2017年の2017を目指して(1)

1月31日(火)晴れ

 1月は、ずっと横浜で過ごしたが、東京にも出かけた。都県でいうと、神奈川県と東京都、市区町村についてみると、横浜市、川崎市、千代田区、渋谷区、港区、品川区、新宿区に足跡を記している。
 東急と東京メトロ、JR東日本を利用し、東横線、目黒線、半蔵門線、南北線、副都心線、山手線に乗っている。乗り降りした駅は横浜、武蔵小杉、渋谷、神保町、白金台、目黒、新宿、新宿三丁目である。
 横浜市営バス、川崎市営バス、東急バスを利用し、横浜市営バスの34,35,36,50,87,202、川崎市営バスの「杉44」、東急バスの「溝02」に乗っている。乗り降りした停留所は9か所である。〔45〕

 この原稿を含めて31件の記事を書き、内訳は読書が8、日記が6、未分類、『太平記』、ダンテ『神曲』がそれぞれ4、映画と詩がそれぞれ2、推理小説が1ということである。6件のコメント、717拍の拍手、1件の拍手コメントを頂いた。〔38〕
 「☆オリジナルの高校数学の問題を掲載していきます☆」の問題を1問解いている。なかなか取り組む時間が取れないが、1月に1問でもいいから解いて行きたいと考えている。

 紀伊国屋の横浜店と新宿本店で14冊の本を購入している。読んだ本は10冊で内訳は:
亀田俊和『南朝の真実 忠臣という幻想』、椎名誠『あやしい探検隊 焚火酔虎伝』、樺山紘一『地中海』、椎名誠『ナマコもいつか月を見る』、ジュリー・ベリー『聖エセルドレダ女学院の殺人』、瀬川史朗『科学報道の真相――ジャーナリズムとマスメディア共同体』、森銑三『思いだすことども』、斎藤兆史『英語襲来と日本人――今なお続く苦悶と狂乱』、柳田国男『故郷七十年』、アキ・ロバーツ 竹内洋『アメリカの大学の裏側 「世界最高水準」は危機にあるのか』
ということである。かなり多様な内容になってはいるが、質の点でまだ改善の余地がありそうだ。〔12〕

 NHK「ラジオ英会話」を17回、「攻略英語リスニング」を8回、「実践ビジネス英語」を9回、「まいにちフランス語」を初級編11回、応用編6回の17回、「まいにちイタリア語」を初級編11回、応用編6回の17回聴いている。「入門ビジネス英語」は4月~9冊の再放送分であり、「ワンポイント・ニュースで英会話」もほぼ毎回聞いているが、再放送がかなりあるので数に入れていない。「英会話タイム・トライアル」「エンジョイ・シンプル・イングリッシュ」も同様である。〔68〕

 神保町シアターで2本、シネマヴェーラ渋谷で2本の映画を見た。『非常線の女』(小津安二郎監督のサイレント時代の作品、ピアノ演奏付きでの上映)、『簪』、『江戸の暴れん坊』、『貸間あり』という内訳で、昨年の同じ時期に比べても新しい映画を見ることが減っているのが問題である。ぼちぼちと新作にも足を運ぶことにしよう。〔6〕

 ニッパツ三ツ沢スタジアムと、等々力総合陸上競技場で第95回全国高校サッカー選手権の2回戦2試合、準々決勝2試合を観戦した。〔6〕

 A4のノート2冊、A5のノート1冊、0.5ミリのボールペン芯3本、0.4ミリのボールペン芯2本を使い切った。

 富士山を見ることができたのが10日(見たのだけれども、ノートに書き洩らした日もあったかもしれない)、酒類を口にしなかったのが5日ということである。

 さて、2月はどういうことになるか。
スポンサーサイト

斎藤兆史『英語襲来と日本人――今なお続く苦悶と狂乱』

1月30日(月)曇りのち晴れ

 1月28日、齋藤兆史『英語襲来と日本人――今なお続く苦悶と狂乱』(中公文庫)を読み終える。2001年に講談社から『英語襲来と日本人――エゲレス語事始』として公刊されたものに、「新版あとがき」を加え、副題を「今なお続く苦悶と狂乱」としたものである。著者は東大とその大学院で英語英文学を先行したのち、英米の大学院に留学、帰国後は東大を中心に英語教育に携わってきたようであるが、この書物では日本人が英語とどのように付き合ってきたか、英語をどのようにして身に着けようとしていたかを歴史的にたどりながら、そのような歴史的伝統から有益な教訓を学ばないままに、日本の英語教育の方向性が決められようとしている現状に異議を唱えている書物である。特に、エリートのレベルと大衆のレベルとでの英語に対する付き合い方は違うはずだという主張が全体を貫いているように思われる。

 プロローグで著者は、福沢諭吉・新渡戸稲造・夏目漱石という、一代前の一万円札・五千円札・千円札にその肖像を描かれた人物が、この順序で、近代日本における英語受容史を体現する存在であるという。福沢はそれまでに修めていた蘭学を捨てて、開国と同時に大量に流入し始めた英語を手探りで研究した、英学の黎明期を生きた偉人である。新渡戸は明治初期にほとんどの授業を英語で受けて、学問を修めている。ところが漱石になると、英学は英文学と英語学とに分裂をはじめ、専門分化した研究として学問分野の一端を担うようになってくる。
 このような歴史を別の角度から見ていくと、「基本的に日本の英語受容史は偉人とエリートの歴史である。日本の英語が論じられる際、たいがいここが盲点になる」(7ページ)と著者は指摘する。「そもそも、日本英語受容史上、一般大衆の英語教育などが成功したためしがあるのだろうか。日本の英語が駄目になったというが、それは先にあげた偉人やエリートたちの英語と比較した場合の話だ」(8ページ)ともいう。エリートと大衆を分ける考え方に疑問を感じる人もいるかもしれないが、著者はこの考え方に基づいて英語受容の歴史を記述しようとする。

 第1章「江戸時代の英語」は、江戸時代初期のウィリアム・アダムズ(三浦按針)から始まって、幕末の蕃書調所→洋書調所→開成所の活動までを概観している。取り上げられている人物が残した英文や英文の和訳が紹介されているのが興味深い。ここでは日本語と英語との言語構造上の差異が、日本人の英語学習の障害になっていること、それゆえにこの問題に早くから気づいていた蘭学の伝統(さらには漢学の伝統)から学ぶべきものが少なくないと論じている。開成所の英語教師の英文と、中浜(ジョン)万次郎の英文の手紙を比較して、文法・訓読を重視する英語教育の利点を説いている辺りは一読に値する。一方、庶民のレベルでは怪しげな英語の例も紹介されている。

 第2章「明治時代の英語」では、明治の初期においては、開成所→開成学校や札幌農学校の授業が生徒たちを「英語漬け」にしていたこと、しかしそれだけでなく、内容をしっかり把握するための配慮がされていたことが指摘されている。著者はこのような教育は一部の英語教育者が理想とする「イマージョン」に他ならないのではないか、だとすればこの方式が急速に下火になっていったことの意味を考えるべきではないかという。確かに新渡戸稲造は札幌農学校で英語漬けの教育を受けたのであるが、彼のような人間は「その伝記から明らかなとおり、大きな志を抱いてとてつもない努力をしたのであり、英語を学ぼうが学ぶまいが、どんな時代に生まれようが、偉人として大成する運命にあるのである。」(107ページ)と『努力論』の著者らしい意見も添えられているのである。
 続いて、庶民のレベルにおける英語熱を取り上げ、さらに夏目漱石における英語をめぐる苦悩の中身を分析している。新渡戸の場合には、英語は実学の媒体として機能していたのだが、夏目の時代になると、英語は英語・英文学研究という枠の中に押し込まれてしまい、「学問の対象としての英語」か「技術としての英語」か、「教養英語』か「実用英語」かというような無益な二項対立が生まれ、それが現代にまで尾を引くことになったという。とはいうものの、明治の終わりには英文学研究はむしろ隆盛を極め、その一方で斎藤秀三郎や岡倉由三郎のような優れた英語教育者が現われた。

 第3章「大正・昭和・平成時代の英語教育」では、学校教育の拡大→大衆化に伴って起きた英語教育の変化と音声・会話中心の新しい動きの例と、それに対して異を唱えた斎藤および岡倉の理論と実践とが紹介される。読解中心主義という岡倉の理論は、エリート向けの教育論としては正しかったが、彼がそれをむしろ大衆に向かって説いたのは誤りであったと著者は論じている。
 さらに昭和戦後・平成における英語教育の混乱、「コミュニケーション」重視の英語教育の登場などが批判的に取り扱われている。

 最後に、第4章「これからの英語」では、現在の日本の英語教育が目指している二言語併用主義について、その奥底にある不気味なものを指摘し、英語教育については、もっと学びたいという生徒を対象とする自主学習の拡大を推奨している。最後に優れた英語教師とそのための教育の必要性、日本の英語関係者がもっと言語政策・言語教育政策に関心を持つことの重要性を論じている。

 最初に紹介したように、著者はエリートと大衆で英語に対する取り組みは違うという議論を持っている。著者が言うように、「英語ができる人間はいつの時代にもいる。そして、できない人間も、またいつの時代にもいる。」(146ページ)というのはそのとおりだが、英語ができるのがエリートで、できないのが非エリートというわけではない。これまた著者が論じているように、英語の授業はコミュニケーション重視、授業は全部英語でなどという言語教育政策の根幹にかかわる決定をしている人は、エリートではあるが、英語のできない人である。そういうことを考えると、この議論はもう少し具体的に詳しく論じる必要がある。著者は東大の先生であるが、私の知り合いの東大の先生は、最近の学生の質が下がってきたとこぼしている。そのことと、大学生全般の学力の問題は別の問題である。大学の大衆化というのは、エリートだけでなく、大衆も大学教育を受けるようになったということであって、大学生の全部が全部大衆になったというわけではない(この点は著者も同意見のはずである)。

 さらに英語教育の目標をめぐっても、議論が必要ではなかったか。一方で国連の通訳になるような人も必要であろうし、他方で国際学会で発表するような研究者になる人もいなくては困る。エリートの側に属する人でも英語の必要性はそれぞれの事情によって異なるし、大衆の側でも会話中心といったって、その会話の中身が違うことは大いにありうる。職業的に英語を話すということは、多くの職業の場合、今のところ必要はないけれども、外国人相手の商品を扱う商店の店員の会話の内容は、商品の性格によって違ってくるはずである。

 著者の主張の中で一番賛成できるのは、自主学習を強調していることである。英語に限らず、言語の学習は、個々の学習者の環境や興味によって、大いに多様であって、そのことを無視して、画一的にある教育内容を強要するのは平等主義とは言えないのである。英語を一生懸命生徒がいる一方で、まったく勉強しない生徒がいてもいいし、英語に加えてスペイン語とか中国語とかを勉強するという生徒がいてもいい。

 最後に、英語といっても多様性があるという問題についても論じてほしかったという気がする。この書物のテーマとの関連でいえば、学ぶ対象とするのが、British EnglishからAmerian Englishに変化しているということもあるし、国際機関や会議で話される英語についてみると、また別の問題があるように思うからである。 

『太平記』(143)

1月29日(日)曇りのち晴れ、気温が上がる

 後醍醐天皇を迎え入れた比叡山延暦寺に対抗するため、足利方は、戒壇の造営を約束して三井寺(園城寺)を味方につけた。建武3年(1336)正月13日、北畠顕家率いる奥州・関東勢が比叡山の宮方に合流した。三井寺に攻め寄せた宮方は、細川定禅(じょうぜん)の軍勢を追い落として伽藍に火をかけた。16日、新田義貞軍が京へ攻め入り、尊氏は一時は腹を切ろうとするまで追い詰められたが、細川定禅の活躍で事なきを得た。

 そうこうするうちに、尊氏討伐軍の搦め手として東山道から鎌倉に向かっていた忠房親王(承久の変で佐渡に配流された順徳上皇の曽孫)、尾張宮を将とする軍勢は竹下、箱根の合戦には、あらかじめの取り決め通りにいかず、間に合わなかったが、甲斐、信濃、上野の武士たちが参集したために、大軍となって鎌倉に入った。
 そこでその後の鎌倉の情勢を確認すると、新田義貞の軍勢は竹下の合戦に敗北して都に引き返し、それを追って足利尊氏が上洛した。その後、さらに北畠顕家卿が、尊氏の後を追って都に向かったということであった。ということは、どこかで新田が踏みとどまれば、そこで合戦があるに違いないと、鎌倉を出発して、西へと向かった。この軍勢に加わっていたのは、洞院実世、持明院基行、堀川光繼、園基隆、二条為次らの公家と、島津貞久、小田貞知(常陸の豪族)、美濃の武士である猿子(ましこ)・落合・饗庭(あえば)・石谷・纐纈(こうけつ)、伊木、信濃の武士である村上・仁科・高梨・志賀、備前の武士である真壁らを主だった顔ぶれとして、合わせてその軍勢は2万余騎となり、正月20日の夕方に東坂本に到着した。

 宮方の軍勢は、いよいよ勢いづいて、翌21日にも京都へ攻め寄せようという意気込みであったが、縁起が悪い日が続いているうえに、これまで強行軍で馬を進めてきたために、馬たちがすっかり疲れて動くことができなくなっていたので、攻撃に取り掛かるのを先延ばしして、27日に京都に攻め寄せるということに決めた。

 その27日がやってきたので、攻撃のために多少の余裕をもたせようと、明け方早くから楠、結城、名和は3,00余騎で、西坂本(比叡山の西麓、京都市左京区修学院のあたり)から下って、一乗寺下り松のあたりに陣を取る。顕家卿は、3万余騎の軍勢を率いて、大津を経て山科に陣を取る。新たに加わった洞院実世は2万余騎を率いて、赤山(せきさん)禅院(左京区修学院関根坊町)のあたりに陣を取る。比叡山の僧兵たちは1万余騎で、龍花越から鹿ケ谷(京都市左京区)へと出て陣を構えた。新田義貞・脇屋義助京大は5万余騎で、今道を通ってやはり修学院の方角へと向かった。大手、搦め手、合計して10万3千余騎、それぞれ明け方から陣を取ったけれども、敵に悟られないように、わざと篝火をたかせなかった。〔10万3千余騎というのは宮方としては最大の動員であるが、それでも足利方の軍勢の方が数の上で上回っていることを警戒しているようである。〕

 辰刻(午前8時ごろ)に合戦を開始するという取り決めであったが、血気にはやった若い僧兵たちは、武士に先んじられては面目が立たないと思ったのであろうか、まだ卯刻(午前5時ごろ)だというのに、神楽岡(左京区吉田神楽岡町の吉田山)へと押し寄せた。

 この岡には宇都宮配下の紀姓・清原姓の党の武士団が、城郭を構えていた。したがって、そう簡単には人が近寄って攻める手立てもなかったのだが、比叡山僧の道場坊祐覚、彼と僧房を同じくする同輩の僧たち300余人が、真っ先に城柵の門に押し寄せ、塀を隔てて戦ったが、高櫓から大きな石がいくつも投げかけられてきたので退却する。そこへ南岸円宗院という比叡山僧とその配下の僧兵500余人が、入れ代わって攻め立てる。城の中で守っている武士たちの中には、強い弓を弾くことで名高い兵が多かったので、走り回って矢を射かけてきたので、多くの僧兵たちが物の具を射通されて、これはかなわないと思ったのであろうか、皆持楯という携帯用の軽便な楯の影に隠れて、新しい軍勢が攻め寄せてくるのを待った。

 ここに妙観院の因幡竪者(りっしゃ)全村という、比叡山全山に名高い勇猛な僧がいた。鎖帷子の上に、太い縅毛で荒目におどした鎧を重ねて、備前の長刀の鎬下りに勝負の葉の形をした太刀を脇に挟み、矢だけの太さは普通であれば大ぶりの鏑矢に使うほどの、生えて3年の竹をもいだまま節目を落とさずに削って、(刀剣の名産地として知られる備前の)長船製の刃渡り1.5センチの鑿ほどもある矢じりを矢にねじ附けたのを36本背負い(要するに仰々しい武器を見せびらかして自分の力を誇示しながら)、現われた。矢をもって弓を持っていないのは、この見るからに恐ろしい矢を自分の手で相手に投げつけて突き刺そうということである。

 切り立った崖の向かい側に、仁王立ちに建ち、鎧をゆすって矢が刺さらないようにしながら、名乗りを上げる。「先年、三井寺の合戦の首謀者とされて、越後の国へ流された妙観院の高(あら)因幡全村というのは、俺様のことである。城の中に籠もっている人々に、この矢を一つ受けてもらおう。ご覧あれ」と言いながら、例の矢を1本抜いて、櫓の小窓をめがけて、投げつける。すると、小窓の近くにいた武士の鎧の隙間を通して突き刺さり、その武士は櫓から落ちて、すぐに死んでしまった。これを見た城中の兵たちは、これは大変なことだ。普通の人間にできることではないと浮足立ってしまったところに、比叡山の護正院、禅智房などの僧房の若い僧兵たちが1,000余人が一斉に刀を抜いて攻めかかってきたので、宇都宮は神楽岡の城砦を捨てて、二条付近に陣を構えていた味方の軍勢に合流した。この武勇のために全村を手付きの因幡と呼ぶようになったという話である。〔京都で過ごした11年のうち、7年以上を神楽岡の麓で過ごしたので、このあたりに城砦を構えて防御するというのはよくわかる。全村の様子はいかにも猛々しく描かれているが、宇都宮はもう少し持ちこたえてもよかったのではないか。〕

 比叡山の僧兵たちが鹿ケ谷の方角から押し寄せて、神楽岡の城砦を攻めるという情報は、城砦を守っていた武士たちから伝わっていたので、尊氏は、すぐに城の加勢をせよと、一族の今川、細川の武士たちに3万余騎を差し添えて派遣したのであるが、城砦が早くも攻め落とされてしまったので、援軍としての役目を果たすことなく、なすところなしに鴨川を渡って京都に戻ってきたのである(この時代、鴨川の東は京都市内とは見なされていなかったのである)。

 これまで何度も書いてきたことであるが、足利方は兵力において勝っているが、宮方の方が戦意が高い。それに山の上から平地を攻める方が人も馬も勢いがつくので、有利である。さらに言えば、ここで比叡山の僧兵が活躍しているのが目立つ。地方出身の武士たちに比べると、彼らは京都とその周辺の地理にも詳しく、情報の伝達も容易であったと思われる。宮方は初戦に勝利してますます士気が上がり、足利方は何となくいやな気分になっているはずである。さて、この後の戦いはどのように展開していくか、それはまた次回に。 

日記抄(1月22日~28日)

1月28日(土)晴れ

 1月22日から本日までの間に経験したこと、考えたことなど:
1月22日
 久しぶりに理髪店に出かけ、髪を短く切ってもらう。白髪が少なくなった一方で、頭の禿げもあらわになった。店の人と、東日本では蕎麦、西日本ではうどんというのは必ずしも当たらず、西日本でもそば、西日本でもうどんが名産になっている地方があるというような話をしていた。

 翌日の新聞で読んだのだが、この日、安倍首相がTOHOシネマズ六本木で、映画『沈黙――サイレンス』を見たとのことである。自宅のある渋谷区ではなく、六本木の映画館で映画を見たのは、首相が六本木が好きだからであろう。そういえば、年末年始も六本木のホテルで過ごしたことが報じられていた。
 首相が映画を見たり、展覧会に出かけたりすると、「首相動静」の一端として報じられるのだが、どんな本を読んでいるかとか、どんなテレビ番組を見ているかは、ほとんど報じられない。さらに言えば、『沈黙――サイレンス』を見て、どんな感想をもったのかも聞いてみたい気がする。この映画はまだ見ていないのだが、何とか機会を見つけて見ようと思っている。そのあたりのことは、スギノイチさんのブログ『狂い咲きシネマロード』の『沈黙』評へのコメントに書いておいたので、そちらの方をご覧ください。

1月23日
 東京の病院に出かけ、診察が終わった後で渋谷の紀伊国屋の本店を覗いてみる。

 横浜市の教育長が、市内の学校で起きた福島の原発事故の被災者に対するいじめをいじめと認めがたいという発言をしたことについて、発言を取り消すように申し入れがあったというニュースを見た。いじめとはどういうことを言うのかについての教育長ご本人のはっきりした認識を示させることの方が先決ではないかと思う。そこで表明された考えが、あまりにも教育界の常識とかけ離れたものであれば、辞任していただくよりほかない。

1月24日
 俳優の松方弘樹さんが亡くなった。1969年ごろだったか、大阪でコマーシャル・フィルムの制作の仕事の手伝いをしていて、撮影されたフィルムの入った缶を抱えて京都の現像所に出かけたことが何度もあった。それで、よくタクシーに乗ったのだが、ある時、運転手さんが、昔近衛重四郎さんをよく乗せたものだという思い出話をしてくれたことがあった。子息である松方さんがまだ子どもで、一緒についていたというような話であった。松方さんと結婚していた仁科亜希子(明子)さんについては、もう少し面白い思い出があるのだが、それはまたの機会にしておこう。

1月25日
 『朝日』の朝刊に川端康成の邸宅から、川端と交流があったり、彼が収集したりした文学者たちの書画が大量に発見されたという記事が出ていた。記事を読んでいて、山口瞳の一家が鎌倉に住んでいた時期に、山口の母親が川端康成と仲良くしていたという話をなぜか思い出した。

 NHKラジオ「実践ビジネス英語」の”Quote...Unquote"のコーナーで紹介された言葉:
All generalizations are dangerous, even this one.
             ――Alexandre Dumas (French writer, 1802-70)
(どんな一般化も危険である。このように一般化することも。)
手元にあるThe Penguin Dictionary of Quotationsではこの言葉は『三銃士』『モンテ・クリスト伯』(巌窟王)の作者である父親ではなくて、『椿姫』の作者であるAlexandre Dumas fils (1824-95)のものであると記されている。
 ジュール・ヴェルヌの長編小説『アドリア海の復讐』はデュマの『モンテ・クリスト伯』の翻案なのだが、この小説を送られた息子の方のデュマのお礼の手紙が、この種の手紙の書き方の例として、一読に値する。

1月26日
 『朝日』の「天声人語」に安倍首相が「云々」を「でんでん」と読んだという話が出ていた。麻生さんが「未曾有」を「ミゾウユウ」と読んだことに騒いだマスコミが、この件については口を閉ざしているように見えるのはどういうことだろうか。

 「実践ビジネス英語」の話題は”Food Market Trends" (食品市場の動向)で、アメリカの食品業界が自社製品の販売戦略を健康志向に、むやみに商品を売ろうとすることから、節度を持った消費を奨励する方向に変わろうとしていることを取り上げている。一方、「まいにちフランス語」応用編では”Des sushis à la menquez? (1) Les Français adorent la cuisine du monde"(メルゲーズのスシ? (1) 世界の料理を楽しむフランス人)ではフランス人が世界のさまざまな料理をフランス料理の中に吸収していることが論じられていて、アメリカとフランスの食文化の関心事の違いが表れているようにも思われる。

1月27日
 「まいにちフランス語」応用編は「メルゲーズのスシ?」の2回目で、マグレブ料理のクスクスや日本のすしがフランス料理に溶け込み、今やメルゲーズの巻きずしがあるほどになっているという。メルゲーズというのはスパイスのたっぷり入ったソーセージなのだそうだ。
 クスクスといえば、イタリアに留学していたことのある大学時代の同僚の先生が、北アフリカからの留学生と仲良くなってよく食べたという話をしていた。だから、イタリアでも食べられているのではないかと思う。
 マグレブLe Maghrebというのは北アフリカの西の方、チュニジア、アルジェリア、モロッコのあたりを指す(モーリタニアを含む場合もあるようだ)。イスラーム世界の西の果てで、「アラビアン・ナイト」ではしばしば魔法使いの住む地方として描かれている。ロンドンのユニヴァーシティ・カレッジの近くにマグレブ書店という本屋があって、その名の通り、マグレブ諸国に関する本を集めた専門書店なのだが、ここの主人と仲が良くなって、足しげく通ったことを思い出す。

 『朝日』の朝刊で池上彰さんがアメリカのトランプ新大統領の就任演説と、各紙によるその翻訳について論評しているのがなかなか面白かった。トランプ氏の「使う英語がアメリカの小学生レベルで、英語が苦手な人にも理解が容易」、「大統領の就任演説としては格調に著しく欠けますが、英語の教材にはなりそうです」などと辛らつなコメントを加えている。

 森銑三『思い出すことども』(中公文庫)を読み終える。1972年に完結した『森銑三著作集』の「月報」に連載した「思ひ出すことども」を改めて本にまとめて1975年に出版したものを、1990年に文庫本にしたものである。森銑三(1895-1985)は近世の学者・文人の伝記を多く執筆した人で、本の探し方、読み方など、参考になる記事が多い。なお、この書物の中に何度も出てくる井上通泰は医師で歌人でもあった人で、柳田国男の次兄である。(柳田のことも出てくるが、柳田の『故郷七十年』には森のことは出てこない。両者の興味関心の違いがこんなところにも出ている。)

1月28日
 斎藤兆史『英語襲来と日本人 今なお続く苦悶と狂乱』(中公文庫)を読み終える。この本については、機会を改めて取り上げるつもりである。

 NHKラジオ「攻略!英語リスニング」では”Primo Levi"を話題として取り上げた。
He was an Italian Jew, born in Turin, and graduated from the University of Turin in chemistry. (彼はイタリア系ユダヤ人で、トリノに生まれ、トリノ大学で化学を修めた。)
ムッソリーニのファシスト政権が反ユダヤ的な政策をとり、彼の家族が迫害されるようになって、1940年代初めに反ファシストグループに加わったが、逮捕され、結局はポーランドにあるアウシュビッツ強制収容所に送られてしまう。1945年1月にソ連軍がアウシュビッツを解放して、自由の身になったのだが、彼とともに12両の貨車に詰め込まれて送られてきた650人のうち、生還したのはわずか3人であったという。
 その後、彼は自分の体験を書き記すようになる。but it really is his autobiographiccal work that stands the test of time -- a testament to the human spirit in the most horrific of situations (しかし、時の試練に打ち勝って後世に残っているのは彼の自伝的な作品である――きわめて恐ろしい状況に置かれた人間の精神の証として。) 

呉座勇一『応仁の乱』(7)

1月27日(金)晴れ

 応仁の乱は応仁元年(1467)から文明9年(1477)まで11年にわたって繰り広げられた大乱であり、当初は京都のみが戦場であったが、やがて戦火は地方に拡大し、全国各地で合戦が行われた。大規模で長期にわたる戦乱であったが、大名たちがなんのために戦ったのかがどうもわかりにくい。原因も結果も今ひとつはっきりしないが、この戦乱をきっかけに戦国時代が始まるなど、影響は極めて大きい。
 この書物は興福寺の大乗院の院主であった経覚の日記『経覚私要抄』と、その後継者である尋尊の『大乗院寺社雑事記』の2つの日記を史料として、少し離れたところから戦乱の経過と、その中での人々の暮らしの実態を探ろうとしている。興福寺と大和に目を付けたのは、応仁の乱の原因の一つが室町幕府の管領となることができる3つの家柄の1つである畠山氏の内紛、政長と義就の対立であるが、その畠山氏が大和に隣接する河内の守護として、大和に大きくかかわり、また大和の武士たちがこの内紛に巻き込まれ、さらにそれが応仁の乱とも結びついていくからであろうと思われる。
 文正元年(1466)12月26日に軍勢を率いて上洛した畠山義就は山名宗全とその娘婿の斯波義廉の支持を受け、室町幕府の管領職についていた畠山政長を攻略しようとした。政長を支援したのは細川勝元、京極持清であった。将軍義政は、当初政長を支持していたが、義就の方が軍事的に優勢だと見極めると一転して、義就を支持、政長を管領職から解任して斯波義廉を管領とし、政長のいた畠山氏の屋敷を義就に譲るように命じた。これに対し、政長は帰国せずに将軍御所の東側の上御霊社に陣を張って義就に対抗しようとした。結局、山名宗全の支援を受けた義就側が政長側を破り、政長は逃亡、山名宗全が政権を握った。
 この戦乱(御霊合戦)で将軍の命に従って中立を守ったために政長を見殺しにした細川勝元は巻き返しを図り、応仁元年5月の末に京都の各所で戦闘が始まる。
 足利義政は中立を守り、停戦を実現しようとしたが、勝元軍に将軍御所を包囲され、弟である義視に押し切られた形で山名宗全討伐を命じることになる。

 両軍の構成は将軍御所周辺に陣を展開した細川方が
細川勝元(摂津・丹波・讃岐・土佐守護)、細川成之(三河・阿波)、細川成春(淡路)、細川勝久(備中)、細川常有・持久(和泉両守護)、畠山政長(河内・紀伊・越中)、京極持清(北近江・飛騨・出雲・隠岐)、武田信賢(若狭・安芸分郡)、赤松政則(加賀北半国)、山名是豊(備後)、斯波義敏である。勝元が細川一門と盟友の政長・持清、そして反山名派を糾合して成立した軍で、東軍と呼ばれる。山名是豊は父である宗全と不仲だったので、6月に西軍から東軍に寝返った。
 山名方は堀川を挟んで一条大宮付近に陣を構えた。現在の京都市上京区の一条通以北の地域を西陣というのは、このことに由来する(誰でも知っていることではないかと思う)。この軍に加わったのは:
山名宗全(但馬・播磨・安芸守護)、山名教之(伯耆・備前)、山名政清(美作・石見)、山名豊氏(因幡)、斯波義廉(越前・尾張・遠江)、畠山義就(山城)、畠山義統(能登)、一色義直(伊勢・丹後)、土岐成頼(美濃)、六角行高(近江)、富樫政親(加賀)であり、大内政弘(周防・長門・豊前・筑前)が後から加わる。西軍の主力は山名一族と斯波義廉、畠山義就である。ただし、山名と畠山義就の関係は必ずしも密接なものではなかった。

 軍記物語である『応仁記』には東軍が16万騎、西軍11万騎とそれぞれの軍勢を記しているが、多少割引をして考える必要がある。しかもこれはあくまで総動員兵力であり、西軍の方は1,2万といったところではないか。また西軍は軍勢の招集に後れを取り、京都で苦戦を強いられたようである。

 幕府軍の地位を得た東軍は応仁元年(1467)6月6日、作戦を協議し、8日に足利義視を総大将として西軍に総攻撃をかけることが決定した。しかし山名是豊など、西軍の中から降伏を申し入れるものが現われたため、総攻撃は中止された。戦乱の拡大を止めようとする義政は西軍諸将に御内書を送り、降伏を勧告した。同日(8日)、一乗大宮で西軍の山名教之と東軍の赤松政則が戦い、東軍が勝利した。総大将の義視が自ら首実験を行った。「戦乱の拡大を抑止しようとする義政と、戦功を立てようと張り切る義視。大乱に対する兄弟の姿勢は対照的である。」(96-97ページ)

 翌9日、土岐成頼・六角高頼・富樫政親の3人が東軍の細川成之を通じて降伏を申し入れてきた。義政は彼らの真意を疑い、彼らが宗全や義就に攻めかかるまでは対面しないと返答した。さらに斯波義廉も東軍に降参しようとしたが、義政は斯波の重臣である朝倉孝景の首を差し出さなければ赦さないと返答した。これは義政の本意ではなく、義視や勝元らの意見に押されたのであろうと著者は推測している。勝元は宗全とともに斯波義廉にも打撃を与えようと思っているし、義視も戦功をあげたいと考えている。こうして終戦の道を閉ざされた。

 将軍御所を掌握した足利義氏は、山名方に通じる人物を御所から追放、さらには処刑し、そのことが我が子義尚を次の将軍にと望む日野富子の反発を招き、御所の中で孤立し、自邸(今出川殿)に戻ることになる。

 東軍は兵力の面でも大義名分の面でも西軍に勝っていたが、畠山義就・朝倉孝景ら西軍諸将の徹底抗戦にてこずり、決定的な勝利を収めることができなかった。ぐずぐずしているうちに、西軍は兵力を増強していった。応仁元年(1467)6月28日、安芸・石見・備前・但馬・備後・播磨の6か国の軍勢が丹波を経由して京都に入った。この軍勢が8万人というのは多すぎると『経覚私要抄』には記されているという。それでも万余の軍勢が入京したことは間違いないようである。しかし、西軍にとって何よりも大きかったのは、中国地方の大大名である大内政弘の入京である。
 大内は5月10日に本拠地を出発しているので、細川の挙兵というよりも、正月のクーデターによって樹立された山名宗全の政府を維持強化するために上洛を促されていてのことと推測される。おそらく京都の情勢を見極めるために、大内は海陸に分けて軍勢をゆっくりと進軍させ、先発部隊が7月19日に播磨室津(現在の兵庫県たつの市)に到着した。兵船は500艘という。翌20日には大内政弘本人が兵庫に到着した。政弘は周防・長門・豊前・筑前・筑後・安芸・石見・伊予8か国の武士を従えており、その数は数万人と噂された。

 東軍は大内軍到着の前に斯波義廉邸を攻略しようと、連日激しい攻撃を加えた。だが、攻め落とすことはできなかった。大内政弘は8月3日に兵庫を発ち、陸路での上洛を目指す。細川勝元は大内軍の上洛を阻もうとしたが、摂津の池田氏が寝返ったために失敗に終わった。
 大内政弘は8月23日に3万の大軍を引き連れて上洛し、京都の南の玄関口にあたる東寺に陣を取った。20日に大内軍接近を知った東軍は義廉邸の囲みを解き、23日には御花園上皇・後土御門天皇を将軍御所に移した。西軍に上皇・天皇を奪われないための措置である。(『太平記』『増鏡』に記されている、六波羅探題の邸に天皇・上皇と皇族方を移したという話を思い出す。)
 大内軍入京を知った足利義政の近習たちの中から西軍に内通しようとするものが現われた。このため、勝元は将軍御所を包囲、義政はこの連中を御所から追放し、彼らは糺河原で細川勢に襲われ、3・4人が討たれ、残りは逃亡した。また23日の夜、足利義視が伊勢の国に出奔した。

 大内軍の入京で東軍と西軍の力関係がまた変化し、援軍到着の勢いに乗って西軍の反撃が始まろうとしている。大内軍が西軍の勝利の切り札となるかどうかは、また次回に。

ダンテ・アリギエリ『神曲 天国篇』(11-2)

 1月26日(木)晴れ

 ダンテはベアトリーチェに導かれて、地上楽園から天上の世界に飛び立ち、月天で<誓願を果たさなかった人々>の魂に迎えられ、続いて水星天で<地上での栄光を追い求めた人々>の魂に出会う。さらに金星天では<人と人を結びつける愛>に生きた人々の魂が彼を待っていた。これらの魂は至高天で神とともにいるのだが、そこでの神からの距離を示すために、ダンテに会いにやってきていたのである。さらにダンテは太陽天に達し、そこで<神学者・哲学者>の魂に出会う。ダンテを迎えたトマス・アクィナスの魂は、教会が神の意志に沿ってあるべき姿になるよう、フランチェスコ(フランシスコ)とドメニコの2人の修道会の創始者を地上に送ったと語る。そして聖フランチェスコの生涯を語り始める。

 トマスはフランチェスコが清貧を愛したことをたたえ、その生き方が多くの人々を引き付け、信仰の道を歩ませたと語る。
むしろ彼は王者のように自らの厳格な信念を
教皇インノケンティウスに明らかにし、教皇から
その修道会に対する最初の認可の印を受け取った。
(174ページ) 教皇インノケンティウスⅢ世(1160-1216)は教皇権力の絶頂を極めたとされるが、彼の時代はアルビジョワ派など異端が広がった時代であった。1210年に、彼は小さな兄弟会、つまりフランシスコ会を口頭で認可する。このあたりの経緯は、中公新書に入っていた堀米庸三の名著『正統と異端』に詳しい。

 フランシスコ会はその勢力を増し、そのために清貧を守らない会員が増えたために、改めて聖フランチェスコの生き方に学ぶことが強調されるようになり、教皇ホノリウスⅢ世(在位1216-27)はドメニコ会を認可、さらにフランシスコ会への認可を更新する一方で、アルビジョワ十字軍を支援して異端を一掃しようとした。
 聖フランチェスコはというと、エジプトのアイユーブ朝のスルターンであったカーミル(1170-1238)の改宗を試みるが失敗し、イタリアに戻って大きな成果を上げ、1224年には、受難を願って、燭天使の姿をしたキリストから聖痕を受けたといわれる。これはキリストが彼に与えた正しい信仰の証であった。
 そしてその死に臨んで
彼は、正しい相続人として自らの兄弟に
最も大切な貴婦人を託し、
彼女を忠実に愛するよう命じた。
(176ページ) 聖者は「相続人」であるフランシスコ会士たちに、彼の「貴婦人」清貧の徳を大切にし、愛するように命じたのである。
 
 さらに自らがドメニコ会士であったトマスの霊は、聖ドメニコについても語り、ドメニコ会の腐敗堕落を嘆く。
しかし彼の羊の群れは珍奇な食べ物を求めて
貪欲になりはて、それゆえ不可避的に
遠く離れた牧草地へと散らばった。

そして彼の羊達が遠くさまよって
彼から離れていくほど、
乳が出なくなって小屋に帰る。
(178ページ) ドメニコ会士たちは「珍奇な食べ物」=地上の富や金銭に拘泥し、神学から「遠く離れた」分野の教会法を学ぶようになった。人々に与えるべきドメニコ会士たちの「乳」とは、神学によって得られる精神の富のことである。トマスが「虚しく迷わねば人が善を富ませる場所」といった中の、「虚しく迷わねば」という言葉の意味についてダンテは疑問をもったのだが、地上の富を追い求めることが「虚しく迷」っていることであるとトマスは説明したのである。

 ドメニコ会士であったトマスがフランシスコ会の創始者について語る11歌が終わり、次に12歌ではフランシスコ会士の霊がドメニコ会の創始者について語ることになる。修道会は、キリスト教の内部における一種の革新運動であったのだが、都市と商工業の発展に伴って法律の必要性も増し、修道士たちが世俗的な事柄にかかわる機会も多くなってくると変容を余儀なくされる。変化をやむなしとする人もいたが、それを批判する人々もいた。一方で都市の金融業を営む市民の出身であり、他方で教会と修道会が信仰に立ち返り、清貧の徳を取り戻すことを望むダンテは、自分の中に対立する2つの要素を抱え込んだ矛盾に満ちた存在である。ここでは信仰を重視する保守的なダンテが勝っているように思うが、彼には別の一面もあったことを忘れてはなるまい。

 翻訳者である原さんは、聖フランチェスコ、フランチェスコ会とイタリア語読みによる表記を徹底されているが、修道会自身はフランシスコ会と称しているので、表記に迷うところである。むかし、アイルランドのコークの郊外を歩いていたところ、立派な礼拝堂があり、その前に中世から抜け出してきたような焦げ茶色のフランシスコ会の修道服の修道士が立っていて、けばけばしい身なりの若い女性に、お前近ごろ礼拝に来ないが駄目じゃないかというようなことを言っているのを見て、こちらは別に信仰はないのだが、ひどく感動したのを思い出す。その後、ダブリンの同じくフランシスコ会の礼拝堂で居合わせた信者の男性からこれを持っていると絶対に安全だからとお守りを渡された(今でもそのお守りは持っている)のと並んで、フランシスコ会についての忘れがたい思い出である。日本にもフランシスコ会系の学校がかなりの数あるので、どこがそうだか、関心のある方は調べてみてください。

柳田国男とニコライ・ネフスキー

1月25日(水)晴れ

 柳田国男『故郷七十年』の中に、柳田と交流のあった外国人についての思い出が記されている箇所があるが、その中で最も多くの紙幅を割いて、「日本の学問のためにいろいろ尽くしてくれたから、どうしてもここに追憶してやりたい」(304ページ)とまで評されているのが大正時代に帝政ロシアから留学生として来日し、一方で柳田や折口信夫と交流し、他方で日本各地さらには中国にまで足を延ばしてフィールド研究を進めたニコライ・ネフスキーである。1917年にロシアで革命が起きたのち、本国からの送金が途絶えて生活苦に陥ったが、小樽高商(現在の小樽商大)、その後大阪外語専門学校の教師となり、大正12年(1923)年ごろには京都大学の講師も兼任した。この時に彼の授業を聴講していたのが、後に東京大学で文化人類学の教授となる石田英一郎である。

 石田は旧制一高卒業後、京都大学経済学部に進学(経済学部の教授だった河上肇に憧れての進学であったが、この時代、東京の旧制一高から京都大学に進学するというのはかなり例外的なことであった。もっと早い時期に同じように、一高から京大に進んだ一人が後の首相近衛文麿であるが、近衛が京大で学んだ頃の河上はマルクス主義者にはなっていなかった)、その間、一高ではセツルメント活動に従事、京都大学では社会科学研究で活動するなど、マルクス主義(福本イズム)の思想的な影響を受けただけでなく、中国にわたって若き日の劉少奇とも交流したりした。活発に活動していた彼であるが、後に「その当時の私は、思想上の悩みにからんださまざまの幻滅や束縛の中で悶々の日を送っていた」(『桃太郎の母――ある文化史的研究――』「あとがき」、287ページ)と回想しているのは、彼がマルクス主義の思想と、社会主義的な運動から離れてから後の回想であるとはいえ、注目してよいことである。そしてそのような中で、「ただ一つ、…京大文学部のロシア語の講義だけが、私にとってはなにか憩いのオアシスのような親しみと魅力とをもちはじめたのである」(同上)と書いている。石田青年をとらえたのは、その授業を担当しているニコライ・ネフスキーという「若い学者の人柄と学識」(同上)であった。

 「生粋の大ロシア人だった先生の口をついて流れ出る、完全な日本語にこなされた数々の話題は、当時の私にとってはことごとく新鮮で香り高いものであった。初歩の文法的な手ほどきもそこそこに、私たちにはすぐゴーゴリやチェホフの短編があたえられた。「トゥルゲネフは古いですよ。いま読むと文章も古いし、思想も古い。そこへ行くとゴーゴリは、いつまでたっても新しいんです」」(『桃太郎の母』、287-288ページ)

 明治以来、日本の読者に親しまれてきたツルゲーネフを「古い」と言い切り、ゴーゴリを「いつまでたっても新しい」という文学観は、かなり風変わりなものではないかと思う。しかし、本物のロシア人、ロシアの学校と大学で学んで、ロシア的な教養を身に着けた教師の発言ということで、石田は比較的素直にネフスキーの意見を受け入れたのであろう。とはいうものの、ネフスキーは文学者ではないし、ソヴィエトにおける文学界の動向や、亡命ロシア人たちの文学的な動きのどちらからも距離を置いて文学に接していたはずであるから、その文学観には主観的な要素が強く紛れ込んでいたと考えた方がいいと思う。そして、彼がロシア革命後に花開いたさまざまな文学理論とも、例えばナボコフに見られる亡命ロシア人たちの文学創造とも無縁で、どちらの立場を取ろうともしなかったことは、日本におけるロシア文学研究にとってというよりも、彼自身にとって不幸な結果をもたらしたように思われる。

 石田は、さらに続けて、次のように書いている:「私は十一月革命前から日本に留学に来ていたというこのロシアの学者が、どういう思想的な立場にあるのかも知らなかったし、ネフさん――私たちは彼をそうした愛称で呼んでいた――をめぐる集まりでは、政治的な話題など、一度も出たこともなければ出したこともない。」(289ページ) ところが、1925年に石田は北京でばったりネフスキーに出会う。石田は政治的な目的で中国にわたっていたのだが、ネフスキーは言語研究のために中国を訪問していたのであった。その後、石田は学生運動に対する弾圧の結果として逮捕され、大学も退学するが、ロシア語の勉強を続けたくて、ネフスキーのもとを訪問する。どんな反応を示されるか多少の不安をもって出かけた石田をネフスキーは温かく迎える。
「日本もバカなことをしますねえ。なんてバカな話でしょう。こんなことをしていると今にロシアみたいになりますよ。私たちペテルブルク大学にいた頃ったら、まるで憲兵に護送されながら学校に通ったようなもんでしたからねえ。」(291ページ)

 「その後幾星霜、長い空白を隔てた後、私は初めて、学生時代にネフスキー先生から興味を呼び起こされた文化人類学的な研究に手を染めるようになった」(291ページ)と、石田は書いている。彼から柳田や折口の名を聞いていた石田は、その後、ウィーン大学に留学して「民族学」を研究し、戦後、民族学→文化人類学者として活躍する。石田は彼の研究をネフスキーに知らせようと思っていたのだが、彼がウィーンに留学した1937年ごろに、それ以前にソヴィエト・ロシアに期待を寄せて帰国していたネフスキーはスパイの容疑を受けて、処刑されていたのである。

 柳田の『故郷七十年』で回想されているもう1人のロシア人エリセーエフ(柳田は「エリセーフ」と書いている)は、ロシア革命後フランス、その後アメリカにわたり、とくにアメリカでは多くの日本研究者を育てた。転変はあるものの、実りのある人生を送ったのに対し、ネフスキーの人生は、少なくともその結末を見れば、悲惨極まりない。しかし、研究者としてみた場合には、ネフスキーの業績は決して小さいものではないのである。柳田は、彼の功績として、「オシラサマ」の研究、西夏文字の研究をはじめとする東アジア諸言語の研究、沖縄の言語の研究をあげている。西夏文字の研究は西田龍雄による解読がなされて、影が薄くなったかもしれないが、その他の研究は資料的な価値だけでも極めて大きなものではないかと思う。

 とはいえ、既に書いたことだが、ネフスキーが同時代のロシア人たちの思想的な動きに今一つ関心を寄せなかったように思われるのは残念なことである。ロシア革命直後のソヴィエトにおける学術研究の新しい動き、その中でもフォークロアの研究に新しい視角をもたらしたヴラディミール・プロップの研究などは、ネフスキーの視野に入っていなかったように思われるし、プロップがその研究の素材として用いたアファナシェフの民話集についても、石田の回想中には言及がなされていない。もし柳田がこの動きを知っていたら、どんな反応を示したかを想像してみるだけでも楽しい。

 もう一つ気になっているのは、鶴見太郎さんの著書『柳田国男とその弟子たち』を詳しく読めばわかることかもしれないが、戦前のマルクス主義の運動に参加した人々の中で、運動の退潮後、柳田国男と民俗学の研究に接近したのは、福本和夫とその影響を強く受けた人々(福本自身と石田を含む)であるということで、どうしてそうなったのかは、これから考えていきたいと思っている。 

貸間あり

1月24日(火)晴れ

 1月21日にシネマヴェーラ渋谷で「名脇役列伝Ⅰ 浪花千栄子でございます」の特集上映から、『江戸の悪太郎』(1959、東映、マキノ雅弘監督)と『貸間あり』(1959、宝塚映画、川島雄三監督)の2本を見たことについては、1月21日付の当ブログ「日記抄(1月15日~21日)」でも触れた。『貸間あり』は井伏鱒二の原作小説を川島と藤本義一が脚色し、川島が監督した作品で、私は井伏も川島も好き、さらにこの映画には浪花千栄子はもちろんであるが、フランキー堺、淡島千景、乙羽信子、清川虹子、桂小金治、山茶花究、藤木悠、小沢昭一、益田喜頓と主役、脇役として戦後の日本映画を彩ってきた俳優たちが出演しているから、やはりここで取り上げておくべきだと思った次第である。明日(1月25日)には小津安二郎の『小早川家の秋』と二本立てで上映されるので、まだご覧になっていない方は是非ご覧ください。私ももう一度見てみたいと思うのだが、ちょうど薬が切れて医者に行かなければならないのでどうなるか…。

 この映画を原作者である井伏は「どぎつく、汚い」と評し、気に入らなかったようであるが、そういうどぎつさ、汚さが大阪という町の一面であることは否定できない。
 映画は道頓堀の近くで若い男が怪しげな本を売りさばこうとしていて、このあたりを縄張りにする暴力団の連中から文句をつけられ、逃げ出す場面から始まる。逃げ込んだ先が、天牛という有名な古本屋である(現在は移転して、関西大学の近くに店を構えている)。そこに、頭を使う仕事なら何でも引き受けるというチラシが貼ってある。それを見た浪人生らしい男が、逃げてきた男に話しかける。何でも屋に予備校の模擬試験の代理受験を頼もうというのである。逃げてきた男は、この何でも屋と同じ場所に住んでいるという。

 通天閣が見える夕陽ケ丘の一角に建っている古い屋敷が、どういう理由からか大勢の間借り人を置いている。家主はご隠居と呼ばれている老人、賄のおばさんの食事を食べる間借り人がいるかと思えば、自炊している間借り人もいる。おでんのネタの卸だの、洋酒の密売だの、養蜂など間借り人の仕事は多様である。中でも目立つのは3人の男性の愛人を掛け持ちして、稼いでいる女性である。そうかと思えば、二階の広い部屋を使って、無線だの望遠鏡だのを備え付けて、原稿の代筆や怪しげな著述に精を出している男=何でも屋の与田五郎もいる。そこへ、陶芸家だという若い女性がパンフレットの原稿を書いてほしいとやってくる。そしてそのまま、間借り人に加わってしまう。天牛でビラを見てやってきた浪人生も五郎に弟子入りを志願し、部屋を借りようとしたのだが、先を越される。

 初めの部分だけの要約だけでも、登場人物が多く、その言動にまとまりがなく、あまりにも雑然としていることに呆然とさせられる。浪花千栄子といえば、藤沢恒夫・橘高薫風『川柳に見る大阪』という本にこんな句が紹介されている。
 法善寺浪花千栄子に似た女将(おかみ) かず子
 法善寺について、著者はこんな風に説明する:「法善寺界隈は、昔は今よりもっとごちゃごちゃした町だった。芝居裏と呼ばれた色町にも近く、行き交う男女の影にいささかの翳(かげり)があった。」(藤沢・橘高、102ページ) さらに上記を含む川柳を紹介したうえで、「これら一連の句は、ごちゃごちゃした中にも、何処か艶な雰囲気のある横丁を想像させる。」(同上)と続けている。
 この本に収められている川柳の特徴はやたら固有名詞が多いことで、法善寺も浪花千栄子も知らなければわからないというような句がほかにもある。天牛という古本屋が出てきたが
 天牛で咳してたのが作之助 岩井三窓
 天牛の棚を見上げた鍋井克 西尾 栞
(26ページ)という句もある。作之助は織田作之助、鍋井克は画家の鍋井克之のことである。こちらも、描かれている場所と人物についての予備知識がないと、雰囲気が味わえない。大阪は広いようで狭い町、川柳はその中でも狭いサークルで楽しまれていたということの反映であろうか。固有名詞にたよっている分、どんどん古くなっていく代わりに、百科事典の見出しのようにしぶとく生き延びていくようにも思われる。

 そういう大阪の市街地を見下ろしながら、住人たちがドタバタ喜劇を展開させていく。物語が複雑すぎて、その分、個々の登場人物の個人技が目立つことになる。何でも屋が浪人生から頼まれる代理受験が、だんだんスケールの大きい話になっていく(見てのお楽しみ)。三人の愛人を掛け持ちしている女性は、故郷に帰って結婚することになり、送別会が開かれる。送別の辞を執筆した何でも屋が風邪をひいて声が出ないという理由で、おでんのネタ卸が代読することになる。ここで「サヨナラだけが人生だ」という井伏の『厄除け詩集』の中の詩が読まれる。・・・

 井伏鱒二の小説は、かなりの数が映画化されているが、それぞれ出演者(森繫やフランキー)、脚本家や監督(渋谷実、川島…)の個性が前面に出てしまい、相当に原作から逸脱した出来栄えになっているように思われる。先日見た、『簪』は井伏原作というのがうなずける出来栄えであったが、これはおそらく清水宏と井伏の個性が近いからではないかと思う(そう断言できるほど、清水の作品を見ているわけではないが、弱い者に対するリアルだが温かい気持ちと視線というのは共通しているように思うのである)。

 既に書いたことだが、旧制中学の同期生である小沢昭一とフランキー堺が、代理受験を頼む予備校生と頼まれる何でも屋を演じており、楽屋裏を知っていると余計に面白いが、受験会場でフランキー堺が取材に来ていた記者から何度目の受験ですかと質問されたり、さらに教室でタバコを吸ったりする場面はそのままでもおかしい。そういえば、小沢昭一はこの2年後に中平康の『あいつと私』でも大学生を演じていたなと思い出す(早稲田出身の小沢が慶応の応援団に交じっているところがおかしかった)。宝塚で一緒だった乙羽信子と淡島千景についても同じような面白さが付きまとっている。

 そういうわけでシチュエーションの設定あり、ドタバタあり、楽屋落ちあり、雑多な笑いを詰め込んで、それぞれの出演者の個人技の寄せ集めというような体裁で雑然と進行する作品なのだが、「貸間あり」の下げ札にこだわっているおでんのネタ卸の桂小金治が何とか下げ札をくくりつけることに成功する幕切れが何とも投げやりなのが気になる。

グラフトン・ストリート

1月23日(月)晴れ、寒冷

グラフトン・ストリート

今日、グラフトン・ストリートでばったり彼女と出会う。人ごみのせいで出会ってしまったのだ。二人とも立ち止る。彼女は、なぜ来てくれないのかと尋ね、ぼくについていろんな噂を聞いたと言う。詩を書いているかと訊かれる。誰についての? とぼくは言った。これで彼女はますますあわて、ぼくは気の毒なことをしたと思った。(ジョイス『若い芸術家の肖像』)

京都の河原町通は、
グラフトン・ストリートに比べて
ずっと広くて長いのだけれど、
ジョイスの小説を読んでいると、
河原町通を上っていた時に
詩を書いている仲間で
恋愛以前の「彼女」に出会ったことを
なぜか思い出す
彼女の白い顔と
長い髪と
いたずらっぽい目を 

彼女が通っていた看護学校の
学園祭に来いといわれ、
女性が大勢いるという言葉尻をとらえて、
人類の半数は女性だと切り返したら、
その中で私という女性は一人しかいないと
言われた

完敗であった
負けを認めるのが嫌で
恋愛以前を
恋愛に切り替えようという
意思表示を見落としてしまったのかもしれない

それから、お互いに年をとったはずで
思い出も同じように年をとってしまった
彼女が詩を書き続けているかどうかは知らない
書き続けていても、私のところに
届かなければ意味はないと、勝手に決めつけている
その逆に こちらの書いている詩が
彼女の心に届かなければ
またもや完敗ということになる…

『太平記』(142)

1月22日(日)晴れ、比較的温暖。

 後醍醐天皇を迎え入れた延暦寺に対抗するため、足利方は、戒壇の造営を約束して三井寺を味方につけた。建武3年(1336)正月13日、北畠顕家率いる奥州・関東勢が比叡山の宮方に合流した。三井寺に攻め寄せた宮方は、細川定禅の軍勢を追い落として伽藍に火をかけた。16日、新田義貞軍が京へ攻め入ろうとした。兵力において劣る新田軍は、味方の軍勢の一部を足利方に紛れ込ませておいて、三方から京へ攻め寄せた。

 義貞の計略に気付かぬまま、足利尊氏は高師泰に将軍塚の上から都を窺っている宮方の兵を追い散らすように命じた。この方面には義貞の弟である脇屋義助、新田一族の堀口貞満、大館氏明、結城宗広らの武将が3,000余騎を率いて向かっていたのであるが、敵の襲来を知って、この軍勢の中から、弓を射るのに優れている武士たち600人を選び出し、馬からおろして、山の木を立の代わりにして、その陰から次々に矢をつがえて、どんどん放たせた。師泰の率いる武蔵・相模の武士たちは、ただでさえ山の斜面を登るのがつらくて苦労しているのに加え、上の方から射てくる矢に鎧を通されたり、馬を射られて倒されたりしたので、なかなか進むことができない。こうして、足利方が進むのをためらっている様子を見て、得たり賢し(してやったり)と、宮方の武士たちは一斉に刀を抜いて一気に攻め寄せたので、師泰の軍勢はそれを防ぐことができず、五条河原へと退却した。この戦闘で、足利方の有力な武士である杉原判官と曽我次郎左衛門が戦死した。

 そのまま京都の市中まで深追いをすると、宮方の武士たちが小勢であることが分かって、不利になるので、宮方の兵は山を下らずに東山にとどまって、その数を見せない。搦め手から戦闘が始まると、大手がそれに合わせて鬨の声をあげて、数的劣勢を隠そうとし続けた。『太平記』の作者は「官軍2万余騎と将軍の80万騎と、入れ替へ入れ替へ、天地を響かしてぞ戦うたる」(第二分冊、457ページ)と記しているが、宮方の方の2万騎はあるいは正しいかもしれないが、足利方の80万騎は多すぎる。「漢楚の八ヶ年の戦ひを一時に集め、呉越三十度の軍を百倍になすとも、なほこれには及ぶべからず。」(同上、漢の劉邦とその項羽が8か年にわたって戦った際の両軍の軍勢を全部一時に集め、呉王夫差と越王句践が30度戦った際の両軍の兵を百倍にしても、これには及ばないだろう)というのも大げさな表現である。

 攻め寄せている新田勢は兵力においては劣るが、一致団結していて、攻め寄せるときは一度にさっと攻め寄せ、敵を攻撃し、退却する時は負傷者を中心に置いて、静かに退却する。一方守る法の足利方は、兵力は多いが、全体としての協調がなく、攻撃する時はバラバラで、思いもい勝手に戦っているので、正午ごろから午後7時ごろまでの65度の戦闘に、寄せ手の官軍がすべて勝利を収めたのであった。

 そうはいっても、足利方は負けてもその兵力が減ることなく、逃げても戦場から離脱するところまではいかず、当てもなく市中にとどまっていたところに、義貞の計略で敵に紛れ込んでいた50人単位の武士たちが、尊氏の前後左右に新田家の紋所である中黒の端を差し上げて、かく乱のための戦闘を始めた。こうなるとどちらが敵、どちらが味方であるかわからない。混乱に陥った足利軍はあちこちにわめき叫んで、同士討ちをはじめてしまう。尊氏をはじめ、吉良、石塔、高、上杉の武将たちは味方の武士たちが敵と一緒になって、後ろから矢を射かけてくるような混乱に陥ったと自覚したので、お互いに心を許さず用心しあって、高、上杉の軍勢は山崎(京都府乙訓郡大山崎町)に向かって退却し、尊氏をはじめ、吉良、石塔、仁木、細川の人々は丹波路へと退却したのであった。

 宮方の軍はいよいよ勝ち戦の勢いに乗って、短兵急に攻め寄せていく。尊氏は、もはやこれまでと思ったのか、梅津(京都市右京区梅津)、桂川のあたりでは、鎧の草摺りを畳みあげて、腹を切ろうと腰の刀を抜くことが3度もあったが、運が強かったのであろうか、日が暮れて、追っては桂川のあたりから引き返したので、尊氏も、その率いている軍勢も、しばらく松尾(西京区松尾)、葉室(西京区山田は室町)に落ち着いて、休養を取ったのであった。

 さて、三井寺の攻防ではいいところを見せられなかった足利方の細川定禅は、自らが率いてきた四国の兵たちに向かって、次のように述べた。戦の勝負は時の運によることなので、負けたのは恥にはならないが、今日の敗戦は三井寺の合戦から始まったので、そこでの敗戦は当事者であったわれわれの失敗であり、非難を受けてもしかたのないところである。そこで、ここでは他の軍勢の助けを借りず、一花咲かせて、天下の非難を封じたいと思う。
 私が推測するところでは、新田の軍勢は終日の合戦にくたびれて、臨機応変に敵に対応できない状態になっているだろう。そのほかの敵兵たちは、都の人々の財宝に目をつけて、略奪に夢中になり、ばらばらになっているだろう。そのうえ、我々の味方である赤松貞範が、小勢しか引き連れぬまま下り松(京都市左京区一乗寺下り松町)で敵軍の中に孤立している。彼をむざむざと戦死させるのも悔しい限りである。そこで、蓮台野(北区にある船岡山の西の野原)から北白川に回って、赤松の軍勢と合流し、新田の軍勢に一泡吹かせてやろうではないかと提案すると、彼に従っていた讃岐の藤原氏(詫間・香西など)、橘氏(寒川・三木など)、大伴氏の武士たちは、賛同した。

 定禅は大いに喜んで、300余騎の兵を引き連れて、北野天満宮の北の一帯を過ぎて、上賀茂を経て、ひそかに北白川へと回った。糺の森のあたりで、300余騎を十峰に分けて、下り松、藪里、静原、松ケ崎、中賀茂の30か所以上に火をかけて、そこからすぐに立ち去り、一乗、二条の間で、三か所で鬨の声をあげた。定禅が推測していたように、新田方の軍勢は京都市内と、鴨川の以東に分散していて、一か所に集まっている兵は少なかったので、義貞と義助はふりを悟り、坂本を目指して引き返そうとするところに、統率が取れないままに退却を始めたので、北白川、粟田口辺で新田義貞の執事である船田義昌、大館左近蔵人、由良三郎左衛門、高田七郎左衛門以下数百騎が戦死してしまった。定禅は尊氏にこの戦果を知らせ、その知らせを受けて、山陽道・山陰道に退却をはじめていた足利方の軍勢がまた京都に戻ってきた。

 『太平記』の作者は義貞が兵力において劣勢であったにもかかわらず、その知略で足利軍を破り、敗走し始めた足利軍の中で細川定禅が反撃の謀を成功させてことをともに賞賛している。どちらも少数の兵力で、多数の軍勢を追い散らしたという点で共通するというわけである。足利方の軍勢は京都市内に戻ったが、依然として足並みがそろわないという弱点は克服されていないし、今回の戦闘には楠正成や名和長年、北畠顕家らは参戦しておらず、宮方の兵力はまだ残っている。いつでも東山方面から京都市内を窺うことのできる兵力を保持している限り、宮方は希望を持つことができるのである。とは言うものの、義貞の右腕であった船田義昌がここで戦死してしまったのは、宮方にとっては痛い損失であった。 

日記抄(1月15日~21日)

1月21日(土)晴れ

 1月15日から本日までの間に経験したこと、考えたことなど:
1月15日
 日本列島が寒波に覆われ、日本海側では雪に見舞われたところもある中で、センター試験が行われた。4月ではなく9月に新学年を始めることにすれば、この種の試験は6月ごろに実施されることになる。6月に台風が来ることも視野に入れる必要はあるだろうが、一考の価値はあると思う。
 とはいえ、私は大学教育の問題の中で、入試が極端に重視されて、ほかの問題があまり重視されないのはよくないことだと思っている。大学の中でどのような教育が行われているかにもっと関心を払い、その改善に努めることも大切ではないかと思う。

1月16日
 新聞に掲載された広告の見出しを見ただけであるが、政府寄りの『週刊ポスト』の1月27日号と、批判的な『週刊現代』の1月28日号とが、ともにトランプ氏のアメリカ大統領就任により株価が上がるという予測を立てている。『週刊東洋経済』1月16日号も「トランプ相場に乗れ!」と同じような見通しを述べているが、『週刊エコノミスト』1月24日号は「米国の衰退が始まる」との見通しを述べている。それぞれどの程度の期間を見通しての予測であろうか。『週刊ダイヤモンド』1月21日号が、「お受験・英才教育の真実」と全く我が道を行く編集をしているのも気になるところではある。

1月17日
 NHKラジオ「英会話タイムトライアル」で「日本からたくさん報道陣が来ています」に対応する英語として、
There's a lot of media from Japan.
という言い方が紹介され、There're...といってもいいと付け加えられていた。mediaというのは本来ラテン語の名詞mediumの複数形であるから、ラテン語を知っている人間の目で見ると、単数の言い方には抵抗がある。data, triviaなどの語についても同じことがいえる。

1月18日
 NHKラジオ「まいにちスペイン語」の時間で、スペインでは誕生日を迎えると、家族や友人から年の数だけ耳を引っ張られるという話を聞いた。これは若い人だけの話で、大人の世界ではやらないそうである。また、誕生日には、学校にキャンディーをもっていって配る→そのお返しにプレゼントをもらうということだそうである。なかなか大変だ。

 NHKラジオ「まいにちロシア語」の時間で、初めて人工衛星で地球の周りを回り、「地球は青かった」といったユーリ・ガガーリンの話題が取り上げられていた。私の学生時代に、京大の西部構内に普段は空いているが、全学自治会である同学会の選挙の時期になると選挙管理委員会、大学祭である十一月祭の時には実行委員会など、その時々の行事の際に使われている部屋があって、ガガーリン・ボックスと呼ばれていた。これはガガーリンが来日して、京大を訪問した際に、学生有志が歓迎のための準備に使ったことによるものである。ある年代の、その中でも一部の京大出身者しか、そんなことは記憶していないだろうと思う

1月19日
 NHKラジオ「まいにちフランス語」は”Café ou thé ? (1) Deux façons d'apprécier la vie"(コーヒー? お茶?(1) 人生を楽しむための2つの方法)は、Regardez-les bien, les gens qui boivent du café, et vous saurez tout d'eux. (コーヒーを飲む人たち、彼らをよく見てみれば、彼らのすべてがわかる。) Le café, ce n'est pas qu'une boisson, c'est un geste qui acccompagne chaque moment de la journée. (コーヒーは、飲み物であるだけではない。一日のいろいろな瞬間に伴われる動作だ。) といって、朝、昼、夜にコーヒー飲みがコーヒーとどのように付き合うかを描写している。
 
1月20日
 『日刊スポーツ』によると、日本サッカー協会はU-18日本代表監督に影山雅永さん、U-15日本代表監督に有馬賢二さんを選んだということである。横浜FCの初期のFWとして大活躍した有馬さんの今後の指導者としての活躍に大いに期待したい。また、U-15のGKコーチには、これも横浜FCの初期のGKとして活躍した水原大樹さんが就任した。こちらも活躍を期待したい。

 「NHKまいにちフランス語」の「コーヒー? お茶?」の2回目。今回はお茶の方を取り上げている。
Les buveurs de thé, eux, ont copris qu'il était important de prendre son temps. Ils aiment la vie. (お茶を飲む人たちは、ゆっくり時間をかけることの大切さをわかっている。人生を愛する人たちだ。)
 どちらかというと、フランス人はコーヒーを飲み、紅茶を愛するのは英国人だという印象を持っていたが、必ずしもそうではないことを今回の放送は教えてくれた。

 瀬川至朗『科学報道の真相――ジャーナリズムとマスメディア共同体』(ちくま新書)を読み終える。STAP細胞問題、福島第一原発事故、地球温暖化問題をめぐる報道の経緯と問題点を取り上げ、報道体制だけでなく、一般市民や政策にかかわる技術官僚が抱いている「『固い』科学観」にも問題があることを指摘して、今後の方向性を探っている。

1月21日
 NHKラジオ「攻略!英語リスニング」は”Bath"(風呂)を話題として取り上げた。
For most of human civilization, having a private bath would have been an unimaginable luxury.(人間の歴史のほとんどの時期、個人でお風呂を持っているなどということは、思いもよらないほどの贅沢だった。)
The Greeks had a tradition of bathing in public pools. They were often part of gymnasia, or gyms. (ギリシャ人は公共のプールで水浴びをする伝統があった。それらはしばしばギュムナシオンに併設されていた。) 「ギュムナシオン」というのは、古代ギリシャの公共の訓練(運動)施設で、英語で体育館のことをgymnasiumというのはここからきている。ギュムナシオンを利用して学校を開く例もあったようである。ラテン語のludusには<競技場>という意味と<学校>という意味とがあるのも同じような背景からであろう。

 シネマヴェーラ渋谷で「名脇役列伝Ⅰ浪花千栄子でございます」の特集上映から、マキノ雅弘監督の『江戸の悪太郎』(東映、1959)と川島雄三監督の『貸間あり』(宝塚映画、1959)を見る。
 『江戸の悪太郎』は貧乏長屋で寺子屋を開く浪人(大友柳太朗)が、長屋のある土地の乗っ取りを狙う旗本の悪だくみを叩き潰す。それに、親たちの進めてきた結婚話が嫌で、逃げ出してきた娘(大川恵子)が男と偽って、浪人のもとに身を寄せてくる。時代劇が盛んにつくられていた時代の作品で、長屋のセットなど大掛かりで見ごたえがある。長屋の住人で普段は渋ちんだが、情に篤い金貸しばあさんを演じている浪花千栄子の演技が光る。
 『貸間あり』を見るのは2度目。この作品については、また機会をみて詳しく論じるつもりであるが、予備校生の小沢昭一が何でも屋のフランキー堺に代理受験を頼む、この2人が旧制中学の同期生だったというのと、乙羽信子が淡島千景に女中奉公先のお嬢様になってくれと頼むが、この2人が同じ年の生まれで、宝塚では乙羽の方が先輩だというのと、知っていると余計に映画が面白くなる楽屋裏の話が2つある。それはそうと、乙羽も淡島もまだ若くてきれいだったな、と思った。そう思われてくる程度に、私も年をとり、映画鑑賞歴を重ねたということであろうか。すでに故人になったこの2人の女優とほぼ同年代の作家の佐藤愛子さんが「90歳、何がめでたい!」と叫んでいるようであるが(実際には93歳)、やっぱりめでたいのではないかと思う。

 お礼を申し述べるのが遅れてしまいましたが、このブログをはじめてから、皆様より頂いた拍手の数が21,000に達しました。ありがとうございます。今後ともよろしくご愛読・ご支援をお願いいたします。

呉座勇一『応仁の乱』(6)

1月20日(金)曇り、時々小雨

 応仁の乱は応仁元年(1467)から文明9年(1477)まで11年間にわたって繰り広げられた大乱である。1467年は今年から数えて550年前ということになる。呉座さんのこの著書は応仁の乱の経緯を奈良・興福寺の大乗院の院主であった経覚(1395-1473)の日記『経覚私要抄』と尋尊(1430-1508)の日記『大乗院寺社雑事記』を史料としてたどるものである。大和の国は、当時事実上興福寺の支配下にあったが、その中で大乗院と一乗院という摂関家と結びついた門跡が主導権を争い、興福寺に属する武装勢力である衆徒と、興福寺と関係の深い春日大社に属する国民とがこの戦いの実働部隊として力を伸ばし、さらに外部の武士たちと結びついて事態をより複雑なものとしていた。
 大和に隣接する河内の守護は畠山氏であったが、その家督をめぐって畠山政長と義就とが争い、大和の北部に勢力を持つ一乗院方衆徒の筒井は政長、南部に勢力を持つ大乗院方国民の越智は義就を支持して、この争いと深くかかわった。
 寛正5年(1464)に当時の将軍足利義政の弟の義視が将軍職の後継者となるべく還俗するが、翌年、義政に実子の義尚が生まれたことで混乱が生じる。伊勢貞親を中心とする義政の側近グループは義政が将軍を続けて、そのまま義尚に将軍職を譲ることを望み、斯波義敏の管領就任を画策していた。一方、山名宗全を中心とするグループは義視の将軍就任と義政の引退、宗全の娘婿である斯波義廉の管領就任を望んでいた。最後に、細川勝元を中心とするグループは義政の後に義視が将軍職に就き、さらに義尚に将軍を譲るという方向を考えていた。当時の管領である畠山政長は勝元の影響下にあった。
 文正元年(1466)7月に義政は斯波氏の家督を義廉から義敏に変えた。これに対し、宗全と勝元はともに反発する。その一方で、大和の国に逼塞していた畠山義就が上洛の動きを見せた。9月に義視に謀叛の疑いがあると貞親が義政に讒言したことから政変が起き、事態は二転三転したが、結局義政が将軍を続け、伊勢貞親派は幕府中枢から追放された。この過程で宗全と勝元は共闘したが、主導権を握ったのは勝元であった。事態の推移に不満を持った山名宗全は政権奪取を意図して、12月に畠山義就に上洛を呼びかける。いったん、上洛の動きを見せていた義就であったが、その後の政局の動きから上洛をあきらめて、大和、河内における勢力拡大に専念していたのである。

 文正元年12月26日に軍勢を率いて上洛した畠山義就は京都北部の千本釈迦堂(大報恩寺)に陣を構えた。義就の背後には山名宗全、斯波義廉がいた。畠山政長は自邸の防備を固め、赤松政則・六角政高の軍勢とともに立てこもった。さらに細川勝元、京極持清が政長を支援した。
 将軍義政は義就の無断上洛に怒り、政長を支持した。翌文正2年の元日、管領畠山政長が将軍御所(花の御所)に参り、食膳を供してもてなす儀式を行った。ところが翌2日、義政は政長邸への御成を中止し、御所で義就と対面した。毎年正月2日に将軍が管領邸で饗応を受けるのは恒例行事であり、これを「御成始」という。さらに正月5日は毎年、畠山邸への御成の日だったが、義政は政長ではなく、義就への御成を行った。義就は山名宗全の屋敷を借りて義政を迎えた。さらに6日、義政は政長を管領から罷免し、屋敷を義就に引き渡すように命じた。8日には斯波義廉が管領に任じられた。
 当初、政長を支持していた義政が義就支持に転じたのは義就上洛によって山名方が軍事的優位に立ったことを悟ったからであろうと呉座さんは推測している。そこで15日、畠山政長・細川勝元・京極持清・赤松政則らは軍勢を率いて将軍御所に押し寄せ、義政から強引に義就討伐命令を引き出そうと計画した(このような諸大名による将軍脅迫を「御所巻」という)。ところがこの企みは宗全の養女である勝元夫人から山名方に漏れ、山名宗全・斯波義廉・畠山義就が警備の名目で御所を占拠した。そこで勝元らは足利義視の擁立を計ったが、これも宗全に察知され、16日、宗全は義視ら足利一族を将軍御所に移した。

 失脚した政長は、これまでの例に従って京都を去り、分国で謹慎するであろうという見通しに反して、17日夜、屋敷に自ら火を放って北上、糺河原を経由して、18日の明け方に将軍御所北東の上御霊社(現在の御霊神社)に陣を取った。京極持清は御所の
南井、細川勝元は御所の西に布陣し、宗全らが立て籠もる御所を包囲した。
 合戦に巻き込まれることを恐れた足利義政は、山名・細川に対し両畠山への軍事介入を禁じた。そうしておいて勝った方を支持しようというのであるが、「これまでの畠山氏内訌においても、義政は基本的に優勢な側の味方であった。おかしな言い方だが、情勢次第で方針を転換するという点では一貫しているのである。」(86ページ)
 18日の夕刻、畠山政長が布陣した上御霊社に畠山義就の軍勢が押しかけ、勝元は義政の命令に従って政長に加勢しなかったが、宗全・斯波義廉が義就に加勢したために義就方の勝利に終わり、政長は勝元に匿われた。宗全は首尾よく政権を奪取したが、細川勝元との間に決定的な溝ができてしまった。

 御霊合戦の後、細川方・山名方の間で小競り合いが続くが、徐々に平穏を取り戻していった。3月5日、京都での戦乱(御霊合戦)という凶事が発生した文正という年号は縁起が悪いということで、応仁に改元された。4月10日、日野勝光(日野富子の兄)の屋敷に後花園上皇・足利義政・同義視らが招かれ、和歌会が行われた。同23日に足利義政が管領斯波義廉邸に御成し、日野富子・足利義視も随行した。「朝廷・幕府の儀式・行事は滞りなく進められており、人々は大乱の到来をまったく予期していなかった。」(88ページ)

 ところが5月になると、全国各地で細川方が軍事行動を起こし、世情は騒然としてくる。 5月16日、細川勝元の家臣の池田充正が兵を率いて摂津から上洛した。20日には山名宗全・畠山義就・一色義直が管領斯波義廉邸に集まり、対策を協議した。
 応仁元年(1467)5月25日から経中の武士たちの動きがあわただしくなり、翌26日の午前中には武田信賢・細川成之が将軍御所の向かいにある一色義直の屋敷を襲い、屋敷に火をかけられた義直は山名宗全の屋敷に逃げ込んだ。この戦闘を皮切りに、細川方と山名方は全面衝突に入った。

 26日は終日、京都の各所で戦闘があり、所々に火が放たれ、鬨の声が上がり、双方とも戦死者・戦傷者は数えきれないほどであったが、決着はつかず、合戦は翌日まで持ち越された。双方の放火作戦によって京都北部(船岡山以南・二条以北)の武家・公家の邸宅や寺院の多くが焼亡した。

 5月28日、将軍足利義政は勝元と宗全に停戦命令を発し、この停戦命令が功を奏して、28日以降は矢戦や放火がある程度で大きな合戦はなかった。義政は正月に宗全に御所を乗っ取られたことを教訓にして、御所の警備を厳重にしていたが、6月1日に勝元が義政に将軍旗と山名宗全治罰の綸旨の拝領を願い出た。また足利義視を山名討伐軍の大将に任命してほしいとも要請したようである。文正の政変以降、義視は勝元に接近していたからである。
 山名宗全と内通していた日野勝光の反対にもかかわらず、義政は6月3日に旗を勝元に与えた。義政が中立の態度を変えたのは、勝元らの圧迫もあったが、弟である足利義視に押し切られた側面が大きいと呉座さんは推測している。義視はこれを彼の指導力を示す絶好の機会と考えたのではないかとも推測している。「将軍である足利義政が中立性を失ったことで、戦争を調停する存在は消滅した。「賊軍」の烙印を押した山名方を速やかに鎮圧しない限り、戦争の早期決着は不可能になったのである。」(82ページ)

 やっと第3章「大乱勃発」の最初の部分を紹介できた。戦いのさらなる局面と、長期化の理由については次回以降で見ていく。利害関係が複雑に入り組み、必ずしも人間的に憎みあっているわけではないのに、対決を余儀なくされるという場面もあるようである。鎌倉幕府の執権に相当する室町幕府の管領に就任できるのは足利将軍家の一族である細川・斯波・畠山の3つの家柄の人物に限られていたので、山名宗全は政権を握っても管領にはなれず、この3つの家柄の中で自分の息のかかった人物を管領にするよりほかの方策は取れなかったのである。
 山名氏はもともと、新田氏の一族で、建武新政の時期には新田義貞に従っていた。『太平記』の中で、どのあたりで山名氏が新田氏から離れて、足利氏に近づくのかというのは注目点の1つである。南北朝時代の終わりごろ、時氏のころには一族合わせて11か国の守護職を持ち、六分の一殿と呼ばれる権勢をふるったが、時氏の死後、その勢力を恐れた将軍義満は、山名氏の内紛を利用して、明徳の乱(1391)を起こし、その勢力を削減した。その後、この書物でも取り上げられていた嘉吉の乱によって、勢力を取り戻し、山名宗全は幕府の有力大名の1人に数えられることになる。
 依然、上野一の宮である貫前(ぬきさき)神社に出かけようと、高崎から上信電鉄の電車に乗っていたら、山名という駅があり、近くに山名八幡という神社が見えたので、ここが山名氏発祥の地なのかとちょっとした感慨にふけったことがある。

ダンテ・アリギエリ『神曲 天国篇』(11-1)

1月19日(木)午前中は曇っていたが、次第に晴れ間が広がる

 ベアトリーチェに導かれて、地上から天空の世界へと旅立ったダンテは月天で<誓願を果たさなかった人々>、水星天で<地上での栄光を追い求めた人々>、金星天で<人と人とを結びつける愛>を重んじていた人々の魂に迎えられる。彼らは至高天で神とともにいるのだが、そこでの神の距離に応じて、至高天から離れた世界にダンテに会いにやってきたのである。次に2人は太陽天に向かい、<哲学者、神学者>の魂に迎えられる。ダンテに向かい、トマス・アクィナスの魂が話しかけ、そこで彼らを取り囲んでいる魂たちが何者であったのかを語る。

 第11歌に入り、ダンテは地上の人々が不完全で永遠ではない地上の事柄に心を奪われ、それらに固執していることを嘆く。
おお必滅の者達の狂える妄執よ、
おまえを低きにはばたかせるのは、
なんと破綻した論法か。

ある者達は法学により、ある者達は医学により、
ある者達は教会における役職を追い求めることで、
ある者達は暴力や詐欺的言辞による権力をふるって、

ある者は搾取で、あるものは公職により、身を立てようとしており、
ある者は肉の喜びに取りつかれて
没頭し、ある者は無為に浸っていたが、
(166ページ) そのような醜く騒がしい地上を離れて、ダンテは天上にいたと語る。第10歌の最後で、魂たちは時計のように調和した動きを示しながら、妙音を発し、神の愛と地上の愛とが照応する祈りの時間を告げたが、ここで再び元の位置に戻り、アクィナスが説明を続ける。

 トマスは、彼の述べたばなかで「人が善を富ませる場所」(168ページ)、「二度とは生まれてこなかった」(同上)という表現にダンテが疑問を抱いたことを察知して、詳しい説明を始める。第11歌では最初の質問についての説明が語られる。

神慮は、あらゆる被造物の視線が
底まで見通すことができずに打ち負かされてしまうほどの
御心により世界を統治する。

その神慮は、高く叫びながら祝福の血を流して、
結婚した方の花嫁が
ゆるぎない心をもってそれまでよりさらに花婿へと忠実になり、

彼女の喜びを目指して進むよう、
彼女のために、その両面において導き手となる
二人の司令官を任命された。

一人は燭天使(セラフィム)のごとく全身が情熱に燃え、
もう一人はその知ゆえに、地上において
智天使(ケルビム)の光輝を放った。
(168-169ページ) 「高く叫びながら祝福の血を流して/結婚した方」はキリストを指し、花嫁は教会のことを言う。十字架に磔にされて血を流し「我が神、我が神、なぜ私をお見捨てになったのですか」と大声で叫び息絶えた。これによって神と人類は和解し、人類の共同体「教会」とキリストとは結婚したというのである。
 「両面」とは傍注によると、「ゆるぎない心」である固い信仰心と「花婿」に「忠実」となってキリストの定めた戒律に慕うことである。
 神は、キリストの「花嫁」となった教会が神=キリストの意志に沿ってあるべき姿になるよう、「二人の司令官」、すなわち情熱に燃える「燭天使」のごときフランチェスコと、「智天使」の光を放つドメニコという2人の修道会の創設者を地上に送ったのである。

 それからトマスはフランシスコ会の創設者であるアッシジの聖フランシスコ(イタリア語ではフランチェスコ)の生涯について語り始める。フランシスコ(1181/82-1226)はアッシジの豪商ピエトロ・ベルナルドーネの子として生まれたが、無軌道な青春時代をすごしたのち、私財を貧者に与え、アッシジ司教の法廷で父を振り切り出家した。
そして精神の法廷において
父の前でその女性と一つになった。
その後も太陽はその女性を日ごとにますます強く愛した。
(172ページ) ここで「父」というのは神を代理する司教のことを言うと傍注に記されている。ここで「女性」と記されているのは、これまでの流れからいって、教会のことであろう。この時期、教皇庁は地上権力に固執して、封建的な支配体制を強化したため、一般の信者たちに救いの道を示すことができず、さまざまな異端が蔓延することになった。すなわち宗教的に人々の期待に応えられずに支持を失って、実は危機的な状況にあった。だからダンテは、ここで清貧によって教会の刷新を図ったフランシスコについて、トマス・アクィナスに語らせているのである。
この女性だが、最初の夫を亡くした後、
この太陽が現れるまで望まれることもなく
千百年以上も侮辱されて暗くくすんでいた。
(同上) 「太陽」はフランシスコを表す。キリストの死後1100年以上も教会は停滞していたという。「何の役にも立たなかったのだ」という詩句を繰り返しながら、ダンテはその停滞を強調している。

 キリストの十字架上の死によって人類の罪が贖われ、人類の共同体である「教会」が成立したというのは、一種の神話であって、歴史的には加藤隆さんが『新約聖書の誕生』で描いているような状況が展開されたのであろう。しかしながら、ダンテによる当時の教会とキリスト教信仰が直面していた危機の認識と、それを打開すべき存在としての修道会、特にフランシスコ会とドメニコ会への期待とは、彼の同時代への洞察が本質的なものを見抜いていたことを示すように思われる。 

ジュリー・ベリー『聖エセルドレダ女学院の殺人』

1月18日(水)晴れ、雲が多かったが、比較的温暖。

 ジュリー・ベリー『聖エセルドレダ女学院の殺人』(創元推理文庫)を読み終える。

 1890年のある日曜日、イングランド東部ケンブリッジシャーの都市イーリー。この市の郊外にある女生徒たちを対象とした小規模な寄宿学校である聖エセルドレダ女学院では、いつもと同じように校長のコンスタンス・プラケットが弟のアルドス・ゴッディングをもてなすディナーの席に、彼女の学校の7人の女生徒たちを招いていた。厳しいしつけと厳格な道徳指導を売り物にするこの学校らしく、校長とその弟は子牛の肉を口にしたが、その肉を料理した女生徒たちはバター付きパンと煮豆で我慢することによって、将来の結婚生活に備えるのであった。
 ところが、その食事の席で校長とその弟が相次いで倒れて、息絶える。それぞれ家庭の事情で、この学校に送られてきた女生徒たちは、学校が廃止になれば、親元に戻され、おそらくはまた別の学校に送られることになるだろう。不本意ながらこの学校に在籍することになった7人ではあるが、一人っ子であったり、男の兄弟しかいなかったということもあって、姉妹のようなまとまりをもつようになっていた。

 家族のもとに返されることを恐れた彼女たちは、死体を埋め、事実を隠して学校生活を続けることにする。「『わたしたちはみんな、なりたい自分になれる。偏屈で気難し屋のプラケットきょうだいが押し込もうとした型になんてはまらずに』興奮が巻き起こる。『姉妹たちに…助け合っていきましょう。何があっても』」(31ページ)。
 リーダーシップをとるのは決断力と行動力に富む<機転のキティ>。彼女たちの近くに出現する若い男性たちに言うことを聞かせる特技を発揮する美人の<奔放すぎるメリー・ジェーン>。長身で頭の回転は鈍いが、優しくて親切で、同情心に溢れた<愛すべきロバータ>。音楽の才能のある<ぼんやりマーサ>は気が弱くて騙されやすいが、時に周囲をびっくりさせるような衝動的行動に出る。体系が似ているからとプラケット校長の影武者を押し付けられた<たくましいアリス>は驚くべき演技力を見せる。年少だが科学的な知識が豊かな<あばたのルイーズ>は校長とその弟殺しの犯人を捜す探偵役を託される。死や死体に魅力を感じるという<陰気なエリナ>は、アリスをプラケット校長に似せるためのメークアップで思いがけない能力を発揮する。

 ルイーズの分析で、二人は毒殺されたことがわかる。7人はそれぞれの得意分野を生かして、校長は生きており、弟は甥の看病のためにインドへ旅立ったと表面を取り繕って局面を乗り切ろうとするが、見知らぬ人物が続々と登場し、また次々に新しい事実が判明していく…。

 本文124ページに出てくるように、このエセルドレダ女学院は「フィニッシング・スクール」である。翻訳者の神林美和さんは解説の中で、「若い女性がよき家庭人になるため、あるいは社交界デビューに備えて、教養とマナーを学ぶ学校」(390ページ)と解説し、『リーダーズ英和中辞典』によれば、「教養学校〔学院〕《若い女性が社交界に出る準備をする私立学校》」である。アガサ・クリスティーの『魔術の殺人』では、ミス・マープルがフィニッシング・スクールで一緒だった女性の危機を救おうと活躍する。なお、私立学校というのはprivate schoolの訳語で、日本の私立学校のように学校法人によって経営され、正規の学校と認められている学校ではなくて、任意に設置され、維持されている非正規の学校である。この種の学校にも一種の格差があって、貴族や金持の令嬢はスイスやイタリアの学校に行くが、国内の学校に送られている彼女らは経済的に多少遅れを取っている家庭の出身らしい。この作品中でもエセルドレダの生徒たちは、クイーンズ・スクールという学校の生徒たちに敵意を燃やしているが、こちらは、日本の私立学校と同じく正規の学校のようである。なお、先年、没したスコットランド出身の作家ミュリエル・スパークの晩年の作品『フィニッシング・スクール』が描いている学校は、現代の話で、寄宿制ではあるが、男女共学で、まったく別の種類の教育を行っている。読みながら、私も金があれば、こういう学校を経営してみたいと思った記憶があり、もし関心があれば、ご一読ください。

 事件との取り組みを通じて、女生徒たちの世界は広がり、人間に対する見方も変わっていく。高等教育や専門職への就職が視野に入ってくる。それに十代という年頃の女性であるから、彼女の周辺に出現する農場主の息子や警官、事務弁護士の助手、神学生などの若い男性たちとのロマンスが芽生え始める。現代のアメリカ人の作家が、1890年ごろ(シャーロック・ホームズの時代)の出来事を想像で描いているので、歴史的な事実とは多少食い違うところがあってもしかたがないし、素人探偵の推理だからなかなか真相解明が進まないところもあるが、ユーモアも適当に織り込まれて、楽しく読める作品である。

 なお、最後の方で登場人物が<クロケット>を始めるという箇所があるが、スティックでボールを打って逆U字型の鉄門をくぐらせるというこのゲームは、<クローケイ>と発音されるし、伝統的に<クローケー>と言い慣わされてきたのではなかろうか。(『若草物語』など、このゲームが登場する作品は少なくない。)

吉田健一「国籍がない大使の話」

1月17日(火)晴れ

 吉田健一『酒に吞まれた頭』の最初に収められている短編小説「国籍がない大使の話」は、終戦間もない日本を舞台に、作者の分身らしい語り手が、えたいの知れない国際交流をするという設定で、作者の何らかの経験を踏まえてはいるのだろうが、<国籍がない大使>というような存在があり得ないことを考えればわかるように、著者独特の文明批評を織り込んだ、まったくの作り話である。

 物語の芯になるのはどこかの国の大使らしい外国人クレストマチオ・デル・ロッコ・ヴァッソ・イ・ガル・モッポという人物で、彼を語り手の知り合いである康さんと平塚の市会議員の辻堂さん(これは言葉の遊びであろう)という老人とが鎌倉に案内しようとする。辻堂さんは独特の深呼吸の信奉者で、これを海外に普及するための国際会議に出席しようとして、その便宜を図るためにモッポ氏に近づこうとしているのである。語り手は、連れの2人が一生懸命歴史の本を読んで仕入れてきた知識を、モッポ氏に対するサービスのつもりでしゃべっているのを、インスタントで通訳する。
 「だいたい、ヨリトモだのマサコだのと、日本名を外国人と外国語で話している時に言うこと程、日本に来て日本語で話すのが当たり前なのに、、お前が知らないから仕方ないのだという反感に続いて、それを押し殺していなければならないための屈辱的な気持ちにさせられることはない。」(19ページ)という入り組んだ気持ちで、通訳をしながら、鶴岡八幡宮までやってくる。

 「コノ処女ノ髪ノ木ハ八百年昔カラ生エテイテ、クギョートイウ人ガサネトモトイウ三番目ノカマクラショーグンヲ、イイエヨリトーモデハアリマセン。サネトーモデス。……」(20ページ)
 ここで「処女の髪の木」というのは英語でmaiden hair treeというのをそのまま日本語に移し替えた言い方で、イチョウのことである。わざとこういう書き方をすることで、吉田は通訳という仕事のむずかしさを語っているように思われる(イチョウについて英語では、gingko あるいはginkgoという言い方もある)。単に言葉を言い換えるだけではない(そもそも欧米にはイチョウという植物は生育していないのである)。もっと別の問題がある。
 吉田は別のエッセーで、確かスコットランドを訪問した際に、自分には興味のないようなスコットランドの歴史上の王様についての説明を長々と聞かされた時の苦痛を語っていたが、その気持ちはよくわかるし、たぶん、外国人が日本の歴史について説明を受けるときにも同じような苦痛を感じるだろうということも想像できる。しかし、康さんと辻堂老人にはそのような想像力がない。間に立った通訳が困り果てるわけである。

 その直後に、「その昔、ピサローに率いられてペルーに攻め入ったスペイン軍の宣教師がペルー人に改宗を勧めて説教した折、通訳は『三位一体と申して、三人の神があり、そして一人の神があり、それゆえに合計四人である』といったそうである。」(21ページ)という逸話を物語る。キリスト教の神について神学的な理解がない通訳には、宣教師の言葉を正確に伝えることはできないのである。物語はさらに続いていくのだが、異文化交流の難しさが指摘されているところで紹介をやめておこう。
 欧米の文化をある程度まで理解せずに、言葉だけを覚えても通訳はできない。しかし、そのある程度とはどの程度をいうのであろうか。吉田は彼の時代の人間としては最もよく欧米の文化を理解していた人であろうが、それでも通訳という仕事にさじを投げていたようである。戦後の文化的な混乱に、スペインの「新大陸征服」時代の逸話を重ね合わせているところに、吉田の同時代への批評を認めるべきであろう。

2016年の2016

1月16日(月)晴れ

 「2016年の2016」の集計がどうやら終わった。
 足跡を記したのは1都2県、
 3市6特別区である。
 利用した鉄道は7社11路線19駅
 バスは5社22路線21停留所ということである。(昨年の11月に利用したバス路線を1つ忘れていた。)〔97〕

 12月に投稿したブログ記事は31件で、1月からの合計は369、
 いただいたコメントは3件で、1月からの合計は47件、
 トラックバックはなく、1月からの通算は1、
 拍手は623拍で、1月からの合計は8563拍、
 拍手コメントはなく、1月からの通算では13ということである。〔420〕

 読んだ本は16冊で1月からの通算は116冊である。なお、12月に読んだ本の表題を掲げておくと:
益川敏英『僕はこうして科学者になった 益川敏英自伝』、井筒俊彦『意識の形而上学 『大乗起信論』の哲学』、東海林さだお『サンマの丸かじり』、三宅陽一郎・森川幸人『絵でわかる人工知能』、木田元『マッハとニーチェ 世紀転換期思想史』、落合淳思『古代中国の虚像と実像』、田中啓文『鍋奉行犯科帳 風雲大坂城』、望月麻衣『京都寺町三条のホームズ⑥ 新緑のサスペンス』、パオロ・マッツォリーノ『みんなの道徳解体新書』、小沢信男『俳句世がたり』、東谷暁『予言者梅棹忠夫』、森鷗外『青年』、夏目漱石『三四郎』、小川軽舟『俳句と暮らす』、姜尚美『京都の中華』、藤澤房俊『ガリバルディ』
 本を買った書店は5軒ということである。
 例年、120冊は本を読んでいるのだが、今年は下回ってしまった。内容面で見ると、それなりに変化のある読書を続けているので、質を落とさず、量も維持できるように気を付けていきたいと考えている。〔121〕

 「ラジオ英会話」を20回聴き、1月からの合計は239回、
 「攻略!英語リスニング」を6回聴き、合計は94回、
 「実践ビジネス英語」を14回聴き、合計は145回、
 このほか、4月~9月に「入門ビジネス英語」を72回、
 「まいにちフランス語」を22回、合計は227回、
 「まいにちイタリア語」を22回、合計は226回、
 「まいにちスペイン語」を22回、10月からの合計は61回、
 カルチャーラジオ「教養としてのドン・キホーテ」を3回、
 「鴨長明と方丈記」を2回、合計9回、
 「漱石、近代科学に出会う」を1回、合計5回聴いている。
 2016年は中国語、ロシア語にも挑戦してみたのだが、どうもうまくいかなかった。2017年はポルトガル語を少しかじってみようと思っている。〔1081〕

 映画を7本見て、1月からの合計は61本になった。またユーロライブに出かけたので、足を運んだ映画館の数は9館になった。見た映画を列挙すると『切り子の詩』、『当たりや大将』、『経営学入門より ネオン太平記』、『キューポラのある街』、『かぶりつき人生』、『危いことなら銭になる』、『ブルゴーニュで会いましょう』ということである。
 量的にはまずますの結果であるが、古い映画が多く、新しい動きにあまり触れていないので、2017年はこの点についても気を付けてみていきたいと思う。〔70〕

 全国高校サッカー選手権の1回戦2試合を見たので、観戦したサッカーの試合数は44試合、それを4か所の競技場で見たことになる。2016年は、J2と天皇杯、高校サッカー選手権に加え、J3となでしこリーグ2部の試合を観戦したので、数が増えた。2017年はさらに数を増やしていきたいと思っている。〔48〕

 A4のノートを3冊、A5のノートを2冊使い切った。使い切ったノートの数は56冊である。また万年筆のカートリッジを1本、使い切った。1月からの通算ではグレイのボールペンを2本使いきっている。〔59〕

 酒を飲まなかった日が5日で、1月からの合計では120日ということになる。〔120〕

 ということで、かなり無理をして数を合わせた感じがしないでもないが、どうやら2016年の2016を達成したようである。
 

『太平記』(141)

1月15日(日)曇りのち晴れ

 後醍醐天皇を迎え入れた延暦寺に対抗するため、足利方は、戒壇の造営を約束して三井寺を味方につけた。建武3年(1336)正月13日、北畠顕家の率いる奥州・関東勢が比叡山の宮方に合流した。三井寺に攻め寄せた宮方は、細川定禅の率いる足利方の軍勢と三井寺の衆徒の連合軍を追い落として伽藍に火をかけた。このため、藤原秀郷が竜宮城から持ち帰ったと伝えられる三井寺の梵鐘も焼け落ちてしまった。

 宮方の軍勢は三井寺の敵を難なく打ち破ったので、北畠顕家卿は東北・関東地方から東海道を西に上ってきて坂本に到着して、すぐに戦いに参加したために人馬は疲れている。一両日休んで、英気を養い、これからの戦いに備えるといって、坂本へと2万余騎の軍勢を引き上げた。〔北畠顕家は坂本に到着した時も、人馬を休めてから攻撃を始めることを主張していた。これに対し、もともと宮方の軍勢は少ないので、一気に攻めた方が有利であるという意見が採用されたのであった。〕
 新田義貞も、同じように坂本へ帰ろうとしたところ、彼の執事である船田義昌の一族である船田経政が馬を遮って次のように述べた。合戦の勝利を得るには、勝ちに乗る時、逃げていくのを追うよりほかの手段はないと思う。この合戦で生き延びて、馬を捨て、武具を脱ぎ捨てて、命からがら落ちのびていく敵を追いかけて、京都市内に押し寄せていけば、逃げて臆病風に吹かれている多数の武士たちに影響されて、残りの敵も戦う気力を失うのではなかろうか。そういう状態なので、官軍は敵の中に紛れ込んで、軍勢の多少を見せず(宮方の方が足利方に比べて軍勢が少ないことを隠し)、こちらの方では火をかけ、あちらの方では時の声をあげるというように、縦横無碍に敵をかく乱すれば、足利兄弟のそばに近づいて、勝負を決せずにはいられないだろう。逃げていく敵は、それほどの距離にはいないと思う。是非とも追いかけてみてはどうだろうか。
 これを聞いて義貞は、私もそのように考えていたところに、よく言ってくれた。ただちに追いかけようと、または他を直し、馬を進めて、新田一族50余人、その軍勢は合わせて3万余騎、馬に鞭を当てて、敗走する敵を追いかけていく。〔これまでも大体においてそうだったが、足利方の方が軍勢の数は多いけれども、士気は宮方の方が高いのである。もっとも、『太平記』の作者が記しているように、足利方の軍勢が80万余騎であったというのはどう考えても多すぎる。〕

 足利方は、宮方の軍勢のかなり前方を逃げているはずなのであるが、逃げているのは大勢の疲れ武者で、心は逸るけれどもなかなか足が進まない、追いかけるのは小勢ではあるが血気にはやった者たち、敵を追うとなると一層馬の足も早まってくるので、山科のあたりで追いついてしまった。新田の軍勢の由良、長浜、吉江、高橋が真っ先に進んで追っていたが、逃げているとはいえ敵の方が軍勢が多く侮ってはいけないというので、開けた場所で敵が大軍を引き返して応戦しそうなところでは、それほどは追いつめて敵を追わず、遠矢を射かけ射かけ、鬨の声をあげて威嚇する。道が狭くなっていて、しかも敵が戻ってくるのが難しい山道では、高いところから馬を懸けおろして、隙間もなく射落とし、切り伏せたので、足利方は反撃できず、我先に逃げていくばかりである。

 足利尊氏は三井寺で合戦が始まったという知らせを受けたのち、黒煙が上がるのを見て、どうやら味方が負け戦のようである、急いで援軍を送ろうと、三条河原に出て、勢揃えを行った。そうこうしているうちに、粟田口から、土煙をあげて、足利方の軍勢4・5万騎が敗走してきた。かなり手痛い負け戦であったと見えて、ほとんどみなが軽傷を負い、鎧の袖や兜の吹き替え氏に矢の3筋4筋が突き刺さっていないというものはいないほどであった。〔これまでの合戦の様子を読んでいると、新田勢が弓矢を活用しているのがよくわかる。『平家物語』に登場する那須与一のように、北関東には弓矢に秀でた武士が多かったということであろうか。〕

 一方、新田義貞は2万3千余騎の軍勢を三手に分けて、一手を将軍塚(京都市東山区粟田口花頂山町の華頂山上にある塚)の上にあげ、もう一手を真如堂(左京区浄土寺真如町にある天台宗寺院)の前から出動させ、もう一手を法勝寺(左京区岡崎法勝寺町にあった天台宗寺院)の後ろに向かわせて、二条河原に軍勢を進めて、合図の火をあげさせた。自らは花頂山に登って、敵の陣を見ると、北は糺の森から、南は七条河原まで、敵の軍勢が馬を隙間なく並べて密集して戦いに備えているのが分かる。

 義貞は、弓を杖にして立ち、命令を下した。敵の軍勢と味方とではその数がかなり違う。普通に戦うのでは勝ち目はなさそうだ。敵に顔を知られていない武士たちは、50騎ずつ隊伍を組んで、新田方の笠じるしをとり捨てて、旗をまいて敵の中に紛れ込み、しばらく機会を待て。将軍塚に上っている軍勢が、すでに戦闘を開始したと見たら、こちらも戦闘を開始するつもりである。そのときに、敵の中に紛れ込んだ武士たちは敵の前後左右に旗を差し上げて、敵陣をかく乱してほしい。そうすれば敵は慌てて同士討ちを始めるかもしれず、また退却する可能性も出てくるというのである。そして、たくましく強い兵50騎ずつを選び出して、26の一揆(武士団)がそれぞれ新田の中黒の紋を記した旗をまいて紋を隠し、笠符をとって袖の中に収め、三井寺から遅れて逃げてきた軍勢のふりをして、足利勢の中に加わる。

 敵方がこのような謀をめぐらしているとは、足利尊氏には思いもよらぬことであった。尊氏は主な武将たちに、新田は普段は平地での戦闘をこそ好むと聞いていたのに、山を後ろにして、すぐには攻め込んでこないのは、自分たちの軍勢が少ないことを敵に見せまいとしているに違いない。将軍塚の上に集まっている敵をそのままにして、いつまでも見上げていられるだろうかと、自分の執事である高師直の弟の師泰に、駆け上って蹴散らすように命令する。師泰はその命令に従って、武蔵、相模の軍勢2万余騎を率いて、双林寺(東山区の円山公園にある天台宗寺院、今は見る影もないが、昔は大寺院であった)と中霊山(東山区清閑寺霊山町にある山)から軍勢を二手に分けて東山を登っていく。

 数で勝ることで多少油断をしている足利方と、その数的劣勢をこれまでの勝利の経験と知略とで跳ね返そうとする宮方=新田方の戦いはこの後どのように展開するだろうか。今回登場する京都市内の地名は、私が大学→大学院時代を通じてなじんだものが多く、土地勘が働くので、読んでいて面白かった。前回、藤原秀郷のことを書いたが、柳田国男の『故郷七十年』の中に、柳田という姓の一族は藤原秀郷の子孫で、同じ秀郷流の宇都宮氏に仕えていたらしいと書かれている箇所があった。藤原秀郷が先祖だという言い伝えを持っている人たちはかなりの数に上るはずである。

日記抄(1月8日~14日)

1月14日(土)曇り、気温低下

 世界史年表の類を開いて、今から50年前の1967年はベトナム戦争の最中であったとか、佐藤首相(当時)が「武器輸出3原則」を表明したとか、中国では文化大革命の嵐が吹き荒れていたとかいう記事を読んでいると、そのころ大学生であった私は何をしていたのかということになって、あまり心穏やかな気分になれない。それで、生まれる前のことに目を移すと、1917年はロシアで10月革命が起きた年であるが、また日米両国が中国に対し石井=ランシング協定を結んだ年でもある。これらは過去の出来事ではあるが、現在の世界と東アジアの情勢に影響をとどめていることも否定できない。1867年には徳川慶喜が大政を奉還した。
 飛んで1767年は上杉鷹山が米沢藩主となり、藩政改革に着手、タイではビルマ軍の攻撃によりアユタヤ朝が滅亡。そういえば、ビルマ軍に焼かれたアユタヤの遺跡を見たことがある。さらに飛んで1567年に中国の明では張居正が入閣して政治改革に取り組もうとし、スコットランドの女王メアリが王位を追われている。1517年にはオスマン朝がマムルーク朝を滅ぼし、ドイツではマルテイン・ルターが「95条の提題」を公表して宗教改革の動きが広がる。1467年は日本では応仁の乱が始まる。そういえば、昨日、呉座勇一さんの『応仁の乱』を取り上げたが、まだ、乱の勃発に至っていない。1417年には中国(明)の鄭和が東アフリカまでの遠征を行っている。またまた飛んで1167年には平清盛が太政大臣になっている。
 古いところは年代がはっきりしない話が多いが、217年は、パルティアに遠征中であったローマのカラカラ帝が殺され、中国では(208年の赤壁の戦いの後)三国鼎立が固まってきていた。117年にはローマ五賢帝の1人であるトラヤヌスが没し、ハドリアヌスが後を継いでいる(彼も五賢帝に数えられる)。17年にはローマの詩人で『変身物語』等を表したオウィディウスが没、歴史家のリーウィウスもこのころ没したと考えられているそうである。
 紀元前に参りまして、2150年前の紀元前133年にはローマでティベリウス・グラックスが改革に取り組んでいる。紀元前233年には中国(秦)で韓非子が自殺させられている。紀元前333年にはマケドニアのアレクサンドロス大王がイッソスの戦いでペルシアのダレイオス3世を破っている。紀元前483年ごろに仏陀が入滅されたと考えられている。それから先、いよいよ年代を確定できる事件は少なくなる。
 学校時代の年代の暗記にうんざりした記憶を持つ方は少なくないと思うが、時々こうやって歴史的知識の虫干し・整理をするのは悪くないことである。これを機会に、オウィディウスやリーウィウスの著作を探し出して読み直してみようかとも思う。

 1月8日から本日までの間に経験したこと、考えたことなど:
1月8日
 樺山紘一『地中海』(岩波新書)を読み終える。地中海とその周辺で活躍した歴史上の人物を2人ずつ取り上げて、その生涯を対比的に描く。最初に世界の七不思議(すべて東地中海沿岸にある)について触れているのも興味深かった。この地域の歴史についての知識を整理し、考え直すのにいい本である。

 神保町シアターで手に入れたチラシによると、2月12日から4月15日まで、ラピュタ阿佐ヶ谷では「昭和の銀幕に輝くヒロイン 第84弾」といて、鰐淵晴子さんの特集上映を行うそうである(朝10:30からの1回のみ上映)。鰐淵さんは知名度や出演作の数の割に、代表作と言われる作品が少ない人で、今回の上映作品を見ても、有名監督の作品荷余り出演していないことがわかる。わずかに井上靖原作、五所平之助監督の『猟銃』くらいであろうか。他の上映作品では、桜井秀雄監督、寺山修司原案という『この空のある限り』がひょっとすると面白いかもしれないと期待しているところである。大島渚監督が何かの折に話していたが、彼の中編映画『愛と希望の街』の主演は、鰐淵さんと決まっていたのだが、シナリオを読んだ鰐淵さんが、映画のラストシーンが納得できませんと下りてしまったのだという。そこを少し考えて、主演していれば、彼女の女優人生もかなり変わっていたのではないかと誰しもが思う話である。

1月9日
 第95回全国高校サッカー選手権の決勝戦は、青森山田高校が5-0で前橋育英高校を降して青森県勢として初めての優勝を飾った。また高円宮杯と合わせて2冠である。青森県にはJリーグのチームがないということも、練習相手に恵まれない中での優勝ということで、この優勝を価値のあるものとしている。選手諸君の今後の活躍を祈るとともに、少なくとも一部の諸君は地元でサッカーの振興のために尽力するようお願いしたい。

1月10日
 『文藝春秋』2月号の広告に「大女優が語る昭和の映画」という見出しが躍っていて、八千草薫、山本富士子、香川京子、佐久間良子、加賀まりこ、小山明子、岸恵子、岡田茉莉子、いしだあゆみの9人がそれぞれの思い出を語っているようである。選に漏れて怒っている人がいるかもしれないが、そのあたりの舞台裏を意地悪に想像してみるのも一興であろう。

1月11日
 『キネマ旬報』の2016年度のベスト・テンが発表になった。私が見た映画は外国映画の中の『ブルックリン』だけで、もう少し、話題の映画を見ないと、世の中の動きから取り残されると思っているところである。そうはいっても、好みではない映画は見たくないし、このあたりの平衡をはかるのが難しい。

1月12日
 椎名誠『ナマコもいつか月を見る』(PHP文芸文庫)を読み終える。以前、別の版で読んだことがある。執筆当時の世相や流行に腹を立てている箇所が少なくないのだが、その当時と現在とでは世相も流行も違っているということを考えて読むと、面白さが増すだろうと思う。

 NHKラジオ「まいにちフランス語」応用編は1月から「ガストロノミー・フランセーズ 食を語り、愛を語る」(Gastronomie française, parler de cuisine, parler d'amour)というシリーズが始まった。第1回は”Lapéro (L'apéritif)"(アペロ(アペリティフ))についての第1回で、フランスの南部の人々が夕方、友人同士でバーに集まってアペロを楽しむ様子が描かれている。パートナーのヴァンサン・デュレンベルジェさんはフランスに帰ると、ほぼ毎晩、家族や友達とアペリティフをしている。J'aime bien. C'est un moment convivial. (とても楽しいです。友情が育まれる時間です。)とのことである。

1月13日
 「まいにちフランス語」は「アペロ」の続き。
Après une journée passée sous le chaud soleil de Provence, on vient chercher l'ombre afin de se poser entre camarades, et l'on boit à la santé des uns et des autres. (プロヴァンスの強い日差しの下で過ごした一日の後、日陰にやってきて、仲間と遺書に座り、互いの健康を願って乾杯する。)
Pas de whisky cher, mais du pastis bien frais. (高いウイスキーではなくて、よく冷えたパスティス。)
Avec cela , de belles olives noires, ou une pissaladière toute chaude, à peine sortie du four. (それと一緒に、見事な黒オリーヴと、あるいはオーヴンから出したばかりの熱々のピサラディエール。)
 パスティスというのは、アニスなど薬草の入ったお酒で、水で割って飲むのだそうである。またピサラディエールは南仏ニースの名物料理で、玉ねぎとアンチョビを載せて焼いたピザのようなものだという。オリーヴを載せることもあるそうだ。
 できることなら、日差しの下で働かずに、すぐに一杯やりたいところであるが、そうすると、一杯の楽しみが半分以下に減るというのももう一つの真実であろう。

1月14日
 NHKラジオ「攻略!英語リスニング」は”Alexander Hamilton"を話題として取り上げた。ハミルトンはアメリカの独立戦争の際にワシントンの副官を務め、独立後は初代の財務長官となり、合衆国憲法の制定にかかわり、ニューヨーク銀行を設立、アメリカ沿岸警備隊を発足させ、また『ニューヨーク・ポスト』紙を創刊するなど多彩な活躍をする。ところが財務長官を退任して弁護士として働き始めると、2代目の大統領であるジョン・アダムズの政策と衝突、さらに3代目のトマス・ジェファーソンの副大統領アーロン・バーの怒りを買って結局、バーと決闘することになった。そして、その次の日、銃で撃たれた傷がもとで死亡してしまう。
His was a dramatic, tragic life. No wonder it was great material for a musical. (ドラマチックで、悲劇的な人生だ。ミュージカルの題材としてうってつけなのもわかる。) ということで、彼の生涯を描いたミュージカル『ハミルトン』が現在、アメリカでは上演中だそうである。
 

呉座勇一『応仁の乱』(5)

1月13日(金)晴れ

 応仁の乱は応仁元年(1467)から文明9年(1477)まで11年間にわたって繰り広げられた大乱である。この書物は、この戦乱の過程を奈良・興福寺大乗院の院主であった経覚(1395-1473)の日記『経覚私要抄』と同じく尋尊(1430-1508)の日記『大乗院寺社雑事記』を史料としてたどっていくものである。著者である呉座さんによると「経覚も尋尊も奈良で生活しており、彼らが入手する京都や地方に関する情報の中には不正確なものや噂、デマの類が少なくない。したがって、応仁の乱の全体的な構図や経過をつかむうえでは最適の史料とは言えない。しかし、経覚・尋尊という記主本人のみならず、彼らの周辺の僧侶・貴族・武士・民衆が大乱の渦中でどのように生き、何を考えていたかがわかるという点で、二人の日記は他のどんな史料にも代え難い価値を有する」(7ページ)。
 大和の国は鎌倉時代以後、興福寺の支配下にあったが、興福寺の下には衆徒、また興福寺と一体の存在であった春日神社の下には国民という武装勢力があり、これらがお互いに勢力を争うだけでなく、外部の武士たちと結びついたために、事態はより複雑なものとなった。外部の武士たちの中で大和に最も大きな影響力を持っていたのは河内守護の畠山氏であり、その内紛が大和国内の親幕府的な一乗院方衆徒筒井氏と反幕府的な大乗院方国民の越智氏の戦いと結びついて、奈良は室町幕府の権力抗争に巻き込まれていく。
 これまで読んだところで、奈良が主な舞台となっていることから、畠山氏の家督をめぐる内紛がかなり詳しく描かれているが、そのほかに斯波氏など、室町幕府の有力大名の内部においても家督をめぐる争いがあったことも記されている。興福寺の荘園が越前にあったことで、越前の守護である斯波氏とも交渉の必要があったのである。〔この本の主題から外れるから書かれていないが、越前の二ノ宮である劒神社の神官が斯波氏の家臣となって尾張に派遣され、神社の所在地にちなんで織田を名乗ったのが、織田氏の始まりである。〕 よく指摘されているように、室町幕府は足利氏を中心にその一族が有力大名として支えている同族支配型の政権であったから、内部における力関係をうまく制御できないと、たちまち内訌が起きる危険を常に抱えていたのである。

 さて、嘉吉元年(1441)に将軍義教が赤松氏に暗殺され(嘉吉の変)た後、その長男である千也茶丸(のちの義勝)が後を継ぐが、10歳で若死にしたため、その弟の三春(のちの義政)がさらにその後を継ぐ。
 寛正5年(1464)12月、足利義政の弟の浄土寺義尋が還俗し、義視と名乗った。〔この浄土寺というのは天台宗の門跡寺院で、現在の慈照寺(銀閣寺)の場所にあった。義政が山荘を営むにあたって現在の相国寺の近くに寺を移したが、その後廃絶し、享保年間に浄土院として左京区銀閣寺町に再建された。ただし、この浄土院は浄土宗の寺だそうで、五山送り火の一つである「大文字」を管理するところから、大文字寺とも呼ばれているという。それはいいけれども、左京区には浄土寺という地名もあるので、今ひとつすっきりしないところがある。〕
 しかし寛正6年11月、義視の元服直後に義政の実子(のちの義尚)が生まれたことで事態は複雑化する。

 この時期、幕府には3つの政治勢力があった。第1は伊勢貞親を中心とする義政の側近集団で、義尚の養育係であった貞親は義政が将軍を続け、成長した義尚が後を継ぐことを望んでいた。また細川派でも山名派でもない斯波義敏が政界に復帰して幕府の管領職に就くことを求めていた(管領に就任できるのは、足利一族の斯波・畠山・細川の3家の人物に限られていた)。
 第二は、山名宗全をリーダーとする集団で、義視の将軍就任と義政の政界引退を望み、宗全の娘婿である斯波義廉の管領就任を考えていた。
 第三は細川勝元をリーダーとする集団で、伊勢貞親と山名宗全の中間に位置する立場をとっていた。彼らは義政→義視→義尚という既定路線を維持し、勝元に管領職を譲られた畠山政長が、勝元の影響下にある限り、その続投を望んでいた。
 この3つの政治勢力のせめぎあいの中で、幕府の決定はしばしば変転した。このことはしばしば義政の気まぐれによるものと解釈されてきたが、幕府のこの状態に起因すると考えるべきである。

 文正元年(1466)7月に、足利義政が貞親ら側近の申請に基づき斯波氏の家督を義廉から義敏に変える決定をしたが、これに対し、宗全は義廉を支持する動きを見せ、同時に貞親が細川勝元と対立していた大内政弘を赦免したため、勝元は不満の意を示した。
 宗全は分国から軍勢を呼び寄せ、大和に逼塞していた畠山義就が動き出す。この動きは従来、宗全らの軍事行動に呼応したものと考えられてきたが、呉座さんは貞親ら義政側近との連携を目指していたのではないかと推測する。しかし、貞親が当てにしていた畠山義就、大内政弘が上洛する前に、山名と細川の共闘体制が成立してしまう。
 9月5日に、貞親は義視が義政に謀叛を企てて居ると讒言し、それを信じた義政は義視を誅殺しようとした。義視は宗全、次いで勝元に助けを求め、翌6日、山名・細川ら諸大名の抗議により伊勢貞親、斯波義敏らは失脚する。これを文正の政変という。

 この政変により、細川勝元邸に入った義視が事実上の将軍として政務を行い、宗全と勝元の二大大名が「大名頭」として義視を支える暫定政権が成立した。ところが11日、義政は義視に害意のないことを誓い、義政は側近たちにすべての罪を擦り付けることで政務に復帰した。義政の復帰を陰で主導していたのは勝元で、義視を将軍にしようとした宗全の思惑は外れた。呉座さんは、このあたり、長年管領として幕政を動かしてきた勝元の政治的手腕が宗全よりも上手であったと論じている。

 さて、上洛と京都政界への復帰を目指していた畠山義就は幕府の管領となっていた政長方の軍を打ち破ったが、京都の情勢を見て、目標を大和での勢力拡大に切り替え、一定の戦果を得て、11月に中立を保っていた大乗院方国民の十市遠清の仲介により筒井派(政長派)と越智派(義就派)の和睦が成立する。
 和睦の背後にいたのは現状維持を求める細川勝元である。これに対し、主導権を握りたい山名宗全は義就と近づくことで、局面の打開を図る。

 いよいよ次回で、応仁の乱が始まることになる。乱の背景になった政治情勢についての呉座さんの記述が詳しく、しかも面白いので、予定していた以上の時間と記述量をかけてしまった。今後ともよろしくお付き合いください。
 この書物を面白くしている一つの理由は、登場する人物の言動から、その性格を割り出して、事件とのかかわりをより立体的に描き出していることである。例えば、今回の大和における畠山政長派と畠山義就派の戦闘をめぐり、経覚と尋尊の記述は対照的であるという。「経覚は刻々と変化する戦況を事細かに記している。古市胤栄ら事情通から聞いた話をそのまま書きつけている印象があり、生々しい。一方、尋尊は情報を整理し、全体の状況を俯瞰している。あたかも合戦の当事者であるかのように身を乗り出す経覚と、戦乱から距離をとる尋尊。記主の個性がはっきりと浮かび上がる。」(78-79ページ) 
 こうした個性の持ち主たちが、戦乱にどのように対処することになるのであろうか。それはまた次回以後に。

ダンテ・アリギエリ『神曲 天国篇』(10-2)

1月12日(木)晴れ

 ベアトリーチェに導かれて地上から展開へと旅立ったダンテは、月天で<誓願を果たさなかった人々>、続く水星天で<地上での栄光を追い求めた人々>、金星天で<人と人とを結びつける愛>を神への愛よりも重んじることがあった人々の魂に迎えられた。彼らの中にはダンテの旧知や、歴史的に有名な人物が含まれ、彼らを通じて、彼は地上に平和をもたらし、正義を実現する使命をローマ帝国が与えられてきたことを知る。さらに太陽天に達した彼は、光り輝く輪と甘い歌声とに囲まれる。

天空の宮廷、私がそこから戻ってきたあの場所には、
貴重で美しい数多の宝石がある、
その王国から抜き出したかのごとくに描くことはかなわぬほどの。

そしてあの光輝達の歌もその宝石の類だった。
その高みまで飛翔する翼が生えぬようなものは、
話せぬものに天上の知らせを求めるがごとし。

それらの燃え上がる太陽たちは、それほどに美しく歌いながら
両極点の近くにある星々のように
私達の周囲を三度回った後、

まるで、踊りの輪を解かずに、
耳を澄まして新たな調べが聞こえるまで
黙って立ち止まっている貴婦人達のように見えた。
(156-157ページ) ダンテは、彼が太陽天で見た光景は筆舌を絶したものであった、「その高みまで飛翔する翼が生えぬ」=天国に行けないような輩にはわかるわけがないという。

 そのような輝きが誰の魂であるのかダンテが知りたいと思っていることを察してか、光の1つが話しはじめる。
「・・・
君が知りたく思うのは、天空に昇るにふさわしい力を君に与える
その美しい貴婦人を取り囲み、恋い焦がれて見とれるこの花冠が
如何なる植物の花で飾られているかである。
・・・
(158ページ) その魂は自分の右にいるのがケルンの神学者アルベルトゥス・マグヌス(1206-80)、自分自身はトマス・アクィナス(1225-74)であるという。彼らはイスラーム経由でアリストテレスの学説を学び、キリスト教神学を体系化した人々である。さらにトマスの魂は、教会法の基礎をまとめて教会と市民生活の両方に貢献したグラティアヌス、大学で教科書として使われた『命題集』の著者であるペトルス・ロンバルドゥス、さらにはこれらの魂の中で最も美しく輝いているのが古代イスラエルの王ソロモンのたましいであるという。彼は旧約聖書の中の「箴言」「コヘレトの言葉」「雅歌」「知恵の書」の作者とされてきたが、「列王記」に登場する預言者アヒヤの言葉によれば、イスラエルの神を捨て、異教の神を拝み、神の道を歩まず、神の目にかなう正しいことを行わず、父であるダビデのようには、掟と法を守らなかったという否定的な側面も持っている。このため中世には彼が天国にいるか、地獄にいるかという議論があったと翻訳者の原さんは傍注に記している。ダンテがソロモンを天国において、「真実の書」である『聖書』の中の彼の言葉は真実のものであると述べているのは、この文脈において注目すべき見解である。

 次に彼は新約聖書の「使徒言行録」でパウロがアテネで布教した際に信者になったと伝えられるディオニュシオス(ダンテは、彼が『天使位階論』の著者だと信じていたのだが、実はこの書物はもっと後の時代になって書かれたものだとされている)、アウグスティヌスの命令でキリスト教時代を称揚する立場から「異教徒に対売る歴史」を書いたパウルス・オロシウス、『哲学の慰め』の著者であるボエティウス(480頃‐524)の魂を見る。ダンテはしばしば「中世最後の人」と呼ばれるが、ボエティウスは「古代最後の人」と呼ばれている。
 さらにセヴィリアのイシドルス、『自然物について』の著者であるベーダ、神秘神学者のリカルドゥスの魂が炎を噴き上げている姿、トマス・アクィナスと論争した神学者のブラバンのシゲルス(1226頃‐83)の魂が見える。彼は正統派神学者たちから異端とされていたのだが、ダンテは彼を天国に置いている。
 トマスの言葉が終わると、あたかも時計が時を刻むように、
・・・ 神の花嫁が起きだし、
花婿に朝の歌を届けて愛を求める刻限になると 
私達を呼ぶ時計、

その中ではある歯車が引き、別の歯車は押し、
清々しい響きでティン、ティンと音を奏でると、
善き心根で待っていた霊は愛に満たされるのだが、

栄光に満ちた輪がそれと同じように動き出し、
喜びが永遠となる場所の外では
知ることのできない調和がもたらす甘美な音で、

歌声が歌声に応えるのを私は見た。
(164-164ページ) 翻訳者の原さんは「花嫁=教会」、「花婿=キリスト」として、傍注でこの個所を詳しく解説している。ここでは当時時計が発明されたばかりであったことに注目しておこう。
 ここで第10歌は終わるが、ダンテはこの後さらに太陽天で彼を迎えたトマスの霊と対話を続ける。第9歌でダンテの政治論は一応終わったのだが、これからは神学論が本格的に展開されることになる。

長い橋

1月11日(水)晴れ

長い橋――元好問の五言律詩による

そのままにしておけば
遠くへと逃げ去ってしまう
過去を
歴史という橋で
つなぎ留めたいと

あちらこちらに残された
史料を尋ねて
私は旅を続ける
集まった史料の重さで
痩せ馬は苦しそうに歩む

霧雨に覆われた
村に通りかかる
鳥の声だけが聞こえて
人の姿はまったく見えない

どんよりと垂れこめた雲が
時々切れて
日の光が差し込むと
野原の広がりが見える
向こうに見えてきた
低い山の
さらに向こうに向かって
ガンの群れが飛んでゆく

霧雨は冷たく
吹き付ける風はさらに冷たい
私はまだ遠くへと
旅を続けなければならない
疲れた心を励ましながら
景気づけに飲んでみた
酒のぬくもりはとうに消えてしまった

都会の賑わい
東西南北の方向
何もかも忘れて
前を見つめると
幻のように
長い橋が続いているのが見える

志賀直哉と岩元禎

1月10日(火)晴れ

 昨年の末に、森鷗外の『青年』と夏目漱石の『三四郎』について書いた。この2つの作品はともに、明治の末に地方から東京に出てきた青年の出会う新しい経験を描いたもので、一種の<教養小説>と見ることができるが、主人公の成長の過程を描くという意味では、物語られている期間があまりにも短く、その短さをどのように解釈するかという問題が残る。またこの2つの作品を通じてうかがわれる鷗外と漱石のヨーロッパ文明に対する姿勢の違いにも注目する必要があるというようなことも書いておいた。簡単に言えば、鷗外は明治初期の啓蒙的な気分、ヨーロッパの新しい文物や思潮を取り入れて、日本をさらに開花させていこうという姿勢をもっていたのに対し、漱石はそれに対し懐疑的であり、19世紀から20世紀の転換期に現れてきたイプセンやニーチェに代表される思想に対する受け止め方にもそのことが現われているのではないかということである。

 しかしヨーロッパの文明に対する受け止め方は、啓蒙と懐疑という2つに尽きるわけではない。ヨーロッパの文明をその表面だけではなく、古典にまでさかのぼってとことん追求してみようという考え方をする人物もいた。旧制第一高等学校でドイツ語と哲学を教えていた岩元禎は、そういう人物であった。彼を『三四郎』に登場する<偉大なる暗闇>広田先生のモデルだというのは、一種の伝説にすぎないが、岩元が安定期を迎えた日本の教育の世界で、新たに出現し始めた教師の代表的な一例であったことは否定できないだろう。

 それでは、彼らに続く世代、特に『青年』の小泉純一や『三四郎』の小川三四郎とほぼ同世代の人々は、日本人としてどのようにヨーロッパの文明を受け止めるかという問題をどのように考えていたのか。その一例として、志賀直哉(1883-1971)を取り上げてみたい。
 柳田国男(1875-1962)は昭和32年(1957)12月から翌年3月にかけて『神戸新聞』に連載し、後に単行本としてまとめられた『故郷五十年』のなかで、明治39年の日記に「志賀直哉といふ人、ピネロの作全部を買ひたりと、如何なる人にや」(講談社学術文庫版、209ページ)と書いたと記している。柳田は30を過ぎたばかり、志賀は23歳か24歳で、東大の英文の学生であった。ピネロは、この時期人気のあった英国の劇作家で、志賀は英文科だから、彼の作品を読んでも不思議はない。ところが、高橋英夫による岩元禎の評伝『偉大なる暗闇』によると「この頃もしかすると志賀直哉は日本中の大学生で一番たくさん原書を買っていた一人ではなかろうか」(205ページ)という。そしてそう推測する理由として、柳田の回想を引き合いに出している。さらに推測を重ねて、そのような大購書家(大読書家ではない)としての志賀直哉(後年、書物とは縁のないような作家生活を送ることになる)の背後に岩元の影響を見るのである。
 高橋によると、岩元はある事情から、志賀直哉のドイツ語の家庭教師をしていたことがあって、学習院から東大に進学する時期の志賀の日記には岩元への直接・間接の言及がみられるという。そういう日記の一部が何個所か引用されているのだが、特に印象に残った個所を引用する。

○或る人が、近世文学だ、何んだアいつて、ギリシャ、ローマの文学にも精通せずに何がワカルものかといふ。
 此人の説だと、イプセンやトルストイなどを見る暇にホーマー、エシロスでも研究しろといふのだ。此人はホーマーと、エシロスさへよくワカれば、イプセンや、トルストイは自然にワカルものゝやうにいふ。
 絵についても同じ事をいつてる、
 イプセン劇の前編が、ホーマーに書いてあるのぢやあるまいし、ホーマーを知らなくて近世文学がワカルものかといふのからして可笑しな事だが、ホーマーやダンテさへ見てゐれば、今のものは直ぐワカルという理屈があるものか、殊に絵などは、左うである。
 人の命が千までも万までもあるものと思つてゐるのが誤りである。(高橋『偉大なる暗闇』(講談社文芸文庫版、209-210ページより重引、エシロスはアイスキュロスのことである。)

 近世(近代)文学について知るために、古典から学ぶ必要はないという志賀の議論はそれはそれで筋が通っている。ここで批判されている「或る人」は高橋が推測するように岩元であろう。近世は中世の批判、古代への回帰から始まるとすれば、近世を知るためには古典を知る必要があるという議論も成り立つ(ほかにも様々な議論が成立しうる)。要するに志賀が書いている「わかる」ということの内実をどのように考えるかによって議論が分かれる。
 人生は短い(だけでなく、時代の変化は激しい)からじっくり根源までさかのぼってヨーロッパの文明を理解しなくてもよいのだというのは、杉田玄白の『蘭学事始』に見られる「素意大略」の精神と通じるものを感じる。『解体新書』の翻訳作業から出版をめぐる玄白と前野良沢の対立を描く菊池寛の小説「蘭学事始」を思い出し、志賀と菊池の間にはこの点で共通する文明観があるのかもしれないなどと考えているのである。(前野良沢の方が岩元禎とつながっているところがある。)
 さらに他の作家の例を視野に入れながら、日本の近代文学におけるヨーロッパ文明の受容の問題について考えていくつもりである。

『太平記』(140)

1月9日(月)朝のうちは雨が残っていたが、その後次第に晴れ間が広がる。

 後醍醐天皇を迎え入れた延暦寺に対抗するため、足利方は、戒壇の造営を約束して三井寺を味方につけた。建武3年(1336)正月13日、北畠顕家率いる奥州・関東勢が比叡山の宮方に合流した。三井寺に攻め寄せた宮方は、細川定禅の軍勢を追い落として伽藍に火をかけた。

 いったん都を追われた宮方の反攻がここから始まるのだが、『太平記』の作者はここでそのまま戦況を描写するのではなく、三井寺の梵鐘をめぐる説話を持ち出してくる。
 これまで何度か三井寺は比叡山の攻撃を受けてその伽藍を炎上させてきたが、その際には9つの乳頭状のいぼのある釣り鐘を地中に埋めて隠してきた。今回はそのようなことをしなかったために、釣り鐘は、焼けて地に落ちてしまった。この鐘というのは、竜宮城から伝えられた鐘である。

 なぜ三井寺にこの鐘が伝わっているかというと、年号が承平(じょうへい)といった頃(=931~938)、俵藤太秀郷という人物がいた。ある時、この秀郷が、ただ一人で瀬田の橋を渡ろうとしたところ、長さ20丈(約60メートル)ばかりの大蛇が橋の上に横たわっていた。両方の目はらんらんと輝き、太陽が2つあるように見え、頭上には長い角が生え(ということは、ただの蛇ではないことが示されている)、鉄の牙が上下に生えていて、深紅の舌は炎を吐くように見えた。もし尋常の人がこれを見たならば、目がくらみ、気を失って、たちどころに地面に倒れ伏すに違いないという恐ろしい様子であった。

 しかしながら、秀郷は天下一の剛勇の士であったので、まったく動揺した様子を見せず、その大蛇の背中を荒っぽく踏みつけて、静かにその上を超えていった。ところが、大蛇の方も特に驚いた様子を見せず、秀郷も後を振り向くことをしないで、さらに進んでいったところ、異様な様子の小男が1人、突然、秀郷の前に現れ出て、次のように述べた。
 私はこの橋の下に住むこと、すでに2000年以上になり、橋の上を行き交うさまざまな身分の人々を見てきましたが、貴殿ほどの剛勇な人をこれまで見たことはありませんでした。私には年来土地を争っている仇敵がおりまして、ややもすればその敵のために悩ませれています。そこで、貴殿にその敵を退治していただきたいと思います。
 以上のようなことを丁寧に申し出たので、秀郷は、他には何も言わずに「承知した」と引き受けて、この男の後について、また瀬田の方に戻っていった。

 2人はともに琵琶湖の湖水を分けて、水中を歩いて50町(約5キロ余)ほど行ったところ、1つの楼門(上に高殿のある門)があった。その門を開けて中へ入ると、紺色の宝石である瑠璃が砂のように地面に敷き詰められ、玉が足元の道の敷石として使われ、落花がはらはらと散り乱れている。朱色に塗られた楼閣、紫色に彩った宮殿、その欄干は玉で作られ、鐺(こじり=屋根を支える垂木の先端に付ける飾り金具)は金であり、柱は銀で作られていた。その壮観綺麗は、秀郷がこれまで見たことも聞いたこともないものであった。
 案内してきた異様な姿の男は、まず奥の方に入っていって、一瞬のうちに貴族の正装である衣冠を整えて登場し、秀郷を客の座る上座へと案内した。左右に警護の役人たちが居並び、前後に華麗に装った美女たちが侍り、善美を尽くした宴会が開かれた。宴会が数時間に及び、夜も深まってきたが、そろそろ敵が押し寄せてくる時間であると、宴会の席が乱れて騒ぎが始まった。

 秀郷は、これまでずっと肌身離さず持ち続けてきた5人がかりで張る強い弓に、弦に絹糸をまき、漆を塗り固めた弓弦をつけ、それが滑らないように口に含んで湿らせて、三年竹の節目の詰まった矢竹を15束3伏という長さに拵えて、矢じりの根を矢の弓弦に当てる部分まで貫き通した矢を3本だけ選んで、今や今やと待ち構えていた。(このあたり、秀郷が普通以上に強い弓を持っていて、それに長い矢をつがえて怪物を退治しようと待ち構えていたということであるが、弓についての知識がないので、いい加減に口語訳している。心得のある方のご教示を乞う。)

 夜半過ぎに風雨が激しくなってきたかと思うと、しきりに稲妻が光。しばらく会って、比良山の方から、たいまつを2,3千が程2行にともしたような明かりが見え、その中に島のようなものが竜宮城をさして近づいてきた。落ち着いてよく見ると、この2行のたいまつは怪物の左右の手にともしたものと分かった。なんと、これはムカデのばけものであるのかと了解して、矢を射あてるのにちょうどよい距離になったので、先に述べた五人張りの強弓に十五束三伏という長い矢をつがえ、矢の長さを忘れるぐらい、一杯に引き絞って眉間の真ん中をめがけて矢を射る。哲を射た時のような、手ごたえの音が聞こえたのだが、矢が逆向きに跳ね返ってきて、相手に突き刺されない。秀郷は、一の矢を射損じて、面白くない気持ちでいっぱいになって、二の矢をつがえ、また先ほどと同じところを狙って弓を射るが、この矢もまた第一の矢と同じく、跳ね返って、少しも相手に突き刺さらない。

 秀郷は2本の矢を使ってしまい、頼むはあと1筋の矢だけになった。どうすればよいかと思っていたが、ふと思いついたことがあって、矢を射る前に自分のつばを吐きかけて、また同じ場所をめがけて矢を射た。ムカデやクモは人間のつばを受けると死ぬということのためか(これは俗信だそうである)、同じところに3度まで矢を受けたためであろうか、この矢はムカデの眉間の真ん中を通って、のどの下までも貫き通した。2,3千本は見えていたたいまつも、光がたちまちに消えて、島のように見えていたものも倒れる音が大地に響いた。近づいてこれを見ると、果たして大ムカデであった。

 竜神は秀郷が大ムカデを退治したのを喜んで、秀郷を様々にもてなして、巻絹を1つ、鎧一両、口を結わえた俵1つ、赤銅の推鐘(つきがね)1つを与えて、貴殿の子孫からは、必ず将軍になる人が多く出るでしょう」との言葉を贈る。秀郷が都に帰って後、この絹を切って使うと、尽きることがない。俵は中身を出しても出しても尽きないので、財宝は蔵に満ちて、衣装は有り余った。それで、彼の名を俵藤太というようになった。俵は産業の財だからといって、米蔵に収め、金は寺のものであるからと、三井寺にこれを奉納した。

 文房3年に延暦寺僧たちが三井寺を襲い、この鐘を奪って比叡山に持ち帰って朝夕これを撞いたのだが、一向に鳴らないので、山法師たちはこれを憎んで、どうしても鳴らせてみようと、巨大な撞木をこしらえて、2・30人がかりで鐘が割れてしまうほどの強さで撞きたてた。そのときに、この鐘は鯨が吠えるような声(そんな声があるのかね⁉)で「三井寺へ行こう」となった。比叡山の衆徒たちは、いよいよこれを憎んで、比叡山の別所である無動寺の上から、高い岩の上を転ばせたので、鐘は2つに割れてしまった。いまさら何の用に圧だろうかというので、その破片をとり集めて三井寺へと送り返した。ある時、1尺ばかりの小さな蛇がやってきて、この鐘を尻尾で叩いていたが、一晩のうちにまた元の鐘になって、どこにも傷が見つからなかったということである。

 今回の三井寺合戦が終わったのちに、この鐘を寺の上、一の坂に埋めて隠していたのであるが、4月のころ、後夜(夜半から夜明けまで)に鳴らす鐘の音がたしかに聞こえてくるので、あちこちに逃げ隠れていた三井寺の衆徒は、これを聞いて、三井寺はこの御代でそのまま終わってしまうことはない、将軍(尊氏)が戻ってきて、寺が再興されるだろうと、心強く思ったことであった。それで、この鐘は今に伝わって、その音を聞く人は、煩悩のために永遠の夜の闇に閉ざされたこの世の夢から覚め、弥勒菩薩がこの世にやってきて衆生を救う日を待つのである。まさにこの鐘こそは天下に並ぶもののない重要な宝である。

 それだけでなく、寺の敷地を比叡山の僧兵3人が与えられて、山の木を切って薪にし、寺の坊舎を破壊し、残らず切り取ったのだが、その際に三井寺の鎮守である新羅明神社の森を切ろうとしたものは、たちまちに目が見えなくなり、鼻血を出し、手足がもげてしまい、木の枝1本も取れなかったことも不思議なことであった。

 豊田武『英雄と伝説』(塙新書)によると、藤原秀郷のムカデ退治の伝説が最初に語られているのは、この『太平記』で、その後室町時代に成立した『俵藤太物語』によってさらに形を整えたそうである。ここで大蛇は竜神の化身であるが、その後の伝説では竜女ということになる。また大ムカデは比良山の方から現われているが、その後の伝説では逆方向の三上山から出現することになる。歴史上の藤原秀郷は、東国で中央政府に対する反乱を起こした平将門を、彼の従弟である平貞盛と協力して討伐したことで知られる。『太平記』では竜神から貰った俵のおかげで富栄えたので、俵藤太というようになったといわれているが、近江と山城にまたがる、瀬田川沿いの田原荘を本拠といたことから田原藤太といったというのが本当のところのようである。彼自身と、彼の子孫から鎮守府将軍になった武士は出ているが、子孫中の一番の有名人は西行であろう。また、『太平記』にしばしば登場する、結城氏、小山氏などの武士たちも、秀郷の子孫である。なお、竜宮というのは竜神の住むところで、『太平記』第12巻の神泉苑をめぐる空海と守敏の物語に描かれているように、竜神はあちこちにいるから、琵琶湖の竜神がいて、竜宮があるのは不思議ではないので会える。
 前回は三井寺のことがあまりよく描かれていなかったが、今回は、三井寺にも不思議な守護の力が働いていることを述べて、その顔を立てた形になっている。次回はいよいよ、京都での合戦の様子が語られることになる。
 

『非常線の女』、『簪』

1月8日(日)曇りのち雨

 神保町シアターで「没後40年特別企画 女優・田中絹代」の特集上映から、小津安二郎監督の『非常線の女』(1933、松竹鎌田)と清水宏監督の『簪』(1941、大船)の2作品を見る。『非常線の女』はサイレント映画で、ピアノの生伴奏つきの上映であった。

 日本映画の二大女優というと、田中絹代と山田五十鈴だそうである(津村秀夫の意見だが、その意見を『物語近代女優史』の中で紹介している戸板康二も特に異論はないらしい)。それぞれの生前に映画やテレビにおける出演作を見たこともあり、その限りにおいて同時代人といえるかもしれないが、私の母親よりも年長で、それぞれ生きていれば100歳を超える年齢なので、多少の距離感を持ってしまうところがある。とはいえ、たとえ、サイレント映画であろうと、その若く美しい時代の姿に接すると、そうした距離感は薄らいでいくのである。

 『非常線の女』は、小津安二郎もこんな作品を作っていたのかとびっくりするような異色作で、田中が扮する時子という女性が昼はタイピスト、夜はギャングの情婦という2面性を持った女性として描かれている(そのこと自体は物語づくり上の工夫といえなくもないが、どうも現実離れがしている)。職場の社長の息子が田中に夢中になるのだが、田中はその求愛を受け入れる気になれない。彼女と一緒にいる襄二(岡譲二)は表向きボクシングジムを経営しているのだが、裏ではいろいろな悪事を働いている。そこに、学生の宏(三井秀夫=弘次)が仲間に入れてほしいとやってくる。彼は和子(水久保澄子)という姉と2人暮らしで、弟を心配した和子が襄二のところにやってきて、宏を仲間から外してほしいと頼んでくる。弟思いで家庭的な和子に、襄二は魅力を感じ、それを知った時子は和子に嫉妬するが、実際に会ってみると彼女が気に入り、自分たちもやくざな世界から足を洗おうと思い始める。

 庶民派でかわいい感じの田中絹代が、ギャングの情婦のけばけばしい役柄を演じるのには無理があり、和子を演じている水久保澄子の清純な美しさに食われている感じがないでもない。時子の仲間の女性を演じている逢初夢子の妖艶な感じと3人3様の女優の個性の共演が見どころの1つにはなっている。後は、時子の職場や街頭風景の描写に見られる表現主義的な画面構成、光と影の使い分け、さらにビリヤード場、レコード店、キャバレー等の昭和一桁時代の東京の雰囲気のモダンさも見どころであろう。すでに映像の記号性を把握している感じの小津の映画作りが、ストーリーの貧弱さを補っている感じである。映像の記号性などと難しいことを書いたが、サイレントでモノクロという制限された表現の中で、何を言うかという努力の積み重ねは、目の前の事柄を漫然と撮影するような映画作りの何倍もの意味を持つということを改めて考えさせられたということである。
 家に帰ってから『ノーサイド』1995年9月号や、Wikipediaで調べてみたのだが、水久保澄子は戦前すでに日本映画界から姿を消して、その後消息不明であり、逢初夢子は五輪の水泳における銀メダリストであった遊佐正憲と結婚したことは知られているが、1985年以後の消息はこれまた分からないようである。

 『非常線の女』の入場券の整理番号が75番であったのに対し、『簪』は7番であった。両方まとめて買ったから、こういうことになったのだが、実際に『簪』の入場者は『非常線の女』に比べてかなり少なく、小津と清水の現時点における評価の違いを知ることになった。ただし、『簪』の観客は、意外に若い年齢層から構成されていて、あるいは昨年、シネマヴェーラ渋谷で行われた清水の作品の特集上映が、新しい客層を呼び込み始めているのかなと思わないでもなかった。清水はもっと評価されてよい作家だと思うし、この作品を見てその気持ちをさらに強くした。

 神保町シアターの壁面に貼り出されていた田中絹代の年譜によると、清水宏と田中絹代は一時期事実婚をしていたらしいが、『簪』はその2人が分かれて後の作品。井伏鱒二の「四つの湯槽」という小説が原作になっているそうである。(私は井伏鱒二の作品が好きで、その映画化もかなりよくみている方である。渋谷実の『本日休診』と、川島雄三の『貸間あり』がいいね。中村登の『集金旅行』は岡田茉莉子の美しさとトニー谷の芸が印象に残っている。)
 ある年の夏、山間のひなびた温泉宿に日蓮宗の題目講である蓮華講の一行が泊まりに来る。この一行は旅館の1階を借りるのだが、2階にはこの旅館にい続けている学者風の片田江先生(斎藤達雄)、納村青年(笠智衆)、若い広安(日守新一)とその妻、老人(河原侃二)とその2人の孫が泊まっている。片田江先生は、下の団体客がうるさいことに不満をもち、また団体客にあんまが独占されてしまったことに腹を立てる。
 露天風呂に入っていた納村青年は湯の中に落ちていた簪で足を怪我して、ひと騒動が起きる。蓮華講に加わっていた簪の持ち主である太田恵美(田中絹代)から簪をなくしたという手紙が来て、その簪で納村青年がけがをしたことが知らされ、恵美がお詫びに宿へ戻ってくる。片田江先生が簪の持ち主は美人か、不美人かなどと余計な想像をめぐらし、騒ぎ立てるのが面白い。恵美と納村青年は打ち解けるが、それ以上に2人の関係は発展しない。実は恵美は東京で愛人生活をしていたのが、その生活に嫌気がさしてやってきたのである。彼女は納村青年の歩行訓練を手伝ったり、子どもたちと遊んだりしながら、生活を見つめなおす。2階の客たちはいろいろな事件に遭遇することで、次第に仲良くなって、東京に戻っても、この結びつきを忘れないようにしようと約束するのだが、恵美には帰る家がないのである…。

 日蓮宗の講中が出てくるので、舞台は身延山の近くではないかと思ってみていたのだが、下部温泉だそうである。むかしの旅館はこんな感じだったなぁという思い出が私の年代にはかすかに残る。他人同士が毎日接触することで打ち解けていく、時として余計なことに首を突っ込んでしまう…という人情の動きが丁寧に、ユーモアを込めて描かれているのがいかにも井伏鱒二作品の映画化らしい。子どもたちの言動が生き生きと描かれ、物語の進行にも絡んでくるところに清水の技量が発揮されている。

 『非常線の女』を見ていると、アメリカ映画のような印象を受けるところがあるのだが、日本人の俳優が演じていることでどうも違和感を感じてしまう。『簪』はそれに比べると垢抜けがしない印象を持つが、その分、日本の風土に密着しているというか、安心して見ていられるところがある。田中絹代の出演作という共通点はあるが、両作品の性格はかなり違っている。どちらかというと、『簪』の方が田中の個性にはあっていると思うのだが、別の感想をもつ方もいらっしゃるかもしれない。

 『非常線の女』は1月4日、8日だけの上映であったが、『簪』は9日、11日、12日、13日にも上映される。田中絹代という女優についてだけでなく、日本映画の歴史について、さまざまに関心を広げる機会になると思うので、上映時間を確認のうえ、ぜひご覧ください。

日記抄(1月1日~7日)

1月7日(土)晴れ

 元日から本日までに経験したこと、考えたことなど:
1月1日
 穏やかな正月を迎える。
 サッカーの天皇杯(全日本選手権)の決勝は鹿島が延長戦の末、2-1で川崎を降す。

1月2日
 ニッパツ三ツ沢球技場で第95回全国高校サッカー選手権の2回戦:鹿島学園(茨城)対東海大仰星(大阪)、富山第一(富山)対那覇西(沖縄)の2試合を観戦する。第1試合は東海大仰星が後半にあげた1点を守って1-0で勝ち、第2試合は富山第一が3-0で那覇西を降した。

1月3日
 全国高校サッカー選手権の3回戦の一番近い会場である川崎の等々力総合競技場に出かけようと思っていたが、午前中ぐずぐずしていて時間が無くなる。

1月4日
 亀田俊和『南朝の真実 忠臣という幻想』(吉川弘文館 歴史文化ライブラリー)を読み終える。鎌倉幕府と江戸幕府が肯定的に評価されることが多いのに対し、その間に挟まった室町幕府は内紛まみれの貧相でみすぼらしい幕府であるという印象が付きまとっている。一方、この幕府と戦った建武政権やその後身である南朝は、幕府とは正反対に天皇に熱烈一途に忠節を尽くし、一致団結して幕府と戦った忠臣ぞろいであったという印象を持っている人が少なくない。この見解は特に皇国史観を代表する歴史家である平泉澄によって強く主張され、南北朝正閏論争とも結びついて大きな影響力を持ってきた。しかし、この考えを裏付ける歴史的な事実はあまりないと著者は言い、改めて歴史的な事実の掘り下げを試みている。特に南朝内部における皇位継承をめぐる内紛、第三王朝樹立運動や、圧倒的に優勢な室町幕府との講和を望むか、徹底抗戦を貫くかの対立などに焦点が当てられている。さらに「南北朝期の政治史は現代日本の政党政治と類似している点が非常に多いように見受けられる」(10ページ)という感想を著者が述べている点も注目してよい。とにかく、南北朝時代、室町時代をもっと研究しなければならないという意見には私も同感である。

1月5日
 川崎の等々力競技場で全国高校サッカー選手権の準々決勝2試合:東福岡(福岡)対東海大仰星(大阪)、正智深谷(埼玉)対青森山田(青森)の2試合を観戦する。昨年度の優勝校であり、高円宮杯U-18サッカーリーグ2016プレミアリーグ・ウエストで4位になった東福岡が優勢という下馬評であったが、その通り、前半風上に立って攻め立ててくる東福岡に対し、東海大仰星が必死に守るという展開となった。しかし後半になると東海大が時折攻勢に出る場面も出てきて、66分にコーナーキックのチャンスを得ると、ゴール前でのもみあいからDFの吉田選手がゴールを決めて1点をとり、そのまま東福岡の猛攻をしのいで初の準決勝進出を決めた。この試合で東福岡が5本のシュートを放ったのに対し、東海大のシュートはわずか1本でその1本が決勝ゴールになったということである。また、吉田選手は人生で初めてのゴールが決勝点となったとのことである。こういうのは忘れられないだろうね。東海大は風を計算に入れて、セット・プレーの機会を大事にしたのが勝利に結びついたように思われる。東福岡はバーに当たったシュートがあったのは不運であったが、全体としてプレーの精度が欠けていたようである。
 第2試合は、高円宮杯のチャンピオン・チームである青森山田が深谷正智を圧倒し、3-1で勝利をつかんだ。しかし深谷正智もこれまで無失点であった青森山田から終盤1点をもぎ取るなど、健闘を見せた。
 ところで、これら2試合で5本のゴールが決まったわけであるが、あとでスポーツ新聞で確認したところ、私が正確に記録していたのはそのうちの2本だけであったことが判明した。右足で蹴っていたと思っていたのが、左足だったというようなことである。目撃証言というのが、案外当てにならないことが自分の経験でもわかった。
 昨年だったか、横浜FCの試合のハーフ・タイムの解説で奥寺さんが風上の方が有利だとは言えないといっていたが、それはレベルの高いゲームの場合で、高校や女子のサッカーでは風上の方が有利ではないかと思う。もちろん、それを生かすことができればの話ではあるが…。

 椎名誠『あやしい探検隊 焚火酔虎伝』(ヤマケイ文庫)を読み終える。昨年12月24日付の「野菜を食べやさい」に「イモガラ木刀と日向かぼちゃ」という記事が出ていたが、この書物の第2章「南九州ばか湯ばか酒ばか唄旅」の中に、「貰(もろ)たもろたよいもがらぼくと/日向かぼちゃのよか嫁女」という宮崎県の民謡の話が出てくる。椎名さんは父親が宮崎の人だったそうで、この歌には改めて愛着を感じたそうである。

1月6日
 『朝日』朝刊のコラム「経済気象台」に「守破離の構造化」という文章が出ていて、いろいろと考えさせられた。「テレビ番組でフランス人女性が、日本のパンはフランスよりおいしいと話していたのを見たことがある。おいしいのはパンだけではない。フランス料理さえ現地で食べるより明らかにおいしい。外国の文化に学び、やがてそれを超え、独自の境地を切り開く「守破離」の精神をもって、日本のプロフェッショナルたちが創意工夫を重ねてきた結果であろう。その守破離の構造化である」という。そのパンや、フランス料理を、日本の庶民が日常的に食べているわけではない…という点にも目を向けるべきであろう。

 サッカーの前日本高校女子選手権の準決勝は東京の十文字学園が1-1(PK9-8)で同じ東京の修徳を、大阪の大商学園が0-0(PK3-2)で鹿児島の上村学園を破って決勝に進出した。2試合ともにPK戦にまでもつれ込む接戦であった。4チームの選手の健闘をたたえる拍手を送りたい。

1月7日
 NHKラジオ「攻略!英語リスニング」は”Lichen"(地衣類)を話題として取り上げた。
A lichen is a collaboration. (地衣類は共生体である。)
Lichens are formed of a type of algae that lives inside a fungus. (地衣類は菌類とその中にいる藻類でできている。)
藻類は光合成で養分を作り、菌類は水や養分を集めて、藻類を周りの環境から守っているという。このため、地衣類は過酷な環境でも生き延びることができるということだそうである。なかなか面白いが、見慣れない、聞きなれない単語が多く出てくるので手ごわい話題でもある。

 全国高校サッカー選手権の準決勝は青森山田が東海大仰星を2-1で、前橋育英が1-0で佐野日大を破って決勝に進出した。東日本の代表校同士の決勝戦となった。

呉座勇一『応仁の乱』(4)

1月6日(金)晴れ

 応仁の乱は応仁元年(1467)から文明9年(1477)まで11年間にわたって繰り広げられた大乱である。戦闘は主として京都の洛内で行われたが、その影響は全国に及んだ。この書物は大和の興福寺の大乗院の門主であった九条家出身の経覚の日記『経覚私要抄(本来は金偏の字が使われているが、こちらで代用。意味に違いはない)』と、その後に門主となった一条兼良の息である尋尊の日記『大乗院寺社雑事記』とを主な史料として、応仁の乱の経緯をたどろうとするものである。
 鎌倉時代から南北朝時代、室町時代を通じて大和の国の事実上の守護は興福寺であったが、興福寺の主要な院家(いんげ)である門跡の大乗院と一乗院の対立により、興福寺別当の支配力は低下し、両門跡が実質的に守護の職権を行使した。しかしその支配は奈良と奈良盆地に限られ、さらに親室町幕府的な一乗院方の筒井と反幕府的な大乗院方越智という武士の対立が大和での紛争の基本的な軸となった。
 大乗院の門主であった経覚は幕府との良好な関係を活用して、興福寺支配、ひいては大和支配を目指し、幕府の権威を借りて大和国内の紛争を止めようとした。しかし、幕府軍の大和進駐は興福寺の威信を低下させ、紛争を拡大させる恐れがあるとして反対であった。将軍足利義教は当初大和における紛争への幕府の介入には消極的であったが、積極介入に踏み切ると、ますます戦火は拡大してしまい、経覚との対立が深まり、永享10年(1438)8月に経覚は大乗院の門主を解任される。
 ところが嘉吉元年(1441)5月、義教が赤松満祐・教康父子に殺されるという事件が起きる(嘉吉の変)。この機会に乗じて経覚は越智一派の軍事力を利用したため、それまでの調停者的な立場から、親越智・反筒井の旗を掲げることとなった。その後、越智と筒井の戦いは京都における幕府内の勢力争いとも関連して続くが、筒井一派が優勢になり、尋尊が大乗院の門主に返り咲き、一応の安定が生まれる。ところが、大和に影響力を持っていた河内守護の畠山氏の内部で内訌が起こり、筒井一派もこれに巻き込まれていくことになる。

 大乗院の門主を退き、隠棲していた経覚であるが、大乗院尋尊から多くの荘園をあてがわれ、そこからの収入で裕福な生活を送っていた。中でも重要な荘園が、越前国河口荘の細呂宜郷下方であった。経覚は荘園の経営を、越前守護代の甲斐常治に任せていたが、実際に現地を治めているのは代官の甲斐八郎五郎であり、経覚は側近の稲葉元次を派遣しては甲斐との交渉を行っていた。ところが長禄2年(1458)7月になると越前守護の斯波義敏と甲斐常治の間で合戦が起こり、それまで比較的順調に届いていた年貢が経覚のもとに届かなくなった。合戦は斯波義敏の勝利に終わり、荘園の役人たちが逃走してしまったため年貢の取り立てが出来なくなった。そこで尋尊と経覚は相談して、興福寺大乗院の直接支配に切り替えることとして、幕府の承認を得たが、越前北部を実効支配していた堀江利真がそれを拒否する。その背景には将軍家に次ぐ家格・実力を持っていた斯波氏を抑えるために、その家臣であるが直臣に近い扱いを受けていた甲斐氏を重用してきた足利将軍家の政策と、それに対する斯波氏の側の反発とがあった。こうして年貢収納はますます困難になったが、その結果、交渉能力に優れる経覚に活躍の場を再び与えることともなった。

 さて、畠山氏の内訌であるが、将軍義政とその側近の伊勢貞親は、家督を争っている義就と政長の両方の顔を立てようと、長禄4年(1460)9月に義就は隠居し、その猶子である政国に家督を譲ることを命じる。ところが義就はこの決定に対する不満を露骨に示し、京都にある家臣たちの屋敷を焼き払った。これに怒った義政は政長を家督と認めた。
 さらに義政は同年閏9月に、管領である細川勝元以下の諸大名と畿内周辺の有力武士に畠山義就討伐を命じた。ただし、これらの軍勢は積極的に義就方を攻撃する意欲はなかった。この月に細川勝元、筒井一派(とその興福寺における代表者である成身院光宣)の支持を受けている畠山政長が大和に入り、さらに河内への進出の足掛かりを固める。
 数に勝る畠山義就は、河内で迎え撃つのではなく逆に政長方を攻めるという積極策に転じて、10月10日の明け方に政長が籠もる龍田城を攻撃、別動隊は平群郡の嶋氏の城を攻撃した。筒井勢は完全に虚をつかれ、初動が遅れたが、結果的にそれが幸いして、筒井順永の手勢と成身院光宣の手勢が龍田城を攻める義就税の背後を襲ったため、挟撃する形となり、大勝を収めた。嶋城を攻めた義就方の別動隊も敗走した。こうして大和から義就方が一掃された。
 余計な話を書くが、ここで筒井方として出てくる嶋氏は島とも書き、その後も筒井氏の家臣として重きをなす。関ヶ原の戦いの際に石田三成の配下の武将として戦った島左近はこの一族である。

 敗走した畠山義就は南河内の嶽山城(現在の大阪府富田林市に所在)に立て籠もる。幕府は追討軍を派遣するが戦果はあがらず、結局成身院光宣や筒井順永らの大和衆の活躍で嶽山城は陥落、義就は高野山、さらに吉野へと逃れることになる。寛正4年(1463)、将軍義政の実母である日野重子が死去し、そのために恩赦が行われて、義就も赦免を受ける。しかし、家督は依然として政長であるので、そのまま吉野の奥の天川に潜伏、越智家栄の支援を受ける。他方、筒井順永は畠山政長との関係を深める。
 この時、斯波義敏もまた恩赦を受け、その結果、斯波氏の家督をめぐる争いも複雑なものとなる。

 このように畿内をはじめ各地で戦闘が続き、室町幕府を構成する有力大名の間でも家督をめぐる争いが起きている。このような乱世の様相は鎌倉時代の終わりごろからずっと続いているようである。なかなか、応仁の乱までたどり着かないが、年代をかなり詳しく書いておいたので、乱の勃発まで間があまりないところまでやってきたことがお分かりいただけると思う。
 

ダンテ・アリギエリ『神曲 天国篇』(10-1)

1月5日(木)晴れ、風が冷たい

 地球の南半球にある煉獄山の頂上の地上楽園から、ベアトリーチェに導かれて天空の世界に旅立ったダンテは月天で<誓願を果たさなかった人々>、水星天で<地上での栄光を追い求めた人々>、金星天で<人と人とを結びつける愛>に生きた人々の魂に迎えられる。これらの魂は至高天で神とともにいるのだが、そこでの神との距離をダンテに示すために、至高天から離れた世界へとやってきているのであるという。ダンテはここまでの遍歴を通じて、全き愛に発するキリスト受難により人類は原罪を赦されたこと、そのことが全人類を統治するように神に定められたローマ帝国の正統性と結びついていること、あらにその帝国を成立させている原理が友愛であることを学んできた。

 そしてダンテは太陽天に達する。
第一の、言葉で言い表すことのできない御力は、
自らと子が永遠の息吹によって在らしめる愛を通じて、
子を深く見つめることにより、

知性のうちに、そして空間のうちに回転する全事物を
あれほどの秩序のもとに創造された。ゆえに、
それを見るものにその御力を味わわせないではいられない。
(150ページ) キリスト教の神には父・子・精霊という3つの位格があり、父である「第一の…御力」は、その「御力」と子である知の両者から流出する精霊、すなわち「愛」を通じて、知により全宇宙の創造を行ったとダンテは述べる。その宇宙は内部で、「知性」を体現する天使たちが天空を回転させている、きわめて秩序だったものである。言い換えれば、知的に創造されていることが強調されている。(すでに述べてきたように、ダンテはプトレマイオスの天動説に従って、彼の宇宙を描き出している。この考えによると、各天体は猛烈なスピードで地球の周りを回るだけでなく、その回転軌道上でさらに回転軌道を描きながら運行している⇒これを周転円の説という。確かに「知的」であるかもしれないが、もっと簡単に説明のつく天体理論を見つけようとしていないのである。)

それゆえ読者よ、私とともに
視線を至高の天輪へと、その中でも
一つの運行と別の運行がぶつかるあの場所へとまっすぐに向けたまえ。

あの匠の創造の御業を観想する喜びはそこからはじまるのだ。
あの方は、ご自身のうちにあるそれを愛され
決して目を逸らされぬほどゆえに。
(150-151ページ) 東西に動く太陽の軌道である日周円、つまり天の赤道と、1年で天球上の位置を西から東へと動く黄道の交差点である春分点が「あの場所」と呼ばれている。春分は復活祭と結びつき、ダンテはまさにこの祭典のさなかに天界を旅しているのである。それだけでなく、春は地上に生命がよみがえってくる季節でもある。

 ダンテは地上世界が星の影響を必要とし、その星の影響を通じて、季節の移り変わりや世界の多様性がもたらせるとうたっている。地上世界にも神の完全性の痕跡を見出すことができるという。こうして、これまで調和の音楽として表現されてきた宇宙の完全性は、神の創造に由来することが明らかにされた。そして、これからさらに重要なことを語るために詩は難解になっていくが、必死になってついてきてほしいと読者に向かって呼びかける。

天空の力により地上世界に型押しし、
その光により私たちのために時を計る、
自然界を統べる宰相は、

前述のあの場所へと
いたり、毎朝少しずつ早く姿を現しながら
螺旋軌道上を回っていた。
(152-153ページ) 「自然界を統べる宰相」は太陽のことを言う。「あの場所」は春分点である。これらの詩句からダンテたちが太陽天に入ったことが分かる。

 ベアトリーチェはダンテに、ここまで彼を引き上げてくれた神に感謝するように命じ、その言葉に従ってダンテは神に感謝する。
すると私の愛のすべてはその方に向かい、
ベアトリーチェは忘却の中で欠けて薄れていった。
(155ページ) ベアトリーチェの存在を忘れるほどに、ダンテは神と一体化したのである。
それを彼女は不快と思わず、むしろそのことに微笑み、
彼女の微笑む目の輝きは、
その方と合一していたわが知性を複数の対象へと向けた。
(156ページ)

私は見た、圧倒するかのような烈々たる幾つもの光輝が
私たちを中心に置き、王冠を作って取り囲むのを。
声は目に映る輝きよりもさらに甘美だった。
(同上) 太陽天までダンテを迎えにやってきたのはどのような魂たちであったのだろうか?

 ここまで来て、叙事詩はいよいよ神学的な性格を強めてくるが、当方としては韻文の美しさと、ダンテの中世的な宇宙観に主な関心を向けながら読み進んでいくつもりである。
 

夏目漱石『三四郎』(2)

1月4日(水)晴れ

 『三四郎』は明治の終わりごろに大学に入学してきた学生の「新しい空気」の中での経験を描いた小説である。この小説は明治41年(1908)の9月1日から11月29日まで117回にわたって『朝日新聞』に連載された。当時はまだ東京と京都に2つ帝国大学があるだけであった(そのほかの私立学校は「大学」と称していても、専門学校という法律的な位置づけであった)が、新しい学年は9月から始まることになっていて、それだけで身近な思いをして連載小説を読みふけった青年が少なくなかったはずである。
 高橋英夫は三四郎と同じく、明治41年に旧制高校を卒業して東京帝国大学に入学してきた学生として、一高から谷崎潤一郎、辰野隆、末広厳太郎、今井登志喜、落合太郎(Wikipediaによると、彼は京大卒である)、三四郎と同じく五高からは古荘四郎彦、京都の三高からは片山哲、仙台の二高からは斎藤勇らの名前を挙げている。政治家として首相にまでなった片山、銀行家の古荘、文学者の谷崎は別にして、その他の人物が欧米の学問の輸入を通して日本の学術の確立に努めた人々であることが確認できる。

 同じく高橋の指摘を借りると、明治時代の前半には教育制度が整備されず、したがってそこで学問を修めて旧制高校・帝国大学の教師になるものの学歴はまちまちであったが、三四郎の時代になってくると、学制は固定し、教員の地位にも安定、定着の気配が生じてくる。そこから新しい時代の教師が出現してくることになる(ただし、この時点ではまだ彼らの受けた教育はそれ以前の形の定まらないものであった)。漱石はそうした新しい教師の典型として広田先生を描いている。「近代国家を目指して休みなく進展を続ける時代から取り残されたような内面性、つまり「偉大なる暗闇」と呼ぶしかない内面性を秘めていることによって、広田萇はその時代の新しいタイプを逆説に体現していた。草創期の教師には見いだせなかった内面的な精神性がそこにはあった」(高橋、講談社文芸文庫版、34ページ)。高橋も述べているように、広田萇のモデルが誰かということになれば、漱石自身にほかならず、広田先生の言行は漱石自身の内面の反映であったと言えよう。しかし、この時期、特に旧制高校の教師には、外国の新しい動きを日本に紹介して、日本社会の進展に寄与するというのとは違う態度が現われていたのである。こうして、旧制一高の名物教師であった岩元禎や、二高の名物教師であった粟野健次郎が広田先生のモデルであるという伝説が出来上がってくる。岩元の場合、外国の文化の祖述・紹介という啓蒙的な活動よりも、むしろその外国の文化の問題点、その問題点の根幹となっている精神的な源流をあくまで極めようという態度が、現れてくる。ケーベルの学生であった岩元は、ケーベルから古典までさかのぼって哲学を掘り下げることを学び、哲学の新しい潮流を追うことよりも、ギリシア・ローマ(さらに注目すべきことには、中世ヨーロッパのスコラ)哲学の探求に従事したのであった。(しかも、そこから新しい学説を唱えるとか、書物を書くという活動をしなかったので、「偉大なる暗闇」といわれることになったのである。)

 さて、ここで問題になるのは、漱石の『三四郎』にも、鷗外の『青年』にもイプセン(この当時は「イブセン」と呼ばれていた)やニーチェへの言及があることである。日本は幕末・明治維新の時期から欧米の科学技術・思想文化を猛烈な勢いで学んで、欧米に追い付こうとしていたのだが、日本が迷いなく欧米の文物を輸入していた時期に、欧米の方では思想的な危機が進み始めていたのである。イプセンやニーチェはそのような思想的な危機を鋭敏に感じ取り、表現した知識人であったが、日本にはその「新しさ」だけが伝わり、「危機感」やその「危機感が根差すもの」への関心は十分なものではなかったように思われる。もっとも、岩元の「暗闇」あるいは沈黙をそのような危機感と結びつけて考えることは可能である。
 思想的な危機を感じた欧米の学者の中には、ショーペンハウアーに代表されるように東洋の思想に目を向けるものもいて、そこから日本でも東西思想の融合という考え、さらには東洋の西洋に対する精神的な優越という考えを抱くに至る人々が現われることになる。漱石の文学作品の中にもそういう考えの切れ端のようなものを探ることは可能である。

 『三四郎』の中で語られるイプセンが、おそらくは「人形の家」だけのイプセンであるのに対し、『青年』の中で鴎外は、(皮肉なことに漱石をモデルとした)坿石にイプセンのより多くの作品を引き合いに出して、文学論を展開させている。しかし、鴎外が作中人物に展開させるイプセンの思想はあくまで理想主義的・啓蒙的なところにとどまっていて、彼の社会批判や危機意識には及んでいない。危機意識という点から見れば、漱石の方が深いものをもっていたかもしれないのである(このあたり、もう少し彼の作品を読み直してみないけない)。
 思うに、鴎外は漱石よりも5歳年長で、明治初期の啓蒙思想を考えるときに、象徴的な年である明治6年に鷗外は11歳、漱石は6歳、社会の激動期にこの5歳の年齢差は大きいのである。しかも鷗外は早熟で年少にしてドイツに留学し、漱石はかなり年をとってから英国に留学した。だから2人の欧米体験には大きな違いが生まれても不思議はない。鷗外が欧米の日本に対する優越の意識や、啓蒙主義を脱することができなかったことの一因はこのようなところにあるのではないかと思う。
 だからといって、私は鷗外を軽んじろと言っているわけではない。『青年』の中で、登場人物の大村はこんなことを言う。「さて、これからの思想の発展というものは、僕は西洋にしかないと思う。Renaissanceという奴が東洋には無いね」(新潮文庫版、183ページ)。これは注目すべき断言である。鷗外は日本はまだまだ欧米から学ぶべきものがあると考えているが、それには十分な根拠が示されているのである。そう思いつつ、私は福本和夫の日本ルネサンス論などをまじめに取り上げる必要があるのかなと思い始めている。 

夏目漱石『三四郎』

1月3日(火)晴れ、温暖

 昨年、12月27日に夏目漱石『三四郎』を読み直し終えた。この作品に触発されて書かれた可能性のある森鷗外の『青年』を読んだ後、その余勢をかって読み直したのである。明治時代に地方から東京に出てきた青年が、そこで新しい生活をはじめ、新たな出会いをかさね、時代の雰囲気と思潮を学びながら、自己を形成していくという一種の教養小説の形をとっている点が両者の共通点である。しかし、この両作品は、『青年』が主人公の上京後2か月余り、『三四郎』が1年余りの経験を描いているだけで、教養小説と呼ぶには厚みがたりないという印象が残る。それだけでなく、その後の日本の文学史をたどってみても、教養小説といいうるような作品はことのほか少ないのではないかと思われる。そんなことを念頭に置きながら、この作品を読み返してみたい。

 『三四郎』は明治41(1909)年に『朝日新聞』に連載された。この年の8月19日号の紙面に漱石は次のような予告文を書いている:
「田舎の高等学校を卒業して東京の大学に入った三四郎が新しい空気に触れる、さうして同輩だの先輩だの若い女だのに接触していろいろに動いて来る、手間は此空気のうちに是等の人間を離すだけである。あとは人間が勝手に泳いで、自から波瀾が出来るだらうと思ふ、さうかうしてゐるうちに読者も作者もこの空気にかぶれて是等の人間を知る様になることと信ずる、もしかぶれ甲斐のしない空気で、知り栄のしない人間であつたら御互に不運と諦めるより仕方がない、たゞ尋常である、摩訶不思議は書けない。」(高橋英夫『偉大なる暗闇』(講談社文芸文庫)31-32ページより重引)

 ここで漱石は小説の主眼は「空気」それも、「新しい空気」にあると述べている。そのような「空気」の中を登場人物たちはどのように泳いでいくのか。
 九州の高校を卒業して東京の文科大学に入学した小川三四郎は、上京する列車の中から様々な経験をする。特に列車の中で最後に話をした髭の男の「日本より頭の中の方が広いでしょう…囚われちゃ駄目だ。いくら日本の為を思ったって贔屓の引き倒しになるばかりだ」(新潮文庫版、24ページ)という言葉を聞いて、「三四郎は真実に熊本を出た様な心持がした」(同上)。
 
 東京に到着した三四郎は大都会の人と物の動き方の激しさに圧倒される。下宿に届いた母の手紙の指示に従い、同郷の先輩で理科大学の講師をしている野々宮宗八を訪ねる。野々宮は物理学者で地下室にこもって光線の圧力の研究に励んでいる。彼が現実社会に背を向けて研究に没頭している姿を見て、三四郎は自分の人生について改めて考える。
 野々宮と別れて大学の構内を歩いていた三四郎は2人の女性に出会う。そのままぼんやりしていると、野々宮さんに声を掛けられて、大学の近辺を散歩する。
 9月、新しい学年が始まり、初めのうちは授業がなかなか始まらなくてじりじりしていたが、始まってみるとだんだん退屈してくる。そうこうする中で、佐々木与次郎という専門学校を卒業して選科に入学した男と出会う(この時代の制度では、本科は学生だが、選科は生徒と呼ぶ決まりである)。与次郎は三四郎に都会での時間の過ごし方をいろいろと指南する。そして図書館を利用するように勧める。
 与次郎から野々宮さんの伝言を聞いた(都合のいいことに与次郎と野々宮は相識だったのである)三四郎は、野々宮さんの家に出かけ、彼が入院中の妹の見舞いに出かけるので、留守番を頼まれる。翌朝戻ってきた野々宮さんから、届け物を頼まれた三四郎は病院で、野々宮さんの妹のよし子に会う。病室を出て、廊下を歩いていると、よし子の見舞いに来たらしい若い女に病室がどこかを訪ねられる。それは三四郎が池のほとりであった女性であった。
 秋が深まり、大学にも慣れてきた三四郎は、ある日、与次郎が彼が下宿している家の主人で高等学校の英語の教師である広田萇先生に出会う。広田先生は三四郎が上京する列車の中で話をして、煙に巻かれた人物であった。広田先生の引越しの手伝いに駆り出された彼は、もう1人手伝いに来た若い女里見美禰子と出会う。彼女はよし子の友達であり、池のほとりと病院の廊下で、三四郎が出会った女性であった。

 多少偶然めいた筋の運びの中で離合を繰り返す主要登場人物は、高橋英夫の指摘を繰り返すまでもなく、それぞれかなり類型的に設定されている。小川三四郎、佐々木与次郎という名前には平凡で、どこにでもいそうな学生の姿が託されている。与太郎の弟分のような与次郎という命名には、どこかおっちょこちょいな性格も付加されているようである。里見美禰子はこの時代に目立ち始めていた、新しい、気取ったタイプの女性であるし、野々宮よし子は古風でおとなしい女性に設定されている。佐々木与次郎は広田先生を「偉大なる暗闇」と持ち上げているが、ご本人はそれを下らないと切り捨てている。しかし、広田先生が類型的に描かれながらも、この時期に現れ始めていた新しい知識人のタイプを体現していることも否定できない。

 作中、与次郎が三四郎に年を尋ね、三四郎が23だと答える場面がある(おそらく、これは数え年だから、満年齢では22歳の可能性があるが、旧制だとしても、大学の1年生としては少し年をとっている)。そこで、与次郎は明治15年よりも前に生まれた人間と、それ以後に生まれた人間とでは生まれ育った環境が違うから、現実に対する処し方が違うのだというようなことを言って、三四郎は田舎育ちだから例外かもしれないとも付け加えている。漱石がこの小説の主眼を「新しい空気」においたというのは、一つには、このような新しい世代の登場による新しい動きを描こうとしているとも受け取れる。ただし、美禰子とよし子の結婚問題をめぐる動き、与次郎による広田先生を文科大学に就職させようという動き、この小説の2つの動きはともに目覚ましい成果をあげないまま小説は終わっていく。

 与次郎が言うように、大学の授業が詰まらないのは、教師と学生との生育環境の変化によって増幅されている世代差も影響しているようである。しかし、それ以上に、文明開化が一応行き渡り、日本が富国強兵の成果として日清・日露戦争に勝利し、教育制度が一応整備された明治40年代において、教師と学生との世代差に目を向けることも重要ではあったが、教師の内部での世代差の存在にも目を向けるべきであったし、漱石はそのあたりにも目を配っていたと思うのである。

 とにかく、『三四郎』においては、世代間の物の考え方、見方の違いが一つの大きなテーマとなっている。これと絡んでくるのが、三四郎のところに絶えず届く、母からの手紙や、その中の重要な登場人物「三輪田の御光さん」の存在に示される都会と地方との対立である。三四郎は官吏となって出世する道を歩むはずの法科大学ではなくて、文科大学に進学した。地方の豊かな農家の子どもらしい三四郎に、地元の人々やおそらくは母親が期待しているのは、学士になって箔を付けたうえで、地元に帰ってよい嫁をもらい、地元の名士として生活することであろう。(しかも、地方の女学校に通っている「三輪田の御光さん」という格好の候補者がいるのである。) これらのことを念頭に置いて考えると、三四郎が、新しい思想に目覚めるでもなく、都会の人になるでもなく終わっているこの小説は、時代の空気を巧みにとらえているが、「教養小説」としてはあまり成功していないと判断せざるを得ないのである。

(昨年中に書いておけばよい論評を、本日まで書かないでいたのは、三四郎だから1月3日と4日に取り上げようという心づもりがあったからである。鴎外の『青年』との比較や、高橋英夫さんの『偉大なる暗闇』論なども含めて、明日のブログでさらに本日の内容を補足するつもりである。) 

年号と西暦

1月2日(月)晴れ

 昨年1月2日付の当ブログ「新年雑感二題」のなかで、西暦2016年の2016は、平成28年の28で割り切れるが、このような組み合わせは平成に入って5度目(1990/平成2、1992/平成4、1995/平成7,2002/平成14と2016/平成28)であり、これは昭和に続いて多いと書いたついでに、「来年は平成29年、2017年になるはずであるが、29も2017も素数であって、こういう組み合わせが明治以降、いくつあるかは来年の楽しみに取っておくことにする」と書いた。それで、西暦と年号による年数がともに素数になる組み合わせを探ってみた。

 日本の年号の中で、一番長く続いたのは昭和(1926~89の64年間)、次が明治(1868~1912の45年間)、第3位が応永(1394~1428の35年間)で、平成は今のところ第4位であるということも以前に書いた。西暦の年数を年号の年数に換算するとき、その元年が対応する年の数を弾けばよいのだが、その数の性質によって西暦による年数と年号による年数の関係が左右されるということも書いておいた。

 平成に入って、5年(1993)、11年(1999)、23年(2011)、そして29年(2017)が両方とも素数という組み合わせで、合計4度ということになるが、明治は0、大正は1(大正2年/1913)、昭和も1(昭和2年/1927)ということで、平成はほかに比べて多い。これは西暦と明治の換算に使う1867、大正の1911、昭和の1925がすべて奇数であることによるもので、2以外の素数は奇数であるから、換算に使う数字が奇数の場合は2年以外に西暦の素数に対応することは無いためである(明治2年は1869年で、奇数ではあるが、3の倍数である)。

 それで、日本の比較的長く続いた年号について年号による年数と、西暦がともに素数になる組み合わせを洗い出してみると、
天平(奈良時代:聖武天皇729~749、3年/731、5年/733、11年/739)
貞観(平安時代:清和天皇~陽成天皇859~877、5年/863、11年/869、13年871)
延喜(平安時代:醍醐天皇901~923、7年/907、11年/911、13年/913、17年/917,19年919)
文明(戦国時代:後土御門天皇1469~1487、3年/1471,13年/1481)
天正(戦国~安土桃山時代:正親町天皇~後陽成天皇1573~1592、5年/1577,7年/1579、11年/1583、17年/1589,19年/1591)
ということになり、延喜と天正がそれぞれ5回で日本最高記録ということになりそうだ。

 これが中国の年号まで入れると、後漢の光武帝の時代の年号である建武は5年/29、7年/31、13年/37、17年/41、19年/43、23年/47、29年/53と7回もこの組み合わせを経験している。もっとも、この時代の中国人は西暦については知らなかったはずだし、素数という概念も持っていなかった。いわば意識されずに作られた記録ということになる。また、御承知の通り、この建武という年号は後醍醐天皇が鎌倉幕府が亡びたのちに、新しい時代の始まりを意識して選ばれたのである、日本では1度もこの組み合わせを見ることはなかった。
 逆に、唐の太宗の年号である貞観は3年/629、5年/631、11年/637、17年/643、23年/649と5回に終わっているが、日本でもこの年号が採用され、上に見たように3回素数同士の組み合わせを見ている。したがって2つ合わせれば、おそらくはこれが東アジア最高記録ということになるのではないか。おそらくというのは、私も全部の年号について調べてわけではないし、上にあげた数字の中には素数でないものも含まれているかもしれないということである。興味のある方は、歴史関係の本の年代表を点検してみてください。
プロフィール

tangmianlaoren

Author:tangmianlaoren
FC2ブログへようこそ!

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR