2017年の2017を目指して(5)

5月31日(水)曇り

 新しく出かけた場所はない。出かけた都県は2、市区町村は8のままである。
 利用した鉄道会社は5社で変わらず、都営新宿線を利用したので路線は1つ増えて10路線となった。駅は17で変わらず。
 利用したバス会社はも5社で変わらず、新たに横浜市営25,102の2路線を利用した。また乗り降りした停留所は2つに増えた。[81+5=86]

 書いたブログ原稿は31件、1月からの合計は151ということになる。内訳は未分類が3(1月からの通算12)、日記が5(27)、読書が10(46)、『太平記』が5(21)、『神曲』が4(21)、外国語が1(5)、詩が2(8)、推理小説が1(6)ということである。歴史・地理(3)と映画(2)については書かなかった。頂いたコメントが3(33)、拍手が523(3138),、拍手コメントは頂かなかったが、これまでの分が3ということである。[141+34=175]

 本を10冊購入した。1月からの通算は57冊である。読んだ本は10冊で通算は46冊となる。内訳は:足立恒雄『無限の果てに何があるか 現代数学の世界』、吉田健一『酒談義』、黒川創『鷗外と漱石のあいだで 日本語の文学が生まれる場所』、東秀紀『アガサ・クリスティーの大英帝国――名作ミステリ「観光」の時代』、カルヴィーノ『まっぷたつの子爵』、高橋呉郎『週刊誌風雲録』、倉本一宏『戦争の日本古代史 好太王碑、白村江から刀伊の入寇まで』、田中啓文『浮世奉行と三悪人』、田中史生『越境の古代史』、ガリレオ・ガリレイ『星界の報告』
 文学と歴史にかかわる本は読んでいるが、社会科学関係と哲学の勉強が足りないし、言語学関係の本も読んだ本がよいのではないかという気がする。その一方で、楽しいと思う本は古典的名作が多く、おもしろい新刊本を発見する喜びから遠ざかっているようにも思える。今月は英語の本を1冊(Penguin Classics版のPride and Prejudice)買ったが、どの程度読みこなせるかが問題である。
 本を購入した書店は2店で変わらず。[38+10=48]

 NHK「ラジオ英会話」を18回、「入門ビジネス英語」を8回、「高校生からはじめる現代英語」を6回、「実践ビジネス英語」を10回聴いている。1月からの通算では[ラジオ英会話]が98回、[入門ビジネス英語]が16回、[高校生からはじめる現代英語]が14回、「実践ビジネス英語」が58回、このほかに3月で終了した「攻略!英語リスニング]」26回ということである。
 また「まいにちフランス語」の入門編を15回、応用編を6回、「まいにちイタリア語」の初級編を15回、応用編を6回、「レベルアップ中国語」を17回聴いた。1月からの通算ではまいにちフランス語の入門編が27回、初級編が24回、応用編が42回、「まいにちイタリア語の初級編が37回、応用編が42回、「レベルアップ中国語」が37回ということである。
 ラジオの語学番組を聴くのもいいが、もっと別の言語、特にラテン語とギリシア語をしっかり勉強しなおそうと思っている(なかなかその時間を見つけることができない)。[333+61=394]

 見た映画は4本で:『おふくろ』、『PARKS』、『人生タクシー』、『東京暮色』を見ている。今年になって初めて横浜シネマベティ、ジャックに出かけた。見た映画の合計は12本、出かけた映画館は4館ということである(ジャック&ベティは1館として数えている)。
今年は見ている映画の数が例年に比べて少ないので、とにかく映画館に足を運ぶということを心がけようと思っている。[11+5=16]

 保坂優子作品展「テーブルにつくことから始めよう」と、なかだもふぃアクリル画展「HAPPY DAYS」を見た。今年に入ってから4つの個展を見に出かけている。[2+2=4]

 サッカーの試合を5試合観戦、J2が2試合、プレナスなでしこリーグ2部が3試合である。新たに保土ヶ谷公園サッカー場に出かけた。なかなかいいグランドだと思った。横浜FCは名古屋グランパス戦でPKを2つ決められて逆転負けして4位に後退したが、まだJ1昇格の期待は十分に持てる。横浜シーガルズは監督がどんなチームを作って、どんなサッカーをしようとしているのかが依然としてはっきりせず、試合中もベンチに座ったままで、競技中の選手にはコーチが指示を出すだけなので、何とかしろという声も聞こえている。[16+6=22]

 A5のノートを3冊、A4のノートを3冊使い切った。ライトグリーンのボールペン1本と、黒いボールペンの芯0.5ミリを2本使いきった。

 富士山を見た日が2日(通算では14日)、酒を飲まなかった日が12日ある(通算では34日)。5月18日に研究会で発表し、あとはのんびりしようと思ったら風邪を引いただけでなく、目の具合を悪くして、自重を余儀なくされた。
 「☆オリジナルの高校数学の問題を掲載していきます☆]の問題を1問解いた。これで今年に入ってから3問解いたことになる。グリーン・ジャンボでは4等3000円を当てたが、ミニtotoはいまのところ、一度も当たりをとっていない。パソコンの調子がよくないので、そろそろ買い替えようかと思っているが、年金暮らしゆえ、先立つものをどうやって調達するかが問題である。
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倉本一宏『戦争の日本古代史 好太王碑、白村江から刀伊の入寇まで』(2)

5月30日(火)晴れ

 長い歴史の中で日本はほとんど対外戦争を経験してこなかった。倭国→日本の歴史の中で対外戦争の経験は蓄積されず、その結果として、戦争のやり方に習熟する機会もなく、概して戦略的にも戦術的にも戦争は下手である。
 しかしながら、近代日本のアジア侵略は、古代以来の倭国や日本の対外関係の記憶から作り出されてきた帝国観念、そして対朝鮮観と敵国視の結果であったことも否定できない。そこで、「倭王権の成立以来の古代における朝鮮諸国との関わり方、そして中国や朝鮮諸国の日本(および倭国)とのかかわり方こそ、後世の対アジア関係に大きな影響を与えたことを、我々は考え直す必要があるのである」(11ページ)。対外戦争をキーワードとして、倭国→日本と北東アジア諸国との関係を考え直すのがこの書物の狙いである。

第1章 高句麗好太王との戦い 4~5世紀
1 北東アジア世界と朝鮮三国
 3世紀後半に、大和盆地では全国的性格をもつ初期倭王権が成立した。
 北東アジアで最初に政治的成長を遂げたのは、北方のツングース系民族である貊族を主体とする高句麗であった。現在の中国東北地方の一部から朝鮮半島北部を支配し、中国の北朝の前燕と対立したり、服属したりしていたが、その勢力が衰えると、西南の百済との抗争に注力するようになった。
 3世紀末から朝鮮半島西部の政治的統合が進み、346年に百済が馬韓を統一した。4世紀後半の近証拠王の時代に大きく勢力を強め、高句麗との抗争を続けた。高句麗に対抗するため、372年に中国南朝の東晋に朝貢して冊封を受け、一方で加耶諸国と結び、さらに倭国に接近した。
 356年には新羅が朝鮮半島南東部の辰韓を統一した。農業などの生産性が低く、成長が遅れ、また中国とも直接に交流できなかったため、高句麗に従属せざるをえなかった。
 朝鮮半島南部の弁韓(弁辰)は統一されないまま、加耶諸国として小国が分立していた。小盆地がそれぞれ独立した地形を形成しているうえに、鉄資源に恵まれていたためにこの状態を維持することができたのである。これら諸国の中心的立場に立ったのは、任那=金官国=大加耶であった。倭国にとっては対半島交渉の中継地であった。

2 百済からの救援要請
 高句麗と百済が抗争を続けるという半島情勢の中、倭王権は加耶諸国の鉄資源を確保するため、百済からの要請に応じて、朝鮮半島に対して軍事介入を行った。高句麗の侵攻に苦しむ百済は倭国と同盟を結ぶことによって、この危機を乗り切ろうとした。奈良県の石上神宮に伝わる七支刀は、倭国に軍事援助を求めるためのしるしであったと考えられる。

3 高句麗との戦い
 4世紀の後半に入っても、高句麗と百済のあいだには一進一退の攻防が繰り広げられた。このため百済は倭国に援助を養成した。中国吉林省集安市に残る好太王碑の碑文からは、391年以来、両者は共同の軍事行動をとって、新羅に攻め入り、400年には新羅・加耶戦線で、404年には百済北部の帯方界戦線で高句麗と戦って大敗したことが推定できる。歩兵中心の倭国軍に対し、高句麗軍は組織的な騎兵を擁しており、両者の戦力差が勝敗を分けたと考えられる。
 この戦いを通じて、倭国が一時的に加耶、百済、新羅を「臣民」としたことで、朝鮮諸国への支配意識が芽生え、さらに高句麗・新羅への敵意と、百済への同盟意識が根付くことになる。

4 倭の五王の要求
 倭の五王たちは中国の南朝の東晋→宋(→南斉→梁)に朝貢し、冊封を受けた(我が国の全国政権としては類例のないことである)。その中で王たちは朝鮮諸国への軍事指揮権を要求し、その一部分は認められたのであった。そのことは、後世のわが国の朝鮮半島支配の根拠として利用されることになった。(以上前回まで)

第2章 「任那」をめぐる争い 6~7世紀
1 百済の加耶進出
 501年に即位した百済の武寧王は高句麗と連戦して連勝し、一応の安定を見た。
 一方、倭国は武(≒雄略)の死後、王権は動揺を続け、空位期間があったかもしれないと考えられている。その後、継体が即位するが、倭王権の対朝鮮関係の行き詰まりを打開するために迎えられたとする説もあるそうである。
  高句麗戦線に一定の戦果を得た百済は、半島南部の加耶諸国へと勢力を広げようとした。そして高句麗の攻勢に対抗するために、倭国の協力を求めた。ここで『日本書紀』には倭国に属する南西部加耶の地を百済に割譲したという記事が出ているが、倭国が百済の方策を支持するという基本的な立場を示したものと理解すべきではないかと推定されている。これらの地域は、いずれも前方後円墳が存在し、倭系官人が移住していた地と考えられているという。この進出によって、加耶諸国による大加耶連盟との関係は悪化した。
 百済は中国南朝の梁に朝貢を続けていたが、同時に倭国とも積極的な外交を行っていた。その一環としておそらく政治顧問的な役割を果たしていた 南朝出身の五経博士を日本に送り込んでいる。これらが倭国の国政の整備に果たした役割は、小さくないと倉本さんは論じている。

2 新羅の加耶侵攻
 6世紀に入ると新羅が急速に国家体制を固めた。この成長の背景には鉄生産の確保があるとみられる。高句麗への従属から脱した新羅は、百済やかやとも連携して、半島における覇権を目指すようになっていた。一方、百済との関係が決裂した加耶諸国の大加耶連盟は、新羅との連携を模索し始めた。しかしその新羅は百済と修好を結んでおり、加耶は両方を敵に回すことになり、倭国との関係を強めるほかに豊作がなくなった。
 倭国は携帯21年(527?)に近江毛野の率いる対新羅軍を派遣して、加耶を支援しようとしたが、新羅と結んでいた北九州の豪族である筑紫磐井が軍の渡海を遮るという行動に出た。磐井の乱である。磐井が倒された後の継体23年(529)に毛野は渡海するが、十分な戦果を挙げることはできなかった。このため、かえって、今度は百済が加耶諸国西部へ侵攻するきっかけとなった。
 新羅の加耶攻撃は続き、倭国にとっての重要な同盟者であった任那(金官)が新羅に降伏し、王族たちは大変な厚遇を受ける。他の加耶諸国も同じようにして新羅の影響力のもとにおかれるようになる。
 百済の聖明王は加耶の新羅に滅ぼされた地域の回復を目指す会議を開いたと『日本書紀』は記し、この会議に「任那の日本府の吉備臣」が参加していたことをもって、倭国の「任那」支配の証拠とする見方もあったが、実際には加耶地方の安羅が新羅に内応するのを止めようとする意図の会議であり、結局のところ意義に乏しいものであったと著者は論じている。

 この頃、百済は高句麗戦線で苦境に立っており、新羅に救援を要請して、ようやく撃退したほどである。逆に百済は552年にかつて百済の首都であった漢城を占領し、念願の半島西海岸への進出を果たした。これで中国との直接的な交渉を行えることとなったのである。『日本書紀』には欽明13年(552?)に百済の聖明王が倭国に仏教を伝えたと記されているが、この年次の信憑性は薄いという。しかし、苦境の中、倭国の軍事協力を必要とした百済の王が倭国に仏教の文物を贈ったことは十分に考えられることであるとも論じている。倭国が百済への救援軍を送ろうとしているうちに、百済は新羅領内に侵攻し、新羅の待ち伏せ攻撃に会って聖明王は敗死してしまう。
 新羅の加耶攻撃は続いて、562年に大加耶を中心とする加耶諸国は、新羅に滅ぼされる。これで朝鮮半島南部における倭国の拠点は完全に失われ、加耶諸国は百済と新羅によって分割され、半島は高句麗を含む三国時代を迎えた。すでに述べたように、大加耶には倭人が多く住んで、半島における倭国の拠点となっていたのであるが、それは大加耶が日本の属領であったというのとは別のことであるが、後世になると、属領であったという理解が広がっていくのである。

3 「任那の調」の要求
 大加耶の滅亡以後、加耶との特別な関係を復活させる「任那復興」策が、倭国にとって最重要の政治課題となった。そこで、百済および新羅に対し、服属小国が服属儀礼の際に貢進する財物である「調(みつき)」の貢進が求められた。さらに新羅に対しては、「任那の調」の貢進も併せて求められたのである。
 「問題なのは、たとえ外交儀礼の場においてのことであっても、新羅が「任那の調」という名目の物品を倭国に送り、倭国がこれを「新羅が肩代わりりした任那からの調(貢納物)」と認識したという事実である。
 新羅にしてみれば、緊迫する国際情勢を有利に持っていくために、倭国に多少の物品を送っても構わないとでも思っていたのであろうが、倭国側から見れば、それは旧加耶諸国が倭国に貢納品を納めるという「伝統」と認識したことであろう。そして、百済のみならず、新羅からも「調」が貢納されるという誤った国際感覚を醸成させてしまったのである。その終着点として作られたのが、神功皇后の「三韓征伐」説話となる。」(85ページ) 〔「三韓」とは、馬韓(→百済)、辰韓(→新羅)、弁韓(弁辰→加耶)を言い、「三国」(=高句麗、百済、新羅)とは別なのだが、このあたりが混同されっぱなしである。〕 
 「任那の調」は単なる外交交渉上のエピソードで済まない問題であったと著者は論じている。

 今回は2回原稿が消え、さらに原稿の加筆が保存されずという踏んだり蹴ったりの仕儀で、当初の予定では2章と3章を取り上げるつもりだったのが、2章だけで終わることになった。高校の歴史で学んだこととはかなり違った内容が多いが、そのかなりの部分が同じ資料をいかに読み解くかという問題による違いではないかということについて深刻に考えさせられた。
 最近、角川ソフィア文庫から田中史生『越境の古代史』という書物が出て、こちらは文化交流や通商に焦点を当てているとは言うものの、この『戦争の日本古代史』と重なる内容は少なくない。倉本さんの方は著書の中で田中さんの研究に言及しているが、田中さんの方は倉本さんの研究に言及していないというのはどういうことであろうか。
 

夏目漱石『虞美人草』(5)

5月29日(月)晴れ、時々雲が多くなる

これまでのあらすじ
 外交官だった当主が任地で死んで、甲野家ではその後始末をめぐり混乱が収まらない。先妻の息子で大学で哲学を勉強した欽吾(27)は病弱なうえに厭世的・超俗的で、義理の母親とも、義理の妹である藤尾(24)とも折り合いが悪い。藤尾は、遠縁の宗近一(28)との結婚の話もあったが、英語の家庭教師をしている小野清三(27)に惹かれ、急速に接近し始めている。小野さんは大学卒業にあたって銀時計を頂いた秀才で、詩人として活躍する一方、博士論文の執筆中である。藤尾の母は、欽吾=甲野さんに愛想をつかしており、藤尾が将来有望な小野さんを養子にとって自分の面倒を見てくれることを考えはじめている。宗近君は外交官試験に落第して、浪人中である(再受験した)が、暢気に構えている様子が藤尾母子にはどうも気に入らないのである。一方、宗近君の妹で藤尾とは対照的に家庭的な女性である糸子(22)は甲野さんに惹かれているし、甲野さんも彼女に好意をもっている様子である。

 もともと孤児だった小野さんには井上孤堂という老学者に世話になって大学まで卒業したという過去があり、孤堂先生は自分の一人娘の小夜子(21)と小野さんを結婚させるつもりで、京都の住まいを引き払って上京してきた。孤堂先生と小夜子を連れて小野さんは上野の博覧会に出かけるが、同じ夜に宗近君、糸子、甲野さん、藤尾の4人が居合わせて、3人の様子を見ていた。孤堂先生は小野さんに結婚の約束の履行を迫り、小夜子の存在を知った藤尾は小野さんとの結婚に突き進もうとする。兄の質問に答えて、藤尾は宗近君ではなく、小野さんを選ぶと宣言する。

16
 甲野さんの家で甲野さんと藤尾が話していたのと同じころに、宗近の家では父親が前日買ってきた、自分では掘り出し物だと思っている煙草盆を使って、タバコを吸っている。安定と落ち着きの感じられる場面である。そこへ宗近君がやってきて、しばらく骨董だの盆栽だのの話をした後、五分刈りから髪を伸ばし始めたと話題を転じる。まだ変わり映えのしない頭ではあるが、外交官試験に合格したので、1か月後には西洋に赴任することになるという。実は2,3日前に通知を受け取ったのだが、頭ができるまでと思って黙っていたのである。
 無作法な一が西洋に行くのはよい修行になるだろうという父親に対し、宗近君は「無作法な裏と、奇麗な表と」(305ページ) の二通りの人間をもって出かけなければならないから面倒だと答える。日本も「文明の圧迫が激しいから上部(うわべ)を奇麗にしないと社会に住めなくなる」「その代り生存競争も烈しくなるから、内部は益(ますます)無作法にな」(305-6ページ)ると父子の文明批評は開化後の日本にまで及ぶ。〔この文明批評や、ここでは省略した英国の悪口は、漱石自身の経験から出たものであるが、まだヨーロッパに出かけていない宗近君とその父親がこれほど奥に入り込んだ批評ができるとは思えず、不自然な感じがする。〕
 外交官試験に合格したのであれば、任地に赴くまでに結婚の話も決めておいた方がよいという父親に対して、宗近君は藤尾と結婚したいという。そのことについて、甲野の父親が生きていた自分に内々の相談はあったのだが、そのままになっていると父親は言い、先日、藤尾の母が訪問してきて長々としゃべっていったと語る。
 宗近君とは良縁ではあるが、まだご本人の身分がきまっていない(15で藤尾の母は外交官試験に合格するわけはないと自信満々に断言していたのだが、合格した);甲野さん(欽吾)が家を出たいと言っている、そうなると藤尾に養子をとることになるが、それも世間体が悪くて困る、かといって藤尾を嫁にやると自分ひとりになってしまって心細くなって困る…と要領を得ない。どう報告していいのかわからずに、今日まで黙っていたというのである。(藤尾の母親が宗近家を訪問してこの話をしたくだりは10に描かれている。藤尾の母親の方では、遠回しに断ったつもりなのだが、遠まわしすぎて、意味が通じていない。これが後の悲劇につながる。ついでに言えば、宗近君が外交官試験に合格の通知を受け取った時にすぐ、合格祝いをやっていれば、物語も変わっていたであろう。藤尾の母親が断りが通じたはずだと思っているのは、15に出てくる藤尾との対話から明らかである。)
 宗近君は問題解決に乗り出すことになる。まず、甲野さんを説得して家を出るという決心を辞めさせ、糸子と結婚させる(甲野さんと糸子の結婚については、藤尾と藤尾の母を含む周囲の全員が反対していない。それなのに、甲野さんだけが躊躇しているという奇妙な状態が続いている)。それから藤尾との結婚を申し込むというのである。
 彼はまず糸子の意向を確かめようとする。糸子は中二階の自分の部屋で、珍しく(というのは普段ならば針仕事をしているのだが)本を読んでいる。何を読んでいるのか見せようとしなかったが、甲野さんから借りた本である。宗近君は糸子に結婚するつもりがあるかどうかを尋ね、自分が外交官試験に合格したこと、藤尾と結婚するつもりであることを告げる。糸子は13で甲野さんと2人きりで話したときのことが気になっていて、彼との結婚に消極的であるが、兄が藤尾と結婚しようとしていることには反対する(10で藤尾の母親が宗近邸にやってきて話をしている時に、同じ部屋で兄に対して同じことを言っていた)。宗近君は妹が心から甲野さんを理解しようとしていることを知り、是が非でも2人を結びつけようと考える。

17
 孤堂先生に小夜子との結婚を迫られた小野さんは、同じく孤堂先生の門下で法学士の浅井を郊外に呼び出す。帰省から戻ったばかりの浅井は手元不如意で小野さんから金を借りたいという。金を用立てる代わりに小野さんは、小夜子との結婚は博士論文の件があるのでないことにして欲しい、その代わり先生の面倒は一生見るからと伝えてくれるように依頼する。
 まだ就職が決まっていない浅井は宗近君のところに就職運動に出かけようかと思っているという。小野さんは宗近のところで孤堂先生の一件は話さないでくれと釘を刺す(言われなくても話さないはずで、この辺りが小野さんの紀の弱いところである)。

 小野さんが甲野の邸までやってきたのと同じ頃に、宗近君も甲野の邸にやってくる。小野さんは富士夫のところに向かい、宗近君は金後の書斎へと入り込む。外交官試験に合格したという宗近君に、甲野さんは藤尾と小野さんの姿を見せて、藤尾との結婚を諦めるように言う。宗近君は糸子が言っていたことが正しかったと知る。義理の母や藤尾と一緒に生活していると堕落する、だから家出をするという甲野さんに対して、どんなときでも糸子は君の味方になって支えていくはずだと2人の結婚を勧める。

 1~19までで構成されるこの小説であるが、次の18で物語が急転し、事実上の決着がつく。19は余燼という感じである。それで、今回は18まで紹介するつもりだったのだが、17でとめておくことにした。オースティンの『エマ』を読んだ後で、この小説を読むと、かなりうまく書けてはいるがやはり見劣りがするという感じが否定できない。(エマ⇔藤尾、ジェーン⇔小夜子、ハリエット⇔糸子というふうに考えてみると、漱石が男性でオースティンが女性だということを勘定に入れても、オースティンの方が女性たちの愛すべき側面を巧みに掬い上げているという感じはする。もっとも、ハリエットと糸子を比較すると、糸子もなかなかよく書けていると思うのは、多少のひいき目かもしれない。)

『太平記』(160)

5月28日(日)晴れ

 建武3年(1336)4月末、足利尊氏は大宰府を発ち、5月1日に秋の厳島明神に到着、3日間参篭した。その結願の日、都から持明院統の光厳院の院宣がもたらされた〔『太平記』本文には、後伏見院が崩御の前に下された院宣とあるが、歴史的事実としては光厳院である。もっとも院宣がもたらされたのは、もっと以前のことだとされている〕。備後鞆の浦(広島県福山市)で軍勢の手分けをした足利軍は、尊氏が海路から、直義が陸路から東上した。5月15日、直義軍が備中福山城を落とすと、義貞は摂津兵庫まで退却した。後醍醐天皇は義貞を応援すべく、楠正成に兵庫下向を命じた。死を覚悟して兵庫へ下る正成は、途中、桜井の宿で嫡子正行に遺訓した。兵庫で正成を迎えた義貞は、足利の大軍と一戦を交えずに京都まで退却してしまうのは武将としての面目が立たないと語り、正成は兵法を知らない人々の評判を気にする必要はないと言い、お互いの気持ちを打ち明けあって夜を過ごしたのであった。

 翌朝、延元元年(延元は南朝の年号で北朝は建武3年=1336)5月25日、午前8時ごろ、暗い長雨の雲がようやく晴れて(太陰太陽暦で5月は梅雨の季節である)、風と波とがやや収まったちょうどその時に、沖の方に小さく風に漂う船がいえた。朝のうちに漁に出た舟か、海岸沿いの船路をたどる旅の舟かと眺めていると、次第に船の姿が大きくなり、漁船でも旅の船でもないことがわかる。舵を左右へと盛んに操り、楯を垣根のように並べ、櫓を備えて、大旗、小旗を立てた数万の兵船が、追い風に乗って帆を膨らませ、先がかすむほど波が果てしなく広がった中に、14・5里ほどの長さにわたって浪間が見えないほど密集して、こぎ進んでくる。それぞれの船が擦れ合うほど船首・船尾を並べているので、海上が突然陸地になり、船の帆陰に隠れて対岸の紀州の山も見えない。魏と呉が天下を争った赤壁の戦いや、元が宋を滅ぼした黄河の戦いの時の兵船の数もこれ以上ではなかったのではないかと、目を驚かして見ているところに、鹿嶋岡(神戸市長田区鹿松町)、鵯越(ひよどりごえ=神戸市兵庫区から北区一帯の地)、須磨の上野(神戸市須磨区の須磨寺=上野山福祥寺のある山)の一帯から、足利の二引両の紋、宇多源氏佐々木の四つ目の紋、片折違(かたすじかい)の紋、宇都宮・小山・結城の巴の紋、高氏の寄懸り輪違の紋を記した旗が6・700本風に吹かれて宙に舞いながら、その旗の多さによって知られる大軍の到来を知らせている。

 海上の兵、陸地の軍勢、予期していたよりもはるかに多く、噂をさらに上回るものであったので、宮方の兵は、三日他の軍勢の少ないのを改めて思い出し、戦う前から戦意を喪失してしまったのであった。とはいうものの義貞も正成も、大敵を見ると闘志を増し、小敵を見ても決して侮らないという後漢の初代皇帝である光武帝の精神を体得している勇者であったから、士気を失う様子はまったくなく、まず和田の岬の小松原(神戸市兵庫区和田岬の松林)に兵を進めて、静かに軍勢の手分けを行ったのであった。

 義貞の弟である脇屋義助を一方の大将として、一族23人、その配下の5千余騎を和田岬の近くの平清盛が築いた人工の島である経の島に配置する。新田一族の大館氏明が一族16人、3千余騎を率いて、これも平清盛が経の島の築造工事で死んだ人々を弔うために建立した燈籠堂の南の浜に控える。また一方には楠正成が、思うところあって自前の兵だけで700余騎、湊川(神戸市兵庫区湊川町)の西の宿に陣を張って、陸地の敵を迎え撃とうとする。総大将として新田義貞が2万余騎を率い、和田岬に陣幕を引いてそこを本営と定める。

 そうこうするうちに、海上の船が帆を下ろして磯近く漕ぎ寄せ、これに呼応して陸地の軍勢も旗を靡かせて進撃を開始する。遼仁たがいに攻め寄せて、兄である尊氏の率いる海上の兵船から太鼓を鳴らして、鬨の声を挙げれば、弟である直義の率いる陸の搦め手50万騎が、それを受け取って声を合わせて唱和する。その声が3度になったので、宮方の兵5万余騎も楯の板、矢を入れる箙を叩いて鬨を作る。敵味方の鬨の声が、南は淡路の絵島(兵庫県淡路市岩屋にある島で、月の名所として知られる)、鳴門海峡の奥、西は播磨路、須磨の板屋戸(神戸市須磨区板宿町の辺り)、東は摂津国生田の森(神戸市中央区生田神社の周辺)、四方三百里に響き渡って、天を支える綱である天維、大地の軸である坤軸も砕け傾くかと思われたのであった。〔1里を約4キロと定めたのはこの時代よりも後のことであるが、それにしても300里は誇張が過ぎる。『太平記』よりも少し前にイタリアで書かれた『神曲』の宇宙観はプトレマイオスの天動説に従ったもので、少なくとも地球が丸いということは認識しているのだから、時代遅れということで両者を同一視はできない。〕

 足利・新田の両軍がにらみ合いながら、まだ戦端を開かないときに、新田方の本間孫四郎重氏という武士が、黄色がかった河原毛(朽ち葉色を帯びた白毛で、たてがみと尾が黒)の太ってたくましい馬に乗り、紅色の縅の革を下に行くほど濃く染めた鎧を着て、ただ一騎で、和田岬の波打ち際に出て、打ち寄せる波が馬の蹄を浸すほど前に出て、敵の様子をうかがっていた。
 この本間孫四郎というのは既に第13巻に登場し、出雲の塩冶高貞のもとから後醍醐天皇に献上された竜馬を見事に乗りこなしたという武士である。相模の国の、現在の神奈川県厚木市に住んでいた。
 すると一羽のミサゴ(海辺などに住むタカ科の鳥)が波をかすめて飛んでいったかと思うと、海中に潜り2尺余りの魚を1匹つかんで沖の方に飛んでいくのが見えた。弓の腕に自信のあった重氏は、重大な戦いを前に、このミサゴを射て自分の腕を敵味方の人々に見せてやろうと思った。
 当時の武士は矢を箙という入れ物に差していたが、その表側には2本の鏑矢を差す習わしであった。その鏑矢のうちの1本を抜き出して、自分の二所籐という2箇所ずつ一定の間をおいて籐をまいた大弓につがえて鳥の様子をうかがうと、その間にミサゴは波の上6・7百町(1町は約109メートル)ほども遠くを飛んでいる。そこで重氏は海の中に馬を乗り入れて追いながら、飛んで行く鳥を射た。鳥を殺すまでもない、命は助けてやろうと思ったのであろうか、鏑矢はミサゴの片方の翼の付け根を射切った。そして鏑矢は周防の豪族である大内弘幸の軍船の帆柱に、一揺れして突き刺さった。ミサゴは魚をつかみながら、尊氏の御座船の右手に並んでいた大友の船の屋形の上に落ちて、片翼をなくした鳥は慌てふためいて走り回っている。

 本間はこれを見て大声をあげて叫ぶ:「将軍が筑紫よりご上洛とのことで、定めて、尾道の遊女たちを多く同行させていらっしゃるでしょう。そのためにお肴を進上する次第でございます。」 敵・味方、陸・海の上からよく射たものだ、凄い腕前だとと称賛する声がしきりである。尊氏はこの様子を知って、敵の武士が自分の腕前を見せようとして射た鳥が、味方の船の上に落ちてきたのは吉祥である。ともあれ、この見事な腕前の持ち主は何者か、名前を知りたいものだ」と仰せになった。そこで、そばにいた小早川七郎(桓武平氏土肥の一族で安芸・備後の武士)が「比類なき腕前を披露されたことよ。さても御名字を何とおっしゃるのであろうか。承りたいものだ」と呼びかける。
 本間は、馬を渚の砂の上に引き上げ、弓を杖代わりにして、「大したものではないので、名字を申し上げても、誰もご存じないでしょう。とはいえ、弓矢をとっては坂東八か国の中に名を知る人もいらっしゃるかもしれません。この矢でご覧ください」と、五人がかりで張る強い弓に、十五束三伏の長い矢をつがえて、尊氏の紋である二引両の旗を立てた舟を目指して放つ。その矢は、海の上5・6町を通り越して、尊氏の船の隣の備前の佐々木一族である佐々木信胤の船端を矢竹がこすって、そのまま上に飛んで、屋形の外に立っている兵の鎧の草摺りの裏に突き刺さった。
 重氏が弓の名手ぶりを見せる場面であるが、ミサゴを射た時の7・8町(約800メートル)とか、今回の5・6町とかいうのは誇張も甚だしい。大学に務めていたころ、弓道部の練習風景を時々見るともなく見ていたので、弓がどの程度の距離を飛ぶのかはある程度分かっているつもりである。(そういえば、私が担任した学生には弓道部というのはいなくて、アーチェリー部というのが2人いた。) それから、重氏がもったいぶって名を名乗らないのはあまり好ましい態度ではない。このときの重氏の態度は、その後の彼の運命に影を落とすが、それはまた後の話である。
 重氏の腕前の披露を自分たちへの挑戦と見た足利方は代表者を選んで遠矢を射返すことになり、いかにも『太平記』的な物語が展開する。それがどのようなものかは、次回に譲ることにする。

日記抄(5月21日~27日)

5月27日(土)晴れ、だんだん雲が多くなってきた。

 5月21日から本日までの間に経験したこと、考えたことなど:
5月21日
 『朝日』の「社説」で<入試英語改革>に関連して「「話せる」授業どう作る」と問題提起をしていた。実際には、普通の大学卒業者が英語を話す機会というのはきわめて少ないし、限られている。NHKラジオの「英会話タイム・トライアル」で取り上げられている程度の英語が話せれば、たいていの役には立つはずである(これがそう簡単ではないことは認めるが、努力すれば何とかなるレベルではある)。そして、会議などで意見を言う、学会で発表するというような場合には、英語だけでなく話す内容についての実力も必要である。英語教育の在り方については、もっと広い視野から再検討する必要がある。

 日産小机フィールドで横浜FCシーガルズ対スフィーダ世田谷の対戦を観戦する。世田谷が後半にあげた1点を守って、勝ち点3を挙げる。横浜は積極的に前に出るでもなく、左右にボールを回すでもなく、漫然とサッカーをしている感じで、いつの間にか点を取られて負けてしまった。能代谷監督がどのようなサッカーを目指しているのかがどうもはっきりしない。少なくともサポーターの前に出て、チームとチーム作りについて説明する姿勢を見せてほしい。
 横浜FCはアウェーでファジアーノ岡山に1-2で敗れ、3位に後退。今日は男女とも敗れたが、あとで記録を見ると、男子の方はイバ選手にボールを集めて盛んにゴールを狙っていたことはわかる。方向性が見えているだけ、ましである。

5月22日
 病院に診察に出かける。昨日来、風邪気味なのだが、この件については軽症なので様子を見ることになった(ところが未だにその風が尾を引いている)。

 すずらん通りの檜画廊で「HAPPY DAYS―なかだもふぃアクリル画展―」を見る。多彩な内容で、作者がどのあたりを得意といているのかが、あまりよくわからなかった。

 神保町シアターで「「母」という名の女たち」の特集上映から、『東京暮色』(1957、松竹東映、小津安二郎監督)を見る。夫との折り合いが悪く幼子を連れて実家に戻り帰ろうとしない姉(原節子)、望まない子どもを身ごもってしまった妹(有馬稲子)、姉妹を捨てて出奔していた母(山田五十鈴)の織りなす人間模様。暗く、重苦しい、有馬が訪ねる産婦人科の医院の場面を、『豚と軍艦』(今村昌平)の吉村実子の場面と比べると、小津の助監督の1人であった今村昌平が小津から離れていった理由がわかるような気がする。(それでも私は小津が好きである。)

5月23日
 『朝日』朝刊のリレー・オピニオンのコーナーで、小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)の曽孫にあたる小泉凡さんが、アメリカ時代のハーンが創成期のジャズに興味を寄せていたという記事を書いていた。ハーンはアメリカ南部のクレオール文化への愛着が強かったというから、そのこととジャズへの興味とは結び付くのではないかと考えている。

5月24日
 NHKラジオ「実践ビジネス英語」はこの日からLesson 4の”Email Etiquette" (メールのエチケット)という新しい話題に入った。勤務時間外にメールを返信し始めると、同僚や取引先の人たちが、いつでも返信してもらえるものと期待するので、返信しないように心がけることが重要であるという。自分が勤めていたころは、あまりそんなことには気を使わなかったと記憶する。その点は後悔が残る。

5月25日
 『朝日』朝刊で鷲田清一さんが担当している「折々の言葉」で取り上げられた言葉:
つまり、知らないことがあること自体を知らなかったわけだ。(戸田山和久)
 その一方で、「知らぬが仏」ともいうね。

5月26日
 NHKラジオ「まいにちイタリア語」応用編「描かれた24人の美女」は第14回”Botticelli, Madonna della melagrana"(ボッティチェッリ<ザクロの聖母>)を取り上げた。聖母マリアに抱かれた嬰児イエスの手に大きなザクロが握られている。ザクロの赤色は血を連想させ、また種の数の多さはイエスが受ける苦痛の大きさを暗示しているのだという。
 イタリア語ではザクロについてmelagrana,melagrano,melogranoなど、いくつかの語形が併用されていて、「実」と「木」も混用されているという。イタリア語でmelaはリンゴ、granoは小麦、あるいは粒を表す名詞であるから、ザクロmelagranaは粒々のリンゴとでもいった意味だろうという。ギリシア神話に出てくる黄金のリンゴは、イベリア半島のオレンジがそのように受け止められたのだという話を読んだことがある。

5月27日
 NHKラジオ「高校生からはじめる現代英語」の”Sam's Notes"のコーナーで「現代英語は18世紀の英語?」として、現代の英語の基礎が固まったのは18世紀であると説かれた。その実例として1779年に発表された”Amazing Grace"という歌が紹介され、歌手でもあるパートナーのハンナ・グレースさんが歌詞を一行ずつ歌って、解説がなされた。一度、全曲を通しての歌唱も聴いてみたいという気がした。
 

田中啓文『浮世奉行と三悪人』

5月26日(金)雨のち曇り

 5月22日、田中啓文『浮世奉行と三悪人』(集英社文庫)を読み終える。文庫版の扉に「本書は「web集英社文庫」で2017年2月から5月まで連載された作品に、書き下ろしの「化け猫騒動の巻」を加えたオリジナル文庫です。」とある。ということは、文庫本ながら、この作者の最新作らしい。

 大塩平八郎の乱(1837)が起きてからまだ10年とは経っていない大坂の西横堀に近い浮世小路というまさに浮世の縮図のような一角で竹光屋という聞きなれない商売を営んでいる雀丸が物語の主人公である。もとは藤堂丸之助という武士で、先祖代々の職を継いで大阪弓矢奉行付き与力であったのが、ある事件が元で武士を辞め、器用な手先を生かして竹光作りの仕事を始めた。太平の世が続き、刀を手放したり、質入れしたりして当座の金策に充てる武士が少なくない。本物そっくりの竹光がつくれる雀丸の仕事は、繁盛とは言えないまでも、生計を立てるには十分である。父母はすでに亡く、祖母と2人暮らしであるが、この祖母というのが、豪放で傍若無人、しかもいまだに武家気質が抜けないという肥え太った老婆で、隅に置けない存在である。

 ある日、雀丸は大川端で3人の武士に取り囲まれ、脅しを受けている老人を、助ける。彼の家を探し当てた老人は大坂横町奉行の松本甲右衛門と名乗り、横町奉行の仕事を継いでくれないかと頼んでくる。まだ若いのでそんな仕事はできないという雀丸に、「機転と人望と度胸」が備わった雀丸以外に適任者はいないという。
 しかし、横町奉行とはどういう役職であるか。作者である田中さんは次のようにいう:
「本作に登場する「横町奉行」は、大坂町奉行に代わって民間の公事を即座に裁く有志の町人という設定ですが、これはもともと有明夏夫氏の「エレキ恐るべし」(『蔵屋敷の怪事件』収録)という短編に一瞬だけ登場する「裏町奉行」という存在が元になっちまう。この「裏町奉行」についていろいろ文献を調べ、大坂史の専門家の方にもおたずねしたのですが、どうしてもわかりません。有明氏の創作という可能性もあるのですが、ご本人が2002年に亡くなっておられるため現状ではこれ以上調べがつきません。そのため本作では「横町奉行」という名称にしておりますが、これは作者(田中)が勝手に名付けたものであることをお断りしておきます。」(358ページ)

 この書物の「解説」を担当している細谷正充氏が引き合いに出している田中さんの言葉によると:
「時代小説の役割の中で一番重要なのは、読者を、一時、現実を離れさせて、かつて日本に存在したある種の『空気』に浸らせてやることである。それが出来ていれば、その作品は8割方成功したといえるだろう」(363ページ)という。
 作中で松本甲右衛門lは言う:「この大坂は町人がおのれの手で作り上げ、守ってきた町や。江戸とちごうて、侍の数も少ないさかい、昔から、侍なにするものぞ、という気風がある。けど、近頃ではろくでもない侍が大坂にも増えてきた。そういう手合いが町人をいじめても、お上も見て見ぬふりや。」(40ページ) 大坂の町が本当に町人の町だったかどうかという歴史上の議論はさておいて、そんな雰囲気の中で、町人代表の「横町奉行」(浮世小路に住んでいるので「浮世奉行」と呼ばれるようになる)の活躍を、われわれは歓迎してもよいと思うのである。

 甲右衛門の頼みを辞退し続ける雀丸であるが、甲右衛門を脅していた3人の侍が藩主のものである名刀をこっそり質入れして茶屋への借金の返済に充てたのはよいが、その質が流れてしまった一件(横町奉行が質流れを当然だと裁定し、それが国許に知れて3人の侍は家禄を減らされるなどの処分を受け、何とか刀を取り返そうとする…)の顛末を描く「雀丸登場の巻」、親分の代参で住吉大社に脇差を奉納しようとやってきた江戸のやくざ者が3両という金が入った財布を拾い、落とし主に届けようとすると受け取らないというどこかで聞いたような話が贋金づくりの本拠を暴き出すという方向に発展する「三すくみ勢揃いの巻」、大坂の街の連続放火事件の犯人は化け猫だという噂に挑む「化け猫騒動の巻」の3つの事件を通じて、横町奉行の仕事を引き受けることを決心する。

 もともと奉行の仕事を助けてきた三悪人:悪徳商人の地雷屋蟇(ひき)五郎(ガマ)、女侠客の口縄の鬼御前(ヘビ)、ナメク寺とあだ名される貧乏寺の住職であるからくり好きの生臭坊主大尊和尚(ナメクジ)(ガマ、ヘビ、ナメクジで三すくみ)というそれぞれ表向きは煮ても焼いても食えそうもないはみ出し者に加えて、嘘八百を並べて酒席を明るくすることを業とするしゃべりの夢八といった個性的な面々が雀丸を助ける。同じ江戸時代の大阪を舞台とする『鍋奉行』シリーズにくらべると、町人の生活に関心が向けられ、登場人物が少なくなっている代わりにそれぞれの個性が強く打ち出されているところに特色がある。カバーには「新シリーズ」とあり、これからも続編が刊行されるらしい。楽しみである。

ダンテ・アリギエリ『神曲 天国篇』(20-1)

5月25日(木)曇り、一時雨

 ベアトリーチェに導かれて天上の世界に旅立ったダンテは、月天、水星天、金星天、太陽天、火星天を次々に訪問し、そこで彼らを出迎えた天国の魂たちと会話をして、胸に抱いている様々な疑問への回答を得る。木星天では正義の統治をおこなった皇帝や王たちの魂が鷲の姿をとって彼らを迎えた。時代や場所の制約でキリスト教を知らなかったが、善良で悪を犯すことなく死んだ者の魂は、どうなるのかと質問すると、鷲は限られた人間の知恵で神の無限の意志は理解できないと言いながら、神の意志に合致するものだけが正しいという。そして神の正義を地上で実現するという使命を果たさず、悪政を行っている地上の王たちを非難する。

全宇宙を光で照らす天体が
私達の半球で沈んでいき、
昼間の光があらゆる場所で消えていく頃、

空は先ほどまでその天体によってだけ輝いていたが、
一つの光源を反射している
数多の光によってすぐにまた姿を現す。
(298ページ) ダンテの『神曲』の世界のもとになっているプトレマイオスの宇宙金は、すべての補遺は太陽の光を反射して輝いているとされた。太陽が沈んだ後、惑星や恒星が太陽の光を反射して、ダンテたちを照らした。恒星は自分で光っており、太陽はそのような恒星の1つにすぎず、太陽よりもはるかに明るい恒星が宇宙には数多く存在すると天文学者たちが明らかにするのは、もっと後のことである。最近出版されたガリレイの『星界の報告』(講談社学術文庫)は1610年に彼が望遠鏡を作成して行った天体観測の結果をまとめたものであるが、そこでは惑星が望遠鏡で見ると拡大されて円形に見えるのに対し、恒星はそのような明確な形を示すことはないと語られている。

地上世界とその統治者たちの形象が
祝福された嘴を沈黙させた時、
この空の変化が私の記憶のうちに浮かんだ。
(同上) 鷲はローマ皇帝権を表し、それは神が人類に与えたあるべき統治権力であることがこれまでも繰り返されてきた。

 鷲が沈黙すると、木星天の魂たちの歌う歌が聞こえる。そして、再び、鷲が声を発して、ダンテに語り掛ける。鷲は、鷲の目の部分を見るように言う。地上の鷲が太陽を直視できるといわれるように、天国の鷲も正義の源泉である神を直接見ている。そして神を見ているために目の部分はもっとも高貴な存在であった。鷲の姿を作っている王たちの魂の中で、目を輝かせている者達は、最高の地位を占めているという。
瞳の中心で輝いている者は
聖霊を歌った詩人であった。
彼は都市から都市へ聖櫃を引いていった。
(301ページ) 鷲の目の中心にいる魂は古代イスラエルの王ダヴィデであった。彼は旧約聖書の「詩編」の作者とされる。「詩編」は神がダヴィデの口からその言葉を発したものだと考えられており、ダヴィデの功績は、自由意志で神の意志に沿ったことにある。

 この後では、その目の上の眉を作っている5人の帝王の魂が紹介されていく。
余の眉の曲線を作る5人のうち、
余の嘴に最も近いものは、
息子を失った哀れな寡婦を慰めた。

今や彼は知る、この甘美な生とその逆を経験したために、
キリストに続かぬことが
どれだけ高い代償を払うか。
(302ページ) ローマの五賢帝の1人に数えられるトラヤヌスは『煉獄篇』第10歌にも紹介されているように、「息子を失った哀れな寡婦」のために、息子の仇を討った。中世にはそれに感動した教皇グレゴリウスⅠ世が神に祈って彼の魂を地獄のリンボから一時地上に呼び返し、洗礼を行ってキリスト者にしてから天国に送ったという伝説があった。歴史上の現実のトラヤヌスはキリスト教信者を迫害していたのである。ここでダンテはこの皇帝が地獄(といってもリンボであるが)と天国とを経験したことで、キリスト教信者であることの意義を確認しているという。

 その隣にいるのはユダヤの王ヒゼキヤである。北のイスラエルと南のユダヤに国が分裂し、東のアッシリア、西のエジプトの2大強国に挟まれて、苦しい立場にあったが、『旧約』の『列王記』には「父祖ダビデが行ったように、主の目にかなう正しいことをことごとく行」(下18-3)ったと記されている。預言者イザヤの助けもあり、アッシリアの大軍の攻撃を受けたが、その大軍が一夜で壊滅したことで危機を脱した。ところが、そのころ、彼は病気になり、自分の行いを改悛して神に祈ったために命を15年間延ばしてもらったという。『列王記』と『イザヤ書』に見られる説話であるが、後者の方が詳しい。
今や彼は知る、永遠の裁きが
不変であることを、下界で価値ある祈りが
今日を明日に延ばそうとも。
(302-303ページ) ヒゼキヤの跡を継いだ子どものマナセは悪い王様だったと記されているので、彼が長生きしたことは、すべてではないにしても、ユダヤの多くの人々にとってはいいことであったのではないかと思われ、その点では永遠の裁きにかかわるダンテのこの言葉に疑問が残る。

 次に紹介されるのはキリスト教を公認したコンスタンティヌス帝(272-337)で、そのことよりも帝国の都をローマからコンスタンティノープル(イスタンブール)に移したことが問題にされる。ダンテは、皇帝が東に移動し、教皇が西ローマの統治権を引き継いだと主張していることを批判する。
 その次は善政により善良王とあだ名されたシチリア王グリエルモⅡ世(1153-89)である。
今や彼は知る、天空がどれほど
正しい王を愛しているかを。そしてそのことを
彼の輝きの強さに見せ続けている。
(304ページ)

 5人目の王はトロイア人のリーペウスである。彼はウェルギリウスの『アエネーイス』にわずか3行だけしか登場しない、リーペウスである。彼はトロイア落城の際にアエネーアースと行動をともにするが落命した。「(彼は)並ぶものなき正義の士で/テウクリア人の間で誰にもまして公正を守ったのに/神々にはそう見えなかったのだ」(アエネ2.426-428)。
今や彼は知る、神の恩寵について
地上の人々が理解しえない多くを。
その視線はそこまで見通していないのだとしても」。
(同上) トラヤヌスとリーピウスは異教徒であり、鷲の目と眉を構成する魂たちの中に異教徒が混じっていることにダンテは驚く。彼は問題にしていない様子であるが、うるさいことを言えば、ダヴィデとヒゼキアは聖書に登場するとは言うものの、キリスト教以前のイスラエル(ユダヤ)の王である。別の解釈をすれば、ここでダンテは宗教を超えた人類の融和の可能性を垣間見せているとも考えられる。

倉本一宏『戦争の日本古代史 好太王碑、白村江から刀伊の入寇まで』

5月24日(水)晴れのち曇り

 5月21日、倉本一宏『戦争の日本古代史 好太王碑、白村江から刀伊の入寇まで』(講談社現代新書)を読む。

 倉本さんは、その著書をこのブログでも取り上げたことがあるが、藤原道長の日記『御堂関白記』や、道長時代に天皇と公卿たちの間の連絡調整の任を果たした能吏にして能書家の藤原行成の日記『権記』、道長の権勢に阿らず是々非々の態度を貫いて『賢右府』と呼ばれた藤原(小野宮)実資の日記『小右記』の口語訳や、これらの史料に基づいた研究で知られる日本古代政治史、子機六額の研究家である。壬申の乱についての研究業績があるとはいえ、倭国が成立した時代から平安時代の末までの対外戦争を概観する書物を書いたことには、意外な気持ちを抱かされた。

 「はじめに 倭国日本と対外戦争」という書き出しの部分で強調され、その後本文でも何度か繰り返されているのは(倭国→日本は戦争を(ほとんど)しなかった国」であり、戦争の経験は乏しく、もっとはっきり言えば下手であるという主張である。しかしその一方で倭国と朝鮮半島の諸国の関係以来、蓄積されてきた帝国観念が近代におけるアジア侵略に影響を及ぼしていることも間違いないという。倭国が成立して以来、刀伊の入寇に至る対外紛争の歴史を実証的にたどることで、これらの問題に取り組むというのが著者の意図である。

 この書物の構成は次のようになっている:
 はじめに 倭国・日本と対外戦争
第1章 高句麗好太王との戦い 4~5世紀
 1 北東アジア世界と朝鮮三国
 2 百済からの救援要請
 3 高句麗との戦い
 4 倭の五王の要求
第2章 『任那』をめぐる争い 6~7世紀
 1 百済の伽耶進出
 2 新羅の伽耶侵攻
 3 「任那の調」の要求
第3章 白村江の戦 対唐・新羅戦争 7世紀
 1 激動の北東アジア情勢
 2 新羅との角逐と遣隋使
 3 唐帝国の成立と「内乱の周期」
 4 白村江の戦
 5 「戦後」処理と律令国家の成立
第4章 藤原仲麻呂の新羅出兵計画 8世紀
 1 「新羅の調」と律令国家
 2 新羅出兵計画
第5章 「敵国」としての新羅・高麗 9~10世紀
 1 「敵国」新羅
 2 新羅の入寇
 3 高麗来寇の噂
第6章 刀伊の入寇 11世紀
 1 刀伊の入寇
 2 京都の公卿の対応
終章  戦争の日本史
 1 蒙古襲来 13世紀
 2 秀吉の朝鮮侵攻 16世紀
 3 戦争の日本史――近代日本の奥底に流れるもの
 おわりに

 一見して分かるように、最も重点を置いて論じられているのは白村江の戦いである。著者が繰り返し強調しているように、前近代の倭国→日本が実施に海外に派兵して戦争した例は5世紀の対高句麗戦、7世紀の白村江の戦、16世紀の豊臣秀吉の朝鮮侵攻の3回だけであり、特に中国と戦争した経験は後の2回だけである(秀吉の侵攻は、この書物の主な関心の外にある)。その後の北東アジアの勢力関係が白村江の戦によって決まったといっても過言ではないので、これは当然のことであろう。

 第1章では初期倭王権の対外関係を、石上神宮(奈良県天理市)に伝わる七支刀の銘と高句麗好太王碑(中国吉林省集安市に現存)の銘から推定している。
 北東アジア世界で最初に政治的成長を遂げたのは中国の東北地方から朝鮮半島北部に影響力を持つ高句麗で、北方のツングース系民族である貊(はく)族を主体としていた。中国から朝鮮半島に進出してきた勢力と戦いつつ、半島の南にある百済との抗争に注力するようになった。その百済は4世紀に馬韓を統一して成立し、4世紀後半の近肖古王の時代に勢力を拡大し、高句麗との抗争を続けた。高句麗に対抗するために中国の南朝の東晋に朝貢して冊封を受け、一歩上伽耶諸国と結び、さらに倭国に接近した。356年には朝鮮半島南東部の辰韓を新羅が統一した。朝鮮半島南東部は農業などの生産性が低く、地理的にも中国との交渉に不便で、高句麗に従属せざるをえなかった。なお、朝鮮半島南部の弁韓(弁辰)は統一されないまま、伽耶ショックとして小国が分立市た。それは小盆地がそれぞれ独立した地形を形成しているという地理的理由とともに、この地域が鉄資源に恵まれていたからである。朝鮮半島や倭国はこの地域の鉄生産に依拠していただけでなく、倭国の対半島交渉の中継地でもあった。
 4世紀の後半に倭国と百済との間に王権レベルでの通交が生じる。そのことを示すのが七支刀の銘である。高句麗に対して軍事的に劣勢にあった百済は倭国に軍事援助を求めて接近したと考えられる。「これまで本格的に国家間の交渉というものを知らなかった倭王権は、百済からの誘いに一も二もなく乗せられてしまった…。そしてそれが、今日まで続く半島と我が国との関係の出発点となったのである。」(28ページ)
 好太王碑の碑文を解読すると、391年以来、百済の要請を受けて倭国の軍は都会し、共同の軍事行動をとって新羅に攻め入り、400年には新羅・伽耶戦線で、404年には百済北部の帯方界戦線で、いずれも高句麗と戦って大敗したことが推定できる。敗戦の原因は重装歩兵を中心とした倭国軍に対し、組織的な騎兵を繰り出した高句麗が戦力的に勝っていたことによるものと考えられる。またこの敗戦を機に百済との同盟意識、新羅への敵対意識が生まれたこともその後の展開に大きな影響を及ぼした。

 5世紀の倭の五王時代になると、倭国は中国に朝貢して冊封を受けるとともに、新羅や伽耶諸国に対する軍事指揮権を獲得し、実際には軍隊は派遣しなかったものの、自分たちの「天下」の中に朝鮮半島諸国が含まれるという意識が後世まで残ることになったのである。
 次回は第2章、第3章の内容を検討することにしたい。

カルヴィーノ『まっぷたつの子爵』

5月23日(火)晴れ、気温が上昇した一方で、風もかなり強く吹いている。

 5月19日、カルヴィーノ『まっぷたつの子爵』(岩波文庫)を読み終える。20世紀後半のイタリアを代表する作家のひとりであるイタロ・カルヴィーノ(Italo Calvino,1923-86)が1952年に発表した、彼自身にとっての第2作。第二次世界大戦中に自らが参加したレジスタンスの経験をもとに書き上げた「くもの巣の小道」(1946、出版は1947)の後、冷戦時代を迎える中で新しい文学を模索していた彼が、ほんの手すさびのつもりで書き始めたという寓話的・幻想的な小説である。

 むかしむかし、イタリアのテッラルバ(夜明けの土地という意味だそうである)の貴族であるメダルド子爵はキリスト教徒の皇帝の軍に加わってトルコ人と戦うためにボヘミアの平原に馬を進めていた。不吉な予兆があちこちに見られたにもかかわらず、子爵はまだ若く
「あらゆる感情が一度に噴き出して、善悪の区別も定かにつかない年ごろだった。そして死の影に満ちたむごい経験であっても、そのひとつひとつがみな新しく、人生の愛に熱くおののいて見える年ごろだった。」(8ページ)

 トルコ軍との戦闘の中で、(無知も手伝って)勇敢にも大砲の真正面に立ちはだかっためどるとは、砲弾を浴びて、空中に吹き飛んだ。戦闘が終わって、死傷者の体が収容され、選別されたが、メダルド子爵の体は負傷者の車に収容された。しかし病院で調べてみると、彼の体は「右半分だけしか助からなかった。ただし助かった部分は完全に無傷な状態を保っていた。」(22ページ) 軍医たちの手術の結果、「まっぷたつになりながら、彼はいま生き返った。」(23ページ)

 戦場から帰ってきたメダルド子爵を迎えたテッラルバの人々は、彼が右半分だけの体になって戻ってきたことを知る。メダルド子爵は、息子の帰還を待ち受けていた父親のアイオルフォ子爵に挨拶もせずに自室に引きこもった。息子が悲しくも野蛮な性質になって戻ってきたことを予測していたのであろうか、父親歯芸を仕込んでいた小鳥を息子の部屋に使いに出すが、その小鳥は片翼をもがれ、片足をむしりとられ、片目を抉り取られたむごい死骸となって窓の外に投げ捨てられていた。父親は床に臥せり、まもなく息を引き取った。

 父の死後、メダルドは城を出るようになった。見るもの、触れるものをすべてまっぷたつに切り落として歩き回っていたので、従僕たちが彼の後を追うのは容易であった。メダルドのおいで、物語の語り手である少年はかごに入った半分のきのこを与えられるが、それは毒キノコであった。メダルドの乳母であったセバスティアーナは、「メダルドの悪い半分が返ってきたのだ。今日の裁判もどうなることやら」(35ページ)と心配した。
 領地で起きた事件を裁くのは領主である子爵の権限であった。子爵は被告である山賊たちに強盗の罪で、山賊たちが密猟者だといった被害者のトスカーナの騎士たちを、密猟の罪で、そして密猟者の悪事に気付かず山賊行為を予測できなかった職務怠慢の罪で警務員たちにまで縛り首の刑を言い渡した。
 絞首台つくりの仕事を請け負わされたピエトロキョード親方は実直で、腕の立つ職人だったので、処刑者の中に自分の知人がいることに悩み苦しみながらも、今回の死刑囚よりもはるかに多い罪人を一度に処罰することの出来る絞首台を作った。そこで子爵は、罪状ごとに、それぞれ10匹の猫を同時に縛り首にすると宣告した。

 叔父が自分の領地を勝手に支配している時代であったが、語り手にとっては幸せな日々が続いていた。アイオルフォ子爵の娘でメダルドには姉にあたる母親が、密猟者と駆け落ちして、その結果生まれた子どもであり、父親も母親も死に、祖父のアイオルフォのお情けで子爵の城に引き取られてセバスティアーナに育てられた彼は、主人でもない、使用人でもない立場にあって、自由を享受していた。そして、イギリス人でキャプテン・クックの航海にも乗り組んだことがある(航海の最中は下の船室でトランプばかりしていたという話である)。テッラアルバで暮らすようになってから、彼は医者らしい仕事はあまりせずに、自分の研究に没頭していた。語り手の少年はその研究の助手として森の中を歩き回っていたのである。彼が人魂の研究をしているという話を聞いて、メダルド子爵は領主におさめるべき農作物をきちんと差し出さなかったという理由で農民10人を死刑にした。トレロニー博士はこの援助に震え上がってしまった。
 しかし、子爵の恐怖政治のもとでも、喜びがないわけではなかった。テッラアルバにはきのこ平という集落があって、ライ病にかかった人々が住んでいた。彼らは他の人々の施し物で生きていたのであるが、自分たちの畑でいちごを作っていて、そのおかげでいちご酒には1年じゅう不自由せず、ほろ酔い加減を続けていた。
 メダルド子爵は悪行を続け、あちこち放火して歩いただけでなく、乳母のセバスティアーナがライ病ではないのに、きのこ平に追いやってしまう。海岸でカニをとっていた語り手に向かい、メダルドは半分になったタコを見せながら、「もしもお前が半分になったら、…普通の完全な人間の知恵では分らないことがおまえにもわかるようになるだろう。おまえはおまえの半分を失い、世界の半分を失うが、残る半分は何千倍も大切で、何千倍も深い意味をもつようになるだろう。そしてお前はすべてのものがまっぷたつになることを望むだろう、お前の姿どおりにすべてのものがなることを。なぜなら美も、知恵も、正義もみな断片でしか存在しないからだ」(72ページ)という。語り手はこの言葉が聞こえないふりをしながら、自分の周囲の人々がみなまっぷたつの姿をしていることに気付く。「彼こそは、ぼくたちが仕える主人であり、ぼくたちがあ逃れることのできない、主(あるじ)だった。」(73ページ)

 語り手である少年と、テッラアルバの人々は、この半分だけの子爵の暴虐から逃れることができるのであろうか。

 パソコンの調子が悪く、ほとんど書きかけたこの稿の原稿が2回も消えてしまったので、本来ならば1回で済ませるはずだった紹介の論評を2回に分けることにした。起伏に富んだ物語の進行の中で、一方で幻想的な記述があるかと思うと、その一方で森や海岸の動植物についての詳しい記述もあって読んでいて飽きない。後半では、子爵がある娘に恋をして、物語の構成要素がさらに膨らんで面白くなる。 

夏目漱石『虞美人草』(4)

5月22日(月)晴れ、気温上昇

主要登場人物
(甲野家)
 外交官であった当主が任地で没し、先妻の生んだ長男の欽吾(27)、後妻、後妻の生んだ娘の藤尾(24)の3人暮らし。
欽吾 大学で哲学を勉強し、卒業後は特に職に就くこともなく思索にふけっている。財産は妹の藤尾に譲って、家を出ようと思っているが、義理の母親が本心と逆のことばかり口にしているので、悩みが深まっている。
藤尾 「紅を弥生に包む昼酣(たけなわ)なるに、春を抽(ぬき)んずる紫の濃き一点を、天地(あめつち)の眠れるなかに、鮮やかに滴(した)たらしたるが如き女である。夢の世を夢よりも艶(あでやか)に眺めしむる黒髪を、乱るるなと畳める鬢(びん)の上には、玉虫貝を冴々(さえざえ)と菫(すみれ)に刻んで、細き金脚(きんあし)にはっしと打ち込んでいる。(以下略、23ページ)」と漱石は描写している、<紫>の着物を好む美人である。宗近家の長男である一と、父親同士では結婚の内約があったが、英語の家庭教師をしてもらっている秀才で詩人の小野に心を移している。
藤尾の母 義理の息子である欽吾に不満を持ち、外交官試験に落第した宗近一にも愛想をつかし、卒業に際して銀時計をもらった秀才の小野を将来有望と考えて、藤尾の婿に迎えようとする。しかし、外聞を気にしてその本心とは逆のことばかり言う。

(宗近家)
 甲野家とは遠縁であるが、家庭の様子はかなり違っている。母親は没した様子であるが、第一線を引退したらしい父親と、長男の一(28)、娘の糸子(22)の3人が、下女の清、あまり役に立たない書生の黒田と仲良く暮らしている。甲野家がよかれあしかれ観念的・思弁的(あるいは審美的)傾向があるのに対し、こちらは実際的・実用的な傾向が強い。
一 大学卒業後、外交官試験を受験したが、落第。2度目の受験をしたらしいが、その結果はまだわからない。藤尾からは趣味が合わないと嫌われ、藤尾の母からは馬鹿にされているが、まだ藤尾との結婚をあきらめてはいない様子である。国士的な気概と実際的な能力を持つ男性で、妹想いの兄でもある。
糸子 「丸顔に愁(うれい)少し、颯(さつ)と映る襟地(えりじ)の中から薄鶯の蘭の花が、幽(かすか)なる香を肌に吐いて、着けたる人の胸の上にこぼれかかる。」(88ページ)と漱石は描写している。裁縫が好きな家庭的・実用的な性格で、教養も才芸も豊かとはいえないことで藤尾に劣等感を抱いているが、欽吾は糸子の方が好ましいと思い、糸子も欽吾に思いを寄せている。
宗近の父親 実業家であったのか、官吏であったのかは不明。引退して、謡や盆栽、骨董など趣味三昧の生活をしている。自分の子どもや欽吾など若い世代とよく話し、尊敬を受けている。

小野清三(27) 恵まれない環境に生まれ育ったが、京都で井上孤堂先生の世話になって頭角を現し、文科大学を優等の成績で卒業して銀時計を得た。博士論文の執筆中である。孤堂先生は娘の小夜子と結婚させたい意向であるが、本人は英語の家庭教師をしている藤尾の美貌と財産とに惹かれ始めている。孤堂先生が京都の住まいを引き払い、小夜子とともに東京に移住してきたことで決断を迫られている。

井上孤堂 小野さんが若いころに世話をした。教師をしていたらしいが、今は年金暮らしである。昔気質の老人で、京都から東京に出てきて、当惑しながらも、娘と小野さんの結婚に夢をつないでいる。
小夜子(21) 孤堂先生の一人娘。東京の女学校を中退して、京都で暮らしはじめて間もなく母を失い、父と二人暮らしである。「真葛が原に女郎花が咲いた。すらすらと薄を抜けて、悔(くい)ある高き身に、秋風を品よく避けて通す心細さを、秋は時雨れて冬になる。茶に、黒に、ちりちりに降る霜に、冬は果てしなく続く中に、細い命を朝夕に頼み少なく繋なぐ。冬は五年の長きを厭わず。淋しき花は寒い夜を抜け出でて、紅緑に貧(まずしさ)を知らぬ春の天下に紛れ込んだ。地に空に春風のわたるほどは物みな燃え立って富貴に色づくを、ひそかなる黄を、一本(ひともと)の細き末に頂て、住むまじき世に肩身狭く憚りの呼吸(いき)を吹くようである。」(133ページ)と、漱石は彼女の境遇、性格、容姿をひとまとめにして女郎花に譬えている。女郎花の花は秋に咲き、淡黄色であるから、春と紫のイメージを重ねられている藤尾と対照的に描き出されている。京都での住まいの隣の旅館から彼女を見かけた宗近君が「藤尾さんよりわるいが糸公より好いようだ」(52ページ)と遠慮のない感想を述べている。東京に戻ってきたが、小野さんとの距離が出来てしまったことに引け目を感じている。

これまでのあらすじ
 京都に旅行に出かけた宗近君と甲野さんは、旅館の隣に住む娘(小夜子)を嵐山への花見でも見かけ、さらに東京に帰る汽車にも乗り合わせているのに気づく。2人の留守中に藤尾と小野さんの関係は深まっているのだが、そんなことを知らない孤堂先生は小夜子を連れて東京に出てきたのである。上野で開かれている博覧会に出かけた宗近君、甲野さんは、小野さんが孤堂先生と小夜子を案内してやってきているのを見かけ、彼らの関係に薄々と気づく。2人に同行していた藤尾と糸子も3人の姿を見て、それぞれの感想をもつ。翌日、小夜子は小野さんと買い物に出かけようとするが、小野さんは他に用があるのでと同行を断り、買い物を引き受ける。小野さんの訪問を受けた藤尾は、小野さんからしばらく顔を見せなかった事情を聞き出し、いよいよ小野さんの決断を迫る。

13
 散歩に出かけた甲野さんは宗近君の家に立ち寄るが、宗近君もその父親も不在で、使用人も取次に出ないので、家にいた糸子が相手をする。糸子は前日の博覧会で、兄が噂をしていた京都の女性を見かけたことを話題にする。小野さんが「美しい方を連れていらしったでしょう」(227ページ)と言い、兄と甲野さんが何度も彼女と出会っているという話を面白がるが、甲野さんは宗近の家の庭の片隅に咲いている鷺草(さぎそう)とも菫(すみれ)とも判断できない花に、糸子の注意を向けさせて、小夜子をこの花に譬える。小さいので、その美しさに気付く人がいない哀れな花だと言い、自分の美しさを利己心の満足のために利用する(そんなことははっきりとは言わない)藤尾のような女は、小夜子のような女を5人殺すとまで言う。そして糸子には、今のままでいる方がいい、結婚すると女は変わると言い残す。
 「可愛らしい二重瞼がつづけ様に二、三度またたいた。結んだ口元をちょろちょろと雨竜(あまりょう)の影が渡る。鷺草とも菫とも片浮かぬ花は依然として春を乏しく咲いている。」(232ページ)
 糸子は、当惑している様子である。偶然というか、行きがかり上そうなってしまったということではあるが、甲野さんの言っていることはあまり適切な発言とは思えない。遠まわしすぎて、通じにくいが、甲野さんの言葉をつないでいけば、糸子が好きだけれども結婚してうまくやっていく自信がないということであろう。それを糸子がどの程度理解したか、あるいはそういう「空気」だけを感じたのか、というのは今後の物語の展開の一つの要素となる。(漱石の描き出した小夜子の像と、甲野さんのとらえている小夜子の像がどのように違っているかというのも興味ある問題である。)
 物語の展開とは関係がないが、この時代には「鷺草」というのは普通に見かけられた草花であったようだ。今では九品仏浄真寺など限られた場所でしか見ることのできない植物になってしまった。

14
 外出中の宗近君は小野さんが紙屑籠とランプの台をもって歩いているのを見かけて、呼びとめる。小野さんは小夜子から聞いた買い物をして、孤堂先生の家に向かう途中なのである。藤尾を宗近君から奪うという意識がある小野さんは何となく落ち着かないが、宗近君は博覧会で見かけた小野さんの連れについて質問する。宗近君と別れた小野さんは、孤堂先生の家に急ぐ。
 一人で留守番をしていた孤堂先生は体調が悪く臥せっていたが、起きてきて、小野さんの相手をする。小夜子との結婚についてはっきりさせることを急ぐ先生に対し、小野さんは2・3日の猶予を申し出る。先生の家を出た小野さんは落ち着かない気分で、歩きながら道の向こう側を歩いて帰ってくる小夜子と下女の二人連れをやり過ごす(この時代の道は狭いけれども暗かったので、こういうことがありえたのであろうか)。

15
 甲野邸を訪問した小野さんは欽吾が使っている(もとは彼の父親のものであった)書斎を羨ましく思い、この書斎が自分が使えたらと空想にふける。その書斎では甲野さんがイタリアの厭世的な詩人であるジャコモ・レオパルディ(1798-1837)の『随想録』を読みながら抜き書きをしている。
 その間、藤尾とその母は小野さんを夫として選ぶという藤尾の決心を欽吾に話したか、この決心が宗近の方に伝わっているかについて話している。母親は話が伝わっているはずだというが、藤尾はもっとはっきり言うべきだと主張する。母親は藤尾と小野さんが大森へ行くという約束を思い出す。当時大森は行楽地として知られていて、2人で出かけるということは既成事実を作ってしまおうということであった。
 甲野さんの部屋に出かけた母親は藤尾の面倒を見てほしいというが、甲野さんは藤尾の方で世話になるつもりはないだろうという。藤尾の縁談を話題に持ち出すのに先立って母親は甲野さんに結婚する意志があるのかどうかを質問する。甲野さんは藤尾の方を先にした方がいいだろうという。家も財産も藤尾にやると甲野さんはいうが、母親はそれでは世間に対して面目が立たないという。そして藤尾と小野を結婚させたいというが、甲野さんは宗近の方がいいのではないかという。母親に呼ばれてやってきた藤尾は宗近君ではなく、小野さんを選ぶという。「趣味を介した人です。温厚の君子です。――哲学者には分らない人格です。あなたには一さんは分るでしょう。しかし小野さんの価値(ねうち)は分りません。決して分りません。一さんをほめる人に小野さんの価値が分る訳がありません。…‥」(298ページ)

 自分の優柔不断を悩んでいる小野さんを「温厚の君子」というのは藤尾の買い被りである。もっと問題になるのは、有名な『日記』を残したスイスのアンリ・フレデリック・アミエルや、もっと有名なところを引き合いに出せばフリードリッヒ・ニーチェに見られるように詩と哲学とは対立するものではないということである。甲野さんが日記にレオパルディの語句を書き記すのは暗示的である。藤尾は自分は兄と違って詩を理解していると思っているが、実は甲野さんの方が詩を理解していると漱石は仄めかしているように思われる。

『太平記』(159)

5月21日(日)晴れ、気温上昇

 建武3年(1336)4月末、都を追われて九州で再起を図っていた足利尊氏・直義兄弟は播磨の赤松円心の勧めで、大宰府を発った。途中、安芸の厳島明神に参篭、その結願の日に、都からかねて待ち望んでいた光厳院の院宣がもたらされた(これは歴史的な事実ではなく、院宣を得たのはもっと早い時期であったとされている)。備後鞆の浦(現在の広島県福山市)で軍勢の手分けを行った足利軍は、尊氏が海路から、直義が陸路から東上した。5月15日、直義軍が備中福山城を落とすと、義貞は摂津兵庫まで退却した。ここで尊氏・直義の軍が合流するのを待ち受けて、一戦交えようという腹積もりである。
 この知らせを受けた後醍醐天皇は楠正成に兵庫に向かって義貞を助けるように命じた。正成は足利方の大軍を防ぎとめることは難しいので、再び天皇が比叡山に行幸されて、都を足利方に明け渡し、正成と義貞がゲリラ戦で足利方を苦しめ、形勢を逆転することを進言するが、この提案は退けられた。正成は死を覚悟して兵庫に向かうのであった。

 正成はこれが自分の最後だと思っていたので、長男である正行が11歳になって、父親のお供をしようとついて来たのを、桜井の宿(大阪府三島郡島本町桜井)で自分の本拠地である河内の金剛山に送り返すことにした。そして泣きながら、庭訓(父が子に与える教訓)を言い渡す。「獅子は、子どもを産んで3日経つと、はるかに高い岩のがけから、母親が子どもを投げる。投げられた獅子の子に獅子としての資質があれば、途中で身を翻して飛び上がって、死なないという。(今、自分は獅子の親が子どもを崖の下に投げるように、子どもの器量を試すべき時に来ている。獅子の場合は、生まれてから3日目であるが)おまえは既に10歳を超えている。いろいろなことがわかる年頃だと思うので、私のいうことをしっかり覚えていて、それを間違えず実行してほしい。
 今回の兵庫での戦いは天下分け目の合戦だと思うので、この世でお前の顔を見るのもこれが最後だと思う。正成がすでに戦死したという情報が広がれば、天下は必ず将軍(足利尊氏)のものとなるだろう。そうなったとしても、当座の命を助かるために、楠一族の長年の忠節を捨てて、武家方に降参するという不義のふるまいをするということがあってはならない。一族郎党のものが1人でも生き残っているうちは、楠一族の本拠地である金剛山に立て籠もり、敵が押し寄せてくれば、命を経偉人にさらして、名を後世に残すべきである。それこそがおまえの親孝行と思うべきである」と涙をぬぐいながら言い含め、父親は兵庫の戦場へ、息子は河内の金剛山へと別れていったのである。その様子を見守っていた人たちは、心猛々しい武士であっても、父子の心中を推し量って、鎧の袖を濡らさないものはなかった。
 この逸話は昔の教科書などに記されて、大きな影響力を持った。もう60年ほど前に死んだ私の伯母が、動物園でライオンの親子を見て、「獅子は万仞の石壁より、母これを投ぐれば」というけれども、実際にライオンを見ると、母親が子どもをとてもかわいがっていると言っていたのを思い出す。とはいっても、ネコ科の動物は高いところから落ちても、体勢を立て直してけがをせずに済ませることができるというから、この話もまったく嘘ではない。なお、正成・正行父子の桜井の宿での別れを歌った「青葉繫れる桜井の」という歌は、小津安二郎の映画『彼岸花』に出てくるので、私の耳に残っている。

 『太平記』の作者はこの後、秦の丞相であった百里奚が息子である孟明視が出陣する際に、自分は老齢であるので息子が帰還するころにはもう会えないだろうと言って泣いたという話を引き合いに出して、正成・正行親子の父子二代にわたる忠義を称賛する言葉を記しているのだが、自分の知識をひけらかしているだけで、却って、感動を薄めているのではないかという気がしないでもない。

 このような次第で、楠正成は兵庫に到着する。新田義貞はすぐに正成と対面して、後醍醐天皇のご意向がどのようなものかを訪ねた。正成は、自分の考えと、天皇のお言いつけの内容を詳しく語った。義貞は、(正成の都をいったん去って足利方に明け渡したうえで、ゲリラ戦で苦しめて、その士気をそいでいくという正成の戦術について理解を示しながら)、「このたびの戦で不利な立場に立った少数の軍勢で、勢いに乗った敵の大軍と戦おうとするのは、無理が多いというのは承知しているが、昨年、箱根・竹下の合戦で敗北し、そのまま都に落ち延びて、途中で敵を防ぎとめることができなかったことで、世の人々の嘲りを避けることができなかった。それだけでなく、このたび西国に派遣されて、敵の数か所の城の一か所も陥落させることができないうちに、敵の大軍の襲来を聞いて、一戦も交えず、京都までの長い道のりを逃げてしまったのでは、あまりにふがいないと思われるので、勝敗を度外視して、この一戦で忠義のほどを示そうと考えるばかりだ」という。

 正成は、「愚かな大勢のものが言い立てる意見は、一人の賢人の言葉に劣る」という言葉もありますから、兵法を知らない人々のそしりを必ずしも気に掛ける必要はありません。ただ戦うべきところを知って進み、退くべきところを見て退くのをよい大将というわけですから、「暴虎馮河して、死すとも悔いなからん者には与せじ(虎に素手で向かったり大河を徒歩で渡ったりして、死んでも後悔しないような無謀な者とは、行動をともにすべきではない/論語・述而)と孔子もその弟子である子路を戒めたものです。義貞様にあっては、元弘の初めに北条高時を鎌倉で滅ぼし、今年の春は、尊氏卿を九州に敗走させたこと、天皇の聖運とは言いながら、やはり貴殿の武士としての徳によるものではないかと思われませんか。合戦のやり方については誰も非難しません。さらにこのたび西国から京都に退却されていること、その戦術、いちいち合戦の道理にかなっていると思われます」と語る。
 この言葉を聞いて、義貞は顔色が明るくなり、二人で夜を徹して語り合ったのであった。「貴殿の言われることを聞いていると、義貞の武勲も、一概に軽くは見られていないのは、私にとって励みになることだ」と言い、その夜は数杯の酒を飲み交わしたのであった(本来ならば、もっと飲みたいところだったのだろうが、明日は合戦と思うと控えなければならない・・・というのが、両者の気持ちが酒飲みには余計によくわかる箇所である)。
 武士の面目を気にする義貞と、現実主義者の正成という性格の違いがある一方で、義貞は戦いで敗れた後のことを気にしているのに対し、正成はこの一戦に死を覚悟しているというまったく逆の内心の動きも知られる箇所である。治承・寿永の源平の争乱の際にも重要な戦場となった兵庫で、一戦交えるというのは義貞らしい決断ではあるが、勝機を見出すのはかなり難しい。狭い地形の中では軍勢の多寡よりも、士気や指揮官の戦術が物をいう可能性が高いが、そうはいっても、彼我の軍勢の差が大きすぎるのである。 

日記抄(5月14日~20日)

5月20日(土)晴れ、気温上昇

 5月14日から本日までの間に経験したこと、考えたことなど:
5月14日
 前日(13日)のJ2第13節水戸ホーリーホック対横浜FCの対戦は0⁻0で引き分けに終わった。横浜FCはこれで2位に後退。水戸はおそらくこれまで最も多く対戦しているチームだと思うが、それだけのことはあってそう簡単には勝たせてくれない。

 『朝日』の朝刊で木村草太さんが道徳教育について考える際に手掛かりになりそうな書物を3冊あげていた中に、当ブログでも取り上げたパオロ・マッツァリーノ『みんなの道徳解体新書』(ちくまプリマー新書)が含まれていた。この書物がもっとも重要なことだと論じているのは、「自分とは違う人間が世の中に存在することを認める努力」(174ページ)であるが、これは木村さんが取り上げている残り2冊のうちの1冊、辻田真佐憲『文部省の研究 「理想の日本人像」を求めた百五十年』(文春新書)で文部省(→文科省)が追求してきたと言われていることとどのような関係になるのか、それが考えてみる際の出発点の1つとなるだろう。

5月15日
 NHKラジオ「まいにちイタリア語」でイタリアから日本にやってきた青年が、彼を迎えた日本の友人に
Perché hai deciso di studiare l'italiano? (何でイタリア語の勉強をすることにしたの?)
と質問している。こう聞かれても、それほどはっきりした理由があるわけではない場合が少なくない。日本語の勉強にしても同じことかもしれない。イタリア人パートナーのフィオーレさんは日本語を勉強するようになった理由として、ヨーロッパのものではない言語を勉強したかった、その中で日本の文化や歴史に魅力を感じていたからと言い、アンドレアさんは外国の言語や文学が好きだったので、日本語と日本文学を選んだのだ、初めはそれほど夢中ではなかったのが、やっているうちにのめりこんだと話した。選ぶきっかけは偶然に近いものであっても、やっているうちにのめりこむということはありそうだ。もちろん、やっているうちに向いていないと気づいてやめることもあるはずである。

5月16日
 『朝日』の朝刊に大学の授業の1コマがふつう90分であったのが、100分に延びる傾向にあるという記事が出ていた。私が大学に入った時は110分であった。90分が一般的になったのは1970年ごろからであろう。110分といっても、先生が遅れてきたり、早くやめたりで融通が利いた。英語の授業などでは、自治委員がクラス討論をしたいので早めにやめてくださいと掛け合ったりした。授業時間があまり短いとそういうことがしにくくなる。よしあしである。

5月17日
 研究会と重なったので見に行けなかったのだが、ニッパツ三ツ沢球技場でJ2第14節横浜FC対カマタマーレ讃岐の対戦があり、横浜が2-1で勝利して、首位を奪回した。比較的下位にいるチームではあるが、これまでの対戦成績から見ると分がよくない相手である。まあ、勝ったことで良しとしよう。

5月18日
 NHKラジオ「まいにちフランス語」応用編「インタビューで広がるフランス語の世界」の第11課で、フランス人講師のヴァンサン・ブランクールさんは次のように述べた:
  Je crois qu'un des intérêrets de la francophonie, c'est de nous amener, nous Français, à réfléchir sur notre passé colonial. Aujourd'hui, à travers la langue française qui nous est commune, nous pouvons nous pencher sur ce passé douloureux qui nous est aussi ommun.
(フランス語圏を知る意義の一つは、われわれフランス人に植民地時代の過去について考えさせることだと思います。現在ではフランス語という共通言語を通して、われわれが共有したいたましい過去について検討することができます。)
痛みは両方にあるというときの、痛みがどのようなものかを語り合うべきだというのであろう。 

NHKラジオ「まいにちイタリア語」応用編「描かれた24人の美女」の第11回は、ミケランジェロのミカンに終わった最後の作品である<ロンダニーニのピエタ>を取り上げていたが、作品を解説するイタリア語の文はミケランジェロの遺した詩行から始められていた。
 Giunto è già 'l corso della vita mia
con tempestoso mar, per fragil barca...
(Michlangelo Buonarroti, Rime, N.285)
 わが人生の航路ももはや終わらん。
 壊れかけた小舟で、荒れ狂う海を行くがごとき航路を
 (ミケランジェロの「詩集」から、池上英洋訳)
 ミケランジェロは彫刻家、画家、建築家であるとともに詩人でもあったことがわかる。

5月19日
 イタロ・カルヴィーノ『まっぷたつの子爵』(岩波文庫)を読み終える。面白かった。この小説については、また機会を見つけて取り上げるつもりである。

 さらに高橋呉郎『週刊誌風雲録』(ちくま文庫)を読み終える。さまざまな週刊誌の興亡を著者自身の経験を踏まえて内側から語っている。週刊誌というメディアについて一応のことを知るためには便利な本である。この本でもところどころで触れられているが、海外の週刊誌(あるいはそれに類した雑誌)と日本の週刊誌はどこが違うのかということがもっと掘り下げられていたら、もっと面白かったのであろうが、そこまでを望むのは無理かもしれない。
 そういえば、『朝日』の朝刊に雑誌の図書館である大宅文庫が財政難に陥っているので、運営費の募金活動をしているという記事が出ていた。大宅が雑誌を情報源として活用していたのは有名な話だが、現在活躍中の池上彰さんなどもやはり雑誌を活用している様子である。誰か、雑誌活用術の本を書いたら、側面からの援助になるかもしれない。

5月20日
 少し間隔があいてしまったのだが、医師の診察を受けに出かけ、その後、薬局で薬をもらう。22日には、別の病院で別の病気の診察を受けることになる。なかなか大変である。

 明日(21日)は13時から小机で横浜FCシーガルズの試合があるので、どこかで弁当を買って見に出かけるつもりである。22日には病院の帰りに映画を見ようと考えている。さらに27日には18時から横浜FCと名古屋グランパスの対戦があり、これも見逃せない。病気だ病気だと言いながら、あちこち遊びまわっている。この調子ではろくなことが起こりそうもない。 
 

吉田茂・吉田健一・河上徹太郎「親子対談」

5月19日(金)晴れ、気温上昇

 1998年に小沢書店から刊行された『吉田健一対談集成』は座談の名手であった吉田が加わったさまざまな対談・座談を集めた書物で、英国や文学をめぐり、(少数の例外はあるが)同時代の一流の人士との意見交流が、主題についての多くの(少しばかり古めかしくなっているが、有益であることに変わりはない)知識や理解を与えてくれる。この対談集の冒頭に収録されているのが、『改造文芸』の昭和24(1949)年7月創刊号に掲載された吉田とその父親で、当時首相であった吉田茂(1878-1967)の親子対談であり、吉田の師匠筋である文芸評論家の河上徹太郎が第三者として加わっている。

 次のような前書きがある:
 定刻目黒の外相官邸へ着くとすぐ、二階の私室へ通される。よく手入れの行届いたフランス式の庭には梅雨が煙り、机の上には雑然と積まれた書類の上に、今まで読んでいたらしい「ライフ」が投げ捨ててある。首相「今日は何のお話をすればいいんです?」河上「ことによると議会より大変ですよ」といい乍ら、一同座につく。(9ページ)
 吉田茂は外相も兼務していたから、外相官邸に住んでいても不思議はない。いまの首相は官邸と公邸とをもっているが、当時は官邸の中に個人的な生活の場も設けられていたということらしい。なお、この官邸というのは現在の東京都庭園美術館であることが、対談を読んでいくとわかる。だから「目黒」と書いてあるけれども「白金」と書く方が適切ではないかと思う。季節は梅雨に入っており、7月号に掲載されたということで、雑誌発行当時は最新の情報を含んでいたと考えられる。通常国会の議事が終わって、首相としても一休みというところであるが、文学雑誌の取材ということで、ちょっと当惑しているところがあるかもしれない。

 河上が「今日は一つ政治に関係のないお話を‥‥。」と切り出すと、首相は「なんでも話しますよ。いまの日本は政治的にはどうせうまくゆきっこありませんよ。」とかなりざっくばらんな態度で対応する。この政治家が、少なくとも首相になって最初のころは、自分は本来外交官であって、政治については素人であると自認していたことがわかる発言もある。ワンマンといわれた吉田茂ではあったが、自分の能力を冷静に見つめる側面もあったようである。それでも日本はぼちぼち復興していることが話題にされ、戦勝国である英国が依然として耐乏生活を続けようとしていることを評価する。

河上 あなたは健一君をイギリスの学校へお出しになりましたけれども…‥。
首相 あれは私よりは私の家内が熱心に主張しましてね。
河上 その目的は功を奏しましたかしら。
首相 さあ、どうですかね(健一さんを見て微笑)。まあ、日本にいて不良少年になるよりかよかったでしょう。(笑)
健一 でも、イギリスへいったお蔭で、このごろずいぶん稼いでおりますよ。
首相 そうかい。親の所へ少しは持ってくるといい。(笑)
健一 それほどじゃないんだけども。(11ページ)
 吉田茂の妻(健一の母)雪子は昭和16(1941)年に死去していたが、外交官出身で各種大臣を歴任した政治家の牧野伸顕(1862-1949)の娘である。ここでの茂・健一の親子の間の距離の保ち方が絶妙で面白い。
 吉田茂はずっと日本で教育を受けたので、外国の文化について勘が働かないところがある。子どものころから外国に出かけて教育を受けると、そのあたりが違ってくるのではないか。白洲次郎などを見ているとそう思うというのが吉田茂の感想である。

 イギリスの小説ではどんなものを読むかという河上の問いに対し、吉田茂はクリスティはよく読んだという(この時代だから英語で読んだのであろう)。クリスティの小説には単に推理小説としての面白さだけでなく、イングランドの風土や人情についての詳しい描写があるので、この国で暮らした人間にとっては懐かしく読める部分がある。吉田茂は駐英大使の経験があるから、クリスティを懐かしい気持ちで読んでいたかもしれない。
 日本の小説では「鞍馬天狗」(大佛次郎)を読んでいるという。外相官邸はもともと朝香宮邸であったので、宮様の蔵書が残っていて、その中の「宮本武蔵」(吉川英治)だの「新書太閤記」(吉川英治)だのを引っ張り出して読んでいるという。
健一 パパは矢田挿雲の「太閤記」を読んだでしょう。
首相 矢田・・・・・? そうだったかな。
健一 吉川英治のはどうですか。
首相 あまり面白くないね。
健一 人生教訓みたいなものが入ってるからでしょう。
首相 さあ、それもあるかもしれない。もうお談義はたくさんですよ。(笑)
 70歳を超えた父親に対し、40歳に近づいている息子が「パパ」というのはどうもすごいねえと思う。吉川英治の作品の人生教訓的な部分を父子ともにあまり好まないというのは注目してよい(日本の経営者や教育者に吉川英治があたえた影響というのはかなり大きなものではなかったかと思うのだが、この親子はそういう流れとは無縁であったわけである)。

 読書以外では、以前は新国劇をよく見たが、ここ10年ほどはご無沙汰しているという。映画は見ない(当時のことだからテレビはまだない)。
河上 じゃ、お疲れをやすめるのは、大体何ですか。
首相 寝ますね。尤も睡れなくて困ってるんですけれども。
河上 武道の方は何かなすったんですか。
首相 いや、何にもしません。子供の時に親父で撃剣で殴られて以来、しないことにしています。
健一 馬はずいぶんお早いんでしょう。
首相 馬は乗ったけれども。
 吉田が武道とは関係がなかったというのが興味深い。親父というのは実父の竹内綱であろうか、養父の方であろうか。父親の暴力で、武道が嫌いになったような言い方である。いまの政治家は、学校で武道を教えさせたがっているが、吉田が生きていたら賛成するだろうか。

 吉田茂は能書家であった(以前、『開運!なんでも鑑定団』に吉田茂の書が出品されたことがあり、明治の元勲たちほどではないが、近年の政治家の中では吉田の書は出色であるという評価が語られていた)が、特に手本とする書家はなく、独創であるという。健一は「パパに書いていただいたお蔭で、ぼくの家の表札、非常に立派ですよ。」(16ページ)と思いがけないことを言う。
 話は清水崑と首相との付き合いや、政治漫画についての首相の感想から、政治家とジャーナリズムの関係に移っていく。かなり微妙な話も含まれるが、それは機会を改めて紹介することにしたい。

 この対談の主人公は明らかに父親の方であり、息子の方はまったくの添え物であるが、時々、座の空気を和らげたり、父親の意外な側面を引き出す援護射撃をしたりで、後年における座談の名手ぶりの片鱗を見せている。文学の話とはいっても、登場するのはクリスティやドイル、吉川英治で、話題がかなり限られているが、高橋哲雄(1989)『ミステリーの社会学』(中公新書)によるとミステリーを楽しむのは、幾分なりとも教育のある社会層であって、これにくらべると一般小説の方が受け皿は広いのだそうである。(日本の時代小説にもミステリーと多少似た部分があるのではないかという気がする。) それで漱石や鷗外の話題というのも出てこないのだが、『虞美人草』の登場人物で外交官志望の宗近一が明治40(1907)年に(数え年で)28歳という設定になっていることを思い出した。ということは明治13(1880)年生まれで、11年生まれの吉田茂よりも少し年下ということになる。吉田茂は杉浦重剛の日本中学校に学んだことがあり、座談の後半に出てくるように漢籍の素養もあり、欧米一辺倒という人物ではなかった。この時代の外交官というのは多かれ少なかれ、国士的傾向があったのかなと考えたりもするのである。 

ダンテ・アリギエリ『神曲 天国篇』(19-2)

5月18日(木)曇り、一時雷が鳴って雨が降り出したが、午後になると晴れ間が出てきたりして、変わりやすい天気であった。

 ベアトリーチェに導かれて、ダンテは地上から天空の世界へと旅立ち、月天、水星天、金星天、太陽天、火星天を経て、木星天に到着する。木星で2人を迎えた魂たちは、Diligite Iustitiam qui iudicati terram(正義を愛せ、地を統べる者達よ」という文字を綴った。その文字は次にMの字のままでしばらくとどまり、さらに鷲の形に変化した。太陽の光を受けて輝く宝石のような無数の星が集まってできている鷲の姿は、一人称複数ではなく、一人称単数で話した。
 翻訳者である原基晶さんの解説によると、太陽は神を象徴するので、これらの魂は神の恵みの光を直接見て、それを言葉にしてダンテに伝えていることが暗示されている。またさまざまな時代の様々な統治を担った魂たちが一人称単数で話すことは、結局、正義を実現するための統治は神の名のもとに一つであるというダンテの思想を示しているという。
 その神を見ている鷲に、ダンテは自分の疑問を解いてくれるよう頼んだ。それに対して、わしはすぐに回答せず、創造主と被造物との関係から、神と地上の事物や人間の能力との関係について語る。神は無限であるが被造物は有限であり、被造物の有限で不完全な理解力では、神意「永遠の正義」の完全な理解に達することはないという。

 その後、魂たちはダンテがこれまでの来世の旅を通して抱くようになった疑問に対する回答を語る。ダンテの疑問とは、キリスト教が普及していない時代や場帆に生まれた人物が、「善良で」罪を犯すkとなく生き、生まれた時代も場所も自分が選んだわけではないのに「洗礼を受けずに信仰なしに」死んだ場合、これを罰することが正義なのか、地獄に堕ちるとするならその罪は何なのかというものであった。魂たちは言う:
では、千里も離れた場所から
手のひらの幅ほどのわずかな視界で裁きをつけようと、
裁き手の座に座りたがるおまえとは、いったい何者だ。
(289ページ) 狭い限られた人生の経験で「千里も離れた場所」にある神意をすべて理解できるわけがない。とはいうもののその有限な理解力にふさわしく語られている聖書の導きに従って生きるべきである。
第一の意志はおのずから善であり、
至高善であるがゆえに、自らを離れたことはない。

その意志に調和する事物だけが正しい。
造られた善がその意志を引き寄せることは一切なく、
その意志こそが、光を放つことで作られた善の源となっている。
(290ページ) 「至高善」である神の「意志に調和する事物だけが正しい」というのである。さらに「永遠の審判は必滅のおまえたちには理解できぬ。」(291ページ)と神の意志の不可知性が繰り返される。

 鷲の形を保ったまま、魂たちは語った。
・・・「この王国に
キリストを信じなかったものが昇ってきたことはない。
その方が十字架へと磔にされる前であれ後であれ。
(292ページ)   しかし、キリスト教を信じていると言いながら、神の意志に反して地上の統治をおこなっている人々が少なくない。
その者どもは、裁きの時になると、キリストを知らない者より
その方からはるか遠く離れたところにいるであろう。

そしてかようなキリスト教信者どもをエチオピア人は非難することになる、
永遠に富み栄える人々と、貧窮する者ども、
二つの集いに分れる時に。
(292ページ) ここで「エチオピア人」というが、エチオピアは北アフリカを指し、エチオピア人は異教徒を代表してこのように表現しているという。実際にはエチオピアは独自のキリスト教を信じる人々が多い国なので、ダンテは(時代の制約とは言いながら)ここで無知をさらけ出していることになる。とにかくダンテは、彼の同時代の、神の意志に背き、キリストの名を権力の道具にした王たちを列挙して、糾弾している(中には、的外れの非難を受けた王様もいたようである)。こうして第19歌は終わるが、鷲の言葉はさらに続く。

キリスト教を信じるか信じないか(あるいはその中でどの宗派に属するか)の方が、善か悪かよりも重大な問題なのかというのは(カトリックの学校に通っていたので、当時は公教要理といった)キリスト教の教義にかかわる課外活動でいろいろと議論された問題である。聞くところでは、最近は自然法に従って悪いことをしなければ天国に行けるという考えが支配的になっているという。つまり善悪の問題の方がキリスト教を信じるか信じないかよりも重大だということになってきているそうである。しかし、そうなると、キリスト教を信じなくてもよいということになるのではないか。 

ジョン・スチュアート・ミル『自由論』の周辺(2)

5月17日(水)曇り

 ジョン・スチュアート・ミル(John Stuart Mill, 1806-73)は1859年に出版された『自由論』(On Liberty)の中で、大衆民主主義が実現していく過程で、多数者が自分と意見の違う少数者を圧迫する「多数者の専制」(The tyranny of the majority)現象が起きることを警告し、個人が自分自身について決定し実行することは、基本的にその個人当人の自由なのであって、他人が多数意見だからといってそれに反することを強制したり統制したりすることはできないはずだと論じた。唯一、干渉してよいのは、他者が自分に暴力をっくわえようとしている時に、それを阻止するという正当防衛と見なされる場合だけであるという徹底した自由主義、個人主義の立場を主張している。

 彼はこの主張に続いて、この書物の第2章で思想と言論の自由(the liberty of thought and discussion)について考察する。ミルは思想と言論の自由が認められなければならない4つの理由を述べている。
 ① ある主張を権威として認める多数の人々が、異論を唱える少数の人々を抑圧しようとしているが、実は少数者の異論の方が正しい場合があるということである。権威が常に無謬であるということはあり得ない。アテナイの市民によるソクラテスの裁判やローマ帝国によるキリスト教の弾圧などの例を想起すればよいという。(日本では徳川幕府と勤王の志士の関係を思いうかべるのがよいだろう。)
 ② 大体において間違っている意見であっても、部分的に真理を含んでいる可能性がある。そして衝突しあう意見の片方が真理であるということはまれであるから、両方の意見を戦わせることによって、それぞれの意見から真理を引き出してより良い意見を作っていくことが望ましい。
 ③ 支配的な意見が真理であっても、それに対する反論がなされ、議論が展開される方がその真理性についての理解が深まるはずである。ミルは政治を健全な状態に置くためには、「秩序あるいは安定の党」(a party of order or stability)と「前進あるいは改革の党」(a party of progress or reform)とが存在することが必要であるという。「二つの考え方のいずれにも、理性を失わせず常軌を逸させないものは、主として相手方の反対というものなのである。」 
 ④ ある意見を支持する立場が、特に異論もなくそのまま継承されていくことは硬直化や形骸化に導く恐れがある。
 そして、反対派に対して敬意をもち続けることが公共の議論における最大の道徳であると述べてこの章を締めくくっている。
 真理が人知からきわめて遠いところにあって、自分たちは真理への道の途上にあるという意識が強く感じられ、社会で権威をもって主張されている意見の無謬性が疑われていることが特徴的である。この書物が発行された1859年はダーウィンの『種の起源』が出版された年であることも付け加えておく必要があるだろう。

 第3章は個性(individuality)について取り上げ、伝統や習慣に基づいてではなく、個人個人が自分の責任において行動することが重要であると述べる。そして大衆的な民主主義が発展する中で、個人個人が他人の思惑を気にして日常生活に埋没し、世の中が凡庸化していることを憂慮し、そのような社会の改革に向けて「天才」が指導的な役割を演じることを期待している(自分自身をどのように考えていたかも気になるところである)。さらに凡庸化する社会の中でむしろ奇矯な行動が容認される必要があると論じているのも興味深い意見である。

 第4章では「個人を支配する社会の権威の限界」(the Limits to the Authority of Society over the Individual)について論じられ、ある個人の自分自身だけに関係のある事柄と、他人に関係のある部分とを区別して、後者については社会の支配は及びうるが、前者は放任すべきであるという。ミルの個人主義の特徴が強く出た議論で、<愚行権>(例えば、大酒を飲むのは健康によくないからといって止めるのは不必要な干渉で、本人の損になるような愚行であると思っても止めるべきではない)の問題もここから出てくる。(しかし「受動喫煙」というような問題もある。)

 以上、ミルはかなり徹底した個人主義を掲げて、自由の問題について議論している。彼の議論の根底にあるのは、各個人は社会の中でいわば原子のようなものとして独立に存在しているという考えであるが、彼の時代の様々な社会問題をこの考え方で解決することは難しいことにもミルは気づいていた。彼が社会主義に関心を寄せたのもこのことと関連すると思われる。 

ジョン・スチュアート・ミル『自由論』の周辺

5月16日(火)晴れのち曇り

 明日(5月17日)にある研究会でジョン・スチュアート・ミル『自由論』(On Liberty, 1859)についての発表をすることになり、準備中である。その準備の中で考えたことを、いくつか書き連ねていこうと思う。

 ミル(John Stuart Mill, 1806-73) は英国の功利主義(utilitarianism)を代表する哲学者・論理学者の1人であり、古典学派に属する経済学者でもあった。哲学者としては、『論理学体系』(System of Logic, 1843)、『功利主義』(Utilitarianism)など、経済学者としては『経済学原理』(Principles of Political Economy, 1848)などの著作があり、このほか彼の時代の政治・社会問題について発言する多くの論説を残した。その中でこの『自由論』はもっとも有名で、よく読まれてきた著作である。日本では中村敬宇が『自由之理』として明治5年(1872)に翻訳を発表しているが、著者の意図を十分に反映したものではなかったようである。(小泉仰によると明治7年に西周が『明六雑誌』に発表した西周の「人生三宝説」は、ミルの功利主義を十分に理解した上に、さらにその学説を発展させた独創的な論文だそうであるが、今、ここでそのことにこだわっている余裕はない。)

 ミルでよく知られているのは、彼が父親であるジェイムズ(James Mill, 1777-1836)によって3歳からギリシア語、8歳からラテン語、12歳から論理学の教育を受けるという大変な英才教育を施されたことである。このことをめぐり小泉仰が次のように述べているのはおおむね賛同できる意見である:「ジェイムズの徹底した合理主義的教育は、ミルの天才的素質があったからこそ有効に働いたということができるが、一方で、いろいろな問題を含んでいる。その一つは、ジェイムズが自分の教育方針を徹底させるために、ミルが他の少年たちと遊ぶことを禁じてしまったことである。このために、学校教育の重要な教育的意義の一つでもある社会教育や実践的な教育を、ミルに与えない結果になった。つまり、ミルを実験室の中に閉じ込めてしまうような不自然さをともなうことになった。言い換えると、ミルは、社会生活に役立つ実践的訓練を受けられず、実際的人間であるよりは、知る人間としての教育だけを受けることになった。こうした隔離教育の面だけから見ると、彼の受けた教育は、「人造人間」の教育であるという批評は、ある程度当てはまりかもしれない。」(小泉(1997)『イギリス思想叢書10 J.S.ミル』研究社出版、15⁻16ページ)
 ここで小泉がいう「社会教育」というのは学校外で行われる組織的な教育という意味ではなくて、子どもの社会性の発達を促す教育というような意味であろう。長じてミルは東インド会社に35年勤務し、1865⁻68年には下院議員を務め、女性の権利の擁護など、当時の社会的な問題の多くに関心を寄せ、改革運動に積極的に関与した。だから、社会的関心や行動能力が父親の教育によって育たなかったとは考えられないが、彼の著作の中から感じられる孤独の悲哀のようなものはその結果であったかもしれない。

 『自由論』は1859年に発表された。チャールズ・ダーウィンが『種の起源』を出版したのと同じ年である。ミルはこの書物が意思の自由という哲学的(神学的)問題ではなくて、「市民的、あるいは社会的自由」(civil, or social liberty)を主題としていると最初に断っている。人間は社会的な存在であり、もし社会の中で各人がそれぞれ勝手に行動すれば混乱が起きる。そこで法律なり規則なり、あるいは慣行なりによってそれぞれの自由を制限する必要がある。だから社会的自由の問題は、言い換えると社会はどのような理由でどこまで個人の自由を制限できるのかという問題になる。

 歴史的にみると自由と権威の問題は民衆(その全部あるいは一部)と政府の問題として展開されてきた。しかし、民主主義の流れが強まると、民衆の選挙によって政府が選ばれるようになり、問題は変質した。民衆の間の利害は同一ではないし、それゆえに彼らの意思も一つにまとめられるわけではない。選挙によって政府を選ぶということは結果的に、「人民の意志は、実際には人民の最多数の部分または最も活動的な部分の意志」(ミル、塩尻公明・木村健康訳『自由論』、岩波文庫、14ページ)ということである。その多数者が自分と意見の違うものを圧迫するという「多数者の専制」(the tyranny of the majority、塩尻・木村はtyrannyを「暴虐」と訳している)が彼の時代における政治的害悪の最大のものの一つとなっているとミルは説く。一ノ瀬正樹はこの点について「多数決によって何かを決定していく、という一見民主主義の基本的なプロセスの中に宿る、ある種の不当性、暴力性をミルは見取っていたのであった」(一ノ瀬『英米哲学史講義』、ちくま文庫、148ページ)と指摘している。また、一ノ瀬がフランスの哲学者コンドルセの「投票のパラドックス」を引き合いに出して、多数決が必ずしも正確に民意を反映するものではないと述べているのも見逃せないところである。(一ノ瀬、前掲、155ページを参照のこと)

 一ノ瀬によると、ミルには個人が自分自身について決定し実行することは、基本的に、その個人当人の自由なのであって、他人が多数意見だからといってそれに反することを強制したり統制することはできないはずだという徹底した自律的個人観があった。個人もしくは集団は、万人に自明な原理によってこそ、個人の行動の自由に正当に干渉できるというのがミルの意見である。そして、そのような原理は「他人に対する危害の防止」(他者危害原則)であるという。つまり、他者の行動に干渉できるのは、他者が自分に暴力を加えようとしているときに自分がそれを阻止しようとして相手に手出しをするというような場合、つまり正当防衛の場合だけで、それ以外の場合は他人に害を加えないのだから本人の自由に任せてほうっておくべきだというということである。(一ノ瀬がこの後で論じているように、ミルの議論の中にもおかしい部分があって、それをどのように補ったり修正していくべきかということも問題となる。)

 そういえば、午前中、スーパーマーケットの弁当売り場にいたら、近くにいた老人が売り物の弁当のパックを勝手に開けて中身をむしゃむしゃ食べているのを見かけた。この人がその後で代金を払えば問題はないとは思うが、どうも気になることであった。ミルは、他者危害原則は精神の未発達な人間には適用されないと述べているが、彼の時代には認知症の老人というような存在は問題にならなかったようである。

 この後、「言論と思想の自由」、さらに一ノ瀬さんが注目している「愚行権」をめぐる議論についても取り上げたかったのだが、考えをまとめることができないままでいる。明日は研究会の準備をして、ブログの更新は帰宅後ということにするつもりなので、明日中には無理かもしれない。また、皆さんのブログへの訪問もできそうもないので、悪しからずご了承ください。 

夏目漱石『虞美人草』(3)

5月15日(月)曇り

 今回は12から15までを取り上げ、第4回で16から19までを取り上げて、4回でまとめようと思っていたのだが、書くことが増えてきたので、これまでのあらすじに加えて、12だけでとめておくことにする。

これまでのあらすじ
 甲野藤尾(24)は外交官であった父親が急死して、腹違いの兄欽吾(27)と母親の3人で暮らしている。遠縁にあたる宗近一(28)とは父親同士で結婚の約束があるような、ないような関係であるが、伝統的な価値観の持ち主で行動的な一があまり気に入らない。藤尾はその宗近よりも、英語の家庭教師をしてもらっている文学士の小野清三(27)に惹かれている。小野は詩人でもあり、気の弱いところがあるが、それを彼女は優しさと受け取っているようである。彼は卒業に際して銀時計をもらった秀才で博士論文を執筆中である。ところが彼は以前に井上孤堂という老学者に世話になっており、その孤堂先生が京都の家を引き払って上京してくるという。先生の一人娘である小夜子(21)のことが心配で、早く小野さんと結婚させたい様子である。
 欽吾は一と2人で気晴らしに京都に旅行に出かけるが、一は宿の隣に住む琴を弾く娘が気になる。嵐山に花見に出かけた時にも、東京に帰る汽車の中でも2人は娘とその父親らしい老人を見かける。新橋駅に着いた2人は、小野さんとすれ違う。上京してきた孤堂先生と小夜子を小野さんが出迎えたのであった。
 一と欽吾、藤尾と一の妹の糸子(22)の4人は、当時上野公園で開かれていた博覧会に出かけ、そこで小野さんが孤堂先生と小夜子を案内している姿を見る。

12
  孤堂先生と小夜子を博覧会に案内した翌日、小野さんは下宿で思案している。この章は小野さんの詩と人生についての思案から始まるが、さらにその前に「貧に誇る風流」(187ページ)である発句(俳句)についての作者自身の議論から書き出されている。俳句革新の旗手であった子規は言うまでもなく漱石の親友である。小野さんは「これを卑しとする」(同上)という。「ひとくぎりの文章を俳句をひねるように苦心して書きついでいった」(422ページ、桶谷秀昭の解説)小説の登場人物としては不遜な態度である。
 小野さんは詩人として創作に励むのには金が要ると思う。「――文明の詩は金にある。小野さんは詩人の本分を完うするために金を得ねばならぬ。それだけでなく、孤堂先生の世話をするためにも金は必要である。「金は藤尾と結婚せねば出来ぬ。結婚が一日早く成立すれば、一日早く孤堂先生の世話が思うようにできる。」(189ページ)という論理を小野さんはめぐらす。

 こうして小野さんが孤堂先生の世話のために、しばらくご無沙汰していた甲野の家に出かけようと腰を上げると、下宿に小夜子がやってきて、所帯道具をそろえるために勧工場(明治・大正時代に多くの商店が組合を作り、1つの建物の中に種々の商品を陳列して販売したところ。百貨店の発達により衰えた)に出かけたいが、一緒に来てくれないかという。小野さんは必要なものは自分が勝ってそろえると言って、小夜子を返す。そして、甲野の家に出かける。この場面で、下宿屋の下女が小野さんと小夜子の関係について勝手に想像をめぐらしている様子、また、小夜子のすらりとした姿の描写などが目に留まる。

 一方、藤尾は自分のプライドにかけて、小野に前夜の行動を釈明させようと待ち構えている。
 「我が立てば、虚栄の市にわが命さえ屠(ほふ)る。逆しまに天国を辞して奈落の暗きに落つるセータンの耳を切る地獄の風は割れ(プライド)! 我!と叫ぶ。」(199ページ)
 前回、サッカレーの『虚栄の市』について書いたが、ここで漱石が「虚栄の市」と書いているのは、ジョン・バニヤン(John Bunyan, 1628-1688)の『天路歴程』(Pilgrim's Progress)に出てくる「空の市」を念頭に置いていると考えられる。ただし、新教出版社版の『天路歴程』の翻訳者である池谷敏雄が注記しているように、「この空は空しいものの意で、虚栄という意味ではない」(池谷訳、前掲、167ページの頭注)。ついでに言うと、サッカレーの『虚栄の市』についても、この指摘は当てはまる。(要するにVanity Fairを「虚栄の市」と訳すのは誤訳であって、誰がこの誤訳を定着させたかは比較文学史上興味深い問題ではある)。
 それから、「セータン(サタン)の耳を切る地獄の風」というのは、ジョン・ミルトン(John Milton, 1608-74)の『失楽園』(Paradise Lost)を想起させるが、これに相当する箇所はないはずである。要するに、漱石が『天路歴程』と『失楽園』をヒントにして、藤尾の虚栄とプライドに根差す嫉妬心を描いていると考えてよかろう。
 そこへ、兄(甲野さん)がやっていて2人で前夜のことを話すうちに、父親の形見の金時計(子どものころから藤尾がおもちゃにしていて、それを与えられる男性が藤尾と結婚するという暗黙の了解ができている)は自分がこれと決めた人に渡すと宣言する。甲野さんは外出しようとして、小野に出会い、前夜彼らが小野たちを見かけたという。
 藤尾の母は甲野家の財産を実子ではない長男の欽吾(甲野さん)が譲ると主張しているのを、あくまでもらわないと主張して、しかも1日も早くもらってしまう方策を考えているのだが、思案に暮れて藤尾の部屋を覗く。藤尾が前夜、小野と小夜子の姿を見て嫉妬に狂っているとは知らないまま平凡な会話を交わす。前回も触れたように、藤尾が宗近君を嫌い、小野さんに好意を寄せるのは、小野さんが詩人で、宗近君が実際的な人間だからであるが、母親は小野さんは将来有望な秀才で、宗近君は外交官試験に落第してばかりいる(実際は1回しか落ちていない)のらくら者だから、小野さんの方が好ましいと考える。結論は同じでも、そこへ行く思考の過程が全く違っている。そこに悲劇が根差している。
 小野さんがしばらく顔を見せないことについて、「あの人と喧嘩でもしたのかい」「小野さんに喧嘩が出来るもんですか」「そうさ、ただ教えてもらやしまいし、相当の礼をしているんだから」(213ページ)という会話の食い違いなど、このあたりのことをよく示している。

 藤尾に会った小野さんは、甲野さんから藤尾たちが前夜博覧会に出かけていたことを聞いていたので、そのことを言いだしはじめると、藤尾は何も知らないふりをして、小野さんがここ数日こなかったのは恩師の世話であることを聞きだし、彼と一緒にいたのが恩師の令嬢であるという事情も相手には説明させずに探り当ててしまう。そして、小野さんの出方によっては宗近君の方に近づく可能性があると仄めかす。

 石崎徹さんのブログで、『虞美人草』の人間関係を『赤と黒』の人間関係と重ねて論じられていたのには、そういう見方もできるのかと考えさせられた。『虞美人草』の登場人物は、現実的な存在というよりも理念を体現した存在という性格が強い中で、小野さんだけが現実にいそうなタイプの人間に描かれている。実際、漱石の教え子の中に、小野さんのモデルだと言われた人物がいたという話を読んだこともある。今回、ちょっと言及した『天路歴程』は登場人物がすべて、その名前の通りの理念の体現者であるという物語で、リアリズムとは縁の遠い話であるが、漱石がどんな気持ちでこの作品を読んでいたかと想像してみるのも面白い。

 黒川創『漱石と鷗外のあいだで』を読んで考えたことについて書く余裕がなくなってしまったが、一つだけ書いておくと、経済的な余裕がなければ詩はできないという小野さんの考えに、漱石は批判的な口ぶりであるが、鴎外は翻訳に取り組む場合に「明窓浄机で、気を落ち着けて遣らねば、ろくな訳が出来はしない」(黒川、100ページ)と書いている。一般論という形ではあるが、ある程度の生活の安定がないと文学的な創造はできないという考えていた点では、漱石と対照的であるかもしれない。(実際は、漱石も金のことを気にしながら創作をしていたわけではあるが…)

 「日記抄(5月7日~13日)」で予告したことの半分も書けないうちに、今回のブログを閉じることになってしまった。かき切れなかったことについては、またおいおい補っていくつもりである。 

『太平記』(158)

5月14日(日)曇りのち晴れ間が広がる

 建武3年(1336、この年2月に「延元」と改元されたはずであるが、『太平記』の作者は旧年号を使い続けている)4月末に、宮方の攻撃を支えることができず、九州に落ち延び、そこで武士たちの支持を得て再起を図ろうとした足利尊氏は大宰府を発ち、安芸の厳島明神に参篭。結願の日、都から光厳院の院宣がもたらされた。(歴史的事実としては、尊氏が持明院統の院宣を得たのはもっと早い時期のことであり、厳島明神と院宣を結びつけたところに作者の足利方への配慮が感じられる。もっとも、足利氏は源氏であり、厳島神社は本来平家の守り神である。) 備後鞆の浦で軍勢の手分けをした足利軍は、尊氏が海路から、直義が陸路から東上した。5月15日、直義軍が備中福山城を落とすと、義貞は戦線を縮小して敵の大軍に有効に対処しようと摂津兵庫まで退却した。後醍醐天皇は楠正成に兵庫で義貞を支援するように命じた。これに対して正成は朝廷が都を放棄して、再び比叡山に立て籠もり、都に戻った足利軍を南北からゲリラ戦で苦しめて弱らせるという戦術を提言する。

 この正成の提言をもっともだとお考えになった後醍醐天皇は公卿たちに今後の戦術について協議させる。岩波文庫版の『太平記』が底本としているのは西洞院本であるが、この個所は『太平記』の様々な写本によって記述が異なる。なお、公卿たちの会議には天皇・摂政・関白は出席しない習わしであるが、建武新政時代にこの習わしが続いていたかどうかはわからない(私が知らないだけで、研究した人はいるのではないかと思う)。

 公卿たちの会議の後で、天皇が重ねて仰せられたのは、「朝敵を征伐するために、その印の刀を拝領して征伐に向かう将軍が、まだ本格的に戦っていないうちに、朝廷が都を捨てて、1年のうちに2度まで地方に行幸されるということでは、天皇の地位が軽いということがあからさまになってしまう。また官軍としての面目を失うことにいなる。尊氏がたとえ九州の軍勢を率いて上洛してきたと言っても、昨年の春、関東の8か国の軍勢を率いて上洛してきた時の勢いには及ばないであろう。戦いの始めから、敵軍の敗北の時にいたるまで、味方は小勢であったが、毎度敵を服従させないことはなかった。〔これは何度か書いてきたように、そのとおりである。しかし、今回は足利方は持明院統の院宣を得て、大義名分を獲得して戦いに臨んできている。〕 「これ武略の勝れたるにあらず。」(第3分冊、63ページ、武士の立てた戦略が優れていたからではない。)ということであった。これは正成が述べたことを真っ向から否定するものである。さらにそれに加えて、「ただ聖運の天に叶へる事の致す処なれば、何の子細かあるべき。ただ時を替へず罷り下るべし」(同上、ひとえに、帝(私)の運が天命にかなっていたための勝利なので、このたびの戦いにも何の支障があろう。即刻、罷り下るべきである)と仰せになった。〔足利方と持明院統の連携が成立し、足利方の士気が奮い立っていることに気付いていない様子である。〕

 正成が誠意をもって申し上げた献策が真っ向から否定されたのである。岩波文庫版の脚注によると、これを諸卿僉議の際の坊門清忠の発言とする異本もあるそうである。清忠は後醍醐天皇の近臣で、『太平記』第12巻では鎌倉幕府滅亡後も信貴山に留まって武装を解除していなかった護良親王に、後醍醐天皇の命を受けて僧籍に戻るように説得に出かけている。どちらにしても、もう少し言いようがあっただろうと思う。「聖運が天に叶」っているのであれば、正成を差し向けるのではなく、自分自身が出かけたらどうだと言いたくもなる。少なくとも、正成に対し、何か一言、あるいは褒賞の約束をして送り出すべきではなかったか。(あるいは実際にはそうだったけれども、『太平記』の作者がわざと書き落としたということもありうる。)

 自分の献策を全面的に否定された正成は、「この上は、さのみ異儀を申すには及ばず。且は恐れあり。さては、大敵を欺き虐げ、勝軍を全くせんとの智謀、叡慮にてはなく、ただ無弐の戦士を大軍に充てられんとばかりの仰せなれば、討ち死にせよとの勅定ござんなれ。義を重んじ。死を顧みぬは、忠臣勇士の存ずる処なり」(第3分冊、63ページ、これは敬語が使われていないので、正成の心の中の言葉と考えるべきである:この上は、むやみに異論を申し上げることはない。そうはいっても、一方では恐れが残る。大敵を策をもって懲らしめ、勝利を確実なものにするという謀は、天皇のお考えには無く、ひとえに忠義無類の武士を大敵に向かわせようとの仰せなので、つまるところは戦死せよという勅命であろう。義を重んじ、死を顧みないのは忠臣勇士の本懐とするところだ」と述べて、その日のうちに正成は500余騎の兵を率いて都を発ち、兵庫へと向かっていった。
 この言葉には一方でこれまで自分を引き立ててくれた天皇に対する恩義に報いようという気持ちと、その気持ちから発する自分の勝利のための戦術が用いられないこと、公卿たちの机上の空論に基づく自分への出動命令の思慮のなさに対しての怒りが交錯している。お公家さんたちの空理空論に死をもって抗議しようというのである。正成が戦死してしまえば(事実そのとおりになるのだが)、お公家さんたちは再び比叡山に逃れることになる。(だから初めから逃れておけばよかったと思っても後の祭りである。) 自分の将来についての割り切った気持ちと、朝廷や世の中の将来についての複雑な気持ちの両方が交錯する中で、正成は兵庫に向かう。

日記抄(5月7日~13日)

強調文5月13日(土)雨
 5月7日から本日までの間に経験したこと、考えたこと、また前回書き落としたことなど:
5月1日
 『朝日』の「俳句時評」で恩田侑布子さんが「震源としての俳句」と題して、中村草田男の俳句について書いている。「<萬緑の中や吾子の歯生え初む>など、人口に膾炙した句も多い」とあるが、一番有名なのは「降る雪や明治は遠くなりにけり」だろう。あまり有名すぎて引き合いに出すのが躊躇されたということだろうか。

5月2日、3日とバスの車窓から富士山が見えた。
まだ白き富士を遠くに見る五月
誰かがもう作っていそうな句である。

5月4日
 1919年のこの日、中国では北京の学生たちが山東返還などを求めデモを行い、それが全国に拡大した。5・4運動である。同じ年の3月には朝鮮で3・1独立運動が起き、前年の1918年8月には日本で<米騒動>が起きていた。

5月6日
 NHKラジオ第二放送の「朗読の時間」で漱石の「草枕」を聞く。若い頃に読んで、読み落としたところ、意味が読み取れなかったところに気付き、なかなか面白かった。

5月7日
 横浜FCはアウェーで東京ヴェルディと引き分け、首位を守った。
 プレナスなでしこリーグ1部で、ノジマステラ神奈川相模原が日テレベレーザと0-0で引き分けた。引き分けとはいえ、勝利に等しいような試合結果である(試合内容は知らない)。ノジマステラはカナダ人のGKが目立っているが、選手全員の力でこの結果を勝ち取ったということであろう。

5月8日
 宝塚の娘役から映画界入りして活躍した月丘夢路さんが亡くなった。「佳人薄命」という昔の中国の詩人の言葉を裏切って95歳の長寿であった。高峰秀子さんより1歳年長だったのだが、『二十四の瞳』では教え子(が成人した)役を演じた(『ジャイアンツ』でキャロル・ベーカーが自分より1歳年下のエリザベス・テイラーの娘の役を演じているのを思い出す)。これも美貌のなせる技であろう。出演作では川島雄三の『あしたくる人』の印象が強い(京都の場面が多いからかもしれない)。広島の出身で、自主製作映画『ひろしま』に五社協定を破り、出演料なしで出演したことでも知られる。宝塚の先輩で被爆死した園井恵子(『無法松の一生』の吉岡夫人役で知られる)と共演したことがあって、その時のことなど語っている資料があれば入手したいと思っている。ご冥福を祈る。

5月9日
 足立恒雄『無限の果てに何があるか 現代数学の世界』(角川ソフィア文庫)、吉田健一『酒談義』(中公文庫)を読み終える。足立の書物の中で、「無限」についてのパスカルの発言を批判している部分が興味深かった。パスカルという人は、数学者、自然科学者としては優れた才能を示した人だったようだが、キリスト教護教家としてはどうもお粗末ではなかったかという気がしてならない。

5月10日
 『朝日』に連載されている作家の北方謙三さんの想いで話の中に、新宿ゴールデン街にあった内藤陳の「深夜+1」という酒場のことが出てきて興味深かった。内藤が死んだので、この店もなくなったはずだが、確かなぎら健壱さんの酒場探訪記の中にこの店のことが紹介されていた。むかし、日劇ミュージック・ホールに時々出かけた時期があって、幕間に出演していた内藤を見たことを思い出す。

5月11日
 『朝日』の朝刊に、高等教育の無償化を実現するための「教育国債」の発行という議論に財政審議会で反対意見が続出したという記事が出ていた。その理由の1つは「高等教育は個人の利益になる面が多く、国の借金で賄うのは反対」というものであった。吉川徹『学歴分断社会』(ちくま新書)によると、今の日本社会では、大学卒業者が漸増してきたために、大卒者と非大卒者の学歴分断線がますますはっきりと社会の前面に出てきているという。つまり、高等教育を受けるかどうかは、個々人の幸福にかかわるというよりも、社会全体の経済をどのように発展させるかとか、社会統合をどのように実現していくかというより大きな視野からとらえるべきではないかと思う。だからと言って、むやみに国の借金を増やすべきではないことも確かではあるが…。
 同じ新聞に田中秀明さんが幼児教育をめぐる「こども保険」構想について「格差と不公平」を拡大させるという批判論を書いていて、この2つを合わせて読み、考える必要がありそうである。

5月12日
 黒川創『鷗外と漱石のあいだ 日本語の文学が生まれる場所』(河出書房)を読み終える。たぶん、一昨年に買って、途中まで読んでそのままにしていた本である。日本語による近代文学の成立について、単に日本だけでなく、中国(本土と台湾)、朝鮮における近代文学の成立まで視野に入れて論じた書物である。この本については、また機会を改めて取り上げることにしたい。
 石崎徹さんのブログを見ていたら、私の『虞美人草』に関連して、ご自身の『虞美人草』についての意見が記されていた。黒川さんの本を読んで、『虞美人草』執筆前後の日本の社会の様相が私の頭の中に十分に入っていたとは言えないことを感じたので、『虞美人草』について次に取り上げる際には、石崎さんの読み方についての意見、また私が読み落としてきたことについての補足なども記していくつもりである。

5月13日
 神保町シアターで『おふくろ』(1955、日活、久松静児監督)を見る。田中千禾夫の戯曲の映画化で、井手敏郎が脚本を書いている(田中の夫人で同じく劇作家であった田中澄江は映画の脚本も手掛けていたのだが、この映画化には加わっていないようである)。戦争で夫を失った母親(望月優子)は2人の子どもを懸命に育ててきたのだが、大学生の兄(木村功)の就職の話はなかなか進まず、高校生の妹(左幸子)もわがまま放題に生きている。家族3人、それぞれ心の中で将来のために良かれと考えていることがあるのだが、それがうまく伝わらないし、また伝えようともしないようである。兄の友人の役で、まだ頬を膨らませる前の宍戸錠がでているのがうれしい。まだ若かった左幸子も新鮮に思われた。

 すずらん通りの檜画廊で保坂優子作品展「テーブルに着くことから始めよう」を見る。この作家の作品展はかなり前に1度見て、その後何度も案内をもらったのだが出かけることができずにいた。人間と動物、あるいは自然が会話を交わすというような幻想的な主題を、かなり克明な描法で描いたエッチングとガラス絵が展示されていて興味深かった。

 「かばち」さんのブログを見ていると、現在、横浜駅周辺を探索中のようで、普段歩き回っている人間とは別の目からの発見があるだろうと楽しみにして読んでいるところである。 

神奈川の宿

5月12日(金)晴れのち曇り

神奈川の宿

五十三次の
神奈川の宿を描いた
広重の絵によれば
道端の茶店の向こうは
すぐに海だった

弥次喜多は
茶店の娘をからかった報いで
腐った魚を食べさせられたが、
眺めはなかなかよくて
安房、上総が遠望できた

60年ほどの昔
私の子ども時代にも
もう少し高いところからだと
安房、上総が見えたものだ
埋め立てと高層建築の建設が
海を遠くに引き離し
遠くが見えない都会を作り上げた
60年の変化は
その前120年の変化よりもはるかに大きかった

広重も
弥次喜多も想像できない
街並みを通り抜ける
知識という散文的なものの
助けだけを借りて
旧東海道の
神奈川の宿を通り抜ける

学校教育のなすべきこと

5月11日(木)晴れのち曇り

 5月9日の『朝日新聞』のコラム「経済気象台」は遼という執筆者による「天才・異能の戦略的育成」を提言していた。日本のこれまでの教育は、全体の学力を上げるということでは成果を上げてきたが、少数の天才や異能の人物の才能を伸ばすという点では後れを取ってきた。国家の教育政策として、もっと英才教育に力を入れるべきだというような議論である。反対ではないが、慎重であるべきだというのが私の意見である。わが横浜市では市立のサイエンス・フロンティア高校を設立するなど、英才教育の取り組みをしているが、その一方で原発事故の自主避難者の子どもに対するいじめ事件などが起きている。どちらを重視すべきかといえば、後者ではないかと思うのである。

 まず、天才とか、英才とかいうことの定義をはっきりさせる必要がある。さらにそれが教育や学校とどのようにかかわっているのかも問題である。
 学生時代に、尾崎雄二郎先生の中国語中級の授業の受講者一同が、先生を囲んでコンパをしたことがある(要するに単位をくださいとお願いしたのである)。そのときに、先生が、「大学の教授なんてものに天才はいないものですよ」というようなことを言われたのを記憶している。そのときは、理解できなかったが、今になると、先生が言われたことの意味が分かるような気がする。
 個人的な経験を押し広げて議論するのは危険ではあるが、私がこの世に生を受けて70余年。幸か不幸か天才といえるような人物に出会ったことはない。生まれつき優秀で、努力を重ねて、優れた業績を挙げた、あるいは社会的に高い地位に就いたというような友人・知人は少なからずいて、なかにはノーベル賞の候補だというのさえ含まれるが、天才だとは思わない。偉大な人物でも、身近に接していると、却ってその偉大さが分かりにくいものだと言われるが、それとも違う。偉大なのはわかっているが、その偉大さは天才ではなくて、大部分が努力だと思うからである。

 もちろん、努力は無限ではない。生まれつきの素質というものがある。英語ではgifted and talentedという言い方をして、giftedというのは生まれつき知性の点で優れていること、talentedというのは生まれつきその他の点で優れていることだそうである。遼さんが「天才・異能」というのはたぶん、このことを念頭に置いているのであろう。しかし、以上に述べた私の実感からすると、遼さんが言っているのは、秀才にその秀才ぶりにふさわしい環境を与えろという程度のことでしかない。天才というのはそういう尺度を超えた人間である。天才というのは、生まれつきのものである。大学は学校の一種であり、学校というのは多かれ少なかれ、規格品としての人材を生み出すところである。天才は規格品ではない。だから大学を含む学校に天才を生み出すという役割を期待すべきではない。その先生にしても然りである。(かのビル・ゲイツはハーヴァード大学を中退したではないか!!)

 だからと言って、青少年に潜在する素質を発掘し、それを伸ばそうとする努力が無駄だというつもりはない。しかし、ことは慎重を要する。英才と英才教育の概念をどのように考えるかという問題につづいて、ジョン・スチュアート・ミルとか、ノーバート・ウィーナーとか、子どものころから英才教育を受けたという個人の実例は少なからずあるし、アメリカの国家防衛教育法(1958)における英才教育の強調とか、旧ソ連や社会主義国における英才教育の実践の歴史などの先例もあるから、そういう例をもっと学ぶということが必要であろう。手元に詳しい資料がないから確かな事は言えないのだが、ウィーナーはあまりにも年少で大学に入学したために、大学での同輩とパーティーに出かけるというようなことはできず、家に帰って自分と同年齢の子どもと遊んで過ごしたという話を読んだことがある。大学(学校)は勉強するだけのところではなく、大学における社会生活も大事なのである。(遼さんは「飛び級」をもっと認めろという議論であり、私はそれに反対ではないが、あまり極端に強調するのはよくないという例を述べたつもりである。)

 学問研究にしても、芸術創造にしても社会的なものである。非ユークリッド幾何学の創始者の1人であるロシアのロバチェフスキー(1792-1856)は、カザン大学の教授どころか学長にまでなったが、「かんじんの三十数年を費やした非ユークリッド幾何学の方では完全に無視されて、ときには満場の失笑を買って、一生を終えてしまった」(足立恒雄『無限の果てに何があるか 現代数学への招待』、91ページ)という。1人のロバチェフスキーを生み出すことも大事だが、彼の業績を理解できる大学人を育てることも大事ではなかったのか。

 と、書いたところで、昔読んだ本の中からの次のような抜書きを見つけた。フランソワ・ヴィエト(1540-1603)は二次方程式の解の公式を見出したのであるが:
ヴィエトのような人がいると、普通の人の能力が上がります。国民の知的なレベルが上がれば、もちろん、国力も上がります。そのようなことを成し遂げた人を天才といいます。何かの能力があるだけで、人の能力を上げられない人は、ただの優れた人で天才ではありません。(柳谷晃『数学はなぜ生まれたのか?』、62ページ)
 天才についてのこのような定義もある。

 ということで、英才教育の教育政策における優先順位を引き上げるべきだという主張にはあまり賛同できない理由を述べたつもりである。それよりもっといじめ問題の解決に取り組むべきである。

 

 

ダンテ・アリギエリ『神曲 天国篇』(19-1)

5月10日(水)雨が降ったりやんだり

 ベアトリーチェに導かれて、天空の世界へと旅立ったダンテは、月天、水星天、金星天、太陽天、火星天を経て、木星天に達する。それぞれの世界で彼を出迎えた魂たちとダンテは政治と宗教をめぐる会話を続ける。火星では、彼の玄祖父であり、十字軍に加わって戦死したカッチャグイーダの魂から彼の今後の運命と、この旅行で見聞きしたことを帰還後に地上の人々に伝えるという彼の使命について告げられる。木星でダンテを迎えた魂たちはDiligit Iutitiam qui iudicati terram (正義を愛せ、地を統べる者達よ)という文字を天空に描き、その後、Mの文字を描いたが、このMは地を表すterramの最後の文字で、地上を示すとともに、ローマ帝国を表すMonarchia=帝国の頭文字であり、地上に正義を行きわたらせる統治の使命を神に担わされた帝国を示すものである。さらにそのMの文字は鷲の形に変じた。

私の前に現れていたのは、翼を広げた
美しい形象、魂たちはさわやかな喜びを味わいながら
組み合わさってそれをうれしげになしていた。

それぞれの魂はどれもみな
太陽の光線が中で烈しく燃え上がる美しい紅玉の姿をし、
我が目の中で太陽が反射しているかのようだった。
(282ページ) 「美しい形象」は鷲の姿を示し、「さわやかな喜び」は神を思う喜びである。太陽は神を象徴しており、紅玉はルビーのことである。鷲の嘴の部分が言葉を発し、それは一人称複数ではなく、一人称単数で話した。これらの魂は神の恵みの光を直接見て、それを言葉にしてダンテに伝えていることが暗示されている。鷲の姿を形作っているのは、様々な時代の様々な統治を統治を担った君主たちの魂であるが、彼らが一人称単数で話すことは、正義を実現するための統治は神の名のもとに一つであるというダンテの思想を示すものであると翻訳者である原さんは注記している。

 ダンテは神を見ている鷲が、自分が心に抱いている疑問を見通しているはずだと語りかけ、その疑問への解答を求める。しかし鷲は、それへの返答をすぐにはせず、創造主と被造物との関係から、神と地上の事物や人間の能力との関係を説明する。
・・・「円規(コンパス)を回して
宇宙の果てを区切り、その中に
多くの隠れた事物や明らかな事物を区別された方だが、

ご自身の力を全宇宙へと刻印するにあたり、
その御言葉がそれらを限りなく超越することがない、
などということはあり得なかった。
(286ページ) コンパスを回す神は無限だが、そのコンパスによって区切られた宇宙(被造物)は有限である。それらの被造物に神は自身と同じ完全を与えたことはないというのである。

そのことを証明するのが、第一の高慢
被造物の中で頂点に立っていた者が
光を待たなかったために熟さず失墜したことである。
(同上) 魔王ルシフェルは、謙虚に神の恩寵の光を受ければ独力では理解できない真理を理解できたはずであるが、神の光を拒否して神と並び立とうと競ったため天国から地獄に堕とされた。その姿は『地獄篇』第34歌に描かれている。
つまりここに明らかになっているのだ。
限界をもたず、自らで自らを図るあの善にとっては
自らより大通るあらゆる被造物は不足する器であることが。
(同上) 神は無限であり、無限であるがゆえに比較できる対象は無限である自分自身しかいない。(わかったようでわからない議論である。) 

生来の性質ゆえに能力には限界があり、
その源泉を見通せはしないのだ、それはお前たちの視力に
明らかであるものをはるかに超えているからだ。
(287ページ) 被造物の理解力(視力)は不完全なために神より劣り、人類が神意「永遠の正義」の完全な理解に達することはないのである。

 そして、鷲はいよいよ、ダンテが心の中に抱いている疑問に対して答えようとする。
生ける正義がおまえに隠してきた奥の間が
今やお前に対して大きく開かれている、
それについておまえはあれほど頻繁に疑問に思ってきたが。
(288ページ) それはダンテが地獄のリンボを訪問した際に、ウェルギリウスやアリストテレスが天国から排除されていること、あるいはウェルギリウスが煉獄で、天国に行けないことを引け目に思っているのを感じた時に覚えた疑問である。これはある意味で、『神曲』全体を通じて最大の疑問であり、ダンテが古典古代とキリスト教の関係をどのようにとらえていたかを考える鍵となる問題でもある。と、気をもたせて、答えとなる部分は次回に取り上げることにしよう。 

吉田健一『酒談義』

5月9日(火)曇り

 吉田健一『酒談義』(中公文庫)を読み終える。

 「没後40年記念エッセイ」と銘打たれている。吉田健一(1912-77)の酒に関するエッセイを独自に編集し、短編小説「酒の精」と、彼の親友の1人であった野々上慶一の吉田についての回想エッセイを解説代わりに収録したこの文庫オリジナル編集のエッセイ集である。

 吉田健一の訃報に接したとき、私はまだ30代の前半であった。ラジオのニュースで訃報を聞いたのが、かなり鮮明に記憶に残っている。記憶が鮮明である理由の1つは、彼が書いたものを読み始めたのが、彼の死後のことであったからではないかと思う。そして、30を超えてから、生活が安定したこともあって、酒を飲むようになり、彼が書いていることが理解できるようになったということがさらにその背景にあったと思う。

 吉田は文学者であり、また国際人でもあった。文学者であったことは、ケンブリッジ大学に入学後、指導教授から文学者として生きるならば帰国した方がいいと言われて帰国したことからもわかるように、彼自身が選んだ生き方であった。国際人の方は、彼の父親が外交官で、少年時代から外国で過ごすことが多かった生い立ちの結果というところがある。しかし、文学者として生きることを決意して後に、フランス語(とギリシア語)をアテネ・フランセに通って身につけたということからすると、国際人の方も自分で選んだ生き方といえるのかもしれない。

 そうした生き方に気負いのようなものが感じられないのも特徴的なことである。もちろん、父親の茂が首相をしていたころに、闇屋や乞食のまねごとをしたという逸話もあるが、自由と自然体を愛した彼の生き方が遊び半分に過激な方向に逸脱したということではなかったかと思う。この自由と自然体を愛するというところが、吉田の酒に対する態度にも反映していて、「ただ飲んでいても、酒はいい。あまり自然な状態に戻るので、却って勝手なことを考えはじめるのは、酒のせいではない。理想は、酒ばかり飲んでいる身分になることで、次には、酒を飲まなくても飲んでいるのと同じ状態に達することである」(「飲むこと」、19ページ)などという。中島敦の短編小説「名人伝」の不射の射の境地を思わせるが、吉田と中島は短い期間ではあったが、親交があった。

 彼が葡萄酒(ワインなどといわないところがいい。もっとも強化ワインの一種であるシェリーはシェリーと書いている)や日本酒を愛し、ビールやウィスキーを好まなかったのは趣味の問題であるが、なぜか私の趣味と一致している。もちろん、葡萄酒をめぐる知識と経験は将軍と一兵卒くらいの違いがあるが、日本酒をめぐっては菊正宗(といったって、本当に酒の中身が同じとは言えないかもしれないが)という共通項がある。

 酒の飲み方をめぐっての具体的な談義となると、私とは意見が違う部分もあって、話がややこしくなる。読んでいて、やはり面白いのは、酒を通しての交遊録で、萩原朔太郎、横光利一、井伏鱒二、河上徹太郎、大岡昇平など多士済々(吉田にとっては先輩格の人が多い)である。新橋にあった吉野家についての井伏鱒二の有名な詩の助けを借りたりしながらも、その場の雰囲気が活写されている。「萩原朔太郎が偶に腰掛けていた隅に一番よくいたのは横光利一で、横光さんがそこにそうしているのが眼に入るとその日は儲けものをしたという感じだった。横光さんは若いものに親切な人だった。決して甘やかす訳ではなかったが、これからやる仕事に期待する態度で、何か書いたものが横光さんに褒められれば自分が一人前の文士になる日もそう遠くない気がした」(「飲む場所」、143ページ)。横光の親切な一面を語っている中に、吉田自身の温かい人柄も窺われるように思われる。(萩原が教えていた明治大学の学生だった大正生まれの田村隆一が萩原についてかなり厳しい評価をしているのと、吉田の態度は対照的である。)

 いかにも英文学者らしいと思った個所を紹介しておくと、「フォースターという英国の小説家が人生は人生であるものと劇であるものでできていて、その劇の方を見てそれが人生であると思ってはならないという意味のことをその小説の一つに出てくる人物に言わせているが、それならば夜のビヤホールは劇が起こりそうでいて、それでも構わずに飲んでいるうちにそれが人生とでも呼ぶ他ない静かなものに変わって行く」(「飲む場所」、160ページ)。なんという小説なのかが記されていないのが、酔っ払いの酒場談義ふうではないか。蛇足までに付け加えると、吉田は幻想小説の名手でもあって、最後に収録されている「酒の精」にもその片鱗は表れている。最後まで楽しく読める本である。

夏目漱石『虞美人草』(2)

5月8日(月)晴れ

これまでのあらすじ
〔漱石が明治40年(1907)年に『朝日新聞』入社第1作として、新聞に連載した小説で、明治40年の読者がこの小説を読んでいるその当時に物語がほぼ同時に進行していく形で書かれている。〕
 外交官を目指している宗近君(28)とその遠縁で大学で哲学を勉強した甲野さん(27)が京都を旅行中である。外交官であった甲野さんの父親が任地で急死して家の中がごたごたしており、病弱で神経の細い甲野さんを気晴らしに宗近君が誘い出したものらしい。
 甲野さんが旅行に出かけた留守中に、その妹の藤尾(24)が大学出の秀才である小野さん(27)に英語を教わりながら、次第に距離を近づけている。小野さんには恵まれない環境で育ち、京都で井上孤堂先生にお世話になって高校・大学を卒業したという過去があり、先生の娘の小夜子(21)と結婚することが暗黙の了解事項になっている。孤堂先生は京都の家を畳んで、上京するという手紙をよこす。
 宗近君と甲野さんが泊まっている旅館の隣に琴を弾く娘がいて、父親と二人暮らしで、もともとは東京もので、近日東京へ引っ越すという。二人は嵐山に花見に出かけた際にも娘を見かけ、何となく気になる。
 宗近君の妹の糸子(22)が藤尾を訪問する。糸子は自分の兄が藤尾と結婚することを望んでいるのだが、藤尾から彼女が甲野に好意を寄せていることを見抜かれる。藤尾は、ちょうどやってきた小野さんと京都での宗近と自分の兄の様子を想像しながら、想像力の乏しい糸子をおもちゃにする。(以上6回まで。前回、宗近兄妹と甲野兄妹が従妹同士だと書いたのは、私の誤解で、「遠縁」であった。宗近君と藤尾の間には結婚の約束があるような、ないような関係がある。宿の隣に住む、琴を弾く娘が小野さんの恩師の令嬢である小夜子であるということは、まだ読者にしかわからない。なお、登場人物の年齢は数え年である。)

 7
 宗近君と甲野さんは京都ですることがなくなって夜行列車で東京に戻る。偶然が重なって、東京に引っ越す孤堂先生と小夜子も同じ列車(の隣あう車両)に乗り合わせている。宗近君と甲野さんが食堂車でハム・エッグスの朝食をとる一方で、孤堂先生と小夜子が駅弁を買って食べるというところに、両者の暮らしぶりの違いが表れている。新橋駅に到着した宗近君は、駅で小野さんを見かけたように思う。甲野さんは気づかなかった。(小野さんは、もちろん、孤堂先生と小夜子を迎えに来たのであり、その様子は次の8で小夜子の回想として間接的に語られる。それよりも、客車の中で孤堂先生が『朝日新聞』を広げて読んでいるという描写が面白い。当時、『朝日新聞』の売り子が、「漱石の『虞美人草』」と呼んでこの新聞を討っていたという逸話を知っていると、余計に面白く感じられる。)

 8
 甲野の家では母親が藤尾と話している。父親の死後の相続と、兄妹の身の振り方をめぐっての話であるが、甲野さんが財産はいらないと言っていることが世間体を気にする母親には納得がいかず、思案に暮れている。この問題が片付けば、藤尾に婿を取るつもりであるが、藤尾は趣味のない宗近君は嫌で、小野さんと結婚するつもりであるという。母親は「あんな見込みのない人は、私も好かない」と「同意」する。漱石はこのあとに「趣味のないのと見込のないのとは別物である」(123ページ)と書いて、母娘の意見が一致するように見えて、その底にディスコミュニケーションがあることを示している。母親は、宗近家に出かけて、宗近君と藤尾の縁談をはっきり断ろうというが、藤尾ははっきりした約束がないものを断るというのもおかしいという。
 甲野の家で母と娘の相談が終わったころ、宗近の家では灯りがついて、にぎやかな談話が始まる。旅行から帰ってきた宗近君に甲野さんを迎え、宗近の父と糸子が加わって談笑している。京都の話がいつの間にか若い連中の縁談の話になり、宗近の父が甲野の行く先を心配する(それよりも糸子が内心で気をもんでいる)。

 9
 東京に出てきた小夜子は自分が過去の存在になってしまっていると感じ、小野さんとの世界の違いを嘆く。一方、小野さんは捨ててしまったはずの過去がまだ自分に近寄ってきているのを感じて不安である。孤堂先生の新居を訪問した小野さんは粗末な家に満足している様子の小夜子に魅力を感じず、すぐに辞去する。その後で孤堂先生が帰宅する。孤堂先生は小野さんと小夜子を結びつけるために、一緒に博覧会に出かけることを提案する(「博覧会」というのはこの年3月20日から上野で開かれていた東京勧業博覧会だそうである。すでにこの小説の4で、小野さんの京都時代からの友人である浅井が博覧会に出かけて、アイスクリームを食べてきた、今度はロシア料理を食べに行くと話している)。

 10
 甲野の母が宗近家にやってきて、宗近君の父親と娘の結婚をめぐっての話をする。甲野さんは自分ではなく先妻の子であり、どうも意思が通じにくく、自分の進路をめぐってもはっきりしないので、そちらの方がはっきりするまで藤尾の縁談を進めるわけにはいかないという。宗近の父親が、自分の息子の嫁に藤尾はどうかともちかけると、宗近君は長男で跡取りだから、養子にはできないと言葉を濁す。
 宗近家の2階では宗近君が糸子と彼女をからかい半分に話をしているが、博覧会に出かけることになる。来客が藤尾の母であることから糸子は藤尾の縁談が話題ではないかといい、藤尾は宗近君を嫌っているから結婚は無理だろうと意見を述べる。

 11
 宗近君と糸子、甲野さんと藤尾が連れ立って博覧会見物に出かけ、夜のイルミネーションに感嘆する。台湾館が竜宮に似ているということから、形容はうまく当たると俗になる、当たらなければ(実際よりも高尚に外れれば)詩になる、まずくて当たらない形容は哲学であるという議論が一行の間で交わされる。体の弱い甲野さんがくたびれたので、4人は茶屋で休む。と、近くの席に孤堂先生と小夜子を連れた小野さんが座っていた。(詩と哲学をめぐって藤尾と甲野さんの兄妹の間で議論が交わされるのが、2人の価値観の違いを知る手掛かりになる。藤尾は詩と哲学を対立するものと考えている――小野さんもそのように考えているが、必ずしもそうではないのである。)

 京都と東京に分れて展開していた小説が、登場人物が全員東京に移ったことで進行を速めてくる。宗近一と甲野藤尾、小野清三と井上小夜子の間に婚約が成立しているのか、いないのか、微妙なところで物語が始まり、藤尾が小野さんに近づき、結婚しようと考えることで波乱が起きる。この5人の関係の近くで、甲野欽吾を宗近糸子が慕っている。欽吾も糸子は嫌いではないのだが、結婚すべきかどうかの決断がつかない。

 5人の関係といえば、サッカレーの『虚栄の市』を読んでいて、第6章のレベッカ(ベッキー)・シャープ、アミーリア・セドリの2人の女性と、アミーリアの兄で東インド会社勤務のジョーゼフ(ジョス)・セドリ、アミーリアの幼馴染で恋人である陸軍将校のジョージ・オズボーン、ジョージの学校時代からの友達で同じく陸軍将校のウィリアム・ドビンの3人の男性がヴォクソール遊園の夜の行楽に出かける場面で、『虞美人草』のこの場面を思い出した。ここではアミーリアとジョージ、ベッキーとジョスが結婚の約束をするかどうかが焦点になり、それになぜか(内心はアミーリアを恋している)ドビンがついてきている。
 かなり短期間の出来事を描いた『虞美人草』と、長期にわたる出来事を描く『虚栄の市』は小説としての性格も違うし、夜の行楽の展開や結果も大きく違うのだが(『虞美人草』の方が会話の内容も、登場人物の行状も上品でおとなしい)、たぶん、漱石が心のどこかに『虚栄の市』のこの場面を留めながら、博覧会の場面を書いていたのではないかという気がしてならない。(ヴォクソール遊園は今はなくなっているが、上野公園はいまでもあるとか、『虚栄の市』の一行が出発したラッセル・スクエアからヴォクソールまでは多少距離があるが、『虞美人草』の一行は上野からそれほど離れたところに住んではいなかっただろうとか考えるのも楽しいことである。)

 甲野の母親の言説が明晰でなく、ディスコミュニケーションの原因になっているのが、入り組んだ人間関係の解決に全く役立たない。3の宿屋での宗近君と甲野さんの会話の中にゴーディアン・ノットという言葉が出てくるが、それが必要なようである。列車の場面で出てくる駅弁とか、甲野の母を迎えた宗近の父が勧める和菓子(柿羊羹)、博覧会の会場で一行が食べる〔「チョコレートを塗った卵糖(カステラ)」などにこだわって、この小説の時代の雰囲気を考えてみるのもいいかもしれない。
 

『太平記』(157)

5月7日(日)薄曇り

 建武3年(1336)春、いったんは京都を去って比叡山に本拠を置いていた後醍醐天皇方は、京都を占拠していた足利方に勝利したが、宮方の総帥であった新田義貞は勾当内侍に心を奪われ、足利方を追撃する機を逸した〔これは『太平記』にだけ記されていることで、歴史的事実とは言えないようである〕。その間、赤松円心らが蜂起した。新田一族の江田行義・大館氏明が赤松追討に向かい、緒戦に勝利したが、義貞率いる新田軍本隊が円心の立て籠もっていた白旗城に迫ると、赤松は降伏と偽って時間を稼ぎ城の防備を固めてしまう。白旗城包囲に時間をかけすぎると、足利方の反攻を許すことになるとの献策を受けて、義貞は中国地方の武士たちを味方につけるべく播磨と備前の境の船坂峠に向かい、この動きに呼応して備前では和田(児島)高徳が挙兵した。
 京都、さらに近畿地方を追われて、九州に落ち延びていた足利尊氏・直義兄弟は九州の大半の武士を味方につけることに成功、京都での大敗の経験から上洛をためらっていたが、赤松円心からの使いの進めもあって4月の末に大宰府を発ち、中国地方に兵を進め、安芸の厳島明神に参篭した。結願の日、都から光厳院の院宣がもたらされた〔『梅松論』には、尊氏が九州に落ち延びていく途中、備後の鞆の浦で院宣を受け取ったと記されている。おそらくこちらの方が歴史的事実に近いと思われる]。備後の鞆の浦で軍勢の手分けをした足利軍は尊氏が海路から、直義が陸路から東上した。5月15日、直義軍が備中福山城を落とすと、義貞は水陸の敵が一か所に集まるところで一戦交えようと、摂津兵庫を目指して退却した。

 そうこうするうちに新田義貞は備前、美作の味方の軍勢が合流してくるのを待ち受けようと、賀古川(加古川、兵庫県加古川市を流れる川)の西にある丘に陣を取り、ここに2日間滞在した。
 ちょうど梅雨の季節であったので、降り続く雨のため川が増水していた。そこで、あとから敵が追いかけてくることもあろうから、総大将をはじめ、主だった武将たちは船で向こう岸へ渡るべきだと人々が口々に進めたのだが、義貞は「なんの恐れることがあろうか。渡らないうちに敵が攻めてくれば、退路が立たれてしまっているので、決死の戦いを行うのに都合がよい。むかし、漢の高祖の家臣である韓信が、川を背にして趙の軍勢と決死の戦いをしたという故事の教訓はこれである。軍勢を渡し終わってから、義貞が後から渡るのに、何の不都合があろうか」と、まず戦いで馬が弱った軍勢、負傷者などを順々に渡河させた。

 そのうちに、一晩で水量が落ち、おりよく備前や美作の軍勢が集まってきたので、馬をいかだのように並べ泳がせて川を渡り、6万余騎が、同時に川を渡ったのであった。ここまでは義貞の率いる軍勢は10万余騎を数えていたのだが、尊氏・直義兄弟が上洛の兵を起こしたと聞いて、臆病風に吹かれたのであろうか、いつの間にか兵の数は減っていた。義貞が兵庫(神戸市兵庫区の辺り)に到着した時に、従っている兵はわずかに2万騎にも満たなかった。

 尊氏と直義兄弟が、大軍を率いて上洛を目指しているので、要害の地でこれを防ぎ戦おうと兵庫まで退却したという次第を、義貞が早馬を走らせて都へと知らせたので、後醍醐天皇は大いに慌てられて、楠正成を召され、「急ぎ兵庫へ罷り下り、義貞に力を合はすべし」(第3分冊、63ページ)とお申しつけになった。
 正成はかしこまって次のように申し上げた。「尊氏卿が、九州の軍勢を率いて上洛されてくるというのであれば、定めて雲霞のごとき大軍であるでしょう。味方のわずかでしかも疲れた軍勢をもって、敵の勢いづいた大軍と戦って、普通に戦ったならば、味方はきっと負けてしまうと思います。
 ああ、新田殿も京都に呼び戻されて、以前のように比叡山延暦寺に御臨幸あそばしませ。正成も(自分の本拠である)河内に馳せ下って、畿内の兵を集め、淀の大渡あたりの川の流れをせき止め、北と南の両方から(足利勢に奪われた)京都を攻め、(敵の補給路を断って)兵糧を欠乏させていけば、敵は次第にその数を減らし、味方は次第に多くなっていくのではないでしょうか。その時に、新田殿は比叡山から攻め寄せ、正成が搦め手の河内・摂津の方角から攻めていけば、朝敵を一戦で滅ぼすことが出来ようかと存じます。
 新田殿もきっとこの作戦をお考えでしょうが、(せっかく兵を進めてきたのに)遠征中に一戦もしないのはひどくふがいないと、人が噂をするのを恥じて、兵庫の辺で応戦されるのだと思われます。合戦はただ、とにもかくにも最終的な勝利こそ大事なのですから、遠い先のことまでのご思慮をよくよくお考えになり、結論をだされるべきだと思います。」
 天皇は「誠にも謂(い)はれあり」(第3分冊、62ページ)とお考えになり、公卿たちを集めて協議させたのである。

 大軍と正面から戦うのではなく、退却してゲリラ戦で相手を消耗させようという正成の戦術はローマ史に名高いクィントゥス・ファビウス・マクシムスがカルタゴの勇将ハンニバルと戦った際の戦術を思い起こさせる。正成がいうように、義貞も敵を京都に迎え入れておいて、ゲリラ戦で苦しめようという作戦を最善のものと考えていたかどうかは、この2人の武将の気質を考えると疑問である。現実主義者の正成にくらべて、武将としての意地にかけても兵庫で一戦交えようと考える義貞は、良くも悪くも伝統的な考えにこだわっているように思われる。(義貞は剛勇に加えて人間味に溢れた武将であるが、変な意地を張るところがあって、そこが欠点である。)

 なお、『梅松論』には、尊氏・直義が九州に落ち延びた時に、宮方の人々が喜ぶ中で、正成が「義貞を誅罰せられて尊氏卿を召かへされて。君臣和睦候へかし。御使にをいては正成仕らむ」(群書類従、第20輯、197ページ)と申し上げたので、周囲の人が驚きあきれていると、諸国の武士たちが心から尊氏に従い、その命令を実行しようとしているのは無視できないと述べたと記されている。正成がその時点、その時点で最善の策を考える武将であったことが推測できる。

 『梅松論』が出たついでに言うと、この書物で尊氏に持明院統の院宣をもらって自分たちの大義名分を得ることを献策するのは赤松円心である。(『太平記』では尊氏が自分の知恵でそうしたことになっている。) 『太平記』『梅松論』の記述を通じて、円心は非常に先を読む力のある、構想力のある武将として描かれている(正成と違って、その点があまり神秘化されて描かれていないので、余計すごみがある)。護良親王を不遇時代から助け、六波羅の軍勢といち早く戦ったのは彼であり、彼を敵に回したのは後醍醐天皇にとっての不運、逆に味方につけたのは足利尊氏にとっては大きな幸運であった。それもこれも、自分にとっては耳に痛い忠言でも聞き入れる度量があるか無いかの違いが出ているのかもしれない。

 正成は宮方がいったん京都を捨てて退却し、ゲリラ戦、持久戦に持ち込んで情勢を逆転させることを進言する。「悪党」出身の武士であった正成にとっては当然の行動であろうが、ぜいたくに遊び暮らしているお公家さんたちにとってはつらい選択になる。さて、どうなるか。 

日記抄(4月30日~5月6日)

5月6日(土)晴れ

 4月30日から本日までの間に経験したこと、考えたこと、前回書き洩らしたことなど:
4月23日
 NHK『ラジオ英会話』のテキストに連載されているColin Joyce, "Japanglophilia"は、4月号では”The Lesser-Known British Calendar, part1"(あまりよく知られていない英国の暦、第1部)として日本人があまりよく知らないであろう英国の年間行事のいくつかを取り上げている。その中でこの4月23日はSt George's (Not a Bank Holi-)Day in April (4月の聖ジョージの(法定休日ではない)日)として紹介されている。聖ジョージはイングランドの守護聖人であり、(サッカーの応援などで見かけることのある白地に赤い十字架の)イングランドの旗は聖ジョージの十字架であり、英国全体の旗であるユニオン・ジャックの一部でもある。英国にはジョージという名の王様が6人いたし、ウイリアム王子の息子の名もジョージである。アイルランドの守護聖人である聖パトリックの日(3月17日)、スコットランドの守護聖人である聖アンドルーの日(11月30日)はそれぞれ法定休日であり、ウェールズの守護聖人である聖デヴィッドの日(3月1日)は法定休日ではないが、多くの人々がウェールズの象徴であるラッパスイセン(daffodil)あるいはリーキ(leek)の花のバッジをつけてお祝いをする。それに引き換え聖ジョージの日にイングランドの人々は何もしないとジョイスさんは書いている。

4月25日
 NHK『ラジオ英会話』の時間では「間投詞」について取り上げたが、その中に
Ouch. This eggplant has thorns. (いたた。このナス、棘がありますね)
という例文が出てきた。それで思い出したのは、明治時代のベストセラー『食道楽』の著者村井弦斎の家庭農園を新渡戸稲造が米国人を連れて見学に来たことがあって、通訳の学生が茄子を英語でどういうのか知らずにblack tomatoと訳したので、新渡戸が大笑いしたと、弦斎の娘の米子が書き留めていたことである。新渡戸が学生に通訳をさせて、経験を積ませようとしていたという点が教育者としての一面をうかがわせるのだが、学生の方が頼りなさ過ぎたという話である。なお、この話を読んで、慌てて和英辞典で茄子のことを何というのか調べた記憶がある。(この番組5月2日に再放送された。)

4月29日
 横浜FCはアウェーでロアッソ熊本を4-1で破る。イバ選手がPKに失敗したものの、ハットトリックを達成したそうだ。

4月30日
 神保町シアターで「映画監督成瀬巳喜男初期傑作選」の特集上映から『噂の娘』を見る。東京の老舗酒店が没落していく過程をその店の2人の性格が対照的な娘の行動を追いながら描いていく。没落の背景がもう少し詳しく描きこまれてもよかったかなという気がしたが、酒樽から栓を抜いて酒を出し、升で測って売る商売の様子など当時の暮らしの姿をとらえた映像は興味深かった。キンシ正宗なんて酒樽があって、このところご無沙汰しているが、また見つけて飲んでみようかと思ったりした(近ごろは日本酒というと菊正宗を飲むことが多いのである)。

 井上達夫『自由の秩序――リベラリズムの法哲学講義』(岩波現代文庫)を読み終える。自由というのは何でも勝手にしていいということではなくて、一定の枠というか秩序を設けて、その中での自由を考えていく必要がある、ということで、現代の政治状況を念頭に置きながらこの問題を考えた仮想講義録である。どちらかというと、古典的な自由の議論の方に関心があるのだが、現代の問題を考えていくことも必要だと思って興味深く読んだ。バーリンの消極的自由と積極的自由についての説明は役に立ったが、この両者をはっきり区別することは実際には難しいだろうという気もする。

5月1日
 メーデーで横浜市内でも労働者の隊列が行進しているのを見かけた。日本ではMay DayとLabor Dayとを混同する人が少なくなく、4月に「メーデー」を繰り上げて実施するという労働団体もあるようだが、メーデーは5月1日のことで、英国ではこの日、5月の女王(May Queen)を選んで、花輪の冠をかぶせ、メイポール(maypole)という柱を立ててその周りで踊るという習わしである。現在の英国では5月の第1月曜がLabor Dayとして法定休日になっているそうである。なお、アメリカのLabor Dayは9月の第1月曜日で、そのいかにも夏の終わりという雰囲気は、映画化もされたウィリアム・インジの舞台劇『ピクニック』に描かれていた。

5月2日
 大相撲の元横綱佐田の山で、引退後は年寄出羽海、その後は湊川として相撲協会の運営や後進の育成に当たられた市川晋松さんが4月27日に亡くなられていたことが明らかになった。79歳。ご冥福をお祈りします。

5月3日
 ニッパツ三ツ沢球技場でJ2第11節横浜FC対愛媛FCの対戦を観戦した。前半18分に横浜がコーナーキックから西河選手が頭で決めて先制点を奪い、38分にはイバ選手が右足でゴールを決めて2点をリードして折り返し、後半にも永田選手、大久保選手がゴールを決めて、2点を奪って4-0で勝利した。それぞれ別の選手がゴールを決めて4得点を挙げたこと、特に4点目はイバ選手が交代した後での得点であったことなど、収穫は大きい。また、若いGKの高岡選手を盛り立てて、無失点で終わった守備についても見るべきものがあったと思う。

5月4日
 今週のNHKの語学番組は先週の再放送であり、その中で「まいにちイタリア語」(応用編)「描かれた24人の美女」は2015年の4月~6月の再放送で、何度も聴いてきた訳であるが、マザッチョ<楽園追放>(Masaccio,Cacciata dall'Eden)についてはなぜか書き洩らしてきたので、書き留めておく。
Generalmente l'onore di essere chiamato "primo pittore rinascimentale" va a Masacccio. (一般的に、「最初のルネサンス画家」と呼ばれる名誉は、マザッチョに冠せられます。)
 27歳という若さで死んだために、残された作品は少なく、知名度はそれほど高くないが、フィレンツェのサンタ・マリア・デル・カルミネ教会ブランカッチ礼拝堂の壁画である「楽園追放」はエデンの園を追放されたアダムとエヴァが嘆き悲しみながら歩む姿を描き、その「正しい人体把握」、「奥行きのある空間性」、「激しい感情表現」という3要素によって、ルネサンスの新しい絵画の道を開いた作品と言われる。彼に続くボッティチェッリやレオナルド、ラファエッロやミケランジェロらの画家たちは、ブランカッチ礼拝堂にこの絵を見て、模写するために一人残らず通ったという。このため、その『美術家列伝』の中でヴァザーリは礼拝堂を「世界的な学校」(scuola del mondo)と呼んでいるほどである。
 ブランカッチ礼拝堂にはマザッチョのこの絵の真向かいに、マゾリーノ・ダ・パニカーレの<原罪のアダムとエヴァ>という壁画が描かれている。マゾリーノはマザッチョの師と見なされていた時代もあったが、現在ではマザッチョよりやや年長だが対等な協働制作者であったと考えられているそうである。私が子どもの頃に読んだ西洋史の本では、マゾリーノとマザッチョの絵が並べられていて、先生のマゾリーノの絵にくらべて、弟子であるマザッチョの絵は感情表現が激しくなっていると記されていたのを記憶している。もう60年位昔に読んだ本のことを覚えているくらいに、この両者の違いは際立っているのだが、引き立て役にされてしまったマゾリーノがなんとなく気の毒に思われないでもない。

5月5日
 元NHKのアナウンサーでスポーツ番組の報道で活躍された土門正夫さんが5月2日に亡くなられていたことがわかった。87歳。横浜市のご出身で、神奈川工業のOBだそうである。1960年のローマから1984年のロサンジェルスまで計7回の夏季オリンピックの放送を担当された。特にバレーボールの中継担当者として知られ、1964年の東京オリンピックの際に女子バレーボールでの「東洋の魔女」と呼ばれた日本チームの優勝場面を実況されたことが有名である。私などはそれよりも、高校野球の実況放送でなじみ深い方であった。ご本人は1984年のロサンジェルス・オリンピックの女子マラソンで、スイスのアンデルセン選手がふらふらになってゴールした場面のラジオ放送が一番印象に残っていると言われていたそうである。そういえば、この放送を私も聞いていた。ご冥福をお祈りする。

5月6日
 ニッパツ三ツ沢球技場でプレナスなでしこリーグ第2部第7節ニッパツ横浜FCシーガルズ対オルカ鴨川FCの対戦を観戦する。前半8分に横浜が右からのクロスに対応した吉田選手のヘディングで1点を先制したが、38分に鴨川がセット・プレーからゴールを決めて追いつき、結局1-1で引き分けた。鴨川が両サイドに展開して試合を進めようとしていたのに対し、横浜が何を狙っているのか、もう一つ見えなかったのが気になるところである。

詩の魂は突然の来訪者

5月5日(金)晴れ

詩の魂は突然の訪問者

君は突然の訪問者
やってくるなり
私の背中をひっぱたいて
笑いながら去って行くかと思うと
私の傍らで
何も言わずに
泣いていたりする

君と向き合っていると
自分が愚かに思えたり
急に賢くなったと思ったり
恐怖におびえたり
その恐怖を克服する勇気をもらったりする

君の言葉の中で
あらゆる哲学が
無意味に聞こえる
ストアの哲学も
エピクロスの哲学も

詩の魂は気まぐれな
突然の来訪者
待っていても来ないし
待っていないときに来ることもある
どうやってその機嫌をとるか
たぶん誰にも分らないだろう

語学放浪記(54)

5月4日(木)曇りのち晴れ

 5月2日付の『朝日新聞』朝刊の「折々のことば」を読んでいて、気になったことがあった。このコラムは哲学者の鷲田清一さんが、自分の心に残る言葉を選び出して、それについての感想を記しているもので、私が物を考えたり書いたリスるときの参考になることも多い。が、今回気になったというのは、鷲田さんが意識的に文の主題として主張していることではなく、文章の中に見え隠れしている潜在意識の方である。

 まず引用してみよう:
 Class is a state of mind,
not money. We are upper class.
       ある母親
 NHKラジオ講座「実践ビジネス英語」の米国人出演者は、幼いころ「うちは中流階級なの?」と母親に聞いた。彼女の答えは「階級は心の持ちようであって、お金ではないの。内は上流階級よ」。「よい人間」になるため知的な理解力を磨くのが上流階級だと。だが、長じて娘は、お金を使うこと、貯めることの意味をきちんと教えておくのも大事だと思うようになる。講座テキスト(3月号)から。
 
 ここで鷲田さんが引用しているのは、NHKラジオ『実践ビジネス英語』3月号の30ページから31ページにかけて掲載された”Talk the Talk with Heather Howard"の始めの部分である。念のために、テキストの該当する部分を引用しておくと:
「うちは中流階級なの?」と、母に一度聞いたことが確かにあって…
I did ask once if we were middle class, and I've always liked my mother's answer. She said, "Class is a state of mind, not money. We are upper class. If you try to be a good person, and dedicate youself to knowleddge and understanding, you are upper class." But a while back I read about one father's idea for helping children understand the concepts of spending and saving, and I think I'm going to follow in his footsteps.
その答えは、今でも気に入っている。母は、こういった。「階級は心のもちようであって、おかねっではないの。うちは上流階級よ。よい人間になろうとしていて、知識を得ることと理解することに打ち込んでいるなら、上流階級なのよ」と。でも、少し前に、お金を使うという概念と貯めるという概念を子供に理解させやすくする、ある父親の考えを読んで、私はその人を見習おうと思っている。

 自分がどのような階級に属するかということよりも、どのような人格形成上の努力をしているかの方が大事である。とは言うものの、やはり健全な社会生活を送っていくためにはお金も大事であるということで、両者の両立を図るべきだという意見には頷けるものがある(完全に同意しているわけではないが、それを書いていくと、話が長くなる)。
 ここで私が気になるのは、「米国人出演者」にはヘザー・ハワード(Heather Howard)という立派な名前があるということである。鷲田さんは、3月17日に突如、この番組を聞いて、この言葉に出会ったわけではなく、ずっと聴き続けていたはずであるから、余計に気になる。確かに、異文化に属する人たちの名前や個性を認識するのは、困難かもしれないが、番組をずっと聞いていれば、出演者の名前やその他の個性も次第に記憶に残ってくるはずである。特定の番組の外国人出演者というのは、いかにもその人間の人格や個性を無視した人間のとらえ方ではないかと思う。

 東京工大の教授で水道方式による数学教育の提唱者であった遠山啓にこんな逸話がある。彼は仲間の数学者と映画やテレビの話をするのが好きで、あの女優は数学ができなさそうだなどという話をして楽しんでいたが、仲間が女優の誰それがいいという話をしたところ、ぼくはモレシャンが好きだなぁといったという。その当時、テレビの『たのしいフランス語』のゲストをしていたフランソワーズ・モレシャンのことである。単に外国語の発音を学ぶための道具としてではなくて、もっと人格的な興味を寄せていたということであろう。そしてこれは、遠山だけのことではなくて、私の友人でも『やさしいドイツ語』のゲストであったクリスタ石井が好きだったので、ドイツ語が上達になったなどという人がいる。他にも同じような例は少なくないはずである。

 鷲田さんの書き方では外国人出演者を発音や「正しい」いい方を学ぶための道具としてみていないのではないかと受け取られてしまうところがある。異文化に属する外国人について、人格や個性よりも、外国人であることの方が判断に大きく影響してしまっているというのは、グローバル化時代に生きる哲学者としてはふさわしくないことではないかといわれて、反論は難しいだろう。あるいはヘザーさんは『朝日新聞』のライバル紙の『読売新聞』の記者を経て、現在は『ザ・ジャパン・ニューズ』に努めているということだから、ひょっとしてそんなことから遠慮しているのかもしれないと勘繰ったりしているのである。

 以前、池上彰さんが『実践ビジネス英語』を聴いているという話を書いたことがあるが、今回、鷲田清一さんもこの番組を聴いているらしいということを知った。他にどんな人が聞いているのか、知るのが楽しみである。

ダンテ・アリギエリ『神曲 天国篇』(18-2)

5月3日(水)晴れのち曇り

 ベアトリーチェに導かれて天空の世界に旅立ったダンテは、月天、水星天、金星天、太陽天を経て火星天に達する。そこで彼は自分の玄祖父であるカッチャグイーダの魂に迎えられ、彼を待ち受けている運命とその中で彼の進むべき道について告げられる。彼は政敵によって故郷であるフィレンツェ市から追放され、仲間とも別れて孤独な亡命生活を送ることになる。その中で彼が見聞きした死後の世界の様子を人々、特に世の指導者となるような人々に語り聞かせることが彼の使命だというのである。地獄、煉獄、天国と遍歴した死後の世界の中で、ダンテは有名な人物、有力者の霊と逢ってきたが、それは彼が現世で出会う有名人、有力者たちへの影響力を強めるためであるという。カッチャグイーダの魂はダンテに火星で彼を迎えた魂たちを紹介する。

 ベアトリーチェの姿がさらに美しくなるのを見るうちに、ダンテは彼が移動したことを知る。
私は見た、そのユピテルの松明の中で
その場所にいた愛から発する火花が
我が目に向かって我らの言語を描くのが。
(274ページ) 「ユピテル」はローマ神話の主神、英語でいうジュピターであるが、ここでは木星のことを指している。火花は空中をとりのように飛びながら、文字を描いていた。中世では、鳥が空に描く文字はギリシャ文字であるとされていたが、ここでダンテが見たのはラテン語のアルファベット、つまりローマ字であった。ただし、後に出てくるように、その文字が描く言語はラテン語であって、イタリア語ではない。

そして、ちょうど川岸から飛び立った鳥達が
まるで餌をついばんだことをうれしがるかのように、
ある時は円形、またある時にはその他の形の列を自分たちで作るのにも似て、

光の中の聖なる被造物たちは
飛び回りながら歌いつつ、ある時は
D、またI、あるいはL字の形を自分達で作っていった。

最初、それらは歌いながら、歌の節に合わせて動いていたが、
二には、これらの文字の一つになるたびに
しばらく止まっては沈黙を守るのだった。
(274-275ページ) 

こうして彼らは7の5倍の
母音と子音の姿になった。そして私の前に言葉として現れた
そのままに、私は一つ一つの文字を記憶に書き留めた。

「DILIGITE IUSTITIAM (正義を愛せ)」が
描かれた全文の最初の動詞と名詞、
「QUI IUDICATIS TERRAM (地を統べる者達よ)」、それが最後の言葉だった。
(275ページ) 35とそのまま書かずに、7の5倍、文字と書かずに母音と子音と書くのが当時一流の数学者であり、詩人であったダンテの遊び心を含めた表現であろう。原さんの傍注によると、「正義を愛せ、地を統べる者達よ」というのは旧約聖書外典の『知恵の書』の冒頭部分だそうである。

 その後で、魂たちはMの字のままでしばらくとどまった。このMは、地を表すterramの最後の文字で、地上を示すと同時に、ローマ帝国を表すMonarchia=帝国の頭文字であることから、地上に正義を行きわたらせる統治の使命を神に担わされた帝国を示すものである。
 さらにそのMの字は鷲の形に変化し、その変化の途中でMの字は一時、百合の形に変化した。この変化をめぐって解釈は分かれているようであるが、鷲は神聖ローマ帝国、百合はフランス王国の紋章である。このように、ダンテは神意が木星の徳の力となり、それが地上に正義をもたらす当地として現れているとく。しかし地上ではその正義をもたらす統治の影響を遮る悪の煙が生じている。これは聖職売買をこととする腐敗した教会、あるいは教皇庁であるという。

 木星でダンテを迎えた魂たちは天空に文字を描くことで真意を伝えようとするが、彼らの素性はまだわからない。今年はルターが95か条の提題を掲出して、教会の腐敗を批判し、宗教改革の口火を切ってから500年になるが、さらにそのルターよりも200年ほど早く、ダンテが聖職売買をはじめとする教会の腐敗を批判していることが注目される。

 

夏目漱石『虞美人草』

5月2日(火)晴れ、気温上昇

 蔵書の整理をしていたら、ワイド版岩波文庫の『虞美人草』が出てきた。漱石が東京帝大と一高の講師を辞めて朝日新聞社に入社して、初めて書いた長編小説であり、明治40年(1907)6月23日から10月29日までにわたって朝日新聞に連載された。明治文明開化以来の価値観の葛藤の中で、解説の桶谷秀昭の言葉を借りれば「道義の徒が我意や利害打算の徒を打倒し制裁する」(423ページ)という「勧善懲悪」の物語であり、漱石の作品の中ではきわめて派手な外見をもつ。それがさらに女主人公である藤尾の形象や物語の展開を記していく美文調の文章と相乗して華美な効果を生んでいるが、「勧善懲悪」という見地からすれば、そういう外見的な華やかさが作品に込められた著者の主張を殺してしまっているともいえる。大衆的な人気を博したにもかかわらず、漱石自身がこの作品をその後は高く評価しなかったのはある意味で当然のことであろう。
 そうはいっても、なかなかよくできた面白い小説であることには変わりなく、改めてこの作品を読み直してみようと思った次第である。特に、この作品の中に展開される漱石の文明批評が、登場人物の形象と言動にどのように表現されているかに注目しながら、大体4回くらいに分けてあらすじを追っていこうと思う。作品の背景や周辺について予習しているわけではないので、いい加減なことを書くおそれがあることをお含みの上、読んでいただきたいと思う。

 1
 京都旅行中のいとこ同士で仲の良い宗近君(名前は一、28歳)と甲野さん(名前は欽吾、27歳)が今日は比叡山に登っている。二人とも定食についているわけではなさそうであるが、甲野さんは大学で哲学を勉強し、宗近君は外交官の試験を受験したが落第し、再受験の準備中らしい。世俗的で心身ともに健全な宗近君と超俗的で体が弱そうな甲野さんという2人の対照的な人物が登場するが、この2人があまり共通点がないにもかかわらず、仲がいいらしいことがうかがわれる。

 2
 東京の甲野君の家で、甲野君の妹の藤尾(24歳)が文科大学の卒業生である小野清三(27歳)の指導で、『プルターク英雄伝』のアントーニウスの章のアントーニウスの死の知らせを受けたクレオパトラの姿を描く場面を読んでいる。2人はシェイクスピアの『アントニイとクレオパトラ』の話などしながら、心を通わせている様子である。買い物に出ていた藤尾の母親が戻ってきて、世間話をする。気持ちがふさぎがちな甲野さんを宗近に頼んで旅行に連れ出してもらったようである。藤尾は何やら由緒ありげな金時計を持ち出して、小野にこれを贈ろうかどうしようかと謎めいた行動をする。〔プルターク(プルタルコス)の英雄伝はもちろん、ギリシア語で書かれているのだが、小野さんと藤尾が読んでいるのはその英訳であろう。藤尾の訳読は、もちろん実際は漱石自身が訳しているのであるが、どの程度正確かどうかは原文を読んでいないからわからないが、日本語としては見事なものである。なお、文科大学というのは東京帝国大学文科大学=文学部のことである。〕

 3
 京都の三条の宿屋で宗近君と甲野君が話している。隣家から琴の音が聞こえてくる。宗近君はその琴の弾き手である娘の顔を見て、「藤尾さんより悪いが糸公よりは好いようだ」(52ページ)と無遠慮な感想を述べる。糸公と呼ばれているのは宗近の妹の糸子のことである。糸子は美人ではないかもしれないが、裁縫が得意である。甲野君は「御糸さんは藤尾なんぞと違って実用的にできているからいい」(58ページ)と評価する。2人の会話から、甲野の家の抱えている問題が少し明らかになる。外交官であった甲野の父は外国で死んだばかりで、家の相続が問題になっている。2で藤尾が小野さんに見せていた金時計はその父親の遺品で、彼女は子どものころからこの時計をおもちゃにしていたらしい。宗近君は卒業祝いにこの時計をやろうといった伯父の言葉を記憶していて、形見にこの時計がほしいという。〔藤尾が金時計の鏈(くさり)についている柘榴石(ガーネット)が気に入っているという箇所が面白い。漱石は読んでいなかったと思われるが、コナン・ドイルの「青いガーネット」(The Blue Carbuncle)という小説があって、その最大の謎は、実はガーネットはだいたいにおいて赤系統の色の石で、青いガーネットというのが実在するのだろうかということなのである。〕

 4
 小野さんの半生が振り返られる。恵まれない環境に育った彼は京都で井上孤堂先生の世話になり、上級の学校、さらに大学へと進むことができた。大学では成績優秀で卒業時に銀時計を頂いた。今は博士論文を執筆中である。「博士の傍には金時計が天から懸っている。時計の下には赤い柘榴石が心臓の炎となって揺れている。その側に黒い眼の藤尾さんが繊(ほそ)い腕を出して手招ぎをしている。凡(すべ)てが美しい画である。詩人の理想はこの画の中の人物となるにある。」(64ページ) 小野さんはいつの間にか、こうした将来を描くようになっていた。そこへ、京都にいる孤堂先生から家を畳んで上京したいのでよろしくという手紙が届く。孤堂先生は自分の娘の小夜子と小野さんを結婚させたいのであり、そのことを小野さんはよく知っている。そこへ同じく孤堂先生の門下であった友人の浅井が訪ねてくる。浅井もまたいよいよ小野と小夜子が結婚するものと思っている。浅井と一緒に下宿を出た小野さんは甲野の邸に向かう。

 5
 京都にいる宗近君と甲野さんは嵐山に花見に出かけ、そこで旅館(蔦屋)の隣の家で琴を弾いていた娘を見かける。さらに保津川下りを楽しんだ後、茶店で再び娘を見かける。宗近君が探り出したところでは彼女は「京人形じゃない。東京ものだ」(88ページ)である。

 6
 宗近君の妹である糸子が甲野邸を訪問し、藤尾と話している。遊び歩いている藤尾と、家の中にこもっている糸子ではあまり話は弾まないが、その弾まない話の中で二人はお互いの腹の内をさぐりあう。糸子は自分の兄と藤尾を結婚させたいと思う一方で、欽吾に惹かれている。それを見透かした藤尾は私の姉さんのつもりでと言ってきた糸子に、あなたの方が私の姉さんよとやり返す。
 そこへ小野さんがやってきて、小野さんが京都で育ったこともあって、京都滞在中の宗近君と甲野さんの噂が出る。京都での様子について、藤尾はいろいろ想像をめぐらすが、想像力の貧しい糸子はついていけない。小野さんはなぜか浮かない様子である。〔「小米桜の後ろは建仁寺の垣根で」(102ページ)という藤尾の言葉がどうも気になる。宗近君と甲野さんが泊まっている旅館は三条にあるが、建仁寺は洛東で四条のさらに南にあるから、地理的に不合理である。〕 

 ここまでで主要登場人物はだいたい出そろった。孤堂先生と小夜子が物語の中で見え隠れしているのも、小説的な技法として見事である。物語の性格上、それぞれの登場人物の性格が比較的類型的に設定されているのは『坊っちゃん』と共通するのではないか。ただ、その中で小野さんが異質な存在だという桶谷秀昭の指摘には傾聴すべきものがある。今回読み直してみて、6で藤尾が従妹の糸子をいじめたおす場面はどうも不愉快であった。とはいうものの、このあたりの心理描写はなかなか見事で、漱石は英文学から大いに学んでいるということも言えそうである。文明批評と言いながら、そういう部分にはあまり触れずに来てしまった。次回以降、その点についても気を配って読んでいきたい。 
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