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日記抄(12月28日~31日)

12月31日(日)朝のうち雨が降ったらしい。午後になっても、雨が降りかけたりしたが、大体は曇り、時々薄日が差した。

 12月28日から本日までの間に、経験したこと、考えたこと、前回の補足など。
12月26日
 アリ・ブランドン『書店猫ハムレットのうたた寝』(創元推理文庫)を読み終える。ブルックリンにある書店の経営(と店に居ついている黒猫のハムレット)を大叔母から引き継いだダーラは店を改装してカフェ・スペースを設けたばかりのところである。独立記念日に地域の仲間とブロック・パーティーを企画するのだが、そのさなか、コーヒー・ショップの店主の妻が死体で発見される。翌日、また次の死体が…。例によってハムレットが事件の手掛かりとなる情報を、書架から本を落とすことで伝えようとしているらしいのだが…。アメリカの都市生活の断面がよくとらえられ、登場人物の描き分けもしっかりしているが、事件が解決されていく過程に少し無理があるようにも思われる。このシリーズあと1作で完結するのだそうだが、どんな終わり方になるのだろうか。

 さらに、林屋辰三郎『南北朝』(朝日新書)を読み終える。林屋は私の亡父より1歳年長で、私から見ると1世代上の研究者で、1991年に朝日文庫から出版された書物の新書化である(ふつうは、逆だと思う)。南北朝時代を4期に分けて、①建武新政府の成立を最後とs知恵、王朝権力の没落する過程、②武家幕府の中枢部の分裂によって、南朝の側からも天下一統が期待できた時期、③守護勢力の狂歌によって権力が分散し、やがて再編される過程、④国内統一の完成期としている。そして、①の時代の代表的な人物として結城宗広、楠木正成、足利尊氏を、②の時代を代表する人物として後村上天皇を、③で活躍する守護勢力の典型として佐々木道誉を、④については足利義満を選んで、人物私的にこの時代の歴史を概観している。同じ著者の『佐々木道誉』(平凡社ライブラリ)と共通する部分もあり、違う部分もあって、興味深い内容が展開されている。

12月27日
 『朝日』の朝刊のコラム「後藤正文の朝からロック」の「「ほんとうの日本」を書き記す」という文章の中の「教科書に載ることの少ない庶民の歴史と、ロックなどの大衆音楽には共通項があるのではないかと感じる」という意見が面白かった。文字による記録を残すことができない民衆の生活や意見をどのように掘り起こすかも歴史研究における重要な課題である。

12月28日
 NHKラジオ『まいにちスペイン語』応用編「スペイン文学を味わう」はエミリア・パルド≂バサン(1851-1921)の『ウリョーアの館』(Los Pazos de Ulloa)の第7回。選挙戦は最後までもつれ、ウリョーア侯爵は自陣から裏切り者が出たために敗北する。その裏切りの黒幕は、侯爵の猟師頭で執事も務めているプリミティボであることがわかり、彼の命が狙われる。侯爵が当選すれば館から離れられると思っていた彼の妻、ヌチャは館から逃げ出そうと、礼拝堂付き司祭のフリアンに相談を持ち掛けるが、その様子をペルーチョに知られる…。

 NHKラジオ『まいにちドイツ語』応用編「ベルリン――変転する都市」はドイツの再統一がつまるところは西ドイツへの東ドイツの吸収合併だったということから生まれた微妙な感情のずれがどのように克服されてきたかに関連して、「オスタルギー」(Ostalgie=東ドイツの日常生活に対する郷愁に基づいた関心)をめぐる話題が取り上げられた。旧東ドイツ時代の交通信号機の歩行者信号であったアンペルマン(Ampelmann)が救済の市民運動の結果、ベルリンの新しいシンボルとして定着するに至ったこともその一例である。
 ドイツ再統一直後には、「オッシー」、「ヴェッシー」という言い方がされたそうだ。アメリカの「ヤンキー」、「ディクシー」というのを思い出す(辞書には使ってはいけないという注意書きがあるはずである)。

12月29日
 『まいにちスペイン語』は、『ウリョーアの館』の最終回。祖父が殺される場面を見たペルーチャは、このままだと館の皆が殺され、自分が可愛がっている赤ん坊も命が危ないと思い、その命を救おうと懸命に奔走する…。
 1860年当時のスペイン(ガリシア)の社会の状況を反映して、物語は時代がかった感じがするが、人物や出来事の描写力には感心させられる。自然主義ということでは、島崎藤村の『夜明け前』などと比べてみるのもいいのかもしれない。

 「まいにちドイツ語」は「ベルリンは多文化的」(Berlin ist multikulti)として、その約350万人の人口のうち約18パーセントが外国人であり、その出身地は全部で世界190か国に及んでいることが紹介された〔国連の加盟国がたしか193か国だから、大したものである。東京はどのくらいだろうか?〕 20年前から毎年、聖霊降臨祭の時に行われている「文化のカーニバル」のパレードには様々な国のいろいろなグループが屋外でダンスや音楽、曲芸を披露しているという。ドイツの一部で反移民運動が活発しているが、ベルリンではこれまでそうした外国人排斥運動の目立った動きは見られないという。カーニバル文化の伝統がなかったベルリンで、「文化のカーニバル」が定着してきているのは注目すべきことである。

 『まいにちイタリア語』応用編「原文で読む古典の楽しみ」ではルドヴィーコ・アリオスト(Ludovico Ariosto, 1474-1533)の「狂乱のオルランド」(Orlando furioso)の一部を読んできたが、その最終回。アンジェリカへの恋に破れて狂乱状態になっているオルランドを正気に戻そうと彼の友人で天馬を操る騎士アストルフォが、福音の聖ヨハネの助けを借りて、月の世界に保存されている彼の正気をとりもどしに出かける。このスケールの大きい幻想的な物語は、最後はめでたしめでたしで終わるのだが、SF風になったり、当時の社会を風刺した個所などもあって読み応えがありそうだ。
 最後に「読者」として、同時代の錚々たる宮廷人が勢ぞろいして、公開を終えようとするこの物語を出迎えるという幕切れになるのだが、その中にマキャヴェッリの名前がなく、マキャヴェッリ自身も友人への手紙の中でそのことに不満を述べているそうである。また、出迎える「読者」の中にヴィットリア・コロンナ(Vittoria Colonnna ,1490/92-1547) の名が見いだされるが、ミケランジェロの心の恋人として知られる女性である。

 丸山真男『日本の思想』(岩波新書)を読む。いまさら何を…という方もいらっしゃると思うが、Late better than never.ということわざもある。

12月30日
 司馬遼太郎『街道を行く7 甲賀と伊賀のみち、砂鉄のみちほか」(朝日文庫)を読む。島根県から岡山県へと向かう「砂鉄のみち」の旅が特に興味深かった(私も日本の製鉄史には興味があるのである)。旅の様子の描写は平凡なのだが、司馬の豊富な歴史的知識と、人間をめぐる想像力とによって読み応えのある紀行文になっている。

12月31日
 ニッパツ三ツ沢球技場で第96回全国高校サッカー選手権1回戦、山梨学院高校対米子北高校、仙台育英学園高校対高松商業の試合を観戦する。
 第1試合は力で押そうとする山梨学院に対し、パスを着実につないでいく米子北高校との対戦。山梨が先制点をあげるが、米子が、前半のうちに追いつき、後半に加点して逆転勝ちした。セカンド・ボールを確保する割合が高かったこと、守備が固かったことが勝因ではないかと思う。第2試合は勢いの仙台と伝統の高松というような一戦で、前半は仙台が2点を先取したが、試合運びが荒っぽく、時々カウンターを食らっていたのが気になった。後半、仙台のミスに乗じて高松が2点を挙げて追いついたが、アディショナル・タイムに仙台がセット・プレーのチャンスを生かして辛くも勝利した。仙台の佐藤選手がハット・トリックを記録した。2試合ともに見ごたえのある試合であったが、負けたチームの選手の皆さんは悔しかっただろうと思う。それでも全国にこられたことを誇りにして、今後の人生を歩んで行ってほしいものである。

 今年1年、このブログにお付き合いを頂き、ありがとうございました。来年もよろしくお願いします。
 それではまた、よいお年を! 
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小川剛生『兼好法師』(4)

12月30日(土)晴れ、バスの車窓から富士山が見えた。

 『徒然草』の作者について、同時代史料からできるだけ多くの情報を引き出すことで、従来信じられていた兼好の伝記を書き換えようとするのが、この書物の意図である。
 第1章「兼好法師とは誰か」では、勅撰和歌集における作者表記がすべて「兼好法師」となっていることから、彼が「諸大夫」ではなく、「侍」以下の身分の出身であると推測し、伊勢にゆかりのある卜部氏の一族で、都で生活していたが、彼の父親の代になって、伊勢に勢力を持つ金沢流北条氏に仕えるべく鎌倉に下向したものと考えている。
 第2章「「無位無官の「四郎太郎」――鎌倉の兼好」は、金沢文庫に残された古文書を手掛かりとして、在俗時代の兼好が卜部兼好、仮名を四郎太郎と言い、父親の死後、いったん京に戻ったが、その後、金沢貞顕に仕え、貞顕やその信認する僧である称名寺の劔阿のために京と鎌倉を往復する生活を送っていたと述べている。延慶2年(1309)から正和2年(1313)までの間に彼は遁世したが、宗教的な動機によるというよりも、そのことで身分秩序のくびきから脱し、権門に出入りしたり、市井に立ち交じったりして、貴顕のために様々な用を果たすことができるようにするためであった。
 第3章「出家、土地売買、歌壇デビュー――都の兼好(一)」では、貞顕が六波羅探題北方に任じられたころから、兼好が京に定住するようになり、六波羅周辺で活動していたこと、この地で活発に展開されていた経済活動にかかわり、土地を売買していたこと、貴顕からの恩顧を得るために自分の土地を寺院に寄進し、そのことで後宇多上皇から和歌を召され、歌壇へのデビューを果たすことになる。金沢流北条氏と堀川家の接近に伴い、堀川家とのつながりができ、また活動圏を次第に仁和寺の周辺に移すことになったことを述べている。

 今回は第4章「内裏を覗く遁世者――都の兼好(二)」についてみていく。この章は長いので、前半だけの紹介となる。
 『徒然草』の中で、兼好は「何事も古き世のみぞ慕はしき」と自分の価値観を表明したうえで、そのような過去のよき精神を最も遺す空間として内裏の有様を描写している。その描写は回顧ではなく、眼前の情景としてのものである。ではどうしてこのようなことを知り、書いたのか。
 先ず、兼好が目にしたのは内裏といっても、もともとの大内裏ではなく、里内裏(天皇がお住まいとして、洛中の廷臣の邸を借り受けられたもの)であり、具体的には花園天皇の里内裏である二条富小路殿であったという。文保2年(1318)に花園天皇は在位10年で退位され、後醍醐天皇が即位される。そのことを記したのが『徒然草』の27段である。〔小川さんは、読者が知っているだろうと思ったのか、書いていないが、この時、退位された花園天皇は22歳、新たに即位された後醍醐天皇は31歳であった。花園院はその日記の中で、「春宮は和漢の才を兼ね、年歯父の如し、誠に道理然るべし」(岩橋小弥太『花園天皇』、28ページ)と記されているそうである。〕

 ところで、花園天皇から後醍醐天皇への代替わりにはそれまでと違うことがあった。内裏(里内裏)を新帝が引き続き利用したことである。話がややこしくなるのだが、花園天皇は長らく、二条富小路殿を里内裏とされていた。ところが文保元年に鎌倉幕府の力で、冷泉富小路内裏がつくられ、そこに移られて、翌年、譲位されたということである。
 この新しい里内裏が竣工した際に、見物人が入り込んできたという記事に小川さんは目を留めている。花園院の日記にはその時「見物の女、小袖を着する者、悉く追ひだす」(文保元年4月20日条、105ページ)とある。
 「天皇の居住空間近くまで早くも見物人が入り込んでいるのである。
 この時代の内裏は、里内裏であるゆえ、四周が道路に直接面するわけで、必ずしも閉ざされてはいなかった。とりわけ政務朝議の行われる日は見物人で溢れていた。」(同上)
 憧れと野次馬根性が入り混じって、大勢の見物人が近づいてきたのであるが、「兼好の内裏へ抱いた憧憬は、この日に内裏に詰めかけた都市住民のそれと違いのあるものではなかった」(107ページ)と小川さんは論じる。

 「禁中奥深くまで無関係の観衆が闖入すること、常識では理解しがたい現象である。とはいえ中世の朝廷はこうした見物人を必ずしも排除しなかった。それは天皇以下自分たちが「見られる」身体であることを承知していたからであろう。」(107-108ページ) この記述は、ヨーロッパ、とくにフランスの国王の例と共通する事柄に触れていて、興味深い。
 先ほど引用した花園院の日記の中で「小袖を着するもの」が追い出されたというのは、わざと派手な格好をして内裏を見物する連中が非常に多かったということで、その一方で追い出されなかった見物人もいたのであると論じる。「その違いは、おそらく頭に衣をかぶる、「衣かづき」の姿になっていたことにあろう」(108ページ)という。「「衣をかづく」つまり衣をかぶって頭を隠すのは、自らの姿を隠す意思表示であった。…こうすれば天皇や廷臣たちにとっても、見えていても見えない存在となる」(108-109ページ)である。こうした存在が、意外に便利な役割を演じることがある。
 「男の場合、頭に頭巾などをかぶり目だけを出す姿、つまり「裹頭(かとう)」となる。…兼好は「裹頭」の姿となり、内裏へ自由自在に入り込むものの一人であった。」(109-110ページ)という。後半の推測は、『徒然草』の中の記事を根拠としているので、説得力に富む。

 以上のことから、兼好が『徒然草』で述べている宮廷への視線は、蔵人というような公家社会の正式の構成員のものではなかったと論じている。「確かに徒然草には数多くの廷臣が登場し、摂関・大臣の談話も記録されるが、しかしそれは多く伝聞や書承であり、師事した歌道師範を除いては、双方向的な対話はほとんど見られないのである」(116ページ)という。
 ということで、「内裏を覗く遁世者」という章題の意味は明らかであろう。遁世者だからこそ覗くことができる世界について、『徒然草』は語っているのである。

 さて、この書物の著者である小川剛生さんが、すでに読んだだけでなく、亀田俊和『観応の擾乱』の書評の中で言及した二条良基の仮名日記について論じた『南北朝の宮廷誌 二条良基の仮名日記』の著者であることを見落としていたことに気づいた。我ながら面目ない次第である。この『兼好法師』でも第6章に二条良基が登場する(良基は、兼好に会っているのである)。一方で関白という高い地位にあり、庶民的な連歌を能くし、南北朝の動乱の時代を泳ぎぬけた良基は、きわめて複雑で一筋縄でいかない人物という印象があるが、小川さんはそのような人物像と重なるものを兼好にも見ているのかもしれない。

 第4章の後半では、兼好と検非違使庁との関係が考察され、『徒然草』が都市の文学であるという議論へと進む。次回をお楽しみに。 

前田速夫『「新しき村」の百年 <愚者の園>の真実』(5)

12月29日(金)晴れ

 「新しき村」は『白樺』派の中心人物であった武者小路実篤の構想をもとに、1918年(大正7)11月14日に日向=宮崎県児湯郡木城村大字石河内字城に始められ、1939年(昭和14)にその大部分が埼玉県入間郡毛呂山町葛貫に移り、現在も存続している生活共同体の試みである。その試みの背景には米騒動をはじめとする当時の社会不安の中での、社会改造への志向があった。「村」の特色は共同の労働と、余暇における個人の自由な創造的活動とを両立させようとしていることであるが、実際には村の歴史の中で、生活のための労働を重視する人々と、創造的活動を重視する活動を重視する人々との対立が続いて、内紛が絶えなかった。それでも村の事業は拡大し、社会的な認知も広がっていった。

 1923年(大正12)には村の義務労働の時間を8時間から6時間に減らし、1925年(大正14)には村内印刷所ができ、『新しき村通信』が発行されはじめ、その16号で武者小路は会員を1万人に増やし、将来は100万人にすると気炎を上げているのだが、この年の12月に彼は離村して、村外会員となり、志賀直哉の住む奈良に移ってしまった。(翌年、姉の住む和歌山にさらに移住する。)
 武者小路の離村によって、「村」は存続の危機を迎える。彼の離村をめぐっては、「言い出した以上、村に踏みとどまるべきで、それが村民への責任でもある」(勝本清一郎、71ページ)という批判もあるが、著者はこれも「実篤の図太さの証明」(75ページ)と論じている。彼の離村により、「村」の人口が激減したことは否定できないが、「村」に残った人々はさしたる動揺を見せなかった〔あるいは、動揺しなかったから、村に残ったということかもしれない〕。

 武者小路の離村後も「村」の事業は山あり谷ありの展開を辿る。1927年(昭和2)2月、東京の曠野社では、『日本古典全集』が当たり、設備を拡張したのが裏目に出て、資金難に陥り、労働争議の末に、解散に追い込まれる。その一方で日向では1928年(昭和3)に水路が開通して主食自給の目途が立つ。
 東京支部では1927年2月に東京に戻った武者小路を囲む木曜会が定例化して、活動が活発化した。この会には、岸田劉生の娘の麗子が武者小路に誘われて参加、ほかに後年シナリオライターとして『七人の侍』などを手がける小国英雄も加わっていた。
 1936年(昭和11)に武者小路は兄の公共がドイツ大使として赴任しているのをさいわい、欧米旅行に出かける。途中、上海で魯迅に会い、パリでは、マチス、ルオー、ドラン、ピカソを訪問、ベルリンではオリンピックを見物し、ナチスの党大会でヒットラーと握手を交わし、フィレンツェ、ローマからニューヨークを回って、12月に帰国。〔いい気なものであるといってしまえばそれまでだが、思ったことは何でもやってみて、あまり後で後悔しないというのが武者小路流であろう。ベルリン・オリンピックに対してどのような感想を持ったかが書かれていないのが残念で、武者小路の美学からすると、その組織原理には、あまり感心しなかったのではないかと思うが、日本選手の活躍に感激したのかもしれない。〕

 ところが1938年(昭和13)に水路完成後、日向の村では米、麦、茶、果樹がようやく軌道に乗って、いよいよこれからというときに、県営ダム工事が発表され、「村」の最良の土地を含む下の田畑がそのために水没することになる。
 「新しき村」は、創設当時から私服刑事が見張ったり、1925年には、宮内省の要請で武者小路が分家して華族から平民に身分を変えるなど、陰に日に官憲からの干渉を受けてきた。
 「どうやら先の見通しがついてほっとした、そのタイミングを見計らうようにして、候補地は他にいくらもありそうなものなのに、よりによって新しき村の地にダムを築くとは、県当局も悪質である」(82ページ)と、前田さんは書いているが、多くの村民がそのような思いを抱いたに違いない。

 1931年(昭和6)の満州事変に続き、1937(昭和12)には日中戦争がはじまり、すでに戦時下にあった時局の中で、「カイゼルのものは、カイゼルに」委ねるのが持論の武者小路は、この動きに反対せず、県当局と交渉して、3千円ほどの補償費を得ると、直ちに東京近郊の新たな土地探しに着手した。日向の村は杉山夫妻、高橋夫妻の2家族が残り、翌年からは杉山夫妻のみになる。
 1939年(昭和14)、東武東上線沿線に土地が見つかった。埼玉県入間郡毛呂山町大字葛貫(つづらぬき)の雑木林地1ヘクタールで、9月17日に鍬入れ式が行われた。日向の村からは2家族が移住、近くに家を借りて開墾に従事した。日向の村の発足時に比べて、淋しいスタートであったが、武者小路には「今度はもう少し現実的な気持ちで自分達の仕事場として村をつくろう」(84ページ)という抱負があった。
 東京近郊に移転したことで、村外会員からの支援も受けやすくなった。武者小路を始め村外会員たちは村を定期的に訪問し、財政支援を惜しまなかった。前田さんは村内会員・村外会員の制度が「村」を再三の危機から救ってきた最大の理由だとしている。
 そして東京神田の神保町に新村堂が開設される。それは村の事務所であり、会員たちの集会所であるとともに、武者小路や彼の導師たちの作品の複製が市販されている場所でもあった。

 実際問題として、村の生活を理念的に支持できても、実践できるとは限らない。だから、村内会員、村外会員という制度が設けられたのである。その点で、「新しき村」は優れた実践であるのだが、武者小路自身が共同労働を実践し続けられなかったのだから、問題は複雑である。「村」と武者小路が太平洋戦争にどのようにかかわったかは次回に触れることになる。 

エラスムス『痴愚神礼賛』

12月28日(木)晴れ、バスの車窓から富士山が見えた。

 ダンテの『神曲』に続いて、ルネサンスを代表する著述家であるエラスムス(Desiderius Erasmus, 1466-1536)の代表作と考えられている『痴愚神礼賛』(Μωριαs Εγκωμιον,Id est Stultitiae Laus、モーリアス・エンコーミオン、イド・エスト・ストゥルティティアエ・ラウス、1511)の沓掛良彦訳(中公文庫)を取り上げることにする。『神曲』に続いては、ラブレーの『ガルガンチュアとパンタグリュエル』を読んでいくつもりだったのだが、『ガルガンチュアとパンタグリュエル』の基調となっているルネサンスの精神を理解するためには『痴愚神礼賛』とトマス・モアの『ユートピア』をまず読んでおかなければならないと思い直した次第である。

 この書物の題名のうち「モーリアス・エンコーミオン」というのはギリシア語、その後の「イド・エスト・ストゥルティティアエ・ラウス」というのはラテン語で、この書物はラテン語で書かれている。沓掛良彦さんは西洋古典学者でルネサンス期の思想・文学の専門家ではないが、古典文芸の復興期であるといわれるルネサンスを代表する文学作品らしく、ギリシア語やギリシア神話・文学の内容がふんだんにちりばめられているこの作品の翻訳には適任であろう。なお、この作品には、『ガルガンチュアとパンタグリュエル』の翻訳者・研究者として知られる渡辺一夫によるフランス語からの重訳があり、沓掛さんによると「名訳であって、現在までのところ、唯一の信頼できる邦訳である」(7ページ)とのことである。渡辺訳は以前持っていたはずだが、その後、手放してしまった。また探し出してみるつもりである。それから、沓掛さんも触れているB・レイディスの英訳は手元にあるので、それも参考にしていきたい。また、ネットで検索すればラテン語本文を探し当てることもできるはずだが、そこまでするかどうかは今後の成り行きに任せたい。

 さて、id estというのはi.e.と略記されることもあるが、英語のthat is (to say)に相当し、「すなわち、言い換えれば」という意味であり、ギリシア語の「モーリアス・エンコーミオン」をラテン語に言い換えると、「ストゥルティティアエ・ラウス」ということで、同じことを2つの言語で言っているのである。(「モーリアス」「ストゥルティティアエ」は「痴愚女神の」、「エンコーミオン」「ラウス」は「賞賛」「賛美」ということらしい。沓掛さんによると、ギリシア語の「モーリアス」という属格形には主格としての〔痴愚女神が行う礼賛という〕意味合いと、〔痴愚女神に向けて行われる礼賛という〕対格としての意味合いが含まれているというからなかなか面倒である。ギリシア語がわからないので、少しはわかるように努力を続けていきたい。)

 巻頭に添えられているエラスムスのトマス・モアへの手紙によると、この作品は1509年にモアの家に滞在中に書かれたもので、モアという名前のラテン語形Morusが、痴愚を意味するギリシア語のモーリア(moria)に似ていることに気づき、そこからモーリア(Moria)という女神の名を仕立て上げた。その女神が自己を礼賛するという形で展開されるのがこの作品で、「デクラマティオ」(declamatio)という当時の高等教育の標準的な科目であった修辞学の課業である架空の練習弁舌の形式をとっている。もちろん、モアという名前が「モロス」を連想させるというだけで、エラスムスがモアについて「大兄御自身がそれとはおよそ無縁な存在」(14ページ)であると書いている通り、モアは大変に聡明な人であることに衆目は一致していた。

 エラスムスはこの手紙の中でつづけて、モアが諧謔を好むことに触れて、「確かに大兄はその卓抜な知力において、はるかに衆に抜きんでておられますが、信じがたいほど心根がやさしく、また気の置けない方ですから」(15ページ)エラスムスのこのおふざけを許してくれるだろうと書き、この作品を彼に捧げている。
 つまりこの作品は、痴愚の女神の自己礼賛という形をとった冗談であるという。ただし、読んでいくとわかることだが、どこまでが冗談でどこからが本気なのかわからないところが出てくる。そういう部分を含めて「冗談」なのである。モア自身が1516年に出版する『ユートピア』にも同じように、冗談だか本気なのかわからない部分が数多く見いだされる。そういう発言が意味をもつのは、それなりの知識と教養を備えた人々の交際圏の中においてであって、世の中には冗談がわからない人がいる。まじめすぎる人がいる。モアの『ユートピア』が発表された翌年は、ルターがヴィッテンブルクで「95か条の提題」を発表した年である。ルターは、
Wer nicht liebt Wein, Weib und Gesang, Der Bleibt ein Narr sein Lebelang. (ワインと、女性と、歌を愛さないものは、生涯を通じてアホでありつづけるだろう)と言っているくらいだから、冗談のわからない人ではなかったようだが、その信奉者にはくそまじめな人が少なからずいたようである。

 ということで、これから『痴愚神礼賛』について書いていくことにするが、その前に断っておくことが2つある。1つはすでに述べたように、「冗談」といってもそれを愉しめない人もいるし、益田ミリさんの「スーちゃん」がそうだけれども、何か人の気に障ることを言っておいて、後で「冗談、冗談」と打ち消す人が好きになれないということもある。「冗談」の否定面についても考える必要があるということがその1つである。一方でお笑いが盛行し、他方で学校や職場でのいじめがなくならない世相を考えると、この作品も慎重に読まれる必要がありそうである。

 もう一つは、作者が『痴愚神』を女性として設定していることである。これも以前に書いたことがあるが、「勝利の女神」とか、「自由の女神」とかいうのは、「勝利」、「自由」という語が女性名詞であることから生まれたものである。私はギリシア語はほんのわずかしかかじったことがないので、よく分からないが、たぶん「モーリア」という語も女性名詞なので、女神にしたのであろう。(ラテン語のstultitiaは女性名詞である。) ただし、本文を読むと「なるほど女というものは愚かな動物で、たわいもない、なんとも馬鹿馬鹿しい生き物なのですが、楽しい存在に違いなく、家庭生活においては、その愚かさでもって男の陰気な気質を和らげ、楽しいものにしてくれるでしょう」(49ページ)などという箇所が出てくる。これも「冗談」だといってしまえばそれまでだが、渡辺一夫が指摘したようにルネサンスが「人間の解放」であるといわれる一方で、「女性の解放」はもたらさなかったこと、(これも以前に触れたことがあるが)マキャヴェッリの『君主論』の中の「運命は女だから。組み伏せたいと思ったら、たたきのめしてでも自分のものにする必要がある」という言葉を思い浮かべるべきではないかと思う。

 今回は、前置きばかりになってしまったが、次回から本格的な論評にとりかかるつもりである。

日記抄(12月24日~27日)

12月27日(水)晴れ、バスの車窓から富士山が見えた。

 12月24日から本日までの間に経験したこと、考えたこと、前回、書き落としたことなど:
12月18日
 NHKラジオ『まいにちスペイン語』の「スペインの街角」のコーナーではポルトガルとの国境にあるエストレマドゥラ州にあるメリダ市を取り上げた。メキシコのユカタン半島にも同じ名前の市があるという。スペインのメリダにはローマ時代の遺跡が数多く残っているとのことである。

12月19日
 『まいにちスペイン語』の「ラテンアメリカの街角」のコーナーではパラグアイの首都アスンシオンを取り上げた。パラグアイではアルパというハープのような楽器が盛んに演奏されるという話だったが、日本のアルパ演奏家である上松美香さんのCDを昔持っていた。(その後手放してしまったはずである。)

12月22日
 NHKラジオ『実践ビジネス英語』は20日から、”Transforming a Night Owl " (夜型人間の改造)というビニェットに入っているが、登場人物の1人がこんなことを言う。
Eating breakfast every day will train your body to expect it and help get you in sync with the morning. If you've ever flown across time zones, you'll notice that airlines often serve scrambled eggs and toher breakfast foods to help passengers adjust.
(毎日朝食をとると、朝食を期待することに体が慣れて、人は朝型になりやすくなります。複数の時間帯を越えて飛行機に乗ったことがあるならば気づくでしょうが、航空会社はたいてい、スクランブルエッグなどの朝食を提供して、乗客が時差に適応しやすいようにしているのです。)
 もっとも、『宝島』に登場する「船長」のように、1日中ベーコン・エッグばかり食べている人間もいるから、一概には言えないのではないかと思う。

12月24日
 NHKラジオ『短期集中! 3か月英語』の再放送で、聞き逃していた20日放送分のEarth, Wind & FireのSeptemberを聴く。

 サッカーの皇后杯で日テレベレーザが3-0でノジマ神奈川相模原を破って3大会ぶり12回目の優勝を飾った。それにしても、ノジマが急速に力をつけているのに目を瞠らされる。

12月25日
 『まいにちスペイン語』の「スペインの街角」はフランスと国境を接するナバーラ州のパンプローナが取り上げられた。サン・フェルミン祭の牛追いが紹介されていた。番組では触れられなかったが、かつてナバーラ王国の首都であったこの都市は、ナバーラ王国の貴族の一族であったフランシスコ・ザビエルにゆかりがある。今でもあるかどうかわからないが、市ヶ谷にあったスペイン語書籍専門のマナンティアル書店の本店がパンプローナにあったはずである。

12月26日
 『まいにちスペイン語』の「ラテンアメリカの街角」はエクアドルの首都であるキト(Quito)を取り上げた。ecuadorは「赤道」でこの国は文字通り赤道直下にある。キトの町は海抜約2800メートルの高地にあるので、到着したら、その日はやたら動き回らないほうがいいそうである。

 『まいにちドイツ語』に登場する日本人の主人公は双子のライオンの像を探してドイツ各地を旅しているが、気分転換にローレライ遊覧の船に乗る。「ローレライが岩の塊だったなんて! きれいなブロンドの女の人が、髪をとかしながら座って歌っているんだとずっと思ってたのに!!」 昔のサザエさんでお父さんが酔っ払って中学校で習った英語の歌を歌うという話があったが、そこで歌われているのが「ローレライ」で、「ローレライ」はドイツ語の歌ではなかったのかというのが謎として残っている。

 『ラジオ英会話』では”English Conversation Literacy"(英会話リテラシー)として、映画を見た後の感想・批評をめぐる表現を取り上げた。
It was just as I expected. (期待どおりでした)
(Much) Better than expected. (思ったより<ずっと>よかったです)
It's a master piece/classic/must-see.(傑作/最高傑作・必見です)
It's a flop/bomb.(大失敗作です)
It's a turkey. (駄作です)
などなど。

12月27日
 『まいにちスペイン語』は12月に学んだことの復習で、乗り物の切符の買い方など、実際に旅行する際に参考になりそうな内容であった。

 『ラジオ英会話』の”A Song 4 U (A Song for you)”(今月の歌)はナット・キング・コールの”The Christmas Song"を取り上げた。北国のクリスマスの風物詩を列挙したこの歌の2連の最初の2行は
Everybody knows a turkey and some mistletoe
Help to make the season bright.
(皆誰でも知っている 七面鳥やヤドリギが
このシーズンを明るくしてくれることを)

 番組でも紹介されていたが、クリスマスの飾りに使われるmistletoe(ヤドリギ)の下にいる異性にはキスしてもいいことになっている。手元にあるBrewer'sの英語雑学辞典のmistletoeの項を紹介してみると:The plant grows on various trees as a parasite, especially the apple-tree, and was held in great veneration by the DRUITS when found on the OAK. (様々な樹木、とくにリンゴの木に寄生植物として成長する植物で、ドルイド僧(キリスト教以前の古代ケルト族の僧)によってオークの木に生えているところが見つかると崇拝の対象とされた。)
Shakespeare calls it 〝the baleful mistletoe” (Titus Andronicus, Ⅱ,ⅲ), perhaps in allusion to the Scandinavian legend that it was with an arrow made of mistletoe that BALDUR was alain, or to the tradition that it was once a tree from which the wood of Chist's CROSS was formed; or possibly with reference to the popular belief that mistletoe berries are poisonous, or to the connecxion of the plant with the human sacrivices of the Druids.(シェークスピアはそれを「災いをもたらすヤドリギ」と呼ぶが、おそらくは(北欧神話の光の神)バルドゥルが殺害されたのがヤドリギでつくられた矢によってであるという伝説に言及してのことか、あるいはそれがかつてキリストの十字架がつくられた木であったという伝承に拠るのか、あるいはおそらくヤドリギの実が有毒であると民間で信じられていたことにかかわっているのか、さらにあるいはこの植物がドルイド僧たちの人間を犠牲にすることへの結びつきによるものであろう。)
It is probably for this latter reason it is excluded from church decorations. (おそらくはこの後の方の理由のためにそれは教会の装飾からは除外されている。)【以下略】
 ヤドリギからキリストの十字架がつくられたというのはどうも信じがたい。あるいはその目的のために使われたために、寄生木にされてしまったという伝説が他にあるのだろうか。
 ヨーロッパの伝説の世界の中では、ヤドリギには神秘性とか、善悪あるいは吉凶の二面性のようなものがついて回っているようである。『金枝篇』で、ネミの神殿の祭司になろうとするものは、神殿の森の聖なる木から特定のヤドリギ(金枝)を手折り、それで前の祭司を殺さなければならなかったという言い伝えが掘り下げられているし、ウェルギリウスの『アエネーイス』第6歌で、黄泉の世界に旅立とうとするときに年老いた巫女であるシビラの指示に従って「黄金の葉繁る枝」を手折る。(ただし、黄金の枝は「まるで宿り木のよう」(第205行)と書かれていて、ヤドリギだとは言われていない。それよりも、黄金と樹木の両方の性質を持つと書かれているのが注目される。)
 キリスト教に関連する習俗には、キリスト教以前のヨーロッパの「異教」の習俗や伝承がそのまま、あるいは姿を変えて、あるいはまったく正反対のものとして影響を及ぼしていることがあることに気づいておく必要がある。

これからどうなるか

12月26日(火)晴れ、かなりの部分が雲で隠れてはいたが、富士山がバスの窓から見えた。

これからどうなるか

十五、十六、十七と
私の人生、暗かった――という
藤圭子さんの歌が流れていた頃、
二十五、二十六、二十七と
私の人生、やはり暗かったと
サラリーマン漫画の主人公の
ショージ君は自嘲していた
その頃の気分は圭子さんよりも
ショージ君に近かった

三十五、三十六、三十七と
働き盛りであったはずだが
自分の得意も不得意も
好きも嫌いもお構い無しに
押し付けられた仕事を
こなすだけだった 
四十五、四十六、四十七と
やはり仕事に振り回されて
年をとってきた

そして五十五、五十六、五十七と
仕事を勤め上げて 退職し
六十五、六十六、六十七と
年金生活を続けてきた
藤圭子さんのように生き急がずに
ショージ君のように細く長く生きてきた
でも、それもどこまで続くか分からない

来年は数え年で七十四だ
ということは、
七十五、七十六、七十七が
これまで同様に続くのだろうか
それも分からない
不透明な未来の不透明さを
不自由に思いながら
また年を越すことになりそうだ

【付記:本日は小川剛生『兼好法師』の第4回を掲載するつもりでしたが、自宅のパソコンの調子が悪く、詩のほうが入力に時間がかからないので、こんな詩を載せてみました。そんなこんなで、こちらから訪問できるブログの数がいつもより減るかもしれませんが、あしからずご了承ください。】

『太平記』(190)

12月25日(日)晴れ、バスの車窓から富士山が見えた。

 建武3年(南朝延元元年、1336)、近江を押さえられた比叡山の宮方が兵糧につまった頃、足利尊氏は密書を送り後醍醐天皇へ京への還幸を促した。還幸を企てる天皇を、新田一族の堀口貞満が諫めると、天皇は義貞に東宮恒良親王らを託し、引っ込区で再起を期すよう命じた。10月10日、天皇は還幸したが、直義により花山院に幽閉された。北国へ向かう義貞軍は、木目峠で多くの凍死者を出したが、13日、敦賀の金ヶ崎城に入った。脇屋義助と義貞の長男である義顕は南越前の杣山へ行き、瓜生保に援軍を求めたが、保は偽の綸旨に騙されて足利方となり、保の弟の義鑑房が義助の子義治を大将として預かることになった。

 明けて10月15日、杣山の瓜生が頼りにできなくなったので脇屋義助は金ヶ崎に帰り、義顕は越後に下ろうとしたのだが、宿で勢ぞろいをしてみると、瓜生が心変わりをしたことを聞き知ったようで、いつの間にか姿を消してしまった武士が多く、前日までは3,500余騎と言っていた軍勢がわずかに250騎に減っていた。この軍勢で多くの敵がいる北陸路を越後までたどり着くのは無謀に思われ、この際は義助とともに金ヶ崎に戻って、船で越後に向かうのが得策であろうと、結局義助も義治も鯖並の宿からまた敦賀に戻ろうとした。

 鯖並から少し南の今庄(福井県安城郡南越前町今庄)には今庄九郎入道浄慶という武士が住んでいたが、北国街道を落人が多くやって来るというのを聞いて、通さないようにしようと、近辺の野伏(農民、浮浪民などの武装集団、第9巻で京から鎌倉に落ち延びようとした六波羅探題の一行が北近江で野伏の一群に行方を阻まれたことを思い出す)をあつめて、地形の厳しい場所に鹿垣(ししがき:鹿や猪よけの垣を戦場に用いたもの)を組み立て、要害に逆茂木(棘のある木の枝で作った防御の柵)を立てて、鏃(やじり)をそろえて待ち構えていた。 
 義助はこれを見て、「これはきっと今庄法眼久経という武士の一族に違いない。久経は宮方に属して後醍醐天皇の比叡山臨幸にも付き従ったものである。その一族であれば、さすがにこれまでの経緯を忘れていないものと思われる。誰か、近づいて事情を聴いてまいれ」と言いつけたので、(群馬県太田市由良町に住んだ武士で、新田の家来である)由良光氏がその名を受けて、ただ一騎馬を進めて近づいた。〔ここで道を塞いでいる淨慶は久経の子どもである。〕

 敵も矢の届く範囲を通り過ぎて近づいてきたので、光氏は、馬を止めて、「脇屋義助殿が、合戦の相談のために杣山の城から金ヶ崎に一時的にお出かけになっているのを、おのおの方はご存知で、このように道を塞がれたように見受けられる。もし1本でも矢を射かけるというようなことがあれば、朝敵となり、どのように罪を逃れることができるとお思いであろうか。早く弓をしまい、兜を脱いで、御通しください」と声高らかに宣告する。
 今庄入道は馬から降りて、「私の親である久経は宮方に属して戦場で忠節を尽くしており、その際に目をかけていただいていることはありがたく思いますが、淨慶は父とは離れて、斯波高経殿に属しております。それで、ここをそのままにしてお通ししてしまっては、斯波高経殿からどのようなおとがめを受けるかわかりません。それで、恐れながら(形だけでも)一戦交えるようにするつもりです。これまったく私の本意ではありませんので、もしお供の武士たちの中で名の知られた身分の高い方を引き渡していただき、その首をとって、一戦したという証拠として提出して、とがめを受けないようにしたいと思います」という。〔ずいぶん手前勝手な言い分だが、これが乱世の処世術というものであろう。〕

 光氏は義助のもとに帰り、今庄入道の言うところを復命すると、義助は進退に窮した様子で思案されていたのを、傍らで聞いていた義顕は「淨慶がいうところも、もっともな点がないわけではないが、これまで随行してきた士卒は、親子よりも重要な存在である。したがって、自分の命のために彼らを犠牲にするというわけにはいかない。光氏よ、もう一度淨慶に向かって、この旨を言い聞かせてみよ。それでも難しいことを言うようであれば、やむなく、我らも士卒もともに討死して、将士ともに道義を重くし、後の世に伝えるまでだ」という。

 光氏はまた淨慶のもとに出かけて、この旨を伝えると、淨慶はなお納得せずに、時間がたつうちに、光氏は馬から降りて、鎧の上帯を切って投げ捨て、「天下のために重要な仕事をされている大将が、自分の士卒の命を大事にしてご自分の命を捨てようとされているのだぞ。まして、忠義を重んじて命を軽んずべき家来の身分として、主人の身代わりに死なないということがあっていいわけはない。どうしても首がほしいというのなら、この光氏の首をとって、大将を通していただきたい」というや否や、腰の刀を抜いて腹を切ろうとする。その忠義の様子を見て、淨慶もさすがに感動をおぼえたのか、走り寄って、光氏が刀にとりつき、「ご自害はやめてください。大将のお気持ちも、家来の方の覚悟も、理にかなっていると思いますので、淨慶がどのような罪に問われても、無情なふるまいをして道を塞ぐようなことは致しますまい。どうぞ早くお通りください」と言い、弓矢をしまい、逆茂木を引きのけて、泣く泣く道の傍らに畏まった。

 義助、義顕の両大将は、大いに感動されて、「我々はたとえ戦場の塵に没すとも、もし新田家の中で天下に号令するものが現われたなら、これを証拠として名乗り出て、この度の忠義を世に顕わせ」と、金細工の装飾をほどこした刀を抜き出して、淨慶に与えた。
 光氏は、大将の危機を見て、自分の命を捨てて護ろうとする。大将は、士卒の忠義の志を無駄にしまいと、ともに戦死しようと決心した。淨慶は、敵の義を感じて、後の罪を顧みることがなかった。それぞれに理由のある判断であったので、これを聞きみる人々は、いずれも感心したのであった。

 『太平記』の作者は、三者三様に「義」を通したことを賞賛しているが、理念と現実の折り合いをどのようにつけるかという苦心は昔も今も変わらないということのようである。両者ともに正面からの戦闘を避けているところも、注目してよいところである。宮方の有力な武将である脇屋義助・義顕が大軍を保持できず、地方の武士に行く手を阻まれて、どのように底を突破するかに苦労しているところに、兵力において劣勢である宮方の苦境が集約されているように思われる。さて、義助、義顕は無事に金ヶ崎に到着できるのであろうか。それはまた次回。 

フローベール『感情教育』(4-3)

12月24日(日)曇りのち晴れ

これまでのあらすじ
〔1〕 1840年9月、大学入学を前に裕福な伯父のもとを訪問した帰り、パリからセーヌ川を遡上する汽船に乗ったフレデリック・モローは船の乗客の1人である共和主義者の画商アルヌーと知り合い、その美しい夫人に恋心を抱く。オーブ県の没落しかけている名家である彼の実家では、彼の前途に期待を託している母親が彼の帰りを待っている。帰宅した彼は、高校時代の親友であるシャルル・デローリエが会いたがっていると聞き、夜、遅くなっていたが、会いに出かける。
〔2〕 夢想家で芸術に関心のあるモローと、退役した軍人の息子で高校では半給費生であり、努力家で社会問題に関心が深いデローリエとは育った環境も性向もまったく違っていたが、二人は親友であった。デローリエはフレデリックよりも早く卒業してパリの法科大学に入学していたが、いったん学業を中断して、法科大学の学資を得るために県庁所在地の公証人役場の書記の仕事をしていた。久しぶりに再会したデローリエは、フレデリックに大学ではしっかり勉強して卒業するように忠告する。「とにかく、肩書は役に立つんだ。」(31ページ)
〔3〕 パリに出たフレデリックは地元の有力者であるダンブルーズ氏や、一度会っただけのアルヌーを訪問するが、上首尾にはいかない。大学の講義に出るようになったが、一向に興味がわかない。それでも、豪農の息子で美男子の勉強家マルチノン、あまり知性的ではない貴族のドゥ・シジーとの友達付き合いで時間を潰す。無為な生活を後悔して講義に出るようになっても、欠席が響いて内容が少しもわからず、それでも何とか試験に合格して2年生になる。
〔4〕 1841年12月、パリで暴動が起き、フレデリックは警官ともみ合って取り押さえられたデュサルディエという青年を助けようとして、同じ法科大学の学生であるユソネと知り合う。ユソネは演劇界で成功することを夢見ている青年で、フレデリックと意気投合する。しかも、アルヌーと知り合いだという。何度かすっぽかされたが、ユソネに連れられて、フレデリックはアルヌーの発行する「工芸美術」の事務所に出かける。そこでアルヌーとの交友を深めることができたが、夫人に逢うことはできない。フレデリックはさらに、アルヌーのところで知り合った画家のペルランからアルヌーの女性関係と、夫人が貞淑であることを聞く。

 次第にフレデリックはアルヌーの事務所に顔を出す常連になっていった。事務所にはルジャンバールという、何をしているのかよく分からない男が常連の一人として出入りしていた。フレデリックはアルヌーが金満家で、美術愛好家で実行家であるだけでなく、商売にかけてはかなり悪辣なこともしていることを知るようになる。
 ある日、アルヌー夫人とすれ違いになり、彼女が本宅にいて、事務所には時々顔を出すだけであるということを知る。久しぶりに出会ったペルランから、アルヌーの悪口を聞いたフレデリックは、思わず彼を弁護する。しかし、実際にアルヌーに逢ってみると、その人格の下劣さに愛想が尽きる思いである。

 その週、次の木曜日にパリに着くというデローリエの手紙が届く。「そこで、彼の心はより確実でより高貴な愛情の方にまた強く引き戻されていった。」(71ページ) デローリエとの友情は、パリで出会った友人たちとの友情に勝るものだと思ったフレデリックは、彼を迎えるための準備をすすめる。
 「そして、木曜日の朝、彼がデローリエを出迎えに行こうとしていると、入り口に呼び鈴が鳴って、アルヌーがぬっと入ってきた。」(同上) 夕食に招待しようというのである。そこで、彼は服屋と帽子屋と靴屋に連絡をとる。そうこうしているうちに、デローリエが到着して、門番が肩にトランクを担いで入ってくる。デローリエは、フレデリックが彼を迎えに来なかったことを不思議がっている。彼は法律についての知識を駆使して、父親が自分のものにしていた母親の遺産の7,000ポンドをとりもどし、パリに出てきたのである。

 フレデリックは久しぶりに再会した旧友を歓待する。「門番が炉のそばの卓上に仔牛肉、ギャランチーヌ、伊勢えび、菓子果物、それにボルドーぶどう酒を2本並べた。こうした歓待ぶりにデローリエは感動した。」(72ページ) 〔ギャランチーヌgalantineというのは鶏肉や仔牛肉にレバーなどを詰め、ゼリーで固めた冷製料理だそうである。あるいは私も食べたことがあるのかもしれないが、そういうことは気にかけない性分なので、食べたという記憶がなくなっている。〕
 そこへ、帽子、続いて服、さらに靴が届く。こうなると、フレデリックがどこかを訪問しに出かける約束があることがわかってしまう。フレデリックは事情を説明し、急なことで仕方がないのだと言い訳する。そして1人でアルヌーのところに出かける。〔このあたりで、フレデリックとデローリエの気持ちが微妙にすれ違っているのがわかる。〕

 「シナ風に装飾した控えの間には、天井に色提灯をつり、部屋の隅々には竹がおいてある。フレデリックは虎の皮につまずいた。燭台にまだ灯はついていないが、奥のブドアールに2つの灯火が輝いていた。」(74ページ) ブドアールboudoirというのは辞書によると女性の私室ということは、アルヌー夫人の部屋である。
 フレデリックは落ち着かない気分だったのが、迎えに出てきたアルヌーが地下室にぶどう酒をとりに出かけて、彼らの子どもと二人きりにし、その子どもの相手をしているうちにだんだん気持ちが落ち着いてくる。そしてアルヌーが戻ってきて、さらに別の方角からアルヌー夫人が現われる。
 「アルヌーはフレデリックを紹介した。
 「ええ、あたくしよく覚えておりましてよ」夫人はそうこたえた。」(76ページ)

 他の客たちがやって来る。それぞれ有名な画家、詩人、美術批評家、作曲家…である。ユソネも顔を出している。最後にペルランがやって来る。フレデリックは集まってきた客たちにも、提供されたご馳走にも満足する。さらに客たちがそこで交わす会話にも大いに関心を引かれた。気分よく過ごしていると、突然ペルランが思想のない芸術は意味がないなどと言い出したりする。その間、彼はアルヌー夫人を見ていた。「耳に入ってくる言葉が彼の心の中でるつぼに溶けている金属のように彼の情熱に溶けて、恋を作った。」(78ページ)

 アルヌー夫人に再会したフレデリックは、彼女に対する恋慕の気持ちを募らせる。アルヌー夫人の方でもフレデリックのことはよく覚えていたようである。二人の関係が今後どうなっていくのかも気になるところではあるが、この席にはユソネもいるし、フレデリックの部屋にはパリに出てきたばかりのデローリエが彼の帰りを待ち受けている。そして、青年たちを主な登場人物としながら、七月王政下のフランスとパリはさらに大きな変動の時代を迎えようとしている…。

日記抄(12月17日~23日)

12月23日(土)晴れのち曇り

 12月17日から本日までの間に経験したこと、考えたことなど:
12月17日
 『朝日』の朝刊は書評欄を始め、読み応えのある記事が多かった。特に横尾忠則さんによる磯崎憲一郎『鳥獣戯画』の対話体の書評(「僕も面白い日記を書くためにわざと面白い行動に出て日記を面白くする」)は、独立の読み物として読めてしまう。野矢茂樹さんの坂田隆『新哲学対話 ソクラテスならどう考える?』の書評は、読んですぐにこの本を読みたくなった。アレクセイ・ニルチャク『最後のソ連時代 ブレジネフからペレストロイカまで』、堀真理子「改訂を重ねる『ゴドーを待ちながら』 演出家としてのベケット』の書評も興味深かった。原武史さんによる松本猛『いわさきちひろ 子どもへの愛に生きて』の書評では、ちひろが宮沢賢治のことばに触発されて共産主義に共鳴するに至ったこと、彼女が池袋モンパルナスで丸木俊と知り合い、その交流が続いていたことが紹介されていたのが注目される。(私は丸木俊は好きで、毎年、すずらん通りの檜画廊で開かれている丸木位里・俊展は大体見に出かけている。) 大沢真幸さんの連載「古典百名山」では、西田幾多郎の『善の研究』を取り上げ、「ある日、西田は講義の途中で黙ってしまい、突然「わからん!」と言って、さっさと帰ってしまった。…学生はしばし愕然としたが、「わからん」に感動して教室を出たという。・・・我々は、戦後の日本人は、西田の「わからん」を継承しているだろうか。」という最後に問いかけている。難しい問題に果敢に挑戦する知的な勇猛心、その結果、自分の表現が難しくなってしまうことを恐れない態度、わからないことをわからないという率直さ、ともに大事なことではないかと思う。〔お茶の水女子大で教えていた周郷博は、教室に向かう廊下を歩いていて今日はどうも大した講義が出来そうもないと思うと引き返して授業をやめ、奈良女子大で教えていた岡潔は通勤の途中の道で石を蹴飛ばして、自分の調子を占い、調子が悪そうだと授業をやめたという話がある。古き良き?時代の話である。〕

 人生100年会議がその中間報告書で、学校を卒業して実人生で体験を積んだのち、学校に戻って学びなおす「リカレント教育」の実現を訴え、そのために産官学の連携が必要だと述べていると『朝日』の朝刊が報じていた。まことに結構なことであるが、北欧のリカレント教育が一部の学会で注目を浴びていたのはもう40年くらい昔のことである。政策形成がもっと学会の動向に敏感であることを切に望む。

 横浜駅東口のそごうの中にある紀伊国屋で飯田隆さんの『新哲学対話』を早速買い求めたのだが、私と同じようなことを考えていた人が多かったようで、平積みにされていたのが1冊しか残っていなかった。最初の部分で著者が、プラトンでは台所のことばで哲学が語られているという大森荘蔵の評言が引き合いに出されているのが印象に残った。難しいことを考えていると、表現がむずかしくなるのは避けられないことであるが、それでもやさしい表現ができるというのは偉大なことである。

12月18日
 『朝日』地方欄の「探訪@厚木・伊勢原・秦野」という連載に、伊勢原市日向の日向薬師では、毎年1月8日の「初薬師」の日に、参拝客の健康を祈念して、おかゆとお漬物を振舞うという記事が出ていた。出かけてみたいが、たぶん、参拝路を歩ききる体力がないのが残念である。

 『日経』の文化欄室町時代の酒母「菩提翫」を『多聞院日記』などの記載をもとに復元して、奈良市の菩提山正暦寺でつくられていた清酒「菩提泉」を再考したという記事が出ていた。寺院の日記には百科全書的な性格がある場合もあるということかもしれない。

 NHKラジオの『短期集中3か月英会話』は10~12月の間「洋楽で学ぶ英文法」という内容で放送を行っている。聞き流すのにはちょうどいい内容なので、聞いているのだが、今週は追悼ウィークだそうで、その第1回としてレオン・ラッセルの”A Song for You"が取り上げられた。
 I've been so many places in my life and time (これまで、いろんな場所に足を運んできた)
 I've sung a lot of songs, I've made some bad rhymes (たくさんの曲を歌い、つまらない歌詞を書いたこともあった。)
 I've acted out my love in stages (ステージで自分の愛を表現してきた)
 With 10,000 people watching (1万人の人が見ている中で)
 But we're alone now, and I'm singing this song to you (でも、今は二人きり、そしてこの歌をおまえに歌っている)

12月19日
 『短期集中3か月英会話』はゲーリー・ムーアの”Still Got the Blues"を取り上げた。ムーアはベルファスト出身だそうで、文化の衝突の中で、彼の音楽を育んだらしい。
 Used to be so easy to give my heart away (昔は簡単に人を好きになることができた)
 But I found out the hard way (でも、つらい思いをして分かったんだ)
 There's a price you have to pay (払うべき代償があるってね)
 I found out that love was no friend of mine (愛は友達ではないことが分かった)
 I should have known time after time (そのことをしっかり学ぶべきだった)

12月20日
 NHKラジオ『実践ビジネス英語』は”Transforming a Night Owl"(夜型人間の改造)という新しいビニェットに入った。
Their body clocks are out of sync with the rhythms of the working world, especially in a hyper place like Manhattan.(彼らの体内時計は、実社会のリズムと合っていない。マンハッタンのようにあまりに活動的なところでは、とくに。)という。私は、最近、夜型の生活をしていて、何とか、朝型に戻そうとするのだが、コンピューターの仕事が遅いこともあって、なかなか戻せないでいる。

 研究会でAI(人工知能)の読解力がまだ十分ではないことが指摘されているが、そのAIに及ばない読解力しかもっていない大学生がかなりいるのではないかという報告があった。その原因や対策をめぐってさまざまな議論が展開された。

12月21日
 NHKラジオ『まいにちスペイン語』応用編「スペイン文学を味わう」は19世紀スペインの文学作品を取り上げており、12月はガリシア地方出身の女流作家エミリア・パルド・バサン(Emilia Pardo Bazán, 1851-1921)のLos Pazos de Ulloa (ウリョーアの館)を読み進んでいる。ゴンクール兄弟やゾラなどフランスの自然主義の作家たちと交流したり、ロシア小説の紹介につとめたりしたりする一方で、フェミニストとしても活躍した。講師の大楠栄三さんはこの小説の翻訳を手掛けた人だけに、番組への取り組みも一段と力が入っているようである。
 ガリシアの山の中にあるウリョーアの館の礼拝堂付き司祭になった若いフリアンは、館の当主であるドン・ペドロとその使用人たちの荒々しく粗野な生活ぶりに驚く。ドン・ペドロが執事であるプリミティボの娘で、館で女中として働いているサベルを愛人にして、ペルーチョという子どもまで儲けていることを知ったフリアンは、何とかドン・ペドロを立ち直らせようとドン・ペドロの母方の叔父であるドン・マヌエル・パルド≂デ=ラ=ラヘのサンティアゴ・デ・コンポステラにある屋敷に出かけさせ、そこでドン・マヌエルの3女であるヌチャとドン・ぺドロが結婚することになる。
 新妻であるヌチャは、館のこれまでのいきさつなど何も知らないまま、館のことを知ろうとしてあちこち探索を始め、鶏舎から卵を盗んでいたペルーチョを見付け、彼が自分の夫の私生児であることなど気づかず、かわいいので、すっかり気に入ってしまう。
 ヌチャは懐妊し、難産の末出産するが、生まれたのは女の子で、これ以上子どもは難しいと医者に言われたため、ドン・ペドロは途端にヌチャに冷たく接するようになる。一方、館で大っぴらに振舞うようになったペルーチョは、赤ん坊に興味を持ち、彼女を喜ばせようといろいろな工夫をするようになる。

同じく『まいにちドイツ語』応用編「ベルリン――変転する都市」では”West-Berlin Eine Insel in der DDR"(西ベルリン――東ドイツに浮かぶ島)という文章を読んだ。西ベルリンはいわば東ドイツという海に浮かぶ孤島となったのだが、その政治的な地位は独特のもので、外交と通貨行政は西ドイツが代行するという協定があり、実質的には西ドイツの飛び地だったが、法的には、アメリカ、英国、フランスの占領地区であり、西ドイツ領ではなかった。兵役義務がなく、住民の流出を防ぐために補助金の支給もあったため、西ドイツから兵役を忌避する学生や若者が集まった。1968年の学生運動の中心となったのも、そうした背景からであり、その中でさまざまな若者文化が生まれたという。

 同じく『まいにちイタリア語』応用編「原文で読む古典の楽しみ」では16世紀の詩人ルドヴィーコ・アリオスト(1474-1533)の《Orlando furioso》(狂乱のオルランド)を取り上げる。シャルル・マーニュ(カール大帝)に仕える騎士であるオルランドの武勇と、彼の美女アンジェリカへのかなわぬ恋を描いた騎士道叙事詩である。姿を消したアンジェリカを探すオルランドは、アンジェリカが他の男と恋に落ちているという徴を見付けるが、それを信じたくない…。
 この放送では省略されていたが、怪獣の生贄にされようとしたアンジェリカをオルランドが助ける場面は、アングルをはじめ多くの画家によって描かれている。ペルセウスとアンドロメダ、聖ジョージと国王の娘(名前を忘れた)、(素戔嗚尊と櫛稲田姫)の同工異曲であるが、ペルセウスとアンドロメダ、素戔嗚尊と櫛稲田姫は結婚し、聖ジョージは助けただけ、オルランドは助けたのに振られるという一番悲惨な運命をたどる。

12月22日
 『まいにちスペイン語』応用編、『ウリョ-アの館』の続き。当時、この地方を支配していたのは2人のカシケ(cacique, 有力者)であった。1868年に革命が起きて、1869年に憲法制定議会が開かれることになり、そのための選挙が行われることになる。伝統主義者と自由主義者の激しい対立が展開していたのだが、
Conviene saber que ninguno de los dos adversarios tenía ideas políticas, dándoseles un bledo de cuanto entonces se debatía en España(敵対するどちらも政治的見解などまるで持ち合わせていなかったことは知っておくべきだろう。そのころスペインで議論されていたことなど、彼らには全くどうでもよかった。)
 革命以前穏健派だったバルバカナは、今やカルロス支持派となり、中道的な自由主義連合を支持していたトランペタは、急進的な自由主義者になっていた。そしてバルバカナが自分は立候補せずに、ウリョーア侯爵の名で知られるドン・ペドロ・モスコソを推薦したので、ウリョーアの館は大騒ぎとなった。
 選挙戦は白熱し、相手候補者の中傷や、投票用紙のすり替え、署名偽造、脅迫、暴力などありとあらゆる策略が駆使された。
 作者の父親はこの制憲議会に議員として参加したそうで、そうした経験や記憶が物語により迫真性を与えているのであろう。

 NHKラジオの「朗読の時間」で田山花袋の『蒲団』を放送しているが、(前回も書いたかもしれないけれども)同じく「自然主義」的傾向をもつ作品と言われる、この『ウリョーアの館』に比べてスケールが小さいというか、想像力が働いていないというか、情けなくなるところがある。

12月23日
 『朝日』の朝刊の地方欄にエリザベス・サンダース・ホームの創設者である澤田美喜がキリシタンの遺物のほか、キリスト教にかかわる様々な土地の石を集めていたという記事が出ていた。何の変哲もない、おそらくはほとんど無価値の石ではあるけれども、拾った場所やそこまでの旅路を考えると、金や美意識では評価できない意味があるということなのだろう。ある人間の事業や取り組みと、その人間の趣味やコレクション(それ自体が事業になる場合もあるけれども)とはその人だけの理由で結びついているということがあるのかもしれないと思った。 

服部英雄『蒙古襲来と神風』(3)

12月22日(金)曇りのち晴れ

 1274年(文永11)、1281年(弘安4)の2度にわたり、蒙古が日本に侵攻してきたが、2度とも日本側が防戦に勝利した。この勝利をめぐり、神風によって、蒙古が退散したという神風史観がいまだに影響をもちつづけている。「神風によって、蒙古が退散した。つまり、二度ともに神風が吹いて、元寇は決着がつく。文永の役では敵は一日で引き返し、弘安の役では嵐によって、肥前鷹島に集結していた敵船が沈み、全滅した。」(ⅰ-ⅱページ)
 ところが、事実はさまざまに違う。文永の役についてみると、1日で敵が帰国した原因とされる嵐は、その日には吹いてはいない。戦闘は1日では終わっていない。蒙古が来襲したのは、台風の襲来にはあまりにも遅い10月である(当時は太陰太陽暦が使われていたので、現在の暦に直すと晩秋か初冬である)。元軍は優勢に戦いを進めてはいたが、日本側の必死の抵抗で九州本土に拠点を確保できず、壱岐を補給拠点として戦っているうちに天候が悪化して戦闘持続が困難になったために、悪天候を理由として撤退したものと考えられる。
 弘安の役についてみると、確かに台風は来たし、沈没船も出たが、大きな被害を受けたのは鷹島に停泊していた後発の江南軍であり、先発の東路軍は博多湾にいてすでに本土に拠点を築いていた。嵐の後も2度の海戦があり、日本が勝利した結果、戦争継続を困難と判断した蒙古軍が退却したのである。

 こうした蒙古襲来の際の戦闘の実際の姿を知るための優れた史料が『蒙古襲来絵詞』である。この「『絵詞』は、合戦に参加した肥後国の竹崎季長が、戦後10年ほどを経て、絵師に描かせたものである。絵師が合戦の様子を聞きながら作成した。文字のみではなく、絵画があるところがすばらしい。700年も前、14世紀初頭という、世界にも例をみない合戦絵巻である。蒙古合戦を考えるうえで、これ以上に良質で情報豊かな史料はないといえる。」(117ページ)
 地方の御家人である竹崎季長がこのような絵巻を作成できたのか、考えてみる必要がある。絵巻は通常、高額なため、皇族、貴族あるいは大社寺しか発注できなかった。高額になった理由の一つは、墨も顔料も輸入品が使われたからである。

 竹崎(藤原)季長の本貫地を探すと、肥後には玉名郡、益城郡、阿蘇郡に竹崎という地名があることがわかる。阿蘇神社の社家である阿蘇氏の中に竹崎を名乗るものがいるが、季長が阿蘇姓ではなく、藤原姓であったことを示す史料がある。『絵詞』の中で、菊池一族と遭遇した季長がその名乗りの中で「同じきうち」と言っていることから、藤原姓を名乗っている菊池氏の一族である可能性がある。〔菊池氏は刀伊の入寇の際に大宰府の権帥としてこれと戦って撃退した藤原隆家の子孫ということになっていたが、実はその際に隆家のもとで奮戦した藤原蔵規の子孫だそうである。〕 季長の身近で戦った武士たちの出身地を考えると、玉名郡の竹崎の可能性が高いと著者は考えている。
 しかし、著者によると、玉名郡竹崎は二次的な名字の地で、本来の出自は、実は長門国竹崎であったのではないかという。季長の烏帽子親は長門守護代の三井季成(すえしげ)であり、そのことから竹崎氏が長門の有力な武士であったことが推測できる。長門の竹崎は赤間関(下関)の一部であり、重要な港のひとつであった。
 長門国豊浦郡竹崎が苗字の地ならば、なぜ肥後国玉名郡に竹崎があるのか。これは地頭として竹崎氏が移り住んだためではないかと服部さんは推測して、いくつかの例を挙げる。〔ここでは挙げられていないが、いちばん目覚ましい例は、東京の渋谷である。相模国渋谷荘は、現在の大和市を中心とする広い地域であり、桓武平氏の秩父重綱の弟河崎基家の孫重国がこの地に住んで渋谷庄司と称した。彼は平治の乱で敗れて奥州に逃れようとした佐々木秀義を自分の館に匿い、秀義の子どもたちが頼朝に仕えて功績があったことから、石橋山の戦いの際には平家方に属していたにもかかわらず、許されてその地位を保つことができた。その一族の一部が東京の渋谷に住みついたので、渋谷という。渋谷の金王八幡神社では渋谷系図を伝えているというから、一度見に行こうと思っている。この神社の前はよく通ったのだが、参拝したことはないのである。〕

 しかし、蒙古との合戦の際に季長や同行した(義兄の)三井資長の兵力は家格のわりに少ない。本領を一族なり、北条氏なり、誰かに奪われていた可能性がある。長門が本貫地で庇護が新恩地だとすると、この移動は承久の乱後、あるいは宝治合戦による三浦氏滅亡後であろう。
 地名が新たに竹崎になった理由としては、玉名郡での季長、あるいはその父、または祖父にきわめて顕著で卓越した行動力があったからではないかと想定できる。高額な絵詞を作成できたのは、それだけの財力があったからであろう。そこで考えられるのは、この一族が日宋貿易にかかわっていた可能性である。
 菊池川の川床から表面採集された陶磁器には、博多から出土する中国陶磁と同じ、優品の青白磁、また墨書土器が大量にあるそうである。九州で有数の杉の産地である小国から切り出された杉の木が菊池川を下って海岸から宋へと輸出されたと思われる。小国には鎮西探題北条氏の拠点があった。さらに阿蘇・九重・雲仙では硫黄を産出した。日宋貿易を志向していた北条氏はこれらの産出地をその支配下におさめていた。

 菊池氏は蒙古襲来前後には鎌倉・北条実時家と深い交流があった。北条実時は金沢北条氏で、一族の中でも特に日宋貿易に積極的な家であった。金沢北条氏の顕時は安達泰盛の娘を妻にしており、両者は連携関係にあった。竹崎氏の財力と、並びに同族で中央政界とも結びついていた菊池氏の財力の由来は、大陸に至近の九州西部に基盤があること、木材、場合によっては硫黄をも宋に輸出できたことにあったと著者は考えている。
 竹崎氏は海洋性を特色とする武士団であったことがわかる。交易に依存する場合と違って、収入の変化が大きかったと思われる。おそらくは、思わぬ臨時収入があったことが絵詞作成の直接の動機であったと考えられる。絵詞では菊池一族の存在が強調されているが、あるいは菊池一族からも作成のための費用を出してもらっていたのかもしれないという。

 このあたり、鎌倉時代の武士たちの経済的基盤の一端が明らかにされていて興味深い。菊池氏はこの少し後の南北朝時代には後醍醐天皇方として活躍することになるが、もともと1285年(弘安8)の霜月騒動で殺害された安達泰盛派であったというのは納得のいくところである。海洋性の武士団ということから、同じく後醍醐天皇方として活躍した名和氏が山陰の海上交易に携わった武士ではないかと言われていることを思い出した。安達泰盛は、この後の第5章で詳しく内容が検討される『蒙古襲来絵詞』にも登場するので、ご期待ください。

前田速夫『「新しき村」の百年 <愚者の園>の真実』(4)

12月21日(木)晴れ

 <新しき村>は1918年(大正7)11月14日に武者小路実篤の主唱により、宮崎県児湯郡木城村大字石河内字城に土地を求めて始められた共同労働と余暇における個性的活動の結合により新しい社会の実現を目指す共同体運動であり、1939年(昭和14)にその本拠地を埼玉県入間郡毛呂山町葛貫に移して現在に至っている。
 村の創設の背景をなしているのは雑誌『白樺』を中心に展開された理想主義、個人主義的な考え方と、1918年に全国に広がった「米騒動」をはじめとする社会不安に際して社会改造への機運が高まっていたことである。
 村の運動は、『白樺』派の同人をはじめ多くの支持・賛同を集めて始められたが、社会主義者や無政府主義者からはその理想には共感しても、方法論的には肯定できないという批判が寄せられ、さらに文壇やジャーナリズムからもその非現実性についての批判を浴びた。〔それ以上に官憲からの猜疑や干渉、世人の無理解や警戒の方が重大な問題であったと思われる。〕

 <新しき村>について、もっとも真摯な対応を寄せたのは、『白樺』の同人の一人で武者小路の兄貴格であった<良心の作家>有島武郎である。有島には「武者小路兄へ」と題する書簡体の文章があり、そこでは新しき村によって実際生活の改造に着手したことを賞賛しながら、この企ては失敗に終わるだろうと予見している。有島は中途半端に妥協して成功するよりも当初の趣旨を貫いて失敗することの方が意味があるというようなことを述べているのだが、武者小路は早とちりの反論をしてしまった。有島はこの4年後に彼自身が試みることになる北海道狩太(現・ニセコ町)の有島農場を無償で小作民に譲り、彼らの共有農場にするという企ての構想を抱き、それだけでなくそれが失敗に帰することも見通しており、その覚悟を武者小路に吐露していたのであると前田さんは論じている。有島の企ては彼の予想通り失敗するが、「村」は武者小路の図太さのために生き延びることになる。

 開村当初の村は自活からほど遠い状態(経費はほとんど武者小路が負担し、残りは寄付で賄った)であったが、その生活ぶりは暢気なものであった。1日8時間(のちに6時間)の義務労働を終えると、自由時間でレコード鑑賞、絵画制作、創作などに宛てられ、テニスや演劇活動なども行われた。こうした文化的な活動を通じて、地域の人々の交流も進むようになったが、その一方で村の規模の増大に連れて、内紛が生じる。若い独身の男女が多いことからややこしい関係が持ち上がったり、村のために一生懸命に働こうとする連中と出来るだけ自由時間を持ちたいという連中との対立も生じる。
 「その後も人の出入りの激しいのが新しき村の特徴で、離村の理由は家庭の事情、失恋、挫折、病気、失望と、人によりさまざま。個人的な事情もさることながら、根底に労働派・芸術派の対立がわだかまっていて、その後も折に触れて噴き出した。このことは、共同の生活において、理想と現実とはそうやすやすと一致できるものではないことを改めて教えてくれる。」(64ページ)

 村の生活(と武者小路の思想)の積極的な面として、反戦・反差別が挙げられる。「新しき村」には、視覚障害者、ハンセン病患者、被差別部落出身者、朝鮮人も住んでいて、何ら差別もなかったという。武者小路は、村の開設に先立つ1915年に、台湾で起きた反日蜂起(西来庵事件)への処罰として台湾人800人の死刑判決が下ったのに激しく抗議した。
 魯迅の弟である周作人が「新しき村」を訪問したのは1919年のことで、彼は、自国の『新青年』誌上で新しき村を紹介し、北京に支部を創設する。兄の魯迅は武者小路の戯曲「ある青年の夢」を翻訳し、陳独秀、毛沢東、周恩来らもそれを読んだと言われる。この作品には武者小路の反戦の思想が強く投影されている。彼はおそらくトルストイに影響を受けたものと思われる。彼は1919年には、その前年のシベリア出兵を批判し、その後も日米開戦をあおることの危険を警告した。〔しかし、その後、日米戦争に協力している。トルストイは陸軍将校としてクリミア戦争の最大の激戦地であったセヴァストーポリの要塞をめぐる戦いに参加しているが、武者小路にはそういう経験はない。最初の近代戦といわれるクリミア戦争を体験したトルストイと、従軍体験のない武者小路では平和主義といってもその性格が違ってくるのはやむを得ないことかもしれない。〕
 フランス留学中にバルビュスの「クラルテ」運動の感化を受けて帰国した小牧近江は武者小路のこのような姿勢に感激して、彼の協力を要請しているが、武者小路は自分は団体運動に入らないことにしていると言って、自分よりも有島武郎の方が適任であると述べたという。〔前回、「村」の賛同者の1人であった金子洋文が『種蒔く人』の創刊にかかわったこ徒が紹介されていたが、小牧近江も『種蒔く人』にかかわったことに触れていないのは奇妙である。〕

 武者小路は「自我」を第一に尊重する一方で、「人類」という言葉をよく口にした。彼にはコスモポリタン的な志向があったことは事実で、村でも村内会員の1人である木村壮太を講師としてエスペラント語の学習会が行われたりした。3年目に初めて陸稲がとれ、隣の川南村萱根(けね)に「第二の村」ができる。東京池袋郊外には、新しき村出版部として、曠野(あれの)社が設立される。離村者が出た一方で、新たに加わる人々も出て、人数はかえって増えている。
 このような中で、例えば広津和郎のように「新しき村」に新たに共感を示す人々も出現する。広津は1923年に芸術社を創立し、初の『武者小路実篤全集』の発行を手掛ける。
 1925年には新しき村出版部から、ドイツのレクラム文庫にヒントを得た武者小路の発案で「村の本」の刊行が始まる。「吾人は範をかのレクラム文庫にとり」という岩波文庫の創刊に2年先立ってのことであり、『白樺』派の人々の著作に加えて、小林秀雄の翻訳によるボードレールの『エドガー・ポー』が含まれているのも注目されるところである。

 このように、問題を抱えながらも着実に発展しているかに見えた「新しき村」ではあるが、その後、さらなる問題に直面することになるのは、次回以降に述べることにする。
 木村壮太の実家である牛鍋屋「いろは」(チェーン)には、『白樺』関係者もよく足を運んだのではないかと思われるのは、高村光太郎によるこの店の様子をうたった詩がある(光太郎の作品の中では私の一番好きな詩である――食い気が抜けない⁉)からである。
もっとまじめな話をすると、一海知義先生は光太郎の「ぼくの前には道はない…」という詩と、魯迅の「もともと地上には道はない。歩く人が多くなれば、それが道になるのだ」という短編小説「故郷」の結びのことばの類似性を指摘されているが(似ているけれども、光太郎はあくまで「ぼく」という個人を前面に出しているのに対し、魯迅の場合は「歩く人」が複数に設定されているところに思想的な違いがあると、私は思う)、魯迅が光太郎の詩を読んでいたことは十分にありうる。
 また、魯迅と同じような趣旨のことを、スペインの「1898年の世代」と呼ばれる思想家群の1人である詩人のマチャードが書き留めているという指摘もあって、『白樺』、『新青年』、「1898年の世代」の3つの思想・文学運動に通底する何ものかがあるのではないかというようなことも考えているわけである。

 もう一つ、考えていることを書いておくと、有島武郎の「ひとふさのぶどう」とベラ・バラージュの「ほんとうの空色」という2つの児童文学作品にも、自分の描き出したい色が描けないので、友達の絵の具を盗むという共通のモチーフがあって、この両者の比較も意味があるのではないかと思うのである。

 このブログを始めて以来、読者の方々から頂いた拍手が27,000をこえました。あつくお礼申し上げるとともに、今後ともご愛読をお願いします。 

スペイン語とその周辺

12月20日(水)曇りのち晴れ

 NHKラジオ『まいにちスペイン語』入門編は、高垣敏博さんを講師とする「人生は旅! ¡ Vivir es viajar!」を放送している。これは2016年4~9月に放送されたものの再放送だそうであるが、旅行用のスペイン語会話に特化した内容で、わかりやすく、おもしろい。その代わり、スペイン語を本格的に勉強して、読み・書き・聞き取り・話せるようにしたいと思っている人には物足りないかもしれない。とはいえ、現地を旅行して、ちょっとした会話を楽しむためにも、基本的な文型の反復練習や、単語の暗記が必要だということを忘れているわけではないから、油断はできない。

 この番組のもう一つの特徴は、旅行用ということに関連して、スペイン語の多様性に目を向け、それを強調していることである。まず、スペインと、ラテンアメリカのスペイン語の違い、それからラテン・アメリカ各地でのスペイン語の違いが説明されているし、それどころか、スペインの中でのカタルーニャ語(catalán)、ガリシア語(gallego)、バスク語(vasco, バスク語ではeuskera) というスペイン(カスティーリャ)語と異なる言語の存在、あるいはラテンアメリカにおけるナワトル語(náhuatl)、マヤ語(maya)、アイマラ語(aimara)、ケチュア語(quechua)、グアラニー語(guaraní)などの先住民の言語の存在についても触れているのも注目される。パートナーとして出演されているソニア・デル・カンポさんがスペインのレオン出身で、ガリシア地方の中心地であるサンティアゴ・デ・コンポステーラ大学の卒業、もう一人のパートナーのパコ・パルティーダさんがメキシコの出身ということで、スペイン語の多様性についての配慮がこの点にも感じられる。

 特に12月18日~20日放送分は¿Habla usted ...?(あなたは~語を話しますか?)というフレーズの練習を中心とした内容であったが、20日には野菜と果物を表す語彙の中から、スペインとラテンアメリカで違う言い方をするものを取り上げた。
 ジャガイモはスペインではpatata、ラテンアメリカではpapaという。〔各言語でジャガイモとその他のイモ類を何というかについては、また機会を改めて探ってみることにする。〕 トマトはスペインではtomateというが、メキシコではjitomate(赤いトマト)とtomate(緑色のトマト)を区別する。アボガドはスペインではaguacate、ラテンアメリカでもaguacateということが多いが、アルゼンチン、チリ、ペルー、ウルグアイなどではpaltaという。トウガラシはスペインではguindilla、メキシコではchile、ラテンアメリカではajíという地域も多いとのことである。グレープフルーツはスペインではpomeloというが、メキシコやベネズエラではtoronjaというそうである。
 それで、グレープフルーツジュースを1つくださいというのをスペインでは
Un zumo de pomelo, por favor.
メキシコでは
Un jugo de toronja, por favor.
という(ジュースについても違う言い方をするのである。)

 さらに、スペイン国内におけるスペイン語以外の言語をめぐり、空港の表記の実例の写真などを添えて、「出口」をスペイン語ではsalidaというが、カタルーニャ語ではsortidaという、広場をスペイン語ではplazaというが、ガリシア語ではprazaというなどの実例が紹介された。カタルーニャ語はスペイン語型の言語ではなく、南フランスの話語(ラングドック)と言語的類縁性があると言われるが、スペイン語、ガリシア語とともにロマンス諸語の中に含まれることは間違いがない。これに対して、バスク語は、そもそもインド=ヨーロッパ語族に属さない謎の言語である。「ありがとう」をスペイン語ではGraciasというが、バスク語ではEskerrik asko. こんにちは(Hola)をKaixo、「さようなら」(Adiós)をAgurという。
 番組ではラテンアメリカの先住民の言語の詳細には触れなかったが、深入りすると大変なことになりそうである。

 バスクで忘れてはならないのは、日本に初めてキリスト教を宣教したフランシスコ・ザビエルがバスク人だったということである。彼が臨終の際に何か言ったのだが、近くにいた人がそれを理解できなかったという話があり、つまりバスク語で話したので、意味が解らなかったのだろうと解釈されている。ユリウス・カエサルが暗殺されるときに、ギリシア語でKai su, teknon? (わが子よ、おまえもか)といったとローマの歴史家であるスエトニウスが書いているそうだが、いまわの際に外国語を話したカエサルよりも、母語を話したザビエルの方が人間らしいと私は思う。

 今夜は、研究会に出かけるので、訪問できないブログが多くなりそうです。悪しからず、ご了承ください。

小川剛生『兼好法師』(3)

12月19日(火)晴れ

 『徒然草』の作者である兼好法師の履歴については、京都吉田神社の神官を務めた吉田流卜部氏に生まれ、村上源氏一門である堀川家の家司となり、下級の公家として朝廷の神事に奉仕し、その後、堀川家を外戚とする後二条天皇の六位蔵人に抜擢され、五位の左兵衛佐に昇り、鎌倉幕府・室町幕府の要人と交流したという説が広まっていた。しかし、この書物の著者は、勅撰和歌集における「兼好法師」という作者表記から、彼が下級の公家であったはずがないということをはじめとして、同時代の史料を精査した結果からこの説に異論を唱えている。(『方丈記』の作者は、神官の家柄の出身で下級貴族であり、勅撰和歌集では鴨長明と表記されている。決して「寂蓮法師」ではない。)
 兼好は、卜部兼好と言い、仮名(通称)は四郎太郎で、伊勢神宮と関係のある卜部氏の一族の出身であったと推測される。金沢流北条氏が伊勢の守護であったことから、関東に移り住み、金沢流北条氏の当主であった貞顕に仕えて、京都と鎌倉・金沢の間を往復する連絡係であったものが、貞顕が延慶2年(1309)に六波羅探題北方に任じられた際に、京都に定住するようになったらしい。京都では東山に住み、六波羅の近辺で活動していたようである。

 京都における兼好の生活を考えるうえで、興味深い手掛かりとなるのが『徒然草』第124段に登場する是法法師であると小川さんは述べる。『徒然草』には彼の姿が「浄土宗に恥ぢずといへども、学匠を立てず、ただ明暮(あけくれ)念仏して、やすらかに世を過ぐす有様、いとあらまほし」(浄土宗の立派な僧侶であったが、その学識をひけらかすことなく、ただ朝晩念仏して、安らかに世の中を送っている様子は、かくありたいと思うようなものであった)と記され、兼好は彼に対する賞賛を惜しまないようである。ところが、彼は実はいわゆる土倉で敏腕の経営者であった。寺社に金を貸したり、その土地の代官として年貢の取り立てを行ったり、自らも土地を買い求めたりしていたのである。そして兼好自身も是法ほどではないにしても、洛中洛外に複数の不動産をもっていたことは確実である。

 彼が正和2年(1313)に山城国(山科)小野荘の名田一町の土地を買い求め、その土地を元亨2年(1322)に龍翔寺という禅院に売却したことは文書が残されていて確実な事実である。90貫で買い求めた土地を、30貫で売り払ったのだが、龍翔寺は当時の治天の君(政治を行う上皇)であった後宇多院の庇護を受けていた寺であり、兼好は後宇多院の関心をひきつけようとこの挙に及んだと考えられる。実際に、後宇多院はこの頃、兼好の詠み草を召されたのである。これは彼の事実上の歌壇デビューであった。

 今ひとつ、注目されるのはこの龍翔寺が兼好および『徒然草』ゆかりの地として知られる双ヶ丘から南に500メートルほどの距離にいあることである。兼好は六波羅近辺からこの地域、つまり御室仁和寺の圏内に活動の拠点を移していったようである。

 仁和寺は光孝天皇治世の年号をとった勅願寺である。延喜4年(904)宇多法皇が南御室に住まわれて以後、館長である門跡は後続出身者に継承され、「御室」が別称となり、もっとも格式の高い門跡として発展する。この一帯には仁和寺の子院やその他の寺院、皇族や公家の別邸が点在していた。双ヶ岡の東には双池があり、いわば高級分譲別荘地のようなものであった。この一角に兼好も別業を構えていたと思われる。仁和寺の近くに住んではいるが、内部の人間ではない。「「仁和寺の法師」へのシニカルな、距離を置いた観察もまたよく理解できるのである。」(83ページ)

 この地域と兼好とのかかわりには、金沢流北条氏との旧縁が作用していた。貞顕の庶長子顕助が仁和寺真乗院に迎えられて8代目の院主となり、以後京都の密教界で活動する。兼好はこの顕助に随従するような立場であったことは、『徒然草』238段第6条からうかがわれる。また60段に芋頭が大好物の盛親僧都が登場するが、この奇人も真乗院に属していた。また83・84段の弘融僧都も一時は真乗院に住んだ学僧であった。

 さらに、兼好と堀川家の縁が生じるのも、彼が出家後の正和年間の後半、真乗院と金沢貞顕を介してのことであったと考えられるという。ある事情から貞顕の娘を堀川家に迎えるという話が出てきて、その交渉を通じて、それまで貞顕・顕助に随従していた兼好が堀川家にも出入りするようになったと考えられる。『徒然草』138段第2条は、皇太子尊治親王(のちの後醍醐天皇)の御所に祇候する堀川具親のもとに「用ありて参りたりしに」、具親が論語の「紫の朱を奪うを悪む」という句の所在する巻を探しあぐねていて、見事その役に立ったという話である。尊治が即位するのは文保2年(1318)のことであるから、それ以前のことと考えられる。

 このように説いて小川さんは、兼好が堀川家、あるいは後二条院との関係で詠んだ歌なども参考にしながら、堀川家に常勤する家司であったわけではなく、「遁世者」として出入りしていたのであって、「主従関係は比較的緩やかなものではなかったか」(と93ページ)と述べている。〔人間関係を整理すると、後宇多院が父、後二条院と、尊治親王(後醍醐天皇)がその子どもで、後二条院が兄、尊治が弟ということである。〕 こうして、当時30代であったと思われる兼好は、六波羅探題であった貞顕の影響力を背景に、人間関係を広げていったが、それでも依然として公・武・僧を隔てる壁は高かったと小川さんは記す。実際問題として、この後、兼好はどのように活動したのであろうか、というのは次回。

 仁和寺のように年号を寺号とする寺院としては延暦寺、建仁寺、建長寺、寛永寺などが思い浮かぶが、ほかにもあるかもしれない。永観という年号はあるが、京都の永観堂(禅林寺)はそれとは関係がないというような例もあって、なかなか面倒だが、どなたか詳しくご存知の方がいらっしゃればご教示をお願いしたい。 

『太平記』(189)

12月18日(月)晴れ

 建武3年(南朝延元元年、1336)10月、後醍醐天皇は足利尊氏の申し出に従って京都に還幸しようとしたが、その際に新田義貞に東宮である恒良親王を託し、北国で再起を期すように命じた。10日、京都に到着した天皇は、花山院に幽閉された。北国に向かう義貞軍は、木目峠で多くの凍死者を出したが、13日、敦賀の金ヶ崎城に入った。その後、大軍を一か所にとどめおくのは戦略上不都合であるとして、義貞の子義顕に2千余騎をつけて越後に向かわせ、弟の脇屋義助には千余騎を付けて瓜生(越前市瓜生町に住んでいた豪族)一族の杣山の城(福井県南条郡南越前町阿久和の山に築かれていた城)へと遣わすこととなった。金ヶ崎城が攻撃された際の後詰めとして働く援軍を求めてのことである。

 10月14日、義助、義顕は3千余騎を率いて、敦賀の津を発って、まず杣山へと向かった。杣山の城を本拠とする瓜生判官保、その弟の重(しげし)、照(てらす)の兄弟3人が、一行をもてなすためにさまざまな酒肴を運ばせて、鯖並(さばなみ、南条郡南越前町鯖波)の宿へとやってきた。兄弟はさらに5,6百人のものに兵糧を持たせて、義助たちの率いている軍勢に食事を与え、一生懸命に一行をもてなす様子は、まったく他心など持っていないように思われたので、大将も士卒も彼らを頼もしく思ったのであった。
 岩波文庫版の脚注に瓜生氏は嵯峨源氏であると書かれている。嵯峨源氏を名乗る一族の特徴は一字名を付けることで、この3兄弟もすべて一字名である。判官というのは検非違使判官で、源義経と同じ役職である。
 北陸本線に鯖波という駅があり、鯖波の宿というのもそのあたりのことと考えられる。越前(福井県)にはほかに鯖江という地名もあるが、ここで「鯖」というのは魚ではなく、「さんばい」の略で、田植え祭り、田んぼの神を意味するものと考えられている。

 献杯が順に下位のものに回って後、義助が飲んでいた盃を、瓜生判官に差す。判官が席を立って盃を3度傾けると、義助は彼に白幅輪の太刀(柄・鍔・鞘の縁を銀細工で飾った太刀)と紺糸で縅(おど)した鎧一両を与えた。瓜生は大いに面目をほどこしたのである。その後、新田一族とそれ以外の軍勢の人々があまりにも薄着であることをいたわしいと思い、とりあえず小袖を一着ずつでも仕立てて差し上げようと、倉の内から絹と綿の布を取り出し、急いでこれを裁ち縫わせたのであった。

 このようにしているところに、足利一族で越前の守護である斯波高経の方から、ひそかに使いが派遣され、先帝からのお言葉で、義貞の一族を追罰すべきであるという綸旨が発せられたと伝えてきた。瓜生判官は、これを見て、もともと心に深い思慮のある人物ではなかったので、これが足利方の謀略による偽文書であるとは気づくことなしに、勅命で勘当された武家方の敵に味方して大軍を動かすことになっては、天罰を受けないとも限らないと、たちまち心変わりをして、杣山の城へ戻って、木戸を閉じて新田勢との接触を断ってしまった。

 さて、判官の弟に義鑑房という禅僧がいて、鯖波の宿にやってきて、次のように述べた。「兄の保はどうも馬鹿なもので、尊氏が天皇に無理強いして発行させた命令書を、天皇の真意と誤解し、たちまちに心変わりをしてしまいました。義鑑がもし武士であれば、刺し違えてともに死ぬべきところではありますが、出家の身であり、殺生は仏のお禁じになっているところなので、黙っていなければならないのが悔しいところです。とはいえ、保が事態の推移を慎重に見守り、説得に応じるようなことがあれば、最終的には味方にならないとも限りません。そこで、義貞・義助のご子息は大勢いらっしゃるので、そのうちのお一人をここに留め置くことにしてください。 義鑑が懐の中に入れてでも、衣の下に置いても匿い続けますので、時機が来れば、挙兵して金ヶ崎の後詰をいたしましょう」と、言葉も途絶え途絶えになりながら、涙をはらはらとこぼしていたので、義助と義顕はその様子を見て、噓を言っているとはないだろうと、疑いの心を起こさなかった。

 そこで席を近づけて、こっそりと次のように打ち明けた。主上が坂本をご出発になった時、尊氏がもし約束を違えるようなことがあれば、止むをえず、義貞追罰の綸旨を出すということがあるかもしれない。義貞が一時的にでも朝敵の汚名を着ることがあってはならない。そこで、東宮に天子の位を譲って、天皇としての政務を任せるつもりである。義貞は、その手足となる家臣として、天皇の政治が再び行われるようにする功績をたてよとおっしゃられた。そして、三種の神器を東宮にお渡しになったので、たとえ後醍醐天皇の綸旨があると尊氏が言ったとしても、詳しい事情を知らないにせよ、思慮ある人であれば、前後の経緯から信じるに足りない話と思うだろう。ところが、判官がこの是非について迷っているのであるから、詳しい事情を話すに及ばない。(杣山に拠点を築くことができない以上、義助は)急いで、また金ヶ崎に帰るつもりである。事態が困難になっている時に、お前ひとりだけが兄弟のよしみを変じて、忠義を示すことは、ありがたく思う。心強く頼もしく思うので、息子の義治を託したいと思う。彼の今後のことは、よいように計らいなさい。そして、脇屋義助の子の義治が、このとき13歳になっていたのを、義鑑房に預けたのであった。

 義治は義助の子どもたちの中でも特に年少であったので、義助は片時なりともそばから離さず、大事に育ててきたのであるが、そば仕えの若い従者の一人もつけずに、見知らぬ人に預けて、敵の中に留め置くことになったので、別れるのも悲しく、いつまた再会できるかもわからぬまま、別れたのであった。

 もともと宮方が劣勢であるのは、兵力が武家方に比べて少ないからであって、それをさらに分けて、北国に派遣するというのは拙劣な戦略である。しかも越前には足利一族の有力な武士である斯波高経が勢力を築いている。新田義貞の軍の前途は多難である。瓜生というのがもともと越前の地名に由来するというのは『太平記』で初めて知った。瓜生一族は嵯峨源氏の流れをくむ由緒のある家柄のようである。
 余計な話だが、嵯峨源氏で一番有名なのは源頼光の四天王の一人で、『太平記』でもその鬼退治の説話が紹介されている渡辺綱(実在しないという説もある)の流れを汲むという渡辺氏である。渡辺の場合も、『平家物語』に登場する渡辺競のように一字名を付けることになっていたが、徳川家康の配下の武士で槍半蔵と言われた渡辺守綱のように、後世は二字以上の名を付けるものが多くなってきている。私の友人・知人にも渡辺姓の人は多いが、一字名の人の方がむしろ少ない。
 それから、サバで思い出したのだが、横浜市の西の方を流れている境川の流域にはサバ神社という神社が多い。これはもともと田の神を祭る神社だったものが、サバ=左馬ということから、左馬頭であった源義朝(頼朝の父)を祭る神社になっていると考証されている。  

田中啓文『俳諧でぼろ儲け 浮世奉行と三悪人』

12月17日(日)晴れ

 12月16日、田中啓文『俳諧でぼろ儲け 浮世奉行と三悪人』(集英社文庫)を読む。16日といっても、実際は17日の午前3時ごろまでかかって読み終えたのである。おかげで、翌朝は起きるのがつらかった。

 幕末の大坂の町、高麗橋筋と今橋筋の間にある「浮世小路」に住んで竹光屋(真剣そっくりの竹光をこしらえて売る商売)を営んでいる雀丸は、もとは奉行所の与力であったが、父母の死後、故あって武士を廃業、この仕事を始め、「蟹のご隠居」などとあだ名されている元気な祖母と二人暮らしを続けている。ところが、ある日、武士たちに取り囲まれて困っていた老人を助けたことから、その老人の仕事である横町奉行を引き継ぐことになってしまった。横町奉行というのは奉行所にお願いしていたら時間がかかって仕方がないような庶民のもめごとを民間の知恵で解決しようと私設された役職(?)である。普通は経験豊かな老人が引き受けているのだが、幕末の諸事多難なおり、若い雀丸の方が適任ではないかという先代のたっての要望での就任である。

 雀丸の仕事を助けるのが、表向き悪徳商人(裏もやはり、かなり悪徳商人)の豪商・地雷屋蟇(ひき)五郎、四天王寺に近い口縄坂に一家を構え、子方たちを従えて侠客の看板をあげている女伊達の鬼御前、「葷酒山門に入るを許す なんぼでも赦す」という石柱を山門の横に立てて臨済宗の本山から縁切りをされた、酒好き、からくり好きの生臭坊主大尊和尚。いわゆる三悪人。この3人は先代からの引き継いだ顔ぶれであるが、このほかに、奇妙な格好で街をうろつきながら、おもしろい嘘で酒席を盛り上げる「嘘つき」の芸人の夢八が雀丸に貴重な情報を提供してくれる。さらに雀丸の猫友である東町奉行所同心皐月親兵衛の娘・園も情報源となることがある。

 ということで、雀丸が横町奉行の仕事を引き受けるに至るまでに起きた様々な事件を描く短編(というよりも中編に近い)小説集が前作(シリーズ第1作)『浮世奉行と三悪人』の概略である(雀丸が浮世小路に住んでいることから、世人は横町奉行とも浮世奉行ともいったという)。今回は、いよいよ横町奉行としての仕事ぶりが本格的に描かれる。と、思いきや、彼の元に持ち込まれたのは近所に住む浮世絵師の長谷川貞飯の家の夫婦げんかで、理由はというと、美人画はだめだが名所絵ならばなんとかなるという貞飯に絵の買い手がついて、懐が豊かになってきているのを、貞飯の妻が浮気と思っているということである。絵の注文主は三悪人の一人である地雷屋蟇五郎だという。そのうち、貞飯が所在不明になる。地雷屋と連絡をとろうとすると、彼は奉行所から抜け荷(密貿易)の罪で捕らえられたという。まさか、地雷屋にかぎってそのようなことをするわけがないと、雀丸たちは事件を調べ始める・・・というのが「抜け雀の巻」。落語の「抜け雀」は5代目の古今亭志ん生が得意にした話のひとつで(志ん生の息子が9代目金原亭馬生、古今亭志ん朝と2人も落語家になっていたから余計におかしかった)、上方では「雀旅籠(はたご)」ということはこの小説を読んで初めて知った。この噺が、最後の方で行方不明になっていた貞飯救出の鍵になるのでそれはお楽しみに…。

 大坂の二つ井戸に住んでいる風狂庵現青という俳諧の宗匠が芭蕉の真筆の辞世の句を見付けたと言い出し、その句碑建立のための発句のコンテストを開催する。優勝者には百両という賞金が出るというので、雀丸の祖母の加似江、鬼御前などまで応募しようと躍起になる。当時大坂でしのぎを削っていた2人の宗匠、前川露封と滔々庵梨考はともに面目にかけても負けられない戦いとなる。一方、雀丸の身近には河野四郎兵衛という怪しげな浪人者が出没し、小林八茶という飲兵衛の俳諧師らしい老人が居候として転がり込む。さて、誰の句が優勝するのか、いや、そもそも「旅に病んで夢は枯野をかけめぐる」以外に芭蕉の辞世の句はあるのか…というのが「俳諧でぼろ儲けの巻」。

 大坂の町で子どもがさらわれるという事件が頻発する。さらわれた子どもが金持ちの子とは限らないこと、したがって奉行所に届けるとろくなことがないぞという脅し文句とともに要求される身代金が多くはないこと、身代金を払っても子どもは返ってこない(一軒だけ帰ってきたという家がある)ことなど、不思議な共通点が多い事件である。そういえば、さらわれたのは男の子だけだったのが、これも一軒だけ女の子がさらわれたという家がある。事件は奉行所の知るところとなり、皐月親兵衛が解決を命じられる。その一方で雀丸もこの事件を知り、ひそかに事情を探っていくと、さらわれた子どもたちには共通の身体的な特徴があることがわかる…というのが「あの子はだあれの巻」。

 実際に起きた事件や実在の地名・人名を巧みに織り込んで、虚構の事件が展開していくのが、田中啓文の作品の特徴である。この作品の時代は「幕末」であると書いたが、雀丸が武士をやめ、河野が浪人をする遠因となったのが大塩平八郎の乱(天保8年、1837)で、同じ年にアメリカ船モリソン号が浦賀に来航するというモリソン号事件が起きているから、「抜け雀」の抜け荷の一件にはそれなりのリアリティーがある。

 もう一つの特徴は落語がしばしば引き合いに出されるところからも想像できる、作者一流のユーモアで、「俳諧でぼろ儲けの巻」のクライマックス大坂天満宮での句合わせの際に「くいな」という題を出されて、雀丸が詠む「まんじゅうを腹いっぱいに食いなはれ」は、3代目三遊亭金馬が得意にしていた「雑排」(近年では春風亭柳昇の口演が面白かった)の中で八五郎が詠む「(春雨)舟底をガリガリかじる春の鮫」とか「(百日紅)狩人に追っかけられて猿滑り」とか「(山梔子)口無しや鼻から下はすぐに顎」などという迷句を思い出させたのであった。

 謎解きと笑いがお互いを適当に引き立たせながら、物語を進行させていくのはこの作者ならではの筆さばきであり、安心して読み進んだのである。

日記抄(12月10日~16日)

12月16日(土)曇りのち晴れ

 12月10日から本日までの間に経験したこと、考えたこと、前回、書き洩らしたことなど:
12月4日
 NHKラジオ『まいにちスペイン語』の「スペインの街角」ではセルバンテスの生地であるアルカラ・デ・エナーレス(Alcalá de Henares)を取り上げた。セルバンテスの生まれた家は、現在も残っていて2階建てで中庭があるそうだ。家の前にはドン・キホーテとサンチョ・パンサの座っている銅像が置かれているそうである。

12且5日
 『まいにちスペイン語』の「ラテンアメリカの街角」ではメキシコのグアダラハラ(Guadalajara) が取り上げられた。メキシコを代表する音楽であるマリアッチの本場であり、メキシコの国民的画家オロスコの壁画がある文化センターでも知られているという。

12月9日
 『朝日』の朝刊の地方欄に、アメリカの銀行がなぜ開港40年後に日本で業務を開始することになったのかという記事が出ていた。ペリーが日本に開国を迫ったのは捕鯨のための給水・補給地を確保するためであったのだが、その後、南北戦争があり、さらに油田が発見されて、石油が鯨油に代わって利用されるようになって捕鯨がそれほど重要な産業ではなくなっただけでなく、米国民の関心が国内に向かうようになり、大陸の開発が一段落したのちにやっと、目が太平洋に向けられるようになったという経緯が述べられていた。

12月10日
 『朝日』の朝刊にセンター試験に変わる「新テスト」で「考える力」をみようとしていることをめぐり、改革を推進した前中央教育審議会長の安西祐一郎さんの「激動の時代に必要な力問えている」という意見と、東大教授である南風原朝和さんの「記述式 型通りの解答を促すおそれ」という批判的な意見の両方が紹介されていた。安西さんの意見は正論ではあるが、「激動の時代」に「何をどのように考えるか」ということをめぐっては議論の余地があり、入試改革がすぐに受験産業によって対応されてきたこれまでの経緯を見ると、南風原さんの意見にはそれなりの根拠を認めなければならないのではないかという気がする。

 神保町シアターで『四十八歳の抵抗』(大映、吉村公三郎監督)を見る。当時、新聞に連載されて話題を呼んでいた石川達三の小説を、新藤兼人が脚色、50歳を間近にした会社の中間管理職(山村聰)が部下の青年にそそのかされてさまざまな冒険に乗り出すうちに、若い女性(雪村いづみ)に恋心を抱きはじめる…という話である。最初の方でゲーテの『ファウスト』を思い出させる場面があるのだが、それにしては後半の展開が平凡である。

12月11日
 NHK『ラジオ英会話』で
Would you care for some hot spiced cider? (スパイス入りのホットサイダーはいかがでしょうか?)
というセリフが出てきた。アメリカではciderはリンゴなどのジュースで、英国ではアルコール入りと解説されていたが、リンゴから作る発泡酒のことを言う。フランス語ではcidreという。私はこの酒が好きで、英国、アイルランド、フランス(と日本)で飲んだことがある。ダブリンの酒屋でciderを買ったつもりで、perryを買ったことがある。こちらはリンゴではなくて西洋梨から作る発泡酒である。さらに言うと、リンゴから作る蒸留酒を英語ではapple brandy, フランス語ではcalvadosという。

 同じく『まいにちスペイン語』の「スペインの街角」のコーナーではコルドバ(Córdoba)が紹介された。スペイン南部のアンダルシア地方にある、イベリア半島がイスラム教徒によって支配されていた時代にその中心となっていた都市であり、アラブ人を中心に多様な民族・文化が共存していた時代の名残があちこちに残されているという。
 コルドバというと、『吾輩は猫である』の一番最後の方で、独仙がなぜか「昔、スペインにコルドバというところがあった」とメリメの『カルメン』の中の一節を紹介する箇所がある。そういえば、最近はあまりメリメの作品が読まれなくなっているように思う(私はメリメの小説によってスペインに、スタンダールの小説によってイタリアに興味を持ったようなところがあるから、少し残念である)。

 同じく『短期集中3か月英会話』は、「洋楽で学ぶ英文法」という特集を組んでいて、本日はDean Martinの”Everybody Loves Somebody"という懐かしい歌を取り上げた。マーティンについて、ジェリー・ルイスとコンビを組んでいたことが紹介されていたが、シナトラ一家の有力な1人であったことの方が印象に残るという人も多いのではないか。また、「二枚目でもあり、三枚目でもある」というようなことを言っていたが、そういうのを「二枚目半」というのを知らないのかな、と思ったりした。

12月12日
 『まいにちスペイン語』の「ラテンアメリカの街角」では、ラテンアメリカの町とは言えないのだが、スペイン語に由来する名称であるLos Angeles (スペイン語読みをすれば「ロス・アンヘレス」)が取り上げられた。カリフォルニアをはじめ、アメリカの西南部にはスペイン語起源の地名が少なくない。また、ロサンジェルスでは結構スペイン語が通じるというが、スペイン語よりも英語の方が特異だという日本人旅行者の方が多いはずである。

12月13日
 『朝日』の朝刊の地方欄に、小田急の片瀬江ノ島駅が2020年の東京五輪を前に、改装されるという記事が出ていた。現在の片瀬江ノ島駅は竜宮城のような外見であるが、それをさらに立派なものにするということのようである。竜宮城といえば、京急の神奈川駅も(神奈川の浦島伝説にちなんで)竜宮城のような駅舎にしている。こちらは、改装の話はないらしい。他にも、竜宮城スタイルの駅というのはあるかもしれない。

12月14日
 『まいにちスペイン語』応用編「「スペイン文学を味わう」は19世紀の後半から20世紀の初めにかけて活躍したスペインの女性作家エミリア・パルド≂バサンの『ウリョーアの館(Los Pazos de Ulloa)」を読んでいる。スペインでは1875年に王政復古が起き、政治的には安定した時代となったが、人々の生活は必ずしも安定したものではなかった。そのころの東北部ガリシア地方の山間部に住む人々の荒々しくも野趣に富む生活を描く小説である。作者バサンはゾラやゴンクール兄弟たちと交流があったそうで、自然主義の影響を受けているらしいのだが、現在、NHKラジオの「朗読の時間」で取り上げられている田山花袋の『蒲団』などとは段違いの迫力をもって読者に迫ってくるような作品である。今回読んだ個所では、村人たちのお祭りで演奏されるガイタと呼ばれる、スコットランドのバッグ・パイプに似た楽器の描写が面白かった。

 『まいにちドイツ語』応用編「ベルリン――変転する都市」では、第二次世界大戦中の空爆のため”Berlin in Trümmern"(瓦礫の山と化したベルリン)が生じたことが語られた。ロベルト・ロッセリーニの映画『ドイツ零年』の中に、このようなベルリンの姿が冷徹なリアリズムの手法で描かれているという(残念ながらこの映画は見ていない)。
 この番組ではベルリンがドイツで一番空爆を受けた都市であると言っていたが、ハンブルクとドレスデンの爆撃も猛烈なもので、あるところで、第二次世界大戦中に大きな被害を受けた都市として、日本の広島、英国のコヴェントリー、ドイツのドレスデンがあげられていたのを見かけたことがある。広島とコヴェントリーは行ったことがあるのだが、ドレスデンはない。1996年にコヴェントリーに出かけた時にはまだ建築作業中だったコヴェントリーの大聖堂は現在は完成しているらしい。ドレスデンの聖母教会は2005年になってやっと再建されたそうである。

12月15日
 『まいにちドイツ語』応用編「ベルリン――変転する都市」では、”Berliner Mauer"(ベルリンの壁)について取り上げた。
Eines der tragischsten Ereignisse während des Kalten Kriegs ist ohne Zweifel der Maerbau in Berlin. (冷戦時代の最も悲劇的な出来事の1つは、疑いなくベルリンの壁建設である)という。Die Stadt war geteilt.(この都市は分断されたのだ。)
 壁は崩壊後、撤去されたと番組で語られていたが、あちこちに記念碑的に保存されていて、私も見たことがある。

 『実践ビジネス英語』は”Help With Maternity Leave"(産休・育休を支援する)というビニェットを放送してきたが、締めくくりの”Talk the Talk"のコーナーでパートナーのヘザー・ハワードさんが、(企業によってこの問題への取り組みにばらつきのある)アメリカから、(制度が整備されている)日本にやってきて、有給休暇が保証されるとどんなに大きな助けになるかを経験できたならば、彼らはアメリカに帰ってすぐに、国の制度を作ることを連邦政府の機関に求めるだろう。
The current president's daughter has said she wants to get something done in this regard; I reallly hope she's able to do it.
(今の大統領の娘は、この件について策を講じたいと言っていた。)
と語っていたのが、印象に残った。制度によっては、アメリカよりも日本の方が整備され、「進んで」いる事例があるのである。どの点がそうなのかを、しっかり把握する必要がある(実際の運用がどうなのかは、また別の話である)。

12月16日
 ラピュタ阿佐ヶ谷で『正々堂々』(1959、松竹、堀内真直監督)を見る。源氏鶏太の小説を映画化した、勧善懲悪のわかりやすい風刺喜劇。地方都市出身の大会社の社長が墓参りのために帰省してくるのを、市長(伊藤雄之助)を始め欲に目のくらんだ連中が取り巻いて、何とか金を得ようとする。ところがその社長が東京に戻った後に急死して・・・ 欲深な面々を演じている俳優たちの演技の巧みさと、ただ一人の善人といっていい芸者(鳳八千代)の美しさに見ごたえがあった。

服部英雄『蒙古襲来と神風』(2)

12月15日(金)曇り、一時晴れ

 文永11年(1274)冬と、弘安4年(1281)夏から秋の2回にわたって、クビライの支配する蒙古(元)が日本を攻撃した(元寇:文永の役、弘安の役)。この時2度とも「神風」が吹いて日本は勝利することができたという人々がいる。この考えは池内宏(1931)『元寇の新研究』以来定説化してきたが、この研究は史料を洗いなおすことでこの通説を批判している。
 元が日本を攻撃したのは、当時の日本が火薬の原料となる硫黄の産出国であり、その硫黄が元と敵対する南宋に輸出していたからで、その主な産地である九州を確保するために、地方の政治的な中心である大宰府を目指して、九州北部に来寇したと考えられる。
 文永の役に動員されたのは主として高麗の兵であり、その数は通説が主張してきた数よりは少なかったと推測されるが、日本側に比べて数においては勝っていた。しかし、陸上に拠点を築くことができず、兵站・補給の問題点を克服できなかった。10月20日の激戦の後、蒙古軍は10日余り日本に滞在し、作戦を継続、24日には大宰府まで攻め寄せたが、日本軍の反撃のために決定的な勝利を挙げることができず、天候の悪化という条件も加わって退却したものと考えられる(季節から見て、台風ではなく冬の低気圧の影響である。嵐の到来が作戦継続中のことか、撤退中のことかについてはたしかな判断材料がない)。したがって暴風のため一日で退却したわけではない。

 以上が第2章までの概要で、今回は弘安の役の経過を述べる第3章についてみていく。服部さんは弘安の役に関しても、定説には不自然な点が多いという。
 弘安の役において元軍は、東路軍(高麗軍)と江南軍(旧南宋軍)の2手に分れて来襲したが、まず東路軍は5月3日に朝鮮半島南海岸の合浦を出発、通説では19日かかって対馬についたとなっているが、これはいかにも不自然でその日のうちに対馬に到着し、8日ごろまでに対馬全島を掌握したと考えている。その前後の例をみても、朝鮮半島から対馬に渡るのには必ず1日で渡海している。
 さらに池内説では7月に鷹島(長崎県)に全軍が終結したとしているが、服部さんは東路軍は既に5月に志賀島(福岡県)に拠点を築いていたとみている。それは高麗側の記録にある「日本世界村大明浦」をどこに否定するかの問題で、池内は対馬の佐賀であるというかなり根拠薄弱な説を採用しているが、既に江戸時代に松下見林が志賀島であると説いているし、大宰府に近い志賀島を高麗軍が占拠・死守したのは戦略上も合理的であるというのである。

 5月26日、蒙古・高麗軍は志賀島に上陸し、ここに陣地を築く。陣地を築いていたことは『蒙古襲来絵詞』の描写によって確認できる。日本側は直ちに奪回行動に移ることはできず、動き出したのは6月初旬になってからのことであり、6月8日には両軍の間で烈しい戦闘が展開された。日本側は圧倒的に有利な蒙古・高麗軍に対抗するためにゲリラ戦、夜襲を多用した。
 蒙古・高麗軍はさらに長門にも押し寄せた。志賀島を占拠したとはいうものの、九州本土に上陸できなかったために、対馬・壱岐から補給を受ける必要があったので、日本側は息を攻略して相手の補給路を断つ作戦に出た。6月末から7月初めにかけてのことである。この戦闘は日本側も元の側も自分たちが勝ったように記録しているので、真相はわからない。

 ところがこれまでの東路軍に加えて、西方から江南軍が日本に来襲した。こちらは6月18日に舟山(中国の東海岸にある寧波の沖にある島)を出発し、25日ごろには日本の五島列島に到着、7月初めに平戸島、15日ごろに鷹島に到着したものと考えられる。ここで、東路軍が鷹島に移動して江南軍に合流したとするのが通説であるが、大宰府に近く、有利な根拠地である志賀島を東路軍が捨てて西に向かうというのは合理的な選択とは思われないという。

 ここで日本の暦では閏7月1日、元の暦では8月1日に台風が来て、鷹島沖に停泊していた艦船が沈没した。志賀島の東路軍も高島の江南軍も被害を受け、都の貴族たちは神のおかげであると喜んだが、日本でも民衆に大きな被害が出たことを日蓮のような人は見落とさなかった。1日の暴風を受けて、日本側は5日に博多湾総攻撃、7日に鷹島総攻撃を行った。激しい戦闘が続いたが、元軍は退却した。東路軍の被害は少なかったが、老朽船が多かった江南軍の被害は大きかった。捕虜となった高麗人体で殺されたものは少なく、むしろその技能を評価されて日本に留まり、活躍した者もいた。さらに弘安の役が終了して11年が経過した正応5年(1292)には高麗国王から捕虜の待遇に対して感謝する内容を含む国書が「日本国王殿下」あてに届いている(本題に関係がないから、服部さんは深く掘り下げていないけれども、この時点で、日本の最高権力者が「治天の君」(政治を行っている天皇または上皇)であると考えられていたことは重要である)。

 「弘安の役」の過程については、最後の方の戦闘の記述があまり具体的でないという問題がある。これは信頼すべき史料が乏しいということもあるのだろうが、やや残念である。第4章では、服部さんが最も重要な史料であるという『蒙古襲来絵詞』の「主人公」である竹崎季長について語られ、第5章では『蒙古襲来絵詞の』具体的な分析が展開されるので、そこでどこまで戦闘の実際がたどられているかを見ることにしよう。 

前田速夫『「新しき村」の百年 <愚者の園>の真実』(4)

12月14日(木)晴れ

 「新しき村」は1918年(大正7)11月14日、宮崎県児湯郡木城村大字石河内字城において誕生し、県のダム工事のために村の土地の3分の1が水没することになったため、1939年に埼玉県入間郡毛呂山町にその主力を移し、現在に至っている。その主唱者である武者小路実篤は、『白樺』の中心人物として個人主義、理想主義的な文学、芸術観を展開してきたが、共同の労働と、各人がそれぞれの個性を伸長させるために自由に過ごす余暇を組み合わせた共同生活の実践を提唱、「新しき村」はその実現の場であった。

 「新しき村」が『白樺』派と武者小路の世界観を現実の実践に移す社会的な実験であったことは間違いないが、その一方で、「実篤が新しき村の創設に乗り出し、多くの賛同者や共鳴者を得たについては、…当時の社会情勢が影を落としていたことを無視できない。」(48ページ) 1918年の7月には米価の暴騰に苦しんでいた民衆が米の廉売を要求して各地で米屋・富豪邸・警察などを襲撃する米騒動が起きていた。
 「新しき村」に集まってきた人々の中には、後にプロレタリア文学の先駆となる雑誌『種蒔く人』の創刊者の1人となる金子洋文(考えてみると、ミレーの「種蒔く人」という絵は、『白樺』とプロレタリア文学の両方に共通する感情をこめているように思われる)、農民運動家で後に社会党の国会議員となる淡谷悠蔵(そういうことよりも、淡谷のり子の叔父であったことで知られる)など、左翼系の社会改革を目指す人々がいたかと思うと、後に浜口雄幸首相を狙撃した佐郷屋留雄のような右翼的な人物もいた。

 既に触れたが、武者小路はトルストイに心酔した時期があり、トルストイの影響のもと田園で「美的百姓」の生活を送っていた徳富蘆花や、同じく農耕に従事しながら思索にふけった江渡狄嶺のような人物を訪問したり、『平民新聞』を購読したりした前歴がある。

 1919年(大正8年)に、雑誌『改造』が創刊されたことに象徴されるように、社会不安を背景に、日本社会を改造しようとする動きが強くなっていた。その中で武者小路は1917年の(階級闘争により樹立された)ロシア革命の精神とは離れ、また、トルストイの禁欲主義とも決別して、新しい精神による理想郷の創設を目指していた。
 「新しき村」の会員には第一種会員(現在の村内会員)と第二種会員(村外会員)があり、第二種会員には誰でもなれるが、第一種会員には会の精神を実行できると認められたものだけがなれるとした。この点が特色である。また、「村の会員はお互いに命令することができない」ということが、村の出発以来、ずっと鉄則として貫かれている点も注目される。

 当時33歳であった武者小路が「新しき村」のために購入した土地は宮崎県児湯郡木城村大字石河内字城(現・児湯郡木城町)の私有地の一部であった。県のほぼ中央に位置する山村の北端で、当時は日豊本線が開通していなかったので、交通はきわめて不便であった。村の創立時に参加していた最初の入植者は、武者小路夫妻はじめ大人18人、子ども2人、家族数3、すぐに村の建設が始まったが、農業経験者は1人だけで、土地はやせ、虫害が多く、水の便が悪いという悪条件が幾重にも重なる中での出発である。

 初期の創作で大いに注目されていた武者小路が、その順風満帆だった文筆活動をよそに、鳴り物入りで始めた「新しき村」が早くもつまずくのを知って、世間からの嘲笑が向けられるようになった。大方の人間は、この無謀な試みを内心冷笑していたからである。
 堺枯川(利彦)、山川均、河上肇ら社会主義者や、大杉栄らアナーキストの立場は、ブルジョワ社会の不正を否定し、新たな理想社会をつくろうとするその意図には賛同できるが、現実の階級闘争を避け、ユートピアを夢見るのは、過去の空想社会主義者の轍を踏むものであるというものであった。
 と、前田さんは書いているが、エンゲルスが「空想社会主義」、「ユートピア」と書いたものが、トーマス・モア以来の「ユートピア」文学の伝統よりも、「千年王国」と言われる民衆運動の精神に近いのではないかと思っている。その点についての日本の社会主義運動の理解はあまり十分ではないと思っているのである。

 社会主義者たちの多少は同情の混じった批判に比べ、文壇は懐疑的で底意地悪く、ジャーナリズムはさらに露骨で辛辣な批判を加えたという。菊池寛は「「新しき村」なんて、人気取りの為の奇行ですな」(57ページ)とその小説の中に登場する人物に言わせている。菊池は、この後安部磯雄の率いる社会民衆党から選挙に立候補したことがあり、現実的な社会改革の積み重ねをよしとしていた。もっとも太平洋戦争が終わった後で、菊池も武者小路も公職から追放されたことも付け加えておく必要がありそうだ。
 さらに引用されている「白樺派の坊ちゃんが、其の労働論を以て、天下を指導せんとするなどは、世間知らずにも程がある」(同上)という若宮卯之助の批評はさらに悪意に満ちている。
 現在の時点から振り返っていえることは、(もっと豊かな土地を探すべきであるとか、会員を慎重に選抜すべきであるとか、準備期間を設けて、農業について勉強すべきであるとかいう)もっと具体的で建設的な批判が出来なかったのかということである。実は、そういう批判がなかったわけではない。

 前田さんは、この後、有島武郎が武者小路によせた書簡体の文章を取り上げているが、これは重要な内容を含んでいるので、次回に取り上げることにしたい。
 むかし、『東京新聞』の夕刊に「大波小波」というコラムがあり、気鋭の評論家たちが匿名で文壇の動きをめぐり論陣を張っていたが、その中で、「新しき村」の歴史は、日本共産党の歴史と同じくらいの価値があると書いたものがあったような記憶がある。「新しき村」が個性尊重や、「お互いに命令することができない」という原則を掲げて存続してきたことは、確かにそういう評価に値すると思うのである。

ダンテ・アリギエリ『神曲 天国篇』(33-2)

12月13日(水)晴れ

 1300年4月7日の夜、35歳のダンテは暗い森の中をさまよっていた。彼が野獣たちに行く手を阻まれて進退に窮している時に、ローマ黄金時代の詩人ウェルギリウスの霊が現われて、彼を異界への旅へと連れて行くという。4月8日(復活祭の前の聖金曜日であった)に出発した彼らは(地球の内部に想定されている)地獄をめぐって、すべての罪とその罰を見た後、(地球の南半球に山として聳えている)煉獄で決定的に罪を犯したことがない人々がその罪を清めるさまを見、また自分の罪を清める。煉獄山の頂上にある地上楽園で、ウェルギリウスは去り、案内者としてベアトリーチェが現われる。彼女に導かれて、ダンテは天上の月天、水星天、金星天、太陽天、火星天、木星天、土星天をめぐり、至高天から彼を迎えにやってきた魂と対話して、現世で抱いていた信仰や政治をめぐる疑問への回答を得、彼がこの旅で見聞したことを地上の人々に伝えることが彼の使命であることを自覚する。至高天から土星天に降りてきている「ヤコブの階段」を上って恒星天に達したダンテは、信仰、希望、愛という3つの対神徳についての試問に合格し、彼がその見聞を人々に伝えるのにふさわしい存在であることを証明する。彼は物質的な世界を離れて、天球のすべての運動の始源である原動天を経て、至高天に至る。時間も空間も超越した世界である至高天で彼は祝福された魂が百合の花のように並んでいる姿と、天使たちが飛んでいる姿を見る。ベアトリーチェは天国の彼女本来の場所に戻り、神秘主義者のベルナールが最後の案内者となる。彼は聖母マリアの恩寵を得て神に近づくように指示する。神の光の中に入っていった彼は、彼の見たものを言葉の限界のために表現することができず、ただ、見たという記憶が残るだけであった。彼は見たものを言葉で表現できるように神に祈る。

私は思っている、私が受けた生命みなぎる光線の
激しさゆえに、もしも目を逸らしていたならば、
眼が眩んだままになってしまっただろうと。
(499ページ) ダンテは神こそが救いであり、神から目を逸らしてはならないことを知っていた。
私は覚えている、こうならぬよう
私がさらなる勇気をふりしぼって持ちこたえ、我が視線を
永遠の御力にまで到達させたことを。
(同上) そこで、神の光を必死になって正面から見つめた。
おお、あふれるほどの恩寵よ、そのおかげで私は尊大にも
永遠の光の中に視線を打ち込んだのだ、
そこで我が視力の限りを尽くしきるまで。
(500ページ) 神の恩寵のおかげで極限まで高まった知性の眼の力を限界まで尽くして、ダンテは光源、すなわち神を見つめた。

 彼の眼に最初に見えたのは、全宇宙が1冊の書物、天使をも含んだ諸事物が紙片となり、それを三位一体の宇宙の創造原理で繋ぐ愛が本の綴じとなった、全宇宙を表す一冊の書物の姿だった。

 その後もダンテは同じ神を見ているはずなのだが、ダンテの知性の眼の視力が強くなると、見えてくるものが変わってきた。
むしろ、見ているうちにさらにさらに力をみなぎらせていった
我がうちの視力ゆえに、ただ一つである御姿は、
私が変わっていくにつれ、私にとっては変容していったからなのだ。

至高なる光源の深淵にして光に満ちた実体の中に
同一の大きさをした、三色の
三つの輪が私に姿を表していた。

そして一輪は、まるで虹から虹が生じるように別の一輪に
反射されている姿をしていた。第三輪は
両者が等しく燃え吹き上がらせている火の姿をしていた。
(502-503ページ) そして神秘の深淵でダンテが次に目にしたのは同一の大きさの「三色の/三つの輪」だった。これは、神が円で象徴されることから三位一体の神秘を体現している。それゆえ父である第一輪から、子である第二輪が反射されている姿があり、聖霊、すなわち愛である第三輪は両者からの愛の炎で現出する火の姿をしていた。

おお、永遠の光よ、ただご自身の中にのみあらせられ、
ご自身だけが自らのすべてを知るあなたは、自らに知られ、
自らを知りつつ愛を微笑まれる。

あなたのうちに、反射した光として
生み出されたかのように見えていたその輪、
その全体をしばらく我が目が観想していると、

その中に、その輪と同じ色彩で、
私たち人類の肖像が描かれているのが私に現れ、
そのために我が視線はただそれへと集中した。
(504ページ) そしてダンテは次にこの3つの円のうち、第二の位格、この中に「人間の像が円と両立し」ているのをおみた。ダンテはこの神秘を理解できなかったが、理解を強く求め続ける。


どうしてその人間の像が円と両立し、どうして
その場所にありえたのか、私は理解することを望み続けたが、

私自身の持つ翼はそれに及ばなかった。
だが、我が知性は激しい閃光に撃ち抜かれ、
その中で望んだ神秘が知性に到来した。
(504-505ページ) ダンテが理解しようとしていると、ついに神から発する「激しい戦功」恩寵が彼の知性を打ち抜き、そのなかで、ついにそれを成り立たせている神秘、つまり神、あるいは神の第一位格に知性が触れ、神と合一を果たして三位一体の神秘を直感した。

ついに高く飛翔した我が表象力はここに尽きた。
しかし、すでに中心から等距離で回る輪のように
我が望みと輪が意志を回していた、

太陽と星々をめぐらす愛が。
(505ページ) こうして『天国篇』第1歌で歌われた「超人化」はすべて終わり、ダンテの希望と意志とは、神の意志と一体化し、叙事詩は終わる。

 ついにダンテの『神曲』の全編を読み通すことができた。象徴的表現や寓喩に満ちたこの作品はそう簡単に理解できるものではないし、私はキリスト者ではないので、その神学的な考え方についていけず、理解できなかった部分も少なくないが、それでも一応、全部読み通すことができたことを喜びたい。ダンテの中の中世的、宗教的、神学的な部分と、近代的、世俗的、政治的な部分の両方をこの叙事詩から読み取ることができたのは幸いであった。分かりやすい訳文と、丁寧な注釈、解説を提供してくださった原基晶さんには心からお礼を申し上げたい。また、機会があれば原さんの翻訳、あるいは山川丙三郎、壽岳文章などの方々による他の翻訳を読み返してみたいし、たぶん、夢に終わるだろうが、原文で読むことも目指していきたいと思っている。

小川剛生『兼好法師』(2)

12月12日(火)晴れ

これまでの内容
 『徒然草』の作者である兼好法師の実像を同時代史料からできるだけ多くの情報を引き出すことで、明らかにすることがこの書物の狙いである。従来の通説の誤りを正し、彼の公・武・僧の庇護者との関係や活動の場を正確に再現しようとしている。【はしがき】
 勅撰和歌集における作者表記がすべて「兼好法師」であることから、彼の出自が諸大夫ではなくて侍品であったことが推測できる。またこのことから、彼が武家権力者に奉仕する一生を送っていたと考えて無理はない。彼は一時卜部姓を名乗ったこと以外、その家系や生国についての正確な情報はないが、卜部氏で伊勢神宮とかかわりを持った一族から出たと考えられる。【第一章 兼好法師とは誰か】
 金沢文庫の古文書の整理・分析から若いころに金沢北条氏に仕えていた兼好についての情報を得ることができる。彼は仮名を四郎太郎と言い、金沢貞顕に仕えて金沢北条氏の菩提寺である称名寺の長老劔阿との連絡係として京都と鎌倉を往復していたが、延慶2年(1309)から正和2年(1313)の間に出家し、俗名をそのまま法名にして兼好と名乗った。そして六波羅探題となった貞顕に従って京都に定住することになった。【第二章 無位無官の「四郎太郎」――鎌倉の兼好】

 今回は、第3章の前半を取り上げる。

第三章 出家、土地売買、歌壇デビュー――都の兼好(一)
 『徒然草』第50段は「応長のころ、伊勢国より、女の鬼になりたるを率(い)てのぼりたりといふことありて」と書き出されているが、ここに書き留められたできごとは、洞院公賢の日記『園太暦(えんたいりゃく)』によって応長元年(1311)3月のことであると確定できる。彼はこの時期、東山に居住していて、この騒動を目撃したという。
 兼好がこの時期、京都(現在の京都市内ではあるが、当時は洛中とは考えられていなかった)の東山に住んでいたのは、金沢流北条氏との関係からと推測できる。延慶2年(1309)正月に貞顕は六波羅探題南方を辞したが、翌年6月には六波羅探題北方に再補された。それに伴って兼好も六波羅の近くに定住したものと考えれる。
 以降、兼好の活動は、若干の空白期間はあるが、ほぼ京都において展開する。その姿は「市中の隠」というよりも「侍入道」というのが正確なところで、公家・武家・寺院にわたり幅広い知己を有して活動し、経済的な基盤にも支えられた、清貧とはほど遠い生活ぶりであった。「法師は人にうとくてありなん」どころか、人と人との間を泳ぎながらあちこちに出没していたのである。

 鎌倉幕府の六波羅探題府は平家の六波羅殿であり、鴨川の東、六条大路の末にあたるこの地は、「武家政権の本拠地」と認められ、鎌倉幕府が承久の乱後に継承し、探題府を置いた。領域は拡大し、南は七条に接し、北は五条に及んだという。この章の扉のページに六波羅周辺の地図があるので、それをみれば大体の見当がつく。この時代、そうはいっても、六波羅はあくまで市外であった――市中は公家のものとする考えは根強く、南北朝時代まで武家はなかなか市内に邸を構えようとしなかったのである。

 探題は鎌倉から被官を同伴する一方で、京都でさまざまな人材を求め、有能なものを新たに登用した。鎌倉時代の終わりになると、六波羅評定衆・奉行人などの地位は世襲による特定の家柄の固定化・形骸化が進んでいたので、京都の事情に通じ文筆能力に秀でた人材を登用することが実務のためには必要であった。兼好のような出自・身分とも曖昧な存在はかえって重宝であったと考えられる。

 著者はこのような六波羅の政治的な意義だけでなく、この地が東と西の人間、鎌倉の武士と京都の文士の交差同居する空間として、文化的に新しい創造の場となっていたと指摘する。鎌倉時代に成立した説話集である『十訓抄』の作者は六波羅探題の悲観であったとも考えられ(『十訓抄』と『徒然草』にはテーマや題材で重なる部分があるとの指摘もある)、この時代の武士たちの中にはその歌が勅撰集に入集するものもいたという。

 また、「六波羅の南北、白河・祇園・清水・今熊野にわたるこの一帯が、洛中と区別されていたことは、政治的のみならず、経済的・宗教的な特色からも知ることができる。」(65ページ) 
 まず東山からの眺めを愛した詩人・歌人たちがこの地に別荘を建てたり、隠棲したりしていた。また平安時代から脱俗の聖たちの道場も多く建てられた、その一方で、鎌倉時代になると商業金融の一拠点となる。例えば祇園社近辺は酒屋・土倉(金融業者)が軒を連ね、繁華を誇った。祇園社は延暦寺の支配下にあったが、探題府の関係者がこの地域に集住したことで、比叡山と関係のない僧侶や商人も多く集まるようになっていた。

 著者は、『徒然草』を読むと、六波羅近辺が兼好の行動圏であったことが確認できるという。179段には元から一切経を招来した道眼上人が、「六波羅の辺り、焼野といふところに安置して、殊に首楞厳経を講じて、那蘭陀寺と号す」とある。この個所は、さまざまに関心を呼ぶくだりであるが、著者は道眼がもともと関東地方出身の武士であったこと、新しい仏教の動きの一端であったことに注目している。〔私は「那蘭陀寺」という寺の名が、玄奘がインドで仏教を学んだ寺の名を写していることに興味がある。〕そして「このように六波羅一帯は新仏教系の寺院が拠るところでもあった」(66ページ)として、栄西の建仁寺や浄土宗西山派の寺院の例を挙げている。
 「このように祇園から六波羅・今熊野にかけては、武士・宗教者・金融業者などがひしめく新興都市であり、その住民の一人として兼好の足跡も見出すことができるのである。」(68ページ)と著者は言う。 兼好はただ好奇心に駆られて歩き回ったというわけではなく、一定の目的をもって行動していたのであり、それがどのようなものであったのかを次に見ていくことにしよう。もちろん、兼好の行動範囲が今回述べた鴨川の東の地域だけにかぎられていなかったのは言うまでもない。

 鎌倉はもちろんのこと、金沢文庫も何度も出かけた場所であり、そのことから前回紹介した部分は楽しく読むことができたが、京都で暮らしていたころ、左京区に住んでいたがデモで円山公園に出かけたり、祇園会館という映画館で映画をみたり、東山区にはよく出かけたことを思い出す。六波羅蜜寺には学生時代にも出かけたことがあるが、就職してからも足を運んだことがある。ただ、その際に『徒然草』を思い出すことはあまりなかったので、これから、出かける機会があれば気にかけてみることにしようと思う。 
 

『太平記』(188)

12月11日(月)晴れ

 建武3年(南朝延元元年、1336)10月、足利方が近江を手中に収め、補給路を断たれた比叡山の宮方は兵糧の欠乏に苦しんだ。この機を利用して、足利尊氏は密書を後醍醐天皇に送り、天皇の京への還幸を促した。10月9日、天皇は京都への還幸を企てるが、それを察知した新田一門の堀口貞満が必死に諫言したため、天皇は東宮の恒良親王を即位させたうえで、義貞とともに北国へと向かわせ、再起を図るように命じられた。10月10日、後醍醐天皇は京に戻ったが、出迎えた足利直義によって花山院に幽閉され、近臣たちは任を解かれ、従っていた武士や僧侶たちのあるものは処刑された。

 10月11日、新田義貞は7千余騎を率いて、塩津(滋賀県長浜市西浅井町塩津浜)、海津(かいづ、高島市マキノ町海津)に到着した。七里半と呼ばれる海津から敦賀に至る西近江路の山中を、足利一族で越前の守護である斯波高経が大軍を率いて待ち受けていると分かったので、途中から道を変えて、木目巓(きのめとうげ、現在は木の芽峠と書く、福井県敦賀市と南条郡南越前町の境の峠)を越えていくことにした。

 「北国の習ひ、十月の初めより、高き峰々に雪降りて、麓の時雨(しぐれ)止む時なし。今年は例よりも陰寒烈しくして、風交りに降る山路の雪、甲冑に洒(そそ)ぎ、鎧の袖を翻して、面(おもて)を打つ事烈しかりければ、士卒、寒谷に道を失ひ、暮山に宿なくして、木の下、岩の陰に縮まり臥す。」(第3分冊、188ページ)と『太平記』の作者は記している。十月というのは陰暦の十月で、すでに季節は冬である。山の高いところでは雪が降り、麓のほうではそれが冷たい雨になっている。山を登れば登るほど、道のりは厳しくなる。士卒たちは風雨、風雪にさらされ、凍えながら進軍していく。

 暖をとるために火を起こそうとしても乾いた木がないから、弓矢を折って薪とする。近くに仲間のいるものは、お互いに抱き合って体を暖める。薄着で出発してきた人や、えさを与えられていなかった馬はあちこちで凍死する。そのために道が塞がれて、旅行者が通行できないほどであるという。八大地獄のうちの叫喚・大叫喚地獄、八寒地獄のうちの紅蓮・大紅蓮地獄の苦しみが眼前に展開する。現世でさえ地獄の苦しみを味わうのだから、来世ではどのような苦しみを味わうことになるのか想像したくないという状態である。

 四国の武士たちである河野、土居、得能は200余騎で後陣を進んでいたが、西近江路の難所である剣の熊で先を行く主力の軍勢から離れてしまい、前途は斯波の軍勢に塞がれ、やむなく山から下りて塩津の北にまた戻ってきたところを近江の豪族佐々木氏と近江浅井郡の熊谷氏の軍勢が取り囲んで討ち取ろうとする。かくなるうえは迎え撃って、敵と刺し違えて死のうと気は焦るのだが、馬は雪に凍えて動こうとせず、兵もまた雪で凍えて体の自由がきかない。手足はすくんでしまい、弓を引くことができず、太刀の柄も握ることができないまま、敵の刃にかかって果てていった。

 千葉介貞胤は、500余騎で進んでいたが、大雪の中、道を間違えて、敵陣へと迷い出てしまった。進むことも退くこともできず、前後の味方からは離れてしまったので、一か所に集まって自害しようとしていると、斯波高経のもとから使いがやってきて、「貴殿の武運はこれまでだと思われます。不本意ではありましょうが、当方に降参ください。これまで新田方として戦った罪は、私の身に替えてもとりなしましょう』と丁寧な調子ですすめられたので、貞胤は心ならずも降参して、高経に従うことになった。

 13日に、義貞は敦賀の津(港)に着いた。そこで気比神宮の神官である気比弥三郎太夫が300余騎でそれを迎え、東宮(恒良親王)、一宮(尊良親王)、新田義貞・義顕父子、義貞の弟(脇屋)義助を、敦賀湾に面した新田方の城である金ヶ崎の城に入れ、その他の軍勢は付近の民家に宿泊させた。ここに1日滞在したが、軍勢が一か所に集まっていては用をなさないと考えて、対象を諸国の城へと分遣することになった。大将である義貞は、東宮、一宮を奉じて、金ヶ崎の城に留まり、息子の義顕は北国の武士たち2千余騎をつけて、越後へ向かわせた。脇屋義助は千余騎を率いて、瓜生の杣山城へと派遣された。それぞれ、もし金ヶ崎が攻撃された場合には、城攻めの敵を背後から攻撃することを意図しての派遣である。

 これから物語は、義貞と彼の率いる軍勢の北国における苦闘を描くことになる。昔、日本海岸の学校に勤めていたことがあり、その際に京阪神との往復には湖西線や北陸本線を利用していたので、今回(以降しばらく)登場する地名にはなじみのあるものが多い。季節は冬、義貞の軍勢は雪に苦しむ。もともと義貞は上野(群馬県)の武士だから、寒さには強いが、雪の経験はそれほどないのではないかと思う。(越後にも一族がいるから、全く縁がないわけではなかろうが…) 越前の斯波高経は足利方でも有力な武将で、簡単に打ち破れそうもない。北国で再起を図るというのはあまり有望な策ではないと思うのだが、それでも北陸王朝はかなりの期間維持されたと説く歴史家もいる。 

あっという間に

12月10日(日)晴れ

あっという間に

あっという間に
12月になり
うろうろしている私をしり目に
陽気に来年の予定を話している声を聞く
私はといえば
ノートに日付を書くときに
まだ11月と書き間違えたりしているのだ

時間の流れの速さに
ついていけずに
だらだらと時間を過ごし
昨日を引きずりながら
朝、目をさまし
そのくせ、夜になると
明日のことを考えている

時間を限っててきぱきと
仕事を進めることができないのは
年を取ったせいに違いないが
時間とのんびり付き合っていくことも
できない相談らしい
「不死吟」を詠んだ
田能村竹田にも死は訪れた
どこまでも意地悪に
時間は過ぎてゆく

日記抄(12月3日~9日)

12月9日(土)曇りのち晴れ

 12月3日から本日までの間に経験したこと、考えたことなど:
12月3日
 川崎フロンターレの優勝の余韻の残る等々力グランドで第96回全国高校サッカー選手権神奈川県大会の決勝、桐光学園と桐蔭学園の対戦を観戦した。両チームともになかなか得点が取れず、延長戦を終えても決着がつかなかったために、PK戦となり、5-4で桐蔭学園が桐光学園を下して全国大会への出場を決めた。桐蔭は、後半にキャプテンが退場となり、1人少ない人数での試合となったが、よく守り切った。全国大会への出場は久しぶりであるが、健闘を期待したい。

 はしだのりひこさんの訃報を聞く。私と同年齢(ただしはしださんは早生まれ)なのでびっくりする。ご冥福を祈る。

12月4日
 NHKラジオ『まいにちフランス語』で、仕事上の相棒と連絡がつかないのでその住所を訪問した女性が、相棒と同居している青年とかわす会話の一部:
Tu vas à la fac demain? (明日は大学に行くの?)
 facはfacultéの略で、英語のfacultyに相当し、大学の学部のことを言ったが、会話では「大学」という意味で使うという。辞書によると、学部は1968年にunité d'enseignement et de recherche (略:UER)「教育・研究単位」に改められたが、日常語としては現在でも用いられているとのことである。

12月5日
 『朝日』の朝刊に大学の入試改革をめぐり「脱・暗記 考える大学入試」という方向性が示されていると報じられていた。まことに結構なことだが、これまでも書いているように、大学教育の改革作業の中で、入試だけが過度に重視される傾向を何とかしないといけないのではないだろうか。大学の学部段階での教育をもっと改善する必要があるということをもっと「考えて」ほしいものである。それから、「考える入試」ということになると、高校までの段階で「考え方」をもっとよく身に着けさせるような努力が必要になるだろう。それを学校教育のどのような領域で行っていくのかも問題とされなければなるまい。

 同じく、「折々のことば」の欄で、「冒険の現場というのは概ね退屈で、冒険に行くだけでは面白い文章が書けないことが多い」という冒険家の角幡唯介さんの言葉が紹介されているのが面白かった。これは柳沼重剛が『語学者の散歩道』(研究社、1991)で、クセノポンの『アナバシス』(ギリシア語の初級文法を終えた後の読み物として使われることが多い)を授業で使った際に、ある学生が「これおもしろいですね、軍隊が行動している間は(語学的に)やさしいんですが、(軍が)とまるとむずかしくなりますね」(106ページ)といったのは大事なことに気づいていたのだと書いているのと符合している。軍隊が行動するというのは、進軍するとか、退却するとか、交戦するとか、一定のパターンがあり、それに応じて文章のパターンも決まってくるが、とまるとすることが多様になって、それを記す文章も複雑になってくる。ということで、また(古典)ギリシア語を勉強しなおして見るかなどと思いはじめた。

12月6日
 『朝日』の朝刊に吉野源三郎の『君たちはどう生きるか』が最近、また読まれ始めているという記事が出ていた。この本の一部分を、中学校の国語教科書で読んだことがあり、この本が復刊された時に買い求めて読んだことを思い出す(まだ、持っているはずであるが、見つけ出すことができない)。
 この本の中に1940(昭和15)年に東京で開かれるはずだったオリンピックのことが出てくると記憶する。本と直接の関係はないが、このオリンピックの準備委員長であったのが、「十六代様」と言われ、長く貴族院議長を務めた徳川家達である。家達は相撲好きで、東京で本場所があると必ず観戦していたという。それで、何かの理由で姿が見えないと、「徳川関休場」などと書かれた。しかし、自分がどの力士をひいきしているかを感じとられるような言動は一切見せなかったという。むかしのお殿様らしい態度である。(この話は、野村胡堂の『胡堂百話』に出ていたと思うのだが、この本もどこかに埋もれている)。
 なお、家達は貴族院の書記官長であった柳田国男と喧嘩したという話があるから、常に温厚で公平な人だったと判断することはできない。

12月7日
 NHKラジオ『まいにちドイツ語』応用編「ベルリン――変転する都市」では、1936年のベルリン・オリンピックの話題が出てきた。
Die Olympischen Spiele, die 1936 in Berlin stattfanden, wurden sowohl in Detschland als auch im Ausland als großartige Sportveranstaltung gefeiert, wenngleih die Instrumentalisierung des Sports für politische Zwecke umstritten war. (1936年にベルリンで開催されたオリンピック競技大会は、ドイツ国内でも外国でも、すばらしいスポーツ・イベントとして称賛された。スポーツを政治目的のための手段とすることは、議論の的になったのではあるが。)
 政治目的はオリンピックの精神に反するものであるが、商業目的も同様である。両方を目指すのはさらに悪い。
Bis heute sind einige Elemente erhalten geblieben, die in Berlin zum ersten Mal in der Geschichte der modernen Olympiade eingesetzt wurden: Die pompösen Eröffnungs- und Schlussfeiern sovie der Fackellauf, mit dem das olympische Feuer in das Stadion getragen wird. (ベルリンにおいてオリンピック史上初めて採用されたいくつもの要素が、現在でも保持されている。華麗な開会式、閉会式や、オリンピック聖火を競技場へと運ぶ聖火リレーである。)

 『まいにちスペイン語』応用編「スペイン文学を味わう」では、エミリア・パルド・バサン(Emilia Pardo Bazán, 1851-1921) の『ウリョーアの館』(Los Pazos de Ulloa, 1886) を読むことになった。これまでの『三角帽子』、『ペピータ・ヒメネス』がスペイン南部アンダルシア地方を舞台とした、割合のんびりした物語であったのに対し、今回はスペイン北西部のガリシア地方を舞台とした、女流作家の手になる自然主義的な作品で、 雰囲気がガラッと変わったという感じである。

 『まいにちイタリア語』応用編「原文で読む古典の楽しみ」はニッコロ・マキャヴェッリ(Niccolò Machiavelli, 1469-1527)の『君主論』(Il Principe)を読むことになり、今回は第1章が取り上げられた。
Tutti gli stati, tutti e' domini che hanno avuto, e hanno imperio sopra gli uomini, sono stati e sono o repubbliche o principati. (民を治めてきた国はすべて、共和国か君主国か、そのいずれかである。むかしからそうであり、今もそれは変わらない。)
とマキャヴェッリは書き出しているが、確かに今でもそのとおりである。しかし、スピノザが『国家論』で述べているような独裁制、寡頭制、民主制というような分け方もある(そっちの方がわかりやすいような気もする)。
 講師の白崎さんによるとマキャヴェッリは「適切な手段と優れた力量により一介の私人からミラノ公になった人物」であるフランチェスコ・スフォルツァと「戦争という大事業により民衆の心を掴んだ」(アラゴン王フェルナンドⅡ世とを政治家として高く評価していたそうである。マキャヴェッリがフェルナンドⅡ世を高く評価しているというのは初めて知った。フェルナンドとともにスペインを統治したイサベールの方が、コロンブスを後援したこともあって知名度が高いのではないかと思う。

12月8日
 マキャヴェッリ『君主論』の続き。マキャヴェッリの政治理念のキーワードはfortuna(運命)とvirtù(力量)であり、昨日は、与えられえた運命をうまく生かすことができる個人の力であるvirtùが問題になったが、今回はfortunaについて述べた第25章の一部が取り上げられた。世の中のことは運命と神によって支配されている、とは言っても、個人の力で切り開けるものはあるというのが彼の考えで、これはルネサンス時代らしい考えであるという。それで、結論部分でマキャヴェッリは次のようなことを言う。
Io iudico bene questo: che sia meglio essere impetuoso che respettivo; perche la fortuna e donna, ed e necessario, volendora tener sotto, btterla ed urtarla. (私が考えるに、慎重であるよりは果敢である方がよい。運命は女だから。組み伏せたいと思ったら、叩きのめしてでも自分のものにする必要がある。)
 当時は男性優位の時代であったから、こんな乱暴な発言をしたのであろう。(fortunaという語が女性名詞であるから、擬人化する際に女性になったのである。「勝利の女神」とか、「自由の女神」とかいうのと同じ使い方である。) そういえば、花田清輝が『復興期の精神』所収の「政談」の中で、マキャヴェッリとスタンダールを並べて、「たぶん二人とも、あんまり女に惚れられそうな顔つきもしていないくせに、やたらと女を撲ったり、虐待したりすることばかり考えていたせいであろう。これでは女性である運命の神が、二人に微笑するわけがない」(講談社文庫版、37ページ)と書いている。

 廣瀬匠『天文の世界史』(集英社インターナショナル新書)を読み終える。面白かった。

12月9日
 『朝日』の朝刊の「折々のことば」でウィリアム・ジェイムズの『プラグマティズム』の中の「経験というものはさまざまな風に煮えこぼれるもので、我々に現在の方式をさまざまに修正させてゆくものである。」という言葉が紹介されていた。
 大学院時代に「思想」と「イデオロギー」は同じことじゃないかといった同じゼミの学生がいたが、「思想」には、権力や社会集団に公認されて「イデオロギー」として機能するものと、そうすることを拒否するものとがあると思う。プラグマティズムや保守主義は本来、「イデオロギー」となることを拒否する思想である。むかし、サッチャーが日本からの記者とのインタビューの中で、「サッチャリズム、社会主義(socialism)のことか?」といったことがある。つまり彼女は当面する問題を自分の信念に従って解決していただけで、それが他人を縛る思想へと転化することを拒否したのである。私は彼女が好きではないが、自分の思想が「イデオロギー」になることを拒否したのは、さすがだと思う。

前田速夫『「新しき村」の百年 <愚者の園>の真実』(3)

12月8日(金)曇り

 「新しき村」は1918(大正7)年11月14日に宮崎県児湯郡木城村大字石河内字城に創立され、1939年にその主力が埼玉県入間郡毛呂山町に移動したが、現在まで継続している、(原則として)共同の労働に従事しながら、余暇を成員の個性の伸長のために使うという生活様式を通じて、新しい社会の実現を目指す運動体である。その提唱者であった武者小路実篤は理想主義・個人主義的な傾向の強い雑誌『白樺』の主唱者で、この雑誌の同人たちも「村」への支持・援助を惜しまなかった。

 武者小路はその自伝的長編小説『或る男』で、「彼にとって文学をやろうと思ったのと、新しき世界を生み出したいと思ったのとは、ほとんど同時である。それは彼の双生児である」(40ページに引用)と書いている。彼が早い時期から「村」の原型となる「新しい社会」「理想国の小さいモデル」の構想を抱いていたことは、彼の日記等からも確認できる。

 しかし、この考えがはっきりした形をとり、実行に移そうとするまでになったのは大正に入ってからのことである。そしてすぐさま、「新しき村」の建設に着手する。「村」の機関誌『新しき村』の創刊号に掲載された「新しき村の小問答」は「村」の理想を対話形式で語っている。そこで、武者小路の分身と思しき対話者の1人は、「新しき村というのは、一言で云えば皆が協力して共産的に生活し、そして各自の天職を全うしようと云うのだ。皆がつまり兄弟のようになってお互いに助けあって、自己を完成するようにつとめようと云うのだ」(44ページ)と「村」の趣旨を語る。
 「共産的」「生活」と「天職を全う」することがすんなりと両立すると考えているところがいかにも楽天的である(この点については、また後で詳しく論じることになると思う)。
 
 さらに、このような理想を実現するのに、わざわざ「田舎に引込む」必要はないではないかという質問にそれももっともだと言いながら、次のように答えている。
「・・・しかし僕達は現社会の渦中から飛び出して、現社会の不合理な歪なりに出来上った秩序からぬけ出て、新しい合理的な秩序のもとに生活をしなおして見たいという気もするのだ。つまり自分たちは今の資本家にもなりたくなく、今の労働者にもなりたくなく、今の社会の食客的生活もしたくない、そう云う生活よりももっと人間らしい生活と信じる生活をできるだけやりたいと思うのだ」(同上)
 ここで武者小路が「現社会の不合理な歪なりに出来上った秩序」、「新しい合理的な秩序」と言いながら、それぞれの具体的な特徴を示さず、「気もするのだ」「やりたいと思うのだ」ときわめて主観的なものの言い方に終始しているのが注目される。つまり、気分に動かされているところがあるのである。
 「田舎に引込む」必要がないというのは、例えば国木田独歩が『武蔵野』を書いたのは彼が渋谷に住んでいた時期のことであるとか、その渋谷の道玄坂の辺りで育った大岡昇平の子ども時代には、家の近くに水車小屋があったとかいうことに示されるように、現在では全く都市化している東京の一部が、この時代にはまだかなり多くの自然を残していたことを思い出す必要があるだろう。この書物でも触れているように、「新しき村」を始める以前に、武者小路はトルストイに倣って世田谷で「美的百姓」の生活を送っていた徳富蘆花を訪問もしている。都市の近郊の農村で運動を始めるという選択肢もあった。彼が当時住んでいた千葉県我孫子市を本拠地としてもよかったはずである。

 ここで武者小路は都会から、資本主義の支配する社会から遠ざかりたいという希望を示しているのだが、東京からどれだけ離れても、そこが資本主義の支配する社会であることに変わりなく、「村」の生活も市場原理や貨幣経済から無縁であることはできないのである。むしろ、東京に近いことによって得られる利点の方が大きいことは、「村」が埼玉県に移転してから一時的にせよ成功することによって示されると思う(武者小路自身が、このことをどのように受け止めていたかが興味ある問題である)。
 ソローの「森の生活」は、文明社会の害毒から離れることだけを目指すものであったが、武者小路の場合は、一方で、現社会の影響から遠ざかりたいと思い、その一方で自分たちの影響力で社会を変えようという。ソローの場合は個人的な隠遁であるが、武者小路は社会運動としての生活共同体を目指している。支配的な社会制度とそれを変えようとする運動とは相互的な影響関係にあるのだが、その相互性を自分に都合よくしか解釈しないのは困ったことである。

 「人間らしく」というのは、働いて自分の生活を支えるということである。そこまでは語っていないが、自分の生活に必要なものはできるだけ自分の力で作り出すということも含まれているはずである。しかし現実には、「村」はなかなか自立できない。自給自足はもちろんのこと、市場経済の中で「自立」を達成するのはかなり時間を経てからのことである。

 今回は、「新しき村」の趣意として武者小路がどのようなことを語っているか、それについて私がどのような問題を感じるかを中心に書いてみた。武者小路が都会から離れて僻遠の地に理想の共同体の建設を目指したのには、彼の思想の独自展開によるという以外に、時代的な背景があったことをこの書物の著者も論じている。次回はそのことに触れるつもりである。

 

服部英雄『蒙古襲来と神風』

12月7日(木)晴れ

 12月6日、服部英雄『蒙古襲来と神風』(中公新書)を読み終える。

 鎌倉時代の中期に元(蒙古)の軍隊が日本に来寇したが、2度とも「神風」が吹いて決着がついたと、かなりの人々が理解しており、一部の(検定済み)教科書にもそう書かれ、学校で教えられている。この「通説」により形成された「神風史観」は近代日本の動静に大きな影響を与えた。

 確かに多くの歴史家もこの「通説を信じていて」そのように書いた一般向けの著作は多い。しかし、その根拠となる史料はない。文永の役の際に、1日で敵が帰国した原因となったといわれる嵐は文永11年(1274)10月20日夜に吹いてはいない。九州本土における戦闘はこの日だけであったと記すのは『八幡愚童訓』だけで、そこに書かれているのは筥崎宮が焼かれたことで怒った八幡神が追い返したと記されている。

 続く弘安の役では、確かに台風が来たし、実際に鷹島沖に船は沈んでいる。蒙古は手痛い打撃を受けて不利になった。ただし、鷹島に停泊していたのは元の艦隊の全部ではなく、旧南宋軍である江南軍であった。朝鮮半島の高麗を中心とする先遣部隊(東路軍)は、太宰府付近の博多湾にいた。台風通過は弘安4年(1281)閏7月1日。その4日後の7月5日に博多湾・志賀島沖海戦、さらに2日後の7月7日に鷹島沖海戦があり、ともに日本が勝利した。嵐・台風が決着をつけた訳ではなく、その後にも合戦は継続されていた。2つの海戦の結果、戦争継続は困難と判断した蒙古軍は、江南軍・東路軍ともに、鷹島・志賀島からの退却を決めた。台風は蒙古の舟だけでなく、日本の舟も鎮めて甚大な被害を与えているので、「神風」とはいえそうもない。中国や高麗に戻った将兵は、大風雨の被害を誇張することで、敗戦の責任を逃れようとした。史料を読み直すことで戦闘と「神風」の実態は「通説」と違った形であることがわかる。

 クビライが日本を攻略した理由は、日本が宋を支援し続けていることであった。日本はそうと長く友好関係を続け、それ以外の国は戎夷としか認識していなかった。また日本が宋に輸出している硫黄は火薬の重要な原料であった。その供給を阻止することは、宋を滅ぼすためにも必要であった。

 このような国際関係が背景となっているので、合戦の推移を読み解く手がかりとなる資料は日本・中国・韓国に多く残されている。それらとともに、いやそれよりもさらに貴重なのは、合戦に参加した武士竹崎季長が自らの経験を踏まえて、自ら指揮して絵師に描かせた絵巻『蒙古襲来絵詞』である(なお、この絵巻には、台風(神風)の場面はまったく描かれていない)。この書物は、こうした資料の分析をとおして、戦闘と「神風」の実態を明らかにしようとするものである。

 この書物の目次は次のようなものである。
序 章 神風と近代史
第一章 日宋貿易とクビライの構想
第二章 文永の役の推移
     第一節 蒙古・高麗軍の規模
     第二節 合浦・対馬・壱岐
第三章 弘安の役の推移
     第一節 東路軍の侵攻、世界村はどこか
     第二節 東路軍拠点・志賀島の攻防
     第三節 江南軍、鷹島へ
     第四節 閏七月一日の暴風
     第五節 台風後の死闘
     第六節 海底遺跡が語ること
     第七節 終戦、その後
第四章 竹崎季長の背景
第五章 『蒙古襲来絵詞』をよむ
     第一節 『絵詞』に描かれた文永の役の推移
     第二節 『絵詞』に描かれた弘安の役の推移
     第三節 鎌倉・安達泰盛邸でのできごとの意味
第六章 その後の日元関係
第七章 遺跡から見た蒙古襲来
     第一節 石築地
     第二節 鷹島神崎沖・海底遺跡と沈没船
終 章 再び神風と近代へ

 既に著者の主張の主な部分は示してあるので、各章ごとの紹介・論評は簡単なものにとどめておく。今回は、第二章までを取り上げ、以下はまたの機会に紹介・論評することにする。
 序章では、侵攻してきた蒙古が神風によって撃退したという「神話」が、近代になると民衆の間に浸透し、特に学校教育によって子どもたちの心の中に植え付けられたことが語られている。大戦中、学徒兵であった人たちの記憶によると、上官が「ちっとも神風が吹かんなぁ」と言っているのを聞いたそうである。

 第一章では(すでに述べたように)日宋貿易における日本側からの輸出品の主なものが木材と硫黄であったこと、兵器製造用である硫黄が日本から輸出されているのを阻止し、自分たちのものとしようとする物質戦争であったことが述べられている。そしてそのために、独立性の強い行政機関である大宰府を攻略することが目的であったので、九州北岸に侵攻してきたと論じている。

 第二章では文永の役の際の蒙古・高麗軍の規模として、『高麗史』に記す「900艘」の実態は「大船300艘+ボート600艘」であり、ボートは大船に装備されているから、規模はかなり小さくなること、これは元から出動を命じられた数で当時の高麗の国力では動員できる数ではなく、実際に日本に赴いたのは126艘以下であったことが考察されている。しかも、当時の朝鮮半島には元に反旗を翻している三別抄という勢力が南部で抵抗を続けていて高麗王朝が一枚岩ではなかったことも注記されている。軍の規模をめぐる歴史書の記述にはかなり誇張があることが、兵船の大きさなどを考慮して論じられている。
 蒙古(実質的には高麗)軍は対馬、壱岐を占領し、九州の北岸、博多付近に上陸して拠点を築こうとした。これに対し、太宰少弐で筑前守護であった少弐経資を総帥とする日本の武士たちは、後に福岡城が築かれる赤坂山(警固山)に拠点を築いて対抗、戦いは蒙古側がやや優勢であったが、陸地に拠点を築くことができず、戦局が停滞しているうちに異常気象のために被害を受けた蒙古側がこれ以上の戦闘の継続を望まずに撤退したと考えられる。当時の暦で10月、現在の暦で11月のことなので、台風というよりも寒冷前線の通過に伴う暴風であったとみるべきではないかというのが著者の意見である。

 弘安の役を取り上げている第3章を読むとさらにはっきりするが、蒙古側の軍勢の方が数は多かったが、兵站・補給の点で難があり、士気も高くなかったので、必死の防戦に努める日本の武士たちの反撃を打ち破ることができなかったという側面の方が、天候の影響よりも大きいことが読み取れる。特に文永の役の場合には、九州の陸地に拠点を築くことができなかったというのが、いちばん大きな蒙古側の敗因であるということであろう。
 この書物の中に登場する武士たちの中には、その後、南北朝時代に活躍する武士と同じ姓の人物が少なからずいて、それぞれの系譜関係なども気にしながら読んでいた。これまで通説とされていた池内宏(1931)『元寇の新研究』の議論をしっかり読み込んで問題点を考え直していく手際はなかなか小気味がいい。

ダンテ・アリギエリ『神曲 天国篇』(33-1)

12月6日(水)晴れ

 1300年4月7日の夜、「人生のなかば」(35歳)にあったダンテは「暗い森をさまよっている」自分に気づく。夜明けで明るくなってきた方向に歩こうとしていると、豹、獅子、狼に行く手を遮られる。そこにローマ黄金時代の大詩人ウェルギリウスの霊が現われて彼を助ける。そして、ウェルギリウスの霊に導かれて、ダンテは地獄と煉獄とを旅する。
 煉獄の高い山の頂上にある地上楽園でダンテはウェルギリウスと別れ、かつて彼がその想いを『新生』の中で謳いあげたっベアトリーチェの魂に出会う。彼女に導かれて、ダンテは天上の世界へと旅立つ。4月13日の正午のことである。
 地球を取り囲んで回転している天上の世界は、月天、水星天、金星天、太陽天、火星天、木星天、土星天、恒星天からなり、それらの運動を非物質的な世界の入口である原動天の天使たちが司り、さらに神のいる至高天が広がる。至高天は非物質的で時間も空間も超越した世界である。
 月天から土星天までの世界で、至高天から彼を迎えるためにやってきた祝福された魂たちと彼は信仰と教会について、政治とローマ帝国について、会話を続ける。魂たちの多くは歴史上の有名人であり、このことからダンテは、自分が地上に戻った際に、異界での見聞を詳しく報告することが旅の目的であることを自覚する。そして、信仰、希望、愛の3つの対神徳についての試問に合格して、そのような報告者として自分がふさわしいことを証明する。
 至高天に達したダンテは、さらに自分を高め、より神聖なものを自分の眼で見ることができるようになる。それを見届けて、ベアトリーチェは至高天の自分の元の位置に戻り、最後の案内人として、神秘主義的な神学者のベルナールが現われる。そして、ダンテを神と人間たちの仲立ちをする存在である聖母マリアの元に導き、マリアをたたえる歌を歌いはじめる。

「処女であり母、あなたの息子の娘、
あらゆる被造物より身を卑しくし、かつ崇高、
永遠の御心の定まれる的、

あなたこそは人類を
この上なく高貴にされた方、それゆえに創造主は
自らを人の被造物とされることを厭わなかった。
(492ページ) マリアは、処女懐胎をして、母として息子キリストを生んだ。キリストは神であるが、マリアは、その神の造った人類の子孫、つまり娘であった。彼女は、身を低くし僕として神に仕えたが、神の母として被造物の中で最も崇高な存在でもあった。そして彼女の存在は、創世から最後の審判に至る永遠の神の計画の中に必然として定められていたという。

あなたの胎内で再び愛が燃え上がったのだ、
その暖かさにより、永遠の平和のうちに
この花はこのように双葉を開いた。
(同上) アダムの原罪のうちに消えていた神の愛が再び燃え上がった。「この花」は、至高天に集まった至福者たちの作り出している白薔薇である。

 そしてベルナールはダンテを紹介して、彼にいっそうの力を与えるように願う。
今、この者、宇宙の奈落の底から
ここまで、霊を備える魂を
一人一人見ながら至り、

恩寵にかけてあなたに願う、究極の至福に向かって
さらなる高みへと目を開きながら昇っていけるほどの
大いなる力が与えられんことを。
(494ページ) そして、ダンテがマリアの保護により、神を見た後も高慢の衝動を抑えて、健全な心で過ごすように至高天の魂が祈っていることを言い添える。

 ベルナールの祈りを聞いて喜んだマリアは、ベルナールとダンテに視線を向けて歓びの気持ちを伝えた後、神の方をまっすぐに見た。
そして私はあらゆる希望が目指す目標へと
近づきつつあり、私がなすべきように、
希望の炎を我がうちで極限までに燃え上がらせた。

ベルナールは私に微笑みながら目配せをして
私が上を見つめるよう誘った。しかし私は
彼が望んだようにすでに自らそうしていた。
(496ページ) ベルナールに指示されなくても、ダンテが自発的に上の方をみようとしたのは、それだけの力が彼の中にみなぎってきていることを感じたからである。

というのも我が視力はさらに澄んでいき、
ただそれ自体で真理として在る高き光に発する光線に沿って
さらにさらに入り込んでいったからだ。
(496-497ページ)

これ以降、我が視力は私が語って表すところを
超越した。言葉には私の見たそのような光景を表す力はなく、
記憶にもこれほどの途方もない壮挙を覚える力はない。
(497ページ) 地上に戻ってからでは、自分の言葉で表現できないだけでなく、記憶力さえも超越した経験をしたという。

 そうはいっても、ダンテは言葉の限りを通して、また残っている記憶のありったけのものを動員して、この経験を語ることで、叙事詩を終えようとする。そうする力を与えられるよう、神に祈る。
おお、至高の光、必滅の者達の理解から、
隔絶して昇る方よ、我が知性に
あなたの顕わした姿の幾許(いくばく)かを与えたまえ。

そして我が言葉の技にあふれる力を授け、
あなたの栄光から発する閃光の一筋だけでも
未来の人々に残すことをお許しあれ。

なぜなら、それが少しでも我が記憶に戻ってくれば、
そしてこの詩がいくらかでもそれを声に出せれば、
あなたの勝利についてひとびとはさらに理解を深めるであろうがゆえ。
(498-499ページ) ダンテが思い出し、表現できるものは神の栄光のごく一部の、わずかなものであっても、ひとびとに希望を与えることができるはずだという。そして、ダンテは自分の経験を語ろうとする。

 『天国篇』第33歌は、全部で100歌からなるこの叙事詩の最後の詩行である。神に近づいたダンテは、この後どのような経験をするのか、そして叙事詩はどのような形で終わるのか、それはまた次回。

七河迦南『アルバトロスは羽ばたかない』

12月5日(火)晴れ

 12月4日、七河迦南『アルバトロスは羽ばたかない』(創元推理文庫)を読み終える。2008年に発表された著者のデビュー作『七つの海を照らす星』の続編として、2010年に刊行された長編小説の文庫化である。

 海に面した街のはずれ、隣の県と境を接する辺りに位置している児童養護施設・七海学園に勤めている保育士の北沢春菜は、子どもたちと向き合って忙しい毎日を過ごしながら、この学園の日常生活の中で起きているささやかではあるが不可思議な事件の解明に取り組んできたというのが前作『七つの海を照らす星』の内容で、短編小説集とも、長編小説ともとれる施設内の出来事の描写の流れの中で、彼女の親友である野中佳音が実はこの施設にかかわる謎と深い関係のある人物であったことがわかって行く。そんな中で春菜の探索を助ける児童相談所の児童福祉司である海王さんが名探偵ぶりを見せていた。

 この『アルバトロスは羽ばたかない』では、学園のなかでも成績のぱっとしない子どもたちが通っていることが多い県立七海西高校にも舞台が広がる。春菜は3年目の勤務に入り、佳音はボランティアとして学園の子どもたちの勉強をみている。七海西高校で11月23日、文化祭が開かれている最中に校舎屋上からの転落事件が起きる。警察は自殺の疑いの濃い事故と考えるが、不審を抱いた語り手は独自に捜索を進める。今回は、海王さんや学園の古参職員たちは後方に退いている。

 これほど内容の紹介が難しいミステリーというのも珍しい。11月12日の当ブログで『七つの海を照らす星』を取り上げた際に、この物語の語り手は春菜になっているが、実は佳音かもしれないことを仄めかす箇所があることに触れていた。今回の『アルバトロスは羽ばたかない』は、読み進むうちにわかることだが、春菜が書いた部分と佳音が書いた部分から構成されている。一方が転落事件の捜索の過程であり、もう一方がその伏線となる学園内の出来事である(と書いてしまうと、物語の工夫のかなりの部分を暴露したことになるかもしれない)。そして、転落したのが誰かということが慎重に伏せられているのが特徴である。むしろ容疑の焦点となる人物の方がはっきりしている。被害者と探偵がはっきりせず、容疑者の方がはっきりしているというところに著者なりの工夫があると思われるので、それを壊すわけにはいかないから困るのである。

 ただ一つ言えることは、『七つの海』に比べて『アルバトロス』では子どもたちの中に潜む邪悪な部分が浮かび上がっていることではないか。さらに死への興味とか、「あこがれ」(?)のようなもの、女子高校生の売春などの問題も点滅する。学園と高校の両方に編入してきた鷺宮瞭という少女に加え、彼女と高校で仲良くしている西野香澄美という生徒、その香澄美が瞭の前に仲良くしていたという織裳莉央という自殺した少女、全体として不穏な雰囲気が漂っている。

 織裳莉央(おりも・りお)という名前はかな書きにすると回文になる。この著者の七河迦南(Nanakawa Kanan)という筆名(?)もローマ字による回文であり、主要登場人物の野中佳音というのもローマ字による回文である。作品全体にこの種の言葉遊びがあふれているが、遊びというよりも「悪戯」に近いのかもしれない。学園に入園する際に元の学校の旧友が書いてくれたという寄せ書きをめぐる樹里亜とエリカの喧嘩は、寄せ書きの中に隠されたメッセージを一方が読み取っていたことによるものであった。そして莉央が残したCDをめぐってもこの種の言葉の謎解きが絡まる(ローマ字とキリル文字を取り違えるというのは、クリスティーの『オリエント急行殺人事件』を思い出させる)。

 春菜は佳音について「たおやかで優しくて…、結構芯は強い反面、意外と抜けたところもあってなかなか面白い人である」(24ページ)と観察し、佳音は自分自身について「わたしは生活の中で時々、気がつくとぼーっとしていることがある。・・・それはもしかしたらいくらか解離状態に入っているのかもしれない。辛かった子ども時代の記憶があまりにもわたしを苦しめる時に、働く防衛機制ではないかと思う。」(411ページ)と分析している。そして、春菜は薄々そのことに気づいているが、わざと黙っているのではないかとも付け加えている。平凡だが幸福な環境で育った春菜と、不幸な環境で育った佳音にはまだお互いに理解を深める余地があることが感じとれるのである。

 ということで、『七つの海を照らす星』が社会的な性格が強いミステリーであったとすれば、『アルバトロスは羽ばたかない』は心理的な性格が強くなっているように思われる。
 瞭は一度だけ、莉央に逢っている。その時に、莉央はアルバトロス(アホウドリ)は自力では飛べないが、崖から身を投げて、気流を翼がとらえて舞い上がるという。
 「アルバトロスは羽ばたかない」というその言葉を忘れない瞭に対し、春菜はアルバトロスについて調べて、「あの重い身体を宙に浮かせて飛び立つためには凄い助走と浮く力が必要だから、地上や、水面では、ばたばたやって走ってるの、もう格好悪いくらい必死で走って、羽を動かして、それでやっとのことで飛び立てるの。…アルバトロスだって羽ばたくのよ。」と言い聞かせようとする。その言葉を聞いて、瞭はそんなことを調べて意味があるのかと反論し続けようとする…。

 千街晶之さんは「解説」で「登場人物たちが「希望」を手放さない」(421ページ)とこの作品の特徴を要約しているが、そういえるかどうかは、瞭が春菜のこの言葉をどのように受け止めたかにかかっているようである。
 余計なことを書きすぎて著者の工夫と読者の興味をそいでしまったかもしれないが、これでも書きたかったことのかなりの部分を切り捨てたつもりである。その位、いろいろなものが詰まった作品である。
 と、書いてもう一つだけ書き足しておくと、物語の中でカルメン・マキ&OZの音楽が役割を果たしているのが懐かしかった。そういえば、映画『探偵はBARにいる』のシリーズ第1作に、カルメン・マキが登場していたな、第3作も見に行こうかなどと思っているところである。

『太平記』(187)

12月4日(月)曇り

 建武3年(南朝延元元年、1336)7月、宮方は京を包囲して奪回を試みたが、失敗に終わり、名和長年がこの戦いで戦死した。足利方の小笠原貞宗、その後佐々木道誉が近江を押さえ、補給路を断たれた比叡山の宮方は窮地に陥った。足利尊氏は後醍醐天皇に密書を送り、京への還幸を促し、天皇は還幸へと踏み切ったが、新田一族の堀口貞満が必死に諫め翻意させようとした。結局、天皇は義貞に東宮(恒良親王)を託し、北国で再起を期すように命じた。

 前回の終わりに、北国に赴く前に義貞が日吉山王の大宮権現に参拝し、源氏累代の名刀である鬼切を奉納したと書いた。岩波文庫版の脚注ではこの刀について、「渡辺綱が鬼の腕を切った太刀」(第3分冊、181ページ)と書いている。渡辺綱とその主人である源頼光が鬼を退治して、この刀に鬼切という名がついた来歴は、『太平記』第32巻で語られる。『広辞苑』(私の手元にあるのは第1版第27刷)では「多田満仲が戸隠山で鬼を斬るに用いたから名を得た。新田義貞討死の時、足利高経が得た」とあるが、その話もこの前後に出てくる。『広辞苑』は「足利高経」と記しているが、『太平記』には「斯波高経」と記されている場合もある。(斯波氏は足利氏の一門である。) このあたりの『太平記』の記事は説話としては面白いが、歴史的事実に照らすと荒唐無稽に見える部分があるので注意を要する。

 10月10日の巳の刻(午前10時ごろ)に、後醍醐天皇は東坂本から延暦寺東塔を経て西坂本(修学院の辺り)に通じる今路を西にむかって京に還幸され、東宮(恒良親王)は騎馬で、琵琶湖の西岸を北へと向かわれた。
 天皇に供奉して京都に出た人々の中で主だったものは、吉田内大臣定房、万里小路大納言宣房、御子左中納言為定(藤原俊成・定家に始まる御子左家の嫡流である二条為世の孫)、侍従中納言(三条)公明、坊門宰相清忠、勧修寺中納言経顕、民部卿(九条)光経、左中将(甘露寺)藤長、頭弁範国(頭弁というのは頭中将とともに蔵人所の長官を務める役職である)、武家の人々では大館氏明、江田行義、宇都宮公綱、菊池武俊、仁科重員、春日部家縄、南部為重、伊達家貞、江戸景氏、本間孫四郎為頼、道場房猷󠄀覚、合わせて700余騎の武士たちが、天皇のお召しになった腰輿の前後に従っていた。

 東宮の行啓のお供をして北国へと向かった人々は、尊良親王、洞院左衛門督実世、同じく少将定世(岩波文庫版の脚注によると「不詳」だそうである)、三条侍従泰季、御子左少将為次、頭大夫行房、その子息の少将行尹、武士では新田義貞、脇屋義助、義貞の子の義顕、義助の子の義治、堀口貞満、一井義時、額田為綱、里見義益、大井田義政、鳥山義俊、桃井義繁、山名忠家、千葉貞胤、宇都宮泰藤、狩野泰氏、河野通治、河野通綱、土岐頼直、合計して7千余騎、土地の地理に明るいものを先に行かせて、東宮を警護しながら進んで行った。
 これ以外では妙法院宮(宗良親王)は舟で遠江に逃れられた。阿曾宮(懐良親王)は山伏の姿になって、吉野の奥を潜行された。四条中納言隆資は紀伊の国へ下り、中院少将定平は、河内の国へ姿を隠した。
 このように宮方の人々が散り散りになっていく様子は、唐の玄宗皇帝が安禄山の乱で都を捨てて蜀へと落ち延びた様に似ていると、例によって『太平記』の作者は美辞麗句を連ねて大げさに書き立てているが、付き合いきれない。

 還幸の列が法勝寺(現在の京都市左京区岡崎法勝寺町にあった寺)の辺りまで来ると、尊氏の弟の直義が500余騎を連れてやってきて、まず三種の神器を当今(とうぎん)の御方(つまり足利氏に擁立された豊仁親王→光明天皇)に渡されるようにと申し上げたところ、天皇は既にこういうことになると予測されていたのか、偽物を内侍を通じて渡された。〔前回に書いたように、三種の神器は既に、恒良親王に渡されたはずで、話がややこしくなってきている。〕

 その後、天皇を花山院(現在の京都御苑内にあった花山上皇の御所で、花山院家が伝領)に幽閉し、降参してきた武士たちは、足利方の有力な武士たちの元に一人ずつ預けて、囚人扱いをした。こういうことになるのであれば、義貞とともに北国へ落ちて、討ち死にした方がよかったと後悔しても、後の祭りである。
 10日ほど過ぎて、菊池武俊は警固のゆるくなった隙をついて本国である肥後に逃げ帰り、宇都宮公綱は逃げ出す隙はあるのに、出家したような様子で、なすこともなく警固のものと向かい合っていたのをけしからんと思った人がいたようで、門の扉にヤマガラを絵に描いて、その下に、一首の狂歌を書きつけたものがいた。
  山がらがさのみもどりを宇都宮都に入りて出でもやらぬは
(第3分冊、186ページ、山雀が籠の中だけを行ったり来たりするように、宇都宮は都に入ったきり外へ出て行かぬことよ。もどりをうつと宇都宮、みやこと籠(こ)をかけている。)

 本間孫四郎は、もとは尊氏の家来であったが、その後新田義貞の配下に加わり、兵庫の合戦の時は遠矢を射て強弓の射手ぶりを見せつけ、雲母坂の戦いのときには扇を射て自分の上で前を誇示したなど、これまでのふるまいが憎らしいというので、刑場とされていた六条河原に引き出されて、首を斬られてしまった。
 道場房猷覚は後醍醐天皇の側近として活躍したのだが、比叡山の宮方の長本であると、12月29日に阿弥陀峯で首を刎ねられた。その際に、一首の歌を詠んで法勝寺の上人(円観)のもとに送った。
  大方の年の暮れかと思ひしにわが身のはても今夜(こよい)なりけり
(第3分冊、187ページ、世間は年の暮れを迎えるころと思っていたら、私の命の終わりも今夜だった。)

 このほか、比叡山から後醍醐天皇に従って京に戻ってきた公卿たちは、死罪にはならなかったとはいうものの、官職を免ぜられたり、一時やめさせられたりして、都にいてもしかたがないような身の上になってしまった。元の住処に帰っても、荒れ果てた様子で、訪ねてくる人もいない有様である。むかしはよかったなどと懐旧の涙にくれながら、日々を過ごしたのであった。

 後醍醐天皇が尊氏に騙された形になったが、その天皇は北朝の天皇に偽物の三種の神器を渡したという。狐と狸の化かしあいのような話だが、天皇の側近の公家、僧侶、武士たちは京都に戻って悲惨な境遇に置かれている。今回はやたら、人名が登場したが、この中のかなりの部分がどんな人物であったかわからないようである。歴史というのが、勝者の立場からまとめられているということがよく分かる。
 藤原俊成・定家の流れをくむ御子左家は、二条、京極、冷泉の3つの流れに分れ、それぞれ歌道の家として競い合うが、保守的な二条流は大覚寺統と、革新的な京極流は持明院統と結びついて、勅撰和歌集の選者の地位を争うことになる。この辺りは、最近出た小川剛生『兼好法師』にかなり詳しく書かれているので興味のある方はご覧ください。兼好は二条為世の弟子だという。今谷明『京極為兼』なども、別の立場から書かれているので面白いかもしれない。実はよく読んでいないのだが、西野妙子『光厳院』は文学史の立場からこの問題に取り組んでいるらしい。とにかく、読まないことには話にならない。

 

フローベール『感情教育』(4-2)

12月3日(日)晴れ

これまでのあらすじ
 物語は1840年の9月に始まる。大学入学直前の18歳の青年フレデリック・モローは美しい人妻アルヌー夫人に出会い、恋心を抱く。モローにはデローリエという高校時代からの親友がいる。フレデリックよりも早く大学に入学したが、学費を稼ぐために今は郷里の公証人事務所で書記をしている。夢想家で芸術的な事柄に関心を寄せるフレデリックと現実主義者で社会的な関心の強いデローリエは育ってきた環境も性格も違うが、なぜか気が合う。
 パリで大学生活を始めたフレデリックは大学の講義にはなかなかなじめないが、何人かの新しい友人を得る。アルヌー夫人に会おうと思うが、なかなか近づくことができない。1841年の12月になり、パリでは反政府の暴動が起きる。フレデリックは警官隊と衝突して拘引された若い大男に同情し、彼と同じ法科大学の学生らしい若者と2人で、彼が警察に連行されていくあとをついていく。

4の続き
 逮捕された男はデュサルディエといい、店員であったが、フレデリックともう1人の学生(ユソネというのがその名前である)は彼が同じく法科大学の学生であるといい、その釈放を要求する。2人はデュサルディエを釈放させることはできなかったが、彼と気持ちを通わせることはできた(もっとも、デュサルディエの方はいくらか後ろめたい気持ちになっている)。

 デュサルディエと別れて、2人はリュクサンブール公園前のカフェ・タブーレに出かけて一緒に昼食をとる。ユソネが流行新聞の仕事をしていて、アルヌーの出している「工芸美術」の広告も作っているという。彼のしていることが、ひそかに恋い慕っているアルヌー夫人とつながるということを知って、「この連れの男がにわかに彼の生活で、途方もなく大きな地位に占めるようになった」(53ページ)ことをフレデリックは感じる。2人はお互いに気持ちがよく通じ合い、連絡を取り合うことを約束する。ユソネは公園のまんなかで合図をして、若い女と出会い、そしてフレデリックと別れて彼女と去っていく。

 その後、1週間たって、ある晩、フレデリックはユソネと遭ったので、ナポレオン河岸の自分の部屋で語り合った。ユソネは演劇に関心があり、ロマン派の文学の批判的であった。ロマン派の文学を愛するフレデリックにとってこの点は不満であったが、彼に頼んで何とかアルヌーの家に紹介してもらおうと思い、彼の約束を取り付ける。

 しかし、ユソネは約束を守らず、なかなか彼と会うことはできなかった。しかしある土曜日に、やっと姿を現し、あちこち立ち寄った後で、ようやくモンマルトル通りにあるアルヌーの店にたどり着いた。(フレデリックは、1840年の9月に船の中でアルヌーにあっており、その後、パリのアルヌーの店を何度か訪問しているが、彼と本格的に話をしてはいないのである。)
 アルヌーはフレデリックの名前を忘れていたが、ユソネの友人だということで歓迎する。「「工芸美術」はパリの中心地点にあるので、便利な集まり場所、敵同士が親しくひじをつき合わせられる一つの中立地帯だった。」(56ページ)ということで、美術界で名を知られた人々が集まり、ざっくばらんな態度で会話を交わしていた。
 そこにやってきたぺルランという画家に、アルヌーは自分の夫人が彼に用事があるといっていると告げ、それでフレデリックは忘れかけていたアルヌー夫人のことを思い出す。フレデリックはアルヌーの店をペルランと一緒に出て、時々彼の家を訪問してもいいという約束を取り付ける。

 ペルランは50歳になる画家で、美術理論の探究者であり、論争家であったが、なかなか自分の作品を完成させることができないままでいる。熱心な観劇家で、夜遅くまで芝居を見ているために朝が遅く、身の回りの世話する老女がいたが、独り者で、泰料理店で食事をしていた。「ごちゃごちゃに積み上げた雑学知識のおかげでその逆説めいた言葉も聞けば面白かった。平俗なもの、ブルジョアへの憎悪が無類の抒情味をおびた嘲罵となって口をついて出た。そして、巨匠たちには一途に抱いている宗教的な気持ちが彼自身もそういう人の際まで高揚させている感があった。」(62ページ)

 アルヌーのところで見かけたヴァトナという女性のことがフレデリックには気になっていた。彼女は最初地方の教員で、このごろは個人教授をしながら、小新聞に何か書いているとペルランは言う。ヴァトナはアルヌーの情人ではないかというフレデリックに対して、アルヌーには別の女がいる、それに対して、アルヌー夫人は貞淑な女性であるともペルランは言う。それを聞いて、フレデリックはアルヌー夫人への想いを募らせる。そして、アルヌーの主宰する新聞社に熱心に通うようになった。

 パリにおける暴動はまだ散発的なものであったようだが、七月王政への不満は次第に大きくなっている。そういう社会変動の中で、フレデリックは大学生活2年目を迎え、パリの水になじみはじめる。アルヌーの元に出入りするようになるが、まだアルヌー夫人との再会は果たしていない。4になって登場するユソネは今後の物語の展開で重要な役割を演じるようになる。また、モデルとも、女優とも、娼婦ともつかないような女性たちが出没しはじめるのも物語の展開が本格化したことの表れである。
 アルヌーのもとに集まっている芸術家たちの中で、カリカチュア画家のソンバズというのはドーミエがモデルだろうかとか、ペルランのモデルは誰だろうか…などと美術史のおさらいをしてみるのも一興かもしれない。

日記抄(11月26日~12月2日)

12月2日(土)晴れ

 11月26日から本日までの間に経験したこと、考えたこと、前回の補足:

11月25日
 NHKラジオ「朗読の時間」では水上滝太郎(1887-1940)の作品を読んでいるが、そのうちの「銀座復興」が終わり、「果樹」が始まった。関東大震災で壊滅的な被害を受けた銀座が、住民たちとこの町を愛する人々の力で復興しようとする様子を、焼跡にいち早く店を出した料理店とその客の姿をとおして描いている。語り手の友人である銀座の有力な店の主人は、復興をあきらめていたが、そうした人々の姿に触れて、自分も店を再建しようとする決意を固める。かなりの部分が作者自身の経験に基づいていると思われる作品である。一方、「果樹」は地方から出てきた銀行員が、下町育ちの女性と結婚して、白金の寺の一角を借りて新しい生活を始める様子が描かれている。現在、白金の病院に通っているので、何となく親しみの枠物語の設定であるが、今後はどのような話になっていくか…。

11月26日
 NHKラジオ『高校生からはじめる現代英語』は、昨日放送分を高校サッカー観戦に出かけて聞き逃したので、本日、改めて聞き直した。”Former German Chancellor Kohl Dies" (ドイツのコール元首相が死去)というニュースが取り上げられた。主将に相当する英語表現は何種類かあり、それぞれの国によって決められている。ドイツ語圏であるドイツとオーストリアの首相はchancellor (ドイツ語のKanzlerに相当)で、日本の総理大臣はprime minister, 中国の国務院総理はpremierという。他にfirst ministerと呼ぶ国もあるそうだ。
 辞書によると、chancellorには米国の「大学総長」、英国の「大学名誉総長」という意味もある。手元にあるLongmanの辞書によると、
BrE the person who officially represents a university on special occasions (特別の場合に大学を公式に代表する人物)
AmEthe person in charge of some universities (大学の責任者)
とある。英国の大学では通常の経営の責任者はvice chancellorで、学位授与式など特別の場合にだけchancellorの出番は限られている。国家の首相と同じく、大学の責任者を何と呼ぶかについては、歴史的な経緯から様々な例があるようである。

11月27日
 NHKラジオ『まいにちスペイン語』の「スペインの街角」のコーナーではサラマンカ(Salamanca)が取り上げられた。スペイン西部のレオン州にある歴史の古い町で、とくにスペインで最も伝統のある大学の所在地として知られている(セルバンテスの小説によく出てくる)。日本人も多く滞在しているという話である。ゴシック様式の新カテドラル(大聖堂)とロマネスク様式の旧カテドラルが隣接していることが、写真入りで紹介されていた。どちらにしてもかなり古い建物である。

11月28日
 『まいにちスペイン語』の「ラテンアメリカの街角」のコーナーではメキシコのサン・みげる・で・あじぇんで(San Miguel de Allende)が紹介された。芸術家が多く集まっている町だそうである。

 司馬遼太郎『街道をゆく6 沖縄・先島への道」(朝日文庫)を読み終える。司馬が沖縄の人々と文化に日本人と日本文化の原型を見ていたこと、沖縄の歴史、特に海外との交流史に関心を抱いていたことが知られておもしろかった。

11月29日
 NHKラジオ『まいにちドイツ語』入門編「ケイと双子のライオン」では、日本人大学生のケイが、子どものころ読んだ絵本の中に登場する願いをかなえる双子のライオン像を探してドイツ各地を遍歴している。今回訪れたマウルブロンという小都市は、中性の修道院の建物が保存されていることで世界遺産に指定されており、この町の神学校で過ごした経験がヘッセの「車輪の下」に投影されているということでも知られる町だそうである。

11月30日
 『まいにちドイツ語』応用編「ベルリン――変転する都市」では”Kunst der Neuen Sachlichkeit"(新即物主義の文化)という話題を取り上げた。冷静で客観的な表現方法へのこだわりには、ひとびとが先行世代の大きな芸術理念に対して抱いた幻滅の気持ちが表れているようである。感情移入を拒否した新即物主義は、都会的だというかぎりにおいて、ベルリンと関係するものであったという。

 エマ・ジェイムソン「第九代ウェルグレイヴ男爵の捜査録」(ハーパー・ブックス)を読み終える。世襲貴族でスコットランド・ヤード(ロンドン警視庁)の警視正であるアンソニー(トニー)・ヘザリッジがロンドンのイースト・エンド出身で個人的に問題を抱えた若く美しい女性部長刑事のケイト、インド亜大陸系の部長刑事ばはーるの助けを借りながら、ウェスト・エンドの高級住宅地で起きた殺人事件の捜査に当たる。被害者の妻はヘザリッジの元婚約者であった…。

12月1日
 『まいにちスペイン語』応用編「スペイン文学を味わう」では19世紀のスペイン文学作品を読んでいるが、第2作目のフアン・バレーラ(1824-1905)「ペピータ・ヒメネス」が終わる。聖職者になってアジアで宣教しようと考えていた神学生と、若く美しい未亡人の恋物語。バレーラは外交官でもあり、英語からの重訳ではあるけれども「浦島太郎」をスペイン語に訳しているそうで、一度読んでみたいと思う。

 『まいにちドイツ語』は”Bauhaus"(バウハウス)を取り上げた。1919年に建築家ヴァルター・グロピウスによってワイマールに創設されたこの芸術学校は、ロシア人のカンディンスキーやスイス人のクレーが教えるなど国際的な性格をもち、芸術と手工業(Kunst und Handwerk)を結びつけて、シンプルで機能性を重視したスタイルを持つ新しい建築・工芸・工業デザインを生み出した。しかし、その国際性のために、民族主義的なナチスの圧力を受け、1933年に解散せざるをえなかった。
 バウハウスの主力はアメリカに移り、我々も直接・間接にその影響に接している。私もグロピウスが設計した建物を訪問したことがある。
 『まいにちイタリア語』応用編「原文で読む古典の楽しみ」はフィレンツェの政治的指導者であり、文芸の世界でも活躍したロレンツォ・ディ・メディチの謝肉祭に向けた詩「バッコスの歌」を読み終えた。ロレンツォは1492年に43歳(一説に44歳)の若さで死ぬが、そのイタリア半島に及ぼした影響はコロンブスの新世界への到達の知らせ以上のものであったといわれる。

12月2日
 『朝日』の朝刊に高校の歴史教科書に取り上げる用語の精選をめぐり「歴史『覚える』から『考える』へ」という歴史教育の専門家の見解の解説記事が出ていた。歴史が人名や年月日の機械的暗記の科目になるのは問題だが、歴史的知識が増えれば増えるほど、問題点も多く見つかって探究が面白くなるという側面も無視できない。
 学校で教わらなくても、TVの時代劇や娯楽的な(娯楽的でなくてもいいが)歴史小説を通じて身についてくる歴史的な知識というのは少なくない。そういう知識を批判的に整理していくことが「考える」ということなのだ、ということであれば、それで構わない。 
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