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2017年の2017を目指して(9)

9月30日(土)曇り

 9月1日に、別府葉子シャンソントリオのコンサートを聴きに市ヶ谷に出かけたり、2日にはサッカーのJ2の試合を観戦に平塚に出かけたりした。
 このため、足跡を記した都県は2(神奈川、東京)と変わらなかったが、
 市区は1市(平塚市)増えて、3市6区となった。
 利用した鉄道会社は、1社(京急)増えて、6社となった。
 路線はJRの東海道線、京急本線、東急大井町線の3路線が増えて、13路線、
 駅は市ヶ谷、平塚、神奈川新町の3駅が増えて20駅となった。
 利用したバス会社は6社と変化ないが、平塚駅北口とBMWスタジアムを結ぶシャトルバスを利用したので利用した路線は14路線となり、停留所も26か所に増えた。

 この原稿を含めて32件のブログを書いた。内訳は、日記が6件、読書が10件(うち哲学が3件、歴史が4件)、『太平記』が4件、『神曲』が4件、歴史・地理が1件、映画が3件、詩が1件、推理小説が3件ということである。1月からの通算では276件ということになり、内訳は未分類が16件、日記が49件、読書が91件、『太平記』が38件、『神曲』が38件、歴史・地理が5件、外国語が6件、映画が7件、詩が16件、推理小説が10件ということである。2件のコメント、453拍の拍手を頂いた。拍手コメント、トラックバックはない。

 11冊の本を買い、1月からの買った本の合計は108冊となった。8冊の本を読んでおり、1月からの読んだ本の合計は85冊である。読んだ本の著者および書名を列挙すると:司馬遼太郎『街道をゆく3 陸奥のみち、肥薩のみち ほか』、木田元『哲学散歩』、芦辺拓『殺人喜劇の13人』、嵐山光三郎『猫のほそ道 ノラ猫俳句旅』、望月麻衣『京都寺町三条のホームズ⑧』、五味文彦『日本の歴史を旅する』、山本巧次『阪堺電車177号の追憶』、司馬遼太郎『街道をゆく4 郡上・白川街道、堺・紀州街道 ほか』
ということである。ちょっと元気がないというか、推理小説を中心の軽読書ばかりという結果となった。<読書の秋>を充実させるべく、これから頑張っていきたいものである。

 NHK『ラジオ英会話』の時間を21回、『高校生からはじめる現代英語』を9回、『入門ビジネス英語』を8回、『実践ビジネス英語』を13回聴いている。
 同じく『まいにちフランス語』の入門編を12回、『まいにちイタリア語』の初級編を12回、応用編を8回聴いている。さらに『レベルアップ中国語』を13回聴いた。どうも中国語の時間を聞き逃すことが多くなってしまった。10月からは、中国語をやめて、スペイン語の時間を聴くことにする。時間のやりくりが大変だが、何とか頑張ってみるつもりである。

 映画館2館で、5本の映画を見た。内訳は『私たちの結婚』(1962、松竹大船、篠田正浩)、『深夜の市長』(1947、松竹、川島雄三)、『醜聞』(1950、松竹、黒澤明)、『ザ・ゴキブリ』(1973、東宝=石原プロ、小谷承靖)、『銀座二十四帖』(1955、日活、川島雄三)の5本である。1月からの通算では43本の映画を見ており、出かけた映画館は4館である(これは例年に比べて少ない)。監督別にみると成瀬巳喜男(『噂の娘』、『夜の流れ』、『放浪記』、『女が階段を上る時』、『驟雨』)と川島雄三(『貸間あり』、『夜の流れ』、『女であること』、『深夜の市長』、『銀座二十四帖』)がそれぞれ5本で首位、この2人が『夜の流れ』を共同演出しているのも面白い。小津安二郎(『非常線の女』、『東京暮色』、『麦秋』、『学生ロマンス 若き日』)が4本、鈴木清順(『野獣の青春』、『百万弗を叩き出せ』、『東京流れ者』)が3本、黒澤明(『白痴』、『醜聞』)が2本というのが主なところ、俳優では原節子の映画を8本(『東京暮色』、『女であること』、『河内山宗俊』、『東京の恋人』、『驟雨』、『麦秋』、『白痴』、『安城家の舞踏会』)見ているのが目立つ。次が殿山泰司の5本(『あじさいの歌』、『誘惑』、『安城家の舞踏会』、『秋津温泉』、『醜聞』)であるから、だいぶ違いがある。このところ、古い映画ばかり見ているので、少し新しい方に目を向けなければと思ってはいるのだが、さて、どうなるか。

 別府葉子シャンソントリオのコンサートを聴きに出かけた一方で、展覧会には足を運ばなかった。東京で個展を開くときは必ず出かけていた早川修さんの詩画?展「ノー天気な魂」を見逃したのが残念である。愚妹がある展覧会に作品を出品したので見に行こうかと思ったのだが、来なくていいといわれてやめたという経緯もある。

 サッカーの試合はJ23試合を観戦、アウェーのBMWスタジアム平塚に出かけたので、見た試合は31試合、グランドは5か所ということになった。

 A4とA5のノートを2冊ずつ、ボールペンの芯0.5ミリを4本、0.4ミリを2本、使い切っている。

 アルコール類を摂取しなかったのが8日、富士山が見えたのが1日ある。
 
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日記抄(9月24日~30日)

9月30日(土)曇り

 9月24日から本日までの間に経験したこと、考えたことなど:
9月24日
 秋の高校野球の神奈川県大会の決勝が保土谷球場で行われ、東海大相模高校が慶応高校に圧勝した。この両校に、3位決定戦を制した桐光学園が、関東大会に出場することになる。

 J2の横浜FCはアウェーで愛媛FCと対戦し、3-2で勝利した。イバ選手が(PK1を含む)2ゴールを挙げたのは明るい材料である。これで4位に進出。この日、J3のYSCCも2-1で相模原SCに勝利、このチームは毎年、最後の方になると勝てるようになるね。

9月25日
 『朝日』の朝刊の「政治断簡」というコーナーで名古屋大学ジェンダー・リサーチ・ライブラリ(やたらとカタカナを羅列するのはやめてほしい)に女性の人権をはじめて主張し、フランス革命の際の「人権宣言」から女性が排除されていたことに抗議したオランプ・ド・グージュの言葉が掲げられているという記事が出ていた。9月19日の『まいにちフランス語』(入門編)でも彼女のことが取り上げられていたのを思い出す。

 午前中、病院に出かけ、午後、眼科の検診を受ける。診察の掛け持ちは疲れる。

9月26日
 『朝日』のコラム「経済気象台」で「高等教育無償化は必要か」という議論が展開されていたが、賛同できる部分が多い。 高等教育の無償化は、一見、高等教育の門戸を広げ、社会の平等を推進するように見えるが、もうすでに日本の高等教育の門戸は十分に広がっていて、むしろその質的な充実に予算が投入されるべき状態だと思われる。高等教育を受けるということはなにかと金がかかり、どこにどこまで金がかかるかということをしっかり把握せずに「無償化」といっても始まらないのである。それに、何といっても、さまざまな理由で高等教育を受ける機会が得られない多数の青年がいることを忘れてはならない。

9月27日
 『朝日』の「ニュースQ³」は「新党も市場も小池氏『アウフヘーベン』…何」という見出しを掲げ、この聞きなれない(といっても、私が大学生のころは、それほど疎遠でもなかった…ということは古い)言葉の意味と使い方について述べて、小池知事の政治手法の特徴をさぐろうとしている。英語とアラビア語に堪能な小池知事が、ここでわざわざドイツ語を使うというのはどういうことか。あるいはドイツのメルケル首相の日本版を目指すということなのかもしれないが、だとすればメルケルさんから学ぶべきことはもっとほかにありそうだと思う。その一方で、彼女は関東大震災の際の朝鮮人虐殺の有無の問題について「歴史家がひもとく」ことだという回答を繰り返したという。「歴史家がひもとく」というのは日本語としておかしいのではないか。外国語ばかり使っていて、日本語がおかしくなってきた一例であろう。

 山本巧次『阪堺電車177号の追憶』(ハヤカワ文庫)を読み終える。この小説については29日付の当ブログで取り上げたが、そこで書かなかったことを付け足しておく。一宮めぐりの一環として住吉大社にお参りしたことがあることはブログの中でも触れたが、当時、この神社の宮司をしていたのは真弓常忠さん(もともと住吉大社の社家のご出身であったらしい)で、今は御存命かどうかは知らないが、國學院大學の教授、八坂神社の宮司などを歴任された神道学の大家である。それでもし、お会いできればなどと内心では考えていたのであるが、社務所にいた若い神職の人が巫女さんとふざけている姿を見てその気をすっかりなくしたという思い出がある。(親分は偉くても、子分は偉くないというのはよくある話である。)

9月28日
 司馬遼太郎『街道をゆく4 郡上・白川街道 堺・紀州街道ほか』(朝日文庫)を買って読んでいたら、司馬さんが鞍馬街道というとスタスタ坊主(願人坊主)を思い出すと述べ、スタスタ坊主について説明して、「その残党は明治期になっても村々を歩いていたのかもしれなかった」(12ページ) と書いているのが面白かった。明治時代に都市の下層民について記録した横山源之助の『日本の下層社会』に願人坊主についての記事があったように記憶する。願人坊主には、司馬さんが述べているような移住性の連中と定住性の連中がいたようで、5代目の古今亭志ん生が得意にした「黄金餅」に登場する西念はどうも定住性の願人坊主である。落語にはときどき、願人坊主が登場するのだが、司馬さんの夫人の母方の祖父という人が初代(と司馬さんは書いているが、実は二代目であった皮田藤吉であろう)桂春団治の熱狂的なファンだったという縁があるにもかかわらず、司馬さんは落語があまり好きではないようで(あるいは上方落語には願人坊主があまり登場しないのか)、落語の中の願人坊主についての言及はない。

9月29日
 司馬遼太郎『街道をゆく4 郡上・白川街道、堺・紀州街道 ほか』を読み終える。この本については、そのうち(まだ2の紹介が終わっていないので、だいぶ先になりそうだが)紹介するつもりだが、その際には触れそうもない、細かいことで気づいたことを書き留めておく。
 「堺・紀州街道」に触れた個所で、堺には奇妙で「即物的」な姓が多いと記されていて、うどんやの美々卯の家の姓は「耳」であるとか、「飯(めし)」という姓がある(落語の「莨の火」が、この家の主人についての話である)など、その実例が列挙されている中で、「指吸」というのが出てきた。京大には、同学会という全学自治会があったが、その議決機関として代議員会というのがあり、代議員は国会の参議院よろしく、全学から投票で選ばれるのと、各学部の自治会からえらばれるのと2種類があった。ある時、その全学区の立候補者に指吸という名があったが、さては堺の出身であったかと(あるいは先祖が堺の人か)今頃になって得心した次第である。堺といえば、大学の生協の売店で、与謝野晶子の実家の羊羹を売っていたことも思い出される(買って食べたことはない)。

 また茶人出身の大名が少なくないという例として、古田織部とか、小堀遠州と並んで小川祐忠の名が挙げられていて、山崎の合戦では明智光秀を、賤ケ岳の戦いでは柴田勝家を裏切った前歴のため、関ケ原の戦いの際に石田三成を裏切って東軍に味方したが、徳川家康にかえって警戒されて領地を没収されてしまった。 「祐忠はやむなく京で商人になり、薬屋として盛大に門戸を張った。住まいは二条であった。その屋敷が、今も二条陣屋として残っている」(233ページ)。私の大学院時代の指導教官が、なぜかこの二条陣屋が好きで、お客があるとここに案内することが多かったのを思い出す。あまりいい趣味だとは思わない。

9月30日
 NHKラジオ「高校生からはじめる現代英語」では”Ebony, Ivory...and Gold"(黒檀、象牙、…そして黄金)という文章を読んだ。その昔ピアノの黒鍵にはebonyが、そして白鍵にはivoryがよくつかわれたことから、ebony and ivoryは「ピアノ(の鍵盤)をさすことがあるという。したがって、この表題にはピアノには「黒鍵と白鍵があるが、(このピアノには)なんと金もあるよ)」という意味に受け取れる。イングランド西部のある大学で、寄贈された古いピアノを調律師に修理してもらったところ、作業の途中で金貨913枚が隠されていたのが見つかったという。
 この表題は、ポール・マッカートニーがつくって、1982年にスティービー・ワンダーと一緒に歌ってヒットした”Ebony and Ivory"という歌の題名を踏まえたものだそうである。象牙と黄金ということで思い出したのは、国名のコートジボワール(Côte-d'Ivoire)というのはフランス語で「象牙海岸」(英語ではIvory Coast)、「黄金海岸」(Gold Coast)というのは国名としては残っていないが、西アフリカのギニア湾北岸(象牙海岸の東)の地域を言い、その黄金海岸の東の海岸を「奴隷海岸」(Slave Coast)といったことである。こういう植民地支配や奴隷制を想起させる事柄を記憶するのも歴史の一部として重要であろう。
 

山本巧次『阪堺電車177号の追憶』

9月29日(金)晴れ、気温上昇

 9月27日、山本巧次『阪堺電車177号の追憶』(ハヤカワ文庫)を読み終える。阪堺電車はその名のごとく大阪市と堺市をつないで大阪市の南の方を走っている私鉄電車で、一部区間が路面電車として運行している。昭和8年(1933)に最新鋭のモ161形電車の1台として運行を始めた177号が、平成29年(2017)に廃車になることになって、過去に自分の周囲で起きた事件をふりかえるという構成になっている。(モ161形電車は17両造られ、したがって177号がこの形では一番新しいことになる。)
 6章からなるこの物語の各章は、それぞれ独立した短編小説としても読めるのだが、177号とその他の阪堺電車の運行がかろうじてそれぞれの話をつないでいる。それに、この電車が本線試運転した時の運転士であり、最初の営業運転も担当した井ノ口という運転士の一家と、その最初の営業運転の時に乗ってきた赤ん坊を抱いた若い夫婦の一家が、177号と浅くない因縁をもって物語のあちこちに顔を出す。

 第1章「二階の手拭い――昭和8年4月――」は、177号が最新鋭の電車として走っていたころの話。阪堺線の車掌の1人が沿線の質屋の二階の欄干に干してある手拭いに不審を感じたことから、物語が始まる。手拭いがずっと干してあることが不思議なのに、ある日、その手拭いの柄が変わったかと思うと、一人の男が電車から降りて、質屋に入っていった…。車掌の機転と、彼の通報を受けた井ノ口のそれ以上の機転とで事件は一件落着かと思うと、さらにその先があって…。

 第2章「防空壕に入らない女――昭和20年6月――」は、太平洋戦争末期の話。井ノ口は既に退職している。乗務員の多くが兵隊にとられたために、動員を受けた女学校の生徒だった井ノ口の娘の雛子が運転士として勤めている。父親から演技のええ電車だと聞かされていた177号を運転している時に、空襲に会う。乗客とともに、近くの防空壕に退避したのだが、一人だけ防空壕から逃げ出した若い女性(北田信子)がいた。ひとりにしておくわけにもいかないと、雛子が一緒に逃げて、事情を聴くと、彼女は幼いころに住んでいた近所の洞窟で遊んでいるうちに、洞窟が崩れて、一緒に遊んでいた子どもが生き埋めになったらしいという記憶を引きずっているという… 雛子は信子の思い出が何故か気になる…。

 第3章「財布とコロッケ――昭和34年9月――」は、戦後の復興も進んで、阪堺電車にも新型が登場し、177号も旧型になってしまった頃のお話。天王寺駅前の食堂にコックとして勤める榎本章一はコロッケつくりには自信のある若者で、時々電車の中で一緒になる若い女性(寺内奈津子)に恋心を抱く。ある日、177号の車内で奈津子が財布を落としたのを拾おうとすると、先に小学生が拾って、そのまま姿を消してしまう。奈津子にこの次第を話した章一は、2人で小学生を捕まえて、事情を聴くことにする…。少し先回りをすると、章一と奈津子は結婚して、洋食屋を開業し、コロッケのおいしい店として評判を呼ぶことになる。そして小学生(池山典郎)は、阪堺電車の車掌となり、井ノ口や雛子にかわいがられることになる。

 第4章「二十五年目の再会――昭和45年5月――」は大阪で万博が開かれていたころの話。177号の述懐によれば「大阪が一番賑やかやったんは、やっぱりあのときかなあ」(133ページ)という。ちなみに、この頃私は大阪で働いていて、主な活動範囲はキタだったが、天王寺近くのスタジオで仕事をしたこともあって、阪堺電車を見たこともある。題名の通り、雛子が25年ぶりに信子を見かけて話しかける。信子は結婚したが、夫が事故で死んだという。雛子は177号電車を見付けて、住吉神社にお参りするという信子をつれ、177号電車に乗り込む(この電車の車掌が典郎である)。実は、信子には、雛子にも言わない(あるいは雛子も気づいていたかもしれない)大きな秘密があった…。

 第5章「宴の終わりは幽霊電車――平成3年5月――」はバブル景気の時代がそろそろ終わりかけてきたころの話。阿部ののホテルで働くホステスのアユミは、この店の常連客の1人がかつて彼女の実家のクリーニング屋を破産に追い込んだ不動産屋であることに気付く。姉貴分のマキ、不動産屋の相手をしていたホステスの1人であるナツキと話すうち、不動産屋が買おうとしている土地にあるたこ焼き屋をマキが知っているということが分かり、3人でたこ焼き屋に出かけ、その土地と建物を不動産屋が買おうとして、どうしても首を縦に振らないたこ焼き屋に嫌がらせをしていることを知る。3人は力を合わせ、不動産屋をとっちめようと計画する。実はアユミだけでなく、マキもナツキもそれぞれの過去を抱えていたのである(マキはこれまでに登場した誰かの縁者である。ナツキについては作者は余韻を残した書き方をしている)。悪役の不動産屋が乗った電車(もちろん177号)の中で夢を見てうなされ、起こされた時に、運転士が通報した助役が典郎であった。

 第6章「鉄チャンとパパラッチのポルカ――平成24年7月――」は雛子の孫(井ノ口の曽孫)で東京の大学に通っている永野幸平が登場し、大の鉄道好きである彼が161形の電車の写真をとろうとしていたところ、近くのマンションに住む男の部屋を人気の女子アナウンサーが訪問するという情報をつかんだパパラッチ(余計な話だが、パパラッチは複数形で、1人の場合はパパラッツォである)に遭遇し、さらにまた…という話。雛子が幸平を連れて向かう洋食屋は第3章に登場した章一の店「榎亭」であり、不思議にも177号電車に乗ることになる。このほか、これまでの話のその後がいくつか語られている。

 さらに「エピローグ」で、177号電車のその後が語られ、最初の営業運転の時の赤ん坊が章一であったことが分かる。助役まで務めた典郎は既に退職しているが元気で、一家と177号電車の結びつきは新しい形で続きそうである。

 177号の周囲で日常の謎というには深刻だが、強盗殺人まではいかないという事件が展開する。警察の出番もあるが、むしろ市民の日常的な知恵が事件を解決する力となっている。それぞれの章に登場する人物が、関係しあったり、しあっていなかったりで、電車が繋ぐ人間の縁の深浅と不思議さを描いている。もうひとつ、この物語の進行のなかで阪堺電車の沿線の住吉神社の存在が見え隠れしているのが見落とせない。実は、私は一宮めぐりの一環で住吉神社を参拝したことがあって、その際に利用したのは南海電車だったのだが、神社に向かう途中で阪堺電車を見かけて乗りたいなぁと思ったことを思い出す。路面電車に対する愛着と、その中でも特に阪堺電車への興味がこの小説を読んだそもそものきっかけである。特に面白いのは第5章であるが、そこで悪役の不動産屋が路面電車には一種の郷愁をもつ存在として描かれていて(だからこそ、幽霊電車の夢を見たのかもしれないが)、「罪を憎んで人を憎まず」的な作者の思いが込められているのかなと思ったりした。

ダンテ・アリギエリ『神曲 天国篇』(28-1)

9月28日(木)朝のうちは雨が降っていたが、その後は曇り空が続く。

 ベアトリーチェに導かれて、天上の世界へと旅立ったダンテは、月天、水星天、金星天、太陽天、火星天、木星天、土星天を訪れ、そこで彼を出迎えた魂たちとの会話を通して、自分の抱いてきた地上の世界と天上の世界とにかかわる疑問の解答をえ、また彼が旅の中での見聞を地上に戻った後に人々に知らせることが彼の使命であるという自覚を得る。至高天から土星天に降りてきている「ヤコブの階段」を上って恒星天に達した彼は、信仰・希望・愛という3つの対神徳についての試験に合格し、彼がその使命にふさわしい人物であることを示す。人祖アダムとの会見を経て、彼は宇宙のすべての運動の源である原動天を訪問する。これまで彼が訪れた恒星天までは物質的な世界であるのに対し、原動天は非物質的な世界の入口であり、宇宙全体の運動の源なのである。

我が知性を天国に浸しているあの方が、
哀れな生者達の現在の有様を非難しながら
真実を明らかにしたその後のこと、

背後から照らす二枝の燭台の炎を
直接見る前に、あるいはそれに気づく前に
鏡の中に見る者が、

ガラスが真実を伝えているかどうか確かめようと
振り返り、歌と楽曲のように
象と真実とが一致するのを見る、

愛が私をとらえるための縄とした
麗しの瞳に見入っていた私が
それと同じ行為をしたことを我が知性は記憶している。
(418-419ページ) ダンテの知性を天国に浸しているのはベアトリーチェである。第27歌の後半で、彼女は原動天と宇宙の運動についてダンテに説明した。そしてダンテは、原動天そのものではなくて、彼女の瞳の中に原動天を見ていた(だから鏡の譬えが使われている)。彼女は登場人物ダンテを天国で導き、その知性を至高天まで高めていくだけでなく、(地上に戻って)執筆しているダンテも彼女のおかげで天国のことが書ける。そのため、この個所は現在時制で書かれているという。

そして私が振り返って、目の中に、
その天空の回転を一心に見つめるならば
必ずやその回転体の中に現れるものの姿が飛び込んできたとたん、

ある一点が私には見えた。それは烈々たる光を
放ち続け、それに焼かれた目は
そのあまりの激しさに閉じねばならなかった。

ここ地上から最も小さく見える星でさえ、
星と星を並べるようにその一点の隣に置けば
月のように見えたであろう。
(419-420ページ) そしてダンテは原動天の実物を見ようとしたが、その中で烈しく輝くある点の光に耐えられず、目を閉じた。これは、いまだにダンテが、ベアトリーチェの象徴する神学の助けを借りなければ神の光を見られないことを示すものだと翻訳者である原さんは解説している。

 そのごく近くを、輝く火でできた「一つの火輪」が取り巻き、非常な速さで天の周囲を回転していた。結局、その点の周囲を九重の火輪が順々に拡大しながら取り巻き、その回転速度は輪が中心から遠くなるほど遅くなっていた。
そして、純粋な火から最も離れていない輪が
最も澄みきった炎をもっていた。
ひときわその真理を注がれているからだと私は思う。
(421ページ) 「純粋な火」は中心となる一点の火である。ベアトリーチェは、ダンテの心中の思考を見抜いて、次のようにいう:
・・・「あの一点に
天空と全自然が拠っているのです。

その一点に最も近く結びついているあの輪をご覧なさい。
そして、拍車をかける燃える愛ゆえに、
その動きがあれほど早いことを理解しなさい」。
(422ページ) 彼女の説明によれば、中心の輝く一点が万物の始源である神であり、それに最も近い火輪が、その神=一点への愛に燃えて非常な速度で回転していると説明したのである。

 ダンテは、事物を物体によって感覚する物質的世界では、中心にある地球から最も離れた、最も大きいこの原動天がもっとも「神聖」であり、神に近いはずであるのに、なぜその「原型」であるこの場所の神と火輪の関係が、物質的世界の宇宙に反映されないのかとたずねた。
 ベアトリーチェは次のように答えた。物質的世界、つまり宇宙の中の諸天空はその力の量に比例した物体としての大きさをもつ。つまり神から発して次々に諸天空が受けては伝えていく「力」すなわち「善」は、それに比例した影響「めぐみ」を下位の天空に伝える。そしてその「めぐみ」が天空の大きさを決定する。結論として、物理的宇宙で最大の「この天空が最も(神への)愛に燃え、最も知を湛える」。だからこそ、ベアトリーチェがダンテの知性を「天国に」導いている。つまり天国にふさわしくしているのならば、ダンテは物質的な見かけの大きさではなく、それらの本質をなしている非物質的な「力」を物差しにして、天空を運行している「知性的動者」たる天使の力の大きさが、物質的宇宙の大きさに比例していることを理解できるはずなのであるという。

 どうもこのあたりの説明は苦しいと思うのだが、どう思われるだろうか。地上の世界を含む物質的な世界と、非物質的な世界を二分し、非物質的な世界の影響が物質的な世界を動かしているのだとする世界観を打破して、全宇宙に同じ物理的な法則が働いているのだとしたのが、近代の科学革命であった。ダンテの思考はきわめて中世的ではあるが、その制約の中で自分の周囲の世界を合理的に解釈しようとし、キリスト教の世界観と自分の経験とを何とか矛盾なく結びつけようとする試みであったと理解される。

 ベアトリーチェは引き続き、天使について説明するが、それについてはまた次回に。 

五味文彦『日本の歴史を旅する』

9月27日(水)曇り

 9月26日、五味文彦『日本の歴史を旅する』(岩波新書)を読んだ。日本中世史の研究者として知られる著者は、各地で講演をする機会も多く、そうした講演をもとに、雑誌『UP』の連載「地域の力を歴史に探る」(2009~2011)のなかで、それぞれの地域がもっている独自の力を歴史的に探ろうとした。この書物は、その連載にさらに手を加えてまとめられたものである。
 書物の中で特に注目されているのは、地域に特有な人・山・食・道であり、この4つが構成の柱になっている。著者の言葉を借りると:
「「人」とはその地域で活躍した人、「山」とは地域に愛された山々、「食」とは地域で生まれた食事や生産物、「道」とは地域を結び文化を運ぶ山野の道、河海の道であって、これらをキーワードに地域の力を私の歴史への旅とともに見てゆく。」(ⅲページ)ということである。地域といっても大都市圏は除かれているが、できるだけ広い視野を持って取り組まれているという。
 それで「Ⅰ 人 ひと」、「Ⅱ 山 やま」、「Ⅲ 食 しょく」、「Ⅳ 道 みち」の4部から構成され、それぞれ4編ずつの文章から構成されているが、今回はⅠだけを取り上げることにする。

 目次に従ってみていくと
Ⅰ 人 ひと
 1 芭蕉 大津に蓄積された情報力 (滋賀県大津市)
 2 連歌師宗長 伊勢湾岸を襲った災害を越えて(三重県東部)
 3 菅江真澄 津軽の開発史を伝える(青森県津軽地方)
 4 若山牧水 故郷日向を離れて思う(宮崎県東部)
と4人の人物が取り上げられている。

 芭蕉と近江のつながりについては、これまでも様々な指摘がなされてきたが、ここで著者が芭蕉の文学的な活動と絡めて、交通の要衝としての大津の位置に着目し、<情報史>という観点からその意義を掘り下げているのが注目される。芭蕉の文学活動のかなりの部分が大津で展開され、芭蕉の門人のかなりの部分が近江の人であった。また、芭蕉の墓所のある義仲寺の近くの龍岡(たつがおか)には芭蕉の門人たちの墓が並んでいるという。〔書中で触れられていないが、芭蕉の俳諧の師である北村季吟は近江の人であった。〕 文学だけではなく、政治、商工業にかかわる情報も大津を経て都に入り、また都から出ていくものが多かったのである。「大都市に集中しがちな情報ではあるが、その近くにある土地にこそ情報は集積されたのであり、新たな発信力をもつところとなった。早くから情報の先端にあった大津の今後の情報力に期待しよう」(17ページ)という結びが、この都市の未来を予見するものとなるかどうかも注目されるところである。
 五味さんが、瀬田川の西にある義仲寺について触れていて、東にある建部神社について触れていないのはどういうことか考えてみるのも面白いかもしれない。『平治物語』の終りには、伊豆に配流されることになった頼朝がこの神社で将来を予言する夢を見て、考えを変えるという話が出てくる。これも興味深い話ではないかと思うのである。

 連歌師宗長に触れた文章では、戦国時代の駿河の大名今川氏に仕えた連歌師の宗長がその日記に記した見聞の中から、彼が津波に襲われて荒廃した伊勢の安濃津に立ち寄り、途方に暮れたという記事を取り上げている。しかし、著者の視線は、そのような災害(天災だけでなく、戦災のような人災もある)の恐ろしさよりも、そこから復興する伊勢商人たちのたくましい姿の方に向けられており、連歌は彼らの結束を固める手段であったとも記されている。そのような中で台頭したのが松坂商人であり、「江戸時代に入って松坂が紀州藩の支配地になったこともあって、松坂商人は江戸に大挙進出した。早くは三井俊次が、続く延宝年間頃までには長谷川・小津・中川・小野田などの諸家がそれぞれ江戸店を出し、後に三井財閥として発展したのが三井家である」(30ページ)。〔ついでに、小津家の末裔の一人が小津安二郎であるということも書いておいてほしかった。〕 室町から戦国時代にかけて、大名たちの庇護を求めて全国を旅行して歩いたのは、連歌師だけでなく、万里集九などの漢詩人もいたということも、五味さんが触れていないこととして指摘しておきたい。五味さんが訪問したという松阪市の本居宣長記念館は私も出かけたことがあるので、懐かしく思った。最後に、伊勢出身の松浦武四郎の例を引いて、外に向かって活躍したのは商人だけではなかったとも説き、「伊勢湾地域では開発が早くから進んでいた分、災害にも多く襲われてきたのだが、その災害を乗り越えてゆく力が常に生まれ克服してきた。この復興する力が伊勢湾岸にはあったわけで、これがこの地の人々をさらなる冒険や飛躍に駆り立てたのである」(32ページ)と結んでいる。

 菅江真澄は江戸時代の東北・北海道旅行者として知られるが、特に寛政7(1795)年の津軽周遊の際の紀行には見るべきものが多いという。翌寛政8(1796)年に彼は青森市郊外の三内の桜を見ようと出かけ、掘り出されていた縄文土器などを見たことを書き留めているが、これが三内丸山遺跡の最初の紹介記事となったとのことである。この項では、縄文時代から続く、地域の農地、海、森林などを開発してきた開発力の系譜がたどられている。

 最後に日向(宮崎県)東部を故郷とする若山牧水の望郷の念と旅に明け暮れた生活が取り上げられ、日向出身の人物を見ていくとこの地を飛び出して活躍した人々が多いのに気づかされると述べている。その系譜をたどると、天正遣欧少年使節の1人であった伊東マンショ、日本で最初に孤児院を創設し「児童福祉の父」と称された石井十次、飫肥藩出身の儒者である安井息軒、飫肥藩の藩校である振徳堂出身の外交官小村寿太郎などの名が列挙されている(どうも思い付きを並べているという感じがしないでもない)。

 風土の中で育まれた伝統と、その中で成長した人々の関係を考察しようとしたのであろうが、書物中心というわけでもなく、実地踏査に重点を置いたというわけでもなく、両者ともに中途半端な感じは否定できないが、それでも読んでいく中で多くの興味ある事実や事実を見ていく視角に出会うことができ、興味深い書物であった。また、機会を見付けてⅡ以下についても紹介していくつもりである。

 

『太平記』(177)

9月26日(火)晴れ

 建武3年(南朝延元元年、1336)6月初旬、足利方は比叡山に攻め寄せ、西坂では千種忠顕が戦死した。しかし、後醍醐天皇方は数では劣るものの、地の利と、士気の高さを生かしてよく守り、足利方は攻めあぐねていた。6月17日、山の戦に鳴れているということで西坂から攻め寄せる足利方の先陣を熊野八庄司が務めたが、後醍醐天皇方の本間重氏、相馬忠重の弓勢に恐れて逃走した。そんな中、八王子権現の託宣があり、搦め手の大将高師久の敗北を予言した。果たして20日、宮方の急襲で寄せ手は総崩れとなり、高師久は捕えられて斬られた。
 敗走した足利方の武士たちが、都からも離れた場所に逃げたため、都の防備が薄くなったと知った宮方は6月30日に都を襲うが、いったんは逃げ去った武士たちが戻ってきて態勢を立て直した足利方が、尊氏の計略も的中して、宮方の武士たちを撃退する。7月5日に北陸地方から二条師基が3千余騎の武士を率いて比叡山の宮方に合流してきたので、前回の攻撃の失敗を踏まえて、東西から京都を挟んで攻撃するという作戦を立てて、再度京都に攻め寄せた。ところがこの謀が足利方に漏れてしまい、足利方は自軍を3手に分けて、西から攻め寄せた義貞軍を挟み撃ちにするとともに、東から攻めてきた二条良基らの軍勢にも一方の軍勢が対抗したので、宮方の軍勢はまたも撃退された。

 宮方は都を奪回しようと2回攻撃を掛けたが、どちらも失敗したため、気力が衰え、兵力も少なくなったので、比叡山の僧兵の中にも足利方に内通するものが出るかもしれないという気分が広がりはじめた。後醍醐天皇もこのような状況に不安を感じられて、まず比叡山の僧兵たちの士気を奮い立たせようと、日吉山王七社の神、延暦寺全山を構成する九院の仏閣へ、それぞれ大きな荘園を2,3か所ずつ寄付された。そのほか、一所住と言って、一か所に集まり住み、延暦寺内で兵糧などを手配する衆徒たちが800人ほど、日吉山王中七社の1つである早尾に集まって、軍勢の兵糧などの取りまとめをしていたが、彼らに近江の荘園で領主がいなくなった分300か所あまりを与えられてて、近江の国府が治める土地を比叡山がずっと管領することにすると、宣旨を下された。
 これが奏功して宮方の軍勢が都を奪回できれば、比叡山の繫栄は疑いないということであったが、比叡山の3千人の衆徒たちがことごとくこの褒賞を与えられれば、皆世俗の事柄に心を寄せるようになり、仏教の勉強をしたり、悟りを開くために修業に励んだりする者がいなくなって、長い目で見れば仏法の衰えを結果として招くのではないか、それで神仏の加護も疑わしいものであると、先を見通すことのできる人々はあまり喜ばなかった。

 時を同じくして、比叡山の3千人の僧徒全員が、三塔会合という全山の方針を評議する会議を開いた。そこで決まったのは、南都(奈良)の東大寺、興福寺に書状を送って、加勢を求めるということであった。『太平記』の作者は(たぶん、この時代の人は一般的にそう考えていたのだろうが)もともと官寺である東大寺よりも、藤原氏の氏寺である興福寺の方を重視していたようで、比叡山延暦寺から興福寺に送られた書状だけが紹介されている。この書状に対して、興福寺の大乗院(興福寺の門跡寺では大乗院と一乗院が最も有力であったというのは、呉座勇一『応仁の乱』で詳しく紹介されたとおりである)から返事が届いた。興福寺としても宮方に加勢したいということである。

 奈良の有力寺院が比叡山に加勢するという噂が広まり、畿内近国で形勢を窺って、どちらに着いた方が有利であろうかと案じていた兵たちが、皆比叡山に味方し、合流しようと考えるようになった。とはいうものの、彼らと比叡山の間には京都を占拠している足利方の武士たちがいるので、すぐに坂本に駆け付けるわけにはいかない。「大将にふさわしい方を派遣していただければ、その大将を戴いて陣を敷き、京都を攻め落とすことにしたいと思います」と申し伝える。

 それではと、(現在の京都府八幡市)の石清水八幡宮に集まっている武士たちの大将として後醍醐天皇の近臣である四条中納言隆資卿を遣わされた。(現在の大阪府枚方市に属する)真木・葛葉(くずは)・禁野(きんや)、(交野市の)片野、(高槻市の)宇殿、(大阪市淀川区の)賀島(かしま)、(兵庫県尼崎市の)神崎、(大阪市天王寺区の)天王寺、(京都府木津川市の)賀茂、三日原(みかのはら)の武士たちが3千余騎参集して、淀の大渡の北にかかっていた橋から西に陣を取って、北に天王山、南に男山がある淀野大渡の周辺の道をふさいだ。
 宇治にはこれも後醍醐天皇の側近である中院中将定平を使わされた。宇治、(現在の京都府綴喜郡宇治田原町の)田原、(京都市伏見区の)醍醐・小栗栖、(京都府木津川市の)木津、(城陽市の)梨間(なしま)、市野辺、(木津川市の)山城脇の武士たちが2千余騎集まり、宇治橋を2,3間引き落として、宇治橋の川下の中州である橘の小島を望む岸辺に陣を取った。
 鞍馬口から丹波へと下る北丹波路には、後醍醐天皇の弟である大覚寺宮性勝法親王を大将として、新田一族の額田為綱を遣わされた。その軍勢300余騎、白昼に京都を通り抜けて、(京都市北区鷹峯の西北にある)長坂に登っていった。(京都市右京区の)嵯峨、仁和寺、高尾、栂尾、(船井郡京丹波町の)志宇知、(兵庫県篠山市の)村雲の武士たちが合流して、1,000余騎が山の上から京都を見下ろし、嵐山、高尾、栂尾に陣を取った。この方面には比叡山の西塔の僧兵たちも加勢した。
 さらに(滋賀県大津市瀬田の)瀬田は、(甲賀市甲賀町の)儀峨、信楽(しがらき)の武士たちが封鎖した。

 こうなってくると、京都に入る7つの道のうち、自由に通行できるのは山陰道の北側をほぼ平行して、京都市西京区下山田から亀岡市篠町に至る唐櫃(からと)越だけになってしまった。諸国から京都へと物資を運ぶ道が途絶え、洛中の士卒は、皆兵糧が乏しくなって疲れてきた。しばらくは馬を売ったり、物の具を売ったりして食料を調達していたが、その後になると、京都や、白河(鴨川の東、現在では京都市内であるが、この頃はそう見なされていなかった)の民家や、寺に押しかけて、人々の衣装をはぎ取り、食物を略奪した。貴族たちは兵火のために焼きだされて、ここの山、あるいは辻堂、神社の拝殿に身を隠し、僧侶・俗人・男女を問わず、道端で食料を乞い求めたり、築地の影、門柱を支える石の上で力なく倒れ伏していたりした。開闢以来、兵火の起こることは多かったとはいえ、これほどの無道無残な様はかつて誰も記録したものがないものであった。

 比叡山と南都の大寺の同盟が結ばれ、その力を信じた近畿地方の武士たち、おそらく、武士と農民のどちらともつかないような存在であったと思われる人々が、宮方に合流して、京都に物資を運ぶ道の封鎖を始めた。このように、京都を占拠している軍勢の補給路を断つのは極めて効果的な戦術であり、京都の足利方が食糧危機に瀕している様子が描かれている。問題は、彼らの指揮を執っているのが多く、後醍醐天皇の側近の公家であるということで、戦闘経験の乏しい彼らがどのようにこの作戦を進めていくかということである。 

『太平記』(177)

9月26日(火)晴れ

 建武3年(南朝延元元年、1336)6月初旬、足利方は比叡山に攻め寄せ、西坂では千種忠顕が戦死した。しかし、後醍醐天皇方は数では劣るものの、地の利と、士気の高さを生かしてよく守り、足利方は攻めあぐねていた。6月17日、山の戦に鳴れているということで西坂から攻め寄せる足利方の先陣を熊野八庄司が務めたが、後醍醐天皇方の本間重氏、相馬忠重の弓勢に恐れて逃走した。そんな中、八王子権現の託宣があり、搦め手の大将高師久の敗北を予言した。果たして20日、宮方の急襲で寄せ手は総崩れとなり、高師久は捕えられて斬られた。
 敗走した足利方の武士たちが、都からも離れた場所に逃げたため、都の防備が薄くなったと知った宮方は6月30日に都を襲うが、いったんは逃げ去った武士たちが戻ってきて態勢を立て直した足利方が、尊氏の計略も的中して、宮方の武士たちを撃退する。7月5日に北陸地方から二条師基が3千余騎の武士を率いて比叡山の宮方に合流してきたので、前回の攻撃の失敗を踏まえて、東西から京都を挟んで攻撃するという作戦を立てて、再度京都に攻め寄せた。ところがこの謀が足利方に漏れてしまい、足利方は自軍を3手に分けて、西から攻め寄せた義貞軍を挟み撃ちにするとともに、東から攻めてきた二条良基らの軍勢にも一方の軍勢が対抗したので、宮方の軍勢はまたも撃退された。

 宮方は都を奪回しようと2回攻撃を掛けたが、どちらも失敗したため、気力が衰え、兵力も少なくなったので、比叡山の僧兵の中にも足利方に内通するものが出るかもしれないという気分が広がりはじめた。後醍醐天皇もこのような状況に不安を感じられて、まず比叡山の僧兵たちの士気を奮い立たせようと、日吉山王七社の神、延暦寺全山を構成する九院の仏閣へ、それぞれ大きな荘園を2,3か所ずつ寄付された。そのほか、一所住と言って、一か所に集まり住み、延暦寺内で兵糧などを手配する衆徒たちが800人ほど、日吉山王中七社の1つである早尾に集まって、軍勢の兵糧などの取りまとめをしていたが、彼らに近江の荘園で領主がいなくなった分300か所あまりを与えられてて、近江の国府が治める土地を比叡山がずっと管領することにすると、宣旨を下された。
 これが奏功して宮方の軍勢が都を奪回できれば、比叡山の繫栄は疑いないということであったが、比叡山の3千人の衆徒たちがことごとくこの褒賞を与えられれば、皆世俗の事柄に心を寄せるようになり、仏教の勉強をしたり、悟りを開くために修業に励んだりする者がいなくなって、長い目で見れば仏法の衰えを結果として招くのではないか、それで神仏の加護も疑わしいものであると、先を見通すことのできる人々はあまり喜ばなかった。

 時を同じくして、比叡山の3千人の僧徒全員が、三塔会合という全山の方針を評議する会議を開いた。そこで決まったのは、南都(奈良)の東大寺、興福寺に書状を送って、加勢を求めるということであった。『太平記』の作者は(たぶん、この時代の人は一般的にそう考えていたのだろうが)もともと官寺である東大寺よりも、藤原氏の氏寺である興福寺の方を重視していたようで、比叡山延暦寺から興福寺に送られた書状だけが紹介されている。この書状に対して、興福寺の大乗院(興福寺の門跡寺では大乗院と一乗院が最も有力であったというのは、呉座勇一『応仁の乱』で詳しく紹介されたとおりである)から返事が届いた。興福寺としても宮方に加勢したいということである。

 奈良の有力寺院が比叡山に加勢するという噂が広まり、畿内近国で形勢を窺って、どちらに着いた方が有利であろうかと案じていた兵たちが、皆比叡山に味方し、合流しようと考えるようになった。とはいうものの、彼らと比叡山の間には京都を占拠している足利方の武士たちがいるので、すぐに坂本に駆け付けるわけにはいかない。「大将にふさわしい方を派遣していただければ、その大将を戴いて陣を敷き、京都を攻め落とすことにしたいと思います」と申し伝える。

 それではと、(現在の京都府八幡市)の石清水八幡宮に集まっている武士たちの大将として後醍醐天皇の近臣である四条中納言隆資卿を遣わされた。(現在の大阪府枚方市に属する)真木・葛葉(くずは)・禁野(きんや)、(交野市の)片野、(高槻市の)宇殿、(大阪市淀川区の)賀島(かしま)、(兵庫県尼崎市の)神崎、(大阪市天王寺区の)天王寺、(京都府木津川市の)賀茂、三日原(みかのはら)の武士たちが3千余騎参集して、淀の大渡の北にかかっていた橋から西に陣を取って、北に天王山、南に男山がある淀野大渡の周辺の道をふさいだ。
 宇治にはこれも後醍醐天皇の側近である中院中将定平を使わされた。宇治、(現在の京都府綴喜郡宇治田原町の)田原、(京都市伏見区の)醍醐・小栗栖、(京都府木津川市の)木津、(城陽市の)梨間(なしま)、市野辺、(木津川市の)山城脇の武士たちが2千余騎集まり、宇治橋を2,3間引き落として、宇治橋の川下の中州である橘の小島を望む岸辺に陣を取った。
 鞍馬口から丹波へと下る北丹波路には、後醍醐天皇の弟である大覚寺宮性勝法親王を大将として、新田一族の額田為綱を遣わされた。その軍勢300余騎、白昼に京都を通り抜けて、(京都市北区鷹峯の西北にある)長坂に登っていった。(京都市右京区の)嵯峨、仁和寺、高尾、栂尾、(船井郡京丹波町の)志宇知、(兵庫県篠山市の)村雲の武士たちが合流して、1,000余騎が山の上から京都を見下ろし、嵐山、高尾、栂尾に陣を取った。この方面には比叡山の西塔の僧兵たちも加勢した。
 さらに(滋賀県大津市瀬田の)瀬田は、(甲賀市甲賀町の)儀峨、信楽(しがらき)の武士たちが封鎖した。

 こうなってくると、京都に入る7つの道のうち、自由に通行できるのは山陰道の北側をほぼ平行して、京都市西京区下山田から亀岡市篠町に至る唐櫃(からと)越だけになってしまった。諸国から京都へと物資を運ぶ道が途絶え、洛中の士卒は、皆兵糧が乏しくなって疲れてきた。しばらくは馬を売ったり、物の具を売ったりして食料を調達していたが、その後になると、京都や、白河(鴨川の東、現在では京都市内であるが、この頃はそう見なされていなかった)の民家や、寺に押しかけて、人々の衣装をはぎ取り、食物を略奪した。貴族たちは兵火のために焼きだされて、ここの山、あるいは辻堂、神社の拝殿に身を隠し、僧侶・俗人・男女を問わず、道端で食料を乞い求めたり、築地の影、門柱を支える石の上で力なく倒れ伏していたりした。開闢以来、兵火の起こることは多かったとはいえ、これほどの無道無残な様はかつて誰も記録するものがないものであった。

 比叡山と南都の大寺の同盟が結ばれ、その力を信じた近畿地方の武士たち、おそらく、武士と農民のどちらともつかないような存在であったと思われる人々が、宮方に合流して、京都に物資を運ぶ道の封鎖を始めた。このように、京都を占拠している軍勢の補給路を断つのは極めて効果的な戦術であり、京都の足利方が食糧危機に瀕している様子が描かれている。問題は、彼らの指揮を執っているのが多く、後醍醐天皇の側近の公家であるということで、戦闘経験の乏しい彼らがどのようにこの作戦を進めていくかということである。 

木田元『哲学散歩』(3-1)

9月25日(月)晴れ

 西洋の哲学の流れを追うこのエッセー集の第1回はプラトン、第2回はエンペドクレスを取り上げていた。第3回はソクラテスについて論じられている。プラトンはソクラテスの弟子ということになっているから、この順序はちょっとおかしいと思うかもしれないが、第1回はもともと独立したエッセーとして書かれ、それが好評だったので、連載読み物として書かれたのが第2回以下ということである。そして、第1回と、第2回を注意深く読めば、自然とは何かを問題にしたギリシア哲学の本質と特徴、その伝統に異議を唱えて新しいものの見方を提唱したプラトンという流れはわかるはずである。

 哲学者たちの思索の対象を自然から人間、あるいは自分自身へと転換させるきっかけを作ったのがソフィストたちと、ソクラテス、あるいはこの両者の間の論争である。問題は、ソフィストたちの著作は断片的にしか残っておらず、ソクラテスは本を書かなかったこと、したがって彼らの間の論争がどのようなものであるかは、主としてプラトンの著作を通じて推測するよりほかに方法がないということである(もちろん、ソフィストの著作の断片とか、ソクラテスのプラトン以外の弟子の著作とか、他に手掛かりがないわけではない)。

 「知識人(ソフィスト)たちとの論争で、ソクラテス(前470/469-399)は負けるわけにはいかなかった。この勝敗にポリスの存亡が懸かっていると思ったからだ。絶対不敗の立場に立たねばならない。「愛知(フィロソフィア)」の立場がそれだった。」(25ページ) この書き出しからして、第3回「ソクラテスの皮肉」はわかりにくい。分かりにくいというよりも、説明不足である。たぶん、哲学にある程度の予備知識や関心がある人のために書かれたエッセーであるためにこうなったのだが、問題が問題であり、説明も色々にできるはずであるから、なぜ、ソクラテスが論争に負けるわけにはいかなかったのか、ソクラテスの敗北がポリスの敗北につながったのかという木田さん自身の説明が聞きたいところである。〔歴史的に見れば確かに、ソクラテスの刑死後、アテナイは衰亡の道をたどる。しかし、その一方で、アテナイにはプラトンやアリストテレスの学塾が開かれて、哲学の盛行を見たというのも別の事実である。そもそも「愛知⇒哲学」と考えはじめたのがソクラテスなのである。〕

 ソフィストを木田さんは「知識人」と書いている。「知識人」という言葉は、今の日本では、社会の変化に伴って死語になり始めているが、おおよその意味としては高い学歴とそれにふさわしい知識・教養・識見を備えた人々からなる社会階層をさしていう言葉であるといえよう。ソフィストが「知識人」であるというのは、一定の社会階層を構成していたということではなくて、知識を売り物にして生計を立てていた人々であるということである。そのこと自体は、いいことでも悪いことでもないはずであるが、ソクラテスにはそれが我慢できなかった。
 「彼の定義に従えば、「愛知者(ホ・フィロソフォス」は「知識人」と違って、自分が無知であることを十分に承知している。だからこそ、自分に欠けているその知識を愛し求める(フィレイン)のだ。」(同上)

 「こうして、もともと無知を標榜しているのだから、愛知者には知識人との論争でなに一つ答える義務はない。答えなければならないのは、もっぱら知識人である。愛知者はその答えを吟味しさえすればよい。絶対に負ける気づかいはないのだ。だが、問題はその手口にある。」(同上) 知っているという人に対して、知らないという人が質問するのは当然のことである。だが、哲学的な関心の対象が自然から人間と社会、そこでの思索に移ってきているから「宇宙には果てがあるか」「ある」「果てがあるということは、その先もあるということではないか、その果ての先は」「濛々としたところだ」というような議論にはなりそうもない。さらにまた、何でも知らないことはないという顔つきが気に食わないからからかってみようということでもない。ただ、「知識人」が幅を利かせるような世の中の在り方がポリスにとって危機であるという認識があるのは、すでに述べたとおりである。

 「問題はその手口にある」と木田さんは言う。そして、プラトンの『国家』の中の、ソフィストであるトラシュマコスと、ソクラテスとの間の「正義とは何か」を主題とする対話の例を引き合いに出す。
 トラシュマコスは、ソクラテスが質問ばかりして、自分で答えようとしないのに苛立ち、怒り出す。それに対してソクラテスは自分は何も知らないのだから、トラシュマコスは怒るよりも、ソクラテスを憐れんで当然なのだという。
 「だが、こんなふうに言いながらもソクラテス社、「正しいこととは、強いものの利益にほかならない」という相手の主張を吟味し、その足下をすくうのだが、ソクラテスのその少しずるくも見える論争の仕方を、当時のアテナイ市民は「エイローネイア」と呼んでいたらしい。」(26ページ) 「エイローネイア」がソクラテスの常套手段であることを、すでにトラシュマコスが知っていたことがこの後の発言からわかる。

 この「エイローネイア」というギリシア語は、ドイツ語の「イロニー」、英語の「アイロニー」というふうに、近代語にも引き継がれ、日本では通常「皮肉」と訳されている。そこで、『国家』のトラシュマコスがソクラテスの発言の中の「エイローネイア」も「皮肉」と訳せばよさそうなものだが、ある翻訳では「空とぼけ」と訳され、別の翻訳では「しらばくれ」と訳されているという。「古代ギリシア語の「エイローネイア」には「皮肉」というほどややこしい意味はなく、せいぜい知っているのに知らないふりをする、つまり「無知を装う」、「偽装する」といった程度の意味で使われていたらしい」(27ページ)とのことである。

 ソクラテスの本心がどこにあったのかは、推測するよりほかないのだが、「皮肉」と訳されるようになる近代語の「イロニー」には、もっと複雑な構造が認められる。すると、今度はそこから逆に、ソクラテスの問答法に新しい光を当てようとする哲学上の試みが現われる。それがドイツ・ロマン派の哲学者や、ヘーゲルやキルケゴールだったというのである。では、その新しい光というのはどういうものだったのかというのは、次回のお楽しみということにしておこう。

足もと

9月25日(月)晴れ、気温上昇

足もと

右手に鞄を下げ
左手にタブレットをもって
TシャツGパンの青年が
電車を降りていった
足もとを確かめることなく
しっかりと歩き去った

いちいち足もとを
確かめることなく
足早に歩けるということが
若さのしるしだと
若者の後を
目で追いながら思う

まだまだ暑さが残っているから
70歳を超えた私も
TシャツGパンという姿だが
電車の乗り降りにはいちいち
足もとを確かめる
何度も何度も
転んでけがをして
そうして年をとってきたからとは言うものの
失ったものの大きさが
そのたびに感じられる

老いも若きも乗せて
電車は走り出す
速力を上げる
電車の中で一人
転んでけがをした時のことを
思い返す

嵐山光三郎『猫のほそ道 ノラ猫俳句旅』

9月24日(日)晴れのち曇り

 「とつぜん姿を消してしまうノラ猫がいる。
  そういう猫は、じつは俳句の旅に出かけているのです。」
(8ページ)と、この物語は書きだされている。

 15歳になる雌猫のノラはむかしむかし飼い猫だったころに、飼い主が引っ越し、自分の生んだ3匹の子猫と離れ離れになってしまった。そこで、もといた家に戻ってきたが、子猫と会うことはできず、近所の人の人気猫になって、ノラの暮らしを続けてきた。飼っていたウサギを殺したことで怒りを買ったアラシさんの怒りが静まったのを見計らって、その家の縁の下を住処にして、トカゲなどを食べてのらりくらりと暮らすうちに、アラシさんが根負けしてサバの水煮缶をくれるようになった。そして、そのうちアラシさんの家に入り込むようになり、アラシさんもキャットフードを買ってくるようになった。

 アラシさんの隣にはアサオさんというイラストレーターの女性が住んでいて、彼女の家にはトーちゃんという家猫がいる。ある日、トーちゃんを連れ出したノラは、トーちゃんが
 ぴかぴかのトカゲ穴からでてきたね
という俳句を詠んだことから、俳句をめぐって意気投合、猫俳句という分野を開拓しようということになる。そして花見に出かけ、花見客から焼き鳥をもらったりして浮かれた気分になる。

 その後、猫句誌『猫じゃらし』の猫たちとの出会い、トーちゃんのけがという出来事があり、ノラは旅に出たくなる。『猫じゃらし』の一員であったシャムノラ猫のボイシーがけがをしたのを助ける。『猫じゃらし』を主宰していたトラ茶が死んだ後、跡目争いに敗れて追い出されたのだという。ボイシーが『猫じゃらし』に加わる前にお世話になっていたというトラック食堂に出かけてごちそうになるうち、『猫じゃらし』に対抗して、新風俳句の旗を掲げる『ねこやなぎ』の同猫たちに出会う。トーちゃん、ぼいしー、ノラはこの猫たちと句合わせを行い、「わが町の銀河は悲し子はいずこ」というノラの句が評価されて、ノラたちの勝ちになる。

 もともとマツシマで生まれたボイシーはマツシマに戻る旅に出たいと思い、ノラを誘う。朝雄さんの家に戻りたいというトーちゃんを送り届けたのらは、まだ旅に出ようかどうしようかと迷っていたのだが、『ねこやなぎ』の面々が送別句会を開いたりしたので、出かけざるをえなくなり、タローさんの運転する長距離トラックに乗って、マツシマに向かう。マツシマで、二匹はタローさんの姉リエ子さんが住職未亡人として住んでいる貴紀寺(ききでら)に身を寄せることになる。霊感商法を営んでいるリエ子さんとともにノラとボイシーは平泉や山寺を旅したりする…。

 童話風のとつとつと優しい語り口で物語は展開される。さまざまな猫俳句を織り込み、ダジャレたっぷりだが、離れ離れになった我が子を探す母猫の旅という筋立てに加え、何匹かの猫との別れも記されている。我が子とどのような形で対面するかは読んでのお楽しみだが、荒唐無稽で、かなり意外な出会いが待ち受けている。物語全体に、愛別離苦の経験を経て老境に達した著者ならではの、猫に対する思いが詰まっている。人間同士だけでなく、人間と猫の間にも愛別離苦があるのである。

 ネコの寿命は人間に比べて短いけれども、年をとってくると、自分よりもネコの方が長生きするのではないかと思われて、猫を飼うのを躊躇するようになる。ネコ好きだった母は、飼い猫や餌をもらいにやってくるノラ猫との別れを何回か経験したのであるが、年をとってからはネコを飼うことに反対するようになった。私も年をとって、その気持ちがなんとなくわかってきたような気がする。

 ネコが時々寄り合いのような集会を開くことは知られてきた。集まっているなんとなく真面目くさったネコの表情を見ていると、句会をやっているのではないかという嵐山さんの想像もなるほどと思われる。むかし、2度建て替える前の我が家の縁の下には雌猫が住んでいて、その猫を目当てにほかの猫がやってきて、にぎやかだったことを思い出す。夜になるとトタン屋根の上を何匹ものネコが歩いて、何事かと思ったりしたものである。あれは、嵐山流に言えば、句会の吟行であったのかもしれない。最後に、この物語に出てくる中で、いちばん印象に残った句を一つ紹介する。

 離れてもひとつの年を惜しみゆく  トーちゃん
もちろん、嵐山さんがつくった句であろう。浅尾ハルミンによるイラストもほのぼのと楽しい雰囲気を醸し出している。

日記抄(9月17日~23日)

9月23日(土)雨のち曇り

 9月17日から本日までに経験したこと、考えたこと、並びに前回(以前)の補遺:
9月16日
 ニッパツ三ツ沢球技場で横浜FC対東京ヴェルディの試合を観戦する。J1への昇格圏内のJ2リーグ戦6位と9位の対戦ということニッ加えて、悪天候で、両軍ともに堅さがみられ、少なからず負傷者が出たり、大変な試合であった。後半、横浜が野崎選手のゴールで1点を先制したが、終盤に1点を失い、1-1で引き分けた。選手の起用法など、もう少し大胆さがあってもよいと思ったりもするが、負けなかっただけ良しとしよう。

9月17日
 バスの中で、J3の秋田のサポーターらしい男性の姿を見かけ、今日はニッパツでJ3の試合(YSCC対秋田)があるのだなと思った。昨日に続く悪天候で、観戦・応援も楽ではない。18日が祭日なので、横浜までやってきたのだろうが、試合が終わったら、少しでも横浜をゆっくり楽しんでほしいものだと思ったりした。

9月18日
 連日の雨がやんで、晴れわたる。彼方の白い雲に隠れて富士山が見えた。
 白雲の後ろに黒く富士の山
 空を見る雲を見る若き志
 なぜか青雲の志という言葉を思い出したのである。

 NHKラジオ『まいにちイタリア語』で、イタリア半島南部のカラブリア地方(州)の名物料理の話題が出たのだが、どんな料理であったか、名前を聞き逃したのが残念である。

9月19日
 NHKラジオ『まいにちフランス語』でフランス語の日付の言い方の説明として、こんな文例が出てきた。
Napoléon Bonaparte est né à Ajaccio, le quinze août mille sept cent soixante-neuf.
(ナポレオン・ボナポルトは(コルシカ島の)アジャクシオで、1769年8月15日に生まれました)

 こういう文例も出てきた。
Olympe de Gouges est née le sept mai mille sept cent quarante-huit.
(オランプ・ド・グージュは1748年5月7日に生まれました。)
 彼女は、フランス革命期に女性の権利を主張した人物だそうである。フランス革命がもたらした「人権宣言」の「ひと」に「女性」が含まれていないことに抗議したのである。

 9月20日付のブログでも書いたが、シネマヴェーラ渋谷で川島雄三監督の『深夜の市長』と黒澤明監督の『醜聞』を見る。後者に出演している山口淑子に、上戸彩が似ているなと思った。以前、TVで放送された山口淑子の伝記ドラマで上戸が彼女の役を演じていたのがなるほどと思われた。

9月20日
 NHKラジオ『実践ビジネス英語』の”Quote...Unquote"のコーナーで紹介された言葉:
Love conquers all. (from Eclogues)
                       ――Virgil (Roman poet, 70 - 19 B.C.)
(愛はすべてに打ち勝つ。)
 ウェルギリウス(英語ではヴァージル)は、ローマ黄金時代の大詩人。『神曲』でダンテの地獄と煉獄の旅を導く役割を演じていることはご記憶だろうと思う。
 ウェルギリウス『牧歌・農耕詩』(河津千代訳、未来社、1994)によると、この表現は10歌からなる「牧歌」の最後となる第10歌の、最後の方に見られる。「ガルス」と題されたこの第10歌は、ウェルギリウスの親友である詩人のコルネリウス・ガルスにささげられたものである。ガルスにはキュテーリスという恋人がいたが、ガルスが戦場にいる間に他の男のもとに去っていった。それでひどく嘆いている親友のために、ウェルギリウスはキュテーリスの心をとりもどすべく、この詩を書いたという。
「・・・
おれがどんなに苦しんでも、恋の神は動かせない。
・・・
「愛」はすべてを征服する。だからおれも、屈しよう。」
(河津訳、164ページ)と、ガルスの言葉として、キュテーリスへの愛に勝るものは何もない、自分はそれに従うしかないのだという気持ちを表現しているのである。

9月21日
 秋のお彼岸の墓参りに出かける。

9月22日
 嵐山光三郎『猫のほそ道 ノラ猫俳句旅』(小学館文庫)を読む。この本は、いずれ機会をみて詳しく紹介するつもりである。

9月23日
 シネマヴェーラ渋谷で『名脇役列伝Ⅱ 安部徹生誕百年記念悪い奴ら』の特集上映から『ザ・ゴキブリ』(1973、東宝=石原プロモーション、小谷承靖監督)と『銀座二十四帖』(1957、日活、川島雄三監督)を見る。前者は、封切られた際に見た記憶がある。公害問題を隠蔽するために暴力団を利用している地方都市の有力者や企業の経営者が、警察の一部まで抱きこんでいる中で、渡哲也の刑事が飽くまで戦いつづけようとする。安部徹が暴力団の組長を、その情婦を梢ひとみが演じている。沖雅也が渡の助手のような役割の若い刑事を演じているのだが、途中で負傷するものの、最後まで生きているという設定になっているのが、他の映画の記憶と混戦してしまっていたことに気付く。
 『銀座二十四帖』は、脚本が柳沢類寿、助監督が今村昌平、出演者には三橋達也と、川島映画の常連がそろっている作品。川島は51本の映画を残したが、そのうちこれで23本を見たことになる(うち1本は、成瀬巳喜男と共同演出の『夜の流れに』である)。画廊に飾られた月丘夢路の肖像画の作者をめぐる謎に、その作者が自分の兄ではないかと思う三橋達也の謎が重なり、さらに彼の月丘への思慕がからむ。さらに大阪から上京してきた月丘の従妹の役の北原三枝がボーイッシュな魅力を振りまき、三橋達也の経営する花屋で働く浅丘ルリ子の美少女ぶりも見落とせない。謎の男を演じる大坂志郎、悪役の芦田伸介、バーの女の子たちに「気持ちの悪い客ねぇ」といわれるオカマ口調の怪しげな芸術家を演じる安部徹、物語の謎の一端を担う月丘の夫の役で河津清三郎が登場と見どころが多い。加えて、水の江滝子が特別出演的に姿を見せている。見どころが多い分、やや冗長な感じも否定できないが、月丘夢路がきれいでそれだけでも見る価値がある(あらためて月丘の冥福を祈る!)。

 望月麻衣『京都寺町三条のホームズ⑧ 見習い鑑定士の奮闘』(双葉文庫)を読み終える。シリーズ①~⑦(他に6.5というのがある)では大学院生と女子高生だったホームズこと家頭清貴と真城葵であるが、清貴は大学院を修了、葵は高校を卒業して大学に進学、清貴は寺町三条の骨とう品店「蔵」の店長を継ぐはずだったのが、オーナーである清貴の祖父の計らいで修業の旅に出されることになって… その修業先でも様々な事件に遭遇することになる。どっちかというと<日常の謎>に属する事件が、古美術や京都の伝統にかかわる知識をまぶしながら語られている。2人が新しい世界に足を踏み入れたことで、新しい登場人物が出現するが、今後、レギュラーとして定着するかどうか…。個人的な好みからいうと、八幡市の松花堂庭園・美術館と石清水八幡宮を舞台にして、すでにレギュラーとして活躍してきたイケメン俳優梶原秋人が登場する第1話『一生に一度は』が面白い(このエピソードにも新しい登場人物が加わって入るのであるが…)。 

亀田俊和『観応の擾乱』(6)

9月22日(金)曇り、今にも雨が降りそうな空模様である。

 観応の擾乱は室町幕府初代将軍足利尊氏および執事高師直と、尊氏弟で幕政を主導していた足利直義が対立し、初期幕府が分裂して戦った全国規模の戦乱である。乱のはじまりは観応元年(1350)であるが、幕府内での確執は貞和4年(1348)ごろから始まっている。一時は直義軍が圧勝したが、最終的には尊氏軍が勝利し、観応3年(南朝正平7年、1352)に直義が鎌倉で死去したことで終結する。
 著者はこの戦乱を通じて、室町幕府の鎌倉幕府を模倣したような体制が変化し、この幕府独自の権力構造が生みだされたと考え、そうなった理由を戦乱の推移を追うことで探ろうとしている。

 第1章「初期室町幕府の体制」では、尊氏は将軍に就任したものの、その弟の「三条殿」直義が事実上の室町幕府最高指導者であり、尊氏は恩賞充行(あておこない)と守護の任命という2つの権限しか行使しなかったことが注目されている。しかし、この2つは、既存の所領秩序を変更し、新しい秩序を創造するという変革を担う機能を持っている。つまり、尊氏には変革(新しい秩序の創造)、直義には保全という役割の分担があったと考えられる。高師直は、尊氏だけでなく、直義の執事でもあったと考えられる。
 第2章「観応の擾乱への道」では、南朝方をほぼ抑え込んでいた室町幕府の優位が、楠木正行の挙兵によって揺らぎ、幕府は一時的にではあるが揺らぎ始めたこと、その正行を破り、南朝を吉野から賀名生まで追い落とした高師直の威信が高まり、不満を抱いた武士たちとの軋轢が激しくなったことが記されている。幕府内部での対立は、恩賞の配分をめぐる不満を反映するものであったと考えられる。

 今回から、第3章「観応の擾乱第1幕」に入る。貞和5年(1349)に土御門東洞院にあった将軍足利尊氏邸が火災にあい、その再建が終わるまで、尊氏は一条今出川にあった執事高師直邸に居住することとなった。と、簡単に書いてあるが、そもそも一条今出川というのがどうも不思議である。京都の市街はよく碁盤の目にたとえられ、土御門東洞院というふうに、東西に走る道路(この場合は土御門大路)と南北に走る道路(この場合は東洞院大路)の組み合わせでどこにあるかがわかる。ところが、一条今出川というと、両方とも東西に走る道路(今出川通りは一条通よりも北にある)なので、どこなのかがさっぱりわからない。まあ、たぶん、東の方の鴨川に沿ったあたりではないかと思われる。

 『太平記』には直義が高師直の暗殺を企てたという記事があり、著者は当時の信頼できる史料である『園大暦』に照らし合わせて貞和5年の閏6月初めのことであったと考えている。直義は兄には知らせずに近臣と謀議して師直を暗殺しようと考え、三条殿に師直を呼びつけたが、内応者の機転により師直は自宅に逃げ帰ることができた。その後、師直は病気を装って幕府への出仕をやめた。直義は三条殿周辺の住宅を破壊したり差し押さえたりして、信頼できる部下を配置し、防備を強化した。

 閏6月7日に、将軍尊氏が三条殿を訪問し、直義と相談し、同月15日に師直は執事を解任された。所領なども没収され、ともかく直義の攻勢が成功した。師直の後任に、直義はその兄の師泰を考えていた形跡もあるが、同月20日に実際に執事に就任したのは師泰のこの師世であった。
 同月30日、直義は自ら光厳上皇の御所(持明院殿)に参上し、師直を排除した件について報告した。その時に直義は大したことではないと言ったが、そもそも、報告に出かけるということ自体が異例で、直義の心中の不安を表しているのではないかというのが著者の推測である。

 師直の執事解任直後に、直義派の上杉朝房が内談頭人に就任する。さらに彼は小侍所頭人も務めた。このような朝房の抜擢は直義派の勢力伸長を示すと考えられるという。この時期、直義の花押が著しく巨大化したことが注目されるが、これは彼の自信の表れよりも不安の裏返しではないかと著者は論じている。

 やがて師直の反撃が始まる。7月21日に、高師泰が河内の国から大軍を率いて京都に向かった。弟の師直に協力して直義に軍事的圧力をかけ、政敵を排除するためである。直義は、師泰を執事に任命することで、彼を懐柔しようとした。8月9日に、師泰は入京する。
 一方、将軍尊氏は8月10日に丹波国篠村八幡宮(かつて反北条の旗幟を鮮明にして六波羅攻撃の起点とした地である)に参詣し、同日夜に修理が完了した土御門東洞院邸に入った。11日には、師直に味方するために赤松円心らが参上し、その日のうちに本拠地である播磨に下った。直義の養子で西国に派遣され、当時備後国に滞在していた足利直冬が養父直義の救援に登場するのを防ぐためである。
 8月12日の宵には、大勢の武将が直義と師直の邸宅にはせ参じ、それぞれの旗幟を鮮明にした。この時点では師直と尊氏・直義兄弟が対立する構図であった。しかし、両派の攻勢はかなり流動的で、それぞれの支持層には明確な相違は見られない。
 師泰が入京して、洛中がざわついている時に、都を離れて篠村八幡宮に参詣するという尊氏の神経は尋常なものではないと著者は言う。「こういうところが、いかにも政務に介入しなかった尊氏らしい」(59-60ページ)というのは客観的な評価なのか、誉め言葉なのか、微妙なところである。

 しかし、8月13日には、さすがの尊氏も直義に土御門東洞院邸に避難するように勧めた。直義はこの指示に従い、将軍邸へ移動した。これを見て師直に寝返る武士が続出し、将軍兄弟の軍勢は300騎にも満たなくなった。
 直義は光厳上皇へ使者を派遣し、師直を流罪にすることを申し入れた。〔上皇の御所である持明院という寺はいまはなくなってしまっているが、上京区にあったので、同じ上京区の土御門東洞院の尊氏の邸から近かった。〕 しかし、これは到底不可能な提案であった。
 8月14日早朝、師直は大軍を率いて法成寺河原に進出し、将軍御所の東北を厳重に包囲した。師泰も7000騎余りで西南からこれを囲んだ。法成寺というのは藤原道長が創建した寺で、現在の荒神口の北にあった。だから荒神橋の北の方の鴨川の西の河原に結集したと言えば、イメージがわく人もいるだろう。京都府立医科大学とその病院のあるあたりという方が分かりやすいか。もっとも、私も最近は京都にあまり出かけていないので、記憶と土地勘とが鈍っているかもしれない。
 師直軍が御所を焼き払うという風聞も飛び交い、付近の住民は大混乱のうちに避難した。将軍邸の北隣に位置する内裏に住む崇光天皇も、光厳上皇の御所(持明院殿)へ避難された。

 尊氏兄弟は最悪の場合は切腹も覚悟して、軽武装で待機した。師直もさすがに主君を攻撃することはできず、両軍はにらみ合いを続けた。やがて尊氏は須賀清秀を使者として、師直と交渉を開始した。
 交渉の次第と結果とは、次回に述べることにしたい。呉座勇一『応仁の乱』にも描かれているが、大名が将軍の邸を包囲して政治的な交渉を行うことを「御所巻」といって、鎌倉幕府にも、江戸幕府にもなかった室町幕府独自の風習である。高師直の尊氏邸包囲はその最初の例なのである。好むと好まざるとにかかわらず、世の中は新しい動きによって変化していく。その一例を我々はここに見るのである。

ダンテ・アリギエリ『神曲 天国篇』(27-3)

9月21日(木)晴れ、暑し。

 ベアトリーチェに導かれて、ダンテは煉獄山頂の地上楽園から天上の世界へと飛び立つ。月天、水星天、金星天、太陽天、火星天、木星天で、土星天で、彼を出迎えた魂たちと対話を重ねて、彼はこれまで抱いてきた地上と天上のさまざまな事柄についての疑問に対する回答を得、自分が地上に戻った後に、死後の世界の遍歴で経験したことを人々に語ることこそ自分の使命であることを自覚する。至高天から土星天へと降りている<ヤコブの階段>を上って恒星天に達した彼は、そこで<信仰>、<希望>、<愛>という3つの対神徳についての試問を受け、彼が人知の及ぶ範囲を超えた世界を経験するのにふさわしい人間であるとの承認を得る。そして彼は恒星天から、不動の地球を取り巻いて全宇宙が回転する運動の起点となっている原動天に達する。この天空を包含するのは、神の光と愛である。この原動天から森羅万象の運動が開始されることから、運動、つまり変化を表現するために、物質的な世界である地上に住む人間の持つ時間もここにその根源をもつのである。

 地上の目に見える諸天空の動きは、目に見えない原動天の動きの結果であるとベアトリーチェは言う。
そして、時間がこのような素焼きの鉢にいかに
根を保ちながら他の天空に枝葉を伸ばしているか、
もはやあなたに明らかになってもよいでしょう。
(413ページ) ダンテはプトレマイオスの天動説によって宇宙の動きを説明しようとするから、かなり無理な議論を展開する。「根」は原動天の動き、「葉」は諸天空の回転である。地球の周りを諸天空が猛スピードで回っているとする天動説には明らかな無理があった(猛スピードで回っているだけでなく、周転円説に見られるように、かなり複雑な動きをしていると考えなければ、惑星の動きを説明することはできなかった)。

 ベアトリーチェは、人々が物質性への執着「貪欲」に邪魔されて、この非物質的な神の世界に精神の目を向けられないでいることを憤る。そして、人間は本来、善を求めて空に向かうべく生まれつくにもかかわらず、後に道を踏み外すことを嘆いた。
望みは人々の中に正しく花開きます。
しかし降り続く雨は熟れた李(すもも)を
悪しく腐乱した実へと変容させるのです。

信仰と純真無垢は幼児たちの中にしか
見つからないものですが、後になれば、どちらも
頬が髭で隠れる前に逃げ去ります。
(414ページ) 

このように、朝をもたらし夜を置き去りにする方の
美しい娘は、最初は白い肌に見えていても、
黒く変わるものです。
(414-415ページ) 神の「美しい娘」=人類は、最初は「白い肌」=純真無垢だが、後では「黒」く邪悪になるという。〔これは明らかに肌の色をめぐる偏見に基づく、人種差別である。〕

 ベアトリーチェは続けて、
おまえは、驚いたりしないですむよう、
地上に統治者が存在しないことを思いなさい。
それゆえに人類の一族はこれほどまでに道を踏み外しているのです。
(415ページ) 彼女が言う「統治者」はローマ皇帝である。世俗的な権力の持ち主である皇帝が地上に正義をもたらすと考える一方で、古代に存在した<民主制>や<共和制>には想像力が及んでいないことがダンテの限界であろう。

 そしていつか、神の意志を伝える天空の影響により、神の力が現われるという。
しかし下界で無視されている一日の百分の一ゆえに
一月がすっかり冬を脱することになる前に、
高みにあるこれらの諸天空は光を放ち、

その結果、長い間待ち望まれていた嵐が、
船首のある場所に船尾を回すでしょう。
こうして艦隊は正しく走り、

そして花の後に真実の実が続くことになるのです」。
(415-416ページ) ダンテの時代に使われていた「ユリウス暦」は1年を365日と6時間としていたため、実際の1年である365日と5時間48分との間に、「1日の(約)100分の1」約12分の誤差が生じる。これが積み重なると季節に対して暦が遅れ、春が来ても暦は1月であることが起きる(実際にはユリウス暦は4年に1度の閏日を設け、これを1582年に修正したグレゴリオ暦は400年に3度閏日を省略した)。1季節を3か月とすると、ダンテが述べている暦と季節とのずれは、彼の時代から約9000年後に起きることになる。「艦隊が正しく走り」、正義が実現する日を、ダンテが9千年後と考えていたのか、それとも比較的すぐにやって来ると考えていたのかをめぐっては議論が絶えないという。〔ここでは、ダンテがこのような暦学的な知識と思考力を備えていたことに、素直に脱帽しておこう。〕

 こうして、第27歌は終わるが、ダンテの原動天での見聞はまだまだ続く。いよいよ非物質的な世界にやってきた彼は、どのような経験を重ねることになるのであろうか。

『深夜の市長』、『醜聞』

9月20日(水)曇り

 9月19日、渋谷ヴェーラ渋谷で『名脇役列伝Ⅱ 安部徹生誕百年記念 悪い奴ら』の特集上映から『深夜の市長』(1947、松竹、川島雄三監督)と『醜聞(スキャンダル)』(1950、松竹、黒澤明監督)の2本を見た。この特集上映は安部徹の出演作品の他に、小沢栄太郎(1909-88)と河津清三郎(1908-83)の出演作品も取り上げており、彼らが悪役だけでなく、主役や印象深いわき役として出演した作品も含まれていて、興味深い内容となっている。今回の、安部が正義の主役を務めている『深夜の市長』は川島雄三の比較的初期の作品として、小沢が悪役を憎々しく演じる『醜聞』は黒澤流の重喜劇(だと思う)として、それぞれ注目すべき作品であり、あえて紹介する次第である。

『深夜の市長』
 1942年(昭和17年)に起きた銀行強盗事件で、社会主義者として活動していた男が犯人として挙げられ、処刑された。そのころ、戦地に赴いていた彼の弟(安部)は友人の新聞記者(山内明)から事件について聞き、不審を抱き、復員後、タクシーの運転手をしながら事件の真相を探り始める。と、”深夜の市長”(月形龍之介)と呼ばれる謎の男が現われ、危機に陥りかけた彼を助ける一方で、事件に深入りしないようにと助言する。しかし、彼は事件の真相を突き止めようとさらに調査を進める…。
 事件の真相の発覚を恐れる犯人たちの動きが映画の初めの方からずっと描き出されていて、真相はある程度まで観客に明らかにされており、犯人グループと捜索を進める側の両方に接触する”深夜の市長”は事件の輪郭をつかんでいることもわかる(むしろわからないのは、なぜ彼が”深夜の市長”と呼ばれているかである)。謎解きの要素は比較的少ないが、アメリカのギャング映画を見るような登場人物の服装やアクション、その一方で戦後間もない東京の下町の風俗の描写のミスマッチ感が何とも言えない。”深夜の市長”の正体と、彼が主人公を助ける理由の方がむしろ物語の中心となっていると考えていいのかもしれない。戦争中に映画監督としてデビューした川島の、自分の作風を模索する手探りの様子が感じられる。勝鬨橋をはじめ、隅田川の河口近くの風景が背景として多用されているが、これはその後の彼の映画にもみられるのも興味深い。

『醜聞(スキャンダル)』
 オートバイで雲取山の麓に絵画の製作に出かけた画家(三船敏郎)が、バスに乗り遅れたという声楽家(山口淑子)に出会い、彼女をオートバイに乗せて温泉場にまで同行する。湯上りに、彼女の部屋で歓談しているところを、彼らを見かけたカメラマンに盗撮される。写真にとられた場面だけをみれば、彼らは親密な関係にあるように見える。
 写真を持ち込まれたカストリ雑誌『アムール』(『シネマヴェーラ通信』186号の解説には、週刊誌とあるが、この時期、まだ週刊で発行されていた雑誌は『週刊朝日』『サンデー毎日』などごくわずかであった)の編集長(小沢栄、小沢栄太郎はこの時期、この芸名を使っていた)は、2人のロマンスをでっちあげて、スキャンダルとして大々的に売り出す。
 この記事を読んで怒った三船が、出版社に乗り込んで編集を殴るという事件がさらに起きて、騒ぎはますます大きくなる。名誉棄損による告訴を考えているという三船のもとに弁護士と称する男(志村喬)が訪れてくる。見るからに怪しげで、事務所はビルの屋上のあばらやで、机の上には競馬新聞が散乱している。しかし、結核でずっと寝たきりの彼の娘(桂木洋子)の心の美しさに討たれた三船は、この弁護士を信用することにする。とはいえ、この弁護士は見てわかるとおりの食わせ物で、原告、被告の両者から金を巻き上げようと暗躍する。競輪場で、ギャンブル好きの弁護士を編集長が次々に金を渡して篭絡する場面など面白い。
 なぜ、こんなことにことさら触れるかというと、森繁久彌について小津安二郎が「あの人は同じ芝居が二度できない」と文句を言ったのに対し、森繁が小津のロー・アングルでは「競輪の場面は撮れないだろう」といったという話を読んだことがあるからで(両者ともに、冗談めかしてはいるが、相当厳しいところをついている)、このやり取りは、この『醜聞』という映画が出来てから10年ほど過ぎてからの話ではあるが、この作品で黒澤は競輪の場面を楽々と映画の中に取り込んでいて、その映画作りの特徴を理解するのに役立ちそうだと思うのである。 
 両方から金を受け取っている弁護士は、編集長から連名の告訴でないと勝ち目はないからと行って来いといわれて、画家のところに出かけると、声楽家も居合わせて、連名での告訴に踏み切ることにしたといわれ、進退窮まってしまう。
 裁判が始まると、有能な弁護士を雇った被告・編集長側に対して、原告代理人の志村はしどろもどろの対応ぶりで裁判は被告側に圧倒的に有利に展開する…。

 三船は自分がヴラマンクの真似をしているといわれるが、そういうことを言っているような奴に限って、外国の絵の真似しかしていないというようなことを言い、これはおそらく絵の勉強をしたことのある黒澤の本心が覗いている部分であろう。裁判を通じて、三船と山口が次第に近づいているようにも見えるが、物語の焦点はそういうところにはない。単純に正義を振りかざす三船よりも、むしろ弁護士・志村喬の内面の葛藤と、それが表に出た娘の桂木洋子とのやり取りに目をむけるべきであろう。映画としての見どころは、志村の熱演である。熱演が熱演を通り越して、怪演としか言いようがなくなると、もっと喜劇性が増すのだが、それを望むことを悪趣味にしているのが娘とのやり取りであり、全体としては勧善懲悪の人間ドラマとしてのまとまりの中に納まっている。
 
 『深夜の市長』の上映は私が見た回で終わってしまったが、『醜聞』は9月22日も、『悪魔の接吻』(1959、東宝、丸山誠治監督、河津清三郎出演)と抱き合わせで上映されるので、ご関心の向きはご覧ください。

『太平記』(176)

9月19日(火)晴れ

 建武3年(南朝延元元年、1336)6月初旬、都を奪回した足利方は、勢いに乗って、後醍醐天皇とその側近、従う武士たちが都を捨てた後に頼りにした比叡山に東西から攻め寄せた。西坂では後醍醐天皇の寵臣で三木一草の1人に数えられた千種忠顕が、宮方は知性の有利さと、武士たちの勇敢な働きとで足利方の攻撃を何度も食い止めた。6月17には、足利方は山での戦いに慣れた熊野八庄司を先頭に攻撃を掛けたが、本間重氏と相馬忠重の弓勢に恐れをなして逃走した。そんな中、八王子権現の託宣があり、搦め手の大将高師久の敗北を予言した。果たして20日、宮方の急襲で寄せ手は総崩れとなり、高師久は捕えられて斬られた。

 6月5日から20日まで、比叡山での合戦が続き、多くの戦傷者を出したが、攻撃を仕掛けた足利方は東西の坂の両方で敗戦を重ね、退却せざるをえず、さらに臆病風に吹かれて京都市内にも留まることなく、あちこちに逃げていった。このため、京都市内は思ってもみなかったほどのがら空き状態になり、都を守っていた武士たちがどうしようかと驚き惑った。この時、もし比叡山から時間をおかずに都へと攻め寄せていれば、足利方が都を持ちこたえることはできそうもない状態であったが、比叡山の内部では意見の対立があり、10日以上も無為に過ごした。これは宮方と比叡山にとっては惜しい逸機であった。

 そうこうしているうちに都から離れた片田舎や郊外に逃げ隠れしていた武士たちが、気持ちを取り直してまた京都に戻ってきたので、京都を守護する軍勢はまた大ぜいになった。比叡山の方ではそんなこととは知らず、京都市内には大した軍勢はいないと聞いて、6月末日に、10万余騎を二手に分けて、今路、西坂から都へと押し寄せた。

 尊氏は、相手を油断させようと、わざと鴨の河原にわずかの軍勢しか置かず、矢を射かけただけで退却させた。そこへ宮方の千葉、宇都宮、土居、得能、仁科、高梨の軍勢が、勝ちに乗じて、追いかけて洛内に攻め入る。足利方は、敵が存分に近づいてきた時に、当時から準備していた50万の兵を出陣させ、今日の南北、東西の小道に魚鱗の陣を張り、東西南北から相手を押し込み切り離して、四方にあたり八方に囲んで、一人残らず切り捨てようと戦ったので、宮方の歴戦の武士たち1000人余りが戦死し、日が既に暮れてきたので、戦場を駆け巡って汗みどろのなった馬の脚を休めようとして、戦闘で劣勢であった宮方の兵たちは、なんとか士気を奮い起こして西坂をさして引き返したのである。

 これまでは数で勝る足利方の攻勢を比叡山の僧兵たちと宮方の武士たちの連合軍が受けて立つという展開であったのが、今回は攻守を変えて、宮方の方が都を攻めた。一端は多くの武士たちが逃亡して数的にも劣勢になった足利方であったが、逃げていた武士たちが戻ってきたことで勢いを取り戻し、宮方の攻撃を退けた。京勢=足利方は勢いに乗り、山方=比叡山・宮方は勢いを失い、両者互角の形成となった。

 こうしてまたしばらくは合戦もなかったが、北陸地方から二条帥大納言師基卿が敷地(石川県加賀市大聖寺)、山岸(福井県坂井市三国町山岸)、瓜生(越前市瓜生)、河島(大野市川嶋、深町(坂井市)の武士たち3千余騎を率いて、7月5日に東坂本に到着した。師基は摂政関白を務めた二条兼基の子で、道平の弟、この時代有数の文化人で連歌の名手として知られる良基の叔父である。良基がなぜか大覚寺統・南朝を裏切って、北朝に走ったのとは対照的に、終始大覚寺統・南朝に仕えた。帥は大宰府の權帥ということ(太宰府の帥は親王任官)である。
 比叡山はこれに力を得て、この月の18日に京都を襲撃した。「前には、京都中を経て東寺まで攻め寄せたので、小路を横切って出てきて前後左右から懸ってくる敵を防ぎかね、敵の包囲を破ることができなかった。今回は、(二手に分かれて)一方は二条を西へ内野(北野の南、平安京の大内裏の跡地が野原になっていた)へと駆け抜けて、大宮通から南下して、もう一方の軍勢は鴨川の河原を下って押し寄せ、東西から京都を中に挟んで、火攻めにしよう」と軍議が定まった。

 ところがこの謀が、裏切り者がいたために、京都の足利方に漏れてしまった。尊氏は、これを聞き知ったので、50万余騎の軍勢を3方に分け、20万騎を東山と七條河原(七條大路東端の鴨川の河原)に置いた。これは河原から押し寄せる敵を東西から挟み撃ちにして包囲しようとするためである。また20万騎を船岡山(大徳寺の南、京都市北区紫野船岡町にある小山。現在は織田信長を祀る建勲神社があるが、もちろん、この時代にはない)の麓と神祇官(の建物の跡地)の南に隠しておいた。これは、内野から大宮通を南下しようとする軍勢を南北から包囲するためである。残る10万余騎を、西八条(東寺の北の辺り)、東寺の辺に控えさせて、軍営の門の前に配置した。これは前線の兵が追い散らされた場合に、控えの新しい軍勢として補充するためである。

 そうこうするうちに、夜が明けて7月18日となり、卯の刻(午前6時ごろ)に比叡山から押し寄せてきた軍勢が、北白川のあたり、八瀬、藪里、降松(さがりまつ)、修学院の前に打ち寄せて、東西2陣に軍勢を分けた。新田一族5万余騎は、下鴨神社の森である糺の森を南に見て、紫野から内野へと駆け通る。二条帥大納言、千葉、宇都宮、仁科、高梨、春日部は、真如堂(左京区浄土寺真如町にある天台宗寺院)の西を通り過ぎて、鴨川の河原を下って押し寄せる。配下の足軽たちが散らばって、京都中の民家数百か所に火をかけたので、炎が高く上がり、黒い煙が四方に立ち込める。

 五条河原から戦闘が始まって、射る矢は雨のよう、剣戟は稲光を見るようであった。やがて内野でも合戦が始まり、右近の馬場の東(北野神社の東南の地)、神祇官の跡地の南北に、汗をかいた馬がすれ違いあいながら走り、双方の時の声が入り混じり、落雷が大地を揺るがすような様子である。
 激しい戦闘が続いたが、五条河原に攻め寄せた宮方が敗走したために、内野に派遣されていた足利方の大軍がいよいよ勢いを得て、新田義貞兄弟の軍勢を十重二十重に取り巻いて、大声をあげて攻め戦う。とはいえ、義貞の部下たちはもともと馬を操ることにはたけており、これまで何度も訓練を重ねて人馬一体となって戦うことができるようになっているので、一挙に敵の篤い包囲を破り、左右を護衛する兵の1人も戦死することなく、敵の攻撃に反撃を続けながら戦って、比叡山へと引き返した。

 七部の兵法書にこのようなことが出ている。「大将の謀が漏れると勝ち目がない。敵が味方に内通していると災いを防げない。」(これは七部の兵法書=『孫子』『呉子』『六韜(りくとう)』『三略』『司馬法』『尉繚子(うつりょうし)』『李衛公問対(りえいこうもんたい)』の中の『三略』に出てくる言葉だそうである。) 今回、洛中の合戦に、宮方の軍が敗北したのは、ただ敵に内通するものが味方の中にいたためであったと宮方の武士たちは警戒しあったのであった。

 足利方が比叡山を攻撃した際には、尊氏・直義兄弟はもちろんのこと、高師直も出陣せず、一族の武将たちが指揮を執っていたのだが、宮方が京都に攻め寄せるということになると、新田義貞が全軍を率いて出陣する。兵力だけでなく、統率する武将の頭数でも足利方が圧倒的に優勢であることが分かる。二条師基の3千余騎に喜んで都を再度攻撃するというのは慎重さを欠くといわれても仕方がなく、京都での2度目の戦が、師基軍の敗退によって帰趨が決まったのも、寄せ集めの軍勢の欠点が表面に出たといえよう。作戦が漏洩したというだけのことでもなさそうである。(義貞は互角に戦っているのに、他の武将が足を引っ張るというのは、これまでも見られた例である。)

ナポレオン

strong>9月18日(月)晴れ、気温上昇。雲に隠れてはいたが、わずかに富士山を見ることができた。

 ドイツの哲学者ヘーゲルの『歴史哲学講義』については、8月13日付の当ブログでも紹介したが、うーん、なるほどと思うところと、ここは違うんじゃないかというところが入り混じって、なかなか読み応えのある本である。その中で、彼が<歴史的人物>について書いている部分が特に目についた。

 「…世界史的個人は世界精神の事業遂行者たる使命を帯びていますが、彼らの運命に目をむけると、それはけっしてしあわせなものとはいえない。かれらはおだやかな満足を得ることがなく、生涯が労働と辛苦のつらなりであり、内面は情熱が吹きあれている。目的が実現されると、豆の莢(さや)にすぎないかれらは地面におちてしまう。アレクサンダー大王は早死にしたし、カエサルは殺されたし、ナポレオンはセントヘレナ島へ移送された。歴史的人物が幸福とよべるような境遇にはなく・・・」(60ページ)
 ここでヘーゲルが書いていることの詳しい意味はまた、機会を見つけて書いていくつもりであるが、とにかく、<世界史的個人>あるいは<歴史的人物>の例として、彼が古代のアレクサンダー大王やカエサルと並べて、彼自身の同時代人といってよいナポレオンを取り上げているのが目を引いたのである。

 ヘーゲルはドイツ人で、かつてナポレオンがドイツを攻撃した際に、「ドイツ国民に告ぐ」という一連の講演を行って愛国心の発揮を呼び掛けた哲学者のフィヒテが学長をしていたベルリン大学の学長にもなっているのだから、ナポレオンは<敵>だったはずである。そのヘーゲルが、ナポレオンの中に世界精神を実現していく人物としての一面も見ていたというのが注目される。偉大な人物は偉大な人物の偉大なところが分かるという理解もできるし、ヘーゲルがドイツとかフランスとかいう国の枠を超えて、ヨーロッパあるいは世界という枠の中で歴史をとらえていたという理解も可能であろう。

 以前にも書いたことだが、私はこの人は天才だ!と思えるような人物に出会ったことがない。さらに言えば、英雄だ!とか豪傑だ!とかいう人物にも出会ったことがない。人生とはそういう平凡と平凡の積み重なりであるといってしまえばそれまでだが、もしナポレオンに出会ったら、人生がどうなったのか?という空想も一興であるかもしれない。

 オランダ生まれで、アメリカにわたって著述家として成功したヘンドリック・ウィレム・ヴァン・ルーンの『人間の歴史の物語』(Story of Mankind)は小学校の高学年ごろに(翻訳で)読んで、成人してからも(英語で)何度も読み返した書物であるが、その中にナポレオンを取り上げた個所があって、その印象がずっと記憶に残っている。
Here I am sitting at a comfortable table loaded heavily with books, with one eye on my typewriter and the other on Licorice the cat, who has a great fondness for carbon paper, and I am telling you that the Emperor Napoleon was a most contemptible person.
(今、私は本を何冊も積み上げた使いやすい机の前に座って、一方の目で私のタイプライターを見て、もう一方の目でカーボン紙が大好きな猫のリコリスを見張っている。そして皇帝ナポレオンは大いに軽蔑に値する人物であったと君たちに告げている。)
But should I happen to look out of the window, down upon Seventh Avenue, and should the endless procession of trucks and carts come to a sudden halt, and should I hear the sound of the heavy drums and see the little man on his white horse in his old and much-worn green uniform, then I don't know, but I am afraid that I would leave my bokks and the kitten and my home and everything else to follow him wherever he cared to lead.
(しかし私がたまたま窓の外を眺め、七番街を見下ろしたとしよう。そしてトラックと荷馬車との終りのない行進が突然止まって、〔時代が逆戻りして〕私が重く響き渡る太鼓の音を聞き、古い、着古した緑色の軍服を着て白馬にまたがった小男をみたら、それからどうなるかを私は知らない。しかし、私は私が自分の本と子猫と家とその他のあらゆるものを放り出して、彼が連れて行こうとするところにはどこへでもついていくのではないかと心配になるのである。)
My own grandfather did this and Heaven knows he was not born to be a hero. Millions of other people's grandfathers did it. They received no reward, but they expected none. They cheerfully gave legs and arms and lives to serve this foreigner, who took them a thousand miles away from their homes and marched them into a barrage of Russian or English or Spanish or Italian or Austrian cannon and stared quietly into space while they were rolling in the agony of death.
(私自身の祖父がそうしたのであり、彼が英雄に生まれついていなかったのは誰もが知っている通りであった。他の数百万の人々の祖父が同じことをした。彼らは何の報いも受け取らなかったが、何も求めてはいなかったのである。彼らは喜んでこの外国人に彼らの手足と命とを捧げ、その外国人は彼らをその故郷から数千マイルも離れたところに連れて行って、ロシアやら英国やらスペインやらイタリアやらオーストリアやらの大砲の砲撃の中を行進させ、かれらが死の苦しみの中に転げ回っている時に静かに空を見つめていたのである。)

 ナポレオンの遠征に熱狂して従軍していく人々の姿というと、アンジェイ・ワイダの『パン・タデウシュ物語』の終りの方の画面を思い出す(ミツキェヴィッチの原作にはそういう部分はなくて、ワイダが映画化にあたって付け加えたのではないかと思う)。だからついていった人々には、彼らなりの自由や民族独立への想いがあったのだろうが、それとナポレオンの征服欲がどこまで交わっていたかというのがヴァン・ルーンの言いたいことではないかと思う。彼は、ナポレオンの没落と死について述べた後、次のように締めくくっている。
But if you want an explanation of this strange career, if you really wish to know how one man could possibly rule so many people for so many years by the sheer force of his will, do not read the books that have been written about him.Their authors either hated the Emperor or loved him. You will learn many facts, but it is more important to "feel history" than to know it.
(しかしもし君たちがこの奇妙な経歴の説明を求めるのならば、もし君たちが本当に、どのようにして一人の人間が彼の意志の力そのものによってきわめて長い間こんなにも多くの人々を支配できたのかを知りたいのならば、彼について書かれた書物を読んではいけない。そういう書物の著者は皇帝を憎んでいるか、愛しているかのどちらかである。君たちは多くの事実を学ぶだろうが、歴史を知ることよりも、「それを感じる」ことの方がより重要である。)
Don't read, but wait until you have a chance to hear a good artist sing the song called ”The Two Grenadiers." The words were written by Heine, the great German poet who lived through the Napoleonic era. The music was composed by Schumann, a German, who saw the Emperor, the enemy of his country , whenever he came to visit his imperial father-in-law. The song therefore is the work of two men who had every reason to hate the tyrant.
 Go and hear it. Then you will understand what a thousand volumes could not possibly tell you.
(本を読んではいけない、むしろ君たちが優れた芸術家が『二人の擲弾兵』という歌を歌うのを聞くチャンスを待つ方がいい。〔この歌の〕歌詞を書いたのはハイネであり、ナポレオン時代を生きた偉大なドイツの詩人である。音楽を作曲したのはシューマンであり、彼は彼の祖国の敵である皇帝が義理の父親である皇帝を訪問するためにやってきた時に彼を見た。それでこの歌は暴君を憎むべきあらゆる理由があった2人の人物の作品なのである。
 さあ、その歌を聞こう。そうすれば君たちは数千冊の書物が君たちに告げることのできなかったことを理解するだろう。)

 ヴァン・ルーンは英国の作家で歴史小説を得意としたサッカリーが好きで、彼の『ヘンリー・エズモンド』という小説を1年に1度は英語の勉強のために読んだという(私は、英語の勉強のためにヴァン・ルーンの『人間の歴史の物語』を1年に1度は読むことにしていたが、このところ中断している)。そのサッカリーの代表作『虚栄の市』の最初の方にワーテルローの戦いを描いた部分があり、この作品が英国人の『戦争と平和』と呼ばれているのを知っていたはずである。さらに言えば、スタンダールの『パルムの僧院』の初めの方で、主人公のファブリスがワーテルローの戦いにナポレオンを応援しようと出かける場面がある。19世紀の半ばあたりまでのヨーロッパの文学作品を読んでいると、ナポレオンという人物の存在が同時代のヨーロッパの人々、特に若い世代に強い影響力をもっていたことが分かる。特にドイツや、イタリア、ロシアの人々がナポレオンについて自由の拡大を図る人物という普遍的な側面への共感と、自分の祖国を侵略する人物という反感の二律背反的な感情をもっていたというよりも、今ももちつづけていることを理解すべきではないかと思う。〔ちなみに、ハイネとシューマンはともにユダヤ系で、ドイツ人としては正統的とはいいがたいアイデンティティーをもっていたことも付け加えておくべきであろう。〕

 ヘーゲルがナポレオンを<歴史的人物>の一例としているのは、理解できる部分と、理解できない部分とがいまだにあって、もう少し考えてみないといけないようである。ここで名前が出てきたハイネはヘーゲルの講義を聴いたことがあったはずで、ナポレオンについてのドイツ人の受け止め方についても書いた文章があったと記憶する。ヘーゲルだけでなく、(哲学史上は「ヘーゲル左派」の一員に数えられる)ハイネの書いたものも読んでいるとするか…。

木田元『哲学散歩』(2)

9月17日(日)雨

 哲学者と呼ばれる人々のさまざまな逸話を集めて、肩の凝らない哲学史、あるいは哲学入門にしようという意図で書かれたこの書物、第1回はプラトンの<イデア>論がギリシア本来の思想とは違うものであり、彼の東方の思想(特にユダヤの思想)との出会いに触発されたものではないかという見解が展開されていた。第2回は、そのプラトンよりも前の時代に生きていた哲学者が登場するもので、「エンペドクレスのサンダル」と題されている。

 「哲学」はギリシア語の「フィロソフィア」=「知を愛すること」を語源とする。これは紀元前5世紀後半にソクラテスが「愛する(フィレイン)」という動詞と「知識(ソフィア)」という名詞を結びつけて造った抽象名詞である。それが、彼の弟子のプラトン、さらにそのまた弟子のアリストテレスに、かなり大きく意味を変えながらではあるがうけつがれ、三代がかりでギリシア語のうちに定着するようになったのであるという。(それから近代ヨーロッパの言語を経て、日本に入ってくるときに、「哲学」という訳語を与えられたということである。)

 そうすると、ソクラテス以前には「哲学(フィロソフィア)」はなかったはずであるが、普通、哲学史の本を見ると、ソクラテスから150年くらい前の紀元前7世紀末に生まれて、「万物の始源(アルケー)」は水だ」といったと伝えられるタレースあたりから始まって、アナクシマンドロス、ヘラクレイトス、パルメニデス、さらにはソクラテスよりも若いデモクリトスあたりまで、少なくとも20人くらいの思想家の名前が挙げられている。彼らをどのように呼ぶかが問題であるか、20世紀の初めにドイツの古典文献学者ヘルマン・ディールスが彼らを「ソクラテス以前の人たち(フォアゾクラティカー)」と呼んで、その『断片集』を作って以来、こう呼ぶのが一般的になった。

 彼らに共通するのは、彼らがみなギリシア本土の出身ではなく、現在のトルコの西海岸、当時の呼び方でいうとイオニア地方か、当時マグナ・グレキア(大ギリシア)と呼ばれていた南イタリアやシチリア島の出身であったこと、また彼らの書いた本が完全な形では1冊も残っておらず、後代の人たちが引用した断片的な文章を拾い集めた断片集からその思想を推測するしかないということだそうである。

 この一群の人々の中で一番人気があるのは、エンペドクレスらしいと木田さんは言う。「なにしろその生涯がドラマティックなのだ」(19ページ)。エンペドクレス(前493-433)は、シチリア島の南岸の大都市アクラガスに生まれ、この町の民主制に尽力した政治家であり、近くの町に発生した疫病を制圧した優れた医師でもあり、預言者とも「奇跡を起こす」魔術師ともみられていたらしい。はじめ、ピタゴラス教団の影響を受けたとも、エレアのパルメニデスの弟子であったともいわれるが、やがて独自の思想を作り上げ、地水火風を「万物の4つの根(リツォーマタ)」と見、それらの根が「愛」と「憎」という2つの原理によって離合集散すると考える独自の思想を展開した。
 彼は、医者に見放された女性を治療して生き返らせたり、近隣の町で河から立ち昇る瘴気によって発生した疫病を終わらせようと、私財を投じて河の流れを変えたりもした。そして、その工事完成の祝宴が催された日、宴が果てた後彼はエトナ火山へ向って旅立ち、火口に行き着くとそこへ身を投じたという。炎の中から復活して見せることによって、神になったという噂の裏づけをしてみせるつもりだったらしい。「だが、後日噴き上げられてきたのは彼が履いていた青銅のサンダルの片方だけだったそうだ。」(21ページ)

 この彼の人物像と生涯に興味を抱いたのが、ドイツの詩人ヘルダーリン(1770-1843)で、彼はエンペドクレスを主人公にする壮大な悲劇を構想し、相当量の草稿を書き残した。結局は未完に追わったこの詩劇は、それでも高い評価を受け、今日まで高く評価されてきている。〔翻訳が岩波文庫に収録されているそうである。なお、木田さんのこの書物の第13回「ライヴァルたち――シェリングとヘーゲル――」にもヘルダーリンは登場するので、お楽しみに。〕

 ヘルダーリンのこの草稿を読んで、「生涯にわたる深刻な影響を受けたのが、この詩人の歿した年の翌年(1844年)、まるでその生まれかわりのように生まれて、当時まだ17歳の少年だったニーチェ(1844-1900)である。」(22ページ) 彼の主著の1つである『ツァラトゥストラかく語りき』も最初はエンペドクレスを主人公にして構想されたという話であるし、『ツァラトゥストラ』の中にヘルダーリンの『エンペドクレス』からの引用が多くみられることも確かめられている。

 それから木田さんは、芥川龍之介がディオゲネス・ラエルティオスの『哲学者列伝』の中のエンペドクレスについての記述を読んでいたという例を探し出す。
 「それはともかく、このエンペドクレスのエトナ火山での死にからんで、「エンペドクレスのサンダル」という俚諺(ことわざ)のようなものがあるが、それがなにを言わんとしているのか、どうもよく分からなくなった。」(23ページ)
 インターネットで調べてみたところ、庄司薫の『赤頭巾ちゃん気をつけて」と丹生谷貴志の『死体は窓から投げ捨てよ』では、「エンペドクレスが火口に身を投じる前に自分のサンダルをきちんとそろえて残しておいたと思い、この言葉を自殺の「エンブレム」と解しているらしいことが分かった。」(同上)

 「私はこの俚諺を、「大山鳴動して鼠一匹」、つまり神として復活して見せると大言壮語しながら、復活したのは青銅のサンダル片方だけという哀れな結末を揶揄したものだと思っていたが、ヘルダーリンやニーチェの打ち込み方を見て、少し自信がなくなってきた」(24ページ)とこのエッセーは結ばれている。その直前に「ほかに何か情報源があったのだろうか」(同上)と木田さんが書いているので、思いついたことを書いて、このブログを締めくくることにする。

 19世紀英国の詩人で評論家でもあったマシュー・アーノルド(1822-88)にも「エトナのエンペドクレス」という詩劇がある。原文も翻訳も持っているはずだが、見つからないので、二次資料で簡単に紹介すると、エンペドクレスはギリシアの固有の精神である静穏、快活、公正な客観性が失われ、ソフィストの相対主義が幅を利かせるようになり、人々が愚行を重ねる時代に耐え切れず、孤独の重荷を背負い、エトナ山の火口に身を投げる。ディオゲネス・ラエルティウスが書いたように、自分が神であることを証明しようとしたわけではなく、時代に疎外された人間として死を選んだという近代的な再解釈が施されている。

 歴史上実在した人物が、その本来の姿ではなく、再解釈された姿で描き出され、そちらの方が影響力をもつということもありうるということを(木田さんの本来の意図から離れて)、この文章から読み取れるような気がする。

 実は、この詩劇が、北村透谷の「蓬莱曲」に影響を与えたのではないかと思って、大学にいたころ、同僚だった先生にこの問題について論じた論文を探してもらったことがあったが、ちょうどその論文が掲載されている雑誌が手元にないということで、それきりになったという記憶がある。

日記抄(9月10日~16日)

9月16日(土)曇り、今にも雨が降り出しそうな空模様である。

 9月10日から本日までの間に経験したこと、考えたことなど:
9月10日
 『朝日』朝刊に出ていた図書館と江戸時代の人々をめぐる記事が面白かった。江戸時代における情報の収集・分析については、今日の我々が学ぶべき点が少なくないのではないかと思うのである。

9月11日
  神保町シアターで篠田正浩監督の『私たちの結婚』(1962、松竹大船)を見たことについては、この日付のブログでも書いたが、川崎大師の境内に川崎漁協が建てたノリ養殖を記念する石碑があることは、映画の本筋とは関係ないので書き添えなかった。石碑を見たときには気付かなかったのだが、ノリ養殖は戦後かなりたった時期まで続けられていたのである。

9月12日
 『朝日』の朝刊の地方欄に逗子と葉山の境界あたりにある古墳のことが取り上げられていた。古墳時代にこのあたりに有力な豪族が住んでいたことが知られるわけである。実は長いこと、これが古墳だと気づかれずにいたそうだ。東急東横線の多摩川駅付近にも古墳があって、私は子どものころから眺めてきたのだが、それが古墳であると知ったのは、ずいぶん年を取ってからのことである。
 古東海道は三浦半島から東京湾を渡って房総半島に続いていたとされる。『古事記』の倭建命の説話は、その反映であろう。今でも、気候によっては東京湾を渡るフェリーが欠航になることがあるから、東京湾を渡るのはそれほど安全な道のりではなかったのであろう。なぜ、東京湾岸沿いに旅行しなかったのかということであるが、東京湾が今よりも大きく広がっていたからではないかと考えている。その後、『更級日記』の著者は東京湾沿いに都への旅を続けているから、その時代には大分東京湾が縮小したのであろう。

9月13日
 『朝日』の朝刊に高学歴を目指すのではなく、職業教育を充実させるべきだという趣旨の投書が出ていた。職業的な形成というのは、その職業によって内容や方法が異なるので、一般的に「職業教育」といってもあまり意味がないのではないかと思う。それに、たいていの職業は、短期集中型の訓練と現場での経験の積み重ねによってその主な技能を習得できるので、学校教育の外で行われるほうが効果的である。むしろ、最近は企業内教育が盛んに行われなくなって、外注型になっている現状のほうを問題にすべきではないか。また、人生が長くなり、転職の機会が増えるので、ある領域に特化した教育よりも、どんな領域にでも対応できる本人の資質や幅広い教養のほうが重要になるということも視野に入れて議論してほしい。

 NHKラジオ『エンジョイ・シンプル・イングリッシュ』で落語『味噌蔵』の英語ヴァージョンが披露された。ケチな主人が外出したすきをついて、奉公人たちが豪遊を企む。この際、みんなで食べたいものを食べようということになりいろいろと食べたいものをいう中で、八代目三笑亭可楽の口演で「チャーシューワンタンメン…ややこしいな」というくだりが耳に残っている。これも故人になった四代目の春風亭柳好がおそらくは可楽に稽古をつけてもらったのであろう、やはり同じく「チャーシューワンタンメン」と言っていたらしい(残念ながら聞いたことはない)。中華料理店の品書きでチャーシューワンタンメンを見つけると、この落語を思い出すのはそういう因縁からである。

9月14日
 テレビで2024年のオリンピックの開催地がパリに、2028年がロサンジェルスに決まったというニュースを見ていて、パリの市長がイダルゴさんという女性であることを知った。イダルゴ=hidalgoかどうか知らないが、もしそうだとすると、昔のスペインの最下級の地主貴族で、ドン・キホーテがその1人であった社会階層である。社会階層や身分が姓になっている例は、ヨーロッパのほかの国々でも珍しくはないが、イタリアの映画監督であったルキノ・ヴィスコンティのviscontiというのは子爵のはずであるが、家柄は公爵であるというのがどうも奇妙に思えてならないことがあった。

9月15日
 『朝日』の朝刊に映画『三度目の殺人』について異なる立場からの3人の短評が紹介されていた中で、篠田正浩監督が名を連ねていた。

9月16日
 『朝日』の朝刊に掲載されていた『週刊ダイヤモンド』9月16日号と『週刊東洋経済』9月16日号の広告によると、双方ともに教育問題を特集していて、その内容を比べながら、興味深く読んだ。つまり、『ダイヤモンド』のほうは大学の序列が変化している様相を主として取り上げ、『東洋経済』のほうは初等・中等教育の危機的な様相を取り上げている。双方ともに注目すべき内容ではあるが、大学教育の問題を、序列ではなく、その財政や教育と研究、社会的貢献の現状に即して取り上げてほしかったと思う。国際的な大学ランキングで日本の大学がなかなか上位に進出できないことを、高等教育政策の問題としてもっと議論すべきではないかと考えているのである。 

芦辺拓『殺人喜劇の13人』

9月15日(金)曇り

 芦辺拓『殺人喜劇の13人』(創元推理文庫)を読み終える。1989年に第1回の鮎川哲也賞を受賞した、作者の芦辺拓名義でのデビュー作である。その後、1990年に東京創元社から単行本として刊行、1998年に講談社文庫に収められ、2015年に東京創元社から創元推理文庫の1冊として発行された。なぜか、A書店の創元推理文庫のコーナーに平積みにされていたので、新刊だと思って買ってしまったが、そういえば、B書店ではそうなっていなかったと気がついたのは後の祭りであった。修業が足りない。おそらく、同じ作者の『名探偵・森江春策』(創元推理文庫)がそこそこ売れ行きが良いので、この際、在庫を一掃してしまおうといった本屋の思惑があったものと考えられる。(余計なことばかり考えている。)

 京都のD**大学のミニコミ&実験的文芸雑誌『オンザロック』の会員たちは、臼羽医院という小さな病院だった建物を1軒借り切って”泥濘(ぬかるみ)荘”と名付け、共同下宿としていた。ここで暮らすのは、”寝たきり老人”の異名を奉られた、この同好会の温厚なまとめ役・堂埜仁志、推理小説マニアで作家志望の十沼京一、バサバサ髪に薄アバタの南瓜面で少女マンガの愛読者である錆田敏郎、落語好き(実は漫才の方が好きであったことが後でわかる)でいつもひょうきんな役割を引き受けている小藤田久雄、一刀彫のような顔といかつい体躯の持ち主で大阪のキタにある全国紙の編集局で補助員のバイトをしている海淵武範、ギョロリとした目の毒舌家・蟻川曜司、性格まことに良好、『オンザロック』の良心といってもよいが、いささかアルコールの影響を受けやすい野木勇、映画マニアで古い映画を8ミリ(⁉)版で収集している瀬部順平、髪を七三に分けたお地蔵さんという感じで内気だが惚れっぽい須藤郁哉の9人である。(”泥濘荘”は2階建てで、錆田と海淵が1階に、残りの7人は2階に部屋をもっている。1階には医院だったときの名残の薬局、診察室、処置室、待合室、それに食堂と浴室・脱衣室がある。)

 『オンザロック』には彼らの他に、軽薄で長広舌の癖がある日疋佳景、キザではしこくて(そして何よりラッキーすぎる)加宮朋正、キャンパス有数の美少女水松みさと、十沼の恋人で背が高い堀場省子、大柄でセンシュアルな肢体の持ち主である乾美紀が加わっており、会員みんなのアイドルであるみさとを独り占めしているのが加宮、そして美紀は有川と日疋に思いを寄せられている。そしてもう一人、十沼の友人で彼が書く推理小説の(トリック、趣向のすべてをすぐに読み取るという意味ではありがたくない)読者である森江春策が客員執筆者である。一癖も二癖もある人物がそろっているだけでなく、その中での人間関係も入り組んでいて、事件が起こらないほうが不思議である。

 物語は198*年12月22日に、京都市上京区河原町今出川にある地下レストランで『オンザロック』のメンバーが忘年会を開いているところから始まる。ほとんどの顔ぶれがそろっているが、加宮は帰省のため新大阪19:57発の夜行寝台急行<彗星3号>に乗るといって不参加、海淵はアルバイトのために途中から退出、そして二次会で、十沼の自費出版短編探偵小説集の収録作品に込めた謎をすぐに読み取った森江は普通の座席急行を利用して、北の方にふと思い立った旅行に出かける。
 翌朝、この建物の三角屋根の望楼で錆田の縊死体が発見される。駆け付けた警察は自縊と判断するが、十沼はいくつかの点に不審を抱く。”泥濘荘”の他のメンバーや、知らせを聞いて集まってきた『オンザロック』の他の会員たちも同じ気持ちらしい。

 2部からなるこの小説のⅠは、探偵小説作家志望の十沼の手記という形で進行する。23日の夕方のニュースで<彗星3号>の車内から加宮の死体が発見されたと報じられる。そして次に・・・ サークルの面々が1人、1人と殺されてゆく。犯人は”泥濘荘”の中にいるのか? 堂埜は犯人は自分たちの仲間の中にはいないと信じ、警察は加宮が過激派の学生運動と接点をもっていたのではないかと疑う…。Ⅱで旅行から戻ってきた森江が事件の謎を解いていく…。

 1980年代のおそらくは前半の京都を舞台に、暗号や密室、時刻表トリックなど本格派の趣向が満載されたミステリーで、登場人物の描写を通じて、コミックや映画、笑芸についての作者の蘊奥が披露されることで読み応えが増している。小藤田の笑芸についての収集を見た「いかにも親玉らしい中年の刑事」が発する賞賛の言葉(⁉)などは、それだけでこの刑事の実力のほどを見せつけている。「ほォこりゃ砂川捨丸・中村春代の”お笑い金色夜叉〟か。あんたら若いから「出た手足に目鼻を付けるのやがな」なんて知らんやろ。なに知ってる? えらい!」(126ページ)

 作者は私より13歳年少だそうで、私より10年ほど後の京都の(実は1980年代になっても、母校とその周辺をうろうろしていた)様子が懐かしく感じられるところがある。四条河原町の駸々堂という本屋(私は、京都書院の方によく出かけたね)、まだ同志社も立命館もキャンパスが京都の市街地にあった時分の河原町今出川、「灼熱の京都御所内グラウンドでの体育実技」(28ページ、英会話の学校で一緒になった同志社の学生がそのつらさについて話していた。いまは大学設置基準が変わって、体育実技というのが必修から外されたようだが、この科目だけを考えると、国立大学のありがたさが身にしみてわかる。東急の目黒線で大岡山の東工大のグランドを目にされる方は私のこの言葉がよくわかるはずである。) そして京阪神と地方とをつなぐ寝台急行も懐かしい思い出ではある(特に、森江が乗ったらしい「きたぐに」はよく利用したね。) 難を言えば、梅棹忠夫の信奉者であったという錆田が残した『知的生産の技術』用品一式の「京大式カード」というのが梅棹の著書の浅読みに思えること。発見のカードは文献カードとは違うものだという梅棹の言葉がどのように受け止められていたかをめぐっては、疑問が残る。
 
 『殺人喜劇の13人』というのは、この小説の題名であるとともに、十沼の手記の題名であるということになっている。登場人物の性格設定は確かに喜劇的な要素を含んでいるが、物語の展開は必ずしも喜劇的であるとは言えない。登場人物も、殺人事件も過剰なのではないか、読者の想像にゆだねる部分がもっと多くてもよいのではないかという気がしないでもない。そのあたり、同じ文庫の『名探偵・森江春策』と比べて、作者の成長を確認するのも面白いのではないか。 

亀田俊和『観応の擾乱』(5)

9月14日(木)晴れ、気温上昇

 第1回(8月7日)、第2回(8月14日)、第3回(8月21日)、第4回(9月7日)
 「観応の擾乱」は、観応元年(南朝正平5年、1350)から観応3年(南朝正平7年、1352)まで続いた室町幕府初代将軍足利尊氏(1305-58)および執事高師直(?-1351)と、尊氏弟で幕政を主導していた足利直義(1306-52)が対立し、初期幕府が分裂して戦った全国規模の戦乱である。この内戦を通じて、鎌倉幕府の影響を大きく受けていた体制が変化し、時代の変化に対応した室町幕府独自の権力構造が生みだされることになったというのが著者の考えである。その意味で「観応の擾乱」の意義は大きいという。
 初期室町幕府は、将軍足利尊氏と、その弟の直義による二頭政治で運営されており、尊氏が「主従制的支配権」を、直義が「統治権的支配権」を行使していたというのが通説であるが、実際にはほとんどの政務は直義が行っていた。ただ、尊氏は恩賞充行(あておこない)と守護の任命だけを担当していた。亀田さんは2人の役割の分析から、尊氏は新しい秩序を創造する変革の役割を、直義は古い秩序を維持する保全の役割を果たしていたと論じる。その中で、高師直は尊氏の執事であっただけでなく、直義の執事でもあり、戦時における将軍の非常手段としての決定を取り次ぐことが多かったのだが、幕府の安定に伴って彼の権限は次第に縮小されていた。この段階では直義と師直の対立は修復不可能なほどのものではなかった。(以上、第1章「初期室町幕府の体制」より)

 第2章「観応の擾乱への道」は、貞和4年(南朝正平3年、1348)ごろから顕著になる室町幕府内での対立の深まりを追っている。その発端になったのは、高師直と楠木正行の戦闘である。
 貞和3年(1347)8月、楠木正成の遺児正行が河内国で、南朝方として挙兵し、摂津国へ進出して焼き討ちなどを敢行した。これに対して幕府は、河内・和泉・讃岐守護細川顕氏を大将とする討伐軍を派遣した。ところが、9月17日に河内国藤井寺合戦などの戦闘で、顕氏軍は大敗する。そこで幕府は丹波・丹後・伯耆・隠岐守護山名時氏の軍勢を援軍として送ったが、11月26日、幕府軍はわずか1日の戦いで、摂津国瓜生野・阿倍野・渡辺橋と連戦連敗した。
 ここまで南北朝の戦乱はほぼ終息し、幕府は安定した政治を行うことができるようになっていたので、この敗戦は大変な衝撃を与えた。細川氏も山名氏も足利氏と血縁的に近く、幕府の有力な武将であった。それが敗北したのであるから、幕府首脳陣の抱いた危機感は相当なものであったと考えられる。

 そこで幕府は細川顕氏に代えて、高師直の兄弟である高師泰を起用した。さらに12月16日には総大将として高師直が出陣した。師泰は7年ぶり、師直は9年ぶりの出陣である。師直軍は山城国石清水八幡宮に滞留し、ここで越年した。貞和4年正月2日、淀を出発した師泰軍は和泉国堺浦に布陣、師直軍は河内国四条畷に本陣を敷いた。正月5日早朝、楠軍は師直本陣を吸収する作戦を敢行し、師直本陣を大混乱に陥れたが、大局的には兵力の差が出て、わずか1日の戦闘で正行は敗死した。

 勝利した師直軍は、その勢いで南朝の本拠地である吉野に向かい、その結果南朝の後村上天皇は吉野の防衛を放棄し、奥地の賀名生に退いた。無人の吉野に入城した師直軍は南朝の施設をすべて焼き払い、2月13日に京都に凱旋した。幕府を危機に陥れた楠木正行を短期間で滅ぼし、南朝の本拠地を壊滅させた師直の勲功が多大であったことは間違いない。

 次に著者は、観応の擾乱の「キーパーソン」となる足利直冬の経歴を簡単に紹介している。彼は尊氏の子であるが、幼少時には鎌倉の東勝寺(鎌倉幕府滅亡時に北条高時以下1000人以上が自害した場所)で僧をしていたが、成長したのち還俗して上京し、尊氏に子として認知してもらおうとした。しかし、尊氏はこれを認めず、仕方なく独清軒玄恵という僧侶のもとに身を寄せた。玄恵は『建武式目』の起草者の1人であり、『太平記』の改訂作業にも携わったとされる直義のブレーンの1人である。玄恵の紹介で直義にあった後、子どものいなかった直義はこの甥を養子として「直」の一字を与えて直冬と名乗らせた。おそらく貞和年間(1345~50)の前半のことであったろうという。

 四条畷の戦いが高師直の圧勝で終わった後、紀伊国で南朝軍が蜂起した。これに対して、直義は養子直冬を紀伊に遠征させ、反乱を鎮圧させることにした。貞和4年(1348)5月28日に直冬は出陣、直義の支援もあり、戦略目標を一応達成して9月28日に帰京した。しかし、実父尊氏はまったく喜ばず、ようやく尊氏邸への出仕を許したのみであった。高師直も直冬を冷遇したようである。師直は、尊氏の嫡子である義詮を後継者にすることに晩年の政治生命をかけていた気配があると著者は言う。尊氏が何故、直冬を嫌ったのか、その理由を示唆する史料はないようである。貞和5年(1349)4月11日に、直冬は「長門探題」として西国へ向かって出発した。観応の擾乱の展開における直冬の西国下向の意味は大きいものであったが、それについてはその時に述べるということである。

 幕府を危機から救ったことで、高師直・師泰兄弟の威信が大きくなり、その結果専横が激しくなったとして、『太平記』にはその悪行が列挙されているが、とるに足りないという。しかし、四条畷以後、当時の公家や僧侶が書いt日記の中に兄弟への言及が増えてくること、また幕府内部の不協和音が目立ち始めることは否定できないという。

 まず、貞和4年(1348)6月ごろに、大高重成が将軍尊氏の怒りを買い、所領をすべて没収された。重成は高一族では珍しい直義派の武士であった。さらに10月ごろには、従来直義の所領安堵下文には施行状が発給されなかったのが、内談頭人であった上杉重能が施行状を発給した。さらに同じころに、高師直・上杉朝貞・同重能が務めていた内談頭人のうち、師直と朝貞が辞任し、仁木義氏と石橋和義に交代した。義氏は尊氏派、和義は中間派であると考えられる。直義派の上杉重能は留任しており、このあたりで双方の激しい駆け引きがあったのではないかと著者は推測している。

 『太平記』によると、上杉重能と畠山直宗が師直兄弟の悪行を讒言したと記されているが、尊氏・直義兄弟が彼らの讒言を全く信用しなかったとも述べている。そこで2人は夢想疎石と同門の妙吉侍者という僧と結託した。妙吉は貴族や武士の尊敬も多く集めたが、師直・師泰兄弟だけはなぜか妙吉を全く尊重しなかった。そのこともあり、重能・直宗と結託した妙吉は師直兄弟の悪行を3か条にわたり、密告させた。
 ①恩賞地が狭いと文句を言ってきた武士に対して、周辺の寺社本所領を侵略することを推奨した。
 ②罪を犯して所領を没収された人に対して、命令を無視して知行を継続するようにそそのかした。
 ③「木か金で天皇の人形を作り、生身の上皇や天皇は遠くに流してしまえ」と放言した。
 特に③は有名だが、これを記した『太平記』自体が<讒言>である、つまり嘘だと書いているので、史実として認められない。しかし、3つのうち2つが所領に関する問題であり、当時の幕府が配下の武士全員が納得できる恩賞を配分できていない状況を反映していることは否定できないという。そして、観応の擾乱の原因を考えるうえで重要な問題であるとも述べている。
 とにかく、直義がこの讒言に騙されて、師直排除を決断したことから、直義と師直の戦いが始まることになるという。

 亀田さんには『高師直』という著書もあるようで、彼の実像の復元に努めているのがよくわかる。忠臣蔵では、高師直が塩冶高貞の美人妻に横恋慕して高貞を滅ぼしたという『太平記』の中の逸話が利用されているのだが、これは作り話らしい。勇猛な武士で有能な政治家でもあった師直と、儀式における礼儀作法をめぐり空威張りしている吉良義央とでは、その実像はかなり違うはずだと、考えてくださるとありがたい(とまでは、著者は書いていないが、私はそう思う)。
 

ダンテ・アリギエリ『神曲 天国篇』(27-2)

9月13日(水)晴れのち曇り

 ベアトリーチェに導かれて、ダンテは煉獄山の山頂にある地上楽園から、天上の世界に飛び立った。月天、水星天、金星天、太陽天、火星天、木星天、土星天を訪ねた彼は、それぞれで彼を迎えた魂たちと会話を交わし、地上で疑問に思っていたことへの回答を得ただけでなく、この旅の中で見聞したことを地上の人々に知らせることが彼の任務なのだと示唆される。至高天から土星天へと降りてくる<ヤコブの階段>を上って、彼は恒星天に達し、キリストとマリアの凱旋を見た後に、ペテロ、大ヤコブ、ヨハネの3人の使徒たちから3つの対神徳:信仰、希望、愛についての試問を受ける。彼はこれらの試問に合格し、魂たちからの賞賛を得る。そして、最初の人間であるアダムの魂からも彼が3つの対神徳を備えた人間であると認められる。ペテロは、彼の後継者であるはずの教会が世俗の悪にまみれて腐敗堕落していることを嘆き、しかし、未来には神慮が地上に平和をもたらす人物を送るだろうと述べて、至高天へと戻っていった。

 ペテロの去っていったあとをずっと見送っていたダンテに、ベアトリーチェは地球を見るように言う。するとダンテには、地球の陸地の東端近くから西端のスペインのカディス、その先の大西洋、そしておそらく煉獄山までが見えた。彼はこの後、人間の世界に直接影響を与えている物理的宇宙空間を離れて、純粋に神的な非物質的世界に入っていくことになるのである。〔現代の天文学的な知識からすれば、恒星の世界はダンテ(と彼の同時代人)が考えていたよりもはるかに広く、太陽系から最も近い厚生からでも、地球は見えないはずである。ダンテが考えていたよりも、宇宙ははるかに巨大であるが、だからといって『神曲』の価値が減じるというわけでもない。〕

 地球を見たダンテは、神の光の反射である人智を超えたベアトリーチェの微笑を見ることを熱望する。
愛に導かれた我が知性、いかなる時も
我が貴婦人を憧れて見つめていたそれは、
かつてなく視線を彼女へと戻すことに熱く燃え上がった。
(410ページ)
 自然の美も芸術の美も、それら全てを集めたとしても
彼女の微笑む眼差しを私が振り返った時、
私に向かって輝きを放った神のような美しさに比すれば、
それは無価値の表れでしかないであろう。
(410-411ページ)

 ベアトリーチェはダンテに微笑を向けながら、彼を恒星天から、原動天へと押し上げた。そこは一様に出来ていて星などは無く、最も早く回り、地上から最も遠くにある第九天空なのである。ベアトリーチェは、この天空について知りたいというダンテの望みを察して、説明を始める。
「全宇宙のあり方、すなわちその中心を
不動にして周囲に他の全天空を回転させるというもの、
それはこの場所を起点にはじまっています。
(412ページ) 宇宙の最も外側の「この場所」原動天から漸次、宇宙の回転運動が伝わり、中心の地球は不動であるという。

そしてこの天空は神の知性のほかに
在所を持ちません。神の知性の中にはこれを回転させている
愛と、これの降らせる力が燃え輝いています。
(同上) 物理的宇宙空間が始まる「この天空」原動天は、時空を越えた神の知性である「至高天」の中に存在する。「神の知性」至高天には原動天を動かす「愛」と、漸次下位の天空に伝える「力」があるという。

光と愛が一つの輪でこの天空を包含しているのです。
この天空が他の天空にしているのと同様に。そしてその輪のことは、
それに宇宙を取り巻かせている方だけが理解していらっしゃいます。
(同上) 物理的な空間の外にある「光」神の力と「愛」からなる至高天は輪のように原動天を包含している。「その輪」至高天に物理的宇宙空間を包含させている神だけが、至高天の性質を理解している。天体の運行をめぐり、ダンテは神の力やその愛がその背後にあるのだと考えている。ニュートンまでの距離は遠い(ニュートン力学に基づく宇宙観もその後修正されることになるのではあるが・・・)。

この天空の回転は他の天空によって規定されることはなく、
他の天空こそがこの天空により計られます。
あたかも十がその二分の一と五分の一から規定されるように。
(412-413ページ) 原動天が起点になって、他の天空に時間で数えられる周期を与えている。10はその2分の1である5と5分の1である2の積である。2は運動を、5は宇宙を作っている第5元素エーテルを表しているとされる。このように数字に棟別な神秘的意味を与えて、世界を解釈するのはヨーロッパの中世に顕著な考え方である。

 第27歌は2回で紹介を済ませるつもりだったが、原動天についてのベアトリーチェの説明が難解で、さらに1回分を使ってみていく必要がありそうだと判断した。なかなか予定通りに行かないものである。

『太平記』(175)

9月12日(火)雨が降ったりやんだり(午前中一時激しい雷雨)

 建武3年(南朝延元元年、1336)6月初旬、京都を奪回した足利方は、延暦寺に立てこもる後醍醐天皇方を、東北、北陸方面から後醍醐天皇方の援軍が到着する前に攻撃しておこうと、東西から攻撃し、搦め手の西坂では三木一草に数えられた後醍醐天皇の寵臣千種忠顕が戦死した。しかし、後醍醐天皇方はよく戦い、戦局は膠着状態になった。16日、山での戦いには慣れているという熊野八庄司が足利方に加わり、彼らを先方として西坂から攻撃が掛けられたが、後醍醐天皇方の本間重氏、相馬忠重が強弓を射て威圧し、足利方の兵は逃走した。
 足利一族で越前の守護である斯波高経が比叡山への攻撃に加わると聞いた僧兵たちは、伝教大師の廟の修理のために集められていた材木を、防御用に使おうとしたが、比叡山三塔の1つである横川の般若院の高僧が召し使っている童に八王子権現がとり憑き、搦め手の大将である高師久の敗北を予言した。不思議なことではあったが、高師久の敗北はありそうも無いことであったので、周囲の人々はこれを自分たちだけの秘密にしておいた。

 比叡山の内部では、かねてから、西坂に敵軍が迫ってくれば、東塔の本院の鐘を撞き、東坂で合戦が起きれば、西塔の里坊である生源寺(比叡山の開山である伝教大師最澄の生誕の地とされる)の鐘を鳴らすことにしようと取り決めていた。
 かくするうちに、6月20日の早朝、日吉山王七社のうちの早尾社の猿たちが、大勢集まってきて生源寺の鐘を、東西両塔に響き渡るほどに大きく撞き鳴らした。
 周辺に陣をとっていた武士たち、延暦寺の三塔九院の僧兵たちがこれを聞いて、「それ、合図の鐘がなった、敵襲だ、こうなれば、攻め口に駆けつけて防ごう」と、我先に前線へと急ぐ。

 東西から比叡山を攻めようとしていた足利方のほうでは、この様子を見て、山にこもっている後醍醐天皇方のほうから反撃してきたと思い、水飲、今路、八瀬、藪里、志賀、大津、松本にいた足利方の武士たちが、楯はどこだ、武具を早く身に付けようと慌てふためいている。後醍醐天皇方の武士たちは、機先を制して有利な状況にあることを知り、比叡山の山上、西の麓の坂本にいた十万余騎の軍勢が、木戸を開き、防御用に道に置いていた逆茂木を引きのけて、同時に打って出た。

 足利方の大将は、踏みとどまって、「敵は小勢だぞ、それなのに逃げるのは見苦しい。引き返せ」と指示を下し、しばらく後醍醐天皇方の攻勢を支えていたが、大軍とはいえ浮き足立っている兵は一足も留まることなく、総崩れになった。
 新田義貞の弟である脇屋義助の率いる兵5千余騎が、志賀(大津市滋賀里)の炎魔堂のあたりに設けられていた足利方の向かい城(城攻めのとき、敵の城に相対して築く城)の500箇所以上に火を掛け、叫び声を上げながら攻め立てた。
 足利方の陣地は、これから破れて、東西から比叡山を攻撃しようとしていた80万予期が、険しい今路、古路(東塔から大津市穴太へ降りる道)、音なしの多岐、白鳥、三石、大嶽から、人が雪崩を打つよう崩れ落ちて敗走したのであった。谷が深く、行き先に人が詰まっていったことから、人と馬とが折り重なって死んだ様子というのは、木曽義仲が平家を破った倶利伽羅谷の戦いもこのようなものであったのかと思わせる光景であった。

 西坂の大将高師久は自分の刀で太ももに怪我を負い、退くことが出来ずにいるのを、新田義貞の家来である船田経政の灰化の武士が生け捕りにして、昼日中、比叡山、坂本を引き回し、大将である新田義貞の前に両手を後ろ手に縛って顔を前に差し向けて連行した。義貞は、師久が神社仏閣を破壊しようとしているとのうわさを聞いていたので、これは仏敵神敵の最たるものであるので、昔、奈良の都を焼き討ちにした平重衡の例に倣って処刑すべきだと申し渡し、比叡山の僧兵たちがこれを申し受けて、唐崎の浜で彼の首を刎ね、さらし首にした。

 この師久という人物は、足利尊氏の執事である師直の猶子の弟で一方の大将に任じられるほどに足利方では重んじられてきた存在であったから、自分の命を捨ててもその命を守ろうとするものが大勢いてしかるべきだったが、実際には誰一人として彼を助けようとせず、ふがいなくも敵に生け捕りにされてしまったのは、ひとえに日吉大社の山王権現の神罰であったのであろう。この日になってみると、前日の神託がなるほどと思い合わせられて、(神託を聞いていた比叡山の僧たちは)身の毛がよだつような思いをしたのであった。

 後醍醐天皇方の勝利のきっかけとなったのは、早尾社の猿(日吉山王権現の使者)の撞き鳴らす鐘の音であった。つまり、前日の神託とあわせ、この勝利には神佑、さらには比叡山を焼き払ってしまえと命じた高師久への神の怒りが働いていたと考えられる。ただし、仏神が常に後醍醐天皇を加護し、その勝利をはかっているわけではない。ということも、『太平記』の作者はわきまえていたはずである。

私たちの結婚

9月11日(月)晴れのち曇り

 9月10日、神保町シアターで「女優 倍賞千恵子」の特集上映から、『私たちの結婚』(1962、松竹大船、篠田正浩監督)を見る。篠田監督が倍賞千恵子を主演に据えて撮った映画であること、製作当時の川崎の漁港や工場地帯の様子と人々の暮らしがとらえられていること、主人公である姉妹の結婚観の対立と家族の解体の過程がしっかり描かれていることなど、見どころの多い作品である。この特集上映では、少し、毛色の変わった作品のようにも思われるが、女優・倍賞千恵子の性格が出来上がっていくうえでも無視できない作品なので、ぜひ鑑賞してほしいと思い、あまり旧作を取り上げることはしたくないのだが、あえて論評してみる。

 川崎の海の近くに両親(東野英治郎、沢村貞子)とともに暮らしている姉妹(牧紀子、倍賞千恵子)は、姉が事務員、妹が工員として工場で働いている。漁師をしている父親、海苔の養殖に携わる母親の稼ぎは少なく、父親の借金はかさむ一方で、母親が姉に金の融通を頼む場面が少なくない。
 ある時、妹の同僚である工員の駒倉(三上真一郎)が給料の計算が間違っていると姉のところに文句を言いに来たことから、2人が知り合う。妹は、二人を何とか結び付けようとする。一方、一家のところに昔よくやってきた闇屋の松本(木村功)が、その後転職して衣料会社の係長になっているのだが、昔のことを懐かしがってやってくる。そしてほんの子どもだった姉妹が、美しく成長していることを知り、特に姉のほうに関心を抱く。

 姉妹の身近には貧乏を苦にせずに日々を過ごしているオート三輪の運転手の夫婦がいるかと思うと、姉の学校友達の1人(春川ますみ)はもっぱら外国人相手に遊び歩いている。姉の結婚に本人以上に夢中になっている妹は、オート三輪の運転手の妻から家計のやりくりについて聞いたりする。姉は駒倉から結婚を申し込まれるが、なかなか決断できない。そして友人に誘われて出かけたクラブで商談を終えたばかりの松本に出会い、彼が彼女の母親に手紙を書いて、彼女と結婚したいと申し出たこと、子どもだった姉娘から「闇屋!」と言われて芋をぶつけられたことが生涯の転機になったことを聞く。彼が自分と同じように貧しさからの脱出・上昇志向を持っていること、自分が彼の生涯で意味を持つ存在だったことを知って、彼女の気持ちは大きく松本に傾く。

 姉の結婚問題を巡り、両親、姉、妹の間で騒動が起きる。特に、貧乏から抜け出したいという姉と、貧乏でも愛があればという妹葉対立する。この作品の脚本は『名もなく貧しく美しく』などで知られる松山善三と、監督の篠田正浩が共同執筆しており、このあたり、両者がいろいろ議論をして書き上げたのだろうなあと(松山が高峰秀子の夫であり、篠田が、この後、岩下志麻と結婚するというもう一つの『私たちの結婚』も含めて)想像できる。
 オート三輪の運転手の夫婦はせっかく妊娠したのに中絶を余儀なくされるし、姉の友人の「ボーイ・ハント」も結局はうまくいかない。映画の終わり近く、妹娘は、あなたは姉さんの結婚を考えているつもりで、本当はあなたのほうが駒倉さんを好きだったのよと言われ、自分のことを考え直す機会を得る。この作品は姉の牧紀子の結婚を描いているようでいて、その結婚に絡む妹の倍賞千恵子の気持ちのほうに焦点があてられている。だから『私たちの結婚』なのである。

 環境の変化とともに、両親は年を取り、子どもは成長し、家族は解体していく。そういう世代交代の繰り返しは、小津安二郎が好んで描いた題材であるが、それが東京の山手や鎌倉を舞台にしているのではなく、古くからの漁村が解体し、工場が進出している(今はその工場がどんどん閉鎖されているのであるが)川崎を舞台にして展開されているところにこの作品の新しさがあった。終わり近く、漁場でたたずむ東野英治郎、家にぽつんとひとり座っている沢村貞子、列車で郷里である岡山に向かう木村功と彼に随う牧紀子、そして出勤していく三上真一郎と、彼とは離れてやはり出勤している倍賞千恵子の姿に、古い家族の解体と、新しい家族の創出が要約されている。

 1時間07分という小品であり、主題曲として「漕げよ、マイケル」が繰り返し使われているなど、やや安易に思われるところもあるが、出勤風景を手持ちカメラでとらえたり、漁船やノリ養殖、工場、羽田空港の様子などを大胆なアングルで写す篠田の映画作り葉、そっくりそのままとは言えないまでも、その後の篠田の映画作りにつながるものを多く含んでいる。
 姉と妹のどちらの結婚観が正しいとか、姉の結婚が成功するかどうかなど、脚本も監督も特に結論を出していない。それは観客が自分たちで議論すべき事柄であろう。
 篠田に倍賞を主演とする映画をもう少し撮ってほしかったということと、監督はだれでもいいし、脚本に修正を加えてもいいから、倍賞千恵子、美津子姉妹でこの映画をリメイクしてほしかったという感想が残る。東野英治郎の父親役には盤石の既視感がある。長門裕之から吉永小百合までの父親を演じているのだから大したものである。美貌の持ち主だが、いまひとつ個性に見合った役柄に恵まれなかった牧紀子はこの作品が代表作といえるのではないか。その他の出演者もそれぞれ持ち味を生かしている。そういう意味でも見ごたえのある作品である。 

木田元『哲学散歩』

9月10日(日)晴れ

 9月8日、木田元『哲学散歩』(文春文庫)を読む。奥付によるとこの書物の発行日は9月10日であり、それ以前にこの本を読んでしまったということになる。奥付に記される発行日以前に本が店頭に並び、読まれているというのは当たり前になってしまっていることではあるが、なんとなくおかしい。もっとも、発行日の日付でこの本を取り上げたのは成り行きであって、特に深い意図があるわけではない。

 哲学者が哲学とはどういうものかという説明の仕方はいろいろある。それに対して、哲学者以外の人々が哲学はこういうものだと理解している中身もいろいろある。哲学者の描き出す理想の人間は<自由な>人間だという人もいるだろうし、<幸福な>人間だという人もいるだろうし、その他の考えもある。ただ、いろいろあるということを微苦笑とともに認めるということが大事で、こういうものでなければならないと決めつけることが一番よくない。

 この書物は、著者(木田元 1928‐2014)の最晩年の著作であり、療養生活の気晴らしにと気軽に書いた、ご本人の言葉を借りれば、[たまには言葉の森に分け入って、『哲学』と呼ばれてきた散歩道にまぎれこみ、往年の哲人たちの面影を偲んでみるのも一興」(4ページ)ではないかと書き進めたもので、ギリシア以来の哲学者の逸話集といっていい内容である。様々な逸話の中から、哲学者たちの人間像と、彼らの思索の具体的なありようが浮かび上がる。物語的な哲学史の本として、楽しんで読む人もいるだろうし、哲学者たちの取り上げ方から著者の興味のあり方を探り当てて研究のヒントを得る人もいるだろう。

 第1回は「エジプトを旅するプラトン」と題されたエッセーで、プラトンの<イデア>論が、「自然」をその主な関心の対象としてきたギリシアの思想とはかなり異質なものであり、ピュタゴラス教団の影響に加えて、彼がエジプトに旅行するなどした遍歴の中で、ユダヤ思想と接触したことによって形成されたのではないかと論じている。そしてプラトンの思想とキリスト教とのなじみやすさについても論じている。

 これだけでも刺激的な議論には違いないのだが、私はギリシアの本来の思想について論じた次の箇所が気になった。
「万物を「葦牙(あしかび)の如(ごと)萌え騰(あが)る物に因りて成る」とみて、その生成の原理を、神名にも表われる『ムスヒ(草ムス・苔ムス+霊力(ヒ))」と呼んでいた、『古事記』の最古層に残る古代日本人の自然観にも似た、すべてのものを生きて「なる」ものと見る有機体論的な自然観を、古代のギリシア人もいだいていたのであろう。」(11ページ)
 この箇所は、本居宣長の『玉くしげ』の「此天地も諸神も萬物も、皆ことごとく其本は、高皇産霊神(たかみむすびのかみ)神皇産霊神(かみむすびのかみ)と申す二神の産霊(むすび)のみたまと申す物によりて、成出来たるものにして、世々に人類の生れ出、萬物萬事の成出るも、みな此御霊にあらずといふことなし」(岩波文庫版、13-14ページ)という個所を思い出させる。たぶん木田さんは本居宣長も読んでいたに違いないと思うのである。そして、この考えが本当に日本人の考えの「最古層」をなすものかということも、考えてみていい問題ではないかと思う。

 私は、<イデア>の世界よりも<自然>のほうに興味があり、プラトンは長い間敬遠してきたのだが、最近、プラトンの著作を読むようになってきているのはご案内の通り。このエッセーを読んで、さらに、プラトンを読みたくなったことを付け加えておこう。(第2回以降の紹介と論評は、またの機会に。) 

日記抄(9月3日~9日)

9月9日(土)晴れたり曇ったり

 9月3日から本日までの間に経験したこと、考えたこと、前回書き洩らしたことなど:
9月2日
 NHKラジオ『高校生からはじめる現代英語』は”UN Calls for More Women Presence in Politics" (国連は政治におけるより多くの女性の存在感を求める⇒国連が女性の政治参加促進を求める)という話題を取り上げた。女性の権利のための国連機関であるUN Womenが国連に加盟している193か国の議会における女性議員の割合についての調査結果を発表したところ、アフリカのルワンダが1位、アメリカの下院が104位で、日本の下院(衆議院)は163位という結果になったという。このような数字で女性の政治参加についての啓蒙活動を行うことにはそれなりの意味があるだろうが、女性といってもひとくくりにできないほど、その中での利害関係は多様であるし、女性の政治に対する関わり方も多様である(国会議員になることで自分の意見を反映させることも一つの可能性であるが、政治家の妻になったり母親になったりすることも別の可能性である)。それに女性の政治家が大衆の中の女性の意見を吸い上げて、それを政治に反映するという保障はまったくないのである。雑誌『選択』の9月号に「無理やり増やすな『女性議員』」という記事があるらしいが、男性議員をそっくり猿真似しているような女性議員が多い現状では、女性議員を増やすことよりも、国会議員そのものの質を改善することの方が先決であろう。

 司馬遼太郎『街道をゆく3 陸奥のみち、肥薩のみち ほか』を読む。そのうちに、本格的に内容を紹介するつもりである。

 平塚のBMWスタジアムで湘南ベルマーレ対横浜FCの対戦を観戦する。チーム力に勝る湘南が優勢に試合を進め、横浜は後半の途中まで0-2と先行を許していたが、レアンドロドミンゲス選手が2ゴールを決めて追いつき2-2で引き分けた。特に2ゴール目はアディショナル・タイムに入ってからの得点だったので、引き分けでは順位が上がらないにもかかわらず、横浜サポーターの方が勝ったような大騒ぎであった。

9月3日
 この日のブログで金子光晴の『マレーの感傷』について取り上げたが、吉田健一の『東京の昔』の中に、語り手でもある主人公が新たに友人になった帝大の仏文の学生である”古木君”と一緒に銀座に出かけ、古本屋で金子光晴の『こがね蟲』を見付けるという箇所がある。この個所が奇妙に気になるのは、吉田健一が暁星中学(現在の暁星学園中学・高校)で金子光晴の後輩にあたるということを知っているからかもしれない。大酒のみではあったがその他の点ではお行儀がよかった吉田健一と、酒は飲まないけれどもその他の点では放蕩を続けた金子光晴の対照は面白い。2人とも耽美主義、享楽主義的な傾向があったし、カトリックの学校(つまり暁星)を出たものの、カトリック信者にはならなかった点も共通する。あちこちの中学を渡り歩いた(立教中学には2度も編入した)サトー・ハチローが暁星には一度も在籍していないというのも何となく面白い。
 
9月4日
 『朝日』の「語る――人生の贈りもの――」は、今回から社会人類学者の中根千枝さんが登場して、これまでの人生と研究の歩みを語る。90歳になったが、論文は深夜に書く。寝るのは午前3時だという。私は友人から70歳を超えてもなお夜型の生活スタイルを維持しているのは立派だといわれたりすjるが、コンピューターの性能が悪くて夜まで起きていなければならないだけである。中根さんの方は本物の「夜型」で尊敬に値する。

 NHKラジオ『まいにちイタリア語』初級編は日本人の登場人物がイタリアのエルバ島に出かけるという展開になる。エルバ島がトスカーナ州に属しているというのは、この番組を聴いていて初めて知ったことの一つである。
 むかし、大学に勤めていたころ、組合の分会の委員長をしていたことがあって、その時の書記長がある時国際学会でエルバ島に出かけると言い出して慌てたことがあった(まあ何とか頑張って、書記長不在の危機を切り抜けた)。ロシア遠征に失敗して皇帝の位を退いたナポレオンが一時隠棲していた場所であるだけでなく、海岸に加えて、il Monte Capanneという山もあるという。確かに出かけてみたいところではある。

9月5日
 眼科の検査を受ける。目を悪くされているという大学院時代の先生の1人から、どういうふうに体を悪くするかわからないから、早くこれまでの研究をまとめるようにと言われたのだが、確かにその言葉が身に染みる事態が近づいてきているようである。

9月6日
 NHKラジオ『実践ビジネス英語』は”Doctors on Board"(機内の医師)という新しいVignettに入った。登場人物の1人が搭乗した飛行機が離陸しようとしたときに、近くに座っていた人物が急病で意識を失っていることに気付く。こういうときには、乗客の中に医師がいないのかを確かめるのだが…。幸いにして、こういう場面に出会ったことはない。

 同じ番組の”Quote...Unquote"のコーナーで紹介された言葉:
You shall judge a man by his foes as well as by his friends.
                              (from Lord Jim)
---- Joseph Conrad (English novelist, 1857 - 1924)
(人物は、その人の友人のみならず敵によっても判断すべし。)
 敵をよく作る人もいるし、敵があまりいない人もいる。敵に憎まれることは、悪いことではなく、いいことであると毛沢東が言ったと記憶する。敵とか味方とかいうのは、流動的なものであるし、「敵ながらあっぱれ」ということも世の中には少なくないが、少なくとも、卑劣な人間が敵になっていることは、不名誉なことではない。

9月7日
 『実践ビジネス英語』の「機内の医師」の話の続き。おじさんが医師だという登場人物の1人の言葉:
It's also important to remember that fling is a strain on the body. In fact, the whole travel experience can be quit taxing. You may carry heavy luggage over long distances between terminals, and you have to deal with security checks.
(もう1つ覚えておくべきなのは、飛行機に乗ることは体に負担をかけるということです。事実、旅行でのいろいろな体験は、負担がかなり大きい場合がありますよね。重い手荷物を携えて、ターミナルからターミナルまでの長い距離を移動するかもしれませんし、手荷物検査を受ける必要があります。) 確かにそのとおりである。

9月8日
 『実践ビジネス英語』の”Quote...Unquote"のコーナーで紹介された言葉:
It takes something more than intelligence to act intelligently.
(from Crime and Punishment)
---- Fyodor Dostevsky
(Russian novelist, essayist, journalist and philosopher, 1821 - 81)
(知的に振舞うには、知性以上の何かが必要だ。) これはちょっと納得しかねる。どうもドストエフスキーは苦手である。

 木田元『哲学の散歩』(文春文庫)を読む。この本については、機会を見付けて紹介するつもりである。

9月9日
 ニッパツ三ツ沢球技場でJ2第32節、横浜FC対ツエーゲン金沢の試合を観戦する。横浜はなかなか得点できず、逆につまらないところでボールを奪われてカウンターで攻め込まれたりして前半は0-0で終わったが、後半にレアンドロ・ドミンゲス選手がヘディングでゴールを決めると、チーム全体といても動きがよくなり、さらに西河選手のゴールで1点を加え、2-0で勝利した。あと10試合、何とか頑張ってほしいものである。 

司馬遼太郎『街道をゆく2 韓のくに紀行』(4)

9月8日(金)晴れたり曇ったり

 前回(司馬遼太郎『街道をゆく2 韓のくに紀行』(3))が8月15日付だったから20日以上間隔をあけてしまった。1971年に『週刊朝日』の連載エッセーの取材のために、司馬さんは韓国へと旅立つ。大阪で育った司馬さんは子どものころから朝鮮人とその文化を見聞してきたし、古代から現代にいたる日本と朝鮮との交流の歴史にも関心がある。さらに戦争中は戦車小隊の隊長として釜山の街をうろうろした経験もある。釜山の街には一種の既視感があるらしい。竜頭山の李舜臣の銅像を見て、実はこの地が対馬藩の倭館の構内であったことを旅行後に知ったりする。

 加羅の旅(正確にいえば、昔加羅と呼ばれていた地方の旅)は続く。任那ではなくて、加羅と書いているところに、司馬さんの朝鮮史(韓国史)についての知識の厚みを読み取るべきであろう。1970年代になっても「朝鮮語というのは、中国語ですか」と質問されることがあったという。ラジオ・テレビのハングル講座が始まったのが1970年代の半ば辺りであったと記憶するが、両者が別の系統に属する言語であることがこのため広く知られるようになった(はずである)。司馬さんは大阪外事専門学校で蒙古語を勉強したという経歴の持ち主であるから、このような問いに対してはかなり饒舌に答えることになる。

 「むろん朝鮮語は中国語の一派ではない。大ざっぱな分類法としてウラル・アルタイ語族というシメククリ方法があるが、その仲間の本家がモンゴル語であるとすれば、その姉妹関係にあるのがいまは滅びたも同然の固有満州語であり、その固有満州語の縁族が朝鮮語であり、日本語も文法の上ではその仲間に入る。ネコガ、ヤネノウエヲアルイテイマスという語順に朝鮮語もなる。要するに日本語と同様、動詞が最後に来て、テニヲハ(助詞)がある。さらにいえば、人種も漢民族ではない。」(57ページ)
 現在の言語学研究では、ウラル・アルタイ語族という考え方はかなり疑わしいとされている。朝鮮語と日本語(ついでに言うと、アイヌ語とニヴフ語)は言語系統的には孤立語であるという意見の方が一般的である。

 しかし、朝鮮(韓国)では金とか宋とか張とか中国と同じ姓名を付けているではないかと反論する向きもある。「朝鮮人のヤヤコシサはそういうところにもある」(58ページ)と司馬さんは多少の譲歩をする。いつごろから、こうなったのかについてはどうもよくわからない。〔それをいうと、日本では昔「…子」というのは男性の名前だった(例えば小野妹子)のが、奈良時代ごろから女性の名前になった。いつ、いかなる理由でこの転換が起きたのかという説明を聞いたことがない。誰かご存知ならば教えてください。]

 東莱(トンネ、釜山広域市の一部)で一泊。金海(キムヘ)に向かう。韓国人のガイドであるイムさんは不思議がる。観光客が誰一人としていこうとしないような大田舎であるというのである。なぜ、出かけるかといえば、古代の日本との結びつきが強かった土地であるということである。
 「朝鮮の上代史は系譜的にのべることはむずかしい」(61ページ)と司馬さんは語り起こす。「古代」ではなく、「上代」という言い方をしているのが特徴的である。「四捨五入してごく図式的にいえば、初めに三韓(サムハン)(馬韓(マハン)、辰韓(チンハン)、弁韓(ピョンハン))時代があり、次いで三国(高句麗(コグリョ)、百済、新羅)時代が来て、やがて新羅が統一をするということがいえる」(同上)と、本当にごく簡単にまとめる。
 三国のうち、高句麗は北の方にあり、民族的にも違っていたとされているが、南の新羅と百済は韓族の国であった。その新羅と百済に挟まれて加羅という小さな国があった。〔もともと三韓時代の馬韓、弁韓、辰韓はそれぞれ小さな国の集合体であったが、馬韓が百済、辰韓が新羅によって統一された。弁韓(弁辰とも)は統一されずに小国の集合体として残ったのであるが、司馬さんは加羅という国に統一されたと理解している。〕 加羅にはいくつもの別名があったと記されているが、そうではなくて、それぞれがこの地方に存在していた極小国の名前であったと理解する方が一般的な受け取り方である。
 ただ、このあたりの経緯についての司馬さんの書き方は、慎み深く謙虚であり、「学問の世界での席があたえられていないのは、おもしろすぎるからである」(65ページ)と自説に不備があるかもしれないことをきちんと記している。
 金海の穀倉地帯を走りながら、司馬さんは神話・伝説の世界に思いをはせる。かと思うと任さんと、目の前に広がる水郷の風景を見て、湖か入江かと議論する(オチは、司馬さん自身がつけている)。司馬さんが風景よりも、人間の方に興味を抱く人であったことが察せられる。風景から読み取るべきことも多いのではないかとその点が少し残念である。
 
 一行を乗せた自動車がまだ金海を走っているのに、「加羅の旅」は終わってしまい、「新羅の旅」が始まる。それだけでなく、読者にとってのいくつかの驚きが待ち受けている。それはまた次回のお楽しみに。

 一つ、気になったことを書き留めておくと、加羅=駕洛を朝鮮音で読むとKalakになり、日本語では子音が落ちて、カラと発音されるようになったと記されている。その一方で、「ラク」と聞きとった人々もいたのではないか。日本の地名には京都の相楽郡とか、群馬の甘楽郡とか、「ラク」あるいは「ラ」で終わるものがあることについて柳田国男が注意を促していたことが想起される。実は、横浜市の一部を構成している旧「久良岐郡」の「クラキ」というのもこれと関係がないかと考えているのである(このあたりの海にクラゲが多いからだという説もあって、これはこれで奇妙に実感をもって納得させられるところがあるのだが…)。

 40年以上昔に書かれた文章だけに、その後の研究や、社会の変化によって修正を余儀なくされる部分が少なくないが、司馬さんが取り上げている問題自体は、依然としてその意味を失っていない例が少なくない。
 

亀田俊和『観応の擾乱』(4)

9月7日(木)曇り

第1回 8月4日
第2回 8月11日
第3回 8月18日
 「観応の擾乱」は初期の室町幕府を二つに割いた将軍・足利尊氏と、三条殿・直義の兄弟の戦いである。この戦乱を経て、室町幕府はその独自の性格を発展させていったというのが著者の考えである。
 初期の幕府は尊氏と直義の二頭政治であったと理解されているが、著者は大部分の権限が直義によって行使されていたと考えている。日本中世政治史の枠組みを作った歴史家・佐藤進一は尊氏と直義の二頭政治において、尊氏は武家の棟梁として主従制的支配権を行使し、直義は政務を統括する統治権的支配権を行使していたと理解した。しかし、彼らが実際に行使した権限はこの枠組みでは理解できない。尊氏が行使したのは恩賞の充行(あておこない)と守護の任命だけであり、これは既存の所領秩序を変更し、新しい秩序を創造する――変革を担う役割をもっていたと考えられる。これに対し、直義の担っていた役割は、既存の秩序を保全し、復元するというものであった。つまり、初期の室町幕府において、尊氏は創造、直義は保全の役割を担っており、これは建武政権の役割分担に示唆を得ているが、幕府の政治と制度は大筋としては鎌倉幕府のやり方を模倣していたと考えられる。

 第1章「初期室町幕府の体制」 3 高師直の役割――尊氏・直義共通の執事
 高師直は初期の室町幕府について論じる際に、尊氏・直義とともに、欠くことのできない存在である。高一族は、古くから清和源氏に従ってきた譜代の臣であり、鎌倉時代後期の高一族嫡流は、足利氏執事として同氏の家政機関を管轄し、文筆官僚として活躍した。南氏・大高氏などの庶流も栄え、鎌倉末期には数の上では主君の足利一門をしのいでいたようである師直は元弘3年(1333)ごろに、父師重から執事職を譲り受けたと推測される。建武政権下では雑訴決断所、さらには窪所に職員として参加している。

 師直は中先代の乱や、主君である足利尊氏の建武政権との戦争でも、主君に従って全国各地を転戦し、室町幕府樹立に貢献した。幕府発足後は、執事として広範な権限を行使する。
 ①恩賞方の頭人として、尊氏の恩賞充行袖判下文の発給に携わった。
 ②引付方の頭人も兼任した。
 ③北朝との交渉を担当し院宣の執行にかかわった。
 ④後醍醐天皇の冥福を祈るために建立された天竜寺の造営事業の奉行人の1人であった。
 ⑤軍事面では、南朝方の北畠顕家に勝利し、彼を打ち取った。
 彼の行使した権限は多岐にわたり、師直は尊氏の執事であっただけでなく、おそらくは三条殿足利直義の執事でもあったのではないかと著者は推測している。直義は兄の将軍尊氏から政務を委任されていたので、執事である師直が直義に仕えていなかったとする方が不自然ではないかという。

 執事高師直にとって最も重要であった権限は、執事施行状の発給であった。これは将軍尊氏の恩賞充行袖判下文の沙汰付を諸国の守護に命じる文書であり、現存する師直発給文書の中で最も多く残っている。このような文書は鎌倉幕府時代にはなく、その点で鎌倉幕府時代と最も違っていた文書であり、制度であったといえる。
 これは建武政権の雑訴決断所による後醍醐天皇綸旨の施行状に倣ったものと考えられる。綸旨が乱発され、偽物も横行したために、決断所が「牃」と呼ばれる形式の文書を発給してその効力を確認するようになった。この文書が果たした役割の大きさは、庶民向けの初等教科書である『庭訓往来』の中にも取り上げられていることからわかる。

 さらに、それ以外にも師直は執事奉書を発給した。「当時、あくまでも建前は直義が一元的に政務を取り仕切り、恩賞充行と守護職補任を例外として尊氏は介入しない体制であった。しかし、現実には恩賞充行以外にも将軍である尊氏が登場せざるを得ない場面も出てくる。
 そうした場合、執事師直が将軍尊氏の意思を承けて奉書を発給した。それを審議した場も恩賞方であったわけだが、「将軍がわざわざ執事を介して意思を表明するのは、めったにないめぐみ深い新しい政治である」という意味で、その場を特別に仁政方と称したのだと考える。」(23-24ページ)というのが、著者の考えであり、さらに裏付けとなる研究が求められるところである。

 ところが、その師直であるが、北畠顕家を打倒したあたりから、大した失策もないのになぜか権限が縮小しはじめるという。鎌倉幕府の政治を理想とする直義が、室町幕府の安定を機に、一時しのぎのやり方を改めて、鎌倉時代のやり方に戻そうと考えたのではないかと推測される。しかし、この段階において、直義と師直の対立はそれほど深刻な小野ではなく、一定の妥協は成立しており、初期の幕政も安定して軌道に乗ったと評価できる。康永3年(1344)に直義は従三位に昇進し、公卿に列し、兄尊氏とほぼ同格の存在になった。翌年には天龍寺の落慶供養が盛大に開催され、戦乱が終結し、政策の重点は戦没者慰霊や訴訟による所領の整理といった戦後処理に移行したかに思われた。

 貞和3年(1347)に、直義に男児が誕生して如意王と命名された。この男児の誕生を契機として彼が兄を除こうと野心を抱き始めたのではないかという説もある。「しかし、当時の直義は三条殿として幕政を安定的に主導しており、わざわざこれ以上の冒険を行う必然性はまったく存在しなかった。」(32ページ) さらに直義は尊氏に対しては一貫して無気力な態度に終始しており、如意王の誕生が観応の擾乱の引き金になったとする考えには従えないという。
 とすると、直義と師直の間に修復しがたい対立が生じたのがいつ頃で、なぜかという問題が出てくるのだが、それはまた次回に。

ダンテ・アリギエリ『神曲 天国篇』(27-1)

9月6日(水)雨が降ったりやんだり

 ベアトリーチェに導かれて、煉獄山頂の地上楽園から天上の世界へと旅立ったダンテは、月天、水星天、金星天、太陽天、火星天、木星天、土星天を歴訪し、彼を出迎えた知人や歴史上の有名人の魂と対話して、自分の疑問への解答を得るとともに、この遍歴で見聞したことを地上に伝えることが彼の使命であることを自覚する。至高天から土星天へと降りているヤコブの階段を上って恒星天に達したダンテは、キリストとマリアの天国への凱旋を見た後、ペテロ、大ヤコブ、ヨハネの3使徒から3つの対神徳である信仰、希望、愛についての試問を受け、その回答への承認と称賛を得る。そして彼は人祖アダムの魂と対話することができた。

「父に、子に、聖霊に、
――全天国が――栄光あれ」と歌いはじめた。
その甘美な歌は私を酔わせた。
(402ページ) 翻訳者である原さんの「解説」によると:「神が直接創造したアダムは3つの対神徳をすべて備えた完成した人間だった。そしてダンテはそのアダムから、三徳すべてを備えた人間として認められ、「父」の存在を信仰し、「子」の復活に希望を託し、「聖霊」つまり神からの愛に応えて神を愛し、そのために至高天へと「栄光」の凱旋を飾ることになる。「栄光あれ」の歌は、天国から彼に与えられた祝福だった」。(628-629ページ) その歌は私を「酔わせた」というのは「忘我の状態になった」ということである。

 ダンテはその喜びについて謳いあげる。
私が見ていたものは、まるで
宇宙の微笑みのようだった。だからこそ、私の陶酔は
聴覚と視覚を通じて入り込んできたのだった。

おお、喜びよ。おお、えも言われぬ歓喜よ。
おお、愛と平和の全き生よ。
おお、邪欲を引き起こさぬ揺るぎない富よ。
(同上) 彼が経験した「歓喜」「愛と平和の全き生」「邪欲を引き起こさぬ揺るぎない富」は、地獄のような地上と対照をなすものである。

 彼の目の前に4本の松明が現われ、その中の最初に現れた松明(ペテロの魂)が公正と温和を表すユピテル、すなわち木星の白から、闘志を示すマルス、すなわち火星の赤へと変色した。このあたりの描写は異様であり、そのことにこの叙事詩の世界が地上の摂理を離れた場所にいることを物語っているのだと原さんは解説している。

 ペテロは教皇の地位にそれにふさわしくない人物がついていること、そのために彼の墓(=聖ピエトロ大聖堂)が「血と悪臭の溜まる/下水溝」(404ページ)になってしまったと嘆く。
・・・ために、ここ天上から
堕落したかの邪悪は下界で満足しておる」。
(同上) 「血」は戦争で流された血、「悪臭」は聖職売買という腐敗の放つ悪臭である。「かの邪悪」=魔王ルシフェルが満足しているということは、ローマ教皇は悪魔の手先だというのと同然である(このような非難のために、『神曲』はダンテの死後もなかなか公刊を許されなかった)。この言葉に、天国には一瞬、悲しみの色が広がる。

 ペテロは言葉を続ける:
「キリストの花嫁は、
黄金の獲得に利用されるため
我が血やリヌス、クレトゥスの血で育まれたわけではない。
(406ページ) 「キリストの花嫁」は教会をさす。初代の教皇とされるペテロ、2代目の教皇リヌス、3代目のクレトゥスは、ローマ帝国の迫害により殉教したが、それは「黄金の獲得」=地上の富の追求のためではなかった。
 そして現教皇(1300年当時の教皇は教皇皇帝主義を極限にまで推し進めたボニファティウスⅧ世)がキリスト教信者を分裂させ、私的利益のために同じキリスト教信者に対して自分の名ペテロとその職権を象徴する鍵を利用して十字軍を起こし、傭兵を操って戦争を仕掛け、印璽により自分の顔を聖職売買のための書類に捺していることを怒る。
 当時はフランスのアヴィニョンにもフランス王に後押しされた教皇庁があって、分裂状態が続いていたが、アヴィニョンの教皇たち、クレメンスⅤ世とヨハンネスXXⅡ世が教会自体を餌食にしようとしていると予言した。
・・・おお善良なる源よ、
何たる愚劣な終わりへとおまえは堕すことになるのか。
(407ページ)

 しかし、希望を捨ててはいけない。
だが、高きにある神慮は、ローマにおいてはスキピオを使い
世界の栄光をお護りになったが、
我が理解している通り、すぐにも助けに来るであろう。

そして息子よ、おまえは必滅の重さを持つがゆえに
再び下界に帰ることになるが、口を開け。
我が隠してはいないことを隠してはならぬ」。
(408ページ) ダンテはローマが世界に平和と秩序をもたらす存在であると考えていたから、スキピオ・大アフリカ―ヌスが紀元前202年のザマの戦いでカルタゴのハンニバル軍を破り、ローマを救ったことを神慮の表れと解釈している。スキピオの名は、イタリアの国歌の中にも出てくるが、ハンニバルの方が好きだという人も少なくない。
 スキピオがハンニバルを破ったことにより、ローマは地中海に覇を唱え、帝政ローマへの道を開いたが、同じように、神慮は地上に平和をもたらす人物を送るだろうという。このことを地上に伝えるのがダンテの任務だという。ダンテの歴史観では帝政ローマは神慮により地上に平和をもたらした。だとすると、ここで想定されている人物は、平和を再建する神聖ローマ帝国の皇帝と解釈される。このように言い置いて、ペテロは他の魂たちとともに至高天へと戻っていった。
我が視線は彼らの姿を追っていき
そして間にある空間が大きく開き、
視線がさらに先へと進めなくなるまで追った。
(408-409ページ) ダンテの天国での旅の中で、この恒星天までが物理的宇宙的な、地上の人間が認知することができる世界であるのに対し、ここから先は神的な非物質的な世界になる。落語の『浮世根問』の「そこから先はもうもうとしたところだ」というのをなぜか思い出す。(『神曲』は神学的な論争の書とも、地上に平和をもたらす政権の樹立について考えた政治的な書物とも、俗語によって高尚な主題を歌うことにより文学の革新を目指す書とも考えられる――これ以外の解釈を含めて、受け取り方は自由である――が、私はどちらかというと宇宙論の書として読んでいると自分では思っている。)
 

小津安二郎と溝口健二(2)

9月5日(火)曇り(時々小雨)

 8月20日のこのブログで書いたのは、私にとって小津の方が溝口よりも身近であるということであった。今回は、現在の日本の映画観客の好みが溝口よりも小津の方に傾いているのではないかと思われることについて、またその理由として考えられることについて書いてみたいと思う。

 7月から8月にかけて神保町シアターでは観客のアンケートに基づいた「神保町シアター総選挙」として、投票で上位票を獲得した8企画の中から4作品ずつを選び出した33作品と、過去最も多くの入場者を動員した成瀬巳喜男監督作品の『流れる』の合計34作品を上映した。その8企画というのは、①女優・高峰秀子、②恋する女優 芦川いづみ 、③一周忌追悼企画 伝説の女優・原節子、④没後40年 成瀬巳喜男の世界 ⑤生誕110年・没後50年記念 映画監督 小津安二郎、⑥男優・森雅之、⑦女優・岡田茉莉子、⑧女優・山田五十鈴ということである。なお、8×4=32であるが、小津安二郎の特集だけ5作品を取り上げたので、33作品になった。

 この結果を見ると、女優を取り上げた企画5つ、監督を取り上げた企画2つ、男優を取り上げた企画1つが選ばれていて、少なくとも神保町シアターの観客についてみると、映画は監督よりも俳優で選んで観る傾向があるといえよう。しかし監督を取り上げた企画が2つ選ばれていることと、ロビーでの観客の話を聞いて窺い知ったことから判断して、監督(と脚本・原作)についても軽視はしていないと判断できる。その中で、小津を取り上げた企画が5位に入っていて、彼の作品が5本上映されたのに対し、溝口の作品は1本しか上映されなかった。34本の映画を監督別にみると、
 成瀬巳喜男 8本(『流れる』、『あらくれ』、『放浪記』、『晩菊』、『驟雨』、『妻の心』、『女が階段を上る時』、『浮雲』)
 小津安二郎 5本(『学生ロマンス 若き日』、『淑女は何を忘れたか』、『麦秋』、『お茶漬けの味』、『早春』)
 中平康、千葉泰樹、川島雄三、大庭秀雄各2本
 阿部豊、稲垣浩、山崎徳次郎、滝沢英輔、山中貞雄、佐分利信、吉村公三郎、黒澤明、市川崑、青柳信雄、吉田喜重、溝口健二、渋谷実各1本
ということになる。主演女優の人気のおかげで作品が上映された凡庸な監督がいる一方で、この映画館では人気がないらしい巨匠・名匠が少なくないことが分かる。高峰秀子と成瀬巳喜男に寄せられた人気は神保町シアターという映画館に集まってくる客層の特色をよく示しているし、高峰と同じく小津の作品にも溝口の作品にも縁がなかった芦川いづみの人気もこの映画館の観客の好みの一面を示すものであろう。しかし、それらは本題とは外れる。

 企画が上映された5人の女優のうち2人が小津とも溝口とも関係がなく、山田五十鈴は両者の作品にともに出演している。小津映画の中で重要な役割を演じてきた原節子、初期の小津組で重要な役割を演じた岡田時彦の娘で小津が大事に育てようとした岡田茉莉子の特集企画が上映されている一方で、溝口の作品の中で重要な役割を演じた田中絹代(小津の映画にも出演している)の特集企画は選に漏れている。この点をみても、当世の好みは小津に傾いているように思われる。(もちろん、小津や溝口よりも成瀬だという観客、さらに、古い映画には興味がないという観客、さらにさらに映画には興味がないという人間の存在を無視するわけにはいかない。) ただ1人男優として選ばれた森雅之は、有島武郎の子息で叔父である里見弴と小津は親しかったという因縁があるにもかかわらず、型にはめる小津の演出を嫌ったのか、その作品には出演していない。

 何度か引用してきたが、淀川長治は、自分は庶民だから小津のように鎌倉に住んで文化人と交流しながら映画を作る人よりも、溝口の方が好きだといったという。しかし、淀川がイメージしていた庶民の在り方そのものが過去の存在になってきている、例えば、溝口の『赤線地帯』を自分の実感に引き付けてみることのできる人がいまの日本にどれだけいるかということがまず問題となるだろう。『浪華悲歌(エレジー)』を見ていても、溝口が描き出そうとした古い日本の因襲が個人の自己実現を束縛していく姿(あるいはそこからの解放の主張)というのがどうも古臭いのである(だからと言って、無意味だというわけではない)。因襲に囚われているのも庶民であり、その殻を打ち破って新しい人生を築こうとするのも庶民である・・・とすると、庶民という言葉にはあまり意味がないということになる。

 高橋治が指摘しているように、小津も溝口ももとはというと東京の下町の出身である(小津は途中から父祖の地である三重県で育てられたという違いはある)。小津は自分の気の合った仲間と、下町を舞台にした映画を撮ってきたのが、『戸田家の兄妹』あたりから作風の変化を見せ始め、描く対象である社会階層が上昇し、下町から山手へと舞台を移し、ノン・スター・システムからスター・システムへと配役の流儀を変化させる。描かれている対象が豊かになったという変化はあるが、ある種の軽妙さというか、ユーモアのセンスには変化がないように思われる。あまり重苦しくないのが、現代の観客からも好まれる理由ではないのか。

 小津は同時代の風俗を描き続け、溝口は時代劇や異国の物語にも題材を求めた(例えば『楊貴妃』、しかしおそらくこれは、溝口ではなく、制作者である永田雅一の意図であったのではないかと思われる)。高橋治は大島渚の次のような言葉を引用している:「小津さんは自分の好みの中でしか仕事をしなかった。そのうえ、好みを自分で知りぬいていた。だから幸福だったでしょう。しかし、溝口さんは一生自分がなにをやりたいのかもわからず、ただ、むちゃくちゃに頑張った。苦しい一生だったと思います。」(高橋『絢爛たる影絵』、文春文庫版、259ページ) 私自身はというと、好みは小津の方に近いけれども、自分の好みが正確にはわからないし、自分の好みとは違う仕事を押しつけられた(溝口における『楊貴妃』もそのような例ではないかと思われる)ために、もがき続けているというのが正直なところである。だから、溝口にも一定の親近感があって、そこが難しいところなのである。 

『太平記』(174)

9月4日(月)雨が降ったりやんだり

 建武3年(南朝延元元年、1336)6月初旬、再び京都を奪取した足利方は、京都から逃れた後醍醐天皇らが立て籠もる比叡山に、東西から攻め寄せた。西坂では後醍醐天皇の寵臣の1人であった千種忠顕が戦死した。数の上では劣勢の後醍醐天皇方であったが、地の利と、士気の高さで足利方の攻勢をしのぎ、戦局は膠着状態になった。16日、山での戦闘に慣れていると自認する熊野八庄司の軍勢が足利方に加わり、彼らを先鋒として西坂から攻め込んだが、本間重氏と相馬忠重の弓勢に恐れをなして敗走した。

 膠着状態の中で、双方が弓を射あう矢軍(やいくさ)だけで毎日を過ごしていては、何年かかっても比叡山を攻め落とすことはできないと考えられた。足利方では、攻めあぐねてどのように攻めればよいのか迷いが出てきた。そこへ、延暦寺の僧である金輪院律師光澄(こんりんいんのりっしこうちょう)のもとから、今木少納言隆賢という同宿の僧を使いのものとして高師久のもとに伝言したのは、「新田殿が陣を構えている四明山の下は、比叡山の中でも第一の難所であるから、たやすく攻め破ることはできないとお考えいただきたい。山岳地帯での戦に慣れている西国方の兵を4・500騎、この隆賢につけていただいて、無動寺の方面から忍び入り、東塔の文殊楼あるいは四王院のあたりで鬨の声をあげれば、光澄に味方する僧兵たちが、東西両塔の間で旗を挙げ、鬨の声をあげて呼応し、比叡山をわずかの時間のうちに攻め落とすことができるでしょう」という内容であった。
 比叡山は宮方一辺倒で、足利方に味方するものはひとりも出てこないだろうと思っていたところに、隆賢がこっそりと使いを送って、夜討ちを掛けるように申し出てきたので、高師久は大いに喜んで、播磨、美作、備前、備中4か国の軍勢の中から、夜討ちに慣れた兵500人余りを選び出し、6月18日の夕暮れ時に、四明の頂上を目指して出発させた。

 隆賢は、長年比叡山の地理を知ったものであるうえに、敵のいるところ、いないところ、詳しく見ておいたことなので、少しも道に迷うはずがないのであったが、天罰であろうか、突然目がくらみ思い惑って、終夜、四明の麓を南北に迷い歩いていたために、夜が明けてしまい、義貞麾下の紀清両党の兵に見付けられて、包囲されてしまい、彼に従っていた武士たちのうち100余人が討たれて谷底へ転び落ちていった。隆賢1人だけは、あちこちに深手を負い、腹を切ろうとしたのだが、鎧の胴の上を巻き締める上帯を説いているうちに組みつかれて、生け捕りにされた。裏切りの張本人であるから、すぐさま首をはねられるのが当然のことであったが、義貞は延暦寺の僧であることで赦して、その身柄を味方として比叡山にこもっている今木一族に預け、「このまま生かしておいても、首を切ろうとも、貴殿たちのご意向に任すつもりである」と申し伝えられたので、一族の今木中務丞範景が「畏まって承り候」と、まだ使者が帰らずに見ているところで、その首をはねて投げ捨てたのであった。

 かたじけなくも万乗の君(=天皇)が医王(根本中堂の本尊である薬師如来)、山王(日吉大社の山王権現)の御助けを頼りにされて、比叡山に臨幸されたのであるから、3千人といわれる衆徒たちは、すべて、仏法と王法とが互いに支えあうという道理を自分たちのものとして、二心を抱かずに天皇のために忠義の戦いをすべきであるところに、金輪院一人が、比叡山の僧のみであるのに自分の寺に背き、武士の出身でもないのに将軍に従い、それだけでなく弟子の同宿の僧を使いとして、比叡山を滅ぼそうと企てたことはきわめてあさましいことであった。だからこそ、悪逆がたちまちに表れて、手引きをした同宿の僧たちは、戦死したり、生け捕りにされたりした。中でも光澄は、それほどの時間がたたないうちに自分の子どもに殺されたという。その子どもはまた同じ母から生まれた弟に討たれるという不思議な因縁が続いた。まことに恐ろしい神罰であった。

 さて、足利一族で越前守護の斯波高経が、北陸道の軍勢を率いて、琵琶湖の西の岸にある仰木(大津市仰木)から押し寄せて、延暦寺三塔の一つである横川(よかわ)を攻めるだろうという噂が伝わってきたので、横川の本堂である楞厳院(りょうごんいん)、九の谷の衆徒たちが要所要所に木戸を築き、逆茂木を組み立てて、要害を構えた。

 そのころ延暦寺の開山である伝教大師最澄の御廟所である東塔の浄土院の修理のために材木をたくさん山上に引き上げて貯蔵していたのを、櫓の柱、矢間の板にしようと、坂本に運んだ。その日、横川の般若谷にあった般若院の法印が召し使っていた童が、突然何者かに憑りつかれて、いろいろなことを口走ったのであるが、「我に大八王子権現付かせ給いたり」と名乗り、「この廟の材木を急いで元のところに返し運ぶべきである」といった。(大八王子権現は比叡山の神宮寺である日吉山王上七社の一つであり、その祭神が憑りついたというのである。)
 僧兵たちは不審に思い、「本当に八王子権現が憑りついたのであれば、本地仏のうちに悟った真理を明らかに知り、諸々の教えに通達しているだろう」といって、開山以来の学僧たちが伝えてきた天台宗の根本教説や、秘密の口伝など、さまざまに質問を浴びせかけた。
 すると、この童は、からからと笑って、「我も衆生と同じ世俗の塵に交わること久しく、三世了達の知(前世・現世・来世を知り尽くす知恵)も浅くなったとはいえ、釈迦如来が在世されていた時に、法会に列して聞いたことなので、大ざっぱなことだけでも言い聞かせよう」と、僧兵たちの問うた質問に対し、華やかで流麗な言葉で答えたのであった。

 僧兵たちは、すっかり信用して、比叡山とこの戦いの今後のゆくえを質問すると、この物付きは涙をはらはらと流して次のように述べた。「われ内には完全円満な天台宗の教えを加護し、外には末永く王室を護持するために、延暦寺草創の初めから仏の身を神に変えて現れたので、当然のことながら比叡山の繁盛、朝廷の静謐をこそ心がけてきた。しかし、天皇のお考えはご自身の栄華ばかりで、民を利し世を治めるものではなく、僧徒たちの祈願も、慢心と破壊のもとになる自分のことばかりで、自分たちのことばかりを考え、仏法を盛んにするということではないので、諸天善神も保護の手を休めるようになり、四所(興福寺の鎮守である春日大社の四神=武甕槌命(たけみかづちのみこと)・経津主命(ふつぬしのみこと)・天児屋根命(あめのこやねのみこと)・比売神(ひめがみ))三聖(さんしょう、日吉大社に祭る大宮・二宮・聖真子(しょうしんじ))も慈悲の力をめぐらそうとはされない。悲しいかな。いまから後、朝廷は長い間苦しい境遇に置かれることになり、公卿大臣は蛮夷の奴となり、天皇はかわるがわる都を去り、臣は君を殺し、子は父を殺す世になることの何という浅ましさか。君主や親を殺す悪行を重ねれば、当然その報いを受けることなので、逆臣が猛威を振るうのもそんなに長いことではないだろう。恨めしいことではないか。師久は、我が山を攻め落として、堂舎仏閣を焼き払おうと軍議を進めている。その悪逆を見よ。明日、午の刻(正午ごろ)に、早尾、大行事の両権現を差し遣わして、敵を四方に追い散らすはずであるから、我が山になんの恐れることがあるだろうか。その材木をみな元の通りに運び返せ」と託宣して、この童、4・5人がかりでないと持つことができないような大木を一つ持ち上げて、御廟の前に打ち投げ、手足を縮めて震えていたが、五体から汗を流して、憑依状態から目を覚ましたのであった。

 僧徒たちは不思議なこともあるものだと、天皇のお耳に入れようとしたが、明日の午刻に敵を追い払うであろうという神託は、どうも現実離れがしていて本当にそうなるとは思えず、疑わしい限りである。一つでも違うことがあれば、子どもの言ったことだけに根も葉もないことだということになるだろう。しばらく明日の様子を見て、思い当たることがあれば、後日にこそ天皇のお耳に入れようと申し合わせ、このことを隠していたので、神託を知るものは彼ら以外にはいなかったのである。

 宮方の中心であるはずの児島高徳の属する今木一族から裏切り者が出たり、比叡山の守護神が子どもに憑りついて託宣したり、奇々怪々の展開が続く。律師とか法印とかいう僧侶の位階が出てきて分かりにくいかもしれないが、僧正(法印)←僧都(法眼)←律師(法橋)というふうに理解しておく。僧正は公卿相当、律師でも五位相当だそうである。童の口を借りて神が託宣する内容は、実際のところ、『太平記』の作者が自分の意見を言っているのであろうが(その後の内乱の展開を予見しているのは、事後予言だからである)、「蛮夷」は武士のことらしいが、天皇や僧侶たちのことまで批判しているのは『太平記』の作者の思想を示すものとして注目される。
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