小津安二郎と溝口健二

8月20日(日)曇り

 映画作家としての小津と溝口を比較して論じるなどという不遜な試みをしようというのではない。そもそも、両者の作品で私が見たことがあるのはごくわずかである。言いたいのは、溝口よりも小津のほうが私にとって身近だということ、たぶん現在の日本での映画にかかわる趣味は小津のほうに傾いていること、そのような傾向について自分が何をなすべきかということの3つである。

 まず、溝口よりも小津のほうが私にとって身近だということ。第一に、溝口が死んだのは昭和31年(1956)、私が小学生のころであり、小津は私が高校生の昭和38年(1963)に死んだから、小津と共有した時間のほうが長かったということがある。それから小津は主として松竹大船撮影所で活動しており、私は横浜に住んでいたから、空間的な距離も近かった。小津映画の常連の俳優であった笠智衆の息子さんは私の中学・高校の先輩であり、学校の校長自らが著書の中で、笠に頼んで、小津の『父ありき』のシナリオを手に入れた経緯を書いているくらいで、小津との距離は近かった。もう一つ付け加えれば、小津映画の音楽をよく担当していた斎藤高順は私の卒業した小学校の校歌の作曲者で、音楽の先生でもあった(私は教わったことはない)。

 溝口の生涯を追った新藤兼人の『ある映画監督の生涯』(1975、近代映協)を見て大変に感動した覚えがある。それに比べると、小津の生涯を追った『生きてはみたけれど』は平板である。ただ、その後、(小津の『東京物語』の助監督をしたことがあり、監督を経て作家になった)高橋治の『絢爛たる影絵 小津安二郎』を読んで、その内容のかなりの部分が『生きてはみたけれど』に使われていることに気付いた。高橋のこの本の方は読みごたえのある本である。つまり、溝口の生涯は映画によって、小津の生涯は本によってたどるほうがいいということになるのかもしれない。もちろん、映画を見なければ話は始まらないのだけれども、小津について書かれた本は高橋の著書だけではないので、これからも探しては読んでいこうと思う。

 さて、映画としてはあまり面白くない『生きてはみたけれど』で一つだけ記憶に残る場面がある。それは小津と親交のあった漫画家の横山隆一が登場する場面である。「小津さんは何にしても一流好みの人でしたからねぇ、飲みに行こうという誘いの使者に佐田啓二をよこすんですよ。一流のスターをですよ。」
 横山は「一流好み」のなせる技と発言しているが、むしろ、小津の「気配り」を読み取るべきであろう。横山の家は大家族である。若い(若くない)女性も少なくない。佐田啓二が玄関をくぐれば、喜ぶ人も必ずいるはずである。横山の奥さんだって夫を喜んで送り出したくなるのではないか。
 もちろん、横山は小津の人間的な温かさは知りぬいたうえで、その「一流好み」だけを強調したのであろう。彼が当時『毎日』に連載していた漫画『フクちゃん』の中で小津を追悼して見せたのは、単に彼と親しかったというだけのことからではあるまい。

 これが小津の一面である。しかし人間はだれしも多面的な存在である。小津や溝口のように個性の際立ったすぐれた人物となれば、その多面性も複雑できらびやかである。だからその一面だけを取り出して評価してしまうととんでもないことになる。高橋の書物を読めば(あるいは新藤の『ある映画監督の生涯』を見れば)、小津の(溝口の)多面性や、時に矛盾した部分をいやというほど知ることになるはずである。

 小津と溝口について3つのことを書くといって書き始めたが、今はどちらかというと小津の評価が高い時代であるということに取り掛かろうとして、その前に、小津と溝口の作家としての個性の違いについて考えていることを書きはじめたのだが、パソコンの調子が悪く、なかなか入力が進まない。どこがどのように違うのかということを、高橋の考えや、彼が大島渚から聞いた意見などを紹介しながら、書いてみたいのだが、それはまた次の機会に譲ろう。

 
 
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日記抄(8月13日~19日)

8月19日(土)晴れ後曇り後雨(時と所により雷雨)

 8月13日から本日までの間に経験したこと、考えたことなど:
8月13日
 昨日決勝戦が行われた女子サッカーのなでしこリーグ杯は日テレベレーザとINAC神戸の二強が敗れたので、千葉と浦和の対戦となり、劣勢だった千葉が最後に瀬戸口選手のゴールで1点をもぎ取って、初優勝を飾った。少しずつ、新しい風が吹いてきているようで、今後のなでしこリーグの動向が注目される。

 第949回のミニトト‐Bが当たる。賞金2千2百円余りであるが、当たらないよりも当たるほうがいいに決まっている。

8月14日
 『朝日』の「天声人語」欄に、<閑けさや岩にしみ入る蝉の声>という芭蕉の句で知られる山形県の立石寺の蝉をめぐり、アブラゼミだという斎藤茂吉とニイニイゼミだという小宮豊隆の論争が取り上げられていた。いろいろな理由でニイニイゼミだという結論となったのだが、斎藤の二男である北杜夫は昆虫学者になろうと思って、父親の反対で断念せざるを得なかったと『ドクトルマンボウ青春記』に書いている。あるいは、この論争で斎藤が負けたことが微妙に影響しているのかもしれない。

8月16日
 神保町シアターで「男優・森雅之」の特集上映から『白痴』(1951、松竹大船、黒澤明監督)を見る。ドストエフスキーの原作の舞台を北海道に移し替えた野心作。ドストエフスキーのような哲学的な小説はどうも苦手で、『罪と罰』にせよ『カラマーゾフの兄弟』にせよ、旧ソ連で映画化された作品は見ているが、原作は読んでいない(私の周囲の人間は、私が哲学的・思索的な人間だと思っている人が多いらしく、ドストエフスキーについてどう思うかなどと質問されることが多いが、実際は違うのである)。
 昭和20年代の北海道の風物が描かれているという点では貴重な作品だが、主題の展開という点ではちょっと無理が重なっているのではないかという気がする。ただ、久我美子の個性が北海道にはよく合っているのではないかという気がした。

 フローベール『感情教育 上』(岩波文庫)を読み終える。地方地主出身の青年フレデリックは七月王政のもと、本人がどう考えているかは別として、あまり意味のない青年時代を過ごす。いわば反教養小説である。翻訳者の生島遼一は私が学生だった頃の京大の教養部の先生であるが、直接の面識はない。この作品についてはいずれ機会を見て取り上げるつもりである。

 横浜FCはアウェーでカマタマーレ讃岐に0-1で敗れる。これでJ1昇格はかなり難しくなったが、希望を捨ててはいけない。

 女優の真理明美さんが8日、亡くなられたそうだ。映画監督の故・須川栄三の夫人でもあった。出演作では『野獣死すべし 復讐のメカニック』を見ている。きれいな女優さんだったが、出演作に恵まれなかったという感じがする。ご冥福を祈る。

8月17日
 神保町シアターで『安城家の舞踏会』(1947、松竹大船、吉村公三郎監督)を見る。チェーホフの『桜の園』をもとに、新藤兼人が脚本を書いている。原作では舞踏会の場面以外の人間模様も描かれているし、没落する地主の一家だけでなく、その使用人の様子がかなり細かく描かれているが、映画では使用人の人間模様は大部分が省かれ、すっきりと分かりやすい映画になっている(奥行きがないともいえる)。何よりも、『桜の園』はこれから何かが起こるかもしれないという予兆を描いている作品であるのに対し、こちらはすでに華族制度が廃止されてしまったという変化の後を描いている点が違う。『白痴』と合わせて、森雅之の芸の幅の広さを感じた。1965年の正月に新派の公演で森雅之の舞台に接したが、もう50年も昔のことである。小津がサイレント時代に撮影した『非常線の女』に出演していた逢初夢子が安城家の姉娘を、原節子が妹娘を演じている。その一方で、津島恵子がクレジット・タイトルに「新人」と紹介されているなど配役の点でも新旧の転換期であったことがうかがわれる。その津島恵子がすでに故人になっていることなど、時間の推移の無常も感じたのであった。
 現在、広く読まれている『桜の園』の翻訳者である小野理子先生は、すでに故人になられたが、大学でロシア語を教えていただいた先生である(断わっておくが、私はロシア語はできない)。『桜の園』は湯浅芳子訳で読んだことがあるのだが、改めて小野先生の役で読み直してみようかと思う。

8月18日
 横浜FCは広島からDF川端裕太選手を期限付き移籍で獲得したと発表した。横浜FCの泉ジュニア・ユースにいたことのある選手である。

8月19日
 神保町シアターで『秋津温泉』(1962、松竹大船、吉田喜重監督)を見る。開映1時間ほど前に映画館に到着したが、整理番号は65番であった(実は、札止めになった場合には、イメージフォーラムで『日曜日の散歩者』をみようと思っていたのである)。岡田茉莉子の映画出演100本記念作品として、彼女自身が企画し、吉田喜重監督と初めてコンビを組んで制作した作品である。戦争末期に岡山県の山間にある秋津温泉で知り合った男女(長門裕之と岡田)が戦後17年の歳月が流れる中、思い出したように逢瀬を重ねる。時代に流されている男と、変わらぬ真情を抱き裏切られる女。2人が会うのは不思議に、桜の花が咲くころである。これは2人の運命を暗示するようでもあり、映像の美しさを狙ってのことのようにも思われる。岡田茉莉子は童顔だし、当時は17歳と34歳のどちらも演じることのできる年齢だったから、この一作に魂を込めるというような演技を見せている。岡田の相手役は少し年上の男優が多いのだが、この作品では長門裕之が相手役で、彼女と年齢が近い分、弱点の多い、そのことがかえって魅力になるような男性をよく表現している。

 雷雨で多摩川花火大会は中止。首都圏の一部で電車のダイヤが乱れる。三ツ沢ではYSCCの試合が行われていたが、選手も観客もたいへんだったろうと思う。

 上智大学名誉教授でシェイクスピアの研究家として知られるピーター・ミルワード師が亡くなられた。昔、ある大学で英語を教えていた時に、ミルワードさんの自伝的な文章を教科書に使ったことがある。ご冥福を祈る。

 今週は、NHKラジオの語学番組がお休み(再放送)であったので、時間を気にせずに映画を見て回ることができたが、映画史に残るような作品を集中的にみることになって、消化不良を起こしているようなところがある。それにもっと本を読まなければ…。

亀田俊和『観応の擾乱』(3)

8月18日(金)曇り一時小雨、午後になって晴れ間が広がる

 観応の擾乱は、室町幕府初代将軍足利尊氏とその執事高師直が、尊氏の弟で幕政を主導していた足利忠義と対立し、初期幕府が分裂して戦った全国規模の騒乱である。
 鎌倉幕府の体制を大部分踏襲していた(建武政権の影響も多少はみられるが)室町幕府の体制が変化し、この幕府独自の権力構造が生み出される契機となったのがこの戦乱であり、室町幕府にとって、観応の擾乱が持つ政治史的・制度史的な意義は極めて大きい。
 この戦乱を理解する前提として、初期室町幕府の体制や歴史を理解することが必要である。この書物の第1章『初期室町幕府の体制』では、幕府の大部分の権限を直義が行使し、尊氏は恩賞充行と守護職補任の2つの権限だけしか行使しなかったことを述べる。その一方で、それが尊氏と直義の「二頭政治」であったという佐藤進一の説(→通説)を、幕府初期の両者の権限の分担の実情に即して批判し、両者の政治機能の分担について新しい見方を提案している。
 第1章の2「創造と保全――将軍足利尊氏と三条殿直義の政治機能の分担」は佐藤進一の説を批判し、新しい見方を提案する箇所である。

 佐藤進一の二頭政治論は、単純に尊氏と直義が権限を分割していたとするのではなく、両者の権限には質的な差異があったと考えるものである。佐藤によると、尊氏の権限は武士を家来としてしたがえる武家の棟梁の機能であり、主従制的支配権と呼ぶことができる。これに対し直義の権限は、全国を統治する政務の統括者としての機能であり、統治権的支配権と呼ぶことができるという。言い換えると、主従制的支配権は人を支配する機能であり、統治権的支配権は領域を支配する機能である。
 逆に、尊氏の恩賞充行も統治権の要素を十分に含むという問題がある。少なくとも理論的には、所領安堵と同様に領域を支配する権限である。「何より、軍勢催促状と感状を直義が一元的に発給し、侍所まで管轄していることは看過できない。こうした軍事や警察の権限は、武家の棟梁の行為そのものなのではないか。」(11ページ)

 しかし、この主従制的支配権と統治権的支配権の定義は、室町幕府初期における尊氏と直義の実際に行使した権限に即して検討すると、必ずしも当てはまるものではない。例えば、武士の土地領有を承認する所領安堵は、主従関係を構築する機能ともみなせる。確かに、研究の蓄積と複雑な議論の結果、所領安堵は現在では一応統治権的支配権に属すると理解されているが、それでも、所領安堵に主従制的要素が存在することを”完全に”否定することは困難である。

 すでに述べたように、尊氏は直義に政務をほぼ全面的に譲り、ほとんど介入することはしなかったと『梅松論』には記されている。〔実務には携わりたくないので、権限を譲ったふりをして、結果だけは思い通りになるように口出しばかりするという人間が多いことを痛感してきたので、尊氏の態度はきわめて立派だと思う.〕 とはいうものの、「なぜ尊氏は直義に政務の大半を委譲しながらも、一部の権限を依然保持したのであろうか。また、それが恩賞充行・守護職補任であった理由は何だったのだろうか」(12ページ)という問題は残る。

 尊氏が行政機能の一部を保持した理由については、やはり南朝との戦争が継続している状況が大きかったと考えられる。充行・安堵・裁許などの膨大な業務を直義一人ですべてこなすのは不可能であった。それとともに、このような「権限分割」が建武政権が試みた「実験」を参考にしているとも考えられるという。建武政権は初期においてはすべての命令を後醍醐天皇の綸旨によって伝達していたが、後期になると、武士に対する所領安堵の権限は、天皇から雑訴決断所に移行した。さらに決断所はそれ以外にも、刑事訴訟や動産訴訟なども行うことになった。講師t後期の建武政権の体制は、初期室町幕府の体制と酷似している。すなわち、後醍醐≒尊氏、雑訴決断所=直義と見なせるというのである。「初期室町幕府の三条殿体制が、建武政権での試行錯誤を経て完成した権限分掌体制の影響を強く受けていたのは間違いない」(13ページ)と著者は論じている。

 それではなぜ、建武政権では後醍醐が恩賞充行を担当し、決断所がそれ以外のすべての権限を行使したのであろうか。後醍醐→尊氏が行使した恩賞充行権は、既存の所領秩序を変更し、新しい秩序を創造する機能と見なせる。つまり変革を担う役割である。一方、雑訴決断所→直義が行使した所領安堵や所務沙汰などの権限は、既存の所領秩序を維持する機能、言わば保全である。軍事指揮や警察活動も、保全の機能に含めることができる。さらに官途推挙や、祈願寺の指定、院宣一見状も多くは寺社・公家領の安堵であったから、保全に分類してよいのではないか。

 「創造と保全はすべての政治権力が必ず持つ要素である。味方からの広範な支持を必要とする新政権においては、創造の要素が特に重視される。他方、政権基盤が確立した政権では、保全の要素が重要となってくる。建武政権と初期室町幕府は、創造機能と保全機能がかなり明確に分離した政権だったのである。」(14ページ) これは議論としては面白いが、もう少し説明を要する議論であるように思われる。

 初期室町幕府はこのように建武政権の影響を強く受けていたが、その一方で、鎌倉幕府、特にその西国統治機関であった六波羅探題の体制を踏襲している性格も強く持っていた。特に、直義が行使した所領安堵や所務沙汰などの手続きは、鎌倉幕府の体制をそのまま継承している。評定・引付方などの諸機構も、鎌倉幕府の模倣である。寺社本所の権益擁護や伝統的な御家人体制の維持といった政策も共通している。
 全体として、やはり初期の室町幕府は先代鎌倉幕府の体制を模倣したものであり、室町幕府独自の政治構造が創出されるところまでは進んでいなかったと亀田さんは論じている。通説では、このような保守性は直義の性格と結びつけて考えられており、それに対して、尊氏と高師直は新しい秩序を創造しようとする個性の持ち主とされているのだが、亀田さんはもう少し制度的な側面の影響を重んじているようである。
 次回は、いよいよ、もう一人の重要人物、高師直について述べた個所を取り上げて論じることにする。 
 
 

ダンテ・アリギエリ『神曲 天国篇』(26-1)

8月17日(木)曇り

 ベアトリーチェに導かれて、天上の世界へと飛び立ったダンテは、月天、水星天、金星天、太陽天、火星天、木星天、土星天を歴訪し、それぞれで彼を迎えた魂と会話することによって、心の中の迷いを解き、自分の信仰を固め、自分が見聞きしたことを地上に戻って叙事詩として世に問うことを決意するようになる。至高天から土星天に降りている「ヤコブの階段」を上って、恒星天に達した彼はキリストとマリアの天国への凱旋を見、さらにペテロから3つの対神徳の中の「信仰」について、大ヤコブから「希望」についての試問を受け、それぞれの答えを賞賛される。すると第3の試問者となるはずの(福音書・黙示録の書き手とされる)ヨハネが現れ、先の2人の試問者に近づく。ダンテは(一時的に)視力を失う。

視力が失われたことで私が不安を感じていた間に、
その視力を消失させた燦然と光を発する炎から、
私の注意を引きつける言霊が発せられた、
(388ページ) 「炎」はヨハネの魂である。彼はダンテに次のように問いかける:
「・・・
・・・汝の魂はどこに
突き刺さっているのか。つけ加えるが、理解しておくがよい、
視覚は汝の中で見失われているだけで死んではおらぬことを。
(同上) ヨハネは、愛とは何かではなくて、彼が何を愛しているかから、その試問を始めている。そしてダンテの失明が、『新約』の「使徒言行録」に登場するイエスの弟子アナニアがサウロ(のちのパウロ)の失明をいやしたように、ベアトリーチェによって癒されうることを告げる。

ヨハネの言葉によって、失明が癒されると知り安心したダンテは、答えて言う:
・・・ 「その方のお気に召すままに、遅くとも早くとも
我が目が回復しますよう。私がそれ以来、常に燃え続けている
その火とともに彼女が入ってきた時、この目が扉となりました。

この宮廷を満足させる善こそが、
愛がかすかな、あるいは強い熱意をもって私に教授する
あらゆる書物のアルファでありオメガです」。
(389ページ) 自分の目を癒してくれるであろうベアトリーチェが、かつてその目を通じて彼の中に愛の炎を燃やしたと述べ、その愛がダンテに「教授する/あらゆる書物」つまりダンテにもたらす感情の「アルファ」(ギリシア文字の配列で最初の文字である)始まりから「オメガ」(ギリシア文字の配列で最後の文字である)終りまでは、、すべて、天国の「宮廷」である魂たちの集まりの心をも致す「善」すなわち神であるというのである。

 ヨハネはダンテの失明がベアトリーチェによって癒されると述べて、彼の恐怖を取り除いたのであるが、彼にさらに続けて話すように促した。
・・・「・・・汝はもっと目の細かい篩(ふるい)で
詳細を明らかにせねばならぬ。すなわち、誰が汝の弓を
そのような的に向けさせたのか言明する必要があるのだ」。
(390ページ) 愛についてもっと詳しく、また誰がダンテの愛を神に向けたのかを明らかにせよというのである。

 これに対してダンテは、「哲学的論証」つまり三段論法による証明と、「下界に降りている権威」聖書によって目を開かされると述べた後で、その三段論法を展開する。
 それは
大前提<善は人に理解されるとその善への愛を呼び覚ます。また、その善が完全であるほど愛も大きい>
小前提<あらゆる善はその輝きの反射光でしかないような、あらゆる善に超越した善、神がある>
結論<この証明を理解できる知性をもつ人は、その至高善へ、他の善に向けるよりも大きな愛を向ける>
というものであった。そして続けて、それをダンテに示したのはアリストテレスであると述べた。このようにアリストテレスを高く評価しているくせに、ダンテが彼の魂を地獄の第1圏である辺獄に置いているのは奇妙である。
顔を少し上げると、
私は見た、哲人たちの師が
知を愛する一族に囲まれ座っているのを。
(『地獄篇』第4歌、80ページ)

 また聖書については短く、『旧約聖書』の「出エジプト記」から「我はそなたにあらゆる善を見せよう」(ダンテによるイタリア語訳、翻訳者である原さんは33.19と章段を示しているが、ダンテはヒエロニムスによるラテン語訳を使っており、その章段は『新共同訳聖書』と同じものではないことに留意する必要がある)、『新約聖書』については
さらにあなたもまた、私へそれを平易に示されています、
他のすべての布告を上まわって、ここ天上の神秘を地上に轟かす
崇高な布告のはじまりで」。
(392ページ)と試問者であるヨハネ自身の著作(「ヨハネの福音書」、「ヨハネの黙示録」とする意見もある)が典拠であると答えた。

 するとヨハネはさらに踏み込み、ダンテに神の愛の存在について気づかせ、神に向かって踏み出すよう彼を導いた「他の紐」、あるいは愛の「歯」つまりダンテに起きた出来事はなにかとたずねた。
 ダンテは、神が世界を創造し、ダンテをも創造したこと、神が人の子となって現在を贖って死んだことにより彼も天国に行けるようになったこと、死後の至福である天国の存在がダンテに神の愛の存在について気づかせ、「歪んだ愛の海」である罪ある生から救ってくれたと答えた。そして
永遠の農夫が所有する農園のすみずみまで
生い茂る葉を、彼がそれにお与えになった
善に見合うだけ私は愛します」。
(394ページ)と付け加える。「永遠の農夫」は神、「生い茂る葉」は地上の境界「農園」に属するすべての人々をさす。教会に属する人類同胞を、各々がもっている善に比例して愛するというのである。

 ダンテが答え終わると、彼を祝福してベアトリーチェと天国の魂たちは「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな」(聖歌「サンクトゥス」にも使われている)と歌った。これで3つの対神徳(信仰、希望、愛)についての試問は終わったのだが、この後ダンテはいま一人の魂に出会うことになる。それはまた次回。

久野収 鶴見俊輔『現代日本の思想――その五つの渦――』(4)

8月16日(水)雨が降ったりやんだり

 この書物は「五つの渦」の最初のものとして、<白樺派>の思想(運動)を取り上げている。この思想(集団)は明治の末に『白樺』という雑誌を発行して以来、大正・昭和を通じてそのよりどころとなる雑誌は変わったものの、運動としてのまとまりをもちつづけ、活動を継続してきている。著者(ここでは鶴見)は、<白樺派>の人々が、「宇宙の意志が、人間の幸福を計ってくれるという信仰をもつ」(4ページ)と指摘している。そしてこの派の代表的な人物の1人である志賀直哉の小説『暗夜行路』の一節を引用しながら、「宇宙の意志と自分の意志との調和を、実感によって知る。この実感が認識方法の根本になっている点こそは、日本に土着の観念論としての、白樺派の特色である」(5ページ)と言い切る。
 「宇宙の意志があるという世界観、その宇宙の意志を実感によって感じとるという認識論、宇宙の意志に沿うて事故を生かすことだけを考えればよいのだという倫理、したがっていろいろな宗教の道すじができるので、どれにたいしても敬意と親しみをもつのがよいという寛容な宗教観、それらが白樺派の哲学の背骨である」(8ページ)という。

 では、そのような哲学に基づいて、<白樺派>の人々はどんな仕事をしたのか。著者は<白樺派>について「実りの多い観念論」という特徴づけをした。「観念論といえば、それだけでもう完全に実りなき思想ときめてしまう分類法を訂正することが、この本の一つの眼目だからだ」(8ページ)という。この書物が書かれたころ、そしてそれからだいぶたってからでも観念論(×)、唯物論(○)という単純な二分法を振り回す連中が少なくなかった。私自身もそういう考えに囚われていた時代があったのだが、それから抜け出してしばらく経ってのこと、依然として唯物論(○)と考えていた知人が、川端康成が自殺した際に、「それ見ろ、観念論者は自殺するのだ」とわたしに向かっていったのを覚えている。この発言にどれだけ論理の飛躍が含まれているか(川端康成は哲学的に見て観念論者なのか? 観念論者は自殺するという必然的な理由があるのか? 自殺するのは思想的な破たんの結果なのか? それは道徳的に嫌悪されるべきことなのか?…)をご本人が真剣に考える間もなく、病死してしまったのは彼のために誠に惜しまれることである。

 「白樺派の実りの第一は、お互いの成長を助けるグループをつくることに成功したことである。このことは、近代の日本の歴史にめずらしい」(8ページ)。これは既に繰り返されてきたことであるが、鶴見自身が、『思想の科学』のグループの一員であっただけに、そのグループを持続させようという一念から、<白樺派>に特別に関心を向けたことは容易に推測できる。「このことは、近代の日本の歴史に珍しい。大正、昭和の数多くの同人雑誌のグループは、たがいに傷つけあい、最後は、売り出したものの分派と売り出し得なかった分派とにわれておわるのがつねであった」(8ページ)という。
 理想と向上心とに燃えるグループにおいては厳しい相互批判がかわされることが少なくない。惟は戦後の話になるが、谷沢永一が開高健らと発行していた同人誌『鉛筆』において、合評会は盛んになったが、同人が批判を恐れて萎縮してしまい、創作活動が沈滞して結局休刊(廃刊)のやむなきに至ったと回想し、適当な仲間ぼめの必要性を説いているのは説得力に富む。同人といっても赤の他人である。彼らがその後、参加した同人雑誌『文学室』では議論はほとんどおきなかった代わりに、けっこう創作活動は進んだという。『白樺』の成功は、同人の大部分が学習院という特権的な学校の卒業者であり、恵まれた境遇にあったので、夫々の文学館や生活観をとげとげしくぶつけ合うようなことをしなかったということがあるだろう。環境が似ていることは相互理解のための有利な条件である。
 戦後に発足した『近代文学』の特に第一次の同人など長くその結合を保ち、お互いの成長を助けるグループをつくることに成功した例はないわけではない。彼らの場合には、戦争や左翼運動からの「転向」などをめぐって共有できる経験と感情があったことが大きいのではないか(同人を無原則的に拡大したため異質な分子が入り込んで文学運動としての純粋性が乱れたというその後の経緯もある)。
 海外に目を向ければ、英国のブルームズベリー・グループのような例もある。エドワード・モーガン・フォスターやリットン・ストレーチーらの文学者をはじめ、経済学者のケインズや哲学者のラッセルを含んで、先行するヴィクトリア時代の文化や精神を批判したこのグループの場合は、メンバーがケンブリッジ大学の卒業生であること、先輩である批評家のレスリー・スティーヴンのもとに集まったというような集合の核が合った(スティーヴンの2人の美しい娘、ヴァネッサ・ベルとヴァージニア・ウルフがお目当てで集まっていたという説もある)。<白樺派>のグループが長く続いたのは、経験とそこから生じた勘定の共有、更にそこから生まれたお互いを尊重する気持ちが続いたからであろうが、それがなぜかに踏み込むのは難しいらしく、あまり具体的な考察は展開されていない。

 川端康成の名前を出したが、この本のⅢ「日本のプラグマティズム――生活綴り方運動」には、明治末年の唯美主義者、芸術至上主義者であった鈴木三重吉、永井荷風、木下杢太郎、谷崎潤一郎らが芸術についての潔癖性を保つことで、「ある一線以上に政治に屈服することなく生きた」(81ページ)ことを、川端の属した<新感覚派>を含む昭和の芸術至上主義者と対比させている箇所がある。

 自宅のパソコンの調子が悪く、外の機械を借りて、どうやら入力を完成させている状態である。そろそろ買い替えを考えているのだが、いまひとつきっかけがつかめない。

司馬遼太郎『街道をゆく2 韓のくに紀行』(3)

8月15日(火)雨が降ったりやんだり

 1971年に司馬さんは韓国を訪れる。大阪で生まれ育ち、子どものころから朝鮮人とその文化(遺産)に接してきたために、韓国(朝鮮)は強い興味を抱き続けた国である。さらに、終戦直前に、戦車隊の小隊長として、この国を鉄道で通過した記憶もある。
 5月15日に伊丹空港を出発して、空路釜山に向かい、そこでガイドの任(イム)さんに迎えられる。彼女は有能な女性であるが、司馬さんが選んだ旅先が異例のものばかりなので、大いに当惑している。近世に対馬藩が築いていたという倭館の痕跡を見るのが目的の一つであったが、壬辰倭乱(秀吉の朝鮮の陣)の際に毛利秀元が築いた城の後(倭城)に案内される。城跡は一時動物園になっていたのだが、今はそれも廃園になっている。釜山の街を歩いていると見覚えのある通りがあり、どうも戦車隊の小隊長だった時に通った道路のようである。方向音痴の司馬さんは他の戦車にはぐれて、通行人に道をききながら目的地に達したために、上官から文句を言われた記憶もよみがえる。

 司馬さんが李舜臣(イ・スンシン)の銅像を見たいというので、任さんは竜頭山(ヨンドウサン)公園へと案内する。李舜臣は壬辰倭乱の際に朝鮮の水軍を率いて日本と戦い、「物理的には八割方の制海権を確立して、全般の戦局に重大な影響を与えた人物である」(52ページ)。「李朝500年の間、韓国官界の大官というのはいわばろくでもない連中が多い。が、武科出身の武臣ながら、李舜臣ばかりはきわだって高雅清潔で、しかも死に至るまでこの民族の大難のために挺身し、さらにその業績をみても文章を読んでもその功を少しも誇るところがない」(同上)。家人は韓流の時代劇が好きでよくお付き合いさせられて見たものであるが、確かに朝鮮時代の官僚というのはろくでもない連中が多かったというのはよくわかる(それに比べると、在野の学者の方にましなのが多いという印象もある)。

 日本人は昔から水戦が不得意で、その代わり陸上に上がると、その強さは明や朝鮮側の手に負えなかった。朝鮮の役における豊臣軍も同様であった。戦争の初めのころ、朝鮮の水軍は実に弱かった。このため、この大難に対処するには李舜臣の出馬を請うしかないと考えた元均という将軍が数度使いを出したが、朝鮮の官界の複雑な事情を知っている李舜臣はなかなか首を縦に振らなかった。しかし、国難ということでついに立ち上がり、艦隊を率いてさまざまに作戦し、玉浦(オクポ)の海戦で藤堂高虎の水軍を覆滅した。
 引き続き釜山付近の唐浦(タンポ)の海戦でも勝利を収めたが、玉浦でも唐浦でも彼は被弾して軽傷を負っている――ということは、自ら先頭に立って指揮したのであろうと司馬さんは推測する。ところが、その後、別に功を賞せられることなく、牢に入れられてしまう。「まことに李朝の官界というのは苛烈で反目嫉視が多く、やることがじつにめめしい。」(54ページ)
 再度の役(日本でいう慶長の役)の時には李舜臣は牢にいた。朝鮮の水軍が瞬くうちに惨敗したために、彼は牢から出されて戦うことになる。明からは陳璘という男が大規模な水軍を率いて応援にやってきていたが、舜臣はこの男と対立せず、「戦功はみなあなたの名前にしますから、指揮は私にゆだねてほしい」と申し入れた。舜臣の力を知っていた陳璘は喜んでこの取引に応じ、自分の明艦隊も李舜臣の指揮下にゆだねた。これによって李舜臣は露梁津(ノリャンジン)の海戦を戦い、大いに日本水軍を破ったが、戦闘中に、銃弾によって左脇を射抜かれ、戦死した。

 「明治後、海軍を創設してまだ自信のなかったころの日本海軍は、東洋が出した唯一の海の名将として李舜臣が存在することに気づき、これを研究し、これを研究し、元来が敵将であった彼を大いに尊敬した。」(55ページ) 司馬さんはその一例として、日本海海戦の際に李舜臣将軍の霊に祈ったという川田功という少佐の文章を引用している。
 むろん、韓国が独立してから、民族的英雄として李舜臣が大きくとりあげられ、ソウルにも釜山にも銅像が建てられた。「帰国してから調べていると、うかつなことにこの竜頭山はなんと対馬藩の倭館の構内だったことを知った。李舜臣の銅像がそびえている場所に、対馬藩が屋敷神としてたてた金比羅宮があったようで、それはむろんいまはないが、金比羅権現もインド渡来の海の守護神であることをおもえば、縁がないことでもない」(56ページ)。

 舜臣の「舜」というのは堯舜と併称される中国古代の伝説的な帝王の治世に生まれて、その家来になりたかったという思いのこもった名前であるというようなことを、亡くなった作家の陳舜臣さんが書かれていた。陳さんが韓国の人と話していると、あなたの名前は我が国の李舜臣と同じですねとよく言われたそうである。(実は私も、中国の人と話していると、中国の偉い人と同じ名前だといわれることがある。漢字文化圏に共通する名前というのもあるのである。)

 むかし、同僚のちゃんぽんさんと(佐世保出身だったので、バーガーさんとでも呼んでおけばいいかなとも思ったのだが、漢字の歴史を研究している人なので、ちゃんぽんさんと呼んでおく)話していて、私が「景徳鎮からの贈りもの」など陳舜臣さんの小説を読んでいると話したら、ぼくは司馬遼太郎の方が好きですねと言われたのを思い出した。陳さんも司馬さんも同じ学校(大阪外事専門学校=現在の大阪大学外国語学部)の出身なのである。その後、私が転勤したので、音信が途絶えてしまったのだが、別の元同僚からの便りで、彼が急死したことを知ったのが数年前の話である。『街道をゆく』を読み進みながら、司馬さんの愛読者だったちゃんぽんさんのことを思い出し、もう少し、仕事とは関係のない読書の話もしておけばよかったなと思いながら、ちゃんぽんさんの冥福を祈っているのである。

『太平記』(171)

8月14日(月)雨が降ったりやんだり

 建武3年(南朝延元元年、1336)6月初旬に都を奪回した足利方は、後醍醐天皇方の武士たちが立て籠もる比叡山に攻め寄せた。にらみ合いが長引くと、北陸、東北地方から宮方に加勢する大軍が到着する恐れがあるので、早めに攻め滅ぼそうとの意図からである。大手の軍勢は琵琶湖の湖岸に兵を進め、搦め手の軍勢は比叡山を西から昇って押し寄せた。主だった武将は東の方面を固めていると見た足利方は、西の方面から攻勢をかけるように連絡し、高師久の率いる軍勢が西から攻勢をかけ、後醍醐天皇の寵臣であった千種忠顕が戦死した。足利方は比叡山の主峰である大比叡のあたりまで攻め寄せた。

 ここに足利方の数十万の軍勢の中から備後の国の住人、江田源八泰武と名乗る武士が現われ、洗皮の大鎧(あらいがわ=鹿のなめし皮で縅した大鎧、略式の胴丸・腹巻などに対して正式の鎧)に五枚甲(錣=しころ、鉢から垂らす首おおいの板が五段からなる兜)の緒をしめ、4尺6寸の太刀に血をつけて、まっしぐらに打ってかかる。これを見て杉本の山神大夫定範という悪僧が、黒糸で縅した鎧に、竜頭の細工を正面の飾りとして付けた兜をかぶって、大きな臑(すね)あてをして3尺8寸の長刀を両手でしっかり握り、激しい足づかいをして、他人を交えずに立ち向かう。(互いに物々しいいでたちをしているだけあって、なみなみならない武勇の持ち主ではあったが)源八は長い間坂を上り、これまで何度も敵と切り結んできたので、腕の動きも鈍り気力も失われていたのであろうか、ややもすると受け太刀になっていったのを、定範はしてやったりと、長刀の柄をとり延べて、源八の兜の鉢を割れよ砕けよと、重ねうちに打った。源八は兜の吹き替えしを目の上まで切り下げられて、兜をかぶりなおそうと顔を上げたところに、定範が長刀を投げ捨て、走りかかってむずと組む。2人が力を込めて踏んだ足に押されて、山の斜面の土が崩れ、二人ともそこで踏ん張ることができず、組み合いながら、山腹を覆う笹薮の中を上になり下になり転げ落ちていったが、途中から離れ離れになって、それぞれ別の方角の谷底へと落ちていった。

 このほかの僧兵たちや、一般の僧侶までもが袈裟の袖を結んで肩にかけた動きやすいいでたちで、武器を手にして向かってくる敵に走りかかり、命を塵よりも軽いものとする勇敢さで防戦に努めたので、足利方の軍勢は数では勝っていたのに進みかねて、四明岳から雲母坂への降り口のあたりで、上を見上げて、一息休めて待機していた。〔防戦する比叡山の僧侶たちは必死であるが、寄せ手の足利方はあまりやる気がない。よく見られるパターンがここでもみられる。江田源八がそうだったように、足利軍は重い武具を身につけて山を登ってきたうえに、戦闘を重ねてきたので、疲れているということもある。〕

 この間、大講堂の鐘を鳴らして事態が急であることを知らせたので、横川(よかわ)の西の篠(ささ)峰の防御を固めようと前日に横川に向かっていた宇都宮勢の500余騎が、全速力で西谷口に駆け付けてきた。皇居を守護して東坂本に陣を構えていた新田義貞が、6千余騎を率いて四明の上に駆け上り、宇都宮配下の紀氏・清原氏の2つの党の武士団を進ませ、新田一族の江田、大館を魚鱗(先頭を細くして敵陣を突破する魚の鱗型)の陣形で四明岳の上から下へ一気に攻め立てたので、寄せ手の20万騎の兵は、水飲(雲母坂の中途にあった比叡山に登る人のために湯水を提供した場所)の南北の谷へ追い落とされて、人馬ともに重なり落ち、深い谷が死者で埋まって平地になるほどであった(これは誇張であろう)。

 寄せ手は、この日の合戦に、大手の軍勢から言ってきたように簡単に勝つどころか、負けて押し戻されてしまったので、目算が狂い、水飲からさらに下がったところに陣を取って、敵の隙を窺った。義貞は、東坂本よりも、西坂の方が大事だと考えて、比叡山の主峰である大比叡に陣を取り、終日戦い続けたので、両軍ともに自陣を破られず、西坂の合戦は、にらみ合いのまま休止状態となった。

 その翌日(6月7日)、西坂の戦いが思うように展開しなかったので、高師久は大津の大手の軍勢に向けて使者を出し、「敵の主だった武将たちは、皆大比叡に向かった様子です。急いで大手の合戦を始められて、東坂本を攻め破り、神社、仏閣、僧房、民家に至るまで、一軒残らず焼き払い、敵を山上に追い上げ、東塔と西塔(延暦寺は東塔・西塔・横川の3つの部分からなる)の両塔の間に攻め上って狼煙を上げられれば、大比叡に陣を貼っている敵も心乱れて、進退窮まり必ずや取り乱すだろうと思われます。そのとき、西坂より同じように攻め上るので、(お互いに力を合わせて)戦いの雌雄を一挙に決めましょう」と申し送った。
 足利一族の吉良、石塔、仁木、細川の人々は、これを聴いて、「昨日は既に、大手の勧めによって、搦め手の高家の一族が、烈しく攻め寄せた。今日はまた、搦め手の方からこの陣の合戦を勧められるのは当然のことだろう。黙って捨ておくべきではない」ということで、18万騎を三方面に分けて、他の中の道、湖岸の道、山際の道から、敵が夕日を受けて戦うようにしようと考えて、東坂の方面に攻め寄せた。(西の方に回り込んだということであろうと思われる。)

 義貞は自分の弟の脇屋義助を大将として東坂本の城に残していた。義助は東国、西国の強い弓の射手と、弓矢の名手を選び出して、土狭間(土塀にあけた矢を射る小窓)、櫓の上に配置し、土居、得能、仁科氏重、春日部時賢、名和長年以下の四国、北陸地方の勇猛な武士たちを2万余騎、比叡山の東の斜面の無動寺南の白鳥山のあたりに置き、水軍に慣れた地方の兵たちに、琵琶湖岸の和仁(大津市和邇)、堅田(大津市堅田)の住民たちをつけて5千余人を兵船700余艘に掻楯を付けて防備を固めたのを、琵琶湖の水面に浮かべた。
 これを見た足利方は、敵の構えが厳しくて、簡単には近づけないとは思ったものの、戦わなければ敵が退くわけがないということで、三方の寄せ手18万余騎が、敵の城砦に近づいて鬨の声を上げれば、城中の軍勢6万余騎も城の塀にあけられた狭間の板を叩いて、負けじと鬨の声を上げる。「大地もこれがために裂(わ)れ、太山もこの時に崩れやすらんとおびただし」(第3分冊、121ページ)と依然として大げさな表現を続けている。

 寄せ手はすでに東坂本の城の堀の前まで楯を差しかざして押し寄せ、雑草を引き抜いてそれで堀を埋めようとし、さらに枯れ草を積み上げて城の櫓を焼き落とそうとした。すると、城の側では300余個所の櫓、土狭間、出塀(だしべい=射撃や物見のために、城の塀の一部を外に突き出したもの)の中から、矢を雨が降るように射かけた。選びすぐった射手ぞろいなので、無駄な矢は一本もなく、寄せ手は楯の端や旗の下に矢にあたって倒れるものが多く、生死の境をさまようものが3千人を超えた。あまりにおオックのものが射殺されたので、携帯用の楯の陰に隠れて、少し浮足立ち始めた。そこを見澄まして、城の中から新田一族の脇屋、堀口、江田、大館の人々が6千余騎、3つの木戸を開かせて、一気に敵の中にかけ入る。
 白鳥山に配置されていた土居、得能、仁科、名和の勢の中から2千余騎が駆け下って、足利勢を横合いから攻め立てる。琵琶湖に浮かんでいた諸国の塀を載せた舟が、唐崎の有名な一本松のあたりに漕ぎ寄せ、差矢(さしや=矢継ぎ早に射る矢) や遠矢を絶えず、矢種を惜しまず射かけてくる。
 数の上で勝る足利方であるが、山と湖の両方から横矢を射かけられ、敵の軍勢の勢いにのまれて、敵わないと思ったのであろうか、また元の陣に引き返した。

 その後は、毎日兵を出して、矢軍(やいくさ)は仕掛けるものの(合戦を始めるという合図はするものの)、寄せ手は遠巻きに構えて近づこうとせず、宮方の兵は城を落とされないことをもって勝利と考えて、これといった合戦は行わないまま、時が過ぎていった。

 西坂の防備が手薄とみて、搦め手から攻勢をかけた足利方であったが、比叡山側の必死の守りと新田義貞の迅速な対応で所期の戦果を挙げることはできなかった。そこで大手から攻勢をかけるが、脇屋義助がしっかりとした防御態勢を築いていたためにこれまた失敗して、戦いは長期化する様相を見せてきた。義貞・義助兄弟の名将ぶりと、宮方の武士の勇敢さが、数において優勢な足利方を退けている。このまま、東北地方と北陸の武士たちを糾合して北畠顕家が救援に駆け付ければ、反攻の可能性も生まれようというものである。(こうなってくると、楠正成の献策を受け入れずに、彼を湊川で戦死させたのが惜しまれるところである。) 足利方は、長期戦になると裏切り者や、脱落者を出すおそれがある一方で、敵の消耗を待つことで戦局を有利に導くことができるかもしれない。両者ともに危ない橋を渡っている。膠着状態に陥りかけている戦局は、今後、どのように動いていくのか。

ヘーゲル『歴史哲学講義』

8月13日(日)曇り

 19世紀ドイツの哲学者であるG.W.F.ヘーゲルの『歴史哲学講義』(Vorlesungen über die Philosophie der Geschichte)の長谷川博さんによる翻訳(岩波文庫)を手掛かりに歴史について考えていることを書き連ねていこうと思う。ヘーゲルの歴史観はいかにも観念論哲学者らしく、理性が世界史を支配し続け、自由を実現していく過程であるというものである。私はそんなことを信じてはいないが、自分で勝手に歴史について書き散らすよりも、体系としてまとめられた歴史論を論評するという形で議論を進めたほうが自分の考えをまとめやすいと思い、あえてこの本に取り組んでみる次第である。それにこの本は、ヘーゲルが大学で学生を相手に講義した内容をまとめたものなので、わかりやすく書かれており、さらに翻訳者もこのことを理解してかなりわかりやすい日本語に移し替えている。

序論
 序論は歴史的についてのヘーゲルのとらえ方と、これから展開される内容の予告を述べている部分であり、A「歴史のとらえ方」、B「歴史における理性とはなにか」、C「世界史のあゆみ」、D「世界史の地理的基礎」、E「世界史の時代区分」という5つの分から構成されている。

A 歴史のとらえかた
 初めに講義の狙いが、哲学的な世界史、つまり世界史そのものを対象とする哲学であるとかたられる。哲学的な世界史のとらえかたとはどういうものかを知るためには、そうではない世界史との比較対象が必要だというところから議論が始まる。
 歴史の見方には一般に以下の3種類の方法があるという。
 (a) 事実そのままの歴史
 (b) 反省を加えた歴史
 (c) 哲学的な歴史

(a) 事実そのままの歴史
 <事実そのままの歴史>というのは、記者が、「自分たちが目のあたりにし、自分たちがその同じ精神を共有できる行為や事件や時代状況を記述し、もって外界の事実を精神の王国へとうつしかえた」(11ページ)歴史であるという。ご本人はわかっているつもりなのかもしれないが、どうもわかりにくい。これを「歴史的記録」たとえば、日記や手記のようなものと考えればわかりやすく、ヘーゲルがそう考えている節も見受けられるが、そうでもないようなことも書いていて、はっきりしない。

 このような歴史の例として、ヘーゲルはヘロドトスや、トゥキュディデスの例を挙げているのだが、彼らの歴史はむしろ、ヘーゲルの分類でいう「反省を加えた歴史」に属するのではないか。ヘロドトスはその『歴史』の初めのところで、ペルシャ戦争がなぜ起きたかの原因を調べたのがこの書物であるというようなことを書いている。ただ、彼が自分で旅行して調べた部分については歴史的な事実と考えて差し支えないが、旅行中に伝聞した伝承や説話には信頼のおけないものが少なからずあるというのが一般的な評価である。そういうことも考えると、ヘーゲルがヘロドトスの歴史を<事実そのままの歴史>に分類したのは、かなり乱暴に思われる。
 次にトゥキュディデスの場合であるが、彼はアテナイとスパルタの間のペロポネソス戦争が起きた時に、これは重大な事件で、恒星また同じようなことが起きた場合に(歴史は繰り返す)、参考になるようにとその詳しい記録を残そうとした。同時代の記録という意味では、確かにヘーゲルの言うような<事実そのままの歴史>といえるのかもしれないが、後世の参考になるようにという姿勢はむしろ、<反省を加えた歴史>の方に属するのではないか。

 トゥキュディデスについて考える時に、凄いなぁと思ってしまうのは、彼がペロポネソス戦争が重大な出来事だと認識したことである。彼の同時代に大勢の人々がいて、戦争の時代を過ごしていたのだけれども、その記録を残そうとした人はほかにどれだけいたのだろうか。私自身の人生をふりかえっていると、いちばん大きな出来事というのは、おそらく、高等教育の大衆化(さらにはユニバーサル化)ということで、自分自身がその間、一時は学生として、また大学・短大の教師としてそれにかかわっていたのだけれども、事態を一向に重大なものだと考えてこなかったように思う。それが重大なことだと思うようになったのはごく最近のことである。

 それから、もう一つ考えていいのは、日本における歴史記述の推移を辿ってみると、<六国史>があり、その後、貴族や寺社の「日記」が一方で、もう一方で「鏡物」などの歴史物語が現われている。正史の方が先に来て、私的な記述の方が後から発生しているというのは、どういうことか考えてみる必要がありそうである。

 以上、書いてきたことから、ヘーゲルの議論は歴史を門外漢の目で見ている議論で、ヨーロッパ中心に偏った見方をしており、具体性を欠く部分も少なくないのだが、それでも歴史とは何かを考える上での手掛かりとしてはなかなか役に立つものであることがわかると思う。これから、ゆっくり、のんびりと彼の議論を辿っていくつもりなので、お付き合いのほどをよろしくお願いしたい。

 このブログを始めてから、読者の皆さんからいただいた拍手が25,000を越えました。お礼申し上げるとともに、今後ともご愛読のほどをよろしくお願いします。

日記抄(8月6日~12日)

8月12日(土)午前中曇り時々小雨、午後になって晴れ間が広がる

 8月6日から本日までの間に経験したこと、考えたことなど:
8月6日
 広島に原爆が投下されて72年。広島で被爆した子どもたちの文集『原爆の子』を原作とした関川秀雄監督の『ひろしま』(1953)二女教師役で出演された月丘夢路さんが今年亡くなられたが、月丘さんは宝塚時代に先輩であった園井恵子と『南十字星』という映画で共演している。稲垣浩監督の『無法松の一生』で吉岡夫人を演じたことで映画史に名を残した園井は、戦争中、丸山定夫率いるさくら隊に属し、各地を巡演中に広島で被爆して、その後間もなく死去した。月丘さんが園井の思い出を語っている記録があれば目を通してみたいと思う。『ひろしま』と競作の形になった『原爆の子』を監督した新藤兼人さんが『さくら隊散る』という映画を作っていることも記憶されてよい。

 関内駅の近くのミュージック・ステージ・イライザで別府葉子トリオのライヴを聴く。イライザというのはミュージカル『マイ・フェア・レディ』のヒロインの花売り娘の名であるが、前売り券を買った際にそのことを忘れていたのは不覚であった。そうでなければもっと早く会場を見付けていたかもしれない。40年前に死んだ父が最後に勤めた会社が関内駅の近くに今もあるので、この一帯には多少の親近感はあるのだが、実際に歩いてみないとわからないことが多い。

8月7日
 NHKラジオ『まいにちフランス語』の「文化コーナー」ではバスティーユ広場を話題として取り上げていた。
La place de la Bastillle tire bien évidemment son nom de la forteresse et prison dont la prise, le quatorze juillet 1789, marque le début de la Révolution française.
(バスティーユ広場は、フランス革命の始まりの1789年7月14日に襲撃された場所、つまり城塞で牢獄だったバスティーユから名前が取られている。)
 広場には、現在、円柱が立っているが、これは1789年のバスティーユ襲撃の記念碑ではなく、1830年の7月革命の3日間の記念碑である。バスティーユ牢獄が取り壊された後、ナポレオンが記念碑を建てようとして、できたのは石膏の像で、ヴィクトル・ユゴーの小説『レ・ミゼラブル』で、少年ガヴローシュが寝床にする場所として描かれているそうである。
La construction de la colonne remonte à 1840.
(7月革命記念碑の建築は1840年に遡る。)
 私が現在読んでいるフローベールの『感情教育』の物語の発端が1840年で、間もなく1848年の革命が描かれている部分に差し掛かるはずである。
 「この広場はフランスでデモがある時に、その出発点になることもあり、歴史の重みを感じさせる場所です」(『まいにちフランス語』8月号、32ページ)と記されている。京都でメーデーなどの際に出発点になっていたのは二条城前の広場であったが、二条城は徳川慶喜が大政奉還を上表した場所である。私は、デモ中にそんな歴史を思い描いたことなど、一度もない。

 東海林さだお『猫大好き』(文春文庫)を読み終える。表題になっている「猫大好き」は「ぼくが小学生のころから現在に至るまで犬と猫とを切らしたことがない」(219ページ)という長い経験と観察に基づいて、ネコとイヌを対比したエッセーで、両者のしっぽの使い方の違いなど興味深い。「摘録 断定調日常」というのは永井荷風の『断腸亭日乗』のもじりだろうが、ご本家の文体の巧みな模倣などという芸を見せているわけではない。「東京駅で一日暮らす」は先日見た川端康成原作、川島雄三監督の映画『女であること』の中で、家出した久我美子が東京ステーションホテルに泊まっている場面を思い出させた。丸谷才一さんと川村二郎さんからエッセーをほめるはがきが同じ日に届いたので舞い上がっている「人生最高の幸せな一日」が収められている一方で、長嶋茂雄氏と松井秀喜氏の国民栄誉賞受賞の様子を細かく描く「国民栄誉賞イン東京ドーム」の冷徹な目の光り方にも著者の個性を認めることができる。

8月8日
 NHKラジオ『ワンポイント・ニュースで英会話』でミシェル・オバマ前大統領夫人が夫の在任中、公式の行事の場で自分の衣装には注目が集まったのに、大統領が8年間同じタキシードを着続けていたことには誰も気づかなかったと発言したという話題が取り上げられていた。トランプ大統領の場合には、どういうことになるだろうか。

8月9日
 NHK『ラジオ英会話』ではsibling rivalry (兄弟姉妹間のライバル意識)が話題になったが、"Today's Dialog in Another Situation!”で桃太郎の弟のいも次郎なる人物が登場した。栗次郎とか、柿三郎とかならば思いつくが、いも次郎というのは想像力の相当な飛躍がある。おとぎ話の時代の日本には、サツマイモもジャガイモもなくて、いもというと里芋がヤマノイモだったというのを知ってか、知らずか。

 同じく『実践ビジネス英語』では
Something like 80 million people around the world have roots in the Emerald Isle.
(世界各地にいるおよそ8千万人がエメラルド島(=アイルランド)にルーツがある)
という話が出てきた。現在、アイルランドに住んでいる人よりも、先祖がアイルランドから他の国に移住してきたという人の方が多いのである。

 神保町シアターで小津安二郎の『麦秋』を見る。鎌倉に住む7人家族が、ずっと独身だった長女の結婚を機に解体していく話。これぞ小津安二郎という映画作りもさることながら、昭和26年(1951)の作品なので、自分の子ども時代の思い出を重ね合わせてみてしまう。7人家族の味噌っかすの二男坊が私と同じ年か、1歳上ということになるらしい。女学校時代の仲良しグループの中で、ずっと独身のままの原節子と、淡島千景が私たち未婚だから「ねーえ」という場面が、この2人の実人生と重なって見える。秋田に嫁ぐことに決めた原節子と、淡島千景がお互いに東北弁の使い比べをして、女学校時代に一緒だった佐々木さんの話し方を思い出せばいいというのは楽屋落ちで、小津の助監督から独立して、東映に移って時代劇を作った佐々木康が東北弁が抜けなかったことが念頭にあるようである。

8月10日
 『実践ビジネス英語』の昨日の話題の続きで、アイルランドで自分のルーツを調べる場合に最初にすべきことは、国立図書館の教区記録のウェブサイトを見ることであるという。実は、ダブリンのこの図書館に出かけて、入館証を発行してもらったことがあり、その時、手続きの窓口がアメリカ人用と、そうでない外国人用に分れていたのを思い出す。

 神保町シアターで小津安二郎の無声時代の作品『学生ロマンス 若き日』を見る。赤倉スキー場でロケをして撮影した、大学生の生態を描くコメディ。小津作品ではこういう若い時代の作品のほうが好きである。
 高橋治『絢爛たる影絵』(文春文庫、現在は岩波現代文庫に入っている)を読み返しながら、小津作品の特徴や魅力について考える。淀川長治が自分は庶民だから、鎌倉で暮らしている小津よりも、溝口の方が好きだというようなことを言ったのは、一首の煙幕ではないかと思えるのは、松竹蒲田時代の小津は下町の人情を描く映画を多く作っていたと高橋が述べているからである。むしろ高橋がいうように、蒲田時代の小津は既成のスターが出演する映画を作らせてもらえず、個性的なキャラクターをうまく生かすことで作品を支えてきた「いわば小津はノースター映画の専門家だった」(高橋、82ページ)というのがスター大好きの淀川の個性と合わなかったのではないかと思われる。その後、スター俳優を使うようになっても、小津は「のびのびと」演技させるようなことはしないで、自分の型に嵌めて演技をさせようとした(そのことで、彼から離れていった助監督の1人が今村昌平である)。
 小津の映画を見てはこの本を読み、読んでは映画を見ると、実にいろいろなことを教えられ、考えさせられる。

8月11日
 横浜FCはアウェーで徳島ヴォルティスと対戦、1-2で劣勢だったが、後半のロスタイムにイバ選手が右足でゴールを決めて追いついて引き分けたそうである。順位は依然として6位。イバ選手が利き足の左でなく、右で決めたというところにまだ望みはあるという気がする。

8月12日
 NHKラジオ「朗読の時間」の谷崎潤一郎『猫と庄造と二人のおんな』の11~15回の再放送を聴く。品子のもとに引き取られた老雌猫のリリーがいったんは彼女のもとを逃げ出すが、戻ってきて、すっかり仲良くなる。品子は、ダメ男の庄造と別れてせいせいしている半面で、自分の女としての価値を認めさせて復縁したいという気持ちもある。それがネコとの関係にも反映しているようでもある。

亀田俊和『観応の擾乱』(2)

8月11日(金)雨が降ったりやんだり

 《観応の擾乱》は、室町幕府初代将軍足利尊氏と、その執事であった高師直と、尊氏の弟で幕政を主導していた足利直義が対立し、初期幕府が分裂して戦った全国規模の戦乱である。この戦乱は観応元年(南朝正平5,1350、この本は基本的に北朝の年号を使っているが、両方の年号を併記した方が便利だと思うので、ここでは両方を併記する)10月から、南朝正平7年(北朝観応3,1352、ここでは珍しく南朝年号を採用しているが、そのことが両者の力関係の変化を示している)に終わったと考えられているが、戦乱で明らかになる室町幕府内での確執は貞和4年(南朝正平3、1348)ごろから始まっており、戦乱の一部とみなすことのできる戦闘は文和4年(南朝正平10、1355)ごろまで続いている。
 この戦乱のために南北朝の対立は長期化し、皇統の合一を遅らせたという側面もあるとはいうものの、初期の室町幕府の珂アm鞍幕府を模倣した体制が変化し、室町幕府独自の権力構造が生みだされたのは、この戦乱の結果であったと著者は論じる。室町幕府にとって、観応の擾乱が持つ政治史的・制度史的意義は計り知れないというのが著者の評価である。

 第1章「初期室町幕府の体制」で、著者は観応の擾乱を理解する前提として、室町幕府の成立の経緯とその中での政治の様相を、足利尊氏、足利直義、高師直がその中で果たした役割に焦点を当てながら描き出している。今回は、室町幕府の成立の経緯と、その初期の体制が尊氏・直義の「二頭政治」であったという通説に対し、直義こそ「事実上の最高指導者であった」と亀田さんが主張している部分を取り上げる。

 1 「三条殿」足利直義――事実上の室町幕府最高指導者
 室町幕府発足の大きなきっかけとなったのは、建武2年(1335)に勃発した中先代の乱である。鎌倉幕府最後の得宗であった北条高時の遺児時行が信濃国で挙兵して建武政権に対して起こした反乱である。鎌倉幕府を「先代」、室町幕府を「当代」と称した場合、時行は「中先代」ということになるので、この名称がある。
 当時、建武政権は関東地方に鎌倉将軍府と呼ばれる地方統治機関を設置しており、後醍醐天皇の皇子である成良(なりよし)親王を名目上の首長として、足利直義が執権として東国を統治していた。ところが関東地方に侵入した時行軍は直義軍に連戦連勝し、7月25日には鎌倉を占領してしまう。そこで弟の危機を救うべく、足利尊氏が8月2日に出陣、今度は足利軍の連戦連勝で、同月19日に鎌倉を奪回し、時行は敗走する。

 尊氏は後醍醐の帰京命令に従わず、旧鎌倉幕府将軍邸に邸を新築して居住し、反乱鎮圧に功績があった武士に対し建武政権には無断で恩賞として所領を給付した。これは尊氏側から見れば、中先代の乱の戦後処理を進め、北条氏残党を完全に鎮圧するための必然的な措置であったが、後醍醐側は、それを建武政権に対する謀叛と解釈し、11月19日に尊氏・直義兄弟を朝敵と認定し、新田義貞を大将とする官軍を出動させる。当初尊氏は、後醍醐天皇と戦う意思はまったくなく、寺にこもって恭順の意志を表明していたため、直義が主将として官軍と戦おうとした。ところが直義は官軍に連敗を続け、見かねた尊氏がついに挙兵、12月11日に箱根・竹ノ下の戦いで建武政権軍を破る。今度は形勢が逆転して、尊氏軍が東海道を攻め上り、建武3年(1336)正月に京都に侵入した。後醍醐天皇は比叡山延暦寺に籠城して足利軍に対抗、両軍の激闘は続いたが、奥州から北畠顕家の援軍が到着したために建武政権軍が優勢となり、童月30日に足利軍は京都を撤退して九州まで落ち延びた。

 しかし3月2日の筑前国多々良浜の戦いで後醍醐方の菊池武敏軍に奇跡的な勝利を収めた足利軍は、4月3日に再び京都を目指して東上を開始する。5月25日の摂津国湊川の戦いでは名将楠木正成を敗死させ、29日に直義隊が先鋒として入京した。後醍醐天皇は正月に続いて2度目の正月に続いて2度目の比叡山籠城を行い、足利軍との熾烈な戦闘を続けた〔当ブログで連載している『太平記』は目下、このあたりの戦闘の記述に差し掛かっている。〕 この間、8月15日に持明院統の光厳上皇の院政が始まり、弟の豊仁親王が即位して光明天皇となった。〔厳密にいうと、光明という諡号が贈られたのは崩御後の話である。〕 こうして後に北朝と呼ばれる朝廷が発足した〔発足時点では、光明天皇の方が後醍醐天皇よりも南に皇居を構えられていたわけである。〕

 その後、戦局は次第に足利軍に有利になり、追い込まれた後醍醐天皇は10月10日に、足利尊氏と講和し、比叡山を下りた。11月2日には、後醍醐が光明へ三種の神器を授ける儀式が行われた。同月7日、新しい武家政権の基本法典である『建武式目』が制定された。これをもって室町幕府が発足したとみなすのが定説である。
 ところが12月21日、後醍醐天皇は大和国吉野へ亡命し、自分こそが正統の天皇であると主張した。〔「三種の神器」を持たずに逃げ出しているので、この主張は弱い。〕 南朝の登場であり、これから60年間にわたり南北朝の内乱時代が続く。
 建武5年閏7月2日(南朝延元3年、この年に北朝は改元して暦応元年、1338)、後醍醐の皇子恒良(つねよし)親王を奉じて越前国へ下向し、幕府軍に抵抗していた新田義貞が、同国藤島の戦いで戦死した。これが大きな契機となって、8月11日、北朝から尊氏は征夷大将軍、直義も左兵衛督(さひょうえのかみ)に任命された。その直後から、直義の幕政にかかわる活動が開始される。これをもって、室町幕府は一応完成したのである。

 「幕府が成立する頃、尊氏は直義に政務を譲ろうとした。直義はこれを再三辞退したが、尊氏の強い要望に断り切れずに受諾した。以降、政務に関して尊氏が介入することはまったくなかったという。」(4ページ) これは尊氏側近の武将が貞和5年(南朝正平4年、1349)ごろに完成したと考えられる『梅松論』に記された逸話である。著者は、『太平記』よりもこちらの方が史料的な信頼性は高いという評価も付け加えている。
 室町幕府発足の経緯からもうかがわれるように、観応の擾乱に至るまでの尊氏の政治に対する姿勢は、基本的に消極的であった。「実際、『梅松論』の記述を裏付けるように発足当初の室町幕府の権限の大半は直義が行使している』(5ページ)。
 そのような権限の第1は、所領安堵である。所領安堵とは、武士が先祖代々相伝し、実効支配を継続する所領の領有を承認する皇位である。所領安堵の手続き・審査は安堵方という機関で行われ、直義自らが出席する評定という機関で最終的に承認されて、下文(くだしぶみ)と呼ばれる文書が発給された。
 表情は、鎌倉幕府の時代に執権・連署が主催した最高意思決定機関で、特定の日付で定期的に開催され、それら特定の日付を「式日」と称した。
 直義主導下の幕府を最も象徴すると言っても過言ではないのが、直義が管轄した所務沙汰(荘園・諸職の紛争を調停する訴訟)の判決文である裁許下知状で、これまで93通発見されているという。
 多数現存する直義の裁許下知状を検討すると、武士に荘園を侵略された寺社や公家による提訴の事例が非常に多く、訴人(原告)の多くは、係争地を正統な根拠によって代々領有していることが一般的で、そのために訴人が勝訴する確率が非常に高かった。所領安堵・所務沙汰裁許に顕著にみられるように、直義の政治は基本的に現状維持を最優先する特徴があった。
 また、全国の武士に戦争への動員を命じる軍勢催促状は、幕府が発足すると直義が一元的に発給した。また合戦で手柄を挙げた武士に、その功を感謝する感状を発給したのも直義であり、彼は武家の棟梁に必須である軍事指揮権も掌握したのである。 しかも直義は、御家人の統制機関で京都市中の警察も担当した侍所も管轄した。
 さらに直義は、将軍家の安泰を祈祷する祈願寺の指定、北朝の光厳上皇が発給した院宣を承認する院宣一見状、武士が希望する官職を北朝に推薦する官途推挙状の発給など広範な権限を行使したのである。

 このように尊氏は、直義に政務を譲ったのだが、完全に隠居したわけではなかった。
 尊氏が行使した数少ない権限に、恩賞充行(おんしょうあておこない)がある。これは、合戦で軍忠を挙げた武士に、褒美として敵から没収した所領を給付する行為である。恩賞充行の手続き・審査を行ったのは恩賞方という機関で、これは尊氏が管轄したが、その開催は不定期であった。一方、尊氏の下文は直義のものよりも尊大な形式で記されており、彼の立場が直義よりも上であることが示されていた。
 また尊氏は守護の任命も行った。この時期に尊氏が行使した権限は恩賞充行と守護職補任の2つだけだったのである。

 初期室町幕府の体制は尊氏・直義の二頭政治であったという佐藤進一の説がこれまで定説となってきた。しかし、尊氏と直義が権限を均等に二分したのではなく、直義に大きく偏重している状況は「二頭政治」とは言いにくい。むしろ『梅松論』の記事をそのまま受け取って、初期室町幕府は直義が事実上の最高権力者として主導する体制であったと考えるべきではないかと著者は主張する。ではこの体制をどのように表現すべきか。
 桃崎有一郎の研究によると、この時期の直義は「三条殿」あるいは「三条坊門」と呼ばれることが最も多かった。後年の室町幕府では、首長の邸宅所在地である「室町殿」がその地位を表す名称として使用された。それを踏まえると、直義の地位を三条殿とするのは当然のことで、三条殿体制は、必ずしも将軍とは限らない人物が最高権力者として幕政を主導し、住居の名称で呼ばれる点で、足利義満以降の室町殿体制の先駆的な形態であったと評価できると論じている。

 以上、亀田さんは、室町幕府の初期における体制は、通説が主張してきたような尊氏・直義の二頭政治ではなくて、直義が実質的な最高権力者である体制であったことを強調しているのである。

ダンテ・アリギエリ『神曲 天国篇』(25-2)

8月10日(木)曇り時々雨、変わりやすい空模様

 1300年4月13日の正午に、ベアトリーチェに導かれて、煉獄山頂から天上の世界へと飛び立ったダンテは、月天、水星天、金星天、太陽天、火星天、木星天、土星天を訪問し、彼を出迎えた魂たちと、信仰と教会、地上の政治などの問題について議論を交わす。至高天から土星天へとのびている「ヤコブの階段」を上って、恒星天に達したダンテは、そこでキリストとマリアの天国への凱旋を目にする。そして、彼が自分の見聞を地上で語るのにふさわしい人物として、3つの対神徳を備えているかを、それぞれの徳を代表する魂から試験されることになる。第1の対神徳である<信仰>について使徒ペテロから試問を受けて合格した彼は、今度は同じく使徒大ヤコブから<希望>についての試問を受ける。ダンテが希望の徳を備えていることをベアトリーチェが証明したのち、彼は希望とは神の恩寵と生前の善行の両方のおかげで、死後、天国で永遠の至福に与ることへの希望であり、「詩編」の作者ダヴィデと、大ヤコブの書簡からこれを教わったと述べ、
「・・・そのために私は満たされ、
あなた方からの慈雨を私が人々に注ぎ込みます。」
(381ページ)と、地上に戻った後に、彼の体験に基づく叙事詩を書いて、希望の徳を広めるという決意を語った。

私が話している間、その烈火が包む生命の深奥で
閃光がきらめいていた、
突然、稲妻のように幾度も。
(同上) それは大ヤコブがこの答えを喜んで受け入れたことを示すものであった。そして、大ヤコブは希望が一体何を意味しているのかをさらに詳しく話すように求めた。
 ダンテは、希望については新約と旧約の聖書の中にさまざまに語られているが、
「・・・
イザヤは言っています。どの人も祖国では
二倍の服を身につけることになりましょう、と。
その祖国とはこの甘美な生のことです。

またあなたの兄弟はこの啓示をよりはっきりと詳細に、
白い衣について述べている箇所で
私たちに明らかにしています」。
(382-383ページ)と『イザヤ書』61.7の「その地で二倍のものを継ぎ/永遠の喜びを受ける」という語句を典拠にして、祖国=天国での生こそが希望であることを述べ、『新約』の「ヨハネの黙示録」の中の「大群衆が、白い衣を身につけ」(7.9)という箇所で、この大群衆は天国に選ばれた人々で逢って、彼アrの天国での至福の在り方が説明されていると答える。

 この答えも受け入れられたが、
その後、ある光がそれらの間で烈しく輝いた。
もし蟹座にそれほどまで輝く水晶があったならば、
冬が昼間だけの一か月を持ったであろうほどに。

すると、喜ばしげな乙女が
何かの過ちゆえではなく、新婦にただ敬意を表するために
立ち上がって歩いてゆき、踊りに加わるように、

烈しく明るい輝きが、
燃え上がる愛に見合うように
愛に合わせて回る二人に近づいていくのを私は見た。
(383-384ページ) この新たに輝いたのは、十二使徒の一人(福音書の著者の1人で黙示録の著者である)ヨハネであり、3つの対神徳の中の残る<愛>を体現する存在である。そして彼らは三対神徳の輪を作って踊る。
 その姿をベアトリーチェはじっと見つめていた。
 「ヨハネによる福音書」21.23には「この弟子は死なないという噂が兄弟たちの間に広まった」という語句があることから、ヨハネは肉体を持ったまま天国に行ったと信じる人々がいた。ダンテはそれをここで確かめようとして誉阿h根の輝きを見つめ、一時的に視力を失ってしまった。その彼にヨハネの声が聞こえる。
「・・・
二つの衣をまとったまま祝福された僧院に
いらっしゃるのは、上にお帰りになった二つの光だけである。
このことをおまえたちの世界に伝えるがよい」。
(386ページ) 魂と肉体を持ったまま天国に還ったのはイエス・キリストとマリアだけであるという。とはいえ、視力を失ったダンテの動揺は小さなものではない。

ああ、私は心の中で何と動揺したことか。
彼女のそばに、そして至福の世界にいたにもかかわらず、
ベアトリーチェを見ようと振り向いた時に、

私は見ることができなかったのだから。
(386-387ページ) ダンテは3つの対神徳のうちの「信仰」に続いて、「希望」についての試問にも合格したが、目が見えなくなるなど、「愛」をめぐる試問には波乱含みのところがある。

 近代から現代にいたる聖書の批判的研究は、『新約聖書』の「福音書」が教会が伝承してきた作者によって記されたものではないことを実証的に明らかにしてきた。そういう目から見ると、『神曲』はいかにも中世的に思われるが、それでも誤った聖書解釈によりダンテが一時的に失明するなどの部分には、ダンテが彼の歴史的な制約の中で、『聖書』を合理的にとらえようとしていることが分かって、興味深い。魂と肉体とを持ったまま天国に昇ったのは2人だけだというが、旧約聖書に登場する預言者エリヤはどうかとか、どうも合理的に説明のつかない部分が残ることも否定できない。
 

シェルブールの雨傘

8月9日(水)晴れ、依然として暑し

 8月6日に、中区真砂町のミュージック・スタージ・イライザで行われた別府葉子シャンソントリオ(ヴォーカル&ギター:別府葉子、ピアノ:鶴岡雅子、ベース:中村尚美)の「サマー・ツアー2017」に出かけた。第1部では7曲、第2部では6曲、アンコールを含めて15曲が歌われた。これまでのコンサートで聞いた歌が多かった中で、第2部の最初に「シェルブールの雨傘」(作詞:ジャック・ドミー、作曲:ミシェル・ルグラン、訳詞:あらかわ・ひろし)が歌われたのが印象に残った。いうまでもなく、ジャック・ドミー監督の代表作である映画『シェルブールの雨傘』の主題歌である。

 別府さんのブログを読んでいて気づくのは彼女が映画が好きだということである。それもフランス映画が好きで、映画の字幕の翻訳者になろうと思ってフランス語の勉強できる大学に入ったという話も読んだ。今回のコンサートでも、ジュリアン・デュヴィヴィエ監督の『舞踏会の手帳』という映画の話が出てきた。私は不幸にしてこの映画は見ていないのだが(「不幸にして」というのは単なる修辞で、実はそれほど不幸だとは思っていない)、昔のヨーロッパの(アメリカも多分同じ)社交界にはいろいろなしきたりがあって、舞踏会で踊る予約をした相手の名前を手帳に控えておくのもその一つである。ある女性が、年をとってから、その手帳に名前が記された男性を一人一人訪問してみるという話だそうである。別府さんは、それから先を話すとネタバレになってしまいますから…ということで話を打ち切った。ジャック・フェデー、ルネ・クレール、ジャン・ルノワール、そしてデュヴィヴィエを(私の亡父が慶応ボーイだった)昭和10年代の日本の映画ファンたちは「フランス四大巨匠」と呼んでいた。私の父親が親しんでいたような古い映画にまで興味があるというのは相当なものである。

 さて『シェルブールの雨傘』は私が大学に入学した1964年に日本で公開された映画で、私の世代にとって懐かしい映画である。この映画は北フランス(ノルマンディー地方)の港町であるシェルブールを舞台に、愛し合う若い男女の男性の方がアルジェリア戦争のために兵役に取られてその中を引き裂かれて、それぞれ別の人生を歩むことになるが、偶然のことに再会し、それぞれの立場を理解して別れていくという話である。
 この映画を私はスクリーンで3回、TVで1回見ている。いつだったか、ラジオの『まいにちフランス語』で清岡智比古さんとレナ・ジュンタさんがこの映画を話題として取り上げたことがあって、爆笑コンビと称されるお二人がこの時はいやにまじめに話しているなと思った記憶が残っている。

 別府さんの歌を聴いて、映画の記憶がよみがえったのだが、特に気になったことが2つある。1つは既に書いたことだが、この映画がアルジェリア戦争を背景にしているということである。登場人物の運命に、アルジェリア戦争が何らかのかかわりをもっている映画として、アラン・レネ監督の『ミュリエル』とか、ロベール・アンリコ監督の『美しき人生』など、かなりの数の作品を取り上げることができる。先ほど触れたジュリアン・デュヴィヴィエ監督の最後の作品である『悪魔のようなあなた』で、主人公のアラン・ドロンが記憶喪失になったのも、どうもアルジェリアでの戦争のためらしいというように、この戦争の影はかなり大きかったのである。つまり、日本と違ってフランスは第二次世界大戦終了後も、インドシナの独立戦争、アルジェリアの独立戦争という植民地の人々の独立を求める要求を抑圧する戦争を戦ったということであり、そのような戦争はその時代の若者にとって<過去>ではなく、<現在>の問題だったのである。フランス映画における<戦争>の問題を考える時に、このことは無視できないと思った。

 もう一つは、シェルブールの駅で出征していくニーノ・カステルヌオーヴォをカトリーヌ・ドヌーヴが見送るシーン。これはこの映画の中で一番印象に残る場面だと思うのだが、日本で出征兵士を賑々しく送り出す(NHKの朝ドラなどの戦争中の描写でよく出てくる)のと大変な違いである。見送るほうも、見送られる方も一人だけ。フランスは個人主義の国だといってしまえばそれまでだが、哀切さが心にしみる。
 『シェルブールの雨傘』はセリフを歌にするなどの実験的な工夫が施されているとはいえ、わかりやすい映画である。南と北の違いはあるが、同じ港町を舞台にしたマルセル・パニョルのマルセイユ三部作を思い出させるような物語の展開部分もある。その意味では、伝統的な<人情>が踏まえられている。これにくらべると、イプセンの劇を思い出させるようなアラン・レネの『ミュリエル』はきわめて難解である。『シェルブールの雨傘』のヒロインの母娘が金がないと騒いでいる一方で、ディオールの衣装を着ていることの非現実性を、アンナ・カリーナが批判したという記事を読んだことがあるが、本当のところ、アンナ・カリーナはこういう分かりやすい映画に出演したかったということではないかと私は勝手に想像している。(なお、私はアンナ・カリーナの方がカトリーヌ・ドヌーヴよりも好きである。念のため。)

 別府さんが8月6日に歌う歌の1つとしてこの歌を選んだことで、映画について、あるいはその社会的な背景について、いろいろと考えるきっかけになったと思う。そのことを私が8月9日に書き記していることの意味もくみ取っていただければ幸いである。
 

司馬遼太郎『街道をゆく2 韓のくに紀行』(2)

8月7日(火)晴れ、台風は日本海岸の方を北上中とのことである。被害が出ないことを願う。

 1971年5月15日、司馬さんは伊丹を発って、空路、釜山に到着した。大阪育ちの司馬さんは、子どものころから韓国の人々やその文化遺産に触れてきたので、日本文化との共通性や異質性を考えながら、この国と文化についての関心を深めてきた。そして、両国の交流や対立の歴史の痕跡を訪ねるべく韓国を訪問したのである。

 釜山空港で入国手続きを済ませた司馬さんは、ガイドの任(イム)さんに迎えられる。彼女は少し前に、日本の実業界の要人たちの韓国旅行のガイドを務め、彼女の人柄に感動した彼らが東京に彼女を招待するという経験をしたばかりのところである。司馬さんが考えた旅行先は「あまり人のゆかない農村ばかり」(29ページ)ばかりだったので、旅行会社の社員が普通のガイドでは無理だと判断して彼女に依頼することになったようである。しかし、そのイムさんも、日程を知った時には驚いて、逃げ出そうかと思ったという。上品で底抜けに明るい性格の持ち主である彼女は、上海の日本租界の日本人女学校を卒業し、結婚後、少し遅れてソウルの名門梨花女子大学の英文科に入学した経歴の持ち主である。朝鮮動乱の時はまだ学生だったのだが、家族とともに釜山に逃れてきたが、その途中、北方軍の人の殺し方を何度も見て、その残忍さが今でも心に残っているという。

 宿舎に荷物を置いて、2人は韓国でいう壬辰倭乱(イムジンウエラン、秀吉の朝鮮の陣)のときに、朝鮮の勇将鄭撥(チョンバル)将軍が優先むなしく戦死した城跡を訪問し、さらに坂を上って、日本風の石垣が残っているところに出る。イムさんの説明ではここは倭城(ウェソン)といって、秀吉の派遣した毛利勢がここに城を築いたという。「なるほどそう言われてみると、本丸、二の丸、出丸などの跡らしい地形をなしている」(34ページ)。この本丸跡に、動物園が出来ていたが、それも廃止になってしまった。司馬さんはここで、50人ばかりの子どもたちに取り囲まれていた。彼らはここが倭城の跡であることは知らず、動物園の跡であることだけを知っている。
 「慶長の再役の時の毛利軍の大将は輝元の養子で安芸宰相と呼ばれた秀元であったが、秀吉の命令とはいえ、無名の師に従軍し、他人の国に攻めこみ、この海岸の山に大汗かいて大きな城を築き、結局は撤退し、その後が今は城跡というよりも「動物園」の呼び名で通っているというのは、何となくおかしくもあり、空しくもあり、ひるがえって考えれば、倭兵の居住跡が動物園などとは変なユーモアのようにも思える。」(35ページ)
 司馬さんは本当は、対馬藩(宗氏)が釜山に設けた倭館の跡を訪問したかったのだが、どうもうまく通じなかったが、それはそれでいいと考える。「それに対馬藩の倭館というのは釜山駅の近所だともきいたが、いずれにしてもあとかたもなく消えているもので、今は繁華な市街になっているのである。」(36ページ)

 それから司馬さんは対馬藩(宗氏)が日韓両国の板挟みになって苦労した歴史を振り返る。さらに近世から近代にかけての日韓中の国際関係についても触れる。旅行中でもそうした歴史的な知識の整理は続いているのである。文明開化の日本から洋服を着てやってきた人々を見て「…その形を変じ、俗を易(か)えたり・・・これすなわち、日本人と謂うべからず」(46ページ)と論難する。司馬さんが訪問したころの釜山の人々は、その多くが伝統的な服装をしていたという。「偉とすべきであろう」(47ページ)と司馬さんが敬意を払っているのも興味深い。(これは40年以上も昔の話で、今はそんなことはないはずである。私も10年ほど前にソウルを訪問したが、たいていの人が洋服を着ていたという記憶がある。)

 釜山の通りを歩いていて、司馬さんは戦争中の記憶がよみがえってきたように感じる。戦車隊の小隊長であった司馬さんは4両の中戦車とともに釜山駅を出発し、日本軍の演習用の廠舎に向かった。他の小隊の後をついていけばいいはずなのだが、貨車から戦車を下すのに手間取って他の小隊はみな出発してしまってから出かけることになった。ひどい方角オンチである司馬さんはどこをどうやって行けばいいのかわからず、仕方なく、時々車を止めて飛び降りては、道をゆく韓服の老若男女に、道をきいたりした。それで奇跡的に目的地に到達したのだが、「どうもあいつは防諜ということを知らん」と上官から苦情が出たらしい。

 「防諜もくそもないもので、この当時日本軍部そのものが暗号をアメリカに全部読み取られてしまっていて、しかも知らずに太平楽に戦争をしていたくせに、最末端のチンピラが道をきいたぐらいで叱ることもない」(50ページ)と司馬さんは、日本軍部の不合理性をここでも批判している。「当時の英軍幕僚のあいだで、「日本軍の中で一番馬鹿が参謀で、いちばん利口なのは現場現場の下士官ではなかろうか」という話が出たらしいが、真実をうがっているかもしれない」(同上)との意見も付け加えている。

 さらに下級士官以下に対しては、「すべての兵士はのろまで臆病だという前提から」(51ページ)、できるだけ兵士の安全を確保した装備を与え、丁寧にわかりやすく指示を出して、諸君の命は安全であるといい続けたアメリカ陸軍と、一兵に至るまでことごとく名人に仕立て上げようとした日本陸軍との違いを論じているのは、戦争体験のある人ならではの議論である。(司馬さんが学徒上がりの下級士官だったことも忘れてはならない。) 

 「韓(から)のくに紀行」という触れ込みで、むかしむかしの加羅、新羅、百済の旧跡を見て回るのかと思うと、近世から近代にかけての日韓の平和な時代と戦争の時代の交流史が前面に出てきている。司馬さんが戦車から降りて道をきくと、韓国の人々はみな親切に道を教えてくれたというところに何となくほのぼのとしたものが感じられるのだが、もちろん、戦争も戦車もないほうがいいのであって、平和な交流にはどのような可能性があるのかを考える方がいいわけである。

『太平記』(170)

8月7日(月)晴れのち曇り、依然として暑い

 建武3年(南朝延元元年、1336)5月27日に後醍醐天皇は再び比叡山に臨幸され、叡山の3千人の衆徒は、この年の春に足利方の軍勢を京都から追い出した経験があったので、今回も勝利を確信して天皇をかばい守ろうと態勢を固めた。もし、北陸地方や関東から援軍が到着すると、形勢が逆転する恐れがあると考えた、足利方の指導者たちは早めに比叡山を攻略しようと東西から大軍をもって攻勢をかけた。

 6月6日、足利方の大手(比叡山を東から攻略しようと向かっていた軍勢)の大将から、搦め手である西坂の寄せ手の方に使者が派遣され、「自分たちが当面している敵陣をうかがい見ると、新田、宇都宮、千葉、河野をはじめとして、主だった武士たちは、ほとんど東坂本を固めているように見受けられる。西坂の方は、険阻を頼りにして、公家の侍や叡山の法師で守っているらしい。一度相手に激しく仕掛けてみてはどうだろうか。(名だたる武将、武士がいないので)これといった合戦は決して起こらないだろう。思い通りに(比叡山の主峰である)大比叡に陣取っている敵を追い落とされて、東塔にある大講堂、文珠楼のあたりに軍を止めて、合図の狼煙を上げてください。こちらもそれに呼応して攻め寄せ、東坂本の敵を一人残さず、湖水に追い詰めて滅ぼすだろう」と連絡をする。

 西坂から攻め寄せる軍勢の大将であったのは、高一族の豊前守師久(師直・師泰の弟)であったが、この知らせを受けて、自分の率いる軍勢に向けて命令を出して次のように述べた。「山門を攻め落とそうとする各方面の合図が明日あるだろう。この合戦に際して一歩でも後退したものは、たとえこれまで抜群の忠勤があったものでも、それはご破算にして所領を没収し、追放処分とするであろう。一太刀でも敵に打ち込み、陣を破り分捕りを成功させたものは、凡下(侍身分ではない中間以下のもの)であれば侍に取り立て、侍であれば直接恩賞を与えられるように口添えしよう。だからと言って、一人で手柄を立てようと抜け駆けをしてはならない。また同輩の手柄を妬んで、危地に陥ったのを助けないというのもいけない。お互いに力を合わせ、共に志を一つにして、斬るとか射るとかのやり方をとらず、乗り越え乗り越え進むべきである。敵が退却すれば、体勢を立て直して戻ってくる前に攻め立て、比叡山の上に攻め上り、堂舎仏閣に火をかけて、一宇も残さず焼き払い、3千の衆徒の首を一つ一つ大講堂の庭で斬ってさらし首にして将軍(尊氏)から褒賞を受けたいとは思わないか」と、部下のものを励まして下知をしたが、(寺を焼き僧侶の殺害を命じる)非道のほどは何ともあきれたことであった。〔『太平記』の作者には神仏の霊力や、宗教者の力をまともに信じているところがあって、それが高師久のこの勇み足発言への非難となって表れている。〕 配下の軍勢は、この命令を聞いて、勇み進まないというものはいなかった。〔前回も書いたが、足利方の方が軍勢の数は多いが、そのかなりの部分が様子見で必死に戦おうとはしない連中であり、だから勇敢にたたかわせようとすると、恩賞の空手形を乱発することになる。最近出た亀田俊和さんの『観応の擾乱』を読むと、このような大義名分よりも身の安全、恩賞をくれる方になびくという武士の様子がよくわかる。これも前回に書いたが、山を登る軍勢よりも、上の方で待ち受けている軍勢の方が矢が遠くまで届くなどの有利な点がある。〕

 夜が既に明けたので、雲母坂の中腹の三石、松尾、水飲から軍勢を3方面に分けて、20万騎が太刀、長刀の切先を並べて、鎧の左袖をかざして、エイやという掛け声を出して道を上っていった。宮方ではまず一番に、中務卿である尊良親王(史実では式部卿の恒明親王であったと岩波文庫版の脚注にはある)の副将軍としてこの方面を守っていた千種忠顕と坊門少将正忠が300余騎で防戦に努めたが、松尾から攻め上ってきた敵に後ろをふさがれ、忠顕卿は悔しいがこれが最後の戦いとなると必死に戦ったけれども、ついに全滅を余儀なくされた。後醍醐天皇への忠節は比類なく、それに対する褒賞も抜きんでていて、天皇の深いご信頼を得ていただけに、その命を軽く思って戦死したのは哀れなことであった。〔前年に結城親光が討死(14巻第20)、この年の5月に湊川の戦いで楠正成が敗戦⇒自害し、今度は千種忠顕が戦死した。建武新政のもとで後醍醐天皇の朝恩を受けて成り上がった「三木一草」が立て続けに戦死している。なお、『太平記』第8巻では大軍を恃んで京都を攻めたものの六波羅勢に撃退された時の千種忠顕の臆病ぶりに児島高徳があきれ果てるという箇所がある。『太平記の群像』の中で森茂暁さんは「忠顕の生涯をふりかえってみれば、彼の運命は後醍醐天皇とともにあったといえる。忠顕は同天皇の手足として働いたが、彼の栄達はひとえに同天皇の信任に支えられていた。文字通りの寵臣といえよう」(森、前掲、89ページ)と忠顕について論評しているが、その忠顕を失うことで後醍醐天皇の身辺はいよいよ寂莫としたものになったと考えられる。〕

 忠顕が戦死する様子を見て、後陣を支えて防いでいた延暦寺の僧房である護正院、禅智房、道場房以下の衆徒7千余人は、一太刀打っては引きあがり、しばら支えてはひき退き、次第次第に退却していったので、寄せ手はいよいよ勢いに乗って、追い立て追い立て休まずに、比叡山に昇る険しい道である雲母坂を、途中の蛇池を左手に見ながら、大嶽まで攻めあがったのであった。

 そうこうするうちに、比叡山の院ごとに鐘を鳴らして、西坂は既に攻め破られたと東塔に属する谷間が騒ぎ出したので、年老いて歩行も満足ではない僧侶は、老人用の杖を突きながら、東塔の本堂である根本中堂、西塔の堂舎である常行堂・法華堂などに出かけて本尊とともに焼け死のうと悲しむのであった。また学問と仏への祈りをもっぱらとする学僧たちは、経典とその註釈を胸に抱いて逃げのびていく。あるいは荒法師の太刀や長刀を奪い取って、彼らに代わって命を捨てて敵と戦おうとする者もいた。

 戦況は足利方有利の展開であるが、『太平記』の作者が後醍醐天皇よりも、比叡山の堂塔や僧たちの運命の方に関心を向けているように読み取れることが興味深い。森茂暁さんは、『太平記』が、足利尊氏に光厳院の院宣を届けるなど、彼と密着しながら政治・宗教の面で活躍した醍醐寺(真言宗)の賢俊の存在をほとんど無視していることから、「やはり宗教色という点から見れば、天台宗の強い影響のもとに成立したと考えられるのである」(森、前掲、202ページ)と論じられているが、このあたりの描写にもそんな特徴が表れているといえよう。

ぼくはひとり、きみは大ぜい

8月6日(日)晴れ、暑し

ぼくはひとり、きみは大ぜい

ぼくはひとり、きみは大ぜい。
でもそれはぼくから見ての話で
きみから見たら、
きみはひとり、ぼくは、大ぜいの中の一人かもしれない。

ぼくの言葉はきみがいなければどこへも届かない。
誰か取り次いでくれる人がいなければ、
どこかでむなしく消えてしまう。
そしてきみは、
さまざまな言葉の大海の中に
きみの言葉を漂わせている。

きみの言葉も同じことだ。
きみの側から見れば、
ぼくは言葉の大海の中に漂う
ただの一人。しかし
きみの言葉がぼくの心に届けば、
ぼくは最大限の努力で、別のきみにその言葉を届けるだろう。
でも、心に届かないときだってあることを
分ってほしい。

きみも
ぼくも
同じ言葉を話しているはずで
大ぜいが
同じ言葉を話していると
思いながら
その言葉の意味を
しっかりととらえているわけではない。

それで大ぜいの人間が
勝手なことを言い散らかして
いろいろな噂が大きな顔をしてひしめき合っている
その中を通り抜けて
きみの言葉の
いちばんの意味と、いちばんの技巧とは伝わらないかもしれない。
きみの言葉は
大まかにしか伝わらないかもしれないし
間違って伝えられる恐れだって
十分にある。

言葉はもろくはかない。
だからいやだという人と、
だからこそ愛着がわくという人がいるだろう。
きみがどちらの人間であってもいい。
どちらの人間であってもぼくはきみが
そのもろくはかない言葉を大事にしようとするかぎり、
きみの友だちであり続けるだろう。
友達であることが、もろくはかない言葉を通じて
表現できる、それ以上のものであることを
改めて実感し続けるだろう。

日記抄(7月30日~8月5日)

8月5日(土)曇りのち晴れ、気温上昇

 7月30日から本日までの間に経験したこと、考えたこと、前回書き忘れたこと、その他:
7月29日
 NHKラジオ「朗読の時間」は谷崎潤一郎の『猫と庄造と二人のおんな』の朗読を始めた。ダメ男の庄造は元の妻である品子と別れて、従妹野福子と結婚したが、新妻よりも猫のリリーちゃんの方を溺愛している。元の妻の品子は、何もいらないからリリーちゃんだけは手元に置きたいと言ってきて、新妻の方も庄造の猫の溺愛ぶりにあきれて、猫を品子の方に渡すようにと言いはじめる・・・。庄造のリリーちゃんの溺愛ぶりの描写が、自信も無類の猫好きだった谷崎の私生活を反映しているようでげらげら笑いながら聞いていた。谷崎の作品はこれまで敬遠気味であったのだが、少し、距離が縮まったような気がする。

 横浜FCはアウェーでレノファ山口に2-1で勝ち、これで3連勝で4位に浮上した。さらに上を目指してがんばれ!

7月30日
 磯田道史『「司馬遼太郎」で学ぶ日本史』の中で、司馬が戦争中に死にかけた体験から日本陸軍の不合理性がどこでどうして生まれたのかを探求し始めたと述べられていることについては、司馬の『街道をゆく 2』を取り上げたこの日のブログでも触れたが、初期の司馬作品には、加藤泰が映画化した『風の武士』のような「歴史離れ」がかなり大きい、伝奇性をもった作品も少なくないことも注目しておいてよいだろう。伝奇的な物語の展開を支えるためには、細かな歴史的な考証が必要だというのもまた真理である。

7月31日
 NHKラジオ『まいにちイタリア語』初級編は「イタリア人と食事に出かける」というテーマで、和食をどのようにイタリア人に紹介するかを中心に番組が進行する。今日のキーフレーズは
Io ti consiglio il sukiyaki. (私はあなたにすき焼きを勧める。)
で、イタリア語では和食に冠詞をつけるが、基本的には男性単数の定冠詞ilを使い、il sushi, il sashimi, il katsudonという。母音で始まる単語はl'を使い、l'onigiri, l'okonomiyaki, l'odenなどとする。このほかloがつくものはlo zosui, lo shabushabuなど個別に覚え竹ということであった。そばはスパゲッティとの類推から複数形をとりi sobaとなり、temuraは「揚げ物la frittura」との連想で、la tempuraという方がいいのではないかとのことであった。

8月1日
 ジャンヌ・モローさんの訃報が『朝日』の朝刊に掲載された中で、「ヌーベルバーグの象徴」という見出しが建てられていた。ルイ・マル監督の『恋人たち』や『死刑台のエレベーター』は1950年代に現れたフランスの映画の新しい動きを総称して「ヌーヴェル・ヴァーグ」というのならば、当てはまるかもしれないが、『カイエ・デュ・シネマ』誌に拠って新しい映画作りを主張し、実践した狭義のヌーヴェル・ヴァーグの作家たちの作品への出演というと、『突然炎のごとく』などそれほど多くはない。むしろ、フランス映画の枠にとどまらず、アメリカや英国、イタリア映画を含めて国際的に活躍したことの方を強調すべきではないかと思う。

8月2日
 神保町シアターで「神保町シアター総選挙」「没後四十年 成瀬巳喜男の世界」より『女が階段を上る時』(1960、東宝)を見る。高峰秀子が銀座のバーの雇われマダムを演じ、彼女を取り巻く男性に森雅之、仲代達也、加東大介、小沢栄太郎、中村鴈治郎、ライバルとなる女性に淡路恵子、団令子という配役でそれなりに見ごたえがある。吉村公三郎の『夜の蝶』と見比べてみたら、面白さが増すかもしれないが、こちらの方が写実に徹していて、現実感がある分物語性があまりないように思う。

8月3日
 NHKラジオ『まいにちイタリア語』の前に放送される『まいにちロシア語』の雑談部分を聞いていたら、講師とロシア人のパートナーがチェーホフの短編「中二階のある家」について話していたので、思わず聞き耳を立ててしまった。語り手である画家は<中二階のある家>に住む美しい姉妹と知り合う。姉は社会改革に熱心で、改革を重ねて世の中をよくしていこうとするのに対し、画家は根本的な変革が必要だと考えているので、次第次第に対立が激しくなる。画家はぼんやり型の妹の方と次第に愛し合うようになるのだが、姉との対立がネックになって二人は別れ別れになる。番組では、誰も住まなくなった家の荒れ果てた様子が印象に残るという話になった。それで思い出すのは、ディケンズの『大いなる遺産』の最後の方で荒れ果てた邸にエステラが1人で住んでいるのを、まだ彼女を愛しているピップが訪れる場面を、デヴィッド・リーンが映画化した際に、原作を少しつくりかえて、ハッピー・エンドにしていることである。

8月4日
 『朝日』の朝刊の「異論のススメ」というコラムで佐伯啓思氏が森友・加計問題をめぐるメディアの報道姿勢について、「「事実」を利用するメディア」という見出しで、『朝日』が政府に対する批判的な立場をとりながら、もっぱら報道を事実関係に集中させていることをめぐり、「批判は、安倍首相の世界観や現状認識、それに基づく政策へ向けられるべきである」と論じているのは、一応正論ではあるが、政権が目的のために手段を択ばずというやり方をしているという事実を報道することは、やはり「世界観」への批判と考えた方がいいのではないのかと思う。

 神保町シアターで「没後四十年 成瀬巳喜男の世界」の中から『驟雨』(1956、東宝)を見る。岸田國士の戯曲『驟雨』、『紙風船』その他をもとに水木洋子が脚本をまとめた作品である。東京郊外(といっても、世田谷あたりらしい)に住むサラリーマンの夫婦(佐野周二、原節子)を取り巻く人間模様を描く。新婚旅行のさなかに喧嘩を始めた姪(香川京子)とか、隣に引っ越してきた夫婦(小林桂樹、根岸明美)が登場し、主人公も会社を整理されかけ、田舎に戻ろうと考えたりするが、大きな変化は起きそうもない。私鉄沿線の駅前の商店街に映画館があるというような昭和30年ごろの郊外の風俗が詳しく描かれている。もう60年くらい昔の話であるが、私は郊外とは言えないところに住んでいたので、思い当たる部分と思い当たらない部分とがある。

8月5日
 『朝日』の朝刊に作曲家の小林秀雄さんの訃報が掲載されていた。三井三池炭鉱の労働組合の組合歌「炭掘る仲間」の作曲者である。私はこの歌が好きで、時々聞いたり、歌ったりしている。謹んでご冥福をお祈りするとともに、この歌を、忘れないようにしたいと思う。

 ニッパツ三ツ沢球技場でJ2の横浜FCと大分トリニータの試合を観戦する。1-2で敗戦。ピッチを広く使って攻めかかってくる相手にはどうも弱い。

 NHKラジオ『朗読の時間』で、谷崎の『猫と庄造と二人のおんな』の6~10回を聴く。庄造は品子のもとにリリーを渡すことになるが、そうなって初めてこの猫への思いが強くなったりする。前回の放送分よりもしんみりした内容である。
 

亀田俊和『観応の擾乱』

8月4日(金)曇り(一時雨が降ったかもしれない)

 8月2日、亀田俊和『観応の擾乱』(中公新書)を読み終える。
 「観応の擾乱とは、室町幕府初代将軍足利尊氏および執事高師直と、尊氏弟で幕政を主導していた足利直義が対立し、初期幕府が分裂して戦った全国規模の戦乱である」(ⅱページ)。この内戦は、観応元年(1350)10月から始まり、正平7年(北朝観応3,1352)2月まで続いたとされているが、著者はさらにその背景や影響についても視野に入れて、貞和4年(1348)正月から、文和4年(1355)3月までの時期における戦乱を対象としている。
 観応の擾乱は高校日本史の教科書に必ず掲載されるので、学んだことがあるはずの人は多いが、記憶している人はきわめて少ないのではないかと著者は言う。この戦乱が南北朝の内乱を長期化させ、合一を遅らせたという側面もあって、あまりイメージはよくないとも述べる(もっともイメージのいい戦乱というのがあるほうがおかしいのだが…)。
 しかし、初期においては鎌倉幕府の体制を大部分踏襲していた室町幕府が、独自の制度を作り出すきっかけになったのが、観応の擾乱であり、そのことに意義が求められると著者は論じる。さらに、建武期と比べて観応期は信頼できる史料が豊富で、その点からも研究を深める価値があるともいう(いかにも歴史学者らしい意見である。「あとがき」にその資料の主なものが列挙されているが、何といっても一番頼りにされているのは洞院公賢の『園太暦』である)。
 観応の擾乱という試練を克服したことで、室町幕府は政権担当能力を身につけ、足利尊氏も名実ともに征夷大将軍にふさわしい存在になったというのがこの書物の結論であると予告される。

 この書物の目次は次のようなものである。
第1章 初期室町幕府の体制
 1 「三条殿」足利直義――事実上の室町幕府最高指導者
 2 創造と保全――将軍足利尊氏と三条殿直義の政治機能の分担
 3 高師直の役割――尊氏・直義共通の執事
第2章 観応の擾乱への道
 1 四条畷の戦い――師直と小楠公楠木正行の死闘
 2 足利直冬の登場
 3 幕府内部の不協和音
第3章 観応の擾乱第一幕
 1 師直のクーデター――将軍尊氏邸を大軍で包囲
 2 直義の挙兵と南朝降伏
 3 地方における観応の擾乱――東北・関東など
 4 打出浜の戦いと師直の滅亡
第4章 束の間の平和
 1 尊氏・直義講和期における政治体制
 2 直義による南朝との講和交渉
 3 足利義詮の御前沙汰――訴訟制度の大胆な改革
第5章 観応の擾乱第二幕
 1 落日の直義――関東への撤退
 2 正平の一統――尊氏、南朝方に転じる
 3 薩埵山の戦いと直義の死
第6章 新体制の胎動
 1 尊氏―義詮父子による東西分割統治体制
 2 正平一統の破綻と武蔵野合戦
 3 尊氏と直冬、父子骨肉の争い
終章  観応の擾乱とは何だったのか?
 1 勃発の原因――直冬の処遇と恩賞充行問題
 2 観応の擾乱と災害
 3 その後の室町幕府――努力が報われる政権へ

 内容の詳しい紹介と論評は次回以降に回すことにして、今回は、私がこの書物と、「観応の擾乱」という歴史的な事件に注目する理由を書いておこう。このブログですでに169回にわたり紹介してきた『太平記』という書物の中で、この戦乱が大きな意味をもっているというのが大まかな理由である。『太平記』は鎌倉時代の末の後醍醐天皇の討幕の企てから始まって、貞治6年(1367)に室町幕府の二代将軍足利義詮が死去し、まだ幼かった足利義満を管領として細川頼之が補佐することになって平和がもたらされた(実際はそうでもない)というところで終わる。しかし、吉川英治の『私本太平記』が足利尊氏の死(延文3年=1358)で終り、山岡荘八の『新太平記』が新田義貞の死(暦応元年=1338)で終わっているように、多くの人々の興味は『太平記』の初めの方の部分に集中しているように思われる。しかし、『太平記』の面白さは、建武の新政が失敗したのちの混沌とした状況の叙述にあるのではないか、そして「観応の擾乱」こそはそのような混とんとした状況の最たるものではないかと思うからである。

 ついでに言うと、すでに『太平記』のブログでも登場した(豊仁親王がその邸で即位された)二条良基(1320-88)という人物に興味がある。当時の革新的な文学運動であった連歌の推進者である一方で、和歌を頓阿に学んで平安町時代以来の文学的な伝統を守ろうとした、転換期を体現する人物であった。頓阿、兼好、浄弁、慶運を和歌四天王というのだが、この中では兼好が多少劣るという評価をしたのが、良基ではなかったかと記憶する。その兼好の『徒然草』が今では良基の著作のすべてを合わせたよりも多くの読者を集めているというのは皮肉である。(もっとも、『増鏡』の作者が良基であるということになると、話が少し違ってくる。)
 残念ながら、この亀田さんの著書に良基の名前は出てこないのだが、文和2年(1353)に南朝軍が京都に侵攻し、足利義詮が後光厳天皇を奉じて美濃まで逃げたことは、当然記されている(202-204ページ)。この時、比叡山までは同行したが、いったん京都に戻った良基は北朝派の公卿の張本として邸宅没収という厳罰を受けて、嵯峨にあった別邸に引きこもった。しかし、京都にいてもしかたがないので、後光厳天皇のお召しに応じて美濃へと旅立つ。(『園太暦』によると、摂関家の当主にすべて声をかけて、一番早く美濃に到着したものを関白とするという内容だったそうで、良基のほかに、近衛道嗣も美濃に向かっており、最終的に良基が関白になった。) 美濃で天皇とともに過ごした後、尊氏を迎えて天皇の遷幸に従って京都に戻った次第を『小島のすさみ』という仮名日記に残している。この日記は、ドナルド・キーンが「室町時代に成立したすべての日記の中で、最も感動的な作品の一つである」(小川剛生『南北朝の宮廷誌 二条良基の仮名日記』78ページに引用)と評価しているだけあって、なかなか面白い。そしてこの『小島のすさみ』は、史料の1つとして、204ページに注記されている。

 自分の好みに任せて勝手なことを書いて、本筋から離れてしまったが、次回からまじめに紹介・論評に取り組むことにする。

ダンテ・アリギエリ『神曲 天国篇』(25-1)

8月3日(木)曇り

 ベアトリーチェに導かれてダンテは地上楽園を飛び立ち、月天、水星天、金星天、太陽天、火星天、木星天、土星天を訪問した。彼は、それぞれの世界で彼を出迎えた魂たちと、政治と宗教、ローマ帝国と教会の歴史、これからの世界と彼の運命などについて会話し、政治と宗教についてこれまで以上の知識と理解を得ることができた。こうして自らを高めた彼は、至高天から土星天へと降りてくるヤコブの階段を登って、恒星天に達し、そこでキリストとマリアの凱旋の様子を見る。さらに聖ぺトロから3つの対神徳の1つである信仰についての試問を受ける。これに対してダンテは神の本質は知性であり、人間の知性によっては神を直接認識することができないから、その知の代わりに信仰があると答える。さらに天上の完全な調和と美は、その神の知に従う「愛」と「希望」により地上にも反映されるべきであると答え、聖ペテロの承認を得る。

もしも万が一、この聖なる叙事詩、
天も地も手を貸して助け、
それがため、長年の間に私の骨身を削らせたこの詩が、
(374ページ)と、ダンテは自分の作品である「聖なる叙事詩」について口にする。彼は互いに争う暴力的で貪欲な人々「狼ども」に憎まれ、「美しい古巣」である祖国フィレンツェを追放されたのであるが、預言としての彼の詩が祖国を正しい道に導いたならば、フィレンツェに帰還し、聖ジョヴァンニ(ヨハネ)洗礼堂で詩人としての栄誉を承けたいと述べる。なぜなら預言を歌う詩人ダンテは信仰に入ったからこそ予言をえられたのであり、聖ジョヴァンニ洗礼堂こそは、彼が洗礼を受けた場所だったからである。

 聖ペテロはダンテの傍を離れて光の輪の中に戻り、また新たな光が現われる。ベアトリーチェは
・・・「見よ、見よ、ここに、
その人のために下界で人々がガリシアを訪れる領主がいます」。
(375ページ)と、この光が十二使徒の一人、大ヤコブのものであることを告げる。彼はイベリア半島西北部のガリシアのコンポステラで布教し、後にエルサレムで殉教したが、彼の遺体はガリシアに運ばれて葬られた。彼が葬られたサンティアゴ・デ・コンポステラは今日に至るまで、重要な巡礼地となっているのである。
 ベアトリーチェは大ヤコブの光に、ダンテと希望について討論するよう求めた。大ヤコブは「希望を体現する」(377ページ)存在だからである。依頼を受けた大ヤコブは、ダンテに語り掛け、
「・・・
さあ、答えよ、希望とは何か。答えよ、汝の知性がその花で
どのように自らを飾っているか。答えよ、それがどこから汝のもとに来たのか」。
このように、さらに第二の光は続けたのだった。
(378ページ) すると、ベアトリーチェがダンテに代わって、「汝の知性がその花で/どのように自らを飾っているか⇒ダンテが希望という徳をどれほど持っているのか」について答え、彼は地上の教会に属する信者のなかで最も希望を抱き、そのために、生きたまま天国に昇ってきたのだと言った。

 この後で、ダンテはこの希望とは何かを語った。
「希望とは――私は言った――将来の栄光への
豊かな期待です。それは神の恩寵と先立つ功績が
生みだします。
(380ページ) 希望は賢明・剛毅・中庸・正義という4つの枢要徳が人間に生まれつき備わっているものであるのに対し、信仰・愛とともに対神徳であるから神から与えられるのである。そして希望は善をなしたことを知ることにより生まれるという。

 ダンテは続いて、希望がどこから彼のもとにやってきたかを答える。
この光は、数多の星々から私のもとにやって来ました。
しかし私の心に最初にそれを注ぎ込んだ方は、
至高の総帥に仕える至高の歌い手でした。
(同上)という。「至高の総帥」は神、「至高の歌い手」は詩編の作者であるダヴィデを指す。古代イスラエルの王ダヴィデは旧約聖書詩編の詩の作者と考えられていた。
 次にダンテは新約聖書の大ヤコブが書いたと当時信じられていた「手紙」により、その希望をさらに豊かなものとしたという。さらに
あなた方からの慈雨を私が人々に注ぎ込みます」
(381ページ)とこの答えを結んで、自分の書く叙事詩『神曲』が地上に希望の徳を広める役に立つようにすると決意を語る。

 ダンテの希望の向かう先は、天上の永遠の生命であり、そこに彼の中世的な世界観が現われていることはよく指摘されてきたことであるが、そのように『神曲』を書き続けながらも、彼が地上、特に彼の祖国であるイタリアとフィレンツェの政治事情を忘れていない様子であることも見落としてはならないと思う。実は、地上の政治のゆくえにも希望を捨てないでいるダンテの姿も『神曲』には見え隠れするのである。

片平孝『サハラ砂漠 塩の道をゆく』(4)

8月2日(水)曇り

 2003年12月にパリ、マリ共和国の首都バマコからかつての”黄金の都”トンブクトゥに到着した著者は、12月8日、地元のガイドであるアブドラを通訳兼コック、アジィをラクダ使いとして、3頭のラクダとともに砂漠の旅に出発する。目指すは16世紀末から岩塩の産地として採掘がおこなわれているタウデニ鉱山である。途中で岩塩を運ぶキャラバンであるアザライと合流し、タウデニ鉱山との往復の記録を残そうというのである。
 砂漠の旅の途中で、アジィの知り合いのムスターファが率いるアザライに出会い、交渉の末合流することができる。このアザライに加わっているムスターファ、モハメッド、ラミィ、イブラヒムはみな親戚縁者で、それぞれラクダを借り集め、合計して52頭のラクダからなるキャラバンを構成している。
 トンブクトゥを発って19日目にタウデニ鉱山に到着すると、岩塩の採掘や掘り出した原石を「バー」と呼ばれる塩の板に加工する作業を見る。5月から10月までの炎暑の期間に、他の人々がトンブクトゥに引き上げた後も1人だけこの地にとどまって、10年間を過ごしてきたというアルバという男に出会い、彼の「巌窟王」のような優しさに感動する。
 ムスターファの一行の岩塩の調達が手間取り、2日の滞在予定を4日に引き伸ばして、ようやくトンブクトゥへの帰りの旅を始めることができた。イブラヒムがタウデニに残って働くことになり、代わりにアルファという男が加わる。ラクダに塩を積んでの帰り道は、人間にとっても、ラクダにとってもつらい道のりである。寒暖の差が激しい砂漠の旅の中で著者は体力を消耗し、栄養失調で普段なら気づくことのない尻の骨が飛び出しているのに気づくほどやせ細ってしまった。

 トゥアレグ族(黒人)のアブドラとベラビッシュ族(アラブ系)のアジィは本来ならばいっしょに仕事をしないはずの関係であるが、これまでの経緯や、アブドラが優柔不断で気が弱いために、何とか折り合って旅を続けることができた。アジィがムスターファのアザライに様々な気遣いを重ねてきたことも効果的であった。

 一行はこの砂漠の旅の中での最大のオアシスであるアラワンに戻ってくる。往路で見送ってくれた男たちが、大分痩せましたねと驚きながらも、口々に声をかけてくる。ラクダに思う存分水を飲ませて、昼食抜きで出発。
 大きな砂丘を越えると、サバンナの景観に変わる。目的地が近づいて油断したのか、疲労のためか、著者は右手の親指を骨折してしまう。歩くことに支障がないのが不幸中の幸いである。
 アカシアの木が見えるようになり、ムスターファたちのアザライの本拠地に到着する。ラミィが15頭のラクダを連れて南西の方角に離れていった。次にモハメッドとアルファが18頭のラクダを連れて家路についた。残ったのは著者たちとムスターファ、26頭のキャラバンになった。ムスターファも自分の家に戻るが、別れのあいさつを兼ねて彼の家族の写真を撮らせてもらうことにする。ムスターファに応分の礼金を払って、彼がトンブクトゥの<塩の家>に塩の板を運ぶところを撮影させてもらうことになる。

 37日目、トンブクトゥに向けて出発。出迎えるのは派手だけれども、見送るのはそっと。それがサハラの流儀である。アジィの家族のテントの近くで野営。ところが豪雨に出会い、岩塩が影響を受ける。岩塩が乾くのを待つために、行程が遅れる。ムスターファと一緒に塩を運ぶつもりでいたラミィが事情を知って追いついてくるが、彼も4分の1のバーを割るなど被害を受けていた。
 奇蹟的に岩塩は1枚も割れず、40日目にムスターファは出発する。トンブクトゥが近づくにつれてメッカに向かって祈る祈り方が変わってくる。
 
 42日目、最後の行進。マリ第2の街もプティに飛び立つ、飛行機のエンジン音が聞こえる。翌日、同じ飛行機に著者が乗ることになるのだが、まだ実感がわかない。トンブクトゥの町が近づき、昼近く、町の入口に到達した。「ムスターファが14頭のラクダを引き連れて、西の通りから町に入る。アジィはラクダと直進して自分の家に向かった。」(216ページ) 著者とアブドラはムスターファについていく。「通りを10分近く行くと、左側の角に日干し煉瓦の雑貨屋があった。/出迎えたソンガイ族の中年の男がムスターファと挨拶を交わした。彼が店の主だった。彼が出てこなかったら、この雑貨屋が「塩の家」だとは気づかない。挨拶もそこそこに、若い男を手伝わせて店先にバーを下した。すぐそばのトタンを張ったせまい扉の奥が塩の保管場所だ。」(216-217ページ) こうして著者は「塩の家」を写真に収め、取引の様子を目撃することができた。

 迎えに来たアジィの家で荷物をまとめ、ホテルで一泊、翌日、モプティに飛ぶことが決まった。モプティは塩の集散地なのである。そこで著者は約3000円でバーを1枚買う。大きすぎて運べないので3分の2にカットして日本に持ち帰り、現在は「たばこと塩の博物館」に展示されているそうである(この博物館は昔、渋谷にあったころに出かけたことがあるが、現在は墨田区にあるという)。
 骨と皮になった体は1か月で元に戻り、33年抱いていた夢を成し遂げたというのにご本人以外の人はあまり興味を示さなかった。次の旅は、アザライの一員になって、タウデニから塩を運ぼうと思ったのだが、マリの治安は再び悪化、武装闘争が起きていて、自由に旅行できない状態が続いている。

 砂漠の中、岩塩を運ぶキャラバンは8世紀ごろからずっと続いてきたというが、マリでもより安価に海の塩が手に入る時代を迎えようとしていると著者は言う。人々の暮らしは楽になるかもしれないが、歴史的に積み重ねられてきた砂漠の中の旅の知恵がこれで失われるかもしれない。現実に、著者たちは砂漠を車で走り回っている欧米人たちの姿を何度も見ているのである。
 前回も書いたが、日付など、旅の詳細がはっきりしない部分がある。さまざまな撮影器具を身につけて移動していた著者はアブドラから「アルカイダだ」といわれて笑われたそうであるが、過酷な条件や危険のために、落ち着いて記録が整理できない部分があったのかもしれない。砂漠の中で塩を運ぶ人々が作り上げてきた文化や歴史についても触れられているが、それ以上に、人々の心情に分け入って旅の記録をまとめている点を評価すべきであろう。つねに盗賊や反乱分子からの攻撃の危険にさらされ、部族間の反目も絶えず、不安が絶えない中で暮らしている彼らであるが、家族や仲間、旅人にやさしい配慮を忘れない側面もある。そういう砂漠に生きる人々の生活の内側に入って、ごく一部であるかもしれないが、その心情をさぐりだした書物として、この書物は意義があると思う。

『太平記』(169)

8月1日(火)曇り、午後から雷雨

 建武3年(南朝:延元元年、1336)5月25日、九州から海路東上した足利尊氏、陸路を進んだ直義兄弟の軍は、兵庫で待ち受けていた新田義貞軍と戦った。義貞は、京都から応援に派遣された楠正成とともによく戦ったが、衆寡敵せず、正成は自害、義貞は京都に退却した。義貞敗戦の知らせに、後醍醐天皇は比叡山へと向かわれた。持明院統の花園法皇、光厳上皇、豊仁親王は、比叡山に赴く途中で足利方の武士に救われた。8月に豊仁親王が即位された。正成の首は六条河原にさらされたが、尊氏の厚情で、河内の妻子の許に帰された。正成の子正行は父の首を見て腹を切ろうとしたが、母は父の遺訓を聞かせて、自害を思いとどまらせた。

 今回から、『太平記』の第17巻に入る。
 延元元年(北朝:建武3年)5月27日に、後醍醐天皇は再び比叡山に臨幸された。比叡山の3千の衆徒たちは、この年の春にいったん京都を占拠した足利方を追い落とした記憶が残っていて、今度もたやすく足利方を破ることができるだろうと天皇を守り、盛り立てようとしていた。そして、北陸地方と奥州の宮方の武士たちの上洛を待ち受けているという噂であった。
 そこで、尊氏、直義、足利家の執事である高、尊氏・直義兄弟の母の実家である上杉の人々は、持明院統の皇族方が御所とされていた東寺(教王護国寺)に集まって作戦会議を開いた。宮方への攻撃を延び延びに先送りしていると、義貞勢に援軍が到着して形勢が不利になる恐れがある。いまはまだ義貞勢の数が少ないので、このうちに比叡山を攻撃しようと、6月2日、四方の手分けを決めて、敵の正面、側面、背後を攻めるべく50万の軍勢を比叡山へと派遣した。

 大手(正面)には足利一族の吉良、石塔、渋川、畠山を大将として、その勢5万余騎、大津、松本(滋賀県大津市松本)の東西の宿、園城寺(三井寺)の焼跡、志賀、唐崎、京都東山の如意が岳まで兵が充満した。搦め手として、比叡山の西側の修学院の方から、これも足利一族の仁木、細川、今川、荒川を大将として、四国、中国の武士たち8万余騎が向かった。比叡山の西麓である西坂本へは高一族のほか、足利一族の岩松、桃井を大将として30万騎、八瀬、藪里、松崎、赤山、降松、修学院、北白川まで兵が配置され、音無の滝、不動堂、白鳥から比叡山へと押し寄せた。

 比叡山の方では、足利方がこれほど早く攻めて来るとは予期していなかったのであろうか、道筋に見張りのものを立てることもせず、木戸や逆茂木を構えて敵襲に備えることもしていなかった。とはいうものの比叡山は険しい道の続く要害の地ではあったのだが、足利方の武士たちの馬はそのような岩場続きの路には慣れていた。
 折悪しく、比叡山に立て籠もる宮方の武士たちは、大将である新田義貞をはじめとして、千葉、宇都宮、土居、得能ら一人残らず、皆東坂本に集まっていて、山上には歩くこともできない長老の僧や、僧房にこもって学問に励む学僧しかおらず、兵力になるようなものは1人もいなかった。この時に、もし西の雲母坂から進んできた大軍が、休まずに進軍を続けて、比叡山の頂上まで登っていれば、山上も坂本も、防ぐ手立てを講じることができず、ひとたまりもなく陥落していたはずであるが、比叡山の鎮守の神である山王権現のご加護があったのであろうか、急に朝霧が立ち込めて、ごく近い距離でさえ見分けることができないほどであったので、味方の前陣が上げた時の声を、敵の防ぐや叫びの声と聞き違えて、後陣の多数の武士たちが続いて進まなかったので、漫然と時間を浪費してしまったのである。

 そうこうする間に、日吉山王七社の第一である大宮権現まで山を下りて、延暦寺の東塔・西塔・横川の僧徒の評議である三塔会合に出席していた僧徒が、山に戻ってきて、雲母坂の水飲峠にあった和労堂のあたりに集まり、ここを破られるか破られないかが勝敗の分かれ目であると必死に防いだので、攻め寄せてきた足利方の武士たちのうち、300余人が戦死して、前陣は無理に前進しようとしないので、後陣は益々進もうとする意欲を失い、雲母坂の途中の水飲み場所の木陰に陣を張って、掘割を仕切って垣のように楯を並べ、お互いに遠矢を射交わして、その日は無為に過ごしたのであった。

 西坂の方で合戦が始まったことを知らせるように、山中に鬨の声がこだましたので、東の志賀、唐崎の足利方の10万余騎は、東坂の西、穴生(大津市穴生)の前に押し寄せて、鬨の声を上げたのであった。

 ここで、敵の新田方の陣を見渡すと、無動寺谷の麓から湖の波打ち際まで、空堀を2丈(約6メートル)あまり掘り通して、要所要所に橋を渡し、岸の上に塀を築き、木戸、逆茂木で守りを固め、左右の石垣にまたがらせて作った渡櫓や、高く築いた高櫓を300余個所に設けていた。塀の上から新田の紋である中黒を記した旗が30本以上翻り、山を下ってくる風に吹かれて龍蛇のように見えた。その下に、陣屋を並べて、雨を防ぐために油を塗った幕を引き、鎧をさわやかに身につけた兵が2,3万騎、馬を後ろにつないで、軍勢ごとに並んでいた。
 無動寺谷の麓である白鳥の方を見ると、千葉、宇都宮、土居、得能、四国、中国の武士たちが、このあたりを守っている様子で、結城の左巴、宇都宮の右巴、千葉の月に星、河野の折敷に三文字、その他の旗が60本以上が梢越しになびいていた。その陰に兜の緒をしめた兵3万余騎が、近づくと敵の側面から襲い掛かろうと、馬の轡を並べて控えていた。
 さらに琵琶湖の方を見ると、西国、北陸地方、東海道の水上の戦いに慣れた武士たちと見受けられる紋を書き記した旗300本余りが見え、それぞれの舟に乗った兵を合わせると数万人余り、それぞれが弓戦の支度をして、戦いが始まれば側面から矢を射かけようと待ち構えている。

 寄せ手の方が大軍であったのだが、敵の勢いに気勢をそがれて、矢の届く距離にまで近づこうともせず、大津、唐崎、志賀の里の300か所あまりに陣を取って、遠攻めにしたのであった。

 持明院統の皇族を戴いて、大義名分を獲得した足利方であるが、依然として戦意は高くない。これまで何度も書いてきたように、出来るだけ自分の力を温存して、必死に戦うことはないという方が当時の武士としては普通の態度である。宮方は、比叡山の武力を頼りにして、戦いを続けようとしている。戦いの常として、高いところから低いところの敵を攻める方が有利であるが、山の上は武器や食料の補給がむずかしいという問題がある。しかも比叡山には普通以上の数の人間が集まっているので、長期戦になればなるほど、このあたりの事情は深刻になるだろう。その一方で、全国的に家督や領地をめぐる争いが頻発しているから、宮方に呼応して兵を挙げようという武士には事欠かないのも確かな事である。それで、宮方としては、戦いを長期化させることで、足利方の内部分裂を誘うという戦略にしか勝利の見通しはない。個別的な戦闘では有利な展開を見せる可能性のある宮方が、その優勢を長期的に持続できるかが問題である。 
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