2017年の2017を目指して(6)

6月30日(金)曇り、時々小雨が降る

 6月は新しく出かけた場所はなく、2都県(東京、神奈川)、2市(横浜、川崎)、6特別区(千代田、港、品川、渋谷、新宿、豊島)という行動範囲は広がらなかった。
 利用した鉄道は5社(東急、東京メトロ、JR東日本、横浜市営、東京都営)のまま、10路線(東横、目黒;半蔵門、南北、副都心、丸の内;山手;ブルーライン;三田、新宿)、17駅(横浜、武蔵小杉、神保町、渋谷、白金台、目黒、新宿、新宿3丁目、新大塚、伊勢佐木長者町、上大岡、坂東橋、新横浜、反町、御成門、桜木町、関内)と先月から増えていない。
 バスについては5社(横浜市営、川崎市営、東急、神奈中、相鉄)は変わっていないが、相鉄の浜1路線が増えて19路線となった。乗り降りした停留所は21か所で前月から増えていない。〔86+1=87〕

 書いたブログはこの記事を含めて31件で、1月からの通算は182件となる。内訳は未分類が2(通算は14)件、日記が5(32)件、読書が11(57)件、『太平記』が4(25)件、『神曲』が5(26)件、歴史・地理が1(4)件、詩が3(11)件、このほか外国語(5)、映画(2)、推理小説(6)についての記事は書かなかった。コメントを3(36)件、拍手を567(3705)拍頂いた。拍手コメント(3)はなかった。〔175+34=209〕

 14冊の本を買い、13冊の本を読んだ。1月からの通算では71冊の本を買って、58冊を読んだことになる。読んだ本を列挙すると:J・オースティン『高慢と偏見 新装版』(阿部知二訳)、ジェイン・オースティン『高慢と偏見 上』、ジェイン・オースティン『高慢と偏見 下』(中野康司訳)、中島義道『東大助手物語』、平松洋子『あじフライを有楽町で』、椎名誠『おれたちを笑え! わしらは怪しい雑魚釣り隊』、吉田健一『舌鼓ところどころ/私の食物誌』、本村凌二/マイク・モラスキー『「穴場」の喪失』、宮下奈都『ふたつのしるし』、小林敏明『夏目漱石と西田幾太郎』、千野帽子『人はなぜ物語を求めるのか』、前野ウルド浩太郎『バッタを倒しにアフリカへ』,一ノ瀬正樹『英米哲学史講義』ということである。
 『高慢と偏見』は他の翻訳ですでに読んでおり、椎名さんの本は単行本で、吉田健一の本は合冊になる前の文庫本で読んでいるので、本当の意味で新たに読んだのは8冊であり、その中でも読み応えのある本というと、さらに少なくなる。今後の方向として、蔵書のうち、まだ読んでいないものを含めて、哲学と社会科学、科学史と文学理論関係の書物を古典的著作中心に1冊でも多く読むようにしたいものだと思っている。〔48+13=61〕

 NHK『ラジオ英会話』の時間を22(120)回、『入門ビジネス英語』の時間を8(24)回、『高校生からはじめる現代英語』を8(22)回、『実践ビジネス英語』を14(72)回聴いている。このほかに、3月に放送終了した『攻略!英語リスニング』を(26)回聴いている。
 『まいにちフランス語』入門編を12(39)回、応用編を10(52)回聴いた。このほか初級編を(24)回聴いている。
 『まいにちイタリア語』初級編を12(49)回、応用編を10(52)回聴いた。このほか入門編を(35)回聴いている。
 『レベルアップ中国語』を19(56)回聴いている。
 放送を聴くだけで、予習・復習をきちんとしていない番組が少なからずあり、取り組み方を考え直す必要がある。〔394+115=509〕

 見た映画は4(16)本で、足を運んだ映画館は2(4)館である。見た映画は『夜の流れ』、『ちょっと今から仕事やめてくる』、『野獣の青春』、『百万弗を叩き出せ』ということである。これから、神保町シアターに出かけて『東京流れ者』を見るつもりで、そうすると1本増える。新しい映画よりも、昔の映画の上映の方に興味が向かっているのは、うしろ向きでよくないと思うので、できるだけ新しい映画を見ようと思っている。〔予定通り、『東京流れ者』を見たので、5(17)本ということになった。〕
 古い映画と言えば、7月7日は、神保町シアターの開館10周年記念日だそうで、これまで上映した作品中もっとも人気を集めたという成瀬巳喜男の『流れる』が上映される。これまでの特集上映で、一番人気を集めたのが「女優・高峰秀子」、2位が「恋する女優 芦川いづみ」、3位が「一周忌追悼企画 伝説の女優・原節子」、4位が「没後四十年 成瀬巳喜男の世界」、5位が「生誕110年・没後50年記念映画監督 小津安二郎」ということだそうだ。『流れる』が一番人気というのは、この映画館らしいと思う。(シネマヴェーラ渋谷だとこういう結果にはならないのではないか⁉) 7月7日を皮切りに、9月1日まで、この映画館で上映された中で人気を集めた作品が上映される。何本くらい見に行くことになるだろうか。
 しかし、どうもこのところ、足が映画よりもサッカーの方に向かいがちである。これは、私の住まいが映画館よりもサッカー場に近いという地理的な条件に加えて、サッカーの方がシニア料金が安い(女子のサッカーは無料)ということも影響しているように思われる。
 〔16+5=21〕

 さて、そのサッカーであるが、J2の公式戦を3試合、なでしこリーグ2部のカップ戦を3試合、合計6試合観戦した。1月からの通算では24試合ということになる。3月・4月に快進撃を見せた横浜FCであるが、このところ負けが込んでいる。7月は何とか勢いを取り戻してほしいと思う。本日の『スポーツニッポン』によるとブラジルのポルトゲーザからMFのレアンドロ・ドミンゲス選手(33)を完全移籍で獲得したとのことで、MFよりもFWの方が必要ではないかとも思うのだが、起爆剤として活躍してほしいものである。〔24+4=28〕

 A4のノートを2冊、A5のノートを1冊、0.4ミリのボールペン芯(黒)2本、0.5ミリのボールペン芯(黒)2本、筆ペン(薄墨)1本、テキストサーファー(黄)1本、修正液を1本使いきる。

 6月になるとさすがに富士山は見えなくなる(1月からの通算で見えた日が14日)。酒を飲まなかったのが6日で、今日、飲まなければ7日ということになる(1月からの通算で40/41日→飲まなかったので7日・41日ということになる)。
 グリーンジャンボに続いて、ドリームジャンボでも4等3000円を当てた。totoは買わず、当たらずで1月を過ごした。
 時々展覧会の案内をもらうのだが、今月は足を運ぶことなしに過ごした。1月からの通算では4回出かけている。
 さて、7月はどうなるか。
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ダンテ・アリギエリ『神曲 天国篇』(22-2)

6月29日(木)曇り

 ベアトリーチェの導きによって、地球の南半球にそびえる煉獄山の頂にある地上楽園から天上の世界へと飛び立ったダンテは、月天、水星天、金星天、太陽天、火星天、木星天を歴訪し、それぞれの天で彼を出迎えた天上の魂と会話を交わして自らを高め、神のいる至高天に近づいてきた。そして惑星の中で一番神の近くにある土星天に達し、土星天から恒星天に達する階段を見る。その階段を降りてきたペトルス・ドミアーヌスは当時の教会の腐敗を批判した。次に彼は聖ベネディクトぅスに話しかけられる。聖ベネディクトゥスも修道会が堕落している現状を非難する。

必滅の者達の肉体は甘言にあまりに弱く、
下界において、善きはじまりは
樫の木が生えてからどんぐりが実るまでも続かぬ。
(336ページ) 人間は弱く、堕落しやすい。肉体的な快楽の誘惑にすぐに屈する。「樫の木が生えてからどんぐりが実るまで」という表現が身近で面白い。

 聖ベネディクトゥスは使徒ペテロによる教会運動の開始、彼自身の感想修道会運動の怪死、聖フランシスコによる修道会運動の根本的な刷新、つまり托鉢修道会運動の開始という教会の歴史を辿る。
ペテロは金も銀も持たずに教会を興し、
我は祈りと断食により、
フランチェスコは己を卑しくしてその集いをはじめた。
(同上) そして、教会・修道会は堕落しているが、その再生のために神の奇跡があるだろうと告げて、仲間たちの魂のもとに戻り、彼らは階段を一つにまとまって「竜巻のように渦を巻いて一度に昇っていった。」(337ページ)

 これまでダンテは、天国の中で、歴史上の人物との出会いを重ねながら、ローマ帝国の歴史、フィレンツェのれ役し、教会の歴史を教えられてきた。しかし通常の意味での歴史的存在である人物との出会いはここで終わる。ダンテは、この後、神との出会いの準備のために、それらの出会いで学んできたことの確認を行うことになる。

 ベアトリーチェは身ぶりひとつで、現世の生きた人間として、肉体をもち、重さのあるダンテの体を押し上げ、階段を上らせた。ダンテは想像できないような速度で階段を上がっていった。そして恒星の世界の中に身を置いていた。
私は、あなたが火のなかへ置く前に指を引いたとて
かなわぬほどの一瞬、それだけの時間で、
牡牛座に続く星座を見るやその中にいた。

おお、栄光に満ちた星々よ、大いなる力をはらんだ
光よ。わが才能は、それがどれほどのものであれ、
すべてその力に由来することを私は認める。
(338ページ) 地球上から見える「星座」は見かけの上のものであるが、ダンテの時代には恒星天の中の区画と信じられていた。「牡牛座に続く星座」は「双子座」で、その光は文筆や学問、学芸の力を地上に伝え、知性を活性化すると考えられていた。ダンテは太陽が双子座の位置にある5月14日から6月14日までの間に生まれたことをほのめかし、自分の学問と文筆の才能がこのことに由来しているとも述べている。

「あなたは究極の救いにこれほどまでに近づきました。
――ベアトリーチェは話しはじめた――ですからあなたは
明晰で鋭い眼光をもっているはずなのです。

それゆえ、あなたがさらにその中に入っていく前に
下方を注視しなさい。そして私がすでに宇宙のどれだけを
あなたの足下に置かせてきたのか見るのです。

この球をなすエーテルへとうれしげにやって来る
凱旋の軍列の前に、あなたの心が
可能な限り喜ばしげに現れるよう」。
(340ページ) ベアトリーチェはダンテが神に近づいたことを確認するために、それまでに獲得した視力を尽くして宇宙を振り返るように勧める。こうして

私はこの目でそれまでの七つの天球を皆
再訪した。そして見えた、この地球が、
あのようになって。その卑小な姿に私は笑みを浮かべてしまった。
(340ページ) 月、水星、金星、太陽、木星、金星、土星はそれぞれ地球よりも優れた存在であるように思われた。彼は宇宙の構造をこうして確認することができた。そして再び彼は地球に目を向けた。

我ら人類を野獣のように争わせる小さな麦打ち場は、
私が永遠の双子座とともに回転している間に、
その山々の頂から河口や海峡に至るまでの全容を私に露にした。

その後で私は目を美しい目に合わせた。
(342ページ)

 恒星天は人間の目の届く限界、つまり人間的世界と、神的世界との境界をなしている。ダンテは彼の時代の天文学の知識に従い、恒星もまた惑星(や月)と同様に太陽の光を受けて光っていると考え、土星天からそれほど遠くないところに恒星天があると考えたのであるが、望遠鏡を使って天体を観測したガリレイによって、このような宇宙観は根本的に修正されることになるのである。現実問題として、太陽に一番近い恒星から見ても、おそらく地球の姿をとらえることはできないのではないか。現代の天文学は、我々の世界が広大な宇宙のほんの一部分であることを示している。もし、ダンテが宇宙の広大さと、太陽が莫大な数の恒星の中の1つにすぎないということを知っていたら、果たして『神曲』を構想したであろうかと、考えてしまう。 

倉本一宏『戦争の日本古代史 好太王碑、白村江から刀伊の入寇まで』(6)

6月28日(水)午前中雨、午後になってやむ

 中国では589年に北朝の隋が南朝の陳を滅ぼし、(西晋による短期の全国統一は別として)後漢の滅亡以来約400年ぶりに統一王朝が出現した。隋は618年に滅びて、唐に代わるが、中国に強力な統一政権が出現したことは、北東アジアの諸国に新たな対応を迫るものであった。朝鮮半島の中部に勢力をもつ新羅が唐に依存することによって、他の諸国に対抗しようとしたのに対し、朝鮮半島の北部から中国の一部にまで勢力をもつ高句麗は隋に引き続いて唐とも対立し続けた。百済は高句麗と連合しながら、新羅・唐に対抗し、また倭国にも応援を求めていた。倭国は百済、高句麗と同盟して新羅・唐に対抗しようとした。
 660年に唐・新羅の連合軍の侵攻によって百済は滅びたが、その地方統治体制はそのまま残っていたので、その年のうちに百済の遺臣たちが反乱を起こし、彼らの指導者である鬼室福信は倭国に滞在していた百済の王族余豊璋の送還と援軍を求めてきた。斉明7年(661)年正月に斉明大王以下の倭国首脳は近畿地方から西に向かい、3月には九州に到着して戦闘への準備態勢を固めたが、7月に斉明が崩御する。そこで中大兄皇子が称制を行い、戦闘に備えた。

 この年(中大兄皇子称制元年=663)8月に第一次の百済救援軍が編成され、前軍の将軍に安曇(あずみ)比羅夫と河辺百枝、後軍の将軍に阿部引田比羅夫・物部熊・守大石が選ばれ、百済救援のために武器と食料を送った。阿部引田比羅夫は以前に北国経営に手腕を発揮した人物で、「筑紫太宰帥(そち)」の任にあったとされる。この救援軍は地方豪族である国造に率いられた筑紫の兵を派遣したものと推測されている。救援軍の将軍の中に古来から倭王権の軍事を担ってきた大伴氏や、外交・外征に特色をもつ紀氏などの名は見えない。蘇我氏も同様である。〔これより100年以上以前に、北九州の豪族である筑紫磐井が新羅と同盟して中央政権に反乱を起こしたことが、この書物の68~70ページに記され、その子孫と思われる人物が新羅の捕虜になったが、仲間の1人が犠牲になって帰国できたことが163~165ページに出てくる。いろいろと想像の膨らむ部分である。〕

 倉本さんは鬼頭清明の説に従い、この救援軍がフラットな編成であり、官僚的な身分秩序が設けられていなかったと論じる(もう少し議論を進めれば、軍隊としての命令・指揮系統が確立されていなかったということである)。それは当時の倭国の支配体制に相応したものではあったが、大国・強国との戦闘にふさわしいものではなかった。

 中大兄は当時の倭国の官位の最高位である織冠を豊璋に授け、また多蒋敷(おおのこもしき、『古事記』の編者である太安万侶の祖父)の妹を妻として娶せ、狭井檳榔(さいのあじまさ)と秦田来津(はだのたくつ)に5,000余人の軍兵を率いさせて護衛とし、百済に送らせた。豊璋が国に入ると、福信が迎えてこれを廃し、豊璋は福信に国政を委ねた。この間、新羅軍は食料補給に苦しみ、百済遺臣の反乱は優勢のうちに推移していた。これらの第一次百済救援軍は、救援武士を送り、豊璋を護送することだえkが目的で、任務が終わると、すぐに百済から帰国したと推定される。しかし、そのまま百済の地に残り、後続の救援軍と合流したものもいたと考えられる。

 翌天智元年(662)3月に唐・新羅が高句麗を攻め、高句麗の要請を受けた倭国軍は疏留城(そるさし、周留城、州柔城とも)に拠ったため、唐も新羅も高句麗を攻められなかったと『日本書紀』に記されているという。この疏留城がどこにあったかをめぐっては諸説あるようであるが、百済国内の城だと考えられ、そうすると、地理的に高句麗からは遠いので、その軍事的な効果はかなり割り引いて考える必要がありそうである。5月に豊璋が百済王の地位に着いたが、12月になると、倭国軍と豊璋や福信との間で意見の違いが表面化する。彼らが拠点としている州柔は防戦のための場所で、農耕や養蚕に適していないので、長くいると民が食物にも事欠くということから、平地で豊かな避城(現韓国全羅北道金堤市)に遷ろうとしたが、田来津に反論されたという。それでも豊璋は都を移してしまう。「倭国軍の意見を聞かない愚かで専制的な百済指導者という文脈で、やがて来る敗戦の責任を彼らに押しつけるという『日本書紀』の主張なのであろうが、多数に膨らんだ兵や民の生活を思う豊璋と、あくまで外国部隊である倭国軍との基本的な立場の相違とみることもできよう」(131ページ)と倉本さんは論じている。〔この移動を主に主張したのが豊璋であったのか、福信であったのかは一考の余地がありそうである。〕 また百済救援軍の将軍が新国王の居地の選定に関与している点が問題で、彼らが単なる軍隊の指揮のみならず、作戦の立案などの点で百済王の諮問にあずかる職権を認められていた可能性も指摘されているそうである。

 既に触れたように、州柔城(疏留城・周留城)がどこにあったのかというのは議論が分かれているが、倉本さんは位金岩城であるとする全榮來『百済滅亡と古代日本』の説を支持している。豊璋・福信らは平地の避城に遷ったのであるが、翌663年2月に百済南部が新羅の攻撃を受けると、ふたたび州柔城に戻ることになる。

 天智2年(663)3月、中大兄は、第2次の百済救援軍(新羅侵攻軍)を編成した。前軍の将軍に上毛野稚子・間人大蓋(はしひとのおおふた)、中軍の将軍に巨勢神前訳語(こせのかんさきのおさ)・三輪根麻呂、後軍の将軍に阿部引田比羅夫・大宅鎌柄(おおやけのかまつか)を配し、2万7千人の兵を率いて、新羅を討つために渡海させた。第1次の派兵が5千余人の規模だったのに対し、今回は本格的な戦闘に対応するための、倭国の全力を傾けた派兵であったと考えられる。6月には新羅の沙鼻(現韓国慶尚南道梁山市)・岐奴江(きぬえ、現韓国慶尚南道宜寧郡)の2城を攻め取っている。これまでの派兵が千人規模の筑紫の軍隊であったのに対し、今回は少なくとも西日本全体におよぶ大規模な豪族軍の徴発が行われていること、また軍事行動の対象が旧百済領ではなく、新羅であったことが注目される。さらに倭国は5月に高句麗に使者を送って、出兵について告げさせた。

 倭国のこのような動きに対し、唐から派遣されていた将軍の劉仁軌はこの5月に本国に兵の増員を要請し、唐は山東省と江蘇省の兵7千を出動させ、孫仁師に率いさせた。この援軍は徳物島(現韓国仁川広域市甕津郡の徳積島)に至った後、百済軍を破りながら南下して熊津城に入り、士気が大いに上がった。この増援軍はおそらく海軍を主力とするものであると推測される。

 そのころ、百済ではまたもや内紛が生じていた。6月に豊璋王は福信が謀叛の心を抱いているのではないかと疑い、不意を襲って殺した(異説あり)。「長年にわたって倭国に滞在し、故国の事情に疎い文人タイプの豊璋と、優れた軍事指揮官として百済復興運動をまとめ上げた実践タイプの福信とでは、本質的に相容れないところがあり、戦況が悪化するにつれて、両者の間に大きな亀裂が生じたということなのであろう」(136ページ) 百済復興運動の中心人物であった福信を殺したことで、百済復興軍はその分裂を表面化させ、大きな軍事的・精神的打撃を受けた。「そこに『救援」にやってきたのが、統制も作戦もない、単なる豪族軍を寄せ集めただけの倭国の『大軍』だったのである。」(137ページ)

 一方、唐軍は作戦会議を開き、水陸の要衝である加林城をまず攻撃すべきであるという意見に対し、百済復興軍の本拠地である周留城を攻略すべきであるという劉仁軌の意見が採択される。この結果、孫仁師・劉仁願と新羅の文武王は陸上から進撃し、劉仁軌および別将の杜爽と扶余隆が水軍と兵糧戦を率いて、熊津江(錦江)から白江(白村江)に行き、陸軍と合流して周留城を攻撃するという作戦が採択された。なお、この扶余隆というのは義慈王の王子で、唐から熊津都督に任じられ、さらに帯方郡公に封じられた人物である。唐の傘下に入って故国に攻め込んできたことになる。

 「これで決戦の場は決した。陸上の周留城と水上の白村江である。」(138ページ)
 内紛を起こして自壊しかけている百済復興軍と、寄せ集めの倭国救援軍の連合軍と、実戦経験豊富なうえに緻密な作戦を立てて進撃してくる唐・新羅連合軍とでは戦う前から勝負はわかっているようなものであるが、当事者には当事者なりの思惑があったことであろう。思いのほか、手間をかけてしまったが、次回はいよいよ白村江の戦いに取り組んだ個所を読んでいくことになる。
  

 

金明竹

6月27日(火)曇り、雨が降りそうで降らない

 「金明竹」は「寿限無」と並んで、前座の口慣らしに使われる噺だそうである。道具屋をしている親戚のもとで働いている与太郎が、主人の外出中に店番をしていると、同業者である中橋の加賀屋佐吉のところから使いがやってくる。そして
「わて中橋の加賀屋佐吉方から参じました。先度仲買の弥市の取り次ぎました道具七品のうち、祐乗、光乗、宗乗三作の三所物、ならびに備前長船の則光、四分一ごしらえ横谷宗珉小柄付の脇差、あの柄前は旦那はんが古鉄刀木(たがやさん)いやはってたが、埋木じゃそうにな、木ィが違うォとりますさかい、念のためちょとおことわり申します。次はのんこの茶碗、黄檗山金明竹、寸胴の花活、『古池や蛙飛び込む水の音』あれは風羅坊正筆の掛物で、沢庵、木庵、隠元禅師張交ぜの小屏風、あの屏風はなァもし、わての檀那寺の檀那寺が兵庫におまして、この兵庫の坊主の好みまする屏風じゃによって兵庫へやり、兵庫の坊主の屏風にいたしますとなァ、かようお伝言(ことづけ)願います」
と早口にまくしたてた。頼まれた道具七品を受け取ったが、そのうち横谷宗珉の脇差は道具屋の主人の見込みと違って古鉄刀木(たがやさん)ではなく埋木で使われている木の種類が違う、さらに沢庵・木庵・隠元の張り交ぜの小屏風は佐吉(わてといっているが、使いの者ではなくて、その主人と考えた方がよかろう)の檀那寺の和尚が気に入ってしまった自分のものにしたという伝言である。後で書くように、多少怪しげなところもあるのだが、刀剣類と茶碗に掛物(風羅坊というのは松尾芭蕉のこと)と屏風など、一応もっともらしい品物が並べられている。骨董に興味のある人ならばわかるはずの内容であるが、使いの者が現在と違って江戸→東京の人にとって耳なれていなかった上方の言葉を使い、しかも早口でまくし立てた(伝言にやってきた使いの者にも、この点で聞き手への配慮が欠けている。あるいは相手が道具屋の身内だから、自分と同じ程度の骨董品についての知識があると思ってまくし立てたのかもしれない)。わるいことに応対に出た与太郎は、頭が悪いうえに、仕事を覚えようという意欲がないから、専門的な言葉が連ねられているこの口上が全く理解できない。それどころか、耳慣れないことばかり話すので、「おばさん、よくしゃべる馬鹿が来たよ(バカは自分である)」とおもしろがってばかりいる。

 道具屋のおかみさんが出てきて相手になったのだが、やはり口上の意味が全く分からない。一応丁寧には応対するのだが、何度も同じことを話しさせられたもので、使いの人はすっかり怒って、店へ帰ってしまう。その後から道具屋の主人が戻ってきて、何と言ってきたのかおかみさんから聴こうとするのだが、さっぱり要領を得ない。「仲買の弥市が気が違って、遊女を買って、その遊女が孝女で、千艘や万艘と遊んで、掃除が好きで、隠元豆に沢庵ばっかり食べて…」といった調子である。「はっきりしたとこが一つくらいないかい」「古池へ飛び込みました」「え、あいつには道具七品を預けてあるんだが、買ってかなあ」、「いいえ買わずでございます」。

 コミュニケーションということからいうと、この道具屋はまったく内部におけるコミュニケーションが取れていない。道具屋と加賀屋佐吉の間には「道具七品」の取引があり、加賀屋からの使いもその旨一番初めに「道具七品」と言っているのに、与太郎も、おかみさんもそれを聞き逃している。加賀屋佐吉(あるいは仲買の弥市)と道具七品がすぐに思い出されて結びつくようになっていなかったのが、間違いのもとである。ということは、実はこの事件の最大の元凶は店の大事な用件について何も言い置かずに外出して、事態を混乱させた道具屋の主人であるといってよかろう。

 さて、細かいことであるが沢庵は臨済宗の僧侶で、木庵と隠元は黄檗宗である。昭和の名人6代目三遊亭圓生は次のように述べている:「張交ぜの屏風のくだりを、私は『沢庵禅師の一行物、隠元、木庵、即非張交ぜの小屏風』と改めました。沢庵、木庵、隠元禅師の物は張交ぜにしないと、ある骨董商のお客様からうかがったからです。」(矢野誠一『落語手帳』、81ページ) なお、隠元、木庵、即非を黄檗宗の三筆という。
 さらに言えば、金明竹という竹があって、マダケの第一層が突然変異を起こして黄色くなったもので、黄色の中に緑色の筋が入っている竹だそうである。日本での最古の記録は1795年に京都で発見されたものだそうで、国や各府県の天然記念物として全国5か所で保存されているという。また銀明竹というものもあるらしい。

寛政の三奇人

6月26日(月)曇り、蒸し暑い

 寛政年間(1789~1800)は、その前半(1787~1793)に老中松平定信によって行われた「寛政の改革」で知られる。1789年にフランス革命が起きていることからもわかるように、この時代の世界は地球規模での変革期を迎えていた。鎖国(海禁)政策をとってきた日本(東アジア諸国)もそのような動きから無縁であることはできなかった。
 江戸時代の中期になると商品経済が発展し、明和4年~天明6(1767-1786)の田沼時代には問屋・株仲間を育成強化し商業資本との結託を図る「重商主義」的な政策がとられたが、その結果として農民の窮乏化と農村の荒廃が生じ、武士もまた困窮、その一方で幕政の腐敗も著しくなった。そこで登場したのが、享保の改革を推進した徳川吉宗の孫である松平定信で、農村の復興を目指す政策を中心に綱紀の粛正を図った。

 改革の効果が見られたのは一時的で、社会の根本的な問題を解決するには至らなかった。寛政2年に定信は朱子学を正統の学問として、この原則に基づく学制改革を行い、林家の私塾であった学問所を官学である昌平黌として再組織し、さらに朱子学によって官吏登用試験を行うとした。これは江戸時代には朱子学が幕府公認の学説であったが、実際には古学派・折衷学派が盛んであったために、教学の刷新を目指したものである。この時登用された3人の学者尾藤二洲(1745-1813)、古賀精里(1750-1817)、柴野栗山(1735-1807)を「寛政の三博士」と呼ぶ。もっとも口の悪い江戸っ子たちは、この3人の名前に助がついているところから、「三助」と呼んだという。(古学派、折衷学派の学者たちへの尊敬の念を失ってはいなかったのである。)

 その一方でこの時代は、安永3年(1774)の杉田玄白らによる『解体新書』の刊行によってその勢いを広げた蘭学、塙保己一らの『群書類従』の刊行作業や、寛政10年(1798)の本居宣長『古事記伝』の完成に見られるような国学の発展の時代でもあった。学問の新しい流れと、社会の現実を何とか打開しようとする情熱が出会ったときに、さらに新しい知的探求が始まる。「寛政の三奇人」と呼ばれる林子平(1738-1793)、高山彦九郎(1747-1793)、蒲生君平(1768-1813)がそれぞれ国学、あるいは蘭学を学び、またこれらの学者と交流していたことは重要に思われる。

 林子平は長崎に3度遊学し、また江戸に出て大槻玄沢・宇田川玄随・桂川甫周など蘭学者と交友した。この間に得た海外事情についての知識をもとに、特に北辺からのロシアの脅威に備え蝦夷地の開拓を行う必要を説いた。彼の著書『海国兵談』は彼のこの主張を展開したもので、国防政策をめぐる批判を認めなかった幕府の弾圧を招き、著書の版木は没収され、子平は禁固処分を受けた。この時「親はなく 妻なく子なく 版木なし 金もなけれど 死にたくもなし」という狂歌を作って、六無斎と号したという話はよく知られている。彼が住んだ仙台には、子平町という地名がある。

 高山彦九郎は諸国を旅行して、民衆の窮乏した状態を見聞し、幕政へのひっはん意識を強める一方で、勤皇論の先駆けとなった。彼は上洛するたびに、三条大橋の東詰めで御所を拝んだそうである。東海道の西の終点である三条大橋のたもと(三条京阪駅前)には、彦九郎が御所の方角を伏し拝んでいる銅像が立っている。三条京阪から御所まではそんなに遠くはないし、もっと近くで拝んだ方がよいのではないかとよく思ったものであるが、近くには寄れない理由があったのかもしれない。あるいは人の大勢通交しているところで、このパフォーマンスをすることに意義を見出していたのかもしれない。
 なお、彦九郎は『解体新書』の翻訳者の1人で、刊行されたこの書物には名を連ねていない前野良沢(1723-1803)と仲が良かった。良沢は幼い時に孤児になって、伯父である淀藩の藩医宮田全沢に育てられたが、彼は「天性奇人にて、万事その好むところ常人に異なりしにより、その良沢を教育せしところもまた非常なりしとなり」(岩波文庫版『蘭学事始』14ページ)という。その教えは「人といふ者は、世に廃れんと思ふ芸能は習いおきて末々までも絶えざるやうにし、当時人の捨ててせぬことになりしをばこれをなして、世のために後にその事の残るやうにすべし」(同上)というものであった。玄白は「いかさまその教へに違はず、この良沢といへる男も天然の奇士にてありしなり」(同上)と評価する。良沢は市井に隠れて、蘭学に没頭していたので、世間に奇人としての名を広めることにはならなかったのである。

 蒲生君平も諸国を歴訪して多くの人々と交わり、子平とも交流があったと言われる。特に水戸学の影響を受け、荒廃した歴代天皇陵を調査して、文化5年(1808)に『山陵志』という書物を刊行する。これは幕末の尊王論の先駆けとなった書物である一方で、現代の考古学にも一定の影響を与えている。たとえば前方後円墳というのはこの書物で使われた言葉だそうである。

 「三奇人」はいち早く時代の変化に気付き、来るべき変化を世の中に訴えようとしたが、世間一般の理解を得ることができず、また官憲の弾圧にあって、奇人としか評価されなかった人々である。しかし、今日、「三奇人」の方は歴史の授業の中で雑談の種になる程度には記憶されているが、「三博士」の方はよほどの物知りでないと話題にしない。「寛政の三奇人」の方が「寛政の三博士」よりも知名度が高いということは、大いに留意すべきことではないかと思うのである。 

『太平記』(164)

6月25日(日)午前中は雨が降っていたが、午後は曇り空が続く

 建武3年(延元元年、1336)5月25日、九州から海路東上してきた足利尊氏の軍勢は、陸路を進んできた弟の直義の軍勢と呼応して、兵庫に陣を構えて都の朝廷を守ろうとする新田義貞の軍勢に襲い掛かった。京都から義貞の応援に派遣されていた楠正成は、弟の正氏とともに足利直義の命を狙ったが、大軍に阻まれて成功せず、2人は七生まで朝敵を滅ぼすことを誓って湊川で自害した。生田の森で奮戦した義貞も、衆寡敵せず退却した。

 退却する味方の軍勢を安全に落ち延びさせようと、最後尾で奮戦していたために、敵の中に孤立した義貞を、武蔵の国の武士である小山田太郎高家が身代わりになって救ったという話を前回の最後に書いたが、その際に参考にしようと思って見つからなかった安田元久『武蔵の武士団』が見つかったので、少し補足しておく。小山田氏は、桓武平氏で武蔵の国で最強と言われた秩父武士団を構成する一族であり、その祖小山田有重は、剛勇廉直の鎌倉武士として幕府の創建に貢献した畠山重忠の叔父にあたる。幕府の内紛に巻き込まれて畠山、稲毛など秩父武士団を構成する一門の武士たちが滅ぼされた後も、小山田氏だけはその血脈を伝えていた。現代の町田市下山田町にある曹洞宗の古刹大泉寺は、文明9年(1477)に長尾景春の乱で小山田氏の居館であった小山田城が落城したのちに、この地に移ってきた寺だそうで、本堂の西側の丘の中腹にある3基の宝篋印塔の1基が小山田高家の墓と伝えられているという。〔私が時々その近くに出かけている小机城址が長尾景春の乱と関係があることは以前に書いた。なお、小机城は「続・日本100名城」に選定されたという掲示が出されていた。〕

 楠正成が戦死したという情報は、義貞から早馬で京都に伝えられ、京都中が色を失い、後醍醐天皇は困惑された。正成が討ち死にしたとはいえ、まだ義貞がいるし、何とか敵襲を食い止めてくれるだろうと望みをつないで、敵が急に勢いづいて近づいてくるだろうとは、誰も思っていなかったのだが、宮方の総大将である義貞が、わずかに1,000余騎にも満たない敗残の兵とともに京都へ敗走してきたので、人々が慌てて騒ぐことは一通りではない。男も女も右往左往し、主君も家臣も呆然として地に足がつかない。

 朝廷では新田軍がもし敗北したならば、この年の正月にそうしたように、ふたたび比叡山に朝廷を移すことをかねてから決めていたので、延元元年5月25日(1336、歴史的事実としては27日)に、天皇は3種の神器をまず先にして、またもや比叡山へと行幸される。

 驚くべきか、嘆くべきか。元弘元年(1331)には、鎌倉幕府の圧力を避けて後醍醐天皇は都から出奔され、その年のうちに幕府に捕らえられて、隠岐の島に配流されたが、皇位は朽ちない定めであったので、間もなく北条氏を滅ぼし、公家一統の政治を実現された。こうして昔の律令政治が復活するかと思われたのだが、それからまだ3年もたたないうちに、今度は足利尊氏・直義兄弟が武家の政治の再興を企てて謀叛を起こした。こうして天下は再び内乱に苦しむことになったが、いったん武家方は京都を占領したものの、宮方の反攻に敗北したので、これこそ天皇の徳のなせるところである、もはや謀叛を企て、兵乱を起こすものは出てこないだろうと思っていたのに、足利軍は九州で勢いを盛り返し、半年もたたないうちに2度まで、天皇が都から玉座を移すという事態が起きてしまった。「今は日月も昼夜を照らすことなく、君臣も上下を知らざる世になつて、仏法、王法ともに滅すべき時分にやなりぬらんと、人皆心を迷はせり」(第3分冊、89ページ)と『太平記』の作者は嘆く。

 それでもまだ人々は、正月にいったん都から落ち延びた宮方の軍勢が、天皇のご威光によって敗走した前例を思い浮かべ、同じことがまた起きるのではないかと希望をつなぐのであった。そのため、前回の比叡山行幸の際には態度をはっきりさせなかったけれども、今度こそは比叡山にお供をして、自分の忠義の心を示そうと考えるものも少なくなかった。
 それで、正月の臨幸の際よりも多くの、さまざまな身分の人々がお供に加わり、武士は無論のこと、戦争に従軍した体験のない公家の人々まで、ここで手柄を立てて名を挙げようと、空元気だけは勇ましく見えることであった。
 臨幸に加わった主な人々の名が列挙されている中に、奥州から大軍を率いて上洛していた北畠顕家の名がある。前回、正成ではなく、大軍を動員できるという意味で顕家の方が適任ではなかったか、しかし、すでに顕家は奥州に戻っていたと書いたが、実はまだ京都に残っていたことを知らなかった。だとすれば、なおさら、正成を戦死させたのは作戦ミスとしか言いようがない。
 もう一つ気になる記事は、持明院統系の公家として活躍していた日野資明の名があることである。彼はもちろん、この後すぐに抜け出して、北朝方の公家の中にその名を連ねるのであるが、この時どのような態度をとっていたのかは興味あるところである。〔足利尊氏が京都から敗走する途中で、側近の薬師丸という少年僧におまえは日野中納言(=資明)と面識があるそうだから、そこから光厳院の院宣をもらってきてほしいと言いつける。(第15巻) この巻で、厳島神社に参篭している尊氏のもとに、醍醐寺の高僧である賢俊僧正が光厳院の院宣を持ってくるが、賢俊は資明の弟である。だから、資明は尊氏と連絡を取っているはずで、それが天皇の臨幸の中に加わっているというのはなにがしかの意図があってのことだと推測されるのである。〕

 とにかく、天皇の臨幸の列に加わらなかった人々も、後を追って比叡山や、その麓の坂本に押し寄せたので、公家や武家であふれかえってしまい、宿取りの争い、あるいは食糧の争奪戦など、朝晩やかましいことであったと作者は記している。

 いったん京都から敗走した尊氏・直義兄弟が再び、京都に迫ってくる。後醍醐天皇はまたも都から離れることになる。前回、都を占拠した時に、尊氏は持明院統の皇族と連絡を取ることができなかったが、今回は連絡が取れているというところが違い、それが今後の展開に大きく影響してくる。それがどのようなものかについては、また次回に。 

日記抄(6月18日~24日)

6月24日(土)晴れ、気温上昇

 6月18日から本日までの間に経験したこと、考えたことなど:
6月18日
 NHKラジオ「高校生からはじめる「現代英語」」は”Drones, Autonomous Cars to Buzz Special Zones" (ドローン、自動運転車は特区で忙しく往来へ)というニュースを取り上げている。これらの新しい技術をめぐり、公道などで企業が実験するのは、許可を得るまでに何か月もかかるので、特区内では自由に試験走行できるようにするという。
That is why officials are planning to let developers carry out trials much more freely in the special zones.
(そのため政府は、開発企業が特区内でははるかに自由に試験(運転)を行えるようにすることを計画しています。)
 日本語の「自由に」は「他からの束縛なしに」という意味と、「思いのまま、上手に」という意味がるが、英語のfreeは他者による束縛から「自由な」という意味で、転じて「(自由だから)独立している」「料金がない、無料」「固定されていない」「気ままに」などの意味もある。翻訳に際してはこの意味の違いを念頭に置く必要があるという。
 それはそうと、「特区」を設けても、その選定をめぐり不明朗な点が生じたり、時間がかかったりするというのではあまり意味がないのではないかという気がしないでもない。

6月19日
 『朝日』の「語る…人生の贈りもの」というコーナーは各界の著名人が自分のこれまでの歩みを語るものであるが、今回は作曲家の一柳慧さんが登場することになった。むかし、働いていたデザイン・スタジオの社長が一柳さんと面識があって、それで一度だけその姿に接したことがある。
 それ以前に、職場に電話がかかってきて、F君という私の同僚の、寺の息子で、器用だがちょっととぼけた男が電話口に出た。社長、東京の内山田さんからお電話です。社長、内山田…そんな知り合いはいないなぁ…。電話を終えた後で、F君、一柳だよ。
 一柳さんが音楽を担当された吉田喜重監督の映画『エロス+虐殺』が上映されたばかりの時だったので、ちょっと、これはひどい聞き違いではないかと、私も思ったが、F君は泰然自若としたもので、「内山田洋とクール・ファイブの内山田さんかと思いました」。音楽といっても色々ある。
 その後、しばらくして、ご本人が我々の会社に現れた。あれが一柳さんだよ。F君は依然として興味を示さない。小野洋子の昔の旦那だよ! やっと興味を示した。音楽も色々、興味も色々。長く勤める社員があまりいないことで知られる職場であったが、私よりも早く、F君の方が辞めてしまった。今頃は、実家の寺の住職になって、苦労しているかもしれないな、と時々彼のことを思い出す。寺の名前を聞いておかなかったのが一生の不覚である。

6月20日
 NHKラジオ『まいにちスペイン語』の時間を聞くともなしに聞いていたら、
Socorro, hay una cucaracha en la cocina! (台所にゴキブリがいる! 助けて)
という文が聞こえた。こういう例文が出てくるのは、スペイン語だけではないかと思ったりした。日本ゴキブリ亭主などというので、男性名詞かと思うと、さにあらず、cucarachaは女性名詞である。むかし、横浜大洋ホエールズにいたポンセ選手の応援ソングが、メキシコの名曲「ラ・クカラチャ」であったのを思い出す。

 同じく『英会話タイム・トライアル』は乗り物についての会話を話題にしているが、新幹線は英語ではbullet trainだということで、話を進めていた。日本でも太平洋戦争前には「弾丸列車」を敷設する工事を始めていて、現在の東海道新幹線の新丹那トンネルはその工事を引き継いで完成されたものだと記憶する。

6月21日
 NHKラジオ『実践ビジネス英語』は、新たに”The Office of the Future"(未来のオフィス)というビニェットに入った。情報テクノロジーの発達の結果、アメリカの被雇用者の20から30パーセントが、少なくとも月に1回は職場の外で働くようになっているという。その結果として、
Places like coffee shops and private clubs want to be what they call "a third place" for people to go, apart from home and work. (コーヒーショップや会員制クラブといったところは、家庭や職場のほかに、人々がいくいわゆる「第三の場所」になりたいわけです。)
という現象が起きているという。いまに始まったことでもないと思うが、コーヒーショップにパソコンやタブレットを持ち込んだり、何かの打ち合わせをしたりている人をよく見かける。

 サッカーの天皇杯2回戦で横浜FCは同じJ2のツエーゲン金沢に0-2で敗れた。天皇杯よりもリーグ戦を重視するというのは仕方がないことかもしれないが、昔の横浜フリューゲルスは天皇杯で2回優勝していることも忘れないでほしい。福島県社会人リーグ1部のいわきがJ1の札幌を5-2で破ったのは大金星である。このほかJ3の長野が、FC東京を、茨城県代表の筑波大学がベガルタ仙台を、JFLの八戸が甲府を破っている。筑波大学の勝利は慶賀すべきではあるが、勉強の方は大丈夫かね。

6月22日
 NHKラジオ『実践ビジネス英語』は”The Office of the Future"の続きで、
The office of the future is a concept dating from the 1940s. It was synonymous with the "paperless office."
(未来のオフィスというのは、1940年代に始まった構想ですね。これは「ペーパーレスオフィス」と同じ意味でした。)という。
American office workers print out or photocopy something like a trillion pieces of paper each year.
(アメリカのオフィス・ワーカーがプリントアウトしたりコピーしたりするのに使う紙は、毎年およそ1兆枚です。) という事態が依然として続いているのだが、それでも、
For the first time in history, there is a steacy cecline of about one to two percent a year in office use of paper.
(職場での紙の使用量は、歴史上初めて、毎年確実に約1~2パーセント減少しているのです。)ともいう。どこかの国では、ペーパーレスが別の意味で解釈されているのか、紙の書類を残さないだけでなく、電子情報がすぐに消去されてしまうようになっているらしい。末恐ろしいことである。

 同じく「まいにちフランス語」応用編「インタビューで広がるフランス語の世界」は、第21課「学校の記憶、家族の記憶(1)」で、男女2人の中学(コレージュ)の思い出が語られる。パリ郊外の公立中学校に通ったロランさんは語る:
Je me rappelle une question. J'étais au collège. L professeur demandait : 《Quels sont les élèves qui ont quatre grands-parents français ?》 On était 31. Il y a deux élèves qui ont levé la main.
(ある質問を思い出します。中学にいたころのことです。先生がこう尋ねました。「祖父母4人ともフランス人の人は?」 31人生徒がいましたが、手を挙げたのは2人でした。)
 ロランさん自身は、祖父母がポーランド人だったので、手を挙げなかったという(翌日の放送で、ロランさんの父方の祖父母は第二次世界大戦中にアウシュビッツに収容されていたという話が出てきた)。

 神保町シアターで「映画監督 鈴木清順の世界」の特集上映から『野獣の青春』(1963)と『百万弗を叩き出せ』(1961)を見る。『野獣の青春』は<青春>とはあまり関係のない話で、2つの暴力団が敵対する街(東京の一角)に流れ者のジョー(宍戸錠)が現われて、ある事件の真相を突き止めようとする・・・という話で、映画館のスクリーン裏に暴力団の事務所があったりする。当然のことながら、上映されている映画は日活映画で、見覚えがあったりして・・・。『百万弗を叩き出せ』は八丈島から出てきた青年(和田浩治)が川崎のボクシング・ジムで修業を積み、チャンピオンへの道を歩むという物語。ジムの経営者夫婦を演じている金子信雄、渡辺美佐子の演技が出色。

6月23日
 『朝日』に「売れぬ漢和辞典 改訂に苦心」という記事が出ていた。角川から出ている『新字源』が10年かけて作業を進め、新しい版を出すという。『新字源』の編纂者の1人である西田太一郎先生は、教養部時代にお世話になった先生の1人で、私がこの辞典を使っているのは、そのことが大きく影響している。だから、改訂版を買って使うかどうか、大いに迷っているところである。そういえば、高校時代は、簡野道明編の『字源』を使っていた。今、手元にあったら、結構重宝するのではないかと思う。辞書は新しい方がいいとは限らないのである。

6月24日
 『朝日』に銀座にある聖書図書館が6月30日をもって閉館し、その蔵書の大部分が青山学院大学に寄贈されるという記事が出ていた。中でも、江戸時代の終わりごろに、鎖国下の日本での布教を目指していたドイツ人宣教師ギュツラフが漂流民たちの助けを借りて訳した『約翰福音之傳』(ヨハネによる福音書)は貴重な資料だという。この福音書の最初の「初めに言(ことば)があった。言は神と共にあった。言は神であった」と訳されている部分をギュツラフは「ハジマリニ カシコイモノゴザル。コノカシコイモノ ゴクラクトモニゴザル。コノカシコイモノワゴクラク。」と訳しているという。「ロゴス」を「カシコイモノ」と訳しているところに、ギュツラフの苦心がうかがわれ、これはこれで見事な翻訳ではないかと思う。

 日産フィールド小机でプレナスなでしこリーグ・カップ2部の横浜FCシーガルズとオルカ鴨川FCの試合を観戦した。一進一退の攻防が続いたが、後半に横浜が守備の乱れから1点を失い、0-1で敗北。体調を崩した能代谷さんに代わり、神野さんが采配を振るっているが、選手に勝利を目指して全力で戦うという姿勢がどうも感じられないという問題点はそのままである。  

繋がれた小舟のように

6月23日(金)晴れ、気温上昇

繋がれた小舟のように
 元好問「内郷の県斎にて事を書す」による

夜更けに、一人 役所に残る
仕事の残りを片付けるというよりも
物思いにふける
さまざまな思いが
煙のように心のなかに燻る

役所全体 仕事は滞り
住民の暮らしは苦しいままだ
政府は国防というが
補給すべき食糧も調達できない

住み着いている鼠さえ
腹を減らした様子で
こちらの様子をうかがうありさまだ
何に驚いたのだろうか
夜だというのに
烏の鳴き声が聞こえる

わがご先祖は
わたし同様に
地方の役人だったそうだが
こんな暮らしに見切りをつけて
小舟でどこへともなく去っていったという

他人の期待に応えることもできず
自分の思いのままに生きることもできず
わたしの小舟はまだ繋がれたままだ

ダンテ・アリギエリ『神曲 天国篇』(22-1)

6月22日(木)曇り

 ベアトリーチェに導かれて、天上の世界へと飛び立ったダンテは月天、水星天、金星天、太陽天、火星天、木星天を経て、土星天に達した。そこではこれまでと違ってベアトリーチェは新しい世界に入ったことを知らせるように微笑んだりせず、魂たちの歌も聞こえなかった。ベアトリーチェが微笑まないのは、その美しさにダンテの視力が耐えられないからだと彼女は説明する。また土星天からはその頂が見えないほど高い階段が伸びており、無数の魂たちがその階段を伝って土星へと降りてくるのが見えた。その中の1人であるペトルス・ダミアーヌスの魂がダンテと会話し、魂たちの歌が聞こえないのは、ダンテの肉体の耳の聴力がその歌声に耐えられないからだという。しかし、ダミアーヌスと話すうち彼の耳に魂たちの声が聞こえるようになるが、ダンテにはその声の語る言葉の意味が分からない。

驚きに圧倒され、私は導き手を
振リ返った。まるで深く信頼を寄せる人のもとに
いつでも助けを求めてしまう幼児のように。

するとその方は、日ごろから落ち着かせるいつもの声で
真っ青になって怯える息子を
すぐに元気づける母親のように、
(328ページ) ダンテに向かって、彼が天空の世界にいることを思い出させ、彼の有限な力では理解できないことがあっても不思議はないと言いながら、教皇を取り巻く腐敗に対して神の怒りの鉄槌が下されることをほのめかす。
ここ天上の剣は性急に振り下ろされることも
遅れることもありません。それを恐れ、あるいは望んで
待っている者達がそう感じるだけなのです。
(329ページ) そして、別の魂たちと向き合うように勧める。彼の目には多くの輝く魂が見えたが、自分が出すぎた態度をとらないようにと、心のなかに湧き上がってくる質問を抑えて沈黙していた。

するとそれらの真珠のうちで
最大にして、最も光を放つものが前へと進んできた、
自らのことを伝えて私の願望を満たすために。
(330ページ) それはナポリ北方のカイロ山にモンテ・カッシーノ修道院を開いた聖ベネディクトゥス(?-543)の魂であった。ここでダンテは聖ベネディクトゥスに代表される教会刷新運動への共感を示しているようである。

 ダンテが聖ベネディクトゥスに、光の中にある本来の姿を見せてくれるように頼むと、聖人は、ダンテは至高天でその姿を見るであろうと答えた。
・・・「兄弟よ。おまえの高き望みは
究極の天輪の中でかなえられるであろう。
そこでは他の者達の望みも、我の望みもかなえられている。

あらゆる希望はその場所で
完全、完成、無欠となる。その中でだけは
あらゆる部分はそれが常にあった場所にある。
(334ページ)

なぜならそれは空間の中に存在せず、回転軸も持たぬからだ。
そして我らの階段ははるかそれに至るまで渡っていく。
それゆえにおまえの視線からは超越して飛翔しているのだ。

太祖ヤコブの前に天使たちを擁する階段が出現した時、
彼には、階段がそこに達するまで
最上部を伸ばすのが見えたのだ。
(334ページ) そして、土星天から至高天まで、観想を象徴する天の階段が述べていると述べた。それは『旧約聖書』「創世記」でヤコブが夢に見たはしごと同じものであるという。

 そして修道士たちが堕落し、神を思う観想生活をもはや送っていないことを非難した。
かつて修道院として使われていた壁は
もはや魔窟と成り果てた。
腐った小麦の詰まった袋なのだ。

だが、重い利息が神のお望みに逆らって
搾取されてはいるが、修道士たちの心をこれほど狂わせる
あの実入りによる搾取ほどではない。
(335ページ) 本来、教義上、教会は財産を所有することができず、ただ貧者の救済に役立てるためという名目で保持が許される教会財産や徴収が許される十分の一税等の課税を、実際には聖職者やその愛人や近親の者が私的に使っていることが非難されたのである。修道会の創設者に彼の後継者であるはずの修道士たちの堕落を批判させるというのはかなり効果的な手法である。

倉本一宏『戦争の日本古代史』(5)

6月21日(水)雨

 589年に隋が南朝の陳を滅亡させ、中国に統一王朝を出現させた。このため北東アジアの諸国、朝鮮半島の北部から中国の一部までの地域を支配する高句麗、朝鮮半島中部の新羅、南西部の百済、そして倭国はこれまでとは違った対外戦略をとることを迫られた。隋が4時にわたる高句麗征伐の失敗によって滅亡し、618年に起った唐が628年に中国を統一した後も、各国は隋に対するのと同様の路線を踏襲した。新羅は唐に依存することによって危機を乗り切ろうとし、高句麗は唐・新羅と戦いを続け、百済は唐と高句麗の戦いで漁夫の利を得ることを夢見ながら新羅と抗争を続け、倭国は百済との同盟を維持しながら唐にも遣使していた。その際、唐の冊封体制に入らず、独立の小中華としての地位を認めさせようとしていたところに対唐関係の特徴があった。
 このような国際情勢の中で朝鮮3国では国王あるいは権臣に権力が集中するという政治的な変化が起きた。倭国の「乙巳の変」もこの動きと軌を一にするものと考えられる。国政運営が乱脈を極めた百済では唐と新羅の侵攻に適切な対応をとることができず、660年に百済は唐と新羅に降伏、国王以下1万人以上が唐の長安に送られた。この知らせは、その後百済遺臣が唐への反乱を起こしたという知らせとともに倭国にもたらされた。

 いよいよ今回は「白村江の戦」について論じた個所を取り上げることになる。私の高校時代には、《ハクスキノエの戦い》と習ったと記憶するが、最近は《ハクソンコウの戦い》という方が一般的なようである。日本史の参考書などには両方の読み方が掲載されている。(本来ならば、それぞれの読み方の根拠まで調べるべきであるが、今のところそうする余裕がない。今後の課題ということにしておく。)

 「百済が滅亡したとはいっても、実は王都が陥落して国王とその一族、そして貴族が唐に連行されただけに過ぎなかった。」(117ページ) 唐は百済の旧来の地方統治体制を温存したうえで、高句麗征討に向かった。これは百済の支配体制と地勢をまったく読み誤ったもので、すぐに百済遺臣による反乱がおこる。660年7月18日に百済の義慈王は降伏したのであるが、8月2日には早くも、百済の敗残兵による蜂起が見られた。唐から旧都城の守備のために派遣された劉仁願は9月に王城である泗沘(しひ)城に到着したが、間もなく百済残兵の攻撃を受けて一時は危機に陥った。しかし新羅からの援軍を得て体勢を立て直すことができた。

 百済の遺臣たちの復興運動の指導者であり、国王の親族でもあった鬼室福信は倭国に使者を送り、救援軍の派遣と日本にわたり、そのまま滞在していた義慈王の弟余豊璋の帰国を求めてきた。豊璋を王として戴くことによって復興を有利に進めようとしたのである。遺臣たちの運動が成功裏に進展しているという福信の情報を信じた当時の斉明大(女)王をはじめとする倭国の指導者たちはこの要請を受けて、豊璋に彼を護衛するための軍兵をつけて海を渡らせようと準備をはじめた。

 翌斉明7年(661)正月6日、斉明を先頭に、中大兄皇子・大海人皇子ら倭王権の中枢部を載せた船団が難波を出発した。吉備を経て14日に伊予の熟田津(にきたつ)(現愛媛県松山市西垣生町の重信川河口)から石湯行宮(に到着、3月25日まで留まっているが、おそらくこの間に徴兵を行っていたと考えられる。
 熟田津に船乗りせむと月待てば潮もかなひぬ今は漕ぎ出でな
(熟田津で船に乗り込もうと、月の出を待っていると潮も満ちて船出に都合よくなってきた。さあ、今こそ漕ぎ出ようではないか。)
 この歌は『万葉集』に掲載されていて、倉本さんも書いているように、額田女王の歌とも、斉明大王の歌ともいわれている。なお、高校時代の国語でこの歌について習った記憶があるが、どうもそのころは国語の知識と日本史の知識とを有機的に結びつけることができず、その限りにおいて、この歌の理解もきわめて表面的なものであったと思う。
 これは遠征の前途を寿ぐはずの歌であったのだ(したがって、文脈的には斉明の歌とするか、斉明の代わりに額田女王がつくったと考えるべきであろう)。3月25日、一行は娜大津(なのおおつ、現福岡市中央区那の津)に着き、磐瀬行宮(現福岡市南区三宅)に入った。5月9日にはさらに南方の朝倉橘広庭宮(現福岡県朝倉市)に遷った。

 この間、4月に百済の福信から使節が到来し、豊璋の送還を再び要請してきた。ところが7月24日に斉明が朝倉橘広庭宮で崩御してしまう。中大兄皇子は大王に即位せず、称制をおこない、ふたたび長津宮(←磐瀬行宮)で軍事指導に当たった。ここで、倉本さんは小生=大王位に即かないまま政事を聴くことと注記しているが、称制は中国では、「天子に代わって命令を出す、天子に代わって政務をとること」であり、形だけでも天子がいることが前提になっている。だから、中大兄皇子がなぜここで「称制」という手段を講じたのかは謎が多い(そんなことは倉本さんは百も承知で、この問題はほかの学者が論じているからということで触れていないのであろう)。

 一方、百済では661年2月に、唐から劉仁軌が派遣されてやってきた。泗沘城を包囲していた百済遺臣の福信と僧道琛(どうちん)の軍勢は、新羅軍と合流した仁軌軍に敗れ、1万人を超える戦死者を出し、泗沘城の包囲を解いて任存城に拠った。
 新羅軍は食料が尽きたので、3月にいったん兵を返し、唐の高宗は仁軌に百済からの撤兵を命じたが、仁軌は百済平定の重要性を説いて駐留を続けた。この頃、唐軍は司令部を泗沘城から防御に有利な熊津城に移している。仁軌は百済遺臣の説得を試みたが、遺臣たちは徹底抗戦の道を選択した。一方、百済側では福信と道琛との間の主導権争いが表面化し、福信は道琛を殺してその軍を接収した。〔百済が次第に劣勢になり、軍の上層部で内輪もめが始まっているこの間の事情がどの程度倭国に伝わっていたか、気になるところである。

 なお、新羅では6月に武烈王が死去し、文武王が即位している。武烈王(金春秋)は国内政治に手腕を発揮しただけでなく、外交交渉においても活躍した優れた君主=政治家であったが、彼をめぐっては中大兄皇子と中臣鎌足の出会いに似た伝説があることをどこかで読んだ記憶があって、気になっている(そういえば、『水滸伝』の初めの方で高俅がまだ端王であった徽宗皇帝に気に入られる話も似ていなくはない)。それから「武烈」という諡号も我が国の天皇の諡号との関係で気になるところではある。

 今回、「白村江の戦」について述べるつもりで、その準備段階の箇所の紹介と論評だけで終わってしまった。まあ、焦らずに読んでいこうと思う。

宮下奈都『ふたつのしるし』

6月20日(火)晴れ、気温上昇

 6月19日、宮下奈都『ふたつのしるし』(幻冬舎文庫)を読み終える。2012年から2014年まで雑誌に連載され、2014年に幻冬舎から単行本として刊行された小説を文庫化したものである。

 東京で生まれ育った男の子ハル、北陸で生まれ育った女の子遙名、物語が始まる1991年5月に、ハルは小学校1年生、遙名は中学校1年生である。ハルは一人っ子で、自分の興味のあることに熱中して、学校では授業に関心を示さない。それで他の子どもたちに迷惑をかけていると担任の先生に言われ、他人に迷惑をかけることを嫌う父親と、他人に迷惑をかけたりかけられたりすることに比較的寛容な母親との口論が起きる。遙名には地域で一番の進学校に通う高校生の兄がいて、父親は彼女には数段劣る私立の女子校を勧めたりする。かわいい娘が幸せに暮らしていけることだけを考えていて、その内心には想像力が及ばない様子である。実は彼女は頭がよくて、成績もよいのだが、そのことで目立ちすぎないようにと作戦を立てて友達とつきあう。

 1997年に設定された第2話になると、ハルは中学生になり、遙名は東京の大学に通う大学生になっている。普通よりも発育が遅いハルはこの年齢になって乳歯が抜けるのだが、それを同級生に殴られたと誤解した担任がいじめがあったと思って両親に相談したことから、波紋が広がって本当にいじめを受けるようになる。幼稚園時代からずっと同じところに通っている健太は学業成績優秀、スポーツもよくできるという子どもだが、心中、ハルに敬服しているところがあって、彼をかばい続ける。遙名は就職した兄と入れ違いに同じ大学に入学する。入学はしたものの、これからどうするかが見えてこない。ある同級生からは過去から未来が見えてしまうと言われるが、そんなことはないと思っている。

 第2話の終わりの部分で、午後の授業に出ないことにした遙名が、中学校の前を通りかかり、養護教諭に付き添われて校庭に出たハルが乳歯を投げ捨てるのを見かける場面があるが、この2人がその後どういう運命をたどるかはその時点ではまだ見えない。2011年3月の大地震が物語を急転回させるとだけ書いておこうか。2人の主人公を比べてみると、遙名の方がよく書けているのではないかと思う。多かれ少なかれ、宮下さんの分身という側面もあるのではなかろうか:
「だいたい、洋司(遙名の父親)は娘に遙名ではなく駒子と名付けたかったのだという。『雪国』という小説に駒子という名のヒロインが出てくるのだそうだ。あるときそう教えられて、小学生だった遙名は緊張しながら『雪国』を手に取った。自分の名前のモデルになるかもしれなかった女性が出てくるのだ。ワクワクと読み始めて、怒りで顔を真っ赤にして本を閉じた。何を考えているのだ。あの父は娘に何を望んでいるのだ。駒子は不幸だ。駒子は愚かだ。その名前を娘につけたがるなんて。」(32ページ)
 善意は無知によって裏切られる。だから作戦が必要なのである。遙名は中学生のころから、OLになるまでずっと作戦をめぐらして生きていく。

 宮下さんの小説を読むのは久しぶりである。それで、このブログで取り上げるのも久しぶりである。1991年から約30年ということは、この小説が書かれた時点から見ても、また現在からみても未来に属する事柄までこの小説では語られているのだが、物語を構成する個々の挿話の時間的な間隔が空きすぎているようにも思えるし、説明不足を感じる部分も見られる。ハルの母親の事故死や遙名の兄が郷里での学校の教師を辞めて俳優修業を始める過程など、いわば物語の行間の謎になっている。宮下さんはこの作品と並行して、『羊と鋼の森』や『終わらない歌』の執筆にも取り組んでいたということで、その分、手間がかけられなかったのかなとも思ってしまう。

 そうはいっても、彼女の小説によくみられる展開、周囲に微妙な違和感を感じている主人公(この作品の場合は、主人公たち)と、それを理解する人々、まじめではあるが観察力と想像力が欠けているためにそれが理解できない人々との織りなす人間劇という大筋は共通する。この小説の題名は『ふたつのしるし』であって、『ふたりのしるし』ではない。二人はそれぞれ自分で見つけたしるしをもつようになる。物語の終わりの方で、遙名は娘の<しるし>に言う。「人生には意外と勘が大事です。」(211ページ) 物語は2人がどのようにしてその勘を磨いていくかについてだともいえる。作戦と勘はともに人生を生き抜くために必要なものに違いない。
 

本村凌二 マイク・モラスキー『「穴場」の喪失』

6月19日(月)晴れ、気温上昇

 6月18日、本村凌ニ マイク・モラスキー『「穴場」の喪失』(祥伝社新書)を読む。古代ローマ史の研究家で馬事文化にも詳しい本村さんと、アメリカ人の日本文化研究家であり、『吞めば、都』という著書で知られるように居酒屋に詳しく、またジャズピアニストでもあるというマイク・モラスキーさんの対話。インターネットにより大量の情報が出回る中で、「居心地のいい場所」としての「穴場」(この対話では、酒を飲む場所というふうに限定しても構わないようである)が急速に減少しているという危機感を軸に、日本とアメリカについての比較文化論的な議論が交わされる。東京郊外のある穴場スポット=居酒屋で知り合ったというお二人が、それぞれの専門的な知識と多方面にわたる趣味とを背景に、縦横無尽に文明批評を展開している。

 まずどこを自分の「穴場」とするかは個人個人によって違うものであり、だからこそ、自分で店に入ってみて、ときには失敗をしながら、見つけていくものだということ。最近は、個人経営の店が減ってチェーン店が増えているので、個性をもった――自分の個性に合ったー―店を見つけるのがむずかしくなっているという話が第1章「ネット時代の飲食文化」では展開される。私見によれば、共通メニューのチェーン店でも、それなりの個性が生まれている場合もあり、特になじみの客になってくると、対応も変化する例もあるから、その点ではお二人よりも私のほうが楽観的に物事を見ているのではないかと思う。

 第2章「映画ヒーローの日米比較」は本村さんとモラスキーさんの選んだ映画ヒーローのリストが出ていたり、『ゴジラ』の上映内容が日本とアメリカで違っているという話が出てきたり、自分の意見と違うところを突っ込んでいくときりがなくなりそうである。映画の話は、この章に限らず展開されていて、お二人の映画好きぶりも相当なものと推測される。第3章「ギャンブルと文化」は競馬の話が主になるが、アメリカでは1988年に「インディアン賭博規制法」が成立して、ネイティヴ・アメリカンの居留地にカジノの設置が許可されたという話が注目される。「静かだった森に突然、異空間が出現し、住民の日常とは全くかけ離れた時間が流れる、まさに、異様な光景でした。」(90ページ) 日本の最近の立法などを視野に入れるともっと早く知っておけばよかったという気がする。

 第4章「地域性の彩り」では、地域によって多様な特色をもっていたアメリカの大衆音楽がラジオの出現によって地域性が薄められたという話から始まり、言語の地域的な差異、さらに階級的な差異に話が展開する。経験に基づく知見の展開が内容に制裁を与えている半面で、専門的な視角の不足も目に付く箇所である。さらに話が笑いにおよんで、本村さんが小津安二郎の映画の子どものユーモラスな描き方に触れているのが印象に残る。小津の子どもの描き方は私も好きである。第5章「街に生きる」は、都市計画と市民生活の問題、その中で東京がいくつかの小区画から構成されていて、それぞれの区画内を歩き回ることができるという指摘が興味深い。街づくりには経済的な効率を図るという側面と、それ以上に一貫した街づくりの理念を求めるという側面とがある。異種混合の世界に飛び込んで、そこを自分にとっての「穴場」にしていく勇気が求められるという。

 さまざまな話題が自由奔放に取り上げられているが、実は触れられていない問題、避けられている問題はそれ以上に多いのである。そうした話題の選択にも「穴場」の持つ二面性、《勇気》をもって探し当てる必要があるということと、その中に《逃避》して閉じこもってしまっていいのだということが現れているようでもある。比較文化論には様々な可能性が秘められていて、この対談はその可能性の1つを示しただけではあるが、ここで取り上げられた問題のどれか1つを詳しく検討してみるだけでも質量ともにかなりの仕事ができるのではないかと思われる。 

『太平記』(163)

6月18日(日)曇り、昼頃から雨が降り出す

 建武3年(延元元年、1336)4月末に、九州に逃れていた足利尊氏・直義兄弟が大宰府を発って東上、安芸の厳島明神で光厳院の院宣を得ると、備後鞆の浦で軍勢を手分けして、尊氏が海路を、直義が陸路を進んで都を目指した。中国地方での優勢を固めようとしていた新田義貞は直義軍の攻撃を受けて、摂津兵庫まで後退した。劣勢を挽回すべく、後醍醐天皇は楠正成に兵庫下向を命じた。死を覚悟して兵庫へ下る正成は、途中、桜井の宿で嫡子正行に遺訓した。5月25日、足利尊氏の軍勢が海路兵庫につくと、新田方の本間重氏が遠矢を射て、戦闘が開始された。
 尊氏に合流していた細川定禅率いる四国軍は摂津の紺部の浜(現在の神戸市中央区)に上洛を図り、それにつられて新田軍は東へと移動、新田軍が陣を構えていた和田岬に尊氏の率いる九州・中国軍がやすやすと上陸し、湊川に陣を構えていた楠正成は敵中に孤立、陸路から迫ってきた直義軍と戦い、直義を危地に陥らせるなど奮戦したが、尊氏軍が直義軍に援軍を派遣、ついに楠兄弟は七生朝敵を滅ぼすことを誓って湊川で自害した。

 正成戦死を知った新田義貞は、早馬を仕立てて京都にこの旨を報告、京都の朝廷は鎌倉幕府の大軍を退け、倒幕に大きな功績を残した正成が命を落としたことに大いに驚いたが、新田がなんとか敵を食い止めてくれるだろうと頼りに思ったことであった。

 ということで、尊氏、直義の兄弟がそれぞれの軍を合わせて、西から新田義貞の軍勢に戦いを挑む。義貞、義助の兄弟はこの様子を見て、紺部の浜から上陸してきた敵は、旗の紋を見たところ、四国、中国の武士たちと判断される。湊川の方面から攻めてくる軍勢こそ、足利兄弟と思われる。これこそ願うところの敵である」と、脇の浜(神戸市中央区脇浜町の海岸)から取って返し、生田の森を背にして、その率いる4万余騎を3手に分けて、敵を三方から迎撃しようとした。〔楠正成・正氏、新田義貞・脇屋義助、足利尊氏・直義、3組の兄弟がこの戦いに参加しているのが注目される。血は水よりも濃し、一族一門の団結のきずなの基本的な結びつきは兄弟の関係であったのである。戦いの継続とともに、兄弟は他人の始まりという時代が訪れる…〕

 新田軍、足利軍ともに勢いをつけようと、それぞれ一斉に鬨の声を上げる。まず、一番に、新田方からは大館氏明と江田行義が3千余騎を率いて、足利一族の仁木、細川、斯波、渋川の6万余騎の中に駆けこみ、火を散らして戦って、二手に分かれてさっと退却する。
 次に、宮方からは中院中将定平(戦闘に加わっているが、もともと村見源氏の公家である)、新田一族の大井田、里見、鳥山の武士たちが5000余騎を率いて、足利譜代の家臣である高、尊氏・直義兄弟の母親の実家である上杉、尊氏の盟友佐々木道誉、赤松一族の軍勢8万余騎の真ん中に駆け込み、1時間ほど黒煙を立てて戦闘を続けた。
 3番目に、義貞の弟の脇屋義助、宇都宮公綱、菊池武重、伊予の河野一族である土居、得能らの1万余騎の軍勢が、足利直義〔図らずも義貞と尊氏の弟同士の対決となった〕と足利一族である吉良、石塔、畠山、小俣、一色の10万余騎の中に突っ込み、天を響かし、地を動かし、両者入り乱れての乱戦を展開したが、戦死者が多く、両陣ともに退却して、いったん休息の時間をとった。

 この様子を見て、新田義貞は「控えの新しい軍勢は既になくなってしまったが、戦いはまだ決しない。これは大将たる私が自ら出陣すべき場面である」と2万余騎を左右に進め、尊氏の20万余騎の中にかけ入り、戦闘を開始する。いよいよ両軍の首将同士の対決である。一方が宮方の総大将で、新田家の嫡流の武将であり、もう一方は武家方の首将で、足利家の正統の武将である。ということで、名実ともに両軍を代表する存在として相争うべき存在である。ということで両方の軍勢が激突して激しい戦いが展開された。しかし、新田軍は軍勢の数において劣るので、命を捨てて勇敢に戦ったとはいうものの、ついに壊滅状態になり、残る軍勢はわずかに3千余騎、生田の森の東から丹波路を通って、都の方へと敗走する。

 足利方の軍勢は勢いに乗って、敗走する新田軍に襲い掛かる。しかし、総大将である義貞はこれまでの戦いでもそうしてきたように、味方の軍勢を無事に逃がすために、敗走する軍勢の後陣に引き下がって、戻っては戦い戻っては戦いしていた。そうこうするうちに義貞の乗っていた馬が矢を3筋まで受けて、進めなくなったので、乗馬の乗り換えをしようと思って待っていたが、味方の軍勢はこれを知らなかったうえに、義貞から見える味方の兵もその時は遠くにいたので、義貞を馬に乗せようとする人がいないという状態であった。

 これを見た足利方の軍勢は、数百騎の兵が争うように殺到し、義貞を取り囲んで討ち果たそうとするが、義貞は弓を引き絞って、近づいてくる武士たちをめがけて矢を射る。その勢いのすさまじさに圧倒されて、足利方の武士たちは義貞を遠巻きにして矢ふすまを作り、遠矢を射かけるだけであった。その矢が雨のように降りそそぐ中、義貞は源氏の家柄に代々伝わる薄金という鎧を着て、これも源氏に代々伝わる鬼切という(渡辺綱が鬼の腕を着たとされる)名刀を抜いて、鎧をゆすって札(さね)の隙間をなくし、あるいは矢を鎧の左袖で受け止め、あるいは飛んでくる矢を刀で切り捨てて、防いだので、その体には矢を受けて傷つくこともなかった。〔前回の楠正成が11か所の傷を負うていたというのと対照的である。〕

 そこへ、遠くからこの様子を見つけた小山田太郎高家という武蔵小山田(現在の東京都町田市内)の武士が馬を全速力で走らせて駆け付け、馬から飛び降り、自分の馬に大将義貞を急いで乗せ、自分自身は徒立(かちだち)になって、追ってくる敵を防いでいたのだが、大勢の敵に囲まれ、ついに戦死してしまった。その間に、義貞は敗走する自軍に追い付いて、きわめて危険な状態を脱し、しばらくは安堵したのであった。

 『太平記』の作者は尊氏・直義と義貞・義助の軍勢の戦いを例によって過剰な言語を連ねて描写するが、実態としてはどの程度激しい戦闘が展開されたのかは疑問である。新田軍の兵力が急激に減ったのは、自軍の何倍もある足利軍の軍勢を見て恐れをなして逃げ散った武士たちが少なくないからではないかとも思われる。戦闘の様子を見て、どちらにつくかを決めるという武士たちが多いからこそ、自分たちの武勇をもって何とか劣勢を挽回しようと義貞は考え、確かに武勇のほどは発揮したのだが、それ以前に細川定禅の陽動作戦に引っかかって、軍勢を東に移動させ(楠を孤立させてしまっ)たのが大きな敗因であった。そのまま和田岬の陣を動かず、正成と呼応して戦っていれば、あるいは勝機が生まれていたかもしれない。もちろん、一番大きな敗因は両者の軍勢の規模であって、その意味では後醍醐天皇は楠正成ではなく、大軍を動員する力量のある北畠顕家を派遣すべきであった〔といっても、この時点で、顕家は自分の任地である東北地方に戻っていたはずである〕。新田軍主力の勇猛さや団結力はたしかに賞賛に値するのだが、尊氏・直義兄弟に加えて、高師直、上杉憲房、細川和氏、細川定禅、佐々木道誉、赤松円心と軍勢だけでなく、存在感を持つ武将の数でも足利方の方が有利であったことは否定できない。 

日記抄(6月11日~17日)

6月17日(土)晴れ、日中は暑かったが、日が暮れると涼しくなった。

 6月11日から本日までの間に経験したこと、考えたことなど:
6月11日
 日産小机フィールドでプレナスなでしこリーグ・カップ2部第2節日体大フィールズ横浜対横浜FCシーガルズの対戦を観戦した。第1節でコノミヤ・スペランツァ大阪高槻に9-0で圧勝した日体大優勢と思われたが、シーガルズが序盤にあげた1点を守り切って勝利した。

 横浜ムービル5で、『今からちょっと仕事やめてくる』を見る。ブラック企業で働く若手社員が人生の意義について改めて考え直すという話で、脚本が甘いのではないかと思った。

6月12日
 NHKラジオ『まいにちフランス語』は、今週、「パリ植物園」(Jardin des Plantes)についての会話を取り上げる。植物園といっても、中に動物園もある巨大な施設である。登場する女性がいう:
On peut aller à la ménagerie. (動物園に行けるわね。)
ménagerieは小さな動物園で、研究用、種の保存用の動物園という含みがあると解説されていた。

6月13日
 『まいにちフランス語』で取り上げられた「パリ植物園」の話題の続き:
Le ménagerie du Jardin des Plantes est riche de 1200 animaux pour 180 espèces variées : mammifères, oiseaux et reptiles. (「パリ植物園」の中にある動物園には、哺乳類、鳥類、爬虫類あわせて180種類、1200もの動物がいます。) それほど多いとは思わないのだが、その中にはフランスでは珍しい、キノボリカンガルーやオランウータンも見られるという(オランウータンというと、ポーの「モルグ街の殺人事件」を思い出される方もいらっしゃるかもしれない)。この動物園はパリ5区にあり、1794年に開演した。現存している動物園ではウィーンのシェーンブルン宮殿にある動物園に次いで、世界で2番目に古いそうである。

 テレビ東京の『開運なんでも鑑定団』の本日のゲストとしてなべおさみさんが登場していたが、その紹介画面の中でも触れられていたなべさんの主演映画『吹けば飛ぶよな男だが』は山田洋次監督の作品中、初めて『キネマ旬報』のベスト・テン入りしたものである。鈴木清順監督の『肉体の門』で<黄色の女>を演じていた石井富子さんが、この作品で、犬塚弘が演じるうだつの上がらない下っ端のやくざの奥さんという新しい役どころを切り開いたことが特に印象に残っている。

6月14日
 またまた「パリ植物園」正式には「国立自然史博物館」について。この施設は17世紀にできた王立の薬用植物園が現在のパリ5区の場所に移動し、後に研究機関として発足したもので、フランス革命のさなかの1793年に博物館として一般に公開された。
Un des bâtiments les plus spectaculaires et les plus agréables du Muséum d'Histoire naturelle est la Grande galerie de l'évolution. (自然史博物館で最も目を引き、一番楽しい建物のひとつは「進化大陳列館」です。)
 進化論を唱えたことで知られるラマルクは、この植物園に務めていたが、生前、その学説を認められず、不遇であった(彼の学説に欠陥があったことも確かである)。「進化大陳列館」が人気を集めていることを彼が知ったら大いに喜ぶだろう。

 椎名誠『おれたちを笑え! わしらは怪しい雑魚釣り隊』(小学館文庫)を読み終える。ホームセンターで売っているプラスチック製園芸用品「若竹」を使って巨大テントを組み立てる話など、依然として新しい冒険・挑戦を繰り返す椎名さんの姿勢には大いに学ぶべきものがあるのではないかと思う。

6月15日
 NHKラジオ『実践ビジネス英語』でのソフトスキルをめぐる会話は、ソフトスキルの一種としてのチームプレーのための能力に話が及ぶ。
That's not something you can learn from a book or gauge with a traditional exam. (それは、本から学べるものでも、従来の試験で測れるものでもありませんからね。)
ここでgaugeという動詞は、「ゲージ」と発音する。番組では触れられなかったが、名詞として、鉄道の線路などの軌間距離という意味があり、その意味では「ゲージ」は日本語になっている。辞書にはgageという綴りも記載されているが、杉田先生も、ヘザーさんもgageという綴りを見たという記憶がないそうである。
 ソフトスキルをめぐる雑談は、結局次のような常識的な結論に落ち着く:
 In the end, it comes down to having the right combination of soft and hard skills. They're not mutually exclusive. (結局は、ソフトスキルとハードスキルをバランスよく兼ね備えることに行きつきますね。この2つは相いれないものではないのです。)

 吉田健一『舌鼓ところどころ/私の食物誌』(中公文庫)を読み終える。もともとこの文庫に別々に収められていた2冊を1冊にまとめて改めて刊行したもので、両方ともすでに読んだことがある。まだ、東京に数寄屋橋という橋があったり、新潟に東堀、西堀という堀があったころの全国食べ歩きの記録で、昭和20年代、30年代の雰囲気が濃く漂っているのが魅力的に思われる。東海道新幹線が開通したのが昭和39年のことであり、そのことによって駅売りの食べ物を買って食べる楽しみが減ったと記されていることが時代を感じさせる。

 NHKラジオ「エンジョイ・シンプル・イングリッシュ」の木曜日は”Heroes and Giants"と題して歴史上の重要人物を取り上げているが、本日は千利休が取り上げられていた。利休は茶の湯の理念や政治的な問題をめぐって豊臣秀吉と対立して、武士ではないのに切腹を命じられるのだが、その真相をめぐっては謎の部分があって、英語で説明するのは難しいなぁと思いながら聞いていた。<北野の大茶会>に代表される秀吉のパフォーマンスには好意的に評価できるところがあって、秀吉と利休のどちらが正しいとは簡単に結論は出せそうもない。とは言うものの、利休に一方的に切腹を命じたのはよくない。自分と意見の対立するものを抑圧するのは、抑圧する側の意見が客観的に見て正しい場合でも容認できることではない。

6月16日
 NHKラジオ『まいにちイタリア語』応用編「描かれた24人の美女」第20回は、ミラノのブレラ美術館にあるフランチェスコ・アイエツ(Francesco Hayez)の「キス」(Il bacio)という作品を取り上げた。接吻を交わす若い男女の姿を描いたこの絵には、イタリアの独立と統一をめぐる当時の動きを示す政治的な意味が隠されているという。
Hayez fu uno dei protagonisti della Milano del suo tempo, essendosi legato a due giganti della cultura italiana: lo scrittore Alessandro Manzoni e il musicista Giuseppe Verdi. (アイエツは当時のミラノにおける主要な人物の一人であり、作家アレッサンドロ・マンゾーニと音楽家ジュゼッペ・ヴェルディという、二人のイタリア文化の巨人とつながりをもっていました。)
 イタリアのリソルジメントと関連して、マンゾーニの『婚約者』や、ヴェルディの歌劇などの偉大な芸術が生まれたのだが、同じ時期のアメリカの南北戦争や、日本の明治維新と関連してどのような文化・芸術上の動きがあったのかというのは、大いに考える価値のある問題ではないかと思っている。

6月16日
 午後、日産フィールド小机でプレナスなでしこリーグカップ2部第3節横浜FCシーガルズ対スフィーダ世田谷の試合を観戦する。リーグ戦では0-1で負けた相手であるが、今回も序盤の好機を生かせずもたもたしているうちに、失点を重ね、1-3で敗れる。ニッパツの関係者らしい人が何人か私の後ろに座っていろいろと論評していたのが参考になった。
 夜、ニッパツ三ツ沢球技場でJ2の横浜FC対モンテディオ山形の試合を観戦する。0-0の緊迫した展開が続き、後半のアディショナル・タイムの終わりの方で山形のカウンターから1点を失い、敗北。特にMF陣の消極的な競技ぶりが気になった。
 本日は男女ともに敗戦という最悪の結果となった。FCとシーガルズとでは試合内容のレベルが違うが、大事に行こうという姿勢が、もたもたしてボールを失ってしまうという結果につながるというところは両者に共通する問題点ではないかと思った。 

カルヴィーノ『まっぷたつの子爵』(3)

6月16日(金)晴れ

 イタリアのどこかにあるテッラアルバという村の領主であるメダルド子爵は、トルコ軍との戦いの際に、大砲の前に剣を抜いて立ちはだかり、砲弾を受けて左右まっぷたつに吹き飛ばされた。奇跡的に助かった子爵の右半身は故郷に帰って、領民たちを虐げ、悪行の限りを尽くす。子爵は村の羊飼いの娘であるパメーラを見初めて妻に迎えようとするが、パメーラは彼を避けて森で暮らすようになる。
 物語の語り手である<ぼく>は子爵の姉が密猟者と駆け落ちしてできた子どもで、両親を失い、城で育てられたが、主人の側にも使用人の側にも属していない自由な立場にあり、イギリス人の船医で、村に住み着いたトレロニー博士の研究の助手をして日々を過ごしていた。トレロニー博士は医者の仕事はせずに、奇妙な研究にばかり没頭していたのである。
 テッラアルバに子爵の左半身が戻ってくる。右半身と違ってひどく親切な様子である。そして、この左半身もパメーラに恋をしてしまったらしい。

 「はじめの半分は悪かったが、それと同じぐらい善い残り半分の子爵が帰ってきた、という知らせが広まると、テッラルバの生活は大きく変わった。」(113ページ) トレロニー博士はこれまでと違って、医者の仕事をはじめ、朝早くから往診に出かけるようになった。善い方の子爵はその往診の作業を助けたが、悪い方の子爵は邪魔をして回った。
 「こうしてぼくたちの村の生活は慈悲と恐怖のあいだを往きつ戻りつした。《善半》は(もう一方の《悪半》に対してぼくの叔父の左半身はこう呼ばれるようになった)今や聖人の列に加えられんばかりであった。」(116ページ)
 その間、パメーラは相変わらず森の中で生活していた。≪善半≫彼女のところにやってきて、乞食や孤児や身寄りのない病人たちのところから集めてきた衣類を彼女に選択させたり繕わせたりした。彼女にも善い行いをさせようとしたのである。そして彼女が洗濯ものを乾かすためにすっかり綱に張り渡すと、《善半》は彼女にタッソの叙事詩を読んで聞かせた。
 「パメーラには読書は何のたしにもならなかったから、草の上に横になって退屈しのぎに、虱をとったり(森のなかで生活しているとどうしても獣みたいになりがちだから)、お尻のかゆいところをかいたり、バラ色のはちきれそうな脚の線を眺めたりしていた。」(117ページ) パメーラが《悪半》を恐れながらも、《善半》に飽き足りない様子であるところに、作者のものの考え方を読み取るべきであろう。

 《善半》の人気が高まってきたのを知って、《悪半》は早急に相手を殺そうと考えた。そこで警官たちを招集して、《善半》を逮捕して死刑にせよと命じる。しかし、警官たちはクーデタを企てた。いまの半分の子爵をとらえ、監禁して、《善半》を新しい領主にしようとしたのである。しかし計画を知らされた《善半》が暴力に反対したために計画は失敗し、警官たちは処刑されてしまう。「《善半》は彼らの墓に花を運び、寡婦や遺された子供たちをむなしく慰めた。」(133ページ) 《善半》の思想や行為にも問題があることがはっきりし始める。
 メダルド子爵の乳母であったセバスティアーナは《善半》の善意に全く答えようとせず、彼に会うたびに彼をしかりつけた。「おそらく一種の母性本能から、またおそらくは人間の力にはかり知れぬ無意識の予感から、乳母はメダルドがまっぷたつに分かれてしまったことをあまり重視していなかったのだろう。」(134ページ) そして《悪半》のした悪事を、《善半》に対してしかりつけたのであった。
 次第に《善半》の善意の行動の限界や問題点が明らかになってくる。テッラルバの一角に癩患者達だけが住んでいる《きのこ平》という一角があり、そこでは「酒盛りが永遠に続いている」(49ページ)と噂されていた。しかし《善半》は彼らの体を治療するばかりでなく、その心まで治そうとしはじめた。「それゆえ、彼は常に来患者の中に分け入って道徳を説き、彼らの個人的な事情に鼻先を突っ込み、彼らの背徳行為に腹を立てて、お説教を繰り返すのだった。癩患者たちは《善半》に耐えられなくなった。《きのこ平》の楽しく放縦な時は終わった。片足の、ひょろ長い、神経質で、礼儀に厳しい、賢者気どりの、この半分の影のおかげで、誰も自分の好きなことができなくなってしまった。」(137ページ) 挙句の果てに、「ふたつの半分のうち、悪いほうより好い方がはるかに始末が悪い」(137ページ)とさえ囁かれるようになった。
 《善半》に対する賞賛が衰えていったのは、《きのこ平》の癩患者たちのあいだだけではなかった。次第に「非人間的な悪徳と、同じぐらいに非人間的な美徳との間で、自分たちが引き裂かれてしまったことを、ぼくたちは思い知っていった。」(138ページ)

 相反する心の持ち主であるメダルドのふたつの半身はともにパメーラを愛していたが、《悪半》は彼女を《善半》と結婚させ、その後で彼を殺して彼女を自分のものにするという計画を立てる。そしてかねてから手なずけていた彼女の母親を通じてこの提案を伝えるが、彼の意図を見抜いたパメーラは、《悪半》と結婚すると申し出る。それからしばらくして、彼女は《善半》とも結婚する約束をする。

 結婚式の当日、教会に《善半》はやってきたが、馬が足を痛めてしまった《悪半》は式に遅れてしまった。式が進んで、指輪の交換が終わった時に、《悪半》が到着し、《善半》に向かって剣を抜いてとびかかろうとした。しかし両者ともに、片足だったので、一本足で平衡をとりながら、戦うことは不可能だった。そこで、翌日の夜明けに改めて決闘を行うことにした。馬具商兼車大工のピエトロキョード親方が二人の決闘のための仕掛けを工夫し、二人はそれぞれ草原の上に円を描きながら戦い続けた。「そして左右の件かっくはばね用に跳びはねながら丁丁発止と渡り合った。が、剣尖は相手の体に触れなかった。突きを入れるたびに、刃は過たずに相手のひらめくマントに刺しこまれるが、どういうわけか、それぞれに相手の何もない側を、すなわちおのれ自身があるはずの側を、激しく突きたてるのだった。」(149ページ)
 さて、どのような結末が訪れるのだろうか。

 第二次世界大戦末期にドイツ軍に占領された北イタリアにおけるレジスタンスに参加したカルヴィーノは、その経験に基づいた最初の長編小説『くもの巣の小道』(1946)について、「ヘミングウェイの『誰がために鐘は鳴る』とスティーヴンソンの『宝島』とを一緒にしたような作品を書きたかった」と述べたというが、そのような作者の文学的な傾向はこの作品にも見て取れる。『誰がために鐘は鳴る』はスペイン市民戦争という現実の出来事を素材に正義の実現のために自分の命を犠牲にして戦う人間の物語であり、『宝島』は空想の中の、血沸き肉躍る冒険の物語だが、その結果として正義が実現するわけではない物語である。おそらく、その両者を人生の縮図として受け入れようとする矛盾に満ちた人生の認識が作者のものである。そこで、1人の人間の善と悪という簡単には一刀両断に区別することのできるはずがない分身が登場する。一方に歴史的な風土への写実的な描写があり、他方に子どもっぽい幻想と空想に満ちた物語の展開がある。2人の子爵の行為に苦しめられるテッラルバの人々は言う:
「大砲の玉が二つに引き裂いてくれたので、まだ助かった」と、人々は言いあった。「もしも三つに分かれていたら、わたしたちはどうなっていたか知れやしない」(138ページ) 空想の先にさらに空想がある。さらにその先に空想があるかもしれない。

 一見平易なおとぎ話に見えるが、その意味は複雑に入り組んでおり、物語の意味するところを簡単に言い切ることはできそうもない。実際に物語と取り組んで、その幻想と現実描写の入り混じった世界を味わってほしい。

 1回で論評を終える終えるつもりだったのが、パソコンの調子が悪くて3回に分けて取り上げることになり、物語の概要を詳しくたどりすぎたかもしれない。余計なことを書きすぎたのであれば、ごめんなさい。明日(6月17日)はサッカーの試合を2試合見に出かけるつもりなので、そのために更新が遅れるかも知れないことをご了承ください。

ダンテ・アリギエリ『神曲 天国篇』(21-2)

6月15日(木)晴れ

 ベアトリーチェに導かれて煉獄山の頂上にある地上楽園から天上の世界に旅立ったダンテは、月天、水星天、金星天、太陽天、火星天、木星天を経て、土星天に達した。そこで彼は頂点が見えないほど高い一本の階段を見た。階段を伝って無数の魂たちが土星天に降りてきたが、その中のひとつの魂がダンテの傍に来てひときわ激しく輝いた。ダンテはベアトリーチェの許しを得て、この魂に質問する。彼はなぜ、ダンテのもとにやってきたのか。他の天では聞こえていた魂たちの合唱が土星天では聞こえないのはなぜか。魂は答える。肉体の聴覚をもっているダンテには、神に近いこの圏の魂たちの声は強すぎて耐えられないからである。この魂がダンテのもとにやってきたのは神の定めによるものである。そこでダンテは、さらに、その魂が神に選ばれた理由を質問した。

 その魂はまず、天上の世界にいる自分たちと神との関係からダンテに対する答えを説きはじめた。彼らは神から直接、神的な知と力である光を照射され、そのために彼らには、彼ら自身の力にさらに神の力が加わり、その高まったに認識力を意味する「視力」で神を見ている。
その御力が我が視力に加わり、
我を我以上に高めているため、
その流出の源である至高の本質を見ている。

そこから歓喜が来るがゆえに我は燃え上がっている。
というのも我は、我が視力に対し、それが明瞭なだけ、
己の炎の輝きを等しくしているからだ。
(322ページ) そして神を見ていることにより、神の視界ともいえる神の認識に触れることで彼らの喜びは増し、その喜びを示す彼らを包む輝きも強まる。そのため、彼らの輝きが強ければ、それだけ彼らの認識力も強い。

 しかし、その彼らの中で最も輝く魂(聖母マリアの魂)も、最上位の天使達である燭天使(セラフィム)達の中でももっとも認識力の強い天使も、神が彼を選んだ理由は理解できないと付け加えた。
なぜなら、おまえのたずねていることは、
永遠の掟の深淵に入り込み、
どのような被造物の視線からも隔てられているからだ。

ゆえに、必滅の者達の世界におまえが戻る時には、
そう述べ伝えよ。これほどの目標に向かって
足を進ませようなどとこれ以上思い上がらぬために。

人の知性は、ここでは輝き、地上ではくすむ。
それゆえ考えても見よ、天空に受け入れられたものでさえできぬことを
下界でどうしてできようか」。
(322-323ページ) 人間の知性は、天空では神の光、すなわち真理を受けて叡智となって輝く。そのような天空の魂たちが理解できないことが、地上の人間に理解できるわけがないという。

その言葉が私に限界を明らかにしたため、
私はその質問を離れ、引き下がり、
へりくだってその光にどなたか尋ねた。
(324ページ) すると魂は、
「イタリアの両岸に挟まれて峩々たる山々が立ち上がっている。
それはお前の祖国からそう遠くないところにあり、
雷(いかずち)さえはるか下で轟くほど高く聳え、

カトリアと呼ばれる山塊をなしている。
・・・」(324ページ)と、その履歴を語りはじめる。香取アさんはダンテの故郷であるフィレンツェから約120キロのところにある山で、標高1700メートル、その麓にベネディクト会系のカマルドーリ修道会に属する聖(サンタ)クローチェ・ディ・フォンテ・アヴェッリーノ修道院があり、彼はそこで修道士となったという。そして簡素な食事だけで神を思惟する観想の生活を送った。彼の名はペトルス・ダミアーヌスであり、後年、ラヴェンナの別の修道院に引きこもった時にはペトルス・ペッカトール、つまり罪人ペトルスと名乗ったと答えた。

 ペトルス・ダミアーヌス(1007-1072)はラヴェンナの人で、若いころに法学等を学び、法律家として成功、財をなした後に世を捨て、30歳で聖クローチェ・ディ・フォンテ・アヴェッリーノ修道院の修道士となり、1043年にカマルドーリ修道会総長、1057年枢機卿に就任し、世俗化する教会に批判的な立場から教会改革に参加し、使徒的教会への回帰を訴えた。しかし修道院への復帰を強く願い出て認められた後、ラヴェンナではなく、以前にいた聖クローチェ・ディ・フォンテ・アヴェッリーノ修道院に隠棲した。ダンテが言及している、ラヴェンナの修道院とは、聖マリア・イン・ポルト教会のことであるとされる。この修道院はダミアーヌスとは別のぺトルス・ペッカトールと呼ばれる人物が設立したが、ダンテの時代には両者が混同され、彼がラヴェンナで『天国篇』を執筆していた時に、ペトルス・ダミアーヌスは世俗化する高位聖職者達に憤慨してこの修道院に隠棲したとする説が広がっていたと推測される。
 ラヴェンナはイタリア北東部のエミリア・ロマーニャ州にあり、西ローマ帝国の最後の首都であったこと、ダンテがその晩年を過ごしたことで知られる都市である。したがって、この都市の出身で教会の世俗化に対する批判を展開したペトルス・ダミアーヌスがここで登場するのは意味のあることである。

 天国のペトルス・ダミアーヌスは、自身の希望に反して枢機卿位につかされたと述べた後、その枢機卿位は悪人からさらに邪悪な人物へと引き継がれ続けていると語った。そして原始教会で活躍した使徒たちの清貧の上に教会が建てられたこと、原始教会が霊的な指導力を発揮したことを述べた。それに比べてダンテの時代の高位聖職者たちは、贅沢な生活のために自分では馬に乗れぬほど太り、またその権勢で周囲に人を侍らせてかしずかせ、「獣」、つまり悪魔と化してしまったと続けた。
だが今や、現代の牧者たちには、両側から支える従者、
彼らを乗せて運ぶ従者、彼らを後ろから押し上げる従者が
必要なのだ。それほどまでに重々しいのだ。

あの輩(やから)は大外套で乗馬を覆うため、
一つの皮をかぶった二頭の獣が進んで行くことになる。
これを看過されるとは、なんという忍耐であらせられるのか」。
(326ページ) 「重々しい」には、高位聖職者たちが贅沢で太っていることと、また彼らの尊大な態度の2つの意味が込められている。「二頭の獣」は馬と高位聖職者を表す。「獣」は「黙示録」などでは悪魔を意味している。ペトルす・ダミアーヌスは高位聖職者たちの神への冒涜のような行為に対する罰を神に願っている。

この声とともに、さらに多くの炎が
段から段へと降りてきて自転するのを私は見た。
そして回転するたびにそれらはより美しくなっていった。

それらはこの炎の周囲に来て留まると、
ここ地上では似ているようなものがないほどの
高い音で声を上げた。

私はそれを理解できなかった。その雷鳴はそれほどまでに私を圧倒した。
(326-327ページ) 高位聖職者たちの贅沢な生活を批判するペトルス・ダミアーヌスの声を支持するかのように多くの炎がその周りに集まる。神に近づいた土星天で発せられる声は、ダンテの認識を越えたものである。こうして第21歌は終わる。またペトルス・ダミアーヌスの世俗支配を皇帝権に任せ、教会は使徒的生活の上に精神の指導者であるべきだと主張していたが、これはダンテの政治思想に影響を与えたと言われる。ダンテが地上の人間に神意の理解はできないと執拗にいい続けているのは、当時の教皇や高位聖職者たちが神の名を借りて自らの勢力拡大の意志を正当化してきたからであったと翻訳者の原さんは解説している。

倉本一宏『戦争の日本古代史 好太王碑、白村江から刀伊の入寇まで』(4)

6月14日(水)曇り(朝のうちは雨が残っていたようである)のち一時晴れ間が広がる。

 中国では589年に北朝の隋が南朝の陳を滅ぼして統一政権を樹立した。北東アジア諸国にとってこれは前例のない変化であった。朝鮮半島北部から中国の一部に版図を有する高句麗は隋と対立・構想を続け、南東部から西海岸へと勢力を拡大していた新羅は高句麗との対立から自国を防衛するために隋に臣従し、西南部の百済は隋と高句麗の対立の中で新羅に攻め込んで漁夫の利をえようとしていた。高句麗は百済だけでなく、かつて戦火を交えた倭国とも同盟を結ぼうとした。倭国は伝統的に百済と友好的で、高句麗とも同盟を結んだが、外交的接近を図ってくる新羅に対しては優越感と敵意とをもち続けていた。高句麗遠征の失敗を主な原因の1つとして隋が滅亡し、それに代わって唐が中国の統一政権となっても、この基本的な構図は変わらなかった。その一方で、倭国は中国の王朝からの冊封を求めず、唐から独立した存在であることを主張し続けていた。
 朝鮮3国では国王あるいは権臣が独裁的な権力を握るという政治的な変化が見られた。北東アジアの激動する政治情勢に対応するには、権力の集中が望ましいという判断がその背景にあったと思われる。遣隋使→遣唐使の派遣を通じて急速に政治改革を進めていた倭国においても、葛城王子→中大兄王子と中臣鎌足が蘇我入鹿と古人大兄王子を滅ぼした「乙巳の変」は権力集中を目指すこの流れに沿った動きであったと考えられる。

 百済は651年に唐に遣使し、当時の皇帝である高宗から新羅との和睦と新羅の城の返還を命じられたが、白雉4年(653)に倭国に使者を派遣した。おそらくは緊迫する対新羅関係に際して、唐よりも倭国・高句麗との同盟に期待する旨の同意に達したのであろう。これ以降、百済は唐への遣使を行っていない。(この間、新羅は唐への急速な追従を強めていて、白雉2年=651に新羅の使いが唐の服を着て筑紫についたので、追い返されているそうである。) 655年、百済は高句麗と連携して再び新羅への攻勢を強め、新羅の北辺を攻撃した。新羅は早速、使節を唐に派遣して救援を請うている。

 「この頃から、『三国史記』百済本紀には、百済王の驕慢や淫荒・耽楽の記事、また滅亡の予兆記事がめだつようになる。中国の正史に倣った王朝末期の様相を呈してきたのである」(109ページ)と倉本さんは記している。書き遅れたが、『三国史記』は朝鮮の三国時代の歴史を高麗の金富軾が1145年に編纂した書物である。三国分立が新羅によって統一され、その新羅が亡びたのちに成立した高麗の時代に、編纂されたということは、対象となった時代から相当後になってまとめられたということで、その信頼性はかなり低いことは容易に推測できる。ただ、後に百済を滅ぼした唐の武将蘇定方が刻ませた碑銘にも百済王の政治の乱れを指摘する内容が記されているというから、全く根拠のない話でもなかったようである。

 655年に唐の高句麗征討が再開され、668年の高句麗滅亡まで続くことになる。百済では、国政運営の乱脈が貴族間の分裂を生み、変化する国際情勢に対する洞察や相手国の情報把握が十分にできなくなっていた。そこで、唐が侵攻してきてもまず高句麗を攻撃するはずで、両者の戦闘のあいだに対応策を求めても間に合うという考えが生まれたものと推測される。
 一方、倭国では白雉4年に中大兄王子ら政権の首脳が難波宮に大王を残して、飛鳥に還っているのはこのような国際情勢も視野に入れてのことではなかったかと考えられる。白雉5年(654)に第3次の遣唐使が派遣されたが、彼らは唐の高宗から新羅救援を命じられたという。
 「659年4月に百済が新羅を攻めると、新羅は唐に援兵を請い、唐は百済攻略を決定した。新羅が外国勢力を半島に引き入れて百済と高句麗を滅ぼし、やがて半島を統一することの意味は、別に問われなければならない。三国統一戦争は三国間の統合戦争であると同時に、唐の三国侵略戦争でもあったのである。」(111ページ)

 新羅は斉明2年(656)以来、倭国に使節を派遣していない。(はっきり敵対関係に入った。) これらの情勢の変化に対応できていない倭国は、斉明5年(659)7月に第4次遣唐使を発遣した。「前年の阿倍比羅夫の北方遠征の成果を得て、蝦夷を唐の天子に見せ、倭国が東辺・北辺の蝦夷を服属させていることを唐に示そうとしたと考えられている」(同上)。倭国の側では気づいていなかったが、翌660年から唐は百済討伐に乗り出し、百済の同盟国である倭国の使節は帰国を禁じられてしまうのである。(すでに述べたように、百済はこのような事態を予測して、唐との外交関係を絶っている。)

 660年3月、唐の高宗は蘇定方を総司令官として、水陸軍13万を率いて百済に進発させた。また新羅の武烈王に5万の兵を率いてこれを応援させた。唐は海上から、新羅は陸上から、それぞれ百済に侵攻し、これを挟撃したのである。動員出来る軍勢の量的な違いに加えて、百済が敵の侵攻に対して適切な防御策を講じなかったために、百済軍は大敗を続け、7月18日に義慈王と太子は降伏し、とらえられた百済の主な人々12807名は唐の長安に送られた。倭国放還が決定していた第4次遣唐使の一行は、彼らが連行されてきたのを目撃したと『日本書紀』に記されている。
 百済滅亡の知らせは、すぐに倭国に伝わったが、それとともに百済遺臣が唐への反乱を起こし、あと一方で王城を奪還できそうだという情報も同時に伝えられた。(自分に都合の良い情報の方を信じたがるのは今に始まったことではない。救援軍を派遣してほしい、百済の遺臣たちが自分たちに都合の悪い情報を伝えるわけがない。) 
 こうして倭国は百済の遺臣たちを救援するという大義名分をもって、新羅および唐の連合軍と戦うことになる。いわゆる白村江の戦であるが、その次第についてはまた次回述べることとした。
付記:ブログ開始以来、読者の皆様から頂いた拍手が24,000を超えました。これまでのご愛読に感謝するとともに、今後ともご支援よろしくお願いいたします。

平松洋子『あじフライを有楽町で』

6月13日(火)雨が降ったりやんだり

 平松洋子『あじフライを有楽町で』(文春文庫)を読み終える。『週刊文春』2013年5月2・9日号から2014年12月25日号まで82回にわたって連載された食べ物エッセーをまとめたもので、文庫オリジナルというのがうれしい。

 著者の友人である詩人の穂村弘さんによると、「平松洋子と言えば知識、実践の両面から食を極めた人である」(36ページ)。知識にもいろいろあり、実践にもいろいろあるということがこのエッセー集を読めばわかる。読む側の食べ物に対する知識、実践にもいろいろなものがある訳で、それがうまく重なったり、重なるだけでなく、著者の方が上を言っていることが文句なしに確認できるような箇所があると、読んでよかったと実感できるわけである。

 「あとがき」で、平松さんは「あじフライと有楽町は、なぜかぴったりだ」(296ページ)という。表題にもなっている「あじフライを有楽町で」は有楽町駅の近くの交通会館の地下1階の定食屋「キッチン大正軒」のあじフライ中心のメニューを紹介している:
「この店の基本、それはあじフライ。たとえば――
 ミックスA定食(メンチ、あじ、エビ) 950円
 ミックスB定食(豚生姜焼、あじ、エビ) 1000円
 ミックスC定食(煮込みハンバーグ、あじ、エビ) 1000円
 あじフライへの愛と自信にあふれている。」(61ページ) 
この「カロリーK点越え」のメニューをいつの間にか食べてしまう昼休みの熱気も伝わる文章である。

 「知識」として驚き、しかも自分の経験と重なる部分も見つけられるのは「1972年、釜ヶ崎」。大坂釜ヶ崎を拠点に労働者として生き、多くの詩や文章を発表したアナキズム詩人寺島珠雄(1925-1999)が中心になってまとめた『釜ヶ崎語彙集 1972-73』の中の釜ヶ崎の風物の記事の紹介である(長門裕之主演、中平康監督の映画『当たりや大将』を思い出す)が、寺島以外の人が執筆した次の項目が特に印象に残る:
「京屋(喫茶店) (前略) 向かいのパチンコ屋桃太郎の軒に鳩がいつも群れているのは、京屋の客が食べ残したピーナッツをやるからで、早朝、自分は食べずに大事そうにピーナッツを握って出てきた労働者が、一粒ずつ鳩にやっている光景は他では見られない。そうして自分の”行事〟を済ませてから、労働者は現場に向かうのだ。(い)」(255ページ) これにつけた「皆、労働者であると同時に一つずつの人生を抱えた人間なのである」(同上)という平松さんのコメントもいい。

 「知識」を「実践」に移そうかどうかと逡巡している雰囲気がうかがわれるのが「志ん生の天丼」。昭和戦後の落語界で名人といわれ、三道楽免許皆伝を豪語した五代目古今亭志ん生の天丼の食べ方を紹介している。志ん生は、最初は上にのせてある天ぷらやごはんを肴にして日本酒を飲み、七分目まで食べた後、コップに少しだけ残しておいた日本酒を回しかけて蓋をし、いったん蒸らしてからおもむろに開けて食べていたという。(若い、売れない、貧乏な落語家だった時代に、宇野信夫の家に押しかけて、天ぷらそばを食べさせてもらっていたという話は、以前に書いたことがある。) 志ん生の行きつけだった湯島の天ぷら屋「天庄」に出かけることもあるという平松さんであるが、志ん生のまねをして天丼を食べてみたいとおもってもなかなか実行に移せないらしい。私も志ん生の高座に接したことはあるが、そのころは酒とは縁のない子どもであったのが残念である(酒に縁のある子どもだったら大変だ!!)

 「実践」といっても著者が包丁をふるう場合もあり、食べるだけの場合もある。知人から送られた筍の大軍に必死で立ち向かう次第を記す「出たか、筍」などは前者であり、友人の母親が実家から送ってくれるという山椒の新芽をふんだんに使った創作鍋を体験する「シビレる鍋」は後者である。いずれにしても、単に「食べる」ということだけではなく、「食べる」ことを通じての人間関係の豊かな広がりが感じられる。それは、この書物全体についてもいえることであって、それが一種の隠し味として文章の魅力を支えているのである。

ジュゲム

6月13日(火)朝のうち曇り、昼前から雨が降り出す

ジュゲム

Je t'aimeじゃない
寿限無
ジュゲムジュゲムゴコウノスウリキレ…
まだまだ続く
落語に出てくる 長い名前

ジュゲムは寿限無
ゴコウは五劫
劫というのは訳が分からないほど長い時間で
それが五つだからもっともっと長い時間
スウリキレは擦り切れだとも、数理きれずという意味だともいう

新しく生まれた赤ん坊に
名前を付けようと
父親が和尚さんに相談する
和尚さんは寺にあるお経やそのほかの本を探して
いろいろな名前を提案する
子どもが長生きするように
縁起のいい名前を全部つけてしまいましょう
そうして子どもは長い名前をもつようになった

寿限無が少し大きくなって
喧嘩をしては相手の子どもを殴って
こぶができる
子どもが寿限無に殴られたと文句を言っているうちに
名前が長くてこぶが消えてしまったという
お噺

親の子どもへの愛情は
時々暴走する
江戸時代は子どもも多かったが
その一方で子どもの多くが短命だった
長い名前に長生きの願いを託したことを
笑うわけにはいかない

子どもの数が減ってきただけでなく
その少なくなったなかで
将来は暗いと思っている子どもが多いという
改めて寿限無を思い出し
笑いをとりもどして
将来のことを考えよう

中島義道『東大助手物語』

6月12日(月)曇りのち晴れ

 中島義道さんは2通りの意味で哲学者である。我々が日常接する問題、特に苛立つような問題を取り上げて、それらの本質に迫る論考を展開するという意味で哲学者であり、カントの研究者という意味でも哲学者である(こちらは哲学=学者というべきであろうか。これまで前者の系列に属する著書(『<対話>のない社会』『私の嫌いな10の言葉』など)は何冊か読んできたが、後者の立場から書かれた書物は読んだことがない。そのような読書経験から、かなり個性の強い学者、少数派であっても自分の意見を貫く人物だという印象を持っている。少数派といっても、そのなかでもまたいろいろな個性があるから、中島さんの意見に共感する場合と、そうでない場合とがあることはひていできない。

 この書物は中島さんが東京大学教養学部の社会科学科の社会思想史講座の助手(現在では助教というらしい)であった時代に、講座の糟谷(仮名)教授から受けたいじめ・嫌がらせの次第を書き綴ったものである。いじめは大学の中だけで終わらず、中島さんの家庭生活にまで及ぶ。必ずしも良いとは言えない夫婦生活にますます亀裂が入りそうな干渉である。糟谷教授の怒りの原因は中島さんの「態度の悪さ」である。言動の一挙手一投足が不興を買う。このことについて中島さんは次のように書いている。
 「助手生活一年目から二年目と駒場に長くいるにつれ、私はもはや全く糟谷教授を学問的に尊敬しなくなっていき、それとともに、教授に対する態度も軽いものになっていった。
 そこまで考えて、「態度が悪い」という糟谷教授の言葉の核心にあるものが、ふとわかった感じがした。「態度が悪い」とは「自分を尊敬しない」ということなのだ。確かに、私が教授の学問に対する評価を下げていくうちに、糟谷教授に対して軽く見る態度をとっていたであろう。そして、哲学思想系の学者の場合、その学問と人間とを切り離すことはできない。私は学問的に全否定している教授を人間として尊敬することはできないのである。」(169ページ)

 中島さんは東大の教養学部(教養学科)、法学部、人文科学研究科(哲学専攻)の2学部1研究科を卒業、修士課程を出た後博士課程進学を拒否されて予備校講師の仕事をした後、ウィーンに留学した博士号をとったというかなり異色の経歴を持つ。異色の人材であることに目をつけて、教養学部の助手に採用したのがほかならぬ糟谷教授であった。にもかかわらず、その関係は悪化の一途をたどったのである。若いころは優秀な研究者であったかもしれない糟谷教授であるが、その当時はほとんど業績らしい業績を残さない、演習に参加する学生が途中から1人もいなくなってしまうような教官であり、しかもその理由を自分なりに掘り下げようとせず、自己満足や学生の質の低下の非難で紛らわせてしまうような人物であった。だから、自分の忠実で強力な味方になるはずの人間が宋でなくなってしまうと、途端に凶暴な牙をむき始めたということらしい。そして、糟谷教授の最後のよりどころになったのが人事についての影響力である。その当時、大学の人事は公募が主流になり始めていたが、新規開設予定のために個人的な伝手を頼りにして助教授人事が舞い込んできた。

 大学、あるいは教職における人事には、というよりも人事というのは一般的にそういうものだろうが、偶然の、不確定的な要素があって、その結果についても予測が難しいところがある。だから、人事に対する自分の影響力を誇大に評価し、また他人からの評価を求めるというのは極めて危険なことである。さらに言えば、教職関係の人事について言えば、学力の方を尊重して性格的なことは(よほどの異常がない限り)、見過ごした方がいい。そんなことを書くのは、私の最初の就職に際して、指導教官が君は性格円満ではないけれども、性格円満だと推薦状に書いておくと言われた記憶があるからで、そんなことよりも就職先で教えるはずの科目についての学問的な能力が全くない(教養課程で単位を落とした科目ばかりである)ことの方が問題ではないかと内心で思っていたことがあるからである。中島さんの場合も、糟谷教授から性格に問題があると言われ続けた訳であるが、性格に問題があると言っているご本人の方がよほど性格に問題がある場合も少なくないのである。それに、「性格的な問題」を口実にして思想差別が行われる危険もかなり大きいからである。

 糟谷教授からの中島さんへの要求は、夏休みのドイツ旅行中に留守になる自宅の庭の芝刈りが、中島さんを飛び越えて、その夫人に命じられるところにまでエスカレートする。もはや、教授と助手の個人的なあるいは個別的な関係として放置できる問題ではなくなってきて、中島さんは大学院時代の指導教官や周囲の頼りにできそうな人物に相談をし始める…。

 著者自身の経験の実録であり、この書物に登場する何人かの人物は実名であり(大森教授は大森壮蔵であろう)、何人かは当然のことながら、仮名になっている。四方田犬彦『先生とわたし』は、東大の教養学部時代から続いた四方田さんとその師であった由良君美の交流の実録であるが、軋轢を重ねたにもかかわらず、四方田が由良に対して抱き続けている尊敬の念が、実名での展開によって裏付けられている。四方田に及ぼした由良の人格的な感化力は決して否定できないほどに大きいのだが、直接の師弟関係ではなく、講座における上下関係にすぎないこちらはそうではないのである。
 大学や大学院で師弟関係がなくても、教授と助手のあいだに師弟関係が生まれることもありうる。が、それは両者の努力の結果として生まれるものである。教育は愛であるというが、愛には憎しみが付きまとう。だから努力が必要なのである。そのことを無視した教育論は空理空論に陥りがちである。一方的に相手にだけ努力を求めるのは横暴である。
 さて、もし私が1年浪人して東大に入っていれば、中島さんと一緒の学年になったはずで、ということは私の高校の同期生の中にも彼と一緒に学んだという人間が少なくないはずだと思う。つまり、ここに書かれている著者の経験には私の経験とつながったり、重なったりする部分がある一方で、それぞれの大学にはそれぞれの大学の事情があることを考えさせられた。大学によって機関によって、人事の進め方にも違いがあること、知らないというよりも分らない部分が少なくないことなど走っておいてよいことである。大学の先生の世界の暗部を、自分自身や自分の家庭の問題も視野に入れながらあからさまにした書物であり、アカデミズムの中で自分の履歴を築こうと考えている人は、目を通しておいた方がよい書物ではないかと思う。 

『太平記』(162)

6月11日(日)曇り

 建武3年(延元元年、1336)、九州から東上してきた足利尊氏の軍船が兵庫沖に姿を見せた。また、陸路からは尊氏の弟である直義の率いる軍勢が押し寄せる。予期していた以上の大軍に来襲を迎えて、新田義貞は軍勢の手分けを行い、弟の脇屋義助を経島に、一族の大館氏明を燈籠堂の南の浜に配置し、自らは和田岬に陣を張って足利軍に対抗しようとした。京都から応援に派遣された楠正成は、期するところがあって湊川の西に自分たちだけの小勢で陣を張った。
 新田方の武士である本間重氏が遠矢を射て、その腕前を示し、両軍の戦闘が開始された。足利方の細川定禅の率いる四国勢が紺部(神戸:生田神社の近く)の浜に上陸しようとしたのを、和田岬付近を固めていた新田軍は阻止しようと東へと移動し、その移動した後に足利尊氏の率いる九州・中国の軍勢が上陸、楠正成は大軍の中に孤立した。

 正成は弟である正氏に向かって次のように述べた。「敵が我々の前後をふさいで、味方とは陣が隔たってしまった。もはや逃げる場所はないと思われる。こうなったら、まず前にいる敵を一散らし追い払って、その後で後ろの敵と戦おう」。正氏は、そのとおりだと賛同し、自分たちの率いる700余騎を縦に整列させて、大軍の中へと懸け入った。〔原文には「七百余騎を前後に立てて」(第3分冊、77ページ)とある。軍勢の大小を考えれば、正成が兵法にかなった魚鱗の陣形をとることは容易に想像できるが、乃至政彦『戦国の陣形』(講談社現代新書)のこの時代には、それほどはっきりした陣形は実際には採用されていなかったという説に従い、このように解釈してみた。もっとも実際には、魚鱗の陣形と考えていいようである。〕

 足利直義の率いる武士たちは、楠の紋である菊水を記した旗に出会ったのを、(功名を立てるよい機会だと)幸運に思ったので、正成の軍勢を取り囲んで打ち負かそうと考えて、思い思いに激しく攻撃したが、正成、正氏はもともと名高い融資であるから、小勢ではあったが、少しもひるむことなく、東西南北に軍勢を移動させて、襲い掛かる敵を追い散らし、強敵に出会ったら、馬を並べて走らせて組討して馬から落とせ、格下の敵だと思ったら、一太刀打ち込んで追い払えと指示し、わき目も降らず、何度も何度も攻撃を懸けた。正成、正氏兄弟がひたすら念頭に置いていたのは、足利直義に近づいて、これと組内をして、その首をとろうということである。直義も大軍を率いる名将ではあるが、楠の武勇には劣るので、正成の率いる700余騎に圧倒されて、須磨の上野まで後退した。〔尊氏が優柔不断な性格であるのに対し、直義は果断であったとされる。しかし、いざ戦場に出ると、尊氏の方が優れた武将ぶりを発揮する。ここが不思議なところである。〕

 直義は、どうしたことであろうか、馬の脚の蹄の上のところを射られて、馬が前足を引きずって軍勢から遅れ始めた。そこへ楠の兵たちが近づいて、今にも討たれてしまいそうな様子であった。あわやというところで、高師直の家来である薬師寺十郎次郎公義が、ただ一騎戻ってきて、馬から飛び降り、二尺五寸(約75センチ)の短い長刀の柄の先端をもち長く差し伸ばして、襲い掛かる敵の馬の鬣の下の左右平らな部分や、馬の胸から鞍にかける紐を切り落とし、突き落とし、7,8騎ほどの敵を落馬させたので、その間に、直義は馬を乗り換えて、はるかに逃げのびてしまった。〔この薬師寺公義は岩波文庫版の脚注によると、歌集を残した歌人だそうで、筆が立つので自分の武勲を記録に残すことができたのであろう。他にも、直義を助けたものの、その功名が埋もれてしまった武士がいたかもしれない。〕

 直義の軍勢が正成に追い立てられて後退していくのを、兄の尊氏は遠方から眺めて、「大将が後退しているのが見えないのか。おのおの方、控えの新しい軍勢を入れ替えて反撃せよ。直義を戦死させてはならない」と命令を下す。これを聞いて、尊氏に従って、上陸してきた武士たちが我も我もと戦闘に赴こうとした。足利一族では吉良、石塔、渋川、荒川、小俣、今川、一色、岩松、仁木、畠山、外様の武将では豊後の大友、長門の厚東、周防の大内、美濃の土岐、播磨の赤松、下総の千葉、下野の小山、常陸の小田・佐竹らの武士たちが、それぞれ手勢の中から精鋭を選んで、7千余騎の軍勢を組織し、湊川の東へと進んで、楠の退路を断とうとした。

 楠兄弟はひるむことなく取って返し、新たに攻め寄せてきた多数の軍勢との戦闘に取り掛かる。対する足利方は、楠軍はすでに戦う力を使い果たした小勢で、新たに入れ替えもせず、ただ勇敢な気力だけで応戦してくるものだ。直接に対決せずに、こちらの軍勢を散開させて、敵を後ろへ突破させずに包囲して、戦力を消耗させようと決めて、正成の率いる軍勢が掛け合わせるとかけ違い、軍勢を開いて包囲した。楠はいよいよ気力を奮い起こして、その限りを尽くして、左に討ってかかり、右に取って返し、まえを破り、後ろを払う。足利方は、むやみに戦おうとしなかったのだが、楠軍は決死の覚悟を決めた小勢なので、足利方の中を駆け抜け、あちこちを走り回ったので、組討で落馬したり、斬り落とされたりしたものも多かった。人も馬も休むことなく、約6時間にわたり戦闘が続いた。その結果として、楠軍の人数は次第に減って、わずかに70余騎ばかりになってしまった。

 ここまで軍勢が減ってしまっても、まだ敵を打ち破って落ちのびることはできたが、楠は京都を出発した時から、死を覚悟していたので、一歩も退却しようとはせず、さらに攻撃と反撃を続け、あちこちで力の続く限り戦い、精も根も尽き果てたので、湊川の北の辺りに民家が並んでいた中に走り入り、腹を切ろうとして、鎧を脱いで自分の体を見ると、切り傷、射傷、11か所もあった。このほか、正氏以下70人余りの武士たちも5か所、10か所と傷を負っていない者はいなかった。

 楠の一族の主だった者たち16人、配下の武士たち50余人、思い思いに並んで、押し肌脱いで念仏を唱え、一度に腹を切った。正成、正氏兄弟も、すでに腹を切ったが、まだ息のあるうちに正成が弟の正氏の顔を見て、「臨終の一念次第で来世での生まれの善し悪しが決まるという。九界(地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上・声聞・縁覚・菩薩)の中で、どこをおまえの願いとするか」と問うたのに対し、正氏は、笑って、「七たび生まれ変わっても、同じ人間界に生まれて、最後には朝敵を自分の手で滅ぼしたいと思います」といったので、正成は会心の笑みを浮かべて、「罪業は肌身にしみこんでいる。煩悩も時と場合による。来世は最後の一念で決まる。おまえは最もうれしいことを言ってくれた。さあ、つかの間の一生を終えて、すぐさま人間界に帰ってこの念願を遂げよう」と約束して、兄妹手人手をとって、刺し違えて並んで死んだのであった。

 九州の武士である菊池武朝(「菊池系図」によると武吉)は兄の使いで、この合戦の様子を見に来たのであるが、正成が腹を切る場面に遭遇して、この様子を見捨てて、おめおめとは帰れないと、自分の召し使っている下人に、急いで帰って兄にこの様子を報告しなさいと言って、その家に火をつけて、同じく自害をして炎の中に身を投じた。〔赤の他人に自分の家に押し入られて自殺され、さらに放火された家の持ち主が実に気の毒である。〕

 そもそも元弘のころからずっと、後醍醐天皇に信頼され、忠義を尽くし、功績を挙げた人々は少なくない。しかし、この乱が始まって以来、仁を知らない者は朝廷の恩を捨てて敵に属し、臆病な者は、一時的に死を逃れようとして降参してかえって刑罰を受ける。知恵のないものは、時世の変化を理解できずに、自分の進退に迷う中にあって、智仁勇の三徳を守って、大義の正道に殉じ、朝廷に武勲を立てることにおいて、古今を通じて正成に勝るものはいなかった。とりわけ、国家の興廃の機運を前もって察し、逃れられないところを逃れずに、兄弟ともに戦死したことは、帝の威光が武の徳を失う端緒ではなかろうかと、心配しない人はいなかった。

 京都を出発する以前に、正成が後醍醐天皇に申し上げていたように、わずかばかりの援軍で尊氏・直義の大軍に対抗できるわけがないのである。死を覚悟して戦場に赴いた正成は勇敢に戦って死んだ。『太平記』の作者は正成の人物像を賛美する一方で、その死が宮方にとって大きな打撃であったと論評している。戦闘に敗北したこと以上に、正成の死の意味は大きいのである。本来の大将である義貞の戦いぶりが、この後に語られることも、正成の存在の大きさを示すものではないかと思われる。

日記抄(6月4日~10日)

6月10日(土)晴れ

 6月4日から本日までの間に経験したこと、考えたこと、前回のこのブログで書き忘れたことなど:
6月3日
 ニッパツ三ツ沢球技場でJ2第節、横浜FC対レノファ山口の試合を観戦した。 前半、横浜はなかなか得点できず、アディショナル・タイムに入ってから得たPKのチャンスをイバ選手が決めて1点を先行、後半は防戦一方になったが、何とかしのいで1-0で勝ち点3を挙げた。あまり感心しない試合内容ではあったが、勝ちに変わりはない。

6月4日
 『朝日』の朝刊に横浜市中区の三渓園で園内の竹の一種が約90年ぶりに開花したという記事が出ていた。タケとかササとかいう植物は、きわめて長い周期で開花する。開高健の出世作『パニック』の一節を思い出す:
「去年の秋のことである。この地方ではササが一斉に花をひらいて実をむすんだ。1836年(天保7年)以来、きっちり120年ぶりに起った現象である。」(全集第1巻、476ページ) こうして実ったササの実が野ネズミの異常増殖→パニックを起こす。
 昭和31(1956)年にササの花が開いて実を結ぶというのは実際に起きたことで、開高の友人である谷沢永一の記すところでは、安部公房もこの事件を素材として小説を書こうとしていたという。もちろん、実際にはその結果としてパニックが起きた訳ではない。

 テレビ東京の『開運!なんでも鑑定団』は3月28日放送分の再放送だったが、見るのはこれが初めてのようであった。北条氏政の書状というのが出品された。依頼人の義母が丸亀藩の家老職を務めた間宮家の末裔で、さらにそれ以前は小田原北条氏に仕えていたということであった。書状の中に間宮主水という実在を確認できる人物が登場することなどから、本物と鑑定されていた。
 徳川家康が関東に移った際に、北条の家臣で新たにその配下に加わった武士の中に間宮綱信がいて、子孫は旗本として徳川幕府に仕えている。その一族が武蔵国久良岐郡の代官を務めたりした関係であろうか、横浜市の南区には間宮という姓の人が多い。

6月5日
 NHK『ラジオ英会話』は6月に入って、”Different Walks of Life"(いろいろな人生)という新しいテーマに基づいた会話を取り上げている。本日の”Apply It”に取り上げられた表現は
You're a late bloomer. (大器晩成型なんですね。)
「大器は晩成す」というのは『老子』に出てくる表現だそうである。大器ではないが、晩成型という人もいるわけで、「遅咲き」という方が適用範囲は広いのではないかと思う。伊能忠敬とか、鶴見良行のように前半生と違ったことをはじめて、急に頭角を現す人もいる。

 ジェイン・オースティン『高慢と偏見 (上)』(中野康司訳、ちくま文庫)を読み終える。すでに富田彬訳(岩波文庫)、阿部知二訳(河出文庫)で読み終えているのだが、どの訳で読んでも面白い。

6月6日
 神保町シアターに映画を見に出かけようと思って、早起きをしたのだが、あまり体調がよくないので見合わせることにした。

6月7日
 NHK『実践ビジネス英語』はLesson 5に入り、”Fostering Soft Skills"(ソフトスキルを育む)というビニェットが始まった。”Word Watch"によるとSoft skillsとは、「語学や簿記などの検定何級といった数量化が可能な「ハードスキル」に対して、非定型的で定量化するのが難しいスキルのこと。コミュニケーション力、批判的な思考力、自己管理力、チームワーク、時間厳守といったものが含まれるが、それ以外にも、創造性、適応能力、雑談力、問題解決力、リーダーシップ、ファシリテーション力、判断力などを挙げる人もいる」そうである。ビニェットの冒頭部分で、登場人物の1人が
Say, does anybody know what Johnny Appleseed's real name was? And was he a missionary? (ところで、ジョニー・アップルシードの本名は何だったかを、だれか知っていますか、それと、彼は伝道師でしたっけ。)
とたずねる。すると1人が
If memory serves, his real name was John Chapman. He was a pioneer nuseryman who introduced apple trees all over the Midwest. He was also a missionary for the Swedenborgian religious sect. He became a legendary figure in his own lifetime. (私の記憶が正しければ、本名はジョン・チャップマンでしたね。彼は開拓者で、中西部一帯にリンゴの気を持ち込んだ苗木屋さんでした。それから、スウェーデンボリの学説に基づく宗派の宣教師でもありました。存命中に、伝説の人になったのです。)
と答える。英語をアメリカの文化的な伝統と結び付けて学習する場合には、ジョニー・アップルシードとか、デヴィー・クロケットとかいう人物についての知識は必要かもしれないが、国際的な言語としての英語の学習という観点から見ると、こういった知識は必要なのであろうか――と思う。リンゴについての本を書くのが私の夢の一つで(その割に勉強していないのであるが)、その夢からすれば、ジョニー・アップルシードは重要な人物ではある。

 ジェイン・オースティン『高慢と偏見(下)』(中野康司訳、ちくま文庫)を読み終える。ダービーシャーのベークウェルにあるオースティンが泊まって、この作品を書いたというホテルに泊まったことなど思い出しながら、読んでいた。

6月8日
 昨日に引き続き、NHKラジオ『実践ビジネス英語』の”Word Watch"のコーナーで"everything under the sun" (世の中のあらゆること、何でもかんでも)という表現が取りあげられた。「under the sunは「世界中で〔の〕」「この世の中で〔の〕」ということ。Nothing new [There is nothing new] under the sun.は「日の下に新しきものなし」の意味のことわざで、どんな物事にももとがあることを言っている。旧約聖書の「伝道の書」(Ecclesiastes)の言葉である。」と記されているが、「伝道の書」というのは古い訳し方で、現在は「コヘレト書」というはずである。

 神保町シアターで「「母」という名の女たち」の特集上映から『夜の流れ』(1960、東宝、成瀬巳喜男、川島雄三監督)を見る。花柳界を舞台にした成瀬の『流れる』、赤坂の料亭が舞台の川島の『「赤坂の姉妹」より 夜の肌』のどちらと比べても凡作。山田五十鈴の母親と、司葉子の娘が同じ男(三橋達也)に惚れこむ。成瀬がよほど忙しかったか、体調を壊したか、あるいは最新の風俗を描くという点に自分の弱点を感じたのか、川島に応援を頼んだというところであろうか。そういえば三橋は川島の作品に最も多く出演している俳優である。凡作なりに、この場面は成瀬が撮ったのだろうとか、これは川島の担当した場面だろうとか推測する楽しみがあったので、退屈せずに見ていた。岡田真澄が英会話教室の先生になって、芸者たちに英語を教える場面で、醤油を英語でなんというのか質問されて、答えられないという場面があったが、その位はわかるはずである。なぜか、川崎市の尻手駅が出てくる場面があって、一度確かめに行こうかと思う。これで私の見た川島監督作品が21本に達した(いや20.5本と数えるべきであろうか)。まだ30本残っている。

6月9日
 NHKラジオの「エンジョイ・シンプル・イングリッシュ」は曜日ごとに内容が違い、金曜日は江戸川乱歩の『怪人二十面相』を取り上げているが、これが一番面白い。すずらん通りの八巻という天ぷら店の店頭に、江戸川乱歩らの作家がこの店で会合を開いた時の記念写真が掲げられているが、昨日通りかかったときには写真が外されていたのを思い出した。

6月10日
 横浜FCはアウェーで大分トリニータと対戦して2-2で引き分ける。前半0-1と先行を許したが、イバ選手が2得点を挙げて追いついたようだ。勝ち点1でもないよりはましである。


カルヴィーノ『まっぷたつの子爵』(2)

6月9日(金)晴れ

 トルコ人との戦争に従軍したテッラルバのメダルト子爵は、勇敢(無謀)にも敵の大砲の真正面に立ちはだかってその砲弾を浴び、その体を吹き飛ばされてばらばらにされたが、軍医たちの巧みな手術のおかげで右半分だけの人間になって先祖代々の領地であるテッラルバに戻ってきた。テッラルバ(夜明けの土地)は、深い森に覆われた山が海岸のすぐ近くにまで迫っている美しい土地であったが、(カトリックが支配的なイタリアでは例外的な少数派であるユグノー:フランスのプロテスタント信者)の集落や、癩患者が暮らしているきのこ平のように、ほとんど/めったに/まったく、村人たちが訪れないような場所もあった。
 故郷に戻ったメダルド子爵は人間にも動物たちにも冷酷な人間になっており、父親の子爵は失望して死に、母親代わりに彼を育ててきた乳母の年老いたセバスティアーナは悲嘆にくれた。父の死後、彼は領地内を歩いては、見るもの触れるものをすべて2つに切断し、領民に対しては厳しい裁判官として大目に見るべき犯罪に極刑を課し、領内だけでなく自分の宮殿にさえ放火して、癩病とは別の病気で顔にできものが出来ていたセバスティアーナをきのこ平に追いやった。
 語り手である少年はこの子爵の甥(姉の子)であり、両親もいないし、その育ちから主人の側にも使用人の属さない自由な立場で、クック船長とともに世界を就航してきた船医であるトレロニー博士の研究の助手をしていた。博士は医者の仕事をほったらかしにして、巻貝の化石や人魂を集めて研究にふけり、すぐに飽きて、また別の新奇な研究対象を探していたのである。

 メダルド子爵はある日羊飼いの娘パメーラが牧場でヤギと遊んでいる姿を見て恋に落ちる。「正午の帰り道に、牧場のひなぎくが一本残らずまっぷたつにされ、その矢車形の花弁の半分がむしり取られているのを、パメーラは見つけた。≪まあ恐ろしい≫彼女は心のなかで叫んだ。≪谷間にはたくさん娘がいるのに、よりによって、あたしの身に降りかかるなんて!≫子爵が自分に思いを寄せていることを彼女はさとった。まっぷたつにされたひなぎくを一本残らず摘みとって、家に持ち帰り、彼女はミサの本のページにはさんだ。」(75ページ) 子爵はパメーラを追い続け、彼女は森に逃れる。子爵の執拗な脅しに、彼女の両親は結婚に同意する。ぱめーらは一番の仲良しのヤギとアヒルを連れて、森の中に逃れる。彼女の居場所を一人だけ知っている語り手が、彼女に食料を届けている。ある日、語り手がトレロニー博士と畑の中を歩いていると、子爵が突然現れ、「少し長く歩くと、その後で、亡くなった片足がつかれているみたいな気がするのだ。これはどういうことだ?」(86ページ)と質問する。博士は、しきりに考えにふける。「彼が人間の体の問題にこれほど深い関心を示したことは、かつてなかった。」(87ページ)

 きのこ平にセバスティアーナをを訪ねた語り手は、彼女は本当は病気ではなくて、身を守るために病気のふりをしていること、さまざまな病気によく効く薬を知っていることを知る。その帰りに、森の中で、彼は毒蜘蛛に手をかまれた叔父に逢う。いつもと違ってやさしく親切な様子の叔父の傷を治そうと、語り手は再びセバスティアーナのもとに向かう。セバスティアーナは、毒蜘蛛に手をかまれたのが叔父の左手であるといった語り手の言葉を聞きとがめるが、薬を渡してくれる。日が暮れた頃、オリーヴの林の中で語り手は叔父に出会う。彼はスズメバチの大軍を語り手にけしかけるいたずらをする。その後、トレロニー博士に逢うと、彼は赤い蜘蛛に手をかまれた子爵の傷を治したばかりのところだという。語り手は訳が分からなくなる。

 そのうちにメダルドの二重の性格についての噂が広がり始める。あちこちに悪いメダルドだけでなく、善いメダルドが出現し始めたのである。噂を確かめようとパメーラは自分の近くにやってきた子爵に話しかけた結果、自分の目の前にいるのが別の半分だということに気付く。「お城に住んでいる子爵、あれが、悪い半分。そしてあなたが、別の半分。戦争でこなごなになってしまったと思われていたのが、いま帰ってきた」(107ページ)というのである。
 彼女がメダルド(の別の半分)から聞き出したのは、次のようなことであった。実は大砲の玉は彼の体の残り半分をこっぱ微塵に吹き飛ばしたのではなく、彼をまっぷたつにしたのであった。味方の負傷者収容班が見つけたのは半分だけで、残る半分は戦死者の死骸の山の下に埋もれていた。それをキリスト教徒とトルコ人たちの中立地帯に住んでいる2人の隠者が見つけ、自分たちの住処に連れ帰って、手厚く秘法の香油と軟膏とを塗って、ついにその命を救ったのである。そしてこの残った半分も松葉づえで片足を引きずりながら、何年も、何か月もかかって、キリスト教徒の諸国を越え、みちみち善行で人々の目を瞠らせながら、自分の城へと帰ってきたのである。

 半分の体になったことで自分が不完全な存在であったことに気付いたというメダルドの別の半身も、パメーラに恋をする。そして彼女の両親たちの仕事を手伝いに出かけるというが、パメーラはそれに賛成しない。
「いっしょに善い行いをすること、それが私たちの愛の唯一の方法なのだ」
「残念だわ。あたしはもっと別の方法があると思ってきたの」(111ページ)
 1人になったパメーラは、自分の傍にいる動物だちにたずねる。「どうしてあたしのところに来るのは、ああいう人たちばかりなのかしら?」(112ページ)

ダンテ・アリギエリ『神曲 天国篇』(21-1)

6月8日(木)曇り、一時雨、昼頃から晴れ間が広がる

 神学の象徴であるベアトリーチェの導きによって、地上から天上の世界へと旅立ったダンテは月天、水星天、金星天、太陽天、火星天、木星天を歴訪し、彼らを迎えた魂たちと地上の世界における正義と平和の実現、宇宙と神をめぐって話し合った。そして、彼らは土星天に達した。〔ダンテが依拠したプトレマイオスの宇宙論では土星が地球の周囲をめぐる最遠の惑星であった。〕

すでに私は我が貴婦人の顔に
再びじっと目を留めていた。そして心もそれに従い、
その他のあらゆる関心から離れていた。
(314ページ) 地球から遠ざかり、本来の天国である至高天に近づけば近づくほど、ベアトリーチェはダンテの目に美しく見えた。しかし、彼女は、土星に到着しても、これまでのように微笑はしなかった。それは神の光を受ける彼女の輝きがさらに激しくなって、もはやダンテの肉体の目が純粋に神的なその微笑に耐えられないからであった。これは、人間には神の姿は不可知であり、それを見ることができるなどと思い上がってはならないことを表現していると考えられる。

 ダンテはベアトリーチェの先導に従って天上の世界を旅行していることを喜び、土星の世界を眺める:
その中に、光線が反射して黄金に輝いている、
私の光る目では追いきれないほど高く高く
上に伸びる一本の階段を見た。

そしてまた、その階段を無数の輝きが降りてくるのも
見た。そのため、空に現れているあらゆる星は
そこから撒き散らされているのかと私は思った。
(316-317ページ) ダンテの目に、階段の頂が見えないことは、その階段を上っていくダンテが<私>という個人であることを辞め、永遠の中で神と合一することを暗示していると解説されている。「また観想を意味する天国への階段に、イスラーム文化圏から当時の西欧に伝わり、ダンテも参照した可能性が指摘されている『階段の書』の影響を指摘する意見もある」(603ページ)と翻訳者である原さんは解説で述べている。
 その階段を伝って土星天に降りてくる無数の魂たちの輝きをダンテは見た。それはある段にぶつかると、はじけて様々な動きを見せた。これは、神を観想しようとしている魂が、肉体的・物質的な世界を離れ、鳥のように軽くなって瞬時に様々な場所に想念を飛ばせるようになることを意味しているとされる。

 そして一つの魂の輝きがダンテたちの傍に来てひときわ激しく輝いたので、ダンテの心にこの魂に質問したいという気持ちが生まれる。彼がベアトリーチェの許しを得て質問したのは、この魂がなぜ来たのかということと、それまでの諸天空で聞かれた魂たちの合唱が、なぜここでは響いていないのかということであった。
「おまえの必滅の者ゆえの聴覚はその視覚と同じ。
――私に答えた――ゆえにここではだれも歌わぬ、
ベアトリーチェが微笑まなかったのと同じ理由で。
(320ページ) 魂は、ダンテの2番目の問いの方から答える。神に近いこの圏の魂の声は強すぎて肉体の聴覚をもっているダンテには耐えられないものだからだという。ベアトリーチェの微笑がダンテの視覚には耐えられないものになっているのと同じだというのである。次回に取り上げることになるが、この21歌の最後で魂たちは歌い、その歌声にダンテは圧倒されてしまう。今道友信(2004)『ダンテ『神曲』講義 改訂普及版』(みすず書房)では「ここで、音が聞こえなくなるとか、見えなくなるということは、ある意味で、さらに高次のものが理解されるときの臨時のくらやみの状況だと考えなければいけない」(今道、497ページ)と論じている〔「ある意味で」という語句は余計ではないかと思うのだが…〕。原さんによると、またこの沈黙は瞑想の沈黙を意味しているという。つまり土星天には、沈黙しながら神を観想し、神からの像や声を聞こうとした魂たちがいるのであると述べている。これも次回に明らかにすることであるが、ダンテに語り掛けてきた魂が何者であるのかということとも関連する。

我がこの低きまで聖なる階段を
下りてきたのは、ただ言葉と我を包む光によって
おまえを祝福するためである。

より大きな愛ゆえに我が先んじて来た訳ではない。
というのもここより上では我より大きな、また同等な愛が燃えているがゆえ、
炎がおまえに明らかにしているように。

しかし高き慈愛が、我らを、
世界を統べる決定の忠実なる従者となし、
おまえが見分けているようにここでの任を与えている」。
(320ページ) 最初の質問に対する答えは、神の定めに従ってここに来たのであって、ダンテとそれ以外のつながりはないというものである。そこでさらにダンテは質問を試みるが、それはまた次回ということにしよう。 

倉本一宏『戦争の日本古代史 好太王碑、白村江から刀伊の入寇まで』(3)

6月7日(水)曇り

 この書物は対外戦争をキーワードとして、倭国→日本の北東アジア諸国との関係をとらえなおすことを意図するものである。倭国→日本は、ほとんど対外戦争を経験していないし、対外戦争の経験が蓄積されなかった結果として、戦争は下手である。にもかかわらず、古代における対外関係のある部分が対アジア諸国へのあまり根拠のない優越感や敵視に影響を与えてきたことも否定できないという。今回は、この書物の最も重要な部分である白村江の戦いを中心に取り上げる第3章「白村江の戦 対唐・新羅戦争 7世紀」の内容を検討する。その前に、第2章までの内容をまとめておく。

 大和盆地南東部に統一政権(倭王権)が誕生したのは3世紀中葉から後半のことであり、まだ国内で鉄が生産できなかったので、朝鮮半島南部の加耶地方の鉄をめぐって、倭国は朝鮮諸国と深くかかわることになる。倭王権の対外関係を推定するため資料として石上神宮に伝えられてきた七支刀と、中国吉林省に残っている高句麗好太王碑がある。
 当時朝鮮半島には北に高句麗、南東に新羅、南西に百済の三国が鼎立していたが、最南部の加耶は小国に分裂し、統一国家を形成しなかった。4世紀後半に百済は倭国に修好を求め、七支刀を贈り、倭国の支援を得て高句麗と対抗しようとした。百済支援のために海を渡った倭軍に対し、高句麗の広開土王(好太王)が圧勝したことが好太王碑に記録されている。最終的に惨敗したにもかかわらず、その前に一時的に百済・新羅を「臣従」させた記憶が倭国の支配層の中には残った。5世紀の「倭の五王」時代に倭国の王たちは、中国南朝への朝貢を行い、冊封を受けたが、その中で倭国王の地位とともに、朝鮮半島への軍事指揮権を部分的にせよ認められた。
 6世紀になるとそれまで高句麗に従属していた新羅の勢力が強まり、半島の西海岸に進出、百済は南方に追いやられた。新羅と百済は加耶に侵攻し、自国の支配地域とした。倭国は加耶がかつて倭国に臣従・朝貢した歴史があるとして、新羅に対し「任那の調」を要求し続けた。

第3章 白村江の戦 対唐・新羅戦争 7世紀
 1 激動の北東アジア情勢
 南北朝に分れていた中国では、581年に北朝の隋が起こり、589年には南朝の陳を滅ぼして、統一王朝を現出させ、周辺諸国への圧迫を強めた。特に、百済からの請願を承けて598年以降4次にわたって高句麗に大軍を派遣した。この時期、江南の杭州から涿郡(現在の北京市付近)にまで達する総延長1800キロに及ぶ大運河が開削されたが、これは対高句麗戦への兵站を目的としたものであった。これまで中国の統一政権との交渉の経験を持たない倭国にとって隋の出現は衝撃をもって受け止められた。
 高句麗は朝鮮半島北部だけでなく、中国本土にも領土(中国国内の領土の方が現在の北朝鮮に属する部分よりも広かったと言われる)をもつ大国で、隋の征討を受けたが、これを撃退した。百済は隋の高句麗遠征に依存しながら、それに乗じて新羅を攻撃し、自国の利益を確保しようとした。新羅は一貫して隋に臣従することで高句麗・百済の構成を抑えようとした。
 隋が亡びて唐になってもこの基本的な立場は変わらず、高句麗は隋や新羅と対抗しながら、東突厥や百済、それに、かつての敵国であった倭国とも連携した。百済と同盟関係を続けていた倭国は新しい事態への対応を求められることになる。

 2 新羅との角逐と遣隋使
 崇峻4年(591)に崇峻天皇は群臣に「任那復興」を発議し、11月に新羅遠征軍を編成した。これは中央氏族の軍事力を主体とする大規模な編成の軍であったが、実際に戦うことよりも九州に大軍が集結することで新羅に対して外交的圧力をかけるのが目的であったと考えられる。遠征軍は推古3年(595)まで九州に駐留し続けるが、これは新羅をはじめとする国際情勢を観測するためであったと考えられる。
 『日本書紀』にはこの時期、新羅への派兵の記事が載せられているが、信憑性は薄い。国際情勢の変化を踏まえ、倭国の指導層は遣隋使を派遣して新たな外交関係の構築に取り組もうとした。ここで注目されるのは、倭国が隋に朝貢する形をとりながらも、冊封体制から独立した君主を頂くことを承認させようとしていたことである。(卑弥呼の親魏倭王や、倭の五王など、倭の地方的あるいは統一的君主は、その地位を中国の皇帝から認めてもらおうとしていたのに対し、今回は、認めてもらわなくても、こちらは倭国をちゃんと支配しているのだという立場に立っているということである。) 本書の表現によると、「倭国の支配者層は、冊封体制から独立した君主を頂くことを隋から認められることによって、すでに冊封を受けている朝鮮諸国に対する優位性を主張し、「東夷の小帝国」にもつながる中華思想の構築を目指したのである(冊封を受けると百済や新羅よりも低い官品に叙される可能性が高く、朝鮮諸国に対する優位性を主張できなかったためでもあろう)。」(97ページ)ということになる。

 隋の文帝の開皇20年(600)に派遣された遣隋使については、『隋書』には記載されているが、『日本書紀』には記されていない。文帝から風俗を問われて使者が答えた内容があまりにも原始的で相手にされなかった様子である。小野妹子が派遣された第二次遣隋使は、その国書に、倭国の大王のことを「天子」と称していたことによって、煬帝の怒りを買った。「その「無礼」な「蛮夷」の使節の帰国に際して、煬帝が裴世清を宣諭使として遣わしたのは、交戦中の高句麗と「大国」倭国が結びつくのを恐れたためであろう」(99ページ)と倉本さんは推測する。これは倭国が新羅や百済よりも上位にあるという倭国側の宣伝が一定程度奏功したことと、倭国の地理的な条件が中国側に誤って認識されていたことのためであるという。
 その後も推古17年(608)に第3次、推古22年(614)には第4次の遣隋使が派遣され、第3次には留学生・学問僧が従った。彼らは隋の滅亡と唐の成立という易姓革命を体験して帰国し、隋唐帝国の先進統治技術を倭国の指導者に教授するとともに、後に「大化改新」の理論的指導者となった。
 『日本書紀』には推古18年(610)と推古19年(611)に、「新羅」と「任那」が使者を倭国に派遣し、「朝貢」してきたと記されている。おそらく、「新羅の調」「任那の調」も貢上されたものと著者は推測している。高句麗の圧迫の中で、隋に高句麗征討を要請している新羅としては、倭国に対しても下手に出ての交渉を試みたのだろうが、新羅が倭国の服属国であるという認識を支配層にますます植え付けるものとなった。
〔「推古天皇」時代の日本の政治体制と政治の動きについては、『日本書紀』の記述にあまり信頼がおけず、かといって中国の史料をうのみにするのも躊躇されるということで、学者によってかなり意見が違う。ここは、倉本さんはこのように認識しているということで読み進むのが賢明であろう。]

 3 唐帝国の成立と「内乱の周期」
 隋は4次にわたる高句麗征討の失敗によって滅亡し、618年に唐が興った。唐は628年に中国を統一し、周辺諸国を圧迫した。朝鮮諸国は相変わらず抗争を続けていたが、新羅は唐に依存することによって危機を乗り切ろうとした。これに対し高句麗や百済は一応は唐に謝罪の使者を派遣したが、引き続き新羅への侵攻を続けた。特に高句麗は唐の侵攻に備える長城を築いたりして、敵対心を隠そうとしなかった。
 倭国は舒明2年(630)に初めての遣唐使を派遣し、舒明4(632)年に唐使高表仁や新羅の送使とともに帰国する。『日本書紀』の記述は簡略で、中国側の史料と合わせて、倭国が唐に冊封を求めず、また新羅や百済に対する優位を主張したために唐との間で外交紛争が起きていたことを推測させる。その一方で、隋・唐から帰国した留学生・学問僧の献策によって倭国はその国家体制の整備を急速に進めていた。

 今回は第3章全体を紹介・論評するつもりだったが、章全体の3分の1ぐらいのところまでしかたどり着かなかった。これから朝鮮の3国と倭国ではそれぞれ政治体制の変動が起き、さらに百済の滅亡という事態に至る。隋→唐と直接的な接触機会が多い朝鮮3国と遠く離れた倭国とでは対外意識、特に外国における変化に対する対応と、力関係の認識に大きな違いが生まれることが予測できる。今回読んだ個所では、隋の煬帝による大運河の開削が対高句麗戦の兵站を目的とするものだったというのが注目される。それでも、隋の対高句麗戦は結局失敗したのであるから、戦争の予測を立てることは難しいのである。とはいえ、大運河は、他の目的にも役立ったのである。 

 

ジョン・スチュアート・ミル『自由論』の周辺(3)

6月6日(火)曇り

(5月18日、19日に掲載した記事に続く)
 市民的、あるいは社会的自由の問題は、社会が個人に対してどのように、またどこまで干渉しうるかという問題に言い換えられるとミルは考えている。政治の主導権が人民に移った社会においては、人民の多数派が政府を形成することになる。では、多数派は少数派の思考や行為をどこまで規制できるのか。この問題について、ミルは、多数派と言えども、自分たちに直接的に危害が及ぶ場合に正当防衛権を行使できるだけである、問題が個人に属する限り、その結果がどのように予測されようと個人の自由は尊重されるべきであるという。そこから彼は、思想および言論の自由、個性の尊重、そして個人を支配する社会の権威の限界について論じてきた。さらに第5章では、これまでの議論の例証として自由の原則の応用について論じている。

 当初の予定では、第5章の中での<教育の自由>に関連する箇所について取り上げようと思った(5月18日に研究会で発表した際にはそうしている)、その前に展開されている議論についても省略せずに見ていくことにしたい。

 ミルは自分の議論が2つの格率に基づいて構成されており、この両者の意味と限界とがそれらの応用を通じて明らかになる、あるいは両者の間の平衡を保つのに役立つと述べる。
 格率の第一は、個人は彼の行為が彼自身の何者の利害とも無関係である限りは、社会に対して責任を負っていないということである。第二は、他人の利益を害する行為については、個人は責任があり、また社会が、その防衛のために社会的刑罰または法律的刑罰を必要とする意見である場合には、個人はそのどちらかに服さなければならないということである。

 他人の利益を害する行為に対して社会が干渉を加え、これを処罰することがあるといっても、社会の干渉は常に是認されるわけではないとミルは言う。自由な市場経済においては、競争が行われ、その結果として勝者と敗者が生まれる。勝者は敗者の利益を害したわけであるが、勝敗が人類全体の利益に合致するものである限り、社会が敗者を支持して競争結果を覆そうとすべきではない。干渉が正当なものとなるのは、詐欺・違約・暴力などの不正行為が競争の結果を左右した場合に限られる。
 さらにまた商業の場合、生産者と販売者に完全な自由を与えることが、品質がよく安価な商品の流通の条件であるともいう。混ぜ物をして商品の品質を落としたり、危険な仕事に労働者を従事させたりするということは、むしろこれらを統制することの方が社会全体の利益が大きいのであるから、自由の議論の対象外となるともいう。

 次に問題となるのは、犯罪や災害を予防するために、自由を侵害することはどの程度まで正当でありうるのかということである。ミルはここで毒薬の販売を例として取り上げているが、現在のアメリカで問題になっている銃砲の販売・所持を思い出してもよいかもしれない。毒薬は使い方によっては社会の害悪を取り除くのに役立つので、全面的に禁止することはできない。そこで、ベンサムの言う<予定的証拠>(preappointed evidence)を用意することが必要となる。これは物品の売買についての詳しい記録を残しておくことによって可能になるという。(今の日本では、毒薬ではない一般の処方薬についても薬局が記録を残しているし、患者の側でも薬手帳を持つことが勧められている。しかし、どうもそれだけでは十分ではなさそうである。)
 
 社会が事前の予防策を講じることで犯罪や災害を防止しようとすることは正当であると(ただし、すでにみたように防止手段にはかなり厳しい条件を付けている)論じ、さらに他人の迷惑にならない限り、何をしてもいいかという議論について、何をしてもいいということにはならないと答える。大酒を飲んで他人に迷惑をかけた人間を処罰するだけでなく、大酒を飲んでばかりいる人間をアルコール中毒患者の収容施設に入れることも正しい措置だという。ある人間が怠惰の結果貧しく暮らしているのは、放置しておいてよいが、その結果として扶養すべき自分の子どもを放置しているというような場合には、強制労働を課しても構わないと論じる。自分の子どもと言えども、他人であるから、放置は他人に危害を加えることであるというのである。

 次に直接には行為者自身にとってのみ有害であって、従って法律によって禁止すべきではないが、しかしそれが公然となされるならば良俗を害することになるという種類の行為がある。公序良俗を害するということになると他人に対する犯罪と見なして社会はこれを禁止できる。不倫は黙認されるが、公然たる売春あっせんは処罰の対象となる。個人個人が賭けをすることは大目に見られるべきであるが、賭博場の経営は自由に放任されてはならないものである。このあたり、<最大多数の最大幸福>という功利主義的な原理で議論が貫かれている。

 <教育の自由>について論じるまで、まだ時間がかかりそうである。社会の組織が複雑になり、個人個人の利害が複雑に影響しあい相互に依存しあう社会にあっては、ミルの議論の有効性はかなり限られたものとなるだろうが、彼の古典的な自由主義について知っておくことは、現代の「新自由主義」について理解するためにも必要ではないかと思われる。
 賭博で思い出したのは、英国にはbookmakerという看板を掲げた店舗があり、競馬などの賭けを引き受けて配当金を支払う業者であるが、初めて見た時、何のことかわからず、中に入りかけてやっと気づいたことがある。ホガース(William Hogarth, 1697-1764)が版画「ジン横丁」で描いたような飲酒の極端な弊害は、ミルの時代にはかなり改善されていたように思うが、それでも20世紀に入っても、ロンドンの街を歩いていると、アルコール中毒と思しき老人をよく見かけたのを思い出す。

夏目漱石『虞美人草』(6)

6月5日(月)晴れ、気温上昇

これまでのあらすじ
 外交官であった当主が任地で病死し、甲野家には未亡人と長男の欽吾(27)、長女の藤尾(24)の3人が残された。欽吾は先妻の子、藤尾は未亡人の実子である。遠縁の親戚である宗近家の長男で外交官を目指している一(28)と藤尾を結婚させようという内々の約束が父親同士のあいだではあったが、藤尾は実際的な一よりも、英語の家庭教師をしてもらっている秀才で詩人肌の小野清三(27)の方に心を移している。藤尾の母は、病弱で超俗的な欽吾ではなく、将来有望な小野を藤尾の婿に取りたいと考えている。他方、初めの妹の糸子(22)は欽吾に思いを寄せている。
 小野には学費の面倒を見てもらった井上孤堂という恩師がいて、孤堂先生は自分の一人娘の小夜子(21)を小野と結婚させるつもりであり、そのために京都の住まいを引き上げて上京してきた。甲野さんに対して藤尾は、小野さんを夫に選ぶと言い、義母と義妹に愛想をつかした甲野さんは家出を決意する。宗近君は外交官試験に合格して藤尾と結婚するつもりでいたが、糸子に、次に甲野さんに反対されてあきらめる。その代りに、甲野さんが従妹とと結婚するように頼む。孤堂先生から小夜子との結婚を急き立てられた小野さんは、友人の浅井君に破談の申し入れを依頼する。

18
 浅井君が小野さんと会った翌日、孤堂先生の住まいを訪問する。無神経な浅井君は、小野さんが最近ハイカラになって人間として頼るべきではないと言い、体調を損ねている先生の気分を逆なでする。実は小野さんに頼まれたのだが、博士論文執筆で忙しいので結婚の話はなかったことにしてほしいという。先生は浅井君の無礼な言い方に加えて、小野さんが自分で断りに来なかったことに腹を立てる。自分の訪問がもたらした結果に驚いた浅井君は慌てて孤堂先生の家を出る。
 この場面で、浅井君をもてなすのに小夜子が出雲焼の皿に和製のビスケットをあまり多くなく盛って出すというのが気になる。この作品の10で宗近老人が藤尾の母に柿羊羹を勧めているのにくらべると、貧し気な感じである。

 孤堂先生の家を飛び出した浅井君は、小野さんの下宿に戻ると思いきや、(路面)電車に飛び乗る。
「突然電車に乗った浅井君は約1時間余の後、ぶらりと宗近家の門からあらわれた。続いて車が2挺出る。1挺は小野の下宿へ向う。1挺は孤堂先生の家に去る。50分ほど遅れて、玄関の松の根際に梶棒を挙げた1挺は、黒い幌を卸したまま、甲野の屋敷を指して駆ける。」(359ページ) 
 車というのは人力車である。『吾輩は猫である』の金田邸には電話が引いてあったから、宗近邸にも電話があったのではないかと思われる。あるいは下女の清か、書生の黒田が車屋まで走っていったのであろうか。

 小野さんの下宿に向かった車に乗っていたのは宗近君である。小野さんは昼食を済ませたばかりであった。〔食事つきの下宿屋というのは今でも残っているだろうか。残っていたとしても、昼食までは出さないのではないかと思う。] この日の午後に藤尾と大森に行く約束をしているので、何となく気が咎めている。その一方で、浅井君が孤堂先生を訪問した結果も気になっている。と、いつの間にか、宗近君がやってきたのに気づく。
 宗近君は浅井君の訪問を受けて一部始終を聞いたと言い、「人間は年に一度くらい真面目にならなくっちゃならない場合がある」(365ページ)と小野さんが出会っている事態に直面して解決に取り組むべきだと説く。小野さんは自分の弱い性格と、それゆえ宗近君に対して感じていた劣等感について告白し、小夜子と結婚するという。宗近君は、小夜子とを連れて藤尾と対面し、そのことをはっきり言うように勧める。小野さんは藤尾と大森に出かける約束を打ち明ける(小野さんは大森に行かないことにしたので、待ち合わせの時間に遅れたら、すぐ藤尾は戻ってくるであろう)。宗近君は手紙で小夜子を呼ぶことにする。

 孤堂先生の住まいを訪れたのは宗近の父で、老人同士の方が話がしやすいだろうという宗近君の配慮である。もともと体調が悪かった孤堂先生は、熱を出して小夜子の看病を受けている。孤堂先生も小夜子も小野との結婚はあきらめた様子であるが、もう少し様子を見てからにしてほしいと宗近老人が頼む。そこへ、宗近君への手紙が届く。

 第3の車は糸子をのせて、甲野の家に向かう。甲野家では甲野さん(欽吾)が原稿や手紙を暖炉で焼き捨てたりして、家出の準備をしている。甲野さんは父親の肖像画だけもって家を出るつもりである。母親が現われて世間体を憚って、家出を止めようとする。そこへ糸子が現われる。兄に迎えに行けと言われたので、やってきたという。2人が出ていこうとすると、母が止めようとして、糸子と母との間で口論になる。そこへ宗近君が小野さんと小夜子をともなってやってくる。
 漱石は紫の女=藤尾と、黄色の女=小夜子の描写に力を注いで、糸子については筆を粗略にしているところがあるが、彼女の色は鶯色(うすみどり)である。甲野さんを迎える場面で糸子の髪型=廂髪(ひがしがみ)がわかる。藤尾については2ですでに「波を打つ廂髪」(39ページ)とある。まあ、いつも同じ髪形をしているとは限らないし、廂髪といってもその中でいろいろ種類があるようであるが、とにかくそのころ流行の髪型であったことは間違いない。これに対して、小夜子は5で「昔しの髷を今の世にしばし許せと被る」(88ページ)とあり、髷を結った頭である(忙しいこともあって手入れの行届かないところを9で小野さんに見られて、幻滅されている。とにかく、女性の髪型の描写でも漱石が手を抜いていないことがわかる。

 宗近君と小野さん、小夜子、甲野さんと糸子、藤尾の母親は甲野さんの書斎で藤尾の帰りを待っている。3時に新橋駅で待ち合わせていた藤尾は、25分に人力車を走らせて家に戻ってくる。宗近君に小夜子を紹介され、小野さんからこれまでの生き型を改める、小夜子と結婚すると聞いた藤尾は、狂ったように笑い、宗近君に金時計を渡そうとするが、宗近君は時計を壊して、自分たちの行為が欲得ずくではなく、道義のためのものだという。突然、藤尾が倒れる。

19
 前日の雨で春の花が全部散らされてしまった中で、藤尾の部屋に彼女の遺体が横たえられている。枕元には銀屏風が逆さに建てられているが、それには酒井抱一の虞美人草の絵が描かれていた。
 娘の死に悲嘆にくれる母親に向かい、甲野さんと宗近君は自分の心を偽らずに、真実に生きてほしいと言い聞かせる。
 藤尾の葬儀が済んだのち、甲野さんは日記に道義の実践の結果が悲劇であり、それを避けると喜劇が展開すると書き記す。2か月後、甲野さんは日記の一節を抄録してロンドンの宗近君に送った。宗近君の返事にはこうあった。――
 「ここでは喜劇ばかり流行(はや)る」

 最後で断罪されているのは、ヨーロッパの文明であり、それに追随する明治の日本であるように思われる。ただ、漱石が新聞小説として一般の読者を相手に書いて作品だけに、思っていたほど突っ込んだ文明批評はなされていない。この小説が社会の上っ面をなぞっているだけだということは、作品の一の方の次の箇所でも明らかであろう。藤野の部屋で、彼女と小野が話している時に:
社会は彼らの傍(かたえ)を遠く立ち退いた。救世軍はこの時太鼓を敲いて市中を練り歩るいている。病院では腹膜炎で患者が虫の気息(いき)を引きとろうとしている。露西亜では虚無党が爆裂弾を投げている。停車場では掏摸が捕まっている。火事がある。赤子が生まれかかっている。練兵場で新兵が叱られている。身を投げている。人を殺している。藤尾の兄さんと宗近君は叡山に登っている。(33ページ)
 日露戦争に際して、日本の社会主義者がロシアの社会民主労働党に手紙を送り、それに答えたロシアからの返事が『平民新聞』に掲載された中に、虚無党のテロは、ツルゲーネフのような小説家の作り話で、我々はそういう手段はとらないと書かれていたと記憶する。とはいえ、この小説が書かれた3年後の明治43年(1910)に幸徳事件が起きていること、『それから』のなかに、幸徳秋水が名前だけ登場していることに注意を喚起しておこう。作者の思想が作品の中にすべて出て来るとは言えないのである。

 『虞美人草』を読み終えてみると、『坊っちゃん』と『草枕』を足したような作品という印象が残る。『坊っちゃん』も『草枕』も明治39年(1906)、つまり『虞美人草』の1年前に書かれた作品だから、共通する部分が多いのは当然かもしれないが、藤尾には「草枕」の那美さんのような野性や、土俗性のようなものがないから、その点で魅力に欠ける(あくまで私の趣味である)。那美さんのモデルになったと言われる前田卓(つな、1868-1938)という女性については、黒川創『鷗外と漱石のあいだで 日本語の文学が生まれる場所』(河出sh防振社)に詳しいが、宮崎滔天の妻になった槌の姉だそうである。

 甲野さんの世間的な沈黙(発表しない論文はいろいろあるらしい)とか、憂愁・煩悶には『虞美人草』の作者が慎重に隠そうとした思想的な関心が潜んでいたかもしれず、この作品の行間を当時の社会的な文脈に照らして掘り下げることは、決して無益なことではないと思われる。

 漱石は西洋、特に英国の偽善に満ちた文明を嫌ったが、そのような偽善への批判が英国の中でもブルームズベリー・グループの活動に見られるように、漱石のほぼ同時代の英国でも展開されていたことを付け加えておこう。『吉田健一対談集』の中で、吉田と中野好夫と阿部知二が英文学は「大人の文学」だという話をしていて(逆にいえば、「青春」だの「初恋」だのというのはあまり縁がない)、その意味では漱石は、英文学をやるにしては、関心が少し若いところを向いていたかなと思ったりした。『高慢と偏見』の登場人物など、『虞美人草』と年齢的に重なるけれども、人間的に自立しているという点では、ずっと大人ではないかという気がするのである。 

『太平記』(161)

6月4日(日)晴れ

 建武3年(延元元年、1336)5月25日、九州から東上してきた足利尊氏の水軍が兵庫沖に姿を見せた。また陸路からは尊氏の弟である直義の率いる大軍が押し寄せてきた。予期していた以上の大軍の来襲を迎えて、宮方の総大将である新田義貞は弟の脇屋義助を経島に、大館氏明を燈籠堂の南の浜に配置し、自らは和田岬に陣を構えて敵の来襲に備えた。応援に派遣された楠正成は自分たちだけで湊川の西の宿に陣を張った。
 戦闘開始に先立ち、新田方の武士である本間孫四郎重氏が沖合で魚をとらえていたミサゴを射て、その腕前を足利方に見せつけ、驚いた尊氏は、名乗るようにというが、本間は名乗るほどのことはないと、強弓を引いて遠矢を放って答えた。

 『太平記』の作者は、本間の矢が5,6町を射渡したと書いているが、これは誇張であろう。尊氏がこの矢を取り寄せてみると、「相模の国の住人、本間孫四郎重氏」と小刀の先で矢柄に書き記されていた。周囲の武士たちもこの矢を手にして、ああ恐ろしい、運が悪ければこの矢に当たって死なないとも限らない。この船の中の武士たちを狙っていて来るかもしれないと、早くも肝を冷やしている。
 本間は扇を掲げて、沖の方に手招きをして、合戦が始まろうとしている時なので、矢の1本でも惜しいと思う、その矢をこちらに射返してほしいと挑発する。尊氏はこれを聞いて、味方にはこの矢を射返すだけの腕前をもったものが誰かいるだろうか。これほどの大軍勢ということだから、東国の40余の武士団、九州の30余の武士団、そのほか、中国、四国、北国の武士たち、ほぼ余すことなくこの中にはいるはずだ。その中にはこの矢を射るほどのものが、射ないわけがないだろう。誰か射返して見せよという。しかし、皆固唾を吞んで声も立てない。
 尊氏の執事(家老)である高師直がかしこまって申し上げるには、本間が射かけてきた遠矢を同じ矢の狙い所に射返すことのできるものは、東国の兵のなかにはまだいるだろうと思いますが、佐々木筑前守信胤は西国一の弓を強く引く武士です。彼をお召しになって、仰せつけられるのがよかろうと思います。尊氏もうなずいて、尊氏の隣の船に乗っていた佐々木信胤を傍に呼ぶ。信胤は宇多源氏で備前の佐々木一族の武士である。(岩波文庫版の巻末の系図によると、『平家物語』に登場する佐々木兄弟の中の三郎盛綱の子孫ということである。)

 信胤は、召しに従って尊氏の船にやってくる。将軍は、信胤を近くに呼び寄せて、本間が射かけてきた矢を渡し、この矢を射返すことのできる武士がなかなか見つからない。射返してほしいと言ったのだが、信胤はかしこまって、自分にはできないということで採算辞退した。それでもたっての依頼であったので、ついに辞退することができず、自分の船に戻って、緋縅の鎧に鍬形を打った兜の緒をしめ、銀のつく(つがえた矢を固定する折れ釘状の金具)をつけた繫藤の強弓を、帆柱に当ててきりきりと押し張り、本間が射かけてきた矢をとり添えて、船の舳先に立ち、弓の弦を口につけて湿らせた様子は、いよいよ矢を射返すものと見えた。

 宮方に対して、足利方の武芸の腕前が劣るものではないことを示す、面目のかかった場面だが、よせばいいのにでしゃばり出てきた連中がいる。小舟を佐々木が弓をいよいよ射ようとしていた船の直前に漕ぎだして、讃岐勢の中から申し上げる。まず、この矢一つ受けて、弓の勢いのほどをご覧あれと声高に叫び、それと同時に鏑矢を1本射だした。佐々木もしばらくは弓を引かずに、この様子を見ていた。敵も味方も「あわや」と見守っていると、鎧の胴の最上部の板である胸板に弓の弦を打ったのであろうか、もともと力の弱い射手であったのであろうか、矢はひょろひょろと飛んで、敵の2町ほど前までも届かず、途中で勢いを失って海上に落ち、波の上に浮かび上がった。本間の後ろに控えていた新田勢の2万余騎は口々に「あ射たり、射たり」と本間がミサゴを射た時と同じことを繰り返して嘲笑った(本間に対しては賞賛の言葉であったのが、この讃岐の武士に対しては侮蔑の言葉であった)。この嘲笑がしばらく続いていたので、すっかり緊張感がなくなってしまい、これではなまじいても面白くない、取りやめよということになって、佐々木が遠矢を射返すことは中止された。

 このため、でしゃばり出た讃岐の武士は、味方の面目を失わせ、敵味方に笑われ憎まれたので、その恥をすすごうと思ったのであろうか、小舟一艘に200人ほどが乗り込み(小舟に200人も乗り込めるのか疑問である)、経島へ舟をこぎ寄せて、同時に磯へ飛び降りて、敵の真ん中に討ってかかった。これを迎えた脇屋義助の兵500騎が、これを包囲して、弓を持つ左手側と、馬の手綱をもつ右手側の両方から、近づいていき、手綱を回して囲んだ足利方の武士たちを射る。200余人の兵たちは、心は武勇にはやっていても、射ても少なく、しかも脇屋の兵は騎兵中心なのに対し、歩兵ばかりなので、騎兵の馬の蹄に追い散らされて戦いにもならず、結局全滅してしまった。彼らが乗ってきた船は乗る者もいなくなって、波間を漂うのであった。

 足利方の中の四国勢の大将である細川定禅はこの様子を見ていたが、後から続く兵がいなければ、多くの味方が撃たれてしまう。いまこそ戦う時だ。上陸するのに都合のよさそうなところに船をつけて、馬を追い下し、追い下し、上陸せよと命令を下す。そこで、大船700艘に乗っていた四国の兵たちが紺部の浜(摂津国八部郡神戸郷、現在の神戸市中央区の生田神社近くの浜)に上陸する。それよりも西の兵庫の経島付近の3か所に陣を構えていた宮方の5万余騎は、船に乗っている敵を上陸させまいと、船の動きを追いながら、上陸を妨げようと渚を東へ進み、あたかも船に乗った軍勢が陸上の軍勢を追い散らしているような様子に見えた。

 海上の四国軍と陸上の新田軍とがお互いに上陸地点をさぐりあいながら、渚伝いに駆け引きをしているうちに、東へと移動した新田軍と、ずっと動いていない楠正成の陣営との距離が開いてしまい、そのうえ、もともと新田軍が陣を構えていた兵庫の経島の船着き場は空になってしまった。そこで、九州、中国からやってきた兵船6千余艘が、和田岬に漕ぎ寄せて、同時に上陸したのであった。

 岩波文庫版の第2分冊の解説で兵藤裕已が述べているように、本間重氏が弓の腕前を見せる場面は『平家物語』の屋島の合戦の際の「那須与一」(巻11)ふう、さらに本間が自分の名を彫り付けた矢を射て、それを射返すように足利方に申し入れるのは、同じく壇ノ浦の戦いに先立つ和田義盛、仁井親清の「遠矢」(巻11)の逸話を踏まえているのだが、『平家』に比べて、『太平記』に早野富んだ距離の誇張がみられるという。
 しかもその後の足利方の対応は、すでにみたとおりだが、「『平家物語』の「那須与一」にほとんどそのまま依拠して、しかしいかにも『太平記』的な世界につくりかえている」(第2分冊、542ページ)という。那須与一が海上の的を射るのは、源氏の武運がかかった大事であるが、本間と佐々木の対決は、個人的な技量の優劣の問題でしかないと兵藤さんは言う。実際に、この後の事態の推移を見ていくと、本間は足利方に降参するし、佐々木は宮方に寝返る。『平家』の作者が念頭に抱いていた大きな歴史の動きのようなものは『太平記』の作者にはそれを信じたくても、見えないというのが本当の所であろう。

 すでに何度も登場している足利方の細川定禅の率いる四国軍が兵庫の東の方に上陸地点を求め、それにつられて新田軍が移動し、足利方の九州・中国軍の上陸を許してしまっただけでなく、楠正成を孤立させてしまう。源平の一の谷の合戦の場合、平家は福原にしっかりとした城砦を構えていたから、源氏は範頼軍と義経軍が東西から攻撃する形をとり、さらに義経はその中から精鋭を選りすぐって、北の方から奇襲をかけて攻略を図った。今回も、細川が東の方に上陸地点を探しているのは、新田軍を東西から挟撃しようという意図があったと思われる。東へ移動してきた新田軍と対決するのは細川定禅の率いる四国勢、また西からは足利尊氏の率いる九州・中国の兵が新田軍を追撃する、孤立している楠正成の軍勢は陸路を東上してきた足利直義の大軍と激突することになるということで、次回はいよいよ本格的な戦闘場面となる。 

日記抄(5月28日~6月3日)

6月3日(土)晴れ、気温上昇

 5月28日から本日までの間に経験したこと、考えたこと、前回書き洩らしたことなど:
5月27日
 ニッパツ三ツ沢球技場でJ2第16節:横浜FC対名古屋グランパスの試合を観戦した。試合前の両軍の選手紹介の際に、相手チームに在籍していても、自チームに在籍していたことのある選手には拍手を送るのがならわしになっているが、名古屋のGK楢崎選手に横浜サポーターから盛大な拍手が送られていたのはフリューゲルスの記憶がまだ薄れていないことを示しているように思えて、嬉しかった。その一方で、今年、横浜から名古屋に移った渋谷選手に対しては拍手とブーイングが相半ばしていた。守備の乱れがあってPK2本を決められ、1-2で逆転負けしたのは残念である。

5月28日
 保土ヶ谷公園サッカー場でプレナスなでしこリーグ2部の横浜FCシーガルズ対岡山湯の郷ベルの試合を観戦した。無料ということもあるが、入場者多く、立ち見を余儀なくされた。アウェーでの対戦では勝利した相手であるが、0-1で敗戦。勝敗は時の運としても、チームづくりの方向性が見えるような試合運びをしてほしいものだが、それもかなわず。

5月29日
 『AERA』6月5日号の広告を見ていたら、理数の授業を英語でやっている学校が取り上げられているようであったが、理数の授業を日本語でやっているからこそ、アジアの他の国々からの受賞者のいない、ノーベル医学生理学賞や化学賞、物理学賞をとる学者が出ているのだと主張する人もいることを思い出した。
 同じく「小学校は世界的に高評価なのに座学中心の中高でガラパゴス化」という見出しを見ていて、以前は小学校~高校は高水準だが、大学の評価が低いとされていたのが、ついに中等教育の評価も下がり始めたかと慨嘆した。

 『朝日』の恩田侑布子さんの「俳句時評」で取り上げられている上田宏『月光口碑』という四行詩俳句集の記事が面白かった。俳句ではないただの4行詩というと、富永太郎の作品などを思い出すのだが、読み比べてみてもいいかもしれない。

 NHKラジオ『入門ビジネス英語』のテキストに掲載されているどんぶり物の英訳例:
①親子丼: a bowl of rice with chicken and scrambled eggs on top
②ちらし丼: a bowl of sushi rice with raw fish scattered on top
③鉄火丼: a bowl of rice topped with sliced tuna
④かつ丼: a bowl of rice topped with pork cutlet
天丼とか、うな丼は例を挙げなくてもわかるだろうということか。かつ丼にはソースかつ丼とか、卵とじかつ丼とかいう種類があるが、そんなことは気にしていないらしい。

5月30日
 NHK『ラジオ英会話』は「英会話リテラシー」の話題として「虹」(rainbowは「雨の弓」という意味だそうである)を取り上げた。
There's a pot of gold at the end of a rainbow. (虹の根元には黄金の壺がある)
というのは、アイルランドの民話起源の迷信だそうである。そういえば、アイルランドのダブリンの空港で虹を見たことがある。フランシス・フォード・コッポラ監督が映画化したブロードウェイのミュージカル『フィニアンの虹』(Finian's Rainbow)はこの民話が元になって作られているという(予告編は見たのだが、本編は見ていない)。 
 さらに『オズの魔法使』(The Wizard of Oz, 1939)とその主題歌「虹の彼方に」(Over the Rainbow)についても触れられていた。ただし、1939年の映画化作品とフランク・L・ボームの原作とは内容にかなりの違いがあり、原作には虹の話題は出てこないというようなことはもちろん、語られなかった。映画についても、原作についても話題は有り余るほどあるが、だからこそ、また別の機会に書くことにしよう。

5月31日
 NHK『ラジオ英会話』は”A Song 4 U (=A Song for you)"(今月の歌)で〝〔I Never Promised You a] Rose Gardenという歌を取り上げた。この歌を歌ったLynn Andersonは1971年にこの曲でグラミー賞を受賞しているそうである。そういえば、聞いたことのある歌であった。

 同じく「実践ビジネス英語」の”Quote...Unquote"のコーナーで取り上げられた言葉:
The future is no more uncertain than the present. (from Leaves of Grass)
---- Walt Whitman (U.S. poet, essayist and journalist, 1819 -92)
未来は、現在と同じくらい不確かである。
だから、どうなのだということが記されていないので、意味を即断できない詩句である。

 田中文生『越境の古代日本史』(角川ソフィア文庫)を読み終える。この本については、機会があれば詳しく取り上げるつもりであるが、気になっているところだけ抜き出しておくと、推古元年(593)に飛鳥寺木塔の心柱を立てる儀式の当日、曽我馬古河100人に上の従者を従えて会場に現れたが、その全員が百済服を着用しており、観衆はその馬子らの演出に喜び、大盛況の中仏舎利が心礎に納められたと平安時代の歴史書『扶桑略記』に記されているという。『水鏡』には『扶桑略記』に基づく記事が多いということなので、あるいはと思って、手元の『水鏡』を調べてみたが、この記事は発見できなかった。とにかく、田中さんも書いているように、「奇妙という他ない」(97ページ)記事である。

 ガリレオ・ガリレイ『星界の報告』(講談社学術文庫)を読み終える。ガリレイが天体望遠鏡を用いて、月、恒星、木星の衛星を観測した結果について報告した書物で、月の表面に起伏があること、惑星は望遠鏡で見ると拡大され満月のように丸く見えるのに対し、恒星は拡大されないこと、木星には4つの衛星があることなどが記されている。

6月1日
 NHKラジオ「実践ビジネス英語」の”Quote...Unquote"のコーナーで取り上げられた言葉:
In seed time learn, in harvest teach, in winter enjoy.
---- William Blake (English poet and painter, 1757-1827)
種まきのころに学び、収穫のころに教え、冬に楽しみなさい。
冬になって楽しめるだけの仕事を積み重ねているかどうかが問題ではなかろうか。

6月2日
 NHKラジオ『まいにちイタリア語』応用編「描かれた24人の美女」の第16回、大英博物館にあるという(見たことがない)レオナルドの「<猫の聖母>のための習作」は工房でのスケッチで母親が子どもを、子どもがネコを抱いた図像であるが、ネコが嫌がって暴れている様子が面白い。完成作ではネコの代わりにイエスの受難のシンボルである子羊が描かれていたはずであり、スケッチの段階では身近にいたネコをモデルに抱いてもらったのだろうという。

 J・オースティン『高慢と偏見』(阿部知二訳、河出文庫)を読み終える。阿部知二は作家活動を続けながら、明治大学で教え、多くの英文学作品を翻訳した。オースティンを訳したかと思うと、シャーロック・ホームズを訳しているのだからすごい。田村隆一が明治に在学中、阿部は「小説」を教えていたようなのであるが、「翻訳」を教えた方が面白かったのではないか、あるいは、田村は阿部から翻訳の技術について何らかの教えを受けていたかもしれないなどと勝手に想像した。阿部の翻訳はわかりやすいが、固有名詞の発音など疑問に思う点が所々見受けられる。

6月3日
 NHKラジオ「高校生からはじめる現代英語」は”Feathered Dinosaur Tail Found in Amber"(羽毛のついている恐竜の尾が琥珀の中で発見される)という記事を取り上げた。ミャンマー北部の市場で、琥珀の中に、羽毛のついた恐竜の尾の一部が発見されたという。琥珀は樹液が化石となったもので、閉じ込められた昆虫や動物の体、植物の断片を含んでいることがよくあるが、恐竜のお、しかも羽毛が生えているものが含まれていたというのは初めてのことである。
 ミャンマーということで、琥珀(amber)とヒスイ(jade)を取り違えてニュースを聞き始めたため、最初は少し混乱した。ミャンマー北部で中国とカナダの研究者が共同で研究作業をしていたというのは、学術的見地以外から見ても気になるニュースではある。

うしろ姿

6月2日(金)晴れ、気温上昇

後ろ姿

だらだらと続く
坂道がひとまず落ち着いたところにある
バス停に降りて
歩いてきたらしい
君の後ろ姿を見かけた

買い物袋を手に下げ
しっかりとした足取りで
背の高い君が
これからまた上がって行く坂道を
ゆっくりと遠ざかっていく

まだまだ仕事も抱えているし
家事も時に分担しているらしい
たくましく忙しく過ごしている君だが
後ろ姿にはやはり
老いが追いついてきている

自分の後ろ姿は自分には見えない
そんな思いに駆られて
自分を見つめなおす
あるいはすでに
老いに追い越されているかもしれない
自分自身について考える
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