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2018年の2018を目指して(4)

4月30日(月・振替休日)晴れ

 4月に新しく出かけた場所はなく、足跡を記したのは1都1県、2市6特別区のままである。
 利用した鉄道は5社、9路線、12+1駅と変わらず。
 バスについては神奈中バスを新たに利用したので6社、新たに横浜市営の25,207、神奈中の港61、相鉄の浜5、浜1の4路線がが加わり、18路線、停留所も4か所が加わって20か所となった。 〔73+8=81〕

 このブログを含めて30件を投稿、内訳は日記が6、読書が19、『太平記』が4、推理小説が1ということである。1月からの累計は123となり、内訳は、日記が22、読書が77、詩が3、推理小説が2、未分類が1ということである。読者の方々から頂いたコメント、拍手コメントはなく、1月からの累計はコメントが10件、拍手コメントが1件ということである。拍手は637で、1月からの累計は2270ということである。〔104+30=134〕

 12冊の本を買い、1冊の贈呈を受けた。買った本・贈呈された本の1月からの累計はちょうど50冊である。読んだ本は10冊で、1月からの累計は37冊である。読んだ本を列挙すると:佐藤信弥『中国古代史研究の最前線』(星海社新書)、円居挽『京都なぞとき四季報』、司馬遼太郎『街道をゆく10 羽州街道 佐渡のみち』(朝日文庫)、トマス・モア『ユートピア』(中公文庫)、豊永聡美『天皇の音楽史 古代中世の帝王学」(吉川弘文館:歴史文化ライブラリー)、三池純正・中田正光『竹中重門と百姓の関ヶ原合戦』(洋泉社:歴史新書)、武井弘一『茶と琉球人』(岩波新書)、円居挽『キングレオの冒険』(文春文庫)、兵藤裕己『後醍醐天皇』(岩波新書)ということである。〔30+10=40〕

 NHK『ラジオ英会話』を20回、『遠山顕の英会話楽習』を11回、『入門ビジネス英語』を8回、『高校生からはじめる現代英語』を8回、『実践ビジネス英語』を12回聴いている。1月からの通算では『ラジオ英会話』を79回、『短期集中! 3か月英会話』を35回、『入門ビジネス英語』を32回、『遠山顕の英会話楽習』を11回、『高校生から始める現代英語』を33回、『実践ビジネス英語』を48回聴いていることになる。このほかに『英会話タイム・トライアル』、『エンジョイ・シンプル・イングリッシュ』、『世界へ発信! ニュースで英語術』もできるだけ聞いているが、数には入れていない。
 『まいにちフランス語』、『まいにちスペイン語』、『まいにちイタリア語』の入門編をそれぞれ12回ずつ聴いている。1月からの通算では、『まいにちフランス語』の入門編が48回、応用編が23回、『まいにちスペイン語』の入門編が48回、応用編が23回、『まいにちイタリア語』の入門編が48回、応用編が23回ということである。各言語番組の応用編は再放送なので、数には入れていない。また『ポルトガル語入門』を3回聴いた。〔357+98=455〕

 神保町シアターとシネマヴェーラ渋谷で4本の映画を見た。シネマヴェーラで映画を見たのは今年に入ってから初めてなので、1月からの通算では、映画館5館で10本の映画を見たことになる。見た映画を列挙すると:『雑兵物語』(1963、大映、池広一夫監督)、『秋日和』(1960、松竹大船、小津安二郎監督)、『ジョンソンにはうんざり』(1938、オーソン・ウェルズ監督)、『女たち』(1939、MGM、ジョージ・キューカー監督)である。10本の内訳は日本映画旧作6本、外国映画新作2本、外国映画旧作2本ということで、珍しく日本映画の新作を見ていない。この辺りが今後の克服課題になりそうである。〔11+5=16〕

 ニッパツ三ツ沢球技場でJ2の試合を4試合、保土谷公園サッカー場でなでしこリーグ2部の試合を1試合見たので、1月からの通算は3か所の競技場で12試合を見たことになった。また、ミニtotoを2回あてた。〔11+6+2=19〕
 
 酒を口にしない日は3日であった。4月は予想以上に煩悶が多かったということであろうか。〔12+3=15〕
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日記抄(4月23日~29日)

4月29日(日)晴れ

 4月23日から本日までの間に経験したこと、考えたこと、前回までの記事の補遺・訂正等:
4月13日
 「火のない所に煙は立たぬ」に相当する英語の諺は
Where there's smoke, there's fire. (煙があるところには火がある)
だと書いたが、フランス語では
Il n'y a pas de fumée sans feu.(火がなければ煙はない)
と、日本語に近い表現になっている。

4月17日
 『日経』に「小松左京さんが描いた漫画発見」という記事が出ていた。小松さんが若いころに、モリ・ミノル名義で漫画を出したことは、既に知られていることで、今回の発見は、未発表の漫画の下書きが、初期のSF作品の原稿の裏から発見されたということである。その点では、見出しの付け方や、記事の書き方にもう少し配慮があってもよさそうである。
 私と同期に入社した社員で、小松さんに対して、僕はSFに興味があるのでいろいろと教えていただこうと思いますと入社の際にいっていた男がいたが、SFの習作(完成した作品ならもっといい)、批評とかを小松さんのところに提出していたのかどうかは不明。この男、1年とちょっとで会社を辞めた私よりも、さらに早く会社を辞めた。

4月23日
 NHKラジオ『まいにちフランス語』入門編の4月は、学校を舞台にした会話を中心に番組が構成されているが、番組の終わりの「文化へ一歩近づこう」のコーナーで、フランスの生徒たちが好きな科目は何か、パートナーのクロエさんはどんな科目が好きだったかという話題が取り上げられた。

Selon un récent sondage en ligne, les matières préférées des Français sont en ce moment l'hisoire-géographie, les mathématiques et le français.
(ある調査会社がインターネット上で行ったアンケートによると、フランス人が好きなのは最近だと歴史・地理、数学、そしてフランス語です。) 4月号テキストには「歴史、地理」とあったが、フランスの小学校では4・5年に「歴史・地理」という教科が配当されていて、そのことだと思われる。
(J'ai aimé) le français et la philosophie! Au lycée, on fait beaucoup de dissertations pour apprendre à penser et à analyser. Avoir l'esprit critique est très important, et ce dans toutes les matières!
{私は(=クロエさんは)}フランス語と哲学の授業が好きでした。高校では小論文をたくさん書いて、考えることや分析することを学ぶんです。批判精神をもつことがとても大切で、どんな授業でも求められるんです!
 学校の階梯を進むにつれて、教科も、その教科についての個々の児童・生徒による好き嫌いも変化するから、ここでの質問は漠然としすぎているという感じがしないでもない。それに児童・生徒には個性があるから、すべてのフランスの高校卒業者がクロエさんと同じように考えているわけではないということも、留意しておく必要があるだろう。

4月24日
 『まいにちフランス語』ではフランスの学校での体育の授業のことが話題になった。
On ne fait pas beaucoup de sport à l'école, l'heure d'EPS, c'est plutôt un moment de convivialité partagée et c'est miste. (学校ではあまり運動をすることはありません。体育の授業はどちらかというと和気あいあいとした、楽しい時間です。男女一緒に授業を受けるんですよ。)

 同じくNHKラジオ『  遠山顕の英会話楽習』に
That's a feather in your cap. (それがあなたの誇りの羽飾り=誇りとするところ ね)という表現が出てきた。a feather in ...'s capは「…の誇りとするところ、自慢の種」という意味で、アメリカ先住民が武功を立てるたびにヘッドドレスに羽根を加えたところからこの表現が生まれたと説明されていたが、ヨーロッパでも帽子に羽根を飾ることはしていたのではないだろうか。齋藤秀三郎の『熟語本位英和中辞典』にIt is a feather in his cap. 名誉(自慢)になる物という記事があるので、かなり古くから使われている表現であることは確かである。

4月25日
 プロ野球広島カープで長い間活躍され、2215試合連続出場という日本記録を樹立された衣笠祥雄さんが上行性結腸癌のため23日に亡くなられたことが報じられた。衣笠さんですごいと思うのは、右投げ右打ちの選手として活躍されたのだけれども、テレビなどで日常的なしぐさを見ていた限りで左利きであったということである。謹んでご冥福をお祈りします。

 「朝日川柳」に
『新潮』に乗らねば今もセクハラか
という大阪府の遠藤昭さんの川柳が掲載されていた。ここで『新潮』というのは『週刊新潮』のことで、川柳として形を整えるためにこう書いたのはわかるが、なぜか、山口瞳が昔住んでいた元住吉近くの本屋の物知らずぶりを慨嘆している文章を思い出した。『新潮』をくださいというと、『週刊新潮』をもってくる、それじゃないというと今度は『小説新潮』をもってくる。『新潮』という雑誌があることを知らないのだろうか…。そういえば、最近は「文春砲」という言い方もされるが、これも『週刊文春』のことであって、『文藝春秋』についてではないようである。

 『遠山顕の英会話楽習』では今週の学習内容の復習の後、ザ・シーカーズの「ジョージー・ガール」という歌を取り上げた。英国の作家マーガレット・フォースター(1938‐2016)の第2作目の小説『ジョージー・ガール』の映画化(1966、シルヴィオ・ナリッツァーノ監督)で主題歌として作曲されたが、日本では1967年に歌の方が先にヒットして映画の方が後から公開されたという経緯がある。この映画を私は2回見ている。(なお、1970年にはブロードウェー・ミュージカル『ジョージ―』が上演されたという。) 
 ヒロインのジョージーはのっぽでのろま、まったく男にもてないが子ども好きという若い娘。彼女をヴァネッサ・レッドグレーヴの妹のリン・レッドグレーヴが演じ、その美人の友人をシャーロット・ランプリング、美人の友人の恋人をアラン・ベーツが演じていた。番組では映画のことは触れていたが、原作小説のことは触れられなかった。私も読んだことはないが、マーガレット・フォースターは英国では結構人気のある作家のようで、本屋に著書が多数並べてあった。

 1003回目のミニトトBが当たる。これで2回連続である。ただし賞金は1732円と極めて少ない。

 三井純正 中田正光『竹中重門と百姓の関ヶ原合戦 地元領主・領民から見た「天下分け目の戦い」』(洋泉社:歴史新書)を読む。関ヶ原の戦いの帰趨に、地元関ヶ原の領主であった竹中重門の向背が大きくかかわっていたこと、そしてその重門の決断に地元の農民たちの利害と動きがかかわっていたことが説かれている。重門は軍師として有名な竹中半兵衛の嫡男で、豊臣秀吉の伝記である『豊鑑』の著者として知られる。確か、山岡荘八の『徳川家康』のなかに関ケ原の戦いの後で家康が重門と戦場を歩く場面があったように記憶する。重門についてはいろいろ調べてみたのだが、『美空ひばり』の著者である竹中労が半兵衛の子孫だという話の真偽はいまだに不明。 

4月26日
 NHKラジオ『高校生から始める「現代英語」』(火曜・水曜の6:30~6:45の放送は時間帯の折り合わせが悪くて聞けないので、再放送を聞いている)では”Saudi Arabia to lift ban on women behind the wheel”(サウジアラビアが女性の運転を解禁する)というニュースを取り上げた。
The ban will be lifted by the end of June 2018. (この禁止令は2018年6月の終わりまでに解除されます。)
ということで、まもなくサウジの女性は自動車の運転ができるようになる。また
Last week, women were allowed into a sports stadium for the first time. (先週、女性はスポーツスタジアムに入ることを初めて許されました。)
というニュースも付け加えられていた。番組パートナーのハンナ・グレースさんは
I had no idea that women were only recently allowed to enter a sports stadium for the first time! (女性が初めてスポーツスタジアムに入ることが許可されたのがまだ最近のことだなんて想像もしていませんでした。)
と感想を述べていたが、サウジと仲の悪いイランでは、女性が車を運転することはできるが、いまだにスポーツスタジアムに入場はできないはずで、だから、男装してサッカーの国際試合を見に行く女性たちを描いた『オフサイド・ガールズ』という映画が作られたりする。この映画は面白かったね。

 同じく『実践ビジネス英語』の”Quote...Unquote"のコーナーで取り上げられた言葉:
Everyone is a mon, and has a dark side which he never shows to anybody. (From Following the Equator)
---- Mark Twain (U.S. writer, 1835 -1910)
(人間は皆、月である。決してだれにも見せない暗い面を持っている。)
言っているご本人がそのことを一番よく知っていたのかもしれない。

4月27日
 『実践ビジネス英語』の第2課”Workplace Trends "(職場の動向)の第6(最終)回の”Talk the Talk with Heather Howard"のコーナーでヘザーさんが
How times have changed. You watch old TV shows and movies, and see a time when men wouldn't venture out of doors without a hat, and ladies always had on a pair of gloves. (時代はずいぶん変わりました。昔のテレビ番組や映画を見ると、男性は帽子をかぶらずに外出するようなことは決してせず、女性は常に手袋をしていた時代を目にします。)
と言っている。『三つ数えろ』などという映画を見ると、ハンフリー・ボガートがローレン・バコールに対し、きわめて紳士的なふるまいをしていることに気づくはずである。

 同じ番組の”As they say...."のコーナーでは、日本の「壁に耳あり、障子に目あり」という諺を取り上げた。これをそのまま英語に訳すと、Walls have ears and shoji scrreens have eyes. ということになるが、英語には
Walls have ears. (壁に耳あり)
という言い方はあって、第二次世界大戦中に欧米で、スパイに気をつけ、秘密情報を公の場で口にしないようにということで、多く使われたそうである。
 なお、フランス語でもこれに相当することわざがあり、
Les murs ont des oreilles.という。 

 武井弘一『茶と琉球人』(岩波新書)を読み終える。近世の琉球では球磨茶が好まれたことを柱にして、近世から現代にかけての沖縄と球磨地方の生活の変化と両者の交流の諸相を、戦時中の苦難も交えて語っている。

4月28日
 ニッパツ三ツ沢球技場でJ2第11節、横浜FC対徳島ヴォルティスの試合を観戦する。横浜が前半29分に右から抜け出したMF佐藤謙介選手のクロスをDFの北爪選手が決めて先制、その1点を守り抜いて勝ち点3を挙げ、7位に浮上した。後半は選手の足が止まって、徳島の猛反撃に押しまくられる場面が多かったが、よく頑張った。

 円居挽『キングレオの冒険』(文春文庫)を読み終える。「赤影連盟」、「踊る人魚」、「なんたらの紐」、「白面の貴公子」、「脳虚堂の偏屈家」の5つの短編からなる短編集だが、各篇の題名を見ればわかる通りシャーロック・ホームズを主人公とする短編のパスティーシュ集である。それぞれの作品が関連しあい、登場人物がその中で多少とも成長していくように思われる点は、本家と違った趣も感じられる。

 1002回、1003回と2回連続でミニトトA、Bのどちらかを当ててきたが、1004回はどちらも当たらず。

4月29日
 春の叙勲。昔の職場の同僚が瑞宝中綬章を受賞していた。音信があればお祝いの電話を入れるところだが、絶えているので、何もしない。カズオ・イシグロ氏が旭日重光章を受章、またアグネス・チャンさん、ジェーン・バーキンさん、シャルル・アズナヴールさんが旭日小綬章を受章ということだが、アグネス・チャンさんとシャルル・アズナヴールさんが同列の評価(?)になるというところに疑問を感じないでもない。
 

円居挽『京都なぞとき四季報 町を歩いて不思議なバーへ』

4月28日(土)晴れ

 4月7日に円居挽『京都なぞとき四季報 町を歩いて不思議なバーへ』(角川文庫)を読み終えた後、このブログで取り上げるまでだいぶ時間がたってしまった。その主な理由は、私の仕事部屋の整頓状態が悪く、この本を読み終えた後、どこかに紛れ込んでしまったために、探し当てるのに時間がかかったということで、書物の内容に関連したものではない。

 この作家の作品を当ブログで取り上げるのは、昨年11月16日に『日曜はあこがれの国』(創元推理文庫)、17日に『この絆は対角線』(創元推理文庫)と2日連続で登場させて以来である。この2作品は、東京の四谷にあるカルチャーセンターで知り合った、4人の全く異なる境遇の、別々の学校に通っている中学生たちの経験する様々な事件を扱ったものであるが、あまり現実的ではない設定と事件を、まあ何とか信じられるように語っていく著者の物語の巧みさとともに、著者が「京都大学推理小説研究会出身」というところにも興味をもった。だとすれば京都を舞台にした推理小説も書いているだろうし、かなりの読みごたえがある作品になっているだろうと期待をもったのである。

 実は後で気づいたのだが、この作家のデビュー作らしい『丸太町ルヴォワール』を買って途中まで読んでいた。望月麻衣さんの『寺町三条のホームズ』というシリーズについてもいえることだが、京都のなじみのある地名が書名の一部になっていると、どうしても食指を動かしてしまうのである。ところが買って読み始めたという記憶はあるのだが、作家名と作品名が結びつかないまま、もちろん、著者についての情報も身につけようとせずに、途中で投げ出してしまったというのが、最初の出会いの真相である。

 一浪して京都大学法学部に入学した遠近倫人(とおちか・りんと)は同じ東京の中高一貫制の学校で6年間一緒であり、現役で工学部の電気電子工学科に入学したため、今は先輩になっている東横進に誘われて京都街歩きのサークルである賀茂川乱歩に入部する。新入生歓迎イベントで京都市中の桜の名所を歩くうちに、案内役をしている会長で医学部二回生の大溝耕平は、四つ葉のマークの付いたヤサカタクシーに乗って不思議な経験をしたと語る。タクシーから降りると、大学闘争時代の学生と機動隊とがもみ合う百万遍一帯の様子が目の前に広がっていたという。
 街歩きはいったん解散して、遠近は新歓コンパの際に行うビンゴの賞品を買いそろえるために、同じ新入生でひそかに思いを寄せている理学部1回生の青河幸と2人で買い物をすることになる(そうなったのは遠近の想いを見抜いた東横の差し金なのである)。最後の買い物に出かけた青河をこれまで買った景品を遠近が抱えて一人で待っていると、に新入女子学生の中で一番の美人だと評判の経済学部一回生の灰原花蓮が誰かから逃げるような足取りで店に入ってきて、棚の陰に隠れる。そして彼女を追ってきた男子学生に、遠近が嘘の方向を教えて彼女を助けたことにお礼を言って、戻ってきた青河と遠近の2人の目の前で四つ葉のマークが描かれたヤサカタクシーに乗り込む。
 さて、買い物を終えた青河と遠近は、新歓コンパの会場に移動すべく普通のタクシーに乗って、待ち合わせ場所に着いた。それから5分すると、灰原が乗ったはずの四つ葉のマークのタクシーが到着する。しかし、そこから降りてきたのは着物の京美人、賀茂川乱歩サークルの副会長の千宮寺麗子だった・・・。そしてコンパの席に灰原は現れなかった。・・・

 遠近と青河は四つ葉のクローバーのタクシーに乗ったのは灰原なのに、なぜ千宮寺が下りてきたのかという謎を解くべく、いろいろと調べて回るが、なぞは解けない。そのうち、青河が、大学でささやかれている一種の都市伝説を思い出す。
 京都大学の国内では、時間や場所を問わず、いつの間にか営業している「三号館」という不思議なバーがあるという。そこは、どこにあるのかわからないが、なぞをもつ人であればたどり着くことができる。店の女性マスターはどんな悩みや謎もすっきり解決してくれるという。
 遠近は、「三号館」を探して大学構内を歩き回る・・・

 こうして、賀茂川乱歩で1年を過ごすうちに、四葉のクローバータクシー、鴨川の川床、京都水族館、祇園祭…遠近の身近では様々な謎めいた事件が起き、そのたびに「三号館」のマスターの助けを借りて、謎を解いていく。だが、そもそも「三号館」とは何であり、マスターの正体はなにものであるのか・・・。大学に入ってから約1年間の大学生の歩みをたどる小説というと、主人公が新しい経験に遭遇して自分を変える、あるいは新しい課題を見つけるというような教養小説的展開、あるいは様々な事件に出会うが一向に変化しないというピカレスク小説的展開など、様々なパターンがありうるが、この小説を読む限り、主人公遠近の学生としての成長は遅々として遅く、青河との間柄もなかなか縮まらない。「三号館」のマスターは、このバーのこれまでの客と同様に、どこかで、遠近にもこの店から離れなければならない日がやってくるというのだが、その日は訪れるのであろうか…

 表題は『京都なぞとき四季報』であり、主人公をはじめ登場人物たちは京都のあちこちを歩き回っているとは言うものの、「三号館」は京都大学の構内にしか現れないという設定であり、京都大学を舞台にした小説とみることもできる。私が在学していた頃とはだいぶ様子が違い、学生生活はかなり豊かになり、学生の興味も変化したらしいことは、サークル賀茂川乱歩の描写を通じて想像することができる。そして私が(ふつうは2年で済むところを3年もかけてしまった)教養部というものがなくなるなど、大学そのものの構成も、したがって学内の建築物やその配置も変わっている。しかし、ああ、読んでいて、このあたりのことだな、と見当がつくの場所も少なくない。だから変わらないものもあるのである。

 日本におけるミステリーではなくて、SF小説の開祖の1人である小松左京は京大の先輩であり、かつ私が一時期働いていた会社の重役でもあったが、京都は貧乏学生の街だというのが口癖であった。その代わり、その貧乏学生を大事にして、「出世払い」で遊ばせてくれるのも京都だというのである。そういう人情はなくなってしまっているし、大学を出たから「出世」できるという時代ではまったくなくなってしまってはいるが、それでも、やはり学生たちは自分たちの学生生活を楽しもうとしている。
 私の時代には推理小説研究会などというサークルはなかったか、あってもだれもが気付くような存在ではなかった。私たちの世代は、純文学の同人雑誌をどのようにして出そうかというようなことが主な関心事であったのだが、その後、幾星霜か隔てて、推理小説に興味を持つ学生が増えただけでなく、推理小説研究会は円居以外にも何人かの作家を輩出して、今やすでに一つの伝統を作り出すに至っている。自分が貢献できなかった伝統に対して、どのような態度をとればいいのかというのは難しい問題だが、本来、純文学の作家であったにもかかわらず、推理小説が好きで、自身推理小説を書いている、京大出身の作家大岡昇平(彼も東京の人で、好き好んで京都大学に入学した人である)だったらどう答えるだろうか。もしあの世で、大岡に会う機会があれば、ぜひ聞いてみたい問題である。

佐藤信弥『中国古代史研究の最前線』(4)

4月27日(金)曇り
 第1回から第3回までで、第1章「幻の王朝を求めて」の内容を紹介し、検討を加えた。
 「中国での古代史の研究史は…歴史学と考古学との間、…伝世文献の記述と出土文献の記述との関係をどう結んでいくかに腐心した苦闘の歴史である。…研究の最前線に立つ学者たちがその両者の狭間でどのような中国古代史像を描き出してきたかという軌跡を追っていくことにしたい。」(11ページ)と著者はこの書物の課題を述べているが、中国だけでなく日本における中国古代史研究の展開もその視野に入っていて、ところどころでその両者の違いが明らかにされている。
 中国における近代的な古代史研究は殷時代の史料である甲骨文の発見から始まるが、その研究を推進した王国維は「二重証拠法」という研究手法を提唱した。そこでは伝統的な古代史文献の記述を、出土文献によって補正したり、あるいはそれが事実であったことを証明したりできると論じられていた。ここで問題になるのは、中国の古代史研究者たちの間で、伝世文献が優先され、出土文献はあくまでその補助という役割を与えられていることではないか。
 第1章「幻の王朝を求めて」では、伝世文献にはその存在が語られていたが、それを裏付ける考古学的な事実が発見できなかった殷王朝の存在が、甲骨文の発見とそれに続く殷墟の発掘によって確認されたこと、さらにそれに先行する王権の存在を示す二里頭遺跡の発掘が進められ、中国の歴史家たちの間ではこれを殷に先行する夏の遺跡であると考える意見が有力であるが、日本では懐疑的な意見が強いのは、それを裏付ける文字資料が出土していないことのためであると語られている。さらに三星堆に代表される長江流域における古代文明について、これもまた中国文明の源流の一つと考えるべきであると論じられている。 
 今回は第2章「西周王朝と青銅器」についてみていく。

 周は黄河の支流である渭河(いが)流域に定住し、殷に服属する勢力であったが、文王の時代に諸侯の間での声望が高まり、勢力を拡大させた。その子武王は「酒池肉林」の故事で知られる殷の紂王を牧野(ぼくや)の戦いで打ち破り、殷王朝に代わって周王朝を創建したと、中国の古い歴史書に記されている。この王朝の交代は紀元前1100年ごろの出来事とされてきた。この「易姓革命」を題材として空想を膨らませて書かれたのが、神魔小説『封神演義』であるのはご存知の方も少なくないはずである。

 文王・武王は、それぞれ現在の陝西省西安市近郊に位置する豊・鎬(いわゆる鎬京。宗周とも呼ばれた)に都を置いたとされるが、武王の子成王の時代に新たな都として、現在の河南省洛陽市に位置する洛邑(成周とも)が建設された。ほかに陝西省岐山県・扶風県一帯の周原も王都の役割を果たしていたという議論があり、周原では宮廟の跡とみられる建築遺構や周の甲骨文、そして多数の青銅器が発見されている。この青銅器の銘文→金文が西周史の主要な史料となる。

 周は第四代昭王の時代に最盛期を迎えたが、その昭王は南征の途上で漢水という川を渡ろうとしておぼれ死んだという伝承がある。この南西の失敗はおおよそ紀元前10世紀後半の事件であるとみられる。これは旧約聖書に出てくるダヴィデ王やその子ソロモン王が活躍した時期にあたる。

 その後周は次第に衰退し、暴君とされる第10代厲(れい)王が国を追われ、共伯和ら有力な臣下による「共和の政」が一時行われたりした。
 そして第12代の幽王の時代、紀元前771年に反発する諸侯と連携した犬戎(けんじゅう、あるいは玁狁=けんいん)と呼ばれる勢力に攻め込まれ、一旦滅んだ。幽王は寵愛する褒姒(ほうじ)を笑わせるために有事でもないのに烽火を上げて諸侯を招集したという故事で知られる。

 第2章では、初代の武王から第12代の幽王までの西周時代を扱い、それ以後は東周となる。東周期はさらに春秋と戦国の2つの時代に分けられ、春秋時代については第3章、戦国時代については第4章で取り上げられている。西周時代の年代、牧野の戦いが西暦何年にあたるのかとか、各王の在位年数については現在でも議論がなされている。

 講師は周の礼制を理想とし、また周の武王や西欧を輔佐した周公端を夢に見たことで知られる。周では一族・功臣を諸侯に封建し、卿・大夫・士といった身分制や公・侯・伯・子・男の五等爵の制度が敷かれ、諸侯や卿・大夫の家は宗族を形成し、その統轄のために宗法という規範を有していたとされるが、その実像はどうだったのだろうか。この章ではこれらの問題を検討するという。

 1966年から1976年ごろまでにかけての文化大革命の時期の前後の中国では、重要な考古学的発見が相次ぎ、その中で重要な銘文を持つ西周青銅器も多く発見された。このような青銅器の銘文から重要な出来事や王の在位にかかわる年代を割り出す作業が続けられ、「夏商周断代工程」が作成されたが、確定的なものとはいえずl、その後の新しい発見に伴い、議論の検証や修正が続けられることになった。なお、文化大革命と考古学的な発見とは直接的な関係はなく、たまたま両者が同じころに起きたというだけのことであったと思われる。
 さらに問題になるのは、中国には新たに発掘された青銅器のほかに、古い時代に掘り出されたりしてコレクターの手を転々としてきた青銅器があり、その中には偽物も少なくないということである。

 さて、中国の思想に大きな影響を与えた儒教の創始者である孔子は、周王朝の文化や礼制は優れたものであると考え、それらを彼の理想としたが、儒家が伝承した周の礼制についての記述や考証はどの程度実態を反映したものであったかについて、考古学的な知見も踏まえて議論をすることができるようになっている。
 まず「用鼎制度」について、これは王侯の身分等級に応じて墓地に副葬される青銅器の数量が異なるというもので、青銅器の器種としては主に鼎が用いられたので、この名がある。王や諸侯など身分が上になればなるほど副葬される青銅器の数が増すとされる。伝世文献によると、西周の時代には用鼎の規範がはっきりしていたのが、次第に身分を超えた用鼎が行われ、いわば「下剋上」の現象が起きたという。中国の一部の学者は考古学的な発掘調査の成果を踏まえて、西周前期に確立された用鼎制度が、西周後期から戦国後期に至るまで、諸侯や大夫・子の僭越によって三次にわたって破壊され、最終的に崩壊されたと論じた。しかし、この研究は文献史学指向が強く表れたものとして中国でも批判する意見があり、儒家によって理念化された規範を単純に発掘成果に当てはめて解釈すべきではないとする見解が日本では有力である。

 その他の点も含めて、「西周期は整然として図式的な礼制が施行されていた時代であるというイメージは覆されつつある。そうしたイメージは後世に最終の世が理想化・理念化されたことによって形成されたものだったのである」(130‐131ぺージ)と著者は論じている。理念化された制度についての伝承を、現実の制度についての記憶と考えるのは問題があり、孔子の周の賛美についてもその点は割り引いて考える必要があるということのようである。

  神魔小説というのは魯迅の定義で、現実を超えるような力をもつ神仙や妖魔が活躍する文学ジャンルであり、その最高傑作は『西遊記』で、このほかに『封神演義』と『平妖伝』なども知られている。佐藤さんは藤崎竜さんの漫画の『封神演義』がお気に入りのようだが、これは講談社文庫に入っていた安能務のかなり自由な訳を、さらに自由奔放な想像を加えて物語を展開させて描いているもので、それなりに面白いが、原作からは大きく離れていることを知っておく必要がある。また『封神演義』は中国の大衆に愛されてきた物語ではあるが、『西遊記』に比べると文学的な完成度においても、娯楽性においても劣る作品と評価されてきた。たしか実吉達郎さんが言っていたことであるが、『封神演義』の面白さは、ゲーム的な面白さであって、人生で出会う様々な経験についての感想を共有できるというような文学的な興趣といったものとは程遠い。ゲームが悪いとか、『封神演義』が下らないとかいうつもりはなくて、そういう娯楽もまた必要ではあるが、必要以上にのめりこむのはやめた方がいいと思うのである。
 
 

エラスムス『痴愚神礼賛』(18)

4月26日(木)晴れ、午後になって雲が多くなってきた

 鈴の付いた阿呆の帽子をかぶり、道化の扮装をした痴愚の女神が自賛の演説を展開します。痴愚は人生とともにあり、人生を明るくするものだといいます。その一方で表向き賢い様子を見せている輩も、本当は痴愚に囚われていることも暴露していきます。痴愚を礼賛することわざは聖書の中からいくらでも見つけることができるといって、そうした例を紹介します。異教の女神であるはずの痴愚の女神が、キリスト教にかかわる事柄に口を出すのも奇妙な話ですが、旧約の知恵文学の中から痴愚を礼賛する言明を発見して見せ(かなりいい度胸です)、キリストもまたその言行の中で痴愚を推奨していると言ってその例を挙げていきます。

 聖書の中でキリストは「ご自分に従う、不死なる命を約束された人々を羊と呼んでおられる」(209ページ)が、羊については愚かな動物だということが言われていると女神は言います。「しかるにキリストは、おんみずからを羊の群れの牧者だと明言しておられますし、そればかりか、おんみずから羊と呼ばれることを喜んでおられました。」(同上) これらのことから「人間というものはすべて愚かである、信仰篤い人々にしてもそうである」(210ページ)と結論できると女神は断言します。
 さらに続けて、「キリストおんみずからも、神の叡智の体現であるにもかかわらず、人間たちの愚かさを救済なさるために、人間の本性をまとわれ、人間の形で姿をあらわされたとき、なにほどかは愚者となられたのです。](同上)と愚かさが人間の特徴として、神からも認められていることを強調します。そして「使徒たちを知恵に近づかぬようになさり、熱意を込めて痴愚の大切さを説いて、彼らに幼子や百合の花や芥子粒や小雀のように、愚かで理性を書き、ただ自然のみに導かれ、人為も煩いもなく生きているものの例に倣えと呼びかけられました。」(同上) エラスムスは知恵や知識が大切なものだと考えていたはずなのですが、痴愚の女神のこのような演説を聞いていると、何となく自然のままに愚かに生きることこそが本当の人生だと思いたくなってきます(ルソーであれば、この生き方を支持したと思います)。
 
 さらに、エルサレムでとらえられ、裁判にかけられたときに、キリストは愚かな罪人として死んだではないかと畳みかけます。もう一つ追い打ちをかけて、旧約聖書の「創世記」で「天地の創造者である神が、あたかも知恵が幸福にとって毒物ででもあるかのように、知恵の木の実を味わってはならぬと禁じたもうた」(同上)という個所を引用します。知識は思い上がりを増長させるだけのものだというパウロの非難を付け加えます。
 さらに、天上界では愚者は歓迎されるが、智者は許されないと断言します。だから自分の罪の許しを得ようとする場合には、痴愚を口実にするのだといいます(これは来世のことというよりも、現世で起こりがちのことです)。他人から非難されるようなことを言ってしまったり、してしまったときには、「知らなかった」とか、「経験不足で」とか、無知と若さのどちらか、あるいは両方を言い訳に使うことが多いのは、無知の力の強大さを示すものだと言います。

〔66〕
 そして女神は自分の主張の要点として「キリスト教は全体として、痴愚となにほどか血脈を通じているところがあり、知恵とは相通じるところが極めて乏しいように思われます」(213ページ)と述べます。キリストが弟子として選んだ人々も、「学問の不倶戴天の敵だった」(214ページ)ことを思い出させようとします。「最後に、世の中のいかなる阿呆でも、キリスト教への篤い信仰に前例を挙げてとらえられた人ほど、狂った真似は致しますまい」(同上)と熱心な信仰に生きている人がはた目には正気を失っているように見えることを指摘します。熱心なキリスト教徒たちは、自分の魂を肉体から切り離し、自由にしたいと願うが、そのように自由になった魂の活動には世俗の常識と離れたものが生じるようになるというのです。敬虔な人々は物質を離れ、精神的なものを目指すが、世俗的な人々は物質的なものにこだわります。目に見えない価値を追い求める人々と、目に見えるものしか考えようとしない人々とでは話が通じなくなるのは当然です。それで両者はともに、相手が狂気にとらわれていると思うのですが、敬虔な人々のほうが狂気という言葉にふさわしいようだと女神は言います。

 いよいよ女神の演説は終わりを迎えようとしています。これを書きながら、エラスムスは心中かなり葛藤を覚えていたのではないかと思います。痴愚女神の言い分には、確かに聖書の内容に即したものがあります。旧約聖書は古代のイスラエル民族の精神史の大部分を書きとどめた書物であり、新約聖書は初期のキリスト教に携わった人々の言行のかなりの部分を書きとどめた書物であり、人間が多様な存在である以上、聖書も多様な内容を含むことになるのは当然で、それを一元的な理念によって解釈しきってしまおうとするのは無理があります。つまり、聖書の中には知性主義的な思想も、反知性的な思想も含まれているのは当然のことだし、エラスムスが真剣に聖書の本文に向かい合ったのであれば、このような聖書の中の意見の多様性、あるいは矛盾といってもいいものに気づいたはずです。気づいても、それを認めることは難しい、神の真理はただ一つのはずだとエラスムスが考えていたかどうかは今の私には判断できませんが、聖書の中にみられる多様性に出会ったエラスムスが、心中に葛藤を抱えるようになったのは確かではないかと思います。
 

野口実『列島を翔ける平安武士 九州・京都・東国』(6)

4月25日(水)午前中は雨、午後になって晴れ間が広がる

 九州における武士社会の形成には2つの波があると著者は考えている。第一の波は摂関時代から院政時代・平家政権時代を通じて京都・東国から送り込まれた軍事貴族たちの大宰府を拠点とした活動であり、第二の波は鎌倉幕府の成立後、京都や東国から惣地頭として移住してきた幕府御家人たちの活動である。
 前回までは第一の波の様相をたどってきたが、今回から第二の波についてみていくことになる。

 「第二の波」について語る最初の章である「九州に進出する幕府御家人 千葉常胤と島津忠久」は、源頼朝の挙兵に応じてたちあがり、幕府成立後は九州にもその勢力圏を築く千葉常胤を中心とする千葉氏の動きから始められている:
 「平家政権の時代、下総国千葉庄(現在の千葉市中央区周辺)を支配下においていた千葉氏は、11世紀のはじめに房総半島で大反乱を起こした平忠常の子孫である。乱後、命脈を保つことのできた忠常の子孫たちは、12世紀のはじめのころまでの間、国衙の在庁官人として、乱で荒廃した上総・下総(両総)の再開発の担い手となり、その結果新たに成立した郡・郷の司に任じ、本拠地の地名を名字として名乗った。これらの一族を両総平氏と呼んでいる。
 千葉氏はその一流で、下総国の上位の在庁官人である下総権介という職を世襲し、千葉郡に本拠をおきながら(そのために嫡流は「千葉介」と称する)、国内の相馬郡(現在の千葉県我孫子市・茨城県取手市周辺)や立花郷(現在の千葉県東庄町)にも所領をもっていた。」(110‐111ページ)

 12世紀の前半は、東国で荘園の寄進が盛んにおこなわれた時期であるが、千葉氏も相馬の所領を伊勢神宮に寄進、この土地は相馬御厨(みくりや)と呼ばれるようになる。本領の千葉郡千葉郷も王家(皇室)に寄進されて千葉庄になっている。こうして他の在地領主と同様、千葉氏も中央の権門寺社との関係を緊密化させることになる。
 平忠常の乱(長元の乱)以来、千葉氏は清和源氏に従い、平治の乱においても源義朝の配下で戦ったが、義朝の敗死後、その立場は悪化することになる。平治の乱後から源頼朝が挙兵する治承4年(1180)までの20年間は、千葉氏にとって苦難の時代となった。その所領を他の武士団に侵食され、一族の武士の中にも離れていくものが出てきたのである。常種は近隣の有力武士と姻戚関係のネットワークを築くとともに、子息の胤頼を内裏清涼殿の警護に当たる滝口の武士として、同じく日胤を近江の三井寺に送り込んでいる。 
 胤頼は摂津渡辺等の遠藤氏との関係から、その後、後白河上皇の姉の上西門院に仕えるようになり、また遠藤一族の出身である文覚を師と仰ぐようになる。日胤は以仁王の乱の際に王に従い戦死したが、その討伐軍に加わっていた胤頼は、戦後、帰郷を許され、下総への帰途、相模の三浦義澄とともに伊豆北条の頼朝のもとを訪れている。〔文覚は頼朝に挙兵を勧めたといわれる僧侶である。三浦義澄は義明の次男で、平治の乱の際には義平十七騎の一人として戦った武士である。玉藻の前伝説で、怪物を退治する武士が三浦介と千葉介であることに示されるように、これら2つの一族は坂東武士を代表する存在と考えられていた。〕

 「治承4年(1180)9月、石橋山合戦に敗れ安房に上陸して再起を期した源頼朝の要請を受けた千葉常胤(時に63歳)は、反平家の挙兵を決意。六男の胤頼、孫の成胤をもって下総国の目代を襲わせ、その首級をあげた。これによって後顧の憂いをなくした常胤は、一族を引具して頼朝を迎えるために上総に赴いたが、その隙をついて常胤の本拠千葉庄に藤原親政の率いる平家方一千余騎の軍勢が乱入した。
 一方上総国では、平家の東国支配の要として「八ヶ国の侍の別当」(『延慶本平家物語』)と呼ばれていた上総介藤原忠清(上総は親王任国であるため介が実質的な国守)の目代平重国(京都栂尾高山寺の開山として知られる明恵の父)が、源氏側の軍勢に討たれ、ここで、当国の在庁官人(上総権介)にして両総平氏の嫡流、東国一の大武士団を率いる上総広常が、安房から北上してきた頼朝の一行を迎えていた。常胤はここに集結していた大軍とともに、千葉庄に引き返し、結城浜(現在の千葉市中央区寒川)において激戦の末に、親政の軍勢を打ち破った(『源平闘諍録』)。本拠地を離れることによって、親政の軍を誘い込み、大軍をもって一挙に討滅するという常胤のシナリオ通りに事は進んだのである。」(117,119ページ)

 常胤は頼朝により本領を安堵され、自分の軍事行動によって占領した土地も獲得したようである。また常胤は捕虜にした藤原親政を頼朝の実検に供し、平治の乱後ずっと匿い続けていた源氏一族の源頼隆(義家の孫)を頼朝に引き合わせている。
 「寿永2年(1183)末、常胤は同族の上総広常が謀反の嫌疑によって鎌倉の営中で誅殺されると、その本領であった上西門院領上総国玉前(たまさき)庄(現在の千葉県長生郡一宮町・睦沢町)をはじめ両総に展開する遺領の大半を継承。この時点で、彼は東国における最大規模の在地領主となった。東国の自力救済社会の中で、権門との関係に意を用いて中央の政治情勢を把握することにつとめ、在地支配における窮地を脱するべく積み重ねていた常胤の努力がようやく報われたのである。」(119-120ページ)。
 上総広常は義平十七騎の一人であり、謀反の事実もなかったといわれる一方で、東国の中央からの独立を主張し、また親義仲派であったために誅殺されたとも考えられている。頼朝という人は、やたら人を疑って、疑うだけならいいが命を奪ったりすることが多く、その意味でどうも好きになれない。南関東には頼朝ゆかりの寺社が多く、頼朝という人がいかに神頼みばかりしていた人であるかを知ることができるが、神様を信じる前に人間を信じろと言いたくなるのである。
 野口さんは鹿児島経済大学や京都女子大学で教えられたので鹿児島をはじめとする九州各地や、京都について、実地での見聞も踏まえた議論を展開しているのだが、もともとは千葉県の生まれということで、千葉県の武士を取り上げる段になるとひときわ力が入ってきているように思われる。

『太平記』(207)

4月24日(火)曇り

 建武4年(南朝延元2年、1337)3月6日、北国における宮方の拠点であった越前の金ヶ崎城が、足利方の総攻撃を受けて落城した。一宮(後醍醐帝の長男)尊良親王、新田義顕(義貞の長男)らが自害し、城兵800余名もほぼ全滅した。いったんは城を脱出した東宮恒良親王も捕らえられ、京都に送られて幽閉された。足利方の諸将は宮方に味方した比叡山延暦寺の破却を議論したが、尊氏・直義兄弟の相談役であった玄恵法印は延暦寺と日吉大社の由緒を説いて思いとどまらせようとする。
 比叡山は釈尊がまだ修行中であった頃に、その教えを広めるための霊地として探し当てられた場所であり、釈尊の生まれ変わりである伝教大師(最澄)が桓武帝の帰依を得てここに延暦寺を創建した。この寺を守っている神々は上七社の第一、大宮権現(天照大神が姿を変えた神)、第二の地主権現(薬師如来の化身)、第三の聖真子(八幡大菩薩の分身)、第四の八王子(千手観音の化身)、第五の客人(加賀の白山神社の神で、十一面観音の化身)と比叡山と日吉大社の由緒を語り続ける。

 日吉山王上七社の第六は十禅師の宮で、釈尊入滅後、弥勒菩薩が仏となられるまでの末法の世をお導きになる地蔵菩薩の化身である。有難いことに釈尊の遺された教えを受けて、須弥山の頂上の忉利天に住む帝釈天の高弟となられ、釈迦入滅後、弥勒如来が現れるまでの世を導く師として、天台の三つの教え(蔵教・別教・円教)を司られる方である。菩薩がおっしゃることには、「三千の衆徒を養って、我が子となし、法華経の教えを守ることを私の使命とする」とのことである。たとえわずかな縁であっても、この菩薩に帰依することにより莫大な利益を得ることができるだろう。

 日吉山王上七社の第七・三宮は普賢菩薩の権化、妙法蓮華の正体である。法華経を読む者がいれば、この世に現れて衆生を哀れみ、願いを聞き届けてくださる。すなわちこれ罪を慚愧・懺悔する者たちの教主である。(目・耳・鼻・舌・身・意の)六根により罪を犯す衆生である我々が、どうしてこの神を仰ぎ奉らないということがあろうか。

 日吉山王は上七社、中七社、下七社の二十一社からなり、上七社は説明したが、次に下七社とその本地を述べると、牛の御子は大威徳、大行事は毘沙門天、早尾は不動明王、気比は聖観音、下八王子は虚空蔵、王子宮は文殊菩薩、聖女は如意輪観音である。
 岩波文庫版の脚注を見ればわかるが、中七社は大行事、牛の御子、新行事、下八王子、早尾、王子、聖女であり、気比は下七社の第七である。〔それにしても、上七社の説明が詳しかったのに、中七社になると、社名と神様の本地だけを述べるだけで済ませているのは、疲れてきたのか、それとも詳しいことは知らないのか、気になるところではある。]

 下七社についてみていくと、小禅師は弥勒竜樹(弥勒菩薩あるいは竜樹菩薩)、悪王子は愛染明王、新行事は吉祥天女、岩滝は弁才天、山末は摩利支天、剣宮は不動明王、大宮の竃(へっつい)殿は大日如来、その権因(ごんいん=もう一つの本地)は不動明王、聖真子の竃殿は金剛界の大日如来、二宮の竃殿は日光菩薩・月光菩薩であり、それぞれが慈悲深い浄土からお出ましになって、我々衆生を救うためにこの世を訪問されている。
 岩波文庫版の脚注によると、下七社は、小禅師、大宮竃殿、二宮竃殿、山末、岩滝、剣宮、気比で、新行事は中七社の第三だという。「悪王子」というのは不詳だという。なぜ、こういう間違いが生じたのかは気になるところである。

 その後、八王子・客人・十禅師・三宮の本地の菩薩が衆生の化導を助けるためにあちこちからやってこられ、さらに中七社・下七社の十四柱の神々が、光を並べて比叡山の四辺を囲まれている。そのご威光・ご利益の様々な徳は百千劫という長い時間をかけて、舌をのばして説き続けても、語りつくすことはできない。

 比叡山には修行者が修学実践すべき三学すなわち戒(戒律)・定(禅定)・恵(知恵)を現して、三塔(東塔・西塔・横川)を建てている。一念に三千の諸法(宇宙のすべてのあり方)を具有するという天台の根本教説に因んで、比叡山で修行する僧侶の数は三千人ということになっている。比叡山の地主である薬師如来は衆生救済のための十二の大願を立てられているので、世間の様子を絶えず気にされ、世の中の治乱はこの神仏の御利益を蒙らぬものはない。七社の権現は、仏菩薩が姿を変えてこの世に出現されているので、国内の吉凶の背後には神仏の深遠な配慮が働いているとみるべきである。出るから、朝廷に重大な出来事があるときは、比叡山の神仏に祈って、災いを取り除き、福をもたらそうとしてきた。山門が訴訟を起こしたときは、その言い分に同情して、たとえ道理に合わぬことでも道理としてきた。〔自分の意にまかせぬものは双六の賽(の目)、鴨川の水、山法師といった法皇もいたという話がこのすぐ前に出てきた。]

 確かに、二度にわたり後醍醐帝の臨幸を受け入れたのは、ひとえに衆徒たちの咎ではあるけれども、窮鳥懐に入れば漁師もこれを憐れんで殺さないという諺もある。まして、頼ってきたのが十善の君(帝)であったのでは、拒みようがないではないか。大きな恨みを抱く輩が多少はいて、恨み続けるということはあるかもしれないが、武将がその恨みを忘れて、旧敵に恩を施せば、敵の気持ちを変えることもできるだろう。その結果、元の敵が味方になるかもしれないと、言葉を尽くして説いたので、将軍(足利尊氏、まだ征夷大将軍にはなっていないが、これまでも将軍と呼ばれている)、左馬頭(足利直義)をはじめ、その重臣たちも比叡山が天下の帰趨にとって重要な寺院であることを実感し、旧領を安堵しただけでなく、さらに武家の寄進として新たな土地を加えて比叡山にあたえたのである。

 比叡山の破却を玄恵法印が思いとどまらせたというのは歴史的な事実かどうかはわからないが、彼が尊氏・直義兄弟に影響力をもっていたことは確かであろう。これが歴史的な事実であったとしても、武士たちに向かってふるった長広舌にはかなりの誤りが含まれており、『太平記』の作者の創作であろうと思われる。それにしても、神仏が習合したこの時代の宗教の様相は複雑で読み解くのに骨が折れる。お気づきの点があれば、ご指摘いただければ幸いである。
 これで第18巻が終わり、第19巻へと続く。宮方と足利方の争乱は足利方有利に推移しているが、宮方に反撃・逆転の機会は訪れるのであろうか。

フローベール『感情教育』(8‐3)

4月23日(月)曇り

〔第一部あらすじ〕
 1840年9月、大学で法律を学ぶためにパリに出た18歳の青年フレデリック・モローはふとしたことで、画商のアルヌーと知り合い、彼の美しい夫人に思いを寄せるようになる。大学での勉強にはなじめなかったが、高校時代からの友人であるデローリエやマルチノン、新たにできた友人のユソネやペルランとともに、彼はパリでの青春を謳歌する。アルヌーのところで働いているユソネを通じて、彼の事務所、次に自宅を訪問することになったフレデリックであるが、彼の想いはなかなか夫人にとどかない。ようやく試験に合格し、地元出身の名士であるダンブルーズ氏から声をかけられて有頂天になって帰省したフレデリックが直面したのは、母から告げられた実家の財政的な困難であり、彼はパリに戻ることをあきらめて地方の事務所で働くことになった。しかし、1845年の12月にル=アーヴルに住んでいた裕福な叔父が死んでその遺産を相続することになり、彼はまたパリに戻る決心をする。

〔第二部これまでのあらすじ〕
 パリに戻ったフレデリックは、彼の不在の間に知人たちの境遇が変わっていたことを知る。アルヌーは画商をやめて陶器業者に転職しており、経済的に困窮している様子である。久しぶりに会ったにもかかわらずアルヌー夫人の態度がよそよそしく思えたフレデリックは、彼女への想いを捨てて、社交界で活躍してみようと思う。が、その前にアルヌーに誘われて出かけたロザネットの家での仮装舞踏会で半社交界(と、ロザネット)の魅力にも惹かれる。社交界への入り口としてダンブルーズ家を訪問したフレデリックはダンブルーズ夫人から愛想よく迎えられるが、そこでの会話には退屈する。そして、次にロザネットを訪問して、彼女を自分の恋人にする自信を持ち、さらにアルヌー家を訪問してアルヌー夫人とも親しく言葉を交わす。アルヌー夫人はフレデリックが自分たちに常に変わらない親切心をもち続けていることを感謝する言葉を述べる。
 何か優しい気持ちになったフレデリックは、自分の旧友たちを集めて新居のお披露目をすることを思いつく。

〔第2部の2―続き〕
 「…彼はまた以前の友達のことを思い出した。最初に思ったのはユソネで、次はペルランだった。もっとも低い身分にいるデュサルディエのことは当然、捨てては置けない気がした。シジーには、今度できた財産を少し見せてやりたい、と楽しみだった。そこでこの4人に、転居祝いをするから次の日曜日正11時に来てくれ、と手紙を出した。デローリエにはセネカルをつれてくることを頼んだ。」(216ページ、なお、「デュサルディエ」とあるべきところが、「デュテルディエ」になっているが、誤植であろう。)

 フレデリックとデローリエが一緒に住んでいた部屋は、フレデリックの帰省後にデローリエはセネカルを呼び寄せて一緒に住んでいた。寄宿学校の復習教師であったセネカルは生徒への賞品授与は平等に背く行為だといって学校のしきたりに反対したため、3度目の寄宿学校からも解雇されていた。それである機械製作所に雇われるようになり、セネカルを訪ねて仕事着の人間が大勢訪ねてくるようになった。彼らは愛国者で、働き者で、気のいい連中だったが、弁護士のデローリエには彼らとの付き合いが楽しくなかった。それにセネカルの思想のある部分がデローリエにはどうしても気に入らなかった。現実主義者のデローリエは世の中がセネカルの考える方向に変わった場合に、彼を利用して自分の野心を達成しようとセネカルとの縁をつないでいたのである。(その一方で、フレデリックにはダンブルーズ家に出入りしたり、アルヌーへの紹介を迫ったりして、要するに二股も三股もかけているのである)。

 「セネカルの考えていることは、もっと私欲を離れていた。毎晩、仕事がすんで屋根裏部屋に帰ると、早速、書物の中に自分の夢想を十分裏書きしてくれるものを求めるのだった。彼は『民約論』に自ら注を入れ、『独立評論』に読みふけった。マブリ、モレリ、フーリエ、サン=シモン、コント、カベ、ルイ・ブランなど、車一台に積みきれぬほどの社会主義評論家をよく知っていた。人類のために兵営生活の水準を理想とし、楽しみは公娼の家でとらせ、勘定台の上にかがみこませようと欲する人たちを、である。」(217ページ) セネカルの社会主義の理想への打ち込み方と、社会主義思想そのものが多少戯画化されて描き出されている。
 『民約論』は最近では『社会契約論』と訳すほうが普通になっている、1762年に刊行されたルソーの著作である。『独立評論』は1841年にピエール・ルルーやジョルジュ・サンドによって創刊され、1848年までつづいた雑誌で民主主義的・社会主義的な傾向が強かった。モレリー(Morelly)はフランスの思想家で、私有財産の否定を説き、ロベスピエール、バブーフらのフランス革命期の革命家・思想家に影響を与えた。ガブリエル・ボノ・ド・マブリ―(Gabriel Bonnot de Mably, 1709‐85)は歴史学者で初期社会主義者。1776年に出版した「立法について」で共産主義を主張した。エンゲルスは『空想より科学へ』の中で「18世紀にはすでに直接共産主義的な理論(モレリーとマブリ―)が現れた」(岩波文庫版、大内兵衛訳、34ページ)と論じている。
フランソワ=マリ・シャルル・フーリエ(François-Marie-Charules Fourier, 1772‐1837)はフランスの初期社会主義者、クロード≂アンリ・ド・ルーヴロワ・サン=シモン(Claude-Henri de Rouvroy Saint-Simon, 1760-1825)もフランスの初期社会主義者。オーギュスト・コント(Isidore-Auguste-Marie-François-Xavier Comte,1798-1857)はフランスの数学者、実証主義哲学者で初期社会主義者であるとともに、今日の社会学の祖とされる。太田浩一さんはその翻訳の傍注で「兵営、売春宿〔公娼の家〕はそれぞれサン=シモン、フーリエの著作をカウンター〔勘定台〕はルイ・ブランの「社会作業場」を示唆しているものと思われる(ゴト・メルシュ、ド・ビアジらの註による)」(光文社古典新訳文庫版、上巻、317ページ)と説明を加えている。

 「そしてこうした思想の混合から、彼は道徳的な民主主義を理想として考えていて、それは小作地と製糸工場の2つの形相をもって、そこでは個人はただダライーラーマやナブコドノゾール王より専制的で、絶対で、確実で神的な社会のためにのみ存在するという、一種のアメリカ式のラセデモーヌ(スパルタ王国のこと)であった。」(217ページ) ここはわかりにくいので、光文社古典新訳文庫の太田浩一訳を並べておく。
 「これらの思想をつきまぜたものから、セネカルは高潔な民主主義の理想像を作り出した。分益小作制農地と紡績工場とを二つの柱とする、アメリカ的ラケダイモン[スパルタの古称]のごときもので、そこでは個人はもっぱら社会に奉仕するために存在する。そしてその社会は、ダライ・ラマやネブカドネザル王よりも全能にして絶対、無謬にして神聖なものだった。」(古典新訳文庫版、上巻、316ページ) 太田さんは「ラケダイモン」を「スパルタの古称」としているが、「自称」が正しいらしい。スパルタではリュクルゴスの改革以来、軍事優先で質朴な国民形成のため、男子は少年期から青年期にかけて禁欲的な集団生活を送ったが、これが近代初期の共産主義思想の一つの模範となった。先に触れたエンゲルスの『空想より科学へ』には「禁欲的な、一切の人生の快楽を否認する、スパルタ的共産主義」(大内訳、34ページ)という表現がある。エンゲルスの言う三大空想社会主義者(サン=シモン、フーリエ、オーウェン)になると、禁欲主義は多少緩んでくる。ネブカドネザルは紀元前6世紀の新バビロニアの王で、紀元前597年にエルサレムを陥落させ、同じく590年にはこの都市を徹底的に破壊してユダ王国を滅亡させ、ユダヤ人たちをバビロンに連れ去った(バビロン捕囚)。新共同訳聖書ではネブカドネツァルとなっているが、旧約の「ダニエル書」の前半部分にはこの王様をめぐる面白~い物語が語られている。ここではどこか神秘的な独裁者という意味合いで使われているのであろう。

 そしてセネカルは自分に反対する人間には容赦せず、正面から議論を吹っ掛け、「勉強と生活苦とこの2つが日々に、彼のあらゆる栄誉、何らかの優越に対する憎悪をますまます磨ぎすますのだった。」(217ページ) もともと独善的で偏屈な人間が余計に変桀になり、フレデリックに招待されても、それよりもこっちに挨拶にくるべきだなどと言っていたのをデローリエが何とか説得して連れてくる。

 招待された一同がフレデリックの新居についてみると、フレデリックは「ビロード上着を着て安楽椅子にそりかえり、トルコ葉の巻煙草をふかしていた。」(218ページ)
 セネカルはしかめ面をし、デローリエはちらっとあたりを見渡してからうやうやしい礼をした。「閣下、謹んでご機嫌をうかがいまする」
 デュサルディエはフレデリックの頸にかじりついて、彼の幸運を喜ぶ。
 「シジーは帽子に喪章をつけてあらわれた。祖母が死んでから、彼も大した財産が手に入った。しかし、遊んで楽しむことより、他人より抜きんでること、俗人にはならないこと、を心がけている。つまり《特色をもつこと》だと自分でそういった。」(同上)
 フレデリックは自分が莫大な財産を相続したことを、とりわけシジーに見せびらかしたかったようであるが、そのシジーも同じような財産を相続し、しかも、フレデリックのように浪費しようとせずに、自分の個性を磨こうと心がけている。シジーがその血統からだけでなく、心の持ち方という点でも貴族的な人物であることがうかがわれるのである。

 まもなく正午になろうとしていて、一同は腹を減らしているが、まだ1人、招待されたのに来ない人物がいるという。それはアルヌーで、その名を聞くとペルラン(いつの間にかやってきている)がいやな顔をする。彼はアルヌーが画商をやめたことで、芸術を裏切ったと考えて、嫌悪感を抱いているのである。一同はいよいよ昼食の席に着くことになる。

 昔の仲間が再会したが、それぞれ考え方や生活ぶりはあまり昔と変わっていない。デローリエの現実主義、セネカルのへそ曲がりと社会主義、デュサルディエの気立てのよさなど、昔のまま、あるいはその程度がさらに増したというところであろうか。自分の芸術が一向に認められないペルランは、そのことによって夢をあきらめようとはしない。招待された客の中で、ユソネがどんな態度を示したかが描かれていないのが、ちょっと不気味。さらに、この席にマルチノンが招かれていないのは、たぶん地方に出ているからであろうが、順調に出世街道を歩み続けているらしいこの男が姿を見せないのも不気味である。もう一人、昔の仲間でこの席に呼ばれていないのがルジャンバールであるが、こちらは無視されたような感じである。次回は、いよいよ昔の仲間が一堂に関しての談話となり、さまざまな話題が飛び交うことになる。
 

日記抄(4月16日~22日)

4月22日(日)晴れ、気温上昇、しかし風も結構強い

 4月16日から本日までの間に考えたこと、経験したこと、前回以前の記事の補遺・訂正:
4月13日Where
 NHKラジオ『実践ビジネス英語』では、今季から”As they say..."(和洋ことわざ考)というコーナーが始まった。日本では「火のない所に煙は立たぬ」といい、これをそのまま英語に訳すと
Where there's no fire, there's no smoke.
ということになるが、英語では
Where there's smoke, there's fire. (煙のあるところには火がある。」という。
 現代ではこのことわざをもじってWhere there's smoke, there's ire. などともいわれる。fireと一字違いのireは「怒り」という意味で、禁煙が主流の世の中で、「たばこの煙があるところには必ず怒りが発生する」ということ。
Where there's X, there's Y.という構文の諺でほかによく知られているのは、
Where there's a will, there's way. (意志あるところに道あり)
Where there's life, there's hope. (命ある限り希望がある。)
 アメリカのコメディアン Bob HopeはこれをもじってWhere there's Hope, there's laughter. (ホープのいるところには笑いあり)などと言っていた。またWhere there's will, there's inheritance tax. (遺言書のあるところに相続税あり)などともいうそうである。

4月16日
 NHKラジオ『まいにちフランス語』の「ChloeとGeorgesのPetit pas culture1 ~文化へ1歩近づこう~」のコーナーでは、フランスの小学校では英語を勉強し、中学生で第2外国語を学ぶのが通例であるという話が出てきた。
En général, on a deux langues vivantes obligatoires pour le baccalauréat. Et selon la situation géographique, les écoles proposent aussi des cours de langues régionales : breton, corse, occitan, tahitien, basque.... (一般的に、フランスの大学入学資格試験バカロレアでは外国語科目の試験が必ず2つはあるんだ。それに、地方によってはブルトン語、コルシカ語、オック語、タヒチ語、バスク語などの地方言語の授業もあるんだよ。) ブルトン語は、ブルターニュ地方で話されているケルト語派の言語、コルシカ語はコルシカ島で話されている言語だが、イタリアの方言だという人もいる。オック語はオクシタン語とも言われ、南フランスで話されているロマンス派の言語、タヒチ語はタヒチ諸島で使われている言語であるが、フランスの海外領で使われているので地方語として扱われるようである。バスク語はフランスとスペインの境界の大西洋側の一帯で使われている言語で、孤立語である。
 フランスでは外国語のことをlangue vivante(現代語)といい、複数の外国語を学ぶのが普通だそうである。テキストには「日本の中学校や高校でも普通になるといいですね」と書かれていたが、いいかどうかは人によって違うだろうし、どんな言語を勉強するかも問題である。それに学校で勉強したから、その言語ができるようになるとは限らないのである。

4月17日
 『まいにちフランス語』の「文化へ1歩近づこう」のコーナーでは、フランスのテストの話が話題に取り上げられた。
En France, pas de 100! Le Graal, ça devrait être 20 sur 20, mais les profs ne le donnent acr la perfction n'existe pas. Un 18 est déjà exceptionnel. (フランス語ではテストの満点は100点じゃないんですよ! それに満点の20点は取れないものなんです。先生がつけてくれないんです。だって完璧なんてないですからね。18点でも非常に優秀な成績なんですよ。)
 このような20点満点の評価は、フランスでは1890年に始まったそうで、他の国にはあまり例がないという。全般にフランスの教師の要求は高く、いい点はなかなかつけてもらえないという。

4月18日
 『朝日』の朝刊の「オピニオン&フォーラム」の欄に高橋源一郎さんの「歩きながら考える」の一環として、「戦時の日本でも 極秘に原爆開発」という記事が出ていた。理化学研究所の仁科芳雄(1891‐1951)を中心とした研究と、原爆の開発は当時の日本の置かれていた物質的な条件では不可能であったが、研究に携わるという名目によって若手研究者を応召させないようにしたという裏の事情が記されていた。事態はもっと複雑で、研究を進めたのは1グループだけではなく、研究に携わった人々の中で戦後は核兵器の禁止の運動を推進した人々もいるし、原子力の「平和利用」を積極的に推進した人々もいた。

 NHKラジオ『まいにちスペイン語』の時間では、スペイン人の青年が日本各地を旅行するという内容の物語が進行中で、目下、彼は東京都内を見物している。案内をしている日本人女性にそそっかしさを指摘されて、浪曲の「森の石松」の一節をスペイン語で話す:
 Oye, eres de Tokio, ¿verdad? (ところで、江戸っ子だってねぇ。)
Te invido a comer sushi. (寿司食いねぇ。)
 歴史的にみれば、江戸<東京なのだけれどもね。

 トマス・モア『改版 ユートピア』(澤田昭夫訳、中公文庫)を読み終える。ラテン語からの翻訳を読み終えたのはこれが初めてである。エラスムスの『痴愚神礼賛』が終わったら、この作品について取り上げるつもりにしている。

4月19日
 『実践ビジネス英語』の”Quote...Unquote"のコーナーで取り上げられた言葉:
There is a boundary to men's passions when they act from feelings; but when they are under the influence but non when they are under the influence of imagination. (from An Appeal from the New to the Old Whigs)
---- Edmund Burke
(British statesman and political philosopher, 1729 - 97)
(感情の赴くままに行動するとき、人の情熱には限界があるが、想像の世界に遊ぶ時には限界などないのである。)
 エドマンド・バークはアイルランド生まれの英国の政治家で、「保守主義の父」といわれる政治思想家・哲学者である。政治的にはホイッグ党(のちの自由党)に属し、アメリカの独立革命を支持したが、フランス革命には反対し、党内の「旧ホイッグ」を代表する人物となった。1790年に発表した『フランス革命の省察』は今日でも読まれている。アイルランド・ダブリンのトリニティ・カレッジを訪れた際に、構内にこの大学を卒業した有名人の像が並んでいる中に、バークの像があったのを覚えている。

4月20日
 『実践ビジネス英語』の”Quote...Unquote"で取り上げた言葉は:
Make yourself necessary to somebody.
    ----Ralph Waldo Emerson
(U.S. philosopher, poet and essayist, 1803- 82)
(だれかに必要とされる人間になれ。)
社会の連環の中で欠かせない人物であれということであろうか。自分がそのような存在であるか、時々自問する必要がありそうだ。 

4月21日
 神保町シアターで『秋日和』(1960、松竹、小津安二郎監督)を見る。『彼岸花』に続く里見弴の小説の映画化で、里見の子息である山内静夫が制作を手掛けている。小津が志賀直哉を大先生、里見弴を小先生といって敬っていたのは有名な話である。未亡人の母親(原節子)と2人で暮らす娘(司葉子)の結婚をめぐり、未亡人の亡父の親友(悪友?)たち(佐分利信、中村伸郎、北竜二)がいろいろと画策する。小津の旧作『晩春』の父親と娘の関係を、母親と娘の関係に置き換えたような話である。『晩春』では老父から離れて嫁ぐ娘の役を演じていた原節子が、娘が結婚して去ってゆく母親役を演じているところに時の流れがある。佐分利信が司葉子の相手にどうかと思っていた部下(佐田啓二)の友人(渡辺文雄)が司葉子の会社の同僚であるという偶然があり、司葉子の同僚で親友の岡田茉莉子が活躍して話が落ち着くところに落ち着く。小津としてみれば、自分の昔の映画に出演した岡田時彦の娘の茉莉子と、桑野通子の娘のみゆき(佐分利信の娘の役を演じている)を出演させているというところに感慨があったかもしれない。このほか、岩下志麻が端役といってもかなり目立つ役で出演しているのも見どころの一つである。
 この後、岩下が主演する『秋刀魚の味』を遺作として小津は世を去る。岡田茉莉子は吉田喜重と、岩下志麻は篠田正浩と結婚して新しい映画作りに進み、渡辺文雄は大島渚の映画の常連として活躍する(というよりも、TVの旅番組やグルメ番組で能書きを垂れていたことの方が印象に残っているが…)。

 豊永聡美『天皇の音楽史 古代・中世の帝王学』(吉川弘文館:歴史文化ライブラリー、2017)を読み終える。雅楽を中心に邦楽のどのようなジャンル、楽器を歴代の天皇が習得され、演奏されてきたかを古代から室町時代までにわたりたどった書物である。日本の伝統的な楽器は吹きもの(管楽器)、弾きもの(弦楽器)、打ちもの(打楽器)があるが、天皇が演奏されるのは、弦楽器の琴と琵琶、管楽器では笛と笙であり、時代によって楽器が違うというのが面白かった。 特に鎌倉時代の両統迭立期になると、持明院統の帝が主として琵琶を演奏されたのに対し、大覚寺統の帝は笛を演奏されたというのが印象に残る。ほかの領域でも持明院統の帝が克明な日記を残されているのに対し、大覚寺統の方はそうでもないとか、持明院統ゆかりの人々が京極派の和歌を詠まれたのに対し、大覚寺統の方は二条派の影響が強かったとか、文化史的にみていくと興味深いことが少なくない。

 ミニトトAが当たる。今年初めての当たりで、7500円ほど稼いだことになるが、これまで2万円くらい出資しているからその分を差し引けば大赤字である。

4月22日
 『日経』の朝刊にイランとアゼルバイジャンの国境をつなぐ鉄道が開通したという記事が出ていた。2020年にはインドから船でイランに荷物を運び、そこから「スエズ運河よりも安く早く」インドからロシアへと荷物を運ぶ路線ができる見通しだという。旅客列車が運行されるというのならば、乗ってみたい気もする。

 ニッパツ三ツ沢球技場でJ2第11節の横浜FC対栃木SCの対戦を観戦する。0-0で引き分け。何度も得点機はあったが、イバ選手の動きに精彩がなく、決定力が発揮できなかった。こういう試合は見ていて疲れる。
 

島岡茂『英仏比較文法』(9)

4月21日(土)晴れ、気温上昇。

 英語はもともとインド=ヨーロッパ(印欧)語族の中のゲルマン語派に属する言語であったが、その話し手がローマ帝国と接し、さらに民族の大移動の結果ブリテン島に移住したこと、1066年の<ノルマンの征服>によりフランスの諸侯であるノルマンディー公の支配に属するようになったことにより、ラテン語から直接、あるいはフランス語を媒介として間接的にロマンス語系の語彙を取り入れ、その結果、英語の語彙の約50%はラテン語・フランス語に由来するものであり、本来のアングロ・サクソン系の語彙は25%という現象が起きている。
 中世の中英語(フランス語では中仏語)の時代は、英仏ともに教養ある階級はもっぱらラテン語を常用し、そこから書き言葉を通して多くのラテン語が借用された。中世におけるラテン語からの借用はもちろんフランス語が先行し、英語がそのあとに続いたのであるが、これらのフランス語の中には、音声の変化から語源のラテン語の形がかなり崩れたものがあり、英語に映る段階でこれをもとのラテン語の形に修正したものが少なくなかった。前回は俗ラテン語のdebitaから中英語・中仏語のdetteを経て、英語のdebtになったというような中間子音が補足された例を見たが、他にも次のような例がある。

 ラテン語のpolitumは「丁重な」という意味で、古フランス語ではpoli,中英語ではpoliteとなり、現在のフランス語、英語でもそのままの形が残っている。
 ラテン語のprivatumは「私的な」という意味であるが、古フランス語ではprivé、中英語ではprivateとなり、これまた現在でもそれぞれの形が残っている。
 同じくラテン語のmoderatumは「温和な」という意味であるが、古フランス語のmodéré、中英語のmoderateとなり、これもまた現在でもこの形が残っている。
 これらはどれもフランス語で落ちている過去分詞の語尾tが英語ではラテン語に従って復元されている例である。これらの英語はラテン語から直接借用されたもので、その時期は中英語の末期に当たる15世紀の末と考えられている。

 次に接頭・接尾辞がラテン語からフランス語になるときに変化したものが、英語になるときにまた修正された例を挙げてみる。
 「冒険」を意味するラテン語のadventuraは、古仏語では早くから、aventureに変化し、英語でも中英語でこれを移入したことはaventureといった。15世紀のラテン語化の風潮でもとのラテン語のようにdを加えてadventureというようになった。なおイタリア語では「冒険」はavventura、スペイン語ではaventuraである。
 「反対・否定」を現すdis-も、フランス語では早くde,(母音の前では)desに変化、中英語にはこの形で移入されたが、15世紀ごろにdisに復元された。
 例えば、ラテン語で「武装解除する」という意味のdisarmare(と島岡さんは書いているが、前回も書いたようにギリシア語・ラテン語では不定形ではなく、一人称単数形を見出し語に使うのでdisarmoとすべきだろう。ただし私のラテン語辞書に、この単語は出ていなかった)は古仏語でdesarmerとなり、現在のフランス語ではdésarmer,英語ではdisarmとなる。これはラテン語借入語というよりもフランス借入語を一部ラテン語化した例であると島岡さんは言う。
「下、下位の、…副…」など様々な意味がある接頭辞subの付く語としてsubmittere(服従させる)が挙げられていて、古仏語のsosmetreから現代フランス語のsoumettre、中英語ではsubmitとなり、現代もこの形が使われている。

 「歴史」を意味するhistoriaについて、島岡さんは-oriaは接尾辞であると考えているが、historiaはギリシア語(ιστορια)からラテン語に入った言葉で、もともと「探求」という意味である。(最初のιの字の上には半円形の符号がついているので、発音はヒストリアになる。) だから話はもう少し込み入っているはずである。柳沼重剛に「ヒストリアはいつから歴史になったか」(柳沼『語学者の散歩道』所収)というエッセーがあり、そこにヘロドトス(紀元前5世紀)の『歴史』の冒頭の部分が松平千秋(柳沼の師匠格の古典学者である)の訳で紹介されている:
「本書はハリカルナッソス出身のヘロドトスが、人間界の出来事が時の移ろうと共に忘れ去られ、ギリシア人や異邦人の果たした偉大な驚嘆すべき事績の数々――とりわけて、両者がいかなる原因から戦いを交えるに至ったかの事情――も、やがて世の人に知られなくなるのを恐れて、自ら研究調査したところを書き述べたものである。」(柳沼『語学者の散歩道』、1991、研究社版、119ページ)
 この文の中でギリシア語で「ヒストリア」とあるのは「自ら研究調査したところ」だという。ここにこだわると、話がややこしくなるから、ここで打ち切って、古仏語ではhistoriaはhistoireとなり、現代にいたっているが、中英語ではhistoryとなり、これまた現代にいたっている。なお、フランス語では語頭のhを発音しないが、それでもつけているのはラテン語に倣ったものだそうである。

 「劣った」という意味のラテン語inferiorは古仏語でinférieurとなり、現在に至っている。中英語ではinferiorでこれも現代の英語に残っている。島岡さんは「-orはこの例では比較級の語尾だが、フランス語では早くからeurになっていた」(35ページ)と書いているが、ラテン語の比較級の語尾は-iorである(松平千秋・国原吉之助『新ラテン文法』126ページをご覧ください)。

 最後にラテン語からの直移入語の例として、「同一の」という意味のæ̀qualisが古仏語でegal、現代のフランス語ではégal、中英語、現代の英語ではequalとなっているが、フランス語では12世紀ごろに取り入れられたのに対し、英語では15世紀のラティニズム流行の時代に直接ラテン語から取り入れられたので、この違いができたと述べられている。
 「絵」を意味するラテン語はpictura、俗ラテン語はpincturaでフランス語は俗ラテン語の方を取り入れて、古仏語ではpeintureとなって、これが現代に続いているのに対し、英語はラテン語の方を取り入れて中英語の時代からpictureが使われているという。
 「軽蔑」という意味のcontemptusから出た古仏語contempsは現在の英語では使われなくなり、méprisが使われているのに対し、英語ではcontemptがラテン語から入ってそのまま使われている。(そういえば、ジャン=リュック・ゴダールの”Le mépris"という映画があった。ブリジット・バルドーとミシェル・ピコリが主人公の夫婦を演じて、映画監督の役をフリッツ・ラングが、その助監督の役をゴダール自身が演じていたのが一つの見どころであった。)

 ラテン語関係の説明など、少し危なっかしく思われる部分があるので、注意して読み進める必要がある。とにかく、これで「語彙」の章が終わり、今度は「語形成」を扱った章に進むことになる。遅々として進まないという印象があるが、むしろ遅々としてではあるが、進んでいると考えて読んでいく方がいいのだろう。 

佐藤信弥『中国古代史研究の最前線』(3)

4月20日(金)晴れ、気温上昇

〔前回までの内容のまとめ〕
 「中国での古代史研究は歴史学と考古学の間…伝世文献の記述と出土文献の記述の関係をどう結んでいくかに腐心した苦闘の歴史である。本書では、研究の最前線に立つ学者たちがその両者のはざまでどのような中国古代史像を描き出してきたかという軌跡を追っていくことにしたい。」(11ページ)
 第1章 幻の王朝を求めて
  第1節 殷墟の発見と甲骨学の発展
 1903年に劉鶚が甲骨文の最初の図録である『鉄雲蔵亀』を出版すると、たちまち反響を呼び、少なからぬ学者たちが甲骨文の研究に取り組んだ。甲骨学の当初の課題は甲骨の出土地を突き止めることと、甲骨文がいつの時代の資料なのかをはっきりさせることであった。
 甲骨文に見える王名や神名から、これらの史料が殷時代のものであることが明らかになったが、研究に中心人物の1人であった王国維は中国古代史研究の研究手法として「二重証拠法」を提起したことでも知られる。二十証拠法は一般に伝世文献と出土文献の内容を照らし合わせて研究を進める手法と理解されているが、実際には両者の関係は対等ではなく、出土文献はあくまで伝世文献の内容を検証するための傍証の材料としての役割しか与えられないことに問題がある。この問題は長く続くことになる。
 1928年から1937年まで15次にわたって取り組まれた殷墟の発掘により、殷王朝の実在が考古学的に証明され、甲骨文の研究もさらに前進した。新中国成立後も発掘作業と研究が進められてきたが、考古学研究の成果が伝世文献の傍証とみなされがちであるという傾向が残っている。

 今回は第1章第2節「夏王朝の探求」と第3節「古蜀王国としての三星堆」を取り上げる。
 第2節 夏王朝の探求
 「殷墟が存在したのであるから夏墟も存在するはずである。こうした信念のもと、中華人民共和国成立後、考古学の方面から夏王朝の都さがしが進められることになる。特に殷代前期にさかのぼる鄭州商城の発見によってその機運が高まった。」(65ページ)
 伝世文献で夏王朝に関する伝承が残る河南省の遺跡に着目した徐旭生は、同省の洛陽市の東に位置する現・偃師市の二里頭遺跡の調査を行い、殷の初代の王である湯王が都をおいたとされる西亳であるとしたが、その後の研究によって二里頭文化は殷ではなく別系統の勢力の特徴があることから、夏の文化であると考えられるようになった。

 特に1983年に二里頭遺跡の近くに殷王朝初期の文化の特色を示す二里崗文化に属する偃師商城が発見されたことで、この遺跡こそ西亳であり、二里頭遺跡が夏王朝の遺跡であるという考えが有力になった。
 ただし殷の場合とは違って、甲骨文などの同時代史料によって夏の諸王の存在が裏付けられるものではないために、日本の学界では夏王朝の認定に消極的な意見が多い。二里頭遺跡は、青銅器時代の初期段階に位置づけられる遺跡であるが、王の政務と祭祀や儀礼の場である王宮が建造され、原初的な王権と、身分秩序の存在を推定させるだけでなく、その文化が一定の広がりをもっていることから殷以前の王朝の遺跡であると考える見方が現れてきている。著者は、このような王権の成立を認めながら、落合淳思が提案しているように、文献にとらわれずに「二里頭王朝」などと呼んだ方がいいのではないかと論じているが、妥当な見解だと思われる。そして著者は「二里頭遺跡が夏王朝の都城ではないとしても、中国での王権の誕生を示すきわめて重要な遺跡と言おう評価は変わらないだろう」(78ページ)と論じている。

 第3節 古蜀王国としての三星堆
 三国時代に蜀の都が置かれたことで知られる四川省の省都成都市の北約40キロの広漢市郊外に位置する三星堆遺跡は、1929年に数百点もの玉器が出土したことから知られるようになったが、1986年に大量の出土品が発見されたことから学界の注目を集めるようになった。
 三星堆文化は、中原の二里頭文化期の末期から殷周王朝交代期まで続き、その後、成都市一帯の成都平原に広がる十二橋文化にとってかわられたと考えられている。十二橋文化の主要な遺跡の一つが金沙遺跡である。

 三星堆遺跡からの出土品はその形状から、「縦目仮面」→蜀の古代について記した『華陽国志」に登場する古代の王=蚕叢、銅製の神樹→『山海経』の扶桑あるいは『淮南子』の建木と、文献に頼った解釈が行われているが、もっと出土品それぞれの経常事態に即した解釈を進めることも必要であるという説もある。
 そして三星堆文化とその出土品は、その独自性を強調されがちであるが、部分的にせよ二里頭文化や二里崗文化と共通する要素もあり、他の文化圏と相互交流も行われていたことが確認され、他の文化圏から孤立した存在ではなかったことが指摘されている。

 「近年、中国の文明は黄河の中流域(いわゆる中原)で発生してそれが周辺地域へと広がっていったというような一元的なものではなく、黄河流域や長江流域のほか、現在の中国東北地方と内蒙古一帯、あるいは華南の珠江デルタなど、複数の地域で多元的・同時並行的に発生したという理解が一般的になっている。三星堆遺跡が位置する長江上流域の四川盆地もそうした地域の一つに数えられる。」(91ページ)と著者は最近の古代史研究の動向をまとめる。そ
 多元的で時として異質なものを内包する文化をすべて中国の文化の源流と考えるのには、国民の統合を目指す現代の中国の政治的な意図が反映されているという見方もできるが、それを割り引いても注目すべき意見ではないかと思う。

 中国の古代史(に限らず歴史一般)研究においては文献の中の知見の方が考古学的な思考より重んじられる傾向にあること、現在の政治の方向性が研究の方向性を支配しがちであることが、夏王朝は実在したか、実在したとすればどの遺跡がその都の跡なのかとか、三星堆遺跡をどのように性格づけるかというような議論にも反映されているということが、かなりよく分かった。もう20年くらい以前になると思うが、世田谷美術館で三星堆の出土品の展示が行われたことがあり、その独特の雰囲気に圧倒されたことを思い出す。とはいえ、文字がなく、そこから物語を読み取ることのできない文化には、ある種のもどかしさを感じるのは仕方のないことである。

エラスムス『痴愚神礼賛』(17)

4月19日(木)曇りのち晴れ、気温上昇

 鈴の付いた阿呆の帽子をかぶり、道化の扮装をした痴愚の女神が世界の中で自分が果たしてきた役割が正当に評価されていないという理由から、自賛の演説を展開します。人間は痴愚の中から生まれ、その人生の苦しみを痴愚のおかげで紛らわせ、老いては子どもと同じような痴愚に陥ると言います。学問も技芸も痴愚の仲間であるうぬぼれの助けがなければできないものだとも付け加えました。その一方で賢いことを表看板に掲げている学者たちや、宗教者、君侯や廷臣たちもまた実は痴愚のお仲間であることを暴露します。
 さらに痴愚をたたえるようなことわざはたくさんあると、その例を聖書の中に求めて、そのいくつかを紹介します。そして「旧約聖書」の中でその知恵をたたえられているソロモンも、使徒パウロも自分は愚かであると発言していると、その例を挙げます。彼女はギリシア語を勉強することによって聖書の理解が深まると主張する学者たちを批判し、自分がおろかであるといっているパウロの言葉を何とか自分に有利に取り繕うとしている学者たちを嘲笑します。

〔64〕
 しかし、たった一つの例のためにこんなにもムキになって議論に努める必要があるのだろうかと女神は言います。神学者には天上界のこと、天上界を見てきた人はいないので、聖書を頼りにする以外にないのですが、その聖書をめぐり様々な解釈をする自由が認められているはずです。細かい違いはあっても、大筋で正しければいいのではないかと、女神はこんな例を引き合いに出します。聖パウロによると、一見聖書に反するような言葉であっても、聖書の内容を支持することになるものがあるといいます。この聖パウロの発言を書きとどめているのは、聖書のラテン語への翻訳によって知られるヒエロニムス(Hieronyumus,英Jerome, c.347-429)だそうです。それによると、パウロはアテナイの街で見つけた祭壇に異教の神にささげられた銘文を見つけ、それをキリスト教の信仰を証明するものに変えてしまったといいます。ヒエロニムスはラテン語、ギリシア語、ヘブライ語、カルデア語、ダルマティア語の5つの言語を使いこなしたといわれますから、このパウロの話も信じてよいのではないかといいます(それとこれとは関係がないようにも思われます。)
 だからと言って調子に乗ってこの真似をして、あちこちからちょっとした言葉を見つけてきて、必要に応じてそれを自分に都合の良いように捻じ曲げて解釈するというようなことをやりすぎるのは考え物だといいます。

 さらに「新約」のなかのイエスの教えは「温和と、忍耐と、現世蔑視」(201ページ)を説くものであり、聖書の中の言葉に様々な余計な意味を与えて、別の解釈を施すのはいきすぎだといいます。これは平和主義者のエラスムスの本音でしょう。異教徒との宗教戦争も辞さないという人々に向けて、女神は「異教徒たちの暴力に対して、使徒たちが槍や盾を用いたなどとは、風のうわさにも聞いたことはありませんが、もしこの先生が解釈しているようにキリストがお考えだったとしたら、それを用いたことでしょう。」(203ページ)とも言っています。これもエラスムスの本音を女神に託したものでしょう。
 また「異端者は論議を尽くして改心させるよりも焼き殺したほうがよい」(204ページ)という主張の根拠をめぐっても、本来の意味を離れた聖書の表面的な解釈が横行していることを指摘しています。

〔65〕
 さて、女神は話を聖パウロに戻し、パウロが自分を愚か者だといっている個所が聖書の中に数多く見いだされるといいます。「それに、パウロは、痴愚をもっとも必要なものであり、民の救いとなるものだと、公然と言っていないでしょうか? 「もし、あなた方のだれかが、自分はこの世で知恵のあるものだと考えているなら、本当に知恵あるものとなるために愚かなものになりなさい」(206ページ、「コリントの信徒への手紙 3・18) また復活したイエスに出会った2人の弟子が、そのことに気づかなかったために、「ああ、物分かりが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてが信じられない者たち」(ルカ・24‐25)と言われたという個所も引用して、痴愚の礼賛の手立てとしていますが、これは少し的外れではないかという気がします。

 そして、賢者よりも愚者のほうが神に愛されるのであり、その証拠には愚者のほうが王侯の眼鏡にかなうことが多いと主張します。次に智者よりも愚者を愛するというイエス自身の言葉(がないので、パウロの言葉)を探し出します。「コリントの信徒への手紙」には「神は知恵あるものに恥をかかせるため、世の無学なものを選び、力あるものに恥を書かせるため、世の無力なものを選ばれました」(1‐27) 「新共同訳」ではこのようになっていますが、『痴愚神礼賛』はヒエロニムスによるウルガタ版を使っているので、「無学な」というところが「愚かな」となっています。順序が逆になりますが、女神は「世は自分の知恵で神を知ることができませんでした。それは神の知恵にかなっています。そこで神は、宣教という愚かな手段によって信じる者を救おうと、お考えになったのです。」(1‐21) この辺りは理解に苦しむところですが、人間の有限な知恵では無限な存在である神を認識できない。そこでイエスから教えを受けた人々による、さらにその弟子たちによる「宣教」が必要であるということに受け取っておきましょう。女神は次のようにも言います。「キリストが福音書の至るところで、パリサイ人や律法学者や教師たちを攻撃しているのに、無知な大衆を熱心に擁護している」(208ページ)。言われてみれば確かにその通りです。昨今のキリスト教原理主義、福音主義が反知性主義との親近性をあらわにしているのもなんとなくわかるような気がします。

 エラスムスは相変わらず、痴愚の女神と絶妙の距離をとり、自分の考えとは反対のことを言わせたり、自分の考えを言わせたり、どっちかなぁ~どっちでもなさそうだなぁ~と読者に考えさせながら、演説を続けさせます。ただ、演説がキリスト教の教理や聖書の解釈をめぐる議論に入ってきて、やや話し方が慎重になったようにも思われます。女神の議論の背後にあるエラスムス自身の聖書についての考え方は、今日の聖書研究からすると、やはり古典的なものであると言わざるを得ません(聖書の近代的な批判ということになると、やはりスピノザの『神学・政治論』まで待たなければならないようです。なお、この演説もまもなくおわりになります。
 『痴愚神礼賛』の次は、トマス・モアの『ユートピア』を取り上げるつもりで、いろいろと予習をしているのですが、エラスムスとモアは親友ではあったけれども、その関心を個人の自由や個性の問題へと向けたエラスムスと、社会に目を向けて社会的平等や正義を重視していたモアとでは時として意見が異なることもあったということがわかってきて、なかなか興味が尽きません。 

野口実『列島を翔ける平安武士 九州・京都・東国』(5)

4月18日(水)午前中は雨が降っていたが、午後になって晴れ間が広がり始めた。

 九州地方における武士社会の形成には2つの波がある。第一の波は摂関時代に京都や東国から派遣されてきた軍事貴族たちの大宰府を拠点とした活動であり、第二の波は鎌倉幕府の成立後、惣地頭として京都や東国から移住してきた幕府御家人たちの活動である。
 武士はその出身地と強い結びつきをもった存在と考えられがちであるが、少なくとも鎌倉時代まではその時代の政治的な動きに応じて移動する存在であったことを見逃すべきではない。また、武士社会の形成は東国を中心に考えられる傾向があるが、九州においても全国的なネットワークの中で武士団が形成され、武士社会が形成されていったことも忘れてはいけない。
 この時代の九州はこの地方から生み出される富だけでなく、大陸や南島との貿易拠点としても重要な地域であり、多くの貴族や武士がこの地で財産を蓄え、またその富を利用して中央での勢力をもったり、中央との結びつきを強化したりした一方で、それらの富を横取りしようとする海賊たちも横行し、その海賊を鎮圧することで武勇の名声を得る武士たちもいた。
 そのようにして台頭してきた武士たちの実力が示されたのが、11世紀初めの刀伊の入寇であり、その際に活躍した武士たちはさらに九州の地で力を伸ばして、その影響力を南九州へと広げていった。在地の領主たちによって開発された荘園が、これらの武士たちを介して院や摂関家に寄進され、都の貴族たちの生活を支えることになるが、その中で武士たちは実力を蓄えていくのであった。そうした荘園の代表的なものが日向を起点として大隅・薩摩へと拡大していった島津庄である。

 11世紀初頭に伊佐平氏の平季基が日向国諸県(もろかた)郡の地 を関白頼通に寄進したことにより始まる島津庄は、12世紀後半には、日向・大隅・薩摩の南九州3国にわたる大荘園に拡大していた。このような拡大は、肝付氏(伴氏)など、在地勢力の力によってなされた者と考えられる。島津庄は土地からの収入のほかに大陸や南東からの交易によってもたらされる利益が大きく、摂関家にとって第一の家領となり、院政の開始によって摂関家の権威と経済的な実力が衰微しはじめてきた中で、その重要性を増していたのである。

 島津庄は成立時点から南島あるいは大陸からの物資調達の場としての機能が期待されていた。12世紀前半の頃から、摂関家の私貿易の拠点になっていた島津庄は都の貴族たちがその富や地位の象徴として眩示する南方の特産品や宋からの輸入品を提供したのである。
 ところが、摂関家領の大部分は、仁安元年(1166)摂政基実が若くして死んだことにより、その後家である平盛子(白河殿)に伝領され、実質的に盛子の父清盛の支配に委ねられるようになった。平家による日宋貿易の輸出品は砂金であり、その砂金は平泉から京都を経て大宰府から輸出されたものと考えられているが、中尊寺の装飾に南島の夜光貝が用いられていることから考えて、平泉が平家政権の誕生以前から摂関家の家産支配の機構と河内源氏の武力とに支えられた東アジア規模のネットワークに組み込まれていたとみることができる。源為義は中央では不遇であったが、義朝を坂東、為朝を鎮西に下し、自らは畿内全体の外港とも言うべき摂津国大物浦(兵庫県尼崎市)に拠点を構えて列島各地をつなぐネットワークづくりに意を用いた形跡がある。「この為義の『構想』が、孫の頼朝による列島制覇に大きく資することになったのである。」(98ページ)

 院政期、平家の部門としての名声が高まったのは、平正盛(清盛の祖父)による瀬戸内海海賊の平定が理由とされるが、肥前平氏の嫡流と目された平直澄の反乱の鎮圧もその理由に加えてよい。また平家の有力家人である平家定が、薩摩平氏の阿多忠景の追討に派遣されたり、肥前の国の日向通良の反乱を鎮圧したりと、平家の九州経営における軍事・警察的な部分を担当するようになっている。家定の子息の貞能も、清盛に仕えて活躍している。
 平家定の追討を受けた阿多忠景は南島に逃亡して行方をくらませ、そのまま南島に勢力を張ったようで、彼の一党の活動が琉球諸島にまで及んだことも考えられる。琉球の祭祀歌謡である『おもろ』の中には本土の合戦で敗れた武士が琉球に逃げ延びたということを語るものがあり、鎮西八郎為朝(阿多忠景の婿である)の琉球入りは事実ではないが、荒唐無稽な俗説として片づけるわけにもいかないのである。
 島津庄は、摂政であった藤原基実の死後、その未亡人で清盛の娘の盛子が伝領することとなった。「平家による実質的な摂関家の乗っ取りである。」(104ページ) 源平争乱期には、平家一門の忠度が薩摩守になり(『平家物語』に歌人としてのエピソードを残す、あの忠度である。なお、電車などのキセル乗車のことを、昔は「薩摩の守」といったが、今はそんな言葉を知っている人はいないだろうね)、荘園の政所を指揮統制する荘留守は、平家家人の平盛俊がつとめていた。平家は阿多忠景のような巨大な在地領主を圧迫する一方、弱小領主層を巧みにその支配下に組み込むことでその勢力を強めていった。

 このような南九州の在地勢力に対する平家の影響力の行使は、島津庄の範囲内にとどまるものではなかった。在地の武士たちも京都との間に太いパイプを築こうとしたし、また実際にもっていたのである。12世紀、京都には、院や摂関家に仕え、また調停を警護するために列島各地から武士が集まり、そこで彼らは私的な関係を結んでいった。彼ら地方武士は、その職能を果たすうえで、都市の生産・流通に依存せざるを得ない存在であったが、武士の地位向上により、彼ら独自の交流も盛んになっていった。こうした武士の台頭の中で、平家政権の成立、治承・寿永の内乱、鎌倉幕府の成立も考えていく必要がある。

 摂関家の富の源であった荘園が、次第に武家の棟梁に奪われていく過程は、偶然も手伝っているとはいえ、歴史の大きな流れを示すものであり、それが島津庄においても確認できる。前回、奥州藤原氏の動きが視野に入っていないということを述べたが、今回はその点も触れた分析がみられ、また沖縄についての言及も見られたことで、野口さんが列島規模での歴史の動きをとらえようとしていることが明らかになった。次回では、源頼朝の挙兵によって九州でも武士たちの動きや勢力関係が一変したことが述べられるので、お楽しみに。

『太平記』(206)

4月17日(火)曇り

 建武4年(南朝延元2年、1337)3月6日、比叡山から再起を期して北国に向かった新田義貞が宮方の拠点として守っていた越前の金ヶさ崎城が、足利方の総攻撃により落城した。しかし、それよりも早く2月に大将新田義貞とその弟の脇屋義助は城を脱出して杣山城に入り、反撃の機会をうかがっていたのであった。金ヶ崎の落城により後醍醐帝の一宮・尊良親王は自害され、東宮である恒良親王はいったん脱出に成功したものの、捕らえられ、京都で幽閉された。足利方の諸将は宮方に与した延暦寺の破却を議論したが、そこに来合わせた足利尊氏・直義兄弟の顧問役の天台宗の僧・玄恵法印が延暦寺と日吉大社の由緒を説いて、思い留まらせようとする。
 比叡山の地は釈尊がまだ修行をされていた時に、将来は悟りを開いて仏になるという授記を与えられ、自分の教えを広めるのにふさわしい地を探されて、琵琶湖の西南の地を見つけられた。その後、天竺にお生まれになって悟りを開き、教えを広められた後入滅されたといっても、仏は生滅を超えた存在であるから、さらにその教えを広めるべくかつて発見された土地にやってこられた。ところが地主神だという白髭明神が土地を譲らないというので、あきらめかけていると、薬師如来がやってこられて自分こそ本当の地主であると言われる。そこでこの地で仏教を広められることを決められる。その後時を経て、釈尊は最澄に生まれ変わられて、桓武帝の帰依を得て延暦寺を創建された。その根本中堂の本尊は薬師如来である。

 最澄が延暦寺の根本中堂を建てた後に、小比叡の峰を通り過ぎられようとすると、光り輝く3つの太陽が、空中から飛び下ってきた。(大比叡の大宮権現に対して、小比叡は二宮の地主権現である。) その光の中に、釈迦、薬師、阿弥陀の三尊が、光を並べてお座りになっていた。この三尊がそれぞれ僧侶、あるいは俗人の姿をされて、最澄に向かって拝礼され、「十方大菩薩、愍衆故行道(みんしゅごぎょうどう)、応生恭敬心(おうしょうくぎょうしん)、是則我大師(ぜそくがだいし)」{第3分冊、295ページ、すべての菩薩(=仏になる修行をするもの)は、衆生を憐れむゆえに修行する。そのような菩薩こそ我が師なりとの敬いの心を起こすべきである。「法華経」安楽行品の句}と賞賛された。最澄は大いに礼を尽くして拝礼を返され、「お名前をお聞かせください、お願いします」と質問したところ、三尊は次のように答えた。「竪の三点に横の一点を加へ、横の三点に竪の一点を添ふ」(前掲、295‐296ページ)。(これは一種のなぞなぞである。) 自分はうちには円宗(=天台宗)の教法を守り、外には悟りを開かせる手段を援助するために、この山に来たのである。」 その光は何度も焼き鍛えた銅鏡のように光り輝いていた。

 最澄がこの言葉の通りに字を考えてみると、竪の三点に横の一点を加えると、山という字になる。横の三点に竪の一点を添えれば、王という字になる。山は高く動かないものであり、王は天・地・人を治め整える徳を顕わす称号であろうと思い、その神を山王と崇め奉った。

 日吉山王上七社の第一・大宮権現ははるか昔に悟りを開いた仏で、天照大神が姿を変えて現れた神である。もっぱら天台宗の教法を守って、久しく比叡山に鎮座されている。それ故法宿大菩薩とも申し上げる。既にこれは三界(衆生が輪廻する世界)の慈父、我々の本師である。
 日吉山王上七社の第三・聖真子は九品安養界(9種の異なる浄土)へとその功徳によって衆生を導く化主(けしゅ=教主)である八幡大菩薩の分身で、光を比叡山の麓に和らげ、速やかに大宮・二宮・聖真子の形を示す。十悪(十種の大罪を犯した者)であっても浄土に導くその速さは、疾風が霧や雲を散らすのに勝る。一度祈っただけでも信心が仏に通じるのは、あたかも巨大な海が露のしずくを受けるようである。和光同塵(仏・菩薩が本来の光を和らげて、塵に汚れたこの世界に仮の身を現されて、衆生をお救いになること)は、既に結縁(仏縁を結ぶこと)の始まりである。往生極楽は悟りを得ることの終わりではないのである。
 八幡大菩薩というのは平安時代になって朝廷から八幡神に贈られた神号であり、神仏の混淆がこの神様において特に著しかったことを示す。本地垂迹説では、八幡神の本地は阿弥陀如来であり、そのことを念頭に置くとこの個所はわかりやすいのではないか。

 日吉山王上七社の第二、二宮ははじめ釈尊と約束をされた東方浄瑠璃世界の如来(=薬師如来)で、わが国秋津島の地主である。(秋津島という場合、本州を指す場合と、日本全体を指す場合とがあるが、ここは日本全体の意味であろう。) 随所示現(ずいしょじげん=至る所に様々な姿で現れて衆生を救うこと)の誓いは、既に叶った。現世安穏(あんのん)の人望、願生西方(がんしょうさいほう=西方浄土に生まれる願い)、必ずや来世往生の導き手である。

 日吉山王上七社の第四、八王子は千手観音の化身である。煩悩の穢れのない力によって、堕地獄の苦しみをお救いになる。灌頂(仏が慈悲の水を菩薩にそそぐ儀式)で、王子(仏弟子)になったために、大八王子という。清涼の月のような本地仏は浄土にいらっしゃるが、衆生を救う光は祠の露に映るのである。観音菩薩がいらっしゃる浄土はどこかというと補陀落山である。

 日吉山王上七社の第五は、十一面観音が姿を変えられた神で、加賀の白山神社の霊神である。ではあるが、山王の行化(行化、修行と教化)を助けようと、北陸の高峰から出て、東山道の近江の日吉にいらっしゃった。それで客人という別名がある。(この神を信じれば)現世では十種の優れた利益を得る。寿命が終わった後は、九種の浄土の蓮の台に生まれ変わることができる。

 玄恵法印の話はまだまだ続く。武士たちを説得するには持久戦に持ち込むほうがいいという判断があるのだろうが、長話にイライラしている聴き手も少なくなかったのではないか。比叡山は様々な神仏が守っている霊地であるということを、それぞれの神仏についての解説を加えながら展開する。神仏が習合したこの時代の宗教観がかなり詳しく表現されている個所で、見慣れない語が多くて読み進むのに難渋するが、それなりに興味深かった。
 

フローベール『感情教育』(8‐2)

4月16日(月)曇り

 法律を学ぶためにパリに出た青年フレデリックは、帰郷の船上で美しい人妻アルヌー夫人に心奪われる。パリでの再会後、美術商の夫の店や社交界に出入りし、夫人の気を惹こうとするのだが・・・・。
 二月革命前後のパリで夢見がちに生きる青年と、彼を取り巻く4人の女性の物語。
 いつも同じようなあらすじの紹介をしているのもつまらないので、今回は「光文社古典新訳文庫」の『感情教育(上)』を紹介する文章をそのまま使ってみた。4人の女性というのはアルヌー夫人、ダンブルーズ夫人、ロザネット、ルイーズだろう。アルヌー夫人との恋(とその他の3人の女性との交渉)を主旋律とすると、フレデリックの親友であるデローリエをはじめとして、立憲王政支持で出世主義者のマルチノン、演劇界での成功を夢見ていたが、ジャーナリズムに乗り換えるユソネ、貴族の末裔で世間知らずのお人好しの王党派であるシジー、独善的な社会主義者のセネカル、まじめな店員で共和派のデュサルディエ、理論倒れでなかなか自分の思うような傑作が描けない画家のペルラン、政論好きのルジャンバールらの青年たちの革命前後の動きが副旋律ということになるだろう。

第2部のこれまでのあらすじ
 遺産を相続して豊かになったフレデリックは再びパリに戻ってくる。彼が故郷で過ごしていた間に、パリで暮らしている知り合いたちの境遇は変わっていた。経済的な問題を抱えているアルヌーは画商をやめて、陶器商に転業し、住所も変わっていた。久しぶりにあったにもかかわらず、アルヌー夫人の彼に対する態度がよそよそしかったので、フレデリックは社交界で活躍してみようと決心する。社交界デビューの入り口として選んだダンブルーズ家を訪問しようと準備をしたフレデリックであったが、気が変わってアルヌーを訪問し、彼に連れられてロザネットの仮装舞踏会に出かけ、そこでロザネットだけでなく、ペルラン、ユソネ、(アルヌーの愛人であった)ヴァトナ嬢などの旧知にも再会する。フレデリックは女とぜいたくに明け暮れる生活にあこがれる一方で、アルヌー夫人への想いを断ち切ることができない。
 いよいよ新居を構えたフレデリックは、次の行動としてダンブルーズ家を訪問する。ダンブルーズ夫人は彼を温かく迎えるが、ここでの談話には飽き足りないものを感じた彼は、ロザネットの家を訪問しようと考える。

〔第2部の2-続き〕
 ロザネットの家では、女中のデルフィーヌが無断で外出していて、服装を整えないままでロザネットが出てくる。理髪師が訪問する予定だったので、その理髪師と間違えたと彼女は言い訳して、彼を化粧室に案内する。 
 「一見して、これはこの家の中でもっとも人のよく出入りする、いわば精神的中心といった感じがした。大きな葉の模様のペルシア更紗で壁、肘掛け椅子、広いバネつき長椅子を一様に張っていて、白大理石の卓上に藍色陶器の鉢が二つ、少しはなれて置いてある。その上に、棚になったガラス板には、壜や刷毛や櫛、コスメチック、白粉箱などがごちゃごちゃにならんでいた。煖炉の火が大きな鏡に反射し、浴槽の外側に布が垂れ、アマンドや安息香の練り物の香がただよっていた。」(208‐209ページ)
 「化粧室」(cabinet de toilette)に来客を通すというは、フランスの住まいの化粧室がかなり広いということを考えても、理解に苦しむのだが、上に引用したところからもわかるように、ロザネットはフレデリックを化粧室に案内している。これはダンブルーズ邸で彼が通された「楕円形の部屋」(appartement ovale)とは大違いである。〔この時代、appartementという語は、「部屋」の意味でも使われていたらしい。〕

 理髪師がやってきて、仕事をしながら、彼女の友人たちの噂話をして聞かせる。「どれもこれも、ダンブルーズ家でそうだったように、貴族の婦人ばかり。」(209ページ) 住まいの様子は違っているが、関心事は共通しているということである。
 女中のデルフィーヌが帰ってきたので、ロザネットは彼女が無断で出かけたことを叱り、次に彼女が市場で買い物をしてきたというので、帳面を改めてその買い物の内容について調べ、無駄遣いを叱り、勘定が合っていないといって彼女から4スーを取り上げる。そして女中一般についての愚痴をこぼす。「フレデリックはこの愚痴を聞いて不愉快だった。あちらで聞いたのをまざまざ思い出したからだ。で、あれとこれと二つの家で、一種いやな平等さのあることを考えた。」(210ページ) ダンブルーズは平民の事業家であることを前面に出しているが、その出自は貴族であり、ロザネットは貴族気取りの怪しげな女性である。だからその身分には相当な違いがあるはずなのだが、考えていることはそれほど変わらないようにフレデリックには感じられたということである。これはこの小説のテーマ、あるいはこの時代の雰囲気を考」えるうえで重要な観察であるかもしれない。

 ロザネットは、次に、黒い服を着た老婆が押し掛けてきたのを追い返す。この老婆が何者であるかはわからないが、ロザネットが何かどす黒い過去をもっているかもしれないということを暗示しているようである。そこへロザネットの友人であるヴァトナ嬢がやってくる。彼女は一応作家ということになっている。ヴァトナ嬢が買い物をするために必要な小銭をフレデリックが立て替える。フレデリックはロザネットの家を出るが、彼女の態度を見て、「近々に自分の恋人になる」(212ページ)と確信してうきうきした気分になる。そして「この欲望がまた別のを呼びさま」(同上)し、まだ恨みがましい気分が残っているにもかかわらず、アルヌー夫人に会いたくなる。

 すぐに訪問しようと考えたのを考え直して、翌日、フレデリックはアルヌー家を訪ねる。 
 アルヌー夫人は家庭の主婦らしく、子どもたちの近くで縫物をしている。「部屋は落ちついたようすだった。窓ガラスから美しい陽がさし、家具の角々はつやつや光っている。アルヌー夫人は窓際にいるので大きく射す光が襟筋の愛嬌毛を照らし、金色の流れにひろがって琥珀の肌ににじんでいた。」(213‐214ページ)
 夫人と話しているうちに、フレデリックはその瞳の奥の優しさを読み取り、激しい情愛に動かされる。彼女は、フレデリックの親切が長い中断期間があったにもかかわらず変わらないことに感謝の気持ちを述べる。フレデリックは彼女の飾り気のない態度に感動する。そして、自分の気前のよさを他人に誇示したい気持ちにかられる。

 ダンブルーズ邸、ロザネットの家を訪問したことで、フレデリックは彼の社交界での成功や愛人の獲得というよからぬ夢の実現に向けて前進したと思う。その一方でアルヌー夫人への思慕の気持ちも取り戻す。よそよそしく冷たいダンブルーズ邸と乱雑に散らかっているロザネットの家(対照的だが、そこに集まってくる人々の関心事は共通したものがあるという皮肉)に比べると、アルヌー家にはアルヌー夫人の趣味が行き届いた落ち着きがある。
 フランス語のle mondeには世界とか世間とかいう意味のほかに、社交界という意味がある。そのいっぽう、le demi-mondeということになると、半社交界(→椿姫や女優ナナといった高級娼婦の世界)という意味になるそうである。フレデリックは社交界に進出する夢を追いながら、その一方で半社交界にも足を踏み入れようとしている。さて、その結果はどんなことになるのか。
 その前に、フレデリックは昔の友人たちのことを思い出し、彼らを自分の新居に招待しようと考える。その一部始終はまた次回に。〔もっともダンブルーズ邸にはマルチノンが出入りし、半社交界にはユソネやペルランも首を突っ込んでいるということも見逃してはならない…]
 これまで(今回も)、岩波文庫の生島遼一訳を使ってきたが、時々腑に落ちない箇所があるので、光文社古典新訳文庫の太田浩一訳も適宜参照し、またネットで探せばフランス語の本文もわかるので、それも見ながら、物語の展開を追っていこうと思う。  

日記抄(4月9日~15日)

4月15日(日)雨が降ったりやんだり、午後になって晴れ間が覗くようになる

 4月9日から本日までの間に経験したこと、考えたこと、前回以前の補遺・訂正等:
4月8日
 『朝日』に故・中村真一郎さんの未亡人で詩人の佐岐えりぬ(本名中村佐紀子)さんが2月1日に亡くなられていたとの記事が出ていた。ご冥福をお祈りする。

 『朝日』の「首相動静」によると、この日、安倍首相は映画『ウィンストン・チャーチル ヒトラーから世界を救った男』を鑑賞したそうだ。どんな感想をもったか知りたいところである。 

4月9日
 インターネット情報で落語家の月亭可朝{本名=鈴木傑(まさる)}さんが3月28日に死去されていたことを知る。80歳ということは、年に不足はないはずなのだが、もう少し長生きしてほしかったと思う。昔、『仁鶴・可朝・三枝の男三匹やったるでぇ!』(1970、松竹、長谷和夫監督)という映画があって、当時人気があった「エラ」の笑福亭仁鶴、「ボイン」の月亭可朝、「ホネ」の桂三枝(現在は文枝)が共演していたのだが、仁鶴と三枝は身体的特徴に注目されていたのに対し、可朝の場合は「嘆きのボイン」など持ち歌が話題にされていたのは、客観的にみて不幸なことであった。故人になった立川談志がすごい奴だと評したほどの落語家であり、もっと落語に力を入れてほしかったのは残念であり、可朝さんの芸を評価するファンが少なくなかったにもかかわらず、東京で高座に上がることをしり込みし続けたことはさらに残念である。可朝の可は、東京の落語家で江戸前の芸で知られた8代目の三笑亭可楽の一字をとったという話があるから余計に残念である。冥福を祈るというより、高座に復帰するために化けて出てきてほしいというのが本当のところである。

 司馬遼太郎『街道をゆく10 羽州街道、佐渡のみち』を読み終える。子どものころ、山形県には2回ほど出かけているので、思い当たる部分もあり、面白かった。司馬の『胡蝶の夢』の主要登場人物である司馬凌海は佐渡の人であり、佐渡についてはいろいろ調べていたようで、「佐渡のみち」も読みごたえがあった。

4月10日
 『朝日』の連載「語る――人生の贈りもの」は岡田茉莉子さんとのインタビューの11回目。1970年に公開された吉田喜重監督の映画『エロス+虐殺』をめぐる思い出など。「私は理論派の女優じゃないから、私の体が気持ちいいと感じるままに動き、演じました」という発言は、その通りだと思うが、演技の中で見せるちょっとしたしぐさの見事さは、岡田さんの俳優としての観察力のたまものではないかという気もするのである。

4月11日
 『朝日』の「オピニオン&フォーラム」のコーナーで『サザエさん』を取り上げていたのが面白かった。長谷川町子の原作と、東芝のスポンサーシップにより放送されたアニメとでは、強調点の置き方に違いがあり、それぞれがそれぞれの事情で時代の変化に伴って変化していることもあって、整理が難しいのだが、原作とアニメが違うという点をある程度まで抑えて発言していたのが樋口恵子さん、アニメの『サザエさん』の方に焦点を当ててかなり厳しく批判していたのが駒崎弘樹さん、若い世代による『サザエさん』の需要の仕方が違ってきていることに焦点を当てたのが衣輪晉一さんということであろうか。私の見方は樋口さんに近いのだが、サザエさんにはパートで働いた経験しかないという指摘など(ハロー社という出版社で正社員として働いている)納得できない点も少なくない。もっとも、『サザエさん』という漫画、あるいは長谷川町子という漫画家の世界は、結構ご都合主義のところがあって、それはそれでいい、まじめに考えすぎるのもどうかという思いもある。

 『日経』の文化欄に「武家モード 家康が原点」という見出しで、東京国立博物館所蔵の家康が着用した陣羽織をめぐる文章を福島雅子さんが書いていた。この陣羽織は新潟県高田市(現在は上越市の一部)近郊の前島家に伝わっていたものだそうで、前島家の先祖が伊賀越えの際に家康を背負って歩いた功績によりあたえられたものだという。前島家というと、日本の郵便制度の父である前島密とどんな関係があるのかとか、余計な興味がいろいろわいてきて面白く読めた文章であった。
 同じ文化欄に放浪の画家長谷川利行(1891‐1940)の展覧会の記事が出ていたが、漫画家の杉浦茂(1908‐2000)が一時、長谷川と親しく付き合っていたらしく、相互にどんな影響を与えていたか(あるいは、いなかったのか)は興味のある問題である。

 門井慶喜『こちら警視庁美術犯罪捜査課』(光文社文庫)を読み終える。美術品を狙う怪盗と探偵もしくは刑事の対決の話かと思ったら、美術品販売会社の詐欺的なビジネスを暴こうとする刑事の対決の話であり、読み進むにつれて当事者間の様々な人間関係が浮かび上がってくるという一筋縄ではいかないミステリーである。一連の事件の捜査を通して新米刑事が成長していく過程を描いているようで、それ以外の変化も描かれているところも注意してよい。

 NHKラジオ『エンジョイ・シンプル・イングリッシュ』の時間では、木曜日に世界の様々な国について紹介しているが、本日はエチオピアを取り上げていて、「6か国に囲まれている」(surrounded by 6 countries)というくだりがあったので、長野県の県民歌「信濃の国」の中の「十州に境連ぬる国にして」という歌詞を思い出した。そういえば、2月25日の横浜FC対松本山雅の試合で、松本のサポーターがこの歌を歌っていた。

4月13日
 『朝日』の朝刊に「両陛下 サラマンカ大と交流」という記事が出ていた。大学の創立800年と「日本サラマンカ大学友の会」の発足20周年を祝う集いに出席されたという。サラマンカは1218年に創立されたスペイン最古の大学であり、セルバンテスの小説にもしばしばその名が登場する、と言ってもセルバンテスは卒業生ではないのはちょっと残念。両陛下はまだ皇太子・皇太子妃だった1985年にこの大学を訪問され、それを記念するラテン語の碑文が学内にあるそうである。スペインのサラマンカ大学とポルトガルのコインブラ大学に出かけるというのは、私の夢の一つなのだが、果たして実現するだろうか。

 同じく、「語る――人生の贈りもの」は岡田茉莉子さんのインタビューの最終回。「映画館で私の作品見てほしい」という訴えは、日本映画の最盛期を経験したこの女優さんらしい締めくくりである。このインタビューでは、小津安二郎の思い出、吉田喜重監督とのパートナーシップなどが興味深かったが、成瀬巳喜男や渋谷実についての思い出もあってもよかったように思う。

 NHKラジオ『実践ビジネス英語』の”Talk the Talk with Heather Howard"のコーナーで、ヘザーさんが
I'm sure many people try to soldier on through destructive situations, because they have career dreams and they're conscientious employees, but no one, no one should sacrifice their mental or physical health for a job. (多くの社員は出世を望んでいて、また誠実なので、心身ともに追い込まれた状況でも、きっと頑張って乗り越えようとするのだろう。でも、決して、決して、仕事のために自分の心や体の健康を犠牲にするべきではない。) 
と言っていたのが耳に残る。

4月14日
 神保町シアターで「東西対決! 輝ける<大映>男優の世界」特集上映から『雑兵物語』(1963、大映、池広一夫監督)を見る。戦国時代の農村に足軽徴集の命が下り、村から15人の人手を出さなければならなくなる。流れ者(勝新太郎)や男装の娘(藤村志保)まで加わった寄せ集めの面々が戦場に駆り出される。
 清水崑の漫画『戦国雑兵』(『雑兵物語』という江戸時代初期にまとめられた本があるのを知ってか知らずか)を原作に『七人の侍』の脚本を手掛けたことのある小國英雄が脚本を書いており、歴史的な事実からはかなり離れた、喜劇的な物語が展開するが、2つの対立する陣営の対決よりも、農民(→足軽)と武士との対立に強調を置いているところが『七人の侍』と共通する。時代劇はあまり好きではないので、池広監督の映画はあまり見ていないのだが、全体として手なれた感じで安心してみることができた。ドタバタ喜劇の傾向が強いが、柳家金語楼、ミヤコ蝶々といった喜劇人(大阪府の知事になったあの人も出演している)の個人技❓に頼った部分がみられるのが減点材料である。これに対し、若いころの藤村志保の入浴場面があるというのは思いがけず儲けものをした気分である。

 J2第9節、横浜FCはアウェーで現在リーグ2位の大分トリニータと対戦。前半PKで1点を先取し、後半1点を返されたもののよく守り抜き、1-1で引き分けた。これで勝ち点13の9位となり、少し前進。

 伊勢佐木町の横浜シネマリンでルイス・ブニュエル監督の映画を上映していて、本日はまだ見ていない『ビリディアナ』を上映するので見に行こうかと思っていたのだが、体調がいま一つなのでまたの機会を待つことにした。

島岡茂『英仏比較文法』(8)

4月14日(土)曇り

 1066年の「ノルマンの征服」以後、特に13~14世紀にわたってフランス語から借用された英語の語彙数はきわめて多く、国家・宮廷・政治に関する語、軍事に関する語、宗教に関する語とみてきたが、今回は生活に関連する語について見ることにする。

 現代のフランス語のbouc, 英語のbuckは「雄山羊」を意味するケルト・ゲルマン両語系に共通する語bocに由来する。ローマ帝国時代に現在のフランスの地に住んでいたガリア人(Gaulois)やブリテン島南部に住んでいたブリトン人(Briton)はケルト系であり、アイルランド・ゲール語、スコットランド・ゲール語、ウェールズ語、ブルトン語などはインド・ヨーロッパ語族のケルト語派に属する言語である。これに対し、民族の大移動によってフランスの地に移住してきたフランク人、ブリテン島に移住してきたアングロ=サクソン人はゲルマン系であった。「肉屋・屠殺人」を意味するフランス語のboucher,英語のbutcherはこの「雄山羊」を意味するbocに、ラテン語「あるものを扱う<人>」を意味する接尾辞ier( 現代の英語ではbuckは「牡鹿、シカ・ヒツジ・羚羊・ウサギ・ネズミなどの雄」という意味で使われている。アメリカやオーストラリアでの会話では、「ドル」の意味で使われることがあるのはご存知の方も多いだろうと思う。英語で山羊についてはgoatのほうが一般的に使われているようである。雄山羊はhe-goat, 牝山羊はsge-goatという。なお「やぎ座」はthe GoatまたはCapricornという。
 フランス語のbouc(雄山羊)に対する「牝山羊」はchèvreである。「やぎ座」はle Capricorneである。

 「仕立屋、洋服屋」という意味のフランス語のtailleur, 英語のtailorは中世の標準フランス語taillourに由来する。
 英語のbeef「牛肉」は中世フランス語のbuefからbefを経て到達した形、フランス語のboeufに対応する。buef (boeuf)は「牛肉」ではない、ただの「牛」であるが、食肉に最適な去勢牛(英語だとox)という意味もあったので、「牛肉」の意味にも使われた。それがノルマン文化とともに英語に入ったのである。去勢していない雄牛は英語でbull, フランス語ではtaureau、牝牛は英語でcow、フランス語でvache、子牛は英語でcalf、フランス語でveauである。なお、「おうし座」は英語ではTaurus,またはthe Bullであり、フランス語ではTaureauである。
 英語では肉を意味するが、フランス語では動物を指すというのはは「豚」や「羊」の場合も同じで、英語のporkは「豚肉」であるが、フランス語のporcは「豚」である(現在のフランス語では食用に去勢した雄豚についてはcochon,メス豚はtruieを使う)。同様に、英語でmuttonは「羊肉」であるが、フランス語のmoutonは「羊」、特に(食用のため)去勢した雄羊を言う。去勢していない雄羊はbélier,雌羊はbrebis,子羊はagneauである。英語で羊はsheep,雄羊はram,雌羊はewe,子羊はlambである。「牡羊座」は英語ではAries,またはthe Ram、フランス語ではBélierである。

 「果物」は英語、フランス語ともにfruit(ただし発音は違う)で中世フランス語のfruitに由来する。
 英語で「支払う」という意味のpayはラテン語の動詞pacoを語源とする(島岡さんはpacareと不定詞の形を示しているが、ラテン語とギリシア語では、動詞については不定詞ではなく一人称単数現在形を見出しにつかうという決まりであるからpacoと書くべきである)。pacoは「平和」という意味のpaxと関連する語で、to bring into a state of peace(平和な状態をもたらす→「和らげる、なだめる」)という意味で、中世のフランス語や英語ではまだその意味が残っていたが、人をなだめるのには金を与えるのが一番という意識から、この語が「支払う」という意味で使われるようになったのである。フランス語のpayerもやはり「支払う」という意味である。

 中世、英語史では中英語、フランス語の歴史では中仏語の時代は、英仏ともに教養ある階級はもっぱらラテン語を常用し、そのため書き言葉を通して多くのラテン語が借用された。このような借用は英仏どちらでも活発に行われたから、英語に現れたラテン語が、直接借入語なのか、フランス語を通じて移入された間接借入語なのかはっきりしないことが多い。
 中世におけるラテン語の借用はもちろんフランス語が先行し、英語がこれに続いた。ところがこれらのフランス語の中には、音声の変化から語源のラテン語の形がかなり崩れたものがあり、英語に移る段階でこれをもとのラテン語の形に修正したものが少なくなかった。

 中間子音が補足された例としては次のようなものが挙げられる。
 俗ラテン語で「負債」を意味するdebitaは中世フランス語、英語に借入されてdetteとなったが、現在のフランス語ではdette(借金、負債)、英語ではdebt(借金、負債)で、英語においてはラテン語で存在していたbが復元されている(ただし発音はされない)。
 同じく「審判者」を意味するjudicemは、中世フランス語、英語ではjugeであったが、現在のフランス語ではjuge(裁判官、審査員)のままであるのに対し、英語ではjudge(裁判官、審査員)とdが復元されている。
 また「欠点」という意味のfallitaは中世フランス語、英語ではfauteであったが、現在のフランス語がfaute(間違い、落ち度)のままであるのに対し、英語ではlが復元されて、fault(欠点、誤り)となっている(lは発音される)。
 これらの復元は15~6世紀、近代英語に近くなった時期に行われた。

佐藤信弥『中国古代史研究の最前線』(2)

4月13日(金)晴れ、温暖

 「中国での古代史の研究史は…歴史学と考古学との間…伝世文献の記述と出土文献の記述との関係をどう結んでいくかに腐心した苦闘の歴史である」(11ページ)と「序章」で著者は述べている。歴史、特に古い時代の歴史は、中国の歴史に限らず、歴史的な文献と考古学的な発見とをどのように結び付けていくかを重要な課題としているが、中国史の場合は、古代から蓄積された文献とそれに対する考証の量が莫大なものであり、考古学的な発掘品も同じく莫大なものであり、しかも素性のあまり定かでない文献や「出土品」が紛れ込むから、研究が一層困難になっているということであろう。中国の古代史研究の新しい展開は、清末に王懿栄が収集していた甲骨を引き継いだ劉鶚による甲骨文の拓本の図録『鉄雲蔵亀』の出版に始まるとされるが、その甲骨の発見の過程についても、王懿栄が病気治療のために買い求めた漢方薬「竜骨」が発端であったという「伝説」が定着してしまったのは、何やら象徴的である。

第1章 幻の王朝を求めて
 この書物は研究の対象である古代の歴史的な事実ではなくて、「研究」そのものに焦点を当てているが、読者としての私の関心は、対象である中国古代の方にある。もっとも、なぜ、ある時代を対象とするかということも「研究」の中に含まれるのだから、あまり難しく考える必要はないのかもしれない。

 古代中国の幻の王朝とは、「夏」と「殷」である。私の中学・高校時代の世界史では、既に殷の存在については動かすことができないものとして扱われていたが、ある程度詳しく教えられていたのは周の平王が都をそれまでより東の洛邑に移し、「春秋」時代が始まって以後の歴史であった。司馬遷の『史記』がもっと「古い」時代から始まっていることを考えると、これもまた、ある時代の中国古代史研究の成果の反映なのであった。

 第1章第1節は「殷墟の発見と甲骨学の発展」と題され、研究対象としての古代王朝の順序によらず、劉鶚の研究成果の発表以後の、甲骨の発掘地の確認と甲骨文の年代の確定をめぐる学者たちの研究の跡がたどられている。
 劉鶚の著書の発行の翌1904年には、清末の大学者孫詒譲が甲骨文の研究書として『契文挙例』を出版した。彼は伝世文献や金文の知見を駆使して甲骨文の読解に取り組んだのである。このような方法が研究の最初の段階から用いられた点が注目される。
 甲骨文の時代について、当初文字に原始的な象形字が多いことや、甲骨文中に祖乙・祖辛など『史記』殷本紀に登場する殷王の名と同様の十干による人名が見えることなどを根拠として、殷代のもの、あるいはもっと大雑把に周以前の夏・殷の時代のものだろうと考えられた。

 日本の中国古代史学者林泰輔は、1909年に発表した論文の中で、上記の理由に加えて、甲骨文の文章が簡略であること、甲骨の発見地とされる地域が伝世文献上で殷の旧都とされる朝歌からそれほど遠くないことを根拠として、それらが殷代のものであると論じ、さらに甲骨の性質を王室に仕える卜占の官が使用した遺物であると論じた。
 甲骨文の出土地については、劉鶚の友人であった羅振玉による探索の結果、現在の安陽市に属する小屯村であることが突き止められた。彼は林や内藤湖南とも交流があり、日中の研究者の協力により研究は進められた。甲骨が林のように卜人の遺物であることを証明するためには、甲骨文に見える十干による呼称が殷王の名であることを論証し、当時の殷王の系譜を復元する必要があり、その仕事に取り組んだのが羅振玉の弟子の王国維であった。彼は『史記』殷本紀など伝世文献に見える殷王やその先公(王室の祖先神)と、甲骨文に見える王名や神名とを比較し、殷本紀に伝えられる殷王の系譜がほぼ確実で信頼に足るものであり、これらの文献に見える殷の歴史が決して虚構ではないこと、そして甲骨は殷の王室にかかわる遺物であることを示した。
 もちろん伝世文献と甲骨文の内容は完全に一致するわけではなく、異同があることもその後の研究によって明らかにされてきた。近年では、殷王の系譜は一定不変のものとして後代に受け継がれたわけではなく、時期ごとの政治的要請によって改変がなされ、殷王の実際の血縁関係を反映しているわけではなかったと指摘する学者もいる(→落合淳思)。

 さて、王国維に話を戻すと、彼は中国古代史の研究手法として、「二十証拠法(証明法)」を提起した。これは「紙上の材料」(=伝世文献)を「地下の新材料」(出土文献)と突き合わせることによって、その内容を補正したり、それが実録であることを証明したりすることができるとするものである。そこでは両者を照らし合わせるというよりも、出土文献によって伝世文献の内容を検証するという風に、伝世文献を優先して考える発想がみられ、この点が問題とされることになる。
 王国維がこの方法を提起したのは、当時学術界で流行していた「疑古」の風潮を批判するためであった。疑古というのは、伝世文献について懐疑的・批判的な態度で臨む学風であり、康有為の影響のもと、1910年代の後半には、儒教批判を唱える新文化運動とも連動する形で強まった考え方である。この派に属する人物として、文学者・思想家の胡適、その教え子で古代史家の顧頡剛、その盟友の銭玄同らがあげられる。
 王国維の研究姿勢は、十分な検証を行わずにひたすら伝世文献を疑うだけの疑古でもなく、また伝世文献を妄信するだけの信古でもない、第三の道「釈古」であると位置づけられ、後進に大きな影響を与えた。1927年に王が謎の自殺を遂げた翌年、殷墟の発掘が開始された。

 殷墟発掘は、1926年の山西省夏県西陰村遺跡の発掘に続く2度目の中国人自身における発掘調査であり、1928年から、1937年に日中戦争の勃発によって発掘が中断されるまで15次にわたって行われた。この発掘によっておびただしい数の甲骨が発見され、はじめて盗掘品の購入ではなく、考古学的な調査によって甲骨が得られた。
 殷墟の年代については、殷の後期、一般的には盤庚以降の時期にあたるとされる。ただ最近は、武丁以後の時代のものではないかというする説が強くなってきている。
 こうした殷墟の発掘によって、殷王朝の実在が考古学的にも証明されたが、その一方で、中国において考古学による発掘の成果が文献に従属する傾向を強めることにもなった。
 発掘された甲骨文の研究を進めた董作賓は、甲骨文から卜占の担当者である貞人の存在を見出し、そのグルーピングが可能なことに気づいた。こうして彼は甲骨文の文字の字形や大きさ、線の太さなどに注目し、書体の特徴による5期の区分を提唱した。これはその後長く、甲骨文の標準的な区分として採用されることになる。
 林泰輔や、内藤湖南をはじめとする京都帝国大学の学者たちは、殷墟発掘以前の早い段階から甲骨文に関心を示し、羅振玉や王国維らの中国の学者たちと交流していた。その一方で、「堯舜禹抹殺論」を展開した白鳥庫吉ら東京帝国大学の学者たちは、甲骨文は必ずしも古いものとは言えないのではないかと疑いの目を向け、殷墟の発掘に対しても、小屯村の付近が殷墟であるかどうかは文献上確固たる証拠があるわけではない、怪しむべきところが多いと冷ややかな態度を示していた。このような懐疑論を終わらせるきっかけとなったのは1943(昭和18)年に小川茂樹(→貝塚茂樹)が東京帝大文学部で行った甲骨文による殷代の歴史についての講演であったといわれるが、その後も甲骨文と殷墟に対する懐疑論が消滅したわけではなく、また京都帝大の学者たちが皆甲骨文や殷墟に対して肯定的だったわけでもない。著者は京都大学で長く東洋史の教育・研究に携わった宮崎市定の懐疑論(私も読んだことがある)を紹介し、それについて検討を加えている。そして「宮崎市定の甲骨文に対する疑念は、…1977年当時の甲骨学の水準で、おおむね反論が可能であると思う」(52ページ)と否定的に論じている。〔殷墟や甲骨文が宮崎の本来の研究対象でなかったことを考える必要があるだろう。もちろん、専門外の領域について発言することで、議論をより活発にすることができるし、その議論が正しい場合もあるが、単に一石を投じるだけの結果に終わることも少なくないのである。〕 

 殷墟の発掘によって、殷代に奴隷が存在したと考えられる証拠が見つかり、殷周時代の奴隷制をめぐる議論が盛んにおこなわれるようになった。ここで奴隷制というのは、マルクス主義の観点から、中国の殷周時代も古代ギリシア・ローマと同様に、奴隷が生産労働の主要な担い手であった奴隷制の社会であり、中国にもヨーロッパと同様に中世の封建制社会に先立つ古代奴隷制社会が存在したという議論である。このような議論を主導したのは文学者・政治家としても知られる郭沫若であった。彼の意見には反論も寄せられ、議論に決着がつかないまま、低調になってしまったというのが真相である。

 新中国成立後、殷墟発掘や甲骨学研究に携わってきた学者たちも中国と台湾に分かれ、それぞれの立場で研究を進めることになった。その後もいくつかの発見があったが、特に注目されるのは1976年に発掘された殷墟婦好墓である。発掘により伝世文献には該当する人物がなく、甲骨文の中に武丁の王妃の一人としてその名がみえる女性が、戦争に従事していたことを示す銘文が見つかり、「軍隊を率いる王妃」として知られるようになった。
 また発掘作業の進展により、甲骨文の時代区分についての董作賓の説にも修正が加えられるようになった。現在の研究の中心になっているのは、甲骨文の分類と綴合という整理作業であり、この整理作業が十分でなければ、甲骨文を殷代史の史料として有効に使えないということから、このような作業が研究の中心となっているのである。

 小川(→貝塚)茂樹の『古代殷帝国』は、私も読んだ記憶があるが、殷代についての考古学的な知見の深まりとともに、何度も書き直されているようで、どのように書き直されていったかをたどることも意味のあることであるかもしれない。郭沫若の奴隷制をめぐる議論についても貝塚は触れていたはずであるが、その部分についての記憶は消え去っている。殷の存在については考古学的な研究の蓄積によって、疑いのないものとなったといえるが、その前に存在したといわれる夏王朝についてはどうだろうか、次回はこの問題を中心にみていきたい。殷よりも夏のほうが先行する王朝と考えられているが、研究史的な見地から見ると、殷の研究のほうが先に進んだので、こういう書き方になっているようである。〔著者は、殷は地名であると断っている(43ページ)が、おそらく中国では「殷」といわずに、「商」という王朝名を使っていることを意識してのことであろうと思う。それならばそうとはっきり書いた方がいいと思うのだが、どうだろうか…。〕

エラスムス『痴愚神礼賛』(16)

4月12日(木)薄曇りのち晴れ、温暖

 鈴の付いた阿呆の帽子をかぶり、道化の扮装をした痴愚の女神が聴衆を相手に、世の中のありとあらゆるものが自分の恩恵を被っているのに、そのことに気づこうとしない、自分の有難さを今こそ人々に知らしめると、自賛の演説を始めます。人間は男女の無思慮な結合から誕生し、幼年時代と老人期は痴愚の中にあり、壮年期は痴愚の助けを借りて苦しみを紛らわして生きているのだといいます。学問や技芸は痴愚の仲間であるうぬぼれの助けがなければ生まれ出ないものであると指摘します。その一方で、宗教者や学者、君侯や廷臣などが表看板に知恵を掲げながら、実際は痴愚とともに生きている姿もあばき出します。
 そして自賛の例証となるようなことわざは数多いといい、特にキリスト教徒にとっては、聖書からその例を引き出すのがふさわしいだろうと、聖書の中の痴愚にかかわる言葉を引用しはじめます。

〔63〕続き
 女神は続けて、「聖書は、智者が自分に比肩するものはいないと思っているのに対して、愚者には純真な心があるものとしています。」(196ページ)と愚者が純真な心をもっていることを賛美します。(〔9〕でウヌボレは自分の仲間だといっているのとは矛盾しているように思われます。〕 「コヘレトの言葉」第10章に「愚者は道を行くときすら愚かで、すべての人を自分のような愚か者だという」(同上)とあるのは、このような意味だと女神は言います。「誰もが自分を大したものだと思っているのに、すべての人を自分と同等のものと考え、自分が讃えられている美点を、すべての人と分かち合おうとするのは、これぞ純真の極みではありませんか?」(同上)
 翻訳者である沓掛さんの解説注によると、エラスムスはこの作品を記憶に頼って書いていたために、ウルガタ(ヒエロニムス訳のラテン語聖書)の当該箇所の最後の動詞を誤って引用しているが、ほとんど意味の違いはないそうです。ただ、この一節は新共同訳聖書では、「愚者は道行くときすら愚かで、だれにでも自分は愚者だと言いふらす」となっており、その通りだとするとこのくだりで痴愚女神(の姿を借りて語るエラスムス)の説くところと一致しなくなるそうです。なお、フランシスコ会聖書研究所訳では、最後の部分は「すべての人を愚か者という」となっていて、これだとエラスムスの趣旨に合うそうです。

 女神は続けて、旧約の中で特に優れた知恵の持ち主であったとされている古代イスラエルの王ソロモンでさえ、「箴言」の中で自分を「確かに私は人間の中で最も愚鈍であり」(同上)といったことを取り上げます。解説注によると、新共同訳聖書ではここは「まことに、私は誰よりも粗野で」とあるので、痴愚の礼賛というエラスムスの文脈にそぐわなくなるため、フランシスコ会聖書研究所訳をとっているといいます。ウルガタ訳ではStultissimus sum virorumとなっており、直訳すれば「私はすべての人よりも愚かである」となるそうです。沓掛さんは指摘していませんが、ここに使われている「箴言」30:2は「新共同訳」ではソロモンではなく、「ヤケの子アグルの言葉」とされています。となると、読み方も変わってくるのではないかという気もします。

 また異教徒たちを教化したパウロも「コリントの信徒への手紙」で「愚か者のように言いますが、私は彼ら以上にそうなのです」(196‐197ページ)と言って、「愚かさでひけをとるのは恥だといわんばかり」(197ページ)の口ぶりだといいます。この個所は新共同訳では「気が変になったように言いますが」となっているので、ウルガタ訳をそのまま訳したと沓掛さんは注記しています。

 ここで女神は(というよりもエラスムスは)少し話題を変えて、エラスムス自身を含む、ギリシア語原典による聖書研究者たちに矛先を向けます。
 「さてその間にも、へっぽこギリシア学者どもが、この私に向かってやかましくわめきたてておりますが、この先生たちは新たな聖書注解を著して、他の神学者たちの目に何やら煙幕を張り、鳥の目玉でもくり抜くように当節の神学者たちの目玉をくり抜こうとしています。」(同上)「へっぽこギリシア学者ども」というのがギリシア語原典に基づく聖書研究、古代異教文化の研究・摂取に努めた人文主義者たちを指すのはすぐにわかることでしょう。「目玉をくり抜く」というのは、新たな創意発見などによって、古い学問にしがみついている学者たちの存在を霞ませ、彼らの無知、無定見を明らかにすることを言います。具体的に言えば、フランスのルフェーヴル・デタープルやエラスムス自身らが推し進めた、ギリシア語聖書の校訂・注解などによって、旧派の神学者たちの蒙を啓こうとしたことを指しています。しかし、旧派の神学者たちからすれば、これらの学者たちの行為は、彼らの目に煙幕を張り、目玉をくり抜こうとするけしからぬ所業に見えていたのです。
 
 この仲間=「へっぽこギリシア学者」のうちで「首座を占めるところまではいかないまでも、間違いなく次席を占めているのがわが友エラスムスです。」(同上) 痴愚女神の口を借りて、エラスムスが自分の聖書研究を次席と位置付けたのは、謙遜からというよりも、ギリシア語による聖書研究では、ロレンツォ・ヴァラや先に述べたデタープルの仕事のほうが先行していたことを自覚していたためであろうと沓掛さんは注記しています。エラスムスの『校訂版新約聖書』(Novum Testamentum)がフローベン書店から刊行されたのは1516年(この『痴愚神礼賛』がパリで刊行されたのが1511年)ですが、デタープルはすでに1509年に、「詩篇校合」(Quintuplex Psalterium)を刊行して、聖書の原典批評において一歩先んじたところを見せていたのです。彼ら(ギリシア学者たち)は、痴愚女神のやって見せた聖書解釈と引用を批判しています。
 
 彼らの言い分では、パウロは自分が他の人々よりもおろかだということではなくて、キリストに使えるということにおいて、自分も他の人々と同等であるといっただけでなく、何ほどか立ち勝っていると感じたのですが、傲慢な物言いで人々の耳を傷つけてはならぬとの心から痴愚を装っているのであり、「人を傷つけることなく真理を語ることができるのは、愚者だけに許された特権である」(198ページ)ことを自覚していたためだというのです。新約聖書の文脈に即していえば、「へっぽこギリシア学者」たちの言うことのほうが正しいのですが、女神はそういう難しい議論は肌に合わないので、「お偉い、肥え太って脂ぎった神学者諸先生」(同上)のお説に従うことにしたいといいます(このような女神の態度を描き出すことによって、実は「へっぽこギリシア学者」の意見のほうに聴くべきものがあると読者に判断させたいようです)。

 このように議論を展開しながら、ギリシア・ローマの古典的世界の文化を復興させることによって、新しい文化と信仰を作り出そうとする人文主義と伝統的な文化を維持しようとする戦いをエラスムスは仄めかしていますが、この戦いは、人文主義に基づいた新しい高等教育機関を設置しようとする動きと、それに対する保守派の抵抗という当時の高等教育をめぐる対立抗争にも反映されます。旧約聖書の言語であるヘブライ語、新約聖書の言語であるギリシア語、それにラテン語の3つの言語を学ぶ三言語学院という構想が生まれ、ケルン(ドイツ)、ルーヴァン(ベルギー)、アルカラ(スペイン)にそのような学校が設立されます(ルーヴァンの学校はこの地の大学の一部として発展したようです)。またこの動きに呼応して、フランスではギュィヨーム・ビュデによって王立講師団が創設され、現在のコレージュ・ド・フランスの基礎となっています。こうして〔63〕が終わります。
 実は、ギリシア・ローマの古典文化というのもギリシア文化の内部、あるいはギリシアとローマの文化の中で様々な傾向を内包した矛盾に満ちたものであり、ギリシア・ローマの文化とキリスト教も異質な要素を含むものであるということで、ルネサンスの精神を推進することが、キリスト教の新たな出発に結び付くともいえないのですが、エラスムス(やトマス・モア)はそうした矛盾についてあまり深く考えず、人文主義的な理念の未来について楽観的であったように思われます。

野口実『列島を翔ける平安武士 九州・京都・東国』(4)

4月11日(水)晴れ、風強し。

 九州(鎮西)地方における武士社会の形成には、2つの波がある。第一の波は摂関時代に京都や東国からこの地方に派遣されてきた軍事貴族たちの大宰府を拠点とした活動であり、第二の波は鎌倉幕府の成立後、惣地頭として京都や東国から移住してきた鎌倉幕府御家人たちの活動である。武士はその出身地と強い結びつきをもつ存在としてとらえられる傾向があるが、少なくとも鎌倉時代までは時々の政治的な動きに応じて移動する存在であったこと、武士社会の形成は東国を中心に考えられてきたが、九州においても全国的なネットワークの中で武士団が形成され、武士社会が成立していく過程が見いだされることがこの書物のなかでは強調されている。
 この時代の九州は中国や朝鮮、南方との貿易によって、またこの地方の豊かさによって中央政府に欠かせない富の供給地であり、海上交通はその富を運ぶ主要な手段であった。そのような富を略奪しようとする海賊と戦うために、水軍的な武士が必要であった。第一の波の先駆けのような存在であったのが、一方で強欲な受領であり、他方で水軍的な兵家としての性質も持ち合わせていた藤原保昌であり、彼は藤原道長のお気に入りでもあった。太平洋と香取海(霞ケ浦)で水上交通に慣れており、平将門の乱を平定した桓武平氏の一族のうちには、このような情勢の中で九州に移住するものが少なくなかった。
 寛仁3年(1019)の「刀伊の入寇」に際して、大宰府権帥であった藤原隆家の指揮の下、大宰府と在地の武士たちはよく戦ってこれを撃退したが、これらの武士たちの主力は朝廷により大宰府の次官・三等官・四等官に任命されたり、長官である権帥・大弐に任命された高級貴族の傭兵隊長として下向したりしたもの、そうでなくても中央の貴族との結びつきをもつ軍事貴族たちであった。
 これらの武士たちの中では中央の小野宮家とつながりを持っていた藤原蔵規を祖とする菊池氏や、大宰府の官人として力を蓄えた平為賢(将門の乱を平定した貞盛の弟繁盛の孫)を祖とする伊佐平氏が有力な勢力となり、大宰府における地位を利用してさらに南九州へと進出していった。彼らはこのように九州で勢力を養う一方で、中央との結びつきも保ち続けていた。

 このようにして大宰府から南九州に進出してきた武士たちは田地の拡大とともに、南島との交易を進め、そのことによって築いた富を利用して、中央の権門とのつながりを強めた。平為賢の子孫である平季基は日向の島津庄を開発し、それを宇治関白家(藤原頼通)に寄進したとされるが、島津庄の開発を進めたのは地方の在地勢力で、彼らが大宰府の役人でもあった季基の威勢に頼り、その季基がさらなる権威を頼んで本主である摂関家に荘園を寄進したというのが、中世日本最大の荘園として日向・大隅・薩摩に展開することとなった島津庄の起こりであろうと野口さんは考えている。季基が在地勢力である伴(肝付)氏と縁戚関係を結んでいたことがそのような推測を可能にするというのである。〔のちに島津氏に従うことになる肝付氏の末裔だという声優の肝付兼太さんが亡くなられたときにも書いたが、肝付氏は、応天門事件で知られる大納言・伴善男の子孫が土着して成立したといわれる。〕
 「南九州の在地勢力が荘園関係を摂関家と結んだのは、国主の収奪を避けるために権門の荘園機構の中に加わるという一般的な状況とともに、鎮西独自の要因として大宰府の存在という事情が背景にあり、そのために、摂関家と太宰府への結合を同時に可能にしてくれる平季基が領主として迎え入れられたのである。」(63ページ)
 平季基を迎え入れた在地勢力は、のちに島津庄政所の別当などとして在地の経営にあたることになった。島津庄の荘域は、平安時代を通じて、このような在地勢力、特に肝付氏(伴氏)などの力で拡大していくのである。島津庄の成立した都城盆地における考古学的な発掘の結果も、肥前平氏の南九州進出を裏付けているという。

 島津庄を寄進・立荘した平季基は、その数年後に大隅国に進出し、国庁などを焼いて財物を奪い、雑人を殺すという事件を引き起こしている。その際、もとは同じく太宰府官の出身で大隅国に勢力を広げようとしていた藤原良孝(藤原隆家の傔仗であった如孝と同一人物と思われる)の住まいも狙っており、ことは府官と太宰府管内受領との対立というだけでなく、府官系豪族間の縄張り争いという側面も持っていたことがわかる。しかも季基の背後には関白頼通の家司で太宰大弐でもあった藤原惟憲が介在していた。惟憲と季基は、中央政府が前日向守の訴えを取り上げないように工作したが、結局、季基は都に召喚され、頼通に対抗する政治家であった実資に進物を贈ることによって罪を免れることになった。
 この事件は東国における平忠常の乱(長元の乱)のような大事件に発展しなかったが、「平安中期における地方支配や武士成立史の観点から再評価がなされるべき大事件である」(68ページ)と野口さんは論じる。

 その後、島津庄の在地経営は平季基と姻戚関係を結んだ在地豪族の伴氏らに委ねられ、季基の子孫は太宰府に基盤を確保しつつ肥前国で領主的発展を遂げ、やがて大宰府領を足掛かりとして薩摩に進出することとなる。この「薩摩平氏」から川辺・頴娃(えい)・鹿児島など国内の郡(院)を名字とする在地の有力な勢力が生まれることになる。そして12世紀半ばには、薩摩・大隅二か国を制圧した阿多忠景のような地域権力を生むに至る。薩摩平氏は各地に郡司職を得て在地領主として発展を遂げるが、それらの郡は寄郡(よりごおり=年貢は国衙と荘園領主が折半し、雑公事(ぞうくじ)はすべて荘園領主が収取する特殊な郡)として島津庄の管下に置かれていくことになる。

 律令国家の九州支配は九州の西海岸伝いに北から南へと及んでいったが、その際、肥後から陸上を通って影響力を伸ばそうとする動きとともに、肥前から海上を移動して薩摩に向かう動きも見られた。肥前を本拠とする為賢流の平氏が薩摩に影響力を築こうとしたのもこの動きの1つである。肥前と薩摩を結ぶ海上の道は、さらに延長されて、当時の日宋貿易の中で重要な輸出品の一つであった硫黄の産出地である硫黄島(鹿ケ谷の辺に連座して、俊寛や平康頼が流された島)まで(あるいはさらに琉球諸島)まで伸びていたことが知られる。
 「中世前期、肥前と薩摩方面の海上交通は思いのほかの活況を呈していたようである。今日、九州の中で鹿児島と佐賀は尚武の気風と保守性において双璧をなす地域といわれるが、その背景は中世における両地域の密接な交流にあるのかもしれない。」(77ページ)と野口さんは述べているが、あるいはその通りかもしれない。

 肥前平氏と密接な関係をもっていた薩摩平氏の中でもっとも有名な存在は阿多忠景である。薩摩国阿多郡の郡司であった彼は、この地位を足掛かりに薩摩一円に影響力をもち、さらにその勢威は隣国の大隅にまで及んだ。あたしの居住した万之瀬川河口の高橋は阿多郡唯一の港で肥前との海上交通の要地であった。『吾妻鏡』によると阿多忠景は平氏政権時代に中央政府と対立して南島に逃亡し、ついにとらえることができなかったという。阿多郡と南島との海上の道も確保されていたことが想像できると野口さんは述べている。

 この阿多忠景はまた、その豊かな財力を利用して成功(じょうごう、売官の制度)により下野権守の地位を手に入れている。彼が保元の乱で活躍した源為朝を婿に迎えたことも、この文脈で理解される。『保元物語』では為朝はその傍若無人ぶりに手を焼いた父為義により鎮西に追いやられたように記されているが、実際は院と結びついた平氏に対して劣勢になった源氏の勢力を取り戻すために、摂関家の権威とネットワークを利用して遠隔地の武士団の組織と宗教勢力との連携のために派遣されたとみるべきである。そして為朝は、摂関家の権威と河内源氏の武威を背景に、在地の有力豪族阿多忠景と結んで、薩摩・豊後を中心に九州を席巻したのであった。万之瀬川河口が島津庄の外港として、日宋貿易にも役割を果たしたことは、近くの持躰松遺跡の発掘による考古学的な知見からも裏付けられるという。

 阿多氏は平氏の一族であるが、源為朝を婿に迎えるなど、平氏主流からは距離を置いている。これは坂東の千葉とか三浦とか(伊豆の北条とか)いう平氏の一族がとった態度によく似ている。この書物では武士と日宋貿易のような経済活動のかかわりが注目されているが、その一方で奥州藤原氏の存在が視野に入っていないのは(野口さんの研究関心のありようから見てやむを得ないことではあるとはいえ)問題かもしれない。次回は島津庄の発展、平家政権と南九州、そしてまだ余裕があれば治承寿永の乱と九州について触れた部分を見ていきたいと思う。

『太平記』(205)

4月10日(火)晴れ

 建武4年(南朝延元2年、1337)3月6日、北国における宮方の拠点であった越前の金ヶ崎城が足利方の攻撃を受けて落城した。一宮(後醍醐帝の長男)尊良親王、新田義顕(義貞の嫡男)らが自害し、城中の兵800余名も後を追った。いったんは城を脱出した東宮恒良親王も捕らえられ、京都で監禁された。しかし新田義貞と脇屋義助の兄弟は落城より以前に、城を脱出して杣山城に入っていた。新田義顕の頸は都大路を渡され、獄門にかけられた。足利方の諸将は宮方に与した比叡山の破却を議論したが、足利尊氏の相談相手である天台宗の僧玄恵が破却を思いとどまらせようと、延暦寺と日吉大社の由来を語り始めた。

 過去仏である迦葉仏の時代にまだ修行中であった釈尊は未来において仏になるという授記を与えられ、どのような場所で教えを広めようかと南贍部洲を探し回られた結果、比叡山の地を見出された。その後、インドのマカダ国(一般の説では迦毘羅衛国)にお生まれになった釈尊は悟りを開かれ、その教えを広められた後に入滅された。しかし、仏は生滅することなく世界に遍在されるお体なので、入滅後もその教えを広めるべく、修行中に発見された豊葦原中津国→日本の地に向かわれた。
 そのころは神武天皇の父親である鵜羽不葺合尊(うのはふきあわせうのみこと、「うがやふきあえずのみこと」という呼び方が一般的である)の時代であったので、この国に住んでいる人々は仏法についてはその名を聞いたこともなかったのであるが、仏法が東漸してここがその霊地か、どこに衆生を利益する道場を設けようかとあちこちを見て回られているうちに、比叡山の麓、琵琶湖の西岸の志賀のあたりに座って釣りをしている老翁がいた。
 『太平記』よりもその成立が古い『水鏡』には次のような個所がある。「(神武天皇が)位に即かせおはしましゝ年ぞ、釈迦仏涅槃に入り給ひて後、290年にあたり侍りし。」(新典社校注叢書7『校注 水鏡』21ページ) 『太平記』のこの記事と合わせて、鎌倉時代から南北朝時代にかけての人々が、釈尊の入滅のほうが神武天皇の即位よりも昔のことだと考えていたことがわかる。『日本書紀』における神武天皇の即位(紀元前660年の元日)というのは無理なこじつけの計算の結果であるが、一応この年代を信じれば、紀元前5世紀(4世紀説もある)に活動された釈尊よりも、実は年代が古いことになる。
 
 釈尊はその釣りをしている老翁に向かって、「翁よ、あなたがもしこの地の持ち主であれば、この山を私に与えてほしい。結界の地(俗人の立ち入りを禁止する場所)として仏法を広めようと思っている」とおっしゃった。この翁が答えて言うには、「私は、人間の寿命が6千歳であった時代の初めから、この地の主であり、琵琶湖が7度まで桑原に変化したのを見てきた。(世の中の激しい変遷が、神仙の世界では束の間でしかないという意味だそうで、自分が甲羅を経た仙人であることを誇示しているのである。) この土地が結界になると、私が釣りをする場所がなくなってしまう。〔自分が偉い仙人だといっている割には、せこいことを言うね。〕 釈尊よ、早く去って別の国に道場を築く地をお探しください」と土地を惜しんで、譲ることを拒否した。この翁は、すなわち白髭明神(しらひげのみょうじん)であった。
 白髭明神は琵琶湖西岸(滋賀県高島市)の白髭神社の祭神であると岩波文庫版の脚注は言うが、現在、白髭神社の祭神は猿田彦命ということになっているほかに、比良山の神という説もあるそうである。この滋賀県高島市の白髭神社が全国の白髭神社の総本社とされる。白髭信仰は武蔵邦北部、近江、筑前で盛んであるという。能の『白髭』は『太平記』の子の説話と関連する内容のようで、したがって、この個所が『太平記』の作者の勝手な創作ではないこともわかるわけである。

 釈尊はやむなく、元の住処である常寂光土にお帰りになろうとされたところ、東方浄瑠璃世界の教主である医王善逝=薬師如来が突然姿を現された。釈尊は大いにお喜びになって、先ほど老翁が言ったことを語られると、薬師如来は、釈尊がこの地に道場を開かれるという考えに感心し、次のように称賛の言葉を述べられた。「善きかな、釈尊、この地に仏法を広められようとされること。私は人間の寿命が2万歳であったこの世の中の初めの時から、この土地の地主である。白髭の老翁は私が地主だということを知らない。どうしてこの山を惜しんで手放さないということがあろうか。ふさわしい時が来て、仏法がインドから極東のこの地まで伝わってくれば、釈尊は教えを伝える大師となって、この山を仏教の聖地としてお開きください。私はこの山の王となって、後五百歳の仏法を守ることにしましょう。」 このように固く誓われ、二仏はそれぞれに別れを告げて、ご自分の浄土にお帰りになった。
 後五百歳(年)というのは釈尊の入滅後に5つの五百歳があり、第一・二は正法一千年、第三・四は像法一千年、第五は仏法が衰え邪見がはびこるという末法一万年の開始期であるとされた。先ほど書いたように、釈尊の活動期は歴史的に確認できるよりも古い時代のことであったと思われていたので、日本では永承7年(1052)が末法元年であるという受け止め方がされた。〔私の受験生時代には、1052年は何の年かというのが大学受験の問題として出題されることがあったらしい。今はどうだろうか。むしろ、このことがかなり不正確な年代の計算に基づくものであったことのほうが問題ではないかと思うのだが…]
 「釈尊は教へを伝ふる大師となつて」(第3分冊、294ページ)とあるが、これはおそらくは比叡山の開祖最澄が伝教大師という号を贈られたことに基づく創作であって、大師号は中国と日本で朝廷から有徳の僧に贈られるようになった制度であり、仏教本来のものではない。

 こうして1800年の月日が流れ、釈尊は伝教大師に生まれ変われられた〔伝教大師という大師号は入滅後に贈られたもので、生前から〇〇大師というのは厳密にいえばおかしい〕。延暦22年(803年、実際は延暦23年)、伝教大師は仏教の真理を求めて中国にお渡りになり、顕教(法華・華厳等)、密教と戒律を合わせた学問を置く深いところまで究められて、延暦24年に帰国された。当時の桓武帝は伝教大師に篤く帰依されて、比叡山を草創された。〔すでに述べてきたが、釈尊と最澄の間は1800年も離れていない。〕

 伝教大師が、勅を承って、延暦寺の中心の同である根本中堂を建てようと、地ならしをされていると、真っ赤な蓮の花のような人間の舌が1つ、土の底にあって、法華経を唱え続けていた。大師は不思議に思われて、その理由をお尋ねになると、舌は「自分は昔この山に住んでいて、法華経を6万回読誦しようと企てたが、寿命に限りがあって、その途中で死んでしまい、体はとっくに壊れてしまったが、声は尽きることがなく、舌はまだ残っているのだ」といった。〔岩波文庫版の脚注には、仏典の翻訳者として有名な鳩摩羅什の入滅後、火葬したが、舌だけ焼け残ったという『高僧伝』の説話が示されている。〕

 また、中堂の造営が終わって、本尊のために、大師が手づから薬師如来の像を造られたのであるが、一度斧を下しては、「像法転時、故号薬師、瑠璃光仏」(第3分冊、295ページ、伝教大師が本尊を安置した時に唱えた偈(九院仏閣抄)で、釈迦入滅後の正法から500年たった像法の時代に移る時、衆生を利益するゆえに、薬師瑠璃光仏と号するという意味である)と唱えられて、礼拝されるたびごとに、木造の薬師が、頭を縦に動かしてうなづいたと伝えられる。

 いよいよ延暦寺と日吉神社が神聖なもので、危害を加えてはならないという話の核心部に入ってきた。この時代の人がどのような宗教観、歴史観をもっていたかをうかがい知ることができるという意味では、貴重な個所である。 

フローベール『感情教育』(8‐1)

4月9日(月)晴れのち曇り、風が依然として強い。

第一部あらすじ
 1840年秋、大学で法律を学ぶためにパリに出た18歳のフレデリック・モローは偶然のきっかけから画商のアルヌーと知り合い、その美しい夫人に恋心を抱く。大学の授業にはあまり興味を抱かなかったが、高校時代からの友人であるデローリエと念願の共同生活を送り、出世主義者のマルチノン、演劇界での成功を夢見るユソネ、世間知らずで気の優しい貴族のシジー、独善的な社会主義者のセネカル、理論倒れでなかなか絵の描けない画家のペルラン、まじめな性格の店員デュサルディエ、アルヌーの相談相手で政論好きのルジャンバールらの面々と議論をしたり、連れ立って出かけたりして、都会の生活を満喫し、アルヌーの事務所にも出入りし、彼はパリの生活になじんでいく。しかし、アルヌー夫人との距離を縮めることはできない。
 卒業試験に一度は落第したフレデリックであったが、二度目の受験で成功し、郷里出身の有力者であるダンブルーズ夫妻の知遇も得て、意気揚々と帰省した。しかし彼を待ち受けていたのは、実家の経済状態が悪く、そのまま地元に留まって働いてほしいという母親の意向であった。やむを得ず、地元の法律事務所で働いていたフレデリックに1845年の12月になって、叔父の相当な遺産を相続するという知らせが届く。フレデリックは再びパリで生活しようと決心する。

第二部のこれまでのあらすじ
 フレデリックはパリに出てくるが、彼の不在の間に彼の知己の境遇は変わっていた。アルヌーは画商をやめて陶器業に転業し、夫人には長男が生まれていた。久しぶりの再会にもかかわらず、夫人の態度がよそよそしかったことに失望したフレデリックは、社交界で活躍しようと決心する。久しぶりに再会したデローリエは大学の教師になる夢を捨てて、復習教師をしながら文筆に励んでいた。
 ダンブルーズ家を訪問するつもりで、服装を整えたフレデリックは、気が変わってアルヌーを訪問する。アルヌーは彼を連れて仮装舞踏会に出かけ、会場となる家の主人であるロザネットにあっただけでなく、ペルラン、ユソネ、それに(アルヌーの愛人である)ヴァトナ嬢といった旧知にも出会う。フレデリックはこれまでに経験しなかった女とぜいたくに明け暮れる生活に魅力を感じる一方で、やはりアルヌー夫人への想いが忘れられない。

〔第2部の2〕
 「フレデリックはランフォール通りの角に小さな家を見つけて、馬車や馬や家具など一度に買いこんだ。」(204ページ) デローリエと再び同居しようかと思ったが、未来の恋人を迎え入れることを考えて、その思い付きは却下した。
 さらにいろいろな買い物をしたので、相当額の支出が見込まれ、ル=アーヴルで相続した彼の財産は地所であったので、その一部を処分した。「それから、あのまばゆいようでとらえどころのない漠としたもの、《社交界》をいよいよ実地に見る決心で、ダンブルーズ家に手紙で、訪ねていっていいかを問いあわした。奥さんから、明日お待ちするといってきた。」(205ページ)

 翌日、フレデリックはダンブルーズ邸を訪ねる。ちょうどお客日で、かなりの数の先客がいる。立派な屋敷である。「レスパニョレ風の絵が壁にかかり、綴れ織りの重い垂れ布がずしっと下りている。椅子も台もテーブルも、家具はみな帝政(アンピール)様式で、なんとなく、ものものしく神秘な風趣があった。フレデリックは、思わず、こみ上げるうれしさに微笑した。」(205‐206ページ)
 フレデリックは、1840年の11月ごろにロック老人から預かった書類を届けるという名目で、一度ダンブルーズ邸を訪問しているが、その時は簡単にあしらわれている〔第1部の3〕。親しく声をかけられたのは、その後、彼が試験に合格して帰省しようとする直前のことであった〔第1部の5〕。第1回目の訪問の時と邸の描写が違っているのは、フレデリックの心理状態の変化を示すものである。それから、第1回の訪問の時は、帰りがけにダンブルーズ夫人の姿をちらっと見るだけであったのが、劇場で出会ったときに、夫人から愛想よくされたことが、第2回目の訪問の際の「こみ上げるうれしさ」にも影響していると考えてよいのではないか。
 「帝政様式」という時の「帝政」はナポレオン・ボナパルトの第一帝政のことで、それほど古い時代の様式ではない。それを「物々しく神秘な風趣」と感じるのも、フレデリックの心理状態が反映していると考えるべきである。

 「ようやく楕円形の部屋に着いた。薔薇材の羽目板で張り、きゃしゃな道具がいっぱい並んで、庭に向いたただ一つのガラス戸から光が射している。ダンブルーズ夫人は暖炉のそばにいて、そのまわりに十二人ばかりの人がいた。夫人は愛想のいい言葉で、青年に席をすすめる。その様子に、長いあいだ会わないでいたことを不審がるところは少しもみえない。」(206ページ) 第1回の訪問の際には、ダンブルーズ氏が執務している小さな部屋に通されたのであるから、今回は扱いに大きな違いがある。彼が遺産を相続したことが大きく影響しているのは言うまでもないが、ダンブルーズ夫人の都会の女性らしい洗練された態度は、自分の気持ちに率直なアルヌー夫人とは対照的で、フレデリックを惑わせるに足りるものである。

 フレデリックは人々の話の輪の中に入ろうとするが、司祭の弁舌の巧みさへの称賛、召使たちの不道徳、仲間内のうわさ…「周囲の華美に比して、話の中身の貧しさが目立って感じられる。が、まだしも話している事柄は目的もなく秩序もなく活気もないその話し方より、気が利いているくらいだ。」(206ページ) この生気のなさは、フレデリックの周囲の青年たちの議論とは対照的なものである。世間をよく知っている人々も中に入るのだが、平凡なありきたりのことしか発言しない。
 その中でダンブルーズ夫人は愛想よくふるまっている。お客が増える一方で、辞去する者もいる。話をこれ以上続ける手立ても尽きて、フレデリックも帰ろうとすると、ダンブルーズ夫人が「「毎週水曜日には、いらしてくださいね。モローさん」たったこれだけの言葉で、今までの無愛想がすっかりつぐなえた。」(207ページ)
 フレデリックは満足した気分で、ダンブルーズ邸を出るが、何となくほっとした気分にもなる。そこで、もっと屈託のない場所へ行ってみようという気持ちになる。アルヌーに連れられて出かけた、ロザネットの家に再び出かけようというのである。そこで、何が起きたかはまた次回。

 第一部の終わりのほうで、フレデリックは外交官、さらには大臣を目指すと母親に言ったが、それならばマルチノンのように勉学にも励むし、地方で司法官をするというような努力を積み重ねたうえで、社交界にも顔を出すという風に生活すべきである。出世主義者のマルチノンはこの作品の登場人物の中では魅力が乏しい人物であるが、しかし、彼が世間的な意味での成功に一歩一歩着実に近づいていることは否定できない。それに比べると、フレデリックの生き方はどうも軽薄なのである。その傾向は、彼がデローリエやその他の友人たちから遠ざかることによって、ますます悪化していくように思われる。
 

日記抄(4月2日~8日)

4月8日(日)晴れ、風強し。

 4月2日から本日までに経験したこと、考えたことなど:

4月2日
  『朝日』朝刊の連載インタビュー「語る――人生の贈りもの――」は女優の岡田茉莉子さんの6回目。デビュー翌年の1952年から、月1本の勢いで映画に出演。出演作は多かったが、芸者や社会の規範にとらわれない「アプレゲール」役が多くて、演じているご本人としてはつまらなかった。共演した男優の中では佐田啓二、池部良、芥川比呂志の3人から教えられることが多かったということなど(まだ東宝時代の話なので、佐田と共演するようになったのは松竹に移ったもう少し後のことになるはずである)。

 本日からNHKの語学番組が新年度の放送を開始。『まいにちフランス語』、『まいにちスペイン語』、『世界へ発信!ニュースで英会話』(『ワンポイント・ニュースで英会話』から番組名が変わり、内容も少し変わった)、『遠山顕の英会話楽習』(これまで遠山さんが担当していた『ラジオ英会話』とよく似た番組構成だが、聴き取りの部分がなくなった)、『まいにちイタリア語』、『ラジオ英会話』(担当者が代わった)、『英会話タイム・トライアル』、『エンジョイ・シンプル・イングリッシュ』(ナビゲーターが肘井美佳さんから関根麻里さんに代わり、曜日ごとの放送内容も変わるようである)、『入門ビジネス英語』の時間を聴く。

4月3日
 岡田茉莉子さんのインタビューの7回目。成瀬巳喜男監督の『浮雲』で高峰秀子と森雅之の演じる男女の間に割って入ろうとする若い女の役を演じた時の思い出。「高峰さんは普段はざっくばらんで、言葉遣いも男っぽい。男社会の撮影所の中での生き方を教わりました」という発言が興味深かった。また「森さんは妙に色気があったけど、三枚目のところもある。舞台の出身だからテスト通りに演じないことが多かったんです」というのも、ほかの情報源から知っていた部分があるけれども、本人と共演した人間から直接語られているので、実感がこもっている。
 森雅之の叔父である里見弴が小津安二郎と親しかったのは有名な話であるが、小津は俳優にテスト通りの演技を求めるので、森は小津作品に出演したがらなかったと、神保町シアターで森の特集上映をやった時のチラシに書いてあった。岡田さんの出演した成瀬作品では、私は『浮雲』より『流れる』のほうが好きである。昨年神保町シアターで10周年記念の特集上映をした際に、『流れる』はこの映画館で最も観客動員が多かった作品として、別格扱いで上映された。

4月4日
 岡田茉莉子さんのインタビューの8回目。1957年に6年在籍した東宝を離れフリーに、半年後、松竹と契約、『集金旅行』で佐田啓二と共演。自分が共演した中でのベストパートナーは佐田さんだという。〔私の感想を言えば、背の高さがちょっと合わないのではないかという気がする。〕 1960年に小津安二郎監督の『秋日和』に出演。小津作品への初の参加であった。主人公は原節子、その娘(司葉子)の親友を演じた。この作品の本読みで初めて小津に会う。「まず小津さんが本を読み、俳優さんたちはイントネーションも間もその通りにやらないといけない。それが他の監督と最も違いますね。」
『集金旅行』は井伏鱒二の原作も読んでいるが、佐田啓二・岡田茉莉子という映画化は、原作よりも雰囲気が華やかになっているのではないか。原作はもう少し貧乏くさいような気がする。映画化では、2人が旅行中に岡田さんが見合いをすることになって、その相手のトニー谷がすっかりのぼせて…というくだりのトニー谷の演技が印象に残っている。

 同じく『朝日』の「かたえくぼ」欄に「『道徳教育』 官邸でも『教科』に――小学生」という寸鉄が掲載されていた。「道徳」よりも「修身」のほうが皮肉が強いのではないかと思う。「修身」も「斉家」もできない人に「治国」=首相の仕事が務まるのかと思うことしきりの昨今である。

 NHKラジオ『実践ビジネス英語』は講師、パートナー、ビニェット(ミニドラマ)の舞台など昨年度と変わりなく、”Return of a Boomerang Employee"(戻ってきたブーメラン社員)という話題で今年度の放送が始まる。「フリーエージェント」的な考え方をもち、1つの職に長くはとどまらない人が、増えているという。いったん、他の職場に移った人物がまたもtの職場に戻るというところから、今回の会話が始まる。
 ”Quote...Unquote"のコーナーで紹介されたのは:
The beginning is the most important part of the work.
             ――Plato (Greek philosopher, c.428-347 B.C.)
(仕事は最初が関心である。)
 「千里の道も一歩より始まる」ということであるが、プラトンのどの対話編に出てくる言葉であろうか。 

4月5日
 岡田茉莉子さんのインタビューの9回目。小津安二郎は岡田さんの父親の岡田時彦の親友だったので、彼女を「お嬢さん」と呼んで、撮影が終わると連れ出して一緒に遊びに出かけたりした。親子みたいな感じだったという。小津の作品に出演した中で四番バッターは誰かという話になって、杉村春子だと小津が答えたという。この話は、少し変わった形で、高橋治の『絢爛たる影絵』にも出てくる。「杉村さんは本当にお見事でしたね。小津さんの影を全く感じませんもの。自由にやっていらっしゃるように見えて、小津さんの言われたとおりになさってるんです。そこが腕ですよ。」 私の見ている限りで、岡田さんは杉村春子と、『流れる』(成瀬)、『バナナ』(渋谷実)で共演していて、その時と比べて小津作品ではどうなのかというようなところまで突っ込むと面白かったと思う。小津の遺作となった『秋刀魚の味』について。撮影前に自分がどのように演じるかを「予習」しておいて、撮影本番では監督の言うとおりに演技し、そのあとで、自分の「予習」と本番がどのように違っているかを「反省」するという話が芸談として面白い。
 小津がガンで入院しているのを、婚約の報告を兼ねて吉田喜重監督とともに見舞いに行ったところ、小津が吉田に「映画はドラマだ。アクシデントではない」と言い遺したというのもよく知られた話で、小津の死後、この言葉の真意を探るべく、吉田が小津の映画の研究書を書いたことも語られていたが、小津と吉田には橋を架けることができない異質なものがあると小津が考えていたかもしれないという気もする。〔岡田さんはその異質性の谷間を、ぴょんと飛び越えてしまっているということかもしれない。〕

 NHKラジオの『高校生から始める現代英語』の講師、パートナーは昨年と変わらないが、放送時間が変わったのを知らずにいて、第1回目の放送を聞き落とし、再放送から聞くことになった。今回は”Thousands of classified JFK assassination files released"(何戦もの機密扱いのケネディ暗殺書類が公開される)という話題を取り上げている。事件をめぐる”comspiracy theory"(陰謀説)にはあまり与したくないのだが、多くの記録が作成され、保管され、(所定の期間後は)広く公開されるということは、大いに見習うべきことではないかと(昨今の日本の出来事を見るにつけ)強く思うことである。

4月6日
 岡田茉莉子さんのインタビューは10回目。1962年に出演100本記念映画の『秋津温泉』を製作・主演。この作品の監督に、のちに夫となる吉田喜重さんを選んだいきさつ。吉田さんの『ろくでなし』に主演するという話があって、スケジュールの関係で実現しなかったが、脚本を読んで自分にとって未知な才能の存在に驚いた、それが起用のきっかけとなったという。
 「私が知る限り、自分でシナリオを書いてカメラポジションを決める監督は木下さん、小津さん、吉田の3人。3人とも求めている映像が明確にあった」というのは、俳優の側から見た監督論として面白い。〔高橋治の『絢爛たる影絵』によると、理想の映像を追い求めて最後までスタッフを責め続けたのが溝口健二だそうである。〕
 『秋津温泉』は昨年やっと見ることができたが、作る側の魂の籠った作品という印象があった。温泉宿の娘・新子と疎開の途中でこの宿に転がり込んだ青年・周吉の物語。戦後の日本社会が変わり、その中で温泉宿も変わり、周吉は新子とは別の女と結婚し変わっていくが、新子は周吉を一途に思い続ける。このインタビューでは語られていないが、初め、周吉は芥川比呂志(岡田さんの第1回プロデュース作品『熱愛者』で共演した)を予定していたのが、スケジュールが合わずに長門裕之になったという。

4月7日
 保土ヶ谷公園サッカー場でプレナスなでしこリーグカップ2部のニッパツ横浜シーガルズ対スフィーダ世田谷の試合を観戦した。曇りで強風、前半風上に立った世田谷が2点を挙げ、後半の横浜の追撃をかわして2‐0で勝利した。クロスの精度が勝敗を分けたというのがもっぱらの評判。

 円居挽『京都なぞとき四季報 町を歩いて不思議なバーへ』(角川文庫)を読み終える。この本については機会を改めて取り上げてみるつもりである。

4月8日
 ニッパツ三ツ沢球技場でJ2の横浜FC対アビスパ福岡の試合を観戦した。天気は悪くなかったが、風が強いのは昨日と同じであった。前半、横浜がレアンドロ・ドミンゲス選手のチーム通算800号となるゴールで1点を先制したが、守備の乱れで1点を失って追いつかれ、後半さらに1点を失い、チームの守備のかなめであるカルフィン・ヨン・アピン選手が負傷退場したりして敗色濃厚であったが、終了間際にコーナー・キックからカルフィン選手に代わって出場した川崎選手がゴールを決めて追いつき、どうやら引き分けた。優勢に試合を進めても、ゴールをなかなか決められない決定力の欠乏が目下の問題である。

 NHKラジオの『ポルトガル語講座』の第1回の再放送を聴く。スペイン語とポルトガル語は似ているといわれ、実際に耳で聞く限りにおいてそうなのだが、スペイン語はローマ字通りに発音されることが多いのに対し、ポルトガル語はそうでもない。そういうところが面白く、何とか頑張って基礎的なことだけでも習い覚えておこうと思っている。

 このブログ開始以来、読者の皆様から頂いた拍手の累計が29,000を超えました。厚くお礼申し上げるとともに、今後ともよろしくご愛読をお願いします。
 

島岡茂『英仏比較文法』(7)

4月7日(土)曇り、肌寒い

 英語はインド=ヨーロッパ語族の中のゲルマン語派に属する言語であるが、歴史的な経緯からロマンス語派に属するラテン語、フランス語の影響を強く受けて、現在の形をとるようになった。この書物では、狭い意味での文法だけでなく、語彙や語形成の問題を含めて、英仏両言語の影響関係がどのようなものであったかを歴史的にたどるものである。
 英語もフランス語もローマ帝国→キリスト教会の公用語であるラテン語の影響を強く受けてきた(フランス語がラテン語が変化して成立した言語であるのに対し、英語はラテン語とは別の語派に属する言語であるという違いはある)が、イングランドが1066年の「ノルマンの征服」によってフランスの諸侯であるノルマンディー公の支配を受けるようになると、フランス語の影響はさらに強くなった。さらにラテン語からフランス語を経由して英語に入ってくるというだけでなく、標準的なフランス語と、ノルマンディー方言の両方が英語に入り、それぞれが別の意味を持って英語の中で使われたり、方言形が標準形に修正されたり、もともとのラテン語に近づける形で修正されたりした。日常生活にかかわる語彙、宗教や文化にかかわる語彙、国家・宮廷・政治にかかわる語彙など、その影響は多方面に及んだ。

 今回は軍事にかかわる語彙を検討する。
 英語のwarはフランク語のwerraが語源で、ラテン語とは無関係である。〔ラテン語で「戦争」を意味する語はbellumである。〕 この言葉がノルマン・フランス語のwerre(標準フランス語ではguerre)となり、英語のwar、フランス語のguerreとなった。
 逆に「平和」を意味するラテン語はpacemで、中世の標準フランス語のpaisとなり、中世においては英語でもフランス語でも〔ペース〕と発音されていたが、英語では「ピース」と音を変えpeaceと綴られるようになり、フランス語では語尾子音のsがxに代わり、また発音されなくなった。本来の英語では、ドイツ語のFriedeに対応する語がつかわれていた。

 武器はラテン語でarmaであったのが、中世の標準フランス語でarmesとなり、現代フランス語のarmes、英語のarmsとなる。

 英語のbattle(戦い)はラテン語のbattaliaを語源とし、中英語ではbataïleとフランス語のbatailleに近い形をとっていたが、フランス語では第二音節にアクセントがあるのに対し、英語では第一音節にアクセントが置かれていたため、次の母音であるaiが弱まり、今日の形をとるようになった。batailleといえば、昔NHKのフランス語番組の講師をしていた演出家・俳優のニコラ・バタイユ(Nicolas Bataille, 1926-2008)を思い出す。ルイ・マルの『死刑台のエレベーター』や『地下鉄のザジ』に出演しただけでなく、何度も来日しているが、1969年のことだったと思うが関西日仏学館(当時)でその演技に接したことがある。だから、名前だけ知っていて、著作を読んだことのないジョルジュ・バタイユ(Bataille, 1897-1962)より印象が強いのである。

 「敵」を意味する英語のenemyはラテン語のinimicumを語源年、中世の標準フランス語ではenemiとなり、そこから英語に入ってきた。現在のフランス語ではennemiである。

 次に宗教にかかわる語彙について。
 「信仰」という意味のフランス語のfoi,英語のfaithは、ラテン語のfidemを語源とする。これは古いフランス語ではfeitといい、語尾のtはthの発音をしていたので、現在の英語の発音は古いフランス語の発音をとどめていることになる。一方近代フランス語ではこの子音は脱落し、母音もeiからoiと変化した。なお、フランス語で「肝臓」を意味するfoie, encore une fois(もう一度)という時のfoisも同じ発音である。foieに相当する英語はliver, foisに対応する英語はtimeであるから、英語とフランス語では大分違う。

 「神の恵み」という意味のフランス語のgrâce, 英語のgraceはラテン語のgratiaを語源とする。本来の英語ではmiltseといった。graceがフランス語で使用されたのは12世紀、英語に入ったのは、13世紀半ばである。
 英語のorder、フランス語のordreはともにラテン語のordinemを語源とすると書かれているが、ordinemという語は、私のもっているラテン語辞書には出てこない。島岡さんは英語のorderを「階級」という意味で紹介しているが、ここでの「階級」は主として教会の中での僧侶の位階と理解すべきであろう(「社会階級」という意味でも使われることもある)。中英語では英語もフランス語も同じようにordreと綴った。-re~-erへの水位は発音に従った者で、閉鎖子音d,tの後でよく見られる現象だそうである。ラテン語からフランス語の形が生まれる過程で、その中間にordneの形があり、このnが歯音dに対応してrに変わったと説明されている。

 「宗教」を意味する語は、英語でもフランス語でもreligionであるが、ラテン語のreligionemが語源、古フランス語ではreligionと記されている。
 なぜこの語が、この項で取り上げられているのかわからないところがあるが、「時間」という意味のフランス語のheure、英語のhourはラテン語のhoraに由来する。古フランス語でのhoreを経て、現在の形になった。英語の母音ouはフランスgのeuとともに長母音のoの二重化であるとあまりよくわからない説明がされている。
 ここで必要なのはそういう音声学的な説明ではなくて、英語であればhourとtime,フランス語であればheureとtemps、ラテン語であればhoraとtempusの使い分けの変遷ではないか。ラテン語の諺で Hora fugit. (時は逃げる。光陰矢の如し)というのが、英語ではTime flies.となる。フランス語のtempsにはweatherの意味もある。このあたりの意味の範囲と境界、その変遷について説明されていてもいいのではないかと思うのである。

 

佐藤信弥『中国古代史研究の最前線』

4月6日(金)晴れのち曇りのち雨

 4月3日、佐藤信弥『中国古代史研究の最前線』(星海社新書)を読み終える。最近読んだ中では群を抜いて面白い本であった。もっとも、面白いというのは私が中国の古代史に興味があるからであって、興味のない人は面白い本だと思わないかもしれない。面白いと思ったもう一つの理由は、この本が研究対象としての中国古代の歴史を語っているだけでなく、それが近代以降の中国と日本における研究によって、どのように書き換えられてきたか、いわば研究の舞台裏を明かしながら記述していることである。著者は、「研究の最前線」の事情を前面に出しており、そちらのほうを表舞台ととらえているようであるが、古代史の基本的な事実はきちんと押さえられているので、実際のところ、どちらの側からでも読めるようになっている。

 歴史研究は、過去の出来事を対象としているが、そのために、そのような過去の出来事が自分たちにとってどのようなかかわりや意味をもつかを問われがちである。古代史研究というのは、そういうかかわりや意味はとりあえず置いておいて、面白そうだから取り組むといっても通るところがあって、そこが魅力だと考えることもできる。日常生活であまり必要とされそうもない数学や古典語を、ただ知的好奇心のために勉強するというのと似通った魅力がある。そうはいっても、心の片隅には、歴史研究の現代とのかかわりといった問題はわだかまっているのであって、古代史をどのような方法で研究するか、どのように書き換えるかという舞台裏の事情を明らかにすることは、そうしたわだかまりに対する回答ということもできよう。

 実は、対象となる歴史同様、研究の歴史にもある種の伝説のベールがかけられている場合が少なくないようなのである。この書物の序章には、そうした事例の一つとして、殷代の甲骨文の発見をめぐる王懿栄のエピソードが取り上げられている。王が病気の治療のため「竜骨」と呼ばれる漢方薬を買い求めたところ、その「竜骨」に原始的な文字のようなものが刻まれていることに気づき、食客である劉鶚という学者とともに「竜骨」を買い集め、研究に励むようになった。その「竜骨」は古代の殷王国の遺跡である殷墟から発掘された甲骨を砕いたものだったのである。

 この出来事は光緒25年(1899)のこととされる。その翌年に欧米(と日本)列強による侵略に対抗しようとする秘密結社である義和団による反乱がおき、その鎮圧のために8か国(日本、ロシア、英国、フランス、アメリカ、ドイツ、イタリア、オーストリア=ハンガリー)の連合軍が組織され、2か月弱の戦闘の後義和団を破る。8か国連合軍が北京に入城した際に、王懿栄は国難に殉ずるということで自殺した。彼の甲骨のコレクションと研究を劉鶚が引き継ぎ、1903年に甲骨文の拓本の図録『鉄雲蔵亀』(鉄雲は劉鶚の字、亀というのは「亀甲獣骨」で甲骨のことらしい)を出版した。これによって甲骨文の存在が広く知られるようになったという。

 しかし、これは後から作られた「伝説」で、劉鶚がその『鉄雲蔵亀』の自序で語っているところでは、王懿栄が「竜骨」を漢方薬として買い求めたというのではなくて、河南省で掘り出された甲骨が、山東省の骨董商である范維卿という人物によって北京に持ち込まれ、それを見た王懿栄が驚喜して買い求めたということであり、こちらの方が真相と思われる。中国では金文や石刻などを手掛かりとする古い時代の文字の研究が続けられていたので、王懿栄や劉鶚だけでなく、范維卿にも甲骨に刻まれているものが文字であると察しがついたのではないかと佐藤さんは推測している。ただし、甲骨文の発見をめぐってはほかにも異説があるようで、「実のところ本書で取り扱う中国古代史は様々な神話や伝説に彩られており、甲骨文の発見の経緯とされてきた話が伝説にすぎないというのは何やら象徴的である」(5ページ)とこの書物は出だしから波乱含みである。

 この書物の意図の一つは中国の古代史研究の最新の成果を普及することである。学校教育の内容は、このような最新の成果から遅れがちであり、古代史に関心を持つ人々の好奇心に十分にこたえるものとなっていない。そこで、基礎的な知識と思われる事柄や、最新の研究成果を盛り込んだ書物が必要とされているという。そこでこの書物の内容であるが、
 第1章では殷王朝やそれ以前の夏王朝、そして「縦目仮面」など独特な形状の青銅器で知られる三星堆遺跡に関する発見・研究を取り上げている。(日本では「夏王朝」の実在をめぐって否定的な意見が強い中で、著者は独自の立場をとっているようである。)
 第2章は殷の次の西周期について取り上げている。
 第3章は春秋期について。
 第4章では戦国期と始皇帝の秦、そして前漢の武帝のころまでについての発見と研究を取り上げる。
 終章では中国古代史の最近の動向について取り上げている。

 歴史として認められる事実やその解釈は、新しい発見によって修正される。だから、そのような事実や年代を暗記するよりも、研究方法に重点を置いた歴史教育や歴史学研究のほうが重要であるということが、佐藤さんの考えらしい。古代中国を研究するための史料は多種多様であり、しかも新しいものが続々出現している。そのような史料には甲骨文と金文、竹簡、絹の布に書かれた帛書などがあり、中国や台湾ではこれらの考古学的な発掘や盗掘などによって土の中から出てきた、主に文字による史料を出土文献と呼んでいる。この書物では出土文献や、伝統的に受け継がれ、読み続けられてきた伝世文献に基づく歴史研究と、考古学的な発掘の成果を共に活用しながら、中国の古代史を明らかにし、またそのような古代史を組み立ててきた学者たちの軌跡をも追いかけている。以下、どのような中国古代史(研究史)が展開されるのか、楽しみである。

 余計な話だが、義和団の乱をめぐっては、『北京の55日間』という映画が1963年に制作され、『理由なき反抗』などの作品を監督したニコラス・レイがメガフォンをとっている。チャールトン・ヘストン主演、若き日の伊丹十三が籠城戦で活躍した北京の日本公使館付き武官柴五郎役で出演しているそうである。幸か不幸か、私はこの映画は見ていない。なお、8か国連合軍の中の日本臨時派遣隊の指揮を執ったのは「波蘭懐古」によって壮挙とたたえられたシベリア単騎行(1893)で知られる情報将校の福島安正であった。中国の古代史については興味がある一方で、近・現代史については知らない部分が多いのはわれながら困ったことである。

 さらに余計な話だが、明治時代に流行した「波蘭懐古」という歌は落合直文が、福島のシベリア単騎行を題材として作った七五調で1000行を超える詩の中の、福島がドイツを過ぎてこの時代はロシア領になっていたポーランドの地を通過する部分を取り出して歌にしたものである。 「③独逸の国も行過ぎて/露西亜の地に入りにしか/寒さは愈(いよいよ)勝り来て/降らぬ日もなし雪霰④淋しき里にいでたれば/此処は何処と尋ねしに/聞くもあわれやその昔/亡ぼされたるポーランド」ということで、勇壮というよりも、何となく哀愁を帯びた部分が取り上げられているところに、明治の心情の一端をうかがうことができる。

エラスムス『痴愚神礼賛』(15)

4月5日(木)曇り

 鈴の付いた阿呆の帽子をかぶり、道化の扮装をした痴愚の女神が登壇し、世の中のありとあらゆるものが自分の恩恵を受けているのに、そのことが無視されている、自分のありがたさを知らせると言って自賛の大演説を始めます。人間は男女の「無思慮」な結合の結果として生まれ、その後の人生も痴愚の助けがなければ耐えがたいものとなり、幼児さながらの痴愚の中で老いていくといいます。学問や技芸は、痴愚の仲間であるうぬぼれの助けがなければ、生まれなかっただろうといいます。その一方で、女神は聖書の教えから外れて、世塵にまみれて利欲だけを追求している修道士や僧侶、詭弁に詭弁を重ねているだけなのに、それが真理追究のための重要な論争だと錯覚している学者、腐敗堕落した生活を送っている君侯や廷臣たちを嘲笑した後に、世の中には痴愚を礼賛したことわざがいくつもあると言い出します。そして聖書の中からギリシア語の諺を〈自己流に解釈しながら〉引用します。〔旧約聖書の中の「知恵文学」と呼ばれる部分からの引用が多いのは一種の皮肉でしょうか。〕

〔63〕続き
 女神は、「コヘレトの言葉」の中の『なんという空しさ、なんという空しさ、すべては空しい」という言葉に続いて、「シラ書」(集会の書、これは「旧約聖書続編」に含まれているので、私の手元の聖書には収められていません)の「愚かなものは月のごとく変わるが、智者は太陽のごとく変わらぬままである」という言葉を引用し、これは「人間はすべて愚かであって、智者の名は神にのみ帰するべきである」(193ページ)という意味であると解釈して見せます。沓掛さんによる解説注によると、エラスムスはこの個所をウルガタ訳にそって書いており、新共同訳聖書には、「信仰深い人の話には、常に知恵がある。愚か者は、月の形のように変わる」(304ページ)とあるそうです。
 さらに彼女は、福音書の中の「善い方はおひとりである」(マタイ19:17)を「神以外の者を善き者と呼んではならぬ」(193ページ)という意味だと解釈し(聖書の文脈に照らしてこの解釈は正しいと思われます)、別の個所では散々に批判していたストア派の哲学者の所説を援用して、「智者ならざる者は愚者であり、善き者はすなわち智者であるとすれば、必然的にすべての人間が愚者のうちに入ることになるのも、驚くにはあたりません」(同上)と結論します。見事に論証して見せているようで、どこかおかしな感じがします。

 続いて、女神は「箴言」にうつって、「意思の弱い者には無知が喜びとなる」(194ページ、「箴言」15‐21)という言葉を引用して
「つまりこれは、痴愚なくしては人生に何の喜びもないということを、明らかに認めているわけです」(194ページ)と解釈して見せます。何となくもっともらしいのですが、実際に「箴言」を読んでみると、知恵のあるものが人生において幸福を得ることに成功し、知恵のないものが失敗するというような格言がいくつも並んでいます。ここで引用された箇所も、続けて「英知ある人は歩みを正す」とありますから、意志が弱いと忠告に耳を貸さずに、安楽におぼれるけれども、知恵のある人は、忠告を受けると自分のやり方を改めるという意味に受け取れます。決して、痴愚の女神が述べるような意味に解釈できるものではないことは明らかです。
 なお、ここで「同じくソロモンは…」と書いていますが、この時代、「コヘレト書」も「箴言」もソロモンが書いたものだと信じられてきたためです。今日では、そのことを否定する方が一般的で、「知恵文学」と呼ばれる一連の文書は、ソロモンの時代よりもはるか後の、ヘレニズム時代に成立したと考えられています。
 さらにまた「知恵が深まれば悩みも深まり、知識が増せば痛みも増す」(194ページ、「コヘレトの言葉」1‐18)という言葉を引用します。これは「コヘレトの言葉」の一番最初のところで、書き手が自分のこれまでの生涯と知的遍歴を振り返る章句のまとめとなる箇所ですが、どうせならば、このひとつ前の「熱心に求めて知ったことは、結局、知恵も知識も狂気であり愚かであるにすぎないということだ。これも風を追うようなことだと悟った。」(「コヘレトの言葉」1:17)のほうが趣旨にふさわしかったのではないかと思います。要するに、エラスムスは痴愚女神に聖書の中の文言を文脈から切り離して勝手に引用させているわけで、それはこの書物の中でこれまで女神が散々に嘲笑した神学者たちのやり方と同じであるということに読者は気づくべきでしょう。ただ、「知恵が深まれば悩みも深まり…」という言葉にエラスムスがおそらく自分の人生を重ねながら、この個所を書いただろうと推測するのはそれほど的外れではなさそうです。
 続いて引用するのは「コヘレトの言葉」の中の「賢者の心は弔いの家に、愚者の心は快楽の家に」(194ページ、「コヘレトの言葉」7:4)で、これを女神は「これは、知を極めるだけでは足らぬところがあり、愚をも知らなければならぬと彼が思っていたことを意味しています」(194ページ)と解釈します。これも前後の文脈を無視して、適当な部分だけ切り取った引用で、前後を合わせて読み解くと、人間は死すべきものだから、必ず自分の命には終わりがあることを念頭において、快楽におぼれないようにして生きていくべきだということを言っているわけです。

 女神の勝手な引用と勝手な解釈はさらに続きます。さっき、私は「知恵が深まれば悩みも深まり…」よりも、「熱心に求めて知ったことは、結局、知恵も知識も狂気であり愚かであるにすぎないということだ」というその1つ前の句を引用したほうがいいのではと書きましたが、今度は、この個所が引用されています。そして「痴愚にとって名誉なことですが、痴愚を最後に挙げていることに注目してください」(同上)といいます。女神は、知恵、知識、狂気、愚かの4つが列挙されていると受け取っているようにも思われますが、ここはもちろん、知恵、知識が主語で、狂気、愚かは述語の構成要素であり、4つが列挙されているわけではありません。

 さらに、女神は痴愚が知恵に勝っていることを裏付けることわざを引用します。そして大事なものは隠し、つまらないものは人目にさらしておくというのが普通のやり方だから、「自分の知恵を隠す人よりは、自分の愚かさを隠す人のほうがましだ」(196ページ、「シラ書」ウルガタ訳、新共同訳、フランシスコ会聖書研究所訳で置かれている個所が違うそうです)という言葉を持ち出します。

 依然として63から抜け出すことができませんが、聖書からの様々な引用を原典に即してみていくと思いがけない発見があって、結構楽しんで読んでいるところです。ここで多く引用されている旧約聖書の知恵文学は、ユダヤ思想の展開の中でヘレニズムの影響が強いといわれ、世俗的、懐疑的な要素が目立ち、常識的な中庸の徳を勧める傾向がみられます。女神の演説は演説として、エラスムス自身がこのような知恵文学の傾向をどのように受け止めていたかにも興味がそそられます。

野口実『列島を翔ける平安武士 九州・京都・東国」(3)

4月4日(水)晴れ、気温上昇

 この書物は九州(鎮西)地方における武士社会の形成を、京都や東国における動きも視野に入れながら、(1)摂関時代に京都や東国から移住してきた軍事貴族たちの大宰府を拠点とした活動という第一の波、(2)鎌倉幕府の成立により、京都や東国から惣地頭として移住してきた鎌倉幕府御家人たちによる活動という第二の波の二段階にわたるものとしてとらえ、それぞれの動きの具体的な様相を論じたものである。武士はその出身地との強い結びつきを持つ半面で、少なくとも鎌倉時代以前には政治的な動きに伴って移動する存在であったということ、また武士社会の形成は東国に焦点を当てて論じられることが多いが、九州に目を向けていることがこの書物の特色である。
 この書物の第1章に相当する「京都下りの飽くなき収奪者 藤原保昌」では、日向守(=受領)として私財を蓄えただけでなく、大宰少弐にも任官して海外貿易にも手を染めていた藤原保昌が、そこで得た富の一部を献上することで藤原道長との結びつきを強め、このような経済活動の一方で武人的な側面も持っていたことから、九州における武士社会形成の第一の波の先駆け的な位置づけになることが論じられている。
 第2章に相当する「大宰府の武者 平為賢と平季基」では、平将門の乱の鎮定で活躍した桓武平氏の一族、特に鎮定の立役者で鎮守府将軍となった貞盛の弟、繁盛の孫為賢の系統が大宰府に派遣されて勢力を築き始めたこと、寛仁3年(1019)に起きた「刀伊の入寇」に際しては、大宰府の権帥であった藤原隆家の適切な指揮のもとに九州の武士たちが優先してこれを撃退したが、その中心となったのは大宰府関係の武士たちと、襲来を受けた土地の豪族である武士たちであったことが述べられた。大宰府関係の武士たちの多くが朝廷から大宰府の少弐・大監・少監に任命されたり、帥ないしは大弐に任命された高級貴族の傭兵隊長として下向した中央出身の軍事貴族とその子孫たちであり、在地住人の場合も中央と何らかのつながりを持った地方軍事貴族であったことが論じられた。

 今回は「大宰府の武者」の残りの部分、刀伊の入寇を撃退した武士たちの家系やその性格について論じた部分から見ていく。まず平致行である。彼の名に「致」という文字が使われていることから、将門の乱鎮定の功労者の一人で、安房・武蔵守を歴任した軍事貴族平公雅の一族である可能性が高いという。嫡流の平貞盛の一族は中央政府に登用される一方で、京都に近く東国との海陸交通の中継点となる伊勢に進出したが、公雅の一族も同じように朝廷や中関白家(道長の兄で、伊周・隆家兄弟の父である道隆の一族)に仕え、中関白家にとっては傭兵隊長のような存在であった。〔道長のところには先に述べた藤原保昌や源頼光がいた。何か思い出しませんか?〕 そのように中央と結びつく一方で、伊勢進出を図り、貞盛一族と衝突したりしていた。
 公雅流平氏は隆家の太宰権帥就任以前に中関白家との関係を持ち、また九州に進出していたので、隆家の側からすれば大いに頼りがいがあったし、致行の側からしても、隆家の就任は彼らの利権の拡大に大きく資するものがあったはずである。

 「隆家にとって公雅流平氏が中関白家最盛期以来の家人であったとすると、大宰府赴任を契機として関係を強めたのが藤原蔵規の一族である。」(47ページ) 蔵規の出自は明らかではないが、その経歴は当時の「兵家貴族」の子弟にふさわしいもので、その後は通常のパターンとは違って、大宰府の大監→少弐を経て、対馬守となっている。
 彼の名は藤原道長に対抗する存在であった藤原(小野宮)実資の日記『小右記』に登場し、実資の所領である筑前国高田牧の牧司を務めていたことがわかる。実資は中関白家の道隆、伊周には批判的であったが、隆家とは仲が良く、隆家の権帥就任も実資の支援によるところが大きかった。したがって、隆家が実資を本主とする蔵規は頼りとするに足る存在であったといえよう。
 「この蔵規が外国貿易によって巨富を得ていたことは、諸資料から明らかで、かつて、彼をもって『源氏物語』(玉鬘)に登場する「大夫の監」のモデルに擬する説が唱えられたこともあった。」(49ページ、巻末の参考文献から判断して竹内理三の説らしい。)

 蔵規の一族は大宰府俯瞰の立場を利用して、鎮西で最も豊かな肥後国に進出し、そこで受領と対立するような事態を引き起こした。さらにその後、彼らの子孫は同国菊池郡を本拠にして菊池を名乗るようになり、南北朝時代に九州の南朝方を代表する存在として華々しい活躍を見せるのである。〔調べていてわかったことだが、西郷隆盛は、菊池氏の庶流である西郷氏の出身であるという。その一方で、戊辰戦争の際に会津藩の家老であった西郷頼母も同じ一族ということらしい。〕

 刀伊の入寇に際して目覚ましい活躍を見せたもう一人の武士が平為賢である。弓の名手であった彼の放つ鏑矢は、刀伊の一団を恐怖に陥れ、彼らが退却した後も、彼は平致行らとともに、その船を追撃している。大宰府が中央政府に送った注進状の勲功者の首座に彼の名前が挙げられているのは理由のないことではなきょい。この為賢の子孫は、国守を歴任した桓武平氏の一族の援助を得て、肥前の国に勢力を張ることに成功した。一方、公雅流平氏は、本主中関白家の凋落と伊勢国で貞盛流平氏との抗争に敗北した結果、鎮西においてもその勢力を失うことになる。こうして平安後期から南九州に勢力を広げていく平氏系武士団は、この肥前に勢力を扶植した為賢流平氏に一元化されることになる。彼らを野口さんは「鎮西平氏」と総称している。

 「鎮西諸国のうち、南九州の日向・大隅・薩摩は特に大宰府の強い統制下におかれていた。」(53ページ、奈良時代まではこの辺りは大和朝廷の意向に従わない隼人と呼ばれる人々の領分であったことが、念頭に置かれていたのであろう)。したがって大宰府の関係者の中には、その地位を利用して南九州に所領を獲得しようと考える連中が出てくる。なぜそのようなことを考える連中が出てきたかというと、南九州が、それ自体珍しい産品を生み出す土地であり、しかも珍しい産品を生み出しているより南方の国々との交易の拠点となっていたからである。都で珍重される蘇芳(染色に用いる)とか、夜久貝(夜光貝)のような産品が求められた。〔少なくとも日本の一部では相当に高度な消費社会が成立していたのである。〕 

 藤原道長の後継者である宇治関白頼通に、万寿年間(1024~28)大宰大監平季基が、日向国諸県(もろがた)郡島津一帯(現在の宮崎県都城市)を寄進した。これが島津庄の成立である。この地は、日向国府から大隅国府に通じる官道が通過するだけでなく、南島や大陸との交易の拠点となるし武士に通じる交通の要衝であったことを見落とすことができない。平季基の名は『小右記』をはじめ、多くの資料で確認できるのだが、彼の名は、今日伝えられている系図類に全く現れないという。

 そこで野口さんはかなり後世の資料ではあるが、真義真言宗の開祖として知られる覚鑁の伝記に注目し、彼の父が兼元(別名悪平三)と記されていることを確認する。そして平季基が、平為兼と兼元の間に位置する人物であると考えている。左大臣となった源俊房の日記『水左記』は摂関~院政時代の貴重な史料であるが、肉親を殺した平兼基に対し追討令が発せられたことを記している。そしてこの一族が九州に勢力を広げる一方で、中央出仕(在京活動)も怠らなかったという姿を想像している。「これは11世紀半ば頃にはほとんど中央の官職機構と絶縁してしまった坂東の地方軍事貴族よりも、むしろ中央権力に密着した北陸の斎藤氏(『今昔物語集』の芋粥の説話で有名な鎮守府将軍藤原利仁の子孫)などに近いあり方といえる」(60ページ)という。それはそうかも知れないが、利仁の越前(敦賀の一帯)と鎮西とでは大分、都からの距離が違うのではないかという気がしないでもない。

 聖帝といわれる一条天皇の治世は、藤原道長の『御堂関白記』、藤原実資の『小右記』、藤原行成の『権記』という3人の貴族の日記によって、京都にいた貴族たちの動向のかなり細かいところまで探ることのできる時代であった。しかし、ここでは『小右記』だけが参照されているというのは、この3人の視野がどのようなものであったのかということを考えるうえで興味深いことではないかと思う。野口さんは、藤原利仁の子孫である斎藤氏を取り上げているが、この一族で一番有名なのは、『平家物語』に登場する斎藤実盛であろう。実盛は、平治の乱の際に、御所の待賢門をめぐる攻防で源義朝の長子悪源太義平とともに、平家の大軍を追い散らした17騎の1人であるが、治承・寿永の乱の際には平家方の侍大将として戦死した。しかし、その子孫は越前の有力な武士として『太平記』の時代にもその名を見せているのはご存じのとおりである。

 島津庄は登場したが、島津氏が登場するのにはまだ少し時間がかかる。そのあたりもこの本の面白いところだと思って、お付き合いください。 
 

『太平記』(204)

4月3日(火)晴れ、気温上昇

 建武4年(南朝延元2年、1337)、宮方の再起を期して北国に向かっていた新田義貞の籠もる金ヶ崎城は数において勝る足利方の包囲の中で、後攻めを失い、兵糧も乏しくなって、2月5日、新田義貞・脇屋義助兄弟らが城を脱出して同じ越前の杣山城に入り、後攻めの機会をうかがってみたが、出兵できないまま、3月6日、金ヶ崎城は足利方の総攻撃により落城した。城内にいた一宮尊良親王、新田義貞の嫡男義顕らが自害し、城中の兵800余名も後を追った。いったんは城を脱出した東宮恒良親王もとらえられ、京都に幽閉された。一宮の御息所は、悲しみに暮れ、宮の四十九日を待たずして病死した(史実としては、もっと早く死亡していた)。新田義顕の首は大路を渡され、獄門に懸けられた。足利方の諸将は宮方に与した延暦寺の破却を議論したが、そこにやってきた物知りとして知られる天台僧の玄恵法印の意見を仰ごうということになった。訪印はとんでもないことを考える奴らだとは思ったが、面と向かって非難するとまずいと思い、長談義を始めた。

 「日本国の起こりについては、家々に伝わるところがそれぞれ異なり、議論をまとめていくのが難しいが、とりあえず大まかなところを語ることとしよう。天地がすでに分かれて以来、仏説によると、人間の寿命は最初は8万歳であったのが、100年ごとに1歳減って、ついには10歳になった。これを減劫、10歳になると今度は逆に100年ごとに1歳ずつ増えて8万歳まで戻る、これを増劫という。それが10回ずつ繰り返される間この世が存続する。その9回目で、人の寿命が2万歳だった頃の話である。釈尊以前に出現された7体の仏を過去七佛というが、その六番目の仏である迦葉世尊が西天にお現われになった時、釈尊はまだ菩薩の身で授記(仏が修行者に与える成仏の保証)を与えられて、兜率天にお住まいになっていた。
 そこで、釈尊は私が八相(釈迦の生涯における8つの出来事。その内容をめぐっては大乗と、上座部とで意見が分かれる)の中の悟りを開く場面を過ぎた後、自分の遺した教えをどこで広めるべきであるのかと南贍部洲(世界の中心の須弥山=しゅみせんの南に浮かぶ島)の一帯の上空をあまさず飛び回ってご覧になっていると、大海原の上に「一切衆生、悉有仏性、如来常住、無有変易(いっさいしゅじょう、しつうぶっしょう、にょらいじょうじゅう、むうへんやく)」(第3分冊、291ページ)と波が音を立てていた。これは涅槃経の句で、「すべての衆生に仏性が備わり、仏は常住して変易することがない」という意味である。
 釈尊は、これをお聞きになって、この音を立てている波の流れが止まるところが、一つの国となり、私の教法があまねく広がる霊地となるだろうとお思いになったので、この波の流れに沿って、ずっと10万里ほども海上を飛行された。すると、この波が一葉の足が海の上に浮かんでいるところで止まった。この葦の葉が釈尊が思われたとおりに一つの島になった。今の比叡山のふもと、大宮権現の前にある小川にかけ渡された建物「波止土濃(はしどの)」がこれである。このような事情があったので、「波止まって土濃(こまや)かなり」と書くのである。

 その後、幾劫かの長い年月が過ぎて、人間の寿命が100歳にまで減った時代に、釈尊が中天竺のマカダ国の、浄飯(じょうぼん)王の王宮に降誕された。御年19歳の時の、2月8日の夜半に王宮を出られて、雪山(ヒマラヤ山脈)で6年間苦しい修行を積まれ、マガダ国の寂滅同乗の菩提樹の下でさらに6年間端座され、ある夜半から暁の間に正覚(悟り)を開かれた。その後、21日間「華厳経」を、12年間「阿含経」を、30年間「般若経」を説かれた。その後8年にわたり究極の一つの真理である「法華経」を説き顕されたが、中インドの抜提河(ばつだいが)のほとりの沙羅双樹の下で涅槃に入られた(入滅された)。とはいうjものの、仏は本来、本有常住(ほんうじょうじゅう、生滅することなく)、周遍法界(しゅうへんほっかい、世界に遍在する)の妙体(霊妙な体)であるので、自分の遺された教えを広めようと、昔、葦の葉から国となった、南閻浮提(なんえんぶだい、南贍部洲)の豊葦原の中津国(日本)に至ってあたりを眺められた。

 「劫」という字は、慣用音では「ゴウ(ゴフ)」と読まれているが、漢音では「キョウ(ケフ)」、呉音では「コウ(コフ)」で、例えば落語の「寿限無」の中の長い名前の「五劫のすりきれず」の場合は、「コウ」と読まれている。(ここでは「劫」の意味について、『太平記』とは別の方四十里の大石を3年に一度天女が羽衣の袖でなで、それが度重なって、この石がすり減ったのが一劫であるという説明がされている。また、「擦り切れず」の「ず」が聞こえないように語るのがいいそうである。)
 大宮権現は日吉山王上七社の第一。釈尊がお生まれになったのはここでは中天竺(中インド)のマカダ国とあるが(「マカダ」は漢字が充てられていたのだが、当方のパソコン・ソフトでは感じが入力できない)、岩波文庫版の脚注で北インドの迦毘羅衛国と訂正されている。以前、ネパールの人と話す機会があったときにいわれたが、迦毘羅衛国は現在のネパールに属する地方だそうである。それから、これは重要なことだが、中インドにはマガダ国とコーサラ国という2つの有力な国があり、迦毘羅衛国はそのコーサラ国のほうの属国であったらしい。(『太平記』は「マカダ国」と読んでいるが、「マガダ国」のほうが一般的である。)
 釈尊の時代には、マガダ国にはビンビサーラ(頻婆娑羅=ビンバシャラ)王、その子であるアジャータシャトル(阿闍世=アジャセ)王、コーサラ国にはプラセーナジット(波斯匿=ハシノク)王、その子であるヴィドゥーダバ(毘瑠璃=ビルリ)王という王様がいて、それぞれ仏典に登場する。毘瑠璃王は迦毘羅衛国を滅ぼし、滅ぼしたコーサラ国は、阿闍世王のマガダ国に滅ぼされる。最近見た映画の『バーフバリ』を思い出させるような展開である。インドにはヨーロッパや東アジアにおけるような歴史的著作が長く存在せず、そのことについては様々な議論があるのだが、インドには歴史がないというのではなくて、インドの歴史的な展開が他の地域とは違っているということではないかと、最近は考えている。

フローベール『感情教育』(7‐2)

4月2日(月)晴れ

第1部あらすじ
 1840年、大学で法律を勉強しようとパリに出てきた夢想家の青年、まだ18歳のフレデリック・モローは偶然知り合った画商アルヌーの美しい夫人に恋心を抱く。高校時代からの友人で、現実主義者のデローリエは、そんな彼を心配して、友人たちを集めて議論を交わす会合を始める。出世主義者のマルチノン、演劇界に進出しようとしているユソネ、世間知らずで気の弱い貴族のシジー、独善的な社会主義者のセネカル、理論倒れでなかなか絵が描けない画家のペルラン、まじめな店員のデュサルディエ、アルヌーの相談相手で政論好きのルジャンバールらが集まっては議論を交わす。
 第1回目の試験には落第したフレデリックであったが、2度目に合格し、郷里の有力者であるダンブルーズからも遊びに来いといわれる。希望に満ちて帰省した彼であったが、実家の経済状態が悪いという母の言葉に従い、郷里の法律事務所で制裁のない日々を過ごすことになる。しかし、1845年の暮れに、財産家の伯父が遺言書なしに死去し、その遺産を相続することになって、再びパリに出ようと決心する。

第2部のこれまでのあらすじ
 フレデリックはパリに到着するが、彼の不在の間に、友人や知己の身の上はかなり変わっていた。アルヌーは画商をやめて、陶器業を営み、夫人には息子が生まれていた。アルヌー夫人の自分に対する態度のよそよそしさに失望したフレデリックは、社交界で活躍しようと心に決める。久しぶりに会ったデローリエは、大学の教師になる夢を捨てて、復習教師をしながら文筆活動に携わっていた。

 身なりを整えて、ダンブルーズを訪問しようとしていたフレデリックであったが、まだ時刻が早すぎるので、ふと思い立ってアルヌーを訪ねる。夫人は体調を崩していたが、アルヌーは元気で、2人は連れ立って貸衣装店で舞踏会用の仮装服を借りた後、アルヌーの知り合いのロザネットが開いている仮装舞踏会に出かける。
 「およそ60人ほどの人がいた。女は多く田舎女か貴婦人に扮し、男はほとんどみな相当の年配だが、荷車引きや荷揚げ人夫や水夫といった服装である。」(185ページ) 会場で、フレデリックはみんなから取り残されたような気分になる。踊りに加わるように誘われても、その気にならず、「自分に不満な気持ちで、だがどうしていいかわからず、踊る人の中をぶらぶら歩きだした」(187ページ)。

 そうこうするうちに、フレデリックは旧知のペルランに会う。ペルランはフレデリックがどこで何をしていたのかを質問し、答えを待たずに自分の芸術上の進歩について語り、さらに出席者たちの身の上をフレデリックに教える。〔その中に、「ポンパドゥール風の貴婦人」(188ページ)というのが出てくるが、横浜に住んでいる人であれば、「ポンパドゥール」と聞くと、パン屋とその赤い長細い堤袋を思い出すはずである。ポンパドゥール夫人(Madame de Pompadour, 1721-64)はルイXV世の愛人で、文化・芸術のパトロンであるとともに、ファッション・リーダーでもあった。政治にも口を出して、オーストリアのマリア・テレジア、ロシアのエリザヴェー他の2人の女帝とともに、プロイセンのフリードリヒⅡ世(大王)と七年戦争を起こしたりした。啓蒙思想の普及を助け、その一方でフランスの国家財政を悪化させたことにより、フランス革命の遠因を作った。Après moi (ou nous) le déluge.{私の(我々の)後には、洪水}というのは彼女の言葉とされる。横浜のパン屋であるポンパドゥールの店先には、彼女の肖像画が飾ってあるのでお気づきでない方は探してみてください。〕

 2人がデロジ医師について話をしていると、彼がやってきて2人に加わり、さらにユソネが加わり、会話の輪は次第ににぎやかになる。そのうち、アルヌーの愛人であるヴァトナ嬢が現れ、ユソネに自分の書いた教育的な著作の論評を求める(彼女はもともと小学校の教師だったのである)。以前、フレデリックがデローリエやユソネとアルハンブラに出かけた際に、そこで歌を歌っていた歌手が出世してデルマールという名の俳優になっているのを見かけて、自分の脚本を断られ、演劇界への夢が消えていたユソネが顔をしかめる(彼は演劇界での成功をあきらめて、地方新聞の通信員をしている)。大騒ぎが続き、翌朝になって客たちは馬車に乗ってそれぞれ帰宅する。来た時同様に、フレデリックはアルヌーと一緒の馬車に乗る。

 帰宅したフレデリックは、徹夜明けなので、ベッドに倒れこむ。頭痛に苦しむ一方で、のどが渇いて水差し一杯の水を飲み干す。「別な渇き、女とぜいたく、パリの生活が与える一切のものへの渇き、が生じてきた。」(204ページ) 眠りに落ちる前に彼は、舞踏会で出会った女たちの姿がそれぞれ断片的に彼の脳裏に浮かぶ。「するとまた、舞踏会では見なかった2つの大きな黒い目が現れた。それが、蝶のように軽く、松明のように煌々と、往き来して、ふるえ、壁の天井近くに上がるかと思うと、また彼の口まで下がってきたりした。」(同上) 頭がもうろうとしているフレデリックにはそれが誰の目であるかわからないが、読者にはわかるはずである。

 財産を手に入れてパリに戻ってきたフレデリックであるが、その財産は彼が努力して作り上げたものではない。パリには誘惑が多く、彼はマルチノンのような割り切った生き方ができない性分である。フレデリックの周辺の人物、アルヌーは仕事を変え、デローリエとユソネは自分の野心の挫折を味わった。彼らのフレデリックに対する感情もこれまでのままではなくなるだろう。これからの彼のパリでの生活はどのようなものになるか、出世の足掛かりを築くのか、それともだらだらとそのまま時間を過ごしていくのか。その一方で、社会と政治は大きな変革に向かって動き始めている…のだが、登場人物たちは気づいているのか、いないのか・・・・。 

日記抄(3月26日~4月1日)

4月1日(日)晴れ、風強し。

 3月26日から本日までに経験したこと、考えたこと、前回以前の補遺・訂正など:
3月22日
 NHKラジオ『まいにちフランス語』応用編『日仏交流散歩全国編』(Traces des rencontres franco-japonaises du passé)は国立西洋美術館(Le Musée national d'Art occidental)の第1回として、この美術館が「松方コレクション」の保存・公開を目的として設立されたものであることを紹介した。
 造船業で成功した松方幸次郎は、1916年からおよそ10年間ヨーロッパで作品を収集しました。その多くは、金融恐慌後に人手に渡るか、倉庫の火事で失われています。パリで保管していた400点近くは、第二次世界大戦中、フランス政府に接収されましたが、戦後、日本に寄贈返還されました。収蔵する美術館の建設が、返還の条件でした。
   À partir de 1916, Kôjirô Matsukata, qui avait réussi dans l'industrie naval, s'était mis à collectionner des oeuvres d'art en Europe, et ce pendant dix ans environ. La majorité d'entre elles a disparu, vendue aux enchères après la crise financière ou pendant la Seconde Guerre mondiale. Elles ont été restituées au Japon après-guerre, à condition qu'un musée leur soit consacré.
 脇村義太郎『趣味の価値』(岩波新書)の終章が「美術蒐集家としての石油人――蒐集の楽しみ」と題されていて、ロスチャイルド、ロックフェラー、グルベンキアン、メロン、ゲッティらとともに、日本人では松方幸次郎、小倉常吉、中野忠太郎、新津恒吉、出光佐三の名が挙げられていて、「コレクターとしての松方氏は、今日では誰ひとり知らぬものがなかろう、あるいはまた失敗した造船業者として記憶されているだろう、しかし石油人としての松方氏を知る人は、もはや少なくなった。」(197ページ)と記されている。世界の石油人と美術蒐集の結びつきについて広く論じたこの章は、極めて面白い読み物となっている。

3月23日
 『まいにちフランス語』応用編の「国立西洋美術館」の2回目。この美術館の設計がスイスで生まれ、フランスで活躍した建築家ル・コルビジュエの設計になるものであることが紹介された。
 彼の作品のうち、国立西洋美術館を含む17か所が、世界遺産に登録されています。
Parmi les oevres de le Corbusier, 17 sites, en comptant ce musée, sont incerits au patrimoine mondial de l'Unesco.
この17か所というのは、フランス10、スイス2、ベルギー1、ドイツ1、アルゼンチン1、インド1、日本1と7か国にわたるものだそうである。

3月26日
 『朝日』朝刊の「語る――人生の贈りもの――」のコーナーでは、女優の岡田茉莉子さんの回想が始まった。第1回の今回は、夫君である吉田喜重監督とのパートナーシップについて語られている。

 NHKラジオ『まいにちスペイン語』の「スペインの街角」のコーナーは、今回が最終回で、サンティアゴ巡礼のみち(Camino de Santiago)が取り上げられた。

 同じく『短期集中! 3か月英会話』で練習した会話:
A: May I take your name, please? (お名前は?)
B: Watt. (ワットです)
A: Your name, sir? (あの、お名前は?)
B: My name is Watt. (だから、ワットです。)(私の名前は何でしょう)
A: I don't know. That's why I'm asking you, sir. (知らないんです。だから聞いているんです。)
B: Yes, and I'm telling you. (だから、それを言ってるんじゃないですか。)
A: You're telling me what? (何を言っているんですか?)
 名前を聞かれたBさんはワットという名前なのだが、聴いている方のAさんはそれを同じ発音のwhatと勘違いしているというやり取りである。
 ちょっと違うやり取り。スペインで交通事故を起こした日本人の能勢さんが、警官からお前の名前は何だと聞かれて、Nose.と答えたところ、ふざけるなと言われた。スペイン語でNo sé.というのは「知らない」という意味である。
強調文

3月27日
 『まいにちスペイン語』の「ラテンアメリカの街角」のコーナーは、このコーナーの最後を締めくくってインカ帝国の遺跡で知られるペルーのマチュピチュを取り上げた。

 司馬遼太郎『街道をゆく9 信州佐久平みち、潟のみち ほか』(朝日文庫)を読みおえる。軽井沢という地名は東日本、特に東北には少なくないという話が出てくるが、我が家の近くにも軽井沢という地名がある。最近kame-naokiさんのブログ「カメさんと遺跡」で、この地にある古墳のことが紹介された。軽井沢←涸れ沢という説があると司馬は述べているが、わりに説得力がある。

 『短期集中! 3か月英会話』に取り上げられた早口言葉:
Which witch switched the Swiss wristwatches? (どの魔女がスイス製の腕時計を交換しましたか?)

3月28日
 フランスの女優で、一時期故クロード・シャブロル監督の夫人でもあったステファーヌ・オードランさんが亡くなった。シャブロル監督の『女鹿』でベルリン映画祭の主演女優賞を得ているが、それ以前に『いとこ同士』などシャブロル監督の映画の多くに脇役で出演(ほかにしゃぶろる監督が制作したエリック・ロメール監督の『獅子座』など)、離婚後は、アナトール・リトヴァク監督の『殺意の終末』、ルイス・ブニュエル監督の『ブルジョワジーの秘かな愉しみ』(1972)、ガブリエル・アクセル監督の『バベットの晩餐会』(1987)などに出演、ちょっと意地悪そうな雰囲気の女優さんで、悪役での出演作が多かったが、『バベット』ではそれを風格に変えての名演を見せていた。冥福をお祈りします。

 岡田茉莉子さんの「語る――人生の贈りもの――」は高校時代に映画『滝の白糸』を見て、そのあと、母親から映画に出演している岡田時彦が彼女の父親であると初めて打ち明けられたという話。

3月29日
 岡田茉莉子さんの「語る――人生の贈りもの――」は、高校卒業後、東宝に入社した経緯が語られていた。 

 『まいにちスペイン語』応用編「スペイン文学を味わう」はビセンテ・ブラスコ・イバニェス(Vicente Blasco Ibáñez, 1867-1928)『葦と泥』(Cañas y barro)の第7回、ネレータはトネットとの間に儲けた赤ん坊を産み落とし、それをバレンシアの市内で捨て子にするようにトネットにいう。しかし、それが不可能だとわかっていたトネットは、アルブフェラ湖の葦の中に赤ん坊を投げ捨てる。

3月30日
 岡田茉莉子さんの「語る――人生の贈り物」は第5回、岡田茉莉子という芸名が谷崎潤一郎の命名であること(これは、岡田さんの父親の岡田時彦という芸名も谷崎による命名であるということと併せて、有名な話)、成瀬巳喜男監督の『舞姫』でデビューした話、その後数多くの作品に出演したが、その当時はそれが当たり前で、楽屋なんてものがない時代なので、原節子や高峰秀子と一緒になり、原がたばこをスパスパやりながら、「茉莉ちゃん、たばこはほどほどにね」などと言っていたという話(これもどこかで聞いたことがある)が語られていた。〔1月に『日経』に連載されていた草笛光子さんの「私の履歴書」に比べると、知っている話が多いので、あまりおもしろくない。このあたり、聞き手である記者の力量も問われるところである。〕

 『葦と泥』は第8回(=最終回)。翌朝、バレンシアの狩猟かの旦那の案内で湖に出かけたトネットは、犬が赤ん坊の死骸を加えてきたのを見て、「俺は悪い枝だった、落ちねばならない(Era la mala rama y debía caer... と思い、手近にあったカニャメルの猟銃で自分を撃つ。パロマ爺さんはそのままにしておけばいいというが、トーニは息子であるトネットの死体を探し出し、自分が一生懸命に埋め立ててきた田んぼのための土地に埋葬する。財産を作っているものと信じて長年湖と戦ってきたが、知らず知らずのうちに、我が子の墓を用意していたとは!… (creyendo que formaba una fortuna, y preparando, sin saberlo, la tumba de su hijo!!...)
 ブラスコ=イバーニェスの作品にはしばしばネレータのようなfemme fataleが登場するというのが講師の大楠栄三さんの解説であった。(femme fataleというのはフランス語で、調べてみたところスペイン語ではmujer fatalという。)
 この日の『朝日』朝刊の「文芸時評」<エンタメ>のコーナーで逢坂剛さんがエルモア・レナードの『オンブレ』という西部小説について論評していて、なかなか興味深かったが、「オンブレ」がスペイン語のhombreであることについて気付いているのか、いないのかはっきりしないのが気になった。

3月31日
 ラピュタ阿佐ヶ谷で『霧と影』(1961、ニュー東映、石井輝男監督)を見る。新東宝が潰れた後、ニュー東映に移って2作目らしい。水上勉が社会派のミステリーを書いていたころの作品の映画化で、新東宝時代の石井作品、あるいは東映でこの後に作った石井作品に比べて、非常にまじめな映画である。水上勉作品の映画化ということで、内田吐夢の『飢餓海峡』と似た部分があるので、その点も興味深い。北陸の海岸の村で、小学校の教員が謎の死を遂げ、大学時代の友人であった新聞記者(丹波哲郎)が、地方の通信員(梅宮辰夫、若い!)の助けを借りて、その真相を探ろうとする。捜査線上に謎の人物が何人か現れて… 新聞社ではキャップ(永井智雄)をはじめ、総力を挙げて事件の真相に迫ろうとする…

 NHKラジオ『朗読の時間』は、「芥川龍之介短編集」ということで、「鼻」、「沼地」、「尾生」、「蜘蛛の糸」、「孔雀」、「蜜柑」が朗読された。芥川は、登場人物の目に入った事物を描くことを通じて、その人物の内面の心理を描き出すことが巧みな作家だと思った。そういう意味で「蜜柑」が一番面白かった。おそらく彼が海軍機関学校で英語を教えていた時代の経験がもとになっているのだろうが、家を離れて奉公に出ようとする小娘が、語り手の乗っていた横須賀の2等車に間違って乗ってきて、彼をイライラさせるのだが、彼女がある踏切で、姉の姿を見送ろうと待っていた弟たちに列車の窓から投げてやるのを見て、心温まる思いになるという話である。大正時代には、横須賀線はまだ電車じゃなかったんだと思ったり、横須賀線にそんなにトンネルが多かっただろうかと思ったり、余計なことばかり考えて朗読を聞いていたのだが、先に述べたような心理描写(小娘よりも、語り手のほうに重点が置かれている)にも感心したのである。
 海軍機関学校の語学の教官は、当時、英語が芥川、ドイツ語が内田百閒、フランス語が豊島与志雄であった。3人とも文筆家として名を成したという意味では豪華版の顔ぶれだが、授業を聞いている生徒のほうはどんな印象を持っていたのだろうか。

4月1日
 『朝日』の朝刊に「隠れキリシタン」についての解説記事が出ていた。江戸時代を通じて、信仰を守り通したキリシタンは少なくなかったのだが、明治に入って信仰が公認されたのちに、①カトリック教会に復帰した、②元の信仰を続けた、③愛善苑(大本教)など他の宗教に鞍替えしたという3つの流れがあるが、最近は②の流れを強調する書物が盛んに発行されている。しかし、全体としては①が一番多いのではないかと思う。むしろ、①に属する人々が長崎県を離れて、首都圏などに移り住む傾向がみられる方が🅂重要なのではないか。

 ニッパツ三ツ沢球技場でJ2第7節:横浜FC対ツエーゲン金沢の試合を観戦した。ホームの試合に弱い、自分たちよりも格下のチームに弱いという横浜FCの悪い癖がもろに出て、0-4で惨敗。縦にまっすぐ突っ込んでくる相手に、左右に球を回して広い展開で包み込もうというのは、武田信玄の大軍の魚鱗の攻撃に対して、それよりも少ない軍勢を鶴翼に展開して包み込もうとした三方ヶ原の徳川家康の戦術のようなもので、失敗するに決まっていると思うのだが、どういうものであろうか。(もっとも魚鱗だの、鶴翼だのというのは江戸時代の軍学者たちの机上の空論で、戦国時代の合戦はそんなものではなかったという説もある。)
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