中野重治『むらぎも』

7月24日(月)曇り

 7月23日、中野重治『むらぎも』(講談社文芸文庫)を読み終える。この小説はずっと昔に友人から借りた文学全集の1冊として読んだ記憶があるが、その後は、時々拾い読みする程度で終わっていた。この文庫本もいつ、私の書架に加わったのかはっきりした記憶がなく、蔵書の整理をする中で見つけたので、一度精読してみようと思いながら、机の上に置きっぱなしになっていたものである。

 『むらぎも』は中野重治(1902-79)が1954年(昭和29)に『群像』に連載し、この年に講談社から単行本として刊行された長編小説で、彼が1939(昭和14)年に発表した中編小説「歌のわかれ」の続編をなす。「歌のわかれ」の主人公である片口安吉は5年間かかって金沢の(旧制)第四高等学校を卒業し、東京帝国大学に進学してドイツ文学を専攻しようとする。その一方で金沢時代から続けていた短歌の会に参加するが、次第に短歌という表現形式に飽き足らなくなってくる。

 安吉は『むらぎも』では東京帝国大学の3年生になっている(当時の大学は3年制であったので、最上級の学年である。中野がこの小説に取り組もうと考えたのは戦後すぐの時期で、その時は『卒業』という表題が考えられていたという。高等学校で5年を過ごした安吉は、どうしても卒業したいが、さまざまな困難がある。
 「卒業」は人生における境界の一つであるが、他にも境界的な出来事に直面している。1926年(大正15)のことで、この年の12月25日に大正天皇が崩御、年号が昭和と改まる。1923年(大正12)年の関東大震災で東京は大きな被害を受け、その後の生活苦が社会不安をもたらしていた。大正から昭和への改元は新しい時代への動きを予感させた(新しいからといって、それがよいものであるとは限らないのは言うまでもない)。もう一つ付け加えておけば、1925(大正14)年に普通選挙法と抱き合わせで、治安維持法が成立している(小説の中でもこの法律について触れられている)。

 大学入学後、安吉は詩人から小説家になった斎藤鼎(室生犀星がモデル)のもとに出入りしていて、同じように彼のもとに出入りしている文学青年の深江(堀辰雄)や鶴来らと『土くれ』(実際には『驢馬』)という同人雑誌を刊行してきたが、それが10号でいったん打ち切ることになってそのための原稿として何篇のスケッチを書いている。この雑誌は「斎藤の若いときからの詩の仲間で、斎藤が小説作家になってからも詩だけ書いている、偏屈で世ばなれしたようなところのある」狭間京太郎(萩原朔太郎)、それに「師匠株の斎藤と、…特別親しくしてるらしい」(342ページ)葛飾伸太郎(芥川龍之介)らの後援を受けているが、安吉は葛飾と一度会っただけである。ところが、その葛飾からぜひ会いたいという連絡がある。深江は『土くれ』の第10号には、安吉が書き溜めていたスケッチではなく、彼がある会合で話をした啄木論の方がいいという。安吉の文学者としての個性が仲間からも、文壇に属する人々からも、少しずつ認められてきている。その一方で彼は自分自身の美意識の変化、社会意識の変化(とそれをどのように表現していくか)に悩んでいる。

 この時期、社会的な関心を抱いている東大の学生たちの間で組織されていた新人会に安吉は遅れて加わり、マルクス主義の社会理論を学ぶだけでなく、文学理論の研究では中心的な人物になる。労働運動の支援にも出かけるようになる。特に合同印刷(実際は共同印刷)という企業の争議の応援活動が彼のものの味方を大きく変えようとする。
 ドイツから救援会の組織のためにやってきたリーンハルトという人物の通訳をしたり、ドイツ語で書かれた社会主義文献を翻訳して原稿料をもらうようになるが、大学のドイツ文学の授業にはだんだんついていけなくなってきている。 

 この時代の大学で卒業のために必要とされていた科目数は、現在の大学院の修士課程で取得すべき単位と同じ程度の量であったようであるが、それでもなかなか単位をそろえることができず、友人たちの助けを借りて必死になって増やしていく。フランス語(⁉)の試験を代理受験してもらうことになったのはいいが、手違いで自分の名前で出される答案が2通ということになってしまったという場面にはユーモアを感じる。ドイツ文学科の役人風、イギリス文学科の師範学校風の空気に対して、フランス文学科は「芸術的なうえにジャーナリスチックで、その上家族的でさえもあるのらしかった」(89ページ)という文学科の主な専攻の間の空気の違いの指摘も興味深く思われた。

 卒業を間近にした学生たちによる新人会の会合で、それぞれが卒業後の進路について語る。労働組合や政党の事務局で働くというもの、セツルメントへ行くもの、医学部の連中は病院や研究所で働くと言い、文学をやるというものは安吉とあと1人だけだった。安吉自身も含めて、まだ方向性は混とんとしている。まだまだ社会民主主義系の政党や労働組合に勤めようとしているものが多いし、安吉がリーンハルトとともに訪れた先も総同盟をはじめ、多岐にわたっている。安吉(→中野重治)は彼がその後の時点で対立することになる辰野隆吉(青野季吉)の仕事を手伝い、田口(葉山嘉樹)の作品を高く評価している。混とんとしているが、しかしそれが未来への可能性であるとも感じられる。

 文学史、あるいは社会運動の理論と歴史に踏み込んで、もっといろいろなことを書きたいのだが、この作品を読み直して思うのは、この作品(と中野重治の思想)が多くの欠点をもちながらも、文学と社会の関係についての多くの可能性を示唆しているということである。とりあえず、そのことを書いて、私の批評をまとめておきたい。 
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『太平記』(168)

7月23日(日)曇り、時々雨

 建武3年(延元元年、1336)5月25日、九州から京都を目指して、海路から東上してきた足利尊氏、陸路を向かってきた直義兄弟の軍勢は、兵庫で合流し、彼らの攻勢をこの地で食い止めようとして陣を張っていた新田義貞と、彼を応援するために京都から派遣されてきた楠正成の軍勢と衝突した。楠正成は弟の正氏とともに足利直義の命を狙い、その心胆を寒からしめたものの、上陸してきた尊氏軍からの応援を得た直義軍の逆襲に次第に配下の兵たちを失い、まだ敵を打ち破って落ちのびることはできたが、一族郎等70名あまりで湊川で切腹して果てた。生田の森で奮戦した義貞も、衆寡敵せず退却した。義貞敗戦の知らせに、後醍醐天皇と多くの廷臣、武士たちが比叡山へ向かった。持明院統の花園法皇、光厳上皇、豊仁親王は、比叡山に赴く途中で足利方の武士に助けられた。尊氏はここで、持明院統の天子を擁立することで、朝敵という汚名から逃れることができた。(尊氏らの援助を得て、豊仁親王が即位される。光明天皇である。)

 湊川で戦死した楠正成の首は、六条河原でさらし者にされた。この年の正月に、正成は足利軍を欺く作戦として新田義貞、北畠顕家、楠正成ら宮方の有力な武将が戦死したといううわさを流し、だまされた足利方の方が戦死者の死体を探し回ったけれどもそれらしい首が見つからなかったので、少しでも似ている首を2つ選んで、獄門の木にかけ、新田義貞、楠正成の首と書きつけたという出来事があった(15巻)。それ以前にも正成は自分が死んだように見せかけて敵を欺くことがあった。これまでそんなことが続いていたので、今回もまた偽の首ではないだろうか。あの恐ろしい正成が、そう簡単に討たれてたまるものかと人々は噂しあった。その噂を受けて或る人が狂歌を読んで、落書きを残した。
 うたがひは人によりてぞ残りけるまさしげなるは楠が頸(くび)
(第3分冊、103ページ、今度討たれた首は本物らしいが、正成ゆえに疑いが残る。疑いに討つ、正成に正しげ(本当らしい)を掛けている。)

 そののち、「正成の未亡人や遺児たちが、今一度死んだ正成の顔を見たいと思っているだろう」といって、子どもの正行のもとに首を送り届けた。まれにみる情け深い行為である。
 『太平記』の本文は「情けの程こそ有難けれ」(第三分冊、同上)と書いているが、森茂暁は『足利尊氏』(角川選書)の中で、正成は建武新政権のもとで尊氏の執事である高師直とともに武者所で働いており、師直を通じて尊氏とも相識であったのではないかと推測している。そして豊田武が掘り起こした文書をもとに、尊氏が湊川で戦死した正成のために供養を行ったこと、正成の「いさぎよさ」に内心敬服していたのではないかと思われるとの所説をも紹介している。(実際問題として、この時期の武士たちは、できるだけ戦闘に参加せず、勝敗の決着がつき始めたころに強いほうに味方したり、逃げたり、適当に降参したりと、自分が生き延びることにだけ必死になっている例が大部分であった。だからこそ、正成の生き方が『太平記』の作者によって賞賛されることにもなったのである。誉めるくらいならば、自分も同じように戦死すればいいという意見も出るかもしれない…) とにかく、尊氏は新田義貞や北畠顕家に示したような敵意を正成には抱いていないらしいと森さんは論じている。

 正成の未亡人と、正行は首を見て、今回の戦を前にして、正成が兵庫に向かう際に、言い残したことが数多くあったが、その中に「今度の合戦には、必ず討死すべし。正行をば、同じ道にもと思へども、後栄(こうえい=子孫の栄え)のために」(第3分冊、103-104ページ)といってあとに残していったことが思い出され、出陣したのを最後の別れと、覚悟してはいたけれども、そのとおりになってしまい、首を見ると、生前の面影は残っているが、目は閉じ顔色は変わって、変わり果てた姿になっているので、悲しみが胸に迫って、その場に泣き崩れるのであった。

 今年11歳になった正行は、父の首の有様、母の嘆きを見るも聞くも、やり場のない思いに、耐えられぬ気持ちで、涙を抑えつつ、持仏堂の方に向かったのを、母は気がかりに思って急いで後をつけてみると、父親が兵庫に向かおうとするときに形見に残していった菊水作りの刀を抜き、袴の腰を押し広げて、自害しようとしているところであった。
 菊水というのは楠氏の紋である。余談になるが、昔、神戸の湊川と、大阪の十三と、京都の新京極に菊水映画劇場、略して菊映という映画館があった。菊水の門の短刀について、岩波文庫版の脚注は、後鳥羽上皇がつくらせて臣下に与えたという「菊御作」の刀かと注記している。

 自害を企てた正行であったが、母親が泣きながら、父正成が正行を同行せずに故郷に帰らせたのは、自分の戦死した後に再起を図り、ふたたび朝敵と戦うべく備えさせるためであったはずだと説得したので、思いとどまったのであった。母親のあたえた教訓によって、正行はまた父の遺言を思い出し、武芸智謀を磨いて父の遺訓を実現する機会に備えるのであった。

 ここで16巻は終わる。林屋辰三郎は楠木正成・足利尊氏・佐々木道誉・細川頼之が『太平記』がたどった4つの時代をそれぞれ代表する人物であると論じている(林屋辰三郎『佐々木道誉』、178ページ)が、その1人が姿を消したことで、『太平記』はいよいよ次の時代への動きが急になってくる場面を描き出すことになる。楠正成(くすのき)、名和長年(伯耆→ほうき)、結城親光(ゆうき)、千種忠顕(ちくさ)という後醍醐天皇のお気に入りの(成り上がりの)人々を<三木一草>というのは、すでに紹介したが、楠は既に16巻で姿を消し、17巻では残る3人が姿を消すことになる。

日記抄(7月16日~22日)

7月22日(土)晴れ、暑し

 7月16日から本日までの間に経験したこと、考えたことなど:
7月16日
 神保町シアターで「神保町シアター総選挙」の第2弾:「特集「恋する女優 芦川いづみ」より」『あじさいの歌』(1960、日活、滝沢英輔監督)と『誘惑』(1957、日活、中平康監督)を見る。芦川のほかに、轟夕起子と中原早苗が両方の作品に出演している。

 『あじさいの歌』は石坂洋次郎の同名小説の映画化。中学時代であったか、高校時代であったか忘れたが、同級生の中に石坂作品の愛読者がいて、『あじさいの歌』はいいから是非読めと勧められた記憶がある。
 散歩中に足を痛めた老人(東野英治郎)を助けた青年デザイナー(石原裕次郎)は、その老人が大事に育てている一人娘(芦川いづみ)に惹かれて、近づこうとするが、彼女には生い立ちの秘密があった。いつまでも彼女を手元には置けないと思った老人は、彼女の家庭教師たちと相談して、彼女に外の社会への手ほどきをする同年輩の女性を探す。やってきた女子学生(中原早苗)は、青年デザイナーの友人でもあった・・・。轟夕起子が芦川いづみの母親役であろうというのは、クレジット・タイトルを見ていて何となく想像がつく。映画の中で、裕次郎がどこか似ているとつぶやく場面があるが、確かに似ている。轟夕起子が太る前は、もっと似ていたのではないかと思う。

 『誘惑』は、伊藤整の原作による恋愛喜劇。銀座で用品店を営む初老の男(千田是也)は2年前に妻が死んで娘(左幸子)と2人暮らしである。彼には画家を志して挫折し、恋人(芦川いづみ)とも別れたという過去があった。妻が死んだことで、昔のことを主出した彼は、自分の店の2階を改装して画廊にすることを思いつく。娘は前衛生け花を手掛けていて、仲間と一緒に父親の画廊で個展を開こうとするが、予算が足りないので、知り合いの無名画家のグループに協力を呼び掛ける。そのグループのリーダー(葉山良二)が、父親の昔の恋人の息子であるとは知らずに…。
 左幸子と芦川いづみが2人とも、母親と娘の一人二役を演じるほか、洋品店の店員を演じる渡辺美佐子と小沢昭一、洋品店主に保険を勧めようとしているのか、言い寄ろうとしているのかわからない未亡人役の轟夕起子の演技など見どころ満載で、テンポよく物語が進行する。この作品を見るのは2回目だが、以前見た時よりも楽しく見ることができた。

7月17日
 NHKラジオ『まいにちフランス語』の「文化コーナー」ではパリの地下鉄の歴史が話題として取り上げられた(一部、放送されていない)。
Méme si le projet existe dés les années 1860, le métro parisien n'est pas aussi ancien que ceux de Londres ou de Budapest.
(1860年代から計画はあったのですが、パリの地下鉄はロンドンとブダペストほど古いわけではありません。)
Sa première ligne est inaugurée en 1900, pendant l'exposition universelle qui se tient à Paris.
(1900年、パリ万国博覧会の会期中に、地下鉄の最初の路線が開通しました。)
 ブダペストの地下鉄が、ヨーロッパで最も古い歴史をもつものの1つであるというのは初耳である。

7月18日
 NHKラジオ「英会話タイムトライアル」は簡単な英語を使って、自分の意図を伝えるのにはどうしたらいいかという点で、参考になる内容が少なくないが、本日の放送分では、
「この大根おろしをこの天つゆに入れる」は Put this in this
「この味噌をこのキュウリにつけます」は Put this on this (もちろん、Put this miso on this cucumberでもいい)
この青のりをこのお好み焼きに振りかけます Sprinkle this on this
と(動作を交えながら)やればいいなど、いざというときに役立つようないい方が紹介されていた。

7月19日
 『朝日』の朝刊に『台湾歌壇』の代表で、司馬遼太郎「街道をゆく 台湾紀行」に案内役の「老台北」として登場した蔡焜燦(さい・こんさん)さんが90歳で亡くなられたという訃報が出ていた。日本の植民地時代に台湾で日本語を学んだ世代に属する方であるが、そうしたことがどんどん昔の話になっていることがわかるニュースでもあった。日本の植民地であった地域はもちろんのこと、植民地ではなかった東アジアの諸地域を含めて、日本語と日本の文学の近代化の影響力が広い範囲で及んだことはしばしば指摘されている。

 NHK『ラジオ英会話』の”U R the ★ !(You are the star!)"のコーナーに
I slipped on a banana peel. (バナナの皮を踏んで滑りました。)
という文が出てきたと思ったら、同じく『実践ビジネス英語』の”Word Watch"のコーナーでもbabnana peel (バナナの皮)が取り上げられた。「banana skinともいう。slip on a banana peel [skin]は「バナナの皮を踏んで滑る」ということで、コメディーなどによく出てくる。「失敗する」「政治的につまずく」という意味で使うこともある」そうである。

 同じく『実践ビジネス英語』の”Quote...Unquote"のコーナーで紹介された言葉:
The greatest object in educating is to give a right habit of study.
---- Maria Mitchell (U.S. astronomer, 1818 -89)
(教育の最大の目的は、正しい学習習慣を身につけさせることである。)
学習習慣以前に生活習慣が来るのではないかと思う。規則正しい生活をしている学生・生徒は一般的に成績もいいからである。

7月20日
 NHK『ラジオ英会話』の”U R the ★!” のコーナーで次のような会話例を練習した:
This is a cute figurine. (これはキュートな置物ね)
It's called maneki-neko. It means a beckoning cat. (招き猫と呼ばれています。歓迎する猫という意味です。)
It welcomes guests? (お客を歓迎するの?)
It brings the owner good luck. (持ち主に幸運をもたらします。)
 同じく『まいにちイタリア語』の17日放送分に
Il maneki-neko si usa come portafortuna. (招き猫は縁起物として使われる。)
18日放送分に
Secondo me il maneki-neko si può usare anche come sprammobile. (招き猫は置物としても使えると思うよ。)
という例文が出てきたのを思い出した。

 『実践ビジネス英語』の”Quote...Unquote"より:
I prefer liberty with danger to peace with slavery.
---- Jean-Jacques Rousseau (French philosopher, 1712- 78)
(私は、隷属をともなう平和よりも、危険を伴う自由の方がいい。)
そう思わない人もかなりいるような気がする。以前、学生と話していて、「鶏口となるも牛後となるなかれ」という言葉をその学生が、「寄らば大樹の陰」と混同していることに気付いたことがある。隷属をともなう平和≒寄らば大樹、危険を伴う自由≒鶏口と考えてよかろう。

7月21日
 『実践ビジネス英語』の”Quote ...Unquote"より:
By failing to prepare, you are preparing to fail.
          ---- Benjamin Franklin (U.S. statesman, diplomat, inventor and scientist, 1706- 90)
(準備しそびれることで、あなたは失敗する準備をしている。)
何事にも、取り組んでみないとわからないことがあるから、できるだけ早くから準備に取り掛かるほうがいいのである。

7月22日
 永田和宏『人はどのように鉄を作ってきたか 4000年の歴史と製鉄の原理』(講談社ブルーバックス)を読み終える。この本を買ったのが6月23日であるから、約1か月かけて読み終えたことになる。専門的で難しい本だが、鉄作りを歴史的に概観する中で、製鉄には、溶鉱炉で塊鉄鉱石から溶鉄を作り、転炉で脱炭する間接製鉄法と、鉄鉱石粉を天然ガスで還元して還元鉄を作り、それを電気炉で溶解する直接製鉄法、そのどちらでもない第3の製鉄法があり、日本で古くからおこなわれてきたたたら製鉄法はこの第3の製鉄法に属するという。
 国連の気候変動に関する政府間パネル(IPCC)が採択した、化石燃料による炭酸ガス排出の枠組みを2050年には1990年の半分にまで削減するという行動方針が実現すると、「エネルギー源を100%石炭に依存している溶鉱炉は生き残れない」(234ページ)という。アメリカがパリ協定を離脱した背景がこのことで理解できるが、そういう事情だからこそ、著者は第3の製鉄法に期待をつないでいるようである。このほか、法隆寺の釘の話を含む「和鉄はなぜ錆びないか」など、話題豊富である。

久野収 鶴見俊輔『現代日本の思想――その五つの渦――』(2)

7月21日(金)晴れ、暑し

 1956年(昭和31)に刊行されたこの書物は、自身すぐれた思想家であった久野と鶴見の共同作業の産物として、昭和戦前から戦後の20年代にかけて社会的に影響力を持った国産の思想について概観し、分析を加えたものである。特定の哲学流派や権力の政策的な動きには限定されず、「文学、政治、教育、叛乱、世相など、生活のさまざまな分野から」(ⅰページ)さまざまな考え方の流れを選び出しているところに特徴がある。

 冒頭の章で、「日本の観念論」として「白樺派」を取り上げているのは、著者たちのこのような姿勢をよく示している。前回にも書いたのだが、白樺派の影響力の大きさというのは、誰も否定できないほど大きなものである一方で、それを日本独自の展開を遂げた「観念論」の代表例として取り上げるのは、思い切った評価の仕方といえよう。「観念論」に相当する英語の"idealism"には「理想主義」という訳し方もあり、白樺派の思想的・文学的な受容の歴史からいえば、「理想主義」の方がしっくりくるように思うのだが、著者たちはあえて「観念論」を選んでいる。

 白樺派に属する人々として、小説家の志賀直哉、武者小路実篤、里見弴、有島武郎、詩人の千家元麿、高村光太郎、歌人の木下利玄、劇作家の郡虎彦、倉田百三、画家の岸田劉生、九里四郎、有島生馬、中川一政、美術史家の児島喜久雄、民衆芸術研究者・運動家の柳宗悦の名が列挙されているほか、グループの近縁にいた人物として小説家の長与善郎、政治家の有馬頼寧の名も挙げられている。彼らが雑誌『白樺』を中心に活動したのは、1910年(明治43)から1923年(大正12)で大正の思想史に属することであるが、彼らはその後、昭和に入ってからも集団としてのまとまりを維持しながら活動を継続し、『不二』(1924-26)、『大調和』(1927-28)、『心』(1948-)などの雑誌を通じて社会的な影響力を及ぼしているという。『心』という雑誌は私が高校生の頃、よく書店で見かけたものである。

 「明治の末に出発し、今日まで、ほとんど50年、影響力をもちつづけてきた思想運動として、その業績は、観念論という思想流派のなしとげうるかぎりでの最もよいものをふくんでいる。昭和時代におよぶ最も実りある観念論の運動であると思う。『心』その他の主軸として、この思想は戦後の保守主義の思想家たちのささえとなっている以上、白樺派の仕事を公平に評価することは、今後の前進のために私たちにぜひ必要なことと思われる」(2ページ)と著者たちは書いている。「今後の前進」の意味するところが今ひとつ不明確であるが、思想史研究の前進というふうに受け取っておこう。
 白樺派に対する著者たちの高い評価をめぐり、とりあえず2つのことを指摘しておく必要がある。第一は、白樺派の影響が著者たちが指摘するよりも広く、保守主義の思想家たちを越えて広がっているということである。鎌倉で志賀直哉や里見弴と親しく付き合った人物の1人が映画監督の小津安二郎であり(このために、小津は淀川長治から嫌われるのであるが)、志賀直哉に師事した人々として、一方で阿川弘之が、もう一方で小林多喜二がいたことを忘れてはなるまい(中野重治の「歌のわかれ」には、中川一政の絵画作品から受けた印象のことが記されている)、武者小路実篤に師事した人の中には有楽町の駅前でガリ版刷りの詩集を売り歩いた城米彦造がいたというふうに、白樺派の影響はひとくくりにはできない性格をもっている。特に信州白樺派に代表される、現場の学校教師たちに与えた影響や、そうした教師たちに教えられた子どもたちのその後のことまでを視野に入れると、事態はより混とんとしてくるはずである。
 第二は、保守主義の思想家たちに与えた影響の様相を詳しく見ていく必要があるということである。文教行政などで影響力をもった保守的な科学者や数学者の中には、「情緒」の重要性を強調したり、俳句を作ることを勧めたりする人がいて、そういう人たちに対する白樺派の影響は比較的読み取りやすいと思うが、政治家や実業人の中で影響を受けたという人がどの程度いるかは調べてみないとわからない。『日本経済新聞』に連載されている「私の履歴書」を詳しく読んで分析するような人が出てくると、きわめてありがたい。今の副首相兼財務相である麻生太郎さんは白樺派の人々の多くの母校である学習院の卒業生であるが、その言動を見ているとあまり白樺派の影響は感じられない。学習院を卒業した作家というと、三島由紀夫、藤島泰輔、塩野七生、森村桂、大倉崇裕といったところが思い浮かぶ(記憶違いがあるかもしれない)が、森村桂以外はあまり白樺派の影響を感じさせない。それから現代の政治家や政治思想家になると、新自由主義だの、新保守主義だのという外来のイデオロギーに影響されている人も多くなってきて、白樺派の影響からはまったく脱却している人も少なくないと思われる。

 どうも話が先に進まないが、思想史研究というのはそういうもので、今後ともに気長に付き合っていただきたい。有馬頼寧の名が出たので、思い出すことがある。大学で教えた学生の一人に競馬好きがいて、卒業研究の課題を選ぶときに、「おまえは競馬が好きだから、有馬記念で有馬頼寧の研究をしたらどうか」と言ったら、「先生、冗談はよしてください」といわれてしまった。こっちは結構本気だったのだが、相手にされなかったのを未だに残念に思っている。

ダンテ・アリギエリ『神曲 天国篇』(24-1)

7月20日(木)晴れ、暑し

 ベアトリーチェに導かれて地上から天上の世界へと旅立ったダンテは、月天、水星天、金星天、太陽天、火星天、木星天、土星天を訪れ、土星天から至高天まで伸びている階段を登って恒星天に達する。恒星天は人間の目の届く限界であるとともに、人間的な世界と神の世界の境界となっている。恒星天で彼はキリストとマリアの天国への凱旋の様子を見た。

 第24歌の冒頭で、ベアトリーチェが、天国の住人たちは神の「子羊」イエス・キリストのあたえる精神の糧により満ち足りていると述べ、彼らと同じ精神の糧の一部だけでも味わわせてほしいと魂たちに頼む。
「・・・
この者の果てしない望みに注意を傾けて
雫を与え、飢えを癒したまえ。あなた方は
この者が思考し、知ろうとしているものが出る泉で喉を潤しているのですから」。
(358ページ) 「思考し、知ろうとしているもの」は「神智」のことである。

 魂たちは輝きながら、輪を作って
・・・それぞれ
異なって速く遅く踊り、
彼らの富を私に推し量らせた。
(359ページ) 「彼らの富」は神の「恩寵の豊かさ」のことである。そのような輪舞の中から、「その明るさを越えるものはそこには一つもない」(360ページ)魂が出てきて、ベアトリーチェの周囲を3度回った。それは十二使徒の1人であり、初代教皇であったペテロの
魂であった。ペテロの魂が神学の象徴であるベアトリーチェの周りを3度回ったことは、教会が神学に対して払うべき敬意を象徴していると考える人もいるそうである。

 ベアトリーチェは、ペテロの魂に向かって次のように語りかける:
・・・「おお、偉大なる傑物の永遠の光よ、
この奇蹟の喜びに至るための二つの鍵を
我らの主が地上にお運びになり委ねられた方よ、

あなたの心のままに、信仰についての
易問であれ難問であれ、この者に試問されよ。
あなたは信仰のために海の上を歩いたのですから。
・・・」
(361ページ) ダンテが天国にふさわしい人間かどうかはペテロの目には明らかなはずである。しかし、それでもダンテに「信仰について話をする機会」(362ページ)を与えてほしいという。ベアトリーチェがペテロに話しかけている間に、ダンテは
バカラリスが
結論を出すためではなく、弁証するために
師が論題を提示するまで頭の中で備え、話さずにいるように、
(362ページ) ダンテは試問に対して答える準備をしていた。バカラリスは中世の大学における教養諸学の教授資格であるマギステル学位を取得しようとする候補者のことである。彼らには論証を上手に表現する能力が求められた。当時すでにボローニャをはじめとしてイタリア各地に大学が設置されており、ダンテ自身は大学で勉強したわけではないが、大学での勉学については十分な知識をもっていたと思われる。

 「信仰とは何か」(363ページ)というペテロの問いに対して、ダンテは
「・・・
信仰とは希望される事柄の礎にして
目に見えぬことに対する証です。
そしてこれこそが私にはその本質に思えます」。
(364ページ)と答える。ペテロはこの回答を受け入れる。ダンテの答えは『新約聖書』の聖パオロによる「ヘブライ人への手紙」(11.1)そのままでああったのだが、さらに、そのように定義した理由についてペテロは問いかける。

 これに対してダンテは、地上からの視線は神に届かないので、知性によって神を直接認識することは不可能であり、そのため侵攻により神の存在が知られ、その礎の上に人類は天国を望むからというものであった。
・・・「ここにおいて
ありがたくも私に姿を現したまう深遠なる諸事物は、
下界にある目には隠されているため、
その存在は、そこではただ信じることの中にあり、
その上に崇高な希望が打ち立てられるのみです。
ゆえに信仰は礎の意味を持ちます。

この信じることから、私達はさらなる確証を見ることなしに、
論理的に演繹しなければなりません。
ゆえに信仰は証の意味を負います」。
(364-365ページ) そして堅い信仰をもち、神の記した聖書がその信仰をもたらしたと述べた。

 恒星天まで達したダンテは、さらに先へ進むために3つの対神徳(信仰、希望、愛)についての試問を受けることになる。今回はまず信仰についての試問であるが、その根拠が人知を超えたものであるというのがダンテの考えであった。それでもなお、神を信じようとするのはなぜか、そこには一種の飛躍があり、その飛躍こそ、多くの思想家たちが格闘した問題であった。飛躍を可能にするのは、『新約聖書』にまとめられたイエスの言葉、(聖霊の宿った)使徒たちの言葉を神の言葉として信じることである。ダンテはキリスト教の根幹にかかわる問題と取り組んでいる。 

司馬遼太郎『街道をゆく 1 湖西のみち、甲州街道、長州路ほか』

7月19日(水)晴れ、関東地方の梅雨が明ける

 7月18日、司馬遼太郎『街道をゆく 〈新装版〉 湖西のみち、甲州街道、長州路ほか』(朝日文庫)を読む。『週刊朝日』の1971年(昭和46)1月号から7月9日号に連載され、同じ年の9月に単行本として発行されたものの文庫化の新装版である。司馬はこの後も、『街道をゆく』のシリーズを書き続け、朝日文庫には全部で43冊を収める。日本国内だけでなく、その足跡は韓国、ロシア、モンゴル、中国、フランス、フランス領バスク、スペイン領バスク、スペイン、ポルトガル、英国、アイルランド、オランダ、アメリカ、台湾など外国にも及んでいる(それぞれ日本との関連を求めて旅されているのではあるが…)。

 「街道」というが、この言葉の使い方には司馬独特の意味が込められているように思われる。というのは、彼が歩き回っているのが、ある目的のために整備された街道ではなく、古くから人々が行き来していたらしい道であることが多いからである。歴史的な事件の跡を探索した紀行として日本史家である今谷明さんの『歴史の道をゆく』(中公新書)、あるいは近世以降の代表的な紀行の道のりを辿りなおす社会学者の加藤秀俊さんの『紀行を旅する』(中公文庫)などの著作があるが、これらと『街道をゆく』の大きな違いは、何といってもその膨大な量であろう。さらにいえば、記述の精粗、あるいは濃淡のばらつきがめだつのも特徴的である。作家である司馬さんは自分の興味のあることは詳しく、そうでないことは省いたり、簡単に記すだけにしたりしている。今谷さんは徳川家康の<伊賀越え>の道のりを歩く途中で怪我をしたそうであるが、出来るだけ忠実に行程を辿ろうとした結果である。司馬さんの場合は、街道を起点から終点まで歩くという発想がそもそもない、自分の興味の向うところを歩いている。

 『紀行を旅する』「久々子から京都へ――『川渡甚太夫一代記』」では、著者は若狭の三方五湖の沿岸の久々子から京都までウナギを運んだ江戸時代の商人の足跡を負って、若狭街道を車で踏破する。『街道をゆく』の最初に収められている「湖西のみち」はこれと逆方向であるが、滋賀県内、それも琵琶湖の西の方(つまり湖西)をうろうろしていて、その次第とか織田信長の元亀元年(1570)における退却の話、その際に信長を助けた土豪朽木一族のこと、将軍足利義晴ゆかりの庭園を残す曹洞宗興聖寺のことなど、興味の向いたことしか書いていない(それがたいていは面白いことばかりなのが、作家の人気のゆえんであろう)。

 「湖西のみち」に続く「竹内(たけのうち)街道」は、司馬の母親が奈良県の人だったという関係で、子どものころから見知った土地を歩いているので、描写にも精彩がある。日本語学者であるという若い英国人が同行して、日本語をめぐる議論を展開したり、古代と現代のつながりを考察したり、内容も変化に富む。その後の「甲州街道」は八王子近辺を歩き、小仏峠に登るだけで、甲州の話はあまり出てこないし、出てくるのは八王子千人同心の話とか、将軍慶喜、勝海舟、新選組の話であるが、それでも読むものを飽きさせないのは、なかなかの筆力である。

 「葛城みち」では再び奈良県に戻り、古代の葛城氏と一言主命、雄略天皇がこの神を土佐に流した話、葛城地方に住んでいた宗教的集団である鴨氏のこと、役小角と一言主命の戦いなどが語られる。なお、「高知市の東北4キロ一宮(いっくう)という在所にある都佐神社(土佐神社)・・・『延喜式』の古社であり、武蔵国の一宮が府中の大國魂神社であるように、土佐国にあっては一宮はこの神社であり、社格は古来土佐でもっとも高い」(179ページ)とあるのは間違いで、大國魂神社は武蔵国の総社であって、一宮ではない(一宮は小野神社だという説と、大宮氷川神社だという説がある)。

「長州路」は「この稿ではかりに長州路ととなえておくが、要するに旧長州藩領のあちこちをあるきたい」(205ページ)と、維新期に焦点を絞りながら山口県(と島根県の一部)を歩き回っている。壇ノ浦を訪れても、まずこの地を坂本龍馬が訪れた時の逸話から書き始めている(その内容が面白い)のだからかなり徹底している。人物評風の部分が多く、それも司馬の個性を示すものであるが、赤間宮の初代の宮司になった白石正一郎とか、池田屋事変の際に沖田総司に斬られた吉田稔麿(としまろ)というようなあまり歴史上注目されてこなかった人物に関心と同情を寄せているのもこれまた司馬の個性であろう。

 几帳面に体裁を整えた研究書ではなく、興の赴くままに綴られた随想風の紀行文集であり、読む方も自分の興味や気分に従って自由に読んでよい書物ではないかと思う。その中で、歴史について、あるいは人間やその心理について考えるためのヒントを拾い上げることが出来れば、それは著者よりも読者にとってのより大きな仕合せというべきであろう。
 あと42冊、著者がかなり気ままに書いている本だから、こちらも順序を辿らずに読んでもいいのかもしれないが、今のところの予定では順序を辿って読んでいくつもりである。さて、どんな書物と、あるいはどんな旅の記憶と重なる記事に出会うだろうか。 

片平孝『サハラ砂漠 塩の道をゆく』(2)

7月18日(火)曇り、午後になって雨が降り出す

 2003年12月、写真家である著者は、トゥアレグ族のガイドであるアブドラをコック兼通訳、ベラビッシュ族のガイドであるアジィをラクダ使いとしてキャラバンを組み、マリ共和国のかつての”黄金の都〟トンブクトゥを出発し、岩塩の産出地であるタウデニ鉱山へと向かう。途中で運よくアジィの知り合いである同じベラビッシュ族のムスタアーファが率いるアザライ(トゥアレグ語で「塩を運ぶキャラバン」という意味)に出会う。親族だけで構成されているこのアザライのリーダーであるムスターファは見知らぬ旅人との同行を嫌がるのだが、とにかく同行することができ、19日目にタウデニに到着することができた。750キロ余りの砂漠の旅の末のことである。

 タウデニはサハラ砂漠の中にある太古の塩湖が干上がった後の盆地で、「金鉱のように一獲千金を夢見る生臭い場所だ。さまざまな事情を抱えた男たちや犯罪者が国中から集まり、身を寄せる場所でもあった」(92ページ)。人々は「アゴルコット」と呼ばれる集落に住み、採掘が盛んな(比較的涼しい)時期には400人近い男たちが生活すると言われる。住居は塩の混じったブロックを積み上げてラクダの皮をかぶせて屋根にしたもので、室内は150センチくらいの高さしかなく、立ち居ができないという。女性が1人もいない、男たちだけの世界である。

 物騒なので一人歩きをするなと固く戒められていた著者はアブドラとともに、岩塩の採掘場を訪問する。約3メートルほどの縦穴を掘って、そこで岩塩層を見付けてそこから岩塩を採掘しているのである。
 5月から10月までタウデニで働く人々はみなトンブクトゥに引き上げるのだが、その中でアルバという中年の男だけは居残り続けるという。彼は借金を返すために、10年間の年季奉公を続けてきたとのことである。その彼が、まったくの外国人として労働者たちの間で孤立している著者を守ろうとするやさしさに、著者は大いに感動する。

 縦穴の中では小型のツルハシを使って岩塩をはがしていく。岩塩の大きさは手と足で測る。重さ100キロ前後ある原石が職人たちによって削られて、重さ30から35キロの「バー」と呼ばれる塩の板になる。
 足と手が物差しになって塩を掘り出す採掘法は、タウデニよりも前に塩の供給地であったタガザの岩塩鉱山における採掘と同じ方法といわれ、古代の岩塩鉱山の採掘法を知る手掛かりになっている。
 タガザの町はタウデニの160キロほど北にあり、8世紀から16世紀まで塩を供給し続けた。当初はガーナ王国、14世紀前半からはマリ帝国に管理され、15世紀末からはソンガイ帝国の支配下にあった。1580年代にサード朝のモロッコ軍に占領されたが、当時すでに岩塩鉱山は枯渇しかかっていて、塩を掘りつくした後は廃墟となってしまった。その後、キャラバンの宿営地としてわずかに利用されていたが、今はアルカイダ系テロ集団の隠れ家となって近寄れない。

 タウデニ鉱山はソンガイ帝国がタガザの代わりに16世紀末から採掘を開始して、それ以後ずっと同じ方法で塩を掘り続けている。現在、土地を管理しているのは、トンブクトゥやアラワンのベルベル系とアラブ系の塩商人で、毎年自分たちの採掘場に契約した労働者を送り込んでいる。また彼ら自身も数か月間タウデニに滞在して、塩の掘り出しと出荷状況を管理している。

 採掘場で働く黒人の労働者たちは、召し使い、フリー、見習いの3つの階級に分けられている。召使は給金はないが、7日間で掘り出した塩の2日分がもらえて、家族の面倒も見てもらえる。フリーの大半は借金のために働いている出稼ぎ労働者で、2日分の塩を手にする権利と給金をもらえるが、家族の面倒は見てもらえない。見習いは寝る場所と食べ物を与えられるだけで何ももらえないが、いずれは塩の切り出しの作業に着くことができる。
 岩塩の原石を「バー」と呼ばれる塩の板にするアラブ人とトゥアレグ族の職人たちは、給金はなく家族の面倒も見てもらえないが、塩の板4枚につき1枚の権利をもっている。

 タウデニでは、「バー」がお金の役目を果たしている。労働者と食料を乗せてやってくるトラックが、町から様々な物資をいっしょに運んでくる。タバコやお茶、コーヒーのほか、ヤギやニワトリ、毛布や衣類などありとあらゆる物資がバーで手に入る。まるで古代のようである。

 ムスターファたちのキャラバンでは、モハメッドが自分のラクダ12棟分の岩塩を確保できたが、他の連中はまだ手に入れていない。イブラヒムは急に鉱山で働くと言い出し、ムスターファとラミィのグループは34頭のラクダに積むべきバーの半分しか確保していない。しかもムスターファが左手を化膿させていて、出発もおぼつかない様子である。
 それでも出発を延ばして、タウデニに予定していた以上の日数滞在して、アブドラが食料と金を「使い込む」という事件も起きたが、どうやらムスターファのアザライもバーが確保できて、出発ができる状態になった。

 今はまた足を踏み入れることができなくなってしまったというタウデニ鉱山と岩塩の採掘の様子が貴重な報告となっている。足と手を物差しにして岩塩の大きさを測るというやり方が昔から続いているというところに、歴史の流れによっても失われない、人間の知恵を感じることができた。この後、砂漠の炎暑の中でのトンブクトゥへのきわめて過酷な帰還の旅が始まる。それがどんなものであったかは、また次回に譲ることにしよう。アブドラは頼りにならないし、アジィは英語ができないので細かい意志の疎通がむずかしい。ムスターファはけがをしている。帰り道も前途多難である。

サカナの名前

7月17日(月)晴れたり曇ったり

 長年外国語の勉強を続けていると、教科書に出てこないようなことを知るようになる。サカナの名前とか、野菜の名前とかいうのを多く知っている、あるいは知らなくても興味をもつのは、そうした一種の年の功である。

 カツオのことを英語でbonitoというが、これはもともとスペイン語で、「きれいな」とか「かわいい」とかいう意味である。カツオがbonitoだという文化がスペイン語圏のどのあたりで発生し、それが英語圏にどのように伝わったのかは興味のある問題である。高橋美沙『フランス語で手帳をつけてみる』によると、フランス語ではカツオはboniteという。張あさ子『イタリア語で手帳をつけてみる』には、カツオのことをイタリア語でなんというかは出ていない。

 マグロのことは英語でtunaというのは、ご存知の方も多いと思う。日本では「ツナ」と発音することが多いが、英語の発音は「トゥナ」もしくは「テュナ」である。フランス語ではthon。イタリア語ではtonnoという。

 サカナの名前を気にしはじめたのは、英国で暮らしている時に、サカナの缶詰を買って食べることが多かったからである。B&Bで夜、ビスケットとパック入りの野菜サラダ、サカナの缶詰といったものを並べて、サイダー(リンゴからつくった発泡酒)を飲む。そんなことをして夜を過ごすことが多かった。もちろん、魚料理を出す店で食事をしたこともある。あまりえたいの知れない魚を食べたくないので、サカナの名前を覚えるようになった。それで、もともと知っていたsalmon(サケ)や、sardine (イワシ)に加えて、trout (マス)だとか、cod (タラ)だとか、herring (ニシン)といった語を覚えるようになった。フランス語ではサケはsaumon, イワシはsardine, タラはmorue, ニシンはharengである。ついでにイタリア語ではサケはsalmone,マスはtrota, イワシはsardina, タラはmerluzzo, ニシンはaringaである。

 なぜか、なかなか覚えなかったのはbream (タイ)である。これは手元にあるロングマンの英和辞書で調べると、ブリームというコイ科の淡水魚についてもこういうし、タイについてもこういうとのことで、欧米ではあまりタイを食べないからかもしれない。それで『ジーニアス和英辞典』に「エビでタイを釣る」に相当する語句として、a sprat to catch a mackerel というのが紹介されていたのが面白いと思った。日本語に訳すと「サバを捕まえるためのスプラットイワシ」ということで、スプラットイワシというのはニシンの一種らしい。mackerel (サバ)は日本ではきわめて大衆的なサカナで、食膳に上がることはきわめて多いし、中学・高校時代を過ごした学校が海の近くにあったので、サバが群れをなして泳いでいる様子はよく目にしたものである。だから、「エビでタイを釣る」という言い方と"a sprat to catch a mackerel"はまったく同じ意味で対応しているわけではないと考えてよさそうである。フランス語でタイはdorade、サバはmarquereauという。イタリア語でタイを何というのかは未詳であるが、サバはsgombroという。

 flatfish はカレイについても、ヒラメについてもいうようである。フランス語ではヒラメはsoleで、これは英語でもシタビラメの意味で使われるらしい。カレイについてはlimandeと区別している。イタリア語ではヒラメはrombo, カレイはpassera di mareとやはり区別している。flying fishはトビウオでこれもわかりやすい。yellowtailがブリ、conger (eel)がアナゴというのは想像できない。アジがhorese mackerelというのはあまり食べられないからではないだろうか。ブリはフランス語ではsériole、アナゴはcongre、アジはchinchardである。イタリア語でアジのことはsauroとかsorelloとか言っているようである。
 非常に変わったところで、coelacanth (シーラカンス)がある。coeをsi: と読むのはほかにあまり例がないのではないか。最後のthはもちろん、θの音になる。フランス語ではçœlacantheと綴り、「セーラカント」というような発音になるらしい。私の手元にあるイタリア語の辞書には、対応する名詞は記載されていなかった。

 大体同じような単語を使っているのかと思うと、まったく違っている場合があって、調べてみるとなかなか面白い。それぞれのサカナが食生活の中で占めている位置がこうした名前を通じて推測できるところがある。スペイン語やポルトガル語、あるいはルーマニア語について調べてみると、また別の興味が広がってくるかもしれない。

『太平記』(167)

7月16日(日)曇り

 建武3年(延元元年、1336)5月25日、九州から東上した足利尊氏・直義兄弟の率いる軍勢は、中国地方から兵庫まで後退してここで一戦を交えようとしていた後醍醐天皇方の新田義貞と衝突し、新田軍はよく戦ったが衆寡敵せず、退却を余儀なくされた。このため、後醍醐天皇は廷臣や自分に従う武士たちとともに比叡山に向かわれた。持明院統の花園法皇、光厳上皇、豊仁親王は、比叡山に赴く途中で、足利方の武士たちに助けられ、8月には豊仁親王が即位されることになる。これは持明院統の皇族を天皇に推戴することによって、朝敵となることを避けようという尊氏の考えによるものであった。
 もともと天照大神が伊勢に鎮座されてこの国の主となられたときに、日本に仏法が広まることで自分たちの力が失われることを恐れていた魔王たちに対して、自分は仏法には近づかないと約束され、それに感激した魔王たちが、天照大神の子孫である方々に反旗を翻すものがいれば、自分たちが滅ぼすと誓ったという経緯があった。そのような朝敵の例として、神武天皇の時代に巨大な蜘蛛がいて、人々を苦しめたが、官軍によって滅ぼされた。

 『太平記』の作者は、大蜘蛛の次に、天智天皇の時代に、藤原千方(ちかた)という朝敵が出現したという話を語る(藤原千方は、実在の人物で、既に15巻で大ムカデを退治したという説話の中に登場し、またこの後にも平将門を討伐したと語られる――これは歴史的事実である――俵藤太こと、藤原秀郷の孫であるから、大変な時代錯誤である。そもそも藤原という姓は、天智天皇の股肱の臣であった中臣鎌足が初めて与えられたものである)。
 千方は金鬼、風鬼、水鬼、隠形鬼(おんぎょうき)という4つの鬼を使っていた。金鬼は、その体が堅固にできていて、矢を射ても矢が突き刺されない。風鬼は、大きな風を吹かせて、敵の城を吹き破ってしまう。水鬼は、国隋を興して、敵を溺れさせる。隠形鬼は、その姿を消して、突然敵に襲い掛かる。こういう神通力をもつ鬼たちであったので、普通の人間の力では防ぐことができず、伊賀、伊勢の2つの国は千方の勢力範囲となってしまい、天皇のまつりごとに従おうとする者がいなくなった。

 ここに紀友尾というものが、天皇の宣旨を頂いて伊賀の国に下り、一首の歌を詠んで、鬼たちにそれを伝えた。
 草も木もわが大君の国なればいづくか鬼の棲家なるべき
(日本の国土は草も木もすべて帝のものであって、鬼の住処などあろうはずがない。)
 4つの鬼は、この歌を見て、「ということは、我々が悪逆無道の家臣のいうことを聞いて、善政有徳の帝に背いたということは、天罰を逃れる場所がないということだ」といって、たちまちに方々に逃げ去ってしまった。そのため千方は勢いを失い、やがて友尾に討伐されたという話である。
 紀友尾というのは、紀貫之や友則の一族ということであろうが、岩波文庫版の脚注によると不詳だそうである。

 さらに、平将門の話が紹介される。朱雀院の時代に、平将門というものが、東国に下って下総国相馬郡(現愛の茨城・千葉両県にまたがる地)に都を立て、勝手に平親王と号して、独立政府のようなものを作り上げた。朝廷は軍を派遣して総力を挙げてこれを討伐しようとしたのだが、将門の体は鉄でできていて、矢を射ても突き刺さらず、劒や鉾で斬りつけても怪我をしない。そこで朝廷の諸卿が相談した末に、仏教の守護神である四天王の像を鉄で作り、比叡山にこの像を置いて、四天合行の法という四天王を本尊として行う修法を行わせたところ、天から白羽の矢が一筋下りてきて、将門の眉の間に立った。その矢が抜けずに将門が苦しんでいるところを、俵藤太秀郷が首をはねた。

 その首は、獄門にかけられたのだが、3か月というもの、目は開いたままで、顔色も生きている時のままで、常に歯ぎしりをして、「斬られてしまったわが五体はどこにあるのか。ここにやってこい。また首と一緒になってもう一戦戦おう」と夜な夜な呼び掛けていたので、聞く人はこれを怖がっていた。そのころ、藤六というものが道を通ったのであるが、このうわさを聞いて
 将門は米かみよりぞ斬られける俵の藤太が謀(はかりごと)にて
(将門の首は、俵藤太のはかりごとでこめかみから斬られた。こめかみと米を掛け、米と俵は縁語である。)
と詠んだ。(歌に感心した)首がにやりと笑ったのであるが、その瞬間に目はふさがり、屍は朽ち果ててしまった〔首のことを語っていて、首と切り離された屍のことは語られていなかったので、この記述は奇妙である。〕
 この説話、小学校5年生の時に、社会科の時間で先生が話されたのを覚えているのだが、どうも説明が十分でなかったような気がする。教師たるもの、しっかり予習すべきだという例として記憶に残っている(自分が教師をしていたころに、予習不十分な授業をずいぶんしたことを棚に上げている!!)

 朝敵となって滅ぼされたものはこれら3例だけではないと、『太平記』の作者はさまざまな人物の名を列挙する。岩波文庫版の脚注は『平家物語』巻五「朝敵揃へ」に類似していると記している。名前を列挙した後で、「悪は滅びる」とその末路をまとめている。作者がいいたいのは次のところであろう。

 以上のことがあって、尊氏がこの年の春に、関東八か国の多句の武士たちを率いて上洛したけれども、朝敵という汚名を着せられていたので、私的な望みに基づく武運はやはり長続きするものではなく、数度の合戦に敗北して九州に逃亡することになった。そこで今回はその先非を悔いて、一方の皇統(持明院統)をお立てし、朝敵征伐の院宣に従ったので、威勢に道理が加わり、偉業が道理のもとに達せられようとしていると、人々はみなこの挙を軽く見なかった。こうして東寺が上皇の御所となり、武将が城郭を構えて警護して防備を固めたので、人々は安心したのである。これは比叡山から敵が攻め寄せてきたのであれば、小路小路を遮って、縦横に合戦をするための備えとなるものであると、この城郭を構えたのであった。

 京都の北の比叡山は後醍醐天皇を支持しているが、南の東寺、醍醐寺は尊氏寄りの立場をとっている。比叡山は天台宗、東寺、醍醐寺は真言宗であるが、宗派というよりもそれぞれの寺院の僧侶たちの意向の方が大きく影響しているようである。後醍醐天皇が天皇親政の政治の復活を考えられていたのに対し、持明院統の皇族方は上皇の1人が<治天の君>として政治をとられるという平安末期→鎌倉時代の政治の在り方を理想とされていたようである。従って、持明院統を代表されるのは、光厳上皇であった(尊氏に院宣を下したのも、上皇である)ことを重視すべきである。

日記抄(7月9日~15日)

7月15日(日)晴れ、暑し

 7月9日から本日までの間に経験したこと、考えたこと、その他:
7月9日
 神保町シアターで「神保町シアター総選挙」で第1位となった「女優・高峰秀子」の特集上映の中から、『放浪記』(1962、宝塚映画、成瀬巳喜男監督)と『細雪』(1950、新東宝、阿部豊監督)を見る。
 『細雪』は谷崎潤一郎が戦争中に書いた小説の映画化(その後も何度か映画化されているが、原作の雰囲気がまだ残っている中での映画化という点に価値がある)。須賀敦子がこの小説を高く評価していたことを知って、読み始めたのだが、途中で止まってしまっている。大阪で代々続いてきた商家の没落していく様子を、その血を受け継ぐ4人姉妹の中で、長女と次女は結婚していて、3女と4女が相手を探す過程を中心に描いている。長女=花井蘭子、次女=轟夕起子、三女=山根寿子、四女=高峰秀子という配役に、この映画が戦前・戦中の面影をかなり強く残す作品であることが見て取れる。登場人物の衣装や、花見の場面など見ていると、カラーで撮影されていないことが実に残念である。次女夫婦が芦屋に家を構えているということで、芦屋の風景が出てくる。実は50年以上以前に亡父が芦屋に単身赴任していたことがあって、その時のことを思い出して、少し懐かしかった。

7月10日
 『朝日』の朝刊に『AERA』7月17日増大号の広告が掲載されていた中で、「埼玉の小中トンデモ教育 親にも「午後9時以降のスマホ使用ダメ」という見出しが気になった。〔7月15日=本日、薬局に置いてあったこの雑誌を読んだところ、保護者のスマホ使用を制限するなど、学校が保護者を「指導」する例が多くなっていると書かれていた。地方・地域・学校によって違いはあるのだろうが、あまり学校の影響力が強くなりすぎない方がよいと思う。〕

7月11日
 『朝日』朝刊の地方欄を見ていたら、尾木直樹さんと茂木健一郎さんが法政女子高で対談した内容が紹介されていて、もっと「AO入試」を盛んにすべきだと主張されていたようである。個性豊かな学生を採用しようとして始められたAO入試であるが、それに対応して受験産業の側では専用の予備校を設けたりしている。それに、入学後に彼らの個性に応じた教育を提供しなければ、いくら個性豊かな学生を入学させても意味はないのではないかと思う。(個性に応じるばかりが教育ではない…ということも確かなのだが…) 
 個性を尊重すべきだとアタマでは分かっていても、現実に子どもの個性に直面すると我を忘れるという親(教師)は少なくないようである。むかし、子どもの出来が悪くて困っているという話を友人から何度か聞いたことがあるが、出来が悪いということも個性である(まあ、あまり役に立ちそうもない個性であることは認めるが…)。個性を捨てさせて、一定の型にはめようとすることも時には必要で、要は程度問題だが、自分の子どもになるとどうしてもその程度が分からなくなるというところが問題なのである。

 松原隆彦『目に見える世界は幻想か? 物理学の思考法』(光文社新書)を読み終える。数式や難しい図表を一切使わず、ひたすら言葉だけで書かれた物理学の入門書である。「物理学とは、常識に対する挑戦である」(6ページ)という立場から、近代以降の物理学の紆余曲折の経緯が辿られ、そこから現在の理論が概観されている。特に、第2章「天上世界と地上世界は同じもの」で天上や地下の「別世界は、私たちの住んでいる地上世界とは根本的に異なる原理原則で存在しているようだ」(42ページ)という古代人の世界観がどのようにして克服されていったかを論じているが、一方でダンテの『神曲』を読み、他方でガリレイの『星界の報告』を読んだところなので、興味深く読むことができた。

7月12日
 NHKラジオ『実践ビジネス英語』は”Understanding the Millennials" (みれにある世代を理解する)というビニェットを放送している。5日に放送された第1回では、
Americans stay at one job for an average of four and a half years, but that millennials tend to job-hop more often. (アメリカ人は1つの職に平均4年半留まるけれども、ミレニアル世代の人たちはそれよりも頻繁に転職する傾向がある。)という話題から、舞台となっている会社に新たに加わったみれにある世代に属する社員が自分たちの世代の特徴についての一部の誤解を解きながら、いろいろと議論を進めるという展開になる。今回言われたのは:
 We millennial have higher student loan debt, poverty and unemployment than boomers and Generation Xers did when they were the same age. (私達ミレニアル世代は学生ローンの負債、貧困、失業が、ベビーブーム世代やX世代の人たちが同じ年齢だったころよりもひどいのです。)ということである。
 ブーマー (baby) boomer は第2次世界大戦終戦後から1960年ごろまでに生まれた人々、ジェネレーションXは1960年代、1970年代に生まれた人々、ミレニアルは1980年代、1990年代に生まれた人々を呼ぶ言い方である。このような世代間の生活スタイルや価値観、特に職業意識の違いは昨年の5月のこの番組でも”Generation Gaps In the Workplace" (職場における世代間ギャップ)というビニェットの中で議論されていた。
 最近の新入社員が3年たたないうちに辞めることが多くなっているという話題が日本でもよく取り上げられるが、外国でも探せば同じような事例が見つかりそうだと思ったりした。

 同じ番組の”Quote...Unquote”のコーナーで紹介された言葉:
When a man's stomach is full it makes no difference whether he is rich or poor.
---- Euripides (Greek playwright, c.480 -c. 406 B.C.)
人はおなかがいっぱいの時には、その人が金持ちでも貧乏でも違いはない。
中国の古典『管子』の「牧民」編には「倉廩実則知礼節、衣食足則知栄辱」とある。
腹を満たすことの重要性の認識は両者に共通しているが、そこから先が違うようだ。

7月13日
 ”Understanding the Millennials"の議論は、
Millennials don't have a monopoly on wanting things like career opportunities and a healthy work-life balance.It's just they tend to be rather more vocal about it. (就業の機会や仕事と私生活の健全なバランスといったものを望んでいるのは、ミレニアル世代だけではありませんね。彼らはそれを、他の世代よりもかなり強く声高に主張する傾向があるだけなのです。) という結論に達し、
And businesses better be prepared to liten to them. (そして、企業は、彼らのいうことに心よく耳を傾ける方がいいですね。)
というところに落ち着く。わが国の「働き方改革」はどのような方向に進んで行くのかも、気をつけてみていく必要がありそうである。

 この日の”Quotes...Unquotes"は
What a smile and have friends; wear a scowl and have wrinkles.
           ―― George Eliot (English noelit and poet, 1819 -80)
笑顔でいると友達ができる。しかめっ面をしているとしわができる。
ジョージ・エリオットは女性であったが、この当時は女性が小説を書くということが世間一般に認められていなかったので、男性の名前で小説を書いていた。

7月14日
 『実践ビジネス英語』の”Just in Jest"のコーナーで取り上げられた戯言:
laugh and the world laughs with you. Snore and you sleep alone.
(笑えば、世界はあなたとともに笑う。いびきをかけば、あなたはひとりで寝る。)
もとはことわざで、Laugh and the world laughs with you. Weep and you weep alone. (笑えば人はともに笑う。なけばなくのはひとりだけ。)というそうだ。

7月15日
 ニッパツ三ツ沢球技場でJ2第23節横浜FC対FC岐阜の試合を観戦した。4連敗中の横浜は、岐阜にボールを支配される時間が長く苦戦を続けたが、後半62分にGKからのボールを受けたジョン・チュングン選手のミドル・シュートが決まり、この1点を守り切って久しぶりの1勝をもぎ取った。試合内容に不満はあるが、とにかく勝ってよかった。
 2種登録の齋藤功佑選手の途中出場、最年長の三浦カズ選手のベンチ入り、レアンドロドミンゲス選手の入団挨拶など、これからに向けて明るい話題となってほしい出来事あり。

久野収 鶴見俊輔『現代日本の思想 ――その五つの渦――』

7月14日(金)晴れ、暑し

 この本を初めて読んだのは、もう30年くらい昔のことではないかと思う。しかし、それでも本の発行から30年余りたってからのことである。昭和31(1956)年に岩波新書の1冊として刊行されたこの本の「まえがき」に記されている2人の著者の趣意は、私にとってかなり新鮮なものであったし、幸か不幸か未だに、その新鮮さは薄れていない。

 「日本では、これまで現代思想を扱った書物といえば、ほとんど外国の思想流派の紹介、それもそのときどきの流行のトップモードを批判的に紹介する仕事にかぎられていた。日本の現代思想が論じられても、せいぜいつけたりに過ぎなかった。
 本書は、これとは逆に、日本の代表的思想流派を正面から扱った思想入門である。現実に働きかけ、現実を動かした日本の代表的思想流派の仕事をちゃんと評価しなければ、日本の思想の足どりをしっかりさせることはできない。これまでの日本の思想は、フラフラしたちどり足をまぬかれていない。私たちは、そう信じたので、最初の試みといて本書を書いた。」(ⅰページ)

 今日では、外見的には様相はかなり違っている。本屋の「哲学」だの「思想」だののコーナーに出かけると、この時代にくらべると、「外国の思想流派の紹介」にかかわる本はかなり少なくなっている。その分、日本や東洋の思想に関する本が増えているように思われる。しかし「フラフラした千鳥足」は依然として続いていると(ひどくなっているかもしれない)とおもわれる。さらに、「現実に働きかけ、現実を動かした」というところにどこまで視線が向けられているかも問題にすべきであろう。著者たちは次のように続けている。

 「現実の問題状況へのはたらきかけというすがたで、思想をつかむとすれば、思想をせまい意味の哲学だけにかぎるわけにはゆかない。本書で扱われた諸流派が、せまい意味の専門的哲学者の仕事からではなく、文学、政治、教育、叛乱、世相など、生活のさまざまな分野からえらばれたのは、思想が最も具体的な活動をとおしてのみ、現実を動かす力になると信じるからである。」(ⅰ-ⅱページ)

 興味深いのは、「19世紀ドイツの精神史」として「ヘーゲルによる完成とニーチェによる新たなはじまりとのあいだの決定的な転換点を示」そうとしてまとめられたレーヴィットの『ヘーゲルからニーチェへ――十九世紀思想における革命的断絶――』(岩波文庫)が、専門的哲学者の仕事を中心に取り組まれながらも、ゲーテ、フローベールのような文学者、トクヴィルのような政治思想家、ブルクハルトのような歴史家の仕事にも言及していること、そしてこの書物が、1930年代の日本(仙台)で書かれていることである。近現代の思想に取り組む際に、総合的な視点が必要であることを戦前の日本における社会と思想の展開は示しているのではないかと思うのである。

 『現代日本の思想』は
Ⅰ 日本の観念論――白樺派――
Ⅱ 日本の唯物論――日本共産党の思想――
Ⅲ 日本のプラグマティズム――生活綴り方運動――
Ⅳ 日本の超国家主義――昭和維新の思想――
Ⅴ 日本の実存主義――戦後の世相――
の5章からなる。昭和(多少、大正に食い込むが)期に社会的な影響力を持った運動を、ある思想の枠組みのもとで整理しているが、これらの整理のすべてが妥当なものかをめぐってはかなり議論の余地があるのではないかと思う。それにこの5つを選んだ根拠というのも今ひとつはっきりしないところがある(他は哲学的な区分であるが、「超国家主義」は政治的な思想区分ではないか)。

 個人的には、ⅠとⅢに興味があるので、次回以降、このあたりに注目しながら、論じていくつもりである。特に、私の友人・知人のうち2人も、父君が白樺派に共鳴する学校教師だったというのがいるので、そのことが久野・鶴見の見通しの鋭さを示しているのではないかと思っているところなのである。(単に影響力があったというだけではなく、その影響が身近に及んでいるということである。) それに私自身も日本民芸館や河合寛次郎記念館に出かけたり、「新しき村」についての資料を集めていたりしたのだから、まあ影響を受けているということなのであろう。 

ダンテ・アリギエリ『神曲 天国篇』(23-2)

7月13日(木)晴れたり曇ったり、風がかなりが強いが、それでも暑い

 ベアトリーチェに導かれて、天上の世界へと旅立ったダンテは、月天、水星天、金星天、太陽天、火星天、木星天、土星天を経て恒星天に達する。そこで彼は、キリストの凱旋の行進と神の恩寵のアレゴリーであるベアトリーチェの微笑を見ることができた。地上の人間が本来見ることのできないものを見るまでに成長を遂げたのである。ベアトリーチェはダンテにイエスの母であるマリア(薔薇)と十二使徒(百合)とを見るように告げる。

  ダンテは、彼女の勧めに従い、「乏しい視力で/戦いに再び身を投じた」(351ページ)。
これまでに、影に護られる我が目が、
切れ切れの雲間をぬう清らかな
太陽の光線に照らされた、花咲く野原を見てきたように、

光輝の源泉は見えないままに、
私は、燃え上がる光線に烈々と上から光を注がれる
群れ集う無数の輝きを見た。
(351-352ページ) ダンテの目は、魂たちの「無数の輝き」の中で「最も大きな火」(352ページ)である聖母マリアに向けられた。するとマリアの光の周囲に天使ガブリエルの光が輪になって降下し、周囲を回転しながら調和の音楽を奏でた。
そして我が光る両目が私に、地上で他に勝ったように
天上でも他に勝る、あの生命ある星の
輝きと大きさを映し出すやいなや、

その天空のなかへ一つの燃える松明が降下し、
王冠のように輪の形をなして
その星を取り巻くと周囲を回転した。

ここ下界でひときわ心地よく響き、
ひときわ魂を惹きつけるどの調べでさえ、
最も明るい空を飾る

美しい青玉の冠となっていた
あのリラが奏でる響きと比べれば、
雲が引き裂かれて雷鳴が轟いたかのように感じられる。
(352-353ページ) 「松明」は天使ガブリエルと考えられている。「青玉」は聖母マリアの譬えだそうである。6月23日に放送された「まいにちイタリア語」応用編「描かれた24人の美女」の第22回:ティエーポロ<マリアの教育>でも話題になっていたが、マリアはほとんどの絵画の中で青い衣を着ているという。天使ガブリエルが奏でるリラの響きにくらべると、地上のどんな音楽も雷鳴にしか聞こえてこないというのである。

 聖母マリアはイエスに続いて、本来の住処である至高天へと戻っていく。見送りながら魂たちは聖歌「レジーナ・チエーリ(空の王妃)」を歌う。この歌は、キリストが復活し、死に勝利したことをマリアに対して祝うものだが、その復活とは、キリストの贖罪により原罪が赦され、聖母の守る人類が死に勝利したことをも意味していた。実際にダンテも、マリアの恩寵によりこの死後の世界の旅に出たのであった。『地獄篇』第2歌でウェルギリウスは彼のもとを訪問したベアトリーチェが「空にあらせられる高貴な婦人」(『地』、48ページ)の意を受けて、ダンテに死後の世界を案内するように依頼したと述べたとおりである。

おお、何と豊かな貯えがあることか、
下界で善き種蒔く人であった、
それらのこの上なく豊かな収穫箱には。
(356ページ) 「収穫箱」は下界では信仰の「種蒔く人」であった十二使徒のことである。「種蒔く人」というと、ミレーとゴッホの絵を思い出す(そういえば、京都にミレー書房という本屋があって、そこで本を買うとミレーの絵をデザインしたカバーをつけてくれた)が、彼らの絵のキリスト教的な含意が日本では別の、もっと世俗的な意味にとられたようである。

 ダンテは地上を、堕落を象徴するバビロンと呼び、地上での生を天国からの追放と表現している。
ここで人々が糧にして生き、味わうのは、
バビロンへ追放されていた間に、涙を流して手に入れた
あの宝。黄金などは向こうに放ってきたのだ。
(同上) 天上の勝利した教会とは祝福された人類の共同体であり、地上「バビロン」で精神の「宝」を手に入れ、まがい物の幸福「黄金」は地上に捨ててきた人々からなる。そして、その「宝」を手に入れる指導を地上で行う地上の教会の長(歴代教皇は彼の代理でしかない)ペテロが最後に登場する。
これほどの栄光への二つの鍵を持つ方が。
(357ページ) 

 ダンテの描く世界の中で、恒星天までは物質的な世界であるが、さらにそこから非物質的な世界である原動天、至高天に進むために、彼は試問を受けることになる。その次第についてはまた次回。

倉本一宏『戦争の日本古代史 好太王碑、白村江から刀伊の入寇まで』(8)

7月12日(水)晴れ、暑し

 白村江の戦における敗北は、律令体制形成という日本史上の一大画期のきっかけの一つとなった事件であるが、韓国、あるいは中国の歴史家たちはこの出来事をそれほど大きく評価していないことを倉本さんは紹介する。盧泰敦『古代朝鮮 三国統一戦争史』によると、白村江の戦は唐にとっては特に大きな意味を持つ戦闘ではなく、『旧唐書』の本紀には記事がなく、『新唐書』の本紀にわずかな記事があるだけで、それも倭国は登場していないという扱いである。「唐にとっては、そもそも主要な戦争相手は高句麗だったのであり、百済は金春秋の要請によって滅ぼしたに過ぎない。白村江の戦というのは、すでに滅ぼした百済の残存勢力に荷担して出兵してきた倭国軍を苦もなく壊滅させたに過ぎないのであって、戦略的にもさほど重要な戦闘ではなかったのである」(153ページ)。韓国でも学校では白村江の戦を教えていないというくらいで、「百済は現代の韓国にとっては滅んでしまった地方政権にすぎず、その復興のための戦闘などどうでもいい」(152ページ)というのが一般的な見解のようである。

 しかし、倭国にとっては、これは大きな意義をもつ戦闘であった。倉本さんは、中大兄皇子と藤原鎌足がなぜこの戦争に踏み切ったかについての4通りの推測を列挙している。①援軍の派遣を要請してきた百済遺臣の使者たちの報告を信じて、本気で勝つつもりでいた。②兵力や兵器、それに指揮系統の整備レベルから考えて、負けるかもしれないが、負けたとしても唐がさらに倭国に侵攻してくる可能性は低く、対外戦争によって国内を統一することが容易になるのではないかと考えていた。③敗北はあらかじめ予想できていたが、勝敗を度外視した、戦争を起こすこと自体が目的で、それによって国内の支配者層を結集させ、中央集権国家の完成をより効果的に行うことをもくろんでいた。④中央集権国家の建設に反対していた豪族層を戦争に動員することにより、取り除いて、その後の改革を容易にしようとした。
 一方で、勝敗を全く度外視した派兵ではなかったことは明らかであり、その一方で、負けても構わない、戦争を起こすこと自体が目的だったという側面も否定できないという。「そしてこの敗戦以降、倭国は新たな段階の政治制度の整備に向かうことになる」(158ページ)。
 他方、新羅にとっては、三国統一戦争の結果「時代降臨」(小国が大国に事(つか)え、隣国とは対等に交わること)という朝鮮半島王朝の対外政策の基本的枠組みを形成することに大きな影響を与えた戦争であった。

 天智2年(663)8月27日における白村江の戦によって、百済再興の望みを絶たれ、9月7日に国(百済の故地)を去る決心をした人々は、25日に船を発して、倭国へと向かった。その数は、当時の倭国の人口からすれば、とんでもない数に上ったと推測される。彼らは近江や東国に配され、農地の開発にあたった。その中で、百済の王族は、倭国で優遇され、それなりに高い地位を保つ。枚方市には、彼らの建立した百済寺や百済王神社が残る。貴族たちもそれなりに厚遇されたが、その事が倭国豪族層の反感を生み、天智大王に対する批判や不満につながったという皮肉な結果ももたらした。〔8世紀に活躍した万葉歌人の山上憶良や、東大寺の大仏の造立の指揮を執った国中公麻呂など、百済亡命者の孫、曽孫の世代に当たる人々については、倉本さんは触れていない。そこまで時間がたってしまうと、もはやその由来を問題にすべきではないという考えかもしれない。〕

 百済の遺臣たちを応援すべく海を渡ったものの惨敗を喫し、かろうじて生き残った兵士たちも帰国していたはずである。『日本霊異記』にはそのような地方豪族の説話が記載されている。倉本さんが引き合いに出している記事はこれだけで、他にあまり記録が見いだされないようである。〔記録がないからと言って、そういう兵士たちがいなかったわけではなさそうである。都合の悪い記録は残さないというのは昔から、変わらない権力の体質のようにも思われる。〕
 その一方で、「さらに苛烈な運命」(162ページ)にさらされたのは、唐や新羅軍の捕虜となってしまった兵士たちである。「無事に帰還できた稀有な例のみ、日本側の史料に記録されているが、異国で命を終えた者も、膨大な数にのぼったことであろう」(162ページ)という。この書物にはそういった例がいくつか紹介されているが、驚くべきことに白村江の戦から44年も経た景雲4年(707)5月に唐から帰国し、「その勤苦を憐れんで」(166ページ)を賜り物を頂いた人物の例さえみられるという。

 当時の倭国の指導者にとって、白村江での惨敗は、戦争の終結ではなく、それに続く唐と新羅の倭国侵攻の可能性を大きくするものと認識されていたと倉本さんは論じている。「663年8月28日以降の日々は、彼らにとっては「戦後」だったのではなく、いつ果てるとも知れない「戦中」だったのである。・・・戦中、しかもいつ終わるかもわからない戦中であって、異様な緊張が高まっていたものと考えるべきである。」(167ページ)

 そこで講じられたのが、西日本の各地に防衛施設を建造し、また防人を配置するという施策である。天智6年(667)3月には都が近江大津宮に遷された。「「いかさまに思ほせしめか(どのようにお考えになったものか)」と称された(『万葉集』)畿外(トツクニ=外国(げこく))への遷都であったが、万一、唐・新羅連合軍が倭国に侵攻してきた場合に備えてのものであったことは間違いのないところである(大津から琵琶湖を北上して北陸にでも逃避するつもりだったのであろう)」(169ページ)。

 天智7年(668)正月に中大兄皇子は正式に即位し(ということは、これまでは称制)、一方で海外勢力の侵攻の危機感をあおり、他方で国内改革を推進して、支配者層の再編成と地方支配の徹底を目指した。紆余曲折はあったが、その後の倭国は中央集権的な国家建設への道を歩むことになる。その一方で唐・新羅との外交関係の修復などの努力も行われるが、それは国内における政治的な変化とも連動するものであったということについてはまた次回。

開高健「円の破れ目」

7月11日(火)晴れ、暑し

 1991年に新潮社から刊行された『開高健全集』第1巻には、開高の出世作である「パニック」と、この作品に至るまでに彼が発表した11編の短・中編小説が収められている。この「円の破れ目」は『近代文学』の昭和31年(1956)2月号に発表された作品で、この後開高は約1年の沈黙を続け、その後「パニック」を発表する。全集の月報で向井敏が書いているように、この「円の破れ目」は完成度の高い作品ではあるが、習作の域を出ない。とはいうものの、その後の開高の作品にみられるいくつかの特徴が既に現れているように思われるので、ここで取り上げることにする(本当のことを言うと、「パニック」を取り上げようと思ったのだが、気分が乗らないので、より短いこの作品で間に合わせようということである)。

 釣り好きであることから作者の分身と想像できる語り手は、戦争中であった中学時代に動員されて火薬庫を作っていた山奥を再訪する。彼は山奥での作業が終わると、釣りに出かけて自分の孤独を紛らわし、そのエネルギーを発散させていた。「私にとってこの谷は性の象徴だった」(458ページ)と彼は回想する。
 大学を中退して役所に勤めている彼は、その「砂を嚙むような、わびしい生活」(460ページ)、「多くの人々とおなじように閉じた円」(同上)から逃れようと、この思い出の場所に釣りにやってきたのである。
 
 しかし、時がたって、おりしも朝鮮戦争のさなか、山奥には米軍の基地が出来ていた。駅前は「けばけばしいくせに泥くさく安っぽい、どこにでもみかけられる基地の町」(454ページ)に変貌し、米兵相手の娼婦たちが狭い道を固まって歩いていた。基地に続く道を作るため、また戦後の山村の窮乏のために、山は姿を変え、語り手は谷に何物も発見することはできなかった。
 駅前に戻った語り手は、オートバイにまたがった一人の若い米兵が駅前の広場でその真ん中にある街灯めがけて全速力で車を走らせ、衝突の寸前にハンドルを立て直すという曲芸を演じているのを人々が眺めている場面に出会う。ところが、その米兵を一人の娼婦が必死になって止めようとしている。しかし、誰も取り合わない。「女の取り乱しぶりはばかげてわびしいものに私には思えた」(463ページ)。

 帰りの汽車に乗った語り手は、2人の商人風の男たちの会話を耳にする。最近、米軍の交代が激しいのは朝鮮での戦況が思わしくなく、最近は脱走する米兵が多いという話である。脱走して終身懲役になっても、戦死するよりはましだと考えているのではないかともいう。彼らが下車した後、語り手はある思いにとらわれる。駅前でオートバイを乗り回していた米兵は自殺しようとしていたのだ。「あれだけの速度がないと円は破れないのだ」(465ページ)。彼を止めようとしていた娼婦だけが、その事に気付いていたに違いないと彼は考える。

 語り手の見聞が語られるという体裁ではあるが、「パニック」になるとはっきりした形で現れるルポルタージュ風の語り口はまだ完成されておらず、そこが習作といわれるゆえんであろう。開高はその文学生活の初期に参加していた同人誌『えんぴつ』の紙面で、ジョン・ドス・パソスの『USA』を目指すという発言をしている(はじめ、左翼で、後に右翼に転向したという点でも、開高はドス・パソスと重なる軌跡を歩んだ)。おそらく彼の沈黙は、ルポルタージュ風の文体を獲得するための努力の時間であったはずである。

 あるきまった生活を強要する「円」の中に人々は暮らしているが、死力を尽くしてその「円」を破ろうとしている人間もいる。語り手は、駅前でオートバイの曲乗りをやっていた米兵を見かけ、その姿に自分と共通するものを見出す一方で、彼の孤独さにも気づく。誰からも理解されているとは思えない米兵の孤独は、語り手自身の孤独でもある。このような人々を拘束する「円」としての環境と、それに対する反抗というテーマは、その後の開高の作品で何度も繰り返されることになる。「円」はいろいろな形をとるし、それを破ろうとする企ても色々な形をとる。「流亡記」は「円」から脱出して砂漠の民の中に入っていこうとする主人公を描いて終わり、「玉、砕ける」は「円」に押しつぶされた中国の文学者の姿を描いている。「円」と反抗をめぐる彼の作品群の中には希望もあるし、失意もある。そういう彼の作品の特色が既にこの作品に認められることは記憶に値するのである。 

『太平記』(166)

7月10日(月)晴れ、暑い

 建武3年(延元元年、1336)春、いったん占領した都から宮方の軍勢の反攻に敗退して、九州に落ち延び、勢力を回復した足利尊氏・直義兄弟は再び上洛を目指し、5月25日に兵庫の戦いで新田義貞の軍を破って、都に向かった。都の後醍醐天皇は比叡山へと向かわれた。持明院統の花園法皇・光厳上皇・豊仁親王は、比叡山に赴く途中で足利方の武士に助けられた。6月15日に豊仁親王が天皇として即位する式を挙げた。(光明天皇である。)

 『太平記』の作者はここで、天皇の位をめぐる一種の神話を語りはじめる。
 「それ日本開闢の始めを尋ぬれば、二儀すでに分かれ、三才漸く顕れて、人寿2万歳の時、伊弉諾、伊弉冉の二尊、夫婦となつて、天の浮橋の下にて妻夫交合して(みとのまぐわえ)して、一女三男を生み給不。」(第3分冊、97ページ、そもそも日本の国の始まりの様子を訪ねてみると、天地の二儀が既に分かれ、天・地・人の三才がようやく出現して、人の寿命がまだ2万歳であったころ、伊弉諾尊、伊弉冉尊の二柱の神が、夫婦となって、天の浮橋の下で夫婦としての交わりをされて、一女三男をお生みになった)。その一助というのは、天照大神、三男と申すは月神、蛭子、素戔嗚尊である。〔「古事記」では黄泉の国に、火神を生んだ際のやけどで死んでしまった伊弉冉の尊を訪ねに行って、戻ってきた伊弉諾尊が日向の橘の小門(おど)で禊をされ、左の目を洗った時に天照大神、右の目を洗った時に月読命、鼻を洗った時に素戔嗚尊が生まれたと記されているが、『日本書紀』には様々な異説が描かれていて、その中には伊弉冉の尊から三貴子が生まれたとするもの、さらに蛭子が生まれたとするものなどがあったと記憶する。〕

 第一の御子である天照皇太神は、この国の主となって、伊勢国度会郡、御裳濯川(みもすそがわ=五十鈴川)の神域の川瀬の下の巌にご降臨になってより、あるときは神が仏となって、次々に衆生を救うための変化の姿を現され、あるときは本来の神に戻って、塵のように無数の国土の民に利益を与えられてきた。これすなわち、本地の神が垂迹の仏よりも勝るということである。

 ここに欲界六天の第六天の魔王が鳩(あつま)って、「この国に仏法が広まると、魔力の効き目が少なくなって、その力を失ってしまうだろう」と天照大神の応化利生(神仏が姿を変えて衆生を仏道に導き利すること)を妨げようと欲した。すると天照大神は魔王たちに邪魔をさせないために「われ三宝に近づかじ」(第3分冊、98ページ、私は仏教に近づかないようにしよう。三宝は仏・法・僧で、仏教のことを「三宝」ともいう)と誓われた。

 このため、第六天の魔王は、怒りを静めてその五体から血を出し、「未来の果てに至るまで天照大神の子孫である人をもって、この国の主とすべきである。もし王命に従わないものがあって、国を乱し民を苦しめるようなことがあれば、我々と十万八千の従者たちが、朝でも夕方でも駆けつけて天罰を与え、その命を奪うであろう」と固く誓い、誓約書を書いて天照大神に差し上げた。これが三種の神器の一つである八坂瓊勾玉に関する異説である。

 実際に、伊勢神宮の内宮と外宮の様子は、他の社壇と異なって、錦の帳に仏をかたどる鏡をもかけず、念仏読経を行うこともなく、僧尼の参詣を許していない。これらすべては、伊勢神宮が天照大神の魔王との約束を違えることなく、俗世の衆生を教化し仏縁を結ばせて救う手立てをひそかに隠したものなのである。
 つまり、天照大神は魔王たちに自分は仏教に近づかないと約束し、事実伊勢神宮では当時の神仏混交の他の寺社とは違って、仏教色は排されている。そして、魔王たちは天照大神の子孫である国の主たちを守り続けると誓約した。その一方で、伊勢神宮以外出は仏教は広まっているので、魔王たちが悪いことをできる範囲は限られているわけである。天照大神の作戦勝ちということである。

 さて、このあと、『太平記』の作者は、天照大神の子孫に反抗した者の末路をいくつか語るのである。「天照大神より以来、継体の君九十六代、その間に朝敵となつて亡びし者を数ふれば」(第3分冊、98-99ページ、天照大神以来、皇位を継がれた帝は96題にわたり、その間に朝敵となって亡びたものを数えると。『太平記』の作者は後醍醐天皇を96代と計算していた。なお、中世には「百王説」と言って、第100代の天皇で日本は滅びるという俗信があった)、まず神武天皇の御代の天平4年に(これはとんでもない大でたらめで、天平は聖武天皇の時代の年号である)、紀伊国名草郡に長さ2丈(約6メートル)あまりの蜘蛛「があった。手足が長く、波の人間以上の力をもっていた。網を張ること数里におよび、道行く人を食い殺していた。しかし、天皇により派遣された軍勢が鉄の網を張り、鉄の湯を沸かして四方から攻めかかったので、この蜘蛛はついに打ち負かされて、その身はズタズタに割かれ、しかも爛れてしまったのである。

 以上、読んできて、『太平記』の作者がいろいろなことを知っていること、その中にはずいぶん荒唐無稽な、あるいは歴史的につじつまの合わない話もあることに気付かれたと思う。しかし、それが歴史的な事実に反するとか、不合理だとか批判するよりも、そういう多様な説話を含んで、『太平記』の世界が出来上がっているということの文学史的、さらには思想史的な意義の方に目を向けるべきではないかと思う。『太平記』は、この後まだしばらく、不思議な力をもっていた「朝敵」がそれ以上の力によって滅ぼされてきた歴史を語り続ける。

放浪記

7月9日(日)晴れ、暑し

 神保町シアターの開館10周年特別企画「神保町シアター総選挙2017」の中の特集「女優・高峰秀子」より『放浪記』(1962、宝塚映画、成瀬巳喜男監督)と『細雪』(1950、新東宝、阿部豊監督)の2作を見る。このところ、映画批評を書いていないので、『放浪記』を取り上げることにする。この「総選挙」で上映される34作品のうち、成瀬巳喜男の監督作は『流れる』、『あらくれ』、『放浪記』、『晩菊』、『驟雨」、『妻の心』、『女が階段を上る時』、『浮雲』と8本、高峰秀子の出演作は『流れる』、『細雪』、『あらくれ』、『無法松の一生』、『放浪記』、『妻の心』、『女が階段を上る時』、『浮雲』と8本、このうち6本が重なっている。神保町シアターには成瀬巳喜男監督、高峰秀子出演の映画がよく似合うといってもいいのではないかと思う。『放浪記』を取り上げる理由の1つは、成瀬=高峰コンビに対する興味であるが、それ以上に私は詩人としての林芙美子(1903-1951)が好きだし、小説作品として『放浪記』もよく読んできたということがある。(『放浪記』のほかに『浮雲』も芙美子の原作に基づいているのはご承知だと思うが、『晩菊』も芙美子の短編を原作とする映画、このほかの上映作品で千葉泰樹監督の『下町(ダウンタウン)』も芙美子の原作の映画化である。)

 『放浪記』は昭和5年(1930)に発表された林芙美子の出世作で、昭和10年(1935)に、木村荘十二監督、昭和29年(1954)に久松静児監督によって映画化されたそうである。この映画は林芙美子の小説『放浪記』だけでなく、芙美子の仲間の1人であった菊田一夫(1908-1973)による舞台化をも原作としている。その後、森光子が出演記録を樹立することになった舞台劇である。それで、芙美子の伝記的な事実を付け加えた部分もあるようだし、最後の方で作家として成功を収めた後の彼女の姿も描いている。ただ、登場人物の名前は実名を変えてあり、友谷静栄が日夏京子になっているくらいだから、モデルの詮索はご無用ということであろう。その中で、南天堂という実在の書店名が出てくるのがかえってご愛嬌になっている。
 行商人の子どもとして幼いころから各地を転々と放浪した芙美子の人生、同じく丁稚奉公をしたり、苦学を続けて劇作家として成功した菊田一夫の人生、さらに子役からたたき上げて大女優になっていった高峰秀子の人生は、それぞれの子どものころからの苦労という点で、重なり合うところがあるようである。作品中には、芙美子の文章の高峰によるナレーションがしばしば挿入されていて、高峰が芙美子の生き方をどのように受け止めていたかを知るもう一つの手がかりとなっている。

 映画は芙美子(映画ではふみ子)の少女時代を描いた後、彼女が上京して母親(田中絹代)と行商をしながら生活するが、母親を義理の父親の許に帰し、セルロイド工場で働いたり、カフェの女給をしたりしながら、初めのうちは詩や童話を書き、その後は小説を書き続けて、理解者を得て、成功していく過程を、俳優兼詩人の伊達晴彦(仲谷昇)、作家志望の福池貢(宝田明)との出会いと別れ、伊達の最初の妻でその後またよりを戻すが、文学仲間の白坂五郎(伊藤雄之助)のもとに走る日夏京子(草笛光子)との、男関係と文学の両方での張り合いなどを交えて描き出す。貧乏の中で創作に励む様子が、衣食住をめぐる細かい描写に支えられている一方で、登場人物の人間関係だけが前面に出て、社会や文学の動きがいま一つ見えにくいという欠点はあるかもしれない。

 おもしろいのは1954年の映画化の出演者であった伊藤雄之助と多々良純が役柄は違うがこの映画化でも出演していること、この作品に端役(カフェの女給の1人)で出ている林美智子が1964年から1965年にかけて放映されたNHKの朝ドラ『うず潮』で林芙美子の役を演じたことである。菊田一夫が林芙美子と知り合いであったということを含めて、人間の縁のつながりということを考えさせる。

 映画の中で、芙美子が自分は赤旗系は嫌いだと言っている場面があって、実際に大正の終わりから昭和の初めにかけてのアナーキストと共産党系の文学者の対立の中で、芙美子は岡本潤、小野十三郎、高橋新吉、辻潤、壷井繁治、平林たい子といった詩人たちとともにアナーキスト系に属していた。根っからの貧乏人で、底辺で苦労を重ねた彼女が、頭の中での思索から社会主義へと向かった中野重治や中条(宮本)百合子らの文学の方向に反感をもっていたのは、なんとなくわかる。すでに指摘したことであるが、成瀬の細かい生活描写がそのような林の文学のありようの証言となっている。
 
 その一方で、原作を読めばわかるように、林芙美子は上京後、東京を離れたり、あちこちを『放浪』しているのだが、映画ではその範囲は東京の中でとどまっている。原作には、直江津にあったいかやという旅館が出てきたりして、その放浪の様が生々しく描き出されているのだが、そのような雰囲気は映画では希薄になっている。『放浪記』と言いながら、その放浪は職業を転々としたり、男性遍歴を重ねたりすることになってしまって、地理的な放浪ではなくなっていることが惜しまれる。 

日記抄(7月2日~8日)

7月8日(土)晴れ、気温上昇

 集中豪雨のため被害を受けた方々に心からお見舞い申し上げます。

 7月2日から本日までの間に経験したこと、考えたこと、前回に書き落としたことなど:
7月1日
 横浜FCシーガルズはなでしこリーグ・カップ(2部)のコノミヤスペランツァ大阪高槻と対戦し(アウエー)0-0で引き分け。横浜F
Cはツエーゲン金沢と対戦し(アウェー)、3-2で逆転負けした。これで8位に後退する。

 NHKラジオの「朗読の時間」、柳田国男『故郷七十年』の6回から10回。「文学の思い出」の途中に「拾遺」の中の島崎藤村の「椰子の実」の成立にかかわる逸話が挿入されていた(私の手元にある講談社学術文庫版と別のテキストをもとに朗読しているらしい)。

7月2日
 バスで三ツ沢グランドの近くを通り過ぎた時に、まだ雪が縦じまを作って残っている富士山が見えた。

 NHKEテレの「日本の話芸」の時間で、入船亭船遊師匠の「佃祭」を視聴する。祭り好きな男が佃祭を見に出かけて、これがおしまいだという渡し船に乗ろうとして、昔、身投げしようとしていたところを助けた若い女に引き留められる。ところがその渡し船が途中で転覆して‥‥。祭り好きな男、若い女、その亭主の船頭、男と同じ長屋の月番をしている与太郎、長屋の連中、男の妻と登場する人物の描き訳が結構難しい。最後は与太郎の失敗噺で終わる。個別特殊な事例を、一般化せずに、特殊なままに真似しようとした失敗である。3代目の三遊亭金馬が得意にしていた噺(与太郎の出てくる噺がうまかったからね)。鉄道事故で足を悪くしてからは衰えたが、それまでのこの噺の口演は聞いていて鳥肌が立ったと、金馬の弟子の2代目桂小南(故人)が話していたのを思い出す。

 第940回のミニtotoAのノートに書きつけた予想が当たっていた。こういうときに限って、券を買い忘れているのである。

 プロ野球の阪急(→オリックス)、日本ハムの監督であった上田利治さんが亡くなられた。日本ハムの監督時代に、横浜スタジアムでその姿に接して、テレビに出てくるのと同じだという平凡な感想をもったことを思い出す。ご冥福を祈る。

7月3日
 『朝日』の朝刊に上田さんとともに、ドイツ文学者の子安美知子さんの訃報が掲載されていた。自由ヴァルドルフ学校やミヒャエル・エンデの紹介で知られるドイツ文学者であるが、夫君の(日本思想史家である)子安宣邦さんの著作の方を多く読んでいるのではないかと思う。ご冥福を祈る。

 NHKラジオ『レベルアップ中国語』は今回から「伝えてみよう”おもてなし"中国語」という新しい番組が始まった。今年の1~3月に放送されたものの再放送だそうである。

 釣り落とした魚は大きいというが、ミニtotoBも当たっていた。

7月4日
 『朝日』の朝刊に映画カメラマンの長谷川元吉さんの訃報が掲載されていた。吉田喜重監督の『エロス+虐殺』、『戒厳令』などの撮影監督をされた。作家の長谷川四郎の子息である。

 NHKラジオ『まいにちイタリア語』で
(Il tempio) L'hanno costruito intorno al 600.
(そのお寺は)600年頃に建てられた。
という文が出てきた。寺は、一人で建てるものではないから、hanno costruitoと3人称複数形(の近過去)が使われているという。
 確かに、(例を挙げると)京都の天竜寺の開基(創立者)は足利尊氏であるが、開山(初代住職)は夢想疎石である。さらに、建物を建てたのは別の人々である。

7月5日
 NHKテレビの『100分de名著』の時間でジェイン・オースティンの『高慢と偏見』を取り上げていることに気付き、慌ててその第1回(の再放送)を視聴する。講師の廣野由美子さんは〔オースティンは、登場人物たちの中で誰が一番美人であるか、どちらのほうが頭がよいかなど、容貌や頭脳、収入などの序列をはっきりと定めています。しかし、人間としてだれが一番優れているかは、そう簡単には答えが出てきません。これも、この後徐々に明らかになってくる、オースティンの小説の深さだと言えるでしょう」(テキスト25ページ)と論じて、ヒロインのエリザベスにもかなり辛辣な目を向けながら話を進めていて、これからどういう議論が展開されるのか興味深い。

7月6日
 NHKラジオ『まいにちフランス語』応用編は今年の1~3月に放送された「ガストロノミー・フランセーズ 食を語り、愛を語る」の再放送、『まいにちイタリア語』応用編は新たに「メールで発信!」という番組が始まった。「メールで発信」の講師である張あさ子さんの『イタリア語で手帳をつけてみる』(ベレ出版)という本は持っているのだが、最近はあまり目を通していない。

 NHKカルチャーラジオ『国語辞典のゆくえ』の第1回を途中から聴く。言葉は多義的であるから、国語辞典も個性をもった多様なものであることが望まれるという。言葉には唯一の正解はないという講師(飯間浩明さん)の発言の含意をかみしめる必要があるだろう。

7月7日
 日本とEUの間の自由貿易協定が大枠での合意に達したそうで、ワインとチーズが安くなると言われているが、どの程度安くなるのかは不透明な部分がある。それと、いくら安くなっても、今の私の年ではそれほど飲み食いはできないという無念さも感じている。

 『朝日』の朝刊に奈良と鎌倉の大仏を比べる「大仏くらべ」という創作狂言を絵本にしたものが出版されたという記事が出ていた。奈良の大仏は奈良時代につくられて奈良にあり、鎌倉の大仏は鎌倉時代につくられて鎌倉にある…と書くと、平々凡々ではないかと思うかもしれないが、以前にも書いたように京都にもあった大仏が今は残っていない。奈良の大仏は廬舎那仏で伊勢神宮と対をなし、鎌倉の大仏は阿弥陀仏で鶴岡八幡宮と対をなすというようなことをいろいろと考えていくと面白くなる。

7月8日
 シネマ・ベティでアスガー・ファルハディ監督の『セールスマン』を見る。この監督の作品は、『彼女が消えた浜辺』、『別離』、『ある過去の行方』とみてきているが、イランの市民生活を描きながら、謎めいた物語の展開を演劇的に構成していくことで、イランの社会の直面している問題を描き出しているように思われる。この作品では、アーサー・ミラーの『セールスマンの死』というアメリカの戦後演劇の傑作を上演するという企てと、その上演に参加している夫婦の妻の方が引っ越したばかりのアパートで何者かに襲われるという事件が描かれる。夫は、警察に頼らずに、事件を捜査していこうとするが、一方で妻の名誉のために何もかも忘れた方がいいという考えもどこかにある…。『別離』に比べると、主人公たちの住むアパートがおんぼろだなぁと思ったり、イランでも普通の猫は普通の猫なのだなぁ(ペルシャネコではない)と思ったりした。(タイの普通の猫が普通の猫だというのは自分の目で確かめたことがある)。

 横浜FCはアウェーで松本山雅に1-3で敗れる。何とか、体勢を立て直してほしいものである。 
 第942回のミニtotoを買ったのだが、A、Bともに当たらず。

片平孝『サハラ砂漠 塩の道をゆく』

7月7日(金)晴れ、気温上昇

 片平孝『サハラ砂漠 塩の道をゆく』(集英社新書ヴィジュアル版)を読み終える。サハラ砂漠に見せられ、砂漠の旅を続けてきた写真家である著者は、長年、サハラ砂漠の先住民であるトゥアレグ族の言葉で「塩を運ぶキャラバン」を意味するアザライとともに主要な岩塩の産地であるタウデニ鉱山までラクダの旅をする機会を待ち受けていた。
 「アフリカの政情は、空模様のように変わる。たまたま治安が良くなった年があった。2002年、世界遺産の撮影で28年ぶりにトンブクトゥを訪ねた時、外国人でもタウデニ鉱山に行けるようになったことを知った。翌2003年12月、早速、アザライと旅をするという夢を実現させるために、4度目のマリに飛んだ。初めてアザライを目にしてから、すでに33年の時が流れていた。本書はこの時の記録である。」(6-7ページ)
 第1章はタウデニ岩塩鉱山を目指す砂漠の旅の次第を記す。幸いに著者は砂漠の途中でアザライと同行して旅することができた。第2章ではタウデニ岩塩鉱山における採鉱と生活の様相が描かれる。第3章では行きと同じアザライと同行しての帰り道の始終がたどられる。アザライの仲間たちとの別れが続く。第4章では旅の終わりに著者が出会った試練が語られる。現在では、タウデニはアルカイダ系テロ集団とトゥアレグ族の武装蜂起の拠点になっているという。旅から十数年を経て、この書物が世に出るのは、この旅の経験が依然として貴重さを失わず、当分、再現が不可能に思われるからである。
 このブログでは第1章の内容を紹介する。

 パリ経由でマリ共和国の首都バマコに着いた著者は、飛行機が予約できず、自称観光ガイドのハッサンという男の手配した自動車でトンブクトゥに向かう。「どうせ今回は最後まで安全の保証などない無謀な旅だ」(15ページ)ということで、最初から波乱含みである。マリ第二の都市モプティで一泊して翌日の夕方にサハラ砂漠とアフリカ第3の大河であるニジェール川が交わる伝説の交易都市トンブクトゥに到着する。〔著者はニジェール川をアフリカ第3の大河と書いているのだが、第1はわかるけれども、第2が分らない。調べてみたら、コンゴ川であった。〕
 その夜、顔見知りのガイド・アブドラが突然ホテルを訪ねてきた。彼はトゥアレグ族の貴族(支配者階級)出身で27歳。「日本の砂漠緑化団体が始めた植林事業で2年間働き、片言の英語と日本語を覚えたのがガイドの仕事をするきっかけとなった。その時の仲間にソンガイ族のガイド・イッサとラクダ使いのアジィもいた」(23-24ページ)。「アジィは35歳のアラブ系ベラビッシュ族で、以前は岩塩を運ぶキャラバン「アザライ」に従事していた」(25ページ)。経験は十分だが、英語が話せない。英語のできるアブドラを窓口にして、3人でキャラバンを組むことにする。そのアブドラは、通訳兼コックという役回りだが、どうもあてにならず、頼りない。4頭を予定していたラクダのうち1頭の状態がよくなく、3頭で出発することになり、荷物を大幅に減らさざるを得ない。

 12月8日に出発。「サハラを北上する旅は、3時間歩いて、1,2時間ラクダに乗る繰り返しを続けながら、次々と立ちはだかる砂の壁を越えては深い窪地に下りていく。」(32ページ) ずっとラクダに乗り続けているわけではない。炎暑の中3時間も歩くのは大変な難行苦行である。
 昼近く、アゴネギファルと呼ばれる最初の井戸に到着する。ここでアジィの妻(の1人)がキャンプを張ってヤギの放牧生活をしている。翌朝、出発。アジィが家族と別れを惜しむ姿を見る。その夕方、砂丘の影からラクダに逃げられたというアジィの知り合いの男が180キロ先のアラワンのオアシスまで同行させてくれと泣きついてくる。予備のラクダが必要なので、遊牧生活をしているアジィの親戚から借りることにする。ヤギとラクダを放牧する遊牧民の生活の描写は簡単だが興味深い。幸い、2頭のラクダを連れていくことになり、キャラバンの形が整う。

 8日目にトンブクトゥから270キロ地点にあるアラワンのオアシスに到着する。「アラワンは、トンブクトゥより古いベラビッシュ族の故郷だ。同時に塩商人の村でもある。丘の麓にある水量の豊富な2つの井戸は、タウデニから塩を運ぶアザライにとって欠かせない水の補給地になっている。」(45ページ) この村はアジィの故郷でもある。アジィの姉の家に厄介になった後、一行はラクダの骨や、人間の頭蓋骨が野ざらしに連なっている砂漠の中の道を進む。

 10日目に、タウデニに向かう50頭ほどのアザライに遭遇する。幸いに、4人のアザライのリーダーであるムスターファはアジィの顔見知りであった。親戚縁者だけで構成されているこのアザライは異分子の参入を好まない様子であったが、どうやら同行を続けることができた。途中、砂漠の草を刈ってラクダの食料を確保したりする。タウデニまで5日という距離にあるアラワンから数えて2番目の井戸で、水を補給し(1番目の井戸は水が腐っていて使えない)、帰り道のために2束の草を置いた。さらに3番目の水場であるビル・オウナンに到着、さらに旅を続けるうち、アジィが2年前に失くした2頭のラクダを見付け、とりもどす。タウデニでは塩が不足しているという情報を得て、岩塩の確保のためにアザライの1人が先行することになる。

 そして19日目にタウデニに到着する。

 旅の外面を辿っただけでは分らない、アブドラやアジィ、ムスターファの性格や行動様式、さらには砂漠で暮らす人々、トゥアレグ族、ベラビッシュ族、ソンカイ族(黒人)の歴史とそれぞれの特色、砂漠の旅の苦労など、現実の体験を記しているだけに興味深い要素が詰まっている。マリ共和国の西隣のモーリタニア(この書物にもモーリタニアからやってきた遊牧民が登場する)における経験を描いた前野ウルド浩太郎『バッタを倒しにアフリカへ』も面白かったが、それとは別の情熱と観察眼から描かれたアフリカ見聞記として貴重な記録となっている。

補足:7月2日付けの当ブログの記事:前野ウルド浩太郎『バッタを倒しにアフリカへ』
について、後藤貞郎さんから「ティムブクトゥ」ではなく「トンブクトゥ」が一般的ではないかとのご指摘を頂きました。手元にあった研究社の『リーダーズ英和中辞典』にはTimbuktu,-buctoo(ティンブクトゥ)とあるので、「ン」を「ム」として、そのように書いたのですが、確かにご指摘のようにフランス語式にTombouctou(トンブクトゥ)と書く方が一般的だと思います(マリの公用語はフランス語)ので、今回は「トンブクトゥ」を採用しております。 

ダンテ・アリギエリ『神曲 天国篇』(23-1)

7月6日(木)晴れてはいるが、雲が多い。暑い。

 ベアトリーチェに導かれて天上の世界へと飛び立ったダンテは、月天、水星天、金星天、太陽天、火星天、木星天、土星天を歴訪し、それぞれで彼を出迎えた歴史上の有名人や彼の知人の魂と会話し、心に抱いていた疑問への回答を得ていく。そして彼らは恒星天に達して、ダンテはベアトリーチェが勧めるままにこれまでたどってきた宇宙を振り返り、その構造を理解する。宇宙は広大であり、その中で地球が狭小な世界であることを改めて実感する。

 ダンテは第23歌を、闇夜に母鳥が木の中の巣にいる雛のそばで夜明けを待っているという情景から始める。それはベアトリーチェが何かを待っている姿をたとえたものである。彼女が待っていたのは「キリストの凱旋」であった。
…「ご覧なさい、
キリストの凱旋の行進を、そして諸天空の回転により
生じた収穫のすべての果実を」。
(346ページ)

 そして天上の太陽、神の恵みの光の光源が魂たちの光の上に現れ、ダンテはその光に圧倒される。ベアトリーチェはその激しい光がイエス・キリストであることを告げた。
・・・「あなたを打ち負かしたあれは、
それから身を護れるものなど何一つない御力です。

あの中に、空と地の間を結ぶ道を開いた
知と力がおわします。
かつてあれほど長きにわたって望まれていた方が」。
(347ページ) 

 ダンテはその光を見た時に、神の光を受けて神の恵み、つまり神的な知を享受し(ダンテはそれを「饗宴」と呼んでいる)、そのために、元来が神与のものである知性がダンテから抜け出し、「脱我」して、ダンテの知性はその神的知性と接触した。このことが、本来は上に向かう性質を備えている炎気が、性質に反して地上に落ちる現象である落雷に例えられている。
炎気がふくれ上がったために
雲の中に留まれずに噴出し、
生来の性質に反して地上に落雷するのと同様に、

わが知性もその饗宴の中で
常よりふくれ上がり、脱我したのだ。
そして知性は己がどうなったのかを今も思い出せないでいる。
(348ページ) 

 ダンテは「脱我」を覚えていない。が、この神的知性との接触で成長し、ついにベアトリーチェの微笑み、換言すれば神の恩寵を直接見た。翻訳者である原さんは解説で次のように書いている:「しかしここで神の片鱗のようなその微笑を書き切ってしまえば、神との出会いを目指している『神曲』の詩人としての旅が終わってしまうためであろうか、詩人ダンテは…言語の非全能性を理由にその微笑を描かなかった」(614ページ)。
彼女の聖なる微笑と、
その微笑が聖なる顔をどれほど輝かせていたか
歌ったとしても、真実の千分の一にも達しないであろう。
(349ページ)

 ダンテは神の子イエス・キリストと、神の恩寵のアレゴリーであるベアトリーチェの微笑を見た。この後ダンテは、直接目にした神的な出来事を、地上の事物を例えに使って読者に説明するようになる。ダンテが経験した事柄は、地上の人間の経験と想像力を越えた出来事であり、それをそのまま伝えることはできない。地上の人間の理解力に届くように、彼の見聞を表現するのは親征ではあるが、きわめて困難な仕事となる。
・・・この聖なる叙事詩は
天国を言葉で描き出しながらも飛躍せざるを得ない。
あたかもおのれの道が断ち切られているのに直面した者のように。

しかし、この困難な主題と
それを担う生身の肩について思い及ぶ人ならば、
その重みの下で肩が震えたとしても非難しないだろう。

勇敢な船首が水を掻き分けながら進んでいる水路は、
小舟にも、自分の力を出し惜しむ船頭にも
渡れるものではない。
(350ページ) ダンテは全力でこの仕事をやり遂げようと決心する。その彼に、ベアトリーチェは「薔薇」(=聖母マリア)と「百合」(=十二使徒」に目を向けるように勧める。恒星天で彼はさらに多くの物を見るのである。
 

倉本一宏『戦争の日本古代史 好太王碑、白村江から刀伊の入寇まで』(7)

7月5日(水)晴れたり曇ったり、台風一過、気温上昇

 隋、その後を受けた唐王朝という中国を統一した政権の出現は北東アジアの高句麗、新羅、百済および倭国に対して重大な影響を及ぼした。新羅は唐に依存することで他の諸国と対抗しようとしたのに対し、他の3国は連携して唐・新羅に対抗しようとした。
 660年に百済が滅亡するが、その遺臣たちが復興を目指して挙兵し、倭国に対し百済最後の王であった義慈王の弟の余豊璋の帰国と援軍とを求めてきた。これに応じた斉明大王以下の倭国首脳は、斉明7年(661)に近畿地方を離れて西に向かい、3月には九州に達して戦いの準備を進めたが、7月に斉明が崩御する(それに先立つ6月に新羅の武烈王がなくなり、文武王が即位している)。後を継いだ中大兄皇子(→天智大王)は8月に第一次の遠征軍を組織し、9月に5千余人の軍兵に護衛させて豊璋を送り返した。この第一次の遠征軍はその大部分が帰還したが、一部は百済に留まっていたと考えられる。
 天智2年(663)3月に中大兄は第2次の百済救援軍を編成、2万7千という倭国の全力を傾けた兵力が海を渡り、百済ではなく、新羅を目指して侵攻した。一方、唐から派遣されていた劉仁軌は本国に兵の増員を要請し、おそらくは海軍を主力した援軍を得て、百済軍を破りながら南下してきた。そのころ、百済では倭国から帰国して王位に着いた豊璋と、復興運動の指導者であった鬼室福信の間で対立が生じ、豊璋が福信を殺害するという内紛が起きてますます政権は弱体化していた。
 唐・新羅連合軍は水陸両面からの侵攻計画を立て、水軍は白村江で陸軍と合流して、百済の本拠地である周留城を攻撃するという作戦を取り上げた。

 その白村江がどこにあるかをめぐって諸説入り乱れている。通説では錦江河口付近とあれるが、東津江河口という全榮來の説がだというではないかと著者は論じている。この東津江河口とその付近の海岸の現状をめぐる著者の報告はこの書物の中でも特に興味深い箇所である。
 8月に倭国は、駿河の地方豪族である廬原(いおはら)臣を将軍とする1万余人の第三次派兵を行った。この軍勢は直接百済に向かったもので、当初から旧百済領に駐留する唐軍、あるいは東本国から新たに派遣されてきた水軍との対決を目的とした出兵であるとみられている。8月13日に周留城にいた豊璋王は倭軍を迎えに行くと称して、白村」に赴き、残った将兵たちの士気を阻喪させた。問題は既に派兵されていた第二次百済救援軍の行方で、8月の白村江の戦に間に合って第三次派兵軍と合流して唐・新羅連合軍と戦ったのか、間に合わなかったのかは分からない。いずれにしても、この第二次派兵軍の将軍たちの名はその後の歴史には登場していないという。もし、第三次救援軍が第二次救援軍と合流できず、単独で唐・新羅連合軍と戦ったとすれば勝敗は戦う前から明らかであった。

 8月17日、唐・新羅連合軍の陸上軍は周留城に至り、これを包囲した。一方、水軍は軍船170艘を率いて白村江に戦列を構えた。倭国の水軍の戦闘がようやく白村江に到着したのはそれから10日を経た8月27日のことであった。その水軍は『旧唐書』劉仁軌電によると、「舟400艘」、『三国史記』新羅本紀・文武王11年に引かれた新羅の文武王が唐の総管に送った答書によると「倭船千隻」とある。
 「数は唐の船よりも多いのであるが、その大きさや装備は、とても比較できるものではなかったことであろう。」(145ページ)と考えられる。唐の戦艦は、鉄甲で装備された巨大な要塞であるのに対し、倭国の「舟」は文字どおり小型の準構造船(竜骨をもたず、刳船の両舷に舷側板を組み合わせたもの)だったと倉本さんは推測している。
 多数の小舟が長距離の外洋を進軍するとなると、当然のことながら速度に時間が生じることになる。この27日、長い帯のような倭国の水軍の先頭が戦列を構えて待ち構えている唐の水軍のただなかに達したのである。『日本書紀』が
 日本の軍船の先着したものと大唐の軍船とが会戦した。日本は敗退し、大唐は戦列を固めて守った。
と記しているように、勝敗以前の問題であった。倭国軍は先着順に唐軍の餌食となってしまったのである。

 27日から28日にかけて、倭国の水軍が続々と白村江に到着したものと思われる。普通であれば、前日に敗戦していた場合、その原因を分析して、次の決戦の作戦を練るものであろうが、倭国軍にはそういった形跡が見られない。
 この理由として倉本さんは、対外戦争の経験の不足から、「ろくな戦略も戦法も考えずに、やみくもに突撃を繰り返す、そのうちに英雄的な人物が現われて戦闘に一気に決着をつける」(146ページ)というような戦いしかできない倭国→日本の軍事的な問題点を挙げている。基本的な議論としては、日本にはまともな軍事理論は育っていなかったという乃至政彦『戦国の陣形』(講談社現代新書)に共通する認識が示されている。
 ただ、次のようなことも考えてよかろう。倉本さんも論じられているように、将軍たちの間には上下関係がなく、軍隊の軍令・指揮系統が出来ていない。だから、先に到着した前軍の経験は中軍・後軍に伝わりにくいし、おそらくは前軍の将軍はすでに戦死していたので、前日のことなど構わずに後から来た軍隊は突撃を行ったのであろう。

 28日、倭国軍は唐の水軍と決戦を行った。統制もなくただやみくもに突進する倭国軍に対し、唐軍は陣を固め、倭国の舟を包囲して攻撃した。『旧唐書』の劉仁軌伝によれば、唐軍は火攻めを行ったという。また海水の干満の差が利用されたという考えもある。満潮の時に白村江に攻め込んだ倭国軍が、干潮で立ち往生してしまい、火攻めを受けたというのである。落合淳思『古代中国の虚像と実像』(講談社現代新書)によると、中国の北方では陸上の戦い、南方では水上の戦いがたくみであったというが、統一政権ができたことで、両方の長所を備えた軍隊が組織されるようになっていた。軍船の装備については既に触れられていたが、武器においても中国の方が優れたものを備えていたことは容易に推測できる。

 白村江の敗戦から10日後の9月7日、周留城もついに陥落した。北方の任存城で最後まで抗戦していた遅受信もついに投降し、「百済の余燼はことごとく平定された」(150ページ)。こうして百済は完全に滅亡したのである。

 白村江の戦の敗因として、小出しに兵を送るという戦略の欠陥、豪族軍と国造軍の寄せ集めにすぎないという軍事編成の未熟さ、いたずらに突撃を繰り返すという作戦の愚かさ、そして百済復興軍の内部分裂などが指摘されている。それはこれまでの内戦の経験の身に依存し、中国王朝の直接介入という今回の状況の重大さを十分に考慮していないことからくる認識不足の結果であった。
 倉本さんはこれらの通説を受け入れつつ、倭国の政権が5世紀の初頭に高句麗に惨敗した記憶を忘れ去っていたことが影響していると述べる。「自己に都合のいい経験だけを記憶し、都合の悪い経験は忘却するという、人間が誰しも陥りがちな思考回路に、今回もまんまと嵌まってしまったということになる」(152ページ)。

 白村江の戦の敗戦は古代の倭国→日本最大の敗戦であり、軍事的な失敗であった。(次回に述べるように、東アジアの歴史ということになると、局地的な小事件にすぎないという認識が一般的だそうである。) その倭国→日本の政治と社会に及ぼした影響は甚大なものとなるが、それらについてはまた次回触れるつもりである。 

倉知淳『ほうかご探偵団』

7月4日(火)曇り

 倉知淳『ほうかご探偵団』(創元推理文庫)を読み終える。2004年、”大人にとびっきりの興奮を、子どもに未来の夢を〟といううたい文句のもとに一線級のミステリの書き手を集めて、講談社刊行されたシリーズ<ミステリーランド>の1冊の文庫化。

 僕(=藤原高時)は富士山の裾野にある小都市の、ごく普通の小学校の5年生。おっとりした気風の土地柄に加えて、のんびりした性格の生徒が多く、学校で”いじめ”の話は聞かない。特に彼の所属するクラスはわりに結束が固い。担任の山崎先生がおおっざっぱで、おまけに学級委員の神宮寺のリーダーシップがしょっちゅう空回りするから、その分、学究の構成員ひとりひとりがしっかりしなくちゃと思っているからかもしれない。

 ある日、その僕が登校すると、その神宮寺から話しかけられる。彼の机の上にもう使わなくなったたて笛が置かれている。その真ん中の細長い部分がどこかに行ってしまった状態にされている。神宮寺をはじめ、学級のみんなが騒ぎ立てるのは、この学級に立て続けに不思議な事件が起きているからである。先週の月曜日、みんなが描かされた富士山の絵を教室の後ろに貼り出してあったのが、その真ん中に貼られていた棟方君の図画がどこかに行ってしまっていた。そして水曜日、5年生が飼育当番になっているニワトリが姿を消した。「厳密に言えば、これは教室の中の事件とは言えないけど、クラスの女子が飼育係であり発見者でもあるので、クラスに関係していると考えても構わないだろう。」(23ページ) 飼育係は女子の成見沢めぐみと男子の三浦(ヤス)の2人なのだが、三浦がサッカーの練習に熱心で、仕事は成見沢一人が引き受けているのである。金曜日には神宮寺が「外国の戦争被災者の人たちに、毛布や医薬品を送ってあげたい」と募金用に作ったハリボテ招き猫が姿を消した。明けて月曜日には高時のリコーダーが部品を抜き取られていた。

 昼休み、どう考えても役に立ちそうもないものばかり、姿を消した(→盗まれた?)謎を考えていた高時に、同じクラスの龍之助がやって来る。彼には事件をめぐっての独自の推理があったのだが、それが当たっていないことを知ると、2人でこの事件を調べてみようと持ち掛けてくる。このおしゃべりで少し変わっている龍之介は、高時の一番の親友で、二人とも探偵小説が大好きだったことから仲良くなったのである。

 捜索を開始した2人は昼休みに、まず棟方(彼は絵の天才だということになっている)、次に神宮寺から話を聞く。さらに放課後に成見沢から話を聞こうとすると、彼女と仲のいい女子の学級委員である吉野明里がやってきて、話に加わる。さらに三浦(ヤス)が通りかかって、ニワトリの目撃情報を残してサッカーの練習に出かけていく。吉野は自分と成見沢の二人も仲間に入れてくれと頼んでくる。龍之助は承知して、仲間は4人になった。吉野にひそかに心を寄せる高時は胸をときめかせる。

 4人は、成見沢が第一発見者だという山崎先生のところに事情を聴きに出かける。先生の証言に嘘はなさそうで、事件の謎は深まる。教室に戻った4人は事件について話し合う。次々に、短期間のうちにものがなくなっている――ということは、同じ犯人の犯行と考える方が自然だという龍之介の推理に一同は同意する。さらに、4つの物を消して見せる理由、その動機をもつ人間が犯人であると、龍之介は推理する。あるいは、犯人が本当の目的は1つで、他の3つはカムフラージュかもしれない。4つの物の共通の特徴は何か。なかなか結論は出ない。

 捜索は4日にわたり、アッと驚く結末に至る。その結末を語る「解決編」が作品全体の3分の1近くの量をしめているのが異色である。事件はささやかなもの(途中で、町で起きた宝石泥棒事件が絡む??→シャーロック・ホームズの「青いガーネット」のような展開か??)であるが、4人ががやがやと話し合う中身は推理小説入門的な面白さをもつ。たとえば、この一連の事件が何かの暗号ではないかと考えて、その意味をさぐってみたりするが、解読できない…。

 静岡県出身だという作者自身の小学校時代の想いでが重なっているような学校生活の描き方に加え、登場人物の思考や行動が変に大人びているように思われ、現実感が今ひとつ感じられないのであるが、それぞれに個性的な登場人物の言動が魅力的である。その中で、語り手の高時が影の薄い存在に設定されているのも面白い。
 学校の裏で文具と駄菓子の店を出している吉田屋のおばば、保健室の先生だが、保健室にはいないでそこらを歩き回ってばかりいる仁美先生、同級生で1年生の妹の面倒をいろいろとみている豪史など多彩な人物がそれぞれ自分の見聞きしたことを話す。一見関係がないようでいて、それぞれに意味があったりする。結末は伏せておくが、果たして4つの事件が同一犯人の仕業かということは疑ってかかった方がいい。むしろ、その推理が強調され、すんなり受け入れられる方に謎が潜んでいる。
 終りの方で龍之介がいう「僕たちが連続消失事件を調べようとしたんだから、他にも同じようなことを考えるヤツがクラスにいても、おかしくはないだろう」(237ページ)というセリフ、また「探偵ごっこが出来て、楽しかったじゃないか」(245ページ)というセリフにこの作品の子どもたちに発信したメッセージが込められているように思われる。もちろん、大人にとっても読み応えのある読み物となっている。
 

『太平記』(165)

7月3日(月)晴れ

 建武3年(延元元年、1336)5月25日、九州から海路東上してきた足利尊氏、陸路を進んできた直義の軍勢は、中国地方から退却して、兵庫で防備を固めている新田義貞、京都から応援として派遣された楠正成の軍勢との戦闘を開始した。正成は弟の正氏とともに足利直義の命を狙ったが、事ならず、二人は七生まで朝敵を滅ぼすことを誓って湊川で自害した。生田の森で奮戦した義貞も、衆寡敵せず退却した。義貞敗戦の知らせに、後醍醐天皇は再び比叡山へと向かった。

 このような次第で、公家と武家とが、天皇の乗られている輿の前後を取り巻き、修学院から雲母坂を経て比叡山を越えていく今道越を進んで行くこととなった。
 一方、持明院統の君である花園法皇、光厳上皇、豊仁(ゆたひと)親王(のちの光明天皇)に対しては、洞院大納言公泰卿が勅使として派遣され、持明院殿の法皇・上皇・親王の方々の御所を天皇と同じように比叡山に移されるように申し入れがされたので、持明院統では花園法皇の兄、光厳上皇、豊仁親王の父である後伏見院が4月に亡くなられたばかりで喪中であったのではあるが、避けられないことなので、比叡山に遷られることを承諾する旨を伝えられた。そこで備前の武士である大田全職(まさもと)が遷幸の警護役としてお供すべくやってきた。ところが、支度を整えて御所を出られようとしたところで、突然ご病気を訴えられ、しばらく出発を見合わせることとなった(どなたが、ご病気になられたのか、書かれていないのが奇妙である。なお、飯倉晴武『地獄を二度も見た天皇 光厳院』では、『皇年代略記』により、病気と称したのは光厳院であったとしている)。
 『太平記』の作者は、後から考えると真相は、後伏見上皇が(歴史的な事実としては光厳上皇が)尊氏に院宣を与えられていたので、ご政務をあきらめてはおられなかったのだろう。あるいは尊氏の方からも内々に連絡があったのかもしれないと述べている。

 そうこうしていたが、全職と彼の率いる武士たちは、早くご出発していただきたいと急き立てていたので、上皇は輿に召され、臨幸を開始されたのだが、鴨川の河原に出たあたりでご病気が悪化したので、しばらく腰を留め、ご回復をお待ちしていた。ところが時間がたつうちに足利方の軍勢が都に乱入したらしく、都のあちこちから火の手が上がり、鬨の声が辺り一帯に響いてきたので、全職は「ご病気であるのに無理をして険しい山道を越えられるのも、その後のご病気が悪化する原因となるでしょう。逆臣たちは既に京都に入ってきて、あちこちで合戦が始まるのを見ながら、意気消沈して待機している場合ではありません。全職はまず比叡山の方に急いで駆けつけるつもりです。敵に道を遮られて」しまえば、悔いてもどうしようもないので、私はまず先に東坂本へ参ります。おのおの方はご病状の様子次第で、急いで後から駆けつけてください」とお供の人々に申し渡して、比叡山に向かっていった。

 この直後に、尊氏の方から、持明院の御所に警護の武士たちを派遣したのであったが、朝早くから比叡山の方に向かわれましたという留守の者の言葉であったので、武士たちは途方に暮れて、ひょっとして院の行幸に行き会えるかと、馬で駆け回り、探し回ったのであるが、お三方のご運がよかったのであろう、石捨(岩波文庫の脚注によると、どこのことか不詳だそうである)というところで出会うことができたので、大喜びで、尊氏卿の使いと名乗ったところ、上皇もお喜びになり、お供をしていた日野資名、源重資らの公家たちもほっとしたのであった。そして、尊氏の命令で、まず土御門東洞院にあった六条長講堂を御所として定め、尊氏配下の武士たちが警護に当たった。

 その後、京都市内での合戦がまだ決着していなかったので、同じ年の6月3日に、花園法皇、光厳上皇、豊仁親王を石清水八幡宮に臨幸させ申した。同じ月の14日に八幡から京都にお戻りになり、当時に向かわれ、灌頂院を御所とされた。これは尊氏の差し金によるものである。後醍醐天皇とともに比叡山に向かった以外の公家や武士たち、これまで持明院統に仕えてきた公家たちは、それぞれ東寺へと集まった。

 6月20日から比叡山を本拠とする宮方との戦いが本格化したが、足利方が有利であったので、ますます味方となるものが増え、覇権を確立したので、この年の8月15日に押小路烏丸の二条中納言中将良基の邸で、後伏見院の第二王子、豊仁親王が践祚された。これは、尊氏の運勢が隆盛に向かうはじめであったと、後になって思い当たることであった。

 光厳上皇とともに、鎌倉を目指して都を離れた六波羅探題の一行に加わり、探題一行が自刃したのちに出家した資名がひさしぶりに登場し、光厳院への忠誠を通しているのも注目されるが、ここで二条良基(1320-1388)の名が出てくるのが興味深い。政治家としては摂関の地位に昇り、文化人としては連歌道の樹立者とされ、『増鏡』の作者という説もある。当時はまだ十代で(それでも中納言という高い地位にあるのだから、門閥というのは恐ろしいものである)あったが、なぜ彼の邸が(もちろん、彼が父祖から継承した邸ではあるのだが)豊仁親王(光明天皇)の践祚の場となったのかは、歴史上のひとつの謎である。さらに、もともと大覚寺統寄りの公家・文化人として育ち、後醍醐天皇からも目を懸けられていたという良基がここで北朝方に寝返ったのはなぜかというのも謎である。伊藤敬『新北朝の人と文学』という書物には、木藤才蔵「二条良基の研究」(1963、『学士院紀要』所収)からの「一筋なわでは解釈のつかない、複雑な人間像を想定せざるようである」(伊藤、55ページに引用)という評価が引き合いに出され、また伊藤自身も「良基の振幅は大きく、それだけに偉大であった」(同上)と評価している。とにかく武家同士の戦闘もさることながら、文化の領域でも様々な動きがあったことも視野に入れる必要がある。〔二条家は摂政・関白になることのできる家柄=摂関家であるのに対し、学者・実務官僚の家柄である日野家の家格は名家であった。〕

 この後の『太平記』は政治と戦闘の動きからしばらく離れて、<中世神話>を含む、奇怪な物語を展開する。 付け焼刃のにわか学問になることは承知で、これから1週間ほど<中世神話>について調べておくつもりである。

前野ウルド浩太郎『バッタを倒しにアフリカへ』

7月2日(日)曇り

 6月29日、前野ウルド浩太郎『バッタを倒しにアフリカへ』(光文社新書)を読み終える。5月20日に発行された本であるが、6月20日に第2刷が刊行されていて、私が入手したのはその第2刷の方である。本日(7月2日)の『朝日』朝刊の「売れてる本」のコーナーでも取り上げられていて、次第次第に売れ行きを伸ばしている本であるようである。

 子どものころにファーブルの昆虫記に出会った著者は昆虫学者を目指す。多くの昆虫の中でたまたま巡り合ったバッタの研究をはじめ、博士号を取得した。しかし、就職先はあまりない。バッタは時として大量発生して多大な被害をもたらすが、そういう現象は現在の日本ではまず起きない。世界に目を広げると、アフリカではバッタが大発生して農作物を食い荒らし、深刻な飢饉を引き起こすことがしばしば起きている。それで、研究が進んでいるか…と思うと、そうでもないようである。「過去40年間、修行を積んだバッタ研究者は、誰もアフリカで腰を据えて研究しておらず、おかげでバッタ研究の歴史が止まったままだということを知った」(5ページ)。そこでもアフリカのモーリタニアの国立サバクトビバッタ研究所での研究に出かける。
 「その結果、自然現象に進路を委ねる人生設計がいかに危険なことかを思い知らされた。バッタが大発生することで定評のあるモーリタニアだったが、建国以来最悪の大干ばつに見舞われ、バッタが忽然と姿を消してしまった。人生をかけてわざわざアフリカまで来たのに、肝心のバッタがいないという地味な不幸が待っていた。
 不幸は続き、さしたる成果を上げることなく無収入に陥った。なけなしの貯金を切り崩してアフリカに居座り、バッタの大群に会い見える日が来るまで耐え忍ぶ日々。バッタのせいで蝕まれていく時間と財産、そして精神。貯金はもってあと1年。・・・」(7ページ)

 モーリタニア(短期間フランス)での研究の顛末を綴った本であるが、「研究内容についてあまり触れていないのは、…ほとんど論文発表していないため、まだ公にできないという事情」377ページ)があって、研究成果を紹介する内容は少ない。しかし、それを補って余りある様々な情報が詰まっているというのもこの書物の特徴のひとつである。

 まず、著者がバッタについてのフィールド研究を展開したモーリタニアという国。著者は西アフリカと書いているが、北アフリカといってもいい、境界的な国である。国土の東の方はサハラ砂漠で著者の研究の主な場である。北には帰属をめぐって紛争中の西サハラ、そしてアルジェリアがあり、東ではマリ、南はセネガルと国境を接している。アフリカをサハラ砂漠から北と南に区分することが行われているが、そうすると境界線上の国ということになる。『地球の歩き方』にも載っていない国で、そのためかどうかは知らないが、著者は入国審査でつまずく。イスラム教国なので、アルコール類は販売されていないし、著者は日本から持参した酒類を没収されてしまう。男性は4人まで妻をもつことができ、著者の研究を運転手として助けたティジャニには2人の妻がいて、研究所の近くに住んでいるのは第2夫人の方だったのが、その第2夫人と別れて、新しい第2夫人と結婚することになる。著者がミドル・ネームに使っている「ウルド」とは何か。砂漠の中の塩の湖サッファと岩塩の採掘の歴史。そういうモーリタニアの社会や生活文化と自然のありのままの姿が断片的ではあるが、描かれているのが好奇心を満足させてくれる。

 それから著者自身が直面している研究生活や研究対象やテーマのしぼり方などは、研究者を目指す人には大いに参考になるはずである。バッタがなかなか現れないということになると、砂漠を代表する昆虫の1つであるゴミムシダマシ(ゴミダマ)の研究を始める。「このゴミダマの観察を通して、野外では、実験室では想定できないことがたくさん起こっていることを改めて思い知らされた」。(187ページ) 当たり前の結論かもしれないが、そこへ行きつくまでの経験によって千金の重みが加わっている。

 この書物にはそうした、著者自身の独特な経験の様々な様相がユーモアを交えて描きこまれている。著者が知り合ったビジネス情報誌『プレジデント』の編集者である石井伸介氏の指導もあったかもしれないが、専門的なテーマを一般向けに解説していく説明の能力はやはり天性のものではないかと思う。私はモーリタニアの北の方のマグレブ諸国に興味があって、かなり本も読んできたし、マリと砂漠の都市ティムブクトゥにも興味をもってきたので、そういう興味の延長として読むことができた。砂漠でのフィールド研究について書かれた部分はアウトドアの冒険の一例として読むこともできるだろう。いろいろな側面からなり、その側面のおのおのが輝いているような、多様な魅力をもった書物である。 

日記抄(6月25日~7月1日)

7月1日(土)曇り、時々雨

 6月25日から本日までの間に経験したこと、考えたことと前回書き落としたこと:
6月21日
 『まいにちロシア語』を聞いていたら、ロシア文学が日本文学に影響を与えた一例として、ゴーゴリの『外套』の一部が翻訳されて芥川の「芋粥」に使われているという話が出てきた。講師の先生は、帝政ロシアの小役人と、王朝時代の小役人という言い方をしていたのだが、「芋粥」の原作である『今昔物語集』の説話に出てくる「五位の侍」は決して「小役人」ではない。日本史事典の類で官職と位階の相当表を見ればわかることであるが、正五位が上国、従五位が大国の守(長官)ということになっており、現在でいえば知事クラスの存在である。芥川は「芋粥」を小役人が大事にしていた夢が、地方で過剰な接待を受けたことで敗れてしまった話として再話したが、『今昔物語集』の作者がこの物語を豪華な接待ができる利仁の富貴とその接待を受けた「五位の侍」の幸運とを話題として取り上げているのは本文を読めば明らかである。

6月24日
 横浜市営バスの小机駅前のバス停で降りて、JR横浜線の小机駅を通り抜けて、日産小机フィールドに向かったのだが、駅の構内に「ツバメの糞に注意してください」という掲示が出ていた。天井には確かにツバメの姿があり、通路にはいくつも黒いシミのようなものが出来ていた。

 NHKラジオ第二放送の「朗読の時間」は柳田国男の『故郷七十年』をとりあげはじめた。講談社学術文庫から刊行されているテキストと照らし合わせてみると、ところどころ飛ばして朗読していることがわかる。彼が13歳の時に次兄の井上通泰に伴われて兵庫県から上京、その後、茨城県の利根川畔で暮らしていた長兄松岡鼎のもとで暮らすようになって、東西の文化の違いを経験したこと(特に茨城県で農村の貧困の実態を知ったこと)、彼自身の記すところで「次兄に伴われて東京へ出たころはまだ東海道線が開通していなかった。神戸から船に乗る以外、方法のなかったころである。その2年後、両親や弟たちが後を追ってやってきたときは、東海道線を汽車で上京している」(22ページ)というような変化の激しい世相の中で十代を過ごしたことが、彼のその後の知的な好奇心に大きな影響を与えたことは容易に想像できる。彼は子ども時代にいたずらをして遊び歩く一方で、身近にあった本を乱読する読書好きな少年でもあった。神秘的な経験をする一方で、合理的な思考をする人であり、そのような自分の中の異質な要素の共存を自覚し、それをそのまま育てることのできる人であった。

6月25日
 小林敏明『夏目漱石と西田幾太郎――共鳴する明治の精神』(岩波新書)を読み終える。この2人は同じ時期に東大で勉強したが、顔見知りではあっても、親密な仲ではなかった。しかし、漱石の友人でもあり、西田の友人でもあるというような人は少なくはないのである。時代を並走した2人の巨人の交錯は日本の精神史のある側面を生きいきと描き出すものである。

 ニッパツ三ツ沢球技場でJ2第20節横浜FC対湘南ベルマーレの対戦を観戦する。横浜は何度かチャンスを作ったが、ゴールが遠く0-1で敗れる。
 なお、この試合は神奈川区民DAY!で神奈川区のゆるキャラであるかめたろうが応援にやってきた。三舟隆之『浦島太郎の日本史』(吉川弘文館歴史文化ライブラリー)に「神奈川の浦島伝承の面白いところは、浦島の名前がこの地域の地名にも残ったことにある。・・・戦後、神奈川区内に浦島町の名前は残り、小中学校の校名ともなった。お祭りともなれば、浦島太郎の山車が町内を廻り回る」(157ページ)として、地元の庶民が浦島太郎の伝説と信仰を継承してきたことを記し、海岸で生活する人々の安全や幸福をもたらす信仰の対象へと浦島太郎が変容していることが指摘している。

6月26日
 『朝日』に最近、小学校で盛んにおこなわれるようになってきた「二分の一成人式」が一部の子どもたちにとってむしろ重荷に思われているのではないかという記事が出ていた。「二分の一成人式」もさることながら、「二倍成人式」、「三倍成人式」、「四倍成人式」・・・というのも考えてよかろう。まだまだ先の話だが、私の場合、「四倍成人式」が一つの目標になってきている。

6月27日
 NHK『ラジオ英会話』は”English Conversation Literacy"の一環として、雨にかかわる会話や言い回しを取り上げた。
Rain, rain, go away. (雨、雨、行きなさい)
Come again another day.  (別の日に戻りなさい)
Little Jonny wants to play. (小さなジョニーが遊べない)
Rain, rain, go away.      (雨、雨、行ってしまえ)
ということもの歌があるそうである。また次のような替え歌もあるという。
Rain, rain, go to Spain.    (雨、雨、スペインへ行きなさい)
Never show your face again.(二度と顔を見せないで)
 映画My Fair Ladyの中で、花売り娘のイライザが必死に練習するのがこれによく似た次の文である。
The rain in Apain stays mainly in the plain. (スペインの雨は主に平野に留まる)
いわゆるコックニーアクセントでは、rainをライン、Spainをスパインのように発音するので、それを直そうとする特訓に使われたのがこの文である。
 なお、このミュージカルの原作であるバーナード・ショーの『ピグマリオン』には2つの結末があって、イライザが英語を直してくれた言語学者と結婚するというのと、彼女に思いを寄せる若い紳士と結婚するという2つである。『マイ・フェア・レディ』は前者の結末になっているが、後者の結末を選んでも面白そうだと思う。

6月28日
 「ラジオ英会話」は”A Song 4 U"(今月の歌)で、ミュージカル映画Singin' in the Rain(1952年公開。邦題「雨に歌えば」)の主題歌”Singin' in the Rain"を取り上げた。歌のかなりの部分が、頭の中に入っていたので、歌いやすい気がした。

 NHKラジオ『実践ビジネス英語』の”Quote...Unquote"のコーナーで取り上げられた言葉:
You can never plan the future by the past.
   ――Edmund Burke (British statesman and political philosopher, 1729 -97)
(過去に基づいて未来を計画することは決してできない。)
 バークは近代保守主義の先駆者といわれているので、この言葉がどういう文脈と意図でいわれているのかを調べてみる必要がありそうだと思う。

 将棋の世界で史上最年少での昇段以来破竹の公式戦29連勝を続けている藤井聡太4段が、中学卒業後、将棋に専念するという意向を示しているそうである。進路選択は本人の自由ではあるが、私の意見としては、単位制でも、通信制でもいいから、高校に進学しておいた方がいいと思う。高校レベルの水準の教養は独学でも身につくかもしれないが、学校でいろいろな同輩ともまれあうのも一つの経験である。プロの棋士1本になった場合、将棋界の人、各界の有名人とつきあうことはあるだろうが、ごく平凡な人とつきあう機会は少なくなりそうだ。そういう機会を確保する手段の一つとして、高校に進学しておいた方がいいと思うのである。

6月29日
 『実践ビジネス英語』の”Quote...Unquote”のコーナーで紹介された言葉:
What would life be if we had no courage to attempt anything?
             ――Vincent van Gogh (Dutch painter, 1853 - 90)
(もし何かを試みる勇気が全くないならば、人生はどんなものになるのだろう。)

 千野帽子『人はなぜ物語を求めるのか』(ちくま新書)、前野ウルド浩太郎『バッタを倒しにアフリカへ』(光文社新書)を読み終える。それぞれ別の意味で、さまざまな要素が組み合わさってできている書物である。機会があれば内容を詳しく紹介してみたい。

6月30日
 神保町シアターで「映画監督 鈴木清順の世界」の特集上映から『東京流れ者』(1966、日活)を見る。もとヤクザの不死身の哲(渡哲也)は、足を洗ったはずのやくざ同士の抗争から抜け出すことができず、庄内、佐世保と旅をして歩くが、行く先々で抗争に巻き込まれる。独特な色彩の使い方や画面構成と、繰り返される主題歌が印象に残る一方で、ストーリーが弱いという問題も感じる。渡と、相手役の松原智恵子の若さ(松原さんの場合には美しさ)も記憶されてよい(もっとも、クラブの歌手という役どころは、松原さんには荷が重かったのではないかとも思う)。

 一ノ瀬正樹『英米哲学史講義』(ちくま学芸文庫)を読み終える。論理実証主義やプラグマティズムの辺りまでは何とかついていけるのだが、その後の部分になると難しいねえ。

7月1日
 『朝日』朝刊の地方欄に、金沢文庫の「元暁法師展」についての記事が出ていた。元暁(617-686)は新羅の高僧で、その『起信論別記』が金沢文庫に伝わっていたという。仏教の歴史では「三国」伝来という考え方があって、インド、中国から日本への伝来を重視するが、朝鮮半島を経由して日本に入ってきた文化も無視してはならない。元暁についても、同時代の日本の僧侶たちが彼から学んだものは大きいと思われる。その朝鮮では、儒教の影響が強くなって、仏教文化が衰え、むしろ日本の寺院の方が多くの朝鮮仏教関係の文献を残しているのは皮肉である。なお、金沢文庫には朝鮮の古い仏教文献に加えて、それをはるかに上回る中国の仏教文献が残されているそうである。などと、読んでいると、久しぶりに金沢文庫に出かけたくなった。
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