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2017年の2017を目指して(10)

10月31日(火)曇りのち晴れ

 10月は文京区で一泊したので、1都1県という行動範囲の大枠は変わらないが、3市7区とその内容が少し変化した。
 利用した鉄道6社、13路線は変わらないが、新たに表参道と本駒込の2駅を利用したので、乗降駅は19駅となった。
 バス会社6社、24路線は変わらないが、乗り降りしたバス停が1つ増えて27か所となった。これは乗り越しの怪我の功名である。
 〔103+4=107〕

 この記事を含めて32件のブログを書いた。1月からの通算は309件である。内訳は未分類2(18)、日記6(55)、読書12(103)、『太平記』5(43)、ダンテ『神曲』5(44)、詩1(17)、推理小説1(11)、その他0(18)ということである。( )内は1月からの通算。頂いたコメントは2件、拍手は467であった。1月からの通算ではコメントが43、拍手が5590、拍手コメントが3ということである。〔321+34=355〕

 12冊の本を買い、10冊を読んだ。1月からの通算では120冊の本を買って、95冊を読んだことになる。読んだ本を列挙すると:ロビン・スティーヴンス『英国少女探偵の事件簿 貴族屋敷の嘘つきなお茶会』、北尾トロ『いきどまり鉄道の旅』、司馬遼太郎『街道をゆく5 モンゴル紀行』、東谷暁『山本七平の思想 日本教と天皇制の70年』、渡辺淳子『東京近江寮食堂』、小泉武夫『漬け物大全』、フローベール『感情教育 下』、旦部勝博『珈琲の世界史』、エンゲルス『空想より科学へ 社会主義の発展』、峰岸純夫『享徳の乱 中世東国の「三十年戦争」』ということになる。
 著者別にみると、ジェーン・オースティンと司馬遼太郎が各5冊、椎名誠が4冊、吉田健一と望月麻衣が各3冊、プラトン、ロビン・スティーヴンス、フローベールが各2冊ということである。依然として軽読書が多く、低調であるが、『享徳の乱』はなかなか読みごたえがあった。いずれ、取り上げて論評するつもりである。〔87+10=97〕

 NHK『ラジオ英会話』を20回、『高校生からはじめる現代英語』を9回、『実践ビジネス英語』を12回聴いた。『入門ビジネス英語』は4~9月の再放送なので数に入れない。1月からの通算では、『ラジオ英会話』を199回、『入門ビジネス英語』を49回、『高校生からはじめる現代英語』を56回、『攻略!英語リスニング』を26回、『実践ビジネス英語』を121回聴いていることになる。
 同じく『まいにちフランス語』入門編を12回、応用編を8回、『まいにちイタリア語』入門編を12回、応用編を8回、『まいにちスペイン語』入門編を12回、応用編を8回聴いている。1月からの通算では『まいにちフランス語』入門編が86回、入門編が24回、初級編が15回、応用編が59回、『まいにちイタリア語』入門編が59回、入門編が73回、応用編が85回、『レベルアップ中国語』が97回、『まいにちスペイン語』入門編が12回、応用編が8回ということになる。
 10月から中国語をやめて、スペイン語の時間を聞き始めた。こちらのほうがなじみやすいという印象があるのは、勉強してきた期間が長いからであろう。11月はドイツ語の応用編も聴いてみるつもりである。ずいぶんいろいろな言語に手を出していると思うかもしれないが、初めて勉強するという言葉は1つもない。いつかどこかで勉強したことがある言語を勉強しなおしているというのが本当のところである。〔868+101=969〕

 シネマヴェーラ渋谷と神保町シアターで4本の映画を見た。1月からの通算では4か所の映画館で47本の映画を見ていることになる。10月に見た映画を列挙すると:『キートンの蒸気船』、『我輩はカモである』、『幌馬車が行く』、『錆びた鎖』ということである。月末に台風が到来して、映画を見た数が思うように伸びなかったのは残念であった。〔43+4=47〕

 展覧会にもコンサートにもいかず、数は動いていない。〔9〕

 ニッパツ三ツ沢と等々力で1試合ずつJ2の試合を観戦した。1月からの通算では5か所で33試合を観戦していることになる。961回のミニトトBと963回のミニトトBを当てた。これでミニトトを4回当てたことになる。
 横浜FCのJ1昇格はかなり難しくなってきたが、11月は全国高校サッカーの神奈川県大会の準決勝が予定されているので、そちらの熱戦のほうに期待を寄せている。〔38+4=42〕

 A4のノートを2冊、0.4ミリのボールペン芯(黒)を1本、0.5ミリのボールペン芯(黒)を4本使いきった。

 富士山を見たのが2日、アルコール類を飲まなかったのが4日である。11月はできるだけアルコール類を控えて、体を動かすことにしよう。

 これまでに積み上げてきた数字から推算して、どうやら2017年の2017は達成できそうなので、達成することよりも中身の方に重点を移そうと考えている。できるだけアルコール類を控えるというのもその一つである。 
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『太平記』(182)

10月30日(月)晴れ

 建武3年(南朝延元元年、1336)7月、宮方は京を囲み、新田義貞は足利方の本拠である東寺の門前まで攻め寄せ、尊氏に一騎打ちを挑んだが、尊氏は母方の従兄弟である上杉重能の諫めで思いとどまった。宮方の公家である二条師基と洞院実世の率いる軍勢が弱体であると見抜いた土岐頼遠がこの軍を追い散らしたことから、宮方の軍勢は総崩れとなり、新田義貞・脇屋義助兄弟は血路を開いて辛くも逃走、名和長年は戦死した。〔『太平記』には長年は大宮通で戦死したと記されているが、『梅松論』では三条猪熊とされているそうである。京都市上京区大宮通中立売上ル糸屋町に長年の殉難碑が建てられている。〕

 京都を包囲して四方から攻撃すれば、今度はきっと勝てるだろうと攻撃を頼もしげに期待していた宮方であったが、攻撃側の手違いがあって、寄せ手がまた敗北してしまったので、都の南の八幡に陣を取っていた四条隆資は、この陣地を捨てて坂本へと戻った。東山の阿弥陀峯に陣を取っていた阿波、淡路の武士たちも、細川定禅に打ち負かされて、坂本に帰った。都の西北の方面の入口である長坂を固めていた新田一族の額田為綱らの軍勢も打ち破られて、比叡山に戻っていった。こうして宮方の京都包囲は破られ、今日の足利勢は籠の中を出た鳥のように喜び、宮方は檻に籠る獣のように縮こまったのであった。

 比叡山では奈良の興福寺の大衆たちに、味方するようにと通牒を送り、興福寺の側も同意の返牒を送ってきていたので、その力を借りて反撃しようと待っていたのであるが、足利尊氏から興福寺に数か所の荘園を寄付して味方に引き入れようとされたので、目の前の欲にくらんで恥を忘れてしまい、比叡山に味方するというこれまでの議事を覆して、武家方と同盟する約束をしてしまった。こうなってみると、後醍醐天皇が頼りとされる様な味方としては、備後の桜山(備後の国一の宮の吉備津神社の社家)、備中の那須五郎(那須与一の弟、宗隆の子孫という)、備前の児島、今木、大富らの武士たちが、兵船をそろえて、近日中に参上いたしますと言ってきているのと、伊勢の愛曽(あそ、伊勢・紀伊に住んだ清和源氏武田一族)が、透谷の敵を退治して、豪州に向かうつもりですと連絡してきただけである。

 比叡山では衆徒たちがその財産を尽くして、宮方の士卒の兵糧を賄ってきたのではあったが、武士たちと彼らの従者たちを合わせて20万人という人々を6月の初めから10月の中旬まで養ってきたので、家財がほとんどなくなり、飢餓のために生命の危険に陥りそうになった。それだけでなく、北陸地方からの補給路を足利一族で越前守護の斯波高経が遮断して人を通さず、近江の国では、清和(甲斐)源氏で信濃守護の小笠原貞宗が、野路(滋賀県草津市野路町)、篠原(野洲市大篠原、同小篠原)に陣を取って、琵琶湖を往復する船を止めたので、宮方の軍はイナゴの害による飢えを味わうだけでなく、叡山へのすべての衆徒へのお供えの米を運ぶ道もふさがって、聖教講演の学問も絶え果て、付属する神社の祭礼も行われなかった。

 山門もこのままではいられない、豪州の敵を退治して、美濃、尾張との連絡の道を開こうというので、9月17日に東塔・西塔・横川の三塔の衆徒5千余人が、志那(草津市支那町)の浜から上がって、小笠原が陣を構えている野路、篠原へ押し寄せる。小笠原は、山門が大軍で押しかけてきたのを見て、さしたることもない平地の城に立て籠もって、敵に取り巻かれたらかなわないだろうと判断して、逆に自分の方から攻め寄せた。平地で攻めあって戦ううちに、これまでも宮方の衆徒として活躍してきた道場房猷覚がたちどころに退却し、入れ代わって成願坊源俊が戦ったが、彼の率いる僧たちも全滅した。

 山門はいよいよ怒り狂って、同じ9月の20日、三塔3千人の衆徒の中から500坊の勇猛な僧兵を選び出し、2万余人が、兵船を連ねて押し渡る。これを見た小笠原の軍勢では、山門が大軍を集めてまたもや押しかけてきたと聞いただけで怖気づき、大半のものが逃げてしまって、残った軍勢はわずかに300騎になった。これを聞いて、比叡山の大衆たちは、後続の軍が到着するのを待って陣営を整えることなく、我先に進んだ。一方、小笠原の方で残ったものは、大軍であっても踏みとどまろうという勇猛な武士たちだけなので、気後れするようなことはなく、かくては勇ましく戦って戦死しようと、犬上郡多賀(滋賀県犬上郡多賀町)というところに陣を取った。〔小笠原軍は、草津の辺りから、彦根近くまで北の方に後退していることになる。〕

 この後、比叡山の衆徒と小笠原勢の戦いの次第が記されているのだが、量的なバランスを考えて、今回はここで打ち切ることにした。もともと宮方は数において劣勢なので、都への補給を遮断して苦しめるという作戦は正しかったのだが、奪回を焦って総攻撃をかけたのは性急であった。しかも、その結果として包囲網を破られ、逆に比叡山への補給路が遮断されて苦境に陥り始めた。呉座勇一さんの『応仁の乱』が論じるように、長期の戦いになると食料や武器の補給が勝敗の鍵を握ることになる。宮方の不利はいよいよ深刻なものとなってきた。

トマス・モア『ユートピア』の周辺

10月29日(日)雨、一時激しく降る

 蔵書の整理をしていて、Marie Louse Berneri, Journey through Utopia (Freedom Press) を見付けた。日本では『ユートピアの思想史』としてその翻訳が発行されている。著者のマリー・ルイーズ・ベルネリ(1918-1949)はイタリアのアレッツォ生まれで、8歳の時にファシストの迫害を逃れて家族とともにパリに移り、ソルボンヌで児童心理学を勉強したが、1937年にさらにロンドンに移った。1949年に急死するまで、一方でファシズム、他方でソ連におけるスターリンの独裁を批判し、無政府主義者としての文筆活動を続けた。このJourney through Utopiaは、プラトンの『国家』からザミャーチンの『我ら』、オルダス・ハックスリーの『素晴らしい新世界(Brave New World)』や『浮浪者のユートピア(A Tramp's Utopia)』に至る各種のユートピア文献を概観し、その特徴と問題点をまとめたもので、この種の著作としては最も読み応えのあるものではないかと思う(他に、ルイス・マンフォードの『ユートピアの系譜』という書物があるが、ベルネリの方が分析が鋭い)。一般にはマンフォードの著作の方がよく読まれているのは、彼の方が長生きしたうえに、著述家としての名声が高く、さらにベルネリの思想的な立場が特異であることのためであろう。

 昨日の当ブログでエンゲルスの『空想より科学へ――社会主義の発展――』を読み直したと書いたが、ベルネリを読み直すにあたって、マルクス主義の側からのユートピア論を改めて検討してもいいかなと思ったからである。エンゲルスのこの本の原題はDie Entwicklung des Socialismus von der Utopie zue Wissenschaft (ユートピアから科学への社会主義の発展)であって、マルクス(とエンゲルス)による「科学的社会主義」以前の社会主義的な思想についての批判的な論評がその重要な一部をなしているという記憶があった。ところが、実際に読んでみると、エンゲルスが論じている「空想社会主義」はフランスのサン・シモン(Henri Saint-Simon, 1760-1825)、フーリエ(Charles Fourier, 1772-1837) ,それに英国のオーウェン(Robert Owen, 1771-1858)3人の思想の特徴と問題点を取り上げているだけで、ベルネリのようにユートピア文献一般を論じているわけではない。しかも、ベルネリの方はこの3人の著述をユートピア文献としては取り上げてはいないのである。つまり、両者まったくかみ合っていない。

 ところで、エンゲルスは『空想より科学へ』の中で、産業革命とフランス革命以前の社会主義的な思想についてはほとんど触れておらず、したがってトマス・モアについては触れていないのであるが、モアの『ユートピア』は読んでいたはずである。というのは、彼の僚友であったマルクスは『資本論』の第1巻23章、24章の中でモアの『ユートピア』の「羊は非常におとなしく、また非常に小食だということになっておりますが、今や〔聞くところによると〕大食で乱暴になり始め、人間さえも食らい、畑、住居、町を荒廃、破壊するほどです」(澤田昭夫訳、中公文庫版、74ページ)という箇所を援用しているそうである。〔第一次囲い込み運動について触れたモアのこの個所は、私が受験生時代、よく入試問題として出題されたという記憶がある。〕

 トマス・モアの『ユートピア』は作者であるモアが公務出張中のブルージュでラファエル・ヒュトロダエウスという旅行家に逢って、彼が訪問した国々の中で最も優れた政治が行われていると考えられるユートピアという島の様子を聞くという物語である。このヒュトロダエウスという語り手であるが、澤田さんの注によるとギリシア語の「ヒュトロス」(ばか話)と「ダイオス」(熟達の、焼く)から合成された言葉で、専制君主には恐ろしいばか話の大家、話で焼く人を意味し、エラスムスの「痴愚神」に相当するという。ペンギン・クラシックス版の翻訳者であるポール・ターナーはHythlodaeusは”dispenser of nonsense"という意味だとして、彼の名前をNonsensoと英訳している。だから、モアは語り手の名を借りて、これから展開する物語は作り話ですよ、と断っていることになる。

 この物語はヨーロッパ中の知識人の間で回覧され、様々な人々がこの物語にかかわる詩や書簡を付け加えた。その中で注目すべきものの1つが「ユートピア島についての六行詩」である。
われ孤島なればこそいにしえに無可有郷(ユートピア)とぞ呼ばれける。
されどわれいまプラトンのくにとともども競いあう。
いな、そをしのぐともいうべきや、そはいにしえの哲人が、
言の葉のみにて示せるを、あらわにせるはわれひとり、
人材、浄財、良法の形にあらわにせしものは、このわれひとりなればなり。
そればこそわれ楽園(エウトピア)の名もてよばるべかりけり。(澤田訳、中公文庫版、27ページ)
 つまり、ここでは「ユートピア」は「どこにも無い国」であるけれども「理想郷」でもあるというその2つの意味が要約されている(その存在について話している人が、ばか話の名人であるという留保が付いている)。どこにもないはずの国だけれども、その社会制度のすぐれた性質が、現実に影響を及ぼし始めている。現実にはないはずの国だけれども、現実に影響を及ぼしているとも説かれている。

 「ユートピア」にはこのような、どちらにでも取れる意味の二面性が付いて回る。このような性格は、プラトンは読んでいないから分からないが、モア以来のユートピア文献に付きまとっているものである。問題は、そういうユートピア文献が積み重ねて形成してきた意味とは違った意味合いでエンゲルスが「ユートピア」という言葉を使っていることである。これは誤解を招きやすい。エンゲルスは「現実的な力をもたない」という意味合いで、「ユートピア」という言葉を使っているのに対し、ユートピア文献が積み重ねてきたのは「現実的な影響力をもっているかもしれない虚構である」という意味合いである。エンゲルスは自分たちの社会主義が「科学的」なものであるというが、それもまた「現実的な影響力をもっているかもしれない虚構」であるかもしれない。

 「ユートピア」には二面性がついて回ると書いたが、以上述べてきた以外の二面性、あるいはあいまいさというものが各種のユートピア文献にはついて回っているのである。そのことについては、また機会を改めて書くつもりである。

日記抄(10月22日~28日)

10月28日(土)曇り、午後になって雨が降り出す

 10月22日から本日までの間に経験したこと、考えたこと、前回、書き落としたことなど:
 スペインのカタルニャ地方の分離独立問題が話題になっているが、スペイン(Spain)は英語(スペイン語でエスパーニャEspaña)、カタルーニャ(Cataluña)というのはスペイン語(カスティーリャ語)での呼び方だというのはどういうことであろうか。
 ローマ帝国ではラテン語が公用語であったが、帝国全体で一様に話されていたわけではなく、いろいろな差異があった。地理的な条件やラテン語以外の言語の影響を受けて、「俗ラテン語」には様々な方言が生じ、ダンテが『俗語論』で概観した3つのグループの『俗語』が出現した。英語のYesに相当する単語を目印にした、「Siの言語」(イタリア語、スペイン語など)、「Oyle(Ouiの原型)」の言語(フランス語」、「Ocの言語(ラングドック=南フランス語、カタルニャ語)」である。カタルニャ語は、スペイン語よりも、南フランスの諸言語に言語系統論的には近いといわれる。なお、この分類ではルーマニア語が落ちている。

10月18日~20日、25日~27日にかけて、NHKラジオ『実践ビジネス英語』では”Making Friends After 30" (30歳からの友達づくり)という話題を取り上げた。登場人物の1人が親友の訃報を聞いて悄然としているのを同僚たちが慰めることから、ストーリーが展開される。親友となる人と出会うのは、25歳以前、あるいは30歳以前のことが多いが、それでも、友情を維持するためにはお互いの努力が必要であること、30歳を過ぎても友人をつくることはできるが、not to limit your range of social contacts to people who are just like you. Try to be open, and share your thoughts, worries and dreams. (交際範囲を自分と同じような人たちに限定しないこと。心を開いて、自分の考えや悩み、そして夢を語り合うよう努力する)ことが大事だという。

10月21日
 NHKラジオ「朗読の時間」で夏目漱石の『坊っちゃん』をまたも読んでいることについては以前に書いたが、いよいようらなり君の送別会が開かれることになり、ここの部分の朗読は、登場人物が芸を披露するのをうまく語り分けて、なかなか面白かった。小林信彦さんが『坊っちゃん』の続編小説の試みである『うらなり』で、この送別会が野だ(いこ)の独壇場であるというようなことを書いていたと記憶する。考えてみるとこの作品では赤シャツに野だ(いこ)、山嵐に坊ちゃんというのが2人1組で対立する構図になっていて、篇中坊ちゃんの裏返しとしての役柄を与えられているのは野だ(いこ)なのである。だから、送別会で野だ(いこ)が大活躍するのは、出席するだけでほとんど働きらしいことをしない坊ちゃんとの対照を際立たせるためと考えてよかろう。

10月22日
 衆議院選挙の投票日。だれに投票するか、投票日になってもまだ考えがまとまらず。
 『スポーツニッポン』に選挙をめぐる女子高生の意見が紹介されていて、こんなに国の赤字が大きいのに、教育を無償にしてよいのかという意見が述べられていたが、じつにしっかりしていると思った。〔23日付の『日刊スポーツ』に「政治アイドル」だという内山奈月さんの「安倍さんと枝野さんはAKBなら前田さんと大島さんぐらい対照的」という意見が紹介されていた。若い世代は、若い世代なりの言語と思考法で、政治について考えているということを理解すべきであろう。〕

 『朝日』の朝刊に江戸時代に発掘されたという「漢委奴国」の金印の真贋をめぐる論争についての記事が出ていた。これが江戸時代の学者の偽作だという議論は戦前、旧制の第三高等学校や大阪高等学校で教え、戦後山梨大学に勤めていた藤田元春が唱えていて、その論文「漢倭奴国考」(『山梨大学学芸学部研究報告』第3号)は、私もコピーをとって読んだことがある。現在、偽作説の急先鋒になっているのは古事記学者の三浦佑之さんで、こちらの著書も読んでいる。なお、三浦さんは作家の三浦しをんさんの父君である。

 同じく、ポルドミンスキイ『言葉に命を ダーリの辞典ができるまで』(群像社)という、ロシア語の辞書を編纂した人物の伝記が紹介されていた。興味があるが、2000円以上の本にはなかなか手が出ない。

 ラピュタ阿佐ヶ谷の特集上映「松竹文芸映画」で松本清張原作の『眼の壁』を見に行こうと思ったのだが、台風による風雨のため断念した。

 夕方、選挙の投票をする。今回は、出来るだけ自分の票が生きるようにと、いろいろ迷いぬいての投票であった。若いころは、投票した候補が全部落ちたなどと笑って自慢していたこともあったのだが、最近はそんなことは言っていられなくなってきた。

10月23日
 NHKラジオ『まいにちスペイン語』の「スペインの街角」では巡礼地として知られるガリシア地方の首都サンティアゴ・デ・コンポステーラが取り上げられていた。サンティアゴ・デ・コンポステーラへの巡礼の道は(銀河とも呼ばれる)一度歩いてみたいと思っていたが、もはやかなわぬ夢のようだ(べつにキリスト教徒でなくても、巡礼は歓迎するそうである)。この町のフランコ通りの一方の端にはパリというバルがあり、もう一方の端にはダカールというバルがあって、パリからダカールまではしごするのが一つの楽しみになっているようである。こちらの方はまだ挑戦できるかもしれない。

10月24日
 『朝日』の朝刊にウクライナにおけるウクライナ語教育の徹底が、周辺国から反発を招いているという記事が出ていた。もともとロシア語を話す住民が多く、ロシアとの対抗でこの政策を展開したのだが、ロシア語以外の少数言語を話す住民の権利を圧迫するという結果ももたらしていることへの反発のようである。以前に書いたことがあるが、ゴーゴリはウクライナ人であったが、ロシア語で創作活動を行った。そのため、彼の文学史的な位置づけはかなり微妙になっているようである(というのも、ゴーゴリらしい)。

 NHK『ラジオ英会話』は”English Conversation Literacy"の一環として、映画に関係する語彙や表現を取り上げた。
What's playing at the Eigaza now? (今、栄華座では何をやっているの?)
Tokyo Story, a classic Ozu movie. (「東京物語」、小津映画の傑作だよ)

 『まいにちスペイン語』の「ラテンアメリカの街角」ではボリビアの首都ラパスが取り上げられた。「パス」(Paz)は「平和」という意味である。ラパスは海抜3500メートルほどのところにあり、さらにその近くノエル・アルト空港は海抜4000メートルのところにあるので、階段を上るのにも一苦労するそうである。

 フローベール『感情教育 下』(岩波文庫)を読み終える。

10月25日
 NHK『ラジオ英会話』の”A Song 4 U (=for you)"はジョニー・レイ(Johnnie Ray)が1956年に歌ってヒットさせた”Just Walkin' in the Rain”(雨に歩けば)を取り上げた。この歌は、子どもの頃、よく聞いた曲である。

 横浜FCは新監督としてブラジルからエジソン氏を迎え、28日の京都戦から指揮を執ることになるという。

 旦部勝博『コーヒーの世界史』(講談社現代新書)を読み終えたことについては10月26日付のブログで紹介したが、この著者は京大の薬学部出身だそうだ。大学の学部をアルファベット1字で表すとき、文学部はL、教育学部はP、法学部はJ、経済学部はE、理学部はS、工学部はT、農学部はA、医学部はMなのだが、薬学部はギリシア文字を使ってΦを使う。大学闘争が盛んな時に薬学部闘争委員会というのがあって、略称をΦ斗(ファイトウ)というのは勇ましいが、看板倒れだというのがもっぱらの評判であった。旦部さんはそんな時代よりもずっと後の卒業生のようである。

 フォーク歌手の遠藤賢司さんが亡くなられた。以前、りりィさんが亡くなられた時に書いたことがあるが、京都の円山音楽堂でりりィさん、遠藤さん、下田逸郎さんのジョイント・コンサートを聴いたことがある。その時の盛り上がりを思い出しながら、ご冥福を祈ることにしよう。

10月26日
 40年前に61歳で死んだ父の誕生日で、生きていれば102歳ということになる。生前、自分の親しかった友人はどうも若死にする傾向があるといっていたが、ご本人もそれほど長生きはしなかった。なぜか、私も親しかった友人が若死にする傾向があるのは困ったことである。

 NHKラジオ『まいにちスペイン語』応用編「三角帽子」の7回目:
 市長夫人によって公邸に招き入れられた一同、市長は妻に声をあげるが、市長夫人は水車小屋の主人であるルーカスの服装をした市長を、ルーカスと呼び、市長は既に帰宅していると答える。しばらくして、応接間に通じる扉が開いて、ルーカス親父がそこから出てきた。しかも足の先から頭のてっぺんまで市長様の服装で。

 同じく『まいにちイタリア語』応用編「原文で読む古典の楽しみ」はペトラルカのソネット310を取り上げた。1348年に恋人ラウラがペストで死んだ後に、その悲しみを、彼の周囲に満ちている春の喜びの中でかみ締めている詩である。
et cantar augelletti, et fiorir piagge,
e 'n belle donnne honeste atti soavi
sono un deserto, et fere aspre et selvagge.
(小鳥たちのさえずりも、野辺の花のほころびも
そして美しく気高い女性たちの優美なしぐさすら
荒野(あれの)であり、むごい野獣(けだもの)でしかない。
 ラウラの具体的なモデルとなった女性は、アヴィニョンの名家サド家(マルキ・ド・サドの先祖の家系)のド・ノーヴ(De Noves)の妻だったそうである。

10月27日
 『三角帽子』の8回目:
 ルーカスとフラスキータはそれぞれ相手を疑うが、真っ暗な野っ原で行き違ったときにいななきあった2頭のロバのことを思い出し、それぞれの身が潔白であることを知って仲直りする。
 一方、市長夫人は失態を演じた市長を許さず、今後は寝室をともにしないと宣言する。
 時は過ぎ、ナポレオン軍がスペインに侵攻、1808年に独立戦争が勃発する。外国人の支配に甘んじようとしなかった市長はマドリードで獄し、つまどにゃ・メルセデスは子どもの教育に専心したのち、修道院に入った。ルーカスとフラスキータは愛し合って高齢まで生き、(19世紀も後半になると、三角帽子ではなくてシルク・ハットをかぶるようになったのだが)三角帽子に象徴されるかこの時代を懐かしく思い返しつつ天国へ旅立っていった。

 『まいにちイタリア語』応用編「原文で読む古典の楽しみ」はペトラルカの教皇庁の腐敗堕落を風刺したソネット137を取り上げた。こういうところは、ダンテとペトラルカは共通しているが、ダンテがフィレンツェへの想いを捨てなかったのに対し、ペトラルカは汎イタリア性とローマへの想いをもっていたという。(もっとも、イタリアへの想いはダンテから始まるという意見もあるし、私もそちらの方に賛成である。)

10月28日
 エンゲルス『空想より科学へ――社会主義の発展』(岩波文庫)を読み終える。若いころに国民文庫の寺沢恒信・山本二三丸役で読んだことがあるが、あまり記憶に残っていない。岩波文庫版は大内兵衛の翻訳で格調が高く、わかりやすい。いろいろ気がついたことがあるが、それはまたおいおい書いていくことにしよう。 

木田元『哲学散歩』(5)

10月27日(金)晴れ、気温上昇

 9月10日 第1回 エジプトを旅するプラトン
 9月17日 第2回 エンペドクレスのサンダル
 9月25日、10月4日、10月12日 第3回 ソクラテスの皮肉
 10月19日 第4回 忘恩の徒? アリストテレス

 今回は第5回「書物の運命 これもまた?」を取り上げる。前回(第4回)に引き続き、アリストテレスが主人公で、彼の著作がたどった運命について記されている。

 アリストテレスは他の哲学者同様に、生前数多くの著作を発表した(当時のことだから、誰かの手によって書き写されることで流布したのである)。紀元3世紀前半ごろのディオゲネス・ラエルティオスの『ギリシア哲学者列伝』には、アリストテレスのものとされる143(一説には146)篇の彼の著作の書名が記されているが、そこに含まれているのは、彼がまだアカデメイアでプラトンの指導下にあったころに、師に倣って書いた対話形式のものや、書簡体のもの、それに自分の学園リュケイオンを開いてからの研究記録の類だったらしい。らしいというのはその大部分が今日すでに失われているからであるが、紀元3世紀になってからでさえ、一般に読まれていたのがこれらの旧来の著作だったことだけは、ラエルティオスの書物からわかるのである。

 一方、こんにち『アリストテレス全集』を構成している彼の著作は、ラエルティオスによって記されたものとはほとんど重なっていない。ラエルティオスが書き留めたのが、いわゆる「一般公開用(エクソテリカ)」とみられる著作だったのに対して、今日残っているのは「専門聴講者用の講義ノートやその草稿(エソテリカあるいはアクロマティカ)」と言われるものであったようである。要するに、アリストテレスの著作として今日読まれているものは、彼の講義ノートの類なのであるが、それが広く一般に読まれるようになったのには長い時間がかかった。

 アリストテレスは彼の晩年に保護者であったアレクサンドロス大王の死後、アテナイで起きた反マケドニア運動による迫害を逃れて、母の郷里であるエウボイア島に逃れた。このとき彼は自分の学園リュケイオンの資産と手元にあった草稿を、親友で彼の後継者となったテオフラストス(前372-286)にゆだねた。テオフラストスもその死に際して、アリストテレスの草稿を自分の草稿とともに、友人のネレウスに託したが、ネレウスはそれらの草稿を自分の故郷である小アジアの町スケプシスに持ち帰った。ところがネレウスの死後、彼の遺族がそれらの草稿を地下の穴倉に隠したまま忘れてしまい、150年が過ぎた。紀元前1世紀ごろに、その穴倉からかなり傷んだ状態で、これらの草稿が偶然発見され、小アジアのテオスの出身で、愛書家でもあった実業家のアぺリコンが買い求めて、ふたたびアテナイに持ち帰った。

 ところが、紀元前86年にアテナイはローマとの戦いに敗れ、ローマの将軍スラ(前138-78)の軍隊に劫略される。政治家でもありすぐれた文人でもあったこの将軍は、紀元前84年にアぺリコンの蔵書やその草稿類をローマに運んだ。その中のアリストテレスの草稿は、当時ローマを訪れていた(アリストテレスの学統を継ぐ)ペリパトス学派の大蔵書家てゅらに恩によってまず整理され、さらにそれがリュケイオンの最後の学頭となったろどす党出身のアンドロニコス(前1世紀)によって編纂されて、紀元前40-30年ごろには、現在伝えられているものに近い著作集としてローマで公刊されたと推定されている。

 当然、しばらくの間はそれまで読まれていた著作と、この新しい著作集とがともに読まれていたのであろうが、次第に「専門聴講者用」の著作に関心が集まって、こちらばかりが読まれ、以前の著作はほとんど散逸してしまったということのようである。「プラトンのように芸術的才能に恵まれていたわけではないアリストテレスが、先生の真似をして書いた対話形式の作品より、推論を積み重ねてゆく理論的著作、例えば『形而上学』などの方が彼の本領であったに違いない。」(44ページ)

 これがアリストテレスの著作の新旧交替をめぐる通説であったのだが、近頃異論が出てきたと木田さんは付け加えている。まず、リュケイオンの後継者たちがアリストテレスの講義ノートをまったく知らなかったとは考えられないということ。さらに、ラエルティオスの『哲学者列伝』の伝える著作目録の中には、現行の著作の別名や部分だと推定されるものもないではないという。だから埋もれた草稿発見という劇的な物語は疑わしく、アンドロニコスによる新著作集編纂とともにすべてが一変したというわけではなさそうである。「だが、なるほど全面的入れ替えという話しは成り立たないかもしれないが、対話篇を含む初期の著作の大半が失われていることは確かだし、この時点で新しい資料がふんだんに発見されたことも認めてよいのではなかろうかl。」(46ページ)

 ただ、紀元3世紀ごろまで読まれていたアリストテレスの一般向けの著作が消えてもしかたのないような凡庸なものであったという木田さんの推測も当たっていなかったらしい。ディオゲネス・ラエルティオスの残したアリストテレスの著作目録のうち、今日その内容をある程度知りうるのは『エウデモス――霊魂について――』と『哲学について』という2篇の対話篇、それに『プロトレプティコス(哲学のすすめ)』の3篇らしい。この『プロトレプティコス』の影響を受けたことをローマの文人であるキケロ(前106-43)と、古代末期のアウグスティヌス(354-430)が認めているという。そのキケロがアリストテレスの文体に触れた『アカデミカ』の断章が残っていて、このローマ一流の雄弁家がアリストテレスの「黄金の輝きをもった雄弁の流れ」(47ページ)について語っているという。つまり、いわゆる交換所においても、アリストテレスはけっして凡庸だったわけではないということらしい。

 とはいえ、この頃のアリストテレスはあくまでプラトン学徒として評価されていて、彼が独自の学問体系をもった哲学者としての評価を得るにはもう1,000年ほどの時間が必要であったと木田さんは結んでいる。

 昨日(10月26日)のNHKラジオ『まいにちイタリア語』応用編でペトラルカについて取り上げた際の「こぼれ話」として、講師の白崎容子さんは「対話」による論の展開は、人文主義が重視した方法のひとつであると述べていたが、そこには(かなり外面的なものであったかもしれないが)プラトンの影響を認めてよいのではないか。プラトンはその対話篇が残り、アリストテレスは講義ノートが残ったというのは、哲学、それに教育というものの本質を考えていくうえで重要な問いかけを投げかけているのではないかと思う。

 

旦部幸博『珈琲の世界史』

10月26日(木)晴れ

 10月25日、旦部幸博『珈琲(コーヒー)の世界史』(講談社現代新書)を読み終える。

 著者は既に同じ講談社のブルーバックスで『コーヒーの科学』という書物を書いて好評を博したのであるが、この<科学書>の中の「コーヒーの歴史」について触れた個所が意外なほどの反響を得たという。実は、コーヒーの歴史には草稿段階でもっと多くの紙幅を費やしていたのだが、理科系の書物にはふさわしくないという理由で割愛せざるをえなかったという事情があり、改めてこの書物に取り組んだのだそうである。
 多彩な情報を盛り込んでいるため、序章と終章を含めて12章という構成になっているが、それぞれの章はそれほど長くない。ここでは序章から第2章までを紹介して、残りはまたのお楽しみということにしよう。

序章 コーヒーの基礎知識
 コーヒーはコーヒーノキというアカネ科の植物の種(コーヒー豆)から作られる飲み物で、現在、その総消費量は単純計算で1日当たり、約25億杯。水、お茶(1日約68億杯)に次ぐ世界第3位の飲み物である。ただし1杯あたりに使う分量が、茶葉は約2gであるのに対し、コーヒーは約10gであるから、原料の総消費量では茶を上まわっているそうである。世界で一番多くコーヒーを飲むのがフィンランドの人々で、1人当たりの平均で1日3.3杯、日本は1.0杯だそうである〔私は1日だいたい2杯飲んでいるから、普通の日本人の2倍ということになるが、飲む人は何杯も飲むし、飲まない人はまったく飲まないだろうから、平均値はあまり意味をなさないのではないか?〕

 コーヒーという呼び方は、アラビア語の「カフワ(qahwah)」に由来し、それがトルコ語の「カフヴェ(kahve)」になり、そこから英語のcoffee,フランス語のcafé、ドイツ語のKaffeeなどの言葉が生まれたと考えられている。日本には、オランダ人がはじめて持ち込んだので、オランダ語のkoffieから「コーヒー」という呼び方がされるようになった。「珈琲」という漢字は江戸時代の蘭学者、宇田川榕庵が最初に用いたといわれ、その際に中国語表記の「咖啡」を参考にしたものと思われるという。

 コーヒーノキはアフリカ大陸原産の常緑樹で熱帯産ではあるが、もともと標高が高い山地の中で、背の高い木々の影に生える植物であり、熱帯から亜熱帯の高地で栽培されている。世界のコーヒー豆の総生産量は、現在年間約900万トンであり、熱帯地方さんの一次産品の中では石油に次いで第2位の、重要な取引商品だといわれる。最大生産国はブラジルである。コーヒーノキには現在125の植物種が知られているが、主に栽培されているのは、アラビカ種とロブスタ種で、これにリベリカ種を加えた3種類を「コーヒーの3原種」と呼んでいる。

 アラビカ種は世界の生産量の6~7割を占め、品質面で優れているが、病虫害に弱い。ロブスタ種は残りの3~4割を占め、品質面では劣るが病虫害に強く、カフェイン含量が多いため、インスタントコーヒーなどの加工原料にも利用されている。リベリカ種は品質面ではアラビカ種に、耐病性ではロブスタ種に劣り、ごく一部で栽培されているだけであるという。
 コーヒーノキは場所によって異なるが、年に1回~数回、通常は雨期の初めに花を咲かせ、その後6~9か月かけてコーヒーチェリーと呼ばれる赤い(品種によっては黄色の)サクランボ大の果実をつける。果実の中には通常、半球形の大きな種が2つ、向かい合わせの状態で入っており、これがコーヒー豆として利用される。
 農園で収穫された果実は、集積場に集められ、コーヒー豆が取り出される。この作業を「精製」と呼び、産地や生産者によって、さまざまな方法があるという。精製された生豆は、、保管や輸送中に有害なカビが生えるのを防ぐために、乾燥させてから消費国に輸出され、次の加工処理である「焙煎」が行われる。焙煎とは、生豆を乾煎りすることであり、焙煎された豆は、コーヒーミルで小さく砕いたのち、その中の成分をお湯(または水)に溶かし出す、この工程を「抽出」という。コーヒー抽出には様々なやり方があり、それぞれに違う味わいをもたらす。

1章 コーヒー前史
 現在飲まれている嗜好飲料の中で、お茶には5千年、カカオには4千年の歴史があるといわれる。一方、コーヒーが飲まれるようになったのは15世紀ごろで、その歴史は新しいものに思われるが、実はコーヒーの方がお茶やカカオよりもはるか昔に人類と巡り会っていた可能性が高い。

 コーヒーと人類との出会いをめぐっては、オリエントのどこかでヤギ飼いのカルディという少年が、ヤギが赤い木の実を食べているのを見て自分も食べてみたことから広まったという説話と、イエメンにあるモカの街を追放されたシェーク・オマールというイスラームの修行者が空腹に苦しんでいた時に、赤い木の実を見付けて食べてみたところ、疲労が回復したという説話とがある。
 この2つの「発見説」には3つの共通する要素があると著者は指摘する。
 ①おそらくアラブ系の主人公が山の中に人知らず生えていたコーヒーを発見した
 ②最初から飲み物だったのではなく、果実を食べたのがはじまり
 ③神経興奮や疲労回復などの薬効が発見につながった

 とはいうものの、人類とコーヒーノキはともにアフリカ起源であるというもっと大きな背景に目を向ける必要があると著者は考えている。したがって人類が誕生した時から、コーヒーノキは身近な植物であったが、アフリカでは大きな文明が発展しなかったために古い記録がないだけのことではないかというのである。
 ただし、コーヒーは主食ではないし、栽培が難しいので、人類とともにアフリカから他の地に広がっていくことはなかった。とはいえ、コーヒーの原産地であるエチオピアでは、さまざまな民族がコーヒーと関わる多様な文化を発展させている。茶道と似たところのあるコーヒー・セレモニーは比較的新しい物のようであるが、エチオピア西南部では、葉や豆を飲み物にするだけでなく、薬にしたり、新鮮な果実をそのまま野菜代わりにしたり、干した果肉をバターで炒めて食べたり、きわめて多様に利用しているだけでなく、人生の節目となる儀式においてもコーヒーが重要な役割を演じているという。

2章 コーヒーはじまりの物語
 人類の祖先がアフリカから旅だった後、コーヒーはエチオピアの山中に取り残された。エチオピアの北部にはアクスムという王国があり、紅海の玄関口を支配していたために交易で栄えた。この国は4世紀ごろからキリスト教を信奉するようになったが、イスラーム教徒と当初は友好的な関係を保っていた。しかし、次第にその圧迫に会い、エチオピア西南部へと移動していった。一方イスラーム教徒もエチオピア西南部に進出したが、彼らは交易が目的で、多くのエチオピア人をイエメンに奴隷として連れ去った。かれらを通じて、10世紀から11世紀ごろにアラビア半島にコーヒーが伝わっていたことを示す証拠が幾つか見いだされるという。

 しかし、その後400年余りもコーヒーについての記録は途絶え、次に出現するのは15世紀のイエメンにおいてである。14世紀から15世紀にかけて、エチオピア西南部から紅海沿岸部を経て、イエメンへと至る比較的大きな人々の移動が起きた。エチオピアとイエメンで栽培されているコーヒーの品種の分布からも、エチオピアからイエメンへコーヒーノキが持ち込まれたことが推測できるという。もともとは「カフワ」というのはコーヒー以外のさまざまな飲み物についての呼び名であったが、15世紀にイエメンのアデンでコーヒーから作る「カフワ」が発明され、やがて「カフワ」と言えばコーヒーから作られるものとなった。カフワに普及に大きくかかわったのが「スーフィー」と呼ばれるイスラーム神秘主義者たちである。しかし、カフワがイスラーム法に照らして合法かどうかをめぐっては学者たちの間で意見が分かれていた。
 この頃の「コーヒーのカフワ」には2種類あり、どちらも現在のコーヒーとは違うものであった。一方はキシル(殻)のカフワで、殻の部分だけを煮出すものであり、他方はブン(コーヒーの果実)のカフワで、コーヒー豆の入ったままの果実を丸ごと炙ってから煮出すものである。この後者が世界中に広がっていくうちに、果実の豆の部分だけを使う現在のコーヒーになったと考えられる。イエメンでは、今でも「キシルのカフワ」と「ブンのカフワ」の両方が残っているが、現在では「ブン」は豆だけで作るアラビア式のコーヒーに変わっているそうである。「キシルはカルダモンなどのスパイスや砂糖と一緒に煮出して飲むのが一般的で、ブンに比べて値段も安く、イエメン人にはこっちが人気のようです。」(69ページ)

 以上の記述に続いて、「現在はイエメンの政情悪化でと国は困難ですが、現地とつながりがある日本の商社などを介して、モカにこだわりを持つ一部の自家焙煎店に、ときどき少量だけ入荷することがあります。」(同上)と記され、さらに著者のコーヒーへの愛着の深さが示されるが、それは自分で読んでください。

 著者はもともと『コーヒーの科学』を書いた人であるから、コーヒーノキという植物や、コーヒーの製造の過程など詳しく、コーヒーノキと人類の結びつきなども説得力のある説明を展開している。著者が自認しているようにある地方・地域に固定した視点というのではなく、人々や物産の移動・交易という広い視野で記述を展開させている点も興味深い。これからイスラーム世界へのコーヒーの普及、さらにヨーロッパ世界への伝播、さらにコーヒーを知ったことによるヨーロッパ世界の変貌がこれからの話題である。 

ダンテ・アリギエリ『神曲 天国篇』(30-1)

10月25日(水)雨が降ったりやんだり

 ベアトリーチェに導かれてダンテは地上楽園から天上の世界へと飛び立ち、月天、水星天、金星天、太陽天、火星天、木星天、土星天を歴訪し、これらを越えた世界である至高天から彼を迎えにやってきたた天上の魂たちと会話を交わし、彼が遍歴の中で見聞きしたことを地上の人々に伝える(この『神曲』という叙事詩を書くこと)が彼に課せられた使命であることを知る。至高天から土星天に降りている「ヤコブの階段」を上って恒星天に達した彼は、信仰、希望、愛という3つの対神徳についての試問に合格し、人間の眼に届かない世界である原動天に進む。そこは天使たちの世界であり、天体全体の運行の起点になっている。

おそらくは六千里の遠く彼方で
第6時の太陽が我ら人類を燃やし、この地球は
影をほとんど水平近くにまで傾けている、

その時に空の中心は、私たちの真上に高くあって
明るくなりはじめ、星が幾つか
この宇宙の底にあっても見えなくなる。

その少し後になって一段と明るい太陽の
侍女が来ると、空は見えていた光を次々と、
最も美しいものまで閉じ込めていく。
(446ページ) 夜明けの空の様子が宇宙論を交えて描き出されているが、これはダンテの心中の譬えである。原基晶さんの翻訳の傍注には、ダンテの宇宙論の一端が紹介されているが、ダンテは地球の半周を12,000里としたとある。1里の長さが記されていないので、何とも言えないのだが、当時の一般の人々にとって、ダンテが『神曲』で展開している数字は、十分に納得できるほど大きなものであったと思われる。しかし、現代の天文学が扱っている宇宙の規模に較べれば、はるかに小さい。「太陽の侍女」は曙のことである。
 太陽の朝の光がそれまで見えていた星を消してしまうように、神の叡知に近づいたダンテの眼から天使たちの輪が消えていく。
そのために何も見えなくなると愛ゆえに
私はベアトリーチェをふりかえり目で見ようとした。
(447ページ) ベアトリーチェはあらゆる賞賛を越えて美しく見えた。

この人生で私が彼女の目を見た
その最初の日からこの一瞥まで、
彼女を詩に歌おうとして妨げられたことはなかった。

だが、今や私は、詩に歌いながら彼女の美しさを
追うのは諦めなければならなくなった。
あらゆる芸術家が力の限界でそうするように。
(448-449ページ)

 ベアトリーチェはダンテを導くという任務から解放されたという話し方と身ぶりで、2人が原動天から至高天に移ったと告げる。
・・・「私たちは最も大きな星体から
外に抜け出して純粋な光でできた空に入ったのです。

それは叡智の光であり、愛に満ちています、
それは真実の善の愛であり、喜びに満ちています、
その歓びはあらゆる甘美を超越しています。

ここにあなたは天国に備わる
二手の軍をともに見るでしょう。そして一つは
あなたが最後の審判の時に見る姿をしています」。
(449-450ページ) 「最も大きな星体」は原動天のこと、「純粋な光でできた空」は至高天のことである。通常の物理的な光ではなく、叡智である神の恵みそのものが光なので、「純粋な光」と表現されている。「二手の軍」の一方は、天使たちの群れ、もう一方は祝福された魂たちの群れである。

 このとき、ダンテは再び視力を失う。
あたかも、突然の光が視覚の能力を霧散させたために
外の対象を映像にすることが極めて困難になり、
目からその力が奪われてしまうように、

生命の光が私を囲んで燦然と輝き、
そして私をその大いなる輝く覆いによって
包むと、私には何もかもが見えなくなった。
(450ページ)

 至高天にはいる魂を照らす神の光は、ろうそくは一度火をつけてからそれを消して、改めて点火するとよく灯るといわれるように、この点に入るものの目をいったん見えなくしてから新しい視力を与えるのだという声がする。
そして私の中に新たな視力が灯ったが、
その強さは、どのような烈しい光であれ、
我が目に耐えられないものはないほどだった。
(451ページ)

 すると、ダンテの目の前には美しい光景が広がる。
すると私には、川の姿をした光が
赤みがかった黄金に輝き、驚くべき春の情景に
彩られた両岸に挟まれているのが見えた。

この川から生命の火花が飛び散り、
そして両岸で花々の中に飛び込むと、
さながら黄金に囲まれた紅玉のようだった。

その後で、まるで香りに酔わされてしまったかのように、
驚嘆すべき渦の流れの中に再び沈み込んでいく。
しかも、あるものが中に入っていっては別のものが外へと飛び出していく。
(452ページ) 「生命の火花」は天使たちのこと、「花々」は祝福された人々のことをさす。ダンテの目に至高天は彼が『煉獄篇』の終わりの方で訪れた地上楽園と同じような春の庭のように見えた。しかし地上楽園と天国は違うもののはずである。

 いよいよダンテは至高天に足を踏み入れた。彼の旅の最終目的、そしてこの叙事詩の終わりが近づいてきている。

フローベール『感情教育』(2)

10月24日(火)曇り

これまでのあらすじ
 第1部1
 1840年9月、間もなくパリで法律を学ぶことになっている青年フレデリック・モローはル・アーヴルに住む伯父を訪ねた後、郷里のオーブ県でセーヌ川を遡上する汽船に乗り込んだ。船の中で、彼はモンマルトル通りに店を出しているという画商で共和主義者のアルヌーという男と知り合いになり、その美しい夫人に魅力を感じるが、下船した際に彼らと別れ別れになる。
 貴族の家柄につながる地主であるモロー家は、フレデリックの父親が死んだ後、没落しかかっている。母親は一人息子の将来の出世に夢を託している。フレデリックが母親と話していると、高校時代の親友であったデローリエから会いたいとの伝言が届き、夜も更けていると母親が渋い顔をしているにもかかわらず、会いに出かけようとする。


 シャルル・デローリエはフレデリックよりも年少で、退職した歩兵大尉を父親に持ち、頑固で怒りっぽい父親の許で育ち、母親の死後、半給費生としてフレデリックと同じ高校に入学したのであった。性格も育ち方も違う2人であったが、よく勉強するデローリエはフレデリックと同じ4年級に編入された。〔今から180年近く昔の話なので制度が同じであるかどうかはわからないが、フランスの学校では学年を上から数えるので、4年級class de quatrièmeというのは、中等教育の3年生である。つまり、1年生から2年生を飛び越して3年生に編入されたということである。] 貧乏で喧嘩好きなデローリエは級友たちから無視されていたが、ある時、小使の1人が彼のことを乞食の子といったというので、大喧嘩をしたことで、それに感心したフレデリックとすっかり仲良くなった。

 休暇中も父親の許に帰らず学校に残っていたデローリエは学校の図書室で見つかる限りの哲学書に読みふけっていたが、フレデリックは美術や演劇に興味を寄せ、歴史小説を書こうと思ったりしていた。2人は学校で時間を見付けては、今していること、将来の夢などを熱心に語り合った。「生徒監は2人が互いに興奮させあいすぎる、と注意した。しかし、フレデリックが上級で勉強したのは、この友人に励まされたためである。」(26ページ) 
 1837年の休暇にフレデリックはデローリエを母親のところに連れて行ったが、母親はデローリエの共和主義的なところをはじめ、性格や生い立ちが気に入らなかった。周囲から監視されたことで、友情はかえって濃くなった。1838年にでローリエはパリで法律を勉強するために学校を出た。

 デローリエは法科大学の教授職を得るつもりであったが、父親が学資を出してくれないので、地元の主要都市であるトロワのある公証人のもとで主任書記として働きながら、学資をためていた。パリで一緒に暮らすという夢は、当分延期する必要があるという。それを聴いてフレデリックはがっかりするが、デローリエはそんな彼を慰め、彼が戻ってきたばかりの旅行について聞いた。フレデリックにとって、アルヌー夫人と出会ったこと意外に印象に残る出来事はなかったのだが、そんなことは話さず、夫のアルヌーのことばかり話した。デローリエはアルヌーとよくつきあうようにと勧める。

 フレデリックの芸術的な趣味は変わり、情熱を高く評価するようになった。ロマン的な文学作品を読む一方で、音楽に関心をもち、絵を描こうと思ったり、詩を書いたりしていた。デローリエの方は哲学への興味を失い、社会経済とフランス革命に関心を寄せていた。

 夜が更けて、モロー家の従僕のイジドールが迎えに来たが、2人はまだ町の外れの橋の周辺を歩き回る。すると隣人で、この地方の有力者である銀行家のダンブルーズ氏の管理人であるロック老人がやってきてあいさつしたものの、フレデリックが不愛想なのに気を悪くしていってしまう。しかし、デローリエはダンブルーズの名を聞いて、ぜひ、彼に近づいて取り入るべきだとそそのかす。「『人間喜劇』のラスティニャックを思い出してみたまえ。」(31ページ) 〔ここでバルザックの連作『人間喜劇』、特に『ゴリオ爺さん』で活躍するラスティニャックが引き合いに出されているのは、フローベールのバルザックに対する敬意の表明であろうか。〕

 またイジドールが呼び戻しにやってきたので、フレデリックは帰宅することになる。デローリエは「最後の忠告だが、試験はちゃんと通りたまえ。とにかく、肩書は役に立つんだ。」(同上)と、現実的に生きることを勧め、芸術への興味を断念するように言う。そして間もなくパリで再会できるだろうという。最後に、二人だけが知っている過去の失敗をめぐる話をして、去っていく。

 1で主人公であるフレデリックの、女主人公アルヌー夫人との出会いが語られた後、2では彼の高校時代からの友人で、副主人公ともいうべきデローリエとの再会、2人の友情が結ばれた経緯が語られる。夢想家で芸術家気質であるが、やや怠惰なところがあるフレデリックと現実的で勤勉な努力家のデローリエとは、これからの物語の展開の中で助け合ったり、反目したりする。キリギリス(セミ)とアリのような2人であるが、一方が成功してもう一方が失敗するというような単純な展開にならないところがいかにも写実主義の作家フローベールらしい。それは読んでのお楽しみ。

 フレデリックの郷里はオーブ県のノジャン≂スュル=セーヌという小都市に設定されている。訳注に「パリよりは南西100キロ、セーヌ河の上流に沿う」とあるが、地図を見たところでは「南東」の方角にあたる。それよりも日本では1853(嘉永6)年にペリーが蒸気船に乗ってやってきて大騒ぎになったというのに、フランスではその10年以上前にセーヌ河を蒸気船が航行していたということが印象に残っている。
 

『太平記』(181)

10月23日(月)台風一過、晴天が広がる。久しぶりに富士山が見えた。

 建武3年(南朝延元元年、1336)7月13日、延暦寺に籠っていた宮方の軍は京を囲み、新田義貞は足利方の拠点となっていた東寺の門前まで攻め寄せ、尊氏に一騎打ちを挑んだが、尊氏は上杉重能の諫めで思いとどまった。

 義貞は足利方の大軍を退却させて、東寺の門前まで迫ったが、この頃、300余騎の軍勢を率いて上賀茂に待機していた土岐頼遠(尊氏に近侍している土岐頼貞の子、東寺に攻め寄せた四条隆資の軍を追い払った悪源太頼直の弟)は、五条大宮に翻っている宮方の軍の旗を見て、あの軍を指揮しているのは公家の人々であると見て取り、その軍の後ろから鬨の声をあげて、叫び声を上げながら攻め寄せた。後ろから不意を突かれた五条大宮の軍は、慌てふためいて五条通を東へと敗走し、五条河原に追い立てられたが、ここにも足を踏み留めることができず、比叡山の西坂をさして逃げていった。
 学生時代にほんの数か月だが、上賀茂に下宿していたことがあり、五条まではいかないが四条大宮の近くの家で家庭教師をしていたこともあるので、双方の距離についての大体の見当はつく。上賀茂と五条大宮はかなり遠いが、この時代、あまり高層建築はないし、上賀茂の方が標高が高いので、五条大宮の方が見下ろせたのであろう。敵の弱いところをついて、陣営を崩していくというのはよくある戦術であるが、兵力だけでなく、指揮官も不足している宮方は、どうしても経験がほとんどない公家の指揮官を起用せざるをえず、そのことが敗因になるということを繰り返している。

 土岐頼遠は、五条大宮の合戦に勝利をおさめ、勝鬨を上げたので、あちこちに散らばっていた足利方の軍勢は、集まって数千騎となり、大宮通を下って義貞の軍勢を後ろから攻撃する。上賀茂まではいかず、旧大内裏の神祇官の跡地に控えていた足利一族の仁木、細川、吉良、石塔の2万余騎の軍勢は朱雀大路を横切って、東寺の西北篇の西は地上に押し寄せる。東からは少弐、大友、厚東、大内をはじめとする四国、中国の武士たちが3万余騎、七条河原を下って、八条大路の南側の針小路(東寺の北)から東寺の西にあった西寺の跡地まで展開させ、敵を一人も漏らさず打ち取ろうと包囲したので、新田勢は3方を敵に取り囲まれて、空を飛ぶか、モグラのように地面に潜るかでもしない限り、逃れられない状態に陥った。

 囲まれていないもう一方というのは正面の東寺であるが、そこは城郭を堅く守り、寺の中に籠っている兵が散々に矢を射かけてくる。義貞は、こうなったら今日を限りの運命であると思い定めて、2万余騎をただ一つにまとめて、八条、九条に控えていた敵20万余騎の真ん中に突入して、群がる敵を蹴散らし、血路を開いて三条河原に脱出する。それまで行動をともにしていた千葉、宇都宮は、この間に散り散りになってしまう。名和長年の軍勢とは、敵に間を隔てられてしまったようである。(湊川で楠正成が新田の軍勢と離れ離れになってしまったことを思い出させる。)
 新田方の仁科、高梨、春日部、丹、児玉、3千余騎の坂東の武士たちは一条通を東へと退却したが、その間に300余騎が戦死し、やっとのことで修学院の鷺森神社へと駆け抜けた。
 名和長年は、300余騎を率いて、大宮通を上って退却していたが、六条大宮で引き返し、自分から退路の城柵の門を閉ざして、一人も残らず、戦死を遂げたのであった。(後醍醐天皇から特別の寵遇を受け、「三木一草」などと言われた中で、長年一人が生き残っていると、出陣の際に女子供が陰口を言うのを聞きつけた彼は、この戦いを死に場所にする決意で臨んでいたのであった。)

 宮方の軍勢が総崩れになってしまうと、各地の戦闘で勝利を収めて勢いに乗る足利方の20万余騎は、わずかに残された義貞の軍勢を大軍で取り囲む。義貞もこうなったら最後と覚悟を決めて、一歩も後退しようとせず、味方の馬をすべて西方浄土の方角に向けさせ、討ち死にの覚悟で戦いに臨もうとしていたところ、後醍醐天皇が紅の袴を切って与えられた布を笠符に着けた兵たちが、あちこちから集まって2千余騎となり、朝からの戦闘で疲れが出てきた足利方の兵を必死に攻め立てると、さしもの大軍を誇る足利方も、そろそろ馬の足取りが怪しくなってきたので、京都市内に引き返していった。それで義貞、義助、江田、大館は、どうやら七を逃れて坂本に逃れることができたのである。

 宮方の京都への大規模な攻勢はついに失敗に終わった。もともと数の面では劣勢なので、包囲戦は無理であり、もっと長い期間にわたり、都への補給路を断って、敵の力を弱めることに専念すべきであった。相手が補給を遮断されて弱っていることや、比叡山攻撃に失敗した後で、都からも逃げ去った武士たちが少なくないことなどを自分たちに有利な材料として過大に見積もりすぎたようである。東寺を攻撃する義貞の軍の後詰として五条通を守っていた二条師基、洞院実世の軍は5千余騎を数えたはずであり、土岐頼遠の3百の軍勢に追い散らされるというのは情けない。
 今回の戦いにおける土岐一族の功績はきわめて大きいが、この後、頼遠は調子に乗りすぎて北朝の光厳上皇に対し狼藉事件を起こしてしまう。(それは23巻の出来事なので、まだだいぶ先である。) 土岐氏は清和源氏頼光流の美濃の豪族で、その子孫には明智光秀と浅野長政、幸長、長矩(内匠頭)などの有名人が出ている。私の研究室でアルバイトをしていた女子学生が、先祖は土岐氏だったそうですと言っていたから、土岐氏の子孫にあたるという人は他にもかなり多いのであろう。) 
 

開高健「パニック」

10月22日(日)雨、台風接近

 どうすれば小説が書けるのか。それがわかったら、とっくの昔に小説を書いている。

 むかし、ある文学教室に通ったときのことである。受講者が講師に質問した。職場では毎日、毎日、腹の立つことばかりで、日記を詳しく書いているのですが、小説にはできません。どうしてでしょうか。講師がどう答えたかは忘れた。
 自分の個人的な経験をそのまま書いて小説にまとめても、読者がその経験の意義を認めてくれるかどうかはわからないと、もし、今の自分がその時の講師だったらいえるだろう。では、どうすればいいのか。
 一つは自分の個人的な経験から離れて、もう少し別の物語を探してみることである。他人の書いたものを読み漁って、何か面白い出来事をさぐりあてるか、誰も言ったことのないような土地に出かけるとか、誰もしたことのないような企てに取り組むとか…。

 「パニック」は開高の出世作である。新潮社による彼の全集の第1巻には、この作品とともに、ここに至るまでに彼が発表した習作群が合わせて収録されている。それらの習作に描かれているのは、中学時代の勤労動員での作業や、その際に受けた空襲、戦後の混乱期における学生生活とアルバイトなど、彼自身の経験を綴ったものが多い。全集の『月報』で、開高の友人であった向井敏が書いているように、彼の習作群は、「その描写の巧妙と観察の鋭敏は衆にぬきん出、しばしばプロフェッショナルをもしのいでいた。しかし、習作はやはり習作で、本式の小説というにはどこか脆かった。描写と観察に所を得させ、方向を与えるしっかりした題材、平たく言えば、枠組、粗っぽく言えば筋立てを欠いていたのだ。」 

 作家として名を成してからも、開高は持ち前の旺盛な好奇心に加えて、観察眼の鋭さと記憶力の確かさを駆使して、多くのルポルタージュを手掛けたことで知られる。青年期という人生の中での激動期が、戦中戦後の社会の激動と重なったことが、彼の作家的な素質と結びついて、彼の作風を決定することになる。しかし、経験をそのまま描くのではなく、ある種の枠組みが必要であった。実際問題として、彼が習作群に描きこんださまざまな出来事は、彼の芥川賞受賞以後の作品「なまけもの」に再度描きなおされ、作品としての結実を見せている。そこには、ある種の飛躍が認められる(三段跳びのホップ・ステップ・ジャンプのジャンプである)。

 「パニック」で開高は戦中戦後の自分自身の経験から離れて、1956(昭和31)年に起きたササの開花と結実、そのササの実を餌にしたネズミの大繁殖という出来事をヒントにして、物語を構想している。
 地方の役所の山林課の職員である主人公は、ササの開花と結実から、ネズミの大繁殖を予見し、その対策を立てることを提案するが、県庁で起きた収賄事件の後始末に追われている上層部は、彼の提案を無視し続ける。ところが、ネズミの大繁殖は主人公の予測を越えた規模で起こり、県はパニックに襲われる。職員たちはイタチを山林に放したり、小学生にネズミ捕りの運動をさせたりと様々な措置をとるが、パニックは収まりそうもない…。

 物語は一方で人間とネズミの戦い、もう一方で現場を知る役所の職員たちと、役所の官僚機構の戦いという様相を示す。単に正義感だけでは片付きそうもない、えたいの知れないものとの戦いという点ではこの両者は共通している。しかし、作者はネズミの破壊的なエネルギーにはある種の共感をもっているようにも思われる(官僚制の方に後ろめたさを感じる人はいても、共感する人はいないのではないか)。

 このブログで取り上げた短編「円の破れ目」は『近代文学』1956(昭和31)年2月号に、この「パニック」は『新日本文学』1957(昭和32)年8月号に掲載された。その間1年半ばかりの時間があり、その間、開高は「パニック」創作のための調査とその後の作品の執筆に取り組んでいたのであった。彼の場合はまず、「調べる」ことが自分自身の経験とのよりよい付き合い方を見出す第一歩であったようである。おそらく「調べる」ことを通じて、彼は出来事を整理するための枠組みに気づいたのであった。「パニック」の後の「裸の王様」は、自分の経験を離れた話、「巨人と玩具」は広告に携わるという彼の職場での経験をもとにして想像力を膨らませた話である。

 なお、開高の友人であった谷沢永一が語るところでは、芥川賞受賞以後、開高にはまた、小説を「書けない」時期がやってきて、その危機を、今度は面白い出来事が起きている現場に出かけて「調べる」ということで解決することになる。「調べる」にも様々なやり方がある。ただ、そういう経験を通じて、枠組みなり筋立てなりを見つけるというのにも、うんと素質が絡まっているように思われる。

 このブログをはじめて以来、読者の皆様からいただいた拍手が26,000を超えました。篤くお礼申し上げると共に、今後ともご愛読とご批評を宜しくお願いします。

日記抄(10月15日~21日)

10月21日(土)雨

 10月15日から本日までの間に経験したこと、考えたことなど:
10月15日
 NHKラジオ「高校生からはじめる現代英語」では”Visitors to Japan Top 10 Million"(日本への訪問者が1,000万人を突破)というニュースを読んでいるが、2日目(つまり今日)のDiscussionのコーナーでパートナーのハンナ・グレースさんが海外からの日本への観光客が増えるのは好ましいことではあるが
Although, if the pace keeps increasing, I worry about increased congestion on some of Tokyo's train lines. I wonder if increased tourism will be a factor. (もしもこのペースが上がり続けると、東京の一部の電車路線の混雑がひどくなるんじゃないかと心配。観光(客)が増えるのって、要因になるのかしらね。)
と発言している。主として東南アジアからのお客さんを案内して旅行に出かけた帰り、品川駅で山手線に乗り換えようとしたら、一行の中に無理な乗車をしようとする人がいて、車内放送で注意されたことがある(日本語の放送だったので、無理な乗車をしたご本人たちには全く通じていないのである)。特に山手線の場合、後続の電車はすぐに来るから無理に乗車しようとしなくてもいいのだが、こういうところで自分の国の事情が出てしまうのかなと思ったことがあった。ただ、このニュースによると、日本への観光客で一番多いのは韓国の人だそうで、東京の地下鉄の乗客よりも、ソウルの地下鉄の乗客の方がマナーはいいというのを実見しているから、その点は心配すべきではないかもしれない。

 横浜FCはアウェーでモンテディオ山形に0-2で敗れる。終盤、山形に退場者が出て、数的には有利になったのだが、守備のキャラ(カルフィン)、攻撃のイバという2人の外国人選手が欠けては、どうも勝機が見いだせなかったようである。順位は8位と変わらず。YSCCはホームで長野に1-3で敗北。こちらは17チーム中13位である。

10月16日
 10月に入って不振が続いている横浜FCは中田監督を解任し、後任監督のもとで残り試合に全力を尽くすと発表した。不振が続いているのは、(昨日の項でも書いたが)カルフィンとイバの両選手がけがで出場できないためであって、監督のせいではないと思う。それに終盤になって指揮官を変えるというのは混乱のもとである。

10月17日
 NHKラジオ『まいにちスペイン語』での「ラテンアメリカの街角」のコーナーではチリの首都サンティアゴが紹介された。遠く東の方にはアンデス山脈が望めるということである。

 『朝日』の朝刊に「没後80年 色あせぬ中也」と中原中也(1907-1937)の詩が今なお親しまれていることを取り上げた記事が出ていた。彼と親しかった大岡昇平や河上徹太郎は戦後長く生きていたので、多少の同時代感というのはあるのだが、それほど中也の詩は好きではない。

 小泉武夫『漬け物大全』(講談社学術文庫)を読み終える。

10月18日
 神保町シアターで「よみがえる赤木圭一郎」の特集上映から『幌馬車は行く』(1960、日活、野口博志監督)を見る。列車を襲撃したギャングの一人(赤木)が、幌馬車で旅を続ける移動養蜂隊に助けられる。隊長(芦田伸介)はなぜかこの男に好意をもっている。隊長の孫娘(笹森礼子)と、男の間に恋が芽生えるが、ギャングの仲間たちがこの養蜂隊に目を付ける…。この時代、移動する養蜂家が幌馬車を利用していたかどうかはわからないが、西部劇風の展開ではあっても、隊長が満州からの帰還者だという設定など、戦後の世相を少しでも付加することで物語に現実性を持たせようとしているようにも思われる。

10月19日
 『朝日』のコラム「折々の言葉」に「それなしで人が生きていけないものについて考えるのが、哲学です」という森口美都男の言葉が紹介されていた。森口はこのコラムの担当者である鷲田清一さんの京都大学時代の恩師だそうである。哲学とは何かをめぐってはいろいろな答え方がある。私はやはり、宇宙論だという答え方が好きである。

 NHKラジオ『実践ビジネス英語』の”Quote...Unquote"のコーナーで紹介された言葉:
No one feels another's grief, no one understands another's joy. People imagine they can reach on another. In reality they only pass each other by.
---- Franz Schubert (Austrian composer, 1797 -1828)
(他者の悲しみを感じる人はいないし、他者の喜びがわかる人もいない。人はお互いの気持ちに手が届くと思っている。実際には、お互いにすれ違っているだけなのに。)
 これはシューベルトの本音だったかもしれない。

 NHKラジオ『まいにちスペイン語』応用編”El sombrero de tres picos"(三角帽子)の5回目。
 市長を出し抜き、こっそり水車小屋を抜け出したフラスキータは、ロバを買って隣村の村長宅に向かう。村長宅に着いたフラスキータは、市長の悪だくみの片棒を担いだ村長のファン・ロペスを責める。村長はルーカスがわら置き小屋にいないと聞き、水車小屋で大変なことが起きているのではないかと慌て、皆で水車小屋に向かう。
 水車小屋で彼らが出会ったのは、ルーカスの衣装を身につけた市長であった。ルーカスが、市長の服をそっくり着て街へ向かったらしい、その服装のまま市長夫人の寝室にだって入りかねない‥‥と、フラスキータも市長も青くなり、今度は皆で市長公邸に急いだ。深夜の12時半ごろ市長公邸にたどり着いて、公邸の門をたたいたが、何の応答もない。
 Sólo se oía el claro rumor de los caños de una fuente que había en el patio de loa casa.
(邸宅の中庭にある噴水の口から、さらさらと流れ出る水の響きだけが聞こえてくるばかりであった。)
 スペインのアンダルシア地方の邸宅には、暑さ対策として中庭を設けているものが多いそうである。

 NHKラジオ『まいにちイタリア語』応用編は、ダンテに続いて、今回からペトラルカの詩を取り上げている。ペトラルカのソネットが紹介され、彼の作品がそれぞれの詩にふさわしい多様な韻律を持ち、その完成度が高いこと、詩の中で使われている言語が選び抜かれた優美なもので、調和と均整がとれていること、アレゴリー(寓意)と擬人化の巧みさなどの彼の作品の魅力が語られた。ダンテのmusaがベアトリーチェであったように、ペトラルカにはラウラがいた。ペトラルカの影響を受けた詩人として、英国のチョーサー、フランスのマロ、ロンサール、ポルトガルのカモンイスなどが挙げられた。

 昨日に引き続き神保町シアターで『錆びた鎖』(1960、日活、齋藤武市監督)を見る。横浜の荷役会社の社長(小沢栄太郎)が急死し、長男(小高雄二)が後を継ぐが、会社乗っ取りの陰謀に直面して苦労する。荷役仕事が好きで、社員たちの人望がある次男(赤木)が、現場の怒りを背負う形で事件の真相に迫っていく…。会社経営の苦労を知られたくない兄と、従妹(笹森礼子)をめぐる三角関係が生じたり、次男の出生の秘密が絡んだりする。助監督として神代辰巳の名が出ていた。『幌馬車』に比べてこちらの方が物語としては面白いが、笹森礼子の魅力は『幌馬車』の方がよく引き出していると思う。

 この赤木圭一郎特集では15本の映画が上映されたが、2本しか見ることができなかったのは残念(『霧笛が俺を呼んでいる』はすでに見ている)。『霧笛』と同じく熊井啓が脚本を書いている『邪魔者は消せ』など、見逃したことを残念に思う作品もあり、またの機会を待つことにしよう。

10月20日
 もと、プロ野球毎日オリオンズの選手で、その後大映の俳優として活躍された橋本力(りき、本名はちから)さんが11日に亡くなられたことが報じられた。映画『一刀斎は背番号6』に指導方々出演された際にけがをしたことが原因で映画界入りをされ、大魔神シリーズの大魔神のスーツアクターなどで活躍された。増村保造監督の『やくざ絶唱』の最後の方で、主演の勝新太郎に殺される役で出演していたと記憶する。(この映画、勝の他に、大谷直子、田村正和、太地喜和子、荒木道子など出演者がそろっていたね。) その後、香港映画界に転じて、1972年にはブルース・リー主演の『ドラゴン 怒りの鉄拳』で敵役を演じられていた。ご冥福を祈る。

 昼間乗ったバスの運転士が、道を間違えた。横浜市営バスでは珍しいことではないかと思う(別の市の市営バスで頻繁に起こって問題になっていた時期があった。この市の市営バスは横浜よりも運賃が安かったが、その分、運転士の勤務条件が悪かったのであろう)。お蔭で20分ばかり時間を無駄に使うことになった。

 『実践ビジネス英語』の”Quote...Unquote"のコーナーで紹介された言葉:
Where justice is denied, where poverty is enforced, where ignorance prevails, and where any one class is made to feel that society is an organized conspiracy to oppress, rob and degrade them, neither persons nor property will be safe.
      ―― Frederick Douglass (U.S. orator, author and editor, c.1818 -95)
(正義が否定されるところ、貧困を強いられるところ、無知が蔓延しているところ、そして「社会は自分たちを抑圧し、自分たちから強奪し、自分たちを貶める陰謀組織だ」と1つの階級にでも思わせるところでは、人も財産も安全ではないだろう。)
 南北戦争の後のアメリカ社会に対する批判らしい。

 『三角帽子』の6回目。
 やがて1時ごろになって3階の小窓が開くと、女の声が尋ねた。「どなた?」 「わしは市長じゃ」
 女の声は市長はもう帰ってきたといい、ふざけると承知しないといって、召使たちとした役人たちに棍棒を持たせて、門の外にいる連中を打ちのめさせた。
 この騒ぎはなにかと問う、落ち着いた、厳かな、しかも気品のある声が響き渡った。市長夫人が建物の正面のバルコニーに姿を現したのである。
――Que pasen esos rústicos... El señor corregidor dice que lo permite...---- agregó la corregidora.
(「その農民たちを入れておやり‥‥。市長様のお許しが出たことですし‥‥」、市長夫人が付け加えた。〔一行が何者かを問うた3階の女は市長夫人ではない。3階は召使の部屋があるところのようで、だとすると、女中頭のような女性ではないかと思われる。]

 ペトラルカの2回目。今回はカンツォーネ126が取り上げられた。ペトラルカは人文主義umanesimoの父であるということから、彼の書いたさまざまな詩の特色や、フランス南部のヴァントゥー山に登ったことなどが語られた。このペトラルカの登山については、子どものころに、登山の歴史の本で読んだことがあり、ヴァントゥー山については、ファーブルの『昆虫記』でもお目にかかったことがあるのを思い出した。

 等々力グランドでJ2第38節、横浜FC対町田ゼルビアの対戦を観戦する。横浜は奥寺会長が監督として指揮を執った。小雨が降っていたが、等々力は屋根が広く、濡れることはなかった。前半1点を先行されたが、大久保選手が得意のヘッドで決めて追いつき、後半またも大久保選手のゴールで1点をリードしたが、終盤に1点を失い、引き分けた。途中からイバ選手が出場するなど、明るい材料がないわけではないが、これでいよいよJ1昇格はむずかしくなってきた(どんどん前へ進み、隙あらばすかさずシュートを放つ町田に較べて、サッカーがもたもたしていたのが何よりもよくない)。奥寺さんは、楠元選手、前嶋選手など、若手を起用することで、活路を見出そうとしているようにも思われる。それが功を奏すればいいのだが…。

10月21日
 『朝日』によると、現在開かれている中国共産党大会で、文化面でも中国の国際的影響力を強めるという方針が打ち出されたという。しかし、国際的に高い評価を受ける芸術作品や思想的著作は、社会体制を問わず、反政府的な傾向をもつものが多いということをどのように理解しているのかと気になるところである。〔中国が野球もサッカーも一向に強くならないのはどういうことかというのも気になるところではある。] 

司馬遼太郎『街道をゆく2 韓のくに紀行』(6)

10月20日(金)雨が降ったりやんだり

 1971年に司馬さんは『週刊朝日』の連載のために韓国を訪問する。司馬さんは、大阪で生まれ育ち、韓国(朝鮮)の人たちとのなじみが深く、また日韓(日朝)の文化交流の歴史に関心をもって来ただけでなく、第二次世界大戦中は戦車隊の小隊長として半島を縦断したこともある。大阪外事専門学校(現在の大阪大学外国語学部)でモンゴル語を勉強した司馬さんには日本語も朝鮮語も、モンゴル語やトルコ語(さらにハンガリー語やフィンランド語)と同じウラル・アルタイ語族に属しているという意識があって、その点が強調されている(現在の言語学では、この見解はほぼ否定されている)。司馬さんの親近感はそんなところからきているらしい。
 釜山からガイドのミセス・イム(任)が合流、日本から旧知のカメラマン井上博道さんがついてきている。一行は三韓時代の加羅の地をめぐり、古代の遺跡や豊臣秀吉の朝鮮の役(壬辰倭乱)や対馬の宗氏による交流の遺跡を探し求める。そして、今度は新羅の地にやって来る。

 一行は吐含山(トハムサン)に抱きこまれた仏国寺(プルグクサ)の丘陵を下り、掛陵(クエルン)に向かう。掛陵は新羅第36代の王の墓であるとも、第38代の王の墓だとも言われているそうである。慶州盆地にはほかにも新羅の王たちの陵があるが、それらは時に密林のように樹木が密生している日本の古墳とは違い、美しい芝生で覆われていて、まさに青山である。掛陵付近の丘と野と林の風景が大和の帯解の山村の里の風景山村の里の風景に似ていると思い、山村の里は欽明天皇のころにやってきた百済人が拓いたという歴史を思い出したりする。王陵の側には石人がいるし、狛犬もいる。「この犬たちはたくましく前足を聳えさせながら域内に危険な者が入りこめば激しく吠声を発しようとしている。かれらもまた石人とともに風化しているが、しかし王陵を守ろうとするけものの気迫はなおうしなっていない。この石犬だけは日本の神社などに伝わって、その故郷の名を冠して高麗犬(こまいぬ、狛犬)とよばれているのである。」(123ページ) 〔ちなみに、2003年に私がタイのバンコクのワット・プラケオー(エメラルド寺院)に出かけた時に、境内に狛犬のような唐獅子のような石像を見たが、これはどういうことなのかと未だに気がかりである。〕

「掛陵の基部には、花崗岩石のベルトがほどこsれている。そのベルトは巨大な石板をはめ込むことで出来上がっており、その石板には十二支の干支の動物が、寅があったりいの亥があったりして、神像のすがたをとりつつ、レリーフになっている。」(同上) このあたりのことも、日本の古墳と比較すると面白いところかもしれない。

 陵を取り囲む松林の中で司馬さんは野遊びに来ていた白い韓服を着た七人の老農夫を見かける。「かれらは車座になり、アルマイト製の茶びんを真中において、ときどき茶碗に注いでいる。ゆったりと飲む。韓酒(マッカリ)であった。肴はないが、一人ずつ立ち上がっては肩で調子をとり、歌をうたって、互いを愉しませあっている。」(124ページ) 〔韓酒(マッコリ)とあるが、韓国にはいろいろな種類の酒があり、マッコリで代表させてしまっていいのかは疑問である。マッコリは飲みやすく、それほど強い酒ではないが、それでもどんどん飲むと酔いが回るはずで、それで人生経験も酒経験も長そうな老人たちはゆっくりと飲む。サカナがないことや、立ち上がって踊っていることもそんなことと関係するのではないかと思う。〕
 この光景を見ていた同行の詩人Tさん(途中になって急に出てくる)が「上代にまぎれこんだようですね」(同上)と感動してしまった。「Tさんの感動するごとく、韓民族の光陰というものはゆったりと進むのである。わが倭国にあっては大化の改新のころまではあるいは大和の野辺で存在したかもしれない光陰が
、今のこの騒然たる世に、まるでうその光景のように、悠然とこの七人の老人の上を照らしているのである。」(同上) 〔それから40年以上の年月を経て、韓民族と韓国の経済・文化は急速な変容を遂げ、司馬さんの言う「ゆったりと進む」光陰の進み方もかなり速くなったような気がする。ただ、それでも日本に比べるとゆったりしているかもしれないとは思う。

 7人の老人たちは、司馬さんが仲間に入れてほしいというと、席を空けてくれた。彼らは李朝時代を知っている年齢で、日本語は少しも通ぜず、さかんに慶州の方言で話しかけてきたという。彼らは日本の植民地支配も経験したはずだが、司馬さんたちがイルボンから来たといっても、そうか、そうか、といったふうに握手をしてくれた。「この7人の老爺の雰囲気からは、そういう感じはまったく感じとれなかった。私はイルボン帝国の時代よりも千年も前へ連れ去られてしまったようであり、筑紫あたりから漂着してきた倭の漁師のような気分にさせられた。」(125ページ)
 老人たちのこれまでの人生が平たんなものでなかったことを歴史に照らして知っているだけに、泰平の庶民の理想像のようなかれらのすがたには不思議な感動をおぼえるのであった。

 この後、司馬さんたちは朝鮮の役の際に、朝鮮軍に投降した日本の武士の子孫の村だという慕夏堂に向かうのだが、それはまた次回。司馬さんが、日韓の文化の共通性や親和性を強調しながら、その中で両者の違いを見ていることが特徴的であると思われる。司馬さんのそのような姿勢が、旅を平和で楽しいものにしているが、それだけで両国の関係のすべてがうまくいくとも思えないところがある。

 本日、これから等々力に横浜FC対町田ゼルビアのサッカーの試合を見に出かけるので、皆様のブログをあまり訪問できないと思いますが、悪しからずご了承ください。 

司馬遼太郎『街道をゆく2 韓のくに紀行』(6)

10月20日(金)雨が降ったりやんだり

 1971年に司馬さんは『週刊朝日』の連載のために韓国を訪問する。司馬さんは、大阪で生まれ育ち、韓国(朝鮮)の人たちとのなじみが深く、また日韓(日朝)の文化交流の歴史に関心をもって来ただけでなく、第二次世界大戦中は戦車隊の小隊長として半島を縦断したこともある。大阪外事専門学校(現在の大阪大学外国語学部)でモンゴル語を勉強した司馬さんには日本語も朝鮮語も、モンゴル語やトルコ語(さらにハンガリー語やフィンランド語)と同じウラル・アルタイ語族に属しているという意識があって、その点が強調されている(現在の言語学では、この見解はほぼ否定されている)。司馬さんの親近感はそんなところからきているらしい。
 釜山からガイドのミセス・イム(任)が合流、日本から旧知のカメラマン井上博道さんがついてきている。一行は三韓時代の加羅の地をめぐり、古代の遺跡や豊臣秀吉の朝鮮の役(壬辰倭乱)や対馬の宗氏による交流の遺跡を探し求める。そして、今度は新羅の地にやって来る。

 一行は吐含山(トハムサン)に抱きこまれた仏国寺(プルグクサ)の丘陵を下り、掛陵(クエルン)に向かう。掛陵は新羅第36代の王の墓であるとも、第38代の王の墓だとも言われているそうである。慶州盆地にはほかにも新羅の王たちの陵があるが、それらは時に密林のように樹木が密生している日本の古墳とは違い、美しい芝生で覆われていて、まさに青山である。掛陵付近の丘と野と林の風景が大和の帯解の山村の里の風景山村の里の風景に似ていると思い、山村の里は欽明天皇のころにやってきた百済人が拓いたという歴史を思い出したりする。王陵の側には石人がいるし、狛犬もいる。「この犬たちはたくましく前足を聳えさせながら域内に危険な者が入りこめば激しく吠声を発しようとしている。かれらもまた石人とともに風化しているが、しかし王陵を守ろうとするけものの気迫はなおうしなっていない。この石犬だけは日本の神社などに伝わって、その故郷の名を冠して高麗犬(こまいぬ、狛犬)とよばれているのである。」(123ページ) 〔ちなみに、2003年に私がタイのバンコクのワット・プラケオー(エメラルド寺院)に出かけた時に、境内に狛犬のような唐獅子のような石像を見たが、これはどういうことなのかと未だに気がかりである。〕

「掛陵の基部には、花崗岩石のベルトがほどこsれている。そのベルトは巨大な石板をはめ込むことで出来上がっており、その石板には十二支の干支の動物が、寅があったりいの亥があったりして、神像のすがたをとりつつ、レリーフになっている。」(同上) このあたりのことも、日本の古墳と比較すると面白いところかもしれない。

 陵を取り囲む松林の中で司馬さんは野遊びに来ていた白い韓服を着た七人の老農夫を見かける。「かれらは車座になり、アルマイト製の茶びんを真中において、ときどき茶碗に注いでいる。ゆったりと飲む。韓酒(マッカリ)であった。肴はないが、一人ずつ立ち上がっては肩で調子をとり、歌をうたって、互いを愉しませあっている。」(124ページ) 〔韓酒(マッコリ)とあるが、韓国にはいろいろな種類の酒があり、マッコリで代表させてしまっていいのかは疑問である。マッコリは飲みやすく、それほど強い酒ではないが、それでもどんどん飲むと酔いが回るはずで、それで人生経験も酒経験も長そうな老人たちはゆっくりと飲む。サカナがないことや、立ち上がって踊っていることもそんなことと関係するのではないかと思う。〕
 この光景を見ていた同行の詩人Tさん(途中になって急に出てくる)が「上代にまぎれこんだようですね」(同上)と感動してしまった。「Tさんの感動するごとく、韓民族の光陰というものはゆったりと進むのである。わが倭国にあっては大化の改新のころまではあるいは大和の野辺で存在したかもしれない光陰が
、今のこの騒然たる世に、まるでうその光景のように、悠然とこの七人の老人の上を照らしているのである。」(同上) 〔それから40年以上の年月を経て、韓民族と韓国の経済・文化は急速な変容を遂げ、司馬さんの言う「ゆったりと進む」光陰の進み方もかなり速くなったような気がする。ただ、それでも日本に比べるとゆったりしているかもしれないとは思う。

 7人の老人たちは、司馬さんが仲間に入れてほしいというと、席を空けてくれた。彼らは李朝時代を知っている年齢で、日本語は少しも通ぜず、さかんに慶州の方言で話しかけてきたという。彼らは日本の植民地支配も経験したはずだが、司馬さんたちがイルボンから来たといっても、そうか、そうか、といったふうに握手をしてくれた。「この7人の老爺の雰囲気からは、そういう感じはまったく感じとれなかった。私はイルボン帝国の時代よりも千年も前へ連れ去られてしまったようであり、筑紫あたりから漂着してきた倭の漁師のような気分にさせられた。」(125ページ)
 老人たちのこれまでの人生が平たんなものでなかったことを歴史に徴して知っているだけに、泰平の庶民の理想像のようなかれらのすがたには不思議な感動をおぼえるのであった。

 この後、司馬さんたちは朝鮮の役の際に、朝鮮軍に投降した日本の武士の子孫の村だという慕夏堂に向かうのだが、それはまた次回。司馬さんが、日韓の文化の共通性や親和性を強調しながら、その中で両者の違いを見ていることが特徴的であると思われる。司馬さんのそのような姿勢が、旅を平和で楽しいものにしているが、それだけで両国の関係のすべてがうまくいくとも思えないところがある。

 本日、これから等々力に横浜FC対町田ゼルビアのサッカーの試合を見に出かけるので、皆様のブログをあまり訪問できないと思いますが、悪しからずご了承ください。
 

木田元『哲学散歩』(4)

10月19日(木)雨

 第1回 エジプトを旅するプラトン
 第2回 エンペドクレスのサンダル
 第3回 ソクラテスの皮肉

 第4回 忘恩の徒? アリストテレス
 第3回の「ソクラテスの皮肉」がなかなか難しく、3回かけて検討を加えたが、今回は、ソクラテスの弟子のプラトンの弟子のアリストテレスを取り上げる。学統を辿れば、プラトンの順番であるが、プラトンは第1回に登場しているので、アリストテレスに順番が回ってきたのであろう。ただし、ここではアリストテレスが主人公となってはいるものの、プラトンとの師弟関係が重要な内容になっている。

 「アリストテレス(前384-322)ほど時代によって評価の変わる哲学者も珍しい」(33ページ)と木田さんはこの回を書き起こしている。13世紀以降、特にカトリック系の思想圏では、「かの哲学者」(イレ・フィロソフス)といえばアリストテレスを意味するほどに評価が定まったし、ルネサンス期には、ラファエロの有名な「アテナイの学園」に描かれているように、堂々たるプラトンと並んでひけをとらない精悍な姿でイメージされるようになった。木田さんは書いていないが、この絵でプラトンは天を指さし、アリストテレスは地に注意を向けさせようとしている。プラトンのイデア論と、アリストテレスの博物誌的な哲学の広がりとを象徴的に表す手つきである。そういえば、14世紀の初めに完成したダンテの『神曲』<地獄篇>第4歌130-135行は次のように書かれている:
顔を少し上げると、
私は見た、哲人たちの師が
知を愛する一族に囲まれ座っているのを。

皆が敬意のこもった視線を向け、皆がほめたたえていた。
さらに私はここに見た、ソクラテスとプラトンを
二人とも他の誰より前に進み、あの方のすぐそばにいた。
(原基晶訳、80ページ) アリストテレスの師であるプラトンと、その師であるソクラテスとはその名を呼ばれているのに、アリストテレスは「哲人たちの師」、「あの方」と呼ばれ、この2人以上の扱いを受けている。

 ところが、それ以前、特に古代の伝承の中ではアリストテレスはあまり評判がよくなかったという。哲学者の逸話を集めた古代の書物によると、「アリストテレスは小柄で下半身もひょろひょろと貧弱なら眼も小さく、貧相なくせに派手好み、おしゃべりではあるが声に力がなく、時どき舌もつれまでして、それほど講義がうまいわけでもないと思われていたらしい。」(34ページ) それ以上に問題になるのは、そのころアリストテレスは「忘恩の徒」だとまで考えられていたらしいという。それはどうしたことだったのであろうか。

 アリストテレスはイオニア系のギリシア人であったが、彼の出生地のスタゲイロスはマケドニアの支配地にあり、彼の父はそのマケドニアの王アミュンタスⅢ世(アレクサンドロス大王の祖父)の侍医であった。そのため彼は、幼いころマケドニアの首都ペラで育ったが、早く両親を亡くし、義兄に引き取られて小アジアのアタルネウスで暮らしていたようであるという。17歳になると、彼はプラトンがアテナイに開いた学園アカデメイアに遊学する。プラトンはもう60歳を超えていた。経済的に余裕があったアリストテレスは「思う存分本(むろん写本である)を手に入れることもできたし、おしゃれもできたのであろう。プラトンは、弟子のその読書家であるところは評価したが、おしゃれは気に入らなかったということらしい。」(35ページ、プラトンがアリストテレスについてそう発言したと古代の著作家であるアイリアノスが書き留めているそうである)。

 アリストテレスは、前347年にプラトンが没するまで20年間このアカデメイアで学び、師によって「学園の知性(ヌース)と」と呼ばれるまでになったという伝承もあるが、一方には、師の存命中にアカデメイアを去り、最晩年の既に衰えを見せていたプラトンのところに仲間の一団を引き連れて押しかけ、質問を浴びせかけて苦しめたという(逸話をこれまたアイリアノスが書き残している)。アテナイではプラトンの開いたアカデメイアと、アリストテレスの開いたリュけイオンという2つの学園が長く対立関係を続けた(他にも学園はあった)からアカデメイアの人々は、アリストテレスの悪口を言い伝えたと思われ、アリストテレスの悪評はその分割り引いて考える必要がありそうである。

 とはいうものの、アリストテレスはその著作の中で、プラトンのイデア論を批判しており、その一方で自分の先生や友人の学説に批判を加えるのはつらい仕事になるということを書いている。ある程度、自分の評判が悪くなることは覚悟のうえであったというのである。

 アリストテレスの悪評には、プラトンから離反したという理由の他に、アテナイに根強くわだかまっていた反マケドニア感情も影響していたと木田さんは言う。何よりも、彼はマケドニアの王となって大征服帝国を現出させたアレクサンドロスの家庭教師だったのである。アレクサンドロスが国王になると、アリストテレスは当時マケドニアの占領下にあったアテナイに戻り、おそらくはアレクサンドロスから経済的支援を受けて、自らの学園であるリュケイオンを開き、ここを拠点として教育研究活動を行う。彼はその構内の散歩道(ペリパトス)を散歩(ぺリパテイン)しながら議論をすることが多かったので、彼の学派はペリパトス学派と呼ばれていた(逍遥学派と呼ぶ人もいる。私はこちらの呼び方の方が好きである)。

 「ここに収蔵されていた書物や資料は、後年エジプトのアレクサンドリアにプトレマイオス王家によって建設される壮大な図書館や博物館の模範にされるほど、見事に整理されていたそうである。」(38ページ) このあたりいかにもアリストテレスらしい。

 ところが、前323年にアレクサンドロスが急死すると、アテナイでは反マケドニア運動が高まり、マケドニア勢力と親交のあったアリストテレスにも追及の手が及ぶ。
 「アテナイ市民はかつてソクラテスを死刑に処して、哲学に罪を犯したことがある。その「アテナイ市民にふたたび哲学を冒瀆する罪を犯させないために」と体裁のいいことを言って、アリストテレスは、母方の屋敷のあったエウボイア島のカルキスへ逃れたが、翌年宿痾であった胃病のために62歳で世を去る。」(39ページ)
 とにかく、プラトンに比べてアリストテレスは、アテナイ市民から見て異国人ということもあって、あまり評判がよくなかったらしい。しかし、と木田さんは言う(ここが大事なところである)「西洋の哲学者は東洋の儒学者などと違って、必ずしも身近にいるすべての人に愛され尊敬されるような魅力的な人柄を、つまり知行合一(ちぎょうごういつ)といったことを要求されることはなさそうだ。私は長年ハイデガーを読んできて、この思想家の性格の悪さにほとほと困惑させられてきたが、だからと言ってテキストを読んで感じる彼の思索の強靭さや深遠さを疑ったことはない。」(39ページ) そして最後にこう付け加える:「私は近頃、ハイデガーの人柄を種にその思想を非難する人には、高煩悶することにしている。身近にいる誰からも愛され、いつもニコニコしている人柄のいい思想家が、世界をくつがえすような思想を提起する、ということの方がありそうにもないと思わないか、と。アリストテレスについても同じ弁護が成り立ちそうな気がするが、どうであろうか。」(39-40ページ)

 この結びを読んで思い出すのはハイネがカントについて『ドイツの宗教と哲学の歴史によせて』(岩波文庫では『ドイツ古典哲学の本質』という表題になっていた)で触れている次の箇所である。
「この人の外面の生活と、世界をうち砕く破壊的な思想との間には実に奇妙なコントラストがある。事実、もしケーニヒスベルクの市民たちが彼の思想の意義全体を予感していたなら、普通の首斬り役人、人間の頭しか刎ねない首切り役人に対するより、はるかにすさまじい怖気をこの男に感じたことだろう――しかしこの善良な人たちは、カントを哲学教授としか見なかった。いつもの散歩の時間に彼が通りかかると、愛想よく挨拶して、例えば懐中時計を合わせてみたりするのだった。」(木庭一郎訳『ハイネ散文作品集』第4巻、99ページ)
 人柄のいい思想家も、人柄の悪い思想家も、同じ程度に世の中を揺るがすような思想を考え出すことはある(それ以上に、人畜無害な思想を生み出していることの方が多いのではないか)とわたしは思うのである。 

ダンテ・アリギエリ『神曲 天国篇』(29-2)

10月18日(水)晴れのち曇り

 ベアトリーチェに導かれてダンテは地上楽園から天上の世界へと旅立つ。天上の中でも人間の目に見える世界である月天、水星天、金星天、太陽天、火星天、木星天、土星天を訪ねた彼は、至高天からやってきて彼を迎えた魂と対話し、彼が地上で抱いていたさまざまな疑問への回答を得るとともに、彼がこの遍歴の中で見聞したことを地上に伝えることが彼の任務であることの自覚を固める。至高天から土星天へと降りてくる「ヤコブの階段」を上って恒星天に達した彼は、信仰・希望・愛という3つの対神徳についての試問に合格し、目に見える世界から目に見えない世界へと歩を進める。原動天でベアトリーチェは天使たちとその働きについての説明をする。

 天使たちをめぐる地上の学者たちの説が的外れなものであることを指摘したベアトリーチェは、次のように言葉を続ける。
こうしてみると下界には、覚醒しているはずなのに、夢幻に迷いながら
信じて、あるいは信じていないのに真理が語られることさえあり、
後者はより罪深く、より恥ずべき行為です。

あなた達は下界において哲学的思弁をする中で
あるべきただ一つの道を進んではいません。もてはやされることを愛して
評価を気にするために道を踏み外してしまうからなのです。
(440ページ) 天使についての様々な学説とそれらの学説間の論争は、正しい道から外れたものであると彼女は言う。

しかしこのことでさえ、ここ天上では寛容にも
それほどの怒りは買わないことでしょう、聖書がないがしろにされ、
あるいは捻じ曲げられるのに比べれば。

聖書の教えを世界中に種蒔くために
どれほどの血が流されたのか、自らを低くして聖書に寄り添う者が
どれほど御意にかなうのか、地上では考えもしません。
(同上) 天使をめぐる学説の違いなど、聖書からの逸脱に較べればたいしたことではないという。ただし、ここでダンテが述べている聖書を重視する考えが、ルネサンスの人文主義者たちによる聖書重視の考え方とは違うことにも注意しておく必要がある。ダンテは、この29歌でヒエロニムスの考えを批判しているが、その一方で、彼が『神曲』で引用している聖書は、ヒエロニムスがラテン語に翻訳したウルガータ版であり、これはカトリック教会が採用してきた聖書である。ルネサンスの人文主義者たちは、ヘブライ語の旧約聖書と、ギリシア語の新約聖書を典拠とすべきであると論じたのであった。ベアトリーチェは続いて、聖書に勝手な解釈を施している人々を非難する。そして、そのような虚言や戯言がキリストの教えに沿うものではないという。

キリストは最初の教団にお告げになりはしませんでした、
『行って、戯れ言を述べ伝えなさい』などとは。
弟子たちには真理の礎を授けたのです。

そして教団はそれだけを頼りに言葉を発し、
信仰の火をともす戦いに
聖書を盾とし、槍として臨みました。
(442ページ) 「マルコによる福音書」が伝えるキリストの言葉は、「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい」(16.15)である。しかし、時間の経過とともに教団も、伝道者も変化した。

今では人は説教をするのに
機知と漫談をたずさえていき、ただ笑いが取れただけで
その僧帽の中身はうぬぼれにふくれ、それ以上は求めません。
(442-443ページ) 受け狙いが幅を利かす説教の現状を嘆く。そして、ベアトリーチェはその200年以上後に、ルターによる宗教改革の引き金になった教皇庁、あるいは最低でも司教によって発行される贖宥符の発行を非難する。〔カトリック教会では贖宥符という言葉を使うが、一般には免罪符という言葉の方が使われているのではないか。〕
これを信じるがために地上では愚行が広くはびこり、
その結果、大衆は何らかの効力を証(あか)す証明もないのに、
どのような約束にも飛びついてしまいかねません。
(443ページ) さらに彼女は、地上の腐敗した修道会を非難する。

 しかし、彼女は自分の発言が本筋から遠く離れてしまったことを認め、改めて天使についての説明を続ける。天使たちの神との愛の結びつきは、神への理解に応じて多様であり、神の光はその多様性の中でさまざまに分裂し、散り散りに拡散しながらも全体は一を保っているという。
愛は理解という行為に従うゆえ、
このことから、愛の甘美も
彼らの中では様々に白熱し、あるいは温(ぬる)むのです。

今やあなたは永遠の御力がもつ超越した偉大さを、寛容を
理解しています。なぜならそれは、自らのために
多数の鏡をお造りになり、その中で散り散りに分裂しつつ、

創世前と同様にご自身を同じく一つに保っていらっしゃるのですから。
(445ページ) こうして、天使と神についての理解をさらに進めたダンテは、本来の天国である至高天に昇っていくのにふさわしい存在となったことが語られる。

 第29歌が終わり、第30歌でダンテはいよいよ至高天に達することになる。そこはどのような世界で、その様子をダンテがいかに描き出すかは、次回以降のお楽しみということにしよう。

バスを待っていると

10月18日(水)晴れのち曇り

バスを待っていると

バスを待っていると
反対方向から
バスの中でよく見かける人が
坂道を上ってきた

何日か雨が降り続いていたが
今日は久しぶりの青空で
日差しを楽しむように
ゆっくりと坂道を上ってきた

声を掛けようかと思ったが
たぶん、向こうはこちらの顔を知らない
唐突に声を掛けられて
びっくりするだけだろう

バス停でそんなことを考えている
私には気づかずに
その人はゆっくりと
盲導犬と一緒に
その人はゆっくりと
前を通り過ぎていった

フローベール『感情教育』

10月17日(火)雨のち曇り

 19世紀フランスを代表する作家の1人であるギュスターヴ・フローベール(Gustave Flaubert, 1821-80)の『感情教育』(L'Éducation sentimentale)を読んでいるところである。上下2冊に分れて岩波文庫に入っている生島遼一の訳で、上巻を8月16日に読み終え、下巻に取り掛かっているが、なかなか終わりまでたどり着かない。まだ途中までしか読んではいないが、これまで読んだ限りでも気になることが多いので、紹介作業を開始することにした。

 第1部 1
 1840年9月15日、朝の6時頃、出帆間際のヴィル=ドゥ=モントロー号がサン=ベルナール河岸の前で、もくもく煙のうずを上げていた。(上巻、7ページ)
 パリからセーヌ川を上っていくこの蒸気船に、1人の青年が乗っている。フレデリック・モローと言い、この小説の主人公である。18歳で、最近バシュリエ(大学入学資格者)試験に合格したばかり、郷里であるオーブ県の小都市のジャン=スュル=セーヌに帰省するところであった。本当はもっとパリにいたかったのだが、母親の言いつけでル・アーヴルに住む(その遺産が相続できるかもしれない)伯父のところを訪問したのち、2か月ばかりを郷里で過ごすことになっていたのである。彼は演劇や絵画に興味がある夢想家気質の青年で、郷里のことよりもこれからのパリの暮らしのことばかり考えている。

 船の中でフレデリックは「四十くらいの、髪のちぢれた元気そうな男」(9ページ)を見かけて、何か気になり、話をするようになる。「この男は共和主義者だった。ほうぼう旅行して劇場でも料理屋でも、新聞でもあらゆることの内幕を知っており、有名な芸術家とはみな懇意で、親しそうに家族名で呼んだ。フレデリックもつい自分の計画など打ち明ける。相手はそれはいいと励ました。」(10ページ) 男はジャック・アルヌーといい、モンマルトル大通りにある美術新聞発行と画商を兼ねた工芸美術という店の主人であった。
 
 フレデリックがアルヌーと別れて、自分の船室に戻ろうとすると、彼はひとりの美しい女性を見かける。
「と、それは一つの幻のようであった。
 彼女は腰掛けのまんなかに一人かけていた。少なくとも、青年の眼をうったまぶしさに、ほかの人間の姿は見わけられなかったのだ。彼が通るとき、女はひょいと顔を上げた。彼はもう無意識に肩をかがめた。そして、少し離れて、同じ側にいってから、はじめて女の方に目をそそいだ。」(12ページ)
 すぐに分かったことだが、彼女はアルヌーの夫人であった。フレデリックは彼女に何か話しかけようとするが、そうする前に彼の下船する船着き場に到着してしまう。

 船着場から、フレデリックは、彼を迎えに来た下男のイシドールと馬車で母親の住む家に向かう。家では若旦那のお帰りを皆が待ち構えているという。フレデリックの母親のモロー夫人は息子の将来に大きな期待を寄せている。彼が高等学校で名誉賞をもらうほどの立派な成績を収め、パリの大学で法学の勉強をすることになったのだから、これは当然のことである。母親のところに集まっていた知り合いの人々は、それぞれにフレデリックに話しかけたが、「誰もかも自分にかかわりのあることだけを知りたがった」(21ページ)。フレデリックはアルヌー夫人のことばかり考えている。そこへ旧友のデローリエから会いたいという連絡があるので、息子が彼とつきあうことを快く思っていない母親は制止するのだが、彼に会うために外出する。
 最後に名前が出てきたデローリエのほか、これまでのところでは名前だけしか出てこなかった隣家のロック老人、彼の娘であるルイズ、ロック老人が管理人をしている貴族出身の実業家で国会議員でもあるダンブルーズ氏などが、まだ登場しない人物とともに、これから重要な役割を果たすことになる。

 『感情教育』は『ボヴァリー夫人』、『サランボー』に続く、フローベールの3作目の長編小説で、翻訳者の解説によると、1864年に書きはじめられ、1869年に完成した。この作品は1840年代からナポレオンⅢ世の第二帝政に至る時代を背景とし、その中でフレデリック、そして副主人公となるデローリエをはじめとする青年たちがフランス社会と彼ら自身の未来をどのように築くかをめぐり夢見たり、活動したりする姿をた描いている。特に、反目したり、お互いに裏切ったりすることはあっても、結局のところ親友であるフレデリックとでローリエの2人が、それぞれの人生修業を通じて、それによって教育されていく過程が、フローベール自身の言葉を借りれば、彼の世代の精神史(histoire morale)、それ以上に感情の(sentimentale)歴史として描きこまれている。実際問題として、フレデリックとフローベール自身はほぼ同世代であるし、この作品にはフローベールの自伝的な要素が含まれているという。
 その一方で、この時代から20年近い年月を経て作品を執筆したフローベールは、改めてこの時代の社会と政治の動きを調べなおして、取り組んだといわれるし、虚構としての体裁をとっていることでかえって七月王政から第二帝政に至る激動のフランスの精神史を探るうえで貴重な証言たりえているのではないかと思う。この小説には、さまざまな方面からのさまざまな評価があるが、私自身について言うと、大学院時代に、「空想社会主義」の思想史的な研究に取り組んでいたころ、この小説に出会い、当時の人々にサン⁼シモンやフーリエ(特に後者)の思想がどのように受け取られていたかを知る手掛かりとして、この小説が貴重な意義をもっていることに気づいたことを思い出す。

 フローベールは彼が同時代人として経験したフランスの政治と社会の激動の様相とその中での青年の夢や恋愛をこの小説に描き出したのだが、この小説を読み返すことで、私自身も自分の青年時代のことを思い出し、見つめなおすということになるのかもしれない。

『太平記』(180)

10月16日(月)雨

 建武3年(南朝延元元年、1336)6月初旬、足利方は比叡山に立て籠もった後醍醐天皇方に対する攻撃を行ったが、後醍醐天皇方は地の利を生かし、よくこれを防いだ。比叡山が奈良の興福寺に加勢を求め、興福寺が応諾したことで西国の武士たちの中に後醍醐天皇方に味方するものが増え、都の四方を囲んで補給路を断ち、足利方を苦しめた。7月13日に、比叡山の後醍醐天皇方は都への攻撃を開始したが、北白川の火事を戦闘の開始と間違えて鳥羽の作道から足利方の本拠である東寺へと迫った四条隆資の率いる八幡の軍は、足利方の土岐頼直の奮戦により撃退され、八幡へ引き返した。

 南西から攻め寄せるはずだった八幡の軍勢が既に敗走したとも知らず、かねてから決められていた合図の時間になったというので、大手の大将である新田義貞は弟の脇屋義助とともに、2万余騎を率いて、今路、西坂から比叡山を下り、軍勢を三手に分けて押し寄せた。その一手は、義貞、義助、新田一族の江田、大館、関東の武士である千葉、宇都宮合わせて1万余騎、新田の紋である大中黒、千葉の紋である月に星、これも関東の豪族である結城の紋である左巴、宇都宮の紋である右巴、武蔵七党のうちの丹党と児玉党の内輪を組み合わせた図柄の紋、それぞれの紋を印した旗3千流れ(旗は~流れと数える)をさし連ねて、下鴨の糺の森を東から西へと抜け、大宮通を下って押し寄せる。
 もう一手は名和長年をはじめ、仁科、高梨、土居、得能、春日部以下、諸国の武士たちを集めて5千余騎、大将義貞の旗を守って、その陣形を変化させながら、猪熊通り(東大宮大路の東側の小路)を南下した。
 さらに一手は、二条師基(摂政関白二条兼基の子、道平の弟、北朝に寝返った良基の叔父にあたり、北陸の武士たちを集めて比叡山に応援にやってきていた)、洞院実世の2人の公家を大将として5千余騎、摂関家の紋章である牡丹の旗と、扇の旗(何の旗か不詳であるという)のただ2流れの旗だけをあげて、敵に道を遮断されないようにと、四条通を東の方に引き渡して、それから南の方にはわざと進まなかった(あまり戦力として期待されず、敵の攻撃の妨害を任されていたということらしい)。

 以前から東山の阿弥陀峯に陣を構えていた諸国の兵、阿波、淡路の兵千余騎は、まだ市中には入らず、泉湧寺(京都市東山区泉湧寺三内町にある真言宗寺院)の前、今比叡(東山区妙法院前側帖にある新日吉=いまひえ神社)のあたりまで下って、合図の狼煙を挙げた。そこで北区鷹峯の西北の長坂の大覚寺宮を大将とする額田右馬介の軍勢800余騎が、嵯峨、仁和寺の辺りに散開して、あちこちに火をかけた。

 足利方は数においては勝っていたが、後醍醐天皇方の武士たちに補給路を遮断され、人も馬も疲れて弱っていたうえに、朝の戦闘で矢をほとんど射尽していた(東寺の戦闘に参加したのは、足利方の一部の軍勢だけだったことが、これまでの記述でわかるので、これはおかしい)。対する新田勢は小勢ではあったが、名だたる名将新田義貞が指揮を執り、しかもこれまで何度も戦闘で敗北を喫ししていたので、今度こそは雪辱を果たそうと敵意を燃やし、この一戦に自分の名誉を掛けようという覚悟を決めて臨んでいた。それで、これまで対立してきた大覚寺統・持明院統の治世のご運も、新田足利多年の対立抗争も、この一戦によって決着を迎えるはずだと、新田方の武士たちはみな気を張り詰めていた。

 そうこうするうちに六条大宮から軍が始まって、足利方の20万騎と新田方の1万余騎とが、入り乱れて戦った。(兵力に差がありすぎるが、一つには数が誇張されていること、もう一つは、全員が一度に戦うのではなく、両軍とも先頭に立って戦う武士たちを入れ替えながら戦っているということである。) 「射違ふる矢は、夕立の軒端を過ぐる音よりもなほしげく、打ち合ふ太刀の鍔音は、そらに答古山彦の鳴り止む隙(ひま)もなかりけり」(第3分冊、162ページ)と、相変わらず作者の描写は大げさである。
 足利方は、都を碁盤の目のように通っている小路小路をふさいで、敵を東西から包囲し、敵が進んでくれば前を遮り、左右に分れれば中を突破するなど陣形を変化させ、相手の出方に応じて戦闘を続けたが、義貞の兵はそれにかく乱されることなく、中を突破されることもなく、時に退却することがあっても後ろから陣営を乱されることなく、向かってくる敵を次第に圧倒して、大宮通を下ってまっすぐ進んで行った。足利一族の仁木、細川、今川、荒川、足利方の土岐、佐々木(道誉)、甲斐源氏の逸見、武田、小笠原、安芸の小早川らの軍勢は、新田勢に追いまくられて、あちこちに敗走していったので、義貞の率いる1万余騎は、東寺の小門の前に押し寄せて、一度に鬨の声をどっと上げる。(東寺は京都駅の南側にあるのはご存知の方も多いと思う。京都駅は七条通と八条通の間にあるから、新田勢がどの程度足利勢を押しまくったかは想像できるはずである。)

 義貞は坂本から出陣してくるときに、後醍醐天皇の御前に参上して、「天下の落ち着く先は、天皇のご運にお任せする。今度の戦においては何としても、尊氏が立て籠もっている東寺の中に矢の一本も射かけなければ、戻ってこないつもりです」と申し上げた、その言葉の通りに、矢の届く範囲までに敵を追い詰めたので、今はついに尊氏を追い詰めたと大いに喜び勇んで、旗の下に馬の足をとどめ、城(東寺)をにらみ、弓を杖の代わりにして立ちながら高らかに呼びかけた。「天下の乱がやむことなく、罪のない人民が安心して暮らすことのできない日々がずっと続いている。この戦乱のもとは2つの皇統の争いとは申しても、ひとえに義貞と尊氏卿の対立がその原因である。自分だけの功業を立てるために、多くの人々を苦しめるよりも、大将同士が一騎打ちをして戦争の決着をつけたいと思うので、義貞自らこの軍門に罷り越したのである。この言葉が偽りかどうか、矢を一本受けてみたまえ。」と、強弓に矢をつがえ、十分に狙いを定めて、弦音高く切って放つ。その矢は遠く飛んで、尊氏が座っていた陣幕の中、本堂の南西の柱に、突き刺さった。

 尊氏はこれを見て、「自分がこの軍を起こして、鎌倉を出発してから、主上(後醍醐天皇)を滅ぼし妄想とは全く思っていない。ただ義貞にあって、自分の怒りを鎮めようとするためだけである。したがって、義貞と自分とで一騎打ちをして戦いの勝敗を決めるというのは、もとより願うところである。その木戸を開け、打って出るぞ」というのを、尊氏の母方の従兄弟である上杉重能が「これはどうしたことでしょうか。楚の項羽が漢の高祖に向かって、一騎打ちをしようと持ち掛けたのに対して、高祖があざ笑いながら、「おまえを討つのには、刑に服した罪人がふさわしい」といったではありませんか。義貞の奴は軽率に敵陣に深入りして、退却のしようがないために、やけになってたけり狂っているにすぎません。ここで軽々しく姿を現すべきではありません、とんでもないことです」と鎧の袖を引っ張って止めたので、尊氏もやむなくこの忠義から出た諫言に従い、怒りを抑えて座りなおしたのである。

 義貞は勇猛な武将であり、その率いる士卒も士気旺盛ではあるが、いかんせん軍勢が少ないうえに、兵力がある程度そろっても、それを率いる指揮官が不足している。衆徒はともかく、戦闘に慣れないお公家さんまで動員しているというのでは、勝ち目は少ないのである。足利方は軍勢が多いから、一時的にある程度劣勢になっても、持ちこたえていれば、やがて新田勢が疲れてきた時に反撃すれば勝てるという見通しを立てている。それだけの見通しを持った部将が配下にそろっているというのが強みである。あと一歩のところまで尊氏を追い詰めた義貞であったが、東寺に籠っている尊氏の陣を崩すことはできない。この後、足利方の反攻が始まる。それはまた次回。

時間をぜいたくに使う

10月15日(日)雨

 司馬遼太郎の『街道をゆく4 郡上白川街道、堺紀州街道 ほか』(朝日文庫)の題名から省かれて「ほか」としか書かれていないのが、「洛北諸道」の章である。その中に、京都市の西北にある、当時はまだ京北町であったが、現在は京都市に編入されている周山という地名について触れた個所がある:
「周山というこの奇妙な漢音の地名については、いわれがわからない。天正年間、織田信長の命令によってその部将明智光秀が丹波攻略をやり、その根拠地のひとつを周山に置いた。『老人雑話』には、光秀はこのときひそかに信長を暴王とし、殷の紂王になぞらえ、それを討つ自分を周の武王に擬してこの地を周山と名づけたというが、信ずることはできない。」(73-74ページ)

 大学時代の終わりのころに、学外の詩のサークルに入っていた。その中の年配の一人の会員が、「周山にて」という詩を書いてもってきたことで、司馬が信ずることはできないと書いている、周山と明智光秀の話を知った。どんな詩であったかは忘れてしまったが、なぜか、周山という地名が記憶に残っている。
 私にとって(今でもそうであるが)詩を書くことは趣味ではない、趣味以上のものであったが、かといって職業でもなかった。そんなことをしないで、授業にまじめに出たり、専門書を読んで勉強したりする方がよかったのかもしれないが、そうする気持ちにはあまりなれなかった。だらだらと、時間を過ごしていたが、それは一種の贅沢ではなかったかと今になって思う。

 仲間には学生もいたが、社会人の方が多かった。そうした社会人から学ぶことは少なくなかった。詩を書いているだけあって、自由に生きようとしていたのか、仕事をあれこれと変えて生活しているのが1人いた。その彼は、東映の京都撮影所で働いていて、黒澤明が『トラ・トラ・トラ』を撮影する現場の隅っこにいたらしい。黒澤はこの映画の日本側のキャストに全員素人を起用して撮影しようとしたのだが、山本五十六を演じる人が撮影現場にやって来ると、その現場に居合わせるスタッフ・キャスト全員が敬礼するように指示したという、そんな話をしていた。ずいぶん、貴重な場所に居合わせたものである。ところがご本人はそんなことは露思わず、1970年になったら、東京に出かけるなどと見当はずれなことを言っていた。

 そういう私も、そちらのサークルに入らず、溝口健二のシナリオ・ライターであった依田義賢が主宰していた詩の雑誌である『骨』の方に作品を持ち込んでおけばよかったと今になって思わないでもない。めったに経験できないような経験のできる機会に出会いながら、それを有効に使わないというのは一種の贅沢であろう。そう簡単に実現できない夢を追いかけるのも、贅沢であろう。一流の芸の持ち主に出会いながら、その芸を継承しないというのも贅沢であろう。贅沢にもいろいろある。

 大学時代にご一緒させていただいた年長の先生方の話を伺って、私よりもさらに年長の世代の方々が受けた高等教育というのは、さらに贅沢なものであったと思うことがあった。東京美術学校在学中に、近くの東京音楽学校(現在は両者合併して、東京芸術大学になっている)の邦楽科の生徒たちと仲良くなって、そういう生徒の大半は、邦楽の家柄の生まれなので、彼らの父親である邦楽の師匠に邦楽を習いに出かけるようになった。それで、ある程度進んだところで、温習会を開くのだが、そういうときはことさらにまずく演じて見せた…などという話を聞いたものである。

 一生懸命努力する、ベストを尽くす…というのは大事なことである。だが、人生それだけで終わるものではない。時間を有効に使って、優れた成果を上げることももちろん必要だが、その一方で、人生の回り道をして、時間を贅沢に使うこともあっていいのではないかと思う。だから、経済的な観点からだけ、高等教育について、あるいは<生涯学習>について考えることには賛同しがたいのである。

日記抄(10月9日~14日)

10月14日(土)雨

 10月9日から本日までの間に経験したこと、考えたこと、これまでの記事の補遺・訂正など:
10月9日
 東京六大学野球で東大が法政を破って勝ち点1をあげた。この試合で1番打者として活躍した辻居選手は私の中学・高校の後輩である。硬式野球部がない(軟式だけ)という学校であるが、時々、東大野球部で活躍する後輩がいる。東大の卒業生でもないのに、スポーツ新聞で東大の記事を追いかけているのはこの理由からである。

 NHKラジオ『まいにちスペイン語』の時間の「スペインの街角」のコーナーで、スペインの古都トレドToledoが取り上げられた。確か、ルイス・ブニュエルの『哀しみのトリスターナ』という映画の舞台がこの都市であったと思う。それ以上に、メリメの短編小説「トレドの真珠」が思い出される。

10月10日
 『まいにちスペイン語』の「スペインの街角」のコーナーでは、コスタリカの首都サン・ホセが取り上げられた。コスタリカには軍隊がないのだそうだ。どこかの国と違って、軍隊を持とうという話もないらしい。

 司馬遼太郎『街道をゆく5 モンゴル紀行』(朝日文庫)を読む。大阪外事専門学校(現在の大阪大学外国語学部)の蒙古科の出身である司馬さんが、専門学校時代の恩師である棈松源一さんや挿絵担当の須田画伯とともにハバロフスク、イルクーツク経由でモンゴルを訪ねる。モンゴルのビザを取るのに苦心したり、そのころのモンゴルの飛行機はすべて有視界飛行であったために、なかなか飛行機が飛ばなかったり、ゴビの砂漠で包(ゲル)に泊まったりとなかなか波乱に満ちていて、これまでの4冊よりも、かなり面白い。司馬さんも嘆いているが、日本人はモンゴルのことをあまりよく知らない。以前、ある大学の近くで食事をしていたら、その大学のたぶん大学院生が、モンゴルからの留学生と英語で話をしていて、ジンギスカンは日本を攻めてきたという話をしていた。(攻めてきたのは孫のフビライの時代のことである。)

10月11日
 NHKラジオ『実践ビジネス英語』の”Quote...Unquote"のコーナーで紹介された言葉:
Every calamity is to be overcome by endurance.
                    ―― Virgil (Roman poet, 70 -19 B.C.)
(あらゆる災難は、忍耐によって克服できる。)

 東谷暁『山本七平の思想』(講談社現代新書)を読み終える。山本についての本を読む前に、山本自身が書いた本を読むべきだったと思う(著作がかなり多いとか、かなり難しいことを言っている思想家の場合は、~について書いた本から読んだほうがいい場合もある)。山本の母校(の後身)である青山学院大学で行われた研究会に出席。

10月12日
 NHKラジオ『まいにちスペイン語』応用編は、アラルコンの『三角帽子』の3回目:
 隣村の村長宅まで連れて行かれたルーカスは、夜中にわら置き小屋を抜け出し、ロバを駆って自分の水車小屋へと向かう。途中野原で誰かとすれ違い、ロバが声高にいななくが、ルーカスは気にしない。水車小屋に着くと、小屋の扉は空いている。台所には誰もいないが、暖炉には火がどんどん燃えていた。暖炉の周囲には三角帽子をはじめ、市長の着衣が乾かされていた。ルーカスが二階の寝室をのぞき込むと、市長がいた。ルーカスは思いついて、市長が身につけていたものを着込み、町の方角に歩いていった。歩きながら、こんな独り言を言った。――¡También la corregidora es guapa! (市長夫人もべっぴんだ!)

 NHKラジオ『まいにちイタリア語』応用編はダンテの『神曲』の3回目。暗い森に迷い込んだダンテは小高い山を朝日が照らしているのを見て、希望をとりもどし山の頂上に向かおうとするが、豹、そして獅子、さらに雌狼に行く手を阻まれる。
… ch'io perdei la speranza de l'altezza. (私は高みを目指す望みを失った。)

 この日の当ブログで「ソクラテスの皮肉」をめぐるヘーゲルの意見について簡単に触れて、『哲学史講義』で確かめてみようと書いたが、夜、書店の文庫本コーナーで探してみたところ、河出文庫で3巻からなる『哲学史講義』の上巻しか並んでおらず、ソクラテスが登場するのはなんと中巻であることを知った。つまり、その位、ヘーゲルの『哲学史講義』はソクラテス以前の<哲学者>たちに1巻分を割くほど、ギリシアを重視していたということで、それがヨーロッパの伝統だったのだと気づいた。

10月13日
 『三角帽子』の続き。なぜ市長がそんなところにいたのか。話はいったん戻る。ルーカスが警吏と出ていき、フラスキータ奥さんは小屋に一人残されたが、家の外の用水路あたりから、助けを求める声が聞こえてきた。市長が用水路に落ちたのである。気の強いフラスキータ奥さんは、「こんな時刻に何しにいらっしゃったんですの?‥‥」と恐怖心よりもむしろ怒りに駆られて叫んだ。市長夫人にこのことを告げるというフラスキータに対し、市長はピストルを見せて脅すが、その程度のことで動じるフラスキータではない。「閣下、少しお待ちあそばせ、今火を起こしてきますので」

 『神曲』の続き。森に迷い込み、豹、獅子、狼という3頭の猛獣に行く手を阻まれたダンテは、恐怖におののき、進退窮まるが、そこへ人影らしいものが見える。何者かという問いに、
Rispuosemi: 《Non omo, omo già fui,
e li parenti miei furon lombardi,
mantovani per patrïa ambedui.

Nacqui sub lilio, ancor che fosse tardi,
e vissi a Roma sotto 'l buono Augusto
nel tempo de li dèi falsi e bugiardi.

Poeta fui, e cantai di quel giusto
figliuol d'Anchise che venne di Troia,
poi che 'l superbo Ilïon fu combusto.
(その人影は私に答えた、「私は人間ではないが、かつては人間だった。
両親はロンバルディアの者で
二人とも故郷(くに)はマントヴァだ。
私は、遅きに失したとはいえカエサルの時代に生まれ
善きアウグストゥスが治めるローマに生きた。
偽りの神々の時代だった。
私は詩人だったから
誇り高きイリオスが焼け落ちたあとトロイアからやってきた
アンキーセスの立派な息子のことを詩に謳った。)

 「アンキーセスの立派な息子」はトロイアからイタリア半島に落ち延びて、ローマ建国の遠祖となった英雄アエネーアースのことで、この人影はアエネーアースの事績を叙事詩『アエネーイス』に謳いあげたローマ黄金時代の大詩人ウェルギリウスであった。自分がかねてから尊敬していた詩人と出会った喜びで、感謝の言葉を述べる彼に向かい、ウェルギリウスは、自分と一緒に来るように促し、ダンテはウェルギリウスに導かれて地獄、そして煉獄をめぐることになる。
 今回は、『神曲』(この日本語名は、森鷗外が名付けたものだそうである)の題名について、その言語と文体の多様さ、ダンテのリアリズムの具体例などが指摘された。

10月14日
 今日はニッパツ三ツ沢球技場でYSCCの試合があるのだが、天気が悪いので見に出かける気にならない。〔横浜市に本拠を置くJリーグのチームは3つあって、横浜F・マリノスがJ1、横浜FCがJ2、YSCCがJ3に属している。〕

 神保町シアターから7月~8月の「神保町シアター総選挙」のスタンプ・ラリーを達成したことへの賞品が届いた。このところ、足が遠のいているので、これをきっかけとしてまた出かけることにしよう(現在、その出演作を特集上映中の赤木圭一郎は私の出身校の6年先輩である。今回は、学校の後輩である辻居選手の話題からはじめて、先輩である赤木圭一郎の話題で締めることになった。〕  

渡辺淳子『東京近江寮食堂』

10月13日(金)雨

 渡辺淳子『東京近江寮食堂」(光文社文庫)を読み終える。著者の名になじみはなかったが、表題に「近江寮」とあったので、滋賀県生まれの私の食指が動いて、読んでみたのである。

 寺島妙子は、10年ほど前に夫が家出して一人暮らし、病院の下働きをしていたが、それも間もなく定年を迎えようとしている。定年退職前に30日を超える年休をとり、東京へとやってきた。東京で暮らしているらしい、姿を消した夫のことが気がかりなのである。その年の夏に、久しぶりに夫からハガキが来た。その消印が本郷であったので、本郷の近辺をあるいたのちにアメ横に向かう。ところが、財布をすられてしまう。警察に届けても、よくあることなので真剣には対応してくれない。家に戻ろうかと思ったら、かかりつけの歯科医から電話があって、財布を拾った人が現われたという。財布を拾ったのは鈴木安江という人物で、東京近江寮という宿泊施設の管理人である。滋賀在住者なら安く泊まれるというので、背に腹は代えられず(財布の中の5万2千円は掏摸に抜き取られていたのである)、この施設を利用することになる。

 翌日、近江寮の前で空き缶拾いをしていた不審な男が掏摸の犯人ではないかと思って、妙子が追及すると彼はなぜか彼女の写真をもっている。妙子が男ともみ合っていると、安江が助けに入り、そのためにけがをしてしまう。それで、寮の食事をつくることが出来なくなった安江に代わり、妙子が台所を担当することになる。妙子は昔、夫とともに近江料理の店を開業していたことがある。それが流行らないので、店を閉めて、他人の店で料理人として働くように夫に勧め、それでうまくいっていると思っていたのに、夫は家出したのである。
 美的なセンスはなかなかのものであるが、料理は下手な安江に代わって、妙子が料理を始めると寮の食事が一変する。

 もともと都内の大学に通う滋賀県出身の学生のための寄宿施設だった近江寮は、その後宿泊施設に模様替えした。安く泊まれるということで、長期滞在者や、常連客は滋賀県在住者が多いが、それが一癖も二癖もある人物ばかりである。
 38歳の光成は映像作家を目指すといいながら、3年以上この寮に連泊し、レンタルビデオ屋などに勤めながら生活している。不愛想だが、頼りになることが多いと安江は言う。
 滋賀の零細企業に勤めている四賀浩彦は2~3か月ごとに出張のため上京し、1週間ほど滞在し、その間、夜になると歌舞伎町に出勤している。あるホステスに入れあげていて、上京のたびにその店に通うのだという。
 一見すると紳士に見える池花透は、病院に通うために滞在している。忍というパートナーが、区内の病院に入院しているからだという。長期間介護を続けていると心身ともにくたびれてくるはずなのだが、そのように見えないのは不思議である。
 寮とは別の場所に住んでいる光江にはヨシ子という90歳を過ぎた姑がいる。耳は遠いし、体力の衰えは隠せないが、その経験知は恐るべきものがある。そのヨシ子の面倒を以外にも光成がよく見ている。

 妙子が近江寮になじみ、寮の雰囲気を変えるとともに、失踪した夫探しも少しずつ進み始める。物語が進むにつれて、初めの方では隠れていた事柄が明るみに出てくる。宿泊客たちも、いかにもという事件、思いがけない事件を起こして物語の進行を早めたり、妨害したりする。妙子が夫とともにやっていた近江料理店がうまくいかなかったのは、近江料理そのものが問題ではなくて、料理店の中での近江料理の居場所がうまく見つけられなかったということらしい。近江寮で自分の居場所を見つけ始めた妙子は、寮の定食の中に近江料理をうまくはめ込んでいくことに成功していく…。

 近江寮に実在のモデルがあるかどうかは知らないが、上野から東大の近くにかけては、この種の施設がいくつもあるので、物語の展開に無理なくついていくことができる。作者は滋賀県出身で、看護師をしながら小説を書いているという。妙子が滋賀県出身で病院の下働きをしているというような設定に、著者の経験が生かされているようである。平和堂などという滋賀県に本店のあるチェーン店の名前がさりげなく入っている。
 滋賀県といっても京都に近く、工場の進出も目立つ湖南の方と、人口が多いとは言えない湖北や湖西の方では相当な違いがあるし、この小説に多く登場する人物も滋賀県出身ということだけが共通して、その個性はきわめて多様な描かれ方をしている。ここでは、例によって、物語の起と承の部分の紹介にとどめて、転・結の部分は省略しているが、江戸っ子が登場したり、山形県の人が登場したりで、さまざまな地方色が入り乱れることで、あまり強い個性をもっているとはいえそうもない(と作者が考えている)滋賀県の歴史・文化の特色が描き出されるという効果を生んでいる。

 強い特色はないと書いたが、北陸地方から琵琶湖の水運を伝って京都に物資が運ばれていた時代からの文化的な伝統の名残のようなものはあるに違いない。この小説でも「売り手よし、買い手よし、世間よしの三方よし」(159ページ)という近江商人の心情が語られていたり、料理を通じてそのような名残が描かれたりしている。彦根藩関係では、近江牛について触れられていて、彦根リンゴについては触れられていない…というのがその現状についての認識を新たにさせてくれるわけで、歴史的な興味も多少は満足させてくれる。

木田元『哲学散歩』(3-3)

10月12日(木)晴れ、次第に雲が多くなってきたが、依然として暑い。

ソクラテスの皮肉(3)
 ソクラテスは知識人(ソフィスト)たちとの論争において、自分は無知であるからその欠けている知識(ソフィア)を愛し求める(フィレイン)という愛知(フィロソフィア)の立場をとった。〔哲学のことを英語でphilosphieというのはこれが起源であるのはご存知の方も多いはずである。〕 しかしそこで彼が取った態度は、論敵や世間の人々から「知っているのに知らないふりをする」(エイローネイア)と呼ばれたのである。近代の諸言語における「皮肉」(英語であればアイロニーironyの語源である。)
 皮肉には、心の中で思っていることと、口に出された言葉とが反対である(矛盾している)という特徴がある。これは嘘と同じことであるが、嘘はばれてしまえばおしまいであるのに対し、皮肉は相手がその皮肉に気づくことに意味がある。したがって皮肉には教育的な効果が期待できる。

 木田さんは皮肉(イロニー、これはドイツ語である)についてそれが教師の側からの教育手段として有効であると論じるニーチェの言葉を引用している。
「皮肉(イローニッシュ)な教師は無知を装う。しかもきわめて巧みにそれをやってのけるので、彼と話し合っている弟子はすっかりだまされて、自分の学識の方が先生より優れていると思い込んで大胆になり、自分の弱点をありったけさらけ出してしまう。彼らは警戒心を失い、ありのままの自分を見せてしまう――ところが一瞬、彼らが教師の顔に差し向けていた光が、その光芒を突如転じて彼ら自身を照らし出し、その慢心をくじくのである。教師と弟子の間に見られるようなこうした関係がない場合には、皮肉(イロニー)は一種の無礼であり、低俗な気どりである。」(『人間的な、あまりに人間的な』、第6章第372節)(29-30ページ)

 ソクラテスの皮肉(イロニー)もまた、知識人(ソフィスト)に対するこうした教育的手段だったと考えてよい。彼もまた無知を装って知識人(ソフィスト)たちに問答を仕掛け、彼らの誇示する知識を吟味してそこに矛盾を見出し、彼らに己の無知を自覚させて、真の知への愛に目覚めさせた――ということで一応の決着がつくが、木田さんはそこから先を問題にする。
 ソクラテスが無知を装っているとするのであれば、当然彼には語るべき知識があるはずである。しかし、プラトンの初期の対話篇を読むと、ソクラテスがそのような真の知を語ったという形跡はない。だとすると、ソクラテスは自分で言っているように、本当に無知だったということになる。ヘーゲルの『哲学史講義』はそのような立場をとっているそうである(それで、読んでみたくなった)。本当に無知な人間が、自分は無知だと表明することは、皮肉でも何でもない。「だが、無知な人間に、いったいどうして吟味ができるのか。」(31ページ)

 「彼がその内面においても無知でありながら、なおかつ彼の言動が皮肉(イロニー)である可能性がありうるだろうか。
 …皮肉(イロニー)とは外なる現象を仮象として否定し、真の本質に立ち返ろうとする運動であった。もしそうして立ちかえった本質をさえもさらに仮象として否定していくといったふうに、その否定が無限に繰りかえされるとしたらどうであろうか。」(同上)

 ソクラテスの皮肉によって、自己の真の内面に立ち戻らされたソクラテスの論敵は、それと同時jにソクラテスの偽装された外面をもつ紀破り、彼の真の姿をとらえたと思うに違いない。だが、その時訴kルアテスがその姿をさえも仮象として脱ぎ捨て、無限に後退を続けていくとしたらどうであろうか。おそらく相手は果てしなく自己のうちへ突き戻され、これまでの信念や知識の一切を奪われて、無の不安にさらされるであろうと木田さんは言う。〔しかし、不安は古い自分を脱ぎ捨て、新しい自分に移る際の、一時的な現象であればよいが、それが続くということになると危険を招くかもしれない。〕

 「ソクラテスの皮肉(イロニー)の真のねらいは、どうやらこうした無限否定、つまり単なる否定のための否定にあったのではないかと思われる。おそらく自分が歴史の大きな転換点に立たされているという予感があったのだろう。」(31-32ページ)
 「だが、こうした否定の運動は、一度止まってしまうと、それまでのすべてが嘘になる。どこまでも走り続けねばならないのだ。そんなことは、ソクラテスのような巨人にしかできそうにない」(32ページ)。そして、皮肉屋として生きようとしたフリードリッヒ・シュレーゲルや太宰治の挫折の例を引き合いに出して、「皮肉屋として生きるのは大変なことなのだ」(32ページ)と結ぶ。〔しかし、ソクラテスが自分では発見できないけれども、新しい時代を切り開く真理を誰かに発見してほしいと考えて、既存の真理に対して否定的な態度をとり続けていたとみることもできるだろう。モンテーニュの見たソクラテスの姿はこのようなものではなかったかと私は勝手に考えている。批判とか、懐疑とかいう姿勢は、いくつか数えられる程度の、自分にとって重要な問題をめぐるものにとどめておいて、後は常識に任せて、思考を停止するという方針を私はモンテーニュから学んだと、これも勝手に思っている。〕

 皮肉は使う側にも、使われる側にも、それなりの知性が要求されるのであって、むやみに使うべきではない、それに皮肉を言う側の善意が言われる側に通じない場合も考えるべきであるということを、私の教師としての経験から付け加えることができる(多少の皮肉が通じるような師弟関係の方が楽しいが、なかなかそれは成立しにくくなっているのではないかと思う)。
 

ダンテ・アリギエリ『神曲 天国篇』(29-1)

10月11日(水)曇り

 ベアトリーチェに導かれて地球の南半球にそびえる煉獄山の頂上にある地上楽園から、天上の世界へと旅立ったダンテは、月天、水星天、金星天、太陽天、火星天、木星天、土星天を歴訪し、至高天から彼を迎えにやってきた魂たちと会話し、自分の使命が地上の世界の人々に自分が見聞きしたことを知らせることであるとの自覚を得る。至高天から土星天へと降りている「ヤコブの階段」を上って恒星天に達した彼は、信仰、希望、愛という3つの対神徳についての試問を受け、地上で自分の見聞を語るにふさわしい人物であることを証明する。そして、彼は物質的な目に見える世界を離れて、非物質的な世界の入口である原動天に達する。そこは宇宙全体の運動の起点であり、天使達の世界である。ベアトリーチェは、原動天について、天使達についてダンテに説明する。

ラートーナの二人の子が
牡羊座と天秤座とに重なり、
双方が同時に地平線を帯にする頃、

天頂の天秤で両者を平衡に保った瞬間から
その両者が異なる半球に入り、
帯を解いていくまで、

それと同じ時間だけ、ベアトリーチェは
私を圧倒したあの点をじっと見つめながら、
微笑みに彩られた顔で沈黙した。
(432ページ) 「ラートーナの二人の子」は、ギリシア神話の女神ラートーナと、ユピテルの間に生まれた太陽神アポロンと月守ディアーナをさす。つまり太陽が牡牛座にあり、月が天秤座にあり、それが地平線上に同時にあるような季節と時間帯が示唆されている。牡羊座と天秤座は天球上で正反対の位置にある。太陽が牡羊座にあるのは春で、これが地平線に中央を横切られて昇ってくるのは午前6時ごろだそうである。

 そしてベアトリーチェは、ダンテの心中の疑問をまたもや見抜いて、その疑問に答え始める。
永遠の愛は、善をさらに獲得し増やすためではなく、
それはあり得ぬことですから、その光を反射した輝きが、
反射している中にあって「我在り」と言えるよう、

時間外の、また自らの他には何も含まぬ空間外の
永遠の状態にあって、ただ望まれたがゆえ、
新しく創造した愛の中に自らを開示されました。
(433ページ) 「永遠の愛」=神は、時空間の出現以前に永遠の状態にあって「ただ望まれたがゆえ」、つまり純粋な愛から、天使を、それぞれが個として神を愛し返すように創造した。さらに、その時に創造の「三様の成果」天使、宇宙、そして地球をも創造した。その三様の成果とは、全宇宙の頂点である至高天にいる純粋な形相「現実態」=天使、形相と質料の合成=宇宙、純粋な質料「可能態」=月天下の四元素である。

 天使は天地創造の時に、時空間外の永遠の中に、純粋な概念である形相として創造された。
その天使たちの一部があなた達の諸元素の基底を
激震させたのは、数を数えて二十にも達しない、
それほどの瞬く間のことでした。

他の天使達は残り、あなたが今見ている
この技を始めました。その喜びですが、
この方たちが決してこの輪を離れぬほどなのです。

失墜のそもそもの原因は
宇宙の全重量が集中して圧している有様をあなたが見た
あの者の呪われた高慢にありました。

ここにあなたがみているのは
あれほどの理解に達するよう彼らを創造された
かの善に自身が由来することを認めた謙虚な方々です。
(436-437ページ) 天地創造直後に天使達の一部が神に反逆した。「あなた達の諸元素の基底」とは地上世界を構成する四元素のうち、一番下にある土。ここでは大地のことをさす。そしてその反逆の中心であった堕天使ルシフェルは全宇宙の中心である地心に封じられた。その姿は、地獄を訪れたダンテが見たとおりである。

 ベアトリーチェはその後に、天使達の神を見る知性の視力は、神の恩寵によりさらに高められているが、それは、神に対してどれだけ心を開いたかで恩寵の多寡が定まる、功績への報酬だからだと説明を加え、さらに天使は人間と同様に「理解」「記憶」「意志」を持つとする学説があるが、森羅万象が現前する神をつねに見ている天使には、事物を時間的に分節して知性にしまい込む記憶は必要ないと述べた。ここでは、ダンテの時代の神学者たちが天使がどのようなものであるかをめぐって烈しく論争を続けていたことが批判的に語られているようである。(存在するかどうかわからない天使について議論するよりも、もっと先に議論すべきことがあるのではないだろうか…)

 天使の反逆を題材にした叙事詩がミルトンの『失楽園』である。天国を追われたルシフェル達は、ふたたび反撃を企て、その過程で人祖アダムとエヴァを罪に誘惑しようとする。ミルトンは、ダンテに匹敵する、あるいはそれをしのぐ叙事詩を創造しようとしたのだろうが、近年その評価はあまり高くないようである。エリック・ホッファーはミルトンがクロムウェル時代に宗教や政治問題にかかわるパンフレティーアとして労力を浪費したことを嘆いているが、最近では『失楽園』の詩人としてより、パンフレティーアとしてのミルトンを高く評価する意見の方が有力なように思われる。

 ベアトリーチェはさらに言葉を続ける…。

ダンテ・アリギエリ『神曲 天国篇』(29-1)

10月11日(水)曇り

 ベアトリーチェに導かれて地球の南半球にそびえる煉獄山の頂上にある地上楽園から、天上の世界へと旅立ったダンテは、月天、水星天、金星天、太陽天、火星天、木星天、土星天を歴訪し、至高天から彼を迎えにやってきた魂たちと会話し、自分の使命が地上の世界の人々に自分が見聞きしたことを知らせることであるとの自覚を得る。至高天から土星天へと降りている「ヤコブの階段」を上って恒星天に達した彼は、信仰、希望、愛という3つの対神徳についての試問を受け、地上で自分の見聞を語るにふさわしい人物であることを証明する。そして、彼は物質的な目に見える世界を離れて、非物質的な世界の入口である原動天に達する。そこは宇宙全体の運動の起点であり、天使達の世界である。ベアトリーチェは、原動天について、天使達についてダンテに説明する。

ラートーナの二人の子が
牡羊座と天秤座とに重なり、
双方が同時に地平線を帯にする頃、

天頂の天秤で両者を平衡に保った瞬間から
その両者が異なる半球に入り、
帯を解いていくまで、

それと同じ時間だけ、ベアトリーチェは
私を圧倒したあの点をじっと見つめながら、
微笑みに彩られた顔で沈黙した。
(432ページ) 「ラートーナの二人の子」は、ギリシア神話の女神ラートーナと、ユピテルの間に生まれた太陽神アポロンと月守ディアーナをさす。つまり太陽が牡牛座にあり、月が天秤座にあり、それが地平線上に同時にあるような季節と時間帯が示唆されている。牡羊座と天秤座は天球上で正反対の位置にある。太陽が牡羊座にあるのは春で、これが地平線に中央を横切られて昇ってくるのは午前6時ごろだそうである。

 そしてベアトリーチェは、ダンテの心中の疑問をまたもや見抜いて、その疑問に答え始める。
永遠の愛は、善をさらに獲得し増やすためではなく、
それはあり得ぬことですから、その光を反射した輝きが、
反射している中にあって「我在り」と言えるよう、

時間外の、また自らの他には何も含まぬ空間外の
永遠の状態にあって、ただ望まれたがゆえ、
新しく創造した愛の中に自らを開示されました。
(433ページ) 「永遠の愛」=神は、時空間の出現以前に永遠の状態にあって「ただ望まれたがゆえ」、つまり純粋な愛から、天使を、それぞれが個として神を愛し返すように創造した。さらに、その時に創造の「三様の成果」天使、宇宙、そして地球をも創造した。その三様の成果とは、全宇宙の頂点である至高天にいる純粋な形相「現実態」=天使、形相と質料の合成=宇宙、純粋な質料「可能態」=月天下の四元素である。

 天使は天地創造の時に、時空間外の永遠の中に、純粋な概念である形相として創造された。
その天使たちの一部があなた達の諸元素の基底を
激震させたのは、数を数えて二十にも達しない、
それほどの瞬く間のことでした。

他の天使達は残り、あなたが今見ている
この技を始めました。その喜びですが、
この方たちが決してこの輪を離れぬほどなのです。

失墜のそもそもの原因は
宇宙の全重量が集中して圧している有様をあなたが見た
あの者の呪われた高慢にありました。

ここにあなたがみているのは
あれほどの理解に達するよう彼らを創造された
かの善に自身が由来することを認めた謙虚な方々です。
(436-437ページ) 天地創造直後に天使達の一部が神に反逆した。「あなた達の諸元素の基底」とは地上世界を構成する四元素のうち、一番下にある土。ここでは大地のことをさす。そしてその反逆の中心であった堕天使ルシフェルは全宇宙の中心である地心に封じられた。その姿は、地獄を訪れたダンテが見たとおりである。

 ベアトリーチェはその後に、天使達の神を見る知性の視力は、神の恩寵によりさらに高められているが、それは、神に対してどれだけ心を開いたかで恩寵の多寡が定まる、功績への報酬だからだと説明を加え、さらに天使は人間と同様に「理解」「記憶」「意志」を持つとする学説があるが、森羅万象が現前する神をつねに見ている天使には、事物を時間的に分節して知性にしまい込む記憶は必要ないと述べた。ここでは、ダンテの時代の神学者たちが天使がどのようなものであるかをめぐって烈しく論争を続けていたことが批判的に語られているようである。(存在するかどうかわからない天使について議論するよりも、もっと先に議論すべきことがあるのではないだろうか…)

 天使の反逆を題材にした叙事詩がミルトンの『失楽園』である。天国を追われたルシフェル達は、ふたたび反撃を企て、その過程で人祖アダムとエヴァを罪に誘惑しようとする。ミルトンは、ダンテに匹敵する、あるいはそれをしのぐ叙事詩を創造しようとしたのだろうが、近年その評価はあまり高くないようである。エリック・ホッファーはミルトンがクロムウェル時代に宗教や政治問題にかかわるパンフレティーアとして労力を浪費したことを嘆いているが、最近では『失楽園』の詩人としてより、パンフレティーアとしてのミルトンを高く評価する意見の方が有力なように思われる。

 ベアトリーチェの話はさらに続く…。

亀田俊和『観応の擾乱』(7)

10月10日(火)晴れ、気温上昇
 《観応の擾乱》は観応元年(南朝正平5年、1350)から観応3年(南朝正平7年、1352)にわたって展開された、室町幕府初代将軍足利尊氏および執事高師直と、尊氏弟で幕政を主導していた足利直義とが対立し、初期幕府が分裂して戦った全国規模の戦乱である。その初期において鎌倉幕府(と建武政権)を模倣したような体制をとっていた室町幕府が、この戦乱を通じて独自の権力構造をもつようになると著者は言う。
 初期室町幕府は将軍尊氏とその弟の直義の二頭政治であり、尊氏が章氏に対する恩賞の給付、守護・地頭職の任免などを行い、直義は土地関係の裁判を担当した、いわば尊氏が主従制的な支配権、直義が統治権的な支配権を分担したというのが通説である。しかし、著者は政務の実態を分析して、「初期室町幕府の体制は二頭政治ではなく、直義が事実上の最高権力者として主導する体制だった」(9ページ)と論じる。とはいえ、尊氏もわずかながら権限を有しており、それは創造的な要素をもつもので逢えあった。これは初期室町幕府の政権基盤が安定したものではなかったことを反映するものである。また高師直は将軍尊氏の執事であっただけでなく、直義の執事でもあったと考えられるという。師直も大きな権限を有していたが、室町幕府が安定に向かう中で、その権限は縮小される傾向にあった。この段階で師直と直義の間に意見の隔たりがあったとしても、修復不可能なほど大きなものではなかったと考えられる。
 貞和3年(1347)に楠木正成の子・正行が挙兵し、幕府軍を数次にわたって破り、政権首脳に大きな危機感を与えるが、高師直・師泰兄弟によって貞和4年に討伐され、勢いをかって師直は吉野の南朝の本拠を陥落させ、南朝の後村上天皇以下は奥地の賀名生に退いた。このことで師直と高一族の声望は大いに上がった。
 尊氏には後継者の義詮よりも年長の直冬という実子がいたが、父親に冷遇され、直義の養子になっていた。彼は貞和5年に「長門探題」として西国に赴く。その背後には西国に自派の勢力を拡大しようとする直義の意図があったと推測される。
 幕府内部では恩賞をめぐり不満を抱く武士たちが少なからずいて、彼らが直義の信任の篤い僧侶である妙吉を通じて師直に対する讒言を繰り返し、次第に直義がそれを信じるようになったことから幕府内部の亀裂が大きくなったと考えられる。
 貞和5年(1349)閏6月の初めごろ、足利直義は高師直の暗殺を企てるが未遂に終わる。この事件を機に師直は失脚し、幕府内部で直義を支持する勢力が強くなるが、8月に師直と彼を支持する大名たちが尊氏・直義兄弟のいる土御門東洞院邸を大軍をもって囲み(室町幕府独自の風習であった「御所巻」の最初の例)、直義が引退して、彼の腹心の上杉重能、畠山直宗を流罪とすることで決着した。さらに、当時関東地方を統治していた足利義詮を上京させ、それまで直義が占めていた三条殿の地位につけることが決定した。

 この事件の黒幕は尊氏であったという(佐藤進一らの)説もあるが、前後の状況から考えて信じがたい。「真に評価すべきは、尊氏が師直挙兵という不測の緊急事態にうまく対応し、嫡男義詮に直義の地位を継承させるという最大限の利益を得た点であろう。不運すらも幸運に変えていくのが、足利尊氏という将軍の不思議な魅力である」(62ページ)と亀田さんは論じている。

 この政変直後の8月19日ごろ、足利尊氏が政務に復帰し、高師直は執事に復帰した。これは、光厳上皇の命を受けた夢想疎石の仲介によるものであった。執事施行状の発給も復活した。25日には三条殿で評定が開催され、師直も出席した。ともかくも表面上は、両者は和解したことになるが、実際は直義派に対する圧迫が続いた。
 康永3年(1344)に、幕府はそれまでの五方制引付方を改め、三方制内談方を発足させた。この改革は直義の親裁権を強化する一方で、この内談方の頭人になったのは上杉朝定、上杉重能とともに高師直で、それまで縮小されがちであった彼の権限を復活させていると評価された(29ページ参照)。ここで再び五方制引付方が復活し、その5人の頭人になったのは、斯波家兼(尊氏―師直派)、石橋和義(中間派)、佐々木導誉(尊氏―師直派)、長井高広(直義派)、仁木義氏(これまで内談頭人、尊氏―師直派)となって、尊氏―師直派の進出が著しい。なお、将軍尊氏の政所執事も、直義派の二階堂行珍から佐々木導誉に交代し、侍所頭人も、御所巻の功で仁木頼章が就任した。さらに「寄合方」と呼ばれる機関が出現した。その詳細は不明な点が多いが、少なくとも師直の権限が増大していることは確実にいえる。
 一方、中国地方に滞在していた足利直冬は、九州に移る。これは高師直の追討計画に不意を突かれての転進という見方もあるが、むしろ当初からの計画通りの行動ではなかったかと考えられる。

 10月22日に、鎌倉から足利義詮が東国の大名を多数率いて入京した。25日には義詮は当時錦小路堀川の細川顕氏邸に住んでいた直義と面会した。この時も師直以下が付き従った。翌26日、それまで直義が住んでいた三条殿に移住し、政務をとりはじめた。それまで直義が発給していた所務沙汰の裁許下知状も、義詮が発給するようになった。また上皇や天皇と直接政治交渉を行う役割も、義詮が務めた。義詮は幕政統括者としての直義の権限を完全に吸収したのである。これらのことから、師直が尊氏だけでなく(直義とともに)義詮の執事でもあり、主君尊氏の意を承けて、義詮を次の将軍にすべく彼の権威確立に奔走していたことが知られる。
 鎌倉には9月9日に義詮の弟の基氏が下向した。基氏は義詮の同母弟である。しかし直義の養子となっていた。わずか10歳であり、供奉の人数も少なく、元服以前の下向には疑問を感じる人もいたようである。(田辺久子『関東公方足利氏四代』には「政務を義詮に移譲することが決まっての直義は、義詮を補佐するとはいえ、かなり弱い立場になったといえよう。基氏を手放すことはさらに痛手であったかもしれない。ただしこの時期まで基氏が直義の元に居たか否かは詳らかではない」(18ページ)と記されている。)

 さて、直義は9月に左兵衛督を辞任、三条殿を出て、細川顕氏の宿所に移り、12月8日に夢想疎石を受戒師として出家する。その後は、顕氏の邸内の粗末な閑居に住み、ほぼ誰も彼を訪問しなかった、わずかに玄恵法印だけが師直の許可を得てたまに訪れていたが、やがて高齢と病気のために訪問できなくなったというが、完全に孤立していたわけでもなさそうだと著者は推測している。その推測の根拠は、次回以降明らかになるはずである。 

『太平記』(179)

10月9日(月)晴れ、気温上昇

 建武3年(南朝延元元年、1336)の6月初旬から、京都を奪回した勢いに乗って足利方は、後醍醐天皇とその支持勢力が立て籠もっている比叡山を攻撃したが、比叡山の衆徒たちの応援を得た後醍醐天皇方の守りは固く、敗走せざるをえなかった。比叡山延暦寺は後醍醐天皇を支持する勢力を強めるために、南都の興福寺に加勢を求め、興福寺が応じたという知らせが伝わると、西国の武士たちの中に後醍醐天皇方に加わる者が続出し、京都が包囲される形となった。7月13日に(史実は6月30日)、宮方は京都に総攻撃を仕掛けようとしたが、三木一草の中で生き残っているのは名和長年だという女童の噂を耳にした名和長年は、もしこの戦いで負ければ生きて帰るまいと心に決めたのであった。

 京都の合戦は13日の巳の刻(午前10時ごろ)とあらかじめ手筈が決められていたので、比叡山の東坂から進んできた軍勢は、関山(逢坂山)と修学院に至る道である今路あたりに待機して、その時刻を待っていた。ところが足利方のものが相手を欺こうと放火したのであろうか、北白川から火が出て、その煙が空に上った。白川というのは鴨川の東の地域を言う。北白川は現在の京都では今出川通の北、東大路の東の一区画で、京都大学の農学部と理学部、人文科学研究所などがあり、学生の下宿も多い。私は住んだことはなかったが、友人の下宿などを訪ねて、歩き回った経験がある。
 京都を南から攻撃しようとして八幡に待機していた宮方の軍勢は、大将として四条隆資卿を頂いていたが、この火の手が上がるのを遠くから見て(現在では見えることはない)、比叡山から押し寄せた軍勢が京都市内に放火したものと誤解した。それで、すでに戦闘が始まったものと思い、この日の戦いに遅れては面目が立たないと、示し合わせていた時刻を待たず、自軍の軍勢は3,000余騎であったにもかかわらず、鳥羽の作道(朱雀大路の南端である羅城門から鳥羽へまっすぐ南下する道)を進み、東寺の南大門の前と押し寄せた。

 東寺に駐屯していた足利方の軍勢は、比叡山から攻め寄せてくる敵を防ごうと、下鴨神社の周辺の糺の森、北白川のあたりに皆向かっていたので、残っていたのは北朝方の公卿たち、あるいは将軍(足利尊氏、この時点ではまだ将軍位についてはいなかった)の側仕えの老人、子どもなどばかりが集まっていて、敵を防ぐような兵はいなかった。寄せ手である八幡からの軍勢の足軽たちは、作道周囲の低湿地である鳥羽田の南の畦道を伝い、四塚(南区四塚町)や羅城門の跡地のあたりに進んで、多くの矢を射かけたので、作道まで進出していた高師直の率いる500余騎の軍勢は、この矢の勢いに押されて退却する。八幡勢はいよいよ勢いに乗って、携帯用の楯である持立や、数人で担ぐ楯であるひしぎ楯を寄せ集めて、頭の上にかざして攻め込んだので、東寺の未申(南西)の隅にある塀の上の高櫓一つが、あっさりと攻め破られて焼けてしまった。

 寺の中にいた人々はこれに驚いて、口々に騒ぎ立てたけれども、尊氏は、少しも驚かず、東寺の鎮守八幡宮の前で読経を続けていた。尊氏の身辺を警護していたのは問注所の役人をしていた太田時連と美濃の豪族である土岐頼貞の2人の既に頭を丸めた年配の武士2人であったが、頼貞は周囲を見て、「しまったことをしました、愚息の悪源太(頼直)を北の方に向かった軍勢に加えないで、ここに留まらせておけば、この敵を簡単に追い払うことができたと思うと残念です」といっているところに、その悪源太がやってきた。〔悪源太というと、平治の乱で活躍した源義朝の長男(頼朝の兄)悪源太義平が思い浮かぶ。土岐氏も清和源氏の一流であるから、長男は源太と呼ばれるわけである。悪は悪いという意味ではなく、強い、異能のという意味である。〕
 頼貞は頼もしそうに息子を眺めて、「どうした、北の方の戦はまだ始まらないのか」と問う。息子は「いや、私はまだ存じ仕りません。三条河原まで進んでいたのですが、東寺の未申(南西)の方角に煙が見えましたので、取って返して駆けつけてまいりました。こちらの合戦はどんな様子でしょうか」と答える。すると、ここまで退却して来ていた高師直が「ただ今、通リ道の戦闘で負けて退却したのであるが、この陣営に兵が多くないので、入れ代わりの兵を出すことができない。すでに南西の角の出塀(だしべい、射撃や物見のために、城の塀の一部を外へ突き出したもの)を打ち破られ、焼き落とされてしまい、将軍の身辺は大変な危機に陥っている。一騎だけでも、貴公が出陣して、この敵を追い払ってほしい」。「畏まって承り候」といって、悪源太が尊氏の御前から退こうとしたのを「しばらく」と引き留めて、尊氏は、常に帯添(はきぞえ、戦場での用意のため、たちに添えて腰につけるもう一本の太刀)にしていた伝来の名刀を悪源太に与えた。御所づくりの兵庫鎖の太刀と記されたこの刀には相当な来歴があるのだが、ここでは省略しておこう。

 悪源太は、尊氏からこの太刀を頂いたことで、すでに大いに面目を施し、かくなる上は思い残すことはないと勇み進んで、洗皮の鎧(鹿のなめし皮で縅した鎧)に、白星の兜(鉢に銀の鋲を打った兜)の緒をしめ、尊氏から与えられたばかりの金細工で装飾した太刀の上に、3尺8寸の黒塗りの太刀をさらに佩用し、弓矢の準備を整えたが、わざと臑当を身につけなかった。低湿地なので、時々は馬から降りて、泥深い田をあるくためである。キタの顧問から出陣して、羅城門の西へまわり、馬を田の畔のかたわらに放し、3町余り向こうに群がり立っている敵を、矢を手早く弦につがえて次々に射た。1本の矢で2人を倒し、無駄な矢は1本もなかった。南大門の前に攻め寄せていた八幡から寄せてきた兵千余人、一度にばっと引き退く。悪源太、これを先途と、駆け足の勝れた馬に乗って、足もとの悪い鳥羽の田の中ではあったが、まるで平地を行くように馬を懸けたてて、敵を6騎斬って落とし、11騎を負傷させて、反り返った太刀を押しなおし、怒りを全身に表した様子は、建保元年(1213)の和田合戦の際に和田方で剛勇を歌われた和泉親衡と朝夷奈義秀もこれに勝るものではないと思われるものであった。

 悪源太一人に追い散らされて、数万(数千だったはずである)の寄せ手はみなバラバラになってしまったと見えたので、高師直は千四騎を率いて、また作道を下って追いかける。高師泰は700余騎で竹田道を南下して敵を横から攻めようとした。すでに浮足立った軍勢は、どうしてここで踏みとどまって反撃しようなどと思うものであろうか。戦死者が出ても振り返らず、負傷者を助けることもなく、われ先に逃げ散って、もとの八幡に引き返したのであった。

 手筈違いで、八幡の宮方が足利方の本拠を予定された時刻よりも早く攻撃、足利方の主力が北東方面に出陣していたすきをついて怪我の功名になるはずだったが、悪源太と呼ばれる土岐頼直の奮戦で、水泡に帰した。危機になると超人的な英雄が出てきて局面を打開するというのはこの種の合戦によくある型で、『太平記』ではそれが裏切られることが少なくないのだが、ここではうまくいっている。尊氏の運が強かったということであろうか。

日記抄(10月5日~8日)

10月8日(日)晴れたり曇ったり

 10月5日~8日の間に経験したこと、考えたことなど:
10月5日
 昨夜は中秋の名月だったらしい。最近、そういうことに興味がなくなってきている。『太平記』を読むと、「平家なり 太平記には月も見ず」という気分になる・・・というわけでもないと思っている。

 NHK第二放送『実践ビジネス英語』は、昨日(10月4日)から”Ugly Produce"(不ぞろいな農産物)というVignetteに入っている。登場人物の1人がファーマーズ・マーケットに出かけ、訳ありの果物や野菜が売られていることに興味をもった。世界中で毎年、膨大な量の食べ物が廃棄されたり、畑に放置されてくさったりしているが、その理由の1つは、それらの作物が、見た目に関する気まぐれな基準を満たしていないことである。しかし、このような廃棄物を減らす取り組みをしている人がいて、廃棄量を減らす方法を探すよう食品業界を説得することにある程度成功してきた。
 話に加わっている英国出身の人物がクルジェットcourgetteじゃなかった、合衆国ではズッキーニzucchiniの形が多少おかしなものでもいいじゃないですかという。講師の杉田敏さんはzucchiniはイタリア語に由来すると説明していた。(説明しなかったが、英国で呼んでいるcourgetteはもともとフランス語で、仏和辞書には「クルジェット、ズッキーニ(形がキュウリに似たカボチャの一品種)」などと出ている。問題はzucchiniの方で、伊和辞典を見ると、zucchinaという見出しがあって、「(zuccaの縮小形)〔植物〕ズッキーニ、ウリカボチャ」とある。zuccaというのはカボチャのことである。問題は、イタリアではズッキーニのことを、ズッキーニといわず、ツッカーナというらしい、ということである。zuccanaは女性名詞であるから、複数はzucchineとなり、どこをどうやってもzucchiniという形は出てこない。もっとも、イタリア語にはいろいろな方言があることだし、ズッキーニというアメリカ英語ができたについては、それなりの理由があるのであろう。たぶん、誰かがその理由を探し当てていると思うので、気長にこの謎を探してみることにしよう。

 NHKラジオ第二放送『まいにちスペイン語』はアラルコンの「三角帽子」を読んだ。
 19世紀が始まったばかりの、1804年よりも後で1808年よりも前、スペインがまだカルロスⅣ世の治世(1788~1808)であったころの話。ピレネー山脈の向こうのフランスでは、大きな変化と混乱が起きていたのだが、こちらスペインでは旧態依然とした社会制度が存続していた。アンダルシア地方も例外ではなく、昔ながらの風習が続くご時世だった。
 そのころ、***市(アラルコンが生まれ育ったグアディクス(Guadix)市がモデルになっているといわれる)の近くに1軒の粉ひき水車小屋(molino)があった。その水車小屋の主人というのが人好きのする男で、近所のお歴々が毎夕、そこに集まって集会を開いていた。彼は集まってきた人々を
lo que daba el tiempo, ora habas verdes, ora cerezas y guindas, ora lechugas en rama y sin sazonar [...], ora melones, ora uvas de aquella misma parra que les servía de dosel, ora rosetas de maíz, si era invierno, y castañas asadas, y almendras, y nueces, [...]. (季節季節のもの・・・・採れたてのソラマメとか、サクランボやスミノミザクラの実とか、丸のままの新鮮なレタスとか〔…‥〕、メロンとか、天蓋の役を果たす例のブドウ棚のブドウとか、ポップコーンとか、冬ならば焼き栗、アーモンドやクルミとか〔…‥〕で)
もてなし、歓待に努めていた。
 guindoというのはスミノミザクラで、cereza(サクランボ)よりも実が酸っぱいのだそうだ。水車小屋の主人が村のお歴々をもてなす季節のものは、ごく素朴で手の加わっていないものであるが、何となくおいしそうに思われる。『ドン・キホーテ』の最初の方で、ドン・キホーテとサンチョ・パンサが山羊飼いだか羊飼いだかの群れに出会って、彼らとどんぐりだのチーズだのをつまみながら、ワインを飲む場面を思い出す。
 さて、司教様や市長さんを含むお歴々がこの小屋に集まってきている最大の理由は、水車小屋の主人の妻であるフラスキータ奥さん(La seña Frasquita)であった。背が高く、豊満な肉体と、その割に動きが俊敏で、快活で優美な性格の持ち主であった。
 ということで、いかなる事件がこれから展開いたしますか…。

 北尾トロ『いきどまり鉄道の旅』(河出文庫)を読み終える。主として首都圏における行き止まりになっているいろいろな路線の終着駅を探訪した記録であるが、鉄道に対する知識や興味はそれほど強くないままに何となく旅を試みているという著者の態度が、それなりに効果を生んでいるように思われる。

10月6日
 「三角帽子」の続き。実は市長はフラスキータ奥さんに横恋慕しており、あの手この手を使って何とか口説き落とそうとする。水車小屋の主人=ルーカス親父とフラスキータ奥さんが夕食を済ませると、市長に命令されて隣村の村長が派遣してきた司直のものがルーカス親父をしにやって来る。
 この時に、ルーカス親父とフラスキータ奥さんが食べた夕食の中身が次のように描写されている。
se cenaron una fuente de ensalada de escarola, una libreja de carne guisada con tomate, y algunas uvas de las que quedaban en la consabida cesta,
(大皿に盛ったエンダイブのサラダと、1リブラの肉のトマト煮込み、それに例のかごに残っていたブドウなどの夕飯を食べ終えた。)
 fuenteは大皿、escarolaはレタスに似た葉っぱがギザギザの冬野菜で、日本ではエンダイブとして知られている、librejaは重さの単位でリブラ(約460グラム)、スペインの家庭では自分の家でブドウをつくることが多く、食後にブドウを食べるというのは、そういう自家産のブドウを食べるということだそうだ。パートナーのハビエル・カマチョさんによると、carne quisada con tomate (牛肉のトマト煮込み)というのは、ごく一般的な家庭料理なのだそうだ。ごく質素でありきたりな夕食だけれども、幸福感が感じられるというのはひいき目であろうか。
 召還を受けたからには出かけなければならず、ルーカス親父はよく戸締りをするんだと妻に言い残し、妻はよく街灯にくるまって、冷えるからといって夫を送り出す。
 村長さんの家に閉じ込められたルーカス親父であったが、留守中のことが心配ですぐに逃げ出し、水車小屋に戻ろうとする。しっかり戸締りをしろと言っておいたのに、水車小屋の戸は空いていた…。

 カズオ・イシグロ氏ノーベル文学賞を受賞。英国にいた時、彼の本が本屋に平積みにされているのをよく見かけたし、日本でもその翻訳がよく読まれ、海外での映画化に加えて、日本国内でもドラマ化されたりしていたが、ほとんど作品は読んでいない。『朝日』の朝刊に掲載されていた「ジェーン・オーステインとフランツ・カフカを混ぜるとカズオ・イシグロになる。そこにマルセル・プルーストを少し加えなければいけない」というスウェーデン・アカデミーのサラ・ダニウス事務局長のコメントが面白かった。

 『朝日』の朝刊にフランスの元女優アンヌ・ヴィアゼムスキーさんの訃報が出ていた。5日、ガンのためパリで死亡、70歳と記されていた。ということは私よりも若いということかとちょっと呆然とした。ロベール・ブレッソンが『ジャンヌ・ダルク裁判』を監督した時、主演した女性の友人としてロケ現場を訪問したのがブレッソンの目に留まり、『ジャンヌ・ダルク裁判』にも出演したという話もあるが(出演場面はカットされたのではないかという説もある)、その後、ブレッソンの『バルタザールどこへ行く』に出演、個性的な容貌で注目を集め、ジャン=リュック・ゴダール監督のパートナーになって、『中国女』などの映画に出演した。ところが、その後いったん映画界から姿を消したのだが、ジャン=ルイ・トランティニャンとロミー・シュナイダーが共演した『離愁』の試写を見ていたら、(第二次世界大戦中に旅行している)2人が乗っている貨車に途中から乗り込んできた若い母親の役で彼女が登場したので、試写室の中で近くの人たちと顔を見合せたという記憶がある。その後、私が映画を見なくなったので、何となく疎遠になっていたが、小説家になっていたらしい。先日、ミレイユ・ダルクさんの訃報を聞き、今度は、彼女の死を知り、フランス映画との距離が少し広がったような気がする。同じように、忘れがたい女優であった。冥福を祈る。

10月7日
 ニッパツ三ツ沢球技場でJ2第36節横浜FC対アビスパ福岡の対戦を観戦する。9月9日の試合の後で無料入場券の引換券をもらっていたのを使ったのだが、ゴール裏の観客席が満員だということで、バックスタンドのA席に回った。前半、コーナーキックからジョン・チュングン選手がヘディングでゴールを決めて1点を先取したが、守りのカルフィン・ヨン・アピン選手、攻撃のイバ選手が負傷退場、このためであろうか、後半は防戦一方となり3点を奪われ、幻のゴールが2つあるなど反撃を見せたものの1-3で敗戦、6位からさらに8位にまで後退した。GKの南選手、MFの野村選手がどうやら負傷から回復してきたのは明るい材料であるが、本日、負傷退場した2外国人選手のけがの様子が心配である。これから後6試合、中田監督がどのような選手起用と作戦を見せるか、注目されるところである。

10月8日
 『朝日』の朝刊の「売れてる本」の乱で、亀田俊和さんの『観応の擾乱』(中公新書)の書評を呉座勇一さんが書いていた。この内乱が、急進派の尊氏=師直と、守旧派の直義の戦いと見る従来の説に対して、両者の隔たりはそれほど大きくなかったし、「大半の武士は勝ち馬に乗ろうとする付和雷同層」であったと見る亀田さんの見方を呉座さんも支持している。「複雑な事象を複雑なままに理解しようと試みる」企てであるというのが呉座さんの大まかな評価のようである。亀田さん、呉座さんの意見に異を唱えるつもりはないのだが、内乱の渦中を生きた二条良基のような文化人と、その文学活動に焦点を当てると、もう少し違う評価も出てくるかもしれないなという気はしている。〔吉川英治が『私本太平記』に兼好を登場させたのは優れた思い付きであったが、もう少し兼好の歌人としての活動を詳しく、彼の内面にまで立ち入って掘り下げる必要があったのではないかと思う。〕

 第963回のミニトトBを当てる。これで今年は4回当てたことになるが、まだ払戻金の合計は1万円に達していない。

 三ツ沢を通るバスの中で、YSCCのサポーターと思しい人たちを何人か見かけたので、本日はYSCCの試合があるらしいと気づいた。毎年、1-2試合はYSCCの試合を見ているので、今年も残り少なくなったが、どこかで都合をつけて見に行こうとは思っている。

日記抄(10月1日~4日)

10月7日(土)雨のち曇り

〔10月7日、薬がなくなってきたので、かかりつけの医師のところに出かけ、その後、ニッパツ三ツ沢球技場でJ2第36節の横浜FC対アビスパ福岡の対戦を観戦した。6位(当時)の横浜にとって、2位の福岡との対戦は負けられない一戦であったが、残念ながら1-3で逆転負けしてしまった。帰宅後、10月1日~7日の日記を入力しようとしたが、途中でパソコンの調子が悪くなって失敗。7日分として10月1日~4日、8日分として10月5日~8日分を編集することにして、やり直すことにした。ところが、先ほど、10月1日~4日分を保存・投稿しようとして失敗、これから三度目の正直を期すところである。〕

 10月1日から4日までの間に経験したこと、考えたこと、前回の記事の補遺・訂正など:
 司馬遼太郎の<願人坊主>についての言及に関連して、横山源之助の『日本の下層社会』に<願人坊主>について触れた個所があるという記憶があると書いたが、実際に『日本の下層社会』を読み返してみて、これは私の記憶違いであることに気づいた。謹んで訂正します。しかし、願人坊主は明治時代くらいまでは人々の記憶に残る存在であったのは、5代目古今亭志ん生が得意にしていた「黄金餅」に照らしても明らかである。
 さらに、「らくだ」にも願人坊主が登場する。長屋じゅうの嫌われ者であった「らくだ」とあだ名される遊び人がフグを食べて死んでしまったのを、その兄貴分というのがやってきて弔おうとする。ちょうど近くを通りかかった屑屋を脅して、いろいろと用をさせるのだが、大家が届けてきた酒を飲むうちに、それまでおどおどしていた屑屋の方が威勢がよくなり、兄貴分を脅すようになる。それから、四斗樽にらくだの死骸を入れて、2人で焼き場(火屋)に運ぶ。途中で四斗樽を落としてしまい、死骸を探すが暗くてわからない。道端に願人坊主が酔っ払って寝ていたのを間違えてたるに入れ、火葬場に運ぶと、願人坊主が目を覚まして「ここはどこだ」と聞くので、「火屋だ」と答えると、まだ飲み足りないと見えて願人坊主が「火屋でもいいからもう一杯」という。最近では、「願人坊主」といってもイメージがわかない人が多くなってきたので、「乞食坊主」といって演じる例が少なくないようだ。あるいは、屑屋が威張りだすところで、話を打ち切る例の方が多いようである。

 NHK第二放送の「朗読の時間」で、夏目漱石の『坊っちゃん』をまた放送し始めた。漱石が松山の中学校で英語を教えていた時の経験をもとに、若い江戸っ子の教師が地方の中学校に数学の教師として赴任し、その一本気な性格から周囲と折り合わず、いろいろな事件を起こすという話である。漱石は英語を教えた(『坊っちゃん』の中で英語を教えているのは、赤シャツとうらなり。漱石は松山時代に赤シャツを着ていたとか、ただ一人の帝大出身者であったとか、赤シャツとの共通点が少なくない)が、坊ちゃんが教えたのは数学、学歴も違う(坊ちゃんは物理学校→現在の東京理科大学出身)、坊ちゃんは旗本の子孫であるが、漱石は(旗本の一族ではあったが)場末の名主の子孫、その他いろいろな細かい違いがある。要するに、漱石は『猫』の場合と同じように、自分とは少し距離を置いた存在として『坊っちゃん』を設定しているのだが、その距離をどのように評価するかというところに、この作品を理解するポイントがあると思う。

10月1日
 『朝日』の朝刊の地方欄に3代にわたりお客を集めてきた中区の洋食店タマガワが9月30日をもって幕を閉じたという記事が出ていた。そういうことが分かっていれば、一度足を運んでおいたものをと後悔しているところである。「惜別ナポリタンの味」と見出しが出ていた。横浜で始まった「ナポリタン」、まだまだ市内には名店が少なくない・・・と思うことにするか。

 シネマヴェーラ渋谷で「甦るニコニコ大会」として、『キートンの蒸気船』(Steamboat Bill Jr., 1928, バスター・キートン&チャールズ・ライズナー監督)と『我輩はカモである』(Duck Soup, 1933,レオ・マッケリー監督)を見る。前者はサイレント、後者はトーキー映画である。

 大きな川を航行する新旧2つの船会社があって、スティームボート・ビルの経営する会社は船も老朽化し、サーヴィスも古く、落ち目である。それでボストンから戻ってくる息子(キートン)に期待をつなぐのだが、彼はチビで、船乗りむきではないうえに、競合する船会社の社長の娘と恋仲である。ということで、いろいろと騒動があり、終わり近く、主人公たちの町にハリケーンが押し寄せる。ここでキートンが超人的な活躍を見せて、恋人をすくい、父親をすくい、さらに恋人の父親をすくって、めでたしと思いきや、また川に飛び込んで牧師さんがおぼれているのを助ける。つまり結婚式の司式者を助けるという結末である。ハリケーンの場面で喜劇映画特有の破壊的なエネルギーを見せ、最後の場面では教会における結婚という伝統的な価値の枠内での決着を選ぶ。

 中欧だか、東欧だかの小国で、この国を実質的に支配している女性大富豪(マーガレット・デュモン)が政府への援助と引き換えに、自分の愛人を首相にしろという。この愛人がグラウチョ・マルクスでいろいろな騒動が起きる。隣国の方では戦争を起こそうと、チコ・マルクスとハーポ・マルクスをスパイとして送り込む。2人は首相の家の前でポップコーンを売ったりして、スパイ活動に励む。いろいろあって、戦争になり、裁判にかけられていたチコ(とどこからか現れたハーポ)までグラウチョ側に寝返って、戦闘が続く…という話。第一次世界大戦後、第二次世界大戦前の経済的な不況と、政治的な不安定を背景にした喜劇で、ルネ・クレールの『最後の億万長者』やチャップリンの『独裁者』の先駆となる作品という評価もあるが、風刺よりもドタバタの方に重点があるのがマルクス兄弟らしく、時代背景を抜きにしてみても、おもしろい。
 小林信彦さんは、おしゃべり(と歌と踊り)のグラウチョがトーキー時代にふさわしい笑いを、パントマイムに長けたハーポがサイレント時代の笑いをそれぞれ代表し、両者を結びつけた(ここでチコが果たす役割が重要)ところにマルクス兄弟の強みがあると述べている。それはそれでわかる意見であるが、私は彼らが実際に兄弟であるということから、かしまし娘を思い出していた。マルクス兄弟は、3男のグラウチョと、長男のチコ+次男のハーポという2組とも考えられるが、かしまし娘も長姉の歌江と下の照江(枝)、花江の2人という2組で構成されているように思うからである(かしましの場合、長姉が三味線、照江、花江の下の2人がギターという楽器の使い分けもある)。

 横浜FCはアウェーのザスパ群馬戦で1-1で引き分け、6位に後退。下位チームにはきちんと勝たないといけない。
 ミニトトBを当てる。今年になって3度目である。

10月2日
 この日から、ラジオ放送の番組が一新される。『ラジオ英会話』など英語関係は4月からの放送が続くか、『入門ビジネス英語』のように4月~9月の放送を再放送するかであるが、その他の言語の場合は、新しく放送が始まる番組もある。

 『まいにちフランス語』は入門編が2016年4月~9月の再放送、応用編が新たに始まる「日仏交流散歩」で、これは日本語をフランス語にどう訳すかというのが眼目になる番組のようだ(私には少し難しいかもしれない)。
 『まいにちイタリア語』は入門編が2016年4月~9月の再放送、応用編が白崎容子講師の「原文で読む古典の楽しみ」で、ダンテか文芸復興時代のイタリアのさまざまな文化人の文章を原文で読んでみようという趣旨である。10月はダンテの『神曲』を取り上げるというのだから楽しみである。なお、入門編も応用編も白崎さんが担当することになるが、昨年も入門編と応用編の両方を同じ講師(中矢慎子さん)が担当していた。
 『レベルアップ中国語』をやめて、『まいにちスペイン語』に鞍替えをしたのだが、その「まいにちスペイン語」は入門編が高垣敏博講師の「人生は旅! !Vivir es viajar!」で、これまた2016年4月~9月の再放送だそうだが、もともとの放送は聞いていないのである。応用編は大楠栄三講師による「スペイン文学を味わう」で19世紀スペインの小説を読み進むという。最初に取り上げられるのはアラルコン(Pedro Antonio de Alarcón,1833-1891) の「三角帽子」(El sombrero de tres picos)である。大楠さんはシャシンで見た感じでは、私と顔が似ているような気もするが…、実際に見たら全く違うかもしれない。

10月3日
 『まいにちイタリア語』入門編のパートナーであるインマ・ロマーノさんはナポリの出身だそうで、ナポリのことが話題になった。彼女はヨーロッパで一番古い東洋学研究の場であるナポリ東洋大学で学んだという。

 『ラジオ英会話』で隣人とのいざこざを夫に報告した妻が、
I didn't want to make a scene. (騒ぎ立てたくない)
という。講師の遠山顕さんが、make a dramaという言い方もありますねといった。『ロングマン英和辞典』によるとmake a dramaout of sthは「《些細なことなど》で大騒ぎする」という意味だそうである。

10月4日
 『まいにちフランス語』で「名詞に男性・女性があるのはヨーロッパの言語では当たり前。英語にはありません」と言われていたのは、少し乱暴な説明である。「ヨーロッパの言語」というのが「ヨーロッパで話されている言語」という意味なのか、「インド=ヨーロッパ語族に属する言語」という意味なのかはっきりしない。
 ハンガリー語、フィンランド語、エストニア語はヨーロッパで話されている言語であるが、インド=ヨーロッパ語族には属さない。逆にクルド語、ペルシア語、ウルドゥー語、パンジャブ語、ヒンディー語、ベンガル語などは、インド=ヨーロッパ語族に属しているが、ヨーロッパでは話されていない(近ごろはこれらの言語を話す人々が多くなってきたヨーロッパの一部の地方もある)。
 ドイツ語やラテン語、あるいはロシア語をかじった人は気づくはずだが、文法上の性として、男性、女性のほかに中性がある言語が少なくない。ラテン語から派生したフランス語、イタリア語、スペイン語等に中性がないのがむしろ不思議である。
 英語も昔は男性、中性、女性があった。
 読者の好奇心や理解力に合わせて、こういう話題も織り込むことも時として必要ではないかと思う。
 

ダンテ・アリギエリ『神曲』ノート

10月6日(金)曇り

 10月5日、6日のNHKラジオ『まいにちイタリア語』応用編「原文で読む古典の楽しみ」(講師:白崎容子、パートナー:マルク・ズバラッリ)は、ダンテの『神曲』<地獄篇>第1歌(Dante Alighieri, La Divina Commedia Canto 1)を取り上げた。昨日の当ブログで、この内容は10月7日の「日記抄(10月1日~7日)」で取り上げるつもりだと書いたのだが、書くべき内容の量がかなり多くなりそうなので、1回分をさいて紹介することにした。
 この叙事詩は、次のように始められている:

Nel mezzo del cammin di nostra vita
mi ritrovai per una selva oscura,
ché la diritta via era smarrita.

Ah quanto a dir qual era è cosa dura
esta selva selvaggia e aspra e forte
che nel pensier rinoba la paura!

Tant'è amara che poco è più morte;
ma per trattar del ben ch'i' vi trovai,
dirò dell'altre cose ch'i' v'ho scorte.

 この最初の9行を白崎さんは次のように訳している。
人生の歩みのなかばで
進むべき道を見失い、気がつくと
私は暗い森のなかにいた。
荒涼として分け入りがたい峻厳なその森がどのようなものであったか
語るのは、なんと気の重いことだろう!
思い出しただけで恐怖が蘇る。
死ぬほどの辛さだった。
しかし、そこで出会った善きことを語りたいので
この目で見たもろもろのことについて話しておこう。

 私がこのブログでずっと紹介してきた原基晶さんの翻訳ではこの9行は次のようになっている:
我らの人生を半ばまで歩んだ時
目が覚めると暗い森の中をさまよっている自分に気づいた。
まっすぐに続く道はどこにも見えなくなっていた。

ああ、その有様を伝えるのはあまりに難しい。
深く鬱蒼として引き返すこともできぬ、
思い起こすだけで恐怖が再び戻ってくるこの森は。

死にまるで変らぬほど苦しいのだ、
しかしその中で見つけた善を伝えるために、
目の当たりにしたすべてを語ろう。
(『地獄篇』、26ページ) 

 『神曲』は叙事詩なので、文法的な語順に必ずしもしたがって書かれているわけではない。しかも古いイタリア語なので、注釈が必要である。語注を手掛かりに見ていくと、最初の3行は、①人生の歩みのなかばで、②(ダンテは)暗い森に入り込んだ、③(なぜ迷い込んだかというと)まっすぐ続く道を見失ったからだという順序になっており、原さんの翻訳の方が逐語的で、白崎さんの翻訳の方が日本語としてのわかりやすさを目指しているように思われる。白崎さんの説明によると、最初の3行は客観的にダンテが自分がどのような場所に置かれたかを語り、次の3行で彼のその時の主観的な内面を語り、その次の3行で読者に呼び掛けるという構成になっているという。

 ダンテは彼が『神曲』に描くことになる異界への旅の始まりを1300年の復活祭の聖金曜日(4月8日)に設定した。彼が暗い森に迷い込んだのはその前夜のことである。冒頭の「私たちの人生の歩みのなかばで」という一節から、ダンテの生まれた年が分かる。旧約聖書の『詩編』のなかの「われらの人生はせいぜい70年」(89:10)という箇所をもとに、当時、人間の一生はおよそ70年とされていた。1300年に「人生の歩みのなかば」つまり70歳の半分の35歳だったということは、彼は1265年に生まれたと考えられる。さらに、1266年3月の日付のある、ダンテの洗礼式(battesimo 生後1年ほどで行われる)の記録も残っているので、その傍証となるという。さらに、<天国篇>第22歌の中で、(私は省略したが、恒星天での経験)
”io vidi 'l segno che segue il Tauro e fui dentro da esso"
(私は牡牛座に続く星座を見た、そして私はその中にいた)
とあり、牡牛座Tauroに続く星座といえば「双子座Germelli」であるから、彼の誕生日は5月中旬から6月中旬までの間、ということになる。(この辺りは、研究者たちの中で意見が一致していることである。ということは、彼は復活祭の時期にはまだ34歳だったということになるが、そのあたりは気にしないでいいということであろう。)

 4~6行目は現代のイタリア語ではquanto è cosa dura a dir[e] qual era questa selva, selvaggia e aspra e forte che rinoba la paura nel pensier!となるところだという。白崎さんは森(selva)について、selvaggia(未開拓の、人の住まない), aspra(厳しい、荒涼とした), forte((ものが)強靭な、抗しがたい)と形容詞を連ね、その形容詞が次第に凄みを増していくのは巧みな技巧であるという。selva selvaggiaというのは中世の詩に見られる同音反復であるというが、実際に音読してみるとその効果が分かる。

 『神曲』は
Inferno (場所としての)地獄;(作品中の)『地獄篇』34歌(導入部第1歌+33歌)
Purgatorio       煉獄;        『煉獄篇』33歌
Paradiso        天国;       『天国篇』33歌
計100歌から構成される。それぞれの歌は連鎖韻(rima incatenata)を持つ3行詩のまとまりであり、(白崎さんは触れなかったが)3n+1(例えば、<地獄篇>第1歌は3×45+1=136行、<天国篇>第33歌は3×48+1=145行)という構成になっている。
 連鎖韻というのは、最初の9行でいうとそれぞれおわりが、ita,ura,ita; ura,orte,ura; orte,ai,orteというふうに3行ごとに鎖の輪のように順に連なっていく脚韻が踏まれている形式を言う。この形式で全編が貫かれている。
 しかも、その全詩行が1行11音節で作られているというから大変なものである。

 白崎さんは『地獄篇』が最もおもしろいといい、第5歌に登場する悲恋物語のヒロインであるフランチェスカ・ダ・リミニに同情的な発言をされたが、このあたり、意見の分かれるところであろう。私がこれまで読んできた感想としては、『煉獄編』が読みごたえがある。それぞれの特徴を読み取って、興味のわく部分を見つけていかないと、最後まで持ちそうもないという気はする。あと、強調されなければならないのは、ダンテがこの叙事詩を当時のトスカナ方言で書いたこと、そしてそれは、ラテン語を知らない女性たちにも自分の詩を読んでもらいたかったということであろう。

 『神曲』を<地獄篇>、<煉獄篇>と読み進み、<天国編>も28歌を読み終えて、残るはあと5歌というところまで来た。何とか今年中に読み終えたいと思っているのだが、どうなるだろうか。『徒然草』の「高名の木登り」の話もあるから、気持ちを引き締めて、最後まで臨もうと思っている。『徒然草』(と『太平記』)が『神曲』と同じ14世紀に書かれた文学作品であるということが心のどこかに引っかかっている。『神曲』の「数学」的に整った構成に感嘆する一方で、『徒然草』(や『太平記』)の雑然とした、投げやりにさえ思われる構成も悪くはないと思う。なお『徒然草』はもともと、かなり整然とした構成で書かれていたのが、わざと雑然と再編成されたのだとする説もあることを付け加えておく。

 今回、白崎さんの放送を聴いて、粟津則雄『ダンテ地獄篇精読』が私の書架にあることを思い出し、探し出して読み返しているところである。『神曲』全100歌を読み終えたら、また『地獄篇』第1歌から読み返すということになるかもしれない(岡本かの子の『東海道五十三次』だね)。
 

ダンテ・アリギエリ『神曲 天国篇』(28-2)

10月5日(木)曇りのち晴れ

 ベアトリーチェに導かれて、ダンテは煉獄山の頂上にある地上楽園から天上の世界へと旅立った。月天、水星天、金星天、太陽天、火星天、木星天、土星天で、至高天から彼を迎えにやってきた魂たちと会話を交わしながら、彼は迷いに満ちた人生の中で抱いていたさまざまな疑問についての回答を得た。そして、彼が見た死後の世界の有様を、地上に戻って人々に伝えることが自分の使命であることを知る。至高天から土星へと降りている「ヤコブの階段」を上って恒星天に達した彼は、信仰、希望、愛という3つの対神徳を彼が備えているかを問われ、その問いに見事にこたえる。そして、物理的宇宙空間から離れて、非物質的な世界への入口である原動天へと昇る。ダンテの疑問に答えてベアトリーチェは、原動天における神とそれを取り巻く火輪の運動について説明する。

半球をなす空の大気が輝きながら
透き通るように、それはボレアースが
あの温和な方の頬をふくらませて北西風を吹かせる時のことだが、

そのために濁りをもたらしていた
汚れが洗われて消え去り、すみずみまで広がった美しさで
空が私たちに微笑みかけてくるのだ。

それと同じように私の疑問も消え去った。わが貴婦人が私に
明確な答えの贈り物をくださった後のことだ。
そして空の星のように真理が見えた。
(425-426ページ) ボレアースはギリシア神話の北風の神である。ということは、ギリシア神話の風の神様は1柱ではなく、風の種類によっていろいろな神様がいたということらしい。ボレアースは通常アドリア海を吹きすさぶ北風を示すが、ここでの「温和なほうの頬」による風は夏にアドリア海に吹く温和な北西風を意味すると注記されている。日本だと秋になって空が澄んでくるのだが、北イタリアでは夏に空が澄むということであろうか。そのように、ベアトリーチェの説明がダンテの疑問を解決したという。

 ダンテの目には、原動天のそれぞれの火輪、実は天使の姿が見え、火輪を形作っている火花の流れのようなそれらの天使は膨大な数に上った。
彼女の言葉が止まった後、
溶けた鉄が火花を散らすのと
まったく変わらぬ様子で、火輪が火花を撒き散らした。

どの火花ももとの火炎の動きに続いていた。
それらの総数は膨大であり、
チェス盤の目を一つ進むごとに二倍していった数をさらに幾千も越えていた。
(426ページ) 「溶けた鉄が火花を散らす」というのは、ダンテが鍛冶屋の仕事場で見た光景であろうか。チェス盤の目の数は64枡で、1から開始して2を63回かけて得られる数は19桁に達すると注記されている。

 そしてダンテには、天使達の火輪がそれぞれに神に向かって、イエスがエルサレムに入った際に民衆が上げた歓呼の叫びの言葉である「ホサナ」の歌を歌うのが聞こえた。ここで、ダンテが抱いた疑問を察したベアトリーチェは、これら天使たちの火輪、つまり天使の階級(ヒエラルキー)について説明を始めた。
 ベアトリーチェの説明によれば、天使は3階級が1組をなし、大きく3つに分かれている。それぞれの階級とその属性は次のようなものである。
 燭天使(愛)、智天使(智)、座天使(正義)、主天使(統治)、力天使(力)、能天使(下位の天使に対する支配)、権天使(下位の天使に対する指導)、大天使(服従)、天使(神の使い)。
これらの諸階級では皆が至高を向いて仰ぎ見、
また、下には優越するがゆえに、神に向かって
皆が引かれ、かつ引いています。
(430ページ) 上の階級から影響を受け(上から引かれ)、下の階級に影響を与え(上に引いて)いる。ダンテは、彼に先行する学者たちによる天使とその階級をめぐる議論を論評しているが、私にはあまり興味のわかない議論である。むしろ、彼が天使の世界にある種の官僚機構のようなものを夢想していたことに興味がわく。
 こうして第28歌は終わるが、天使についての議論はまだ続く。翻訳者である原さんは、「天使が通常の、翼を持ち、人語を話す姿ではなく、完全に抽象的な存在にされていることが興味深い」(635ページ)と解説で記されているが、同感である。これに較べると、ミルトンの『失楽園』における天使の描き方の方が伝統的であるように思われる。

【付記】本日、NHKラジオ第二放送の『まいにちイタリア語』応用編「原文で読む古典の楽しみ」で『神曲』<地獄篇>第1歌の冒頭部分が取り上げられた。この件については、明後日(10月7日)の「日記抄」で触れるつもりであるが、イタリア語によるこの叙事詩の響きに触れたいという方は、本日(10月5日)の16:45あるいは、10月12日の11:15からの再放送をお聞きください。
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