日記抄(12月30日~31日)

12月31日(土)晴れ

 昨日と本日、経験したこと、考えたこと:
12月30日
 NHKラジオ「まいにちフランス語」応用編は日本でフランス語を教えている2人のフランス人へのインタビューを放送した。最初に登場したダミアンさんは、ボルドー大学で日本語を学んでから来日したそうだが、来日直後、新しい漢字を知ると、それを使ってみることに喜びを感じていたそうである。その後、漢字や文法を知ることよりも、実際に話してみることの方が大事だと思うようになったという。そして日本語のリズムをつかむために、カラオケを利用するようになったそうである。(わかった部分、聞き取った部分だけを文字にしてみると、何か抜けているような気がする。)
 次に登場したフランソワさんは、フランスにいるときは通じにくいといわれていた英語が、日本ではよく聞き取ってもらえたので、そこから自信をつけて、日本語の勉強も進むようになったという。
 「インタビューで広がるフランス語の世界」はこれでおしまい。聞き流してしまった部分が少なくなかったことを公開している。再放送されれば、もう少し熱心に聴きなおすつもりである。1月からは「ガストロノミー・フランセーズ 食を語り、愛を語る」の放送が始まる。

 同じく「まいにちイタリア語」応用編は『古代ローマ幻想散歩』の最終回で、”Le terme"(公衆浴場)が話題として取り上げられた。ローマの公共浴場では様々な湯が楽しめたという。
L'ingresso alle terme costava poco o nulla, ma i servizi del massagiatore, del depilatore e altri ancora si pagavano.(入浴料はとても安いか、あるいは無料だったが、マッサージや脱毛サービスなどは有料だった)そうである。
 毎回、楽しみな内容の放送だったので、これで終わってしまうのは残念である。1月からは2015年の1月~3月に放送された「日本を話そう」の再放送になるが、聞くのをやめて、ラテン語の勉強に取り組むのもいいかもしれないと思っている。

 藤澤房俊『ガリバルディ』(中公新書)を読む。「フランス革命時代に始まり、1861年にイタリア王国が宣言されるまでの、オーストリアからの独立と、イタリア半島の分裂した国々を1つの国に統一する運動を、リソルジメントRisorgimento(再興)運動と呼んでいる」(6ページ)。リソルジメントは同じ時代のヨーロッパの国際政治と不可分に関連し、強く規定されて、達成された。このような流れの中で、イタリアの独立と統一に大きな役割を演じたジュゼッペ・ガリバルディ(Giuseppe Garibaldi 1807 - 82)の生涯を改めて見直そうとする書物である。
 統一後のイタリア国家がどうあるべきかをめぐっては、「イタリア民族」の発見者と呼ばれるマッツィーニ(1805-72)に代表される共和国の樹立を目指す民主主義の路線と、サルデーニャ王国首相、そして統一イタリア王国の初代首相となった大政治家カミッロ・カヴール(1810-61)を中心とする温和的自由主義・君主主義の路線とが対立し、ガリバルディはマッツィーニの側に立つ民主主義者であったが、マッツィーニとは反目しあった時代もあったこと、どのようにして2つの路線が歩調を合わせてイタリア王国を生み出すに至ったかなどがたどられている。
 ガリバルディの最初の妻であったアニータがブラジル人であることは知っていたが、どのような事情で2人が出会ったのかとか、ガリバルディの赤シャツ(実際はシャツというよりもウールの長上着で、ベルトで締めるようになっていたそうである)の由来、さらにはガリバルディ・ビスケットの由来などの逸話も豊富に含まれている。マンゾーニの文学やヴェルディの音楽などもリソルジメントと関連しているのだが、そのあたりのことはあまり詳しく触れられていないのが残念と言えば残念である。

12月31日
 昼、セブン・イレブンからおせち料理を受け取った後、ニッパツ三ツ沢球技場に全国高校サッカー選手権大会1回戦、鹿島学園(茨城県)対高川学園(山口県)、藤枝明誠(静岡県)対東海大仰星(大阪府)の2試合を観戦に出かけた。昨年は神奈川県代表の試合が三ツ沢で行われたため、満員で入場できなかったが、今年は桐光学園の試合が等々力であったために遅れて出かけても何とか入場できた(それでもかなりの観客が集まっていた)。
 第1試合は前半を0-0で折り返したが、どちらかというと優勢に試合を進めていた高川学園が1点を先行、これに対して、終盤になって動きがよくなってきた鹿島がFW上田選手の2ゴールで逆転、2-1で勝利をもぎ取った。
 第2試合はさらに波乱含みの展開となった。前半に東海大仰星が1点を先行、これに対し後半の早い時間帯に藤枝明誠がFKから得点、ところがその直後に東海大仰星がゴールを決めて再び優位に立ち、藤枝明誠がPKの機会を得て同点になるかと思われたが、東海大仰星のGKがよく反応して止め、さらに東海大仰星の選手が1人退場になって数的に劣勢になったが、何とか持ちこたえて勝利を得た。藤枝明誠は攻撃が単調で、東海大仰星の厚い防御の壁を崩すことができず、無念の涙をのんだ。
 等々力に登場した桐光学園は長崎総科大付属に敗れたらしい。昨年のチームに比べて今年はどうも弱そうだと思っていたのだが、印象だけではなかったようだ。

 12月に読んだ本は16冊、見た映画は7本、サッカーの試合は2試合を観戦ということになった。年間の合計では読んだ本が116冊、見た映画が61本、サッカーの試合を44試合観戦したことになる。昨年に比べて読んだ本の数が減り、サッカーの試合の数が増えている。「2016年の2016」が達成できたかどうかはこれから集計して調べてみるつもりだが、数の増減だけでなく、内容の変化についても目を向ける必要がある。

 今年1年、お付き合いいただきましてありがとうございました。来年度もよろしくお願いします。よい年末をお過ごしください。
スポンサーサイト

『太平記』(139)

12月30日(金)晴れ

 後醍醐天皇を迎え入れた比叡山延暦寺に対抗するため、足利方は戒壇の造営を約束して三井寺を味方につけた。建武3年(1336)正月13日、北畠顕家率いる奥州・関東勢が比叡山の宮方に合流した。合議の結果、宮方はすぐに攻撃に移ることにした。三井寺を守っていた細川定禅、高重茂は京都に援軍を要請したが、相手方の援軍を軽視した尊氏は援軍を送らなかった。宮方は早朝から三井寺に攻め寄せたが、足利方の方が優勢で、かえって寺から打って出る勢いを示した。

 足利方の軍勢が湖岸伝いに進出してきたのを見た宮方の大将・新田義貞は3万騎の軍勢を一つにまとめて、足利方の軍勢を突き破って進もうとした。数に勝る足利方であったが、西の方は宮方の手で民家が焼き払われていて通ることができない、東の方の湖は深くて、歩いて進むことができない。それに和仁・堅田方面に陣を構えていた宮方の兵が、湖に船を浮かべ、そこから足利方の軍勢の側面に矢を放つ。このために、足利方は馬を前進させることも、後退させることも困難な状況に陥った。この機に乗じて宮方は一斉に攻めかかったので、細川定禅の率いる6万の軍勢は500騎ほどを失い、三井寺へと後退した。

 新田一族の額田、堀口、江田、大館の一隊が700余騎で、逃げる敵に追いすがって三井寺の中に入ろうとしたが、三井寺の僧兵たち500余人が木戸口で防ごうと必死に戦ったために、寄せてのうち100余人が堀端で戦死したので、後ろから軍勢が来るまでは進むことができず、しばし攻撃の手を休めることとなった。その間に、三井寺の方では城門を閉めてしまい、堀にかけた橋を引き上げた。義貞の弟の脇屋義助はこれを見て、ふがいない者たちの戦いぶりよ。木戸1つに支えられて、これほどの白1つを、攻め落とすことができないというのは情けない。栗生、篠塚はいないのか。あの木戸をとって引き破れ。畑、亘理はいないのか、切って入れと下知を下す。栗生左衛門、篠塚伊賀守、畑六郎左衛門、亘理新左衛門は新田軍の中でその名を知られた剛勇の士である。

 栗生、篠塚はこれを聞いて、馬から飛び降り、木戸を破ろうと走り寄って見ると、塀の前に深さ2丈(約6メートル)あまりの堀を掘って、両方の岸は屏風を立てたようになっているが、橋板を皆外して、橋げたばかりが立っている。2人がどうやって渡ろうかと辺りを見渡していると、幅が3尺(約90センチ)、長さ5,6丈(15~18メートル)もあるように見える大きな卒塔婆が2本あった。(確かに巨大である。)ここにこそ、絶好の橋板がある。卒塔婆を建てるのも、橋を渡すのも、功徳は同じことだ。これを橋にしようといいながら、2人は卒塔婆をえいと抜く。土の底5,6尺も掘り入れてあった大卒塔婆なので、あたりの土1,2丈ほどが抉り取られて、卒塔婆はたやすく抜けた。2人は2本の卒塔婆を軽々と担ぎ、堀の端に突き立てて、大声で自慢を始めた。「異国には烏獲(秦の武王が取り立てた大力の士)、樊噲(鴻門の会で、危うく楚の項羽に謀殺されかけた漢の高祖を救った豪傑)、わが国には和泉小次郎(1213年に源頼家の子千寿丸を擁して、和田氏と組んで北条氏をのぞこうとしたが失敗して、行方不明となった武士)、朝井名(朝比奈)三郎(義秀、和田義盛の3男で、1213年、父義盛が北条義時に叛した和田合戦で剛勇ぶりを発揮し、その後安房に逃れて行方不明になった豪傑)らの天下無双の大力という評判をとった豪傑たちがいるが、我々の力にどれだけ勝っているだろうか。傍若無人の大言を吐いていると思うものは、やってきて、こちらの力のほどを試してみよ」といいながら、2本の卒塔婆を同じように向かいの岸へと倒しかけた。卒塔婆の表面は平らで、2本並べたので、あたかも四条、五条の橋のようになった。

 畑六郎左衛門、亘理新左衛門の2人は、橋のたもとに進んで様子を見ていたが、紀行っちは橋渡しの斑岩(川に浮橋を掛ける役目をする検非違使)になりなさい。我々は合戦をしに出かけますと冗談を言いながら、2人ともに橋の上をさらさらと走りわたり、堀の上にあった逆茂木(防御の柵)をとって引きのけ、それぞれ木戸の脇にとりついた。木戸の中で守っている足利方の兵たちが三方の土狭間(射撃や物見のために土塀にあけた穴)から鑓、長刀を出して散々に突いてくるのを、亘理新左衛門、16まで奪ってとって捨てる。畑六郎左衛門はこれを見て、亘理殿、どきたまえ。この塀を引き破って続く人々に心安く合戦をさせようといいながら、走りかかって、右の足をあげ、木戸の閂のあたりを2度か3度踏みつけると、その踏み方が強かったので、閂が折れてしまい、木戸の扉も塀の柱も、同時にどうと倒れてしまい、防いでいた兵500人は散り散りになって逃げてしまった。

 一の木戸が破れたので、新田勢3万余騎が三井寺の寺内に駆け込み、あちこちに火をつけていく。これを見て、如意が岳で待機していた比叡山の僧兵たち2万余人が、山を下って、三井寺の三院と五別所に乱れ入り、堂舎仏閣に火をかけて、叫びながら攻め寄せる。猛火が東西から吹きかけ、敵が南北に充満したので、これはもうだめだと思ったのであろうか、三井寺の僧兵たちは、逃げたり、自害したりする。勝手を知っている三井寺の僧兵たちでさえそうなのだから、四国、西国からやってきた武士たちは煙に巻かれ、どうしてよいかわからない有様である。こうして、半日ばかりの合戦のうちに、大津、松本、三井寺で戦死した足利方の兵は7300人に及んだ。

 ある衆徒(三井寺の僧徒)は金堂の本尊である弥勒菩薩の首だけをとって藪の中に隠しおいていたのであるが、戦死者の首の中に、切り目に血のついた弥勒菩薩の像を見つけた比叡山の僧侶が、大きな札を立てて、狂歌を書き付け、さらに詞書を書き添えた。
 建武2年(3年が正しい)の春の頃、何かと世の中が騒がしく思われたので、早くも衆生済度のために三度の法会を行うときが来たのだろうか、それではこの世に下生して、仏となり、説法を行い衆生尾を救おうと思ってえ、三井寺の金堂の方に出かけたところ、地獄の罪人を焼く火が盛んに燃えて、修羅の闘争のような騒ぎが四方に聞こえ、これは何事であるかと、思案に暮れてうろうろしていたところ、三井寺の何かしとかいう僧侶が内に入ってきて、理由もなく、のこぎりで私の首を引き切ったので、「阿逸多(あいった=あ痛)」といったが既に遅かった。耐え難い悲しみのうちに、思いを書き付けた、 三会教主源弥勒菩薩
 山をわが敵といかで思ひけん寺法師にぞ首を取らるる (どうして今まで比叡山を自分の敵と思っていたのだろう。三井寺の法師に首をとられたことよ。)
 弥勒菩薩は釈迦の入滅から56億7千万年後にこの世に出現して、仏としての悟りを開き、衆生を救うとされる。阿逸多はこの菩薩の異称である。『太平記』の描く時代の少し前、鎌倉時代の末期に東大寺の戒壇院で仏教の研究と著述に専念した学僧・凝念の著作『八宗綱要』の最初の方に、仏教の経典には声聞(小乗)蔵と菩薩(大乗)蔵の二蔵があり、釈迦の入滅後、迦葉を中心とした仏弟子たちが釈迦在世中の教えをまとめたのが声聞蔵、阿逸多(弥勒菩薩)や文殊菩薩などが大乗にかかわる教法を集めたのが菩薩蔵であると書かれていて、弥勒菩薩は歴史上実在の人物であるかのような記述がなされている。今日の仏教の歴史についての研究から見ると、問題があるところだろうが、鎌倉時代の人はそう考えていたのである。

 比叡山の山法師の落首は、なかなかよくできているが、悪趣味に思えないでもない。細川定禅の率いる四国・中国地方の武士たちと、三井寺の僧兵の連合軍を打ち破り、三井寺を焼き払って大いに気勢が上がった宮方の今後の動きが気になるところであるが、『太平記』の作者は、引き続き、この戦乱で焼け落ちた三井寺の釣り鐘と、この釣り鐘の由来についての説話を物語る。俵藤太と呼ばれた藤原秀郷の登場する物語がどのようなものかは、次回にご披露する。

日記抄(12月23日~29日)

12月29日(木)晴れ

 12月23日から本日までの間に経験したこと、考えたことなど:
12月23日
 新潟県糸魚川市で火災があり、多くの方々が被災された。心よりお見舞いを申し上げる。糸魚川には30年以上昔に2泊3日で滞在したことがあるだけで、あまり詳しい記憶は残っていないのだが、温かい歓待の中で、同行した同僚と夜遅くまで飲みかつ語り合ったことは覚えている。この大火で、市の中心部の古くから繁華街として栄えてきた一帯が焼失、昭和初期からの由緒ある建物のいくつかが灰燼に帰したそうである。新潟県の西北端の地方文化の中心地の文化の少なからぬ部分が失われたことは惜しんで余りある。
 火災について報道する『朝日』の紙面に掲載されていた写真の左下に、女神と幼児の像の後ろ姿があたかも火災を心配して立ち尽くしているような感じで収められていた。これは『古事記』に登場する古志の奴奈川姫と彼女が出雲からやってきた大国主命との間に儲けた建御名方神(諏訪神社に祀られる神様)である。神話時代からの伝統を持つこの町の、被災された皆さんの生活の一日も早い再建と、伝統ある地方文化の再生とを願うものである。
 NHKラジオ「実践ビジネス英語」の”Quote...Unquote"のコーナーで紹介された言葉:
Time is the most valuable thing a man can spend.
---- Theophrastus (Greek philosopher, c.372- c.287B.C.)
(時間とは、人が費やすことのできる最も貴重なものである。)

12月24日
 NHKラジオ「攻略!英語リスニング」は”The Nutcracker"(くるみ割り人形)を話題として取り上げた。E.T.A.ホフマンの『くるみ割り人形とネズミの王様』を、アレクサンドル・デュマ(父)が翻案したものをバレエ化し、1892年にサントペテルスブルクで初演した。その際に、チャイコフスキーの音楽は評価する人もいたが、バレエ作品としては不評であったという。しかし、その後、評価が高まり、
The Nutcracker has become such a Christmas staple ---- especially in the States.
(『くるみ割り人形』は――特にアメリカで――クリスマスの風物詩となった。)

 ホフマンの原作はconsiderably darkerであったといわれているので、どんなものであったのだろうか。講師の柴原さんは英国滞在中に<くるみ割り器>(人形ではない)を持っている人に出会ったことがないと書いているが、日本でも持っている人は持っている。私も昔、日本橋の木屋で買って持っていたけれども、引っ越しを重ねるうちにどこかに紛れてなくしてしまった。今でも木屋では売っているのではないかなぁと思う。

12月25日
 『朝日』の地方欄に「カジノは子どもたちに有害」だとして、横浜市にカジノを誘致しようとする動きに反対する集会が開かれたという記事が出ていた。賭博をめぐってはさまざまな議論があって、十分な論議を尽くさずにカジノ法案が強行採決されたこと、その経済的な効果についての見通しがあまりにも甘いことを考えると、私はこの法律には反対である。多額の予算をかけてカジノを建設したのはいいけれども、天災で全壊したなどということになったら、目も当てられないね。

12月26日
 『朝日』の朝刊に東京大学が女子学生に家賃を補助するという施策を打ち出したことをめぐっての反響についての記事が出ていた。これが男女平等の原則に反するのではないかという議論もあるとのことであるが、むしろ女子の場合には家族が受験に際して「無理しなくても」という風潮があることの方が問題ではないか。私は怠け者だから、男子についても「無理するな」というようなことを言うようにしてほしいと思うのである。

12月27日
 『朝日』の朝刊に『吾輩は猫である』に登場する禅学者の八木独仙のモデルは、ドイツの哲学者のパウル・ドイセン(1845-1919)であるという杉田弘子『漱石の「猫」とニーチェ』の中の説が紹介されていた。漱石の同僚であった姉崎正治がこのヤギヒゲをはやした哲学者に私淑していたというのだが、この程度ではヒントではあっても、モデルとは言えないだろう。高橋英夫による岩元禎の評伝『偉大なる暗闇』のなかに昭和5年から7年まで岩元が一高の「哲学概論」の授業のテキストとしてドイセンの『エレメンテ・デア・メタフィジーク』を用いたという記事が出ていて、岩元がショーペンハウアーの後継者でニーチェの親友であったこの哲学者を高く評価していたことが知られるのだが、岩元に教えを受けた九鬼周造とか、和辻哲郎(漱石門下である)の世代になると、ドイセンを飛び越えて、もっと新しい哲学を輸入し、また自らの学説を展開することになる。(もっとも、九鬼や和辻が一高に在学していたころには、岩元はドイツ語しか教えていなかったのである。)

12月28日
 NHKラジオ「実践ビジネス講座」の”Quote...Unquote"のコーナーで紹介された言葉:
Let thy speech be better than silence, or be silent.
     ---- Dionysius of Halicarnassus (Greek historian, c.60 - c.7 B.C.)
(沈黙よりましな発言をしなさい。さもなければ、沈黙していなさい。)
 ハルカリナッススは小アジアにつくられたギリシャ人の植民都市で、ヘロドトスの出身地でもあった。この都市がペルシャに占領されたことが、ヘロドトスがその『歴史』を書くきっかけになったと考えられる。

12月29日
 NHKラジオ「まいにちイタリア語」応用編『古代ローマ幻想散歩』は”Giochi e svaghi" (ゲームや遊び)を話題として取り上げた。
C'erano vari giochi e svaghi. Quello più comune era il gioco con i dadi: si giocava con dadi a 4 o a 6 facce. Spesso si giocava d'azzardo, anche se era proibito pubblicamente.
(さまざまなゲームや遊びがあった。より一般的だったのはサイコロ遊びで、4面や6面のサイコロを使った。表向きは禁止されていたが、しばしば賭博も行われた。)
A Roma si practicavano anche vari giochi con la palla. Uno molto popolare era il trigon, che si giocava in tre persone.
(古代ローマではボールを使ったさまざまなゲームも行われていた。とても人気があったのはトリゴーンという、3人で遊ぶゲームだった。)

 『朝日』の朝刊の「ザ・コラム」の項に「残された言葉 日本人は変わったのか」という見出しで、上智大学の学長をされていたヨゼフ・ピタウ神父のことを駒野剛さんが書かれていた。一度だけ大船にある母校で、ピタウさんの講演を聴いたことがあり、非常に柔軟な考えをされる方だなあという印象が残っている。駒野さんの文章にも記されている通り、イタリアのサルデーニャ島の御出身であり、日本への愛着とともに、故郷のことを懐かしく語られていたことも思い出す。

 アメリカの女優であるデビー・レイノルズさんが亡くなられた。84歳。歌手であったエディ・フィッシャーとの間に儲けた娘のキャリー・フィッシャーさんが急死したという知らせを受けた直後に、今度は母親の方が急死された。エディがデビーを捨てて、エリザベス・テイラーと結婚したために、デビーの方に同情が集まったというのは古い映画ファンならば誰でも知っていることで、そのデビーとリズがMGMのミュージカル映画を集めた『ザッツ・エンタテインメント』の中で、順序を少し離して登場しているのに納得したこともずいぶん古い話になってしまった。その後、デビーとリズは和解、デビーは映画史に関する博物館を建てようと一大コレクションを作っていたけれども、持ちきれなくなって手放したというような話を聞いた。しかし、瞼に浮かぶのは青春スターとしてけたたましく活躍していた若いころの姿である。謹んでご冥福をお祈りする。

 NHKラジオ「実践ビジネス英語」の”Quote...Unquote"のコーナーで紹介された言葉:
Do not fear mistakes. You will know failure. Continue to reach out.
     ―― Benjamin Franklin
(U.S. statesman, diplomat, inventor and scientist, 1706 -90)
(ミスを恐れてはならない。人は誰でも失敗を知ることになるが、手をさし伸ばし続けなさい。)

 同じく「まいにちフランス語」では、フランスの学校教育(中等教育)についてのインタビューが取り上げられ、コレージュ(中学校、日本では小学校が6年、中学校が3年であるが、フランスは小学校が5年、中学校が4年)とリセ(高等学校)での外国語教育の現状が紹介された。中学ですでに第二外国語を履修するとのことであるが、第一外国語としては英語、第二外国語としては最近ではスペイン語が多く学ばれるようになっているという。さらに、高校では第三外国語も開設されていたり、中学から地方語(バスク語とかブルトン語、アルザス語、オック語など)の授業も行われているというのは、注目すべきことである。 
 

小川軽舟『俳句と暮らす』

12月28日(水)晴れ

 12月27日、小川軽舟『俳句と暮らす』(中公新書)を読み終える。
 俳人として俳句を作り、俳句雑誌を主宰し、新聞の俳句欄の選者を務める一方で、サラリーマン生活を送る、二足の草鞋を履き続けてきた著者による「俳句と暮らす」生活、あるいは生活とともに作られる俳句を提案する書物である。著者は自分以外の俳句作者たちの作品も取り上げ、できるだけ広い目で、多様な生活と俳句の実例を取り上げようとはしているが、一流大学を出て、あまり出世はしなかったようだが大企業に勤め、それなりのサラリーマン生活を送ってきたように見受けられる。さらに言えば、企業人としてはエリートとは言えなかったかもしれないが、俳句作者としては日の当たる場所にずっといたようである。だから、生活と結びついた俳句といっても、先日取り上げた小沢信男『俳句世がたり』が50歳過ぎてから俳句を作り始めた、あまり売れない文士の俳句論として多少僻みっぽく、しかし鋭い社会批判を含んでいるのとは、かなり違った雰囲気をたたえていることは容易に推測できるだろう。
 
 「俳句とは記憶の抽斗を開ける鍵のようなものだ」((ⅲページ)と著者はいう。俳句とは「松尾芭蕉のように漂泊の詩人として歴史と自然と人間を謳いあげるものだろうか。画家でもあった与謝蕪村のように理想の美を追い求めるものだろうか。小林一茶のように弱い者への共感をユーモラスに示すものだろうか。/そのどれもがもちろん俳句である。しかし、それと同時に、俳句はもっと私たちの日常に身近に寄り添ってくれるものである」(ⅴページ)ともいう。たいした出来事もなく過ぎた「そのようななんでもない一日もまた自分の生きた証だと考える人には、俳句はその一日の意味を教えてくれるはずである。」(同上)

 レタス買へば毎朝レタスわが四月
 この書物の執筆時点で、著者は東京に本店のある金融機関から、大阪に本社のある鉄道会社に転出し、単身赴任の身を神戸で過ごしている。その中で自炊生活を送っているが、「この生活を新鮮に感じることができるのは、俳句をやっていたおかげだと思」(6ページ)っている。「食材には旬がある。だからほとんどの食材は季語である。料理もその多くが季語になっている。」(6ページ) 知識だけならば歳時記を見ればよい。しかし、買い物をして、料理をする経験を通じて、実感できることが多いという。「祖しt台所に立つようになると、季節との出会いが今までよりさらに新鮮に感じられるようになったのだ。」(同上) 「台所に立って四季の移り変わりとともにある日常を味わう。いまや台所は私の俳句にとっても大切な舞台の一つになった。」(12ページ)

 サラリーマンあと十年か更衣
 著者は就職してから俳句を作り始め、その後長くサラリーマン生活と、俳句作りを続けてきた。にもかかわらず、サラリーマン生活は、俳句の対象とすべき日常ではないと決め込んできたところがあったという。これは著者だけのことではなかったようである。「高度経済成長期の日本人の生活を正面から詠った俳句は甚だ乏しい」(45ページ)。サラリーマン生活はむしろ川柳の方に向いているのかもしれない。それでも著者は定年が近づいて、名残惜しさの気持ちが募り、サラリーマン俳句を作ろうとし始めているという。

 妻来る一泊二日石蕗(つわ)の花
 単身赴任中だから、妻の来訪を受けることもある。もともと、自分自身の生きざまを題材として俳句を読むときに、最も身近な存在が妻である。ということで、妻を詠んだ俳句は多く、その中でも中村草田男と森澄雄が傑出した存在であるという。
 ところがその一方で、妻が夫を詠んだ名句というのは一向に見当たらないそうである。夫が死んだ後ならないわけではないが、夫は生きているうちはどうもだめだというのが著者の発見であった。
 定位置に夫と茶筒と守宮(やもり)かな 澄子
 熱燗の夫(つま)にも捨てし夢あらむ 和子
 特に初めの句は、この程度のものかという感じが強く残る。

 さらに散歩の折に浮かんだ句、酒にまつわる句が取り上げられる。ここでは著者の俳句の師である藤田湘子、彼に俳人としての酒の飲み方を教えた秋桜子門下の兄弟子石田波郷、波郷や湘子がよく出かけた小料理屋・卯波の主人であった鈴木真砂女などの人々をめぐるエピソードが興味深い。
 ビールくむ抱かるることのなき人と 真砂女
 そら豆と酒一合と勇気がある 湘子(たんめん老人曰く この句はいいねぇ)
 さらに俳句は座の文芸であるという議論から、連句の実例にまで話がはずんでいくのは読んでいて楽しい。

 そうかと思うと、病気や死を詠んだ句も取り上げられている。それも生活の一端だからということであろう。カリエスと戦った正岡子規、結核を病んだ川端茅舎、石橋秀野(山本健吉の夫人)、石田波郷、ガンで死んだ尾崎紅葉、石川桂郎、江國茂、白血病で命を失った田中裕明らの句が紹介される。「最後まで俳句を作り続けなければ、これまで俳句を作ってきた意味がない。病気になってもユーモアと詩情(158ページ)を忘れず俳句とともに」生きた先人たちに続かなければならないとの決意が語られている。
 最後に「芭蕉も暮らす」として、芭蕉の生涯と句業がまとめられているが、これはなくてもよいかもしれない。

 実作者の立場から、どのように生活し、その中で俳句を作っていけばよいのかというヒントをつづった書物である。読みながら、俳句とも川柳ともつかない五七五を作ったので、紹介しておこう。
 年の瀬や 徳利の重さ 酒の重さ
 

ダンテ・アリギエリ『神曲 天国篇』(9-2)

12月27日(火)雨が降ったりやんだり

 1300年4月13日の正午に地球の南半球にある煉獄山の頂上の地上楽園から、ベアトリーチェに導かれて飛翔したダンテは、月天に達して、<誓願を果たさなかった人々>の霊に出会う。彼らは他の霊とともに至高天にいるのだが、そこでの神からの距離を示すためにここまでやってきたのである。水星天に進んだダンテは<地上での栄光を追い求めた人々⇒その分、神への思いが減った>人々の霊とに迎えられる。東ローマ帝国の皇帝であったユスティニアヌスの霊は、ダンテにローマの皇帝権が地上に正義を実現するための神与のものであることを語る。
 さらに金星天にやってきたダンテは<人と人とを結びつける愛に生きた人々⇒愛に溺れて神を忘れることがあった>の霊たちと出会う。ダンテの旧知でハンガリー王であったシャルル・マルテル・ダンジューの霊は国王たちは皇帝と教皇の権威を認め、お互いに親しく付き合うべきだと主張する。さらに生前、兄の政治的・軍事的野望の犠牲になって政略結婚を繰り返しながら、自分自身の愛を重視したクニッツァ・ダ・ロマーノに出会う。

 クニッツァが口をつぐむと、彼女の隣にいた、彼女が「この光にあふれた貴重な宝石」(139ページ)と呼んだ霊が近づいてきた。
もう一方の喜び、貴重な存在と
すでに私は知っていたが、それは太陽が輝かせる
透き通ったバラスカム産のルビーのように私の視界に入ってきた。

天空では喜びゆえに輝きが手に入る、
あたかもここ地上では微笑が手に入るように。しかし知的では
影の見かけは闇に染まる、その知性が悲しみに暮れるままに。
(142ページ) そして、その霊が13世紀前半のトロヴァドール(吟遊詩人)であったフォルケ・ド・マルセイユのものであることに気づいたダンテは、
「神はすべてをご覧になっている。…
・・・その方へあなたの視線は没入しているがゆえ、
あなたから盗み隠せる願などない。

あなたの声は六枚の翼を修道服にしている
あれらの敬虔なともしびの歌と唱和して
天空を常に喜ばせているにもかかわらず、

なぜ私の望みを満たしてくれないのか。
あなたが私の中に入っているように私があなたの中に入れたならば、
私はもうあなたの問いを待ってはいないだろう」。
(142-143ページ) パラスカムというのはルビーの産地として知られたペルシャの一地方だそうである。フォルケ・ド・マルセイユは13世紀前半の人、ジェノヴァ商人の息子で、マルセイユのバラ―ル・ド・ボーらに仕え、その妻アザレに詩を捧げた。アザレや主君らが世を去るとシトー派の修道会に入り、トゥールーズ司教となってアルビジョワ十字軍にも大きな役割を果たしたという。

 すると、フォルケ・ド・マルセイユの霊は
「大地を花輪のように囲む
・・・
大海からあふれた水の広がる最大の谷は、

対立する両岸に挟まれ、太陽の運行に逆らって、広がっている、
南中するまさにその場所には
先に水平線が通っているほどまでに。

我はその谷に注ぐエブル川とマクラ川に挟まれた
岸辺の出身だった。短い流れで
ジェノヴァ人とトスカーナ人を分けている川のことだ。
・・・」(144ページ)と、美しい言葉で自分の故郷について語り始める。「大海」は大西洋、「最大の谷」は地中海を指しているという。天空を旅する中でダンテが抱いた疑問は残らず解答を与えられるべきであるとして、霊たちがその周りをまわっている
透明な水に射し込む太陽の光線のように、
我がそばのここで輝く
この光の中にいるのが誰か君は知りたがっている。
(146ページ) 金星天で最も明るく光っている魂は、旧約聖書「ヨシュア記」に登場するエリコの娼婦で、イスラエルを率いるヨシュアがこの町に派遣した斥候をかくまって助け、その陥落に手をかしたラハブの魂である。つまり世俗的な世界に生きていたのが、神意にかなった行動をとったので、神を愛する女に変容したのである。

 世俗的な事柄への愛着を捨てて、神への愛と正義の実現に努めるべきであるが、現在の教皇庁は世俗の出来事にうつつを抜かしているという批判で第9歌は終わる。原さんの解説は、この第9歌により政治的な意味を持たせているが、それはご自分でお読みください。解説によると『地獄篇』では第9歌で前地獄が終わり、『煉獄篇』でも第9歌で前煉獄が終わっているように、ここでも「君らの世界のなす影が頂点を結ぶ」(147ページ)と、地上の影響が金星天にまでは及んでいる(ダンテが依拠したプトレマイオスの描く宇宙の姿では、地球の周りを月、水星、金星、太陽、火星、木星、土星、さらに恒星が回っていることになっていた)ことが歌われていて、ここから先が本物の天国であるといわれているようでもある。
 今日は空模様が悪くて見ることができないが、今の季節西の夕空には金星が輝いている。偶然の符合ではあろうが、何となく心強い気持ちになる。次回は来年、ダンテはいよいよ太陽天に達する。 

森鷗外『青年』

12月26日(月)曇り

 12月25日、森鷗外『青年』(新潮文庫)を読み終える。
 この作品は明治43(1910)年3月1日発行の『スバル』第2巻第3号から明治44(1911)年の第3巻第8号まで連載された。一応完結したという形をとってはいるが、主要登場人物がそろってこれから本格的に物語が展開しようというところで、急に打ち切られたという感じがしてならない。実際、鷗外は次のように末尾に記している:
 「鷗外云。小説「青年」は一応これで終とする。書こうと企てたことの一小部分しかあまだ書かず、物語の上の日数が六七十日になったに過ぎない。霜が降り始める頃の事を発端に書いてから、やっと雪もろくに降らない冬の時候まで漕ぎ附けたのである。それだけのことを書いているうちに、いつの間にか二年たった。とにかく一応これで終とする。」(244ページ)

 小泉純一(どこかで聞いたような名前だが、主人公がいわば白紙の状態であることを示す命名と思われる)という青年が主人公である。山口県の資産家の息子で、中学校を優秀な成績で卒業したが、特に進学することもなく、宣教師からフランス語を習ったりし過ごしていたが、意を決して文学修行のために上京してきたのである。

 初音町(現在の文京区小石川の一部)の貸家に落ち着き、中学校の同級生で美術学校に通っている瀬戸に連れられて出かけた会合で帝国大学の医科の学生で文学にも関心がある大村荘之助{木下杢太郎(1885-1945)がモデルだといわれる}と出会い、親友になる。その席で、平田坿石(夏目漱石)のイプセンについての談話を聞く。
 実は、ここでのイプセンについて語っている個所が読みたくて『青年』を読み始めたのである。というのは、明治41(1908)年に『朝日』に連載された(鴎外がこの小説を書くにあたって、大いに意識していたに違いない)漱石の『三四郎』にもイプセンについて触れた個所がある。それは三四郎が東京に出て知り合った<新しい女>里見美禰子が「イブセン」の劇に登場する人物に似ている、いや、今の女性はみな「イブセン」の人物に似ている…というような会話を友人である与次郎とかわすという場面である。イプセンの劇を19世紀から20世紀にかけてのヨーロッパの社会と思想界の状況、知識人たちが感じていた危機意識といったものを視野に入れずにただ新しい動きとしてだけ認識するのは皮相浅薄な議論である。そして登場人物にこのような会話をさせている作者漱石自身のイプセンについての見解は隠されたままである。

 もちろん、この小説の中で鷗外が坿石(漢和辞典で調べたところ水晶のことらしい)に語らせているイプセン論は、鴎外の考えたもので漱石のものではない。鷗外が作中人物に語らせているということで彼自身の考えではない可能性もあるが、それなりに興味を掻き立てる文明批評の含まれた議論である。1つは、イプセンはノルウェーの劇作家であるが、彼の劇にはノルウェーという国を超越して世界の人々を説得するような力があった。「イブセンは初め諾威(ノオルウェイ)の小さいイブセンであって、それが社会劇に手を着けてから、大きな欧羅巴(ヨオロッパ)のイブセンになったというが、それが日本に伝わってきて、またずっと小さいイブセンになりました。なんでも日本へ持って来ると小さくなる。ニイチェも小さくなる。トルストイも小さくなる。」(51ページ) ヨーロッパの思想が、日本に輸入されるとスケールが小さくなる、あるいは毒が消えてしまうという指摘である。
 もう1つは「イブセンの個人主義に両面がある」(52ページ)という発言で、一方であらゆる習慣を脱して個人が個人として生きる、したいことをするという面、もう一方で、自己を向上させようとする一面があるという。これは漱石の「私の個人主義」などと対比して検討していきたい問題を含んでいるように思われる。

 この後、明治42(1909)年11月27日に、イプセンの『ジョン・ガブリエル・ボルクマン』が上演されるのを、純一は「時代思潮の上から見れば、重大なる出来事である」(61ページ)と思って、見に出かける。そこで同郷の法律学者の未亡人である坂井れい子という女性に出会い、亡父の残したフランス書があるので、見に来てはどうかとの誘いを受ける。坂井夫人の屋敷を訪れた純一は夫人の誘惑に負けて肉体関係を持ってしまう。

 『三四郎』が旧制高校を出て大学に入学した学生の最初の1年をとにかく描いているのに対し、『青年』は純一の上京後2か月余りの出来事を書き綴っているだけである。もちろん、その間の主人公の経験には目覚ましいものがあるが、まだ物語は動き始めたばかりである。この作品への「解説」の中で、ドイツ文学者である高橋義孝は『青年』は「教養小説」(Bildungsroman)であるという。「教養小説」とは、主人公の成長の過程をたどる小説ということで、ドイツ文学史家が好んで使う言葉である。しかし、そう規定してしまうには、この小説が描いている期間は短すぎる。これからどのように展開するのか、という期待を抱かせたまま小説は終わってしまっているのである。ひょっとすると、フローベールの『感情教育』のようにいわば反教養小説的な展開をするのかもしれない…とさえ思ってしまうところがある。

 実は、『青年』に続けて、『三四郎』を読み直しているところで、美術学校や慶応の講師はしたが、帝国大学で教えたことがない鷗外に比べて、帝国大学に加え早稲田や明治でも教えた漱石の方が大学というものをよく知っているという強みだけでなく、漱石の方が小説を組み立てていく技法に長けているなぁと改めて実感している。ただ、ヨーロッパの思想動向についての広い関心と掘り下げ方、それから主人公の女性関係の描き方などは、鷗外の方に長があるという気はする。そのあたりも含めて、今度は『三四郎』について書いてみるつもりである。 

東谷暁『予言者 梅棹忠夫』

12月25日(日)曇ったり晴れたり

 12月22日、東谷暁『予言者 梅棹忠夫』(文春新書)を読み終える。

 梅棹忠夫(1920-2010)に会って話を聞いたことは1度しかないが、彼の書いたもの、彼について書かれたものはたいてい目を通してきたつもりである。それで書店でこの本を見つけた時、ごく自然に手が出たのだが、その一方で2つほど疑問に感じていたこともある。

 1つは「予言者」ということで、東谷さんが「預言者」(prophet)と「予言」者(fortune-teller)とを区別し、使い分けているかどうかということである。
 「預言者」(prophet)というのはLongmanの辞書によるとsomeone who people believe God has chosen to be a religious leadeer or teacher (神が宗教的な指導者あるいは教師に選んだと人々が信じる人物)、「神の言葉を預かる者」である。これに対して「予言」者(fortune-teller)はsomeone who tells you what will happen to you in the future (あなたに将来起きるであろうことを告げる人物)である。『旧約聖書』に出てくるイザヤやエレミヤは「預言者」の典型的な例であり、「予言」者として有名なのはやはりノストラダムスであろう。

 もう1つは、梅棹の「予言」がこの書物で詳しく論じられているように、かなりの精度をもって日本と国際社会の未来を予測したことは確かであるが、むしろ最近の日本と世界で起きていることは、彼の予測の限界を示し始めているのではないかということである。例えば彼は20世紀の特徴として、国家システムが世界を網の目のように覆いつくしたことをあげているのであるが、多国籍産業の動きやテロの問題、難民の問題は、そのような国家システムの網の目のほころびを示しているのではないかと思われる。

 実は東谷さんはこの書物の「プロローグ――実現した予言と失われた時代」の冒頭に「忘れられた予言者」という見出しを掲げていて、私の第2の疑問にまさに最初からこたえようとしているのである。
 梅棹が的中させた予言として、東谷さんは、戦後日本の経済的繁栄、日本経済の回復により専業主婦は無用のものになるであろうという「妻無用論」、イスラーム教と中東という地域が今後世界の中で重要な意味を持つようになること、情報産業の興隆、グローバル=エイジの到来などをあげている。このほか、ソ連の崩壊や、大阪の没落なども予見していたという。
 また、梅棹は都市開発や文化行政にも積極的に関与したことを東谷さんは強調する。大阪万博開催と、民博(国立民族学博物館)の開館とその後の運営の中での活躍、さらには大平政権の下での田園都市構想への関与などがその顕著な例である。(こういう活動は「予言」者的ではあっても、「預言者」的とは言えないと、私は思う。)
 「梅棹がいま日本人の記憶において希薄になろうとしているとすれば、それは彼がこうした予言を外したからではなく、むしろ、そのほとんどが的中して、現実そのものになりおおせてしまっているからなのである」(7ページ)とさえ、東谷さんは断言する(その現実が崩れ始めているのではないかということも私の疑問の中には含まれている。)
 しかし、そのような彼の思想と行為の「明るい」面だけではなく、彼が司馬遼太郎とともに、1980年代以降の日本を見て、「日本文明は終わりか」と暗い見通しを述べていたことも指摘している。このことと関連しては「あかるい虚無家」という性格規定が興味深い。(単に個人的な資質の問題ではなく、やはり日本の社会が直面した状況の認識があったと思う。)
 そして梅棹が残した業績よりも、そのような業績を生み出すに至った彼の行為と思索の過程にこそ、改めて学ぶべきものがあると論じる。(この点は同感である。)

 最初に書いた2つの疑問についてみれば、やはり第1の疑問をめぐっては混乱があると思う。「予言者」などといわずに、社会科学における予測の問題として、議論を進めていく方がすっきりする。第2の疑問については、また機会を見て、この本の細部を検討しながら、各論的に検討していきたいと考えている。入り口だけの議論になってしまったが、この書物が何に取り組もうとしているかはお分かりいただけたと思う。

『太平記』(138)

12月24日(土)晴れ

 後醍醐天皇を迎え入れた比叡山延暦寺に対抗するために、足利方は、戒壇の造営を約束して三井寺(園城寺)を味方につけた。第3代天台座主の円仁の門徒と、第5代天台座主の円珍の門徒とが対立した結果、円珍の弟子たちは比叡山を去って三井寺に移り、その後長く、比叡山同様に三井寺にも戒壇を造営することを求め続けてきたという経緯があった。比叡山と三井寺は対立を繰り返し、三井寺は7度も焼き払われた。そのため、三井寺は戒壇の造営を要求しなくなっていたが、かえって寺門は繁栄していたのであるが、尊氏が軽率な将軍の文書を下したので、三井寺に災いが降りかかることになるのではないかと非難する人々がいた。
 義貞の鎌倉討伐に呼応して奥羽から兵を進めていた北畠顕家が、近江の国に達し、琵琶湖を渡って比叡山の宮方に合流した。

 顕家の率いる東国の兵士たちが比叡山の東麓の坂本に到着したので、顕家、義貞、その他宮方のおもだった武将たちが、日吉山王の彼岸所(仏事を行う堂、この時代は神仏が混淆していた)に集まって作戦会議を開いた。長旅に疲れた兵馬を率いている顕家は、ここは一両日でも兵馬を休ませて、それから京都に攻め寄せるべきだと主張した。これに対して大館左馬助(氏明)という武士が、長旅で疲れ切っている馬を、1日でも休ませてしまうと、かえって緊張が解けて、4,5日は役に立たなくなってしまう。そのうえ、顕家の率いる軍勢が坂本に着いたとは、敵はまだ知らないし、また敵がたとえ知っていたとしても、すぐに攻め寄せてくるとはまさか思うまい。敵の不意を衝いてこそ、勝利が得られるのが習いである。今夜すぐさま、志賀(大津市滋賀里)、唐崎(大津市唐崎)あたりまでこっそりと押し寄せて、四方から鬨の声をあげて攻め入れば、必ずや味方の勝利となるだろうと意見を述べる。義貞も、楠正成もこの提案はもっともだと賛同し、他の大将たちにもその旨を伝える。

 新たに加わってきた千葉氏の軍勢が、この作戦を聞いて、夜明け前から千余騎で滋賀の里に陣をとる。大館左馬助、新田一族の額田、羽川の軍勢が、6000余騎で唐崎の浜に陣を取る。琵琶湖交通の要所である戸津、比叡辻、和仁、堅田を固めていた武士たちは、小舟700余艘に乗って、沖に浮かんで夜が明けるのを待つ。比叡山の僧兵たちは2万余人、たいていが徒歩の兵力であったので、東山の主峰如意が岳を越えて三井寺に行く道を進んで、搦め手に回った。大手の鬨の声が上がれば、同時に攻め寄せようと、息をひそめて待ち構える。

 坂本に多数の軍勢が到着した形勢が、船の盛んな往来から知られたので、三井寺の大将である細川定禅と高大和守(重茂=しげもち)の方から京都に使いが派遣されて、東国の軍勢が坂本に着いて、明日、攻撃してくるとの情報がある。速やかに加勢の軍勢を送ってほしいと3度まで申し入れがあった。 これに対して尊氏は、関東からそれほどの軍勢が上洛してくるわけがない。やってきた軍勢はほとんど宇都宮の紀氏清原氏の軍勢という話である。宇都宮の惣領である公綱はこちら側に着いたので、関東からの軍勢が間違って坂本に入っても、公綱が京都にいると知れば、やがて京都にやってくるだろうと、重大な事柄であると受け取ろうとせず、三井寺には一兵も送らなかった。(前回で取り上げたように、宇都宮勢500余騎は、近江まで顕家の軍に加わっていたが、琵琶湖を渡らずに京都に向かっていた。そちらの情報は尊氏の方に届かなかったのである。尊氏はかなりしっかりとした情報網を持ち、的確な判断をしてきた武将であるが、ここでは珍しく判断を誤っている。)

 そうこうしているうちに、すでに夜も明けはじめたので、北畠顕家の率いる2万余騎、新田義貞の3万余騎、新田一族の脇屋、堀口、額田、鳥山の1万5千余騎が志賀、唐崎の湖岸沿いに馬を進めて押し寄せる。後陣遅しと待ち受けている前陣の軍勢は、大津浦(大津市松本のあたり)の民家に火を付けて、鬨の声をあげる。(いつものことながら、自分の家を勝手に焼き払われる住人の立場に立ってみると、ひどい迷惑である。) 三井寺の側でもかねてから用意していたことなので、場所を選んで、防戦の矢をしきりに射かける。

 一番に下総の守護である千葉介貞胤が1,000余騎で押し寄せる。1か所か2か所の城柵を打ち破って、城中に斬って入り、三方にいる敵と1時間ばかり交戦する。しかし細川定禅の率いる四国の軍勢6万余騎に包囲されて、貞胤の子高胤はたちまち討たれてしまった。高胤の配下の兵300余騎は、主人の仇を討とうと必死で戦ったが、150騎ほどが戦死したために、退却し後陣と交代する。

 次に顕家が率いる2万余騎が、入れ代わり立ち代わり、攻め寄せ、兵馬が疲れてきたので、三番手の軍勢と国対する。二は前々回、大友貞截と刺し違えて壮烈な最期を遂げた結城親光の父、宗広が率いる、伊達、信夫(福島県伊達郡、信夫郡)の武士たち5千余騎が入れ替わって、わき目も降らず必死に戦う。この軍勢300騎うたれて退却したので、三井寺を守っていた足利方の軍勢は勝ちに乗じて、6万余騎を二手に分け、琵琶湖の湖岸へと打って出た。

 顕家が兵馬を休ませようといったのはごく自然な発想で、それに対して大館、義貞、正成がすぐに攻め寄せるべきだと主張したのは、何度も戦闘を経験した武士の意見であり、その意見に従って自分も兵を進めて戦った顕家の態度は称賛に値する。これに対して尊氏が珍しく判断ミスをしたのは、あとで尾を引くことになる。宮方の兵力は顕家の兵が加わっても、まだ足利方に比べて少ないが、士気が高く、名将ぞろいという強みがある。
 これまでの成り行きでは、関東の名門千葉氏が宮方に加わっているというのが注目される。{千葉(下総)介、三浦(相模)介というのは平家の流れをくむ東国の武士の二大名門である。下総は親王任国であるから、下総介というのは事実上の下総の長官であることも忘れてはいけない。} 京都にいたころ、自転車で山科まで出かけたことがあったし、友人が自動車の免許を取って車を買ったというので、大津までのドライブに付き合ったこともあるから、今回登場する地名には結構なじみがある。三井寺を守っていた三井寺、足利方の連合軍であるが、そのまま防備を固めていればいいものを、勝ちに乗じて飛び出してしまった。さて、どうなるか、続きは次回。

小沢信男『俳句世がたり』

12月23日(金)晴れ

 12月22日、小沢信男『俳句世がたり』(岩波新書)を読み終える。
 みすず書房の雑誌『みすず』の表紙裏1ページに、2010年から2016年まで73回にわたって連載されたエッセーを1冊にまとめた書物である。

 著者は1927年というから昭和の初め、東京の下町の生まれ。戦後、花田清輝(1909-1974)に認められて文筆活動に入り、新日本文学会に所属して小説、詩、評論、ルポルタージュなどを発表してきた。俳句を始めたのは50歳を過ぎてからで、「町場育ち」のために、「植物動物の季語の類は、正直いまだに苦手だ」(2ページ)という。
 それで季節の移り変わりに応じて、行事や記念日にちなむ俳句(時に川柳)を丹念に拾いだし、その中で東京の下町暮らしの変化の様相を手繰りだす。そして自分の観察と感想をつづる。子どもの時代からなじんできた祭りの経験と記憶は、
神田川祭の中をながれけり 万太郎
(4ページ、神田祭、
千人が手を欄干や橋すゞみ 其角
(12ページ、隅田川の花火)
板前は教へこなりし一の酉 登四郎
(51ページ、一の酉、かつての非行少年が、今や立派なすし職人になった)
鬼灯(ほおずき)市に遭ひしひとの名うかび来ず 波郷
(161ページ)と変化していく。

 なぜ、俳句を作るのか。著者は井上ひさしの言葉を引き合いに出す。
「みんな年をとるとふしぎに俳句をひねりだすのは、さては「日本人の逃げ道じゃないか。カトリックに告解という儀式があるとすれば、日本人には俳句という告白があるんじゃないか」
 俳句イコール贖罪の文芸である。とは「意表をつく卓見」と江國滋は述べていて、ふーむ。同感、賛成です。」(11ページ)

 句会などで詠もうとして詠んだ俳句よりも、人生の感慨が現われた句が多く採用されているのは、このような考えによるものであろうか。特に戦争、東京大空襲や軍隊での体験を読んだ句が目立つ。
ざん壕で読む妹を売る手紙 彬
(101ページ、1936=昭和11年/2・26事件の年に鶴彬が詠んだ川柳)
おぼろめく月よ兵らに妻子あり 素逝
(191ページ、長谷川素逝)
風船爆弾放流地跡苦蓬(にがよもぎ) 澄子
(74ページ、池田澄子)
てんと虫一匹われの死なざりし 敦
(45ページ、安住敦)
焼跡に遺る三和土(たたき)や手毬つく 草田男
(88ページ、中村草田男)
危うくも吾祭られず招魂祭 変哲
(93ページ、変哲=小沢昭一、戦死していれば、靖国神社で軍神として祀られるところだった)
梅雨さむし鬼の焦げたる鬼瓦 楸邨
(7ページ、加藤楸邨、原爆資料館を訪ねての所感であろう。私も資料館を訪ねたが、ハイクも詩も思い浮かばなかった。慚愧。)
人に言はずひぐらしきけばながらへし 澄雄
(104ページ、森澄雄、敗戦から39年後の作)
あやまちはくりかへします秋の暮 敏雄
(141ページ、三橋敏雄)
 戦争を批判しながらも、時流に流されてしまっていた自らの弱さ、その弱さを共有できる他者への共感がそれとなく語られているのも印象的である。小沢昭一さんが海軍兵学校予科の生徒になったのは、「殴られるより殴るほうへまわろうという計算があった」(95ページ)という。そんな弱さを共有できる人の一人の作品:
朝寝して寝返りうてば昼寝かな 風天
(101ページ、風天=渥美清、病床にあった時の作か、それとも売れない芸人だったころの思い出か)

 さらに、東京ゆかりの文学者の遺跡をたどり、自分の旧知の文学者についての思い出を語る。
漱石が来て虚子が来て大三十日 子規
(54ページ) すごい豪華版に見えるけれども、この句が詠まれたのは1895=明治27年、漱石は松山の中学校に勤めていて、帰省中だったのだそうだ。虚子は全くの駆け出しであった・・・。
その年の遊び納めや三の酉 荷風
(113ページ)
かたいものこれから書きます年の暮 荷風
(114ページ) 文化勲章を受章した年の作。彼の作風が受章によって変わったかどうかは議論の余地がありそうだ。

 俳句を残さなかったが、著者にとって忘れられない文学者たちのことも語られている:
「故人との出会いを想う。後期高齢をかさねるほどに、それも慰みのひとつでして。存命中はともあれ。存命中はともあれこっちも死ねば出会えるかも。
 花田清輝は享年65.私は今88.再会したならば、なぁんだお若いですなぁ、と談笑しつつ三尺下がる。故人に影があるかどうかは不明ながら。
 長谷川四郎は享年77.晩年は寝たきりでしたが。ぶっきらぼうな立ち姿に出会えるはずで、みあげてさぞや欣快でしょう。
 などと口を滑らして、真顔で尋ねられたことがある。信仰をお持ちですか。いやなに気ままな空想、生きている間の自由でしょうが。」(184ページ)
流れ星いまもどこかを脱走兵 淳
(194ページ) この句とともにべ平連の活動や、鶴見俊輔さんのことが回想される。「いっぽうで、一億総活躍なんて脳天気な掛け声がある。むらむらとエスケープの気分がそそのかされますなぁ。」(196-197ページ)
 かくして、著者は
よみじへもまた落後して除夜の鐘
(205ページ)という年末を迎えようとしている・・・。
 著者は渋谷のユーロスペースで映画を見ることもあるらしい(186ページ)が、お目にかかる機会があるだろうか?

 最後につけたし:歌舞伎役者の初代中村吉右衛門の句が紹介されているのも興味深い。
女房も同じ氏子や除夜詣 吉右衛門
(23ページ)
雪の日やゆきのせりふをくちずさむ 吉右衛門
(25ページ)
 これら2句を二代目中村鴈治郎の
あの人もあの妓(こ)も消えた法善寺
(藤沢桓夫・橘高薫風『川柳に見る大阪』、100ページ)と比べて味わってみるのも一興であろう。

日記抄(12月17日~12月22日)

12月22日(木)風が強く、時々雨。横浜駅西口の地下商店街にクリスマスの売店が並び始めた。本日放送された「ラジオ英会話」より
Remember Christmas Spirit --- peace and goodwill to all! (クリスマスせいしんをおわすれなく、へいわとぜんいをみなn goodwill to all! (クリスマス精神をお忘れなく、平和と善意を皆に!)

 このところ、自宅で使っているパソコンの調子が悪く、前回の「日記症」は8日分を2回に分けて掲載することになった。そのため今回は12月17日~22日の6日分をまとめることにする。本日は原稿を入力して、掲載するので精一杯で、皆様のブログを訪問する余裕は出来そうもないことをあらかじめお詫びしておく。

12月17日
 田中啓文『鍋奉行犯科帳 風雲大坂城』(集英社文庫)を読み終える。大坂西町奉行大邉久右衛門の「活躍」を描くシリーズ8作目で表題の「風雲大阪城」、それに「偽鍋奉行登場!」の2編の中編からなる。前者は、将軍家斉が京・大坂訪問の意向を示しテいるので、大坂訪問の際の供応の献立を考えろという言いつけを受け、東町奉行の水野忠通と競争で献立の工夫に挑むという話に、西町奉行所配下の同心で、シリーズのもう1人の主人公である村越勇太郎の剣術の師岩坂三之助が何者かに命を付けねらわれるという事件が絡む。後者は、大坂の町に僧侶姿の盗賊が出現する一方で、久右衛門の偽者が夜な夜な無銭飲食を繰り返すという事件が続き、またも(ということはこれまでも何度かあったということであるが)久右衛門の地位が危なくなる・・・という話である。小林泰三さんが解説しているように、時代物であり、探偵・推理もの(捕り物帳)であり、グルメ小説であり・・・と様々な要素を組み合わせて作品を作り上げている。シリーズ8作目で勇太郎の伴侶が決まることになるので、これまでの作品を呼んできた方はその点にも興味をよせてお読みください。

 更に望月麻衣『京都寺町三条のホームズ・6 ~新緑のサスペンス~』(双葉文庫)を読み終える。以前吉田山荘で開かれた朗読会の際に、作家・相笠くりすに雇われて素行調査を依頼されていた探偵・小松から寺町三条の骨董品店のオーナーの孫で、ホームズと異名をとる家頭清貴は家出したまま行方の知れない彼の娘・優子の捜索を依頼される。小松と離婚した母と二人、京都で暮らしてきた優子は、中学生時代から読者モデルをしていたが、金持ちでイケメンの大学生の彼氏ができていたという。一方、京都在住の美術品愛好家の家から美術品が盗まれるという事件が頻発し、盗まれた美術品が全て仏画・仏像であるという。捜査を進めるうちに、この2つの事件には何らかのかかわりがあるのではないかと思われてくる。
 中島誠之助のファンだという著者による、骨董品の薀蓄が作中人物を通じて語られるこージー・ミステリ。今日と時代になじみのある場所が、物語の舞台として登場していることもあり、楽しく読むことが出来た。

 NHKラジオ『攻略!英語リスニング』は”Christmas Truce"(クリスマス休戦)を話題として取り上げた。第一次世界大戦中の西部戦線で、英仏軍とドイツ軍の兵士たちがクリスマスが近づくと非公式の停戦を実施し、両群が入り混じってクリスマスを祝ったという話である。ジャン・ルノワール監督が映画『大いなる幻影』で描いた英仏軍とドイツ軍の間の交流葉商工レベルのものであったが、こちらは兵士レベルのものであることが興味深かった。
Many soldiers, just being ordinary people, they had much in common with soldiers fighting on the other side , and as Christmas approached, there were unofficial ceasefires.. (兵士たちの多くは、ごく普通の市民で、お互いに共通点がたくさんあった。クリスマスが近づくと非公式に停戦状態となった。)

12月18日
 神保町シアターで「今村昌平を支えた職人魂――キャメラマン・姫田眞左久の仕事」特集上映から今村昌平監督の『豚と軍艦』(1961、日活)を見る。基地の町・横須賀で、やくざの養豚場で働きながら出世を夢みているチンピラ男(長門裕之)と、かたぎの暮らしにあこがれるその恋人(吉村実子)とが愛し合ったり、反目しあったりしながらたどる運命を描く。吉村の母や姉がもっと将来のことを考えろと、米軍の兵士のオンリーになることを勧めているという劣悪すぎる環境と、にもかかわらず感じられる女たちのたくましさ、やくざのひ弱さなど、喜劇的でもあり、悲劇的でもある。

12月19日
 NHK「ラジオ英会話」の”Listen for It"のコーナーでは、今週はハンドクリームのCMを聞き込むことになったのだが、
I'm your alter ego. (私はあなたの分身です)
というせりふがあった。CMは2人の女性の対話という形で進められているのだが、ケイティ・アドラーさんが両方の役を演じているので、まさにalter ego (もう1人の自分→分身)ということだなと思って聞いていた。

12月20日
 『朝日』の朝刊に、これまで移築説と新築説とがあった薬師寺の東塔が使われている木材の年輪測定の結果、天平2(730)年に新築されたものであることが分かったと報じられていた。平安時代の歴史書『扶桑略記』にある天平2年3月に東塔の建築が始まるという記述が裏付けられたという。年輪測定による年代が史書の記述と一致した最初の例だというが、その史書が「六国史」ではなくて、『扶桑略記』という仏教系の書物であるという点も注目してよいのではないか。

 この日のテレビ東京の番組『開運!なんでも鑑定団』でこれまで3点しか確認されていなかった「曜変天目茶碗」の4点目が確認された。徳島県でラーメン店を営む男性の祖父が三好長慶の子孫から譲り受けたものだという。私は骨董には興味が無いが、三好長慶という歴史上の人物には多少の興味がある。

12月21日
 NHKラジオ「実践ビジネス英語」の”Quote...Unquote"のコーナーで紹介された言葉:
Luck is tenacity of purpose.
              ―― Elbert Hubbard (U.S.author, 1856 -1915)
(運とは不屈の精神のことである。)
運をつかむまでがんばれということか。

12月22日
 小沢信男『俳句世がたり』(岩波新書)を読み終える。この本については、明日のこのブログで取り上げることにする。

どんぐりの運命

12月21日(水)〔冬至〕晴れ、次第に雲が多くなってきているようだ

どんぐりの運命

どんぐりには どんぐりの
都合があり
子どもには 子どもの
都合があって
林の中の木の枝から
どんぐりが落ちて
地面に転がっているのが
どんぐりの都合
子どもたちが林の中を歩きながら
どんぐりを探して
拾い集めるのは
子どもたちの都合

動きを止め 息を凝らして
地面の上に転がっている
どんぐりを
これはいいどんぐり
これは悪いどんぐり
などと
子どもたちが拾っていく
拾ったかと思うと捨て
捨てたかと思うと拾う

これは ねえちゃんの
これは のこちゃんのと
拾ったどんぐりを
ゆずりあったり
おしつけあったり
ときどきは
とってもきれいな どんぐりを
みつけて とりあいに なったり

どんぐりには どんぐりの
人間よりも 古い 昔からの
根を張り 幹を伸ばし 枝を広げるための
自分たちの都合があり
人間には
縄文時代からの あるいはもっと古い時代からの
命の芽生えや 広がりへの興味と 夢がある

どんぐりが 
子どものポケットに
収まるのも一時の運
この際 運を天に任せて
しばらくは 落ち着いておくれ

そして子どもたちのポケットの中で
どんぐりは どんぐりの 夢を見て
子どもたちの 夢に 付き合っておくれよ

ダンテ・アリギエリ『神曲 天国篇』(9-1)

12月20日(火)朝のうちは曇っていたが、その後晴れ間が広がる。

 ベアトリーチェに導かれて地上楽園から天上へと飛び立ったダンテは、月天で<誓願を果たさなかった人々>の魂に迎えられる。彼らは至高天で神とともにいるのだが、そこでの神との距離をダンテに示すために、至高天から最も遠い月天までやってきたのだという。彼はさらに水星天で<地上での栄光を追い求めた人々>の魂に出会う。その中にいた東ローマ帝国の皇帝であったユスティニアヌスの魂は世俗世界の統治権が神によってローマ帝国に与えられてきたという。次に金星に到達したダンテは、<人と人とを結びつける愛>に生きた人々の魂と交流する。ダンテの旧知のハンガリー王シャルル・マルテル・ダンジューの魂は、彼の実家であるアンジュ―家が戦争の準備のために重税を課したことで、シチリアの支配を失ったシチリア晩鐘事件を引き合いに出しながら、アンジュー家の悪しき統治(友愛に基づかない悪しき統治一般)を批判する。

美しい王妃クレメンツァよ、あなたのシャルルは
私の疑問を解くとすぐに、彼の一粒種が
こうむることになる詐欺について私に預言し、

だがさらにこうおっしゃったのだ、「沈黙を守り、年月の過ぎ行くままに任せるよう」。
それゆえ私には、あなた方の災厄に続いて
正しい罰により涙が流されるとしか話すことができない。

かくてその聖なる光に包まれた生命は
すでに彼を満たすあの太陽に向いていた、
あらゆる事物を満たすに足るあの善であるがゆえに。
(136ページ) 『神曲』の中の出来事は1300年に起きたことになっているが、この叙事詩が書かれたのはもっと後のことで、「天国篇」は1320年に完成したと考えられている。それで、1300年から1320年ごろまでに起きた出来事はすべて預言という形で表現される。教皇派の有力勢力であるアンジュー家のシャルル・マルテルと、神聖ローマ帝国皇帝ルドルフの娘クレメンツァの結婚により生まれたシャルル・ロベール・ダンジューは、両派の和解によるイタリアの平和の実現への期待を担うことになったが、教皇至上主義政策をとるボニファティウスⅧ世と反皇帝・皇帝党政策をとるシャルル・ダンジューⅡ世(ナポリ王、シャルル・マルテルの父、シャルル・ロベールの祖父)は1296年に、シャルル・ロベールの王位継承権を否定した。これが詩行中の「詐欺」である。その後1315年にフィレンツェ・ナポリ教皇党連合軍がピサ・ルッカの皇帝党軍に敗れ、シャルル・ダンジューの王位を継承していたシャルル・ロベルトの弟フィリッポが戦死する。これが「罰」であると考えられている。
 ダンテとの対話を終えたシャルル・マルテルはその愛を神だけに向ける(地上において、彼はその妃を愛しすぎていたことが、冒頭の呼びかけに示されていると原さんは述べている。呼びかけは、地上に戻ったダンテによるものであるが、その背後に生前のシャルル・マルテルが妃への熱愛のために神への愛を軽んじることがあったという事情が示唆されているというのである)。
 ダンテは、地上の事物に拘泥する愛は至高善である神に背くものだという感想をもつ。

 次にダンテは、イタリア北東部マルカ・トレヴィジャーナの覇者、パドヴァの皇帝代理、ダンテが地獄を訪れた折に出会ったエッツェリーノ・ダ・ロマーノの妹クニッツァの魂と出会う。彼女は領土の拡大と勢力の拡張を図る兄の野望の犠牲になって、政略結婚を繰り返す一方で、ダンテが前煉獄で出会った騎士であり吟遊詩人でもあったソルデッロとの恋愛など、多くの恋愛を経験した。
ですが今は喜びに満ちて、この運命の変転の原因を
自ら赦しています。それは私を苦しませていないのですから。
あなた方の世界の無教養な人々にはおそらく理解しがたく見えるでしょうが。
(139ページ) 彼女は神が人間に与えた法を破り、愛を優先して人倫にもとる行為をしたが、これは、生前の結婚関係や職や血統が無効となった、神にだけ向く死後の愛の予型となっているともいえる。そこで、彼女は自分が救われていることが、「無教養な人々」、つまり神の意志に沿おうとしない人々には理解できず、また神意に基づく皇帝の平和が実現5すれば、政略結婚など必要なくなるはずなのにと、皇帝権に抵抗する人々を非難した。

 そしてクニッツァはこの後の地上の世界で起きる、戦いにおける強硬派の敗北・後退を予言する。

 ダンテの政治に対する考えは、時代遅れもいいところだと思うのだが、彼が恋多き女であったクニッツァの運命に理解を示し、彼女を天国の中に描き出しているのは興味深い。彼女の一時期の恋愛の相手であったソルデッロとは前煉獄で、彼女の兄エッツェリーノとは地獄で出会っているというのも(その後、ダンテはエッツェリーノへの評価を改めているという解釈もできると、原さんは記しているのではあるが…)ダンテの考え方を示すものではないかと思う。

 月天、水星天でダンテと話すのはある1人の魂だけだったが、金星ではすでに2人の魂と話している。後半ではさらに1人の魂が登場する。

呉座勇一『応仁の乱』(3)

12月19日(月)晴れ

 この書物の特徴は、前回も触れたように、奈良の興福寺を代表する立場にあった経覚と尋尊という2人の高僧の日記を主な史料として、応仁の乱とそれ以前の畿内の社会の動きを、大和におもな焦点を当てながら描き出そうとしているところにある。大和の事実上の守護は藤原氏の氏寺である興福寺であったが、その内部では近衛・鷹司家から代々の門主を迎えていた一乗院と、九条・一条・二条家から門主を迎えていた大乗院との対立があり、このような対立・抗争の際の実働部隊である衆徒の力が次第に強くなった。また藤原氏の氏神を祀る春日神社の武力である国民も興福寺の衆徒たちとともに実力を蓄えていった。大和では親幕府的な一乗院方衆徒の筒井と、反幕府的な大乗院方国民の越智との対立を軸に紛争が展開されるようになった。
 この書物の資料の1つである『経覚私要抄』(もともと「抄」と手偏で書くのではなくて、金偏の字が用いられているのだが、入力できない)を記した経覚は九条家の出身で応永17年(1410)に大乗院門主となり、同33年(1426)に興福寺別当の地位につくなど順調な前半生を送っていた。彼は幕府との良好な関係を利用して興福寺、さらには大和一円を支配しようとするが、国内の複雑な利害関係は彼の意図の妨げとなった。
 応永35年(1438)に将軍・足利義持が没し、その後継者としてくじ引きによって足利義宣⇒義教が選ばれた。経覚は幕府の権威を利用して大和国内の紛争を鎮めようとしてきたが、将軍義教ははじめのうち、大和への介入をためらっていたものの、いったん介入を始めると強硬論に転じる。筒井一族の衆徒・成身院光宣の暗躍もあり、大和における紛争に幕府の命を受けた畠山・赤松の軍勢が派遣される。戦火の拡大を苦々しく見つめていた経覚は義教から求められた幕府への上納金の納付を断ったために失脚することになる。彼の後任として一条兼良の9歳の男児が大乗院に入室するが、その男児がこの書物のもう1人の主人公、『大乗院寺社雑事記』の著者である尋尊である。

 嘉吉元年(1441)正月に幕府は関東で結城氏朝らの反乱軍の討伐に取り組むが、なかなか成功しなかったので、畠山持国に出兵を依頼する。しかし持国が承諾しなかったために義教の不興を買い、後難を恐れた家臣たちが幕府に持国の解任を申し出たので、幕府は持国を畠山の家督から外して彼の弟である持永を家督に据えた。持国は河内へと落ちていった。
 同年4月に結城城は陥落し、6月、その先勝祝いにことよせて義教を自邸に招いた赤松経康(のりやす)が義教を暗殺するという事件が起きた(嘉吉の変)。変後、管領の細川持之は諸大名を招集し、善後策を協議した。その結果、義教の長男である千也茶丸を後継とし(のちの足利義勝)、管領の持之が政務を代行することとなった。〔『太平記』の最後に記されているように、臨終の床にあった室町幕府の2代将軍足利義詮が阿波から上洛してきた細川頼之に後事を託し、頼之が管領として義詮の子で将軍職を継ぐ義満を助けることになったことが記されているという前例がある。〕

 その際に、義教によって追放ないし処罰された人々への赦免を行うことが決まった。その中に持国も含まれていたので、彼に代わって家督を継いでいた持永との対立が置き、最終的に持国が家督に復帰する。もともと大和に影響力を持っていた持国は幕府によって家督を奪われていた越智氏の蜂起を援助した。この動きに触発されたのか、経覚もまた越智以下の国民の助けを借りて、力ずくで大乗院の門主の地位に復帰した。これまで衆徒・国民の争いに際して、特定の勢力に加担せず、調停者的立場を崩さなかった経覚であったが、越智の力を借りたことで、親越智・反筒井の立場をとることになった。経覚が騒乱の渦中に飛び込んだことで、大和の政治情勢は新たな段階に進んだ。

 筒井氏の側でも内訌が起きたりするが、大和国内における主要な火種は細川持元の後を受けて管領に就任した畠山持国の援助を受けた反筒井勢力と成身院光宣を陰の指導者とする筒井氏との対立であった。持国が管領を退き、細川勝元と交代すると、幕府は奈良への介入に消極的になるので、筒井が優勢になり、尋尊が大乗院の門主に返り咲くことになる。しかし、これまでの門主と違って前任者から自分の仕事についての懇切な指導を受けることができず、そのために克明な日記をつけて、後代に残そうと考える。それが『大乗院寺社雑事記』である。

 一方、畠山氏は持国の後継者をめぐり、実子の義就(よしひろ)と持国の甥である弥三郎のどちらをめぐり内訌が起こり、弥三郎が(畠山氏の内訌を利用して自分たちの勢力を拡大しようとする)細川、山名という有力な大名の支持を得たことから、混乱は大きくなった。さらに兄・義勝の後を受けて将軍となった足利義政の無定見が加わり、事態は一層複雑なものとなる。義就に追われた弥三郎は大和に逃げ、成身院光宣を頼り、大和での戦闘が再発する。弥三郎は没するが、その後、光宣はその弟の政長を立てて戦いを続かることになる。「大和の混乱は、畠山氏内訌と結びつくことで、拡大の一途をたどった。」(64ページ)

 ここでは名前を出さなかったが、本文には山名持豊(宗全)も登場し、細川勝元、足利義政、畠山義就、政長と、応仁の乱の役者がそろい始めている。出来事の表面だけを見ていくと、一家の当主の座やその当主の占めている地位をめぐる争いのように思われるが、土地や財産をめぐる争いが絡んでいて、それに少なからぬ人間が関係するから事態は複雑になるのである。事態はこれらのことを含めて、応仁の乱の直前の動向を探ることになる。

パオロ・マッツァリーノ『みんなの道徳解体新書』

12月18日(日)晴れ

 パオロ・マッツァリーノ『みんなの道徳解体新書』(ちくまプリマーブックス)を読む。パオロさんは、このFC2ブログの学問・芸術・文化の部門の上位に顔を出している「パオロ・マッツァリーノの反社会学講座」の管理人であり、すでに新潮新書の『「昔はよかった」病』などの著書もある「日本文化研究者、戯作者」である。

 ここで問題にされているのは道徳一般ではなくて、日本の小学校、中学校における道徳の時間で何が教えられ、学ばれているか、さらにもう少し広い意味での道徳教育の問題である。現在の日本では道徳が乱れているので、道徳教育を強化する必要があり、だから道徳の時間を「道徳の時間」という領域ではなくて、教科にしようというのが文教政策の動きなのだが、それに対して異議を唱えている書物である。初めに言っておくが、著者の意見に大体において賛成である。

 冒頭、著者は「日本社会が悪くなったのは、戦後の民主主義的自由主義教育のせいで日本人の道徳心が低下・劣化したからだ!」(だから道徳教育を強化しなければならない)とここ60年ばかり続けて主張されてきたと指摘する。(生まれて60年たてば、人間は結婚して子どもができ、その子どもにまた子どもができているのがふつうである。世代が変われば、主張も変わるのが当たり前だとすると、日本の大人たちが60年間同じことを繰り返し主張しているのは、かなり不思議な事態である。) それに、道徳教育を強化することで、本当に道徳性が改善されるのであろうか。

 著者は、道徳が「特殊な科目」であるという。数学の先生は数学が得意な人がなって、数学が得意でない生徒が数学が得意になるように教える(実際には私のように得意にならない生徒も多い)。ところが道徳はそうではない。道徳の先生は道徳が得意だとは言えないのである(著者は、一般に学級担任が道徳の時間を担当するという学校の実際についてなぜか、触れていない)。さらにここ30年以上にわたり、学校教育の中にはびこり続けている「いじめ」と関連して、<いじめ防止に道徳を使うのはオトナのいいわけ>に過ぎないと断じる。著者の言うとおり、週1回道徳の授業をやっても、いじめがなくならないのは教える方も教えられる方もわかっている。言い訳に過ぎないというのもそのとおりである。問題解決に取り組まずに、体裁だけを取り繕うとするのはズルい。
 
 さらに著者は「ズルい人ほど道徳を利用する」といって、道徳教育を推進するといいながら、アメリカの企業から巨額のわいろをもらっていた政治家や、「心の教育」を推進するといいながら企業からわいろをもらっていた官僚の例を挙げる。実際、彼らが道徳教育を推進していたことを引き合いに出して、彼らは本当はいい人なのだから攻撃すべきではないといっていた人もいたのである。いまの道徳教育よりも優れた内容をもっていたはずの戦前の修身教育を受けていた政治家や官僚がこのようにわいろをもらうという行為をしたのは、わいろを受け取ってもそれが発覚しない事例の方が多いからであると著者はいう。実際、各種の疑獄事件の際に街の声を聞くと、運が悪かっただけだという感想を述べる人が少なくなかった。(しかし、道徳よりも実利を優先させるような人が道徳教育の強化を主張しても、あまり効果はないはずである。)

 道徳は、すでに正解が決まっている善悪の基準を子どもたちに押し付けて、基準をぶれさせないよう維持することを目的としていて、子どもたちに「なぜ?」と問いかける余地を与えないことで成り立っていると著者はいう。しかし、そのことによって道徳は社会の変化に対応しない、単なるガラクタになっていると著者は主張するのである。

 ということで、実際に学校ではどのような道徳が教えられているのか、著者は道徳の「副読本」の内容の点検に取り組む。ただ、その中にどのような内容が盛り込まれ、そこから著作者側のどのような意図が読み取れるかということで終わっていて、道徳の授業の実態にまでは入り込んでいない(そこまでをこの著者に求めるのは無理かもしれない。この点では別の論者による検討を望みたいものである。) さらに戦前の修身書から戦後、道徳の時間が特設されて以後の副読本の内容についても目を通している。矛盾した話、歴史や科学の事実と異なるでたらめな話、意味不明な話がある一方で、大いに考えさせられる優れた話も含まれているという(しかし、大半は、くだらない話でも、優れた話でもなく、どうでもいい話が多いようである)。
 検討を加えたうえで、著者は現行の道徳「副読本」の問題点として、そこで取り上げられている家族像が理想に偏っていること、かなりの頻度で樹木信仰が取り上げられていること、歴史と科学が無視されていること、自己犠牲が称賛されていることを列挙している。この点については、他の論者によるさらなる検討が必要であろう。(家族像が実際の家族の姿を反映していないのは、修身教育でも同様であった。)

 さらに、「オトナが勉強をしなくなる仕組み」が道徳をゆがめていると著者は論じる。「勉強とは自分の中の経験と常識をぶち壊す行為」(147ページ)であるから、大人になればなるほど、そんなことはしたくなるのはある意味で当然である。著者は、「社会や人間について考察する際は、道徳心はいったん脇に置き、まずは多くの事例を「勉強」するところからはじめなければいけません。われわれは、過去の社会や過去の人間について、あまりにも無知です。経験で常識だと思ってることも、実は多くの事実の中のひとつの例にすぎなかったりします。謙虚になって勉強し、学んだ事実をもとに科学的に考えてください」(158ページ)と読者に呼び掛けている

 最後に「いのちの大切さのしくみ」について論じているが、この部分は著者の本音がよく出ていて感動的で、ぜひご自分でお読みください(著者同様、私も戦争と死刑の両方に反対である)。「殺人のおもな理由は憎しみなのだから、殺人を減らしたいのなら、いかに他人を憎まないようにするかを教えるのが最も効果的です。/ゆえに道徳の授業で教えるべきは、いのちの大切さではなく、多様性の尊重です」(171ページ)という主張には賛成である。他者の理解が重要であることを強調してこの書物は終わっている。

 汚れた雑巾でテーブルを拭いてもテーブルはきれいにならないというたとえを持ち出したのはトルストイだったと思うが、道徳教育は雑巾のようなものかもしれず、その雑巾の状態にもっと目を向けるべきなのである。この書物だけにとどまらず、もっと他の著者によっても、道徳教育の実態に迫る、実証的な著作が刊行されることを望むものである。

『太平記』(137)

12月17日(土)晴れ

 建武3年(1336)、京都に迫ってきた足利尊氏の軍勢と、大渡・山崎で戦った新田義貞の軍勢は敗退し、後醍醐天皇は都を捨てて比叡山に臨幸された。勢多(瀬田)を守っていた名和長年は、いったん都に戻り、内裏を焼き払った。正月11日に足利尊氏は入京したが、持明院統の皇族方も比叡山に移られていたために、院として戴くべき方が見いだせず、今後の政局運営について思い悩んだのであった。後醍醐天皇の寵愛を受けて三木一草の1人に数えられた結城親光は、わざと降参して足利尊氏を討とうとしたが、使者である大友貞截に武装を解くように言われて、大友に斬りつけて重傷を負わせたものの、大友の家臣たちに討ち果たされた。(大友は翌日死去した。) 〔以上で14巻が終わる。〕

 比叡山では後醍醐天皇を迎え入れ、東北・関東地方の武士たちを集めた北畠顕家の軍勢が到着するのを待とうとしているという情報を得て、足利方は義貞の味方が増えないうちに比叡山の東麓の東坂本を攻めようとして、足利一族で四国から攻め上ってきた細川定禅とその一党6,000余騎を三井寺に向かわせた。歴史的に、比叡山と三井寺とは対立抗争を繰り返してきたので、三井寺の僧兵たちは足利方を裏切ることはないだろうという見通しがあったのである。したがって、もしここで戦果を挙げれば、三井寺が宿願としてきた戒壇造営について協力すると約束をしたのである。(戒壇は僧侶を得度させる=戒を授けるための壇であり、東大寺、大宰府の観世音寺、下野の薬師寺に設けられ、その後、比叡山にも造営された。岩波文庫版の脚注によれば、戒壇を造営することが宗派としての自立を意味するということであるという。)

 ということで、『太平記』の作者は三井寺が比叡山の円頓戒壇に対し、密教系の三摩耶階段を造営しようと長年朝廷と幕府に働きかけてきた経緯を語る。何度か天皇には認めていただいたのだが、そのたびに比叡山の僧兵たちが押しかけて反対し、取りやめになっていたのである。同じ最澄の弟子である円仁の流れをくむ山門派と、円珍の流れをくむ寺門派とは平安時代から対立してきた。そのため、三井寺は延暦寺の僧兵によって7度も炎上してきた。近年はそのため、戒壇造営についての要求をしていなかったが、そのためかえって三井寺は繫栄していた。ところが、足利尊氏がここで軽率に戒壇の造営の問題を持ち出したので、三井寺にとっては思わしくない事態が到来することになると『太平記』の作者は述べている。

 奥州に派遣されていた北畠顕家は、尊氏・直義兄弟を討伐するために京都から向かった新田義貞の軍に呼応して東北から鎌倉を攻めるつもりであったのが、大軍を動かすことが簡単ではなく、その遠征の途中で合戦になったことが何度もあったために、箱根の合戦には間に合わず、尊氏が鎌倉から京都に向かったと聞いて、その後を追って昼夜兼行で都へと急いでいた。越後、上野、常陸、下野に散らばっていた新田一族、鎌倉幕府の有力御家人だったが官軍に投降していた千葉氏、宇都宮氏の武士たちが加わり、軍勢は5万余騎を数えていた。鎌倉から西の方面では、行軍を妨害するものもいなかったので、正月13日には近江国愛智川宿(滋賀県愛知郡愛荘町にあった宿場)に到着した。

 その日、大館幸氏、佐々木時信が立て籠もっていた観音寺城を攻め落とし、500余人の首級をあげる大勝を収めた。翌日、早馬を仕立てて、勝報を坂本にいる味方に知らせたところ、これまでの敗戦に元気をなくしていた後醍醐天皇や官軍の武士たちは大いに喜び、士気を回復したのであった。そこで延暦寺の僧祐覚に命じて、琵琶湖で使われている船を700艘選んで、科の浜(草津市志那町の琵琶湖岸)から一日のうちに湖を渡らせたのであった。宇都宮氏に属する紀氏、清原氏の流れをくむ武士たち500騎も宇都宮の惣領である公綱の命令により従軍していたが、公綱が大渡合戦で足利方に降伏していたために、隊から離れ、京都へと向かったのであった。
 観音寺城は近江南部の守護を務めてきた佐々木六角氏の居城である。佐々木時信は、六波羅探題の一行が鎌倉に向かおうとした際に、加勢に向かえずに宮方に降伏していたが、建武の乱では足利方についていた。近江北部の佐々木京極氏の道誉が尊氏の盟友として活躍したのに比べて、その動きは冴えない。北畠顕家の軍が湖を渡ったのは、湖南の三井寺を本拠とする足利方との衝突を避けたのであろう。顕家は親房の子で、武士ではなく公家の出身であるが、政治的・軍事的な才能があったようで、その働きは官軍にとって大きな力となった。顕家はこの後、また奥州に戻るが、さらにまた上洛、長距離の行軍を繰り返している。村井章介さんも指摘しているが、顕家に限らず、このような行軍の道筋にいた庶民たちはそのために略奪を受けたりして大いに苦しまされたのであった。
 奥州・関東の宮方の武士を集めた顕家の軍勢の到着により、戦闘は新たな局面を迎えるが、それはまた次回。

日記抄(12月13日~16日)

12月16日(金)晴れ

 12月13日から本日までの間に経験したこと、考えたこと、および前回の補足:
◎12月10日の項で、<坊っちゃん>と漱石の距離について注目する必要があると書いたが、簡単な例を挙げておく。うらなりの送別会の会場でおかれていた陶磁器を見て、坊ちゃんは大きな瀬戸物だといい、博物の教師にあれは唐津ですと訂正される。坊ちゃんにはその意味が分からない。作者である漱石はもちろん陶磁器についての一定のたしなみがあるのである。もう1例、山嵐と2人で赤シャツの悪口を言っていて、あいつの親父はことによると湯島の陰間かもしれないといって、山嵐に湯島の陰間とは何だ?と聞かれて、なんだかわからないが男らしくないものの事だろうと答える。書いている漱石は湯島の陰間がどういうものかは知っているのである。『坊っちゃん』は主人公の一方的な語りが展開されるので、読者はそれに巻き込まれて、主人公と一体になって読み進むことが多いが、作者である漱石はそういう読み方を戒める仕掛けをいくつか作っているのである。

◎12月11日分で書き落としたこと:
 『朝日』の朝刊に出ていた『AERA』12月19日号の広告によると、論述式を導入する「新テスト」の実施によって「浮かぶ大学 沈む大学」が特集されている。「『新テスト』2020年開始は受験生のためになるか」をめぐり、早稲田大学の鎌田薫総長は「思考力鍛える」と肯定的な回答をし、東京大学の南風原朝和副学長は「国語教育がゆがむ」と否定的である。
 自分自身が受験生であったころに、論述式の問題の解答の仕方について結構指導を受けたものであるが、大学の教師になってみると、学生たちがほとんどその種の指導を受けていないことに気付いた。都会の受験校と地方の学校とではこの種の指導の仕方が違うようである。論述試験の導入は受験指導の経験が蓄積されている学校とそうでない学校の格差を改めて明るみに出すかもしれない。また最近の電子化された文書作成の普及は、文章の書き方を根本的に変えているように思われるのだが、論述式の導入は、そういう変化を考慮していないように思われ、私は否定論の方に傾いている。

 同じ朝刊に夏目漱石の生涯を回顧する記事が出ていたが、その中で1916年11月21日に「知り合いの結婚披露宴に」出てそこで、落花生を食べたことが病状を悪化させたと書かれている。この時の新郎が後の東京大学のフランス文学の教授・辰野隆であることは辰野ご本人が記している。漱石は新婦の方の関係で出席したのである。

12月13日
 『朝日』の朝刊に都心の大学の新増設抑制案が自民党・政府内で浮上しているという記事が出ていた。そうではなくて、もっと積極的に大学の設置に介入して、地方の大学の整備を進めるべきではないかと思う。都道府県の規模に見合った総合大学と、各地域の伝統に根差した地域短大・大学の組み合わせによって地方の高等教育を振興すべきなのである。

 同じく「謎とき!日本一」のコーナーに各都道府県の神社数の順位が紹介されていた。1位が新潟県で4758社、2位が兵庫県で3870社、3位が福岡県で3423社、出雲地方を含む島根県は31位で1173社、伊勢神宮のある三重県は38位で3423社、46位が和歌山県で445社、47位は沖縄県で14社ということである。この記事で触れられていたように、集落の数が神社の数に影響しているのだが、明治時代に神社の統廃合を進めた時の地方行政の在り方とも関係がありそうである。

12月14日
 落合淳思『古代中国の虚像と実像』(講談社現代新書)を読み終える。2009年に出た本で、読み落としていたことに気付いて購入したものである。古代中国の歴史については、歴史的な事実ではない説話が、歴史書や歴史教育の中でまかり通っている。最近の研究成果に基づいて、そのような書物と教育の影響から生まれた誤解を正そうというのがこの書物の狙いである。「夢のない話を延々とするので、「現実的な話は聞きたくない」という人は、本書を読まないことをお薦めしたい」(3ページ)と「はじめに」に記されているが、どうしてなかなか面白い。第5章「「共和」の時代は共和制ではなかった」というのは、9月に読んだ佐藤信也『周』にも書かれていたことである。第6章「『春秋左氏伝』の虚実」や第7章「覇者は何人か」、第8章「戦国時代の始まり」も佐藤さんの本と合わせて読むといいだろう。
 しかし一番面白かったのは、番外編「三国志の英雄たちと赤壁の戦い」で、「中国には、北と南に地理的な違いがあり、互いに攻めることが難しい」(189ページ)という指摘など、大いに参考になった。もともと騎兵での戦いに慣れている魏の軍が、水軍による戦いに慣れている呉と蜀の連合軍(主力は呉)に水上の戦いで敗れたのは当然であるという。
 『春秋』は信頼できるが量が少なく、『左伝』は量は多いが必ずしも信頼できない」(62ページ)というような評価にはなるほどと頷かされる。中国の歴史についての新たな関心を呼び覚まされる書物である。

 NHK「ラジオ英会話」でノエルはエルフ(妖精)たちの働くおもちゃ工場を見学したついでに彼らの組合の集会を傍聴しようとする。すると案内者が言う。
A word to the wise: You'd be wasting your time. (こういうだけでおわかりでしょうが、時間の無駄です。)
 昨日も参考にしたRidout & Witting, English Proverbs Explainedには”A word is enough to the wise"(賢者には一言で十分である)という形で掲載され、「頭のいい人はヒントを与えられただけですぐに全体を理解する」という意味だと解説されている。ラテン語ではvebum sat sapientiというが、satは省略されることが多いとのことである。
 17世紀英国の医師で、『政治算術』などの著書を通じて、古典派経済学と統計学の祖といわれるウィリアム・ペティ(1623-1687)にVerbum sapientiという論説がある。

 NHKラジオ「実践ビジネス英語」の”Quote...Unquote"のコーナーで取り上げられた言葉:
The only good is knowledge, and the only evil is ignorance.
              ――Socrates (Greek philosopher, 469-399 B.C.)
(唯一の善は知識であり、唯一の悪は無知である。)
 日本では知育と徳育とを区別する考えがよく見られるが、それはソクラテス以来の西欧の伝統とは異なるものであることを認識しておく必要がある。(別にそれが悪いといっているわけではない。ただ、違うことを認識しろと言っているだけである。)

12月15日
 NHKラジオ『実践ビジネス英語』の”Quote...Unquote"のコーナーで紹介された言葉:
When a man is wrapped up in himself, he makes a pretty small package.
           ――John Ruskin (english writer and art critic, 1819 -1900)
(人は、うぬぼれているときには、自分をとても小さい人間にしている。)
 河上肇はマルクスは物質的な面からの、ラスキンは精神的な面からの資本主義の批判者であるというようなことを言っていたが、これは20世紀の初めごろの英国でふつうにみられた論調のようである。ラスキンには、水彩画やターナーの評価に代表される美術評論家としての側面、自然賛美を通して登山を推奨したという面もあって、それぞれに日本の文化に影響を与えた思想家である。もう20年以上前に、英国のシェフィールドにあるラスキンの記念ギャラリーを訪問した時のことを覚えているが、日本からの訪問者の署名が多かった。そういえば、ロンドンのナショナル・ポートレート・ギャラリーを訪問した際に、ラスキンと彼の妻だったエフィーのそれぞれの肖像画の絵葉書を買った。肖像を描いたのはミレー(John Everett Millais, 1829-96)であるが、エフィーはその後、ラスキンと別れてミレーと結婚したのである。

 NHKラジオ「まいにちイタリア語」応用編『古代ローマ幻想」は”I teatri romani" (古代ローマの劇場)という話題を取り上げた。古代のイタリア半島には様々な民族がすんでいたので、それらの民族の間に伝わっていた芸能や、ギリシャ演劇をラテン語に訳したものが、古代ローマでは上演されていたという。(ギリシャ劇のローマでの展開をめぐっては、小林標さんの興味深い考察がある。)
I generi più importanti del teatro greco erano la tragedia e la commedia. (ギリシャ演劇で最も重要なジャンルとされていたのは悲劇と喜劇だった。)
La maschera (persona) che si metteva durante la rappresentazione teatrale, aiutava a riconoscere il personaggio. (演劇の上演中に被った仮面(ペルソーナ)は、登場人物を見分けるのに役立った。)
 放送の中では触れられなかったが、1回の上演に参加する俳優の数は限られていたので、同じ俳優が別の仮面をかぶって何度も登場するということがあったようである。
 このほか、ギリシャとローマの劇場の違いなども話題として取り上げられた。

12月16日
  NHK「まいにちイタリア語」応用編『古代ローマ幻想散歩』は紀元2世紀ごろのローマで暮らすコルネーリウス家という架空の家族とその周辺で起きる事柄を取り上げながら、古代ローマの人々の暮らしと文化について概観している。今回の話題は”Librerie e biblioteche"(書店と図書館)で、一家の長男であるティトゥスは父ルーキウスからもらったオウィディウスの本を読み終えた。そして母親であるアウレーリアにもっとほかの本を読みたいという。
Le Metamorfosi di Ovidio è un lungo. Alcune storie sono troppo difficili. (オウィディウスの『変身物語』は長い本だよ。いくつかの話は僕には難しすぎるな。)
Non è necessario adesso capire tutto. È communque una lettura importante, perché ancora non puoi leggere le grandi opere in lingua greca. Ovidio riprende molte storie raccontate da poeti e scrittori greci. (今、すべてを理解する必要はないわ。でも、あなたはまだギリシャ語で書かれた名作が読めないから、これを読むことはとても大切よ。オウィディウスは、ギリシャの詩人や作家たちが書いた数多くのお話をもとにしているんですから。)
 ラテン語を勉強するようになって気づいたことがいくつかあって、その1つがヨーロッパではラテン語とギリシャ語とが古典語として学ばれてきたが、ラテン語ができる人に比べて、ギリシャ語ができる人は少ないようだということである。(ヨーロッパに限らず、日本でもそうである。) だから、ギリシャ神話といっても、ギリシャ語で読んでいる人は少なくて、オウィディウスの『変身物語』などを通じて知っているという人が多い。この辺りの事情を知っていると、上の会話は余計に面白い。(もっともティトゥスは古代ローマ人だからラテン語は母語である。とはいえ、オウィディウスとは100年あまりの時代の差があるから、そう簡単には読めないのであろう。)

 話題をめぐるマルコ・ビオンディさんの解説から:
La biblioteca romana era divisa in due aree distinte: una per i libri in lingua greca, l'altra per quelli in latino. In iascuna area era disposto uno staff di professionisti esperti nelle lingue antiche. (古代ローマの図書館は2つのゾーンに分けられていた。1つはギリシャ語の本、もう一方はラテン語の本のゾーンだった。それぞれに、古代言語に精通した専門スタッフが配置された。)
 

日記抄(12月9日~12日)

12月15日(木)朝のうちは曇っていたが、その後晴れ間が広がる。

 12月9日から本日までの「日記抄」を掲載するつもりだったが、記事が多くなったので、12月9日から12日、13日から16日の2回に分けて発表することにした。前回に書き残したことも付け加えている。

12月8日のNHK「カルチャーラジオ」文学の世界『鴨長明と方丈記 波乱の生涯を追う」第10回は「長明の旅、長明の恋」として、長明が都の内外の歌枕となった土地を巡遊していることが語られた。特に伊勢旅行の記録が残っていて、そこからは彼の恋愛らしきものの痕跡がうかがわれるということであった。

12月9日
 NHKラジオ「まいにちイタリア語」応用編『古代ローマ幻想散歩』は”I banchetti"(宴会)という話題を取り上げた。
 Gli invitati si mettevano un abito da cena e dei sandali (soleae), poi si disponevano sui letti del triclinio. (招待客は夕食用の衣服とサンダル(ソレアエ)を身につけて、トリークリーニウムの寝台の席についた。) トリークリーニウム(Triclinium)というのは10月に放送されたこの番組のLezione 3の”Le abitazioni cittadine" (古代ローマの住宅)で説明されたが、裕福な家庭の邸宅であるdomusに設けられていた寝そべって食事をする部屋である。
 Era abitudine dei Romani, aprire il banchetto con le uova e concluderlo con la frutta, add esempio con le mele. Da qui nasce l'espressione idiomatica latina "dalla uova alle mele" ("ab ovo usque ad mala") che significa "tutto quanto". (晩餐会を卵料理で始め、リンゴなどのフルーツで締めくくるのがローマ人の習わしだった。ここから「最初から最後まで」という意味を持つ「卵からリンゴまで」というラテン語の言い回しが生まれた。(イタリック部分はラテン語)
Ogni banchetto dovena finire con la baldoria o con i bagordi: la comissatio che era una gara di brindisi. (どの宴会もどんちゃん騒ぎ、乾杯の連続であるコーミッサーティオーで幕を閉じるのが常であった。)

12月10日
 渋谷Bunkamuraル・シネマ2で『ブルゴーニュで会いましょう』を見る。頑固な父に反発して生まれ育ったブドウ農園を飛び出し、ワイン評論家として名を成した男性が、実家の危機を知ってその再建に取り組むというストーリーに、隣の農園の母娘との二代にわたる恋愛模様が絡む。田園風景の美しさを別にすると、特にみるべき内容があるとは思えなかった。

 NHKラジオの『朗読の時間』で断続的に聴いていた夏目漱石の『坊っちゃん』の放送が終わった。漱石が松山の(旧制)中学校で教えた時の体験がもとになっているが、坊ちゃん=漱石というわけではない。それでも、地方都市の狭い世間の中で新任教師の一挙手一投足が注目の的、噂の種になることについて、かなり神経質に対応するのは漱石の体験そのものであろう。
 昔、私が住んでいたアパートの前にあったコンビニで、学生がアルバイトで働いてきたことがあって、そのあたりからうわさが広がり、ある学生に私たちは先生の事なら何でも知っているなどとすごまれたことがあったが、身近な場所からの観察であっても、そこから得られる情報は表面的、断片的なものであることが多い。わかっていることは部分的であり、少なく、わからない部分について憶測が紛れ込むから、余計噂というものは怖いのである。

12月11日
 神保町シアターで『キューポラのある街』、『かぶりつき人生』、『危いことなら銭になる』と3本続けて映画を見た。
 『キューポラのある街』については既にふれたが、そこで書かなかったことを付け足しておく。ヒロインの弟と仲の良い朝鮮人の子どもがいて、好きな女の子と学芸会の劇で共演したいと言い出し、実現させる。演目が『にんじん』で、客席から「朝鮮人参」とヤジが飛ぶ。普通の人参よりも薬草として珍重されてきた朝鮮人参の方が高価だということを知らないことからのヤジであろう。(ちなみににんじんはセリ科、朝鮮人参はウコギ科の植物だそうである。)
 この場面の相手の女の子を演じていたのが、後にテレビの『サインはV!』などで活躍した岡田可愛で、この作品が映画デビューであった。

 『かぶりつき人生』はストリッパーを母に持つ娘(殿岡ハツエ)が、母の生き方に反発するが結局は母と同じ道を歩んでいくという話で、観客席の側よりも、舞台の上と舞台裏の人間模様の方が主に描かれているので、その点で題名との違和感がある。映像的に見るべき場面はあるが、ストーリーが弱いという印象が残る。

 『危いことなら銭になる』は、紙幣を印刷するための紙が盗まれ、偽札作りが企まれているのだろうと考えた宍戸錠、長門裕之、平田大三郎の3人が香港から帰ってきた偽札作りの名人(左卜全)に接近するが、紙を盗んだ連中に名人は連れ去られてしまう。3人はお互いに相手を出し抜こうとしたり、協力したりしながら、事件の核心に迫っていく。それに柔道2段、合気道3段、フランスに行きたいと金をためている浅丘ルリ子が加わってくる。かなり現実離れのしたアクション・コメディで、最後までストーリーが二転三転するので目が離せない。左卜全のとぼけた名人ぶりがおかしい。

12月12日
 NHK「ラジオ英会話」はリポーターのノエルが北極のSt. Nick (サンタクロースのこと)とその工場を訪ねるという”St Nick's Busiest Month"の第2週目、今回はノエルがトナカイ小屋(The Reindeer Stable)に案内される。なお、stableは「小屋」という意味のほかに、相撲の「部屋」という意味もあるそうである。
 St. Nickのそりを引くトナカイたちが、本当に空を飛ぶのかという疑問をもつノエルが、事実はすべて検証することが大事だというと、案内役が
Well, as they say: "Seeing is believing." (そうねえ、よく言うように、「百聞は一見に如かず」ですよ。)
と返す。
 齋藤秀三郎の『熟語本位 英和中辞典』ではSeeing is believing.について「見る程確かな事は無い(百聞一見に如かずに非ず)」と記されている。手元にあることわざ辞典のRonald Ridout & Clifford Witting, English Proverbs Explainedには
Many people are reluctant to believe a thing unless they can see it. (多くの人々はある物事を見ることができなければ、それを信じようとしない。)と説明してあって、両者の意味するところ、まったく同じというわけではなさそうである。

ジョージ・バークリーの哲学とその周辺

12月14日(水)小雨が降ったりやんだり

 一昨日付の当ブログで木田元『マッハとニーチェ 世紀転換期思想史』(講談社学術文庫)を取り上げたところ、<ささげくん>さんから(<ささげ>さんでいいのかな?)コメントを頂いた。そのコメントを読んで、私の文章の説明不足の部分が分かったので、お礼を兼ねて、補足的な文を書いておきたい。

 木田の著書の関心はマッハとその影響を受けた人々の思想にあるので、『マッハとニーチェ』の第10回「レーニンとロシア・マッハ主義者たち」は、ボグダーノフに代表されるロシアの<マッハ主義者>たちの議論の方を詳しく述べていて、『唯物論と経験批判論』でどのようにレーニンが彼らの主張を論駁したかについてはあまり触れていない。わずかに
「レーニンが『唯物論と経験批判論』で、マッハ/アヴェナリウスを中心とする<経験批判論>をバークリー/ヒュームの主観的観念論の再来として攻撃していることはあらためて言うまでもあるまい」(193-194ページ)と述べている箇所があるので、そこを私のブログでは部分的に取り出したのだが、考えてみると、「バークリー/ヒュームの主観的観念論の再来」だというだけでは、批判にならない。マッハとバークリーやヒュームの考えの近縁性を指摘したうえで、それらがいかに間違っているかを論じなければならないはずである。もちろん、『唯物論と経験批判論』にはそのあたりの議論は書かれているけれども、木田はどうも理解できない部分があるらしく、口を濁しているし、私は読んだけれども忘れてしまったので、ここでは書かないことにする。むしろ、この書物の第1回で、木田が述べていることの方が真相を見抜いているのではないかと思われる:
「レーニンも一時期はこのいわゆる『マッハ主義』に共感を示したといわれるが、しかし彼は、労働者や農民を結集して革命を起こそうというときにこんな洗練されたイデオロギーは有害であり、もっと大ざっぱな分かりやすい理論が必要だと考え、マッハ主義、つまり経験批判論を批判の槍玉にあげたのである。」(22ページ)
 結局、レーニンが生き残って、ボグダーノフが消えたのは、ボリシェヴィキの中でレーニンが政治的に勝利したことと、(木田の本の211ページ辺りを読めばわかるように)ボグダーノフの側の自滅という側面があった、議論に負けたからではなかったようである。

 話を戻すことになるが、優れた思想は時空を超えて影響力を発揮する。とは言うものの、18世紀アイルランドの思想家であるジョージ・バークリー(1685-1753)やスコットランドのデイヴィッド・ヒューム(1711-1776)と、19世紀の終わりから20世紀の初めにかけてオーストリア=ハンガリーとドイツで活躍したエルンスト・マッハ(1838-1916)の間にはちょっとした距離があり、その間の社会や科学技術の変化に伴っての問題意識や思考方法の違いがあるわけで、マッハの哲学を「バークリー/ヒュームの主観的観念論の再来」と決めつけるだけで物事が片付かないのは明らかである。それで、違いを論じるためには、1人1人の思想を確認する必要があると考えて、まずバークリーの哲学について勉強しなおすために、一ノ瀬正樹『英米哲学史講義』(ちくま学芸文庫)を読んでみることにした。「まえがき」で著者が述べるところによると「「功利主義」と「分析哲学」という2つの哲学・倫理学の潮流について、両潮流の源流にあたる「経験論哲学」に沿いながら論じ、なおかつ「計量化への志向性」という見地から功利主義と分析哲学が融合していく様子を追跡していくこと」(9ページ)がこの書物の主題である。

 一ノ瀬さんの著書の第4章は「ジョージ・バークリの非物質論」として、バークリー(一ノ瀬さんは「バークリ」という表記をされているが、この書物の75ページに掲げられた肖像画の下には、「バークリー」と書かれている)とその主張の紹介に充てられている。全体で16章からなるこの書物の中で、1章(以上)を与えられている思想家はロック、ヒューム、ベンサム、(J.S.)ミル、ウィトゲンシュタインとバークリーの6人だけであるから、(一ノ瀬さんがバークリーの哲学についての著作を発表しているという事情を考えに入れても)その扱いの大きさが分かるだろうと思う。この章は次のように書き出されている:
 本章では、イギリス経験論の歴史の中で、いささか特異な位置を占めているアイルランドの哲学者、ジョージ・バークリの哲学について検討する。バークリは、20世紀になって、アルフレッド・ノース・ホワイトヘッドやカール・ライムント・ポパーによって形而上学や科学的道具主義という文脈で再評価がなされたり、数学の哲学の文脈で、その厳格主義とか微分法批判といった議論を通じて、現代の分析哲学にも改めて一石を投じるなどして世界的には哲学史上の大物の一人と目されているのだが、なぜか日本では研究者が少なく、せいぜいエピソード的に触れられるだけで、あまり紹介もされていない。
 けれども、バークリの哲学は経験論という思潮の揺らぎを指し示してもいて、経験論哲学の輪郭をとらえるのに最適な事例ともなるし、後の功利主義とも遠く連係もしていて、本書の方針にもしっくりと位置づけることができる。(74-75ページ)

 「なぜか日本では」というのは、一昨日のブログでも触れたように、私にも実感がある。私が主に滞在した外国というのが英国で、次がアイルランドということも関係しているとは思うのだが、書店の哲学書のコーナーで見ると、バークリーの著作、あるいはバークリーについて論じた著作というのはかなり多い。日本とは段違いという感じがある。この違いを生みだした一つの理由は、やはり、レーニンが『唯物論と経験批判論』でバークリーを批判したことであろう。一ノ瀬さんの著作にも
一般にバークリの「ペルキピ原理」は、物質は存在せず、すべては観念であるという観念論の典型的なスローガンとして理解されており、例えばウラジーミル・レーニンは『唯物論と経験批判論』の中で観念論を批判することで唯物論を正当化しようかとするとき、バークリを観念論者の代表としてやり玉に挙げている。」(79-80ページ)と記されている。ここで指摘されているのは、バークリの「ぺルキピ原理」というのは<観念論の典型的なスローガン>として理解されているけれども、それは浅薄な理解であること、その浅薄な理解に乗っかって、レーニンが(<経験批判論>を)観念論と決めつけて批判した(つもりになった)ということである。マッハとともに、バークリーもレーニンの決めつけの被害にあった思想家であるといえそうである。

 バークリーの生涯と業績、特にここで問題になっている「ぺルキピ原理」については、また機会を見つけて書くつもりであるが、彼の哲学がスウィフト(1667-1745)の『ガリヴァー旅行記』(1726)に与えた影響として指摘されているのは次の箇所である。
 ガリヴァーは第2篇の最初の部分で、見知らない土地にたどり着き、そこでは何もかもが巨大であるのに驚きつつ、リリパット(小人国)が懐かしくなってきて
Undoubtedly philosophers are in the right when they tell us, that nothing is great or little otherwise than by comparison.(疑いもなく、比較によらなければ何事も大きくも小さくもないと、哲学者たちが言うのは正しい。) かなり大げさで大真面目な表現であるが、これはバークリーの『視覚新論』(New Theory of Vision, 1709)が物の大きさの判断の相対性を強調している議論に影響を受けているといわれる。中野好夫訳では「大小は要するに比較の問題だと哲学者はいうが、まことにもってそのとおり。)

 物質は存在しないというのは、生活実感からかなり離れた議論であるが、その一方で、物事の見え方、聞こえ方…はそれぞれの受け取り方によって違いがあるということも否定できない。ごく単純に考えても、バークリーは重要な問題に取り組んだ哲学者の1人であったと考えてよさそうである。
(入力ミスで、書きかけの状態でこの記事を公開してしまいました。不手際をお詫びします。)

ダンテ・アリギエリ『神曲 天国篇』(8-2)

12月13日(火)曇り

 ベアトリーチェに導かれて天上の世界に飛び立ったダンテは、月天で地上での誓願を果たさなかった人々、水星天で地上での栄光を追い求めた(その分、天上の世界から遠ざかった)人々の魂に出会った。これらの魂は至高天にいるのだが、そこでの神からの距離を表すためにそれぞれの天にやってきたのだという。神への思いの強さが神からの距離を決めているのである。彼はさらに金星天に到着し、地上で出会ったことがあるハンガリー王であったシャルル・マルテル・ダンジュー(1271-95)の魂に出会う。シャルル・マルテル・ダンジューはイタリアにおける教皇党と皇帝党の争いを終わらせる人物として期待され、ダンテも彼の前でカンツォーネを歌ったことがある。シャルル・マルテル・ダンジューの魂は、シチリア王が東方への軍事進出のために重税を課そうとしたことに対して、パレルモの市民たちが反乱を起こし、イベリア半島のアラゴン王の助けを借りて、国王を倒したシチリア晩鐘事件について触れ、ナポリ王である彼の弟ロベルト・ダンジューの悪政を批判した。金のかかる軍事ではなく外交によって国際的な問題を解決すべきであるというのである。

 ダンテはシャルル・マルテル・ダンジューと再会できたこと、彼が語る政治的な意見を喜び、ロベルト王の政治が誤っていることのさらに原理的な説明を求める。彼は<王は王国内においては皇帝である>として、神聖ローマ帝国の皇帝の自国内への影響を排除し、ローマ皇帝権の神的正統性や普遍性を認めず、単なる地域的な権力として自分と同等の存在と見て、その権威を認めずに戦いを続けた。これはダンテの政治観から見れば正義を実現するものではないが、ロベルトの政治観は近世の絶対主義につながるものであって、こちらの考えの方がその後は有力になっていく。

 シャルル・マルテル・ダンジューの魂は神が人間の諸性質を決定するといい、
諸性質とともにそれら諸性質の救いも決定される。

このため、この弓が放つものは何であれ
制御され、あらかじめ決定された目標に落ちる、
あたかも矢が彼の的を射抜くように。
(129-130ページ)と続ける。弓の射手は神、弓が諸天空、矢が叡知の光線、的が人間であり、神の計画は弓矢や的には不可知であることが示されている。

 さらに、シャルル・マルテル・ダンジューの魂は問いかける:
…もし生来の市民性を持たぬとすれば、
地上の人間にとってそれは悪いことであろうか」。
「然り。――私は答えた――そしてその理由を私は問いません」。
(131ページ) 「市民性」というのは人間が生来持つ相互扶助的な社会性を指すと原さんは傍注で説明している。またダンテにとってアリストテレスが『政治学』で述べた「人間は社会的な動物である」というのは公理であるため、ここで理由を問おうとしていないのであるとも説明されている。
 よく言われるように、ダンテの時代はアリストテレスの哲学がアラビア経由でヨーロッパに伝わり、ラテン語で彼の著作が読まれていたので、アリストテレスの真意が伝わっていない場合もあったと思われる。そこで、アリストテレスの『政治学』(牛田徳子訳、京都大学西洋古典叢書)で当該箇所にあたってみると、「人間は自然によって国家的(ポリス的)動物である」(9ページ)となっていた。細かい点での考え方の違いはあるかもしれないが、ここでのダンテの考え方はアリストテレスから大きく外れるものではないと思われる。

「だとすると、もし下界で人々が様々に異なる役割のために
さまざまに異なった人生を送るのでなければ、このことは可能であろうか。
否、諸君らの師が諸君らに向けて正しく書き記しているのならば」。
(131ページ)とシャルル・マルテル・ダンジューは続ける。人間はそれぞれに違った性質を持って生まれてくるので、分業と協業によって、それぞれが自分にふさわしい役割を引き受けながら、社会を構成していくことになる。これもアリストテレスが『政治学』で展開した議論であるという。

 しかし現実には、持って生まれた性質にふさわしくない役割を社会の中で引き受けるということが起こりうる。
生まれたものの性質は
神の思し召しが勝つのでないならば、
生みだしたものと常に同じ歩みをするだろう。
(132ページ) ダンテの時代は身分が固定され、親の職業を子どもが継ぐのがふつうであった。しかし、本来ならば、生まれつきの性質の方が、家柄や親の身分・職業に優先して考えられるべきである。
またもし、地上の世で
その性質が定める人の資質に注意が払われ、
それに従ったならば、有能な人々が輩出するはずだ。
(133ページ) 

 しかし、現実の社会ではこのようになっていない。
だが、君達は剣を腰に帯びるべく生まれついた者を
歪めて聖職者に育てようとし、
説教をするべく生まれついたはずの者を王にする。

それうえに君達の残す歩みは道を外れているのだ」。
(134ページ) シャルル・マルテルの弟にはフランシスコ会の修道士となったルドヴィーコと、ナポリ王となったロベルトがいるが、ロベルトはすでに述べたようにその政治のやり方を強く批判されているロベルトは、神学者としては優れていたといわれる。シャルル・マルテルの言葉は、宗教家としての優れた資質を持っていたロベルトが、柄にもなく政治家になってしまったことを非難している。絶対君主が重税を課したとか、盛んに戦争をしたとかいうことは道徳的に見て好ましいことではない。ダンテは、ここでそれを中世的な秩序を維持しようとする立場から非難することの限界に気付き、アリストテレスにさかのぼって、より普遍的な人間の社会性・市民性の議論を持ち出して、批判しているところにこの第8歌の意義を認めるべきであろう。

 次回は第9歌に入るが、ダンテはまだ金星にとどまっている。

木田元『マッハとニーチェ 世紀転換期思想史』

12月12日(月)晴れ後曇り(この原稿を書いているうちに曇ってきた)

 木田元『マッハとニーチェ 世紀転換期思想史』(講談社学術文庫)を読み終える。「やっと読み終えた」という感じである。現象学の研究で知られ、ハイデッガーやメルロ=ポンティについての著作を残した木田(1928-2014)が19世紀から20世紀への転換期のヨーロッパにおける思想状況について概観する論考で、『大航海』25号(1998年12月)から40号(2001年10月)に連載され、2002年2月に新書館から単行本として刊行されたものの文庫化である。

 世紀転換期というのは、すでに述べたように19世紀から20世紀への転換の前後ということで、具体的には19世紀の終わり3分の1と20世紀の初め3分の1、1870年ごろから1930年ごろまでを想定している。エルンスト・マッハ(1838-1916)は超音速の速度単位であるマッハにその名を残した物理学者であるが、現象学的な研究方法を提唱し、アインシュタインの相対性理論や、ウィーン学団の論理実証主義、ウィトゲンシュタインの後期思想、ハンス・ケルゼンの実証法学など広い範囲に彼の思想の影響がみられるという。
 この書物ではフッサールの現象学とその成立の前後、その周辺で展開されたさまざまな思想的営為がマッハからどのような影響を受けているか、またニーチェ(1844-1900)とマッハの思想の共通性と影響関係、その後の思想に及ぼした影響などが考察されている。哲学だけでなく、自然科学、心理学、社会科学、文学、芸術など、思想運動の影響のおよんでいるあらゆる範囲を視野に入れて、詳しく論じるというよりも、こういう方面の研究が今後必要になるのではないかというような問題提起の書物として考えた方がよい書物である。

 書物の内容を詳しく取り上げて論じていくと、いつまでたっても紹介が終わらないことになるかもしれないので、マッハの影響の一端だけ述べておけば、ロシアのマルクス主義者たちの中にボグダーノフ(1873-1928)のようにマッハの思想を取り入れて革命理論を再構築すべきだと考える人々が現われた。マッハは自然科学や唯物論者たちが説く<物質>は形而上学的な概念に過ぎないとして否定して、物とか物体とか物質とかは比較的恒常的に表れてくる感性的諸要素の複合体に与えられる「思考上の記号」に過ぎないと説いている。これは唯物論を全面的に否定する議論であり、ここから新しい革命理論が構想できるかもしれない。新しい技術や新しい社会形態が出現するのに対応して、新しい科学的心理、つまり経験を組織するための新しい社会的形式も現れてくるはずである。マルクスは「フォイエルバッハに関するテーゼ」で、「古い唯物論の立場は<市民>社会であり、新しい唯物論の立場は、人間的社会あるいは社会化された人類である」といっている。だから新しい革命理論が生まれていいわけである。として、ボグダーノフは<経験一元論>を唱えた。
 ボグダーノフに代表されるロシア・マッハ主義がボリシェヴィキの中で影響力を持ち始めたことに危機感を持ったレーニンが書いたのが『唯物論と経験批判論』で、マッハ⇒ボグダーノフの「経験批判論」がバークリー/ヒュームの主観的な観念論の焼き直しに過ぎないと批判を加えて、改めてマルクス主義の哲学的な基礎が唯物論であることを強調したのである。

 私が大学の1回生だったころに、田村松平先生が物理学の講義の中でマッハの名前を挙げられて、彼の議論をレーニンが『唯物論と経験批判論』で批判しているということを述べられた。余談のようにして触れられたので、議論の詳細は紹介されなかったと記憶する。マッハとレーニンという人名、『唯物論と経験批判論』という書名、固有名詞だけが記憶されて、どんなことが主張されていたのかについての興味がわかなかったのは、受験勉強の負の遺産であろう。『唯物論と経験批判論』は読んだはずだが、何が書かれていたかはほとんど忘れてしまった。この書物の中で批判されているアイルランドの哲学者バークリーであるが、その後、英国に滞在した折に、彼の評伝や著作に触れて、彼の何事も経験であるとさまざまな実験を繰り返した逸話や、アイルランドの民衆の困窮を救おうとした努力を知り、大いに好きになった。少なくとも、肖像を見る限り、バークリーの方がレーニンよりかなり人相がいい(まあ、顔ですべてを判断するわけにはいかないが)。余計なことを書きついでに付け加えておくが、バークリーとスウィフトは2人ともアイルランド国教会の高位聖職者であり、親友でもあって、『ガリヴァー旅行記』の中には、バークリーの哲学の影響がみられる。

 もう一つ大学(院)時代の事を思い出したのは、心理学におけるゲシュタルト理論もマッハの影響のもとに発展したのであるが、この流れの代表的な1人であるマックス・ウェルトハイマー(1880-1943)の『生産的思考』は、大学院時代に読んだ本で、その後、古本屋に売ってしまったことを後悔している本の1つである。いろいろな発想のヒントを与えてくれる書物なのだが、私の元同僚の心理学者でこの本が近年あまり評価されていないことを残念がっている人がいた。確かこの本の翻訳者は京大の教養部で心理学を教えていた伊吹山太郎であったと記憶するが、この先生の産業心理学という授業を途中まで履修したことを思い出す。途中でやめてしまった割には、内容が印象に残っているのは、もともと興味があった(しかし根気が続かなかった)からであろう。

 ここでは私が特に興味を持ったことについて取り上げてみたが、これは本当に氷山の一角に過ぎない。この書物を読むことによって、この書物の様々な部分から、読者の中には様々な思いや、理解や、さらなる疑問が生まれてくるはずであるし、そういうことを願って書かれた書物であると思う。 

キューポラのある街

12月11日(日)晴れ

 神保町シアターで「今村昌平を支えた職人魂――キャメラマン・姫田眞左久の仕事」の特集上映から、『キューポラのある街』(1962、日活、浦山桐郎監督)、『かぶりつき人生』(1968、日活、神代辰巳監督)、『危いことなら銭になる』(1962、日活、中平康監督)を見る。我ながらよく頑張ったものである。3本まとめて論評すると、相当な量になりそうなので、『キューポラのある街』だけを取り上げることにする。早船ちよの原作を、今村昌平と浦山桐郎が脚色、浦山が監督に昇進して最初の作品であり、主演した吉永小百合がブルーリボン主演女優賞を受賞するなど、当時の話題を集めた作品である。浦山にせがまれて川島雄三がゼロ号試写を見に出かけ、新人にしちゃ、よくできたシャシンですとエールを送ったという逸話が残されている。

 この作品のテーマの一つが<境界性>である。ヒロインのジュン(吉永小百合)は中学校3年生で、子どもと大人、高校進学か就職かという境界にいる。しかも舞台が東京都荒川を隔てて境を接する埼玉県川口市である。市の経済を支えるのは景気変動の変化を受けやすい中小企業で、鋳物工場の特徴ある形の煙突(キューポラ)が目立つ。映画の最初のところで父親の辰五郎(東野英治郎)が鋳物工場から解雇されて、一家は苦しい状況に置かれる。ジュンの弟で小学生のタカユキは学校をずる休みしたり、配達された牛乳を盗んだりしている。ジュンの友人の1人は在日朝鮮人の父親と日本人の母親の子どもである(弟同士も遊び友達である)。

 もう一つのテーマは<世代間の対立>である。ジュンは高校に進学しようと、友人のユキエが働いているパチンコ屋でアルバイトを始める(これはもちろん違法)。父親と同じ工場で働いていた隣の克巳(浜田光夫)にそれが見つかり、さらに担任の教師(加藤武)にも知られるが、教師は克巳から事情を説明されて表ざたにしないことにする。そこで、出てくる言葉が「ジェネレーション」で、映画のここかしこで、自分は職人であり、労働者ではない、組合は嫌いだという父親と、戦後的な価値観を教えられて育っている娘の意見の対立が描かれる。

 さらに一つ付け加えれば、貧富の格差の問題があり、家の経済事情でジュンは進路選択に悩むことになる。ただし、もともと中小企業の多い町であるから、貧富の格差といってもそれほど大きくはないし、経営者と労働者の子どもが同じ学校に通い、経営者である父親が労働者の子どもに同情して親の仕事を世話をするというようなことも起こる。昔気質で頑固、視野の狭い父親が他人の行為や福祉の制度を理解しないために、娘は苦労することになる。

 ジュンが修学旅行に出かけられなかったり(先日見た、『現代っ子』でも同じ問題が出ていた)、同じく出かけなかった在日朝鮮人の友達と遊びに出かけて危ない目にあったり、そのこととも関連して進学問題に悩んだりするという物語に、ジュンやその弟の友達である在日朝鮮人の子どもを巻き込んだ北朝鮮帰還運動の問題が絡む。早船ちよの原作はもともと子ども向けに書かれた作品のようで、映画でもジュンの弟のタカユキとその周辺の子どもたちの行動が詳しく、また生き生きと描かれている。『にあんちゃん』における今村昌平の配役・演出と同様に、浦山はこの作品で、脇を固めて、中心部をのびのびと演技させるというやり方をとっているように思われる。

 この映画が公開された時には、私は高校生であったから、同時代をしっかり生きていたことになる(私よりも1学年上の吉永さんが中学生を演じているのには無理が感じられる)。だから世の中の変化を強く感じるとともに、この映画が描いていた時代が大きな変化の時代であったことも実感される。映画の中で、修学旅行の際の小遣いが昨年は500円であったのが、「所得倍増」で今年は1,000円ということにホームルームの討議で決まったりする場面に世相が覗くのだが、すでに述べたように、この映画はそのような世相から取り残されかかっている人々に目を向けている。

 映画の最後の方で、ジュンが大企業に就職する展望が開け、働きながら定時制高校に通うという道が暗示されている。働くものが新しい文化創造の担い手であるというメッセージが投げかけられているようにも思える。大企業に就職し、定時制高校に進学することで、ぎりぎりジュンは高度経済成長と高学歴化の進行から取り残されずに生きて行けそうである。そう書いたのは、この映画の中で肯定されている価値観のかなりの部分が、その後の社会の変化の中で意義を失ってしまっているように思われるからである。例えば労働組合の衰退で新しい文化の創造どころか、労働者の権利の擁護すら困難になっているのが現状ではなかろうか。同じ埼玉県を舞台にした記録映画『ある定時制高校の記憶』の描く世界と、この映画の間には相当な距離があって、その中間の過程をたどりなおすことにも意味がありそうである。 

呉座勇一『応仁の乱』(2)

12月10日(土)晴れ

 この書物の特徴は、奈良の興福寺の高僧であった経覚と尋尊の日記を通じて、同時代人である彼らの目に映じた応仁の乱の実態を探ろうとしていることである。「経覚も尋尊も奈良で生活しており、彼らが入手する京都や地方に関する情報の中には不正確なものや噂、デマの類が少なくない。したがって、応仁の乱の全体的な構図や経過をつかむうえでは最適の資料とは言えない。しかし、経覚・尋尊という記主本人のみならず、彼らの周辺の僧侶・貴族・武士・民衆が大乱の渦中でどのように生き、何を考えていたかが分かるという点で、2人の日記は他のどんな史料にも代えがたい価値を有する」(ⅶページ)と著者はいう。特定の理論や「史観」を前提とせずに、史料を忠実に読み込むことによって「人々の生活の在り方という具体的なレベル」(ⅷページ)での戦乱の姿を見ていこうとしている。
 第1章「畿内の火薬庫、大和」では大和の国(さらには日本国)内で興福寺が占めていた位置が概観される。藤原氏の氏寺である興福寺が摂関家との強い結びつきから、院政や平氏政権と対立し、鎌倉幕府成立後も大和には守護が置かれず、興福寺が事実上の守護として大和の中心部を支配していた。しかし、摂関家が近衛家と九条家、さらにいわゆる五摂家に分裂したことにより、近衛家(と鷹司家)は一乗院に、九条家(と一条家・二条家)は大乗院にという興福寺の中の院家の棲み分けが成立することになった。一乗院と大乗院は門跡であり、その莫大な財産をめぐって抗争が続き、その結果として実働部隊である衆徒が台頭してきた。彼らは春日社の神人である国民とともに武士としての実力を蓄えていった。
 南北朝時代に興福寺は武家方の立場をとったが、大和の中でも吉野に近い南部の武士たちは南朝方だった。南朝方で最も有力な武士であったのが越智氏であり、幕府方として有名だったのが筒井氏である。室町幕府の時代になると、親幕府的な一乗院方衆徒の筒井と反幕府的な大乗院方国民の越智との対立が大和の国における紛争の軸となっていった。〔筒井氏はのちに戦国大名になっていく。〕

 今回は第1章の残りの部分、この書物の主な史料の記主である経覚の動向を記した個所の紹介から始める。経覚は応永2年(1395)に関白左大臣九条経教(つねのり)の子として生まれ、応永14年に出家して、大乗院門主だった兄の孝円の弟子となった。応永17年には兄の孝円が亡くなったために、大乗院門跡を継ぎ、応永33年には32歳で興福寺別当の地位についた。〔以前にも書いたが、日本の年号で一番長く続いたのは昭和、次が明治で、応永は3位、4位が平成ということである。〕 彼が順調に昇進したのは名門の出身だったからである。

 経覚は幕府との良好な関係を利用して、九条家出身者から自分の後継者の候補を確保しただけでなく、大和支配を目指していく。応永35年(1428)に将軍義持が没し、くじ引きでその弟の義宣(のちに義教)が将軍に就任し、同じ年に称光天皇が亡くなられて御花園天皇が即位された。明徳3年(1392)にいわゆる南北朝の合体(明徳の和約)が行われた際に、皇位の両統迭立という条件が提示されていたのだが、もともと実現が無理な条件であり、皇位継承の望みが薄くなった南朝の後胤である小倉宮が伊勢の北畠満雅のもとに走り、大和の武士たちに呼応する動きが出た。(後花園天皇が即位されたので、年号が応永から正長に代わった。)

 正長元年(1428、応永35年7月に改元された)には京都郊外で土一揆が発生し、畿内近国全域に波及した。奈良もこの動きに巻き込まれる。北畠満雅は敗死するが、大和の一部の武士たちの反抗は続く。そのため、経覚は幕府の支援を引き出そうとして、何度も助力を要請する。正長2年に幕府から使者が下ると、経覚の支配下の大乗院だけでなく、一乗院や多武峰(現在は談山神社になっているが、この時代は寺であった)も出陣した。討伐は一応成功し、義宣は元服して、征夷大将軍の宣下を受け、名を義教と改めた。経覚と一乗院の昭円も将軍に拝謁して祝辞を述べている。

 一応の平和は得られたものの大和の武士たちの間の紛争は絶えなかった。経覚は幕府の権威を利用して紛争を止めるという方針をもっていたが、幕府軍の進駐は望んでいなかった。一方当時の大名たちは自分に利害関係がない紛争にはかかわりたくなく、幕府からの出兵の要請にも進んで応じることは少なかった。将軍義教は世間の評判を気にする性格で、幕府の介入によっても事態が収拾しないことを恐れて、なかなか決断に踏み切らなかった。その一方で彼はいったん関与し始めると自身の命令に逆らうものが許せないために強硬路線を突っ走ろうとする。〔どうも困った人物で、その困った性格が、やがてとんでもない事態を招く…〕

 永享3年(1431)の半ばには幕府は落ち着きを取り戻したのだが、8月に大和の有力武士である筒井が敵対する武士を攻める。この紛争はいったん収まったが、その後も再燃し、幕府の介入が本格化する。このために興福寺は紛争の当事者から傍観者の一に追いやられる。
 永享9年(1437)に後花園天皇は将軍御所を訪問され、義教の歓待を受けた。その際の費用の一部を義教は先例に倣って摂関家や諸門跡から徴収しようとしたが、経覚は支払いを断り、義教の不興を買う。おそらくは義教の意向を汲んで、大乗院の門徒たちから経覚の悪行(著者も書いている通り、そんなに悪いことはしていない)への不満が訴えられ、経覚は興福寺から追放され、生駒山のふもとの宝寿寺に隠居することになる。彼の後任の大乗院門主として、幕府は一条兼良(1402-81、関白太政大臣になるなど廷臣として活躍しただけでなく、学者としても知られる)の9歳になる子どもを選んだ。2年後に出家して尋尊と名乗る、この書物のもう1人の主人公である。

 どうも調子が悪くて、今回は第1章の残りの部分を紹介することしかできなかった。いったんは興福寺から去った経覚であるが、嘉吉元年(1441)に起きた嘉吉の変で彼の運命は転回を見せる。なんだか室町時代の歴史を大和の国を中心に概観するような感じになってきた。武士同士の対立や小競り合いよりも、文化的な話題の方が私の性に合うのだが、あいにくとこの本はそういう話題には乏しいので、苦戦中である。将軍である足利義教については今谷明さんが本を書いているし、この時代に幕府の政治顧問として活躍した三宝院満済(この書物の中にも登場するのだが、その部分は省略した)についても伝記的な著作がある。そういった書物を改めて読み直して、何とか体勢を立て直そうと思っているところである。 
 

『太平記』(136)

12月9日(金)晴れ

 建武3年(1336)正月、都に迫った武家方の軍を防ぐために、義貞は勢多に名和長年、宇治に楠正成、山崎に弟の脇屋義助を配置し、自らは桂川、宇治川、木津川の合流点近くの淀の大渡に陣を構えた。しかし、公家侍や文観僧正の手下のならず者たちの寄せ集めである山崎の兵たちが中国・四国からはせ上ってきた細川定禅の率いる大軍に怖気をふるい、投降したり、逃亡したりするものが相次ぎ、このため大渡の義貞も都に退却せざるを得なくなった。京中は大騒ぎとなり、後醍醐天皇は比叡山に落ち延びられたが、大慌てで宮中の宝物の多くが取り残されているような様子であった。

 信濃の国(実は武蔵の国)の住人である勅使河原という武士は大渡に向かおうとしていたのだが、宇治も山崎も敗れて天皇は都を離れて比叡山に向かわれたと聞き、危険な時に命を投げ出すのが忠義の士である。何の面目があってか、滅びた王朝の家来として、不義の逆臣に従うことができるだろうかと三条河原から父子3騎引き返して羅城門のあたりで腹を切って死んだ。
 この行動は理解しにくいし、それが『太平記』にわざわざ書き留められていることも理解に苦しむ。三条河原にいたということは、比叡山の方角をいったんは目指していたということであろうし、新田義貞の軍に合流すれば、これからまだまだ戦う機会はあるはずである。よほど前途を悲観したということであろうか。

 名和長年は勢多の防御にあたっていたが、山崎の陣が破れて後醍醐天皇が早くも東坂本に落ち延びられたという情報が伝わってきたので、「ここからすぐに坂本に駆け付けるのはたやすいことではあるが、もう一度内裏にはせ参じないまま落ち行くのは後になって非難を受けるかもしれない」と、配下の300余騎を引き連れて、10日の暮れほどに、また京都へと帰った。〔瀬田から東坂本へは琵琶湖の岸伝いに行けばよいのだが、慎重を期して情報を確認し、事態を見極めたうえで行動しようというのであろう。〕

 1月10日は縁起の悪い日であるということで、尊氏はまだ都に入っていなかったが、四国、西国の兵たちが数万騎都に入っていて、京都と鴨川の東の白河の一隊に充満していた。その兵たちが名和長年の帆掛け船の傘印を見て、手柄を立てようと押し寄せてくるのを長年は馬で武士たちの中に入って通り抜け、彼らを蹴散らして出て、17度まで戦った。300騎の兵は次第次第に打たれて、100騎ばかりになってしまった。

 それでも長年はついに戦死することはなかったので、内裏の置石(すえいし=大極殿の前庭にある龍尾壇)のあたりで馬を下りて、兜を脱いで天子の御座に向かってひざまずいた。とはいえ、天皇が東坂本に臨幸されてから数刻(1刻は約30分)しかたっていないのに、内裏はガラガラになっている。四つの門はすべて閉じられ、宮殿は寂寞としている。早くも名もない庶民たちが乱入したと思われ、紫宸殿の障子が破られたり、乱れたままになったりしている。後宮の弘徽殿も荒らされている。

 長年はつくづくとこれを見て、さしも荒々しい武士の心の持ち主であった彼の心にも哀れの色が浮かんだのであろうか、両眼から涙がこぼれて、鎧の袖を濡らしたのであった。しばらくあたりをうろついていたが、「いざさらば、東坂本へ参らん」と葉面の前より、馬に乗って走り出したが、その前に「敵の馬の蹄にかけさせるよりは(この方がましだろう)」と、内裏に放火し、今路越(いまみちごえ:修学院付近=西坂本から比叡山を越え、大津市坂本=東坂本へ至る道)を急いでいった。

 長年に放火された御所は、風の強い季節であったので、辻風に吹かれて、瞬くうちに灰燼に帰してしまった。むかし、中国で越の王が呉を滅ぼしてその宮殿を焼きつくしたり、項羽が秦の咸陽宮を炎で包んだ出来事と変わらないと、人々は嘆いたのであった。〔なお『梅松論』には「秦の軍敗れて咸陽宮。阿房宮を焼はらひけるは。異朝の事なればおもひはかりなり。寿永3年平家の都落ちもかくやとおぼえてあはれなり」(群書類従第20輯、173ページ)と書かれていて、こちらの方がより現実に即した表現となっている。〕

 翌、正月11日、足利尊氏が80万騎をひきいて都に入った。『太平記』の作者は「ゆゆしかりし有様なり」(第2分冊、419ページ、いかめしく立派な様子である)と記す。前々から、合戦に無事に勝利して京に上ったら持明院統の院、宮様方の中から1人を天皇として即位させ(将軍の地位を正統なものとすることによって)、天下の政道を武家が取り仕切るようにしようと構想を固めていたのであるが、持明院の院、法皇、儲けの君(皇太子)、一人残らず、比叡山に向かわれていたので、尊氏は今後の政治体制をどのようにすればよいのかと悩んだのであった。〔『梅松論』では尊氏は洞院公賢の屋敷に入ったと記されている。〕

 さて、建武政権下で抜擢され、楠・名和・千種とともに「三木一草」と呼ばれたほどの寵臣の1人であった結城親光は天皇に同行しようと考えていたが、形勢を見るにどうも期待通りにはいきそうもない、どうかして尊氏を討とうと思い直して、わざと都に留まっていた。そしてある禅僧をつてとして、尊氏に降参する所存であると伝えたところ、「親光の考えているのは、本当に降参するということではあるまい。尊氏をたばかるためであろうと思われる。とは言うものの彼の言い分を聞け」と大友貞載を彼のもとに遣わした。大友は竹ノ下の戦いで、宮方から足利方に寝返って、官軍の敗因を作った武将である。

 大友はもともとあまり思慮の足りない武将であったので、結城に向かって、「降参されたというのであれば、習いとして、鎧・兜などの武具を脱いでいただきたい」と荒々しく声をかける。親光はこれを聞いて、さては尊氏はもう自分の心中を推察して、討ち果たせという使いをよこしたのかと悟り、「物具を脱がせよというお使いであれば、こちらに近よって脱がせよ」というなり、三尺八寸という大太刀を抜いて大友に駆け寄り、斬りつける。大友も太刀を抜こうとしたのだが、結城の太刀で受けた傷のために刀を抜きかけたまま馬から逆さまに落ちて死んでしまった。これを見て大友の家臣たち300余騎が、親光の率いていた17騎を、取り囲んで討ち果たしてしまった。

 敵も味方もこれを聞いて、「あたら兵を、時の間に失ひつる事のうたてしや」(421ページ、惜しいつわものを、一瞬で失ってしまったのは残念なことよ」と惜しまない者はいなかった。結城のたくらみを見抜いた尊氏の運が強かったということだと思われた。〔結城の行動については、『梅松論』の方が詳しく記しているが、そこでは尊氏ではなく、竹ノ下で裏切った大友を倒そうとしたと彼の意図をしるし、その忠勇をたたえている一方で、大友についても将軍への忠義を称賛しているのが違う。〕

 ここで14巻は終わる。「三木一草(楠、伯耆=名和長年、結城、千種)」の1人が姿を消し、形勢は宮方に不利になりかかっているが、東北から大軍を率いてやってくる北畠顕家の兵が合流すれば形勢逆転の可能性がある(ということは、『太平記』は書いていない)。武家方は、誰か適当な皇族を皇位につけることで、自分たちの政権の正統性を確保するつもりだったのが当てが外れたというのは『太平記』には書かれているが、『梅松論』には出てこない。
 勅使河原と結城の死がわざわざ書き留められているのは、この時期の武士たちの多くが、戦いの形勢によってすぐに降参したり、逃亡したりするのが常であったということのためでもあろう。彼らは例外的な存在であったから書き留められたのである。

日記抄(12月2日~8日)

12月8日(木)晴れ

 12月2日から本日までの間に経験したこと、考えたことを例によって書き連ねる。
12月2日
 新潟県の上越地方の養鶏場で鳥インフルエンザが発生した、渡り鳥から伝染したらしいというニュースを聞いて、以前、その近くに住んでいた高田城址の周りを囲んでいる堀の鴨たちは大丈夫かと心配になった。下越地方の瓢湖の白鳥の間にも鳥インフルエンザがみられるようである。

 NHKカルチャーラジオ「漱石、近代科学に出会う」では、漱石が文学を科学の方法で研究しようとしたことが語られた。彼の重大な関心事の1つが文学と科学の関係であったのは、講師の小山さんが言うように、漱石自身の資質にもよるのであろうが、漱石が留学した当時の英国においてそういう議論があったことも否定できないのではないか。

12月3日
 『朝日』の朝刊に西本願寺が築地本願寺に送った書状の控えを集めた『江戸江遣書状留帳』から松の廊下での刃傷から赤穂浪士の討ち入りにいたるまでの経緯が記されているという記事が出ていた。本願寺は吉良氏をめぐる動向に大きな関心を払っていたようである。若いころの徳川家康を苦しめた一向一揆が吉良氏と結んでいたことを思い出す。

12月4日
 NHK Eテレ「日本の話芸」で三遊亭円輔師匠の『芝浜』を視聴する。酒好きで仕事に身の入らない魚屋が女房に急き立てられて朝早く市場に出かけ、芝浜で大金の入った革の財布を拾う。家に帰って大喜びで酒を飲んで寝てしまい、目が覚めると夢だったといわれて、心がけを改め、一生懸命に働きだす…。円輔師匠のもとの師匠であった3代目桂三木助が得意とした噺であるが、三木助門下だったころの円輔師匠は前座だったので、この話の稽古はしてもらわなかったのではないか。どちらかというと、夫婦の情愛の方に力を置いた演じ方で、先週の金馬師匠の高座同様に年の功が感じられた。

12月5日
 NHKラジオ英会話は講師の遠山顕さんの体調が回復しないために、KatieとJeffが番組を進行して、"Ken's Special Selection"として2009年12月他の放送内容を再構成したものを放送している。
 リポーターのノエル・ケリーは北極にあるSt.Nick (Santa Clausの別名。St.Nicholasの愛称)の攻防を訪れ、彼を助けて働いているエルフ(elf =小妖精)たちの歓迎を受ける:
I wasn't expecting the red carpet treatment. (このような大歓迎をしていただき驚きました。) red carpet treatment が「丁重な歓待」を意味すると辞書にも掲載されている。

12月6日
 テレビ東京の『開運!なんでも鑑定団』にゲストとして出演したボクサーの長谷川穂積さんが可児才蔵の鎧兜と槍を持ち込んで、鑑定を依頼した。どうも本物だったのは兜だけで、あとは後世に付け加えられたものらしかったが、福島正則の家臣だったこの豪傑をめぐり、杉浦明平が『戦国乱世の文学』(岩波新書)のなかで「可児才蔵が自分の武功の事績を神かけて偽りなしと誓って記した『誓文日記』」(17ページ)という本があるけれども、見つけることができなかったと書いていたのを思い出した。

12月7日
 NHKラジオ『実践ビジネス英語』のテキスト12月号巻頭に講師の杉田敏さんが、当ブログでも取り上げた9月26日付の『読売』の「話し言葉を瞬時に別の言葉に翻訳する自動音声翻訳技術の開発が進んでいる」という記事についての感想を書かれているのが注目される:
 「日本は外国語の苦手な人が多いこともあり、世界で最も自動翻訳の研究が進んでいる国の1つ」とのこと。自動翻訳の精度は年々高まっている一方で、「主語や目的語のない、くだけた話し言葉や、長文の翻訳は難しく、今後の課題となる」と記事にはありますが、課題はそれだけで終わらないでしょう。
 「意味」は決して辞書の中にあるのではありません。その言葉を使う人とそれを受け取る人の頭の中に存在します。そして、両者の意味するものが一致しない場合もしばしばです。

 外国語の「苦手」な日本人にどれだけしっかりしたソフトが開発できるのかというのが(杉田先生ではない)私の疑問である。自動翻訳機の利点は、もしトラブルが起きた時には機械のせいにできるということになるかもしれない。

 さて、『実践ビジネス英語』は本日から”Slow Living"(スローな生活)という新しいVignetteが始まった。登場人物の1人が、
I find I'm becoming more and more impatient these days. (近ごろ私はますますせっかちになっているようです。) と切り出す。コンピューターの動きが遅いと、コンピューターを怒鳴りつけたりする。
I hate myself for doing that. (そんなことをしている自分に嫌気がさしています。)

 それはあなた1人だけのことではないと、同僚の1人が話を引き取る。
Welcome to the modern world. (現代世界へようこそ。) この言い方には、「それが今の世の中というものだよ。君もやっとわかったのだね」といったニュアンスがあるという。そして話は、すぐに満足感を得たいという傾向がデジタル化と結びついているという方向に進む。
I guess you could call it the dark side of the digital age. {それ(=忍耐力の低下)は、デジタル時代の負の側面と呼んでもいいでしょう。}

 コンピュータの動きが遅いので、怒鳴るということは、確かに私にもあるなと苦笑いをした次第である。

 同じく「エンジョイ・シンプル・イングリッシュ」では落語「酢豆腐」の英語版”Sour Tofu"を演じた。8代目(先代)の桂文楽が得意とした噺。酢豆腐を食わされる気障な若旦那の描写が面白かったのだが、英語版になるとまったく別の話が展開されている。なお、この噺は上方落語と東京でも柳派の落語家は「ちりとてちん」という題名で演じている。

12月8日
 NHK「ラジオ英会話」で、ゲストハウスについて、そのクリスマスライトにノエルは感激する。
It's really Christmassy.(クリスマスムード満点だわ。)
Christmassyという語は辞書に出ているが、〔インフォーマル〕と注記されていた。北極で使われている電源に興味を持った彼女は
Just out of curiosity, how do you generate your electricity here? (ちょっと伺いたいのですが、ここではどうやって電気を起こしているのですか?)と尋ねる。just out of curiosityという言い方は、5月31日放送(11月21日、28日にも再放送された)「入門ビジネス英語」でも使われていた。

薬、薬、薬

12月7日(水)朝のうちは曇っていたが、晴れ間が広がる。気温が低い。

薬、薬、薬

毎日を忙しく過ごしている人は
病気になると強い薬を飲んだり
高い注射を打ったりして
また忙しく過ごそうとしているらしい

若いころから怠け者で
病気になったらこれ幸いと
薬も飲まずに家で寝ていた

それでも年を取ってくると
一つ、二つと成人病にとりつかれ
朝は袋の中の
薬を出して、薬手帳とともに荷物の中に入れる

薬を飲む姿を見ている人は
薬の好きな人だと思うかもしれないが…
好きなわけはないだろう
戻れない昔のことを思い出しながら
1種類、2種類、3種類…とケースから薬を出して
水で飲み下す

ダンテ・アリギエリ『神曲 天国篇』(8-1)

12月6日(火)晴れ、温暖

 ベアトリーチェに導かれて地上から飛び立ったダンテは、月天で誓願を果たさなかった人々の魂に、水星天で地上への栄光を追い求めた人々の魂に迎えられた。
 ダンテはいつの間にか、第三天空である金星天に達していた。

かつて地上の世界は、己に災厄をもたらす信念ではあったが、
美しいキプロスの女神が第三天空の軌道上で周転円を回りながら
狂気の愛を放射していると信じていた。
(120ページ) ローマ時代には金星は愛と美の女神であるウェーヌス(英語でヴィーナス)と結びつけて考えられていた。ウェーヌスはギリシア神話のアフロディテ―と同一視されてきたが、その出生をめぐってはさまざまな神話がある。ダンテはこの女神がキプロス島で主神ユピテルと女神ディオーネーの間に生まれたという神話に基づいてこの行を書いている。プトレマイオスの天動説では、地球の周りを月、水星、金星、太陽、火星…の順で天体は運行しているが、惑星は単に円軌道を描いて地球の周りを回るのではなくて、その軌道上で小さな円を描きながら動いていると考えられた。(それでもなかなか惑星の運行は説明できず、そのことがコペルニクスが地動説を考える一つのきっかけとなった。もっともコペルニクスの体系でも周転円を完全になくすことはできず、この問題が解決されたのはケプラーの出現を待たなければならなかった。)
 地獄と煉獄を通じてダンテの導き手であったウェルギリウスの叙事詩『アエネイス』に登場するカルタゴの女王ディドーは、ウェーヌスのたくらみによってアエネアスと恋に落ち、最後には自殺することになるが、このような狂気の愛と金星とを結びつけることは、間違いであるとダンテはキリスト教の立場から断言する。

 ダンテはベアトリーチェがますます美しくなったことから、彼らが金星に達したことを悟る。
そして炎の中に火花が見えるように、
あるいはある声が音程を保ち、別な声が高くなってもとに戻る時に
声が声の中に聞き分けられるように、

その光の中にそれとは別の光の群れが、
思うに、それぞれに内在する視力に従って
速く、また遅く走りながら円を描いて動くのが私には見えた。
(121-122ページ) ダンテはここで、宇宙の調和の地上における予型としてポリフォニー音楽を引き合いに出し、金星もまた調和に満ちた世界であると述べる。
しかも他に先んじて前にいた光の間では、
「ホサナ」の声が、その後になって私が再び聞きたいと
終生願わずにはいられないほど美しく響いていた。
(122ページ) 「ホサナ」はヘブライ語で「救いたまえ」という意味だそうで、新約の『マタイによる福音書』ではイエスとその使徒たちの一行がエルサレムに入ると、熱狂した群衆がこの言葉を叫んで、イエスをたたえる。

 その後で、光(魂)の中の1つがダンテに近づいてきて話しかける。その魂はダンテの旧知であったハンガリー王シャルル・マルテル・ダンジュー(1271-95)であった。彼はシャルル・ダンジューⅡ世とハンガリー王女マリアの長男として生まれ、1287年に神聖ローマ皇帝ルドルフⅠ世の娘コンスタンツァと結婚、教皇の同盟者であるアンジュー家の継承者であり、皇帝の娘と結婚したことで、教皇党と皇帝党の争いを調停し、平和をもたらすことが期待された。そして父であるナポリ王シャルル・ダンジューⅡ世に会うためにフィレンツェを通過した際に、熱狂的な歓迎を受け、ダンテもその折に彼の前でカンツォーネを歌ったという。しかし、平和を望む人々の願いもむなしく、彼は感染症で早世した。

 シャルル・マルテル・ダンジューの魂は、彼とダンテとの地上における友愛について語った後、彼の生前と死後のイタリアの状況と、アンジュー家の政治の失敗について語る。
もしも悪しき統治が、支配下の市民達を常に
苦しめ、パレルモの都市を動かして

「殺せ、殺せ」と叫ばせなかったならば、
(126ページ) アンジュー家の苛烈な「悪しき統治」がシチリア晩鐘事件(1282年にパレルモの市民たちが苛烈な支配に対して蜂起し、アンジュー家を追い出した)を引き起こし、アンジュー家はシチリア王国を失ったが、ナポリ王国でもその苛烈な政策を継続するならば、再び同種の事件が起こるであろうと予言する。(世界史年表を見たところ、1282年のシチリア晩鐘事件というのはちゃんと記載されていた。この事件に反乱側の要請を受けてイベリア半島のアラゴン家が介入し、アンジュー家とアラゴン家の対立が激しくなったそうである。イタリアの南部にはスペインの影響が残っているというが、こういうところでその種がまかれているのである。) シャルル・マルテル・ダンジュー自身はアブルッツォ地方(イタリア中部にあり、アドリア海に面している)を平和に統治していたのである。

 こうして読んでいくと、『神曲』がきわめて神学的であるとともに、政治的な主題を含んでいることが分かる。歴史的に見ていこうとすると、政治の方が分かりやすいので、思い切ってそういう読み方をしている。第8歌の後半もシャルル・マルテル・ダンジューの言葉が続く。

東海林さだお『サンマの丸かじり』

12月5日(月)晴れ

 東海林さだお『サンマの丸かじり』(文春文庫)を読む。『週刊朝日』2012年7月20日号から2013年4月12日号まで連載された「あれも食いたいこれも食いたい」の各エッセーを単行本にまとめたもので、単行本は2013年10月に朝日新聞出版から刊行された。礼によって文庫本化に際して新たに書き加えられたのは、「解説」だけなのだが、その「解説」を東海林さんにとっては盟友ともいうべき椎名誠さんが書いているので、読み落とせない――買い落とせない1冊である。

 西荻窪に仕事場を持つ東海林さんは、年を取るにつれて次第次第に出不精になっている様子ではあるが、依然として世界のさまざまな(どちらかというとチマチマとした)動きに常に関心を寄せ続け、その好奇心は衰えることを知らない。『丸かじり』シリーズ第36冊目にあたるらしいこの本では、キャベツの人物月旦を行うかと思えば、ソーメンをストローで食べるという実験をする。読書のお供には豆がいいと提案し、月見そばを退けて月見うどんを推奨し、西荻窪にできたパイナップルラーメンの店を訪れ、コンビニで買ったカレー稲荷に驚き(誰だって驚く)、焼き芋を「取り寄せ」する。さらに仕事場から歩いて25分ほどかかる回転ずしの店に出かけて「開店1周年 88円デー」という寿司食べ放題(に近い)日に、ラーメンを食べる。

 和食のグローバル化によって蕎麦をズルズルとすすることが傍流へと追いやられるのではないかと心配し、「イチジクをいじめるな」と物事を軽々に判断してはいけないと果物の例を挙げて主張し、「柿剥けば」どんな心理になるかと考察し、テレビの料理番組の先生を品定めしながらも、「ひっくりかえせッ、豚肉」と細かい観察を怠らない。友人から贈られてきたイカ徳利を楽しみ、「三階建て駅弁」を楽しく悩む。うらやましいほどに多彩な日常生活の過ごし方である。

 解説で椎名さんも書いているが、「東海林さんは驚くべき博識家で世相にも明るく、なによりもすばらしいのは子供みたいに「なぜ?」というのと「不思議」というのをいっぱい持っていることである」(227ページ)。こういう東海林さんの特徴を褒めているのが椎名さんのいいところであって、世の中には、いい年をしてそんなことをがたがた騒ぐのかと冷笑的な態度をとる人もいるはずである。もちろん、「なぜ?」をやたら連発するのはうるさくてかなわないが、子どもの「なぜ?」を押し殺し続けていることが、「理科嫌い」の原因であるのかもしれないのである。

 そういう子どものような疑問や発想が、次第次第に成熟して、慎重な判断に結実する。「がっかりして食べ始め、食べ続けていくうちに少しずつ納得していく、というのがみつ豆の正しい食べ方、ということなのではないでしょうか。」(63ページ) 食べ物についてのエッセーなのだが、何となく人生全般にも同じことが言えるように思われてくる…というところが東海林さんの凄いところではなかろうか。 

『当たりや大将』『「経営学入門」より ネオン太平記』

12月4日(日)晴れのち曇り、夜になって雨

 神保町シアターで「今村昌平を支えた職人魂 キャメラマン・姫田眞左久の仕事」特集上映から、『当たりや大将』と『「経営学入門」よりネオン太平記』の2本を見る。この特集は、今まで見たいと思っていてなかなか見ることができなかった作品が多く含まれているのがうれしい。

 『当たりや大将』(1962、日活、中平康監督)は大阪・釜ヶ崎を舞台にした作品で中平と仲が良かった新藤兼人が脚本を書いている。釜ヶ崎のガード下の小さな小屋に寝起きしている大将(長門裕之)は、普段は割れたガラス窓を修繕する職人をしているのだが、鴨がやってくると当たり屋に早変わりする。本業の方も、近所の子どもチビ勝(頭師佳孝)とコンビを組んで市内を歩き回り、チビ勝がガラス窓を割った後からやってきて直すという仕事ぶりであるが、当たり屋の方も自動車にあたってもかすり傷ひとつないという練達ぶりを見せる。

 今日も釜ヶ崎に乗り付けてきたタクシーにぶつかって乗客から金を巻き上げようとしたところ、その乗客は新任の警察署長(嵯峨善兵)であったので、無駄骨に終わる。署長を迎えて、この地域を長年担当している刑事のどぶのキリスト(浜村純)が釜ヶ崎地区の概要を説明する。同じく釜ヶ崎を舞台にして、簡易旅館を経営しながら金貸し業も営んでいる老婆とその周辺の人間模様を描いた『がめつい奴』が舞台で好評を博したのは1959年から60年にかけてのことであった(映画化もされている)。名前は知られ始めたが、その正確な姿はまだまだ分かっていないということで、地域と住人たちの暮らしが署長にことよせて、観客に説明されているのであろう。キリストはこの地域で起きている犯罪、特に大将の動向に目を光らせているのだが、地域の住人達もさるもの、なかなか尻尾を出さない。彼は犯罪を憎む一方で、住人たちが根は善良な人間であると信じてもいるようである。チビ勝の母親であるおばはん(轟夕起子)のホルモン屋は毎晩大将とその仲間でにぎわっている。客の1人であるベンテンのお初(中原早苗)という女に大将はほれ込むが、一晩2万円だと吹っ掛けられる。

 首尾よく当たり屋に成功した大将は5万円を手に入れ、そのうち2万円を懐にしてお初のところにやってくるが、一戦交える前にと始めたばくちでその2万円を彼女に取られてしまう。彼女から借用書を書いて借りた1万円を元手に、今度はばくちが行われている広場に出かけて10万円まで稼ぐが、土地の親分との勝負に負けて逆に10万円の借金を作ってしまう。
 チビ勝からおばはんが、彼を大学に入学させるために貯金をしているという話を聞きだした大将は、自分の父親は信用金庫の社長をしていると言葉巧みにおばはんをだまして、彼女の貯金18万円を引き出し、その金でお初とドライブに出かけて豪遊する。(お初に1万円は返したのだが、親分への10万円は返さないままで、これが後で尾を引くことになる。)

 大将の口から自分の金をだまし取られたことを知ったおばはんはやけ酒を飲んで、自動車にぶつかって死んでしまう。その後、大将の耳に、死んだはずのおばはんの声が聞こえてくる。何とかしようと、大将は、ばくちが行われている広場にブランコをつくって、ここを子どもたちの公園にしようとするが…

 最初の方は喜劇風に進み、あとの方になると人情劇の要素が強くなってくる。キリストはおばはんにここの連中は(大将を含めて)道徳的な観念がないという。まったくないわけではないのは、大将が金を使ってしまったことをおばはんに打ち明けたり、彼女の死後、彼女が口にしていたことを思い出して、広場にブランコを作ろうとしたりすることからわかる。ないのは、むしろ長期的な人生の計画と計画達成のために我慢していく心がけであろう(道徳性の発達のためには欲求不満耐性の発達が不可欠であるということを考えれば、キリスト刑事のいうことも納得がいく)。衝動的に快楽を追い求めるだけの生き方では、いくら生活経験を積んでも、底辺から抜け出すことは難しい。

 ホルモン屋の仕事をしながら、おばはんは「雪のふるまちに…」と、歌の最初の部分だけを繰り返し歌うのだが、この歌の歌いだしは「雪の降る街を」だったはずで、この違いを含めて、映画中でのこの繰り返しには何か意味があるのか、どうもよくわからない。中平康は高知、新藤兼人は広島の出身で雪とはあまり縁がなさそうだ。長門裕之と轟夕起子は京都だから雪が降らないわけではない土地の出身ではあるが、わざわざ何度も歌うほど雪に慣れ親しんでいるようには思えない。

 『「経営学入門」より ネオン太平記』(1968、日活、磯見忠彦監督)は今村の『「エロ事師たち」より 人類学入門』に続く「入門」シリーズ第2弾で、第1作に引き続き小沢昭一が主演している。磯田敏夫『企業防衛』が原作だそうだが、磯見自身と今村による脚本はどこまでこの原作に基づいているのかどうか。

 大阪・千日前でアルサロの支配人をしている益本利徳(小沢昭一)は巧みな宣伝と戦術で成功をしているが、家庭に帰ると元ホステスの内縁の妻(園佳也子)と喧嘩が絶えない。店の方は第2号店を出店する予定なのだが、地元の反対が起きかけている。利徳は家を出て、最近の浮気相手である双子のところに転がり込むが、相手がよく似ているもので間違えたりして…。

 この作品の面白さはストーリーよりも、配役にあって、今村昌平と小沢昭一の人脈を駆使しての出演交渉のたまものであったのか、それとも彼らの人徳に惹かれて自然によってきたのかはわからないが、ちょい役で顔を見せる出演者の豪華な顔ぶれがみものである。なかでも渥美清がゲイボーイで出てきたり、まだ若いころのかしまし娘が姿を見せたりするのが楽しい(この若さと<美貌>で「クッソ バァバァ」などとやっていたのである)。確認できなかった人たちを含めて、Movie Walkerに記されている主な出演者を列挙しておくので、興味のある方はぜひ、見に出かけてください:
西村晃、白羽大介、吉村実子、松尾嘉代、加藤武、桂米朝、小松左京、三国連太郎、北村和夫、黛敏郎、野坂昭如

 このブログを始めて以来、読者の皆様から頂いた拍手の数が20,000拍を突破いたしました。ありがとうございます。これからもよろしくお願いします。

切り子の詩

12月3日(日)晴れ

 ユーロライブで『切り子の詩』を見る。実はル・シネマで上映中の『ブルゴーニュで会いましょう』を見に出かけたのだが、開映時刻に間に合わなくなったので、シネマヴェーラ渋谷の『海底から来た女』、『人魚伝説』の2本立てとどちらにしようかと迷い、こちらを選んだのである。こちらを選んでよかったと思う。

 監督である近兼拓史さんによると、この映画の題名の「切り子」は、鉄工所などで切り出される「切り粉」(きりくず)に「敬意を表して」作り出した造語だそうである。大きな機械はさまざまな部品の組み合わせであり、機械の製造・組み立てには道具がいる。産業を支える大きな機械の働きも大事であるが、その陰に、部品や道具を作っている(主として中小の)企業の目に見えない努力がある。この映画は、そうしたなかなか見えにくい努力を続けている人々の仕事ぶりと家庭生活に目を向けた作品である。

 関西に本拠を置き、工作機械や設備を扱っている商社の営業マンである父・澤田敏行は全国を走り回って仕事を展開し、家を空けることも多い。何が何でも製品を売りつけるというのではなくて、相手の身になって長い目で見ての企業の発展を考える姿勢により多くの顧客から信頼されているのだが、営業成績はあまり伸びない。それでも社内や取引先の人々の話し相手になって助言を与え、それだけでなく地域の子どもたちのための活動に参加している。同僚であるカズ(KAZZ)は営業実績ナンバーワンであるが、そういう澤田の仕事ぶりに敬意をもっている。

 父親が不在がちな家庭を守るのは専業主婦の母・みほ(とみず・みほ)は、近くに住むカズの妻・真奈(永津真奈)と仲がいい。子どものいない真奈はみほを羨ましがっている。その子ども・幼稚園児の鈴音(べるぬ)はダンゴムシが好きなやんちゃ坊主でいたずらを繰り返すが、父親の仕事がまだ理解できず、なかなか遊んでくれないことが不満である。みほが長年乗り回した自転車が修理不能になり、新たに電動の自転車を買いたいというと、あっさりOKが出る場面などから察して、あまり経済的な悩みはないらしい。

 敏行が鈴音に話して聞かせているところから推測して、彼はジュール・ヴェルヌの『海底二万海里』が好きで、本棚にもこの書物が収まっているのが見えたから、「べるぬ」という名前もそのための命名であろう。ある日、彼は得意先の企業から緊急に部品の発注を受ける。それは深海調査船「深海6500」プロジェクト関連の部品であった。納品期限は翌日の朝、敏行は無理のきく知り合いの業者に頼み込んで、深夜に部品を完成してもらうと、自分で車を運転して横須賀の海洋研究開発機構まで部品を運ぶ。ストーリーの起伏の少ないこの映画の中で、この場面がクライマックスになっている。高速道路で通り抜けていく都市名と時刻とが表示されて、緊迫感を盛り上げる。

 物語はフィクションであるが、実在する企業が実名で登場し、その仕事ぶりが紹介されている。映画制作にあたり、全国12都市で50回以上の取材と250時間以上のロケが行われたという。私が昔働いていた職場の近くには、ここで登場する企業よりもさらに規模の小さい町工場のような企業が少なからずあったし、もう50年近くあっていない中学・高校時代の友人の1人が産業資材の専門商社の社長をしていることを思い出して、懐かしい気持ちになったりした。

 これらの企業の抱える様々な問題が広い視野で、また深く検討されるということはなく、全体として、明るく前向きの努力が強調されている。企業のPR映像をつないで作られたような作品であるという悪口も聞かれるかもしれない。主人公の仕事ぶりよりも、性格が評価されるという物語の展開は楽観的に過ぎるという意見もあるあろう。そうはいっても、敏行が務める会社のOLが上司の噂をする場面など漫才風の語りが楽しく、映画の終わり近くの敏行一家が転勤することになって(どこに転勤することになるかは、見てのお楽しみ)お好み焼き屋で開かれる送別会の場面など人情喜劇の面白さ満載である。

 近兼監督は2015年に『たこ焼きの詩」という映画をとみずみほ主演で監督しており、彼女の他にも、両方の作品に顔を出している出演者も多い。一方でドキュメンタリー風、もう一方で関西流の味付けのされた人情喜劇のどちらの方向へと向かっていくのか、あるいはその両者を巧みに組み合わせた新たな方向が確立されていくのか、興味のあるところである。
[4階にシネマヴェーラ渋谷、3階にユーロスペースがある円山町のKINOHAUS2階のユーロライブで12月7日まで上映。4,5,6日は17:50からと20:20からの2回、7日は10:20からの上映。是非、ご覧ください。〕

『太平記』(135)

12月2日(金)晴れ

 建武3年(1335)、諸国の朝敵蜂起の知らせが朝廷にもたらされ、後醍醐天皇は足利尊氏・直義討伐に失敗して尾張で形勢の挽回を図っていた新田義貞を京へ呼び戻した。義貞は足利軍の侵攻に備えて、勢田に名和長年、宇治に楠正成、山崎に弟の脇屋義助を配置して防備を固め、自らは桂川・宇治川・木津川の合流点近くの淀の大渡に陣を布いた。
 開けて建武4年(1336)正月、足利尊氏は80万騎の兵を率いて、石清水八幡宮のある男山の麓に陣をとり、宮方と武家方の主力が川を挟んで対峙することになった。〔尊氏・直義兄弟の軍の後から、宮方の北畠顕家が大軍を率いて都を目指していたことに『太平記』は触れていない。また、都を守る各武将の配置について『太平記』と『梅松論』の記述は異なっている。〕

 さて、山崎を守る脇屋義助の陣をめがけて押し寄せたのは、四国・中国地方の武士たちを集め、さらに赤松勢と合流した細川定禅の軍勢3万余騎で、桜井の宿(大阪府三島郡島本町桜井)の東の方にたどり着いた。元弘の六波羅攻略の際の先例もあるので、赤松範資が先陣と決まっていたのに、播磨の武士である紀氏、浦上氏の300騎ほどが抜け駆けをして押し寄せた。〔『太平記』にはこのように軍議で先陣が決まっているのに、抜け駆けを試みる例がよく出てくる。大体、失敗に終わる。〕 山崎の陣を守っていた官軍は、相手が小勢であるとみて、500余騎が一斉に刀を抜いて駆け出してきたのを見て、寄せての軍勢はひとたまりもなく、追い立てられて逃げ散ってしまう。

 次に坂東、坂西(阿波国坂東・坂西郡⇒徳島県板野郡)の武士たち2,000余騎が押し寄せる。脇屋義助と宇都宮泰藤の率いる2,000余騎の兵が打って出て、半時(1時間)ほど戦ったが、勝敗がなかなか決しない。

 戦いの半ばに、四国の大将である細川定禅が30,000余騎で押し寄せた。官軍は敵が大勢であるのを見て、敵わないと思ったのであろうか、城の中に引きこもる。〔官軍は7,000余騎で数的に劣勢であるから、初めから防備を固めていた方がよかったのである。〕 武家方の寄せては調子に乗って、防備のために官軍が設けた障害を戦死者を出しながらもその死体を乗り越え乗り越え攻め続け、堀は死人で埋まって平地になるほどであった。

 そうこうしているうちに宮方に属していた但馬国の住人である長九郎左衛門が武家方に降伏する。洞院公泰や文観僧正の配下にいた「畑水練しつる者ども」(=水のないところで水練するように実地に通用しない訓練をしていた者たち)は、この様子を見て、武装を解いてわれ先に降参し始めた。残された官軍の3,000余騎は桂川西岸の赤井河原を指して逃げのびていった。〔この巻の前の方で、山崎の軍勢の主力が公家侍や文観の手下の寄せ集めなので「この戦もはかばかしからじ」といわれていたことが思い出される。〕

 山崎が破れたという知らせを聞いて新田義貞は、敵が皇居に乱入する事態を察知した。そして後醍醐天皇をまず比叡山にお移しすることが安心して合戦できる条件であると、都に帰っていった。それまで義貞の陣営にいた大友千代松丸と宇都宮公綱が武家方に投降した。〔義貞の軍はほとんど戦死者を出していないはずであるが、足利方に寝返るものが出てきた。〕
 大渡を守っていた義貞と山崎を守っていた義助とが兵を合わせて、桂川と宇治川の合流点にあった淀大明神の前を撤退していくと、細川定禅の率いる20,000余騎が追ってきた。義貞の長男である義顕は後陣として最後尾にいたが、防戦のために引き返し、淀大明神の前の相撲が辻に陣を構えて、追跡してきた軍勢に応戦したが、前を行く父義貞には後方で戦闘が行われているとは告げなかった。これは天皇の山門への行幸を助けるためであった。
 義顕はお互いに矢を射かける矢戦でしばらく時間を稼ぎ、父親が内裏に参上していると思われる時間になって配下の3,000余騎を2tに分け、東西から叫び声をあげて、細川の軍に攻めかかった。激しい戦いとなったが、これまで味方であった宇都宮と大友の兵たちは、義顕の顔を知っているので、他の軍勢には目もくれず、義顕を囲んで打ち取ろうとするが、義顕はその囲みを打ち破っては出て、また取って返しては追い退け、7・8度までそれを繰り返したので、鎧の袖も兜の錣もみな切り落とされて、重傷を負いながらも、かろうじて都に帰り着いたのであった。

 山崎、大渡の陣が破れたという知らせが届いたので、京都中の高貴な身分の人もそうでない人も急にそうなったかのように、慌てふためき、倒れたり迷ったり、車や馬を東西に動かし、財宝を京都の北と南にもち運んだのであった。
 義貞、義助がまだ参上する前に、後醍醐天皇は比叡山に落ち延びられるおつもりで、三種の神器を身近に携えて、輿に乗られたのであるが、輿を舁く役人が一人もいなかったので、内裏の東西南北の門を警護していた武士たちが鎧を着ながら、天皇の警護に当たったのであった。

 天皇の側近中の側近である吉田内大臣定房公は、車を急がせてやってきたのであるが、御所中を走り回って様子を見ると、人々はみな慌てていた気配で、明星日の札、清涼殿の夜御殿の東の二間四方の間の御本尊である観音像まで置き去りにされていた。定房は落ち着いて、青侍どもに取り持たせて天皇の後を追ったのであるが、それでもまだ見落としがあって、皇室に伝えられた琵琶の名器である玄象(げんじょう)、牧馬、達磨の袈裟、五大尊などが取り落とされていたのはあさましいことであった。〔玄象、牧馬という琵琶は確かに伝来の名器であるが、達磨の袈裟などは、何かいかがわしい感じがする。宮中の宝物に仏像が含まれていた点も興味深い。〕

 この2,3か年の間、天下がようやく一つにまとまり、天皇の御恩を受けて威張り帰っていた公卿や殿上人たちが、大したこともないのに武芸を好んで礼法を忘れていたのは、このような異変の前触れであったかとこの時になって気づかれることであった。新田義貞は、一族30人を連れて馬を急がせ、比叡山の東の麓である東坂本に駆け付けるありさまは、中国との唐の時代に玄宗皇帝が潼関(陝西省東端の関)で安禄山の反乱軍に敗れ、蜀へ逃れた際の様子もこのようであったかと思われるのであった。〔どうもいうことが大げさである。〕

 新田義貞の一族郎党はみな、勇敢で軍略も持ち合わせているが、味方の兵力が不足している。特に脇屋義助は竹ノ下でも山崎でも公家侍や文観僧正の手下といった寄せ集めの兵力を率いることになり、さらに相手の陣営に寝返るものが出たりして、敗戦の原因を作ってしまうのは気の毒である。兵力の点では勝る足利方であるが、戦局の変化によっては宮方に寝返る武士たちも出そうで、まだまだ情勢は流動的である。(『太平記』の作者はずっと触れないままであるが、北畠顕家の率いる大軍が都の救援に向かってきている。後醍醐天皇は比叡山に逃れられ、今度は比叡山の麓で戦いが展開されることになる。

 
プロフィール

tangmianlaoren

Author:tangmianlaoren
FC2ブログへようこそ!

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR