2017年の2017を目指して(4)

4月30日(日)晴れ、気温上昇

 4月に入ったが、依然として行動半径は東京都と神奈川県(それも横浜市と川崎市)を出ていない。今年になって新しく足を踏み入れた道府県、市区町村はなく、1都1県、2市6町村に足跡を記しただけにとどまっている。
 新たに利用した鉄道会社と路線はないが、桜木町駅と関内駅を利用した。
 バス会社も新たに利用したところはないが、市営<39>、東急<市63>、神奈川中央<横11>、相鉄<浜11>の4路線を新たに利用、また新たに乗り降りした停留所が6か所ある。〔69+12=81〕

 この記事を含めてブログの記事を30編書いた。内訳は未分類が2、日記が6、読書が7、『太平記』が4、ダンテ『神曲』が4、歴史・地理が0、外国語が2、映画、寺社が0、詩が3、推理小説が2ということである。それぞれの1月からの累計は未分類が9、日記が22、読書が36、太平記が16、神曲が17、歴史・地理が3、外国語が4、映画が2、寺社が0、詩が6、推理小説が5、合計で120ということになる。戴いたコメント、拍手コメントはなく、拍手は692拍いただいた。1月からの合計はコメントが18件、拍手が2615拍、拍手コメントが3件ということである。〔111+30=141〕

 本を14冊購入し、10冊読み終えた。読み終えた本を列挙すると:
森茂暁『足利尊氏』、宮崎市定『水滸伝』、ロビン・スティーヴンス「英国少女探偵の事件簿① お嬢さま学校にはふさわしくない死体』、望月麻衣『京都寺町三条のホームズ⑦ 贋作師と声なき依頼』、川島真『中国のフロンティア』、望月麻衣『京都寺町のホームズ(6.5) ホームズと歩く京都』、ジョン・ガスパード『秘密だらけの危険なトリック』、野崎昭弘『詭弁論理学 改版』、井上達夫『自由の秩序――リベラリズムの法哲学講義』、吉見俊哉『大予言 「歴史の尺度」が示す未来』
ということである。新たに本を買った本屋はなく2軒のまま、1月からの読んだ本の累計は36冊である。〔28+10=38〕
 5月に研究会で発表するつもりで、J.S.ミル『自由論』とそれに関連する本を読んでいる。ジェイン・オースティンの『エマ』についてこのブログで紹介し終えて、まだ紹介していない作品は短編を除けば(長編は全部読んだが、短編は読み残している)、『高慢と偏見』だけになった。しばらくオースティン以外の作家の作品を読もうかと思って、ハーディーの『緑の木陰』を読み始めたのだが、阿部知二の翻訳が古すぎて、難渋している。

 『ラジオ英会話』を20回、『入門ビジネス英語』を8回、新たに始まった『高校生から始める現代英語』を8回、『実践ビジネス英語』を12回聴いている。このほか『攻略!英語リスニング』(4月2日で放送終了)を2回聴いている。1月からの累計は、『ラジオ英会話』が80回、『入門ビジネス英語』が8回、『高校生から始める現代英語』が8回、『実践ビジネス英語』が48回、『攻略!英語リスニング』が26回である。これらのほかに、『短期集中!3か月英会話』、『英会話タイムトライアル』、『エンジョイ・シンプル・イングリッシュ』、『ワンポイント・ニュースで英会話』の時間も聴いているが、勘定には入れていない。勘定に入れていないと書いたが、『英会話タイムトライアル』はなかなか聴きごたえがあって、楽しみにしている。
 『まいにちフランス語』を入門編12回、応用編8回、合計20回、『まいにちイタリア語』を入門編12回、応用編8回、合計20回聴いた。4月からまた『レベルアップ中国語』を聞き始め、20回聴いた。1月からの通算は『まいにちフランス語』入門編が12回、初級編が24回、応用編が36回、『まいにちイタリア語』は入門編が12回、初級編が23回、応用編が36回、『レベルアップ中国語』が20回ということである。フランス語は応用編、イタリア語は入門・初級編に力を入れて聴くつもりにしている。〔239+110=349〕

 映画は4月30日になってあちこち走り回り、結局神保町シアターの成瀬巳喜男特集の『噂の娘』を見ただけで終わった。月末に1本だけ見たというのは2月に続いて今年になって2度目である。1月からの見た映画の累計は8本、出かけた映画館は3館である。5月はもう少し映画を見ることにしよう。〔10+1=11〕

 プレナスなでしこリーグ2部の第2節(ニッパツ横浜FCシーガルズ1-1愛媛レディーズ)、第4節(ニッパツ横浜FCシーガルズ1-0)、第5節(横浜FCシーガルズ0-4ASハリマ)、第6節(日体大フィールズ横浜3-1ニッパツ横浜FCシーガルズ)の4試合、J2の第7節(横浜FC2-0京都サンガ)、第9節(横浜FC4-0ジェフ千葉)の6試合を観戦した。また日産フィールド小机に始めて出かけた。1月からの観戦した試合の合計は13試合、球技場は3か所ということになった。〔9+7=16〕

 4月10日にハドソン・テラスさんの第2回「楽しいスケッチ展」を見に出かけた。見に出かけた展覧会の数は2回、そのために足を運んだギャラリーも2か所である。
 ブログ関係では、このほか、2月に別府葉子さんのコンサートを聞きに出かけている。
 また「☆オリジナルの高校数学の問題を掲載していきます☆」の問題を2問解いたので、1月からの累計は3回ということになる。成績優秀者に名を連ねるところまではいきそうもないが、楽しみながらやっていこうと思っている。

 A4のノートを2冊、A5のノートを2冊、0.5ミリのボールペン芯を2本、0.4ミリのボールペン芯を1本使いきった。

 4月に入ってからかすかにではあるが富士山を1度見た。(1月からの合計は12日ということである。) アルコール類を口にしなかったのが、4日で、1月からの通算では22日ということになる。
 5月にはどんな事柄が待っていて、どんな数字が表れるか、それはその時のお楽しみということにしておく。 
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日記抄(4月23日~29日)

4月29日(土)晴れ、風強し。

 4月23日から本日までの間に経験したこと、考えたことなど:
4月23日
 日産小机フィールドに、プレナスなでしこリーグ第2部第5節、横浜FCシーガルズ対ASはりまの試合を見に出かける。0-4でASはりまに敗れる。前日の横浜FC対ジェフ千葉の試合の裏返しのスコアになった。GKがあまり考えずに前に出ると、大量失点を招きやすいというのが両試合に共通した教訓のように思われる。
 観戦後、東急バス市03で新横浜駅に出て、地下鉄で横浜に戻る。

4月24日
 NHK「ラジオ英会話」はは「スペシャル・ウィーク」の放送の第1日で、”Old News Is New Again"(古きニュースで新しきを知る」として、”Japan ranks 111th in world gender equality"(男女平等ランキング、日本は世界111位)と、”Britain introduces its first plastic banknotes" (イギリス 初の「プラスチック紙幣」導入)の2つのニュースを取り上げた。前者は世界経済フォーラムによる世界各国の男女格差に関する調査報告の2016年版の紹介である。
Of 144 countries, Iceland ranked the most gender-equal in the world for an 8th straight year. ((対象となった)144か国のうち、男女平等が最も進んでいるとして、8年連続でアイスランドが1位になりました。)
 大江健三郎さんがノーベル文学賞を受賞する以前に、私がよく使ったジョークの1つが、日本とアイスランドはノーベル文学賞受賞者とミス・ユニバースが1人ずつ出ているという点が共通しているというものであった。この2つの分野では、最近は日本の方がリードしている。

4月25日
 NHKラジオ「まいにちフランス語」の「文化コーナー」で取り上げられた話題:
 2002年にフランスの通貨はフランからユーロになった。それまで使われていたフランの場合«franc≫という語は子音字で始まっているので、リエゾンする必要がなかった。ユーロ«euro» の場合は母音字で始まっているので、リエゾンをしなければならないはずだが、実際にはそうならない場合がある。ユーロは最近フランス語になった単語なので、リエゾンが定着しない。なかなか一筋案話ではいかない問題だという。

4月26日
 NHKラジオ「実践ビジネス英語」は”Job Interviews" (就職の面接)の4回目。前回、日本から派遣されてきている社員が
one thing that I vividly remember from my group interview in Japan is that we all had to describe what we thought our greatest ewaknesses were. (日本で受けたグループ・インタビューで1つ鮮明に覚えていることがあります。自分の最大の短所は何だと思うかを、応募者全員が説明しなければならなかったことです。) これに対しアメリカ人の新入社員が、この問いに対する最悪の答えは”My only weakness is that I work too hard." (私の唯一の短所は働きすぎることだ)だと思うと応じる。面接担当者は、応募者の誠実さと自己認識について大まかに理解する必要があるわけだから、率直に自分の短所について語り、また改善の努力をしていることも言い添えるといいのである。日本から来ている社員が
I'm told that in American job interviews, it's common for candidates to be asked where they see themselves in five years' time. (聞いているところによると、アメリカでの就職の面接では普通、5年後に自分はどこにいるかと、応募者は尋ねられるそうです。)というと、新入社員はもちろん、その質問はされたと言い、この質問の真意は「どれぐらいの間我が社にいるつもりですか。あなたには、時間と労力をかけて養成するだけの価値がありますか」ということだと付け足す。将来への志と、現実的なキャリア目標があるのかどうかが問題なのだというのである。

4月27日
 「実践ビジネス英語」の会話の続き。日本では、あなたの友人はあなたをどのように見ていますかという質問がよくされているが、アメリカでは
It's more common to be asked how your current boss and coworkers see you. (現在の上司や同僚はあなたを見ているか、と聞かれる方が普通です)
という。日米での違いはあるが、個人的な問題には立ち入らないほうが望ましいのは同様である。

 野崎昭弘『詭弁論理学 改版』(中公新書)を読み終える。なかなか面白かった。

4月28日
 『朝日』の朝刊に新設の都立小中高一貫校で、中学段階から第2外国語を必修の授業として開設するという記事が出ていた。どんな言語をどのくらいの時間をかけて、どのような方法で教えるのか、詳しいことはわからないが、履修しないことも含めて、かなり幅のある選択の余地を設ける方がよいと思う(したがって必修化には反対である)。英語がろくにできない学習者に対して、第2外国語を学習させても混乱が大きくなるだけなので、その点にも配慮すべきである。できれば、インド=ヨーロッパ語族に属さないアジアの言語、中国語か韓国語、アラビア語を(東南アジアの諸言語でもいいけれども)学ばせた方がよいと思う。できるだけ、本人の希望とやる気を尊重して、いやなものを押し付けることはやめた方がいいというのが私の意見である。

 NHKラジオ「まいにちフランス語」応用編「インタビューで広がるフランス語の世界」の中で、あるフランス人青年が平均で2か月に1回は旅行する。というのは、いろいろなところに友達がいるからだといい、
c'est un peu l diaspora, les étudiants: tout le mond part étudier a droite à gauche en Europe.(学生はちょっとディアスポラみたいなものです。みんな、ヨーロッパのあちらこちらに勉強しに行くのですから。)
と言っていたのが印象に残った。ディアスポラは、バビロン捕囚後、ユダヤ人がパレスチナ以外の地に離散したこと、あるいはその結果生じたユダヤ人コミュニティーを指す語であったが、さらに転じて、「民族、人々の離散」という意味でも用いるそうである。
 18世紀ごろからスコットランド人や、アイルランド人はアメリカやオーストラリアなどに散らばっていったが、ある英国人の学者とその話をしていて、私がdiasporaと言ったら、それはmovementというべきだと言われたことを思い出す。
 ヨーロッパには1987年に創設された「エラスムス」という留学制度があり、30か国が参加している。ヨーロッパの各国を旅しながら、知的な交友と対話を展開したルネサンス時代の知識人エラスムスの名にちなんだものである。

4月29日
 日産小机フィールドで2017プレナスなでしこリーグ2部第6節、日体大FIELDS横浜対横浜FCシーガルズの試合を観戦した。シーガルズが先制点を奪ったが、その後はほとんどボールを日体大に支配され、前半に逆転を許すと、後半にも追加点を奪われてⅠ-3で敗れた。体力、技、チームワーク、いろいろな点で日体大が勝っていた。負けたのは仕方がないが、負け方がよくないのが気になるところである。 

北杜夫『どくとるマンボウ青春記』

4月28日(金)曇りのち晴れ

 北杜夫『どくとるマンボウ青春記』(中公文庫)は、1968年に中央公論社から刊行された著者の旧制松本高校、東北大学医学部で過ごした若き日々の回顧録を文庫化したものである。しばしば旧制高校の教育を礼賛した書物と評価されているが、大学時代の思い出も含まれていること、著者が少しばかりであるかもしれないが、旧制高校での生活についていけないものを感じていたことも記されていることを見逃してはならないと思う。また、1964年(私が大学に進学した年である)の慶應義塾大学における学費値上げ反対運動あたりから始まって、次第に大学における学園闘争が激しくなっていた時期にこの書物が刊行されていることも考えさせられるところがある。

 著者の過ごした旧制高校生活には2つの側面があり、1つは生徒の自治や自由を重視し、学校の授業を超えて人生を学ぶより大きな学問を身につけようとした(実態としては、ただ勉強を怠けていただけじゃないかという指摘もあるかもしれない)「蛮からな」、旧制高校の歴史全般を通じて指摘される特徴と、もう一つは終戦直後の生活困難と社会改革、特に旧制高校の廃止を含む学制改革の中での生活の特徴である。もっとも北さんはその中では生活困難の方を強調しているように思われる。さらに言えば、他の高校には見られなかった、松本高校だけの特徴というのもあって、例えば、あいさつとして「バッキャロー」といっていたというのは、松本高校だけの習慣である。(生前にTVなどで見かけた北さんの態度は、きわめて礼儀正しいものであり、「バッキャロー」というような乱暴な挨拶とは無縁な方に見受けられた。もちろん、年齢を重ねてそのように変化したということもあるだろうが、旧制高校の多少乱暴な生活の中で、それに対して批判的な目も持ち合わせていたことは、本文を読めばわかることである。)

 著者は「旧制高校というところは、これまた複雑怪奇である。まず、その教師からして変っている。」(56ページ)と書き、その教師たちの奇行や愚行を書き連ねる。もっとも生徒たちがそういう側面しか見なかったという部分を差し引いて読む必要がある。著者自身も「わざとおかしな例ばかり書いたが、旧制高校の先生のよい点は、生徒と一緒になって人生を語り、親身になって相談に乗ってくれることであろう。」(62ページ) と付け加えている。他の点では問題があっても、とにかく「生徒と一緒になって人生を語り、親身になって相談に乗ってくれる」ような先生は、時代と場所を超えて、どのような教育機関にも必要な存在には違いない。もう一つ重視してよいのは、旧制高校における寮生活、特に寮生の自治活動を通じての自治訓練や同世代教育の存在であり、学寮制を高等教育の中で全面的に採用することは不可能だとしても、自治活動や同世代教育の余地を確保することも考えるべきであろう。

 ところで、私は最初の方で学園闘争について書いた。その背景をなしているのは、大学をはじめとする高等教育の大衆化ということである。1960年代に入り、大学がやたらと新増設され、学生の数が増えた。その結果として様々な問題が生じたが、その主なものは、大学の財政が苦しくなったこと、また人事や施設の維持管理など経営上の問題が複雑になったこと、さらに量的な拡大に伴って学生の質も変質したこと、そのため大学教育の内容の不適切性が顕著になってきたことなどである。

 旧制高校の先生が生徒に親身に接したのは、教師も生徒も同じ共同体の仲間であるという認識があったからである。旧制高校というのは戦前の日本に(数え方によって違うが)30校余りしかなかったエリート教育機関であって、そのために教師と生徒との間に共同体としての意識が芽生えやすかったのである。戦後の学制改革で旧制高校は廃止されて、大学の教養部や文理学部になった。そのことに異議を唱えたり、反対した教師や生徒が少なくなかったことは記憶されてよいし、どくとるマンボウがこの『青春記』の中で愛情をこめて描き出している松本高校の名物教師蛭川幸茂などはその中の代表的な1人である。
 ところで、戦後の学制改革はそれまではヨーロッパ風であった日本の高等教育を、アメリカ風に改造しようとしたといえるだろうが、都留重人さんの『師友雁信録』や犬養道子さんの『マーティン街日記』を読めばわかるように、アメリカのエリート・カレッジにもそのような教師と学生との共同体的な意識は存在したし、アメリカの大学には学生組合やフラタニティー、ソローリティーなどの活動もあって、学生の自治訓練・同世代教育の場も十分に確保されているわけで、戦後の学制改革の中で、日米の高等教育の最良の部分のコミュニケーションがつながらなかったことが惜しまれる。

 いずれにせよ、戦後、特に1960年代以後の大衆化した大学で旧制高校流の師弟関係を求めるのは、以前に比べてむずかしくなってきたのはある意味で当然のことである。私が大学生だった時代というのは、大学の大衆化が急速に進行する時代であったのだが、自分自身がそのことを自覚していたという記憶はまったくない。また、先生方、特に教授クラスの方々は、旧制の教育を受けて方々が大部分で、それゆえ大学教育の大衆化に向き合うという姿勢の先生は少数であったと思う。抜本的な改革が必要になっている時期に、その必要性を認識している人があまりいなかったことはその後の日本の高等教育にきわめて好ましからざる影響を及ぼした。また学生の自治会活動が過激化し、分裂を重ねて退潮したのも惜しまれるところである。

 作家であり、ある時期までは医師であった北さんが、旧制高校の教育を懐かしがること、その中のある要素を学制改革以後の高等教育にも求めることは当然ではあろうが、大学の先生が同じような懐旧の念だけでこの書物に接するのは問題であろう。(もっとも著者をはじめ、この書物に懐旧の念を抱いたであろう昭和一桁生まれの方々は次第に鬼籍に入られている。) むしろ、この書物の中に隠されている旧制高校についての批判的な意見に目を向け、旧制高校の教育の批判的な継承の可能性をさぐる方が生産的に思われる。時代の変化に対応して、本の読み方が変わってもいいし、この本はそういう読み方を変えながら読み継がれていくべき本だと思った次第である。

猫の歴史

4月27日(木)曇り時々晴れ

猫の歴史

昔、我が家の縁の下に
のらの雌猫が住み着いて
何度かお産をした

どこまで気持ちが通じていたのかは
わからないが
だんだんお互いに慣れ親しんできた
とくに母親同士が仲がよかったようだ

そのころは、我が家の周辺に
野良猫がたくさんいて
飼い主の方針で
自由を謳歌している家猫も交えて
にぎやかに暮らしていた

ときどき
我が家のトタン屋根の上で
猫たちが集まっていたようで
夜になると
大きな音がしてびっくりしたものだ

野良猫が最後に生んだ
子どもを引き取って飼い猫にした
この子を頼むと親猫がいったと
母は主張していたが、本当にそうだったのだろうか
その子猫が大人になり年寄りになり死んでから
我が家では猫を飼わなくなった
ご近所の猫もだんだんと姿を消した

それから年月が経って
我が家も2度ばかり改築をしたし
ご近所の家も
代替わりをしたり
改築をしたりした
犬を飼っている家もあるし
猫を飼っている猫もある

我が家でも猫を飼っているし
猫を飼っているご近所の家は少なくないが
表を走り回る猫はいないし
夜に寄り合いを開くこともないようだ

我が家の猫を膝にのせながら
おまえは運がいいのか悪いのか
自分ではどう思っているのかと
問うている

昔だったら、
表を走り回って
喧嘩もしたし、危ない目にも会っただろうが
猫の大好きな自由を謳歌したはずだ
家の中を走り回っては
餌を食べる そんな生活に満足しているのかと

そんな問いはどうでもいいよと
いうふうに
膝の上で
ゴロゴロと甘えている
猫の歴史は猫自身には綴れない
(もっとも、そう思っているのは人間だけかもしれない…)

ダンテ・アリギエリ『神曲 天国篇』(18-1)

4月26日(水)曇り

 ベアトリーチェに導かれて、天上の世界に飛び立ったダンテは月天、水星天、金星天、太陽天を経て、火星天に達した。そこで彼は「己の十字架を背負ってキリストに続く者」(=広い意味での殉教者、第14歌、218ページ)たちの魂に迎えられる。その中からダンテの玄祖父であるカッチャグイーダの魂が現われ、自分がダンテの先祖であり、十字軍に参加して戦死したこと、彼の時代のフィレンツェは貴族と市民とが平和に暮らす市であったのが、その拡大とともに封建領主たちの<奪う文化>が市に入り込み、市の中で対立が起き、それに教皇と皇帝が介入したために争いが絶えなくなったと述べた。そしてダンテが近い将来、故郷であるフィレンツェから追放されて、仲間たちとも別れ、つらい亡命生活を送ることになるが、死後の世界を訪問して見聞したことを人々に語る義務を果たさなければならないと彼の将来を予言する。死後の世界の遍歴の中でダンテが有名な人々に会ったのは、彼のこの使命と関連する神慮であったというのである。

 自分の未来を予言(将来のことを示しているという意味では予言であるが、神意を受けているという意味では預言である)するカッチャグイーダの言葉を聞いて、ダンテは思い悩む。
すでにあの祝福された鏡は自分だけの思念を
楽しみ、私は苦味を甘さでやわらげながらも
考えては思い悩んでいた。
(268ページ) 「あの祝福された鏡」はカッチャグイーダを指す。彼は神からの叡知の光を反射しているから、鏡に譬えられているのである。「苦味」は追放の苦しみを味わうこと。「甘さ」は前回に触れたように、スカーラ家の食客になることである。

 その様子を見たベアトリーチェは悩むのをやめて、彼女が「あらゆる不正の重荷を取り除かれる方」(同上)である神とともにあることを思えと助言する。彼の地上での苦しい歩みは、地上を超えて神を目指す救いの道であり、神の前では取り除かれることになるという。この言葉に振り向いたダンテは、彼女の瞳の中に神の永遠の美が流れ込んで、それが自分にも伝わってくることを感じた。
微笑み一つの光で私を圧倒しながら、
彼女は私におっしゃった。「向きを変えて聞きなさい。
私の瞳の中にだけ天国があるわけではないのですから」。
(270ページ)

 ダンテに向かってカッチャグイーダは、火星天にいる殉教者たちの魂を紹介した。それは旧約聖書に登場するモーゼの後継者としてイスラエルの民を率いたヨシュア、紀元前2世紀にセレウコス朝シリアからのユダヤ人の独立戦争を指導したが、戦死したユダス・マカバイオス、カロリング朝第2代のフランク王であり、西欧を統一し、800年に教皇から西ローマ帝国の皇帝冠を受け、理念上のローマ帝国を復活させたカール大帝、その甥で大帝によるイスラーム・スペインへの遠征が失敗した際に、撤退する軍勢の殿軍を務めロンスボーで戦死したという(伝説上の人物である)ローラン、同じくカール大帝の時代にイスラーム勢力を相手に活躍したオレンジ公ギヨームと、その従者であったと言われる伝説の巨人ルノワール、第一次十字軍を率い、エルサレムを奪還したゴッドフロワ・ド・ブイヨン、11世紀に南イタリアからイスラーム勢力を撃退したロベール・ギスカールらの魂であった。
 これらの魂は、太陽天でキリスト教的な知を身につけたダンテに対し、その知を守るために必要な精神の強さを示すものである。それは地上に帰った預言者ダンテが、周囲の人々から迫害されながらも真理を語るために必要なものであった。

 ダンテは次に何をなすべきかを知ろうと、ベアトリーチェの方を向いた。
すると、あまりに澄みきった、
あまりに喜びにあふれたその眼光が目に入り、その姿は、
つい先ほどのものも含めてそれまでの彼女を凌駕していた。
(273ページ) こうしてダンテは火星天で見聞すべきものを見聞し、木星天へと向かうのである。

 ダンテが「殉教者」として挙げている人々には歴史的な人物とともに、伝説上の人物が含まれていることも彼の世界観や歴史認識を示すものとして興味深いが、彼らの事績がそれぞれいやに戦闘的であることが気になる。キリスト教の特に初期における「殉教者」の中には非暴力を貫いた人もいるわけで、そういう人についてダンテがどのように評価していたのかも知りたいところである。

ジョン・ガスパード『秘密だらけの危険なトリック』

4月25日(火)晴れ、気温上昇

 4月22日、ジョン・ガスパード『秘密だらけの危険なトリック』(創元推理文庫)を読み終える。

 この作品のもともとの表題はBullet Catchで、銃から撃たれた弾丸を口で受け止めるというマジックである。「外套の奇術師」という名で知られたマジシャンのテリー・アレクサンダーは零落の果てにエクアドルでこのブレットキャッチを演じている時に死んだ。他殺であったか、事故であったか、謎が残っている。テリーの生涯を描く映画の製作が企画され、撮影中であるが、低予算の地味な映画で、そう簡単にヒットする可能性はない。しかし、主人公が撃たれて死ぬ場面で、それを演じていた主演俳優が本当に死んだら… テリーを演じている若手男優のジューク・ノースは誰かが本当に彼を殺そうとしているのではないかと不安を感じ、ハイスクールの同窓生であったマジシャンのイーライ・マークスに助けを求める。既に何人かのマジシャンにマジックのコーチを受けているが、イーライに同窓生のよしみでコーチをしながら、自分の身を守ってもらおうというのである。

 物語の語り手で主人公であるイーライは、ミネソタ州のミネアポリスで暮らしている(テリーの伝記映画は製作費が安くつくミネソタ州で撮影中なのである)。2年近く前に地方検事補である妻のデアドレが殺人課の刑事であるフレッドと不倫関係に陥ったために離婚、半年前には連続殺人事件の容疑者になり、担当であったフレッドに追い回された。いまは親代わりに自分を育ててくれたおじのマジックショップの3階に寝起きする生活。今のガールフレンドである”気の雑貨店”の経営者ミーガンとは”お休み期間”中。それだけでなく、目下、深刻な高所恐怖症に悩まされ、セラピーを受けている。

 ジェークに誘われてハイスクールの同窓会(厳密にいえば同期会)に出席したイーライはハイスクール時代の片思いの相手であったトリッシュに出会う。彼女は自分からイーライに近づいてきて、同じく同窓生のディラン・ラサールと結婚したという。「悪い男」に弱いとトリッシュはいうが、だとするとディランと結婚したことは、「悪い男の大当たり」を引いたことになるとイーライは思う。

 大騒ぎの翌朝、ハリーの店に出たイーライは、もとの妻の夫である殺人課の刑事フレッドの訪問を受ける。彼はディラン・ラサールが殺されたと告げる。ただの強盗事件ではない可能性があるという。
 ジェークが主演している映画の撮影現場に出かけたイーライは旅をしながら記事を書いているジャーナリストのクライヴ、スタンリー・キューブリック気取りの監督のウォルター、自分の脚本を切りさいなまれて不満たらたらの脚本家のスチュアート、以前に会ったことがあるメイク師のローレン、脚本家の元ガールフレンドで主演女優のノエル(役が付いてから、相手を次々にかえている)、プロデューサーのアーノルドらに出会う。皆一癖も二癖もある人物で、何かが起きても不思議はない雰囲気である。アーノルドは映画の結末を複数用意しているとまで言う。

 撮影現場に立ち会ううち、イーライは飛び入りだという仕事の依頼を受ける。指定された場所では予想していたようにパーティーが開かれていたわけではなくて、ハリー・ライム(映画『第三の男』でオーソン・ウェルズが演じた謎の男の名前)と名乗る男が待っていただけであった。彼はディランの事件に興味があるらしい。映画好きらしく、事件に関係する人物に彼がつけたニックネームはすべて映画がらみのものである。大抵のニックネームの由来はわかったが、ディランのことをフランシスと呼ぶのがどうもよくわからない。

 ディランの殺人事件の捜査と映画の撮影が進行する一方で、第2、第3の殺人事件が起きる。どれがどう関連しているのかもわかりにくい展開の中で、トリッシュのためにイーライは高所恐怖症にもかかわらず事件の真相に迫ろうとする。ディランの死亡している現場写真を見たイーライはあることに気付く。・・・ 殺人事件、あるいは未遂事件が絡み合って、誰がどのような動機で事件を起こしたのか、まったくわからない。警察と検事局よりも、「ハリー・ライム」の方が事件の核心をつかんでいるように見えるところが不気味である。これまでの経緯があるからイーライは警察が信頼できない。(そのため、余計な危険にさらされることになったりする。) 

 本当に銃から撃たれた弾丸を口で受け止めることができるわけがないのはわかり切ったことで、それを本当らしく見せるトリックが仕掛けられているのだが、それはマジシャンのみが知ることで、読者は仕掛けについて想像することしか許されない。ハリー・ライムがなぜディランを「フランシス」と呼ぶか、イーライが気付いたあることとはなにかは読んでのお楽しみ(ただ、『第三の男』のハリー・ライムが引き合いに出されることで、察しがつく方もいらっしゃるだろう)。事件の真相に迫っていく過程もさることながら、映画とマジックの話題満載で、マジックについての知識があまりないのを残念に思うほどであった。なお、解説によれば、作者ジョン・ガスパードには低予算映画の製作についての著書があるそうだから、ここで映画製作の様子が詳しく描き出されているのも当然であろう。これがシリーズ第2作だそうで、すでに刊行されている第1作『マジシャンは騙りを破る』(創元推理文庫)も探して読んでみたくなった。 

ジェイン・オースティン『エマ』(10)

4月24日(月)晴れ

これまでのあらすじ
 18世紀の終わりか、19世紀の初めごろのイングランド南東部サリー州ハイベリーの村が舞台である。この村の大地主の娘エマ・ウッドハウスは21歳になるが、美人で頭がよく村の女王的な存在である。ただ1人の姉イザベラが嫁ぎ、病弱な父親の世話をしながら暮らしているので結婚の意思はないが、長く彼女の家庭教師をしていたミス・ケリーが、村の有力者の1人であるウェストン氏と結婚した際に、その縁結びをしたと信じ込んで、他にも縁を結ぼうと考えはじめる。隣の教区の大地主であるナイトリー氏はエマの姉の夫ジョン・ナイトリー氏の兄であり、エマを子どものころからよく知っていて、そんなエマの思い込みをたしなめる。
 村にある寄宿学校の特別寄宿生であるハリエット・スミスと知り合ったエマは、かわいくて気立てのいい彼女が気に入る。ハリエットにはナイトリー氏の信認篤い自営農民のロバート・マーティンが思いを寄せ、求婚さえしたのだが、エマはもっといい結婚相手を探すべきだと言って、村の教区牧師であるエルトンと彼女を結びつけようとする。しかし、野心家のエルトンはハリエットではなくエマこそ自分の相手だと言い、エマに求愛を拒絶されると、保養地であるバースに出かけて、そこで出会ったオーガスタ・ホーキンズという財産家の娘と婚約する。
 ウェストン氏にはいまは亡き先妻との間に儲けたフランクという息子がいて、先妻の実家であるヨークシャーの名門チャーチル家で養われ、その財産を継承することになっていた。気難しいチャーチル夫人の意向をおもんばかって、なかなか父親に会いにやってこなかった彼がようやくハイベリーの村を訪問する。エマはチャーチルに好感を抱くが、友人としてはよいが、結婚すべき相手であるとは思わない。そう思いながら、フランクとは表面上親しい付き合いを続ける。しかしフランクにはハリエットの方がふさわしいのではないかと考える。ハリエットがジプシーに襲われた際に、フランクが彼女を助けるという事件が起きて、その思いはますます強くなる。しかし、ハリエットはエマに、自分が恋しているのはナイトリー氏であると言い、エマはナイトリー氏こそが自分の一番大事な人であることに気付く。
 村の昔の教区牧師の未亡人であるベイツ夫人にはジェイン・フェアファクスという孫がいて、なき父親の友人であるキャンベル大佐夫妻に育てられ、家庭教師になるべく教育を受けてきたが、事情があって、祖母のもとに里帰りしている。エマと同い年で才芸に秀でた美人のジェインを、エマはライバル視する。
 エルトンと結婚したオーガスタ→エルトン夫人は自己顕示欲の強い成り上がりで、エマに近づこうとして彼女に嫌われたので、ジェーンにまといつき、彼女に家庭教師の仕事を世話しようとする。彼女がエルトン夫人の説得に負けて、家庭教師の職に就こうとしたとき、チャーチル夫人の死で養家に戻っていたフランクから驚くべき知らせが届く。フランクとジェインは秘密裏に婚約していたのであり、チャーチル夫人の死後、フランクは結婚の許可を得たというのである。この話を聞いたナイトリーは、思わず、エマに求婚してしまい、エマは、彼を失いかけているのではないかと心配していたところだったので、求婚に応じる。

 ナイトリー氏と結婚の約束をしたエマではあったが、病弱な父親が生きているうちは彼と一緒に生活するために、結婚を思いとどまっておこうと考える。この婚約がハリエットにショックを与えたのではないかと考えた彼女は、ハリエットにロンドンに住むイザベラのもとにしばらく滞在することにしてはどうかと考える。ウェストン夫人からエマのもとに出紙が届き、そこにフランクからの手紙が同封されていて、彼がジェインとの婚約を隠すためにエマに近づいていたこと、それがジェインの気持ちを損ねて、婚約を破棄するという手貝が届いたが、チャーチル夫人の死がきっかけとなって結婚を認められた次第が記されていた。(第50章)

 エマのもとにやってきたナイトリー氏はフランクの手紙を見て、厳しい意見を述べる。その後で、彼がエマとの結婚後は、エマの父親であるウッドハウス氏の邸ハートフィールドに住むことで問題を解決しようと提案する。この提案にエマは同意するが、その一方で、ハリエットのことが心配でならない。(第51章)

 エマはイザベラに手紙を書いて、ハリエットのロンドンへの招待を実現させ、ハリエットはロンドンに向かった。エマはナイトリー氏との婚約を打ち明けるのは、妊娠が分かったウェストン夫人の出産後にしようと考える。少しばかりできた空白の時間を有効に使おうと、彼女はジェイン・フェアファクスと和解に出かける。ベイツ家にはエルトン夫人がいて、2人は自由に話ができなかったが、分れる際に、ジェインはエマに心からの感謝の気持ちを述べる。そしてチャーチル夫人の喪が明けたらすぐにフランクと結婚すると伝える。(第52章)

 ウェストン夫人は無事に女児を出産する。エマはナイトリー氏との結婚を父に認めてもらおうとする。ウェストン夫人、さらにナイトリー氏の説得があって、変化の嫌いなウッドハウス氏もようやく娘の結婚を承諾する。このニュースはやがて村中に広がり、多くの人がこの結婚を好意的に迎えたが、エルトン夫妻だけは否定的な感想を述べた。(第53章)

 姉夫婦がハリエットをともなってハイベリーに里帰りする数日前になって、ナイトリー氏がエマのもとを訪問する。そして、ハリエットとロバート・マーティンが婚約したと告げる。以前、この2人の婚約に反対したエマであったが、今回は2人の結婚を喜んで認めたのであった。父親とともにウェストン夫妻を訪問したエマは、そこでフランクとジェインに会う。エマはフランクのふるまいを許すが、「フランク・チャーチルに会えたのはうれしいし、心から友情を感じるけれど、ナイトリーさんの人格のすばらしさを今ほど強く感じたことはない」(中野訳、下、378ページ)と思う。(第54章)

 ハリエットに会い、またロバート・マーティンとも会って、エマはますます2人の結婚に賛成する気持ちが強くなった。9月末に2人はエルトン牧師の師式で結婚式を挙げた。ジェイン・フェアファクスはハイベリーを去って、ロンドンで暮らしており、11月に挙式する手はずになっていた。エマとナイトリー氏はその中間の10月に挙式したいと思っていたが、ウッドハウス氏がなかなか承諾しなかった。ところが身近である事件が起きて心配性のウッドハウス氏が身近に強い男性を必要に感じ、挙式に承諾するようになった。

 「ふたりの結婚式は、普通の結婚式とほとんど同じだった。花婿も花嫁も、派手に着飾ったり、見せびらかしたりする趣味はなかった。夫から式の様子を詳しく聞かされたエルトン夫人は、自分の結婚式よりはるかに劣ったみすぼらしい結婚式だと思った。 「白のサテンはほとんど使われていないし、レースのヴェールもほんの少しだけ。ほんとに哀れな結婚式ね! 姉のセリーナが聞いたらびっくりするわ」
 だが、そういう華やかさはなくても、この結婚式に出席した少数の真の友人たちの願いや、希望や、信頼や、期待は、新婚夫婦の完璧に幸せな姿を見て十分に満足させられたのである。」(中野訳、下、384ページ)(第55章)

 この物語では5組のカップルが結婚すると書いたが、それはウェストン夫妻(物語の終わりの方で子どもが生まれる)、エルトン牧師夫妻(ウェストン夫人が登場してからは見事な悪役ぶりを見せる。ご本人が悪役だと思っていないところが、これまたすごい)、ロバート・マーティンとハリエット(本来ならば、もっと早く結婚しているはずなのに、エマが余計な画策をしたので、延び延びになった。しかし、雨降って地固まるということもあるだろう)、ナイトリー氏とエマ、そしてフランク・チャーチルとジェインである。ナイトリー氏とエマはお互いに好意を持ってきたのだが、それが愛情だと気づいていなかった。ところが、フランク・チャーチルが現われてエマに気があるようなそぶりをしたことから、ナイトリー氏もエマも自分の愛情の向けられる相手について自覚を深めることになった。生真面目なジェーンはフランクのエマに対する言動に腹を立て、ついには絶縁するとまで言い出し、実際に手紙を送り返すという挙に出る。フランクとジェーンの秘めたる恋は、ナイトリー氏だけが気付いたのだが、注意深く読むと作者があちこちにそれらしき伏線を張っているのに気づくはずである。
 エマは欠点も多いが、それがかえって魅力になっているところがある。勘違い令嬢の巻き起こしたドタバタ喜劇となるはずのこの物語が、意外にまじめに展開してしまうのが、いかにも英国的ではないかと思う。もっと簡単に紹介するつもりだったのが、10回という長い紹介になってしまった。お付き合いいただいたことを感謝する次第である。

付記 エマの姉のイザベラが夫であるジョン・ナイトリーと住んでいるロンドンのブランズウィック・スクエアは実在の地名で、その近くをうろうろしたことがある。ジョン・ナイトリーは「弁護士」で、おそらくはbarrister(法廷弁護士)である。ハイベリーに事務所がある「事務弁護士」のコックス氏は、もちろんsolicitor(事務弁護士)である。翻訳者は、英国にこの2種類の弁護士がいることを知っていて、文脈から訳し分けているのだが、オースティン自身はこの2つの語を使っていないで、何となくそうだろうなあという書き方をしているのは興味深いことである。エマがコックス氏の2人の娘を「下品」だと言っていることに示されるように、昔は両者の間にはっきりした階級的な違いがあったが、現在ではそういうことはないそうである。ちなみに、シャーロック・ホームズものではsolicitorはよく登場し、事件の容疑者になったりもするが、barristerが登場するのは「ボヘミアの醜聞」と「ソア橋」の2篇だけ(本格的に登場するのは(「ソア橋」だけ)ではないかと思う。 

『太平記』(155)

4月23日(日)晴れ

 建武3年(1336)春、京都の合戦で宮方は勝利したが、大将の新田義貞は勾当内侍に心を奪われ、足利方を追撃する機会を逃した。その間、中国地方で赤松円心らが蜂起した。新田一族の江田行義、大館氏明らが赤松追討に向かい、緒戦に勝利したが、義貞率いる新田軍本隊が白旗城に迫ると、赤松は降伏と偽って時間を稼ぎ、その間に城の防備を固めてしまう。白旗城を攻めあぐねているままに、義貞は中国地方の武士たちを味方につけるべく船坂峠に向かい、それに呼応して和田(児島)高徳が備前熊山で挙兵した。宮方の軍は船坂峠の足利方を破り、江田行義は美作に侵入、脇屋義助は三石城を包囲、大井田氏経は備中に進出して福山城(岡山県総社市)に陣を構えた。

 そうこうするうちに九州に落ち延びていた足利尊氏は、多々良浜の合戦で奇蹟的な勝利を収めたのち、九州の武士たちが一人残らず味方に付き従うようになって大変な勢いである。〔もちろん、菊池氏のように宮方の武士はいるのだが、物語としての修辞上の綾でこのように書いているのである。〕その一方で、中国地方では宮方の勢力が強く、上洛の道を阻んでおり、東国の武士たちは宮方に心を寄せるものが多くて、尊氏の味方は少なかったので、安易に上洛を図るのは上策ではないと、正月の京合戦の経験から怖気随ていたので、将兵たちはあえて上洛しようという元気はなかった。

 そこへ、赤松円心の三男の則祐律師と、赤松一族の得平秀光が播州から筑紫に急ぎやってきて、「京都からやってきた敵軍が、備前、備中、美作に充満しておりますが、そのすべてが城を攻めあぐねて、気力を失い兵糧も尽きて着た頃ですので、大勢で上洛なされば、ひとたまりもなく自分たちを支えることはできないと思われます。もし京都に向けての出発が遅れ、その間に白旗城が攻め落とされてしまいますと、そのほかの城も宮方の攻勢をこらえることはできないでしょう。中国地方の4か所の要害(名義能山2か所と菩提寺と三石城の合計4か所)が敵の城になってしまいますと、味方が何十万の軍勢であっても、上洛されることは不可能になると思います。むかし趙の都邯鄲が秦の始皇帝の大軍に囲まれ、落城寸前のところを、魯仲連の策と楚や魏の救援で切り抜けたという例、また楚の項羽が秦の将軍章邯と戦った折に、黄河を渡河してから船を沈め、釜や甑(=蒸し器)を焼いて、兵士に退路がないことを示して決死の戦闘を促した故事に類する、決死の戦いをなすべき場面ではないでしょうか。天下をとるかどうかは、ただこの一戦にかかると思われます」と言葉を尽くして言上すると、尊氏もその通りに違いないと思い、4月26日に大宰府を進発、28日に追い風を得て船を進め、5月1日に安芸の厳島神社に船を寄せて、3日の間参篭したのであった。〔則祐と秀光の言葉の前半は、彼らの事実認識を述べていて、おそらくはこれに類することを発言したのであろうが、中国の故事については『太平記』の作者が自分の学のあるところを見せようと、勝手に付け加えたのではないかと思う。とは言うものの、あまり適切な例だとは思えない。〕

 その結願の日に、京都の醍醐寺の三宝院の賢俊僧正が京都から駆けつけて、持明院殿(『太平記』の作者は後伏見院としているが、史実としては光厳院)の院宣を尊氏に下した。この賢俊僧正というのは日野家の出身で、第15巻で尊氏が京都から落ち延びていく際に側にいた薬師丸(→道友)に日野中納言(日野資明)を通じて、院宣を得るように取り計らえと申しつけたその資明の弟である。尊氏は、院宣を拝見して、箱と蓋とがぴったり合うように念願がたちどころに的中したと喜んだのであった。後伏見院(法皇)は3月6日に崩御されていたのであるが、それ以前に下された院宣である。〔既に書いたように、実際には後伏見院の子である光厳院が下されたものである。この時代、天皇の在位期間は短く、その結果として複数の上皇がいらっしゃるのがふつうで、その中で政務をとられる上皇を治天の君と呼んでいた。後醍醐天皇のように天皇として在位したまま、政務をとられるというのはかなり例外的なやり方であった。〕

 尊氏は、厳島神社への奉幣を終えて、5月4日、厳島を出発、九州の軍勢に加えて、射よ、讃岐、安芸、周防、長門の武士たちが、500余艘の船を並べて軍勢に加わった。さらに7日に、備後の鞆(広島県福山市鞆町)に到着すると、備後、備中、出雲、石見、伯耆の軍勢が、6,000余騎ではせ参じた。そのほか、諸国の武士たちが、招いていないのに集まって来るし、攻撃しなくても帰順するということで、止めるものがないような勢いでの進撃である。

 新田義貞は、備前、備中、播磨、美作に軍勢を分けて、それぞれの国の城を攻撃しているという情報が伝わってきていたので、尊氏は鞆の浦で陸路と水路に軍勢を分けた。陸路を進むのは足利直義を大将とする20万6千余騎の軍勢であり、尊氏は、足利一族の吉良、石塔、仁木、細川、荒川、斯波、吉見、渋川、桃井、畠山、山名、一色、加子(かこ)、岩松らをはじめとして40余人、足利氏の譜代の家臣である高の一党が50余人、尊氏・直義の外戚である上杉の一類が39人、外様の土岐、佐々木、赤松、千葉、宇都宮、小田、佐竹、小山、結城の一党、さらに三浦、河越、大友、厚東、菊池、大内ら160人、これらの棟梁の率いる軍勢が7560余艘の船に乗り込み、中でも将軍の御座船をはじめとする30艘は巨大な船であった。それらが思い思いに纜を解き、小さな船をつなぎとめて、帆を挙げ、船のヘリがこすれあうほどぎっしりと並んで、東へと向かったのである。〔足利一族として列挙されているうち、吉見は以前にも書いたが、頼朝の弟範頼の子孫、山名は足利一族ではなくて新田一族である。一方で、土岐と佐竹は足利氏と同じ清和源氏であるが、外様とされている。〕

 15日に、備後の鞆を出発したのであるが、その際に不思議なことがあった。尊氏は、館の中でしばしまどろんでいたのだが、その夢に南方から光きらめいた観音菩薩が飛来されて、船の先端にお立ちになっただけでなく、観音菩薩に従い行者を守護する28全身が、それぞれ武装した姿で菩薩をお守りしている様子である。尊氏は夢が覚めたのちに、これは菩薩の加護を得て、戦に勝つという瑞祥の夢であると思い、杉原紙を短冊の形に切って、自筆で大悲観世音菩薩と書き、船の帆柱ごとにそれを押しつけた。このように順風を得て、海路を行く尊氏の軍勢は備前の吹上(岡山県倉敷市下津井吹上)に、また陸路を行く直義の軍勢は備中の草壁庄(小田郡矢掛町)に到着した。

 九州で勢力を回復した尊氏・直義兄弟の反撃が始まろうとしている。ここで重要なのは尊氏が自らの軍事行動を正当化するために持明院統の上皇から院宣を得ていること、その仲介者が賢俊僧正であったことである。最近出版された森茂暁『足利尊氏』によると院宣を得たのは2月15日ごろのことだというから、『太平記』は必ずしも歴史的事実をそのまま書いているわけではない。また、院宣によって自らの行動の正当性を主張するというのは、『太平記』では尊氏自身の思い付きとなっているが、『梅松論』では赤松円心の入れ知恵とされているそうである。『太平記』は歴史そのままを書いているわけではないが、赤松円心・則祐や賢俊僧正を要所で登場させることで、これらの人々が果たした役割を物語っているということは言えそうである。
 尊氏・直義兄弟の東上に中国地方を攻略中の新田義貞とその軍勢はどのように対処しようとするか、というのはまた次回。

日記抄(4月16日~22日)

4月22日(土)曇りのち雨

 4月16日から本日までの間に経験したこと、考えたこと、前回の補足:
4月14日
 望月麻衣『京都寺町三条のホームズ⑦ 贋作師と声なき依頼』(双葉文庫)を読み終える。作者はこの前に『京都寺町三条のホームズ (6.5) ホームズと歩く京都』というシリーズのガイドブックのような作品を書いているというので、これから探して読んでみることにしよう。

4月15日
 川島真『中国のフロンティア――揺れ動く境界から考える』(岩波新書)を読み終える。中国、台湾とアフリカ諸国との関係、中国とASEAN諸国との関係、金門島から見た中国の対外関係など様々な切り口から中国の対外関係を考察している。1958年に中国から金門島に降りそそいだ無数の砲弾を鋳つぶして材料にしたという包丁業が、島の主要産業の1つになっているというあたり、中華「民族」の一筋縄ではいかない生命力を物語っているように思って読んでいた。

 横浜FCはアウェーで町田ゼルビアに0-1で敗れる。近くでの試合ではあったが、観戦していない。決勝点がオウン・ゴールによるものであったというのが残念である。

4月16日
 望月麻衣『京都寺町三条のホームズ(6.5) ホームズと歩く京都』を読む。登場人物の肖像が描かれているのだが、ホームズこと家頭清貴の祖父「オーナー」の様子が中島誠之助さんにそっくりに描かれているように思われる。

 『太平記』との関連で中西妙子『光厳院』を読み返している。政治的な立場からではなく、和歌と禅の道から光厳院を描こうとしている書物である。日野名子の日記『竹向きが記』を王朝の日記文学の伝統の最後に位置する日記として読み込んでいるのだが、院と名子の関係が今ひとつはっきりしないところがある。この書物では後醍醐天皇の中宮になった西園寺嬉子が『とはずがたり』の著者である後深草院二条の娘ではないかという推測をしているのが気になるところである。最近、二条の生涯を描いた奥山景布子『恋衣 とはずがたり』が文庫本になっていて、読もうかどうか、迷っているのである。

4月17日
 NHK「ラジオ英会話」の”U R the ★!”の会話。
What did Kaguya-hime ask you to bring? (かぐや姫はあなたに何をもってくるように頼みましたか?)
A jewel from around a dragon's neck. (龍が首につけている宝石を)
That's a tall order! (それは難しい注文ですね!)
To put it mildly, yes. (できるだけ控えめにいっても、そのとおりです。)

「彩りの散歩道」では重要文化財の「外交官の家」の写真を紹介している。明治43(1910)年に明治政府の外交官・内田定槌邸として、アメリカ人建築家J.M.ガーディナーの設計により東京都渋谷区南平台に建てられた建物を、平成9(1997)年に横浜・山手に移築したものである。4月10日に「楽しいスケッチ」展を見た後、この建物の中にある喫茶室を利用したことを前回の記事では書き忘れていた。

4月18日
 NHKラジオ「まいにちイタリア語」には
Ci vediamo di fronte alla statua di Hachiko. (ハチ公前で待ち合わせしましょう。)
という文が出てきた。地方から東京に出てきて、ハチ公の銅像を見て、思っていたよりも小さいので驚いたといった知人がいたが、どのくらいの大きさだと思っていたのだろうか。イタリア語ではhは普通発音しないのだが、パートナーのお二人がきちんとhを発音されていたのには感心した。

4月19日
 『朝日』朝刊に島根県の出雲地方でブラジル人が急増しているという記事が出ていた。これも出雲の神様のご縁結びの結果だろうということである。

 NHKラジオ「実践ビジネス英語」は今週から”Job interviews"というビニェットに入る。来月から正式に働き始める社員が事前の手続きのためにやってきたので、日本から派遣されている社員が、社内のことをいろいろと教えるように言われる。
I'd like you to get know each other and for you to tell him about any unwritten rules he should know.  (お互いのことを知って、彼が知っておくべきあらゆる暗黙のルールについて、あなたから教えてあげてほしいのです。) 現実にはあまりありそうもない設定だという気もする。

4月20日
 NHKラジオ「実践ビジネス英語」の続き。新たに採用される予定の人物に対し、彼が応募の際に60社ほどに連絡したという話を聞いて、彼の相手をしている人物が思わず質問する:
Did you send your résumé to all of them? (それらすべての会社に履歴書を送ったのですか?)
résuméはもともとフランス語で、「要約」という意味である(日本でも「レジメ」は「要約」という意味で使われている)が、アメリカ英語では「履歴書」というのが普通の意味である。なお、British Englishでは「履歴書」のことをCV = Curriculum Vitae という。biodataという言い方も聞いたが、『ロングマン英和』によると、これはインド英語のようである。

4月21日
 「実践ビジネス英語」の話の続き。就職の面接の際にどのような質問をされるのかということで、
The first question was often, "Tell me about yourself" (最初の質問はたいてい、「自分のことについて話して下さい」でした。) 
I'd find it hard to know where to start if I was asked that. (もし私がそういうことを尋ねられたら、どこから始めたらいいのかがよくわからないと思うでしょうね。) 
 実際のところ、
It's important to keep in mind that the interviewer wants to know is why you've applied for, and why you think you're qualified. (面接担当者が知りたいのは、応募した仕事になぜ関心があるのか、そしてなぜ自分が適任だと思うのかということだけです。それを心に留めておくことが重要ですね。)
 これは業種や、企業の規模によって答え方が違ってくるだろうと思う。

4月22日
 NHKラジオ「高校生からはじめる 「現代英語」」は、”Diet passes Bill to Use Money in Dormant Accounts" (休眠預金)という話題を取り上げた。
A huge number of bank accounts have seen no deposits or withdrawals for 10 years or longer. Government officials say the money from such accounts is going up by about 100 billion yen each year. (10年以上にわたり預け入れも引き出しもない銀行口座がきわめて多くあります。政府の職員によれば、そのような口座の金は毎年およそ1,000億円ずつ積みあがっています。)
 1,000億円という金額が多いか少ないかは、この金額を他のどのような金額と比較するかによって答えが違ってくる問題ではないかと思う。

 ジョン・カスパード『秘密だらけの危険なトリック』(創元推理文庫)を読み終える。この作品については、機会を改めて論評するつもりである。

 ニッパツ三ツ沢球技場でJ2第9節:横浜FC対ジェフユナイテッド千葉市原の試合を観戦する。横浜は今季初めて、ジョンチュングン選手を最前線にあげて試合に臨んだ。前半はこの新しい布陣が機能せず、ロング・パスを多用して攻撃陣を左右に広く展開させるジェフが優位に試合を運んだが、後半になると横浜の動きがよくなり、53分にイバ選手がゴールを決めると、55分には野村選手、61分にはジョンチュングン選手、さらに69分には再び野村選手と立て続けにゴールを決めてジェフを圧倒した。ハーフ・タイムの「世界の奥寺が斬る」のコーナーで奥寺さんが試合のカギを握ると言っていた、第二列の選手が後半になって活躍したことがこの結果に結びついた。それにしても、イバ選手の先制ゴールはすごかった。 

とも白髪

4月21日(金)曇り

とも白髪

バスの停留所で
時々出会う
白髪頭の
おばあさんを見かけた

今日は旦那さんと一緒で
お孫さんの顔を見に出かけるのか
ただの買い物か
おばあさんは穏やかな顔で
旦那さんは少し厳しい顔で
二人とも
白髪頭に風を受けて
並んでバスを待っている
黙ってバスを待っている

とも白髪というけれど
夫婦そろって
こんなに見事に白髪になることは
あまりなさそうだ

幸福を
無表情で包み込んで
とも白髪の夫婦が
二人でバスを待っている

付記 このブログを始めて以来、読者の皆様から頂いた拍手の数が23,000を超えました。お礼申し上げるとともに、今後もよろしくご愛読いただくことをお願いします。

北村季吟と松尾芭蕉

4月20日(木)晴れ、気温上昇

 『太平記』を批評した2つの俳句がある。
 平家なり 太平記には 月も見ず 其角
 歌書よりも 軍書に悲し 吉野山 支考

 前者は『平家物語』には月見のような王朝の優雅な生活の姿が描かれているが、『太平記』は殺伐としている。『平家』の方がいいというもので、後者は花の名所として知られる吉野山ではあるが、歌集を読むよりも、『太平記』に描かれた吉野朝の苦難の姿の方が悲しく思われるというものである。『太平記』を殺伐とした戦闘の記録の連続として読むか、吉野朝の苦難と朝廷に忠義を尽くした武士たちの悲愴な姿を描いた文学として読むかは読み手の自由である。そのどちらを選ぶ、あるいは別の読み方を選ぶというのも自由である。

 興味深いのは、この2つの対照的な句の作者がともに芭蕉の有力な弟子だったということである。芭蕉の作品を読んでいると、彼が国文学の古典についてなみなみならない素養をもっていたということに気付かされる。それもそのはず、彼は俳諧を北村季吟(1624-1705)に学んだのであるが、季吟は『源氏物語湖月抄』などの著書を表した古典研究者でもあった。このことをめぐっては、『広辞苑』の編纂者であり、季吟の顕彰に努めた新村出が
 芭蕉には和学の恩師たりしこと先づ憶(おも)ひつつ大人(うし)を敬まふ
と歌っているそうである。

 季吟と芭蕉の師弟関係は、芭蕉が蕉風と呼ばれる俳諧の流派を形成したのちも続いていた。少なくとも季吟の方ではそう思っていたようである。元禄7年(1694)、芭蕉が没した時に、まだ健在であった季吟は芭蕉が葬られた義仲寺に
 氷(こお)るらむ足も濡らさで渡る川
と詠んで送った。季吟の長男である湖春も、追悼句を詠んだ
 また誰(た)そやああこの道の木の葉掻き
 湖春の友人で、柳沢吉保の家臣であった柏木素龍が、この句に
 一羽さびしき霜の朝鳥
と付けた。芭蕉の霊は、旧師からのこの追悼の句と、親友であった湖春の句をどのように受け止めただろうか。なお、素人の勝手な感想であるが、素龍の付け句が一番よくできているような気がする。

 徳川綱吉の寵臣であった柳沢吉保の名が出てきたが、季吟は元禄2年(1689)に歌学方として幕府に召し抱えられ、将軍綱吉に『古今和歌集』の切紙を献上したりしている。また自らが受けていた古今伝授を柳沢吉保に授けたりしている。漂泊の旅に生きた芭蕉とは対照的に、権力に親近する生き方をしたのである。このことをめぐって島内景二『北村季吟』に興味深い考察が展開されている(これまで書いてきたことも、大部分、島内さんの著書に書いてあったことである)。

 季吟は宗祇や細川幽斎らが抱いていた「正しい世の中をこの世に実現させる」という「政道のための文学」の伝統を継承していた。「応仁の乱で荒廃した日本文化を、もう一度正しい秩序に回復させ、為政者と被治者が君臣相和する社会を構築するためには、それらが理想的に行われていた王朝盛時の和歌や物語を学ぶ必要がある。そして、その研究成果は、現在の政治に役立てられねば何の意味もない。」(島内、103ページ) だからこそ、彼は柳沢吉保に古今伝授を行ったのである。平和と繁栄は、平和と繁栄の時代の文化を学ぶことによって、より具体的には一条天皇と藤原道長の時代の和歌と物語とを学ぶことによって実現できると考えたのである。

 芭蕉は権力とは無関係に生きようとした。このことを含め、「季吟から芭蕉への流れは、受け継がれた側面と、変容した側面との両方がある。季吟は、集大成の人であり、芭蕉は変革の人だった。ただし、「不易流行」をモットーとする芭蕉にとっての「不易」は、季吟から受け継いだわが国の古典的伝統と深くかかわっている。」(島内、104ページ)
 其角と支考という芭蕉の2人の弟子が、『太平記』をめぐって違った意見を抱いたのは、たぶん、芭蕉が弟子たちに古典文学を学ぶことを奨励はしたものの、あまり自分の意見を押しつけようとはしなかったからであろう。その点にも季吟と対比しての芭蕉の新しさが現われているように思うのだが、どうだろうか。  

ダンテ・アリギエリ『神曲 天国篇』(17-2)

4月19日(水)曇りのち晴れ、依然として気温が高い
 ベアトリーチェに導かれて、天空の世界へと旅立ったダンテは月天、水星天、金星天、太陽天を経て、火星天に到着する。ここで彼は十字軍に加わって戦死した、彼の玄祖父であるカッチャグイーダの魂に迎えられる。カッチャグイーダは彼が生きていた時代のフィレンツェの貴族と市民が平和に共存していた様子を語り、この旅行から戻った後のダンテの運命を予言する。彼は金銭を必要とする画策により、彼と結んだ(大銀行家と教皇党貴族からなる)黒派によってフィレンツェを追放され、友人や家族、名誉を失い、つらい亡命生活に入るという。彼はともに追放された仲間たちからも裏切られることになるので、一人一党を貫く方がよいともいわれる。

おまえが最初に避難し最初に客として遇されるのは
階段の上に聖なる鳥を戴く
偉大なるロンバルディア人の大きな懐であろう。

この方はおまえに対して深い敬意を示してくださり、
行うことと求めることが、お前たち二人の間では、
他の人々の間で後にくるものが先に来ることになる。
(260-261ページ) カッチャグイーダは、亡命者ダンテを最初に迎え入れるのはヴェローナを支配した皇帝党スカーラ家(1311年以降皇帝代理)の当主であったバルトロメオ・デッラ・スカーラ(?-1304)であるという。(これはもちろん、1300年以後にダンテが経験したことを、「予言」の形で事後に語っているのである。)1291年にバルトロメオと皇帝フェデリコ2世の孫娘が結婚して以来、スカーラ家の旗は、階段の上に皇帝の象徴である鷲の図柄になったとされる。バルトロメオは、ダンテが何かを求める前に進んで与えたことが合わせて語られている。

この方とともにおまえは見ることになる、
生まれるにあたってこの猛き星の刻印が押された人物を。
それゆえにその人物の武勲は記憶に残るものとなるのだ。

幼い年齢ゆえ、人々はいまだこのことに
気づいてはおらぬ。なぜならこれらの天輪は
わずか九年しかこの人物の周囲をめぐってはいないからだ。
(261ページ) さらに当時まだ9歳であったバルトロメオの弟カングランデ・デッラ・スカーラ(1291-1329)がイタリアにおける帝国復活の希望を担って活動することになるだろうという。

おまえはその人物と彼の恩恵に期待の目を向けるがよい。
その方のおかげで富めるものも物乞いも境遇が変わり、
多くの人々の立場が変えられるであろう。
(262ページ) カングランデの政治によって、立場によって利害の異なる社会の各階層の状況、生活は一変するだろうというのである。そして、自分の未来の運命を知ったダンテに次のようにいう。
わしはこれが原因となっておまえが隣人たちを妬むようになってほしくはない。
なぜならお前の生命は、その者達の邪悪に罰が下る時点を超えて
未来へとはるか遠くに続いていくからだ」
(263ページ)と語っていったん口をつぐむ。

 ダンテはしかし、死後の世界の旅で多くの人の消息や出来事を聞いたが、それを地上で話せば人々の怒りを買い、黙っていれば、真実を隠したものとして、後世において自身への評価が消え去ってしまうのではないかとたずねる。
さらには星の輝きから輝きをめぐりながら空の中で、
私は聞きました、私がそのまま伝えるとすれば、
多くの人々に強烈な苦みを味わわせるようなことを。

その一方で、もし私が真実にとって意気地のない友であれば、
この時代を昔と呼ぶことになる人々の間で
生命を失うでしょう。そのことを私は恐れます。
(264-265ページ) 

 これに対してカッチャグイーダは次のように答える。
・・・「自身の、あるいは縁故のものの
恥ずべき行いにより曇った良心は、
まさしくお前の言葉を責めと感じるであろう。

しかしそれでも、あらゆる偽りを退けて、
おまえの見た一切を明らかにするのだ。
疥癬のある場所は好きに掻かせておけばよい。

というのも、お前の声は味わったばかりでは
かみつくような痛みを覚えさせるであろうが、消化されたあかつきには
生命に溢れた滋養を残すであろうからだ。

このおまえの叫びは風のように轟くであろう、
最も高い頂という頂をひときわ激しく撃つ風のように。
これが栄誉を受ける少なからぬ理由ともなる。
(266ページ) カッチャグイーダはダンテに、真実は人類の役に立ち、特にダンテの言葉は有力者や重要人物にも影響を与えるだろうから真実を語らなければならないと答えた。「高い頂」は、地上の有力者や高位の人物を意味するという説、「頂」を塔の頂と解釈して、都市の暴力的な有力者を暗示するという説があるそうである。

このことゆえに、おまえはこれらの天輪の中で、
山の中で、苦しみに満ちた谷底で、
名の知られた魂達だけを見せられてきた。

なぜならば、聞く者の心は、
目に見えぬ、人に知られぬものからなされた例や、
それ以外でも根拠のない論証による例では、

納得することも、さらには固く信ずることもできぬからだ」。
(266-267ページ) ダンテはこれまでの旅で、名高い人物ばかりに引き合わされてきたが、その死後の姿を記すことは地上の世界の多くの読者、その中には多くの為政者や学者たち(その多くは官僚である)がいるだろうが、それらの人々に確実な影響を与えるだろうと告げた。(カッチャグイーダは第15歌で彼の息子であるダンテの曽祖父が煉獄の第一環道を百年以上も回っていると告げたが、ダンテ自身はそのことを知らずに煉獄の第一環道を通過している。これは曽祖父との対話が、読者にとって意義あるものではないという判断のためと考えられる。)

 ダンテは1316年ごろにトスカーナを離れ、今回紹介したヴェローナのカングランデのもとに1320年ごろまで滞在する。ダンテは、カングランデを高く評価し、皇帝代理である彼にイタリアにおける皇帝権の復活の希望を託し、『天国篇』を捧げているが、カングランデは『天国篇』の反教皇庁的な姿勢を危惧し、出版に踏み切らなかった。原さんの「「天国篇」を読む前に」によると、カングランデの宮廷はダンテにとって必ずしも居心地の良いものでなかったようで、ダンテがカングランデに、なぜあなた(ダンテ)は宮廷の道化師ほどにも皆に喜ばれないのかと訪ねられ、人は己に似たものを評価するからですと答えたという逸話などが、ペトラルカによって伝えられているという。

 こうして彼は1320年ごろからラヴェンナのグイド・ダ・ポレンタのもとに移り、1321年にヴェネツィアへの外交交渉に出た帰りに、マラリアにかかって、ラヴェンナに戻った後この世を去っている。西ローマ帝国が亡びた時の最後の首都がラヴェンナであったのは、皇帝によるイタリア統一というダンテの希望と符合しているように思われる。

 さて、今回の文章を書きながら、私は19世紀の詩人ハイネの次のような文章を思い出した:
ダンテがベローナ(ヴェローナ)の街路を行くとき、民衆は彼を指さし、「あの人は地獄に行ってきたんだ」と囁いた。さもなくばいったいどうして地獄とすべての苦悶をあれだけ忠実に描くことができるだろうか、というわけである。そのような畏敬に満ちた信仰があるとき、…この偉大な詩人ダンテの精神から湧き出た、苦しみもがくすべての人物たちの話もどれだけか深い力を発揮するだろう…」(木庭一郎(1991)『ハイネとオルテガ』、123ページより重引)。
 ダンテが、自分の将来の運命と、自分が死後の世界への旅行によって見聞きしたことを明らかにしていくという使命とを知らされたところで、第17歌は終わる。

ムルタテューリ『マックス・ハーフェラール』

4月18日(火)晴れたり曇ったり、変わりやすい天気、気温上昇

 大学に入学した直後のことだったと記憶するが、第二外国語の選択をめぐる新入生へのガイダンスがあって、先生方が何を話されたのかは忘れてしまったが、出席された先生方の1人であった塩谷饒先生がドイツ語を勉強すると、オランダ語の勉強にも役立つと言われたのだけ記憶している。後で知ったことであるが、塩谷先生は教養部でドイツ語を教えられているだけでなく、文学部でオランダ語も教えられていたのであった。しかし考えてみると、我々の生活の中でオランダ語が必要になる場面というのはあまり多くない。それに英語ができるオランダ人は多いのである。

 そのオランダ語が必要になる数少ない場面の1つが、オランダの植民地であったころのインドネシアの歴史について研究することである。また、オランダ近代文学の中で傑作に数えられるムルタテューリMultatuli (本名Eduard Douwes Dekker, 1820-1887)の小説『マックス・ハーフェラール』(Max Havelaar)は、ジャワやスマトラで植民地官吏として働いた著者の経験をもとに、オランダのインドネシア(当時は東インド)植民地支配の問題点を描いた作品である。

 当時のジャワは18の理事州に分けられ、それぞれの理事州にオランダ人の理事官が最高責任者として配置されていた。さらに理事州はいくつかの郡に分けられ、それぞれの郡にオランダ人の副理事官が責任者として任命されていたほか、ジャワの有力な貴族が首長(オランダ人はこれをレヘントと呼んだ)として任命されていた。レヘントたちはジャワの各地で、住民に対して無償労働を要求したり、家畜を無償で供出されたりという不正を働き、そのために窮乏化した住民たちは難民として流出することさえあった。しかも東インド政庁の首脳は腐敗と事なかれ主義に陥っていて、この問題に深入りせず、したがって本国の政府に東インドの実情が伝わることはなかった。ムルタテューリは郡の副理事官として在職中にこれらの不正と戦い、その結果職を解かれたのちに今度は小説の題材としてこの問題を取り上げたのである。

 さて、この小説は昭和17年(1942)に『蘭印に正義を叫ぶマックス・ハーフェラール』という題名で朝倉純孝による翻訳が刊行されているそうであるが、目にしたことはない。しかし、私の手元に平成元年(1989)に大学書林から刊行された渋沢元則訳注の『マックス・ハーフェラール』がある。これはこの長大な小説の最初の3章だけをオランダ語と日本語の対訳でまとめたものであるが、それだけでなく、英語、フランス語、インドネシア語への翻訳のテキストも紹介されている。最初に述べた、塩谷先生の言葉を思い出すと、ドイツ語がないのが残念であるが、並べて比べてみると各言語の特徴がよくわかるのではないかと思う。それで、書きだしの1文だけであるが、書き連ねてみようと思う。

オランダ語
Ik ben makelaar in koffie, enwoon op de Lauriergracht, no. 37.
英語
I am a coffee broker, and I live at No.37 Lauriergrachat, Amsterdam.
フランス語
Je suis courtier en café. J'habite Lauriergrachat, nº 37.
インドネシア語
Saja adalah makelar kopi, tinggal di Lauriergrachat No. 37.
日本語
私はコーヒーの仲買人であり、ラウリールフラフト街37番地に住んでいる。

 「仲買人」というインドネシア語(makalar)の単語がたぶん、オランダ語(makelaar)からの外来語らしいことなど比較的容易に推測できる。また英訳だけ、ラウリールフラフト街がアムステルダムにあると付け加えているのは翻訳者が気をまわしたのだろうが、興味深い。

ジェイン・オースティン『エマ』(9)

4月17日(月)晴れのち曇り

これまでのあらすじ
 イングランド南東部、ロンドンから遠くないサリー州のハイベリーの村に住む大地主の娘エマ・ウッドハウスは21歳。美人で頭がよく、村の女王様的な存在である。姉がすでに結婚し、病弱な父親を助けて家政を切り盛りしている。長く家庭教師をしてきたミス・テイラーが村の有力者であるウェストン氏と結婚したのは自分の縁結びのためだと思い込んで、縁結びに取り組もうとする。
 隣村の大地主であるナイトリー氏は、エマの姉の夫の兄で、エマとは16歳ほど年長であるが、そんなエマに直言できる唯一の人物で、縁結びは余計なお世話であるという。
 村にある寄宿学校の特別寄宿生であるハリエット・スミスはかわいらしくて気立てのいい女性であり、エマは彼女が気に入って誰か紳士の妻にしようと考える。村の教区牧師であるエルトンがその候補に挙がるが、野心家の彼はハリエットを相手にせず、保養地で知り合った裕福な商人の娘と結婚する。エルトン夫人はでしゃばりで自己顕示欲が強く、エマと張り合おうとする。
 ウェストン夫人には先妻との間にフランクという息子がいて、先妻の死後、その実家であるヨークシャーの名門チャーチル家で育てられていたが、父親に会いにハイベリーにやってくる。フランクはエマと親しくなるが、エマはどちらかというと軽薄な感じのフランクを友人以上の存在とは考えようとしない。村の昔の教区牧師の未亡人であるベイツ夫人にはジェインという孫がいて、死んだ父親の友人であるキャンベル大佐の家で育てられているが、ゆくゆくは家庭教師として自立するはずである。キャンベル家の都合で彼女はハイベリーに里帰りしているが、美人で才芸に秀でた彼女に対し、エマはあまりいい感情をもたない。ナイトリーはフランクがエマとジェーンの二股をかけているのではないかと疑い、彼を嫌うが、エマはフランクとジェインの間には何もないと考えている。村の主だった人々が出かけたボックス・ヒルへのピクニックでフランクはエマと恋のたわむれを続け、少し苛立っていたエマは米津夫人の娘(ジェインの伯母)でおしゃべりのミス・ベイツに失礼なことを言ってしまう。

 ボックス・ヒルへのピクニックでミス・ベイツにひどいことをいってしまったことへの後悔の念に駆られて、エマはベイツ家を訪問する。エマの訪問を知って、ジェインとミス・ベイツは隣の部屋に逃げるように入ってしまった。一人残っていたベイツ夫人はジェインは体の具合が悪いのだという。やがて出てきたミス・ベイツはジェインがエルトン夫人の世話で家庭教師として勤めることが決まったという。ジェインはミス・ベイツに詫びるためにやってきたのだが、ミス・ベイツはジェインの就職を祝うためにやってきたように受け取っている。しかし、エマはジェインが内心ではこの就職を喜んでいないのではないかと推測し、これまでジェインに不当な態度をとっていたことを後悔する。また、チャーチル夫人の容体が急変し、フランク・チャーチルが急いでリッチモンドに出発したことをエマは知る。(第44章)

 エマは沈んだ気持ちで帰宅するが、彼女の留守中にナイトリーがハリエットを連れてハートフィールド屋敷にやってきていた。ナイトリーは、ロンドンにいる弟を訪問するという。
 翌日、リッチモンドからチャーチル夫人の訃報が届く。エマは彼女の死によってフランクが自由に行動できるようになり、もし彼がハリエットを好きになってくれればいいがと期待に胸を膨らませる。その一方で、未来が閉ざされてしまったように思われるジェインへの同情心が募ってきて、手紙を書くが、体調が悪くて手紙も書けないという口頭での伝言が返ってきただけである。さらに馬車で訪問し、外出に誘おうとしたが、これも断られる。さらに薬草のクズウコンを送るが、送り返される。ところが、ジェインが一人で外出して散歩している姿を見たという話を聞く。どうもジェインはエマを避けている様子である。(第45章)

 チャーチル夫人の死から10日ほどたって、ウェストン氏がハートフィールド屋敷を訪ねてきて、エマに午前中のいつでもいいから自分の邸に来てほしい、ウェストン夫人が会いたいと言っているという。エマはすぐに彼とともに外出するが、ウェストン氏は用件を打ち明けない。 ウェストン氏の邸に到着すると、やつれ切った表情のウェストン夫人がエマを迎える。彼女は、フランクとジェイン・フェアファクスがすでに婚約していたと打ち明けたことを告げる。2人はそのことを他の誰にも知らせなかっただけでなく、フランクはエマに気があるようなそぶりをして、人々の目を欺いてきたのである。エマはフランクとジェインの関係についてはまったく気づいてはいなかったが、フランクから彼女の気を引くようなそぶりをされても、彼には関心はまったくなかったので、ウェストン夫妻が心配するようなことはないという。むしろ、ジェインの方がフランクの誠意を疑いはじめ、婚約を破棄して家庭教師になる決心をしていたのであった。事の重大さに気付いたフランクはチャーチル氏に婚約を認めてもらい、ハイベリーに急行してジェインの誤解を解こうとしたのであった。エマはウェストン夫妻に、ジェインを花嫁として迎えることについてお祝いの言葉を述べる。(第46章)

 しかし、エマとしてみると、ハリエットにフランクへの想いをたきつけてしまったことへの後悔が残る。形勢逆転、ジェインではなく、ハリエットを元気づけなければならなくなった。しかし、エマを訪れたハリエットはフランクとジェインの婚約を不思議がるだけで、童謡の色を見せない。彼女が思いを寄せているのは別の男性のようである。そしてハリエットは自分はナイトリーを慕っているが、あまりにも身分が違うので、結婚の望みはないものと思うと打ち明ける。その告白を聞いて、エマはナイトリーこそ、自分にとって一番大事な男性であると気づく。(第47章)

 「エマはそれを失う危機にさらされて初めて気がついた。ナイトリー氏にとって自分が一番だということ。つまり彼の関心と愛情の対象として、自分が一番だということ。それがエマの幸福に大きく関係していたのだ。一番だということに満足し、一番であることが当然だと思い、何も考えずにその状態を楽しんできたのだ。そして、その地位がおびやかされているとわかって初めて、自分にとってそれが言いようもなく大事なことだと気づいたのだ。・・・でもエマは、ナイトリーその関心と愛情の対象として一番にふさわしい人間ではなかった。小さいころからたびたび怠慢だったり、強情だったりして、彼の忠告を無視したり、わざと彼に逆らったりした。彼の長所の半分もわかっていなかったし、彼女の思い上がった自己評価を彼が認めてくれないと言って喧嘩したこともある。それでもナイトリー氏は、家族の愛情と習慣から、寛大な精神から、小さいころからエマを愛し、見守ってくれた。」(中野訳、下、272-273ページ)
 エマはハリエットに出紙を書き、しばらく彼女と二人だけで打ち明け話をしないようにすると伝え、ハリエットも同意する。ベイツ家を訪問し、ジェインと話し合ってきたウェストン夫人がエマの元にやってきて、ジェインが誤解からエマを避けていたことをお詫びする気持ちを伝える。エマはジェインを祝福する一方で、これから彼女が味わうことになる孤独を想像して惨めな気持ちになる。(第48章)

 次の日、エマが散歩していると、ナイトリーがやってくる。ナイトリーもフランクとジェインの婚約のことを既に知っていて、フランクのふるまいを批判する。エマは、フランクのことは何とも思っていなかったと言い、ナイトリーはそれを聞いて安心する。ナイトリーはエマに言いたいことがある様子で、エマはそれがハリエットとの結婚であっても、勧めようと内心で思う。
 ナイトリーがエマに尋ねたのは、彼とエマとの結婚の可能性はないのかということで、彼の真剣な目がエマを圧倒した。エマは素早く頭をめぐらして、彼の真意を理解し、結婚を承諾する。ナイトリーはロンドンでフランクとジェインの婚約の話を聞き、エマがそれをどのように受け止めているかを知りたくて、彼女を慰めるためにやってきたのだが、事の成り行きでエマに求婚してしまったのである。エマの気持ちの変化もナイトリーに劣らず、急激なものであった。(第49章)

 この物語は55章からなるが、今回紹介した第46章を軸として物語が急転する。オースティンの他の小説でもそうだが、婚約というのは当事者である男女が結婚の約束をすることであって、それ以外の人間に認めてもらう必要なしに成立する。それで、それから結婚までさらに紆余曲折がある。ナイトリーとエマの場合も、エマの病弱な父親の面倒を今後どのように見ていくかとか、二人が結婚後どこに住むかなどの問題がある。オースティンの他の小説と違って、財産の相続の問題があまり前面に出てこないのもこの作品の特色かもしれない。
 フランクとジェインの婚約が明るみに出、ナイトリーとエマの婚約が成立した。この小説では5組の夫婦が出来上がる――ということは、まだ1組残っていることになる。それが誰と誰の婚約であるかはだいたい推測がつくだろうと思う。
 この小説については、最後までを紹介するつもりなので、結末を知りたくない方は、次回はご遠慮ください。もっとも主要な登場人物の運命はほとんど決まってしまっていることは否定できない。

『太平記』(154)

4月16日(日)晴れ

 建武3年(1336)春、京都の合戦で宮方は勝利したが、新田義貞は勾当内侍に心を奪われ、足利方を追撃する機を逸した。その間、中国地方で赤松円心らが蜂起した。新田一族の江田行義・大館氏明が赤松追討に向かい、初戦に勝利したが、義貞率いる新田軍本隊が白旗城に迫ると、赤松は降伏と偽って城の防備を固めてしまう。義貞は中国勢を味方につけるべく船坂峠へ向かい、それに呼応して和田(児島)高徳が備前熊山で挙兵した。船坂峠、三石城にいた足利方は、その兵を割いて熊山に向かわせるが、撃退される。

 児島高徳らと打ち合わせて攻撃をかける日になったので、義貞の弟である脇屋義助を大将として、船坂峠の東の麓にある梨原(兵庫県赤穂郡上郡町梨ケ原)まで進み、2万余騎を3手に分けた。一方の軍勢は、江田行義を大将として3,000余騎が杉坂へ向かう。杉坂というのは兵庫県佐用郡佐用町から岡山県美作市へ至る杉坂峠のことで、山陰道の要所である。この地方の菅原氏の一族の武士たちが守っているのを追い散らして、美作の国へと進むためである。もう一手は、新田一族の大井田氏経を大将として、菊池、宇都宮の武威たち5,000余騎を、船坂へと差し向けた。これは敵を遮りとどめて、この後で言及する搦め手の軍勢をひそかに敵の背後へと回すためである。最後に残った一帯は、この土地の地理に詳しい伊東大和守を案内者として、頓宮六郎、畑六郎左衛門尉、播磨国司の代官である少納言房範猷、新田の家来である由良新左衛門尉、小寺六郎、三津山城権守以下、わざと小勢を選りすぐって、300余騎を差し向けた。この部隊は馬の轡の手綱を結びつける部分である七寸に紙を通して馬の舌を抑え、嘶かないようにしていた。この兵たちが進んだのは三石の南の鹿が通る道である。〔できるだけ隠密裏に敵の背後をつこうという計略である。〕 足利方はこの道のことを知らなかったのであろうか、堀を掘ったり、逆茂木をおいたりして、敵の侵入を防ぐ手立てを講じていなかった。道の左右の木が生い茂って枝が邪魔であったが、そういうところでは馬を降りて徒歩で進んだりして、約6時間をかけて三石の宿の西へ出て姿を現した。〔三石の宿は船坂峠の西にある。前後の関係からすると、東の方に出る方が合理的なのだが、あるいは宿のさらに西側に城があったということであろうか。] 三石城にいたものも、はるか船坂峠から見下ろしていたものも、思いがけないところから軍勢が現われたので、熊山を攻撃していた軍勢が帰ってきたのだと思って、特に驚きはしなかった。

 300余騎の兵は、三石の宿の東の方の小社の前で小休止して、新田の中黒の旗を掲げ、東西の宿に火をかけ、鬨の声を上げた。三石城では、城内の軍勢の大半を船坂に差し向け、残っていた兵のかなりの部分が熊山に派遣されていたので、残っていた兵は少なく、戦意が低いうえに、防ぐ手立ても思いつかない。〔宮方の搦め手の兵300余騎は、三石城ではなく、船坂の攻撃に向かう。] 船坂を守っていた兵たちは、前後を敵に囲まれて、何もできない様子であり、馬、物の具を捨てて、城に続いている山の上に逃げ登ろうと騒いでいる。これを見て大手、搦め手の兵が厳しく攻撃を続けたので、逃げ場がなくなった足利方の兵たちは、あちこちに行き詰まって、自害をするものが100余人、生け捕りにされるものが50余人という有様であった。

 備前国一の宮である吉備津彦神社の神主で、国司の庁に在勤する役人でもあった大藤内美濃権守佐重というものがいて、彼もまた逃げ場を失って、切腹しようとしたのであるが、ふと思いついたことがあって、脱ぎ捨てた鎧をまた身につけて、乗り捨てていた馬に飛び乗って、向かってくる敵のなかを押し分け押し分け、播磨の国の方へと向かっていった。船坂峠を越えてやってくる大勢の兵たちは、お前は何者かと尋ねてきたので、自分は搦め手の案内者をつとめたものであるが、合戦の様子を新田殿に詳しく申し伝えるために、早馬で急いでいるのですと答えた。それで行合う数千騎の兵たちは、どうぞどうぞと道を譲って彼を通したのである。佐重は、総大将の侍所(軍奉行)であった長浜の前に跪いて、備前の国の住人、大藤内佐重が三石の城から降伏しにやってきましたと言ったので、総大将は神妙なりとこれを褒めて、軍勢の来着を記す名簿である着到に記載させた。佐重は、たくさんの敵を出し抜いて、その日限りだと思われた命を助けることができたのである。これもしばしの間の智謀だと、後になってほめそやされたのであった。

 このようにして要衝である船坂が破れたので、江田行義は3,000余騎を率いて美作国へと入り、奈義能山にある2か所の城、菩提寺城、合わせて3か所の城を包囲し、脇屋義助は5,000余騎で三石の城を攻撃、大井田氏経は2,000余騎を率いて備中の国に入り、福山の城(岡山県総社市南部にあった山城)に陣を構えた。

 宮方は、中国地方にいる味方の武士の援助を得て、要衝である船坂峠を突破して美作、備中まで進出した。もともと動員できる武士の数では劣勢なので、できるだけ味方を増やしたいのであろうが、戦線を延長していくのは必ずしも好ましいことではない。播磨では赤松円心が白旗城に立て籠もっていることも忘れてはならない。『太平記』の作者は大藤内佐重の「暫時の智謀」を記録しているが、同じようなことをして、あっちへ行ったり、こっちへ行ったりしている武士はほかにも少なからずいたのではないかと思われる。次回は九州で勢力を養った足利尊氏・直義兄弟がいよいよ中国地方に反撃の手を伸ばす様子を取り上げることになる。

日記抄(4月9日~15日)

4月15日(土)晴れ、次第に雲が多くなってきている

 4月9日から本日までの間に経験したこと、考えたことなど:
4月9日
 『朝日』朝刊の「古典百名山」というコラムに、桜庭一樹さんが「より良い自分を願う旅」としてボームの『オズの魔法使い』について書いていた。ボームはこの作品の続編を、その後も書き続けていて、それらも全体としてみると「より良い自分を願う旅」といえるかもしれない。この物語は何度か映画化されているが、一番有名なのは1939年のジュディ・ガーランドの主演作である。この映画化と原作の間にはかなりの違いがあるが、ネタバレになるので、その点についてはここでは書かない。

 NHKEテレの「日本の話芸」で柳家権太楼師匠の「幾代餅」を放映した。搗き米屋の若い衆が全盛の遊女である幾代に思いを寄せ、3年間働いて会いに出かけるが…というお噺。5代目の古今亭志ん生が得意にしていて、昔ラジオで口演を聞いた記憶がある。権太楼師匠の口演は無難な感じではあったが、若い衆を遊郭に連れていく医者の名前を籔井竹庵にしていたのは工夫が足りないという気がした。

4月10日
 中区山手町のブラフ18番館ギャラリーで開かれたハドソン・テラスさんの第2回「楽しいスケッチ展」を見に行く。桜木町から神奈川中央交通の保土ヶ谷駅東口行き(11番)のバスに乗って出かけたのだが、山手の他の洋館も車中から見ることができてなかなか良かった。東京や横浜の街角の情景をとらえた作品が多く、写実的ではあるが、実物よりもきれいに描かれているのではないかと思うことが結構あった(もっとも絵画とはそういうものである)。
 大学院時代からの友人が長く神戸に住んでいたのが、首都圏に出てきて、久しぶりに会おうということで、この会場で待ち合わせて、その後、市内を散策した。ハドソン・テラスさんも描いている日本大通りに面した建物の中にある店で酒杯を傾けながら、よもやま話にふけった。

4月11日
 NHKラジオ「まいにちフランス語」入門編に出てきた会話:
カフェでハーブティーを運んできたウェイターが、客の女性に対して注意を促す。
Attention, c'est chaud. (気をつけて、熱いですよ。)
Ah, non. Ce n'est pa chaud. (あ、いいえ。熱くないです。)
Vraiment? C'est bizarre. (本当? おかしいですね。)
Mais c'est pas grave. C'est très bon quand même. (でも、大したことないです。それでもとてもおいしいです。)
 フランス語の否定文について、neとpasの両方で作るのが正しいのだが、口語ではneがない文を聞くことがよくあるという。TVなどでフランス人のインタビューを聞いていても、確かにneを使わずに否定文を話す人が少なくないことがわかる。私が学生の頃はそんなことはなかったと思う。言語は時の流れに連れて変化するので、学び続ける、あるいは、少なくとも何年かおきに学びなおすことが必要なのである。

4月12日
 NHKラジオ「実践ビジネス英語」は”First impressions"の4回目。Conservative, understated clothes are your best choice when you meet someone important for the first time. (重要な人物に初めて会うときには、地味で落ち着いた服装が最良の選択です。)とか、The firmness your handshake can be a crucial part of making a good first imprssion.(固い握手は、よい第一印象を与えるのに不可欠な要素である場合があります。)とか、In a job interview, you'll also be juged by the way you handle questions, especially the tough ones. (就職の面接では、質問への対応の仕方、特に難しい質問への対応の仕方によっても評価されます。)など、もっと若い時代に知っておけば役に立ったであろう事柄が少なからず語られた。

 同じ番組の”Quote...Unquote"の時間で紹介された言葉:
Every man alone is sincere. At the entrance of a second person, hypocrisy begins.
---- Ralph Waldo Emerson (U.S. philosopher, poet and essayist, 1803- 82)
(人は皆、一人でいるときには誠実である。2人目が登場すると、偽善が始まる。)
偽善が悪いとも言えないのだけれどもね…。

 歌手のペギー葉山さん死去。息の長い歌手で、ヒット曲も少なくないだけでなく、それが多くの人に歌われる親しみやすい曲であったことも特徴的である。ご冥福を祈る。

4月13日
 「実践ビジネス英語」では、Onething that creates a por impression when I meet someone for the forst time is an unprofessional-sounding email adress. (私にとって、初めての人に会った時に悪い印象を受けるものの1つは、プロフェッショナルらしくないと思わせるメールアドレスです)という発言があり、その例としてsugarpie1212というのが挙げられていた。この日の「ラジオ英会話」でIt's easy as pie.という表現が出てきたので、今日はpieの話がよく出るなと思った。
 If you want to stand out among the candidates, the least you can do is write a thank-you not to a potential employer. (求職者の中で際立ちたいのなら、少なくとも、雇い主になる可能性のある所に礼状を送らなくては。)というのは、もっと若い時に聞いておきたかった助言である。礼状は手書きのものの方がよいということである。

4月14日
 4月12日に映像作家の松本俊夫さんが亡くなられていたことを知る。むかし、映像作品作りの手伝いをしていたころに、仕事の責任者だった人が『薔薇の葬列』の製作にも携わっていたというようなかすかなつながりがあった。ご冥福を祈る。

4月15日
 NHKラジオ「高校生からはじめる『現代英語』」は”John Lennon's Angry Letter sold for $30,000."という話題であった。むかし、リヴァプールに滞在していたことがあり、レノンをはじめThe Beatlesのメンバーの足跡にはよく出会ったことを思い出す。

 ニッパツ三ツ沢球技場で横浜FCシーガルズと大阪高槻の試合を観戦する。時間を間違えて、終盤だけの観戦になったが、後半に佐藤渚選手がゴールを決めてあげた1点を守って、1-0で勝利する。試合後、「勝利の舞」を披露し、2度目はスタンドのサポーターにも踊るように呼び掛けた。アウェーで岡山湯郷に勝ったのに続き2連勝だそうである。これからも勝ちを重ねてほしい。
 

迷亭の伯父さん

4月14日(金)晴れ、温暖

 夏目漱石の『吾輩は猫である』の3で、猫が住みついている苦沙弥先生のところに、親友の迷亭がやってきて世間話をしていると、女性の客がある。近くに住む成金の金田の妻、鼻子で苦沙弥の元教え子で、大学院で学んでいる今も旧師のところにしょっちゅう顔を出している水島寒月と、自分の娘の間の縁談を進めたいので、寒月の性向を知りたいというのである。何にでも口を出す迷亭が、自分の伯父の牧山男爵と金田は友達だなどといって話をまぜっかえす。

 鼻子が帰った後、苦沙弥が迷亭に男爵の伯父がいるとは知らなかったというと、「その伯父が馬鹿に頑物でねえ――やはりその19世紀から連綿と今日まで生き延びて居るんだがね」と、その人となりを話しはじめる。静岡に住んでいる、頭にちょん髷をのせている、年をとったので早起きになったのを修業の結果だと勘違いして喜んでいる、いつも鉄扇を持ち歩いている、体の寸法を測らないままに山高帽とフロックコートを買って送れと迷亭に命令したなどとその逸話を語り、男爵というのは嘘で、若いころ湯島聖堂で朱子学を勉強した漢学者であるという。

 9で苦沙弥が自分のところに届いた手紙、とくに天道公平なる人物から届いた手紙を読んで考え込んでいると、迷亭が以前に噂をした伯父さんを連れてやってくる。赤十字の会合があったので上京したというのである。例によって鉄扇を持ち歩いているが、これは「甲割」といって鉄扇とは違うと言い張る。この鉄扇のおかげで、寒月の研究室にある磁力の機械が狂って大騒ぎになったと迷亭がいうと、「これは建武時代の鉄で、性のいい鉄だから決してそんな虞はない」などという。それからひとくさり収容論をぶって、古い友達のところを訪ねると出て行ってしまう。

 村山吉廣『漢学者はいかに生きたか』は明治以後の近代化の過程の中で欧米の学芸が優勢になる中、伝統的な漢学者たちがいかに自分の学問と取り組み、世の中を渡っていったかを8人の漢学者の人生をたどりながら描き出した書物であるが、その中に紹介されている根本通明(1822-1906)に、迷亭の伯父さんと重なる逸話があるという。
 根本は秋田の人で、帝国大学(今の東京大学)の教授であったが、常に和服を着用、鉄扇を持ち歩いた。そのため磁器を測定する機械を狂わせたことがあったという。さらに体の寸法を測らせずに洋服を作らせたという逸話もあるという。
 渡部昇一の孫引きであるが、漱石が敬愛した外国人教師ケーベルの随筆の中に、帝大の教師には尊敬に値する人物は少ないが、3人だけいる浜尾新と、根本、それにもう一人名前のわからない人物である(渡部の推測では物集高見)であると述べられているようである。ただ、ケーベルは根本が鉄扇を持ち歩いている理由がどうもわからなかったという。これは別にわからなくてもいいのである。

 ところが、漱石の友人の1人であった狩野亨吉(1865-1942)も秋田の人で、子どものころ根本の塾に通ったことがあり、1897年にある席で根本にあって丁寧に挨拶をしたところ、彼を見下すような発言をしただけでなく、だれかれとなく周りの人物に狩野の悪口を言いふらした――「自分が子どものころからこの人間が嫌いで塾へは行かずほとんどその時間を途中で友達と遊んですごした。それ以後二十何年も往来しなかったが、今見てもやはり実に固陋卑劣な男だ。しかも彼は実際はまことに小心者で、それを隠すためにこのように、恫喝的態度で武装している」(青江舜二郎『狩野亨吉の生涯』、中公文庫、216ページ)と怒り心頭に発したという。
 自身も秋田市の出身であった青江は、「根本通明のこのハッタリは、平田篤胤・佐藤信淵などに共通する性癖で、秋田市(旧久保田)及びその南方の地域に著しく、狩野父子・内藤湖南などの北方的柔和と鋭い対応をなしている。いったいどのような風土のちがいであろうか。」(同上)と記している。青江の意見をすべて信じてよいかどうかはさておくにしても、このように根本について否定的な評価をする意見もあることは注目しておいてよい。

 狩野亨吉の父親である良知は、漱石をはじめとする自分の息子の友達の若い世代と談話を楽しむ人物であり、『猫』の迷亭の伯父さんや、『虞美人草』の宗近の父親にその姿が描かれているともいわれる。迷亭の伯父さんのモデルが根本通明であるか、狩野良知であるかという問題は、それだけで終わるものではなく、日本の近代化と伝統的な学問の問題をはじめとするかなり複雑な問題と絡み合っているように思われる。

It's easy as pie.

4月13日(木)晴れ

 本日のNHK「ラジオ英会話」の”Apply It!"のコーナーでは
It's easy as pie. (超簡単です)
という表現を練習した。生地の上にあり合わせのものをのせて焼けば出来上がるということから、パイが簡単にできることのたとえに使われているという。
 U R the ☆!(You are the star!)の会話練習は
★: Have some apple pie. (アップルパイをどうぞ)
Jeff:Mmm, delicious. How do you make it?(うーん、おいしい。作り方は?)
★: It's easy as pie. (超簡単です。)
Jeff:Funny. I knew you'd say that. (笑える。そういうと思った。)

 手元にある辞書を動員して調べてみると、齋藤秀三郎『熟語本位 英和中辞典』(1933、私が持っているのは1979年に出た新増補版第32刷)にはこの表現は出ていない。『小学館ランダムハウス英和大辞典』(1975、私が持っているのは1975年に出たパーソナル版) には
[as] easy as pie 《米話》ひどくやさしい、いとも簡単
とある。研究社の『リーダーズ英和辞典』(1984、私の手元にあるのは奥付が取れてしまっている)では、
(as) easy [simple] as pie 《口》とてもたやすく、いとも簡単で、お茶の子さいさいで、朝飯前で
となっている。大修館の『ジーニアス英和辞典』(1988、私の手元にあるのは1994年の改訂版初版)では
(as) easy [simple] as pie 《略式》とても簡単な
となっており、桐原書店の『ロングマン英和辞典』(2007)にはpieではなくeasyの方の項に
be as easy as ABC (as easy as pie, as easy as falling off a log とも) とても簡単である
と出ていた。

 pieという語を使った成句はas easy as pie以外にも多くあり、『齋藤英和中辞典』では
have a (big) finger in the pie 事件に(大分)関係がある。
put one's finger into another's pie 他人のことに干渉する。
Promises are like pieccrust -- made to be broken. (口約束はパイの皮のように)人はよく(約束を)破る。
が載せられているが、『ロングマン英和辞典』では
be as AMERICAN as apple pie
EASY as pie
have a FINGER in every pie
eat HUMBLE pie
be a NICE as pie
pie in the sky 絵にかいた餅、夢のような話
が掲げられ(大文字は、その単語の項を見よということである)、かなり数が増えている。

 思うに、pieを作ることが簡単さのたとえに使われるようになったのは、それほど古いことではないようであり、またas easy as pieという表現はアメリカから広がっていったようである。さまざまな辞書の比較を通じて、英語の中で、そして言語が生活の反映である限り、英米人の生活の中で、pieがどのような役割を果たし、どのように意識され、pieをめぐる成句が定着していったかだけでなく、それぞれの辞書が編集された時代の日本語についても知ることができ、両方の言語が変化している様子を辿ることができて面白い。

ダンテ・アリギエリ『神曲 天国篇』(17-1)

4月12日(水)晴れのち曇り

 ベアトリーチェに導かれて地上から天空へと旅立ったダンテは、月天、水星天、金星天、太陽天を経て、火星天に到着した。そこで彼を迎えたのは、「己の十字架を背負ってキリストに続く者」(=殉教者、第14歌106行、218ページ)の魂であり、その中からダンテの玄祖父であるカッチャグイーダの魂が彼に近づき、ダンテの質問に答えて、大銀行家に支配される以前の古き良きフィレンツェについて、さらに封建貴族と市民が一体化していたはずのこの市の各階層がどのように反目するようになったかを語った。その中では血統の高貴さが無価値であり、国や都市や家の浮沈は、天空からの影響という運命の結果でしかなく、ある人や集団や国が栄えているのは、それらが正義にかない、神に認められた高貴さをもっているからだという訳ではないことが述べられた。

 第17歌では、冒頭で、太陽神アポロンの息子であるパエトーンが無謀にも太陽の馬車を導こうとして失敗し、行動を外れて墜落した挙句、神の雷に打たれて死んだという神話が語られる。ここでは、世界の運行を制御すべき者、例えば君主や教皇や詩人、哲学者たちが、人間の能力の限界をわきまえずに行動することが批判されている。つまり、人は謙虚に己の状況を受け入れることから出発すべきだとダンテは主張しているのである。

 ダンテは、カッチャグイーダの魂に向かって、自分の未来の運命について質問を試みる。
私は、ウェルギリウスとともにあって、
魂達を治療する山に登り、
あるいは亡者どもの世界を降っていた間に、

我が人生の未来について
重くつらい言葉を聞かされました、我が身を
運命の打撃にも揺るがぬ立方体のように感じてはいても。

そこでいかなる運命が私に近づいているのか聞けば
我が願望は満たされることになりましょう。
あらかじめ来ると分かっている矢は威力が落ちるのですから。
(256ページ) ダンテはウェルギリウスとともに地獄、煉獄を遍歴している時に、自身の将来についてあいまいな形で知らされてきたが、それをはっきり聞きたいという。アリストテレス『ニコマコス倫理学』によれば、アレテー(徳)に即して活動する人は<正方形>として運を味方につけ、不運を上手に避けていくと256ページの傍注に記されている。『ニコマコス倫理学』は40年ほど前に読んだことがあるが、そんな個所があることは知らなかった。忘れたのか、読み落としたのか。

 これに対しカッチャグイーダの魂は異教(=ギリシア・ローマ)の予言者のように曖昧な言葉ではなく、はっきりした言葉でダンテに答えた。地上の世界は偶有の世界であるが、それでも神は全時空にわたる事象を映すので、神を見ると、将来のことがわかるという。それによれば
おまえはフィオレンツァを去らねばならぬ。

これは望まれ、すでに企てられている。
そしてキリストが毎日売買されている場所で
計画をもくろんでいる者により、すぐにも実行されるであろう。

罪は、敗北を喫した党派に対し、噂を理由にして
押しつけられよう、世の常のように。しかし天罰こそは
それを配剤される真理の証となるはずだ。
(258-259ページ) 「キリストが毎日売買されている場所」は教皇庁を指す。1302年に教皇ボニファティウスⅧ世はフィレンツェの黒派(急激に有力となった大銀行家と教皇派貴族)と同盟し、政権を握っていた白派をクーデターによりフィレンツェから追放した。ダンテは白派の一員であった。

おまえは何にも増して大切に愛してきたあらゆるものを
置いていくことになる。そしてこれこそが
追放の弓が最初に放つその矢なのだ。
(259ページ) フィレンツェを追放されたダンテは友人や家族、名誉を失い、つらい亡命生活を送ることになる。

おまえは身をもって知るであろう、他人のパンが
どれほど塩辛い味がするか、他家の階段を降り、登るのが
どれほど厳しい道かを。
(同上) 「他人のパン」の塩辛さとは、亡命し食客として生活する辛さのこと。また「階段を降り、登る」のは、ダンテが主人の好意で食客として3階に住むことを示す。当時の大邸宅では2階に主人一家が、3階に使用人らが住んだ。「険しい道」は政治状況等によっては彼が窮地に追い込まれることを暗示する。

そしてお前の両肩に何より重くのしかかるのは、
邪悪で愚かな仲間であろう。
おまえはその者どもとともにこのような奈落の底へ落ちることになる。
(260ページ) 亡命処分となった人々は堕落の道をたどり、ダンテにとって重荷となる。彼は1302年、1303年の夏のフィレンツェの亡命白派と皇帝党連合の対フィレンツェ黒派の軍事行動には参加したが、白派が決定的な敗北を喫する1304年のラストらの戦いには参加せず、その後は単独行動をとった。
この者どもの獣のごとき愚劣さについてはその行いが
証となるであろう。それゆえおまえの声望のためには
おまえだけで一人一党をなすがよい。
(同上) ダンテの亡命仲間の堕落について、彼は具体的には語っていない。とにかく、彼は彼らから離れて一人で歩むことになる。

 『神曲』の語り手であるダンテが地上楽園から飛び立ったのは1300年4月13日の正午のことであり、1302年にダンテはフィレンツェを追放される。実際に『天国篇』が書かれたのは1310年代の後半のことであるから、カッチャグイーダの「予言」は実は、ダンテの経験そのものであったのである。
 第17歌は、33歌からなる『天国篇』のちょうど中間点に位置し、前半部分を終わらせ、『天国篇』の結論部分となる後半への橋渡しになっている。ここで1300年以後のダンテの運命が語られているのは意味のあることである。次回に取り上げる後半では、追放後のダンテの運命が語られる。
 ダンテを追放したフィレンツェの有力者たちの大部分が専門の歴史家にしか記憶されていないのに対して、『神曲』とその作者である詩人の名が長く語り続けられているのは運命の皮肉以上のものを感じさせる。

ロビン・スティーヴンス『お嬢さま学校にはふさわしくない死体』

4月11日(火)雨

 ロビン・スティーヴンス『英国少女探偵の事件簿① お嬢さま学校にはふさわしくない死体』(コージーブックス)を読み終える。1月に読み終えたジュリー・ベリー『聖エセルドレだ女学院の殺人』(創元推理文庫)と読み比べると余計に面白くなりそうな本である。

 1934年のイングランド。ディープディーン女子寄宿学校という学校が舞台。この学校に前年、香港から2年生として編入してきたヘイゼル・ウォンが物語の語り手である。英国かぶれの中国人家庭に育った彼女は、英国の学校に転校してきて、寒さと、生徒たちが意地悪なのに驚く。しかし、その中で貴族の令嬢であるデイジー・ウェルズと仲良くなり、いくつかクラブを作っては失敗した後、3年生になって2人で<ウェルズ&ウォン探偵俱楽部>を秘密裏に結成する。頭がよく、推理小説を何冊も読んでいるデイジーがホームズ=会長であり、相棒のヘイぜルはワトソン=記録係ということである。

 学校にはいくつか幽霊の話が伝わっていて、ヘイゼルが転校してくる前に室内運動場のバルコニーから飛び降り地厚をしたヴェリティ・エイブラハムという生徒の話がとくに有名である。新しい学年を迎え、これまでの校長代理が引退したので、次の校長代理にだれがなるかが話題になる。また引退した先生の代わりに新しくやってきた男性教師が生徒たちどころか、教師たちの人気を集める。そんな時に、ヘイゼルは室内運動場で科学のベル先生の血まみれの死体を見つける。ところが、デイジーや上級生を呼びに行ってから運動場に戻ると、死体はない。上級生からはうそつき呼ばわりされ、夕食抜きという罰を受けることになる。しかし、デイジーはヘイゼルを信じ、探偵倶楽部の名にかけて真相を明らかにしようと、捜査に乗り出す。死体が見つからなければ警察も動かないだろう、それまでは自分たちで何とかしようというのである。
 彼女たちが探り出したところでは、ベル先生の辞職願が校長の机の上に置いてあったという。もし先生が殺されているのであれば、誰かが彼女の筆跡をまねて辞職願を書いたということになる。さらに校長室に忍び込んで机に辞職願をおけるのだから、犯人は先生たちの中のだれかである…。デイジーはヘイゼルに事件簿を作らせ、それぞれの先生に考えられる殺人の動機と事件の時間におけるアリバイを洗い出すことになる。2人が捜査を続けていくうちに、英語のテニソン先生が不審な死を遂げる…。

 もともと十代向けに書かれた小説なので、学校生活の描写などかなり詳しく描かれているし、事件と推理の過程がヘイゼルの事件簿をたどりながら、丁寧に示されている。そういう意味で若い年代の読者に対する推理小説入門としてはよくできている。これにくらべると『聖エセルドレダ女学院』の方が話としては荒唐無稽である(その分、面白いことは面白い)。なお、『エセルドレダ』がヴィクトリア時代の終わり(シャーロック・ホームズの時代)に年代を設定しているのに対し、こちらは1930年代に物語の年代が設定されていることも注目してよい。作品中にデイジーが『失楽園』のページの間に、ドロシー・セイヤーズの『誰の死体?』を隠して読んでいる場面とか、終りの方で警部が2人組の活躍をたたえて「ミス・マープル」という場面とか、クリスティ、セイヤーズ、アリンガム、マーシュの女流推理作家<カルテット>が活躍した時代の雰囲気を醸し出そうとしているのが面白い。
 なお、英国の推理小説で学校が舞台になったものとしては、このブログでも取り上げたヒルトンの『学校の殺人』(1931)が古く、グラディス・ミッチェルの『オペラにおける死(Death at the Opera)』(1934)がこれに続く作品だという。クリスティの『鳩の中のネコ』は1959年の作品だから、この物語の作者は当然読んでいるだろうが、時代的な隔たりがある。

 『エセルドレダ女学院』がフィニッシング・スクール(日本に当てはめて考えれば各種学校の花嫁学校)であるのに対し、こちらのディープディーンは正規の独立学校(日本に当てはめれば学校教育法上の学校である私立学校)らしい。そのことが生徒間の関係や学校生活の描写とも関係しているように思われる。この『お嬢さま学校にはふさわしくない死体』では、学校の建物や行事、授業など学校内のことが詳しく書かれている代わりに、学校がイングランドのどのあたりにあるのかがわからないというのが、『エセルドレダ』が学校の地理的な位置をかなりはっきり書いているのに、学校の中の様子については少しぼんやりとさせているのとは対照的である。どっちかというと、オカルト色の強い『エセルドレダ』の方がコージー・ブックス向きで、『お嬢さま学校』の方が本格的な感じがして創元推理文庫向きだと思うのだが、これは私の偏見かもしれない。いずれにしても、このシリーズがどのように続いていくかというのも興味のあるところで、続刊を待ちたい。

 学校の「幽霊」は事件の解決に結びつくので気を付けてほしい。英国には幽霊の出るという噂の古い建物がたくさんあって、そういう話を集めた本が何冊も出ているほどである。私もデヴォン州のエクセターで泊まったホテルでこのホテルのこのあたりには幽霊が出ることがありますというガイドを読んだことがある。そんなことも頭に入れて読むと興味が増すかもしれない。

ジェイン・オースティン『エマ』(8)

4月10日(月)晴れたり曇ったり

これまでのあらすじ
 18世紀の終わりか19世紀の初めごろのイングランド東南部、ロンドンからほど遠からぬサリー州のハイベリーの村に住む大地主の娘エマ・ウッドハウスは21歳、美人で頭がよく、村の女王的な存在である。病弱で、生活の変化を嫌う父親と暮らしているために、自分自身は結婚する意志はないが、長年家庭教師を務めていたミス・テイラーが村の有力者の1人であるウェストン氏と結婚したのは自分の橋渡しのためであったと思い込み、自分には縁結びの才能があると考える。そして村の教区牧師である未婚のエルトンの妻を見つけようとする。隣村ドンウェルの大地主で、エマの姉の夫の兄であるジョージ・ナイトリーはそんなエマの思い込みをたしなめる。
 エマは新しく知り合った若い娘ハリエットをエルトンと結びつけようとするが、野心家のエルトンはハリエットを相手にせず、保養地で知り合った商人の娘オーガスタ・ホーキンズと結婚する。
 ウェストン氏には先妻との間にフランクという息子がいて、死んだ母親の実家であるヨークシャーの名門チャーチル家で育てられているが、養母が病弱なうえにわがままでなかなか父親に会うことができない。ようやくハイベリーにやってきたフランクはエマと親密になるが、エマは彼と結婚しようとは思わない。いったんヨークシャーに帰ったフランクであるが、養父母がロンドン郊外でハイベリーから近いリッチモンドに家を借りたので、ハイベリーに頻繁に来ることができるようになる。
 村の元牧師の未亡人であるベイツ夫人は善良でおしゃべりの娘=ミス・ベイツと暮らしているが、死んだ末娘の子で、やはり死んだ父親の友人であったキャンベル大佐に養われているジェイン・フェアファクスが里帰りしてくる。ジェインは才芸に秀でた美人であるが、感情を表に出さないタイプで、エマは彼女が気に入らない。
 エルトン夫人が村にやってくるが、成り上がりで自己顕示欲の強い女性で、エマは彼女を嫌う。エマと仲よくなれないと思ったエルトン夫人はジェインと親しくなり、彼女に有利な家庭教師の仕事を世話するとうるさく迫る。(第37章まで)

 ウェストン氏が計画していたが、フランクが養父母のもとに帰ったために中止された舞踏会が開かれることになる。ウェストン氏はエマをはじめ、多くの人々に会場の点検を依頼していた。「ウェストンさんの率直で開けっぴろげな性格は好きだけど、もう少し節度があった方がいい。人間として大事なことは、誰とでも親友になることではなく、誰にでも親切にしてあげることではないかしら。エマはそういう男性を思い描くことができた。」(中野康司訳、下、118ページ) エマが会うのを楽しみにしていたフランクもやってくるがなぜか落ち着かない様子である。エルトン夫人は女主人役ではないが、女主人然とふるまう。オープニング・ダンスの先頭をエマはエルトン夫人に譲ることになったが、エルトン夫人とはウェストン氏が踊ることに、二番手でエマはフランクと踊ることに落ち着く。
夜食前の最後のダンスで踊り手としてハリエットが一人余ってしまい、残っていたエルトンは彼女と踊らないことを見せびらかす意地悪をする(エマが彼とハリエットを結びつけようとしたことに対する当てつけである)。するとそれまで踊らずにいたナイトリーがハリエットの手を取って彼女と踊る。エマはそれをうれしく思い、夜食の後のダンスをナイトリーと踊る。(第38章)

 翌朝、エマはナイトリーとの短い会話の中で、エルトン夫妻がひどい人間だという点で意見が一致したこと、ナイトリーがハリエットの美点を褒めたことを思い出して喜んでいた。ところが、フランク・チャーチルがハリエットを連れて彼女の邸にやってくる。ハリエットが散歩中に、ジプシーの物乞いに囲まれて困っていたところを、フランクが助けたというのである。エマはこの事件をきっかけとして2人の仲が急接近するのではないかと考える。(第39章)

 数日後、ハリエットがエマを訪問し、かつて抱いていた(エマがたきつけた部分も大きい)エルトンへの思慕は思い切ったという。いまはもっと素敵な人物を恋しているが、彼との結婚はかないそうもないので、一生独身でいるつもりだともいう。(第40章)

 6月になり、エルトン夫妻は義兄で大金持ちのサックリング夫妻のハイベリー訪問の予定と、馬車での遠出の計画を話し、ジェインはまだベイツ家に滞在していた。ナイトリーは、フランクがエマに気があるような行動をしているが、実はジェインと二股をかけているのではないかと疑い、そのために彼に対する嫌悪感を強めていた。ウッドハウス家で大勢でお茶を楽しむことになった際のフランクとジェインの言動からナイトリーはますます疑惑を募らせるが、エマはフランクとジェインが愛し合っていることは絶対にないと、ナイトリーの考えを一笑に付す。(第41章)

 サックリング夫妻がハイベリーを訪問するという話は秋まで延期になる(物語が終わるまで、訪問したという話は出てこない。あるいは作者がわざと書き落としたのかもしれない。意地悪く考えると、実はサックリング夫妻はエルトン夫妻のことをそれほど大事に思っていないのではないかとも想像できる)。一方、ウェストン夫人に赤ちゃんができたということが分かり、周りの人々を喜ばせる。サックリング夫妻がやってきたら、サリー州の有名な行楽地であるボックス・ヒルにピクニックに行く予定であったが、これまでも出かけるという話はあったので、彼ら抜きでも出かけようという話になった。エマはウェストン氏と相談して、気に入った仲間で静かで控えめなピクニックをしようとする。ところが、社交好きのウェストン氏はエマの気持ちを考えずに、エルトン夫人に声をかけてしまう。「ピクニックは大勢で行かないと面白くない。多ければ多いほどいい。大勢で行けばきっと楽しいピクニックになる。エルトン夫人は決して悪い人じゃない。仲間外れにしたらかわいそうだ」(中野訳、下、171ページ)。エマは内心で、ウェストン氏のいうことには全部反対していた。
 エルトン夫人は張り切って準備を進めていたが、ところが馬車馬が足を痛めて、それが治るまでピクニックは延期になってしまう。その話を聞いたナイトリーが自分の持つドンウェル・アビーのイチゴ畑でいちご狩りをすればよいといったところ、エルトン夫人はその話に飛びつく。そして招待客などイチゴ狩りの次第を全部自分で取り仕切ろうという。エルトン夫人の思惑に反して、内心ではエルトン夫妻をひどい人間だと思っているナイトリーは、「ドンウェル・アビーの招待客をもつ既婚女性は、この世に一人しかいない」(中野訳、下、173ページ)という。それはミセス・ナイトリーだという。ナイトリーが誰を念頭に置いているかはすぐに想像できるはずだが、エルトン夫人はそれが冗談だとしか思わない。このいちご狩りの計画は多くの賛同を得、ウェストン氏は頼まれもしないのに、自分の息子(つまりフランク)も参加させると言い出す。
 そうこうするうちに、馬車馬の足が意外に早く回復し、イチゴ狩りの翌日にボックス・ヒルにピクニックに出かけることになる。
 6月の下旬にドンウェル・アビーでいちご狩りが行われ、エマはこの屋敷のすばらしさに改めて感動する。イチゴ狩りの一方で、エルトン夫人はジェインに自分が持ってきた家庭教師の話を承諾するようにうるさく迫る。食事の後、一行が邸内を見ていると、エマのところにジェインがやってきて、一人になりたいので、早めに帰ると言い出して去っていく。それから15分ほどしてフランクがやっと到着するが、不機嫌な様子であった。しかし、エマの説得で翌日のピクニックには参加するという。(第42章)

 翌日、素晴らしい晴天に恵まれ、準備も怠りなく、ピクニックは楽しいものになるだろうと思われたが、「その日の雰囲気には、何かが欠けていた。みんな疲れた感じで、元気がなくて、一体感がなくて、その沈滞ムードをどうしても払いのけることができなかった。」(中野訳、下、193ページ) 一行はいくつかのグループに分かれてしまい、ウェストン氏がみんなをまとめようとしたが駄目だった。それでも目的地に到着し、皆が丘に腰を下ろすと、少し雰囲気がよくなり、フランクが陽気にしゃべりだしたので、エマもそれに合わせて気分を盛り上げようとした。2人は仲良く話しているように見えたが、それは「恋のたわむれ」であって、少なくともエマから見ると、本気の行動ではなかった。場を盛り上げようとフランクは、面白い話を1つ、まあまあ面白い話ならば2つ、つまらない話ならば3つを話して、エマを笑わせることを提案する。するとおしゃべりのミス・ベイツがつまらない話を3つすることなら簡単だと言い出す。常々彼女のおしゃべりに辟易していたエマはつい、「あら、でも、難しいんじゃないかしら。失礼ですけど、数が限られているのよ。一度に三つだけよ。」(中野訳、下、199ページ)といってしまう。鈍いミス・ベイツも少したってからこの毒のある言い方に気付いて傷ついてしまう。一方、ウェストン氏は「その遊びは気に入った」といい、なぞなぞを出したりするが、グループはバラバラになり、気まずい雰囲気に包まれる。帰りの馬車を待っているエマに、ナイトリーは、ミス・ベイツのような弱い立場にある人間に心無いことばを懸けたエマを非難する。エマはなぜあんなひどいことをいってしまったのかと後悔の気持ちでいっぱいになる。(第43章)

 今回紹介した部分では社交好きで、誰とでも仲良くしようとするが、個々の人間の微妙な気持ちにはあまり配慮しないウェストン氏と、誰にでも親切にふるまっているが、心の中ではかなり厳しい人間観を抱いているナイトリーの対比が際立っている。エルトン夫人がナイトリーの表面的な丁重さを額面通りに受け取って、自分が嫌われていることに気付かないのは、かなり滑稽である。エマがミス・ベイツに投げつけた言葉はかなり残酷だが、実は自分の父親の訳のわからない議論に疲れていることも影響して、こんなことをいったのかもしれないとも思う。エマの父親であるウッドハウス氏は病弱で、自分の体に悪いものは、それを食べても大丈夫な健康な人間にとっても有害だと思い、親切心からやめさせようとするような人間である。ある意味で、ミス・ベイツよりもかなりたちが悪いところがある。特に美味しい料理を御客の目の前に出しておいて、何やかやと理由をつけて食べさせないというのは困った行為である。ミス・ベイツのおしゃべりを借りると:「最初に、子牛のすい臓の煮込み料理とアスパラガスが出たけど、ウッドハウスさまが、アスパラガスのゆで方が足りないと言って、全部下げさせてしまったんですって。おばあさまは、子牛のすい臓の煮込み料理とアスパラガスが大好物なの。それでちょっとがっかりしたそうよ。でもこのことは、誰にも言わないことにしたの。ミス・ウッドハウスのお耳に入ったら気になさるもの。」(中野訳、下、133-134ページ) 誰にも言わないと言いながら、ジェインに向かってしゃべっているし、たぶん大声だから、エマ(=ミス・ウッドハウス)の耳にも届いている。というよりも、エマはそういうことを知り抜いているから、ペラペラしゃべられると気に障るということもあるかもしれない。実際に、エマは父親がごちそうを出しておいて食べさせない性癖があることを知って、いろいろと手を打つ個所があった(上巻の329ページをご覧ください)。客観的に見れば、ミス・ベイツの方がウッドハウス氏よりも他愛のない人だという気がするが、親子の情愛が絡むと判断がむずかしくなるのだろう。 

『太平記』(153)

4月9日(日)雨が降ったりやんだり

 建武3年(1336)春、京都の合戦で後醍醐方は勝利したが、新田義貞は勾当内侍に心を奪われ、九州へと敗走していく足利方を追走する機を逸した。その間、中国地方で足利方の赤松円心らが蜂起した。新田一族の江田行義・大館氏明が赤松追討に向かい、緒戦に勝利したが、義貞率いる新田軍本隊が白旗城に迫ると、赤松は降伏と偽って時間を稼ぎ、城の防備を固めてしまう。白旗城を攻めあぐねているうちに、足利方が迫ってくることを警戒して、義貞は中国勢を味方につけようと船坂峠へと向かった。しかし船坂峠も要害の地であり、なかなか攻略の手掛かりが得られないまま日々を過ごしていた。

 備前の国の住人の和田(児島)高徳は前年、四国から細川定禅が攻め上ってきたときに備前、備中の戦いで敗れて、山林に身を隠し、いつかは敗戦の屈辱を晴らそうと、義貞軍の到着を待っていたが、船坂山を義貞軍がなかなか突破できないという情報を得て、ひそかに使いを義貞のもとに送り、次のように伝えた。
 船坂を突破しようとされていることを伝え聞きました。もし本当であれば、そう簡単に突破できるようなところではありません。(したがって陽動作戦を立てるべきだというのである。) 高徳が、来る8日に備前の熊山(岡山県赤磐市南東部にある山)に出て、そこで挙兵しようと思います。そうすると、船坂に立て籠もっている賊軍は、きっと熊山へと攻め寄せて来るでしょう。それで船坂山の防御が手薄になったところをついて、軍勢を二手に分け、一手を船坂に差し向けて、攻撃する様子を見せ、もう一方を三石山(備前市)の南を目指し、木こりが使う道があるので、それをひそかに回って、三石の宿から西に出れば、船坂の敵は、前後に敵を受けることになり、慌てふためくでしょう。高徳が国内で宮方の旗を掲げ、まず船坂を攻略すれば、西国の軍勢は、争って味方に参集するでしょう。合図を決めて、攻撃をかけてください。
 これまで播磨の武士たちしか新田軍に集まってこなかったのに、備前の高徳がやってきて以上のように述べたので、義貞は大いに喜んで、早速、どのように合図するかを決めて、急いで使いを高徳のもとに返した。

 使者が備前に帰って、合図について報告したので、4月17日の夜半に高徳は、自分の館に火をつけて、わずか25騎の武士たちを率い、旗を掲げて出陣した。備前以外の国にいる一族の武士たちには、事態が急だったので連絡をせず、近くに住んでいる親類たちにだけ事情を話したので、小嶋(和田)一族の今木、大富、射越(いのこし)、原、松崎といった武士たちが集まってきて、合わせて300余騎となった。

 あらかじめ、夜半に熊山に取りついて、井法に篝火をたいて、大勢が籠もっている様子を敵に見せようという謀をめぐらしていたのだが、馬よ、物の具よと、慌てて騒いでいるうちに、夏のことなので夜が間もなくあけてしまった。このように急なことなのでぐ寧の準備は手薄だったが、仕方なく、合図の時間を間違えまいと熊山へ上った。経略通り、三石、船坂の軍勢は、これを聞いて、国中に敵が出てくることになると、大変なことになる。何もかも差し置いて、熊山を攻めよと、船坂、三石に立て籠もって田中から3,000余騎を分けて、熊山へと向かわせた。

 この熊山というのは、高さは比叡山のようで(岩波文庫版の脚注には、比叡山は約840メートル、熊山は、約500メートルとある)、四方に7つの道があった。その道のどれもが麓の方では険しい岩道で、峰は平らである。高徳はわずかの軍勢を7つの道に差し向けて四方から押し寄せてくる敵を防ぐ。敵を追い下したかと思うと、また別の敵が攻め上ってくる。そこで追い下す。また昇ってくると終日戦いが続いた。夜になると、寄せ手の中に石戸(おいこ)彦三郎というこの山のことをよく言っている武士がいて、思いもよらない方角から山頂にたどり着き、この山の山頂にある天台宗霊仙寺の本堂の後ろの小山の上から、鬨の声を上げた。

 和田は、四方の麓へ軍勢を分遣していて、山頂付近に残っていたわずか14・5騎とともに本堂の庭に控えていたのだが、石戸の率いる200余騎の中へ懸け入り、叫びながら火を散らして戦った。多くの木々が茂る山上は月の光も届かぬ暗さで、高徳は敵の太刀を受け損ねて、内兜をつかれ、馬から逆さまに落ちてしまった。敵2騎がこれを見つけて首をとろうとすると、高徳の甥の松崎彦四郎範家と和田四郎範氏が駆け付けて2人の敵を追い払い、和田を馬に載せて、本堂の縁側に下した。

 高徳は内兜の傷が痛手であった上に、馬から落ちた時に、胸板を馬に強く踏まれて目がくらみ肝をつぶしたので、しばらく気絶していたのを、父である備後守範長がその枕元によって、「昔、鎌倉権五郎景正は、左の目に矢を受けながら、3日3番もその矢を抜かず、敵に矢を射返したという。この程度の軽症で死ぬわけがない。ここでのびているようなふがいない心持でどうして、この大事を成し遂げることが出来ようか」と荒々しく叱責したので、高徳は息を吹き返し、俺を馬に乗せろ、一合戦して敵を追い払うのだと言った。父親は喜んで、もう大丈夫だ、死ぬことはない。さあ、おのおの方、ここにいる敵を追い払おうと、今木太郎範秀、その弟の小次郎範仲、中西四郎範顕、和田四郎範氏、松崎彦四郎範家、主従合わせて17騎で、石戸の率いる200余騎の中にかけ言ったが、石戸は相手が小勢とは気づかなかったのであろうか、一勝負をもしないで、熊山の南斜面の長い坂を福岡(瀬戸内市長船町福岡)まで退却していった。そしてこのまま両陣がにらみ合いを続けたが、戦闘には至らなかった。

 本格的な戦闘の前の小競り合いが続いているところである。すでに何度か書いてきたように、この時代の武士たちの多くは戦局の展開によって、強い方につくとか、ちょっと劣勢になると逃げるというのが普通に行われていた。その中で、一貫して宮方の和田(児島)高徳が久しぶりに登場するが、この人、頭はいいけれども、武勇の方はいまいちというところがある。それでも、これまでのところ、作戦は成功し、熊山の砦も無事に持ちこたえた。新田隊の船坂、三石での戦いの帰趨は次回に語ることになる。
 鎌倉権五郎景正は後三年の役の際に、八幡太郎義家に従って戦い、目を射られても奮戦を続けてその武勇を語り継がれた。朋輩の武士が彼の矢を抜こうと、顔に足を懸けたので、その非礼を罵ったという説話もある。桓武平氏の鎌倉氏(梶原、大庭)の祖である。また観音像で知られる鎌倉の長谷寺の近くにある鎌倉御霊神社は鎌倉権五郎景正を祀った神社である。

日記抄(4月2日~8日)

4月8日(土)小雨が降ったりやんだり、風が強かった

 4月2日から本日までの間に経験したこと、考えたことなど:
4月2日
 日産フィールド小机でプレナスなでしこリーグ2部ニッパツ横浜FCシーガルズと愛媛FCレディーズの対戦を観戦する。愛媛が17分に先制したが、後半88分に途中出場した柴田選手のゴールで横浜が追いつき、1-1で引き分けた。今年から横浜の指揮をとる能代谷監督は、補強に頼らず現在のメンバーでの底上げを目指すという方針で、どこまで底上げができるかが今後の戦績に現れてくるだろうと思う。

 小机への往復に横浜市営バス39番を利用した。小机駅前に近づくと、4月8日・9日の小机城址祭の宣伝が目立った。以前にも書いたことだが、この城が誰の城だったかということよりも、太田道灌がこの城を包囲し、「小机はまず手習いの始めにていろはにほへと散り散りとなる」という歌を詠んで部下を励ましたという話の方が有名である。

 横浜FCはアウェーでアビスパ福岡と対戦し、0-0で引き分けた。

4月3日
 NHKの語学番組はこの日から新年度に入った。昨年に引き続き、「ラジオ英会話」、「入門ビジネス英語」、「実践ビジネス英語」、「まいにちフランス語」、「まいにちイタリア語」、さらに「レベルアップ中国語」のほかに、今年度から始まる「高校生から始める「現代英語」」をテキストを買って聴き、「英会話タイムトライアル」、「エンジョイ・シンプル・イングリッシュ」、「短期集中! 3か月英会話」、「ワンポイント・ニュースで英会話」、「まいにちスペイン語」はを買わずに、聴くだけにしようと思っている。
 「まいにちフランス語」は「入門編」でまったくの初心者を対象とした放送であるが、「まいにちイタリア語」は「初級編」で基礎的な知識が一応身についている聴取者を対象にしているようである。

4月4日
 NHKラジオ「入門ビジネス英語」は「会ったことのない相手に面会を申し込む〔電話でのアポの取り方〕」の2回目。この番組の講師が柴田真一さんに代わって、これで3年目の放送になるが、年度ごとにパートナーが変わっている。15年度のハンナ・グレースさんは俳優・声優・シンガー、16年度のリンジー・ウェルズさんは学校の先生であったが、今年度のケリー・エリザベス・ホールウェイさんはディズニーやブロードウェイのパフォーマーを経験し、その後日本ではESL英語講師だったというから、これまでのお二人の持っていた要素を兼ね備えているということであろうか。

4月5日
 NHKラジオ「実践ビジネス英語」は”First Impression"(第一印象)というビニェットが始まった。舞台になっている会社のスタッフの1人が、スカウトされて退社することになる。どうやら先方は、彼がとても断れない条件を提示したようである。
But it seems they made him an offer he just couldn't refuse.
 その会社はある管理職が急逝したので、その空いたポストを埋めるために、2週間以内にすぐ全力で仕事にかかれる人を必要としていた。
The company needed someone who could hit the ground running in two weeks to fill a position vacated by an executive who suddenly passed away.
 彼が採用にいたった大きな理由の一つは、元の職場での業績がずば抜けていたことであるが、もう一つ重要なことは彼が初対面のほとんどすべての人に、非常に良い第一印象を与えることであった。
It' also important to remember that he creates a very posiitive first impression with just about everyone he meets.
 就職に際して好条件が提示される裏には必ず、それなりの事情があるというのはよくわかる話である。前任者が急逝したとか、急に辞職したとかいうのであれば納得できる話だが、誰もがすぐ逃げ出すお化け屋敷のような職場である可能性もないわけではない。

4月6日
 NHKラジオ「まいにちフランス語」応用編は昨年の10~12月に放送された「インタビューで広がるフランス語の世界」の再放送だが、昨年の10~12月の初級編が再放送だったために、テキストを買わずに放送だけ聞いていた。あらためてテキストを買って放送を聞くと、気づかされる点が少なくない。
 放送されたトピックの中では東京国際フランス学園(le Lycée français international de Tokyo : le LFIT)の話題が印象に残った:
 Il y a des enfants d'origines très différentes, Des Français bien sûr ; mais aussi des enfants de pays francophones : Belgique, Suisse, Tunisie, Canada, Maroc... (個々には、様々な国籍の子どもたちがいます。フランス人はもちろんのこと、ベルギー、スイス、チュニジア、カナダ、モロッコなどフランス語圏の国々の子どもがいるのです。)
 日本国内の「外国人学校」には多かれ少なかれ、同じ傾向がみられるようである(国外についても同様なことがいえるのかもしれない)。

4月7日
 京唄子さんの訃報を聞く。夫婦漫才で活躍する一方で、女優でもあった。吉川潮『突飛な芸人伝』(新潮文庫)に「私生活のスキャンダルをネタにするのは上方芸人の得意とするところであり、離婚後も漫才コンビを続けた例としてはミヤコ蝶々・南都雄二、京唄子・鳳啓助」(219ページ、そして正司敏江・玲児)とある。もう50年くらい昔になるが、「てなもんや三度笠」などのお笑い番組に、その大口を前面に出して、悪役で出てくる。息を吸うと、舞台にいた役者たちがみんな彼女の近くに吸い寄せられ、吐き出すと急に散らばっていくというシュールなギャグでお客を笑わせていた。あるいは、前田武彦にいじられて怒っている女性タレントがキスマークで連判状を作成したが、2人分だけいやに巨大である→天知総子と京唄子であったというようなギャグを思い出すのである。映画では加藤泰監督の『緋牡丹博徒・お竜参上』だったと記憶するが、元夫婦が同じ屋根の下で一階と二階に分れて商売しているという場面があった。89歳といえば、まず天寿を全うされたわけで、そういう場面を思い出しながら、極楽往生を祈るのが一番の見送り方ではないかと思う。

4月8日
 花まつりであるが、あいにくの雨となった。
 NHKラジオの新番組「高校生から始める「現代英語」」の第1回を聴く。講師はこれまで「ワンポイント・ニュースで英会話」を担当されてきた伊藤サムさんで、パートナーが一昨年「入門ビジネス英語」に出演していたハンナ・グレースさんという組み合わせである。今回は”Artificial Intelligence Saves Life" (人工知能が命を救う)という話題を取り上げている。これまでの「攻略!英語リスニング」がB2レベルという設定であったのに対し、こちらは1段下がったB1で、ラジオの「入門ビジネス英語」、「ラジオ英会話」、テレビの「しごとの基礎英語」とほぼ同じレベルという設定になっている。この結果、B2レベルの番組がラジオとテレビの「ニュースで英会話」だけになってしまったのは、ちょっと寂しい。

 ニッパツ三ツ沢球技場で、J2第7節の横浜FC対京都サンガの対戦を観戦する。雨が降ったりやんだり、風が強いという悪条件で、観客が3千人に満たなかった。前半、風上の横浜と、風下の京都が一進一退の攻防を続け、双方無得点に終わったが、後半になると風下になった横浜の動きがよくなり、とくにサイドからMFジョンチュングン選手が駆け上がる場面が目立ち、61分に左から持ち込んだボールをFWのイバ選手が決めて先制、さらに71分にはPKのチャンスを作ってこれもイバ選手が決めて2点をリードした。FWを入れ替えて反撃を試みる京都の猛攻に対し、横浜は最後まで積極的に戦い続け、2-0で勝利を飾った。イバ選手の2得点が目立ったが、そのおぜん立てをしたジョン選手の活躍も見落としてはならない。神戸からレンタル移籍中の増山選手も途中出場し、期待できる動きを見せた。今後、新戦力が既存の戦力とかみ合って、さらに強力なチームができていくことが期待される。 
 

向こうの方に

4月7日(金)曇りのち晴れ

向こうの方に

幼稚園の近くを
電車が通っていた
電車に乗って
上の学校に通いたいと思っていた

小学校の校庭から
海の向こうの半島が見えた
その半島の向こうに
何があるかを知りたいと思いはじめた

それから電車で学校に通うようになって
幼いころの謎のさらに向こうを知り始め
それどころか
町が海を埋め立て埋め立て
だんだん広がって
海が遠くなる様子を見ていた

その一方で遠くの世界も近くの世界も
変わっていくのを見ていた
海が遠くなるにつれて
平べったい町が
だんだん背丈を伸ばしているのも見た

向こうだと思っていた世界が
どんどん自分の手の届く世界になった
だが町が広がり 変化し
自分の世界も広がり 自分自身も変化していく中で
知らない世界 手の届かない世界も
どんどん増えていった

変わりながら広がっていく
外の世界に対する
憧れに引きずられながら
謎解きを続けている
楽しくもあり 幻滅も伴う
謎解きを続けている

呉座勇一『応仁の乱』(17)

4月6日(木)曇りのち晴れ、風が強いが温暖

 応仁の乱は応仁元年(1467)から文明9年(1477)まで11年間にわたって繰り広げられた大乱である。この書物はこの大乱の同時代人であった奈良・興福寺の2人の高僧である経覚(1395-1473)の『経覚私要鈔』、尋尊(1430-1508)の『大乗院寺社雑事記』という日記を基本的な史料としてその全容を、背景や影響も視野に入れて概観したものである。もちろん、その他の史料も駆使して、客観的な事実の掘り起こしが試みられている。

 終章「応仁の乱が残したもの」では、この戦乱が構成に及ぼした影響について論じている。その第一は、室町幕府の政治体制の根幹をなす<守護在京性の解体>であったという。
 応仁の乱の本質は2つの大名連合(東軍=細川勝元らと西軍=山名宗全ら)の激突であったが、このような形で大乱が勃発したのは、室町幕府の政治体制そのものに原因があるという。南北朝の内乱が落ち着いてくると、幕府は地方で戦っていた諸将に上洛を命じ、原則的に在京を義務付けた。そのことで彼らの鴉越を監視・統制しようとしたのである。その一方で、複数国の守護を兼ねる有力武将には「大名(たいめい)」として幕府の意思決定に参加することを認めた。
 京都で生活する大名たちは連歌や花見などで交流をもっただけでなく、家臣たちを含めて一族郎党同士の交流が強くなった。「京都で活動する大名家臣たちは、同族関係を通じて幕府や他の大名家とつながっており、将軍と諸大名の合意形成に基づく幕政運営を下支えしていたのである。」(254-255ページ)

 ところがこのような横の結びつきは、将軍に求心力がないと、派閥形成につながる。嘉吉の変で将軍足利義教が暗殺されると、諸大名の結集の核が失われ・細川・畠山両管領家による主導権争いが始まった。畠山家を抑え込むために細川勝元は山名宗全と提携したが、畠山氏が内紛で弱体化すると、同盟の意義は薄れ、新興勢力山名氏が覇権勢力細川氏に挑戦するという形で応仁の乱がおきた。乱が起きる以前にも対立は萌していたが、妥協によって決定的な破局は避けていた。その事態を決定的に悪化させたのは畠山義就と政長の対立から起きた御霊合戦に山名宗全が介入したことである。勝元と宗全が多数の大名を自陣営に引き込んだ結果、戦争の獲得目標が急増し、参戦大名が抱えるすべての問題を解決することは困難になった。しかも長期戦になって諸大名の被害が増大すればするほど、彼らは戦争で払った犠牲に見合う成果を求めたため、さらに戦争が長期化するという悪循環が生まれた。戦闘が長期化し、戦線が拡大する中で、東軍に補給路を遮断された西軍は戦争の継続を断念することになった。
 この大乱の後、ほとんどの大名が京都を離れ、在国するようになった。これは大名による分国支配を保証するものが幕府による守護職補任ではなく、大名の実力そのものになったからである。斯波氏が領国である越前を失い、尾張だけを領有するようになったように、戦争の中で守護代クラスの武士たちが力をつけ、大名たちの地位を脅かしていた。大名たちが引き上げたために、将軍の権力基盤は近臣や奉公衆などの直臣層のみになった。
 乱が終わった後も、将軍は一定の権威・権力を保持したが、その統治する範囲は京都周辺に限定されることになった。「俗にいう「守護大名」が将軍の権威を背景に分国支配を進めたのに対し、戦国大名は自身の力量によって「国」を統治した。したがって、将軍は戦国大名の内政には干渉できないのである。」(260ページ) 「既存の京都中心主義的な政治秩序は大きな転換を迫られ、地方の時代が始まるのである。」(261ページ)

 応仁の乱の影響の第2として呉座さんは<京都文化の地方伝播>を挙げる。ふつう、室町・戦国時代の文化の地方普及は戦乱を避けた公家たちの疎開によるものと理解されているが、在京していた大名たちが文化活動に参加していたことも見落とすべきではないという。彼らの主な貢献は文化の創造というよりも、保護・資金提供であったとはいえ、乱後、分国に帰った大名たちは京都での生活を再現しようとし、文化人たちを保護した。各地に京都をモデルにした地方都市がつくられるようになったのである。その一方で、京都は守護や奉公衆の在国化によって住民が激減し、市街域も大幅に縮小した。「戦国期の京都は、武家・公家を中心とする上京、町衆を中心とする下京、および周辺の寺社門前町という複数のブロックから成る複合都市として機能した。・・・地方における「小京都」の林立と京都の荒廃は、表裏一体の事態として進行したのである。」(265ページ)
 中村真一郎『古寺発掘』(中公文庫)の中に、「永光寺 能登に残る畠山文化の跡」という章があり、『応仁の乱』の50ページに名前が出てくる畠山満慶に始まる能登畠山氏を中心に花開いた地方文化の様相が描かれている。中村が歌と絵に才能を残したと書いている畠山義統は『応仁の乱』94ページに西軍の武将の1人として名を挙げられている。たまたま私の目に留まった例を挙げてみたが、このように都の文化を自分の分国に持ち帰って発展させた大名は少なくなかったはずである。

 第3にあげられるのが、領主と郷村との関係の変化である。室町時代の守護たちは、領地の支配を守護代以下の家臣に任せ、その収益を京都で受け取るだけであった。応仁の乱が長期化・大規模化すると、両軍とも郷村の武力の取り込みに躍起になった。領主と農民の間で武力の動員と年貢の支払いをめぐる駆け引きが展開された。「郷村に宛てて文書を大量発給した後北条氏に典型的にみられるように、郷村・百姓と直接向き合った点に、前代の権力と異なる戦国大名の最大の特徴がある。そして、そのような社会動向の出発点が、応仁の乱だったのである。」(270ページ)

 最後に、応仁の乱、さらに明応の政変以後の大和と興福寺をめぐる情勢がまとめられている。政変の首謀者である細川政元と将軍義澄、政変によって将軍の地位を追われ復権を目指す義稙と彼を支持して勢力を拡大してきた畠山尚順(政長の子)、河内に勢力をもつ畠山義豊(基家、義就の子)らがそれぞれの勢力を拡大すべく大和に派兵し、大和の衆徒・国民はこれに危機感を募らせ、永正元年(1504)には大和を二分して争ってきた筒井と越智の盟約が締結され、さらに紆余曲折を経て大永元年(1521)には筒井・箸尾・越智・十市の4氏による連合体制が成立し、大和の安定をもたらした。それは興福寺の権威・権力を利用するもので、転覆しようとするものではなかった。「中世興福寺は大和国人の領主的成長を阻んだかもしれないが、一方で大和国の戦争被害を減らした」(278ページ)。両面を評価すべきであると呉座さんは言う。

 呉座さんが主として依拠した史料が、奈良で書かれたものであったために、この書物は一方で「応仁の乱」について語り、他方で「中世都市奈良」について語るという二重性をもち、必要以上に著述の量が多くなっているように思われる。「中世都市奈良」については、既に安田元久さんの著書があり、呉座さんは安田説にそれほど大きな意義を唱えていないように思われるので、それならば削ってしまってもよかった部分が少なくないのではないかと思割れるのが残念である。もっとも、大和の西隣の河内に勢力の基盤を持つ畠山氏の動きが詳しく論じられているという長所もあるので、一概には言えない。
 応仁の乱の前後の動きと、室町幕府の性格をめぐって、新しい知見を数多く得ただけでなく、これまでばらばらに知識として記憶していたことが、この書物を読むことで整理され、さらにまとまった理解へと向かってきているように思う。さらに読み返し、またほかの書物も読むことで、自分なりの考えをまとめていきたいものである。

ダンテ・アリギエリ『神曲 天国篇』(16-2)

4月5日(水)晴れ

 ベアトリーチェに導かれてダンテは地上から天空の世界へと旅立ち、月天、水星天、金星天、太陽天を経て、火星天に到着する。そこで彼を迎える魂たちの中からひときわ明るく輝く魂が現われ、自分は彼の玄祖父で十字軍で戦死(殉教)したカッチャグイーダであるという。ダンテはカッチャグイーダに向かって彼の先祖について、またカッチャグイーダの時代の(ダンテの時代から100年以上昔の)フィレンツェの様子について尋ねる。

 カッチャグイーダは
都市でさえ滅ぶがゆえ、
血統が絶えることを聞いても
不思議とも、理解しがたいとも思われぬであろう。

おまえたちの事物にはおしなべて死がある、
おまえたちと同様に。だがそれは
長く残るものでは隠れており、一方で人生は短いのだ。
(245ページ)と、都市や家にも栄枯盛衰があることを述べる。そしてダンテが質問したフィレンツェの貴族について、語りはじめる。

 まずカッチャグイーダの時代にはすでに衰えていた貴族たちの名を列挙し、彼の時代以前から彼の時代まで栄えていた(ダンテの時代には衰えたり、追放されたり、断絶していたりする)貴族たちの名を挙げる。
高慢ゆえに滅ぼされた者たちがあれほどに栄えていたのを
わしは見た。そして都市が偉業をなすたびに
黄金の玉が花の都フィオレンツァを花と飾っていた。
(248ページ)  前回も触れたが、フィオレンツァはフィレンツェの古い呼び方である。

 そしてダンテの時代まで名を知られていた貴族たちについて語る。最後に、カッチャグイーダの生きていた時代にはフィレンツェの市政の主導権をめぐる争いは起きていなかったという。
これらの人々とともに、また彼らと並ぶ他の人々とともに、
わしは見たのだ、あれほどに安らかだったフィオレンツァを、
涙をもたらす原因などそこにはなかった。
(252ページ) 教皇党と皇帝党の争い、さらにダンテも巻き込まれた教皇党内部における争いは、フィレンツェが都市として拡大し、その人口構成が複雑になってきたことにより起きたものである。
これらの人々とともにあって、わしは見たのだ、栄光と正義に満ちる
その市民達を。それゆえに百合の紋章は
逆さにされて竿の下に置かれることなどなく、

引き裂かれて朱に染められてもいなかった。
(同上) 「百合の紋章」はフィレンツェのものであるが、「逆さにされて竿の下に置かれる」は戦争に敗北したものの旗が受ける扱いである。1251年にフィレンツェの教皇党は皇帝党を追放して、市の紋章を白地に赤い百合の花に変えた。最後の行はこのことを批判的に語ったものである。

 ダンテは自分の先祖の口を借りて、フィレンツェの歴史についての自分の考えを述べているのであるが、彼の考えが復古主義的なものではなく、また彼の時代の社会のかなり正確な観察に基づいたものであったことについては、翻訳者である原さんの解説に詳しく論じられている。そして、彼の歴史観、政治観はその後のイタリアの社会思想の展開に大きな影響を及ぼしたことも付け加えておくべきであろう。

ジェイン・オースティン『エマ』(7)

4月4日(火)晴れ

これまでのあらすじ
 18世紀の終わりか、19世紀の初めごろのイングランド東南部サリー州のハイベリーという村に住む地主の娘で21歳のエマ・ウッドハウスがこの物語の主人公である。美人で頭がよく、村の女王的な存在の彼女は、たいていのことは自分の思い通りに推し進めてしまい、自分を過大評価しがちであるという欠点も持っていた。隣村の地主であり、彼女の姉イザベラの夫ジョンの兄であるジョセフ・ナイトリーはそういう彼女に面と向かって忠告できる唯一の人物であった。
 長くエマの家庭教師をしていたミス・テイラーが村の有力者のウェストンと結婚できたのは、自分の縁結びが功を奏したのだと信じ込んだエマは、ナイトリーが止めるのも聞かずに、村の牧師であるエルトンの配偶者を見つけようと思いはじめる。そして、村にある寄宿学校の特別寄宿生であるハリエットと結びつけようとするが、失敗する。
 ウェストンには自分の先妻との間に儲けたフランクという息子がいて、先妻の実家であるヨークシャーの名門チャーチル家で育てられている。ハイベリーを訪問したフランクをエマは気に入るが、夫ではなく友人として付き合うべきだと考える。村の元牧師の未亡人であるベイツ夫人には、ジェインという孫がいて、なき父親の友人に育てられていたのだが、事情があって里帰りしている。ジェインはエマと同じ年齢で、才芸に秀でた美人であるが、エマは彼女の物静かで落ち着いた態度が気に入らず、内心でライバル視している。野心家のエルトンはハリエットではなく、エマと結婚したいと思っていたのだが、ふられたので、保養地であるバースで出会った成り上がりの商人の娘オーガスタと婚約し、村に帰ってくる。

 エルトンが結婚式を挙げ、エルトン夫人が村に住むことになる。エマはハリエットを連れて、結婚祝いの訪問をする。短い訪問で、気まずさと早く辞去したいという気持ちがあって、エマはエルトン夫人をゆっくり観察できなかったが、上品さに欠ける女性だと思い、あまり好きになれなかった。しかし、ハリエットはエルトン夫人が素敵な女性だと思うと感想を述べた。
 エルトン夫妻が返礼のあいさつに来た時に、夫人と2人だけで話す機会があり、エマはエルトン夫人について「ひどい見栄っ張りで、ひどい自己満足型で、自分をご大層な人間だと勘違いしている。人前に出るといつも目立とうとして、さかんに自分の偉さを示そうとするが、三流の学校の教育しか受けていないので、でしゃばりで、なれなれしい。物の考え方と生活のスタイルは、身近な人たちのそれをそっくりまねしたものだ。馬鹿ではないとしても無教養で、要するに、彼女と一緒にいてもエルトン氏は何も得るところはない。」(中野訳、45-6ページ) なお、「三流の学校」の原文はbad schoolであるが、この時代、英国の学校、とくに女子を対象とする学校の水準は極めて低かった。文学作品に登場する中では『虚栄の市』でベッキーとアミーリアが学んだチジック・モールのアカデミーがもっともましな学校であったと言えよう。
 エルトン夫人はエマの住むハートフィールド屋敷の称賛にことよせて、自分の義兄のメイプル・グローヴ邸を自慢し、エマと親しくなろうとするが、エマは受け付けない。自分の夫をE様(Mr.E)と呼び、ナイトリーを呼び捨てにするなど(Mr. Knightlyというべき)、リラックスしすぎている態度はエマにとって許しがたいものであった。(第32章)

 エマはエルトン夫人に対する自分の悪い評価が間違っていないことを確信する。「エルトン夫人はうぬぼれが強くて、でしゃばりで、なれなれしくて、無教養で、育ちが悪い。多少は美人で、女性としての教養も少しは身につけているが、もともと頭が悪いので、自分は世の中を知っていると錯覚し、ハイベリー村の人々を活気づけて向上させるためにやってきたのだと勘違いしている。自分は独身時代も社交界で輝かしい存在だったが、エルトン牧師夫人となって、いっそう箔がついたと思っているのだ。」(中野訳、59ページ)
 エマが自分と仲良くしようとしないので、エルトン夫人はジェイン・フェアファクスに近づく。「エマが驚いたのは、ジェインがエルトン夫人の親切を黙って受け入れ、そのお節介に耐えているらしいということだった。」(中野訳、65ページ) エマを交えた会話の中で、ナイトリーはジェインの美点を褒めるが、彼女には率直さと明るい性格がないと指摘する(いろいろな点で、エマよりも勝っているジェインであるが、エマの持つ率直さと明るさがないという指摘は、この後の展開の伏線になる)。(第33章)

 エルトン夫妻は村の有力者たちからディナーへの招待を受けており、エマの父親もエルトン夫妻を招待することになる。ディナーに出席したジョン・ナイトリーと話していたジェインは自分が日課として散歩をすること、郵便局に必ず寄ることにしていると語る。エルトン夫人はジェインに雨の中の郵便局行きをやめさせようとするが、ジェインは耳を貸さない。エマはジェインの文通相手についてあらぬ妄想をして内心で楽しんでいる。(第34章)

 強引なエルトン夫人はディナーの後の女性だけの会話の際にジェインを独占し、彼女に家庭教師(ガヴァネス)の就職口を世話しようと申し出る。もともとジェインは家庭教師になるための教育を受けてきたのだが、就職の話は夏まで待ってほしいという。(彼女がそういうには理由があるはずだが、何事にも強引なエルトン夫人はそこまで気を回さない。) ディナーの席にウェストンが遅れてやってきて、フランクが間もなくハイベリーにやってくると知らせる。(第35章)

 ウェストンがエルトン夫人に語ったところでは、フランクの養母であるチャーチル夫人の体調が悪く、ロンドンで静養することになり、フランクはハイベリーにやってくることが出来そうだということである。ジョン・ナイトリーはミス・テイラーがウェストン氏と結婚したために、社交好きな夫の影響を受け、そのあおりでエマの身辺でも社交的な催しが多くなったという(ジョンは自分の家庭を最優先する心情の持ち主で、社交的なことが嫌いな人物として描かれている)。 (第36章)

 フランクがやってくるという知らせを聞いて、エマはなぜか心の動揺を感じた。ロンドンに到着したフランクはすぐにハイベリー村を訪問するが、エマとはわずかな時間話しただけで他の知り合いのところに行ってしまう。チャーチル夫人はロンドンの騒音に我慢が出来ず、郊外のリッチモンドに移ることになる。リッチモンドの方がハイベリー村に近いので、フランクは内心で喜んでいる。以前、フランクの帰省で取りやめになったウェストン夫妻主催の舞踏会がどうやら実現しそうな運びとなる。(第37章)
 
 何事にも強引で自己顕示欲の強いエルトン夫人が登場して、物語はいよいよ進行を速める。身分的な意識が強い(偏見といってもよいかもしれない)エマは、成り上がりのエルトン夫人を嫌うが、その代わりにジェインがエルトン夫人の近くにいつもいるようになる。しかし、エルトン夫人の強引さには辟易し始めている様子である。これまでと同様、ジェインの行動には謎めいたものがあり、何か秘密をもっているようである。そしてその秘密は、エマが想像するようなものではないことも推測できる。終盤、エルトン夫人の<活躍>が目立ち始める一方で、エマは相変わらず勘違いが多いけれども、何となくしおらしい感じにも見えてくるのが、結末への布石になっているようである。  

宮崎市貞『水滸伝――虚構のなかの史実』

4月3日(月)晴れ

 宮崎市定『水滸伝――虚構の中の史実』(中公文庫)を読み終える。1972年に中公新書の1冊として発行された時、さらに1993年に中公文庫から発行された時に、それぞれ買って読んでいる。今回の改版を読み終えたので、少なくとも3回は読んだということである。

 宮崎市定(1901-95)は『科挙』、『九品官人法の研究』など官吏登用制度を中心に中国の政治・社会・制度史研究に従事した歴史学者であるが、フランス留学の後に遊学した各地の紀行である『西アジア遊記に見られるように、より広い世界への関心を失わず、また『七支刀の研究』など日本の古代史についても独自の視点から興味深い研究を展開した。

 著者は旧制中学時代に父親の蔵書の中から『水滸伝』を見つけて何度も読み返したとそうである。著者が東洋史、その中でも中国の宋の時代に興味をもち続けてきたのは、中学時代のこの読書の影響があるのではないかと自認しているほどである。歴史家として、『水滸伝』を読み返すと、次のような特徴が見いだされるという。「水滸伝ははるか後代になって完成したものには違いないが、まったく虚構の物語ではなく、その中に幾分の史実を含んでいる」(9ページ)。物語の中には何人かの歴史上実在の人物が登場するが、「それらの描写が意外に正しくその性格を表しているという面もある」(同上)だけでなく、宋代に流布していた世間話の類が意外に多く水滸伝の中に取り入れられていることが分かってきた。それで、世相や生活様式などの面でも、『水滸伝』に描かれているものが、宋代のものとして説明できる例が少なくないという。『水滸伝』は登場人物が多く、その多くの登場人物がどのようにして梁山泊にたどり着くかの過程を描く短編小説の寄せ集めという形になっているが、それらの短編は、講談や戯曲として実演され、長い間かかって民衆とともに成長してきたもので、優れた構成と描写を見せるものが少なくない。民衆とともに育ってきた文学なので、必然的にその中に反体制的な思想を含んでおり、そのために政府からはしばしば発売禁止の命令を受けた。しかし、実際には多くの家に『水滸伝』が蔵され、読み書きを習った男の子たちは親に隠れてこっそりと『水滸伝』を読みふけることが続いた。そういう長い伝統を考えると、『水滸伝』は中国を理解するのに欠かせない書物であると著者は述べている。

 以上は、「まえがき」で著者が書いていることを私なりにまとめてみたものであるが、この書物は次のような構成をとっている。
第1章 徽宗と李師師
第2章 二人の宋江
第3章 妖賊方臘
第4章 宦官童貫
第5章 奸臣蔡京
第6章 魯智深と林冲
第7章 戴宗と李逵
第8章 張天師と羅真人
第9章 宋江に続く人々

 著者は「あとがき」で「水滸伝から、「水滸伝の人物」を造る作業は・・・紀事本末を紀伝体に書き直すことである。水滸伝はそのまま紀事本末体の物語であるが、本書では最初に「徽宗本紀」とでもいうべきものをおき、次から宋江、方臘、童貫らの列伝が列伝が記される」(229ページ)と書いている。「紀事本末体」というのは歴史の記述法の1つで、1事件ごとに、そのことの起こりから結末にいたるまでを書き記したものをいう。確かに『水滸伝』は紀事本末体で書かれていて、大臣蔡京に誕生日祝いとして贈られる十万貫の金銀財宝を青面獣楊志が率いる十数名が運んできたのを、托塔天王晁蓋とその仲間たちが奪い去る事件について、時系列に沿ってではなく、それぞれの登場人物に即して物語を進めている。
 本紀・列伝については、それぞれ『水滸伝』本文だけでなく、当時の歴史史料に加えて説話集のようなものからも引用して興味深いエピソードを詰め込んでいる。あまり詳しく紹介すると、読んだ時の楽しみがなくなってしまうので、適当に抜き出してみる:
 第1章では徽宗皇帝が即位する際に、その人物について「浪子(ろうし)のみ」(20ページ、放蕩息子である)といわれたこと、即位すると数々の道楽にふけったが、分けても李師師、さらに趙元奴という遊女のもとに通ったのはあまり例のないことである。
 「一天万乗の君主が常習的に青楼に微行しても別に危険を感じたらしい気配のないのは、また特筆すべき事実である。それは国都の開封府の人気がきわめてよかったことを物語る。更にそれは経済的に好景気で、一般の生活が楽であった証拠である。ただしこれは大臣の蔡京の人為的な操作による結果で、全国の富を国都に集中してばらまいたためであった。国都の人心は好景気に寄っている間に、地方では政府の搾取に苦しみ、人民の経済が破綻しかけるという深刻な危機に直面していたのであった。」(32ページ) 李師師は明妃、趙元奴は才人という女官の位を授けられていたというのだから、ひどいものだが、靖康の変の後、金軍の捕虜として幽閉された徽宗が単調でさびしいから趙元奴をこちらへ送ってほしいと要求したという話も書き留められている。なお、幸田露伴が李師師について「師師」という文章を書いていて、『水滸伝』に登場する一番の美人は彼女であると書いていたことを思い出す。また読み直していよう。(趙元奴も名前だけなら『水滸伝』に登場しているので、宮崎の書くところを信じれば、若い趙元奴の方が美人であったかもしれない。)

 第2章の「二人の宋江」では、梁山泊の首領であった宋江が宋王朝に帰順して将軍となり、方臘退治に功績をあげたという『水滸伝』の記述から、歴史にその名の見える盗賊の宋江と、方臘討伐軍の将軍である宋江は同一人物と考えられてきたのに対し、二人は別人であるという説が展開されている。また、『水滸伝』の文学的な面白さということからいえば、豪傑たちが勢ぞろいするところで物語を打ち切って一向にかまわないという意見も述べられている。(議論はもう少し専門的ではあるが…)

 第3章の「妖賊方臘」は、北宋末の宣和2年(1120)中国の南方で起きた方臘の乱の次第を、『水滸伝』との関係で述べている。梁山泊の豪傑たちは、宋王朝に帰順したのち、各地で戦って功績をあげるが、その間、戦死者は一人も出ない。ところが、方臘の反乱軍との戦いになると、道士の入雲竜公孫勝が去っていったこともあり、苦戦が続き、多数の戦死者を出す。その難敵の方臘と彼の起こした暴動の性格と限界、とくに西方のマニ教の一派であったらしい喫菜事魔との結びつきなどが語られている。
 そしてこの時代に蔓延したニヒリズムと残忍さを取り上げて、宋代を中国のルネサンス時代だというのはおかしいという議論に対し「歴史学は事実の学問であるから、理想や観念によって振り回されてはならない」(81ページ)として、「一方においては進んだ理想と、他方においては立ち遅れた現実と、両者の間のアンバランスこそ西洋ルネサンスの特徴であった」(同上)と指摘しているところに、歴史家としての宮崎の真骨頂が現われているように思うのである。

 以上、紹介してみたように、一方で長年の研究によって積み重ねられた事実の累積と、そこから引き出された社会や人間についての観察があり、他方で、広い視野から見た歴史の動きについての洞察があって、そうした歴史についての知見の持ち主である宮崎が『水滸伝』という文学作品を題材として描かれた世界を改めて見つめなおしているのだから、面白くないわけがないのである。機会を見て、第4章以下の内容も紹介するつもりなので、ご期待ください。

『太平記』(152)

4月2日(日)晴れ
 建武3年(1336)春、京都の合戦で後醍醐方は勝利したが、新田義貞は勾当内侍に心を奪われ、足利方を追撃する機を逸した。その間、中国地方で赤松円心らが蜂起した。ようやく出発することになったところで、義貞が瘧の病に倒れ、新田一族の江田行義・大館氏明が赤松追討に向かう。江田、大館は緒戦に勝利し、西国の朝敵を退治するのは容易であるとの連絡を送り、病気が治った義貞もようやく出陣する。各地から武士が集まって義貞に従う兵は6万余騎になった。

 この勢いでただちに赤松を討伐しようと、新田義貞の率いる兵は播磨国揖保郡の斑鳩の宿(揖保郡太子町鵤)まで押し寄せてきたので、赤松入道円心は義貞のもとに一族の小寺藤兵衛尉を使いに出して、次のようにいう。「円心は不肖の身ではありますが、元弘の初めに、鎌倉幕府の大軍と戦い、幕府軍を後退させたこと、おそらくは第一の忠義の証であると思います。ところが、恩賞として与えられた土地が、降参した卑怯な敵方よりも少なかったので、一時の恨みにより、長年の忠功を捨てて背きました。とは言うものの兵部卿親王(大塔宮護良親王)のご恩はいつまでも末永く忘れられないものでありますので、足利方についたのはまったく私の本意ではありません。要は、今すぐ播磨の国の守護職に任命するという綸旨と御辞状(任命書)を頂ければ、元通り宮方の味方となり、忠節を尽くす所存です。」
 これを聞いて義貞はこの件はそれならば問題あるまいと、すぐに京都に飛脚を立て、守護職に補すという綸旨を頂こうと計らう。その使いが往復するのに、10日以上かかったので〔義貞の軍勢が兵庫県の西南部にいることを考えると、京都との往復に10日以上かかるというのは、かかりすぎである。あるいは、京都に到着してから、綸旨の発行までに時間がかかったということであろうか〕、その間に赤松は城の防備をすっかり固めてしまい、播磨の国の守護職は、すでに将軍(足利尊氏)からいただいているので、手のひらを返すように始終変転する綸旨を、当てにすることはないと、嘲りながら義貞からの使節を返したのであった。

 義貞はこれを聞いて、「王事もろい事なし」(第3分冊、37ページ、帝の事業は堅固であり、それへの務めはいい加減ではならない)、といい、恨みを抱いて朝敵になることはあっても、天の下に生きて天を欺くことができるだろうか。こうなったら、ここで数か月をかけても、赤松の城を攻め落とさなければ道理が立たないと6万余騎で、赤松のこもる白旗の城を百重千重〔どうも大げさである。とにかく厳重にということであろう〕取り囲み、夜昼50日、息を継がせずに攻撃を続ける。ところが、この城は四方が皆切り立ったがけで、人が昇るような足掛かりはなく、兵糧や水、薪はたくさん備えられているうえに、播磨、美作の名だたる射手が800余人も城の中にこもっていて、新田軍が攻めかかっても、矢に射られて負傷者が増えるだけで、城の中に動揺が起こる気配はない。

 義貞の弟である脇屋義助は、この様子を見て、兄の義貞に次のように述べた。先年、楠正成が籠もっていた金剛山の城を、日本忠から集まってきた武士たちが攻めあぐねて、足止めをされ、結果的に鎌倉幕府の天下が覆されてしまったことは北条氏が後悔していることではないでしょうか。わずかな小城1つに取り掛かり、漫然と日数を送っていると、味方の軍勢は兵糧の乏しさに苦しみ、敵陣の城はいよいよ力を得る危険があります。そのうえ、尊氏はすでに九州を平定して上洛するという噂なので、近づいてくる前に、備前、備中を退治して、安芸、周防、長門の軍勢を味方につけなければ、大変な事態になってしまうと思います。とはいうものの、今までッ攻撃していた城を落城させないままに退却すると、天下のあざけりを招くことになるかもしれませんので、軍勢のうちわずかな部分をここに残して、それ以外の軍勢を船坂(兵庫県赤穂郡上郡町梨ケ原と岡山県備前市三石の間の峠)に差し向け、まず山陽道を攻め開いて中国の軍勢を味方につけて、九州へ攻め下るべきでしょう。
 この意見を義貞ももっともだと思い、(義助を城攻めのために残し、自らは)宇都宮と菊池の軍勢を率い、土地の地理に詳しい伊東大和守、頓宮(はやみ)六郎を案内者として、2万余騎で船坂山へと向かったのであった。

 船坂山というのは、山陽道第一の難所で、2つの急峻な峰がそびえている中に細い道が一本通っている。谷は深く、石は滑りやすく、曲がりくねった道を上ること20余町(2キロ以上)、雲と霧が立ち込めて暗く、先が見えない。「一夫怒りて関に臨まば、万侶(ばんりょ)通ることを得難し。」(同上、39ページ、一人の男が猛って関を守れば、万人の兵士たりとも通ることができない。杜甫の剣門という作品の「一夫怒って関に臨まば百万も未だ傍(そ)ふべからず」という行が念頭にあるという。唱歌の「箱根山」にも同じような歌詞があるのを思い出した方もいらっしゃるだろう。) それだけでなく、岩石に穴をあけて細い橋を渡し、大木を倒して防御柵としたので、何百万騎の軍勢でも、攻略できるとは見えない。それで、勇み立ってやってきた菊池、宇都宮の軍勢は、麓に控えて進むことができない。案内者として頼りにされた伊東、頓宮の武士たちも、山を見上げて、いたずらに日数を送るのであった。

 後醍醐天皇たちが京都に戻った後の2月25日に、年号が建武から延元に改められていて、15巻にこの改元のことも記されているのだが、『太平記』はそれを忘れたかのように、旧年号を使っている。足利方はこの改元を認めずに建武を使い続けていたことも影響しているのかもしれない。
 京都から派遣された義貞軍は、赤松の時間稼ぎの計略に引っかかって、赤松のこもる白旗城をなかなか攻略できず、他の城を攻略した方がいいという義助の助言を聞いて、6万の軍勢のうち2万を率いて船坂山に向かった。しかし、軍勢を分けて戦線を拡大することが事態の打開に役立つかどうかは疑問である。さて、この後の戦局はどう展開していくのかは、また次回。

日記抄(3月26日~4月1日)

4月1日(土)雨が降ったりやんだり

 3月26日から本日までの間に経験したこと、考えたことなど:
3月26日
 横浜駅西口のムービル2で『チア・ダン』を見る。福井県の高校のチア・ダンス部が顧問の教師の熱心な指導に戸惑ったり、反発したり、部が解散することになりそうな危機に出会ったりしながら、全米選手権で1位をとるまでを描く。実話に基づく作品だというが、それでかえって遠慮が生まれてしまったのか、教師にしても、生徒にしても、性格や背後の事情についての描写が浅くなっているように思われる。映画の中に登場する川が、福井市内の川に見えないと思っていたら、最後に出てきたタイトルで新潟市内でロケをしたということが分かり、何かがっかりした。

3月27日
 病院に診察を受けに出かける。X線写真と心電図をとる。

 神保町のすずらん通りの檜画廊で山崎優子えほんしごとと絵しごと展『こどものせかいとポンポロッコの森Ⅱ』を見る。神保町シアターで入場券を買って、まだ時間があったのでキッチン南海でカツカレーを食べる。ここは有名な店だが、これまで入ったことはなかった。その後、東方書店を覗いたら、尾崎雄二郎先生の論文集が並んでいたので、そのうち手に入れようと思う。文房堂で白人のカップルが何やら話していたのだが、何語を話していたのか、まったくわからず。

 神保町シアターで『愛の渇き』を見る。三島由紀夫の原作を監督の蔵原惟繕と助監督の藤田繁夫(のちの敏八であろう)が脚色、あとで原作を立ち読みした(三島は苦手なのである)が、比較的原作に忠実な映画化ではないかと思う。戦後、実業界から引退して阪急沿線(原作では豊中市)に隠棲している実業家は死んだ次男の妻(浅丘ルリ子)を愛人として暮らしているが、その妻は使用人の青年に興味をもっている。主人方の女性と使用人の間に愛情が芽生えるということになると、ロレンスの『チャタレー卿夫人の恋人』が思い浮かぶのだが、ここでは愛情らしいものは生まれないまま、物語はすれ違いで進む。あるいは三島は、ロレンスに対する批判としてこの作品を書いたのかと考えたりした。
 さらに渋谷まで出て、映画のはしごをしようかとも思ったが、体力が続かず。

 NHK「ラジオ英会話」は月末恒例のSpecial WeekでO.Henryの”The Last Leaf"をラジオドラマ化して放送している。この作品は子どものころから知っているのだが、一度も本格的に読んだことがなく、今回の放送を聞いて初めて気づいたことが少なくない。
In a little district west of Washington Square the treets have run crazy and broken themselves into small strips called "places".
(ワシントン広場の西にある小さな区域では通りがでたらめに走りつつ自らを分断しては”プレイス”と呼ばれる細長いエリアをいくつも作っていた。)
 Washington Squareというヘンリー・ジェイムズの小説があって、オリヴィア・デ・ハヴィランド主演で映画化され、オリヴィアがアカデミー主演女優賞をとった。日本では『女相続人』という題名で公開されている。大学の英語の授業で原作小説を読まされた記憶がある。その時の先生は、貴志哲雄さんであった。
 ワシントン広場の西の地域は、グリニッジ・ビレッジと呼ばれ、貧乏な芸術家たちのコロニーができていたのだが、画家を目指すスーとジョンジーという2人の若い女性が意気投合して、共同生活を送っていた。ところがジョンジーが肺炎にかかり、回復の見込みは10に1つしかないと医師に言われる。

3月28日
 「最後の一葉」の第2回。ベッドに横たわっているジョンジーは、窓の外の庭の先の煉瓦の建物を這い上がっている古いツタの葉の数を数えていた。数えきれないほどあった葉が、どんどん落ちてゆく。彼女は
Leaves. On the ivy vine. When the last one falls I must go, too.I've known that for three days. Didn't the doctor tell you?
(葉よ。ツタの。最後のが落ちた時に私も行く。もう3日前からわかってた。先生、そう言ってなかった?)
という。スーはジョンジーを励まそうとするが、ジョンジーは生きる意欲をなくしている。スーはやっとのことでジョンジーを寝かしつけ、世捨て人の鉱夫のモデルをやってもらっている階下のバーマン老人のところに出かける。

 NHKラジオ「まいにちフランス語」の時間の「話してみましょう!」のコーナーで、英語の歌My Wayのもとの歌がフランス語の であるという話題が出てきた。
C'est-à-dire que la chanson anglaise est une adaptation dela chanson francaise. C'est ça?
(つまり英語の歌はフランス語の歌の翻案だということですね。そうですね?)
 My Wayではプレスリーが歌ったものが印象的だったという話だったが、私が思い出すのは江川卓氏と交換でタイガースに移籍した小林繁投手のファンが開いた励ます会で、小林投手が歌ったものである。

3月29日
 「最後の一葉」の第3回。スーとジョンジーの階下に住むバーマン老人は、40年の間ほとんど絵を描いたことがない芸術の失敗者で、プロのモデルに払う金がないような画家たちのモデルになってわずかな金を稼いでいたが、2人に対しては優しかった。スーからジョンジーの話を聞いたバーマンは、軽蔑と揶揄の言葉でわめきたてた。
Some day I vill baint a masterpiece, and ve shall all go away.
(いつか俺が傑作を描いて、そしたら皆でここを出よう!)
 willをvill、paintをbaint,weをveと発音しているのは、ドイツなまりだと説明されていたが、バーマンというのはユダヤ系の名前なので、イディッシュ語に引きずられているのかもしれない。
 昨年7月のこの番組で放送された同じO.Henryの”Witches' Loaves"(魔女のパン)に登場する建築製図士もドイツなまりの英語を話していた。19世紀のアメリカ大陸には、貧困から脱出しようと、あるいは圧政から逃れようと多くのドイツ人が渡来、ドイツ系のコロニーがたくさんあり、ドイツ語で教育する学校も開かれていた。ところが第一次世界大戦でドイツが敵国になると、それらの学校は閉鎖されたという歴史的な経緯がある。

 黒田龍之助『その他の外国語 エトセトラ』(ちくま文庫)を読み終える。

3月30日
 「最後の一葉」の第4回。壁のツタの葉は1枚だけになってしまったが、嵐と北風にもかかわらず、その1枚がそのまま残っていたので、ジョンジーは生きる希望をとりもどす。そしてどんどん回復していくが、逆にバーマンの方が肺炎で入院したという。起き上がることができるようになったジョンジーに、スーはバーマンが死んだこと、あらしの夜に雨に打たれながら最後のツタの葉を描いていたことを知らせる。
Ah, darling, it's Behrman's masterpiece -- he painted it there the night that the last leaf fell.
(ああ、あれこそ、バーマンさんの傑作なの――最後の葉が落ちた夜に、あの人が描いたものなの」

 NHKラジオ「実践ビジネス英語」の”Quote ... Unquote"のコーナーで紹介された言葉は:
Great things are done when men and mountains meet.
        ――William Blake (English poet and painter, 1757 -1827)
(人と山が出会うとき、偉大なことがなされる。)
意味不明な言葉で、そこがブレイクらしいと言えばいえる。壽岳文章訳のダンテ『神曲』にはブレイクの挿絵が使われているので、関心のある方はご覧ください。

 NHKラジオ「まいにちフランス語」応用編は”Fromage ou dessert? (1)  Comment terminer un repas en beauté"(チーズ、それともデザート? (1)食事における有終の美)というテーマを取り上げた。食事の最後に
《Fromage ou dessert?》 Pour une grande partie des convives, on ne fera pas de choix. Ce sera fromage ET dessert.
(「チーズ、それともデザート?」。ほとんどの人にとって、それは選択するものではない。チーズ、それと、デザートになるからだ。)
 私は甘いものをとらないので、チーズだけでいい。

3月31日
 NHKラジオ「まいにちフランス語」応用編の続き(最終回)。
Quant au dessert, tout le monde aime la petite touche sucrée qui vient conclure le repas.
デザートといえば、だれもが、食事の結論となるちょっとした甘いものが好きだ。
 ということは私は例外になるかもしれない。健康上の理由もあるが、甘いものはとらないのである。

4月1日
 NHKラジオ「攻略!英語リスニング」は”Bravery"(勇敢さ)を話題として取り上げた。ある人間が勇敢な行動をするとき、脳でどんなことが起きているか、そしてホルモンにどんなことが起きているかが科学的に解明されてきたという。
Faced with a sudden desperate situation, the brain stimulates production of adrenalin.
(絶体絶命の状況に直面すると、脳はアドレナリンの分泌につながる刺激を出す。)
アドレナリンは行動に備えて、心拍数を挙げたり血糖値を上げたりして体に準備をさせるホルモンで、扁桃体と影響しあっているが、この扁桃体は脳の中にある器官で、決定を下したり、恐怖や不安といった感情を処理したりしている。人によっては恐怖で行動ができなくなるが、恐怖を克服できる人もいる。訓練によって勇敢さを身に着けることもできる、その例としては消防士や飛行機の客室乗務員が挙げられるという。
 4月から英語の番組編成が変わって、この番組がなくなるのは残念である。あと1回残されている放送をしっかり聴くことにしよう。

 森茂暁『足利尊氏』(角川選書)を読み終える。 
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