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エラスムス『痴愚神礼賛』(6)

1月31日(水)晴れ

これまでの概要
 鈴のついた阿呆の帽子をかぶるなど、道化の扮装をして現れた痴愚の女神が、自分は世の中にとってなくてはならない存在だと自賛の演説を始めます。痴愚こそが世の中を明るくし、人と人との間を円滑に取り持っているというのです。そして自分は豊穣と富の神プルトスと、魅惑的で陽気なニンフのネオテスの間の戯れから生まれたと、その出自を自慢します。そして自分は神々にも人間たちにも喜びを与えてきたとその実例を列挙しはじめます。人間は愚かな快楽の追求の結果として生まれ、幼年期から青年期にかけてを未熟という痴愚の中で過ごし、そして老いてはまた子ども時代の痴愚に戻るのだといいます。人間の心には理性よりも情念の方が多く宿っており、怒りと情欲とが情念に加勢して生活を道徳の規範から外れたものとしていると説きます。男性が女性にうつつを抜かしたり、宴席で酒を愉しんだりするのも痴愚の働きであり、人と人との間の友情も相手の欠点を見逃すことによって強められているというのです。さらに結婚生活も、お互いに対する無知によって安定したものになると主張します。

〔21〕
 これまでの演説をまとめて、女神は次のように断言します:
「要するに、この私というものがいなければ、この世にはいかなる人と人との交わりもありえなければ、人生における結びつきも幸福に長続きはしない、ということなのです。人がお互い同士、ときには幻想を抱き、ときにはへつらい、ときには賢明な態度で目をつぶってやり、ときには愚かさという甘い蜜で尖った心をやわらげないかぎり、君主は民衆にとって、下僕は主人にとって、侍女は奥方にとって、生徒は教師にとって、友人は友人にとって、夫は妻にとって、借家人は家主にとって、同僚は同僚にとって、飲み仲間は飲み仲間にとって、長いこと我慢できる存在ではなくなることでしょう。」(56‐57ページ)〔君主⇔民衆、下僕⇔主人、侍女⇔奥方、生徒⇔教師、夫⇔妻、借家人⇔家主というのは、それぞれの関係が整理されていない列挙だという気がします。これは痴愚女神の演説ということで、わざと混乱した言い方にしているのだと思われます。〕
 さらにもっと大変なことがあるといいます。

〔22〕
 それは人々が自らをうぬぼれて、愚かな目で見ているということです。自惚れこそが、あらゆる社会的活動の動因だといいます。どんな偉大な仕事も、自惚れなくしては実現できないというのですね。また、人々の最大の幸福はありのままの状態でいたいということですから、見かけも中身も異なる人々がそれぞれ自分に満足して暮らしているというのは自然の格別の配慮ではないかというのです。

〔23〕
 さらに、「世の称賛を博するあらゆる行為がなされる檜舞台」、「その源」(60ページ)である戦争を女神は賛美します。翻訳者である沓掛さんの注によると、昔、ギリシアの哲学者であるヘラクレイトスが「戦争はあらゆるものの母であり、女王である」という言葉が踏まえられているとのことです。痴愚の女神に戦争を賛美させているということは、エラスムスご本人は戦争に反対だということですね。間もなく、宗教改革と、それに伴う宗教戦争の時代がやってくるという時期に、この書物が描かれていることに留意する必要があります。エラスムスは他にも『平和への訴え』とか、『戦争は体験しない者にこそ快し』といった論説を書いています。 

 女神の「賛美」を通して、著者の戦争への嫌悪が浮かび上がってきます:
 「なんのためやら理由もわからぬままに、このような争いごとをおっぱじめ、その結果、双方ともに得よりも損をすることになるほど、馬鹿げたことがありましょうか。」(60ページ) 
 戦争で手柄を立てて賞賛されるのは、「居候、女衒、盗賊、人殺し、田夫野人、愚か者、借金に追われる者といった連中、つまりは人間の屑たちでありまして、燈火のもとで学問にいそしむ哲学者ではないのです。」(61ページ)

〔24〕
 女神の戦争賛美は、戦争の際に全く役立たないと彼女が非難してきた「哲学者」たちへの罵倒に導きます。
 「この哲学者のお歴々が、人生のあらゆる場面でいかに役に立たないかということは、ソクラテス自身がその立派な証拠になりえます。」(同上) 告発を受けたソクラテスが自分自身をしっかり弁護できず、その弟子のプラトンも法廷においてはまったく無能だったといいます。公の討論でしっかり議論できない人間が、戦場で役立つようなことはあり得ないとつづけます。
 
 さらに女神はプラトンの哲人政治論=「哲人が統治するか、統治者が哲学するならば、国家は幸福であろう」(63ページ)を批判します。「歴史家の書を覗いてみれば、哲学かぶれの者や文学にふけったものが支配権を握ったときほど、国家にとって災いとなったときはない」(同上)というのです。ローマ五賢帝の1人であるマルクス=アウレリウスはストア派の哲学者として知られているが、当時のローマの民衆には不人気な皇帝だった(これは本当のことらしい)し、仮にその政治が立派なものであると認めても、自分の不出来な息子(コンモドス)を後継者にしたということで帳消しにされるといいます。
 〔ここでもまた、エラスムスは痴愚の女神に哲人政治を非難させることで、哲人政治を擁護しているのですね。『キリスト者の王の教育』という論説の中でエラスムスは、「国家は君主が哲学を行うか、哲学者が王座について、初めて幸福になるのである」と論じているそうです。現代は民主主義の時代ですから、主権者である国民が哲学を学ぶ(というよりも、合理的な思考力を身に着ける)ような教育が必要だということになると思います。〕

〔25〕
 女神はさらに、生活上のあらゆる場面において哲学者、あるいは賢者が退屈な存在であるとその主張を続けます。みんなが楽しく話をしている時に、まじめくさった賢者が現われるとしらけるばかりだといいます。
 「そもそも人間たちの間でなされていることで、愚かさに満ち満ち、愚者によって愚者のためになされていないようなことがありましょうか。」(66ページ)と意気軒昂です。ここは英訳を見ると、Nothing happens in this world which isn't full of folly, performed by fools amongst fools.となっています。こういう世界が嫌な人は、どこか人気のないところに行って一人で暮らせばいいと言います。そういえば、(モリエールの『人間嫌い』の主人公アルセストが最後にこう言いだしますね。

 以上、〔21〕から〔25〕までを見てきました。痴愚の女神は絶好調ですね。しかし、その背後で、エラスムスがしっかり操り糸を握っているのもうかがえます。さて、これからはどのような展開になるでしょうか。

付記:月末なので本来ならば、「2018年の2018を目指して(1)」という表題で、1月のまとめをするはずなのですが、私が使ってきたパソコンがかなりガタが来ているために、これから買い替えに出かけるつもりで、他にも雑用が重なり、それやこれやバタバタして落ち着かず、まとめが延び延びになっております。2017年1年間のまとめとともに、いずれ掲載していくつもりなので、しばらくの御猶予をお願いします。また、ことと次第によりましては、しばらく当ブログの更新が途絶えるかもしれませんが、そう長くは中断しないと思いますので、引き続きご訪問いただくようお願いします。

 
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『太平記』(195)

1月30日(火)曇りのち晴れ

 比叡山に逃れていた後醍醐帝は、足利尊氏の密書に応じて京都に還幸することになったが、それに先立って新田義貞に東宮の恒良親王を託し、北国で再起を期すように命じた。京都に還幸した帝は、足利直義によってとらえられ、花山院に幽閉されたが、その際、北朝の光明院に三種の神器を渡すように迫られ、偽の神器を渡していた。
 囚われの身であった後醍醐帝は、京都を脱出して吉野へ向かい、吉野金峰山寺に入った。楠正行以下の軍勢が吉野に参じたが、紀州根来の伝法院は、高野山との長年の確執から、宮方に味方しなかった。

 「先帝吉野に御座あつて、近国の兵馳せ参る由聞こえければ、京都の周章は申すに及ばず、諸国の武士も、天下また穏やかならじと、安き心もなかりけり。」(第3分冊、226ページ、先帝が吉野に落ち着かれて、近隣の武士たちがそのもとに参集しているという噂が伝わってきたので、京都の慌てぶりはもちろんのこと、諸国の武士も、天下がまた穏やかではなくなるだろうと、心をやすめることが出来なくなった。) 『太平記』の作者はこのように記しているが、京都の武家方の動揺を描く一方で、後醍醐帝を「先帝」と表記していて、作者自身の考えも落ち着かないような書き方になっている。

 後醍醐帝が吉野に逃れられてから1月余りたっても、新田義貞たちが立て籠もっている金ヶ崎の城は、陸上を足利方の軍勢に包囲されていて、外の世界との交流が絶たれているために、このような情報は伝わってこなかった。ところが、11月2日の朝凪の海を、敦賀湾をはさんだ金ヶ崎の対岸である櫛川の海に突き出した岬の先端から金ヶ崎を目指して泳いでくるものがいた。(陰暦の11月といえば、冬のことで海の水は冷たかっただろうと思う。) 海藻をとる漁師であろうか、あるいは波間に漂う水鳥を見間違えているのであろうかと、さらに目を凝らして見ていると、そうではなくて、名張新左衛門という武士が吉野に逃れられた帝から出された綸旨を髻に結び付けて泳いでやってきたのであった。城内の人々はその趣を不思議がりまた驚き、急いで帝の綸旨を開いてみると、「先帝は密かに吉野へ臨幸され、近国の士卒はみなそのもとに馳せ参ったので、すぐに京都を攻められることになるだろう」ということが記されていた。

 足利方は後醍醐帝の情報が金ヶ崎城内に伝わったことを知り、安心できなくなった一方で、城内の人々は諸国で宮方の武士が挙兵し、そのうちに城を包囲する足利方を追い払うことができると喜んだのであった。

 さて、17巻に登場した瓜生保は、自分たちを頼りにやってきた脇屋義助と越後に向かおうとしていた新田義顕の軍勢をいったんは歓迎したものの、尊氏の偽綸旨の謀により変心して、足利(斯波)高経の配下に属すようになり、金ヶ崎の包囲軍に加わっていた。しかしその弟の重(しげし)、照(てらす)、義鑑房の3人は、兄と行動をともにせず、居城である杣山城付近に留まっていた。彼らは内心では、10月に、新田の人々が北国にやってきた際に、義鑑房がひそかに預かっていた脇屋義助の子の義治を大将として宮方に呼応して兵をあげようとその機会をうかがっていた。〔既に触れたが、瓜生一族は嵯峨源氏であり、この系統の人々は一字名をつける習わしであった。〕

 兄の保は、このことを聞いて、弟たちが、もし軽率にも足利方に敵対して兵をあげたら、自分一人だけが知らないと言い逃れることはできない、金ヶ崎で打たれてしまうと思って、兄弟が力を合わせて討死をもしようと考えを変えて、包囲軍の中にも宮方に心を寄せるものがいてもいいと、人の噂に耳を澄まし、心底を探ろうとしていた。その中でかつては新田方で戦っていた宇都宮泰藤と天野政貞という武士と一緒になり、家々の旗の紋についての評判をしていた。すると、末座にいた誰ともわからぬものが、「輪の中に横線を二条引いた足利の紋(=二引両)と、輪の中に太い横線が一条の新田の紋(大中黒)と、どちらがすぐれた紋であろうか」と質問の声が上がった。宇都宮は「紋の善悪はともかくとして、吉凶をいえば、大中黒ほどめでたい紋はないだろうと思う。その理由は、北条の紋は三鱗形であったが、今は足利の二引両になった。これをまた滅ぼそうとする紋は、一引両(=大中黒)に他ならない」という。すると天野も「もちろんである。易経という中国の書物に一文字を敵(かたき)なしと訓じた個所がある。この紋は必ずや天下を治めて日本全土に全く敵がない世の中を実現するだろうと思う」と文字についての知識を披露した。そばにいた武士がこれを聞いて、「天に口なし。人をもって云はしむ」(第3分冊、229ページ、天は物を言わないが、その意を人の口を通じて言わせる、当時のことわざ)といって、遠慮する様子も見せずに笑いたわむれた。

 瓜生保はこれを聞いて、さてはこの人々も足利方を裏切って宮方に味方する気持があるなと、うれしく思い、常に酒を送り、茶を進めて、引き続いてしきりに仲良くなろうと試み、潮時を見て、宮方として挙兵を思い立っていると内心を打ち明けると、宇都宮も天野もともに、異論はないと同意した。それでは、やがて杣山に帰って挙兵しようと、相談を進めていた。
 長期の包囲戦になると、にらみ合いに飽きて、陣営を去っていく武士たちが出るのが習いなので、尊氏の執事である高師直の弟の師泰は、包囲軍の諸国の軍勢が、許しを得ずに、それぞれの所領に帰るのを留めようと、四方の口に関所を設けて、人を通そうとしなかった。もし所用があってこの道を通るものは、師泰から判を貰わなければならない。
 瓜生は、計略を立てて師泰を騙して関を通り抜けようと考え、彼のもとに行って、「味方の軍馬の飼料を調達するために、杣山に人足を150人遣わそうと思う。関所の通行の札を頂きたい」と申し出た。師泰の執事である山口入道(山口は静岡県湖西市山口に住んだ高一族だそうである)は、杉の板で札を作り、「この夫150人通すべし」と書いて、判を押して与えた。瓜生はこの札をとって、下の判だけを残し、上の文字を全部削ってしまい、「上下(身分にかかわらず)三百人通すべし」と書き直して、宇都宮、天野とともに、三山寺(福井県敦賀市深山寺)の関所を難なく通り抜けていった。

 物語の舞台はまた、北国(主として越前)に戻る。季節は冬である。包囲軍は春を待って攻勢に出ようということであろうが、金ヶ崎に籠城している新田勢は何とか後詰の軍勢が包囲網を突破してくれることを願うのみである。包囲軍から瓜生が抜け出して、後詰を試みようとするところで、物語は終わるが、果たしてこの企ては成功するか、それはまた次回に。
 宇都宮の三鱗(北条)→二引両(足利)→一引両(=大中黒、新田)という論法は面白い。徳川氏は新田一族の得川氏の末裔を自称したが、その紋が大中黒ではないのは、新田の紋が大中黒だと知らなかったという議論があるけれども、戦国時代における『太平記』の普及を考えると、この議論には無理があるような気もする。

小川剛生『兼好法師』(8)

1月29日(月)晴れ

 『徒然草』の作者は勅撰和歌集の作者表記から侍品の人物であったと考えられ、金沢文庫の紙背文書の分析により、卜部兼好、仮名を四郎太郎といって、金沢流北条氏のために様々な雑用を務めていた無位無官の曖昧な身分の侍であり、京都と鎌倉の間を往復していたのが、金沢貞顕が六波羅探題北方に補任されたのに伴って京都に定住、その前後に出家したと考えられる。その出家は身分秩序のくびきから脱して、一方で貴顕、他方で市井の人々と自在に交わるための手段であった。
 京都に定住した兼好は金沢流北条氏との結びつきを求めてきた堀川家との関係を持ち、また自分の得た土地を後宇多院の庇護のもとにある寺院に寄進したことにより、その恩顧を受け、歌壇デビューを果たすことができた。もともと彼の活動範囲は六波羅とその周辺であったが、やがて仁和寺周辺に移り住んだと考えられる。
 彼はいわば黒子の身分で内裏にも出入りしていたが、『徒然草』からは検非違使庁、とくにそこで実務を担当していた下級官人との結びつきが窺われる。
 鎌倉幕府が倒れて以後も、兼好に累が及ぶことはなく、彼はその後、高師直などの上級武士のために雑用を務めていた。

 第5章「貴顕と交わる右筆」の後半は、兼好が高師直のような上級武士だけでなく、足利尊氏の護持僧で醍醐寺座主であった三宝院賢俊僧正(1299-1357)からも恩顧を受けたことを述べている。三宝院賢俊は名家である日野氏の出身で、持明院統に仕えた資名(その娘である名子は西園寺公宗の妻で、実俊の母である)、資明(柳原)、後醍醐天皇の側近であった資朝と兄弟である。小野さんも書いているように、賢俊は「実際何度かその窮地を救い、幕府政治にも隠然たる影響力をもった黒衣の宰相である」。(153ページ) よく知られているのは、建武3年(延元元年、1336)に宮方に敗れて京都から敗走する足利尊氏が、供をしていた薬師丸に資明を通じて光厳院の院宣を入手するように命じる、九州で勢力を挽回して都を目指す尊氏に、院宣を届けたのが三宝院賢俊であるという『太平記』の記述である。

 貞和2年10月25日、賢俊は14日間にわたる伊勢参宮の旅に赴いた。彼の日記によると、尊氏・直義から内外両宮に奉納する神馬・太刀を託されている。執事師直も太刀を渡しており、表面的には「隠密の儀」ではあったが、室町幕府を代表しての参宮であった。参宮の随伴者として賢俊は14人の名をあげており、彼のお気に入りの(稚)児・門弟・中間がその名を連ねているが、兼好のみが寺外の人で、「不慮に相伴す」と注記されているという。この旅で兼好は一行が途中立ち寄った法楽寺で馬を贈られているが、実は南伊勢における北朝・幕府の拠点であった法楽寺が、南朝の攻撃にさらされている中で、伊勢の大中臣氏との縁の深い兼好がそのような人脈を見込まれて随行したものと推測されるというのである。

 「当時の賢俊の権勢は「かの僧正、公家・武家媒介す」(園太暦観応元年〔1350〕10月18日条)という言に集約される。鎌倉時代以来の伝統で、朝廷と幕府とは直接の意思疎通はせず、狭義の必要が生じたときは西園寺家を通ずることになっていた。しかし同じ京都の地にありかつ政務多端の時節、自然交渉の機会は増えた。そこで非公式なチャンネルとして活躍したのが賢俊であった」(159ページ)という。

 伊勢から賢俊が戻ると、奇怪な事件が起きる。
 12月5日、賢俊を足利直義が急に召し出す。直義は、一体の十一面観音像を見せて、これが行方不明となっていた「内裏二間観音」であると告げた。「二間」とは内裏の清涼殿東廂に位置し、夜御殿(よるのおとど)に接して、護持僧が祇候する一室である。そこには天皇の念持仏である観音像が安置され、毎月18日東寺長者が二間観音供(仁寿殿観音供ともいわれた)を修し、天皇の御安穏を祈った。しかしその観音像は元弘・建武の戦乱に際して消失したとも、後醍醐天皇が三種の神器とともに持ち去ったともいわれた。それが興福寺大乗院にあることがわかり、噂を聞いた直義が新任する等持寺の僧を介して手に入れたものであるという。賢俊はこういうことには詳しいはずだというのでの諮問である。

 賢俊は「二間観音は十一面観音ではない」と考え、これはまがい物であると見抜いたらしいが、自分の考えだけで否定するにはことは重大に過ぎる。それで、それぞれ在位中に観音像に接していた花園法皇・光厳上皇のご覧に供してみてはどうかと勧めた。そこで、翌日、賢俊はまず上皇のもとに像を持参すると、「これは十一面なり、かの御本尊に非ず」と答えられた。その旨、賢俊は直義に復命した。
 13日、上皇は再び参上した賢俊たちにこう語られた。「一説には十一面観音というが、誰の手から出たかわからぬ像をみだりに安置するわけにもいかぬ。そもそもこれまでは紛失したらその都度造立してきた。いまさら慣例を改め難い。これは早く返却したい」(160ページと仰せられた。結局、この像は等持寺に渡された。
 この時期、南北両朝の対立の中で、直義は三種の神器をはじめとするレガリア(行為の象徴)の欠如を当事者の北朝以上に気に病んでいたらしい。しかし、それでも慎重な態度を貫いた賢俊は老練であった。

 実はこの慎重さには背景があった。この「二間観音」とされる像は公育坊という、かつて醍醐寺座主をめぐり賢俊と争った弘真(文観、後醍醐天皇の側近僧)の関係者であり、いかにも南朝のスパイ然とした人物(光厳上皇もこの僧を口を極めて非難された)が持ち込んだものであり、それだけに胡散臭いが、しかし万一本物であったら、大変なことになる。
 そこで賢俊は二間観音の実態を調べるべく藤原為房(1049~1115)の日記を兼好に命じて抜き書きさせたものを、参考資料として利用したのである。藤原為房は勧修寺流藤原氏の祖として有名な公卿で、兼好はその子孫である甘露寺隆長(1277-1350)から閲覧した。その際に、金沢貞顕の室が隆長の縁者であったという旧縁が生きていたものと考えられる。
 この抜き書きは醍醐寺文書として現存し、兼好の真筆と認められている(口絵1としてその写真が紹介されている)。また、『徒然草』177段に登場する「吉田中納言」も隆長であろうと小川さんは論じている。この抜き書きは「二間観音」が十一面観音ではなくて、聖観音であったことを確認させる内容であった。そこで賢俊は光厳院のもとで、この十一面観音が「二間観音」ではないことを確信をもって述べることができたのであった。

 この経緯から兼好が、権力者の関心話題に普段からよく通じており、今、何が必要であるかを的確に見抜いていたことがわかる。「人脈と知識を生かした働きは有能なブレーンのそれとしても評価できよう。何より晩年の兼好が、水面下ではあるが、南北朝の歴史の一局面に携わっていたことには興味が尽きない。」(168ページ)

 『徒然草』が執筆されたのは、鎌倉幕府滅亡以前のことと考えられているから、第5章は、その内容と直接には結びついてこないはずである。しかし、実際には『徒然草』に登場する人物や、そのゆかりの人物、事物が関係する出来事も少なくないのは、鎌倉幕府滅亡という事件があっても、滅亡後も生き延びている人が数多くいたことを明かしだてるものであろう。勧修寺流藤原氏については、最近出た倉本一宏『藤原氏』にも(少しだが)触れられている。紫式部に縁があり、「日記の家」でもある。また、今回触れた観音像をめぐる部分は、大ざっぱにしか紹介しなかったが、人物や事物について詳しく考証を重ねて、肉付けをすると、ちょっとしたミステリーが描けそうな内容である。
 兼好は吉川英治の『私本太平記』にも登場して、後醍醐天皇が隠岐に配流されるときなど、その後を追い、天皇を警固していた佐々木道誉と会話したりするのだが、どうも実像は吉川が描いたのとはだいぶ違ったものであったようである。
 次回は、第6章「破天荒な家集、晩年の妄執――歌壇の兼好」を取り上げ、歌人としての兼好の活動を、とくにその晩年に焦点を当ててみていくことにする。 

日記抄(1月22日~28日)

1月28日(日)曇り、寒い

 1月22日から本日までの間に経験したこと、考えたことなど。前回の補遺・訂正:
1月19日
 NHKラジオ『基礎英語3』を聞いていたら、ミランダ・コスグローブさんの歌う「アイ・カーリー」の主題歌がリクエストされていたので、懐かしかった。(「懐かしかった」などといっていいのかどうかはわからないが…)

1月22日
 雪が降るという予報だったが、降り出す前に東京に出かけ、病院で診察を受けた後、X線写真と心電図をとった。病院に到着するころからみぞれが降っていたが、横浜に戻る電車の中からは雪が積もりはじめているのが見えた。バスがチェーンを巻いて走行するため、座っていると微妙に振動が伝わってきて、理髪店でマッサージを受けている時のことを思い出したりした。

 NHKラジオ『まいにちスペイン語』の「スペインの街角」のコーナーは、スペイン北部のカンタブリア海に面した町サンタンデール(Santander)を取り上げた。海に面しているだけあって、海産物の料理がおいしいということである。

 『日経』連載の草笛光子さんの「私の履歴書」では、ウィリー・ラッセルの『シャーリー・ヴァレンタイン』という独り芝居に出演、歌も踊りもない舞台を50代になって初めて経験したことが語られていた。

1月23日
 『朝日』朝刊の椎名誠さんの「語る――人生の贈りもの」は「カタッ苦しさから解放された」という見出しで、エッセーを書き始めたころの経験が語られていた。

 草笛さんの「私の履歴書」は、セリフだけの劇をやり通して、新しい自信がつき、出演作品にも変化が出るようになったことが語られていた。

 『まいにちスペイン語』の「ラテンアメリカの街角」で、今回はアメリカ合衆国フロリダ州のマイアミを取り上げた。1959年の革命以後、この地に移住してきたキューバ人が多く住みつき、リトル・ハバナと呼ばれる街区もできているという。

1月24日
 椎名誠さんの「語る――人生の贈りもの」は<あやしい探検隊>の組織と活動→<雑魚釣り隊>について語られていた。

 草笛さんの「私の履歴書」は、ガンで死んでいく女性の大学教授をヒロインとする舞台「ウィット」に主演した時のことが語られていた。

 『まいにちスペイン語』では「スペイン語の多様性」の一例として、切手をスペインではselloというが、メキシコではtimbre、アルゼンチン、チリ、ベネズエラではestampillaということ、郵便局はスペインではcorreosであるが、メキシコ、アルゼンチン、ベネズエラではcorreoとsがつかないことなどが紹介された。スペインのポストは黄色だが、メキシコのポストは赤色だという。黄色というのはたしか、フランスと同じである。

 ジェイン・オースティン(大島一彦訳)『高慢と偏見』(中公文庫)を読み終える。昨年は阿部知二訳(河出文庫)と中野康司訳(ちくま文庫)で読んでいる。以前に読んだ富田彬訳(岩波文庫)と合わせ4種類の翻訳で読んだことになる。このブログではオースティンの完結した長編小説6編のうち、『高慢と偏見』を除く5編はすでに紹介しているので、『高慢と偏見』も取り上げるつもりではあるが、いつになるかはわからない。

1月25日
 椎名誠さんの「語る――人生の贈りもの――」はいろいろな困難が予想される中で、楼蘭に出かけた時のことが語られていた。

 草笛光子さんの「私の履歴書」は、ブライアン・クラークの『請願』、ブレヒトの『肝っ玉おっ母とその子どもたち』などの反戦劇に出演した際に、自分の演技で観客に戦争の悲惨さを伝えていくというやりがいを感じたことが語られていた。

 『まいにちスペイン語』応用編「スペイン文学を味わう」は「裁判所長夫人(La Gegenta)」の5回目。裁判長夫人(ラ・レヘンタ)穴をめぐって争っている2人の男性、説教師ドン・フェルミンと政治家のアルバロ・メシーアがアナも訪れているベガリャーナ侯爵の屋敷で顔を合わせる。庭のシーソーで高く上がりすぎて、籠が壁から出た木の棒に引っかかったために降りられなくなったオブドゥリア・ハンディーニョをアルバロは助け下すことができなかったが、彼よりも背の低いフェルミンがやすやすと助け下してしまう。フェルミンを彼女の守護者聖ミカエル、アルバロを誘惑者悪魔と感じていたアナは、フェルミンの強靭さに救いを見出す。

 筑摩書房から『ちくま』2月号が届く。橋本治さんの巻頭随筆「おもしろくすることを考えればいいのに」、ほしおさなえさんの「東京のぼる坂くだる坂 2 闇坂」(JR大森駅の西側の一帯が探訪されている)が面白く、斎藤美奈子さんの「世の中ラボ94 明治150年にあたり、「司馬史観」を検証する」、岡本隆司さんの「世界史を一望する15 帝国主義と東西の「帝国」」、上野千鶴子さんの「情報生産者になる14 メッセージを届ける」はそれぞれに読みごたえがあって、勉強になる。

1月26日
 椎名誠さんの「語る――人生の贈りもの――」は、楼蘭で井上靖から託されたブランデーを飲んだ挿話が語られていた。

 草笛光子さんの「私の履歴書」は第25回。亡くなられた母堂との「シーソーゲーム」の関係が語られていた。「きれいに生きる」をモットーとしていた母堂は、長年、草笛さんのマネージャーを務めていたが、女優としての仕事が済んだと思ったらおいでなさいと90歳を超える高齢で亡くなられたそうである。

 『まいにちスペイン語』は『裁判所長夫人』の6回目。アルバロはアナを誘惑する機会を得ようと、アナの夫であるドン・ビクトルを説得し、3人でソリーリャの『ドン・フアン・テノリオ』を見に出かける。
 Empezó el segundo acto y don Álvaro notó que por aquella noche tenía un poderoso rival: el drama. Anita comenzó a comprender y sentir el valor artíco del don Juan emprendedor, loco, valiente y trapacero de Zorrilla; [...].
(第2幕がはじまると、ドン・アルバロは、その夜は芝居という強力なライバルがいることに気づいた。アニータはソリーリャの作品の、やり手で、向こう見ずで、雄々しく、いかさまを働くドン・フアンの芸術的な魅力を理解し、感じはじめた。〔。。。。〕。
 その後、アルバロから倶楽部(カシノ)で開かれた舞踏会に誘われたアナは、彼と踊るが、興奮のあまり彼の腕の中で気を失ってしまう。自分のふるまいを悔やんだアナは、罪の償いのために、聖週間の金曜日に、行列の一員として、町中をはだしで練りあることを決心する。町は大騒ぎになる。
 ドン・フアン劇としては、モリエールの『ドン・ジュアン』が最もよく知られているが、この作品では主人公は最後に地獄に堕ちてしまう。ソリーリョの『ドン・フアン・テノリオ』は日本語にも翻訳され(岩波文庫に入っている)が、ドン・フアンは最後に神の救いを得る(それで、スペインではこの作品が非常に人気があって、とくに11月2日に好んで上演されるそうである)。他にイタリアのゴルドーニが劇にしたものもあり、ここではまたドン・ジョヴァンニは地獄に堕ちる。モーツァルトが歌劇にしたのは、ゴルドーニ版にさらに手を入れたものだと記憶しているが、ゴルドーニ版そのものだったかもしれない。

 NHKラジオ『実践ビジネス英語』の”Quote...Unquote”のコーナーで紹介された言葉:
A single twig breaks, but the bundle of twigs is strong.
        ―― Tecumseh (Native Americanmilitary leader, c.1768 -1813)
(1本の枝は折れるが、束にした枝は強い。)
 日本でも同じようなことを言った人がいた。

 神田神保町のすずらん通りの檜画廊から2月5日(月)~17日(土)に開かれる「丸木位里・俊展」の案内のハガキが届いた。例年の催しで、昨年は足を運ばなかったので、今年は見に行くことにしよう。

1月27日
 『朝日』、『日経』両紙に中国が北極海を通ってアジアとヨーロッパを結ぶ航路の開発に本格的に乗り出そうとしているという記事が出ていた。大航海時代にポルトガルは喜望峰周りでインド洋からアジアに進出、スペインはマジェラン海峡から太平洋を渡ってアジアに拠点を築こうとした。これに対して、イングランドは北極海を通る航路を開拓しようとしたが、北極圏の寒さと氷山を想定していなかったので失敗に終わった。いずれこのブログで取り上げるつもりにしているが、ラブレ-の『第四の書 パンタグリュエル物語』でパンタグリュエルの一行はヨーロッパから北回りでアジアにむかおうとしている。こういう空想旅行の経路を見ていると、その時代の人間の世界地理についてのイメージがわかるところがある。それにしても、北極海航路の定期便が開通したら、一度でいいから乗ってみたいと思う。(シベリア鉄道よりも面白いのではないかという気がしてならないのである。)

 草笛光子さんの「私の履歴書」は第26回。リチャード・アルフィエリ作『6週間のダンスレッスン』のリリーという役に出会い、自分にぴったりの役で、女優をやっていてよかったと思ったことなどが語られていた。

 永嶺重敏『オッペケペー節と明治』(文春新書)を読み終える。この本については機会を見て取り上げるつもりである。ただ、大学に入学してすぐに、福田善之の舞台劇『オッペケペー』を見たことを思い出すのだが、この本の中にはこの演劇への言及がなかったのが残念である。

 NHKラジオの「朗読の時間」、織田作之助の「夫婦善哉」に続いて朗読されていた「続夫婦善哉」も終わった。柳吉と蝶子は大阪のカフェを売り払い、別府に移住して、また元の剃刀屋に戻る。あれこれの才覚を働かせて、商売を大きくしようとするのだが、次第に戦時色が強くなる世の中で、苦労は絶えない。柳吉は実家に残されている自分の娘のことが心配でしょうがない…。物語の展開としては、大阪でさらに波乱を重ねる方が面白かったようにも思うのだが、作品のモデルになった姉夫婦の生活の軌跡をなぞってこうなったということであろう。

1月28日
 『朝日』朝刊に平昌冬季オリンピックに出場することになった韓国と北朝鮮の合同チームが選手のあいだの言葉が通じにくいという問題に直面していることが報じられていた。アメリカとの結びつきが強い韓国では「アイスハキ」というのを、北朝鮮では「氷上ホケイ」といい、スティックを北朝鮮では「ホケイチエ」、パスを「連結」、オフサイドを「攻撃違反」というそうである。やたら外来語を使うのは好きではないが、北朝鮮のスポーツ用語を聞いていると、太平洋戦争中に日本で野球をするときに「ストライク」を「よし、一本」といっていたことを思い出してしまう。

 『朝日』朝刊の横浜版には、1011年から2017年のあいだの小学校の学校給食の変化が写真入りでたどられていた。食料品の価格が次第に上昇して給食の内容が切り詰められているのがよく分かる。同紙の1月24日付のコラム「経済気象台」で今の日本の経済が「本当にデフレなのか」という問いが投げかけられていたが、今の日本は「物価が持続的に下落する状況」ではない。それなのに、デフレ脱却が盛んに強調されるのはどういうことか? 私のような年金生活者にとっては、デフレは最も好ましい経済状態だということも経済政策策定者は頭の中に入れておいてほしいことである。

 草笛光子さんの「私の履歴書」は三谷幸喜さんの作品への出演や三谷さん自身について語られていた。

諏訪哲二『教育改革の9割が間違い』(2)

1月27日(土)晴れ、かすかに富士山が見えた。

 教育は<正論>ではうまくいかない。理論には限界がある。教育は学校の場だけで行われているのではなく、文部科学省などの教育行政当局の意向、<行政のちから>は教育にかかわる一つの力にすぎない。現場で子どもたちと接する<教師のちから>、財界や親、受験産業、教育評論家などの<民間のちから>、そしてほかならぬ<子どものちから>の複合的な動きの中で教育は動いていく。
 教師としての経験を踏まえて、著者は学習者が能動的に活動する学習が学力の向上につながるという理論に懐疑的である。学習者の活発な討論により学習を深めようとする「アクティブ・ラーニング」は現実には多様な子どもの個性に即したものではないという。特定の学習方法を排他的に推奨するのではなく、各教師のそれぞれの工夫による授業の自由こそが重要であると説く。(第1章 アクティブ・ラーニングは日本の教育を変えるか)

 第2章「教師は『個性』を鍛えよ」で、著者はまず、「教師に『教育』は見えない」という挑戦的な断定を掲げる。ある事柄を理解にするには、外部から見なければならないというのが著者の考えである。教師は、教育の内部にいるから教育について理解できないというのである。
 思い当たるのは、教育学専攻のある私の友人が、こんなことを言っていたからである。大学院で教育を外から歴史的に研究していると面白かったのだが、自分が教師としてその制度の中に入ってしまうとこんなつまらないものはない。「理解する」ということと、「面白い」と思うことは同じではない。また、諏訪さんのように高校の先生をしているのと、私の友人のように探題の先生をしているのとでは、教育の制度の中にいるといっても、その中の世界の受け取り方は違う(小学校や中学校、あるいはその他の学校の先生をしていれば、また別の受け取り方があるだろうと思う)。
 だから、教師は第三者の意見を聞いて自分を見直す必要があるという。教育学者や評論家はその意味で存在理由があるという(もっとも教育学者もまた教師であることが多いので、あくまで条件付きではある)。

 さらに教師は生徒の立場に立てないという。他人の立場に立つというのは、多くの場合、自分が許容できる相手の立場に立つということでしかない。多くの教師が生徒の立場に立つと思うとき、それは自分が教師としての自分を基準にして、相手の気持ちをおもんばかっているということでしかない。生徒たちが教師たちの「生徒はこうあるべきだ」に反抗しようとしないうちはそれでもいいが、著者によると1980年代ごろから、生徒の様子が違ってきて、その姿がつかめなくなったという経験がある。
 私は著者よりも4歳年少で、教職に就いたのは10年以上遅くなってからであるし、大学で教えていたから少しずれあがるかもしれないが、やはり1980年代になって学生の質が変わってきたという記憶はある。〔現在の50代くらいの教師というのはそのころの学生なので、これは現在の教育を考えていくうえで重要な問題の1つではないかと思う。〕 
 私の経験をまとめると、教師は「教師語」を話して、教師流にものを考え、生徒は「生徒語」を話し、生徒流にものを考えている。両者の共通するところはあまりないから、生徒を「指導」するときにはその点を気をつける必要がある。

 多くの教師は自分について自信を持っている、「自信過剰」の傾向があるという。
「本当に子どもの側に立ち、その真情が理解できたら、恐ろしくて子どもの前に立って「真理」や「科学」や「正義」などを教えるなどというあざといことができるわけがない。
 独善的でも自信過剰でもない人は、教師をやろうなどとは思わないことだ。なお、いうまでもないが教師の独善的とは独りよがりのことで、生徒のことを考えないことではない。生徒のことを考えてはいるのだが、客観性に欠けるということだ。」(62ページ)
 私の知っていたある学生が、どうも交友関係に問題があって、学生生活がうまくいっていないのを見かねた別の先生が「君はもっと自分のことを大事にしなければいけないのではないか」と助言を与えた。今、考えると、これは余計なおせっかいで、「交友関係を見直すべきではないか」とズバリ言った方がよかったのではないかと思う。

 学校を動かしているのは、「行政のちから」だと考えている人が多いが、「行政の力」は「教師の力」を通さなければ発揮できない。さらにそれを「子どものちから」がどう受け止めるかも重要である。
 「教師も子どもも「上」からの指示で動くでくの坊ではなく、独自の主体性があり、さらに個々人は自己中心性を所有している。それぞれの志向性とエネルギーを持っている。」(63ページ)
 多くの教師が子どものこと、教育の実際については行政よりも自分の方がよく知っている、自分の方が現実の影響力をもっていると考えているから、「行政のちから」を撥ね返すこともある。それもまた学校教育にとって大事なことである。

 その一方で校長など管理職は尊敬されていないという〔これは学校によって、とくにその設置形態によって違いがあるのではないかと思う〕。管理職は、教師というよりも「行政のちから」の代弁者という意識が強く、行政用語を使いたがる傾向があると著者は言う。しかし、「行政のちから」だけで現実の教育がうまくいくわけがないことをよく知っているから、我慢強く丁寧に現場の教師たちに接している。
 全体として、「日本の教師は、あまり「お上」に従順ではないのだ。まことに管理職は苦労が多い。
 学校における管理職と教師、教師と教師、そして教師と生徒の関係などは、命令や支持では動かないところなのである。」(68ページ)
 〔昔、NHKの朝ドラ「ふたりっ子」で主人公の1人である香子が「校長と理事長とどっちが偉いんや?」と問う場面があった。私立学校になると、そういう別の問題が出てくる。両者の力関係で学校の個性が決まってくるので、これはなかなか鋭い質問である。私の母校は、在学当時、理事長と校長が同一人であったようである。そういう場合もある。〕

 ここまで紹介してきた内容は、著者が(埼玉県の)公立高校の先生としての経験の中で把握してきた教師の特徴で、地域や学校種などによって違いはあるかもしれないが、教師と生徒の関係、教師と教師との関係などは本質的なものを掴む洞察が多いのではないかと思う。今までのところでは、章題と内容の違いがありすぎるが、予定の分量にほぼ達したので、今回はここまでとして、教師は何を目指し、何をどのように教えていくべきかという、教師の個性にかかわる部分は次回に譲ることにする。 

前田速夫『「新しき村」の百年 <愚者の園>の真実』(9)

1月26日(金)晴れ

 「新しき村」は1918(大正7)年11月に『白樺』派の中心的な人物であった武者小路実篤の主唱により、日向=宮崎県児湯郡木城村大字石河内字城に創設され、1939(昭和14)年に埼玉県入間郡毛呂山町葛貫に移転して今日に至っている生活共同体で、共同の義務労働と余暇の自由な創造的活動を組み合わせた共同生活を通じて理想社会の実現を目指す。しかし、生活のための共同労働と個性の実現のための創造的活動の平衡をとることは難しく、武者小路自身も1925(大正14)年12月には離村して村外会員となるなど、その事業の展開は困難を極めた。
 戦後、養鶏に取り組んだことで、村の事業は大きく発展し、1958(昭和33)年には自活を達成、その後も順調に発展をつづけ、その勢いは武者小路の死(1976、昭和51年)後も変わらないように思われたが、1980年代に入ってその勢いが止まり、1990年代はじめにバブル景気が終息したころから、養鶏事業が不振に陥り、人員不足や高齢化の影響もあって村の事業規模は縮小、村内人口も事業収入も減少し続けた。2008(平成20)年の公益財団法人法の改正により、一般財団法人となったことも衰退に追い打ちをかけて現在に至っている。

 では、「新しき村」の将来の見通しはまったく閉ざされているのか? 8「ユートピア共同体の運命/液状化する世界」はこの問題を取り上げて論じている。近・現代の社会における工業化・都市化の持つ問題点が明らかになるとともに、その現実に満足できない人間が疑似的な共同体をつくる動きも目立つようになってきたが、その多くが問題を抱え、短期間しか存続せず、空想的な企てとして非難を浴びてきた。「ユートピア」は賞味期限切れだという声がある中で、とにもかくにも「新しき村」が100年続いてきたことは評価されていいことではないかといいたいようでもある。
 〔このあたりの議論は、あまり整理されていない。前田さんがトマス・モアの『ユートピア』もエンゲルスの『空想から科学へ』もしっかり読んでいないことは明らかで、聞きかじりの知識で議論を進めている。そういう意味では省いてもいい議論であった。〕

 現在の日本で活動を展開している生活共同体には、一燈園、ヤマギシ会、わらび座などがあり、それらと「新しき村」を比較してみると、新しき村の強みは、「創始者が著名な作家であること、理念がしっかりしていること、共同体でありながら、全体より個を重視していること、その思想は国内のみならず世界的な普遍性のあることである。反面、弱みは、規律・統制がゆるく、業務の拡張やPR、資産・構成員の増大・後継者育成には不熱心なことで」(152ページ)あるとする。〔「その思想」に「世界的な普遍性のある」というのはうぬぼれのような気がする一方で、「規律・統制がゆる」いのは長所かもしれないと私は思うのだが、どうだろうか。〕
 また、「新しき村」の初期の会員であった宮坂梧朗の農場経営計画の合理性や、武者小路自身の『新しき村はユートピアにあらず」という言葉も紹介されている(それならそれをはっきり強調した方がすっきりする。「ユートピア」などと言っても読者が混乱するだけである)。

 多くの論者はユートピアは賞味期限切れだと説いている。、前田さんもそう考えていたが、最近は考えを変え始めた。そこへ行くと気持ちが落ち着き、安らぐような<異界>の存在の必要性を感じてきたことがその理由であるという。人間同士が支えあうような場所を見つけるか、新たに創り出すかしないと、今日の液状化した世界の中での意義ある生き方を得られないのではないかという。

 9「ポストモダンの帰農」では、新しき村の事業が縮小する中で、村内会員の意識が保守化し、なかなか構造改革が進まないことについて、村内の人々や、離村者の活動や意見を踏まえて論じている。前田さんは改革を目指す自分の意見が、村内の人々になかなか受け入れられないことにもどかしさを感じているが、村内の人々は村外会員である前田さんには村で暮らすものの本当の気持ちはわからないと思っているようにも受け取れる。

 10「創立百年を超えて――人類共生の夢」では、国家、地域、家族などの社会的な役割の変化の中で、人と人とを結ぶ中間校が機能不全に陥っている現状を、新しいコミュニティの創出、あるいは既存のコミュニティの再生によって打破しようという主張を述べて、この書物を終えている。

 8,9,10の各章は、1~7の各章が「新しき村」の創出と発展(衰退)を各種の記録をもとに生きいきと辿っていたのに対し、いわば理念篇で、「村」の現状を踏まえつつ、その新しい意義を探ろうとしているが、明確な方向性を示しているわけではないので、説得力に欠けるように思う。できるところからやっていこうというのも一つの考えだが、思い込んだら猪突猛進というのが、武者小路流ではないかという気もする。
 この書物ではロバート・オーウェンのニュー・ハーモニーの失敗などにも言及しているが、実際にどのように失敗したのかについての詳しい分析はないし、ニュー・ハーモニー以外にもアメリカで取り組まれた共同体事業は少なくなく、それについて書いた書物はきわめて多い。それらを「新しき村」と比較してみることが、問題解決のカギになるのではないかと思う。さらに言えば、オーウェンがスコットランドで経営したニュー・ラナークの方は現在では確かユネスコの世界遺産になっているし、観光地として知られているので、出かけてみてもよかったのではないか。(現実に、私の知人で出かけたという人がいる。)
 まだ、この問題をめぐっては取り組むべきことが多いような気がする。 

フローベール『感情教育』(5-3)

1月25日(木)晴れ

これまでのあらすじ
第1部〔1〕
 1840年9月、大学入学直前の18歳の青年フレデリック・モローはセーヌ川を遡行する汽船の中で画商のアルヌーと、その美しい夫人と知り合い、夫人に恋心を抱く。
〔2〕
 フレデリックには県庁所在地の公証人の事務所で書記として働いているシャルル・デローリエという親友がいる。夢想家で芸術に興味があるフレデリックと、努力家で現実主義者のデローリエは育ち方も気質もまったく違うが、2人は高校時代からずっと仲が良かった。2人はパリで共同生活を送ることを約束する。
〔3〕
 パリに出たフレデリックは地元の有力者であるダンブルーズ氏を訪問したり、アルヌーの店に出かけたりするが、期待していたような反応を得られない。大学の授業には関心がわかず、高校時代の友人であるマルチノンや世間知らずでおとなしい貴族出身のシジーといった友達とつきあいながら、無為に過ごす。
〔4〕
 1841年12月、パリで暴動が起き、その際に警官たちともみ合って逮捕されたデュサルディエという青年を助けようとしたことから、フレデリックは同じ法学部の学生であるユソネと知り合う。演劇の世界に関心をもつユソネとフレデリックとは意気投合し、やがてユソネの手引きで彼はアルヌーの事務所に出入りするようになり、その常連になる。そして画家のペルランやアルヌーの相談相手で正体不明のルジャンバールとも顔なじみになる。父親との財産をめぐる係争を片付けてデローリエがパリに出てきたその日、フレデリックはアルヌーから晩餐に招待され、アルヌー夫人との再会を果たす。
〔5〕
 アルヌー夫人と再会したことから、画家の道を進もうと決心したフレデリックは、ペルランから絵の手ほどきを受けることになる。一方、デローリエは復習教師で社会主義を信じているセネカルを連れてくる。フレデリックのアルヌー夫人への想いを止めようと、デローリエは土曜日に彼らの住まいで若者の集まりを開くことにする。2人のほかに、マルチノン、シジー、ペルラン、セネカルたちが集まる。ある日、ユソネがデュサルディエを連れてくる。さらにルジャンバールも出席する。デローリエはアルヌーの俗物性を嫌う一方で、彼を通じて有力者との接触を図ろうとするが、フレデリックは友人の要請に応えない。

〔5〕の続き
 1842年の8月にフレデリックは2度目の試験を受けることになる。「人のうわさでは試験準備するには2週間で十分だといっている。フレデリックは実力に自信をもって、手続法の最初の4巻、刑法の最初の3巻、刑事訴訟法の数章、ポンスレ氏の注釈付きの民法一部を一息に呑み込んでしまった。試験の前夜は、デローリエが要点を復習してやり、それが朝までかかった。それから、なお最後の15分もむだにせぬため、歩道を歩きながら質問をしつづけた。」(98-99ページ)
 一見、周到な準備に思われるが、この後の記述を読むと、どうもそうでもなかったらしい。試験場に着くと、中庭には大勢の人がいて、その中にはユソネとシジーの顔も見えた。この2人も試験を受けるのかというと、そうではなくて、「友人が試験を受ける時には必ずやって来る男たちだ」(99ページ)ということである。〔1964年の2月だったろうか、朝、友人から電話がかかってきて、今日はこれから慶応大学の経済学部の入試だから、応援に行こうというので、日吉まで出かけて受験する連中を応援したことがあった。別の高校に通っている知り合いに出会ったりもした。そのあと3月に、京都大学を受験するために特急に乗るときに、友人たちが横浜駅まで見送りに来てくれた。〕
 これは入学試験ではなくて、卒業試験であり、筆記試験ではなくて、口述試験である。フレデリックは伝統になっている黒ガウンを着た。それから大勢の人間(つまり傍聴人である)を従え、他の3人の学生と一緒に広い部屋に入った。テーブルをはさんで試験官たちと対面する。

 フレデリックの順番は「後から2番目(4人中3番目)、わるい番である。規約(コンヴァンション)と契約(コントラ)との相違についての第一質問で、彼は両方を取り違えて定義してしまった。」(99ページ)
 試験官の教授が親切な人で、「慌てないで、落ち着きなさい」といい、やさしい問いを2つだしたが、フレデリックはあいまいな返答しかできなかった。彼は意気阻喪するが、傍聴人に交じって正面にいるデローリエがまだ大丈夫だという合図をした。それで、第2の刑法に関した質問についてはまず上出来だった。「しかし、秘密証書による遺言に関する第3試問がすんだ時、試験官がずっと冷やかにしていたので不安が強くなった。」(同上) 「ユソネは拍手でもするように手を組み合わせ、デローリエはしきりに肩をすくめてみせた。」(99-100ページ)
 続いて、手続法の試問にとりかかるが、第三者の異議について、試験官である教授と反対の学説を答えてしまい、彼の機嫌を損ねる。そして意地悪な質問をされ、前夜眠っていないために激しい頭痛がしてきたフレデリックは答えに窮する。そして意地悪な皮肉を言われ、傍聴人の失笑を買う。さらに召還と略式訴訟事件について2つの質問を受け、それで試験は終わった。

 「受附が彼のガウンをすぐつぎの男に着せるために、脱がしているうち、友達連中が集まってきて、試験の結果についてめいめい自分勝手な意見を吐くので、フレデリックは何が何だかわからなくなっていた。と、間もなく試験場の入口からひびきのいい声が呼ばわった。《三番・・・・・不合格》
 「すんだ! さ、帰ろう!」ユソネがいった。」(100-101ページ)

 フレデリックは不合格だったが、同じ会場で試験を受けていたマルチノンは合格していた。「もう残っているのは論文だけだ。2週間たたぬうちに学士になるだろう。家族は大臣の1人を知っているし、《輝かしき未来》が行く手にひらけているわけだった。」(101ページ) フレデリックはマルチノンを内心で馬鹿にしていたが、してやられたわけである。
 「愚かしい人間が自分の現に失敗した企画でうまく成功したのを見るほどいまいましいことはない。」(101ページ) もっとも客観的に見れば、出世主義者でまじめに勉強したマルチノンが合格して、あれこれ気を散らしていたフレデリックが不合格だったのは当然のことではある。フレデリックは少しむしゃくしゃした気持ちになったが、自分は気にしていないということはできた。そしてユソネに、アルヌーのところに出かけても、落第の件は黙っておいてほしいと頼む。アルヌーはその翌日からドイツへ旅立つことになっていたからこれはお安い相談であった。それでフレデリックは安心して、帰省せずに勉強に励む決心をしたという。実は、アルヌー夫人のところに気兼ねなく通おうというのである。

 フレデリックは母親に運悪く試験には不合格だったので、11月に再受験するつもりで勉強に励むから帰省しない、学資を送ってほしいと手紙を書く。モロー夫人はがっかりして、息子との間で不和が生じるが、結局学資を送ってくる。余分の金でフレデリックは身なりを整えたりする〔どうも懲りない奴だ¡¡〕。

 アルヌーのところを訪問すると、旅行に出かけたはずの彼が出てきて何の用だという。ユソネが取り違えたのだという。夫人は、母親の病気見舞いにシャルトルに帰っているという。フレデリックはすっかりがっかりする。
 「いよいよ退屈な3か月が始まった。何の仕事もないのでその閑散が彼の憂鬱をなおさら濃くした。
 部屋についた露台の上から、灰色がかった岸のあいだを流れる川を幾時間も見て過ごした。河岸はところどころ下水溝の継ぎ目が黒ずんで、岸につないだ洗濯船が見えた。」(105ページ) このあたりのパリの情景の描写は見事である。
 8月は、学生たちの多くが帰省していたので、パリの町は静かである。アルヌーをしばしば訪ねて、夫人の母親の容態を尋ね、アルヌーから何度か食事をおごられる。何度も2人で話をするうちに、フレデリックはこの男がそれほど才気のある男でもないと気づいて、少しご馳走のお返しをしておいた方がいいと思い立つ。そして、新調の服を古着屋に売って80フランを手に入れ、アルヌーとルジャンバールと3人で食事をする。アルヌーとルジャンバールは儲け話に花を咲かせたりするが、フレデリックは、アルヌー夫人の帰還を待ちわびる気持ちのままだらだらと、2人につきあっていた。

 『感情教育』はフローベールの自伝的な要素のある作品だといわれ、フレデリックだけでなく、その他の登場人物(デローリエ、ユソネ、シジー、デュサルディエ、マルチノンでさえ)も作者が実際にこの時代を生きて、他の若者たちと共有していた時代精神を何らかの形で表現する存在であると思われる。若者たちの群像の中から、自分に一番近い人物を探してみるのも一興であろう。こkれまでのところでは、フレデリックは何をするにもアルヌー夫人への想いが先行して、それが必ずしもいい結果と結びつかないように思われるのだが、気にかけない風である。彼は11月の試験に合格するだろうか、そしてその後、どのような道を歩むことになるのだろうか。
 
 
 

エラスムス『痴愚神礼賛』(5)

1月24日(水)晴れ

これまでの概要
 道化の印である鈴のついた阿呆の帽子をかぶり、道化の扮装をして現れた痴愚の女神が、世の中にとって自分はなくてはならない存在であると、自賛の演説を始めます。世の中を明るくし、人と人の間を和ませるのは自分を置いて他にはいないというのです。そして自分は豊穣と富の神であるプルトスと陽気で魅力的なニンフであるネオテスの間に生まれたといい、自分は人々や神々に快楽を与える存在で、自分の恩恵を受けている神々はいつまでも若々しいと主張します。

〔16〕
 「しかしながら、ホメロスに倣って、天上界の神々のことはさておいて、また地上界へと立ち戻るべき時分ですね。」(47ページ)と女神は話を人間界の方に戻します。注によると、ルキアノスの作品の中に「さて今やこんな話は捨て置いて、ホメロスとヘシオドスの道を詩的にたどって、天上界へ上るとしましょう」という一節があり、これをひっくり返した表現だそうです。痴愚の女神の手にかかるといろんなものがひっくり返されてしまうようです。この地上にあるあらゆるものが、痴愚の恩恵を被っていると女神は主張します。

 ストア派の哲学者たちは、知恵とは理性に導かれることにほかならず、これに反して痴愚とは情念のおもむくままに流されることだと論じました。しかし、ローマ神話の神々の王であるユピテルは、人間の生活が悲しみと峻厳に完全に閉ざされたものであってはならないと考えて、人間の心に理性よりもずっと多くの情念を植え付けたのだといいます。「その割合たるや、ほとんど24対1といっていいくらいです。」(48ページ) 理性は頭の狭苦しい片隅に押し込められ、そのほかの体全体は、情念に支配されているのだといいます。
 さらに神は、理性に対して、怒りと情欲という「暴虐この上ない2人の暴君」(同上)を人間のうちに住ませ増した。これら2人の敵に対し、理性がどの程度まで抵抗しているかは、人間たちの平素の判断と行動が物語っているというのです。〔まあ、読者の皆さんのことはわかりませんが、私の場合、反論できそうもありません。〕

〔17〕
 男は仕事をしなければならない存在で、仕事というのはちょっとばかり理性のめぐみを必要とするものですが、ユピテルは男たちを楽しくさせようと考え、痴愚の女神に助言を求めたといいます。そこで痴愚の女神は、男たちのために女というものを添わせてやりなさいと助言しました。「なるほど女というものは愚かな動物で、たわいもない、なんとも馬鹿馬鹿しい生き物なのですが、楽しい存在に違いなく、家庭生活においては、その愚かさでもって男の陰気な気質をやわらげ、楽しいものにしてくれるでしょう。」(49ページ) この個所は前にも引用したはずですが、女性を男性よりも劣った存在であり、男性に従属してその楽しみのために存在するという考えがエラスムスの本心だとすると、多くの方々の怒りを買うことになるでしょう。エラスムスがそう言わせているのは「女神」ですが、その女神は世の中に「賢婦人」などというものは存在せず、「『緋の衣をまとっていようと猿は所詮は猿』…女は所詮は女、つまりはどんな仮面をかぶったところで、愚かなのです」(同上)とどうも自説を撤回する様子がありません。〔サルで思い出したのですが、チベットの神話では、賢い猿とその猿に恋慕した女悪魔が結婚してチベット人の先祖になったという話を聞いたことがあります。この組み合わせは、『西遊記』の孫悟空と羅刹女に影を落としているという人もいます。〕
 「本当のところ、自身が女であるこの私が、女たちを愚かな存在だといったからとて、私に腹を立てるほど、女性たちが愚かだとは思っておりません」(同上)と、女神は続けます。いや、愚かだからこそ幸せなのだといいます。女性は男性の快楽の対象であるかもしれませんが、「男が女から快楽を得ようとするときにいつも、女を相手にどんな愚にもつかぬことを口にするか、どんな馬鹿げた振る舞いに及ぶか」(51ページ)を考えれば、快楽と痴愚の結びつき、痴愚の偉大さはわかるのではないかといいます。

〔18〕
 しかし、世の中には、特に老人に多いようですが、女よりも酒という人たちもいます。そうはいっても、そういう酒を楽しむ宴席に女性が加わる方が当たり前だし、またその席で馬鹿なことを言ったり、馬鹿な芸を披露したり、あるいは大酒飲みの競争をしたりして座を盛り上げることが普通に行われていることを女神は指摘します。

〔19〕
 酒を飲んで馬鹿騒ぎをするようなことをつまらなく感じ、友情と交友こそが人生の楽しみだと考える人もいるかもしれないと女神は続けます。とはいうものの、友達同士の会話のかなりの部分は、馬鹿な話に費やされるし、それ以上に、お互いの欠点に目をつぶったり、それどころか欠点をほめたたえたりすることによって友情は長続きするのだといいます。どんな人間にも欠点はあるのだから、その欠点を認め合わないと、友情は成立しないといいます。それをさせるのは痴愚だというのです。

〔20〕
 「私が友情についてお話し申し上げたことは結婚については、ずっとよくあてはまります。」(55ページ)と女神は矛先を結婚に向けます。どんな結婚生活も、痴愚の女神の部下であるへつらいだの、冗談だの、御愛想だの、勘違いだの、ごまかしだのといったものがなければ、はるかに打ち解けない悲劇的なものとなるだろうと女神は言います。「男が無頓着だったり間抜けだったりしたおかげで、妻となる女の行状が気取られずに済んだ」(55-56ページ)という例は少なくないとも言います。結婚生活をめぐる悲喜劇は中世の俗語文学この方いろいろな作家によって取り上げられてきて、ルネサンスを迎えるとボッカッチョの『デカメロン』やチョーサーの『カンタベリ物語』などにもこの種の説話は少なからずあります。妻の不貞を知らずに、世間からは馬鹿にされても、結婚生活を維持している夫がいても、それは一切を悲劇にしてしまうよりはましではないかといいます。

 今回は生活のさまざまな面をめぐる痴愚の効用といった事柄が列挙されています。結婚をめぐる箇所など、小説や演劇とはまた違った切り口から当時の市民生活が観察され、描写されています。そしてそれが、時々わざと間違え(させ)たりする古典からの引用によって味付けされています。
 女性は愚かだといってはいる一方で(語り手が女性になっていることにご注意ください)、その女性に馬鹿なことを言って言いよっている男性はどうなのだという切り替えしもあります。そういう目配りが、この作品を一流の風刺文学としているのではないでしょうか。
 
 

『太平記』(194)

1月23日(火)晴れ、昨日降り積もった雪がどんどん溶けてゆく

 建武3年(南朝延元元年、1336)10月10日に比叡山から京都に還幸された後醍醐帝は、足利直義によって三種の神器を北朝の天皇に渡すよう強要され(偽物の神器を渡した)、自らは花山院に幽閉された。しかし、12月に(『太平記』が8月の末と記すのは前後の整合性がない)京都を脱出して吉野に向かい、吉野金峰山寺に迎えられた。楠木正行ほかの宮方に心を寄せる近畿地方の武士が参集した。

 南大和、河内、紀伊など近国の武士たちはもちろんのこと、諸寺、諸社の衆徒(僧兵)、神官に至るまで帝の御威徳に従って、御身辺の警護など軍用を務めたり、盛運を願って御祈祷をいたしたりしたのであるが、紀州根来(和歌山県岩出市根来)の根来寺大伝法院の大衆は1人も吉野に参じなかった。これは必ずしも、根来が武家寄りで宮方を支持していなかったからではなかった。後醍醐帝が、高野山(金剛峯寺)を御崇敬になっていて所領を寄せられ、さまざまの御立願をされてきたことを知って、妬んでいたためである。

 おおよそ仏教の本旨はおだやかな心を落ち、耐え忍ぶ心を持つべきであるということであるのに、根来と高野が、なぜこれほどまで対立するのかをめぐっては歴史的な理由がある。〔天台宗の比叡山延暦寺(山門)と長良山園城寺(三井寺、寺門)間にも同じような対立があった。〕 平安時代後期に、高野の伝法院に、覚鑁(1095-1143)という一人の上人がいた。長年修業に励んだが、なかなか本格的な悟りの境地に入ることができない。そこで醍醐寺の覚洞院の清憲(勝憲が正しい、信西=藤原通憲の子だそうである)僧正のもとに参じ、一つの印(身密)と一つの真言(口密)とを伝授され、さらに百日修業を積むと、その効果が現れて、自然智(自然に生ずる悟り)を得ることができた。それで仏法の真理を次々と身に着けていった。

 すると仏道を妨げようとする天狗たちが、何とかしてこの僧の心の隙を狙って、不退転の修業楽音を妨害しようとしたのだが、上人の修業に励む力が強くて、隙ができない。ある時、この上人が温室(蒸し風呂)に入ってできものを湯気で蒸して治療したが、気持ちがよくて、心のゆるみが生じた。そこに付け込んで天狗たちは、無事平穏を害する造作魔の心を植え付けた。そのため覚鑁は、伝法院を建立して、自分の弟子たちを置こうと熱心に思いはじめ、鳥羽法皇にお願いをして、堂舎を建て、僧房を作った。伝法院が完成すると、覚鑁上人はすぐに悟りの境地に入り、、弥勒菩薩の56億7千万年後の御出現を待つことにした。

 高野の他の院の衆徒たちは、これを聞いて、なぜ覚鑁は高慢な心にとらわれ、弘法大師空海と同じようにご入定をしようとするのか。そういうことならば、伝法院を破却しようといって押し寄せ、伝法院を焼き払い、覚鑁の廟を彫り破ってみると、上人は不動明王の姿をして、迦楼羅煙の中に座っている。人々が力づくで引っ張り出そうとしても、棒でたたいてもびくとも動かない。さらに石を投げても、石が砕けてしまう。覚鑁はその様子を見て、この僧たちの投げる礫はまったく自分の体に当たらないだろうと驕慢の心を起こした。そこへ、石飛礫が1つ飛んできて、上人の額に当たり、血がにじみ出した。「やっぱりそうか」と押し寄せてきた大衆は、一斉に大笑いして自分たちの坊へと帰っていった。

 覚鑁上人の弟子たちは、これを心憂きことと思い、伝法院の御廟を根来に移し、真言秘密の道場を建てた。このような経緯があるので、高野さんと根来の両寺院は、互いに対立を続けてきたのである。

 新田義貞の率いる軍勢の北国における苦戦、後醍醐帝の京都脱出と南朝の成立、今度は高野山と根来の確執と物語の展開に連続性、一貫性があまりなく雑然と話が進んでいるように思われる。この後、物語はまた義貞の方に戻る。
 覚鑁の流れをくむ真言宗を新義真言宗といい、高野山の古義真言宗と区別する。新義真言宗には智山派と豊山派の2つの流れがある。根来は、その後も強い勢力を持ち、小牧・長久手の戦いのときには徳川家康の同盟者として戦った。そのため、徳川幕府に庇護され、関東地方には成田山新勝寺や川崎大師平間寺などこの派の有力寺院がある。古義真言宗にも御室派(仁和寺)、大覚寺派、醍醐派(醍醐寺)などの流れがあり、大覚寺は後宇多院が仙洞御所とされたため、亀山→後宇多→後二条→後醍醐と続く皇統を大覚寺統というのであるが、その一方で醍醐寺三宝院の賢俊僧正が足利尊氏の護持僧であったというように、宗派や寺院によってその政治的な姿勢は違っていた。
 

小川剛生『兼好法師』(7)

1月22日(月)曇り、午前中から雨が降り出し、それが昼前にはみぞれになり、さらに雪になった。

【第1章 兼好法師とは誰か】 『徒然草』の作者である兼好は勅撰和歌集の作者表記が「兼好法師」であることから、通説に言うような諸太夫ではなく、それよりも下の侍品であり、武家権力者に「手書」(右筆≂秘書)として奉仕する存在であった。彼はおそらく平野流卜部氏の出身で、都で育ったが、伊勢と縁が深く、伊勢の守護職を代々務めていた金沢流北条氏に仕えるようになって、鎌倉に下向していたと考えられる。
【第2章 無位無官の「四郎太郎」――鎌倉の兼好】 青年時代の兼好の足跡は金沢流北条氏と縁の深い称名寺・金沢文庫に残された紙背文書からある程度までたどることができる。卜部兼好は仮名を四郎太郎といい、金沢流北条氏に仕えて、鎌倉と京都の間を往復し、さまざまな雑用を務めていたことが推測される。
【第3章 出家、土地売買、歌壇デビュー――都の兼好(一)】 延慶3年(1310)年6月、金沢貞顕が六波羅探題北方に就任したのを機会として、兼好は都に定住したと考えられる。当時の六波羅は公家・寺社の勢力と武家の勢力とが交流し、経済活動も盛んで、さらに新しい文化が育まれる場所でもあった。兼好の出家は、身分秩序を離れて自由に行動し、雑用を務めるための便宜を図るものであった。彼はまた土地売買など自分自身の経済活動を行い、そのことを通じて後宇多院に接近して歌壇デビューを果たした。金沢流北条氏と堀川家(村上源氏の清華家)との接近から、堀川家に近づき、その活動の中心を御室仁和寺の周辺に移していく。
【第4章 内裏を覗く遁世者――都の兼好(二)】 『徒然草』22段で、兼好は過去のよき精神を最も遺す空間として内裏の有様を賞賛しているが、ここで描かれているのは花園院の里内裏二条富小路殿である。文保2年(1318)に花園が後醍醐に譲位するが、このことが27段に記されている。この時の内裏は文保元年に幕府によって建造された冷泉富小路殿であるが、花園院宸記にその際見物人を追い払ったことが記されており、当時の里内裏に見物人が大勢入り込んでいたことが知られる。女性の場合「衣かづき」、男性では「裹頭(覆面)」姿であれば、内裏にでも自由に出入りできた。また『徒然草』には検非違使庁とその職務をめぐる記述が多くみられ、兼好が検非違使庁の雑任を務めていた、あるいはこのクラスの人々との接触から多くの情報を得ていたと考えられる。

 今回は第5章「貴顕と交わる右筆――南北朝内乱時の兼好」についてみていく。
 元弘元年(1331)8月に後醍醐天皇は京都を逃れて笠置に兵をあげる。鎌倉幕府の派遣した大軍によって後醍醐は捕縛され、沖に流されるが、正慶2年(1333)に足利氏が幕府に背いて六波羅を攻撃し、兼好ともなじみの深い六波羅探題府は崩壊し、後醍醐天皇が京都に復帰し、建武の新政が始まる。しかし、常に政権内部に問題を抱え、波乱含みであった。

 元弘・建武の間、歌人としての活動を除き、兼好の動静は伝えられていない。得宗とともに金沢流北条氏も滅亡したが、兼好にまでその累が及ぶことはなかったらしい。「この時期にむしろ古今集をはじめとする古典の書写校合に励んでおり、かえって余裕を感じさせなくはない。」(139ページ)
 頓阿との有名な和歌の贈答もこの頃とされている。すなわち、兼好が
  よ₍₁₎もすずし₍₁₀₎ね₍₂₎ざめのかりほ₍₉₎た₍₃₎枕も₍₈₎ま₍₄₎袖も秋に₍₇₎へ₍₅₎だてなきかぜ₍₆₎
これに対して頓阿は
  よ₍₁₎るもうし₍₁₀₎ね₍₂₎たくわがせこ₍₉₎は₍₃₎てはこず₍₈₎な₍₄₎ほざりにだに₍₇₎し₍₅₎ばしとひませ₍₆₎
これは沓冠(くつかぶり)といって、5-7-5-7-7の各句の頭字と末字に定められた文字を詠みこみ、和歌としても意味が通じるように作るものである。兼好は男のわびしい独り寝を、頓阿は男を待つ女の恨みを詠んでいるが、頓阿の答歌の方が流麗である。「ここから深刻な窮困を読み取ることは難し」(140ページ)いと小川さんは考えている。

 とはいえ、兼好も焼け出されたか避難するかで仮住まいをしていた形跡はあるという。彼の写本の奥書に「一条猪熊旅所」と記され、平野流卜部氏の一門が集住する一条猪熊に滞在していたことが推測できる。
 続いて康永2年(1343)に兼好は大中臣宣名(饗庭因幡守)と自分が作成した写本の校合をしている。宣名は上層武家と考えられ、東山で余裕のある生活を楽しみ、一種のサロンを擁していたと想像される。

 延元元年(北朝建武3年、1336)に後醍醐天皇は尊氏・直義兄弟に降参し、幽閉の身となるが、12月に吉野に逃亡、この年8月に足利氏により擁立された光厳上皇、光明天皇に対抗した。暦応元年(1338)に尊氏は征夷大将軍に任じられ、直義との二頭政治が本格的に始動する。幕政は揺籃期の10年ほどはむしろ安定していたのであるという見方は、最近の亀田俊和さんの『観応の擾乱』の見解と一致する。ところがこの安定も観応の擾乱の開始とともに崩れ、兼好の足跡はこの擾乱の内に途絶えているという。

 兼好が出入りした室町幕府要人のうち、もっともよく知られ、実際に関係が深かったのが将軍執事高師直である。『太平記』ではことさらにその暴虐な悪人ぶりが強調されているが、「御家人で最も格が高い足利氏の、累代の執事の家に生まれた師直が伝統や秩序を頭から無視するはずがないのである」(146ページ)。和歌や和漢聯句の才があり、仏典の出版事業にも援助を行い、水準以上の教養人であったと考えられる。師直は、北畠顕家を敗死させるなどの武勲をあげ、幕府での影響力を強めた。さらに尊氏の将軍下文に、執事施行状を付属させることで、その効力を強めようとした。師直に従軍した吏僚に金沢流北条氏の遺臣倉栖氏ががいたことが確認されるという。第2章によれば、兼好の姉は倉栖氏に嫁していたから、小川さんは「兼好はその旧縁を辿って近付いたのかもしれない」(147ページ)と推測している。

 『太平記』巻21には、師直のもとに出入りする「能書の遁世者」として兼好が登場することは、よく知られている。この一圏の背景となった出雲守護塩冶高貞の反乱は暦応4年(1341)に起きた歴史的事実であるが、師直が積極的に関与したとする史料はなく、兼好が師直のもとに出入りしていたこと以外は虚構であるという。ただしこの逸話には、当時の武家たちに艶書をめぐる知識を授けようとする『太平記』の作者の意図が込められているとする。

 康永・貞和年間(1342-50)は室町幕府の要人間に交際が広がったこともあって、兼好の足跡は比較的よく残されている。北朝の重鎮であり、政務朝儀の権威であった太政大臣洞院公賢(1291-1360)の日記『園太暦』とその目録に兼好は3か所登場し、そのうち貞和4年(1348)12月26日条に、兼好が高師直の使者となって年頭の訴訟審理に当たり、奉行人が狩衣を着ることの可否を問い合わせにやってきたと記されている。兼好が遁世者であったことが、公式な接触が難しい公家と武家の交渉に際して大いに役立っているのである。『徒然草』には、権力者の依頼に応えて故実を教示されたり自ら探索したりした結果、得られた知見を記し付けた章段がかなりあるという。

 今回は鎌倉幕府滅亡後も兼好が引き続き、武家権力者に仕えてきたことが語られる。その一方で彼が古典を学び歌道に精進していたこともわかる。彼は武家権力者、とくに高師直のために雑務をこなしただけでなく、その遁世者という立場を生かして、公家との交渉にも当たっていたことを見てきた。一方、兼好は高師直だけでなく、尊氏の護持僧であった三宝院賢俊僧正(1299-1357)からも恩顧を受けたが、その件についてはまた次回に触れることにする。

日記抄(1月15日~21日)

1月21日(日)晴れ、温暖(明日から寒くなるという予報である)

 1月15日から本日までの間に経験したこと、考えたこと、前回の補足・訂正など:
1月15日
 NHKラジオ『まいにちスペイン語』の「スペインの街角」のコーナーではカスティーリャ・ラ・ヌエバ州ラ・マンチャ県のクエンカを取り上げた。人口5万人ほどの小都市であるが、古い歴史的伝統がある。ウエカル川に面した断崖の上に立つ「宙づりの家」が有名で、現在はスペイン抽象美術館として使われているそうである。

 『日経』に連載されている草笛光子さんの「私の履歴書」は第14回。「屋根の上のバイオリン弾き」降板の失意の中、渡米中に倉橋健に紹介されて『ラ・マンチャの男』を見て、すっかりやる気をとりもどしたが、いざ、「ラ・マンチャの男」が日本で上演されることになると、自分はアルドンサを演じる3人の女優の1人ということになっていた。

1月16日
 14日に終了したセンター試験の「地理B」で、『ムーミン』と『小さなバイキング ビッケ』の国籍を問う問題が波紋を広げている。話題作り、受け狙いの試みが失敗するのは、教育の場ではよくあることで、そういうときの事態の収拾はかなり難しい。

 草笛さんの「私の履歴書」は第15回。「ラ・マンチャの男」のトリプル・キャストの重圧(稽古時間は3分の1になる)に苦しんだことが語られていた。

 『まいにちスペイン語』の「ラテンアメリカの街角」のコーナーはペルーの首都リマを取り上げた。ラテンアメリカの中では最も古い町の一つであり、海岸部、山岳部、森林の3つの部分からなるペルーの海岸部にあり、サーフィンも楽しめるという。

 イメージフォーラムでイランのアリ・ノーリ・オスコーイエ監督によるアニメーション映画『天国から見放されて』(Release from Heaven, 2017) を見る。古代から現代まで、家族と、親を亡くした子どもたちを守ろうと戦い続ける「英雄」たちの姿が、描かれ、また探し求められている。彼に救われた子どもが成人して、やはり子どもたちを救おうとする。複数の語り手が、複数の物語を語るだけでなく、それぞれが部分的に重なり合うので、わかりにくい。その点は、イラン革命の中で成人していく女性の姿を描いた『ペルセポリス』のわかりやすさと対照的である。分かりやすくない代わりに、この作品からはイスラーム以前からの古い文化的な伝統を育ててきたイランの人々の心の豊かさと、急激な近代化と革命を経験したその動揺とがしっかりと読み取れるように思う。
 イランといえば、本日の『朝日』朝刊に「イラン女性 勇気の男装観戦」という記事が出ていたが、男装してサッカーの試合を見に出かける女性たちを描いた『オフサイド・ガールズ』という映画が作られていたことについては触れられていなかった。この映画、渡氏の見た中で一番面白いイラン映画である。

1月17日
 『朝日』の朝刊によると、大学入試センターは「ムーミンについての設問『支障ない』」との回答を同紙に寄せたそうである。しかし、受け狙いの軽率な設問であったことについて謝罪の一言位あってもよかったのではないかと思う。

 草笛光子さんの「私の履歴書」は第16回。菊田一夫の思い出。「草笛さんは女優さんの中で菊田先生と一番ケンカした人だった」といった人がいたそうだが、「ケンカ」しても憎めない方だったとその思い出を語っている。

 NHK『ラジオ英会話』にgo cold turkey (きっぱり・一気にやめる)というidiomが出てきた。昨年12月26日に放送された”English Conversation Literacy"(英会話リテラシー)で、映画についての会話を取り上げた際に
It's a turkey. (駄作です。)
という表現が出てきたことも思い合わせて、講師の遠山顕さんが「七面鳥さん、かわいそうですねぇ」といったのがおかしかった。

 NHKラジオ『実践ビジネス英語』の”Quote ... Unquote"のコーナーで紹介された言葉:
Perhaps the day may come when we shall remember these sufferings with joy.
             ―― Virgil (Roman poet, 70 - 19 B.C.)
(ひょっとしたら、これらの苦難を喜びとともに思い出す日が来るかもしれない。)
 これはローマ黄金時代を代表する大詩人ウェルギリウスの代表作『アエネーイス』(Aeneis)の第1歌203行に出てくる詩句で、ギリシア軍によって小アジアの強国で彼の故郷であるトロイアを滅ぼされた英雄アエネーアスは血路を開いて脱出し、新しい天地を求めて地中海をさまよい、北アフリカのカルタゴの海岸に上陸する。祖国の滅亡と航海の苦難を思い出しながら、彼はこう言って部下を励ます。悲惨な目や困難に直面している人々を励ます言葉としてしばしば引用されてきた。
 私の手元にあるThe Penguine Dictionary of Quotations (1960)では
Forsan et haec olim meminisse iuvabit. ≂ Perhaps one day this too will be pleasant to remember. (おそらくはいつの日にか、これもまた思い出すのが楽しいことになるだろう。)となっていて、こちらの方が普通の解釈ではないかと思う。なお、岡道男・高橋宏幸訳の西洋古典叢書版では「おそらくいつか、このことも思い出して喜ぶ時が来るだろう。」(16ページ)となっている。

 前川喜平・寺脇研『これからの日本、これからの教育』(ちくま新書)を読み終える。「ミスターゆとり」などといわれた寺脇さんの方が文部科学官僚としては先輩になるようである。文部(科学)省のこれまでの、また現時点での政策の背景や問題点が、お二人の立場でかなり明快に語られている。森友・加計問題について語る場合にも読んでおいた方がいい書物であろう。この本に反論する書物も書かれるべきではないかと思う。

1月18日
 草笛さんの「私の履歴書」は第17回、1973年に『王様と私』、1976年に『ピピン』とミュージカルに連続して出演し、女優として充実した日々を送ったと回想されている。『王様と私』の上演の際には、ユル・ブリンナーの舞台を見たという。もともと、この作品でヒロインの英国人家庭教師を演じることになっていたのは映画『スタア!』でジュリー・アンドルーズがその役を演じたガートルード・ローレンスで、淀川長治さんがはるばるアメリカまでこの舞台を見に行こうと準備していたら、ローレンスが急逝したので取りやめたという話を聞いたことがある。上には上がある。

 『実践ビジネス英語』のヴィニェットの中にNORC(=naturally occurring retirement ocmmunity 自然発生的な退職者コミュニティ)という言葉が出て来た。They're communities with a large proportion of residents who are more than 60 years old, but which were not specifically designed to meet the needs of seniors living independently.(住民の大半が60歳を超えているけれども、自立して生活する高齢者のニーズに特化して設計されたものではないコミュニティのことです。)
Norcs show how urban living can work for older people. (NORCを見れば、都会で生活することが高齢者にどれほど都合がいいかがわかります。) 意図をもって設計されたのではなくて、成りゆきでそうなってしまったのだが、高齢者向けのサービスがそろっている場合が多いという。私の周辺にもそういうところがないか、探してみることにしよう。

 『まいにちスペイン語』応用編「スペイン文学を味わう」は「裁判所長夫人(La Regenta)」の3回目。ヒロインである裁判所長夫人アナを担当する告解司祭が、首席司祭のカジェターノ師から、判事司祭のドン・フェルミンに代わることになり、アナは「総告解」をすることになる。彼女はその「総告解」に向けてそれまでの人生を振り返る。幼くして母を失った彼女には
« Ni madre ni hijos.》 (母もいなければ子どももいない) 反逆の意識(conciencia de la rebelión)が彼女を苛立たせる。

1月19日
 『実践ビジネス英語』の”Talk the Talk"でパートナーのヘザー・ハワードさんが
I think a pet can be a great support to an elderly person, but you also have to consider the animal’s lifespan. (ペットは高齢者にとって大きな支えになりうると思うが、その動物の寿命も考慮しなくてはならない)と述べているのはそのとおりだと思う。

 NHKラジオ『まいにちフランス語』の「日仏交流散歩~全国篇」は生野銀山に行く途中で講師の姫田麻利子さんが立ち寄ったという神戸の北野地区で見つけた小さなオリーブの木について。昨年12月22日の放送で「新宿御苑」を取り上げた際に登場した福羽逸人が、ここでフランスから持ってきたオリーブを育て、オリーブオイルの製造に成功したのだという。

 『まいにちスペイン語』応用編「スペイン文学を味わう」『裁判所長夫人』第4回。アナの身の上、その孤独な境遇と、年の離れた裁判所長との結婚。ベトゥスタのクラブ(casino)でのうわさ話で、ドン・フェルミンがアナの告解の担当になったのは、彼女を口説こうとする意図があってのことだと語られる。政治家のドン・アルバロはそれを聞いて、自分も彼女に近づこうと考えはじめる。
 アルバロの元恋人で、アナの友人であるビシタシオン(ビシータ)は、「難攻不落」といわれるアナの名声を傷つけようと心中密かに考えている。

1月20日
 草笛光子さんの「私の履歴書」は第14回で、レーザー光線を相手に1人で踊るという型破りの舞台を演じたことが語られた。

 同じく『日経』に釜ヶ崎を舞台にした佐藤零央監督の喜劇映画『月夜釜合戦』が紹介されていた。釜ヶ崎を舞台にした喜劇映画というと、中平康の『当たりや大将』とか、千野皓司の『極道ペテン師』が思い浮かぶが、それらの作品から40年、50年を隔ててどんな作品に仕上がっているのか、見てみたい気がする。

 神保町シアターで「「生誕100年記念 池部良と昭和のダンディズム」の特集上映から、『現代人』(1952、松竹大船、渋谷実監督 
 )を見る。公共工事に携わる官庁で業者との癒着が常態化している。若い職員の池部良は、はじめそのような状態になじまなかったが、上司である課長の山村聰の勧めに乗り、次第に汚職に巻き込まれていく。山村の愛人役を演じている山田五十鈴の演技が見事だと思った。

1月21日
 昨日の『読売』、本日の『朝日』に取り上げられていたが、文部科学省は経営が悪化している私大の補助金を減らすそうである。しかし、高等教育の私学依存の構造を作ってきたのはほかならぬ文部科学省であって、補助金を減らすのならばそれと同じ割合で、文部科学省の職員の給与を減らすべきである。

 『日経』に三浦しをんさんが「「夢中」ということ」という文章を寄せていて、次のように結んでいる。
「本でもスマホでもスポーツでもドングリでも、自分にとってしっくりくる「夢中になれるもの」を自由に選べる世の中であること、それがなにより大事なことだ。」

 草笛光子さんの「私の履歴書」は第20回で、ミュージカル「シカゴ」にあこがれていたら、それが日本で上演されることになり、ロキシー役で出演することになった際に、NYでボブ・フォッシーの助手をしていたジーン・フットが来日して演出を担当したことなどが回想されていた。私はそれほど興味はないのだけれども、日本のミュージカルの歴史に興味がある人にとっては、この連載は面白いだろうねえと思って読んでいる(じゃあ、なぜおまえがずっと読み続けているのかというと、草笛さんが横浜の人だからですよ。)
 

織田作之助「夫婦善哉」

1月20日(土)曇り

 NHKラジオ第二放送の「朗読の時間」では9回にわたり織田作之助が1940年(昭和15年)に書いた「夫婦善哉」を放送した。この小説はすでに何度か読んだことがあるし、豊田四郎監督、主人公柳吉を森繁久彌、彼と苦楽をともにする芸者上がりの女蝶子を淡島千景が演じた映画化作品も見ている。短く、しかし具体的で、時に奇抜なところがあり、対象の特徴を巧みにとらえた地の文と、大阪弁の会話とが独特の文体をつくりあげている。標準語と大阪弁、普通の語りと登場人物が口にする浄瑠璃とを織り交ぜた朗読を聞いていると、書かれた作品を黙読しているのとは別の興趣がわく。映画の場面を思い出したりもする。

 主人公柳吉と書いたが、作品に即する限り、むしろ主人公は蝶子の方である。路地の入口で天ぷらを商う父親と借金の言い訳に明け暮れる母親に育てられた蝶子は、小学校を終えると日本橋の古着屋に女中奉公に出たが、条件が悪かったので、曽根崎新地のお茶屋でおちょぼ(芸者の下地っ子)になり、さらに芸者になる。声自慢の彼女は、はっさい(お転婆)で売っていたが、一人だけ、好きになった男がいた。
 維康(維康)柳吉という理髪店向きの石鹸やクリームなどの卸問屋の息子で、中風で寝ている父親に代わって店を切り盛りしているのだが、まじめそうに見える男なので、蝶子はすっかり頼もしく思い、二人は次第に深い仲になっていった。

 「柳吉はうまい物に掛けると眼がなくて、「うまいもん屋」へしばしば蝶子を連れて行った。彼に言わせると、北にはうまいもんを食わせる店がなく、うまいもんは何といっても南に限るそうで、それも一流の店は駄目や、汚いことを言うようだが銭を捨てるだけの話。」(10ページ)という、現代風にいえばB級グルメの先駆者のような男で、物語の展開に連れてわかってくるが、働くことよりも遊ぶことの方に熱心で、次第に自分の懐具合が苦しくなり、父親との折り合いも悪くなって、とうとう勘当されてしまう。家を飛び出した柳吉は、東京で集金すべき金が四、五百円あることを思いだして、蝶子に駆け落ちを持ち掛け、東京で金を取り立てて、熱海で豪遊する。ところが、その最中に関東大震災に見舞われる。
 避難列車で大阪に戻った2人は、やがて黒門市場の路地裏に所帯を持ち、蝶子がヤトナ(臨時雇いの仲居ということで、作者の説明によると「宴会や婚礼に出張する有芸仲居)をして生計を立てる。いずれは勘当が解けて店に戻ることを考えている柳吉はぶらぶらしていたが、剃刀屋の店員になったり、自分の剃刀屋を持ったり、関東煮の店を出したり、果物屋に転業したりするが、いずれも長続きしない。柳吉の期待に反して店に戻ることはできず、彼の妹に養子をとって店を継がせることになる。柳吉は実家から何とか金をせびりとろうとするが、容姿は冷たい態度をとり続ける。彼らの生活が苦しくなると蝶子がヤトナの仕事に戻る・・・。

 岩波文庫版『夫婦善哉 正続 他十二篇』の佐藤秀明による解説が語るところでは、「夫婦善哉」は織田作之助の姉である千代とその夫をモデルとして書かれたそうである。そういうことをまったく感じさせないような造型がなされているのだが、反面、登場する地名や店名など実在するだけでなく、柳吉が好んで通う店として作品中で言及されている店の中には(「めおとぜんざい」をはじめとして)現存するものも少なからず、実生活ではダメ男である彼が実にたしかな舌をもっていたことが、わかるのである。柳吉には芸術的な感性というか、批評性というか、そういうものがある。それはそれで貴重な素質であるが、現実には役に立たない(立てる術を柳吉は身に着けられない)。山椒昆布を煮て、戎橋の「おぐらや」のと同じ位のうまさの山椒昆布を作ることはできるが、それを商売にはできない。蝶子はそういう柳吉のいわば可能性に惚れたのであるが、その可能性を現実のものとする手助けはできない。(なお、「おぐらや」は山崎豊子の実家で『暖簾』のモデルとなった店であり、『暖簾』の映画化では森繁が父子二代の一人二役を演じていた。)

 佐藤が指摘しているように、柳吉と蝶子の間には微妙な隙間がある。蝶子は自分の甲斐性で柳吉を支えるという自信があり、それが柳吉には面白くない(原作の言葉を借りれば「虫好かない」)のである。だから、彼は勘当が解けて店に戻ることを何度も夢想し、しかしそれが実現しないために蝶子に頼らざるを得ない。隙間が何度も何度も表に出てきては、何となく修復されたように見えるが、果たして本当に修復されたのかどうかはわからない。
 物語の最後の方で、蝶子が「めっきり肥えて」(57ページ)きたことが語られ、小説は次のように締めくくられている。
「蝶子と柳吉はやがて浄瑠璃に凝りだした。二ツ井戸天牛書店の二階広間で開かれた素義(そぎ)大会で、柳吉は蝶子の三味線で「太十(たじゅう)」を語り、二等賞を貰った。景品の大きな座布団は蝶子が毎日使った。」(同上)
 二人がどうやら協調できる距離を確保できたように受け取れる結びであるが、蝶子が太ってきたこと、座布団を使うのは蝶子であることなど、波乱含みであるようにも受け取れる。
 映画化された『夫婦善哉』では天牛(実在する古書店で、「天牛で咳してたのが作之助」という岩井三窓の川柳がある)のくだりはなくて、夫婦善哉の店を出る森繁の柳吉が「おばはん、頼りにしてまっせ」というのに、淡島千景の蝶子が「へえ、おおきに」と答えて、法善寺横丁から出ていくという幕切れになっている。また、作者の死後60年たって、2007年(平成19年)に発見された「続 夫婦善哉」の結びの部分では、51歳の柳吉と39歳の蝶子とは、同じ午年同士で、「やっぱり午が合うんでっしゃろな」(90ページ)と蝶子に言わせている。ともに、少し、温かい幕切れになっている・・・そうしたいという気持が窺われる。 
 

 

前田速夫『「新しき村」の百年 <愚者の園>の真実』(8)

1月19日(金)晴れたり曇ったり

 「新しき村」は『白樺』派を代表する文学者である武者小路実篤(1885‐1976)の主唱により、1918年(大正7)に日向(宮崎県児湯郡木城村大字石河内字城)において着手され、その後1939年(昭和14)にその主力が埼玉県入間郡毛呂山町大字葛貫に移って現在も存続している共同の労働と余暇の自由な創造活動とを両立させようとする生活共同体である。村の創立の背景には、1918年の米騒動に代表される、当時の社会不安と、その解決を求めようとする社会改造の機運があり、理想主義・個人主義を基調とする『白樺』派の階級闘争を排した共同生活の拡大を通じてその改造を実現しようとする考え方があった。
 しかし、農業を通じて村の生活の基盤を建設することは困難であり、生活のための共同労働と個人の自由な創造活動のどちらを重視するかをめぐっての村内における対立があり、「村」の発展は容易ではなかった。しかし、武者小路の熱意と村内で生活する村内会員と、村の思想に共鳴し村外から支援する村外会員の2種類の会員を設けて「村」の維持を図る工夫が奏功して、1925年(大正14)に武者小路が離村してからも村は存続しつづけた。
 戦後、「村」の事業として養鶏を始めたことが成功し、村の経済は安定し、自活が可能になり、「村」そのものも拡大し、武者小路の死後も、順調に発展するかのように思われた。

 今回は「7 押し寄せる超高齢化の波」という、武者小路実篤死後、いったんは順調に思われた「村」の事業が、不況の到来とともに急速に困難に陥ってきた過程を述べた章を取り上げる。

 1981年に村の総収入は3億8900万円と過去最高を記録し、村内生活者も長期滞在者を含めて60人となった。ただ、この時点においても若い入村者が増えないことが懸念されていた。1985年には調布市武者小路実篤記念館が実篤公園隣接地に開館した。1987年には村内の平均年齢が40歳を超え、村の老年対策が論議され、とりあえず「老年対策基金」を作ることになった。1d988年の秋に、各地で70周年記念行事が行われた。この時期までは、総収入が減少してはいたが、「村」の事業に大きな変化はなく、1989年(平成元年)12月20日付の『朝日』は「大地に根ざす現代の理想郷 開村半世紀 埼玉の『新しき村』 実篤の石脈々と」という見出しのもとに、「村」の活動を紹介する記事を掲載している。しかし、村の生活に一種のゆるみが生じ、侵入村民の中には独善的な人々がみられるようになったのではないかと危ぶむ見方もあった。

 「かくて、平成に入り、90年代初頭にバブル景気がはじけるころからは、急激に守勢に転じる。」(128ページ) 村内在住者の減少、さらに1993年ごろから卵の価格が生産過剰で下がってきたことが「村」の収入に大きな影響を及ぼした。養鶏の後退により、村の経済を支える新しい事業が必要になる。人手や土地の問題を抱えながら、椎茸、茶、梅、野菜作りなどにも取り組む。

 1990年代の終わりごろから、「村」は坂道を転げ落ちるような状態に陥る。人口も事業の規模も収入も縮小の一途をたどる。また高齢化が進行する。水稲を農薬と化学肥料を使わずに作ることに切り替え、田んぼの一部に蛍が舞うようになったが、その一方で冷夏と雑草に悩む。2011年には東日本大震災による福島第一原発の放射能事故の影響でお茶から基準値を超える放射能が検出され、出荷停止になる。また2012年には椎茸が栃木産の原木から基準値を超える放射能を検出したことで、東京電力から保証を受けることになる。2015年4月末をもって養鶏を終了する。2017年4月1日現在で、村内生活者は11人にまで減少する(日向の村は3人)。

 「村」の収入の減少は村内会員の減少による労働力不足とも連動しているが、その直接の理由は農業の不振、とくに一時は村の躍進の原動力だった養鶏事業の衰微、廃止である。養鶏事業が高収益を生み出すようになったのは、鶏を狭い檻に閉じ込めて機械的に人工の餌を与えるバタリー飼育に切り替えて以後のことであるが、世の中が不況に転じると、生産過剰の結果、卵価が餌代の高騰や、鳥インフルエンザの影響、さらに人手不足もあって、ついに撤退を余儀なくされることとなる。

 何よりも深刻なのは後継者の不足である。村で生まれ育った子どもたちも、村内の幼稚園(1984年に閉園)を卒園した子どもたちも、村に定住しない。武者小路の精神を学ぶという気風もなくなりはじめている。
 村は、世間一般と違い、時々の政治や経済の動向に左右されることは少なく、それは村の長所と考えられていたが、必ずしもそうではなかった。「村」は世の中の動きと無関係であると考えて、無防備であったために、むしろ、その影響をまともに受けることになった。高度経済成長の時代には、「村」の近くの東武東上線沿線にも都市化の波が押し寄せ、その結果、村の事業もよい影響を受け、地元の社会との交流も盛んであった。ところが不況になると、近くの町村は過疎化と人口減に悩むことになる。さらに2008年(平成20)の公益財団法人法の改正により、「村」は一般財団法人となる道を選ばざるを得ず、税制上の優遇措置がなくなって、「村」はさらに苦境に陥った。

 今年いよいよ生誕100年を迎える「新しき村」であるが、その現状はきわめて困難なものがあると前田さんは言う。前田さんがしっかり分析しているように、実は「新しき村」の発展と衰退は、「村」を取り巻く社会の変化と密接に結びつくものであった。「村」が外の世界に及ぼす影響よりも、外の世界が「村」に及ぼす影響の方が大きかったのである。とはいえ、「村」にはまだ豊かな可能性が残されているのではないかという議論が展開されるのがこの後の内容である。私自身は、30歳前後のころは、「村」のように一般の社会から離れた共同体を建設することに魅力を感じていたが、その後はむしろ、一般の社会活動のなかで、共同作業的な部分と自由連合的な部分の調和を図りながら改造を目指すことの方が現実的なのではないかと思っている。そのあたりのことはまた次回以降に。

フローベール『感情教育』(5‐2)

1月18日(木)曇り

これまでのあらすじ
第1部 1
 1840年9月、パリから郷里に帰ろうとする18歳の青年フレデリック・モローはセーヌ川を遡行する汽船の中で画商のアルヌーとその美しい夫人に出会い、アルヌー夫人に恋心を抱く。没落しかかった旧家の跡継ぎであるフレデリックに母親は彼が大学でしっかり勉強して出世の道を歩むことを期待している。
 2
 フレデリックにはシャルル・デローリエという親友がいて、県庁所在地の公証人の事務所で書記として働いている。夢想家で芸術に興味があるフレデリックと、努力家で現実主義者のデローリエは育ちも性格も違うが気が合う。2人はパリで一緒に生活することを約束する。
 3
 大学で勉強するためにパリに出たフレデリックは、郷里の有力者であるダンブルーズを訪問したり、アルヌーの店に出かけたりするが、期待したような成果は得られない。大学の授業には興味が持てず、無為に日々を送るが、マルチノン、ドゥ・シジーといった学生たちと知り合いになる。どうやら期末試験を受けて、新しい学年に入る。「アルヌー夫人へのはげしい恋も消えかけていた。」(41ページ)
 4
 1841年12月に起きた暴動の際に、警官ともみ合って連行されていく青年デュサルディエを助けようとしたことから、フレデリックは同じ法学部の学生であるユソネと仲良くなり、彼の紹介でアルヌーの事務所に出入りするようになる。そして、アルヌーの周辺にいる芸術家たちと知り合ったほか、彼の家の夕食に招かれてアルヌー夫人との再会も果たす。彼女はフレデリックに好意を抱いているようである。フレデリックは画家として身を立てようと決心する。
 5
 フレデリックがアルヌー邸でアルヌー夫人と再会した日に、パリにやってきたデローリエがフレデリックと同居生活を送ることになる。フレデリックはアルヌーの身近にいる画家のペルランから絵の手ほどきを受けることにする。一方、デローリエは社会主義者の復習教師セネカルと仲が良く、ペルランとセネカルが芸術の社会的な意義をめぐって激しい議論をしたりする。フレデリックはアルヌー夫人への想いを募らせ、そのことが彼らの共同生活の経済状態を悪化させる。

 今回も、5の続きである。
 フレデリックがアルヌー夫人への想いを募らせ、それをデローリエに打ち明けるが、デローリエはまったく同情せず、むしろ友人との付き合いを増すことでフレデリックの気持ちを変えようとした。
 「その連中は土曜日の9時ごろ押し寄せてきた。アルジェリア布の3つの窓掛けを丹念にしめ、ランプと4本のろうそくの火がついていた、テーブルのまんなかにはビール壜、急須、ラム酒の壜、菓子などにまじって、パイプをいっぱいさしこんだたばこ壺がおかれている。みんなは霊魂の不滅を論じ、教授たちの品定めをしたりした。」(92ページ) 教授たちの品定めというのはいかにも学生らしいが、霊魂の不滅というところが時代を物語っている。ビールとラム酒というのはたぶん安く手に入るということで選ばれたのであろう。

 ある晩のこと、ユソネが「きまり悪そうにした大男の青年」(92ページ)=4で登場したデュサルディエである。彼は、仕事を変えて、ある運送店の店員をしていて、その日の朝、ユソネとばったり出会い、デュサルディエが自分を助けようとしたもう1人にも会いたいといったので、連れてきたというのである。学生たちの中で彼はなにかきまり悪そうであったが、みんなに歓迎され、必ずやってくるようになった。

 「皆はよく気が合った。まず、政府に対する反感がもう論争する余地のない定説となっていた。マルチノン1人、ルイ=フィリップを弁護しようとした。」(92ページ) 学生(フレデリック、ユソネ)や、書記(デローリエ)、復習教師(セネカル)、画家(ペルラン)、店員(デュサルディエ)という構成の面々は、当然そのほとんどが共和主義者である。七月革命(1830)によって成立したオルレアン家のルイ=フィリップによる立憲王政はその前のブルボン家の復古王政に比べて自由な政治を目指していたが、若者たちはさらに進もうとしていた。一人だけ例外のマルチノンはフレデリック(とデローリエ)の高校の同窓生で、豪農の息子で父親の勧めで司法官を目指し、まじめに勉強している。フレデリックが授業に退屈しているのが信じられないという様子を見せるほどまじめな学生で、暴動の際にもフレデリックやユソネと一緒にいたのだが、早い段階で姿を隠してしまっている。この議論の席でもみんなからロード・ギゾーなどと悪口を言われると、誰かの気を悪くしてはいけないと黙ってしまう。ギゾー(François Pierre Guillaume Guizot, 1787-1874)はフランスの歴史家、政治家で正理論派とよばれ、英国流の立憲君主政体をフランスに定着させようとした人々の1人である。
 マルチノンは高等学校の7年間に罰則を食うようなことはしなかったし、大学に入ってからも教授たちの気に入られるように努めていた。普段は灰色のごつごつしたフロックを着て、ゴムの上靴を履いていた彼がある晩、「ビロードのチョッキ、白ネクタイに金鎖、といった花婿のような身支度で現れた。」(93ページ) しかも彼は彼の父親とともにダンブルーズ家の晩餐に招待された帰りだというので、一同は驚く。〔裕福な家に生まれ育ったマルチノンの努力は、恵まれない環境で育ったデローリエの努力とはその性格も成果もかなり違っているし、その違いはますます大きくなる。〕

 それから彼らは女性論を始める。ペルランは美しい女などというものの存在を認めない。フレデリックとユソネがそれに反論して、それぞれ自分の好みのタイプの女性を言い、デュサルディエに意見を聞くと、「同じ一人の女をずっと愛していたい」(94ページ)と真面目に答えられて一座はしんとする。「セネカルは…独断的な口調で、売淫は圧制だし結婚は不道徳だから禁欲するのがまだましだといった。デローリエは女を慰みと考え、それ以上のものとはけっして思わない。シジーは女というものにはあらゆる種類の恐怖心をいだいている。」(同上)
 シジーは貴族の出身で、信心深い祖母に育てられた、おとなしい、芸術好きの青年である。彼はこの集まりに来ることで新し世界を知る楽しみを味わい、フレデリックもシジーには親しみを感じる。ところが、セネカルはシジーが馬車でやって来ることに反感を持ち、彼を待っている御者に同情を寄せる。それで、フレデリックとの間に溝ができる。

 そうはいっても、アルヌーの知恵袋のような存在であるルジャンバールがセネカルを知っているといったので、フレデリックはルジャンバールも土曜日の集まりに誘う。セネカルとルジャンバールとはそれぞれ違う意見の持ち主ではあったが、大いに意気投合する。しかし、ルジャンバールが芸術については大した識見を備えていないことが明らかになり、集まっている仲間は次第に彼を疎ましく思うようになる。特にデローリエはルジャンバールがアルヌー家のj常連だということで毛嫌いするが、その一方で彼はためになる知人を得るためにアルヌー家に出入りしたくてたまらないとも思っていた。しかし、フレデリックはデローリエをアルヌーに紹介しようとせず、いたずらに時を過ごす。〔フレデリックにとってはアルヌー夫人との恋の方が重要なので、デローリエがアルヌー家に出入りするのがその邪魔になることを恐れているようにも思われる。〕

 七月王政のもとでの青年たちの姿がなかなか見事に描き分けられている。それぞれ意見の違う彼らが、今のところはそれほど大きな波風を立てずに仲良く付き合っているというのが興味深い。この後、学生たちは試験を受けたり、論文を書いたりしなければならず、フランスの社会、とくにパリの街には大きな変動が待ち構えている。彼らの運命も、彼らの友情も、これから大きく変わる?かもしれない。
 

エラスムス『痴愚神礼賛』(4)

1月17日(水)曇り、昼過ぎから雨が降り出す

 『痴愚神礼賛』はルネサンスを代表する人文主義者であるエラスムス(Erasmus of Rotterdam, 1466-1536)が、親友である英国の人文主義者トマス・モア(Thomas More, 1478-1535)の名をラテン語で呼ぶとmorusとなり、それがギリシア語で「痴愚」を意味する「モリア」を連想するということから思いついて、一気呵成に書き上げた戯作である。ギリシア・ローマの神話には登場しない「痴愚」の女神を主人公に祭り上げ、彼女が自分自身を称揚する演説をするという形式で書かれている。
 道化の印である鈴のついた阿呆の帽子をかぶり、道化の扮装をして現れた痴愚の女神は、世間での悪評にもかかわらず、自分こそが世の中を明るくする存在であり、誰もそのことに気づかず、自分を賞賛するものがいないので、自分で自分を礼賛する演説をすると宣言します。何より、自分のことは自分が一番よく知っているというのです。(1-6)
 痴愚女神は自分の素性について語ります。彼女は豊穣と富の神であるプルトスが魅惑的で陽気なニンフであるネオテスと交わったことから生まれ、浄福の島で酩酊と無学という2人の魅力的なニンフを乳母として育ちました。(7-9) 〔痴愚の女神〕という存在はエラスムスの創作ですから、彼女の生まれ育ちについても彼が創作することになったわけです。〕
 そして彼女は、自分ほど神々にふさわしく、ひとびとに様々な恩恵を与えている存在はないと語りはじめます。(10)

 11
 彼女は、「人生そのものにもまして、甘美なもの、貴重なるものがありえましょうか」(32ページ)といいます。中世キリスト教の考えでは、この世の人生よりも、来世の幸福を求めることが大事だとされていたのですから、これは異教的な考えです。(「痴愚の女神」が言っているのですから、信仰の観点からまじめに批判するには大人げない仕業でしょう。) 
 その人生は人間(と神々)が痴愚の女神のおかげで子作りをしたいという思いに駆られてことに及ぶことから始まるのだといいます。どんな賢者でも、「しばしの間馬鹿気ことに身を委ね、歓喜に狂わねば」(33ページ)子作りはできないのだといいます。
 ずばりことの本質に立ち入れば、神々や人間を産むのは「名を口に出せないような、馬鹿馬鹿しくて愚にもつかぬところが、人類を産み殖やしているのです。」(33-34ページ)
 それどころか結婚が成り立ったのは、彼女の侍女である「無思慮」のおかげだから、人類が痴愚の女神に蒙った恩義は相当なものであることがわかるだろうといいます。

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 人生は痴愚の女神のおかげで始まるというだけでなく、人生における様々なよきことはすべて彼女のおかげだと女神は言い張ります。「もしも人生から快楽というものを取り去ってしまったら、人生なんて何なのでしょう。そもそも人生と呼ぶに値するものでしょうか?」(35ページ) ここで聴衆から拍手喝さいが寄せられます。そしてその快楽には痴愚の味付けがなされているのだと彼女は主張します。

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 先ず人生の初めのころの子ども時代は、「どの年ごろよりも魅惑あふれる時期」(36ページ)ですが、それは子どものうちに「痴愚の魅力が備わっているからだ」(同上)といいます。子どもの持つこの魅力にひかれて、彼らを育てるという苦労が軽減されるのだというのです。〔これは「かわいい」ということをめぐる本質的で、かなりまともな議論ではないかと思われます。〕
 次に青春時代で、「これはまあなんと誰の眼にもうるわしく、誰もが嬉々として温かく見守り、なんと熱心に引き立ててやり、いそいそと援助の手を差し伸べることでしょう」(37ページ)と、多くの人々の好意の手が差し伸べられる時代であるが、青春のこの時代の魅力は、彼らが知識が乏しいことが理由になって、年長者が苛立つようなことはないということに由来するのだといいます。青年が成長して、知恵を身に着け、痴愚から離れるにつれて、その若々しい魅力はなくなってしまいます。
 しかしまた老年になると、人間は幼児の状態に戻っていくといいます。世の中には人生経験から多くのことを学んだ老人もいるが、そんなうるさく気難しい老人たちと誰がつきあいたいと思うでしょうか。年を取って適当に愚かになった老人ほど付き合いやすい存在はいないと言います。

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 痴愚の女神は繰り返して、人間を年をとるにつれて、人生で最も美しく楽しい状態に戻すのだと主張します。「人間たちがあらゆる知恵とのかかわりをすっぱりと断ち切って、生涯にわたってずっと私と暮らしていたなら、老衰というものも知らず、永遠に続く青春の幸せを愉しむことができるでしょうに」(40ページ)とまで言います。

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 神々の中で、酒の神バッコスがいつまでも若々しい姿でいるのは、「この神が乱痴気騒ぎをして酔い痴れ、酒盛りや、舞踏や、輪舞や遊戯にその生涯を送り、パラスなどとはほんのちょっとも交わろうとはしないからなのです」(43ページ)。パラスというのは知恵の女神のアテーナのことです。バッコスは他の神々や、人間たちから馬鹿にされ続けていますが、そのことで怒ったりひがんだりせずに、『お馬鹿で、間抜けで、いつも陽気で、いつも若々しく、あらゆる人に楽しい気分と快楽とをもたらす神」(44ページ)であり続けています。ふざけてばかりいるクピド(キューピッド)はいつまでも子どものままであるし、その他の神々も痴愚と快楽に身をゆだねる側面があるからこそ、若々しさを保っているのだといいます。

 この作品は、「痴愚の女神」が語るという形式をとっていますから、語られたことはすべて「嘘」「冗談」であるはずですが、聞いていてあれ、ひょっとしてこれは本当のことを言っているのかもしれないと思うようなときがあります。それから、エラスムスの時代のヨーロッパは現代よりもキリスト教の思想的・道徳的な支配力が強かった時代であり、この作品の異教的かつ世俗的な雰囲気はそれだけで教会に忠実な人々の顰蹙を買ったに違いありません。しかし、控えめというか、冗談めかしてでも、異教的、世俗的なものが主張されはじめたというところにルネサンスの意義があったわけです。
 女神は痴愚の効用として、神々の世界の話をしてきたわけですが、16からまた地上界の、人間の世界のことについて語りはじめます。それは次回以降のお楽しみとしましょう。
 

『太平記』(193)

1月16日(火)晴れ、温暖、午前中はバスの車窓から富士山が見えたが、その後は見えなくなった。

 建武3年(南朝延元元年、1336)10月10日、足利方の攻勢を受けて都から比叡山へと移られていた後醍醐天皇は、足利方に補給路を押さえられて困難な状態に陥り、足利尊氏の密書に応じて京都に還幸されようとした。それを思いとどまらせようとした堀口貞満の諫言を受けて、天皇は新田義貞に東宮・恒良親王を託し、北国で再起を期すよう命じられた。10月10日、天皇は京に還幸されたが、直義によって花山院に幽閉された。天皇に従っていた公家、僧侶、武士たちも処罰されたり、幽閉されたりした。しかし、北朝の天皇に神器を渡すように言われた天皇は、偽の神器を渡したのであった(恒良親王にも偽物の神器を与えたようである)。

 第17巻が終わって、今回から第18巻に入る。
 尊氏の密書の趣から、京に戻るということは再び帝位に就くということであろうと、天皇は頼りにされていた。しかし、もともと足利方の本心は天皇を騙して事態を自派に有利に運ぼうということであったから、還幸された天皇を花山院の古い御所に押し込め、天皇は日々を淋しく過ごされたのであった。
 後醍醐天皇は都から離れただけで、帝位を捨てたわけではないので、『太平記』のこのあたりの事情の記述はあまり性格であるとは思えない。花山院というのは清和天皇の皇子貞保親王の居館であり、その後花山上皇の御所となり、藤原道長の曽孫である家忠を祖とする花山院家が相続していた。現在の京都市上京区の京都御苑の西南の辺りだそうである。

 『太平記』の作者は例によって美辞麗句を並べ立てて、天皇の「蕭散寂莫(しょうさんせきばく)」(第3分冊、217ページ、静かで物寂しいさま)を描くが、どうも大仰である。小川剛生さんの『兼好法師』によると、この時代の天皇のお住まいは「里内裏」で現在の京都御苑に比べればかなり規模が小さいので、「三千の宮女」(同上)が天皇にお仕えするというようなことは無理なのである。軟禁状態なので、天皇を訪問するというものもいない状態であった。
 後醍醐天皇は、どのような前世の因果でこのような目に合うのかと嘆かれ、宇多天皇が退位の後に出家され(寛平法皇)、花山天皇も19歳で譲位・出家された後に諸国を巡礼された先例に倣おうかとまで思われたのであった(これも作者が勝手に天皇のお気持を想像しているだけではないかと思う)。

 そのように天皇が思い悩まれているところに、刑部大輔景繁というものが、足利氏の許しを得てただ1人天皇のおそばの用をしていたが、ある時、勾当内侍を通じて密かに天皇に次のようなことを申し上げた。「越前の金ヶ崎の城を根拠地といている宮方の軍勢を攻撃している足利方の兵は劣勢であるということで、加賀の国の金釼宮と白山比め〔偏が口、旁が羊〕の僧兵たちが、味方に加わり、加賀の守護である富樫高家がこもっている奈多の城(小松市奈谷町)を攻め落として、金ヶ崎攻防戦の後攻め(包囲軍を背後から攻撃すること)をしようと企てているということです。これを聞いて、比叡山から京への還幸の際にお供をして京都に出てきた菊池武俊や日吉加賀法眼らの武士たちが、みな自分の地元へと逃げ帰って義兵を起こし、それぞれの土地を制圧しているということです。足利から天皇の治世に戻る日も近いと、世間の噂がしきりでございます。近いうちに急いで、夜の闇に紛れて大和の方に臨幸あそばされ、吉野、十津川の辺りに皇居をさだめられ、諸国へ綸旨を下されて、義貞の忠義の心を助け、天皇の徳による政治を復活されますように」。
 勾当内侍というのは内侍司に仕える後宮女官の三等官の第一位で、天皇と外部との取次役を務める役柄である。新田義貞が後醍醐天皇から賜って、夢中になり、足利方追討の戦機を逸したとされる一条行房の娘(妹とも)も勾当内侍であった。景繁という武士の素性は不明であるが、彼が申しあげていることはすべて今後の見通しであって、これまでの経緯から見て、楽観的に過ぎると思われる。もっともそう思わなければ、軟禁状態から脱出するという勇気は出てこないだろう。

 天皇は、景繁の語るところをよくお聞きになって、さては天下の人々の中にはまだ帝徳を慕うものも多いようである。これは天照大神が、景繁の心に入り込んでお告げになっている言葉であろうと思われて、「明夜必ず、馬寮の馬を用意して、東の小門の辺りで待つようにと仰せられた。

 示し合わせた時刻になったので、天皇は三種の神器を新任の勾当内侍に持たせ、子どもが壊して踏み広げた土塀の壊れ目から、女装して脱出された。景繁は、あらかじめ用意したことなので、天皇を馬寮の馬にお乗せして、三種の神器を自分で持ち、まだ夜のうちに京の五条口から伏見・木津を経て奈良に通じる大和路を進み、梨間(なしま、京都府城陽市奈島)まで落ち延びさせた。昼間、奈良の町をこのような姿で通っていけば、怪しむものも出てくるだろうと、天皇を畳表で周囲を張った粗末な輿にお乗せし、お供してきた上北面(院の御所を警固する武士で、四位・五位のもの)に輿を担がせ、三種の神器を足を付けた行器(ほかい)に入れて、寺社に参詣しようとする人の、弁当などを入れて持っているような様子に見せかけて、景繁が雑兵のような姿でこれを持つ。それぞれ日ごろしつけていない仕事をすることになったので、気持ちは急ぐけれどもなかなか進むことができず。その日の暮方にやっと内山(奈良県天理市内にあった内山永久寺)に到着した。

 ここまで来ても、もし敵が追いかけてくることがあるかもしれないと安心できなかったので、今夜のうちに何としても、吉野の辺りまで進もうと、また馬で急ぐことにしたのではあるが、8月28日(岩波文庫版の脚注によると、日付に乱れがあり、12月21日が正しいということである。現在の暦では1月の終わりから2月の初めくらいではないかと思う)ということなので、道がひどく暗く、進みかねていたのだが、突然、奈良市街の東方の春日山の上から、吉野の金峯山寺一帯の山まで、光るものが現われて松明のように天を明るくし、地を照らしたので、道がはっきりと見えるようになり、ほどなくして明け方には、大和国賀名生(あのう、五條市西吉野町)に落ち着くことができた。
 しかしこの土地は人里離れて人家の煙もまばらで、山深く、鳥の声さえまれである。家の周囲を柴で囲い、山芋を掘って生計を立てているという様子なので、皇居と定めるべき場所もなく、天皇のお食事に提供するような食べ物の確保も難しい。

 どうしようかと考えた末に、吉野金峯山寺の僧兵を味方に引き寄せて、天皇をお入れ申し上げようと考えて、景繁が吉野へ出かけて、吉野の吉水院(現在の吉水神社)の住持で、吉野執行の宗信法印に事情を打ち明けたところ、山中の僧兵たちが、本堂である蔵王堂で会議を開いて協議し、「昔、この場所に天武天皇が天智天皇の子である大友皇子に追われて行幸されてきたが、間もなく(壬申の乱に勝利されて)天下を統一、平和を実現された。そのような先例があるので、今、当山に行幸されることに対しわれわれは何の異議を唱えることがあろうか。それだけでなく、昨夜天に光り物があって、臨幸の道を照らした。これは当山の鎮守である蔵王権現、小守、勝手明神が三種の神器を守り、天皇を守護されようとする瑞光である。しばらくの猶予もあってはならないということで、若い僧兵たちが300余人、みな甲冑を身に着けてお迎えに参上した。
 このほか、楠正成の子正行、その一族の和田次郎、大和の武士である真木定観、大神氏の三輪西阿、河内の武士で楠一族と行動をともにしてきた生地(おうち、恩地とも。大阪府八尾市恩智に住んだ武士)、紀州の武士である贄川、貴志、湯浅らが500騎、300騎と続々とはせ参じ、この大軍で天皇の輿の前後を固めて、吉野への臨幸を警固したのであった。
 春の嵐が一たび鳴ると、冬眠していた虫が一斉に動き出すような心地で、天皇のご運がたちまち開け、進化のものの功績が既に明らかになってきたと、ひとびとは喜び合ったのであった。

 ということで、後醍醐天皇は京から吉野へ脱出され、南朝が本格的に成立することになる。『太平記』の作者の筆致とは裏腹に、前途は多難に思われるのだが、さて、どうなるか。
 

小川剛生『兼好法師』(6)

1月15日(月)晴れ

 『徒然草』の作者は、勅撰和歌集に兼好法師とその名を記されている。一方、『方丈記』の作者は、鴨長明とその名を記されている。これは2人の身分の違いを考えるべきであると著者は論じる。兼好は従来考えられていたように、蔵人として朝廷に仕えた諸大夫(≒下級貴族)ではなくて、侍品の出身であり、金沢文庫に残された文書から、金沢流北条氏に仕えていたのが、主人が六波羅探題に任じられたのを契機に京都に定住し、権門に出入りしたり、市井に立ち交じったり、身分秩序の束縛から離れて活動するために出家し、金沢流北条氏との関係から堀川家と、またその経済活動によって後宇多院との人脈を築き、やがて歌壇デビューを果たしたと著者は考えている。彼は「裹頭」(覆面姿)で内裏へ自由自在に入り込む人間として活動していたが、その一方で、検非違使庁と関係を持っていたのではないかと推定される。
 検非違使庁は洛中の警察や治安維持にあたる令外官であったのが、鎌倉幕府により六波羅探題府が設置されると、その警察権を次第に譲り、兼好の時代にはもっぱら市民生活の民事的な側面にかかわる身近な役所となっていた。検非違使庁には長官(別当)、次官(衛門佐)、判官(衛門尉)、主典(衛門志)の4等官制が敷かれ、その下に府生(史生)と呼ばれる書記やその他の職員たちが勤務していた。検非違使は賀茂祭の先頭を行進し、その華美な行装は都の人々の注目を集めていた。

 「安倍・紀・惟宗・中原などの氏の出身で、検非違使の尉・志・府生など主に官衙の三四等官を構成するものを官人と称した。彼らは同時に摂関・大臣の下家司(しもけいし)であり、院庁の主典代、朝廷の太政官の史生、蔵人所の滝口・出納・小舎人といった、官庁・政庁の四等官や書記役といった事務職を横断的に兼務していた(中原敏章『中世公家と地下官人』)。」(123ページ) 文簿の際、つまり経済的才覚に秀でているため、朝廷としては、彼らに管理運営をゆだねるしかなかった。その結果として、彼らの上巻たちは実務にかかわらなくなり、その仕事は形骸化する。鎌倉時代の初めの順徳天皇は『禁秘抄』の中で、六位蔵人が仕事をせず、出納・小舎人に任せきりであると慨嘆されている。

 室町時代の歌僧正徹は『正徹物語』の中で、兼好は「滝口」であったと記している(7ページ参照)、侍品で内裏に出入りしていたならば、蔵人所の出納・雑色・所衆ではなかったかと小川さんは推測する。「滝口」というと、蔵人所を警固する武士というイメージがあるが、その他の人員も詰めていたのである。なお、小川さんはあまり触れていないが、五味文彦さんも、兼好は「滝口」であったと論じていると記憶する。
 府生・史生・舎人なども、当該官衙の推薦で任命される雑任である。「兼好が朝廷に出仕していたならば、こうした侍品の職に就いたと考えられ、正式な任官に至らなくとも、その所縁は長く続いたのではないかと想像される。より重要なことは兼好が日常接して情報を得ていたのはこのクラスの人々である」(124ページ)という。そして、中原康綱、下毛野武勝、惟宗盛親、「老いたる衛士」又五郎など『徒然草』に登場する侍品の官人たちの実力のほどが列挙される。「侍品の官人は裕福であり、わずかな名誉で満足し、そのうえ、故実の研鑽にも熱心で奉公の労も惜しまないのに対し、公卿・殿上人は、官位昇進の不満ばかり口にし、そのくせ政務朝議には不熱心でサボタージュすることばかり考えていたから、実力の差はおのずと明らかだろう。徒然草のあの宮廷賛美がどちらの側から出たものか記すに及ぶまい」(125ページ)。

 兼好と関係が深かった堀川家は、歴代検非違使庁の別当を務めており、その関連の逸話も『徒然草』には見いだされるが、検非違使の別当として優れた治績を残した徳大寺実基(1201-73)について触れた206段について触れ、さらに同じ話が小槻季継の『官史記」にも見えることから、両者の比較を試みている。さらにほかの章段でも徳大寺実基が登場する。「同じテーマがこれほど連続することは徒然草でもそうはない。兼好は明らかに使庁の業務、別当の判断に多大の興味を寄せているのである」(132ページ)。この時代は土地・財産の相続をめぐる紛争が絶えない時代であり、公家法と武家法とがこの問題についてそれぞれ違った解釈を採用していた。実基はこの問題に関心をもっていただけでなく、専門家以外でも法律に通じたものを側近に置き、それどころか改心した盗賊までも検非違使庁の職員として使っていたという。

 『徒然草』で作者が見せている検非違使庁の活動への関心は、彼自身の法律への知識に裏付けられたものであろう。彼は宮廷にかかわる蔵人所、検非違使庁、院庁、あるいは摂関家などの組織にごく軽い身分で仕え、出家後は遁世者の立場を生かして内裏に自由に出入りしたり、洛中の人々を惹きつけてやまない宮廷文化への先導役を担ったりしていたものと考えられる。「このような兼好があらわした徒然草はやはり中世都市京都の生みだした文学であるといえる」(136ページ)と小川さんは論じる。

 今回は少し短くなったが、ここで第4章「内裏を覗く遁世者――都の兼好(2)」が終わっているので、切り上げることにしよう。次章以降兼好が巻き込まれることになる南北朝の争乱は今回述べた「土地・財産の相続をめぐる紛争」が全国規模に拡大して展開されたものと考えることもでき、その意味で、『徒然草』が時代の最も重大な問題を見逃さなかった人物の眼で描かれていること、その作者がけっして「遁世」したわけではなく、世の中の流れの真っただ中を泳いでいたことを知ることができるのである。 

日記抄(1月8日~14日)

1月14日(日)晴れ、東急東横線の車窓から富士山が見えた。

 1月8日から本日までの間に経験したこと、考えたことなど。前回の補遺・訂正。
1月8日
 『朝日』の「天声人語」は、「成人の日」ということで、札幌農学校の初代校長であったクラークが離任する際に学生たちに告げた”Boys, be ambitious!"についてふつうambitiousは「大志を抱け」と訳されているが、「野心を持て」という意味にとってもいいではないかと書いていた。私の小学校6年生の担任だった先生が、ambitiousは「野心を抱く」という意味ですよと言われたことを覚えているので、何をいまさらという気持ちで読んでいた。北大恵迪寮の寮歌「都ぞ弥生」にも「尊き野心の」という歌詞があるので、ambition=野心という理解はかなり広く抱かれていたはずである。
 さて、「大志を抱け」というのは、札幌農学校の第1回卒業生で、旧制甲府中学(現在の甲府一高)の好調になった大島正健が広めた役である。大島は神奈川県の海老名の人で、私が就職してだいぶ経ってから小学校6年生の時の担任だった先生にお会いした折に、その話をしたら、もともと厚木の方であったその先生が「海老名の大島家というのは土地の名門なんですよというようなことを言われたのを記憶している。
 甲府中学で落第を重ねたために、大島校長の教育を受けることになったある少年が、「大志」を抱いた揚句、大ジャーナリストとなり、さらに首相にまでなった話は小島直記が書きのこしている。その少年とは、石橋湛山である。

 第96回全国高校サッカー選手権は、決勝戦で前橋育英高校が1-0で流通経済大柏高校を破って初優勝を飾った。横浜フリューゲルスなどで活躍した山口素弘さんの母校である。

 フランスの歌手フランス・ギャルさんが亡くなった。70歳。1960年代の後半に、彼女の歌う「夢見るシャンソン人形」という歌が日本でもヒットして、弘田三枝子さんなどが歌っていた。昨年、別府葉子さんのコンサートで歌われていたのを聞いて、歌よりも、この歌がはやっていた時代ーー私の学生時代を思い出して、懐かしかった。

 『日経』連載の草笛光子さんの「私の履歴書」は7回目。SKDを退団、出演した『修善寺物語』がヴェネツィア映画祭に出品された際に、城戸社長夫妻に同行して映画祭に参加、さらにニューヨークに足を延ばして、ブロードウェーで本場のミュージカルを見て、すっかりその魅力のとりこになったこと、東宝の菊田一夫から誘われたこともあり、松竹に責があったが、城戸社長の了解を得て東宝の舞台にも立つようになったことなどが語られていた。

 NHKラジオ『まいにちスペイン語』の「スペインの街角」はセビーリャを取り上げた。ボーマルシェの『セビーリャの理髪師』、『フィガロの結婚』の主人公が床屋をやっていた町である。『理髪師』ではある貴族が思いを寄せる女性との仲を取り持つというモリエールの劇の従僕のような役割を演じていたフィガロが、「結婚」では貴族の侍女で自分の恋する女性であるシュザンヌを彼女に横恋慕した貴族と張り合う。貴族として門地、権力、財産を持つ、丸山真男流に言えば「である」人間の伯爵と、自分の腕と頭脳だけが頼りの「する」人間のフィガロの戦いは、まさに近代化の核心にかかわる戦いであり、その後のフランス革命を攀じする内容であった。『理髪師』はロッシーニが、『結婚』はモーツァルトがオペラにしているのはご承知の通り。

 諏訪哲二『教育改革の9割が間違い』(ベスト新書)を読み終える。

1月9日
 草笛光子さんの「私の履歴書」の第8回。ミュージカルへの思いから、東宝の舞台にも出演していたが、ついに移籍する。本場のミュージカルを見に出かけたかったが、東宝から金は出せないといわれたので、自費で渡米してミュージカルの勉強を続けた。母親がマネージャー役を引き受けてくれたと書かれていて、高橋治が「草笛光子のマネージャー」と書いているのが、草笛さんの母親なのか――大島渚と高橋が草笛さんの母親の開いていたバーの常連客だったということはすでに紹介した――ちょっとわからないので、これは謎としてとっておこう。

 NHKラジオ『まいにちスペイン語』の「ラテンアメリカの街角」のコーナーではグアテマラの首都グアテマラ市(Ciudad de Guatemala)を取り上げた。グアテマラ二はマヤ人が多く住んでおり、マヤ文明の遺跡がいくつも残っているという。

 東海林さだお『目玉焼きの丸かじり』(文春文庫)を読み終える。

 NHKラジオ『短期集中!3か月英会話』の”Fun & Games"のコーナーに出てきたなぞなぞ。
Q: Why is sic afraid of seven? (6はなぜ7が怖いの?)
A: Because seven ate nine. (7が9をたべちゃったからさ)
8(eight)と「食べた」(ate)は発音が同じ。6,7,8,9…と数えると、7が9を食べてしまうように聞こえる…?
 はじめてロンドンで生活した時、多くの人が8を「アイト」と発音しているので戸惑ったことを思い出す。

1月10日
 草笛光子さんの「私の履歴書」の第9回。日本テレビで『光子の窓』という音楽番組の司会をすることになり、この番組は1958年から60年まで足かけ3年続いた。

 『朝日』の朝刊の投書欄で「新教科書と龍馬」が特集されていた。歴史教科書から坂本龍馬の名が削られるということをめぐってのさまざまな意見が述べられていた。戦国時代の武将とか、明治維新の志士だとかいう人々は教科書で取り上げなくても、覚えたい人は覚えるだろうと思う。私の小学生のころでも、習いもしない大日本帝国海軍の軍艦の名前をことごとくそらんじているというような連中は少なくなかった。学校教育の人間形成への影響力を必要以上に強調して大騒ぎするのは滑稽である。それに人物中心の歴史というのは、歴史についてのさまざまな見方の1つであって、事物中心の歴史とか、事件中心の歴史とか、それとは別の見方もできることを忘れてはならない。

 同じ朝刊に載っていた『中央公論』2月号の広告に大学入試改革特集という文字が躍っていた。入試改革よりも、教育改革、それこそが日本の大学が生き残る道である!!

 『スポーツニッポン』のコラム「唯我独論」で、二宮清純さんが、星野さんの死を悼みながら、プロ野球の監督で「闘将」と呼ばれたのは故・西本幸雄さんと星野さんの2人であったが、2人とも、育成者型で、勝負師型ではなく、短期決戦には弱かったこと、「打倒巨人」が念願であったことが共通するといい、「弱い巨人を見ると情けなくなる」という星野さんの言葉を思い出しながら、3人目の「闘将」がいつ出現するだろうかと締めくくっていた。

 NHKラジオ『実践ビジネス英語』の”Quote...Unquote"のコーナーで紹介された言葉:
Once you label me you nagate me.
       ――Søren Kierkegaard (Danish theologian and philosopher, 1813 - 55) 
(ひとたびあなたが私にレッテルを貼れば、あなたは私を否定することになる。)
ありのままのその人を見るのではなくて、誤った情報や先入主に基づいてその人を判断してしまうと、その人は自分が否定されたような気持を味わうことになる。――たとえ、好意的に評価されたとしても…)

1月11日
 草笛光子さんの「私の履歴書」は10回目。『火刑台上のジャンヌ」の公演でクラシックの音楽家と共演した経験が語られていた。

 NHKラジオ『まいにちフランス語』応用編は今回からは、”Traces des recncontres franco-japonaises du passé (日仏交流散歩~全国篇」ということで、首都圏を離れて日本国内のフランスゆかりの場所を探訪することになり、まずは兵庫県の生野銀山を取り上げている。
 同じく『まいにちスペイン語』はレオポルド・アラス・クラリン(Leopoldo Alas "Clarin", 1852-1901)の『裁判所長夫人』La Regenta(1885)という作品を取り上げることになった。スペイン文学の『ボヴァリー夫人』との類似が指摘される一方で、バルガス=りょさによって「19世紀小説の最高傑作」と評された作品だそうである。
 イベリア半島北西部、大西洋に面したアストゥリアス地方の架空の町ベトゥスタ(Vetusta、作者が育ち、その地で大学教授を務めていたオビエドがモデルであるとされる)を舞台に、美しい「裁判所長夫人」アナ・オソーレスをめぐり、司祭のドン・フェルミンと出世欲に駆られた漁色家のドン・アルバロが争奪戦を展開する。
 本日は、カテドラル(大聖堂)付きの侍祭の少年セレドニオと馬車の御者をしているビスマルクという2人の少年が塔の上から下の通りを見下ろしている場面が描かれる冒頭の部分が取り上げられた。

1月12日
 『キネマ旬報』の2017年度に公開された映画をめぐる各種表彰作品が報じられていて、ベスト10に入った作品で私が見たのは、外国映画の10位の『ラ・ラ・ランド』だけであった。このところ、似たような傾向が続いている。

 草笛光子さんの「私の履歴書」は作曲家の芥川也寸志さんとの結婚・離婚の次第が語られていた。

 『日経』の朝刊に星新一さんの遺品を調べていたら、星さんの祖母で森鷗外の妹である小金井喜美子に鷗外が宛てた手紙(全集未収録)が見つかったという記事が出ていた。

 『まいにちスペイン語』「スペイン文学を味わう」はクラリンの「裁判所長夫人」の2回目。2人の少年が塔の上か周囲を眺めていると、何者かが塔のらせん階段を上ってくる。上がってきたのは司教代理の判事司祭ドン・フェルミン・デ・パスで彼の孤独な楽しみの一つは、高いところに上がることであったのである。彼は望遠鏡で周囲を見渡す。見渡すことで、ベトゥスタの町を支配するという彼の欲望を満足させているのである。
 彼は望遠鏡をしまい、教会堂内に戻る。大聖堂に属する司祭たちの間ではかれらの地位や職分をめぐっての暗闘があり、野心家のドン・フェルミンをよく思わないものは少なくないようである。

1月13日
 『朝日』の朝刊によると、中国の新しい歴史教科書から、文化大革命と毛沢東の誤りについての記述が削られたそうである。周近平氏は毛沢東思想を学ぶことによる国民の意識の統合を図っているように見えるが、うまくいくかどうか。さらに、周氏の思想を学習することも国民に奨励されるようだが、思想というべきものを盛り込んだ著作というのはどのくらいあるのだろうか。一人の人物が多くの筆名を使い分けているという例もある一方で、指導者がゴーストライターを雇っているという例もあった。

 草笛光子さんの「私の履歴書」はミュージカルへの熱意からコンサート形式での公演を行うが、1日だけしか会場が借りられず、興行的に失敗で、貯金が尽きたという。

 センター試験始まる。大雪の地方もあり、会場にたどり着くのに苦労する受験生もいるようである。とにかく、各位の健闘を祈る。

 NHKラジオ『朗読の時間』は織田作之助の『夫婦善哉』を取り上げ始めた。この作品は都市の文学として、ダメ男文学として、B級グルメ文学として…など様々な読み方ができる。蝶子が占い師に運勢を見てもらう場面などは、映画でこの占い師の役を沢村いき男がやっていたななどと、森繁久彌・淡島千景の主演による映画化(豊田四郎監督)のことを思い出しながら、楽しんで聞いていた。

1月14日
 草笛光子さんの「私の履歴書」は第13回。ミュージカルの草創期の苦労。「ミュージカルの捨て石」という言葉をめぐって。かつて、南条範男が映画女優としての草笛光子には代表作といえるものがないと書いていたことを思い出した。

 鳥飼玖美子『英語教育の危機』(ちくま新書)を読み終える。近年の日本の英語教育は「グローバル化に対応する」ことを目標として、さまざまな取り組みを行ってきた。この本はそのような取り組みの問題点を指摘したものであるが、著者が「あとがき」で触れているように、最近では「グローバル化」に逆行するような動きもみられる中で、英語教育はどのように対処していくつもりなのか、問題は多い。この本については、機会を見て論評してみるつもりである。

 神保町シアターで山中貞雄が1937(昭和12)年に作った『人情紙風船』(PCL、前進座)を見る。昨年見た『河内山宗俊』はサイレント作品であったが、こちらはトーキーで、彼の遺作である。浪人と髪結いを軸に貧乏長屋の群像を描く、リアリズムの時代劇。山中は加藤泰の叔父にあたるのだが、同じ時代劇でも加藤の作品のほうが伝奇的でモダンなところがあるなぁと思う。
 

諏訪哲二『教育改革の9割が間違い』

1月13日(土)晴れ、温暖、バスの車窓からかすかに富士山が見えた。

 1月8日、諏訪哲二『教育改革の9割が間違い』(KKベストセラーズ:ベスト新書)を読み終える。
 諏訪氏は私よりも4歳年長で、ということは、氏が大学を卒業された年に、私は大学に入学したということである。世代的には近いが、より長期にわたって教育政策と現場の変化を体験されてきたことは認めるべきであろう。1960年代から70年代にかけての教育状況の変化は、私自身の経験に照らしても、日本の教育の歴史の中で指折りの重大さを持つ変化である。その変化とどのようにかかわったかをどこまで厳しく自覚しているかは、論者の教育観を判断するうえで重要な意味をもつ。関わった時期の長さと、関わり方の2つの面で、諏訪氏は私にとって無視できない経験の持ち主である。

 氏は大学卒業後、長く埼玉県の高校で英語を教えられ、「プロ教師の会」を組織して、教育にかかわるさまざまな問題についての提言をされてきた。そういうことから言えば、私よりも生々しい形で教育にかかわってきたといえる。また各種の審議会、委員会等の委員も歴任された。教師としての経験を踏まえたその意見には傾聴すべきものがあると思うのだが、氏の意見が各種委員会の提言にどれだけ取り入れられてきたかは疑問の残るところである。私は、諏訪氏の意見のすべてに賛成ではないが、この書物の中で氏が批判を展開している尾木直樹氏に比べれば賛同できる点が多いと思う。(尾木氏の意見のすべてに反対というわけではなく、賛同できる部分もあるのは言うまでもない。)

 ある時、文部科学省の専門職員の人と話していて、諏訪氏とプロ教師の会の意見について触れたら、その人は、プロ教師の会と、授業の法則化運動とを混同していたようで、頓珍漢な回答が返ってきたことがあった。文部科学省の職員が現職の教師の実態や民間教育運動の動向に疎いというのは、この書物で諏訪氏の言う「教師のちから」について正当に評価できないということにつながり、どうも困ったことである。

 文部科学省が進めてきた様々な教育改革が成功しているとは言えない理由として、諏訪氏は、学校教育を動かしている4つの力とその相互の関係について、的確に把握していないからであると論じる。4つの力というのは、「行政のちから」、「教師のちから」、「民間のちから」、「子どものちから」である。世の中には「行政のちから」、つまり教育行政がすべてを動かしているという思い込みがあるが、実際には、教育・学校はそれぞれの社会勢力の総合として動いている。教育は学校だけでしているわけではなく、家庭や地域もかかわっている。大人たちがどのように働きかけようと、肝心の子どもたちが反応しなければ教育は成り立たない。教育をめぐる理論や学説がどの程度現場に浸透しているかは実際的な検証を必要とする。何事も、教育の実態を見極めることから始めなければならないという。
 人間は「言っていること」よりも「やっていること」で評価されるべきであるというのが諏訪氏の意見で、外見的に正しい議論であっても、それが実践の場でどのような姿をとって表れるかを問題にしなければ話にならないという。現在、さかんに推進されようとしているアクティブ・ラーニングについての諏訪氏の意見が展開される第1章を取り上げて、この点を掘り下げてみることにしよう。

 第1章「アクティブ・ラーニングは日本の教育を変えるか」は、個性的・積極的な人材の育成を目指して、最近その実践が奨励されている「アクティブ・ラーニング」の意義と問題点を論じている。理論や根拠において別に間違ったところはなかった「ゆとり」教育が、学力が低下したと主張する「民間のちから」と、学力が低下したと主張する学者ややり方がわからないという現場教師の「教師のちから」によって後退させられた後、アクティブ・ラーニング、あるいは学習指導要領の改定案の言葉を借りると「主体的・対話的で深い学び」が推進されようとしている。諏訪氏の理解によると、「アクティブ・ラーニングは伝統的な班学習に形態が似ている。数人で机を向き合わせて、提示された課題を討議しながらお互いの意見・識見を交換し合い、ひとりでは達成できない、より高い学習効果を出させようとする者のようである」(18ページ)。
 歴史は繰り返す。戦後の日本の教育実践を見ても、班学習は何度か繰り返してその実践が推進されてきたし、諏訪氏自身もこれに似た授業を行ってきた経験を持っている。

 そうはいっても、この動きが、「ゆとり」教育の二の舞になる恐れが無きにしも非ずと、諏訪氏は論じる。
 「頭や理念で考えて「正しい」と思われるものを学校の現実において実現しようとする考えは、学者・研究者や教育行政の指導者たちにとっては当たり前のことのようだが、長いこと生徒(子ども)と向き合う実践をしてきた教師の性(さが)なのか、自分の思想体験からなのか、私にはどうしても強い抵抗がある。「やるべき」正しい理念よりも、ずっと「やってきた」現実や事実の方が大切だという感覚がどうしてもある。」(19-20ページ) 個々の教師が経験の中で培ってきたものをもっと大事にして、それぞれの自由なやり方を尊重する方がよいのではないかということのようである。さらに、広い視野から見れば、これまでの日本の教育改革の動きは理念先行の性格が強かったが、もっと現実との折れあいを探るべきではないのかというのが諏訪氏の意見のようである。

 ところで、アクティブ・ラーニング、あるいは「主体的・対話的で深い学び」を推進したとしても、それが学力の向上に結びつくかは別の問題であるという。この点に関連して、諏訪氏は自分の経験を踏まえ、班形式の授業をしていると、生徒は発言することに気をとられて、肝心の考えるということをおろそかにする傾向があったと論じている。注目すべき意見である。教師の働きかけや、生徒相互の話し合いを個々の生徒がどのように受け止めるかは個人差があり、それぞれの生徒がどれだけ理解し、どれだけ考えているかはわからないのである。

 諏訪氏はアクティブ・ラーニングが個と集団との対立を、学習の過程で解決するか、縮めていく経験の場となるかもしれないということで、その意義を評価する。しかし、その一方で、学習者の性格は多様であり、あえて発言したいと思っていないような子どもも含めた多様な生徒を一緒くたにして、「能動的学習」に追い込もうとするのは疑問であると論じている。

 つまり、「アクティブ・ラーニング」の目標と方法とは「正論」ではあるが、教育現場の個々の現実に即して、常に万能であるとはいえず、現場の柔軟な対応が求められる。その意味で、アクティブ・ラーニングは授業に臨む際の「精神」として理解されるべきで、個々の教師の自由を認めるべきであるというのが諏訪氏の主張である。

 『教育改革…間違い』という表題を掲げているが、著者の真意は「アクティブ・ラーニング」の普及を目指す改革が成功してほしい、少なくともその「精神」は行き渡ってほしいということであろう。しかし、それを阻むのは、改革を進めようとしている人の頭でっかちな姿勢にあるということも示唆されている。この章ではほかにもいろいろな問題が取り上げられ、それぞれについての意見が展開されているのだが、議論の大筋に対して特に異論を述べるようなところはない。ただ、討論により学習を進めるという場合に、やはり討論の際の議論の組み立て方を指導する必要はあるだろうというような具体的な問題に踏み込んで議論を展開してもよかったのではないかという感想がある。相手の議論を頭から否定したり、揚げ足取りの議論になるようなことは「主体的・対話的」な学習にはふさわしくないからである。

前田速夫『「新しき村」の百年 <愚者の園>の真実』(7)

1月12日(金)晴れ、バスの車窓から雲をかぶった富士山が見えた。

 「新しき村」は1918年(大正7)に武者小路実篤(1885-1976)の提唱によって日向=宮崎県児湯郡木城村大字石河内字城に創設された、共有財産と共同労働、余暇における自由で個性を伸ばす創造的活動を両立させようとする生活共同体である。村の創設の背景には、1918年の米騒動に代表されるこの時代の社会不安に対処しようとする社会改革の志向と、理想主義・個人主義の方向を目指す『白樺』派の理念とがあった。「村」には少なからぬ賛同者があり、村内で農業等の共同作業に従事する村内会員と、理念に賛同し会費を払って「村」を側面から支える村外会員とが組織された。「村」内では、生活のための共同労働を重視する傾向と、個性的な創造活動を重視する傾向との対立があり、「村」の経済的な自立が困難であったこともあって、離村者も多く、発展のペースは遅かった。1925(大正14)には武者小路自身が村外会員となり、1939年には日向の村の3分の1がダム建設で水没することになって、「村」は埼玉県入間郡毛呂山町葛貫に移転、その規模も縮小した。
 戦後、武者小路は公職追放該当者に指名されたが、1948年には志賀直哉、安倍能成、和辻哲郎、小泉信三らと『心』を創刊して保守的な知識人を結集し、1949年からは『心』に戦後の代表作『真理先生』を連載するなど元気なところを見せた。「村」は1948年に財団法人に組織替えし、この年、共立講堂で30周年祭を開催するなど、再建の歩みを始めた。

  戦後、「村」の活動は少しずつだが拡大し、農業の他に養鶏や牧畜も手掛けるようになった。新しく加わる会員もいた。武者小路の公職追放は1951年に解除されたが、彼は1952年に、自分の家に住んでいる家族は15人だが、「村」に住んでいるのは9人に過ぎない、世間の人々は「村」はなくなったものと思っているが、まだまだこれからだと書いている。
 戦後は陸稲に加えて水稲の耕作も始められ、1949年(昭和24)からは養鶏への鳥悔いが開始される。周囲の山林が開墾され、果樹や茶の栽培、酪農など、少しずつ事業が拡大・改善の方向に向かう。1956年(昭和31)には機械化のための会が設けられ、機械場の設備を充実させる。次第に養鶏が村の中心事業となり、自活の原動力となる(この点はヤマギシ会と共通すると、前田さんも指摘している)。1958年にはわずか千円余りではあったが、村の財政が黒字となる。
 この年11月、村の自活を祝って、東京九段会館で創立40周年祭が挙行された。講演、天野貞雄、辰野隆、中川一政、亀井勝一郎、徳川夢声、武者小路実篤。ピアノ、井口基成。日本舞踊、長谷川一夫一門。バレエ、牧阿佐美バレエ団。「花は満開」朗読、里見弴・田村秋子。余興出演、三船敏郎、志村喬、轟夕起子、入江たか子、藤原釜足、緒形拳ほか。「出演者はみな、実篤と親しい著名人であった」(111ページ)。ひとたび声をかけると、大勢が集まるというのは大したものである。

 1961年には村民1人当たりの生活費が全国の勤労者平均をやや上回り、自活の形態がようやく確実になる。1963年には日向の村も水路がコンクリートになったことで、水稲作が安定、家屋も改修、こちらも財団法人が認可される。1966年に武者小路は「新しき村はもう空想の村ではなく、現実の村になりつつある。もうしっかりした基礎の上にたって、新しき村でないとできない、生活の仕方、労働の仕方を飲み来い、どこまでも現実の基礎の上に立って成長する村になりつつあると思う」(113ページ)と書いた。

 1968年には都電の廃車を利用して仲良し幼稚園を開園。園児3人。
 〔1958年から68年、つまりら村の40周年から50周年までの10年間は、渡辺寛治の言葉を借りると、「村にとって忘れられない日進月歩の夢の実現の時代」(『人間らしく生きるために』あとがき)だった。村内会員は19人から50人となった。1日6時間労働、週休1日制で、経済の心配なく生活できた。新しい入村者を迎えることが可能になり、人が増えることで、村の労働、経済がより安定的になり、さらに新しい人を迎えやすくなった。」(114ページ) 幼稚園には村の近くに造成された団地からの入園者もあり、その母親たちと活発な交流が生じた。

 1971年には幼稚園が増設され、園児は29名になった。養鶏はこの頃から生産過剰になり、調整が進められる。
 1972年、第5回共同体話し合いの会が村を会場に行われる。参加したのは、一燈園、ヤマギシ会ほか。「村」の中での自分の分担の仕事を一人前にやったうえで、シイタケ栽培を本格化させる会員、あるいは陶芸を村の仕事に仕上げていく会員が出てくる。幼稚園を会場に習字、作陶、油絵などの教室が開かれ、共同体ブームでテレビの取材を受けることや、来村者が多くなる。

 1976年4月に武者小路実篤が歿する。享年90歳。「村」の精神的な支柱が世を去り、その影響はさまざまな面に及んだが、表面的に見る限りでは、「村」の事業・活動にさほどの影響は出ていない。1981年には「村」の総収入は3億8千9百万円に達し、村内生活者も60名を記録した。「受け入れの準備ができているのに、若い入村者が少ないことを別にすれば、万事うまく運んでいるといえた。」(122ページ) 日向の村も規模が小さいなりに順調に発展を続けているようであった。

 1970年代の前半は前田さんが言っているように共同体ブームとでもいうべき風潮があって、京都で大学院生活を送っていた私も寺町二条の三月書房とか、その他の書店で、これらの共同体の出版物を買ったり立ち読みしたりしていた記憶があるし、多少はそれに関係した論文を書こうとしていた記憶がある。前田さんは「若い入村者が少ない」と書いているが、関心をもつ若い人々は少なくなかったはずだが、入村には至らなかった、それには年長者の権威に従いたくなかったとか、現実の生活の要請に負けて就職することになったとか、さまざまな理由が考えられ、今後、さらに掘り下げられるべき問題ではないかと思う。この後、「新しき村」は次第に停滞の時代に入るわけで、なぜそうなったのかについて、前田さんなりの考察が展開されることになるが、それとは別の方向に向かう思索も必要であると思う。

 前回にも少し触れたが、日本の伝統的な農村にも共有地や、共同労働といった発想はあったわけで、そういうことは柳田国男をはじめ、民俗学者や農政史家がすでに指摘していることである。さらに言えば、そうした共有・共同の実践にも様々な問題点があって、そうしたことの克服も学ぶべき先行事例の一つではなかったかと思う。それから、事業の展開の中で、大きな問題となってくるのが、前田さんも少し触れているが、作業への機械技術の導入の問題であり、これはIT化が進むにつれてますます重要な問題になるのではないかという気がする。

フローベール『感情教育』(5⁻1)

1月11日(木)晴れ、バスの車窓から頂上が雲でかくれた富士山が見えた。

 フランスがルイ=フィリップの七月王政のもとにあった1840年の9月、大学入学を目前にした18歳の青年フレデリック・モローは偶然のことから共和主義者の画商アルヌーと、その美しい夫人と出会い、アルヌー夫人への恋心を抱く。
 没落しかけた名家であるモロー家では母親がフレデリックに家門再興の夢を託している。フレデリックは夢想家で芸術を寄せている。彼の高校時代からの友人であるシャルル・デローリエは努力家で現実主義者で、2人は育ちも性格も違うが、不思議と気が合う親友同士である。デローリエは地方の公証人事務所で書記として働いているが、いずれパリに出てフレデリックと共同生活をしながら勉強しようと考えている。
 パリに出たフレデリックは法律の勉強を始めるが、興味を持つことができない。地元の有力者やアルヌーを訪ねたりもするが、はかばかしい成果を上げることはできずに、無為に日を過ごしながら1年を過ごす。

 1841年の12月にパリで騒乱が起き、フレデリックは警官隊に連行されていく青年のデュサルディエを助けようとしたことから、同じ法学部の学生だが、演劇に興味があるユソネと知り合い、意気投合する。そしてユソネの手引きでアルヌーの事務所の常連となり、やがてアルヌーの自宅での夕食の席に招待されたことで、アルヌー夫人と再会を果たす。一方、その日、郷里からデローリエがパリに出てきて、フレデリックの部屋に泊まり込み始めた。アルヌー夫人の関心を引くために、フレデリックは絵の勉強を始めようと決心する。(以上1~4までのあらすじ)

 5
 翌日、フレデリックは絵の勉強をするための道具を買いそろえる。アルヌーのところで知り合った画家のペルランが彼に絵を教えることを承知したので、彼に準備のほどを見てもらうため、彼はペルランを自分のところに連れてきた。
 デローリエが先に帰っていて、1人の青年と一緒にいた。これまでも彼の話に出てきていた数学の復習教師をしているセネカルである。フレデリックはセネカルからいい印象を受けない。「短く角刈りにした髪で額が高くそって見えた。灰色の眼の中に、何かしら冷酷なものが光っていた。そして長い黒フロックという身なり全体に教育家か僧侶のようなものが感じられた。」(83ページ)
 顔を合わせた4人は、最初、その当時の世の中の動きについて、評判の芝居について話をするが、セネカルは劇場に出かけることはないという。デローリエはフレデリックの絵の道具を見てあきれた様子を見せる。
 デローリエとセネカルはルイ・ブランの書物を読む(ルイ・ブランはこの時代の代表的な社会主義者である)。一方、ペルランとフレデリックは絵の道具を調べていたが、やがてアルヌーの家の晩餐のことに話題を移す。

 彼らの話を聞きつけたセネカルは、アルヌーがあきれた紳士だという。「政治的に破廉恥なことをして、金を作っている男だというのですよ」(84ページ)。アルヌーは、ルイ=フィリップ王の家族が、一人一人皆有益な所作をしている石版画を売りさばいていたが、これは王政を擁護するものだというのである。ペルランが芸術作品にどのような意見を持とうと自由だと反論すると、セネカルは「芸術はもっぱら大衆の教養を目的としなければならない」(同上)という彼の芸術論をぶつける。そして、ペルランたちが描いている絵が民衆の教育になるところはない、むしろ彼らのみじめな生活にこそ芸術家は目を向けるべきだという。

 セネカルはアルヌーを攻撃し、ペルランは画商の弁護につとめる。セネカルは、アルヌーが発行している「工芸美術」新聞の広告が不愉快で仕方がないのである。「真摯な共和主義者である彼は一切の優雅なものに退廃があると考えている。」(86ぺージ)
 話は弾まなくなり、セネカルも、ペルランも引き上げていく。
 2人だけになると、デローリエはフレデリックにアルヌーのことをいろいろと質問しはじめて、彼のところに自分を連れて行けという。セネカルと違って現実主義者の彼は、アルヌーに好感は抱かないまでも、利用価値があることを認め、フレデリックに自分を紹介してくれるよう言うのである。

 いよいよフレデリックとデローリエの共同生活が始まる。デローリエはある代訴人のところの書記の口を見付け、法科大学の入学手続きを済ませ、必要な書物も整えた。生活の費用はフレデリックが出し、家事の用も彼がさばいた。しかし、もし門番に小言をいう必要があれば、デローリエがその役を引き受けた。昼間はそれぞれに分れていて、夕方に一緒になり、暖炉のそばで勉強した。
 二人は将来について夢想しあうが、実現が難しいことも自覚はじめている。デローリエは自分の主義に反して、フレデリックに地元の代議士であるダンブルーズを訪問するように言ったりする。

 フレデリックがかなり贅沢な暮らしを続けていたので、食事を運んできている料理店からかなりかさんだ請求書を受け取ったりする。部屋も豪華に飾りたてられていて、それは自分が絵を描くために必要なのだとフレデリックは言っていた。
 彼はペルランのところへ通って勉強したが、ペルランは外出することが多く、アトリエでぽつんとしていることがしばしばであった。そして一人でいると、アルヌー夫人への思いが募り、彼女を訪問するが、そうすることがあまり礼儀正しいことではないと気づいてやめるようになる。それでも、木曜日の晩餐の招待を受けるために、毎週水曜日に「工芸美術」社に顔出しを続ける。そして、時々晩餐に招待されるようになり、その席でアルヌー夫人を見て、その恋心を募らせるのであった。
 
 フレデリックとアルヌー夫人の恋も前進しはじめるし、その一方でデローリエがパリに出てきて2人の共同生活が始まり、次回になるとこの2人の若者を中心にさらに多くの、さまざまな趣味や意見を持った若者たちが登場して、物語が新たな動きを見せることになる。セネカルとデローリエは急進的な共和派ということで政治的な意見が近いようだが、デローリエのほうは有力者に近づいて有利な就職口を探そうとするなど現実と妥協する姿勢も目立つ。このあたりのフローベールの登場人物の描き分け方は見事である。

エラスムス『痴愚神礼賛』(3)

1月10日(水)晴れ

 ラテン語でStultitia、ギリシア語でMoriaと呼ばれる痴愚の女神が自分で自分を礼賛する演説を行うという形式で書かれたこの作品は、ルネサンスを代表する人文主義者であるエラスムス(Erasmus of Rotterdam, c1469-1536)が、彼の親友で英国の人文主義者であったトマス・モア(Thomas More, 1478-1535)の姓をラテン語で言うとMorusとなり、それがMoriaを連想させるというところから思いつかれて一気に書き下ろされた戯作である。もちろん、名前から連想されるというだけで、誰もモアが馬鹿だなどと思うものはいないはずである。それから<痴愚の女神>というのはエラスムスの創作であって、ギリシア・ローマには<知恵の女神>はいるけれども、<痴愚の女神>は登場しない。
 鈴のついた阿呆の帽子をかぶり、道化の扮装をして痴愚の女神が現われ、世の中の悪評にもかかわらず、自分は人々の賞賛を受けるのにふさわしい存在であると主張します。自分がいなければ世の中は明るくならないといいます。自分のことは自分がよく知っているし、誰も自分のことを褒めてくれる人がいないのだから、自分で自分を褒めてもいいじゃないかとつづけます。

 痴愚の女神は、世の中の弁論家と呼ばれる人々がラテン語の演説の中に、自分の知識をひけらかすためにギリシア語を混ぜることがあるのを批判します。しかし、女神自身の演説もギリシア語交じりのラテン語で行われているのですから、世話はありません。難しい言葉をその意味を分かって使っている分には構わないのですが、わかってもいないのにもったいぶって使う人もいるし、わからないままにそれをありがたがっている人がいるというのは滑稽なことです。
 自分で自分を礼賛するという主題から脱線して、弁論家の悪口になってしまったので、もとの礼賛に戻ると宣言して、女神はギリシア語を使います。〔沓掛訳では「コノ話ハココマデトイタシマショウ」(27ページ)となっていて、プラトンの『饗宴』で、アルキビアデスがソクラテスを賛美して言う言葉(234ページの注)とされているのに対し、Betty Radiceの英訳では”So much for that."(p.14) となっていて、プリニウスの『博物誌』からの引用と注記されています。沓掛さんの指摘の方が適切ではないかと思われます。〕〔6〕

 さて、本題に戻っての演説となりますが、自分の名前は周知のこととして、女神はその素性を語りはじめます。「私の父は、カオスでもオルクスでもサトゥルヌスでもイアペトスでもなく、とっくの昔にすたれた、どこやらの黴(かび)だらけの神でもありませんでした。ホメロスやヘシオドス、それにユピテル御自身のご不興を買うかもしれませんが、それはプルトス、ただひとり人間タチト神々ノ父たる神が、私の父なのです。」(28ページ) すでに述べたように、<痴愚の女神>という存在はエラスムスの創作ですから、ギリシア・ローマ神話に登場するわけはありません。そこをこじつけて、さらに物語を作っているわけです。
 カオス(空虚、巨大な空隙)」はヘシオドスの『神統記』によれば、宇宙生成の最初の状態、世界の始源であり、そこからクロノスをはじめとする巨神たちが生まれます。オルクスはイタリアの冥府の神で、ラテン詩人たちによってしばしばギリシアの冥府の神であるプルトとと同一視されたと注記されています。サトゥルヌスはローマ人たちがギリシアのクロノスと同一視したローマの神で、ユピテル、ユノ、ネプトゥヌス、プルトなどの父に当たります。イアペトスはクロノスと同じ巨神族の一人だそうです。ギリシア、ローマのたいていの神々は、このあたりの神様から生まれているわけですが、そうじゃないといって、新しい物語を作ろうとしているわけです。女神が自分の父親だと主張しているのはプルトス(Plutus)という豊穣と富の神です(沓掛さんの注によると、穀物の女神ケレスの子だそうです)。「人間タチト神々ノ父」というのは、ホメロスやヘシオドスによれば、ゼウス(ユピテル)に冠せられる句で、それをプルトスに使っていることで、ご不興を買うといっています。

 次に彼女は自分が父親からどのようにして生まれたかを語ります。ユピテル(ゼウス)は知恵の女神であるパラス(アテナ)をその頭から生んだとされるが、そんな生まれ方ではなく、「あらゆるニンフの中でももっとも魅惑的で陽気なネオテスを母として産ませた」(29ページ)のだといいます。沓掛さんの注によると「ネオテス」はギリシア語で「若さ、青春」という意味であり、ギリシア神話のヘベ、ローマの女神ユウェンテスに当たるそうで、ホラティウスはユウェンテスをウェヌス(アフロディテ)のおつきの一人とする詩を書いているそうです。ウェルギリウスの『アエネーイス』を読めばわかることですが、ローマ人は自分たちの先祖はウェヌスの息子のアエネアスだと信じていたので、この女神には特別の信仰を抱いていたようです。
 そして彼女は自分が「みじめな結婚の絆なんかではなくて、・・・それよりずっと甘美な愛ノ交ワリノウチニ」(29ページ)生んだのだと自慢します。自慢するようなことではないという気もしますが、ここにはおそらくある司祭の私生児として生まれたと推測されているエラスムスの一種の居直りが秘められているように思います。
 ギリシアの喜劇作家アリストパネスの作品『福の神』ではプルトスは盲目の哀れな老人の姿で登場するそうですが、彼女を生んだ頃のプルトスは若く、元気いっぱいで、神々の酒であるネクタルを飲んだ勢いでことをなしたのだといいます。〔7〕

 「当節ではどこで産声を挙げたかが人の貴賤の決め手となっておりますから」(同上)、生まれた場所を明らかにすると女神は続けます。「私が生まれたのは、デロスの浮島でもなければ、波立つ海原でもなく、ウツロナ洞窟でもありません。…浄福の島々に生まれたのです」(同上)といいます。「デロスの浮島」で生まれたのは、アポロンとアルテミス、「海原」で生まれたのはアフロディテ、「ウツロナ洞窟」で生まれたのは海の女神のテティスで、自分はもっといいところで生まれたといいます。
 そしてバッコスの娘の酩酊(メテ)とパンの娘の無学(アパイデイア)という2人のニンフが乳母として自分を育ててくれたと語ります。2人はいまでも自分の仲間・おつきのものだと言い、自分の周囲にいる側近たちを紹介しはじめます。〔8〕

 彼女が紹介したのは「ウヌボレ」(ピラウティア)、「追従」(コラキア)、「忘却」(レテ)、「怠惰」(ミソポニア)、「快楽」(ヘドネ)、「無思慮」(アノイア)、「逸楽」(トリュペ)という女神たちと、「オ祭リ騒ギ」(コモス)、「熟睡」(ネグレトス・ヒュプノス)という男神です。「これらの忠実なしもべたちの手を借りて、私は世のなべてのものを思うがままに支配し、帝王たちにさえも号令を下すのです。」(31ページ) 〔9〕

 いやしくも女神と名乗っているからには、それだけの力があるはずなので、次に女神は自分の恩沢、権能がどのようなもので、どの程度広がっているかを語りはじめます。「神の本領は人間に助力することにあり」(32ページ)といった人がいる(プリニウスだそうである)そうだが、人間にいろいろなものを与えているという点で彼女に勝る存在はいないといいます。 〔10〕

 キリスト教の信者の間で、異教の神々の話をしているのですから、ここで語られていることは、すべて虚偽であるという前提があります。でも、読んでいて、そうとは取れない箇所が見つかります。エラスムスが痴愚女神の言葉を借りて、自分自身について語っているのではないかと思われる個所もいくつかありました。しかしそれは、こちらが勝手にそう思っているだけかもしれないというので判断に苦しむところです。作者の真意がどこにあるのか、本当につかみにくい書物です。次回から、痴愚の女神が自分自身のありがたみを物語る箇所に入ります。どのような自賛が展開されることになりますやら、それは読んでのお楽しみといたします。
 〔なお、本文中、「プリニウス」という固有名詞が何度か出てきますが、これは『博物誌』を書いた大プリニウスの方です。間違える方もいらっしゃらないと思いますが、念のため。〕 

『太平記』(192)

1月9日(火)朝のうちは雨が残っていたが、次第に晴れ間が広がり、気温も上がる。

 建武3年(南朝延元元年、1336)、京都に還幸しようとした後醍醐天皇は、新田一族の堀口貞満の諫めに会い、自身は京都に戻るものの、東宮である恒良親王に譲位され、義貞とともに宮方に心を寄せる武士たちを頼って北国に向かい、そこで再起を期すように命じられた。10月10日、京都に戻られた天皇は直義に迎えられ、花山院に幽閉された。その際、神器を渡すように迫られ、偽の神器を渡した。北国に向かった義貞軍は木目峠で多くの凍死者を出したが、13日、敦賀の金ヶ崎城に入った。義貞の弟である脇屋義助と義貞の長男の義顕は南越前の杣山へ行き、瓜生保に援軍を求めたが、保は偽の綸旨に騙されて足利方となり、2人は引き返さざるを得なくなった。保の弟の義鑑房は、義助の子義治を大将として預かり、再起の機会をうかがうことにした。金ヶ崎を発つ時に3千余騎を数えた義助・義顕の兵は16人まで減っていたが、計略を用いて金ヶ崎城を包囲していた足利方の大軍を追い散らし、城に戻ることができた。

 杣山から引き返してきた16騎に欺かれて、金ヶ崎城を包囲していた軍勢が四方に逃げ散ったという噂が、京都にまで伝わり、尊氏は大いに怒り、直ちに大軍を向かわせた。
 越前の守護で足利一族の(斯波)尾張守高経は、北陸道の軍勢5千余騎を率いて、蕪木(かぶらぎ、福井県南条郡南越前町甲楽城(かぶらぎ))から金ヶ崎へと向かった。丹波守護で足利一族の仁木伊賀守頼章は、丹波、美作の軍勢1千余騎を率いて、(近江)塩津から向かった。但馬守護で足利一族の今川駿河守頼貞は、但馬、若狭の軍勢700余騎を率いて、小浜から向かった。〔頼貞は今川貞世=了俊の従兄である。〕 丹後守護の荒川三河守詮頼は、丹後の軍勢800余騎を率いて、疋壇(ひきた=敦賀市疋田)から向かう。阿波守護の細川源蔵人頼春は四国の軍勢2万余騎を率いて東近江から向かい、高越後守師泰は、美濃、尾張、遠江の軍勢6千余騎を率いて、荒血(あらち、愛発とも書く。滋賀県高島市マキノ町海津から敦賀市に抜ける峠)の中山から向かう。小笠原信濃守貞宗は信濃国の軍勢5千余騎を率いて、新道(福井県南条郡南越前町新道)から向かう。出雲守護である佐々木塩冶判官高貞は出雲、伯耆の軍勢3千余騎を集めて、兵船700余艘に乗って、海上から攻め寄せる。
 足利勢は合わせて4万余騎、山中には武士たちの詰め所を作り並べ、海には舟筏を汲んで並べ、金ヶ崎城の四方を厳重に囲み、ほんのわずかの隙間もない様子であった。

 金ヶ崎城はというと、三方は海に面して海岸は高く、岩は滑りやすかった。南東の方角には山があって、城よりも少し高く、寄せ手は山から城の中を眼下に見下ろすことができたが、崖は絶壁となり、その下の地面は低くなっていて、近づいてみると、城郭は雲の上かと思うような高さに見え、山から城にめがけて矢を射ても、非常に高い谷の底に落ちる。したがってどんな計略を用いて攻めても、切り立った崖の辺まで近づくすべもなかった。
 城内に立て籠もっている軍勢は小勢ではあったが、名将新田義貞とその一族が自分たちの総力を結集して籠城作戦を続けていた。一方、寄せ手は大勢で、しかも足利尊氏の一族がその力を誇示しながら向かってきたので、新田足利両家の争いは、この城の攻防戦にかかっていると、それぞれ気を引き締め、工夫を凝らし、戦いを休むことなく、矢に当たって傷を折ったり、石に討たれて骨を砕くものなど、日々ごとに選任、2千人を数えた。しかしそのような激闘を続けても、足利方は新田方の逆茂木(棘のある木でつくった防御の柵)の1本さえも破ることはできなかった。

 この様子を見て、小笠原信濃守は、屈強の兵800人を選んで、東の山の麓から、東南の角の尾根を横切って、楯をかざし並べて、登っていった。確かにこれは攻め破られそうな場所であったようで、城中の兵が300余人、二の木戸を開いて、同時に打って出てきた。両方の距離が縮まると、矢を留めて太刀戦になり、防ぐ新田方の兵は、ここで退却するとそのまま城中に相手が乱入すると危惧して、一歩も退かず戦う。足利方の兵はみっともなく退却してしまうと、敵味方の兵に笑われてしまうので、そうはさせまいと命を捨てて攻めかかる。

 城中の新田方の兵はさすがに小勢であったので、戦いの疲れの色が見え始めたところに、仮名が先入城の際に明暗を思いついた栗生左衛門が、緋縅の鎧に、龍の頭を前立て物にした兜を夕日に輝かし、6尺3寸の太刀に、柏木の棒の八角に削った1丈2,3尺(エメートル60-90センチ)あろうかと思う得物を振り回して、大勢の中に走りこみ、片手うちに散々に打って回った。それで寄せ手の足利方の兵、4,50人が振り飛ばされたり、なぎ倒されたりして、砂の上に倒れ伏し、目や鼻から血を流す。後に続く兵たちがこれを見て、浮足立ってないうち際に立ちどまっていたところへ、気比神宮の神官である気比弥三郎太夫の長男の太郎、上野の武士矢島七郎らがぬかりなく打ちかかってきたので、叶わないと思ったのだろうか、小笠原の率いる800余騎の兵は、一度にばっと退却し、元の陣へと帰ったのであった。

 この戦闘の様子を見ていた今川頼貞は、今日の合戦での敵方の戦いぶりは、攻め破られそうな場所であるからこそ、勝負の分け目であるとして城から出てきてたたかったのであろう。しかし、こちらは陸地から攻め寄せたので、足場が悪く、敵に追い払われてしまった。一つ、舟に乗って押し寄せて、攻撃してみようと考えて、小舟100余艘にとり乗って、前日に小笠原が攻めた海岸付近から上陸した。浜に寄せると同時に、鹿垣を一重破壊し、やがて、城の出し塀の下にとりつこうとしたとき、また常駐から全身を鎧で包んだ兵200よんが、一斉に刀を抜いて出てきたので、寄せ手も踏みとどまって、力戦したのであるが、城から出てきた方の武勇が勝り、しゃにむに進んできたので、寄せ手500余人は、追い落とされて、われ先に船に乗り込んで逃げようとした。

 遙に船を出して後をふりかえると、中村六郎という武士が、負傷して舟に乗り遅れ、磯の松の陰に隠れて太刀を杖代わりについて、「その舟戻ってこい」と招くのだが、あれやあれやとばかり声をあげるものの、助けようとする者はいなかった。ここに播磨国の住人野中八郎貞国という武士が、これを見て、「(中村が逃げ遅れたのを)知らずにいたのなら仕方ないが、味方の兵が舟に乗り遅れて、敵に討たれようとしているのを目の前に見ながら、助けないということがあっていいわけはない。舟をこぎ返せ。中村を助けよう」といったのだが、誰も耳を貸そうとしない。
 貞国は大いに怒って、自分が乗っていた舟の櫓を奪って、逆櫓(舟の舳先に櫓を立てて逆向きに漕ぐこと)にして舟を押し返し、遠浅のところから膿に入って、ただ一人中村が前に歩いていく。城の兵たちは、これを見て、「けがをして逃げ遅れているものは、おそらくは名のある武士であるからこそ、これを戦死させまいと、はるか遠くまで退却した敵が、また引き返して戦うのだろう。首をとれ」と、12・3人ほどの武士が中村の後ろに走りかかる。
 貞国は少しも騒がず、長刀の柄の先端部分を持ち長く使って、向かってきた敵1人両ひざを薙いで斬り据え、その首をとって長刀の切先に突き刺し、中村を肩に担いで、しずかに舟に乗った。敵も味方もこれを見て、「あはれ、剛の者や」と口々にほめたたえたのであった。

 その後は、寄せ手は大勢ではあるが、新田方の防備が固いので、攻めあぐね、こちらも逆茂木を引き、敵城に向かい合って作る櫓を高く築き、ただ徒に遠くから矢を射かけるだけの戦をして日々を過ごしたのであった。

 ずいぶん長く、内容も多岐にわたっていた第17巻であるが、ここであっけなく終わる。今回紹介した個所は、最後の野中八郎の活躍のように軍記物語らしい描写がふんだんに出てきて、あまり有名な箇所とは言えないのだが、結構読んでいて面白かった。
 

服部英雄『蒙古襲来と神風』(4)

1月8日(月)曇り、午後になって雨が降りはじめる

 1931(昭和6)年に東大教授であった東洋史家の池内宏が発表した『元寇の新研究』は、2度にわたる蒙古襲来、すなわち文永の役(1274)と弘安の役(1281)の2回ともに、「神風」が吹いて戦闘は短期に決着、蒙古軍は壊滅・退却したと述べて、その影響は今日まで及んでいる。そして日本は神の国であり、危機に陥った時には神風が吹くという非科学的な歴史観が国民によって支持され、戦争の終結を遅らせさえしたのであった。
 この書物は日本・中国・韓国に残された多くの史料を読むことで、この合戦の真相を国際的な文脈を踏まえて明らかにし、後半ではとりわけ貴重な史料である『蒙古襲来絵詞』の分析を行う。

 第1章 日宋貿易とクビライの構想
 文永の役の時点で、元は南方の宋を倒すことをその至上課題としていた。その宋に対して日本は火薬の原料となる硫黄を輸出し続けていた。このため、硫黄の直接調達を目指して襲来したのである。
 第2章 文永の役の推移
 蒙古軍(その主力は高麗軍)は対馬、壱岐を制圧し、九州北部に攻め寄せたが、陸上に拠点を築くことができず、10月24日には大宰府付近まで攻め寄せたが、日本側の抵抗で決定的な勝利を挙げることができず、悪天候を理由として撤退を決めた。嵐が吹いたことは事実と考えられるが、いつのことかをはっきり示す史料はない。
 第3章 弘安の役の推移
 蒙古軍は東路軍(高麗軍と江南軍(旧南宋軍)の2手に分れて来襲、先着した東路軍は志賀島に拠点を築き、戦闘を続けた。江南軍は五島列島から九州北岸へ向かい、閏7月1日(減暦では鷹島沖で台風に遭遇した。東路軍、日本軍も台風の被害を受けたが、江南軍の被害が最も大きかった。しかし、その後も戦闘は続き、7月5日、あるいは7日の海戦は激戦であったが、最終的に蒙古軍は撤退することになった。
 第4章 竹崎季長の背景
 『蒙古襲来絵詞』の発注者である竹崎季長は長門の国竹崎を本貫とし、肥後に移住した武士で、肥後の豪族である菊池氏と同族であり、菊池氏を介して金沢北条氏、また当時の幕府の有力者であった安達泰盛との結びつきをもっていた。高価な絵巻物を作成できるだけの財力を得たのは、日宋貿易を通じてのことであったと考えられる。〔以上前回まで〕

 第5章 『蒙古襲来絵詞』をよむ
 『蒙古襲来絵詞』は天草大矢野家に伝来し、1890(明治23)年宮内省に納められ、皇室財産(御物)となった。現在では宮内庁三の丸尚蔵館所蔵品である。〔三の丸尚蔵館には何度も出かけたが、『蒙古襲来絵詞』を見たかどうかの記憶は定かではない。その当時の関心から、『北野天神縁起絵巻』が複数あることに感心して、そのほかの展示物が記憶に残らなかったようである。〕
 竹崎季長は、文永11年10月20日の戦闘に参加して、重傷を負い、その後の合戦には参加できなかったので、『絵詞』にこの1日のことしか描かれていないが、2巻からなる『絵詞』の前巻の大半がこの戦闘の様子を描くものである。

 現状の『絵詞』は本来の姿ではなく、かなりの部分が失われたり、錯簡があったりする。その大部分が失われた元の『絵詞』の最初の方の詞書(絵の方は大部分が残っている)では、季長が箱崎から博多に向かう場面が記述されていたものと考えられる。騎馬で戦闘へと赴く武者たちを描いた絵から、竹崎季長は姉婿である三井資長の武士団の一員として参加しているという実態が推測できる。
 次に博多沖の浜で少弐景資の陣所で景資と対面する。季長は親族の江田秀家と行動をともにするつもりで、互いに戦功の上人になるときの便宜を考えて、兜の交換をしていたが、肥後の武士の中で真っ先に手柄をあげようと景資の率いる部隊から離れる決断をする。長門の武士である(九州の武士ではない)三井資長は遊軍的存在なので、その配下に入れば、少弐景資の軍命に従わなくてもよいという判断もあったのだろうと考えられるが、季長は自分の行動について釈明し、景資の了解を得たようである。景資は『絵詞』作成時には戦死していたが、『絵詞』を描いた絵師は死後に残された虎の皮の豪華な馬具足を自分の眼で見て、それを『絵詞』に描きこんでいる。
 景資との対面および釈明を終えて、季長は赤坂鳥飼方面に向かう。その道で戦果を挙げて戻ってきた菊池武房の配下の百余騎とすれ違う。2人は初対面であったので、互いに名乗りあう。『絵詞』では武房は最大限に賞賛されている。
 赤坂鳥飼浜における季長と蒙古兵の至近戦は『絵詞』の最大のハイライトである。この場面は異時同図法で描かれており、季長が蒙古兵を追い散らそうとしたが、踏みとどまって戦おうとした蒙古兵がいて、その目を季長は射る、ところがその後、至近の距離に3人の蒙古兵が現われ、音を嫌う馬がてつはう(鉄砲)の破裂に驚いて暴れ出したこともあり、季長は危地に陥る。そこを救出したのが、直後にいた肥後国御家人白石一族の百余騎の軍勢であった。

 前回(12月22日)から間隔が空いてしまったので、これまでの部分の紹介の量が多くなり、バランスの悪い構成になったがご容赦のほどをお願いする。また、『絵詞』の元の姿を復元しながら、それぞれの場面を説明していくのは難しい作業であり、このあたりの記述をわかりにくくしている。まあ、自分の理解できたかぎりで論旨を伝えようとしたつもりであるが、読み間違えた個所もあるかもしれない。次回は、『絵詞』がとらえた弘安の役の推移を辿ることにする。 

日記抄(1月1日~7日)

1月7日(日)晴れ、バスの車窓から富士山が見えた。

2017年のまとめ(その1)
 生活していた、あるいは出かけた都県:東京都、神奈川県(1都1県→2)
 生活していた、あるいは出かけた市(特別)区:横浜市、川崎市、平塚市、千代田区、港区、品川区、渋谷区、新宿区、豊島区、文京区、杉並区(3市8区→11){13}

 利用した鉄道会社:東急、東京メトロ、JR東日本、横浜市営地下鉄、東京都営地下鉄、京急(6社)
 利用した鉄道路線:東急東横線、目黒線、大井町線/東京メトロ半蔵門線、南北線、副都心線、丸ノ内線/JR東日本山手線、東海道線、中央・総武線/横浜市営地下鉄ブルーライン/東京都営地下鉄三田線、新宿線/京急本線(14路線)
 乗り降りした駅:横浜、武蔵小杉、神保町、渋谷、白金台、目黒、新宿、新宿3丁目、新大塚、伊勢佐木長者町、上大岡、坂東橋、新横浜、反町、御成門、桜木町、関内、市ヶ谷、平塚、神奈川新町、表参道、本駒込、阿佐ヶ谷(23駅){43}

 利用したバス会社:横浜市営、川崎市営、東急、神奈川中央交通、相鉄、京急(6社)
 利用したバスの路線:横浜市営24,25,34,35,36,39,44,87,102,202/川崎市営杉44/東急溝02、市03/神奈中1、横44,11、横43,5、BMVシャトルバス/相鉄浜1、浜5、浜7、浜11、浜13/京急110(15路線)
 乗り降りした停留所は28か所である。{49}〔105〕

 前回の記事の訂正
 NHKラジオ『まいにちイタリア語』応用編「原文で読む古典の楽しみ」で取り上げられたアリオストの『狂乱のオルランド』で、海獣の生贄になろうとしたアンジェリカを救出するのはオルランドではなく、ルッジェーロであった。助けられたアンジェリカは、ルッジェーロの魔法の指輪を盗んで逃げてしまう。ギリシア神話のペルセウスとアンドロメダの話を皮肉な形に修正している。

 補遺・補足
 アリ・ブランドン『書店猫ハムレットのうたた寝』では夾竹桃の毒が使われている。アガサ・クリスティーが『ポケットにライ麦を』でイチイの実の毒を使ったのは、ドイルの『バスカヴィル家の犬』のバスカヴィル家の屋敷にイチイの並木があるという箇所が有効な設定になっていないことへの批評ではないかと思う。身近なところにある毒といえば、バーベキューの際に夾竹桃の枝を燃やして中毒をしたという話があるそうで、その夾竹桃を使った例に出会ったわけである。

12月31日
 柳川範之『東大教授が教える 独学勉強法』(草思社文庫)を読み終える。著者は大検取得、通信教育で大学教育を受けて、大学院を修了。現在は東大教授である。「これからは、自分の頭で考え、自分自身で判断する力をつけるための勉強が求められる時代になるのです。そして、そのための有効な手段の一つが「独学」だとわたしは思っています。」(22ページ)と著者は言う。賛成できる主張が多いのだが、具体的にどうするかについて触れている部分はあまり多くないように思われる。そこは自分で工夫すべきだということかもしれない。

1月1日
 『朝日』の朝刊によると、マケドニアが国名を変更することでこれまでこじれていたギリシアとの関係を修復し、NATOとEUへの加盟を目指すそうである。古代のマケドニアは現在のマケドニアとギリシアの両方にまたがる範囲にわたっており、その一方だけの国名としては承認できないというのがギリシア側の主張であった。さて、どんな国名を選ぶのだろうか。

 サッカーの天皇杯は延長戦の末、セレッソ大阪が2-1で横浜Fマリノスを破って日本一に輝いた。

1月2日
 ニッパツ三ツ沢球技場で第96回全国高校サッカー選手権大会の2回戦2試合を観戦した。第1試合は鳥取県代表の米子北高校が序盤に城市選手のミドルシュートで挙げた1点を守って、宮城県代表の仙台育英高校を破った。あまり目立った選手はいないが、パスを確実につないで攻め込み、攻め込まれると2対1,3対1で防御する米子北の試合ぶりは好感が持てた。1回戦でハットトリックを記録した仙台の佐藤選手の動きが封じられていたのも、そうした米子の試合運びのためであろう。
 第2試合は和歌山県代表の初芝橋本高校と群馬県代表の前橋育英高校の対戦で、前半は前橋の1点リードで終わったが、後半になると、差が開き、0-5で前橋育英が勝利した。5点中4点をあげた前橋の飯島選手の活躍が光った。

1月3日
 等々力球技場で全国サッカー選手権大会の3回戦2試合を観戦した。はじめメイン・スタンドで観戦したのだが、第1試合の後半からバック・スタンドに移動した。風が強く、冷たく、日当たりのいいバック・スタンドの方が居心地がよかったからである。第1試合奈良県代表の一条高校対米子北高校は、前半は0-0だったが、後半になって米子が3点をとって、0-3で快勝した。試合展開の変化は、風向きとも関係していたような気がする。第2試合の富山第一と前橋育英の対戦は、前橋が押し気味ながら、なかなか点が取れず、後半のロスタイムになってようやく飯島選手のゴールで試合が決した。試合後の監督の談話を聞いていると、これから勝ち進むために攻撃のパターンを変えて、飯島選手に頼りすぎないようにしているのではないかという印象を受けた。

1月4日
 『朝日』の朝刊に西村久美子さんという44歳・保育士の女性による「おいでませ 海の幸と歴史の宝庫」という故郷山口県を紹介する投書が掲載されていて「県外の友達には、私の話し方が高橋留美子さんの人気漫画『うる星やつら』に出てくるラムちゃんに似てるって言われるっちゃ。うちらの方が昔から言いよったけどね」と記されていた。高橋留美子さんは新潟の人で、ラムちゃんの話し方は、佐渡の方言がヒントになっているようである。山口と佐渡の話し方が似ているということになると、柳田国男の言語周圏説を裏付ける例になりそうだと思った。

1月5日
 これまで気づかなかったのだが、『日経』の「私の履歴書」は、横浜出身の女優である草笛光子さんの思い出の連載を始めていた。草笛さんが横浜平沼高女の出身であることは知っていたが、入学前後の話や、草笛さんの母堂が開いたバーに松竹の助監督時代の大島渚、高橋治がよくやってきていたという話などは興味深かった。高橋による小津安二郎の評伝『絢爛たる影絵』は、小津だけでなく、松竹ヌーヴェル・ヴァーグの発足に至る事情について知るのにも役立つ書物であるが、その中に、高橋、大島、吉田喜重、田村孟らの助監督が『七人』というシナリオ同人雑誌を創刊した際に、草笛光子さんのマネージャーの世話になったという記述があり、その裏付けとなる発言である。

1月6日
 午前0:54頃に地震があった。朝刊では震度4ということであったが、私の体感では震度3程度に思えた。

 『日経』を読むことができず、草笛さんの「履歴書」を目にすることができなかったが、SKD入団前後の事情が語られていたはずである。

 NHKラジオ「朗読の時間」で夏目漱石の「永日小品」と「文鳥」が取り上げられた。「永日小品」の中には英国留学中の経験に基づく作品が含まれていて、彼が留学していた時代にはロンドンの霧が深かったことを知ることができる。「霧の都」といわれたロンドンであるが、現在は大したことはないのである。ブッツァーティの作品を思わせるような不気味な短編もあり、漱石という作家が持っていた可能性の多様さを改めて感じた。

1月7日
 プロ野球の中日で投手として活躍され、その後、中日、阪神、楽天の監督として3球団での優勝を達成された星野仙一さんが亡くなられたことが分かった。指導者としての星野さんの偉いところは、シーズン前のキャンプで怪我対策を十分にほどこされていたことではないかと思っている。ご冥福を祈る。

 草笛光子さんの「私の履歴書」はSKDで頭角を現し、ラジオの音楽番組で越路吹雪の後を受けて森繁久彌の相手役に抜擢され、さらに映画界から誘いを受けて、川島雄三監督の『純潔革命』でデビューしたことなどが語られていた。

 網野善彦 鶴見俊輔『歴史の話 日本史を問い直す』(朝日文庫)を読み終える。2004年に朝日新聞社から単行本として刊行された時も読んだはずであるが、読み直してみて、新しい発見に富んでいる。

 『朝日』の「首相動静」欄によると、安倍首相は元日に夫人や実弟である岸俊夫衆院議員と『オリエント急行殺人事件』を観賞したようである。私はまだ見ていないので、何とか見てやろうと思っている。 

小川剛生『兼好法師』(5)

1月6日(土)晴れ

 『徒然草』の著者は、風巻景次郎以来の通説にいうように六位の蔵人から左兵衛佐となり、清華家である堀川家の家司となり、同家を外戚とする後二条天皇に五位の蔵人として仕え、天皇の崩御の後、出家して隠者となったという伝記は後世の作り話であり、同時代の史料に即してより信憑性の高い著者像を構築すべきであるというのが小川さんの立場である。
 小川さんは金沢文庫に残された大量の文書の分析を通じて、『徒然草』の著者が俗名を卜部兼好といい、「四郎太郎」とも通称された侍で、父親の代から金沢流北条氏に仕え、京都と鎌倉・金沢(横浜市金沢区)の間を往復していたが、主君である金沢貞顕が延慶3年(1310)に六波羅探題北方に就任した前後から京都に定住し、身分秩序の制約から脱するために出家したと論じている。
 京都に定住した兼好は六波羅探題の配下として活動し、土地売買など経済活動にもかかわったが、やがて自分の土地を後宇多天皇が庇護されていた寺院に寄進したことから、後宇多院の目に留まって歌壇デビューを果たすことになる。そして、生活の拠点を六波羅から、仁和寺の周辺に移し、金沢流北条氏と堀川家の接近により、堀川家との結びつきを強めた。
 以上のことから、兼好は蔵人としてではなく、裹頭(かとう=頭巾などをかぶり眼だけを出す姿)となって内裏に出入りする者の一人であったと小川さんは論じている。したがって、『徒然草』の中の宮廷の内部についての記述は、廷臣としての彼の経験に基づくものではなく、別の性格を持っているというのである。

 兼好の公家社会とのかかわりについて、彼が廷臣であったという事実はないので、別の理由を求める必要が生じる。そこで注目されるのが、検非違使庁(当時は使庁と略称した)とのかかわりである。
 使庁は洛中、つまり市内の警察や治安維持にあたる役所で、平安時代初期に設置された臨時の職(令外官)であったが、早い時期から追捕・糾弾・罪状認定など司法全般にわたる権限を持つようになった。武家政権の力が拡大し、朝廷が京都とその周辺を地盤とした、使庁以下幾つかの現業官司からなる公家政権へと変質する中で、その権能も検非違使庁に集約された形となる。市内の治安観察、公家の監視を主な職務とする六波羅探題府が設置されると、次第にその権限を譲るようになったとはいえ、南北朝時代後期までその実質を保っていた。その理由は、使庁が京都市中の行政権を掌握していたことに求められる。「とくに人口稠密な上京では、条坊の内部がさらに小路辻子で分割され、巷所(こうしょ)と呼ばれる宅地農地があちこちに出現、地子(地代)が大きな財源となった。そこは「保(ほ)」と呼ばれる十二の行政単位で区切られており、それぞれに保官人と呼ばれる検非違使が置かれ、治安維持のほか地子の徴収に当たった。」(117ページ) このように、公家政権を支えていたのは商工業者への課税であった。探題府に刑事的側面を譲っても、民事的側面は依然として使庁の掌握するところであった。「さらに近年の研究では、使庁は朝廷の祭祀・儀礼では会場の設営をはじめ、周辺道路の整備清掃を担当し、また都市にはつきものの貧民救恤にも当たった。洛中住民にとって使庁は最も身近な官庁であった。」(118ページ)

 それでは検非違使庁はどのような職員から構成されていたのであろうか。検非違使は、衛門府(都のさまざまな門の出入りを管理した役所)の職員から抜擢され、検非違使宣旨を受けたもので組織される。律令制のもとで各官司の幹部職員は、長官(かみ)、次官(すけ)、判官(じょう)、主典(さかん)からなる四等官制を敷いていた(役所により文字は異なり、例えば衛門府では督・佐・尉・史となる)。さらにその下に史生(ししょう)ないし府生(ふしょう)と呼ばれる書記役が置かれる。
 検非違使庁の長官である別当は、衛門府の長官である衛門督が兼ねるが、鎌倉時代中期の『検非違使補任』という職員録によると、20年足らずの間に14人が就任している。これは名門出身の上級貴族が参議から中納言以上に昇進する際に別当の経歴が考慮されたためで、その地位はかなり名目的である場合が少なくなかった。とはいえ、行政能力を発揮した別当もいて、後醍醐天皇の下で日野資朝や北畠親房らがこの職に据えられたのも使庁を確実に掌握しようという意図であろう。〔と、小川さんは論じているが、『太平記』その他の文献を読んでいると、北畠親房は後醍醐天皇の腹心とは言えず、彼が活躍するのは後村上天皇の時代になってからではないかという気もする。なお、日野家も北畠家もその家格は名家であって、検非違使別当への就任は大抜擢に相当することは間違いない。〕

 別当が実務に臨まない場合には、次官である衛門佐が検非違使の宣旨を受けて使庁を統括した。左右2名が定員で、この職は五位蔵人と弁官を兼ね、勧修寺(かじゅうじ)流・日野流の名家の実務をする公卿が担った。名家というのは公卿の家柄の1つで、羽林家の下、諸大夫家の上に位置し、大納言まで昇ることができた。勧修寺流、日野流については、最近出版された倉本一宏『藤原氏』(中公新書)にある程度説明されているので、興味のある方はそちらをご覧ください。

 その次の尉がいわゆる検非違使として、古典文学に最もよく登場する人々である。定員は定まらない。大別して2種あり、1つは明法道≂法律学を修めた法曹の人々、もう一つは名誉を求めて任じられる武士。後者でもっとも有名なのが源義経で、後世判官といえば義経というほどになった。小川さんは「義経はこの名誉が害をなしたが」(119ページ)と書いているが、頼朝が怒ったのは①自分に断りなく任官したこと、②検非違使尉に任じられたのは、源氏一門にとって義経が思っているほどの名誉ではないことの2つの理由からではないかと思う。小川さんが書いているように、その後、鎌倉幕府の御家人たちはこの検非違使の位を強く望み、とくに検非違使尉のまま五位に叙される、いわゆる「大夫尉(大夫判官)」は最大の名誉であった。『太平記』第17巻に登場する越前の武士で嵯峨源氏の瓜生保は「判官」であり、義経とは時代が違うが、このクラスの武士が検非違使尉になっているという参考にはなるだろう。
 小川さんが『検非違使補任』を調べた限りで、尉に任官したものは94人であり、うち明法道の専門家であった中原氏が29人、惟宗氏が6人を占める。使庁の運営は実質上この中原氏の手中にあったといえると述べている。そういえば、『平家物語』に登場し、俊寛らと喜界が島に流され(て、その後帰ってく)る平康頼も実は中原氏の出身で検非違使尉の経験者であった。

 四等官の志にはもっぱら明法道出身者が任じられる。「法家の検非違使」「道の検非違使」と呼ばれ、『徒然草』221段に登場する「道志」がこれである。『検非違使補任』を見ると、やはりその多くが中原氏である。
 府生は公家社会では最下層の侍品に属する人々が任じられ、使宣旨を受けた。『検非違使補任』では府生が8人確認され、紀氏1、三宅氏2、大江氏2、中原氏3であり、源平藤橘の四姓は含まれないという〔この時代だと、橘氏は没落しているのでいてもいいじゃないかと思うのだが、たぶん、排除されていたのであろう〕。

 検非違使庁は「祭」つまり賀茂祭で最も目立った役割を演じる存在でもあった。四月の中の酉の日、宮中の儀を終えた勅使一行が都大路を渡る路頭の儀は、都の住民にとって最大の娯楽であった。鎌倉時代にはその規模は縮小していたが、行列の先頭に立つ検非違使だけはその人数を減らさず、全員が参加し、それぞれが華美な装いを競った。朝廷は何度もその贅沢を禁じたが効果はなかったという。一方鎌倉幕府は検非違使尉になった御家人たちに祭への参加を命じていたので、この地位に就いた御家人たちは張り切って練り歩いていたのである。『徒然草』137段・221段で兼好は祭りを描写する一方で、検非違使庁の行列の様子が昔はもっと趣と気品に満ちたものであったと慨嘆しているが、時代の趨勢は彼の感慨とは別のところにあったのである。

 今回は検非違使庁とその職員について触れた個所の説明になってしまった。使庁などの官衙(役所)の3・4等官を構成する官人と呼ばれた人々と兼好はつながりを持ち、彼自身が検非違使庁の仕事に何らかの形で参画していたのではないかという小川さんの推論は次回に紹介することにする。

前田速夫『「新しき村」の百年 <愚者の園>の真実』(6)

1月5日(金)曇り、寒い

 「新しき村」は1918年(大正7)に武者小路実篤の主唱により、日向=宮崎県児湯郡木城村大字石河内字城において発足し、その後1939年(昭和14)にその主力が埼玉県入間郡毛呂山町葛貫に移転し、今日に至っている生活共同体である。「村」は、文学・美術に『白樺』派の理想主義・個人主義的な思想を基盤に、「米騒動」に代表される当時の社会不安に対応する社会改造の試みであり、共同の生産的労働と余暇における自由で個性的な創造活動とをその生活の基本としていた。しかし、生活のための労働と創造活動のどちらを重視するかで、当初から構成員の間に対立があり、その運営は困難を極めた。さらに1925年(大正14)には武者小路が離村したために、会員の大幅な減少があったが、少しずつ自立の見通しが立ち始めた時に、県営ダム工事のために村の土地の3分の1が水没することになり、移転を余儀なくされる。埼玉県に移ったことで「村」の規模は大きく縮小したが、首都圏に住む村外会員の支援を受けやすいという利点も生まれた。1942年(昭和17)には神田神保町に「村」のアンテナ・ショップであり、会員の集会場でもある新村堂が開設された。

 埼玉県に「村」ができた2年後に太平洋戦争が始まる。個の尊重と人類の平和を解いてきた武者小路が、ここで戦争を支持しただけでなく、協力する活動を行ったことについて、その後強い批判が寄せられてきた。日中戦争がはじまった1937年にすでに「新しき村の精神」から「国と国との争い、階級と階級の争いをせずに」の部分が削除されており、平和主義を掲げてきた武者小路ではあったが、戦争支持へと傾斜していく素地は作られていた。『大東亜戦争私感』(1942)では戦争を積極的に賛美している。この点について、著者は「日本の大陸進出を警戒して、英米が包囲網を狭め、権益を主張して圧迫を加え、屈従を強いるにつれ、がまんできなくなった。欧米旅行の折、白人から露骨に差別的な視線を向けらえたことも、根っこにあったかもしれない」(94ページ)と彼の心情を推測している。〔ただし、ここで、日本によって「解放」されるはずのアジアの民衆に対する視点が欠けていることも指摘しておく必要があるだろう。実際問題として「大陸への進出」は「中国への侵略」さらには「中国民衆への抑圧」に他ならなかったのだから、この点は重要である。〕
 とはいえ、「あくまでも自分の気持に忠実であること。タテマエや理念、論理的整合性は二の次。つまり、ここでも彼は、表面は「お目出たき人」「世間知らず」をとしたのだ」(同上)という指摘は的を射たものであると思われる。さらに著者は、戦後、さすがにきまり悪くなったのであろう戦後における武者小路の自己批判についても取り上げている。「今思えばわれながら愚かなことで、恥ずかしく思うが、当時一時的ではあるが、痛快を感じたのは事実だった。」(95ページに引用) 正直な感慨ではある。

 武者小路の戦後第1作は『近代文学』同人の批評家で、『白樺』派の研究者として知られる本多秋五が「一代の怪作」とあきれ返った「愚者の夢」という20年後の日本の姿を肯定的に描いた底抜けの楽天小説であった。ラストは、満80歳の誕生日に作者が朗読する自作の詩で結ばれており、なんと実篤はその詩をきっかり20年後、自分の80歳の誕生祝の席で、実際に朗読したのであった。こういう楽天性が、戦後における実篤の文学活動においても貫かれている。彼はまた、「マッカーサーに寄す」という文章では日本の社会と国民感情に根付いたものとして天皇制の維持を訴え、『新日本の建設』では戦後の日本の復興について明るい見通しを述べている。

 1946年(昭和21)7月に、武者小路は公職追放G項該当者に指名される。この年の3月に貴族院議員に勅選されていたのがたたったものと著者は考えているが、日本文学報告会劇文学部長を務めたなどの戦争中の言動も影響しているかもしれない。貴族院議員、芸術院会員を辞任し、しばらくおとなしくしていたが、1948年7月、志賀直哉、安倍能成、和辻哲郎、小泉信三らと雑誌『心』を創刊、文壇・画壇の有志を同人に「生成会」を発足させた。これは岩波の『世界』が左傾を強めていることに対して、右派系の知識人の糾合を図るもので、組織者としての武者小路の手腕が発揮された場面である。
 1949年(昭和24)に、この『心』に武者小路の戦後の代表作『真理先生』が連載される。作者の分身である登場人物たちが、浮世離れのしたやり取りを展開する中で、武者小路の人間肯定の精神が主張される。
 1951年(昭和26)に武者小路の公職追放が解除され、11月には文化勲章を受章する。どうも、かなりいい加減である。

 戦争が激化するにつれて交通が困難になり、1944年6月に「村へ行く会」が終わった。「村」に在住するのは1家だけであったが、戦後また新たに入村者が加わった。しかし、1946年の「村」の総収入2万8千円のうち、2万6千円が武者小路からの支援だったというから、経済的な困難が続いていたことは明らかである。1947年に、村に初めて電灯がつき、同年5月、上野の都美術館で第1回新しき村美術展が開催された。1948年は「新しき村」満30年であったが、この年、財団法人の認可を受ける。これは農地改革を見据えての措置であった。この年11月に「誕生30周年記念新しき村祭」が行われ、多くの有名人が賛助出演、神田共立講堂は満員の観客を集めた。

 以上、今回は「5 戦中戦後の実篤」の内容を取り上げた。平和主義を標榜してきた武者小路が戦争に協力したことは、彼の思想の気分中心・主観主義的な性格と、その問題点を浮き彫りにするものと受け取ってよかろう。武者小路ら『白樺』派の多くのメンバーの戦争協力に対して、永井荷風や谷崎潤一郎といった唯美主義的な作家たちが戦争には距離を置いたり、批判的な姿勢を示したことは記憶されていいことである。それから、武者小路の戦後の言動と関連して思い出したのだが、若いころに農務省の官僚として協同組合の組織を通じた農村の改革を目指した柳田国男が「新しき村」に対してどのような態度をとったのかも調べてみる必要がありそうである。伝統的な農村の外から、新しい農村を作って改革を行おうとするのと、農村の内部の組織を変えようとするのとでは、その手法の違いに対応した別種の困難があり、そのあたりがどのように認識されていたかに興味がある。

エラスムス『痴愚神礼賛』(2)

1月4日(木)晴れ、バスの車窓から見た富士山は山頂が雲に隠れていた。

 『痴愚神礼賛』はルネサンスを代表する人文主義者であったエラスムス(Erasmus, c1469-1536)が1509年ごろに書き下ろし、1511年に出版された風刺的な作品であり、彼の作品中最もよく読まれ、よく知られているものである。「デクラマティオ」(declamatio)と呼ばれる修辞学を学ぶ際に課される架空の練習弁舌の形をとり、痴愚の女神が自分自身を賞賛するという内容で、彼の時代の世相、とりわけ教会の状態を痛烈に批判している。とはいえ、痴愚の女神の弁舌ということで、これは馬鹿な冗談ですよという予防線が慎重に張られているのである。

 エラスムスはイングランドにおける友人であるトマス・モア(Thomas More, 1478-1535) にあてた書簡で、モアの名のラテン語形モルスがギリシア語のモーリア(痴愚)を連想させるといい、それをきっかけとしてこの作品が生まれたのだが、モア自身は非常に聡明な人物であることは言うまでもなく、それに加えて心が優しく、冗談を好む人なので、この冗談を受け入れてくれるだろうと書き記している。それだけでなく、手紙の最後の部分で、「およそ立派とはいいがたい訴訟でさえも、立派に弁護してのけられる、大兄のような卓越した弁護士に、なんだってかようなことを述べ立てる必要がありましょう。弁舌にこの上なく秀でたモア君、ではさようなら。力を尽くして、痴愚女神を弁護してやってください」(19ページ)と作品への賛同を呼び掛けている。

 ここで読み進む予定の中公文庫版の『痴愚神礼賛』の翻訳者である沓掛良彦さんも参考にしたと書いているベティ・ラディスによる英訳(Pelican Classics版)によると、手紙の最後の部分は
But why do I say all this to you, an advocate without peer for giving your best service to causes even when they are not the best? Farewall, learned More; be a stout champion to your namesake Folly.
(p.8, advocate は弁護士。ただし辞書によると、この言葉は主としてスコットランドで用いられているよし。イングランドではbarristerという。without peerは「並ぶもののない」、causeは訴訟、namesakeは「(ある人に)ちなんで名づけられた人」という意味で、「あなたにちなんで名づけられた痴愚女神を」ということになるが、沓掛さんの訳ではこれに相当する表現はない。訳出するとくどくなると思って沓掛さんが省いたのか、もともとなかったのをラディスが補って付け加えたのか、ラテン語原文が入手できないので、わからない。)

 ついでに、モアという人物についても少し説明しておこう。日本では『ユートピア』という書物の著者として知られているが、エラスムスが書いているように、彼は弁護士であり、後に大法官(最高司法官であり、上院議長を兼ねる)となるが、ヘンリーⅧ世が結婚問題に絡んで自分自身だけでなく、イングランドまでプロテスタントに転換させるという政策をとった時に反対して、結局、処刑されてしまう。その間の経緯はロバート・ボルトのThe Man for All Seasonsという戯曲に描かれている。この戯曲はフレッド・ジンネマン監督によって映画化され、わが国では『わが命尽きるとも』という題名で公開された。モアを演じたポール・スコーフィールドがアカデミー主演男優賞を受けたほか、数々の賞を受賞したが、映画の前半にオーソン・ウェルズが出演していたのが、いちばん記憶に残っている。話が横道にそれた。
 英国の弁護士には法廷弁護士barristerと事務弁護士solicitorの2種類があり、伝統的に法廷弁護士は弁護士役だけでなく、検事役や裁判官役も務めていた。「伝統的に」と書いたのは、最近の英国では司法改革が行われて、制度が変わったからであり、新しい制度については詳しいことは知らない(私は法律家ではないから、推理小説を読むのに十分な程度の法律的な知識しかもっていない)。

 さて、お待たせいたしました。いよいよ痴愚女神の登場です。申し遅れましたが、この作品の挿絵はデューラー、クラナッハと並ぶドイツ・ルネサンス期を代表する画家ハンス・ホルバインが担当しています。それをご覧になるとわかるのですが、どうも異様な姿です。沓掛訳の注を引用すると、「痴愚女神は中世以来の道化の印であるすずのついた阿呆の帽子をかぶり、道化の扮装をしている」(233ページ)ということです。

 彼女は自分が世間で悪く言われていることは承知しているが、それは不当な評価であり、「神々や人間たちの心を浮き立たせている」(20ページ)のはまさしく自分であるといいます。その証拠に、自分の弁論には多くの聴衆が集まっているというのです。痴愚こそが人々の心を明るくするというのですね。〔1〕

 次に彼女は自分が異様な格好で現れたことの理由を述べます。「みなさまの面前でほんのしばし、詭弁学者を演じてみたら面白かろうと思った次第でございます。」(22ページ) 
 「詭弁学者」と訳されているのは、英訳ではsophistですが、古代ギリシアのソフィストを思い浮かべているのではなくて、この時代の伝統的な知識と教授法とにしがみついている学校や大学の教師が念頭に置かれています。それは彼女自身の発言、「とはいっても、今日子供の頭に、重箱の隅をつつくような馬鹿げたことを叩き込んだり、女たちよりもしつこい口喧嘩のやり方を伝授しているような詭弁学者ではありません」(同上)からも明らかです。彼女は、こうした輩と自分は違うのだといいます。「賢者と呼ばれる不名誉を避けたいばかりに、むしろ詭弁学者と呼ばれることを望んだ、古人たちのひそみに倣おうというのです。」(同上) なんかひどく逆説的になってきました。こうした古人たちは、神々や英雄たちへの賞賛の言葉を綴ることに努力していました。ということで、彼女は自分自身を礼賛する演説を展開するのだと宣言します。ちょっと、議論が混乱しているのではないかという気がしなくもないのですが、まあ痴愚の女神の演説だから大目に見ることにしましょうか。 〔2〕

 「そもそも本当のところ、自分で自分を褒めるような人物を、大馬鹿者で傲慢無礼だと言い立てるような、あの賢人とかいう連中を、私は別に大したものと思ってはおりません。」(同上)と彼女は「賢人」たちを攻撃します。自分のことは自分が一番よく知っている、その自分が自分自身をほめることのどこが悪い?と逆襲します。
 それに、自分で自分を礼賛するという行為は「世の貴顕の方々や学識豊かな先生方がよくなさっていることに比べれば、はるかに謙虚なおこないだと存じます」(23ページ)と居直ります。これらの人々は仲間同士、「お友達同士」で褒めあって、自分たちの名声を維持しているのが真相だといいます。痴愚の女神は自分を誰も褒めてくれないので、「誰も褒めてくれる人がいないなら、自分で自分を褒めるのが当然」(24ページ)と言い切ります。
 その一方で、彼女は多くの人間が痴愚の恩恵を受けていながら、自分を称揚するものがいないことにあきれ果てているとも言います。賛辞を受けるに値しない人々や神々が美辞麗句を連ねた賛辞を受けていることを嘆き、だから即興で、思ったままをありのままに述べるが「それだけに真実味がこもっていようというものです」(同上)と自賛の言葉を続ける。〔エラスムスはほとんど自分の記憶力だけに頼って、さまざまな古典を引用しながら、この作品を書いています。〕 〔3〕

 痴愚女神が自賛の演説をするのを、自分の才知をひけらかすためのものだと誤解しては困るといいます。当時の弁論家の多くがしていたように、自分を定義するとか、分類するとかいう手続きは不要だとも言います。彼女は、ラテン語でStultitia、ギリシア語でMoriaという女神であると、改めて自己紹介をします。ご本人が、聴衆の前に姿を表して、そう言っているのだから、間違いはないというのです。自分は人々によいものをふんだんに与えている女神だといいます。 〔4〕

 彼女は自分の言葉に偽りはないと言います。見たまま、ありのままの存在だといいます。「私は顔を飾りたてたりしませんし、心に秘めたことと違うことを面にあらわすようなことはいたしません。」(26ページ) ありのままの正直な存在だといいます。それに引き換え、世の中の賢者といわれたがっている人々は、自分の本当の姿を隠すことに躍起になっているといって攻撃します。彼らこそ最も痴愚の女神の恩恵を被っているのに、そのことを否定する恩知らずな輩であると非難します。 〔5〕

 こうして、痴愚の女神の弁舌は続いていきます。彼女はこれまで自分を賞賛するものがいなかったといいますが、痴愚の女神という存在そのものが、エラスムスの創作で、ギリシア・ローマの神話にはそういう神様はいないのですから、仕方のないことではあります。嘘だ、冗談だ、あほな話だといいながら、ところどころに同時代の世相への鋭い批判が見え隠れしていることに気づかれた方も多いと思います。前回も書いたように、エラスムスの奔放自在な筆の運びは、どこまでが冗談で、どこまでが本気なのか、わからないところがあります。読みながら、ありのまま、正直というのは、もう少し後の時代のモンテーニュが大事にしようとした態度であることを思い浮かべていました。まじめすぎる感想でしょうか。
 

フローベール『感情教育』(4‐4)

1月3日(水)晴れ、東急東横線の車窓から富士山が見えた。

これまでのあらすじ
 1840年9月、大学入学を間近に控えた18歳の青年フレデリック・モローは、旅行から帰る途中にパリから乗り込んだセーヌ川を遡上する汽船の中で共和主義者の画商アルヌーとその美しい夫人と知り合い、夫人に恋心を抱く。没落しかけている旧家の跡継ぎであるフレデリックに母親をはじめ周囲の人々は大きな期待をかけているが、本人はアルヌー夫人への思慕の気持ちを募らせている。(1)
 フレデリックにはシャルル・デローリエという高校時代からの親友がいる。夢想家で芸術的な関心が強いフレデリックと、努力家で現実主義者だが喧嘩好きなデローリエとは性格だけでなく境遇も違うが、親友同士の2人は再会を喜ぶ。一足先に大学に入学したものの、学資を稼ぐために公証人の事務所で書記として働いているデローリエは、フレデリックに現実と妥協して、法律についての視覚だけは取っておくようにと忠告する。(2)
 フレデリックはパリに出て、地元の名士であるダンブルーズ氏を訪問したり、夫人との再会を期待してアルヌー氏を訪問したりするが、期待通りにはいかない。大学の法学部の講義に出席するが、あまり興味はわかず、芝居を見たり、小説を書いたりして過ごす。それでもまじめで保守的なマルチノン、絵が好きだが頭のよくない貴族のドゥ・シジー、共和主義者で数学の復習教師をしているセネカルといった友人ができる。どうやら試験に合格し、帰省する。「アルヌー夫人への激しい恋もそろそろ消えかけていた。」(44ページ)(3)
 1841年の12月、パリ市内で起きた暴動の際に警官ともみ合って逮捕された青年デュサルディエを助けようとしたことから、フレデリックは同じ学部の学生であるユソネと知り合い、彼が演劇や文学に関心を抱いていることを知って意気投合する。ユソネに連れられてアルヌーを訪問したフレデリックは、アルヌーの周囲にいる芸術家やジャーナリストたちとつきあうようになる。そしてアルヌーが感心できない仕事をしている一方で、アルヌー夫人が貞淑な女性であることを知って、改めてその恋心を募らせる。郷里からデローリエが上京してきたその日に、アルヌーから夕食に招待されたフレデリックは、ついに夫人と再会する。アルヌーにフレデリックを紹介された夫人は、彼のことをよく覚えていたと語る。(4)

 夕食の席での座談をフレデリックは楽しみながら聞いていたが、その間中、アルヌー夫人の方を見ていた。リキュールが出るころに、彼女は姿を消したが、それとともに座談の話題はひどく露骨になり、アルヌーが得意げに喋り捲った。「フレデリックはみんなの厚かましさに驚いた。そして、この人たちも女のことにこんなに関心があるんだと思うと、自分との間に一種の平等が出来て、これで自分が自己評価においてやや高まる感じがした。」(78ページ、あまりこなれた訳ではない!)

 またアルヌー夫人が姿を見せ、ひとびとはあちこちに小さく固まって雑談を続けた。そのうち、夫人はフレデリックのいる客間の隅にやってきて、彼にいろいろと質問をした。彼は夫人の魅力に夢中になりながらも、彼女と顔を合わせることができない。
 作曲家のロゼンヴァルドが2人の話に割り込んで、夫人に何か歌ってくださいと頼んだ。夫人が歌うイタリア語の歌にフレデリックは感動する。
 やがて会は終わりに近づき、主人公であるアルヌーもペルランを送るといって散歩に出かけ、アルヌー夫人が客たちを見送る。ディトマールとユソネに続いて、フレデリックにも手を差し出す。「彼は自分の皮膚の細胞にまでしみとおるようなものを感じた。」(81ページ)

 興奮覚めやらぬフレデリックは友達と別れ、一人で帰ろうとする。これからは自由にアルヌー夫人と会うことができると思うと、気持ちが奮い立つ。そんな気分のまま、深夜のパリの市街を歩いて帰ろうとする。歩くうちにセーヌ川の川岸にたどり着いた。
 「街灯がはてしなく二列にともって、赤く長い焔が水の底にもゆらめいている。水は石盤色で、それよりやや明るい空は河の両岸に立ち上がっている陰影の塊に支えられているようだった。はっきり見えない建物がやみをそこだけ二重に濃くしている。ほんのり光をうけた霧が向う岸の屋根の上にただよっており、すべての音がただ一つの鈍いひびきに溶けてしまっていた。かすかな風の動きがあった。
 彼はポン・ヌフ橋のまんなかどころにきて立ちどまった。そして帽子をぬぎ胸さきをくつろげて、空気を吸いこんだ。そうするうち、自分の奥底から何か滾々としてつきないもの、全身をとろかすような情愛の泉、眼の下に見る河の流れのごときものがこみ上げてくるのを感じた。寺院の大時計がゆるやかに一時をうった。さながら彼を呼んでいる声のようだった。」(81-82ページ)

 その時、彼は芸術に志そうという気持ちにとらわれる。そして、絵を描こう、そうすることでアルヌー夫人に近づけるとかんがえる。「こうして、いまや、自分の進むべき道を見出した。生活の目標はいまこそ明らかになり、将来の成功もこれで確実となった。」(82ページ) 

 彼は自分の部屋に帰り、デローリエが眠っている姿を見るが、もうそんなものはどうでもいいと思う。フレデリックは興奮と陶酔の中で夜を過ごす。

 フレデリックのアルヌー夫人への恋慕がいよいよ本格的なものとなる。そして、その一方で芸術への志が芽生える。彼の芸術家への道がどのようなものになるかは、これから明らかになる。このまま彼が芸術家として成長していけば、いわゆる教養小説となるのだが、果たしてどうなるか。フレデリックという人物、そして彼とアルヌー夫人の恋はある程度までフローベール自身と、彼の経験がモデルになっていて、フローベール自身はすぐれた芸術家であった。しかし、これまでのところでも明らかなように、作者は登場人物に対し、冷ややかな客観性を見失わない態度で接している。フレデリックの興奮を冷めた目で見ている。私の経験でも、20歳前後のころは、自分がそう思いさえすれば、何でもできるような気持にとらわれやすかったし、フレデリックの場合、アルヌー夫人への想いがある程度まで通じたのであるから、有頂天になるのも当然といえるだろう。しかし、それだけで大芸術家が誕生するのであれば、世の中は大芸術家だらけになる。

 もう一つ、この小説で興味深いのは、ルイ=フィリップの七月王政を打倒しようとする政治的な動きと、フレデリックのアルヌー夫人への恋とが、本来まったく関係がないはずの事柄であるのに、相互に関連しあって展開するということである。暴動がなければ、フレデリックはユソネと親しくならず、アルヌー夫人との再会の機会も見出しにくくなっていたはずである。こういうところに、小説的な面白さがあって、こんなことがこれからも起きるのかと、読み進む楽しみが増すのである。 
 

『太平記』(191-2)

1月2日(火)晴れ

 個人的なわがままで、失礼いたしました。続きを書いていきます。

 わずか16騎になってしまった脇屋義助、新田義顕の軍勢であったが、後詰の大軍と偽って金ヶ崎を包囲している足利方の軍勢の中を駆け抜けようという栗生左衛門の献策に従って、夜が明けてすぐに金ヶ崎包囲軍の中に突入した。その一番に進んだのは武田五郎という甲斐源氏の武士で、京都の合戦で右の腕を負傷して、まだ治りきっていないので、右手が使えず、太刀の柄を握ることができない。そこでやむなく杉の板をもって6尺(約1メートル80センチ)ばかりの木太刀を作り右の腕に括り付けて突撃する。二番手に進んできたのは、この作戦を提案した栗生左衛門で、帯副(はきぞえ≂予備のためにもう1本腰に差す太刀)がなかったので、深山に生える柏の周囲1尺ぐらいの木を、1丈2尺(約3メートル60センチ)に切って、金棒のように見せ、右の小脇に挟んで、大勢の中へかけ入った。〔ほとんどやけくその状態での敵中突破の試みである。〕

 これを見て、金ヶ崎を取り囲んでいた寄せ手の3万余騎の軍は、「さては、杣山から後攻めの軍勢が攻め込んできたのか」と言い、馬を、武具をと慌て騒ぐ。計略通り、三山寺に立てておいた旗が、木々の間を吹き抜ける風に翻るのを見て、足利方の攻囲軍は後攻めの軍勢が大勢だと勘違いをして、若狭、越前からやってきた武士たちは、楯を捨て、弓矢を忘れて、どんどん退却していく。城の中の軍勢の中から800余人が、これは好機だと、敦賀湾の浜を西へ進み、気比神宮の大鳥居の前に打って出たので、攻囲していた大軍は、慌てふためいてあちこちに逃げ散ってしまう。味方が退却してきたのを、敵が追いかけてきたのと勘違いして、立ち止まって同士討ちを演じたり、あるいは前を斜めに横切って逃げていくのを敵と思って、立ち止まって腹を切ったりする。2人、3里(約8キロ、12キロ)逃げてもまだ立ち止まらず、誰も追いかけてこないのに遠くまで退却しただけでなく、自分の本拠地へと帰っていった。〔例によって、足利方は数が多いが、戦意が低い。〕

 金ヶ崎城を十重二十重に取り囲んでいた敵兵が、一時の謀に追い散らされて、城の周辺に敵が一人もいなくなったので、これはただ事ではないと、城中の人々は大いに喜んだのであった。
 10月20日の早朝、入江や入江に臨む山に降る雪はやんで、海に浮かぶ苫葺きの小舟の上に月が照り、陣幕を風が靡かせて、色を変えない松の緑は無数の花を敷き詰めたように見えた〔大げさな表現!〕。このような興趣は都では出会うことができないような風流だというので、(東宮以下の宮様方の)お心をお慰めしようと、海岸の舟に灯をともさせて、龍頭鷁首(船首に龍の頭と、鷁(げき≂想像上の鳥)の首を付けた二艘一対の舟)になぞらえて、雪景色を楽しんでいただいた。東宮(恒良親王)、一宮(尊良親王)は琵琶を奏でられ、洞院実世は琴を弾き、義貞は横笛、義助は笙の笛、もともと越前の武士である河島惟頼が打楽器を鳴らして、蘇合という天竺伝来の雅楽曲の導入部分、万寿楽という百済伝来とされる曲の導入に続く部分を演奏し、激しく弦をかき鳴らし、勢いよく笛を吹く音、一人が歌い、三人がそれに和す声、やわらいでのびのびとして、上古の正しい楽の音にかなっていたので、天人が空から下りてきて、竜神も喜んで受け入れるほどの出来栄えであった。昔の中国の聖天子であった舜が作ったという「韶」を9度演奏したので、鳳凰が舞い降り、魚が跳びはねるようなことが起きても不思議はないという名演奏であった。〔例によって大げさな描写である。〕

 情趣を解することがない魚までもが、この妙音に感動したのであろうか、水中から跳びはねて、宮様方の乗られていた船の中に飛び込んできた。洞院実世がこれを見て、「昔、周の武王が八百の諸侯を率いて、殷の紂王を放伐しようと孟津を渡った時に、白魚が飛んで武王の舟に入った。武王はこれをとって、天に祭り、その結果、戦いに勝つことができて、殷の天下が亡びて、周が800年の天子の位を保った。今の奇瑞は、この故事と同じである。早くこれを天に祭り、祝うべきだ」と言われたので、調理人がすぐにこれを料理して、神への供え物として、恒良親王に奉った。
 恒良親王が杯を傾けられている時に、鳴吉(なるよし)の袖という遊女が、御酌をしていたのであるが、拍子を打って、「翠帳紅閨、万事の礼法異なりと雖も、舟の中波の上、一時の歓会これ同じ」と『和漢朗詠集』の中の歌を歌った。「翠(みどり)の帳(とばり)を垂れた紅に飾った閨(ねや)で尊い女性と夜を過ごすのとは、よろずの作法は異なるが、舟の中、浪の上で遊女と過ごす夜も、一時の楽しみに変わりはない」という意味の歌である。四季折々の楽の調子の真ん中を高い声でしみじみと歌ったので、東宮以下の宮宮も感動されただけでなく、武将や軍兵もみな一様に涙を流したのであった。

 義助、義顕の軍勢は16人まで減ったが、謀を用いて、無事金ヶ崎城に戻ることができた。しかし、城を出た時は3,000余騎だったのだから喜んでいる場合ではないと思うのだが、喜んで、舟遊びなどしている。大丈夫なのだろうか。
 16騎が後詰の軍勢と偽って名乗りを上げる時に豊原寺、平泉寺、金釼宮、白山本宮などの寺社が含まれているのが、この時代の北陸地方における宗教地図を示していて興味深い。まだ蓮如上人がこの地域に布教して、真宗王国を築く以前のことである。平泉寺というのはいまは神社になっていて、その社家から平泉澄、渉の父子が出ているのは、ご存知の方もあるだろう。剣=金釼宮は、石川県の神社だと解釈されているが、福井県の丹生郡織田(おた)町にも剣神社があり(越前二宮)、織田信長の先祖はここの神社の社家で、斯波氏に仕えて、尾張に移った後、頭角を現した。
 「東宮」(即位されて天皇になっていたという説もある)恒良親王は正中2年(1325)の生まれとされるから、まだ年少で、酒を飲んだり、遊女と遊んだりされるような年ごろではない。一宮の尊良親王は歌道の大御所二条為世の孫で、1306-08年ごろに誕生されたと考えられているから、舟遊びの主役はこちらの方であったと考える方が妥当である。舟遊びでは皇族、公家、武士が雅楽を合奏している。静御前が源頼朝の前で舞を舞ったときに、坂東武士が音楽を奏したという話があるから、武士の間でも楽器の演奏をたしなむ者は多かったのであろうが、どんな演奏ぶりであったのかは、興味深い。
 船の中に飛び込んだ魚が何であったのかははっきりしない。洞院実世の発言の中に「白魚」とあるのは、文字通り「白い魚」と解釈すべきで、それを根拠に「シラウオ」あるいは「シロウオ」と特定はできない。飛び込んだ魚が「白魚」であるとは、『太平記』の作者は語っていないのである。ということで、敦賀湾のサカナに詳しい方にこの点をめぐりご教示いただければ幸いである。
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