大学の第二外国語について

3月24日(金)晴れのち曇り

 大学に入学して直面する問題の一つは、第二外国語として何を選ぶかということである。その際に、何のためにその言語を学ぶのか、どの程度できるようになることを目指すのかということも考えておいた方がよい。

 何のために外国語を学ぶのかという目的をめぐっては、実用的な目的と教養もしくは趣味という目的の2つが考えられる。ただし、趣味と実益を兼ねてという言葉もあるように、この両者は相互に関係しあうところがあって、どちらか一方だけのために学習するということはありえない。学習者の心構えとしてどちらに重点を置くかということである。グローバルな言語状況というのは、英語の一人勝ちであって、英語以外の外国語を専門にするには、それなりの覚悟と努力が必要であるし、専門にしない場合にも、しっかりした目標を定めることが求められる。ただ勉強したという記憶が残るというのでは困るのである。
 どの程度ということになると、いくつかの言語には検定試験があり、またヨーロッパの言語についてはCEFR(ヨーロッパ言語共通参照枠)という枠組みが設定されていて、A1ならば「ごく簡単な表現を聞きとれて、基本的な語句で自分の名前や気持ちを伝えられる」、A2であれば「日常生活での基本的な表現を理解し、ごく簡単なやり取りができる」、B1ならば「日常生活での身近な事柄について、簡単なやり取りができる」というふうにその内容も示されている。なんとなくでいいから、自分なりにこのレベルまでは到達しておきたいという水準を決めることが大事である。

 何語を選ぶかという場合に、もう一つ考えておきたいのは、学習者が高校卒業までに勉強してきた英語(あるいはその他の外国語)の能力を見極めておくことである。実際問題として、外国語の学習は必要がないという人、英語以外の外国語の学習は必要がないという人は多い。また、(私もそうだが)英語以外の言語を勉強しても、結局使い物にならないという人も少なくない。使い物にならなくても、それなりの意味はあるのだということが、以下の内容になる。

 現在、NHKのラジオ・テレビで学習できる外国語は英語は別にして、フランス語、ドイツ語、スペイン語、イタリア語、ロシア語、韓国語、中国語、アラビア語、ポルトガル語の9言語である。ポルトガル語はラジオでしか開設されていないが、その他の8言語は両方で勉強できる。第2外国語を選ぶとすれば、この9言語の中から選択するのが無難だろうと思う。大学によっては、これらの言語のすべての授業を開講していない場合もあるだろうし、これら以外の言語の授業を開講している場合もあるだろうが、まず実際にその言語に接してみて感じをつかむことが大事ではないかと思う。

 以下、各言語について私が考えていることと、その言語との付き合いを書き連ねていく。要するに、自分が興味を持てそうな言語を選択すればよいので、その参考にして頂ければ幸いである:
中国語:世界で最も多くの人々に使用されている言語であり、その使用者の多くが中華人民共和国に集中しているとはいえ、シンガポールなど華僑人口の多い国もあるし、世界各地にチャイナタウンができているのはご承知だと思う。国連の公用語の1つである。古い歴史をもつ言語であり、日本との地理的な距離の近さ、日本語との共通語彙の多さや影響関係など、実用面でも、教養面でも学習する意義が大きい言語である。もっとも、現在の中華人民共和国の政治体制や、言論の自由をめぐる状況など否定的な要素も考える必要があるだろう。実際に会話に取り組むということになると、発音で苦労するはずである。私は、英語、ドイツ語の次に中国語を履修、一時かなり熱心に勉強した時期がある。その後、何度か勉強しなおしたが、かなり変化の激しい言語であるという印象がある。これからも中国社会の変動とともに、言語も大きく変わる可能性がある。中国の神話・伝説・少数民族の言語や文化に興味があり、これらの分野は、社会の変動にはあまりかかわりがないかもしれないと思っている。中華料理店によく出かけるので、その面でも多少の興味を維持し続けている。

スペイン語:中国語、英語に続いて多くの人々に使用されている言語ではないかと思う。スペイン語圏諸国は優れた文学的伝統を持つ一方で、科学技術においては後れを取っているようである。国連の公用語の1つである。就職して社会人になってから、これからは第三世界の時代であると思い、その中で重要な言語の一つがスペイン語だというようなことから、かなり長い間スペイン語を勉強していた。ただし、かけた労力という点では英語、中国語に比べて劣り、最近は語学番組を聞き流しているだけなので、かなり能力が落ちているようである。

フランス語:中国語、英語、スペイン語の次に多くの人々に使用されている言語である。フランスのほか、カナダのケベック州、ベルギー、スイスの一部、ハイチ、西アフリカ諸国で使われている。国連の公用語の1つである。中国語、スペイン語にくらべて、第二言語として使用する人々の数が多い言語である。最近の傾向としては、英語、スペイン語に押されがちではあるが、優れた文学的伝統を持つだけでなく、科学技術の方面でも多くの業績がフランス語によってなされてきた。定年退職後、フランス語とラテン語を集中的に勉強しようと思ってそれなりに努力しているのだが、なかなか成果が上がらない。

韓国語:使用する人の数ではこれまで挙げた3言語に遠く及ばないが、日本の隣国なので重要性は高い。観光や交流事業のために、歴史的な知識とともに、最低限の会話能力は身に着けておいてよいと思われる。また韓国、北朝鮮の情勢について正確な情報を得るためにも、高い能力を持った人材が必要とされる言語でもある。学生時代に入門書を買って初めの方を読んだことはあるが、本格的に勉強したことはない。韓国に出かけたことはあるし、韓国語ができればいいとは思うのだが、取り組む余裕がない。

ポルトガル語:ポルトガルの人口は1千万人程度であるが、ブラジルでは1億8千万人の人々に使用されており、ポルトガル系の住民が住んでいる国・地域はほかにも少なくない。ブラジルは経済的な発展が予測される国の一つであり、ポルトガル語は安土桃山時代の日本との交流を通じて日本語にもその影響を及ぼした。日本人がもっと興味を持ってよい言語の一つである。ブラジルに出かけた時に、飛行機の中でポルトガル語のアナウンスを聞いていて、日本のキリシタン文化の中でポルトガルの果たした役割の大きさを感じたという経験がある。フランス語、スペイン語、イタリア語、どれをとっても中途半端なので、ポルトガル語に手を出してもろくなことにはならないと自制しているところである。

アラビア語:中東・北アフリカの多くの国々で使用されている。国連の公用語の1つである。これらの地域の持つ地政学的な重要性から学ぶ必要の大きい言語である。とはいえ、字を見るだけで嫌になるところがある。発音もかなり難しい。何度かNHKのアラビア語講座を聴いて、そのたびに挫折を繰り返してきた。アラビア語の通訳をしていた小池東京都知事はすごいなあと、この点だけは感心している。

ロシア語:ロシアを中心にカザフスタンなど旧ソ連を構成していた国で使われている。国連の公用語の1つである。かつてソ連が持っていた国際的な影響力のため、ロシア語を第二言語として学ぶ国は少なくなかった。現在でもそれらの国々の人々がロシア語を使って交流しているのを見かけることがある。ロシア語は優れた文学的伝統を持つだけでなく、科学技術においても注目すべき業績がロシア語で発表されてきた。大学時代に、ドイツ語、中国語に続いて勉強して、初級の単位は取ったが、中級に進む余裕がなく、放置しているうちにほとんど忘れてしまったのは残念である。昨年、再挑戦してみたが、最後まで続けられなかった。

ドイツ語:ドイツ、オーストリア、スイスの大部分で使われているほかに、中欧・東欧にドイツ語を話す人々の多くの言語の島がある。どこまでをドイツ語の方言と考え、どこからをドイツ語とは別の独立した言語と考えるかは結構難しい問題である(ルクセンブルクや、フランスのアルザス=ロレーヌ地方の言語など)。使用する人口ということからいうと、日本語よりも少し少ないくらいではないかと思う。日本をはじめ、ドイツ語の学習を重視してきた伝統を持つ国は少なくないが、ドイツの国際政治・経済に占める地位の高さにもかかわらず、ドイツ語の国際的な地位はあまり高くないし、英語のできるドイツ人はきわめて多いことも留意する必要がある。大学時代の第二外国語であるが、普通の人が2年で取得する単位取得に3年をかけてしまった。付和雷同で、あまり興味が持てない言語を選択するとこういうことになる。

イタリア語:イタリアとスイスの一部で使われているほかに、アメリカ大陸をはじめとしてイタリア系移民のコミュニティーが形成されている国・地域は少なくない。使用する人口はそれほど多くはないが、芸術・文学などにおいて優れた伝統をもち、また科学技術においても無視できない成果がイタリア語で発表されてきた。イタリアとイタリア語への興味は趣味的なもので、自分の研究との関係はあまりないが、その分、気楽に勉強している。もっとも気楽な分、上達が遅れているという面もある。
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呉座勇一『応仁の乱』(15)

3月23日(木)午前中は曇り、その後晴れ間が広がる

 応仁元年(1467)5月、畠山義就によって畠山氏の家督を奪われた政長を支援する細川勝元は、将軍御所を包囲し、義就を支持する山名宗全と全面対決の体制に入った。その後、文明9年(1477)まで続く応仁の乱の始まりである。この戦乱は室町幕府の三管領家の一つである畠山氏のほかに、別の管領家である斯波氏の家督争いも絡み、さらには将軍義政の後継者をめぐる対立など、幕府内の様々な利害関係が絡んだ複雑な性格をもつものであった。
 細川勝元の率いる東軍には政長のほかに、斯波義敏、京極持清、赤松政則、武田信賢などの大名が加わり、山名宗全の率いる西軍には義就のほかに、斯波義廉、一色義直、土岐成頼、大内政弘らが加わっていた。当初、将軍義政を囲い込んだ東軍が有利であったが、中国地方から大内政弘が上京すると西軍が勢力を挽回して、義政の弟である義視を迎えて西幕府を成立させた。この時代、井楼に代表される防御施設の発達により、両軍ともに短期の戦闘で決着を図ったにもかかわらず戦闘は長期化し、また味方の補給路の確保、敵の補給路の遮断を目指しての戦闘地域の拡大も見られた。
 戦乱が長期化する中で、厭戦気分が高まり、補給路が確保できなくなった西軍が次第に解体していくなかで、文明5年(1473)に宗全と勝元が相次いで死去、文明6年(1474)4月には山名一族と細川一族の間での和睦が成立したが、西軍の残りの将兵は畠山義就、大内政弘を中心になお戦闘を継続した。しかし、文明9年11月に大内政弘は幕府に降伏、義就は河内へと撤退して、大乱は形の上では終わった。「11年にわたる大乱は京都を焼け野原にしただけで、一人の勝者も生まなかった。しかも戦乱の火種は完全に消えたわけではなかったのだ」(199ページ)。
 戦争の終結後、将軍義政は武家勢力からの寺社本所領の返還を求める政策を打ち出す(実際は寺社の保護よりも自分の側近の武士たちの勢力拡大を図るものであった)が、幕府の主導権をめぐる実子の義尚との対立もあって、幕政の再建は思うように進まなかった。

 応仁の乱が終結すると、南山城を占拠していた西軍が撤退し、畠山政長が山城守護に就任した。権力の衰退によって全国からの収入が期待できなくなった室町幕府は、お膝元の山城国からの収奪を強化することで財政を再建しようとしたのである。しかし政長は義就との戦いで不利な状況に陥っており、宇治以南の山城3郡(相楽・綴喜・久世)が義就の勢力圏に入って、幕府の影響力が全く及ばないという状態であった。幕府内部での足並みの乱れもあり、義就方と政長方の対立が続いていた。

 文明17年(1485)に政長方が大攻勢を仕掛け、両軍のにらみ合いが続く中で、南山城の国人(地元武士)たちが「国一揆」を結成して、両軍に撤退を要求して圧力をかけたため、両軍はともに撤退した。国人たちもまた寺社本所領の返還を求めたが、それは結局自分たちが寺社領の代官となって勢力を拡大することを目指すものであった。文明18年(1486)2月、山城国人は宇治の平等院で会議を開き、「国中掟法」を制定、自分たちの自治を行おうとした。これに対し、足利義政は伊勢貞陸を山城守護に任じて幕府による直轄支配を目指すが、実態としては国人たちの自治を黙認する形となった。また義就の南山城からの撤退を評価して、彼の斜面が実現した。応仁の「乱後の幕府は衰退する一方であったと思われがちだが、少なくとも畿内(山城・大和・河内・和泉・摂津)においては、それなりの政治的安定を実現したことを見落としてはならない」(225ページ)。
 この山城国一揆をめぐって、その黒幕は細川政元であったという説もあるが、呉座さんはむしろ政元は両畠山の紛争に不介入の態度をとろうとした、もっと平たく言えば、強力な軍事力をもつ義就との対決を回避していたのではないかと論じている。そして、このことから政元と政長との間に隙間風が吹き始め、それが明応の政変の伏線となると論じている。

 文明17年4月に、将軍義尚との対面の順番をめぐり、将軍の親衛隊=武官である奉公衆と文書行政を取り仕切る文官である奉行人との間の対立が激化、その後も尾を引きずった。応仁の乱後、大名たちが本国へ引き上げたため、奉公衆と奉行人の幕府内での存在感は高まってきており、両者の間での対立も顕著なものとなっていた。「だが平時においては、事務官である奉行人たちのほうが明らかに有利である。押され気味の奉公衆が、足利義政に頭を押さえつけられている義尚に接近していったのも、これまた必然といえよう」(231ページ)。そうした中で義政は政務への意欲をますます失ったが、以後も気まぐれに政治に口を出し、義尚にとっては障害以外の何物でもなくなっていったのである。

 長享元年(1487)9月、足利義尚は近江守護六角高頼討伐のため、自ら軍を率いて出陣した。討伐の理由は高頼が寺社本所領や奉公衆の所領を占拠し、幕府による返還命令に従わないことである。もっとも寺社本所領回復は建前で、真の目的は奉公衆の所領回復の方にあった。大名の多くは六角高頼同様に寺社本所領や奉公衆所領を守護領に組み込んでいたので、この遠征には消極的で、討伐軍の主力は奉公衆であった。
 六角高頼は一戦して敗れると、すぐに行方をくらまし、以後は六角家臣の散発的な抵抗が続くだけであったが、義尚はそのまま在陣を続けた。義尚には、この戦いを続けることで、将軍と奉公衆との主従関係を強化しようという目的があったと呉座さんは推測している。さらに、奉公衆だけでなく、奉行人たちも同行させたことから、幕府の機能を近江に移動させることで、義政の影響力をそごうとしていたとも論じている。
 しかし、在陣が長引けば長引くほど、将軍義尚と周囲の諸勢力との軋轢は増していった。在陣に反対する勢力の筆頭が細川政元であり、政元ら大名と将軍接近勢力の間の対立は激しくなり、その中で苦しんだことも手伝って、長享3年(1489)義尚は没し(享年25歳)、討伐軍は帰京することとなった。

 足利義尚死後、誰を将軍位につけるかが問題になった。候補者となったのは義政の弟である義視の嫡男で24歳の義材と、義政の庶兄である政知の息子で9歳の清晃である。細川政元は自分の御しやすそうな清晃を推したが、日野富子が自分の妹の生んだ子である義材を推し、足利義政も同調したために義材が後継者に決まった。しかし、細川政元の巻き返しもあり、義材は将軍に就任せずに、当分は義政が政務をとることになった。延徳2年(1490)正月7日に、足利義政が没し、義材の将軍就任は時間の問題となり、その父である義視が幕府の実権を握った。

 ところがもともと細川勝元の邸で、その後足利義政、義尚が御所として利用、日野富子の邸宅となっていた小川殿を富子が清晃に譲ったことから、富子と足利義視・義材父子との関係が悪化した。もとは細川氏の邸宅だったとはいえ、今や「将軍御所」と認識されていた小川御所を清晃が譲られたというのは大きな意味を持つ。これを喜ばない義視は、清晃が入居する前に、小川殿を破壊してしまった。この暴挙をきっかけとして日野富子は、義視・義材父子を敵視するようになった。

 延徳2年7月に義材は朝廷から将軍宣下を受けるが、就任のための儀式が終わると、管領であった細川政元はすぐに辞任、将軍の側近であった伊勢貞宗も隠居して非協力の立場を表明した。10月には義材の母良子がなくなり、延徳3年正月には父の義視が病没して、将軍義材は孤立を深めた。幕府内に支持基盤を持たない足利義材は側近政治に走り、お友達政治を進めたので、旧来の幕臣たちの反感を募らせ、ますます孤立するようになったのである。

 15回かけてもまだ紹介・論評が終わらないのは、呉座さんの著書の内容の濃密さを物語るものであろう。もう応仁の乱が終わったのだから、あとは簡単に見ていけばよいと思う方もいらっしゃるだろうが、孤立を深めている義材将軍に対して、細川政元が起こしたクーデターである明応の政変をめぐって、この書物から離れて書きたいことが少しあって、そのことも手伝って長々と連載しているという事情もある。室町幕府が決定的に求心力を失うのは、応仁の乱ではなくて、明応の政変によってであるというのが最近の学説らしく、そのことについても検討を加えていくことになるだろうと思う。 

ダンテ・アリギエリ『神曲 天国篇』(15-2)

3月22日(水)晴れ

 ベアトリーチェに導かれて天上の世界へと飛び立ったダンテは、月天、水星天、金星天、太陽天を経て火星天に達する。それぞれの天空でダンテは、彼を迎えにやってきた霊たちと対話を重ねる。火星で彼の前に現れたのは、彼の先祖の霊である。

 ベアトリーチェの同意を得て、ダンテは先祖の霊に自分の言葉では十分に表現できない気持ちがあると言いながら、その霊にその名を訊ねる。
「おお、我が枝よ。待っているだけで
わしの喜びだった。わしがおまえの根である」。
彼はこのように私に始めはじめ、答え出した。
(230ページ) 「枝」は子孫、「根」は先祖を意味する。

さらに続けて私に言った。「お前の一族が
その者の名で呼ばれる、かの山の第一環道を百年以上も
めぐってきた者とは、

わが息子であり、お前の曽祖父であった。
されば、もちろんお前が善き行いで
彼の長い苦しみを短くしてやるのは当然であろう。
(230-231ページ) 語っているのはダンテの玄祖父であり、その子でダンテの曽祖父であるアリギエロ(? -1201以後)にダンテの姓アリギエリは由来するという。アリギエロは、ダンテも訪れた煉獄の(高慢の罪を清める)第一環道をもう100年以上回り続けているという。煉獄にいる魂は生者の祈り、(生者による)貧者への施し、教会・修道会への寄進、勤行によってその滞在期間を短縮されると考えられていた。この問題が、宗教改革におけるルターの95か条の提題で取り上げられているのはご存知だと思う。それにしても、自分の先祖である曽祖父を煉獄に置いているというのはなかなか厳しい。

 ダンテの曽祖父の霊は、自分が暮らしていた古き、よきフィレンツェの町について語る:
フィオレンツァは、
今も三時と九時の鐘を響かせる昔の城壁、
その内側では平和で、品行方正で、慎み深くあった。

首飾りや宝冠や
華美な衣装や、人物よりも
目を引く帯などなかった。
(231ページ) この時代に、フィレンツェの市街は「昔の城壁」と新しい城壁とに囲まれていたが、その「昔の城壁」のすぐ近くにベネディクト会の修道院があり、教会時間の三時(午前九時)と九時(午後三時)の鐘の間で、人々は労働をはじめ、終えた。皇帝が収める都市の中で、教会の指導により、人々は平和に暮らしていた。神聖ローマ帝国の版図にあったフィレンツェはこの時代(115年)に自治都市となったが、その時には、実際に、皇帝の封臣と、都市の商人たちは一体化していて、平和に暮らしていた。

それほど安らかな、それほど美しい
市民たちの生き方に、それほど信頼できる
市民社会に、それほど麗しい住まいに、

マリアは、高き叫びの祈りに応えて、わしをお置きになった。
そして古から続く君達の洗礼堂で
わしはキリスト者となり、同時にカッチャグイーダとなった。
(234ページ) ここでダンテの玄祖父がカッチャグイーダという名であったことがわかる。フィレンツェの名門エリゼイ家とつながりがあったことがこの後で語られている。

 カッチャグイーダは長じて神聖ローマ帝国皇帝コンラートⅢ世(1093/4-1152)に従い、武勲を挙げて騎士に叙任された。そして第二次十字軍(1147-48)に従軍する。聖地で命を失った彼は殉教者として直接に天国へ来たというのである。
 翻訳者である原さんが解説しているように、十字軍についてのダンテの説明は矛盾に満ちている。蛇足になるが、ブッシュ元大統領の「十字軍」の議論と企てもむしろキリスト教の真意を裏切るものではないかという気がしている。(「宗教改革」以前にカトリック教会が主唱して行った十字軍をプロテスタントを自認する大統領が肯定するのもおかしな話である。中東に住むキリスト教徒たちが、イラク戦争における最大の被害者に数えられるという事実だけでももっと多くの人々に知ってほしいものである。どうも話が横道にそれた。) 

意志あるところ道あり

3月21日(火)雨

 本日放送の「ラジオ英会話」は”Harvey and Shirley Downsize" (ハーヴィーとシャーリー、身の回りを整理する)の第3週:”New Adventure" (新たな冒険)の2回目で、”News from the Realtor!" (不動産業者から連絡)という会話になった。ハーヴィーとシャーリーの夫婦は、自宅を売りに出し、家を見せる準備に取り組んでいる。そこへ不動産業者から電話があり、彼らの家を買ってくれそうな客(a potential buyer)が現われたという。不動産業者は次の日曜日に家を見せたいと言ってきたが、それまでに準備はできないとシャーリーがいう。すると、ハーヴィーが古いことわざを持ち出す。

Where there's a will, there's a way.
(意志あるところ道あり)

 辞書によっては、"Where there is a will, there is a way."と書かれている場合もある。ここでは会話なので、”there's "となっていると説明されていたが、手元にあるRonald Ridout & Clifford Witting, English Proverbs Explainedという本では”there's"になっている。この本によると、このことわざの意味は”Given sufficient determination, we can accomplish what we set out to do. " (十分な決心があれば、われわれは着手した事柄を達成できる)ということで、類似の意味を持つものとして以下のことわざが列挙されている。( )内は辞書に記されていた訳、〔 〕内は私の訳である。

Constant dripping wears away the stone. (点滴岩をも穿つ)
If at first you don't succeed, try, try, try again. 〔最初に成功しなくても、2度、3度と試みよ。〕
It's dogged that does it. (忍耐が最後に勝つ)
Little by little and bit by bit. 〔少しずつ、そして少しずつ〕
Little strokes fell great oaks. 〔小さな一撃が(重なって)大きなオークの木を倒した〕
Rome was not built in a day. (ローマは一日にして成らず)
Slow but sure wins the race. 〔遅いが確実なものが競争に勝つ。斎藤秀三郎『熟語本位英和中辞典』では Slow and steady wins the race. じりじり主義が勝つ――となっている。〕

 ここでは、少しずつ努力を積み重ねることが成功の秘訣だという意味だと説明されているが、それでは、「ラジオ英会話」に登場する老夫婦の場合には当てはまりそうもない。さて、辞書によっては「意志あるところ(に)道あり」のほかに、「精神一統何事かならざらん」という訳が添えられている場合がある。これは『広辞苑』によると朱熹の言葉で、「精神を集中してなせば、いかなる難事でも成功しないことはない」という意味だそうである。明治時代に英語で”Where there is a will, there is a way."という言葉に出会った人が、その訳語としてこの朱熹の言葉を思い出したということらしい。今回の「ラジオ英会話」の中での用例は、前後の状況から判断して、こちらの方の意味を踏まえているようである。

 英語のことわざが日本に輸入された際に、どのように理解・受容されてきたかということにも興味があるが、それ以上に、ことわざには多義性、別の言い方をするとあいまいさがあって、それを現実の場面に応用するには、慎重さが求められるということを強調しておきたい。「精神一統何事かならざらん」という気構えは大事だが、それが<気合さえあれば、何でもできる>というような意味に拡大解釈されてしまうと、実際には大言壮語するだけで、何もしないことに終わる恐れがあるし、かといって、少しずつ持続的に努力するよりも集中的な努力の方が効果的な場合もある。ことわざの意味をどのように受け取るかは、受け取り手の判断にゆだねられる部分が大きいのである。

 

ジェイン・オースティン『エマ』(5)

3月20日(月)晴れたり曇ったり

これまでの展開
 ロンドンに近いイングランド東南部のサリーのハイベリーの地主の娘である21歳のエマは、病弱な父を助けてハートフィールド屋敷の経営を取り仕切り、その美貌と才知も手伝って村の女王的な存在であるが、彼女の住み込み家庭教師(ガヴァネス)を長く務めてきたミス・テイラー(→ウェストン夫人)が結婚して、身近な話し相手がいなくなった。結婚相手のウェストン氏は村の社交好きな紳士で、最初の結婚相手との間にフランクという息子を儲けたが、その息子は亡妻の実家であるヨークシャーの名門チャーチル家に養われている。
 ミス・テイラーとウェストン氏の結婚の橋渡しをしたのが自分であると思い込んだエマは、自分には男女の仲を取り持つ才能があると思い込み、村の教区牧師であるエルトンの結婚相手を見つけようと考える。隣村の地主で、エマの姉の夫の兄である(ジョージ)・ナイトリーはそれは余計なお世話であるとエマをたしなめる。彼は、エマの欠点を指摘できる数少ない人間の一人であるが、エマは彼の助言に耳を貸さない。
 エマは村の寄宿学校の特別寄宿生であるハリエット・スミスという若い女性を紹介され、彼女がすっかり気に入る。ハリエットはナイトリーの信任の篤い農夫のロバート・マーティンという求婚者が現われたのだが、エマは2人が身分違いであると言って、ロバートの求婚を拒絶させる。もっと身分の高い男性と結婚すべきだというのである。ハリエットこそ、エルトンの伴侶にふさわしいと思って、いろいろと工作をするが、エルトンが思いを寄せていたのは、実はエマであった。野心家のエルトンにとって、財産を持たないハリエットはまったく問題にならない相手だったのである。

 もともとエマの思い込みの激しさにあおられてエルトンへの思慕を募らせていたハリエットは、エルトンが自分のことをまったく気にかけていないと知って、落胆するが、なかなか彼への想いを断ち切ることができない。何か手を打たなければならないと思ったエマは、2人で、もとの教区牧師の未亡人であるベイツ夫人とその娘のミス・ベイツを訪ねる。村の人々の生活に関心を寄せるのは地主の娘としての義務であるが、エマは村の二流・三流の人々ともしきりに付き合い、人気を集めているこの母娘が(特に娘のミス・ベイツのおしゃべりが)苦手である。エマはベイツ夫人の孫(ミス・ベイツの姪)であるジェイン・フェアファックスが体調が悪いのでハイベリーに里帰りするという話を聞く。(第19章)

 ジェイン・フェアファックスはベイツ夫人の末娘がフェアファックスという陸軍中尉と結婚して儲けた一人娘で、両親が若くして世を去った後、祖母と伯母によって育てられていたが、死んだ父親の上官で親友であったキャンベル大佐がその境遇を知って引き取り、自分の娘と一緒に育てていたのである。ジェインは成長して美しく、才芸に秀でた娘となったが、キャンベル大佐には自分の娘に譲る以上の財産はなかったので、その才芸を生かして家庭教師(ガヴァネス)として生計を立てるはずであった。キャンベル大佐の娘がディクソンというアイルランドに住む金持ちの青年と結婚したのだが、その前後からジェインは体調を崩して、ハイベリーへと戻ってきたのであった。伯母とともにハートフィールドを訪れたジェインに会ったエマは彼女の美しさや才能を認めざるを得ない一方で、彼女の慎重で口の堅い性格と態度が我慢できず、打ち解けることができない。(第20章)

 エマとジェインが出会った場に同席していたナイトリーは、2人が仲良くくつろいでいる様子に満足したというが、エマはそれが気に入らない。ナイトリーが彼女にニュースを告げようとしていたところに、ミス・ベイツがやってきて、エルトンが(イングランド西南部の有名な保養地である)バースで出会った女性と結婚することになったと知らせる。実は、ナイトリーも同じ情報を得ていたのである。エマはこのニュースを聞いてハリエットがさらに動揺しないかと心配するが、ハートフィールド屋敷にやってきたハリエットは、雨宿りをしていた店で、ロバート・マーティンに再会したと語る。(第21章)

Human nature is so well disposed towards those who are in interesting situations, that a young person,who either marries or dies, is sure of being kindly spoken of.
人間の野次馬根性は、噂の種になりそうな人物には大変好意的で、若い人が結婚したり死んだりすると、必ず好意的に話題にされる。(中野康司訳、上巻280ページ)
 第22章はこのようにことわざ風に書き出されている。ただし、オースティンの「好意的」という観察が正しいかどうかについては疑問がある。私の経験だと、in interesting situationsにあるわけではないのに、勝手な噂をたてられて迷惑したことが何度かある。

 ハイベリー村では、エルトンがミス・ホーキンズという女性と結婚することになるというニュースが伝わると、彼女が容姿も知性もすばらしいという評判が広まった。エルトンは得意満面で村に戻ってきた。エマに求婚を拒絶された失地を回復したというわけである。エマはそのような噂を聞いても、ミス・ホーキンズよりもハリエットの方が、優れた女性であるという信念を持ち続けている。だからこそ、ハリエットに負い目を感じ、心配する思いを抱くのである。ロバート・マーティンの妹のエリザベスがハリエットを訪ねて来て、置手紙を残しという話を聞いて、エマは、ハリエットに(エルトンについての想いを断ち切らせるためにも)その返礼をさせようと考える。(第22章)

 ハリエットをマーティンのもとに連れて行ったエマは、その帰り道にウェストン夫妻と出会い、ウェストンの息子のフランク・チャーチルが今度こそハイベリーにやってくると知らせる。翌日、予期していたよりも早くハイベリーに到着したフランクに出会ったエマは、初めのうちこそぎこちなく応対していたが、次第にフランクと打ち解けてくる。フランクは知り合いだというジェイン・フェアファックスを訪問すると言い出し、ウェストンがジェインはロンドンのキャンベル一家のもとでは淑女として暮らしているが、ハイベリーで食べていくのがやっとという貧しい祖母と伯母と一緒に暮らしているのだと言い、だからと言って礼儀を欠くようなことをしてはならないと忠告する。(第23章)

 フランクはハイベリーが気に入った様子で翌日もハートフィールド屋敷を訪問し、エマと義母であるウェストン夫人との3人でハイベリーの村を散策する。フランクはエマにジェインのことをいろいろと質問する。エマはジェインとは子どものころからの知り合いで、皆が2人は仲良しだと思っているが、自分としては彼女が好きになれないと本当のことをいう。そういう話を通じて、彼女はフランクとはずいぶん親しくなったように感じ、フランクが早く結婚したがっているのではないか、そのためにはチャーチル家の財産を相続しなくてもいいと思っているのではないかと推測をめぐらす〔エマは普通以上に想像力が豊かな女性であるが、この想像は的外れではないようである]。(第24章)

 フランクに高い評価を与えるようになったエマではあるが、彼がなんと散髪のためにロンドンに出かけるという話を聞いて、その評価を少し下げる〔実は散髪にことよせて、別の用事のために出かけているのかもしれないのだが、こういうときに限って、彼女の想像力は働かないのである]。ハイベリー村に住む成り上がりのコール夫妻がディナー・パーティーを企画していて、エマは自分よりも身分の低いコール夫妻が主催するパーティーには不参加の予定であったのだが、ウェストン夫妻の勧めもあって、出席することになる。(第25章)

 この小説では結婚により5組の夫婦が成立する(厳密にいうと1組は小説の完結後に挙式する予定である)。物語の発端でエマのガヴァネスだったアン・テイラーが結婚してウェストン夫人となり、間もなくエルトンがミス・ホーキンズという女性と結婚するはずである。残るは3組である。ハリエットはロバート・マーティンを憎からず思っているようであるが、エマからこの結婚は身分不釣り合いであると反対を受けている。そしてエマと、彼女が表向き仲良くはしているが、心の中では嫌っているジェインはどのような結婚に向かっていくのか? ウェストン夫妻が望むようにフランクはエマに関心を寄せているように見えるが、ジェインのことも気にかかる様子である。ナイトリーは、そのフランクを軽薄な男だと切り捨てる。温厚で思いやりの篤い彼がこういうのは、何かの気持ちが混ざってのことかもしれない。物語はエマの気持ちに沿って語られているが、彼女が事態を正しくとらえているとは限らない…ということから物語はさらに複雑になり、そして確実に面白くなっているのである。
 ジェイン・オースティンの『マンスフィールド・パーク』のヒロインがジェインと同じような境遇で育っていることを思い出された方もいるかもしれない。エマは、ジェインの伯母のミス・ベイツが無意味に思われる長話をするのが嫌で、その彼女に「甘やかされた」ジェインを好きになれないところがある(実際には、ジェインよりもエマの方が、甘やかされて育ったところがあり、ジェインはキャンベル家で優れた教育を受けて、エマを上回る才芸を身に着けている)。あるいは、エマのジェインに対する嫌悪感には自分よりも優れたものに対する嫉妬が含まれているのかもしれない。 

『太平記」(150)

3月19日(日)晴れのち薄曇り

 建武3年(1336)、京都を占領していた足利方の軍勢は比叡山を根拠地としていた宮方の軍勢の反攻を防ぐことができず、正月30日に京都から撤退した。摂津へ落ちのびる途中、尊氏は供をしていた薬師丸に光厳上皇から院宣を頂いてくるように命じた。持明院統の上皇の院宣を手に入れることで、後醍醐天皇に対抗しようとしたのである。2月6日、摂津手島河原で両軍の戦闘があり、楠軍に背後をつかれた足利軍は、兵庫湊川に退却した。7日、湊川一帯の戦闘でも大敗した尊氏は、大友貞宗の進言により、船で九州に落ちた。2月2日、京に戻った後醍醐天皇は、25日、建武の年号を延元に改めた。
 わずかの軍勢で筑前多々良浜に上陸した尊氏は、宗像大宮司の館に迎えられた。宮方の菊池武俊が尊氏方の少弐の城を攻め落とし、さらに多々良浜に攻め寄せた。尊氏は敵味方の軍勢の違いに一度は自害しようと思い詰めたが、直義に諫められて考え直す。運が味方したのであろうか、尊氏軍は100倍に余る菊池軍を退け、菊池軍の搦め手の松浦・神田の軍勢は尊氏軍に降伏、菊池軍は肥後の国に引き返した。

 戦闘の常として、勝ちに乗じると鼠が虎となり、勝機を逸すると虎も鼠となるといわれるが、尊氏はこの勝利に気を能くして、一族の一色太郎入道道祐(範氏)、仁木義長を派遣して、菊池の居城を攻撃させた。いったんは勢いに乗っていた菊池であるが、劣勢になるとひとたまりもなく、1日も持ちこたえることができずに、山奥へと逃げ籠もったのである。

 次に尊氏軍は、肥後の八代の城に押し寄せ、この城を守っていた名和長年の家臣の内川彦三郎を攻め落とす。さらに多々良浜の合戦に参加していて、重傷を負っていた阿蘇大宮司八郎惟直は、肥前の小杵(おつき)山(佐賀県小城市の天山)で自害してしまった。その弟である苦労は、道に迷った挙句に、土地の農夫に生け捕りにされてしまった。同じく宮方の武士である秋月は、大宰府まで落ちたのだが、そこで一族20余人が、戦死してしまった。九州の宮方の有力武将がこのように一斉にうち滅ぼされたために、九州と壱岐・対馬の武士たちは、皆こぞって尊氏に付き従ったのである。

 これは菊池が不覚をとったというわけではなく、直義の謀が功を奏したというのでもないと『太平記』の作者は記す。ただ、よい果報をもたらす前世での善行が現われて尊氏が天下の主となるべく、神々がその真意を尊氏に加えたので、九州での戦闘に勝つことを出て、九州さらには中国地方を制圧することが出来たという。

 さて、九州の武士である松浦(まつら)、神田(こうだ)たちが、尊氏方が少数であったのに大勢であると錯覚して降伏した問うわさが広まってきたので、尊氏は、主だった家臣である高、上杉の人々に向かって、次のように述べた。「言葉の下に骨を消し、笑みの中に刀を研ぐというのが、このごろの人の心である。それで、原田対馬守は少弐入道の婿であったのに、策略をめぐらし、義理の父である少弐入道を討ち果たしたという最近の例がある。これを見ても、松浦、神田は、ひょっとして叛心を抱いていて、そのために一兵も損なわないままに乞うふうしたのではないかと、不審に思われるところがないでもない。というのは、まことの信心があるときには、神仏がそれに応えて奇蹟を表すことがあるといわれてきたことではあるが、味方の軍勢はそれほどの大ぜいに見たということも、現代のような末世ではありそうもないことであり、信用できない。方々もその旨を心にとめて油断しないようにしてほしい」。

 すると、末席にいた高駿河守(師茂。尊氏の執事である師直、師泰の弟)が進み出て申し上げる。「まことに人の心を推し量るのがむずかしいことは、天よりも高く、地よりも厚しといわれてきたことではありますが、このような大事業に取り組もうとお考えになるときは、そのように人の心を不審に思われてばかりいると、速やかな成功を遂げられなくしてしまうでしょう。さらに味方の軍勢が多く見えたというのは噓ではなかったと思われます。このような不思議の先例は数多くあると聞いております。
 昔、唐の玄宗皇帝の時代に安禄山が反乱を起こした、皇帝の左将軍である哥舒翰が安禄山方の将である崔乾祐と潼関というところで戦った際に、黄色い旗を掲げた兵が10万余騎、突然現れて官軍の陣に加わりました。崔乾祐はこれを見て、敵は大軍であると思ったので、兵を引いて四方に逃げ散ってしまったといいます。その日、皇帝の使いが、先祖を祀る廟所である宗廟に詣でてみると、そこに置かれていた石人という石でできた人形たちの両脚が泥で汚れていたり、その体に矢が刺さっていたりしたので、さては黄色の旗を掲げた兵10万余騎は、宗廟の神が、兵隊の姿になって、反乱軍を退けたのだと、皆疑うことなく思ったということです。
 また、わが国では壬申の乱の際に天武天皇と大友皇子が天下を争われたのですが、備中の国二万郷(にまのさと、岡山県倉敷市真備町上二万・下二万)というところで、両軍が決戦を行いました。天武天皇の御軍勢はわずかに3百余騎、大友皇子の御軍勢は1万余騎でした。軍勢の多少を見ると、戦わずして勝敗は明らかだと思われたのですが、どこから来たともわからぬ兵2万余騎が、天武天皇の味方に現れて、大友皇子の軍勢を敗走させました。これがもとでその場所を二万の里と名付けたと言います。
 『源平盛衰記』によりますと、周防内侍がこのことを歌って
 君が代は二万の里人数そひて絶えず備ふる御調物(みつぎもの)かな
(第2分冊、506ページ、帝の御代は、二万の里人が二万人もの数で絶えず貢物を捧げるめでたい御代であることよ。)
と詠んだそうです。
 と中国と日本の故事を引き合いに出して、尊氏の武運が天意にかなったものであることを申し上げると、将軍もその場にいた人々もみな大喜びをしたのであった。

 岩波文庫版の脚注を詳しく見ていくと分かるが、この師茂の発言はかなりいい加減なものである。まず、潼関の戦いでは安禄山の反乱軍の方が勝って、哥舒翰は戦死したというのが歴史的事実であり、石人が兵隊となって表れたというのは後世の説話だそうである。壬申の乱の際に備中で両軍が衝突したというのも、後世にできた伝説であろう。「君が代」の歌は、周防内侍ではなくて、小侍従の歌だそうである。
 思うに、師茂はもっと素朴な発言をしたのであろうが、『太平記』の作者が勝手に尾ひれをつけ、その尾ひれがことごとくいい加減なものであったというのが真相であろう。『太平記』第9巻に、丹波の武士である久下弥三郎時重が尊氏のもとにはせ参じた時に、その旗の紋、笠符に「一番」と書いてあるのを見て、尊氏が不審に思うと、師茂の兄である師直が源平の合戦の際に久下の先祖が頼朝のもとへ一番に駆け付けたためにこれを紋にしていると答える場面があったが、師直だけでなく、その兄弟も武家の故事に通じていたことが推測される。

 以上で『太平記』15巻は終わる。岩波文庫版の第2分冊をこれで読み終えた。今回は150回なので、1巻につき10回というペースで進んできたことになる。『太平記』は全40巻(ただし第22巻が欠けているので、実際は39巻)なので、まだ前途遼遠である。吉川英治の『私本太平記』は第16巻の楠正成の戦死、山岡荘八の『新太平記』は第20巻の新田義貞の死までで打ち切られているが、私としては紹介のスタイルを変えることはあっても、最後まで物語を追い続けていきたいと思っている。

日記抄(3月12日~18日)

3月18日(土)晴れのち薄曇り

 3月12日から本日までの間に経験したこと、考えたことなど:
3月12日
 ニッパツ横浜球技場でJ2第3節:横浜FC対ザスパ草津群馬の対戦を観戦する。開幕の松本山雅戦にくらべると観客がかなり減り、前売り券を確保する必要もなく、老人割引で入場した。前半40分にゴール前でこぼれたボールを三浦カズ選手がけりこんであげた1点を守って、横浜が1-0で勝利し、3位に浮上した。試合後の談話でカズ選手が、イバ選手の近くにいればボールが転がってくることがあると思って、その機会を待っていたと話していた。決めるべき時に決めたカズ選手は立派だが、チャンスを作ったイバ選手の活躍も見落とせないのである。

3月13日
 NHK「ラジオ英会話」は”Harvey and Shirley Downsize"(ハーヴィーとシャーリー、身の回りを整理する)の2週目:”Getting Down to Business"(具体的な話に入る)で、ハーヴィーとシャーリーの老夫婦は家を売って身の回りを整理し、小さなマンション(small condo)とRV(recreational vehicle、キャンプ用で部屋やキッチンのついた車)を買うことにした。そこでRVを売ると言っているアリゾナ州トゥーソンに住む知り合いのゲーターに電話を掛ける。
How about knocking down the price a bit? (どうかね、少し値引きをしないかね?)
Sorry, buddy, I'm not budging on the price. (悪いんだけどねえ、値段に関しては一歩も譲りませんよ。)
Would you consider free delivery of the RV? (RVの無料配達を検討していただけるかな?)
You drive a hard bargain! (強気の交渉をするねえ!)

3月14日
 「ラジオ英会話」の続き。ハーヴィーはガレージセールをしようと提案する。
Let's have a garage sale. (ガレージセールをしよう。)
In the middle of winter? No one will show up. (冬のさなかに? 誰も来ませんよ。)
Sure they will. People love a bargain! (来るとも。掘り出し物が嫌いな人はいないよ!)
I'm not so sur about that. (それはどうかしらね。)

3月15日
 the Ides of March. ユリウス・カエサル(ジュリアス・シーザー)が暗殺された日であることは昨年のこのブログで書いたはずである。確定申告に出かける。グズグズしていて、申告が最終日近くになるのは例年通り。昨年に比べると税務署にやってきている人が少なく、書類提出までそれほど時間がかからなかった。

 「ラジオ英会話」の続き。ハーヴィーとシャーリーの夫婦はいよいよガレージセールを始めるが、帝国よりも早く、お客がやってくる。シャーリーの紅茶セットに目を付けた女性が、45ドルで売ると聞いて
Could you come down in price a little? (価格を少し下げてもらえるかしら?)
交渉の結果、35ドルで買い取ることになり、2人は
Thanks for your business! ((お買い上げ)ありがとうございました!)
と声をそろえる。

 NHKラジオ「実践ビジネス英語」は”Money Matters"(お金のこと)の4回目。お金を大切にすることを子どもたちにどうやって教えるかについての議論が交わされるが、一人が
What do you think is the best way of explaining the growing gap between rich and poor to children? (貧富の差が広がっていることを子どもたちに説明するには、どうすれば一番いいと思いますか?)と問いかける。
That's a tricky one. (それは難しい問題ですね。)

 同じ番組の”Quote...Unquote"のコーナーで紹介された言葉:
Knowledge is of two kinds: We know a subject ourselves, or we know here we can find information upon it.
-- Samuel johnson (English lexicographer and author, 1709 - 84)
(知識には2種類ある。ある事柄を自分自身が知っているということと、それにかかわる情報をどこで見つけられるかを知っているということだ。)
 lexicographerは「辞書編集者」。ジョンソンが独力で英語辞書を編纂した次第は上記の言葉を含む、いくつかのエピソードを引き合いに出しながら、面白おかしく、加島祥造『英語の辞書の話』に記されている。加島さんのこの本を読んだ後、ある講習会の講師をしていて、「知識には2種類ある」という話をしたのはもう40年近く前のことになってしまった。加島さんは最近は「タオ」についての著書で知られるが、大学の英語の先生をしていただけでなく、クリスティの『ナイルに死す』など英語ミステリーの翻訳者であり、『荒地』派の詩人でもある。実は、城米彦造とともに、私が目標にしている詩人である。

3月16日
 「ラジオ英会話」の続き。ガレージセールで今度は、ハーヴィーの運転台付き芝刈り機(riding mower)に目を付けた客がいる。350ドルという値段を聞いて、
Is that your final offer? (それが最終提示価格?)
I'll throw in the garden tools. (おまけに園芸用具を付けます。)
It's a deal! (それで決まり!)

 「実践ビジネス英語」の続き。若者たちにお金の大事さを教える最良の方法として、1人がこんな意見を述べる。
If you ask me, one of the best ways to teach young people the value of money is for them to have part-time or summer jobs. (私に言わせてもらえば、若い人たちにお金の価値を教える最良の方法の1つは、アルバイトや夏の間だけの仕事をさせることです。) 私が接した学生たちの経験をまとめると、若者たちにとってアルバイトは、自分とは異質の人間との出会いという性格が大きいように思う。
 Too many people are ignorant about basic financial matters. (資産管理の基本的なことを知らない人が多すぎます。)というのはそのとおりで、私などもそのために苦労している。しかし、学校で金利や株式市場というようなことについて教えるのは、ある業界の一方的な宣伝の注入になる恐れや、宣伝できなかった業界からの猛反発を招く恐れがある。

 NHKラジオ「まいにちフランス語」応用編は”La vin (1) Partage et convivialité ~La vérité est dans le vin ~”(ワイン(1) 分かち合い、共に楽しむこと~真実はワインの中に~)という話題を取り上げた。
En France, on dit qu'il ne faut jamais boire seul, mais uniquement quand on est accompagné. Et rien n'est plus vrai lorsque l'on parle de vin. (フランスでは、決して一人で飲んではいけない、誰か一緒に飲む人がいるときにだけ飲むものだ、と言われる。ワインについて言えば、これ以上正しいことはない。)
 La vérité est dans le vin. というのはラテン語の《In vino veritas.》という表現をフランス語にしたものだという。「酒の中に真実がある」というのは、「ワインを飲むと、人は、素面では話せないようなことも話す」という意味だと解説されていた。これは大プリニウスが『博物誌』の中で述べていることを、ことわざ風に言い換えたもので、酔っぱらうと本性が現われるというようなことだと別の本に書かれていた(まあ、大体同じことである)。

 『日刊スポーツ』に俳優の渡瀬恒彦さんの訃報が出ていた。72歳。まだ活躍できる年齢であっただけに惜しまれてならない。実は、兄さんの渡哲也さんにくらべると、渡瀬さんの映画は見ていない。渡瀬さんが再婚された時に、お相手が新潟市の内野の人だという話を聞いて、身近な感じがしたことを思い出す。内野の酒である<鶴の友>でも探して、ご冥福を祈るとするか。

3月17日
 「まいにちフランス語」”Le vin"の2回目。
Lorsque l'on dine chez soi, avec des amis, choisir la bouteille que l'on va déboucher est tout un art. (自宅で友人と一緒に夕食をとるとき、その夜開けるワインを選ぶのは、まったくアートといっていい行為だ。)
私の場合、そういうことはなさそうである。

3月18日
 ダロン・アセモグル&ジェイムズ・A・ロビンソン『国家はなぜ衰退するのか〔下〕 権力・繁栄・貧困の起源』を読み終える。長期的な経済発展の成否にかかわる最も重要な要因は政治経済制度の違いであると論じるきわめて興味深い本である。最後の方で、ルーラ大統領時代のブラジルの経済的発展を肯定的に評価しているが、最近のブラジルでは、ルーラ時代の政治への反動が起きているようなので、今後の展開との関連も見ていこうと思っている。

 NHKラジオ「攻略!英語リスニング」は”Cleopatra"を話題として取り上げた。
Age cannot wither her, nor custom stale her infinite variety. (年齢を重ねても容色は衰えず、逢瀬を重ねても無限の変化は新鮮さを失わない。) というのは、彼女の美しさと魅力を表現したシェイクスピアの言葉だそうである。エジプトの女王であったが、マケドニア系ギリシア人の王朝であるプトレマイオス朝の出身である。しかし、彼女は先祖以来の伝統を破って、初めてエジプト語(コプト語のことであろうか。現在のエジプトで公用語になっているのはアラビア語である)を話したという。
She was educated in various subjects including mathematics and philosophy, and could speak around tn languages. (数学や哲学を含むいくつもの学問を学んでいて、およそ10言語を話すことができた。)
と、語り手は、彼女の知性の高さも忘れてはならないと述べているが、それゆえに自信過剰になっていた部分もあるのではないかという気もする。
 ご存知の方も多いと思うが、シェイクスピアの『ジュリアス・シーザー』でシーザー(カエサル)がブルータスに殺される場面で、そこだけが”Et tu, Brute?"(ブルータスよ、お前もか?)とラテン語になっている。柳沼重剛によると、これはスエトニウスの『ローマ皇帝伝』(ラテン語で書かれている)の中で、このセリフだけがギリシア語で”Kai su, teknon?"(我が子よ、お前もか?)となっているのに対応させたものだという。当時の教養あるローマ人たちは、ギリシア語を読み話すことができた。とは言うものの、数か所に傷を負って死に瀕している時に、ギリシア語で叫ぶというのはすごい。「しかし教養もここまでくれば本物だともいえるし壮絶だともいえる。…これはただひたすらに凄い」(柳沼(1991)『語学者の散歩道』研究社、25ページ)と半ばあきれている。
 だから、カエサルにしても、アントニウスにしても、クレオパトラとはギリシア語で話していたと思われる。と、なると、たぶん、会話は押され気味だったのではないかと推測される。
 この番組でも触れられていたが、彼女とカエサルの間に生まれたカエサリオンという息子がいて、一時期母親とともにエジプトのファラオになっているが、オクタウィアヌスに殺されたらしい(はっきりしたことはわからない)。クレオパトラの娘は、生きながらえているので、大坂の陣の後の豊臣秀頼の子どもたちの運命に似たところがあると思う。 

呉座勇一『応仁の乱』(14)

3月17日(金)晴れ

 応仁の乱は応仁元年(1467)から文明9年(1477)まで11年間にわたって繰り広げられた大乱である。この書物はこの大乱の背景と結果とを含む全容を、同時代の興福寺僧である経覚(1395-1473)の『経覚私要鈔』、尋尊(1430-1508)の『大乗院寺社雑事記』という2つの日記を基本的な史料として、明らかにするものである。
 すでに紹介した第1章「畿内の火薬庫、大和」は鎌倉・室町時代を通じて興福寺が事実上の守護であった大和という地方の特殊性と、室町幕府・京都との関係、史料の記述者の1人である経覚の経歴の前半について述べている。大和に隣接する河内は室町幕府の三管領家の一つである畠山氏の本拠であり、応仁の乱の直接の原因となった畠山義就と政長による家督争いと、その大和の武装勢力との関係についても触れられている。
 第2章「応仁の乱への道」は嘉吉の変(1441)による将軍義教の暗殺から文正の政変(1466)にいたる幕政の混乱とその中での主導権争い、それと関連して起きた有力大名家の内訌と合従連衡、その中でも特に畠山氏の家督争いの展開、そのような中で義教によって失脚させられた経覚が再び表舞台に登場し、興福寺の荘園からの年貢をめぐる問題の対処に活躍する姿も描かれている。
 第3章「大乱勃発」は、文正元年(1466)に軍勢を率いて上洛した畠山義就が翌年初めに、自身の武力と山名宗全の後ろ盾をもとに畠山氏の家督を奪い、政長を放逐する(文正2年の御霊合戦)が、政長を支持してきた細川勝元が年号が変わった応仁元年5月に京都市内で戦端を開く。勝元の陣営(東軍)には勝元、政長のほか、斯波義敏、京極持清、赤松政則、武田信賢ら、宗全の陣営(西軍)には宗全、義就のほか、斯波義廉、一色義直、土岐成頼、大内政弘らが加わった。将軍義政を確保した勝元が幕府軍の地位を得て、先制攻撃を懸けるが、西軍は持ちこたえ、中国地方から大軍を率いて上洛した大内政弘の活躍で反攻に転じた。応仁2年(1468)に兄である将軍義政と対立した義視が西軍に投じ、西幕府が成立した。両陣営ともに、短期の決着を図っていたが、戦局が長期化したのは、両軍ともに陣を堀や井楼で防御したため、市中における戦闘が実質的に攻城戦となり、さらに味方の補給路を確保し、敵の補給路を遮断しようと、周辺地域に戦闘が拡大するようになったためである。
 第4章「応仁の乱と興福寺」では、戦争によって荘園からの年貢の取り立てが困難になる中で、興福寺の別当(寺務)に返り咲いた経覚と大乗院門主の尋尊が対策に奔走する姿を描いている。
 第5章「衆徒・国民の苦闘」は、興福寺・春日社と結びついた大和の国独特の武装勢力である衆徒・国民がこの戦乱にどのように対処したか、西軍優勢の中で、足利義政は西軍の有力武将である朝倉孝景の切り崩しに成功、朝倉が越前を抑えたことで、西軍の有力な補給路の1つが遮断されたこと、戦局が不利になる中で西軍は後南朝と結びつこうとするが、かえって西軍内での対立を招いたことなどが記されている。
 第6章「大乱終結」の前半では、疫病の流行や飢饉などにより、両軍の戦意が衰え、厭戦気分がみなぎってきたこと、和睦のための交渉が続けられたこと、文明4年(1472)に勝元、宗全ともに引退した(文明5年には、両者とも死去した)こと、西軍の補給路を遮断したことで東軍の優位が続く中、文明6年(1474)には細川・山名の和議が成立したものの、西軍の畠山義就と大内政弘はあくまで戦闘を継続しようとしたことが記されている。しかし、義政は政弘の懐柔に成功し、文明9年(1477)に政弘は幕府に降参、西幕府はなし崩し的に解体し、戦争は終結した。

 今回は第6章の残りの部分、応仁の乱終結後の大和の情勢について触れた部分と、第7章「乱後の室町幕府」の幕府による再建の取り組みを辿った部分を取り上げることにする。
 史料の1つである『経覚私要鈔』の記述者である経覚は文明5(1473)年に死去していた(勝元、宗全と同じ年のことである)。呉座さんは両者の日記を比較することから、その関心の対象や、記述者自身の性格をめぐり、次のように指摘している。
〔「天魔の所行」「寺社滅亡の基(もとい)」などと頻繁に乱世を嘆く尋尊と異なり、経覚は応仁の乱という戦争全体に関する感想を記すことはなかった。経覚の関心は政治や社会情勢ではなく、もっぱら自分と親交のある人々の動向に向けられた。」(199ページ) たとえば自分と親しい朝倉孝景が越前を制圧すると、彼が西軍から東軍に寝返ったということは不問にして(経覚は西軍びいきである)喜んでいる。これは「越前での合戦のせいで、河口荘からの年貢が入ってこないのではないかと心配する尋尊とは対照的である。」(200ページ)

 経覚の死後、尋尊は彼の日記などの諸記録を取り寄せた。2人の微妙な関係のために、尋尊は経覚の日記を見ることができなかったのである。「経覚が没した時、尋尊は既に44歳であった。多くの記録を調べ上げ、大乗院の歴代門主の中でも随一といってよいほどの博識となった尋尊にとって、いまさら経覚の日記から学ぶことはほとんどなかっただろう。それでも経覚の記録を即座に入手する尋尊の学究心には感心させられる。」(200ページ) 惜しいことに、おそらくは尋尊が知りたがっていた古い記録は文安2年(1445)に起きた兵火のために焼けてしまっていた。
 経覚はかなりの額の借金をしていたが、このようなこともあろうかとかねてから準備をしていた尋尊は借金取りを丸め込んだだけでなく、経覚が経営していた所領の回収に動き、成功している。「将来発生するであろう問題を予見し、事前に対策を練っておく尋尊の手腕は見事というほかない。大乱の傍観者と侮っていると、尋尊の本質を見失ってしまうだろう。」(204ページ)

 文明9年(1477)に大内政弘の降伏によって孤立した畠山義就は、9月22日に京都を出発して、野崎(大阪府大東市)にまで進出し、政長の重臣遊佐長直が守る若江城をうかがう構えを見せた。幕府側もある程度は予測していたであろうが、河内における義就の勢いは予想以上のものであった。政長に泣きつかれた義政は、朝廷に畠山義就治罰の綸旨を要請し、朝廷の影響下にある寺社勢力と公家大名の力で義就を討伐しようとするが、時すでに遅く、義就は河内を切り取ってしまう。
 このような軍事的進出は、義就の名望・魅力によるものが多いと呉座さんは論じている。「畠山義就の魅力は、軍事的才幹もさることながら、守護家に生まれた御曹司でありながら、権威をものともせず、実力主義を貫く点にある。」(206-207ページ) 山名宗全が室町幕府の秩序の枠内で行動しているのに対し、義就には「そもそも幕府の命令に従うという発想がない。…彼の本質は幕府の権力に頼ることなく自力で領土を拡張する独立独歩の姿勢にある。中央からの統制を嫌う地方武士たちが義就のもとに集まったのは、このためである」(207ページ)として、朝倉孝景や北条早雲とともに「最初の戦国大名」に数えてよい存在であると評価している。

 河内を制圧した義就はその矛先を大和へと向ける。おそらく義就と示し合わせて、京都にいた大内政弘が重臣に兵力を与えて山城国を南下させた。このため、筒井氏をはじめとする大和の政長方勢力は四散してしまった。尋尊は筒井順尊の代わりに、義就との太いパイプを持つ古市澄胤(第5章に登場した古市胤栄の弟)を官符衆徒棟梁に任じ奈良の治安を確保しようとする。筒井は復権を目指して策動を続けるが、大和での影響力を次第に失っていく。

 さて、第7章「乱後の室町場幕府」では、まず、応仁の乱によって将軍の権威が失墜したとはいっても、「足利義政も巷間言われるほどに無為無策だったわけではなく、幕府再建に努力している。その柱が寺社本所領返還政策である」(214ページ)と、寺社が守護に奪われた所領を元に戻す(「徳政」の一種)政策の再開について論じている。しかしこの政策は、実は寺社と守護の対立の中で、自力で守護勢力を排除できない寺社に将軍側近の武士たちを派遣して援助させることにより、将軍権力の強化を図ろうとするものであった。
 
 義政の子である義尚は文明5年(1473)に征夷大将軍となっていたが、文明11年(1479)11月22日に判始(はんはじめ)を行い、法的な責任能力を持った大人として政治に携わることができるようになった。しかし、父である義政が依然として政務をとり続けていたため、文明12年5月、突如本鳥を切って出家を図るなど不満をあからさまにした。
 周囲の人々になだめられて気を取り直した義尚は、摂政関白の経験者で当時一流の学者であった一条兼良(尋尊の父であり、第4章では奈良に「疎開」して優雅な暮らしをしていた)に政治の心構えを諮問し、兼良は政治意見書『樵談治要』を執筆、7月に義尚に献上した。しかし、そこにはきれいごとの建前論しか書かれておらず、実戦的・具体的な提言に乏しかった。「ちなみに兼良の息子の尋尊は、義尚の為政者としての資質に疑念を抱いており、義尚に理想の君主となるよう説く『樵談治要』を「犬の前で仏の教えを説くようなものだ」と皮肉っている。」(217ページ)
 文明13年(1481)正月、義政は隠居すると言い出したが、突然の引退表明だったために、周囲は困惑した。父親の当てつけ的な政権投げ出しに義尚は反発し、父親同様に年賀のあいさつを拒否して引きこもってしまうという異常事態となった。このため、義政を補佐していた日野富子が政務を代行した。「ただし、関所を乱立させたり高利貸を営んだりと私財の蓄積に狂奔する富子の評判は以前から悪く、長く続けられる政治体制ではなかった。」(218ページ) 文明14年(1482)7月に義政は正式に義尚に政務を委譲し、義尚の執政が開始された。とはいえ、義政はその後も幕府の最高権力者としての地位を維持し、義尚の権力を制約し続けたのである。

 大乱は終結したが、畠山義就のように幕府の権威に従わず、独自の行動をとり続ける武士がいる(というよりも、これからだんだん増えてくる)。寺社勢力は自分たちの権益を守るのに必死である。有力な大名たちは下剋上を恐れて領国に帰りはじめる。大名たちを抑えて自分の勢力を伸ばそうとする義政の努力は実らず、むしろ将軍の権威と権力は低下の一途をたどる。義政・日野富子・義尚とどうもすごい人たちばかりがそろった感じがあるが、彼らの個性ばかりに幕府の衰亡の原因を求めるべきではないだろう。『樵談治要』は『群書類従』に収められているそうなので、探して目を通してみようと思う。あるいはネットでも読めるかもしれない。
 今回は、『大乗院寺社雑事記』を通じて知られる尋尊の人間像や、戦国大名の先駆というべき畠山義就の個性など、呉座さんがこkの書物を書いていくうえで、大いに魅力を感じたであろう内容が含まれていて、読みごたえがあった。著者が史料をしっかりと読み込んで、その内容を整理していることが、この読みごたえを支えているように思われる。
 

ダンテ・アリギエリ『神曲 天国篇』(15-1)

3月16日(木)晴れのち曇り

 ベアトリーチェに導かれて天上の世界に旅立ったダンテは、月天、水星天、金星天、太陽天を経て、火星天に達する。ダンテとベアトリーチェを迎えて、火星は普段よりもさらに赤く輝いていた。ダンテが全身全霊を込めて自身の感謝の想いを神にささげると、赤い無数の星が、神を表す円と、キリストの受難を表す十字架を形作ってその中を動き回り、その十字架の上に磔刑のキリストの姿が輝くのが見えた。そして美しい響きで地獄と悪に勝利するキリスト、つまり復活のキリストをたたえる歌が聞こえてきて、その中に「復活」による「勝利」をキリストに祈願する言葉が聞こえてきた。

 火星天に到着したダンテは、これまでしてきたように、火星天で彼を迎えている魂に話しかけようとする。すると、歌がやむ。
晴れ渡って澄んだ静かな夜空に、
たまさか、突然の火が走ると
悠然と眺めていた目を引き、

移動した星のように見える。
ただその火が燃えだしたところでは
星は一つも欠けず、一方で火はすぐに燃え尽きる、

あたかもそれと同じ様子で
その天空に輝く星座の中から星が一つ
右に延びる翼からあの十字架の足の先まで走った。
(223-224ページ) 「突然の火が走ると」というのは流星を表している。十字架の上を流星のように走ってダンテのほうに近づいてくる魂があった。

 ダンテは、地獄と煉獄を経て地上楽園まで彼を案内したローマ黄金時代の詩人ウェルギリウスの叙事詩『アエネーイス』の中の、アエネーアースが死んだ父アンキーセスと出会う場面を思い出す。
愛情にあふれたアンキーセスの影はこのように現れたのだ、
私達の最も偉大な詩神が信頼に値するならば、
エリジウムにあって息子に気づいた時に。
(224ページ) エリジウムはギリシア神話ではエーリュシオンと呼ばれている、英雄や善人が死後に赴くという冥界の中の楽土である。「偉大な詩神」はもちろん、ウェルギリウスのことである。『アエネーイス』によると、エーリュシオンはただ単に死後の世界であるだけでなく、未来の人間たちの霊を送り出す場所でもある。トロイア滅亡後東地中海世界の各地を流浪したアエネーアースは叙事詩の第6歌で、イタリア半島のクーマエに上陸し、この地に住む巫女のシビュラの指示に従い、将来の運命を知るために、冥界へと旅立つ。アエネーアースの父、アンキーセスは自分の子孫たちの運命を知り、アエネーアースが生きてこの冥界を訪問するのを待ち構えている。「さて、父アンキーセスは、緑なす峡谷の奥に/閉じ込められたのちに地上の光のもとへ旅立つ定めの霊たちを/一人一人入念に確認していたが、このときは身内の者たちが/すべてそろっているか点呼して、大切な子孫たち、/勇士たちの運命と運勢、品性と手腕を見ていた。/そこへ、草を分けてこちらに向かってくる人影を見た。/アエネーアスだった。気の逸るまま両手を差し伸ばした。/その頬には涙が溢れ出し、こぼれ落ちるように言葉が出た。」(ウェルギリウス『アエネーイス』、岡道男・高橋宏幸訳、京都大学学術出版会、西洋古典叢書、282ページ) 翻訳者である原さんは傍注で「ここで死後の楽園エリジウムにいるアンキーセスとアエネーアースは、ダンテの先祖とダンテの関係の予型になっている」と記している。

 近づいてきた魂はダンテに向かって言う:
「おお、我が血族よ。おお、惜しみなく
降りそそぐ神の恩寵よ。おまえに対してと同様に
空の門が二度開かれたのは、いったい誰のためであったろうか」。
(224ページ) この3行の原文はラテン語だそうである。ダンテ以前に「空の門が二度開かれた」のはパオロに対してであると傍注に記されている。
 ダンテの先祖の魂の言葉が始まると、ベアトリーチェの目がダンテに向かって輝く。そして魂の言葉に応じて、ダンテは自分の先祖らしい魂に対して、その名を尋ねようとする。

 さて、ダンテの先祖の魂はどのように答えるのであろうか。
 今回は、ダンテが自分の叙事詩の模範を重ね合わせようとしている『アエネーイス』の該当する部分にも注意しながら、読み進むこととなった。両者を読み比べてみると、『神曲』の方が整然としているが、キリスト教的な要素が強すぎて、あまりにも観念的だという印象を受ける。『アエネーイス』の方が人間的な要素が強く、現実的でもあり、共感できる部分が多い。文学や芸術は、後世の作品の方が優れているとは必ずしも言えない、人類の文明の発展を超越したところがあるのではないかと考えさせられるのである。

アリ・ブランドン『書店猫 ハムレットの休日』

3月15日(水)曇り

 3月14日、アリ・ブランドン『書店猫ハムレットの休日』(創元推理文庫)を読み終える。『書店猫ハムレットの跳躍』、『書店猫ハムレットのお散歩』に続くシリーズ第3作である。
 ダ―ラ・ペティストーンは大叔母の死後、彼女が経営していたニューヨークのブルックリンにある<ぺティストーンズ・ファイン・ブックス>という書店を譲られる。この書店には大学の教授だったジェイムズ・T・ジェイムズという店長のほかに、標準よりも少し大きな黒猫のハムレットがついていた。ダーラが店を引き継いでから、この1人と1匹にロバートという若い店員が加わって、店をやりくりしている。ハムレットは顧客に対しては気難しく、冗談半分に「猛猫注意」の張り紙を店に貼り出さるほどであるが、人間の言葉と考えていることがわかるかのように、これまでいくつかの事件で、ヒントになるような行動をしてきた。
 『書店猫ハムレットの跳躍』で起きた事件のために、元気をなくしていたハムレットであるが、『書店猫ハムレットのお散歩』ではダーラが出場した空手大会にいつの間にか紛れ込み、彼女の演武中にその動きをまねる動作をし、その映像がネットで拡散して一躍人気猫となった。

 今回はその人気のために、ハムレットは全米・キャット・ショーに特別ゲストとして招かれることになり、飼い主であるダーラ、その親友の私立探偵であるジャクリーン・”ジェイク”・マルテッリとともにショーが開かれるフロリダに赴くことになる。ちょうど、<ぺティストーンズ・ファイン・ブックス>は書店内にカフェ・スペースを設ける工事に取り掛かるところであり、旅行に出かければハムレットはその工事の音に神経をとがらせなくてもよくなる。さらにフロリダにはジェイクの母親であるナタリア・”ナッティ”・マルテッリが住んでいるというのも好都合である。とはいうものの寒いニューヨークから、温暖なフロリダへの道中、キャリー・ケースに押し込められたハムレットは不機嫌そのものであった。

 南フロリダのフォート・ローダーデールの空港に到着した2人と1匹は、迎えに来るはずのナッティを待つうちに、ヒスパニック(キューバ系らしい)のタクシー運転手ティノに出会う。彼のタクシーに車をぶつけかけた運転手がナッティであった。キャット・ショーの会場に隣接するホテルに到着すると、ほっとしたダーラがウトウトしたすきをついて、ハムレットは彼女がネコ用に指定したバスルームから脱走して、バルコニーの手すりの上を優雅に散歩する。前途多難である。

 ショーの参加者が多く泊まっているホテルのロビーでは来場者から注目されるのにまんざらでもない様子のハムレットにダーラはほっとしたのだが、ハムレットと一緒に食事をしていると、マーティニを飲んでいた年配の女性と、若い物乞いらしい女性との間にひと騒動が起きる。一方、母親と一緒にいたジェイクは、母親の住むマンションの管理組合でトラブルが起きているという。しかも管理組合の理事長であるビリー・ポープという人物はナッティの友人であるだけでなく、キャット・ショーの運営者でもあるという。住人の大半がビリーを疑う中で、ナッティーは彼が無実であると信じている。

 翌朝、ショーの会場であるコンベンション・センターに向かったダーラたちは猫の愛護を訴えるデモ隊に遭遇したりする。会場では猫の世話をするボランティアのミルドレッドに会う。特別ゲストのハムレットのためには小さな書店のような特別のスペースが設けられていた。この配慮に感心していると、近くで猫が逃げたという騒ぎが起きるが、すぐに逃げた猫は見つかる。ダーラはショーの運営委員会委員長で、ポープの娘だというアリシア・ティンプソンに紹介されたが、彼女こそ、レストランでのトラブルの当事者であったマーティ二・レディーであった。

 キャット・ショーでハムレットは自分の出番をきちんと終えるのか、ショーは成功するのか、デモ隊はショーにどんな攻撃を加えるのか、さらに、マンションの管理組合をめぐる疑惑は解明されるのか…、偶然に出会った運転手のティムの親戚があちこちにいたりして、ストーリーの展開には三題噺的なに強引なこじつけもみられるが、ショーの進行の中で次々に起きる”怪”事件にダーラとジェイクは次第次第に引き込まれ、例によってハムレットが手近な本の1冊を落としては、手掛かりになりそうな情報を示唆する。それよりも何よりも、ショーの描写の中で語られる猫の品種とその性質についての情報がなかなか面白い:
 「ロシアンブルーは数ある猫の品種の中でもかなり頭のいい猫なんですよ。ショーに出るのが嫌だったら、審査員の前で暴れれば早くケージに戻してもらえるとすぐに気がつく。ロシアンブルーのブリーダーに関して昔からよく言われることがあるんです。バカに育てなきゃならないってね。賢いのは、ショーに出すのがむずかしいですから」(135ページ)。昔、あるペットショップで売れ残っていたロシアン・ブルーを飼おうかどうかと家人と相談しているうちに、売れてしまったことを思い出す。

 もう一つ、この作品の魅力になっているのは、キューバ料理の描写である。例えば「付け合わせにブラックビーンズとライスがついたキューバン・サンドイッチ」は「ハムとローストポーク、スイスチーズ、ピクルス、マスタードをキューバン・ブレッドで挟み、押しつぶして焼いたこの伝統的なサンドイッチはパニーニを思い出させる」(276ページ)。作者であるアリ・ブランドンは現在、フロリダに住んでいるとのことで、フロリダはキューバからの移民が多いということもあるかもしれないが、そうした特色のプラスの面を大いに作品の魅力として生かしている。
 人生も残り少なくなってきて、フロリダに出かける機会はまずないだろうが、この本を読んでいると、合衆国の他のどこよりも、フロリダに出かけたくなるような気持ちにさせられる。この作品の世界を体験するだけでなく、1930年代にヘミングウェイが住んでいたキー・ウェストの小さな島にある家と、彼が飼っていた猫の子孫を訪問してみたいとも思うのである。

引き出しの隅に

3月13日(月)小雨が降り続いている

引き出しの隅に

引き出しの隅に
雪国で暮らしていたころに買った
セーターを見つけた
機械編みのインディゴ色のセーターだ

店の人は フランスの海軍の水兵が着ているセーターだといった
水兵たちは素肌の上からこのセーターを着ているという
アラン・ドロンがそうやってこのセーターを着ている
映画がありましたねえといった

アラン・ドロンが気になって買ったわけではない
アラン・ドロンと似ても似つかぬ日本人なので
セーターを水兵のようには着なかった
それでも着ていると、話のタネにはなった
雪国での冬をこのセーターを着て過ごしていた

雪国から離れて
乾いた空気の都会に住むようになり
この冬も このセーターを着ずに過ごした
それでも
引き出しの片隅のセーターを見ては
このセーターを着て過ごした日々のことを思い出す

ジェイン・オースティン『エマ』(4)

3月13日(月)曇り

これまでの展開
 ロンドンに近いイングランド東南部のサリー州のハイベリーという村に住む地主の娘、エマ・ウッドハウスは若く、美しく、村の女王的な存在であった。彼女の家の家庭教師(ガヴァネス)であったミス・テイラーが、村の有力者の1人であるウェストンと結婚したのは、自分の働きのためであると信じ込んだ彼女は、自分には縁結びの才能があると思い、村にある寄宿学校の生徒であるハリエット・スミスを村の牧師であるエルトンと結びつけようと画策する。隣村の地主であり、エマの姉の夫の兄であるジョージ・ナイトリーはエマのそういう出すぎた行動をたしなめる。ハリエットはナイトリーの信認篤い農夫のロバート・マーティンから求婚されるが、ハリエットがもっと身分の高い人物と結婚すべきだと考えているエマはそれを断るように指示する。そのことで、エマとナイトリーの仲が気まずくなる。エルトンは、エマにハリエットの肖像を描くことを勧め、絵が完成すると、額縁を買いにロンドンに出かけたりして、ハリエットのことがまんざらでもない様子に思われた。クリスマスが近づいて、エマの姉のイザベラが夫のジョン・ナイトリーや子どもたちとともに、里帰りしてくる。この機会にエマとナイトリーは仲を修復する。

 社交好きのウェストン氏が里帰り中のジョン・ナイトリー夫人たちを含めたウッドハウス家の人々を12月24日にディナーに招待する。内輪の集まりなので、両家の人々のほかはエマの仲良しのハリエット、牧師のエルトン、ジョン・ナイトリーの兄の(ジョージ・)ナイトリーが招かれただけであったが、ハリエットが風邪をひいて出席できなくなる。心配したエマは見舞いに行くが、その帰りにエルトンに出会う。エルトンはハリエットの病気が伝染性のものではないかと疑い、エマの身を案じる。エルトンとハリエットとを結び付けたいと思っているエマは、エルトンの声がおかしいことを指摘して、大事をとってディナーには出席しないように忠告する。エルトンはその忠告を喜んだものの、その場に居合わせたジョン・ナイトリーが自分の馬車に乗れば寒さは問題がないというと、その申し出を喜んで受け入れ、ディナーに出席することに決める。
 ハリエットの見舞いに行くエルトンと別れた後、一緒に歩きながらジョン・ナイトリーはエマに、エルトンはエマに気があるらしいと言って、彼に対する態度に気を付けるように忠告する。エマは彼がずいぶん変なことをいうものだと当惑する。
 ウェストン家に向かう馬車に乗り込んだエルトンはパーティーを楽しもうとしている様子であり、家庭を第一に考えるジョン・ナイトリーとは話が合わない。エマは、エルトンがハリエットのことをそれほど気にかけている様子ではないことをいぶかる。(第13章)

 ウェストン家に着いたエマは、客間でエルトンの隣に座ることになり、彼のなれなれしいおしゃべりにイライラする。他のみんなはウェストンの息子(=フランク・チャーチル)の話をしているのに、聞き逃してしまう。エマは結婚するつもりはないと心に決めてはいたが、フランク・チャーチルの存在はなぜか気になっていたのである。〔フランクはウェストンが死んだ先妻との間に儲けた子どもで、ヨークシャーの名門である先妻の実家のチャーチル家で育てられているのである。〕
 その後、ディナーの席に着いたエマはウェストンから翌年の1月にフランクが訪ねてくる予定であるという。エマの元家庭教師であったウェストン夫人によると、フランクの育ての親であるチャーチル夫人は大変に気まぐれで横暴な人物であり、フランクの行動はその意向に左右されているので、実際に訪れて来るかどうかはわからないという。そしてエマに次のようにいう。
 ’My dearest Emma, do not pretend, with your sweet temper, to understand a bad one, or to lay down rules for it: you must let it go its own way.'
「あなたみたいに性格のいい人が、性格の悪い人のことをわかったつもりにならないほうがいいわ。決めつけたりしないほうがいいわ。こういうことは成りゆきに任せた方がいいの。」(中野訳、193ページ)
「ねえエマ、あなたは優しい気性の持ち主だけれど、性悪女の気持ちがわかったようなふりをしたり、そのためのルールを決めたりはしないほうがいいわ。ほうっておけばいいのよ。」(工藤訳、191ページ)(第14章)

 折から雪が降り始め、ディナーは打ち切りになる。帰りの馬車にエルトンと2人で乗ることになったエマは、彼から愛の告白を受ける。エルトンとハリエットの仲を取り持とうとしていたエマは、2人の間にあいが芽生えているというのが彼女の夢想であったことに気付く。(第15章)

 エルトンがハリエットではなく、自分に思いを寄せていたことを知ってエマはショックを受ける。そしてエルトンが、自分の社会的地位を高めて、財産を増やしたいと思っているだけの人物であると気づく。帰宅後、大雪のために外出ができないまま、数日が過ぎる。(第16章)

 天候が回復しジョン・ナイトリー一家はロンドンに戻る。その日の夜に、エルトンからバースに出かけ、2,3週間滞在するという手紙がウッドハウス氏あてに届く。エマはハリエットを訪問して、これまでのいきさつを説明する。ハリエットは涙を流すが、悲しみに耐える。その様子にエマは感動する。そして何とか彼女を幸せにしてあげようと考える。(第17章)

 フランク・チャーチルが実父のウェストン氏に会いにやってくるという話は取りやめにあった。この件をめぐってエマとナイトリーの意見は対立する。エマは、チャーチル夫人の横暴さがフランクの行動を邪魔していると言い、ナイトリーは、フランクに来る気があればその位のことはできるはずだと主張する。エマは、時々意見の違いから衝突することはあっても、ナイトリーが心の広い人間だと思っていたので、彼がフランクのことを自分とは違う性格の持ち主だというだけで嫌悪していることが理解できない。(第18章)

 私の手元にあるPenguine English Library版では、この物語は3部構成になっていて、今回の最後に紹介した第18章までが第1部である。物語の表舞台にまだ登場してこない人物がフランク・チャーチルをはじめまだ何人かいることに留意してほしい。さらに言えば、それらの登場人物が表面に出ない別の物語を展開させているかもしれないのである。
 エマは21歳で、まだ人生経験はそれほどのものではなく、ウッドハウス家では女主人として手腕を振るうことができるかもしれないが、外の世界には彼女の力に余ることがいくらでもある。エルトンの牧師という外見を信用しすぎて、彼が相手によって態度を使い分けていることに気付かず、また自分に対する関心とハリエットに対する関心を識別できず、ジョン・ナイトリーの指摘を見当外れだと思ったりしたのはその一例である。しかし、十分に世故に長けているとはいいがたい彼女がさまざまに行動するから物語の展開が面白くなるということも確かである。さて、物語はこの後どのように展開していくのであろうか。

『太平記』(149)

3月12日(日)晴れ

 建武3年(1336)、京都を占領していた足利方は比叡山延暦寺に落ち延びていた宮方の軍勢の反攻を防ぐことができず、正月30日に都から撤退、2月6日に摂津手島河原の戦闘、7日には湊川一帯の戦闘で大敗し、足利尊氏・直義兄弟は大友貞宗の進言により、船で九州へ落ちのびた。
 一方2月2日に、京に戻った後醍醐天皇は25日、建武の年号を延元に改めた。わずかな軍勢で筑前多々良浜に上陸した尊氏は、宗像大宮司の館に迎えられた。尊氏が九州に落ち延びたのは、少弐入道妙恵(貞経)を当てにしてのことだったが、その少弐の居城である内山城は宮方の菊池武俊の攻撃を受けて落城、少弐の一族郎党の大半は戦死したのであった。

 少弐の城が落城したので、菊池の率いる軍勢はますます勢いを増して、尊氏の軍勢が留まっている多々良浜へと押し寄せた。尊氏は、香椎宮(福岡市東区香椎)から菊池の軍勢の様子を探ると、敵は4,5万騎もあるように思われ、味方はわずかに300余騎にすぎず、その大部分は馬にも乗らず、鎧兜も身に着けていないという状態であり、到底勝ち目はないと判断して、もはやこれまでと自害を決心する様子であった(尊氏という人は、すぐに前途を悲観して腹を切ろうとするところがある)。
 その様子を見た弟の直義が兄を堅く諫めて、次のように述べた。「合戦の勝負は、必ずしも軍勢の大小には左右されないことを思い起こしてほしい。漢の高祖が滎陽(けいよう)で楚の項羽の軍勢に包囲されたもののわずか28騎でかろうじて脱出して、最後は項羽の100万騎を破って天下を統一した例がある。わが国では源頼朝が石橋山の合戦で敗れて土肥の杉山の洞窟に隠れた時にはわずか7騎の武士が従うだけであったが、その後平家を滅ぼして征夷大将軍の位についた例もある。これらは天のあたえる運命を待って、眼前の事態に処した例である。敵は大軍ではあるが、味方も300余騎はそろっている。ここにいる武士たちは、今までわれわれに随行して、われわれの存亡の行方を終わりまで見届けようと思っている者達ばかりなので、一人も敵に後ろを見せる事は無いだろう。300騎の武士たちが、気持ちを一つにして戦えば、敵がいかに大軍であろうとも、退却させることができないとは言えないだろう。自害はひとまず思いとどまってほしい。直義がまず、先頭に立って一戦を試みるつもりである」。このようにいって、直義は香椎宮から出発していった(こういうときに必ず、直義が意見をして、尊氏を励ますのだが、実際に戦闘になると、尊氏の方が能力を発揮するのが皮肉である)。

 直義には足利一族の仁木義長、高一族の大高重成、南宗継、高師久(師直の弟)、高師冬(師直の養子)、尊氏・直義兄弟の母方の従兄弟である上杉憲顕、足利一族の畠山国清、同じく細川顕氏(四国の兵を率いて活躍した細川定禅の兄)、大友氏泰、島津四郎(第10巻に登場する北条高時を裏切って宮方に降参した武士であろうか?)、曽我時助、白岩彦太郎、八木岡五郎左衛門、美濃の土岐一族の饗庭新左衛門といった武士たちが主だった面々で、総勢250騎、この軍勢で3万余騎の敵と戦おうという所存で、自分の命を塵芥のように軽く思う、その心のほどはあっぱれである。

 直義は、旗の先端を下げて戦闘態勢に入る様子を見せながら、香椎宮の社壇の前を通り過ぎたのであるが、その折に、烏が杉の葉を一枝くわえて、直義の兜の上に落とした。直義は、すぐに馬から降りて、これは神仏が我々を守ってくれるというめでたいしるしであると恭しく礼拝して、杉の葉を左側の鎧の袖に刺したのであった。
 両軍が近づいて、鬨の声を挙げようとするとき、敵の軍勢が圧倒的に多いのを見て、臆病風に吹かれたのであろうか、大高重成が、急に「それがしは、尊氏将軍のお側に控えている武士たちがあまりにも少ないので、身辺の警護に向かいます」といって、引き返して帰っていった。直義はこれを見て、そういうことならば、初めから将軍のもとに留まっていればよいのに、敵を見てから引き返すというのはその魂胆があまりにも見え透いている。やれやれ、大高の5尺6寸(約170センチ)の太刀を5尺(約150センチ)切り捨てて、剃刀にした方がましである(その剃刀で頭を丸めて坊主になれ)と笑いながら言い放つ。

 そうこうするうちに、菊池は、5千余騎の兵を率いて、多々良浜の西から近づいて、この頃の合戦では開始の合図として双方が鏑矢を射交わしていたのであるが、その鏑矢を射放つ。直義のほうでは、あえて返答の矢を射るなということで、そのまま鳴りを潜めていたのであるが、はるかかなたの雲の上から、誰がいたのかはわからない白羽の鏑矢が、敵の上を鳴り響いて、飛んでゆき、どこに落ちたかはわからないままであった。直義の率いる武士たちは、この様子を見て、これはただのことではない(神仏が我々の軍勢を守っているらしい)と頼もしく思ったので、勇気凛々、運を天に任せて戦闘に臨んだのである。

 両軍がにらみ合って、まだ戦闘を開始しないところに、菊池方から、誰とは知らず、抜け駆けをしてきた武士がいる。足利方の祖が左衛門、白岩彦太郎、八木岡五郎という3人の武士が、3人とも馬に乗らず、鎧兜も身につけないというありさまではあったが、太刀ばかりを頼りにして先頭に立っていたが、ちょうどいいカモがやってきたと思ったので、白岩がこの敵に走り向かって、飛びついて斬りつける。白岩が太刀を振り回したので、馬が驚いて左手へそれたところを、「してやったり」と鎧の先端を蹴り返した。白岩があまりに近くくまで寄っていたので、馬上の敵は太刀で斬りかかることができずに、腰の短刀を抜こうとしたが、鞍を馬に固定させる腹帯が延びていたのであろうか、鞍とともに逆さまになって落馬してしまった。白岩は落馬した敵の武士を抑え込んでその首をとる。馬が離れたところにいたのを、曽我左衛門が走り寄って、自分のものにする。死んだ武士が身につけていた鎧を、八木岡五郎が手に入れて、自分のものにする。白岩の手柄で、立派な武士が2人出来上がり、3人ともに敵の中に攻め入る。

 既に名前が出てきた仁木義長に加えて、山名時氏(以前から書いているが、山名氏は新田一族であり、新田義貞と行動をともにするものが多かったが、このように尊氏に従う者もいた)、宍戸朝重、岡部三郎左衛門宗綱、饗庭六郎らが、味方を見殺しにするな、続けと叫んで、3人に続き、大軍の中に駆け込み、乱戦を続ける。仁木は近づいてきた敵5騎を斬って落とし、6騎を負傷させ、さらに敵の中に踏みとどまって、斬りあいで曲がってしまった刀を左足で踏んづけて元に戻しては斬りあい、またまがったのを押しなおして切り結び、命の続く限りと戦い続ける。
 そうこうするうちに直義は、150騎の軍勢に魚鱗の陣形をとらせて、大軍の中に突っ込ませる。菊池の軍勢は兵員の数では100倍もあったのだが、時の運に見放されたのであろうか、前陣が戦っても、後陣が続かず、味方が劣勢になっても、力を合わせようとすることがない。足利方のわずかの軍勢に追い立てられて、一陣の5千余騎の軍勢は、多々良浜の遠浅の干潟を20町以上退却したのであった。(この時代の1町がどのくらいの距離であったのかははっきりしないが、1町≒100メートルと考えておけばよいのではないか)。

 菊池の軍勢の搦め手として加わっていた松浦、神田の武士たち(長崎県・佐賀県の武士たち)が、どうしたことであろうか、足利方の軍勢は300騎にも満たなかったのに、3万騎はあると錯覚し、すっかり怖気づいてしまって、一戦も交えずに、足利方に降伏してしまった。菊池はこの様子を見て、前途ますます多難であると判断し、足利方の主力との決戦を回避して、急いで本拠である肥後の国に引き返してしまった。

 存亡の際に追い詰められていた尊氏・直義兄弟であったが、決死の覚悟で戦ったことで、戦局を逆転することができた。これまでの経過を見ていても、将兵の大半はあまり戦意がなく戦局を傍観して、有利になった方に味方しようという例が多い。尊氏・直義の部下でも、大高重成のように兵力の差を見て臆病風に吹かれた武士がいたことを『太平記』の作者は書きとどめている。これが当時の武士のありのままの姿であったと考えた方がよいようである。尊氏・直義兄弟は九州で再起するという所期の目標を達成できるだろうか。それはまた次回。

日記抄(3月5日~11日)

3月11日(土)晴れ

 3月5日から、本日までに経験したこと、考えたことなど。
3月5日
 『朝日』の朝刊に林典子『ヤズディの祈り』(赤々舎)という本の書評が出ていた。イラク北部の山間部に暮らす少数民族の人々がこうむった運命を見つめる内容のようである。イラク戦争をキリスト教とイスラーム教の戦いだと考えた人々がいたが、イラクにはキリスト教も少なからずいたし、イスラーム教徒でもキリスト教徒でもない人々もいて、戦争によって大きな被害を受けたのはむしろそれらの人々であったという事実をもっとしっかりと認識する必要がある。

 横浜FCはV・ファーレン長崎とアウェーで対戦し、1-1で引き分けた。負けなかったことで良しとするか。

3月6日
 NHK「ラジオ英会話」は遠山顕先生が体調を回復して再登場。よかったよかった。番組の方は昨年11月に放送する予定だった”Harvey and Shirley Downsize" (身の回りを整理する)を放送した。冬のリゾート地であるワイオミング州のジャクソンホールに住むハーヴィーとシャーリーのクローンショー夫妻は大雪に見舞われている。窓の外の雪を見ながら、ハーヴィーは
It's never ending! I'm sick and tired of shoveling snow. (まったくよく降るなぁ。雪かきするのにはうんざりだ。)
どうも彼は、RV(部屋やキッチンのついたキャンピング・カー)でアリゾナを旅行した経験が忘れられないようである。

3月7日
 『朝日』朝刊のコラム「経済気象台」に聖書の中にはライオンについての記述があると記されていた。むかしは中東やヨーロッパにもライオンが住んでいたのである。中東やギリシアの古代遺跡で見いだされるライオン像には実際にライオンを見なければできないような描写があるが、中世に描かれた聖ヒエロニムスとライオンの図などのライオンの姿は見てないことが明らかなものも数なくない。

 同じ『朝日』の紙面で「留学生を受け入れる」という問題について、3人の識者が発言をしている。3人ともそれぞれの立場で正しいことを述べているのだが、議論がかみ合っていない。議論の整理がされていないことが、この問題の最大の問題である。

3月8日
 NHK「実践ビジネス英語」は新たに”Money Matters" (お金のこと)という話題に入った。あるコラムニストが
Children deserve to know what their parents make. (子どもは親の収入額を知らされるべきだ)
と主張しているのを読んだということから議論が始まる。いわゆるcitizenshipの教育の中でも、政治や法律と並んで、経済や職業は重要な項目となるはずだと改めて考えさせられた。

3月9日
 「実践ビジネス英語」の議論の続き:
 昔は、子どもたちに金銭のことや家計のことについて教えないのがふつうであったのだが、
It doesn't make much sense these days to try to protect children from the reality of family finances. I mean, think of all responsibilities their generation will face starting with the huge student loans they'll have to pay off. (家計という現実から子どもたちを守ろうとするのは、今ではあまり意味がありませんね。というのも、考えてみてください、返済しなければならない巨額の学生ローンに始まり、彼らの世代がこれから直面することになる様々な責務を。)
というふうに話が展開する。
 パートナーのヘザーさんによると、日本の「奨学金」は米国のscholarshipではなく、student loanに対応するものだとのことである。

 NHK「まいにちフランス語」応用編は”Fruits de mer (1) Les Français les aiment d'une bien étrange manière"(海の幸(1) フランス人は不思議な方法で楽しむ)という話題を取り上げた。fruits de merは「海の幸」と訳されているが、poisson(魚)は入らないのだそうだ。貝類とか、ウニとかエビやカニがfruits de merということのようである。

3月10日
 「まいにちフランス語」の中でパートナーのヴァンサン・デュレンベルジェさんが話したこと:
En France, je dirai qu'on mange la galette des Rois à l'Épiphanie, les crêpes pour la Chandeleur. (フランスでは「公現祭」の1月6日には、アーモンドのお菓子、ガレット・デ・ロワを食べます。2月2日「ろうそく祝別の日」には、クレープを食べます。)
 辞書によるとgarette des Roisというのは中に、そら豆か陶製の人形が隠してあって当たった人が王(女王)様になる決まりだそうである。アーモンド(almond)というのは英語で、フランス語ではamande(アーモンドの木はamandier)という。
 子どものころ、アーモンド・チョコレートというのが売り出されたのがアーモンドに出会った初めであるが、実は「聖書」にはアーモンドはよく出てくる植物である。例えば、「創世記」30.37に「ヤコブは、ポプラとアーモンドとプラタナスの木の若枝を取って来て、皮をはぎ、枝に白い木肌の縞を作り」とある。ところで、文語訳聖書では「茲(ここ)にヤコブ楊柳と楓と桑の青枝を執り皮を剝ぎて白紋理(すぢ)を成(つく)り枝の白き所をあらはし」とある。ポプラが柳、アーモンドが楓、プラタナスが桑というのはだいぶ違う。違いすぎる。

3月11日
 NHKラジオ「攻略!英語リスニング」は”Around the World in Eighty Days" (八十日間世界一周)を話題として取り上げた。ジュール・ヴェルヌ(Jules Verne 1828-1905)が1872年11月6日から12月22日まで新聞小説として『ル・タン』紙に連載し、1873年にパリのエッツェル社から単行本として出版された作品(フランス語の原題はLe tour du monde en quatre-vints jours)である。英国の富豪フィリアス・フォッグが1872年10月2日に彼が会員である<改革クラブ>の会員たちと80日間で世界を一周するという賭けをして、新たに雇い入れたパスパルトゥーという従者と旅行に出かける。
 この小説は1956年に当時大プロデューサーとして知られ、エリザベス・テイラーの夫でもあったマイク・トッドが映画化、マイケル・アンダーソンが監督、脚本担当の1人が監督としても知られるジョン・ファロー(モーリン・オサリバンの夫で、ミア・ファローの父)、フォッグをデヴィッド・ニーヴン、パスパルトゥーを闘牛士出身の喜劇俳優であるカンティンフラス、それにインドから旅に加わるアウダを当時まだ若手の女優であったシャーリー・マクレーンが演じた。旅の途中で出会う人物を有名な俳優たちが演じていて、カメオ出演の名の起こりとなったといわれる。原作ではロンドンからスエズ運河までフォッグは予定通りに旅行するのだが、映画では鉄道が不通でアルプスを気球で越えようとしてスペインに流されるという波乱がある。ここでカンティンフラスが闘牛を演じる見せ場があるわけである。この映画を見たのはもう60年も昔になってしまった。
 
 

呉座勇一『応仁の乱』(13)

3月10日(金)晴れ

 応仁の乱は応仁元年(1467)から文明9年(1477)まで続いた大乱である。この書物は『経覚私要鈔』と『大乗院寺社雑事記』という同時代の2つの日記を史料として、この戦乱の全容の解明を試みるものである。すでに紹介した第1章「畿内の火薬庫、大和」では史料となる2つの日記が書かれた奈良の興福寺が事実上の支配者であった大和地方の状況と室町幕府との関係を、『経覚私要鈔』の筆者である経覚が将軍義教によって失脚させられるところまでを記している。
 第2章「応仁の乱への道」は大和に隣接する河内に本拠を持つ室町幕府の管領家である畠山氏の家督をめぐり、義就と政長との争いが続き、それが室町幕府の主導権をめぐる将軍義政の側近たち、山名宗全に近い人々、細川勝元に近い人々の争い、義政の弟である義視と子どもである義尚のどちらを将軍光景とするかの争いと絡み、複雑な様相を呈していったことが記される。畠山氏の家督をめぐる争いは衆徒・国民と呼ばれる大和地方の土着の武士的勢力を巻き込むものであった。
 第3章「大乱勃発」では畠山義就が山名宗全の支援の下に上洛し、政長を破った御霊合戦の後、応仁元年5月に政長を支持する細川派の巻き返しが始まり、大乱が勃発した次第が記されている。細川を盟主とする東軍は勝元、政長、斯波義敏、京極持清、赤松政則、武田信賢らで構成され、将軍義政を確保して、山名方に先制攻撃を仕掛け、山名を盟主とする西軍は宗全、義就、斯波義廉、一色義直、土岐成頼、大内政弘らで構成され、当初は劣勢であったが、中国地方の武士を率いた大内の到着により勢いを取り戻し、やがて義視を擁して西幕府を構成するようになる。戦乱は当初の両者の目論見に反して長期化したが、これは物見やぐらを築いたり、防御のための堀を掘ったりする戦法の変化によるものであり、戦乱は市街戦から、自分たちの補給路を確保し、敵の補給線を断とうという周辺地域での戦いへと拡大していった。
 第4章「応仁の乱と興福寺」では、この戦乱によって興福寺が地方の荘園からの年貢の取り立てに苦しんだり、京都の公家たちが戦乱を避けて奈良に「疎開」してきた様子が記されている。経覚は武士を頼りにすることで年貢の取り立てを確保しようとしていたが、尋尊は慎重な態度をとり続けたという。
 第5章「衆徒・国民の苦闘」では中世都市奈良で春日大社の「おん祭り」が中断せずに続けられるなど、大和地方は京都での戦乱にもかかわらず、比較的平和であったが、戦乱の長期化に伴い、後南朝の後裔が挙兵(これを西軍が支持)、西軍が大和に侵攻、また興福寺と縁の深い朝倉孝景が西軍から東軍に寝返るなど大和も戦乱に巻き込まれるようになった。

 今回は、第6章「大乱終結」の概要を紹介する。
 文明3年(1471)に京都では疱瘡が流行し、後土御門天皇や足利義尚まで巻き込んだ。同じ時期奈良でも疫病が流行したが、干ばつと戦乱のために食糧が不足し、人々の体力が奪われていたことがその理由であると考えられる。
 文明4年(1472)には細川勝元と山名宗全の間で和睦交渉が始まる。両軍ともに士気が低下し、厭戦気分が高まっていたことがその背景にあったと考えられる。この年の2月16日に、山名宗全は西軍諸将にそれぞれ使者を派遣し、東軍との和睦を提案した。しかし西軍では、畠山義就と大内政弘が和睦に反対した。義就は畠山氏の家督にこだわっていたし、大内は瀬戸内海の制海権をめぐって細川一門と利害が対立していたからである。東軍では山名氏と播磨・備前・美作の領有をめぐって戦い、優位に立っていた赤松政則が反対であった。

 3月に細川勝元は養嗣子であった勝之とともに隠居し、月に宗全は家督を孫の政豊に譲って、両軍の大将がともに引退してしまった。このことにより山名と細川の間のわだかまりは解消されたかもしれないが、正式な講和交渉が行われなかったために、諸将は思い思いに戦闘を続け、大乱はなおもだらだらと続くことになってしまった。
 西軍から東軍に寝返ったが、思わしい戦果を挙げられなかった朝倉孝景は、いったん主家を乗り越える下克上を断念し、東軍の斯波松王丸(義敏の子。後の義寛)を主君と仰ぐことにして、大義名分を獲得、西軍の甲斐方を破り、ついに越前を平定する。西軍の主要な輸送路は山名・大内に分国が多い山陰地方から日本海を渡って越前に入り、琵琶湖水運を利用して京都へと食料を運ぶものであり、このことによりそれが寸断され、西軍の兵站の維持が困難になった。
 また東軍の赤松政則が大山崎の天王山を抑えた。山陽地方の物資は瀬戸内海を通って大坂湾に入り、淀川を船で遡上して京都に運ばれていた。淀川流域の山崎が東軍の手に落ちたことにより西軍は瀬戸内海からの補給路も失った。さらに東軍の京極政経の重臣である多田高忠が、東国からの補給路の要地である近江を制圧した。西軍の土岐成頼の重臣である斎藤妙椿が南都か近江を奪回したものの、西軍の劣勢は明らかになってきた。
 
 文明5年(1473)3月18日に山名宗全が70歳で他界、5月11日には細川勝元も44歳の働き盛りで死去した。同年12月19日、足利義政は息子の義尚に将軍職を譲った。義尚はまだ9歳であり、実権は義政が握っていた。これは将軍の後継問題から義視を排除するもので、遠からず、西幕府を屈服させることができるという義政の自信の表れであると呉座さんは論じている。

 文明6年(1474)2月、講和交渉が再開されたが、東軍では赤松政則、西軍では畠山義就が反対した。4月3日に、山名政豊と細川政元の会談が実現し、和睦が成立した。しかし、西軍の大内政弘、畠山義就、畠山義統、土岐成頼、一色義直は和議に応じず、陣を解散しなかった。東軍の畠山政長、赤松政則も臨戦態勢を解かなかった。結局、和睦は山名・細川間だけのものとなり、西軍と東軍の和議には至らなかった。

 山名一族が東幕府に降伏したことで、西軍に主力は畠山義就・大内政弘に移行した。山名宗全と細川勝元という両軍の総帥が没し、山名・細川両氏の間で和議が成立したにもかかわらず大乱が続いたのは、あくまで畠山政長打倒を目指す畠山義就が反細川の大内政弘を巻き込んで徹底抗戦したからであると呉座さんは論じている。そして、「山名宗全の決起は、足利義政神性の打破を目的としていた。だが、山名一族降伏後の西軍は反細川の色彩を強めていく。ここに応仁の乱は新たな局面を迎えた」(191ページ)と大乱の性格が変化していったことを指摘している。

 この頃、西軍の中では美濃の守護である土岐成頼の重臣である斎藤妙椿の発言力が大きくなっていた。彼は応仁の乱が始まると、近江・伊勢・尾張などに侵攻し、その武名を轟かせていた。尋尊の『大乗院寺社雑事記』には東西両軍のどちらかが勝つかは、守護の家臣である妙椿の動向によって決まる。ありえないことであると反感を込めて記されている。尋尊の思惑がどうであれ、守護代層が応仁の乱のキーマンに成長していたことが記録の中に書きとどめられているのである。文明6年に衝突を起こした甲斐と朝倉を和睦させたように斎藤妙椿の存在は大きく、西軍は、彼の力で東部戦線を保つことができたが、妙椿にも上洛するほどの余裕はなかった。

 室町幕府は将軍足利義尚の伯父である日野勝光を通じて、終戦工作を模索するが、足利義視の処遇が決まらないこともあって、交渉は進展しなかった。越前が完全に東軍の支配下にはいり、西軍は一層不利に陥ったが、文明8年(1476)に日野勝光が死去し、終戦工作は暗礁に乗り上げた。
 この年の9月に、足利義政は大内政弘に御内書を送り、終戦への協力を求め、受諾を得た。政弘としても、10年近く領国を離れて京都で戦闘に加わっていたので、本国が心配になってきたのである。その後、講和交渉は日野勝光の妹で足利義政の正室である日野富子である。彼女は東西両軍に金を貸して戦乱の拡大を促したと悪く言う向きもあるが、それは当たらない、むしろ終戦に向けて努力していたのだと呉座さんは説いている。

 大内政弘が降伏すると、畠山義就は孤立することになる。そこで、先を見越して京都の陣を引き払い、政長の重臣遊佐長直が守る河内若江城へと向かった。ただし、義就撤退後も、西軍は京都の下京に布陣していた。取り残された形になる足利義視は斎藤妙椿に上洛を要請し、10月に斎藤が上洛する。しかし11月に大内が東幕府に降参する。同月、土岐成頼・畠山義統ら西軍の諸大名は自陣を焼き払って、それぞれ本国へ下った。こうして「西幕府はなし崩し的に解散し、応仁の乱は形の上では終わった」(198ページ)。行き所のない足利義視は土岐成頼とともに美濃に下ることになった。「11年にもわたる大乱は京都を焼け野原にしただけで、一人の勝者も生まなかった。しかも戦乱の火種は完全に消えたではなかったのだ」(199ページ)。

 「完全に消えたわけではなかった」戦乱の火種は、戦国時代へと燃え広がっていく。呉座さんも別のところで論じているように、応仁の乱を通じて守護代層が力をつけ、また朝倉孝景のように下剋上を企てるものもあらわれ、さらにこの後に出てくるように畠山義就は暴れ続けるなど、新しい力の台頭は確実にみられるので、「一人の勝者も生まなかった」というのはあまり適切な表現ではないようにも思う。

ダンテ・アリギエリ『神曲 天国篇』(14⁻2)

3月9日(木)晴れ

 ベアトリーチェに導かれて天界へと旅立ったダンテは月天、水星天、金星天、太陽天で彼を迎えに来た魂たちと対話を交わし、知恵を深めていく。太陽天では様々な対話の後に、ベアトリーチェが最後の審判の後に死後の魂はどうなるのかという問いに答えてほしいと神学者たちに要請し、ソロモン王の魂が最後の審判の後には魂と肉体とが融合して、人間はより完全になり、神が与える「恩寵」も増すので、輝きも増すと答える。

 この後で、復活した肉体を取り戻し、完全になることを待ち望む太陽天の魂たちは喜んで第三の輪を作り、ダンテたちを祝福した。その輝きにダンテは圧倒されるが、
しかしベアトリーチェが微笑みながらあまりにも美しく
私の前に現れた。その愛は、記憶が追いつけなかった
あの数々の光景の中に置かれることになる。

その姿からわが目は再び上を向く力を
とりもどした。そして私は、自分がわが貴婦人だけをともなって
さらに高い幸いへと運ばれたことが分かった。
(215-216ページ) こうしてダンテとベアトリーチェは次の天空へと運ばれていった。

私は自分がさらに昇っていたことにはっきりと気づいたのだ、
その星の燃えるような微笑のために。
それは普段よりも赤々としているように感じられた。
(216ページ) 彼らが次に訪れるのは火星天である。ダンテとベアトリーチェの訪問を喜び、火星は普段よりも赤く変じているのである。

 ダンテは全身全霊を込めて自身の感謝の想いを神にささげ、それにこたえて赤い無数の星が神を表す円と、キリストの受難を表す十字架を形作ってその中を動き回り、その十字架の上に磔刑のキリストの姿が輝くのを見た。
ここでは我が記憶は我が詩才を凌駕している。
というのも、キリストがあの十字架の上で稲妻のように光を放っていらしたのに、
(218ページ)

 そして美しい響きで地獄と悪に勝利するキリスト、つまり復活のキリストをたたえる歌が聞こえてきた。
その場所で私の前に現れた光の群れにより
十字架の上に一つの旋律が満たされ、
歌を聴き分けられない私の心をも奪った。
(219ページ) 聴き分けられないと言いながら、彼はいくつかの言葉を聴きとる。
それは気高い賞賛の歌であるとはっきり分かった。
なぜなら、訳が分からぬまま聴きとろうとしている者のようではあっても、
「復活を」「勝利を」と私に聞こえてきたからだ。

私は魅せられて愛に酔ってしまったかのようになっていた。
このような甘美な絆で私をとらえたようなものは
その時まで一切なかった。
(220ページ) 太陽天では、三位一体により創造された人類が、牢獄としての肉体の状態ではなく、完全なる肉体を手に入れて完成することが述べられていたが、そのような完成体への道を開いたのが、キリストの殉教であったことが語られている。

 火星天に達したダンテは、そこで彼を出迎える魂たちとどのような対話を交わすことになるのか。それはまた次回に。 

小野氏と横山党

3月8日(水)晴れたり曇ったり

 3月5日の『朝日』に「遣隋使」についての最近の研究成果を解説した記事が出ていた。厩戸王(聖徳太子)よりも小野妹子の役割を強調している点が興味深かった。小野妹子と華道の池坊との関係などについても記されていたが、関東に住んでいる人間である私にとっては、もっと気になることがある。

 小野氏は近江国滋賀郡小野を本拠地とする古代豪族で、一方で文人として知られる小野篁や能書家の小野道風、歌人の小野小町などを出した文化的な家柄であるとともに、鎮守将軍となった小野春風や藤原純友の乱の鎮圧にあたった小野好古など地方における治安の維持にあたった武人的な人物も出している。平安時代末期から南北朝時代にかけて南関東で活躍した同族的な武士団(=党)の中には小野氏の後裔であると自称するものがいた。その代表的な例が横山党と猪俣党である。

 安田元久は『武蔵の武士団――その成立と故地をさぐる』(有隣新書、1984)の中で、武蔵の武士たちが関東のほかの地域に比べると比較的小規模な武士団の結合体をつくっていたところに特徴があると指摘している。武蔵七党とよく言われるが、15世紀に編纂された辞書『節用集』には
 丹治・私市・児玉・猪俣・西野(西)・横山・村山
と記され、『武蔵七党系図』では
 野与・村山・横山・猪俣・児玉・丹・西
そのほかに、 
 横山・猪俣・児玉・丹(治)・西・私市・錣(しころ)
を七党とする説もあるという。(安田、前掲、153ページ) 安田が説くように、実際に7つの有力な武士団があったというよりも、「たんなる口調の良さから適当に作り出されたものと考えてよい」(154ページ)である。(ローマの七つの丘というが、実際には丘はもっとたくさんあるのと同じようなことらしい。) ただ、『吾妻鏡』における用例を見ると、このように「党」と表現されるのは武蔵の国の武士たちだけで(相模の「三浦党」が唯一例外をなす)あるという。

 剛勇の荒武者であるとともに、「もののあわれ」を知る心優しい武士であり、後に法然上人に帰依する熊谷二郎直実は私市党、熊谷と一の谷の先陣を争った平山武者所季重は西党、同じく一の谷の戦いで平家の武将平忠度の首級をあげた岡部六弥太忠澄は猪俣党というように、源平の合戦その他の戦いにおいて、武蔵七党の武士たちは党と呼ばれる小規模な部隊しか組織していなかったが、頼朝直属の武士として、すでに『平家物語』にその名を列挙され、あるものについてはその武勲を記されたのであった。

 横山党は武蔵国多摩郡、現在の八王子市の横山町辺りを本拠した武士団で、中央豪族である小野氏の後裔を称していたが、安田によると多摩川南側の多摩の横山と呼ばれる丘陵地に設けられていた小野牧と呼ばれる官営の牧場地の一部を開墾して開発私領とし、それを経済基盤として成長した在地領主であったと考えられるという。横山氏は次第に有力な同族的武士団に成長するとともに、他の武士団と姻戚関係を結び、影響力を広げていった。例えば、横山時重の姉妹は梶原景時の母であり、時重の子時広の姉妹は和田義盛の妻であった。

 「源頼朝が鎌倉幕府を創立した時、横山党の人々は、皆その下に参画した。横山権守時広、右馬允(じょう)時兼父子も御家人に列した。・・・ /また文治五年(1189)のの奥州征討に際しては、時広・時兼ともに従軍し、とくに頼朝の命令により、藤原泰衡の首を獄門にかける役を仰せつかったが、これは時広の曽祖父経兼が前九年の役で安倍貞任の首を懸ける役目をつとめた先例によるものであった。」(安田、162ページ)

 ところが、鎌倉幕府内で北条氏の勢力が強まるなか、建保元年(1213)5月の和田合戦で、横山時兼は和田義盛に加担し、一族数十人を率いて奮戦したが、ついに敗れて、横山氏は滅んでしまった。こうして本流は滅びたのだが、横山党を称する家はきわめて多く、小野・遠田・椚田(くぬぎだ)・井田・荻野・成田・中条・箱田・奈良・田谷・河上・玉井・別府・愛甲・海老名・山口以下数十におよぶという。そういうことで、この文章を読んでいる方の中にも、先祖は横山党の武士だったという方がいらっしゃるかもしれない。猪俣党も小野氏の後裔であると自称し、横山氏との系譜的なつながりを主張していたのだが、横山党が武蔵の南部、猪俣党が北部を本拠としていることを考えると、両者を同祖であると考えるのには無理があり、系図上の作為ではないかと安田は論じている。

 最後に、『小栗判官物語』の小栗の恋人である照手姫は、横山入道の娘ということになっていて(異説もある)、だとすると物語の語り手、あるいは、伝承者が照手姫を小野氏の血を引く存在として、小野小町に重ね合わせていたかもしれないとも思われる。ただし、男が通ってくるのを待っていた小野小町と、積極的に行動する照手姫ではかなり性格が異なることも、見逃すべきではないだろう。 

小学校教師ウィトゲンシュタイン

3月7日(火)晴れたり曇ったり

 オーストリアのウィーンで生まれ、分析哲学の発展に大きく貢献したルトヴィヒ・ウィトゲンシュタイン(1889-1951)は、ドイツ、英国で工学を勉強したのち、数学の基礎に興味を持ち始め、ケンブリッジ大学のラッセルのもとで研究をするようになる。第一次世界大戦が勃発すると、オーストリア・ハンガリー軍に志願兵として加わり、その間に書き溜めた原稿が有名な『論理哲学論考』となった。

 戦後、彼はトラテンバッハという山村で小学校の教師となる。この間の事情を藤本隆志『ウィトゲンシュタイン』によってたどっていくと、彼は第一次世界大戦中にトルストイに心酔してロシアの農奴のように生きようと決意したこと、捕虜収容所でルトヴィヒ・ヘンゼルという教師と出会ったこと、さらに、第一次大戦後のオーストリアで展開されたオットー・グレッケルによる学校改革の動きに共鳴したことなどがその理由と考えられる。なお、グレッケルはルトヴィヒの姉マルガレーテの友人であったそうである。

 興味深いことに、1946年10月25日に真の哲学的問題はなにかという問題をめぐり、大喧嘩を演じることになった相手であるカール・ポパー(1902-1994)も小学校教師の資格を取得したり、グレッケルの改革に参加したりした一人だという。小河原誠『ポパー』によるとウィトゲンシュタインも、グレッケルの改革運動の理論的な支柱の1人であったカール・ビューラー(1879-1963)の心理学理論から大きな影響を受けていたという。
 ビューラーはカント哲学の影響を強く受けた心理学の一派であるヴュルツブルク学派に属し、フロイトの精神分析学と行動主義心理学の間の第三の道を、ゲシュタルト学説的な認知心理学あるいは発達心理学の方向に探ろうとしていた。
 彼の学説の中心にあるのは感覚印象よりも、それらを整え秩序づける考え/枠組みの方が優位にあるとの主張である。子どもが自分の周りにある対象、馬や人や蝶の絵を描くと、それはほとんどの場合実物とはかけ離れたものになる。ビューラーによると、それは子どもが対象を正確に観察する能力をもっていないからではなくて、自分がそうした対象についてもっている観念を紙面に実現したに過ぎないというのである。彼は「実は子どもは見えるものを描かないで、知っていることを描く」と定式化する。哲学的な言い方をすれば、感覚印象から出発して「観念」が構成されるのではなくて、「観念」(既に知っている事柄)が感覚印象を体系化しまとめ上げる原理となっているというのである。

 ビューラーはそこから子どもは規則的な繰り返しによって学ぶのではないと指摘する。「子どもを観察した人なら、規則正しくくりかえしておこることはたいてい子どもの思考をまったく刺激したり呼び起こしたりしないことを知っている。・・・知能は新しい、未聞の事態を解決するための道具」(原田茂訳『幼児の精神発達』協同出版、127ページ、小河原『ポパー』59ページに引用)であると彼は主張する。思考は反復的な事象から法則的なものを帰納するという形で生じているのではなく、積極的に、1回限りでしか生じないものであっても、ともかく問題状況にかかわり、テストに値する解を能動的に案出しようとする働きなのである。

 彼の学説では、観念は感覚的な印象から受動的かつ自動的につくられるのではなく、逆にそれらに先行するのである。そこで、この考え方楽甥苦に適用されると、子どもの知的な能動性を尊重せよという主張となり、ロック、ヒューム、ヘルバルト、そして当時流行の哲学であったマッハの学説とは対立することになる。
 この点を学校改革運動との関連でいえば、彼の心理学は、子どもの知的能動性を強調する心理学となる。ビューラーが描き出した「児童の精神発達」とそこから引き出される教育者への助言は、子どもをただ受け身の存在ととらえ、知的な能動性を認めない従来の心理学とそれに依存する教育学を根本的に批判するものであった。

 さて、それまでのオーストリアの教育制度は、1805年の勅令に基づいて敬虔にして善良かつ従順な労働者を育成するためのものであったと藤本氏は論じている。(グレッケルの改革を論じたE.パパネク『オーストリアの学校改革』によると、朝礼が出されたのは1804年のことである。) その理論的な支柱となっていたのは、ヘルバルトの教育哲学であり、「授業の方法はまず第一に記憶力を鍛錬するものでなくてはならず、…『学校授業法教本』に規定された説明以外の説明を行ってはならない」とされていた。
 これに対して第一次世界大戦後、児童生徒の自主的参加を促進する考えが一時的に取って代わる。ところが、この改革運動の実際の担い手となったのは当時の社会民主主義者たちであって、教育改革よりも旧体制改革の様相を呈することが多く、結局は農村地域からの反対に直面して、1934年以後改革は撤回されるに至るのである。

 1919年に30歳でウィーンの教員養成学校(Lehrerbildungsanstalt)に入学したウィトゲンシュタインは1920年に「小学校教師資格証明書」を取得、9月にトラテンバッハの小学校に臨時教員として着任する。その後、1922年に短期間ハスバッハ、その後1924年までプフベルク、1926年までオッタータールと各地の小学校で教えている。
 当時の学校改革のスローガンは「自主活動」(Selbsttatigkeit)であったが、自然観察や工場見学をさせて学習レポートを書かせるというような経験的な学習方法を奨励していた。ウィトゲンシュタインの教師としての指導方法は、これらのスローガンに準拠して工夫されたというよりも、むしろ彼自身の性格に合ったやり方だったと思われるが、結果的には当時の学校改革運動の意図に実にうまく適合するものであったと藤本氏は指摘している。

 彼がどのようにその教育を行ったか、その反響はどのようなものであったかは、また機会を見つけて書くことにする。この原稿のもとになった文章は19年前に書いたものであるが、今、読み直してみて、ビューラーの心理学の理論やウィトゲンシュタインの教育の方法など、子どもの認知発達と教育方法をめぐる興味深い問題を掘り下げていると思ったので、改めて発表する次第である。

ジェイン・オースティン『エマ』(3)

3月6日(月)雨

 これまでの展開
 19世紀の初めごろ。イングランド南部サリー州のハイベリー村のハートフィールドに住む地主の娘エマ・ウッドハウスは、母が早く死に、姉が嫁いだので、まだ若いのにこの屋敷の女主人として病弱な父親の面倒を見ていたが、村の人々の尊敬を集める女王的な存在である。16年間彼女とともに暮らしてきた家庭教師(ガヴァネス)のミス・テイラーが同じ村の有力者の一人であるウェストンと結婚したので、精神的な孤独感を感じ始めた。ミス・テイラーとウェストンの結婚の橋渡しをしたのは自分だと思っているエマは、村の牧師で独身のエルトンの結婚相手を見つけようと考えはじめる。隣村の大地主であるナイトリーは、エマの姉の夫の兄であるが、エマの欠点を面と向かって指摘できる唯一の人物であったが、余計な世話を焼く必要はないと彼女をたしなめる。(第1章)
 ウェストンには先妻との間にフランクという息子がいて、先妻の兄であるチャーチルのもとに引き取られている。好青年だという噂であるが、ハイベリー村には顔を見せていない。(第2章)
 ウッドハウス家と付き合いのある人々の中に、寄宿学校の校長であるゴダード夫人がいて、彼女が自分の学校の特別寄宿生であるハリエットをハートフィールドに連れてくる。ハリエットが気に入ったエマは、彼女を自分の影響力で完璧なレディーに仕立てようと思う。(第3章)
 ハリエットは最近、学校の同窓生の家に招待されて暮らしていたが、その家の主人であるロバート・マーティンという青年が彼女に思いを寄せている様子である。エマはロバートのような下層の人間ではなく、紳士階層に属する人間とつきあうようにハリエットに言い聞かせる。(第4章)〔前回も書いたが、ロバートは決して、下層の人間ではなくて、エマの属する地主階層よりも一段低いだけの、ヨーマン=自営農民であり、ハリエットの相手として不釣り合いなわけではない。〕
 エマとハリエットがつきあっているという話を聞いたナイトリーは、この交流が2人のどちらにも役立たないと警戒するが、ウェストン夫人(ミス・テイラー)は彼の考えていることが理解できない。ナイトリーはエマが父親に甘やかされて、様々な欠点を克服できずにいることを指摘する一方で、彼女のことが気になって仕方がない様子である。(第5章)

Emma could not feel a doubt of having given Harriet's fancy a proper direction and raised the gratitude of her young vanity to a very good purpose, for she found her decidedly more sensible than before of Mr Elton's being a remarkably handsome man, with most agreeable manners....(Penguin English Library, p.40)
 「エマはハリエットの想像に適切な方向を与え、彼女の若い虚栄心に感謝の気持ちを呼ぶことにかなり成功した。というのも、まえにくらべてミスター・エルトンがとてもハンサムな青年で、身だしなみもたいそういいことにはっきり気づいたのが分かったからである。」(工藤政司訳、岩波文庫版、62ページ)
 「エマはハリエットの想像力を適切な方向、つまりエルトン氏の方へ向け、若い女性の虚栄心と感謝の念をかきたてることに成功したと確信した。エマが見たところ、ハリエットは明らかにエルトン氏を、美男子で感じのいい青年だと思いはじめているからだ。」<(中野康司訳、ちくま文庫版、65ページ)
 ハリエットが自営農民のロバートではなく、牧師のエルトンに興味を持ち始めたと確信したエマは、エルトンのほうでもハリエットに興味があるようだと彼女に仄めかした。エマは2人の間に恋心が順調に芽生えてきていると信じて、疑わなかった。
 ある日、エマがハリエットの肖像画を描きたいと言い出すと、エルトンは直ぐに賛成した。モデルになることを躊躇するハリエットを説き伏せて、エマは彼女の肖像画を完成させる(第5章でナイトリーが指摘しているように彼女は、勤勉と忍耐を必要とすることが苦手で、絵には才能があるけれどもこれまで1点も作品を完成することができなかった)。絵を入れる額をロンドンまで出かけて買ってくることを、エルトンが引き受ける。〔エルトンはハリエットに興味があるのではなくて、エマの画才を評価しているから協力的であるとも受け取ることができる。なお、この時代、絵をかくことは、音楽や刺繍と並んで、女子の有力な才芸の一つであった。〕(第6章)

 エルトンがロンドンに出かける日、ハリエットがロバートからの結婚申し込みの手紙を受け取ってエマのもとにやってくる。悩んでいる様子のハリエットに対して、エマは軽率に承諾すべきではないと言い聞かせ、断りの手紙を書かせる。エマはエルトンがハリエットの肖像画を家族に披露していると想像していた。(第7章)

 ハートフィールド邸を訪問したナイトリーは、ロバートがハリエットに結婚の申し込みをしたことを知らせ、エマはその申し出をハリエットが断ったことを告げる。口論の挙句、ナイトリーはエマがハリエットをエルトンと結婚させようとしても、それは無駄な努力になるだろうと言って去っていく。」(第8章)

 エルトンがハリエットの肖像画を額に収めて、ロンドンから戻ってきた。エマの居間に飾られたその絵を見て、エルトンは何度も賞賛し、ハリエットはエルトンへの恋心を募らせた。
 エマは読書を通じてハリエットの知性を向上させようとしていたが(ここでも彼女に勤勉と忍耐とが欠けているというナイトリーの指摘通り)、おしゃべりに時間をとられてしまい、進捗はしなかった。エマとハリエットにエマの父親のウッドハウス氏も加わってなぞなぞ集の作成が取り組まれたが、ある日、エルトンが彼の友人が恋人に送ったというシャレード(謎かけの詩)をもってやってくる。解読に取り組んだエマは、これが彼のハリエットへの求愛の詩だと解釈する。〔物語のこれまでの展開から、謎詩の中のready wit(機敏な知性)はハリエットよりも、エマにふさわしいものではないかと思う方が自然である。〕(第9章)

 ハリエットを同行して慈善訪問に出かけたエマは、ハリエットからなぜ結婚しないのかと質問を受ける。村には、昔の教区牧師の娘で独身のミス・ベイツという女性がいるが、エマは彼女を軽蔑している。彼女は貧乏であるが、自分は裕福なので、結婚しなくても世間的な体面を保てるとエマは考えている。ミス・ベイツにジェイン・フェアファックスという姪がいることがここで明らかになる(物語の重要人物の1人である)。道を歩いていると、エルトンに出会ったので、エマは芝居をしてエルトンとハリエットを2人きりで話させようとする。そして、初めて牧師館に招き入れられるが、エルトンとハリエットの間の恋が深まったという兆候をつかみことはできなかった。(第10章)

 エマの姉であるイザベラ、ジョン・ナイトリー夫人が夫や子どもたちとともにハートフィールド邸を訪問する。一家の話し合いの中で、フランク・チャーチルのことが話題になる。(第11章)

 ハートフィールド邸での晩餐にはジョンの兄のナイトリーも同席し、ロバートとハリエットの結婚問題をめぐって対立していたエマとナイトリーは和解の機会を得る。ウッドハウス氏を中心とした健康談議が、口論になりそうになった時に、イザベラがジェイン・フェアファックスの噂を始める。〔イザベラはエマにくらべると鈍重な女性として描かれているが、ジェインがエマにとって格好の話し相手となるはずだという彼女の洞察は正しいことが物語の進行を通じてわかってくる。〕(第12章)

 今のところ、エマが仕掛けているエルトンとハリエットの「恋」の行方が物語の関心事であるが、第8章でナイトリーがエマと口論した際に、エルトンは野心家で貧乏な娘と結婚するつもりはなさそうだといっていたのが気になるところである。気が付いた限りで注記しておいたが、55章からなるこの小説の12章まで来て、まだ噂だけで登場しない人物や、この後で突如として登場してくる人物がいる。そういう人物を加えて、物語は複数のロマンスが錯綜する展開を見せる。とはいえ、会話の部分が多く、その中で登場人物の性格が描き分けられているが、全体としてはのんびりした展開である。
 オースティンの他の小説のヒロインたちとは違って、エマは結婚するつもりはないという。一つには、病身の父親の面倒を見なければならない(この父親の相手をするのは大変だと思うような人物に描かれている)ことがあるが、取り組む仕事はいくらでもあるという(しかし、何をやっても中途半端に終わるのは、ナイトリーが指摘するとおりである)。確かに、エマ自身がどういう恋愛をして、どのような運命をたどっていくのかが読者にとって最大の関心事になるはずである。

 このブログをはじめてから、読者の皆様より頂いた拍手の数が22000に達しました。厚くお礼申し上げるとともに、今後ともご愛読をお願いいたします。 

『太平記』(148)

3月5日(日)晴れのち曇り

 建武3年(1336)正月27日、足利尊氏・直義兄弟の軍に都を追われ、比叡山延暦寺を拠点として犯行の機会をうかがっていた宮方の軍勢は、15日に続いて京に攻め入り、勝利した。さらに楠正成の謀で比叡山を撤退するように見せかけて、足利方の油断を誘い、30日に、足利方を京から攻め落とした。京から退却する途中、尊氏は、供をしていた薬師丸に後醍醐天皇に対応するため、持明院統の光厳上皇の院宣を手に入れるよう命じた。2月6日、摂津手島河原で両軍の戦闘があり、楠軍に背後をつかれた足利軍は、兵庫湊川に退却した。7日、湊川一帯の戦闘でも大敗した尊氏は、大友貞宗の進言により、船で九州へ落ちた。
 2月2日、京に戻った後醍醐天皇は、25日、建武の年号を延元に改めた。

 一方、京都における数回の戦闘に敗れた足利尊氏は、2月13日に兵庫から船で九州に向かったのであるが、それでもまだ7千余騎の兵が従っていた。しかし備前の児島(現在の倉敷市児島)に到着した際に、「京都から討手が下ってきたら、三石(岡山県備前市三石)あたりで食い止めろ」と、一族の尾張左衛門佐(=斯波氏頼)に命じ、地元備前の武士である田井、飽浦、松田、内藤とともにこの地に留まらせた。さらに、細川定禅、その従兄弟の頼春はもともと四国から都に上ってきた武士なので、讃岐に残した。中国地方の武士たちも、尊氏一行に別れを告げて自分の本拠地に戻っていったので、筑前国多々良浜(福岡市東区多々良)の港に到着した時には、従う軍勢は500騎に満たない有様であった。

 これまでの戦いで矢種は射尽してしまい、兵庫から船に乗る際に馬は乗り捨て、鎧・兜などの武具は脱ぎ捨ててしまった。気力は弱り、軍勢の勢いも衰えていたので、「天涯望郷の鬼とならんずらんと、明日の命をも憑まねば、あぢきなく思はぬ人もなかりけり」(第2分冊492ページ、僻遠の地で故郷を慕う亡霊になるのではないかと、明日の運命も頼りにできないと、嘆かわしく思うものばかりであった)。どうにも情けない様子である。

 宗像神社の宮司である氏俊のもとから、使者がやってきて、今、いらっしゃる辺りは場所が狭くて、軍勢の宿にはならないので、恐れながら、自分の屋敷にお入りくださり、しばらくこの間のご窮屈な思いから解き放たれ、休息をおとりになって、くにぐにに将軍の命令書を出されて、軍勢を集められてはいかがでしょうかと言上する。それで、尊氏は、ただちに宮司の屋敷に向かった。

 翌日、少弐入道(=貞経、法号は妙恵)のもとに使いを立てて、頼りにしていると知らせると、妙恵は承知いたしました。私の命のある限りは、味方として忠義を尽くしましょうと言って、嫡子である少弐太郎頼尚に若武者300騎を率いさせて、将軍のもとに向かわせた。

 肥後の豪族である菊池掃部助武俊は、もとからの宮方で肥後国にいたが、少弐が足利方に味方するという情報を得て、途中で討伐して追い散らそうと思って、3千余騎の軍勢を率いて、水木の渡(福岡県太宰府市水城を流れる御笠川の渡し)へと向かった。少弐太郎はこれに気付かずに、小舟七艘に乗り込み、自分はまず対岸に着いた。

 少弐の主だった家来である阿瀬籠(あぜくら)豊前守はまだ渡らないで、渡し舟が戻ってくるのを待っていたところに、菊池の兵3千余騎が、三方から押し寄せて、少弐の軍勢を川の中に追い落とそうとした。まだ渡らずにいた阿瀬籠以下の150余騎は、とても逃れられないところである。退却したとしてもどこまで逃げられるだろうかと、玉砕を覚悟して、菊池の多数の軍勢の中にかけいって、一人も残らず戦死してしまった。少弐太郎は、川の向かいでこれを見たけれども、大きな川を中に隔てて、船に乗らないと渡ることができないので、なすすべもなく、これまで頼りにしていた一族郎党が、敵の手にかかって全滅していくのを見捨てて、尊氏の方に向かったのであった。

 菊池は、初戦に勝利したので、幸先がよいと思っい、その軍勢を率いて、少弐入道妙恵が立て籠もっているうち山城(太宰府市内山)に押し寄せた。妙恵は主戦力となる郎等を、みな子息の頼尚につけて、尊氏の方に向かわせていた。阿瀬籠豊前は、水木の渡で戦死してしまった。四郎に残る軍勢は、わずかに200人にも足りないので、菊池が大軍を率いて包囲してきたのに対し、合戦をしようにもできない状態である。しかし、城の要害がよかったので、切り立った崖の下に敵を見下ろして、数日間にわたって防戦を続けた。

 菊池は、前線で戦う兵を交代させながら、夜昼十方から攻めたが、城中の戦死者は少なく、矢種もまだ尽きていないので、攻め落とすのにはまだ4,5日はかかるかと思っていたのであるが、少弐入道の婿で原田対馬守という武士がいて、この人物がにわかに心変わりして、本丸を占拠し、新田の中黒の旗を掲げて、自分は考えるところがあり、宮方に味方することにした。同意いただけるやいなやと舅の妙恵入道のもとに使いを送る。妙恵はこれを聞いて、一言の返事もせず、「苟も生きて義なからんよりは、死して名を残さんには如かじ」(第2分冊495ページ、 かりそめにも生きながらえて節義をなくすより、死んで名を残す方がよい)といって、持仏堂に走り入り、腹をかき切って倒れた。これを見て、少弐の家の子郎等162人、堂の前の大庭に並んで、一斉にえいと声を出して、一度に腹を切る。その声は天にまで響くかと思われた。

 妙恵の末子に宗応蔵主という禅僧がいたが、堂の蔀や引き戸を踏み破って、薪とし、父親の死骸を葬って、
  万里碧天月白く風清(すず)し
  為に問ふ恵公行脚の事
  白刃を踏翻して身を転じて行く
(第2分冊、496ページ、遥かな青空に月が白く風はさわやかである。父の恵公の死出の旅路に思いをいたし、私も白刃を踏み身を翻して父とともに行く)と静かに火葬の仏事をして、その炎の中に飛び入って、同じく死んでいったのである。

 尊氏は少弐妙恵を頼りにして九州に落ち延びてきたのだが、その少弐が菊池に討たれてしまった。前途多難な様相である。尊氏の武運はどのように展開するのであろうか、それはまた次回。

日記抄(2月26日~3月4日)

3月4日(土)曇りのち晴れ

 従兄姉の誰かれが亡くなったとか、誰それが病気で倒れたとかいう種類のニュースを頻繁に耳にするようになった。いずれは、私もそのようなニュースのタネになることは間違いない――あまりいい気分にはならないが、受け入れざるを得ない現実である。

 2月26日から本日までの間に経験したこと、考えたことなど:
2月26日
 ニッパツ三ツ沢球技場でJ2第1節:横浜FC対松本山雅の対戦を観戦する。前売り券の売れ行きが好調だというので、慌ててバックスタンドのA席を購入したのだが、少し早めに出かけても、行列ができるほど入場者が集まっていた。ただし、半分近くが松本のサポーターであった。Jリーグ名誉女子マネージャーの称号を持つタレントの足立梨花さんが来場、横浜FC PR大使のゆるキャラであるキャッチ―君と一緒に試合前とハーフ・タイムにピッチを回っただけでなく、試合開始直前にはキャッチー君とPK勝負を行った。試合は一進一退の攻防となったが、前半16分に横浜が野村選手のゴールであげた1点を守り切り、初戦の勝利を飾った。前線でのイバ選手の活躍、ボランチの中里選手、佐藤選手が見せた好プレー、新加入のヨンアピン選手の手堅い守りなど横浜の今年に期待を持たせるものであった。

2月27日
 『朝日』朝刊の地方欄に川崎市の夢見が崎についての記事が出ていた。太田道灌がここに城を築こうと思ったが、夢見が悪かったので断念して、江戸に城を築いたというのは俗説だそうである。JRの新川崎駅と東急(と横浜市営地下鉄)の日吉駅の間にあって、一度、両駅の間を歩いてみようと思っているのだが、実現しないままである。

 NHK「ラジオ英会話」は、”Grammar for Better Conversation"(もっと話したくなる 英会話文法)の一環として、「意志を表す助動詞willをチェック!」という話題を取り上げた。「willは「~だろう/でしょう」を気にせずが使えることが多い」、というのは、英語では単純明快な気持ちで表現しているのに、「~だろう/でしょう」と訳すと不確かなニュアンスが生まれてしまうことがあるからであるという。

2月28日
 『朝日』朝刊の広告記事で、千田稔さんが出雲という地名をめぐって、中国の宗教や思想から影響を受けていると考える方が自然ではないでしょうかという意見を述べていた。中国には多様な文化が存在し、中国から日本へと文化が渡来する経路も多様であるということも指摘しておいた方がよかったかもしれない(あるいは指摘したのだけれども、この記事では省かれていた可能性もある)。同じ記事で、島根県の知事が、日本の各地に「出雲」にゆかりのある地名や神社が見いだせることについて触れていたが、これも重要な問いかけである。

 E.C.ベントリー『トレント最後の事件』(創元推理文庫)を読み終える。アメリカ実業界の大立者マンダースンが英国にある別邸で殺害された。マンダースンの秘書であるバナーからこの殺人事件についての通報を受けた《レコード》新聞社(架空の社名である)の社主ジェームズ・モロイ卿はこの事件の真相を突き止めるべく、画家で名探偵のトレントに捜査を依頼する。彼はこの事件を解決して記事を作成すべく、特派員として現地に赴くが、そこで被害者の美しい妻であるメイベルと出会う。被害者の死体の様子や死の前後の状況をめぐってはさまざまな疑問点が浮かび上がる。マンダースンのもう1人の秘書であるマーローには、大学時代に演劇をやっていたという過去があり、彼が犯人であるという可能性が大きいのだが・・・。トレントの問い合わせに答えた友人が、マーローは学生時代にシェイクスピア劇の(フォールスタッフではなくて)バードルフ、(ロミオではなくて)マキューシオを演じていたと知らせてくるというのが意味深長に思われる。

 横浜駅西口ムービル3で『LA LA LAND』を見る。偶然の出会いを重ねたジャズ・ピアニストの男性と、女優志願の女性が恋に落ちる。2人はそれぞれの夢を持っているが、その実現はお互いの将来を邪魔するかもしれない…。冒頭のハイウェーでの交通渋滞の場面からの群舞は見ごたえがあったが、その後はミュージカル場面としての見せ場が少なかったように思う。むしろ、2人が『理由なき反抗』を見ている場面で、上映途中にフィルムが焼けて上映が中断されるという箇所が、昔はそういうことがよくあったなぁと思わされて印象に残った。ただ、映画のあらすじと『理由なき反抗』とがあまりよく結びつかないという気もしている。

3月1日
 ヨーロッパ文化の研究家の饗庭孝男さんが2月21日に亡くなられていたという記事が『朝日』に出ていた。饗庭さんの父親は滋賀県で学校の先生を歴任されていたということで、『故郷の廃家』という著書によると、彦根高女に勤務されていたこともあるという。実は死んだ私の母が彦根高女の卒業生で、在学中に饗庭先生という先生がいたと話していた。ただし、直接、教わったかどうかは聞き洩らした。

 私の母の父、つまり私の祖父は朝鮮総督府の役人だった。私の母の姉、つまり伯母がまだ少女だったころを朝鮮で過ごし、1919年の3.1独立運動に遭遇して、大人たちが「暴徒が…」、「夜間(の外出は危険だ)…」といっているのを聞きかじって、ボートや薬缶の怪物が出るのだろうかなどと思っていたと話していたそうである。生前にきちんとした話を聞いておけばよかったと今になって後悔している。

3月2日
 NHKラジオ「実践ビジネス英語」は”Casual Dress Revolution"の第5回で、登場人物の1人が
For me, the three main criteria are comfort, convenience, and a professional look. (私の場合は主な基準が3つあって、それは快適さ、着こなしやすさ、プロフェッショナルらしい外見ですね。)という。criteriaはcriterionという語の複数形であるが、この形を単数形としても使うようである。

 同じ番組の”Quote...Unquote"のコーナーで紹介された言葉:
I didn't have time to write a short letter, so I wrote a long one instead.
     ―― Mark Twain (U.S. writer, 1835 -1910)
(短い手紙を書く時間がなかったので、代わりに長い手紙を書いた。)
作家らしい一言ではないだろうか。

3月3日
 NHKラジオ「英会話タイム・トライアル」では往年のキャンディーズのヒット曲「年下の男の子」を英語で歌った。”He's munching on apples..."というような歌詞で、詳しく検討してみると、日本語と英語の違いがよくわかるかもしれない。歌の題を”Toyboy"と訳していたが、辞書によるとこれは「《俗》若い男めかけ、若いツバメ、愛玩用の男の子」ということで、これまた日本語の意味を正しく訳しているとは言えないような気もする。それはさておき、ジェニー・スキッドモアさんの歌唱はなかなかよかった。

 同じく「ラジオ英会話」では時制の一致について説明されたが、放送の最後でジェフ・マニングさんが来週から遠山顕さんが放送に復帰すると予告した。この番組の3月号のテキストを見ればわかったことであるが、放送の中でいわれた方が感激が大きい。

3月4日
 一ノ瀬正樹『英米哲学史講義』を読んでいて、ヒュームを取り上げた第5章に差し掛かり、もう20年以上昔に、エディンバラを訪れた際に、散歩していたら、近くにヒュームの墓があるという標識を見かけたことを思い出した。そのときは、そのまま通り過ぎてしまったのだが、その後、訪れる機会がないままに過ごしている。ヒュームの墓参りをするよりも、彼の著書を読む方が意味のあることかもしれないが、エディンバラにはもう一度行ってみたいと思っている。 

呉座勇一『応仁の乱』(12)

3月3日(金)朝のうちは晴れていたが、急に雲が多くなり、午後には雨が降り出した。

 応仁の乱は応仁元年(1467)から文明9年(1477)まで11年にわたって繰り広げられた大乱である。この書物は奈良興福寺大乗院の門主であり、興福寺の別当(寺務)を務めたこともある九条家出身の経覚(1395-1473)の『経覚私要鈔』と、一条兼良の子である尋尊(1430-1508)の『大乗院寺社雑事記』という2人の僧侶の日記を史料として(その他の史料も使われている)、応仁の乱の全容とその影響について考察するものである。
 すでに紹介した第1章「畿内の火薬庫、大和」では摂関家と関係の深い興福寺が事実上の守護であった大和という国の特殊性と、その中での衆徒・国民という独特の武装勢力の存在と、彼らの間の抗争、室町幕府との関係などが取り上げられている。ここでは親幕府的な一乗院方衆徒の筒井と、反幕府的な大乗院方国民の越智との対立が軸になると説かれている。第2章「応仁の乱への道」では大和に隣接し、関係も深い河内を本拠とする畠山氏の内訌、義就と政長の対立、義就が越智と、政長が筒井と結びついていたことが述べられている。また当時の室町幕府の将軍であった義政の後継者をめぐり、実子の義尚を支持する伊勢貞親を中心とする義政の側近グループ、弟の義視を支持する山名宗全のグループ、中間的な細川勝元のグループの鼎立関係があり、文正の政変(1466)により細川・山名の連合に伊勢貞親が追放され、残ったのは山名と細川の2人となったことが記されている。第3章「大乱勃発」では、山名宗全の呼びかけによって上洛した義就が文正2年(1467)の御霊合戦で、幕府の管領であった政長を追い落とし、その後、政長を支持していた細川が将軍御所を包囲して、将軍から山名討伐の旗を与えられ、応仁元年(1467)5月に山名方との戦闘が始まった。細川・山名ともに短期決戦の戦略を描いていたが、この時代に起きた戦法の変化のために戦闘は長期化し、また味方の補給を確保し、敵の補給を遮断するために戦線が京都市内から市外へ、地方へと拡大していったことが語られている。第4章「応仁の乱と興福寺」では、戦乱によって地方の荘園からの年貢の納入が困難になる状況での興福寺の苦闘と、京都から奈良へ「疎開」してきた一条兼良の家族の優雅な暮らしぶりについて述べている。

 前回は第5章の最初の部分を紹介し、「中世都市奈良」がどのように形成され、都市民たちがどのように生活していたかを、主として祝祭に焦点を当てながら描き出していた。
 文明元年(1469)7月末に、京都で東軍方として活躍していた筒井氏出身の成身院光宣が奈良に戻り、再び京都に向かおうとして体調を崩し、死去した。応仁の乱以前から畠山政長を支持して、支えてきた光宣の死の影響は、大和においては大きく、大和の東軍方は苦境に陥ることになる。
 長期化する戦局の打開を図るため、将軍足利義政と政所執事に返り咲いていた伊勢貞親は、西軍(山名方)の斯波義廉軍の指揮を執っていた朝倉孝景の切り崩しを図る。孝景は慎重な態度をとっていたが、文明3年(1471)5月に「後日、越前守護に任命する」という内諾を与えられて、東軍(細川方)に寝返った。

 一方、応仁の乱が長期化する中、南朝の皇子の末裔たちが混乱に乗じて動き出した。西軍は義視を将軍とする西幕府をつくってはいたが、義視は将軍の弟にすぎず、しかも御花園法皇から「朝敵」の烙印を押されていたため、大義名分の面で依然として東軍に劣っていた。そこで、南朝の後裔を天皇として推戴することで、東軍の天皇・将軍の権威に対抗することをおもいついたのである。しかしこの構想には、足利義視をはじめとする反対者が少なくなかった。

 文明2年(1470)に西軍の大内政弘が南山城で攻勢をかけ、この地方を支配下におさめた。興福寺は大内勢の大和侵攻を避けようとする。西軍方の衆徒である古市胤栄にとっては有利な状況であったが、身内で起きた紛争のために動きが取れなくなっていた。呉座さんは胤栄の文化人的な性格が家臣たちからの反発を買っていたことが背後にあるのではないかと推測している。さらに、優柔不断な胤栄は、未曽有の大乱を前に、自分の進路を決めることができずに、経覚や大乗院国民と推測される山田宗朝に頼って、帰趨を決めようとしていた。
 文明7年(1475)に奈良へと進軍する大内政弘軍に呼応して、古市胤栄は越智勢らとともに出陣し、筒井氏出身の成身院順宣らの東軍方と戦うが、越智勢が戦おうとしなかったために惨敗を喫する。その結果、胤栄は家督を弟の澄胤に譲らざるを得なくなる。第4章で、胤栄が奈良で催していた豪壮な遊びについて紹介しながら、呉座さんは彼にとって「京都での戦乱は対岸の火事だったのだろう」(149ページ)と書いていたが、その火事が自分の身近にやってきたときに、胤栄の運命は急転したのである。

 呉座さんのこの書物は、かなりの評判を呼んでいて、18万部を売りつくしたそうである。戦国時代の武将の話題はかなり大きな興味を集めてきたが、戦国時代の発端となった応仁の乱についてはあまり関心が寄せられてこなかった。もし、戦国時代の歴史への関心の広がりと深まりとが、この大乱への関心を呼び覚ましたのならば、今後の歴史研究ともっと広い意味での歴史的な関心にとって好ましい結果を生みだすのではないかと思う。それから、この本を詳しく読んでいくと、さらに調べてみたいような事柄をいくつも発見するはずである。以前に書いたように、衆徒である筒井氏の家臣として登場する嶋氏は、関ヶ原の戦いで活躍した島左近を生んだ家柄であるし、この書物には出てこないが、柳生一族というのも国民であったらしい。それから、畠山義就と政長のそれぞれの性格・生涯と対立の様相を辿っていくのは、小説的な興味からも面白いことになりそうである。

ダンテ・アリギエリ『神曲 天国篇』(14-1)

3月2日(木)雨

 ベアトリーチェに導かれて、天空の世界へと旅立ったダンテは、月天で<誓願を果たさなかった人々>、水星天で<地上での栄光を追い求めた人々>、金星天で<人と人とを結びつける愛>に溺れた人々の魂と出会い、太陽天では神学者・哲学者だった人々の魂に迎えられた。ここではフランシスコ会とドメニコ会という2つの修道会が、教会を支えるべき存在であること、にもかかわらず、世俗の事柄にかかわって堕落している現状が嘆かれる。トマス・アクィナスの魂は、ソロモンについて「王者としての思慮深さ」では比類のない人物だと述べて、政治と神学は別の根拠を持つことを示唆する。

 神学者・哲学者たちは神を地上で見ようとした人々であり、ダンテを連れてやってきたベアトリーチェは神学の象徴であったから、彼女を「取り囲み、恋い焦がれて見とれ」(第10歌、158ページ)ていた。彼女とダンテを囲む輪の中にいたトマスが、その話を終えると、ベアトリーチェが口を開く。
「この者には必要なことがあり、それをまだあなた方に話してはいない。
声にもできず、いまだ考えてさえいないのですが、
つまりもう一つの真理の根源を訪れる必要があるのです。
(208-209ページ) それは死後の魂が最後の審判の後にどうなるかという疑問であり、それにこたえてやってほしいというのである。

まるで、時に輪舞の中の人々が
さらなる喜びに押されてそれに引かれて抗えず、
歌声をさらに張り上げて踊りを楽しむ、

それと同じように、間髪を入れぬ敬虔な祈りを受け、
聖なる二つの輪は、円舞と驚くべき歌に
新たな喜びを見せたのだった。
(210ページ) 神学者・哲学者たちの魂は二つの輪を作っていたのだが、ベアトリーチェのこの要請に喜んで答えようとする。

 そして、彼らの中から声が聞こえる。『神曲』の様々な注釈者たちは、この声がソロモンのものであるとしている。
・・・「天国の祝祭が
永続するほど、我らの愛も
それだけ永く我らを包むこの衣を輝かせる。

その輝きは炎の、
炎は視覚の表れである。そして視覚は、
魂の力に加えてさらに与えられる恩寵の分だけ鋭い。
(211-212ページ) 「炎」は神への愛の炎。「視覚」は神を見る精神の眼の力」、「恩寵」は神の恩寵。人間は、いかなる功績により力を増したとしても、独力では神を見ることができず、それに加わる「恩寵」により神を見るというのである。

栄光に満ちた聖なる肉体を
再びまとった時、我らの人格は
完全になるがゆえにいっそう喜ばれる。
(212ページ) 「栄光に満ちた聖なる肉体」は最後の審判の後に復活した肉体。肉体を再び獲得した死後の魂は、肉体と魂を持つ「完全」な「人格」となり、より神に喜ばれる。
 人間がより完全になれば、神の与える「恩寵」も増すので、その結果「輝き」も増す。一方、完全体になった肉体は、魂を閉じ込めていた生前の肉体と異なり、魂から発する光により輝き、そのために取り巻く光にかすむことはない。またそれら肉体はその光にも耐えられるので視力が失われることもない。

 高校時代に少しだけカトリックの教義についての教育を受けたことがあるので、このあたりの議論はなじみのないものではないが、肉体は滅びても、魂は滅びないというのではなくて、最後の審判の時に、肉体もまた復活するという考えに、肉体への強いこだわりを感じてしまう。そのようなこだわりが、どのような時代性、あるいは風土と結びつくのかということも考えてみたいと思う。

大野晋 丸谷才一『日本語で一番大事なもの』

3月1日(水)晴れ(かなり雲は多い)、温暖

 2月28日、大野晋 丸谷才一『日本語で一番大事なもの』(中公文庫)を読み終える。1980年から1986年にかけて中央公論社から出版されたシリーズ「日本語の世界」の第1巻『日本語の成立』を執筆した国語学者の大野晋(1919-2008)と最終巻である『国語改革を批判する』の執筆の中心人物であった作家・英文学者の丸谷才一(1925-2012)の2人がシリーズの月報に連載した対談をシリーズ完結後に1冊にまとめたものを、さらに文庫化したものである。対談の中では、記紀歌謡から現代の俵万智にいたる日本の詩歌を材料にして、その中での助詞・助動詞などそれだけでは独立の意味を表現できない語の意味と使用をめぐって議論が交わされている。これらの一見目立たない言葉こそ、詩歌の創造において決定的な位置を占めているし、それが日本語の特徴ともおなっているというのである。詩歌に使われる言語の分析を通じて、日本語の文法を歴史的・具体的に概観する内容になっているが、取り上げられた個々の詩歌の解釈を読んでいくだけでも楽しいし、実際に短歌や俳句を創作する場合の参考にもなりそうである。文学作品の鑑賞には文法的な知識が必要であるということを改めて感じさせられる。

 目次を紹介しておくと 
鴨子と鳧子のことから話ははじまる 〔「かも」「けり」〕
感動詞アイウエオ 〔「あはれ」「ああ」「あな」「いさ」「いざ」「いで」〕
蚊帳を調べてみよう 〔「か」「や」〕
ぞけるの底にあるもの 〔助詞の「そ」、係り結びについて〕
「か」と「や」と「なむ」 〔係り結びについて〕
已然形とは何か
「こそ」の移り変り
主格の助詞はなかった 
鱧の味を分析する 〔「は」「が」「も」〕
岸に寄る波よるさへや 「「さへ」「なり」「だに」
場所感覚の強い日本人 〔「つ」「の」「に」
現象の中に通則を見る 〔「が」、連体形について〕
古代の助詞と接頭語の「い」
愛着と執着の「を」
「ず」の活用はzとn [「に」「なふ」「ずは」「なく」「じ」
『万葉集』の「らむ」から俳諧の「らん」まで 〔「む」「らむ」「かな」〕
「ぞ」が「が」になるまで 〔「ずは」〕
ということになり、対談であるからさまざまな話題を順次取り上げていて、体系的ではないが、その中で既存の文法理論の特徴や問題点が指摘されたり、大野さんやその他の研究者による興味ある研究成果の紹介がされたりする。

 例えば、
 君やこし我やゆきけむおもほえず夢かうつつか寝てかさめてか
という『古今集』、『伊勢物語』に出てくる斎王の歌について大野は
「「や」は、奈良時代には自分に確信や見込みがあるとき使ったんですが、平安時代になると、この歌のように「……や……や」と使う使い方が広まってくるんですね。「君やこし我やゆきけむ」、あなたが来たのかしらんというふうに、相手に聞く使い方ができてくるんです。「我やゆきけむ」というのは、さては私のほうからでかけていったのかしらということです。そして、あれはいったい夢だったのか、現実だったのか、正気であったのかと、自分では分らないという。「うつつか」の「か」は自分で判断できないというのです。」(58ページ) この後、『伊勢物語』の内容を語学的に分析すると、三層に分けられるという興味深い話が展開される。

 このほか、日本語は、英語のように誰がしたかということを中心にして述べる言語形式ではなくて、「何が問題かを提示して下に答えを要求した」(214ページ)、問答的な(あるいは弁証法的な)言語形式であることなど優れた洞察が展開される。(大野晋は橋本進吉門下だが、時枝誠記の助手でもあったので、この辺りの議論はしっかりしている。) さらに松下大三郎が『国歌大鑑』を編纂する時に西洋のカード・システムと同じようなものを考案したという話など、雑談も面白い。国語問題については、聞き手の立場に立つ丸谷の文学作品をめぐる知識と創作体験を踏まえた解釈・鑑賞力にも驚かされる部分がある。森鷗外の『即興詩人』について「あんな下手な擬古文ありゃしない」(88ページ)と大野がこき下ろし、「それに比べて、樋口一葉の文章は上手ですね。本居宣長の擬古文は間違いがなくてスラスラ読めるというだけで、巧みではないけど、樋口一葉はうまいですね、つやもあるし、間違っていないんです」(同上)と一葉を褒めると、それに丸谷が賛同する個所なども印象に残る。

 かなり時間をかけて読み通すことになったが、全体を通読しても、どこか一部を抜き出してそこだけじっくり読んでも面白いだろうと思う。繰り返しになるが、語学に興味のある方にとっては考える手掛かりとなり、創作を目指す人にとっては霊感のもととなるはずである。
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Author:tangmianlaoren
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