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2018年の2018を目指して(3)

3月31日(土)晴れ

 3月は、今年を迎えて初めて東京都目黒区と杉並区に足を延ばした。それで今年になって足を運んだと県は神奈川県と東京都の1都1県のままであるが、市区町村は、横浜市、川崎市、千代田区、渋谷区、港区、品川区、目黒区、杉並区の2市6区に増えた。
 新たに利用した鉄道会社はなく、東急、東京メトロ、都営、JR東日本、横浜市営の5社のままであるが、路線ではJR東日本の総武・中央線が増えて、9路線となった。また新たに新横浜、御成門、都立大学、反町、阿佐ヶ谷の5駅で乗降、新宿駅で乗り換えたので、利用した駅は13駅となった。
 相鉄バスと東急バスを利用したので、横浜市営、川崎市営、江ノ電、相鉄、東急の5社のバスを利用したことになる。新たに相鉄浜11、浜7、東急の東98の3路線を利用して、利用したバス路線も12路線に増えた。また新たに3か所のバス停を利用し、乗降したバス停の合計は16か所となった。〔52+17=69〕

 この記事を含めて33件の記事を書いた。内訳は読書が22、日記が5、『太平記』が4、推理小説が1、詩が1ということである。1月からの累計では、合計が93件で、読書が58、日記が16、『太平記』が14、詩が3、推理小説、未分類がそれぞれ1ということである。3月にいただいたコメントは5件で、1月からの累計は10件となっている。なかなか返信コメントが書けないでいるが、何とか書くつもりである。拍手は624で、1月からの累計は1633に達している。拍手コメントを1件いただいた。〔65+39=104〕

 12冊の本を買い、9冊を読み終えた。読んだ本を列挙すると、ロビン・スティーヴンズ『オリエント急行はお嬢様の出番』(コージーブックス)、黛まどか『奇跡の四国遍路』(中公新書ラクレ)、竹内洋『清水幾太郎の覇権と忘却』(中公文庫)、野口実『列島を翔ける平安武士』(吉川弘文館歴史文化ライブラリー)、望月麻衣『京都寺町三条のホームズ⑨ 恋と花と想いの裏側』(双葉文庫)、司馬遼太郎『街道をゆく9 信州佐久平みち、潟のみち ほか』(朝日文庫)、エラスムス『痴愚神礼賛』(中公文庫)、西條奈加『無花果の実のなるころに お蔦さんの神楽坂日記』(創元推理文庫)、ゴーゴリ『イワーン・イワーノウィッチとイワーン・ニキーフォロウィッチとが喧嘩をした話』(岩波文庫)ということである。社会科学関係、言語学関係の読書が不足しているので、4月以降はこれらの方面に力を入れていこうと思う。本を買った書店は2店で変化なし。〔20+9=29〕

 NHK『ラジオ英会話』を21回、『短期集中!3か月英会話』を12回、『入門ビジネス英語』の時間を8回、『高校生から始める現代英語』の時間を9回、『実践ビジネス英語』の時間を14回聴いた。1月からの累計では、『ラジオ英会話』を59回、『短期集中!3か月英会話』を35回、『入門ビジネス英語』を24回、『高校生から始める現代英語』を25回、『実践ビジネス英語』を36回聴いたことになる。
 『まいにちフランス語』入門編を12回、応用編を9回、『まいにちイタリア語』入門編を12回、応用編を9回、『まいにちスペイン語』入門編を12回、応用編を9回聴いている。1月からの累計では『まいにちフランス語』入門編を36回、応用編を23回、『まいにちイタリア語』入門編を36回、応用編を23回、『まいにちスペイン語』入門編を36回、応用編を23回聴いていることになる。
 『短期集中!3か月英会話』は昨年10~12月に放送された『洋楽で学ぶ英文法』が結構面白かったので、今年から本格的に聞き始めた。1~3月は昨年7~9月に放送した「演劇ワークショップ」の再放送で、あるダイアローグを2つの異なる状況に応じて話してみるというものである。ほとんど聞き流すだけだった前の番組と違い、口を動かして練習することも多い内容であったが、これまた面白かった。来年度は放送がなくなるので、残念である。長く『ラジオ英会話』を担当してきた遠山顕さんが『遠山顕の英会話楽習』という番組を始めることになり、『ラジオ英会話』は大西泰斗さんが担当することになる。どんな展開になるか、これはこれで楽しみである。
 英語以外にどんな言語を勉強するかをめぐり、間口を広げすぎて、学習が拡散しているような感じがしているので、そろそろ関心の集中を図るべきなのかもしれない。4月から新しい番組が始まるので、学習方法を変えることも考えてみようと思う。〔230+127=357〕

 ラピュタ阿佐ヶ谷で中平康『猟人日記』、石井輝男『霧と影』の2本のミステリ映画を見た。1月からの通算では映画館4館で6本の映画を見ていることになる。日本映画旧作が4本、外国映画が2本という内訳である。相変わらず低調さが続いているが、少しずつでも、見る本数を増やしていくつもりである。〔8+3=11〕

 ニッパツ三ツ沢球技場でJ2の横浜FC対愛媛FC、横浜FC対新潟アルビレックスの2試合を観戦している。1月からの通算では2か所の競技場で7試合を見ていることになる。〔7+2=9〕

 1月はアルコール類を口にしない日が1日、2月は3日であったが、3月は初めに体調を崩したこともあって8日に増加した。4月は2桁に乗せるつもりである。〔4+8=12〕
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島岡茂『英仏比較文法』(6)

3月30日(金)晴れ

 英語はインド=ヨーロッパ語族の中のゲルマン語派に属する言語であるが、その約25万語といわれる語彙の中で、フランス語を中心とするラテン(ロマンス語)系の単語は約50パーセントを占め、本来のアングロ・サクソン系の25パーセントを大きく上回るというように、フランス語、ラテン語というロマンス語系の言語の影響が強い。この書物は、そのような語彙の問題も含めて、英語がフランス語やラテン語の影響のもとに、どのように変化し、現在の形になったかを歴史的にたどるものである。

 もともと英語とフランス語とは、ローマ帝国→キリスト教会の公式の言語であったラテン語から多くの語彙を受け入れていたが、1066年のノルマンの征服以来、ラテン語からフランス語を経由して英語に入ってくる語彙が増えてきた。その際に、ノルマン系のフランス語から英語に入ってきたものと、標準形のフランス語から入ってきたものとがあり、場合によってはその両者が違う意味をもつ英語の単語として共存している例もある。フランス借入語の発音は元のフランス語の発音に合わせるのがふつうであったが、フランス語の発音が変化したために、英語の中に古いフランス語の発音が保存されている例もある(その他の例もある)。

 13~14世紀にフランス語から借用された英語の単語の数はきわめて多く、そのすべてについていつ、どのように英語に入ってきたかを説明することは不可能に近い。そこで、主なものについてみていく。
 国家・宮廷・政治に関する語は、ラテン語(あるいはギリシア語)起源のものが多い。バーナード・クリックという政治学者が書いているのを読んだことがあるが、democracyは(demos=民衆、cratia=力)というギリシア語から、republicは(res=物、事、publica=公共の)というラテン語から派生しているというように、政治関係の英語の語彙はほとんどがこのどちらかの言語に由来している。まったく英語起源なのはtotalismくらいのものではないかという(英語圏の諸国が、これまでのところ、全体主義とは無関係で来ていることを考えると、かなり皮肉である)。

 baron(男爵)はラテン語ではなく、ゲルマン系のフランク語で、「自由人、戦士」という意味であったが、中英語の時代に英語に入ってきたときには古いthaneに代わってのちの男爵の意味で使われるようになった。『リーダーズ英和中辞典』によるとthaneは「〔英史〕《アングロサクソン時代の、王に仕える》土地保有自由民、セイン武士《のちには世襲貴族に転化した》」とあり、baronには「男爵」という意味のほかに、「〔英史〕《領地をあたえられた》王の直臣、豪族、貴族」という意味もあるそうである。そこから考えると、thaneにbaronが取って代わったのは、世襲貴族の最下位としての「男爵」(その下に准男爵baronetという世襲の位階があるが、これは貴族ではない)という意味においてではなくて、領主、豪族というような意味においてではないかと思うのだが、どなたかご教示ください。フランス語でもbaronは「男爵」で、さらに古くは領主とか諸侯という意味もあったようである。イタリア語ではbaroneで、Il barone rampante(木のぼり男爵)というイタロ・カルヴィーノの有名な小説がある。

 count(伯爵)はもともとはラテン語に起源をもつが、ノルマン系フランス語のcunteから出たものだと島岡さんは推測している。「この語も古英語eorl(earl)に代わったものである」(27ページ)と書いているが、現代の英語でcountは「《欧州大陸の》伯爵」を言う。英国の伯爵はearlである。エリザベス女王の長男がPrince of Wales,次男がDuke of Yorkで、ここまではしきたり通りだが、三男はEarl of Wessexという爵位を与えられている。なお、伯爵夫人については、夫がcountであろうと、earlであろうと、countessが用いられる。そういえば、チャップリンの最後の映画が『伯爵夫人』(A Countess from Hong Kong)であった。『伯爵夫人』を演じていたのがソフィア・ローレンである。チャップリンの最後の映画と書いたが、出演者の一人であるティッピ・ヘドレンもこの映画を最後に引退した。
 伯爵は、フランス語ではcomte、イタリア語ではconte、ドイツ語ではGrafという。

 court(宮廷)は俗ラテン語のcortemが語源だという。これが古フランス語のcortを経て、フランス語のcour、英語のcourtとなったという。
 judge(裁判官)はラテン語のjudicemに語源をもち、古フランス語ではjugeといしったが、現代フランス語ではjuje、英語ではjudgeと発音はしないのにdが入るのは、ラテン語を思い出したためである。島岡さんはlatinismeという言葉を使っている。
 justice(正義)はフランス語でもjustice(公正、正義)で、古フランス語のjusticeを経て、ラテン語のjustitiamにさかのぼるという。(私がラテン語の辞書を調べたところではjustitiaが正しい形ではないかと思う。)

 ラテン語のpalatiumはもともとローマの7つの丘の一つの名前だったのが、ローマの名士や帝政時代初期の行程たちがここに居を構えたことから王宮という意味が生まれた。古フランス語にはpalaisという形で入り、この時代のフランス語では語末のsを発音していたので、英語に入ってpalaceとなっても、語末のceはsの音で発音されている。現在のフランス語palaisでは〔パレ〕というような発音になって、語末のsは発音しない。
 power(権力)は中世フランス語でpoeir>poveir>povoirの変遷の過程で移入されたもので、pouerからpowerとなった。もともとのラテン語はpotereとあるが、possumが正しいのではないか。potereはイタリア語、possumはラテン語で「することができる」という意味、フランス語のpouvoirも同様の意味である。
 prince(王子)、service(奉仕)は英語もフランス語も古くから同じ形をとっている(発音は違う)。語源となるラテン語として、principem,servitiumが示されている。
 throne(玉座)は中英語ではフランス語と同じtroneという形をとっていたが、15世紀以後ラテン語のthronusに倣ってt>thと変化した。島岡さんはこれもラティニスムの例としているが、本来ラテン語にはthという子音はなかったはずで(ギリシア語にはある)、この辺りもう少し説明が必要ではないかと思う。 

 島岡さんがラテン語として示している語の形を見ていると、名詞の場合、主格ではなくて対格ではないかという語形のものが少なくないし、他の品詞でも私のラテン語辞書では確認できないものがみられる。このあたり、ラテン語の辞書・文法書をさらに詳しく見ながら、確認していく必要がありそうである。 

エラスムス『痴愚神礼賛』(14)

3月29日(木)晴れ、気温上昇

 鈴の付いた阿呆の帽子をかぶり、道化の扮装をした痴愚の女神が登壇し、世の中のありとあらゆるものが自分の恩恵を被っているのに、それが無視されてきたと、自賛の大演説を展開してきました。人間は男女の快楽の結果として生まれ、その人生は痴愚とともになければ耐えられないものであるといいます。学問も、技芸も、痴愚とその同類であるうぬぼれがなければ生まれなかったであろうといいます。その一方で聖書の福音の教えから外れて世塵にまみれている修道士たちや司祭・それよりも高位の僧侶たち、詭弁に詭弁を重ねてそれが重要な論争だと思い込んでいる学者たち、腐敗堕落した生活を送っている王侯貴族・廷臣たちを嘲笑した後、痴愚を礼賛することわざが世の中にはたくさんあると言い出します。そしていくつかギリシア語の諺を引用します。

〔63〕
 女神はさらに、古典ギリシアの諺を引き合いに出しても、キリスト教徒にはあまり重みをもって受け止められないだろうから、「聖書」の言葉を引用すると言い出します。
 まず引用されるのは「コヘレトの言葉」(古くは「伝道の書」と呼ばれていた)の第1章から「愚か者の数にはかぎりがない」ということばです。念のため「新共同訳」の聖書を見てみますと、こんな言葉は出ていません。沓掛さんの解説注によると、「ヘブライ語原典から訳された現行の新共同訳聖書の邦訳では、このくだりは、「かけていれば、数えられない」となっており、フランシスコ会聖書研究所刊の聖書では「ねじ曲がったものをまっすぐにすることはできない。無いものを数えることはできない」となっているが、ウルガタ訳Et stultorum infinitus est numerusは、字義通りには「愚か者の数にはかぎりがない」という意味である」(303ページ)とあります。新約聖書はもともとギリシア語で書かれていたのですが、この時代の教会においては5世紀に聖ヒエロニムスがラテン語に翻訳したウルガタ版が正典として権威をもっていました。エラスムスはギリシア語による聖書研究を志し、1516年に『校訂版新約聖書』を刊行することになるのですが、ここではウルガタ版に従っているといるわけです。
 「コヘレトの言葉」は多くの人々がおろかであるといっているのですが、「エレミヤ書」ではもっとはっきりと「すべての人間は、その知恵により愚か者となる」と言っていると続けます。ここも、沓掛さんによりますと、「新共同訳聖書の邦訳では「人は皆、愚かで知識に達しない」、フランシスコ会聖書研究所訳の聖書では「人は皆、愚かで無知」となっているが、原文のウルガタ訳Stultus factus est omnis a homo a scientiaは字義通りには「すべての人間は、その知恵により愚かとなる」という意味である」(303‐304ページ)とあり、やはりここでもウルガタ版に頼っているようです。 
 その少し前のところではエレミヤは「知恵あるものは、その知恵を誇るな」とも言っています。なぜかというと、人間は本来、知恵をもっていないからだと女神は解説します。

 さらに話題を「コヘレトの言葉」に戻します。「伝道者が『なんという空しさ、なんという空しさ、すべては空しい』と叫んでいるとき、その意味していたものは、私が先に申しましたように、人間の生は痴愚女神のたわぶれごとにすぎない、ということ以外のなんでありえましょう?」(193ページ) これは「コヘレトの言葉」の1-2に出てくる大変に有名な言葉で、
ウルガタ版では
Vanitas vanitatum, dixit Exclesiastes; vanitas vanitatum, et omnia vanitas.
『欽定英訳聖書』(King James Version)では
Vanity of vanities, saith the Preacher,
vanity of vanities; all is vanity.
Today's English Versionでは
It is useless, useless, said the Philosopher. Life is useless, all useless.
『新共同訳』では
コヘレトは言う。
なんという空しさ
なんという空しさ、すべては空しい。
 ジョン・バニャンの『天路歴程』(Pilgrim's Progress, 1678)にVanity Fair(「空の市」あるいは「虚栄の市」)という市場町が登場しますが、この個所を踏まえたものです。ここからさらに19世紀英国の作家サッカリー(William Makepeace Thackeray, 1811-63)が『虚栄の市』(Vanity Fair, 1847-48)という題名の小説を書いています。19世紀の初めごろに、同じ女学校を卒業した親友同士だったベッキー・シャープとアミーリア・セドリーという2人の女性が、人生の波にもまれて、転変を繰り返し、まったく違う世界に住むようになるという物語で、1815年のワーテルローの戦いが描きこまれていることから英国民の『戦争と平和』ともいわれます。(そういえば、スタンダールの『パルムの僧院』の最初のほうで、主人公のファブリスがワーテルローの戦いに加わろうとする箇所があります。なお、ファブリスのモデルになったといわれるのが、のちにローマ教皇パウルスⅢ世に大出世するアレッサンドロ・ファルネーゼ(1468‐1549)で、教皇就任後の1535年にほかならぬエラスムスに対して枢機卿就任を依頼、エラスムスはこれを辞退しています。)
もう一つ余計なことを言えば、vanity fairは上流社交界という意味で使われることがあり、社交界のゴシップを掲載するそういう題名の雑誌があるようです。

 今回をもって、『痴愚神礼賛』を読み終えようと思っていたのですが、思いがけずも脱線が続き、〔63〕の途中で紙面を使い果たしてしまいました。この分だと、4月末にならないと終わらないかもしれませんが、ご理解の上、引き続きお読みいただければ幸いです。

野口実『列島を翔ける平安武士 九州・京都・東国』(2)

3月28日(水)晴れ

 この書物は、九州における武士社会の形成を京都や東国も視野に入れながら、(1)京都や東国から移動してきた軍事貴族たちの大宰府を拠点とした活動という第一の波、(2)鎌倉幕府の成立により、京都や東国から惣地頭として移住してきた御家人たちによる第二の波を、それぞれの活動を追いながら概観するものである。武士はその出身地と強い結びつきをもつ存在である反面で、移動する存在でもあったということ、また武士社会の形成に関する議論の焦点が東国に偏っていたのをみなおそうというのがこの書物の眼目である。
 前回は、引き続き、藤原道長のお気に入りで、日向守として飽くなき収奪を尽くした武士的な受領藤原保昌を第一の波の先駆けとして紹介し、続いて、平将門の乱の鎮定に活躍した桓武平氏の一族が大宰府に派遣されて勢力を築いたことを述べた。

 今回は、第二章に相当する「大宰府の武者 平為賢と平季基」の第二節に相当する「刀伊の入寇」を中心にみていく。
 「寛仁3年(1019)3月28日かその前日、突然約50艙の賊船が対馬に襲来し、島民36人が殺され、382人が捕らえられ、住屋45宇が焼かれた。いわゆる「刀伊の入寇」はこうしてはじまった。
 このとき、大宰府の長官(太宰権帥)をつとめていたのは、「中関白(なかのかんぱく)」と呼ばれた藤原道隆の子で、道長と権力の座を争って敗れた伊周や清少納言が仕えた藤原定子の弟にあたる藤原隆家であった。隆家は長く眼病を患っており、宋の名医が居留し、薬が手に入りやすいというので、自ら望んで太宰府に下向していたのである。この年はちょうどその任期が終わる年にあたっていた。
 彼は若年のころから武芸を好んで、剛勇をもって知られており、『大鏡」(第4巻)によると、大宰府に赴任して以来、善政をもって臨んだので、九州こぞって従い、人望を集めていたという。大宰府の官人(府官)や在地豪族にも彼の威令は十分にいきわたっていたようである。」(42‐44ページ)
 念のため『大鏡』を調べてみると、次のように書かれていた。「まつりごとよくしたまふとて、筑紫人さながらしたがひ申たりけれ
ば、例の大貮十人ばかりがほどにて(普通の大弍十人前ぐらいの業績を残して、隆家が任じられたのは権帥=長官であったが、『大鏡』の作者は「大弍=次官」としている。意識的にこう書いたのか、単なる間違いかはわからない)のぼりためへりとこそ申しか。かのくにゝおはしましゝほど、刀夷國のもの、にはかにこの國をうちとらんとやおもひけん、こえきたりけるに、筑紫にはかねて用意もなく、大貮殿ゆみやのもとすゑもしりたまはねば、いかゞとおぼしけれど、やまとごゝろかしこくおはする人にて、筑後・肥前・肥後九國の人をおこしたまふをばさることにて、府のうちにつかうまつる人をさへをしこりてたゝかはせ給ひければ、かやつがかたのものどもいとおほくしにけるは。」(岩波文庫版、177‐178ページ) 

 大宰府に壱岐国からの刀伊襲来の知らせが届いたのは4月7日であったが、この時すでに賊は博多湾に入り、九州本土を脅かしていた。この日と翌8日に、隆家は政府には早馬で連絡を送り、現地の惨状を報告するとともに、自ら軍を率い、警固所に至って合戦すべき旨を伝え、意気盛んな様子を示している。
 この警固所というのは大宰府の鴻臚館に設けられていた防備施設と考えられ、福岡市中央区にその遺構が残っているだけでなく、地名としても残っており、警固(けご)神社が建っている。実は私もバスで通りすぎたことがある。

 賊船迎撃の主体となったのは大宰府関係の武者たちで、賊に襲われた地域の在地豪族たちの援助も得て、一週間ほどで賊を撃退した。この事件による被害は殺されたり捕らえられたものの総数が1654人にも及ぶなど甚大なものがあったが、大宰府関係の武者たちと在地住人が一丸となって迅速に迎撃態勢をとることができたのは隆家の力量に負うところが大きかったのであろうと野口さんは推測している。逃走する賊軍を追撃する兵船に高麗との国境を犯さぬように命じていることなど、隆家の指揮は最後まで適切なものがあった。
 弱冠17歳で中納言になった隆家にとって、太宰権帥の地位はむしろ左遷に等しいものだという見方もできるが、この地位は富を築いて再起の役に立てるのにふさわしいもので、その意図を察知した道長はなかなか隆家の権帥就任を認めようとしなかったのだが、それを隆家に同情的であった藤原(小野宮)実資が頑張って就任させたといわれる。合戦の最中にも隆家は都の実資と主として連絡を取っていたのであり、隆家の功績もさることながら、彼を陰で支えた実資の役割も無視できないのではないかと思う。隆家と実資及び彼らと結びつきを持っていた武士たちの存在については、この後で野口さんも触れている。

 刀伊の襲来に際して隆家の指揮の下で優先したのは大宰府関係の武士、少弐(次官)藤原蔵規(まさのり)、前少弐平致行(むねゆき)、大監(だいげん、だいじょう=三等官)藤原致孝(むねたか)、前大監藤原助高(すけたか)、前少監(しょうげん=三等官)大蔵種材(たねき)、前監藤原明範(あきのり)、散位平為賢、平為忠、傔杖(けんじょう=権帥・大弐の公設の護衛官)大蔵光弘、藤原友近、それに友近の随兵紀重方(きのしげかた)ら。それに在地住人の前肥前介(=次官)源知(みなもとのさとる)、筑前志摩郡住人文室忠光(ふんやのただみつ)、筑前伊都郡住人多治久明(たじのひさあき)、大神守宮(おおがのもりみや)、権検非違使財部弘延(たからべのひろのぶ)らであった。

 野口さんはこれらの武士の出自を詳しく述べている。平為賢は平将門の乱を平定した貞盛の弟繁盛の孫、常陸平氏の血を引き、伊佐平氏の祖となる。大蔵種材は藤原純友の乱の鎮定に活躍した大蔵春実(はるざね)の孫。平致行と藤原蔵規・明範も「武芸者」として知られる軍事貴族で、彼らは総じて「府の無止(やんごとなき)武者」と呼ばれていた。つまり、朝廷から太宰府の少弐・大監・少監に任命されたり、帥ないし大弐に任命された高級貴族の傭兵隊長として下向した中央出身の軍事貴族とその子孫であった。
 さらに、在地住人である源知は嵯峨源氏あるいは仁明源氏系で、のちに倭寇として活躍した肥前松浦党の祖と目される地方軍事貴族、文室忠光も寛平6年(894)に新羅の賊を撃退した対馬守文室善友の子孫と考えられる。〔以前『太平記』に関連して書いたことがあるが、嵯峨源氏の渡辺とか瓜生とかいう姓は渡辺競とか、瓜生保というように一字名を名乗るしきたりであった。仁明源氏にも同じようなことがあったらしい。〕

 つまり平安時代に、律令制度が形骸化する中で、大宰府は対外的な外交・通商・軍事の拠点としてむしろその役割を強め、その長官として中央から貴族が派遣されるのに伴い、軍事貴族が傭兵隊長として随行してきただけでなく、そのまま九州に定住して勢力を築くことが少なくなかったということである。以下、そのような中央の貴族と軍事貴族の具体的な結びつきが九州にまで持ち込まれた例を野口さんはあげていくが、それはまた次回に紹介することにしよう。

『太平記』(203)

3月27日(火)薄曇り

 建武3年(南朝延元元年、1336)10月、宮方の再起を期して、東宮恒良親王、一宮尊良親王らを報じ、北国に向かった新田義貞・脇屋義助兄弟らの軍勢は、越前の金ヶ崎城で足利方の高師泰・今川頼貞らの軍に包囲され、翌年正月の里見伊賀守、瓜生兄弟らによる後攻めも失敗して、兵糧不足に陥り、2月5日に義貞・義助らが城を脱出して杣山に入った。しかし圧倒的に優勢な足利方に対し、後攻めを行うことができないまま、3月6日に金ヶ崎城は足利方の総攻撃を受けて落城し、一宮尊良親王、新田義顕らが自害し、城中の兵800余名も自害した。いったんは城を脱出した東宮恒良親王も捕らえられた。新田義顕の頸は大路を渡され、獄門にかけられた。

 岩波文庫版の第18巻の「梗概」には、「恒良親王も捕らえられた」と「新田義顕」の間に、「数奇な運命を経て一宮と結ばれた御息所(みやすどころ)は、悲しみに暮れ、宮の四十九日を待たずして病死した」(第3分冊、216ページ)とあるが、歴史的な事実としては、恒良親王の妃はすでに病死していたようであり、「数奇な運命」の物語は後世の創作と思われるので省いた。ただし「月も見ず」といわれる『太平記』の中で、尊良親王と御息所の関係が(多少伝奇的な味付けはされているとはいえ)王朝風の恋物語として描かれているのは注目してよいのではないかと思う。

 金ヶ崎城が攻略されたのち、諸国の宮方の勢力は、力を失い、あるいは降参し、あるいは退散して、天下は足利尊氏の異性に従うようになり、その様は風が吹くと草木がなびくのを見るようであった。
 あちこちに宮方の城があり、比叡山の衆徒がまたぞろ何をするかと危惧していた間は、足利方も衆徒の心を得ようと、その所領を認めていたが、今や尊氏の威令が全国に行き渡り、静まってきたので、もはや遠慮することはないと、延暦寺への処置をこれまでとは変更しようという話になった。そして延暦寺を、(これまで足利方に味方してきた)三井寺の末寺にしようとか、多くの領地を所持しているのはけしからんから、比叡山ぐるみ根こそぎに没収し、衆徒を追い出して、そのあとを武家たちのものにして(要するにみんなで山分けにして)はどうかと、足利家の執事である高家、尊氏・直義兄弟の母親の実家である上杉家の人々が尊氏の御前で盛んに議論を始めた。

 そこに所用があってやってきたのが、北小路(現在の今出川通)に住んでいた天台宗の学僧である玄恵法印である。議論に加わっていた高師直が、その姿を見て、「このひとこそ物知りなので、こういう場合にどうすればよいのかはよくご存じのはずだ。天台宗のお坊様であるから比叡山のことについてもよくよく質問しておいたほうがよい」といったので、尊氏もその通りだと同意して、「法印、こなたへ」と呼び掛けた。
 高師直は既成の権威を軽んじて実力主義で自分の欲望を押し通そうとする武士として理解されることが多いが、ここでは玄恵法印の知識と識見とを重んじる慎重で思慮深い姿が描かれている。法印というのは僧侶の最高位で、法眼、法橋の上位にある。そういえば、『徒然草』に「強盗の法印」とあだ名される坊さんの話が出てくる。たびたび強盗の被害にあったので、この名がついたということで、ご本人が強盗をしていたわけではない。

 法印は尊氏の御前の席について、天下泰平のお喜びを申し上げ、自分の所用について触れようとしていると、尊氏の従兄弟である上杉重能が、このように問いかけた。「比叡山は2度にわたり後醍醐帝の臨幸を受け入れて、尊氏様に歯向かってばかりしてきた。とはいえ尊氏様の武運が天命にかなっていたので、ついに朝敵を滅ぼし、全国に平和をもたらすことができた。大体において比叡山は毎年の祭礼に洛中の人民を患わせ、延暦寺の三千の衆徒への供米のために全国に荘園をもっている。なぜこんなに多額の出費を強い、公家も武家もそれを止めることができないのかというと、ひとえに延暦寺が祈祷をもっぱらの業として、天下の静穏を祈るからである。ところが最近の彼らを見ていると、武家に対して反抗し、朝敵である新田義貞たちのために熱心に祈祷しているのは、当家にとっては衣類や書籍を食い荒らす紙魚の害、仏教の立場から見れば仏法を破る不埒な僧たちではないか。
 うろ覚えではあるが比叡山の草創はというと、延暦の末の年に桓武天皇が建立された。この寺ができる前の日本はというと、歴代の帝が国を治められること相次いで56代(他本には50代とあるそうで、その方が正確である)、外国からの侵略を受けたこともなく、妖怪が出現することもなく、歴代の帝は広大な徳を施され、民衆は徳化を喜んできた。このことからわかるのは、会っても無用なものは比叡山である。ない方がいいのは山法師である。とはいうものの、比叡山がなくてはならない理由というものがあるのだろうか。後白河院が、「朕が心に任せぬは、双六の賽、鴨川の水、山法師なり」(第3分冊、290」ページ、岩波文庫版の脚注ではこの言葉は、『平家物語』巻1に出てくるそうだが、そこでは後白河院ではなく、白河院の言葉とされているそうである)と仰せになったとも伺っている。そのことなど、特に知りたいと存ずる。何かの折の参考といたしましょう」と自分たちの議論と絡めて、法印の意見を聞こうとする。

 法印は上杉が語ることを聞いて、言語道断のことを言う、このまま何も話さずに去り、目を閉じてでも帰った方がいいだろうとは思ったものの、もしかすると自分の一言で相手の間違った考えを変えさせ、正道に戻すこともできようかと思ったので、なまじ相手の所存に逆らい、異議を唱えるのをやめて、できるだけ礼儀正しい言い方をしながら、長物語を始めたのであった。

 さて、物語の結末はどうなるか、というのは次回のお楽しみ。玄恵法印は、上杉重能の発言は言語道断だと思ったが、現代の目から見ると、それなりに筋の通った議論ではある。玄恵法印は、今川了俊の『難太平記』によると、『太平記』の成立に大きくかかわった人物の1人である。了俊が伝聞したところでは、『太平記』のもとになった本は、昔、法勝寺の恵珍(鎮)上人が、等持寺にいた足利直義のもとに持参した「三十余巻」本を、直義が側近の学僧である玄恵法印に読ませたところ、問題点が多く見つかり、手直しが済むまで外部の閲覧を禁じたという。森茂暁さんは、尊氏の護持僧の一人であった三宝院賢俊がこの時代に大きな役割を果たしながら、『太平記』には二度しか登場していないことを、彼が真言宗の僧であったことにより説明し、『太平記』は「天台宗の強い影響のもとに成立したと考えられる」(森『太平記の群像』、202ページ)と論じているが、玄恵法印は天台宗の僧侶であることに注目することは、このあたりの記述の解釈にとって重要では何かと思われる。

 

フローべール『感情教育』(7‐1)

3月26日(月)晴れ

第1部あらすじ
 1840年、法律を勉強するために故郷を離れてパリに出てきた青年フレデリック・モローは、偶然知り合った画商のアルヌーの美しい夫人に恋心を抱く。法律の勉強にはなじめなかったが、高校時代からの親友であるデローリエと一緒に暮らし、アルヌーのところに出入りしたり、新たにできた友人たちと交流したりして、世間を広げていく。一度は失敗した卒業試験に2度目に合格して、意気揚々と故郷に戻った彼を待ち構えていたのは、実家の家計が苦しくなっているという母の言葉であった。地元の法律事務所で働いて、次第に地方での暮らしになじんできたところに、叔父が遺言書なしに死去し、その莫大な遺産が彼のものになるという知らせが届く。彼はパリに戻る決心をする。

第2部― 1
 (1845年12月)フレデリックは馬車でパリに出る。薄汚れた街が広がり、雑踏と混乱の様相を見せるパリは「糠雨が降って寒く、空はさえない色だった。が、彼にとっては太陽とも思われる二つの目が霧の向うに、燦然と輝いていた。」(165ページ) フローベールはことさらにパリの薄汚い、みすぼらしい様子を描写するのだが、フレデリックは、パリに出てきたこと、そしてアルヌー夫人と再会する希望に胸を膨らませている。さらに都心に近づくと、
 「黄色 く濁ったセーヌ河がほとんど、橋桁にとどきそうだった。河のほうから冷やっこい風が吹いてくる。フレデリックは力いっぱいそれを吸いこんで、恋の芳香と理知の発散を含んでいると思われるこのパリの快い空気を味わった。街の辻馬車を見ると、感傷的になった。そして、わらを積んだ酒屋の入り口、箱を抱えた靴磨き、コーヒー煎りの器をふるっている食料品屋の小僧まで、懐かしくってたまらなかった。女たちが雨傘さして小走りにゆく。彼はその顔をのぞこうとしてかがみこんだりした。どんな偶然でアルヌー夫人が外出しているかもしれない。」(166ページ)

 到着後すぐに彼はブルヴァール・モンマルトルのアルヌーの事務所を訪ねるが、跡形もなくなっていた。次にアルヌーのショワズール通りの住まいを訪ねるが、一家は移転した後であった。そこで新しい住所を知ろうと、いろいろの手を尽くして探し回るが、アルヌーが画商をやめたことくらいしかわからない。疲れて宿に帰った後で、彼はルジャンバールを探し出せば、住所がわかるだろうということを思いつく。
 あちこちのカフェ、安料理屋、居酒屋を捜し歩いて、フレデリックはやっとルジャンバールを探し当てる。彼からアルヌーの新しい住所を聞き出した「フレデリックは酒場からまっすぐアルヌーの家へいった。温かい風に吹き上げられたように、夢のなかに感じるようなあの不思議な身軽さで。」(173ページ)
 アルヌーは画商をやめて陶器の商売に転業していた。彼はフレデリックが長い間連絡してこなかったことを質問し、フレデリックはいろいろと言い訳をするが、その一方で、アルヌー夫人が彼に再会した喜びをあまり表に出さないことに落胆する。
 「フレデリックは痙攣するほどの喜びを心に描いてきたのだ。しかし、情熱は元の場所から離すと色褪せるのであろう。アルヌー夫人を以前見慣れた環境に見ることがで176ページ)きないと、このひとは何かあるものを失ってしまったように、どことなく品位を落したように、ひと口にいってまえと同じ人でない気がした。相手の心の平静なのも、意外であった。昔の友達、中でもペルランのことなど聞いてみた。」(174‐175ページ)
 夫妻は、ペルランには以前ほどは会わなくなっているし、一家は以前のようにお客をしなくなったと答える。アルヌーはデカダンスの時代にふさわしい商売替えをしたのだと、仕事を変えた理由を説明する。

 アルヌーの家を出たフレデリックは、カフェ・アングレへ駆けつけて、うんと贅沢な夕食をした。そして、アルヌー夫人への想いが断ち切れた、「もうこれからは、なんの臆する気持ちもなく社交界に飛びこんでいっていいのだ。」(176ページ)と思い、早速ダンブルーズ夫妻とのつながりを利用しようと思う。またデローリエのことを思い出して、彼に手紙を書き、翌日、パレ=ロワイヤルで会って昼食を一緒にしようと誘った。

 デローリエはというと、「運命はこの男にあまり優しくなかった。」(同上) 彼はかねてからの希望に沿って、法学の教授(資格)試験を受験したが、口述試験で苦手な領域の問題が出たりしたために、落第し、再受験の意志をなくして、大著述に取り組んでいた。そして、それまで勤めていた法律事務所の書記の仕事を辞めて、復習教師となり、青年弁護士討論会ではその毒舌をもって知られる、共和派の論客となっていた。
 フレデリックと再会したデローリエは、遺産相続についての自分自身の見通しを述べたり(実は教授試験の口述試験で遺産相続についての問題が出たために、落第していたのである)して、フレデリックに対して少し距離を置いた態度を見せる。彼の話ではるぬーの新聞は、今やユソネの手に渡っているという。デローリエはフレデリックにこの新聞を買い取らせ、自分の政論発表の場にしたいという希望があるが、フレデリックはその意見を聞きいれようとはしない。

 デローリエと別れたフレデリックは、社交界での活動に備えて、服装を整える手配をして、ル=アーヴルに向かい、戻ってくると、衣装道具はすっかり整っていた。早くそれを身につけてみたくて仕方なくて、彼はダンブルーズ家を訪問しようと考えるが、その前にアルヌーのところによろうと思いつく。

 再びパリを訪れたフレデリックであるが、以前の知り合いたちは元のままではなく、以前とは違う人生を歩んでいる者が少なくない(もちろん、同じ人生を歩んでいる者もいる)。フレデリックが財産家になったことで彼の世界は変わり始めようとしているが、そのことを彼がどれだけ自覚しているかは疑問である。
 物語の展開とは別に、19世紀の中ごろのパリの街や風俗の描き方が興味深く、ルジャンバールを探し歩いてあるカフェに入り、「何もほしくはなかったが、フレデリックはラム酒を一杯飲んだ。それからキルシュ一杯、次にキュラソー一杯、なお熱いの冷たいのさまざまのグロッグを飲む。その日の「世紀」を隅々まで読み、また読み直した。「シャリヴァリ」の漫画を紙の筋目まで眼に立てて丁寧に見、はては広告文を暗記してしまった」(169ページ)という個所など、面白い。強い酒を少量ずつ飲んで、グロッグ(ラム酒かブランデーを湯で割り、砂糖とレモンを加えた飲み物)を流し込む(フレデリックもなかなか酒が強い)。『世紀』(Le Siècle)は1836年に創刊され、1932年まで続いた立憲王政派の総合雑誌、『シャリヴァり』(Le Charivari)は1832年に創刊された風刺雑誌でルイ=フィリップの立憲王政に反対する立場をとっていた。ドーミエ(Honoré Daumier, 1808‐1879)がこの雑誌に多くの風刺画を掲載したことで知られる。私はドーミエの絵が好きで、ルイ=フィリップの顔を洋ナシ(poire)に見立てた風刺画など(poireには間抜け、お人よしという意味もある)、ドーミエの風刺精神や描写力に感心しながら見入ったものである。書庫のどこかにドーミエの画集があるはずだから、また探してみようと思う。フローベールとドーミエはリアリズムという点では共通しているが、フローベールにはドーミエほどの風刺精神はない。それでも、薄汚れたパリの市街と明るいフレデリックの心象を対比させた第2部の始まりは、今後の波乱を予感させるものがあり、なかなか見事である。 

日記抄(3月19日~25日)

3月25日(日)晴れ

 3月19日から本日までの間に経験したこと、考えたこと、前回以前の内容の補足・訂正等:
3月19日
 病院に診察を受けに出かける。今のところ、異常はないということのようである。

 NHKラジオ『まいにちスペイン語』の「スペインの街角」のコーナーは、スペイン東北部のアラゴン州の州都サラゴサ(Zaragoza)を取り上げた。古い歴史と多様な文化が創り出した街並みの中でも、市のシンボルとなっている聖母ピラール教会やゴヤ美術館などが見どころとなっているという。

 『ラジオ英会話』、『遠山顕の英会話楽習』(新番組)のテキスト4月号、望月麻衣『京都寺町三条のホームズ⑨恋と花と想いの裏側』、司馬遼太郎『街道をゆく9』(朝日文庫)を購入する。

 望月麻衣『京都寺町三条のホームズ⑨ 恋と花と想いの裏側』を読む。

3月20日
 『まいにちスペイン語』の「ラテンアメリカの街角」のコーナーはメキシコの東海岸にあるベラクルス(Veracruz)を取り上げた。港町であり、リゾート地としても知られているという。

 J2第5節、横浜FCは3-2でモンテディオ山形を破る。前半3点を挙げ、後半は退場者1人を出しながら、相手チームの猛攻をしのぎ切って3-2で逃げ切った。
 この日、なでしこリーグが開幕し、2部の横浜FCシーガルズも三ツ沢で試合を行う予定だったが、雪がひどいので延期になった。私は、それよりも早く、天候を見て出かけないことにしていたが、延期になったことで応援に出かけないという後ろめたさが消えてよかった。

3月21日
 『朝日』朝刊のコラム「折々のことば」は「賢者は、自分が常に愚者に成り果てる寸前であることを肝に銘じている。」というスペインの思想家オルテガ・イ・ガセットの主著『大衆の反逆』の中の言葉を引用していた。
 実は、『大衆の反逆』をスペイン語原文と日本語翻訳の両方で読むという計画を立てているのだが、まだなかなか進んでいない。この書物を日本で最初に翻訳したのは樺俊雄であり、ドイツ語訳からの重訳であった。彼は1960年安保改定阻止闘争で犠牲になった樺美智子の父親である。いろいろなことを考えさせられる。

3月22日
 『日経』朝刊に日本で初めて建てられたイスラム教の礼拝堂である神戸のモスクについての記事が出ていた。この建物は竹中工務店が建てたのだが、当初の計画には大ドームの建設は入っておらず、おそらく途中から参画したチェコ人の建築家ヤン・ヨセフ・スワガーの果たした役割が大きかったのではないかという。スワガーはカトリック信徒であったが、イスラム教徒の信仰心にこたえるような建築を心掛けたようだということであった。大学で教えていたころに、授業の教材に使おうと、神戸のモスクまで出かけて写真を撮ったことを思い出す。震災の際には避難場所としても使われたそうで、建築家の力量が感じられる。

 『まいにちスペイン語』応用編はビセンテ・ブラスコ=イバーニェス(Vicente Blasco Ibáñez,1867-1928)の『葦と泥』(Cañas y barro)の5回目。トネットがカニャメルと共同事業を始めることになって、トネットはカニャメルの居酒屋におおっぴらに出入りするようになった。パロマ家は2つに分裂し、トーニ親父とボルダは毎朝田圃に出て、湖の埋め立てを続け、トネットと爺さんはカニャメルの家へ、事業の打ち合わせに通った。爺さんとカニャメルが話している間、トネットとネレータはカウンターの向こうに座って、静かに見つめあっていた。そんな2人の様子に不安を抱いたパロマ爺さんは、 トネットを問いただすが、トネットはそんなことはないと否定した。しかし、2人の様子や村人の噂に神経をとがらせたカニャメルは、トネットを呼び出し、今後、居酒屋には近づくなと言い渡す。

3月23日
 『朝日』『日経』の朝刊で芳賀徹先生が芸術院賞を受賞されたことを知った。大学院時代に京大に集中講義に来られた際に、授業を聴講したことがある。嵐山光三郎さんが書いていたが、先日亡くなった金子兜太さんを囲む会合で、有馬朗人東大元学長が金子さんは東大を優秀な成績で卒業されとスピーチしたところ、芳賀さんが「そんなことはない」とヤジを飛ばしたという。実は有馬さんとも多少の面識があって、お二人とも全く知らない人ではないので、余計おかしく思って読んでいたのである。

 『葦と泥』の第6回。カニャメルの病状が悪化、全財産をネレータに残すが、ネレータが再婚、あるいは他の男と恋愛関係を結ぶ場合には、財産の半分を義妹並びに先妻の親族に分与するという但し書き付きの遺言を残して死去する。
 ネレータが唯一の主人となった店へトネットが通い出すのは、当然の成り行きであったが、夫婦同然の生活をすごしたのち、ネレータは自分が妊娠していることに気づく。遺産を全額相続したいネレータは、妊娠を他人に知られないようにしたまま、何とか流産しようと手を尽くす…。

3月24日
 『日経』に蕉門の十哲に数えられる江戸の俳諧師・宝井其角について「早熟の天才 芭蕉の「俳諧革命」を推進」としてその業績と今日的意義を論じた記事が出ていた。大高源吾と俳諧のつけあいをしたとか、親孝行で知られる秋色の師匠だったとか、講談に出てくるような話しか知らないのは困ったことである。
 彼の若いころの句として
 夢と成し 骸骨踊る 荻の声
というのが紹介されていた。なかなかシュールで俳諧っぽい句だと思う。もっとも其角の
 平家なり 『太平記』には 月も見ず
よりは、同じ蕉門の俳諧師である支考の
 歌書よりも 軍書に悲し 吉野山
のほうが好きなのであるが…。

 同じく『日経』の朝刊に紹介されていた宮崎賢太郎『潜伏キリシタンは何を信じていたのか』(KADOKAWA)がおもしろそうだと思った。「隠れキリシタン」の大部分はカトリック教会に復帰したのだが、そうでない人々もいて、そういう人たちについての研究ということであろう。横浜市内の教会でも、長崎から引っ越してきた元隠れキリシタンの子孫という人は少なくないらしい。これはこれでやはり振興の貴重な証言者ということになるだろうと思う。

 同じく『日経』で経済学者の岩井克人さんが「役柄誇張する推理小説の文法」として、アガサ・クリスティの推理小説の世界について書いていたのがおもしろかった。スポーツにルールがあるように、推理小説にも一定のルールがあって、その枠内でストーリーが進行し、それがかえって面白さを増していくのである。

3月25日
 『日経』の「名作コンシェルジェ」はニコラス・レイ監督の映画『大砂塵』を取り上げている。ニコラス・レイは傑作もあるが、駄作も少なくないという作家だが、『大砂塵』は傑作のほうらしい。実は、これから中平康の『猟人日記』を見に出かけるつもりで、中平も出来不出来のある作家であるところが、レイと共通しているように思う。

 ということでラピュタ阿佐ヶ谷で『猟人日記』(1964、日活、中平康監督)を見てきた。次々と女性を誘惑して、その一部始終を日記に書き記している男性(仲谷昇)が、自分の関係した女性たちが次々に死亡するという事件に巻き込まれる。どうも、彼を罠にかけて殺人犯に仕立てようとしているらしい…という戸川昌子原作のミステリーの映画化である。最初の方で、男の身元を調べている女性が出てくるので、彼女が探偵役になるのかと思うと、そうではなくて、男が裁判にかけられ、一審で死刑判決を受けた後、弁護を引き受けることになった弁護士(北村和夫)が探偵役になる。同じ中平のミステリー作品で、新藤兼人が脚本を書いた『その壁を砕け』に比べると、浅野辰雄による脚本は精彩を欠くように思われるが、一応は面白い。

 横浜FCはアウェーで水戸ホーリーホックと引き分ける。
 

小川剛生『兼好法師』(14)

3月24日(土)晴れのち曇り

これまでの概要
 「徒然草は、鎌倉時代後期の文学作品である。作者兼好法師は大半の章段を鎌倉幕府滅亡の直前、元徳2年(1330)から翌年までの間に執筆していたと考えられている。」(はしがき、ⅰページ)
第1章から第5章までのあらまし
 できるだけ同時代史料に依拠することによって、著者は『徒然草』の作者の実像を明らかにしようとしている。彼はおそらく父親の代から金沢流北条氏に仕えていた無位無官の侍で、延慶3年(1310)に金沢貞顕が六波羅探題北方に補せられて再上洛した前後に京都に定住するようになり、またそのころに出家したものと考えられる。出家の動機は身分秩序のくびきから脱して、権門に出入りし、あるいは市井に立ちまじり、様々な用を弁じるというむしろ世俗的なものであった。彼はその身分を利用して土地売買などの経済活動を行い、清華家である堀川家が金沢流北条氏と接近していたのに乗じて、堀川家との縁を深め、また土地の寄進により大覚寺統と接触して、歌壇デビューを果たした。彼のもともとの住まいは六波羅かその近くにあったとおもわれるが、やがて仁和寺の周辺に住むようになった。
 鎌倉幕府滅亡後も兼好は上層武士や高僧のために様々な便宜を図って活動し、その一方で二条派の歌人として、彼と同じく地下出身の頓阿・慶運・浄弁とともに<四天王>に数えられるほどの活躍を見せた。彼の「家集」は当時の家集の常識を逸脱した自由奔放な体裁をとっているが、実は慎重な配慮のもとに歌が並べられるという『徒然草』の章段の排列に似た個性的なものとなっている。その一方で、彼はその在世中、勅撰和歌集に4代続けてその歌を選ばれることに執着するという側面も併せ持っていた。
第7章 徒然草と「吉田兼好」の前半部分のあらまし
 『徒然草』は様々な知識や情報を後学のために書き残す<大草子>の形で 執筆されていたものが原型と考えられるが、その正確な執筆動機や、成立事情は依然として不明である。ただ『徒然草』が後世に伝わり、広く読まれるようになった過程に、今川了俊と、その弟子の正徹がかかわっている蓋然性は高い。

 今回は、第7章の残りの部分を取り上げて、締めくくりとする。
 「晩年の兼好は二条派歌人としてある程度の名声を得たが、子孫もはかばかしい後継者もおらず、急速に忘れ去られる運命にあった。ところが没後ほぼ70年を経て、徒然草が『発見』されたことで、忘却の淵から甦る。」(207ページ)
 正徹の没した長禄3年(1459)になると、兼好の知名度は相当に上がっていた。この頃には『徒然草』をめぐる記録はかなり増えただけでなく、兼好その人への関心も生じてきた。
 例えば永享11年(1439)に完成した、最後の勅撰和歌集である新続古今集には兼好の歌が6首もとられている。〔それまでの勅撰和歌集についてみると⑮『続千載集』(1320、二条為世・二条派)1首、⑯『続後拾遺集』(1326、二条為定・二条派)1首、⑰『風雅集』(1349、光厳院、京極派)1首、⑱『新千載集』(1359、二条為定・二条派)3首で、⑲『新拾遺集』(1364、二条為明→頓阿・二条派)、⑳『新後拾遺集』(1383、二条為遠→二条為重・二条派)については、小川さんは歌数を記していない。〕 これは頓阿崇拝の余慶でもあろうが、1世紀前の地下歌人としては異例の扱いだと小川さんは指摘している(以前にも書いたが、勅撰和歌集に多く歌がとられるのは権門の人々であって、地下の歌人は低い扱いになる。小川さんが13‐14ページで触れている西行は侍であるが、勅撰和歌集に265首の歌がとられており、例外中の例外、14ページで触れている鴨長明は侍よりも上の諸大夫であるが25首、頓阿でさえ44首だったから、地下は相当に不利な立場にあったことがわかると思う。〕 また和歌好きの将軍として知られた足利義尚が「兼好法師自筆古今」を所持し、それをある貴族にあたえたという記録もあるという。

 このような『徒然草』と兼好の知名度の上昇に目を付けたのが吉田兼倶(かねとも、1435‐1511)という人物である。神道家であった彼は自家の権威を高めるために、文書記録を次々と偽造して、各時代の著名人が吉田流の門弟であったといい始め、さらに鎌倉後期の天台僧で神・儒・仏をそれぞれ根本・枝葉・果実になぞらえた三教枝葉果実説を唱えた慈遍や、兼好が一門の庶流に属するという系図まで偽造した(慈遍と兼好は兄弟とされた)。さらに自家の家格上昇のために兼好が六位蔵人であったとか左兵衛佐であったという経歴をでっちあげさえした。こうして兼好が吉田家の出身で後醍醐の時代の人という説が定説化し、後世まで影響を及ぼすことになったのであった。

 こうして出来上がった通念に引きずられて、『徒然草』は後醍醐天皇の時代の、六位蔵人を務めていた若い下級公家の著作という設定が、長く作品理解に影響を及ぼしてきたのである。
 「鎌倉後期は、太平記史観に染められた後世の人間には思いもよらないが、相応に豊かで成熟した社会であり、公・武・僧各層の交渉は極めて濃密で、人々の行動範囲も拡大し、ある部分では社会の一体化も進んでいた。この時、京都に息づく文化モデル、あるいは朝廷の継承した制度・慣習は、秩序を安定させる基軸であり、『遁世者』はこれを携えて自由に往来した。徒然草の章段はそうした営みの産物であった。これを単なる『尚古思想』の現れとするのは、作品の真価を見誤ることになる。一定の留保が付帯するとはいえ、都市のうちに生活し、法律や経済とも積極的な係わりを持つ、新しいタイプの人間によって初めて生まれ出た文学であった。徒然草は『遁世』や『尚古思想』の実態に立脚して、新しい読み方を始めてよいのではないか。」(221ページ)というのがこの書物の結びである。

 『太平記』を実際に読んでみると、小川さんの言う「太平記史観」がこの書物の一面でしかないこともわかるのだが、それはさておき、『徒然草』が新旧の過渡期の中で生まれ、むしろ「新」の側の文学であるという評価は大いに傾聴すべきものであると思う。

 私は中学・高校時代に、京浜急行の横浜の方から見て、金沢文庫の次の次の次の駅である京急田浦の駅で降りて、通学していた。高校時代の古文の時間で『徒然草』を読んだだけでなく、兼好が金沢と深い関係をもっていたらしいことについても教えられた。それだけのことだが、結構それが頭の中のどこかに留まっていた。30年以上たって、首都圏に職場を得てから、金沢文庫に出かけることもあり、『徒然草』と兼好についての興味も再燃した。それと前後して、兼好の時代の社会や文学についての本はできるだけ読むように心がけてきた。実は、彼を主人公にした小説を書いてみようかという気持ちがあって、この本を読み始めたのもそうしたことが背景になっている。
 例えば、光厳院を中心に『風雅和歌集』の撰集の作業が進められていて、兼好の歌の扱いについてあんな卑しい身分の者の歌はもってのほかだと誰かが言うと、花園院がいやいやあいつはなかなか面白い男だから一首くらい採用してやってもいいだろうとおっしゃるというような場面を考えているのである。

 吉川英治は『私本太平記』で、兼好が吉田山のふもとの庵に住んでいるという設定をしている。同じ本の中の、楠正成の描き方などは、当時最新の学説だった林家辰三郎の考えを取り入れて生き生きと描いているのに、兼好の方はごく類型的に描かれているのは残念である。鎌倉時代後期から南北朝時代にかけての歴史研究はその後、大いに進んできたので、そうした成果をどのように普及していくかということも考えるべきではないかと思う。個人的な興味としては、兼好が属した二条派ではなく、京極派の和歌の系譜をたどりながら、この時代の美意識のようなものを自分なりに理解できればと思っているのである。 

島岡茂『英仏比較文法』(5)

3月23日(金)晴れたり曇ったり

 英語はインド=ヨーロッパ語族の中のゲルマン語派に属する言語であるが、この言語を話していたアングロ・サクソン人が民族の大移動の中で大陸からブリテン島に移動する以前からラテン語の影響を受け、またフランス語圏との接触も盛んで、特に1066年のノルマン人による征服以後、フランス語の影響が顕著になった。この書物は、英語がロマンス語派に属するラテン語、フランス語の影響のもとにどのように現在の形をとるようになってきたかという変化を概観したものである。

 もともと英語・フランス語のラテン語からの借入語彙は、ラテン語から直接入ってきていたが、ノルマン人の英国征服以後、フランス語の影響が強まり、ラテン語→フランス語→英語というように、ラテン語からフランス語経由で英語に入ってくる語彙が増えた。その際に、ノルマン方言から英語に入ったものと、標準形のフランス語から英語に入ったものがあり、場合によってはその両者が英語として別の意味を持って共存している事例もある。

 [w]の音はラテン語にはなく、もともとゲルマン系の音だった。これがロマンス諸語では[gw]と発音され、のちに[g]となった。ところがノルマン方言の話し手は、もともとゲルマン系の人々であったから、[w]が残り、これが標準形[g]とは対立する形になった。現在の英語では、これらが別の意味をとって共存している例がある。
 ノルマン方言のwageは英語のwage(給料)となり、標準フランス語のgageは英語、フランス語のgage(抵当)となった。〔発音は英語が〔ゲイジ〕、フランス語が〔ガージュ〕である。〕 英語のwageも古くは「抵当、応報」の意味をもっていたが、今日では「給料」の意味しかもたない。
 同じくノルマン方言のwasteは、英語のwaste(浪費する)となり、標準フランス語のgasterはフランス語のgâter(そこなう)となった。
 この個所はもう少し詳しく説明してもよい。ラテン語の字母はもともと23であり、英語の26よりも少ない。J、U、Wはなかったのである。Iは(イ)母音[i]だけでなく、(ロ)半母音[j]にも使われ、おなじようにVは(イ)半母音[w]にも、(ロ)母音[u] にも使われていた。(松平千秋・国原吉之助共著『新ラテン語文法』による。
 島岡さんはラテン語には[w]はないと書き、松平・国原はラテン語の半母音[w]と書いている。英語の[w]とラテン語の[w]は違う、英語の[w]は子音であって、ラテン語におけるような半母音ではないということのようである。中学校3年生の時に、英語の先生でもあった当時の校長が日本語のようにwを発音している生徒に対し、英語のwはこうやって唇を震わせて発音するのだと発音して見せてくださったことがある。
 ところで島岡さんは、ゲルマン語には[w]があると書いているが、ドイツ語には[w] はなく、wは[v]と発音するはずである。とすると、どういうことになるのか?

 フランス借入語の発音はもとのフランス語の音に合わせるのがふつうである。例えばフランス語ではラテン語の奥舌子音[k,g]が前舌母音[e,i]の前に来ると、口蓋化して、ci, ceは〔ツィ〕、〔ツェ〕、gi, geは〔ジ〕、〔ジェ〕のようになり、母音aの前に来るとcaは〔チャ〕、gaは〔ジャ〕のように発音された。フランス語のその発音が、英語に取り入れられた。
 ラテン語で「杉」を表すcedrus〔ケドルス〕はフランス語ではcèdre、英語ではcedarとなった(フランス語の発音は〔ツェドル→セドル〕、英語の発音は〔ツィーダ→シーダ〕と変化した)。「都市国家」を意味するcivitas〔キウィタス〕はフランス語ではcité〔ツィテ→シテ〕、英語ではcite(ツィテ)を経て、cityとなった。
 ラテン語で「宝石」を意味するgemma〔ゲンマ〕はフランス語ではgemme〔ジェム〕に、英語ではgemとなった。また「鎖」を意味するcatenaはフランス語ではchaîne 〔チェン→シェン〕、英語ではchainとなった。フランス語では〔ツィ〕とか〔チ〕とかいうのが〔シ(si, shi)]〕というように変化しているが、英語ではそのような変化が起こらなかったので、古いフランス語の発音が英語で保存される結果となっている。 

 オードリー・ヘップバーンの映画で『シャレード』(charade)というのがあるが、公開当時、charadeという語を辞書で引いても「シャラード」というフランス語風の発音しか、出ていなかったという記憶がある。実際この映画よりも少し新しい『三人の女性への招待状』という映画ではレックス・ハリソンがcharadeを「シャラード」と発音している場面があった。今では「シャレード」と発音してもそれほどおかしくはないのではないかと思う。〔余計な話だが、レックス・ハリソンは『マイ・フェア・レディ』でオードリーと共演した。また「三人の女性」の1人を演じていたキャプシーヌは、オードリーの親友であったそうである。〕

エラスムス『痴愚神礼賛』(13)

3月22日(木)朝のうちは雨が残っていたが、その後次第に晴れ間が広がる。

 『痴愚神礼賛』は北方ルネサンスを代表する人文主義者であるエラスムス(Desiderius Erasmus, 1469?-1536)が英国滞在中に、友人であるトマス・モア(Thomas More, 1478‐1535)の姓のラテン語形Morusがギリシア語の痴愚(モーリア)という言葉を思い出させることから思いついて、一気に書き上げた風刺的な戯作です。
 鈴の付いた阿呆の帽子をかぶり、道化の扮装をした痴愚の女神が登壇し、自分がいかに偉大な存在であるか、世の中を明るくすることに貢献しているかという自賛の演説を行います。人生も政治も、学問も技芸も痴愚やその仲間であるうぬぼれの働きがあってこそ、うまくいっているのだと主張します。聖書の福音とは関係のない迷信や習慣によって人々を瞞着している教会や修道士たちを批判した後、彼女は矛先を学芸に従事している人々に向けます。文法学者、詩人、弁論家、法律学者、論理学者、神学者を批判した後、神学者の同類として修道士たちを取り上げ、彼らが世間から遠ざかることを誓いながら、世塵にまみれて、相互に非難しあっているいる様子を嘲笑します。次に彼女は王侯貴族や廷臣たちの腐敗と怠惰な暮らしぶりを取り上げ、彼らも自分の支配のもとにあるのだといいます。

〔57〕
 修道士たちに続いて、痴愚の女神は司教たちをやり玉に挙げます。司教たちはその本来の仕事から離れて、信者たちのためにではなく、自分自身の欲望のためにその地位についているといいます。「司教」(エピスコポス)という言葉のもとになったギリシア語には、「注視する、監督する、見張る」という意味があり、(したがってキリスト教の一部の宗派では、司教ではなく、監督という言葉を使いますが、)人々がキリスト教の信仰を正しく守っているかに心を配るという意味での監督ではなくて、金をかき集めるという意味での監督になりさがっているとその実態を暴露します。
 「司教」という言い方は、カトリック教会のもので、聖公会や正教会では「主教」といいます。英語ではbishop、フランス語ではévêqueです。英国の中世史は、KingとBaron(豪族)とBishopの三者の対立の中で推移したといわれますが、チェスの駒には将棋の「王将」に当たるKing、「角行」に当たるBishopがあり、Baronはありませんがその代わりにknightがあるのをご存知の方もいらっしゃると思います。 

〔58〕
 司教に続いて、痴愚の女神は枢機卿に文句を言います。枢機卿というのは重要な案件について教皇を補佐する僧侶で、通常司教以上の僧侶の中から教皇が自由に任命します。教皇の地位が空位になると、枢機卿たちの選挙によって次の教皇を決めることになります。彼らはいわばキリストの十二使徒の後継者なのですが、「自分たちは霊的な財貨の所有者ではなく、それを人々に分かち与える存在だということ」(176ページ)を全く気にかけず、自分たちの世俗的な財産を増やすことだけに専念していると批判しています。

〔59〕
 さらに、勢いに乗って女神は、教皇に矛先を向けます。当時のローマ教会では(ダンテが『神曲』の中で批判したころから200年余りたっていたにもかかわらず)聖職売買が盛んで、その頂点にいたのが教皇でした。 そうやって手に入れた地位にある以上、当然果たすべき職務はほったらかしにして、蓄財と快楽の追及にふけっていると女神は非難を続けます。
 「奇跡をおこなうなんて昔のことで時代遅れ、およそ当代にふさわしいことではありません。民衆を教化するのは骨が折れます。聖書を読解することは学校教師の仕事ですし、祈りを捧げるなんて閑人のやることで、涙を流すことはみじめたらしく、女々しいことです。貧窮のうちに生きることはけがらわしく、争いに負けるのは見苦しいことで、もっとも偉大な王にさえも祝福された足を早々は接吻させないお方には、およそふさわしからぬことです。とどのつまりは、死ぬことは不快なことだし、十字架にかけられることは1不名誉だということになります。」(180ページ) 
 教皇と教皇庁は世俗的な権力と何ら変わらない、政治権力となり、領土拡張のための戦争をし、蓄財に励んでいます。戦う相手が異教徒ならばまだしも、キリスト教徒同士の戦争をあおり、参戦しているのですから、手に負えません。

〔60〕
 高位の僧侶たちを非難した後で、女神は一般の司祭に目を向けます。彼らも本来の仕事を忘れて、世俗的な蓄財や快楽の追求に心を奪われているといいます。
 こういう批判は、エラスムスの日常の経験と観察に基づくもので、熱が入っていますが、夢中になりすぎると、この書物の本来の趣旨であるすべての人々が痴愚女神の恩恵を被っているという主張とは関係のない議論になりそうです。それでエラスムスは女神に、これは女神自身の自賛であって、風刺ではないといわせます。

〔61〕
 自分自身の重要性を強調するために、痴愚の女神は自分が復讐の女神ラムヌシア(ネメシス)と仲が良いといいます。復讐の女神は「かの智者たちには常に過酷であったのに、愚者たちには眠りこけているときでさえも、あらゆる恩恵を授けてくださった」(186ページ)と言い、このことの裏付けとして、いくつかことわざを紹介します。「眠レル者ノ網ガ獲物ヲ捕ラエル」(同上) 紀元前4世紀のアテナイの将軍ティモテウス(「神に貴ばれし者」という意味の名だそうです)は軍事においても、政治においても幸運で、いくつかの町を陥落させることに成功しました。彼の功名を妬む人々が「奴が眠っているうちに、町がひとりでに網にかかったのだ」といったところ、「私が眠っているうちにあれほど町が陥せたのなら、目覚めていたらどういうことになるか、考えてみよ」と答えたといいます。また 「梟ハ飛ブ」(同上)という諺もあります。アテナイの人々は、ミネルウァの鳥である梟が飛ぶのは勝利の象徴であると考え、物事が予想以上にうまくいったとき「梟は飛ぶ」といったそうです。(それとこれがどういう関係になるのか、今一つはっきりしないところがあります。) 智者がその智ゆえに苦労するという格言も少なくありません。

 さらに女神は、「運命の女神は思慮の足らない、向こう見ずな人間、『賽ハ投ゲラレタ』などと好んで口にする人間を愛するものです」(187ページ)とも言います。〔なんとなく、マキャヴェッリの『君主論』の中の「運命は女だから。組み伏せたいと思ったら、叩きのめしてでも自分のものにする必要がある」という言葉を思い出します。〕 あれこれと思い悩む智者は、成功しないが、「愚者は…どっぷりと金銭に浸かって、国政のかじ取りを任され、要は万事において栄華に包まれている」(同上)と両者を比較し、「知恵ほど役に立たないものがあるでしょうか?」と問いかけます。
 だから愚かな方がいいという格言はいくらでもあるので、痴愚女神の自賛が正しいという証拠として、それらを引用してみようといいます。

〔62〕
 まず最初に取り上げられるのは「物がない場合には、ある風を装うがよい」(189ページ)という諺です。
 そこから「場に応じて愚を装うのは知の極み」(同上)という諺が引き出され、子どもたちに教えられています。
 古代の哲学者エピクロスは「ときには愚かな振る舞いをするのも楽しいものだ」(190ページ)と言い残しました。また「智者として煩悶するよりは、頭のおかしな、才乏しき者」(同上)でありたいとも言ったそうです。
 ホメロスは『オデュッセイア』の中でテレマコスに「愚かな」という形容詞をむしろ賛辞として与えているといいます。
 そして最後の切り札になるのはキケロの「森羅万象は痴愚に満つ」(同上)だというのです。 
 沓掛さんが巻末に記している注を読んだ限りでは、女神は何か関係のありそうな語句をそれぞれの文脈にかかわりなく、自分の主張に都合よく引用しているようです。まあ、それも痴愚の女神ならではのことだと思うことにしましょう。

 「賽は投げられた」といったのはユリウス・カエサルで、この言葉をめぐっては柳沼重剛が「賽は投げられたか」というエッセーを書いているのを思い出します(『語学者の散歩道』所収)。この言葉はラテン語でiacta alea est.Alea iacta est.という形のほうがよく知られています)というのですが、カエサルはiacta alea esto.といったのだという説があり、この説を唱えたのがほかならぬエラスムスだというのですから、一読の価値があるエッセーだということはわかるだろうと思います。ということで、興味のある方はお読みください。沓掛さんの注ではこの件については触れられていません。
  

野口実『列島を翔ける平安武士 九州・京都・東国』

3月21日(日)春分の日だというのに、雨がみぞれに、みぞれが雪に変わって、場所によっては積もっていた。どうやら雪は降りやんだようだが、屋根の上など、まだ雪が残っている。

 3月18日、野口実『列島を翔ける平安武士 九州・京都・東国』(吉川弘文館:歴史文化ライブラリー)を読み終える。

 「平安武士」というのは著者独自の用語で、鎌倉時代以前の武士たちは、ある土地と結びついた存在というよりも「移動する」性格をもっていたという主張に基づき、石井進に代表される従来の「土と結びついた根生い」の存在としての武士という見方を相対化しようとする企ての一環として示されている。

 「移動する」武士の実像を明らかにしようと、著者は九州における有力武士団の形成を問題にする。その形成には2つの波があり、その第一波となったのは大宰府の府官(三等官以下の官人)としての権力を背景に勢力を伸ばした武士団であり、彼らの先祖は11世紀の前半までに京都や東国から移住してきた軍事貴族の系譜に連なる人々であった。また治承寿永の内乱の結果として成立した鎌倉幕府により、第一波の武士団が平家に味方したという理由で没落させ
られ、小規模地域の地頭として何とか生き残る中で、彼らの上に立つ惣地頭として京都や関東から移住してきた御家人たちであり、彼らが第二の波となった。

 この書物は第一の波の先駆となった、武士化した受領の一例である藤原保昌から、第二の波の中核をなした生粋の東国御家人千葉常胤や、摂関家の侍でありながら幕府御家人として島津省の惣地頭になった惟宗(島津)忠久に至る武士たちを取り上げ、九州における武士社会の形成を京都や東国も視野に入れながら論じるものである。

 特に章立てはされていないが、目次をたどると次のような構成である:
武士は移動する――プロローグ
京都下りの飽くなき収奪者 藤原保昌
 冷酷非道な日向守
 「兵家」黒麻呂流藤原氏
 中央権門と大宰府
大宰府の武者 平為賢と平季基
 東国から鎮西へ
 刀伊の入寇
 南九州に進出する府官たち
 もう一つの長元の乱
南島交易と摂関家の爪牙 阿多忠景と源為朝
 肥前と薩摩
 河内源氏の九州進出
 島津庄の発展
 平家政権と南九州
九州に進出する幕府御家人 千葉常胤と島津忠久
 源頼朝の挙兵と千葉氏
 鎮西守護人千葉常胤
 東海道大将軍千葉常胤
 鎌倉幕府の成立と南九州
 島津氏の成立
武士の列島展開と京都
 京都七条町の成立と殷賑
 地域間ネットワークの広がり
グローバリズムの時代を生きた武士たち――エピローグ

 今回は、「刀伊の入寇」までの九州を中心とする武士たちの動きについて取り上げる。

 まず取り上げられるのは、藤原保昌である。『今昔物語集』に出てくる冷酷非情、飽くなき収奪者である日向守を藤原保昌と特定し、彼が一方で軍事貴族的な血統の持ち主であり、受領を歴任しながら、武士的な性格を併せ持つ人物であったことを述べる。このことを裏付けるように、彼は清和源氏とも縁戚関係にあり、九州に派遣されたのはその家系に水軍的な性格があり、藤原道長のお気に入りの家司であり、和泉式部の夫であり、紫式部とも仲が良かったという様々な興味深い側面を語る。なお、彼女たちと対立する側にいた清少納言の夫であった橘則光も武人肌で、その逸話が『今昔物語集』に収められていることは、著者も触れている。「宮廷サロンを華やかに彩った和泉式部や清少納言の夫だった貴族が、いずれも武士的な風貌をもち、しかも砂金はもとより、武芸(軍事)専業者としての必需品である駿馬や鷲羽(わしのはね)をはじめ、莫大な異域の富をも手中にすることのできる陸奥守に任じたのはどうも偶然とは言えないようである。」(25ページ)という。「異域の富」を手中にできるのは東北地方だけでなく、九州も同じである。

 さて、その九州には律令によって大宰府という中央政府のミニチュア版が設けられ、中央政府と大宰府の2つの権力が支配していたが、9世紀半ばから10世紀初めのころになると、国守の権限の拡大によって、管内諸国は太宰府からの自立の度合いを高める方向にあった。これに対して大宰府は管内の国司に対する支配権を確保しようとして、両者の対立が顕在化した。
 10世紀末から11世紀初めのころになると、大宰府長官(権帥または大弐)の職が、その赴任中に巨富を蓄える、受領的な性格をもつようになる。大宰府の権帥や大弐になるのは国司に任じられるよりも上位の貴族なので、その配下の府官(三等官以下の官人)たちも、国司たちと衝突を繰り返すようになる。
 保昌ものちに、肥後守と太宰少弐を兼任することになった際に、蓄財にいそしみ、道長との連絡を怠らず、その一方で、在地に根を張る府官たちを巧みに統制した。そして府官たちとの主従関係は、彼が九州を離れても続いたのである。 

 平将門の乱の鎮定に活躍した結果、東国を離れて都の武者として中央政府に仕えることになった平貞盛や公雅(きみまさ)の子孫たちは、権門貴族の下で武士として活躍したが、その一方で物騒な辺境に赴く受領の郎等として採用されることも多かった。10世紀末から11世紀の初めのころ、大宰府には多くの平氏系の府官が在任することになったが、その中で、平貞盛の弟繁盛の孫の為賢の子孫だけが伊佐平氏として勢力を定着させることになる。(真義真言宗の派祖となる覚鑁はこの一族の出身だそうである。) 中央軍事貴族として国守に補任されるだけの地位を築いた貞盛の子息たちは、彼ら自身および一族が利害関係を有する国(肥前のほかに陸奥・伊勢・常陸など)の守あるいは鎮守府将軍などの地位を積極的に望み、そうして得られた公権力を背景として、自身・一族の在地における勢力を拡大していったのであった。

 そうこうするうちに寛仁3年(1019)に沿海州から朝鮮半島を経てやってきた賊船が北九州に襲来し、住民に危害を与えるという事態が起きた。いわゆる「刀伊の入寇」である。この時、大宰府の長官である権帥であったのは、中央における権力争いに敗れて、眼病の治癒を名目にこの職を望んで下向してきた藤原隆家である。『大鏡』にその人物像が活写されている隆家は若いころから武芸を好み、剛勇をもって知られており、赴任以来善政をもって臨んだので、九州こぞって従い、人望を集めていたという。さて、この非常事態に彼はどう対処したか・・・それはまた次回に。

 まだこの書物の内容の本格的な紹介には至っていないが、私は九州は福岡に3回出かけただけで、自分自身の経験としても、その歴史・地理についても不案内なので、読んでいて大いに勉強になった。それでも見落とし夜間違いはあると思うので、九州出身あるいは在住の方に、このブログを読んでお気づきの点をご指摘いただければ幸いである。

気になるあの人

3月20日(火)雨のち曇り

気になるあの人

時は 春
花が つぼみを膨らませ
鳥たちが 囀り始める
しかし 彼女は
春の光の照らすところでは
沈黙している
あるいは させられているのか

週刊誌は 軟禁状態だと 報じている
そのわりには あちこちから
各種の言動が 伝わってくる
内輪の席では
はしゃいだ言動もあるようだ
いいたいことがあるのならば
出るべきところに出て
はっきり言った方がいい
うわさは 人格を殺す

昔の疑獄事件で
はしゃぎすぎだと 非難された 法務大臣は
半分はその非を認めるように
法務大臣が時の人になっちゃおしまいだといった
本来責任を追及されるべき人が
春の光の届かない 内輪の席で
はしゃいでいるのを見たら、彼はどういうだろうか

気になるあの人
本人は注目の的になりたいが
周囲がそうさせない
あの人
普通のおばさんになりたい
などと言い出しそうもない人
普通のおばさんになったら
どんなにかつまらないだろうと思っている人

醜婦とは言うまい
(今の時代、女性はすべて美しいのだからね…)
悪妻とは言うまい
(おそらくすべての夫は悪夫だからね…)
長い孤独な独り暮らしの
ちょっと手前で
不安を振り切ろうと
あがいている人
普通のおばさんの日常の苦労
喜びと悲しみ
そしてそれゆえの生きがいを
決して理解できない人

『太平記』(202)

3月20日(火)雨

 建武4年(南朝延元2年、1337)正月11日、越前の杣山城で宮方の旗をあげていた脇屋義治(義助の子、新田義貞の甥)は新田一族の里見伊賀守を大将とし、杣山城主の瓜生兄弟らが加わる後攻めの兵を、東宮を擁して新田義貞らが立てこもっている金ヶ崎城に向かわせた。しかし、この後攻めの兵は、城を包囲していた高師泰・今川頼貞らの軍勢に敗れ、大将の里見と瓜生兄弟は戦死した。後攻めの見通しが遠のき、兵糧が欠乏した金ヶ崎城から、2月5日、新田義貞・脇屋義助らが脱出し、杣山に入った。3月6日、金ケ崎城は寄せ手の総攻撃を受けて落城した。一宮尊良親王、新田義顕(義貞の長男)らが自害し、城中の兵800余名も自害した。いったんは城を脱出した東宮恒良親王も捕らえられた。

 金ヶ崎城を攻略した足利方の将兵は、新田義顕と新田一族の3人、そのほか主だった武将の首を7つか8つばかりもち、東宮恒良親王を張輿(=畳表で周囲を張った粗末な輿)にお乗せして、京都へと戻ってきた。大将たちの様子はまことに美々しく見えた。

 東宮が京都に戻られたので、籠(ろう)の御所というと体裁はいいが、要するに牢屋に押し込め、一宮尊良親王の頸を禅林寺(現在の南禅寺の前身で、同じ場所にあった)の長老であった夢窓国師(夢窓疎石、1275‐1351)のもとに送り、葬礼の儀式が行われた。母親である贈従三位殿の御局(二条為世の娘、為子)、御息所(親王妃)である御匣(くしげ)殿など、ゆかりのあった女性の方々の嘆きはとても言葉では尽くせないほどである。
 この個所はわかりにくいし、歴史的な事実に合わない記述が含まれている。まず、尊良親王の母二条為子は応長元年(1311)か翌正和元年(1312)の8月12日に亡くなっていると考えられているそうである(森茂暁『南北朝の群像』、角川文庫版32ページ)。彼女はなくなって6・7年たった文保2年(1318)ごろに従三位を追贈された。だから息子の葬列に参加する不幸には出会わなかった。(実は、祖父である二条為世(1250‐1338)はこの時まだ生きていた。) 
 岩波文庫版の脚注では、「御匣殿」は「内裏の貞観殿にあり、帝の装束など身のまわりの世話をする後宮の役所、またそこに務める女官の長」だそうである。さらに『増鏡』の「むらの時雨」の記述が引き合いに出されているので、そちらを見たが、尊良親王の女性関係については『増鏡』のほうがはるかに分かりやすい書き方をしている。尊良親王は歌壇の大御所である大納言二条為世の孫であったので、為世の下で育ったのだが、為世の末の娘である(ということは叔母になる)大納言典侍との間に女子を、右大臣今出川公顕の娘で御匣殿であった女性を妻として男子を儲けていたという。しかし、今出川公顕の娘は早くなくなったと記されているので、『太平記』のこのあたりの記事には混乱があるし、またこの後の記事は作り話であると考えられている。

 尊良親王は後醍醐天皇の皇子の中では最年長であり、優れた才幹を備えていらしたので、立太子の望みもなかったわけではないが、持明院統と大覚寺統の対立→両統迭立という政治的な配慮から、後醍醐の兄である後二条の皇子邦良親王が皇太子とされた。ちなみに、この時期の皇位・皇太子位は次のように継承されていった。花園天皇〔持明院統〕⇒(皇太子・尊治親王〔大覚寺統〕→後醍醐天皇)⇒(皇太子・邦良親王〔大覚寺統〕)⇒(皇太子・量仁親王〔持明院統〕→光厳天皇)⇒(皇太子・康仁親王=邦良親王の子〔大覚寺統〕)⇒後醍醐天皇重祚→(皇太子・恒良親王〔後醍醐天皇の子〕) 花園天皇、後醍醐天皇ともに皇統の嫡系ではないので、一代限りのつなぎの天皇という含みで即位されたのであるが、後醍醐天皇はそのことにお構いなく、自分の子孫に皇位を継承させようとされたので、話が面倒臭くなる。

 作者は美辞麗句を重ねて、一宮(尊良親王)とその妃である御匣殿とのロマンスを語るが、これは作り話であり、なかなか面白い話も混ざっているのだが、省略することにする。

 さて、新田義顕の頸の方は都大路を渡して、獄門にかけられた。「新しい帝が御即位になってから初めの3年間は、天下に刑を行わない決まりである。大嘗会に先立って新しい帝が鴨川の河原で行う禊、大嘗会(帝が即位後初めての年にできた穀物を神に備える祭儀)も行われていないのに、獄門の刑を執行するのはいかがなものであろうか。後醍醐帝が隠岐から戻り、再び帝位についた際に、筑紫の北条一門である規矩時秋、糸田頼時、上総隆正らが反乱を起こして鎮圧されたのち、彼らの頸を獄門にかけたのも今から思うとその後の戦乱の不吉な前触れとなったのかもしれないと、様々な人々が異口同音に言ったのであるが、朝敵の棟梁である新田義貞の長男である義顕の頸であるということで強行されたのであった。

 新しい天皇の即位と、それに伴う儀式や、刑罰の執行の停止など、天皇の代替わりを間近にした我々にとって興味ある話題であるかもしれない。とはいえ、森茂暁さんも指摘しているが、『太平記』のこのあたりの記述の信頼性は低いそうである。金ヶ崎が落城して、宮方は北陸地方における勢力を大きく奪われることになったが、それでも杣山城には新田義貞・脇屋義助兄弟が残っているだけでなく、情勢次第で足利方から宮方に転じようという武士は少なくないかもしれない。事実、「北陸王朝は、少なくとも延元元年から白鹿2年までの約10年間は史料の上に見え隠れしながら、生き延びたものと思われる」(森『南北朝の群像』(209ページ))という見解もある。奥羽地方では北畠顕家が、また九州では菊池一族が力を養っており、全体的に足利方に有利に情勢が推移しているとはいえ、宮方の反撃の可能性が全く消えたわけではない。

フローベール『感情教育』(6‐2)

3月19日(月)曇り、雨が降り出しそうで、今のところ降り出していない

 1840年代のフランス、恋にあこがれる夢想家の青年フレデリック・モローは、大学で法律の勉強をするために、パリに向かう。そして偶然知り合った画商アルヌーの美しい夫人に恋心を抱く。大学の勉強には身が入らず、人生の方向も定まらないフレデリックであったが、アルヌーとの付き合いや、高校時代からの親友である現実主義者のデローリエと同居するようになったことから、次第に世間が広がり始める。彼とデローリエの住まいには、出世主義者のマルチノン、貴族の末裔でお人好しで世間知らずのシジー、演劇界への進出を夢見るユソネ、独善的な社会主義者であるセネカル、まじめな店員のデュサルディエ、理論倒れでなかなか大作をものにできない画家のペルラン、始終不満を言っている政論好きのルジャンバールなどが集まってくる。
 卒業試験に一度は失敗したフレデリックであったが、雄弁家が好きだというアルヌー夫人の言葉に発奮して2度目に成功する。友人たちも(セネカルとルジャンバールを除いて)前途への希望にあふれている。帰省直前にフレデリックは地元の有力者であるダンブルーズと偶然に出会い、顔を出したまえと言われる。
 しかし、帰省したフレデリックを待ち受けていたのは、彼の実家の経済的困窮という事情であった。彼はやむなく地元の法律事務所に勤め始めるが、周囲を失望させるような仕事しかできない。パリの住まいはデローリエのものになってしまい、彼は人もあろうにセネカルと同居生活を始めているという。モロー家と、隣家の住人で、ダンブルーズの代理人であるロック老人とは、折り合いが悪いのだが、ロック老人はフレデリックに興味があるようである。どうも彼が貴族の血筋を引いていることから、貴族になる見込みがあると思っているらしい。

 ロック老人は長い間、自分の身の回りの世話をカトリーヌという同じ年齢の女性にまかせていた。ところが、1834年ごろに、エレオノールという金髪の美人をパリから連れてきて、その女性が女の子を産み、その子はエリザベート=オランプ=ルイズ・ロックと名付けられた。ところが、この女の子はエレオノールよりもカトリーヌの方になつき、子どもをめぐって二人の女性の間には口げんかが絶えなかった。
 ルイズはその誕生の事情から、他の子どもたちと遊ぶことはなく、一人でいることが多かったが、フレデリックとは仲良くなった。感情の村の激しい子で、フレデリックは彼女のなだめ役をさせられていた。
 〔ここまでは、ルイズの生い立ちと、彼女とフレデリックの間柄を語る回想の部分で、これからはフレデリックが帰省して、郷里で法律事務所に勤め出してからの話になる。〕

 「フレデリックはこの娘を連れてよく散歩にいった。彼が歩きながらぼんやり物思いにふけっている間、娘は麦畑のふちに咲いたひなげしの花を摘んだ。そして、彼がとくに沈んだ顔をしている時は、やさしい言葉で慰めようとした。恋を失った青年の心はこんな子供の友情に慰められた。彼は娘に人の絵を描いてやり、話をしてやったり、そのうちに本を読んで聞かせるようになった。」(155ページ) フレデリックは主として当時流行のロマン派の物語や詩を読んで聞かせたが、人並み以上に感受性が強いらしいルイズは、フレデリックが『マクベス』を読んで聞かせると、≪血が! 血の跡が!≫と口走って、医者を呼びに行くような興奮状態に陥ったりした。「町の人たちはこの出来事のなかに、もっぱら娘の身持ちにはよくない前兆を見た。≪モローの息子≫はあの子をいずれ女優にするんだよ、などとうわさした。」(156ページ) この時代の「女優」は良家の子女がなるべきではない、軽蔑すべき職業と考えられていたのである。

 モロー家の裕福な親戚であるバルテレミー伯父がル・アーヴルから訪ねてきたので、モロー夫人は(この老人の遺産を目当てに)たいへんな歓待ぶりを見せる。モロー夫人のかなり見え透いた歓待ぶりにもかかわらず、バルテルミー伯父は遺産相続について何も言わずに帰っていく。
 ロック老人がダンブルーズが地元に戻っているので、一緒に挨拶に行こうと誘うが、フレデリックは体裁が悪いので断る。それ以来、ロック老人のフレデリックに対する態度が悪くなった。「ルイズはだんだん大きくなった。エレオノール夫人が重い病気にかかった。往き来が絶えることになって、そんな家の人たちと付き合うのを息子の将来のために心配していたモロー夫人にはいいさいわいであった。」(157ページ)
 モロー夫人はフレデリックに裁判所の書記の株を買ってやろうかと考え、フレデリックもその気になり始めた。彼は地方の生活に慣れてきて、パリやアルヌー夫人のことは、過去の思い出になろうとしていた。

 ところが、1845年の12月12日、フレデリックのもとに1通の郵便が届く。ル・アーヴルの裁判所からの通知で、バルテレミー伯父が遺言なしに死去したため、彼の財産がフレデリックのものになると告げていた。自分が莫大な財産を手にすることになったと知って、フレデリックは驚喜する。彼は再び、パリに出ようと心に決める。
 その同じころ合いに、隣家ではエレオノール夫人が亡くなった。フレデリックは、隣家のカトリーヌから、ルイズが会いたがっているという連絡を受ける。ところが、会ってみるとルイズはフレデリックが用があるといってきたとカトリーヌにいわれたという。(多分、2人を合わせたのは、ロック老人の差し金で、カトリーヌはその指示に基づいて行動したのであろう。) それでもルイズはパリに向かおうとするフレデリックと別れを惜しむ。

 今回、フレデリックがパリに向かおうとするところで、第1部が終わる。次回から、またフレデリックのパリでの生活が始まる。アルヌー夫人と再会できるか、彼が地方で過ごしている間に、友人たちはどのような変貌を見せているのか、さらに、フレデリックとルイズ、またダンブルーズとその夫人との関係もどうなるのか、気になるところではある。時は1845年、まもなくルイ=フィリップの七月王政が終わりをつげ、新しい時代が来ることを知ってか、知らずにか、人々は様々な動きを見せることになる。
 

日記抄(3月12日~18日)

3月18日(日)晴れのち曇り

 3月12日から本日までの間に経験したこと、考えたこと、前号以前の内容の補遺・訂正等:

 平昌パラリンピックでの日本選手の活躍はなかなかのもので、リオデジャネイロパラリンピックでは1つも取れなかった金を3つとっている。メダルの数を競うだけがパラリンピックではないが、多い方がいいのは当然のことで、選手の健闘に拍手を送りたい。

3月9日
 NHKラジオ『まいにちスペイン語』応用編「スペイン文学を味わう」『葦と泥』(Cañas y barro)の第2回。
 稲刈り労働者たちと金持ちの病人カニャメルを乗せた船は足の茂みの中を抜けて本物の湖に出る。
Era el lluent, la verdadera Albufera [...].(<輝く>湖、ほんとうのアルブフェラだ[...]。)
湖ではパロマ爺さんの息子で、<エル・クバーノ>と呼ばれるトネットの父親でもあるトーノ親父が、ある金持ちの婦人が持て余していた小沼を譲り受け、埋め立てて田んぼにする作業を続けている。
 さらに舟が進むと、小舟に乗って網を入れているパロマ爺さんを見かける。爺さんは大変な年寄りである。船が対岸の村に近づき、再び水路に入ると、大きなネズミたちが稲田から飛び出す。船に乗っている人々は、ネズミ入りのパエーリャや蛇のシチューの話をして盛り上がる(どうも大変な話題である)。舟は、パロマ爺さんの孫(トーノ親父の息子)であるトネットと、孤児院からパロマ家に引き取られてきた娘ボルダが乗った舟と行合う。トネットはキューバ戦争に従軍して帰ってきたので、<エル・クバーノ>あるいは、その容貌から<口ひげ>と呼ばれ、アルブフェラきっての美男子であった。
 こうして、主な登場人物が一通り登場したわけである。 

 3月10日付の当ブログでロビン・スティーヴンス『オリエント急行はお嬢様の出番』(コージーブックス)を取り上げたが、その際にクリスティーの『オリエント急行殺人事件』についても触れた。クリスティーのこの作品はハヤカワ文庫、創元推理文庫の両方に入っているが、長沼弘毅訳による創元推理文庫版は車内のコンパートメントの見取り図を掲載していて、それを「お嬢様の出番」に掲載されている見取り図と比べてみるのも一興かもしれない。
 『オリエント急行殺人事件』はポアロ物であるが、ヘイゼルの父親が娘を危険から遠ざけようとしているにもかかわらず、事件のほうがデイジー&ヘイゼルの方に近づいてきているということで、『お嬢様の出番』の雰囲気はむしろマープル物に近い。

3月11日
 横浜FC対愛媛FCの試合の開始前に久しぶりでTHE ALFEEがこのチームのために作ったWings of Freedomを流していた。

 この試合で最初のゴールを決めたのはDFの藤井選手だと書いたが、公式記録ではDFのカルフィン・ヨン・アピン選手だと訂正されていた。

3月12日
 『朝日』の朝刊に『サザエさん』の作者・長谷川町子が没にした原稿も収録した『おたからサザエさん』が刊行されるという記事が出ていた。新聞の連載漫画ということで、作者がいろいろと気を使って作品を描いていたことがわかる。
 『サザエさん』には麻生豊の『のんきな父さん』のような戦前の漫画を継承する伝統的な部分(波平さんとのんきな父さんの両者の外見は似ていると思う)と、戦後の社会の変化する雰囲気を盛り込んだ新しい部分とが程よく混ざっていて、それがよかったのではないかと思う。

3月13日
 『朝日』の朝刊に「シーア派 学問の聖地再び」という見出しで、フセイン政権時代に迫害を受けていたシーア派の聖地であるナジャフが、シーア派の学術の中心地としての地位を取り戻してきているという記事が出ていた。大学ではなくて、私塾のような教育機関が多数集まっているようで、それがシーア派の指導者たちを育成しているというのは注目すべきことだと思った。

3月14日
 NHKラジオ『実践ビジネス英語』の”Quote...Unquote"のコーナーで取り上げられた言葉:
Nothing is more difficult, and therefore more precious, than to ふかbe able to decide.
     ――Napoleon Bonaparte (French military and political leader, 1769 - 1821)
(決断できるということほど難しいことはなく、だからこそこれほど大事なことはない。)
 これがナポレオンの言葉だというところに、重みが感じられる。彼の言葉とされるもので、一番有名なのは
Impossible n'est pas français. (不可能はフランス語にあらず。わが辞書に不可能という言葉はない。)であるが、ナポレオンはそれほど単純な人ではなかったようである。

3月15日
 午後になって税務署に出かけ、確定申告を済ませる。なかなか書類をそろえられず、提出できなかったものもあり、その分、損をした感じである。

 『実践ビジネス英語』に”couch potato"という語が出てきた。”Word Watch"のコーナーで、「アメリカの俗語で「運動をしないでソファに寝そべって、スナックを食べながらテレビやビデオを見てばかりいる人」のこと。1980年代・90年代に大流行した言葉だ」と説明されていた。また、この番組のテキストの「今回のビニェットから」でも、「日本でも1989年版の『現代用語の基礎知識』に収められています」などとより詳しい説明がされている。そういえば、1980年代にNHKの英会話番組でこの言葉を聞いたという記憶がある。そのくらい長い間、英会話番組を聞いている割に、上達の程度はたいしたことはない(が、それでも少しは上向いているので、あきらめずに頑張っているということである)。

3月16日
 『朝日』と『日経』の朝刊の地方欄に関東学院大学が根岸線の関内駅近くに新キャンパスを開設する計画であるという記事が出ていた。神奈川大学もみなとみらいに新校舎を計画しており、横浜市の中心部に大学が進出してくることが、この後市の経済・文化にどのような影響を与えることになるか、興味深い。

 『まいにちスペイン語』応用編「スペイン文学を味わう」:『葦と泥』の第4回:
 トネットは怠け者で、父親の仕事を手伝うが続かない。カニャメルの酒場に入りびたりになり、幼馴染で元婚約者、今はカニャメルの妻であるネレータとの間に悪い噂が立ち始める。
 アルブフェラとその水路の漁場のどこを網場にするかというくじ引きが行われ、トネットが一番くじを引く。しかし、その漁場に見合った道具をそろえるだけの金がパロマ家にはない。しかし、カニャメルがトネットに共同事業にしよう、漁の道具の費用は自分が持つと持ち掛ける。
 

3月17日
 ニッパツ三ツ沢球技場でJ2第4節、横浜FC対新潟アルビレックスの試合を観戦する。J1から陥落してきた新潟の攻撃はさすがに厳しく、これまで無失点だった横浜のディフェンスを崩して、得点を重ね、前半0-2、後半0-1、合計0-3で横浜は新潟に敗れた。ホームでの完敗を薬にして、守備の強化と、より迅速な攻撃とを心がけ、何とか残りの試合を勝ち進んでほしい。

3月18日
 『朝日』の朝刊に「日本絵画がかわいい」という記事が載っていた。伝統的な日本絵画に描かれた動物たちの姿が「かわいい」という内容で、それはその通りなのだが、一例として掲載されていた鍬形蕙斎(1764-1824)のサルの群像を見て、考えたことがある。この絵に描かれているのはテナガザルで、日本にはテナガザルは自然には生息しないから、中国の絵画をまねて描いた想像図のはずである。元の中国の絵がどのようなサルを描いているか、「かわいい」か「かわいくない」かまで踏み込んで、議論を展開してもらいたいものだと思った。(山水画などでも、日本の風景を、中国風に描いたものが少なくないというように、日本絵画には写生というよりも、中国絵画の模倣であるようなものが少なくない。)

 野口実『列島を翔ける平安武士』(吉川弘文館:歴史文化ライブラリー)を読み終える。この本についてはいずれ詳しく取り上げるつもりである。

 墓参りに出かける。19日に病院に定期検診に出かける予定があったので、2つまとめてもよかった。予定を確認していなかったので、少し損をした感じである。

小川剛生『兼好法師』(13)

3月17日(土)晴れ

第1章 兼好法師とは誰か
第2章 無位無官の「四郎太郎」――鎌倉の兼好
第3章 出家、土地売買、歌壇デビュー――都の兼好(一)
第4章 内裏を覗く遁世者――都の兼好(二)
第5章 貴顕と交わる右筆――南北朝内乱時の兼好
第6章 破天荒な家集、晩年の妄執――歌壇の兼好

 今回はこの書物の最終章である第7章「徒然草と「吉田兼好」」を取り上げる。ここで考察されているのは、『徒然草』はどのように成立し、どのように受容されてきたのか、『徒然草』の著者をめぐり「吉田兼好」という虚像がどのようにしてでっち上げられたのかということである。

 この『徒然草』という作品が、いつごろ、またどうして書かれたのかは、国文学研究の難問の1つで、夥しい量の研究があるが、もはや新しい資料もなく、議論も膠着しているように見える。小川さんは、この書物のこれまでの章で述べてきた兼好の生涯や生き方を踏まえ、またこれまでの研究成果にも目を配りながら、いくつかの意見を述べている。

 『徒然草』には特に異名はなく、おそらく著者自身がこの題名を付けたものがそのまま残ったのであろう。ただし、古写本はいずれも『つれゝ種(つれゝくさ)』と題し、『徒然草』という表記は江戸時代になってからのものである。序と長短さまざまの243の章段からなる、その区分が確定するのも江戸前期であるが、諸本間で記事分量の増減はない。
 
 いつ書かれたかを知る手掛かりとなるような史料はない。江戸時代から、後醍醐天皇の治世の下で成立したと考える読者が多かったが、橘純一(1886‐1954)は『正註つれづれ草通釈』で、作品の中の記事を詳しく分析し、元徳2年(1330)以後、元弘元年(1331)以前のほぼ1年間に収まると考証した。反証がいくつか挙げられてはいるが、『徒然草』のうちのかなりの章段が後醍醐天皇を「当代」、冷泉富小路内裏を「今の内裏」、花園上皇を「新院」、後宇多法皇を「故法皇」としており、この書物が後醍醐天皇の治世、それも天皇が隠岐に配流される少し前に書かれたことは否定できないという。後年に執筆された段があるにしても、限られたもので、全体の統一や手直しには及んでいないと考えられている。
 多くの研究者が、序段から順々に執筆されたと考えているが、小川さんは次に述べる理由から受け入れがたいとしている。「現時点では数段階にわたる執筆と整理、そして編集(章段の加除補綴)があった」(202ページ)と推測している。

 『徒然草』は「随筆文学」の傑作であるとされているが、兼好の時代には「随筆」というジャンル意識はなかった(『徒然草』の中で、兼好が『枕草子』について言及している個所があるにせよ、『枕草子』を「随筆」と認識していたという証拠はない)。現代に生きる我々がこの作品を「随筆」として読むのは差し支えないが、その成立事情については、執筆当時の実態に即した考え方が必要なのではないかという。

 小川さんが注目するのは南北朝・室町期に「大草子」という呼び方をする書物がいくつかあるということである。「大草紙」とは、その名のごとく、大ぶりな冊子本のことであるが、そのような冊子に日常雑多の知識が前後不同に記されることが多かったために、その種の書物を指して言うようにもなった。これらの書物はたいていは、箇条書きで記され、日記ではないから、いつ書いたかは書く方も読む方も気にしない。小川さんは、室町時代前期の武将で、冷泉派の歌人としてこの書物にも登場した今川了俊が、彼の父親である範国が反古(ほご)の裏を利用した大草子を仕立て、そこにあらゆる事柄を書きつけていたという回想を引き合いに出して、それが『徒然草』の成り立ちを考えるうえで示唆に富むものだという。

 反古の裏を利用すれば、装訂は紙を二枚に折り、折り目と反対側を綴じる袋綴本となる。まだ白紙の裏側を使う片面書写となる。当時の冊子(草子)は、料紙を数枚重ねて折り、折り目を重ねて綴じる列帖装(れっちょうそう)が正式であった。それは両面書写であり、一枚の紙を六ないし四等分を料紙とするから、二つ折りの袋綴本と比べるとかなり小さくなる。だから「大草子」という名がついたものらしい。現存する『徒然草』の室町期写本の装訂・書形を見ると、大草子にふさわしいと、写真の実例を添えて小川さんは論じる。また了俊自身も父親と同様に大草子を作成し、それは現存する。74条にわたり装束・蹴鞠・鷹狩などの武家故実を記したもので、前後不同、故実を学びたいという人のために書き記したものであるという。

 近世の兼好伝では、『徒然草』の各章段は兼好が書き散らし、彼の住む庵の壁を張っていた反古であり、その没後に了俊がはがして、本にまとめたという。これは『崑玉集』という偽書から出た俗説であるが、兼好自身が大草紙を何冊か書き記し、それをもとに『徒然草』をまとめたのではないかと小川さんは推測している。

 したがって『徒然草』は各章段を執筆した段階では、特定の読者を想定するものではなかったと考えられる。特定個人の教育のために書かれたという説もあるが、それにしては内容が一貫しないし、文体も断定的過ぎるという。『徒然草』の初期の享受の様相を見ると、この書物の文学的な価値を激賞した正徹のような例はむしろまれで、一般には啓蒙的な故実書として受け取られていたようである。238段で兼好は自賛七箇条を展開しているが、そこでは金沢流北条氏や仁和寺真乗院との強い関係が推測される。『徒然草』が執筆された時には、兼好はまだ金沢流北条氏との強い関係をもっていたし、鎌倉幕府も滅びてはいなかった。
 鎌倉幕府が滅び、兼好の没後、正徹が書写し、その『正徹物語』で激賞するまで、『徒然草』がどのように伝来したかはまったくわからない。ただ、すでに何度か触れられてきたように、今川了俊は晩年の兼好と交渉があり、また正徹は了俊晩年の弟子で、了俊から兼好のことを詳しく聞かされていたから、了俊を介して正徹に伝わったとする推定は蓋然性が高いという。

 兼好の人間像と『徒然草』が二条良基のような貴族によってではなく、今川了俊のような武士によって後世に伝わることになったというのは、『徒然草』の性格を考えるうえで興味深いものではないかと思う。『徒然草』がどのようにその後受容され、またどのように勝手な尾ひれをつけられたかは、また次回に論じるつもりである。現代に生きる我々は、そのような勝手な尾ひれを排して『徒然草』を読むべきなのではあるが、尾ひれの尾ひれたるゆえんについても多少は知っておくべきであるということにしておこう。
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エラスムス『痴愚神礼賛』(12)

3月16日(金)曇りのち雨

 すずのついた阿呆の帽子をかぶって登壇した痴愚の女神が自分はいかに偉大な存在であるかという演説を展開します。この世のありとあらゆる存在が自分の恩恵を被っているといいます。人生は痴愚の一種である快楽に彩られなければ苦痛であるし、政治を動かしているのは哲学ではなくて、おとぎ話ではないかと主張します。学問や技芸についても、うぬぼれがなければ取り組まれないものであり、痴愚に近いものほど幸福をもたらしてくれるというのが彼女の言い分です。当時のキリスト教徒たちが聖書とは関係のない迷信や、僧侶たちの説く説教に影響されて行動しているのを痴愚に基づく行為と指摘し、さらにその矛先を世間から知的だと思われている職業の従事者たちに向けます。文法学者、詩人、そして弁論家が非難を受け、次はといいますと…

〔51〕
 法律学者がやり玉に挙げられます。
 「学者仲間で第一等の地位を占めて当然と思っているのは、法律学者たちです。なにぶん、この連中ほど自己満足にひたりきっている者はおりません。」(138ページ) 彼らは当該事項と全く関係もないことに関して多くの条文を捏ね上げ、注解の上に注解を、見解の上に見解を山と積み上げ、自分たちの学問があらゆる学問の中で最も難しいものだと人々に思わせようとしているといいます。「何であれ労苦を要するものは、格別にすぐれたものだとみなしているからです。」(139ページ)
 女神は続いて、「この連中のお仲間に、弁証法学者と詭弁学者(ソフィスト)も入れることにいたしましょう」(139ページ)と、やたら細かい議論に没頭して真理を見失いかけている学者たちを非難します。にふれたかもしれませんが、この時代のヨーロッパの大学の教養課程科目は、3科(=trivium, 文法、修辞、論理)と4科(quadrivium, 算術、音楽、幾何、天文)でこれをまとめて七自由学芸などということもあります。エラスムスはここで、当時の大学における学問研究と教育の両方が硬直化していたことを批判しようとしているので、49で文法学者を取り上げた後、ここでは弁証法(論理)学者の悪口を言っています。詭弁学者というのは、そういう学問の領域があるわけではないのであって、論理学者を悪く言う言い方です。

〔52〕
 次に女神は哲学者を取り上げます。「髭を蓄え、長外套をはおって、尊敬すべき風体の先生方ですが、自分たちだけが智者だと憚るところなく公言し、ほかの人間すべてを、はかなく漂う幻影だとしております」(140ページ)。ラテン語の諺で、Barba non facit philosophum.(髭は哲学者を作らない)というのがあって、見せかけだけ整えても、中身が伴わなければ何にもならないというような意味です。彼らは天体や星辰のすべてを知っているような顔をしているが、実は自分の足もとの溝に気づかなかったりします。これは古代ギリシアの哲学者タレスが星を観察していて溝に落ちたという有名な逸話に言及した発言のようです。そのくせ、難しい術語や様々な図形を使って自分の議論を権威あるものに見せかけようとすることには巧みです。「この手合いの中には、星辰の運行を観察して未来を予言し、魔術顔負けのことができるなどと称している者にも事欠きませんが、よくしたもので、それを信ずるおめでたい連中もいるのです。」(141ー142ページ) 今でも、占星術はテレビや新聞・雑誌で取り上げられることが少なくありませんから、その意味では私たちはエラスムスの時代と変わらない時代に生きているといえるかもしれません。

〔53〕
 今度は女神は神学者を取り上げます。触らぬ神に祟りなしという諺が日本語にはありますが、神学者も恐ろしい存在で、少しでも彼らの悪口を言うと、「徒党を組み無数の結論をつきつけて私に向かってきて、前言を取り消すように強制し、断りでもしようものなら、たちどころに「異端」だと大声でわめきたてるでしょう」(142ページ)。この時代に「異端」とされた人間にどれだけ恐ろしい運命が待ち受けていたかは、申すまでもありません。
 彼らは聖書に書いてあるかないかはお構いなしに、神やキリスト教の教理にかかわる細かい議論に熱中し、その結果として彼らの中には多くの学派が生じて、複雑な様相を見せています。「こういうもろもろの学派のごちゃごちゃ縺れ合った世界よりも、迷宮から逃れ出るほうが容易なくらいです」(145ページ)という体たらくです。そうした神学者たちの議論は、聖書に書かれていること、また使徒たちの言動とは遠くへだったものだと女神は言います(この辺りは、エラスムスの本音が出ています。そして、もし、「けしからん」と追及されれば、本の中の痴愚の女神が言ったことですから、本当にそう思っているわけじゃありませんよといい逃れようということでしょう)。イエスからも使徒たちの教会からも離れた些末な議論に熱中しているくせに、そのような議論をしているから自分たちは偉大なのだと勝手に信じ込んでいるのが神学者だといい、彼らもまた痴愚の女神の恩恵を受けている連中なのだといいます。

〔54〕
 神学者の同類として、修道士(religiosus)、隠修士(monachos)たちを女神は挙げます。両者ともその名にふさわしくない存在だと女神は言います。翻訳者である沓掛良彦さんの注によると、religioとは本来「神々への深い畏敬の念、畏れ、敬虔」を表す言葉であったから、敬虔さが足りず、敬神の念も薄い修道士が、religiosusと呼ばれるのはおかしいし、monachosはギリシア語で、「一人で住むもの」という意味で、本来、世俗社会と縁を断って、砂漠や森の中で孤独な生活を送る修行者を指して言う言葉でした。にもかかわらず、至る所で、彼らに出くわすので、偽の呼び名となるというのです。
 彼らは世間の人々から嫌がられている存在ですが、そんなことはお構いなしに、自分たちは偉いと思って悦に入っています。
 彼らの特徴の第一は「最も敬虔なのは無学であることだと考え、物を読むことさえもできません」(156ページ)という無学ぶりに加えて、不潔、無知、粗暴、破廉恥な生活態度です。そのくせ、彼らの衣服には細かい決まりがあり、修道会やその他の所属に従ってそれぞれを区別しあっています。「キリストに似ようと努めるのではなく、お互いに違っているように努めることに全力を挙げているわけです。」(157-158ページ)
 しかも彼らは一般人から告解を受けるので、多くの秘密にすべき個人情報を握っています。もちろん、それを大っぴらに言いふらすようなことはしませんが、それとなく言いふらすようなことはするといいます。
 さらに彼らは弁論術の大家や、詩人やその他余計な知恵を借りながら、説教を行っているといいます。聖書に基づくのではなくて、何か他のことに気をそらしながら、説教をしています。
 そういう彼らも時々は福音書の注解に取り組むことはあるのですが、ごく簡単にしか取り組みません。「本来はそれのみに専念すべきですのにね。」(165ページ) 
 さらに彼らは他から尊敬を集めている偉い学者の権威を利用したり、難しい言葉を使ったりして、大衆をけむに巻くことに努めています。
 またギリシア・ローマの古典の中から、自分にも理解できるような平易な話を見つけてきて、それに神秘的な寓意があるかのような解釈を施します。
 さらに受け狙いで、何とか笑いを取ろうとします。
 このように彼らの現行はあまり尊敬できるものではないのですが、うぬぼれのぼせて、大したものだと思い込んでいるといいます。

〔55〕
 以上をもって、知的な仕事にかかわっている人も、実は痴愚の女神の仲間だったり、その恩恵を受けていたりするという話を終わり、次は王侯貴族・廷臣たちに矛先を向けます。
 王侯や廷臣諸侯は痴愚の女神の有力なひいき筋であるといいます。「この方々は開けっぴろげに、また(高貴な御身分にふさわしく)素直にこの私を崇めてくださいますものね。」(169ページ) と言って、次のように続けます。「もしこういうお方たちがほんの少しでも良心というものを持ち合わせておられたならば、それを体験するのをご勘弁願いたいと思わせるものがありましょうか?」(同上) つまり王の仕事は公的なものであり、極めてその任務は重いのだということを考えてほしいというわけです。「支配権を握ったものは、私事を捨てて公のためにはたらき、自分個人の利益は顧みずに、公の利益のみを考えねばならないのですからね。自らが制定し発布する法には、寸毫(すんごう)たりとも違うことは許されませんし、あらゆる行政官や司法官の公正さをその一身に負って実践せねばなりません。」(170ページ)

 君主の一挙一動は万人の目にさらされており、見る者の手本になるべきであるが、もしそうでなければ災いのもとにもなるものだといいます。「他の人々の悪徳ならばさほど人の目に立つこともありませんし、広く影響を及ぼすこともありません。」(同上) しかし、君主たるもの、一般人とは違うのだ、悪いことはできないといいます。
 さらにこの地上での悪行を、民衆の目から隠しおおせたとしても、神様の目は逃れることはできないといいます。地上で王者であっても、地獄ではただの亡者でしかなくなることもありうるというわけです。
 ところが、現実には痴愚の女神の働きで、君主たちは心配を忘れていて、「自分たちは遊蕩惰弱な生活に耽って、なんであれ心の平安をかき乱すようなことはしたくないので、快いことを言う者のことにしか耳を貸そうとしません。」(171ページ) そのうえ、「臣下たちの懐を軽くして、その金を自分の金蔵に収めるための手口を毎日考えだしたり、それも実際には不当そのものなのに、公正さを装った口実を設けて行うのですが」(同上)、程度が過ぎると、臣下や民衆の離反を招くので、「少しばかり民衆におもねることもするのです」(同上)という。「〇製春〇」で労働者の賃金を上げたと上のほうでははしゃいでいるけれども、統計を見ると、実質賃金は下がっているというどこかの国の人々には骨身に染みる発言かもしれない。

 女神は、この時代の標準的な君主像(≒為政者像)を描き出します。「法律には無知で、公共の福祉にはほとんど敵対的で、ひたすら自分の利を図ることに熱心で、あらゆる快楽におぼれ、学問を忌み嫌い、自由や真理を忌み嫌い、国家の安寧なぞは毛筋ほども考えず、あらゆるものを自分の欲望と利得の天秤にかけるような人物」(171‐172ページ)であるという。本来、美徳の象徴であるような支配者のための王冠をかぶっていることで、自分がそれらの美徳をもっているつもりになってしまう人物が君主の名に値するかどうかは疑問であると女神は言います。

〔56〕
 ではこのような君主に仕えている廷臣たちはどうでしょうか。「この人種の大部分ほど、卑しく、卑屈で、つまらぬ、下等な連中はいないのですが、そのくせ、あらゆる人間の中で第一級の地位を占めているとみられたがっているのです」(同上)と女神はこき下ろしています。なお、大部分といっているのは、例えばエラスムスの友人であるトマス・モアのように自分の所信に従って身を処する立派な廷臣もいるということを言いたかったわけですが、そのモアもヘンリーⅧ世の結婚問題→イングランド国教会のカトリックからの独立という事件のために、処刑されてしまうのはこの後に起きた話です。女神が非難するのは廷臣たちの君主に対する卑屈な態度と、彼らの怠惰というよりも遊惰な生活ぶりです。その遊惰な生活はもちろんのこと、そういう生活に腰ぎんちゃくとしてぶら下がっている人々が多いことをモアは『ユートピア』の中で非難していますが、その気持ちはエラスムスも同じだったと思います。

 大学と学者、修道会と修道士に対する女神の非難は、エラスムスにとって身近な世界への告発であったので、的を射たものだったと思いますが、エラスムスは彼の僚友のフランス人ギュィヨーム・ビュデが王立講師団(今日のコレージュ・ド・フランスの前身)を組織して、新しい知の拠点を築こうとしたというような試みには取り組まなかったようです。エラスムスが学んだ共同生活兄弟会はマイスター・エックハルトやニコラウス・クサーヌスもそこから巣立った当時の革新的な宗教団体だったのですが、エラスムスにはそれにも飽き足らないものがあったようです。既存の組織の拡充にも、新しい組織の創設にも消極的な態度をとるというのでは、今一つ批判の舌鋒も鈍っていくのではないかという気がしております。

竹内洋『清水幾太郎の覇権と忘却――メディアと知識人』

3月15日(木)晴れのち曇り、気温上昇

 竹内洋『清水幾太郎の覇権と忘却――メディアと知識人』(中公文庫)を読み終える。清水幾太郎(1907-88)の生涯と業績を追いながら、戦中・戦後の日本で知識人が果たしてきた社会的な役割を、類型化とそれに基づく比較によって語ろうとする書物であり、「覇権と忘却」という題名のつけ方が、この著者らしい。清水幾太郎を語るというだけでなく、竹内洋さんが自分自身を語っている書物であるという印象を持つ。

 清水は社会学者であり、社会学という学問領域が日本の大学と社会一般に根付くのに大きな貢献をした人物であり、またジャーナリスティックな活躍をして、論壇を指導した人物でもあった。竹内さんは、社会学への関心から清水に関心を持つようになったようであるが、私はなぜか社会学にも清水幾太郎にもそれほどの関心は持たずに来ている。それでもなお、この書物は興味深く読むことができた。

 私の勝手な感想であるが、「覇権」とか、「制覇」とかいう言葉を使うのは、かなりのおっちょこちょいであるという気がする。東大と京大の気風を対比した様々な言説があるが、私の見立てでは東大に比べて京大の学生のほうがおっちょこちょいの傾向が強い。ここで私がおっちょこちょいというのは、リースマンの言うレーダー型の志向、新しい言説、流行の言説に飛びつく傾向であり、その結果として時につじつまの合わない方向転換をするということである。もちろん、おっちょこちょいでない(どちらかというと冷笑的な)学生もいるし、躁鬱的に両者の間をゆれている学生もいる(私などはその部類)もいたが、おっちょこちょいの学生の比率は東大よりも高いのではなかろうか。もちろん、東大にもおっちょこちょいの学生はいるわけで、ほかならぬ清水幾太郎も秀才らしい慎重さは見せているものの、根はおっちょこちょいではなかったのかと思われるところがある。京大出身の竹内さんが東大出身の清水幾太郎について語ろうとしているのは、あるいは清水の中に自分と共通するものを見出しているかもしれない。おっちょこちょいが知的好奇心と結びつけば、新しい学問領域における開拓者的な業績が期待できる、あるいは既存の学問的な業績に新しい視角からの取り組みがなされるかもしれない。(だから入学試験の際には、むしろ誤答に注目しておっちょこちょいな学生にはそれなりの配慮をする方が将来性のある人材を発見できるかもしれない――というのは言い過ぎであろうか。) 

 では竹内さんは知識人をどのように類型化しているのか。その基準の一つはその家庭的な出自であり、もう一つは学歴、さらにもう一つはどのような職についているかである。清水は祖父の代までは大身の旗本という家系に生まれたが、維新後、祖父は趣味を生かして日本橋で建築用の竹を商うようになった。彼の父親の代になると商売に失敗して本所で雑貨屋を始める。さらに関東大震災に遭遇する。商売の世界がいやになって中学に進学して学問の道に進もうと考えるようになった。だから清水の場合には学に志すことが上昇志向と結びついている。
 「清水は、たしかに旧制高等学校→東京帝大文学部卒の学歴エリートで、その限りでは知識人界の正系だったが、丸山眞男(政治学者、1914ー96)のように、山の手階級出身ではなく、下町出身、丸山のように東大教授ではなく、ジャーナリスト(戦前)や私学教授(戦後)であった。丸山を正系的正系知識人とすれば、清水は正系的傍系知識人である。したがって、清水の言説を、正系的傍系が文化的正統派たるべく、自分の位置を高めたり維持したりしようとする無意識的あるいは前意識的な差異化戦略としてみていくことにしたい」(37ページ)という。また、学歴をめぐってはこんなことも書いている:「清水の学歴軌道は、下町の秀才学校である「府立第三中学校」ではなく「独逸学協会学校中学」、天下の秀才高校である「第一高等学校」ではなく東京の秀才高校「東京高等学校」、帝大の中の帝大である「法学部」ではなく「文学部」ではあったが、ともかく旧制中学校→旧制高校→帝国大学というインテリの正系学歴軌道を踏んだ。」(68ページ)
 もう一つ重要なことは、彼が東大における指導教授であった戸田貞三との折り合いが悪く、大学卒業後、一旦は副手に採用されたものの、その後辞職させられ、東大教授の道を断たれ、結局東京朝日新聞の嘱託を経て、読売新聞の論説委員という押しも押されぬジャーナリストの道を歩んだことである。

 竹内さんは清水が第一高等学校ではなく、東京高等学校を出ていることを取り上げている(ただし、東京にあった官立の旧制高校はこの2つであるが、他に七年制の東京府立高校、私立の武蔵高校、成蹊高校があった。清水が受験した翌年に私立の成城高校が発足した。)。その東京高等学校で清水と同期だったのが、心理学者の宮城音弥で、私が学生の頃の有名な心理学者というと、宮城と南博の2人であったが、その南も東京高校で6期下であったという。この書物の論旨とは関係がないが、心理学という学問領域の日本における発展の経緯を考えるうえで興味深い事実である。それから竹内さんは学習院大学が私学であることを強調しているが、戦前の学習院は文部省からは独立していたが官立であったこと、私立学校として存続することになった戦後も東大との結びつきの強い大学であり続けているなど、慶応や早稲田とは違った性格の私学であることも考えに入れる必要があるだろう。

 さて、清水の思想遍歴の分析も興味深いが、それ以上に興味深かったのはこの書物の総括部分である「終章 覇権と忘却」における清水の「庶民」≒大衆の見方の、戦後の日本の論壇に影響をもった人々――丸山眞男、吉本隆明、福田恆存、鶴見俊輔の大衆像との対比である。この対比の内容については本を読んでご自分で考えていただきたい(ただ、この中で引用されている吉本の「大衆とは、デモがあると、そのそばでアンパンを売り始めるような存在だ」(353ページ)という発言には感心した。学生時代デモや集会に出かけると、必ずその近くで数人の紺絣を着たおばちゃんが餅菓子を売っていたことを思い出す)のだが、そこから「庶民と対面した時には、知識人=啓蒙家として振る舞い、知識人の輪の中にいるときには庶民の代弁者としてラジカリズムをぶ」つという「清水のこのような「戦略としての庶民」は60年安保までほころびが生じずに済んだ」(357ページ)が、その後、日本経済の高度成長によって大衆の中の飢餓への恐怖が取り除かれたために、清水の戦略が奏功しなくなったと論じる。その結果として、清水は知識人というあり方に批判的になるが、その批判は彼自身にも向けられるものであった。「あれほどインテリになりたいと思い、インテリそれも大インテリになった頂での知識人への幻滅めいた吐露に自己言及の人だった清水の栄光と悲惨が凝縮されている」(364ページ)とし、今日にあって、「たしかに清水は忘れ去られた思想家であるが、こうしたメディア知識人の原型として、つまりメディア知識人の「業」を象徴する存在として思い出されて然るべきである」(365ページ)と結んでいる。
 メディアで活躍する知識人などに、なりたくてもなれないような人間にとっては雲の上の話という部分もあるが、自分自身の経験と、一方で学芸の世界、他方で世間との折り合いをどのようにつけていくかを考えるうえで重要な示唆に富んだ書物である。

 ちなみに、清水夫人となった渡辺慶子が先生をしていたという小学校は私の母校である。そのことはもう50年くらい昔に同窓会誌を通じて知ったのだが、児童に慕われる、いい先生だったようである。彼女が先生をしていたのは戦前のことで、私が在学していたのは戦後のことではあるが、他生の縁の一種かもしれない。

黛まどか『奇跡の四国遍路』

3月14日(水)晴れ、温暖

 黛まどか『奇跡の四国遍路』(中公新書ラクレ)を読み終える。2017年4月から6月にかけて著者は四国八十八か所の全行程を歩く「通し遍路」を行う。その経験を「黛まどかの四国歩き遍路 同行二人」として『東京新聞』夕刊に7月3日~9月29日まで連載した内容を本文第1章~第4章とし、情報学者の西垣通さんによる「黛まどかさんへの八十八問」を基にした対談を加えてまとめられた書物である。

 黛さんは1999年にカトリックの聖地であるガリシアのサンティアゴ・デ・コンポステラへとフランスから歩く巡礼の旅を経験しており、巡礼というわけではないが、2001年から2002年にかけて韓国の釜山からソウルまでを歩き通している。対談の中で語っているところでは、「身体性と俳句」を近年のテーマとしているそうで、乗り物を使えば簡単に移動できる道筋を歩くことによって見えてくる自他の世界を確かめることが遍路行の目的のようにも思われる。黛さんのサンティアゴ・デ・コンポステラ巡礼記を読んだことがあるので、その延長としてこの本を手に取ったのだが、外国で徒歩の巡礼行に取り組んだのちに、日本で巡礼をするというのも面白い(普通ならば逆ではないかと思ったりする)。

 巻末の対談の中で、著者は「詩歌には歩いて旅をする伝統があります」(175ページ)と発言している。俳句の誕生以前からの伝統である。芭蕉は西行や宗祇の跡を訪ねて『おくのほそ道』の旅行に出かけ、その西行もまた歌枕を求めて各地を歩いた。(想像するだけで、実地には出かけない歌人のほうが多かったことも否定できないが、だからこそ、西行の歌の価値があるともいえる。もっとも西行が奥州に赴いたのは、東大寺の大仏再建のための援助を藤原秀衡に頼むためであったという別の側面もある。) 四国松山には栗田樗堂(1749ー1814)を中興の祖とする松山俳壇の伝統と、松山出身の子規・虚子・碧梧桐により形成された新しい伝統があり、詩歌の伝統としての旅を俳人として経験しようとして四国遍路に取り組んだ荻原井泉水や種田山頭火のような存在もあるという。(詩人でもあった高群逸枝が遍路紀行文を残していること、井伏鱒二の短編「へんろう宿」なども思い出されてよい。)

 旅での出会いとして、既知の人々、土地の人々との触れ合いが多く記され、遍路仲間との交流はそれに比べると少ないように思われる。結局、それぞれの遍路が旅に出る前に背負い込んだものが重く感じられ、その点について会話することがほとんどなかったからであろう。もちろん、何度も遍路をしているという先達から、著者が教わる場面は少なくないが、それは安心してできるやり取りであったからでもあろう。逆に遍路道を歩いている外国人との交流の記事が多く、『星の巡礼』という作品も書いているパウロ・コエーリョと知己だという著者の世界の国際性に驚かされる。

 遍路・巡礼は宗教的な営為であるが、詩歌人はもっと一般的な「道」を求めて歩いているのではなかろうか。スフィンクスの謎ではないが、遍路は2本の足と杖で歩く。「道」を歩くということは、先人の知恵、文化、伝統とともに歩くことである。宗教の見地からすると、遍路は歩くものに苦難を強いる旅であり、そのような労苦をよしとする立場も、よしとしない立場も同じ宗教の中にありうる。たとえば『痴愚神礼賛』の著者であるエラスムスは福音書重視の立場から巡礼や、それを推奨する僧侶たちを非難した。もっともイスラム教のように、巡礼を必須の美徳の中に数える宗教もないではない。このあたり、さらに視野を広げることも必要ではあるだろう。

 黛さんの行程を要約していくよりも、その記録の合間合間に挿入されている句作を紹介したほうがわかりやすそうなので、とりあえず目についた作品を抜き出しておく:
  しばらくは桜伝ひに杖の音
  野仏にくれなゐ深き落椿
  心経の声よく揃ふ花の下
  陽炎の中より逆打ちの遍路
  海に出て風に揉まるる遍路笠
  菜の花の風に遍路の歩のはづむ
  風の立つところに神や草若葉
  八十八夜遍路の杖の床の間に
  万緑を分けゆく鈴の韻(ひびき)かな
  母の日の木下を風の溢れをり
  舞ふやうに吹かるるやうに夕蛍
  旅人のやうに雲行く麦の秋
  桑の実に汚す遍路の白衣かな
  日焼けして日焼けして声太くなる

 巻末の対談で黛さんは「今回の遍路も、あと何年かして見つめ直したら、あのころから少し句風が変わったといえるようになっていたら良いのですが」(173ページ)と発言しているが、変わらなかったとしてもそれはそれでよいのではないか。
 個人的な付け足しだが、黛さんが小田原城内高校を卒業したと知って、少し身近な感じがした。私の友人の一人がこの学校で長く先生をしていて、年齢的にみると、たぶん、私の友人の担当する授業を聞いているはずなのである。  

『太平記』(201)

3月13日(火)晴れ、温暖

 建武4年(南朝延元2年、1337)、足利尊氏・直義兄弟は持明院統の光厳院、光明帝(前年8月に即位)を擁して京都を抑え、京都での幽閉から脱出した後醍醐帝は吉野の金峯山寺で兵を募り、後醍醐帝から東宮恒良親王、一宮尊良親王らを託され、北国で再起を図るように命じられた新田義貞は敦賀の金ヶ崎城にこもっていたが、高師泰や今川頼貞らが率いる大軍に包囲されて身動きが取れなくなっていた。
 正月11日、南越前の杣山城を本拠とする瓜生兄弟に大将として擁立されていた脇屋義治(義助の子、新田義貞の甥)は、新田一族の里見伊賀守を大将として金ヶ崎城の後攻めに向かわせたが、高師泰・今川頼貞の軍に敗れ、大将の里見と瓜生兄弟のうち2人が戦死した。瓜生兄弟の老母は、義治の前で涙ながらに兄弟の戦死を誉れとする由を述べた。一方、後攻めを失い兵糧不足に陥った金ヶ崎城では、2月5日、新田義貞・脇屋義助らが城を脱出して杣山に入ったが、金ヶ崎への後攻めの機会はなかなか訪れなかった。3月6日、将兵の食糧がなくなり、身動きができなくなった状態の金ヶ崎城は寄せ手の総攻撃を受けて落城した。一宮尊良親王、新田義顕らに加えて、城中の兵たちも自害した。

 後醍醐帝が義貞に北国へ向かえと命令された理由の一つは、越前一宮である気比大神宮の大宮司一族が金ヶ崎城を築いて、宮方の武士を迎え入れる用意をしているからであったが、その城が落ち、また大宮司である気比弥三郎も尊良親王や新田義顕に殉じて死んでしまった。弥三郎の長男の気比大宮司太郎は、前年の10月に小笠原貞宗が城を浜際から攻めた際に武勇のほどを見せた怪力の持ち主で、しかも水泳の名手であった。そこで彼は東宮=恒良親王を小舟にお乗せして、櫓や櫂が見つからなかったので、舟の纜を自分の褌の腰に巻いた部分と結びつけ、海の上30町(1町は約109メートル)を泳ぎ、敦賀湾をはさんで金ヶ崎の対岸にある蕪木の浦(福井県南条郡南越前町甲楽城(かぶらき))へと到着した。このことを知っている人は誰もいなかったので、宮を背負って杣山に落ち延びることは、極めて容易であったはずなのに、太郎はそうしなかった。

 というのは、一宮をはじめとして、城中の人々が一人残らず自害したのに、自分1人が逃げて生きながらえれば、世間の物笑いになるだろうと思ったのである。そこで東宮を漁師のみすぼらしい家において、「これは、日本国の王にならせ給ふべき人にてわたらせ給ふぞ。いかにもして(なんとしてでも)、杣山へ入れまゐらせてくれよ」と申しおいて、蕪木から取って返し、元の海上を泳いで渡って、父弥三郎太夫が自害して倒れ伏しているその上に、自分で自分の首を掻き落として、片手にひっさげながら、大肌脱ぎ=上半身裸になって死んだ。
 気比大宮司太郎の最期は異様で、果たして自分の首を切り落とした後に、それを片手でひっさげることができるだろうか疑問に思われるのだが、彼の怪力や勇武を際立たせるための筆の運びであろうか。そのように彼の怪力や勇武が強調されればされるほど、彼の知恵の浅さも際立ってくる。あるかどうかもわからない世間のそしりを気にして、自分で杣山につれていかなければならない東宮を、信頼できないし、信頼すべきでもない漁師に託している。いくら彼が声を大にしてそのように言っても、漁師には漁師の生活や考え方があるから従うとは考えられない。本人は自己満足のうちに死んだかもしれないが、太郎の判断ミスは歴史に大きな影響を及ぼすのである。

 土岐阿波守(不詳、美濃の土岐一族は大半が足利方に加わっている中に、17巻で義貞とともに北国へ赴いた武士の一人として土岐出羽守頼直の名が挙げられている)、新田の家臣である栗生左衛門(脇屋義助と新田義顕が金ヶ崎に戻る際に活躍し、さらにその後小笠原貞宗の攻撃を受けた際にも手柄を立てた)、同じく矢島七郎(上野国群馬郡矢島郷に住んだ武士で、小笠原貞宗の攻撃を受けた際に活躍した)の3人も一緒に腹を切ろうとして、岩の上に立ち並んでいたのを見かけた、新田義貞の執事であった船田義昌の子である経政が「新田一族の運河、ここで尽きたと思ったのであれば、ここで皆が討ち死にするべきであろうが、総大将である義貞・義助のご兄弟は杣山にご健在であるし、公達も3,4人あちこちに散らばって生き延びておられる、まだ名分がうすなわれていない以上、我々1人でも生き残って、大将や公達のために御用を務めるのが、長い目で見れば忠義というものではないか。これという深い考えもなしに一緒に自害して、敵に得をさせて何になるか。こっちへ来なさい。もしや生き延びられるかどうか、試しに隠れてみよう」といったので、3人もこれに同意して、船田の跡について、はるか磯の方へと下って行った。遠浅の波を分けて半町ばかり行くと、磯を打つ波に削られて、大きな岩穴ができているのを見つけた。「ちょうどいい隠れ家だ」と言って、4人ともにこの穴の中に隠れて、3日3夜を過ごした。どんな気持ちでこの時間を過ごしたのであろうか。

 城の大将である新田義顕のところに戦況の不利を知らせ、東宮らの脱出と義顕らの自害とを促した由良(新田の家来で、群馬県太田市由良町の武士)、長浜(武蔵の丹党の武士)は再び木戸口に取って返して、のどが渇けば自分のけがの傷口から流れてくる血を飲み、疲れて力が出なくなってくると、前に倒れている死人の肉を食べて、主人たちが腹を切る時間稼ぎのために戦っていたが、安間(あま)六郎左衛門(淡路=兵庫県南あわじ市阿万の武士)が走ってきて、「いつ勝機があるかと思って合戦を続けているのか。大将はもはや自害されましたぞ」と言ってきた。「そういうことならば、どうせ助からない命だから、敵陣に紛れ込めば、もしかすると大将の近くに行くことができ、しかるべき敵と刺し違えて死ぬことができるかもしれないから、そうしよう」と、生き残っていた50人余りの兵が、3か所の木戸を同時にあけて打って出た。城を囲んでいた寄せ手3,000人はこの決死の兵にたじたじとなって後退し、城兵たちは寄せ手の中に紛れ込むことができ、大将である高師泰の陣に近づくことができた。いかんせん、城から出た武士たちの様子は、やせ衰えてやつれ果てていたので、他の武士と比べて一目で見分けがついてしまう。足利方の兵は見分けがつくので、彼らとは距離を取り、結局一人もしかるべき敵を討取るに至らず、全員があちこちで戦死してしまった。

 金ヶ崎城にこもっていた将兵の数830人、その中で敵に降参して命を助けられた者12人、岩の中に隠れて生き延びたものは4人、その他の814人は、腹を切ったり討ち死にしたりしてしまった。今に至るまで、その怨霊がこの地に留まって、月が曇り雨が降って暗い夜は、食を求めて叫ぶ亡霊の声が悲しげに響き、人をぞっとっせるという。
 唐の詩人陳陶(812?‐885?)は安史の乱(755-763)に遭遇して、漢の時代、匈奴と戦い敗れて捕虜となった李陵の軍に託して戦争の悲惨さを歌った隴西行という詩を作った。それは
  匈奴を払はんと誓ひて身を顧みず
  五千の貂錦(ちょうきん)胡塵に喪(ほろ)ぶ
  憐(あわ)れむべし無定河辺の骨
  猶是れ春閨(しゅんけい)夢裡の人
(岩波文庫版、第3分冊、253ページ、匈奴=北方の蛮族の征伐を誓ってわが身を顧みず、漢の李陵の率いる五千の兵士は胡の地の塵となった。憐れむべきは無定河(陝西省北部を流れる川)のほとりに散った兵士たち、今なお故郷で待つ妻の春の夜の夢に現れる。貂錦というのは貂の皮の帽子と錦の服、それを身につけた兵士ということで、ここでは後者の意味である。陳陶は晩唐の詩人であり、安史の乱には遭遇していないのだが、『太平記』の作者の頭にはそういう年代の違いは入っていなかったのであろう。それにしても陳陶というあまり知られていない詩人の詩がこんなところで引用されているのは、不思議である。

 夜が明けて、蕪木の浦から、皇太子恒良親王が潜んでおられるとの密告があったので、今川頼貞が迎えに出かけて身柄を引き取った。
 前夜、金ヶ崎で討ち死に、自害をした首854を並べて、首実検をしたところ、新田一族の首には、越後守義顕、里見義氏の首だけがあって、義貞と義助2人の首がなかった。さてはきっとその辺の海底に沈んでいるのかというので、海人を潜らせて調べてみたが、まったく見つからなかったので、司馬孝恒が、東宮のところへやって来て、「義貞、義助2人の死骸が、どこにあるともわからないのですが、どうなっているのでしょうか」とお尋ねしたところ、東宮は、まだ年若く、考え深くない年ごろではあったが、彼らが杣山にいると敵に知らせたならば、すぐさまここから攻め寄せるに違いないとお思いになられたのであろう、「義貞、義助2人は、昨日の暮ほどに自害したが、その家来の者どもが将士の詰所の中で、火葬にすると相談していた」と仰せられた。孝恒は「それでは、その死骸がないのももっともなことである」と納得して、死体を探すのをやめた。とりあえず、杣山の敵は大したことはないので、こちらから仕掛けなくても、今すぐに降参してくるだろうと、しばらくは攻撃を延期したのであった。

 宮方の拠点の一つであった金ヶ崎城が落城した。気比大宮司太郎の超人的な働きでいったん落ち延びかけた恒良親王がその太郎の判断ミスで足利方にとらえられたのは宮方にとっては痛い失点である。東宮が義貞・義助の行方について斯波高経を欺くだけの頭の働きを見せているだけに、この点は惜しい。北国の宮方は大将たちは残っているが、宮様方を失い、大義名分の色が褪せてしまったのが、今後の不安を感じさせる。 

フローベール『感情教育』(6ー1)

3月12日(月)晴れ

 これはフランスの歴史の中で最も変化の激しかった時代の一つである1840年代に失敗の道のりをたどったフレデリック・モローという若者の恋と、彼を取り巻く若者たちの得意や失意を描いた小説である。作者フローベールは主人公とほぼ同年配であり、フレデリックの経験には作者の青年時代の経験が投影されているといわれる。
 1840年の秋に大学で法律を学ぶためにパリに出たフレデリックは、画商のアルヌーとその美しい夫人と偶然のことで知り合い、夫人に思いを寄せる。彼は高校時代からの親友であるデローリエと同居を始め、その家には同じ高校の出身で出世主義者のマルチノン、貴族の末裔で世間知らずのお人よしのシジー、演劇界での成功を夢見ているユソネ、独善的な社会主義者のセネカル、まじめな店員のデュサルディエ、理論倒れで一向に作品を仕上げない画家のペルラン、政談好きの不満家ルジャンバールらが出入りする。一度は試験に落第したフレデリックであったが、翌年には合格し、前途に大いなる期待をもって帰省する。その直前に地元の有力者のダンブルーズ氏から挨拶を受け、将来への見通しがさらに明るくなったような気がした。パリから郷里に戻ったフレデリックに、母親は彼が相続すべき父親の遺産はほとんどなく、家計が苦しいので、地方に残って法律事務所に勤めてほしいという。

 「破産、無一物、望みなし!
 フレデリックはがんと頭を打たれたように、茫然と床几にかけていた。運命をのろい、誰でもいいなぐりつけたい気がした。」(148ページ) 母親に実家の窮状を打ち明けられて、フレデリックは衝撃を受ける。破産したわけではないし、無一物になったわけでもない。もっと貧しい人は大勢いるのだが、そう思ってしまうのは、それまで自分には相当の財産を相続する見込みがあると、アルヌー夫妻に仄めかしてきたからである(要するに、見栄が張れなくなったということである)。自分はアルヌー夫妻に対して何か利益を期待してその家に出入りしていたほら吹きだと思われても仕方なくなり、アルヌー夫人に合わせる顔が亡くなってしまったということが彼を苦しめた。

 これまで彼が続けてきたパリでの生活ぶりでさえ、アルヌー夫妻の家では引け目を感じていたのである。しかし、次第に落ち着きを取り戻したフレデリックは、「財産がなくてもちゃんと生きている人間はたくさんいる。デローリエもその一人だ」(148‐149ページ)と考え直す。「そう思いなおして、彼はつまらぬことを大切そうに考える自分を腑甲斐なしだと反省した。貧乏が、かえって才能を百倍にすることもある。屋根裏部屋で勉強した偉い人のことを思って刺激される。アルヌー夫人のような人は、そういう有様を見てきっと心を動かし、同情するだろう。」(149ページ) 貧乏しても、成功するまで努力を続ける生き方もあると気付くのはよいが、努力の方向が見通せていないこと、アルヌー夫人のことが思い切れないのが問題である。
 「とすればこの逆境は結局、幸福とも考えられるのだ。意外な宝をあばき出す地震のように、この不運が彼の天性の隠れた豊かさを発見させてくれる。しかし、こういう才能を発揮させる場所は、この世にただ一つしかなかった。パリだ。彼の考えでは、芸術と学問と恋(神のもつ三つの顔、とペルランがいいそうだが)はあの首都と切り離しては、絶対にありえないものだった。」(同上)
 自分の隠れた才能はそれを表に出す努力をしなければ、なかなか見つからないだろう。その点でフレデリックは楽観的過ぎるのである。才能を発揮させる場所はパリ以外にはないというのは、世の中の流れを追いかけやすいうえに、どこか似た境遇と野心をもつ仲間を見出しやすいという意味では正しいが、地方においてもできる仕事はいくらでもあるという意味では正しくない(そもそもフレデリックは自分の進む方向を見定めていないのである)。

 そこで彼は母親にパリに戻るつもりだという。母親は、郷里で就職してほしいと言い張る(息子が法律の学位をとったので、その関係の仕事に就くのが当然だと考えて、彼の心の中までは考えないのである)。親子の言い争いは長期化し、母親は自分の甥先は長くないのだからと泣き落としにかかり、フレデリックは次第に動揺しただけでなく、家庭の快さ、安逸さに心が鈍り、根負けして、プルアラン弁護士のところへ行くことにした。
 「彼は特別に学識も才能も示さなかった。いままで彼はやがて県の名誉ともなるべき有望な青年と人に思われていたのだ。皆は失望した。」(150ページ) 家柄に加えて、高校時代の成績は優秀だった(大学ではそれほどのことはなかったということに人々は気づいていない)ので、そう思われていたのである。フレデリックは大学での法律の勉強に身が入らず、デローリエの助けがあってやっと学位をとったということも人々の目に入っていない。

 パリでの生活のこと、アルヌー夫人のことが思い出されてならないが、「彼は二度とパリには帰らない、アルヌー夫人の消息さえ訪ねまい、と心に誓った。」(同上) そういう極端な決心をするほうが楽であると作者は述べている(しかし決心を決して実行には移せないことも見通しているのである)。時々、パリのことを思い出してぼんやりしたい、どこか別の土地に出かけたいと思ったりする。自分の精神状態を手紙あに書いてデローリエに訴えたが、デローリエにはフレデリックの「腑甲斐ないやり方、相変わらずの愚痴っぽさが馬鹿らしく思えた」(151ページ)。フレデリックがデローリエと同居していた部屋には、デローリエがそのまま残って、あろうことかセネカルを引き取る。フレデリックが置きっぱなしにしてきた家具類は彼らが自由に処分できるようになっているのである。フレデリックは大いに傷つく。

 モロー家がフレデリックの父の死後、貧乏になったのは隣人であり、ダンブルーズの地元における代理人であるロック老人にいいようにされたからであり、フレデリックの母はロック老人を好かず、両家の間の付き合いはほとんどないが、フレデリックの帰省後、老人はフレデリックに追従を振りまくようになる。そしてダンブルーズがフレデリックの近況を訪ねてきたなどと話しかける。そして母親の系統から貴族につながる家系のフレデリックは世が世であれば貴族になれるかもしれないなどと、柄にもないことを言う。

 フレデリックは彼の母親や周囲の老人たちからかなり的外れの期待をされてきたうえに、ロック老人もまた彼に別の期待をもっているようである。しかしそういう期待はフレデリックにとって重荷となるだけで、その束縛を離れてパリで生活したいのだが、パリでの生活を支えるような経済的な基盤がないこともわかっている。一家が財産を失ってきた成り行きがあるので、ダンブルーズの世話を受けたくないという意地のようなものもあるかもしれない。とはいうものの、彼が人生の方向性をいまだに決めかねている、アルヌー夫人への恋以外に何らしっかりとした目標を持っていないことが一番の問題である。
 

日記抄(3月5日~11日)

3月11日(日)晴れ、風が強く吹いた。

 3月5日から本日までの間に、経験したこと、考えたこと、前回以前の記事の補遺・訂正など:
●アメリカで銃の乱射事件が続発し、取得・所持の制限が改めて問題になっていることをめぐって
 武装中立を国是とし、国民皆兵が原則で、予備役の軍務にある限り、自動小銃を保持することになっているスイスでは、この種の乱射事件は起きていないようである。アメリカとスイスの違いを考えることは、他の点でも役に立ちそうだ。
●東京のある小学校で、アルマーニのデザインによる標準服の着用を勧めたことをめぐって
(1)三島由紀夫が「楯の会」の制服をピエール・カルダンにデザインさせたことを思い出す。
(2)映画『サウンド・オヴ・ミュージック』でヒロインのマリアが家庭教師として赴く家の当主が、子どもたちに制服を着せて軍隊式の訓練をしているのに違和感を覚え、カーテンを素材にしてもっと動きやすい服を作って着せる場面があった。
(3)同じく映画『氷の花火』で山口小夜子が都内のある私立高校の制服をデザインして、その意図や工夫について生徒たちに話す場面があった。
 制服の原型になるのはスタンダールの小説の題名『赤と黒』に象徴される軍服と僧服であるが、いつも同じ服装をするのではなく、生活のそれぞれの場面に応じた使い分けがなされるのが一般的ではないか。至福の場面ももちろんあるわけである。学校の制服についても1種類とは限らず、何種類か用意する必要があるかもしれず、児童生徒の学校内外での生活を見極めたうえで、学校、児童生徒、保護者、それにデザイナーという当事者がそれぞれ納得できるような話合いを通じて、制服採用の可否も含めて、決めていくことが望ましい。平凡ではあるが、これが私なりの結論である。

3月5日
 NHKラジオ『まいにちスペイン語』の時間の「スペインの街角」のコーナーでは、西北部のガリシア地方の小さな町であるルゴを取り上げた。古代ローマの城壁がほぼ完全な姿で残っていることで知られているそうである。

3月6日
 『朝日』の朝刊にこの新聞社が刊行した「冷泉家時雨亭叢書 100巻完結記念シンポジウム」の概要を紹介する記事が出ていた。冷泉家は、俊成・定家を祖とする御子左家の3つの流れの中では「二流」であるがゆえにかえって、生き残り、多くの蔵書を後世に伝えることになったという歴史の流れを改めて実感した。当ブログで紹介している小川剛生さんの『兼好法師』とも重なる内容があって興味深い。

 『まいにちスペイン語』の時間の「ラテンアメリカの街角」のコーナーではメキシコのオアハカを取り上げた。

3月8日
 国際女性デー。昔は国際婦人デーといった。いつ、どのような理由で呼び方が変わったのであろうか?

 『まいにちスペイン語』応用編「スペイン文学を味わう」は今回からビセンテ・ブラスコ・イバニェス(Vicente Blasco Ibañez, 1867-1928)の『葦と泥』(Caños y barro, 1902)を取り上げることになった。イベリア半島島南部のバレンシア地方の州都、バレンシアの南に位置する潟湖アルブフェラ湖を舞台にして、先祖代々漁業を営んできた一家の3世代の対立を描く小説である。イバニェスはハリウッドで映画化された、闘牛士の物語『血と砂』の原作者でもある。ルドルフ・ヴァレンティノが主演したサイレントの『血と砂』は見ていないが、タイロン・パワーが主演したトーキーの『血と砂』はテレビで見ている。イバニェスは世界一周の途次に来日したことがあり、そのため古くから日本でも名が知られてきた。考えてみると、一方で夏目漱石(1867‐1916)や幸田露伴(1867‐1947)、他方でイタリアのルイジ・ピランデッロ(Luigi Pirandello,1867-1936) と同じ年の生まれで、これらの作家の作品の内容を比べてみると面白いかもしれない。
 今回は、アルブフェラ湖の南岸にあるパルマール村とバレンシアを結ぶ郵便舟を描くことで、物語の舞台の様子が明らかにされる個所が取り上げられている。

3月9日
 平昌パラリンピックが開幕。

3月10日
 1945年のこの日、東京が大空襲に見舞われた。

3月11日
 東日本大震災から7年目である。
 ニッパツ三ツ沢球技場でJ2第3節の横浜FC対愛媛FCの対戦を観戦した。試合開始前に大震災で亡くなられた方々を追悼して選手・スタッフ・観客が黙祷した。
 横浜は前半風上からの攻撃で、攻勢をかけるもののなかなか愛媛のディフェンスを突破できなかったが、39分にフリーキックのボールがゴール前で奪い合いになり、藤井選手のシュートがゴールに入って先制、前半終了間際にジョン・チュングン選手が前に出したボールを、野村選手が折り返し、イバ選手が蹴りこんで2点目を挙げ、優位に立った。後半80分にはカウンターから野村選手がゴールを決め、3-0で勝利した。
 勝ったのはいいが、イバ選手がこの試合でもイェロー・カードをもらい、これで3試合目にして3枚目ではないかと思う。もう少し自制して試合に臨んでほしいものである。

ロビン・スティーヴンス『英国少女探偵の事件簿③ オリエント急行はお嬢様の出番』

3月10日(土)曇りのち晴れ

 ロビン・スティーヴンス『英国少女探偵の事件簿③ オリエント急行はお嬢様の出番』(コージーブックス)を読み終える。
 英国にある女子寄宿生学校の生徒で貴族の令嬢であるデイジー・ウェルズと、香港からこの学校にやってきてデイジーと同じ部屋に寄宿しているヘイゼル・ウォンは2人だけの少女探偵団である<ウェルズ&ウォン探偵倶楽部>を結成し、これまで学校内で起きた事件、そしてデイジーの邸で起きた事件の2件の殺人事件を解決してきた。しかし、自分の娘の身辺で連続して殺人事件が起きているのを心配して香港からわざわざやってきたヘイゼルの父親が2人を夏休みにオリエント急行の旅につれ出す。自分と一緒にいれば、事件に巻き込まれることはないだろうというのである。

 時は1935年。アガサ・クリスティーの『オリエント急行殺人事件』が刊行された1年後である(51ページにデイジーがカバンからこの本を取り出す、145ページに彼女がヘイゼルに向かって、この本を読めと勧める箇所がある)。カレー=イスタンブール間を結ぶオリエント急行の機関車に続く先頭車両の一等車に乗り込んできたのは、ヘイゼルとその父親のヴィンセント・ウォン、デイジー、ヴィンセント・ウォンの助手のジョン・マックスウェル、デイジーの実家のメイドであるヘティの5人に加えて、ドーント痩身薬会社の経営者であるウィリアム・ドーント氏、その妻で巨額の遺産の相続人であるジョージアナ(ジョージ―)・ドーント、ドーント夫人付きのメイドであるサラ・スウィートの3人、本人は偶然乗り込んできたというが、ジョージ―の弟で母親の遺産をすべて姉が相続したことをうらんでいるらしい犯罪小説家のロバート・ストレンジ、ジョージ―の信頼する霊媒師のマダム・メリンダ・フォックス、亡命ロシア貴族のデモドフスコイ伯爵夫人と、その孫でアメリカで育ったが英国の寄宿学校に入っているアレクサンダー・アーケディ、脱出マジックの第一人者といわれるイル・ミステリオーソ(どうでもいいけど、イタリア語の発音としてはミステリオーゾが正しいのではないか⁉)、以上かと思うと、発車間際に大物銅商人の妻だというヘレン・ヴァイテリアスという女性が乗り込んでくる。ヘイゼルとデイジーには彼女が、デイジーの邸で起きた事件にかかわったスコットランド・ヤードの覆面捜査官ミス・ライヴドンだとすぐに分かった。彼女が乗り込んでくるということは、この車両で何らかの事件が起きると予測されるのか、あるいは乗客の誰かが外国のスパイなのか。最後に、この一等車には専属のジョセリン・ブーリという車掌が乗務している。

 オリエント急行への乗車の際に強引に割り込んできたドーント氏は乱暴で尊大な人物であるが、結婚1周年のプレゼントとして高価な首飾りを妻に贈るなど、愛妻家ぶりも見せる。その夫人は何となくぼんやりとした、気弱な感じの女性であり、メイドである小柄でかわいい女性のサラは、女主人に対し失礼な態度をとり続けている。ドーント夫人は自分の死んだ母が忘れられず、メリンダ・フォックスにその魂を呼び出してもらって話をしたいというのだが、ドーント氏はそんな妻を叱り、メリンダの高齢術がいかさまだと口汚くののしる。食堂車でドーント夫人がしている首飾りを見たデモドフスコイ伯爵夫人は、伯爵家の伝来のもので、革命のときに手放したものだから、自分が取り戻す権利があるという。伯爵夫人の孫のアレクサンダーはヘイゼルやデイジーと同年配で、2人のこれまでの「功績」をおそらくは知らずに、探偵に興味があるという。そんな彼を2人の少女は無視しようとする。イル・ミステリオーソは以前どこかでメリンダにあったことがあるというが、メリンダは動揺を隠しながらそれを否定する。ミス・ライヴドン(→ヴァイテリアス夫人)が乗り込んでくるということは、この列車の乗客の中にスパイが潜んでいるのだと思った2人の少女は、それがだれかを突き止めようとする。

 売れない作家の(「大衆は私の作品を買おうとしない! 近頃は女性の犯罪小説家の作品が好まれているようだからね。男では太刀打ちできない。まったく!」とご本人が106ページで告白している。推理小説の「黄金期」であったこの時代は、クリスティーやセイヤーズに代表される女流作家の活躍する時代であったことが念頭に置かれている。) ストレンジ氏はペーパーナイフを携行しており、それは他の乗客たちの知るところとなる。イタリアに入国後、夕食の時間を迎え、メリンダに母親の霊を呼び出してもらうというドーント夫人と夫がけんかになり、彼女は自室に引き上げてしまう。サラは女主人の後を追わずに、食事がすんだら様子を見に行くという。ドーント氏も食事を続ける。ストレンジ氏とイル・ミステリオーソが食堂車を去り、伯爵夫人も立ち上がり、サラがやっと女主人のもとに向かい(その時にドーント氏に慣れた様子で合図を送り)、メリンダとヴァイティリアス夫人が食堂を出て行った、その時に悲鳴が聞こえた。

 「あまりにも大きくて甲高い声だったから、列車の汽笛が急に鳴ったと思った人もいたようだ。・・・/でも、あたしには悲鳴だとわかった。」(132ページ) デイジーが走り出し、それを押しのけてドーント氏が急いで、一等車に向かう。ほとんど全員が集まるが、イル・ミステリオーソだけがいない。ドーント夫人の個室にかぎがかかっていて、中に入れない。駆け付けたジョセリンが合いかぎを渡そうとするが、ドーント氏は体当たりでドアを開ける。ドーント夫人が血まみれになって倒れており、ストレンジ氏のペーパーナイフが転がっていた。(調べたところ、だれの指紋もついていなかった。) 伯爵夫人は、ドーント夫人が身につけていたはずの首飾りが亡くなっていることを不思議がる。

 ジョセリンがサンドウィッチという医師を連れてきて、死亡が確認される。かれは医師であるだけでなく、アマチュア探偵として前年に起きたサタスウェイト氏殺害事件の解決に役割を果たしたというので、国際警察の代理として事件の捜査に当たることになる。その助手として、なんとアレクサンダーが名乗りを上げる。ヘイゼルの父親、そしてヴァイテリアス夫人はヘイゼルとデイジーが事件に首を突っ込むことを何とか止めようとしているのだが、そんなことでひるむ2人ではない。監視の目や制止の手をすり抜け、振り払い、事件の真相に近づこうとする…。

 ここまでの紹介だけでもお分かりのように、アガサ・クリスティーの『オリエント急行殺人事件』(Murder on the Orient Express、1934)のパスティーシュである。そのことは、作者自身が2015年に書き上げられたこの本の「まえがき」でも書いている。クリスティーの作品を15年前に読んだ時から何度も読み返していると書いているから、作者はかなり若い。アルバート・フィニーがポアロに扮した1974年の映画化作品を作者は何度も見たというが、この映画が作られた時にはまだ生まれていなかったようである。て原題はFirst Class Murder「一等車の殺人」であるが、first-classには「一流の」という意味もあることも意識しているようである。

 『オリエント急行殺人事件』でポアロは、中東から英国に帰る旅(ポアロは飛行機が嫌いであった)の手段としてオリエント急行に乗る。東から西へと旅するのだが、この作品でデイジーとヘイゼルはカレーからイスタンブールに、つまり西から東へと移動する。事件が大きく動くのはユーゴスラヴィア(という国は今はなくなってしまった)に入ってからだというのは、両作品とも同じ。登場人物にもある程度の共通性があるように設定されている。それからクリスティーをよく読んでいる方はお気づきだと思うが、サタースウェイト殺人事件のサタースウェイトはクリスティーの短編集に登場するハーレ・クインの相棒で、ポアロ物の『三幕の殺人』にも登場する人物と同じ名前である。また、この作品でメイ探偵ぶりを発揮するサンドウィッチ医師はエディンバラ大学で学位を取ったばかりだという設定になっているが、エディンバラ大学はシャーロック・ホームズの生みの親=コナン・ドイルの母校である。

 あらすじの紹介で、できるだけ伏線を浮かび上がらせるようにしたが、なかなかそのあたりの仕掛けは巧妙である。登場する大人たちのかなりの部分が自分の素顔を見せないところがある。仮名を使っているヴァイテリアス夫人はもちろんだが、伯爵夫人は足が悪いふりをしている。他の人々も何か秘密を隠している。嘘や秘密にはやむを得ないもの(たとえば自分がユダヤ人であることを隠す)と、悪意に基づくものがあり、ひとくくりにするわけにはいかない。そういう大人たちを相手にデイジーは平気でうそをついたりしながら、推理を展開する(ヘイゼルとアレクサンダーは、わりに正直で、だからお互いに好感を持ち合っているところがある。)訳者が「あとがき」で書いているように、第2作ではデイジーの家庭と、父親が重要な役割を演じていたが、今回は、ヘイゼルの父親がデイジーの父親とは全く違う、権威主義的・家父長的な存在感を見せる。しかし、最後まで読んでいくと、意外に…というところがあるかもしれない(これは第2作とも共通する)。少女探偵が主人公とはいえ、あまり子ども向きの話ではないのだが、子どもから大人への移行期にある探偵たちの個性を描き分けていることで、大人である読者のこの時代への郷愁を掻き立てるところがある。
 

 

佐藤優『亡命者の古書店 続・私のイギリス物語』

3月9日(金)雨が降ったりやんだり

 2月27日、佐藤優『亡命者の古書店 続・私のイギリス物語』(新潮文庫)を読み終える。2015(平成27)年に新潮社から刊行された『プラハの憂鬱』を改題して文庫化した書物である。著者は、大学と大学院(修士課程)でプロテスタント神学を学び、チェコの神学者ヨゼフ・ルクル・フロマートカの思想に関心を抱き、チェコ留学を夢見て外務省の専門職員を志望し、試験に合格して採用される。しかし、職場で研修を命じられた外国語はチェコ語ではなくて、ロシア語であり、研修先は英国バッキンガムシャーのベーコンズフィールドにある陸軍語学学校のロシア語科ということになった。1986年のことである。

 この学校のロシア語会話の担任であったブラシュコ先生に紹介されて、著者はオックスフォードにあるブラックウェル書店で本を探すことになる。そして、ブラックウェル書店の書店員に教えられてズデニェク・マストニーク(1920‐2007)という亡命チェコ人が経営しているロンドンのインタープレスという古書店を知る。ブラシュコ先生の助言もあり、すぐに訪ねていきたい気持ちを抑えて、手紙を書いて神学所のリストを送ってほしいと連絡する。すると在庫目録が送られてきて、注文すると小包が届き、さらに入手できる可能性のあるフローマトカの著作のリストを知らせる手紙が添えられていた。

 そこでいよいよ著者は書店を訪れて書店主と話をしたいと思い、電話をかける。そして面会の手はずを整える。 マストニーク氏に著者は自分が外務省の職員であるが、訪問は仕事とは関係がなく、趣味で進めているチェコ神学研究の一環であると説明する。マストニーク氏は「趣味ということは、ライフワークということでもありますね。仕事にかかわらず学生時代からのテーマを研究し続けるのはとても重要と思います」(51ページ)と笑いながら言う。

 マストニーク氏は第二次世界大戦後英国滞在中に、チェコで共産党によるクーデターである「二月事件」が起きて、帰国を延期しているうちにBBCでチェコ語放送のアナウンサーの仕事をするようになり、そのままチェコ語部門の責任者まで務めたという人物で、高等商業専門学校在学中はチェコスロバキア共和国初代大統領のトマーシュ・ガリグ・マサリクの流れをくむ社会民主党の活動家であったという。父親がチェコ人、母親がスロバキア人であったというマサリクの存在がなければ、チェコスロバキアという国家は成立しなかったといい、チェコスロバキアの解体を可能性として否定しない(この予想が当たったのはご存じのとおりである)。マストニーク氏は1979年までBBCで働き、傍ら東欧の図書館に「死蔵」されている図書を西側の学術図書と交換するというインタープレスの事業に取り組んでいた。

 宗教的には懐疑論者で、理神論者であるというマストニーク氏との付き合いだけでなく、その夫人でチェコ語教師のヘレンカ、前記のブラシュコ先生、マストニーク氏の友人であるイエズス会の神父、ロシア語のクラスメートで原子力潜水艦に乗務している中尉のトーリャ(学校ではロシア名で呼び合うことになっている)、トーリャの恋人でナバホ族の血を引くソ連研究家のクリスと著者の知的好奇心を満たす交友範囲は広がる(ほとんどが境界的なアイデンティティーの持ち主だというのが特徴的である)。著者は周囲の人々から記憶力の良さについて驚嘆されているというが、確かに知的興奮に満ちた会話の内容を細かに再現しているのは恐るべきことである。また、亡命チェコ人のクラブでマストニーク氏と食事を共にしたりもする。

 鈴木宗男事件に関連して外務省を去ることになり、文筆業に転身するまでの著者の履歴はかなり数奇なものであるが、それ以前の経歴も異色であることを知った。著者の知的関心の展開の詳しい内容については本を読んでいただきたいが、その交友と知的関心の内容や方向性においてかなり異色の英国滞在記であるといえる。著者はチェコという小国に関心を持っているが、私は東欧ではチェコよりもハンガリーのほうに関心があるというように、関心の方向性に若干の違いはあるというものの、書店巡りの趣味があり、その中でも左翼的な書店とキリスト教関係の書店が多い私にとっては食いつきやすい書物であった。実際にロンドンといわず、英国には個性的な書店が少なからずあるし、書物だけでなくスタッフとの会話を通じても多くのことを学ぶことができる。

 本文中では取り上げられていないが、マサリクの『ロシア思想史』は日本でも翻訳が出ているのではないかと思う。本文でもその『山椒魚戦争』について言及のある、チェコを代表する作家のカレル・チャペックはマサリクと親交があったことでも知られる。陸軍語学学校では仮想敵国の言語しか扱わず、ロシア語科やドイツ語科があることは、これらの国々との戦争の可能性をまだ考えているということであり、フォークランド戦争の際には、急遽スペイン語科が設けられたという話、また我が国の外務省の様々な決まりなど、背筋が冷たくなるような記事も含まれている。「イギリス人には、他の民族には見えない事柄の本質が見えます。これがイギリス人の特徴です。」(119ページ)というマストニーク氏の言葉は様々な解釈が可能である。

エラスムス『痴愚神礼賛』(11)

3月8日(木)雨

〔これまでのあらまし〕
 デシデリウス・エラスムス(1466‐1536)が1511年に発表したこの『痴愚神礼賛』は、彼がこの作品を献呈したトマス・モアの『ユートピア』とともに、ルネサンス期にラテン語で書かれた著作として最も多く読まれてきた作品です。この書物の挿絵を担当したのは、デューラー、クラナッハと並んでルネサンス期ドイツを代表する画家といわれるホルバインで、彼の挿絵によると、鈴の房の付いた阿呆の帽子をかぶって登場した痴愚の女神が、世の中のありとあらゆる事柄の中に自分の影響を見出し、だから世の中は明るく、楽しいものになっているのだと自賛を続けます。教会の腐敗堕落を攻撃した部分があるかと思うと、人々の間に広がっている迷信を馬鹿げていると批判する部分があり、どこまでが痴愚女神のアホな意見で、どの部分にエラスムスの本音が潜んでいるか、見分けにくいところがあります。

〔46〕
 女神は続けます:
「どんな幸福を得たとしても、仲間とそれを分かち合わなければ楽しくはありません。賢者というものがどこかにいるにしても、その数がどれほど少ないか、知らない人がおりましょうか。」(119ページ)
 長いギリシアの歴史の中で、「賢人」と呼ばれたのは7人だけだったという例を取り上げます。翻訳者である沓掛良彦さんが巻末の「注」で述べているところによりますと、「ギリシア七賢人の名が最初に挙げられるのは、プラトン『プロタゴラス』(343a)においてである。そこではタレス、ピッタコス、ビアス、ソロン、クレオブロス、ミュソン、キロンの七名が挙げられている。ディオゲネス・ラエルティウスによれば、「七賢人」という呼称が用いられるようになったのは、アテナイにおいてダマシアスが政務長官(アルコン)であった時のこと(前582年)のことだという」(272‐273ページ)だそうです。〔『プロタゴラス』という対話編は読んだという記憶があるのですが、「七賢人」の個所は記憶になく、読み落としたようです。こういうことはよくあるので、気を付けて読む必要があります。〕
 「七賢人」というのは、賢い人が7人しかいないからそうなったのではなくて、7という数字が歴史的に様々な意味を与えられてきたからだと思われます。中国でも晋の時代に世俗を避けて竹やぶに遊び自由を楽しんだ七人の隠者=竹林の七賢=阮籍・嵆康・山濤・向秀・劉怜・阮咸・王戎がいたのは興味深い符合です。
 幸福といえば、酒を飲んでの酩酊は一時的な幸福をもたらしてくれますが、それは長続きするものではありません。「上質で甘いワインは、どこの地方でも生まれるものではありません。」(120ページ)
 さらにまた「ウェヌスの贈り物である容姿の美しさに恵まれる人は少なく、メルクリウスの贈り物たる雄弁の才にあずかる人はさらに少ないものです。」(同上) 富を得る人も、戦勝を得る人も、限られています。幸運に恵まれる人よりも、不運に見舞われる人のほうが多いのが現実です。しかし、痴愚の女神だけは「あらゆる人たちにわけへだてなく、いついかなる時にも恵みを垂れること」(121ページ)ができるといいます。

〔47〕
 しかも、痴愚の女神の恩恵を受けるのに、祈願や礼拝、贖罪の必要はない、というよりも女神はそうしたものを求めないといいます。「いたるところで(世の人が残らずそうしておりますように)、私を心の中に宿し、その行いで体現し、生活の中で演じてくれる限り、私はこの上なくうやうやしく崇められているのだと思っています。」(122ページ) 
 昔、英国の大学に滞在していた折のこと、大学には学生組合があって、その管理のもとに学生の宗教的な礼拝の施設がもうけられておりました。キリスト教(カトリック・プロテスタント)、イスラム教、ユダヤ教などの施設はあるのですが、ヒンズー教(と仏教)の施設はありません。その後、あるインド人の学者と話していた折に、この話をしたところ、こういわれました:我々ヒンズー教徒は自分たちの心の中に礼拝所を持っているから、礼拝施設を必要とはしないのだ…なるほどと納得した記憶があります。

 女神は神に対しては心の中で祈ればそれでいいのだという考えをさらに進めて、偶像崇拝に対する批判を展開します。神や聖人の似姿を礼拝したところで、何になるのだといいます。それに引き換え、世の中にはアホな人は多いので、「たとえそれを望まなくても、その生き方そのものが私の似姿となっていますから、この世にいる阿呆の数だけ、私の立像が立っているのを目にしていることになります。」(123ページ)

〔48〕
 女神の自賛が図々しすぎるという人がいるかもしれないが、人間の世界で起きている悲喜劇あるいは喜悲劇をじっくり見れば、うそ偽りのないところがわかるはずだといいます。現実とは逆のことを夢想したり、不可能なことが可能だと錯覚したりすることから様々な大騒ぎが展開するのは、面白い見ものであるというのです。

〔49〕
 痴愚の女神の演説を聞いて、少なからぬ人々が「どうせ私は馬鹿ですよ」と居直るかもしれず、それはそれで女神としては留飲の下がることだろうとは思いますが、彼女はもっと果敢な攻撃に取り組もうとします。それは立場上、自分が阿呆だといえない人々、学校の教師を相手にする攻撃です。
 彼女はまず文法の教師をやり玉に挙げます。この時代、三科(trivium)といって文法・修辞・論理が大学に入学するための、あるいは大学に入学してからの基礎的な課程の重要な学習項目でした。なお、文法というのはラテン語の文法という意味です。この時代、ラテン語の読み書きができないと学問どころではなかったので、三科の中でも文法は重視されたわけです。なお、現在の日本では英語などの外国語教育を巡って「文法よりは会話」ということを言う人がいますが、ヨーロッパの大学では伝統的に口述試験が重視され、また弁論のための科目として修辞・論理が設けられていたわけですから、かなり事情は異なっていることをご理解ください。
 痴愚の女神が文法教師について攻撃するのは、彼らが劣悪な環境(それは教師だけでなく、生徒をも苦しめるものでした)にあること、彼らが自分の学識や仕事ぶりについてうぬぼれでいっぱいであること、文法学者たちが細かい規則の発見に熱中して生きた言語の姿を見失っていることなどです。(三科=triviumという語が、「些末な」という意味のtrivialの語源であることはご承知の方も少なくないと思います。)

〔50〕
 女神はさらに、詩人、弁論家、著作家を自分の仲間に入れます。まず詩人は、うぬぼれていなければ、ばかばかしい作品を次々に書上げなどしないと一刀両断にされます。弁論家は「笑い」を重視しているが、「笑い」もまた痴愚の産物だというのが女神の意見です。著作家は悲惨な生活状態の中で苦心してその著書を書き上げ、一人でも自分の著書を称賛してくれる人がいればそれで満足だというのだから、やはり痴愚女神の仲間だというわけです。「しかしなんといっても愉快きわまりないのは、愚か者が愚か者を、無学な輩が無学な輩を、手紙や歌を取り交わし、たがいに大いに褒め合っていることです。」(137ページ) エラスムスとモアも同じようなことをしているわけで、この辺り自虐的な自画像の部分もあるようです。

 今回取り上げた部分には、エラスムスの経験した学校や大学での貧しく過酷な環境や、空疎で一方的な教育方法への批判が含まれているように思われます。興味のある方は、エラスムスの教育論も翻訳されておりますのでそちらと合わせて読んでみてください。批判はしていても、それは正しい方向を目指しての批判であって、相手を全面的に否定しようとしているわけではなく、だから痴愚女神の自賛という笑いのオブラートをかぶせてあるのだということは、そろそろご理解いただけているのではないかと思います。 

小川剛生『兼好法師』(12‐2)

3月7日(水)

 「為定の死が迫ると、その子でまだ若い為遠が家督を継承することに、為定の従弟である為明が異議を申し立て、家門を二分する抗争となった。身分秩序が支配する社会、事は公家の家柄の家督争い、いくら実力があっても、身分の低い地下門弟は発言力がなく、勝者に従わざるを得ないから、頓阿はとりあえず両者に良い顔をしながら静観を決め込んだらしい。その間に家集である『草庵集』を編纂、さらに摂関家の当主で当代一流の文化人であった二条良基と歌論書の『愚問賢注』を著し、後光厳天皇や足利義詮の台覧に供するなど声望は高まるばかりであった。〔二条良基がかなり嫌な奴であったというのは、小川さんの研究に詳しく論じられているが、頓阿もかなり嫌な奴である。そして、兼好も同類であるというのが小川さんの議論ではないかと思う。戦乱の南北朝時代を生き延びるには、いい人ではだめで、世渡り上手ないやな奴が生き延びたのだということであろう。〕

 形勢は為明の側に有利で、頓阿の黙認の下、義詮の執奏を取り付けて、貞治2年(1363)2月29日、勅撰集の下命を受ける。これが第19番目の勅撰集の『新拾遺集』である。しかし『新千載集』の完成から3年余しか時間がたっておらず、後光厳天皇の治世で2度目となる撰集に銘文はなく、世間の批判にさらされた。それでも為明は勇躍撰集作業を進めていたのであったが、既に69歳という高齢のため、貞治3年に、四季部6巻を奏覧させただけで死去してしまう。今回も頓阿が事態の収拾に乗り出し、残りの恋部・雑部を編纂し、無事に返納を遂げる(完成させる)。「それにしても歌道師範家の最大の使命であった勅撰和歌集の撰進までがついに地下門弟に取って代わられたのは、歌道における簒奪とさえいえる、象徴的な出来事である。」(195ページ) 歌道の世界でも下克上が起きたのであった。小野さんは「中世和歌史はこの辺りに一つの画期がある。長らく勢威を誇った歌道師範家の影響力はこの後、急速に退潮に向かうのである。」(同上)とこのあたりの経緯を評価する。歌道においても地下人が台頭し、新旧交代の主人公となったのである。もっとも頓阿が栄光に包まれて死んだのに対し、同じ四天王でも、頓阿と前後して死んだ慶運には失意が付きまとってはいたのであるが。

 そしてもう一人の四天王である兼好はどうだったのか。「新千載集」が下命された延文元年(1356)には彼はまだ存命であったらしい。小川さんがそう推定する根拠は、既に述べた今川了俊の歌論書の中の、冷泉家に近づいたという証言とともに、彼の家集の自筆本の筆跡である。『家集』末尾の歌8首は、278番の連歌まででいったん擱筆した後、しばらくたって加筆したと考えられている。能書といわれた兼好ではあったが、この間に老化が進んだようで、筆跡には衰えが著しいという(別人の加筆だという推測も成り立たないのであろうか⁉) その歌群8種のうち、「千鳥」題で次の一首がある。
 和歌の浦に三代の跡ある浜千鳥なほ数そへね音こそなかるれ
 (和歌の浦に三代の跡を付けた浜千鳥は、さらに数を重ねることがないといって声を出して鳴いているよ。)
 「和歌の浦」は歌壇を、そこに飛ぶ「浜千鳥」は自らを寓する。余命わずかなことを自覚した詠であるが、具体的には続千載・続後拾遺・風雅の3つの勅撰集に連続入集した後、「なほ数そ」ふことはあるまい、つまり四代の集の作者とはなれそうにない、として嘆いているのである。
 この時代の歌人はしばしば、「N代作者」を自称する。その生涯のうちに自作の歌が何度勅撰集に選ばれたのかを問題にしたのである。『古今和歌集」から「新古今集」までの八代集の時代、勅撰集の成立する間隔は平均40年強、1世紀に2集の割合だから生涯撰集に巡り合わなかった歌人も珍しくないが、その後の十三代集の時代は、集と集との間隔は平均17年、最短5年にまで短縮する。記録を意識するのも不思議はないのである。
 この「N代作者」の記録では、『徒然草』67段にも登場する今出川院近衛が『続古今集』以後6代の作者で、これがおそらく最多、これに続いては頓阿と熱心な二条派歌人であった邦省(くにみ)親王が『続千載集』から『新拾遺集』まで五代の作者であった。邦省親王の場合は、既に次の勅撰集(新後拾遺集)の撰集作業が開かれている折に没したので、さぞ無念であっただろうと、赤の他人である前関白近衛道嗣がその日記に記しているそうである。赤の他人がそう思うくらい…これは重大なことであったのである。
 
 兼好は『新千載集』の撰集下命の経緯、そして自分の知己というか、同輩である頓阿の活躍はつぶさに聞いていたはずである。非公式ながら入集の内定のほうも受けていたかもしれない。ところが、その後急速に老耄が忍び寄り、『新千載集』の完成までは生きていられそうもないと悟って、「千鳥」題の詠のほか、家集末尾八首の追加となったと小野さんは推測している。家集にはそれ以前の勅撰集およびそれに準ずる私撰集への入集歌はすべて載せ、集名を明記しているから、もし新千載集への最終的な入集歌を知っていれば、家集にその旨書き添えたはずである。そうはなっていないので、兼好の死没は延文元年6月の下命から同4年4月の奏覧の間であることは確実で、勘案して延文2,3年(1357~8)であろうと小川さんは推測している。

 「四代作者となれない無念さを抱いたまま、兼好はこの世を去った。あれほど「死」について立派な省察をしていた人が、最後につまらない妄執に囚われたものだと失望すべきか、それともこれが人生の真実として沈思すべきか。亨年は70代後半に達していた。京都を離れたとは考えにくいので、かねてのあらまし通りに仁和寺浄光院に葬られたのであろう。」(198ページ)と小川さんは推測する。
 兼好が四代作者であることにこだわったのは、歌人として自分が認められることへの執着であり、それは自分が自分であることを認めてほしいという人間の当然の欲求の表れであると、私は思う。人間には、他人から正当に評価してもらいたい自分自身の性質があり、兼好にもそれはいくつもあったが、その中で最もこだわりがあったのが歌詠みとしての評価ではなかったのか。だから、彼が四代作者となることを望んだのは、決して「妄執」ではないと思うのである。

 小川さんが『新千載集』で話を打ち切らず、『新拾遺集』にまで触れているので、わかりにくくなっている部分もあるが、『続千載』・『続後拾遺』が二条派主導の勅撰集であったのに対し、『風雅集』は光厳院が御親撰になった京極派の色濃い集であったので、二条派に属する兼好としては、『新千載集』を待ち望む気持ちは強かったと思うし(その一方で、光厳院にも自分の歌を認めていただいたことへの感謝の気持ちもあったとは思うが)、そこで自分の歌が存分に評価されるのを待ち望む気持ちはひとしおであったのではないか。それを「妄執」というべきではない。

 兼好の「四代作者」へのこだわりを「妄執」というのであれば、勅撰和歌集というものの、政治的な性質、その時代、その時代の政治の在り方を肯定し、称賛し、祝福するという性質を無視すべきではないし、当代一流の歌人といわれた兼好が勅撰和歌集には、『続千載集』に1首、『続後拾遺集』に1首、『風雅集』に1首(なお、『続後拾遺集』と『風雅集』の完成の間には23年という比較的長い間隔がある)、そして問題の『新千載集』には3首、合計6首入集しているのみであるのに対し、足利尊氏は内訳不明ながら86首、花園院は『玉葉集』に11首、『続千載集』に4首、『続後拾遺集』に3首、『風雅集』に52首、『新千載集』に22首、『新拾遺和歌集』に15首、『新後拾遺和歌集』に6首、『新続古今和歌集』に1首、合計114首入集している。勅撰和歌集には身分の高い人、権力を握っている人の歌が多く選ばれているという事実に目を向けるほうが重要ではないかと思うのである。

小川剛生『兼好法師』(12)

3月7日(水)曇り

〔第6章 破天荒な家集、晩年の妄執――歌壇の兼好のこれまで取り上げた部分のまとめ〕
 「兼好は生前も死後も歌人として知られていた。」(170ページ) 歌人としての彼は二条為世に師事し、頓阿・慶運・浄弁と並んでその四天王に数えられ、初心の入門者に歌の手ほどきをする役割を果たしていたが、さらに四天王の実力・声望は増して、関白二条良基の邸で開かれる歌会で指導するなど、為世の後継者であった為定に代わって派内の中心的な人物として活躍していた(特に頓阿の果たした役割が大きい)。
 兼好の家集は、同時代の家集が勅撰和歌集の形式を取り入れて、詠み草を分類し、排列にも留意したのに対し、表面的には行き当たりばったりの編纂をしているように見えるが、実は周到な配慮のもとに歌が並べられているのであって、その点が『徒然草』と共通する性格をもっている。
 鎌倉時代以後の歌壇で指導的な地位にあったのは、藤原俊成とその子定家の子孫である御子左家であったが、その御子左家は、定家の後継者である為家の子の時代に、為氏の二条家と為教の京極家、為家が阿仏尼との間に儲けた為相の冷泉家の3家に分かれ、歌壇の主流を争うようになっていた。特に保守的・伝統的で、古典和歌の遺産を継承しながらその枠内で新しい美や感動を発見せよと説く二条派と、革新的で自由な発想や古歌にとらわれない表現を尊ぶ京極派とが勅撰和歌集の撰者を巡って対立をつづけていた。実際に成立した勅撰和歌集をみると、21代集のうち(12)続拾遺、(13)新後撰、(15)続千載、(16)続後拾遺、(18)新千載と二条派の撰になるものが圧倒的に多く、京極派が主導権をもったのは、(14)玉葉、(17)風雅の2集のみである。しかし、観応の擾乱のあおりで、為定が逼塞し、京極派は京極為兼以後は指導者を欠くという空白状態の中で、相対的に冷泉家と冷泉為秀の成果が高まってゆき、為定の失脚後は兼好らが冷泉派に接近したと述べる文書も存在する。

 「戦乱が小康状態となった延文元年(1356)6月、後光厳天皇は勅撰和歌集撰進を下命、撰者には前年出家していた為定を指名した。しかしこれは足利尊氏の執奏(武家から公家への申し入れ、事実上の命令)によるもので、後光厳の意志ではなかった。」(192ページ) 南北朝時代の相次ぐ戦乱は、後醍醐天皇をはじめとする死没者の怨霊の仕業であると広く信じられ、老来多病の尊氏は最も気に病んでいた。そこで、二条家の側から千載集の先例を引き合いに出して、勅撰集の編纂を働きかけたものと小野さんは推測している。保元の乱に敗れて配所に崩じた崇徳上皇の怨霊は後白河法皇の治世に数々の祟りをなしたと畏怖されたが、源平合戦のさなか、後白河は、鎮魂を一つの目的として、生前の崇徳上皇に信任されていた藤原俊成に勅撰集を選ばせ、後白河よりも崇徳の歌を多く収録させたのである。この先例に倣って、新しい勅撰集を企画して後醍醐の和歌を優遇すれば必ずやその鎮魂となるであろう、撰者は後醍醐から最も恩顧を受けた為定がふさわしいというのである。「偶然ながら下命時に俊成も為定も既に出家していた。このような一致も先例を重んずる中世では力を発揮した。」(193ページ)
 河北騰『足利尊氏 人と作品』(風間書房、2005)は尊氏が「武家執奏の勅撰集というものが編まれて然るべき事を述べ」(河北、163ページ)と『新千載集』撰進の背景には尊氏の別の意図があったと記している。こちらの意見も考慮されてよかろう。

 さて、謹慎中であるうえに、眼病を患っている為定が表立っての働きかけができるはずもなく、実際に勅撰和歌集の撰進を主導したのは頓阿であったと小野さんは説く。撰集の途中で尊氏が死去するという事態が生じ、もともとこの撰集には乗り気ではない後光厳は中止を命じた。困った為定が頓阿に相談すると、頓阿は『玉葉集』の撰集の最中に執権の北条定時が死去したという先例を持ち出して、撰歌を続行させたという。
 「こうして延文4年4月、まず奏覧(四季部6巻の完成)を見た撰集は、新千載集と命名され、次いで同年12月に返納(最終的完成)を遂げた。そのころようやく幽囚生活から解放され帰京した光厳法皇は不快の念を隠さず、いったんは協力姿勢を示した冷泉為秀も門弟からの強い突き上げでやはり入集を拒否した。この勅撰集の内情は円満な治世を祝言するにはほど遠かったが、為定は撰者の栄誉に満足し、まもなく世を去ったのであった。」(193‐194ページ)

 これから研究会に出席することになりますので、この後はまた、帰宅後書き足すことにします。あしからず。 

『太平記』(200)

3月6日(火)晴れ

 建武3年(南朝延元元年、1336)、足利尊氏・直義兄弟によって花山院に幽閉されていた後醍醐帝は、京都を脱出して吉野に向かい、吉野金峯山寺に入った。楠正行以下の軍勢が吉野に参じたが、紀州根来の伝法院は、高野山との長年の確執から、宮方に味方しなかった。11月2日、帝の吉野臨幸の報せが越前の金ヶ崎城にもたらされた。いったんは足利方について金ヶ崎包囲に加わっていた越前杣山の瓜生保は、宮方に心を寄せる弟たちと同心すべく、本拠地に戻り、脇屋義助の子・義治を大将として挙兵した。23日、高師泰は加賀・能登・越中の兵を杣山に向かわせたが、瓜生の奇襲により敗退した。29日、瓜生は斯波高経の新善光寺城を攻め落とした。建武4年(南朝延元2年、1337)正月11日、脇屋義治は里見伊賀守を金ヶ崎城の後攻めに向かわせたが、高師泰・今川頼貞の軍に破り、大将の里見と瓜生兄弟は戦死した。瓜生の母は、義治の前で涙ながらに兄弟の戦士を誉とする由を述べた。一方、後攻めを失い兵糧に窮した金ヶ崎城から、2月5日に新田義貞・脇屋義助らが脱出して杣山に入った。そして金ヶ崎包囲軍の後攻めを行おうとしたが、なかなか実行に移せぬまま時が過ぎた。

 金ヶ崎城の正面に陣取っていた兵たちが、高師泰のところにやってきて、「この城は、きっと兵糧に窮して、馬を食べている様子です。はじめのうちは、城内に馬が40頭から50頭飼われていると見えて、いつも湯で洗ったり水をやったりしていましたが、近ごろは一頭も引き出していません。ぜひ、攻撃をかけてみてはどうでしょうか」と進言した。
 そこで3月6日の卯の刻(午前6時ごろ)から、大手・搦手から10万余騎が、切り立った崖の下や、その手前にある堀の陰から城に取りつき始めた。

 城中の兵たちは、これを防ぐために、木戸のあたりまでよろめき出たけれども、走り木(攻め寄せてくる敵を倒すため、城柵の上から落とす丸太)を使うだけの力も残っておらず、弓を引くこともできなかったので、ただ無意味に櫓の上にのぼり、塀の陰に集まって、苦しそうに息をしているだけであった。寄せては、この有様を見て、「思っていた通り城は弱っていた。日の暮れぬうちに攻め落とせ」といって、乱杭、逆茂木を引きのけ、塀を打ち破って3重に構えている二の木戸まで乱入した。

 新田の家来である由良(群馬県太田市由良町出身の武士)と武蔵七党のなかの丹党の武士である長浜(埼玉県児玉郡上郷町長浜の武士)の2人が、大将である新田義顕の前にやってきて申したのには、「城中の兵、数日の(実際はもっと長期の籠城の)疲れによって、矢の一本も満足にいることができません。その一方で敵はすでに、1,2の木戸(縄文)を破って攻め近づいてまいりました。今はどのようにお考えになろうと、勝ち目はありません。皇太子さまを小舟にお乗せして、どこかの浦へと落ち延びさせ、その他の人々は一か所に集まって、御自害あるべしと存じます。それまでの間は、我々が攻め口にまかり向かって、敵を防ぎましょう敵に見られたくない道具類は、みな海に捨てて流してしまってください」と申して、離れていこうとした。しかし、あまりにつかれて足もたたないので、二の木戸の脇に射殺されて横たわっている死人の腹の肉を切って、20余人の兵たちは、一口ずつ食べ、これを力にして戦った。
 ここに出てくる長浜という武士は岩波文庫版の脚注によると丹党に属する武士だというが、史料の裏付けがあるのだろうか。安田元久『武蔵の武士団』に丹党について、〔鎌倉幕府の〕「御家人としてもあまり目立たない存在であったようである。それぞれの本領は児玉等の書士の所領と隣接・錯綜するばかりでなく、比較的山間の地に位置するものも多くて、在地領主としての規模もあまり大きくはなかったものと推定される」(安田、前掲、199ページ)とあり、丹党、また児玉党に属する様々な武士の一族を列挙しているが、長浜氏についての言及はない。

 搦手を守っていた河野通治は攻め込んできた敵を防ぎ、一時間ほど戦っていたが、力を使い果たし、あちこちに手傷を追ってこれ以上戦うことが無理な状態になり、ともに戦っていた32人とともに、持ち場から退却せずにその場で腹を切って、南枕に倒れた。南枕というのは成仏を拒む死に方である。 
 新田義貞の長子で、義貞が去った後は城の大将であった義顕は、一宮尊良親王に向かい、「合戦はこれまでと思われます。我々は弓矢取り(武士)の名誉を惜しむ家のものなので、やむなく自害をいたそうと存じます。宮様のお身柄については、たとえ敵の中にいらしても、敵がお命をお奪いするようなことはよもやないと存じます。そのようにご承知おくください」と申し上げた。
 すると、一宮(尊良親王)は、いつもよりご快活なご様子でニコリとされて、「主上(後醍醐帝)が京都にお戻りになったときに、私を持って宮方の軍勢の頭と、お前を股肱之臣とされた。その股肱之臣がいなくなってしまえば、元首は持ちこたえることができるだろうか。(両者は一心同体である。) それで、私も命を白刃の上に縮めて、この恨みをあの世で晴らそうと思う。そもそもどのように自害をすればよいのか(知らないから、教えてくれ)」とおっしゃる。この言葉に感激した義顕は涙を抑えて、「かやうに仕るものにて候ふ」といったなりすぐに、左の脇に刀を突き立て、右の小脇のあばら骨3枚かけて掻き破り、その刀を抜いて宮の御前に差し置き、うつぶせに倒れて死んだ。

 一宮はすぐにその刀を手に取られて、ご覧になると刀身と柄の境目にまで血が流れてぬらぬらとして掴みにくいので、御衣の袖を何重にも巻いて刀の束をきりきりと握りしめ、雪のように白い肌をむき出しにされて、胸元のあたりに突き立てて、義顕が倒れているうえに倒れこまれた。
 後醍醐帝の側近で一宮に従っていた公家の一条行房、武田五郎、里見時義、気比神宮の大宮司であった気比氏治、太田賢覚など、一宮の御前にいた人々は、「こうなった以上、宮様のお供をいたしましょう」といって、前にあった土器(かわらけ)で刀の刃を研いで、一斉に念仏を唱え、一度に皆腹を切る。これを見て、庭に控えていた兵380人、お互いに差し違え差し違え、重なり合って死んでいった。

 第9巻の近江の国番場で六波羅探題であった北条仲時以下400人以上の武士たちが野伏に道を阻まれて進退窮まり、集団で自害する場面、第10巻の鎌倉が陥落して、北条高時をはじめとする幕府の関係者870人余が自害する場面と並ぶ凄惨な場面である。これまでは武士たちは自害しても、皇族・貴族は自害することはなかったのが、ここでは皇族と貴族も切腹して自害している。皇族や貴族も武士と変わらずに戦うというのが宮方の習わしになってきているということでもあろうか。一宮尊良親王は、当時の歌壇の大御所二条為世の外孫であり、自身も歌人でいらしたのだが、歌とは別の道を選ばれることになった。森茂暁さんは『太平記の群像』で「『太平記』は尊良のいさぎよい最期をくわしく描く」(角川文庫版、35ページ)と記しているが、気の毒な一生を送られた方だという印象がぬぐえない。
 一宮は自害されたが、東宮の安否がまだ不明である。まだまだ残されている人々がいて、その動静については次回に。 

島岡茂『英仏比較文法』(4)

3月5日(月)朝のうちは曇り、午前中から雨が降り出し、時々風雨が強くなる。

 インド=ヨーロッパ語族の中のゲルマン語派に属する英語は、もともとヨーロッパ大陸に住むゲルマン民族の一派であるアングロサクソン人の話す言語であったが、ローマ帝国との接触により、大陸にいる時代からラテン語の影響を受けて、その語彙を取り入れていた。5世紀になって民族の大移動の一環として、アングロサクソン人たちはブリテン島に移住するが、そこでもローマ人やローマ化し始めていた先住民のケルト人たちを通じてラテン語の影響を受けた。この時期までにラテン語から英語に入った言葉は、butterやcheeseに代表される生活語であったが、7世紀になってキリスト教がブリテン島に伝わると、schoolやangelのような文化一般に関するラテン語も英語の中に入ってきた。

 1066年に北フランスを支配していたノルマン人がイングランドに侵攻し、「ノルマンの征服」が起き、その結果、12世紀にかけてフランス語の流入が急激に増大した。このため、それ以前のラテン借入語が、新しいフランス語の形に修正されることが起こった。もちろん、前回に述べたmint, money; inch, ounceのように形も意味も全く違っている場合は、両者とも別の語として共存し続けたのである。

 これも前回に述べた古英語のengelがフランス語の影響でangelとなったのもその一例であるが、他に次のような例がある。
 「修道院長」を意味するabbotは、古英語では俗ラテン語のabbademに由来するabbodという形が使われていたが、古典ラテン語abbatemを継承する古仏語abbatの影響で、abbotという現在の形になった。
 また「城」を意味するcastleはラテン語のcastellumに由来する言葉であるが、古英語のcastelから出たものではなくて、11世紀末ノルマン・フランス語castelから入ったものである。古英語castelは「城」ではなく「村」を意味した。標準フランス語では母音aの前で[k]の音が[≒シュ]に変化したため、この語はchastel ⇒châteauとなったが、ノルマン方言ではこの変化が起きなかったのである。〔島岡さんは古英語のcastelが「村」を意味したとあっさり書いているが、ラテン語のcastellumは「城」とか「城塞」、「とりで」という意味で、それがどうして「村」という意味になるのか、不思議な気がする。〕
 「塔」を意味するtowerはラテン語のturremに由来する言葉で、古英語のtorrから出たものではなく、古仏語tur(uは長音)がou→owと変化してできた語である。現在のフランス語ではtourである。〔torremという語は、私の手元のChambers Murrayの羅英時点の見出し語になっていないので、確認できない。〕
 castelの例で分かるように、フランス語からの初期の借入語にはノルマン方言の影響が目立っていたが、一旦はノルマン形をとった語でも、後で標準的なフランス語に倣って変化した場合も少なくない。
 [≒カ・キャ/シャ]という例としては次のようなものがある。
 英語のcanonは「規範・基準・原則」という意味でラテン語のcanonicus「規範に通じた」の形で普及、ノルマン形でcanonie,標準形でchanonieと分かれ、前者から英語のcanon,後者からフランス語のchanonineが生まれた。フランス語のcanonは教会ラテン語canonから出た学者語で、古仏語からこの形をとっていた。英語のcanonにもこの影響があったかもしれないという。 
 少し脱線になるが、canonには司教座聖堂参事会員(イングランド国教会では主教座聖堂参事会員ということになる)という意味があることも英和辞典に出ているはずである。ジェーン・オースティンの『マンスフィールド・パーク』に出てくる美食家の教区牧師が、このcanonの地位を得たがっていたが、最後のほうで無事任命を受け、そのおかげでヒロインの恋人が教区牧師に就任できるという展開になる。ある時、私はロンドンでこのcanonの地位にある人にインタビューする機会があって、後で礼状を書く段になって、あて名書きをどうするかで悩んで、結局Dear Canon...でいいだろうというということになった。有名なところでは、コペルニクスがこのcanonであった。おじさんが司教bishopで、自分の甥を出世させようと少し有利な地位につけたのである。(ジョン・バンヴィルの小説にDr Copernicusというのがあって、その書き出しの部分が好きで、だれか翻訳を出してくれないかと思っているのだが、なかなか出版されないのは残念である。何が言いたいのかというと、CanonよりもDrのほうがタイトルとしては有力なのかなということである――たぶん、これはその人の職務や業績と関係することであろう)。

 ラテン語で「教会参事会」を意味するcapitulumは古英語ではノルマン方言のcapitelの形で入ったが、のちに標準フランス語のchapitle さらにchapitreに近づき、今日のchapterの形が生まれた。
 ラテン語で「慈悲」を意味するcarittemも古英語ではcaritedで、ノルマン方言の影響を受けていたが、中英語では標準フランス語に近づいてcharite(eは長音)をとり、今日の形が生まれた。

 中にはノルマン系と標準形が、英語の中で共存している例もある。
 「とらえる」という意味のcatchは「とらえる」という意味の俗ラテン語captiareがノルマン系のフランス語でcachierとなったものの現在の形であり、標準フランス語でchqcierといったものは、英語のchase、現代フランス語のchasserとなり、それぞれ「追いかけてとらえる」という意味である。

 一つ一つの言葉を英語、フランス語、ラテン語の辞書で調べたり、その言葉にかかわっての思い出を書いたりしていると、そちらのほうに注意が向かってしまい、なかなか「比較文法」というところまでいかないが、即効的な語学記事を目指すものではないから、これはこれでいいだろうと思って読んでいただければ、幸いである。まだまだ先は長いので、よろしくお付き合いのほどをお願いする。  


 

日記抄(2月26日~3月4日)

3月4日(日)晴れ

 2月26日から本日までの間に経験したこと、考えたことなど:
  
2月26日
 NHKラジオ『まいにちスペイン語』の「スペインの街角」はバリャドリード(Valladolid)を取り上げた。カスティーリャ・イ・レオン州の州都であり、一時はスペインの首都でもあった。何よりもカトリック両王(Los Reyes Católicos)と呼ばれるカスティーリャのイサベルⅠ世とアラゴンのフェルナンドⅡ世の結婚式が行われ、両国が一緒になってスペイン王国が誕生した都市でもある。またセルバンテスもこの年で暮らしていたことがあり「セルバンテスの家」が残されているほか、多くの文学者がこの町に住んでいたとのことである。

 この日のブログでボオマルシェエの『フィガロの結婚』を取り上げた際に、それに先行する喜劇を一般の言い方に従って、『セビリアの理髪師』と表記したが、『フィガロ』の翻訳者である辰野隆は「セヴィラ」と表記している。実際、スペイン語の表記ではSevillaであるから、セヴィラと読んでしまったのだろうが、スペイン語の発音は「セビーリャ」に近い音である。辰野の学生であった渡辺一夫はそのエッセーの中でスペイン語の固有名詞をスペイン語風に表記しているので、多少の心得があったのだろうが、師匠の間違いを治すのは遠慮したらしい。

 1936(昭和11)年のこの日、当時の陸軍の皇道派と呼ばれるグループに属していた青年将校がクーデター:2・26事件を起こした。亡父はこの時学生で、東京の都心部jに住んでいたので、事件の一端を目撃し、「下士官兵に告ぐ」というビラを拾ってとっておいたりしていた。このビラは長いこと我が家に所蔵されていたが、今は処分されたらしい。
 鈴木清順の『けんかえれじい』の最後の部分で、北一輝と不思議な出会いをしていた主人公が2・26事件の知らせに接して急遽東京に向かう。これは鈴木隆の原作にも、新藤兼人の脚本にもない、清順の独創であったらしい。〔実際には、鈴木隆氏は早稲田に進学して、坪田譲治に出会い、児童文学に志すのである。〕

2月27日
 『朝日』の朝刊に江戸時代の初め、徳川家康らに仕えて活躍したウィリアム・アダムズ(三浦按針)が持ち帰り、横須賀の浄土寺に伝えられていた貝葉経を専門家が調べたところ、「パーリ語をクメール文字で記した」もので、タイのアユタヤ王朝時代(17世紀)に書写された可能性があるとのことである。写真で見る限りでは、パーリ語とクメール語の二言語テキストのように思われるが、素人がとやかく口をはさむべき問題でもない。
 貝葉(ばいよう)というのは、貝多羅葉(ばいたらよう)の略で、東南アジア・南アジアなどで、ヤシなどの葉を紙の代わりにして文字を書き込んだ文書で、この地域から日本にも伝わってきたものも少なくない。京都の二条に貝葉書院という書店があるが、ここは鉄眼版の大蔵一切経を版木から手刷りで印刷・製本して販売するのを中心に仏教の典籍を扱っているところらしい(前を通ったことはあるが、中に入って話を聞いたことはない)。だから貝葉とは直接の関係はないのだが、何となく古びた感じがするところが似つかわしい。

 『まいにちスペイン語』の「ラテンアメリカの街角」はラテンアメリカで一番小さい国であるエルサルバドルの首都サンサルバドルを取り上げた。先スペイン期の様々な遺跡も残り、小さい国なりにいろいろ便利な点もあって訪問する価値があるそうである。

 佐藤優『亡命者の古書店 続・私のイギリス物語』(新潮文庫)を読み終える。英国陸軍語学学校でロシア語を研修していた時代に、著者はチェコからの亡命者が経営する書店で店主をはじめ様々な人々との出会いを重ねることになる。外交官としての修業時代の回想。この書物については、また機会を見つけて詳しく取り上げるつもりである。

2月28日
 吉田健一『わが人生処方』(中公新書)を読み終える。長女である暁子さんの回想によると、しつけの厳しい吉田家では子どもたちは早寝であったが、父親の健一は子どもたちが寝静まった後、彼らの読んでいる漫画を読むのを楽しみにしていたということである。特に長谷川町子と赤塚不二夫がお気に入りだったようでこれは私も同じだなと思った。健一の父親の茂もサザエさんを愛読していたようで、長谷川家が箱根に別荘を買ったときに「サザエさんと隣組になりましたね」といったことを町子が書き残している。そういえば、「サザエさん」で波平さんのところに吉田首相から電話がかかってきて、じつは間違い電話だったというのがあった。「ドラえもん」ではしずちゃんのところに郷ひろみさんから間違い電話がかかってくるエピソードがあるが、同工異曲である。

3月1日
 『まいにちスペイン語』応用編「スペイン文学を味わう」はガルドスの『フォルトゥナータとハシンタ』の7回目。フェイホーの世話を受けるようになってみるみる元気を取り戻したフォルトゥナータであったが、その一方でフェイホーは体の衰弱を実感している。そこで夫のところに戻り、何とか我慢して生活するように説得し、フォルトゥナータとマクシの夫婦生活が復活する。

 『まいにちイタリア語』のテキストに掲載されている「直芽先生のDolce Vita」は、講師である朝岡直芽さんが幼年時代を過ごした北イタリアの町Vareseからミラノに向かう高速道路では「濃くて重い霧が突然立ち現れる」ので、ドライバーは油断できないという話が記されていた。そういえば、須賀敦子さんに『霧のミラノ』というエッセー集があった。

 1919年(大正8年)のこの日、当時日本の支配下にあった朝鮮の独立を求める人々がソウル市内で独立宣言を読み上げ、万歳を三唱。「独立万歳」を叫ぶ示威行動は全国に広がった。私の母方の祖父は朝鮮総督府の役人だったので、伯母や伯父たちの中には(母はまだ生まれていなかった)朝鮮にいて、「暴徒が騒いでいる」「夜間の外出は危ない」などと大人たちが話しているのを聞いては、「ボート」がなぜ騒ぐのかとか、薬缶のお化けが出るのだろうかと不思議に思っていたそうである。

 1954年(昭和29年)のこの日、第五福竜丸がビキニ環礁で死の灰を浴びた。この事件を題材にしたアメリカの画家ベン・しゃーんによる連作『ラッキー・ドラゴン』があるほか、1959年には新藤兼人監督により『第五福竜丸』が作られた。

3月2日
 『まいにちスペイン語』「フォルトゥナータとハシンタ』の最終回。いったんは落ち着きかけたフォルトゥナータであったが、またもやファニートの誘惑に屈し、今度は妊娠する。そのため、マクシと別れ、もともと住んでいたマヨール広場の伯母の家に転がり込む。赤ん坊が生まれ、安静にしていなければいけないのに、ファニートが新しい女と浮気をしていると聞いた彼女は、その女と大立ちまわりを演じ、そのために体調を崩す。死を予感した彼女は遺言書を書いて赤ん坊をハシンタに託し、後継ぎとして育ててくれるように伝える。彼女は神父に”Soy ángel... Yo también... mona del Cielo."(あたしも天使なんです)とつぶやいて息絶える。ハシンタは子どもを引き取り、共通の不幸に根差すフォルトゥナータへの親近感を抱きながら、愛情を込めて幼子を抱きしめる。妻ハシンタと母に責任を追及されたファニートは、赤ん坊は自分の子どもであり、認知もすると明言した。
 スペインの1870年代は、共和制が実現したかと思うと王政が復古するという転変の時代であり、自分たちの利益を優先させて旧勢力と妥協したブルジョワジーの代表者として、浮気者のファニートが描かれているということらしい。フォルトゥナータがその住まいを何度も変えることを通じて、当時の庶民の貧しい不安定な生活の一端が描かれていることも見逃せない。

3月3日
 J2第2節、横浜FCはアウェーで岐阜と対戦。後半にイバ選手のゴールで1点を挙げ、今季初勝利を飾った。レアンドロ・ドミンゲス選手、松井大輔選手も途中から出場したようで、徐々に陣容が整ってきたという印象を受ける。

 NHKラジオ『朗読の時間』は江戸川乱歩『パノラマ島奇談』を読み始めた。この朗読は以前にも聞いたような気がする。同じNHKラジオ第二放送の『エンジョイ・シンプル・イングリッシュ』の時間でも乱歩の『夜光人間』を英語で放送しているので、両方を聞き比べてみるのも一興であろう。『パノラマ島奇談』は石井輝男監督によって『江戸川乱歩全集 恐怖奇形人間』という題名で映画化された。土方巽が出演しているなど、カルト的な魅力のある作品ではあるが、私はあまり好きではない。石井の作品では新東宝時代の<モダニズム>の傾向の強いものが好きである。

3月4日
 NHKの語学番組のテキストの3月号の巻末に、4月からの番組の予定が出ていて、10年間『ラジオ英会話』を担当されていた遠山健さんが番組の担当を交代し、新たに『遠山顕の英会話楽習』という番組を担当されるようだ。『英会話楽習』は現在放送中の『短期集中! 3か月英会話』に代わって放送されるもので、どんな内容になるか、楽しみである。『3か月英会話』では「洋楽で学ぶ英文法」とか、「演劇ワークショップ」などの趣向が凝らされていて面白かったので、打ち切られるのは残念であるが、新番組に期待することにしよう。『ワンポイント・ニュースで英会話』は『世界へ発信! ニュースで英会話』と看板を塗り替えるらしい。語学番組の全体の傾向として会話中心、発信型の傾向は変わらないようであるが、もっと別の方角を目指してもいいのではないかと思わないでもない。

 前回「冬季オリンピックが終わった」と書いたが、これから「パラリンピック」が始まることを忘れてはならない。2016年のリオ・オリンピックで日本は金12、銀8、銅21というメダルを獲得したが、パラリンピックでは銀10、銅14という少なからぬメダルを獲得したにもかかわらず、金は0であったのはどのあたりに問題があってのことだったのか、気になることであった。とりあえずは結果の如何に関係なく、選手の無事と健闘を期待したいと思う。
 
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