2017年の2017を目指して(2)

2月28日(火)晴れ

 2月も1月同様ずっと横浜で過ごした。新たに出かけた道府県はなく、市区町村では豊島区が新たに加わった。
 鉄道会社では横浜市営地下鉄、路線では東京メトロ丸の内線と横浜市営地下鉄ブルーライン、駅では新大塚と伊勢佐木長者町が新たに加わった。
 バス会社では神奈川中央交通バス、相鉄バス、路線では神奈中の1、相鉄の浜7、また停留所が2つ加わった。〔46+12=58〕(1月に横浜市営バスの44番に乗っていたのを見逃していた。)

 この記事を含めて28件の記事を書いたが、内訳は未分類が2(1月からの通算は6)、日記が5(11)、読書が10(18)、『太平記』が4(8)、ダンテ『神曲』が4(8)、歴史・地理が2(2)、映画が0(2)、2位が0(2)、推理小説が1(2)ということである。2件のコメント(1月からの通算は8)、584拍(1301拍)の拍手を頂いた。拍手コメントも1つ頂いた(2)。〔38+31=69〕

 11冊の本を購入し、10冊を読んだ。読んだのはプラトン『パイドロス』、ジェイン・オースティン『エマ(上)』、ジェイン・オースティン『エマ(下)』、大隅和雄『中世の声と文字』、後藤基樹『関東戦国史』、須田勉『国分寺の誕生』、松尾由美『ニャン氏の事件簿』、E.C.ベントリー『トレント最後の事件』、プラトン『メノン』、大野晋・丸谷才一『日本語で一番大事なもの』である。今月は哲学・歴史(日本史)・文学と昔の文学部の3学科を構成していた領域に読書が集中した。〔12+10=22〕

 NHK「ラジオ英会話」を20回、「攻略!英語リスニング」を8回、「実践ビジネス英語」を12回聴いている。1月からの通算はそれぞれ、37回、16回、21回である。
 「まいにちフランス語」初級編を12回、応用編を8回、「まいにちイタリア語」入門編を11回、応用編を8回聴いている。1月からの通算はそれぞれ23回と14回、22回と14回である。〔68+79=147〕

 なかなか映画館に足を運ぶ気にならず、28日になって横浜駅西口のムービルで『ラ・ラ・ランド』を見ただけで終わった。1月からの通算は5本、出かけた映画館は3館ということである。〔6+2=8〕

 J2の第1節、横浜FC対松本山雅の対戦を観戦した。1月と合わせて、2つの競技場で5試合を見ていることになる。〔6+1=7〕

 A4のノート3冊(1月からの通算では5冊)、A5のノート2冊(3冊)、0.5ミリのボールペン芯3本(6本)、0.4ミリのボールペン芯1本(2本)、テキストサーファー(黄)1本、(赤)1本、修正液1本を使い切った。

 富士山を見ることができたのが11日(1月からの通算は21日)、酒を口にしなかった日が4日(9日)ということである。

 このほか、別府葉子さんのライブに出かけた。美術展など案内状を頂いても、出不精を決め込んで失礼してばかりいる。だんだん気候も温暖になってきたし、もう少し積極的に動き回ることにしたい。 
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ジェイン・オースティン『エマ』(2)

2月27日(月)曇りのち晴れ、朝のうちは寒かったが、次第に気温上昇

 イングランド南東部のサリー州のハイベリー村の村一番の名家の娘であるエマ・ウッドハウスはもうすぐ21歳になるが、美人で、頭がよくて、明るい性格の女性であった。16年にわたって彼女の家の住み込みの家庭教師(=ガヴァネス)を務めてきたミス・テイラーが近隣のランドールズ屋敷の主人であるウェストン氏と結婚したので、彼女は病弱な父親との二人暮らしをすることになった。ミス・テイラーとウェストン氏との縁結びをしたのは自分だと確信しているエマは、教区の牧師で独身のエルトンの縁結びに取り掛かると言い出す。エマの姉の夫の兄で、ハイベリーの隣の教区の大地主であるジョージ・ナイトリーはエマに直言できる数少ない人物の一人であり、彼女に「お嫁さん探しは本人に任せた方がいい」(ちくま文庫版、21ページ)と忠告するが、耳を貸すようなエマではない。(以上第1章)

 「ウェストン氏はハイベリー村の生まれで、ウェストン家は、2,3世代前に財を築いて上流階級の仲間入りをした、立派な家柄だった。ウェストン氏は立派な教育を受けたが、働かなくても暮らせるだけの財産を早くに相続したので、兄たちのような地味な職業につく気になれなかった」(22ページ) それで彼は国民軍に入隊して、大尉になり、社交好きな性格でどこへ行っても人気者となり、ヨークシャーの名門チャーチル家の令嬢と知り合って結婚したが、チャーチル家の人々は身分違いだとして反対で、妹夫婦とは絶縁してしまった。しかし、3年後にウェストン氏の妻が死ぬと、子どものいないチャーチル夫妻はウェストンの子どもであるフランクを引き取り、自分たちの跡を継がせようと育てていた。ウェストン氏は毎年ロンドンでフランクとあっているが、自慢の息子で、ハイベリーの村人たちもまた彼が村に姿を現すのを待ちわびている。(第2章)

 「ウッドハウス氏は彼なりに社交を好み、友人たちが遊びに来てくれることは大好きだった」(31ページ、もっともその友人たちの選り好みがあった)。ウッドハウス家のハートフィールド邸を訪れる人々としては、ウェストン夫妻、ナイトリー氏、それから若い牧師のエルトン氏が主だったメンバーであった。
 この4人の後に第2のグループが控えていて、その中で一番よく招かれるのはハイベリー村の元牧師の未亡人であるベイツ夫人、その独身の娘であるミス・ベイツ、そしてゴダード夫人で、彼女はゴダード寄宿学校の校長である。この学校は「昔ながらの良心的な寄宿学校であり、ほどほどの授業料で、ほどほどの教養を身につけることができる」(34ページ)。『虚栄の市』のベッキーとアミーリアが学んだ学校ほど高級ではないが、まずまず地方的な名声を得ている学校らしい。
 ある朝、エマはゴダード夫人から学校の(校長の家族と同居する)特別寄宿生であるハリエット・スミスを連れて行っても構わないでしょうかという伺いの手紙を受け取る。いつも同じ顔ぶれで少しはうんざりしていたエマは喜んで承諾する。ハリエットは誰かの私生児で、ある人物によって寄宿学校に預けられているのだが、17歳のなかなかの美人である。エマはハリエットが気に入り、彼女を善導して、レディーに仕立て上げようという野心を抱く。ハリエットはそれまで学校で一緒だった若い娘の実家に長期滞在していたが、マーティンというその農家の人々からは引き離さなければならないと考える。(第3章)

 エマはハリエットと親しくなり、ハリエットが滞在していたマーティン家の様子を聞き、彼女の同級生の兄であるロバートがハリエットと結婚したがっているらしいことを知る。エマは、ハリエットもロバートに関心を抱いていることを見て取り、いよいよ離間を図ろうとする気持ちを強くする。「馬に乗っていようが歩いていようが、私は若い農夫には興味がないの。自営農民(ヨーマン)は、私とは無縁な人たちですもの」(46ページ) ドンウェル街道を散歩していたエマとハリエットが偶然、ロバートに出会った際に、エマはロバートを観察してみたが、彼に対する低い評価は変わらず、ハリエットにロバートのような身分の低い男性ではなく、紳士と――エルトン氏と――結婚するように仄めかす。(第4章)

 エマがハリエットと仲良く付き合い始めていることを知ったナイトリー氏は、そが二人のどちらにとっても良い結果をもたらさないだろうと、エマをよく知っているはずのウェストン夫人に話すが、ウェストン氏は彼の言おうとしていることが理解できない。エマは母親に似て、頭がよく、そのために甘やかされて育ったので、何かを最後までやり遂げる習慣を身に着けずにいるとナイトリー氏は指摘する。それでもナイトリー氏はエマの美しさを認め、彼女にはなぜか、「人に心配と好奇心を起こさせる何かがある」(63ページ)ともいう。さらにエマは父親の面倒を見なければならないので、一生結婚しないと言っているがそれでよいのだろうか、彼女が恋をする姿を見てみたいともいう。それに対しウェストン夫人は今のところエマには結婚を勧めないが、一生このままでもいいとは思っていないと答える。(はっきり書かれていないが、ウェストン夫妻はエマをフランクリンと結婚させたいと考えているようである。) (第5章)

 こうして、エマ自身はミス・テイラーがウェストン夫人になった後の新しい話し相手としてハリエットを見つけ、彼女を今度は牧師のエルトンと結びつけようと考えはじめている。そういうエマとハリエットの関係をナイトリー氏は心配するが、心配しているのは彼だけである。エマの父であるウッドハウス氏はエマがずっと独身で自分の面倒を見てくれるものと信じているようであるし、ウェストン夫妻にはまた別の思惑がある。ハリエットとロバートは本当のところ、お互いに惹かれあっているらしいのだが、エマはその恋愛を頭から否定してかかっている。
 今回は、主要登場人物と、その性格の紹介という感じになったが、まだ登場していない主要人物もいるし、フランクリンのように名前だけは出てきているが、物語の舞台に上がってこない人物もいる。ナイトリー氏がロバートの実直な性格と働きぶりを高く評価し、信頼しているのに対し、エマが彼の容貌や身分を問題にして、ハリエットとの仲を裂こうとしているという対照的な姿勢が、2人の性格やものの考え方をよく表すだけでなく、今後の物語の展開にとっても意味を持っている。

『太平記』(147)

2月26日(日)晴、温暖

 建武3年(1336)正月9日に、京都を守っていた新田義貞の軍が足利尊氏軍に敗退したために、後醍醐天皇は都を離れて比叡山に臨幸された。天皇を迎え入れた延暦寺に対抗するため、足利方は、戒壇の造営を約束して三井寺を味方につけた。正月13日、北畠顕家率いる奥州・関東勢が比叡山の宮方に合流した。三井寺に攻め寄せた宮方は、中国・四国の兵を率いて三井寺に進出していた細川定禅の軍勢を追い落として伽藍に火をかけた。16日、新田義貞軍が京へ攻め入り、足利方を追い散らしたが、細川定禅の活躍で新田軍を追い戻した。27日、宮方は再度京へ攻め入って勝利した。さらに楠正成の謀で比叡山を撤退するように見せかけて足利方を油断させて、30日に総攻撃をかけ、京から攻め落とした。摂津へ落ちる途中、尊氏は、供をしていた薬師丸に、後醍醐天皇に対抗するため、持明院統の光厳上皇の院宣を手に入れるよう命じた。2月6日、摂津手島河原で両軍の戦闘があり、楠軍に背後をつかれた足利軍は、兵庫湊川に退却した。7日、湊川一帯の戦闘でも大敗した尊氏は、大友貞宗の進言により、船で九州へ落ちていった。

 1月30日に足利方の兵が都から敗走していったので、2月2日に後醍醐天皇は比叡山から京都に帰還されて、花山院を皇居にされた。この花山院というのは、もともと清和天皇の皇子であった貞保親王の邸宅で、なでしこや萩が多かったのでこの名がついたとのことで、冷泉天皇、花山上皇もここに住まわれたことがある。その後藤原道長の孫で関白になった藤原師実の次男家忠に始まる花山院家が伝領してきた。いまの京都御苑の中にあったとのことである。元弘元年(1331)に後醍醐天皇が内裏を脱出して奈良に向かおうとされた際に、天皇に扮して比叡山に向かったのが花山院師賢であった(『太平記』では2巻にこのことが記されている)。

 2月13日に、手島河原、湊川の合戦に勝利した新田義貞が、朝敵である足利方を九州へと追いやり、降伏してきた武士たちに寛大な処分を行い、都に帰還してきた。その様子は、堂々として立派なものであった。足利方から降伏してきた1万余騎の武士たちは、もともと笠符(鎧の袖や兜につける、敵と味方を区別する布切れ)につけていた足利方の二引両(輪の中に二本の横線を引いた紋)の中の白いところを塗りつぶし、新田側の中黒(輪の中に太く黒い一の線を引いた紋)にしていたのであるが、墨の濃淡のために、元の足利の紋がはっきりとわかったからであろうか、翌日、五条辻(五条大路=現在の松原通と西洞院通が交差する辻)に高札を立てて、狂歌を書き付けたものがいた。
 二つ筋中の白みを塗り隠し新田新田(にたにた)しげの笠符かな
(第2分冊、484ページ、足利の紋の中の白いところを黒く塗り隠して、新田らしく見せかけた笠符であることよ。新田と似たをかけている。) 新田と足利がよく似た紋を持っているのは、あっちへ行ったり、こっちへ行ったり、強い方に従っている武士たちにとっては好都合であった。
 なお、余計な話を書くと、松平→徳川氏の紋は三つ葉葵であるが、松平一族が彼らの主張するように新田氏の一族である得川(世良田)教氏の子孫だとすると、中黒の紋でなければおかしいという意見がある。

この間、都の周辺で戦われた戦いの様子について、後醍醐天皇は大いに満足されて、すぐに臨時の除目(観を任ずる儀式)を行われ、義貞を左近衛中将(天皇を警護する左近衛府の次官。従四位相当)に叙せられ、その弟の義助を右衛門佐(内裏西側の門を警護する右衛門府の次官。従五位相当)に任じられた。

 天下の吉凶が必ずしも年号のために影響されるというわけではないのであるが、建武という年号には「武」という文字が含まれていて、物騒だという批判があったことから、2月25日に年号が改まって、延元となる。つい最近、朝廷が反乱軍のために危地に陥ったのであったが、間もなく平穏に戻り、天下がまた太平となったので、「この帝の徳は天地の真意にかなっている。今後はずっと、安泰であろう」と、臣下の者達は、いつの間にか危機的な状況を忘れて、自制心をなくしていったのは、その心映えにおいて愚かであったと『太平記』の作者は論じている。

 さて、天皇が都を捨て、比叡山に臨幸されるという大きな災いの異変が、もとに復して、天皇が行う天下の政務が新たに始められたので、その結果、いやな思いをする人、喜ぶ人が出てきた。特に賀茂社の神主職は神官の中でも重要な職務であり、恩賞として職に補すことには一定の順序があり、めったなことでは更迭されることはないのであるが、足利尊氏が松下貞久を解任して森基久を任命し、それが20日余りで宮方が都を回復すると、今度は貞久が復帰した。その後、大覚寺統と持明院統の治世が変化するたびに人事は転変した。
 その理由というのは基久に美しい娘があり、持明院統の後伏見法皇と大覚寺統の後醍醐天皇がまだ2人とも若かったころに、この娘を争った結果、後伏見法皇が勝ったという経緯があり、後醍醐天皇が基久を恨んで、自分が権力の座に就くと、解任したのであった。その後、何度も基久と貞久が入れ替わり、とうとう基久は世の無常を感じて出家したのであった。
 神主が出家するというのも奇妙な話だが、この時代の宗教観からすれば不思議な話ではなかったのである。例えば『方丈記』の著者である鴨長明も神主の職をめぐるいざこざから出家したのである。後醍醐天皇の京都復帰に関連して、この話が取り上げられているのは、『太平記』の作者が天皇の政治に必ずしも賛同していなかったことを示しているようである。そして物語は、九州へと敗走していった尊氏のその後の様子に焦点を移す。

日記抄(2月19日~25日)

2月25日(土)晴れ、温暖

 2月19日から本日までの間に経験したこと、考えたことから:
2月19日
 NHKラジオ『攻略!英語リスニング』は”The Louvre"(ルーブル美術館)を話題として取り上げた。この美術館を2日間回ったが、まだまだ見ていないものがたくさんあるという見学者の談話の形をとっている。
It's the world's largest museum and I'm feeling it. (世界最大級の美術館というけれども、まさにそれを骨身にしみて感じているところだ。) もともとは16世紀から17世紀にかけてフランスの王たちの宮殿として使われた建物で、王族がヴェルサイユに居を移したのちに、王家の持つ美術品の一部が収められる場所になり、フランス革命後に美術館となった。ナポレオンに代表されるフランスの海外への軍事行動の結果として収蔵品が急増したという。大英博物館についても同じようなことが言える。
 ジャン=リュック・ゴダール監督の『はなればなれに』という映画の中で、アメリカ人のグループがこの美術館を駆け抜ける記録を作ったというニュースを聞いて、アンナ・カリーナと(二枚目の)サミー・フレーと(ピエール・ブラッスールの二代目の)クロード・ブラッスールの3人がその記録に挑戦するという場面がある。面白いとは思うけれども、真似はしたくない。

2月20日
 この日のブログで宇野信夫『江戸おとし咄夜の客』の中の「春を待つ雪」と、三遊亭圓生『圓生人情噺(中) 雪の瀬川』所収の「雪の瀬川」という2つの人情話を取り上げた。『圓生人情噺』の監修者でもある宇野信夫は、昭和4年(1929)に大学を卒業したのち、(「大学は出たけれど」という就職難の時代であったことも手伝って)、就職もしないまま文筆の道に進もうとしていた。幸い(うらやましいような話だが)、埼玉県で事業を営んでいる父親の出張所が橋場にあったので、そこに住み、その家についている2軒の貸家の家賃で生活していた。
 ふとしたきっかけで蝶花楼馬の助という落語家と知り合い、それから、その仲間の売れない落語家たちが宇野の橋場の家にやってくるようになった。宇野ができることは、貸家の一つである蕎麦屋から天ぷらそばをとってごちそうすることくらいだったが、それでも彼らは宇野の家をたまり場のようにしていた。そのあたりの事情は宇野の『私の出会った落語家たち 昭和名人奇人伝』(河出文庫)に記されている。
 よくやってくる4人、馬の助、柳家甚語楼、春風亭柳楽、桂文都のために何かしようと思って、寄席を借りて「新進四人会」という会を開いたが、やってきたのは老人が3人だけで、その3人も途中で帰ってしまった。噺家達も、宇野もがっかりしたのは言うまでもない。「私はこれに懲りて、噺家の興行はあきらめてしまったが、夜風の眼にしみるこの年の瀬の晩のことがなつかしく、いまだに忘れることが出来ない。それというのが、いろどりのない、じじjむさい私の青春の、せめて小さい冒険の夜だったからかも知れない。/それはとも角も、私がこの噺家達から学んだことは、自分の業を楽しむということ、逆境を苦にしないこと、自分の生活を客観視することであった。この人達とつきあうようになってから、少しづつ私の胸はひらけ、大げさにいえば人生観がちがってきた。この人達は私の一生の恩人である」(45-46ページ)。
 甚語楼は5代目の古今亭志ん生、柳楽は8代目の三笑亭可楽、4人の中には入っていないが、よくやってきた1人である桂米丸は5代目の古今亭今輔となった。好き嫌いはあるだろうが、名人の域に達していたと評価してよい落語家たちである。馬の助は8代目の金原亭馬生を継いだが、昭和18年(1943)に48歳で早世した。「『馬の助は惜しい噺家だ。長生きをすれば貴重な芸人になっていたのに』/そんなことを、六代目圓生がいっていた。/林家正蔵(彦六)もそういっているのをきいたことがある」(23ページ)。そして、文都は9代目土橋亭里う馬となって、昭和43年(1968)まで生きていたが、「もともと彼は噺家という素質のない人であった。噺のまずい代わりに、演劇――ことに歌舞伎には明るかった」(145ページ)と宇野は評している。劇作家として名を成した人のいうことだから、本当に明るかったのであろう。そして、極め付きの奇人であったようである。彼らの芸と人生から宇野が多くのものを学び取ったことは容易に推測できる。

2月21日
 『朝日』に連載されている夏目漱石『吾輩は猫である』はいよいよ終わりに近くなって、寒月が旧制高校在学時にヴァイオリンを買った話に差し掛かった。寒月が在学していたのは、はっきりとどこの学校とは記されていないが、漱石が教師として教え、寒月のモデルとされる寺田寅彦が学んだ第五高等学校と考えられる。「天下の五高」という自称がこの時代にあったかどうかはわからないが、「剛毅朴訥は仁に近し」という言葉をモットーとして、蛮カラな校風で知られた学校である。ヴァイオリンを弾くなどというと、ほかの生徒からどんな扱いをされるか分かったものではない。「中には沈殿党などと号していつまでもクラスの底に溜まって喜んでるのがありますからね。そんなのに限って柔道は強いのですよ」と寒月はいう。
 ここで注目すべき点がいくつかある。私が知る限りでは、旧制高校では2年続けて落第はできない、続けて落第すると「凱旋」といって退学処分を受けたという話である。「いつまでもクラスの底に溜まって」いることが果たして可能であったかどうか、あったとすればいつごろに制度が変わったのか調べてみる価値はありそうである。もう1つは「クラス」という英語が使われていることで、この時代、この言い方が一般的であったのか、漱石が英語の先生だったからこの言い方をしたのか、これも気になるところである。それから柔道は、まだ嘉納治五郎によって創始されたばかりの時期で、これまた、この言い方の中に漱石と嘉納の関係を推測してもいいのか、想像の膨らむところである。

2月22日
 NHKラジオ「実践ビジネス英語」は”Casual Dress Revolution"(カジュアルドレス革命)という新しいビニェットに入った。
A company's dress code reflects its corporate culture and the image it wants to project.(企業の服装規定は、企業文化とその企業が打ち出したいイメージを反映するものである)という。舞台となっている企業では、
The basic concept is that we want to move with the time and be casual -- but not too casual. (基本的な考え方は、わが社は時代の流れに沿ってカジュアルでありたい、ただし、カジュアルすぎない、ということである) どのようにバランスをとるかが問題となるようである。

 鈴木清順監督がなくなられた。93歳。『朝日』の追悼記事に載っていた松原智恵子さんの談話:「賭場のふすまが倒れると背景が真っ赤に変わったり、監督の映画には、演じていても意味の分からないことが多かったです」。磯田勉編『清順スタイル』の中でも松原さんは同じようなことを言っている。「スタッフも言ってましたよ、『どういう風につながるのか、監督にしかわからない。』」 それでも松原さんが出演していた『関東無宿』、古くは『影なき声』、『探偵事務所23 くたばれ悪党ども』、『刺青一代』などは好きな作品である。代表作の一つとされる『けんかえれじい』は新藤兼人の脚本による作品だが、最後の方で北一輝が出てくるのは、鈴木監督の独創だそうである。嫌いではないが、鈴木隆の原作の方が私は好きで、新藤の脚本がどのような展開になっていたのかも気になるところである。山村聰監督の『黒い潮』のチーフ助監督(鈴木清太郎名義)であったことも気になっている。死亡記事では触れられていなかったが、鎌倉アカデミアの卒業生の1人である。謹んでご冥福をお祈りする。

2月23日
 NHKラジオ「実践ビジネス英語」の「カジュアルドレス革命」の続き:
We've been seeing a relaxation of dress codes at kinds of companies. Some people call the look "business casual" -- smart and well-groomed, but not stuffy and formal. (あらゆる業種の会社で服装規定が緩和されるようになってきた。中には、そうした装いを「ビジネスカジュアル」と呼ぶ人がいる。つまり、洗練され、きちんとした身なりで、でも古風でかた苦しいものではないという意味である。)

2月24日
 「実践ビジネス英語」の「カジュアルドレス革命」の続き:
Some companies have done away with dress codes altogether.(中には、服装規定を完全に廃止した会社もある。)それらの会社は、社員が快適に感じるときに、彼らの生産性と創造性が高まると考えているというのである。
Some managers also see a casual dress code as a way of attracting talented young workers. (カジュアルな服装規定を、有能な若い働き手を惹きつける方策と見なす経営者もいる。) この発言を受けて、別の話者が
I know that kind of policy is more accepted in places like Silicon Valley or Madison Avenue.(シリコンバレーやマディソン街といったところでは、そのような方針の方が一般的であることを知っていますよ)という。
 Madison Avenueはニューヨークのマンハッタンを南北に貫く通りで、かつては大手広告会社が数多くあり、そのことからアメリカの広告業界の俗称となったという。私が電通の下請けの会社でアルバイトをしていたころ、電通に出かけるときはスーツを着てネクタイをしていないと入れてもらえないと言われたことを思い出し、日米の違いを考えさせられた。

2月25日
 NHKラジオ「攻略!英語リスニング」は”Rudyard Kipling"(ラドヤード・キプリング)を話題として取り上げた。『ジャングル・ブック』などの作品で知られるノーベル賞受賞作家である。
He has come under fire for representing British imperialism -- and all the racism associated with it -- but his work can also be read as an ironic comment on imperialism. (イギリスの帝国主義――さらに、それに付随する人種差別主義――の権化として批判を受けるようになったけれども、キプリングの作品は帝国主義への皮肉なコメントとしても読める)という。
East is East, West is West, and never the twain shall meet. (東は東、西は西、この二つが会う日はないだろう。) という彼の有名な詩があるが、彼自身の作品の中で両者が出会っているのではないかと語り手は結んでいる。キプリングはインドで生まれ育ち、後にジャーナリストで活動した時期があるが、中国や日本については知らないはずで、彼の「西」、「東」という認識が限界をもっていたことも指摘されてよいだろう。もっとも、知らない世界が少なからずあるというのは(私を含めて)多くの人間に共通することではないかとも思う。  

呉座勇一『応仁の乱』(11)

2月24日(金)曇りのち晴れ

 応仁の乱は応仁元年(1467)から文明9年(1477)までの11年間にわたって展開された大乱である。この書物は戦乱の同時代人であった奈良興福寺大乗院の門主で興福寺別当も務めた九条家出身の経覚(1395-1473)の『経覚私要鈔』と一条家出身の尋尊(1430-1508)の『大乗院寺社雑事記』という日記を史料として、戦乱の実態と意義に迫ろうとするものである。
 すでに紹介した第1章「畿内の火薬庫、大和」は鎌倉・室町時代を通じて大和が摂関家と結びつきの強い興福寺の支配する地方であり、武装した僧侶である衆徒や、藤原氏の氏神を祀る春日社の神人である国民のような独特の武装勢力が抗争を続けていたこと、その幕府との関係などを概観している。第2章「応仁の乱への道」は室町幕府とその有力大名たちの家督の継承をめぐる内訌、とくに幕府の管領家の1つである畠山氏の家督をめぐる義就と政長の対立が将軍の後継をめぐる幕府の要人たちの間の対立と絡み合いながら展開していく様子を、応仁の乱の前史として描き出している。第3章「大乱勃発」では、畠山義就と政長の京都市内における対決から、義就を支持する山名宗全と政長を支持する細川勝元の対立が戦乱にいたり、お互いに短期に決着を図ろうと考えていたにもかかわらず、戦闘が長期化し、戦線が地方へと拡大していった様相が語られている。第4章「応仁の乱と興福寺」では、この戦乱の中での経覚と尋尊のとった立場や彼らの働き、とくに戦乱によって地方の荘園からの年貢の取り立てが困難になったことへの対処、尋尊の親族である一条家の人々が奈良に「疎開」してきてどのように過ごしたかなどが述べられている。

 第5章「衆徒・国民の苦闘」は、まず、この時代の奈良がどのような都市で、どのような人々が住んでいたのかから話を進めている。奈良は「南都」とも呼ばれたが、奈良の寺社が摂関家に近く、平氏に反対する立場をとったために治承4年(1180)平氏による焼き討ちを受ける。その中で大乗院も焼けて、大乗院の門主はその後、唯一焼け残った禅定院を居所とする。中世都市奈良は、この焼き討ち後の復興の中から生まれてくる。
 興福寺の周辺には数十の小郷が形成され、興福寺はこれらを束ねる上位の行政単位として7つの郷を設置した。戦国時代の文献はこれらを「南都七郷」と称している。郷には寺社に所属する僧侶のほか、寺社に奉仕する商工業者や芸能民が居住していた。彼らは「郷民」と呼ばれた。郷民は興福寺や東大寺、春日社など、南都の寺社のどれかに所属し、寺社から身分とそれに伴う特権を与えられ、その見返りとして寺社に対して役を負担していた。そのほかに南都七郷は興福寺から役を課されていた。(役というのは今日の税金に相当し、物納であったり、労役の提供であったりしたようである。) とはいうものの、彼らの意向は都市の支配者にとって無視しがたいものであった。

 今日まで続く春日若宮祭礼、いわゆる「おん祭り」について、呉座さんは興福寺との関係を強調する安田次郎の説を支持しながら、この時代におけるその意義を論じている。おん祭りには興福寺の僧侶だけでなく、衆徒・国民も参加し、その挙行に際しては、大和の国の東西南北の境に結界が張られ、大和の国全体が聖域とされた。「おん祭りは大和一国を挙げての大規模な祭礼であり、興福寺による大和支配を象徴するものであった」(155ページ)。それだけでなく、応仁の乱の最中にも毎年欠かさず開催された。
 その重要な行事の一つは流鏑馬で、衆徒・国民によって独占されるようになり、長川・長谷川・平田・葛上・乾脇・散在の六党がローテーションを組んで務めるようになり、さらに後になると、流鏑馬の射手ではなくて願主人(幹事)を務めるようになった。
 国民(坊人)の中で古市氏は六党のどれにも所属せず、武士的な性格よりも僧侶的な性格の強い家であったが、古市胤仙の時代になって、経覚の権威を利用しながら武士的な性格を強めてきた。

 盂蘭盆は仏教の主要な行事の一つで、霊前にお供え物をして、お経を読んだり念仏を唱えたりしていたのが、15世紀になると、念仏風流と呼ばれるものが全国各地で行われるようになった。これは念仏とさまざまな出し物を組み合わせた行事で、その中心になるのは念仏を唱えながら踊る「踊り念仏」であった。他にも「造り物」を駆使した華やかな仮装行列や、素人の相撲・猿楽・獅子舞などが行われた。しかし、その開放的な気分の中で、人々が興奮し、喧嘩などのトラブルが発生しやすかったので、奈良では禁止令が出されていた。

 古市では風呂が盛んにたかれていたが、文明元年(1469)に風呂釜が壊れ、大金が必要になった。胤仙の跡を継いだ胤栄は奈良で念仏風流禁止令が出ていたことに乗じて、小屋を仮設し、その中で踊れるようにして入場料をとった。この興行は大成功で、風呂釜の修理費用を賄うに足りる収入が得られたらしいと呉座さんは推測している。「そもそも風呂釜じたいが娯楽施設であり、応仁の乱の最中に大金を投じて風呂釜を修理するという発想は、普通の人間には出てこない」(159ページ)と呉座さんは古市胤栄の性格についても論評を加えている。

 戦乱の中の都市住民の暮らしぶりを描くというのがこの章のねらいであったはずであるが、奈良が戦乱に巻き込まれることはあまりなかったこと、叙述の焦点が祭礼に宛てられていることから、むしろ祭礼の中で発散される民衆のエネルギーの方に興味がわく。むかし、戦乱で中断した祇園祭を再興しようとする町衆たちの姿を描いた『祇園祭』という映画を見たことなど思い出すのだが、奈良の「おん祭り」が戦乱のさなかでも中断しなかったというのは印象に残る。こういう祭礼の様子を読んでいると、ホイジンガの『中世の秋』の中の祭礼の描写などと比べてみたいという気持ちも起きる。
 歌舞伎の源流とされる阿国歌舞伎が念仏踊りを中心にしたものであることなど、念仏風流の中には現在まで姿を変えながらも伝わっている様々な芸能の要素が含まれているようである。そのあたりも注目してよいだろう。
 なお、念仏というと南無阿弥陀仏と唱える唱名念仏、静座して仏の姿を念じ思い浮かべる観想念仏、仏の本質の理を観じる実相念仏があるのだが、この時代には(現在と同様)念仏といえば、唱名念仏という通念ができていたようである。

ダンテ・アリギエリ『神曲 天国篇』(13-2)

2月23日(木)午前中は雨、午後になって雨は上がり、日が差し始めた

 ベアトリーチェに導かれて天上の世界へと旅立ったダンテは、月天(誓願を果たさなかった人々)、水星天(地上での栄光を追い求めた人々)、金星天(人と人とを結びつける愛)を経て、太陽天に到着し、神学者・哲学者たちの魂に迎えられる。ドメニコ会士であったトマス・アクィナスがアッシジの聖フランシスコ、フランシスコ会の総長であったボナヴェントゥーラが聖ドメニコの生涯を語り、ドメニコ会とフランシスコ会が創設されたのが神慮であり、この2つの修道会は教会を支える存在であることを解き、にもかかわらず現状は堕落していることを嘆く。
 神学者・哲学者の光の輪の中にいるソロモン王について、アクィナスは彼に匹敵する洞察力を持つ人間はいないと語ったが、ダンテは神によって土から創造されたアダムと処女懐胎をしたマリアから生まれたキリストこそが最も賢い人物であったのではないかという疑問を抱く。

 トマスはダンテの考えを一応肯定する。
かつて土はそのように
あらゆる生き物の中で完成にふさわしく整えられ、
聖処女はそのように懐妊される運びとなった。
(202ページ) トマスは、この個所の直前で聖霊が、最適な状態を選んで父から発する「烈々たる光」子(イデア)を質料に型押しすると「非の打ちどころのない完成」が得られると述べている。それに当てはまるのがアダムとキリストの場合であるというのである。

それゆえ私は君の意見が正しいと賞賛しよう。
すなわち人類は過去にも未来にも決して、
それら二人の人物がそうであったようには存在しえない。
(同上) では、なぜ、ソロモンについて、彼に匹敵する人物はいないとトマスは言ったのか。

しかし、今は見えていないものをはっきりとさせるためには、
それがどのような人物であったか、そして求めるよう『願うがよい』
と命じられた時、彼を動かした理由を考えなさい。
(同上) トマスはダンテの関心を旧約『列王記』3-5以下の記述に向けさせる。王位に就いたソロモンはギブオンというところで神に捧げものをすると、その夜の夢に神が現われて「何事でも願うがよい。あなたに与えよう」(列王記3-5)という。するとソロモンは「あなたの民を正しく裁き、善と悪を判断することができるように、この僕(しもべ)に聞き分ける心をお与えください」(『列王記』3-9)と答える。神はこの答えを喜んで「知恵に満ちた賢明な心」(5-11)を与え、「あなたの先にも後にもあなたに並ぶ者はいない」(同上)と付け加える。そしてさらに、富と栄光も与え「生涯にわたってあなたと肩を並べうる王は一人もいない」(5-12)といい、もし、彼が父ダビデのように神の掟と戒めを守り、正しい道を歩むならば、長寿も与えるだろうという。

私の話し方は、彼が王であり、
賢王になるために知恵を求めたことが
君にわからぬようなものではなかった。
(202-203ページ) それゆえソロモン王の知恵とは神学的な知や、論理学的な知や、自然学的な知や、数学的な知ではなく、「王者(として)の思慮深さ)」(204ページ)である。この区別立てをすれば、ダンテの考えていることと、トマスの言ったことが両立する、精神世界を指導すべきキリストの知、つまり教会が指導すべき分野とソロモンが神から授かった政治的指導者たる徳を持つべき王、つまり皇帝の知が指導すべき世俗・政治の分野とは両立するのだという。原さんの解説によると、ダンテは別の著作『帝政論』で、「帝国の権威は教会に拠らず、神に直接拠る」(566ページ)と主張しているそうである。

 そしてそのような区別を知らない、つまり方法を知らずして神の真理に近づこうとする人々の企てを非難する。
方法を知らぬのに真理を釣ろうとするものは、
無駄となる以上に、岸から離れてしまう、
出発した時のままで戻ってくる事は無いからだ。
(205ページ) さらには次のような表現も用いられている
・・・見たことがあるからだ、
船が全航路にわたってまっすぐ快調に進み、
終点の入口で沈むのを。
(206-7ページ) 

 ダンテはこの第13歌で、政治的知は神学に基礎を持つ必要はないとした。別の言い方をすると、政治学と神学はそれぞれ独立した学問分野であると主張しているようである。ダンテは神のことばかり考えているような人であったと理解されやすいし、確かにそういう面もあるが、その一方で、世俗的な問題に関心を寄せ、それらの問題は神学とは別の学問によって取り組まれるべきであると考えていたのである。『神曲』は人間の死後の世界を描く叙事詩のように見えて、実は現実の社会の改革を目指す呼びかけという側面も持っていることがわかる。

など品川といふやらん

2月22日(水)曇り、寒し

 海辺をばなどしな川といふやらん
というのは、『東海道中膝栗毛』の初編で北八とともに伊勢参りの旅に出かけた弥二郎兵衛が品川に通りかかって、海辺なのになぜ川というのだろうと、問いかけた前句である。これに対して、北八は
 さればさみづのあるにまかせて
と返す。真水(さみず)があるから川といっても不思議はないというのである。鮫洲(今の品川区大井鮫洲町)と真水とをかけている。

 弥次喜多の時代には忘れられていたようであるが、目黒川の河口付近を品川といった。河口には港が設けられていて、品物が運び込まれたり、出されたりした。だから品川というのである。

 江戸時代、江戸から地方に向かう五街道の最初の宿場が4か所に設けられていた。これを四宿といい、品川(東海道)、内藤新宿(甲州街道)、板橋(中山道)、千住(日光街道、奥州街道)である。中でも東海道の最初の宿場である品川はにぎわった。気を付けていいのは、現在のJR(と京浜急行)の品川駅は、本来の品川宿よりも北の、港区高輪に設けられていることである。だから、京浜急行の北品川の駅が、品川駅の南にあるという珍妙な事態が生じた。

 天正18年(1590)に江戸に移った徳川家康は、今川氏真の屋敷を品川に設けさせた。それまで家康がいた静岡では、氏真が家康のところにしょっちゅう押しかけてきて長々と昔話をするので、辟易していた家康が、千代田城から遠くに住まわせたという話である。それで、氏真の次男の高久は品川を姓として名乗るようになった。本家である今川氏と、分家の品川氏はともに江戸幕府の高家旗本の家柄となったのである。

 今川氏真は義元の嫡子で、桶狭間の戦いで義元が戦死したのち、武田、そして徳川の攻撃を受けて没落する。昔読んだ漫画のなかの織田信長と徳川家康の清州の会盟の場面で、家康が信長に「今川の家は氏真が後を継いだけど、この氏真がアホなの」といっているのを覚えているが、氏真がアホというのは結果論である。武田信玄を困らせようと甲州に塩を送らせないようにしたのは氏真であり、小和田哲男さんも書いているが、氏真はそれなりの政治的な手腕は持っていたようである。
 中村真一郎は、家康の正室であった築山殿と嫡男・信康が死に至る事件に巻き込まれて、家康のもとを去った武将である山内通綱の子孫であるということから、1971年に『旅』に連載した古寺探訪の中で、築山殿の墓所のある西来院(浜松市)と信康の廟がある清瀧寺(天竜市)を訪問している。その中で、築山殿について「この駿河御前と呼ばれた今川家の血を引く女性は、従兄の氏真同様、室町文明によって育った、自由奔放な女性で、教養も趣味もはるかに家康より高級だった」(中公文庫版『古寺発掘』、96ページ)と書いている。築山殿の本名が分かっていないのは一つの謎であり、そのことが彼女の不幸を際立たせている――というのはさておいて、氏真は和歌を能くし、蹴鞠にいたっては名人級で、蹴鞠の家柄である飛鳥井家の当主から武士にしておくのはもったいないとほめられたという。要するに室町的な教養人・趣味人であった氏真と現実的な戦国武将であった家康は性格的に合わなかったのであろう。しかし、家康は朝廷や貴族との交渉のための使節として氏真の才能を活かして使い、氏真はその使命を果たしながら生き延びたのである。そういう意味では、氏真はアホではない。

 今川氏真のおかげで話が横道にそれすぎた。こういう話ばかりしていたので氏真は家康に嫌がられたのであろうか⁉ 
 海近くして東海寺(遠かいじ)とはいかに
 大軍を率いて将軍(小軍)というがごとし
というのは、家康の孫である家光と、品川の東海寺の住職であった沢庵の間に交わされたという問答。
 現在は、埋め立てにより、海岸線が遠くなっているが、昔は街道と宿場のすぐ近くに海が広がっていたのである。
そうでないと、『膝栗毛』の弥二さん喜多さんの連句も、落語の「品川心中」の海に飛び込んで心中しようとする場面もわからない。もっとも、落語のその後を聴けばわかるとおり、品川の海は遠浅だったから、死のうとしても死ねないのである。

 明治時代の終わりごろに、出羽の海部屋に入門してきた新弟子が、巡業に出ていた力士衆に合流しようと先輩力士に付き添われて汽車に乗って品川までやってくる。そして、東京湾を見て(昔は汽車の窓から海が見えたのである)、ここはどこだと聞くと、品川だという答えに、大きな川だなぁと感嘆したという。この新弟子が後の大横綱栃木山(→春日野親方)であった。私が子どものころに、栃木山の春日野親方はまだ健在で、相撲雑誌の対談でこの話の真偽を尋ねられて、同行していた力士が言いふらした話で、彼は話がうまかったからなぁと受け流していたと記憶する。たぶん、それに類したことを言ったのが、尾ひれを着けて言いふらされたということらしい。

 栃木山の春日野親方、その弟子の栃錦の春日野親方はなくなり、その次の栃の海の春日野親方は健在だが親方を定年で退き、栃乃和歌の春日野親方の時代になっている。明治が遠くなっているように、品川の海岸線も遠くなっているようである。
 

松尾由美『ニャン氏の事件簿』

2月21日(火)晴れ

 2月20日、松尾由美『ニャン氏の事件簿』(創元推理文庫)を読み終える。名探偵ニャン氏が活躍する短編連作集。すぐにわかるように、ニャン氏は猫である。

 大学を休学してアルバイト派遣会社から言いつかる様々な仕事を掛け持ちして糊口をしのいでいる佐多俊英君は、ある暑い夏の日、家電配送会社の仕事に出かける。その会社の社員の岡崎とのコンビで、あるお屋敷でシャンデリアを取り付け、その家に住む老婦人から不思議な話を聞く。この家には彼女の叔父が住んでいたのだが、不思議な死に方をしたのだという。そこへ、自動車が故障して、炎天下で修理の終わるまで待つわけにもいかないから、涼ませてほしいという来客がある。考えようによっては(というより、考えなくても)厚かましいお願いをしてきたこの客は、猫であった。

 彼=実業家のアロイシャス・ニャン氏は、もともとさる資産家の飼い猫であったが、その人の死後、遺言で財産を継承したのだという。ニャン氏の運転手兼秘書(兼通訳)である丸山の紹介によると「それまでのんびりと晴耕雨読、いや、晴れた日には日向ぼっこ、雨が降れば鼠のおもちゃを追いかけるといった、気ままな暮らしをなさっていましたが、責任ある身となってからはめきめきと才覚を発揮し、貿易・金融・缶詰製造などいくつかの事業において、投資ばかりでなく経営に参画。若年ながら経済界にしっかりと爪痕を残し、さらに余暇には『ミーミ・ニャン吉』のペンネームで童話を執筆するなど、多方面で活躍なさっている方です」(25ページ)。

 この屋敷の元主人の怪死事件をめぐり、居合わせた人々が様々な推理をめぐらす中、ニャン氏はさらにその上を行く頭脳の働きを見せて、真相を解明する…。というのが第一話である「ニャン氏登場」で、その後、佐多君が岡崎さんと組んで出かけた猫目院家で起きた事件(「猫目の猫目院家」)、友人のピンチ・ヒッターで引き受けた高原のホテルでのアルバイトで、宿泊客から聞いた不思議な昔話(「山荘の魔術師」)、再び岡崎とのコンビで出かけたCMの撮影現場で出会った掛け軸の盗難事件(「ネコと和解せよ」)、佐多君の元彼女の現婚約者が巻き込まれている指導教授の絵葉書紛失事件(「海からの贈り物」)など、なぜか、突然現れたニャン氏がニャーニャー言うのを、丸山が通訳して解決していく。

 実は、佐多君には、大企業の創業者=会長の祖父がいるが、両者の関係は必ずしも良好ではないという事情があって、それが彼の休学=アルバイト生活の原因にもなっている。一方、丸山からは自分はもう年齢的に引退したいので、佐多君に跡を継いでほしいという申し出をされている。ニャン氏はどうも佐多君が気に入っているようなのである。最終話「真鱈の日」はその祖父の周辺で起きた事件について話を聞いていると、ニャン氏が現われる・・・。

 「真鱈の日」には、読み始めからコナン・ドイルの「まだらの紐」の話が出てくるのだが、「まだら」ということだともう一つ思い出してもいいかもしれないことがある。この連作集での佐多君とニャン氏のいつも不思議な出会い方から連想されるのは、クリスティのクイン氏ものにおけるサタースウェイトとクイン氏の出会いである。クインという主人公の名前がHarlequin(ハーレクイン、フランス語Arlequin アルルカン、イタリア語のArlecchino アルレッキーノ)の後半部分からとったとられていることはご承知かもしれないが、イタリアの即興喜劇に登場する道化役の下男であるアルレッキーノは菱形の多色のまだらの入った衣装と黒い仮面をつけているのがお決まりである。

 ニャン氏にクイン氏を重ねるのは、私の独りよがりの深読みかもしれないが、クリスティのクイン氏に探偵としての相貌のほかに道化役の面影が残っているのと同様、ニャン氏も名探偵である一方で、「かわいいような、図々しいような、何も考えていないような、賢いような、まあどこにでもいる普通の猫」(188ページ)という面も持ち合わせていて、そこがこの作品の魅力にもなっている。「ミーミ・ニャン吉」というペンネームなどに著者の遊び心が覗かれて読んでいて楽しい。「真鱈の日」でこの連作は完結という形をとっているようであるが、何かの形で続編の執筆を期待したい気持ちが残る。

「春を待つ雪」と「雪の瀬川」

2月20日(月)晴れのち曇り、風が強い

 蔵書の整理をしていたら、宇野信夫『江戸おとし咄 夜の客」(集英社文庫)という本を見つけた。昭和59年(1984)発行で定価を見ると300円とある。この30年余りの間にずいぶん本の値段が上がったことを改めて確認した(それにあの頃は、消費税などというものはなかった)…という話はさておいて。

 この本は、「序にかえて」で劇作家である著者が書いている通り、子どものころから親しんできた古典落語のいくつかを、自分なりに書きかえた。それもこれも「語られる落語を、書かれた落語として残しておきたい」(7ページ)という思いからであるという。

 ざっと目を通してみて、気づいたのは、この中に収められている「春を待つ雪」という咄が中公文庫の『圓生人情噺(中)』に収められている「雪の瀬川」と同じ話だということで、改めて書架を探して、『圓生人情噺(中)』を見つけ出した。(こんなことだから、蔵書はいつまでたっても片付かない。) こちらは昭和55年(1980)発行で定価は420円であった。以前、読んだ時には気づかなかったのだが、この本を監修しているのが宇野信夫で、解説も書いている。その解説にも記されているが、6代目の三遊亭圓生(1900-1979)はこれらの文庫本が出版されたころには世を去っていた。圓生が高座にかける際に凝らしていた工夫を知り抜いている宇野がどのように自分なりの物語を語ろうとしたか、両者を比べてみよう。(宇野の「春を待つ雪」の方が簡単なので、こちらを主にして、圓生の「雪の瀬川」とどこが違うかを見ていくことにする。)

 江戸は芝口一丁目の松屋という茶道具屋の若旦那の清三郎が吉原半蔵松葉の瀬川という花魁に熱を上げ、通い続けているので、父親が、親類のものを集めて相談のうえ、懲らしめのために勘当ということになり、家を追い出された。(「雪の瀬川」では、若旦那は古河の大金持ちの跡取りで善次郎といい、人間がまじめすぎるので少しは遊びを覚えてほしいと親の計らいで江戸に出されたという設定になっている。さらに、周囲の人間がいろいろと画策して、吉原へと連れ出し、瀬川と引き合わせる家庭も詳しく描き出されている。)

 はじめのうちは金もあったので、人の家の二階を借りて、毎晩のように松葉に通っていたが、松葉の主人がこの様子では勘当が赦されるわけはなく、本人のためにならない、また瀬川のためにもならないからといって、二人が会えないようにする。そのうち、若旦那は金もなくなり、ああ俺が悪かった、今更どこへ行くこともできず、いっそ死んだ方がいいと思い込んで、吾妻橋から身を投げようとするところを、店の使用人で、ふとした過ちから暇を出されて、本所松倉町に裏屋住まいをして紙屑買いを渡世にしている源六というものに助けられる。(「雪の瀬川」では勘当されてから松葉に通ったというくだりはなく、金がなくなって永代橋の上をうろうろしていると、元使用人の忠蔵という男に助けらる。忠蔵はやはり店で働いていたお勝という女といい仲になり、2人で江戸に逃げて麻布の谷町というところに住んで、神屑屋をやっている。)

 源六は、家へ連れてきて、女房にも話をして、その日稼ぎの貧乏人ではあるけれども、夫婦してよく若旦那の面倒を見る。そのうち、暮の20日、朝から雨が降るので、源六は商売に出かけることができない。清三郎は瀬川に手紙を届けてほしいという。直接手渡すわけにはいかないから、贔屓にしていた幇間の富本米太夫のところに行って手紙を預けてほしいというのである。
 源六が米太夫のところに行くと、借金取りと間違えられて初めのうちは居留守をつかわれるが、若旦那からの便りと聞いて飛び出してきて、手紙を預かり、瀬川のところに出かける。(「雪の瀬川」では、若旦那が瀬川に手紙を書くというと、忠蔵がそんなことはやめなさいと言って、瀬川の若旦那への想いを疑うが、それでも不承不承使いに出ることになっている。また、手紙の仲立ちをする幇間は五蝶という名になっている。使いのものを借金の取り立てと間違えて居留守を使うのは同じである。)

 米太夫が瀬川のところに出かけると、ちょうどお客が帰った後で、「花魁は床へ花を活けてお茶を点てて一服飲んでいる」(52ページ)。〔いかにも格式高い遊女という感じであるが、それまで取っていた客があまり気に入らないから、ここで気分を切り替えているという様子にも受け取れる。〕 米太夫から手紙を受け取った瀬川は、清三郎の窮状を知り、涙ぐむが、返事を書いて、お金を一両紙に包み、一両は使い賃だと言って米太夫から源六に渡してくれるように言う。(「雪の瀬川」では五蝶が博打で借金をこしらえて表に出られないので、さらに使いのものを頼むことになっている。手紙を読んだ瀬川が泣いてしまって、返事が書けず、「書き損じては破り、破っては書き、見てる間に屑かごへ三杯ばかり屑がたまる」(『圓生人情噺(中) 雪の瀬川』(67ページ)というありさまだったと伝える。)

 源六が家に帰って、清三郎に手紙を見せる。手紙には雪か雨の降る晩に必ず廓を抜け出して清三郎に会いに行くと書かれていた。清三郎どころか源六も悪天候の日を待っていると、米太夫が現われて、当座の小遣いにと15両を置いてゆく。そして26日、雪が降っているので、瀬川が来るに違いないと用意をして待っているとなかなか来ない。源六の女房はお産の手伝いに大家さんから呼び出されて家を空ける。源六は清三郎を二階にあげて、貸本屋から頼まれた義士伝の写字をはじめたがそのうち寝てしまう。(「雪の瀬川」でも五蝶が忠蔵のところに金を届けてくる。忠蔵は相変わらず瀬川の真意を疑っているし、廓を抜け出すことは不可能だと決め込んでいる。女房がお産の手伝いに出かけ、義士伝を写字するのは同じである。)

 深夜、源六の住む路地に駕籠が入ってきたかと思うと、宗十郎頭巾をかぶって合羽を着た一人の背の高い武士が家へ入ってくる。これはどうしたことだと源六が慌てていると、武士は合羽をとり、頭巾を外すと、中から現れたのは瀬川花魁である。大きな髷に結った頭に頭巾をかぶっていたから背が高く見えたということで、二階から降りてきた清三郎と手に手を取り合って何も言わず涙にくれる。よもやま話をした後、瀬川はその夜のうちにまたしてあった駕籠に乗って吉原へ帰り、彼女が持ってきた金をもって、源六が芝口の店に出かけ、一番番頭を通じて一部始終を大旦那に伝えてほしいと頼んだところ、その骨折りが功を奏して、清三郎の勘当も赦され、瀬川を落籍して、二人は夫婦になって、松屋の跡を継いだという。(「雪の瀬川」では、合羽をとり、頭巾を脱ぐところの描写がより詳しくなっているが、読んでのお楽しみ。瀬川は廓へ戻らず、忠蔵が翌日店へ行って話をすると、父親が大病を患っているということもあって、勘当は許され、松葉屋へは身代金を払って、二人は夫婦になるという。店が江戸から15里離れた古河にあるということを忘れたような結末になっている。)

 「紺屋高尾」(5代目の古今亭志ん生は「幾代餅」として演じていた)と同様「傾城に誠あり」という咄であるが、もちろん、例外的な話だから語り継がれたということも忘れてはならないのである。圓生の高座は、落語らしいくすぐりもあり、また瀬川の服装の描写に見られる艶麗さもあって、(まだ耳の奥に残っている彼の声を思い出しながら)活字を追っていくのが楽しい。とくに、上記の梗概では省いてしまったが、忠蔵が善次郎を引き取る際に、大家さんに断りを入れると、大家さんがいろいろと助言をするくだりが面白い。食べ物について「くさやの干物なんざいいね、うん。通人が『ああ、こりゃちょいと乙なもんですな』なてんで喜ぶ。それもね、丸焼きにしたやつをお皿の上へのっけてつき出すなんざ、野暮でいけませんよ、うん。干物というものは、ま、お前も知ってるだろうが、ありゃ背中の方から焼くもんだ。おなかの方はひっくり返して、ちょいっと火にかけりゃそれでいい。それから頭を取って、まん中の骨もとってね、しっぽの方の皮はこりゃ取らなくっちゃいけませんよ… 一口でもって食べられるように、頃あいの大きさにこいつをむしってね、うーん、醤油はやはりいいのを使わなくっちゃいけない。それに味醂なぞがあるといいな。それをほんの心もちたらして、醤油をかけるわけだ。それからやはり鰹節(かつぶし)をかけなくちゃいけないだろう。香の物だって、沢庵の輪切りを出しておくなんてのは、こいつもやっぱり野暮でいけないからこう、隔夜(かくや)に切ってね、水へ泳がせて、ここで塩気を抜いてこいつを絞って、醤油(したじ)をかけて、鰹節はまァ、あってもなくてもいいようなもんだがやっぱりかけた方がよかろう」(『雪の瀬川』、54-55ページ) 食べ物一つとっても、とうとうと意見を開陳する世話好きな大家さんの見識、いやはや、どうも恐れ入りました。まだまだ大家さんの助言は続き、忠蔵は最後には、大家さんから鰹節を借りて家に戻る。ということで、六代目三遊亭圓生という落語家と人情噺の魅力を改めて認識し、いつまでたっても蔵書の整理は進まないというお粗末である。 

『太平記』(146)

2月19日(日)晴れ、温暖

 後醍醐天皇を迎え入れた比叡山延暦寺に対抗するため、足利方は、戒壇の造営を約束して三井寺を味方につけ、細川定禅の率いる中国・四国の兵たちを寺に入れた。建武3年(1336)正月13日、北畠顕家率いる奥州・関東勢が比叡山の宮方に合流した。三井寺に攻め寄せた宮方は、細川定禅の軍勢を追い落として伽藍に火をかけた。16日、新田義貞軍が京へ攻め入り、足利軍は大敗したが、細川定禅の活躍で宮方を撤退させた。27日、宮方は再度京へ攻め入って勝利した。さらに楠正成の謀で比叡山を撤退するように見せかけた宮方は、30日、油断した足利方を京から攻め落とした。摂津へ落ちる途中、尊氏は、供をしていた薬師丸に、後醍醐天皇に対抗するため、持明院統の光厳上皇の院宣を手に入れるよう命じた。

 京都から丹波路を落ちていった尊氏であるが、味方の主だった軍勢が兵庫の湊川に集結しているという知らせを受けて、湊川に到着した。これまで規制を失っていた軍勢が、気力を取り戻して、あちこちから集まってきて、間もなくその軍勢は20万騎に達した。この軍勢ですぐに京都へと攻め上れが、宮方の軍勢は京都を支えることができないはずであったが、湊川の宿に特に何をすることもなく3日もとどまっていたために、抑えとして八幡に残しておいた甲斐源氏の武田信武は、敵の中に孤立して支えきることができず、宮方に降伏してしまった。もともと新田方に属していて、大渡・山崎の合戦で降伏して足利方になっていた宇都宮公綱も足利方の反攻を待ちきれずに、新田方に戻ったので、宮方の軍勢はますます大勢になって、龍や虎のような威勢をふるう様子であった。

 2月5日、顕家卿、義貞朝臣は10万余騎を率いて京都を出発し、その日、摂津の国の芥川に到着した。この知らせを聞いた尊氏は、そうであれば道中で迎え撃てと弟の足利直義に16万の軍勢を率いさせて、京都へと向かわせた。

 そうこうするうちに、両軍の軍勢は思いがけずも2月6日の巳の刻(午前10時ごろ)に、手島河原(箕面川の豊島河原)で遭遇した。互いに旗を進めて、東西に陣を張り、南北に軍勢を配置した。北畠顕家がまず2度攻め寄せ、有利に戦いを進められなかったので退却し、続いて宇都宮が、新田方への忠節の証を示そうと200余騎を率いて攻勢に出る。これまた戦死者を出して後退したので、入れ代わって義貞の弟の脇屋義助が2,000余騎で攻め寄せる。足利方では足利一族の仁木、細川、畠山の各氏と家老の高一族が、前日の敗北の恥をすすごうと、命を捨てて戦う。宮方では新田一族の江田、大館、里見、鳥山がここを突破されればもう後に引く場所はないと命を顧みずに防戦に努める。このようにお互いに必死に戦ったのであるが、ついに勝敗の決着がつかないまま、その日の戦闘は終わった。

 楠正成は、宮方の主力から遅れて京都を出発したのであるが、合戦の様子を観察して、ひそかに自分の率いる700余騎を神尾(かんのお、兵庫県西宮市甲山町の真言宗寺院神呪=かんのう寺、甲山大師)の北の山から回らせて、目を凝らしても見えないような暗闇の中で、夜襲をかけた。(他本は、「神尾」を「神崎」と記しているようである。だとすると尼崎市の神崎になる。) 直義の率いる足利方の軍勢は、昼間の合戦が一日中続いたので疲れているうえに、急に背後から夜襲をかけられ、慌てふためいて、一戦も戦わず、兵庫を目指して退却していく。義貞は、これを追って西宮に進み、直義は味方の軍勢を立て直しながら、湊川に戻って陣を構える。

 同じ2月7日の朝、凪いだ海を見渡すと、はるか沖の方から大きな船が500艘、追い風を帆に受けて近づいてきた。どちらに味方する軍勢であろうかとみているほどに、200余騎は、舵を取り直して、兵庫の島に漕ぎ入れた。残る300余艘は、帆を張ったままにして西宮に漕ぎ寄せた。これは豊後(大分県)の大友、長門(山口県西部)の厚東、周防(山口県東部)の大内らが足利方に加勢しようとしてやってきたのと、伊予(愛媛県)の土居、得能が宮方にはせ参じようとしてやってきたのと、これまでは方向が同じなので、一緒だったのが、今日は二手に分かれて、それぞれが味方しようとする方に向かったということである。

 両軍ともに、まだ戦っていない新しい軍勢が到着したので、お互いに兵を進めて、小清水(兵庫県西宮市越水町)で向かい合う。足利方は数において勝る大軍ではあったが、これまで戦ってきた兵は、新手の軍勢に戦わせようと、戦う様子を見せない。大友、厚東はまた、必ずしも自分たちだけの重要な合戦ではないと思っていたので、それほど勇み立つ様子もない。宮方はというと、比べてみるほどのこともない小勢であったが、これまで戦ってきた兵は、他人事の合戦ではない、我が身の存亡にかかわることだと思い、新たに加わった土井、得能は、今日の合戦でふがいない戦をしては、(土井・得能を含む)河野一族の名折れになると、競い立っている。ということで、両軍がまだ戦わないうちから、結果の兆しは両軍の気勢に現れ、勝敗は何となく見えているように思われた。

 そうはいっても、新手の軍勢の決まりとして、大友、厚東、大内らの軍勢2,000余騎が足利方の先頭で進んだ。土居、得能はこれを見て、彼らとの戦いは他に譲れない自分たちの仕事だと、3,000余騎の軍勢を前面に並べて、矢を1筋ずつ射交わす時間もないほど急に、一斉に刀を抜いて攻め入る。大友、厚東、大内は一太刀切り結ぶと、さっと左右へ分れてしまった。土居、得能はそのまま敵の後ろの方まで駆け抜けて、直義が控えていた湊川に迫っていく。「葉武者どもに目な懸けそ。大将に組め」(第2分冊、481ページ、雑兵どもを相手にするな。大将に取り組め)と指示して、風のごとく散り、雲のごとく集まり、鬨の声をあげて懸け入り、懸け入っては戦い、千騎が一騎になるまでも退却するなど、互いに声を交わして戦い続けたので、直義は、これでは敵わないと思ったのであろうか、また兵庫を指して退却していった。

 何度戦っても、味方の軍勢がはかばかしい戦果をあげないという様子を見て、これはどうもだめだと思ったのであろうか、尊氏も、気力が屈した様子であった。そこへ豊後からやってきた大友貞宗が現われ、現在の状態では有利な合戦ができるとは思われません。我々が昨日やってきたのは、そうなるべき(九州へといったん退却すべき)運だと思われます。幸いに船も多くありますので、九州へと退却なさいませ。九州の有力大名である少弐貞経が味方なので、九州の武士たちはそれに追随してくるでしょう。そうして軍勢を多く集めれば、すぐに大軍を動員して、京都を攻めて攻略するのは簡単になるでしょうといったので、尊氏も納得して、すぐに大友の船に乗り込んだ。

 書軍勢はこれを見て、将軍が船に乗り込んで落ち延びようとされていると騒ぎ立て、とるものもとりあえず、乗り遅れまいと慌てて船に駆け寄る。船はわずかに300余艘であり、乗ろうとする兵は20万騎を越えている。1艘に1,000人ばかりが乗り込んだ船はその重さで沈んでしまい、乗っていたものは1人も助からない。残った船は、これを見て、それほどは人を乗せまいと、纜を解いて舟をこぎだしてしまう。乗り遅れたる兵たちは、武具や衣装を脱ぎ捨てて泳いで船に乗り込もうとするが、船の上からそれを発ち、なあ義なたで切り殺し、払い落とす。結局、乗り込むことができず、浜辺に帰った者は、自害をして、その死骸が波に揺られることになった。

 尊氏は、かつて平家が一時都を築こうとした福原冴えも支えきれず、船の上から渚を照らす月と、海岸に寄せる波に涙を添えて傷心の想いにふけりながら、筑紫へと落ちてゆく。義貞は、勝利の手柄を立てて、降参した数万人の武士たちを引き連れ、都に帰っていく。悲しみと喜びがたちまち所を変えて、現実も夢のようである。

 楠正成が足利直義の軍勢を奇襲で破るところなど、義経が福原の平家を奇襲で破る場面を思い出させる。尊氏が福原を離れる場面の描写も、『平家』を意識した筆致である。
 とにかくこれまで、足利方は数の上では優勢なのだが、士気が上がらず、宮方は数においては劣勢だが、士気が高いという状態が続いている。しかし、それ以上にこの時代の特色を表しているのは、その時々で有利な方に従いながら、保身を図っていくそのほか大勢の武士たちではないかと思う。さて、足利方が去った後、京都はどうなっていくのか、それはまた次回。

日記抄(2月12日~18日)

2月18日(土)晴れ

 自分つくりのための読書とでもいおうか、月曜日・火曜日にはレーヴィットの『ヘーゲルからニーチェへ』、水曜日~金曜日には木庭一郎『ハイネとオルテガ』(自分の研究のための参考になる内容が記されている)、土曜日・日曜日には大野晋・丸谷才一『日本語で一番大事なもの』を読んでノートを作ることにしている。計画通りに進捗しているとはいいがたいのが問題である。この、読書が前回、書き洩らしたことと関連する:
 2月11日
 NHKラジオの「朗読の時間」で「芥川龍之介随筆集」を取り上げているのは既に書いたが、本日の放送分で「本所 深川」が終わって「澄江堂雑記」に入る。芥川の子ども時代の思い出の地の再訪録である「本所 深川」に比べて、いろいろなことを書き散らしている「澄江堂雑記」の方が面白くないのは、致し方のないことである。その「本所 深川」の最後のところで、昔住んでいたところを再訪した感想を芥川が家族のものに語る箇所があり、そこで、『方丈記』の一節が引用されている。家族のだれ一人として、『方丈記』を知らないというのが、教育史的な事実として興味深い。
 
 大野・丸谷『日本語で一番大事なもの』の中で、大野が次のような発言をしている:
「…昨年インドに行きましたとき、私の通訳として助けてくれたインドの若い女の人に、川の流れを見て、われわれは「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。よどみに浮かぶうたかたは、かつ消え、かつ結びて、久しくとどまりたる例(ためし)なし」というと、言ったんですね。また中国では「ゆくものはかくのごときか昼夜をおかず」と孔子が言ったという話をしたんです。そうしたら彼女曰く、「水は流れてゆくけれども、その本質において何の変りもない」と。これには私も驚きました。インドの人には、やはりサンスクリット的世界のとらえ方があって、時間によって物事が流動していくことを詠嘆しない、事の本質はなにかというようにだけ見るわけなんですね」(119ページ)。
 鴨長明が見ている水の流れは、小川だったかもしれないという説があり、孔子の感慨とは異質のものがあるのかもしれない。インドの若い女性の意見は、彼女だけのものであって、ほかのインド人が同じように考えているかどうかはわからない。また、「サンスクリット的」というレッテルの張り方が正しいとは思われない。とは言うものの、この話は考えさせられるねえ。

2月12日
 この日の当ブログで大隅和雄『中世の声』について取り上げたが、大隅さんは『平家物語』についてかなりの紙幅を割いて語っているけれども、その書き出しと『方丈記』の書き出しに通底するものがあるのではないかとは論じていない。実は、『太平記』と『徒然草』には、書き手の側では何とか話をまとめようとしているのだけれども、現実の方がまとまってくれないという共通点があり、それに比べると『平家』と『方丈記』はまだ現実の展開が著者にとってとらえやすいものであったのではないかと思っているのである。あるいは『太平記』+『徒然草』+『増鏡』と、『平家』+『方丈記』+『今鏡』という2対のトライアングルの比較をした方がいいのかもしれない。

 大隅さんの著書の中で、ヨーロッパの宗教改革と鎌倉新仏教についての対比の可能性について触れている箇所があるが、ヨーロッパの側から、あるいは日本とヨーロッパ以外の宗教史研究の中から、この問題について論じた例があるのであろうか。ヨーロッパの国々の中でも、宗教改革に類する動きがあった国もあるし、起きなかった国もある。中国や韓国で鎌倉の新仏教に類似した宗教的な動きはなかったのであろうか・・・という風に考えるべき問題はきわめて多い。

2月13日
 NHK「ラジオ英会話」の続き物語”The Secret Admirer"はいよいよ”Valentine's Day Dance"の日を迎える。クレアもヴェロニカもこの日を迎えて大いに興奮している。ヴェロニカが、クレアに言う:
Maybe your Prince Charming will be there. (あなたの夢の王子様がそこに来るかもしれないわ。)
 「プリンス・チャーミング」というのは、『白雪姫』の登場人物としてディズニーが創造した存在かと思っていたが、もっと古くからある言い回しのようである。

2月14日
 「ラジオ英会話」の”The Secret Admirer"の続き。Valentine's Day Danceに着ていくものがないがないというクレアに、ヴェロニカは手ごろな店を紹介する。その店で、クレアは彼女当てのValentine Messageが記されていたのと同じ便箋を見つける。店員によると、最近、若くてtall, dark and handsome (長身で色浅黒くハンサムで)という伝統的な美男3点セットの男性がこの便箋を買っていったという。うーん、私はこの3点セットのどれにも当てはまらないなぁ。

2月15日
 「ラジオ英会話」の”The Secret Admirer"の続き。クレアとヴェロニカはダンスの会場に到着、クレアはアダムに声をかけられ、
May I have this dance? (この曲、踊っていただけますか?)
と申し込まれる。と、すぐにクレアの本命であるジョンが現われて、
You look absolutely stunning tonight. (今夜はハッとするほど素晴らしいね!)と彼女を褒めて、
Save the next one for me. (次の曲、僕にとっておいて。)と頼む。
 ジョンの役を遠山先生が演じているのがなんとなく、可笑しい。

2月16日
 『朝日』朝刊に「繰り返し学習 やっぱり有効」という記事が出ていた。問題は、いつ、どのように繰り返すかということのようである。

 「ラジオ英会話」の”The Secret Admirer"の続き。アダムと踊っていたクレアは、アダムがヴェロニカに恋い焦がれていているが告白できないのだといわれる。
I just can't get up the courage to ask her to dance. (勇気を出してダンスを申し込むことがどうしてもできないのです。)
Veronica would dance with you in a heartbeat. (あなたとなら、ヴェロニカはすぐさま踊るわ!)
クレアとジョンの方は、どうなるのであろうか?

 NHKラジオ「実践ビジネス英語」の”Quote...Unquote"のコーナーで紹介された言葉:
To invent, you need a good imagination and a pile of junk.
          ――Thomas A. Edison (U.S. inventor, 1847 -1931)
(発明するためには、優れた想像力とガラクタの山が必要だ。)
 失敗せずに、成功しようというのは虫が良すぎるという発言である。

 同じく「まいにちフランス語」応用編「ガストロノミー・フランセーズ 食を語り、愛を語る」は”Bistrot ou brasserie? (1)  La nouvelle cuisine française redéfinit les codes"(ビストロ、それともブラッスリー (1)規範を再定義する新しいフランス料理) という話題を取り上げた。ビストロは、飲み物を飲んだり、ちょっと気軽なものを食べたりするため、立ち寄る場所であり、ブラッスリーは手軽で家庭的な料理を出し、サービスもシンプルな店であるという。レストランは、特別な場所で、サービスは非の打ちどころのないもの、料理は手本となるほど立派なものでなくてはならないという。

2月17日
 「まいにちフランス語」は”Bistrot ou brasserie ? (2)"で、前回紹介した3種類の店の他に、1990年代以降、bistronomieと呼ばれる新しい種類の店が登場して、力関係を変えたという話になった。
Désormais, on peut goûter une cuisine savoureuse dans de petits établissements aux tarifs accessibles. (以来、小さな店で、手ごろな値段で、おいしい料理を食べることができる。) あなたもビストロノミーを試してみたら?と勧める内容であった。

2月18日
 パナホーム・ビューノプラザ大塚で開かれた「別府葉子シャンソンライブ2017」に出かける。ヴォーカル&ギターが別府さん、ピアノが鶴岡雅子さん、コントラバスが中村尚美さん、ヴァイオリンの会田桃子さんがゲストとして参加という顔ぶれは、昨年9月のコンサートと同じ。今回は会場がより小規模なので、観客との距離が近く、音楽とおしゃべりをより身近に楽しむことができた。「愛の讃歌」「百万本のバラ」などこれまでもコンサートで歌われてきたおなじみのシャンソンのほかに、中島みゆきさんの曲とか、別府さん自作の「バラ色のジュテーム」という新曲とか、私が学生時代に確か弘田三枝子さんが歌っていた「夢見るシャンソン人形」とかが歌われ、なかなか盛りだくさんな内容で、客席も大いに盛り上がった。
 最初に歌われた「白い恋人たち」を1970年代の歌と紹介していたが、正確には1968年のグルノーブル(冬季)オリンピックの記録映画の主題歌である(この頃は、夏と冬のオリンピックを同じ年に開催していた。冬がグルノーブルで夏がメキシコ・シティであった)。思い出を整理してみると、オリンピックの記録映画で私が見たことがあるのはこの作品だけである。市川崑監督による東京オリンピックの記録映画も、篠田正浩監督による札幌(冬季)オリンピックの記録映画も見ていない。
 別府さんも言っていたように、この映画の監督はクロード・ルルーシュで、『白い恋人たち』に取り組む一方で、ルルーシュは『ベトナムから遠く離れて』に参加したり、アメリカ資本で『パリのめぐり逢い』をとったりしていた(『パリのめぐり逢い』に出演していたキャンディス・バーゲンはトランプ大統領と同じころに、同じペンシルヴェニア大学に在学していたはずである)。そのあたりの事情を思い出してみると、結構面白い。映画を見た時のことを思い出し、セーヌ左岸派と『カイエ・デュ・シネマ』という戦後のフランス映画の2つの流れの中で、中立的であり、また観客が呼べる映画を作れる監督というとルルーシュとジャック・ドミーくらいしかいなかったのかななどと考えたりもした。(ジャック・ドミーがつくった記録映画『ロワール川の木靴づくり』はものすごく、いい映画であった。『ローラ』よりも、『シェルブールの雨傘』よりも、この作品の方が好きである。もし、ドミーがグルノーブル・オリンピックの記録映画を作っていたら、どんな作品になっただろうかなどと考えるのも楽しい。年をとった分、思い出すこと、考えることは多くなっているのである。) 
 今回、歌われた「バラ色の人生」はオードリー・ヘップバーンとゲーリー・クーパー(とモーリス・シュヴァリエ)が共演した『昼下がりの情事』を思い出させるし、そうした選曲に映画好きの別府さんの個性が反映しているのかなとも思った。

呉座勇一『応仁の乱』(10)

2月17日(金)晴れ、風が強い

 応仁の乱は応仁元年(1467)年から文明9年(1477)まで11年にわたって繰り広げられた大乱である。この書物は大乱の経緯を同時代に奈良の興福寺大乗院の院主であった経覚の『経覚私要鈔』と彼と入れ替わって院主を務めた尋尊の『大乗院寺社雑事記』の2人の高僧が残した2篇の日記を史料とし、この時代の僧侶・貴族・武士・民衆が大乱の渦中でどのように生き、何を考えていたかを探ろうとする。
 興福寺のある大和に隣接する河内の守護であった畠山氏では義就と政長とが家督を争っており、幕府の管領であった細川勝元の支持を得た政長が家督と認められ、管領の地位にも就いたが、河内に根強い支持基盤を持ち、大和の南部の大乗院方国民である越智氏の援助も受けていた義就が上洛、将軍義政に迫って家督を奪い返したことで、義就の背後にいる幕府の実力者山名宗全と、政長の背後にいるもう1人の実力者細川勝元との対立が深まり、応仁元年に戦闘が開始された。宗全と勝元とは、将軍義政の後継争いに巻き込まれた形ともなり、この当時に起きた戦法の変化と相まって、彼らの所期に反して戦闘は長期化し、初めは京都市内における市街戦であったのが、市内への補給路の確保・遮断をめぐる戦いへと拡散していった。
 このような戦乱の結果、地方の荘園からの年貢の納入が滞ることもあって興福寺の経営状態は困難になり、75歳の経覚に4度目の別当(寺務)への就任が要請された。経覚は朝倉孝景らの武士の協力を得ながら荘園支配の改革を進めようとするが、なかなかうまくいかなかった。

 呉座さんは経覚と尋尊が対照的な性格の持ち主だった、「一言で表すなら、経覚は能動的、尋尊は受動的である」(136ページ)という。従来の研究は早くから活字化されていた『大乗院寺社雑事記』を利用することが多く、その記主である尋尊に対しては貴族の出身で戦乱を傍観者的で冷ややかな目で見ているという批判的な見解が強かった。しかし、経覚の『経覚私要鈔』が活字化されてみると、同じく貴族の出身であった経覚が興福寺をめぐる様々な事態に積極的に取り組む姿勢を見せていること、にもかかわらずその結果が必ずしも良いものではなかったことがわかるとも論じられている。
 「経覚の判断は前例にとらわれない柔軟さを持っている。だが、その反面、長期的展望に欠け、その場しのぎのところがある。…興福寺や大乗院にしてみれば、武士たちに振り回されている不満はあっただろう。
 その点、尋尊は常に冷静沈着である。目の前で起こっている事象に対して軽々に判断を下さず、記録にあたり、過去の似た事例を調べたうえで方針を決定する。その態度はひどく消極的に見えるが、大乗院が曲がりなりにも大乱を切り抜けることができたのは、門主である尋尊の慎重さのおかげだろう」(138-139ページ)

 興福寺の経営をめぐってだけでなく、尋尊の後継者への教育をめぐっても、経覚と尋尊とは対立した。九条家出身の経覚、一条家出身の尋尊に続いて、大乗院は二条家から政覚を迎えることになる。政覚は尋尊の弟子ということになるので、その教育について経覚が口を出すのが不快であったようである。尋尊は自分の例に従って政覚が修学し、盛大な法会を催すことによってその権威を確立することを望み、そのために苦労に苦労を重ねて段銭を集めている。とにかく、興福寺の存在、その儀式や祭礼を滞りなく行うことへの執着が大和をこの戦乱にあまり巻き込まれることなしに乗り切らせたのであった。

 尋尊の父は学者としても有名な一条兼良であったが、彼は一条室町にある邸宅から、戦火を避けて息子の厳宝が門主を務めている九条の随心院に移っていた。また彼の家族は尋尊を頼って奈良に逃れていた。その後、一条室町の邸宅は、文庫桃華坊とともに焼けてしまい(貴族の書庫が焼けるということが文化遺産の継承の中で持つ意味を考えてほしい)、九条付近も安全とは言えなくなったので、応仁2年(1468)年8月に、彼は奈良に移り住むことになった。彼は関白であったから都を離れるわけにはいかないはずであるが、この頃になると朝廷も開店休業状態であったのである。

 「尋尊は兼良たちの住まいとして、大乗院配下の院家である成就院を提供した。兼良の一族・奉公人は大人数であり、しかも居候だからつつましい生活をするという発想は最上級貴族である兼良にはない。彼らの膨大な生活費を賄うために、尋尊は借金をしたり、大乗院領に段銭をかけたりした。」(144ページ) 「尋尊の経済力に支えられた兼良一家の疎開生活は、在京時の生活にひけをとらぬほど優雅で快適だった。」(145ページ) ほかの有力な貴族たちも奈良に疎開していたので、遊び相手に事欠かなかったのである。
 まず連歌で、当時随一の文学者でもある一条兼良は成就院で頻繁に連歌会を開いた。「応仁の乱が始まる前、京都で生活する摂関家の人々と奈良興福寺の僧侶たちが一緒に連歌を行う機会はめったになかっただろう。応仁の乱が期せずして生みだした文化交流は、双方に刺激を与えたと思われる。」(同上) 〔これは文学史の方から確かめてみる必要がありそうだ。〕
 さらに宴会、新猿楽の興行、林間(本来は「淋汗」で基本的に風呂饗応であるが、酒茶での接待などが伴う)など様々な趣向が紹介されている。「応仁の乱のまっただ中に、このような豪壮な遊びが行われていた事実には驚かされる」(149ページ)と著者は記している。これもまた、戦時の社会の一部ではあったが、大寺院の高僧や疎開してきた上級貴族はさておいて、大和の衆徒・国民はどのような日々を過ごしていたのか、それはまた次回で取り上げることになる。 

ダンテ・アリギエリ『神曲 天国篇』(13-1)

2月16日(木)晴れ、温暖

 ベアトリーチェに導かれて天上界に旅立ったダンテは、月天で<誓願を果たさなかった人々>、水星天で<地上での栄光を追い求めた人々>、金星天で<人と人とを結びつける愛>にこだわった人々の魂に迎えられた。さらに太陽天に達した彼は神学者・哲学者たちの魂に出会う。生前ドメニコ会士であったトマス・アクィナスの魂は、フランシスコ会の創始者である聖フランシスコの生涯と業績について、フランシスコ会の総長であったボナヴェントゥーラ・ダ・バニョレージョの魂は聖ドメニコの生涯と業績について語る。この2人の聖者は教会を支えるために、神慮によって下されたのであるが、両修道会ともに清貧の教えから外れ、世俗化し堕落していることを嘆く。

 それぞれが12の輝く魂からできている二つの輪が、宇宙の調和を表現しながらダンテたちの周囲を喜びながら踊った。それに続いて魂たちは三位一体とその実現でもあるキリストの神性と人性を祝福する歌を歌った。

歌と回転がその舞踏を終わりまで導くと、
それら聖なる光は私達に注意を傾け、
喜びにあふれたまま、それまでの想いから別の想いへと向かった。
(196ページ)
 その後で、トマス・アクィナスの魂が再び口を開き、
こう言った。「一本の穂が脱穀された今、
その種が集められた今、
優しき愛は私に別の穂を叩くよう求める。
(197ページ) 「穂」は疑問のこと、「叩く」はその疑問を明らかにすることで、話は少し元に戻るが、第10歌でトマスは
その中には高い知性がいる。その賢知の
深いこと、真理の書が真実ならば、
彼に匹敵する洞察力を備えた人物が立ったことはない。
(160ページ)とイスラエルの王であったソロモンについて述べた。この言葉をめぐる疑問である。

君は信じている、味見をしたせいで全世界に代償を払わせている
美しい頬を作り上げるために、
かの肋骨が抜きとられた胸のうちにも、
(197ページ) 「美しい頬」は知恵の木の実を味わったために、人類の原罪の元凶となったエヴァ(『新共同訳 聖書』ではエバ)、「かの肋骨が抜きとられた胸」はアダムの胸を指す。旧約「創世記」3‐21と22には、神がアダムの胸からあばら骨を抜き取ってエヴァを造ったことが記されている(なお、同じ「創世記」の1-27には「神はご自分にかたどって人を創造された。/神にかたどって創造された。/男と女に創造された。」とある)。

槍に貫かれることで
それ以前とそれ以後の贖いをなし、
どのような罪と秤にかけてもそれに打ち勝つあの胸のうちにも、

人類が持つことを許される限りの
知性の光のすべてが、前者と後者を創造された
御力によって注がれたことを。
(198ページ) 十字架で槍に貫かれて人類の原罪を贖い、あらゆる罪からの救いを開いたキリストと、神によって直接作られたアダムが人類史上最高の知性を持つとダンテは信じてきた。

それゆえに君は、私が先ほど話したことに驚嘆している。
第五の光の中にいる善は
それに匹敵するものを持ったことはないと私が語った時のことだ。
(同上) トマスの魂が、ソロモン王に匹敵する知性の持ち主はいないと語ったことに、ダンテが驚き、真偽をただそうとしていることに気付いているのである。
さあ、私が君に答えることに目を開きたまえ。
さすれば、君の信じていることと私の言ったことが、
円とその中心の関係のごとく真理の中にあることを君は見るであろう。
(同上) ダンテの信じていることと、トマス・アクィナスの言葉は、円周上の2点が同一の中心点を持つように大いなる真理に対して、個別の真理としてどちらも正しいというのである。
 翻訳者である原さんは、アダムのあばらからその1本が抜かれ、その骨からつくられたエヴァの過ちにより人類が天国を追放され、今度はイエス・キリストがその胸に槍を受けたため、再び人類に天国が与えられた。イエス・キリストの胸に刺さる槍は、アダムから引き抜かれた骨を象徴していると、両者の関係に注目し、世界は調和・対称関係で作られているというダンテの思想をその中に見ている。(アダムとエヴァが追い出されたのは、地上楽園からであり、イエスによって天国の門が開かれたというのと、厳密には対応しないのではないかという気もする。)

 トマスは説明する:
不滅のものも必滅のものも、
我らの主が愛によって生み出した
イデアがきらめいた反射光以外の何物でもない。
(198-199ページ) 主<父>が、愛<精霊>を通じて、万物の原型であるイデア<子>により、万物を創造した。
 そして、宇宙を9層に形作る永遠なる天使たちは、神の叡知の光を反射して地上に伝えているが、その光は全体としては三位一体を維持している。
 地上の事物は、その天使たちが司る天空に応じた段階を経て伝えられる神の力によって形相を与えられるが、地上に届く力は減衰しているために、生物も非生物も含めて最後には滅ぶ偶有物(存在に必然的な理由がなく、必然の事物の「影響」で存在する、あるいは存在しなくてもよかったもの)と化す。そして、天空の状態は刻々と変化するので、地上の事物も多様性を持ち、同種の中でも出来、不出来が起こる。
このことから、種においては
同一の木が良い実や悪い実を結び、
君達が異なる性質を持って生まれてくるということが起きる。
(200ページ) ここでトマスが展開する説明は回りくどく、まだ、ダンテが心に抱いている疑問に対する最終的な回答はなされていないが、第13歌のだいたい半分のところまで来たので、今回はここまでとしておく。

須田勉『国分寺の誕生 古代日本の国家プロジェクト』

2月15日(水)晴れ

 須田勉『国分寺の誕生 古代日本の国家プロジェクト』(吉川弘文館:歴史文化ライブラリー)を読み終える。

 国分寺は奈良時代に仏教を中心とした国家構想の一環として、天平13年(741)に発布された「国分寺建立の詔」に基づき、日本各地に建設された寺院で、中国の唐の官寺制度に倣ったものとされるが、各寺に七重塔が建てられていたこと、国分寺と国分尼寺の二寺制がとられていたことは、中国には見られない日本独自の特色である。また、中国・唐代に諸州に設けられた大雲寺が既存の寺院を転用したものであったのに対し、日本ではすべて新設されたことも大きな違いである。

 平城京における東大寺と廬舎那仏、各地における国分寺・国分尼寺の造営はこの時代の社会の不安とそれを仏教の振興によって克服しようとする政治的な動きの一環であった。この書物は、東大寺と国分寺の建立にいたる複雑な前史を、政治史と関連させて文献研究を中心にたどり、さらにその造営の具体相を考古学的な知見によって明らかにしようとする。国分寺の建立は地方によって時期が異なり、その規模も一様ではない。国分寺をめぐる中央政府の政策も政権の変化に連れて変化を見せる。この書物はそのような国分寺の多様性と変化を明らかにしようとしている。

 書物の具体的な内容は、目次を詳しく紹介することである程度分かるはずである:
国分寺を復元する――プロローグ
全国官寺制構想
 天然痘大流行
 『金光明最勝王経』と『法華経』の採用
 釈迦像造仏料の施入
 国分寺制度の確立
 紫香楽宮と廬舎那仏の造顕
国分寺の創建
 金字『金光明最勝王経』の書写と廬舎那仏の鋳造
 上総国分寺
 武蔵国分寺
 国分寺の造営促進
国分寺の造営
 陸奥国分寺の造営
 武蔵国分寺の造営
 上総国分寺の造営
 近江・山背国分寺の造営
 国分寺の付属施設
 国分寺と七重塔
称徳天皇と国分寺
 称徳天皇と道鏡
 上総国分尼寺
 武蔵国分寺・常陸国分寺
 相模国分寺
 但馬国分寺
 国分寺の墾田開発
 国分尼寺跡の解明を目指して――エピローグ
あとがき
全国国分寺創建期所在地リスト

 以上の目次から明らかなように書物のかなりの部分が国分寺遺跡の発掘調査から明らかになった寺院の伽藍配置や出土した瓦の分析に費やされている。そういう発掘成果をその時代の歴史資料と突き合わせると、寺院がどのように造営したか、どのような人物がかかわったかがかなり具体的にわかるということである。さらに、聖武天皇と光明皇后の意思が造営にどのようにかかわっているか(国分尼寺を設けることについては皇后の意思が大きく働いているという)、廬舎那仏の造営等の事業にかかわる中で藤原仲麻呂が権力を握っていったのではないか、さらに称徳天皇期における国分寺の造営における道鏡の影響など、ちゅおうの政治的な動きと国分寺の事業の関係が追求されている。

 それで、誰にとってもわかりやすく、面白い書物であるとは必ずしも言えないかもしれないが、自分に関係のある武蔵、相模の国分寺について触れた個所は身近であり、興味深かった。「もともと武蔵国は、多摩川流域と荒川流域の文化圏を包括して建国された国である。この2つの地域は、安閑天皇期における武蔵国造の反乱でも見られるように、もともと歴史的背景が異なる地域であった。そうした歴史的特質は、この地域においてその後も長く続いたのである。/国家的事業である国分寺の造営にあたり、各郡の郡名を押印して、各郡の規模に応じた数量を、均等に負担する方式を採用した。そうした方法をとった背景には、20郡全部が、まとまりにくい武蔵国の歴史性が存在したからであろう。すなわち、武蔵国の歴史的特質が、国家的事業を推進する際の組織の編成に反映したと考えられる。」(147ページ)という議論など、武蔵国造に関連する遺跡ではないかと思われる東急多摩川駅付近の古墳のことなども思い浮かべながら読んだ次第である。

 そういえば、小学校5年生の時の社会科でA先生は、東京の国分寺市に国分寺という寺が今もあるという話をされ、6年生の時の社会科でB先生は相模の国の国分寺の近くに人々が別の大きな寺を建てたという話をされた。このお二人の先生のおかげで、歴史を身近なものとして考えることができるようになったという気がする。いまは亡き、両先生の楽音に感謝したいと思う。
 各地で展開された発掘作業の結果、国分寺については多くのことが分かってきているが、国分尼寺についてはまだ不明の部分が多いようである。あるいは初めからつくられなかった国もあったのかもしれないなどと考えさせられる。この本を読んで、国分寺の研究に取り組む後続の人々が現われることを願う次第である。

黒田基樹『関東戦国史 北条VS上杉55年戦争の真実』

2月14日(火)晴れ、雲がだんだん多くなってきている

 黒田基樹『関東戦国史 北条VS上杉55年戦争の真実』(角川文庫)を読み終える。2011年に『戦国関東の覇権戦争――北条市VS関東管領・上杉氏55年の戦い』として洋泉社から発行された著書を、改題し、文庫化したものである。

 「京の将軍、鎌倉の副将、武威衰えて偏執し、世は戦国となりしころ」というのは馬琴の『南総里見八犬伝』の書き出し(うろ覚えなので、記憶違いがあるかもしれない)であるが、この書物はその「鎌倉の副将」とその管領(執事)の地位をめぐって関東で展開された戦闘の経緯をたどるものである。「まえがき」で著者は述べている:「戦国時代は、関東の享徳の乱(1455-82)に始まり、小田原合戦(1590)と続く奥羽での反乱鎮圧(1591)にいたる、およそ150年にわたった。戦国時代の始まりも終わりも、実は関東の動向が基準になっていたかたちになる」(8ページ)。

 著者は続けて、「このことは関東が、京都を中心とした政治世界とは異なる、独自の政治動向を展開していたことを示している」(同上)という。従来の戦国時代史研究は天下一統という最終的な結果から戦国時代をとらえ、「天下人」の政治的な動きに焦点を当てるものであった。しかし、それは実情とは異なるのではないかという。「列島の各地域では、それまでの100年以上におよんで、独自の動向を展開していたのである。そしてその動向こそが、結果的に地域を統合するような戦国大名を作り出し、ひいては天下一統をもたらすことになる。信長・秀吉はその動向に乗っかっただけにすぎない。/むしろ戦国時代における変化を見るためには、最終盤になって登場してきた信長や秀吉ではなく、それ以外の地域における動向を見ていくことによってこそ知ることができる」(9ページ)といい、室町時代の政治秩序とは異なる戦国時代独自の論理が展開されるようになって、戦国大名の率いる領域国家が構築される過程に目を向けるべきであるという。
 「関東における室町的政治秩序の最たるものが、鎌倉公方・関東管領という存在であった。…その関東管領という地位についていたのが上杉氏である。上杉氏こそ、関東における室町的な政治秩序を体現する存在であったといっていい」(同上)。
 ところが15世紀の末に関東政界に他国から伊勢宗瑞(いわゆる北条早雲)が進出してくる。伊勢氏は2代目の氏綱の時に北条氏に改称し、上杉との抗争を展開していく。そして3代目の氏泰の時に関東上杉氏を没落させ、上杉氏に取って代わる。しかし、その直後から、それに対抗して関東に進出してきたのが、上杉謙信であった。こうして、北条氏と上杉氏との関東紙背をめぐる抗争は、天正6年(1578)の謙信の死去まで続いていく。
 北条・上杉の抗争の「当初はまだまだ室町的秩序が根強かったが、その天界の中で、次第に戦国時代独自の論理の展開、すなわち領域国家が展開していくようになる。それとともに、甲斐武田氏が関東政界に参加したり、北条氏に対抗する勢力や謙信や武田氏を関東政界に呼び込み、やがては常陸佐竹氏を中心に関東自前の政治勢力を形成していくなど、政治構造そのものが変質していくことになる」(10ページ)。

 「まえがき」に続く「プロローグ 「日本の副将軍」対「関東の副将軍」-―北条氏への改称と関東管領家の誇り」では、関東に進出した伊勢氏が「日本の副将軍」であった鎌倉幕府の執権北条氏の後継者であることを主張し、関東の支配者としての正統性を主張しようとしたことが語られている。
 第1章「北条氏綱と両上杉氏の抗争」は関東公方が古河公方と小弓公方の両家に、その管領の地位を世襲してきた上杉氏が山内上杉氏と扇谷上杉氏に分裂して抗争を続ける中で、北条氏綱がその勢力を拡張していく過程がたどられている。
 第2章「北条氏康と両上杉氏の滅亡・没落」では氏康が扇谷上杉氏を滅亡させ、山内上杉氏を越後に追い(その結果、越後の国主であった長尾景虎が上杉氏の家督を継いで、上杉謙信となる)、関東管領の地位を築き、甲斐の武田信玄、駿河の今川義元と三国同盟を成立させたことが述べられている。
 第3章「上杉謙信はなぜ関東に襲来したのか?」では、関東管領の地位は上杉氏のものであると主張する謙信が関東地方に存在していた反北条の国衆たちを結集しながら、関東地方に侵入し、小田原を脅かしたことが述べられている。謙信の関東遠征は、越後が雪に覆われている冬に行われているという注目すべき指摘が含まれている。
 第4章「「国衆」が左右する関東戦国史」では、戦国大名の勢力範囲の中に独立的に存在する小領主である国衆の動向が戦国大名たちの動きに影響力を持っていたことが語られている。
 第5章「国衆を困惑させた越相同盟」では永禄11(1568)年に甲相駿の三国同盟を破棄して、武田信玄が駿河の今川氏真を攻撃し、その結果として北条氏は上杉氏と接近し、同盟を図った次第が語られる。この過程で、これまで上杉氏と同盟することが多かった関東の佐竹氏、里見氏は自立路線を選択することになる。
 第6章「信玄の猛攻と北条氏の危機」、第7章「北関東の攻防戦と謙信の死」は章題が内容を語りつくしている。天正6(1578)年に死去するまで「関東の副将軍」山内上杉氏の家督を継ぐものとして、関東経略に情熱を燃やし続けてきた謙信の死は、「北条対上杉」の抗争に終止符を打つものであった。
 エピローグ「消滅した『関東の副将軍』――新たな構想の枠組みへ」では謙信死後の関東における戦闘と政治の動きが語られている。関東地方の反北条勢力は対抗のための新しい装置として常陸佐竹氏を盟主とする「東方衆一統勢力」を結成する。武田勝頼は佐竹氏と、北条氏政は徳川家康と同盟する。氏政はさらに織田信長にも使者を派遣し、他方佐竹氏ものぶながとのせっしょくをはかる。
 「このようにして、関東の政治世界ににわかに中央政権の影が色濃く落ちるようになった。この後において、北条氏も佐竹方も中央政権の存在を強く意識し、それとの関係をつねに考えざるを得なくなっていく。もはや関東の戦乱であるからといって、関東の論理だけで進めることはできなくなっていくのである。ここにいたって、関東の戦乱は「北条対上杉」という関東支配の正当性をめぐる枠組みから、中央政権による天下一統の過程とリンクした新たな段階に入っていった」(220-221ページ)。

 戦国時代、特にこの時代にに活躍した武将たちの人気が高いのは、彼らの多くがローカルな、それゆえに身近な存在であるからであろう。この書物の前半では北条氏綱・氏康父子、後半では上杉謙信の活躍が目立つ。しかし、そうした有名武将だけでなく、「国衆」と呼ばれるより小規模な領主たちの姿にもしっかりと目が向けられている。
 各地の城砦を拠点とした武将たちの動きが詳しく述べられているが、そうした城の跡は比較的身近に見出すことができる。私の従兄弟が小机城址の近くに住んでいて、あれは誰の城だったのかと質問されて、答えられなかった(この城は、城主だった人よりも、城を攻撃した人の方が有名である=例えば、太田道灌)ことがあるが、戦国時代の歴史はたとえその一部であっても、我々の身近なところで探し当てることができる。この本は、関東地方に住んでいない人にとっては、他人事の事実が書き記されているかもしれないが、そう思ったならば、自分の身近なところでの戦国時代の歴史を自分の足で探ってみるべきである。この本には、そういう探索の手掛かりとなるような事柄も含まれているので、他人事だと決めつけないで読んでほしいと思うのである。
 もちろん、そのようなローカルな戦国は、やがて天下人の手によって一つにまとめられていくのであるが、そうやって最終的に成立した幕藩体制と、戦国時代の領域国家の支配体制の違いについて、戦国時代に特有の存在であった「国衆」を手掛かりとして考えることの有効性をこの書物は示唆しているのである。 

大隅和雄『中世の声と文字 親鸞の手紙と『平家物語』』

2月13日(月)晴れ

 大隅和雄『シリーズ<本と日本史>③ 中世の声と文字 親鸞の手紙と『平家物語』』(集英社新書)を読み終える。

 「まえがき」で著者は(旧制の)中学生として敗戦を迎えた時に、戦時中の教科書に墨を塗って使った経験に触れている。この経験から自分で、国史とは何かを考え、日本の歴史を確かめようと考えるようになったという。
 大学入学後、学生歴史研究会に参加した著者は、その当時、日本史に関心を持つ学生の間で必読書とされていた石母田正の『中世的世界の形成』(1946)に出会った。大学に入学したての学生にとっては難しい本であったが、第4章第2節「中世的世界」にたどり着いたとき、一挙に目の前が開けたように感じたという。
 この個所には、「世界史の中で、西洋世界以外で日本だけに、古代的なものを克服して、中世的世界が形成されたことを、山間の一荘園の歴史を辿ることで明らかにすること」(5ページ)が、この著書の目的であったと述べられていた〔そういうことは、一番初めに書いてほしいと思う。なお、『中世的世界の形成』は現在、岩波文庫=青帯に入っているので、比較的容易に入手できる。〕。またこの書物の中では、中世法としての「貞永式目」、代表的な文学作品として『平家物語』、親鸞による新しい仏教の創始の意義などが論じられていた。<本と日本史>のシリーズの中世の部分の執筆を依頼された時に、著者は石母田の著作を読んだ時のことを思い出したという。中世の本について考えようとするならば、「貞永式目」『平家物語』『歎異抄』を外すわけにはいかないと思ったそうである。

 「しかし、ここでは古代を克服して新しい世界を切り拓いた中世を考え、中世の人々の営為を読み取るというのではなく、むしろ中世を体現する本が、他の時代とは違って、中世にしか見られない作られ方の中で生まれ、享受されたことを、明らかにしたいと考えた」(6ページ)と著者は書いている。
 そこで、この書物では中世の人々がどんなことを語っていたのか、彼らの肉声を再現してみたいというのである。「中世の文化は、漢字漢文に親しむ貴族や、経論を学び梵字まで知っている僧侶だけが生みだしたわけではない。宮廷の文化は、仮名文字しか読めない女性によって支えられていたし、祭礼の歌や舞を担い、地方の歌謡を都に持ち込んで流行の旋風を起こした人々も無文字の人々であったに違いない。無文字の社会に豊かな文化があり、活発な知的活動もあった。
 文字のない社会では、言葉は声で伝えられ、記憶された。文字に書いて固定して、人々に読まれ、後世に伝えられる本は、中世では、無文字の社会の傍らで作られた。中世の本には、声の響きが残っている。それを聞き取る努力をしてみたい。」(7ページ)

 この書物は次のように構成されている。
 第1章「親鸞の著述」では、彼の主著というべき『教行信証』、門弟たちのために和文で書かれた『浄土三経往生文類』、『尊号真像銘文』、『一念多念文意』、『唯信鈔文意』、さらに彼が書き残した和讃、手紙などを取り上げ、彼が自分の教えを、文字を知らない民衆にどのように伝えようとしていたかの努力がたどられている。「信心に関する質問に対して、親しみ深く語りかけるような親鸞の返事は、質問を的確に、深く理解したうえで、易しいことばで綴られていたから、消息集は門弟たちにとって、かけがえのない経典となった」(51ページ)のである。

 第2章「中世の手紙」では、青蓮院紙背文書の中で圧倒的に多くを占めている藤原為房の妻の手紙からうかがわれる平安時代末期の人情や生活、法然の手紙、日蓮の手紙、「貞永式目」にかかわる北条泰時の手紙、親鸞の妻であった恵信尼の手紙、さらに中世の手紙に見られる「多様な文体と文字の工夫」について触れられている。手紙の実例を示したうえでの「親鸞の手紙が、相手とともに考え、信心を深めていこうとする立場で書かれているのに対し、法然の手紙は、教え導く姿勢で一貫しているように思われる」(67ページ)とか、泰時の手紙には「公家政権の政治に対する批判が、確かな自信を持って堂々と述べられている」(82ページ)とかいう指摘が興味深いし、説得力がある。

 第3章「世の移り行きを書く」では、「仮名文字で書く歴史」として『大鏡』から『増鏡』にいたる<鏡物>〔実際には『大鏡』が詳しく取り上げられているだけである〕、「合戦の顛末」として『将門記』、『陸奥話記』など漢文で書かれた初期の軍記物語、説話集である『今昔物語集』の中の合戦記が取り上げられている。さらに『愚管抄』が説く世の道理とその変化、「保元・平治の物語」として和漢混淆文で書かれた『保元物語』、『平治物語』、「治承寿永の乱」として『平家物語』の成立事情について、「琵琶法師の語り」として『平家物語』が語り物として民衆の間に流布していった過程を述べている。『平家物語』の異本について研究していくと、「本というものの、中世特有のあり方があったことを考えさせられる」(123ページ)という感想が印象に残る。

 第4章「平家の物語」では、『平家物語』のあらすじが原文を抄出しながら辿られている。物語を概観するのにはいいが、特に目新しい知見も述べられてはいないように思われる。

 「あとがき」で著者は、石母田が取り上げた3編の他に、『梁塵秘抄』を取り上げてもよかったかなという感想を述べている。
 「ことばとしての声を書き留める文字を作る前に、一字一字が意味と由来を持つ漢字を学んでしまった日本人は、声から文字へという自然な流れと逆に、文字を声に移すために文字に合う言葉を選ぶ、という努力を続けることになった。他の民族と地域に見られない声と文字の関係であり、声を文字(仮名)に書き留めることと、文字(漢字)を声に移すためにことば(和語)を選ぶ、という二つの営みが交錯する中で、文学的な文章を創造したのが中世文学の世界であった」(182ページ)と議論をまとめている。

 引用されている中世の文章には必ず現代語訳が添えてあり、歴史学研究に従事しながらも文学への関心を保ち続けてきた著者の長年の研究の成果が凝縮して込められているので、読みやすくわかりやすい書物であった。この本を読むきっかけとなったのが、2月12日の『朝日』の新書版の書物のコーナーにおける紹介を読んだことなのであるが、もう少し詳しく紹介してくれてもよかったのではないかと思う。私のこの記事も内容の紹介に終わって、自分自身の意見はほとんど書いていない。著者は日本史に西洋史の「中世」に対応する時代があったという石母田の立場を継承しているようであるが、そのことの妥当性、また「中世」と言いながら、その前半部分に関心を集中させていること(『太平記』についてはまったく、『徒然草』、『増鏡』については詳しくは触れていない)がどのような理由によるものか、結論的に述べられている「中世」におけることばと文字の関係など、著者にもう少し詳しく説明してほしいところもあるし、自分なりの意見もあるのだが、それはまた、機会を見つけて、その時に思い付いたテーマに即して書き記していこうと思う。

『太平記』(145)

2月12日(日)晴れ

 後醍醐天皇を迎え入れた比叡山延暦寺に対抗するため、足利方は、戒壇の造営を約束して三井寺を味方につけた。建武3年(1336)正月13日、北畠顕家率いる奥州・関東勢が比叡山の宮方に合流した。三井寺に攻め寄せた宮方は、細川定禅の軍勢を追い落として伽藍に火をかけた。16日、新田義貞軍が京へ攻め入り、尊氏は京都の西郊まで追い立てられて、3度も切腹の準備をしたが、細川定禅の活躍で事なきを得た。27日、宮方は再度京へ攻め入って勝利した。そして楠正成の謀で、いったん都から撤退した。足利方を油断させて徹底的な打撃を与えようというのである。そうとは知らず、宮方の軍が撤退したので、敗走していた足利方は、また都に戻った。

 比叡山に戻った楠正成は、次の朝に、2,3人のものを選んで律僧の姿にさせ、京都へと送り込んだ。この当時、律宗の僧は、時衆の僧と同様に、葬礼に従事していたのである。律宗の僧に成りすました者達は、ここかしこの戦場で、死骸を探し回った。足利勢の武士たちが怪しんで、その理由を尋ねると、僧たちは、悲しみの涙を抑えながら、昨日の合戦で、新田義貞様、北畠中納言様、楠正成様以下、宮方の主な大将が7人も戦死されたので、供養のためにその死骸を探しているのですと答えた。
 足利尊氏をはじめ、足利家の執事である高家、外戚である上杉家の人々は、これを聞いて、「どうも不思議な話だ。敵の主だった大将たちが一度に戦死してしまったとは。それだからこそ、勝ち戦であったのに、宮方の兵たちは都から撤退したのだな。大将たちの首はどこかにあるだろう。探し出して獄門にかけ、都大路でさらし者にしよう」と、敵味方の死骸を探し回ったが、それと思しき首は見つからない〔もともと、戦死したというのが嘘だから、見つかるはずはないのである〕。
 そこで、何とか首がほしいと思うのあまり、少しばかり似ていると思われる首を2つ、獄門の木にかけて、新田義貞、楠正成とそのそばに書き付けた。京都には憎らしい皮肉屋が何人もいたのだが、そのうちの誰であろうか、これを見て、その札のそばに「これはにた頸なり。正成にも書きたる虚事(そらごと)かな」(第2分冊、472ページ、これは新田義貞に似た首である。正しげ(本当らしく)書いた嘘である」と秀句(たくみな洒落の句)を書き付けたのであった。

 さらに楠は、同じ日の夜半ばかりに、従者たちにたいまつを2千か3千ほど灯させて、大原、鞍馬の方に向かわせた。京都からもその様子が見えて、どうやら比叡山の敵は、大将が戦死したので、今夜みなあちこちに落ち延びていくらしいと判断して、将軍にその旨を報告する。尊氏もその通りだと思ったのであろうか、それであれば敵の兵たちが落ちのびないように、方々に軍勢を向かわせろと命じる。そこで、鞍馬路に3千余騎、大原に5千余騎、勢田へ1万騎、宇治は3千余騎、右京の嵯峨、仁和寺の方面までも敵を討ち漏らさないように千騎、二千騎と兵を派遣して、兵力が派遣されていない方面はないほどに分散して配置した。ということで、京都市内に残っている兵力は大きく減り、残っている兵たちもそれほど用心をしてはいない様子であった。

 そうこうしている間に、宮方の兵たちは、明け方から比叡山から修学院の方角に向かう西坂を下りて、八瀬、藪里(左京区一乗寺の辺り)、鷺森(左京区修学院の鷺森神社)、下松(左京区一乗寺下り松町)に陣を取り、大将たちが皆一手に固まって、30日の卯の刻(午前6時ごろ)に二条河原に押し寄せて、あちこちに火をかけて、鬨の声をあげた。
 京都市内に残っていた兵たちはこの襲撃に慌てふためいた。もともと全軍がそろっていた時でさえ、劣勢になって退却させられた宮方の軍の来襲である。しかも、味方の軍勢のかなりの部分を各方面に分遣して、兵力は手薄になっている。敵が攻めて来るとは夢にも思っていなかったので、その狼狽ぶりは普通以上のものである。西北の丹波路の方角をめがけて逃げていくものもあり、あるいは西南の山崎方面に逃げるものもいた。中にはただ生き延びようという気持ちだけで、頭を丸めて僧侶の姿になる者もいた。宮方の軍は深追いを避けたのだが、後ろについて逃げてきている味方の軍を敵が追いかけているものと錯覚して桂川とその周辺でもはやこれまでと自害してしまったもの数知れず。それだけではない、乗り捨てられた馬があちこち走り回り、脱ぎ捨てられた鎧・兜などの武具が散乱して足の踏み場もない。

 足利尊氏は、その日、3年前に反鎌倉幕府の挙兵をした丹波の篠村を過ぎて、曾地(兵庫県篠山市曾地)の内藤三郎左衛門入道道勝の館に落ち着いた。その一方、細川定禅の率いる四国の武士たちは、山崎を過ぎて、摂津の芥川(大阪府高槻市芥川町)に到着した。
 親子兄弟、骨肉主従、互いにどこへ逃げたかを知らずに落ちのびてきたので、戦死したものを生きているかもしれないと期待をつなぎ、生きているものを戦死してしまったのだろうと嘆き悲しむ。とはいえ、将軍(足利尊氏)は無事でいて、追分の宿(京都府亀岡市追分町)を通過されたというはっきりとした情報が伝わってきたので、兵庫港川(神戸市兵庫区湊川町)に落ち延びていた軍勢の中から、急いで摂津の国に起こしください。軍勢を再結集して、やがて京都に攻め上ることにしましょうと連絡をしたので、2月2日、尊氏は曾地を発ち、摂津の国に向かったのであった。

 丹波から摂津に向かおうとするとき、尊氏は随行していた薬師丸という童子(のちに道有と名乗り、熊野山の別当となる)に次のように密命を下した。「今度の京都の合戦で、味方が戦うたびに敗北したのは、戦い方が拙かったからではない。よくよく事の核心を考えてみると、尊氏が朝敵であるということのために、味方の士気が奮い立たなかったのが原因である。それで、何とかして(もともと武家方に心を寄せられている持明院統の)光厳院様から院宣を頂いて、この戦いを大覚寺統と持明院統の帝と帝の戦いと名分を改め、合戦をしようと思う。貴殿(薬師丸)は日野中納言殿(日野資明)の顔見知りであるということなので、これから京都に帰って、(日野中納言を通じて)光厳院の院宣を頂くように取り計らってほしい」というのである。薬師丸は承諾して、三草山(兵庫県加東市)から尊氏一行と別れ、ただちに都に戻っていく。

 楠正成の計略に見事に引っかかって大敗を喫する足利方の軍勢の無様な姿が滑稽に描かれている。とくに偽首の話がおかしい。正成の偽情報を信じてしまったのは不覚というよりほかない。信じたいという願望が働いたのかもしれない。今度は、足利方は都から全面的に撤退を余儀なくされる。
 しかし、尊氏もやられっぱなしではない。自軍の敗因を冷静に分析して、持明院統の皇族・貴族たちと同盟し、再起を図ろうと次の手を打っている。(本来ならば、都を占領した時に持明院統の皇族と接触したかったのは、14巻19に語られているが、この時は持明院統の皇族とその側近の貴族はすべて比叡山に上ってしまっていたのである。) 今回足利方の敗北により、比叡山から皇族・貴族がまた都に戻ってきたので、かえって尊氏に好機が訪れたともいえる。建武2年(1335)に西園寺公宗の陰謀が失敗し、中先代の乱も鎮圧されたので、鎌倉幕府寄りであった持明院方は、新しい同盟者を探していた。しかも尊氏が接触を図っているのはこの派の一番の切れ者といってよい日野(柳原)資明である。これまでのところ、戦局は宮方有利で推移しているが、新しい動きが芽生え始めている。

日記抄(2月5日~11日)

2月11日(土)晴れのち曇り

 前回、書き落としていたのだが、1月27日にフランスの女優で、日仏合作の『二十四時間の情事(広島、わが愛)』、『栄光への5000キロ』に出演されていたエマニュエル・リヴァさんが亡くなられた。89歳。代表作『テレーズ・デスケルー』は日本では劇場公開されなかった(テレビでは何度か放映されたそうである)、関西日仏学館のフランス映画上映で見たことがある(サミー・フレーが出演していた)。そのほかの出演作では『先生』(主演のジャック・ブレルの夫人役)、『華麗なるアリバイ』、『愛 アムール』(米アカデミー主演女優賞にノミネートされた)を見ている。謹んでご冥福をお祈りしたい。

 土曜日の深夜、NHKの「朗読の時間」をまとめて放送しているのを時々聞いているが、現在は「芥川龍之介随筆集」を取り上げていて、聴きながら、彼の江戸趣味についていろいろと考えている。特に「本所 深川」は江戸の面影と、彼の少年時代の思い出とが、関東大震災によって失われたことについての思いがこもっていて、痛々しい。

2月5日
 前日に行われたJリーグDAZNニューイヤーカップ宮崎ラウンドで、横浜FCは鹿島アントラーズに1-0で勝利した。1点はイバ選手のゴールによるものである。両チームともまだ調整の段階で、実力通りの結果とは言えそうもないが、それでも勝ったことは気持ちがいいし、今シーズンは期待できそうである。

 『朝日』の朝刊に、地方の私立大学が公立に転換する事例が増えているという記事が出ていた。無計画に大学設置を推進した行政の姿勢も問題だが、できてしまったものは仕方がないということも言える。今後は、大学の転換・統合もさることながら、国・公・私立大学間の連携を密にして、できるだけ計画的に人材育成に取り組むことが必要であろう。

2月6日
 NHK「ラジオ英会話」は今秋から2月号テキスト掲載の”The Secret Admirer"(ひそかな崇拝者)の放送に入る。Valentine's Dayにちなむ内容である。病院の受付で働くクレアは、デスク上にValentine messageが置かれているのを見つける。これは、押韻した短い詩が記されているのが一般的で、匿名で贈られることが多いのだそうである。このメッセージも匿名だったので、友人の看護師ヴェロニカと誰がこれを書いたのかと話し合う。ヴェロニカが、クレアが勤務を始めてからずっと思い焦がれている同じ病院の医師ではないかというと、クレアはDon't broadast it to the world! (世界に向けて放送しないで!)とユーモアを込めた表現で自粛を求める。

2月7日
 「ラジオ英会話」の”The Secret Admirer"の続き: クレアとヴェロニカが話していると、クレアのもとに赤いバラの花束が届く。ヴェロニカが言う: The plot thickens! (話が込み入ってきた!)

2月8日
 「ラジオ英会話」の続き。2人が話していると、「容疑者」の1人である会計士のアダムがやってきて、クレアに
I heard you got a love letter from a doctor. (医師からラブレターをもらったとか)と話しかける。誰がそんな噂を立ててのかというクレアに向かって
Beats me. Word gets around fast. (さあ。噂は直ぐに広まるものです。)とアダムが答える。話がどんどん大げさになってきているのにクレアは驚く。

 同じくNHKラジオ「実践ビジネス英語」は今週から”Boomerangers on the Rise" (ブーメラン社員増殖中)というビニェットに入った。”boomeranger"とは一度辞めた会社に戻ってきたブーメラン〔再入社〕社員のことを言う。アメリカの会社は、一度辞めた社員は再雇用しないのが一般的であったが、最近では変化がみられるという。Close to 30 percent of Amerian workers say they've boomeranged at least once. (アメリカでは、働いている人の30パーセント近くが、少なく遠1度は元の勤務先に舞い戻ったことがあるといっているのです。)
 大学院の博士課程に進学するつもりで辞めた会社から、パートタイムでいいから戻ってこいと言われたことがある。断ったのだが、今、考えると、承諾した方がよかったかもしれない。

 この番組の”Quote...Unquote"のコーナーで紹介された言葉:
Plenty of people wish to become devout, but no one wishes to be humble.
      ――François de La Rochefoucauld
( French author of maxims and memoirs, 1613-80)
(多くの人が敬虔な人間になりたがるが、謙虚な人間には誰もなりたがらない。)
これはまだキリスト教の影響力が強かった17世紀のフランスの話である。「敬虔な(devout)」と「謙虚な(humnle)」とは日本語ではよく似た響きを持つが、英語では全く違う響きになる。フランス語ではどうだろうか。
 昔、ロベルト・ロッセリーニがTV放映用に作った映画『ルイXⅣ世の執権』を見たことがあるが、最後の方でヴェルサイユに宮殿を築いたルイXⅣ世が、ラ・ロシュフコーの箴言集の中の太陽と死とはじっと見つめることができないという言葉に出会って感慨にふけるという場面があったと記憶する(記憶違いがあるかもしれない)。ラ・ロシュフコーはルイXⅣ世の若いころに宰相として権力をふるったマザランに対する反乱(フロンドの乱)に参加した人物なのである。

2月9日
 「実践ビジネス英語」は「ブーメラン社員増殖中」の2回目。アメリカでは
No-rehire policies are becoming less common these days. (再雇用はしないという方針は、最近は以前ほど一般的ではなくなっている。) という。むしろ
No.1 isue in the human resource field these days is employy retention. (このところ人事分野で一番の課題は、従業員をつなぎとめることだ。)という。

 ”Quote...Unquote"のコーナーで紹介された言葉:
Poverty of goods is easily cured; poverty of soul, impossible.
      ――Michel Eyquem de Montaigne
         (French philosopher and essayist, 1533-92)
(物質的な貧困は簡単に解決できる。精神の貧困は決して解決できない。)
現代の社会では、物質的な貧困がなかなか解決できなくなっている。

 NHKラジオ「まいにちフランス語」応用編「ガストロノミー・フランセーズ、食を語り、愛を語る」は”Chocolats, éclairs...(1) Un cadeau sucré, un amour de douceur"(チョコレート、エクレア… 甘い贈り物、甘美な愛)という話題を取り上げている。今回はチョコレートについて、
Les bons ingrédients contenus dans un chocolat éveillent les sens, mais aussi l'esprit. (チョコレートに含まれる良い材料は、五感と、そして精神を覚醒させる。) という。
 チョコレートをめぐる歴史や社会経済的な問題について触れてもいいとも思うのだが、この番組にそれを望むのは無理かもしれない。

2月10日
 『文藝春秋』3月特別号の広告で、「東大は学力入試をなくせ」という対談の見出しが目についた。学力以外に、どのような入学者選抜の方法が適切であると対談者が考えているかは、興味のある問題である。

 「実践ビジネス英語」は「ブーメラン社員増殖中」の3回目。結婚、子どもの誕生、家族の死などのlife event (人生の出来事)によって仕事を辞めた人が、状況が解決すれば元の仕事に戻りたいと思うのは当然のことだろうという。同じことは日本にも当てはまりそうだ。

2月11日
 NHKラジオ「攻略!英語リスニング」は”Ernest Hemingway"という話題を取り上げた。彼の作品として『日はまた昇る』、『武器よさらば』、『老人と海』、『移動祝祭日』が触れられているのだが、なぜか『誰がために鐘は鳴る』が出てこない。実は、ヘミングウェーの作品はまるで読んでいなくて、ゲイリー・クーパーとイングリッド・バーグマンが主演した『誰がために鐘は鳴る』を見ているだけなのである(若いころに3度も見た)。テキストでは、彼が第二次世界大戦中のパリやスペインでジャーナリストとしての経験を積んだと述べられているのだが、第一次世界大戦と第二次世界大戦の間の時期という方が正しいのではないか。
 

呉座勇一『応仁の乱』(9)

2月10日(金)昼頃からみぞれが降り続いている

 応仁の乱は応仁元年(1467)から文明9年(1477)まで11年にわたって繰り広げられた大乱である。文安6年(1449)に14歳で元服し、征夷大将軍になった足利義政の周辺には、伊勢貞親を中心とする側近グループ、それと対立する山名宗全らのグループ、中立的な細川勝元を中心とするグループがあった。文正元年(1466)に伊勢貞親が自派に有利な人事を行おうとすると、山名と細川が共闘して伊勢貞親らを追放する(文正の政変)。これに少し遅れて上洛した畠山義就は、一族の政長との家督争いに敗れて都から離れていたのであるが、文正2年(1467)優勢な軍事力を背景に義政を威圧し、政長から家督を奪回する。政長は細川勝元の支援を受けて、これに対抗しようとするが、山名宗全の加勢を受けた義就に敗れる(御霊合戦)。
 応仁元年(1467)5月に細川方の反攻が始まり、将軍御所を包囲した細川勝元は山名宗全を討伐することを認められる。細川勝元の率いる東軍には畠山政長、斯波義敏、京極持清、赤松政則、武田信賢らが、山名宗全の西軍には畠山義就、斯波義廉、一色義直、土岐成頼、大内政弘らが属していた。
 東軍は兵力においても大義名分においても西軍に勝っていたが、決定的な勝利を収めることができず、大内政弘が入京して西軍に加わったことで戦局が一変し、10月の相国寺合戦で勝敗がつかなかったことから戦線は膠着した。この合戦で将軍御所が攻撃を受けたことで態度を硬化させた義政は、後花園法皇に要請して山名宗全治罰の院宣を受ける。応仁2年(1468)11月に、義政の許から脱出した彼の弟の義視が西軍の陣営に入り、西幕府が成立、和平の可能性はさらに遠のく。
 両軍ともに短期決戦で決着をつけようとした戦いが長期化したのは、両軍がそれぞれの陣を堀や井楼で防御して、防御側有利の状況が作り出されていたことによる。このため、自軍の補給路の確保と、敵軍の補給路の遮断に戦闘の重点が移っていった。これらの戦いで足軽と呼ばれる新しい兵力が活躍するようになった。

 お話変わって、舞台は奈良の興福寺に戻る。応仁3年(1469)、まだ大乱が続く中、2月上に興福寺別当(寺務)の東門院孝祐が辞意を表明し、後任人事が問題になった。戦乱で興福寺の諸荘園から年貢が入ってこない状態では、経営に責任が持てないと興福寺の院主たちが辞退する中、75歳でこれまで既に3度にわたって別当を務めてきた経覚に就任が依頼された。彼は常に困難な時期に寺務を頼まれてきたという実績がある。しかし、彼は一貫して西軍よりの態度を取り続けてきた。将軍義政の妻である日野富子の兄で、南都伝奏(朝廷と奈良の東大寺・興福寺の間の連絡・調整にあたる任務)であった日野勝光にとって、このことは好都合とは言えないが、背に腹は代えられなかったものと推測される。経覚は固辞するが、朝廷の方では勝手に彼を別当に任命してしまう。親分肌の経覚は熱心に頼まれると断れなかったようであると呉座さんは推測している。彼は大乗院の院主であった尋尊にも協力を要請し、尋尊もそのことを約束する。4月20日に藤氏長者の一条兼良から任命状が届く(兼良は尋尊の実父である)。

 寺務に就任した経覚がすぐさま取り組んだ課題が興福寺の経営再建である。興福寺は多くの荘園をもっていたが、大部分は代官にその経営を任せきりにしていて、現地の状況はわからないことが多かった。ところが戦乱の拡大の結果、荘園から年貢が入らないことが多くなった。そこで、代官による支配ではない、領主の直轄支配(直務=じきむ)を、実現しようとし、就任にあたってそのための援助を幕府に依頼したのである。しかし多くの荘園でこの試みは成功しない。「天下大乱という最悪の外部環境の前には、経覚の粉骨砕身も無力だったのである」(130ページ)

 興福寺大乗院にとっての重要な収入源の1つが越前にある荘園であった。応仁の乱以前からこの荘園を越前の武士である朝倉孝景が侵略していたが、経覚の奔走により和解が成立し、年貢が収められるようになっていた。朝倉の主君は斯波義廉であるが、彼が義敏と家督をめぐって争っていたのはすでに述べたとおりである。この争いの結果、越前からの年貢が滞り始めたので、経覚は義廉と孝景の援助を求めた。ところが、越前の状況は東軍に属していた義敏の方に有利になり、孝景は京都を離れて越前に向かうことになった。越前の荘園の代官として経覚は自分の側近の楠葉元次を推し、大乗院の学侶たちの反対を受けるが、朝倉孝景との連携で実現にこぎつける。
 「荘園領主にとって有力武士との提携は諸刃の剣である。百姓を弾圧したり外部勢力の侵略をしたりするうえでは有用だが、獅子身中の虫にもなりかねない。武士を積極的に利用しようとする経覚と、なるべく距離をとろうとする尋尊。両者の姿勢は好対照といえるだろう。」(136ページ)

 興福寺のある大和と興福寺の有力な荘園のある越前とでは、応仁の乱の影響のおよび方が違うことにお気づきであろうか。大和では畠山義就と政長の兵力が衝突するというような小競り合いはあったが、それは応仁の乱以前のことである。そもそも畠山氏の本拠は河内であって、大和ではない。大和の衆徒・国民は紛争を繰り返しているが、興福寺の威信には服しているところがある。越前は興福寺からは遠く、斯波氏やその家臣の朝倉氏のような武士の方が荘園との距離は近い。なお、呉座さんは触れていないが、応仁の乱が始まって少し経った文明3年(1471)に蓮如上人が越前吉崎に移ってここを拠点に北陸における浄土真宗の布教に努めている。この書物の主人公である経覚と尋尊とは全く別の仏教の世界が越前で展開されようとしていたのである。
 

ダンテ・アリギエリ『神曲 天国篇』(12-2)

2月9日(木)午前中から雨が降り始め、まだ降り続いている。

 1300年4月13日の正午に、ベアトリーチェに導かれて地上楽園から天空の世界へと飛び立ったダンテは、月天で<誓願を果たさなかった人々>、水星天で<地上での栄光を追い求めた人々>、金星天で<人と人とを結びつける愛>に心を奪われていた人々の魂に迎えられる。さらに太陽天では神学者・哲学者の魂に出会う。生前ドメニコ会士であったトマス・アクィナスの霊がフランシスコ会の創始者であるアッシジの聖フランシスコの生涯と業績について語ったのに続き、フランシスコ会士だったらしい霊が聖ドメニコの生涯について語り始める。

その姿はキリストの使者であり従者でもあった。
なぜなら彼のうちに現れた最初の愛は、
キリストが与えた最初の教えに向いていたからだ。
(186-187ページ) 「最初の教え」は<清貧の徳>である。貴族出身であったドメニコは清貧と祈りに生き、立身出世のための法学ではなく、信仰のための神学を学んだ。

彼は短い間に偉大な神学者となり、
葡萄の農夫が邪悪であればすぐに白く枯れてしまう
葡萄園を見回りはじめた。
(188ページ) 「葡萄園」は教会、「葡萄の農夫」は教皇を指す。
 ダンテは、当時の教会が世俗的な問題に介入し、また貧者のための施しを横領したり、高位にある僧たちが特権と利益をむさぼったりしている状況を批判したが、それはそのような地位にある人々に問題があるのであって、地位や制度そのものの問題ではないとしている。ドメニコは、教会の腐敗や不正を糾弾し、1205年、「異端の過てる世界」を正す布教の許可を教皇インノケンティウスⅢ世に求めた。

彼はその後、教皇からの命を受け、
学識と決意をともにたずさえて
高山の泉から落ちる奔流のように走り、

その勢いで異端の藪の中へ
突撃していった、抵抗のより強い場所には
ひときわ激しく。

その流れからはその後、いくつもの流れの岸辺が生じて
それによりカトリックの農園は灌漑され、
その草木はさらに生きいきと茂る。
(189-190ページ) と、彼が異端の克服に活躍し、彼の修道会が教会を支える強力な存在となったことを語る。

 彼の前にダンテに聖フランシスコについて語ったトマスは当時のドメニコ会が当初の精神から逸脱して堕落の道をたどっていることを嘆いたのであるが、ドメニコについて語っている魂も、自分の属するフランシスコ会が清貧を守らず蓄財に励んでいることを非難した。当時フランシスコ会の内部では、会則を厳格に解釈する聖霊派と教会所有物の使用権を広く認める修道会派が対立していた。魂は聖霊派の指導者であったウベルティーノ・ダ・カサーレと修道会派の指導者であったマッテオ・アックワスパルタの両者の戦いを非難し、自身はフランシスコ会の総長であった枢機卿ボナヴェントゥーラであると名乗り、「大いなる職務にあっても/俗な関心は常に二の次にした」(192ページ)と自分自身の生前の態度についても触れる。なお、マッテオはボナヴェントゥーラの弟子という関係であり、解説によると教皇ボニファティウスⅧ世の右腕として政治的に活躍、ダンテがフィレンツェから追放される原因を作り出した人物でもある。ボナヴェントゥーラはこの両者の和解に努めた人物で、ダンテは彼の神学の影響もうけているとのことである。

 そしてボナヴェントゥーラは彼が属する光の輪の中の別の人物たちを紹介して口を閉ざす。ここで12歌が終わる。11歌とこの歌で教会を支える2つの修道会の創始者の生涯と業績が語られ、教会の改革を目指して創設された修道会が世俗化し、分裂している現状が嘆かれている。ダンテはなお太陽天にとどまり、さらなる知恵に触れることになる。

神奈川という川が流れていた

2月8日(水)晴れ

 神奈川県の中に横浜市があり、横浜市の中に神奈川区がある。(ちなみに、現在の神奈川区役所は昔、横浜市役所だった。)

 安政5年(1858)日米修好通商条約が結ばれた折に、安政元年(1854)の日米和親条約(神奈川条約)で開港されていた下田・箱館(函館)に加えて、近い将来に神奈川・長崎・新潟・兵庫を開港することが決められた。しかし、実際には東海道の宿場町であった神奈川ではなく、漁師村であった横浜が開港された。このため、諸外国は条約違反であると抗議をしたが、幕府は横浜は神奈川の一部であると押し切った。

 神奈川は江戸時代、品川、川崎に続く東海道の宿場町であった。その名は、さらに古く鎌倉幕府の執権であった北条時宗が家臣に宛てた手紙の中に「神奈河」として登場するのが初めだそうである。もっとも、この一帯の鎮守である洲崎大社は源頼朝が安房の国から勧請したものだと言い伝えられており、神奈川の地名である幸ヶ谷はさらに古く源義家が命名したといわれるから、このあたりを往来する人はもっと昔からいたのである。

 さて、その神奈川という地名は、この地を流れていた川に由来するものだそうである。神奈川県高校地理部会編『かながわの川(上)』(神奈川新聞社、1989)に比佐隆三という人が書いているところによると、「京浜急行線の仲木戸駅そばの横浜市立神奈川小学校とタクシー会社の間にある道は、何の変哲もない通りである。しかし、この道が昔は川であり、神奈川の地名の起こりとなった場所といる人は少ない。/・・・現在は埋めたてられて道となった神奈川は幅が約2間(約3.6メートル)で長さは約300メートルと短い川であった。京浜急行のガード下の道幅は、当時の神奈川の川幅を示している」(10ページ)という。

 神奈川という川の名の起こりとして、この書物では郷土史家・高田善之さんのこの川はあまり水が流れておらず、水源も定かではなかったので、上流が無い川という意味から「上無川(かみなしがわ)」と呼ばれていたという説明を採用している。「かみなしがわ」⇒「かんながわ」⇒「かながわ」であるという。実は、神奈川は「金川」であるという説明を聞いたことがあり、どちらが正しいかはわからない。

 しかしその「由緒ある神奈川も、昭和4年には関東大震災後の区画整理で障害となり、埋められて消えてしまった」(11ページ)のはまことに残念な話である。近くを流れている滝の川とか、入江川のような地元の人間以外は知らないような(地元の人間でもその名を知らない人が少なくない)川が、とにかくまだ流れを保っているだけに、神奈川という川が流れていたことをもっと多くの人に知ってほしいと思う。

 京浜急行の仲木戸駅は、JRの東神奈川駅の東の方100メートルばかりのところにある。両方の駅を結ぶ陸橋が設けられているので、知っていると便利である。(なお、東神奈川駅は、東急の東白楽駅から歩いていける距離にあるので、これも知っておいた方がいいと思う。) 駅の名前が違うので、すぐ近くにあることに気付かないという例はほかにも少なくない。

 神奈川と横浜と同じように、兵庫県に神戸市があり、神戸市に兵庫区があることも興味深いが、その間の経緯についてはどなたかご教示ください。

ジェイン・オースティン『エマ』

2月7日(火)晴れ

 ジェイン・オースティン『エマ(上)』(ちくま文庫)を読み終える。中野康司訳である。すでに、工藤政司訳による岩波文庫版で全編を読んでいるのだが、別の訳で読み返してみると、忘れてしまった部分が少なくないことに気付く。最近、中公文庫から阿部知二(1903-1973)による(かなり以前になされた)翻訳が刊行されたので、これも入手して、読み込んでみるつもりである。ジェイン・オースティン(1775-1817)はその生涯に6編の長編小説を書いたが、生前に公刊されたのは4冊のみで、『エマ』は1815年に刊行された、彼女の生前最後に公にされた作品である。彼女の他の作品に比べて小説的な技巧があちこちに凝らされ、構成上の工夫が施されているという印象がある。

 Penguin English Libraryに収められているEmmaは次のように書き出されている。
Emma Woodhouse, handsome, clever, and rich, with a comfortable home and happy disposition, seemed to unit some of the best blessings of existence; and had lived nealy twenty-one years in the world with very little to distress or vex her.
(工藤訳)
 美しくて、聡明で、裕福なエマ・ウッドハウスは、暖かな家庭に育った朗らかな性格の女性だったが、彼女にはどこやら生活上に一番いい恵みをいうつか一身に集めたようなところがあって、生まれてこの方21年近く、不幸や悩みごととはほとんど無縁な生活を送ってきた。
(中野訳)
 エマ・ウッドハウスは美人で、頭がよくて、お金持ちで、明るい性格と温かい家庭にも恵まれ、この世の幸せを一身に集めたような女性だった。もうすぐ二十一歳になるが、人生の悲しみや苦しみをほとんど知らずに生きてきた。

 オースティンの小説は、イングランドの南の方の田園地帯に住む、地主か牧師の娘をヒロインとして、彼女の結婚問題を描くものばかりである。しかし、ヒロインと彼女をめぐる男性たちの設定には一作ごとに異なった設定がなされていて、読者を飽きさせない(と、私は思うのだが、別の意見を持つ人もいる)。彼女の代表作である『高慢と偏見』や、このブログでも紹介した『マンスフィールド・パーク』はヒロインがいろいろな障害を乗り越えて、自分の愛する人と結ばれるというシンデレラ・ストーリーであるが、『エマ』のヒロインであるエマ・ウッドハウスは、この書き出しから、すでにいろいろな点で非常に恵まれた女性であることが示されている。ただし、シンデレラのモチーフはこの小説の中にも持ち込まれているので、物語の進行を注意して見守る必要がある。
 それから、この小説の書き出しの翻訳を2つ並べてみたが、ちくま文庫の中野訳の方がこなれた、読みやすい訳であることはお分かりいただけると思う。ただし、時々、やりすぎてしまったところがある。この辺りは、また機会を改めて(阿部訳にも目を通したうえで)論じてみることにしたい。

 エマは、サリーというロンドンのすぐ南の地方のハイベリーという村に父親と住んでいて、6歳年長の姉は既にロンドンに住む弁護士のジョン・ナイトリーという男性に嫁いでいる。書き出しの部分を見ると、非の打ちどころのない女性のように思われるが、物語を読み進むと、そうでもないことがわかる。むしろ、いろいろな欠点があることが、彼女を魅力的なヒロインにしているように思われる。
 母親は彼女が幼い時に世を去り、年の離れた姉は嫁いだので、エマは自分の家の女主人の役を演じてきただけでなく、ウッドハウス家はハイベリーでは随一の名家なので、村の女王のような存在として過ごしてきた。父親であるウッドハウス氏は病弱で、それほど頭もよくない人物で、エマを甘やかしてきた。そんな彼女の心を許せる話し相手はガヴァネス(住み込みの女性家庭教師)であるミス・テイラーであったが、その彼女が同じ村に住むウェストンという人物と結婚したので、彼女は生まれて初めて喪失感を味わうことになった。(贅沢というか、自分勝手な喪失感である。)

 彼女の姉の夫であるジョン・ナイトリーには未婚の兄がいて、隣のドンウェル教区の大地主であるが、彼はほとんど毎日のようにエマとその父が住むハートフィールド邸を訪れる身近な存在であり、欠点を指摘されることが少ないエマに対して、それを本人に面と向かって指摘することのできる数少ない人間の一人であった(ミス・テイラー⇒ミセス・ウェストンはそれができなかったというより、エマの欠点が見えなかったのである)。
 ウェストン氏の結婚式に参列して、2人だけで夕食を終えたエマとその父親の許をナイトリー氏が訪問する。ナイトリーに向かってエマは、今回のミス・テイラーとウェストン氏の結婚のきっかけを作ったのは自分だといい、それは彼女の思い過ごしに過ぎないというナイトリーの発言にもかかわらず、自分は縁結びの才能が有るので、これからその方面で活躍していこうと思うと宣言する。そして、ハイベリー村の牧師であるエルトン師にその伴侶を世話して見せると言い出す。

 エマは自分は生涯結婚しないつもりで、その代わりに自分の周囲の人たちの縁結びをして過ごそうというのである。彼女の年齢とか境遇とかを考えると、かなり突飛な考えというよりも、一種の「勘違い」から出た思い付きであり、少数の人しか気づかない彼女の性格上の欠点ということとも結びつくのだが、そのあたりが物語の展開とどのようにかかわっていくかが今後の見どころの一つである。全体で55章からなる物語の第1章を覗いただけであるが、これから物語は新たな登場人物を加え、さらに複雑な様相を見せていくことになる。

文字にかかわる神話・伝説

2月6日(月)曇りのち晴れ

 プラトンの対話篇『パイドロス』の終わりの方に、文字にかかわる次のような説話が紹介されている。エジプトのナウクラティス地方にテウトという神が住んでいて、「この神様は、はじめて算術と計算、幾何学と天文学、さらに将棋と双六などを発明した神であるが、とくに注目すべきは文字の発明である」(藤沢令夫訳、岩波文庫版、162ページ)という。テウトは自分の発明を、神々の王であるタモス(アンモン)のところにもっていって批評を仰いだのであるが、文字について、
「王様、この文字というものを学べば、エジプト人たちの知恵はたかまり、もの覚えはよくなるでしょう。私の発見したのは、記憶と知恵の秘訣なのですから」(163ページ)というと、タモスは文字は「記憶の秘訣ではなくて、想起の秘訣なのだ」(164ページ)といって、文字と人間の知性との関係について悲観的な見通しを述べる。
 確かに文字の発明によって、むかしむかしの遍歴する吟遊詩人のような記憶力の持ち主は必要がなくなり、超人的な記憶力は神話・伝説の世界に去っていったかもしれないが、文字で書かれた、いわば外部記憶装置である書物を持つことによって、全体としての人類の文化の蓄積はより豊かなものになったのではないかという気がする。

 しかし、神話・伝説の世界では文字の発明についての否定的もしくは懐疑的な意見はほかにも見出される。中国では、文字は蒼頡という人物によって発明されたと語り継がれてきた。伝説というよりも神話的な存在である中国古代の君主・黄帝の家臣に蒼頡という人物がいて、「生まれながらにして特徴があり、大きな竜顔で、四つの目が霊光を放っていた」(袁珂『中国の神話伝説』、238ページ)。彼は大きくなると、自分の周囲の事物を注意深く観察し、それら大自然の自然現象に基づいて文字を発明した。「この非凡な発明創造がなされるや、天でさえ驚いて雨のように粟を降らせ、鬼もびっくりして夜な夜な悲しそうに泣いたという」(同上)。
 この説話は『淮南子』「本経訓」に出てくるのだそうであるが、その注釈者である高誘の説によると、「人びとがそれ以後本末を転倒して、農耕という大業を放棄し、錐や刀で文字を彫るという小利をむさぼって飢えるかもしれないので、あらかじめ粟を降らせ、やがてやって来る飢饉から救うとともに、世人に対する警告ともしたのである。鬼はそれら恐るべき文字によって弾劾されるのを恐れ、夜な夜な泣いたのである」(同上)。この解釈が正しいかどうかは、さらに検討の余地があると思うが、文字の発明が人類にとって必ずしも幸福ばかりをもたらすものではないという見通しは、プラトンが『パイドロス』で述べたものと共通しているのではないかと思う。

 しかし、プラトンの場合と、『淮南子』の場合とでは議論の前提としての文字についての知識がかなり違っていたのではないかという気もしないではない。プラトンは、ギリシャ文字だけでなく、エジプトの話をしているのだから、エジプトの象形文字についても知っていたはずであり、さらにフェニキア文字についての知識もあったと思われる。それに対して、『淮南子』の著者は、漢字だけしか知らなかったのではないか。あるいは他の文字も知っていたのであろうか。

 日本の場合は、文字の発明ではなくて、文字が輸入された経緯が語られている。厳密にいえば、文字の輸入とは言えないかもしれないが、とにかく文字にかかわる神話の一種として取り上げてみたい。
 応神天皇の御代に百済から阿直岐という人物がやってきて、彼が儒教の経典に通じているので、天皇は菟道稚郎子(うじのわきいらつこ)という自分の皇子の師として学ばせたが、彼にお前よりも優れた学者がいるのかと尋ねると、王仁というものがおりますという話だったので、彼を日本に呼び寄せたところ、『論語』と『千字文』をもって来日したという話が『古事記』に出てくる。
 これは中国の学問が朝鮮半島を経由して日本に入ってきたという話で、漢字がどのようにして日本に入ってきたという話ではない。『日本書紀』の記す年代をそのまま信じれば、応神天皇の治世は270年から310年までである。それよりも古い時代から(使いこなせるかどうかは別の問題として)日本に漢字が入ってきていたことは、考古学的な知見から明らかである。だから、この説話については別の解釈を試みる必要がある。ここで、問題になるのは、『千字文』は中国の南北朝時代の梁の周興嗣という人物が撰んだということなので、6世紀前半の成立と考えられ、応神天皇とは年代が合わないということである。

 『日本書紀』の、とくに雄略紀あたりには「呉(くれ)」の国というのが盛んに出てきて、これは中国の歴史書に記されている「倭の五王」と中国の南朝の交流と対応する。だから南朝の梁から日本に『千字文』が渡ってきても不思議はないのである。『宋書』「倭国伝」に記載されている倭の武王(ふつう、雄略天皇のことと考えられている)の上表文「昔より祖禰躬ら甲冑を擐(つらぬ)き、山川を跋渉し、寧処に遑(いとま)あらず。・・・」というのは、堂々たる漢文で、おそらくは宮廷につかえていた渡来人の手によって書かれたというのが通説である。

 話の重点が神話よりも歴史の方に移ってしまったが、倭の五王時代の日本は南朝寄りだったのが、中国を統一したのは北朝の隋だったので、話が違ってくる。大陸の文化が日本にわたってくる経路は朝鮮半島経由と、中国の南方から島伝いの複数の経路があるはずで、『古事記』や『日本書紀』における対外関係の記述を考えるときに、この問題は避けて通れない。百済から王仁がやってきて『千字文』を伝えたという記事には、『古事記』が成立した当時の、東アジアの政治情勢がいろいろと反映されていたと考えるべきなのである。

 それで、話を神話・伝説に戻すのだが、王仁は日本にやってきて、「難波津に咲くやこの花冬ごもり今を春べと咲くやこの花」という和歌を詠んだという。この歌は「安積山かげさへみゆる山の井の浅き心をわが思はなくに」という歌と並んで、和歌の父母といわれ、手習いの教材として用いられた。「安積山」の方は奈良時代の高官であった橘諸兄と采女についての伝説に由来する。王仁は日本語を母語としない外国人なのに、立派な和歌を詠む凄い人で、日本文化にとっての恩人であったという伝説は、長く余韻を残したのである。どうも日本文化の伝統の中では、文字の効用は疑われなかったようである。

 世界の歴史を見渡して、他の文化の中で発展してきた文字を借用して自分たちの言語を記すというのはそれほど珍しいことではないので、文字を輸入したという神話はほかにも例があるかもしれない。このほかにも、なぜ、自分たちの民族には文字がないのかという神話の例もある。そのあたり、機会があれば論じてみたい。

『太平記』(144)

2月5日(日)曇りのち雨

 後醍醐天皇を迎え入れた比叡山延暦寺に対抗するために、足利方は、戒壇の造営を約束して三井寺を味方につけた。建武3年(1336)正月13日、北畠顕家率いる奥州・関東勢が比叡山の宮方に合流した。三井寺に攻め寄せた宮方は中国・四国の軍勢を率いて三井寺に入っていた細川定禅の軍勢を追い落として伽藍に火をかけた。16日、新田義貞軍が京へ攻め入り、尊氏は窮地に追い詰められたが、細川定禅の活躍で事なきを得て、再び都を占領した。20日、尊氏・直義追討のため関東に向かっていた宮方の搦め手の軍勢が引き返して、東坂本の宮方の軍勢に合流した。宮方は27日に、再度京都への攻撃を開始し、吉田神楽岡に築かれていた足利方の城砦を攻め落とした。

 その一方で結城宗広、楠正成、名和長年ら3,000余騎は比叡山の西の麓から都へと進んでいたが、高野川と賀茂川の合流点付近で火を放った(この軍勢は高野川沿いに下ってきたと思われる。このあたり、岩波文庫版の脚注はどうもすっきりした記述になっていない)。尊氏はこれを見て、神楽岡の城砦を攻め落とした山法師たちが、今度は糺の森付近にいると思われる。山法師ならば(歩兵中心なので)騎馬の軍勢で追い散らすのは簡単である。急いでやっつけて来いと、上杉重能、畠山国清、斯波高経らの武将に5万余騎の軍勢を率いさせて差し向ける。〔ここでも尊氏は敵の軍勢の正体を見誤っている。〕
 楠は並ぶもののない勇気の持ち主であった上に、智謀第一という武将であったから一枚板の軽便な楯を500~600畳(楯は、畳と同じように数えるらしい)こしらえさせて、その板の端に留め金と掛け金をつけ、敵が攻めてきたときはこの楯を並べて、その隙間から矢を射かけ、敵が後退すると、きわめて強い騎馬武者たちに後を追わせる。足利方は進むことができず、5万の軍勢がわずか800騎の楠勢に追いまくられて五条河原まで後退してしまった。[楠の武勇と知略に加えて、京都は北の方が標高が高いので、北から攻める方が有利なのである。〕

 敵はこれだけかとみていると、北畠顕家が2万余騎を率いて東方の粟田口から攻め寄せ、車大路に火をかける。尊氏はこれを見て、北畠顕家が攻めてきたからには、自分自身が出向かないといけないだろうと、50万余騎(明らかに誇張がある)を率いて鴨川の四条・五条の河原に出て応戦、一進一退の攻防が続く。足利方は多数ではあるが、士気が低く、北畠勢は数的に劣るために、交代しながら戦うことができず、士卒が疲れてしまった。このために両軍ともに戦いあぐね、戦闘が低調になっていたところに、新田義貞、脇屋義助、堀口貞満、大館氏明が3万余騎を三手に分けて、双林寺、将軍塚、(岡崎の)法勝寺の前から新田の中黒の旗を50余なびかせて、二条河原から足利勢の横を駆け抜けて、敵の後ろを切ろうと攻め込んできた。

 足利方はこれを見て、「それ、例の中黒が来た」と、もともとその武勇を恐れていたので、市内に充満している大軍が慌てふためいて四方八方に逃げ散ってしまう。「四角八方に逃げ散ること、秋の木の葉を山颪の吹き立てたるに異ならず」(第2分冊、468ページ)と『太平記』の作者はその有様を木の葉に例えている。義貞は鎧を脱ぎ変え、馬を乗り換えて、ただ1騎、敵の中へ懸け入り、尊氏を探し出して討ち果たそうとしたのだが、尊氏の運が強かったのであろうか、見つけ出すことができなかったので、やむなく、軍勢を十方に分けて、逃げる敵を追わせたのである。

 その中で、新田一族の里見、鳥山の人々は、わずか26騎で、丹波路の方へ逃げていく敵が2,3万騎あるのを、その中には尊氏がいるだろうと考えて、桂川の西まで追っていったのであるが、大勢の敵軍に反撃されて、全滅してしまった。そういうわけで、十方に分れて追っていた宮方の兵どもも、むやみに長追いをすると危ないからやめようと、皆、京都市内に戻ってきた。〔里見氏は新田氏の祖である義重の子どもである義俊から始まり、この時代は一族として新田氏を支えていた。滝沢馬琴が『南総里見八犬伝』で描き出したように、なんとか戦国時代を生き延びたが、江戸時代の初めに断絶してしまう。〕

 日もすでに暮れてしまったので、楠正成が新田義貞の前に出て次のように進言した。本日の合戦は思いがけなく百万の敵を退けましたが、敵はそれほど兵力を損耗していません。また尊氏の行方も分かりません。味方の方が軍勢が少ないので、このまま都にとどまっていると、兵士たちは財宝の略奪に熱中してひとところにとどまっていることはないでしょう。そういうことだと、また敵が引き返してきて、手の施しようがなくなることは避けられません。敵に少しでも勢いを着けさせると後の合戦が面倒なことになります。今日はまず引き返して、1日馬の足を休め、明日あるいは明後日に、もう一度猛攻を加えれば、敵に打撃を当てて、遠くへ追い払うことができるでしょう。
 義貞はこの意見はまことにもっともであると思い、宮方の軍勢はみな坂本へと戻っていったのである。

 尊氏は、今回もまた丹波路まで退却しようと、寺戸(京都府向日市寺戸)のあたりまで後退していたのだが、京中には敵が1人もなく、皆引き返したという噂が伝わってきたので、また京都市内へと戻った。このほか、八幡、山崎、嵯峨、仁和寺に落ち延びていた武士たちも、これを聞いてわれ先に戻ってきたのは、どうもみっともないことであった。尊氏は、敵の軍勢が増えているわけでもなく〔実際には増えている〕、両者を比較してみれば、宮方の方が兵力は少ないのに、毎度追い立てられて、見苦しい負け方をするのは、尋常なことではない。我々が朝敵であるために、比叡山の僧侶たちに呪詛されているからであろうか」と自分の見通しや戦術の拙さを棚に上げて、余計なことを考えていたのは愚かなことであった。〔もちろん、この後の行動を見ていると、尊氏はそれほどのバカではなかった。〕

 さて、宮方は楠の進言を受け入れて、勝利したにもかかわらず、退却して、足利方を京都市内におびき寄せ、徹底的にたたくという作戦をとることにした。さて、この作戦はうまくいくであろうか。それはまた次回。
 

日記抄(1月29日~2月4日)

2月4日(土)晴れ

 1月29日から本日までの間に経験したこと、考えたことなど:
1月29日
 柳田国男『故郷七十年』(講談社学術文庫)を読み終える。『神戸新聞』が昭和33年(1958)に創刊60年を迎えたのを記念する形で、故郷である兵庫県(播州)の田原村辻川(現在の福崎町辻川)を離れて70年を数え、80歳を超えていた柳田が同紙に連載した回想記である。辻川のこと、辻川を離れてからしばらく預けられた長兄の暮らす茨城県布川町(現在の利根町)、家族と先祖(実家である松岡家と養子先の柳田家)、国木田独歩や田山花袋ら友人のこと、影響を受けることがあった森鷗外や新渡戸稲造のこと、官界に入ってからのこと、民俗学研究に携わってからのことなど、様々な思い出が語られているが、解説で佐谷眞木人さんが書いているように、語られていないことにも目を向けることが必要であろう。特に印象に残っているのは、樋口一葉に会いに出かけなかったこと、島崎藤村と疎遠になった事情を書いている箇所である。いずれ、機会を見つけて、詳しく論評するつもりである。

1月30日
 NHK「ラジオ英会話」は講師の遠山顕先生が病気休養中のため、以前に放送したものを再編集して放送しているが、今週は”Grammar for Better Conversation" (もっと話したくなる英会話文法)の一部として、「完了形を使うためのヒント」が放送される。完了形とは関係なく、本日の放送の最初に話された:
 I don't think so. はI think not.とも言えます。これは、昔の言い方の名残です。昔は、I like him not.とかShe loves your dog not. といった否定の仕方もありました(近年、このnotを文の最後に持ってくるパターンが若い層を中心にはやっているのは興味深いことです)。
という話が興味深かった。会話経験の豊富な遠山先生はそういう例に出会ったのだろうが、私は出会ったことがない。

1月31日
 『週刊朝日』2月10日号の広告の見出しに「『在野精神』『学問の独立』が泣く 官僚の天下り 隠蔽工作に従う『私学の雄』 『狡猾』文科省と早稲田の『堕落』」という文字が連ねられていた。「学の独立、進取の気性」という『都の西北』の歌詞を思い出してほしい。

2月1日
 NHKラジオ「実践ビジネス英語」の”Quote...Unquote"のコーナーで紹介された言葉:
An investment in knowledge always pays the best interest.
  ――Benjamin Franklin
     (U.S. statesman,diplomat, inventor and scientist, 1706 -90)
(知識への投資には、常に最高の利息がつく。)
 このような考えに基づいて、フランクリンは今日アイヴィー・リーガーズに数えられるペンシルヴェニア大学の創設者の1人となったのだが、反知性主義を掲げる現大統領のドナルド・トランプがこの大学の卒業生であるのはまことに皮肉なめぐりあわせである。

2月2日
 昨日に続き、『実践ビジネス英語』の”Quote...Unquote"のコーナーから:
Nothing ever comes to one, that is worth having, except as a result of hard work. (from Up from Slavery)
    --Booker T. Washington
      (Afriacn-American educator, author and orator, 1856 - 1915)
(懸命な努力の結果として以外に、手に入れる価値のあるものは決して得られない。)

 同じくNHKラジオ『まいにちフランス語』応用編「ガストロノミー・フランセーズ 食を語り、愛を語る」(Gastronomie française, parler de cuisine, parler d'amour)は”Terrasses et pique-nique (1) Le besoin d'une respiration bienfaisante"(テラスとピクニック(1) 恵みの息抜きは必要)という内容を放送した。フランスのカフェやレストランのテラスについて、
Pas de terasse, et la ville devient un gigantesque bureau. (テラスがなければ、都市は巨大なオフィスになってしまう。)
という。息抜きの場としてのテラスがフランスの労働者にとって必要だと述べている。

2月3日
 「まいにちフランス語」は”Terrasses et pique-nique"の2回目。フランス人にとって貴重な、よい天気を楽しむもう1つの方法がピクニックに出かけることだという。
La vie est belle quand on est tous ensemble! (皆で過ごす、人生のすばらしい時間!)
ジャン・ルノワールの『ピクニック』という映画を20代のころに見て感動した記憶がある。昨年、横浜のシネマ・ジャック&ベティで上映されたらしいのだが、見逃してしまって残念である。(ウィリアム・インジの戯曲を映画化したアメリカ映画『ピクニック』も名作ではある。ウィリアム・ホールデン、キム・ノヴァクが主演であったが、それ以上に脇役がよかった。後に『まごころを君に』(『アルジャーノンに花束を』)でアカデミー主演男優賞を取るクリフ・ロバートソンが出演していることも見落としてはならない。)

2月4日
 NHKラジオ「攻略! 英語リスニング」は”Longevity"(寿命)という話題を取り上げた。
It was an accepted part of life in 1900 that a child could expect to live to age 50, on average. (1900年の時点では、生まれた子どもが死ぬまでは平均50年というのが、一般的な認識だった。)
But in Japan, the average life expectancy is now just over 83 years. (ところが日本では、平均寿命は今や83歳をちょっと超える。)それどころか、もっと長い気になるかもしれないという話が続く。
 子どものころ、自分が70歳以上の年寄になるなどと想像もできなかった。なってみると、もっと長生きしたいと思っている。

 プラトン『パイドロス』(岩波文庫)を読み終える。面白かった。もっと、若いころに、この書物の面白さが分かっていれば、人生は変わっていただろう――などと思う。いつか、機会を見つけて論評するつもりである。

呉座勇一『応仁の乱』(8)

2月3日(金)晴れ

 応仁の乱は応仁元年(1467)から文明9年(1477)まで11年間にわたって繰り広げられた大乱である。この書物は奈良の興福寺の大乗院の院主であった経覚と尋尊という2人の高僧の日記を史料として、応仁の乱の経緯をその前史から結果にいたるまでたどったものである。(経覚の『経覚私要抄』と尋尊の『大乗院寺社雑事記』以外にも、この時代の記録としては関白近衛政家の『後法興院記』のような同時代史料があるが、なぜこの2つの日記を選んだか、著者ははっきり書いていない。おそらく、『後法興院記』は応仁の乱の発端の時期の部分は残っているが、その後10年の記事が失われていること、経覚と尋尊の日記が応仁の乱のほぼ全部を書き残していることと、両者の対比から見えてくる部分があることのためであろう。さらに、大和と関係の深い、河内の守護である畠山氏の家督をめぐる争いが、応仁の乱の主要な動因となっていることも関係していると思われる。)

 畠山氏の家督をめぐっては義就とその従兄弟である政長との間に争いが続き、河内に基盤を持つ義就に比べて軍事力において劣る政長は、当時の幕府の有力者であった細川勝元を頼り、いったんは家督を継承して幕府の管領職にも就任した。将軍義政はその時々で優勢な方を支持し、優柔不断な態度を続けた。細川・畠山とともに管領職に就くことのできる家柄である斯波氏にも義敏と義廉の家督をめぐる争いがあった。将軍義政は、後継ぎがいないために弟の義視を還俗させて将軍職を継がせようとしたが、その後で、義尚が生まれた。
 義政の側近である伊勢貞親を中心とするグループは義政が将軍を続け、義尚を後継とすることを望み、幕府の有力な大名の1人であった山名宗全は義視を将軍職に、また斯波義廉を管領職に就けることを望んでいた。さらに細川勝元は、義政の後、義視が中継ぎの役割を果たし、その後義尚に将軍職を譲ることを構想していた。
 文正2年(1467)に山名宗全がクーデターを起こし、政長から畠山氏の家督と管領職を奪う。政長は上御霊社に陣を構えて抵抗するが、山名宗全に支援された義就に敗れる。年号が応仁に変わった5月に細川派の反撃が始まり、将軍御所を細川派に包囲された義政は、山名討伐の姿勢をとることを余儀なくされる。6月に細川方の東軍が攻勢を仕掛けるが、山名方の西軍の畠山義就、朝倉孝景らの徹底抗戦にてこずり、決定的な勝利を得ることができなかった。そうこうするうちに中国地方の大大名である大内政弘が大軍を率いて西軍に加わり、西軍が攻勢に転じた。両者とも短期間で決着をつける戦略をとったが、予期に反して戦線は膠着してしまった。

 応仁2年(1468)8月、義政は伊勢に逃れていた弟の義視を呼び寄せ、9月に義視は東軍の陣中に入った。義視は義政の側近の1人である日野勝光(義政夫人富子の兄)を斥けることを要求するが、義政は聞き入れず、かえって閏10月にいったん失脚していた伊勢貞親を政務に復帰させ、自派の勢力拡張を図る。
 危険を感じた義視は11月に京都を脱出して比叡山に逃れ、23日には帰京して西軍の斯波義廉の陣に入り、24日に西軍の将士たちは義視を将軍と仰いだ。これにより、事実上2人の将軍が並び立つことになった。義視を将軍と戴く側を西幕府と呼ぶ。この結果、これまで和睦の道を模索していた義政は態度を硬化させ、上皇から足利義視治罰の院宣を得る。このため、平和はますます遠のく。

 このように両軍の当初の目論見に反して戦乱が長期化した背景には、戦法の変化があると呉座さんは指摘する。その第一は井楼に代表される防御施設の発達である。井楼は戦場で敵陣を偵察するために材木を井桁に組んで構築する物見櫓である。もっともただの見張り台ではなく、武器を備え付けて、敵を撃退する役割も持っていたし、さらには攻城用に築かれることもあった。戦乱の進展につれて、京都市内には邸の周囲に堀を掘って要塞化することが多くなった。このような要塞化した邸は「御構」などと呼ばれたが、その中に庶民の住宅も含むような大規模なものであった。このため、京都での市街戦は、実質的に攻城戦となった。第一次世界大戦が塹壕戦となったことで長期化したのと同様に、応仁の乱は防御側が有利になったために長期化したと呉座さんは論じている。

 戦局の長期化に伴い、その打開の新戦力として登場したのが足軽である。足軽は甲冑などを着けない軽装の歩兵である。足軽は当時の慢性的な飢饉状況の中、農村から都市に流入した下層民を主な補給源とし、義教以後の将軍の恣意的な裁定によって没落した大名の家臣たちが加わって形成された土一揆が、応仁の乱を機に足軽として組織され、敵の補給路の遮断、補給施設の破壊などに活躍した。彼らはその機動力を生かして略奪や放火によって敵軍を疲弊させたが、それだけでなく、京都在住の公家・寺社・庶民にも大きな被害をもたらした。足軽の大量動員は、京都の荒廃に拍車をかけたのである。

 応仁2年(1468)前半までは、京都の町中で合戦が行われたが、後半になると主戦場は東山・山科・鳥羽など周辺地域に移っていった。これは自軍の補給路を確保すると同時に、敵軍の補給路を遮断するためであった。当時の京都は突出した大都市であり、膨大な人口を養うためには外部から輸送される物資に頼らなければならなかった。応仁の乱の長期戦化に伴い、京都近郊地域の掌握が戦況を左右するようになったのである。こうして近郊の住民たちも戦乱に巻き込まれることになったが、領主と交渉したり、敵軍と戦ったり、敵軍と直接交渉したりして、食料の徴発に対処しながら、生き延びていくのである。

 応仁の乱同様に当ブログ上での呉座さんの著書の紹介も長引いているが、今回は、その長引いた理由について述べた個所を紹介した。両軍ともに短期の機動戦を志向したにもかかわらず、防御施設の発達により長期的な陣地戦に巻き込まれることになり、社会の変化と戦法の変化が重なり合い、影響しあって、乱はますます長期化していくのである。もちろん、幕府内部における権力闘争の複雑さや、有力大名の家督争いなど、従来から指摘されてきた問題もこれにかかわっていることは言うまでもない。

ダンテ・アリギエリ『神曲 天国篇』(12-1)

2月2日(木)晴れ

 ベアトリーチェに導かれて、地上楽園から天上へと飛び立ったダンテは、月天で地上での<誓願を果たさなかった人々>、水星天で<地上での栄光を追い求めた人々>(それで神の栄光への思いがおろそかになった)、金星天で<人と人とを結びつける愛>に心を奪われ、神への愛を軽んじた人々の魂に迎えられた。そして太陽天に達して、神学者と哲学者の魂に出会う。彼を迎えたトマス・アクィナスの魂は、聖フランシスコの生涯と、彼とその修道会がドメニコ会とともに教会を支える存在であることを語る。

祝福された炎が最後の言葉を
話すやいなや、
聖なる石臼は回りはじめ、

その輪が一周し終わる前に
もう一つの輪がそれを取り囲み、
動きには動きを、歌には歌を美しく合わせた。
(180ページ) トマス・アクィナスら12人の神学者たちの霊がつくる輪は、水車小屋で水車によって回される石臼のように回転し、もう一つの輪が現われる。そうして奏でられる天上の音楽は、地上のいかなる音楽にも勝るものである。
・・・永遠の薔薇の
二つの花輪は私たちの周囲をめぐり、
外輪は内輪に唱和した。
(182ページ)

 そして、また新しい声が聞こえてきた。
・・・「私を美しくしている愛が
もう一人の司令官について話すよう私を誘う。
その方ゆえに我が司令官はこれほどの賞賛をここで受けているのだ。

一人がいる場所に、もう一人も紹介されることがふさわしい。
二人が一つになって戦ったのと同じく、
二人の栄光がともに輝きを放つよう。
・・・ (182-183ページ) ドメニコ会士であるトマスが、聖フランシスコについて語ったので、今度はドメニコ会の創始者である聖ドメニコについて語られる。彼もまた、教会が神の道を踏み外しているのを正すために天から派遣されたのだという。彼は誕生前から様々な力を発揮し、その偉大な仕事を予示したのである。

 そして彼は主dominusの所有格dominicus(主に属するもの)をその名とし、
ドメニコと彼は呼ばれたのだ。そこで私は彼のことを、
キリストがご自身の農園の助けとされるべく
選んだ農夫として語ることにしよう。
(187ページ) こうして、まだ名乗っていない霊から、ダンテは聖ドメニコと彼に続いた人々についての話を聞くことになる。その内容については、また次回。

 フランシスコ会とドメニコ会とが教会を支える車の両輪であるという考えは、『神曲』の中で、煉獄篇の終わりごろから盛んに繰り返されてきた主張で、ここでそれが集約的に説明されることになる。神学的な議論よりも、ダンテが使っている比喩や言葉の美しさの方に見るべき面があるのではないかと思う。〔なお、dominusとかdominicusとかいうのはラテン語で、ラテン語を勉強すると名詞や形容詞の格変化、動詞の人称変化や時制による変化などを暗記させられることになる。イタリア語には名詞の格変化はなくなっているので、その点は楽である。〕

アキ・ロバーツ 竹内洋『アメリカの大学の裏側 「世界最高水準」は危機にあるのか?』

2月1日(水)晴れ

 1月31日、アキ・ロバーツ 竹内洋『アメリカの大学の裏側 「世界最高水準」は危機にあるのか?』(朝日新書)を読み終える。

 各種の大学ランキングの上位にその多くが顔を出し、日本の大学の「お手本」の役割を果たしているアメリカの大学をめぐり、現在、様々な異変が起きている。その異変は日本の大学が現在直面している、あるいは近い将来に直面するであろう性格のものである。日本生まれでアメリカの大学で犯罪学の研究と教育に当たっているアキ・ロバーツがアメリカの大学教育の問題点を自分の経験をもとにまとめ、それをもとに彼女の父親で教育社会学者の竹内洋が日本の高等教育の問題を考えてできたのがこの書物である。

 第1章「ランキングから見るアメリカの大学」では、アメリカの大学が教育専門誌や大学評価機関による世界の大学ランキングの中で上位を占めている現状と、大学がどのように格付け・分類されているかが語られている。大学ランキングをあげることに成功した例を通じて、評価が具体的にどのようなものかが示され、次に大学の教授たちが好むカーネギー分類がどのようなものか:
博士号授与大学(最高度の研究を行うとされる通称R1、高度の研究活動を行うとされるR2、普通レベルの研究活動を行うR3にさらに格付けされる)
修士号授与大学
学士号授与大学
学士号・準学士号授与大学(多くがコミュニティ・カレッジ)
準学士号授与大学(コミュニティあるいはジュニア・カレッジ)
 コミュニティ・カレッジから4年制の大学への編入はアメリカの高等教育の長所として理解され、紹介されることが多い(私も日本でこれに倣った制度を展開すべきだと論じたことがある)が、安易に転校する学生が多かったり、実際に4年の課程を修了するものは少なかったりするなど、現実には問題点が多いことが指摘されている。

 第2章「テニュア制(終身雇用制)のメリット・デメリット」ではアメリカの大学の先生の職階と、テニュアという制度、それがどのようにして獲得されるかが概観されている。また、非常勤講師が増えてテニュアを持つ大学の先生が少なくなっている現状も紹介されている(これが「異変」の一つである)。大学の教授にはテニュアがあるということが、世間的にいい印象を持たれていないこともあって、この制度が変化を余儀なくされているのではないかという見通しが語られている。

 第3章「庶民には手の届かないアメリカの大学」では、アメリカの大学の授業料の高さが論じられている。著者はかなり詳しく数字を紹介しているが、日本の私立の4年制大学の平均年間授業料は86万円であるのに対し、アメリカでは3万2千ドル(約320万円)、アイビー・リーグに数えられる大学の平均は約5万ドル(約500万円)であるという。しかも、授業料は高騰の傾向を見せている。なぜ高くなってきているかというと、大学の管理や専門業務に携わる職員(教員ではない!!)の増加によるところが大きいという。大学スポーツによる収入も大きいが、その一方で支出もかかること、奨学金制度が十分に機能していないこと、学生ローンをめぐる現状など愉快でない話が続く。

 第4章「アメリカの大学の受験の勝者は誰?」では、一般にアメリカの大学への入学は容易であるが(第3章で述べられているように、授業料が工面できればという話である)、一部の有力校への入学はかなり困難であり、しかも統一入学試験で高得点を取れば入学できるというものではないことが述べられている。親や親せきがその大学の卒業生である場合には「レガシー」(llegacy)と言って入学に有利になる。その一方で学力以外の要素(スポーツの実績など)も考慮するホリスティック入試の試みもあるが、貧困層やアジア系の受験生にはこの制度の恩恵はあまり届いていないという指摘もあるという。

 第5章「大学の価値って何?」では、アメリカの大学では成績のインフレが顕著な傾向となっており、これは1980年代以降に生まれた「ミレニアルズ」と呼ばれる批判されたり、怒られたりすることに慣れていない世代が学生の主流になったことでいよいよ進展した。質的な低下が懸念される一方で、大学教育にはまだまだ受けるに値する価値はあると著者は考える。大卒者はそうでない人々よりも概して高収入であり、犯罪率は低く、長生きをする可能性が高い。ますます複雑化し、異文化の遭遇が増え、転職の可能性が増す社会の中で、「本当の教養」を身に着けた、どのような事態にでも対応できる人材の必要性は増していると著者は論じている。

 第6章「アメリカを「鏡」に日本の大学を考える」は、ロバーツさんが1~5章で論じたアメリカの状況を竹内さんが日本に引き付けてその意義を考える内容であるが、「AO入試」に対する懐疑的な見解、人文社会系の危機をめぐる見通しが興味深い。

 下手な要約でどこまで伝えられたかは疑問であるが、興味深い(それなりに挑発的な)書物であった。ここでは省略してしまった部分に、かなり面白い記事があるので、ぜひこの本を買って(あるいは図書館で借りて)読んでみてください。ただ、表題が『アメリカの大学の裏側』であるのがどうも引っかかる。大学関係者による内情の観察と分析なのだから、「内幕」くらいの方がよかったのではないか。さらに言えば、この書物を読んで、対抗する意味で、正面から堂々と『アメリカの大学』の長所と問題点をまとめてくれる研究者が現われてくれれば、大いに歓迎したいと思う。 
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