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2018年の2018を目指して(2)

2月28日(水)晴れのち曇り

 2月になって新しく足を延ばした場所は、特になく、神奈川県と東京都の1都1県、横浜市、川崎市、千代田区、渋谷区、港区、品川区の2市4区のままである。(ただし、横浜市内で港南区に足を延ばしている。)
 新たに横浜市営地下鉄を利用したので、利用した鉄道は5社、横浜市営地下鉄ブルーライン、東京メトロ南北線、東急大井町線を利用したので、8路線、横浜市営地下鉄上大岡駅で降車したので7駅にそれぞれ増加した。
 また江ノ電バスを利用したので、利用したバス会社は3社に、江ノ電バス42-1路線が増えて9路線、乗降した停留所は2つ増えて13か所となっている。〔44+8=52〕

 この記事を含めて28件の記事を書いている。内訳は読書が15、日記が7、『太平記』が4、未分類が1、詩が1ということである。1月からの累計は60で、読書が36、日記が11、『太平記』が10、詩が2、未分類が1ということである。新にいただいた拍手は382、コメントはないので、拍手は1009まで増えているが、コメントのほうの累計は5件のままである。〔37+28=65〕

 15冊の本を買い、10冊を読み終えた。読んだ本を列挙すると、本郷和人『壬申の乱と関ケ原の戦い――なぜ同じ場所で戦われたのか』(祥伝社新書)、椎名誠『単細胞にも意地がある ナマコのからえばり」(集英社文庫)、門井慶喜『この世にひとつの本』(創元推理文庫)、松岡譲『敦煌物語』(講談社学術文庫)、司馬遼太郎『街道をゆく8 熊野・古座街道、種子島みちほか』(朝日文庫)、石井遊佳『百年泥』(新潮社)、ボオマルシェエ『フィガロの結婚』(岩波文庫)、中島文雄『日本語の構造』(岩波新書)、佐藤優『亡命者の古書店』(新潮文庫)、吉田健一『わが人生処方』(中公文庫)ということである。1月に比べると小説・随筆類が多くなっているのが問題で、もう少し学術的な本を読むように心がけたほうがいいかもしれない。
 すずらん通りの東方書店で本を買ったので、本を買った書店は2店ということになる。〔9+11=20〕

 NHK『ラジオ英会話』の時間を20回、『短期集中! 3か月英会話』の時間を12回、『入門ビジネス英語』の時間を8回、『高校生から始める現代英語』の時間を8回、『実践ビジネス英語』の時間を12回聴いている。
 また『まいにちフランス語』入門編を12回、応用編を8回、『まいにちスペイン語』入門編を12回、応用編を8回、『まいにちイタリア語』入門編を12回、応用編を8回聴いている。
 1月からの通算では『ラジオ英会話』が38回、『短期集中! 3か月英会話』が23回、『入門ビジネス英語』が16回、『高校生から始める現代英語』が16回、『実践ビジネス英語』が22回、『まいにちフランス語』入門編が24回、応用編が14回、『まいにちスペイン語』入門編を24回、応用編を14回、『まいにちイタリア語』入門編が24回、応用編が14回ということである。
 NHK『まいにちスペイン語』テキスト巻末のパズルの問題を正解して、図書カードをもらった。以前『まいにちフランス語』でもらったことがあるので、2言語でパズルを当てたことになる。割とこういう方面での、というか語学よりもパズルの才能があるように思われる。外国語の学習はあまり間口を広げると集中力が拡散するので、4月から少し学習対象を絞っていこうと思っている。〔109+120+1(*❓)=229+1*❓〕

 すずらん通りの檜画廊で丸木位里・俊の展覧会を見た。〔0+1=1〕

 神保町シアターで成瀬己喜男の『夫婦』、横浜駅西口ムービル5でインド映画「バーフバリ 王の帰還』を見た。1月からの通算では映画館3館で5本の映画を見ていることになる。例年にも増して低調な実績だが、そのうち巻き返すつもりである。〔5+3=8〕

 ニッパツ三ツ沢球技場でJ2第1節:横浜FC対松本山雅の対戦を観戦した。これで2つの競技場でサッカーの試合5試合を見ていることになった。〔6+1=7〕

 1月はアルコール類を口にしない日が1日であったが、2月は3日に増えた。3月はさらに断酒日を増やそうと思う。〔1+3=4〕
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『太平記』(199)

2月27日(火)晴れ

 建武3年(南朝延元元年、1336)10月(史実は12月)、足利尊氏・直義兄弟によって京都の花山院に幽閉されていた後醍醐帝は脱出して吉野に向かい、金峰山寺に入った。楠正行以下の軍勢が吉野に参じたが、紀州根来の伝法院は、高野山との長年の確執から、宮方に味方しなかった。11月2日、帝の吉野臨幸の報せが東宮恒良親王、一宮尊良親王を奉じて新田義貞が立てこもっている金ヶ崎城にもたらされた。いったんは足利方について、金ヶ崎城の包囲軍に加わっていた越前の豪族瓜生保は、宮方に心を寄せる弟たちと同心すべく、本拠地の杣山に帰り、弟の義鑑房がひそかに預かっていた脇屋義助の子・義治を大将として挙兵した。高師泰は杣山に能登・加賀・越中の6千の兵を派遣したが、瓜生の奇襲により敗退した。11月29日、瓜生は足利一族で越前守護の斯波高経のこもっている新善光寺城を攻め落とした。明けて建武4年(南朝延元2年、1337)正月11日、脇屋義治は里見伊賀守を金ヶ崎城の後攻めに向かわせたが、待ち構えていた高師泰・今川頼貞の軍勢に撃退され、大将の里見と瓜生保・義鑑房の兄弟は戦死した。

 敗軍の兵たちは杣山に帰りつき、負傷者、戦死者の数を調べてみると、里見伊賀守、瓜生兄弟、甥の七郎のほかに、討ち死にしたものが53人、負傷者が500余人であった。前回、金ヶ崎の後攻めに向かった兵の数は5千余人と記されていたが、本郷和人さんが『壬申の乱と関ケ原の戦い』で指摘しているように、この時代の兵数は1桁少なく見積もったほうがいいので、向かったのは1千人足らずと思われ、過半数が死傷したことになる。多くの将兵が近親を失い、嘆き悲しむ声でいっぱいであった

 ところが瓜生兄弟の母親である尼公はあえて悲しみの様子を見せなかった。そして大将である義治の前に出かけ、「この度敦賀に向かって攻め寄せたこの者どもが、ふがいなくも、里見殿を戦死させてしまいました。さぞふがいないとお思いでしょうと、ご心中お察し申し上げます。ただし、これを見ながら、保とその兄弟が、みな無事で帰ってきたということになれば、一層情けなさが募ったのでしょうが、保と、義鑑房、甥の七郎の3人は里見殿の最後のお供をして戦死し、残りの弟3人(源琳、重、照)は大将のために生き残ってまいりましたので、それが悲しみの中の喜びだと思っております。本来、大将である義治様を世に出し申すため、この攻撃を計画したのですから、自分の一族が千人・万人と一度に討たれても、嘆くべきことではありません」とさすがに涙を抑えかねてはいたが、自ら杓をとって義治に勧めたので、消沈していた杣山の将兵も、戦死者を嘆いていた人々も、みな憂いを忘れて勇気を奮い起したのであった。

 さて、この逸話ののち、『太平記』の作者は、義鑑房が討ち死にした時、弟3人が死なばともにと戻ろうとしていたのを強く押しとどめたのは、昔の中国で忠義のためにあえて生き延びた人の例を模範にしたからであるとして、『史記』「趙世家」に出てくる程嬰と杵臼の説話を長々と語っているが、語られているのは原話とはかなり違った内容だそうである。

 金ヶ崎城を包囲している足利方の軍を背後からついて包囲網を破ろうとする後攻めの計画が失敗したので、起死回生を願っていた籠城軍は頼みの綱が切れて、がっかりしてしまった。籠城が長引くにつれて兵糧が乏しくなってきたので、敦賀湾の魚を釣ったり、海藻をとったりして飢えをしのいでいた。短い期間であれば、それで済んだであろうが、攻城戦は長引いているし、いつ戦闘が始まるかもわからない、あまりにも兵糧に窮したので、大切に養っていた乗馬を毎日二頭ずつ刺し殺して、めいめいの朝夕の食事にあてた

 後攻めをするものがなければ、この城はもはや10日、20日と持ちこたえられないだろう。総大将のご兄弟(新田義貞、脇屋義助)がひそかにこの城を脱出されて、杣山に入城され、加勢する軍勢を招集されて、再度後攻めを行って包囲網を破ってほしいものです」と場内の者たちが口々に勧めたので、その意見に同意して、新田義貞、脇屋義助、北国まで随行してきた公家の洞院実世(後醍醐帝の近臣で、『園太暦』の記者である公賢の子)らが、土地の地理に詳しい河島維頼(これより)を案内者として、上下7人で2月5日の夜半、城をこっそりと抜け出し、杣山に落ち着いたのであった。

 杣山では瓜生兄弟の生き残りである源琳、重、照の兄弟と宇都宮泰藤がこれを迎えて大いに喜び、「再度金ヶ崎に向かって、前回の雪辱を果たし、金ヶ崎城内の瀕死の状態の味方の軍を蘇生させようと、さまざまに思案を巡らしたが、季節は春を迎え、暖かくなるとともに山の雪も消え、北国の武士たちはますます足利方に参集して、騎馬の兵だけで10万騎を超える様子である。義貞のもとにいるのはわずかに500余人、士気は衰えず盛んであるとはいえ、馬も武具も十分に調達できず、ああしようか、こうしようかと、悩みながら20日余りを過ごしているうちに、金ヶ崎ではもはや馬も食い尽くして、食事ができないということが10日ばかりになったので、軍勢は身動きもできなくなってしまった。

 北国で再起を図ろうとした義貞の軍勢は、越前の入り口の敦賀にくぎ付けにされて再起どころではない。包囲軍が戦功をあげようとしゃにむに攻め寄せてくるというのであれば、反撃の可能性もないことはないが、包囲が長引いている。足利方の武士たちは、大義名分よりも、優勢な方につくという機会主義的な動機に支配されているから、勝利が確実にならないと動こうとしないようである。その態度が、籠城軍をより苦しめることになるというのも皮肉である。北国を含め、諸国の情勢は足利方に有利で、宮方としては奥州で兵を集めている北畠顕家が頼りということになりそうである。
 

ボオマルシェエ『フィガロの結婚』

2月26日(月)曇り、午後から晴れ

 2月16日、ボオマルシェエ『フィガロの結婚』(辰野隆訳、岩波文庫)を読み終える。18世紀の中ごろのスペインを舞台にした5幕からなる恋愛喜劇で、同じ作者の『セビリアの理髪師』(1775)、『罪ある母』(1792)と三部作をなす。『セビリアの理髪師』はパイジェッロ(1782)とロッシーニ(1816)によって、この『フィガロの結婚』(1784)はモーツァルト(1786)によって、さらに『罪ある母』はミヨー(1964)によってそれぞれ歌劇化されている。もっとも、モーツァルトの歌劇の台本はロレンツォ・ダ・ポンテの手になるもので、5幕からなる原作が4幕に改変されているし、役名についてもシュリュバンがケルビーノに変わっているなど原作のままというわけではない。

 アンダルシア地方に領地を持つアルマヴィヴァ伯爵は美しいロジイヌという女性に恋をしているが、彼女の後見人である医師のバルトロが厳重に監視をしていて、なかなか近づくことができない。それというのもバルトロが年甲斐もなくロジイヌに恋をしていて、彼女との結婚を望んでいるからである。そこに現れたのが何でも屋の理髪師フィガロで彼の策略が功を奏して、伯爵はロジイヌと結婚するというのが『セビリアの理髪師』のあらすじである。『フィガロの結婚』には、フィガロはもとより、アルマヴィヴァ伯爵、ロジイヌ⇒伯爵夫人、バルトロが引き続き登場する。

 伯爵の結婚の成功により、彼の用人=部屋付きの下僕・門番に取り立て(?)られたフィガロは、伯爵夫人の腰元=第一侍女であるシュザンヌと婚約するのだが、そろそろ倦怠期を迎え始めた好色な伯爵がシュザンヌに食指を伸ばし、彼の結婚を機にいったん廃棄した領主による<初夜の権>を復活させようなどと考え始める。しフィガロはシュザンヌと結婚するために、あらゆる知恵を絞って伯爵夫人や伯爵の第一小姓のシェリュバンを味方につけて伯爵に対抗し、伯爵のみだらな野心を打ち破って結婚に成功する。
 17世紀のルイXⅣ世時代に活躍したモリエールの恋愛喜劇では、恋する男女は召使の助けを借りてその思いを成就する。『セビリアの理髪師』もその延長線上にある恋愛喜劇ではあるが、辰野隆が指摘するように、召使の役柄であるフィガロが恋愛成就のための単なる道具以上の、個性的な人物として造形されているところに特色がある。さらに『フィガロの結婚』では召使の側の結婚が主題になっており、それを妨害しようとする好色な領主が腐敗した貴族の典型として描かれている。貴族の堕落・退廃を鋭く批判し、市民階級の知恵や活動性を強調するこの作品はフランス革命の前夜にふさわしい内容を持つものであったと評価される。ただ、貴族にとってかわろうとする市民階級に台頭という時代の流れの反映とは別の、この作品の特徴も見ておく必要があるだろう。

 フィガロが用いる作戦の一つが身代わりを使うというもので、まだ少年らしさが残るシェリュバンをシュザンヌの身代わりに仕立てようとする。もっともこの作戦は、伯爵夫人とシュザンヌが入れ替わるという形で女性陣に取り入れられ、フィガロ自身が騙されたりする。ともかく、身代わり作戦を可能にするのは女性の登場人物が多いことである。シュザンヌの従妹で館の庭師の娘のファンシェット、調度係で姥桜だが美貌を失わないマルスリイヌの2人を加えて4人のキレイどころが入れ代わり立ち代わり舞台に現れる。第5幕第3場の有名なフィガロの長台詞:「噫々、女! 女! 女! 弱ああい、あてにならねえ代物だなあ!・・・」(193ページ)はあくまでフィガロのセリフであって、伯爵夫人とシュザンヌがフィガロの作戦から独立して自分たちの作戦を立てるという筋立てになっていることからもわかるように、ボオマルシェエ自身は女性の強さや計算も認めていると思われるのである。
 さて、身代わりになるということは身代わりになる人物の服装に着替えをするということで、そのために下着姿になったりするというようなエロティックなほのめかしが多いのも特徴である。もう一つこの劇の特徴となっているのは、逃げたり隠れたりすることである。特にシェリュバンは伯爵の不興を買ってその目につかないように逃げ回る。大人と子どもの境界にいるシェリュバンはこの喜劇のカギを握り、ドタバタ劇を主導する存在でもある。(なお、モーツァルトの歌劇ではシェリュバン⇒ケルビーノは「ズボン役」で、メゾソプラノの音域をあてがわれており、女性の歌手が演じることになっている。)

 このように、お色気を前面に出したドタバタ劇というところにボオマルシェエの作劇術の特徴と限界を見ておく必要があるだろう。身代わり劇には倒錯の要素もあり、一時しのぎの猥雑さも付きまとっているということである。単純に市民階級の台頭という以前に、市民階級の中に潜み始めている退廃の影も認められるように思われる。
 「ものみな歌に終わる」という最後の台詞に示されるように、歌劇に作り直される以前からこの劇は歌あり踊りありの構成になっているのだが、モーツァルトの歌劇が有名になったためにその陰に隠れてしまったのは、モーツァルトの音楽のすばらしさのなせる業といってしまえばそれまでであるが、ボオマルシェエの原作の持つ猥雑さが時代の流れの中で飽きられてしまったということでもあるだろう。もしできたら、この原作と歌劇の台本の比較検討もしてみたかったのだが、それだけの余裕がないのが残念である。

日記抄(2月19日~25日)

2月25日(日)曇り、肌寒し。

 2月19日から本日までの間に経験したこと、考えたことなど:
2月19日
 『朝日』朝刊の冬季オリンピック特別コラム「平昌⇒東京」は「言葉使えば世界広がる」という見出しで、「韓国の高校では第二外国語で日本語の人気が高い。今は中国語、アラビア語に押され気味らしいけれど…」と韓国の外国語教育の一端が紹介されていた。どのように学習されているかに目を向けることも重要であるが、その結果がどのようなものかも見ていく必要がある。
 日本では高校で第二外国語を履修している例は少ないが、その結果がどのようはなものかについても検討が必要である。

 NHKラジオ『まいにちスペイン語』の「スペインの街角」は地中海に面したバレンシア州の州都バレンシアを取り上げた。この地方ではオレンジをはじめとする柑橘類で有名で、パエーリャが代表的な料理の1つである。ギリシア神話のヘスぺリスの園の黄金のリンゴは、実はイベリア半島の柑橘類が誤り伝えられたものであるという説がある。英語でhesperidiumというのがミカン状果のことであるのはこのためらしい。バレンシア地方ではスペイン語よりも、カタルニャ語の方言であるバレンシア語が日常的に使われていることも忘れてはならない。

2月20日
 NHK『ラジオ英会話』の時間で、登場人物がアンティーク・カーのショーを見に出かけたところ、'58 Blackbird station wagonという車を見かけるという場面があった。1958年は私が小学校を卒業した年であるが、それよりももっと以前、まだ日本が占領下にあったころ、帰国する米兵がそこらの空き地に自分の車を置いて行ったのを見かけることがあった。そういう車の中に「ステーションワゴン」があったのを覚えている。(これは普通名詞である。) LongmanのActive Study Dictionaryによるとこれはアメリカ英語で、"a large car with extra space at the back"とある。イギリス英語ではestate carというようである。昔、自動車の運転をしていたころ、中古車センターで国産のエステート・カーを見かけて、買おうかなぁと思って迷ったが、結局、その車を買い取って乗り回すことになったのは、私の勤務先の外国人教師をしていたアメリカ人であった。

 『まいにちスペイン語』の「ラテンアメリカの街角」はキューバの首都ハバナを取り上げた。時の流れが止まったような、昔の姿がそのまま残っている街だが、アメリカとの関係が改善してきたので、これからは大きく変化するだろうという話であった。

2月21日
 『日経』の朝刊に奥山俊伸さんによる「昭和テレビの怪物たち」というエッセーが掲載されていた。テレビの黄金期に活躍した放送作家たちの群像で、「チョイ悪の前田武彦」、「勉強家の青島幸男」、「車好きの藤村俊二」とともに、体内時計に放送時間が組み込まれていたように時間に正確だった大橋巨泉の話が興味深かった。そこまではいかないが、学校の教師でも経験を積むと時計を見ないで、大体の時間進行がわかるようになるものである。

2月22日
 21日に、テレビ・映画でわき役俳優として活躍されていた大杉漣さんが亡くなられた。66歳ということは、私よりも若いので、惜しい限りである。多くの、またさまざまな映画に出演されているが、私が見たのはそのうちの『津軽百年食堂』(2011、大森一樹監督)、『百合子、ダスヴィダーニヤ』(2011、浜野佐知監督)、『ぶどうのなみだ』(2014、三島有紀子監督)、『蜜のあわれ』(2016、石井岳龍監督)の4本にとどまっているので、俳優としての業績についてとやかく言うのはおこがましいが、『百合子、ダスヴィダーニヤ』の中条(宮本)百合子の夫の役はなかなかの名演であったと思う。御冥福をお祈りする。

 NHKラジオ『まいにちフランス語』応用編は<アンスティチュ・フランセ関西>L'institut français du Japon-Kansaiを取り上げた。
Á côté de lUniversité de Kyoto se trouve un bâ timent en béton construit en 1936. C'est l'Institut français du Japon-Kansai, anciennement 《Kansai Nichifutsu Gakkan》. (京都大学のそばに、1936年に造られた鉄筋コンクリート建築があります。アンスティチュ・フランセ関西(旧関西日仏学館)です。)
 1階には藤田嗣治の大きな絵や、カミーユ・クローデルの手によるポール・クローデルの胸像が飾られているし、古い貴重な書物のコレクションも擁しているという。
 大学院時代、関西日仏学館にフランス語を習いに通ったことがあるし、ここの映画会で多くの映画作品を見たものであるが、藤田とクローデルの作品については気づかずじまいであった。慚愧。

 『まいにちスペイン語』応用編「スペイン文学を味わう」はガルドスの『フォルトゥナータとハシンタ』の5回目。フォルトゥナータはマクシと結婚して新居に落ち着くが、誰かが呼び鈴を鳴らしたり、扉の鍵を試したりするような音を聞く。マクシの兄のファン・パブロが逮捕されて大騒ぎになっているすきに、サンタ・クルスがフォルトゥナータを訪問し、彼女とよりを戻してしまう。2人の関係が再燃したことをかぎつけたマクシはサンタ・クルスを待ち伏せて襲おうとするが、逆に打ちのめされてしまう。

2月23日
 『まいにちフランス語』は「アンスティチュ・フランセ関西」のその2.この施設は「詩人大使」と呼ばれたポール・クローデルと大阪商工会議所の会頭で親仏家であった稲畑勝太郎の出会いにより、関西に日仏交流の拠点を作ろうという意図から設立されたことが語られた。もともと九条山にあったが、交通の便が悪かったので1936年に現在の場所に移転したという。
Aujourd'hui, il vit au rythme de ses cours, de ses diverses manifestations culturelles. (現在、フランス語講座のほか、さまざまな文化イベントも活発に行われています。)
 日仏学館の南隣に京都大学人文科学研究所の分館があって、これはもとドイツ文化研究所として建てられたものだという(村野藤吾設計)。さらにその南の道路から西に入ったところに、ゲーテ・インスティチュートがあり、もう少し南の東一条通に面したところに日伊学館があった(今はどうなっているかは知らない)。このあたり、戦前からの土地と建物の所有関係はどうなっているのか他人事ながら気になるところである。

 『まいにちスペイン語』は『フォルトゥナータとハシンタ』の6回目。いろいろな事実が明らかになり、フォルトゥナータはマクシの家を出ていく。彼女がフアン・サンタ・クルスとよりを戻したことを聞きつけたハシンタは夫を問い詰め、フアンは何とか言いくるめたものの、フォルトゥナータの面倒を見続けるつもりもなく、彼女に別れを告げる。フォルトゥナータは顔見知りの退役軍人ドン・エバリスト・フェイホーに声をかけられ、彼の世話になることになる。
 フェイホーとガルドス自身には一致点があり、ガルドスが自分自身を作中人物に投影させたというよりも、自分自身を作中人物に似せていったようなところがあるという話が興味深かった。

2月24日
 横浜駅西口ムービル5で、インド映画『バーフバリ 王の凱旋』を見る。支配欲の強い兄と、民衆に愛情を注ぐ弟の2人の王子のどちらを国王にするかということで、いったんは弟に決まりかかるが、2人の結婚をめぐるトラブルから、兄のほうが王位に就く。国を追われた弟には赤ん坊が生まれ…その子どもが親を知らずに成人し、やがて自分の真の身の上を知って、邪悪なおじを滅ぼして王位に就くという大筋の話を部分的に取り上げて、歌や踊りを盛り込んで構成した作品である。兄が自分の黄金の像を作らせるというところで、サダム・フセインや北朝鮮の支配者のことを思い出した。最後の方で金の像のかけらが川の下流に流されていく場面があったが、金は重いからそんなに簡単に水面に浮かばないだろうと思った。

2月25日
 主として喜劇でわき役として存在感を発揮されていた左とん平さんが心不全のため都内の病院で亡くなられたことが報じられた。調べてみたところ、出演映画作品の中では『喜劇 大風呂敷』(1967、日活、中平康監督)、『喜劇 あゝ軍歌』(1970、松竹、前田陽一監督)、『喜劇 右向けェ左』(1970、東宝、前田陽一監督)、『銭ゲバ』(1970、東宝)、『ずべ公番長 東京流れ者』(1971、東映)、『喜劇 三億円大作戦』(1971、東宝)、『女番長ブルース 牝蜂の逆襲」(1971、東映)、『起きて転んでまた起きて』(1971、東宝、前田陽一監督)、『喜劇 誘惑旅行』(1972、松竹、瀬川昌治監督)、『吾輩は猫である』(1975、東宝、市川崑監督、多々良三平役)を見ているのではないかと確認できたところである。むしろ、栗原小巻さんと共演した魔法瓶のCMのほうが印象に残っているような気もする。ご冥福をお祈りする。

 ニッパツ三ツ沢球技場でJ2第1節、横浜FC対松本山雅の対戦を観戦する。両チームともに得点機はあったが、無得点のまま引き分けた。昨年の開幕戦も同じ相手との対戦で、勝利を飾っていたことを考えると、前途多難に思える。

 平昌冬季オリンピック終わる。過去最高の13個のメダルを獲得した選手たちの活躍は見事であったが、これは大会を目指しての関係者の準備や努力の賜物であろう。選手たちの活躍を胸に刻んで、私は私の分野で頑張ることにしようと思う。

フローベール『感情教育』(5‐7)

2月24日(土)晴れ

 1830年の七月革命で成立したオルレアン家の立憲王政は、旧勢力と資本家層の妥協の上に成り立っており、ユゴーが「レ・ミゼラブル」で描いた1832年の六月暴動にみられるように、その内包する矛盾、とりわけ労働者を中心とする民衆の不満によって常に一触即発の危機をはらむ体制であった。
 この物語はそのような時代背景の下、1840年の秋に法律を学ぶためにパリに出てきた旧家の跡取り息子フレデリック・モローを中心に、夢想家で芸術に関心があるフレデリックとは対照的に現実主義的で努力家だが彼と仲のいいデローリエ、豪農の息子で立身出世を夢見て勤勉に努力しているマルチノン、貴族の末裔でやさしいが少し間が抜けているシジー、演劇界での成功を夢見ているユソネらの学生、店員をしているデュサルディエ、理想と理論に走ってなかなか絵を描こうとしないぺルラン、復習教師をしながら社会変革を夢見ている社会主義者のセネカルたち若者の群像を描き出している。
 フレデリックは帰省の途中で知り合った画商アルヌーの美しい夫人に恋心を抱き、彼女への思いを募らせる。デローリエは彼の関心をよそに向けさせ、もっと現実的な人生を歩ませようとする。郊外の別荘で開かれるアルヌー夫人の誕生日の晩さん会に招かれたフレデリックはアルヌーの愛人であるヴァトナ嬢からの手紙を預かって出かけ、それを見たアルヌーはその夜のうちにパリに戻るという。食後、集まっていた人々が別荘の近くを散策する折に、フレデリックはアルヌー夫人と二人で話をすることができた。

 「二人はまわりで皆のしゃべっていることについて話した。夫人は弁舌すぐれた人をえらいとほめる。彼は作家としての栄誉のほうをむしろよしとする。だけど、自分でじかに大勢の人間を感動させ自分の心のあらゆる感情を他人に伝えることができたら、そのほうがはるかに強い喜びを感じられるにちがいない、と彼女はいった。フレデリックはそういう成功には大して心をひかれない、自分には大きな野心などどうせないのだから。
 「あら、どうして? 少しは野心ももたなければ」
 窓のすぐそばに二人は並んで立っていた。眼の前には銀をちりばめた大きな暗い帷(とばり)のように夜がひろがっている。こうして二人が何か意味のある言葉をやりとりしたのは、これが初めてであった。彼は夫人の好き嫌い、そんなことまで知ることができた。彼女はある種の匂いをかぐと気分が悪くなり、歴史の書物が好き、夢のことは信じる性分、そんなことまでも。
 彼は感情に関した出来事を話してみた。彼女は恋から生じた不幸には同情し、偽善的な卑しい行為には心から憤った。こうしたまっすぐな気性は彼女の顔の端正な美しさとよく調和して、その美しさも心からしみ出しているかと思われた。」(136-137ページ)

 こうして二人きりで話すことができ、彼女をよく知ったことで、フレデリックは夫人への思慕をさらに強いものとする。晩さん会にやってきた人々が帰った後、フレデリックとユソネはアルヌー氏の馬車に同乗してパリに帰ることにする。アルヌーとユソネは御者台に座り、フレデリックは娘のマルトを抱いたアルヌー夫人と並んで座る。アルヌーがバラの花束を夫人に差し出すが、馬車が出発した後で、アルヌー夫人はそれを窓から捨ててしまい、フレデリックに黙っていろと合図する。アルヌーが不注意な運転をしたので、ブローニュ森の真ん中で迷ってしまうが、やがてパリに戻る。ユソネと、続いてフレデリックは馬車から降りる。アルヌーは妻と別れて、大通り(ブルヴァール)方面にゆっくりと歩いて行った。

 その後、フレデリックは身を入れて勉強に取り組み始める。自分が法廷で熱弁をふるい、傍聴席でアルヌー夫人が感動しながらそれを聞いていることを空想しながら。
 「そういう空想が、灯台のように、彼の生活の水平線上に光を放って輝いていた。彼の精神は刺激されて、一層活発に、強くなった。8月までじっと家に閉じこもって、最後の試験に合格した。」(141ページ)
 フレデリックのこの変わりようと成功にデローリエは驚き、昔、彼が抱いていた希望をよみがえらせる。フレデリックが代議士に、さらには大臣になり、また彼が相続するはずの遺産で新聞を創刊するというものである。デローリエ自身は、法科大学の教授の職を心掛けている。彼の学位論文についての諮問は、大いに好評であった。

 3日後、フレデリックの論文が通過した。休暇の帰省をする前に、土曜日の会合の最後の会としてピクニックを思いついた。フレデリックはアルヌー夫人と間もなく会えるし、いずれは恋人になるという気がして明るい気分であった。デローリエも、オルセーの青年弁護士討論会に入会を許されて、演説をしたところ好評を博したということで、上機嫌になっている。「みんな陽気だった。シジーは法科を卒業はしない。マルチノンは地方でしばらく見習いをして、やがて検事に任命されるのを待つ。ぺルランは《大革命の精神》を象徴する大作に取り掛かろうとしており、ユソネは来週、デラスマン劇場の支配人に自作脚本の筋書きを聞いてもらうはずで、彼はその成功を決して疑わなかった。」(142ページ)
 その中で寄宿塾で教えていたある貴族の息子を殴ったことで、追い出されたセネカルは渋い顔をしていた。「暮らしの苦しみが加わるにつれ、彼はそれを社会制度のせいにして、金持ちを呪っていた。」(143ページ) そして、夢破れて陰気になり、気難しい人間になっているルジャンバールと、それぞれの憤懣をぶちまけていた。
 会の終わりに、フレデリックはユソネからアルヌー夫人がシャルトルの母親のもとから帰ってきているはずだと知らされる。

 第1部の5がいやに長引いているが、次回(5-8)で終わる。この後、フレデリックの運命が急転するが、それがどのようなものであるかは読んでのお楽しみということにしよう。今回の終わり近くで、若者たちが夢を語り合うが、物語の展開の中で、夢を実現できるものもいるし、そうでないものもいる。思い描いていたのと違う人生を歩むがそれなりに成功する人間もいるし、思い描いていた人生から外れてどんどん別の方向に転落していくものもいる。その中で、フレデリックだけが人生の設計をするよりも、アルヌー夫人への恋心のほうを優先させているのは気になるところである。いずれにしても、私が大学を卒業するころに考えていたこと、またそのころの友人たちの夢や希望を思い出してよんでいたので、余計この箇所の感興が増した。 

島岡茂『英仏比較文法』(3)

2月23日(金)曇り、午後になって晴れ間が広がる

 インド=ヨーロッパ語族の中のゲルマン語派に属する英語は、ロマンス語派に属するラテン語、フランス語の影響を受けながら、現在の形をとるようになった。この書物はそのような変化の姿を、文法だけでなく語彙や発音の変化も視野に入れて歴史的にたどるものである。
 英語のもとになる言語を話していたアングロサクソン民族はヨーロッパ大陸に住み、南のほうから勢力を拡大してきたローマ人たちと接触して、その影響を受けた。この時代にラテン語から英語に入ってきた語彙は生活にかかわるものが多く、ローマ人から(アングロサクソン民族を含む)ゲルマン人たちがどのような施設や品物を取り入れたかがわかる。
 例えばパンを意味する英語はbread、ドイツ語はBrotであり、ラテン語起源ではないことから彼らがすでにパンを知っていたことがわかるが、チーズやバターはラテン語起源の言葉が使われていて、ローマ人の暮らしから影響を受けたことがわかる。

 ゲルマン民族の大移動の一端として、アングロサクソン民族がブリテン島に移った際に、すでにこの島に住んでいたケルト民族を通じて借用した語彙がある。英語のcup、フランス語のcoupeはラテン語のcuppaに由来する。ドイツ語、オランダ語などの大陸の西ゲルマン語の場合は、ラテン語から直接借用したもので、英語のようにケルト経由とは限らない。
 英語もフランス語も同じ杯・カップの意味を持つが、英語が持つ「茶碗」の意味はフランス語ではアラブ慶のtasseに移ってcoupeにはない。ドイツ語のkopfは形の類似から「頭」になり、本来の「杯」の意味は失われている。「茶碗」はフランス語と同じTasseである。なお日本語の「コップ」はオランダ語のkopから来たといわれる。
 この書物には、cup, coupeに対応するイタリア語としてcoppaが挙げられているが、『プリーモ伊和辞典』によると、coppaは「(脚付きの)杯、カップ、グラス」「トロフィー」の意味であり、普通のコップに相当するのはbicchiereである(この辞書の139ページにbicchiereのさまざまな種類が図で示されていて、参考になる。) また「デミタス・カップ」という意味でtazzinaという語がつかわれている。またスペイン語としてcopaが挙げられているが、『現代スペイン語辞典』によると、これまた「(脚付きの)グラス」「トロフィー」という意味で、tomar una copa de jerez(シェリー酒を一杯飲む)という用例が載せられていた。やはりcopaという語には、コップ一般という意味はないようである。

  ラテン語で「酒杯」を意味するpottusは英語のpot、フランス語のpotとなり、双方ともに「びん・つぼ・なべ」など、金属やガラス・陶器などで作られた容器を総称する語である。pottusは語源不明の俗ラテン語で、ここから派生した語として、イタリア語のpotto、スペイン語のpoteが挙げられているが、「あまり使用されていない」(18ページ)とも記されている。『プリーモ伊和辞典』にはpottoという見出し語はなく、この辞典の巻末についている「和伊語彙集」によると、イタリア語で「びん」はbottiglia、「つぼ」はvaso、またはanfora、「なべ」はpentolaである。anforaというのは古代ギリシア・ローマの両手付きの壺のことだそうで、一般には使わないらしい。一方、『現代スペイン語辞典』ではpoteの意味として、①「壺」、②「植木鉢」、③「〔鉄製で三脚のある〕鍋;〔それで作ったアストゥリアス・ガリシア地方の〕ポトフーに似た料理〔cocido]」とあり、使われない語ではなさそうである。〔そういえば、昨年の12月8日に放送された『まいにちスペイン語』応用編「ウリョーアの館」第2回にcocidoという料理が出て来ていた。機会があったら、一度食べてみたい。〕

 「猫」を意味するラテン語はfelisであったが、俗ラテン語のcattusにとってかわられ、英語のcat、フランス語のchatは言うまでもなく、ドイツ語のKatze、オランダ語のkatなどゲルマン諸語でも広く使用されている。cattusが現れたのは5世紀ごろであるから、英語に導入されたのはアングロサクソン民族のブリテン島移住後のことである。

 「7世紀以後、主としてキリスト教の布教に伴って大陸から移入された文化一般に関するラテン語も少なくない。これらの多くは古い借入語と異なり、書き言葉として書物を通して移入されたものである。」(18ページ) 〔本題と直接関係がないのだが、日本に仏教が入ってきたのは6世紀のことであるから、ブリテン島にキリスト教が入ってきたよりも古いことになる。この時仏教と一緒に日本語に入ってきた仏教関係の語彙は「呉音」と呼ばれる音で読まれるというのも興味深い。もっともそれぞれがどのような形で普及・定着していったかも考えずに単純に対比しても、意味はないかもしれない。〕
 「学校」を意味するラテン語のscholaは英語のschool、フランス語のécole、「修道僧」を意味するラテン語のmonachusは英語のmonk、フランス語のmoine、「天使」を意味するangelusは英語のangel、フランス語のangeとなった。 「これらのラテン語の多くはギリシア語に由来するものだが、近代語に借用されたものはすべてラテン語の形を受けたものである。」(19ページ)
 「学校は」ドイツ語ではSchuleという。字で書くと似ているが、英語は「スクール」、ドイツ語は「シューレ」というような読み方になる。英語でも「シュ」という音は昔はよく使われたので、「スク」という発音は、7世紀以後、キリスト教布教に伴って導入されたことを示しているそうである。なお、オランダ語ではschool、イタリア語ではscuola、スペイン語ではescuelaという。(島岡さんはご丁寧にもルーマニア語まで示しているが、表示できない文字が使われているので省略する。フランス語とスペイン語で語頭にeがつくことになった事情についても省略する。)
 「修道僧」を意味するmonachusも「ギリシア語から出ているが、俗ラテン語ではmonicusとなり、英語・ドイツ語(Ḿönch)はiを落として今の形をとった。フランス語では古いmonieが音位転換によって今日のmoineになった。オランダ語ではmonk、イタリア語ではmonaco、スペイン語ではmongeという。〔ということで思い出したのだが、ドイツのミュンヘンのことを、イタリア語ではMonacoという。〕
 「天使」を意味するドイツ語はEngel、オランダ語はengel、イタリア語はangelo、スペイン語はangelである。アメリカのロサンゼルスは、スペイン語起源の地名で昨年12月12日放送の『まいにちスペイン語』の「ラテンアメリカの街角」のコーナーでLos Ángelesとして紹介されていた。
 「これもギリシア語からラテン語を経て西欧に広がった。古英語では今日のドイツ語と同じengelの形をとっていたが、中英語の時期にフランス語angeleの影響で今のangelになった。」(同上) 発音も古い英語ではgeを「ゲ」のように発音していたのが、フランス流に「ジェ」というようになった。現代フランス語のangeの形は中仏語の時代に末尾のelを落としたものである。ローマのキリスト教信者の中には、ギリシア語起源の単語を使うことを潔しとしない人がいて、angelusではなくnuntiusという語を使ったが、一般的にならなかったということを小林標さんが『ラテン語の世界』(中公新書)の中で書いている(235ページ参照)。

 もともと同じラテン語が一方は直接英語に入り、他方はフランス語を経由して英語になったために、それぞれ意味が違うという例もある。たとえば、ラテン語のmoneta (モネータとeを長く発音する)は古代ローマ神話の女神ユノの神殿で、そこで貨幣を鋳造したところから、それを鋳造する場所、鋳造された貨幣を意味するようになった。ラテン語から直接英語に入ったmintは「造幣局」、フランス語を経由して英語になったmoneyは「お金」を意味する。
 また12分の1という微小な大きさを意味していたラテン語のunciaは、直接英語に入って長さの単位であるinchとなり、フランス語を経由して重さの単位であるounceとなった。〔今のフランスでは、ヤード・ポンド法ではなく、メートル法を採用しているので、これらの語は消えている。〕

 前回、今回、そしておそらく次回も英語とフランス語を中心に語彙の問題を取り上げることになると思うが、この問題が実は生活の問題と深くかかわっていることを改めて認識しているところである。島岡さんが書いていることを、辞書などを参照しながら、いちいち確かめながら読んでいると、新たな発見に出会う場面もあり、なかなか面白い。 
 

エラスムス『痴愚神礼賛』(9)

2月22日(木)雨、午後になってやんだようである。

〔これまでのあらまし〕
 鈴野房の付いた阿呆の帽子をかぶり、道化の扮装をした痴愚の女神が、世の中を明るくし、人々も神々もいつまでも若く保つのは自分に他ならないと自賛の演説をします。人生も、国家も、学芸も痴愚が支配している、痴愚であることこそ人間を幸福にするのであり、阿呆は実際に賢者よりも幸福に暮らしているではないかといいます。

〔36〕
 阿呆たちは、道化として王侯に仕え、その寵愛を受けていると女神は言います。沓掛さんも注で触れているように、これは当時の宮廷でよく見られたことのようで、シェイクスピエアの『リア王』にも道化が登場するのはご存知だと思います。賢者がずけずけと本当のことを言っても、王侯は痛い耳を貸そうとはしません。「それにひきかえ阿呆たちは、王侯たちがどこであれ、あらゆる手を尽くして求めているもの、つまりは軽口、微笑、呵々大笑、気晴らしといったものを提供してくれますからね。この連中だけが素朴で本当のことを口にしているのだという、おろそかにはできぬ、阿呆ならではの才覚もお認めいただきたいところです。」(92ページ)

 真実は極めて大事なことであると女神は言います。プラトンの対話編である『饗宴』に登場するアルキビアデスは、「真実が語られるのは酒と子供の口によってである」(同上)という諺を引用していますが、この両者は痴愚の女神と深い関係にあるといいます。なお、沓掛さんの注によると、アルキビアデスが引いているのは「酒は子供抜きでも、子供を入れても真実のことを語るもの」(264ページ)という諺だそうです。それでエラスムスは痴愚の女神に間違った引用をさせて、暗にその無知をからかっているのかとも思われますが、ベティ・ラディスの英訳についているA.H.T.リーヴァイの注によると、エラスムスがイタリアの人文主義者であるフィチーノの翻訳をそのまま使ったために、誤訳が訂正されていないのだそうです。

 「真実というものは、人を傷つけないかぎり、本来聞く者の心を喜ばせる力を秘めているということですね。ですが神々は、阿呆たちにのみ、それをなさしめることにしたのです。」(93‐94ページ)と女神は言います。これは王侯たちに自分の進言を聞き入れてもらえなかった賢人エラスムスの人間観察の結果の発言でしょうか。

〔37〕
 さらに阿呆たちは生前も死後も幸福であり続けると女神は言います。「この人たちは死を恐れることもなく、それを感じもせずに、大いに楽しくその一生を送ったのち、ただちに福者の楽土(エリュシオン)へと居を移して、その地で、敬虔にして閑雅な日々を過ごしている人たちの魂を、道化を演じて楽しませるのです」(94ページ)といいます。エリュシオンというのはギリシア神話に出てくる英雄や善人が死後を過ごす楽園で、痴愚の女神は異教の世界を語っていることになります。これに対して、「知の典型と目される人物」(95ページ)は一生必死に勉強して悲惨な生活を送るだけだと切り捨てます。

〔38〕
 ストア派の哲学者は、「愚のはなはだしきは狂気に近い」→「狂気ほど悲惨なものはない」(同上)という三段論法を持ち出して、痴愚を攻撃するかもしれないが、狂気には2種類あることに気づいていない議論であると女神は言います。一つは欲望や復讐心にかられた狂気であり、もう一つは痴愚・錯覚からくる狂気であるといいます。前者は確かに悲惨であるが、後者は決して悲惨なものではない、むしろ幸福なものだといいます〔いわゆる誇大妄想について言っているようです〕。

〔39〕
 こうした幸福な狂気の例として、女神は狩猟に夢中になっている貴族、建築熱に浮かされている人々、錬金術師などが挙げられています。〔女神は「幸福な」人々の例に含めていますが、客観的にみると、簡単に同意はできないはずです。〕 さらに賭博狂の場合は、ひょっとすると悲惨な狂気のほうに属するのかもしれないとも言います。二分法を持ち出しておいて、その二分法では理解不可能な事例を持ち出してしまったようです。

〔40〕
 次に突飛な話や迷信の類を安易に信じる人々も痴愚女神の同類の狂気に取りつかれた輩であるといいます。この連中は幽霊だの、お化けだの、亡霊だの、地獄だの、その他五万とある不思議なことについての奇怪至極なことに話が及ぶと、その馬鹿げた中身に飽くことがないのです。話に本当らしさがなければないほど、嬉々として耳を傾けて信じ込み、心地よくお耳をくすぐられるというわけです。こういった馬鹿話は、退屈な時間を凌ぐ時間つぶしに驚くほど役立つばかりではなく、懐を潤すという効用もあるのですよ、とりわけ坊主や説教師たちのね。ここには、民衆の無知に付け込んで、奇跡譚をでっちあげて彼らの信仰を勝ち取り、金を稼いでいる一部の僧侶たちの腐敗への批判が込められているようです。なお「幽霊だの、お化けだの、亡霊だの、地獄だの」というところ、英訳では”ghosts, spectres, phantoms, and the dead"となっています。

 さらに女神は当時一般的であった聖人への信仰というよりも迷信について言及しています。キリスト教は一神教のはずですが、聖母マリアへの信仰に加え、様々な聖人への崇拝が加わりました。そういう迷信の中には、キリスト教以前の異教の残りかすが混じっていることもエラスムスは見抜いていたようです。福音書にこそキリスト教の真理があると信じるエラスムスは聖人崇拝や、巡礼といったものに批判的で、この考えは、その後のラブレーにも受け継がれています。

 さらに教会の発行する贖宥符(いわゆる免罪符)を購入することで、罪が軽くなるという考えも批判されます。「犯した罪から、その実なんの効力もない赦免によって救われるというので悦に入り、水時計ででも測るかのように、数値の表を作って、煉獄にとどまる時間がいかほど短くなったかを、世紀、年、月、日、時間に至るまできちんと計っている人については、さあどう言ったらいいのでしょうね。」(104ページ) 沓掛さんの巻末の注を引用しますと:「煉獄」(purgatorium)とは死者の魂が、天国へ行くまでの間その罪に応じて一定期間を過ごす世界を言う。そのもっとも詳細な描写はダンテの『神曲』に見られる。煉獄の観念はもっぱらカトリックに存在するもので、ギリシア正教の態度はこれに関しては曖昧であり、プロテスタントはその存在を完全に否定している。」(268ページ) 本来のキリスト教は神の国がすぐにやってくるという終末論的な考えを抱いていたのですが、実際にはなかなかやってこないし、その間に罪と罰についての思索が深化し、教会が世俗の世界にしっかりと根を下ろしたために、「煉獄」という考えが生まれたのでしょう。このあたりについてはジャック・ル=ゴフの研究などを読んでみたいと思っています。なお、『神曲』を読み通した感想としては、『煉獄篇』に最も読みごたえを感じたことは否定できません。

 そして各地方、様々な職業に応じて守護聖人が信じられていることを馬鹿馬鹿しいといいます。聖母マリアへの信仰についても「この御母に、その御子が担っておられる以上の役目を押し付けております」(106ページ)と過度になることを批判しているのは、エラスムスの本心を代言したものと思われます(いつの間にか、痴愚女神の位置づけが変化しています)。

 教会の世俗世界への行き過ぎた干渉、腐敗・堕落に対するエラスムスの批判はなかなか鋭いものがありますが、痴愚女神による告発という紗がかけてあります。まもなく始まることによるルターらの宗教改革の進展の中で、エラスムスたちは新旧両教会の板挟みになります(一応カトリック教会にとどまるのですが、きわめて居心地の悪い状態になります)。
 多少飛躍した考えになりますが、近世の中国では功過格といって、一日一日にした善いことと悪いこととを点数化してその日の反省の材料にする書物が作られました。煉獄にいる時間を数えるのとは違いますが、変に細かいところがあるのは同じだと思います。

小川剛生『兼好法師』(10)

2月21日(水)曇り、時々晴れ

第6章「破天荒な家集、晩年の妄執――歌壇の兼好」の続き
 兼好は頓阿・慶運・浄弁とともに、二条為世門下で頭角を現した地下出身の歌人として四天王に数えられた。そして初心の入門者たちに和歌の手ほどきをしていたのである。
 「四天王はいずれも叡山で学んだ経歴があり、出自も経歴も共通項のなかった4人というわけではない。」(178ページ) 小川さんは本文ではこれだけしか書いていないが、巻末の「年譜」を見ると、元応元年(1319)の項に「この頃、比叡山の横川・修学院に籠居か。徒然草の一部を執筆するとの説あり」(230ページ)と記されている。兼好は二条家の歌会に参加するのは遅かったが、おそらくは頓阿ら他の弟子たちを介して、為世に入門したものと考えられる。為世が撰者となり、元応2年(1320)に完成した『続千載集』には最も若年の慶運を除く3人が入集している。元亨3年(1323)には当時東宮であった邦良親王の御所の歌合せに歌を召される。さらに翌年の正中元年(1324)には二条家の「証本」をもって『古今集』を書写、さらに為世から『古今集』の説を教授されて、「奥書」をもらっている。ここで歌人としての免許を得たといってよい。

 「徒然草では醒めた、時にシニカルな批評さえよくする兼好であるが、歌道ではそのような素振りはなく、為世・為定への姿勢は恭順を極めた」(179ページ)と小川さんは言い、為定の官位の昇進を期待する歌や、為定の嫡子為貫との贈答歌を引用しながら、彼の二条家への忠誠と、古今集への造詣の深さを指摘している。

 兼好の家集は江戸時代初期に突如出現した自筆本が事実上の孤本である。これは清書以前の草稿本であり、そのため兼好の推敲の跡をたどることができる。285首と連歌2句を収める、比較的小規模な家集である。
 家集は撰集に対する語で、もっぱら個人の詠を集めた歌集である。ただ歌を集めたというだけでなく、何らかの編纂意識をもってまとめられたものである。この時代には、勅撰集に準じて四季・恋・雑の部立に分け、さらに同じ歌題ごとにまとめて排列するようになる。
 和歌四天王のうち、浄弁は家集を残していないが、他の3人は家集をまとめている。その中で頓阿の『草庵集』が量的にも10巻1440首と他を圧し、後世への影響も大きい。慶運は約300首である。この2人は歌を分類してまとめているが、これに比べると兼好はかなり変わった編纂ぶりを見せている。
  まず冒頭に「家集事」として、編纂方針が明記されている。その内容は「数を定めない、分類もjしない、ほぼすべての歌人が立春詠で始め出来映えにも気を配る巻頭歌にも意を払わない」(184‐185ページ)「いわば行き当たりばったり宣言」(184ページ)はかなり異色である。小川さんは、これは一つには平安時代の素朴な家集に戻ろうとする意識の表れとしつつ、次のようにも指摘する:「ところがこうした最低限の統一も取らず、明確な編纂の方針は何もないはずなのに、この家集を精読した人は、兼好の個性が一貫していることを感じ取り、排列上の変化の妙を述べることも事実である。これは徒然草の章段の配列方法とも重なるところである。方針は立てない、という宣言は実は逆説であって、周到な配慮のもと和歌が並べられているらしい。」(185ページ) この家集は貞和5年以後に成立したという説が最近は有力になってきているが、「家集の編纂一つをとってみても、和歌四天王の特色がよくあらわれ、ことに健康のユニークな個性が際立つ」(186ページ)という。

 四天王のうちでは浄弁が年長であり、康永3年(1344)を最後にその姿は見えない。残る3人は同世代であり、実際には行動を共にすることが多く、何かと比較されたようである。特に知られているのは、自らも優れた文化人であった関白二条良基(1320‐88)の加えた評価である。良基の邸では、貞和年間に為定を指導者に迎え歌会を開いていたが、頓・慶・兼の3人もそろって出席していた。(なお、良基の家柄は藤原道長の嫡子頼通の子孫の摂関家であり、為世・為定の家柄は道長の子長家の子孫であって、二条と称していても別系統である。) 
 最晩年の良基が歌論書『近来風躰(きんらいふうてい)』(元中5年・南朝嘉慶2年=1388)で述べているところを、小川さんは「頓阿は偏りのない完全無欠の名手、慶運は奇矯だが才気を感じさせる好敵手… この二人に比較すれば兼好がやや劣る」(187‐188ページ)とまとめている。〔歌人としては見劣りがしたかもしれないが、それを補って余りあるものを兼好が持っていたことを良基は見抜いていたであろうか。良基の生まれた元応2年(1320)は、兼好が初めて入集した勅撰集である『続千載集』が完成した年であり、両者の間に40年近い年齢差があったことが、両者の関係にどのように影響していたかは興味のある問題である。〕

 いかに名声があったとはいえ、最上級の貴族である摂関家の歌会に、得体のしれない地下出身の遁世者が出入りし、関白に親しく名を知られるというのは、それまでになかったことである(二条良基の研究家である小川さんが見逃すはずはないが、連歌の大家でもあった良基には「庶民的」な側面があったにせよ)。さらに文和元年(1352)8月、良基は私的に詠んだ百首歌(後普光園院殿御百首)をこの3人に合点させた。つまり、高い評価の作品を選ばせたのである。頓阿は68首(さらに添削評語をも付している)、慶運は72首とかなり甘いが、兼好は42首と辛かった。「これが現在のところ確認される兼好の最終事績となっている。」(188ページ)とのことである。〔次回に触れることになるが、兼好が冷泉為秀に近づいたという今川了俊の記述は、巻末の「年譜」によるとさらにこの後の時期のことである。つまり、それは確認できない事実ということらしい。〕

 関白の百首歌を合点したり添削したりすることは、歌道師範の家柄の当主である二条為定の仕事のはずであった。そうならなかったのは当時の政治事情のためである。この百首歌がまとめられた文和元年8月は、正平一統の破綻を受けて、後光厳天皇が践祚され、10か月ぶりに北朝が復活した月でもある。幕府の申し入れによって、良基はまず関白に復帰し、数々の困難を排して朝廷の再建に尽力したのであった。南朝への内通を疑われていた為定はこの事態に直面して謹慎せざるを得ず、しかも眼病を患って失明同然の状態となり、地下の門弟たちを頼らざるを得なかったのである。
 歌道師範の仕事を次第に地下出身の師範代格の門弟たちが奪っていくというのは一種の下克上であり、歌道の世界でもこのような現象が起きていたことを知るのは興味深いことである。

 「破天荒な家集 晩年の妄執」という章題の前半部分をやっと説明するところで紙数が尽きてしまった。兼好の「四代作者」へのこだわりを「妄執」と小川さんは論じているが、言い過ぎのような気がする。今回はあまり触れなかった二条派と京極派の対立の問題を含めて、次回は勅撰和歌集と歌壇の動きに目を向けながら、兼好の晩年の姿を追っていくつもりである。今回、取り上げた部分の感想としては、兼好の家集に『徒然草』と共通する作者の編纂上の意図を感じるというのは、実際に両者を読み比べてみないとわからない感想ではないだろうか。なお、この書物の巻末の「年譜」は示唆に富む一方で、本文とは違うように思われる内容を含んでいるので注意を要する。

『太平記』(198)

2月20日(火)晴れ、温暖

 建武3年(南朝延元元年、1336)、足利方によって花山院に幽閉されていた後醍醐帝は京都を脱出して吉野へ向かい、吉野金峰山寺に入った。楠正行以下の軍勢が吉野に参じたが、紀州根来の伝法院は、高野山との長年の確執から、宮方に味方しなかった。11月2日、帝の吉野臨幸の知らせが新田義貞の立てこもっている越前の金ヶ崎城にもたらされた。いったんは足利方につき、金ヶ崎城の包囲軍に加わっていた南越前の瓜生保は、宮方に心を寄せる弟たちと同心すべく、本拠地の杣山に帰り、脇屋義治(義助の子)を大将として挙兵した。23日、高師泰により杣山攻めに派遣された能登・加賀・越中3か国の兵は、瓜生の奇襲により敗退した。さらに瓜生は29日、金ヶ崎包囲から戻っていた越前守護斯波高経の新善光寺城を攻め落とした。

 明けて建武4年(南朝延元2年、1337)正月7日、新年の椀飯(おうばん=正月の祝宴の行事)を済ませて、11日には雪が降りやんで晴天が広がったので、義治は新田一族の里見伊賀守(名は不詳)を大将として5千余人の兵を金ケ崎城の後詰として敦賀に派遣した。ここで「~人」という表現をしているのは、積雪のため騎馬での進軍が難しかったためであろうと思われる。その軍勢は吹雪に出会った際の用意をして、鎧兜の上に蓑笠を着け、踏沓(ふぐつ=雪の上を歩くための藁沓)を履いた上にさらに橇(かんじき)を履いて、雪深い山の中を8里踏み分け、その日は葉原(敦賀市葉原)まで進んだ。
 杣山から後詰の兵が差し向けられるであろうことは、高師泰もかねてから予期していたことであり、敦賀の港から20町(2キロ強)ほど東に極めて好都合な要害(とりで)があったので、そこに今川駿河守頼貞を大将として2万余人を差し向けて、あちこちに楯を垣のように並べ、今か今かと敵襲を待ち構えていた。

 夜が明けたので、まず一番に(瓜生保とともに金ヶ崎城包囲から離脱して杣山に走った)宇都宮泰藤が紀氏と清原氏の流れをくむ300余人の武士たちを率いて足利方の先鋒と戦う。敵陣に至る坂の中途にいる足利方の千余人の武士たちを遠くの峰に追い上げて、そのまま二陣の敵に襲い掛かろうとしたが、両側の峰の上から矢を射かけられて、北の峰に退いた。
 宇都宮の率いる紀清両党の兵は、これまで何度も登場してきた歴戦の勇士たちで、足利方の兵が後退したのは正面衝突を避けてのことと思われる(足利方のほうが兵力は多いし、坂の上にいるというのは地理的に有利であるが、それでも逃げている)。そして山の上から矢を浴びせるという戦法を取って、この軍勢を退却させた。

 二番手として、瓜生、(瓜生保とともに金ヶ崎城包囲から離脱した)天野、(『今昔物語集』の「芋粥」の説話で有名な藤原利仁の子孫である)斎藤、下野の武士である小野寺らの軍勢が切っ先をそろえて攻め上がり、守っていた今川頼貞の陣が3か所ほど打ち破られて退却したのと交代して、控えの新しい軍勢として高師泰の率いる3千余人が戦列に加わった。このため、瓜生、小野寺の軍勢が劣勢になり、追い立てられて、宇都宮の軍勢と合流しようと北の峰のほうに向かう。その様子を見た大将の里見伊賀守は見苦しい、引き返せということで、敵の側面から攻撃を仕掛ける。

 足利方は、里見こそが大将であるとみていたので、他の軍勢には攻めかかることをせずに、里見を包囲して討とうとする。それを見た瓜生保と義鑑の兄弟は、戦況を見極めて、我々が戦死しないと、味方の軍勢は助かりそうもないと判断した。味方を逃がすために勇敢に戦って、武名を残そうというのである。そして2人で敵陣に割って入ろうとする。
 瓜生保の弟の林二郎入道源琳、瓜生重(しげし)、照(てらす)の3人はこれを見て、すでにはるか後方に退却していたが、ともに討ち死にしようと引き返す。その様子を見た義鑑は、「日頃何度も言い聞かせてきたことをいつの間に忘れたのだ。我々2人が戦死するのは、一旦の負け、兄弟がすべて戦死してしまえば、永世の負けだということを。深い思慮がないのは情けないことよ」と声を荒げて思いとどまらせようとしたので、3人の弟たちはその通りだと思い、少し立ち止まっていたその間に、大勢の敵に兄たちとの間を遮られてしまい、里見伊賀守、瓜生保、義鑑房は3人ともに戦死してしまった。

 葉原から深い雪を分けて、重い鎧が肩に食い込んで疲れた者たちは、数時間の合戦に入れ替わって戦う軍勢もなく力を使い果たしていたので、引き返して敵と戦おうにも力が出ず、退却しようにも足の力が抜けてしまっていた。そのため、あちこちで進退窮まって、そのまま腹を切ってしまったものは数知れない。幸いにして逃げ延びることができた兵も、その途中で弓矢、鎧、兜を捨てぬものはほとんどいなかった。それで足利方の将兵たちは、「以前に国府(越前市)、鯖並の戦闘で自分たちが捨てた物具を、今になってみな取り返した」と笑ったのであった。

 瓜生兄弟の軍は厳冬の積雪の中の行軍で力を奪われているうえに、周到に準備をして待機している足利方の軍勢と対決することになった。要害の地を抑えられているために、奇襲攻撃をかける余地もなかったようである。後詰めの戦が失敗して、金ヶ崎城の包囲を破ることが難しくなり、北国方面での戦闘の帰趨がほぼ決してしまった。もともと足利方のほうが兵力は多いので、宮方としては自分たちの士気の高さだけが頼りというところがある。この戦いでも、高師泰以外の足利方の武将たちのやる気のなさは歴然としている。森茂暁さんが『太平記の群像』で書いているところでは、一族の中で「軍事的性格をもっとも色く帯びていた」(角川文庫版、174ページ)役割を演じた人物であり、武将としての能力には段違いのものがあったようである。それに比べると、今川頼貞は精彩に欠ける。頼貞の従弟の貞世(了俊)が『難太平記』という本を書いて、南北朝の動乱における今川氏の役割が『太平記』では過小評価されていると論じていることはよく知られているが、岩波文庫版の第1分冊の解説を見る限り、了俊が問題にしているのは、彼の属する遠江今川氏の業績であり、頼貞らが属する駿河今川氏のほうについてはどうも関心がなかったようである。了俊は頼貞を直接に知っていたはずだから、そういうことも影響しているのかもしれない。
 瓜生兄弟の軍に加わっていた斎藤という武士が、藤原利仁の子孫であるということは書いたが、源平の合戦の際に白髪を黒く染めて戦った斎藤実盛もこの一族である。大将を務めた里見伊賀守の名はわからない由であるが、里見氏は新田一族であり、同じく新田一族の山名氏の大部分が足利方に走ったのに対し、宮方にとどまっている。そして、滝沢馬琴が『南総里見八犬伝』で描いているように、何とか戦国時代を乗り切るのである。

石井遊佳『百年泥』

2月19日(月)曇りのち晴れ

 2月11日、石井遊佳『百年泥』(新潮社)を読む。

 インド最南部の大都市チェンナイでIT企業の社員たちに日本語を教えている語り手の<私>は、到着3か月半というときに、百年に一度という洪水に見舞われる。市内を流れるアダイヤール川が氾濫して、通信は途絶、水道も止まる(洪水で水道が止まるというのも考えてみれば変な話だ)。3日たってアダイヤール川の向こう岸にある会社へと出かけようとする。
  「街に出てまず気づいたのは名状しがたい匂いだ。すっぱいような甘いような、くどいくせに目鼻立ちのはっきりしない匂い、人生初の洪水翌朝の匂い。」(9ページ)
 泥まみれのゴミの山に圧倒され、洪水見物に集まってきている人々の群れをかき分け、川にかかる橋に近づく。ようやく橋にたどり着くと、橋のすぐ下を流れている黄土色の激流以上に目を奪われ、さらに「橋の上に目を移せば、川がたのしげにそこを通過したあとが一目瞭然だった。橋の中央には広い車道が走り、その車道の左右を通る歩道にそって幅1メートル、高さ50センチほどに盛り上げられた泥の山が、長さ500メートル以上あるコンクリート橋の端から端まで延々とつづくそのありさまは、川の抱擁のさいいやおうなく橋がうけとめた泥とその内容物の膨大さを物語る。このおびただしい泥を両端に掻き寄せたのは何十人もの人々の何時間にも及ぶ熊手の努力にちがいないが、百年ぶりの洪水ということは、それは1世紀にわたって川に抱きしめられたゴミが、あるいはその他の有象無象がいま陽の目を見たということだ。都会のドブ川の、とほうもない底の底まで攪拌され押しあいへしあい地上に揚げられた百年泥」(12ページ)と対面せざるを得ない。

 語り手は、自分を襲っている匂いの源がこの百年泥であったことに気づく。そのそばで、人々が泥の中から、自分の知り合いを引きずり出している。行方不明になっていた人物が、その時のまま姿を現し、引きずり出した人物と昔話や近況を語りだすのである。泥と取り組んでいたのであろうか、熊手を持っている人物が語り手に話しかける。日本語教室の生徒の一人で、授業中クラスのほかの面々を黙らせることができるほどの影響力を持っているが、その態度からずば抜けて育ちが悪いことがわかるデーヴァラージである。自分ではなく、付き合っていた男が抱え込んだ多重債務に追われ、日本語教室に雇われることになった語り手の「教師としてのレベルを第一日目から敏感に察知し、まったく尊敬にあたいしない人物たることを見抜いたのにちがいない」(22ページ)人物である。

 百年泥からは引き続きいろいろなもの、いろいろな過去が掘り出される。なぜか川の流れとは関係のないはずの物や人物まで掘り出される。語り手の教室体験や日本での生活の回想、父親が地方の村々を巡回して熊と相撲を取って見せる芸人だったというデーヴァラージの過去、泥から出てきた思い出もあるし、そうではない思い出もある。語り手は日本語と英語を使って授業をしているが、生徒たちはタミル語で騒いでいるという教室の混乱。それに劣らず語り手自身の日本での過去も乱雑である。

 チェンナイは1996年にマドラスから改称した、インドの工業都市で、急速に発展し続けていることで知られる。ところがその都市が発展し続ける新しい側面だけを見せているだけでないことを著者は描き出す。過去と現在と未来とが入り混じっている。洪水で授業が休みになることを携帯電話で知らせてきた生徒の名はアーナンダで、釈尊の甥・十大弟子の一人であり、多聞第一といわれる人物と同じ名前である。何気ないところに、恐ろしく古い過去との連続が垣間見える。そして、現実と超現実も入り乱れているのは、すでに紹介しているとおりである。物語の後半では、空を飛んでいる人間が衝突事故を起こしたりする。

 巨大な空想の羽をはばたかせて、新しい時代の到来への希求を物語につづったフランソワ・ラブレーは、多様な言語を使い分けてその物語を構成する人物であった。石井さんのこの作品を読んで私はラブレーの豊饒さを含みこんだ混とんとした世界を思い出した。ラブレーは新しい時代を描き出そうとしたのだが、その想像力の中には中世的な要素が充満していたといわれる。さらに、ここでは省略したが、スカトロジーの要素が特徴となっているのも、ラブレーと石井さんとに共通することである。チェンナイでの生活から、彼女が今後どのような文学作品を生み出していくのかが大いに注目される。

 付記:この作品を読んだことで、タミル語を勉強してみようかと思ったが、独特の文字を使うこと、白水社から出ているエキスプレス・シリーズ以外に入門書が見つけにくいことなどを知り、どうしようか迷っているところである。 

日記抄(2月13日~18日)

2月18日(日)晴れ

 このブログを始めて以来、読者の皆様から頂いた拍手の合計が28,000を超えました。あつくお礼申し上げるとともに、今後ともよろしくご愛読をお願いいたします。

 2月13日から本日までの間に経験したこと、考えたこと、前回以前の記事の補遺・訂正など:

2月6日
 NHKラジオの「名曲スケッチ」の時間に、ビートルズの「ペニー・レーン」を流していたので、昔、リヴァプールに滞在していたころに、B&Bの前の道路をペニー・レーン行きという表示をしたバスが通っていたことを思い出した。

2月12日
 NHKラジオ『まいにちスペイン語』の「スペインの街角」のコーナーでカナリア諸島の州都であるラス・パルマス・デ・グラン・カナリア(Las Palmas de Gran Canaria)を取り上げたことはすでに書いたが、地中海のマジョリカ島にあるパルマ(Palma)のほうが有名かもしれない。スタンダールの小説の舞台でもあり、パルメザン・チーズで有名なイタリアのエミリオ・ロマーニャ州の都市はパルマ(Parma)なので、気を付ける必要がある。

 川地民夫さんが亡くなられた。俳優として日活、その後は東映などで活躍された。一度、私の友人が開いた個展の後のパーティーにゲストとしてこられたことがあった。ご冥福をお祈りします。

2月13日
 『朝日』の朝刊にイスラム教国であるパキスタンで、禁止令が出たにもかかわらず、バレンタイン・デーを祝う人々が少なくないという記事が出ていた。しかし、バレンタイン・デーというのはキリスト教の行事というよりも民間の習俗という性格が強いので、目くじらを立てるような問題ではないと思う。

 『まいにちスペイン語』の「ラテンアメリカの街角」のコーナーではアメリカの自治領であるプエルトリコの中心都市サン・フアン(San Juan)を取り上げた。あらためて地図でプエルトリコがどこにあるのかを探して、アメリカ合衆国からかなり離れたところにあることを発見し、驚いているところである。

2月14日
 『朝日』の朝刊にカンボジアの鉄道事情についての記事が出ていた。主要3路線のうち2路線が内戦の影響で操業しておらず、首都プノンペンから南に向かう路線のみが営業しているという話である。東南アジア諸国では鉄道の発展が遅れ、その間に航空網や高速道路網が整備されていったので、いよいよ鉄道が取り残されているという例が少なくないようである。

2月15日
 『まいにちスペイン語』応用編「スペイン文学を味わう」はベニート・ペレス=ガルドスの『フォルトゥナータとハシンタ』の3回目。小説の第2部に入り、新しい家族、人物が登場する。ルビン家の三男で薬剤師を目指すマクシミリアーノ(マクシ)という青年が美しいフォルトゥナータを見初めて結婚したいと思い、有り金をはたいて彼女と同棲する。フォルトゥナータは請われるままに彼女の過去について語る。彼女はマクシが好きになれないが、娼婦のような生活を捨てて、まっとうな暮らしに入りたいという思いで結婚に同意する。

2月16日
 どうやら、自宅のパソコンでこのブログの編集ができるようになった。

 『フォルトゥナータとハシンタ』の4回目。マクシとフォルトゥナータの結婚にルビン家の人々は反対するが、マクシの決心が固いので、彼の兄で司祭であるニコラスが彼女を修道院で数か月を過ごさせてから結婚させることにする。二人はやっと結婚式を挙げるが、フォルトゥナータは昔の愛人であるファニート・サンタ・クルスがまたよりを戻そうとして近づいてくるのではないかと不安でならない。
 そういえば、角川シネマ有楽町で開かれている「華麗なるフランス映画」特集上映で、ガルドスの原作によるルイス・ブニュエル監督の映画『哀しみのトリスターナ』が上映されているので、まだご覧になっていらっしゃらない方は、この機会にどうぞ。

 ボオマルシェエ『フィガロの結婚』(岩波文庫)を読み終える。この戯曲については、また機会を改めて論じるつもりである。

2月17日
 『日経』の朝刊に春節で来日する中国人観光客の関心がモノからコト、買い物よりも体験に移ってきているという記事が出ていた。すでに訪日したことのある人から情報を得たり、自分の経験を頼ったりして、行きたい場所を自分で自由に選ぶ傾向が出てきているという。NHKラジオ『実践ビジネス英語』の「小売業の危機」(Retail Crisis)というヴィニェット(2月7日~17日放送)で、アメリカにおける小売業の衰退について、インターネットの普及によるオンライン・ショッピングの拡大のほかに、大不況の結果
It made people put a greater value on experiences, as opposed to material posessions. (大不況によって、人々は、物の所有ではなく体験をもっと重要視するようになりました。)というのと、中国人観光客の好みの変化がどのように関連するのか、あるいはしないのかは今のところ分からないが、興味深い傾向ではないかと思う。

 『朝日』の朝刊に93歳を迎えたが、5月に来日して公演を行う予定だというシャルル・アズナヴールさんのインタビュー記事が出ていた。

 東京・神田神保町(すずらん通り)の檜画廊で丸木位里・俊展を見る。この画廊の例年恒例の企画で、本日が最終日である。画廊内での会話を聞いていると、今年が初めてだという人もいるようで、まだまだこの2人の画家の業績が広く知られるように努力する必要があると思った。

 神保町シアターで『夫婦』(1953、東宝、成瀬己喜男監督)を見る。東京に転勤してきた結婚6年目の夫婦(上原謙、杉葉子)は、妻の実家であるうなぎ屋の二階を借りていたが、実家の長男(小林桂樹)が結婚することになり、やむなく妻を亡くして一人暮らしの同僚(三國連太郎)の家に転がり込むが…。自分勝手な上原と、とぼけた感じで人好きのする三國という個性の対比が面白く、小林桂樹と杉葉子のそのまた妹の役を岡田茉莉子が演じていたりして見どころが少なくない。この作品では住宅問題が前面に出ているが、同じ成瀬の『驟雨』では会社の人員整理が問題になっているので、両方を見比べてみたら面白いかもしれないと思った。

 すずらん通りの東方書店で、店頭に尾崎雄二郎『中國語音韻史の研究・拾遺』(2015、臨川書店)が並んでいたので購入する。2006年に先生が亡くなられたのちに、まだ書物としてまとめられずに残っていた論文を門下生が編集したものである。私は中国語研究者ではなく、中国研究者ですらないが、尾崎先生には京都大学の教養部で2年間中国語を教えていただいた恩義がある(というよりも、門外漢ながら尾崎先生の中国語音韻に対する考察の面白さにひかれているところがある)。
 帰宅して、最初の論文「圓仁 『在唐記』の梵音解説とサ行頭音」に目を通していて、びっくりした。この論文では古代の日本語で「サ」の音がどのように発音されていたかが考察されている。そのかなりの部分が有坂秀世(1908‐52)の所説の検討に費やされていて、これは当然の手続きかもしれないが、実は有坂の実兄である有坂磐雄先生に私は教わったことがあるので、驚いたのである。兄弟は他人の始まりと言ってしまえばそれまでだが、尾崎先生とは何度も話をする機会があったので、有坂秀世のことも話題にしてよかったのかもしれないと今更ながら後悔しているところである。有坂秀世は病気のため早く世を去ったが、いろいろなところで重要な論考を残しているので、どこでどんな人がその業績について論じているのか予想がつかないところがある。学問の世界は狭いところでは狭いと改めて思い知らされた。
 有坂磐雄先生は海軍の技術将校であったために、戦後公職追放にあい、ひっそりと(しかし、結構楽しく)暮らされていたのだが、子ども好きということもあって、私の学校で教えられていた。先生には海の家で水泳を習い、テープレコーダーを使っての逆さ歌を聞かされ、部活動では実験物理の手ほどきを受け、その他いろいろなことを教えられたはずだが、何一つ身についていない。知っているのは、先生の父上が弥生式土器の発見者の1人である有坂鉊蔵であること、実弟が音楽評論家の有坂愛彦と、言語学者の有坂秀世であるということくらいである。多方面に造詣をもたれていた先生にいろいろなことを教えていただく機会があったのだが、実にもったいないことをした。教育においては、学習者のほうにそれだけの素質が備わっていなければ、どんなにいい先生に指導されてもものにならないという好例であると居直ることにしている。

2月18日
 中島文雄『日本語の構造』(岩波新書)を読み終える。英語学の大家による日本語論で、2つの言語の違いについていろいろなことを教えられ、それ以上に考えさせられる。 

フローベール『感情教育』(5‐6)

2月17日(土)晴れたり曇ったり

これまでのあらすじ(1~4)
 1840年の秋、帰省のためセーヌ川をさかのぼる船に乗った18歳の青年、フレデリック・モローはアルヌーという画商と知り合い、その美しい夫人に恋心を抱く。フレデリックには、シャルル・デローリエという高校時代の友人がいて、地方の公証人事務所の書記をしているが、パリで一緒に生活しようと約束している。没落しかけた旧家の跡取りであるフレデリックと退役した軍人の子であるでローリエは、育ち方も性格も違うが、親友同士なのである。
 パリに出たフレデリックは地元の有力者であるダンブルーズや、知り合ったばかりのアルヌーを尋ねるが軽くあしらわれるだけである。もともと夢想家で芸術に関心があるので、法律の勉強に身が入らないが、出世主義者のマルチノンや、おとなしい貴族のシジーなどの友人ができる。
 1841年にパリで暴動が起きた際に、警官に拘束された青年デュサルディエを助けようとしたことから、フレデリックは同じ法学部の学生であるユソネと知り合う。演劇に関心のあるユソネとフレデリックは意気投合しただけでなく、ユソネの手引きで彼はアルヌーの経営する新聞社に出入りするようになる。そしてアルヌーの家で開かれた晩餐会に招かれたフレデリックはアルヌー夫人と再会し、恋心をさらに募らせる。実は彼が初めて晩さん会に招かれた日に、父親が管理していた財産を手に入れたデローリエがパリに出てきたのであった。
(5)
 フレデリックのアルヌー夫人への思いを心配したデローリエは、彼の気を紛らわせるべく友人たちを集める、マルチノン、シジーのほか、アルヌーのもとに出入りしている画家のペルラン、デローリエの友人で社会主義者のセネカル、さらにユソネがデュサルディエを連れてくる。
 なかなか勉強に集中できないフレデリックは、デローリエの応援にもかかわらず2度目の試験に落第する。一方、マルチノンは合格して輝かしい未来を約束されるようである。
 試験を再受験するという名目でパリにとどまったフレデリックは、アルヌー夫人を思って悶々としている。何とか気持ちを変えさせようとデローリエが社交的な踊り場に彼を連れ出す。シジー、ユソネ、デュサルディエが一緒である。ユソネが二次会の段取りをつけたが、フレデリックはアルヌーが来ている気配を察して彼を探しに出かける。愛人のヴァトナと一緒だったアルヌーはフレデリック一同を愛想よく迎える。ヴァトナとデュサルディエが知り合いだったことがわかる。シジーやユソネが相手を見つけて去って行った後、フレデリックとデローリエは相手の女性が見つけられないまま取り残される。

 「二人の友は歩いてかえった。東風が吹いていた。おたがいに口をきかなかった。デローリエは新聞社長の前で《はえなかった》ことを残念に思っているし、フレデリックは憂鬱に沈みきっていた。やっと口をひらいて、あんな踊り場は馬鹿馬鹿しいといった。
 「誰のせいだい? もしきみがあのアルヌーのそばへゆくのでおれたちと離れなかったら!」(123ページ)
 確かに、ユソネが《ダマエギ侯爵夫人》と話をまとめかけたときに、フレデリックがアルヌーのところに出かけてしまったために、話がご破算になってしまったのは事実である。しかし、恋愛に幻想を抱かないデローリエと、恋愛への幻想に浸りきっているフレデリックとのこの点での距離は、極めて大きいし、客観的に見ればデローリエが自分の価値観に基づいてフレデリックの世話をしようとするのは見当はずれのおせっかいも甚だしいのである。

 二人は、議論にならない議論を続けた後、突然、デローリエが言う。「今度、通りがかりに出会った女をぼくが《ものに》するかどうか、百フラン賭けるかい?」(124ページ)
 デローリエは、背の高い娘に話しかけ、とうとう、娘は彼の腕にすがることを承知する。デローリエと娘は歩道を行きつ戻りつして、デローリエとフレデリックの住まいに向かう。「デローリエはそばにいられては邪魔だ、きみも同じようにしたらよかろう、という意味を明らかにみせた。」(同上) 追い出される格好になったフレデリックは《こちらには、あんなのより百倍も貴重な、もっと気高く強い恋があるのだのに》何か怒りに似た気持ちに駆り立てられて、アルヌー夫人の家の前まで来てしまった。」(125ページ)
 家の前までやってきたところで、何事も起きるわけがなく、そのままフレデリックは夜のパリの街を当てもなくさまよい続ける。

 夜が明けて、家に帰ってみると、デローリエは女を返してしまっていた。午後になってシジーがやってきて、昨夜の首尾の仕上げをしたいという。デローリエは、フレデリックに自分の薬が効いたと思い込んで上機嫌になる。
 フレデリックはデローリエがクレマンスという娘と仲良く外出したりするのを見ると、侘しい気分になったりするが、その一方で自分がアルヌー邸に出かける前にいそいそとしているのをデローリエがやっかんでいるのに気付いていなかったのである。

 ある夕方、ユソネがフレデリックに連絡してきて、次の土曜日がアルヌー夫人の誕生日なので、祝宴に出席してほしいという。ところがフレデリックが自分の住まいに戻ると、ダンブルーズ夫妻から同じ日に晩餐に招待したいという招待状が届く。こういう正体は受けなければいけないと、それを見たデローリエが承諾の返事を書いてしまう。現実主義者の彼は、それが自分の成功に結び付くかどうかという観点でのみ社交的な付き合いを評価するのである。
 それでも、アルヌー夫人には誕生日のお祝いを送らなければならないと考えたフレデリックはちょうどいい贈り物として175フランする象牙彫りの小さな柄のついた、玉虫色の絹の日傘を見つける。手元不如意のフレデリックは、デローリエから借金をしてその日傘を買う。

 運のいい偶然が起きて、ダンブルーズ家で身内の不幸があり、招待が延期になる。そこでフレデリックはアルヌーの新聞社に出かけるが、アルヌーは彼を待つことなく、郊外の別荘に出かけていた。フレデリックが店のものと話していると、ヴァトナ嬢がやってきて、アルヌーと会えないのを残念がり、その結果、彼女が書いた手紙をフレデリックが彼のところに届けることになる。
 別荘についたフレデリックは、アルヌーに手紙を渡す。アルヌーはできるだけ早くパリに戻らなければならなくなりそうだという。アルヌー夫人の誕生日に招かれた客たちが集まってくる。それぞれが何か贈り物を用意してきたが、ユソネは何も持ってこないで済ました。フレデリックも自分の贈り物を渡した。祝宴は楽しく進んだが、アルヌーは9時半ごろに馬車でパリに戻ると言い出す。一同は、別荘の周囲を散歩しながら、議論に興じる。

 こうして人々が戸外に出て、それぞれ相手を見つけて話をするようになったということは、フレデリックにとってもアルヌー夫人と話をする、思いを打ち明ける好機となるわけである。さて、フレデリックはどのように自分の想いを伝えるのであろうか。
 
 

エラスムス『痴愚神礼賛』(8)

2月16日(金)晴れたり曇ったり

 鈴の房の付いた阿呆の帽子をかぶり、道化の扮装をして登場した痴愚の女神が自賛の演説を展開します。自分こそが世の中を明るく、楽しいものにしてきたのに、そのことが忘れられている。自分で自分を礼賛する演説をしなければ、だれも自分の偉大さに気づかないだろうというのです。彼女はまず、人生そのものが男女の愚かな営みによって始まるのだといい、その人生も馬鹿げた戯れがなければ、つまらないものだと主張します。友情も結婚も相手の欠点に気づかないからこそ長続きするのであるし、国家を支えているのは愚かなおとぎ話でしかないと指摘します。学芸は虚栄心によって発展してきたし、人間の精神の大部分を占めるのは情動だとも論じます。理性的であろうとしても、付き合いにくい人間だとして他人から遠ざけられることは必定だといいます。

〔31〕
 女神は高いところから人間の世界を見下ろしてみればわかるように、「人間の一生というものは、なんとまあ数々の厄災に見舞われていることでしょう」(77‐78ページ)と述べてその生涯に付きまとう苦難の数々を列挙します。痴愚の女神(エラスムスの創作で、ギリシア・ローマ神話にはこんな神様は登場しません)は異教世界の存在ですから、「そもそもどんな罪を犯したがゆえに、人間たちはこんな目に合わねばならないのか」(78ページ)ということは説明しません(キリスト教世界の人間であるエラスムスと、多くの読者にとってそれは自明なはずのことです)。昔から、賢明であるがゆえに、これらの厄災と向かい、結局は自殺を選んだ人間は数えきれないと彼女は言います。しかし、もっと多くの人間は「一つには無知なために、また一つには思慮が浅いために、それにしばしばもろもろの悪が存在することを忘れて、ときには幸福が生まれることを期待して」(79ページ)生き続けています。「生きてゆくことへの嫌悪感なんぞは、きれっぱしほども持ち合わせていないのです。」(同上)
 そして男女を問わず、年をとっても愚かな快楽に身を任せ続けている人間が多いと指摘します。「愚かではあるが至極楽しい生活を送るほうがいいか、それとも、世にいう首を吊るための梁を探すほうがいいか」(81ページ)と問いかけます。他人からバカなことをしていると指摘されても、本人がそれでいいと思うのならば、いいじゃないかというのです。

〔32〕
 この主張に対し、「痴愚に囚われ、過ちを犯し、幻想を抱き、無知の闇に沈んでいることこそが、悲惨そのものである」(82ページ)と哲学者たちは反論するだろう。しかしこれは「痴愚こそはまさしく人間の性(さが)にかなっている」(83ページ)ことを無視した議論だと女神は一蹴します。
 あるいは人間だけに学問をする能力が備わっていることをどう受け止めるのかという議論もなされるが、学問は幸福のために役立つどころかその障害になるとさえいいます。そして学問は悪霊によってでっち上げられたのだという説まで開陳します。
 「本当のところ、黄金時代の素朴な人々は、なんの学問も身につけずに、自然の導くままに、本能にまかせて生きていたのです。争いやもめごと、犯罪のない社会に法律は必要がないように、難しい学問は必要なかったのだというのです。しかし、「この黄金時代の純粋さが次第に失われてゆくにつれて」(85ページ)悪霊たちが学問を作り出し、それが次第に力を増したのだと説明しています。学問は人間たちの頭を悩ますだけのものであると女神は極言します。〔ギリシア・ローマ神話では、大昔にはこの女神が言うような「黄金時代」があった、その後人間は堕落を重ねて現在に至るという一種の下降史観が有力でしたが、女神はそれを取り入れています。これは、18世紀の啓蒙思想における進歩史観とは対照的なものであることに注目しておきましょう。〕

〔33〕
 女神はさらに言葉を続けて、「しかしながらこれらの学問のうちで、一番役に立つとされているのは、常識、つまりは痴愚に最も近いものなのです。」(85ページ)と述べます。何事も常識に従っておけば安全だというわけでしょうか。世間の人は役に立たない理屈ばかりこねまわしている学者先生をそれほど尊敬はしないが、実際に役に立つ存在である医者だけは大事にされているといいます。「学問・技芸は痴愚に類すること近いほど、幸福をもたらしてくれるもので、あらゆる学芸・技芸などとはなんのかかわりも持たずに済み、ただ自然の導くままに生きている人たちこそが、はるかに幸福なのです。・・・自然は虚飾を嫌いますから、何であれ技芸によって損なわれていないものほど、成功を収めるのです。」(86ページ) 何事も自然に任せればいいというのです。〔もっともこの「自然に」という言葉は案外曲者で、何が「自然な」ことであるのかは人によってかなり意見の異なることではないかという気がします。〕

〔34〕
 そして女神は聴き手の関心を動物の世界に向けさせ、自然に従って生活を営んでいる蜜蜂たちの幸福と、「人間に近い感覚を持っているため、人間と一緒に住むことになったのですが、人間と同じ悲惨な目にあって」(87ページ)いる馬とを対比します。あらゆる動物の中で、人間だけが定められた境遇に満足せず、それを踏み越えようとして、かえって不幸になっているのだと主張します。

〔35〕
 愚か者=「できるだけ動物の本性と愚かさに近づき、人間の分際を超えるようなことは何一つ企てたりせぬ人たち」(89ページ)こそが、「もっとも不幸ではないように思われます」(同上)と女神は断じます。「愚か者たちは、自分自身がいつも陽気で遊びたわむれ、歌ったり笑いこけたりしているだけではなく、どこへ姿を見せようとも、ほかの人たちに楽しさと、冗談と、戯れと、笑いとを振りまいてくれます」(90ページ)とその役割を称賛します。だから彼らは他の人々からも愛される存在だといいます。

 痴愚女神の矛先は、今回は学問や学者に向けられる部分が多かったのですが、これを書いているエラスムス自身が学者であったということを忘れてはなりません。エラスムスの本意は、学問こそが人々を幸福にするものであるというところにあるわけですが、女神の弁舌があまりにもさわやかで、ひょっとしてエラスムスもある程度はそう思っていたのではないかと思わせるようなところがあります。知と無知の関係は相互的なところがありますから、エラスムスも苦笑しながらこの部分を書いていたのかもしれないと思ったりします。

書庫の見張り

2月15日(木)晴れ

書庫の見張り

ねずみは
本が大好きで
大好きで
大好きだといっても
本をかじるのが大好きで、
書庫の人間が気付かない
穴の奥から
機会をうかがっている

書庫の持ち主にとって
本は読むためのものだから
かじり取られては困る
本をチーズかジャガイモのように
かじり散らされては困る

そこで投入するのが
ねこ2匹
ねこには猫のカンがあり
ねずみの気配を嗅ぎ付けては
勇み立っている

本といえば
枕にして寝るだけだった
ねこたちが
大役に就く
それが大役だと思っていないのが
いいところ
ねずみが出ないように見張っていればいいのだからね――と
キャット・フードの袋をあける・・・

小川剛生『兼好法師』(9)

2月14日(水)晴れ

 『徒然草』の作者は卜部兼好、仮名を四郎太郎といい、金沢流北条氏に仕えて鎌倉と京都を往復しながら雑用を務めていた侍であったが、金沢貞顕が六波羅探題北方に補せられた延慶3年(1310)ごろから京都に定住したものと考えられる。また同じころ出家遁世したが、それは身分秩序のくびきから脱して、一方で権門に出入りし、他方で市井に立ち混じり、時々の用を弁じるための手段であった。彼は最初、六波羅周辺で活動していたが、おそらくは金沢流北条氏と上級貴族である堀川家の接近から、貴顕と交わるようになり、仁和寺の周辺に生活拠点を移した。そして経済活動により得た土地を後宇多院ゆかりの寺院に寄進することで歌壇デビューを果たした。鎌倉幕府滅亡後も高師直のような有力武士、三宝院賢俊のような高僧のために祐筆として働いた。(以上第1章~第5章の要約)

 第6章「破天荒な家集、晩年の妄執――歌壇の兼好」は歌人としての兼好の活動をたどる内容である。小川さんは「兼好は生前も死後も歌人として知られていた。兼好はまず歌壇という歌人社会で認められ、名声を得ていった。歌人の伝記は常に歌壇での位置を定めて記述することが必要である」(170ページ)という。和歌の歴史、さらに文学史に興味のある人にとっては面白いが、そうでなければどうでもいいようなことがここでは問題になっている。あらかじめ説明しておけば、「破天荒な家集」というのは、兼好が自分の詠んだ和歌を集めて編纂した家集が当時のほかの歌人の編纂した家集とかなり異なる、いかにも『徒然草』の作者らしいものであったということであり、「晩年の妄執」というのは、彼が『続千載和歌集』、『続後拾遺和歌集』、『風雅和歌集』という3つの勅撰和歌集に連続してその歌をとられた「三代作者」であったが、晩年に編纂中であった『新千載和歌集』にその歌がとられて、「四代作者」としてその感性を見届けることができないという無念さを抱いていたということである。

 兼好の歌道の師は二条為世(1250‐1338)である。為世は『徒然草』230段にも登場して「藤大納言殿」と呼ばれている。俊成―定家―為家―為氏―為世と続いた御子左家嫡流の生まれで、父の代から二条を称した。『新後撰和歌集』、『続千載和歌集』の2つの勅撰和歌集の単独選者となり、大覚寺統の天使や幕府将軍の師範となるなど、世俗的な栄誉を一身に集めた歌人である。さらに彼の娘の為子は後醍醐天皇の兄の後二条天皇の女房であったが、まだ東宮であられたころの後醍醐天皇の寵愛を受けて、尊良親王(『太平記』で恒良親王とともに新田義貞に奉じられて北国の金ヶ崎城で苦難に満ちた戦いを続けられている「一宮」である)、宗良親王らの子どもを産んだ。宗良親王が天台座主であったことは『太平記』にも記されている。宗良親王は建武新政後は還俗されて、南北朝時代には南朝のために奮戦されたが、また、優れた歌人であったとの評価も受けている。為子についても、『増鏡』は「集にもやさしき歌多く侍るべし」(講談社学術文庫版、下、69ページ、『続千載集』にも優雅な歌が多く入ったようだ)と記している。

 この二条為世の二条派と対立したのが、彼の従弟である京極為兼(「ためかぬ」と読むのが正しいそうである)の率いる京極派である。(さらに年少の叔父である冷泉為相(ためすけ)とは、家領をめぐって争った。) 

 古典和歌は与えられた題に即してその意図を満たすように詠む題詠が主流であった。つまり、古今集以来の伝統の中で定着されてきた題材と着想を忠実に守り、その中で自分なりの表現を探ろうとするものである。為世の二条派は古典和歌の範疇で新しい美や感動を発見せよと教えたのに対し、京極派は自由な発想や古歌にとらわれない表現を尊んだ。それ故、近現代では京極派の評価のほうが高くなっている(歴史学者の今谷明さんが京極為兼の評伝を書いているのはこの点で興味深い)。
 二条派の型にはまった表現は、それ故に新興の武士たちにはとっつきやすいものであった。『二条派の教えのように、よく知っている古歌に学んで、その表現を借りて新しい題意を詠むこと、特に古歌の部分的引用によりその内容を効果的に想起させる技法(本歌取り)がよほどわかりやすいし、何より中世の大多数の作歌層にとって安心して参入できる。鎌倉時代以来、武士が和歌を好み、その作品が一見没個性的である理由は、これで説明がつく。また古今集を知ることが歌詠みにとって何より肝要であることも理解できるであろう」(175ページ)。
 逆に言うと、京極派の主張は、十分な作歌訓練を積んできた廷臣・女房にしか浸透しなかったのである。二条派が大覚寺統と結びついたのに対し、京極派は持明院統と結びつき、歌道における対立は政治的な色彩を帯びたが、京極派が優勢な勅撰集は為兼が選者となった『玉葉和歌集』と、花園院が編纂された『風雅和歌集』だけである。伊藤敬によると、「『風雅集』には多くの女性家人が男性に伍していて華麗である」(伊藤『新北朝の人と文学』、50ページ)。ところがその後の勅撰和歌集になると女性歌人の割合も歌数も減っているという。伊藤はこれを宮廷内で女性が一定の役割を演じていた王朝の残影がみられる時代から男性優位の乱世への時代の変化とみるが、二条派と京極派の違いとみることもできるだろう。

 為世は門弟の指導に熱心であり、廷臣ばかりでなく、武士や僧侶、あるいは格別の出自を持たない地下にも及んだ。そして、特に優れた地下門弟4名を四天王と称した。四天王には出入りがあるが、『正徹物語』が記す頓阿・慶運・淨弁・兼好というのが最も一般的である(小川さんは「地下」の門弟と記しているので、二条良基を四天王に加える説がそのことから誤りであると断定できる)。なぜ四天王が活躍したか。「和歌を詠むためには、まずは最低限、題と本意を知らなくてはいけないし、そのためには詠草の添削が繰り返される。しかし、一般の門弟がこまごまとした指導を為世や為定に期待することは非現実的である。また歌道師範も自ら権威を安売りするようなことはしない。庶子を代理にするのも一法だが、この時代はすぐに一家を立てようとする野心を抱くので信頼できない。そこで活躍したのが、師範にあくまで忠誠を誓った地下門弟である。」(175‐176ページ) こうして入門・初心のものは四天王から手ほどきを受けて腕を磨き、また身軽な身の上であった四天王は地方を遊歴して二条派の勢力を拡大するために尽力もしたのであったという。
 兼好はほかの3人に比べると遅く二条派の催しに加わっているが、おそらくは頓阿らを介して為世に入門したということであろう。為世が選んだ『続千載集』にはもっとも若年の慶運を除く3人が入集し、その後、彼の歌人としての活動は本格的なものとなる。

 「破天荒な家集」がどのようなものであったのかに行き着く前に本日分を終えるのはあまり気分のいいものではないが、それでもせっかく書いた原稿が途中で消えてしまうよりはいいと思う。二条派と京極派の対立とよく似た事態は現在でも起きるわけで、文章を書くのに「思ったことを自由に書きなさい」などという指導法よりも、手取り足取り具体的に書き方を教えるほうが人気が高いというのは、大学の卒業論文などにも当てはまるのではないかという気がする。

『太平記』(197)

2月13日(課)晴れ、バスの車窓から雲に半ば隠れてはいたが富士山が見えた。

 建武3年(南朝延元元年、1336)、足利尊氏・直義兄弟によって花山院に幽閉されていた後醍醐帝は、京都を脱出して吉野へ向かい、吉野金峯山寺(こんぷせんじ)に入った。楠正行以下の軍勢が吉野に参じたが、紀州根来の伝法院は、高野山との長年の角質から、宮方に味方しなかった。11月2日、帝の吉野臨幸の知らせが、再起を期して北国に向かったものの、越前金ヶ崎城で足利がtに包囲されている新田義貞たちの軍勢に伝わった。包囲軍に加わっていた武士たちの中で、瓜生保は宮方に心を寄せる弟たちに合流する意志を固め、包囲軍を率いる高師泰を欺いて本拠地である南越前のそま山に帰り、新田義貞の弟脇屋義助の子義治を大将として挙兵した。師泰は能登、加賀、越中の兵6千人に出動を命じ、そま山を攻めたが、瓜生は策を設けてこれを撃退した。

 北国から都に向かう街道が一部でも遮断されると、金ヶ崎城を包囲している足利方は、背後に敵の接近を許すことになり、甲状腺にも不都合が生まれるであろう、早いうちに、そま山に立てこもる宮方の軍勢の勢いが国中にいきわたらないようにしないといけないと考えて、足利一族で越前の守護である斯波高経は、北陸道7カ国の中から4カ国の軍勢3千余騎を率いて、11月21日に蕪木(かぶらき、福井県南条郡南越前町甲楽城=かぶらぎ)の海岸から越前の国府(越前市国府)に戻った。瓜生はこの情報を得て、敵に少しも脚を休ませては勝利はおぼつかないと、11月29日に3千余騎で押し寄せ、1日1夜の戦いの末、ついに高経の立てこもっていた新善光寺の城を攻め落とす。この時に討ち取られた足利方の300余人と、生け捕りになった130人の首をはねて、帆山河原(越前市帆山町を流れる日野川の河原)に並べてさらした。
 岩波文庫版の脚注によると、斯波高経が越前の国府に戻ったのは11月28日とする異本もあるようで、そのほうが前後の関係から見て適切である。先ほど調べて見たのだが、新善光寺城のあとは、越前市京町の正覚寺の境内に今でも残っているようである。

 この勝利の後、脇屋義治を大将とする宮方の勢いは近隣に行き渡り始め、平泉寺(勝山市平泉寺町にあった天台宗寺院。白山の供僧寺院として栄えた。明治以後は神社になっている)、豊原(坂井市丸岡町豊原にあった天台宗寺院、豊原寺)の衆徒、越前や近国の地頭御家人たちが引き出物を捧げ、酒肴を携えて、日ごとに大勢集まってきたが、義治はひどく興ざめた様子に見えた。

 それを不思議に思った瓜生兄弟の1人である義鑑房がその前に出て、「勝利が続いて目でたい時節であるのに、何故勇ましげなご様子をお見せにならないのですかと」と問うと、義治は「見方が2度の戦いに勝利して、敵を多く滅ぼしたのは、喜んでいいことではあるが、恒良親王や尊良親王の宮様方を始め、おじである義貞、父である義助以下、新田家の人々が金ヶ崎上で敵の方位を受けているので、さぞ兵糧につまり、戦いに苦しんで、片時も安心して入られないだろうと思いやると、珍味佳肴を口にしても味なく、酒宴に臨んでも楽しい気分にならないのだ」と答える。義鑑房は恐れ入って、「そのことであれば、ご安心下さい。このところ吹雪が激しくて、長距離の徒歩の行軍は難しいのですが、天気が少しでも晴れることがあれば、その時は必ず後詰の兵を派遣することにするので、それをお待ち下さい」という。そして義治が大将としての立派な見通しを備えていることに感涙を流さずには居られない。

 瓜生と共にそま山の軍に加わっていた宇都宮と小野寺(栃木県下都賀郡岩舟町小野寺に住んだ武士)は、この問答を聞いて、栴檀は双葉よりかんばしというが本当だと感心した。義治は本当に立派な人物であり、金ヶ崎城にこもる味方の様子を明け暮れ気遣っているところが頼もしい限りである。こうなれば、出来るだけ早く金ヶ崎の後詰を実行しようと、兵を集め、楯を作らせて、雪がそれほど降らない日には出発しようと待ち受けたのであった。

 義治は第17巻に義助と義顕がそま山から金ヶ崎に退去する際に、義鑑房が宮方の兵を挙げるときの大将にしたいと請い受けてひそかに預かった人物であり、その時13歳で義助がそれまでずっと身辺においてかわいがっていたと記されているが、ここではなかなかの分別を見せている。数え年で13歳ということは未だ中学生になるか、ならないかという年齢であり、現代に引き寄せて考えれば、酒を飲んだり、酒宴を楽しんだりするような年ではないことも視野に入れる必要があるかもしれない。

日記抄(2月9日~2月12日)

2月12日(月)晴れ

 2月9日から本日までの間に経験したこと、考えたこと、前回の補遺等:
1月30日
 NHK『ラジオ英会話』は“First Laughs of the New Year"として犬を主題にしたriddles(なぞかけ)と、talking-dog jokes(言葉を話す犬のジョーク)の一例とを取り上げた。そのジョークをかいつまんで紹介していくと:
 ある男が言葉を話す犬を飼っていて、その犬を芸能エージェントのところに連れてゆき、この犬は英語が話せますという。そして
”What's on the top of a house?"
と聞くと、犬は”Roof"と答えた。エージェントが、おいおい犬は皆roofというよというと、男は
”What is a stormy ocean like?
とたずねる。犬は”Rough!"と答える。エージェントは男をにらみつける。そこで男は
”In your opinion, who was the greatest baseball player of all time?"
と質問する。犬は”Ruth!"と答える。エージェントは1人と1匹を追い出す。犬は男に
”Maybe I should have said DiMaggio?”という。
 ジョー・ディマジオは1940年代から50年代に掛けてNYヤンキーズで活躍した強打者で、56試合(だったかな)連続安打を記録したことで知られ、その背番号5は欠番になっている。というようなことよりも、一時期マリリン・モンローと結婚していて、彼女と共に来日したことがあるというほうが有名かもしれない。

2月6日
 『朝日』の朝刊に京大の南北の食堂の対決という記事が出ていた。私が在学していた頃は、時計台下の食堂、西部食堂、北白川の北食堂、教養部の吉田食堂という生協食堂のほかに、私営の南食堂があり、医学部の構内にも食堂があった筈だが、そちらの方角にはあまり縁がなかった。学生時代は西部食堂によく出かけ、大学院時代になると生協食堂はあまり利用しなくなったが、それでも朝は(近くに住んでいたので)吉田食堂で食べていた。

2月9日
 平昌(ピョンチャン)冬季オリンピック始まる。

 『日刊スポーツ』でゴルフのイ・ボミ選手と卓球の福原愛選手とが日本語で対談しているのが面白かった。競技の話、結婚や出産の話はさておき、どのようにしてイ・ボミ選手が日本語を、福原選手が中国語を習得したかというところが参考になる人も少なくないのではないかと思う。
 福原選手は電話が出来ることと、けんかが出来るということが、その言葉を身につけたかどうかの目印になるという。ボミ選手は優勝インタビューをマネージャーに通訳してもらっていたのが、ある時から自分で話すようになったそうだ。ボミ選手が話しているのを聴いたわけではないが、次のやり取りが彼女の日本語への慣れを示している:
愛:韓国の男性のほうがロマンチックでしょ。
ボミ:それはドラマ。
 福原選手の「ロマンチック」という外来語に対応していること、「それはドラマの中のことで現実とは違います」というのを会話の中の流れで省略形で答えているところに日本語への適応度の高さが分かる。

2月10日
 新聞の朝刊に掲載されていた『文芸春秋』3月特別号の広告を眺めていたら、「総力特集 日本の教育を建て直せ」というのが目に付いた。(一流)大学への進学熱をあおることをよしとするような記事があるかと思うと、藤原正彦氏の「小学生に英語教えて国滅ぶ」とか、橘玲氏の「教育無償化は税金のムダ使いだ」というような検討に値する議論も掲載されているようである。前川喜平氏と寺脇研氏の『これからの日本、これからの教育』という対談でも語られているが、前川氏が麻布、寺脇氏が鹿児島ラ・サールと言うように、文部科学省のキャリア官僚のかなりの部分が有名進学校出身であること、更に言えば、文芸春秋の社員にも同じような傾向があること・・・がどの程度自覚されて、この編集がなされているかも問題である。

2月11日
 『朝日』朝刊の書評欄の齋藤美奈子さんによる小川遊佳『百年泥』(新潮社)の書評が面白く、読みながらげらげら笑ってしまった。インドの南部で日本語教師をする語り手が直面する奇怪な日本語:「私のちちは村(ビレッジ)でくまとすもうをとりました。」 はい? 熊と相撲をとるって、あんた!/渾沌(カオス)とはこういう状態かと、あなたも絶対、実感できる。
 熊と相撲をとるというと、(少なくともある年齢以上の)日本人だったら、おとぎ話の金太郎を思い出すだろう。但し、インドの熊はマレーグマの一種だろうから、日本本土のツキノワグマよりも小型のはずである。

 司馬遼太郎『街道をゆく8 熊野・古座街道、種子島みちほか』(朝日文庫)を読み終える。
 「熊野・古座街道」では、かつて日本に各地に存在した若衆組・宿についての関心が展開されていて、この問題には私も関心が在るので読み応えがある。
 「豊後・日田街道」では江戸時代に天領であった土地について、広瀬淡窓の咸宜園が地元の文化に及ぼした影響について、徳川家康が、九鬼氏のような水軍を率いていた武将を山間部に封じて水軍というものをなくしてしまったという指摘などがきょうみふかかった。
 「大和丹生川(西吉野)街道」はごく簡単に通り抜けているようである。
 「種子島みち」では種子島と紀州の根来の結びつき、領主であった種子島氏の子孫が島に在住しているという出会いの記事などが面白かった。

 小川遊佳『百年泥』を読む。書評で感じたのとは別の感想をもつ。それについてはまた後日。

2月12日 
 『朝日』朝刊一面のコラム「折々のことば」で鷲田清一さんが森毅の「問題が難しければ、シメタこれは他の連中にできないぞと考え、問題が易しければ、シメタこれはオレにもできるぞと思うことだ」ということばを紹介している。
 森さんは長く京大の教養部で数学を教えられていた。ご本人は東大の卒業生である。私は理学部の友人に連れられて、森さんの話を聞きに行ったことはあったが、授業を履修したことはない。ただし、森さんの数学史の著書は何度も読み返している。鷲田さんは私とそれほど年が離れていないはずで、ということは、森さんの授業を聴講しているかもしれない。
 一刀斎と号すも白墨を持てるさま 剣豪より作家に似たる師を思い出し

 NHKラジオ『まいにちスペイン語』の「スペインの街角」のコーナーでは、カナリア諸島のラス・パルマス・デ・グラン・カナリア(Las Palmas de la Gran Canaria)を取り上げた。気候温暖、風光明媚でいいところらしい。応用編で読んでいる『フォルトゥナータとハシンタ』の作者ガリードの生地でもあるが、そのことに触れていなかったのはやむをえないことかもしれない。

日記抄(2月5日~2月8日)

2月11日(日)晴れ

 2月5日から8日までの間に経験したこと、考えたこと、前回の補遺:
1月29日
 NHKラジオ『まいにちスペイン語』の「スペインの街角」のコーナーでは、フィゲラス(Figueras)を取り上げた。画家のダリが生まれた町だというが、私は彼の作品があまり好きではない。

1月30日
 『まいにちスペイン語』の「ラテンアメリカの街角」のコーナーでは、パナマ・シティー(Ciudad de Panamá)を取り上げた。パナマというと運河が有名だが、サッカーが盛んなラテンアメリカでは珍しく野球が盛んな国であるという。

2月4日
 安倍首相は渋谷シネパレスで映画『嘘八百』を鑑賞したそうである。映画鑑賞はなかなかのハイペースで、こちらとしても負けてはいられない。

2月5日
 少し離れたところのクリニックに出かけ、診察を受けた帰りに江ノ電バスに乗った。この会社のバスに乗るのは初めてである。

 『まいにちスペイン語』の「スペインの街角」のコーナーでは、へレス・デ・ラ・フロンテーラ(Jerez de la Frontera)を取り上げた。スペイン南部のアンダルシア州のそのまた南のほうの都市で、シェリー酒の産地として有名(どうも最近、シェリー酒を見かけなくなった)であり、フラメンコの本場、王立アンダルシア馬術学校の所在地として馬、そしてオートバイのレースでも知られているという。

2月6日
 『朝日』朝刊の連載インタビュー「語る――人生の贈り物」は椎名誠さんが、広告看板から『アド・バード』というSF作品の着想を得たという話が出ていた。この連載は、どうも新しい情報を引き出すという点で不満が残るところがあり、この話も椎名さんが何度か書いてきたものではないかと思う。

 『まいにちスペイン語』の「ラテンアメリカの街角」のコーナーでは、メキシコのメリダ(Mérida)を取り上げた。ユカタン半島の北部に位置し、保養地として知られるカンクンに近く、また付近にマヤ文明の遺跡が多く存在することでも知られているという。

 門井慶喜『この世にひとつの本』(創元推理文庫)を読み終える。
 「ユーレイが消えた!」――著名な書家の幽嶺が宇治の山奥に営んでいた庵から忽然と姿を消した。この書家を講演していた大塔印刷では、社長の出来の悪い三男で会社の平社員である三郎に捜査を任せることになる。その一方、この会社の工場でも相次いで病死者が出るという異常事態が発生していた。2つの事件は何か関係があるのか、それとも無関係なのか。どうも頼りなげな三郎は、社長の秘書であり愛人の南知子と、その記憶力と知識ゆえに嘱望されながら史上最速で窓際に追いやられた社史編纂室の建彦の助けを借り、事件を探り始める。一見つながりがなさそうな失踪事件と連続病死とは、世界に一冊しかないある書物へとつながっていく…。登場人物の個性の描き分けに妙があり、特に事件を解決していく過程で、頼りなさそうだった三郎が次第にしゃきっとしていくのが面白い。
 この作家の別の作品を読んでみようと思って探していく過程でやっと、この人が今回の直木賞受賞作家であることを知った。我ながら浮世離れがしている…。推理小説からほかのジャンルへと創作活動を広げていく例はまれではないが、どちらかというと、この作家については、推理小説一本で活動してほしいという気もする。

2月7日
 『朝日』朝刊の椎名誠さんへの連載インタビューでは、ヴェルヌの『十五少年漂流記』を子どものころから愛読し、ついに娘さんと共同で翻訳を発表するに至ったことが語られていた。ヴェルヌの『二年間の休暇』という小説を、明治時代に森田思軒が『十五少年』という題名で翻訳(英訳からの重訳)して以来、日本では『十五少年漂流記』という題名が定着している。というよりも、この作品が多くの読者から愛読されているのは日本だけだ(あるいは日本の影響の強いアジアの国でも愛読されているかもしれない)ということのほうに、私は興味がある。

 同じ『朝日』に中国からの侵略と戦って国の独立を回復したベトナムの英雄レ・ロイが神から授かった剣を返したという還剣(ホアン・キエム)湖を<白鳥の湖>にするという計画をめぐる賛否の記事が出ていた。

 『日経』に英国の『タイムズ高等教育版』がまとめて発表した「アジアの大学ランキング」が掲載されていて、東大が8位、京大が11位と日本の大学の評価が必ずしも高くはないことが繰り返し報じられている。1970年代以降の<新構想大学>をはじめとする我が国の高等教育政策の計画の失敗の原因究明と責任追及を怠り続けていると、高等教育の危機はますます深刻なものとなるだろう。とりあえず、文部科学省を解体して、教育省と、高等教育科学技術省にするという改革を断行すべきではなかろうか。

2月8日
 病院に心臓の検査に出かける。苦しかった。

 NHKラジオ『まいにちフランス語』は日本で最初の仏和辞書とされる『佛郎察辞範草稿』を紹介した。1810年代に長崎のオランダ通詞だった本木庄左衛門らが、オランダ語で書かれたフランス語の教本をもとに、出島の商館長ヘンドリック・ドゥーフに教わりながら編纂したもので、出版はされていない。
 詳しい経緯は調べないとわからないのだが、『福翁自伝』で福沢諭吉が回想しているところによると、彼が大坂の適塾で蘭学を学んでいるときに、ヅーフの辞書を利用したはずである。つまり、同じ人物が日本におけるオランダ語学習と、フランス語学習の両方に貢献したのではないか・・・と思う。

 『まいにちスペイン語』応用編「スペイン文学を味わう」は、今回から「セルバンテスに次ぐ作家」といわれるベニート・ペレス・ガルドス(Benito Pérez Galdós ,1843-1920)の長編小説「フォルトゥナータとハシンタ」(Fortunata y Jacinta, 1887) を取り上げることになる。首都マドリードを舞台に、ブルジョアの放蕩息子ファニート(ファン)・サンタ・クルスに振り回される2人の女性(フォルトゥナータとハシンタ)の運命を描いている。ガルドスはカナリア諸島のラス・パルマスの生まれで(この都市は12日の「スペインの街角」で紹介される予定である)、1892年に書いた『トゥリスターナ』は、以前、ルイス・ブニュエル監督によってカトリーヌ・ドヌーヴ主演で映画化された(日本での公開題名は『哀しみのトリスターナ』。フランコ・ネロとフェルナンド・レイが共演していた)。この映画は見たことがある。確かトレドだったかと思うが、スペインの街の様子を広角でとらえた映像に感心した記憶がある。そういえば、昨年末から今年にかけて渋谷のイメージフォーラムでブニュエルの特集をやっていた。

松岡譲『敦煌物語』

2月10日(土)晴れ

 松岡譲『敦煌物語』(講談社学術文庫)を読む。長いことほったらかしにしていた宿題をやっと片づけた気分である。もう20年以上昔に、それまで勤務していた大学からほかの職場に移ることになって研究室の蔵書を整理していた時に、この書物を見つけ、どこでどのようにして買ったか全く記憶がなく(本にかぶせてあるカバーから横浜の有隣堂で勝ったことだけが分かった)、驚き怪しんだことを思い出す。それ以前に文学史的な興味から松岡の名は知っていたし、大学での同僚が松岡の未亡人(つまり夏目漱石の長女松岡筆子)と面識があったようで、『敦煌物語』の話も聞いていたのだが、その本を自分が持っているとは全く思っていなかったのである。

 この作品は敦煌の莫高窟から膨大な量の写経類が持ち出された経緯、作者の表現を借りると「文化侵略の古戦場」(20ページ)における戦いの様子を枠物語の形式で語ったものであるが、創作であるにもかかわらず、平凡社版の『世界教養全集』、さらに講談社の学術文庫に収録されていることで分かるように、文学的な達成度の高さよりも、篇中で語られている事実の歴史的な意義によって評価を受けているところがある。松岡はもう1つの代表作『法城を護る人々』を読んでいても感じることであるが、文学的な描写力・造形力よりも、主題設定や思索の深さを特色とする作家であり、そのことが彼の作品の評価にも反映されているようである。

 東京・根岸の書道博物館を想定したらしい小博物館で、この博物館の創設者である中村不折をモデルとしているらしい70代の老人が、著者の分身である「私」を相手に敦煌写経を見せながら、敦煌写経が世に出るに至った経緯を語る。20世紀の初めから第一次世界大戦の勃発時までの期間に、欧州列強がシルクロードの地政学的な意義に着目しただけでなく、歴史的な資料の宝庫としての意義にも気づいて、この地に続々と探検隊を送るに至ったこと、そのなかで英国のスタインが1907年に敦煌に達し、この地の千仏洞のうわさを聞いて、この洞窟を管理している住持の王道士と交渉して漢文、梵語チベット文、その他西域地方のもろもろの文字で書かれた写経、ほかに絵や織物や仏像など29箱分をたった10枚足らずの馬蹄銀で手に入れることに成功する。スタインは梵語やトルコ語やチベット語などは何とか理解できるが、漢文が少しもわからないというハンディを抱えていたのだが、それでもこれだけの成果を上げた。

 「この千仏洞から出た古写経の中には、中国、朝鮮、日本三国で、しばしば結集された、大蔵経にないいわゆる逸経がどっさり出てきた…。それらのものは『大正新修大蔵経』の中におさめられたが、その数も多く、また、従来名のみ知られていて実物にお目にかかったことがない珍本もある。そのかわりまた疑経偽経といったお愛敬のあるしろものも少なからず出てきたようだ。これは仏典のほうばかりでなく、道教のほうのいわゆる道蔵でもご同様。
 このほか、従来、大秦景教流行中国碑を唯一の手がかりにしていたキリスト教の一派ネストリウス教、すなわち景教の漢訳経典が出てくる、マニ(摩尼)教が出てくる、祆教すなわち拝火教の教典が出てくる。そのほか四書五経はじめ各方面の古書なんでもござれで、唐あるいは唐以前のものが出てきたのdから、旧来の中国研究はここに一変せざるを得なくなったわけだ。そのうえになおチベット文、本分、イラン分、トルコ分をはじめ、今は死語となった西域の古代語までいくつも現れてきたのだから、これらの研究ができあがった暁には、今までの中央アジアはいうに及ばず、ひろく東アジアの歴史に幾多の修正やら付け加えやらが必要になってもこよう。」(120-121ページ)

 1908年にはフランスのぺリオの一行が敦煌を訪れる。スタインと違ってぺリオはベトナムのハノイ育ちで、中国語もできるし、漢文も読める。すでにシルクロードの各地を探索してきた彼は、「イラン的要素の中国的展開が、キジール(クチャ)の千仏洞ではまだよく顕われず、トルファン(吐魯蕃)でやや体をなし、ここ敦煌の千仏洞にいたってありありと示されている」(146ページ)野に興味を抱くが、「こうした東西文明の交流は、漢文以外のいわゆる蕃語の古書を調査する段になっていよいよ確かさを増してくるように見えた」(同上)。しかもそれらの言語が驚くほどに多種類なのである。
 ぺリオは自身の発見を中国の学者たちに伝えるが、驚いた中国の学者たちは子文書が海外に持ち出されるのを止めようと王道士を捕縛しようとする。王道士は何とか役人たちに袖の下を使ってそれを逃れる…。

 このような経緯ののち、辛亥革命の前夜の敦煌に2人の日本人がたどりつく。立花(橘瑞超)と吉川(小一郎)である… 上原和の開設を読むとわかるが、この日本人たち、とくに立花の言動は、歴史的事実とは異なる、作者の創作が加えられており、そこに作者の意図が表れているようでもある。立花の「僕は仏の御名にかけて絶対にだまし討ちはしません。だから貴僧も仏弟子のひとりとして、僕の聖業に一臂の力をかしてくださってもよろしいはず」(229ページ)という言葉にそれが要約されている。王道士は道教の道士であるから、仏弟子とは言えず(仏教と道教が混淆しているという側面はあるが)、このあたりの認識の甘さがもう少し自覚されてもよかったのではないかと思ったりする。真宗寺院の後継ぎとして生まれた松岡の仏教に対する知識・理解や、彼がその関心に任せて蓄積した西域についての情報・知識が欧州諸国の東アジアへの「文化侵略」という批判精神を生み出しても、自らの思想に対するより根本的な自覚にいたらなかったのは、惜しまれてもいいことである。

フローベール『感情教育』(5‐5)

2月9日(金)晴れ

これまでのあらすじ
(第1部:1から4まで)
 フランス七月王政下の1840年、大学入学直前の若者フレデリック・モローは故郷であるノジャン=スュル・セーヌ県に戻る途中の船の中で画商だというアルヌーという男と知り合い、その美しい夫人に恋心を抱く。
 モロー家は没落しかけた休暇で母親は一人息子のフレデリックの未来に希望を託している。フレデリックにはシャルル・デローリエという同じ高校で学んだ友人がいて、公証人のところで書記をしている。夢想家で芸術に興味があるフレデリックと現実主義者で努力家のでローリエは育ちも性格も違うが親友である。2人は、いずれパリで共同生活を送ろうと約束する。
 パリに出たフレデリックは、同郷の有力者ダンブルーズや船の中で知り合ったアルヌーのもとを訪問するが、軽くあしらわれる。大学の講義には興味を覚えないが、同じ高校の同窓生のマルチノン、おとなしい貴族のシジーのような友人ができる。
 1841年にパリで暴動が起きた際に警官に拘束されたデュサルディエという同年輩の青年を助けようとしたことから、フレデリックは同じ法科大学に学ぶユソネという演劇に関心を持つ青年と仲良くなり、彼の手引きでアルヌーのもとに出入りするようになる。アルヌーの家での晩さん会でアルヌー夫人に再会した彼は、夫人への恋心を募らせる。
(5)
 パリに出てきたデローリエはフレデリックがアルヌー夫人に熱を上げているのを心配して、友人たちを集める。出世主義者のマルチノン、世間知らずのシジー、アルヌーのもとに出入りしている画家のペルラン、デローリエの友人で社会主義者のセネカル、さらにユソネがデュサルディエを連れてくる。
 なかなか勉強に集中できずにいたフレデリックはデローリエの応援にもかかわらず、二度目の試験に落第する。一方マルチノンは合格して、輝かしい未来への道を歩もうとしている。
 試験を再受験するという名目でフレデリックはパリに残るが、アルヌー夫人への思いは募るばかりで、鬱々として楽しまない。そんな彼をデローリエは(アルハンブラ)という踊り場に連れて行く。2人にはユソネとシジーとデュサルディエが同行する。さまざまな男女が相手を求めて集まってきているが、ユソネが雑誌の仕事や小劇場関係の出入りで知っている女性が少なくないようである。彼は知り合いの女性の家で、ちょっとした集まりを開こうと持ちかけるが、見渡してみると、フレデリックがどこかへ消えている。

 フレデリックはアルヌーの声を聞いたような気がして、その方角に女性の帽子が見えたので、そちらのほうに歩いて行ったのである。案の定、彼はアルヌーと彼の愛人のヴァトナ嬢を見つける。(このヴァトナ嬢は女優のような絵画のモデルのような仕事をしていて、すでに何度か登場しているのだが、物語の大筋に関係がないと判断して、その個所は省いてきた。) 
 どうもアルヌーは彼女に急用ができて、ここへやってきたような様子である。
 人々の踊りが中断され、《表情歌手》のデルマが歌いだす。アルヌーは、ヴァトナ嬢がデルマに思し召しがあるのだろうという。
 フレデリックを探していた連中が、彼らのところにやってきて、ユソネが彼らを紹介する。アルヌーは葉巻を配り、氷菓(ソルベ)をご馳走する。

 「ヴァトナ嬢はデュサルディエを見てぽっとあかくなった。すぐ立ち上がって、手をさし出した。
 「あたしを思い出さないこと、オギュストさん?」
 「きみどうして知っているの?」フレデリックがきくと、
 「同じ家ではたらいていたことがあるんで」と、先方はこたえた。
 シジーが袖をひいて、二人はまた出ていった。その姿が消えるとすぐヴァトナ嬢はデュサルディエの性質をほめはじめた。あの人は《ひとの心のわかる人》とさえ言った。」(120ページ)
 貴族のシジーと労働者のデュサルディエが仲良くしているのは微笑ましいが、ヴァトナ嬢の発言を含めて、ここでは民衆の代表者のような存在であるデュサルディエが好ましい人物として描かれているところに興味が持たれる。ヴァトナ嬢もその出自はそれほど高くはなく、だからデュサルディエとは心が通じ合うと実感しているのである。

 それから一同はデルマの話をはじめ、さらに文学や演劇をめぐる議論が続く。「アルヌーが有名な女優を幾人か知っているというので、青年たちは身をのり出して話を聞いた。だが、その言葉は音楽の騒音でしじゅう消されていた。」(同上) にぎやかな騒ぎはさらに大きくなり、やがてそれも終わって人々は帰り支度を始める。「フレデリックとデローリエは人ごみの中を一足ずつゆっくり歩いていた。とひとつ目についたことがあって立ちどまった、マルチノンが雨傘預り所で、釣銭をうけとっている。そして、五十くらいの、醜い、華美な身なりをした、身分のはっきりせぬ女がかたわらにいた。/「奴は案外、食えない男だ」デローリエがいった。」(121ページ) マルチノンはこういうところにやってくるとはだれも考えていなかったから、誰も誘わなかったのである。ところが得体のしれない女性と一緒にいる(もっとも、近くにいるだけで、何も関係がないのかもしれない。私は近くにいる人間の夫にされたり、縁者にされたりすることがよくあるので、この種の誤解が少なくないと思っている。ただ、「アルハンブラ」にマルチノンがやってきていたという事実は消えない!)

 デローリエはシジーがどこにいるかをたずねる。デュサルディエの指差す方向には「中世騎士の末裔が、ばら色帽子と並んで、ポンスの盃にむかっているのが見えた」(同上)。シジーもどうやら相手を見つけることができたようである。ユソネの腕には若い娘が寄り添っている。ヴァトナ嬢はデュサルディエに送ってくれと頼む。アルヌーは君には一緒に帰る女性はいないのかとフレデリックをからかう。自分が恋しているのはアルヌー夫人だとは言えないフレデリックはどぎまぎする。その夫人のもとにアルヌーは馬車を呼んで帰っていき、フレデリックとデローリエが取り残される。

 1840年代の初めごろのパリの風俗の一端をとらえた場面で、若者たち一人一人の個性が描き分けられているのも興味深い。その多様な個性を持った若者たちに、どのような運命が待ち受けているのだろうか。翻訳者である生島遼一が書いているように、フローベールが若者たちを見る目は、それぞれの長短を描き分けてはいても、同時代を生きた人間としての温かさに満ちている。付け加えれば、ヴァトナ嬢はこれからも姿を現し、物語をかき回すことになる。 

島岡茂『英仏比較文法』(2)

2月8日(木)晴れ

 この書物は、英語・フランス語という2つの言語を取り上げ、印欧(インド=ヨーロッパ)語族の中のゲルマン語派に属する英語が、どのようにして、それぞれロマンス語派に属するラテン語とフランス語の影響のもとに、現在の形をとるに至ったかを歴史的に概観するものである。英語とフランス語、ゲルマン語とロマンス語はどちらも本来は同一の言語=印欧祖語から出た2つの分派にすぎないし、一見すると無縁に見えるような語彙が結局は同一の語源につながる同一語である場合が少なくない。しかし、逆に言えば、同じ1つの語彙が、長い歳月を経て、形を変えたために、ほとんどその関連を類推できない(あるいは違う語彙が入れ替わっている)ことのほうが多いことになる。
 フランス語と英語の関連、フランス語が英語に及ぼした影響(最近では、英語がフランス語に及ぼす影響も顕著になってきているが)を研究するには、研究の範囲を、歴史的な研究の範囲内であるラテン語以降に限定することが必要がある。フランス語の影響なのか、ラテン語の影響なのか、判定しにくい場合もあるが、とりあえず、語彙の交流から議論を始めることにする。

 英語の語彙は25万、フランス語の語彙は10万といわれる。一つには英語には合成語が多く、そのおのおのが見出し語に数えられるのに対し、フランス語には合成語が少なく、同じ意味を前置詞を使って分析的に表現するからである。例えば「レインコート」を、英語ではrain-coatと合成し、フランス語ではmanteau de pluieと3つの単語で言い表す。raincoatは辞書の見出し語となるが、manteau de pluieはmanteauの項の中に入れられる。

 しかし、そういうこととは別に、やはり英語のほうが語数が多いのは間違いないようである。英語は、もともとのアングロ・サクソン系の言語に加えて、ラテン語やフランス語から多くの語彙を取り入れてきたからである。英語の25万といわれる語彙の中で、ラテン系(ラテン語+フランス語)の語彙は約50%、本来のアングロ・サクソン系の英語は25%、ギリシア系が10%、北欧系が5%といわれる。ただし、これは辞書に掲載された語彙の内訳で、日常生活で現実に使用される比率は本来の英語が55%、ラテン系は35%ということである。このことは、本来の英語は絶対数は少ないが、使用頻度の高い生活語であり、フランス語を中心とするラテン系の語彙は主として文化的な書き言葉に多いことを示している。

 島岡さんのこの書物が発行されたのが1990(平成2)年のことであり、英語の語彙は(フランス語の語彙も)情報技術の発展等の新しい変化に伴ってさらに増えているのではないかと思われる。興味深いのは、その場合でも依然としてラテン語の影響が強いことである(小林標さんがそのことを指摘している)。
 英語とフランス語・ラテン語の関係は、日本語と中国語の関係に似ている部分があるが、日本語の場合は近代になって英語その他の影響を受けて、多くのカタカナ言葉が出現したということで、また別の性格を持つことになった。また、以前は中国語から日本語へと語彙が流入していたのに対し、近代以降は逆の流れが生じているのは英語とフランス語の関係以上に強い傾向ではないかと思う。さらに言えば、日本製漢語とか、日本製「英」語というのもできてきていて、英語よりも日本語のほうが複雑なところがあるようである。

 このようにラテン系の語彙は、英語の語彙の半ばを占めているが、その大部分が12世紀以降(ノルマンの征服以降)フランス語を通じて移入されたものであるが、祖よりはるか以前にラテン語から直接古英語に取り入れられた語彙も少なくない。
 もともとブリテン島にはケルト系の民族が住んでおり、その名残が、ウェールズやスコットランドにみられるが、ユリウス・カエサル以後、ブリテン島の一部はローマの領土となった。スコットランドはローマに征服されなかったので、自分たちは独立を奪われなかったとそれを自慢にしている。だから英国にはローマ時代の遺跡がある。そして、住民であるケルト人たちの間にもラテン語は浸透し、一部は外来語としてケルト語の中に取り入れられた。

 まず飲食物についてみると、パンのようにローマ以前から存在していたものはbreadというように、ゲルマン語が残っている(ドイツ語ではBrotである)。ところが古代ゲルマン人が持たなかったチーズ、バター、胡椒などは、ぶどう酒とともにラテン語から借用された。
 チーズはラテン語ではcaseusで、フランス語のfromageは俗ラテン語のcaseus formaticus(型製チーズ)の省略形だそうである(チーズが消えて、型製のほうが残ったということらしい)。これはまあ例外で、今日ロマンス・ゲルマン諸語の多くはcaseusの系列の語を使っている。英語はcheese、ドイツ語はKäse、オランダ語はkaas、イタリア語はcacio(と書いてあるけれども、formaggioのほうが一般的ではないか)、スペイン語はquesoといった具合である。
 バターはギリシア語でboutyronといったのが、ラテン語に入ってbutyrum(uは長音)となった。英語でbutter、ドイツ語でButter、オランダ語でboter、フランス語でbeurreイタリア語でburroというのはラテン語から出たものである。スペイン語でmantequillaというのは俗ラテン語のmantaicaから出たもので、古い地中海民族が残した語といわれる。
 胡椒piperももともとはギリシア語であるが、バターの場合と同様に、ラテン語からほかの言語に入った。英語ではpepper、ドイツ語ではPfeffer、オランダ語ではpeper、フランス語ではpoivre、イタリア語ではpepe、スペイン語ではpebreである。
 ワインもヨーロッパでは古代から飲まれていた飲み物らしいが、言葉としてはラテン語のvinum(iは長音)がもとになっている。英語ではwine、ドイツ語ではWein、オランダ語はvijn、フランス語はvin、イタリア語はvino、スペイン語はvinoである。

 このようにローマ帝国の領土であったところで、ローマ人によって持ち込まれた飲食物にはラテン語に由来する単語が使われるようになったということらしい。もっとほかの飲食物の例を探っていくと、面白い発見がありそうな気がする。なお、ビールの場合、フランス語とイタリア語ではゲルマン系の言葉が使われていて、ラテン語の形を残しているのはスペイン語とポルトガル語だけのようなので、これも面白い例ではないかと思っている次第である。

エラスムス『痴愚神礼讃』(7)

2月7日(晴れ)

 鈴の付いた阿呆の帽子をかぶり、道化の扮装をした痴愚の女神が自分自身を礼賛する演説をします。世の中を明るく、楽しくしてきたのは自分であるのに、その役割が見逃されてきたから、自分の偉大さを知らしめるというのです。自分をほめる者は誰もいなさそうだし、自分のことは自分がよく知っているとも言います。うぬぼれたり、あばたをえくぼと勘違いしたりする痴愚の働きがなければ、世の中はうまくいかないはずだと話を続けていきます。

〔26〕
 賢者、あるいは哲学者ほど退屈で人の役に立たない連中はいないとこき下ろした後で、女神はまた人間の社会生活に話を戻します。「岩だの、樫の木だのから生まれた野蛮な人間たちが、群れ集まって都市生活を送るようになったのは、どんな力に駆られてなのでしょう。」(66ページ) 既に断っているように、<痴愚の女神>という存在は、エラスムスが作り出したもので、ギリシアやローマの神話にはそんな神様は出てきません。とはいうものの、彼女の話は異教的です。『旧約』の「創世記」には神が人間を土(アダマ)から作った(2‐7)と書かれているのですから、まじめなキリスト教徒は眉をひそめるところでしょう。さて、人間が岩や、樫の木から作られたとその詩の中で歌ったのは、ローマ白銀時代の叙事詩人スターティウスだそうです。スターティウスというと、ダンテの『神曲』『煉獄篇』の終りのほうでウェルギリウスとダンテに合流する詩人として今日では知られているのではないでしょうか(どう考えても、後の2人から見ると見劣りがします)。
 『創世記」では神が人間を土から作ったと書きましたが、中国の古代神話の女媧が人間を作った物語も同様です。ただ、『創世記』の神はアダムを作っただけで終わるのですが、女媧はたくさんの人間を作り上げ、そのうち面倒くさくなって泥水に枝をつけて振り回し人間を量産した…女媧がきちんと作った人間の子孫は金持ちに、量産された法の人間は貧乏人になった…という話もあるそうですが、当てになりませんね。確か北欧神話ではオーディンが木から人間を作っています。ほかにも、いろいろな神話があるようです。

 都市の住民たちは、他愛のないおとぎ話を信じてそれで結合しているのだと女神は言います。彼女はローマの平民たちが指導者たちに反抗して、丘の上に立てこもった時に説得にあたったメネーニウス・アグリッパのたとえ話を持ち出します。人間の胃は食べたものを受け取るだけで何もしないが、手や足は忙しく働いていて不公平だと文句をいうだけでなく、何も胃に与えないようにしたところ、伊だけでなく、手足も弱ってきたといいます。つまり体の各部分にはそれぞれの役割があり、それぞれの役割をはたして全体としての働きが成り立つのだというのですが、女神はこれを他愛のないおとぎ話であるといいます(アグリッパの考えは、今日、社会有機体説と呼ばれる社会理論の原型なので、それほどバカにできるものではありません)。「民衆という巨大で強い力を持つ獣は、こういった愚にもつかぬ話によってあやつられ、動かされるものなのです。」(67ページ) 大衆社会論やポピュリズムの台頭する現代の状況を思い浮かべる方もいらっしゃるかもしれません。このあたり、エラスムスさんつい本音を出しているとも考えられますね。
 アグリッパの話を記録しているのはリーウィウスの『ローマ建国史』(2-32、岩波文庫版、情感、227-228ページ)ですが、似たような話はイソップの寓話集にあり、また『新約聖書』の『コリントの信徒への手紙』(1-12-12以下)にも見られます。リーウィウスによれば、この出来事は紀元前493年のことですから、聖パウロが『手紙』を書くのよりはだいぶ前のことですが、それぞれの話に影響関係があるかどうかは説の分かれるところだそうです。

〔27〕
 このように市民たちはおとぎ話を信じて市民生活を送っている一方で、プラトンやアリストテレス、ソクラテスの教説に従って都市国家を作り上げ、維持しているという例があるだろうかと女神は続けます。結局のところ民衆にへつらう物が成功を収めるといいます。「こういった痴愚が都市社会を生み、支配権も、統治制度も、宗教も、議会も、司法も安泰を保っているのですから、人間の生活などは痴愚女神のたわむれのようなものにほかなりません」(69ページ)。

〔28〕
 次に女神は様々な技芸・学芸もまた名誉欲という痴愚の産物だといいます。勤勉さの背後には名誉欲がある、それなくして人間がどうして汗水たらして努力を重ねるのだというのです。「みなさんにしても、人生においてまことに有益なものに関しては、このあたしの恩恵を受けていらっしゃるのです。とりわけ楽しいのは、他人の狂気の沙汰を楽しむというやつですね。」(69ページ)

〔29〕
 人間を勇敢な行動に駆り立てるのも、勤勉な努力を続けさせるのも、結局は痴愚の働きだといった後、女神はさらに思慮深さも結局は痴愚に帰するのだと断言します。思慮深さは実践から生まれ、人を実践に駆り立てるのは危険を恐れず事態に立ち向かおうとする気持であるといいます。危険に向う見ずに立ち向かうのはやはり痴愚の働きですね。
 さらに彼女は物事には二面性があって、表面的な見かけだけで判断はできないといいます。そうはいっても、人々が信じている見せかけのほうを大事にするのが結局は身のためだと続けます。「本当の思慮深い人物というのは、人間であるからには人知を超えた知識を求めたりせず、世の多くの人々がなすところに従って、人の過ちに寛大に目をつぶってやるか、みんなと一緒に過ちを犯すものなのです〕(74ページ)といやに世間ずれのした教訓を述べます。

〔30〕
 「すべての情動が痴愚から発する」(75ページ)ということは広く認められた真理である(現代の心理学者でも同じようなことをいう人がいます)といい、「愚者は情動に支配され、智者は理性に支配される」(同上)と続けながら、ストア派の哲学者のように理性に従って、自分の情動を抑えるのが真に幸福な生き方なのかと問います。ここで女神はストア派を代表する哲学者としてセネカの例を挙げているのですが、これは注によると、セネカを「かの陰気な哲学者、ストア派の中でも最もストア派的だといえそうな人物」と評している(258ページ)エラスムス自身の意見のようです。セネカにそういう一面があるのは否定できないかもしれませんが、ネロの先生であり、彼がいなかったらこの暴君の治世はもっと陰惨なものになったであろうといわれるセネカを、エラスムスは誤解していたのではないかという気がしてなりません。第一、セネカは、かなり金を儲けて財産を蓄えていたそうです。
 とにかく、人と同じように泣いたり笑ったりして、人付き合いを欠かさない人物のほうが好ましいというのが女神の説です。ただ、これはストア派の哲学とは矛盾しないような気もするのですが…。

 どうせ痴愚の女神の言うことなのだから、笑い飛ばしながら読んでくださって結構ですよと、いいながら、エラスムスは本心とは逆のことを言ったり、本心をぶちまけたりしています。このあたり細心の注意を払って読まないと、逆の解釈も可能なわけで、私の読み方が間違っているかもしれませんが。そういう場合は遠慮なくご指摘いただければ、あるいはご自分のご意見を発表していただければ幸いです。

『太平記』(196)

2月6日(火)晴れ、バスの車窓から富士山が見えた。

 建武3年(南朝延元元年、1336)の冬、囚われの身であった後醍醐帝は、京都を脱出して吉野へ向かい、吉野金峯山寺に入った。楠正行以下の軍勢が吉野に参じたが、紀州根来の伝法院は、高野山との長年の確執から宮方に味方しなかった。11月2日、帝の吉野臨幸の知らせが、新田義貞の一党が立てこもっている越前の金ヶ崎城にもたらされた。いったんは足利方について、金ヶ崎を包囲する軍勢に加わっていた越前の豪族瓜生保は、宮方に心を寄せる弟たちと同心すべく、包囲軍に加わっていた宇都宮泰藤、天野政貞らと、本拠地のそま山に帰った。

 長兄の保が宮方に加わって兵を上げるために帰ってきたので、3人の弟たちは大いに喜んで、このような事態に希望をつないで弟の義鑑房が預かっていた(新田義貞の弟)脇屋義助の子、義治を大将として11月8日、飽和(あくわ、福井県南条郡南越前町阿久和、そま山のある地)で、挙兵した。同じ年の10月に、新田義貞が坂本から北国へと向かった際にはぐれた軍勢が、あちこちに隠れていたのが、この挙兵を聞いて、いつの間にか集まってきて、程なく千余騎になった。そこで、その中から500騎を分けて、鯖並(南条郡南越前町鯖波)の宿、湯尾(ゆのお、南条郡南越前町湯尾)の峠に関所を設け、北国の道を塞ぎ、昔の火打城(南条郡南越前町今庄にある源平合戦の古戦場)の巽(南東)にあたる山の、水や木が豊かにあって険しく切り立った峯を、本城にこしらえて、兵糧7千余石(1石は、約180リットル)を運び込んだ。これは万が一、両軍が正面衝突しての戦いに負けた場合に、この城に立てこもるための用意であった。

 金ヶ崎包囲軍の大将の1人であった高師泰(尊氏の執事である師直の弟、保にだまされて、包囲軍からの脱出を許した)は、この噂を聞いて、「この連中の退治が遅くなれば、白山の金剣宮や白山本宮の衆徒たちが合流して、由々しい事態となるだろう。すぐさまそま山の城を攻め落として、安心して金ヶ崎の城を攻めることにしよう」と、能登、加賀、越中3カ国の軍勢6千余騎をそま山城に向かわせた。瓜生はこれを聞いて、要害の地に敵が陣地を築くことが無いようにと、(現在の南越前町の)新道、今庄、宅良、(敦賀市の)葉原一帯の民家を、一軒残らず焼き払い、そま山上の麓の湯尾の宿だけを、わざと焼かずにそのままにしておいた。
 冬の寒さが厳しい中なので、わざわざ戦闘を起こさなくてもいいのではないかと思う。高師泰は雪国の武士では無いので、そのあたりの分別が無かったように思われる。地元の武士である瓜生のほうがその点では用意周到である。とはいえ、冬の最中に自分たちの家を焼き払われた住民たちがどれほど飢え、凍えたかを想像することも大事ではないかと思う。

 そうこうするうちに、11月23日、寄せ手の6千余騎が、深い雪の中をカンジキを装着して、山路8里(約32キロ)を1日で踏破し、湯尾の宿に到着した(かなりの強行軍である)。ここからそま山城へは、50町(5キロ強)離れており、しかも両者の間には大きな川が流れている(ここで「大河」と記されているのは、九頭竜川の支流の日野川である。かなり大きな川であることは確かだが、上流なので、「大河」というほどの規模の流れであるかどうかは疑問に思われる)。日がくれて、雪道を歩き疲れている。十分に休息をとって、明日は攻撃に取り掛かろうと、あまり多くはない民家に大勢で泊まりこみ、火を起こして暖をとり、前後不覚に寝入っていた。

 瓜生は、目論んだとおりに敵を谷底におびき寄せて、今が頃合だと思ったので、その夜更けに、野伏(武装した農民・地侍の集団)3千余人を後ろの山へ上げ、足軽(軽装の歩兵)700余人を左右に展開させて、三方から鬨の声をあげて攻め寄せる。寝ぼけた敵兵たちは、鬨の声に驚いて慌てふためくところに、宇都宮氏配下の紀氏・清原氏の2つの党の武士団が乱入し、家々に火を掛けたけたので、よろいやかぶとなどの武具をつけたものは太刀を持たず、弓を持ったものは矢を負わず、5尺あまり降り積もった雪の上に、カンジキもつけずに走り出したので、雪の中に胸の辺りまで落ち込んでしまい、足を抜こうとするけれどもうまくいかず、泥にまみれた魚のごとくで、生け捕りにされるもの300人、戦死したものは数を知らずという体たらくである。幸いに逃げ延びることが出来たものも、みな武器や武具を捨てなかったものはいないという惨敗ぶりであった。

 寄せ手が6千余騎、守るほうが500余騎という兵力の差はあるが、城攻めの場合には、寄せ手が圧倒的に多数でないと落城させるのが難しいというのが常識で、この戦いでは寄せてのほうが短兵急に進軍するなど、兵法を無視した無理な作戦を立てている。守る瓜生のほうは、土地勘がある上に数において劣勢なので、奇襲を試み、さらにこれまでもあちこちでその役割を演じていた、野伏や足軽などの戦力を活用して勝利を収めている。このあたりの瓜生の戦い方は、楠正成を彷彿とさせるのだが、これから物語りはどのように展開していくのだろうか。

お詫び

2月5日(月)晴れ

 依然として自家用のパソコンが立ち上がらない状態で、業者のものを使って編集していたのですが、原稿が途中で消えてしまうという事故にあい、本日は更新を断念せざるを得ません。あしからず、ご了承ください。

日記抄(1月29日~2月4日)

2月4日(日)晴れ

 1月29日から本日までの間に経験したこと、考えたことなど:
1月29日
 東映で時代劇を中心に多くの映画を監督された沢島忠さんが亡くなられた。私は時代劇はあまり好きではないので、その作品に接したことがほとんどないのが残念である。ご冥福をお祈りする。
 【2月1日の『日経』に沢島さんの作品を「ヌーベルバーグ時代劇」と評価する記事が出ていたが、ヌーヴェル・ヴァーグという言葉を安易に使うことには賛成できない。ただ、1950年代の終わりから1960年代にかけて、日本映画の多くの監督・脚本家たちが新しい傾向の作品を生み出そうと努力していたことは記憶しておいてよいのではないかと思う。】
 『朝日』朝刊の「語る――人生の贈りもの」は椎名誠さんの談話を連載しているが、今回は高校時代に柔道部に属していたことをめぐる思い出が語られていた。
 『日経』の草笛光子さんによる『私の履歴書』は第28回で、日々の暮らしの信条として「元気が一番、楽するな」ということと、母堂と草笛さんをつなぐ「赤い絹糸」の思い出などが勝たれていた。

1月30日
 『日経』が「外国人材と拓く」という日本の経済的な競争力を高めるために外国人材の活用を推進しようとする連載記事を始めた。財界にはこのままだと「いずれ誰も来ない国に」なるという危機感が募っているようである。
 『朝日』の椎名誠さんの連続インタビューは、青年時代のアパートでの共同生活の思い出が語られていた。その時代から権力を笠に着た押しつけが嫌いであったという。椎名さんは私より1年年長だが、大学時代の私の周辺では下宿文化を大いに楽しんでいる仲間が多かったことを思い出す。
 『日経』の草笛光子さんの『私の履歴書』は、舞台に出演し続けるために体作りが大事だと、週1回は2時間トレーニングをしてきたという話であった。
 同じく『日経』のコラム「文化往来」に松本清張の膨大な作品に登場する鉄道や地図を克明にたどった、赤塚隆二『清張鉄道1万3500キロ』(文芸春秋)が紹介されていた。

1月31日
 家に帰るのが少し遅くなって、皆既月食進行中の月を少しだけ見ることができた。

 「外国人材と拓く」の2回目。日本語の普及が国益を増進するという主張。日本企業側は外国人労働者に高い語学力を求めがちであるが、ハードルをもっと下げてもいいのではないかという。
 これは実は、日本人の外国語学習にも言えることで、日本人のすべてが日本語と英語のバイリンガルになるなどという目標が政策として掲げられているのは問題である。もっと現実的な目標を設定する必要がある。
 「国の思いが見えてこない」というが、政策形成者の中での意思統一がとれていないのではないか。

 『日経』の文化欄に「「広辞苑の父」平凡が身上」という記事を、新村出の孫である新村恭さんが書いていた。東大で上田万年(円地文子の父でもある)に学び、言語分野で広い業績を上げた一方で、高峰秀子の大ファンであったという。そういえば、高峰さんは「広辞苑」を愛用していたことで知られる。両者が会う場面はあったのだろうか、などと考えてしまう。
 神保町シアターで根強い人気を示している高峰秀子であるが、私の場合、彼女の若いころのはつらつとした印象を残す作品をあまり見ていないのが残念である。
 椎名誠さんの連続インタビューは息子さんと、息子さんを取り上げた小説の話題。書かれたご本人の反応など。
 草笛光子さんの『私の履歴書』は最終回、これからも舞台に挑戦していきたいという意気込みをもって締めくくられていた。

2月1日
 『日経』の「外国人材をひらく」は回目で、「世界が職場」というのはいまや「当たり前」であるという。さらに指揮者に様々な提言を求めているが、「優秀な実習生 定住認めよ」という毛受敏治さんの意見が一番現実的に思われた。
 椎名誠さんの「語る――人生の贈り物」は第9回。私小説は嘘を書けない両刃の剣であるという話。椎名さんの書いたものが伝統的な私小説の流れに沿ったものだとは思われないのだが・・・。
 NHKラジオ『実践ビジネス英語』の”Quote...Unquote"のコーナーで紹介された言葉:
One soweth and another reapth is a verity that applies to evil as well as good.
        ―― George Elliot
(1人が種を蒔き、別の人が刈り取るというのは、悪にも善にも当てはまる真理である。)
 これはOne must reap what one has sown.とかYou reap what you sow. とかいうことわざを変形させたもので、もとのことわざが物事の原因を作った人がその責任も負うべきだといっているのに対して、原因と結果が別の人間に及ぶということがありがちだと述べているわけである。エリオットはsoweth, reapethとわざと古びた言い方をしているが、何か意味が込められているのであろうか。
 ジョージ・エリオットは19世紀の前半に活躍した英国の女流作家で、男性の名前で作品を発表した。野上弥生子が夏目漱石に小説を書きたいのだが、どんな勉強をすればよいのかと質問したところ、漱石がエリオットとジェーン・オースティンとシャーロット・ブロンテの小説を読むように言ったという話があるが、オースティンもブロンテもやはり男性の名前で作品を発表したのである。ただ、現在では後の2人は仮の名前は忘れられている。

 同じく『まいにちスペイン語』応用編は「スペイン文学を味わう」『裁判所長夫人』(La Regenta)の第7回。
Con toda el alma había creído Ana que iba a volverse loca. (アナは自分が全くおかしくなってしまうのではないかと真剣に思いつめた。) 町の他の女たちと同じように誘惑されればそれに応じて生きようと考え始める。そしてベガリャーナ侯爵邸で、アナはアルバロ・メシーアの誘惑に堕ちる。

2月2日
 『日経』の「外国人材と拓く」は第4回(最終回)。新宿区の住民の8人に1人が外国人であるなどの現実を踏まえ、「多様性こそ活力の起爆剤」であると結んでいる。
 NHKラジオ『まいにちフランス語』で1613年に伊達政宗が送り出した支倉常長の率いる使節団が、バルセロナからローマに向かう途中、悪天候のためにフランスに立ち寄ることになったが、これが日本人がフランスに足跡を記した最初であると語られた。
Tsunenaga Hasekura, premier Japonais en France.
 『まいにちスペイン語』は『裁判所長夫人』の第8回(最終回)。アナはドン・アルバロとの密会を続けるが、夫のドン・ビクトルの知るところとなる。ドン・ビクトルはアルバロトの決闘で死に、アナは非難の的になる。・・・
 大学時代に聴講した野上素一先生の「イタリア文学史」の授業で、19世紀の後半から20世紀の初めのイタリアではよく決闘が行われたという話を聞いたことを思い出す。フローベールの『感情教育』でも(これから出てくることになるが)、フレデリックが決闘する場面がある。このあたり、国によってそれぞれ違う事情がありそうで、調べてみると面白いかもしれない。
 『日経』に広告が出ていたZAITENという雑誌の3月号によると、『週刊文春』『週刊新潮』はともに「実売5割の惨状」なのだそうだ。私も普段、広告見出しだけで満足して、銀行などにおいてあるのを読むことがあるという程度である。

2月3日
 『朝日』の『天声人語』欄で冬季オリンピックの開催地である平昌(ピョンチャン)と江原(カンウォン)道について取り上げていたのが興味深かった。この地の名物はスケトウダラだそうで、タラ鍋が好んで食べられるようである。日本のタラちりとどう違うのか気になるところではある。江原道の住民気質はカムジャバウィ』(ジャガイモ岩)に譬えられるという。「経済が急速に発展した韓国だが、北朝鮮と接する江原道は成長から取り残されてきた」ということとどのように関連するのかも気になる。
 『朝日』の地方欄に出ていた、金沢文庫で開催中の「運慶展」の記事が面白かった。

 本郷和人『壬申の乱と関ヶ原の戦い――なぜ同じ場所で戦われたのか』(祥伝社新書)を読む。人身野良(672)、関ヶ原の戦い(1600)に加え、暦応元・延元3年(1338)に西上しようとする北畠顕家軍とこれを阻もうとする幕府軍が衝突した青野ヶ原の戦いも関が原での戦闘であったと考えられる。日本の歴史を動かした3つの重要な戦いが同じ場所で起きているのはなぜか。「青野ヶ原の戦い」の後の北畠顕家の行動は『太平記』でも謎めいた箇所で、それを読み解く(実は顕家は前進を阻まれたのだ)ことができるというだけでも、読む価値のある書物である。
 また「常識的に考察するならば、関ヶ原の戦いが万人単位の戦いであれば、青野ヶ原の戦いは両軍とも一ケタずつ少ない千人単位、壬申の乱はさらに一ケタ少ない百人単位の戦いだったのではないか」(40ページ)という考察は貴重。関が原の戦いの際に家康が陣を敷いた桃配山は壬申の乱の際に天武天皇が士卒に桃を配ったことでその名があるといういわれも、なるほどと思わせるわけである。
 さらに椎名誠『単細胞にも意地がある なまこのからえばり』(集英社文庫)を読む。椎名さんが政治家にはなりたくないというのは正解であろうと思う。ある時、地元の市長に立候補を要請されて、辞退したという話を読んだことがある。市長になるには自分勝手すぎるということを自覚しているということであろう。

2月4日
 『朝日』の子ども向けの欄で平昌について「スキー場が多く、そば、牛肉で有名だよ」と紹介しているのが、前日の『天声人語』の記事と落差があると、気になった。韓国の経済発展から取り残されてきた地であるくらいの認識は子どもに伝えてもよいのではないかと思う。

フローベール『感情教育』(5‐4)

2月3日(土)曇りのち晴れ

これまでのあらすじ
〔1から4まで〕
 「ある青年の物語」という副題を持つこの小説は、19世紀前半のフランス(七月王政の後半から二月革命を経て、第二帝政の前半まで)を生きた青年たちの姿を描いている。主人公であるフレデリック・モローは地方の没落しかけた休暇の一人息子で、母の期待を背負ってパリで法律を勉強しようとしているが、本人は夢想家肌で芸術に関心を抱き、たまたま知り合った画商の夫人である美しいアルヌー夫人に恋をしている。アルヌー家の晩餐に招待された彼は有頂天になる。
〔5〕
 彼の高校時代からの友人であるシャルル・デローリエは現実主義者の努力家で法律家を目指し、郷里からパリに出てきてフレデリックと同居生活を送るようになったが、フレデリックのアルヌー夫人への思いを断ち切ろうと、友人たちを招いて集まりを持ったりして彼の考えをほかの方面に向けようとしている。この集まりには保守的で出世主義者のマルチノン、演劇に関心を持つユソネ、おとなしく世間知らずの貴族シジー、高い理想を抱き努力を重ねてはいるが傑作といえるような作品を描けない画家のペルラン、社会主義者のセネカル、ユソネとフレデリックが暴動の際に知り合った労働者のデュサルディエ、アルヌーの友人で得体のしれない人物のルジャンバールなどが集まってくる。
 フレデリックは大学での2度目の試験に落第し、そのままパリに留まることにするが、アルヌー夫人が母親の病気の看病のために帰省していて、会うことができない。アルヌーがそれほど再起のある男ではないと、彼に対する失望の念を抱くが、夫人に対する恋心は募る一方である。

 11月末のある日、フレデリックはアルヌーから夫人が戻ってきたという知らせを受け、翌日、会いに出かける。彼女の母親は思ったほど重症ではなかったようである。フレデリックにはうまく自分の気持ちを告げることができない。
 「法律などを勉強しなければならないのでと愚痴をいうと、彼女は顔を下に向けて≪そうね……わかりますわ。訴訟のことなど……≫そうこたえて、急に何か考えこむように、顔を伏せた。
 その考えごとがなんであるか、彼は知りたくてたまらない。気になってほかのことが頭に浮かばないほどだった。夕方の影が二人のまわりを濃くつつんできた。」(109-110ページ)
 フレデリックは外出するという夫人とともにパリの街を歩く。彼女はリシュリュー通りの陶器店の前で足を止めて、彼に別れを告げ、また木曜日の晩さん会に来るようにと彼を招待する。

「このひとをじっと見ていると、あまり強い香水を使ったときのように、なにか気持ちがぼうっとしてしまう。その印象が彼の気質の奥底までしみとおっていって、何かにつけての感じ方、新しい生活仕方のようになってしまった。
 ガス灯の光の下で生きあう娼婦、ふるえ声で歌う女歌手、早駆けでゆく乗馬の婦人、歩いてゆく町家の女たち、窓際にのぞいている浮気娘、どの女を見てもこれは似ている、または似ていないと思って、結局あのひとを思い出すたねになった。・・・パリの町全体があのひとの一身に何かかかわりをもっていた。そしてこの大都会がそのもっているありたけの声をあつめて、巨大な交響楽のように、あのひとのまわりに音をたてていたのである。」(110-111ページ) 相当重症である。

 晩餐会が開かれ始める。フレデリックは自分の思いをどのように打ち明けるか、どうすればよいのか思い悩む。なぜか、彼の思いはプラトニックなままである。
 「ひとつ、われながら不思議なことがある。それはアルヌーに少しも嫉妬を感じていないことだ。彼は着物をきているふうにしか、あのひとを思いうかべることができない。それほど、羞(はじ)らいはこのひとにぴったり身についたものという気がして、性が神秘な影のうちにかくれてしまっていた。」(113ページ)

 フレデリックが思い悩んでいるのを見かねたデローリエが、どうしたのだと尋ねるが、フレデリックは神経のせいだというばかりである。心配したデローリエは元気づけてやろうとする。〔フレデリックはぼんやりと思い悩んでいるが、それはそれで幸福な悩みなのだから、そのままにしておけばいいのに、余計なことをするという感想がある。周囲の人間が余計な世話を焼くものだから、人生の計画が壊れたり、不幸に陥ったりする例は少なくないようである。〕

 現実主義者のデローリエは、他の仲間とともに、女遊びに出かけようと持ちかける。『一人の女を失えば、かわりに四人見つかる、っていうじゃないか。わる堅い女にぶつかったら、ほかのでうめ合せをつけりゃいい。世話してやろうか、女を? 「アルハンブラ」へ行きゃいいのさ」(114ページ)。アルハンブラというのは、シャン=ぜりぜーの先に開かれた踊り場であった。
 2人は、ルジャンバールとセネカルを誘わずに、ユソネとシジーとデュサルディエだけを連れて行くことにした。

 到着すると、異国情緒豊かな建物の中に、様々な人間が集まっていた:
「学生たちが女をつれて歩き、雑貨屋の店員はステッキを指の間にはさんで、見よがしに通ってゆく。高等学校の生徒が上等葉巻(レガリア)をふかし、年寄の独身者は染めたひげを櫛でなでつけている。イギリス人、ロシア人、南米人もおれば、赤いトルコ帽をかぶった東洋人も三人いた。町の娘、お針娘らしいの、娼婦などもいい旦那、恋人、または一枚の金貨を手に入れるためか、でなければただ踊りを楽しむだけに来ていた。そして、水色、青色、桜色、黄色とりどりの薄上衣をつけた衣装が黒檀やリラの間をちらほら動きまわっていた。男はたいてい碁盤縞の服を着ており、夜の涼しさにもかまわず白ズボンなどはいたのもあった。ガス灯に火がともった。」(115ページ)

 こういうところへやってくると、遊びなれているユソネが一番調子がいい。デローリエは口ほどのこともない。シジーとデュサルディエはおとなしく、ぶらぶら歩きを続けている。シジーは「女たちをちらちら横目でぬすみ見しながら、店員にいくらおだてられても、話しかけることができない。ああした女の家にはかならず≪ピストルをもった男が衣装箪笥にかくれていて、不意に踊りだして為替手形に署名させたりする≫ものだと思いこんでいるのだ。」(116ページ) そういうことを心配するのであれば、ついてこなければいいのに、やってくるところがこの人物らしい。

 デローリエが余計な心配をして、余計な画策をするから、話が妙な方向にそれ始めた。登場人物の性格と行動がなかなか見事に描き分けられているところに、作者フローベールの描写力の冴えを感じる。それはどうと、フレデリックはどこで何をしているのか? それはまた次回に。 

島岡茂『英仏比較文法』

2月2日(金)雨(霙)が降ったりやんだり

 最近の英語教育をめぐる政策的な動向として、英語の授業は英語ですべきであるという方向が打ち出されている。日本語の海の中で日本語を習い覚えてきたのと同じように、英語も英語の海の中で習い覚えよう(そのほうが「自然に」身につくはずだ)というのがその趣旨らしいが、英語の授業を英語でやっても、ほかの授業は日本語で行われるし、休み時間は無論のこと、学校を出てしまえば日本語の海に戻るのだから、英語がどの程度身に付くかは怪しいものである。(なお、日本語の「自然に」というのがかなり曲者であるということは、多くの考察がされている。)

 それ以上に気になるのは、英語を学習する際に、日本語で説明しないとわからないような細かいニュアンスだとか、理論的な理解というものがなおざりにされる恐れがあるということである。NHKラジオの『英会話タイムトライアル』は英語の母語話者であるスティーヴン・ソレーシーさんとジェニー・スキッドモアさんが番組を担当していて、日本語を流ちょうに話すスティーヴンさんが日本語で説明して進めるのが普通で、時々、今日はほぼ全部を英語で放送します(と日本語で言って)、番組を進めることがあるが、それでもまったく英語だけで終わることはない。日本人に対し、英語だけで英語を説明するのは、それほど難しいことなのである。

 特に、英語と日本語はそれぞれどういう特徴があって、日本語の母語話者はどのようなところに気を付けて英語を学習すべきかということを理論的に理解するということは、英語だけの授業では困難だろうと思う。そこで、最近は英文法をほかの言語の文法と対比して論じた本を探して読むことにしている。
 ここで取り上げる島岡茂『英仏比較文法』(大学書林)は、英語とフランス語のどこが似ていて、どこが違うかを、文法だけでなく音韻の変遷や語彙にまで及んで初歩的に概観した書物である。「はしがき」によると、著者には『仏独比較文法』という著書もあるほかに、前島儀一郎『英仏比較文法』(大学書林)という本があり、こちらのほうが程度が高いという。それぞれ、探してみようと思っている。ほかに、三好助三郎『新独英比較文法』(郁文堂)という書物を入手しているが、英語とドイツ語を対比した書物はほかにもあるようなので、こちらも探してみるつもりである。

 また岩波新書で中島文雄『日本語の構造』という本があり、英語の専門家による日本語論として、注目すべき内容を持っていると思い、島岡さんの本と併せて読んでいる。このほか、英語教育者の立場から書かれた畠山雄二編『徹底比較 日本語文法と英文法』(くろしお出版)という書物も書架に並んでいて、これもいずれ読んでいくつもりではある。別に文法に限らず、日本語と日本語以外の言語にはそれぞれどのような特徴があって、それぞれの習得の際にどのように気をつけるべきなのかということを知る手掛かりになるような書物は、できるだけ探して読んでいこうと考えている。
 なお、三好準之助『日本語と比べるスペイン語文法』(白水社)という本も入手していて、著者がスペイン語と日本語を直接に対比しようと試みているところが興味深いが、これもそのうち取り上げてみるつもりである。(昔、ある人に、英語とドイツ語が分かれば、ヨーロッパの言語は大体わかるようになるでしょう?と聞かれたことがあったが、とんでもない、とんでもない。英語がわかることは、多くの場合、ヨーロッパのほかの言語を勉強する際に邪魔になる。少なくとも駆け出しの場合はそうである。だから、英語を通さずにいきなり日本語とスペイン語を比べるという三好さんのやり方は理解できるのである。)

 さて、『英仏比較文法』に戻る。『はしがき』にはこの書物が、英語とフランス語の文法だけでなく、歴史と構造のすべてを含んで考察していると記され、より具体的には「ゲルマン語(派)に属する英語が、いかにラテン・フランス両語の影響のもとに、今日の形をとるに至ったかを概観したものである」(ⅰページ)とその趣旨が述べられている。

 「Ⅰ 原初の対応」と題する最初の章では、比較言語学的に、印欧語の中で、もともとの祖語からどのような変遷の経路をたどって今日のような英語、フランス語が形成されてきたかが推定されるようになったかが概観されている。歴史的な推移の中で音韻がどのように変化していったかを巡っては法則性が認められ、その代表的なものがグリムの法則といわれるものである。それがどんなものであるか詳しく説明するのも面倒であるが、要するに、ヨーロッパ起源の多くの言語の間に一定の相関性がるのだということだけ理解しておけばいいだろう。
 例えば、父を意味する語はギリシア語ではπατηρ(pater)、ラテン語ではpater、フランス語ではpère、イタリア語ではpadreであり、英語ではfather,ドイツ語ではVaterである。ロマンス語派のラテン語、フランス語、イタリア語ではpになっているところが、ゲルマン語派の英語、ドイツ語ではf(ドイツ語のvはfと発音する)というようなことである。

 これは子音の対応であるが、母音についてはそういう対応はほとんどないという。その他の例も含めて、著者は次のように結論している。「フランス語と英語の関連、前者の後者に及ぼした影響を研究するばあいは、印欧祖語にさかのぼるわけにはいかない。少なくとも研究の範囲をラテン語以降に限定することが必要である。しかもそれがフランス語そのものの影響なのか、それともラテン語の影響なのか、決定しがたいばあいが少なくない。そこで厳密に言えば比較文法の対象になるかどうか、多少の問題がある」(12ページ)。

 なお、言語学の中では、英語、ドイツ語、フランス語、イタリア語、スペイン語・・・・のようにもともとは一つの言語(祖語)があって、そこから分岐して別々の言語になったと考えられる言語同士を比べるのが比較言語学であり、日本語と英語とか、日本語とスペイン語のように、明らかに別系統の言語同士を比べるのを対照言語学という。島岡さんが「厳密に言えば比較文法の対象になるかどうか」というのは、そういうことを踏まえての発言である。
 英語の変遷について、島岡さんはそんなことは分かっているはずだとしてあまり詳しく論じていないが、次の「語彙」の章についてみていく際に、私のできる限りで補足することにする。  
 

2018年の2018を目指して(1)

2月1日(木)曇りのち雨

 昨日、新しいパソコンを購入したが、ルーターの切り替えがまだ済んでいないので、業者のパソコンを使って本日の更新を行うことになった。いつまでも機械を利用し続けるわけにもいかないので、この記事の入力がすんでからどの程度、皆様のブログを訪問できるかはわからない。本格的な始動は、まだしばらくお待ちください。

 2018年1月は都道府県レベルでは神奈川県と東京都の1都1県、市区町村レベルでは横浜市、川崎市、千代田区、渋谷区、港区、品川区の2市4区に足跡を記した。
 利用した鉄道は東急、東京メトロ、都営地下鉄、JR東日本の4社、路線では東急東横線と目黒線、東京メトロ半蔵門線、都営三田線、JR山手線の5路線、乗降した駅は横浜、武蔵小杉、神保町、渋谷、白金台、目黒の6駅である。
 利用したバスは横浜市営と川崎市営の2社、横浜市営は291,34,50,35,202,87の6路線、川崎市営は溝05と杉40の2路線、合計6路線を利用している。乗降した停留所は11停留所である。〔44〕

 32件のブログを書き、5件のコメント、627拍手をいただいた。拍手コメントとトラックバックはない。ブログの内訳は、読書が21、『太平記』が6、日記が4、詩が1ということである。〔37〕

 本を10冊購入し、8冊を読んだ。本を購入したの店舗は1店だけである。読んだ本の著者・表題を列挙すると、網野善彦・鶴見俊輔『歴史の話』(朝日文庫)、諏訪哲二『教育改革の9割が間違い』(ベスト新書)、東海林さだお『目玉焼きの丸かじり』(文春文庫)、鳥飼玖美子『英語教育の危機』(ちくま新書)、前川喜平・寺脇研『これからの日本、これからの教育』(ちくま新書)、ジェイン・オースティン『高慢と偏見』(中公文庫)、永嶺重敏『オッペケペー節と明治』(文春新書)、池上英洋『ヨーロッパ文明の起源』(ちくまプリマー新書)わりに真面目な出だしだが、読んだ本が少ないのが問題である。〔9〕

 外国語関係では『ラジオ英会話』を18回、『入門ビジネス英語』を8回、『短期集中3か月英会話』を11回、『高校生からはじめる現代英語』を8回、『実践ビジネス英語』を10回、『まいにちフランス語』を18回、『まいにちスペイン語』を18回、『まいにちイタリア語』を18回聴いている。このほか、『英会話タイムトライアル』、『エンジョイ・シンプル・イングリッシュ』、『ボキャブライダー』、『ワンポイント・ニュースで英会話』を大体全部、『まいにちドイツ語』、『まいにち中国語』、『レベルアップ中国語』を時々、聞き流している。多く聴けばいいというものでもないので、4月になれば聴く番組を変えることになるだろう。〔109〕

 神保町シアターで山中貞雄『人情紙風船』と渋谷実『現代人』、イメージフォーラムでイランのアニメーション映画を見た。見たい映画はいろいろあるのだが、気ぜわしくて映画館に足を運ぶ気持ちにならないのは困ったことである。新旧織り交ぜ、アニメーションや記録映画にも興味を持ち続け、いろいろな映画に接していきたいと考えているが、果たしてどうなるだろうか。〔5〕

 第96回全国高校サッカー選手権大会の2回戦2試合をニッパツ三ツ沢球技場で、3回戦2試合を等々力総合競技場で見た。2月の下旬にはJリーグも始まるので、例年並みにはサッカーの試合を見ることになるだろうと思う。〔6〕

 2017年の2017の集計がまだできていないが、なんとか2月中にはまとめるつもりなので、その分もご猶予願います。
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