュデの意見を取り入れて王立講師団(現在のコレージュ・ド・フランス)を設立したりして、フランス・ルネサンス文化の華を開かせた文化的な国王でもあった。この点ではイングランドのヘンリーⅧ世や、神聖ローマ帝国のカールⅤ世よりはましである。
 興味深いことに、ラファエルが語るフランス国王のもとでの外交・軍事戦略をめぐる会議の様子と、それに対するラファエルの意見は、ラブレーの『ガルガンチュワ』の中でガルガンチュワとその父であるグラングージェ王のユートピア国を侵略しようとする隣国の王ピクロコールが側近の佞臣たちを集めて開く会議の様子が似ている。ラブレーは当然『ユートピア』を読んでいただろうから、似ているのは当然だが、はじめのうちは具体的現実的だった話がだんだん大風呂敷に展開されていく面白さというのは、ラブレー独特のものである。

 こうしてラファエルにどこかの王侯の顧問となってその知識と経験とを生かしてよい政治の導き手となるように勧めるモアとピーターに対し、ラファエルはそれが現実的には不可能に近いといって固辞しつづけるのだが、その会話を通じて当時のイングランドとヨーロッパ全体の政治や社会の問題、宗教界の腐敗の実情が明らかにされていることも見落としてはならないだろう。ではどうすれば、問題が解決できるのか。既にプラトンの名が言及されたが、哲人政治の理想はともかくとして、彼の理想のいくつかは再評価を必要としているのではないか。ラファエルは彼が訪問したいくつかの国々の実例を挙げて、理想の国と政治について語り進めながら、話を次第にユートピアへと近づけていく。

『太平記』(216)

6月26日(火)晴れのち曇り、暑し

 建武4年(南朝延元2年、1337)8月、奥州国司兼鎮守府将軍の北畠顕家は、10万余騎の大軍を率いて白河の関を超え、鎌倉管領足利義詮(尊氏の3男、後に室町幕府の2代将軍)の8万の軍と利根川で戦って勝利した。北条時行(中先代と通称される。鎌倉幕府最後の得宗であった高時の次男で、中先代の乱の鎮圧後各地を潜伏していたが、後醍醐帝の勅免を得て宮方に加わった)、新田徳寿丸(義貞の次男、後の義興)も伊豆と上野で挙兵し、鎌倉の足利方は、敵の大軍を迎え撃ったが敗走した。
 暦応元年(と記されているが、改元はこの年の8月なので、実際は建武5年、南朝延元3年、1338)、北畠軍は鎌倉を発って西上したが、鎌倉で敗れた足利方も、軍勢を集めてその後を追って西上した。

 前回、尾張の熱田で熱田大宮司入道厳雄(昌能)が500余騎を率いて宮方に合流したことを書いたが、その同じ日に、美濃の根尾(岐阜県本巣市根尾、宮方の根尾氏の拠点)と、鳥籠山(とこやま、岐阜県揖斐郡揖斐川町徳山)の1,000余騎の武士を集めて、新田一族の堀口貞満が加わった。貞満は、後醍醐帝が尊氏の呼びかけに応じて比叡山から京都へ還幸しようとしたのを止めようとした武士で、義貞とともに北国に赴いたはずだが、どこかで本隊から分かれて美濃に潜伏していたようである。
 本郷和人さんの『壬申の乱と関ケ原の戦い――なぜ同じ場所で戦われたのか』(祥伝社新書)は、672年の壬申の乱、南北朝時代の(この後展開される)青野ヶ原の戦い、慶長5年(1600)の関ケ原の戦いがその後の歴史を大きく変えるものであったと指摘し、「なぜこの地で戦うのか? その勝敗がなぜ歴史を大きく動かすのか?」(本郷、5ページ)という問題に迫った書物であるが、北畠軍の実質的な指揮官は白河の大名である結城宗広であったと述べている。これまで読んだところでは出てこないので、この後出てくるはずだが、本郷さんによると、宗広は一日に一回は生首を見ないと落ち着かないという大変に荒々しい人物であったとされる。また北畠軍に加わっている北条時行には、自分が非命に倒れても、北条の血は必ず後世に残すという決意があり、彼が匿われていた諏訪大社の巫女たちや、各地の豪族の娘に片っ端から手を付けていたという伝承がある。

 さて、鎌倉の戦闘に敗北して散り散りになっていた足利方の、上杉憲顕、彼の従兄弟の憲成は相模から、桃井直常は箱根から再起をはかり、高師茂(師直・師泰の弟)は安房、上総方面から鎌倉に渡り、武蔵、相模の武士たちを集めようとしたが、考えるところあって、北畠軍には加わらなかった武蔵国豊島郡(東京都中央区)の江戸氏、下総国葛飾郡(江戸川区)の葛西氏、相模国三浦郡(神奈川県横須賀市)の三浦氏、相模国鎌倉郡(鎌倉市)の鎌倉氏、坂東の八平氏(関東に勢力を張った桓武平氏の8つの豪族、Wikipediaによれば秩父平氏の畠山、川越、葛西、江戸、小山田…;房総平氏の相馬…;相模平氏の鎌倉、中村、土肥、三浦、長尾、大庭、梶原…らからなるというが、これだけで8氏族を超えている)、武蔵の七党(武蔵の国に勢力を張った7つの党の武士団。丹・私市(きさいち)・児玉・猪俣・西・横山・村山)の武士たちが、3万余騎で参集した。また既にみたように、清原氏の流れである芳賀禅可はもとから足利方に心を寄せていたために、下野の紀清両党の主だった武士たちが北畠の軍に加わって上洛の遠征に出た際も、仮病を使って参加しなかったのであるが、清原氏の流れを引く武士たちを千騎率いて加わった。こうして足利方の軍勢は5万余騎となり、北畠軍を追って、その先陣が三河の国(異本によると駿河の国)に達した時に、この国の守護である高尾張守(岩波文庫版の脚注には師秀あるいは師業かと記されている)が6千余騎で合流した。なか一日あって遠江につけば(東から並べると、相模、伊豆、駿河、遠江、三河という順序になるので、このあたりの記述はおかしい)、遠江の守護である今川憲国が2千余騎を率いてはせ参じる。さらに進んで、美濃の国墨俣(岐阜県大垣市墨俣町)に到着すると、土岐頼遠が700余騎で加わった。

 北畠軍は60万騎、先を急ぎ、足利尊氏・直義兄弟を討ち取り、後醍醐帝を都に呼び戻そうと西に向かって急行し、それを足利方の重臣である高、上杉、一族の桃井が8万余騎を率いて、後ろから追いかける。〔中先代の乱の鎮圧後、足利尊氏・直義・佐々木導誉らが上洛するのを、北畠顕家の奥州軍が追いかけたのと似ているが、追うものと追われるものとが入れ替わった様相が展開することになった。〕 古代中国の賢人である荘子は「蟷螂蝉を窺へば、野鳥蟷螂を窺ふ」(岩波文庫版、第3分冊、333ページ、カマキリがセミをねらっているが、そのカマキリを野鳥が狙っている⇒獲物を狙うあまり、自分に迫る危険を忘れるたとえ)と人間の世の中の習いについて述べたが、まことにその通りだと思われたことである。

 本郷さんはこのあたりの記述をめぐり2つの疑問を提出している。1つは50万とか60万とか言われる大軍が、しかも鎌倉から美濃まで3週間という猛スピードで西上するという記述がどうも信じられないということである。しばしば指摘されてきたように、本能寺の変で織田信長が明智光秀に討たれた後、羽柴秀吉が備中高松城(現・岡山市)から引き返した「中国大返し」に勝るとも劣らない猛スピードであったことになる。~騎というのは騎馬武者だけを数えているので、実際にはこの何倍もの兵士がいたことになり、この数字は全く信じられないという。
 もう一つは、足利方が北畠軍を後から追いかけたという記述の問題である。猛スピードで西上する北畠軍に、その軍が略奪しつくした土地を通って、追いつくことがどこまで可能かということも問題となる。
 そうやってこのあたりの記述を読み返してみると、利根川の戦いからして具体的な戦闘の描写はほとんどないし、そのあとの鎌倉の攻防も、斯波家長が戦死したのは事実だろうが、一応の戦闘はしたものの、さっさと逃げて西に向かい、土岐頼遠の軍勢と合流したと考えるほうが理にかなっている。本郷さんはあまりその点について踏み込んでいないが、『太平記』が成立したのは、高一族がほぼ全滅し、土岐頼遠も光厳上皇に対する不敬の罪で斬首されてしまった後のことなので、彼らの功績をそのまま書き記すわけにはいかず、事実をかなり捻じ曲げて記されていると考えるほうがよいのではないかと思う。そして、この次はいよいよ青野ヶ原の戦いである。

フローベール『感情教育』(9‐1)

6月25日(月)晴れ、暑し

これまでのあらすじ
 1840年9月、大学で法律を勉強するためにパリに出た18歳の青年フレデリック・モローは、偶然のことからアルヌーという画商と知り合い、その美しい夫人に恋心を抱く。夢想家で芸術に関心を持つフレデリックにとって法律の勉強は興味を惹かれるものではなかったが、高校時代からの友人で現実主義者のデローリエをはじめとする同じ世代の友人たちと社会について、芸術について、人生について議論を交わしながら、パリの雰囲気になじんでいく。ようやく大学を卒業し、地元出身で政・財界に顔の利くダンブルーズの知遇も得られそうになったフレデリックであったが、帰省すると、実家の経済状態が思っていたよりも悪く、郷里の法律事務所で働くことになる。しかし1845年の12月に裕福な叔父が死去してその遺産を相続することになり、勇躍パリに戻る。
 再びパリに戻ったフレデリックはダンブルーズに取り入って社交界、さらに官界への進出をはかり、その一方でアルヌーにそそのかされて、半社交界にも出入りするようになる。アルヌー夫人への思いは変わらないまま、高級娼婦のロザネットとの関係を深める。大学時代の友人たちは、フレデリックとの間に気分的な距離ができてしまっていることを感じている。アルヌーの浮気や経済的苦境のため、夫人との仲は険悪になっていて、フレデリックは2人の中を何とかとりなそうとする。

〔第2部の3〕
 アルヌー夫妻の夫婦喧嘩の仲裁をした後、フレデリックにとって不本意な生活が始まった。「アルヌー家の居候も同然の身となってしまったのだ。」(光文社古典新訳文庫版、391ページ、岩波文庫版、272ページ、岩波文庫版では「居候」ではなく「食客」と訳しているが、「居候」のほうがしっくりしているように思われる。)
 1日のうちに何度となく顔を出し、家庭内の雑用を引き受けたり、子どもたちの相手をしたり、食事を呼ばれたり、アルヌーの留守中は夫人の愚痴を聞かされたりする。「夫の行状に腹をたてているというわけではない。誇りを傷つけられたことに心を痛めているらしく、夫が思いやりや、品位や、節操のない人間であるのが我慢ならないようだった。」(光文社古典新訳文庫版、391‐392ページ、岩波文庫版、273ページ)

 そのうちに、フレデリックは夫人から彼女の身の上を聞き出すことに成功する。彼女はシャルトルの中産階級の家庭に生まれ、いっぱしの画家気取りで、シャルトルに写生にやってきたアルヌーに見初められ、彼が資産家であったから問題なく結婚した。その当時は、アルヌーは夫人に首ったけだった。彼女は付け加える:「もっとも、いまでもあの人なりに愛してくれているのでしょうけれど」(光文社古典新訳文書版、392ページ、岩波文庫版、273ページ)。
 新婚の頃に、夫妻はイタリアに旅行したことがある。その際に絵の数点がいい値で転売できたことから美術商になり、その後、陶器の製造に熱をあげるようになった。さらにその他の陶器事業にも関心を持っているらしい。「日に日に野卑な人間になっていくようで、下品なふるまいが目につくようになり、金遣いも荒くなった。見持の悪いことよりも、こうした日ごろの行ないがことごとく情けない。このさき夫が心を入れかえる見込みはないし、わが身の不幸はもはやいかんともしがたいように思われる。」(光文社古典新訳文庫版、392‐393ページ、岩波文庫版、274ページ)

 アルヌー夫人は、自分とは性格が合わない夫と結婚していた人生の不本意を嘆くのだが、それに対しフレデリックは自分だって不本意な人生を送っているという。「でも、まだお若いのだし、どうしてそう悲観することがあるでしょう。夫人は親身になってあれこれ忠告してくれる。『お仕事をなさったら。結婚されたらいかが』」(光文社古典新訳文庫版、393ページ、岩波文庫版、274ページ) フレデリックがアルヌー家のことにかまけて、就職運動もそっちのけになり、またアルヌー夫人に勝る女性がいるとは思えずに結婚していないという事情を彼女は知らない様子だし、まさかそんなことをフレデリックは彼女に打ち明けるわけにもいかない。適当にごまかすだけである。〔客観的にみれば、アルヌー夫人の言う通りで、彼女が気づいていないのだから、そのまま、アルヌー夫人への想いは封印して、就職運動をして、ダンブルーズの邸に集まっている令嬢たちの1人と結婚する、あるいは周囲の人間たちが期待しているようにルイーズと結婚すればいいのである。それができないのが、フレデリックの夢想家たるゆえんである。〕

 フレデリックはアルヌー夫人を知れば知るほど、彼女には近づきがたいような気持にとらわれるようになった。「深い愛情というのは貞淑な女性に似て、人目につくのを気づかい、目を伏せたまま一生を終えてしまうものなのだ。」(光文社古典新訳文庫版、394ページ、岩波文庫版、274ページ) 彼はだんだんアルヌー夫人を人間を超えた存在とみなすようになっていった。それでも彼女を離婚させて、現在の境遇から救い出すことを考えたりすることもある。

 ほとんど毎日、フレデリックはアルヌー家を訪問する。夕食に招かれないときは、その後、アルヌーが外出した後を見計らって、アルヌー家を訪問する。アルヌーが外出中だと聞くと、さも意外そうな顔をする。
 アルヌーが不意に帰ってくることもよくあった。そういう時は、ルジャンバールがよく顔を出す、小さなカフェまでアルヌーのお供をすることになる。シトワイヤン(市民)というあだ名のルジャンバールは、アルヌーの相談相手であり、フレデリックの学生時代に彼の家で開かれていた談話会のメンバーでもあったが、フレデリックがパリに戻ってきて、アルヌーの移転先を聞き出すために会った時以来、この物語からは姿を消していた。フレデリックが旧友たちを招いてごちそうした席にも顔を出していない。彼は、あまりその境遇を変えず、相変わらず、政論好きである。

 「シトワイヤンは王政に対する不満の種をなにかしら見つけてきて、まっさきにそれを口にする。そのあとは、たがいの悪口を言いあいながら、アルヌーと親しげに雑談する。陶器商はルジャンバールを一流の思想家と見なしていて、卓越した才能を発揮せずにいるのが残念でならず、日ごろの怠慢をいつも揶揄する。シトワイヤンのほうは、アルヌーが情に篤く、想像力に富んだ男であるが、品行には大いに問題があると思っていた。アルヌーとは遠慮会釈もないつきあいで、夕食に招待されても、『かたくるしい席はごめんだ』といってことわったりもする。」(光文社古典新訳文庫版、396ページ、岩波文庫版、276ページ) 要するに、アルヌーとルジャンバールはお互いを買いかぶりあいながら、親友として付き合っているのである。

 ルジャンバールは意地汚いところがあるが、酒については節度をわきまえていて、自分の議論に熱中するあまり、かんしゃくを起こすことが時々あるにせよ、沈思黙考に落ち込むことの方が多かった。ルジャンバールが物思いに沈んでいる間、アルヌーはフレデリックを相手に、自慢話をするのが常であった。フレデリックは自分たち2人のあいだにどこか共通する心理が潜んでいると思う一方で、そんなことを考える自分を情なく感じ、もっと敵愾心をもたなければと思ったりもした。アルヌーは夫人の機嫌が悪いことについて愚痴をこぼすので、フレデリックが別居してはどうかと勧めると(そうすれば、フレデリックにもチャンスが訪れることになる)、アルヌーの様子が変わって、今度は妻をほめたたえ続けるのである。

 物語がなんだか膠着状態に入ってきた。このあたりがフローベールの長編作家としての腕で、膠着状態に入ったかと思うと、また動き始めるのであるが、それはまた次回。1848年の二月革命が近づいているので、ルジャンバールが王政への不満を語るのは不思議ではないのだが、それがどうも口先だけの王政批判に終わっているようにも思われる。このあたりにも注意して、読み進めていく必要があるだろう。フレデリックとアルヌー夫人の関係は、作者フローベールのシュレザンジェ夫人という年上の人妻との関係が下敷きになっているといわれ、その時の心理的な経験が小説にも反映されていると考えてよいだろう。ただ、シュレザンジェ夫人の夫というのは音楽関係の仕事をしていて、ワーグナーなどとも知り合いだったというから、自分自身の経験から小説を構想する際に、フローベールが様々に虚構の網を張り巡らしていることもわかるのである。

日記抄(6月18日~24日)

6月24日(日)曇りのち晴れ

 6月18日から本日までの間に経験したこと、考えたこと、前回以前に書いたことの補遺・訂正など:
 5月17日付けで西城秀樹さんが亡くなられたことについて書いた中で、西城さんが主演された『俺のいく道』が田中絹代の最後の出演作ではないかと書いたのだが、田中さんはその後『大地の子守歌』(1976、行動社=木村プロ、増村保造監督)に出演されていることに気づいた。『大地』のほうが当時の世評は高かった作品であるが、なぜか、私の中では『俺のゆく道』の印象のほうが強く残っているのはどういうことであろうか。

6月18日
 この日の朝、大阪府北部を中心に地震があった。被害にあわれた方々に心よりお見舞い申し上げます。
 まったく記憶は残っていないのだが、ごく幼少のころに、現在の摂津市に住んでいたことがあり、私の妹はそこで誕生している。また1970年の大阪万博の際には、会場が設営されている最中から何度かアルバイトで訪れ、開会後は自分で金を払っても何度か入場したりで、大阪府北部には住んだことこそないが、いろいろ思い出があるのである。それでこの災害の報道を聴いて、他人事とは思えない。1日も早い復興をお祈りするものである。

 NHKラジオ『遠山顕の英会話楽習』は今月は趣味の特集であるが、ジグソー・パズルの話題が出た。
I picked up a new hobbby, Chie. (僕は、新しい趣味を見つけたんだよ、チエ。)
What's that, Hugo? (何なの、ヒューゴ?)
Jigsaw puzzles. (ジグソーパズル。)
Oh, I love jigsaw puzzles! (あら、私、ジグソーパズル大好きよ!)
I'm inviting friends over to put together a new puzzle tonight. Feel free to join us. (今夜、新しいパズルを一緒にしようといって友達を誘っているんだ。遠慮せず一緒にどうぞ。)
.I'm game! How many pieces does it have?  (行きます! 何ピースあるの?)
Two thousand. (2千。)
Awesome! What can I bring? (すごい! 何か持ってゆく?)
Nothing, just bring youself. (何も、手ぶらで来て。)
 ジグソー・パズルというと、アメリカ映画『市民ケーン』の主人公が、ジグソー・パズルのコレクターという設定だったことを思い出す。それ以上に印象に残るのは、彼のザナドゥ―と呼ばれる大邸宅の中で、彼の2番目の妻であるドロシー・カミンゴアがパズルをしている場面で、映画市場の名場面の1つに数えられる。

6月19日
 『朝日』朝刊の”HUFFPOST"の欄にドイツ在住のフリーライターである雨宮紫苑さんの、アジア人であることが明らかな自分がドイツで白人から道を尋ねられることに、なぜと思うことから、「自分に潜む偏見に向き合う必要」を感じたという話が紹介されている。私も外国で外国人から道を聞かれたことは何度もあるが、うまく答えられなかったということへの後悔の念のほうが大きい場合が多く(逆にうまく答えられた時の喜びはひとしおであり)、偏見云々はどうも考えすぎではないかという気がしてならない。

 芹沢健介『コンビニ外国人』(新潮新書)を読み終える。コンビニエンス・ストアを利用する際に外国人が店員として働いていることに気づくことが少なくない。そこにはどのような背景があるのか、彼らはどんな生活をして、その後はどんな人生を送っている、あるいは送ろうとしているのかを詳しく調べた書物で、日本における経済多文化主義の現状の一端を明らかにする内容となっている。

6月20日
 『朝日』朝刊の『オピニオン&フォーラム』で中国人民大学の康暁光さんが、「中国 儒家思想を政治に」という議論を展開している。魯迅や毛沢東が(視角はかなり違うとは思うが)儒教の伝統を批判し、一時期は中国の思想史を「儒法闘争」と要約する意見があったり、孔子と尊称せずに孔丘ということが一般的になったりした時代もあったことを思うと、時は変改するという思いにとらわれる。問題は、人間が大勢いれば、その分だけ様々な考え方があるのが自然の成り行きというべきであって、ある特定の思想が政治の世界を独占することが問題だということである。儒教というが朱子学もあれば、陽明学もある。日本で受容された儒学はさらに多様である。また、これはあくまでも私の個人的な印象であるが、欧米の知識人たちの間では孔子よりも孫子のほうが高く評価されているところがある。中国は「礼」の国というよりも「兵法」の国として認識されているということであろうか。

6月21日
 『日経』朝刊の「真相深層」欄は「外国人の単純労働容認 舞台裏追う」として、現在の日本社会の「人手不足」がこれまでの「『岩盤』規制」を崩し、単純労働に従事する外国人労働者までも受け入れを容認するに至った経緯を解説している。安倍首相に「仕方ないよね」と言われては、保守層も無下に反発できないということらしい。その一方で、『朝日』は「技能実習管理 機能せず」として、「技能実習生」の受け入れ制度の形骸化について警鐘を鳴らしている。問題は、受け入れるか受け入れないかではなくて、そのあとの処遇や実習の実態のほうにあるようである。

6月22日
 『日経』朝刊の文化欄に鹿児島在住の医師・八木幸夫さんが鹿児島中心に点在する「田の神様」(タノカンサーと呼ばれるらしい)の像について書いているのが興味深かった。仏像のようなものもあり、神像のようなものもあるという。そのあたりも注目されるところである。

 『朝日』の朝刊の「若い世代」のコーナーに「学歴で人生決まる社会なくそう」という高校生の投書が乗っていた。そんなことを書いている暇があったら、日本の社会の中での学歴と職業及びその中での職階の関連の実態について、自分の議論をより実証的なものに磨き上げる努力をすべきである。「学歴社会」という言葉がどのような文脈で使われるようになったか、本来の意味と、世間的に理解されている意味とがどのように違っているかなど、学ぶべきことは多いはずだ。
 ただ、その前に一つだけ言っておきたいことは、<学歴が人生を決める>のではなく、<学歴こそが人生の可能性を広げる>ということを理解してほしいということである。

6月23日
 『朝日』と『日経』の両方の書評欄が最近出た新書本として、井上章一『日本の醜さについて』(幻冬舎新書)を取り上げている。これは読まないといけないだろう。
 『日経』で注目すべき文庫本として取り上げられている西部邁『六〇年安保』(文春文庫)は、60年安保闘争の際の全学連主流派の指導者の1人であり、後に保守派の論客となった著者の「言論活動をする上でのケジメを記す書でもある」と紹介されているが、私がこれまで読んだ限りでは(まだ読み終えていない)、独断を並べただけの本に思われる。

 午後、ラピュタ阿佐ヶ谷に出かけたところ、近日公開作品『ジャズ大名』の予告をする柳沢真一(柳澤愼一)のアナウンスが流れた。ジャズ歌手、ボードビリアン、俳優、声優などとして活躍、特にTV「奥さまは魔女」のダーリン役の吹き替えをご記憶の方もいるはずである。一時は、池内淳子と結婚していた。現在85歳だということだが、まだ生きているということがうれしい人の1人である。

 『江分利満氏の優雅な生活』を取り上げた際に、書かなかったこと:チーフ助監督を務めている山本廸夫(1933‐2004)は、後に監督として岸田森を主演させた日本製吸血鬼映画などを手掛けている。
 原作者の山口瞳がこの作品を見た後で、江分利夫人を演じていた新珠三千代に葬儀の場面の演技がよかったですねぇといったところ、川島雄三の葬儀の際の川島監督の奥様の様子をまねたんですよと答えたという。この作品は、新珠が江分利夫人を演じていることで何となくほっとした気分になることは否定できない。なお、原作と映画で江分利の奥さんは夏子という名になっているが、山口の夫人の名は治子(はるこ)である。

6月24日
 『日経』朝刊の「名作コンシェルジュ」のコーナーでウォルター・ヒル監督の映画「ストリート・オブ・ファイター」が取り上げられ、この作品が「日活無国籍アクション」を想起させるところがあると書かれていて、「トムが小林旭に見えたり、エレンが笹森礼子に見えたりする場面もなくはない」とあるが、小林旭は浅丘ルリ子、笹森礼子は赤木圭一郎(彼の死後は宍戸錠)と組むことが多かったように思う。

 ニッパツ三ツ沢球技場でJ2第19節横浜FC対ヴァンフォーレ甲府の対戦を観戦する。前半は一進一退の攻防が続き、両チームともに無得点で経過、後半79分にレアンドロドミンゲスがボールを運んでCKのチャンスを作った横浜は、ゴール前のもみ合いから途中出場の齋藤功佑選手がボレーシュートを決めて先制点を挙げ、これが決勝点となった。累積警告でレギュラー2人が出場できないというハンディをはねのけ、勝ち点3をあげて横浜は6位に浮上した。

 よそ様のブログを拝見した思い出したこと:「芸能エンタメタレント最新ニュース&ランキング」で小津安二郎の作品の4K修復版が上映されるというニュースを見て、『東京物語』で🎬を叩いたのが高橋治だった(と、後に作家になった彼が書いている。前任が今村昌平だったもと書いているから、『麦秋』で一番下の助監督だったのは今村のはずである)。『東京暮色』はなかなか映画として完成せず、途中から助監督を増やした(その助監督というのが篠田正浩)。

江分利満氏の優雅な生活

6月23日(土)朝のうちは降っていなかったが、午前中から雨が降り続く

 ラピュタ阿佐ヶ谷で『江分利満氏の優雅な生活』(1963、東宝、岡本喜八監督)を見る。山口瞳(1926‐1995)の同名作品の映画化。原作は1961年から翌年にかけて『婦人画報』に連載され、1963年2月に文藝春秋から単行本として刊行された。その前に第48回(1962年度下半期)の直木賞を受賞している。私の母が『婦人画報』を読んでいたので、同誌連載中から読んでいたし、単行本も親の書棚から持ち出して読んだ記憶がある。その後も文庫本で買って何度か読み返していて、忘れがたい書物の1冊といってもいい。ところが映画を見たのは映画化されて55年後というのは不思議な因縁である。今回はそういう因縁を踏まえて、この作品を取り上げてみたいと思う。

 この作品はもともと川島雄三(1918‐63)が映画化することになっていたのが、彼が急死したために、その親友であった岡本喜八(1924‐2005)にお鉢が回ってきたという。企画の段階で山口と川島とは顔を合わせて飲み歩いていたようで、山口は映画監督というのは不良少年がそのまま大人になったような人が多いのではないか、川島というのはそういう人だったと書き残し、小津安二郎もそういうタイプだったのではないかと述べた。一つ、突っ込みを入れれば、難病に苦しんでいた川島と、偉丈夫であった小津とでは不良の種類というか程度が違うのではないかという気がする。佐藤愛子さんの言い草ではないが、不良というのはそれなりに奥深く、味わいのあるものなのである。それはさておき、原作者の山口も、監督の岡本も、主人公江分利満を演じる小林桂樹(1923‐2010)も、戦中派に属する世代で、それが映画の裏付けとなる現実性を与えている。

 江分利満は大正15年(1926、山口自身と同じである)生まれのサラリーマンでサントリーの宣伝部に勤務している(原作では東西電器という架空の会社の宣伝部員である)。大正15年生まれということは、昭和の年数と年齢とが合致するということである。数え年だとそれよりも1歳年長ということになるので、戦争には招集されたが、内地で訓練を受けただけで終戦になった。実は彼には(当たり前だが)御本人には全く責任のない出生の秘密があり、そのために誕生日が遅らされた。もし、本当の誕生日が届けられていたら、自分の運命は変わって、戦死していたかもしれないと彼は何度も思う。

 彼の父(東野英治郎)は、軍事産業に関わる会社を起こしては倒産し、起こしては倒産するということを繰り返してきた事業家で、今は事業に失敗しただけでなく、病魔に侵されているが、それでもなおかつ見栄坊で嘘つきである。江分利はそんな父親から離れて、貧乏でもささやかな幸福に満ちた生活を夢見ているのだが、勤めていた会社が倒産したりしてなかなかうまくいかない。銀座でお針子をしていた夏子と結婚し、庄介という子どもも生まれる。ところが、夏子は時々発作を起こすようになり、庄介は小児喘息に苦しめられる。さらに息子夫婦とささやかな暮らしを送ることを夢見ていた母親がある年の大みそかに急死する。ところがその後、江分利は運よくサントリーに入社でき、その社宅に入居できる。ささやかな幸福に満ちた家族生活を送れる…と思っていたところに転がり込んできたのは、借金だらけで糖尿病などなんだの様々な病気を抱えた父親である。

 以上は、映画の進行とともにわかる主人公の身の上で、映画そのものは彼の勤める会社の建物の屋上で、昼休みに繰り広げられる風景、コーラスの練習をしている社員たちがいるかと思うと、バドミントンやバレーボールに興じる社員もいる。その中でポツンと浮いている感じの1人…江分利というところから始まる。会社が終わって飲みに行こうか行くまいか、今日は飲むまいと思っていても、だれもついてこなくても、なぜか足が向かう。そして「面白い?」と会う人ごとに尋ねる。(屋上の場面はともかく、会社の仕事が終わってから、飲み歩き、「面白い?」と尋ねて回るというのは原作通りである。) そして悪酔いをして、飲んだものを吐きかけると、どこからともなく表れた1組の男女が彼をもっと飲みましょうと誘いだす。

 酔っぱらった後の記憶を全くなくしている江分利であったが、翌日、前夜の男女の訪問を受ける。彼らはある婦人雑誌の記者であり、彼に小説の執筆を依頼し、承諾を得たというのである。渋っていた江分利ではあったが、説得に負けて、創作に取り組むことになる(ここで山田だか満寿屋だか、どこかわからないが、一流どころらしい文具店の原稿用紙に、鉛筆で原稿を書きはじめるというところが、おもしろい。つまり、口で言っているのと裏腹に、結構やる気はあるらしいのである)。

 こうして物語が本格的に始まる。江分利の日常生活と彼の個人史が次第次第に明らかになる。昭和30年代も後半となり、家にはテレビが2台(1台は父親用)、ステレオも置かれているし、冷蔵庫もあり、内風呂も備わっている。豊かな生活の恩恵が及んでいる一方で、着るものはひどく貧弱だというようなアンバランスがみられる(このあたり、原作は細かく書き込んでいるが、それを映画では視覚的にうまく表現している)。それに、家計を苦しくしているのは、父親の病気に加えて、江分利が大酒を飲むということである。

 江分利が書く小説とも随筆ともつかない文章は、予想以上に反響を巻き起こし、直木賞候補に挙げられる。このあたり、原作よりも、原作者山口瞳のプライヴァシーに近くなってきている。そして・・・

 この映画ではある家系の3世代の男性の生き方が、主として主人公とその父親の関係に焦点を当てて描き出されているといってもよい。3世代といっても、まだ江分利の息子の庄介は子どもとしてしか描かれていないからである。さらに視野を広げてみると、原作についても、映画についても共通する気分は、戦中派の世代が自分たちよりも上、あるいは下の世代に感じる、そして世の中の動きに感じる違和感である。戦争中、江分利は平和にあこがれるが、その一方で、彼が享受していた豊かな生活は、戦争のおかげで得られたものであった。江分利は不器用で、何事にも一生懸命取り組もうとするのだが、なかなかうまくいかず、周囲から笑われたりする。笑わせようとしているわけでもないのに、笑いをとってしまうのはご本人にとっては困ったことである。

 川島雄三がこの作品の映画化を引き受けたとき、江分利の住む社宅から一歩も出ない作品をとろうと考えていたという。戦中派よりもほんの少し上の世代といえる川島なりに、違和感の表現を工夫しようとしたのであろう。それがどんな効果を生み出しえたのかは謎であるとはいうものの…。その点では、舞台を限定していない岡本による映画化は実験性に欠けるが、わかりやすい。山口が住んでいたサントリーの社宅は東急東横線元住吉駅の近くにあったが、その元住吉駅が高架化される以前の姿がとらえられていたりして、この沿線育ちの私には懐かしいところがある。映画化では省かれてしまっているが、関東の人間である江分利←山口が関西系の企業に就職して感じた違和感、東西の文化の違いというのは、おそらくは『東京マダムと大阪夫人』などという作品も残している川島雄三だったら、描き出していただろうという気持ちがする。この点は残念である。

 その一方で、山口の小説が描き、岡本の映画が再現しようとした江分利満は、山口瞳そのものではないことも心得ておく必要があるだろう。山口は、草野球の名選手・名監督であり、将棋は素人としては一流、そしてサントリー入社以前に様々な出版社を転々として腕を磨いた有能な編集者であった。サントリーに入社した経緯も、伝説的なPR誌である『洋酒天国』の編集部員募集の記事を見て、編集長の開高健(1930‐89、つまり山口よりも年少で、「焼け跡闇市」世代である)に連絡を取ったところ、冗談半分に記事を出した開高が本気になって彼の採用を上層部に働きかけたという経緯がある。原作・映画の中で展開されている江分利の小言幸兵衛的なこだわりは、山口瞳という不器用な半身と、達人・通人というもう一方の半身をもった人物ならではのものであり、映画を額面通りに見ているだけではわからないものではないかと思われる。そうはいっても、原作・映画ともに、山口瞳の生活と意見よりも、戦中派がその前後の世代の生活と意見に対して抱く違和感のほうに強調点があると理解すべきであろう。今や、この作品では子どもとして描かれている江分利の息子・庄介が70歳近くになっている(はずである)。世の中を動かすのが、もっと若い世代になっている現在、」戦中派の人生観を再点検・再評価する責任を負うのは、どのような世代なのであろうか。

 なお、この映画中で、江分利の父親の家に下宿しているアメリカ人の記者を演じているジェリー伊藤は山口瞳の義弟である。小林桂樹が山口瞳に似ていることにくわえ、岡本はこの作品中にまだまだ話の種を仕込んでいるかもしれない。

小方厚『音律と音階の科学 新装版 ドレミ…はどのように生まれたか』

6月22日(金)晴れのち曇り

 6月18日、小方厚『音律と音階の科学 新装版 ドレミ…はどのように生まれたか』(講談社ブルーバックス、2018)を読み終える。2007年に刊行された『音律音階の科学』の記述を全面的に見直した新装版である。
 「まえがき」に「この本の主題は、音楽に使う音の高さである。音楽の3要素はメロディ・リズム・ハーモニーだが、このうちのメロディとハーモニーが対象だ」(3ページ)とある。
 物理現象から生み出される音はきわめて多様である。「ドとレの間には高さが違う無限の音がある。しかし音符上には、そしてピアノの鍵盤には、半音ド♯が1つあるだけだ。世界中どこのピアノでも同じである。」(同上) なぜこういうことになったのか。

 この書物はその名の通り『音律と音階』について、数学と物理学の知見を踏まえて概観しているが、それだけでなく「なぜドレミ大学…という音階が人類に受け入れたか」(同上)という問題をサイコ・フィジクス(心理物理学あるいは精神物理学と訳される)によって、説明を試みているのが特色である。

 「数学・物理学と音楽とはなんの関係もないと思われている。『ひと夜ひと夜にひとみごろ・・・・・、サインコサイン何になる……』とは中川五郎作詞・高石友也作曲の『受験生ブルース』の一節だ。しかし1.1421356…(√2)は減5度の周波数比であり、サイン・コサインはスペクトル解析の基礎であるフーリエ変換の道具である。数学は本書のためにあるようなものだ。」(4ページ)と著者は言う。

 そこで目次を紹介しておこう。目次を見るだけでもこの書物が盛り込んでいる内容の多さがわかる。

第1章 ドレミ…を視る、ドレミ…に触れる
 1.1 音楽はデジタルだ
 1.2 デジタル楽器とアナログ楽器
 1.3 聴覚は「差」ではなく「比」を感じとる
 1.4 手製の一弦琴でオクターブを視る
第2章 ドレミ…はピタゴラスから始まった
 2.1 ド・ソの協和からピタゴラス音律へ
 2.2 音のらせん
 2.3 音程の数え方――「度」という単位
 2.4 5度円から長音階へ
 2.5 旋法、あるいはモード
第3章 音律の推移――閉じない環をめぐって
 3.1 ピタゴラスの負の遺産――コンマ
 3.2 協和とうなりとウルフ
 3.3 ドとミの甘美な響き――純正律
 3.4 純正律の泣きどころ――転調
 3.5 平均率の功罪
 3.6 ミーントーンとウェル・テンペラメント
 3.7 純正律を鍵盤で
第4章 なぜドレミ…が好き?――音楽の心理と物理
 4.1 2重音の心理と物理
 4.2 同時になる2つの音をどう聞くか?
 4.3 楽器が出す倍音
 4.4 楽音の不協和感から純正律へ
第5章 コードとコード進行――和音がつくる地形を歩く
 5.1 3重音のポテンシャル
 5.2 長3和音と短3和音
 5.3 コード進行の原理
 5.4 転調の行き先
第6章 テトラコルド――自由で適当な民族音楽
 6.1 西洋音楽と、西洋音楽以外の民族音楽
 6.2 音階のユニット箱――テトラコルド
 6.3 箱を積んでつくる日本の音階
 6.4 ブルースはポピュラー音楽のルーツ
 6.5 数十段の音階、微分音階
 6.6 旋律打楽器バンド――ガムラン
第7章 楽器の個性を生かそう
 7.1 楽器と5度円
 7.2 弦楽器の奏法、管楽器の構造
 7.3 2次元打楽器
 7.4 リズム楽器
 7.5 電子楽器テルミン
 7.6 声こそ最高の楽器
第8章 音律と音階の冒険――新しい音楽を求めて
 8.1 そっくりメロディからの解放
 8.2 平均率だからできること
 8.3 純正律をさらに追求すれば
 8.4 12音ではない平均律
 8.5 純正律のように響く平均律
 8.6 オクターブからの解放
 8.7 音律と音階の将来 

 西洋音楽だけでなく、世界の様々な音楽が取り上げられる。楽器の歴史を中心に音楽の歴史にも言及される。まことに盛り沢山である。編集部の注文で数式をバッサリ削られたことを著者は嘆いているが、それでも楽器やその演奏場面、楽譜に加えて、音の出る仕組みや周波数をめぐる図や表がかなり多く掲載されている。音の出る仕組みやそれに関わる数学・物理学的な考察にはわからないことも多いが、どうやらわかったことの中で面白かった部分が多かったことも確かである。それで、なんとか理解したこと、その中で面白かったことを書いておこうと思う。

【音楽はデジタルだ】
 音楽は最初から抽象的だった。(絵画と比べれば確かにそうである。)⇒音楽はデジタルだ
 デジタルとは、連続量を段階的に区切って数字で表すことである。ドレミ…は西洋音楽のデジタル化の単位にすぎないとは言うものの、西洋音楽以外の音楽でも、独自のデジタル化がなされている。ところが動物が信号として発する声音は連続的である。

【ドレミの起源と6音階】
 11世紀に歌われた「聖ヨハネ賛歌」の楽譜の歌詞に、Ut, Re, Mi, Fa, Sol, La という音節とそれに対応する音が記されている。「この歌が元祖『ドレミの歌』である。Do 出なくてUtだが、いまでもフランス語ではDoの代わりにUtを使っている。」(57ページ) フランス語の辞書で調べてみたら、ut 【楽】C音、ハ(ハ長音階の第1番目の音の名) なおイタリア語の辞書を調べてみたところ、ut【音楽】ウト、音階の第1音(11世紀に使われ始め、17世紀にドと入れ替わる)とあった。さすがにイタリア語の辞書のほうが親切である。(ドレミ…は音名にも階名にも使われるので、問題が生じるというようなことが、255ページ以下の「付録」に出ている。)

【タフマインド度】
 「音律・音階に限らず、新しい音楽を受け入れるには、聞く側にも冒険心が必要である。心理学者アイゼンク(Hans J. Eysenck, 1916‐97)が定義したタフマインド度は、この冒険心を持つ要素と関連が深い。タフマインド度が高い人は若い男性に多く、不協和音を好み、ロックやジャズを好む傾向があるとされる。好奇心が強く『清濁併せ呑む』太っ腹の持ち主である。演奏の技量や絶対音感の有無には無関心である。」(253ページ) 若い男性が興味を持つ方が、新しい音楽の可能性は開けやすいということだろうか。先を読みにくい、わかりにくい問題に果敢に挑戦していく精神が求められるのは、音楽だけの話ではない。

 かなりの部分の紹介を省略してしまったが、その大半は理解できなかったから省略したというのが真相に近い。読者の方々が私よりももっと、この本の内容を理解し、もっと楽しんで読むことを期待したい。

ウィルキー・コリンズ『月長石』再読

6月21日(木)曇り、時々雨

 ウィルキー・コリンズ(Wilkie Collins, 1824-89)の代表作の1つである『月長石』(The Moonstone, 1868)については、2013年6月から2014年にかけて、当ブログで紹介したことがあるが、今年はこの作品が発表されて150年という節目の年なので、改めて読み直しながら、紹介し直すことにする。前回は、創元推理文庫の中村能三訳に従って紹介を進め、意味の通じにくい部分について原文を参照するというやり方をとったが、今回もそのやり方を踏襲し、徹底させるつもりである。また前回は物語を最後まで紹介しなかった(ネタバレを避けた)が、今回は最後まで紹介してみようと思う。

 『月長石』は推理小説(あるいは探偵小説、あるいはミステリー)の歴史の中でどのように位置づけるかは、ミステリーの本質をどのように定義するかにかかわっていて、難しい問題である。一方でT.S.エリオットのように、探偵小説の始祖はポーではなくてコリンズであるといい、『月長石』を“the first, the longest and the best modern English detective novels" (最初の、最長で最良の近代英国探偵小説)と評価する人もいるが、捜査方法の科学性という点でこの作品には難点が見いだされるということで、このジャンルの本格的な始祖はコナン・ドイルであるという論者も少なくない。
 英文学者の書いたミステリーの歴史である廣野由美子『ミステリーの人間学――英国古典探偵小説を読む』(岩波新書)は、コリンズどころかディケンズからその記述を始めている一方で、フランス人のアンドレ・ヴァノンシニ『ミステリ文学』(André Vanoncini, Le roman policier (クセジュ文庫)はポー、ガボリオ、ドイル、ルルー、ルブランを「先駆者たち」と一括し、コリンズについてはドイルに影響を与えた作家として触れただけで済ませている。ということで、英国、フランス、米国によるミステリーの本家争いも絡んで、この問題は複雑である。
 この問題には正解というものはなく、それぞれのミステリー愛好者が自分なりのミステリーの定義と、歴史についての理解をもてばよいのであって、私の一文はその定義と理解のための一助を提供することが目的である。そんなことを言うのは、やはり『月長石』には一筋縄ではいかない魅力、推理小説としてみた場合には捜査方法が科学とは言えないとは言うものの、それを補って余りある物語の展開や人物描写の面白さがあるためである。(さらに言えば、あまりはっきりとは語られていないが、植民地支配と収奪に対する批判や、当時の英国の社会の階級的分断への言及など、ドイル以後の推理小説が捨ててしまった問題が取り上げられていることも指摘されてよかろう。)

 題名になっている「月長石」(Moonstone)は6月の誕生石となっている宝石ではなくて、巨大なダイヤモンドにつけられた名前である。なぜこの名がつけられたかは、物語の冒頭で説明されている。
 このダイヤモンドはインドのある寺院に置かれた神像のなかの月の神の像の額に飾られていたが、この寺院がイスラム教徒たちの略奪を受け、月の神の像だけがその被害を免れることができた。そしてこの神の像は3人のブラーフマンの手によってベナレスへと運ばれた。〔中村はthree Brahminsを「三人のバラモン教徒」と訳しているが、インドの四姓の中で最高階級である司祭者層=ブラーフマンを指していることは明らかである。原文通りにブラーミンと訳してしまうと、アメリカのニューイングランド地方出身の知識人というような独特の意味に受け取られてしまう可能性があるので、ブラーフマンとしておいた。〕

 ベナレスでは新しい寺院が建てられ、そこに月の神の像が安置された。寺院が完成したその夜に、ヒンズー教の世界を維持する神であるヴィシュヌが3人のブラーフマンの夢のなかに現れた。
 ヴィシュヌは月の神の額のダイヤモンドに霊気を吹きかけて、命じた。月長石は、人間たちの世代が続く限り、順番に(選ばれた)3人のブラーフマンによって、昼も夜も見守られなければならない。そしてさらに神は予言した。この神聖な宝石に手を触れるものがいれば、その神を恐れぬ者はもとより、その宝石を受け継ぐ一族のものすべてに、必ずや災いが下るであろう。ブラーフマンたちはその予言を寺院の門に、黄金の文字で書き記させた。

 その後、この宝石はかわるがわるにその任務を引き継いだ3人のブラーフマンたちによって見守られてきたが、18世紀のはじめにムガール帝国の皇帝アウランゼブがこの寺院を襲撃させ、建物と像を破壊させた。そして月長石はムガール軍のある士官によって略奪された。その後、この宝石はその持ち主を変え、18世紀の終わりにはセリンガパタムSeringapatamのスルタンであるティッポーのものとなった。ティッポーはそのダイヤモンドを短剣の柄に象嵌したが、宝石の行方を追い続けていた3人のブラーフマンたちが変装してその近くでひそかに見守っていたといわれる。
 〔原文ではAurungzebe, Emperor of the Mongulsとなっていて、中村は「蒙古皇帝オランゼブ」と訳しているが、世界史の知識に即して「ムガール帝国の皇帝アウランゼブ」とした。ムガール帝国の皇帝たちは、ティムールの子孫であり、アウランゼブの父はタジ・マハールを建てたシャー・ジャーハンである。セリングパタムは英国人たちが呼んだ名称で、南インドに実在する都市であり、現地のカンナダ語ではシェリーランガパトナというそうである。1799年の英国人とマイソール王国の最後の王ティプー・スルタンとの闘いは歴史上実際に起きた事件で、英国の侵略に対し最も勇敢に戦ったティプーの死により、英国のインド侵略はより容易になったといわれる。『月長石』ではTippoとなっているが、明らかに同一人物である。またジュール・ヴェルヌの名作『海底二万海里』と『神秘の島』に登場する(ほかの作品にも登場しているかもしれない)ネモ船長はこのティプー・スルタンをモデルにしているといわれ、作中では甥ということになっているようである。つまり、推理小説とSF小説がこんなところで出会っているのである。〕

 1799年5月4日、英国の軍隊がベアード将軍の指揮のもとにセリンガパタムを攻撃する。その部隊の中にジョン・ハーンカスル John Herncastleとその従兄弟がいた。ジョンは、襲撃の前に月長石の伝説を聞いて、同僚たちがそれをおとぎ話扱いにしているのに腹を立て、その宝石を必ず自分のものにしてみせると大見えを切る。2人は、征服の後の略奪と混乱を防ぐために将軍の命令で派遣された一隊に加わっていたが、この任務に最も不適任な人物であるジョンは、兵器庫に入り込んで短剣を奪った〔らしい〕。彼に倒された瀕死のインド人は土地の言葉で「月長石は、将来、お前とお前の家族のものに、必ず復讐するであろう」(中村訳、13ページ)と言って息絶える。駆け付けた従兄弟は兵器庫にいたインド人がなぜ死んだのか、彼がジョンの手にしている短剣を見ながら言った最後の言葉は何を意味しているのと問い詰める。すでに落ち着きを取り戻していたジョンは「あのインド人は、たぶん重傷を負わされて死んだんだろうな。それから、あの男が言った最後の言葉の意味は、君と同様、ぼくにもわからんよ」(14ページ)という。〔「重傷」というのはa mortal woundの訳語としては不適切で、「致命傷」のほうが適切であろう。〕 その答えに納得しなかった従兄弟は、彼と縁を切ることにする。ジョンは、「君と同様、ぼくにもわからんよ」と言っているが、従兄弟のほうは、呪いの言葉を書き留めている――ということは従兄弟のほうはインド人がカンナダ語で言ったことは聞き取っていて、その意味を訊ねているのだが、ジョンはカンナダ語はわからない、君だってわからないだろうと答えている。これでは、従兄弟のほうが腹を立てるのも無理はない。

 ジョンが短剣に象嵌されていた宝石を英国に持ち帰ったことにより、この小説の中で描かれる事件が起きる。一部始終を記録した従兄弟はその手記を次のように締めくくっている:
「私はこの宝石にまつわる幻想的なインドの伝説を信じているわけではないが、この事件において、私自身もある迷信にとらえられていることを、ペンを擱くに際して、認めざるを得ない。それが信念であるか、幻想にすぎないか、いずれにせよ、罪は因縁を伴うものである。私は、ハーンカスルが罪を犯したと信じているだけでなく、これはあまりにも想像にすぎるかもしれないが、ダイヤモンドを手元に置く限り、いつか後悔するにちがいないとも思っている。そして、彼がダイヤモンドを手放すようなことがあったら、それを受けついだ他の人々にも、やがて後悔するときがくるであろうことも。」(16ページ)

トマス・モア『ユートピア』(6)

6月20日(水)雨
 
 1515年にフランドルを訪問したトマス・モアはエラスムスの友人であるアントワープのピーター・ヒレスと知り合い、その世話になる。ある日、モアはヒレスからラファエル・ヒュトロダエウスという世界中を旅したという人物を紹介される。その知識と経験とに感心したモアとヒレスは、ラファエルにどこかの王侯に顧問として仕えることを勧めるが、ラファエルは固辞する。そして王侯や身分の高い人々の取り巻きたちが阿諛と便佞をこととしている様子を見ると、宮仕えは嫌だと、自分がイングランドのモートン枢機卿のもとにいたときの経験を語りはじめる(モートンは、モアが子どもの頃に小姓pageとして仕えた人物である)。
 ある時、食事の席で、一人の法律家がイングランドにおける峻厳な法律を称賛し、にもかかわらず泥棒が減らないのはなぜかと問うたので、ラファエルは、盗みに対する刑罰が犯した罪の償いとしてはきびしすぎ、その予防としては不十分だからだという。貴族たちは多くの取り巻きを抱えており、その多くが手に職をもたず、ひとたび解雇されてしまえば犯罪にむかうよりほかに生きる道がない連中である。それだけでなく、第一次囲い込み運動によって多くの農民たちが自分の小作地を追い出されているという現状があると指摘する。そして、罪人はすぐに処刑するよりも、強制労働に従事させることによって、更生の道を歩ませるというやり方をイングランドでも採用すべきであるという。

 重罪人を処刑するのではなく、強制労働に従事させ、成績の良いものには自由を回復するというやり方をイングランドでも採用してみてはどうかというラファエルの提案に対し、厳罰を支持してきた法律家はそれは定着することがないだろうと反対意見を述べる。ところが、枢機卿がこのやり方に興味を示し、実験的に採用してみる価値がある、死刑囚の処刑を猶予して、しばらく働かせてみて様子を見るのもいいかもしれない、また「浮浪者たちも同じ方法で扱ってみるのも決して悪くはなさそうに思える」(89ページ)と発言すると、取り巻きの人々は口々に賛意を表するようになった。「枢機卿がこう言い終わられとるや否や、私の口から述べられたときには軽蔑したその同じことを、みんなはそれぞれ先を争って賞賛しました。とくに賞賛したのは浮浪人 に関する話でした。というのはこれは枢機卿が付け加えなさったことだったからです」(同上)と、取り巻き連中の無定見ぶりを暴露する。そしてラファエルは、その後に起きたことも、自分が話そうとしていることと関連するので、話しておこうと、さらに話を続ける。

 「ちょうどそこに居候が居あわせたのです。彼は阿呆道化の役を演じようとしているふうでしたが、その真似のしかたはあまりにへたで、むしろほんとうの阿呆に似ていたくらいで、すぐにぎこちない冗談でひとを笑わせていましたが、笑われていたのは彼の言ったことよりもむしろ彼自身でした。」(同上)
 澤田さんは「居候」について「他人のめしで暮らす人。くだらぬことでも、人を笑わすようなことをいうのを身上とするたわけ者も意味する」と解説注で述べている。これまでの話の中でラファエルが批判してきた貴族や地主の取り巻きの仲間であることは間違いないし、それ以上に、阿呆道化といえば、エラスムスの「痴愚女神」がこの「阿呆道化」の扮装で自賛の演説を展開していたことをご記憶のはずである。この個所をRalph Robinsonは次のように訳している:
There chanced to stand by a certan jesting parasite or scoffer, which would seem to resemble and counterfeit the fool.
(Everyman's Library edition, p.36. たまたまそこに冗談をいう係の寄生者、あるいは寄食者が居合せました。彼は阿呆道化に似ているというか、そのふりをしているように思われました。)ロビンソン訳に基づいた平井訳は「たまたま席上に一人の洒落の上手な居候、つまり悪口屋(スコファ)が下りました。この男は阿呆(フール)の真似をするのが得意でしたが、実際その真似たるや技、真に迫るとでも申しますか、本当に阿呆なのか、阿呆の真似をしているのかわからないくらい巧みなものでありました。」(岩波文庫版、41ページ、scoffには「悪口を言う」という意味と、「がつがつ食べる」という意味とがあり、私は後者の意味で受け取ったが、平井正穂は前者で受け取っている。それにしても、原文に比べて翻訳が長いね。)  またPaul Turnerの訳は:
Among those present was a professional dinerout , who wanted you to think that he was merely acting the fool but played the part almost too convincingly.(Penguin Classics edition, p.54. その中に一人の招かれて自宅外で食事をするのを専門にする人物が下りましたが、彼はただ阿呆道化の役を演じているとあなた方に考えてもらうことを望んでいるのに、その演技はほとんど彼が全くの馬鹿だと確信させてしまうというような人物でありました。)
  ターナーの訳と澤田さんの訳は大筋で一致するので、要するに馬鹿なるふりをして人々を喜ばせようとしているが、そんなことをしなくても馬鹿が見え透いているような人物がしゃしゃり出たということである。それからターナー訳と澤田訳の決定的な違いは、ターナーは「dinerout=招かれて自宅外で食事をする人」という言い方をしているのに、澤田さんは「居候」(居候は寄生先の家で食事をする)としていることで、どちらが正しいかは原文にあたらないとわからない。

 この男はそれでも時々は不条理ではないことを言うこともあり、「たびたびさいを投げるものはいつかは幸運(ウェーヌス)を当てる」という格言のよい例となっていた。「さい」はサイコロのことで、澤田さんの解説注によると、「古代のさいは4面に1,3,6,4の字が書かれており、4つのさいがみな違う数字を示したときにウェーヌスと称した」とある。ウェーヌスというのはラテン語で、英語ではヴィーナスと呼ぶ。サイコロというと我々は立方体のサイコロを思い浮かべるが、古代には4面の(必ずしも正四面体とは限らない)サイコロがあったようなのであるが、詳しいことを調べていると時間がかかるので、やめておく。
 席上の誰かが、ラファエルの話で泥棒対策が、枢機卿の話で浮浪人防止策が考え出されたので、残っているのは病気や老齢で貧窮に陥り生活維持のために労働することができなくなった人たちにも、何らかの公共の援助をしてやるという問題だと言い出した。

 彼の提案は「乞食どもを全部ベネディクト会の修道院に分配して俗人修道士(ライコス・モナコス)にしてしまえ、女どもは修道女になっちまえ」(90ページ)というものである。ベネディクト会は聖ベネディクトによって6世紀に創始された西方最古の修道会である(西方ということは、東方にはもっと古い修道会があるということである)。俗人修道士というのは司祭でない修道会員でで台所、農場などで働く人々である。「枢機卿はほほえんで、冗談まじめ(イオコ・セリオ)に同意しましたので、他の人たちはまじめに同意しました。」(90-91ページ) 平井訳(岩波文庫)では「それを聞いて枢機卿はにっこり笑って冗談に賛成の意を表されました。するとどうでしょう、一座のものは皆いとも真面目に早速賛成するではありませんか。」(岩波文庫版、42ページ)となっている。ロビンソン訳を調べると、
Hereat the cardinal smiled, and allowed it in jest, yea, and all the residue in good earnest. (Everyman Library edition, p.37、 ここで枢機卿は微笑され、その冗談を認められました、そして残りのものすべては大まじめで認めたのです。) ターナー訳はもっとはっきりしている。
The cardinal smiled, and jokingly agreed. So all the others, with perfectly straight faces. (Penguin Classics edition, p.55, 枢機卿は微笑され、冗談として同意されました。それで残り全てのものは、まったくまじめな表情で同意したのです。) ところが托鉢修道士であったひとりの神学者は、在俗司祭と修道士についてのこの冗談を聞いてすっかり陽気になり、普通は苦虫を噛み潰したような顔をした重厚な人物であるのに、自分もふざけはじめた。「いや・・・そういうことをしても乞食どもは片づけられませんよ。我々托鉢修道士のためにも何か対策を講じない限りはね」。(91ページ) これに対して、例の居候が、托鉢修道士には浮浪人向けの対策をとればいいのだと言い返した。「あんたがたは最大の浮浪人だからさ」(同上)。敵意を含んだこの言い方のために、神学者との間に、激しい議論が起きることになる。
 初期の修道会に属するベネディクト会士が山間の修道院に隠遁、定住したのに対し、13世紀以降は街に出て托鉢、説教、社会事業などに従事する修道会と修道会士が多くなる。ドミニコ会、フランシスコ会、アウグスチヌス会、カルメル会がその代表的なものである。修道会の創始者たちの社会の矛盾と真剣に立ち向かおうという意識が薄れて、それぞれの修道会と修道士たちは堕落の一途をたどっている。今や托鉢も乞食と変わらないというわけである。
 モアは強い宗教的な情熱をもった人であったにもかかわらず、世俗的な法律家としてその生涯を生きた。あるいは、その当時の教会や修道会の堕落ぶりに批判的な意識をもっていたのかもしれないと思われる。そうなると、彼がヘンリーⅧ世の「宗教改革」に反対した理由がいよいよわからなくなるのである。

 前回、Marie-Luise Bernelli, Journeys through Utopiasの日本語訳題名を『ユートピアの系譜』と紹介したが、『ユートピアの思想史』が正しいので、訂正しておく。(『系譜』はルイス・マンフォードの著作の日本語訳題名であった。)

『太平記』(215)

6月19日(火)晴れ

 建武4年(南朝延元2年、1337)、奥州国司兼鎮守府将軍の北畠顕家は軍勢を集め、8月19日に白河の関を越え、鎌倉管領足利義詮(尊氏の3男)の軍勢と利根川で戦って勝利した。伊豆では後醍醐帝の勅免を得た北条時行(高時の次男)が、上野では新田徳寿丸(後の義興、義貞の次男)が挙兵して、鎌倉に迫った。鎌倉では義詮の前で、主だった大名たちが集まって作戦会議を開いたが、戦わずに安房・上総方面に逃げて、関東地方の様子を見守ろうというような消極的な意見が大勢を占めていた。

 大将である義詮はこの評定を聞いていたが、まだ11歳(岩波文庫版の脚注にもあるように、実際は8歳)というまだ思慮が十分についているとは思えない年ごろであったのに、呆れかえった様子で次のように述べた。「これはおのおの方の意見とは思われないものである。戦をするからには、どちらかが勝つことに決まっているはずだ。負けては困るとむやみに恐れるなら、戦などしないに越したことはない。いやしくも義詮が東国の管領として、たまたま鎌倉に滞在しているのに、敵の軍勢のほうが大勢であるという理由で、ここで一戦も交えないというのは、後々の非難を免れないし、敵に嘲笑されることになるだろう。
 であるからして、味方のほうが小勢であろうと、敵が押し寄せてくれば、馳せむかって戦い、力及ばなければ戦死するまでだ。もし逃れることができれば、どこか血路を開いて、安房、上総方面にいったん退却し、敵の後ろについて上洛し、宇治、瀬田の辺で(都の足利方の軍勢と呼応して)前後から攻めれば、どうして敵を滅ぼすことができないといえるだろうか。」 このように、義詮が作戦を緻密に、理屈にかなって述べたので、大将と勇猛な士卒は、みなこの一言に励まされ、こうなれば討ち死にするよりほかの道はないと、ひたすらに思い定めて、鎌倉の中に立てこもる。その兵力は1万騎ほどにすぎない。

 このような様子を聞いて、北畠顕家、新田徳寿丸、北条時行、宇都宮の紀清両党、かれこれ総勢で10万余騎が、12月28日にそれぞれの方面で合図を取り合って、鎌倉へと押し寄せた。鎌倉では、敵の様子を聞いて、勝ち目はほとんどないと、一途に皆(討ち死にしかないと)心に決めたので、城砦の防備を固めるとか、堀を深く掘るとかいう謀を用いず、1万余騎を四手に分けて、鎌倉と外部とをつなぐ道に待ち構えて、一進一退、終日それぞれの命を惜しまずに戦っていたが、四方のうち一方の大将として派遣されていた足利一族の志和三郎(斯波家長)が、杉下(すぎもと、鎌倉市二階堂の杉本寺の背後)で戦死したので、ここから防御の陣営が敗れて、宮方の軍勢が鎌倉の町を構成する谷合の一つ一つに乱入してきた。寄せ手に三方を囲まれ、味方は一か所に集まっていると、戦死者を多く出すのに、戦う兵は少ない。こうなっては勝利の見通しはないと思われたので、大将である義詮をつれて、高、上杉、桃井以下の面々はそれぞれの心まかせに、落ち延びていったのであった。

 このような事態の推移の後は、東国の軍勢は、宮方に従いつくものが多く、雲霞のごとき大軍ができていった。ここで鎌倉に滞在しても、何の意味もないと、顕家は、暦応元年(南朝延元3年、1338)正月8日に鎌倉を出発して、昼夜兼行で上洛の軍をすすめた。その軍勢は合計で50万騎、5日間というもの、幹線道路だけでなく、そこから隔たった脇道までも進み、その間、もともと無頼の武士たちの一団であるので、道中の民家を略奪し、神社仏閣を破壊してまわった。この軍勢が通りすぎた後は、塵を払って、海道から2,3里のあいだには、家の一軒も残らないというすさまじい略奪ぶりであった。
 こうして大軍の前陣が尾張の熱田に到着すると、熱田大宮司源雄(昌能)が500余騎を率いて軍勢に加わった。北畠軍の勢いは盛んで、これから西、京都まではだれもその進撃を食い止めることはできないであろうと思われた。

 軍記物語に記される兵力は1桁小さく見積もるべきであるという意見を取り入れると、北畠軍は5万騎から10万騎という規模と思われるが、それでも大変な大軍である(関ヶ原の戦いのときの軍勢を思い出していただきたい)。顕家はこの前年にも大軍を率いて東北と京都とを往復しているが、これは日本の軍事史にまれな強行軍である。将兵も大変だったろうが、それ以上に軍隊の略奪を受けた沿道の住民たちは大変だったろうと思う(こういう時には、付近の山や野原に逃げる習わしだったとしてもである)。 

 ここで登場する主な人々のなかで、北畠顕家(1318‐38)は(数え年で)20歳、足利義詮(1330‐67)は8歳、北条時行(1325?ー53)は13?歳、新田義興(1331‐58)は7歳、斯波家長(1321‐37)は17歳と戦争に参加するにはあまりにも若い。そのことも痛ましい気分にさせられる。義詮の発言は8歳の子どものものとは思えないので、『太平記』の作者の創作であろう。初代の尊氏と、三代目の義光の間に挟まれて、比較的影の薄い義詮であるが、武将としての素質をうかがわせるような一面はあったと強調したい意図から書き加えられた箇所だと思われる。一応、戦うという形は作って、退却し、上洛を目指す北畠軍の後を追いかけるというのは既定の方針であったと考えてよいのではないか。
 杉本寺は、坂東三十三か所の第一番、鎌倉三十三か所の第一番とされ、鎌倉でもっとも古いといわれる寺院で、鎌倉と金沢を結ぶ六浦道の沿道の要衝を占めている。斯波家長が陣営を構えていたのは、寺のさらに奥の杉本城と呼ばれる城砦である。これは治承寿永の内乱の頃には三浦氏の軍事拠点であり、その後は鎌倉郷内の重要な城郭として機能していた。しかし、この合戦で落城、斯波家長の軍勢が全滅したことにより、二度と城郭として使用されることはなかった。

 杉本寺にはもう10年以上前に参拝に出かけたことがある。私は歩いて出かけたのであるが、鎌倉駅から京浜急行のバスが出ているので、それを利用する方がいいかもしれない。寺でドイツ人のグループに出会い、なかなか渋いところに目を付けたねえと感心したのを覚えている。またまだ皇太子妃であった皇后陛下が、まだ小学生であった浩宮(現皇太子)殿下とともに寺を訪れた写真が飾ってあったのを記憶している。ごく幼少のころから皇太子殿下は歴史に興味がおありだったようであるが、たぶん、この寺を訪問されたときには『太平記』をお読みではなかったと思われる。それでも、この寺と戦いについての説明を聞かれたかも知れず、この戦いでご自分とあまり年の変わらない若者たちが戦闘を展開したことについてどのような感想をもたれたのか、伺ってみたい気がする。
 Wikipediaで斯波家長について調べていたら、彼が甲州の大善寺についての文書を発給しているという記事に出会った。この大善寺は、ぶどう寺として知られているよしであるが、武田勝頼が滅亡寸前に立ち寄り、戦勝を祈願したという寺でもある。甲斐一宮の浅間神社に参拝した際に、タクシーの運転手さんからその話を聞いたことを思い出す。大善寺という寺はあちこちにあって、遠江の大善寺には今川義元の胴塚があり、その話は宮城谷昌光の『新三河物語』にも出てくる。
 熱田大宮司氏は、藤原南家から入った季範以来、熱田神宮の大宮司を代々務める家柄であるが、季範の外孫が源頼朝であるというように武家との結びつきも強い。以前、私が住んでいたところの近所に大宮司という表札を掲げた家があり、熱田大宮司と何か関係があるのかと思ったことを思い出す。
 今回は雑談が多くなった。北畠顕家は公家であるが、軍隊を統率する力はなかなかのものである。とはいうものの、彼の配下の武士は必ずしも統制が取れているとはいえず、前途に不安な面もある。さて、さらに西には何が待ち構えているか、またさらにその後を追いかける足利方の動きはどのようなものとなるか、それはまた次回。

フローベール『感情教育』(8‐10)

6月18日(月)曇り、ときどき小雨

 大阪府北部を中心に近畿地方で強い地震が起きました。地震の起きた地方にお住いの方々のご無事をお祈りします。

 『感情教育』(L'Education Sentimentale)はフランスの作家フローベール(Gustave Flaubert, 1821-1880)が1864年に書き始め、1869年に完成させた彼にとって3作目となる長編小説で、彼の自伝的な性格が強く、二月革命を頂点とするフランスの歴史のなかでのもっとも激動的な時代の1つであった1840年代に青年時代を過ごした人々の「一世代の精神史」としての性格を持っている。今回は、これまでのあらすじではなく、主な登場人物についてまとめてみようと思う。

フレデリック・モロー セーヌ川上流域の地方都市出身で、没落しかけている旧家の後継ぎ息子であり、母親から家門復興の望みを託されている。1840年に法律を学ぶためにパリの大学に入学するが、夢想家の彼は法律の勉強に興味が持てない。偶然知り合った画商アルヌーの美しい夫人に恋する一方、高校時代の友人であるデローリエやその他の友人たちとともに1840年代のパリの空気に触れて、都会生活になじんでいく。大学卒業後、母の懇請により、いったん地方の法律事務所で働くが、裕福な叔父の死後、その財産を継ぐことになってまたパリに戻って生活することになる。社交界に入ることを考えて、地元出身の有力者であるダンブルーズの家に出入りをはじめ、アルヌー夫人への恋心を断ち切らないまま、高級娼婦のロザネットとも付き合い続けている。将来の身の振り方を考えて、ダンブルーズに就職の世話を依頼するが、ダンブルーズには官界よりも実業界入りを勧められる。
アルヌー夫人 画商で、その後陶器業者に転業するアルヌーの妻。シャルトルの商人の娘でアルヌーとの間にマルトという娘と、男の子を儲けている。美しく貞淑で、家庭的な女性である。
アルヌー 画商、後に陶器業者に転業する。活動的で顔が広い一方で、経済的な困難を抱えているようであり、そのことが彼の妻を心配させている。
ダンブルーズ 元貴族であるが、実業界に転じ、勢力を築いた。フレデリックの出身地であるオーブ県の県会議員・衆議院議員でもある。
ダンブルーズ夫人 ダンブルーズの20歳ほど年下の夫人。個性的な容貌で、社交術にたけている。 
ロック老人 ダンブルーズの地元における管理人で、フレデリックの実家の隣人である。娘のルイズをフレデリックと結婚させたがっている。
ルイズ ロック老人の娘で、子どものころからフレデリックに思いを寄せている。
デローリエ フレデリックの高校時代からの友人。夢想家のフレデリックと違って努力家であったが、大学の教授資格試験に失敗して、復習教師と弁護士をしているが、どちらもあまりうまくいっていない。ユソネと共同で新聞を発行し、自分の意見を広めようとしている。
マルチノン フレデリックの高校時代からの友人。出世主義者で、よく勉強して卒業試験には1回で合格し、地方回りを経て、パリで検事をしている。ダンブルーズのもとにはフレデリックよりも早くから出入りしている。
シジー フレデリックの大学時代からの友人。貴族で、世間知らずで優しく、気のいい性格の持ち主である。正統王朝(ブルボン)派であるが、あまり政治的な意見は述べない。
ユソネ フレデリックの大学時代からの友人。芸術に関心が深く、アルヌーのもとに出入りしていたので、フレデリックがアルヌー一家に出入りする仲立ちをすることとなった。アルヌーの出していた新聞を引き継いだが、その経営は火の車である。
デュサルディエ 店員。1842年に起きた暴動の際に、警官に連行される彼を助けようとしたことからフレデリックとユソネが知り合うことになる。出所後、フレデリックたち学生の集まりに加わるようになる。
セネカル デローリエの友人で、フレデリックの家で開かれていた集会に参加する。独善的な社会主義者で、行き過ぎた平等主義的信念から復習教師を首になり、事務員として働いている。
ペルラン アルヌーのもとに出入りしていた画家で、政治的・社会的関心が強く、美術史・美術理論に詳しいが、展覧会での落選を続けている。フレデリックの家での集まりに参加する。フレデリックがパリに戻ってきてから、ロザネットの肖像画を描くことを依頼される。
ロザネット マレシャルとも呼ばれる。高級娼婦。フレデリックはアルヌーに連れられて彼女の家で開かれている舞踏会に出席し、だんだん親密になる。ウドリーの囲われ者だったが、縁を切ったとフレデリックに手紙をよこす。

〔第2部2の続き〕
 ダンブルーズ邸の深夜まで続いた夜会から満足した気持ちで帰ってきたフレデリックは、ロザネットから受け取っていた手紙の文面の「明晩からは」という語句は、その日のうちに会いたいという意味だと解釈して、9時になると彼女の家に出かけるが、女中のデルフィーヌに留守だといわれ、そこを何とかと食い下がって中に入ると、今度は肌着のままで髪を乱したロザネットご本人が出てきて、遠方から今は会うことができないと身振りで伝えられる。フレデリックはわけのわからない思いにとらわれて、引き返す。
 門番室の前でロザネットの友人でアルヌーの愛人であるヴァトナが彼を捕まえ、俳優のデルマールがロザネットの部屋に入るのを見たという。彼女はデルマールもロザネットも自分が面倒を見てきたのに裏切ったとののしり続け、ロザネットがもとはお針子であったことなど、その素性と男遍歴を暴きたてる。「デルマールがぼろくそに言われるのを聞いて、フレデリックは悪い気がしなかった。アルヌーのほうは大目に見る気になっていたが、ロザネットの裏切りは不可解で許しがたく思われた。」(光文社古典新訳版、379ページ、岩波文庫版、263‐264ページ)

 二人が歩いていくと、いつの間にかアルヌーの家の前に出ていた。ヴァトナはアルヌーにロザネットのところにデルマールがいて、何をしているかをアルヌーにぶちまけ、彼をロザネットの家に向かわせようとフレデリックにそそのかす。ヴァトナの口車に乗りかけていたが、「はっと目が覚めたように、フレデリックは自分のしようとしている行為の卑劣さに思いいたった。」(光文社古典新訳文庫版、380ページ、岩波文庫版、264ページ) ヴァトナは盛んにけしかけるが、冷静さを取り戻したフレデリックは入り口で待っているというヴァトナを引き上げさせようと説得を試み、家に帰すことに成功する。

 ところがアルヌーの家の廊下を歩いていくと、夫婦の言い争う声が聞こえてきた。フレデリックは部屋に入ると、二人は黙ってしまった。フレデリックが引き返そうとすると、アルヌーが彼の手をつかんで引き留める。けんかのもとになったのはアルヌーが夫人のために買ったはずのカシミヤのショールが、マダム・アルヌーという別の女性に届けられたということである。 しかも請求書はアルヌー夫人のもとに来ているという。アルヌー夫人はショールが夫の愛人のもとに届けられたと見抜き、追及し続けるが、アルヌーはのらりくらりとかわし続けようとして、支えきれなくなって、外出してしまう。

 残されたフレデリックはアルヌーの性質の美点を取り上げて弁解に努める。「フレデリックはひどく漠然としたいい方でアルヌーをかばった。夫人に同情を寄せながらも、心の奥底ではよろこび、うれしく思っていた。夫に報復するため、もしくは愛情を求めて、こちらへ気持ちが傾くかもしれない。希望は際限もなくふくらみ、恋しさはつのる一方だった。
 これほど夫人が魅惑的に、心底美しく見えたことはない。大きく息を吸い込むたびに胸がもちあがる。一点に据えられた両の目は心の中の幻影を見ているように大きく見ひらかれ、半ば開いた口はだれかに魂をさしだそうとしているかのようだ。その口に、ときおりハンカチを強くおしあてる。できることなら、フレデリックは涙にぬれたこの薄地亜麻(バチスト)の布きれになりたかった。」(光文社古典新訳文庫版、387‐388ページ、岩波文庫版、270ページ)

 アルヌーが戻ってきて、そのまま彼の寝室に向かった気配がしたので、フレデリックは夫人に身振りで、彼女の夫に会いに出かけたほうがいいかと尋ねた。「おなじように夫人も《ええ》とうなずいた。こうした無言のやりとりは、あたかも一つの黙約であり、密通の第一歩であるように思えた。」(光文社古典新訳版、388ページ、岩波文庫版、271ページ)

 フレデリックはアルヌーから妻の様子を尋ねられ、だいぶ落ち着いたので心配はいらないと答えるが、アルヌーの気分は晴れず、ロザネットにショールを買ってやるべきではなかったなどという。フレデリックがロザネットは感謝して、ウドリーと手を切ったと話すと、アルヌーは喜んで彼女のもとに駆け付けようとする。しばらく、妻のところにいてその様子を見守るのが夫の務めではないかとフレデリックに諭されて、アルヌーは思いとどまる。
 「アルヌーは簡易燭台を置いて、フレデリックを抱擁しながら言った。
 『いいやつだな、きみは』」(光文社古典新訳文庫版、390ページ、岩波文庫版、272ページ)

 10回もかかったが、第2部の2が終わった。フレデリックは自分の問題を片づけるつもりで、他人の問題に巻き込まれてしまった。就職という大事が差し迫っていて、他人の問題にかかわっているような場合ではないはずなのに、この調子である。もとはといえばロザネットからのメモを自分に都合よく解釈したことによるものである。「明晩からは」と書いてあるのだから、明晩に出かければいいのに、朝早く出かけるというところが浅はかである。そのくらいなら、ゆっくり休んだ方がいいのである。しかし、このようにどこか人のいいところがあるから、他人から当てにされたり、愛されたりするともいえるので、彼のことを悪くばかりは受け取るべきではないだろう。

日記抄(6月11日~17日)

6月17日(日)曇り、午後、一時晴れ間が広がったが、曇天が続く。

 6月11日から本日までの間に経験したこと、考えたこと、前回以前の補遺・訂正など:

6月11日
 今日は川島雄三(1918‐63)の100歳の誕生日にあたる。山田洋次監督が最初に🎬(かちんこ)をたたいた(最下位の助監督を務める。🎬はトーキー撮影の道具で合図の拍子木と、撮影された場面の情報を記すボードからなる。)のが川島の映画だったという話は以前に書いたが、その作品は『昨日と明日の間で』あったことが、「芸能エンタメタレント最新情報&ランキング」に紹介された山田監督の談話で分かった。

 安倍首相は帝国ホテルで開かれた第24回「アジアの未来」会議の夕食会の席上、「今こそ日本の未来に投資すべきだ。日本の未来への投資とはアジアの未来への投資だ」と強調した。『日経』の見出しでは、「半島情勢の好転 期待」「北朝鮮の一歩 望む」と12日の米朝首脳会談関連の発言が大きく取り上げられていたが、内容をよく読んでみると、日本とアジアの高等教育の国際交流の重要性を説く部分が大半を占めていて、北朝鮮関係の発言はおそらく、情勢の変化を見て付け加えられたものと思われる。アジア諸国間での高等教育の国際交流を推進するのは結構であるが、いまや日本の高等教育がアジア諸国の中で必ずしも優位に立ってはいないという現状を認識していただきたいという気持ちが、元大学教師としては抑えられない。

6月12日
 『日経』朝刊の文化欄に、戦後サハリンに残留した日本人を取材した本を書いた後藤悠樹さんによる「サハリンは人種のるつぼだ」という文章が掲載されていた。興味深い内容であったが、細かいところで文句を2つ。「人種」よりも「民族」のほうがサハリンの実態に即して適切であろう。もう一つ、「るつぼ」はアメリカ合衆国が「人種のるつぼ」(Melting Pot)であるという言説に示唆されたものだろうが、この考えは今や時代遅れのものとして批判されていることに気づく必要がある(「民族のサラダ鉢」というのが適切な表現だと思うが、それだとインパクトが薄れるかもしれない――とは思う)。

6月13日
 1948年のこの日、太宰治が知人女性と東京の玉川上水に身を投げた。(遺体が発見されたのは6月19日で、彼の誕生日であった。) 6月10日付『日経』の「春秋」欄はこのことを取り上げて、太宰と松本清張が同じ年に生まれていることに読者の注意を促している。清張が作家として認められ、活躍したのは太宰が死んだだいぶ後のことであるから、同じ年に生まれたとはなかなか気づかないのである。

 『日経』朝刊の文化欄に江戸時代の女流俳人であった加賀千代の資料を発掘している山根公さんがその作品が時を経ても色あせないと、魅力を語っていた。加賀千代については、小学校の時の担任の先生から名前と「朝顔」の句を教えられて以来、ずっと知っているが、彼女の師匠である(蕉門の十哲の一人)各務支考については、ずいぶん後になって知った。小学校時代に支考の「歌書よりも軍書に悲し吉野山」という句は教えられたにもかかわらず、先生が作者名に言及されなかったためである。

 NHKラジオ『まいにちフランス語』の時間でフランス各地を走り抜ける自転車のレースである「ツール・ド・フランス」のことが取り上げられた。
Rien de tel pour découvrir les paysages de France que de suivre cette véritable aventure sportive qui parcourt l'Hexagone pendant 3 semaines environ, l'espace d'un été. (フランスの様々な風景を知るにはツール・ド・フランスを見続けるのが一番です。ほぼ3週間、夏の間、フランス国内を駆けめぐる、本当に冒険的なスポーツです。) hexagoneは六角形という意味だが、l’Hexagone は、地形がこの形をしていることからフランス本土のことを言う。ツール・ド・フランスはオリンピック、サッカーのワールド・カップと並び、世界の3大スポーツ・イベントだと語られた。オリンピックと、サッカーのワールド・カップは4年ごとに各国持ち回りで開かれるが、ツール・ド・フランスは毎年の行事である(フランス以外の国からコースの一部が選ばれることもある)。昔英国に滞在していた時に、テレビの4チャンネルで放送される「ツール・ド・フランス」の放送を見ていたことがあるが、沿道の熱狂ぶりというのは確かにすごい。私は昔、横浜駅東口で箱根駅伝の通過を見ていたことがあるが、それと比べてもすごいと思った。

6月14日
 『朝日』と『日経』の2紙が、社説で「教育の無償化」について論じていたのが目についた。家庭の教育支出をめぐる現状についての正確な把握がなされないまま、「教育の無償化」論議が独り歩きを続けるのは好ましいことではないが、『朝日』が高等教育の無償化をめぐり、大学に進学しない「働く若者にも目配りを」と注意を喚起していたのが、生涯学習社会の実現のためには重要な論点であろう。

6月15日
 『朝日』の朝刊の「月刊 安心新聞+」のコーナーで、神里達博という人がイノベーション政策をめぐり「政府は『主導』より『対処』を」と論じていたのが印象に残った。「行政の本来の仕事は、イノベーションを加速することよりも、その結果起こるさまざまな社会経済的なゆがみに対処することではないだろうか」というのはきわめてまっとうな意見である。「小さな政府」というのはそう言うことである。

 NHKラジオ『高校生からはじめる現代英語』は、2日間を1セットとして放送され、火曜日と水曜日の18:30~18:45がその第1回の放送であるが、この時間帯には家にいないことが多いので、木曜日と金曜日の2回目の放送と、日曜日の夜の2回分まとめての放送を聴くことにしている。その第2日目の英作文でこんな課題が出された:
鉄砲は、ポルトガル人によって1540年代に日本に伝えられました。
Firearms were introduced Japan by Potuguese in the 1540s.
この文を見て思い出したのは、Hendrik Willem Van Loon, The Story of MankindのRevised and Updated Editionの中の(いやにもったいぶっているが、要はHendrik Willem Van Loon (1882-1944)の死後に、その子息である)Gerard Willem van Loonが書き足した部分に
Accidentally discovered by the Portuguese in 1542, Japan was openly hostile to Western traders and the missionaries they brought with them. (1542年にポルトガル人によって偶然発見されたが、日本は西側の貿易商と彼らが連れてきた宣教師たちに対してあからさまに敵対的であった。)
と書かれていることである。もちろん「発見」以前に日本という国が存在したことは、ジェラードさんも認めてはいるのであるが、「発見された」と書かれてしまうと、いい気分にはならない。

6月16日 
 『日経』の朝刊に室町時代につくられたのではないかと思われる国内最古級の日本地図が広島県立博物館(福山市)で発見されたという記事が出ていた。この博物館には出かけたことがある。草戸千軒の復元の他、今川了俊の書いたものの写本を見てひどく感激した記憶がある。

6月17日
 『朝日』朝刊の「日曜に想う」が「『おもてなし』って だれを?」(大野博之)と、「おもてなし」の対象は、観光客ではなくて、移民や難民ではないかという意見を述べ、『日経』の朝刊「『選ばれる国』へ」は外国人労働者の受け入れ拡大をめぐる議論を取り上げて、地域における外国人労働者との共生の環境づくりを推進せよとまとめている。片方は一般論だが、もう片方は財界の意見を反映したものである。そして政治家は、移民と外国人労働者は違う、あるいは労働者ではなくて研修生であるというような「ごはん論法」に磨きをかけながら、財界の意向を実現しようとしている…。

 小机の日産フィールズでプレナスなでしこリーグ2部第6節横浜FCシーガルズ対ちふれエルフェンさいたまの試合を観戦した。シーガルズはパスをつないで攻め立てるが、トップの大瀧選手までボールが届かず、ちふれは守勢ながらときどきカウンターでゴール近くまで迫るものの得点に至らず、前半を両者無得点で折り返す。後半になってシーガルズが何度かチャンスをつかみ、その中で大瀧選手が正面からゴールを決めて得点を挙げ、その1点を守り切って勝ち点3をあげた。貴重な得点を挙げた大瀧選手の決定力もさることながら、攻撃を支え続けたキャプテン加賀選手の働きも大きかったように思う。試合後のインタビューで大瀧選手も言っていたが、まだ1部昇格の望みはあるので、さらに頑張ってほしい。

 横浜FCはアウェーでファジアーノ岡山と対戦、0‐0で引き分けた。これで順位は7位となったが、次節の三ツ沢での甲府戦に、DFの武田選手と、MFの渡辺和仁選手が累積警告で出場できないのは困ったことである。

 瀧音能之『風土記から見る日本列島の古代史』(平凡社新書)を読む。内容の紹介と批評は、またの機会に記すことにする。

島岡茂『英仏比較文法』(15)

6月16日(土)雨が降ったりやんだり

Ⅰ 原初の対応
Ⅱ 語彙
Ⅲ 語形成
 §接尾辞
  (2) 動詞⇒名詞
 〔前回は、この働きをする接尾辞の中で-ionを取り上げた。〕

  ▼ -ance-ence (<-antia, -entia)
 〔この個所は、手元にある松平千秋・国原吉之助『新ラテン文法』および、野村二郎『フランス文法入門ハンドブック』と照らし合わせてみると、どうも腑に落ちない記述が見られる。一つ、一つ、丁寧にみていくことにする。〕

 この接尾辞は現在分詞の語尾-ant, -entを仲介に形成される。
 〔「現在分詞」とだけ書かれているのは不親切で、面倒でも「フランス語の」を足すべきである。〕
 動詞の屈折部を形造るこのような語尾を統辞的接尾辞と呼ぶことがある。
 〔「屈折」というのは単語の語形・語尾の曲折(変化)を言う。ラテン語の場合で言えば、名詞・形容詞は性・数・格に応じて、動詞は相・法・人称・数・時称に従って変化する。変化した語尾を接尾辞の一種と考えることもあるということらしい。〕
 ラテン語の現在分詞の語尾は3種類あったが、その中現在フランス語で使用されるのはant (<antem), ent (<entem)の2形に限られ、分詞に用いられるのはantだけ、 -entは主に形容詞、または名詞にだけ使用される。
 〔ラテン語の現在分詞の語尾は、松平・国原によれば、-nsの1種類だけである。同書によると
 現在分詞は、現在幹に、-nsを加える。
  amo (1) ama-ns 愛しているところの
moneo (2) mone-ns 忠告しているところの
  ago (3) age-ns 行なっているところの
 ただしaudio (4)では-ensを加え、capio (3b)はaudioに倣う。
  audio (4) audi-ence 聞いているところの
  capio (3b) capi-ens つかまえるところの
 (松平・国原、p.150) ということである(ラテン語の長音入力できないので、原文のままではないことを付記しておく)。要するに、ラテン語の現在分詞だの、フランス語の現在分詞などということを書かない方がすっきりしてわかりやすい。〕

 接尾辞-ance, -enceはこれらの分詞に -iaをつけて作るフランス語の形である。
 ラテン語   フランス語   英語
 agens   agent   agent    「代理人」
agentia   agence   agency   「代理店」

 constans   constant   constant   「安定した」
constantia  constance   constance 「安定」

elegans élégant elegant 「優美な」
 elegantia élégance elegance 「優美」

 patiens patient patient 「忍耐強い」
 patientia patience patience 「忍耐」

 最初に挙げたagentと最後のpatientは前回、action, passionを取り上げた際に、ラテン語の動詞ago, patiorに由来するということを述べた。
 constantはconstare 「動かずに在る」の現在分詞、con-は強意の接頭辞である。〔stare(辞書の見出しはsto)は「立つ」という意味の動詞。
 elegantはeligare「選び出す」の分詞形(辞書の見出しはeligo)はChambersの羅英辞典ではpick out「(多くの中から)選び出す」という意味である。そこから選択の意味が強調され、elegantは「選り好みのやかましい」意味になり、現在のような意味になった。「選び出す」という意味からelection「選挙」という名詞が派生している。

 なお英語のagencyを形成する接尾辞-cyは古フランス語の接尾辞-cie(<-tia)を継承したもので、英語には-ceと並んでこの語尾をとる語がかなりみられる。
 〔『ロングマン英和辞典』には次の3つの語が示されている:privacy「プライバシー」、captaincy「キャプテンの地位」、presidency「大統領の任期」;また『リーダーズ英和中辞典』には次のように説明されている:名詞、形容詞と結び、主として不可算名詞をつくる。(1)「職・地位・身分」:captaincy. (2)「性質・状態」:bankruptcy. (3)「行為・作用」:piracy, prophecy. (4)「集団・階級」:aristocracy.  bankruptcyは「破産」(bankruptは「破産者」)、piracyは「海賊行為、著作権(特許権)侵害」、prophecyは「預言、予言」、aristocracyは「貴族政治」、the aristocracyというと「貴族、貴族社会」という意味になる。最後の(4)は-cracy「政体」「政治」「社会階級」「政治勢力」「政治理論」(たとえばdemocracy)に即して考えた方が適切ではないかと思う。democracyはギリシア語起源の語である。〕

 また英語にはラテン語とは無関係なゲルマン系の語にも、-anceをとった造語がかなりみられる。
  forbearance 「我慢」
  hindrance 「妨害」
  utterance 「語られた言葉」(→「発言」)
 〔appearance「見かけ、外見」もこの中に入るのであろうか。〕

 暑さにやられた前回とは違って、今回は肌寒い気候の中で書いたのだが、前回に引き続き、ラテン語、フランス語の一定の知識を必要とする内容で、やはり悪戦苦闘を余儀なくされた。これまでの部分の紹介は大幅に簡略化したので、興味のある方は、前回以前の記事をお読みください。プレビューで見て、書式が整っていないことに気づいているが、いまのところどうしようもないことをご理解いただきたい。文句のあるところは〔 〕で囲んだ部分に書いておいたが、この部分は、内容が十分に整理されていないし、正確さに問題があり、説明がわかりにくいなどの欠点が目立った。本になってから言うのは遅すぎるといわれればそれまでだが、大学のゼミあるいは研究会などで、複数の人間の目で検討を加えてから公にしたほうがよかったのではないかという気がする。

佐藤信弥『中国古代史研究の最前線』(11)

6月15日(金)雨

 秦の始皇帝は統一後に5回、全国の巡幸を行っている。その姿を見て、項羽が「彼取って代わるべし」(あいつに取って代わりたい)と言い、劉邦は都の咸陽で始皇帝の行列を目にして「嗟乎(ああ)、大丈夫当(まさ)に此(か)くの如くなるべきなり」(ああ、男とはあのようであるべきだ)と嘆息したという。秦の時代に地方役人をしていた喜という人物の墓から出土した木簡には秦国の歴史と被葬者である喜の履歴とを併記した『編年記』が記されていたが、そこには始皇帝28年(前219年)の項に皇帝の2度目の巡幸が喜の務めていた地方を訪問したことが記されている。このような出土史料によって、伝世史料に記された人物伝の背後の事情について何か知ることができないだろうか。

 始皇帝が没したのは、5度目の巡幸の最中であった。『史記』始皇本紀によると、始皇帝37年(前210年)、始皇帝は黄河の渡し場である平原津(今の山東省平原県の南)で病を発し、次第に重態となった。死期を悟った彼は、長子の扶蘇にあてた遺詔を用意させた。次期皇帝と定めたのである。その遺詔は巡幸に随行していた側近の宦官である趙高の手元に留め置かれた。
 そして七月丙寅の日に、始皇帝は沙丘平台(さきゅうへいだい、今の河北省広宗県太平台)で没した。しかし、丞相(総理大臣)であった李斯はこの死を秘密にすることとし、彼が生きているかのように装わせて巡幸を続けさせた。暑さで遺体が腐臭を放つようになると、塩漬けにした魚介類を車に積み込み、臭いを紛らわせた。〔どの程度まで秘密にできたのかとか、塩漬けの魚をどこでどうやって手に入れたのかとか、疑っていくときりがない。要するにこれは説話であって、歴史的な事実かどうかには疑いが残る。〕 
 趙高は自分が書や法律のことなどを教えた始皇帝の末子胡亥を後継に立てようとし、李斯・胡亥と共謀し、もとの遺詔を破棄した。そして新たに遺詔を偽造して胡亥を太子に据え、本来皇帝となるはずだった扶蘇を自殺させた。都の咸陽に戻ると胡亥は父帝の喪を発して二世皇帝となり、以後趙高を重用した。

 始皇帝の死や胡亥の即位については、北京大学に所蔵されている漢時代の木簡文書『趙正書』にも記述がある。この書は5度目の巡幸の際の始皇帝の発病から胡亥と趙高の死までの話をまとめたものである。「趙正」とは始皇帝のことで、この書では彼を「秦王趙正」と呼んでいる。皇帝として認めていないのである。始皇帝の姓名は嬴政(えいせい)とされることが多いが、始皇本紀には、彼の名は政、姓は趙氏とあり、楚世家にも彼のことを「秦王趙政」と表記する。これは始皇帝が趙国で生まれたことによる呼称であるなどと解釈されている。名の「政」と「正」の違いは同じ音に別の字を当てたということであろうか。

 『趙正書』は、『史記』の始皇本紀・李斯列伝・蒙恬列伝の記載と似通っている部分もあるが、大きく異なっている部分もある。そのうちの一つが、胡亥が後継者となった事情である。
 始皇帝は柏人の地(今の河北省隆堯県)で発病する。この点でも、始皇本紀と違いがあるというのはさておいて、病が重くなり死期を悟った始皇帝は、丞相の李斯を呼んで後継者について議論させようとする。ここでは李斯と馮去疾が始皇帝に胡亥を後継とするよう求め、始皇帝がそれを認めたということになっていて、『史記』の記述とは大きく異なる。
 その後の展開は、胡亥の意によって扶蘇と、その後ろ盾であった将軍蒙恬が死に追いやられ、胡亥を擁立した李斯も殺害されたこと、その胡亥も丞相・御史となった趙高に殺されたことなど、おおむね『史記』と一致する。ただ、趙高が張邯(秦の将軍で項羽に降った章邯を指す)によって誅殺された点は、『史記』とは異なっている。『史記』では趙高は、胡亥の後に擁立された子嬰らによって殺害されたことになっているのである。

 北京大学の漢簡は前漢の武帝の時代の後期から宣帝の時代にかけてのものと見られるので、時期を早く見積もれば、武帝期に書かれたとされる『史記』と同時代の文献ということになる。
 この両者のどちらが正しいか、あるいはどちらも間違っているのかを明らかにするのは現在のところでは困難である。研究者の関心は、むしろこの両者の記述の違いから当時の「歴史認識」の様相を読み取ることにある。
 例えば陳侃理(ちんかんり)は、始皇帝の本来の後継者が扶蘇であり、胡亥ではなかったというのは、秦に対して立ち向かった元の楚の人々の「歴史認識」であったとする。また、『趙正書』に見える胡亥への王位継承の事情も、『史記』に見えるものとは別の「歴史記憶」であり、漢書に秦初の歴史をめぐって多種多様な「歴史記憶」が混在し、競合しあっていたとし、これを「歴史記憶の戦争」と呼んでいる。〔戦争というのは穏やかな表現とは言えないだろう。多種多様な「歴史記憶」「歴史認識」が混在するのは当たり前であり、それを無理に一つにまとめようとするから、混乱が起きるのである。〕
 また工藤卓司は『趙正書』に描かれる構図が、漢の武帝の死の前後の状況に酷似すると指摘している。武帝は病となって死期を悟ると、まだ子供であった昭帝を太子に立て、武帝の没後は権臣霍光がこの幼帝を補佐した。一方で臣下の間で対立が生じ、先帝に重用された桑弘羊が誅殺されたりした。始皇帝と武帝、胡亥と昭帝、趙高と霍光、李斯と桑弘羊の立場が重ね合わせになっているというわけである。やはり『趙正書』がある種の「歴史認識」を反映したものであるというのである。

 このように『趙正書』は『史記』の記述を相対化するような視点を与えてくれる文献である。これまでの出土文献の研究の成果として『史記』の記述の正確さを強調する論調が強かったが、今後は『史記』の記述、特にここで取り上げたような説話に対しては少し距離を置く研究が求められるのではないだろうかという。

 「終章」で佐藤さんは「本書の目的は、中国古代史に興味を持った著者に、夏・殷の時代から、西周・春秋・戦国と始皇帝の秦を経て、『史記』が著述された前漢の武帝期のころまでの基礎的な知識や、新たな発見・研究の成果を紹介していくというものであった」(264ページ)と改めてこの書物の目的を確認する。まだまだ書き足りないこともあったようだが、予定された紙幅を使い尽くしたということで、最後にさらに最近の重要な考古学上の発見と、古代史をめぐる疑古と釈古の論争の問題についての最近の動きに触れている。

 武帝の死後、昭帝が即位するが、21歳で子がないまま没する。そこで霍光は武帝の孫である昌邑王劉賀を即位させるが、不行跡を理由として即位後わずか27日で帝位を剥奪される。西嶋定生は、廃位の本当の理由は昌邑王の直臣たちが権臣霍光を排除し、実権を自分たちの手中に収めようとクーデターを画策していたところ、それを察知した霍光が先手を打って新帝の廃位という手段に及んだということではないかと推測しているという。霍光は次いで民間で養育されていた武帝の曽孫病已(へいい)を宮廷に迎え入れて即位させた。これが前漢の中興の祖として知られる宣帝である。一方、劉賀は海昏侯に降格され、宣帝治下の神爵3年(前59年)に没した。
 その海昏侯劉賀の墓が、2011年に江西省南昌市新建区東北部で発見された。出土物には、被葬者の身分・来歴を示す文字資料が多く含まれていたほかに、「竹簡による書籍も多く出土しており、医書や方術書のほか、『論語』『易経』『礼記』『孝経』といった儒家の書が多く含まれて」(266ページ)いた。その中には『論語』の「知道篇」という現行本には含まれていない篇の一部が見える。このように儒家や孔子に関する文物・資料が多く出土し、中には今日知られているものとは違う情報を含むものもあるというのは、劉賀の廃位には何か別の事情があったのではないかという議論をよぶものである。さらに少し古い時代の出土文献と比べてみると、『老子』から『論語』への流行の移り変わりを読み取ることができるといえるかもしれないという。

 このように新しい史料の出土により、伝世文献に批判的な疑古派の主張が否定的にみられるようになってきたが、その一方で疑古派の厳格な史料批判を捨て去ることは危険であるという主張もなされるようになってきている。また釈古派の研究の基礎理論となっている二重証拠法についてもその反証不可能性をめぐる議論をはじめとして様々な問題点が指摘されているという。この書物では中国における中国古代史研究が文献史的な傾向が強く、その実証性において日本に後れを取っているように見える現状があることを述べてきたわけであるが、中国と日本の研究の傾向が将来において逆転する可能性もあることを説いて、終わっているのは、かなり強い印象を残す。将来の不可知性を示していることで、著者は自らの「歴史認識」のあり方を語ろうとしているようにも思われる。

 予定を超過する時間と紙幅を費やしてしまったのは、この書物がそれだけの魅力をもっているからであるが、そうはいっても難しく読みにくかったことも否定できない。自己評価はしばしば独善的なものであるとはいえ、中国の古代史についての私の知識と興味は、高校の授業で言うと「漢文」のレベルにとどまっており、「世界史」の域に達していないことを改めて実感させられた。「三星堆」をめぐる議論で少し取り上げられてはいるのだが、そもそも中国の歴史という場合の「中国」の範囲とその中での漢民族以外の民族の位置づけについて、もう少し掘り下げてみてもよかったのではないかという気がする。中国の王朝のほとんどが異民族による征服王朝であるといわれるだけにこの点は重要である。 

樋口有介『海泡』

6月14日(木)曇り

 6月11日、樋口有介『海泡』(創元推理文庫)を読み終える。2001年、中央公論新社から単行本で刊行され、04年に中公文庫に収録された作品を、大幅に改稿したものである。作者自身が「創元推理文庫版あとがき」で書いているところによると、この作品は作者が作家になって初めて(そして多分最後の)取材旅行をさせてもらって書いたもので、気負いもあったし、自分の文体を変えようとしていた最中だったので、がちがちの状態での執筆となり、何とか三人称で書き上げたものを、同行した編集者の助言を得て一人称に書き直してやっと完成させたという経緯がある。2001年に発表した作品では三人称を一人称に書き直した無理があちこちに出ており、今回、加筆修正したリニューアル版として刊行するというのである。

 「雲は発泡スチロールのように白く、空気には太陽が匂っている。」(7ページ)
 物語はこのように書き出されている。語り手の「ぼく」は父親の住む、彼が中学・高校時代を過ごした小笠原(の父島)に戻ってくる。東京の大学で学ぶ学生である「ぼく」(=木村洋介)にとって、これは2年ぶりの帰省である。
 港では、高校の同級生で実家の民宿の客を出迎えに来ている棚橋旬子に出会い、軽く雑談をする。父親の家へと歩いて帰る途中で、彼と同じく東京の大学に進学している一宮和希の姿を見かける。彼女は洋介の呼びかけにこたえようとしない。
 画家である洋介の父親(木村輪一)のところには、新しいモデルが来ている。海と女をモチーフにした絵を描き続けている父親の絵には号100万という値がついていて、東京の画廊から2点の作品を描くことを条件に、モデルを送り込んできたのである。そのモデルは干川雪江という名の、パチンコとマリファナにしか興味がない女である。「女の気配には親父への親しみがない。その理由が単に女の性格なのか、親父との間にトラブルでもあるのか、少し気にかかる。」(17ページ)

 一休みした洋介は、中学からの友だちというよりも「初恋の人」である丸山翔子を訪ねる。「中学生だった翔子の、島の悪ガキ連中をパニックに陥れた美しさが記憶を苦しくする。翔子が1年遅れて東京から転校してきた日、ぼくも山屋浩司も藤井智之も、みんな混乱し、無口になって、弁当も咽を通らなかった。」(25ページ) 洋介は中学1年生の時に転校してきたのだが、明治時代から続く財閥の娘である翔子は喘息の治療のために、中学2年生の時に小笠原の別荘から彼らの学校に通うことになる。しかし、その1年後に白血病におかされ、何度か東京で治療を受けたのだが、その都度小笠原に戻ってきていた。翔子と出会ったことで洋介は彼女に高校の勉強を教えるという作業を通じて、勉強が好きになって東京の大学に進学できた。しかし、次第に治療の手段もなくなって衰えていく彼女の姿を見るのがいやで、彼は帰省をためらってきたのである。

 山屋浩司は、『トムズハウス』という店に入り浸っている。そのマスターは安西つとむという人物で、そこで働いている女性(坂戸可保里)に熱をあげているという。中学までずっと秀才で通し、本土の高校に進学した藤井は医学部の受験に失敗して浪人中であったが、医学部を志望したのは、翔子の白血病がきっかけだったというのは同級生のだれもが知っていることである。翔子は、藤井が島に戻ってきているらしいといい、彼の気持ちは知っていたが、やはり洋介が好きだという。洋介は『トムズハウス』に出かけるといって、翔子と別れる。

 『トムズハウス』に向かう途中の道で、洋介は藤井智之に出逢う。彼は一宮和希が東京でストーカーに狙われて島へ逃げてきた。ところがそのストーカーが島まで追ってきたので困っていると告げる。彼自身は白血病の治療薬を発明して、そのためにCIAに狙われている、棚橋や山屋など彼の周囲の人間にもCIAの手が伸びているという。「変化やドラマとは無縁なはずの小笠原で丸山翔子は死へ向かい、翔子の病気が藤井の心を傷つける。」(37ページ)

 『トムズハウス』で洋介は山屋浩司に出会う。浩司は旬子が彼のうわさを広める一方で、自分自身の見合いの話には口をつぐんでいるという。もともと無人島であった小笠原には最初に欧米系の住民が住みつき(在来島民)明治以降、八丈島から多くの住民が移住し(旧島民)た。一宮の家は在来島民であり、棚橋、山屋、藤井は旧島民であり、洋介やマスターのような住民は新島民と呼ばれている。
 浩司は藤井が4月ごろ島に帰ってきたが、その言動がどうもおかしいといい、洋介が言ったことを否定しない。マスターから坂戸可保里を紹介され、4人で話が弾むが、その近くにいるサーファーらしい4人連れの中の女性は洋介が自宅近くで出会った派手な茶髪の少女であり、浩司は彼女が一宮和希の妹の夏希で高校2年生であるという。一宮家は在来島民の中でも旧家の家柄で、小笠原の本土復帰後は父島最大の地主として土建業を営んでおり、前村長でもあった。娘の和希には新島民や観光客との交際を許さず、東京での和希も管理の厳しい女子大生マンションに入っている。「姉さんはストーカーに狙われて妹はバカギャルだもんなあ。」(53ページ)と浩司は言う。

 洋介と浩司が飲み明かした夜から数日が立ち、フェリーの出港日なので、港以外は静かだが、水上飛行機が3機も飛来し、ヘリコプターも飛んでいる様子である。買い物に出かけた洋介は、民宿の客を送った帰りの旬子に出会う。彼女によると、一宮和希が家出をしたらしく、彼女の家に、和希の父親から電話があったという。「問題は…昨夜から姿を消している和希とヘリコプターの関係だ。」(63ページ) 洋介は街に出て様子を探り、警察署の近くで藤井に逢って、和希が崖から落ちて死んだらしいということを知る。疑われるのは当然、ストーカーだといわれていた真崎という男である。

 『トムズハウス』で洋介、浩司、旬子が集まって一宮和希のことを話していると、夏希がやってきて、ビールを飲ませろと言い、口論になる。和希の遺体は検死のため東京に運ばれていて、葬儀はまだ行われない。家では、みんなめそめそ泣いているだけでつまらないという。「和希は自分だけいい子になろうとしたから罰があたったの。親父もこれで目が醒めるよ」(74ページ)と夏樹は憎まれ口を言う。話を続けていると、突然、一宮の父親が現れて夏希を叱りつけ、連れ帰ろうとする。親子が去った後、藤井が現れて、真崎が釈放されたと告げる。そしてそのまま立ち去る。「あっという間にスコールが押し寄せる。/藤井はどこまで帰ったかなと、雨を見ながらぼくは考える。だれの責任でもないだろうに藤井はスコールの雨に打たれ、和希は死んで、翔子は死に向かう。」(85ページ)

 洋介が翔子を訪問すると、車椅子に乗った彼女は、和希の死を知っているどころか、彼女が妊娠していたという検死結果まで耳にしていた。彼女の従兄弟が法務省に勤めていて、これからも情報が入るように手配しておいたという。そして洋介に車椅子を押してもらい、家の外に出かけようとする。和希の死は自殺だろうという洋介に対し、彼女は言う。「お腹に赤ちゃんのいる女は自殺なんかしないの。本能が命の愛しさを感じるの。自分は死んでも、赤ちゃんだけは助けたいと思うものなの」(92ページ) 反論を試みる洋介に対して、彼女は追い打ちをかける。「木村くんは忘れている。私も女だということを」(93ページ)
 話題を変えて洋介は、彼が東京で和希とデートしたことがあると打ち明ける。実際には3度会っているのだが、一度だけだといい、3度目にはキスしたことも黙っている。しかし、翔子は彼の嘘を見透かしているようである。「木村くんが念をおすのは気持ちに疚(やま)しさがあるからよ」(94ページ)
 翔子は事件を調べてみるという。「探偵小説のファンだもの。一宮さんが…亡くなったと聞いたときから、この事件は不審(おか)しい気がした。薄情な木村くんなんか当てにしない。躰は動かないけれど電話はかけられる。情報の収集手段もあるし、人も動かせる。あなたより私の方が有利なの」(97ページ)
 二人の様子をうかがっている人影があったような気がする。藤井智之かもしれない。あるいは洋介の錯覚であっただろうか。

 クリスティーの『なぜエヴァンズに頼まなかったか』をはじめとして、男女のカップルがある事件の真相を突き止めようと協力し合ううちに恋が深まっていくというミステリーは少なくない。しかし、この作品はそれとはかなり違った展開をとる。
 「『一宮さんには気の毒だけれど、私、今、ちょっと嬉しいの・・・今度の事件が終わるまで、私があなたを一人占めできる。私の性格、怖いでしょう?』/中学生のころからぼくの心は、ずっと翔子に一人占めされている。そんなことは翔子もぼくも知っているが、翔子もぼくも、それを言葉にする時間がないことを知らなかった。」(99ページ)
 自分の死が刻々と近づいてきているにもかかわらず、翔子は事件の真相を突き止めようという努力をやめず、それに引きずられるように洋介も事件の真相に迫っていく。

 和希の死は自殺ということで決着する。容疑者であった真崎が釈放されたかと思うと、その後、彼も死体で発見される。そのため、いったんは収まったかに見えた騒ぎがさらに大きくなる。翔子の体調はさらに衰えていき、その一方で洋介の父の輪一は、人もあろうに夏希と交渉をもったり、新しいモデルを勝手に見つけたりたりする。登場人物の思いがけない背景が明らかになっていく。どうも乱調である。心を翔子に一人占めされている洋介でさえ、体はそうではないらしく、他の女と交渉をもったりする。ギリシア神話の美と愛の女神アフロディテは、地中海の海の泡から生まれるのだが、そのことよりも、その泡がどのようにして作られたかという話をこの小説の展開は思い出させる。輪一は海と女をモチーフにした絵を描き続けているが、制作作業はアトリエでしている。物語のいたるところに矛盾と混乱が描き出されている。だが、それが現実である以上受け入れざるを得ない。

 物語の舞台として、小笠原という他からかなり隔立った距離におかれ、狭いが内部に対立を抱えた社会を舞台に選んだことの効果は十分にあったと思われる。作者が取材旅行を組んだだけのことはあったのである。狭い社会であるだけに、登場人物はかなり早い人生の決断を迫られるところがある。洋介とその同級生たちは20歳(誕生日が来れば21歳になるということであろう)に設定されている。いっぽうで中学生時代の想い出はまだ間近であり、その一方で旬子の見合いの話に見られるように大人としての生活設計も間近に迫っている。そしてそれぞれが、多少なりとも不条理の含まれた現実を受け入れざるを得ない。事件の真相は一応明らかにされるが、それよりも登場人物がどのように現実を受け入れていくかが物語の眼目ではないかと思う。そこにこのミステリーの異色性を見るべきではないだろうか。

トマス・モア『ユートピア』(5)

6月13日(水)曇り

 1515年、イングランドの法律家でロンドンの司政長官補であったトマス・モアはイングランドとカスティーリャ(スペイン)との間の紛争をめぐる外交交渉のための使節団の一員としてフランドルを訪問し、その間、エラスムスの友人であるアントワープのピーター・ヒレスの世話になったが、ある日、彼からラファエル・ヒュトロダエウスという世界中を旅行してきた人物を紹介された。様々な国々の習慣と制度とに通じた彼の知識と経験とに感動したモアとヒレスは、ラファエルにどこかの君侯の顧問になることを勧めるが、阿諛と追従を嫌うラファエルは、顧問への就任を拒否する。そして、君侯や高官の取り巻きたちの鼻持ちならない態度について、彼がイングランドを訪問した時の思い出を例にして語りだす。
 彼はイングランド滞在中、枢機卿でイングランドの大法官でもあったジョン・モートンに世話になっていたが、ある時、彼のところで食卓についていると、一人の法律家がイングランドの厳しい法律を賛美し、それなのに犯罪が減らないのはなぜかと言い出した。そこでのラファエルは、イングランドの法律は盗みに対する処罰としてはきびしすぎるし、予防手段としては不十分であると批判し、彼らに生計を立てる手段を与え、彼らが窮地に追い込まれないように配慮することが必要だと論じた。
 これに対しくだんの法律家は、生計の道として農業や手工業があるではないかと反論するが、ラファエルは、ヨーロッパの国々に共通にみられる傾向として、不労所得で豪奢な生活を送っている貴族たちが、その取り巻きとして「無為のお供の大群」(71ページ)を抱えており、この取り巻きたちは変動しやすい身の上であるために、(一方で軍隊の予備の役割を果たすとともに)犯罪の予備軍となっていると説いた。さらにイングランドに固有の事情として、(第一次)囲い込み運動のため、彼らの小作地を追われて放浪せざるを得ない農民が増えているという当時の状況を指摘する。

 農業に比べて牧畜は少ない人手で経営することができる。したがって、自分の土地を追い出された農民たちが働く機会はほとんどなく、盗みに走るか、放浪しながら物乞いをする(浮浪人として投獄される)しか道はなくなるのである。農業部門が縮小したことで、食料品の値段が高くなる。また家畜の値段も高くなり、自分の土地に残っている農民たちの暮らしも楽ではなくなる。当時流行した疫病のために、羊の数が少なくなり、少数の貴族・地主によって羊の独占状態が生まれている(翻訳者である澤田昭夫さんは、これが必ずしも当時の事実を反映せず、モアによる誇張を含んでいると注記している)。
 食料品が高くなったので、これまで通りに使用人を雇うことのできない貴族たちは、使用人を減らしている。解雇された人々のたどる道は貧困と犯罪である。
 
 このように貧困が増大している一方で、人々の間には贅沢の習慣が広がってきている。飲酒や売春、賭博などの悪習が広がり、そのために財産を失うものも少なくない。「こういう破壊的な弊害をお捨てなさい。農場や農村は、それを破壊した人々に再建させるか、あるいはそれを復興、再建する意欲のある人々に譲り渡すよう法律でおきめなさい。金持ちがすべてを買い占めたり、販売独占のような権利を勝手に行使するのを阻止しなさい。無為に暮らす人々をお減らしなさい。農耕を復活させ、織物業を再建して正業を作り出しなさい。そうして、貧乏のために今まで泥棒をしてきた人々や、現在浮浪者や怠惰な従僕で、遠からず泥棒になるにちがいないような人たち、こういう無為な連中を有益に働かせるようにしなさい。」(78‐79ページ) このような措置をとって、社会問題の解決を図らない限り、いくら刑罰を厳しくしても、それは犯罪を減らすのには役立たないだろうとラファエルは述べた。

 ラファエルの提言に対し、法律家は理路整然とした反論を展開しようとするが、モートン枢機卿はそれを遮って、ラファエルに、それでは犯罪を犯した者に対する処罰はどのようなものであるべきかと質問をした。彼は「最大の法こそ最大の悪(Summum jus, summa injuria ) ⇒極端な正義の主張は結局のところ不正をもたらす)」というローマの諺(澤田さんの解説注によると、喜劇作家のテレンティウスの作品や、キケロ―の『義務について』の中に出てくる言い回しだそうである)を引き合いに出して、犯罪をすべて同じものとみなして厳罰を科するのは正しい方策ではないと説いた。

 そしてキリスト教の教えでは、「神さまはだれであろうと殺すことを禁じなさいましたのに、われわれは、小金をとったからといって人をそう簡単に殺してよいのでしょうか。」(81ページ)と問いかけた。〔モアは(そしてエラスムスは)、殺人や国家に対する反逆というような重罪人を死刑にすることは認めていると、澤田さんは注記している。だとすると、モア自身が反逆罪で処刑される運命をたどったのは運命の皮肉である。彼が宣誓を拒んだ王位継承法の結果として、イングランドの歴史上最大の君主といってよいエリザベスⅠ世が王位に上る可能性が開けたのも皮肉な結果といえよう。〕

 神が人間に守るように言い渡した法(自然法)は、人間が定めた法(実定法)の上位にあるべきである。軽罪でも死刑にするという法律は、明らかに神の法から逸脱したものである。「泥棒と殺人犯とが同じ罰を受けるのは実に不条理で、また社会のためにも有害だということがわからないひとはいないでしょう」(82ページ)とラファエルは言う。それでは、よい刑罰はどうすれば見つかるかといえば、「よい刑罰は悪い刑罰よりやさしく見つかりうると私は思います」(83ページ)とラファエルは続ける。「すでに大昔、社会統治の専門家たるローマ人たちが好んで用いていたやり方が、犯罪処罰の有益な方法だということを疑う理由がありましょうか。すなわち、彼らは重犯罪で有罪とされた人たちを石切り場か鉱山に送って働かせ、いつも鎖でつないでおきました。」(同上) 

 ここでラファエルは犯罪に対する刑罰という点で、最も優れた制度を持っていると彼が思ったのはペルシアのポリュレリト人たちであるという。〔澤田さんの解説注によると、ポリュレリト人Polyleritaeはギリシア語のπολυς(多)、ληρος(愚論)、‐ιτης(の、的の)から造られた造語。ペンギン・クラシックス版のポール・ターナーはTallstoriansと訳している。前後の文脈からすると、ラファエルはイングランド訪問以前に、ペルシアまで旅行したことがあったらしい。〕 ポリュレリト人は他から孤立した存在で、自分たちだけの世界で暮らしている(架空の存在だから当然といえば当然である)。
 彼らの法律では盗みを犯すと、盗んだものは元の持ち主に返却され、もし盗品が消滅していれば同じ値打ちのものが泥棒の財産から支払われ、残りの財産があればそれは泥棒の妻子のもとに残され、泥棒自身は強制的に公共労働に従事させられる。「いつも労働に励まねばならないということ以外には、彼らの生活で不便なことは皆無です。彼らの食事は決して悪くなく、それは彼らが公共の福祉に奉仕しているというので公金でまかなわれています。」(85ページ) 地方によって制度の違いはあるが、囚人たちは常に仕事に励むことに変わりはない。彼らは同じ服装をさせられ、他の人々と区別できるようになっている。囚人たちはいわば奴隷のような存在であり、事実、そう呼ばれているという。彼らの制度が「目ざしているのは、悪徳を撲滅し人間を助けること、人々が必ず善人になって、以前、世に与えてきた損害を残った生涯でつぐなわざるをえないように教導することです。」(86‐87ページ) 強制労働の期間は決められていないが、忍耐の賞与として自由を与えられる人が毎年必ず何人かいるということである。ラファエルは枢機卿に、イングランドでもこの制度を採用してはどうかと提言する。これに対して例の法律家は、そういう制度はイングランドでは決して定着することはないだろうと切り捨てようとし、その場に居合わせた人々もその意見に同意する。

 今回の最初に掲げたようやくで、モアを「司政長官補」と訳したが、これは澤田さんに従ったもので、原文では「長官」となっているそうである。『ユートピア』はモアの原稿をエラスムスたちが本にしたもので、モアの役職がvicecomes (司政長官、英語ではsheriff)となっているのはそのためと思われる。この職務は一種の名誉職で、実際の仕事は長官補subvicecomes=undersheriffが行っていた。モアの肩書が間違って記されているのは、このためと推測できる。
 当時の過酷な刑罰に対し、モアはラファエルの口を借りて、もっと寛大な措置をとることを主張しているのだが、それでもまだ重いと思う意見があるかもしれない。実際に、『ユートピアの系譜』(Journey through Utopias)の著者であるマリー=ルイズ・ベルネリのように、法律家としてのモアの姿勢を批判している著者もいるほどである。
 さて、論争はどのような方向に向かうのか、それはまた次回に。

 

『太平記』(214)

6月12日(火)晴れ、気温上昇

 建武4年(南朝延元2年、1337)8月、奥州の北畠顕家は大軍を集め、鎌倉を陥落させて京都へ向かおうと、8月19日に白河の関を超えた。鎌倉を守っていたのは足利尊氏の三男の義詮であったが、防御の軍勢を派遣し、両軍は利根川をはさんで対峙した。

 前回紹介した箇所で、「両陣の勢、東西の岸に打ち莅(のぞ)んで」(岩波文庫版、第3分冊、324ページ)というくだりがあり、これは南北の間違いではないかと思って読んでいたのだが、この時代、利根川は現在のように東の方に流れて太平洋にそそぐのではなく、南の方に流れて東京湾に注いでいたのであった。それで、東岸に宮方の北畠顕家の軍勢、西岸に足利方の軍勢が陣取って、先に川を渡って攻勢をかけようと待ち構えていたが、上流に雨が降って水量が普段よりも多く、渡るのが難しそうである。そこへ、宮方の長井斎藤別当実永(さねなが)という武士が先陣を切って渡ろうとも雄牛出て、大将の許しを得て準備に取り掛かっていると、同じく宮方の閉伊十郎、高木三郎という2人の武士がさっさと、こともなげに川を渡ってしまう。そこで、面目を失った斎藤とその弟は、別のところから川を渡ろうとして、川の流れに巻き込まれて溺れ死んでしまうという、笑えない一幕があった。この長井は、『平家物語』にその武士としての生きざまが描かれている斎藤実盛の子孫なのだが、その名に恥じない行為であったと人々はほめそやしたと『太平記』の作者は書いているが、その真意はわからない。

 閉伊十郎と高木三郎が川を渡ったのを見た奥州の軍勢10万余騎は、一度にさっと馬を乗り入れて、真十文字に渡ろうとする。これを見た鎌倉勢8万余騎は、同時に馬を乗り入れて、川の中で勝負を決しようとした。ところが、先に渡った奥州勢に川の東の流れがせき止められ、川の西のほうの流れが速くなったので、足利方の軍勢の先陣3千余騎は、馬筏を流れに押し破られて、浮き沈みしながら川の流れに押されてゆく。足利方の後陣の勢は、これを見て、かなわないと思ったのであろうか、平地に陣取って戦ったが、浮足立っていたので、右往左往にかけ散らされて、みな鎌倉に引き返した。
 利根川の戦いについて、どのあたりで戦闘があったのか、また戦闘の具体的な様相があまり詳しく記されていないのが気になるところである。
 
 顕家は、利根川の合戦に勝利をおさめ、いよいよその勢力は強大になってきたが、鎌倉には関東8か国(相模・武蔵・安房・上総・下総・上野・下野・常陸)の軍勢がはせ参じて、雲霞のごとき大軍を結集しているとのうわさがあったので、武蔵の府(こう、東京都府中市にあった武蔵国府)に5日間滞在して、ひそかに鎌倉の様子をめぐる情報を集めたのである。

 そこへ宇都宮公綱の配下の紀清両党≂紀氏・清原氏の2つの党の武士団1,000余騎が顕家のもとに加わる。しかし、その中で清(せい)等の旗頭であった芳賀兵衛入道禅可(俗名高名)だけは、顕家に属せずに、公綱の息子である加賀寿丸(後の宇都宮氏綱)を大将として、なお宇都宮の城に立てこもっていた。(岩波文庫版の脚注によると、芳賀は下野国=栃木県芳賀郡に住んだ武士、宇都宮の城は宇都宮市本丸町に城址があるそうである。) そこで顕家は、伊達郡、信夫郡から集めた兵2万余騎を派遣して、宇都宮の城を攻めたところ、禅可は3日のうちに攻め落とされて降参したが、4・5日たって後、また鎌倉の足利方のほうにはせ参じたのであった。

 この時に、亡んだ先代(北条氏)の残党である北条時行も、後醍醐帝から勅免を頂いていたので、伊豆の国から兵を起こして5千余騎を率い、足柄峠(神奈川県南足柄市)と箱根に陣をとり、奥州勢と呼応して鎌倉を攻めるという意向を北畠顕家に伝えた。
 また、新田義貞の次男である徳寿丸(後の新田義興)が、上野国から兵を起こし2万余騎を率いて、武蔵国に入り、入間川に陣を構えて、さらに軍勢の加わるのを待ち受けていた。こちらは、北畠勢がぐずぐずしていれば、自分たちだけででも鎌倉に押し寄せようという計画を巡らしていた。

 鎌倉では上杉民部大輔(憲顕、憲房の子で尊氏の従兄弟)が兄の憲藤、斯波家長(高経の子)、桃井直常、高重茂以下の主だった大名たちが集まって、大将である足利義詮のもとで評定を行ったが、「利根川の合戦の後、味方の士気は衰えて、大半のものは落ち延びてしまった。敵は勢いに乗って、いよいよ強力になっている。今は重ねて戦っても、勝つのは難しいだろう。この際、安房、上総へ退却して、関東八カ国の軍勢がどちらに付くか見定めて、時の変化に従い、勝てそうな時期が来るまで成否を見極めて戦うべきではないだろうか」などと、気の長い表情を延々と続けて、いさぎよく戦おうとする意気込みを見せるものは、一人もいなかった。

 意気盛んな宮方と、やる気のない幕府方という対比がはっきり出ている個所であり、『太平記』の作者はやる気のある方に加担する書き方をしているが、えん戦気分にとらわれている方が人間らしいともいえる。いったん宮方に降参しておいて、隙を見て、鎌倉に駆けつけた芳賀禅可のような武士もいて、それぞれの武士の抱えている内実は複雑である。足利方の武将の中で注目されるのは高重茂で、師直の弟であるが、観応2年2月に高一族が一挙に惨殺されたときの一族中に名を連ねていない。森茂暁さんの『太平記の群像』には、「実務型官僚ゆえに生き延びたものと考えたい。・・・ただし重茂は『太平記』には登場しない」(森、角川文庫版、182ページ)と書かれている。彼については史料が少ないらしく、観応2年以前に死亡していた可能性も残る。それから、『太平記』には高大和守とあって、重茂であるとは断定できないが、校訂者の兵藤裕己さんが大和守=重茂と考えているとすると、森茂暁さんの重茂は『太平記』に登場しないという記述とは食い違うことになる。〔本を丁寧に読んでいくと、ときどき、こういう発見があって楽しい。〕
 さて、大軍が鎌倉を目指して進軍してくるなか、鎌倉での評定はどんな展開を見せるのか、それは次回のお楽しみとしよう。

 

フローベール『感情教育』(8‐9)

6月11日(月)雨

〔第1部あらすじ〕
 1840年、18歳の青年フレデリック・モローは大学で法律を学ぶためにパリに赴き、偶然のことからアルヌーという画商と知り合い、彼の美しい夫人に恋心を抱く。夢想家の彼に法律の勉強はなじまなかったが、高校時代からの親友であるデローリエをはじめ、多くの友人たちとの付き合いを通じて、彼はパリの雰囲気になじんでいく。ようやく大学を卒業し、郷里出身の有力者であるダンブルーズの知遇も得たことで、彼の将来は洋々としているように思われたが、実家の困窮を訴える母親の懇請のために、彼は地方の法律事務所で数年を過ごすことになる。しかし1845年の12月に彼の裕福な叔父が死んでその遺産を相続することになり、彼は再びパリに戻ることを決心する。

〔第2部のこれまでのあらすじ〕
 フレデリックはパリに戻るが、彼の知り合いたちの多くがその境遇を変えていた。アルヌーは画商から陶器業者に転業し、住所も変わっていたが、経済的に困窮している様子であった。アルヌー夫人が再会に際して、見せた態度がそっけなかったので、情熱が覚めたフレデリックは社交界入りを目指してダンブルーズを訪問したりするが、その一方で、アルヌーに誘われて高級娼婦のロザネットが主催する舞踏会に出席したりする。
 デローリエは大学の教授資格試験に不合格ののち、復讐教師や弁護士をしていたが、どちらも成功とはいえず、アルヌーが経営していた新聞を引き継いでいたユソネとともにフレデリックを訪問し、彼らの新聞への多額の出資を依頼する。懇願に負けたフレデリックは多額の出資を約束するが、自分の財産が十分なものではないことに気づき、官庁への就職を考えるようになる。

〔第2部2―続き〕
 フレデリックが官途に就くことにアルヌー夫人も賛意を表したので、彼は官界にも顔が利くらしいダンブルーズを訪ねる。来客中だったダンブルーズはフレデリックをしばらく待たせるが、その先客というのがロザネットのパトロンであり、アルヌーの知り合いでもあるウードリーであった。二人が顔見知りであることにダンブルーズは驚くが、フレデリックを国璽尚書に紹介しようといい、さらに彼を数日後の夜会に招待する。
 その夜会に向かうべく、フレデリックが馬車に乗り込むと、ロザネットから手紙が届き、ウードリーとは縁を切ったという。それだけしか手紙には書かれていないが、フレデリックに後釜に座れと言っていることはすぐに分かった。

 ダンブルーズの邸には大勢の人々が集まっていた。その中に「今やパリ検事局の一員」(光文社古典新訳文庫版、365ページ、岩波文庫版、252ページ)であるマルチノンの姿が見えた。フレデリックとしばし、言葉を交わしたが、彼はまた元の話の輪に戻っていく。〔物語の中に登場する回数は少ないが、マルチノンはフレデリックと対照的な人間として描かれている。裕福な地主の息子で、保守派で(今のところは立憲王政支持だが、政府が変わればその主義も変えるはずである)、出世主義者であり、出世のための努力は積み重ねている。大学を卒業するのはフレデリックよりも早かったし、ダンブルーズのところに出入りを始めたのも、フレデリックよりも早い時期からである。そして、着実に出世している。〕

 夜会には女性たちも多く集まっていた。「実際あらゆるタイプの美女をここに見ることができた。」(光文社古典新訳文庫版、369‐370ページ;岩波文庫版、256ページ) しかし、その中で一番目立っていたのはダンブルーズ夫人であった。フレデリックはロザネットのことを思い出して、その場での誘惑を抑えることができたが、「ダンブルーズ夫人から目をそらすことはなかった。いくぶん口が大きめであるし、鼻孔がひらきすぎているものの、美人にはちがいない。ただ、その魅力は独特なものだった。カールした髪からは恋のやるせなさのようなものがただよい、瑪瑙色の額はあれこれ思惑を秘めているようで、ある種の威厳を感じさせる。」(光文社古典新訳文庫版、370ページ;岩波文庫版、256ページ)
 そして彼女は「ダンブルーズ氏の姪で、おせじにも美人とはいいがたい娘をかたわらに座らせていた。」(光文社古典新訳文庫版、371ページ;あs岩波文庫版、256ページ)

 突然、マルチノンが現れて、ダンブルーズ夫人に手を貸す。あたりを一回りすると、夫人はマルチノンと分かれて、フレデリックの方にやってくる。夫人はフレデリックがこの夜会に集まった人々のようにダンスもせず、カード遊びにも興じないのは理解できないでもないという。〔女性の立場から書かれたジェーン・オースティンの小説を読みなれているので、フレデリックが何もしないというのが、こちらは理解できない。〕
 ダンブルーズがやってきて、大臣と面会して、フレデリックの話をしたところ、政府の役職に就くには試験を受けなければならないといわれたと伝える。フレデリックはその種の試験ならば大丈夫だという。ダンブルーズもロック老人からフレデリックのうわさを聞いているので、大丈夫だと思うという(ロック老人は、ダンブルーズの地元の代理人で、フレデリックの隣人であり、彼の娘のルイーズをフレデリックと結婚させたがっているのである)。

 ロックという名前を聞いて、フレデリックは郷里のことや、ルイーズのことを思い出す。ダンブルーズは国務院の官僚になるよりも、実業界に進出する方がいいのではないかと言い出す。その方面の知識は全くないとフレデリックが言うと、自分が手ほどきをするという。ダンブルーズは自分の事業を手伝ってほしいのであろうかと、フレデリックは一瞬分のもとに巨万の富が転がり込んでくる幻想にひたる。
 夜会の客たちは帰りはじめるが、ダンブルーズはフレデリックに夜食に付き合えという。夜食に付き合うのは、ダンブルーズが内輪の人間だと思う人々だけである。その中にマルチノンがいて、彼を夜食に招いたのはダンブルーズ夫人であることがわかる。一同はくつろいだ様子で心置きなく談笑したが、マルチノンだけはまじめくさった態度を崩さない。

 「夫人はフレデリックに声をかけ、気に入ったお嬢さんはいたかと尋ねた。とくに目についた娘はいない。それに自分は三十代の女性のほうが好きだと返事した。
 『賢明かもしれませんわね、そのほうが』と夫人は言った。」(光文社古典新訳文庫版、374ページ;岩波文庫版、259ページ)
 ダンブルーズは、近いうちに午前中に自分を訪ねてくるようにとフレデリックにいう。
 帰り際に階段の下で葉巻を吸っているマルチノンが気落ちしているように見えたので、フレデリックが声をかけると、彼は気を悪くした様子で返事をする。

 帰宅したフレデリックは夜会での自分の振る舞いが成功だったと思う。「ダンブルーズ氏はとても好意的だったし、夫人のほうは艶めかしく思えたほどだ」(光文社古典新訳文庫版、375ページ;岩波文庫版、260ページ)。それだけでなく、ダンブルーズ夫人を自分の愛人にすることを夢想しはじめる。その一方で、マルチノンに対する憫笑の気持ちを抱いたりする〔そこがフレデリックのおめでたいところだというのは、そのうちにわかる〕。

 19世紀前半のフランス社会がどのようなものであったのか、今一つ想像できないところがあるが、夢想家のフレデリックには実業界入りよりも、たとえ窓際族であろうと官界のほうが居心地がいいはずである。それに19世紀は工業化、市場経済の拡大、都市化が進んだ時代であるとともに、官僚制が確立していった時代でもあり、官僚機構も成長部門の1つであったのである。一時期、フレデリックは外交官になることに食指を動かしていたが、『まいにちスペイン語』応用編の5月分で放送された『ペピータ・ヒメネス』(1874)の作者フアン・バレーラ(1824-1909)、駐日フランス大使を務めたポール・クローデル(1868-1955)、駐日オランダ大使を務めたロバート・ファン・ヒューリックなど外交官と執筆活動を両立させた人は少なくないことも思い出される。

日記抄(6月4日~10日)

6月10日(日)朝のうちは雨はまだ降っていなかったが、午前中から降り出す。

 6月4日から本日までに経験したこと、考えたこと、それ以前の記事の補遺・訂正、「2018年の2018を目指して(5)」の追加など:
【「2018年の2018を目指して(5)」の追加】
 『ラジオ英会話』を18回、『遠山顕の英会話楽習』を11回、『入門ビジネス英語』を8回、『高校生からはじめる現代英語』を8回、『実践ビジネス英語』を11回聴いている。
 1月からの通算では、『ラジオ英会話』が97回、『遠山顕の英会話楽習』が22回、『入門ビジネス英語』が40回、『高校生からはじめる現代英語』を41回、『実践ビジネス英語』を59回聴いたことになる。このほかに、3月で放送を終了した『短期集中!3か月英会話』を35回聴いている。
 『まいにちフランス語』入門編を11回、『まいにちイタリア語』入門編を11回、『まいにちスペイン語』入門編を11回聴いている。また、『ポルトガル語講座』を2回聴いている。1月からの通算では『まいにちフランス語』の入門編を59回、応用編を23回、『まいにちイタリア語』の入門編を59回、応用編を23回、『まいにちスペイン語』の入門編を59回、応用編を23回聴いたことになる。『ポルトガル語講座』は8回放送されたうちの6回しか聞いておらず、先が思いやられる状態である。〔455+91=546〕

 酒を飲まなかった日は3日ある。〔15+3=18〕

6月3日
 猪浦道夫『TOEIC亡国論』を読み終える。TOEIC試験そのものに対する批判と、現在の日本の学校の英語教育の在り方、特に日本語の文法の教育を無視して、英語の教育をすすめようとすることについての批判が主な骨格をなしている。その主張のかなりの部分に賛成である。

 ニッパツ横浜FCシーガルズはアウェーで岡山湯郷ベルズに2ー1で勝利した。

6月4日
 『日経』朝刊に鳥飼玖美子さんが「英語教育改革 まず検証を」という論稿を寄せている。この30年というもの、日本の英語教育は「話す力」一直線に行われてきたが、一向に成果が上がっていない。「成果が上がらないので、同じ方向の改革を繰り返し、…これ突っ走って大丈夫なのだろうか」という。日本語と英語の発想の違いに目を向けさせようとする『英会話タイム・トライアル』、文法重視の『ラジオ英会話』、『遠山顕の英会話楽習』というように、ラジオの英語学習番組が英語の日本語との違いや、英文法にかなり重点を置くようになっていることと合わせ、当局が学校での英語学習の現状をしっかり検証せよという議論はきわめて説得力に富むものだと思われる。

 同じ『日経』朝刊に「データ」として、「留学に向く街 東京が2位」という記事が出ていた。1位がロンドン、2位が東京で、以下メルボルン、モントリオール、パリ、ミュンヘン、ベルリン、チューリヒ、シドニー、ソウルという順位になったそうである。調査対象の範囲が問題だが、私はこの中ではロンドン、東京、ソウルしか知らないので、偉そうなことは言えない。オーストラリアの都市が2つ入っているのに対し、アメリカの都市が入っていないのが意外。

6月5日
 『朝日』朝刊のコラム「経済気象台」で、「イノベーションの分断」という問題が取り上げられていた。「米中の先端技術をめぐる争いは、貿易摩擦にとどまらず、イノベーション(技術革新)基盤やサプライチェーンの分断と戦いが始まっている」という。「米国の技術革新力と中国の自主技術政策の戦いは――米国が優位にあるのは間違いないが、今後は予断を許さない。中国市場の大きさと成長性を考えれば、世界の情報通信産業と技術革新基盤などが二極化する可能性もないではない」。既に積み重ねてきた知識と経験の量において米国が勝るというだけでなく、米国の方が思想・言論の自由があるから、その分、自由な発想や企画の実現が可能であるというのも強みではなかろうか。

 『日経』朝刊に「人手確保へ外国人雇用など」を財界が要望したという記事が出ていた。現政権の支持者の中には外国人労働者の雇用に反対する意見が根強いが、重要な支持基盤である財界からは雇用推進の要望が出されている。そこで、「移民」や「外国人労働者」は受け入れないが「研修生」は受け入れるというような「ごはん論法」が使われることになる。「ごはん論法」は森友・加計だけではないのである。

 同じく『日経』のコラム「文化往来」でインド映画『バーフバリ 王の帰還』がインド映画としては異例のロングランを続けていることが注目されていた。今年になってから私が見た外国映画新作2本のうちの1本である。映画そのものの魅力に加えて、インドとその文化が次第に身近になってきている(日本在住のインド人が増えている)ということもロングランの理由ではないか。

6月6日
 NHKラジオ『遠山顕の英会話楽習』、『実践ビジネス英語』の両方でthingという名詞の用法が取り上げられた。『実践ビジネス英語』では
If an item from or activity becomes popular, it becomes a thing. Such as "Voluntourism has become a thing recently in America."
(ある物品や活動が人気を集めるようになるならば、それはbecome a thingである。たとえば、「アメリカでは、最近、ボランツーリズムが人気になっている」のように。)
と単数形のthingの新しい、特別の用例が紹介された。〔手元の『ロングマン英和辞典』には「the (latest) thing 《インフォーマル》 はやりのもの」と記されているが、この意味で使う場合でもa thingというようになっているらしい。〕
 一方『英会話楽習』では複数形のthingsを取り上げて、「持ち物」をまとめて表す
These things go. (ここにあるものは捨てます。残しますだとstayになる。)
物事や要点を表す
There are three things I always forget. Names, faces and the third I can't remember.
(私にはしょっちゅう忘れるものが3つあります。名前、顔、そして3つ目が思い出せません)
特定の状況について大げさでなく尋ねる
How are things (going)?
という3つの用例を整理し、さらにthingsを使った日常表現
How are things (going)?
(調子はどうですか?)
と、イディオム
It's not your fault. These things happen.
(あなたのせいではありません。こういうことってよく起こるんです)
とを紹介した。
 『英会話楽習』がこれまでの学習内容の整理に主眼を置いているのに対し、『実践ビジネス英語』は新しい英語の知識の獲得に重点を置いていることがわかる。

 同じく『まいにちスペイン語』では乗り物を表す語彙と、そのスペイン語圏のなかでの違いが紹介された。「地下鉄」はel metroであるが、アルゼンチンではsubteというそうである。英語の場合米国ではsubwayというが、英国ではundergroundという。ただし、ロンドンの地下鉄はthe tubeと呼ばれる。

 各地でサッカー天皇杯の2回戦が行われ、横浜FCはアウェーでカマタマーレ讃岐に2ー0で快勝した。レアンドロ・ドミンゲス、イバの両選手を温存してのメンバーでの勝利であるが、3回戦は横浜F・マリノスとの対戦になるので、タヴァレス監督がどんな選手の起用を見せるのかが興味あるところである。

6月7日
 NHKラジオ『エンジョイ・シンプル・イングリッシュ』の木曜日の放送は”Hello from the World" (世界の国からこんにちは)として、日本では知名度の高くない国を紹介しているが、今回はアフリカ東部のタンザニアが取り上げられた。タンザニアは大陸部のタンガニーカと、島国であるザンジバルとが合併してできた国だが、放送ではタンガニーカのことばかり紹介していた。これは公平な取り上げ方とは言えないだろう。

6月8日
 『日経』の連載「日本史 ひと 模様」に東大の本郷和人さんが「生きながらえた 最後の将軍」という論稿を寄せて、鎌倉幕府の最後の将軍であった守邦親王、室町幕府の最後の将軍であった足利義昭、江戸幕府の最後の将軍であった徳川慶喜がそれぞれ幕府と運命を共にせず、その滅亡後も生きながらえていると書いて、武家政権の中で「将軍」が担った役割についての再考を促している。
 ただ調べたところでは、鎌倉幕府の最後の将軍であった守邦親王は、幕府滅亡とともに出家されて、3か月後に薨去されたと伝えられ、死因については不明だというから、本郷さんが主張するように「生きながらえた」というには無理があるかもしれない。
 守邦親王に比べると晩年は豊臣秀吉に庇護され、1万石を与えられたという足利義昭はだいぶ恵まれている。
 明治維新ののち、慶喜は静岡で暮らしていたのだが、東京に移り住むことになり、明治天皇に拝謁に出かけたところ、天皇が大変に喜ばれて、皇后ともども非常に親しくもてなされたという話を聞いたことがある。そして、徳川宗家とは別に家を立てることを認められ(宗家は家達が継いでいた)、公爵に叙せられた。
 だから、「生きながらえた」ことよりも、「その後の扱いがだんだんと良くなった」という側面を強調すべきではないかという気がする。

6月10日
 『朝日』朝刊の地方欄に連載されていた「童謡100年と白秋」が本日連載分をもって終わったのだが、白秋が主催した童謡の雑誌に小学生だった岡本太郎が「きりんのくび」という童謡を投稿・掲載されたという記事が面白かった。

 『日経』に写真入りで「ハニ族の雲のはしご」という雲南省に住む少数民族が築いてきた棚田のことが紹介されていた。田んぼの中に真っ赤な浮草が浮かんでいたりして、日本の棚田よりも色彩豊かなのだが、その分、何となく落ち着かない気分になるのは、慣れの問題であろうか。紅河はベトナム北部を流れる川だが、水源は中国にある。このように中国に水源をもち、東南アジアに流れ込む川は少なくないのである。ということで、中国と東南アジアとの関係の複雑さについて考えさせられる。 

 横浜FCは大宮アルディージャに0ー4で大敗。負けにもいろいろあって、0‐1とか1-2で負けたのであれば、言い訳もできようが、この得点差では言い訳はできない。この試合を含むミニトトBの賞金が1,000円に満たなかったことを監督がどう受け止めるかというのが問題である(とか何とか言って、私もこのミニトトBはあてている)。

島岡茂『英仏比較文法』(14)

6月9日(土)晴れ、気温上昇

これまでの内容の簡単な紹介
Ⅰ 原初の対応
 英語とフランス語はもとをただせば、インド=ヨーロッパ語族の諸言語の祖語に行き着く同系統の言語ではあるが、その中で英語はゲルマン語は、フランス語はロマンス語派と、異なった系統に属する。それで歴史時代に入ってからの両者の交流というよりもフランス語(あるいはフランス語を通じてのラテン語、ラテン語からの直接)の影響によって、英語がどのように変化して、現在の形をとるようになったかを考えるほうが重要である。
Ⅱ 語彙
 英語の語彙は25万、フラン祖語の語彙は10万といわれる。英語には合成語が多いというのもその理由の1つであるが、英語がアングロサクソン系を中心とするゲルマン語を土台にして、ラテン語、フランス語から多くの語彙を取り入れてきたからでもある。しかし、英語で日常的に使われている語彙は、もともとのアングロサクソン系のものが多いことも注意しておく必要がある。
Ⅲ 語形成
 §10 語形成の方法には、合成・派生の2つがある。合成は2つ以上の語を並列して1つの語を形成することで、ゲルマン諸語に多く見られる。派生は語と接辞との接合であり、接辞には接頭辞と接尾辞があるが、接尾辞の方が数が多く、果たす役割も重要である(接頭辞は語の品詞を変えないが、接尾辞は変えることがある)。
 §11 接頭辞
 §12 接尾辞
 (1) 名詞について、その名詞があらわすものに関係する人、あるいは物を意味する接尾語として-er, -aire, -aryがある。〔以上前回まで〕

 (2) 動詞 → 名詞
 動詞のあらわす過程を固定・抽象化して名詞で表すことはラテン語では特に多く、そこから多くの抽象名詞が生まれたもちろん、この転換は接辞をとらず、同一形」のままでも可能である。特に英語ではこのような転換は多い:
 drink (動詞) 飲む (名詞) 飲み物
 help (動詞) 助ける (名詞) 手助け、援助
 sleep(動詞) 眠る (名詞) 眠り、睡眠
〔島岡さんが挙げているのはこの3例だけであるが、他にchase (動詞:追いかける、名詞:追跡)、chat(動詞:おしゃべりする、名詞:おしゃべり)、cover(動詞:~を覆う、名詞:カバー)など探していけばかなりの数が見つかるはずである。] これは英語の動詞が屈折を失い(人称や法などによる変化をほとんどしなくなり)、その分、ある意味をあらわすのに語順に頼るようになった結果であって、フランス語ではこういうことはない。

 次に動詞から名詞をつくる接尾語で、ラテン語起源の主なものをあげてみる。
▼ -ion (<ionem)
ラテン語の動詞の完了分詞の語幹について、これを名詞化する。完了分詞の語幹末子音は-t, -s, -ssであったため、そこから出てきたフランス語、英語の接尾辞は-tion, -sion, -ssionの形をとる。またラテン語では名格-ioであり、-ionはその対格形をとったフランス語の形である。〔ここは意味不明。ラテン語には「名格」があるかどうか知らない。〕
 この形はフランス語で特に好まれ、中世フランス語でこの形をとる派生語は166に達したといわれる。

 ラテン語のactioは「行為」、これがフランス語のaction,英語のactionとなった。
 ラテン語のimaginatioは「想像」で、フランス語のimagination,英語のimaginationとなった。
 ラテン語のpassioは「苦難」、フランス語のpassionは「情熱」、 英語のpassionには「苦難」、「情熱」両方の意味がある。
 ラテン語のvisioは「ヴィジョン」、フランス語ではvision,英語でもvision.
 以上で分かるように、この型の名詞は英仏語とも同形をとる〔島岡さんの著書、47ページには「動詞」と記されているが、「名詞」の間違いであろうと思って、このように書いておいた。] フランス語ではすでに12世紀の古仏語に見られるが、英語では14~15世紀になって初めて導入された。

 これらの名詞のもととなったラテン語の動詞は、名詞形からは推測しにくい。actioのもとの動詞は、フランス語のagirに通じるagere「行動する」で、その完了分詞がactusなのである。〔島岡さんはagereと不定詞で示しているが、ラテン語(とギリシア語)の場合は、辞書の見出しとしては動詞の一人称単数現在形を使うので、agoと書く方が親切である。) agere(ago)から派生したもう一つの語であるagentについては接尾辞-enceのところで述べることになる。

 passionのもとの動詞はpatior(苦しむ、耐える)で(これは英語のIt rains.という場合のrainのように形式的な主語をとるだけで、人称変化しない動詞であるから、辞書には不定詞が見出し語として載せられている)、その完了分詞がpassusである。フランス語のpâtir(苦しむ)という語は、patiorから生じたものである。「耐える」という意味を継承したのが、英語の名詞patience(忍耐)で、-enceという接尾語をとっている。

 visionのもととなった動詞はvidere (deのeは長音、辞書の見出し語はvideo)、完了分詞はvisusである。フランス語のvoir(見る)はこの語に由来する。ラテン語で「私は見る」videoは「ビデオ」の語源になっている。
 videoが使われた一番有名な表現はユリウス・カエサル(Julius Caesar)の
Veni, vide, vici. (= I came, I saw, I conquered. 来た、見た、勝った。)であろう。これはスエートニウスの『皇帝伝』に書きとどめられた言葉だそうである。

 -tion,-sion, -ssionという語尾について、中学校の時の英語の先生が「三味線語尾」という言い方をされて、その直前の母音にアクセントがおかれると教えられたことを今でも覚えている。教育方針をめぐって校長と対立して退職されたのち、公立学校の教職について、何冊か教育についての著書を書かれたようである。調べてみたところ、どうも私の家の比較的近所にお住まいだったようである。まだご存命で、機会があったら、英語について、教育についてお話を伺いたいものである。
 今回はもう少し先まで進むつもりだったが、暑いのと、内容が難しいのとで作業が捗らなかった。著者が書いていることの内容を十分にかみ砕いて説明していないうえに、こちらの知識も十分ではないから苦戦せざるを得ないのである。
  

佐藤信弥『中国古代史研究の最前線』(10)

6月8日(金)午前中は晴れていたが、その後雲が多くなってきた。

 この書物は中国の古代(前21世紀ごろから前1世紀ごろまで)の歴史に興味を持つ人々のために、基礎的な知識と、(教科書で更新されていないような)最近の発見と研究の発展による最新の知見を提供するものである。
 清末の甲骨文字の発見は殷墟の発掘を通じて殷の時代の歴史を復元し、またその後の考古学的な研究の発展は『春秋』『戦国策』『史記』などの伝世史料の記述を補強したり、修正したりしてきた。春秋期のように比較的出土文献が乏しい時代でも、考古学的な発見による新たな発見がないわけではない。
 戦国秦漢期からの出土品で現在最も注目を集めているのが、竹簡である。簡帛というと竹簡・木簡と絹の布に字を記した帛書であるが、その出土範囲は限られている代わりに、内容はきわめて多様である。特に1972年に山東省から出た『孫子兵法』と『孫臏兵法』、同じ時期に湖南省の長沙で発見された帛書本の『老子』などはこれらの書物の成立や内容を探る上での重要な手掛かりとなるものであった。

 その後も主として南方地域で竹簡の発見が相次いだが、特に注目されたのは1993年に湖北省で発見された『老子』である。この竹簡は戦国時代のものと推定され、『老子』の晩出説は否定された。とはいうものの、この『老子』は現在のものと比べて章がばらばらで、量も少なく、これらのことをめぐっては論争が続いている。このような「1970年代以後の相次ぐ簡帛の出現により資料が充実していくと、簡帛を抜きにして戦国秦漢史や思想史の研究を進めることは考えられない状況となった。簡帛は学界に大きなインパクトをもたらしたのである。」(233ページ)

 「竹簡が資料として注目されるようになると、骨董品としての価値が高まり、青銅器などと同様に古墳の副葬品の中で竹簡が盗掘のターゲットと見なされるようになった。」(234ページ)
 盗掘された竹簡が骨董市場に出回るようになり、1990年代ごろから大学や博物館などの研究機関がこれらを購入するようになった。盗掘が疑われるものの購入は、これらの行為を追認し暗黙の裡に奨励することになるとの考えから、日本や欧米の研究機関では忌避されるが、出土物の多くが海外に流出した経験を持つ中国では「愛国的」な行為として見られることがある。

 各研究機関が出土地や出土の経緯がわからない非発掘簡を購入し、その数が増えていくと、個々の資料に対して偽作説が生じることとなった。その結果として簡帛だけでなく、青銅器についても非発掘品を忌避する動きも見られた。このような動きに対し、佐藤さんは、実際に現物を検討して、その内容を吟味してみなければ、議論は始められないと説いている。「『どのように扱ってよいかわからない』のなら、わかるように努力しなければならない」(241ページ)というのである。 

 竹簡からは他の種類の情報を読み取ることもできる。殷や周の卜占は甲骨から、春秋期の卜筮は侯馬盟書の中に、その記録を見出すことができる。このような生の占いの記録として、戦国楚の竹簡から「卜筮祭禱簡」と呼ばれるものが、いくつか発見されているが、これは楚の王族や上級貴族の卜筮・祈禱の記録である。内容は吉凶をめぐる神霊への問いかけではなくて、既定の方針の確認という形をとっている。また占いの結果を示す記録は見られない。
 またこの時代、専門の巫者たちが活動し、上級貴族だけでなく、庶民のあいだにも占いは広がっていた。彼らは主として「日書」と呼ばれる竹簡を利用して占いを行った。読み書きのできないものに対しては、巫者が代わりに占ったということのようである。

 1975~76年に湖北省で発見された秦の下級官吏の墓からは、秦国の歴史年表と被葬者の履歴を併記した『編年記』が出土している。秦国の歴史といっても軍事的な内容に偏っており、かつ『春秋』経文並み、あるいはそれ以上に簡潔である。韓・趙・燕・魏・斉・楚の6国の滅亡については触れず、始皇帝26年(前221年)の秦による統一や皇帝号の採用についても記載がない。しかし、宮城谷昌光さんが『星雲はるかに』でその伝記を描いた、遊説家出身で秦の宰相となった范雎について、彼が死んでは張禄と名乗っていたことが確認でき、その後半生について『史記』の范雎蔡沢列伝にみられるのとは違った結末を推測できるという。
 国家の歴史は、個人をめぐる出来事がいつ起きたかを示す標識のような役割を果たしているが、その中で、「国家の歴史と個人の歴史とが交錯する記述がひとつある」(253ページ)。始皇帝28年(前219年)の「今、安陸を過(よぎ)る」(同上)である。「今」=「金城」=始皇帝。『史記』始皇本紀によると、28年に彼は2度目の巡幸を行い、安陸県や被葬者である喜という人物が務めていた鄢県の属する南郡にも立ち寄った。喜も安陸を通過する始皇帝を目撃したのかもしれない。
 『編年記』に属するものはほかにも2,3出土しているが、まだ詳細は分からないという。ただ、それぞれ秦の昭王から記述が始まっている点が共通するといい、興味がわく。

 また裁判の記録からは、単に当時の犯罪と刑罰をめぐる事情だけではなく、身分制度とそこから抜け出そうとする個人の動きが読み取れるという。これらの事例の研究から、楚漢戦争当時に、漢側が身分解放などを条件として積極的に楚側の奴婢の投降を受け入れていたのではないかと推測する学者もいるという。だとすると「『四面楚歌』の背後でこういった動きが進んでいた」(258ぺージ)とも推測できる。研究者の興味は戦争の推移や主要人物の人物伝よりも、当時の社会の制度や、主要な動きの背景・裏側で進行した事態の解明に向けられていると佐藤さんはいう。それでは、研究者は人物伝に類する資料からどのようなことを読み取ろうとしているのか。

 今回で、この書物の紹介を終えるつもりだったが、ここまで書いても、まだ書き及んでいない紙面が20ページほどあり、あと1回分書き続けることにした。国家と個人の歴史の交錯という点で思い出すのは、岩波書店から出ている『近代総合年表』を読んでいると、私がかかわった出来事あるいは事件が記載されている箇所があるということである。それがなんであるかは書かない――という程度に歴史には非情な側面があると結んでおこう。
 

紅玉いづき『現代詩人探偵』

6月7日(木)晴れ、気温上昇

 たぶん、雪国に属するらしい地方の小都市。SNSのコミュニティである『現代詩人卵の会』のオフ会が開かれた。語り手がパソコンに残している日記によれば2004年6月6日のことである。〔この小説についての記事を昨日投稿すればよかった‼〕 会場は駅の隣のファミレス。集まったのは櫻木遊侠先生、近藤奇人さん、治田(はつた)ビオコさん、舵(かじ)ヨウスケさん、小木屋(おぎや)さん、夏炭(かすみ)さん、明日田(あすた)さん、遠野昼夜(とおのちゅうや)さん、そして中学生で最年少の「僕」である。
 「僕」は「蒼ざめた馬」というハンドル・ネームを使っていたのだけれども、集まっていたみなは、「僕」のことを「探偵くん」と呼んだ。それは「僕」が≪探偵≫という詩を投稿していたからである。その詩は
生きているうちに、見つけてみせる。
真実などはなく、
犯人などはいなくとも、
僕を殺した、僕の生きた意味を。
(11ページ)と結ばれていた。
 コミュニティは「将来的に、詩を書いて生きていきたい人」を対象とするものであった。「ずっと詩は捨てずにいきたいけれど、詩を書いて生きる、ということがわからなかった僕にとって、一筋の光明が見えたような気がした。/最後に僕らは、次回オフ会の話をした。次回といっても、定期的に開こうというわけではなく、志をもちそれぞれが詩作に励み、そしていつか詩人として再会しよう、という約束めいたことだった。」(19ページ)

 それから10年がたつうちに、語り手は高校受験があって『卵の会』から離れてしまった。さらに大学卒業後、就職活動に失敗して、インターネットとは縁のない境遇に身を置くようになった。「僕は、何も理解していないし何も得ていない。詩人になれていない。詩は、書いている。一か月に一編書ければいいぐらいの遅筆だけれど。コンビニの深夜のアルバイトの合間に詩作にふけり、川辺を散歩し、図書館まで歩き、本屋に行っては詩の雑誌を読み、そしてそのどこにも自分の名前がないことに絶望する。」(26ページ) その彼が、「来週の金曜日」が「6月6日」であることに気づく。
 「十年の月日が経って。
 生きている詩人はまだ存在しているのだろうか。」(26ページ、念のために調べてみたのだが、2014年6月6日は金曜日で間違いなかった。)

 駅前のファミレスに出かけた語り手を迎えたのは、櫻木遊侠先生、治田ビオコさん、近藤奇人さん、舵ヨウスケさんの4人であった。10年前に集まった9人のうち4人がこの世を去っていたという。9人のうち誰かが誰かを知っていた。しかし全員の近況を知る者はいなかったので、集まって初めてこのことに気づいたという。「詩を書いて生きていく」と約束したはずなのに、彼らはなぜ死んだのか。語り手はそれを調べてみたいと思い、舵さんは君が本当に探偵ならば調べてみろとけしかける。しかし、櫻木先生は「調べたところで死者がよみがえるものではない」といい、近藤さんは調べることで死者に引きずられて自分も死を選ぶ結果を招くかもしれないといって反対する。それでも調べたいというのであれば、その結果を我々に知らせてほしいという条件付きで、4人は語り手による死者の死因の調査を認めることにする。

 「僕」こと、探偵くんは小木屋さん、遠野さん、夏炭さん、明日田さん、それぞれのメンバーの遺族や、恋人(だったと称する女性)を訪ね歩く。小木屋さんは何冊かの死のノートを残していたが、最後まで手放さなかったノートには「イタイ、タスケテ」という農薬を飲んだ時の苦しみのことばしか記されていなかった。つもタロットカードとスケッチブックを持ち歩いていた遠野さんは子どもができたとき、子どもが大きくなる前に教科書に詩を載せたかったといって悔しがったという。彼の残された妻は、探偵くんとの会話を拒否する。夏炭さんは男だと思われていたが、実は同性愛者の女性であった。残るは、大学の非常勤講師をしながら詩を書いていたという明日田さん、本名は金田さんだ…。報告を聞いてきたコミュニティの生き残っているメンバーたちはもうやめろという。明日田さんの死は事故だと警察も認定したというのである。ところが、会が終わった後で、舵さんがとんでもない情報、それを聴いてしまったら、捜査続行を断念できないような情報を伝えてくれる…。

 小説中に登場人物の精神状態を説明するために詩が登場するのは、『チップス先生さようなら』や『失われた地平線』の作者であるジェームズ・ヒルトンが書いた唯一といっていい長編推理小説の『学校の殺人』であるが、この作品は、もう少し上手に詩がはめ込まれているように思う。ヒルトンを引き合いに出したが、語り手を自分の操り人形としながら、<作者の特権>を巧みに行使して物語を進めていくところは、クリスティーを思い出させるところがある。語りの妙という意味では、なかなかよくできた推理小説なのだが、文句がないわけではない。

 この作品全体を通じて、詩を書くことと、生きることの意味が登場人物、特に語り手によって執拗に追及される。詩を書くことの意味も、生きることの意味も、ただ一つのあり方に固定されるものではありえないが、そのような多様性を前提としても、詩と探偵小説とは身近なところがありそうである。『荒地』の田村隆一、鮎川信夫、加島祥造は詩人であるとともに、推理小説の翻訳者として知られていたし、『マチネ・ポエティック』の福原武彦は詩と小説、推理小説を書き、中村真一郎は推理小説は書かなかったが、翻訳はしていた。「僕」が大学時代に研究した中原中也の友人である大岡昇平は戦後の日本を代表する作家の1人であるが、推理小説の愛読者で書き手でもあった。こういう因縁があるから、この小説の語り手、「僕」が探偵役として、コミュニティの死んでしまったメンバーのことを調べようというのも筋が通っている。
 そうはいっても、詩人であるよりも小説家であるほうが推理小説は書きやすいはずである。実際に、(若死にしたということはあるだろうが)中原中也は推理小説を書かなかったが、大岡昇平は『事件』を書いている。だから、詩と推理小説とは、近くて遠き仲とでも表現すべきであろうか。

 ところで、田村隆一は、この小説で言及され、登場人物に畏敬の念を持って語られている萩原朔太郎が明治の講師をしていた時の学生であるが、萩原なんて言うのは前世紀の遺物だと見下して、授業に一度しか出なかったそうである。萩原の娘の葉子の父親の思い出を読んでいると、この時代、萩原はしょっちゅう飲み歩いていたようで、田村も、詩のことは棚に上げて、先生、先生とおだてて飲みにつれてもらって置けば、それはそれで貴重な経験になったはずである。そうはいっても詩というのは本来、反権威主義的なものだから、田村のこの態度は特に反抗的なものとは言えない。その点で、この作品に登場する遠野さんが自分の詩を教科書に載せたいと願っていたというのは、俗臭を感じさせる。推理小説としての骨格というよりも、そこでの詩の取り上げ方に教科書的な古さとか、権威主義的な俗臭とかいうものが若干なりとも感じられてしまうのがこの作品の欠点である。

トマス・モア『ユートピア』(4)

6月6日(水)雨

 トマス・モア(Thomas More, 1477/8ー1535)は1515年に、イングランドとカスティーリャ(スペイン)の間に起きた紛争をめぐる外交交渉のため使節団の一員としてフランドルに渡り、その際に彼の友人であるエラスムスの友人であったアントワープのピーター・ヒレスの世話になった。ある日、モアはヒレスからラファエル・ヒュトロダエウスという「ユリシーズ、いやプラトンのように」(58ページ)船で世界中を旅したという人物を紹介される。様々な国の政治と社会とに関わる彼の豊かな見聞に驚いたモアとヒレスは、ラファエルにその知識と経験を活用して、どこかの王侯に顧問として仕えるよう勧めるが、自由を愛するラファエルは固辞しつづける。王侯たちは平和を維持することよりも、戦争をして自分の勢力を拡大することに熱心であり、彼を取り巻く顧問たちは阿諛と追従をこととする連中ばかりであるという。そうした例として、彼は昔イングランドに滞在していた時に世話になった枢機卿モートンの下で経験した会話を持ち出す。
 ある法律家がイングランドにおける法の厳格な執行を賞賛し、それなのになぜ泥棒が減らないのかと疑問を発したのに対し、ラファエルは刑罰が厳しいことは犯罪の予防にならず、むしろ犯罪者(あるいは予備軍)に生計の手段を教え、更生へと導くことの方が重要であると述べた。これに対して法律家は、手工業や農業で生計を立てる道はあるのだから、好き好んで犯罪の道に走るものは罰するべきだとその意見を変えずに主張し続けた。

 ラファエルは、犯罪が生まれる原因として、まず自分たちは働かずに、領地の小作人たちから必要以上に搾取し、ぜいたくな暮らしを続けている貴族たちの存在をあげた。この時代、豪族たちは多数の私兵や、平和時に家政のために働く従僕たちを抱えていた。多少は必要からであったが、それ以上に見栄のためであった。彼らは主人が死ぬか、自分たちが病気になったりすると、簡単にお払い箱にされてしまう。新たな主人を見出すのは難しく、農業には慣れていないし彼らの気位の高さが邪魔をしてうまくいかないことが多い。

 しかしラファエルが問題として取り上げている人々こそ、戦争の際に役立つのだと法律家は反論した。その議論は「戦争のために泥棒を保護養育すべきだ」(72ページ)というのと同じだとラファエルは言い返す。「泥棒はのろまな兵隊にはならないし、兵隊は泥棒たちのうちで一番臆病な奴でもないし、この二つの職業(アルス)はたがいによく合っている」(同上)と続ける。このような一歩足を踏み外すと犯罪の道に入り込むような私兵の存在はイングランドだけでなく、ヨーロッパに共通してみられる問題である。さらに、フランスでは傭兵が盛んに用いられているが、彼らは組織的な軍事訓練を受けているだけにさらにたちが悪い存在であるという。結果としてフランスでは戦争のために傭兵を使うのではなく、傭兵たちを訓練するために戦争をしなければならない状態に追いやられているという。だからといって、傭兵が徴集民兵に比べて強力な軍隊を構成するとも言えないと付け加える。そして起こるとも起こらないともわからないし、起こらない方がいい戦争のために大量の兵士たちを確保しようとすることは愚かとしか言いようがないという。

 戦争のために大量の人員を確保し、その人員が人々の平和な生活に対する脅威となっているというのはヨーロッパに共通する問題であるが、そのほかにイングランド固有の問題があるとラファエルは述べた。それは何かという枢機卿の問いにラファエルは次のように答えたという:
「お国の羊です。…羊は非常におとなしく、また非常に小食だということになっておりますが、今や〔聞くところによると〕大食で乱暴になり始め、人間さえも食らい、畑、住居、町を荒廃、破壊するほどです。この王国で特に良質の、したがってより高価な羊毛ができる地方ではどこでも、貴族、ジェントルマン、そしてこれ(怠惰とぜいたく)以外の点では聖人であらせられる何人かの修道院長さえもが、彼らの先代当時の土地収益や年収入だけでは満足せず、また無為、優雅に暮らして公共のために役立つことは皆無、いな有害になるのでなければ飽き足りません。つまり残る耕作地は皆無にし、すべてを牧草地として囲い込み、住家をこわし、町を破壊し、羊小屋にする教会だけしか残しません。さらに、大庭園や猟場をつくるだけではあなたがたの国土がまだ痛み足りなかったかのように、こういうえらいかたがたはすべての宅地と荒野にしてしまいます。」(74ー75ページ)

 16世紀のイングランドで起きた(第一次)囲い込み(エンクロージャー)運動を描いたこの部分は非常に有名な個所で、私が受験生だったころには世界史の入試問題にしばしば利用されたようで、問題集で出会った記憶がある。その時代と、現在とでは囲い込みについての理解はかなり違っているが、英国の田園の景観を大きく変える出来事であったことは間違いない。昔、ロンドンとパリを飛行機で往復したことがあったが、英国とフランスの田園の景観の違いを実感する経験であった。簡単に言えば、英国の耕地や牧場には仕切り(生垣hedgeか、石の壁stonewall)があるのに対し、フランスはそういう仕切りがないのである。フランスの歴史学者であるマルク・ブロックが囲い込みがなぜイングランドで起きて、フランスでは起きなかったのかという考察をしていて、それはやはり両者の景観の違いから発想された研究であろうと思った。  

『太平記』(213)

6月5日(火)晴れ、午後になって曇り

 建武4年(南朝延元2年、1337)6月、北朝では光厳上皇が重祚した(そういう歴史的な事実はないが、院政の本格的な開始を重祚と取り違えたのであろうか)。10月に暦応と改元され(実際には翌年の8月)、11月に足利尊氏は征夷大将軍、弟の直義は日本将軍となった(直義の将軍任命の事実はない)。越前(国)府城(えちぜんのこうのじょう、現在の福井県越前市)の斯波高経と戦う新田義貞は、暦応元年(南朝延元3年、1338)2月、越前府を攻略し、斯波は足羽城に逃れた。4月、金ヶ崎城が落城した際にとらわれ、足利方に幽閉されていた東宮恒良親王と将軍の成良親王が毒殺された。そのころ、大館氏明、江田行義らの新田一族や、宗良親王が、諸国で蜂起し、また北条高時の次男で、中先代の乱に敗れて以後、潜伏していた北条時行は、吉野に使者を送って後醍醐帝から勅免を得た。南朝方の反攻が始まろうとしていた。

 奥州の国司北畠顕家は建武3年(1336)正月に園城寺(三井寺)合戦の前に上洛して、新田義貞に協力し、足利勢を九州へと追い払う功績をあげ、その褒賞として鎮守府将軍に任じられ(岩波文庫版の脚注によれば、顕家の鎮守府将軍任命はその前年のことである)、改めて陸奥の国に派遣されていた。翌年(実際にはその年のうち)、九州から攻め上った足利方に後醍醐帝が都を追われ、さらに比叡山から都に戻って花山院に幽閉され、新田義貞は金ヶ崎で自害したといううわさが伝わった後は、顕家に従う郎等たちも次第に減り始め、勢いが衰えてしまい、わずかに伊達郡の霊山の城一つを守って、いるかいないのかわからないような状態に陥っていた。
 霊山は福島県伊達市と相馬市の境にある山で、山頂に円仁の創建になる霊山寺があり、東北地方における天台宗の拠点寺院であった。北畠顕家は延元2年(北朝4年、1337)に、義良親王(後の後村上天皇)を奉じて、この山頂に城を築き、陸奥の国府とした。のち正平2年(北朝貞和3年、1347)に落城し、その後は荒廃した。現在は一部が国の史跡および名勝に指定されているそうである。

 ところが後醍醐帝は吉野に潜幸され、義貞は北国で勢力をふるい出したという情報が入ってきたので、またまた人々の心が変化して、顕家の命令に従おうとするものが増えてきた。
 顕家は時節到来とこの様子を喜んで、奥州各地の武士たちに動員の書状を回付したところ、(福島県白河市の豪族である)結城宗広をはじめ、招集に応じるという武士が続出し、陸奥国の伊達郡、信夫郡の武士たち、奥州に住んだ甲斐源氏の南部・下山氏の武士たち6千余騎がはせ参じた。顕家の配下の武士たちを合わせると3万余騎となり、白河関を超えるときには奥州54郡の武士たちの大部分が加わって10万余騎となった。この勢いに乗って、鎌倉を攻め落とし、上洛しようと8月19日、白河関を出発して、下野国(栃木県)に入った
 白河の結城宗広は「三木一草」(楠正成、伯耆=名和長年、結城親光、千種忠顕)の1人に数えられる親光の父親で勤王武将として知られる。甲斐源氏の一派である南部氏が奥州に移り住んだことをめぐっては司馬遼太郎の『街道をゆく3』所収の「陸奥のみち」にいろいろと書かれているので、興味ある方はご覧ください。

 鎌倉には管領として尊氏の三男である義詮が派遣されていたが、北畠軍の来襲の知らせを聞いて、上杉憲顕を大将とし、細川和氏、高重茂に武蔵、相模の武士たち8万余騎を添えて、利根川の西岸で守りを固めさせた。
 義詮は尊氏の三男であるが、正室である登子との間にできた子なので、後継とされていた。〔この点では、源頼朝が三男であるが、母親の身分が高いので父・義朝の後継者となったというのに似ている。〕 本郷和人さんが論じているように、この時代の兵力は1桁下げて数を考えた方がよいとすると、顕家の軍勢は1万騎、足利方は8千騎ほどと考えられる。それでもかなりの大軍である。

 こうして両軍が川を挟んで対峙して、お互いに、先手を打って渡河しようとして、渡ることのできそうな浅瀬を探したのだが、折あしく、上流で雨が降ったために川が増水して、流れは深く速い。浅瀬があるのかないのかと、尋ねようにも渡し守はいない。両陣ともに、水かさの引くのを待っていたために、何もできないまま一日一夜を過ごしてしまった。

 北畠軍には長井斎藤別当実永という武士がいた。(越前出身で、武蔵国幡羅郡長井荘=埼玉県熊谷市永井太田を領した武士。利仁流藤原氏。源平合戦で有名な長井斎藤別当実盛の子孫である。) 大将である顕家の前に進み出て、次のように述べた。「昔から今まで、川の向うにいる敵を相手にして戦う際に、先に渡河した方が勝たなかったという例はありません。たとえ水が勝って、普通よりも深くなっていても、この川は、源平合戦の古戦場であった宇治川、瀬田川、藤戸、富士川に勝るというほどでもありますまい。敵に先んじられる前に、こちらから渡って、士気を励まして、戦いを決めて(勝利に導いて)はいかがでしょうか」。顕家はもともと公家の出身であったから、「合戦の仕方は、勇士にまかせるのが何よりだ。ともかくも思うとおりにせよ」とこの申し出を許す。実永は大いに喜んで、馬の腹帯を占め、兜の緒を締めて、さて、馬を川に乗り入れようとしていた。
 この様子を見ていつも先陣争いをしていた閉伊三郎(陸奥国閉伊郡=岩手県久慈市周辺に住んだ武士)、高木十郎という2人の武士が、少しも前後を見極めようとせず、ただ2騎で、馬をさっと川の中に入れて、「今日の戦闘の先陣を切るのは誰であったかと後で議論をする者がいたら、河伯水神=川の神に聞け」と大声で叫んで、箆撓形(のためがた、「のため」というのは反った矢を撓め直す道具の形のように)斜めに流れを塞いで渡ってしまった。

 長井斎藤別当と、その弟の豊後次郎の兄弟2人はこれを見て、「他人が渡ったところをそのまま渡っては、なんの手柄にもならない」と、(先を越されたことに)腹を立てて、2人が先に渡ったところよりも3町ばかり川上の瀬を、ただ2騎で渡ろうとしたが、川の中に転がっている岩に寄せる波が高く、渦を巻いていたりして、それに巻き込まれたのであろうか、馬も人も見えなくなって、そこに沈んで見えなくなってしまった。その身はなんの手柄を立てることもなく溺れ、屍は急流に流されてしまったけれども、その名はとどまって、武士としての名声を死後に残した〔賞賛というよりも皮肉と受け取るほうがいいのかもしれない〕。「これでこそ、白いもののまじってきた髪の毛と髭とを黒く染めて討ち死にした斎藤実盛の子孫らしい振る舞いである」と、人々が称賛したことであり、またそのために先祖の名をさらに高めたのである。

 斎藤実永兄弟が大将の顕家から正式に許可を得て、準備をしていざ渡ろうとしている矢先に、2人の武士がじつにこともなげに渡河を果たしてしまう。それに腹を立てた兄弟は、別の場所を選んで渡河を試みて、溺死してしまう。これは『太平記』第1分冊の「解説」で校訂者の兵藤裕己さんが書いているように、『太平記』に特徴的なエピソードであり、それ以前の軍記物語のパロディーとみることもできるし、時代の変化の中で武士の生き方も変わっていること、大義名分を掲げながらも、それが現実に機能しないことに焦りを感じている作者の喪失感の反映とみることもできる。斎藤兄弟の死は、まったく無意味なのだが、その無意味な戦死をことさらに称賛して見せることに、作者の喪失感の深さが現れているとみるべきだというのである。
 斎藤実盛は木曽義仲との戦いに白いもののまじってきた髪の毛と髭を染めて従い、戦死したという平家方の侍大将であるが、平治の乱の際には義平17騎の一人として、源義朝のために平家と戦ったという経歴もある。熊谷直実、平山季重など、義平17騎に数えられる武士たちは、頼朝挙兵の際にそのほとんどが頼朝の陣営に加わるのだが、斎藤実盛は例外であった――というのも興味深い。
 ただ、もう一つ気づいたことは、このあたりで『太平記』の作者が歴史的な事実ではないことばかり書いているということであって、その意味をもう少し考えてみるべきかもしれない…というのが、北畠軍と足利軍との利根川の戦いの帰趨、そしてその後の展開を描く次回以下の伏線になると思う。 

フローベール『感情教育』(8‐8)

6月4日(月)晴れ

これまでのあらすじ〔第1部〕
 1840年の秋、大学
 法律を学ぶためにパリに出かけた18歳の青年、夢想家のフレデリック・モローは偶然知り合った画商アルヌーの美しい夫人に恋をする。1830年の七月革命により成立した立憲君主制が次第にその矛盾をあらわにしてきた時代、フレデリックは大学の授業には関心が持てないが、さまざまな意見をもつ友人たちとの交流を通じて、次第にパリと時代の雰囲気になじんでいく。大学を卒業し、地元の有力者であるダンブルーズの知遇を得たものの、帰省してみると、実家の経済的な困窮に直面し、郷里の法律事務所で働かざるを得なくなる。1845年12月、裕福な叔父が死去し、その遺産を相続することになって経済問題が解決したフレデリックは、パリに戻ろうと決心する。
〔第2部のこれまで〕
 パリに戻ったフレデリックは、彼がパリを離れていた間に、いろいろなことが変わってしまっていることに気づく。アルヌーは画商と美術新聞の発行をやめて、陶器業者になっている。再会した時のアルヌー夫人の様子から、フレデリックは彼女が自分に対する興味を失ったと即断し、ダンブルーズを訪問して社交界へのデビューを試み、またアルヌーに誘われて高級娼婦であるロザネットの家の舞踏会に参加したりする。
 学生時代に仲良く議論した仲間たちとの距離を感じ、アルヌー夫人への思慕も断ち切れず、ロザネットと親密になったことでフレデリックは複雑な人間関係の罠に囚われ始める。そうしたある日…

〔第2部2〕続き
 ロザネットを家まで送って、フレデリックが帰宅すると、ユソネとデローリエが待っていた。
「文士は机の前に座って、トルコ人の顔を描いており、弁護士は泥だらけの靴のまま、長椅子に居眠りしていた。
 「ああやっと帰ったか。だが、なんという不愛想な顔だい? 話を聞いてくれるかね?」」(岩波文庫版、244ページ)
「ボヘミアンは机のまえに腰かけてターバンを巻いたトルコ人の頭を描いているし、弁護士は泥だらけのブーツを履いたまま長椅子でうたた寝をしている。
 「やあ、やっと帰ったか」とデローリエが声をあげた。「やけに渋い顔をしてるじゃないか。話があるんだ」」(光文社古典新訳文庫版、354ページ)
 岩波の生島遼一が「文士」、光文社の太田浩一が「ボヘミアン」と訳している語は、le bohèmeで、ユソネの描き方から判断して「ボヘミアン」と訳すほうが適当であろう。「トルコ人の顔」、「ターバンを巻いたトルコ人の頭」は原文ではdessinait des têtes de Turcsで、ターバンは翻訳に際しての付けたし、tête は「顔」という意味も「頭」という意味もあるが、têtes des Turcsと複数になっているので、「トルコ人たちの顔」あたりが近いかなと思う。生島が訳さず、太田が〔デローリエが声をあげた〕と訳している部分の原文はs'écria-t-ilで、そのまま訳せば、「彼が大声をあげた」。s’écriaは動詞s’écrier(叫ぶ、大声で言う)の過去形である。

 デリーリエはフレデリックが郷里に帰った後、教授資格試験(agregation)を受験したが、失敗して、個人教授をしたり、弁護士として活動したり、著述をしたりして生活していた(第2部第1章)。復習教師(répétiteur)には2種類あって、セネカルがしていたように学校の職員として寄宿舎で生徒の学習を監督するものと、個人教授、家庭教師的なものであるが、デローリエは後者であったらしいが、受験に不利な学説を教え込むということで評判を落としていた。また弁護士として2,3度法廷に立ったものの、敗訴に終わり、この仕事にも失望していた。そこで新聞を主宰して、論陣を張って、世間をあっといわせようと思い立ったのである。

 ユソネは、かつてアルヌーが主宰していた新聞を引き継いでいた。バラ色の紙に印刷されているというから、文字通りの赤新聞といってよかろう。その編集ぶりも赤新聞といってよいものであった。「でっち上げた記事を載せ、判じ絵をつくり、論争を巻き起こすことをもくろんで、(会場のあてもないのに)コンサートの主催すらくわだてている。…印刷業者からは強硬な督促を受けているし、家賃も3期分が未払いという有様で、まさに八方ふさがりの状態だった。」(光文社古典新訳文庫版、354ー355ページ、岩波文庫版、244ページ) ご本人はいい加減、投げ出そうと思っているのだが、それをデローリエが励まして続けさせているという状態で、フレデリックから金を引き出して、新聞を盛り立てようという魂胆である。だからデローリエは、ユソネをつれてやってきたのである。

 デローリエは自分の計画を説明する。芸術新聞を政治新聞に切り替えるためには1万5千フランが必要だという。フレデリックはそんな金は出せないという。デローリエは彼の贅沢な暮らしぶりを指摘し、それが社会正義に背を向けたものだと非難する。それだけでなく、社交界や半社交界の女性たちのためには金を出しているではないかと耳の痛いことを言う。あの手この手の懇願に根負けして、フレデリックは彼の公証人に1万5千フランの送金を依頼する手紙を書く。デローリエとユソネはそれを喜んでフレデリックを大いにほめたたえて帰ってゆく。

 その晩、フレデリックのもとに彼の母親から手紙が届く。郷里を出るときに彼は「大臣になる」と言い残したが、まだ大臣になっていないのはどうしたことかと冗談めかして書き出され、それから自分の健康について触れ、さらに隣家のロックさんの訪問を受けるようになったと記されていた。もともとロック老人の家とはあまり付き合いがなかった(モロー家が財産を失ったのは、この老人のせいだという因縁がある)が、母親の気持ちも変わってきたらしい。ロック老人の一人娘であるルイーズが見違えるほどきれいになったとも記されていた(老人の遺産は彼女のものになるから、フレデリックが彼女と結婚すれば、モロー家は失った財産を取り戻して昔以上の金持ちになれるのである)。それから有力者であるダンブルーズと知り合いであるならば、それを利用すべきだとも書かれていた。

 母親の言っていることはいちいちもっともだとフレデリックには思われた。文学など知的な方面での名声を得るという野望は失せていた。財産も十分とは言えない。それに無為な生活を送るのではなく、定職を見出したいという気持ちも募ってきた。そこで、アルヌー夫人の家での夕食の際に、母親からしかるべき職に就くよう勧められているという話をすると、アルヌー夫人も賛成して、以前フレデリックが言っていたようにダンブルーズの推薦で国務院に入る(役人になる)という話はどうなったのだという。

 この時代、政府の役人になるのには競争試験ではなく、縁故だけでよかったのである(現在の日本でも公務員への就職に際して、縁故は大きな意味をもっているといわれているが…)。フレデリックはその意味で恵まれた条件にあるが、大学における勉学と同様、自分の前に広がっている可能性を利用することについてはあまり熱心ではない。
 母親の手紙を受け取ってすぐに決心を固めるのではなく、アルヌー夫人に相談するというところにフレデリックの性格が表れている。すぐに決心を固めないまでも、以前であればデローリエに相談するところであろう(そのデローリエもあまり頼りにできなくなってきたということは否定できないが…)。それから、今回、名前だけだが、隣家の娘のルイーズがフレデリックの配偶者の有力候補者として登場してきたことも物語の展開から見逃せないところである。夢想家のフレデリックとやはり夢想的なところがあるルイーズが果たしてお似合いのカップルといえるかどうか…というのもこの物語を読む際の興味の一つとなるだろう。

日記抄(5月28日~6月3日)

6月3日(日)晴れ、気温上昇

5月28日から本日までの間に経験したこと、考えたこと、「2018年の2018を目指して(5)」の書き残し:

5月28日
 NHKラジオ『まいにちフランス語』の「今日のやりとり」ではシードル、ガレット・ソシスというブルターニュの名物が登場した。番組パートナーのクロエ・ヴィアート(Chloé Viatte)さんによると
Ce jus de pomme fermenté, il y en a plusieurs sortes. Doux, il est parfait pour les crêpes ; brut, il se marie idéalement avec les galettes. Une de ses particularités est d'êtres servi, non pas dans un verre, mais dans un bol.
(発酵させたリンゴの果汁から作られるシードルには種類があって、甘口はクレープとの相性が抜群、そして辛口はガレットと合わせるんです。シードルといえば、グラスではなくて陶器でできたボウルで飲むんです。)
 英語のciderはアメリカではリンゴジュース、英国(とアイルランド)ではフランス語のシードルと同様、リンゴから作られる発泡酒を言う。洋ナシから作られる発泡酒もあってperryという。
galette-saucisseはレンヌの名物で、ポーク・ソーセージをガレットで巻いたもので英国のソーセージ・ロールに似ているが、ガレットはそば粉で作られているところが違う。

5月29日
 『朝日』の朝刊に米文学者の佐伯泰樹さんがユダヤ系アメリカ人の作家フィリップ・ロスを追悼する文章を書いていた。ロスの作品の映画化である『さよなら、コロンバス』を見ているが、原作は読んでいない。一時、英国の女優であるクレア・ブルームと結婚していた。

5月30日
 田中啓文『鴻池の猫合わせ 浮世奉行と三悪人』を読み終える。大坂の町のもめ事を独自に解決する「横町奉行」あるいは「浮世奉行」の活躍を描く時代小説シリーズ第3作。大坂の神社で江戸の秘仏の御開帳があるというのだが、どうも何かありそうだという「ご開帳は大乱調の巻」、猫好きの豪商・鴻池善右衛門の肝いりで、猫の品評会が開かれるということから起こる騒動を描く「鴻池の猫の巻」(落語に詳しい田中さんのことなので、「鴻池の犬」という噺に着想を得ているのだろうが、物語は全く違う)、「三悪人」の一人である女侠客鬼御前が出入りに巻き込まれるという「出入りの毎日の巻」の3編からなる。新たな登場人物が登場し、ますます物語は賑やかになっている。

5月31日
 『朝日』の朝刊に「女はつらいよ 考えてきた」という見出しの山田洋次監督のインタビュー記事が出ていた。昭和20年代の松竹では映画を1本作るのに助監督が4~5人つき、その最下位の助監督が映画撮影の際の🎬(カチンコ)をたたいた。山田監督が助監督になって、最初にカチンコをたたいたのは川島雄三の映画だったというが、山田監督は川島の弟分といってもいい野村芳太郎の助監督であった期間が長い。次はその川島の話題。

 シネマヴェーラ渋谷で『飢える魂』(日活、川島雄三監督)、『續飢える魂』(日活、川島雄三監督)を見る。川島はその生涯で50+1本の映画を監督したが、そのうち24+1本を見たことになる。(+1というのは成瀬巳喜男と共同監督した『夜の流れ』である。) この2作で(チーフ)助監督を務めているのは、今村昌平である。
 親子ほどに年の違う夫(小杉勇)と暮らして10年になる若い妻(南田洋子)と、彼女を恋する青年実業家(三橋達也)、夫と死別して10年になる未亡人(轟夕起子)と彼女に思いを寄せる亡夫の親友(大坂志郎)の二組の関係を描く丹羽文雄原作のドラマで、ラジオ・ドラマとして全国放送されたものの映画化。川島にとっては気の進まない企画であったらしいが、近畿地方(と名古屋)のロケーションを行うなど、それなりに映画作りを楽しんだ感じがある。奈良の場面で、彼の監督昇進第1作『還って来た男』とよく似たショットがあるのが興味深い。名古屋のテレビ塔、日本テレビのテレビ塔など高い場所が数多く映像化されているのも特徴的である。川島の監督作品で、渡辺美佐子が出演しているのを見るのはこれが初めてである。小林旭のデビュー作のようで「新人」と記されている。などといいながら、若いころの南田洋子の姿に見とれていた。

 小峯和明『シリーズ<本と日本史>② 遣唐使と外交神話 『吉備大臣入唐絵巻』を読む』(光文社新書)を読み終える。遣唐使として中国に派遣された吉備真備の活動が後世どのように「神話」化されていったかを、『吉備大臣入唐絵巻』の読み解き作業を中心にまとめている。著者はもともと説話文学の研究者であり、日本人の対外観の変遷を様々な説話を通じてたどっているのだが、紹介されている説話の中には、面白いというよりも面白すぎるものが少なくない。

 福島直樹『学歴フィルター』(小学館新書)を読む。

6月1日
 NHKラジオ『実践ビジネス英語』の”As they say..."(和洋ことわざ考)は「石橋を叩いて渡る」を取り上げた。このことわざをそのまま英語に訳せば、Strike the stone bridge to make sure before crossing it.ということになるが、これに対応する英語のことわざとしては、An ounce of prevention is worth a pound of cure. (1オンスの予防は1ポンドの治療にあたいする→転ばぬ先の杖)が挙げられるという。([『ロングマン英和辞典』には、これはやや古い言い方であると記されていた。) 他にはLook before you leap. (よく見てから飛べ)という言い方もあるという。
 手元の英語のことわざ辞典を見たら、An ounce of discretion is worth a pound of wit. (1オンスの思慮は1ポンドのウィットにあたいする)というのが出ていて、冗談のつもりで言ったことが人を傷つけることがあるので、慎重に発言すべしと注記されていた。

6月2日
 NHKラジオ「朗読の時間」は「国木田独歩 理想と現実のはざまで」として、独歩の作品を読んでいる。先週は「牛肉と馬鈴薯」、「川霧」、「武蔵野」であったが、今週は「武蔵野」の2回目から5回目(最終回)と、「郊外」の第1回目が朗読された。
 明治以後の日本の近代化・都市化の中で、他にあまり例がないと独歩が言う落葉樹の林が続く武蔵野が変容を遂げながらも、どのように人々の生活とかかわっているかを描き出す。独歩が文学的に探索したものを、別の角度から検討しようとしたのが、彼の親友の1人であった柳田国男であるということを改めて想起させられた。独歩が渋谷の道玄坂を武蔵野の一部に含めていることを知って驚く人もいるかもしれない。吉田健一が大岡昇平について、渋谷の道玄坂の生まれで、彼が生まれたころには道玄坂にはまだ水車小屋があったと書いていることも思い出される。

6月3日
 『朝日』の朝刊に「歴史教科書の用語削減 「賛成」3割」という記事が出ていた。削減を推進している高大連携歴史教育研究会が実施した調査の結果だというから、その点を割引して取り上げる必要がある。もう30年ほど前に死んだ私の伯父は昭和天皇にご進講申し上げたことがあるというほどの日本史学者であったが、最近(40年ほど前)の歴史学者は基礎的な訓練ができていないとよく文句を言っていた。日本史を勉強する際に、干支の知識は不可欠であるが、それが全然習得できていない研究者が多いというのである。日本史の年代は、年号とともに干支で表されていたからである。例えば関ケ原の戦いがあったのは慶長5年(庚子)である。現在の高校教育では、進学用の歴史と完成教育用の歴史とが区分されているが、歴史好きの生徒(あるいは歴史研究を志す生徒)のための歴史とそうでない生徒のための歴史という区分を考えてもいいのではないか。もっとも「甲子(きのえね)、乙丑(きのとうし)、…」というようなことばかりやっていたら、たいていの生徒が歴史嫌いになる恐れがあることも確かであるが…。

 ニッパツ三ツ沢球技場で横浜FC対東京ヴェルディの対戦を観戦する。横浜は前半に1点の先制を許したが、後半に2得点を挙げて逆転し、久しぶりにホームで勝利するかと思っていたら、アディショナル・タイムに守備の乱れから1点を失い、結局、引き分けに終わった。 

2018年の2018を目指して(5)の書き残し
 1月から5月までに当ブログに頂いたコメントの累計は11件、拍手コメントは1件ということである。拍手の累計は2892に達した。5月中にこのブログを始めて以来に頂いた拍手の総計が30,000を超えた。改めてお礼を申し上げる次第である。〔134+33=167〕

 本日中に書き残した部分をまとめるつもりだったが、なかなか整理がはかどらないので、6月10日に予定している「日記抄」(6月4日~10日)に残りを書くことにする。あしからず。

島岡茂『英仏比較文法』(13)

6月2日(土)晴れ

 この書物は同じインド=ヨーロッパ語族に属するとはいうものの、ゲルマン語系の英語が、ロマンス語系のフランス語(およびそのもととなったラテン語)との接触の歴史的な過程を経て、現在の形をとるに至ったかを、文法だけでなく、その語彙や構造にも目を向けて総合的に検討するものである。
 Ⅰ 「原初の対応」では、これら2つの言語が印欧祖語から変化してきた過程をたどり、両者の間には一定の対応関係が認められることが記されている。しかし、それよりもむしろ、英語のラテン語との接触以後の変化に目を向けることの方が重要であるという。
 Ⅱ 「語彙」では英語の語彙が25万、フランス語の語彙が10万といわれることを述べて、その理由として、英語には合成語が多いのに対し、フランス語には少なく、単語を前置詞で結び付けて表現することが多いことのほかに、英語がフランス語およびラテン語から多くの借用を行ってきたことが挙げられている。日常生活で使用される語彙は本来の英語の方が多いが、文化的な書き言葉になるとラテン語・フランス語に由来する語彙が多く使われるようになる。この章では、フランス語・ラテン語からどのようにして語彙が取り入れられてきたかの歴史的な過程が実例とともに説明されている。
 Ⅲ 「語形成」では英語の語彙だけでなく、語形成の方法もラテン語あるいはフランス語から借用したことが述べられている。
 語形成の方法には合成と派生の2つの方法があり、合成は2つ以上の語をつなぎ合わせて1つの語とすることであり、英語・ドイツ語を含むゲルマン諸語に多く見られる。派生は語と接辞の接合であり、ラテン語、フランス語で多く行われる。接辞には語の前に付く接頭辞と語の後に付く接尾辞とがある。接頭辞に比べて接尾辞の方が重要性が高く、その数もはるかに多い。接頭辞は品詞に無関係で、2つ以上重なることはないが、接尾辞は自由に品詞を変えるため、4つまで重なることができる。
 接頭辞の大部分はギリシア語・ラテン語から出ている。ただし、be-, for-, un-などはゲルマン語系の接頭辞である。否定の接頭辞であるun-がゲルマン語系であるのに対し、同じく否定の接頭辞であるin-はラテン系である。またラテン・フランス語系の接頭辞が本来の英語の頭について新しい意味を生じる場合もあるが、これはそれほど多くない。
〔島岡さんは、ラテン語・フランス語系(およびギリシア語系)の接頭辞についてはほとんど書いていないので、例を挙げておくと、supermarketのsuper-はラテン語系の接頭辞、大型スーパーマーケットを意味するhypermarketのhyper-はギリシア語系の接頭辞であり、この両者では、ギリシア語系の方が意味が強いことが興味深い。〕

 本日は、Ⅲ「語形成」の§12「接尾辞」について見ていく。
 既に述べたように、英語などゲルマン諸語に比べて、ラテン系のロマンス諸語には派生語が圧倒的に多い。接頭辞もそうだが、さらには重要な接尾辞でも、ほとんどがラテン語から出ている。その中には語の意味内容だけを変えるものと、品詞を変えるものとがある。後者の方がはるかに多いが、まず、前者の方から見ていくことにする。
1 名詞→名詞(形容詞)
 ラテン語の-arius, -ariumはフランス語の-ier, -aire,英語の-ier, -er,- eerおよび-aryとなった。-ier(-ière) フランス語には女性形がある。ラテン語には男性形・女性形・中性形があったが、ロマンス諸語では男性形と中性形がラテン語尾の消失によって同じ形になったが、前者は人、後者は物をあらわす。〔ここはどうも言っていることの意味がはっきりしない。〕 形容詞をつくるものもあるが数は少ない。〔ラテン語には男性・女性・中性があったが、フランス語、イタリア語、スペイン語、ポルトガル語など近代のロマンス諸語には中性形がない。ルーマニア語には単数だと男性、複数だと女性扱いになる名詞があって、これが「中性」に分類されるが、それには異論もあるようである。なお、イタリア語にもこのような性をまたぐ名詞が少数ながらあるという。〕

 フランス語のporte(門)に関わる人は、フランス語でportier 英語でporter(門番)である。〔英語ではdoormanという言い方もある。〕
 同じくフランス語のferme「農地」に関わる人はフランス語でfermier, 英語でfarmer(農夫)である。
 フランス語のpion (島岡さんは「歩兵」と書いているが、現在ではチェスのポーンの意味で使われているようである。英語のpawnも同様である)からは、フランス語でpionnier, -ère、英語でpioneer(開拓者)という語ができた。 
 -ier, -er, -eerはどれも名詞の後について、これと関係をもつ人をあらわしている。英語の-erはアクセントをとらないが、古いアクセントを残す形があり、その場合は-eerになっている。〔英語では上記のpionéer のほかに、enginéer(技師)とか、mountainéer (登山家)がこの例に当てはまる。ここではアクセントがおかれることを示すためにéと書いたので、普通にこれらの言葉を使う時にはアクサン・テギュは不要である。念のため。〕

 同じ形で中性が示すものは、ある物の集合体、たとえば果実をつける樹木、さまざまなものの容器などをあらわすが、これは英語にはない。英語では合成名詞を使うからである。
 フランス語でpomme(リンゴ)に対してpommierは「リンゴの木」を意味する。〔英語ではapple treeという。〕
 フランス語でencre (インク)に対してencrierは「インクびん」を意味する。〔英語ではink bottleという。apple treeは英和辞書には載っていないが、ink bottleは掲載されていた。〕

 -aire, -aryは-ierと同じラテン語接尾辞-arius, -ariumから出ているが、前者に比べて入ってきた時代が遅く、学者形である。
 ラテン語のsecretum,フランス語でsecrét(秘密)を託された人は、ラテン語でsecretariusといい、フランス語のsecrétaire, 英語のsecretary(秘書)となった。〔英語のsecretaryには事務官とか書記官とかいう意味もあり、英国の官庁でPermanent Secretaryというのは事務次官である。〕
 フランス語のlivre (本)に対し、libraireは「本を写す人、書く人、売る人」を意味していたが、今日では売る人、本屋の意味だけで使用される。英語のlibraryはラテン語の中性名詞librariumから生まれ、「本の容物、本箱」という意味から、今日の「図書館」になった。英語で本屋というのはbookseller, bookshop《英》, bookstore《米》である。ついでに言うと、bookbinderは「製本屋」、bookbinderyは「製本所」、bookshelfは「書棚」、booktokenは「図書券」である。bookmakerは「本をつくる人」の意味もあるが、「賭け元、私営馬券業者、競馬などの賭けを引き受けて配当金を支払う業者」の意味の方で使われることが多い。bookkeepingが「簿記」であるのはご存知の方も多いだろうと思う。〕

 ラテン語で-or, フランス語で-eur, 英語で-er, -orという接尾辞は、動詞についてその動詞が意味する行為を行う「人」をあら合わす。
 ラテン語の動詞porto(運ぶ、身につける)に由来するフランス語の動詞porterは(持つ、もっていく、運ぶ、身につけている)という意味の動詞であるが、porteurは「運搬人」で英語のporterも同様の意味である〔ただし、英語にportという動詞があるにはあるが、それほど一般的に使われてはいないようである〕。
 ラテン語の動詞canto(歌う)に由来するフランス語の動詞chanter(歌う)から派生したchanteurは歌う人、「歌手」、英語ではsingerといい、sing(歌う)人という意味ではあるが、singはゲルマン系の語彙で、フランス語とは無関係である。島岡さんはこのようにラテン語・フランス語とは無関係に-erがついている名詞の例として、writerを挙げているが、これはゲルマン語系の語彙でもなさそうである。
 ラテン語の動詞ago(動かす)から、フランス語のacteur, 英語のactor(俳優)という語ができているが、この場合の-orの形はラテン語直結の学者形で、-erより新しい借入語に多く見られる。〔ラテン語でもactorは俳優の意味で使われる。フランス語にはactrice,英語にはactressという女性形がある。なお、ギリシア・ローマ時代の演劇は、俳優がその役柄を示す仮面をかぶることによって演じられる仮面劇であり、女優は存在しなかった。conductor (指揮者)、counselor (カウンセラー)、director (演出家、監督)、professor(教授)などが思いつく例である。なお、mentorというのは語源的に別系統のことばで、ギリシア語(神話)起源である。〕

 次回は動詞から名詞を作る接尾辞について本格的に取り上げる。

佐藤信弥『中国古代史研究の最前線』(9)

6月1日(金)午前中は晴れていたが、午後になって雲が広がってきた。

 この書物は中国の古代史(前21世紀ごろから前1世紀ごろまで)に興味を持つ読者に、基礎的な知識と新しい発見及び研究の成果を紹介するものである。

これまで取り上げてきた部分の目次
第1章 幻の王朝を求めて
 第1節 殷墟の発見と甲骨学の発展
 第2節 夏王朝の探求
 第3節 古蜀王国としての三星堆
第2章 西周王朝と青銅器
 第1節 西周紀年の復元
 第2節 非発掘器銘をどう扱うか
 第3節 周は郁郁乎として文なるか?
第3章 春秋史を「再開発」するには
 第1節 『左伝』が頼りの春秋史研究
 第2節 東遷は紀元前770年か
 第3節 盟誓の現場から
 第4節 春秋諸侯のアイデンティティ
第4章 統一帝国へ
 第1節 陵墓と死生観の変化

 今回は第4章第2節「竹簡インパクト」以降の内容を見ていく。
 戦国秦漢期の墓葬からの出土品で現在最も注目を浴びているのが、竹簡である。竹簡はその名の通り、竹片に文字を一行ずつ記したもので、長さ十数センチから数十センチ、幅数ミリから一センチ程度の大きさのものである。先秦期から、紙が書写材料として普及する三国時代や西晋の頃まで広く用いられた。〔紙を発明したのは後漢の蔡倫という宦官であったとされる。(西)晋の左思という人が、「三都賦」を作った時、洛陽の人々が争ってこれを転写したために(この時代は印刷術がなかった)洛陽の紙の値段が上がったことから「洛陽の紙価を高める」(→著書が好評を博し盛んに売れる)という表現ができたといわれるが、(西)晋の時代になってもまだまだ紙が貴重品だったということがわかるのである。ところで「三都賦」というのはどういう文章であったかというと、『文選』の中に収められている「蜀都賦」「呉都賦」「魏都賦」の総称だそうである。〕

 複数枚の竹簡に文章を書き連ね、順番に並べてひもで綴じ、本文が書いてある面を内側にして円筒状に巻いて保管する。こう押して紐で綴じられた簡を冊とか簡冊・冊書と呼んだりする。他の巻冊との区別のため、背面に書物の篇題が書かれているものもある。中身が公文書類でそれをよそに発送したりする場合は、封泥(ふうでい)といって印章を押し付けた粘土で封緘された。
 竹簡は後からどんどん新しく付け加えていける一方で、ひもが解けてバラバラになると順序がわからなくなってしまう恐れもある。『史記』「孔子世家」には孔子が『易経』を愛読し、その竹簡を綴じている紐が何度も断ち切れたと記され、そこから「葦編三絶」という言葉が生じた。そうしたことは当時よくあったと考えられる〔現代の製本した本でも、何度も読んでいるうちにボロボロになることはある〕。
 そういうことが起きないようにと、竹簡の紐で閉じる個所に契口(けいこう)と呼ばれる切込みを入れて簡が紐から外れにくくしたり、竹簡の表面の下端や背面に番号を入れたり、あるいは背面に目印として斜めの切り込み線や墨線を引く(劃痕・劃線という)することも行われた。

 現在発見されている最古の簡冊は、戦国前期(前433頃)とされる曾侯乙墓竹簡であるが、簡冊事態はそれ以前の殷代や西周期にも使用されていたと推測されている。
 竹簡の出土地域は、地中に水分を多く含むことにより保存条件の良い湖北省・湖南省などの南方に偏る傾向がある。特に戦国竹簡はほぼ楚国のものに限られている。竹の生えない土地では竹片ではなく木片を用いた木簡が使われた。しかし、竹簡が用いられることの方が多かった。
 これら竹簡や絹の布に文字を書いた帛書(二者をまとめて簡帛という)の内容は、公文書・公式記録、書簡、諸子の書や史書・医書・識字用の教科書・算数書・戦術書などの書籍類、墓の副葬品のリストである遺策など多種多様である。

 竹簡発見の歴史は漢代にまでさかのぼる。それに先立つ秦の時代に、始皇帝が民間での書籍所有を禁じる挟書律(きょうしょりつ)を発したことはよく知られているが(その結果が「焚書」となる)、これが解除されたのは前漢の二代目恵帝の時代のことである。〔恵帝は母親である呂后のおかげで影の薄い皇帝であるが、その諡号が示すように情け深い人だったようである。〕
 挟書律が出たときに、書物を家の壁の中に隠しておいた人が少なくなく、それが加除されたので、人々が隠し持っていた書籍が再び世に出るようになった。以後、宮廷でも民間でも古い書物を発掘・収集することが行われたが、そうして発見された書物は秦漢以前の古い書体のままではなく、隷書など当時一般に行われていた書体に書き直されたものが広まった。

 出土簡帛が再び注目されるようになったのは20世紀に入って、外国の探検家たちが中国の西北地域で古い木簡や古写本・古文書を探し出し、それを海外に持ち出して以後のことである。1930年代になってやっとスウェーデンと中国の合同発掘調査がおこなわれ、出土物は中国側に帰するということになった。
 新中国成立後も中国側によって敦煌や内モンゴルのエチナ川流域一帯での発掘調査が進められ、多くの木簡が得られている。竹簡に関しても新たな発見があったが、大きな話題となったのは、文革中の1972年に山東省臨沂市の銀雀山漢墓から出土した銀雀山漢簡で、前漢の武帝時代以前のものと考えられる竹簡が出土し、その内容は兵法書などの書籍類が主で、特に『孫氏兵法』と『孫臏兵法』が注目された。

 兵法書である『孫子』の著者は、春秋期の呉に仕えた孫武とする説が一般的であったが、一方で戦国期の斉に仕えた孫臏とする説もあった(貝塚茂樹『諸子百家』は孫臏説であったと記憶する)。ところが銀雀山からは、現在通行する『孫子』13篇と同内容の文献(これを『孫子兵法』と称する)とともに、従来知られていなかった孫子による兵法書が出土した。こちらは16篇からなるが、前半4篇に孫子と戦国期の斉の威王や斉の将軍田忌との対話が記されている。『史記』孫子呉起列伝では、孫臏は田忌の推薦によって威王に仕えたとあるので、ここでいう「孫子」は孫臏を指すと考えられる。
 この16篇は孫臏の兵法書であるということで、『孫臏兵法』と名づけられた。また『孫子兵法』の方にも現代まで伝えられてこなかった佚篇があり、そのうちの「呉問篇」には呉王と孫子との問答が記されている。

 このほか銀雀山からは兵法書の『六韜』、戦国期の兵法家尉繚による『尉繚子』、春秋期の斉の賢臣として知られる晏嬰の対話集『晏子』(現行の『晏子春秋』と同内容)などの断片も出土した。これらの文献は言われてきたように先秦時代のものではなく、秦漢、もっと後になって魏晋の時代にあらわされたものではないかという説があったが、この発見によって遅くとも前漢の武帝期までには成立していたこと、さらにはこれらの文献がそれ以前の時期から存在していた可能性が示されたのである。

 考古学的な発見によって、伝世文献をめぐる議論が新しい展開を見せるという例はこのほかにもあって、『老子』をめぐっても同様な例があるが、それは次回に譲ることにする。書物の題名だけが並んでいて、その内容に言及がされていないのは、学校の授業などによくありがちなことではあるが、受け取る側としてはあまり面白くない。題名と内容とが必ずしも一致しないこともあるし、文献というのは読んでみないとわからないところがあるうえに、人によって受け取り方が違ってくるという問題もある。新書版ということでの制約もあっただろうが、もう少し内容に踏み込んだ記述をしてほしいと思う。
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