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2017年の2017を目指して(11)

11月30日(木)曇り

 11月はこれまで以上に早く、あわただしく過ぎていったような気がするが、まったくぼんやりしていたわけではない――と自分では思っている。

 都県別では神奈川県と東京都の1都1県、市区別では横浜市、川崎市、平塚市、千代田区、港区、品川区、渋谷区、新宿区、豊島区、文京区の3市7区に足を運んだ。
 利用した鉄道が6社(東急、東京メトロ、JR東日本、横浜市営、東京都営、京急)、13路線、22駅というのも変化なし。
 バスについては、新たに相鉄の「浜5」を利用し、また新たに1停留所を利用したので、6社(横浜市営、川崎市営、東急、神奈中、相鉄、京急)、25路線、28停留所を利用したということになる。【110+2=112】

 この記事を含めて30件のブログ記事を書いた。1月からの累計は339件となった。内訳は未分類0(18)、日記5(60)、読書9(112)、『太平記』4(47)、『神曲』5(49)、映画1(7)、詩0(17)、推理小説6(17)、その他0(12)ということである。コメントを2件頂いた。1月からの合計は45件、拍手コメントを1件頂き、こちらの累計は4件である。また拍手は457拍いただいていて、1月からの累計は6047拍ということになる。【355+33=388】

 本を17冊買い、13冊を読んだ。1月からの累計では137冊の本を買い、108冊を読んだことになる。読んだ本の内訳は、アントワーヌ・メイエ『ヨーロッパの言語』、円居挽『その絆は対角線』、森谷明子『花野に眠る 秋葉図書館の四季』、森谷明子『れんげ野原のまんなかで』、七河迦南『七つの海を照らす星』、デイヴィッド・J・ハンド『「偶然」の統計学』、円居挽『日曜は憧れの国』、前田速夫『「新しき村」の百年』、澤井繁男『ルネサンス再入門』、小川剛生『兼好法師』、A・E・W・メースン『矢の家』、司馬遼太郎『街道をゆく6 沖縄・先島への道』、エマ・ジェイムソン『第九代ウェルグレイヴ男爵の捜査録』。
 今月読んだ本の半数以上が推理小説であるが、言語学、数学、歴史など、推理小説以外の読書内容の多様さの方も見てほしい。すべて日本語の本であるが、英語からの翻訳が14冊、フランス語からが3冊、ギリシア語とイタリア語が各2冊、ロシア語とドイツ語が各1冊ずつということである。著者別では司馬遼太郎が6冊(すべて「街道をゆく」シリーズ)、ジェーン・オースティンが5冊、吉田健一、椎名誠、望月麻衣が3冊、プラトン、亀田俊和、芦辺拓、フローベール、森谷明子、円居挽が各2冊ということである。【97+13=110】

 『ラジオ英会話』の時間を19回、『高校生からはじめる現代英語』を6冊、『実践ビジネス英語』の時間を11回聴いている。
 『まいにちフランス語』の入門編を9回、応用編を7回、『まいにちイタリア語』の入門編を9回、応用編を7回、『まいにちスペイン語』の入門編を9回、応用編を7回、『まいにちドイツ語』の応用編を7回聴いている。(語学番組を聴いた回数の記録が混乱しているので、もう一度整理しなおすことにした。) 『まいにちイタリア語』応用編ではボッカッチョの『デカメロン』の中の1話とロレンツォ・デ・メディチの詩というルネサンス時代を代表する文学作品が、『まいにちスペイン語』応用編では19世紀スペインの作家フアン・バレーラの小説「ペピータ・ヒメネス」が、『まいにちドイツ語』応用編では主として1920年代のベルリンの都市文化が取り上げられていて、それぞれ興味深く聴いていた。(この際、言語についての関心よりも、文化への関心を優先させているのである。) 特に「ペピータ・ヒメネス」は、このところぼちぼちと読んでいるハーディーの初期の作品『緑の木陰』と(田園を舞台としていること、時代も似通っていること、恋愛が主題であることなど)似ている点があって、興味深い。 【+91】

 横浜駅西口ムービル5で『ミックス。』、神保町シアターで『起きて 転んで また 起きて』、シネマヴェーラ渋谷で『嫉妬』、『男の銘柄〕と4本の映画を見た。1月からの通算では4か所の映画館で51本の映画を見たことになる。古い日本映画ばかり見ているのがどうも気になるところである。【51+4=55】

 11月11日にすずらん通りの檜画廊で「佐藤ゆかり展」を見て、展覧会に出かけたのが7回となった。音楽会は3回と変わらず。【6+1=7】

 J2の第40節と第41節の試合、全国高校サッカー選手権の神奈川県二次予選の準決勝2試合、合計4試合を見た。1月からの累計では37試合を見たことになる。【38+4=42】
 970回のスポーツ振興くじのミニトトBが当たり、今年になってAを1回、Bを4回、合計5回当てたことになる。

 A4のノートを2冊、A5のノートを1冊、0.5ミリ(黒)のボールペン芯を3本、0.4ミリ(黒)のボールペン芯を1本、ビリジアンのボールペンを1本、万年筆の(黒)インクカートリッジを2本、修正液を1本使いきった。

 富士山を見たのが3日、酒を飲まなかったのも3日である。もう少し摂生に努めないといけない。
 
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ダンテ・アリギエリ『神曲 天国篇』(32-2)

11月29日(水)晴れ、温暖

 ベアトリーチェに導かれて、地上楽園から天上の世界へと飛び立ったダンテは、月天、水星天、金星天、太陽天、火星天、木星天、土星天を次々に訪れ、そこで彼を迎えた彼の知り合いや歴史上の有名人の魂との会話を通じて信仰や政治をめぐる様々な彼の疑問の解決を得る。そしてここで見聞したことを地上の人々に知らせることが彼の使命であると自覚する。至高天から土星天に降りている「ヤコブの階段」を上って恒星天に達した彼は信仰、希望、愛という3つの対神徳をめぐる試問に合格して、異界での体験を地上で語るのにふさわしい人物であると認められる。非物質的な世界への入口であり、天界の運動の起点でもある原動天を経て、ついに彼は至高天に達する。自分自身の眼で至高天の様子を見ることができるようになったダンテと別れて、ベアトリーチェは天上の世界の自分自身の座に戻り、シトー会の修道士で神秘主義者であったベルナールが彼の最後の案内者として現れる。ベルナールは花びらのような形に群れ集まっている祝福された魂が、何者であったかを説明する。

 天国の魂たちについての説明を終えて、ベルナールはダンテに聖母マリアを見るようにという。
さあ、それではキリストに最もよく似た
お顔を見つめるがよい。なぜならその方の輝き、
それだけがキリストと会えるようおまえに備えさせるからだ」。
(484ページ) その指示に従って、ダンテは聖母マリアを見る。

私は見た、あの至高の中を縦横に飛翔するべく創造された
聖なる知性たちに運ばれた
喜びが、溢れるほどに彼女の上に降り注ぐのを。

それ以前に私が見たあらゆる事物の中で、
それと同じほどの驚異で私の心を奪ったものはなく、
それと同じほど神に似て見えたものもなかった。
(484ページ) 神をまだ見ていない人間が、神に似ているというのはおかしな話である。
 かつて受胎告知の使者であった天使ガブリエルがマリアの前で翼を広げ、あらゆるところから聖なる歌が聞こえた。

 マリアのすぐ左隣には人祖アダムが、右隣には教会の始祖である聖ぺトロが座っていた。ペトロの隣には福音書と黙示録の著者である聖ヨハネが、アダムの隣にはモーセが座っていた。さらにペテロの向かいにはマリアの母のアンナが、アダムの向かいには西ルチーアが座っていた。ルチーアこそは、ダンテの旅のきっかけをつくった聖者の1人であった。

 説明を中断して、ベルナールは
だが、お前を眠らせている時間は尽きようとしているがゆえ、
ここで話に終止符を打とう。あたかも腕のよい仕立て屋が
手持ちの生地に合わせて服を仕立てるのと同じに。
(489ページ)という。ダンテはいま時間と空間を超越した至高天にいるが、地上の世界に属しているので彼に与えられた時間は過ぎようとしているので、話を打ち切るというのである。ここまで来ても仕立て屋が服を仕立てる際の腕前という世俗的な形容が用いられているのも興味深い。
 そして、ダンテに「第一の愛」であるマリアをまっすぐ見るように言う。
それを見つめながら、おまえが
放たれた光をさかのぼってでき得る限り深く入っていくために。
(同上) マリアを見つめ、その恩寵を祈ることこそ、神に近づく道だというのである。

 こうして第32歌は終わる。残るのは第33歌だけである。第32歌の特に後半部分を読んでいて、私はゲーテの『ファウスト』の幕切れを思い出した。私が読んだのは、『ファウスト』の方が早いが、実際に作品が書かれたのはもちろん、『神曲』の方が先である。だから、ゲーテの方が『ファウスト』の天上の場面を描くにあたって、ダンテから多くの着想を得ているということであろう。

A・E・W・メースン『矢の家』

11月28日(火)曇り

 11月27日、A・E・W・メースン『矢の家』(創元推理文庫)を読み終える。Alfred Edward Woodley Mason (1924), The House of the Arrowの福永武彦(1918-79)による翻訳である。

 ロンドンのフロビッシャー≂ハズリット法律事務所は、フランス方面の仕事を得意としてきたが、この事務所の依頼人でディジョンに住むハーロウ夫人という病身の老女の財産をめぐり、その義弟だというボリス・ワベルスキーという男から間もなく相続するはずの遺産の一部を前もって送ってほしいという依頼の手紙が届く。ハーロウ夫人は相当な資産家であるが、その資産は彼女の姪で幼女であるベティ・ハーロウに譲られることになっていることを知っているハズリット弁護士は、この依頼を無視するが、やがて、ワベルスキーがベティを、ハーロウ夫人毒殺の容疑で警察に告発したという知らせが届く。事務所の共同経営者である若い弁護士のジム・フロビッシャーが、事態を収拾し、依頼人(の相続人)の身を護るために、フランスに赴く。そして、事件を担当するパリ警視庁の名探偵アノーと接触してからディジョンに向かう。アノーは、ワベルスキーが告発した事件は大したものではなくて、実はディジョンの町で続いている匿名の中傷の手紙の事件を解決することが、彼がこの地方都市に出かける本当の理由なのだという。

 ディジョンで彼を出迎えたのは、ハズリットが「小娘」といったベティと、その友人だというアン・アプコットという2人の、20歳を超えたばかりの若い女性であった。ベティは「背の高さからいえばけっして小さくはないが、小娘という形容詞がぴったりあてはまるほど、ほっそりしたかぼそい少女だった。光線の具合でかすかに赤みを帯びた、暗褐色の髪を片方で分けて小さな頭のまわりに格好よく結いあげていた。広い額と卵形の顔は、青白く冴え、唇の鮮やかな紅を引き立たせていた。灰色の大きな瞳は、ものにつかれたような悩ましげな風情を添えている。…ジムには、彼女が微妙な炎でつくられた生物と見え、また美しい陶器のようにこわれやすい品物かと思われた。」(56ページ) 一方、アンの姿を見たジムは、彼女を依然に見かけたことを思い出した。「このひととなら、前に隣り合わせにすわったことがあったし、話しかけたことだってあった。・・・/ジムは身近に、きらきら光る黄色い髪、サファイアのような二つの眼、微妙な色つやをした、小生意気なほど可愛らしい顔を、意識した。」(84ページ)

 ディジョンにやってきたアノーはこの事件は簡単な事件だという。しかし、ロンドンでハズリットが言っていたのと同様に、事件の背後に隠れた事情があるという。ハーロウ夫人の検屍解剖が行われ、毒殺の証拠はないと結論される。しかし・・・ これ以上書くと本を読む楽しみがなくなってしまうから書かないが、これまでの物語の展開ではなぜこの小説が『矢の家』と題されているかわからないはずで、この後から、問題の「矢」が物語の進行に重要な役割を果たしはじめる。それから、2人の若い女性が、ジムの好意をえようと競い合うことになる。アノーが言っていた中傷の手紙の事件は、ハーロウ夫人の事件とどのようにかかわっているのであろうか。

 パリ警視庁の名探偵アノーの活躍を描くシリーズの1編として発表された作品だが、独立の作品として読むことができる。杉江松恋の「解説」によると、作者のメースンはミステリ専業の作家というわけではなく、G・K・チェスタトンやA・A・ミルンらと同じく「越境組」(ミステリ以外の文学領域で活躍し、ミステリも書いた作家)だという。アノーとジムの関係が、シャーロック・ホームズとワトスンの関係だというのだが、少し違うような気もする。違うからこそ、この作品、あるいは作家の特色が生まれるのである。

 シャーロック・ホームズはスコットランド・ヤード(ロンドン警視庁)の外にいる「アマチュア」探偵である。それに対して、アノーはパリの警察組織の中にいる(英語のdetectiveには探偵と刑事の両方の意味があるが、フランス語では両者は区別されているはずである。その点が、原作でどのように理解されていたのかは分からない)。ホームズの面白さのひとつは、アマチュアがプロを上回る犯罪捜査能力を見せるところにあるのだが、この作品はやはりプロはプロだけのことがあるというところを見せているのである。
 その一方で、捜査の過程で芝居がかった尊大さを見せる探偵アノーの造形は、アガサ・クリスティーの名探偵ポワロの姿に影響を及ぼしているという指摘もあるようである。モンブランに5回登ったことがあるというジムのスポーツマンぶりが、作品の中では空振りに終わっているのも、(自身スポーツマンであったという)コナン・ドイルのような先行作家への皮肉なのかもしれない。さらにベティとアンという2人の若い女性の性格の描き分けも読者を引き込むものである。

 最後に、この作品の翻訳者は文学者として名声があり、またミステリの分野にも踏み込んだ(越境者の1人である)福永武彦であるが、全体として分かりやすい翻訳だとはいうものの、固有名詞を中心に翻訳上の問題が幾つかあることを指摘しておきたい。特に、英国の司法制度についての説明、弁護士には法廷弁護士(barrister) と事務弁護士(solicitor)があって、フロビッシャー≂ハズリット法律事務所は、事務弁護士事務所である。だからジム・フロビッシャーは弁護士であっても刑事事件についてはまったく経験がないということが起きる。この点は制度の違う、日本の読者に向けての説明が必要である(実はフランスの制度についても説明が必要であろうが、私はフランスの制度はまったく知らないのである)。この時代、事務弁護士は法廷弁護士に比べて低くみられがちであった(現在はそういうことはないそうである)とはいうものの、事務所の創設者の子孫でおそらくは代々の事務弁護士であったらしいジム・フロビッシャーはお坊ちゃんらしいところがあるのであろう。
 また、事務所があるのは「ラッセル広場の東側」ということであるが、これは「ラッセル・スクエアの東側」とすべきであろう。ラッセル・スクエアはその名の通り四角形の公園状の広場であり、その周囲の地名でもある。西側にロンドン大学の本部があるほかに、東側は今はホテルが並んでいるが、昔は事務弁護士の事務所が軒を連ねていたらしい。そういえば、アガサ・クリスティーのトミーとタペンスが探偵事務所を構えたのもラッセル・スクエアであった。それからこれは、訂正してほしいのが、ハーロウ家の持っているブドウ園が「黄金海岸」にあるという箇所で、これはフランスのブルゴーニュ地方にあるコート・ドール県をcôte=海岸と早とちりした結果らしい。地図で見ればわかるが、実際は内陸部である。この場合のcôteは坂とか、斜面とかいう意味だろう。他にも探すとおかしい箇所があるかもしれない。福永の翻訳をできるだけ尊重するにしても、誰かが手を入れなおす必要があるのではないかと思う次第である。

『太平記』(186)

11月27日(月)曇り

 建武3年(南朝延元元年、1336)7月、宮方は京都を囲んで攻撃したが、足利方に撃退され、近江が足利方の手に入ったことで比叡山への補給路を塞がれ、兵糧不足に陥った。これを見て足利尊氏は後醍醐天皇に密書を送り、京都への還幸を促した。天皇は独断で還幸を決めて実行に移そうとしたが、これを知った新田一族の堀口貞満が必死に諫めて、企てを注視させようとした。

 しばらくして、新田義貞父子兄弟3人が3千余騎の兵を連れて、参内してきた。主上が自分たちに相談なく京都へと還幸しようとしていることを腹立たしく思っている様子はありありと見て取れたが、そのことで礼儀を乱すようなことはない。それぞれ庭の上に袖を連ねて並んでいた。
 主上は、いつもよりとくにやさしい顔立ちをされて、義貞、義助の兄弟を御前近くにお召しになり、涙を浮かべて次のようにおっしゃられた。「貞満が朕を恨んで申すところ、一応は筋の通った議論ではあるが、深い思慮に基づくとは言えないものである。尊氏が分を越えた朝恩にのぼせ上って、朝廷を傾けようとしたときに、義貞も同じ源氏の一門であるので、きっと尊氏ら反逆の徒に味方するだろうと思っていたが、源氏という氏族を離れて、正しい志を持って朝廷が傾き廃れるのを救い、運命を天に任せたので、大いに頼もしく思っている。とはいえ新田一族を天下を守り鎮める役として、天下を収めようと思っていたけれども、まだ時至らず典運に恵まれないまま、わが軍は疲れ、勢いを失っているので、尊氏に一端の和睦の議を諮り、しばらく時間を稼ぐために、還幸ということを言いだしたのである。このことは、以前から知らせたいとは思っていたのだけれども、そのことから噂が漏れると、却って面倒なことも起こるかもしれないので、時期を見て言い出そうとしてそのままにしておいたのを、貞満が不満をぶちまけたので、朕の誤りを知った次第である。越前の国へは、河島維頼(福井県鯖江市川島町に住んだ武士)をあらかじめ派遣しておいたので、その力で国内は安定していると思う上に、(敦賀の)気比神宮の神官たちも敦賀の港に城をこしらえて、味方をするといってきたので、まず越前に下って、しばらく兵の士気を高め、北国を平定し、重ねて大軍を起こして、天下の藩屏(王室の守り)となってほしい。そうはいっても、朕が京都へ還幸してしまえば、義貞が逆に朝敵の汚名をこうむると思われるので、皇太子(恒良親王)に天子の位を譲り、北国に同道させようと思う。天下のこと、すべて義貞が政治を執り行い、朕と同様に、東宮を盛り上げてほしい。朕は既に、汝のことを考えて呉越の戦いの際に越王句践が呉王夫差に囚われた際に甘受したような恥を忍ぶ決心をした。汝は早く、朕のために越王句践の忠臣であった范蠡のように復讐のための戦略を立ててほしい」と、涙を抑えながらおっしゃられた。このため、怒っていた貞満も、道理を知らない坂東武士たちも、首を垂れ、涙を流して、そのために鎧の袖が濡れたほどであった。

 この記事をめぐり、森茂暁さんは次のように記している。「ここで注目されるのは、これまで後醍醐に忠節を尽くしてきた新田義貞らの面目を保つため「春宮に天子の位を譲て」「北国へ下し」たことである。春宮とは恒良親王、時に十二歳と考えられれう。恒良は、建武元年(1334)正月より皇太子の地位にあった。この『太平記』の記事がもし事実なら、後醍醐天皇は延元元年十月譲位、恒良親王即位、ということになる。新天皇が越前に下ったのである。いうなれば、北陸王朝である。」(『太平記の群像』205ページ)

 新田義貞が恒良親王とともに北国に向かったのは歴史的事実で、他の書物にも記載されているが、恒良を皇位につけたと記すのは『太平記』のみであるという。しかし、亀田俊和『南朝の真実 忠臣という幻想』などもこの譲位は事実として認めている。そこで問題が起きる。もう少し、『太平記』の内容を見ていくと:

 10月9日、あわただしく受禅の儀(前帝の後を受けて新帝が即位する儀式)が執り行われ、それと並行して還幸の準備も進められるうちに日が暮れた。夜更けに、新田義貞は、ひそかに日吉山王七社の第一である大宮権現に参詣して、神前で次のように申し上げた:「私は神仏の教えを信じながらも、心ならずその旨に背き、戦を続けてきました。しかし、いつかは仏道に入ろうと思っております。無理なお願いだとは思いますが、これからも加護の眼をおかけくださって、私が再び大軍を起こし、尊氏たちを滅ぼす力を加えてくださいますように。たとえ私が失敗しても、子孫のうちに必ず志を遂げて、私の汚名をすすいでくれるものが表れますように。この2つの願いのうち1つだけでも達成できれば、後の世に当社の信徒となって、神様の御威光を輝かせるつもりです。」
 と真心こめて神に祈り、新田家に代々伝わってきた名刀である鬼切という太刀を、奉納したのであった。

 こうして、主上一行は京都へ、義貞たちは越前へと、ただでさえ少ない宮方の軍勢は2つに分かれて、それぞれの道をゆくことになったが、あまり幸運な将来は予想できない。それはまた次回。

 さて、問題になる点が2つ。後醍醐天皇が恒良親王に好意を譲り、「受禅」の儀が行われたというが、だとすると、そこで「三種の神器」が恒良親王に渡されている。ところが、この後、都に帰った後醍醐天皇は持明院統の豊仁親王(→光明天皇)に「三種の神器」を渡している。亀田俊和さんは『南朝の真実』の79ページでこの経緯を記し、さらに、吉野に逃れた後醍醐天皇が「先に光明に渡した三種の神器は偽物であり、今自分がもっているものこそ本物だと主張した。/つまり、この時点で三種の神器は、恒良が持っているものと光明天皇が持っているもの、そして後醍醐天皇が持っているものと3つあったことにあ〔な〕る。/何とも不思議な話である」(81ページ)と書いている。

 堀口貞満が血相変えてやってきた後で、天皇がおっしゃられたことはその場しのぎの部分がかなり多かったのだろうが、しかし、あらかじめ「三種の神器」の複製もしくは代用品をいくつか用意しておいたというのであれば、天皇はなかなかの策士であられたことになる。
 もう一つ気になるのは義貞が奉納した「鬼切」という太刀のことで、渡辺綱が鬼の腕を切った名刀ということであるが、だとすれば渡辺の家に伝わっているのが本当ではないかと思う。さらに言うと、渡辺綱は源頼光の四天王に数えられており、その子孫の競が頼光の子孫の頼政に仕えていたのは、『平家物語』などで語られている。だから、頼光の弟の頼信の孫の義家の子孫の新田義貞がこの刀を持っているというのはどうもおかしい。〔そもそも、鬼などというものは実在しないとか、頼光の四天王の中で渡辺綱だけは実在しなかったという説があるとかいうことまで言い出すときりがなくなる…。〕

小川剛生『兼好法師』

11月26日(日)晴れ、午後になって次第に雲が多くなってきた

 11月24日、小川剛生『兼好法師』(中公新書)を読む。

 兼好法師は広く読まれてきた『徒然草』の著者であるが、その伝記については不明な点が多い。風巻景次郎をはじめとする戦後の国文学者たちの研究によって、京都吉田神社の神官を務めた吉田流卜部氏の出身であり、村上源氏一門の堀川家の家司となり、下級公家として朝廷の神事に奉仕していたが、堀川家を外戚とする後二条天皇の六位蔵人に抜擢され、五位の左兵衛の佐に昇進し、鎌倉幕府・室町幕府の要人と交流したという生涯の輪郭が描き出されてきた(ただし、林瑞栄のように異論を唱える人もいた)。しかし、このような兼好像もまた後世に捏造された偽系図・偽文書に依拠するところの多い虚像であると著者は論じる。そして、『徒然草』の正しい理解のために、兼好の伝記の正確な把握が必要であるという。そのためには、「作品とは一定の距離を保ちつつ、できるだけ外部の資料を活用して、兼好の伝記を記述するのが最上」(ⅲページ)であるという。この書物はそうした兼好の伝記再構成の試みである。

 この書物は次のような構成をもつ。
第1章 兼好法師とは誰か
第2章 無位無官の「四郎太郎」――鎌倉の兼好
第3章 出家、土地売買、歌壇デビュー――都の兼好(1)
第4章 内裏を覗く遁世者――都の兼好(2)
第5章 貴顕と交わる右筆――南北朝内乱期の兼好
第6章 破天荒な歌集、晩年の妄執――歌壇の兼好
第7章 徒然草と「吉田兼好」

 ここではまず、第2章までを紹介する。
 第1章ではすでに述べた兼好の伝記をめぐる通説が批判されている。特に兼好の一家を掲載する系図は後世の捏造であるといい、改めて信頼すべき資料に即した検討が必要であるという。『徒然草』について初めて言及した書物は室町時代の歌僧正徹(1381-1459)の『正徹物語』であるが、その中の兼好が「諸大夫」であったという記述と、「滝口」であったという記述とは矛盾する。通説では「諸大夫」の方が重視されていたが、むしろ「滝口」→「侍」であったという方に注目すべきであろう。

 中世の公家・武家の階層は、位階を目安として、
  公卿(3位以上)・殿上人(4位) ―諸大夫(5位) ―侍(6位)
に区分されていたが、これらの身分の差別はかなり厳密なものであった。〔ちなみに兼好と同時代で、世代的には少し下であったと考えられる『増鏡』の著者は、公卿の中の摂関家、清華家、羽林家、名家という家格をかなりうるさく言っているので、名家である日野氏が台頭してきたことをやっかむ摂関家か清華家の人物であったと推測されてきた。〕
 このような身分の違いは、勅撰和歌集における作者表記に表れている。兼好は元応2年(1320)に成立した、15番目の勅撰集である『続千載集』に初めて入集し、その後7つの勅撰和歌集に連続して計18種その作品が採用されているが、作者表記はすべて「兼好法師」であるという。作者表記にはいくつかの原則があるが、諸大夫(5位)以上のものは実名(俗名)を顕わし、侍(6位)以下のものは隠名(匿名)となる。侍品以下の出家者では、とくに考慮すべき事情があれば、法名で採られる。この場合、「凡僧」(僧としての官位を持たない野僧)と言い、「○○法師」と表記する。兼好は「凡僧」であった。諸般の事情を考慮して、兼好が西行のような先陣と同じく、侍品であったことは明らかであるというのが著者の結論である。

 そして、このような身分のものとして、金沢北条氏や高師直のような武家権力者に右筆(秘書)として奉仕していたというのが実像であるという。また、彼の家系についても、彼が若いころに卜部姓を名乗ったこと以外は不明であるが、卜部氏で伊勢神宮とかかわりを持った一族の出身ではないかと推測される。それもかなり傍流で、本流から一定の生活資を与えられて京都で生活していたのではないかという。鎌倉時代の後期約60年間にわたって伊勢の国の守護職を務めたのが金沢流北条氏であり、この時代、京都の下級公家が鎌倉の北条氏に仕える例が多くなっていることから、兼好の一家も金沢流北条氏に仕えるようになったのではないかと考えられる。

 第2章では鎌倉で過ごした兼好の生活が金沢文庫の古文書から掘り起こされている。金沢流北条氏滅亡後、金沢文庫の蔵書は称名寺のものとなったが、その蔵書の多くが外に持ち出されて散逸した一方で、聖教類は放置されたまま残されていた。その後、金沢文庫の跡地に近代図書館として金沢文庫が建てられると、これらの聖教の紙背が鎌倉後期のさまざまな人物の自筆書状であることが気づかれ、歴史史料としての価値を認められて研究がすすめられてきた。
 金沢流北条氏は関東に真言律宗を広めた忍性に帰依し、その流れに連なる僧を称名寺の長老に迎えていた。金沢流の第三代当主貞顕は、称名寺二代目長老となる劔阿を重要な相談相手としていたが、この両者の交際圏に若い時代の兼好の姿が見られるという。彼の名前が見いだされる史料は、すべて、貞顕が六波羅探題に在職中の劔阿とのやり取りの中にある。

 これらの史料から著者は兼好が仮名(通称)を四郎太郎と言い、父の代から関東で活動していたと推測を展開する。父は称名寺長老となる以前の劔阿とも親しく交流していたが、正安元年(1299)に歿して、その後、母は鎌倉を離れ上洛したが、姉は留まり、鎌倉の小町に住んでいたらしい。兼好は母に従って上京したが、嘉元3年(1305)捺以前に、おそらくこの姉を頼って再び下向した。さらにその後も京都と鎌倉の間の連絡の仕事を続けていた。

 その兼好が遁世したのは延慶2年(1309)から正和2年(1313)までの間と考えられる。「中世社会における遁世者は、身分秩序のくびきから脱することで、権門に出入りし、あるいは市井に立ち交じり、時々の用を弁じていた存在であった」(56ページ)。あいまいな身分のまま過ごしていた兼好であるが、京都に定住してさらなる活躍の場を持とうとするようになる。それが第3章以下である。

 書物の内容を全部紹介する前に、個人的な感想を書くのは気が早いかもしれないが、この書物が従来抱かれてきた兼好像を大きく変えようとしていることはたしかである。
 今回紹介した部分では、金沢文庫古文書から辿ることのできる兼好の姿をかなり詳しく描き出しているが、20年ほど前には金沢文庫によく出かけたので、そのことを思い出して懐かしい気分になった。また、金沢文庫に出かけ、バスで鎌倉まで出てもいいなと思ってはいるが、そうしようと思うと早起きをしなければならないのが、つらいところではある。

日記抄(11月19日~25日)

11月25日(土)晴れのち曇り

 11月19日から本日までの間に経験したこと、考えたことなど:
11月19日
 昨日分でも書いたが、NHKラジオ『高校生からはじめる現代英語』で
AJapanese government survey has found that young people are happier when they have several places were they feel the belong, including locations in cyberspace. (日本政府の調査によると、若者は、自分の居場所だと感じるところが幾つかあると充実感を感じており、(それは)インターネット空間内の場所を含んでいる。)
というのは、道も疑わしい議論だという気がしてならない。自分の居心地のいい場所が多いほうが幸福感が高いのか、幸福感が高いほうが居心地が多いのか、鶏と卵のようなもので、そう簡単に結論付けられないのではないかと思うのである。

 横浜FCはジェフ千葉に1-2で敗れ、10位に終わる。

11月20日
 NHKラジオ『まいにちスペイン語』の「スペインの街角」のコーナーはビルバオ(Bilbao) を取り上げた。バスク地方の都市で工業地帯の中心であり、巨大な金属の船の形をしたグッゲンハイム美術館でも知られているという。

 病院に診察を受けに出かけ、いつもだと帰りに寄り道をするのだが、珍しくまっすぐに帰る。

 行きの電車の中で見かけた雑誌『Wedge』の中づり広告「国立大学のなれの果て」という見出しが目を引いた。国立大学に十分な予算を配分しない現在の高等教育政策を続けていくと(何せ、安倍政権の閣僚の中には私大の経営者の一族がいる)、日本の科学技術の根幹が揺らいでくるということらしい。現内閣の無責任で場当たり的な高等教育政策のもとでの日本の高等教育の地盤沈下という問題は、森友・加計よりもはるかに重大であり、そのことから目を離すわけにはいかない。

11月21日
 『まいにちスペイン語』の「ラテンアメリカの街角」のコーナーではウルグアイの首都モンテビデオを取り上げた。ウルグアイの人口は350万人で、そのうち約130万人がモンテビデオに住んでいるという。現代的な都市である一方、伝統的な雰囲気も留めているそうである。安くておいしい焼き肉がたっぷり味わえるというのは、南米に共通したことではないかと思う。

 シネマヴェーラ渋谷で「シネマヴェーラ的大映女優祭」の特集上映から『嫉妬』(1962、土居通芳監督)と『男の銘柄』(1961、弓削太郎監督)を見る。前者は新東宝で製作された作品なのだが、公開前に会社がつぶれてしまい、その翌年に大映で公開されたといういわくがある。土居監督の作品は、俳優の砂塚秀夫が制作した『毘沙門天慕情』しか見ていないが、新東宝末期に監督した『地平線がぎらぎらっ』は傑作という評価がある。まだ若いころの宇津井健が地方検察庁の検事に扮し、嬰児殺し事件に峻厳な態度をもって取り込もうとするが、上司の検事は情状を酌むようにと指示する。彼の昔の恋人(福田公子)は商事会社の社長の妻になっているが、その会社が疑獄事件に巻き込まれている。元恋人の妹(大空真弓)は宇津井健と結婚したいという…。さまざまな事件が検事の周辺で絡み合い、後半になると事態が二転三転し、結末が見通せなくなる。サスペンス映画の佳作。
 後者は日活で活躍した筑波久子が大映に移籍して最初に出演した作品。高校教師である夫が元教え子と浮気したことを知った妻が、夫に対抗して自分も浮気を始めるというエロティック・コメディー。浮気騒ぎに株の話が絡む。
 この特集上映と呼応して、12月9日から1月12日にかけて、角川シネマ新宿で「大映女優祭」、11月25日から12月22日まで神保町シアターで「女優で見る<大映>文芸映画の世界」の特集上映が催され、さらに10月22日から12月30日にかけてラピュタ阿佐ヶ谷で「昭和の銀幕に輝くヒロイン・第87弾 南美川洋子」のモーニングショーが行われる。南美川さんは、水木正子、八代順子、渥美マリ、津山由紀子というグループでの出演作が多かったが、もう少し上の格の脇役でも出演していた。上映案内のビラにひどく感激した様子のあいさつを寄せているのが、いかにも彼女らしいと思っている。

11月22日
 『まいにちスペイン語』ではラテンアメリカの通貨のいろいろが紹介された。アルゼンチン、チリ、コロンビア、キューバ、メキシコ、ドミニカ共和国、ウルグアイの通貨の名称はペソと共通しているが、貨幣価値は異なるという。

11月23日
 『まいにちスペイン語』応用編は「スペイン文学を味わう」は19世紀スペイン文学の作品を読んでいるが、11月はフアン・バレーラ(Juan Valera, 1824-1905) の「ペピータ・ヒメネス」を取り上げていて、今回は第5回。神学生のドン・ルイスは22歳でアジアに宣教に出かける夢を抱き伯父である主任司祭のもとで勉強していたが、12年ぶりに帰郷する。父親のドン・ペドロは土地の有力者で、裕福な未亡人でまだ若い(20歳ぐらい)のペピータ・ヒメネスに求婚しようとしていたが、ドン・ルイスはペピータに会ってその魅力にひかれ、ペピータも同じ思いを抱き、二人はお互いを愛しあうようになる。或る時、彼らだけになった2人は接吻を交わす。しかし、神父になることを目指すドン・ルイスは彼女への思いを断ち切ろうとする・・・。

 第5回は第2部の「補記」の部分が紹介される。ペピータは体調が悪いという理由で引きこもり、教区司祭からドン・ルイスを慕う気持ちは抑えるしかないといわれて、ますます沈んだ気持ちになる。それを見かねた彼女の家の家政婦アントニョーナがドン・ルイスのところに出かけて、ペピータともう一度会うことを約束させる。
 こういう使用人が、主人の恋の取り持ちをするという設定は、モリエールの喜劇などによくみられるが、スペイン文学ではセレスティーナというらしい(中国文学では紅娘=ホンニャンという)。アントニョーナから祭りの雑踏に紛れて、ルイスがやって来ると聞いたペピータは、
「ぬるま湯を使い、泣いた痕が醜く見えない程度に、しかし泣いたことが分からなくなってしまわないように、絶妙な加減で顔を洗った。髪も入念な仕上がりに言えないよう、かといってくしゃくしゃのままではなく、つまりそれではあまりに見苦しいだろうからと、多少なりとも手をほどこした品のある無造作と見えるように整えた。」〔このあたりの描写は見事である。〕

 NHKラジオ『実践ビジネス英語』の”Word Watch"のコーナーで、"in a worst-case scenario"(最悪のシナリオでは)という表現に関連して、
Hope for the best and prepare for the worst.(最高を望み、最悪に備えよ)
ということわざが紹介されていたが、11月22日の「ラジオ英会話」でも登場人物が
Let's hope for the best! (最善を期待しましょう!)
And prepare for the worst! (そして最悪に備えましょう!)
という会話を交わしていた。

11月24日
 『日経』の1面のコラム「春秋」欄は「米ドルの100分の1が日本円、そのまた10分の1が韓国ウォン‥‥。かなりおざっぱだが、こんな目分量で海外を旅する方もいるのではないか。そして韓国ウォンをさらに2ケタ小さくしたあたりが、南米ベネズエラのボリバルという通貨のこのところの価値らしい」と書き出されていた。11月22日の『まいにちスペイン語』で「ラテンアメリカの通貨」を取り上げたことは既に書いたが、ベネズエラの通貨の正式名称はbolívar fuerteボリバル・フエルテだそうである。韓国ウォンが日本円の10分の1というのは、韓国旅行の際にたしかに実感した。何か金持ちになったような錯覚にとらわれ、帰国後、所持金を両替したら1万円に満たなかったことを覚えている。

 NHKラジオ『まいにちイタリア語』応用編「原文で読む古典の楽しい」では昨日からフィレンツェ・ルネサンスを代表する存在であるメディチ家のロレンツォ豪華王(Lorenzo il Magnifico, 1449-92)が1490年のカーニヴァルのために書いた詩を取り上げている。その冒頭の
Quant’è bella giovinezza (青春はなんとうるわしい!)
che si fugge tuttavia:    (たちまち逃げては行くけれど。)
Chi vuol essere liet, sia,  (愉快でいたければたのしむがよい、)
di doman non c'è certezza.(明日のことなどわからないから。)
という箇所が、吉井勇作詞・中山晋平作曲の「ゴンドラの歌」の
いのち短し、恋せよ、少女(おとめ)
朱き唇、褪せぬ間に
熱き血潮の冷えぬ間に
明日の月日はないものを
という歌詞と似ているという話題が出てきた。「ゴンドラの歌」は、大正4年(1915)に劇団「芸術座」が脚色・上演したツルゲーネフ原作『その前夜』の劇中歌として作られたものだそうである。松井須磨子が演じるヒロインが革命に身を投じる青年に思いを寄せるという話であるが、旅の途中で立ち寄ったヴェネツィアでこの曲を口ずさむという。また、昭和27年(1952)に公開された黒澤明監督の映画『生きる』でも志村喬がブランコに乗ってこの歌を歌う場面があり、そのことでも広く知られてきた。
 吉井は歌詞の脇に「この一節を、イタリアの俗謡の調べによってうたふ」と添え書きをしているそうだが、実は森鴎外の訳したアンデルセンの『即興詩人』に想をえたものだそうである。「朱の唇に触れよ、たれか汝の明日猶在るを知らん。恋せよ、汝の心の猶少(若)く、汝の血の猶熱き間に〔…〕(『即興詩人』森鷗外訳、岩波文庫。ヴェネツィアの舟の上で一人の少年が歌う「ヴェネツィアの俗謡」)
 講師の白崎さんの話では、アンデルセン自身はイタリア旅行の折にフィレンツェのカーニヴァルを見ているし、ロレンツォの詩も知っていたはずだということであった。

 小川剛生『兼好法師』(中公新書)を読む。『徒然草』、『太平記』等を理解するのに役立つ内容である。この本については、いずれ機会を見付けて取り上げるつもりである。

11月25日
 ニッパツ三ツ沢球技場で第96回全国高校サッカー選手権神奈川県大会準決勝2試合を観戦した。
 第1試合は三浦学苑と桐光学園の対戦で、前半投降が1点を先取、後半の立ち上がりにも1点を加えて優勢に試合を進めたが、その後、三浦学苑が反撃3-2と逆転、しかし終盤に桐光が追いついて延長戦となり、延長後半のアディショナル・タイムに桐光が得点して決着がつくというまれにみる好試合であった。両チームの選手諸君に心から拍手を送りたい。
 それに比べると第2試合の桐蔭学園と湘南学院は一方的な展開となり、桐蔭が5-1で湘南を下した。このところ、あまりぱっとしなかった桐蔭であるが、今年のチームはなかなかよく仕上がっているという印象を受ける。ただし、後半、手を抜いたり、時間稼ぎをしたりしたりする様子が見えたのは褒められることではない。
 これで12月3日の決勝戦(今年は例年と逆に、三ツ沢が準決勝、等々力で決勝が行われる)は桐光と桐蔭という組み合わせになった。どんな試合展開になるか、今から楽しみである。
 

ドイツ映画の黄金時代

11月24日(金)晴れ

 NHKラジオ『まいにちドイツ語』応用編「ベルリン 変転する都市」は11月23日に”Filmstadt Berlin"(映画都市ベルリン)、11月24日に”Goldene Zeit des deutschen Films"(ドイツ映画の黄金時代)と映画に関係する話題を取り上げた。

 「映画都市ベルリン」では
Dass Berlin neben Paris die Stadt ist, die die Anfänge der Filmgeschichte markiert, ist relativ unbekannt. (ベルリンがパリと並んで映画史の始まりとなった都市であることは、比較的知られていない。)
として、1895年に映画の有料上映を行ったマックスとエーミールのスクラダノフスキー兄弟の業績から、戦間期におけるドイツ映画の隆盛ぶりについて紹介した。スクラダノフスキー兄弟の開発したビオスコープというシステムは、フランスのリュミエール兄弟のシネマトグラフに対抗できなかったが、それでもドイツにおける映画産業発展の出発点となった。
Die Universum Film AG (Ufa), die 1917 in Zusammenarbeit von Militär und Industrie gegründet worden war, avancierte schnell zu einem der größten Filmunternehmen in Europa. (ユニバーサル映画株式会社(ウーファー)は1917年、軍と産業界の協力で設立されたが、すぐにヨーロッパ最大の映画会社の1つにまで成長した。)
1919 gab es in ganz Deutschland ca. 3.000 Lichtspielhäuser und eine Million Menschen besuchten täglich die Kinos. (1919年にはドイツ全土におよそ3,000の映画館が存在し、毎日100万人もの人々が映画館に出かけていた。)

 番組パートナーの鎌田タベアさんはスクラダノフスキー兄弟と同じくベルリンのPankow地区の出身だそうで、1895年に兄弟はBerliner Straße 27で試験的に映画の上映を行ったが、それを記念してその場所にTivoliという名前の映画館が建ち、彼女が子どものころはまだ存続していたが、その後、そばに大きな映画館が出来て、残念ながらなくなってしまったとのことである。
Es gibt übrigens auch einen Film über die Brüder Skladonwsky vom Regisseur Wim Wenders. (ヴィム・ヴェンダース監督によるスクラダノフスキー兄弟についての映画もある。) 本題とは関係がないが、タベアさんの日本語が上手なのには感服する。

 11月24日放送分では、
In seiner Geschchte erlebte der deutsche Film zweimal seine Blützeit. Die erste hatte er in den zwanziger Jahren, während man die zweite in der Periode des ,,New German Cinema" von den sp äten 1960er bis zu den frühen 1980er Jahren sieht. (ドイツ映画はその歴史において2度の全盛期を経験した。第1の全盛期は20年代にあった。一方2度目の全盛期は1960年代末から1980年初頭にかけての「ニュー・ジャーマン・シネマ」時代にあると考えられている。) として、1920年代のドイツ映画が話題となった。エルンスト・ルービッチ、フリードリヒ・ヴィルヘルム・ムルナウ、フリッツ・ラングといった監督たちの代表作がこの時代につくられ、今日でも傑作とされ、その後の映画に大きな影響を与えた。

 この第一次黄金期につくられた映画の特徴は、怪奇映画が多かったことである(そのほか、山岳映画やフリードリヒ大王物などがヒットしたこともドイツ映画の特徴らしい)。それは不安定な時代の社会心理を反映したものと考えられる(この時代のドイツ映画の分析として、ジークフリート・クラカウアーの『カリガリからヒトラーへ』という有名な研究がある。ただし、クラカウアーの分析視角は、怪奇映画が多いということよりも、映画の中の<専制君主>像に向けられている)。

 ナチスの台頭とともに、ユダヤ系や進歩的な傾向を持つ映画人たちは亡命し、多くがアメリカに渡った。
Nicht wenige von diesen Regisseuren und Schauspielern wurden nach Hollywood eingeladen und kamen nach der Macht übernahme durch die Nationalsozialisten nie wieder nach Duetschland zurück. (これらの監督や俳優のうちの少なからぬ人々がハリウッドへ招待され、ナチス党が権力を掌握した後、二度と再びドイツへ戻らなかった。)

 ここでは、フリッツ・ラングやマレーネ・ディートリヒがハリウッドに去った映画人の例として挙げられ、ラングが亡命直前に作った映画『M』と、この映画に出演したペーター(ピーター)・ローレ(その後、『マルタの鷹』、『カサブランカ』等に出演)のことが語られ、ビリー・ワイルダーについても言及されたが、オットー・プレミンジャーもオーストリアからアメリカに渡った一人である。さらに、グレタ・ガルボやイングリッド・バーグマンのようにドイツを経由して、スウェーデンからハリウッドに渡った俳優がいるが、この場合血統や思想はおそらく関係がないだろうと思われる。いずれにしても、1930年代から40年代にかけてドイツをはじめヨーロッパ大陸各地から集まってきた人材がハリウッド映画の全盛期を現出するのに、大きな貢献をしたことは否定できないだろう。

 2回の放送で言及された映画のかなりの部分:『カリガリ博士』、『ノスフェラトゥ』、『メトロポリス』、『M』を見ているが、『M』を除くと、サイレント映画であり、ドイツ映画はトーキーの時代になるとやや衰退したのではないかという気がする。(『M』 は後に、アメリカでジョセフ・ロージー監督により再映画化されているが、これは見ていない。フリッツ・ラングはジャン=リュック・ゴダールの『軽蔑』に出演していたのを記憶されている方もいるだろうと思う。) 私は、怪奇映画があまり好きではないので、1920年代のドイツ映画は勉強のつもりで見ることは見たが、どうも違和感があるというか、しっくりこないものがあって、ドイツ語が大学時代の第二外国語だったにもかかわらず、苦手意識をもっているのと、どこかで関連しているのかもしれない。それから第2期黄金時代の「ニュー・ジャーマン・シネマ」の作品は、すでに就職して映画を見る余裕がなくなった時代に公開された作品が多かったので、部分的にしか見ていないのは残念なことである。
 

澤井繁男『ルネサンス再入門 複数形の文化』

11月23日(木)午前中は雨が降っていたが、昼頃に晴れ、その後また雲が多くなる。変わりやすい天気である。

 11月20日、澤井繁男『ルネサンス再入門 複数形の文化』(平凡社新書)を読み終える。「再入門」という題名通り、ルネサンスについて一応の知識をもっている人が、自分の知識や理解を整理しなおし、考え直すきっかけになることを意図した書物である。ルネサンスという時代がどのような時代であったのか、先行する<中世>という時代、後続の<近代>という時代とどのような境界によってわけ隔てられているか(あるいはいないか)、その内実はどのようなものであったのかを、次のような構成で考察している。

    まえがき
序章 歴史の<境界>
 1 時代区分
 2 ルネサンス観の変遷
 3 ルネサンス文化の担い手たち
第1章 「術」と「学」
 1 錬金術と化学
 2 占星術と天文学
第2章 中世からルネサンスへ
 1 『イル・ノヴェッリーノ』の意義
 2 「三つの指輪」の変遷
 3 都市の心象
 『イル・ノヴェッリーノ』の構成
第3章 ルネサンスから近代へ
 1 カンパネッラ『事物の感覚と魔術について』
 2 カンパネッラ『哲学詩集』
    参考文献
    あとがきにかえて

 「あとがきにかえて」ではフランスの歴史家であるジャック・ル=ゴフの『時代区分は本当に必要か?――連続性と不連続性を再考する』(菅沼潤訳、藤原書店、2016)を読んでの著者の感想が、付け加えられている。
 序章で、ルネサンス期に生きた人々の同時代観や、その後の人々のルネサンスへの評価、さらにルネサンスをめぐる古典的な名著の内容が論評される。第1章では科学革命の中世における「学知・学問」との連続性及び不連続性が考察されている。ここまではかなり大きく構えて議論が展開されているのだが、第2章は「中世からルネサンスへ」という看板を掲げながら、13世紀のフィレンツェで書かれた物語集である『イル・ノヴェッリーノ』と後続の文学作品、特にボッカッチョの『デカメロン』の内容の比較、これらの物語集に含まれている「三つの指輪」(3人兄弟の間での相続をめぐる説話なのだが、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教の3つの宗教のうちどれが真正の宗教であるかという問題と絡んでくる)の説話の変遷をめぐる考察に議論が限定されてきている。第3章も同様に「ルネサンスから近代へ」という表題を掲げながら、南イタリア出身の<自然魔術師>トンマーゾ・カンパネッラ(1568-1639)についての考察に終わっている。第2章、第3章とも、興味深い問題が考察されてはいるのだが、それぞれの掲げた表題と内容との間の溝は深い。「あとがき」によると著者はイタリア文学出身であり、また、ルネサンスの発祥地の地であり、中心地であったのはイタリアである(そのくせルネサンスという言葉はフランス語である)から当然のことともいえるのだが、内容がイタリア(もちろん、イタリアといっても、その中での地域的な多様性があるとはいえ)に偏りすぎているのは、残念に思われる。

 この書物についての詳しい考察は、今後に機会を見付けて展開するつもりであるが、著者が「まえがき」の中で、議論の出発点となるような「ルネサンス文化の特徴」について紹介して、それらをめぐる私の若干の感想を述べて今回の紹介を終えることにする。
 1 ルネサンス文化は地中海の風土によって育まれたもので、ラテン民族の復興であること。
 2 ルネサンス文化運動は都市を中軸とした、大学からではなく在野(例えば、フィレンツェのプラトン・アカデミー、ナポリの自然秘密学院などの知識人のサロン)から起こったものであること。
 3 ヘブライズム(神の啓示による正義と愛を基調とするキリスト教精神)の中に、ヘレニズムの地(人間中心、ギリシア精神)が頻繁に顔を出す文化現象であったこと。
 4 天上界(マクロコスモス)と地上界(ミクロコスモス)の照応、感応という理念が信じられていたこと。
 5 「頭脳」と「手技」――「地」と「技」の一体化が生じて、経験主義への趨勢が顕著だったこと。たとえば、ルネサンス期以前で、「解剖」を担当したのが「理髪外科医」という専門家であって、知識人(教授)はそれを黙ってみていたのだが、レオナルド・ダ・ヴィンチ(1451-1519)の例でもわかるように、一人の人物が「知」と「技」を用いてメスを握るようになっていった点があげられよう。
 6 古い時代や考え、それに制度などをよしとする尚古的な傾向が強くみられたこと。
 7 「聖的・来世肯定」ではなく「世俗的・現世肯定」であったこと。
 8 戦争が続いた戦乱の世であったこと。
 9 宗教的融和が求められて、ひとびとは(宗教上の)平和を切望したこと。
 10 一部の上層階級が主導した文化運動であったこと。
 (8-9ページ) さらに、「この時期オスマン帝国に代表される東方世界と西方世界には断絶がなく、その交流が活況を呈していた」(9ページ)という背景の事情が付け加えられている。
 この時代の特徴として著者は、三大発明(羅針盤、活版印刷、火薬)、特に羅針盤の発明と普及による大航海時代の到来と、それらに誘発されたパラダイムの転換→科学革命についても触れている。

 ここで著者が概観していることは、イタリアだけでなく、西ヨーロッパに広く当てはまるわけであるが、領主の館にはルネサンスが到来したけれども、農民の生活はルネサンスとは無関係だったというようなことも言えるので、問題はかなり複雑である。おそらく著者が「複数形」というのはそういうことと関係してくるのであろうと思う。しかし、ルネサンスに伴って起きた科学技術の革新は次第に農民の生活にも影響を及ぼしてくるというのもたしかである。

 ルネサンスの特徴として、特に印象に残るのは、それが大学とは無関係であったということで、フランス・ルネサンスを代表する作家ラブレ-の『ガルガンチュアとパンタグリュエル』でも、大学の先生方というのはルネサンスの精神とは無関係の中世風の哲学に凝り固まった連中として戯画的に描かれている。フランソワⅠ世が今日のコレージュ・ド・フランスの前身となる王立教授団を創設したのも、イタリアにおける知識人のサロンの例に倣ってのことなのであろうが、それが制度として発展したというところにフランス独自の伝統の形成を認めてよいのだろう。
 これは以前にも書いたが、シラノ・ド・ベルジュラックの『日月両世界旅行記』の第2部「太陽諸国諸帝国」に「太陽の都」の著者であるカンパネッラと、シラノの年長の同時代人であるデカルトが登場する。そこまで行くと近代ということなのであろう。

ダンテ・アリギエリ『神曲 天国篇』(32-1)

11月22日(水)曇り

 ベアトリーチェに導かれて、煉獄山の頂上にある地上楽園から天上の世界に旅立ったダンテは、月天、水星天、金星天、太陽天、火星天、木星天、土星天を歴訪し、そこで彼を出迎えた知人や歴史上の有名人の魂と会話し、人生の中で抱いていたさまざまな悩みや謎を解決する答えを得るとともに、この旅の中で彼が見聞したことを地上の人々に知らせることが彼の使命であることを自覚する。至高天から土星天へと降りている「ヤコブの階段」を上って恒星天に達した彼は、希望、信仰、愛の3つの対神徳をめぐる試問に合格して、彼がその見聞の様子を語るにふさわしい存在であることを証明する。宇宙の回転の起点であり、非物質的な世界の入口である原動天を経て、彼は至高天に達し、ついにその真の姿を見るに至る。そこでは祝福された魂たちが「純白に輝く薔薇」のような形に並んで座っていた。その務めを終えたベアトリーチェは至高天における彼女の本来の席に戻り、彼の最後の導き手としてベルナールが現われ、彼に聖母マリアとその周囲にいる人々の姿を見せる。

喜びを与えてくださる方に心を奪われているその瞑想の魂は、
自由なる精神で導師の役を引き受け、
この聖なる言葉をはじめられた。

「マリアが手当てして閉じた傷だが、
その足元にいるあれほどに美しい女性こそが
その傷をつけて痛ませたものだ。

その女性の下にある三段目の席が連なる輪に、
おまえに見えるとおり
ラケルがベアトリーチェを隣にして座っている。
…(476ページ) ベルナールはダンテに、聖母マリアの周囲にいる女性たちが何者であるかを語る。「マリアが手当てして閉じた傷」は<楽園追放>であるが、「その足元にいるあれほどに美しい女性」は、その傷をもたらしたエヴァである。彼女は神に直接創造されたため、比類なく美しいのである。
 ラケルは『旧約聖書』に登場するイスラエルの族長イサクの妻の一人で、ヤコブの母であり、『神曲』では観想の生を象徴する存在とされている。(だから、神について理論的に考える神学のアレゴリーであるベアトリーチェと並んでいるのである。)

 ラケルに続いて、サラとレベッカ、ユディト、ルツと『旧約聖書』に登場する女性たちが並び
段々をなして降りていくのをおまえは
見ることができる。わしが薔薇を花びらから花びらへと
降りながらその名を呼び上げていく順に。

そして第七の位階から下では、その上の段々が
そうであるように、ヘブライの女性達が続いている、
薔薇の花びらの集まり皆を分けながら。

なぜならこれらの女性達は、
キリストへの信仰が求めた視線の向きに従って
聖なる階段を分ける、その境となる壁をなしているからだ。
(477-478ページ) 「キリストへの信仰が求めた視線の向きに従って」は、信仰を主とした表現で、「どのように彼女たちがキリストを信じたか」という意味だそうである。つまり、キリストの出現を待ちわびていた『旧約』の女性達は、この後に出てくる、キリストと同じ時代に生きた人々、それから『新約』以後の人々と区別されて座っている。

花の中でも花びらがことごとく埋まっている
このあたりだが、そこに座っているのは、
キリスト降臨を信じた人々である。
(478ページ) 第30歌でベアトリーチェはダンテに向かい、天国の席が満席に近づいていると述べた(つまり世界の終末が近いということである)。キリストの同時代に生きた人の場合、満席になっているのは当然といえば当然である。(『旧約』時代の人々はリンボから、キリスト以後の人々は煉獄や、現世からまだ至高天にやって来る分の席が残っているはずである。
一方、空席により隙間が空いている
半円の段々のある側だが、そこにいるのは
降臨されたキリストに視線を定めた人々だ。
(478ページ)

 女性たちが一方の側に座っているのに対し、その向かいに洗礼の聖ヨハネを頂点にして、聖フランシスコ、聖ベネディクト、聖アウグスティヌスらが並んでいる。「ここでは旧約を代表しているのが女性であり、救済の国である至高天にいる人々を生み出した母として位置づけられ、新約を代表する人々は、人類の精神を指導する父と位置づけられている。また両方の列の頂点にいるのが、マリアと洗礼者ヨハネであり、両者とも旧約と新約の両世界の橋渡し役だったことに注目したい」(645ページ)と翻訳者である原基晶さんは解説で述べている。

 次に、罪なくして死んだ無垢な幼児たちの魂が、至高天の薔薇の花の中央から下に住んでいることが語られる。ベルナールはこれらの幼児たちについて語りながら、神の創造の多様性と救済の予定が人間には不可知であるという。
この王国に、どの望みももはやそれ以上を求めぬほどの
愛と喜びを与えて
安寧をもたらしている王は、

喜ばしげな表情を見せてあらゆる知性的魂を
創造しながら、御心のままに、一様にではなく
恩寵をお与えになる。これで理解には十分とせよ。
(482ページ)

 第26歌にアダムが登場した時、彼が天国にいるのであれば、エヴァはどうなっているのかということが気になったのだが、彼女も天国に迎えられているので、安心した。至高天は非物質的な時空を超えた世界であるから、それを人間が感覚でとらえて表現することはできないはずである。至高天にたどり着いた時に彼はベアトリーチェの姿しか見えず、次に、地上楽園に似た春の庭園を見、さらに祝福された魂がつくる薔薇の花のような魂たちの集まりを見る。そしてその魂たちについての詳しい説明を聞いた。この認識の深まりにも注目しておく必要がありそうである。
 さて、ダンテは次に何を見るのであろうか。

フローベール『感情教育』(4-1)

11月21日(火)晴れ

これまでのあらすじ
(1) 1890年9月、パリの大学で法律を学ぶことになった18歳のフレデリック・モロー青年は、いったん帰省の途中、セーヌ川を遡行する汽船の中で共和主義者の美術新聞発行者・画商であるアルヌーという男と、その夫人に出会う。彼は美しい夫人に恋心を抱く。
(2) 郷里のノジャン≂スュル≂セーヌに戻ったフレデリックは、高校時代の友人であるシャルル・デローリエと再会し、将来の夢を語り合う。地方の名家の出身で夢想家タイプのフレデリックに対して、退役軍人の息子で現実主義者で努力家のでローリエはいろいろな意味で対照的な存在であったが、二人は親友であった。フレデリックよりも早く、パリの大学で法律を勉強し始めたでローリエであったが、いったん学業を中断し、郷里の公証人のところで書記として働いて金をため、また大学に戻るつもりにしている。二人は近いうちにパリで会おうと約束して別れる。
(3) パリで勉学を始めたフレデリックは地元の有力者で中央政界に進出したダンブルーズ氏を訪問するが、引き立ててもらえる気配はない。アルヌー氏を訪問してもいつも、留守だったり、親密に話す機会はなかったりである。大学での講義には興味が持てなかったが、豪農出身のマルチノン、貴族出身のドゥ・シジーといった友人たちができる。1年が過ぎて、「ダンブルーズ家からの招待をあてにする気はいまさらなかった。アルヌー夫人への激しい恋もそろそろ消えかけていた。」(44ページ)

 ここまでの3回は、物語の時代や舞台となる場所、主な登場人物の紹介に当てられていて、物語はまだ動いていない。これから取り上げる第4回になって、物語が動き始めるが、それは1848年の二月革命へとつながっていく社会の変動と連動するものである(この作品を取り上げる理由の一つが、このように若者たちの動きと、社会の変動とが結びつけられて描かれているということである。) 今回は量も多くなるので、複数回に分けてみていくことにする。

 「12月のある朝、手続法の講義に出かけてゆく途中、サン=ジャック通りがいつになく騒々しいようすに気がついた。学生たちがカフェから飛び出し、または家から家へ、開いた窓から何か呼び合っている。商店の人たちが往来に出て心配そうな顔で見ている。鎧戸がしめられていた。そして、スフロー通りまで来ると、パンテオンのまわりに人だかりがしている。」(44ページ)

 あちこちに青年たちの集まりがあって、それがだんだん大きな集団になっていった。労働者たちの姿も見えるし、巡査たちも落ち着かない様子である。フレデリックの側には口髭と細い顎髭を生やし、金髪の愛嬌のある顔をした青年がいたので、彼に話しかけてみる。1841年に入って、普通選挙を目指す選挙改革の動きが盛んになり、政府のさまざまな政策への反発や社会不安と結びついて、「この6か月以来、パリの市中にはわけのわからぬ騒擾が頻々と起こった。あまり多いので、もう新聞もいちいち取り上げぬというほどである。」(45ページ) フレデリックの傍らにいた男は芝居がかりに冷笑的な言葉を喋り散らす。男が、この時代に活躍した俳優フレデリック・ルメートルの真似をしているというところが面白い。(映画『天井桟敷の人々』でピエール・ブラッスールが扮していた実在の俳優である。)

 彼ら2人にもう1人の男が加わる。マルチノンである。彼は事態の成り行きを心配している。集まってきた群衆に押されて、学生たちは大学の中に押し込められる。そこへ最近貴族院議員になった法学の教授が講義を始めにやってきたので、群衆も学生たちも彼に敬意を表して道を譲る。

 「そうするうち、広場の奥の方である連中がどなった。
 「ギゾーを倒せ!」
 「プリッチャードを倒せ!」
 「売国奴を倒せ!」
 「ルイ・フィリップを倒せ!」
(47-48ページ) 少し前の記述で、広場の奥の方には主に労働者たちが固まっているらしいことがわかる。ギゾーは当時の政府の外相で、内閣の実権を握っていた。歴史家としても有名で、中道的な立憲君主制である七月王政を支えていた「正理論家」の代表的な一人であり、彼の『ヨーロッパ文明史』は福沢諭吉の『文明論の概略』に影響を与えたことでも知られる。日本語にも翻訳されている。また、ギゾーの教えを受けた後継世代の人々の1人が『アメリカのデモクラシー』の著者のアレクシス・ド・トクヴィルである。プリッチャードはイギリスの領事で、フランスの保護領タヒチの女王をそそのかしてフランスに背かせた事件でフランス国民を刺激し、逮捕されたが、イギリス政府からその賠償を要求され、親英的なギゾー内閣がこれに応じたことで国民から攻撃されていた。ルイ・フィリップは1830年の七月革命の後にフランス国王となり、英国に倣った立憲君主制を目指したが、放漫な自由主義的な政治により失敗した。「正理論家」たちの親英的傾向については、毒舌家のハイネが正理論家たちは「アングレ(古いイギリス風の社交ダンス)しか踊らなかった」と書いている。また、この時代に活躍した画家のドーミエがルイ・フィリップを「poire(洋ナシ)」に見立てた多くの風刺画を描いている。poireには「お人好し」とか「間抜け」とかいう意味があるのである。

 教授は何か言おうとするが、群衆の叫びにかき消されて聞こえない。つい今しがたまで尊敬を集めていた彼も、《官憲(オトリテ)》を代表する人物とみなされて攻撃の対象とされる。教授が姿を消すと、それに乗じて、マルチノンも姿を隠した。フレデリックとひげの男は、マルチノンの臆病さを冷笑する。
 「群衆は一斉に拍手した。教授の退場は彼らには一つの勝利だったからだ。どの窓からも野次馬の顔がのぞいていた。「マルセイエーズ」を歌いだした者もあった。」(48ページ)

 9月以来、騒擾を繰り返してきた群衆は「人殺しどもを葬れ!」というお定まりの罵声を繰り返し、警官たちとの小競り合いを始めた。我慢のできなかった一人の警官が、小柄な若者を突き飛ばし、その警官を今度は一人の巨漢が打倒した。この大男は警官4人がかりで取り押さえられ、逮捕された。彼はデュサルディエといって、クレリ通りのレース・流行品店ヴァランサール兄弟商会の店員だという。多くの群衆が逮捕されたこの青年に同情し、彼が駐在所まで連行されるのについていったが、「フレデリックと口ひげの青年もすぐあとから歩いた。その店員風の男に感服する気持ち、官憲の暴力に対する反抗心に燃えながらだ。」(50ページ)

 1841年になってパリは騒然とした雰囲気に包まれてくる。フレデリックたち学生もそれに無縁ではいられない様子である。口ひげの男は、(名前が出るのは本当はこの後になってからだが)ユソネといって、これからもしばしば物語の中に登場する。フレデリックとユソネが同情した店員風の男(というよりも本当に店員なのだが)デュサルディエも同様である。政治と社会、立身出世、金、異性、芸術、さまざまな関心をもち、さまざまな可能性を持った若者たちが知り合い、一緒に行動するかと思うと、意見や利害の対立から離れてゆく。今回でも、騒ぎから身を隠すマルチノンと、騒ぎの中に踏み込もうとするフレデリックとユソネ、そして騒ぎの中心にいるデュサルディエという形で、そのような青年たちの姿の一端が描き出されているのである。

『太平記』(185)

11月20日(月)朝のうちは曇っていたが、その後、晴れ間が広がる。

 建武3年(南朝延元元年、1336)7月、比叡山の宮方は各方面から京都を攻撃し、新田義貞は東寺の門前まで攻め寄せ、尊氏に一騎打ちを挑んだが、尊氏は上杉重能の諫めで思いとどまった。数に勝る足利方は宮方を撃退し、この合戦で名和長年が戦死した。
 信濃から上洛した小笠原貞宗は、近江の宮方を退けて戦功をあげたが、尊氏から近江管領職を申し受けた佐々木道誉に近江を譲らなければならなかった。越前、近江の補給路をふさがれた比叡山の宮方は兵糧不足に悩み始め、尊氏は密書を送り、京都への還幸を促した。宮方の大名や、新田一族の中にも足利方に内応するものが出てきた。

 宮方の中心的な武将である新田義貞は、このような秘密裏の動きには全く気付いていなかった。身近なところに詰めている軍勢に対面して、普段と変わらず何事もない様子でいたところに、洞院実世卿の方から、「ただ今、主上が、京都に還幸されることになるということで、お供の人々を召されていらっしゃいます。ご存知でしょうか」と伝えられたので、義貞は、「そのようなことがあるはずがない。使いのものの聞き誤りではないか」と言い、騒ぎ立てる様子もなかったのであるが、新田一族の堀口貞満が、聞き終わらないうちに、「一族の江田、大館が、何の用もないはずなのに、この早朝、比叡山の東塔の本堂である根本中堂にお参りするといい、山を登っていったのがどうも怪しく思われる。貞満が、まず天皇のもとに伺って、事の次第を見極めてまいりましょう」と、急ごしらえで武装して、馬を全速力で走らせ、天皇のもとに伺候した。天皇の身近にやって来ると、馬からおり、兜を脱いで中間に持たせ、四方の様子をしっかりと見定めた。すると、臨幸はいままさに始まっているらしく、お供をする公卿たちは、衣冠を身に着けたものもいるし、まだ武装した姿のものもいる。天皇がお乗りになる輿を大床(建物の縁側のようなものか)によせて、新しく典侍(内侍所の二等官)になった女官が、内侍所の櫃(三種の神器のうちの八咫鏡を収めている)を取り出して手に持ち、頭弁(とうのべん)の範国が宝剣と神璽を奉持する役を承って、御簾の前に跪いている。
 ここで、典侍と頭弁が三種の神器を奉持する役割を演じているのが興味深い。天皇に近似して政務から身の回りの世話までを担当する蔵人の事務を担当するのが蔵人所で、その名目的な長官として別当が置かれているが、これは大臣の兼任であり、実質的な長となるのは2人で、大中の弁官と近衛中将からえらばれ、それぞれ頭中弁(あるいは頭弁)、頭中将と呼ばれた。頭弁になるのは(藤原行成に代表されるような)有能な官人であり、頭中将になるのは名門の子弟であった(ということで能力主義と門閥主義のバランスが保たれていたのである)。余計なことを書いておくと、この後、北朝が成立してから建武新政下では辛酸をなめていた日野名子が典侍になる。

 貞満は、天皇の左右に侍っている人々に会釈して、天皇の御前に参り、輿の轅(轅)に取りすがって、涙ながらに申し上げた。「観光のこと、世間の噂でかすかに耳にしておりましたが、義貞はまったく知らないと申しており、聞き違いではないかと考えてこちらに参りましたところ、本当に還幸の儀式がすすめられておりました。義貞がこのように置き去りにされるのはいかなる理由でありましょうか。長年力の限り骨折って忠節を励んできた義貞をお捨てになり、大逆無道の尊氏に、天皇のお気持ちを移されるというのは納得のいかないことです。元弘の初め、義貞は不詳の身なりと言っても、忝くも天皇のお言葉を頂き、鎌倉幕府を数日のうちに滅ぼし、海の西(隠岐)にいらっしゃる天皇のお憂いをたちどころに晴らし申し上げたこと、古い時代を見ても、近年を見ても、まれな忠義の業と言えるのではないでしょうか。その後、尊氏が政府に反逆するようになってから、大敵を退け、その大将(高師久)を生け捕りにし、京の足利方に決死の戦いを挑んだこと、このように命を捨てて天皇のために戦った事例は数え切れません。しかも、魏を重んじて命を軽んじる一族が163人、大将のために命を進んで捨てようという郎従が1万人を越えます。それでも、今、京都をめぐる数回の攻防で、足利方の勢いが強く、宮方は敗北してしまったこと、まったく我々の戦い方がまずかったからではありません。ただひとえに天皇のご運が開けきれないためでありましょうか。新田一族の年来の忠義をお見捨てになり、京都に御臨幸されるというのであれば、義貞をはじめ、一族のものを、御前に引き出して、首を刎ねていただきたく思います」と怒りを浮かべた顔に涙を流し、それでも理路整然と自分たちの主張を申し上げたので、天皇もご自分のご判断の誤りを後悔されるご様子であった。付き従っている人々も、みな、この言上の筋道が立っていることに納得し、またその忠義の心に感じて、首うなだれて座っていたのであった。

 この後、新田義貞が部下を連れて天皇のもとに参上し、事態は思いがけない展開を示すことになる。それはまた次回。新田義貞、脇屋義助の兄弟は、足利尊氏、直義の兄弟に比べて剛勇という点では勝っているかもしれないが、政治力や駆け引きの才能がないし、また動員できる軍事力も限られているという点で劣勢にある。これまでのところ、足利一族はほとんどまとまっているのに対し、新田一族からは足利方に寝返るものが出ているのも目に付くところである。
 

前田速夫『「新しき村」の百年 <愚者の園>の真実』

11月19日(日)晴れ

 11月17日、前田速夫『「新しき村」の百年 <愚者の園>の真実』(新潮新書)を読み終える。

 8月25日付の当ブログ「久野収 鶴見俊輔『現代日本の思想』」(5)の最後に、「新しき村」がどうなっているかを知らないと、『白樺』派の思想について取り上げた「日本の観念論」についての論評を続けることはできないと書いて、3か月近くがたってしまった。「新しき村」はどうやら存続していて、来年の11月14日には誕生100年を迎えるはずだという。この書物が刊行されるのも、このことと結びついてのことである。しかし、存続していることはいいとして、2017年9月現在で、村内生活者は10人、日向「新しき村」の村内生活者は3人、そのほとんどが高齢者で、村の活動の規模も縮小し、事業は赤字続きであるという。とはいうものの、「新しき村」には主張すべき存在意義がある。「新しき村のような独自のコミュニティのありかたが、今ほど求められているときはない」(8ページ)というのが著者の考えである。

 著者は二代続けての「新しき村」の村外会員で、編集者として生前の武者小路実篤を担当したことがあり、「はじめに」でいろいろと謙遜の辞を述べてはいるが、「新しき村」の歴史と現状を語るのにふさわしい人物であると思われる。「新しき村」の特色のひとつは、村内会員と村外会員の2種類の会員を設けているところで、村内会員は村で生活し、特別の場合を除いて、共同の労働に従事するが、村の理想に共鳴する人であれば、だれでも(会費さえ払えば)村外会員になれる。村外会員として村の理想や生活ぶりを十分に理解してからでないと、村内会員にはなれないという仕組みである。
 著者は村の理想を支持してはいるが、少し距離を置いているところがあり、村の現状を打開するための改革の提言をもっている。この書物には、そうした提言(や、過去に別の人物によって提案された改革案)を含めて村についての詳しい情報がこの書物には盛り込まれている。それで、この書物には著者の主観が多少なりとも影を落としているとはいっても、一応、著者は問題点を含めて村についての豊富かつ、比較的ではあるが客観的な情報を提供していると思われる。「新しき村」に批判的な人であっても、これらの情報は踏まえたうえで議論を展開した方がよいと思われるのである。

 「新しき村」は一方で、共同の労働・生活が求められながら、労働に費やした後の時間は各自が自由に使ってよいというやり方に示されるように個人主義、個性の尊重である。このことは、村の創始者である武者小路実篤の個性および思想と結びついている。(個性尊重ということでいえば、それでは、武者小路に反対する個性はどうなるのか…という問題が付きまとうはずである。)

 用心深い著者は「はじめに」の末尾で「誤解のないよう付言すると、本書のサブタイトルにある<愚者の園>は、武者小路実篤の出世作「お目出たき人」「世間知らず」がそうでああったように、反語の意を含んでいる。また、実際に「愚者の夢」「楽園の子等」の作品があること・・・を言い添えておこう。〕(9ページ)と断っている。武者小路の「真理先生」には「馬鹿一」という登場人物が出てくるくらいで、あまり気にすることではないと思うのだが、そこを気にするのがこの著者の個性であろうか。

 「新しき村」は1918年(大正7)11月14日に宮崎県(日向)で発足し、苦心の末、ようやくコメが自給できるようになったのだが、1939年(昭和14)にダム建設のため土地の3分の1が水没することになり、村の主力は埼玉県入間郡毛呂山町葛貫に移るが、実篤の前妻房子と、彼女と結婚した杉山正雄がこの土地に残り、それぞれ住民は変わったが、「村」としては存続している。
 ダム建設についてはこの書物の81~83ページに経緯が記されているが、「新しき村」を潰そうとする意図が介在したようにも推測できる。(「新しき村」の共同労働・共同生活の共産主義的な性格はもちろんのこと、個性や自由の尊重も当時の日本においては危険思想と見なされていたのである。)

 著者はまず、武者小路実篤の生い立ちと、1910年(明治43)の『白樺』創刊に至る経緯を述べる。ここで注目されるのは、『白樺』創刊号に武者小路が漱石の『それから』の批評を掲載していること、その批評に対する漱石からの礼状を受け取っていることである。これは文学史的に興味深い事実であるが、ここで深くは立ち入らない。著者はこのやり取りについて、「私が注目するのは、自らはそれを希求しながらきわめて不十分にしか達成でできなかった『私の個人主義』を、この新世代の若者がらくらくと実現してしまっていることに対する漱石内心の驚きである。」(27-28ページ)と記す。とはいうものの、実篤が生来の気質の上に、漱石の影響を受けながら、彼自身の個人主義を形成したと考えてよいのであろう。(そういえば、漱石の講演「私の個人主義」は、学習院の生徒たちに向けてなされたものであった。)

 さて、著者は武者小路と『白樺』派のいわば天真爛漫な個人主義に対し、世間知らずのおめでたいものだと批判した生田長江のような人物がいたことも指摘している。その批判を自作の題名に取り入れたりして居直っているところに武者小路のすごみがある。著者はそこまで掘り下げていないが、生田長江についてはフェミニズムの先駆者として積極的に評価しようとする思想史研究者がいる。このあたりも詳しく調べていくと面白いかもしれない。

 『白樺』派や「新しき村」をめぐっては、書きたいことがいろいろあるので、それがかえって邪魔になって、なかなか書評が進まないが、今回は、「新しき村」の理念の1つである村民の個性の尊重ということが、武者小路の個人主義、彼の個性と結びついていることだけ述べておきたい。さらに言うと、個性の尊重というのは自分の個性を他人に認めさせることとともに、他人の個性を尊重することでもあり、世の中には個人よりも集団や習慣を重んじる人もいて、それもまた個性であり、そのあたりでどのように平衡をとっていくかという問題が付きまとっているということを指摘しておきたい。 

日記抄(11月12日~18日)

11月18日(土)曇りのち雨

 11月12日から本日までの間に経験したこと、考えたこと、およびこれまでの記事の補足・訂正:
11月12日
 ニッパツ三ツ沢球技場でJ2第41節横浜FC対ファジアーノ岡山の試合を観戦する。横浜が前半34分にセット・プレーからイバ選手のヘディングで1点をとり、その後も優勢に試合を進めたが、後半も終了間際になって守備の乱れで1点を失い、引き分けに終わった。2点目を挙げることを嫌がっているような試合運びが気になった。これが今年度のホーム最終戦なので、試合終了後にセレモニーがあった。

11月13日
 第970回のサッカーくじでミニトトBが当たっていた。(昨日の横浜FC対岡山戦はトリプルで予想していた。サポーターらしからぬ予想ではあるが、チームの側にも反省を求めたい気持ちがある。)

 NHKラジオ『まいにちスペイン語』の「スペインの街角」のコーナーではセゴビア(Segovia)が紹介された。マドリードから北に100キロほど行ったところにあって、マドリードからの日帰り旅行が可能であり、古代ローマの水道橋の遺跡や、お城(アルカサル城)といった名所、コチニーリョ(子豚の丸焼き)といった名物料理など魅力たっぷりの町だそうである。アルカサル城は、ディズニーの『白雪姫』のお城のモデルだということであったが、ドイツ(バイエルン)のノイシュヴァンシュタイン城についても同じことが言われていると記憶している。

11月14日
 この日のブログでデイヴィッド・J・ハンド『「偶然」の統計学』を取り上げた際に私が3回連続してジャンボ宝くじで3千円を当てたのは100万分の1の確率だと書いたのは、この本をよく読まなかったための間違いで、実際には毎回50枚ずつ買っているので、3千円が当たる確率は2分の1、3回連続ということになると8分の1であった。
 この日、オータムジャンボ改め、ハロウィンジャンボの当選番号の抽選が行われたが、4回連続はならず。4回連続あたるのは16分の1,私のように4回中3回というのは4分の1、4回中2回というのは8分の3、4回中1回が4分の1,1度も当たらないというのが16分の1の確率になる。

 『まいにちスペイン語』の「ラテンアメリカの街角」のコーナーでは、ボリビア第2の都市サンタ・クルス(Santa Cruz)が取り上げられた。温暖で緑が多い街であり、市内の動物園には南米の珍しい動物が数多くいるそうである。

 『まいにちドイツ語』では4人の福音史家の1人である聖マルコのシンボルがライオンであるという話が出てきた。ということは、昔は中近東にもライオンがいたということである。

 11月13日にミラノで行われたサッカーのW杯ヨーロッパ予選でイタリアはスウェーデンと引き分け、通算で0-1となって本大会出場の夢を断たれた。イタリアとスウェーデンということで思い出したことがある。1936年のベルリン・オリンピックで日本代表がスウェーデンに勝ったという話は有名だが、その後の試合でイタリアにボコボコにやられたという話はあまり知られていない。このときの日本代表の1人が、私の小学校の先輩だったので、スウェーデンの人と話すと、日本が1936年のベルリン・オリンピックでという話をする悪い癖がある。スウェーデンの女優の話でもすればよかったと思うが、もはやスウェーデンの人と話す機会はあまりなさそうだ。

11月15日
 NHKラジオ『実践ビジネス英語』の”Quote...Unquote”のコーナーで紹介された言葉:
Always laugh when you can. It is cheap medicine.
---- Lord Byron (English poet, 1788 -1824)
(笑える時はいつも笑うこと。これは安い薬である。)
 まあ、笑える時には笑うようにしてはいるけどね…。

11月16日
 NHKラジオ『まいにちフランス語』応用編「Traces des rencontres franco-japonaises du passé 日仏交流散歩」で、
Les correspondances sont très compliquées à Yokohama. C'est une gare immense.
(横浜駅での乗り換えはとても難しいのよ。すごく大きな駅だから。)
という発言が出てきた。私は地元の人なので、それほど難しいとは思わないが、実際問題として、相鉄あるいは市営地下鉄に乗り換えるのは厄介かもしれない。

 『まいにちスペイン語』応用編「スペイン文学を味わう」では19世紀スペインの文学作品を読むことになっていて、11月はフアン・バレーラ(Juan Valera, 1824 -1905)の『ペピータ・ヒメネス (Pepita Jiménez, 1874)』という小説を読み進んでいる。『ドン・キホーテ』の影響のもとに、「発見された文書」という形をとり、ある大聖堂の主任司祭(deàn )が残した彼の甥からの手紙、主任司祭自身の手になる<補記>(paralipómenos)、主任司祭の弟(彼の甥の父)の手紙から構成された、神学を学んで、聖職者となることを目指す若者が、自分よりも年の若い美しい未亡人と恋に落ちる一部始終を描く。ペピータ・ヒメネスはヒロインであるその未亡人の名である。余計なことを書くと、聖公会でも大聖堂の主任司祭はdeanで、ダブリンのセント・パトリック大聖堂の主任司祭だったのがスウィフトであるのは有名な話である。英国の大学でdeanというと副学部長にあたるのではないかと思う。paralipómenosというのは、『旧約聖書』の中の「歴代誌」のことで、「サムエル記」と「列王記」で扱わなかった歴史記述を独自の神学的視点から保管したとされる著作である。(もっとも「サムエル記」と「列王記」の方がはるかに面白い。特にダヴィデの治世の終わりから、ソロモンが王位を継承する辺りの「列王記」の記述は、『旧約聖書』の中でも特に面白い部分である。)

 『まいにちドイツ語』応用編「ベルリン――変転する都市」は「科学、技術と大都市」という話題を取り上げた。この慈愛、自然科学部門のノーベル賞受賞者の3分の1がドイツの科学者であったという。その中でとくに有名なのはアルバート・アインシュタインであり、大衆のヒーローとなっただけでなく、その人気は(日本も含めて)世界に広がったという。しかし、その一方で、大都市の文化を批判する青年運動も盛んであった。
 アインシュタインがノーベル賞受賞を知ったのは、日本に向かう船の中であったという話が出てきた。中野重治の「歌のわかれ」の中に出てくる専門学校の物理学の先生が東京までアインシュタインの講演を聴きに行ったというエピソードがあったと記憶する。朝永振一郎がドイツに留学したというのもこの時代の話である。一方、ドイツの科学者たちに援助を続けた日本の実業家星一のことも番組内で紹介されていたが、彼が作家の星新一の父親であることも触れておいてほしかった。
 ワンダーフォーゲルに代表される反都市文明の青年運動には、この番組で指摘されたようにナチスにつながるものもあったが、その一方でナチスと戦って敗れ、海外に亡命する青年運動家たちもいたことを忘れてはなるまい。

 『まいにちイタリア語』応用編「原文で読む古典の楽しみ」はボッカッチョの「デカメロン」第6日第4話「キキビーオと鶴」(Chichibio e la gru)という話を読んでいる。フィレンツェの貴族クッラードに仕える料理人キキビーオは、思いを寄せている村娘ブルネッタにせがまれて料理中の鶴のもも肉を彼女に与えてしまう。鶴の足が1本であることをとがめられた彼は、主人に鶴の脚はもともと1本だと言い張り、生きた鶴を見に行くことになる。川岸についてみると、鶴たちは一本足で眠っていたので、自分が正しいといったが、クッラードは、鶴の側に近づいて「ほお、ほお」と声をあげる。鶴は目を覚まして、二本足になり、逃げ去っていった・・・。

11月17日
 『まいにちドイツ語』は”Moderne Frau der 20er Jahre"(20年代のモダン女性)という話題を取り上げた。この時代、ドイツではオフィスの秘書やデパートの販売員として働く新しいタイプの女性たちの姿が見られた。In Wirklichkeit war ihre Lage nicht im Entferntesten gleichberehtigt mit der der Männer und die meisten von ihnen mussten in sehr bescheidenen Verhältnissen leben. (現実にこれらの女性が置かれた状況は男性の状況とはとても同権だったなどとは言えず、彼女たちの大半はきわめて切り詰めた生活を余儀なくされていた。
 ただメディアの世界では、彼女たちの輝かしい一面だけが強調して報じられていたということである。この時代、イルムガルト・コインIrmgard Keun, 1905-82) やヴィッキー・バウム(グレタ・ガルボ主演の映画『グランド・ホテル』の原作者)といった女流小説家の描く女性像がもてはやされたが、これらの作家たちの名前はいまでは忘れられている。

 『まいにちイタリア語』は、「キキビーオと鶴」の続き。ウソがばれてしまったキキビーオは、昨日の夜の鶴には、「ほお、ほお」と声をおかけにならなかったのでございましょう」と言い逃れをする。その答えが気に入った主人のクッラードは怒りを収めてめでたしめでたしとなる。
 『デカメロン』の構成についても詳しい説明があった。「こぼれ話」として、「~映画になった『デカメロン』~」が取り上げられ、タヴィアーニ兄弟の《Maraviglioso Bocaccio 素晴らしきボッカッチョ》(2015)が<枠>に重点を置いているのに対し、P.P.パゾリーニの《Il Decameron》(1971)では《枠》が撤去され、語り手役をパゾリーニ自身が務めているだけでなく、画家ジョットの役も演じていると記されている。パゾリーニの映画は私も見たが、パゾリーニが扮している画家はジョット自身ではなく、その弟子だという話だと記憶している。このあたり確認が必要である。

11月18日
 NHKラジオ『高校生からはじめる現代英語』では”Japan Releases Youth Survey”(日本(政府)が若者調査を公表)という記事が取り上げられた。「自分自身の部屋」、「家庭」、「インターネット空間」、「地域社会」、「学校」、「職場」という6つの環境に関して、所属感があるかどうかを問うたところ、自分の居場所だと感じるところが多いほうが、充実感も強いという結果が得られたという。これは考えてみると当たり前で、むしろ不満とか、不安とか逆の方向から調査すること、また、遊び空間のようなこの6つ以外の環境も対象にして調査をすべきではなかったかと思われる。

 前田速夫『「新しき村」の百年』(平凡社新書)を読み終える。この書物については、機会を見て論評するつもりである。

円居挽『その絆は対角線』

11月17日(金)晴れ

 昨日取り上げた、同じ著者による『日曜は憧れの国』の続編である。

 カトリックの女子校である倉瓜学園に通う暮志田千鶴、公立中学校に通う先崎桃、誠山学園大学付属に通う神原真紀、進学校の娘心館に通う三方公子の4人は、みな中学2年生で、四谷のカルチャーセンターのトライアル5コースのチケットを手に入れて、その特別料理教室で知り合った仲である。学校はもちろんのこと、境遇も性格もまったく違う4人ではあるが、その後4枚のチケットを使って様々な教室に出席する中で、彼女たちの身の回りに起きた不思議な出来事をそれぞれの力を出し合って解決していく。

 4人はそれぞれの学校で2学期を迎えるが、カルチャーセンターには引き続き通うことにした。しかし、話し合いの結果、今度は、それぞれ今の自分に必要だと思う講座を受けることにした。千鶴は「中学・高校では教えない経済学」を申し込み、早々とその第1回の授業を受けた。有名人が担当する講座ばかり申し込んでいる真紀は、抽選に落ち続けて、まだ何をとるかも決まっていない。
 「千鶴、桃、真紀、公子を四角形で表すなら、間違いなく千鶴と真紀は対角線で結ばれる位置関係にあった。
 桃と公子は容姿も性格も全然似ていないが、いずれも生来の賢さと裏表のなさを併せ持つタイプで、千鶴はそんな2人を尊敬していた。だからこそ2人には積極的に声をかけることができたし、それが楽しかった。しかし相手が真紀となると途端に声をかけ辛くなる。裏表のない2人に比べて、何を考えているのか解らないところがあるからだ。一方で、真紀は真紀で千鶴のことをそう思っている節があって、出会ってから約半年がたっても、その仲が大きく進展することはなかった。」(14ページ)
 作家志望の公子はトライアル5コースでも受講した作家・奥石衣の創作講座を本格的に受講する。一方、大手メーカーに勤める父親がいつリストラされるかを気にしている桃は、センターに通うのをやめようかと思っている。千鶴は、何とか桃を復帰させようと思っているが、真紀はそんなことは余計なお世話であるという…というのが第1話「その絆は対角線」の発端である。

 第2話「愛しき中にも礼儀あり」では、どうやら復帰した桃が受講しているジュニア向けのマナー講座で2人の高校生が講師の怒りを買って、「もう来なくて結構です」と言われてしまうというのが発端である。「人にマナーを教えるような方が、マナーを破ってまで怒るってよほどのことですよ」(71ページ) 講師の糸数先生とこの2人の高校生の間にこれまでも気まずいものがあったことは確からしい。なんでもスマホで検索する癖のある真紀が調べたところでは、高校生の1人がSNSでこの件を話題にしているらしい。2人のうちの1人が、千鶴と同じ学校の先輩であることから、千鶴が事情を聴いてみると、オフ会でのマナーを教えてほしいという質問をしたことがきっかけらしい。それどころか、講座そのものも取りやめになってしまったという…。

 第3話「胎土の時期を過ぎても」では真紀がようやく抽選に当たって受講することになった「日常の中の芸術」講座の周辺で起きた事件の謎を探るものである。最近亡くなった骨董コレクターのコレクションを講師である羽生の父親が鑑定したところ、約6億という値がつき、故人がなみなみならない鑑識眼の持ち主であったことが分かった。ところが、彼はその死に際して自分の命の次に大事にしていたはずの銀漢天目茶碗を意の間際に割ってしまうという謎の行動をとっていた。なんでそんなことをしたのか…。

 第4話「巨人の標本」では、公子が通っている創作講座で起きた出来事である。創作講座は合評会形式で行われているが、参加者のレベルがまちまちなうえに、雰囲気を悪くするだけの参加者もいるため、高いレベルの受講者を対象にした特別講座が別に開かれている。その特別講座の参加者たちが講師である作家の奥石を待っていると、出版社の編集部員だという信楽と名乗る男性が現われて、先生は体調を崩して入院したので、講評まで担当することになったといい、参加者たちの作品を酷評しはじめる。参加者全員の作品の批評が終わったところで、『巨人の標本』という1編が残った。これまでの作品を酷評してきた信楽の表情が変わり、傑作であるという。しかし、その作者は誰なのか…。

 これまでの4つの話には、4人の他に(センターの職員である近松のような小者の登場人物は別として)「中学・高校では教えない経済学」の講師である日英ハーフの美人講師エリカ・ハウスマンが何らかの形でからんできた。千鶴は彼女に心酔し、桃は彼女に優しくされたことを忘れず、それに比べると真紀は自分を認めないエリカになじめず、公子はエリカの価値観を受け入れられない。そのエリカがマスコミへの露出が多くなってセンターを「卒業」することになり、センターの外の会場を借りて講演会が開かれることになる。ところがそこで、エリカのタブレットが盗まれ…というのが第5話「かくも長き別れ」である。

 この連作は日常の謎型のミステリーであるとともに、一種の教養小説でもある。それぞれの少女が自分なりに成長していくだけでなく、4人の間の関係も少しずつ変化していく。4人は学校が違うだけでなく、家庭環境もセンターにやってくるようになった理由もそれぞれ違う。だが、自分とは違う人間の存在を認識し、それと付き合っていくやり方を少しずつ身に着けていくのである。今回は、最後でかなり厳しい経験をすることになるが、その経験も後になってみると生きてくるはずである。

 前回も書いたが、中学生がカルチャーセンターに通うというのは、拵えたという感じの設定に思われるし、4人の少女の性格の描写もどこか一貫しない(もっとも、中学校の特に2年生くらいの段階は、不安定だから一貫しないのも当然だといえなくもない)。前作の最後で探偵の能力があると公子に言わせる真紀が一番よく書けていて、桃に対しては著者の愛情は感じられるが、どうもリアリティーが薄いように思う。公子は作家志望なので、著者自身の経験を投影している部分があるだろうし、千鶴にしてもどこか著者と重なる部分があるのかもしれない。それでも、登場する4人の少女の中では自分が本物ではないという劣等感を感じながらも、頑張っている真紀が一番魅力的ではある。(他人に才能を認められても、その才能を伸ばそうと思うかどうかは本人の問題である。)

 カルチャーセンターの前途は必ずしも明るくないのだが、4人はそれぞれの自由を尊重しながら、通い続けることを決める。続編においては、どのような展開があるのだろうか。 

円居挽『日曜は憧れの国』

11月16日(木)晴れ、雲が多くなってきた。

 11月4日、円居挽『その絆は対角線』(創元推理文庫)を、15日に同じ著者の『日曜は憧れの国』(創元推理文庫)を読む。四谷のカルチャーセンターで一緒になった4人の中学校2年生を主人公とするシリーズの第1作と第2作で、森谷明子さんの<秋葉図書館>シリーズと同様に、2作の方を1作よりも前に読んでしまった。ただし、こちらのシリーズの場合、どちらをさきに読んでも内容の理解に影響するところは少ないと思う。

 番町に住む比較的裕福な家庭の娘である暮志田千鶴はカトリックの女子校である倉瓜学園に通う中学2年の少女である。学校の成績は中ぐらい、引っ込み思案の事なかれ主義者で、この学校に通っているのも両親に従った結果である。家付き娘で自分に都合の悪いことは絶対に記憶しないという母親の姫子に何か特技を身に着けるようにと言われて、四谷文化センターの特別料理センターに出かけることになる。姫子は料理が出来ず、お手伝いさん任せにしているのに、料理の苦手な千鶴に料理を身に着けさせようとしているのは相当に勝手な思い付きである。

 四谷文化センターではトライアル5コースといって、5枚つづりのチケットを使って1回ずつ希望する教室に出席できる制度があり、その1枚分を使って特別料理教室に参加することになる。そこで、遅れてやってきた先崎桃という同じ中2の生徒に出会う。彼女は近所の公立中学校に通っているといい、明るく子どもっぽい感じである。教室に入ると、広いおでこと赤いフレームのメガネが印象的な、お調子者っぽい雰囲気の神原真紀という女の子に出会う。彼女も中2で(後でわかることだが)誠山学園大学付属中等部に通っている。4人1班のもう一人は背が高くてスタイルがよく、千鶴が憧れていた進学校の娘心館の制服を着ている。他の3人が高校生と間違えた彼女は、三方公子と言い、やはり中2で、宝塚の男役のような口の利き方をする。学年が同じというだけで、学校は違い、それと微妙に対応して家庭環境も違うらしい4人ではあるが、講師から課題を与えられ、不思議なやり方でカレーライスをつくりながら、次第に打ち解けていく。
 ところが、料理が完成して、試食という段階で教室内で盗難事件が発生し、講師の先生が被害者をなだめて一件落着したように見えたが、4人はどうも納得がいかない。それぞれが意見を出し合って、真相を推理する…。というのが第1話、「レフトオーバーズ」。(leftoverには「残り物」という意味がある。)

 意気投合というわけではないが、なぜか離れられない気持ちになった4人は、残る4枚のチケットを使ってみんなで同じコースに出席することにした。2枚目は真紀の希望で将棋教室に出席するために使うことにする。ここで、講師の先生の孫だという小学校5年生の少女と、4人は多面指しで対局することになるが、桃が思いがけない行動に出る…というのが第2話「一歩千金、二歩厳禁」である。
 第3話「維新伝心」では、舞の希望で江戸幕府がなぜ崩壊したかを考える歴史教室に参加していた4人であるが、話の途中で講師が倒れる。この教室への参加を呼び掛けるポスターと、講師の話の内容の違いに納得がいかなかった4人は、2組に分かれて情報を集め、そして、カルチャーセンターの内部の事情を覗くことになる…。
 第4話「幾たびもリグレット」は、公子の希望で人気作家・奥石衣の小説講座に参加することになる。この講座では、ある物語が示され、これに結末を与えろという課題が出されるのだが、ほかの3人はどうやら結末を考えたのに、公子はこれはという回答を与えることができない…。
 第5話「いきなりは描けない」は、残る1枚のチケットのしようが問題になるが、それを考えている4人の手元に、不思議な絵画が迷い込む。誰が、いったい…。

 一応、「日常の謎」を解いていくミステリーという形式をとるが、カルチャーセンターに学校も家庭環境も違う4人の女子中学生が通い、知り合うという設定は相当に作為的である。そして、その多少奇妙でぎくしゃくした設定の中で、4人がそれぞれを理解し、自分を理解して、少しずつ成長していく姿を描くというのが物語の真の狙いであろう。作家志望の公子は別にして、ほかの3人はまだ自分の進路をはっきりとは決めていない。進学塾で優秀な成績を上げていたのに、家庭に負担をかけたくないとやめてしまったことで家族を失望させた舞の過去の決断の話、好きで選んだ道を歩いているつもりで袋小路に向かっているような人生を送りたくないという真紀の悩みなど、5枚のチケットを使ってもまだ、4人が一緒になって考えるべき問題は残っているようである。

 円居挽というのは筆名であろうが、作者は1983年生まれで京都大学の卒業生だそうで、私の40年(まではいかないが)ほど後輩にあたる。なぜ、こんなことを書いたのかというと、京都大学の近く、百万遍の西南角の辺りに、円居(初めは梵凡といったはずである)というグリルと称していたが、レストランと洋食屋の間のような店があって、よく昼食や夕食に出かけたことを思い出す。あるいは、作者の時代にもこの店は残っていた、さらに、現在でも残っているのであろうか、機会があれば確かめてみたいものである。

ダンテ・アリギエリ『神曲 天国篇』(31-2)

11月15日(水)晴れ

 ベアトリーチェに導かれて地上楽園から天上の世界へと飛び立ったダンテは、月天、水星天、金星天、太陽天、火星天、木星天、土星天を歴訪し、信仰と政治をめぐり抱いていた疑問への解答を得るとともに、この遍歴で見聞したことを地上の人々に知らせることが自分の使命であるという確信を得る。神のいる至高天から土星天へと降りてくる「ヤコブの階段」を上って、恒星天へと達した彼は、信仰、希望、愛の3つの対神徳についての試問に見事にこたえ、自分の見聞を地上の人々に語るにふさわしい人物であると認められる。彼はさらに天上の回転運動の起点であり、非物質的な世界への入口である原動天を経て、至高天に達した。そこでは祝福された魂たちが階段状に列を作って並び、天使たちが平和と情熱を分け与えていた。新たな質問をしようと、ダンテが振り返ると、そこにベアトリーチェの姿はなく、一人の古老が立っていた。彼はベアトリーチェは至高天における彼女の本来の席に戻ったと告げる。ダンテは、自分の席に戻ったベアトリーチェを見出す。

高き場所で雷鳴の轟くあの圏から、
誰であれ、必滅の者の目が遠く離れたことはない、
それがどれほど深く深海に潜ったとしても、

あの場所でのベアトリーチェから我が目までの隔たりほどには。
しかしそれは私にとって何ものでもなかった、というのも彼女の姿は
空気に搔き乱されて私まで降りてくるわけではなかったからだ。
(468-469ページ) 「雷鳴のとどろっくあの圏」というのは地上の最も高い場所である(とダンテが考えた)火天で、要するに、ベアトリーチェはダンテからはるかに離れた場所に移っていたということであるが、しかしそれでも、霊的な交感を行う至高天では、地上におけるように像が目に届くまでに乱されてしまうようなことはなく、彼女の姿がはっきり見えたということである。

 以下、ダンテのベアトリーチェに対する感謝の言葉が述べられる:
「おお、我が希望に力をお与えになり、
私をすくうために地獄に足跡を残すことも
ためらわれなかった貴婦人よ、

私がこれまで見てきた事物ですが、
それを見る恩寵と力を
あなたの力と恵みのおかげで得たことが私には分かっています。

あなたは全道程を通じて、あなたにでき得る
あらゆる手立てを尽くされて、
奴隷であった私を自由にまで導いてくださいました。

あなたが寛大にも与えてくださった我がうちの贈り物を護りたまえ。
あなたが正してくださった我が魂、
それが、あなたが望まれたままの姿で肉体から解き放たれるように」。
(469-470ページ)

 『神曲』におけるベアトリーチェは(『新生』におけるベアトリーチェと違って)神学のアレゴリーであるから、神を理知的に把握する明示的な知の役割を担ってきたが、ダンテが至高天に達したので、その役割を終えて、自らの席に戻ったのである。彼女はその席から、ダンテの祈りに答える。
こう私は祈った。するとあの方は、あれほど遠くに
姿を見せていたが、微笑んで、そして私を見つめた。
それから永遠の泉へと再び向いた。
(470ページ) 

 ダンテのかたわらにいる古老は、自分が神と対面するというダンテの旅の最後の案内者であるといい、ダンテがさらに高く上昇して神聖なものを見ることにより、神に近づくのにふさわしい視力を得るだろうという。また、聖母マリアが彼にあらゆる恩寵を与えるだろうとも告げ、自分が(クレルヴォーの)聖ベルナール(1090-1153)であると名乗る。彼はシトー会に属する神秘主義的神学者で、信仰の問題に対する哲学的な解明を展開したアリストテレス主義神学者のアベラールと対立した。(ダンテは、理性的な議論よりも神秘的な体験の方を優位に考えているということのようである。)
 彼の言葉を聞いて、ダンテの心は神を見たいという気持ちがいっぱいになる。ベルナールは、この階段状の輪の最上部に聖母マリアがいるという。
私は目を上げた。すると朝、
水平線の東の方角が
太陽の沈む側を圧倒する、

視線を谷から山頂まで歩ませるかの
ようにすると、それと同じように、最果ての一点が
光で取り囲む輪に勝利しているのが見えた。
(473ページ) 聖人たちと天使たちに囲まれた聖母マリアの姿がダンテの目に入った。

ベルナールは、彼の熱い情熱の向かっている先に
我が目が一心に注がれているのを見て、
心を込めて彼の目を彼女に向け、

それにより、彼女を見つめる私の眼差しをさらに燃え上がらせた。
(475ページ) こうして、聖ベルナールの導きにより、ダンテは聖母マリアの姿を見るに至った。聖母マリアは、神、また審判者キリストに人類をとりなす存在であり、ダンテのこの遍歴も、彼女が地獄に亡びようとしていた彼を救うように聖ルチーアに命じ、そしてルチーアがベアトリーチェをリンボに下したことから始まったという経緯があった。
 ここで第31歌は終わるが、翻訳者の原基晶さんによると、これまでと違って、文が途切れることなく、そのまま第32歌に続いているという。描かれている対象が詩の形式に収まりきらなくなってきたということであろうか。

 少し余談:ロバート・ポーグ・ハリスン『ベアトリーチェの身体(からだ)〕(法政大学出版局:叢書・ウニベルシタス487)という本を書架から見つけ出した。ダンテの『神曲』ではなく、『新生』を主として論じた本であるが、『煉獄篇』の地上楽園を描く最終部分で、「ベアトリーチェとマテルダが隣りあっていることはダンテの生涯で抒情的衝動と叙事的衝動の間にもっと深い偶然の一致か交差が起こっていることを指し示してはいないか」(同書、214ページ、ベアトリーチェが叙事性、マテルダが抒情性を表している)と述べているのが気になっている。うーん、そんなことは考えもせずに読み飛ばしてしまったなぁと恐れ入っているのである。
 原さんもこの『神曲』の翻訳で何度か言及しているように、この叙事詩にはダンテの親友でもあり、好敵手でもあった詩人グイド・カヴァルカンティの強い影響がうかがわれる。ハリスンの著書は、このカヴァルカンティとダンテ、さらにペトラルカの関係についても論じているので、見落としがたいと思いはじめている。

デイヴィッド・J・ハンド『「偶然」の統計学』

11月14日(火)曇り、時々雨

 11月13日、デイヴィッド・J・ハンド『「偶然」の統計学』(ハヤカワ文庫NF)を読み終える。

 この本が取り上げているのは、考えれば考えるほど起こりそうにない出来事がなぜ、時として次々と起こるのかということである。ロトに何度も当たった人、運悪く雷に何度も打たれた人が何人もいる。

 「到底起こりそうもない出来事にも法則があるのだ」(12ページ)と著者は言う。「ありえなさの原理」と著者が名付けた一連の法則により、思わぬ出来事誇るし、それがなぜなのかも説明できるという。この一連の法則の中には、宇宙の仕組みにかかあ悪者もあるし、確立にかかわるものもある、さらに人間心理にからむものもあり、それぞれ1つだけでもこの原理の効果は現れるが、それぞれが相まって一斉に効果を発揮した時、その力は大変なものとなる。そして想像もしなかったような思わぬ出来事が起きるという。

 第1章「不可思議なこと」では、到底起こりそうにない出来事はありふれていると主張する「ありえなさの原理」が、起こる確率が極めて低いはずの出来事が次々に起きているのはなぜかということを説明できるという。
 ここで問題になるのは、「確率が十分に低い事象は決して起こらない」(22ページ)というボレルの法則である。著者は、ぼれるの著書を詳しく読んで、これが「数学上の理想として、きわめて低い確率は実際にはゼロではないがゼロとして扱っていい。現実の実用的な人間的尺度において、確率が十分に低い出来事は決して起こらないのだから」(24ページ)ということであるという。さらに、ぼれるによると「人間的な尺度で無視できる確率:約100万分の1より低い。」(25ページ) ポーカーでロイヤルフラッシュが出る確率が約65万分の1だそうだから、確率100万分の1をかなり上回っている。
 しかし、ボレルの言う「現実問題としてあり得ないと扱えるほど起こりそうもないと見なすべき出来事」(26ページ)は、実際には起きている。それが第3章以下の内容になるという。
 日本の人口は1億2千万人を超えているから、100万分の1以下の確率しかない出来事が起きる可能性は十分にあるはずである。現実に私は今年のグリーン・ジャンボ、ドリーム・ジャンボ、サマー・ジャンボの3回のジャンボ宝くじで連続して3千円を当てており、3千円の当たりをとる確率は100分の1なので、3連続ということになると100万分の1の確率で起きることの当事者になったということになる。しかし、この程度の「幸運」をつかんだ人は他にも大勢いるはずである。

 第2章「気まぐれな宇宙」は、これまでに不思議な出来事に与えられてきた合理的でない説明の数々:迷信、予言、神々と奇跡、超心理学と超常現象、シンクロニティー、形態共鳴などが取り上げられ、さらにそれらの説明を克服すべく構築された近代科学の描き出す「時計仕掛けの宇宙」という自然観が、20世紀を通じてほころび始め、「宇宙は決定論的では全くなく、その根底にランダムさと偶然がありそうに思えてきた」(64ページ)過程がたどられている。ミシェル・ド・ノートルダム(ノストラダムス)の予言、レーガン夫妻に助言を与えていたジーン・ディクソンの予言、ローマの皇帝カリグラとアメリカの大統領リンカーンがそれぞれ自分が暗殺される夢を見→暗殺されたという話など、その真相解明を含めて、話題満載である。

 こうして20世紀を通じて、時計仕掛けの宇宙から確率的な宇宙へのシフトが進み、私たちは偶然と不確かさに支配された宇宙に暮らしていることがわかってきたと著者は言う。第3章「偶然とは何か?」では「偶然」ということを考える際に手掛かりとなる用語の分析や、「確率」のさまざまな定義、「大数の法則」(あるいは「平均の法則」)、「中心極限定理」と「正規分布」(あるいは「ガウス分布」)など、この書物の後の方を読むために手掛かりとなるような考え方が紹介されている。「正規分布は便利な数学的抽象概念だが、自然界で起こっていることを表す完璧なモデルではないことを忘れてはならない。あとで見ていくように、正規分布が自然に生じる分布の近似にすぎないという事実は、ありえなさの原理にとっ大変重要である。」(101ページ)と、読者に慎重であることが呼びかけられている。

 世の中には、起きることはわかっているのだが、いつ、どこで、どのようにして起きるかはわからないことが多い。人工衛星が地球上のどこかに落ちることは確実であるというのが、4章の主題「不可避の法則」である。
 ロト宝くじにはいろいろなやり方があるが、1990年代のバージニア州ロトは、700万ドルを出せば、すべての組み合わせを買えるので、当たりくじを引き当てることができた。そこで、国際ロト基金と称するグループが実際に700万ドルを集めて抽選券を買い集めた(すべての組み合わせを買いそろえる手間の方が大変であった)…。

 5章は「超大数の法則」で「十分に大きな数の機会があれば、どれほどとっぴな物事も起こっておかしくない」(119ページ)というものである。ロトに2回あたる人がいるのは、この種類の宝くじが世界中で運営され、多数の抽選券が販売され、それも何度も販売されているということを考えると、あっという間に超大数が出来上がる。1回どころか、2度あたる人がいても不思議ではないというのである。ロトの話、落雷の話、そしてゴルフのホールインワン(達成の確率は約12750分の1だそうである)、サッカーのW杯の際のタコのパウルの予想の話など、これまた話題満載の章である。

 以下、6章「選択の法則」、7章「確率てこの法則」、8章「近いは同じの法則」、9章「人間の思考」、10章「生命、宇宙、その他諸々」、11章「ありえなさの原理の活かし方」と続く。あり得ない出来事が起きるのには、さらにさまざまな要因が絡むようである。

 我々は偶然とか確率について、きわめて限られた不確実な知識と理解しかもっていないし、それを使いこなすなどというのは夢物語なのだが、この本はそうした一般の読者に初歩的な原理をわかりやすく、興味を引くやり方で説明している。話題探しのためにも、勉強のためにも役立つはずの書物である。 

『太平記』(184)

11月13日(月)晴れ

 建武3年(南朝延元元年、1336)7月、宮方は京を囲み、新田義貞は東寺の門前まで攻め寄せ、尊氏に一騎打ちを挑んだが、尊氏は上杉重能の諫めで思いとどまった。結局、兵力に勝る足利方が宮方を敗走させ、この戦いで名和長年が戦死した。信濃から上洛した小笠原貞宗は、近江の宮方の攻撃を退けて戦功を立てたが、尊氏から(一説に後醍醐天皇を欺いて)近江の管領(守護)職を申し受けた佐々木道誉に近江を譲り渡して都に上ることになった。比叡山の宮方は越前・若狭方面と近江方面の補給路をふさがれて、兵糧の不足に苦しみだした。

 このような中で、尊氏は後醍醐天皇に密使を派遣して次のように申し上げた:建武2年の10月に、尊氏は北条時行の乱(中先代の乱)を鎮めて功績を立てたが、その手柄を妬む讒臣たち(具体的には新田義貞たち)の言いふらした根も葉もない作りごとのために、勅勘(天皇のお怒り)をこうむった。その時に、自分は恐れ入って、出家して自分の無実を明かしだてようとしたのだが、義貞以下の連中が、天皇のお怒りを理由にして、日ごろのうっ憤を晴らそうと攻め寄せてきたので、やむを得ず、反撃して、天下を揺るがすような戦乱を起こしてしまいました。これはまったく、天皇への反逆を企てようとた結果ではありません。ただ義貞の一族一門を滅ぼして、今後讒臣が現われないように懲らしめたいと思うだけです。もし天皇が真実をご照覧くださるなら、私が義貞の讒言に落ちて着せられた罪を、哀れと思召して、天皇のお車を京へ御戻しになり、鳳暦(天皇のご治世)をとこしえの春のめでたき世にお返しください。天皇に付き従った公家たち、並びに降参した武士たちについては、罪科の軽重を言わず、ことごとく元々の官職、所領に復帰させて、天下の政務を公家にお任せしたいと思います。このように申し入れる事柄について、一々ご不審を抱かれることがないように、別に起請文を添えて申し送る次第です」と言い、神仏に誓いを立てる<大師勧請の起請文>を添えて、後醍醐天皇の信任を得ている浄土寺の忠円僧正に送り渡し(取次ぎを依頼し)た。

 後醍醐天皇はこれをご覧になって、神仏への誓詞を添えて申し送ってきた以上は嘘偽りを申すものではないとお思いになったので、おそばにいる元老や賢臣と思われる人々にも相談されることなく、比叡山から都に戻ることを仰せだされた。尊氏は天皇の返事の趣を聴いて、「叡智浅からずと申せども、謀るも安かりけり」(第3分冊、174ページ、天皇は賢い方ではあるが、こちらの策略に乗りやすい方でもある)と喜んで、足利方に味方しそうな大名のもとへ、つてを頼り、様子を窺って、ひそかに回状を送り味方に引き入れた。

 天皇が都にお戻りになるということが、秘密裏にきめられたので、比叡山の武士たちの中でも足利方に降参しようとしていた者たちは、あらかじめ今路、西坂本の辺りまで一人また一人とひそかに抜け出して準備して、天皇が都へと敢行されるのを待ち受けていた。中でも江田行義と、大館氏明は、新田一族であり、これまでずっと新田軍の一方の大将であったのだが、どういう心づもりがあったのかはわからないが、2人ともに足利方に降参しようと、8月9日の明け方から比叡山の山頂付近に昇って待ち受けていた。

 尊氏が天皇に差し上げた書状の内容は、過去の自分の行動の弁明と、今後の宮方の公家・武士たちの処遇についての2つの部分を含んでいる。前半については、後から都合のいい理屈をつけているところもあるが、尊氏が、弟の直義や執事の高師直とは違って、天皇に特別な感情をもっていたことは、これまでの経緯からも否定できない。しかし、後半部分については、後醍醐天皇ももう少し慎重に内容を検討すべきであった、少なくとも秘密裏に事を運ぼうとするのではなく、重臣たちに諮って、その意見を徴すべきではなかったかと思われる。補給路を断たれて生活に不便が生じていたことはたしかであろうが、尊氏の言い分をうのみにして、義貞の意見を聞かずに、事を運ぼうとしているのは軽率であったのではないかと思われる。そして、この種の秘密というのは、簡単に漏れるものなのである・・・というのは次回。

七河迦南『七つの海を照らす星』

11月12日(日)晴れ、風がやや強い

 『七つの海』といっても、太平洋・大西洋・インド洋という世界の七つの海ではない。「海岸線が入り組み、小さな岬によって区切られた小さな海、というか入り江が七つある」(71ページ)というのが名前の起こりらしい。その七海市のはずれの方にある児童養護施設「七海学園」に務める保育士・北沢春菜がこの物語の語り手である。まだ勤めて2年目で、様々な事情を抱えてこの施設で暮らす子どもたちを相手に奮闘している彼女であるが、この施設には七つの怪異が言い伝えられてきて、彼女が就職してからも不思議な出来事が起きたり、思い出されたりしている。

 小学校6年生の時に他の施設から措置変更されて移ってきた葉子という中学校2年生の少女は職員たちにも反抗的で、他の少年少女ともほとんど付き合いがないが、前の施設で何かと支えてもらっていた先輩が、ほかの施設に移された後死んで、その霊が取りついているという噂である。噂どころか、ご本人が死んだはずの先輩の姿を見かけたという。職員たちは、児童相談所の担当児童福祉司である海王さんに連絡をとってみてはどうかという。児童相談所の仕事ぶりには多少批判的な春菜であったが、海王さんがやってきて、葉子と話したことで事態は一変する。何が、葉子の心を動かしたのか…。(第1話「今は亡き星の光も」)

 問題を抱えた母親のもとから逃げ出して、ハイオクで暮らしているのを保護された浅田優姫という少女には戸籍がない。この施設に入所後、特に問題も起こさずに高校に進学し、さらに専門学校への進学を希望している。彼女が休日や長い休暇にアルバイトして稼いでためた金でその専門学校に通学し、暮らすことは難しいように思われるのだが、彼女はその点については譲らない。ある日、春菜は彼女が、思っていたよりも多額の貯金をしていることを知る。何となく不審を感じた春菜は海王さんに相談して、彼が優姫と会って話をしたことから、思いがけない真相が浮かび上がる…。(第2話「滅びの指輪」)

 学園でいいつたられてきた7つの怪異は『蘇った先輩』(→第1話)、『捕まえられない廃屋の幽霊』(→第2話)、『血文字の文子』(→第3話)、第4話『非常階段で消えた幻の新入生』(→第4話)、『開かずの門の浮姫』(→第5話)、『トンネルで囁く暗闇の天使』(→第6話)で、第7番目は「誰も知らない謎、不思議そのものが隠されている、なんだかわからないこと自体が謎」というものである。読み進むにつれて、それぞれの物語が解決しているようで、なぞが残った展開になっている。春菜が大学時代からの親友である佳音(かのん)に海王さんのまねをしていったように「いつも全部の謎が解けるとは限らない。不思議なことは不思議のまま残しておいてもいいんじゃない?」(166ページ) しかし、なぞは実は連鎖していて、最後に思いがけない事実が明らかになる。

 この物語は、若い保育士である春菜の成長物語であるとともに、第3話から登場する(実はもっと前から登場しているのかもしれない)佳音ちゃんと春菜との友情の物語でもある。児童福祉施設という様々な問題を抱えた子どもたちの施設が舞台であるから、社会派のミステリーかというと、むしろそれぞれの子どもたちの心の傷にかかわる心理的なミステリーという方がふさわしい。それでも、児童福祉施設の種類やそれぞれの役割、児童福祉をめぐる法律など、最近の変化を含めて詳しく説明されているので、ミステリーの展開にハラハラしながらも、福祉関係の勉強ができるという側面もある。

 物語の最後の方で、佳音がこんなことをいう。ここで起きたことを「さしさわりのないようにあちこち手直ししながら纏めて、フィクションとして本にできたらいいな、…でももしそんな機会があったら、ペンネームはローマ字回文にしたいな。そうしたら冒頭どころか表紙に載るもんね。『最大の伏線は本を開く前から読者の目の前に!』とかってコピーができるわよ」(389ページ) 七河迦南をローマ字で書くと、Nanakawakananである。とすると、この本は、春菜が語っていると見せて、佳音が書いているのか…という謎もはらんでいるのである。 

日記抄(11月5日~11日)

11月11日(土)晴れ

 11月5日から本日までの間に経験したこと、考えたことなど:
11月5日
 ニッパツ三ツ沢球技場でJ2第40節、横浜FC対ロアッソ熊本の対戦を見る。メインスタンド側の入り口に向かう途中で、今シーズンの報告を終えたシーガルズのメンバーとすれ違った。これから東戸塚に戻って練習ということであろうか。そういえば、本日は戸塚区民デーなのである。そのためか、9千人近い入場者であった。熊本からはクマモンが応援にやってきて、ホーム側の観客の目もひきつけていた。
 試合は前半に横浜が2点を挙げ、そのまま逃げ切った。攻撃のイバ、守備のカルフィン・ヨン・アピンの両選手が戻ってくれば、何とか試合の主導権をつかむことができるということか。これで8位に浮上。

11月6日
 服用している薬が切れてきたので、医院に出かけなければならないが、ちょうどいい時間に出かけられるように時間が配分できない。
 
 NHKラジオ『まいにちスペイン語』の時間の『スペインの街角』のコーナーではフランスに近いバスク地方の都市サン・セバスティアンを紹介した。歩いて楽しむのにちょうどいい規模の街だそうである。マドリードから列車で出かけると、窓の外の景観の変化が楽しめるほかに、到着すれば、バスク料理やリンゴ酒(シードラ)を楽しむこともできるそうだ。放送では触れられなかったが、国際映画祭が開かれているはずで、一度機会があれば訪れてみたい都市の1つである。

11月7日
 ロシア革命(十月革命)が起きてちょうど100年の記念日である。昔、大阪の北野シネマでエイゼンシュテインの『十月』と『戦艦ポチョムキン』の2本立てを見たことを思い出した。『十月』は失敗作だといわれているが、いくつか忘れられないシーンがある。

 『まいにちスペイン語』の「ラテン・アメリカの街角」のコーナーではアルゼンチンの首都ブエノスアイレスを取り上げた。ヨーロッパ的な街並みが特色で、タンゴは、アルゼンチンというよりもこの都市で生まれ育った音楽であり、踊りだそうである。

 やっと医者に出かけ、インフルエンザの予防注射をする。

11月8日
 『朝日』の朝刊の地方欄を見たら、みなとみらいにある短編映画専門の劇場『ブリリア』が12月に閉館するそうだ。そうとわかっていれば、一度くらい行っておくのだったと後悔している。
 同じ欄に伊勢佐木町の映画館シネマリンで倍賞千恵子さんの出演映画の特集上映をするという記事が出ていた。神保町シアターで同じ企画の上映をした際には、『私たちの結婚』(篠田正浩監督)しか見ていないので、見落とした作品を見に出かけるかもしれない。

11月9日
 NHKラジオ『まいにちドイツ語』応用編では、ワイマール期ドイツの大衆文化について取り上げていた。19世紀のドイツ文化の主な担い手が知識人だったのに対し、20世紀にはそのすそ野が広がったのだという。

 『まいにちフランス語』応用編では横浜の<フランス山>が話題として取り上げられた。港の見える丘公園の山下埠頭側をこのように呼び、フランスの領事館等があったところだという。

 『まいにちイタリア語』応用編ではボッカッチョの『デカメロン』の挿話の一つを取り上げた。

 『朝日』の朝刊に日本史学者である保立道久さんの提案する日本史の時代区分が紹介されていた。こういう問題は、自由に議論する余地が残されているほうが楽しいと思う。

11月10日
 『まいにちドイツ語』応用編は、1920年代のドイツ、特にベルリンにおけるアメリカニズムについて取り上げた。19世紀には兵役や貧困を逃れ、また自由を求めてアメリカにわたるドイツ人が多く、現実にアメリカの白人の5人に1人はドイツ系で、一番大きな集団を形成しているという。(今のトランプ大統領がドイツ系移民の子孫だという話はすでに書いた。) 神戸の歴史に詳しい友人の話では、戦前の神戸で一番多い白人の集団はドイツ系であったそうだ(横浜の北の方には、ドイツ人学校があって、日本の企業に勤めるドイツ人たちの子どもたちを中心に教育を行っている)。

 七河迦南『七つの海を照らす星』(創元推理文庫)を読み終える。この本については、改めて取り上げるつもりである。

11月11日
 『日経』の文化欄に、東京国際映画祭のまとめの記事が出ていて、日本の若手に活力という印象が語られていた。女優の佐津川愛美さんの初監督作品も出品されたそうで、「鮮烈な映像」というコメントが付け加えられていた。どんな作品か見てみたい。
 
 NHKラジオ『高校生からはじめる現代英語』では、南スーダンからの難民の話題を取り上げていた。この問題を考えるのには予備知識が必要だという話であったが、南スーダンの独立以後の事情に加えて、独立に至る経緯も予備知識になるのではなかろうか。

 すずらん通りの檜画廊で『佐藤ゆかり展 「銅版画と彩色画」』を見る。小品や蔵書票が中心の展示。もう少し金があれば、手が出たのだが…という感じである。

 神保町シアターで『起きて転んでまた起きて』(1971、東宝、前田陽一監督)を見る。同じ大学似通う堺正章となべおさみの2人の学生が親友同士なのだが、父親の事業が成功したり、失敗したりで浮沈を繰り返し、その間に同じ大学に通う女子学生の取り合いをする。2人ともボーリングが好きで、その他当時の流行が題材になっている。一応面白かったが、一番美しい頃であった大原麗子が、なべに思いを寄せる芸者を演じているのに、その存在感を十分に生かしていないのが問題。ラストのボーリングのピンを使ったギャグが秀逸。(見てのお楽しみ)  
 

木田元『哲学散歩』(7)

11月10日(金)晴れ

 我が家のパソコンが不調で、せっかく書いた原稿を投稿しようとしてもできないので、町のレンタル・パソコンを使って投稿することにした。そのため、普段よりも量が少なくなると思う。

 第1回 エジプトを旅するプラトン
 第2回 エンペドクレスのサンダル
 第3回 ソクラテスの皮肉
 第4回 忘恩の徒? アリストテレス
 第5回 書物の運命 これもまた?
 第6回 哲学史の中のアレクサンドロス大王

 哲学はギリシアのポリス(都市国家)の中で、初めは自然(あるいは宇宙)の根源を探索する学問として発展した。これに対して、超自然的(形而上的)な思考様式を持ち込んで哲学の世界を一変させたのがプラトンであると木田さんは言う。そして、このような超自然的な思考が普及したおかげで、ヨーロッパ世界にキリスト教が入り込みやすくなったというのである。
 これに対しては異論異説がいろいろと申し立てられそうで、私自身も納得しているわけではないが、哲学の歴史を形成してきた人々がどんな人で、どんなことをして、どんなことを考えていたかをたどってゆくこのエッセーが、単純に歴史的な時間軸をたどらず、プラトンから書き起こされているのは、この本の成り立ちも影響しているとはいえ、ヘレニズム(ギリシア思想)と、ヘブライズム(ユダヤ教の源流とその背後にあるオリエントの様々な思想→キリスト教)の対立や融合への木田さんの関心がもとになっているからだとも推測できる。

 さて、第7回は「アウグスティヌスの謎」と題されている。木田さんがその「謎」として取り上げているのは、北アフリカ(現在のアルジェリア、チュニジアあたり)というローマ帝国のいわば辺境に生まれ、そしてそこで活動したアウグスティヌスが世界的な影響を持つ思想家としての自己形成を遂げたのはどういうことかというのと、木田さんの言葉を借りれば「下世話なところでは、北アフリカの先住民ベルベル人だったというアウグスティヌスは、…ローマ人社会で人種差別を受けるようなことはなかったのか』(58ページ)というあたりのことである。

 簡単に言ってしまえば、もともとカルタゴの勢力範囲であった北アフリカは、当時豊かな地域で、ローマ化が進んでおり、ゲルマン民族(この場合は西ゴート族)によるヨーロッパへの侵略を逃れてイタリア半島から多くの人々が逃れてきたこともあって、文化水準は高く、アウグスティヌス自身、家庭でもラテン語を使っていたというから、高い文化水準のもとで育ったと考えられる。彼が膨大な著作を残すことができたのは、北アフリカにも修道院の原型になるようなキリスト教の信仰組織が作られていて、そこには彼の執筆活動を支える条件が整っていたということらしい。ローマはもともと一定の要件を満たした人には市民権を与えるという国家であったので、差別はなかったといってよいのである。むしろ、重要なのは、彼がキリスト教徒の母を持ちながら、なかなかキリスト教を信じるに至らなかったという『告白』に記された思想遍歴であろう。そういう思想遍歴が、キリスト教を信じるに至った後の彼の思想的な強さを支えているともいえる。

 とにかく、彼はいったんはマニ教を信じていたのだが、その教義にも疑問を感じてイタリアに渡り、ミラノでアンブロシウスや、シンプリキアヌスといったキリスト教の僧侶たちの説教を聞いているうちに新プラトン主義やキリスト教に近づき、回心を経験したということである。心の迷いが解消したので北アフリカに帰った彼は、ヒッポという港町を訪ねた折に、そこの老司教に懇望されて司祭となり、やがて司教となる。そして、(彼が一時期には信じていた)マニ教のような異教や、その頃北アフリカで勢力を伸ばしていたドナトゥス派やペラギウス派といった(キリスト教内の)異端との論争に従事する。

 410年に西ゴート族によってローマが劫略されると、こうした大災厄が起きるのは古いローマの神々を忘れキリスト教を信奉したせいだという非難が異教徒の間に広がった。これに対しアウグスティヌスは413年から426年までの時間をかけて異教論破とキリスト教擁護の書『神の国』全22巻を著す。神の国(天の国)と悪魔の国(地の国)を対置して、天地創造から終末までの世界史の展開を描いてみせた西洋最初の歴史哲学の書である。

 イタリアでは5世紀の初めから西ゴート族侵入による混乱が始まっていたが、それが北アフリカにも波及し、430年にはアウグスティヌスの暮らすヒッポの町も包囲された。その中でアウグスティヌスは熱病にかかり、8月28日に没した。「西ローマ帝国の滅亡つまり古代の終焉は、形の上では476年とされているが、アウグスティヌスの歿した日こそがその日だったとみてよさそうである」(63-64ページ)と木田さんは記す。

 つまりアウグスティヌスは歴史哲学という領域を切り開いた最初の人物であるとともに、古代最後の人であったというのが木田さんの評価であるが、彼の死後半世紀ほど後に生まれ、『哲学の慰め』という有名な書物を書いたローマの哲学者ボエティウスこそ、古代最後の人だという評価もあって、この辺りは意見の分かれるところだろう。ちなみに「中世最後の人」と呼ばれるダンテはボエティウスを愛読し、「ルネサンス最初の人」と呼ばれるペトラルカはアウグスティヌスを愛読していたらしい。木田さんは多分、アウグスティヌスが北アフリカで活動した人で、さまざまな文化的な伝統、特にギリシア由来のプラトニズムとオリエントに起源をもつキリスト教とを自分のものとしながら彼の思想を形成したことを評価したものと思われるが、その点の説明が不足しているようである。そしてそのことをご自身も自覚していたらしく、次の回に「プラトニズムとユダヤ思想」という話題を取り上げているのである。

森谷明子『花野に眠る 秋葉図書館の四季』

11月9日(木)晴れ

 森谷明子『花野に眠る 秋葉図書館の四季』(創元推理文庫)は、一昨日(11月7日)に紹介した『れんげ野原のまんなかで』に続く秋葉図書館シリーズ第2作である。

 もともとはススキ野原の中にあった秋庭市立秋葉図書館(なぜこのようなややこしい名称になったのかについての経緯は、前編『れんげ野原』の14~15ページをご覧ください)であるが、図書館を取り巻く広大な土地の持ち主である秋葉武蔵氏の意向で、ススキの代わりにれんげが植えられ、一面のれんげ野原が地元の話題になったりした。しかし、「レンゲ自体は作物ではない。観賞用でもない。レンゲソウは最初から土に返されるためだけに、水田となる土地に植えられる。正確にはレンゲの根に付着している根粒菌ともども肥料にするために」(『れんげ野原』、291ページ)ということで、この野原も(全部ではないが)掘り返されて、もう少し先の話だが、田んぼになるらしい。

 時の経過とともに、第1作では駆け出しの新人だった司書今居文子の仕事ぶりも板についてきた。その文子に地元の保育園で子どもたちにブックトークをするという仕事があたえられる。考えた末に馬に関係する絵本を選んで話をすることになるが、図書館にちょっと気になる男の子がやってきて、彼女が選びだした本に興味を示す。この男の子が実は…というのが第1話「穀雨」。
 それでいよいよブックトークをすることになるのが第2話「芒種」。その書き出しが面白い:
「図書館員は、本が好きである。
 これは、ほぼ正しい。
 図書館員は、児童書が好きである。
 こちらも、かなりの確率で正しいといえるだろう。
 ・・・
 ただし。
 児童書を愛する図書館員が、だからといって子どもが好きかというと、これは必ずしもそうではないのである。」(93ページ)

 文子がブックトークをすることになったのも、先輩司書の能勢さんは自分の子ども以外の子どもは苦手、日野さんも子どもは苦手で、若い文子をおだててこの仕事を押し付けたということもありそうだ。もっとも、第1話に出てくる少年は、能勢さんも日野さんもとっつきにくいと感じたが、文子には親しみを感じている。本人はどう考えているかは別として、子どもの方の都合も考えなければいけない。〔なお、私も本は好きで、児童書は好きだが、子どもはそれほど好きではない。〕

 ブックトークは幸い、うまくいったのだが、その後でちょっと困った事態が生じる。園長先生に給食を食べていきなさいと言われるが「子ども(特に集団)が苦手な文子は、さっきの子どもたちに囲まれてスパゲティナポリタンを食べるのは、実のところありがたくない。しかも今日は、勤務する秋葉図書館とは駅を挟んで反対側の保育園に来たのである。日野の言葉に従って、帰りは駅近くで何か昼食を取って帰ろうと、楽しみにしていたのだ。」(99ページ) 何とか断ろうとするが、その結果、園長先生に図書館まで自動車で送られるという事態を招く。
 実は、似たような経験が私にもあって、郊外の大学で教えていた時に、受け持ちの学生が中心部の学校で教育実習をしているので、授業参観に出かけたら、給食をどうぞと言われた。こちらは、どこか中心部の店で昼食をとろうと楽しみにしていたので、辞退したのだが、学生までもが先生、一緒に食べていってくださいというので致し方なく、一緒に食事をした。その後で、その先生が児童相手に歯の磨き方の指導をしたのだが、古い磨き方であったことまで覚えている。いま、考えてみると、その先生(教諭ではなくて、講師であった)にも同情すべきところはあったが、気の利かない人だと腹立たしく思ったものである。

 文子を送りついでに園長先生はお礼の印として、この土地の名物であり到来物の百合落雁(架空のお菓子である)を置いていく。ところが、このお菓子が騒動を引き起こす。もともと手土産として作られたものだが、あちこち使いまわされることが多い。ただし、うっかり使いまわすととんでもない事態に立ち至るというわけである。そして、この落雁の箱の1つから、剣花菱の文様を刻した四角印が出てくる。文子たちは気づかないが、この印は第1話で少年が、絵を教わった老女からもらったものである。
 第2話の終わりで、この地方を季節外れの台風が襲い、秋葉家の裏庭に土砂崩れが起き、土砂を片付けていると、その中から白骨が出てくる。

 この白骨が誰のものか、また剣花菱の印がどのような来歴をもっているかをめぐり、物語が進み、そして秋葉家とその周辺で起きた出来事が次第にはっきりした輪郭をとることになる。そして百合落雁の来歴も明らかになり、第1作で、秋葉武蔵さんが見たという雪女の謎も解けていく・・・ 第1作で描かれていた寺田先生の昔の恋人への想いも、新たな展開を見る・・・。

 ほんわかした舞台設定ではあるが、その中で進行する人間劇はかなり深刻なものがある。秋葉さん夫婦は(おそらく様々な波乱を経て)円満な様子だが、その息子夫婦はうまくいかず、秋庭さんにとっては孫にあたる一人息子を離婚後どちらが引き取るかでもめている。そのほかにも、嫁姑の孫息子の取り合いなどの挿話もあるが、もっとも深刻な劇はやはり白骨と消えてしまった秋葉神社に関係するものであろう・・・。

 「解説」で青井夏海さんが書いているように「物語は一話進むごとにどんどん謎をふくらませていきます。一話完結と見せかけてちっとも完結しない、謎が解けて終わるのではなくさらなる謎を生んでて展開していく連作集」(345ページ)であり、そうはいっても、第2作で謎のかなりの部分が解けているようにも思われるので、これで完結したものとなるのか、新たなる展開があるのかという不安半分、期待半分の気持ちが読後に残るのである。 

ダンテ・アリギエリ『神曲 天国篇』(31-1)

11月8日(水)雨、午後になって小降りになってきた

 ベアトリーチェに導かれて、地球の南半球にある煉獄山の頂上の地上楽園から天上の世界へと旅立ち、月天、水星天、金星天、太陽天、火星天、木星天、土星天を訪れ、至高天から彼を迎えにやってきた魂たちと会話し、彼が抱いていた政治や信仰をめぐる疑問の解決を得るとともに、この旅行で彼が見聞したことを地上の人々に知らせることが彼の使命であると知る。至高天から土星天へと降りてくる「ヤコブの階段」を昇って恒星天に達した彼は信仰、希望、愛という3つの対神徳についての試問を受け、これまでの見聞を地上の人々に語るにふさわしい存在であることを認められる。彼はさらに不動の存在である地球の周りを回転している(『神曲』の宇宙はプトレマイオスの天動説に従って描き出されている)天体の運動の起点である原動天を経て、至高天に入った。それは物理的宇宙とはまったく別個の、自然的法則から離れ、時間も空間も存在せず、ただ神から発する知性の光に満たされている位相である。ダンテはいったん視力を失うが、春の庭のような情景を目にし、それが至高天の真の姿の投影でしかないと知らされる。そして、彼が見ている庭をながれる川の水を目で飲んだことで、祝福された人々と天使たちが集まる至高天の真の姿を目にする。

それゆえ、純白に輝く薔薇の形をとって
キリストがその地によってご自身の花嫁となした
聖なる軍が、我が前に現れていたのだ。

しかし別の一群は、飛翔しながら
彼らを恋い焦がれさせる方の栄光と
彼らを美しく飾るその善を見て歌いつつ、

まるで一度花にもぐりこむと次には
その働きが蜜となって甘くなる巣に戻る
蜜蜂の列のように、

幾多の花びらに飾られていろ大いなる花の中に
降りては、そこから
彼らの愛が常に宿る場所に昇っていくのだった。
(462-463ページ) 「聖なる軍」は祝福された魂たち、「別の一軍」は天使たちのことである。祝福された魂たちは競技場の観客席のように段状になった列に席をしめ、彼らの取り囲む空間(空間は既に存在しないはずなのであるが…)を天使たちが飛び回りながら、魂たちに「平和と情熱」(463ページ)を分け与えていた。

 しかし、その荘厳な眺めを目にして喜びながらもダンテには気にかかることがあった。
おお、三位の光よ、ただ一つの星の中から
彼らの視線に向かって光を放ち、彼らの心を満たすものよ、
下界にいる我らを襲う嵐をご覧ください。
(464ページ) 

 嵐とはどのようなものか。北方から来た人々によってローマ帝国が滅ぼされたが、その皇帝の住まいであったラテラーノ宮殿の威容は征服者たちを仰天させたのであった。そして、ダンテの時代に、このラテラーノ宮殿は教皇の住まいとなっていた。市民達の堕落に加え、教会までもがキリスト教の正しい道から外れている世俗の世界を離れて、天国の「正しく健全なる民」の中に入った彼は、
どれほどの驚愕を覚えねばならなかったことか。
もちろんこの驚愕と喜びのただなかにあって
私は話を聞かずに沈黙していることを望んだ。

そして、願いをかけた寺院の中で
周囲を眺めなが休養をとり、
すでにその様子を後で語ろうと思っている巡礼者にも似て、

生命をもたらす光の上に目を走らせて
私は階段を眺めていった、
高く、また低く、さらには周囲を見回しながら。
(466ページ) 天国を目にした喜びとともに、それをどのように地上に伝えるかについて、ダンテは考えるのであった。彼は判断しかねることについて、ベアトリーチェにたずねようとして、ふりかえると、それまで彼を導いてきた彼女の姿が消えていることに気づく。
・・・私が見たのは
栄光に包まれた人々の服を着た一人の古老だった。
(467ページ) 地上楽園で別れの言葉を告げることもなく、彼を地獄と煉獄で案内したウェルギリウスは去っていったが、天国で彼を導いたベアトリーチェとも別れることになったのである。

そして「彼女はどこに」、すぐに私は言った。
するとその方は、「おまえの希望をかなえるために
ベアトリーチェはわしを我が座から呼び出したのだ。

そして最上の段から
三段目の円周を見れば、おまえは
その功績が割り当てた座に彼女を再び見るであろう」。

答えることなく私は目を上に向けた。
すると永遠の光線を反射して
自らの冠となしていた彼女が見えた。
(468ページ) ベアトリーチェは自分の任務を終わらせて、さらなる案内をこの古老に託し、至高天の彼女自身の座へと戻っていたのであった(リンボに戻っていったウェルギリウスとは大変な違いである)。そして、ダンテはその本来の座についているベアトリーチェを見ることができた。

 31歌の後半で、ダンテのベアトリーチェへの感謝の言葉が述べられ、また古老が何者であるかがわかるが、それはまた次回。

森谷明子『れんげ野原のまんなかで』

11月7日(火)晴れ

 11月5日、森谷明子『花野に眠る 秋葉図書館の四季』(創元推理文庫)を読み、11月6日、同じ著者の『れんげ野原のまんなかで』(創元推理文庫)を読み終えた。関東地方の小都市の外れの方に立つ図書館を舞台にした連作シリーズで、『れんげ野原のまんなかで』が第1作、『花野に眠る』が第2作、この順序で購入したのだが、なぜか第2作の方を買ってすぐにすらすらと読んでしまい、慌てて第1作を読むことになったという次第。

 大学を出たての司書である今居文子は、ススキが生い茂る野原のまんなかに立てられた秋庭市立秋葉図書館に勤務することになる。予算不足に悩む弱小地方都市の秋庭市の頓挫しかけた図書館分館設置計画を土地の有力者である秋葉氏が土地を寄付することで実現を見たことから、このような紛らわしい名称がつくことになったという経緯がある。図書館には館長の他に、若白髪の男性能勢と女性の日野という2人のベテラン司書がいて、新人教育という名のもとに、彼女に本を読ませたり、講演会を聴きにいかせたりしてしごいている。

 土地が提供されたから建てられたというだけの図書館であるから利用者はまばら、暇なことこの上ない。しかし、奇妙なことに地元の小学生たちが閉館後も居残るために、あの手この手で図書館員たちの裏を書こうとしているらしい。それどころか、へんてこな忘れ物をしたり、図書館をめぐる奇怪なうわさが広がったりしている。文子はかねてからその博識ぶりを崇拝している能勢の力を借りて、小学生たちの企みをつきとめようとするが…というのが第1話「霜降――花薄(はなすすき)」である。この物語の最後で、秋葉さんがススキを刈り取って、れんげの花の種を蒔くといいだす。

 図書館に足しげく通ってくるツイードのジャケットと、それに合わせたようなハンチング帽の老紳士は、実は日野が大学で図書館学を教わった先生で、退職後、郷里である秋庭に戻ったことから、この図書館を利用するようになったのだそうである。一方、市内循環福祉バスを利用して週に1度だけやって来る病身の老婦人がいる。元文学少女だったという彼女は古寺を題材にした写真集が気に入っているようである。ところが図書館の洋書絵本のコーナーに異変が起きた。本が配架されていたのとは違う順序に並べられていたのである。これはなにかの暗号か、それともただのいたずらか…というのが第2話「冬至――銀杏黄葉」。事件の展開と結末は伏せておくが、最後の方で文子が言う「ほのぼのしてくる話だと思っていたけど、実人生はほのぼのなんていうことではすまなかったんですねえ」という感想が、この本の中で展開される物語の雰囲気を要約しているように思う。

 主人公といってよいのは文子で、彼女が図書館員として成長し、それとともに地元に溶け込んでいく過程での出来事が描かれているのだが、地方都市の表面上はのんびりした図書館の四季の移り変わりの中で起きる事件の探偵役となるのは主に能勢さんである。彼らが出会う出来事が、この後第5話まで語られているのだが、第4話では大雪の日に雪女を見たという秋葉さんの思い出が語られたり(どうもそれが秋葉家の家庭の秘密と関係するらしい…)、第5話では秋葉さんがまいたれんげの種が見事に花を咲かせて、地元の話題になったりする。実はその野原にも過去に起きた事件の痕跡が埋まっているかもしれない…。れんげ野原の取材をした記者と文子の間にロマンスが生まれるかに思われるのだが、ずっと秘められている文子の(妻子持ちの)能勢への想いの方が強いようにも思われる…。

 秋葉図書館の具体的なモデルはないと「あとがき」で著者は述べている。著者が過去に勤務した(その経験が作品のあちこちで行かされている)図書館や、利用した図書館のさまざまな思い出をより合わせて作り出されたのだという。「秋葉図書館ほどののんびりほのぼの図書館は、現実にはないでしょう」(310ページ)とも書いている。つまり、秋葉図書館は過去の存在として著者に意識されているようであり、この物語のかなりの部分が、過去からさらに回想される大過去の物語として展開されていることになる。

 大学時代のサークルの仲間の下馬評では、私は図書館学を専攻するものと見られていて、将来は国立国会図書館長だなどと噂されていたようである(図書館学の専門家が図書館長になるのはむしろまれである)。結局、図書館学とは別の領域を専攻したが、職場で図書館委員の類を務めることが多く、図書館とは腐れ縁が続いたので、この小説は余計な興味をもちながら読むことになった。それで、アジア系の言語に強いという先輩司書の日野さんがタイのチュラロンコーン大学図書館蔵日本語図書目録を九か旅行の際に持ち帰ったというくだりを読んで、チュラロンコーンはタイ随一の名門大学であるから、もっとマイナーな大学を引き合いに出した方が面白かったのではないかとか、日野さんの恩師の寺田先生がホームズみたいなツイードのハンチング帽をかぶっているという記述について、ホームズが被っているのはディアストーカーではないかとか、いや森谷さんはそんなことはご承知で、コナン・ドイルは本文中にはディアストーカーとは一言も書かず、ホームズにこの帽子をかぶせたのは挿絵画家のシドニー・パジェットであったということを踏まえて、ハンチングと書いているのかなとか、そんなことばかり考えて楽しんでいたのであった。

 ほんわかした物語の外見をなぞっても、その奥に潜む何かしら不気味なものに目を向けても、あるいは物語の細部にこだわっても、それぞれの楽しさを与えてくれる書物である。(近いうちに『花野に眠る』の方も取り上げるつもりである。) 

『太平記』(183)

11月6日(月)晴れ

 建武3年(南朝延元元年、1336)7月、比叡山に押し寄せた足利方の軍勢を撃退した宮方の兵力は、南都(奈良)の支持を取り付けたことで、近畿地方の武士たちの加勢を得て都を包囲、補給路を断たれた足利方は苦境に陥った。しかし、四方から都を攻撃したものの、兵力の大小の差は克服できず、結局足利方に撃退された。この戦闘で三木一草の中でただ一人生き残っていた名和長年が戦死した。いったんは味方すると約束した南都の興福寺の衆徒たちは足利尊氏から荘園を寄進されて、約諾を翻した。宮方は北陸地方からの補給路を足利(斯波)高経、東山・東海道からの補給を近江に陣を取る信濃の守護小笠原貞宗に阻まれて苦境に陥った。近江の足利方を退治しようと派遣した比叡山の衆徒たちが撃退されたため、9月20日に2万の僧兵をえりすぐって派遣し、近江を守っていた小笠原貞宗の軍勢はその大部分が噂を聞いて離脱し、貞宗は討死覚悟で300人の兵とともに犬上郡の多賀に陣を張った。

 多賀は後ろに山が控え、前に犬上川という琵琶湖に注ぐ川が流れる場所である。僧兵たちは騎馬の戦闘は得意でないから、このまま一気に小笠原勢を蹴散らそうと考えていた。ところが僧兵たちが小笠原勢と向かい合って陣を張っていた豊郷(とよさと)の四十九院に早朝6時頃から小笠原勢の先鋒が攻め寄せてきた。比叡山側も応戦して激しい戦いになったが、小笠原勢の先鋒が優勢になり、比叡山の方が少しばかり退却したのにつられて、その後ろにいた雑兵たちが逃亡をはじめ、僧兵の中の主だったものを含む30人余りが戦死したので、琵琶湖を船で渡って、堅田へと逃げ帰ったのである。〔比叡山の方は2万余人、小笠原勢は300余騎で、数的には比叡山の方が優勢であったが、比叡山は歩兵中心、小笠原は騎兵中心であるうえに、小笠原が機先を制したことが結果的に勝敗の分かれ目になったようである。ここでも比叡山=宮方は適当な指揮官がいないことが重要な敗因になっている。〕

 このように小笠原貞宗は宮方と戦って戦功を立てたのであるが、北近江の豪族であり、足利尊氏が六波羅を陥落させた時以来の盟友である佐々木道誉にとって、これは面白いことではなかった。彼は尊氏のもとに出かけ、次のように述べた(『太平記』流布本によると、道誉は勝手に東坂本に向かって、後醍醐天皇と義貞に対して降参してから、述べたことになっている):「近江は我々の家の名の由来となった佐々木の荘の所在地であり、一族のものが代々守護を務めてきました。小笠原が都に向かってきて、思いがけず2度にわたり宮方と対戦し、勝利しましたが、その功績によって近江の守護に任じられるということになると、私が面目を失うことになります。私を近江の守護に任命していただければ、すぐに近江に出かけて、国中の朝敵を平らげ、比叡山の麓の坂本からの補給路を塞いで、敵を兵糧攻めにしてみせます」。尊氏も(おそらくは、道誉とのこれまでの関係から、『流布本』に従えば、後醍醐天皇と義貞は道誉のこの口上に騙されて)この意見に同意し、彼を近江の管領(守護)に任じ、さらにちょうど領主が不在になっていた荘園を数か所、彼に恩賞として与え、近江に赴かせた。
 宮方との戦いで功績を上げた小笠原に対し、道誉が横車を押した形になるのだが、佐々木一門にとって近江は先祖代々勢力を張ってきた土地であるから、何としてもここは守りたいという気持ちもわからないではない。道誉の先祖である佐々木秀義は平治の乱において源義朝を助け、その子の定綱、経高、盛綱、高綱、義清の兄弟は頼朝(と範頼、義経)に従って、平家との戦いに功績を挙げた。その後、定綱の孫の泰綱から六角氏が出て南近江を、泰綱の弟の氏信から京極氏が出て北近江を支配してきた。それまでどちらかというと、六角の方の勢力が強かったので、京極家の当主である道誉が強引なことを言いだすのにはこのような事情も影響しているようである。(林屋辰三郎『佐々木道誉』もこの点を論じている。)

 さて、道誉は京都からひそかに若狭路{京都市左京区大原から途中峠(竜華越:りゅうげごえ)を越えて滋賀県に入り(流布本では、ここで後醍醐天皇に降参したふりをして、近江の守護職に任じられ)、今津から福井県小浜に至る道}を回って(琵琶湖の北側から東側に出て)小笠原に会い、尊氏から近江の守護職を得たと告げた。小笠原は2度にわたり大敵を撃退し、大きな戦功をあげたのだが、それもむなしく上洛したのであった。
 その後、道誉は野洲郡の三上山の麓にある東光寺に陣を取り、近江の守護となり、寺社やその他の所有者の荘園を、自分の配下の武士たちに料所(兵糧を調達する領地)という名目で支配させ、坂本(と比叡山)を遠巻きに兵糧攻めにした。「諸国の料所と云ふ事は、これよりぞ始まりける」(第3分冊、172ページ)と『太平記』の作者は記している。この時点で道誉はそれほど優れた武勲をあげているわけではないのだが、政治的な能力は大したものである。
 比叡山の僧侶の縁者たち、親類、宮方の家来のゆかりのものまでも、それぞれの土地や家を奪われ、近江の国中にはとどまることができなくなってしまった。

 これを聞いて、坂本からすぐさま退治しようと、義貞の弟の脇屋義助を大将にして2千余騎の軍勢を派遣した。この軍勢が船で琵琶湖東岸(草津市内の)志那にわたって、船から降りようとしているところに、道誉が3千余騎を率いて押し寄せ、船から岸にあげさせないようにと防戦した。湖が遠浅で岸の近くまで船を寄せられずに立ち往生したり、船から岸に上がろうとするときに馬を下すことができず、矢にあたったり、切り伏せられたりする兵は数が知れなかった。この日の戦闘にも宮方の軍はまた敗北して、生き残ったわずかな塀が船で坂本へと漕ぎ戻ったのであった。
 この後は比叡山と言わず、その麓の坂本と言わず、兵糧がいよいよ不足してきて、将兵の数も次第に減ってきたのであった。

 今回の箇所は、比叡山の宮方による都の攻囲戦の失敗と、後醍醐天皇の比叡山から都への帰還という重要な箇所のつなぎということになるが、その中で近江の国の支配権を巧みに手に入れ、新しい領国支配・経営に乗り出す佐々木道誉の姿を描いていて、それなりに興味深い。『太平記』の異本によって、道誉の行動の描き方が違っているというのも注目してよいことである。

フローベール『感情教育』(3)

11月5日(日)晴れ

これまでのあらすじ
 (1) 1840年9月、地方地主の息子であるフレデリック・モローは、その遺産を相続する見込みのある伯父のもとを訪問したのち、大学入学前の2か月を郷里で過ごすために、パリからセーヌ川を遡上する汽船に乗りこむ。その船の中で美術関係の仕事をしているアルヌーという共和主義者の男と知り合い、その美しい夫人に惹かれる。母が住む郷里の邸宅に戻った彼は、学校時代からの親友であるでローリエが彼に会いたがっていることを知って、夜遅くであったが外出する。

 (2) 久しぶりに親友であるシャルル・デローリエにあったフレデリックは、帰ってきたばかりの旅行の話や将来の夢などを彼と語り合う。2人は同じ学校に学び、夢想家で芸術に興味があるフレデリックと努力家で現実的なデローリエは育ちも性格も違うが、仲のいい友人であった。フレデリックの母親は共和主義的なデローリエを警戒していたが、二人はパリで一緒に暮らして勉強しようと考えていた。フレデリックはパリに向かう予定であったが、彼よりも早くパリの大学に入学していたデローリエは学資がないため、いったん地方に戻って、公証人のもとで働いていた。デローリエは自分も間もなくパリに行くつもりであると告げ、フレデリックに現実と折り合って生きていくように忠告して、2人は分かれる。

第3回
 郷里のジャン≂スュル≂セーヌで2か月を過ごした後、フレデリックはパリに出かける。郷里の家の隣人であるロック老人は、地方の有力者で県会議員で衆議院議員のダンブルーズ氏の代理人であったが、フレデリックにダンブルーズ氏のもとに書類を届けるという用事を託する(前途有為な青年と思われているフレデリックには、彼の母親だけでなく、ロック老人も期待を抱いているのである)。
 ダンブルーズはもともと貴族であったが、実業界に転じて財産を築き、政府に対する不満から中央左翼党(サントル・ゴーシュ、生島遼一訳では中央左翼党だが、「中道左派」と訳す方がわかりやすいのではないか)に傾いていた。一方、彼の若く美しい夫人は社交界で活躍して、夫の政治的な傾向に対する貴族社会の反感を和らげていた。
フレデリックはダンブルーズを訪問するが、あまり丁寧には応対してもらえない。帰り際にフレデリックはダンブルーズ婦人らしい女性を見かけ、その姿をはっきり見られなかったのを残念に思う。

 フレデリックがダンブルーズを訪問した帰りに、モンマルトル通りを歩いていると、アルヌーの店の前に出る。店の中に入るが、アルヌーにも夫人にも合うことができなかった。

 「その後の数日は、部屋探しにつぶした。そして、サン=ティヤサント通りのある間貸し家の三階の一室にきめた。」(36ページ)   こうして住処を確保したフレデリックは大学の講義を聴講する。「帽子をかぶらない三百人の青年が階段教室をうずめていて、赤い教授服の老人が単調な声で講義していた。ペンが紙の上をさらさら走った。この室の中にも、教場特有のほこりっぽい匂いと同じ形の教壇と同じ倦怠があった。十五日間、彼は通ってきた。が、まだ第三条にこないうちに民法をうっちゃってしまい、言論はSumma divisio personarum (法律上の人の大別)で投げ出してしまった。」(36-37ページ)
 階段教室というと(今はどうかは知らないが)、京都大学の時計台の下にある法経一番教室を思い出す。教授服というのはガウンのことだろうか。ダブリンのトリニティ・カレッジのある先生の研究室に出かけたら、部屋の壁に赤い服がかけてある。これは儀式のときだけに着るガウンだという話だった。日本の大学ではガウンを着るという風習はかなり早く姿を消したようであるが、中国哲学の重沢俊郎教授のようにつねに和服着用という先生がいた。我々の時代は講義を筆記するのにペンは使わなかったが、試験の答案を書くのはインクで書かなければならないという場合があった。私が大学で勉強したのは、この小説が描いていた時代よりも120年以上あとのことなのだが、共通する部分が少なくないのは驚くべきことである。

 フレデリックは図書館に通ったり、ルーヴル美術館を訪問したり、芝居を見たりするが、心を満たされることはない。孤独を感じた彼は、友達付き合いに精を出すことになる。フレデリックと同じ学校の出身者で、豪農の息子であるマルチノンはすっかり学生生活に満足して勉学にいそしんでいる。大学でドゥ・シジーという芸術好きの青年と知り合うが、この「若い貴族の典雅さの裏に、もっとも貧しい人間にふさわしい知性がかくされて」(38ページ)のに幻滅するようになる。

 その一方でダンブルーズ家からは招待はこないままであるし、アルヌーの店を訪ねても取り合ってもらえそうもない。

 後悔の念に駆られてまた講義に出席してみたが、抗議されている内容が少しもわからず、困惑するだけである。それで小説を書いてみるが、途中で筆が動かなくなり、彼の無為の生活はますますひどくなった。

 そこででローリエにパリに出てきて一緒に暮らそうと頼むが、デローリエはまだ彼が仕事をしているトロワを離れることができないとの返事をもらう。デローリエは何か気をまぎらすことをしろ、セネカルとつきあってみろと勧めてきた。「セネカルは数学の復讐教師をしていて、共和主義者だという。フレデリックはそれまでもセネカルを訪問したことがあったのだが、不在だったので、つきあうのを断念していたのである。

 「こうして、同じ倦怠とそろそろ身についた習慣を繰り返して日は過ぎていった。彼はオデオン座の回廊の書店で仮綴じ本のページをはぐったり、カフェで『両世界評論(ルヴュ・ド・ドゥ・モンド)』を読んだり、コレージュ・ドゥ・フランスの講堂に入って一時間ばかりシナ語とか経済学の講義を聞いたりした。毎週きまってデローリエには長い手紙を書き、時にはマルチノンと食事し、シジーにも会った。」(42-43ページ) コレージュ・ドゥ・フランスはフランスの一流の学者が公開講座を開いている高等教育機関で、法学部の学生であるフレデリックも、そこで専門外の知識をえようとしたのであろう。

 フレデリックはアルヌーの様子を探るが、あまりはかばかしい成果は上げられない。
 「冬は過ぎた。春には少し気分も明るくなって、試験の準備にとりかかった。そして、まあどうにかそれをすませてから、ノジャンにむかって立った。
 母に小言をいわれないために、彼はトロワにいる友人〔デローリエ〕に会いにはゆかなかった。そして、新学期には、もとの部屋をよして、ナポレオン河岸に二間を借りて、家具は自分で備えつけた。ダンブルーズ家からの招待をあてにする気はいまさらなかった。アルヌー夫人への激しい恋もそろそろ消えかけていた。」(44ページ)

 文学や芸術に興味があるが、その意に反して法学部に入った学生が経験しがちな悩みがフレデリックにも付きまとう。確か、芥川龍之介がフローベールについて、「美しい退屈というものがこの世にある」ことを彼から学んだと書いていたと記憶するが、今のところはそれほど美しくもない退屈が展開している。(1)で主人公のフレデリックとヒロインのアルヌー夫人、(2)で副主人公のデローリエが登場した後、この(3)では実業家で代議士のダンブルーズの他に、フレデリックとデローリエの周辺に出没することになる青年たちの一部(マルチノン、名前だけだがセネカル)が登場する。マルチノンのように現実を肯定し、まじめに勉強する型の学生はたぶん、いつでもどこにでもいるのだろうが、パリの雰囲気は共和主義的で、地方の保守的な空気とはきわめて対照的であることが読み取れる。そして、フランスの歴史の中で立憲君主制という政治形態をとった唯一の時代であるこの七月王政の時代が、共和制を求める革命の動きに直面して動揺し始めると、フレデリックをはじめとする若者たち、それだけでなく、ダンブルーズやアルヌーやアルヌー夫人たちの運命もその影響を受けて変化することになる。物語は「退屈」ではない方向に動き始めるのである。 

日記抄(10月29日~11月4日)

11月4日(土)晴れ

 10月29日から本日までの間に経験したこと、考えたこと、前回書き残したこと:
10月28日
 NHKラジオ第二放送の「朗読の時間」の『坊っちゃん』の放送が終わる。この小説はもちろん、何度か読んでいるのだが、坊っちゃんが就職した中学校の教師を1か月足らずで辞職しているというのには気づいていなかった。1か月未満で退職するというのはかなり異常なことではある。私が学校の教師になって何か月かして、やめようかと思ったことがあって、待て待て、やめたいというのは自分の仕事ぶりを客観的に見ることができるようになったということだから、もう少し頑張ろうかと思い直した。漱石にも同じような経験があって、後から考えて、あの時にやめた方がよかったかなという思いで、『坊っちゃん』を書いたのかもしれない。

 J2の横浜FCはアウェーで京都サンガと2-2で引き分ける。前半22分に京都の河成選手が退場となり、数的に有利になっただけでなく、後半にイバ選手のゴールで2-1とリードしたにもかかわらず、守備陣の乱れでオウン・ゴールで同点に追いつかれた。こんな試合ばかりしていてはJ1昇格はおぼつかない。
 一方J3のYSCCは鹿児島を4-1で破り、12位に浮上。辻選手が後半に3得点を挙げる大活躍を見せた。

10月29日
 『朝日』の朝刊の書評欄の「ひもとく」のコーナーでは、「宗教改革500年」にかかわる図書を紹介していた。西欧の政治や経済と社会生活に与えたその影響にかかわる書物が取り上げられている。非西欧社会で生きている我々にとって宗教改革の意味を考えるためには、もっと広い視野から宗教改革を見直すことも必要であろう。キリスト教全体の中での信者の構成を考えると、いちばん多いのがカトリック、2番目が東方正教会、3番目が聖公会系の諸派で、宗教改革の影響というのはこの点から見ると大きくはないようにも思われる。 

10月30日
 『日経』の朝刊の文化欄に「琵琶湖周航の歌」100年という記事が出ていた。私は滋賀県の生まれで、京都大学を出ているのでこの歌にはそれなりの愛着がある。ただ、昔ほどには愛着がなくなってきたように思えるのは、南関東での暮らしが長くなってきたからかもしれないし、大学とか学生とかいうものと縁があまりなくなってきたからかもしれない。

 デイヴィッド・J・ハンド『「偶然」の統計学』(ハヤカワ文庫)という本を買って読んでいるのだが、いろいろと信じがたいような出来事が紹介されている。特にその極めつけはいまは亡き金正日が1994年にゴルフで「38アンダーという想像を絶するスコアをマークし」(27ページ)たという記事である。以前読んだところでは、トランプ米大統領はハンディー3、安倍首相はハンディー20だそうだが、もしこの記事が本当ならば、金正日はプロでもかなわない腕前ということになる。

10月31日
 峰岸純夫『享徳の乱 中世東国の「三十年戦争」』(講談社選書メチエ)を読み終える。この書物については11月2日付の当ブログで紹介したが、著者の見解がよく出ているにもかかわらず、その際に紹介できなかった部分を補っておく。
 「呉座勇一氏は『応仁の乱』(中公新書)の「あとがき」において、「応仁の乱は第一次世界大戦と似た構図を持つのではないか、と思い至った」「東西両軍はともに短期決戦を志向したが、戦争は長期化し足軽や郷民を動員する総力戦の様相を呈した」と記しておられる。しかし、東国という要素を考えた場合、それは第一次世界大戦というより、むしろベトナム戦争の比喩で語られる方がふさわしいような気が、筆者にはする。/対古河公方戦争は既に長期化、泥沼化していた。それでも東国に介入を続けようとする勢力とその批判勢力が中央で衝突したのが応仁・文明の乱ではないのか。その意味で、東西両軍の双方が短期決戦を志向したことは間違いないだろうが、大局的には既に始まっていた泥沼の戦争の第二幕、東西の戦乱の飛び火と見てよいと筆者は考える。」(112ページ)

11月1日
 アントワーヌ・メイエ『ヨーロッパの言語』(岩波文庫)を読み終える。第一次世界大戦後のヨーロッパの言語状況を印欧諸語を中心に記述した書物である。言語は社会の変化とは無関係ではないという著者の主張はよく分かる。「英語の文法体系は、印欧祖語よりも中国語かスーダン語の文法と似ているくらいである」(169ページ)という意見は興味深い。この書物が書かれてからかなりの年月が経っており、その後の言語状況の変化についても自分で調べておく必要はあるだろう。

 上大岡のクリニックに出かけた帰りの地下鉄の中で、日本シリーズ第4戦の応援に出かけるらしい人を何人も見かけた。この日、ベイスターズが勝利したので、帰りは気勢が上がったはずである。

11月2日
 東芝が「サザエさん」のスポンサーを降りることを検討しているという記事が『朝日』に出ていた。東芝版の「サザエさん」が原作の雰囲気を忠実に伝えているとは思えなかったが、ほかにどの会社がスポンサーになってもやっぱり原作の雰囲気は再現できないのではないかという気もする。「サザエさん」の登場人物の性格を支えている家族関係が原作が描かれた時代とは違ってきているからである。
 「サザエさん」の良さは、わかめちゃんが団扇を片手にカツオくんに向かって「あおいであげる」というと、カツオくんが「それじゃあ姉さんをあおごう」とサザエさんを仰ぎに出かける、するとサザエさんがじゃあ私はお母さんを仰ぐと言い出し、最後にお母さんが「今日はお寿司ですよ」とお櫃の中の酢飯をあおいでいるというような、家族のまとまりとか、仲の良さをいやみなく描いているところにあると思う。そういう家族関係が今や崩壊しているのは、現在の新聞に連載されているマンガの家族の描き方をみても明らかである。では、どうするかというのは漫画家だけが考えるべき問題ではなさそうである。

11月3日
 『朝日』の朝刊にオランウータンの新種が発見されたという記事が出ていた。
 縮れ毛のオランウータンに親近感
 実は私も(今やほとんど剥げてしまったが)縮れ毛だからである。頑張れよ、絶滅するなよという気持ちが強くする。(そうでなくても、類人猿の中ではもっともらしい顔をしているオランウータンが一番好きである。)

11月4日
 横浜駅西口ムービル5で『ミックス。』を見る。元卓球の天才少女(新垣結衣)だったが平凡な生活にあこがれてOL生活を送っていたヒロインが、失恋して帰郷、死んだ母親がやっていた卓球教室の再建を目指し、元ボクサー(瑛太)が卓球のペアを組んで選手権に挑戦するという物語。神奈川県が舞台なのだが、クレジットで見た限りでは群馬県で撮影された部分が多いようである。一応面白いが、同じ新垣さんが主演した『くちびるに歌を』に較べれば劣る。

 今週は、語学番組が(「ワンポイント・ニュースで英会話」以外)再放送の週なので、それを利用して映画を見てやろうと思っていたが、体調がいま一つすぐれず、横浜から外に出るということがなかった。本日は、東京で別府葉子トリオ+1のコンサートがあるはずなのだが、これも足を運ぶことができなかった。 

木田元『哲学散歩』(6)

11月3日(金)晴れ

 哲学の歴史を辿るこのエッセー集は、もともと、この書物の「第1回」として収録されている「エジプトを旅するプラトン」というエッセーが好評だったために、別の雑誌に連載をもつことになったという経緯があって、別々に書かれた第1回と第2回以降とが1冊の本にまとめられている。(さらにまた別の雑誌に連載されたエッセーが「間奏」として挿入されているが、それはその時に。) その結果として第1回ではプラトン、第2回では「ソクラテス以前の哲学者」であるエンペドクレス、第3回ではソクラテス、第4回と第5回ではアリストテレスが取り上げられていて、哲学史的な順序とは違った配列になってしまっているが、そんなことを気にする読者はいないだろう。今回は、そのアリストテレスの教え子であるアレクサンドロス大王が、哲学者たちとどのようにかかわったかという、哲学史の流れから見れば「余談」になるような話である。

哲学散歩 第6回 哲学史の中のアレクサンドロス大王
 アレクサンドロス大王(前356-323)がアリストテレスの教え子であったことは、『哲学散歩』の紹介記事の第4回で触れたはずである。この2人の出会いをめぐっては、次のような挿話がある。
 「アレクサンドロスが14歳のとき、テッサリアの商人がブーケファラス(「牛の顔をした馬」)という名のみごとな馬を売りにきたが、誰も乗りこなすことができなかった。アレクサンドロス少年は、この馬が自分の影を恐れて暴れるのだということを見抜き、理づめでみごとにこれを乗りこなしてみせた。それを見た父親のフィリッポスⅡ世は、その馬を買い与えた上、この子は強制に対しては反抗するが、道理には服するし、なすべきことは心得ているということに気づき、個々の学問や技術の教師にではなく、当代の最高の知性であるアリストテレスに、それにふさわしい報酬を払って、この子の教育を委ねた。・・・ブーケファラスはアレクサンドロスの愛馬となって、ついには遠くインドまで遠征する彼を運ぶことになる。」(49-50ページ) (アレクサンドロスが馬の性癖を見抜いたこと、それを見た父王がこの息子の聡明さに気づき、アリストテレスに師事させたことは有名な逸話で、ラブレーの『第一の書 ガルガンチュア物語』で、グラングージェが息子のガルガンチュアの聡明さに気づく場面で引き合いに出されている。ところが、ガルガンチュアの場合には、招かれた先生がろくなものではなかったので、話が混乱してくるのである。)

 アリストテレスがアレクサンドロスの教育の場として選んだのは、マケドニアの首都ペラの南西の町ミエザであった。私は長いこと、アリストテレスがフィリッポスの居城にやってきて、アレクサンドロスを1対1で教えたのだとばかり思っていたのだが、実際は違っていたらしい。昭和天皇は初等教育を終えられた後、学習院の中等科に進学されずに、杉浦重剛を御用掛とする東宮御学問所で学友とともに教育をお受けになったそうだが、それと同じでミエザに王太子用の学問所をつくり、やはり学友とともに教育を受けたということのようである。

 この教育は7年続き、アレクサンドロスが20歳になった時に、父王フィリッポスが暗殺されたため、アレクサンドロスが王位に就いたことで終わる。アリストテレスはアテナイに戻って、彼自身の学園リュケイオンを開くが、アレクサンドロスを中心とするマケドニア政権とこのリュケイオンの結びつきは深く、ローマの知識人であった大プリニウスの伝えるところでは、アレクサンドロスは師の学園創設にあたって800タレント前後(現在の貨幣価値にして400万ドル以上という説もある➡第4回)の資金援助を行っただけでなく、遠征先から動植物の資料を師のもとに送らせたので、アリストテレスの知らない生物はなかったという。

 アレクサンドロス大王の死後、その広大な帝国は分裂するが、その中のエジプトを継承し、大王の意志で建設された年であるアレクサンドリアを首都にして王朝を開いたプトレマイオスは、アリストテレスのミエザの学園でアレクサンドロスの学友としてともに学んだ一人だそうである。そこでプトレマイオスは、自分の王子の家庭教師として、アリストテレスの弟子のテオフラストスの後継者であるストラトンを招いたという。

 アレクサンドロスに縁のあるもう1人の哲人といえば、シノぺのディオゲネス(前412-323)であろう。無欲無所有を旨とする禁欲主義を貫いたために、「キュニコス(犬儒)」派の一人に数えられる。彼はどこにでも野宿し、何でも食べる簡素な生活をし、「おまえはどこの市民だ」と聞かれると、「世界市民(コスモポリテース)だ」と答えたという。アレクサンドロス大王によって世界(コスモス)を一丸として国家(ポリス)、つまり世界国家が実現され、それにふさわしい思想が求められていたところだった。(プラトンにしてもアリストテレスにしても、都市国家をいかに経営するかという政治論を展開していた。)

 そのアレクサンドロスがギリシアを征服してコリントスに滞在していたとき、当時この町にいたディオゲネスの噂を聞いて興味を抱き、呼び出そうとしたが応じない。そこで大王が自ら出かけてゆくと、ディオゲネスは酒造り用の大甕(樽というのは誤りらしい)の中に横になっていた。あれこれ問答をした後アレクサンドロスが何かほしいものがあるかというと、ディオゲネスは大王にうるさそうに片手を振って、あなたがいると日陰になるから、そこをどいてくれといった。家臣たちは立腹したが、アレクサンドロスは、「余がもしアレクサンドロスでなかったら、ディオゲネスでありたいと望んだろう」(52ページ)といったという。
 この話は、私も木田さん同様、子ども向けの読み物で読んで知っていたが、そこでディオゲネスが暮らしていたのは樽の中であったと記憶する。漱石の『吾輩は猫である』の第11回で、苦沙弥がタマス・ナッシ(Thomas Nashe, 1567-1601) という英国の風刺作家が古来の女性の悪口を集めた本の内容を紹介する中で、
「次にはダイオジニスが出て居る。或る人問う、妻を娶るいずれの時においてすべきか。ダイオジニス答えて曰く青年は未だし、老年は既に遅し。とある」
「先生樽の中で考えたね」(講談社文庫版、467ページ) 漱石も、ディオゲネスは樽の中で暮らしていたと思っていたようである。ディオゲネスはどうも逸話だけで知られている哲学者であるが、その逸話がいかにも哲学者らしいと思う人が少なくないのであろう。なお、漱石は探偵が嫌いで、探偵小説も嫌いだったようだが、シャーロック・ホームズの兄のマイクロフトが根城にしているのが、ダイオジニス(ディオゲネス)・クラブであるというのを知っていただろうか。

 さらにもう一人、アレクサンドロスにかかわりのあった哲学者として、木田さんは懐疑主義の元祖エリスのピュロン(前360頃-270頃)を取り上げている。彼は原子論の提唱者であるデモクリトスの系譜を引くアナクサルコスという哲学者の弟子で、その師とともにアレクサンドロスの遠征に同行してインドまで出かけた。彼らはインドの森に生きる裸の行者や、ペルシアのゾロアスター教の神官階級(マゴス)たちと交わりを結んだという。こうして当時としては異例の多様で広い経験を重ね、見聞を積んだ彼は、すべてのものの見方は相対的であって、物事の真理は把握しえないものであり、物事を決定するような判断は保留(エポケー)すべきであるという懐疑主義思想に到達した。(木田さんは書いていないが、世界市民の時代を迎えた地中海世界で有力になった哲学は、この懐疑主義と、ストア派とエピクロス派の3つである。それぞれ、大きな状況よりも、自分という個人を大事にするというところが共通しているのはかなり皮肉な移り行きであった。)

 「だが、アレクサンドロス大王の学問への最大の寄与といえば、何といってもエジプトの大学術都市アレクサンドリアの建設を企画したことであろう。」(54ページ) それは青少年の教育施設「ギュムナシオン」、総合学術研究所である「ムーセイオン」、さらに大図書館を擁する学術都市であっただけでなく、その当時世界最大の都市でもあったらしい(人口90万人のローマが世界第2位だったという)。ここでは、アレクサンドリアで学問研究のための外面的な枠組みが整備されたことについてだけ触れて、そこでどのような思想が育まれていったかについては触れていない。その点については、次回(第7回)で触れるというつもりなのであろう。

峰岸純夫『享徳の乱 中世東国の「三十年戦争」』

11月2日(木)晴れ

 10月31日、峰岸純夫『享徳の乱 中世東国の「三十年戦争」』(講談社選書メチエ)を読み終える。

 《戦国時代》は応仁元年(1467)に始まる「応仁・文明の乱」(あるいはただ単に「応仁の乱」)が画期であるというのが一般的な理解のように思われるが、著者である峰岸さんは次の2点で異議を唱える。

◎戦国時代は応仁・文明の乱より13年早く、関東から始まった
◎応仁・文明の乱は「関東の大乱」が波及して起きたものである
(10ぺージ)

 「関東の大乱」とは、享徳3年(1454)12月に、鎌倉(古河)公方の足利成氏が関東管領の上杉憲忠を自邸に招いて誅殺した事件を発端とする内乱で、以後30年近くにわたり東国を混乱させる。この内乱は、ただ単に関東における古河公方と上杉方の対立ではなく、その本質は上杉氏を支える京の幕府=足利義政政権と古河公方との間の「東西戦争」である。

 興味深いのは、成氏が幕府方と交戦する28年間に、享徳→康正→長禄→寛正→文正→応仁→文明と6度も改元されたにもかかわらず、(おそらくは)中央政権への抵抗の意味で享徳年号を連続して利用したことである。(日本の年号で一番長く続いたのは昭和で64年まであり、以下②明治(45年)、③応永(35年)、④平成(29年)、⑤延暦、南朝・正平(25年)、⑦天文(24年)、⑧延喜(23年)、⑨寛永(21年)、⑩貞観、文明(19年)ということであるが、享徳が28年まで利用され続けたと考えると、5位に入ることになる。)

 実はこの「関東の大乱」を「享徳の乱」と呼ぶべきであると主張したのは、峰岸さんであり、最近では日本史の教科書にも「享徳の乱」についての記述が含まれるようになったが、まだまだ一般の理解は十分ではない。この書物は80代も半ばになった峰岸さんが、「最後の仕事」(210ページ)として世に問うものであり、長年の研究成果を踏まえて、戦乱の経緯とそれによって生じた領国経営領地支配のやり方の変化の様相を概観している。

 全体の構成は次のようなものである。
はじめに 教科書に載ってはいるけれど‥‥
第1章 管領誅殺
 1 「兄」の国、「弟」の国
 2 永享の乱と鎌倉府の再興
 3 享徳3年12月27日
第2章 利根川を境に
 1 幕府、成氏討滅を決定
 2 五十子陣と堀越公方
 3 将軍足利義政の戦い
第3章 応仁・文明の乱と関東
 1 内乱、畿内に飛び火する
 2 「戦国領主」の胎動
 3 諸国騒然
第4章 都鄙合体
 1 行き詰まる戦局
 2 長尾景春の反乱と太田道灌
 3 和議が成って…‥
むすびに 「戦国」の展開、地域の再編

 第1章では、足利政権のもとでの全国支配が、京都の兄の国と、鎌倉の弟の国(当初は足利尊氏と直義、その後は義詮と基氏)という二元構造に基づいていたが、京都の方が有利であることから、それを一元構造に再編しようとする動きと、二元構造を維持しようとする動き、さらに京都の将軍の地位を鎌倉公方が狙ったことなどから、対立関係が芽生え、さらに鎌倉府内でも公方と関東管領とのあいだでの対立があって、永享の乱、さらには成氏による上杉憲忠誅殺という事件が起きたという経緯がたどられている。

 第2章では、古河公方成氏と上杉方の対立の中で、どのような武士がそれぞれの味方として戦ったかが戦乱の推移とともに描かれている。両者の勢力範囲を区切るのは利根川(この時代は江戸湾に注いでいた)であり、その西側では上杉方、東側では公方方が勢力を築いていた。戦闘は公方方が優勢であったが、将軍義政と管領細川勝元が上杉方を支援して参戦し、形勢は上杉方に有利になった。なお、五十子は「いかつこ」と読む。

 第3章では、戦乱の結果として関東地方における各武将の家臣団の編成や所領支配の構造に変化が生じ、それがこの地方に利害関係を持つ京都の武将(例えば、群馬県高崎市山名を本拠地とする山名氏)たちに影響を及ぼしたことが、京都における応仁・文明の乱の展開とともに語られている。

 第4章では戦闘が長期化したうえに、上杉氏の家宰として管領方を支えてきた白井長尾氏の嫡子である景春が家宰の地位に就くことができなかったために反旗を翻し(管領方から公方方に寝返った)ためにますます泥沼化したこと、扇谷上杉氏の家宰であり、景春の親友でもあった太田道灌が景春に同調せずに、これと戦い戦功をあげたにもかかわらず、下剋上を恐れた主君扇谷上杉定正に誅殺されたことなどが記されている。
 文明14年(1482)にすでに軍事的な休戦状態になっていたことを背景として、古河公方と京都の政権との間での和議が成立し、これを「都鄙合体」あるいは「都鄙一和」という。室町幕府が関東に派遣した堀越公方は関東に対する(名目的)支配権を放棄し、伊豆だけを支配することになり、古河公方は伊豆をその支配領域から外すことになった。実質的には利根川をはさんで、上杉氏と古河公方が関東地方を二分するという勢力分布は変わらなかった。

 しかし、その伊豆から関東地方を再編に至らしめる大変化が起こりはじめる…というのはご存知であろう。堀越公方家の内紛に付け込んで、伊豆を支配下に置き、さらに相模に進出、武蔵にも影響力をもち始める伊勢新九郎(北条早雲)が登場するのである。

 ここでは書物の概要しか紹介できなかったが、関東地方からは国衆から次第に強大化して戦国大名になる勢力が出なかったのか(佐竹氏や里見氏はそれに近いのではないかという気がするのだが)という問題への考察が興味深い。最後に述べたように、関東地方で最も有力な戦国大名になるのは外来の北条氏であったのはなぜかということや、近隣の武田氏、上杉氏が関東ともった関係などについても注意して読む必要がある。

 個人的な興味からいうと、最後の方の長尾景春と太田道灌についてもっと詳しく書いてほしかったと思う。時々その近くを通っている小机城の攻防戦(太田道灌が景春方の士卒が立て籠もる小机城への包囲作戦を展開する)についてはまったく触れられておらず、その点はがっかりしたのである。その一方で、この書物のいわば主役である足利成氏の人物像の掘り起こしや、対立した足利義政についての「政治に無関心で文化面にのめりこんでいった「風流将軍」という、一般に流布したイメージとは大きく異なる」(103ページ)積極的な姿の掘り起こしなどは興味深い。この書物に触発されて、関東地方の歴史研究に専念する若い世代の登場が大いに期待されるところである。

ダンテ・アリギエリ『神曲 天国篇』(30-2)

11月1日(水)晴れ

 ベアトリーチェに導かれて、地上楽園から天上の世界へと旅立ったダンテは、月天、水星天、金星天、太陽天、火星天、木星天、土星天を歴訪し、至高天から彼を迎えにやってきた魂たちと会話して、人生や信仰についての疑問を解決し、彼がこの旅の中で見聞きしたことを、地上の人々に伝えることが彼の使命であることを自覚する。至高天から土星天に降りてきている「ヤコブの階段」を上って彼は恒星天に達し、信仰、希望、愛という3つの対神徳についての試問を受け、彼が自分の見聞を広めるのにふさわしい人物であることを証明する。彼はさらに非物質的な神の世界の入口である原動天に達し、森羅万象の運動がここに根源をもっていることを知り、天使たちの姿を見る。そして、ベアトリーチェは彼を最終目的地である至高天に導く。
 至高天は物理的宇宙とはまったく別個の、自然的法則から離れ、時間も空間も存在せず、ただ神から発する知性の光に満たされている位相なのだる。ダンテにはベアトリーチェ以外の一切が見えなくなった。ダンテは神の叡知と接触したことで、光に照らされ、その強い光のために一度視覚を失った後で、美しい春の庭のような至高天の様子を見る。

 ベアトリーチェはダンテが目に見ているものが、至高天の真の姿の投影にすぎないという。
・・・「川も、入っては出る
黄玉も、草花の微笑みも、
かれらの真実が投影されただけの序唱です。

これら自体が不完全であるせいではなく、
むしろあなたの方が至らぬからなのです。
あなたにはまだそれだけの優れた視力が備わっていないのですから」。
(453ページ) 「黄玉」というのはトパーズのことだそうである。天使や祝福された人々は存在自体が神への賛歌となっている。ここではまだその真の姿を現していないので、その露払いとしての「序唱」と表現されている。

 ダンテは川の流れのように見えていた神から発する真理の光を、水を飲むように目の中に入れた。すると、「目の前に/水平の広がりが円へと姿を変えて現れた。」(454ページ)
さらに続いて、まるで仮面を被っていた人々が、
隠れ蓑にしていた見せかけを
かなぐり捨てたならば前とは違う姿を現すように、

私の前で花々と火花は
ひときわ盛大なる祝祭に変じ、こうして私は
空の二つの宮廷が姿を現すのを目撃した。
(454-455ページ) 春の庭のように見えていたものが、人々の群れに姿を変えたのである。かれらは一つの光源の周囲を取り囲み、幾千段にもなって上の方に伸びながらその姿を現していた。この荘厳な様子を見て、ダンテはまた疑問を抱くが、黙っていると、ベアトリーチェがそれを察して、次のようにいう。
・・・「ご覧なさい、
純白の長衣を着た集まりがどれほど盛大か。

観なさい、我らの都市がどれほど広大な円を描くか。
観なさい、我らの祈りの座が満席に近づき、
もはやわずかな人々しかそこに望まれてはいないのを。
・・・」(458ページ) 至高天に迎えられた魂の数は膨大であるが、「満席に近づ」いている、つまり世界の終末はちかづいているという。そして、地上世界でのローマ帝国(神聖ローマ帝国)の使命の称揚と、教皇への厳しい糾弾がなされる。当時の皇帝が至高天に迎えられ、教皇たちが地獄に堕ちることが予言されて第30歌は終わる。

 昨日、10月31日は1517年にマルティン・ルターが有名な95か条の論題を提起してから500年の記念日であった。キリスト教会の分裂をもたらした事件であったが、カトリック、ルター派の両方の教会が合同でこの出来事を記念する行事を行ったのは慶賀すべきことであろう。ルターが問題にした聖職売買や、贖宥状の発行はダンテもこの『神曲』の中で烈しく批判しているのは既にこのブログで紹介してきたとおりであるが、ダンテが「神聖ローマ帝国」とか、「カトリック教会」という国際的な枠の中で物事を考えているのに対し、ルターはドイツあるいはドイツ語という民族・言語の枠の中で自分の主張を展開しようとしたというのが違いではないかと思う。
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