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2018年の2018を目指して(5)

5月31日(木)曇り、小雨が降りかけたり、やんだり

 5月はきわめて不活発に過ごし、新しく出かけた場所も、利用した鉄道はなかった。それで、訪問したのは1都1県、2市6特別区、利用した鉄道は5社9路線、12+1駅。バスについては6社、18路線は変わらないが、乗り降りした停留所が2か所増えて、22か所となった。〔81+2=83〕

 この記事を含めて32件をブログに投稿した。内訳は日記が5、読書が20、『太平記』が5、映画が1、詩が1である。1月からの通算は155件となり、日記が27、読書が97、『太平記』が23、映画が1、詩が4、推理小説が2、未分類が1ということである。コメントを1件、拍手を622頂いた。

 9冊の本を買った。現状だと紀伊国屋のポイントが不足しているので、これから2冊ほど買い足す予定である。これまでに読んだ本は8冊と少なく、不覚を取った感じである。これまでに読んだ本を列挙すると、兵藤裕己『後醍醐天皇』(岩波新書)、呉座勇一『陰謀の日本中世史』(角川新書)、神凪唐州『大須裏路地おかまい帖 あやかし長屋は食べざかり』(宝島社文庫)、東川篤哉『館島』(創元推理文庫)、吉田友和『北京でいただきます 四川でごちそうさま』(幻冬舎文庫)、似鳥鶏『レジまでの距離』(光文社文庫)、平松洋子『肉まんを新大阪で』(文春文庫)、田中啓文『鴻池の猫合わせ 浮世奉行と三悪人』(集英社文庫)、小峯和明『シリーズ<本と日本史>② 遣唐使と外交神話 『吉備大臣入唐絵巻』を読む』(集英社新書)ということである。
 予定通り2冊本を買って、そのうち1冊:福島直樹『学歴フィルター』(小学館新書)を読んだ。買った本は11冊、読んだ本は9冊ということになり、1月からの合計では買った本が61冊、読んだ本が46冊ということになった。 

 シネマヴェーラ渋谷で6本の映画を見た。1月からの通算では5か所の映画館で16本の映画を見ていることになる。見た映画の内訳は:『いちごブロンド』、『我が家の楽園』、『オズの魔法使』、『御冗談デショ』、『春の夢』、『河口』である。日本映画旧作8本、外国映画新作2本、外国映画旧作6本ということになる。依然として、日本映画の新作を見ていないのが問題である。(夕方から夜にかけて、シネマヴェーラ渋谷で川島雄三監督の『飢える魂』、『續飢える魂』を見るつもりなので、帰ってきたら書き足すことにする。)
 予定通り、『飢える魂』、『續飢える魂』を見たので、見た映画の合計は18本、日本映画の旧作を10本見ていることになった。

 J2の第14節横浜FC対ロアッソ熊本、第15節横浜FC対ジェフ千葉、なでしこリーグ2部のニッパツ横浜FCシーガルズ対伊賀くノ一、シーガルズ対愛媛FCレディーズの4試合を観戦した。これで1月からサッカーの試合を3か所で16試合観戦したことになる。またミニトトを1回あてたので、合計では3回あてたことになる。〔22〕

 さすがに疲れたので、残りの部分は6月3日付の「日記抄」で、これまでの補遺としてまとめることにする。 
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野口実『列島を翔ける平安武士』(11)

5月30日(水)曇り、ときどき小雨。そのうち本格的な雨になるのだろうか。

 この書物は平安時代の後半から鎌倉時代にかけての九州(鎮西)における豪族的武士(と武士団)の形成を2つの波に分けて整理し、考察している。第1の波を形成したのは京都や東国から大宰府(や受領)として赴任し、その地位を利用して勢力を築き土着した軍事貴族たちであり、第2の波の担い手は鎌倉幕府の成立に伴い、やはり京都や東国に惣地頭・地頭として所領をもち、全国的なネットワークの中でこの地方にも基盤を形成した鎌倉御家人たちである。第2の波を代表する武士が頼朝の挙兵に呼応してその地位を築いた千葉常胤と、鎌倉幕府の成立とともに頼朝との縁故により登用された京侍の惟宗(→島津)忠久である。
 このようにして形成された豪族的武士の全国ネットワークの中で重要な役割を演じたのが京都における生産と流通の拠点であり、特に金属加工製品の生産の場であった七条町である。ネットワークの中で武器・武具の流通だけでなく、京都の文化の地方への伝播が進み、たとえば、京都と平泉の途中の地域においても浄土庭園が造園されたことがわかっている。

 京都の文化が地方に受容された例として、古河市の円満寺に伝えられた金銅独鈷杵が挙げられる。これは平安時代末期の作で、京都から将来されたものであるといわれる。このように京都の産品が地方に運ばれる一方で、七条町など京都の工人が地方に赴いて技術指導をしていたことも想定される。
 摂関家や院は、その家司や近臣をしばしば陸奥守に任じて陸奥における利権を確保していた。このため、この地方にも京都の交渉の足跡が及んだことは不思議ではない。また平泉で用いられた武器や生活用品などを見ても、京都の七条町で作られたことがわかるものは多く、その点においても白河・鳥羽・法住寺殿・宇治などと都市としての共通性をもつことがわかってきている。

 「奥州の地に君臨せんとする平泉藤原氏にとって、京都の高度な技術によって装飾された威信財は必要欠くべからざるものであり、そのために、京都で生産された製品が持ち込まれただけでなく、平泉に七条町の工匠たちが招かれることもあった。そして、その交易活動や技術指導に携わった商人や工人たちは摂関家や院などの家産機構(御厩・細工所など)に従属する人々であった。この時代、流通・情報の結節機能において、地方社会は思いのほか、中央の政治権力に規定されていたのである。」(170ページ)

 「院・平家政権期の京都には、権門貴族や寺社に祇候するために列島各地から武士が集まり、彼らは傍輩(ほうばい、同僚)としての立場から広域的な人脈を結んでいった。私はこれを『一所傍輩のネットワーク』と呼んでいる。武士とはその職能を貫徹するために流通・生産に依存しなければならず、またその武力行使という(必要悪としての)職能の正当性は国家・首都の守護と引き替えに王権によって裏付けられなければならなかった。だから『在京活動』は彼らにとって『武士』としての存在証明を得るための必須の営為だったのである。保元・平治の乱を経て『武家の棟梁』が出現し、地方武士の利害が直接中央の政治の場に持ち込まれるようになると、いよいよ彼らの活動はその領域を広げ、京都を介した列島各地の交流が促進されることとなる。いわゆる源平争乱の時代は、そのような社会・文化状況を踏まえなければ理解することはできないのである。」(171ページ)
 一門・一族のあいだの結びつき、ネットワークに加えて、同じ場所で一緒に活動したという経験を通して形成されたネットワークも存在するというのである。また、朝廷や院、権門貴族との結びつきも武士の行動に大きな影響を及ぼす。この書物に登場した千葉常胤を例にとってみれば、彼は千葉下総「介」という地方の次官としての地位を朝廷から与えられていることによって、地方における自分の武力行使を正当化することができたということである。

 この書物の主張の1つは、武士はその名字の地と結びついて離れない在地領主であったという半ば定説化している見解に対し、鎌倉時代までの武士は移動する存在でもあったということである。〔実際問題として、たとえば戦国大名で中国地方に勢力を築いた毛利氏はその名字を相模国愛甲郡毛利庄(現在の厚木市周辺)に負っているということは、この見解では説明できない。〕 そして平安後期から鎌倉時代にかけての武士が、ネットワークを形成する存在であったということも見落とされがちであるという。

 武士が土着の存在、悪い言い方をすれば田舎ものであったという理解が、源頼朝の挙兵を支え、その後も幕府の中で重きをなした北条時政の大河ドラマなどでの描き方にも影響をしているという。しかし近年の研究によると、北条氏は伊豆の在庁官人の地位にあり、その先祖は平忠常の乱の際に追討使に任じられた平直方であり、直方の娘は源義家・義光兄弟の母であったという来歴がある〔八幡太郎義家と新羅三郎義光が有名になって影が薄くなっているが、2人のあいだには賀茂次郎義綱というもう一人の兄弟がいる、念のため〕。また、時政の祖父は時家といって、伊勢平氏一族の京武者であった。だから、時政は伊豆に勢力を築いていたし、また京都や畿内とも関係を持ち続けていたというのが真相である。

 「従来、鎌倉幕府成立の担い手は平将門の乱以来、古代国家・腐敗した貴族社会に対する怒りを蓄積してきた東国の在地に根ざした健全素朴な新興武士階級であるという認識が一般であった。しかし、鎌倉幕府の草創に携わり、その発展を支えた人の多くは、10世紀以来、東国に基盤をもつ存在というよりも、せいぜい12世紀以後に畿内近国から下向したり、在地勢力とはいっても日常的に京都と深い関係を有する存在たちであったことが、近年の研究で明らかにされつつある。」(177ページ) そして野口さんは頼朝が挙兵した時に彼の周囲にいたのが、京都や畿内と関係をもち続けていた北条氏、平治の乱の敗戦後に東国に逃げ下った佐々木氏、伊勢を本拠とする加藤氏や、頼朝の乳母の関係者であったこと、鎌倉幕府成立後にその運営を取り仕切ったのが大江(中原)広元ら京都から下向した吏僚たちであったことを指摘している。〔ご存知の方も多いと思うが、大江広元は毛利氏の先祖である。〕  さらにまた、この時代の武士は決して武芸だけに重きを置く存在でなく、院・内裏や権門貴族の家政機関に出仕した経験を通じて、文筆能力もあり、作法も身につけ、宗教的な権威を重んじる人間であったことが論じられている。

 「源頼朝の挙兵に応じて、その武力的基盤となった上総・千葉・三浦・小山氏などの有力御家人は、みな諸国の有力在庁であり、彼らの一族は在京活動を行っていたのである。彼らの頼朝への呼応は、単に在地の問題によるだけではなく、やはり中央の政情に対応したものであったと考えるべきであろう。」(180ページ)
 上京した武士たちは、そこでの同輩との結びつきを通じて各地の情報と、いざという時に頼れる友を得ることになる。武家社会の広がりは、このようなネットワークの形成を基礎とするものだという。

 「中世の武士は、その成立の当初から日本列島を駆けめぐっていた。決して頑なに根を下ろしていたわけではなく、京都の貴族社会に反発するような志向をもっていたわけでもなかった。むしろ、文武の能力を兼ね備えた武士たちは、在京活動の中で列島各地の同輩との間でネットワークを築き上げ、各地の情報を得て果敢に活動の空間を広げていったのであろう。それが、爆発的に進行したのが治承・寿永の内乱だったのではないだろうか。」(181ページ)

 このように「移動する存在」としての武士と、武士のあいだに形成されたネットワークに注目することの重要性を指摘してこの書物は終わっている。たしかに治承・寿永の内乱は大きな転回点であるが、この書物は、その内乱後の列島各地の変化にも説き及んでいるわけで、もう少し別のまとめ方もあったのではないかという気もする。武士の形成史の中で比較的軽んじられてきた九州地方に焦点を当てて、豪族的武士団の形成史に新しい知見を加えた書物であると思って読んできただけに、最後は、九州から目が離れてしまっているのも残念な感じである。 

『太平記』(212)

5月29日(火)曇り

 建武4年(南朝延元2年、1337)6月、北朝では光厳上皇が重祚された(そういう歴史的事実はない)。10月に暦応と改元され(史実は翌年8月)、11月に足利尊氏が征夷大将軍に、弟の直義が日本将軍に任じられた(これも歴史的事実ではなさそうである)。兄弟そろって同時に将軍に任じられるのは前例のないことで、足利一族は我が世の春を謳歌した。
 越前の杣山城で息をひそめていた新田義貞は、越前府城(こうのじょう)の斯波高経と戦い、暦応元年(南朝延元3年、1338)2月、越前府を落城させ、斯波は足羽城へと逃れた。
 4月、金ヶ崎で囚われて足利方に幽閉されていた東宮恒良親王と将軍の宮成良親王が毒殺された。

 後醍醐帝が比叡山から下山されて京都で幽閉され、新田義貞の軍勢の籠っていた金ヶ崎城は落城した(落城前に新田義貞・脇屋義助兄弟は杣山城に脱出)ことが広く知れ渡ったので、早急に宮方の勢力が回復することは考えられないと思われていたところ、後醍醐帝は三種の神器を持参されて吉野に遷幸されたことがわかり、また義貞、義助が再び数万の軍勢を率いて越前の国で勢力を挽回したといううわさが広がったので、比叡山で足利方に降伏していた新田一族の大館氏明は伊予の国に逃げっ下って、この地の豪族である河野一族の土居、得能の武士たちと一緒になって、四国で勢力を拡大しようとした。同じく新田一族の江田幸義も、丹波国に下って、もともとは武蔵の武士であったが、(現在の兵庫県丹波市青垣町に住んでいた)足立、(三田市東本庄に住んでいた)本庄らの武士を味方につけて、高山寺(丹波市氷上町、弘浪山にあった城)に立てこもって、宮方の旗をあげた。

 新田氏の流れで大舘一族の金谷経氏は播磨国東条(兵庫県加東市天神)で挙兵して、(三木市吉川町の)吉川(よかわ)、高田らの武士たちを味方につけ、丹生の山(神戸市北区山田町、丹生山)に城郭を構えて、山陰道を塞ぎ固める。遠江の井伊道政(浜松市北区引佐町井伊谷に住んだ武士、言うまでもなく彦根藩主井伊氏の先祖である)は妙法院宮(宗良親王)を奉じて、奥山(浜松市北区引佐町奥山の半僧坊方広寺)に立てこもる。宇都宮公綱は配下の紀氏・清原氏の流れをくむ武士たち500余騎を率いて、吉野に参じたので、後醍醐帝はお喜びになり、一旦は出家していたのを還俗させて、四位の少将に任じられた。〔公家の社会ではそれほど高い地位ではないが、武士としては大変な栄誉である。足利直義が北朝から与えられた位階が従四位上であったことを思い出してほしい。〕
 このほか、各地で将軍・足利尊氏の命令に従わない武士たちが兵をあげ、後醍醐帝に古くから忠義を尽くしてきた武士たち、新田義貞の恩顧の軍勢は、一旦は失っていた勢いを再び取り返したのであった。 

 さて、北条氏の最後の得宗であった高時の次男、相模次郎時行は、幕府滅亡後、諏訪に逃れ、いったんは鎌倉を回復したものの(中先代の乱)、足利尊氏に打ち破られて主だった部下を失い、身を隠しながら生き延びていたが、ひそかに使者を吉野に派遣して、勅勘の免除を願い出た。父親が朝命に背いた罪を許し、自分を南朝方の武将として用いてほしいというのである。「豈(あ)に既往の罪を以て、当然の理(ことわ)りを棄てられ候はんや」(岩波文庫版、第3分冊、322ページ、過去の罪によって、然るべき理を捨ててはならない)。
 この申し出に対して、帝はよくよくお考えになった末に、「犁牛(りぎゅう)の喩へ、その理りしかなり。罰その罪にあたり、賞その功によるを、善政の最とする」(岩波文庫版、第3分冊、同上、まだらな毛色の牛の子でも、毛並みと角がよければ神様への供え物に抜擢されるという論語の中の喩もあるが、その通りである。罪にふさわしい罰を下し、功績にふさわしい賞を与えるのが、善政の要である)とおっしゃって、すぐに恩赦の綸旨を下された。

 敵の敵は味方という論法かもしれないが、ここで省略した時行の手紙の中に、足利家は代々北条家から厚遇を受けてきたのに裏切ったのは許せないという主張がみられ、亀田俊和さんは『観応の擾乱』(中公新書)の中で、このことに触れて一種の「近親憎悪」(亀田、199ページ)だと論じている。この手紙は様々な故事を盛り込んだ格調の高いもので、時行自身が書いたものではなく、側近の誰かが書いたものであろうが、そういう側近がまだ彼の身近に残っていたことを示すものでもある。

 『太平記』の中で忘れたころになると登場する北条時行であるが、この後どうなるかは、物語を読み続けていただくとして、彼の子孫だと称する人は少なくない。岡野、横井、平野などは時行の子孫と称する家系である。横井姓では尾張藩士で俳人でもあり『鶉衣』という俳文を残した横井也有(1702ー1783)、幕末の思想家横井小楠(1809ー69)、平野姓では賤ケ岳の七本槍の1人平野長泰(1559ー1628)が時行の子孫を称していたようである。
 横浜駅西口の近くに岡野町という地名があり、ここはもともと海だったのを保土ヶ谷の地主であった岡野家が中心になって埋め立てたのでこの名がついたと聞いている。この一族は旗本で長津田、淵野辺の領主だった岡野家とつながりがあるとすると、やはり時行の子孫ということになる。詳しいことをご存知の方がいらっしゃればお知らせください。

 さて、いったんは火が消えたようになっていた宮方が、また勢いを取り戻し始めた。その中で中心となるべき武将といえば新田義貞ともう一人、公家の出身ながらよく武将としても能力を発揮してきた奥州の北畠顕家である。義貞が越前で勢力を築き始めたのと呼応して、奥州から北畠顕家が上洛を目指すことになるが、それはまた次回。
 

フローベール『感情教育』(8‐7)

5月28日(月)曇り

第1部あらすじ
 1840年の9月、18歳になった夢想家の青年フレデリック・モローは大学で法律を学ぶためにパリに向かうが、たまたま知り合った画商アルヌーの美しい夫人に思いを寄せるようになる。王党派と共和派の妥協の産物である七月王政の矛盾が次第に明らかになってくる世の中の動きの中で、彼は高校時代からの友人であるデローリエや、その他の友人たちと交わりながら、パリの空気になじんでいく。大学を卒業し、地元の有力者であるダンブルーズの知遇も得て、希望に燃えて郷里に帰ったフレデリックは、実家の経済的困難を訴える母親の懇願に負けて、数年を郷里の法律事務所で過ごすことになる。1845年の12月に裕福な叔父が死んで、その遺産を相続することになった彼は、パリに戻ることを決心する。

第2部のこれまでのあらすじ
 パリに戻ったフレデリックは、アルヌーが画商をやめて陶器業者になったことを知る。再会したアルヌー夫人の無関心な素振りを見た彼は、社交界に入ろうとダンブルーズ邸を訪れ、その夫人に歓迎される。その一方でアルヌーに誘われて高級娼婦のロザネット(マレシャル)の家にも出入りするようになる。
 大学時代に知り合った仲間たちと旧交を温めようとフレデリックはデローリエたちを招待するが、彼らとのあいだには気持の溝ができていることに気づく。アルヌーが経済的に苦境にあるらしいといううわさを聞いた彼は、アルヌー夫人と会い、できるだけ力になると申し出る。アルヌーが夫人の知らないうちに借金を増やしているように思われることが彼女を苦しめている。
 フレデリックはアルヌーの家にも、アルヌーの愛人であるロザネットの家にも出入りするようになり、なぜかこの対照的な女性2人(一方は貞淑な人妻、他方は高級娼婦)の女性に共通点があるように思うようになる。彼はアルヌー夫人から頼りにされるようになる一方で、ロザネットとも打ち解けてゆく。
 「とうとうある日、夫人は懸念していることをうちあけた。ダンブルーズ氏が裏書人になっている手形に、アルヌーから署名をもとめられたというのだ。」(光文社古典新訳文庫版、340ページ、岩波文庫版、233ページ)

第2部〔2〕続き
 もともと法律よりも文学や芸術のほうに関心があるフレデリックは自分が何者かであるを示すためにも、文学の世界で成功しようと思い続けていた。「ペルランとの会話から想をえて美学史を執筆してみようと思い、デローリエやユソネにいくらか影響されたせいだろう、フランス革命のさまざまな時期を題材にした史劇をいくつかと、喜劇の大作を一編書くことをくわだてた。」(光文社古典新訳文庫版、同上、岩波文庫版、同上) ところが書いているうちにアルヌー夫人、あるいはロザネットの顔が浮かんできて、どちらかに会いたくなる。しばらく欲望と戦った挙句、結局出かけることになるのだが、(特にアルヌー夫人を訪問した後は)みじめな思いを抱いて帰途に就くのであった。

 ある日、フレデリックが暖炉のそばで鬱々とした思いをもてあましていると、デローリエがやってきた。セネカルが過激な発言を続けるので雇用主が不安になり、とうとう彼が馘首されてしまったというのである。ダンブルーズかアルヌーに頼んで就職口を見つけてやれないものかという相談をもちかけられた。フレデリックは、アルヌーがその仕事の上で、技師を必要としていることを思いつく。彼にセネカルを雇ってもらえば、アルヌー夫人との関係にとって有力な加勢が得られるかもしれないと考えて、就職先を探してみてもいいと返事をする。

 フレデリックの訪問を受けたアルヌーは、陶器製造上の困難に直面して悪戦苦闘していたが、人手を雇い入れる必要はないという。フレデリックはセネカルのことを口をきわめて褒め、何とか2人を合わせるところまでこぎつける。
 ところが実際に会ってみると、給料のことでもめだし、なかなか話がまとまらない。やっとまとめてみたが、アルヌーの工場は自宅とは別の場所にあるので、アルヌー夫人との関係にとってはセネカルは全くの役立たずになることに気づく。

 そこでフレデリックは、アルヌーの気持ちを夫人から引き離せば、夫人に近づくチャンスが大きくなると考えて、何かあるとできるだけロザネットの肩をもつようにした。そしてアルヌーがロザネットに買ってやると約束していたカシミヤのショールを買わせたりする。そのことで、アルヌーは気を悪くし、逆にロザネットのほうがフレデリックへの興味を増し始める。この作品の合間合間に登場する俳優のデルマールは、ロザネットの愛人の1人であるが、彼の面前で彼女はフレデリックをほめたりする。しかも彼女は、フレデリックがアルヌー夫人に思いを寄せていることを知っている。そしてフレデリックにあの手この手の策を仕掛ける。

 ロザネットに翻弄されたフレデリックは、打開策としてペルランにロザネットの肖像画を描いてもらうことを思いつく。理論倒れで、展覧会に一度も入選していない画家であるペルランは、アルヌーを介して知り合ったフレデリックの旧友で、彼の新居に招待された帰り道、フレデリックが自分に絵を注文してもよさそうだと文句を言ったと聞き及んだからである。
 ペルランは大喜びでこの提案に飛びつく。ロザネットをモデルにした絵画の制作に取り組みながら、彼は絵画史についての大演説をぶち、またロザネットをほめたたえる。
 ペルランのアトリエからロザネットを送って帰る道は、かつてフレデリックがアルヌー夫人と2人で歩いたのと同じ道であり、歩きながら彼はアルヌー夫人のことを思い出す。
 恋愛はうまくいかず、「おめでたいやつらからは金持ちだと思われている」(光文社古典新訳文庫版、353ページ、岩波文庫版、243ページ)と鬱勃とした気分に浸りながら、フレデリックが自宅に帰ると、ユソネとデローリエが待ち構えていた。

 フレデリックが金持ちだと思っている「おめでたいやつら」が待ち構えているということは、新しい事態が展開しそうな気配が漂う。ある程度の財産があるとはいっても、フレデリックは遊び暮らすわけにはいかず、自分なりの進路を見つけなければならない。文学者になることを目指すといっても、ペルランのように美術史に詳しいわけでも、ユソネが昔そうだったように劇場に入り浸っていたわけでも、またフランス革命の歴史について史料を集めてノートを作成しているわけでも、何か文学作品の習作を書き溜めているわけでもない。フローベールご本人が創造上の挫折と、努力とを重ねて作家として成功したことを考えると、彼が一方でフレデリックを自己の分身として他生の愛情をこめて描きながら、もう一方で努力の足りない軽薄な青年として突き放していることが理解できるのである。

〔このブログを始めて以来、読者の皆様から頂いた拍手の合計が3万を超えました。厚くお礼申し上げるとともに、今後ともご支援とご鞭撻をお願いします。〕 

日記抄(5月21日~27日)

5月27日(日)晴れ

 5月21日から本日までの間に経験したこと、考えたこと、以前の記事の補遺・訂正など:
 NHK『ラジオ英会話』テキスト4月号から始まった連載「池上彰のこんな本どうですか』は吉野源三郎の『君たちはどう生きるか』を取り上げていて、それはそれで面白いのだが、池上さんがこの文章のマクラの部分で書いていることが大いに考えさせる:
 国際会議の後の立食パーティー。出席者と英語での会話が始まります。ところが英語が出てこない。「あれだけ英語を勉強してきたのに、日本の英語教育はどうなっているんだ」と怒り出す人がいます。でも、待ってください。その人は、「英語が話せない」のでしょうか、それとも「英語で話すべき内容」を持っていないのでしょうか。
 話すべき内容さえあれば、それなりに話は弾むものです。自分の教養のなさを英語力のなさと勘違いしないことです。教養を深めるためにも読書が大切です。
 英語の勉強と並行して本を読み進めるのは大変でしょうが、自分の人生をよりよく生きる糧になる本を選べればと思います。」(102ページ)
 語学テキストは、本文もさることながら、この種の付録記事にも読むべき内容が盛り込まれているので、できるだけ全部に目を通すことをお勧めする。

5月16日
 『朝日』朝刊の「折々のことば」で、「褒められた喜びというのは、『ちゃんと見ていてもらった』という喜びでもあった。」という苅谷夏子『フクロウが来た』の中の言葉が取り上げられていた。北杜夫が『ドクトルマンボウ青春記』の中で、旧制松本高校の駅伝大会の幹事としてほとんど一人で必死になって取り組んだことがあって、その後で、松高の名物教師であったヒルさん(蛭川幸茂)が「おめえ、よくやったぞ」とほめてくれたという思い出を書いている。言葉は乱暴だが、生徒への愛情が籠っている。それに引き換え、生徒や学生の実際の姿を見ないで、自分勝手に(時として、自分の思う方向に誘導したいために)ありもしないことについてほめる教師がいて、そういう風に褒められると、褒められた側は嘘寒い気分に襲われたりする。

5月17日
 全国高校野球選手権大会は今年第100回を迎えるが、その第1回からずっと参加している学校15校が全国大会の入場行進に加わるという。15校というのは、愛知四中→時習館、愛知一中→旭丘、岐阜中→岐阜、同志社中→同志社、京都三中→山城、京都一商→西京、市岡中→市岡、関西学院中→関西学院、神戸一中→神戸、神戸二中→兵庫、和歌山中→桐蔭、鳥取中→鳥取西、米子中→米子東、松江中→松江北、杵築中→大社だそうで、西日本の学校ばかりで、その中でも近畿地方の学校が多いのが特色である。伝統のある学校が多く、大学時代以後の友人知己の中にこれらの学校の卒業生が少なくないのは偶然ではなさそうである。

5月21日
 是枝裕和監督の映画『万引き家族』がカンヌ国際映画祭でグラン・プリを受賞した。『朝日』朝刊の「天声人語」は依然、海外で高い評価を受ける日本映画には時代劇が多かったが、この作品が現代の日本の世相の一端を描いていることに注目していた。単に日本の世相の一端を描いているというだけでなく、国境を越えて共感を呼ぶような要素があるのでは何かと、日本での上映を楽しみにしている。〔5月22日付の『日経』の「春秋」では『羅生門』を見た永田雅一が「わけがわからん」といったという話を引き合いに出して、「エライ人が「わけがわからん」となじる作品…大歓迎である」と結んでいたが、この意見にも同感である。〕
 「団地の書斎から」の管理人であるそういちさんが、賞をもらって喜ぶのもいいが、我が国ももらった人の同国人たちが喜ぶような賞を出せる国にならないといけないと書いていたのが印象に残る。

5月22日
 『朝日』の経済コラム「経済気象台」に「大胆な大学改革が不可欠」という《惻隠》子の提言が載っていた。たしかにその通りだが、1973年の筑波大学設置以来、日本では少なからぬ「新構想大学」が設置されてきているが、韓国、香港、シンガポールなどでも同じような動きがあり、これらアジアの国・地域で新設された大学のかなりの部分が成功して、国際的な大学ランキングの上位に食い込んでいるにもかかわらず、日本の「新構想大学」は筑波大学以外は軒並み、低い評価に甘んじているのが現状である。そのことをどのように評価し、高等教育政策を再考するかが一番問題ではないかと思う。

 似鳥鶏『レジまでの推理 本屋さんの名探偵』(光文社文庫)を読み終える。首都圏(船橋市)にある書店で起きる様々な事件を書店員たちが知恵を出し合いながら解決していくという中編集(短編集とは言い難い)。ただし、1話完結というのではなくて、次の作品に連結していく場合がある。探偵役が事件の当事者でもあるという場合が含まれていて、なかなか手の込んだ仕掛けが施されている(ところもある)作品である。

5月23日
 『朝日』の朝刊に「絶滅危惧 44種を追加」という記事があり、ドジョウが準絶滅危惧種に指定されたと書かれていた。子どもの頃には、ごく身近だった生物が絶滅しかけているということに、世の中の変化を感じる。うっかり柳川鍋も食べられない時節になってきた(もっとも私は食べ物としてのドジョウは好きではない)。

 同じく、京都大学で学生が作成・陳列しているタテカン(立て看板)をめぐる規制の動きと学生の抵抗についての記事が出ていた。私が京大に在学していたのは50年ほど前のことであるが、学内だけでなく、入学式前後や十一月祭(学園祭)の頃には、東一条通など、大学近くにまで立て看板があふれ出ていたのを覚えている。学生運動が華やかだった時代と違って、立て看板の内容や役割もかなり違ってきているのだろうが、市道に余計なものを並べることに京都市が文句を言うのは当然だという意見と、これまで蓄積されてきた既得権を尊重すべきだという意見とが対立するのは想定内の出来事であって、こういう事態にこそ最高学府の最高の頭脳の働きを発揮してもらいたいところである。

 NHKラジオ『実践ビジネス英語』の”Quote...Unquote"のコーナーで紹介された言葉:
The secret of getting ahead is getting started. The secret of getting started is breaking your complex, overwhelming tasks into small manageable tasks, then starting on the first one.
                  ―― Mark Twain (U.S. writer, 1835 - 1910)
(成功する秘けつは始めることだ。始める秘けつは、複雑で圧倒されそうな自分の仕事を、処理しやすい小さな仕事に分けてから、その最初の1つに取り掛かることだ。)
 マーク・トゥエインは、ここでは非常にまともなことを言っているという気がする。

5月24日
 病院に栄養相談に出かける。わざわざこれだけの用のために出てきて…と恐縮されたが、ついでに映画を見ようと思って出かけてきたのである。
 シネマヴェーラ渋谷で『春の夢』(1960、松竹、木下恵介監督)、『河口』(1961、松竹、中村登監督)の2作品を見る。『河口』を見るのは2度目で、最初に見たのもこの映画館であった。
 『春の夢』は富豪の豪邸の応接室に、留守をいいことに掃除の手伝いに上がり込んでいた焼き芋屋の爺さん(笠智衆)が脳溢血で倒れる。社長(小沢栄太郎)の一家が帰ってきて大騒ぎとなるが、自分の父親も同じ病気で死んだという社長秘書(久我美子)が病人を動かすことに反対し、かかりつけの医師(佐野周二)もそれに賛成して、応接間が使えなくなってしまう。この主人は婿養子で、家付き娘の先代の未亡人(東山千栄子)に頭が上がらず、社長の長女(丹阿弥谷津子)は男狂い、長男(川津祐介)は哲学書ばかり読んで人生に勝手に悩む変わり者ということで、次女(岡田茉莉子)に養子をとって後を継がせようとしているのだが、次女は貧乏な絵描きと恋愛中で、縁談には見向きもしない。老人の見舞いに同じアパートの住人が大勢やってくるが、そのほとんどが老人がため込んでいる(と思っている)金目当てである。
 大体この社長というのがハゲを治す薬で儲けているのだが、重役はみんな頭がハゲているというように、登場人物はそれぞれどこかずれているところがあり、そのくせ腹黒かったり、意地悪だったりでろくな人間が登場しない。多少ましな人間として造形されているのは社長秘書、医師、次女、老人の隣室の青年くらいなものであり、それぞれの欲の絡んだ喜劇が展開されるうちに、社長の会社ではストライキが起きる・・・
 黒メガネの「オールドミス」の社長秘書(途中でそのメガネが壊れる)を演じる久我美子の喜劇的な演技が見もので、このほかに会社の重役の役で十朱久雄、お手伝いさんの役で十朱幸代が登場するだけでなく、十朱と長年パートナーをくむことになる小坂一也も出演しているという楽屋落ち的な配役の面白さもある。岡田茉莉子は『悪女の季節』のような役柄のほうが似合っているようで、この作品ではあまり精彩がない。

 『河口』は実業家(滝沢修)の囲われ者だった女性(岡田茉莉子)が、実業家の部下で美術に詳しい男(山村聰)の助けを借りて、男遍歴を重ねながらも、次第に画商として頭角を現していくという井上靖原作の文芸作品。最初の場面が沼津駅で、最後の場面が淀川の河口なので、伊豆の出身で大阪で新聞記者をしていた井上靖にはなじみのある場所が選ばれているのだと思った。以前、この作品は同じ映画館の山村聰の特集上映で見ており、山村の時に喜劇的な演技は見ごたえがある。最初に見たときにはそれほどに思わなかったが、この作品での岡田茉莉子の美しさはやはり記憶にあたいする。中村登は女優の美しさを引き出すという点では才能のある監督だと思った。(他に取り柄がなくても、それだけで観客としては十分である。)

 平松洋子『肉まんを新大阪で』(文春文庫)を読み終える。

5月25日
 『実践ビジネス英語』の”Quote...Unquote”のコーナーで紹介された言葉:
A man only learns in two ways, one by reading and the other by association with smarter people.
---- Will Rogers (U.S. actor and humorist, 1879 -1935)
(人は2つの方法によってしか学ばない。1つは読書によって、もう1つは自分より賢い人たちとのつきあいによってである。)
 ボズウェルはサミュエル・ジョンソンの、エッカーマンはゲーテの身近にいて、それぞれの言行を書き留めたが、彼らの功績はそこまでである。スタン・ローレルは下積み時代、同じく下積みだったチャーリー・チャップリンと同居していた時期があり、その後2人ともに喜劇人として大成した。

5月26日
 保土ヶ谷公園サッカー場でプレナスなでしこリーグ2部第8節ニッパツ横浜FCシーガルズ対愛媛FCレディースの対戦を観戦する。一進一退の攻防となったが、後半に横浜は愛媛の先制を許したものの、終盤85分に得たPKのチャンスに、加賀選手が落ち着いてゴールを決め、1-1で引き分けた。この結果、10チーム中7位となっている。(愛媛は2位である。)

 さて、保土ヶ谷の観客が少なかったのは、京都に出かけているサポーターが多いせいだという話もあったが、その京都で横浜FCは京都サンガと対戦、レアンドロドミンゲス、イバの両外国人選手がゴールを決めて2‐0で勝利し、順位を暫定3位に押し上げた。 

5月27日
 『日経』朝刊の「聖なる山 異形の神社(中)」という連載記事で、秋田県男鹿市の赤神神社「五社堂」(5つの社が並んで建っている、当初は7つだったそうだ)と、福井県越前市の大瀧・岡太神社「本殿・拝殿」が紹介されていた。どちらも、近くまで行ったことはあるはずで、あらかじめ知っていれば実際に見に出かけたものをと、ちょっと残念である。

 第1011回のミニtotoBが当たったらしい。かなり久しぶりである。

島岡茂『英仏比較文法』(12)

5月26日(土)曇り

これまでの内容のまとめ
Ⅰ 原初の対応
 § 1 印欧祖語;§ 2 グリムの法則 § 3 母音の対応 § 4 鳴音の対応
 英語とフランス語の比較は、印欧(インド=ヨーロッパ)語族の中のゲルマン語派とロマンス語派との比較に行き着く。両者の間には共通の語彙があり、それぞれの音韻の変化を通じて共通の祖語へとさかのぼることができる。しかし、フランス語と英語の関連性の多くは、ローマ帝国の支配とラテン語の普及によって歴史的に形成された側面が多く、研究の範囲をラテン語以降に限定することが必要である。
Ⅱ 語彙
 § 5 英語の語彙 
 英語の語彙は25万、フランス語の語彙は10万といわれ、英語のほうが圧倒的に語彙が多いのは①英語には合成語が多いが、フランス語は同じ意味を前置詞を介して分析的に表現する、②英語にはラテン語、フランス語起源の語彙が多いからである。25万の語彙の中で、ラテン語系の語彙は50%を占め、本来のアングロ・サクソン系の語彙は25%に過ぎない。しかし、日常生活のなかでの使用比率は本来の英語55%、ラテン語系は35%ということである。
 § 6 ラテン系借入語
 英語の語彙の半ばを占めるラテン系の語彙は、その大部分が12世紀以降フランス語を通じて移入されたものであるが、その移入の経緯は複雑で、もとは同じ語であっても、違う意味の語として発展してきた例もある。
 § 7 フランス系借入語 § 8 主なる借入語 § 9 中世ラテン借入語
 1066年に起きたノルマンの征服以後、フランス語の影響が強くなったが、教養ある階層はラテン語を使ったので、ラテン語から直接英語に入った語彙も依然として多かった。 
Ⅲ 語形成
 §10 語形成の方法
 語形成の方法には大ざっぱに言って合成・派生の2つがある。合成は2つ以上の語を並列して1つの語をつくることで、ゲルマン諸語に多く、派生は語に接辞をつけて新しい語をつくることでラテン語に多く、それをフランス語も受け継いだ。接辞には接頭辞と接尾辞があるが、接尾辞のほうが重要である。
 §11 接頭辞
  1. be- はドイツ語でも使われているゲルマン系の接頭辞で、もともとは空間的な意味をもったが、帰省以後は動詞についてその意味を強める役割を果たすことが多い。
  2. for-はドイツ語のver-につながり、禁止・除外・分離・無視など否定的な意味で使われえることが多い。

〔接頭辞の続き〕
  3. un-はゲルマン語に共通する否定の接頭辞で、ラテン語のin-に対応する。
 英語でもフランス語でも(発音は違うが)同じ形で使われる形容詞のcertain(確かな)の否定はフランス語ではincertain、英語ではuncertainである。ただし名詞になると、フランス語のincertitude (不確かさ、不確実)はそのまま英語に入ってincertitude(不確実)という形で使われている(他に、uncertaintyという語もあり、こちらのほうがよく目にするのではないかと思う。)
 おなじくstable(安定した)の否定の形はフランス語ではinstable(不安定な)、英語ではunstableとなる。〔英語の辞書にもinstableという見出しはあるが、unstableの項を見よと指示されている。〕 この場合もフランス語の名詞instabilité(不安定)は英語の名詞instabilityに対応する。

 in->un- の交代は、俗語ではかなり早く、中英語の段階で起きたらしい。しかし文語では14-5世紀の頃はまだin-の形で使用されていた。既にあげた例で分かるように、これらの形容詞の名詞形は今日になってもin-の形が多いが、これはすべて文語で使用されたためである。

 思いつくままあげてみても、uneasy, unhappy, unluckyなどun-の付く語は、日常よく使う語が多い。これに対しin-で始まる語はincapable, incoherent, inconvenient, incorrect, incurableなど小難しい感じの語が並んでいる感じがある。
 ここで島岡さんは形容詞について反対の意味をもつ形容詞をつくるun-だけを取り上げているが、動詞につく場合もある。たとえばuncover, undressなど。

  4. 次に逆にラテン・フランス語系の接頭辞が本来の英語の頭について新しい意味を生じることがある。しかし、これは接尾辞が付く場合に比べればはるかに少ない。
 英語のtrust(信頼する)はフランス語の(se) fier(信頼する)と対応する。英語では、これに否定の接頭辞dis-,あるいはmis-をつけて、distrust(疑う)、mistrust(信用しない、怪しむ)とし、フランス語ではde-、あるいはme-をつけて(se) defier (疑う)、(se) méfier(~に用心する、気を付ける)となる。英語のdistrust, mistrustは15世紀にラテン・ギリシア系の接頭辞を直接借用して作られたものである。
 さらに英語の場合en-をつけてentrustとすると、「委託する」、in-をつけたintrustも同じ意味である。フランス語でこれに対応するのはconfier(預ける、託す)である。en-,in-はどちらもラテン語in-から出ており、en-は俗形でフランス語から生まれた。どちらも「中に、中へ、方へ」などのほか、ただ意味を強めるだけのこともある。
 英語のlay(置く)にin-をつけたinlayは「中に置く、はめ込む」という意味になり、これはフランス語のincrutsterに対応する。〔そういえば、歯科医院で歯医者さんと歯科衛生士さんとが「インレイ」と言っているのをよく聞いてきたが、こういうことであったのかと、今頃になって気が付いた次第である。〕 entrust, confierではen- (in-), con-は「信頼」の方向を示している。 

佐藤信弥『中国古代史研究の最前線』(8)

5月25日(金)晴れ、気温上昇

 この書物は中国の古代史(前21世紀ごろから前1世紀ごろまで)に興味を持つ読者に、基礎的な知識と、新たな発見や研究の成果を紹介することを目的としている。
 第1章「幻の王朝を求めて」では20世紀に入ってからの考古学的な研究の発展によってその様子が明らかになってきた殷王朝、さらにそれ以前に存在したとされる夏王朝、また1970年代以後になって知られるようになった「縦目仮面」など独特な形状の青銅器をもつ三星堆遺跡に関係する発見・研究が取り上げられている。
 第2章「西周王朝と青銅器」では、殷に続く周王朝の東遷以前の「西周」について、その主要な出来事がいつ起きたか、周の時代が後に孔子が賛美したように礼制が整備された理想の社会が実現していた時代であったのかなどを、青銅器に刻まれた金文などを手掛かりとして考察している。
 第3章「春秋史を『再開発』するためには」では、古代の史書「春秋」に因んで命名された周室東遷後のこの時代をめぐる研究が西周以前の時代と違って、顕著な考古学的な成果がなく、伝世史料である『春秋左氏伝』を頼りとして研究を進めるという停滞した状態が長く続いたと論じている。それでも他の史料の出現や考古学的な研究の進展により、変化が生まれていることも紹介されている。

 今回は第4章「統一帝国へ』に入る。東周時代の後半部分である戦国期から秦による全国統一とその崩壊、漢王朝の時代までの歴史とその研究動向がたどられている。戦国時代という名称は、この時代に活躍した遊説家と各国の君主や有力者との対話などを収めた『戦国策』という書物にちなむものである。
 戦国期がいつ始まるかについては様々な考え方があるが、ここでは前5世紀の前半頃に、漸次春秋から戦国期へと移ったと考えている。
 戦国期は、邑と呼ばれる多数の集落のうち、特に巨大な邑が他の邑を服属させる邑制国家から領土国家への転換点と位置づけられている。春秋期に数十存在した諸侯国は、有力な諸侯国の兼併によって、戦国期には十数か国までに減少した。その中で特に有力であったのが、燕・斉・趙・魏・韓・秦・楚の「戦国の七雄」である。各国の君主は、王と称して争いあい、秦が最も有力となった。
 秦の躍進の原動力となったのは、孝公の時代に商鞅を登用して変法と呼ばれる改革を進めたことによるといわれる。儒家・道家・法家・墨家・名家・兵家・縦横家といった諸子百家のうち、秦では法家の思想が採用された。始皇帝の宰相となった李斯も法家の思想家であり、「性悪説」で知られる荀子の弟子で韓非とは同門にあたる。諸子百家が活躍した時代は、古代ギリシアでソクラテスやプラトンが現れた時代と重なる。〔秦における商鞅の第一次変法は前359、彼が失脚して車裂の刑に処せられたのが前338のことである。ソクラテス(前469‐399)、プラトン(前429?ー347)であるから、「重なる」といえばいえる。〕

 そして秦王政は前221年に中国を統一すると、王より上位の君主号として皇帝号を採用し、自らを始皇帝とした。秦による統一が進められた時期、インドでもマウリヤ朝のアショーカ王によって北部・中部インドが統一され、仏教の信仰がインド各地に広められた。〔秦の始皇帝の在位は前246年から210年まで、アショーカ王は前268から232年ごろまでだそうである。紀元前3世紀から2世紀にかけて、ローマとカルタゴが地中海の覇権をかけて戦い、シラクサではアルキメデス、アレクサンドリアではエラストテネスといった大科学者が研究を進めていた。〕

 始皇帝はそれまでの諸侯封建を廃し、全国を複数の郡に分かち、郡の下に県を置き、それぞれ中央から管理を派遣して統治させる郡県制を施行した。また文字・度量衡・貨幣の統一・万里の長城の修築、焚書坑儒といった政策を進めた。有名な兵馬俑坑は始皇帝の陵墓である驪山陵の附属施設であるとされている。
 始皇帝の過酷な統治は人々の不満を招き、秦は3代15年で滅亡した。そして項羽と劉邦による楚漢戦争を経て、前202年に高祖劉邦を初代皇帝とする漢王朝が成立した。漢王朝は秦の法律制度を踏襲した。地方統治については、郡県制と諸侯封建を併存させた郡国制を採用したが、諸侯の権限は次第に弱められた。

 漢王朝は外戚の王莽による新王朝の創建を境に前漢と後漢に分かれるが、前漢は第7代の武帝の時代に最盛期を迎える。『史記』の著者・司馬遷はこの武帝の時代の人物である。そして武帝期から後漢の初代光武帝のころにかけて、漸次儒学の官学化(あるいは儒教の国教化)が進行した。
 とくに1970年代以降、この戦国秦漢期の竹簡や帛書(帛は絹の布)が大量に出土し、これら出土文献なしにはこの時代の研究が成り立たないようになってきている。また兵馬俑坑や、女性の湿屍体が出土した馬王堆漢墓、戦国期の曾侯乙墓や中山王墓など、王侯の墓葬に関する発見も相次いでいる。第4章ではこれらの新たな発見からわかってきたことが論じられる。 

 中国の文化大革命(文革)は1966年からおよそ10年間続き、そのほとんどの部分が私の大学・大学院生時代と重なり、個人的に言えば、大学の大衆化の進行に次ぐくらいの人生の一大事であった。この事件を一つの転機として、中国についての見方が大きく変わることになったと思う。そういう私事はさておき、佐藤さんはこの文革期の後半の少し落ち着き始めた社会を背景に、考古学的な研究が再開され始め、その中で1974年に当時の陝西省臨潼県西揚村で地元の農民によって兵馬俑が掘り出されたことから本格的な発掘調査が展開されたこと、これと前後して戦国期の中山国王墓の発掘調査が行われ、また1977年には現在の湖北省随州市で戦国前期の曾侯乙墓が発見され、さらにこれより前には湖南省調査市で馬王堆漢墓の発掘調査が行われたことなど重大な発見が連続したことを強調する。このように文革の後半期には、考古学上の重要な発見が相次いだ。

 アメリカの考古学者ファルケンハウゼンによると、春秋中期以降の墓葬からは、地下に被葬者の生前の環境を再現しようとする意図が見えるという。発掘結果を踏まえると、墓地の構造は被葬者の生前の生活の場を模したものであり、墓室内の副葬品は被葬者が生前に用いた品々で満たされており、このことは当時死者の魂が陵墓の墓室や寝の中で暮らしているという信仰があったことを反映するものと考えられる。生者の側からみれば、墓地は死者のために生前と同様のものを用意してその魂を閉じ込めて置く空間となるわけである。

 このような死者のための宮殿の中でも途方もなく巨大な規模をもつのが秦の兵馬俑坑である。これは陵墓は死者の魂の生活の場であり、そのために生前と同様の環境を用意しなければならないという発想を受け継ぎ、発展させたものである。俑は殉葬者の代わりに用いられたものだと理解されている。日本の埴輪と似たようなものであるが、儒家の文献では日本における理解とは異なる説明をしているものがあり、さらに研究を進める余地がありそうである。
 一方、発掘による出土品や、伝世文献の中には、これまで述べたのとは別の死後の世界についての見方を述べたものもあり、この時代、複数の死生観が併存していたことがうかがわれる。

 中国における陵墓の整備の仕方には、エジプトのピラミッドと共通するところがあり、古代中国の人々の来世を現世の延長と考える死生観・来世感がそれほど特殊なものではなかったといえそうである。埴輪の話が出てきたが、その点では日本の古墳における死者の葬り方との対比も興味深いかもしれない。その一方で、天上の世界に生まれ変わるというような来世観も芽生えているらしく、そのような複数の死生観の存在というのは、現代においてもあまり変わらないものであるようだ。
 戦国時代を通じて人々の暮らしがどのように変わり、さらにそれが秦の統一によってどのような変化を遂げたのかということをめぐっては、なかなか考古学的な裏付けが取れないようである。古代の人々の暮らしや考え方のごくごく一部しかわからないままに、我々は歴史というものを考えているわけである。あるいは、死者の棺の中に生前の愛用品を入れるというようなことは現代でも行われているので、自分の中にある古代人の心のようなものをもっと探索すべきであるのかもしれない。

 

トマス・モア『ユートピア』(3)

5月24日(木)晴れたり曇ったり、一時雨

 トマス・モア(Thomas More, 1478-1535) は1515年にイングランド王国とカスティーリャ王国の間で起きた紛争をめぐる外交交渉のための使節団の一員としてフランドルにわたり、その時にエラスムスの友人であるアントワープのピーター・ヒレスの世話になった。ある日、モアはヒレスからラファエル・ヒュトロダエウスという世界各地を旅行して、さまざまな国々の政治と社会を観察してきた人物を紹介される。ピーターとモアは、ラファエルから彼の見聞(それはこの後詳しく語られることになる)を聞き、ラファエルがその知識や経験を生かして、どこかの君侯の顧問として活躍するように勧めるが、ラファエルは固辞し続ける。

 約1世紀の後、モアが仕えたヘンリーⅧ世の娘であるエリザベス女王の時代、イングランドの船乗りウィリアム・アダムズは日本に漂着して、徳川家康の政治顧問のような地位に就いた。だからヒュトロダエウスがどこかの君侯の顧問になってはどうかというのは無理な想像ではない。しかし、ラファエルは、宮仕えを断る。
 ラファエルが宮仕えをしないというその第一の理由は、自由に暮らしたいということである。宮仕えをして、自分だけでなく他人のため人も奉仕すべきであるというピーターの主張に対して、「自分の心が嫌がるような方法で自分をもっと幸福にすべきだというのですか」(64ページ)と答える。さらに続けて、「いま私は自分の欲するとおりの生活をしています。こういうことはお偉方には縁遠いことだと確信しています。権力者たちとの友好を求めている人は大勢いるのだから、私がいないからといって、私なみの人間がひとりやふたりいないからといって大変な不都合が生じるなどとお考えくださいますな」(64‐65ページ)。

 次にモアが、ラファエルが富も権力も求めないという気持ちを称賛しながら、その経験と能力が君主にとって役立つものであるに違いないと彼の翻意を促す。
 しかし、ラファエルはモアが自分の能力を買いかぶっているといい、さらに、「君主たち自身の大部分は、平和の善道よりも〔私が専門知識ももたず、もとうとも思わない〕戦争研究に没頭したがっており、既に与えられているものをよく治めることよりも、手段の正、不正を問わずとにかくつぎつぎと新たな王国を手に入れることのほうにずっと熱心です」(66ページ)とこの時代(現代でも似たようなものかもしれないが)の君主たちの政治的な関心のありように批判的な意見を述べる。

 さらにラファエルは、王の側近で彼らの意見を具申する「参議会」の構成員たちが自分の意見こそ正しいと信じる人々の集まりで、他人の意見に簡単には耳を傾けようとしないやからであるという〔そうであるかどうかは、自分がその種の会議に出てみないと断言できないはずで、つまり、ここでのラファエルの批判は、実は政府の高官として、この種の会議にうんざりしていたモア自身の意見が反映されているとみるべきである。〕 そのくせ、国王のお気に入りの臣下の発言には最初から追従するというような連中が多い。
 それで、だれかが目新しい出来事や発見をもとにした意見を述べれば、それに対してどこかケチを見つけて反論する連中が必ず出てくる。さらに、他に手立てがなくなると、ふるい先例を持ち出して、それに従うべきだと主張する。実際には過去の事例に学ぶには、その良しあしをめぐり批判的な検討を加えておくことが必要であるという。そうでなければ、とんでもない意見や提案が支持を受けることになりかねない。

 ラファエルはそうした例は、自分がイングランドに滞在していた時にもあったと、昔話を始める。
 イングランド西部の住民たちが王に対して内乱を起こし、みじめな殺戮で鎮圧されて間もないころにラファエルは、カンタベリーの大司教で当時イングランドの大法官でもあった枢機卿ジョン・モートンの世話を受けたことがあった。この人物は権威ある地位もさることながら、それ以上に賢慮と徳によって尊敬を集めるべき存在であった。彼は経験豊かな宮廷人でもあり、国王もその助言に信頼を寄せていた。
 イングランド西部で起きた内乱というのは、1497年に西南部のコーンウォールで、戦争を理由にした課税に反対して起きたものである。コーンウォールはイングランドの西南端の細い半島でケルト系の独自の文化が残っており、現在でもその文化的な独自性を主張する人々が少なくない。ジョン・モートン(John Morton, 1420? - 1500) は1486年にカンタベリーの大司教に、93年に枢機卿に任じられたほか、ヘンリーⅧ世の父親であるヘンリーⅦ世によって1487年に大法官に任命されて、国王を助けた。実はモアは1490年ごろからモートンの従僕として教育を受けた。したがって、以下のラファエルの話も、モアの経験が基になっていると考えられる。

 ある時、モートンの邸での食事の際に、法律に詳しい人物が同席していて、イングランドにおける峻厳な法とその執行を称賛したうえで、にもかかわらず、泥棒が減らないのはどうしたことだろうと疑問を発した。「どこへ行っても泥棒たちが処刑されており、一つの処刑地で20名が絞首されるのもまれではありません。ところが不思議ですね。処刑を逃れる泥棒はほとんどないというのに、いったいどういう悪運でこんなにも多くの泥棒がどこへ行っても横行しているのでしょうか」(69ページ)
 これに対してラファエルは、大司教の下では自由にものが言えたので、すぐに反論した。イングランドの法律は厳しすぎて、正義の限界を超えるものである。「盗みに対するつぐないとしてはきびしすぎるし、そうかといって盗みの抑制手段としては不十分です」(同上)。大事なことは、泥棒になるような人々に生計を立てるような手段を与えて、その生活を安定させ、彼らを窮地に追い込まないように配慮すべきだという。これに対して、最初に疑問を発した人物は手工業や農業といった生計の手段があるではないかと反論する。

 議論はさらに続き、ラファエルはなぜ泥棒が減らないのかという問題をめぐる自分自身の見解を展開していく。それにはヨーロッパ社会に共通する問題と、イングランドに特有の問題が影響しているのだと彼は論じるのであるが、それはまた次回。
 ラファエルが官途に就かないといい続けていることで思い出すのは、(この後に取り上げる予定の)ラブレーの『ガルガンチュア』に出てくるジャン修道士が「自分の面倒もみられない自分に、他人の面倒が見られるものか」といって修道院長にするという申し出を断るくだりである。確かに、他人の上に立ったり、人を動かしたりする仕事をするのは大変だが、そういうことを避けてばかりいると、仕事がなくなってしまう恐れがあるので、そのあたりが難しいところである。

野口実『列島を翔ける平安武士 九州・京都・東国』(10)

5月23日(水)曇り、昼頃から雨が降り出す

 この書物は平安時代の後半から鎌倉時代にかけての九州における豪族的武士(と武士団)の形成を2つの波に整理して考察を加えたものである。第1の波を形成するのは、京都や東国から移動して大宰府を拠点に活動した軍事貴族たちであった。それに続いて第2の波を形成したのは、鎌倉幕府の成立に伴い、やはり京都や東国から地頭・惣地頭として移住してきた鎌倉御家人たちだった。
 第二の波を構成した御家人たちの中で代表的な存在は千葉常胤と島津忠久であり、摂関家に仕える京侍であった惟宗氏の出である忠久は、南との頼朝との結びつきを利用して鎌倉幕府の要人となり、薩摩の守護となっただけでなく、西遷御家人たちの統合に成功し、南九州最大の勢力を築く礎石を据えるのである。

 これまでこの書物は主として九州における武士たちの動きを追っていたが、武士たちのネットワークの形成ということで、京都に目を向ける。それも職人や商人たちも集住する下京の七条一帯が関心の焦点となる:
 「中世成立期の武士は、その戦闘者としての職能を発動するために優秀な武器・武具、それに駿馬や兵船を備える必要があった。したがって、生産・流通、そして都市の機能に依存しなければ存立をはかれず、また、国家・王権を守護することによって、その身分の保証がなされるため、父子・兄弟での分業という形をとりながら、長期間の在京活動を行う必要があった。そして、その過程で中央の文化を享受するとともに、お互いに地域を超えたネットワークを構築したのである。治承・寿永の内乱に際して東国の武士たちが遠く鎮西まで進攻して軍政を敷くことができたのは、そのような前提があったからこそであり、その上に鎌倉幕府による全国支配の実現が達成されたといえるのである。」(152‐153ページ)

 こうして、列島各地の武士たちは都との結びつきを維持し、その結果として彼らの本拠地の周辺に京都の文物をもたらすのである。彼らは自分たちの権力を示すものとして京都風の邸宅・寺院・庭園を建造したが、平泉はその代表的な例である。
 そのような全国的な文化の伝播、商品の流通の要となったのが、当時、金属製品を中心にして、京都における生産と流通の拠点となっていた七条町(現在のJR京都駅北側の一帯)であった。
 平安京が造営されたとき、左京七条二坊には官設市場である「東市」が設置された。平安中期以降、東市周辺には、太刀をはじめとする金属製品の生産者が集住するようになる。この地域にはまた、院御所や有力貴族たちの邸宅が次々と立てられるようになった。まず、白河院の御所として中院・六条殿がおかれ、その周辺には院近臣だけでなく河内源氏・摂津源氏など、武士の亭も構えられた。さらにその周辺には彼らに仕えた郎等たちも居住していた。この一帯に住むことにより、院御所の警護という職務を果たすことが容易であったことに加え、武器・武具が容易に入手できたということがその理由として考えられる。
 河内源氏というのは源満仲の三男頼信に始まり、頼義、義家と続く系統、摂津源氏は満仲の長男頼光に始まる系統である(次男、頼親の系統は大和源氏と呼ばれるが、有力な武士を輩出しなかった)。

 12世紀後半に王家領を集積して日本最大の荘園領主となった八条院暲子内親王が、八条三坊に御所・院庁・御倉町をおいたことから七条町はいっそう繁栄した。さらに七条大路を東に鴨川を越えたところに八条院の異母兄である後白河院の院御所法住寺殿が造営され、西の八条一坊には平家の西八条邸が壮大華麗に営まれた(現在の梅小路公園がその遺趾にあたる)。また賀茂川の東岸、法住寺の北には平家の本拠地六波羅があった。
 当時、優れた技術を持つ手工業者は、下級の官人としての地位を占めるとともに有力権門の家産機構に従属しながら生活していた。摂関家の邸宅や院御所には倉庫・宿舎・台所を兼ねる御倉町が敷設され、職人たちはその中の細工所で活動していたのである。12世紀の後半、七条町は八条院・後白河院・平家などの有力権門に伺候する優れた手工業者の集住する空間として発展を遂げていたのである。
 八条院は鳥羽院の娘で、二条天皇の養母であったことから、天皇の后妃ではないが女院の尊号を得た初めての女性となった。女院は上皇に準ずる存在で、院庁を設けることができ、院司が任命された。また彼女のもとに以仁王が身を寄せ、その所領に諸国の源氏に蜂起を促す令旨が伝達されたのは歴史的事実であるが、彼女自身の政治的な意思がどの程度関係していたかはわからない。
 七条町は金属加工品の生産地として発展してきたが、河内源氏、続いて平氏の進出、さらに平氏政権の成立によりその繁栄は一層顕著なものとなる。

 このように「七条町広域流通を前提とした金属加工製品の集中生産を行う空間であったが、その広域流通の背景にあったのが、摂関家・院、および平家の政治権力に基づく列島規模のネットワークであった。」(159ページ) 
 平泉の中尊寺金色堂の螺鈿細工は南島産の夜光貝を材料としており、南島→島津庄→京都(院・摂関家)→平泉というネットワークを通じた物流を示すものである。島津庄が摂関家の手から、平家の支配下に組み込まれるようになると、このネットワークは平家のために機能することになる。
 平泉の藤原秀衡は嘉応2年(1170)に従五位下鎮守府将軍に叙任されるという厚遇を受けているが、これは院・平家との良好な関係を示すものである。その一方で、平泉は一種のアジールとしての役割も果たし、秀衡は平家と対立した源義朝の遺子・義経を匿うというような行動もとっている。〔義経か、秀衡の子息の泰衡のどちらかがこの秀衡の政治力を学び取っていたら、日本の歴史も少しは変わったのではないかと残念である。〕
 一方、保元・平治の乱がきっかけとなって、地方武士が京都で様々な役割を演じることがより多くなってくる。既に紹介した千葉胤頼のように、東国の武士でも滝口や女院の侍所に出仕して五位の位を得るようなものもあらわれる。〔芥川の短編小説のもととなった『今昔物語集』の説話が語っているように、「五位の侍」というのは一般の武士の最終目標になるような地位であった。〕

 このような全国的な人間の流れに対応して、京都文化の地方への伝播も顕著なものとなる。近年の考古学的研究の発展の結果、関東各地においても浄土庭園を伴う寺院意向が発見されるなど、地方文化の再考が迫られている。源頼朝挙兵以前にすでに、東国にも有力な在地勢力によって造営された浄土庭園を伴う寺院の遺構が掘り起こされている。東国を京都と平泉の間の単なる通路と考えるような見方は修正される必要があると野口さんは説く。

 今回でこの連載も10回と切りのいいところに達したので、これで終わりにしようかと思ったが、まだ紹介していない部分が少し残っているので、もう1回書き続けることにする。今回は京都駅周辺のことが取り上げられているので、読んでいて身近な感じがした。浄土庭園といえば、金沢文庫・稱名寺の庭園も浄土庭園で、いったんは荒廃していたのを復元されたものだと記憶する。

『太平記』(211)

5月22日(火)晴れ、気温上昇

 建武3年(南朝延元元年、1336)京都の花山院に幽閉されていた後醍醐帝は脱出に成功、吉野金峯山寺で兵を集め、楠正行以下の軍勢が参集した。帝と分かれて再起を期そうと、東宮恒良親王らを奉じて北国に向かった新田義貞は越前の金ヶ崎城で圧倒的な敵の包囲を受け、建武4年(南朝延元2年、1337)2月に弟の脇屋義助らと城を脱出して、越前の杣山城に入った。3月6日、金ヶ崎城は足利方の総攻撃を受けて落城し、後醍醐帝の長男である尊良親王、義貞の子の義顕は自害、城兵たちもほぼ全滅した。いったんは城を脱出した恒良親王も足利方に捕らえられた。
 6月、北朝では光厳上皇が重祚した(そういう歴史的事実はないが、『梅松論』にも同様の記述があり、あるいは院政の本格的な開始を「重祚」ととらえたのであろうかともいう)。10月に暦応(りゃくおう)と改元され(史実は翌年8月)、11月に足利尊氏は征夷大将軍、直義も「日本の将軍」になった(この呼称がどのような意味をもつのか不明)。兄弟が一時にならんで将軍と呼ばれるのは類例のないことであると人々はうわさしあった。尊氏・直義兄弟だけでなく、足利一族の人はそれぞれ高い地位に就き、権勢をふるったのであった。
 さて、新田義貞・脇屋義助兄弟は杣山の城で息をひそめていたが、これまでの劣勢で戦列を離れていた武士たちを呼び寄せ、その勢力を拡大し始めた。その噂を聞いた尊氏は、斯波高経とその弟の家兼に北陸道の6千余騎の兵を添えて討伐に向かわせたが、杣山は要害の地でなかなか陥落しなかった。その間に北陸の各地で宮方に心を寄せる武士たちが蜂起し、特に平泉寺の州都の半数あまりが鯖江の三峯山に立てこもり、大将として脇屋義助を迎えて勢いを増した。しかし冬を迎えて両軍は大きな動きを止めて小競り合いを続けるだけであった。
 建武5年(8月に暦応と改元、南朝延元3年、1338)2月中旬ごろ、脇屋義助が砦を築くのによい場所を探して平地に降りてきたところを、国府(福井県越前市)を本拠としていた斯波高経の副将の細川出羽守が500騎を率いて急襲、数で劣る義助たちは必死に戦って日野川の東岸で烽火をあげて味方を集め、杣山からは新田義貞が加わり、その一方足利方は国府の高経たちも駆け付けて、川を挟んで両軍が対峙した。

 日野川は九頭竜川の大支流の1つで、もう一つの大支流である足羽川と合流して九頭竜川にそそぐ。『太平記』の作者は「さしもの大河にてはなけれども」(岩波文庫版、第3分冊、312ページ)と書いているが、越前市を含む丹南地方のあたりでは武生盆地の平坦な土地を流れているために川幅がかなり広い。さらに山の雪解け水が盛んに流れ込んできているので、水量も多く、川の流れも速くなっている。それで両軍ともに川を渡りかねてにらみ合いを続けていたが、義貞の重臣である船田経政の若党(若くて身分の低い侍)で葛葉新左衛門というものがいて、この川はいったん増水すると、急に新しい洲ができたりして、勝手を知らない人はいつも失敗する川だから、自分が試しにわたってみよう」とただ1騎、瀬枕(せまくら)と言って、早瀬の流れが石などにあたって盛り上がったところを目印に馬を乗り入れて、渡り始めた。それを見た宮方の武士たち3000余騎は、これに続いて一斉に馬を川に入れる。前後のものが弓の両端を互いに(命綱のように)もち、馬の脚が立つところでは、手綱を緩めてゆっくりと歩ませ、足の立たないところでは馬の頭を立たせて泳がせて、一文字に流れを切って向かいの岸へ駆けあがった。
 新田義貞は上野の武士であり、北陸地方も多くの川が流れているので、武士たちはこの種の渡河には馴れているはずである。以仁王の乱のときに宇治川を先陣で渡る功績を立てた足利忠綱(尊氏・直義の源姓足利氏ではない、鎮守府将軍藤原秀郷を先祖とする藤姓足利氏の武士である)は下野の武士で、北関東の出身であった。余談であるが、日野川の水源は泉鏡花の戯曲で知られる夜叉が池である。

 葛葉新左衛門は、味方の軍勢から2町(200メートル強)も先行して渡河したので、敵に馬の両ひざを払い切りにされて、徒立(かちだち)になり、敵6騎に取り囲まれて、あわや討たれようとしたところ、宇都宮の郎等である清為直が駆けつけて敵を2騎切り落とし、3機を負傷させて、葛葉新左衛門を付けたのであった。
 両軍ともに兵力は3,000余騎、それぞれの軍勢を率いているのは源氏の同じ流れの一族の中の武士である。さらに馬の駆け引きが容易な場所なので、敵味方6,000余騎が前後左右に入り乱れて、一進一退の攻防を約1時間余り続けた。このようすではもう命尽きるまでの戦いとなり、いつ勝負が決着するかわからないという様子であったが、日野川を上流へと辿って帆山河原(越前市帆山町)から回って駆けつけた三峯の軍勢(義助が出ていったあと残っていた兵たち)と大塩から降りてきた僧兵たちが入れ替わって敵の陣の後ろに回り、府中の一帯に火をかけた。これを見た斯波高経の配下の武士たち2000余騎は、敵に国府の新善光寺城(越前市京町の正覚寺)を奪われては大変だと府中を目指して退却する。

 義貞の率いる3,000余騎は、退却していく敵を隙間ができるほどもなく厳しく追いかけていったので、新善光寺城に逃げ込もうとする足利方の兵たちは、自分たちが防御用に築いていた木戸や逆茂木にさえぎられて、城に入る時間的な余裕ができず、新善光寺の前を通り過ぎて西のほうに向かい、そこから斯波家兼は若狭に、高経は織田(丹生郡越前町織田)、大虫(越前市大虫町)を過ぎて、北のほうに向かい、足羽川流域=越前国足羽郡・吉田郡にあった7か所の城砦に逃げ込んだのであった。
 織田は、越前二宮剣神社の所在地で、後に斯波氏の被官として世に出て、下克上して戦国大名となった織田氏はこの剣神社の社家であった。なお、岩波文庫版では「おだ」とルビが降られているが、地元では「おた」と言っていたと記憶する。

 斯波高経・家兼兄弟が本拠としていた国府の新善光寺城が落城したという知らせは越前の各地に伝わり、足利方は浮足立って、新田勢が攻め寄せないうちから落城する城砦が73か所に及んだという。

 越前における新田義貞・脇屋義助兄弟の再起と、足利勢撃破の報せは京都にも伝えられ、足利尊氏・直義兄弟はこれというのも、金ヶ崎が落城した際に義貞・義助兄弟は自殺して、死体は火葬したと恒良親王が嘘をついたからだ、あの時すぐに杣山城を攻めていればこんなことにはならなかったと腹を立てた。その矛先は恒良親王に向けられ、このまま生かしておくと、またどんな悪だくみをするかもしれない、この際、毒をもって殺してしまおうと千葉一族の粟飯原(あいばら)氏光という武士に命じて、親王に薬だと偽って毒薬を勧めさせた。恒良親王は子どもながらも聡明な性質だったので、氏光の嘘を見破ったが、もはや自分は逃れられない運命にあると悟って、まいにち法華経を唱えて、毒薬を飲み続け、ついに亡くなられたのであった。同じ場所に幽閉されていた同母弟の将軍宮成良親王も運命を共にした。後醍醐帝の子息の中ではすでに護良親王が鎌倉で殺害され、尊良親王が金ヶ崎で自害されていたが、また2人の命が失われたのである。

 今回、2親王の運命をめぐるくだりなど、かなり省略し、先を急ぐ形になったのは、この後、宮方の大反攻が開始されるので、それを見込んでのことである。このあたりの『太平記』の記述は、歴史的な事実から離れている部分が多く、その意味では慎重に読み進む必要があるが、今回の新田軍の日野川渡河の描写など、軍記物語としては面白く読める個所ではないかと思う。

フローベール『感情教育』(8‐6)

5月21日(月)晴れ

第1部のあらすじ
 1840年の秋、大学で法律を学ぶためにパリに出た18歳の青年フレデリック・モローはアルヌーという画商に出会い、彼の美しい夫人に思いを寄せる。もともと夢想家であるフレデリックに法律の勉強はふさわしくないものであったが、何とか大学を卒業し、地元の有力者であるダンブルーズとのつながりも確保したので、将来の見通しが開けたように思われた。しかし、実家の経済的な危機から、郷里で就職しなければならず、不本意な暮らしを続けた。ところが、1845年の末に裕福な叔父が死んでその遺産を継ぐことになり、再びパリに出かけて官途に就こうと思う。

第2部のこれまでのあらすじ
 パリに戻ったフレデリックは、アルヌーが画商をやめ陶器業者に転業していたことを知る。アルヌー夫人が再会の時に示した様子から、彼女の気持ちが離れたと思ったフレデリックは社交界に入ろうとダンブルーズ邸を訪れ、上流階級の社交への足掛かりを得る。その一方でアルヌーに誘われて高級娼婦のロザネット(マレシャル)の家にも出入りするようになる。
 大学時代に知り合い、議論を交わした友人たちに自分の近況を知らせようと、彼は転居披露の昼食会を開く。友人たちは、当時の政治情勢に関心を示し、フレデリックが期待したような方向には議論が進まない。それぞれが勝手なことを喋りまくるが、アルヌーが経済的に困難な状況にあるといううわさがフレデリックには気にかかる。うんざりした気分のフレデリックをおいて、一同は帰っていく。

第2部の2――続き
 フレデリックの新居を辞去した彼の旧友たちは、しばらくの間無言で並んで歩いていたが、「デローリエがフレデリックのもてなしはよかった、といった。皆もそれに同意した。
 ユソネは料理が少しごてごてしすぎたといい、セネカルは部屋のようすが浮薄な趣味だと批評した。シジーも同じ考えだった。あれじゃ、《特色》がない。
 「ぼくはね」ペルランは言う。「ぼくに絵を一枚、頼んだってよさそうなものと思うよ」
 デローリエは、ズボンのかくしの中で、紙幣をにぎりながら、黙っていた。
 フレデリックは一人、家に残された。友人のことを思うと、彼らと自分のあいだに、へだてている真っ暗な大きな溝のようなものを感じた。こちらから手をさしのべたのだ。が、向うではこちらの率直な心にこたえてくれなかった。」(岩波文庫版、226ページ、光文社古典新訳文庫版、331‐332ページ) 「フレデリックのもてなしはよかった」といったのは、岩波文庫版ではデローリエであるが、光文社古典新訳文庫版ではデュサルディエである。これは確認する必要がある。ということで、原文を確認したところデュサルディエが言ったというのが正しいことが分かった。《特色》というところの原文はcachetで光文社古典新訳文庫版では「個性」と訳されている。<持ち主の個性がわかるような特色>ということで、どちらの訳も間違ってはいないと思われる。ここでは社会主義者のセネカルと、王党派の貴族であるシジーが同じ意見をもったというところに面白さがある。フレデリックの新居は家具や調度はそれなりに考えてあつらえたのだろうが、書斎の蔵書などは慌てて買い集めたので、持ち主の精神の浅薄さが出てしまったということであろう。(もともとフレデリックには知的好奇心の対象とし続けている事柄はないのである。)

 ペルランとデュサルディエが話していたアルヌーの経済状態をめぐるうわさが気になっていたフレデリックは、翌日アルヌーの家を訪ねる。アルヌー夫人にどのように話を持ち出していいのか迷ったが、遠回しに聞いているうちに、夫人のほうが彼の心配そうな様子を察して、自分も実は夫の事業の展開について心配しているという。
 「事実、アルヌーはうまい投機をねらって、地所をなかなか売ろうとせず、それでたくさん借金をしたが、さて買い手が見つからぬので、工場をつくって回復するつもりだった。費用は見積もりを超過した。夫人はそれ以上には知らない。アルヌーはきかれてもいつも器用に逃げ、《うまくいっている》とくり返すばかりだ。」(岩波文庫版、227‐228ページ、光文社古典新訳文庫版、333ページ)
 フレデリックは夫人を安心させようといろいろなことを言い、夫人は感謝の表情を見せる。そのことがフレデリックを喜ばせる。
 と、そこへアルヌーが戻ってきて、その日は帰宅が遅くなるという。そしてフレデリックとともに、ロザネットの家に出かける。ウードリー老人と用事があると妻にはうそを言って、老人が世話をしているロザネットの家に出かけたのである。フレデリックは何がなんだかわけがわからなくなる。

 この日以来、アルヌーはフレデリックに愛想がよくなり、フレデリックはアルヌーの家とロザネットの家の両方に頻繁に出かけるようになる。フレデリックはロザネットとアルヌー夫人という2人の女性の対照的な魅力に惹きつけられる。ロザネットは気まぐれで、陽気で移り気であった。「途方もなくはしゃいだ後、子供のようにすねた。かと思うと、暖炉の前の床に座り、うなだれ、膝を抱いて、凍えた蛇よりも無気力に、じっと考えこんでいた。少しもかまわず、青年の前で着物を更え、絹の靴下をゆっくりぬぎ、ふるえる水の精のようにからだをそらしつつ、ざぶざぶ顔を洗った。その笑う白い歯、目のかがやき、美しさ、快活さはフレデリックの目にまぶしいほどで、神経を刺激した。」(岩波文庫版、229‐230ページ、光文社古典新訳文庫版、336ページ)
 アルヌー夫人は落ちついた気品のある家庭婦人として描写されている:
 「アルヌー夫人は、ほとんどいつも、子供に読み方をおしえ、またはピアノにむかって音階をさらっているマルトのうしろにいた。針仕事をしているときは、ときどき鋏を拾ったりするのが彼には大きな幸福だった。夫人の動作すべてに物静かな気品があった。その小さな手は施しをするため、涙をぬぐうためにできているかと思われた。生まれつき少し低い声は愛撫するような抑揚と、風のような軽さがあった。」(岩波文庫版、230ページ、光文社古典新訳文庫版、336‐337ページ)

 「二人の女性、ロザネットとアルヌー夫人とのつきあいは、フレデリックの生活に二種類の音楽をかなでるように思われた。いっぽうは快活で、激しやすく、気晴らしになる。もういっぽうはおごそかで、ほとんど敬虔な雰囲気をたたえている。」(光文社古典新訳文庫版、337ページ、岩波文庫版、230ページ) 両方の家には共通点があることも手伝って、フレデリックには両者が少しずつ溶け合ってくるように思われた。その一方で、フレデリックはロザネットとアルヌーの悪口を言ったりして、次第に2人は打ち解け始めた。

 フレデリックは財産を手に入れたのはいいが、就職運動をするなり、なにか勉強を続けるなり、有意義なことをしないと、せっかくの財産を無駄遣いしてしまいそうな様子である。アルヌー夫人は人妻であるし、ロザネットは娼婦だから、それぞれ別の意味で深入りしない方がいいのだが、どうもそういう歯止めがききそうもない。学生時代はデローリエが同居していたから、それなりに歯止めになったのだが、そういう生活に戻るつもりは全くなさそうである。アルヌーは夫人と違って、フレデリックによからぬことを教えることに熱心である。1840年代の後半はすでに何度も書いたように、フランスの歴史が七月王政から、第二共和政、さらに第二帝政へと移っていく重大な転換期なのだが、今のところフレデリックは極楽とんぼを決め込んでいて、世の中の動きに無関心な様子である(だから友人たちから、好意を向けられないのである)。しかし、このままでは終わりそうにもない…。
 

日記抄(5月14日~20日)

5月20日(日)晴れ、風強し。

 5月14日から本日までの間に経験したこと、考えたこと、前回以前の記事の補遺・訂正など:
5月11日
 NHKラジオ『エンジョイ・シンプル・イングリッシュ』の毎週金曜日は日本文学の名作を英語で放送していて、5月は芥川龍之介の「鼻」が取り上げられている(4月は太宰治の「走れメロス」だった。この放送で気になったのは主人公の長い滑稽な鼻の持ち主である曾の名をNaiguとしていたことである。原作では僧は禅智内供、その原話となった今昔物語の説話では禅珍内供と呼ばれていて、物語の中では内供という呼び方がされているが、内供(内供奉の略)というのは「禁中の内道場に奉仕し、御斎会(ごさいえ)の時に読師(とうし)となり、また、夜居の僧となった知徳兼備の僧」のことで、固有名詞ではない。古い日本のならわしでは、人名をみだりに口にせず、通称、あだ名や職名で呼ぶのが一般的だった。だから芥川もそれに引きずられて内供と書いているので、禅智というのが本来の名前である。

5月13日
 バスの中で相模原SCのサポーターらしい一群の人たちと乗り合わせたので、今日はニッパツ三ツ沢でJ3の試合があるのかと思ったら、そうではなくて天皇杯の神奈川県大会の決勝戦であった。翌日の新聞によるとYSCCと相模原SCのJ3のチーム同士の対戦で2-1でYSCCが勝利した。YSCCは今年はJ3の上位にいるのだが、J2昇格に必要なほかの条件は満たしているかどうか、気になっているところである。

5月14日
 病院に出かける。

 『朝日』朝刊の「フォーラム」欄で、「性教育」について読者の意見が紹介されている中で、性知識の教育も重要だが「問題は、お互いを尊重することや、人間の尊厳といった抽象的概念を伝えること」という意見があり、それはもっともな主張なのだが、頭では理解していても、体のほうが言うことを聞いてくれないというのが若さではないかと思った。知識教育も必要だし、理念の伝達も必要だろうが、もっと大事なのは基本的な生活指導ではないだろうか。

 同じく連載インタビュー「語る――人生の贈りもの」で樹木希林さんが文学座の研究生時代にTVドラマで森繁久彌と一緒になり、大いに影響を受けたと語られていて、何となく納得した。前回、小津安二郎監督の演出に納得がいかなくなったという話があったが、舞台的、即興的な演技を持ち味とする森繁と、絵になる動きをさせようと執念を燃やす小津の相性は悪かったというから、樹木さんの演技論・演出論は森繁に近いということであろう。

5月15日
 奈良県桜井市の纏向遺跡で2800個という大量の桃の種が出土し、放射性炭素年代測定の結果、西暦135~230年のものと判明したと報道された。248年ごろに没したのではないかといわれる邪馬台国の女王卑弥呼と年代が近いということで注目されている。大量の桃の種(ということは、芽を出さずにそのままだった)がなぜ地中に埋められたのか、モモはどのような種類のものなのかなど、調べてほしいことは少なくない。

 東川篤哉『館島』(創元推理文庫)を読み終える。面白かった。この作品については、機会を見て詳しく論じてみるつもりである。

5月16日
 シネマヴェーラ渋谷で『オズの魔法使』とマルクス兄弟の『御冗談デショ』を見る。『オズ』については昨日の当ブログで取り上げたので、『御冗談デショ』だけを取り上げる。この作品は、グラウチョ、ハーポ、チコだけでなく、3人の弟のゼッポも登場しているが、3人とは違って自分の見せ場を作ることなく終わっている。
 ハクスリー・カレッジという大学の学長にグラウチョが就任、その動機はこの大学で万年学生を続けている息子のゼッポを捕まえて家に戻すことだという。ゼッポがいつまでも大学に残っている理由は、カレッジ・ウィドウ(元教授の未亡人)に恋をしているからで、この未亡人を囲む恋愛騒動が映画の筋立ての1つ。
 大学の知名度を上げるのには、アメリカン・フットボールの強豪チームを作ることだと入れ知恵をされたグラウチョは、選手の引き抜きを図るが、間違えて秘密酒場に酒を売っている(禁酒法時代という設定らしい)氷屋のチコと、野犬の捕獲人のハーポを連れてきてしまう。このアメラグのチーム作りがもう一つの筋立てで、その試合が最後の見せ場になる。
 なお、対戦相手の大学名がダーウィン・カレッジで進化論で有名な2人の人物の名前が大学名に使われているのはどういう趣向であるのかがもうひとつわからない。

5月17日
 西城秀樹さんの訃報を聞く。歌手であるとともに、映画にも出演していて、何本か出演作品を見ている。田中絹代の最後の出演作となった『おれの行く道』(1975、松竹、山根成之監督)もその1本である。ご冥福を祈る。

 吉田友和『北京でいただきます 四川でごちそうさま』(幻冬舎文庫)を読み終える。各種中国料理の食べ歩き紀行であり、LCCを利用した短期旅行の実践の記録でもあり、自分の目で確かめた中国の姿が描き出されているという点でも貴重である。

5月18日
 『朝日』の朝刊に高大連携歴史教育研究会の会長である油井大三郎さんが歴史教科書の用語を減らすことには、思考力を育てる狙いがあるということを書いていたが、取り上げる項目を減らすことが思考力を鍛えるというのは誤った思い込みではなかろうか。歴史の場合、様々な事項を関連付けて記憶していくことに思考の起点があるのであって、記憶すべき事項を減らすことはむしろ、それらを関連させていく思考力の減退をもたらすのではなかろうか。

 女優の星由里子さんの訃報を聞く。あまり出演作を見ていないので、強い印象はないが、星さんが花登筐さんと一緒だったころに、私の従兄が同じマンションに住んでいたことがあった。ご冥福を祈る。

5月19日
 『朝日』の朝刊の地方欄に6月1日をもって伊勢佐木町のニュー・テアトルが閉館するという記事が出ていた。最近は出かけていないが、『幕末太陽伝』(デジタルリマスター版)、『中華学校の子どもたち』、『津軽百年食堂』などここで見た映画の題名を順不同に思い出す。映画鑑賞中に地震にあったこともあった。閉館は惜しまれるが、そう書くよりも1度でも多く映画を見に出かけるべきであった。

5月20日
 『朝日』の「折々のことば」は「建物が壮大であればあるほど、それを支える礎石の重みも増す」という良知力『マルクスと批判者群像』の中の言葉を引用している。
 マルクス(に限ったことではないが)の思想体系の成立の背景には、前時代、あるいは同時代の多くの思想的な営為や社会運動の積み重ねが隠れている。「歴史の陰に葬り去られた同時代の思想家たちや運動を支えた名もなき人々の営為」と「そこから生まれたかもしれぬ別の可能性」に目を向けることについて鷲田誠一さんは言及している。初期社会主義者としてサン=シモンやフーリエといった名前はよく知られているが、画家ゴーギャンの祖母にあたるフロラ・トリスタン(1803‐1844)のように掘り起こされるべき人々は少なくない。

 朝丘雪路さんの訃報が伝えられた。宝塚出身で、歌手、俳優などとして活躍された。出演映画では野坂昭如原作、千野皓司監督、フランキー堺主演の『極道ペテン師』(1969、日活)を見ている。野坂さん、千野監督、フランキー、みんな故人になっている。まだ生きている出演者は当時まだ若手だった梶芽衣子さんくらいだろうか。朝丘さんの夫君である津川雅彦さんの兄の故・長門裕之さんの夫人の故・南田洋子さんと同じく、晩年は認知症を患っていたというのは残酷なめぐりあわせであった。ご冥福を祈る。

 『日経』の朝刊に中国が2035年までに北京市の近郊に雄安新区という「自動運転の新都市」を建設しようとしているという記事が出ていた。その年では、個人用の自家用車はすべて自動運転となるという。車の動き、それを通じて人の動きがすべて管理されるような社会が出現するのであろうか。そのころまで、こちらが生きているかどうかはわからないが、どうも不気味な感じである。

 同じく『日経』に鳥取県三朝の三徳山三仏寺の「投入堂」と、千葉県長南町の笠森寺「観音堂」という2つの岩壁に建てられたお堂が北緯35度23分というほぼ同じ緯度にあるという話が出ていて、偶然の符合かもしれないが、だとしても面白い偶然だなぁと思った。

 ニッパツ三ツ沢球技場でJ2第15節横浜FC対ジェフ千葉の対戦を観戦した。横浜が終盤まで3-2とリードを保ったのだが、後半のアディショナルタイムに1点を失い、3-3で引き分けた。誠に残念。 

『オズの魔法使』

5月19日(土)曇りのち晴れ

 5月16日、シネマヴェーラ渋谷で「映画史上の名作」特集上映の第16回の中から『オズの魔法使』(The Wizard of Oz, 1939, MGM、ヴィクター・フレミング監督)とマルクス兄弟の第4作『御冗談デショ』(Horse Feathers, 1932, パラマウント、ノーマン・タウログ監督)を見る。この特集上映は昨日をもって終わり、本日から次の企画「.美しい女優・美しい衣装」の上映が始まっているが、この2作、特に『オズの魔法使』についてはいろいろと書きたいことがあり、というよりも、じつはL.フランク・ボーム(L.Frank Baum, 1856-1919) が1900年に発表した原作(The Wonderful Wizard of Oz, オズの素晴らしい魔法使い)とその後彼が書き続けた作品を含めたシリーズ全14作品、それらとこの映画をめぐっては本が1冊書けるくらいの知識と思索とを積み重ねてきているのであるが、とりあえず、ここでその一端だけでも書いておこうと思った次第である。

 カンザスの農家に住む少女ドロシーは、愛犬のトトとともに家ごと竜巻にのって不思議な世界にたどり着く。マンチキンと呼ばれる人々の住むこの地方を支配していた魔女の上に、彼女の家が落ちて彼女を殺したことで、彼女はマンチキンたちに英雄扱いをされるが、やはり彼女はカンザスに戻りたい。その方法を教えてくれるのは、マンチキンから黄色いレンガの道を西へと歩いたところにあるエメラルドの都に住む大魔法使いのオズだけだといわれ、彼女は黄色いレンガの道を歩み始める。途中、知恵をつけるために脳みそが欲しいというかかし、やさしい心が欲しいというブリキの木こり、勇気が欲しいという臆病者のライオンが、それぞれ自分たちの欲しいものをオズから授けてもらおうと一緒になる。
 エメラルドの都に着いた一行はオズの魔法使いに会うことができるが、もし願いをかなえてほしければ、ドロシーの家に押しつぶされて死んだ東の魔女と同様に悪い魔女である西の魔女のほうきをもって来いといわれる。一行は西の魔女の住処を目指すが、その途中で彼女に支配されている羽の生えたサルたちにドロシーとトトは捕まってしまう。残されたかかし、木こり、ライオンは、魔女の下から逃げてきたトトに案内されて魔女の城に向かう…。

 この映画は1930年代から1940年代にかけてのハリウッドの全盛期を代表する作品であり、その組織的な映画作りのすばらしさが最高度に発揮された作品の1つとなっている。例えばマンチキンたちは、原作で背の低い人々だと書かれているが、映画ではmidgetが起用され、見事な群舞を見せる。これだけの出演者を集め、群舞ができるように訓練をしたのは大変な労力が必要であっただろうと思う。羽の生えたサルのメーキャップや衣装、彼らの集団的な動きの描写もすごい。もう一つ、注意してよいことはこの映画の撮影が完了しないうちに、監督のヴィクター・フレミングが『風と共に去りぬ』を演出するためにいなくなってしまったということである。IBDbによると、ジョージ・キューカー、マーヴィン・ルロイ(製作者としてクレジット・タイトルに名前が出ている)、ノーマン・タウログ、キング・ヴィドア(カンザスの場面の撮影)の4人が監督を補ったとあり、それぞれが映画史に名前を残す監督である。逆に言えば、一人一人の監督の個性よりも、そういう個性を結集して傑作をまとめ上げていくことの方が重視されていた時代を代表する作品だといえる。

 ボームの原作と映画化との違いで特に目立つのは、東の魔女が履いていて、その後ドロシーが履いてエメラルドの都まで旅することになる靴が、原作では銀の靴であるのに対し、映画ではルビーの靴になっていることである。映画の中で西の魔女を演じているマーガレット・ハミルトンは出演者たちの間ではまとめ役の役割を果たす存在であったが、子どもの頃から『オズの魔法使』の愛読者であり、この点が気になったので、製作者のマーヴィン・ルロイに質問したところ、ルロイは、この方が見栄えがするだろうと答えたという。たしかにその通りには違いない。しかし、ドロシーの履いている魔法の靴が銀であったというのは、歴史的な含意があったと論じる人々もいる。
 ボームの研究者たちは、彼が1890年代に盛んに活動をしたアメリカ人民党(American Populist Party)の支持者であったことを指摘している。この政党の有力な指導者であったウィリアム・ジェニングズ・ブライアンは銀本位制の採用を政策として打ち出していて、銀の靴にはそのことが反映されているという。ついでにいうと、オズの魔法使いは実はもともとアメリカ中西部ネブラスカ州の州都オマハの出身ということになっている(映画ではドロシーと同じくカンザスの出身とされている。ネブラスカはカンザスのすぐ北の州である。ついでながら、『オズの魔法使い』を書いたときにボームは、ネブラスカのさらに北のダコタに住んでいた)が、アメリカ人民党がその最盛期に定めた綱領は、党大会の場所に因んで「オマハ綱領」と呼ばれる。さらに言えば、人民党運動が最も盛んだったのはカンザス州である。〔カンザスの一帯では、現在もしばしば竜巻が起きて、多くの被害をもたらしているのはご承知の通り。ボームは何度か事業に失敗したが、そのたびに再起した。困難な現実から、明るい想像を生み出す底力が、『オズ』の世界にも表れている。〕

 アメリカ人民党は、その後の社会党や共産党と違って、内部にも矛盾を抱え、その思想においても夾雑物の多い政党であったが、それゆえに民衆のエネルギーを吸い上げることに成功していたと考えることもできる。『オズの魔法使』の世界を、そのような思想や社会運動の文脈においてのみ解釈するのは短絡のそしりをまぬかれないだろうが、それぞれの人間は欠点の多い存在であるかもしれないが、力を合わせ、知恵を出し合えば、問題を解決できるという物語の展開には、ボームの人生哲学や社会観の表明を見ることができる。
 映画の魅力の大半は、カラー映画初期の作品らしい熱気や創意の感じられる色彩設計、ドロシーを演じているジュディ・ガーランドの少女らしい魅力と歌のすばらしさ、既に述べたような整然とした群舞場面の魅力などに見いだされるだろうが、映画の思想的な含意にも多少は眼を向けてみていただきたいと思う。

佐藤信弥『中国古代史研究の最前線』(7)

5月18日(金)晴れのち曇り、気温上昇

 この書物は中国の古代史(前21世紀ごろから前1世紀ごろまで)に興味を持つ読者に、基礎的な知識と、新しい発見や研究の成果を紹介することを目的としている。
 第1章では、殷王朝やそれ以前の夏王朝、そして「縦目仮面」など独特な形状の青銅器で知られる三星堆遺跡に関係する発見・研究を取り上げる。
 第2章では殷の次の西周期について取り上げる。第1章で取り上げられている時代とともに、この時代も新たな考古学敵発見によってその実態がさらに詳しく解明されようとしている。
 第3章では春秋期について取り上げてきた。この時代は「春秋の五覇」の出現や、孔子の活躍のために一般にはなじみが深い一方で、新しい出土史料の出現によって研究の発展が促進されることがなかったという史料的な制約のために、研究は停滞している。しかし、近年になって発見された史料により、周室の東遷の年代やその間の経緯のように研究が進展している領域もある。

(春秋期の続き)
 前回取り上げた清華簡『繋年』は戦国期に編纂されたとみられるので、『左伝』や『国語』など春秋期についてのこれまで知られてきた伝世史料と同じく、後世になって編纂された二次史料ということになる。それでは春秋期の同時代史料と認められるものは全くないのか。全くないわけではなく、諸侯やその臣下たちによってしばしば開かれた会盟の際に、誓の内容を記した盟書が作成されたが、それは儀式の際に犠牲となった獣の上に置かれて埋められた。それで盟誓遺跡からこのような盟書が掘り出されている。遺跡の場所や、誓の内容を検討することによって、伝世史料の記述を補ったり、より理解を深めたりすることができる。 

 春秋期の同時代史料としては、盟書以外に金文が存在するが、西周金文に比べると数量が少ないうえに、全般的に内容も乏しい。しかし中には子犯鐘(『金出殷周金文集録』10~25)のように、当時の大事件に関係するものも存在する。
 子犯鐘がどのようなものかについて、佐藤さんは詳しく説明していないので、自分で調べなければならなかったが、8つ1組の青銅製の鐘で、銘文が刻まれている。近年出土したものであり、その間の経緯は不明だが、台北の故宮博物館に収められていて、有力な展示物の1つとなっている。
 「この金文の作器者の子犯とは、「春秋の五覇」に数えられる晋の文公を支えた重臣狐偃(こえん)の字である。この盟は狐偃が晋公(おそらく文公)を補佐してその軍を打ち破り、諸侯をまとめて王に朝見させ、王位を安定させたという内容であり、『左伝』僖公28年(前632年)に記載される晋と楚による城濮(じょうぼく)の戦いと、その後の践土(せんど)の盟都の同時代史料となる。その際に文公は周王から侯伯(覇者)に任じられた。」(183ページ)

 また宮城谷昌光さんの小説『夏姫春秋』の中でも描かれている南方の新興勢力の呉と大きな国である楚の対立について触れた金文も2009年に発見された。
 「銘文はまず殷末周初の時期の曾侯の始祖の話から始まる。その始祖にあたる伯括が、周の文王・武王の殷征伐を輔佐し、南公(伯括あるいはその子孫を指すか)が王命により、外部勢力の淮夷の領域である長江・夏水流域の南方の地を領有し、曾の国を立てたことを言う。「伯括」とは、伝世文献に見える武王の重臣の南宮括(なんきゅうかつ)を指す。曾侯は南宮括の子孫というわけである。」(185ページ) 〔知っている人は知っているし、知らない人は興味がないと思われるので、佐藤さんは触れていないが、南宮括は『封神演義』の登場人物の一人でもある。〕

 曾侯はもともと、その建国の経緯からみても周の王室を奉じていたはずであるが、「周室之れ既に卑しく」なった後(伝世文献や清華簡『繋年』第3章に類似の句が見え、東周王室の衰退を示す言い回しだったようである)は、南方の大国である楚と融和するようになった。しかしその楚も呉の侵略を受けるようになり、曾侯は呉と戦い、楚王の復位に貢献した。この部分は、楚の昭王の時代、前506年に柏挙の戦いで楚が呉軍に敗れて都の郢が一時陥落し、翌前505年に昭王が郢に帰還したことを踏まえているとみられる。
 この曾国は、一般的に『左伝』に登場する随(ずい、隋ではない)国と同一視される(異説もある)。『左伝』では随は楚の附庸(ふよう、属国)とされる。定公4年(前506年)には、郢が陥落した際に楚の昭王がこの随国に逃亡し、呉軍が昭王の身柄の引き渡しを求めても拒絶したという記事がある。さて金文で注目されるのは、曾侯が、その時点で周王室ではなく楚に天命があると考えており、しかもそのことを肯定的に評価して、呉がその天命を冒そうとしたらその天命を守らなければならないと認識していると読み取れるということである。

 しその伯括が周の文王・武王による殷王朝の征伐を輔佐したことを誇り、その周王の命によって封国を得たと言いながらも、周王室が衰微してからは楚に天命が移ったとし、その楚が呉に攻撃され、楚から天命が去ろうとすると、楚の天命を守るために戦う。金文から、このようなやや屈折した曾国のアイデンティティや歴史認識を読み取ることができるという。
 「こうした金文は『二重証拠法』的に伝世文献と突き合わせて史実を補証する材料となるとともに、同時代の認識を探る材料ともなり得る。」(186ページ)と金文による研究の意義を述べている。著者が金文の解読によって、伝世文献の記述を確認・補充するよりも、その金文が書かれた時代の人々の考え方を知ることのほうに興味を示していることが注目される。

 この点と関連して、次に春秋時代の諸侯が自分たちの始祖についてどのような伝承を持っていたかが絞殺されている。春秋諸侯やその臣下の金文には、父祖に関する記述が多く見える。この時代、諸侯の間の外交の場では、始祖の系譜上の位置づけの上下が重要な意味を持っていた。曾国の場合、西周金文によって南公・南宮氏の子孫であることが示されたが、他の諸侯についてもその始祖伝承が歴史的な事実を踏まえたものとみなしてよいのだろうか。

 ここで、佐藤さんは呉の例を挙げる。『史記』呉太白世家によれば、周の太王には太白、仲雍、季歴という男子があったが、末弟の季歴に後を継がせるために、上の2人は南方の「荊蛮」の地に去って呉の国を建てた。太白に子がなかったので、呉君の位は仲雍の子孫に受け継がれ、周章の時代に武王が殷を倒し、武王は周章に呉国を所領安堵するとともに、その弟の虞仲を今の山西省の地に別途諸侯として立て、虞国の開祖とした。具は晋の文公の父である献公によって滅ぼされた。呉王闔閭や夫差はこの周章の子孫である。
 呉国の始祖伝承の中に虞国の始祖伝承も包括している形であるが、一方で『左伝』僖公5年(前655年)では、虞国の始祖について、大伯(太白)と虞仲はともに大王(太王)の子であったが、父の命に従わず、後を継がなかったという伝承を記載する。

 佐藤さんは吉本道雅さんの分析の結果も踏まえながら、呉はその始祖伝承を、国の規模が強大になり、対外関係が変化するにつれて、その関係を有利に導くために、始祖伝承を変化させていったのであろうという。この時代、諸侯の始祖伝承は、諸侯国間の外交的な交渉や問題を解決する役割を持つことがあり、たとえそれが「後付け」であっても、外交の場ではそれなりに効力を発揮し、諸侯たちもその虚構性を問題にせず、相互に始祖伝承を承認しあっていたのではないかと論じている。このように諸侯たちの始祖伝承には彼らの「歴史認識」や「自己認識」がみられて興味深いという。

 始祖伝承が、対外交渉の際のそれぞれの序列づくりに役立つことがあったというのは、日本でも貴族、そののちには武士が、その始祖によって序列化されたというのを思い出させる(例えば公家の最高家格である五摂家は藤原道長・頼通の子孫であって、道長の子孫でも頼通系以外の出身では摂政・関白になれなかった。
 呉の太白の子孫が日本の国祖であるという伝承があって、そのことに触れられていないのは、佐藤さんがこの説を荒唐無稽と考えているからであろう。
 さて、これで春秋期は終わり、戦国期、そして秦の始皇帝による全国統一についての研究の紹介を残すのみである。次回か、遅くとも次々回でこの書物の紹介も終わるはずである。 

野口実『列島を翔ける平安武士 九州・京都・東国』(9)

5月17日(木)晴れのち曇り

 平安時代の後半から鎌倉時代にかけての九州における豪族的武士の形成を、2つの波に整理して描き出そうというのがこの書物の狙いである。第1の波を形成するのは、10世紀以来の軍事貴族の系譜に連なり、11世紀前半までの時期に京都や東国から移動してきた武士たちで、大宰府と結びつき、その権力を利用しながら勢力を拡大した武士たちであり、第2の波を形成するのは鎌倉幕府の成立後、鎌倉・京都と地頭職を有する遠隔地の所領のネットワークの中で活動を展開した東国や京都出身の武士たちである。
 第二の波を代表する東国武士の一人が千葉常胤であり、頼朝の挙兵に呼応して戦功をあげ、さらに源範頼の九州制圧、頼朝による平泉藤原氏征討の戦いでそれぞれ功績をあげただけでなく、新たな領地を獲得し、列島各地に所在する領地のネットワークを築いた。

 「中世の南九州と言えば、その主役は島津氏であろう。鎌倉幕府の成立の時期、南九州には、多くの東国の勢力が入部してきたのであるが、その中にはやがて政争に敗れて所領を失ってしまうものもあり、残った東国出身勢力が平安時代以来の在来勢力を従え、最終的に全体を統合して支配下においたのが島津氏だったのである。南九州における武士勢力の展開は、この島津氏の登場をもって大きな活気を迎える」(137ページ)と、第二の波のもう一人の代表的な人物島津忠久の登場が予告するが、野口さんはそれ以前に、南九州の古代から中世末までの歴史を整理し直している。これは島津氏の関ケ原の戦い以降の生き残りの理由の一つと考えられる南九州=薩摩・大隅の異域性を説明するためであろう。

 古くは熊襲・隼人と呼ばれる人々が居住する地域であった薩摩・大隅両国では、他の地域では律令制のもとで班田制が実施されていたのに対し、延暦19年(800)になってようやく実施に至った。しかし、平安時代に入ると、内国化が進み、受領として赴任した中央貴族の留住・土着・勢力拡大が展開されるようになった。既に述べたように、南九州には大宰府官人の進出がみられるようになった。このような武士の代表的な存在が平季基であり、彼は日向国の現在の宮崎県都城市のあたりの地域を関白藤原頼通に寄進して島津庄を開いた。この荘園は日向だけでなく、大隅・薩摩3カ国にまたがる大荘園へと成長を遂げることになる。「また、季基の子孫は薩摩地方の各地に武士団として展開し、国内の院司・郡司としての公権を背景として各地域の在地領主として成長を遂げていったのである。」(140ページ) このような状況は同じ時代の東国における桓武平氏良文流や藤原氏秀郷流の発展と共通する性格を持っている。
 12世紀の半ばごろ、南九州では薩摩国阿多郡郡司職を基盤に「一国惣領」を成し遂げ、さらに大隅国にも勢力を広げた薩摩平氏の阿多忠景という人物が出現する。彼は鎮西八郎為朝を婿として受け入れ、勢力をふるったが、為朝が保元の乱に敗れ、忠景が平家によって追討を受けてその勢力を奪われる。しかし、その一族はその後も大きな勢力を保つ。

 「鎌倉幕府の成立にともない、当初、薩摩・大隅・日向3カ国の守護に任じられた島津氏をはじめ、南九州にも多くの東国御家人が所領・所職を与えられた。やがて、彼らの一族は東国を離れてこの地に移住する動きを示す。」(142ページ) 一般に西国に移住した東国御家人は在地社会の強力な抵抗にあい、支配・定住に苦心したとされるが、薩摩の場合は、薩摩平氏など在来の在地勢力との対立はあっても、在地社会ないしは農民層の抵抗はなく、移住先にかなり容易に溶け込むことができた。「南九州は生産基盤が狩猟畑作であることや中央から辺境として位置付けられていたことなど、東国と共通する自然的土壌と社会的移送を形成しており」(同上)、東国御家人たちの支配が確立されやすかったと考えられる。

 「やがて、いくたの抗争の結果、西遷御家人・旧勢力の統合に成功した島津氏が、中世南九州の覇者としての地位を固めていく。」(143ページ) その一方で、この地方から海商・海民たちが多く海外に活躍の場を見出していたことも考古学的な調査の結果として裏付けられる。
 豊臣秀吉による九州征伐、関ケ原の戦いを経ても、島津氏はその勢力を保つことができた。これはこの地域が特殊な武家社会として他の地域から切り離して考えられたからではないかと野口さんは推論している。

 「島津氏の初代となる惟宗忠久は、もともとは摂関家に仕える一介の京侍にすぎなかった。その彼が、なにゆえに源頼朝に登用され、鎌倉に樹立された幕府権力の一翼を担うに至ったのか、そして彼は、幕府の鎮西支配においてどのような役割を委ねられたのだろうか。」(145ページ)
 忠久はもともと摂関家の侍であったが、彼の母が頼朝の乳母(めのと)であった比企尼の娘と伝えられているところから、頼朝の側近に登用されたものと思われる。なお、彼の母は、後に、頼朝の側近に仕えた安達盛長の妻となっている。
 幕府成立の当初、頼朝はその縁故関係をフルに活用して京都から有能な人材を呼び寄せているが、忠久もおそらくその一人であった。そして、彼が鎮西島津庄の惣地頭に抜擢されたのは、この地が摂関家領であったためと思われる。忠久は摂関系の下家司であり、文化的能力も備わっていたと考えられる。この時期、九州の守護は武藤氏(のちの少弐氏)、大友(中原)氏が、任じられており、それぞれ京都出身の御家人であるところが惟宗氏と共通する。忠久は、幕府と摂関家の権力を背景にして島津庄の支配者となり、島津を家名とするに至ったのである。

 しかし、忠久の活動の場はあくまでも鎌倉と京都におかれていた。そうした忠久に代わって鎮西島津庄に下向し、その在地支配にあたったのは、東国で編成した彼の被官たちであった。今日でも鹿児島県域に多くの子孫が在住する酒匂(さこう)・本田・猿渡(さわたり)・鎌田・東条氏らである。酒匂氏は梶原景時の弟である朝景の子孫で、梶原景時・朝景が幕府草創期の権力闘争に敗れたのち、島津氏の被官となることで生き残ることができたものと思われる。もともと京都の有力貴族(清華家)である徳大寺家と関係をもつ酒匂氏が、そのような関係を有効に生かしたことは容易に想像できる。このように島津忠久は、京侍から鎌倉御家人として成長していく過程で、酒匂氏などのように幕府成立期の権力闘争に敗れた多くの東国武士を、その家人・郎等として編成していったのである。」(150ページ) 
 南九州への島津氏の定着は、まだこの後のことであるが、その支配の浸透の中ですでに京都や東国から移住してきた彼の家臣団の活躍がみられるのである。

 やっと主役登場という感じがしないでもないが、登場したと思ったら、まもなく本は終わってしまうので、何となく物足りない気がする。野口さんの力点が九州もさることながら、実は武士たちの列島各地を結ぶネットワークの形成におかれていることがこのことで分かるのである。そして次回は、このようなネットワークの性格や様相を京都を中心に述べた個所を取り上げることになる(出来たら、次回で紹介を終えたいのだが、果たしてどうなるか)。 

トマス・モア『ユートピア』(2)

5月16日(水)晴れ

 1515年に著者であるトマス・モア(Thomas More, 1477/1478~1535)は公用でフランドル(フランダース)に派遣され、そこでエラスムスの友人であるピーター・ヒレスと知り合う(これは歴史的な事実である)。ある日、ヒレスから彼は、ラファエル・ヒュトロダエウスという地球上の様々な国々を遍歴してきたという哲学者を紹介される。彼はポルトガル人で、アメリーゴ・ヴェスプッチの4回にわたる航海の後の3回の航海に同行し、最後の航海の際に新しく発見された土地に留まっただけでなく、その後数人の仲間とともに、ヨーロッパでは知られていない国々を遍歴し、またヨーロッパに戻ってきたという。

 ピーターが、未知の世界についての見聞を語ってくれるはずのヒュトロダエウスを紹介してくれた好意を有難く受け止めたモアは、ヒュトロダエウスと初対面の挨拶を交わし、モアの宿で彼と語り合うことになった。
 ヒュトロダエウスの語るところによると、彼は新たに発見された土地の先住民たちと親しくなり、彼らの中の一人の君主がラファエルの一行を厚遇してくれただけでなく、さらに旅を続けるための便宜を図ってくれた。そして「彼らの一行はいろいろの町や都会に、そして人口も多く、悪くはない制度をもった社会の数々に出くわした。」(澤田訳、61ページ)
 新しく発見された土地の、赤道直下の地方は炎熱のもとに凶暴な人々と野獣が住んでいる土地であったが、緯度が上がるにつれて土地柄も人々の気持ちも穏やかになっていることが分かった。そして人々は航海に習熟しており、彼らの船はヨーロッパで見るものとほとんど変わりがなかったが、彼らは磁石を知らず、ヒュトロダエウスが磁石の使い方を教えてやったので、大きな利益を受けたと彼らは感じていたようだ。しかし、それが本当に彼らの利益になるかどうかは疑問だとヒュトロダエウスは語った。

 彼らは様々な人々を訪問し、またさまざまな体験をした。しかし、怪物に出会う経験は多かったが、それに比べると「健全かつ英明な制度をもった市民たち」(62ページ)に出会うことは少なかったと彼は言う。そして彼はヨーロッパの諸国が参考にできるような様々な制度や法令をもつ人々と接触したという。
 ピーターは、ヒュトロダエウスのこのような経験が極めて貴重なものであり、ヨーロッパの君主たちが自分たちの国を治める際の参考になるはずだといって、彼にどこかの君主に仕えるように勧める。それは彼自身の栄達と、彼の一族の繁栄をもたらすはずであるとも言い添える。しかし、彼はすまじきものは宮仕えであるという姿勢を崩さない。

 前回、この書物の初版~第4版に添えられた詩と書簡の中では、エラスムスとビュデの書簡が重要であるといって、その2つだけを紹介したのであるが、もう一つ重要な詩が添えられているのを言及し忘れていた。それは「ユートピア島についての六行詩」で、「ヒュトロダエウスの妹縁からの甥で桂冠詩人なるアネモーリウス作」とされる次のような詩である。
われ孤島なればこそいにしえに無可有郷(ユートピア)とぞ呼ばれける。
されどわれいまプラトンのくにとともども競いあう。
いな、そをしのぐともいうべきや。そはいにしえの哲人が、
言の葉のみに示せるを、あらわにせるはわれひとり、
人材、浄財、良法の形にあらわにせしものは、このわれひとりなればなり。
さればこそわれ楽園(エウトピア)の名もてよばるるべかりけり。
(27ページ)

 これがモア自身の手になるものか、エラスムス、ヒレス、あるいはその他の誰かの手になるものであるかはわからない。しかし、もともと「無可有郷(utopia=どこにもない場所)」であったはずの国が、「楽園(eutopia)」と呼ばれるものとして描き出されるようになったというのは、この書物の内容を要約するものとして無視できない。
 しかしながら、異論を唱える向きもあるかもしれない。そもそも、モアが描いたユートピアは「楽園」あるいは「理想郷」の名に値するものであろうか。これは、この書物が発行されて以来、続いている論争である。

 それ以上に深刻な問題であるのは、この書物が描いている「新世界」の姿である。ヒュトロダエウスは「新世界」で先住民たちと仲良くなり、彼らの君主から紹介状をもらって、そのおかげで未知の世界を自由に旅行し、そしてヨーロッパに戻ってくる。そこには異なる文化が衝突したという痕跡は認められない。「新世界」を「発見」した人々にとって、先住民たちが「社会的な動物」である「人間」として認められる存在であるかどうかというのが、実は問題であった。そんなことのかけらも、『ユートピア』には見いだされないのである。『ユートピア』では「社会的な動物」である人間だけが語られている。
 その意味で、ヒュトロダエウスがアメリーゴ・ヴェスプッチの航海に同行したと語られていて、コロンブスの航海に同行したとは語られていないというのは注目に値する事柄なのである。つまり、コロンブスの帰還を目撃しただけでなく、自身、「新世界」にわたって先住民たちと生活を共にしたバルトロメ・デ・ラス・カサスとトマス・モアはこの点でおそらく社会についての認識が分かれているということなのである。モアが目撃することがなかった文化の衝突を、ラス・カサスは目撃しているということが、『ユートピア』という作品を読んでいくうえで重要ではないかと思うのである。

 ルネサンスの三大発明が、印刷術、火薬、羅針盤(磁石)であると言ったのは、モアと同じくイングランドの大法官(Lord High Chancellor)になり、モアと同様に罪に問われてその地位を失ったが、幸いにして斬首刑というモアの運命を追わなかったフランシス・ベーコン(1561‐1626)である。ベーコンが『ニュー・アトランティス』というユートピア文学作品を描いているのはご存知の方もいらっしゃるだろう。彼は、鶏に雪を詰めて冷凍するという実験をしていて、風邪をひき1626年に死亡する。若いころは、モアのほうがベーコンよりも偉いと思っていたが、年を取ってきた最近では、科学の実験で死んだベーコンのほうが、おのれの信仰に殉じたモアよりも尊敬できる人間ではないかと思うようになった。もっとも、さらに年を取ると、また考えが変わるかもしれない…。モアが磁石の使用について何やら予言的なことをヒュトロダエウスに言わせているのは、象徴的である…??

『太平記』(210)

5月15日(火)晴れ、気温上昇

 建武3年(南朝延元元年、1336)、京都の花山院(現在の京都御苑の一部)に幽閉されていた後醍醐帝は、脱出して吉野金峯山寺に入った。河内の楠正行以下の軍勢が参じたが、紀州根来の伝法院は、高野山との長年の確執から宮方に味方しなかった。
 一方、比叡山で後醍醐帝と分かれ、再起を期すべく東宮恒良親王を奉じて北陸に向かった新田義貞は、越前の金ヶ崎城で足利方に包囲されて身動きが取れなくなり、建武4年(南朝延元2年、1337)2月に義貞・脇屋義助兄弟らが後攻めの兵を起こすべく脱出して杣山に向かった。3月に金ヶ崎城は落城し、一宮尊良親王、義貞の嫡子義顕らは自害、城兵はほぼ全滅した。いったんは脱出した恒良親王も足利方にとらえられた。
 6月に北朝では光厳上皇が重祚し、再度帝位に就かれた(これは史実ではない)。10月に暦応と改元され(史実は翌年8月)、11月に尊氏は征夷大将軍、直義は日本将軍を得た。兄弟がそろって同時に将軍の地位を得るのはこれまでにないことであった。(直義が日本将軍に任じられたというのは事実ではない。) 
 一方、越前の杣山城で鳴りを潜めていた新田義貞が、兵を募って新たな動きを見せ、これを察知した足利尊氏は、一族で越前守護の斯波高経ら北陸の武士たちに動員をかけた。

 このあたりの『太平記』の記事は時間的に錯綜していて、「あらたまの年立ちかへつて、二月中旬にもなりければ」(岩波文庫版、第3分冊、309ページ)と、この出来事が暦応2年(南朝延元4年、1339)のように受け取れる書き方がされているが、実は暦応元年(延元3年)、1338)の出来事である。この時代の暦では2月は春であるとはいうものの、北陸地方は比較的春が来るのが遅いことも心得ておく必要がある。それでも、弓を引くのに手が凍えないようになり、雪が消えたので、馬を走らせることも容易になった。
 宮方の平泉寺の衆徒たちは(現在は福井県鯖江市内の)三峯に、杣山から派遣された脇屋義助を大将として立てこもっていたが、次第に足利方の斯波高経が籠る府(国府→現在の越前市)の方向に接近して、敵兵が通行する道の周辺に城砦を構え、四方を封鎖して攻撃しようと考え、そのような砦を築くための要害の地を探そうと、義助は140から150騎の兵を引き連れて、鯖江の宿へと打って出た。
 敵の大将が小勢で城の外に出てきたのは、打ち取るための好機であると、どこから情報が伝わったのかはわからないが、足利方の副将軍である細川出羽守(名前は不詳)が500騎で国府の城から出撃し、鯖江の宿へ押し寄せ、三方から接近して、一人残さず打ちとろうと取り囲んだ。

 脇屋義助は前後を敵に囲まれて、これはとても逃げられないところであると覚悟を決めたが、それだけにかえってみな心を一つにし、まったく気力を緩めず、一隊は後ろに高木の杜(越前市高木町)、左右に瓜生縄手(越前市瓜生町。縄手は田の間の細い道)という場所に位置を定めて、矢種を惜しまずどんどんと矢を射かける。射立てられて、足利方が少し乗馬の態勢を崩したところへ、轡を並べて駆けいる。こうして敵がわずかな時間でも体勢を立て直すことができないでいるところを、7度8度と、寄せたり控えたりしながら相手を翻弄し、次第に優勢に戦いを進めていくと、細川とその家来である鹿草(ししくさ、越中の豪族)の率いる500余騎は、自軍よりも小勢の兵に追い立てられて、鯖江の宿の後ろにある日野川の浅瀬をうちわたり、対岸へと退却した。
 ここは地図を見て、経過をたどっていただきたい。福井県鯖江市は福井市の南、越前市の北にあり、南から北へと九頭竜川の大支流である日野川が流れている。越前市から北上してきた足利方の軍勢に包囲された脇屋義助の一隊は南東の方角の越前市の東の方の市域に逃げたが、そこで反撃して日野川の西岸のほうに足利方を追いやったということである。

 川を渡って逃げた足利方の兵を脇屋義助配下の結城上野介らの武士たちが、そのまま追いかけようとしたが、大将である義助は、それを制止して次のように述べた。「小勢の大勢に勝つことは、暫時の不思議なり。」(岩波文庫版、第3分冊、311ページ、小勢が大勢に勝つのは、長続きのしない一時的な不思議である。野球評論家の野村克也さんがよく口にする松浦静山の言葉を思い出させるところがある) 川を渡って敵を攻撃しようとすれば、川を渡る間は足場の悪いこちら側が不利になって、向う側の敵が調子づく恐れがある。本日の合戦は思いがけずに生じたことであるから、遠いところにいる見方はこれに気づかず、簡単には味方に駆けつけないだろう。このあたりの民家に火をかけて、ここで合戦をしていると知らせろと指示を下す。上野国邑楽郡邑楽町篠塚の武士篠塚五郎左衛門があたりを走り回り、高木、瓜生、真柄(越前市真柄町)、北村(越前市北町)の民家20余か所に火をかけて、その炎が烽火となって燃え上がった。

 あちこちの宮方の武士たちが、この煙を見て、「さては、鯖江のあたりで合戦があるようだ。駆け付けて味方に力を合わせよう」と、宇都宮泰藤、天野政貞が300余騎で鯖波の宿から、新田義貞の妻である勾当内侍の兄弟である一条行実が200余騎を率いて飽和(あくわ、福井県南条郡南越前町阿久和)から、瓜生重、瓜生照の兄弟が500余騎を率いて妙法寺城(越前市妙法寺)から、平泉寺の衆徒(僧兵)たちが大塩の城から、河島維頼(鯖江市川島町に住んでいた武士)が300余騎を率いて三峯の城から駆け付けた。さらに総大将の義貞が、千余騎を率いて杣山から出陣してきた。

 合戦の合図に応じて、各地の宮方の武士たちが鯖江の宿にはせ参じているといううわさが伝わってきたので、まだ川岸に留まっている味方を見殺しにするなと、斯波高経、家兼の兄弟は3千余騎を率いて国分寺(越前市京町)の北のほうに兵をすすめた。両方の陣営がわずか十余町(1町は約109メートルであるから、1キロ強)の間に、日野川の川筋をはさんでにらみ合うことになった。

 脇屋義助が、適当な砦の候補地はないかと小勢で出かけたところ、それが思いがけず両軍の正面衝突のきっかけになってしまった。砦を築いて敵をけん制しようという策は悪くないが、小勢で偵察に出かけたのは軽率であった。その後の、川を渡らずに烽火をあげて、味方を呼ぶという作戦は妥当なものだが、自分の家を焼かれた住人たちはひどい目にあったことになる。
 一方、足利方は義助が小勢で城を離れたところを急襲したのはよかったが、敵の反撃が思っていたよりも手ごわく、国府(新善光寺城)の味方を総動員させてしまうことになったのは、予想外の結果であった。足利方は数を頼りにするが、個別的な戦闘力は新田方のほうがあるというこれまでの図式がここでも繰り返されているようである。さて、対決の結果はどうなるかは、次回に。 

島岡茂『日仏比較文法』(11)

5月14日(月)晴れ、気温上昇

 英語はインド=ヨーロッパ語族の中のゲルマン語派に属するが、ロマンス語派に属するラテン語とフランス語の影響のもとに元の形から大きく変化して現在のような姿をとるに至った。この書物は狭い意味での文法だけでなく、言語の広い範囲にわたって、そのような影響関係と変化の様相を概観するものである。

Ⅰ 原初の対応
 英語もフランス語も語源を同じくする語彙を少なからず含むが、長い年月をかけて両者ともに変化してきたので、その関連をたどることはかなり困難になってきている。英語とフランス語の影響関係を考えるうえで重要なのは、歴史的にたどることのできる時代になってからの両者の関係である。
Ⅱ 語彙
 英語のほうがフランス語よりも語彙が多いが、その25万の語彙のうち約50%はフランス語・ラテン語を中心とするロマンス語由来のものであり、本来のアングロ・サクソン系の語彙は25%に過ぎない。フランス語・ラテン語から英語への語彙の借入はアングロ・サクソン族のブリテン島移住以前からの古い歴史を持つが、特にその傾向が顕著になったのは1066年のノルマンの征服以降のことである。
Ⅲ 語形成
§10 語形成の方法
 語形成の方法には、大ざっぱにみて、合成・派生の2つがある。英語・ドイツ語を含むゲルマン諸語の場合合成語が多く、フランス語・ラテン語は派生語が多い。合成は語の複合であるのに対し、派生は語と接辞との接合である。接辞には接頭辞と接尾辞とがあるが、接尾辞のほうが重要な役割を果たす。(以上前回まで)

§11 接頭辞
 英語の接頭辞は、接尾辞も同様であるが、大部分はギリシア・ラテン語から出ている。古英語から継承されてきたゲルマン系の接頭辞としてはbe-, for- un-などがあるが、否定のun-を除けば、その数は多くない。英語に比べるとドイツ語の同じ接頭辞be-, ver-, un-ははるかに数が多い。これはフランス語を通じてギリシア・ラテン語の接頭辞が数多く導入され、英語の形を大きく変えたためである。

 まず、古英語からの接頭辞についてみていくと
1.be- 本来はby, along, nearなど空間的な意味をもっていたが(before, behind, beyond,,,),近世に入ってからはもっぱら動詞形式の標識になっている。
 become 「なる」意味では俗ラテン語devenireと対比される。この動詞は本来は空間的な「(ある所へ)来る」意味をもったが、俗語で今日の「(ある状態に)なる」になった。この移行が古英語becumanでも起こった。両者の変化には何らかの影響関係があったかもしれない。
 becomeにはもう一つの意味「似合う」がある。[A blue dress becomes her. ブルーの服が似合う。 It does not become a young man to sneer at people. 若者が人を冷評するのは見苦しい。「なる」という場合のbecomeは自動詞であるが、「似合う」という場合のbecomeは他動詞である。]
 これは古フランス語でvenir (come)が「ふさわしい」意味に使われたのが起源で、英語での初出は13世紀である。なお今日のフラン語ではこの意味はconvenirという。〔フランス語の辞書によるとconvenirは「都合がよい、適する、合う、ふさわしい」という意味で主に使われるという。英語のconvenience, convenientはこのフランス語と関連しているようである。〕

 behave 「ふるまう」もbecomeの「似合う」という意味の場合と同じように、古フランス語のavoir (have)の用法を受けたものである。
Comment il se devoit mantenir et avoir.
「彼はいかに振る舞い、身を処すべきか」
 このavoirは本来再帰的な意味「身を処す」をもち、上の例のように代名態で使われた。今日のフランス語ではse tenirと言いavoirは用いない〔「代名態」という文法用語が意味不明。フランス語の辞書で調べたところ、se tenirのもっとも一般的な意味は「捕まる、しがみつく」である。]。英語の接頭辞be-は強意の意味をもち、behaveも原則として再帰形で、後にone's selfをとることが多い。Behave yourself!は「お行儀良くしなさい。」 ドイツ語behaben sichも同じである。

2. for- 古くはferでドイツ語のver-につながり、さらに古くはラテン語のper- も同じ系列に属する。表す意味は多様だが、英語では禁止・除外・分離・無視など否定的意味に使われることが多い。
 forgive  「ゆるす」 ドイツ語のvergeben に対応するもので、最初は「譲り渡す、授与する」意味だった。そこから恩恵を与える意味で、今日の「ゆるす」になった。
 ところが俗ラテン語の中に、これと構成を同じくするperdonareという動詞があり、これがフランス語に入って今日のpardonnerになった。これらも授ける意味からゆるすの意味に発展した例である。par(<per)がfor-に、donnerがgiveに対応することを考えると、両者の変化はそれぞれ何かの関連が働いたのかもしれない。〔pardon!は、英語、フランス語ともに(発音は違うが)会話でよく使われるのはご承知の通り。〕

 forswear 「偽誓(あるいは偽証)する」 最初は「誓って否認する」意味で、for-が否定を表していた。ここでも同じ意味のラテン語perjurare,フランス語とのparjurerとの対応が問題になる。このフランス語から15世紀ごろ英語にperjureの形が導入された。現代の英語でforswearは一般的な会話の中で、perjureは専門的な場で、ともに使用されている。

 現在の英語の前置詞forは賛成、againstは反対という意味でつかわれるが、接頭辞のfor-に否定の意味がある場合があるというの初めて知った(気づかなかっただけかもしれない)。今回は文法の面でも、語彙の面でも知らない事柄が少なからず出現して、苦戦を強いられた。はっきりと説明できなかった部分については、今後また機会を見て説明していくつもりである。

日記抄(5月7日~13日)

5月13日(日)曇り、午後になって雨が降り出した

 5月7日から本日までの間に経験したこと、考えたこと、以前に書いたことの補遺・訂正等:
5月5日
 『朝日』の朝刊に 世界思想社教学社から「こどものみらい叢書」というシリーズが発行されるという記事が出ていたが、その2冊目がラテン語の入門書を数多く手がけている山下太郎さんの『お山の幼稚園で育つ』という本なので、どんな本なのか読んでみたいと思っている。山下さんは大学で英語やラテン語を教えられていたが、父君の事業を継いで幼稚園の経営に従事されているようで、どんな教育者ぶりを見せているのかに興味がある。

5月7日
 スペイン語の挨拶は時間帯によって違い、
Buenos días. おはようございます。 (昼食までのあいさつ)
Buenas tardes. こんにちは。 (昼食から夕食まで)
Buenas noches. こんばんは。 (夕食以降のあいさつ)
ということである。スペインでは昼食が午後2~3時ごろ、夕食が午後9~10時ごろなので、これらのあいさつは、日本語のあいさつより遅い時間帯まで使う。同じスペイン語圏でも、ラテンアメリカでは日本語のあいさつとほぼ同じ時間帯に使う。出会いだけでなく、別れのあいさつとしても使われる。たとえばBuenas noches.は「おやすみなさい」の意味にもなる。
 番組中、口頭で説明があったが、興味深いことにこれらのあいさつは複数形でなされている。他の言語、たとえば英語では午後のあいさつの例を挙げると
Good afternoon.
という風に単数形をとる。スペイン語とイタリア語とは似ているといわれることがあるが、イタリア語では午後特有のあいさつというのはなくて、午後3時ごろから
Buena sera. こんばんは。
を使うが、南部では午後になるとBuona sera. に切り替わるそうである。これは、単数形である。
 またスペイン語とポルトガル語は似ていると言われることもあるが、ポルトガル語では
Boa tarde.
とやはり単数形をとる。その点は違うが、確かにスペイン語に似ている。
 スペイン語で複数形をとるのは、その日だけでなく、他の日もよい午後(午前・夜)が相手に訪れるようにという気持ちを込めてのことだそうである。

 神凪唐州『大須裏路地おかまい帖 あやかし長屋は食べざかり』(宝島社文庫)を読み終える。名古屋の代表的な商店街の1つである大須にある小さな神社の新米神主である北野諒には、自分の暮らす長屋の1階で開業している小料理屋「なご屋』の雇われ店長というもう一つの仕事がある。長屋の住人は諒を除いてみな、人間の世界に紛れ込んで暮らしている「あやかし」で、「なご屋』の主要な客でもある。諒は、あやかしたちが起こす様々な怪異に巻き込まれる…。
 大須にはもう40年くらい昔に一度だけ出かけたことがある。学会の日程の谷間にできた暇な時間をつぶすべく、映画を見に出かけたのだろうと思う。思い返してみると、エルマンノ・オルミの『木靴の樹』や、アラン・レネの映画など、名古屋で見たという記憶のある映画は少なくないのが不思議である。

5月8日
 エルマンノ・オルミ監督の訃報が伝えられた。さらに木下惠介監督の映画の音楽を多く担当された作曲家の木下忠司さん、『かわいいベイビー』などで知られる作曲家の東海林修さん(私にとっては、『シャボン玉ホリデー』の音楽が懐かしいね)、ザ・スパイダースのギタリストであった井上堯之さん(5月11日の『日経』朝刊のコラム「文化往来」に少し詳しい追悼記事が出ていた)、また絵本『ダルマちゃん』で知られる絵本作家・児童文学者の加古里子(かこさとし)さんの訃報が伝えられた。

 『朝日』の朝刊に「大使 語学特訓して派遣」という河野外相の発言が報じられていた。語学力というのは程度問題なので、もっと具体的な目標を示さないといけないし、相手方の国の事情も考える必要があるだろう。

 同じく『朝日』の朝刊にアメリカの政権の科学政策の不在を危惧するハーヴァード大学のジョン・ホルドレン教授の意見が掲載されていたが、ブッシュ共和党政権時代も科学軽視の政策がとられ、それを英国のブレア元首相が利用して、アメリカからかなりの数の科学者を受け入れようとしたことが思い出される。こういう点では、日本はアメリカに追随すべきではなく、アメリカにとってかわろうとする姿勢を見せるべきなのである。

 同じく『朝日』朝刊のコラム「折々のことば」に引用された「言葉以前の世界の消息を言葉によって伝えること、つまり言葉で言葉を破ること。」が、心に残る。

5月9日
 『朝日』朝刊の連載インタビュー「語る――人生の贈りもの」で女優の樹木希林さんが文学座時代に、杉村春子の付き人として小津安二郎の『秋刀魚の味』の撮影に立ち会ったときの経験を語っている。小津がなかなかOKを出さずに、何度も同じ演技を繰り返させるのを見て、「私には、なぜNGなのか全く理解できなかった」、映画というのは面倒くさいものだと嫌になったという。同じようなことを小津の下っ端の(ということは、当時の松竹映画のやり方では4番目か5番目の)助監督であった今村昌平が語っていたらしい。その今村の後を引き継いで『東京物語』で下っ端の助監督を務めた高橋治が『絢爛たる影絵』(文春文庫→岩波現代文庫)で書いているが、小津がテストを繰り返したのには、理由がある。小津には自分が理想として思い描く画面があって、それが実現できるまで粘ったということである。この辺りは、高橋の本を読むか、小津の伝記映画である『生きてはみたけれど』で、小津映画の出演者たち、とくに岸恵子さんが話していることを聞くかするとよくわかる。

 『日経』の朝刊に「渡米した画家 ふたつの道」として、『国吉康雄と清水登之』展の紹介記事が出ていた。対照されることの多い2人であるが、共通点もあるということが指摘されている。私は国吉のほうが好きである。国吉と言えば、トルーマン・カポーティ原作、オードリー・ヘプバーンの『ティファニーで朝食を』という映画の中に、ユニヨシという名前の日本人⁉が出てくるが、そんな日本人の名前はないはずである。

5月10日
 『朝日』朝刊の「折々のことば」は、「いまや統合の過剰というよりもむしろ分断の深化によって自由に対する制約や剥奪が惹き起こされている」という政治思想史学者の齋藤純一の言葉を取り上げているが、大いに考えさせられる。

 NHKラジオ『まいにちスペイン語』応用編は4月~9月にかけて、昨年10月~今年3月に放送した「スペイン文学を味わう」を再放送しているが、19世紀から20世紀にかけてのスペイン文学の代表的な作品が紹介されていて、二番煎じでもなかなか落ちない味わいを感じる。既に4月に放送されたアラルコン『三角帽子』に続いて、5月はフアン・バレーラの牧歌的な恋愛小説『ペピータ・ヒメネス』(1874)を取り上げているが、私は6作品のうちではこれが一番好きである。6月はエミリア・パルド・バサン(1851‐1921)の『ウリョアの館』、7月はレオポルト・アラス・「クラリン」(1852‐1901)の『裁判所長夫人』、8月は「セルバンテスに次ぐ作家」と評されるベニート・ペレス・ガルドス(1843-1920)の『フォルトゥナータとハシンタ』(1887)、9月は『血と砂』などで日本でもよく知られているビセンテ・ブラスコ=イバーニェス(1867-1928)のリアリズム小説『葦と泥』(1902)ということになる。ブラスコ=イバーニェスは日本でいうと、尾崎紅葉、幸田露伴、夏目漱石と同じ年の生まれである。1934年にノーベル文学賞を受賞したイタリアのルイジ・ピランデッロ(1867-1936)も同じ年の生まれで、探していくと、他にも有名な文学者が見つかりそうだ。

5月11日
 『朝日』朝刊の「わがまちお宝館」は青森県三沢市の寺山修司記念館を紹介しているが、寺山が多くの机をもっていたというのはうらやましい話である(持ちたくても、置き場所がない)。彼が常に他人に向けて発信するタイプの人間で、手紙を多く書いたけれども日記は残さなかったという話が興味深かった。

 NHKラジオ『実践ビジネス英語』の”Quote...Unquote"のコーナーで紹介された言葉:
Consistency is the last refuge of the unimaginative.
(from "The Relation of Dress to Art" in Pall Mall Gazette)
---- Oscar Wilde (Irish poet, playwright and novelist, 1854 - 1900)
一貫性とは、想像力にかける者たちの最後のよりどころである。
 賛否両論ありそうな言葉である。

 ドリームジャンボ宝くじあたらず。

5月12日
 『朝日』朝刊の地方欄に「川崎の『橘樹官衙遺跡群』」についての記事が出ていて、おもしろかった。「白村江で戦った日本と新羅だったが、実はその後、緊密な関係を築いていた」とあるが、これはあまり正確な書き方ではないと思う。古代の日本には親百済勢力と親新羅勢力があって、この両者の力関係の推移を見ていくことが重要なのではないかと思っているのである。特に出雲をはじめとする日本海沿岸には新羅系の文化の痕跡が多く見いだされるということを見落としてはならない。

 ニッパツ三ツ沢球技場でJ2第12節横浜FC対ロアッソ熊本の対戦を観戦した。熊本の応援にはくまモンも駆け付けたが、観客は3,000人を少し超えたくらいというのはさびしい限り。横浜はけがで休んでいたDFのカルフィン・ヨン・アピン選手が復帰、累積警告で前節出場できなかったイバ選手も出場と戦力が整ってきたこともあり、前半は優勢に試合を運びながらも決定力不足で、0-0で折り返す。後半に入り、55分にコーナーキックのチャンスを得た横浜が佐藤選手のヘディング・シュートで1点を先制、さらに65分にはイバ選手のシュートがクロスとなり、野村選手が左足で蹴りこんで2点目、さらに78分にはフリーキックからぺ・スン人選手が頭で押し込んで3点目を挙げて、楽勝かと思われた。ところが熊本も反撃して2点を返し、どうなることかと思ったが、後半終了間際に相手チームの裏側に抜け出した戸島選手が右足でゴールを決めて勝利を決定づけた。4-2で勝利し、暫定5位に浮上。2点の失点はいただけないが、4点の得点は大いに愉快である。

5月13日
 シネマヴェーラ渋谷に『オズの魔法使い』とマルクス兄弟の『御冗談でしょ』を見に行こうと思ったが、天気が悪くなってきたのでやめる。

 

フローベール『感情教育』(8‐5)

5月12日(土)晴れ、夕方が近づいて雲が多くなる

第1部あらすじ
 1840年、大学で法律を勉強するためにパリに出た18歳の青年フレデリック・モローは、偶然知り合った画商アルヌーの美しい夫人に思いを寄せる。やがて彼はアルヌー家に出入りするようになるが、その恋は片思いのままである。勉強に身がいらず、同じような仲間と将来について語り合って過ごしていたフレデリックであるが、ようやく卒業して郷里に帰ると、実家が経済的に困窮していることがわかり、数年間を地方の法律事務所で過ごすことになる。しかし1845年の12月に裕福な叔父が死んで、その遺産を継ぐことになり、パリに戻ろうと決心する。

第2部のこれまでのあらすじ
 フレデリックが地方で過ごしている間に、パリの知り合いたちの様子は変わっていた。アルヌーは画商をやめて陶器を扱う商人になっており、夫人の態度に失望したフレデリックは彼の地元の有力者であるダンブルーズの邸に出入りして、そこから社交界に入ろうと考える。その一方で、アルヌーに誘われて半社交界の人物であるロザネットの家にも出入りする。自分が財産家になったことを昔の仲間たちに披露しようと、彼らを集めて転居披露の昼食会を開くが、集まった面々はそれぞれ思い思いに社会批判を展開したり、政治情勢をめぐる意見を述べたりで、フレデリックはうんざりする。

第2部(2)つづき
 政治的な話題についていけない貴族のシジーは、そのころ評判を集めていたジムナーズ座の活人画の話題を持ち出した。これは太田浩一訳の傍注によると、歴史、文学の一場面、あるいは名画を、生きた人間を登場させて模倣させる見世物で、ヌードの女性が登場することも少なくなかったという。
 セネカルは、そういう見世物のためにプロレタリアの娘たちは堕落し、身分不相応な贅沢をするようになったと嘆く。そして当時の話題を持ち出す。アイルランド出身(一説には英国生まれ)の踊り子ローラ・モンテスが1846年にバイエルン王ルートヴィヒ1世に見いだされて、その愛人となったのが、これに反発した学生たちが騒乱を起こすという事件があった。(この結果、ルートヴィヒ1世は退位し、息子のマクシミリアン2世が即位することになる。ノイシュヴァンシュタイン城を建造したり、バイロイト音楽祭を始めたりしたルートヴィヒ2世はこのマクシミリアンの息子である。) セネカルは、学生たちを称賛する。「ルソーにならって、彼も王侯の愛妾より、炭焼き男の妻のほうをはるかに尊敬するというのだ。」(生島訳:岩波文庫版、224ページ;太田訳、光文社古典新訳文庫版、328ページ) 

 セネカルとは気質の違うユソネが口をはさむ。ここでの彼のセリフが、生島訳では「きみは松露(珍味、ごちそうの意味)を軽蔑するんだな」(224ページ)、太田訳では「まあまあ、ざれことはそのへんで」(328ページ)と大きく違う。
 ここは微妙な箇所で、ネットで原文をあたってみたところでは:
--Vous blaguez des truffes! "répliqua majestueusement Hussonnet. Et il puit la défense de ces dames, en faveur de Rosanette. Puis, comme il parlait de son bal et du costume d'Arnoux: (君はトリュフをからかうのかい? ユソネが厳かに異議を唱えた。そして彼はロザネットのためにと思って、その種の女性たちを弁護した。次に、彼が彼女の舞踏会とアルヌーの衣装について話すと:)
とある。truffeはトリュフ(松露)であるが、馬鹿、間抜けという意味もある。
 1922年にニューヨークのブレンターノ社から発行されたドラ・ノウルス・ラヌース編(という意味がもう一つよくわからないのだが)の英訳によると、
”You don't appreciate dainties、” retorted Hussonnet in a majestic tone. And he took up the championship of ladies of this class in order to praise Rosanette. Then, as he happened to make an allusion to to the ball at her house and to Arnoux 's costume, Pellerin remarked: (きみは珍味の価値がわかっていないよ」と、ユソネが厳かな調子で反駁した〔daintiesには婉曲語法でpantiesという意味があることが辞書に記されている〕。そして彼はロザネットを賛美するためにその種の女性たちを擁護した。それから、ついでに彼女(ロザネット)の家での舞踏会と、その家でのアルヌーの衣装について仄めかした。) この「英語訳」はフローベールの行間を補っているという意味で貴重である。
踊り子というが実質的には高級娼婦のローラ・モンテスをセネカルが非難しているのに対し、同じような種類の女性であるロザネットのところに出入りしているユソネとしては、この種の女性を擁護したい気持ちがある。しかし、あからさまに擁護するのも憚れる気持ちがあるので、持って回った言い方をしているのである。 〔実はフレデリックもロザネットの情人になろうとしているので、ここはひやひやしないといけないところである。ロザネットの家で開かれた仮装舞踏会でのアルヌーの衣装というのは、貸衣装店で借りたもので、アルヌーは青いビロード半ズボンと同じような上着、それに赤いかつらを借りて身に着け、フレデリックはドミノという前で開いた裾長の仮装服で出かけた。この舞踏会に参加したフレデリックと、それを眺めているユソネやペルランとの立場の違いをフレデリックは認識しているのであろうか。〕
 そしてアルヌーの商売替えに対してうらみがあるペルランが最近、アルヌーは羽振りが悪くなっているらしいという噂を持ち出す。「ベルヴィルの地所のことで裁判ざたになり、今は同類の食わせ物連中と組んで低ブルターニュ地方の陶土(カオリン)会社に関係しているとか」(光文社古典新訳文庫版、328ページ、岩波文庫版、224ページ)

 詳しい事情を知っていたのはデュサルディエであった。彼の雇い主が銀行家にアルヌーのことを問い合わせると、銀行家はアルヌーの手形が数回延期されたという事情を知っていて、彼は信頼できないといってよこしたというのである。(これはフレデリックにとって無関心ではいられない噂である。この後、彼は放っておけばいいのに、アルヌーを助けようとして、かなりの財産を失うことになる。)

 それからデザートが済んで、一同はルイXVI世風の客間に入り、招かれた一同は、その趣味についていろいろと文句を言う。とくに彼がこの部屋に並べている文学書が批判の対象となる。悪口ばかり言われてフレデリックは気分が悪くなるが、それでもデュサルディエを捕まえて就職を世話しようというが、彼は感謝しながらも今の職場の出納係の職があるので十分だと申し出を断る。フレデリックは、デローリエに借金を返すが、デローリエは自分たちが発行しようとしている新聞への出資のほうが気になるようである。食後酒をさんざん飲んだ後、一同は帰っていく。 

 フレデリックとしては善意で旧友たちを招いたのであろうが、お互いに気持ちが通じないまま昼食会は終わってしまった。彼らの前途には、まもなく起きる二月革命があり、政治体制の変化にもかかわらず続いていく資本主義と官僚制の発展があり、そのような変革によって変貌を遂げていく上流の人々の展開する社交界があり、彼らの陰の一面である半社交界があり、発展しつつあるジャーナリズムの世界がある。芸術も当然変貌を遂げていくことになる。フレデリックはどのような道を選び、歩んでいくのであろうか。
〔フランス語原文、英訳については急いで写したので、間違いがあるかもしれず、まだ訂正を重ねるかもしれないことをご了承ください。〕 

佐藤信弥『中国古代史研究の最前線』(6)

5月11日(金)晴れ、これまで肌寒い日々が続いていたが、また温かさが戻ってきた

 この書物は中国の古代史(前21世紀ごろから前1世紀ごろまで)に興味を持つ人々に、基礎的な知識と新たな発見や研究の成果を紹介することを目的とする。
 第1章「幻の王朝を求めて」ではその実在を疑われていた殷王朝の歴史が、甲骨文の発見や殷墟の発掘を通じてよみがえってきたこと、殷以前に存在したといわれる夏王朝の遺跡を探り当てようとする企て、「縦目仮面」など独特な形状の青銅器で知られる三星堆遺跡に関係する発見・研究が取り上げられている。
 第2章「西周王朝と青銅器」では殷王朝の後の西周王朝の遺跡から発見された青銅器を手掛かりとして、その年代や制度がどのように復元されてきたか、特に孔子が理想とした周の礼制の実像がどのようなものであったかをめぐる研究成果が紹介されている。
 第3章「春秋史を『再開発』するには」の第1節「『左伝』が頼りの春秋史研究」では、第1章・第2章で扱った時代と違い、春秋期はその歴史を書き換えるような出土史料が発見されず、『春秋左氏伝』(『左伝』)や『国語』などの伝世文献に頼らざるを得ないという事情が続いてきたことが述べられている。また、『左伝』がどのような書物で、どのような特徴と魅力をもっているかが明らかにされている。

 今回は第2節「東遷は紀元前770年か」についてみていく。「東遷」というのはすでに述べたが、西周が幽王の時代に犬戎(玁狁=けんいん)と呼ばれる勢力に攻め込まれて滅亡した後、幽王の子である平王が都を宗周(いわゆる鎬京)からその東にある成周(洛邑)に移したことを言う。これが紀元前770年の出来事であったというのは、高校の世界史の教科書に出てきたという記憶があるが、今でもそのように記されているようである。

 ところで、春秋期の研究は長らく『左伝』に依存して行われてきたが、最近になって新しい史料が出現し、その結果として状況が変化してきたと前回の終わりの方で書いておいたが、その変化の一つが「東遷」をめぐる新しい見解の出現であるという。
 新しい史料というのは、清華大学蔵戦国竹簡(清華簡)『繋年』である。これはおそらく盗掘によって世に出たものを北京の清華大学のOBが購入し、同大学の収蔵品となったものであり、断片も含めて2388件の竹簡からなる。放射性炭素年代測定の結果、戦国時代の中晩期のものと考えられ、63編の文献からなると発表されていて、『繋年』はその中の1編である。
 『繋年』は竹簡の整理者が便宜的につけた名称で、西周から戦国前期にかけての出来事をおおむね時代順に排列しているが、『春秋』経文のような年表に近いものではなく、『左伝』『国語』のように説話を収めた歴史書である。全23章のうち、第1章から第4章までは西周の出来事が記され、第5章以降が春秋・戦国期の話であり、晋・楚が中心の記述であるが、その他の国々の出来事も取り上げられている。春秋期以後の部分については、細かい異同はあるが、『左伝』や『国語』の記述と大きく異なるところはないという。

 『繋年』の第2章には周の東遷について、他の史料には見られない記述がある。「東遷は西周期と東周期、あるいは春秋期とを区切る事件であるとされてきたが、西周王朝の滅亡から洛邑への東遷までタイムラグが存在したとすれば、その間の移行期間を設定する必要が生じる(吉本道雅は、西周滅亡の前771年から『春秋』の記述が始まる前722年までの約半世紀を「東遷期」と位置づけている)。」(155ページ)
 問題をはっきりさせるために、佐藤さんは従来の史料における東遷と、それに先立つ西周の滅亡についての記述をまとめている。まず『史記』によると、西周最後の幽王は、もともと申侯の娘を妃とし、彼女との間に生まれた宜臼(ぎきゅう、のちの平王)を太子としていた。しかし褒姒を寵愛するようになると、申后にかえて褒姒を后とし、太子も彼女との間に生まれた伯服に代えてしまった。ところがこの褒姒がなかなか笑わないので、彼女を笑わせるために有事を知らせる烽火をあげさせて何回も諸侯を駆けつけさせた。娘の申后と孫の宜臼への仕打ちに怒った申侯が、繒(そう)国や外部勢力の犬戎とともに幽王を攻めても救援に駆けつける諸侯はなく、幽王は驪山(りざん、今の陝西省西安市臨潼区。その北麓に始皇帝陵があることで知られる)の麓で申侯らに殺害された。
 その後申侯と諸侯らは宜臼すなわち平王を新王として立て、犬戎を避けるために、今の陝西省西安市西郊にあたる宗周(いわゆる鎬京)から、今の河南省洛陽市にあたる東方の成周(洛邑)へと遷都した。西暦では紀元前770年のこととされる。〔この『史記』の記述が現在の教科書にまで影響を及ぼしているわけであるが、明らかに歴史的な事実とは思われない説話まで含んでいるので、そう簡単に信用はできないわけである。〕

 しかし、伝世文献の中には、『史記』とは異なる経緯を伝えるものがある。ほかならぬ『左伝』である。『左伝』は周室東遷後の出来事を記した史書であるが、魯の昭公26年(前516年)に、東周の敬王との王位継承争いに敗れた王子朝の布告文の中に東遷に触れた個所がある。(原文を省略して、現代語訳だけ紹介する。) 「幽王に至って、天は周を助けず、王は暗愚で(忠言に)従わず、そのために王位を失った。携王が王位を僭称したので、諸侯はこれに替えて王嗣(平王)を建て、そうして郟じょく(こうじょく、「じょく」に該当する文字が見当たらない、今の洛陽市である)に遷都した。」(156ページ)
 ここでは幽王が王位を失ってから平王が擁立されるまでの間に、携王という人物が王位を僭称したと記されている。

 もう一つ、西晋の時代に戦国期の魏王のものとされる墓から出土した(実態としては盗掘された)が、後に散逸したといわれる『竹書紀年』という書物から、他の文献に部分的に引用された佚文として伝わる記述があり、そこでも幽王の死後に携王という人物が王となったという記事がある。そこで二王並立の状態が続いたが、携王は晋の文侯によって殺害されたと記されている。各種佚文の記事によって微妙な違いがあるらしい。

 そこで、清華簡『繋年』ではどうなっているかというと、幽王の死後に、その弟の余臣が擁立され、携の恵王となったが、即位から21年、晋の文侯に殺害された。周に王のない状態が9年続いて、世の中が乱れてきたので、晋の文侯は平王を迎えて擁立、その3年に東遷して、成周の地に留まったと記されている。
 『繋年』の中の地名や年代をどのように解釈するかをめぐっては研究者の間で意見が分かれている。これはいつごろに周王朝が洛邑に拠るようになったか、それを支える諸侯が力を持つようになったか、覇者が王室を支えるという春秋期に特徴的な体制の形成の問題と関連するので、今後も議論が続けられると予期される。

 さらに佐藤さんは宮城谷昌光さんの小説『夏姫春秋』のヒロインである夏姫の『携年』からたどることのできる実像についても紹介している。歴史的な人物をめぐり、その描き方にどのような思想が投影されているかも文学史、あるいは思想史的な研究の課題とすることができるという。

 『繋年』は新しく発見されたという意味で貴重な手掛かりを提供するが、春秋史研究を進めるうえでは、(戦国期に編纂されたということから)二次的な史料ということになる。それでは、同時代的な史料というものはないかというと、1950年代ごろから「盟書」という諸侯やその臣下たちが会盟の際に作成した玉または石製で文字を刻んで盟約の内容を記したものが発見されてきているという。そのような史料を手掛かりにしてどのようなことが分かってきているかについて触れたのが第3章第3節「盟誓の現場から」であり、その具体的な内容については、次回に取り上げることにする。

トマス・モア『ユートピア』

5月10日(木)午前中、雨が降ったりやんだり、午後になって晴れ間が広がる

 トマス・モア『ユートピア』は、1516年の12月にその初版がフランドルのルーヴァンで発行され、1517年にパリで第2版、1518年3月にスイスのバーゼルで第3版、同年11月に同じくバーゼルで第4版と、著者の生前に4度版を重ね、同時代のヨーロッパの知識人の間で相当な反響を呼んだ。先週まで19回にわたって紹介したエラスムスの『痴愚神礼賛』とともに(アルプス)北方ルネサンスを代表するラテン語文学作品である。おそらく知名度と、実際に読まれている程度において、『痴愚神礼賛』を凌いでいるが、その理由は、この作品が理想の政体・社会を描く「ユートピア」文献の代表的なものであり、その命名の由来となっていること、また1551年にラルフ・ロビンソンRalph Robynsonによって英訳され、そのために広く読まれるようになったという事情があると思われる。

 中公文庫版『改訳 ユートピア』の翻訳者である澤田昭夫さんが述べているように、明治以来、この作品は何度も日本語に翻訳されているが、ほとんど例外なくロビンソンの英訳からの「孫訳」である。「ロビンソン訳はテューダー英語の好例として貴重ではあるが、『ユートピア』原典の思想とヒューマニスト的表現の持ち味を正しく、十分に伝えていない」(298ページ)。
 現在、一番入手しやすい平井正穂訳の岩波文庫版はロビンソン訳をもとにして他の翻訳も参照してまとめられたものであり、著者の意図をできるだけ正しく受け止めようという考えから、ここでは澤田訳を利用する。また、ペンギン・クラシックス所収の英訳と、エヴリマンズ・ライブラリー所収のロビンソン訳もできるだけ参照していこうと思う。

 中公文庫版と岩波文庫版を比べてすぐに気づくことは、本の厚さの違いである。これは主として中公文庫版が、16世紀の『ユートピア』最初の4版にのった(ロビンソン訳にはない)計13編の詩と書簡を収録しているからである。この最初の4版はおそらくはモアの了解のもとに、彼の友人で(『ユートピア』本文にも登場する)ピーター・ヒレスをはじめ、エラスムス、レナーヌスが編集したものであり、本文に詩や書簡を加えたのは、この書物の価値を宣伝し、推薦するためであった。澤田さんはこれらが「本書の読み方について読者に向けて発信された信号でもある。それは、暗号めいた言い回しも含めた信号で、その解釈にはそれなりの知的教養が前提されている。『ユートピアは虚構のくにか、現存するくにか?」「これは単なる冗談、娯楽の書か、まじめで有益な社会改革の書か?」などという、今日まで問われ続けてきた、著者の執筆意図に関わる問への答えのヒントを与えてくれるのも詩と書簡である」(299ページ)という。

 中公文庫版では、これらの詩と書簡が本文の前後に並べられているが、それらについて紹介していくと、本文を読む楽しみがかなりの部分減殺されてしまうので、ここでは、最初に出てくるエラスムスの書簡と、次に掲載されているビュデの書簡についてのみ触れておく。エラスムスの書簡は、彼の友人であるヨーハン・フローベンにあてて書かれたという形をとり、モアの人物や学識を称賛した短いもので、『ユートピア』の内容についての立ち入った言及はない。これについては2つの可能性が推測できる。一つは、エラスムスが『ユートピア』を十分に読まず、ただ、彼が知っている範囲でのモアの賞賛すべき側面について言及した(友人・知人から著書を贈られたりすると、すぐに返事を書くのが礼儀であるが、なかなか読めないことが多い。そこで、読めないまま、とにかく礼状を書くということはよくある)という可能性、もう一つは、『痴愚神礼賛』の論評の中でも仄めかして置いたが、エラスムスはモアの『ユートピア』に賛同できなかった、あるいは人文主義者が社会的な関心を抱き、それについて積極的に発言することに賛同できなかったという可能性である。

 これに対し、エラスムスに勧められてこの書物を読んだフランスの人文主義者ギヨーム・ビュデ(1467‐1540)の手紙はかなり長く、『ユートピア』の内容にも立ち入って論評したものである。澤田さんによると1518年版の『ユートピア』の刊行が遅れたのは、序文として利用されるビュデの手紙の到着が遅れたからであるという。ビュデは「所有」の問題が市民社会を複雑なものとしていること、初期のキリスト教が持っていた共同体的な性格の回復が重要であることなどのメッセージを読み取る一方で、「ユートピアは既知の世界の境界外に位置しており、…たぶん桃源郷(エーリュシオン)に近いところにあるらしい)」(20ページ)と、この物語の虚構性についてもほのめかしている。2人はこの後、1520年に初めて会見している。ビュデの著書『ローマ貨幣考』は、モアにも影響を与えたといわれる。おそらく両者は社会的・経済的な関心を共有していたと思われる。ビュデは1530年に当時のフランス王フランソワⅠ世に「王立教授団」の創設をすすめた。これは現在のコレージュ・ド・フランスの基となった。

 ということで、物語の発端だけでも紹介しておきたいので、本文に入ることにする。
 
 1515年、イングランド国王ヘンリーⅧ世は、当時フランドル(フランダース)地方を支配していたカスティーリャ王(のちの神聖ローマ帝国皇帝)カルロスⅤ世と、この地をめぐる通商上の問題をめぐり外交交渉を起こし、カスバート・タンスタル(1474‐1559)を代表とする交渉使節団を派遣した。モアもこの代表団の一員としてフランドルに赴いた。(歴史的な事実である。)
 両者はブルージュで会合を開いたが、合意に至らず、カスティーリャ側は主君の裁可をえるために、猶予期間を得てブリュッセルに赴いた。(この経緯も歴史的な事実として確認できる。) 

 モアは用事があって、アントワープに赴いたが、そこでピーター・ヒレスに厚遇を受けた。ヒレスはラテン名をペトルス・アェギーディウス(1486頃‐1533)といい、アントワープの人文主義者、法学者で、エラスムス、モアの友人であった。(ロビンソン→平井訳ではピータ・ジャイルズと英語読みをされている。)
 ある日、モアはアントワープの「われらのいとしい聖母の教会」でのミサに参列したが、そこから宿へ帰ろうとすると、ピーターが一人の見知らぬ男と話しているのを見かける。「この男は老年に近く、日焼け顔で長いあごひげをたくわえ、外套をさりげなく肩にひっかけて着ており、顔つきや服装からは船乗りと見えた。」(57ページ) モアの姿を見つけたピーターは、彼のところにやってきて挨拶し、自分が話していた人物をモアに紹介しようという。モアは、ピーターが紹介する人ならば、だれでも歓迎するというが、ピーターは、自分が紹介しようとしている人物は、それ以上の価値のある人物であり、「同時代人の中で、未知の人々、未知の土地について彼ほどにたくさん話のできる人はいません」(68ページ)という。

 時は大航海時代がその幕を開け、新しい土地の「発見」が相次いでいた時代である。ピーターが紹介しようとしている男は、そのような「発見」の航海に参加してきた船乗りにちがいないと、モアは自分の推測を述べると、ピーターはそれも違う、彼はラファエル・ヒュトロダエウスという名前で、「プラトンのように船旅をした」(同上)一種の哲人であるという。かれはギリシア語に通暁し、「世界を見たいという望みから、故郷〔彼はポルトガル人です〕にあった自分の財産を兄弟たちにゆずり、アメリーゴ・ヴェスプッチの仲間になりました。そして最近あちこちで読まれているあの4回の航海のうちの後の3回の航海にはずっと同行していました。最後の航海からアメリーゴと一緒に帰国しませんでしたが、それまではいつも、アメリーゴの仲間だったのです。」(59ページ) そしてアメリーゴの許可を得て、発見された現地に留まる24人の中にえらばれ、その後、5人の仲間とともに、たくさんの国を歴訪し、奇跡的な偶然のおかげでついにセイロン(=スリランカ)にたどり着き、そこからインドのカリカットに出てきて、ポルトガルの船団と出会い、ついに祖国に戻ったというのである。

 ラファエル・ヒュトロダエウスはロビンソン→平井訳ではラファエル・ヒスロディとなっている。彼がコロンブスではなくて、アメリーゴ・ヴェスプッチの航海に同行しているというのは、ヴェスプッチの航海記が本文にもあるように、この時代広く読まれていたからであろう。モア(とヒレス)はあまり気にかけていないが、ヒュトロダエウスは有史以来初めて世界を一周した人物ということになる(実はアメリカが大陸だということ、太平洋の存在など、当時のヨーロッパ人ははっきり認識していなかったはずである。) 
 モアに紹介されたヒュトロダエウスがどのような物語を語り始めるかはまた次回。

野口実『列島を翔ける平安武士 九州・京都・東国』(8)

5月9日(水)雨が降ったりやんだり

 武士の成立をめぐるこれまでの歴史研究では、武士と地域との結びつきが重視されていたが、少なくとも鎌倉時代までの武士はその時々の政治情勢に応じて移動する存在であったというのが著者の主張であり、その一方で、従来の武士成立し研究の中であまり注目されてこなかった地域で、武士がどのような活動を行ってきたかについても考えてみる必要があるという。このような認識から、著者は鎌倉幕府の樹立に至る中世成立期(平安時代の後半)に、京都や東国とかかわりをもちながら九州(鎮西)で活動した武士に焦点を当てて研究を進めようとしている。
 九州においても東国と同様に「豪族的武士」が出現し、彼らによって統率された「豪族的武士団」が形成された。このような武士団の形成には2つの波があり、第一の波は、京都や東国から移動して大宰府を拠点に活動した軍事貴族たちの活動であり、第二の波は鎌倉幕府の成立により、惣地頭として移住してきた鎌倉御家人たちであった。
 第二の波を形成する代表的な鎌倉御家人の一人が千葉常胤であり、頼朝の挙兵に呼応して行動を起こして本領を安堵されただけでなく、源範頼の九州遠征に従って功績をあげ、さらにその後も九州に留まって肥前国小城郡をはじめとして、九州各地に多くの所領を獲得した。

 文治5年(1189)、源頼朝は平泉藤原氏征討の軍を発した。いわゆる「文治奥州合戦」である。
 この時、下総守護であった千葉常胤は、常陸守護の八田知家とともに東海道大将軍として出陣し、現在の福島県浜通りを北進して、宮城県に至った。戦後の論功行賞で千葉一族は、陸奥南部の太平洋に面した地域に多くの所領を獲得した。「ここで常胤らが獲得した陸奥南部海岸沿いの地域は、東海道大将軍たる常胤の戦争管轄地域における敵方所領没収の成果とみることができ、かつ千葉氏がその所領支配のネットワークを構築する上で好都合な条件を有していたものと考えられる」(131ページ)。

 さらに注目されるのが、陸奥南部海岸沿いの地域の大部分を支配していた海道平氏と千葉氏がかなり古く(おそらく前九年・後三年合戦の頃)から関係をもっており、太平洋の海の道を通じて密接な関係を結んでいたことが推測できる。〔海道平氏というのは桓武平氏の流れの常陸平氏のことらしいが、もう少し説明してくれてもよかった。〕 このように東北地方の武士と交流を保っていた千葉常胤の財力には注目すべきものがあったと、野口さんは次のような例を挙げる。
 「久安2年(1146)、千葉常胤はその所領下総国相馬御厨(現在の千葉県我孫子市周辺)内の公田に課された官物の未進分を納入したが、その中には砂金32両が含まれていた。12世紀のはじめ、摂関家が奥羽2カ国の5つの荘園から年貢として取り立てた砂金の合計でさえ25両であったことを想起すると、この額はきわめて大きく、千葉氏がこれだけの砂金を手に入れることができた前提として、奥州との日常的な交易活動の存在を認めざるをえないであろう。」(132‐133ページ) 〔久安2年というのが、保元、平治以前の年号であることに注目する必要があるだろう。〕

 この時代、奥州の産品(交易品)としては、馬・アザラシの皮、鷲の羽などがあったが、これらはすべて武士が武器・武具・馬具として、あるいはそのために必要とするものであった。たとえば、武蔵武士の代表的存在であった熊谷次郎直実の乗馬として知られる「権太栗毛」は陸奥国一戸(現在の岩手県一戸町)の産であったという。「奥羽は、乗馬はもとより、武器・武具の原材料供給地として、武士階層にとって関心の埒外にある地域ではありえなかったのである。」(133ページ)

 治承4年(1180)の頼朝挙兵の際には、平家政権の下で汲々とする在地領主であった千葉常胤は、わずか10年足らずの間に、列島各地に所領を有する大領主へと変貌を遂げた。各地の所領を支配するために、一族・郎等や新規に雇い入れた行政事務に練達した吏僚を送り込んだり、支配下に組み込まれた在地領主層を所務代官・沙汰人として雇い入れ、所領管理人とすることによって、遠隔地を支配してその富を手に入れることのできる体制の構築を迫られた。この結果、千葉氏は鎌倉で都市生活を営みつつ、列島各地に散在する所領からの収益を吸い上げる不在地主・都市領主となった。これは千葉氏同様に全国に地頭職を獲得した御家人たちに共通する傾向であり、彼らはその本拠地と鎌倉、彼らの所領を結ぶ列島規模の「広域ネットワークの中に規定される存在となったのである。」(135ページ) このようなネットワークの中で重要な役割を果たしたのは鎌倉だけでなく、京都や鎌倉の外港として国際的な貿易の場ともなっていた六浦(横浜市金沢区)も大きな役割を演じていたことがわかっている。〔六浦ははじめ源範頼、次いで和田義盛、その後は金沢流北条氏の所領となった。ということで、小川剛生『兼好法師』で論じられた出家遁世以前の兼好=卜部兼好の姿も、このような都市領主に仕える吏僚として認識できるのである。常陸平氏とか、六浦の港とかいうと、『小栗判官物語』を思い出してもよいかもしれない。現在の六浦は海が埋め立てられてしまって昔の港の面影は全くないが、そのあたりは想像力を働かせよう。〕

 ということで、千葉常胤を中心にした幕府御家人千葉氏の九州進出、さらには全国展開についての記述はこれで終わり、次回は九州に進出したもう一人の幕府御家人=島津忠久について取り上げることになる。「中世の南九州と言えば、その主役は島津氏であろう。」(137ページ)とこの書物にも記されている、島津氏の家祖がようやく登場することになるので、ご期待ください。
 なお、5月26日(土)、5月27日にこの書物でも取り上げられている全国の千葉氏ゆかりの地からの参加を得て「第2回千葉氏サミット」が千葉市で開催されるそうである。その詳細についてご関心の向きはご自分でご検索ください。

 

『太平記』(209)

5月8日(火)曇り、時々雨

 建武3年(南朝延元元年、1336)、足利方に幽閉されていた後醍醐帝は京都を脱出して吉野へ向かい、吉野金峯山寺に入り、河内の楠正行以下の軍勢が参じた。北国で再起を期していた新田義貞は越前の金ヶ崎城を本拠としていたが、足利方に包囲され、建武4年(延元2年、1337)2月に後詰の軍を組織しようと金ヶ崎を脱出、杣山城に入った。金ヶ崎城はこの年3月に落城し、義貞の子義顕、一宮尊良親王が5自害し、東宮恒良親王はいったんは脱出したものの捕らえられた。
 6月、北朝では光厳院が重祚し(これは歴史的事実ではない)、10月に暦応と改元された(史実は翌年8月)、11月に足利尊氏は征夷大将軍に、弟の直義は日本将軍に任じられた(建武5年→暦応元年8月に尊氏が征夷大将軍に、直義が従四位上左兵衛督に任じられたと公卿補任に記されている)。兄弟で将軍になるというのは我が国の歴史にかつてないことであった。

 お話変わって、金ヶ崎から杣山(現在の福井県南条郡南越前町阿久和)に脱出していた新田義貞、脇屋義助の兄弟は、金ヶ崎城が落城した後、杣山の麓にある瓜生の邸に所在なく過ごしていたが、いつまでもこうして、あてにならない再起の時をいたずらに待ってはいられない、各地に隠れ潜んでいる味方の武士たちを集めて、大規模な戦闘を起こし、吉野にいらっしゃる後醍醐帝を安心させ、金ヶ崎で戦死した人々の恨みを晴らさなければいけないと思ったので、各地にひそかに連絡を取り、以前に味方をしていた武士たちに声をかけたところ、宮方に心を寄せる武士たちがまだ少なからず残っていて、うわさを聞いて一人一人と、その住処から抜け出て集まってきた。こうして武装のほどは見事とは言えないが、勇猛で士気の高い兵が3千余騎、新田のもとに集まった。
 18巻で、義貞・義助兄弟が脱出した時に杣山にいた兵は500余騎とあるから、かなりの軍勢を集めたことになる。瓜生の邸というのは、岩波文庫版の注や地図を見ると、福井県越前市に瓜生という地名があり、そこにあったと考えられているようだが、一説によると瓜生氏は越後国三島郡瓜生から移住してきたという(東京都渋谷区の地名9の起こりである渋谷氏は相模の渋谷庄に本拠があったというように、そこに住む武士の名から地名が生まれた例は少なくない)。越前氏の瓜生は杣山の麓とは言えないので、一考の余地はある(『太平記』の作者が地元の地理を知らなかったというだけのことかもしれない)。それから本文の義貞の心中を推量した語りの中で、後醍醐帝を「先帝」としているのも気になるところではある。なお杣山は現在、国の指定史跡になっているそうである。

 新田義貞・脇屋義助兄弟が杣山で兵を集めているといううわさが京都にも伝わってきて、足利尊氏も捨ててはおけず、一族で越前守護の斯波(足利)高経、その弟の家兼を大将として北陸道7カ国(若狭・越前・加賀・能登・越中・越後・佐渡)の勢6千余騎を指し添えて、越前の国府(現在の越前市国府町)の城に向かわせた。こうして数か月が経過したが、国府に集まった軍勢は数においてまあってはいたが、杣山城は要害の地であって、そう簡単に攻め落とせるものではない。かといって、杣山勢が国府の城を攻撃するのも危険である。そこで両軍は、(それぞれの本拠地の中間の地域である)大塩、松崎の辺に兵を出し、昼となく夜となく小競り合いを繰り返していた。
 斯波高経の国府の城は、18巻に出てくる新善光寺城(福井県越前市京町の正覚寺がその跡地)で、瓜生兄弟の猛攻でいったん落城したものをまた再建したようである。大塩について岩波文庫版の脚注は越前市大塩町としている。大塩八幡宮という神社が現存するが、これは斯波高経にゆかりの神社らしい。この神社の拝殿は国の重要文化財だそうである。北陸本線王子保駅から徒歩30分とある。松崎の方は、大塩の近くらしいがどこのことかは不明だそうである。

 そうこうするうちに、加賀の国の住人敷地伊豆守、山岸新左衛門尉、上木平九郎らの武士たちが、新田義貞配下の剛勇の武士である畑六郎左衛門時能の説得に応じて宮方となり、越前と加賀の境界の地域にある細呂木(福井県あわら市細呂木)の地に城郭を構え、足利方の津波五郎の大聖寺の城を攻め落として、国内に勢力をふるった。
 北陸地方における有力な寺院で多数の衆徒を擁していた平泉寺はこれまで一致して足利方であったのだが、こちらも国内の様子を見て考えを変えたのであろうか、半数以上が宮方に味方するといって分裂し、三峯(鯖江市上戸口町の三峯山)に城郭を構えて、敵を待ち受けた。そこへ近くの武士である伊自良(いじら)次郎左衛門尉が300余騎の兵を率いてこれに加勢したため、一帯の地頭や御家人たちは、対抗できなくなり、それぞれ自分たちの家に火をかけて、国府の足利方の陣に落ち集まる。このようにして北陸一帯に動乱が広がってあわただしくなってきた。
 敷地、上木は石川県加賀市大聖寺、山岸は福井県堺市三国町山岸の、彼らに打ち破られた津葉は石川県小松市津波倉町の武士である。平泉寺は歴史の古い天台宗の寺院であったが、明治時代に神仏分離により平泉寺白山神社という神社となった。伊自良は福井市美山町の武士だそうである。

 三峯の衆徒たちの方から、杣山に使者が送られ、大将となる人物を一人遣わしてほしいと申し送ったところ、脇屋義助が500余騎を率いて、三峯へと向かわせることとなった。牒使(文書を携えた使者)が加賀にもやってきて、合図を定めたので、敷地、上木、山岸、畑、結城、江戸、深町といった武士たちは、新田一族の細屋秀国を大将として、その勢3千余騎、越前の国に侵入し、長崎、河合、川口3か所に城を構えて、次第次第に越前国府の足利勢に迫ってゆく。
 結城は石川県白山市河内町、深町は福井県坂井市丸岡町の武士だそうである。江戸は桓武平氏秩父氏の一門。<以下は『太平記』とは直接関係がないので、注意してください。> 安田元久『武蔵の武士団』(有隣新書)によると、「江戸氏は鎌倉時代を通じて御家人としての命脈を保ち、幕府滅亡後は上野国新田岩松氏の家臣となったが、さらに戦国時代を経て、徳川幕府に仕えるまで、連綿と血脈を伝えている。」(68ページ) 新田岩松氏というのは昨年このブログでも取り上げた峰岸純夫『享徳の乱』に登場するが、足利氏の支流であったが、新田一族を称したという複雑な来歴をもった一族である。田中正造はこの一族の末裔だそうである。<ここから本題に戻ります。>

 斯波高経は6千余騎の兵を従えて、府中(国府)に立てこもっていたが、各地が敵の手に落ちているので、一か所に集まっていては兵糧の不足に苦しむことになり、最終的にはよくない結果を招くだろうと国府には3,000余騎ほどを残し、あたりの山や峰に城を構え、200騎、300騎規模の兵を30か所ほどに分置した。戦場に雪が深くて、馬の脚が立たない時期は、城内の兵を互いに城外で出会わせて、昼となく夜となく小競り合いは起きたのだが、勝敗を決定づけるような本格的な対決はまだ起きなかった。

 海に面した金ヶ崎城と、武生盆地にある国府城とでは周囲の地形が違うし、宮方が勢いを増してきたといっても、足利方はそれなりの兵力をもっているから、斯波高経は半数の兵を残して他の兵を各地に分遣するという策を立てることができた。たしかにこの辺りは山がちなので、要塞を築く場所には不足しないだろうと思われる。越前における戦いは、大軍同士の激突ではないが、宮方の方に新田義貞・脇屋義助兄弟という大物の武将がいるだけに、足利方としては無視できないのである。 

島岡茂『英仏比較文法』(10)

5月7日(月)雨が降ったりやんだり、その後本格的に降り出すが、降り方は断続的

 英語はインド=ヨーロッパ語族の中のゲルマン語派に属しているが、歴史的に長く接触を続けてきたロマンス語派のラテン語とラテン語から分化したフランス語に大きな影響を受けた。特に語彙の点では、25万といわれる英語の語彙のうち、その半数がラテン系の語彙であり、本来のアングロ・サクソン系の英語はその半分の約25%に過ぎない。そのようなラテン系の語彙は、フランス語を経由したり、ラテン語から直接入ったりして英語に取り入れられた。取り入れられた経緯も多様であり、そうして英語の中で定着した意味も様々で、もとの意味から離れてしまっている場合もある。

 Ⅲ 語形成
§10 語形成の方法
 「英語がラテン語やフランス語から借り入れたのは語彙だけではない。その語を形成する方法も多くはラテン語から、あるいはそれを継承したフランス語から借用したのである。」(37ページ)

 「語形成の方法には、…合成・派生の2つがある。合成は2つ、またはそれ以上の語を並列して、1つの語を形成することで・・・英語・ドイツ語を含むゲルマン諸語に多い。これに比べてフランス語には合成語が少ない。それは母胎であるラテン語がそうだったからである。その代わりにラテン語には派生語が目立って多く、そこからフランス語にも派生語が多い。
 合成が語の複合であるのに対して、派生は語と接辞との結合である。接辞は語ではない。それは接合している語を離れて、独立して使用することはできない。」(同上)

 例えば「リンゴの木」という場合に、英語ではappleとtreeを合成してapple-treeとするが、フランス語ではpomme(リンゴ)と接尾辞のierを組み合わせて、pommierとする。と、島岡さんは簡単そうに説明しているが、実はこれと同じような例をほかの果樹で探してみたところ、こちらのフランス語の語彙力の低さもあって、一苦労した。フランス語で「さくらんぼ」をceriseといい(「さくらんぼの実る頃」Le Temps des cerisesという有名なシャンソンがある)、「桜桃の木」をcerisierという。また「プラム、西洋スモモ」をpruneといい、prunierは「プラムの木、西洋スモモの木」である。英語で「さくらんぼ」はcherry,プラムはplumであるが、cherry tree、plum treeという語は辞書には出ていない(当たり前すぎて出ていないということらしい。) いやそもそもapple-treeという語も一般の英和辞書には出ていない。

 「書籍販売業者、本屋」を英語ではbookとsellerを組み合わせてbooksellerという(bookshop, bookstoreという言い方もする)。それはいいけれども(これは以前にも書いたことだが)bookmakerというと、製本業者という意味のほかに、「賭元、私営馬券業者」という意味もある。これに対し、フランス語では「本屋」はlibraireで,livre(本)と接尾辞-aireからできているという。ちなみに英語のlibrary(図書館)に対応するのはbibliothèqueである。

 「歩道」は英語ではseideとwalkをと合成してside-walkであるが、フランス語ではtrottoirという。trotterは「小走りに行く」という意味だからちょっと変な気がするが、この語に接尾辞の-oirがついている。なお、車道は英語ではroadwayが一般的な言い方であろうか、フランス語ではchausséeである。

 「不満な」という意味の英語はdiscontentで、これは「満足している」という意味の形容詞contentに、「不…」「非…」「無…」の意味をもつ接頭辞dis-をつけて反対の意味をもたせたものである(したがってこれは合成語ではなくて、派生語である)。フランス語では形容詞contentに「悪く、悪い;不当に[な];「・・・でない」の意味の接頭辞méをつけてmécontentとする。
 discontentというと思い出すのは、シェイクスピアの戯曲『リチャードⅢ世』の第1幕第1場におけるグロスター公リチャード(→リチャードⅢ世)の独白:
Now is our winter of discontent
今やわれらが不満の冬は去り
Made glorious summer of York,
ヨーク家の太陽によって輝かしい夏となった。
And all the clouds that lour'd upon our house
我らが一族の上に不機嫌に立ち籠めていた雲もすべて
In the deep bosom of the ocean buried.
大海の底深くに葬られた。
 『リチャード三世』は3度映画化されているそうだが、1955年にローレンス・オリヴィエが監督・主演したものを見ている。ロジャー・マンヴェルという英国の映画批評家はこの映画がシェイクスピアの戯曲の映画化の中で一番の傑作だといっているが、その通りかもしれない。

 「現実の、現実的な」という形容詞realに英語では否定の意味をあらわす接頭辞のun-をつけてunrealとするが、フランス語では「現実の」という意味の形容詞réelに「否定、欠如」をあらわすラテン語の接頭辞in-から派生したir-を結びつけてirréelとする。(『現実』という場合にはréalitéなので、注意を要する。) この場合も、英・仏ともに派生語となっている。

 以上の例で分かるように、英語が合成語で表す意味を、フランス語では、派生語で示すことが多い。英語の合成語はほとんどが独自に形成されたものであるが、英語における派生語の多くはラテン語・フランス語からの借入語である。そういうわけで、英語の語形成に及ぼしたフランス語の影響は、ほとんど派生語の研究ということになる。

 派生は接辞によって行われる。接辞にはその接合の位置によって接頭辞・接尾辞の2つがある。(世界にはいろいろな言語があるから、接中辞というのをもつ言語も探せばあるかもしれないが、まあ、ここではそういう詮索はやめておこう。) 
 上の例で英語のdis-, un-は接頭辞、フランス語の-ier, -oirは接尾辞である。これらは独立の語として使用されることはない。接頭辞は付加した後に、一定の(たとえば反対の)意味を与えることはあるが、その文法的な機能(品詞)を変えることはない。
 接尾辞の方はフランス語の-oirがtrott-(歩き回る)について「場所」の意味を付加するだけでなく、動詞から名詞への品詞の変化をもたらす。それだけでなく、接尾辞は転換された名詞を「歩道」のような具体的な事物をあらわす具象名詞ではなく、抽象名詞にすることができるという点を島岡さんは強調している。その例として、ともに「動く、動かす」という意味の英語のmove,フランス語」のmouvoirが接尾辞の-mentをとってmovement, mouvement(動くこと、運動)になる変化が挙げられる。

 このように言葉の意味が抽象化されたり、品詞が自由に転換したりするのは派生語を作り出すことによってであり、インド=ヨーロッパ語族の諸語の中で、ギリシア・ラテン語の両言語がこの点について大きく貢献した。これはこれらの言語を使っていた人々の知的活動が盛んであったことの反映と見ることができる。

 接頭辞に比べて接尾辞の方が重要であり、その数もはるかに多い。接頭辞は品詞に無関係で、2つ以上は重なることがないが、接尾辞は自由に品詞を変えるため、4つまで重なることができる。たとえば、
nati-ion-al-isat-ion
という語をとってみると、nat-はラテン語nasci「生まれる」の分詞幹で接尾辞-io(n)をとって「誕生→種族→国民」と名詞化し意味を拡大した。nat-ionの形は12世紀にこの語を導入したフランス語の形で、そのまま英語でも借用した。-al(<alis)は形容詞の接尾辞で、「国家の」の意味で16世紀にフランス語で初めて使用され、これが英語に入った。-iser, -ize (< izare)は動詞化の接尾辞で、18世紀に国家主義の台頭に伴って「国有化する」意味で初めて使用され、これがさらに名詞化して今日のnationalisationが生まれた(1877)。品詞の転換は動詞→名詞→形容詞→動詞→名詞と4回にわたっている。

 小林標さんは『ラテン語の世界』(中公新書)で次のようなことを述べている。現代にいたっても、社会の変化により新しい事物が生まれ、それを名付ける新しい言葉が必要になったときに、頼ることのできる言葉の調達先:貯蔵庫というのはあまりなく、ラテン語の語彙から取り入れられたり、すでに何度も使われてきたラテン語の語彙が意味を変えて使い直されたりすることが多い。たとえばcomputer はcompute(計算する)という英語の動詞に接尾辞-erを付けた派生語であるが、このcomputerは古フランス語の動詞computerから借入したものである。「それはまさラテン語computare(集めて[con]+考察する[putare]」=「計算する」)が変化したものである。」(小林、8ページ) ところが、輸入した方の英語ではcomputeという動詞は使われ続けたので、computerという語は違和感なく造語されたのに対し、フランス語ではcomputerは使われなくなり、conterとかcompterと縮まってしまった。そこでやむなく、英語からcomputerという語を借用するか、あるいはordinateurという語を新たに作ったりしたのである。
 島岡さんの著書の補足として適切であるかどうかはわからないが、たまたまこの記事を見つけたので紹介しておく。

日記抄(4月30日~5月6日)

5月6日(日)晴れのち曇り、夜になって雨

 4月30日から本日までの間に経験したこと、考えたこと、これまでの記事の補遺・訂正:
4月27日
 3月31日、落語家・のこぎり音楽演奏家の都家歌六さんが老衰のため死去されていたことが分かった。87歳。本名:真野良夫。名古屋市出身。昭和26(1951)年に当時落語芸術協会に所属していた3代目桂三木助(1902‐61)に入門して三多吉、昭和29(1954)年に二つ目に昇進して木多蔵、昭和31(1956)年に4代目三遊亭圓遊門に移って三遊亭万遊、昭和44(1969)年に真打に昇進して8代目都家歌六を襲名。昭和57(1982)年、のこぎり漫談を寄席の芸として確立し、余興から本業として活躍するが、平成27(2015)年に落語芸術協会を退会された。落語レコードの収集家としても知られ、NHKの『ラジオ深夜便』で自らの集めたレコードを披露・解説するコーナーをもっていた。もう30年以上昔だと思うが、ラジオの番組で、三木助門下の弟弟子である9代目入船亭扇橋(1931‐2015)と三木助の思い出を語り合っていたのを覚えている。3代目三木助の弟子だった噺家さんが次々に世を去り、残るのは三遊亭圓輔師匠、柳家小はん師匠、林家木久扇師匠くらいになってしまった。時の流れとはいえ、淋しい。死亡記事には書かれていなかったが、かなりの数のピンク映画に出演していたようである。ご冥福をお祈りする。

4月30日
 シネマヴェーラ渋谷で「映画史上の名作 16」の中から『ジョンソンにはうんざり』(Too Much Johnson, 1938、オーソン・ウェルズ監督)と『女たち』(The Women, 1939, ジョージ・キューカー監督)を見る。
 『ジョンソンにはうんざり』は、ウェルズがマーキュリー劇団を率いていた時代に演劇と組み合わせて上映するために撮影したサイレント作品。編集を施されないまま放置されたフィルムの状態で2013年に発見された。間男のジョセフ・コットンと寝取られ男がニューヨーク中を(最後はキューバまで)追いかけっこするというドタバタ喜劇。未編集なのでそれほど面白くはないが、ウェルズが古いスラップスティック喜劇をよく研究していたことがわかる。
 『女たち』(Wikipediaには『ザ・ウィメン』として取り上げられている)は出演者(どころか出演犬まで)が全部女性という配役で、作品中で上映される小型映画の映像(1930年代にアメリカの金持ちは小型映画を撮影して楽しんでいたというのは驚きである!)のなかにも男性の影は見えないという徹底ぶり。大金持ちの妻メアリー(ノーマ・シアラー)は、高級エステサロンのネイリストを情報源とするゴシップの渦の中で、香水店の店員クリスタル・アレン(ジョーン・クロフォード)に夫をとられ、離婚するが…、やがて反撃に出るというコメディ。ほかにロザリンド・ラッセル、ジョーン・フォンティーン、ポーレット・ゴダードと出演者がとにかく豪華である。

 兵藤裕己『後醍醐天皇』(岩波新書)を読みおえる。岩波文庫版の『太平記』の校訂者による文学者としての目で見た後醍醐天皇像であるが、かなり同情的な書き方で、後醍醐が果たした歴史的な役割を大局的にとらえているとはいえない。先日読んだ豊永聡美『天皇の音楽史』の、後醍醐が大覚寺統の歴代の天皇と同じように笛を学んだほかに、持明院統の歴代が主に嗜んだ琵琶にも手を伸ばしていたというような、具体的な事実の指摘がみられないのが残念である。例えば、後醍醐の詠歌を詳しく検討してみるというような研究上の工夫があってもよかったように思う。

5月1日
 『朝日』朝刊の「私の視点」のコーナーにそれぞれ教育にかかわる重要な問題についての提言が2編掲載されていた。1つは野坂浩美「学校での職業教育 専門の職員登用 制度化」というもので、学校の生徒・学生に実社会における職業の様々な様相や、そのために必要な準備等の情報を与え、また訓練を施すということは大事なことではあるが、社会の変化によって職業構造も変わる事にも配慮する必要がある。あまり個別的に特化した職業教育よりも、健康や体力と、変化に対応できる柔軟な精神の方が大事だという意見も出てくるかもしれず、この提言を受け止めて、さらに議論を尽くす必要があるだろう。
 もう1つは田畑行彦「英語の指導助手 日本語の能力資格要件に」というもので、私もその通りだと思うが、あまり基準を厳しくすると、採用される人物が一人もいなくなってしまう恐れがある。私はラジオの語学番組が好きでよく聞いているのはご承知のとおりであるが、日本語が上手だと思う外国人の出演者は『英会話タイム・トライアル』のスティーヴ・ソレーシーさんくらいなものである(それどころか、日本人の講師でもちょっとねえという人がいないでもない)。採用時点では、あまり日本語が達者でなくても、社交性に富んでいるとか、勉強熱心だとか言うことで急激に上達する可能性のある人もいるかもしれないので、単純に能力だけを見るのも問題がありそうだ。

5月2日
 呉座勇一『陰謀の日本中世史』(角川新書)を読み終える。面白かった。歴史上のいろいろな出来事の背景に陰謀の介在を疑う議論というのは絶えないが、そうした議論の大半が歴史的な事実の断片を拾って勝手につなぎ合わせた妄想にすぎないと丁寧に批判している書物で、その意味で歴史研究の入門書として役立つ。関ヶ原合戦の勝敗の分かれ目になったのが、その前哨戦である岐阜城の攻防戦であったというのは、三池純正・中田正光『竹中重門と百姓の関ヶ原合戦』と共通する認識である。信長の孫の秀信が守っていた岐阜城が東軍の猛攻で陥落したことで、今度は関ヶ原の領主であった竹中重門が西軍から東軍に鞍替えをするという連鎖が起きたというのがどうも最近は有力な説らしい。

5月3日
 ニッパツ三ツ沢球技場でなでしこリーグ第2部第4節、横浜FCシーガルズ対伊賀くノ一の対戦を観戦する。強風の中前半風上に立った伊賀が2点を先取、後半も1点を加えて完勝。シーガルズはところどころでパスをつないでの反撃を見せたが、拙守も手伝い、山本絵美選手のなでしこリーグ200試合出場記録に勝利の花を添えることはできなかった。
 一方、横浜FCはアウェーでカマタマーレ讃岐と対戦し、2-1で勝利。新加入のFW戸島選手が初ゴールを挙げるなど、新戦力が活躍し、明るい材料がみられる。2連勝で5位に浮上。

5月4日
 『日経』の朝刊に教育をめぐり、気になる記事が2件出ていた。一つは連載記事「生産性 考』の中の「スローな教育改革」をめぐり、高い学力は必ずしもイノベーションと結びつかず、「多様性が未来を拓く」のであって、「均質な人材供給」を目指す学力重視型の教育を改める必要があるという主張である。議論をより具体的に深める必要があると思うが、その際に、「多様性」が社会の中のどのような多様性と結びつけるのかが問題ではないか。

 もう一つは一面の下のコラム「春秋」欄で、コーチのバントという指示にもかかわらず、打てそうだと思って打ってしまった少年野球選手の振る舞いを題材とする「星野君の二塁打」という道徳の教材が今年から正式な教科となった小学校の道徳の教科書に載っている。「集団生活における規律やそれを守ろうとする姿勢の大切さ。本当の自由の意味を考えさせ」るというのがその狙いだそうで、コラム子は柳瀬元秘書官の招致と結びつけて「道徳の教材には事欠かぬ当節の行政府である」と皮肉(のつもり)を述べて締めくくっている。
 実は、この教材(道徳が教科でなく「道徳の時間」だった時代には資料といった)は今を去ること40年ほど前に井上治郎・宇佐美寛両氏による道徳の授業をめぐる論争の際に取り上げられたものであり、道徳教育関係者の中では有名なものである。長年、論争の対象となっている資料を、議論の材料として適切だということで教科書に採用することがいいことかどうかというのも一つの問題だが、この資料が道徳教育の世界では有名だということを知らぬげにコラムを書いているコラム子の姿勢も問題ではある。

5月5日
 渋谷東急百貨店本店の美術画廊で「長田佳子日本画展――天衣――」を見る。30代のまだ若い作家で、もともと洋画を勉強したが、その後花鳥画や王朝の風俗を描く日本画の世界に転じたようである。精緻な画風であるが、これがどのように展開していくかが楽しみである。(ご本人が在廊していたのだが、お姿を拝見するのみ。) その後、隣接する会場で「J.M.W.ターナー銅版画展」を見た。損保ジャパン日本興亜美術館で開かれている「ターナー 風景の詩」展に呼応する企画らしい。

 シネマヴェーラ渋谷で「映画史上の名作 16」から『いちごブロンド』(Strawberry Blonde、1941、ラオール・ウォルシュ監督)と『我が家の楽園』(You Can't Take It With You, 1938,フランク・キャプラ監督)を見る。
 strawberry blondeは英和辞典にも出ている単語で説明の必要もないだろうが、赤みがかったブロンドのことをいう。気の短いのが欠点だが、人好きのする青年ビフ(ジェームズ・キャグニー)は仕事を転々としている父親に手を焼く一方で、町内の評判の美人:いちごブロンドのヴァージニア(リタ・ヘイワース)に夢中である。しかし、ヴァージニアには政治活動に熱心なヒューゴー(ジャック・カーソン)や床屋のニック(ジョージ・トビアス)などほかの男たちも熱をあげている。ビフはヒューゴーとともにダブル・デートをすることになり、相手はヴァージニアとその友人で看護婦のエイミー(オリヴィア・デ・ハヴィランド)である。キャグニーとハヴィランドがクレジット・タイトルで主演の位置に並んでいるから、その後の展開は想像がつくのだが、ビフはヒューゴーに出し抜かれてヴァージニアをとられただけでなく、事業に成功したヒューゴーに対して、エイミーと結婚したビフは牛乳配達をしながら、歯科医の通信教育を受けている。ヒューゴーの会社の重役にしてもらったと思ったら、実は彼の会社の手抜き工事の責任を押し付けられて投獄の憂き目にあう。5年間の刑期のうちに、彼はようやく歯科医の免許を得て、別の土地に移り住み、開業するのだが、なかなか患者が来ない。ところが今は政治家になったヒューゴーから歯が痛んで仕方がないという電話がある。ほかの歯医者はみな出払っていて、在宅中だったのはビフだけなのである・・・
 タイトル・ロールを演じているリタ・ヘイワースは実際にはブルネットだったのを製作者の指示で赤く染めたのだそうだ。カラー初期の映画にこの赤毛が映え、1940年代のハリウッドにおけるセックス・シンボルとなった。『いちごブロンド』は白黒映画なので、赤毛の魅力がそれほど出ていない。同じ白黒映画でも、一時期結婚していたオーソン・ウェルズの監督作『上海から来た女』の中で発揮している魅力は恐るべきものである。ビフを懸命に支えるエイミーを演じているオリヴィア・デ・ハヴィランドが最終的に観客の感動をさらっていくところ、やはり女優としては上である。

 『我が家の楽園』は好き勝手に生きている変わり者の爺さんとその一家の娘(ジーン・アーサー)が、彼らが住む家と土地の買収をもくろむ大富豪の息子(ジェームズ・スチュアート)と恋に落ちたことで起きる騒ぎを描いた喜劇。ジェームズ・スチュワートの若さが印象的。映画史に残る傑作に数えられるこの映画は何度か見ているが、自分が年を取るにつれて、目の付け所が変わってきていることが実感できた。

 この日は、ドイツの思想家カール・マルクスの生誕200年ということで、彼の生誕地であるトリアーでは記念式典が開かれ、これに抗議する右翼のデモもあったそうだ。また、これを記念して0ユーロのお札が発行されたが、短期間で完売し、さらに増刷されるという。 

5月6日
 横浜FCはアウェーで町田ゼルビアに0-1で敗戦。

フローベール『感情教育』(8‐4)

5月5日(土)晴れ

第1部のあらすじ
 1840年、法律を学ぶためにパリに出た18歳の青年、フレデリック・モローは美しい人妻アルヌー夫人に恋心を抱くが、なかなか思いを遂げることはできない。法律の勉強に身が入らない彼ではあったが、さまざまな未来を夢見ている同世代の青年たちとの交流によって、少しずつパリの雰囲気になじんでいく。法律の学位をとって、さらに活動範囲を広げようとした矢先、故郷の母から家庭の経済状況が悪化しているという話を聞かされ、地方の法律事務所で数年を過ごす。しかし、1845年12月に彼の裕福な叔父が死に、その遺産を相続することになって、またパリに出ることを決心する。

第2部のこれまでのあらすじ
 フレデリックは久しぶりにパリに戻ってくる。彼の不在中に様々な変化があり、特にアルヌーは画商をやめて、陶器商に転業していた。アルヌー夫人が再会に際して連れない様子を見せたように思ったフレデリックは、社交界に進出しようと考えて、ダンブルーズ邸を訪問する。その一方で、アルヌーに連れられて出かけた「舞踏会」の主人であったロザネットとも親しくなる。
 彼は昔の仲間たちを集めて新居を披露しようと思い立ち、高校時代からの友人で弁護士のデローリエ、詩人でジャーナリズムの世界で活躍しているユソネ、理論倒れの画家ペルラン、店員のデュサルディエ、復習教師を首になって工場の書記をしている独善的な社会主義者のセネカル、名門の貴族出身で世間知らずでおとなしいシジーがやってくる。シジーも祖母が死んで莫大な財産を相続したのだが、そういうことはひけらかそうとしないのである。

 いよいよ食事が始まる。フレデリックは自分の羽振りのよさを見せようと、料理にも食器にも贅を凝らした食事でもてなすのだが、こういう心遣いにも無関心なのがセネカルである。彼は手製の《できるだけ堅い》パンがほしいといい、そのついでにフランス中部のベリー地方のビュザンセの町で起きた農民暴動と食料飢饉の話をする。そして農業をもっと保護していれば、このようなことは起きなかったと、七月王政による自由放任主義的な農業政策を批判する。(なすにまかせよ)という格言に沿った政策の結果がこの体たらくである。「かくして、かつての封建制度よりもなおたちの悪い、金銭の封建制度が形成されつつあるというわけだ。」(光文社古典新訳文庫版、320ページ/この個所は、こちらの方がわかりやしので、岩波ではなくこちらの方を利用した。岩波文庫版では219ページに相当する。)
 しかし、このままではすまない、必ず、民衆が立ち上がるだろうとセネカルは言う。(1848年の二月革命はすぐそこまで近づいているのである。) 「そうなれば、民衆の耐えしのんだ苦痛の代償として、資本家たちは容赦なく追放されたり、邸宅を強奪されたりするのだ。」(光文社版、320ページ、岩波文庫版、219ページ) フレデリックの脳裏に、ダンブルーズ邸が襲撃され、略奪を受けている場面が浮かぶ。
 ビュザンセは現在ではサントル=ヴァル・ド・ロワール県に属する町で、1846から47年にかけての冬、フランスを襲った飢饉が原因で暴動が起きた。セネカルの正義感はわからないでもないが、豪華な食卓を前に、飢饉と暴動の話をするのはあまり良い趣味とは言えない。貴族出身の資本家であるダンブルーズに取り入ろうとしているフレデリックにとって気味のよい話ではないし、食卓には正統王党派の,シジーも連なっているのである。そして来るべき革命の際にセネカルがどのような態度をとることになるかも、読者は気に掛けるはずである。laissez-faireというのはフランス重農学派の一人で、ルイⅩⅥ世の財務総監をつとめたこともあるテュルゴーの言葉。七月王政は重農学派の主張に基づく農業政策を展開したのだが、その結果は好ましいものではなかった。

 セネカルはさらに低賃金の労働者の生活の悲惨さに話題を転じ、結局、マルサスの『人口論』をもとにある英国人の医者が主張しているように、労働者は自分の子どもの間引きを行うべきなのだろうかと(他ならぬ)シジーに問いかける。シジーは(ものを知らない人間なので)マルサスの名も知らなかったから、貧しい人々には今でも救いの手が差し伸べられているという。上流階級は慈善事業に取り組んでいる…。
 シジーの言い分をセネカルは一笑に付す。「まず、上流階級などというものはないよ。人間の地位が高くなるのは心によってのみさ。我々は施し物なんかちっともほしくない。平等と生産の公平な分配を求めているのだ」(岩波文庫版、220ページ、光文社版、320‐321ページに相当) セネカルの階級観と、そこから推測できる彼の社会主義の性格は、一方で社会の改革のために果たす人間の精神の役割に重きを置き、他方で物質的な条件の平等化を求めるものである。
 「彼の望むことは、兵士が大佐になるように、労働者が資本家になりうることだった。職工組合は少なくとも徒弟の数を制限して過剰を防いでいた。そして、労働祭や組合旗によって友愛の感情がよく保たれていたのだ。」(岩波文庫版、220ページ、光文社版、321ページ)
 詳しいことは、光文社古典新訳文庫版の傍注を見るとわかるが、岩波文庫版の「職工組合」、光文社古典新訳文庫版の「宣誓ギルド」は、その後発展した労働組合とはかなり性格の異なったものであるらしい。

 「ユソネは詩人として、そういう旗を懐かしがった。ペルランもそうだった。カフェ・ダニョーでフーリエ主義者の話を聞いて以来、それが好きになっていたので。彼はフーリエを偉人だといった。」(岩波文庫版、220ページ、光文社版、321ページ)
 ペルランの意見に対し、デローリエはフーリエやサン=シモンはフランス革命の精神に反対してカトリックの再興を企てる復古主義者にすぎないと口をはさむ。
 フーリエもサン=シモンも知らないシジーは、その2人はヴォルテールと同意見なのかとひどく的外れな質問をする。(フランスの啓蒙思想と初期社会主義は関連する部分があるかもしれないが、同列に論じることはできない別個の思想である。こういう質問をされると、誰も答えようがない。)

 そこでほかの時事問題に話題が変わるが、政府の政策、特に増税に対して不満を募らせているのはみな同じである。その税金の使い道、上流階級の暮らしぶりがやり玉に上がる。また芸術政策が批判される(このあたり、いかにもフランスの話である)。「二十年来、あらゆるサロンで落選してきた」(岩波文庫版、222ページ、光文社版、324ページ)ペルランが、大学に美学の講座を設けろと主張しはじめる。(実作はだめでも理論に強い彼ならば、画家としてよりも、美学の教授になる方が見込みが立つと自覚し始めたらしい。) ペルランはユソネが編集している新聞で、この主張を広めるように言うが、そこにデローリエが割って入り、大演説を始める。フランスにはそんなことを記事にする程言論の自由は認められていないという。最後には、
 「現代の制度、すなわち、特権、専売、管理、階級、権力、国家などというものの徹底的破壊のために乾杯します」 それからいちだん声をはり上げて、「ちょうど、このように砕きたいのだ!」と、脚付きの美しい杯をテーブルにたたきつけた。コップは粉々に砕けた。」(岩波文庫版、223ページ、光文社版、325ページ)

 この演説にみんなが拍手し、デュサルディエが一番感動する。(何も書かれていないが、せっかく買いそろえた杯を壊されたフレデリックは内心ではいやな気持であったのではないかと思う。招待客とフレデリックの気持ちがすれ違っていることがいよいよはっきりしてくるが、ここではまだそこまでは書かれていない。) デュサルディエはほかの連中のように知識も教養もないが、この顔ぶれの中ではいわば庶民代表というべき地位にある彼は、共和制への情熱という点では誰にも負けない。
 彼は知識豊かな他の参加者たちの会話を、昔のように楽しんで聞いていたが、とうとう我慢しきれなくなって、ルイ=フィリップがポーランドを見捨てたことは許せないと発言する。すると、ユソネはポーランドなどという国は存在しないのだ、想像の産物なのだといい(「国家は幻想の共同体」であるという理論から言えば、その通りにちがいないが、当時の民族自決を目指すヨーロッパ各民族の動きを考えると、ひどく頭でっかちな見解である)、セネカルはユソネの言葉尻をとらえて、議論のための議論を始める。
 「フレデリックはこういう連中の思い思いの議論に少々呆れていた。」(岩波文庫版、224ページ、光文社版、328ページ)

 昔の仲間たちを集めて、自分が裕福になったことを知らせ、少しは恩を施そうというフレデリックの目論見は、あまりにも浅はかで、そもそも雑多な主張の持ち主の集まりだった招待客一同は、それぞれ勝手なことを言い、その話題の少なからぬ部分がフレデリックの気を悪くさせるようなものである。しかし、フレデリックとしてみれば、そこから何事かを学ぶべきではないのかという気もする。時代は、変革を求めて動き始めている。社交界(le monde)や半社交界(le demimonde)のことなど忘れて、その変化にどのように対処するかを考えるべきなのだが、果たしてフレデリックはどのようにふるまっていくのであろうか。
 この小説を読み始めた動機の一つは、初期社会主義者の主張と、それがどのように同時代の青年たちに受け入れられたかを文学者の目で描いた部分を再確認しようということであったのだが、今回はまさにそういう個所である。理論的なセネカルと、芸術家であるユソネやペルランとでは社会主義の受容の仕方が違っているところなど、時代精神の様相が細かく再現されているところにフローベールの作家としての技量を見ることができる。

佐藤信弥『中国古代史研究の最前線』(5)

5月4日(金)晴れ
 
 この書物は中国古代(特に先秦時代)の歴史についての基礎的な知識、新たな発見や研究の成果を紹介することを目的としている。
 第1章「幻の王朝を求めて」では殷王朝やそれ以前の夏王朝、そして「縦目仮面」など独特な形状の青銅器で知られる三星堆遺跡に関係する発見・研究を取り上げた。
 第2章「西周王朝と青銅器」では殷の次の西周期について取り上げた。

 今回から第3章「春秋史を『再開発』するには」についてみていく。第3章は、これまでの2章とは章題の付け方も、論調もかなり違っている。それは結局のところこの時代が、春秋五覇の存在や孔子の時代であることによって一般の歴史愛好家の関心が高い一方で、その研究が「古代史の中でやや停滞している」(139ページ)からであるが、停滞の理由について述べた後、近年になって発見された新しい史料の解読により、この時代の研究に多少の変化がみられてきていることも抜け目なく取り上げている。

 西周は幽王の時代に犬戎(玁狁=けんいん)と呼ばれる勢力に攻め込まれ、滅亡した。幽王の子平王は紀元前770年に都を宗周(いわゆる鎬京)から成周(洛邑)に移したとされる。世界史では古代ギリシアでオリンピックが行われた最古の記録が確認されるのが紀元前776年、ローマが最初の王ロムルスによって建設されたのが紀元前753年とされている。佐藤さんはこのあたりの年代はあまり定かではないと断っているが、歴史学研究会編『世界史年表』によると、ほぼ同じ時代に、のちにローマと地中海の覇権を争うカルタゴがフェニキア人によって植民されている。ホメロスの二大叙事詩『イーリアス』と『オデュッセイア』の成立はこの少し後の8世紀前半、スパルタにおけるリュクルゴスの改革と、ヘシオドスの『仕事と日』『神統記』の成立は紀元前700年ごろ、同じ時代にイスラエルでは北のイスラエルと南のユダが対立・抗争していた。インドで仏教の経典に登場するマガダ国のビンビサーラ王が即位したのが紀元前546年ごろだそうである。(『日本書紀』によると神武天皇の即位は紀元前660年ということになっている。)

 この東遷以後の時代を東周期と呼び、東周はさらに春秋期と戦国期に分けられる。春秋期は周の諸侯国の1つであった魯の年代記である『春秋』に、戦国期は遊説家と各国の君主や有力者との対話などを収めた『戦国策』に因んだ命名である。
 春秋期には周王の力が弱まり、各地を治める諸侯やその臣下たちが時代を動かす中心となっていく。そして斉の桓公や晋の文公のような「覇者」と呼ばれる諸侯の盟主が現れ、「尊王攘夷」を唱えて周王室を支えようとした。桓公や文公の前に立ちはだかった打ち攘(はら)うべき「夷」とは、南方の楚国であった。春秋期の代表的な覇者を「春秋の五覇」というが、その5人が誰であるかについての定説はない。こうした覇者や諸侯たちを支えたのは、斉の桓公を補佐した管仲や、斉の恵公に仕えた妟嬰(あんえい)、晋の文公を支えた狐偃(こえん)や趙衰(ちょうし)、鄭の子産、呉に仕えた伍子胥や孫武、その呉と対立する越王勾践に仕えた范蠡といった名臣たちであった。また儒家の始祖とされる孔子は、呉越対立の時期に活躍した人物である。彼らの活躍ぶりは、宮城谷昌光をはじめとする何人かの作家の小説の題材となっている。〔つまり、それだけ面白い内容を含んでいることであるが、その面白さがどのようなものかを分析・考察してみる必要もある。〕

 これらの人々の事績は主に『春秋』の注釈の一つである『春秋左氏伝』(略して『左伝』)に見えるものである。ではこの『左伝』とはどのような文献であり、この時代についての史料としてはほかにどのようなものがあるのか。
 すでに述べたことの繰り返しになるが、春秋期の研究は、それまでの時代の研究に比べて歴史愛好家からの注目度は高いが停滞傾向にある。それはこの時代についての通念を覆しかねないような出土文献がほとんどなく、『左伝』や『国語』(春秋期の国別に説話を集めた文献)などの伝世文献が主要な史料であり続けたからである。

 『春秋』は、周の諸侯国の一つである魯国の年代記であり、隠公元年(前722年)から始まって、哀公14年(前481年)までの241年間にわたって、1年ごとに主要な出来事を記録している。ただし『左伝』に附載されている『春秋』は2年増えて哀公16年(前479年)までとなっている。
 『春秋』の本文のことを経文(けいぶん)と呼ぶが、各条とも記述がかなり簡潔である。(というより簡潔すぎる。) そこで補足や解説のために、『公羊伝』「穀梁伝」『左伝』という「伝」がつくられた。このうち、『公羊伝』と『穀梁伝』は経文に込められた文意を解き明かそうとするものであるのに対し、『左伝』は経文に対応する説話を採録して、『春秋』の記述の補足・解説としている。(説話の要素が盛りだくさんなので、面白く読めるのである。落合淳思さんが書いていることだが、『春秋』は簡潔に過ぎ、『左伝』は余計なことまで書きすぎている。面白いと書いたが、面白すぎるかもしれない。)

 例えば、『春秋』の巻頭の隠公元年の記述で、「夏五月、鄭伯段に鄢に克つ」を解説するために、鄭伯≂鄭の荘公についての次のような説話を展開する。荘公は逆子で生まれたために母の武姜に憎まれ、その弟の共叔段がかわいがられた。武姜が荘公に共叔段のために領地となる邑を求めたので、荘公は規模の大きな京(けい)の地を与えた。臣下の者は荘公に共叔段への対処を諫言したが、荘公は聞き入れなかった。共叔段は調子に乗って周辺の邑を服属させ、さらに反乱を企てたが失敗し、鄢のちに立てこもって兄と戦って敗れ、出奔する。荘公は弟の謀反に加担しようとした母武姜を幽閉し、「黄泉(こうせん)に行くまでは二度と会わない」と誓いを立てたが後悔し、地下水の湧くところまで地下道を掘ってそこで会えば誓いを破ったことにならないという臣下の頴考叔(えいこうしゅく)の入れ知恵により再会を果たし、母子の仲直りをした。

 ただし、『春秋』の全ての経文について伝がつけられているわけではないし、対応する経文がない伝文も多い。また魯だけでなく晋や楚など様々な国の説話を含んでいることも特徴である。『左伝』には偽作説もあったが、現在では否定されており、戦国期に成立したと一般に考えられている。ただし、春秋期までさかのぼる素材も利用されているのではないかという議論もある。
 史料の性質や作成された背景などを明らかにし、その史料から妥当な歴史像を導き出すための手続きを史料批判というが、『左伝』についてはその読解とともに、史料批判が積み重ねられてきた。佐藤さんは小倉芳彦による『左伝』の記述の3分類を重要な手掛かりとして紹介している。3種類の記述とは:
 (1) 春秋期に関する史伝を比較的忠実に語っている実録風の部分。
 (2) 事件に登場する人物の発言の形式で、史伝に思想的な解説を加えた部分。
 (3) 以上の内容を踏まえて、それを『春秋』経文に結びつけたり、「君子」や「仲尼(孔子の字)」など第三者の発言という形で批評を書き加えたりした部分
である。(1)からとりあえず春秋期の史実の展開を読み取ることができる。(2)と(3)とはその史実に対する戦国期の認識や解釈を示した部分であり、思想史や歴史認識を知る手掛かりとしては利用できる。約半世紀前に展開された小倉のこれらの研究をもとに、さらに最近の研究が進められているという。

 『左伝』は様々な要素を含んだ書物であり、研究者によっては古代中国の民俗をそこから読み取ったり、また当時の記録を史料として利用している可能性があるということなど、「質の面での『左伝』自体の魅力が、春秋史研究者を『左伝』に執着させてきたのである。しかし新資料の出現により、その状況が変わりつつある」(150ページ)と、佐藤さんは新しい研究の展開を紹介しようとしているが、それは次回に論じることにしたい。

 私の読んだ限りで『春秋左氏伝』はもっとも面白い歴史書に数えられる。これと肩を並べるのはヘロドトスの『歴史』と、(歴史書に含めるのには異論があるかもしれないが)旧約聖書の『サムエル紀』『列王記』である。内容が正確だとか、鋭い歴史観が含まれているといういいではなくて、単に読んでいて面白いということである。つまり説話的な面白さに富んでいるということである。英語ではstoryとhistoryを分けているが、フランス語のhistoireやドイツ語のGeschichteは「物語」「歴史」両方の意味を持つ。先に紹介した鄭の荘公の説話でも様々な読み方、受け取り方ができる。荘公が弟が起こした内乱に勝利したというのが歴史的な事実であるが、その事実を取り巻いて、ほかの説話が利用されたり、創作されたりしたのであろうが、さまざまな人間劇が展開される。勝利に至るまでに彼が示した我慢強さや戦略的な見通しの確かさ、あるいは堪忍袋の緒が切れた形で母親を幽閉するがその後で和解するという愛憎の交錯、家臣の諫言を退けたり、受け入れたりする度量の幅など、読み手がいろいろに解釈できるし、物語を膨らませることもできる。中島敦が『李陵』の中で司馬遷について語っているが、歴史記者が自分の書いている歴史の中の登場人物に感情移入してしまうということもあるだろう。

 興味深いのは、小倉芳彦の3種類の記述の3で、『左伝』だと事実について客観的な形で評価がなされているというが、『史記』では「太史公曰く」となって、著者がひそかにではあるが自分の顔を出し、ヘロドトスやトゥキュディデスの場合には著者自身の意見が語られ、旧約聖書では神の意志が作者の評価として使われていることである。このあたりのことは、もう少し具体的な形で議論してみたいと考えている。(日本の歴史書で、こういう意味で面白いのは『大鏡』であるが、『左伝』から『大鏡』までは1000年をはるかに超える年月が経っていることを忘れてはならない。あるいは、「四鏡」のそれぞれの語りの問題を比較・論評するのも面白いとは思うが、まだ『今鏡』を読んでいないので、取り掛かれずにいる。岩波でも講談社でもいいから、『今鏡』を復刻してほしい‼‼‼)  

思い出は 遠近法を無視した絵のように

5月3日

思い出は 遠近法を無視した絵のように

思い出は
遠近法を無視した絵のように
昔々の出来事も
つい最近の出来事も
同じように並べる

小学校の林間学校で追いかけたトンボの羽
大学前でビラを配っていた姿に驚いていた同級の女性の顔
高校に通学する電車の中でいつも一緒の車両にいた他校の女子生徒の白い顔
幼稚園時代に住んでいた家と、幼稚園へのみち
そして幼稚園へのみち、小学校へのみちに咲いていたホタルブクロの花

思い出は
和声法を無視した
音楽のように
心を騒がせ
心に迫る

毎年、毎年、大学を見下ろす丘の上で咲き、散っていった桜の花
一度だけ 唇を交わした 秘密の出会い
大学の中の年代物の建物の中で見た映画『去年マリエンバートで』
何も知らずにその前を通って行った藤田嗣治の絵

暗闇の暗さ
漆黒の黒
雪国の雪の白さ
そして
白いことと透明であることは違うこと

エラスムス『痴愚神礼賛』(19)

5月3日(木)朝のうちは雨が残っていたが、その後、晴れたり曇ったり

 鈴の付いた阿呆の帽子をかぶり、道化の扮装をして聴衆の前に登場した痴愚の女神が、自分の存在は世の中と人々の心を明るくするのに、そのことが認められていないといって、自賛の大演説を展開します。人生は痴愚とともにあり、学問も芸術も痴愚とその仲間によって築かれてきたのだというのです。そして、賢人と自他ともに認められているような人も実は痴愚に囚われているのであるといいます。さらに痴愚を称賛することわざはたくさんあるといい、特に聖書の中のそのような言葉をあまた引用します。さらに神に愛されるのは愚かな人々だと断言し、痴愚は天国でも歓迎されるとまで言います。

〔67〕
 敬虔な人とは、永遠なもの、精神的なものを愛する人々であり、そのことによって魂が肉体を離れて忘我に陥ることがあるが、それは幸福な狂気と呼ぶべき状態だと女神は言います。天上の世界は浄化された精神からなり、魂が肉体を離れる状態になることは、天上の世界の幸福のかけらを味わうことです。地上での忘我の状態は一時的なものですが、それはやがて訪れるはずの永遠の幸福の予告なのだといいます。女神は痴愚と狂気を同類と考えているようですが、セルバンテスの「びいどろ学士」のように、この両立しないと考える人もいます。

〔68〕
 痴愚の女神は、自分がその本分を忘れて神秘的、哲学的な長広舌をふるってしまったことを恥じるようなそぶりを見せます。そして「この私があんまりにも無遠慮にものを言い、おしゃべりが過ぎるとみなさまが思われましても、そうしているのが痴愚女神であり、女なのだということを説くとお考え下さい」(224ページ)と言い訳めいたことを言います。そう言いながら、それに続けて「『愚者モ時ニハ時宜ヲ得タコトヲ語ㇽ』(224‐225ページ)というギリシアの諺を聴衆に思い出させようとします。

 女神は、言いたい放題の放言を展開してきたが、そろそろこの演説も終わりに近づいているようだといい、気の利いた結びの言葉を述べたいけれども、これまで自分が言ってきたことはほとんど忘れたし、聴衆の皆さんもたぶん同じだろうといいます。それでもしきたりに従って、少しばかり彼女なりの趣向を添えて、演説を結びます。

 「さればごきげんよう、拍手喝采のほどを。御健勝にて、御献酬なさいませ。痴愚女神の秘儀に通じた、その名もいや高きみなみな様。完(テロス)。」(225ページ)
 沓掛良彦さんの「注」によると、「拍手後喝采を」(Plaudite)とは、ローマの喜劇で幕引きに際して舞台の上から観客に向かって言われる言葉だそうです。また、エラスムスは、喜劇で最後の挨拶として言われる「みなさま、ご健勝であられませ」(Vivite)に、さらに「皆様お飲みなさりませ」(bibite)という音の似た言葉を加えて、vivite,bibiteとしゃれた地口でこの作品を締めくくっているといいます。そこで沓掛さんはその面白さを何とか日本語に伝えようと、「御健勝(ごけんしょう)にて、御献酬(ごけんしゅう)なさいませ」と訳してみたといいます。『ガルガンチュアとパンタグリュエル』の『第五の書』はラブレーが書いたかどうかは疑わしいとされていますが、最後に、パニュルジュが「神聖徳利」から受ける宣託は「飲め」ということであったのを思い出します。沓掛さんは、単なる地口と考えておいでですが、人生を楽しめという意味が込められるとも解釈できます。
 最後に、「終わり」、「完」を意味するラテン語Finis(フィニス)ではなくてΤὲλος(テロス)とギリシア語が使われています。

 予定より少し長くの時間がかかってしまいましたが、これで『痴愚神礼賛』はおしまいです。この本の面白さは、(ギリシア語交じりの)ラテン語の原典で読んでみないとわからないような気がしました。一応、ラテン語もギリシア語も学習中ですが、果たしてこの書物を読みこなせるような水準に到達いたしますことやら…。
 『痴愚神礼賛』に続いては、この書物の著者エラスムスの親友であったトマス・モアの『ユートピア』を取り上げることにします。お楽しみに。
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