2016年の2016を目指して(11)

11月30日(水)晴れのち曇り

 11月は川崎市に出かけたので、1月からの通算では3市6特別区に足跡を記したことになる。1都2県の方は変化なし。
 武蔵小杉駅を利用したので、7社11路線19駅ということになる。
 また武蔵小杉駅前から等々力グランド入り口までバス(東急バス溝02)を利用したので、5社21路線21停留所を利用したことになる。〔96〕

 このブログを含めて30件を投稿した。内訳は読書が8件、ダンテ『神曲』が5件、『太平記』が4件、日記が5件、映画が3件、詩が2件、未分類が3件ということである。1月からの通算は338件ということになった。3件のコメントを頂き、トラックバックはなかった。582拍の拍手と1件の拍手コメントを頂いた。1月からの通算はコメントが34件、トラックバックが1件、拍手が7940拍、拍手コメントが13件ということである。〔386〕

 13冊の本を買ったが、読んだのは5冊に留まった。読んだ本は次のとおりである:黒瀬奈緒子『ネコがこんなにかわいくなった理由』、内田洋子『皿の中に、イタリア』、橋本雅之『風土記 日本人の感覚を読む』、吉田一彦『日本書紀の呪縛』、呉座勇一『応仁の乱』。読書量が減ってきているのが問題である。1月からの通算では99冊の本を読んでいる。まだ100冊に達していない。イタリア書房で本を買ったので、本を買った書店の数は5軒ということである。〔104〕

 「ラジオ英会話」の時間を19回、「攻略!英語リスニング」を8回、「実践ビジネス英語」を12回聴いている。1月からの通算は「ラジオ英会話」が219回、「攻略!英語リスニング」が88回、「実践ビジネス英語」が131回ということである。このほかに、「入門ビジネス英語」を72回聴いている(10月からの再放送は含めないでいる)。
 「まいにちフランス語」、「まいにちイタリア語」、「まいにちスペイン語」をそれぞれ19回ずつ聴いている。1月からの通算は「まいにちフランス語」が205回、「まいにちイタリア語」が204回、「まいにちスペイン語」が39回ということである。
 「カルチャーラジオ」の『鴨長明と方丈記』を3回、『漱石、近代科学に会う』を1回聴いている。それぞれの10月からの通算は7回と4回である。〔969〕

 見た映画は4本で、1月からの通算は54本ということになる。内訳は『續 警察日記』、『にあんちゃん』、『若くて、悪くて、凄いこいつら』、『現代っ子』で、新しい映画が含まれていないのが問題である。新たに出かけた映画館はない。〔62〕

 サッカーの試合を7試合観戦した。J2とJ3がそれぞれ2試合ずつ、第95回全国高校サッカー選手権神奈川県大会の準決勝2試合と決勝戦である。等々力と、三ツ沢陸上競技場に今年になって初めて(三ツ沢陸上競技場は久しぶり)出かけた。1月からの通算では42試合を4会場で見たことになる。〔46〕

 A4判のノートを2冊、A4判のノートを4冊使い切った。1月からの使い切ったノートの合計は51冊である。0.5ミリのボールペンの芯を2本、0.4ミリのボールペンの芯も2本使いきった。1月からの通算では0.5ミリを29本、0.4ミリを8本、0.7ミリを2本、グレイのボールペンを2本、筆ペンを2本、テキストサーファーを8本、修正液を4本使いきっている。〔106〕

 酒を飲まなかったのが8日である。1月からの通算では115日ということになる。〔115〕

 使い切った文具と、酒を飲まなかった日についてはこれまで集計していなかったのが、今回から集計に加えることにした。それで、主な数字を合計すると1884ということになった。計算間違いもあるかもしれないが、まあ大体こんなところであろう。2016の達成のためには168×11=1848に達している必要があるのだが、どうやらたどり着きそうだと、またまた楽観し始めている。
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ダンテ・アリギエリ『神曲 天国篇』(7-2)

11月29日(火)曇りのち晴れ

 ベアトリーチェに導かれて天空を旅するダンテは、月天で<誓願を果たさなかった人々>の魂に出会ったのち、水星天で<地上での栄光を追い求めた人々>の魂に迎えられ、その一人であり、東ローマ帝国の皇帝であったユスティニアヌスの魂からダンテの時代の西欧世界における皇帝党と教皇党の争いが神意に背くものであること、さらに全地上世界の統治権(=正義)がどのような変遷をたどってローマ皇帝の地位と結びついたかの説明を受けた。ダンテは人類の原罪をキリストが負って十字架上でその罰を受けたという「正義の復讐」について、それが正しい裁きであるのに、なぜ、再びその後で、正義を執行した人々が「正義にのっとって/罰せられる」のかという疑問をもった。ベアトリーチェは神慮にのっとった正義であるローマ法に従った人間としてのイエスの処刑は神の意志を反映するものであり、後のティトゥス帝によるエルサレム滅亡も、神であるイエス・キリストに対する瀆神行為への罰として、神慮にのっとった正義であると、イエスの人性と神性を分けることによって説明をした。(翻訳者である原さんも書いているように、紀元30年ごろに起きたイエスの処刑にかかわったエルサレムの人々と、70年にローマによって破壊された時にエルサレムに住んでいた人々は関係がないはずであり、あるいはダンテにユダヤ人に対する差別感情があったことの反映かもしれない。)
 この後、ベアトリーチェは神がなぜ、人の子として地上に生まれ出て贖罪をしなければならなかったかを説明する。人間は神によって創造されたがゆえに、永遠であり、自由であり(自由意志を持ち)、神に似ている。これら3つの1つでも欠ければ、人間はその高貴さから失墜することになるという。

罪だけが人類から自由を奪い、
至高の善の似姿ではなくし、
罪ゆえに人類は白く輝くなくなるのです。

そして人類は決して尊厳を回復できません、
悪しき喜びに対する正しい罰を下し、
罪があけた穴を再び埋めねば。

あなた方の人性は、始祖である種の中で
その全体として罪を犯したときに、この尊厳からも、
天国を失ったように遠く離れたのです。
(111-112ページ) しかし人類は、始祖アダムの罪に起因する原罪を負ったために楽園を追放され、地上楽園にいたころの原初の状態に戻るには罪が贖われなければならなかった。このため
・・・神がただその寛い御心で
お赦しになったか、あるいは人類が独力で
自らの過ちを償ったかのどちらか・・・
(112ページ)がなされなければならない。

人は有限の存在であるがゆえに、
後で謙虚に服従しようとも
自らを卑しくして償うことはできなかったのです。

逆らって驕り高ぶったことに見合うほどには。
つまりこれが、人類が自力で償うことを
不可能にしていた理由です。
(113ページ) 無限の存在である神に歯向かった瀆神の罪に見合う「服従」と「謙虚」は有限の存在である人類には不可能であるがゆえに自力での償いは不可能である。

従って神はご自身の道により
人を本来の完全なる生へと戻す必要がありました、
・・・ 一つの道か、あるいは両方の道によって。

しかし、行為は、その行為を生ぜしめた
精神の善がより現れていれば、
それだけ行為者からいっそう大切にされるように、

世界に型を押す神の善は、
あなた方を再び高めるにあたり、
両方の道を進むことを喜びとされました。
(114ページ) その結果として、神は人類にも贖罪の行為をさせた方が自分の愛の真意が明らかにされるためにそちらを好み、神からの許しと人間からの贖罪という「両方の道」を進むことを選んだ。

 そして、世界の最初から終点までで最も偉大な行為、神が自分を人間とした「托身」、つまりつまり人間の肉体の中に自身を完全な形で宿らせるイエス・キリストとなって贖罪の磔刑という殉教をした。
 このベアトリーチェの話は、神による創世の一部をなす人間の創造とキリストの受難を結びつけることにより、ローマ帝国による正義の執行が神の計画の一部であることを語るものである。
 ダンテは水、火、空気、土という四元素とそのあらゆる混合物が「滅びに至り、長くは続かない」(116ページ)、もしそれらが神によって創造されたのであれば、「滅びを免れていなければならないはず」(同上)であるという疑問をもつ。これに対して、ベアトリーチェは宇宙全体のうち神が直接に創造したのは、天使や星や星の持つ力(形相を与える力)であり、4元素でできていて滅びと死のある地上世界の事物は、形相を持たない質料に、星に由来する力が形相を与えることで生まれること、その中で唯一人間の命だけが神から直接吹き込まれること、また、神から直接作られたアダムの肉体の継承者である人類の肉体が最後の審判の時に復活することを述べる。

 ダンテの知っていた地上の世界が、実は地球のごく一部でしかなかった(ローマ帝国の版図は確かに広大ではあったが、西アジア、南アジア、東アジアには別の帝国があり、またそれら以外にも人の住む広大な土地があった)こと、また彼の知っている宇宙(地球、月、太陽、五大惑星、その周辺に展開する恒星天)に比べて現代の我々が知っている宇宙がはるかに広大であること(余計な話だが、ミルトンの『失楽園』にはガリレイの発見した木星の衛星が登場する。ミルトンはイタリア旅行の際にガリレイに会って、彼の望遠鏡をのぞいたりしているのである)、4元素や事物の滅びと死などの考えが今日の物理や化学の常識と相いれないことなど、議論の前提となる知識の違いを考慮しても、彼の展開する議論には問題が多く、筋が通らないところが多くあることに気付く。にもかかわらず、彼が哲学的・神学的な主題を美しい言葉で叙事詩にまとめ上げて論じていることに感動してしまうところがある。
 こうして、ダンテは水星天の訪問を終え、次の第8歌では金星天を訪れることになる。

呉座勇一『応仁の乱』

11月28日(月)曇り、時々晴れ

 11月27日、呉座勇一『応仁の乱』(中公新書)を読み終える。

 応仁の乱は応仁元年(1467)から文明9年(1477)まで11年にわたって繰り広げられた大乱である。その名を知っている人は多いが、詳しいことを知っている人はあまりいない。それはなぜこの戦乱が起きたかがよくわからないし、最終的にだれが勝ったかもわからないからである。「劇的で華々しいところがまるでなく、ただただ不毛で不条理、これが応仁の乱の難解さ、ひいては不人気につながっているのだろう」(ⅱページ)と著者はいう。
 さらに続けて、「原因も結果も今ひとつはっきりしない応仁の乱。だが後世に与えた影響は甚大である』(同上)といい、この戦乱が旧体制を徹底的に破壊し、新時代を切り開いたと評価する内藤湖南に始まる、様々な学説が紹介される。最近は、応仁の乱の”前”と”後”の政治過程の研究が進み、嘉吉の変(1441:6代将軍足利義教が暗殺された事件)以後20年余りの間の矛盾の総決算として応仁の乱が位置づけられること、乱の終結後、幕府はただちにその求心力を失ったのではなく、幕府の支配の再建が進められたが、明応2年(1493)の政変によって幕府の権威は決定的に失墜したことなどが明らかにされてきた。
 とはいうものの日本社会全体への影響を考えた場合、その規模と長さから見ても、応仁の乱の意義は小さいものではないと著者は論じる。そして、応仁の乱の”入口”と”出口”だけでなく、”中味”を改めて検討する必要があるという。この課題に取り組むうえで絶好の資料として、著者は『経覚私要釥(きょうがくしようしょう、「しょう」の字の旁は「小」ではなくて「少」であるが、字が見つからなかった)』と『大乗院寺社雑事記』という、この戦乱の時期を生き、戦乱を実際に体験した経覚と尋尊2人の興福寺の高僧の質量ともに豊かな日記に注目し、これらを主な史料として読み込むことによって、戦乱の具体的な推移をたどろうとしている。戦乱に困惑しながらも、「貴族や僧侶たちはしぶとく生き延びたし、大多数の民衆にとって戦乱は災厄でしかなかったのである」(ⅷページ)と、結論の一端が述べられて本文への導入となっている。〔応仁の乱における戦闘の主な部分は京都で起きているために、奈良にいた僧侶には正確な情報が伝わっていない場合があることなどの、史料の問題点についても視野に入れられている。〕

 この書物の目次は次のようなものである:
第1章 畿内の火薬庫、大和
 1 興福寺と大和
 2 動乱の大和
 3 経覚の栄光と没落
第2章 応仁の乱への道
 1 戦う経覚
 2 畠山氏の分裂
 3 諸大名の合従連衡
第3章 大乱勃発
 1 クーデターの応酬
 2 短期決戦戦略の破綻
 3 戦法の変化
第4章 応仁の乱と興福寺
 1 寺務経覚の献身
 2 越前の状況
 3 経覚と尋尊
 4 乱中の遊芸
第5章 衆徒・国民の苦闘
 1 中世都市奈良
 2 大乱の転換点
 3 古市胤栄の悲劇
第6章 大乱終結
 1 厭戦気分の蔓延
 2 うやむやの終戦
 3 それからの大和
第7章 乱後の室町幕府
 1 幕府政治の再建
 2 細川政元と山城国一揆
 3 孤立する将軍
 4 室町幕府の落日
終章  応仁の乱が残したもの

 第1章「畿内の火薬庫、大和」は、この書物の主な史料である2点の日記が書かれた興福寺を取り巻く事情を、平安時代の終わりから室町時代にかけての畿内、特に大和地方の政治と社会の動き(宗教の動きとあまり関係していないところが気になる)をたどりながら概観している。
 興福寺はもともと藤原氏の氏寺であったが、養老4年(720)には官寺に列せられたことから、藤原氏と朝廷の双方の影響を受けてきた。院政期になると、藤原氏の嫡流である摂関家の子息が興福寺に入寺するようになり、摂関家の子弟が興福寺の別当(寺のトップ、「寺務」ともいう)になる流れが出来上がる。これは院政の定着によって摂関の政治的権威が低下したことから生じた危機感を反映するものであった。それまでは藤原氏の氏長者の行っていた興福寺の人事に院=治天が介入するようになり、これに反発する興福寺の嗷訴(強訴)が頻発するようになった。こうした院と摂関家・興福寺の対立の中で、興福寺の軍事力が強化され、「大衆(だいしゅ)」(僧兵)が台頭した。
 摂関家と密着した結果として、興福寺はその内部抗争、さらに平氏と摂関家の対立に巻き込まれ、治承4年(1180)には平氏による南都(奈良)焼き討ちによって東大寺とともにほぼ全焼した。しかし治承・寿永の内乱(源平合戦)の終結以後、興福寺は再建され、鎌倉幕府成立後も、大和国には守護は設置されず、興福寺が事実上の大和守護として君臨した。

 ところが鎌倉時代の初めに摂関家は近衛家と九条家に分裂した。両者はともに、相手に対して優位に立とうとして興福寺の掌握を試みた。その結果、興福寺の数ある院家の中で、近衛家が一乗院、九条家が大乗院に子弟を送り込むという棲み分けが成立した。その後、近衛家からは鷹司家が、九条家からは一条家と二条家が分かれたために、これらの家からも一乗院と大乗院に入るものが現われた。天皇や摂関の子弟が院主となる院家を特に「門跡」と呼ぶが、興福寺においては一乗院と大乗院が「門跡」であり、興福寺のほとんどの院坊はどちらかの門跡の傘下に入り、門跡を頂点とする主従制的な門流組織が形成された。

 こうした制度が成立したことにより、摂関家子弟の門主就任は、その門跡の莫大な財産を相続するということを意味するようになった。しかも支配下の院家に影響力を行使することもできる。こうした門流支配の深化は、荘園などの利権をめぐる門跡間の抗争を引き起こすことにもなった。

 このような抗争の結果として起きた鬪乱の実働部隊として活躍したのが衆徒(しゅと=武装する下位の僧侶)である。さらに鎌倉時代末期になると、衆徒は六方と官符衆徒に分れ、官符衆徒(以下、衆徒)は学侶(学問に専念する僧侶)・六方の指揮下にあって、興福寺の軍事警察機構の役割を果たしたが、武力闘争が頻発するようになると、次第にその発言権を強めてきた。
 要するに衆徒は、ただ頭を丸めているというだけのことで、武士と変わらない。同じような存在とし藤原氏の氏神を祀る春日社の白衣神人(びゃくえじにん)である国民が挙げられる。国民は僧侶ではないので、衆徒と異なり頭を丸めていないし、興福寺からの自立性が強い。彼らは一乗院、あるいは大乗院に属して「坊人」とも呼ばれた。

 興福寺は、南北朝時代に全体として常に北朝方、すなわち武家(室町幕府)方であったが、鎌倉幕府同様室町幕府も興福寺に遠慮して大和には守護を設置せず、興福寺が事実上の守護の役割を演じた。南北朝の対立とは関係なしに、一乗院と大乗院は抗争を繰り返し、興福寺、そして衆徒・国民は二分された。両門跡は武力を有する衆徒・国民を自派に取り込むために、競って恩賞を与えた。この結果、一乗院領・大乗院領は衆徒・国民の手中に落ち、門跡による荘園支配は形骸化していった。
 興福寺は武家方であったが、衆徒・国民は必ずしも武家方ではなく、大和国南部の武士は南朝方であり、その中で重要なのが越智氏であった。一方、幕府方として有名なのが北部の筒井氏である。大和の国のその後の紛争は、親幕府的な一乗院方衆徒の筒井と、反幕府的な大乗院方国民の越智との対立を軸に展開した。
 大乗院と一乗院の対立により興福寺別当の支配力は弱体化し、両院の門跡が実質的に大和守護の職権を行使した。ただし南部にはその権限が及ばず、基本的には奈良と国中に限られた。室町幕府は南北朝合体後の処遇に不満を持つ南朝の後継者たち(後南朝)が大和南部の武士たちと結びつくのを恐れていたが、興福寺も同様であった。

 この書物の特徴は、語り方がゆったりしていることで、その語りに付き合っていたために、今回は第1章の2までしか要約・紹介できなかった。この調子では本題の「応仁の乱」にたどり着くのは、もう少し先のことになりそうだが、(歴史学研究者というよりも)いかにも「歴史家」的な風格を漂わせた著者の語り口には見るべきものがあると思うので、気長に付き合ってください。論述の対象が大和に限られているとはいえ、興福寺あるいは藤原氏(特に摂関家)が日本の歴史において果たしてきた役割のためであろうか、日本史の中で基本的な事柄や用語などを改めて復習できたのは収穫であった。(それに20代の半ばに、アルバイトで奈良一帯を走り回ったことを思い出して、懐かしい気持ちになったことも付け加えておきたい。)

吉田一彦『日本書紀の呪縛 シリーズ<本と日本史>①』

11月27日(日)曇り、午後になって雨が降り出した。

 この書物を読み終えたのは11月20日のことであったから、1週間ばかり書評を書かずにいたことになる。他に書きたいことがあったから後回しにされたのであるが、後回しにしているうちに内容を忘れてしまう―などということはなく、本の記憶は鮮明に残っている。それだけ読み応えのある本である。

 『日本書紀』は、養老4年(720)に完成した書物であるが、21世紀を迎えた今も、「私たちの中に一定の位置を占めて生き続けている。遠い過去の書物でありながら、過去の遺物にはなっておらず、今もなお意味を持つ書物」(3ページ)であると著者はいう。その理由は『日本書紀』という書物の性格に求められる。
 「『日本書紀』は歴史書であるが、その記述は客観的、中立的なものではなく、はなはだ政治的なものであり、歴史的事実とは異なる創作記事が多々記されている。だが、この書物は、天皇が定めた国家の歴史書として大きな影響力を持った。そのため、『日本書紀』完成以後は、同書を継承しようとする書物が記される一方、同書の記述に反駁しよう、あるいは無化することによって対抗しようと試みるような書物が現われ、いくつもの書物が『日本書紀』を取り巻くようにして作成されて行った。それは書物と書物との戦いであり、それが現実の政治権力や経済的権益と連関している場合があった。そうした書物と書物の構想や政治的対決の世界の中で、『日本書紀』は常に書物群の中央に君臨していた。」(4-5ページ)
 この書物は、『日本書紀』とはいかなる書物なのかだ、同時代にどのような力を持ったのかについて、関連する書物を掲げながら考察することを主眼とし、併せて『日本書紀』が成立してから今日に至るまでの影響力についても論じている。その内容は以下のようなものである:

第1章 権威としての『日本書紀』
第2章 『日本書紀』の語る神話と歴史
第3章 『日本書紀』研究の歩み
第4章 天皇制度の成立
第5章 過去の支配
第6章 書物の歴史、書物の戦い
第7章 国史と<反国史><加国史>
第8章 『続日本紀』への期待、落胆と安堵
第9章 『日本書紀』の再解釈と偽書
第10章 『先代旧事本紀』と『古事記』
第11章 真の聖徳太子伝をめぐる争い
第12章 『日本霊異記』――仏教と国際基準
終章  『日本書紀』の呪縛を越えて

 第1章「権威としての『日本書紀』」は、『日本書紀』が学校で習ったから名前を知っているが、読んだ人は少ない書物であるということから始まり、にもかかわらず、私たちの歴史常識の中に『日本書紀』に書かれていたことが少なからず含まれている。「『日本書紀』を読んだことがないというのに、その中身を一部とはいえ知っているというのは、考えてみれば不思議なことではないだろうか」(17ページ)というのがこの書物の出発点である。なぜかと言えば、「歴史というものが長い時間をかけて語り継がれ、書き継がれ、重層的な語り伝えの中で有名な出来事や人物が広く知られていくようになるからである。そうした語り伝えの際に要になる書物がいくつかある。『日本書紀』はその一つ、しかも歴史の冒頭を語る筆頭の書物として最重要視されてきた」(同上)からである。いわば日本の歴史の「正典」(カノン)として機能してきたのである。
 『日本書紀』の正典性はは、平安時代から江戸時代にいたるまで、『日本書紀』が読まれ、研究され、また普及していった過程に、また近代の歴史教育の中で果たした役割によって示されている。「天皇を政治の世界の中央に復活させ、また国際社会の荒波に飛び出していった近代日本にとっては、『日本書紀』は他に代えることができない重要書物であり、国家の理念を支える正典として重んじられた」(22-23ページ)のである。
 戦後の歴史教育の中で、考古学研究の発展を反映して、『日本書紀』の前の方の3分の2ほどは歴史教育から姿を消した。しかし後ろの方3分の1ほどは残った。日本の古代史を、①聖徳太子の新政、②大化改新、③律令国家の成立、④律令国家の崩壊過程ととらえる坂本太郎(1901-87)の学説に基づいて小中高の歴史教育は進められてきたのである。しかし、聖徳太子や『大化改新』についての『日本書紀』の記述には編纂段階で創作された記述があることが、戦前すでに津田左右吉(1873-1961)によって指摘されていた。
(津田の議論については第3章でさらに考察が加えられている。)

 これまで述べてきたような『日本書紀』の正典性、言い換えれば権威はそれが天皇の命令によって定められた書物であることによるものであると著者はいう。「中国では、歴代王朝の歴史が書かれた。それらはのちの時代の人が後世から過去を振り返って書くものであり、唐代以降は、前の滅亡した王朝の歴史を後代の王朝が書くというのがならわしとなっていった。これに対し、『日本書紀』の場合はそうではなく、現在の王朝が自らの歴史を書くものになっている。そのため、そこには自らの正統性を書くという姿勢が臆することなく表明されており、歴史の勝者、つまり「勝ち組」による歴史があらわに叙述されている。しかも、この王朝はその後も長く継続していったから、権力の継承者である天皇や貴族たちにとって、この書物は自分たちの政治的権力や経済的権益の根源が直接・間接に書き記されたものになっている」(26ページ)。しかも、『日本書紀』はその後の自らと異なる歴史を主張する歴史書との戦いに勝ち抜いてきた。
 とはいうものの、近代歴史学研究の成果を踏まえて、『日本書紀』の正典性の呪縛から抜け出すべき時ではないかと著者はいう。「この書物では、『日本書紀』を作り上げた『知の構造』と、『書紀』を中心に複数の書物によって織りなされていった歴史について考察し、「この書物に書かれていることをそのまま真実だとする考え方を克服し、『日本書紀』を相対化して、自由に歴史や文化を考える視座を得たい」(29ページ)と著者はこの章を結んでいる。

 第2章「『日本書紀』の語る神話と歴史」では、『日本書紀』の内容の概略を紹介し、その後でその特色を考察している。
 『日本書紀』は全30巻で、漢文体で書かれている。最初の2巻は「神代」の巻で、天地開闢から「天孫降臨」、さらに神日本磐余彦天皇(神武天皇)までが記されている。巻3~30は、神武天皇から持統天皇にいたる代々の天皇の即位のこととその系譜、そして各天皇の事績が記され、天皇自身の性格や文化的な特色などにも言及がなされ、40代におよぶ天皇の歴史が叙述されている。その叙述形式は編年体で、年月の進展に従って記述が進んでいく。
 『日本書紀』は養老4年(720)に完成した書物で、そのあたりの事情は『続日本紀』に記されている。『続日本紀』の記事は信憑性が高く、この記事も歴史的事実を伝えていると考えられる。一方、編纂の開始を記したものと理解されているのは『日本書紀』の天武10年(681)の記事で、その他の記事と合わせて、「この書物が複雑な過程を経て、複数の人物たちによって書かれたものであることが知られる〔山田英雄 1979〕」。(38ページ) 「『日本書紀』は40年間の時間をかけて編纂、完成した書物であった。編纂にあたっては、根本のストーリーをどう描くか、各氏族の祖先や祖神の活躍をどう盛り込むかなどをめぐって、内容を詰める作業が容易ではなく、時間がかかってしまったものと推測される。」(同上)
 『日本書紀』の記す歴史の最大の特色は、神武天皇から持統天皇までの歴代天皇の血筋がつながっていて、持統天皇が神武天皇の血筋上の子孫とされていることである。この君主の血筋の継続は「万世一系」と呼ばれる。明治~昭和時代の歴史学者の中には、国司の特性として「国史の連綿性」を指摘、重視する意見があった。しかし『日本書紀』が記す君主の血筋の一系継続をめぐっては、歴史的事実であるかどうかという議論も戦後になって展開された。そもそも「天皇」という制度は『日本書紀』の編纂が始まった7世紀末に開始されたばかりのもので、それを過去にさかのぼって説明しようとしても無理が生じる。

 時間の都合で今回はここまでで論評を止めておくが、きわめて論争的な書物であること、それゆえに強い印象を残すことは理解していただけたと思う。第3章では、『日本書紀』の聖徳太子についての記述への津田の批判をはじめとする『日本書紀』についての研究史が、第4章では「天皇」という制度の成立の過程が、第5章では「過去にさかのぼって説明する」というのがどういうことであったのかが問題にされる。それらについては、次回以降に取り上げていきたい。

『若くて、悪くて、凄いこいつら』、『現代っ子』

11月26日(土)晴れ

 神保町シアターで、「今村昌平を支えた職人魂 キャメラマン姫田眞左久の仕事」の特集上映の中から『若くて、悪くて、凄いこいつら』(1962、日活)と『現代っ子』(1963、日活)の上映を連続して見た。今回は、ともに中平康監督による、1960年代前半の若者の生き方を描いた作品であるが、前者は柴田錬三郎原作の活劇アクションで、後者は同名の人気テレビドラマの映画化であり、出来上がった作品には大きな違いがみられる。

 『若くて、悪くて、凄いこいつら』は、浩(高橋英樹)、新子(和泉雅子)、俊夫(和田浩治)の大学生3人組が別荘地で疑獄事件のカギを握るとされる大企業の元会長に出会ったことから、その会長が書き溜めたノートを手に入れようとしてやってくる悪者たちと対決することになる。元会長には孫娘がいたのだが、つい最近自殺したという。ところが、彼女は生きているという電話がかかってきて、彼女の身柄と引き換えにノートを渡せというのである。ノートを手に入れようとしてやってくる何組かの連中の中で、眠狂四郎と名乗る男(葉山良二)は3人、特に浩には好意を持ち始めたようである。

 東京に戻った3人は大学で同窓のオートバイ狂いの女子学生(清水まゆみ)や没落貴族の御曹司(山内賢)を仲間に引き入れ、策略を用いて悪い連中のところに監禁されていた元会長の孫娘を奪回する。しかし彼女は記憶喪失になっている。彼女をかくまっている元貴族の屋敷に、暴力団が押し寄せてくる。屋敷に住む老婆(北林谷栄)がそういう攻防を嫌がって、孫娘を連れ出してしまう。学生たちは無事彼女を探し出し、元会長との対面が実現するのだが、依然として彼女の記憶は戻らない…。

 同じ中平の『あいつと私』(1961)と同様に大学生たちの群像を描いているのだが、登場人物の性格設定はかなり類型的で、ストーリーは荒唐無稽、題名には「悪くて、凄い」とあるのだが、勧善懲悪の娯楽作品である。先日見た『にあんちゃん』の脚本を今村昌平とともに執筆していた池田一朗が脚本を書いていて、『にあんちゃん』のリアリズムとはあまりにも対照的な作品になっていると思った。現実離れがしている分、「正義は勝つ」(というよりも主人公たちが勝つ)とわかって安心してみていられる。かなり乱暴なアクション場面も挿入されているのだが、誰も死なない。和泉雅子と清水まゆみの脱衣場面もあるが、50年以上昔の映画であるから、直接的には描かれていない。むしろ、きわどいセリフが多いところに中平の特徴を認めるべきであろう。

 『現代っ子』は東京の下町の3人兄妹(鈴木やすし、中山千夏、市川好郎)が警察官である父を失いながらも、人の世話にならずに、自分たちだけで強くたくましく生きていこうとする物語である。『若くて、悪くて、凄いこいつら』が現実離れをしているのに対し、こちらは登場人物が長所と欠点を持ち合わせた人間として描かれ、下町の風景がリアルに描き出されているところに特徴がある。母親が泣いてばかりで頼りにならないから、自分たちで物事を進めていこうというのは健気ではあるが、無理がある。さらに、その後になってくると、だんだん話し合いもしなくなる。3人兄妹の長兄は、母親を働かせることになったことに罪悪感を感じ、中学生の弟は独善的に暴走するところがあり、それぞれどこかで無理をしている。映画を見ていて、それぞれの登場人物に助言してやりたいと思ったりする場面が少なくない。

 すでに述べたように、もともとテレビで放映された物語を、主要キャストをそのままに映画化した作品であり、視聴者の生活から遠くにはいない作中人物の生き方について、番組を見ながら批評しあい、解決策を探るというテレビ・ドラマの特徴が映画にも持ち込まれようとしている。中平が、その後の監督としての映画作りの中で、リアリズムとこのような対話型のドラマ作りという可能性をさらに推し進めなかったことが惜しまれる。もちろん、中平が他の様々なジャンルでその才能を発揮した実績は認めるのだが、それが最後まで続かなかったのは、これらの可能性を掘り下げる努力を怠ったためではないかと思うのである。

『太平記』(134)

11月25日(金)晴れ

 建武2年(1335)12月11日、京都から下ってきた新田義貞の率いる宮方の追討軍と戦うべく、足利尊氏・直義兄弟は鎌倉を出発、翌日、箱根と竹ノ下一帯で官軍と激しい戦闘となった。箱根では義貞軍が優勢だったが、足利軍の主力はむしろ竹ノ下に集まっており、官軍の大友、塩冶が寝返ったことも手伝って官軍は総崩れとなった。義貞は尾張の国まで退却して足利軍の進撃を食い止めようとしたが、諸国で朝敵が蜂起したという知らせが朝廷に伝わり、後醍醐天皇は義貞を都に呼び戻して防御にあたらせることとした。
 義貞は足利軍の侵攻に備えて勢多に名和長年、宇治に楠正成、山崎には脇屋義助を向かわせて守りを固め、自らは大渡に陣を布いた。山崎の官軍は公家の侍や文観僧正の子分たちの寄せ集めで、先行きを心配するものがいた。一方尊氏は建武3年(1336)正月8日に石清水八幡宮のある男山の麓に陣を構えた。中国・四国地方から攻めあがってきた細川定禅の率いる武士たちは、赤松範資の一隊と合流して意気盛んに、摂津の芥川の宿に陣をとった。丹波路からは久下弥三郎らの武士が京都に向かったが、都に残っていた官軍の一部がこれを迎え撃って撃退した。

 前回も書いたが、このあたりの『太平記』の記述はどうもおかしい。勢多か宇治を破らないと、石清水八幡宮の近くまでは進めないのに、そうした記述がない。それで、『梅松論』を見たところ、こちらには次のように記されていた:
建武2年12月30日に伊岐代神社に立て籠もっていた僧兵たちを破ったのちに、足利軍は兵力を分けて、勢田には直義が向かい、副将として高師泰、淀には畠山上総介(畠山氏は足利一族)、芋洗は吉見三河守(吉見氏は頼朝の弟範頼の子孫)、宇治には尊氏自らが向かうこととなった。京方の勢田の大将は千種忠顕、結城親光、名和長年で、正月3日から戦闘が開始された。尊氏は日原路を経て宇治に向かった。この時、元弘3年(1333)に奥羽に派遣されていた北畠顕家が大軍を率いて都の救援に近づいてきたといううわさが流れた。京方では義貞が宇治に向かい、ここで防備を固めた。
 尊氏と義貞が宇治で対決したという方が、大渡で対決したというよりも納得がいく。森茂暁さんは『戦争の日本史⑧ 南北朝の動乱』(吉川弘文館、2007)のなかで、「建武2年の後半、新田義貞の軍を追いつつ、同時に北畠顕家の率いる奥州軍に追われる格好で」(75ページ)と義貞・直義軍の動きをまとめていて、北畠顕家の動きを視野に入れている点でも『梅松論』の方が歴史的な事実に近いのではないかと思われる。

 建武3年(1336)正月9日、辰の刻(午前8時ごろ)に、尊氏は80万騎の兵を率いて大渡の橋の西のたもとに押し寄せた。川を渡るべきか、橋を渡るべきか(橋は渡りにくくしてある)軍議を凝らしていると、新田軍の陣から「足利殿が搦め手からの軍勢といてあてにしていた丹波路の軍勢を昨日追い散らした。ここに並ぶ旗の紋を見れば、主力群である。なぜ、この川を渡らないのか。むかし、宇治川を渡った武士は(足利又太郎忠綱や佐々木四郎高綱のように)名を挙げたではないか」などといい、口々に「川を渡れ」というので、尊氏に従っている武蔵、相模の兵たちは「敵に招かれて、このように言われては、どんな深い川でも渡らないわけにはいかない」と、一度に馬を乗り入れようとする。
 そこへ尊氏の執事である高師直が馬を走らせて兵たちを遮り、「どうかしてしまったのか、昔は昔、今は今、しばらく気持ちを落ち着けなさい。近くの民家を壊していかだをつくって渡ろう」と指示をする。(戦争中だとはいえ、家を壊される人の立場になってみると、とんでもないとばっちりである。) そこでその命令に従って近くの民家を壊し、長さ2,3町(1町は約109メートル)といういかだを組んだ。武蔵、相模の兵が500人余りこれに乗って渡ろうとするが、川の中に打ち込まれていた乱杭に引っかかって竿を指してもいかだは進まない。うろうろしているところを向こう岸から新田軍は雨が降るように矢を射かけてくる。いかだは少しも役に立たない。ぐずぐずしているうちに、川の波に揺られていかだの縄が切れてしまい、いかだがばらばらになって、乗っていた500余人の兵たちは、みな水におぼれて死んでしまった。(高師直の作戦は浅知恵だったのだが、「昔は昔、今は今」という言い方がいかにも彼らしい。) 
 ここに、師直の配下の武士たちの中に、八木与一政通という力が強く機敏な身ごなしの兵がいたが、胴丸という胴だけの略式の鎧の上に、大鎧を重ねて着て、獅子頭の兜に顔から顎を頬当てで覆って、4尺3寸の太刀を指し、5尺余りの備前長刀を右の脇に挟み、「どけどけ、敵に向かって打ってかかるからにはたとえ、天竺の石橋(実際には天竺=インドではなくて、中国浙江省の天台山にあった滝の上の石橋)、蜀(四川省)の断崖にかけられた梯の道であろうとも、渡れないということがあろうかと、橋げたの上を進んでいく。櫓の上や、掻楯の影に身を潜めていた新田軍の兵たちが矢を次々に弦につがえて射るが、八木はわき目も降らず懸命に進むところに、結城重光の郎等が2人、橋げたを渡って後に続いてきた。政通はいよいよ元気づいて櫓の下にもぐりこんで、その柱をゆすったので、櫓の上の武士たちはかなわないと飛び降りて、二の木戸の中に逃げ込んだので、足利勢の80万騎は箙をたたいて大笑いした。

 「それ、敵はひくぞ」という言う間もなく、足利勢は我先にと渡ろうとするが、後ろから押し落とされたり、前が詰まっているために落とされたりして、橋から落ちて、水におぼれるものが大勢出る。それでもかまわずに、たいして丈夫でもない橋の上に靴底に打った鋲のようにびっしりと兵が密集して攻め寄せたので、橋げたが4,5間中から折れて、1,000余人の兵たちが川に落ち、浮き沈みしながら川を流されていった。しかし、八木は水泳が達者なので、橋板1枚に乗って長刀を竿にして、元の陣へと帰ってきた。これから後は、橋を渡ろうともせず、いかだを組もうともせずに、時間を持て余しながら足利軍は待機していた。

 岩波文庫は古本系の西洞院本を底本としているので、比較的簡単に記述されているが、新潮日本古典集成の方は流布本を使っているので、もっと尾ひれがついている。しかし、戦闘が展開されたのが、大渡においてなのか、宇治においてなのかの方が重要な問題である。『梅松論』では八木が野木になっていて、高師直ではなく、彼もまた結城重光の家臣ということになっている。結城氏は本家筋の下総結城氏と分家筋の白河結城氏に分れていたが、白河結城氏の親光が建武新政権で重用されたのに対し、下総結城氏は足利方についた。結城重光は常陸結城氏ということで、重光という名からすると白河結城氏に近いはずだが、足利軍に加わっている。『梅松論』では八木は尊氏から称賛され、腰のものを拝領したと記されているが、彼についての詳しいことはわからないようである。

 義貞と尊氏が川を挟んで対峙する、竜虎激突ともいえる局面であるが、義貞にとっては思いがけず(あるいは予期していた心配がその通りになって)、新しい事態を迎えることになるが、それはまた次回。
 

日記抄(11月18日~24日)

11月24日(木)雪、降ったり降らなかったり

 11月18日から本日までの間に経験したこと、考えたこと、前回、言い忘れたことなど:
 11月17日のNHKカルチャーラジオ「文学の時間」『鴨長明と方丈記』は、長明が河合神社の神官職に任じられようとされた時に、一族の長である鴨祐兼の横やりによって就任を阻まれ、その結果を不満として御所の和歌所から失踪し、出家した次第を語った。しかし「出家し、遁世したものの、彼には忘れることのできないものがあったのです。和歌のこと、音楽のこと。後鳥羽院から贈られた琵琶の撥はその象徴だったのです。」(テキスト、82ページ) 

11月18日
 NHKラジオ「まいにちイタリア語」中級編『古代ローマ幻想散歩』は”I pettegolezzi dei romani"(古代ローマのゴシップ)という話題を取り上げた。ゴシップについて知りたければ、カトゥッルスやユウェナーリス、ペルシウス、マルティアーリス、スエートニウスの作品を読むといいそうである。
Nel libro di Svetonio, Giulio Cesare viene descritto viene descritto come un personaggio molto vanitoso.
(スエートニウスの著書の中で、ユリウス・カエサルは非常に格好つけたがる人物として描かれている。)
 カエサルがどれだけ格好を付けたがる人物であったかどうかは知らないが、彼が人民を幸福にさせたのであれば、それはそれでいいじゃないかと思う。

11月19日
 NHKラジオ「攻略!英語リスニング」は”Breakfast"(朝食)を話題として取り上げた。
On weekends, when I have more time, I like a big English breakfast --- eggs, bacon, sausage, fried bread, baked beans , tomatoes, mushrooms ,black pudding. (週末は、少し時間があれば、ドーンとイングリッシュ・ブレックファストがいいなあ――卵にベーコン、ソーセージ、揚げパン、ベイクト・ビーンズ{インゲン豆のトマトソース煮(の缶詰)}、トマト、マッシュルーム、ブラックプディングと。) 

 番組の終わりに講師の柴原さんが言っていたが、ある授業で自分の好きな食べ物についてスピーチをすることになっていたのだが、岩手県出身のある学生があまり予習をせずに「わんこそば」について話して、やたらnoodles, noodlesと繰り返すので、どんなnoodleなのかきちんと説明するように指示したところ、しばらく考え込んでからdog noodlesといったということである(「わんこそば」は「椀子そば」であって「ワンコそば」ではない!)。noodleにはソバもあるし、うどんもあるし、それ以外の麺類もある。日本では一般に東日本がそば、西日本がうどんというように言われているが、例外もあるというようなことを考えてみると、予習をしないでこの話題について語ることがどれだけ危険かわかるはずである。

11月20日
 三ツ沢陸上競技場でJ3の最終節:YSCC対ガンバ大阪U-23の対戦を観戦した。辻選手の2ゴールの活躍で、2-0でYSCCが勝利。最下位を脱出できなかったのは残念だが、最終戦の勝利は来年につながるものであろう。球技場の方にはしょっちゅう出かけているのだが、陸上競技場の方は久しぶりで、さすがに施設が改善されていたことに感心したが、場内に落ち葉が多かったことが気になった。
 同じ時間帯に、ニッパツ三ツ沢球技場では高校ラグビーの神奈川県予選の決勝戦が行われていて、桐蔭学園が慶応高校に勝ったらしい。
 横浜FCはアウェーで松本山雅に2-3で惜敗。今年度で契約を打ち切られることになった内田選手が出場していたようである。2006年の横浜FCがJ2で優勝してJ1に昇格を決めたシーズンに、10番をつけていた内田選手をサポーターは忘れることはないだろう。

11月21日
 病院に出かける。予定よりも早く、診察と会計が終わり、薬局でも早く薬が出たので、神保町シアターに出かけて、『続 警察日記』を見たのは、すでに書いたとおりである。その後、すずらん通りの上島珈琲店で遅い昼食をとっていたところ、隣の席でジャーナリストらしい男女がシリアでの取材について話をしていた。その後、イタリア書房でオルテガの『大衆の反乱』のスペイン語のテキストを購入する。私のスペイン語の力で、この本が読めるかどうか疑問がないわけではないが、とにかくやってみようと思うのである。
 横浜に戻って井筒俊彦『意識の形而上学――大乗起信論』、宇井伯寿・高崎直道訳注『大乗起信論』(岩波文庫)、斎藤貴男『機会不平等』(岩波現代文庫)を購入する。このところ、本は買うのだが、なかなか読めない。

11月22日
 『朝日』のコラム「経済気象台」には時々変な記事が出るのだが、本日は「ノーベル賞への道」として、「日本でも社会保障費を削ってでも基礎研究に支出すべきだ。ノーベル賞への道は研究者が研究に没頭できる環境を作り出すことだ」という議論が展開されていた。年金生活者の私としては、削るのであれば、ほかの項目を削ってほしいものである。社会保障費を削ることは、社会の不安を増大し、環境を悪化させて研究者が落ち着いて研究できなくするだろう。もう一つ言わせてもらえば、研究にはその社会的な役割があることを忘れて、ただ、研究に没頭することは危険である。太平洋戦争中に多額の研究費につられて原爆の開発に従事した物理学者がいることを我々は忘れてはならないのである。

11月23日
 勤労感謝の日。もともとは新嘗祭。そのことを思い起こして、農業の意義を考え直してほしいものである。武士ではなく、農民こそ生産者として日本の歴史を支えてきたことを忘れてはならない(『七人の侍』の幕切れの場面を思い出してほしい)。

11月24日
 『朝日』の朝刊にコスモピアという本屋から刊行されている『女性リーダーの英語』、『アジアの英語』という2冊の本の広告が出ていたので、本屋で探して立ち読みをしてみた。『女性リーダー』の方にヒラリー・クリントン、テリーザ・メイらと並んで、小池百合子東京都知事が入っているのが注目される。彼女は、以前から海外の英語のメディアに自己の意見を投稿していた。アラビア語通訳をしていたというだけでなく、内容のある英語を自在に操っていることには敬服するのだが、その英語で語る内容については必ずしも賛同できない…というところがある。
 『アジアの英語』はNHKラジオの『入門ビジネス英語』の講師である柴田真一さんが手掛けた書物で、日本人では新浪剛史さんが選ばれているのが、「ビジネス英語」の講師らしいと思った。柴田さんはアジア英語の台頭を踏まえて、世界にはいろいろな英語がある、自分の英語で自分の言いたいことを主張していくことが大事だという考えのようで、私自身の経験を踏まえても、この考え方に賛同する人が増えることが望まれる。

 NHKラジオ「実践ビジネス英語」で
Putting thing off can actually be good for creativity. (物事を先延ばしにすることは、実は、創造性にとってはいい場合がある。)
という発言が出てきた。土壇場になるといい知恵が浮かぶというのは、洋の東西を問わずにあることらしい。しかし、土壇場になっていい知恵が浮かぶのは、それまで努力を積み重ねてきた場合であって、締め切りまでは何もしなくてもよいということではない。

 『にあんちゃん』の論評で言い残したこと。
 先日、トランプ氏がアメリカの大統領に当選確実になったという話を、ある大学の副学長をしていた友人と話していた際に、彼がこれで日本のまじめに働いている人たちはがっかりするだろうなぁといったのが気になった。60年の安保闘争が終わった時に、彼はこれで人々の関心が三井三池の方に向けばいいのだがというようなことを言っていたと記憶する。その社会的な関心と、優しさは称賛に値するのだが、ある社会階層に属する人々を十把一絡げに切り捨てたり、同情したりするのではなくて、その構成員の1人1人を人格と個性をもった人間としてみることの方が重要だということに気付かないのは困ったことだと思った。
 彼と違って、私は学生時代の大半を学生運動に費やし、就職してからのある時期は組合の役員をしたので、その経験から人間には一人一人の事情があって、それぞれが違っているということを学んだ。我々が学んだ高校の同期生には、大企業のオーナー社長であったり、高級官僚であったり、官僚学者であったりした人間もいるし、それほど出世できなかった人間もいるし、生涯フリーターみたいな人間もいるわけであるが、それぞれにレッテルを貼るのではなくて独自の個性をもった人間としてみることが大事だと思うわけである。
 『にあんちゃん』の登場人物は、建前や正義ということからいうと、感心しない人間が多く、欲張りもいるし、意地悪もいるのだが、それぞれを個性としてみること、それぞれの個性が彼らが帰属する社会集団の属性だと思わないことが大事ではないかと思う。 

にあんちゃん

11月23日(水)曇り、夜になって雨が降り始める

 神保町シアターで「今村昌平を支えた職人魂 姫田眞左久」の特集上映から『にあんちゃん』を見る。

 映画館の壁に、姫田(1916-97)が撮影監督を務めた162本の映画の映画の一覧が貼り出されていたが、私が見ているのはわずかに27本(ちょうど6分の1)である。この特集上映を機会に、もう少し数を伸ばそうと思う。

 『にあんちゃん』は1958年に光文社のカッパブックスから発売され、当時のベストセラーになった安本末子の原作の映画化であり、佐賀県の小さい炭鉱で暮らす4人兄妹が、父親の死後、貧しさの中たくましく生きる姿を描く。題名となった「にあんちゃん」は2番目のあんちゃんということで、4人兄妹の次男である高一を末子がこう呼んでいるのである。
 もともと田坂具隆が監督するはずであったのが、田坂が日活を去ったため、今村昌平が監督することになった。彼と池田一朗が脚本を担当し、1959(昭和34)年の芸術祭参加作品となり、文部大臣賞を受賞した。この時、今村は文部大臣から賞を受けるような健全な作品をつくったことを反省したという。

 1953年から54年にかけては朝鮮戦争による特需も終わり、その後の不況時代、石炭産業は操業の短縮を余儀なくされ、従業員の解雇が続いている。特に不況の影響がはっきりと表れる小規模な炭鉱の事態は悲惨である。父親を亡くした安本家の長男喜一(長門裕之)、長女良子(松尾嘉代)、次男高一(沖村武)、次女末子(前田暁子)の4人兄妹の場合、臨時雇いの喜一の収入だけが頼りだが、それでは心細く、父親の友人の辺見源五郎(殿山泰司)や地域の保健婦・堀かな子(吉行和子)が、辺見の旧友である会計課長の坂井(芦田伸介)に掛け合って、正規の社員に採用してもらおうとしたのだが、不況で、昇格どころか馘首されてしまう。

 喜一は長崎に働きに出かけ、良子は唐津の精肉店で働くことになり、下の2人は辺見に引き取られることになるが、辺見の妻は露骨に嫌な顔をする。不況は次第にひどくなり、ストライキが起きたりするが、人員削減か閉山ということになると、削減を選択せざるを得ない状況で、辺見はけがをして、炭鉱では働けなくなる。高一と末子は、父親の別の知り合いに引き取られることになるが、そこでの暮らしのひどさに耐えかねて脱出、また炭鉱に戻ってくる。ちょうど夏休み中なので、高一は兄の友人の金山春夫(小沢昭一)の紹介してくれたいりこ屋(大滝秀治)でアルバイトをして金を稼ぐ。末子は坂田の婆(北林谷栄)のもとで生活する。高一は稼いだ金で切符を買って東京に出て働こうとするが…。

 炭鉱町で暮らす人々の間には一種のピラミッドができていて、坂井のような管理職、正規の従業員、臨時雇い、そして坂田の婆や金山のように周辺で怪しげな仕事に従事している人々がいる。苦しい生活を何とかしようと、炭鉱の従業員だけでなく、その家族までも巻き込んだ争議が展開されるのだが、事態は打開できない。保健婦や学校の先生は、異動があるのでこのピラミッドの外にいる。ある程度自由に物が言えるが、地域の人々から本当には信頼されない。

 貧困の中で暮らす人々は目先の収入以外のことが考えられなくなっている。解雇された喜一は酒を飲んで家に帰り、妹に教科書を買う代金を出せという高一と喧嘩をする。4人兄妹の中で喜一は目先の生活しか考えられなくなっているし、良子はおとなしく兄の言うことを聞いているが、高一はそうではない。弁当も持たずに学校に通っているとは言うものの、兄妹のことを気にかけているらしい小学校の桐野先生(穂積隆信)が言うところでは学校の成績がいい高一は、先のことを考えている様子なのである。炭鉱町の劣悪な生活条件、特に衛生状態を改善しようと保健婦は奔走するが、炭鉱の人々の目先の生活の邪魔をするということで嫌がられる。辺見もそんな1人なのだが、高一に説得されて考えを変える。東京行きの顛末はここで語らないが、映画に描かれた経験を通じて、高一は現状を打開するためには、自分自身の力量形成が必要だと気づいていく。

 実際に炭鉱町でロケを行った撮影場面が、貴重な証言となっているが、芸達者な俳優で脇を固めて、4人兄妹、特に下の2人には自然な演技を期待している今村の演出も注目される。この2年後に新東宝で製作された『「粘土のお面」より かあちゃん』は都会の貧困を描いていた(豊田正子の原作は戦前に書かれており、戦後の映画化なので、多少現実から離れているところがあるかもしれない)が、監督の中川信夫が正子に二木てるみ、母親に望月優子、父親に伊藤雄之助という配役で中心となる一家の方に力点を置いているのと対照的に思われる。(実は、1961年に『にあんちゃん』がフジテレビでドラマ化された時に、末子の役をやっているのが二木てるみなので、2つの役を演じた印象をご本人から聞いてみることができればなぁと思う。) 『かあちゃん』で正子をかわいがる学校の先生(北沢典子)も途中で転勤してしまうところが、『にあんちゃん』の保健婦と共通しているが、一方が都会から地方への転勤であるのに対し、もう一方が地方から都会への移動であるのが違っている。おそらくは演出の違いのためであろうが、『かあちゃん』が家庭劇だとすれば、『にあんちゃん』は社会劇だというくらいの視野の広さの違いも感じられる。視野が広いからいいというものでもないし、今村としてはいろいろ不本意な部分もあったかもしれないが、映画作りのいろいろな可能性を感じさせられたことは否定できない。

ダンテ・アリギエリ『神曲 天国篇』(7-1)

11月22日(火)晴れ、温暖

 ベアトリーチェに導かれて天空の世界へと旅立ったダンテは、月天で誓願を果たさなかった人々の魂に出会ったのち、水星天に達した。そこで彼は地上での栄光を追い求めた人々の魂に迎えられる。魂たちの一人は、ローマ法を集成した法典の編纂を命じた立法者であり、東ローマ帝国の皇帝であったユスティニアヌスであると名乗り、神与の世俗の統治権がローマの始祖から発し、共和制を経てローマ皇帝に受け継がれてきたその来歴と、さらに世界の現状について語った。

「ホサナ(たたえよ)、万軍を率いる聖なる神を、
これら諸王国にいる祝福された火に
その光で輝きの極みを与えたまう方を」。

このように、自らが奏でる旋律に合わせて回転し、
その実体の歌う姿が私には見えた。
その上では二つの光が一体となっているのだ。

そして彼や他の実体は彼らの踊りをはじめると、
この上なく素早く飛び去る火花さながら、
急に広がった距離ゆえに私の視界から隠れた。
(104ページ) 「ホサナ」で始まる第7歌の最初の3行はラテン語とヘブライ語の混合文で書かれているそうである。「その実体」(=ユスティニアヌスの魂)はこのように歌いながら回転する。「二つの光」は立法者と善き統治者としての二重の栄光を表す。そして他の魂とともに、踊りながらダンテから遠ざかっていった。

 ユスティニアヌスの話を聞いて、ダンテの胸中にはまた新たな疑問が浮かんできたが、それについてベアトリーチェが答える。ここで、彼女の言葉が神の言葉であることを暗示するため、その時のダンテは聖書に出てくる預言者の眠りに襲われた。
 ダンテの疑問とは、
いかにして、正義の復讐が正義にのっとって
罰せられうるのか、・・・
(106ページ) 人類の原罪をキリストが負って十字架上でその罰を受けたという「正義の復讐」について、それが正しい裁きであるのに、なぜ再びその後で、正義を執行した人々が「正義にのっとって/罰せられ」るのかということであった。
 翻訳者である原さんの説明によると、ここでダンテはローマ帝国の統治の正統性に対する教会の攻撃を弁護しているのであるという。もともと、教会はローマ帝国を敵と見なしていた。たとえば「ヨハネの黙示録」の中の7つの首を持つ怪物に乗った怪物に乗った娼婦は帝政ローマを表していた(ダンテは逆に「煉獄篇」第32歌でこれを7つの丘に囲まれたローマの教皇庁の表象とした)。実際に「ヨハネの黙示録」を読んでみたのだが、怪物は7つの首と、10本の角を持っていることになっていて、それでは10本の角というのはどういうことか、7とか、10とかいうのは象徴的な意味を与えられた数字ではないのかという疑問を抱いた(余計なことを書いておくと、ローマの7つの丘というのが具体的にどの丘とどの丘かということについては、定説はないようである。さらに余計なことを付け足すと、ポルトガルのリスボンと、スコットランドのエディンバラは7つの丘のある都といわれる。どうも両方とも7つ以上丘があるらしいのだが、恰好を付けて、そういっているようである。)

 ダンテの時代、教会は教会が地上を支配すればこの世界は幸福になると主張し、神聖ローマ帝国の皇帝たちと対立した。(そういう教会や僧侶が支配する政治形態を神権政治theocracyという。現実にそういう政権が存在した事例もあるが、そこで人々が幸福に暮らしたという証拠はない。) このような主張の裏には、キリスト処刑がローマ帝国の名のもとに行われたことや、ティトゥス帝による聖地エルサレム破壊などがあった。

 ベアトリーチェの答えは次のようなものである。
人から生まれた訳ではないあの男は、希望という能力に対して
彼のために設けられた禁忌を守らなかったため、
自らを罪人に貶め、同時に彼の全子孫をも罪人に貶めました。

そのために病める人類は幾世紀にもわたり
大いなる過ちのうちに臥せることになりました。
(106ページ) 「人から生まれた訳ではない」アダムが原罪を犯したために、その子孫である人類は神の恩寵を失って地上で生きてきたという。

 しかし神性と人性とを併せ持つ神の子イエスが、その人性の部分で人類の原罪の贖罪を果たした
それゆえ十字架が負わせた罰は、
身に帯びられた人性と秤にかけるならば、
これほど正しく責め苛んだものはありません。
(108ページ) ローマ法にのっとったその罰は正しいと主張されている。

そして同時に、それを受けた位格を鑑みれば、
これほど不正義な罰もありませんでした。
その位格の中に罪深い人性が一体化していたのです。
(同上) しかし同時に、三位一体の神の第二の位格である神の子としては、罪なくして受けたその罰は不当であるという。

そのため一つの行為から異なった結果が現れました。
つまり一つの死が神の御心をもユダヤ人たちの心をも喜ばせ、
その死ゆえに大地は揺れ、また空も開かれたのです。
(同上) その罰は、神からは人類の罪を許せるために、ユダヤ教信者たちからは(原さんがここで「ユダヤ教」という言い方をしているのは、厳密さを欠いていると思うのだが)イエス・キリストの神性を否定できるがゆえに喜ばれた。ユダヤ人は、キリストが神の子であり救世主であるといったことに対して怒り、彼を死罪にした。そのため神の子を殺した罪を恐れて大地が揺れた。神は、キリストの負ったアダム以来の人性に対し正義の罰を下した。結果、天国の門が人類に開かれた。そして、ユダヤ人の犯したこの瀆神の罪への罰としてユダヤ人たちの都エルサレムが、神の正義を体現するローマによって滅ぼされたという。

 さらにベアトリーチェは、神がなぜ人の子として地上に生まれ出て贖罪をしなければならなかったのか、その理由を説明する。
神の善、向けられたあらゆる妬みを
寄せつけぬそれは、自ら燃え続けて火花を周囲に放ち、
永遠に美しき者達を生じさせています。
(110ページ) 「神の善」が光線となって被造物に到達するとそれは美となって輝き、神によって直接創造されたそれらの事物は永遠である。人間もまた「神の善」つまり神によって直接に創造されるために永遠の存在となり、「新たな事物」である諸天空の影響からは自由な意志をもち、その「善」である神に似ていて、その神の「聖なる火炎」を反射して輝いている。
人として創造された類はこれらの贈り物すべての
恩恵を受けています。そして一つでも欠ければ、
その高貴さから失墜することになるのです。
(111ページ) 「贈り物すべて」は永遠、自由、神に似ていることであるという。

 歴史上のイエスがローマ当局によって処刑されたのは、おそらくはユダヤ人たちの指導的な層の宗教的な権威を覆そうとしていることが警戒され、そのことが治安の維持にとって危険であると考えられたからであって(加藤隆『『新約聖書』の誕生』によるとイエスとともに処刑された2人の「強盗」はユダヤの独立の回復のためにはテロも辞さない熱心党=ゼロテ派のメンバーであった可能性が高いという)、それを原罪の贖罪のためというのはこじつけであると批判を受けてもしかたのないところがある。この第7歌におけるダンテの議論はかなり苦しいところがあるように思うのだが、いかがだろうか。ベアトリーチェの説明はさらに続くが、それはまた次回。

続 警察日記

11月21日(月)曇りのち雨

 東京都内の病院に出かけ、予定よりも到着したために早く診察が終わり、会計もすぐに済み、薬局もいつもより早く薬を出してくれた。そういう事情で時間の余裕ができたので、神保町シアターに映画を見に行くことにして、「今村昌平を支えた職人魂――キャメラマン・姫田眞左久の仕事」の特集上映から、久松静児監督の『続警察日記』(1955、日活)を見た。『続』とあるのだが、森繁久彌が主演したという『警察日記』は見ていないし、登場人物を入れ替えて制作したというこちらの続編も見るのは初めてである。(さらに付け加えると、映画のタイトルでは『續 警察日記』と旧字体が使われている。) この映画が封切られた時に、私は小学生であったのだが、今、見てみると「懐かしい」以前という感想をもつ。思い出そうとしても、思い出せない過去の物語という感じである。

 福島県会津地方の小都市とその近郊の農村が舞台で、そのあたりを管轄する警察署の警察官たちが遭遇する事件と、その関係者の人間模様が描かれている。最初のうちは、列車の進行を牛が妨害するというような「牧歌」的な事件が描かれているが、線路に寝転んで自殺を図る若い女性が登場したり、米泥棒を働いたかどで留置されている貧乏な中年男が功を焦る警官に自白を強要されたり、次第次第に物語は深刻になっていく。それでも、女にもてる一方なのに金がないので、贋金を使った男が登場したり、町会議員のスキャンダルが飛び出したりと物語はあまり暗くならず、むしろ喜劇的に展開していく。

 警察の部長(伊藤雄之助)は豊かな経験にものを言わせて、それぞれの事件を巧みにさばいていくのだが、次から次へと難題が降りかかってくる。貧しい暮らしの中で、途方に暮れて警察署にやってくる者がいる。妻子を身売りさせて借金を帳消しにしようとする者もいる(この時期、まだ売春防止法は布かれていない)。米泥棒の犯人にされた男には娘(新珠三千代)がいて、身売りの現場を押さえた警官の手で一度は親元に戻っていたのだが(このエピソードだけ、回想場面として描き出されている)、父親と喧嘩して家を飛び出してしまう。そして、警察が逮捕した指名手配中の犯人が通い詰めて、金を使い果たした相手の女が彼女であった。

 米泥棒の真犯人が見つかり、逮捕され、釈放されていた男は無実だと分かるのだが、自分が縄目を受けた屈辱に耐えかねて自殺してしまう。警察に参考人として連れてこられた娘は、そこで初めて父親の死を知る・・・。

 町の有力者による会議の席上で警察署長が居眠りをしていたり、警察署に駆け込んできた妊婦が出産し、その赤ん坊を偽助産婦だとして連行されてきていた女性(北林谷栄)が取り上げるというような喜劇的な場面があるとはいうものの、冤罪事件という警察の黒星が明るみに出て、大きな(というよりも社会的な地位の高い人間の犯した)悪は見逃し(あるいは見逃さざるを得ず)、小さな(というよりも社会的な弱者にかけられた)悪(もしくは嫌疑)に対しては過酷に対処するという警察の問題点が明らかにされてゆく。それが警官自身の側から描き出されているのだから、どうもやりきれない。
 
 まだ蒸気機関車が走り、馬が荷車を引っ張り、電化製品はほとんど使われていないという過去の時代の物語として、この映画を自分たちとは無縁のものと切り捨てるのが正しいのか、まだまだ人情が厚かった古き良き昔の話として懐かしむのが正しいのか、あるいはそれ以外の見方を探るべきであるのか。喜劇も悲劇も社会性も織り込んだ映画であるだけに、判断に苦しむところがある。最後の方で新珠三千代が見せる放心したような表情が映画のすべてを物語っているといえそうである。松本清張がこの女優を贔屓にしていて、自分の作品の映画化に出演させたいと思いながら、実現しなかったという話を思い出す。私も新珠の演技には舌を巻くところがあるのだが、物語に良心や希望を持ち込む役どころで出演している芦川いづみの方が好きである。これは好みの問題だから、仕方がない。 

天忍穂耳尊(あめのおしほみみのみこと)

11月20日(日)晴れ、温暖

 七森さんのブログ『あちこち神社』には熱田神宮探訪の記録が掲載されていて、興味深く読んでいたが、その最後に日割御子(ひさきみこ)神社が紹介され、その祭神が天忍穂耳尊であると記されていたので、七森さんにこの神様を祀っている神社にはほかにどのようなところがあるのかと質問のコメントを出したところ、丁寧な回答を頂いた:

天忍穂耳尊(正勝吾勝勝速日天之忍穂耳命)が御祭神の神社といいますと
京都宇治の許波多神社や福岡県の英彦山神宮、
静岡県の伊豆山神宮や長野の戸隠神社日之御子社などが有名だと思います。

別名の五男神、五男三女神ですと境内社としてお祀りしている神社が多いですね。

私がお参りした神社で印象深いのは滋賀県の太郎坊宮です。
ご参考になれば幸いです。

 とにかく、七森さんの回答でこの神様をおまつりする神社が相当数あることを知った。天忍穂耳尊は、天照大神の長子で、高天原から葦原中国に下った瓊瓊杵尊の父親という神様である。いわばつなぎの役割の神様で、高天原に留まったままなので、それほどこの神をおまつりする神社は多くないと思ったのだが、そうでもないようである。自分でも少し調べてみたところ、英彦山神宮や太郎坊宮は山岳信仰との関係が深いようで、太陽の神の子=日子である天忍穂耳尊が山岳信仰とどのように結びつくのかということなど、さらに調べてみたいことは多い。が、まず天忍穂耳尊について調べてみよう。

 この神様がどのような方であるかは『古事記』と『日本書紀』では多少違った描き方がされているのだが、とりあえず、手元ですぐ見つかったのが『古事記』だけなので、『古事記』に従って書くことにする:
 イザナミノミコトを訪ねて黄泉の国に出かけたのちに、イザナキノミコトは九州に戻ってきてみそぎをする。すると、様々な神々が生まれ、最後に左の目を洗ったときに天照大神、右の眼を洗ったときに月読命、鼻を洗ったときにスサノヲノミコトが生まれる。イザナキノミコトは大変喜んで、「私は子を次々に生んで、最後に三柱の貴い子を得た」とおっしゃり、天照大神は高天原を、月読命には夜の世界を、スサノヲノミコトには海原を治めるように命じられた。
 天照大神と月読命はそれぞれ委任を受けた世界を治め始めたが、スサノヲノミコトはそのままイザナキノミコトのもとに留まって泣き叫んでいた。「その泣く状(さま)は、青山は枯山如(な)す泣き枯らし、河海は悉に泣き乾しき。」(『古事記(上)』、講談社学術文庫版、75ページ、そのはげしく泣く有様は、青々とした山が、枯れ木の山のようになるまで泣き枯らし、川や海の水は、すっかり泣き乾してしまうほどであった。) そのために災いを起こす悪神が騒ぎ出した。
 そこでイザナキノミコトがどういうわけでお前は泣きわめいているのかと尋ねられると、スサノヲは自分は亡き母のいる根の堅州国に行きたいと思って泣いているのだと答える。(スサノオは、イザナキとイザナミの間から生まれたのではなくて、イザナキがみそぎをした際に生まれたのだから、母をしたって泣き叫んでいるのは、理屈に合わない。) それでイザナキはひどく怒って、お前はこの国に住んではならないと仰せられ、ただちにスサノヲの命を追放してしまわれた。この後、イザナキは近江の多賀に鎮座された。

 そこでスサノヲノ命は天照大神に事情を説明してから、根の国に出かけようといって、天に上っていったが、その際に山や川がことごとく鳴動し、国土がすべて振動した。その様子を見て天照大神は、弟が私の国を奪おうとしてやってきたに違いないと仰せられ、武装して待ち受け、どういうわけで上ってきたのかと問いただす。スサノヲは、自分が母のところに行きたいと思って泣きわめていて、父親の怒りに触れて、これから母のところに行こうと思うが、その事情を説明にやってきたのだという。

 天照大神は弟神にどうやって自分の潔白を証明するつもりかと尋ねる。これに対してスサノヲは「それぞれ誓約(うけひ)」をして子どもを産みましょう」という。そこで天照大神は弟が見に帯びていた剣を3つに折って、水で清めた後、噛んで砕き、息を吐きだすと3柱の女神が現れた。タギリヒメの命(別名オキツシマヒメノ命)、イチキシマヒメノ命(別名サヨリビメノ命)、タキツヒメノ命である。(この三柱の女神は宗像神社の神々である。)
 スサノヲノ命は天照大神が髪と手に着けていた勾玉の玉の緒を受け取って、同じようにかみ砕いて、息を吹き出すと、マサカツアカツカチハヤヒアメノオシホノミミノ命、アメノホヒノ命、アマツヒコネノ命、イクツヒコネノ命、クマノクスビノ命の五柱の男神が生まれた。
 アマテラスは、この後で生まれた5柱の男神は、私の持ち物から生まれたので、私の子である。先に生まれた3柱の女神はあなたの持ち物から生まれたので、あなたの子ですと区別された。

 こうして「うけひ」の結果、スサノヲが嘘をついていたわけではないことが分かる。(勝ち負けの判定の解釈をめぐっては諸説あるようである。) とにかく、この「うけひ」で最初に生まれた(『日本書紀』の中には2番目とする説も記載されているようである)神様がアメノオシホノミミノ命である。

 これからいろいろな出来事が起きるのだが、スサノヲノ命は葦原中国に下ってヤマタノオロチを退治したのち、根の国に去ってゆく。その後を、スサノヲの子孫で出雲を拠点とする大国主命が少彦名の命と協力して国作りに励む。しかし、葦原中国はもともと天照大神の子孫が治めるべきであるということで、高天原と出雲との交渉が始まる。そこで再びアメノオシホノミミノ命たちの出番がありそうな形勢となる。さて、どうなるかというのはまたの機会に。

 なお、『古事記』ではイザナキは近江の多賀大社に鎮座されることになっているが、『日本書紀』では淡路島に鎮座されることになっているそうで、両者が同じ内容を伝えていないことに注目してほしい。イザナキは淡路島を中心として活動した海人たちの信じた神であるという説が有力であることはすでに述べた。スサノヲについてもある地方、集団の信じていた神であることに違いなく、日本の古代神話は、そういう様々な集団の神話が組み合わされて作り上げられているようである。だとすると、天忍穂耳命はどういう存在であるのか…と言うことを考えてみたいと思っているのである。 

モミの木

11月19日(土)雨、夜になってやむ。

 クリスマスまであと1か月以上あるというのに、クリスマス商戦が始まっている。昨日(18日)だったと思うが、横浜駅西口のJOINUSを歩いていたら、ドイツ民謡「モミの木」のメロディーが聞こえてきた。この歌はもともとクリスマスの歌であるから、聞こえてきても不思議はない。この歌というと思い出すことがいくつかある。

 中学・高校の6年間を過ごした学校は(外国人の先生が多い学校であったが)、ドイツ人の先生が3人もいらっしゃった。いや、私が中学に入学した時には4人だったのが、そのうち1人の先生が他の学校に移られたので3人になったのである。卒業後に知ったことだが、その3人のうち2人の先生は、ドイツにいらっしゃったときにヒトラー・ユーゲントと対立するカトリックの青年運動に参加されていたそうである。

 それで、専門家ではないから偉そうなことは言えないのだが、学校文化の中にドイツの青年運動の影響がかなり持ち込まれていたように思う。学校の創設当時は毎月遠足をしていたというのはどうもすごい話である。私の時代にはさすがにそういうことはなかったが、いろいろな息抜き場面があったことを懐かしく思い出す。学校で独自に作成した歌の本があり、遠足や海の家や山の家やその他の行事の際に歌う(ことを推奨される)歌が掲載されていた。その中にはドイツの青年運動の中で歌われていた歌がかなりあったようである。詳しく検討したわけではないが、ドイツの大学生の歌のCDを買ってきて聞いたことがあったが、知っている歌がほとんどなかった記憶があって、ということは我々が歌っていた(あるいは、歌わされた)歌は青年運動関係の歌だったようだと考えている次第である。そういう歌に日本語や英語の歌詞を付けて歌ったが、中にはドイツ語の歌詞がそのまま残っているものもあった。その1つが「モミの木(O Tannenbaum)」で、学芸会の際にこの歌を先輩方がドイツ語の歌詞で歌っているのを聞いたことがあるが、我々の学年は歌ったことがないはずである。高校時代に芸術の科目としては音楽を選択したが、イタリア語の歌は歌っても、ドイツ語の歌は歌わなかった。(もちろん、イタリア語を習っていたわけではない。)

 先輩方が「モミの木」をドイツ語の歌詞で歌ったのは、どなたかこの歌を教える先生がいらしたということであろう。ドイツ人の先生がいらっしゃったのだから、中学あるいは高校でドイツ語を勉強したことがあるかというと、そういうことは全くなかった。ドイツ語を教えるくらいならば、英語を余計に教えようというのが学校の方針であったように思う。ある先生は、ドイツ人といっても、アメリカの大学で、英語を母語としない外国人にどのように英語を教えるかということを専攻されていたのであるし、テレビの英会話の時間にゲストとして出演されたことがあるくらいで、ドイツ語は大学に入ってから勉強すればよいと考えられていたのであろう。
 
 これは別のドイツ人の先生の話であるが、日本の学校でよく歌われている「気のいいガチョウ」という歌に「スワビア民謡」と注記されているのはおかしい、「ドイツ民謡」とすべきであるといわれたことがあった。スワビア(Swabia)というのは、ドイツのシュヴァーベン(Schwaben)地方(現在のバーデン=ヴュルテンベルク州とバイエルン州の西部)のことを英語でこういうので、今、考えてみると、この歌を日本に紹介した人は、アメリカの歌の本からこの歌をとったからこうなったのであろう。アメリカにはドイツからの移住者が少なからずいたし(かのトランプ氏もドイツ系である)、ドイツの歌も入ってきたのであろう。

 ということで、学校文化におけるドイツ(の青年運動)の影響というのは、遠足と歌、山の家、あとはサッカーがその当時は強かったことなどであろうか。
 
 「モミの木」という歌には別の思い出がある。大学に進学してから、高安国世先生のドイツ語の時間でこの歌に出会った。先生が著者であるドイツ語の読本の中にこの歌が収められていて、授業中わざわざこの歌を歌ってくださった。ドイツ語はあまり熱心に勉強しなかったので、どうもそんなことしか授業中の思い出がないのは、困ったことである(同期会の時に、先生から発音を直されたという思い出を語っている友人がいたが、そういう記憶は全くないのである)。先生はついでに、この歌がメーデーの時などに歌われる「赤旗のうた」の原曲であるということにも言及された。

 調べてみると、この歌はアメリカでもクリスマスの歌として歌われているだけでなく、独自の歌詞をつけて、ニューヨーク州にあるコーネル大学(アイヴィー・リーグの一校)の校歌、メリーランド州の州歌(Maryland, O Maryland)、さらにアイオワ州の州歌になっているそうである。それだけ歌いやすい歌だということであろう。日本ではあまり歌われないが、メロディーはよく聞かれる歌になっている。

『太平記』(133)

11月18日(金)晴れ

 建武2年(1335)11月19日に朝敵追討の宣旨を賜って鎌倉へと攻め寄せる新田義貞の軍に対抗すべく、12月11日に足利尊氏と直義が出陣、翌日、箱根、竹ノ下一帯で官軍と激しい戦闘となった。義貞と直義が戦った箱根では、義貞軍が優勢であったが、尊良親王を大将とし、義貞の弟の脇屋義助を副将とする官軍の搦め手の軍勢が向かった竹ノ下では、尊氏の率いる大軍との戦いとなり、それまで官軍に属していた大友・塩冶が裏切ったこともあって、官軍は壊滅的な大敗を喫し、箱根からも脱走者が続出し、義貞は尾張まで退却せざるを得なかった。同じ時期に、四国、中国、北陸で尊氏・直義に呼応する武士たちが兵をあげ、各地で勢力を拡大したので、その知らせに驚いた朝廷は義貞を京都へ呼び戻した。

 建武3年(1336)の新年になったが、内裏では朝拝(元日に帝が臣下から祝賀を受ける儀式)も行われず、節会(元日に帝の隣席のもとで行われる宴)も行われなかった。京の白河(鴨川以東の地域)では家を壊して、その材木でいかだを組んで堀に入れ、財宝を積んで持ち運び、どうしようというあてもなく、ただ騒いでいた。

 そうこうするうちに、尊氏が80万騎の軍勢を率いて美濃、尾張に到着したという知らせが届く、その一方で四国の武士たちも近づいてくる、山陰道の朝敵も、ただ今、大江山(おいのやま=山城・丹波の国境にある大枝山、京都市西京区大江沓掛町)に差し掛かってきたなどといううわさが伝わり、地方から京都に出てきた軍勢の大部分が、あちこちに逃げ去ってしまったので、京都に残っている軍勢は1万騎もないと思えるほどであった。その残った軍勢も戦を前にして勇み立っている様子はない。どこそこへ出陣せよと命令を下しても、まったくいうことを聞こうとしない。そこで、軍勢を勇気づけるために「今度の戦いにおいて、忠あるものにはただちに恩賞が与えられるだろう」という張り紙を雑訴決断所に張り出した。これを見て、その箇条書きの奥に、礼によって落書きをしたものがいる。
 かくばかりたらさせ給ふ綸言の汗の如くになど流るらん
(第2分冊、404ページ、「綸言汗のごとし(帝の言は取り消せない)」というが、これほど人をだます綸言が、なぜ汗のようにたくさん出るのか。「たらす」には「だます」という意味と、汗などを垂らすという場合の意味とがあり、その両者を掛けている。)

 正月7日、義貞は内裏より退出して、軍勢の手分けを行った。琵琶湖の南端、瀬田側への注ぎ口である勢多(滋賀県大津市瀬田)には名和長年を大将として、出雲、伯耆、因幡3か国の武士たち2,000騎を付けて向かわせた。瀬田川の供御の瀬、かかや瀬の2か所に、大木を数千本流しかけて、大きな綱を張り、乱杭を引っ懸け引っ懸けつないだので、どのような水泳の名手、水辺での戦いの巧者でもその上を泳ぎ、下をくぐって渡ることは難しいと思われた。

 宇治へは楠正成を大将として、大和、河内、和泉、紀伊の国の武士たち5,000余騎を添えて向かわせた。宇治橋の橋板を4、5間(1間は約1.8メートル)外し、川の中に大きな石を積み上げ、逆茂木(とげのある木の枝で作った防御の策)を数多く立てて、東の岸を屏風のように切り取ったので、川の水は2つに分れて、急流となって流れるようになったので、その水勢は中国の龍門の3段の滝を思わせるものであった。敵に簡単には陣をとらせまいというので、宇治川の中州にあった橘の小島、槙島、西岸の平等院の付近を焼き払おうとしたのだが、折からの強風で宇治の平等院の仏閣、宝蔵がたちまちに焼け落ちてしまったのはあさましいことであった。
 宇治の平等院は藤原頼通が創建した寺院で、摂関時代の栄華の面影を伝えている。その宝蔵は酒呑童子の首が収められているというように伝説的な宝物の宝庫であったといわれる。したがって、ここで正成がそれを焼いてしまったのは、取り返しのない失策であったという認識が『太平記』の作者にはあったと思われる。

 山崎(京都府乙訓郡大山崎町)には義貞の弟である脇屋義助を大将として、公家の洞院公泰、文観僧正、竹ノ下で足利方に裏切った大友貞載の弟の千代松丸(氏泰)、宇都宮泰藤、海老名五郎左衛門尉、但馬の武士である長九郎左衛門尉以下、7,000余騎の兵を向かわせた。財(たから)寺から淀川の川端まで兵を塗り、堀を掘り、高櫓300か所ほどを築きならべて防備を固めて、堂々として立派に見えたが、主力となっているのが公家侍や文観の手下たちなので、この戦もうまくいくまいと(誰ともなしに)評判されていたのである。
 名和長年が守る瀬田や楠正成が守る宇治に比べて、軍勢が多いのは兵力がそろっておらず、その点が心配だったからであろう。脇屋義助は竹ノ下の戦いでも、皇族や公家とともに戦って(ご本人は剛勇なのだが、味方に足を引っ張られて)敗北しており、今回も同じような編成の軍勢を指揮することになり、どうも気の毒なことになりそうである。文観が多くの手下を集め、その手下たちが洛中で横暴をきわめて顰蹙を買っていたことは、12巻に記されていた。海老名五郎左衛門というのは、岩波文庫版の脚注では武蔵七党の中の横山党の武士ということであるが、神奈川県の海老名の出身であろう。横山党は神奈川県一帯に勢力を張っていたので、海老名にその一人がいても不思議はない。 財寺は京都府乙訓郡大山崎町の宝積寺(ほうしゃくじ、別名宝寺)で、後に、山崎の戦の際に羽柴秀吉がここに陣を構える。実は学生時代によく合宿所としてお邪魔したお寺である。

 桂川・宇治川・木津川の合流点近くの大渡には義貞自身が大将として赴き、一族の里見、鳥山、山名、田中、足利一族でなぜか義貞に従っている桃井、その他籠守沢(こもりざわ)、千葉、宇都宮、菊池、結城、池、風間、小国、河内の兵1万余騎を引き連れていた。岩波文庫版の脚注によると、この大部分が義貞とともに尊氏・直義追討のために関東に向かった武士たちである。大渡は交通の要所なので、橋がかけられていたが、ここでも橋板を3間落とし、橋の中央よりも東の方に垣のように盾を並べ、櫓を構えて支えた。厳重な陣容で、飛ぶ鳥もその上を超すことができないように思われた。
 義貞軍は橋の東の方に陣を構えているのである。

 一方、尊氏は80万余騎を率いて、正月7日、近江国伊岐洲(いきす)社(滋賀県草津市片岡町の印岐志呂神社)に山法師が2,000余騎で立て籠もっていたのを、一日一夜に攻め落として、8日には石清水八幡宮のある男山の麓に陣を構えた。
 ということは名和長年の守る瀬田の渡しのはるかに南を通って、京都市の南の方に進んだということであろうか。

 細川定禅は四国、中国地方の軍勢を率いて、正月2日に播磨国大蔵谷(兵庫県明石市大倉谷)に到着したところ、赤松円心の長男である赤丸範資(のりすけ)が備前の国に下って挙兵しようと、京都から逃げ下ってきたのに出会い、お互いに喜んで一緒になった。元弘3年に赤松軍が京都の六波羅勢を攻め滅ぼしためでたい先例があるからといって、赤松を先陣にして、合計してその勢2万3千余騎、正月8日の午刻(正午ごろ)に芥川の宿(大阪府高槻市芥川町)に陣をとる。

 また、山陰道から京都に迫ろうとしている久下弥三郎、波々伯部為光、酒井真信は但馬、丹後の軍勢と合流して6,000余騎で、二条師基が立て籠もっていた西山の峰堂(京都市西京区御陵峰ケ堂町にあった法華山寺)を攻め落とし、正月8日の夜半から大江山の峠でかがり火をたいた。

 京都市内には、様子を見て、劣勢になった方面を助けに行こうと、新田一族の30人、諸国の兵5,000余騎を残していたので、大江山の敵を追い払うべしということで、新田一族の江田行義を大将として、3,000余騎を丹波路に向かわせた。この軍勢は、正月8日に桂川を渡り、朝早いうちに大江山に押し寄せ、戦闘開始の遠矢を射たのちに、一斉に刀を抜いて攻め上っていったところ、武家型の先陣で戦っていた久下弥三郎の弟の五郎が戦死した。これを見て、後に続いていた武士たちは、馬に鞭を討って退却していったので、官軍は、少し勇猛心を取り戻した。

 尊氏・直義の率いる軍勢は80万余騎と号し、細川・赤松が2万3千、久下が6千ということだから、3万余騎に満たない官軍に勝ち目はないはずだが、東国での義貞と直義の戦いを見ればわかるように、数の多寡はあてにならない。実際に大江山の戦闘で久下の率いる軍勢は6千、江田行義の率いている兵の2倍はあるが、先陣の武将が戦死すると、後に続く武士たちは逃げてしまうというように、武家方の士気は決して高くないのである。それに指揮官の能力の問題もあって、官軍はまだまだ戦闘能力を失ってはいない。(そうはいっても、戦局が進むにつれて、この数の差が次第に影響力を増してくる。)

日記抄(11月11日~17日)

11月17日(木)晴れ、温暖

 11月11日から本日までの間に経験したこと、考えたことなど:
11月11日
 NHKラジオ「まいにちイタリア語」応用編『古代ローマ幻想散歩』は”La salute e le malattie"(健康と病)という話題を取り上げた。古代ローマには(いつの時代、どこでもそうであるように⁉)優秀な医者とそうでない医者がいた。
I medici più bravi erano quelli greci he avevano frequentato le scuole greche di medicina.
(最も優秀だったのはギリシャで医学校に通った、ギリシャ人の医師たちだった。)
C'erano anche delle persone che si improvvisavano medici, e questi ciarlatani spesso causavano la morte dei malati. Marziale è sarcastico su uno pseudo-chirurgo di nome Diaulo (Diaulus).
(場当たり的な医師もいて、このようないい加減な医師たちはしばしば病人の死を招いた。マルティアーリスはディアウルスという、えせ外科医について皮肉を書き残した。)
 この番組ではしばしばマルティアーリスが引き合いに出されてきた。ローマ白銀時代のエピグラム(寸鉄詩)詩人であるマルティアーリスは松本仁助・岡道男・中務哲郎編『ラテン文学を学ぶ人のために』(世界思想社、1992)の中で、担当した岩谷智によって「猥褻さにせよ、〔皇帝に対する〕追従にせよ、マルティアーリスは時代の流れの中に身を置き、そして時代をえぐるエピグラム詩人であったがゆえに、逆にその時代のあり方からどうしても逃れることができなかった」(234ページ)と批判的に論じられている。この番組で彼の詩を多く取り上げているのは、時代が近い(マルティアーリスは1世紀、この番組に登場する人々は2世紀に生活していたと想定されている)ことのためではないかと思われる。あるいは講師の1人であるマルコ・ビオンディさんがこの詩人が好きだということであろうか。なお、マルティアーリスのラテン語・日本語対訳の詩集が大学書林から刊行されていて、長いこと探しているのだが、まだ見つけていない。

11月12日
 ニッパツ三ツ沢球技場でJリーグ2部の第41節、横浜FC対ツエーゲン金沢の試合を観戦する。0-0の引き分けに終わった。ホーム最終試合であるために、終了後、サポーターの選ぶMVPの発表などのセレモニーが行われた。MVPは3位が大久保哲哉選手、2位が南選手、1位がイバ選手ということで、3人とも30代であるのが問題ではないかと思う。グランドにやってくるサポーターの少なさをはじめとして、言いたいことはいろいろあるが、とにかく、来年は若手の活躍で、さらに上を目指してほしいと思う。

11月13日
 アメリカの俳優であるロバート・ヴォーンさんの訃報を聞く。82歳。これで『荒野の7人』に7人として出演していた俳優は全員鬼籍に入ったそうで、時の流れを感じさせられる。『荒野の7人』は黒澤明の『七人の侍』を翻案したもので、7人の「侍」を演じていたのは、志村喬、加東大介、宮口精二、稲葉義男、千秋実、木村功、三船敏郎と全員列挙できるが、7人の「ガンマン」の方は多少あやしくなる。木村功の役と三船敏郎の役を『荒野』の方では、ホルスト・ブッフホルツがまとめて演じているので、新しく設定されたガンマンを演じていたのがロバート・ヴォーンで、その後、TVの『0011 ナポレオン・ソロ』のソロ役で人気を博した。そういえば、共演のデヴィッド・マッカラムさんはまだ活躍中である。さらにその後、『タワーリング・インフェルノ』で高層ビル建築を推進する上院議員の役を演じていたのを覚えている。ご冥福を祈る。

 昨日に引き続き、ニッパツ三ツ沢球技場に出かけ、第95回高校サッカー選手権の神奈川県予選の決勝戦、相洋高校対桐光学園の対戦を観戦する。準決勝の戦いぶりなどから見て、桐光優位と踏んでいたのだが、その予想がいい意味で裏切られた好試合であった。桐光のスピードと技を、相洋がしっかり受け止めて、時々カウンターを仕掛け、互角の展開のまま、双方無得点で延長戦に入り、延長後半も終わろうとするころに、桐光が1点をとって勝負に決着をつけた。相洋はおそらく監督のゲーム・プラン通りの試合運びであったのだが、1点が取れなかったのは残念であろう。

 NHKラジオ「攻略!英語リスニング」は”Voltaire"を取り上げた。
Defender of freedom of speech and freedom of religion, poet, playwright, author, philosopher, historian, polymath and a scarbrous wit, Voltaire was one of the foundational figures of the European Enlightenment -- a philosophical movement of the 18th century that advocacted the primacy of human reason and the ideals of liberty and progress.
(言論の自由と信仰の自由の擁護者であり、詩人、劇作家、作家、哲学者、歴史家、白学者、そしてきわどいウィットに富んだ人物。ヴォルテールはヨーロッパの啓蒙思想の礎を築いた人物の1人である――啓蒙思想とは、18世紀の思想運動で、人間の理性と自由と進歩の理念を擁護するものであった。)
 ヴォルテールはイエズス会の学校の出身者で、かくいう私もそうなので、いわば大先輩にあたる。デカルトとヴォルテールを生みだした精神的な伝統が自分の中に少しではあるかもしれないが、とにかく流れているのだ――と思いながら、毎日を過ごしているのである。

11月14日
 漫画家の高井研一郎さんが亡くなられたそうだ。九州の出身であるのに、なぜか石ノ森章太郎の主催する東日本漫画研究会に参加、赤塚不二夫さんの協力者としてギャグの開発に貢献されたことまではよく知っているのだが、独立して『総務部総務課山口六平太』などの作品を描いたということである。

11月15日
 東京大学が女子学生に家賃の援助を行うという記事が『朝日』の朝刊に出ていた。入試改革だけでなく、学生の経済的な条件に目を向けようという姿勢には拍手を送りたい。

 『週刊女性』11月29日・12月6日合併号の広告によると、石田純一さんが「僕は池上彰さんになりたい」と語っているようであるが、
 池上さんと肩を並べるだけの情報収集と分析の努力をしているのかどうかはあやしいと思う。

11月16日
 『朝日』の朝刊に「知床の遺跡から銅銭」という記事が掲載されていた。9世紀の≪オホーツク文化≫に属する遺跡の中から平安時代の政府が鋳造した銅銭が見つかったという。銅銭がどのような役割を果たしていたのかも興味深い問題である。

 『日経』の朝刊に14代350年続いている「加賀の御用釜師」と茶釜の話が出ていた。

 NHK「ラジオ英会話」では、アリゾナ州をRVで旅行している老夫婦がBronco Corralという名の観光客用のレストランに入り、料理を注文するという話が展開された。妻のシャーリーはbuffalo burgerを夫のハーヴィーはbarbecue rattlesnake with cactus fries (バーベキューのガラガラヘビにサボテンフライ)を注文する。corralというと思い出すのが、”O.K. Corral"であり、ガラガラヘビの料理というと思い出すのが、サム・ペッキンパー監督の映画『砂漠の流れ者』である。
 番組の後の方で披歴されたのだが、実はこれらの料理は講師の遠山顕さんが、実際にアリゾナ州で食べたものだそうである。

11月17日
 『朝日』の朝刊によるとオックスフォード辞典は、今年の単語として"post-truth"(世論形成において、客観的事実が、感情や個人的信念に訴えるものより影響力を持たない状況)を選んだという。

 同じく、トランプ新大統領がどのような科学政策をとるかに注目が集まっているかという記事も興味深かった。これまでのところ、あまり多くのことを語っていないのは、優先順位が低いからではないかというのだが、本当だとすれば困ったことだ。

 NHKラジオ「まいにちイタリア語」応用編「古代ローマ幻想散歩」では”Gli incendi e i vigili" (火事と消防士たち)という話題を取り上げた。Gli incendi erano molto frequenti a Roma e quello del 64 d.ç. è ritenuto il peggiore nella storia di Roma. (ローマでは火災が頻発したが、紀元64年のものがローマ史上最悪のものとされている。) Dopo l'incendio del 64, l'imperatore nerone ha cercato di rendere la città più sicura. (紀元64年の火災の後、皇帝ネロは街をより安全なものにしようと努めた。) 
 火事と喧嘩は江戸の華などといわれる1600年以上も昔の話である。 

橋本雅之『風土記 日本人の感覚を読む』

11月16日(水)曇り

 11月15日、橋本雅之『風土記』(角川選書)を読み終える。現存する5か国の『風土記』を丁寧に読み込んで、実証的に議論を展開している注目すべき書物である。この書物の目的について、著者は「本書は、古代の各地に残るさまざまな伝承を伝える『風土記』から見えてくる歴史と文化の広がりに目を向けて、古代史研究者や古代文学研究者の間でも、いまだに根強くある記紀を中心とした『記紀史観』とでも評すべき歴史観とは異なる、『風土記』から見た古代史、いわば『風土記史観』を通してみた日本文化論の構築を目指すものである」(7ページ)と書いている。この目的設定や、「記紀史観」というとらえ方には多少の疑問は残るものの、『風土記』のテキストを読み込むことによって、古代のこれまでは見えてこなかった姿を掘り起こそうという意欲は評価に値する。

 この書物は次のように構成されている:
はじめに
第1章  「風土記」とはなにか
第2章  「風土記の時間」
 序説
 第1節 「風土記」の時間認識――「古」「昔」「今」
 第2節 神の歴史――オオナムチ神話の国作り――
 第3節 天皇の歴史――風土記の巡行伝説――
 第4節 祖先の歴史――「祖」「初祖」「遠祖」「始祖」「上祖」の世界――
第3章 「風土記」の空間
 序説
 第1節 神話の空間認識
 第2節 里長の役割と「里の伝承」
 第3節 巡行伝承の空間的再配置
第4章 「風土記」から見た日本文化
 序説
 第1節 松になった男女の「罪」と「恥」
 第2節 天女の追放
終章 「風土記史観」で見た古代の日本
おわりに

 第1章では、奈良時代に編纂された「風土記」とはどういう文書であるかということを概観する。『続日本紀』には和銅6(713)年に大和朝廷が地方の国々に対して発した命令が記載されており、これが「風土記」の編纂を指示したものと考えられている。そこで求められている報告事項は
 第1項目 諸国の郡および郷の地名に好き字を付けること→行政地名の確定
 第2項目 郡内の鉱物植物動物のリストを挙げること。  →生産経済の把握
 第3項目 地味の肥沃状態を記すこと。           →農業耕地の把握
 第4項目 山川原野の地名由来を報告すること。     →自然地理の把握
 第5項目 故老相伝の出来事を報告すること。       →各地歴史の把握
ということであり、地方の行政や経済政策の運営を考える上での基本情報を収集することを目的としていたと考えられる。

 この官命に基づいて朝廷に提出されたと考えらえる「風土記」の中で、現在まとまった形で残っているのは『播磨国風土記』『常陸国風土記』『出雲国風土記』『肥前国風土記』『豊後国風土記」の5か国の風土記であり、その他は散逸してしまっているが、鎌倉時代に成立した『万葉集註釈』や『釈日本紀』などに、上記以外の「風土記」が断片的に引用されており、そのような逸文からも古代の各地についての多くの情報を知ることができる。

 ところで現存する5か国の「風土記」を読んでみると、上記の5項目をすべてもれなく記述しているわけではないが、その中で、5か国の「風土記」がそろって記述に力を入れているのは、第4項目の地名の由来と、第5項目に挙げられた古老の伝承である。地名起源説話は「風土記」らしい特色を示すものであり、これらの説話と古老の伝承の中には、記紀には記されていない貴重な神話や伝承が残されている。例えば、皇祖神である天照大神は現存する「風土記」の中では『播磨国風土記』に1度登場するだけで、しかもその内容は記紀に記されたものとは大きく異なっている。また『古事記』が伝える高天原についても、『常陸国風土記』香島群の中に1例しか記載が認められないという。

 『出雲国風土記』には和銅官命の要求項目についてそれぞれ詳細な記録が残されているが、植物では生活に必要なものが取り上げられている一方で、桜と梅は全く登場していない。これは『万葉集』とは対照的である。そしてこのことの中に「風土記」があくまで行政文書として編纂されたことが読み取れるという。

 「風土記」の内容は多彩・多様であり、その一方で断片的な神話や伝承の寄せ集めになって下り、一貫性や統一性が見られない。しかし「記紀」の統一性と、「風土記」の多様性を見渡すことによって全体として古代日本の歴史が見えてくるのではないかと著者は論じる。

 第1章の最後に現存する『播磨国風土記』、『常陸国風土記』、『出雲国風土記』、九州風土記(『豊後国風土記』『肥前国風土記』)の成立の経緯や内容・特色などについて概観されている。九州については2種類の「風土記」が編纂されたらしいと考えられていること、それぞれの内容が『日本書紀』との関連性を示していることも触れられている。このほか、風土記逸文の中には浦島伝説、羽衣伝説をはじめ、記紀には残っていない独自の神話・伝説が記されていることも指摘されている。

 ここまでは「記紀史観」批判の部分や『風土記』研究への著者の情熱を吐露した部分は別とすると、通説の整理という感が強いが、第2章以下になると、著者の独自の見解が強く打ち出されることになる。特に、最近出された三浦佑之さんの「風土記」の研究に異論を唱えているところもあって、それぞれの主張についての詳しい検討が必要になるので、それは次回以降のお楽しみということにして、今回はここまでで紹介を打ち切ることにしたい。 

ダンテ・アリギエリ『神曲 天国篇』(6-2)

11月15日(火)曇り、時々晴れ

 ベアトリーチェに導かれて地球から天空へと旅立ったダンテは月天で誓願を果たさなかった人々の魂に出会ったのち、水星天に達する。ここで彼を迎えた魂は、東ローマ帝国の全盛期の皇帝であったユスティニアヌスであると名乗り、神が地上に下した鷲に例えられる全世界の統治権である正義がどのような変遷をたどってローマ皇帝の地位と結びついたかを語った。ユスティニアヌスの話は続く。

 カエサルの偉業を継承したアウグストゥス(この名前は本文中には登場しない)の時代に平和が実現したことに続いて、安定した統治で全世界を平和にした(と、ダンテは考えているが、ローマ帝国の版図は広大ではあるとはいえ、地球上のごくわずかな部分でしかない)ことよりも驚くべきこととして、第2代の皇帝(この叙事詩の中では「第三のカエサル」と呼ばれている)ティベリウスの時代のキリストの殉教が語られる。
なぜなら余に啓示を吹き込む生ける正義は、
余の言うその者の手の中にいた鷲に、
ご自身の怒りへ復讐する誉れを与えたからだ。
(98ページ) キリストの磔刑は、神の正義を地上で行うローマ皇帝がアダム以来の原罪を罰したものとされている。(ローマ帝国が神の正義を行ったのだという主張であるが、キリストの裁判⇒処刑は不当なものだったという考えもできる。)

 ユスティニアヌスはさらに続けて、次のように言う。
ここで今、余が汝へと説くところに驚嘆するがよい。
鷲はその後でティトゥス帝とともに進んだのだ、
原初の罪に対してなされた復讐へのさらなる復讐をとげるために。
(同上) ティトゥス帝(在位79-81)がその即位以前の70年にエルサレムを攻略・破壊したことを、キリストを殺害したユダヤ人への神の罰だと考えている。(キリストの殺害についてのローマの責任は不問にするどころか、正義を実現したとたたえ、ユダヤ人だけを悪者にしているのはどうもおかしい。)

 その後、キリスト教の迫害と、その後の国教化という歴史が続くのだが、そのあたりは省かれている。そしてキリスト教がヨーロッパを支配するようになった中世になってからの教会とローマ帝国の関係が述べられ、ローマ皇帝冠を与えられたカール大帝が教会を助けた事例が述べられる:
そしてランゴバルト族の牙が
聖なる教会を噛んだ時には、鷲の翼の下で
カール大帝が勝利し、教会を救った。
(98-99ページ)

 このようにローマ皇帝権と教会の関係を歴史的にたどってきたのは、その当時のヨーロッパ、特にイタリアにおける皇帝党と教皇党の党争が地上世界を混乱に陥れているからである。
一方の輩は黄金の百合を万民の旗印に対して
逆らわせ、もう一方の輩は党派のためにその旗印を私物化し、
ために、どちらの者どもがより誤っているか見分けることは難しい。
(99ページ) 「黄金の百合」はフランス王国で、教皇党はフランス王国をけしかけて神聖ローマ皇帝に逆らわせ、皇帝党は自分たちの利害のためだけに皇帝を担いでいるという。

 ユスティニアヌスは地上の混乱とその原因について語ったのちに、水星天にいる魂たちの性質について説明する:
この小さな星は
誉れある名声を獲得すべく活動した
善き霊達でその身を飾っている。

地上での名声に願望が執着する時、
それはこのために逸脱するがゆえ、当然ながら真の愛の光線が
輝きを減じて上方に上ることは避け得ぬ。
(100-101ページ) 水星の魂たちは地上の栄光を追い求めたため、その分だけ神への思いが減り、下から2番目の階層にいることになった。水星は神を暗示する太陽の光によって翳らされている⇒地上の栄光は神の栄光の前ではかすんでしまうというのである。

 最後にユスティニアヌスは、彼と同じく水星天にいるダンテよりも少し前の時代に活躍した南欧の武人で政治家のロミュー・ド・ヴィルヌーヴについて語るが、ここで語られている彼の運命は歴史的な事実と違い、おそらくはダンテ自身の人生と精神とが反映されているのではないかと翻訳・解説者である原さんは注記している。

 この第6歌は、ダンテの政治・国家と宗教・教会との関係についての思想がユスティニアヌスの発言に即して語られており、興味深い。ここで取り上げられた問題は、続く第7歌でさらに掘り下げられることになる。

ジェイン・オースティン『マンスフィールド・パーク』(7)

11月14日(月)曇り、夕方から雨が降り出す

39章までのあらすじ(全48章)
 10歳の時に義理の伯父である従男爵サー・トーマス・バートラムの屋敷=マンスフィールド・パークに引き取られたファニーは、18歳の美しい娘に成長した。彼女は子どものころから自分を庇護してくれたバートラム家の次男エドマンドに思いを寄せている。エドマンドは牧師を目指すしっかりとした青年であるが、マンスフィールド・パークの教区牧師の夫人の異父妹である都会的な美人のメアリー・クロフォードに惹かれ、結婚を申し込もうとする。メアリーはエドマンドが気に入ってはいるが、彼が牧師よりももっと高収入の職に就くことを望んでいる。他方、メアリーの兄のヘンリーは、以前ファニーの従姉であるマライアとジュリアの心をもてあそんだことがあるプレイボーイであるが、今度はファニーに興味を持ち、次第にその興味が愛情に変わって、結婚を申し込むまでになった。しかし、ファニーは性格や境遇の違いを理由に、ヘンリーのプロポーズを受け入れない。ファニーの兄のウィリアムは海軍の見習士官であったが、ヘンリーの尽力で少尉に昇進する。ファニーとヘンリーの結婚を望むサー・トーマスは、ウィリアムの昇進を機会に、2か月ほどファニーをポーツマスの実家に戻すことにする。ファニーはウィリアムとポーツマスに向かうが、そこで目にした実家の状態はマンスフィールドの上品さ、礼儀正しさ、規則正しさ、調和、平和と静けさとはまったく逆であった。

第40章
 ファニーはメアリ・クロフォードからの手紙を受け取り、ヘンリーがノーフォークに出かけていること、ロンドンによる従姉のマライア(ラッシュワース夫人)とジュリアの様子を知らされる。2人はヘンリーがファニーと結婚しようとしていることをほのめかされて、冷静さを失ったようだという。ファニーはエドマンドがまだロンドンに来ていないことを知る。(37章でエドマンドがロンドンに出かけ、そこでメアリーに求婚するつもりでいることを、ファニーは察知している。) ポーツマスの実家に戻ってきて孤独であったファニーであるが、妹のスーザンが自分の家の状態を何とかして改善しようと思っていることに気付き、彼女の気持ちに寄り添おうとするようになった。スーザンが妹の形見として使っていたナイフを末娘のベッツィ―が使おうとしていつも喧嘩していたのを、ベッツィ―にナイフを買ってやって解決する。ファニーはスーザンに読書の喜びを教え、いろいろとおしゃべりをすることで、彼女をいい方向に導こうとする。

第41章
 ファニーがポーツマスの実家に戻ってから4週間ほどたったが、エドマンドからは何の連絡もない。その一方、彼女の実家にヘンリー・クロフォードが訪ねてくる。彼はメアリーの手紙にあったように、自分の土地のあるノーフォークに行っていたのだが、ロンドンを経由してポーツマスにやってきた。メアリーとは短い時間しか会っておらず、エドマンドはロンドンに来ているらしいが、まだ会っていないという。そして散歩に出かけようというので、ファニーとスーザンは彼と一緒に外出する。散歩の途中で彼らはスーザンの父に出会うが、父親は意外に礼儀正しく振舞い、一行は海軍工廠に出かけることになる。海軍工廠でヘンリーは、自分の小作人が土地管理人のおかげで苦境に陥っているのを助けた話をする。ファニーはヘンリーにこれまでとは違って、多少の行為を抱くようになったが、彼の求愛を受け入れるつもりにはなれない。

第42章
 翌日、日曜日なのでファニーの一家が教会に行こうとしていると、またヘンリーがやってきて、一緒に教会に出かけることになった。ファニーの母は礼拝後は、城壁の上の散歩道を歩く習慣であったので、一行は散歩道を歩くことになり、ヘンリーはファニーとスーザンに同行することになった。ヘンリーはファニーの体力が衰えていることに気付き、そろそろマンスフィールドに帰ったほうがよいのではないかと思う。そしてノーフォークで一緒に暮らすことへの期待をにじませながら、わかれる。ファニーはヘンリーが彼女のために自分を変えようとしていることに気付いているが、だからこそ離れていってほしいとも思う。

第43章
 2日後、ファニーはメアリーからの手紙を受け取り、ヘンリーがロンドンに戻って、ポーツマスでの出来事をメアリーに話したことを知る。メアリーは手紙の中で、マライアが初めてロンドンで開いたパーティーが成功したこと、エドマンドにあったことも知らせ、さらに追伸で、ファニーがエヴァリンガム(ノーフォークにあるヘンリーの領地)を訪問するように勧め、さらにその前に自分の家でパーティーがあるので、ヘンリーの出発はその分遅れると書いていた。ファニーは手紙の文面から、エドマンドとメアリーの間にまだ決定的なことが起きていないことを読み取った。そしてエドマンドからの手紙が届くことを期待したりして、落ち着かない気分になった。ヘンリーの出現と、メアリーの手紙でマンスフィールド・パークのことが身近に感じられ、スーザンと話しながら、この妹もマンスフィールド・パークに連れていけないかと思うようになった。

第44章
 ファニーのもとに待ち望んでいたエドマンドからの手紙が届く。彼はロンドンからではなく、マンスフィールド・パークから手紙を発信していた。彼は結局、メアリーに求婚しないままロンドンから戻ってきたのであった。牧師としての彼の収入で上流階級の社交生活を送ることはできないのだが、メアリーは自分と仲の良い女性たちの影響で裕福な生活への思いを捨てることができないようである。ヘンリーはファニーへの思いを変えておらず、マライア(ラッシュワース夫人)と会った際には彼女はヘンリーに冷たい態度をとっていた。マライアはラッシュワース氏とうまくやっているようであるが、ラッシュワース家をそれほど訪問しているわけではない。ファニーがいないので、マンスフィールドは生気が失われている。
 ファニーはマンスフィールド・パークへの帰心を募らせる。エドマンドの手紙を受け取った数日後、彼女は伯母であるバートラム夫人から手紙を受け取った。エドマンドの兄(バートラム家の長男)であるトムが、ニューマーケットで落馬し、けがの手当てもせずに大酒を飲んだために高熱を発し、そのまま動くことができずに、重病を自覚してマンスフィールド・パークに連絡してきた。そこでエドマンドが迎えに出かけ、夫人が手紙を書いている最中に2人は戻ってきた。無理に急いで帰宅したため、その後トムは生死の境をさまよったらしい。夫人からの手紙を読みながら、「ファニーはトムに対して特別な愛情を持っているわけではないが、生まれつき心がやさしいので、絶対にトムが助かってほしいと、心から祈らずにはいられなかった。これまでトムが、(どう見ても)人の役には立たない自分勝手な人生を送ってきたことを思うと、ファニーは純粋な道徳心ゆえに、ますますトムの身を心配せずにはいられなかった。」(658ページ)

 トムはどうなるのか、エドマンドはメアリーに求婚し、その求婚は受け入れられるのか、マライアはヘンリーに冷たい態度をとり続けるのか、そしてファニーはヘンリーの求婚を受け入れるのか、それとも…というところで、この物語の紹介を終えることにする。
 この物語の背景をなしているのは「摂政時代」(the Regency)と呼ばれる時代の雰囲気への批判である。GeorgeⅢ世の治世の末期に国王が病気になり、後にGeorgeⅣ世となる王太子が摂政を務めた時代(1811-20)、謹厳実直で知られた父王とは違って、希代の放蕩者として知られた摂政のおかげで、英国社会の空気は一変、不道徳で享楽的なものとなった。穏やかな皮肉とユーモアを愛するオースティンが、道徳的な女性をヒロインとする(『高慢と偏見』ほどの玉の輿に乗るわけではないが)シンデレラ的な物語を描いたのは、このような時代の空気に対する批判の気持ちからであったと翻訳者である中野康司さんは解説している。ここではロンドンという都市の悪と、マンスフィールド・パークのような農村の「善」が対照的に描かれている。オースティンとは別の時代に生きている我々は、都市と農村の問題をもっと別の角度から見直すことが必要であるし、この小説に対して自分たちなりの新しい意味付けを行うことができるはずである。

 なお、摂政で思い出したが、ロンドンのリージェンツ・パーク、リージェント・ストリートなど「リージェント」がつくものは、たいていジョージⅣ世の計画によってつくられたものであると鈴木博之『ロンドン――地主と都市デザイン』(ちくま新書)に記されている。この本によると、もともとリージェント・ストリートを境として、ロンドンはウェスト・エンドとイースト・エンドに分れていたというが、現在では、もっと東のほうでもウェスト・エンドであると自称している。 
 

『太平記』(132)

11月13日(日)晴れ、気温上昇

 建武2年(1335)11月19日、新田義貞は朝敵追討の宣旨を賜り、東海道を下る大手、東山道を下る搦め手の軍勢を率いて、鎌倉に向かった。鎌倉では直義が兄尊氏に出陣を促したが、尊氏は天皇に恭順の意を示すべきだとして取り合わなかった。23日、直義は伯父である上杉憲房らの勧めで出陣したが、27日、三河国矢矧の合戦に敗れ、鷺坂、手越でも敗退した。鎌倉に帰った直義は、尊氏に偽の綸旨を見せて出家を思いとどまらせた。12月11日、尊氏と直義は出陣し、翌日、箱根、竹ノ下一帯で官軍と激しい戦闘となった。箱根では義貞軍が直義の軍勢に対して優勢だったが、竹ノ下の戦闘で大友、塩冶が尊氏方に寝返り、官軍は総崩れとなって、尾張国まで退却した。このような情勢の中で12月10日、四国から足利一族の細川定禅が旗を挙げて、四国の宮方を打ち破り、瀬戸内海を渡って、備前に侵攻したという知らせ、11日には備前から土地の武士たちが反乱を起こしたという知らせが届いた。

 2日間続けて急な知らせが届いたことで、後醍醐天皇は驚かれて、どうすればよいかと落ち着かないご様子になったのであるが、さらに翌日の午刻(正午頃)に丹波の国からまた早馬による知らせが届いた。先月の19日に丹波の武士である久下時重(第9巻で尊氏が丹波・篠村で討幕の兵をあげた際に一番に駆け付けた武士)が波々伯部(ほうかべ)次郎左衛門、中沢三郎入道ら丹波篠山に住む武士たちと相談して、丹波の守護を攻め、急なことで備えが十分でなかったために、守護の軍勢は摂津まで退却した。それでもまだ、新しい加勢が得られれば反撃できると、赤松入道(円心)に使者を送って味方になるように頼んだが、円心は叛意を抱いているために、返答もよこさないどころか、尊氏の命令書があるといって、国中の武士たちを仲間に引き入れようと画策しているという噂である。それだけでなく、但馬、丹後、丹波の朝敵たちは、備前、備中の軍勢を待って、同時に山陰、山陽の両道から京都に攻め寄せようと計画しているとの情報もある。御用心あるべきであるという。

 さらにその日の酉刻(午後6時ごろ)に能登国石動山(加賀・能登・越中の山岳信仰の中心であった天平寺、現在は廃寺)の衆徒(僧兵)の方から飛脚をもって伝えてきたのは、「11月27日に越中国の守護である普門(井上)利清が越中の武士である井口、野尻、波多野らとともに、尊氏の命令書があるといって能登と越中の武士たちを集め、反逆を企てた。このため国司である中院貞清は、要害の地である石動山を選んで立て籠もっていたところ、今月12日に謀叛の者たちが大軍となって押し寄せてきたので、石動山の衆徒たちは国司の軍勢に味方して必死で戦ったのだが、第一陣が敵勢を防ぐことができずに、貞清朝臣は戦死してしまった。寺院はことごとく兵火のために焼け落ちてしまった。これよりいよいよ反乱は勢いを増し、京都に攻め上ろうとしている。急ぎ、加勢を送ってほしいという。

 これだけで終わらず、加賀では富樫高家、越前では足利一族の斯波高経の配下の武士たち、伊予の河野対馬守(通治、六波羅の攻防戦で北条方の武士として活躍していたが、生き延びていた)、長門では守護の厚東(こうとう)、安芸の熊谷(源平の合戦で活躍した熊谷次郎直実の子孫)、周防に大内弘幸とその一族、備後に江田、弘沢、宮、三善、出雲に富田、伯耆に波多野、因幡に矢部、小幡、このほか日本全国から反乱がおきたという情報が伝わり、後醍醐天皇をはじめとして公家や彼らに仕える寿司たちは、一人残らず肝を冷やしたのであった。

 そのころ、何者かが、内裏正殿の紫宸殿の正面にある内裏内郭の承明門(流布本では大内裏の東面北端の陽明門)に一首の狂歌を書き付けた。
 賢王の横言になる世の中は上を下にぞ返したりける
(第2分冊、401ページ、賢王が道理にもとる勝手な言を吐く世の中は、上を下にひっくり返す混乱の世となった。賢王を上下ひっくり返すとオウケン(横言)となるという洒落)

 四方八方から朝敵が蜂起するという知らせが届き、事態は急を告げてきたので、引田九郎という武士が勅使となって新田義貞のもとに向かった。義貞は尊氏・直義の軍勢が上洛するのを防ごうと尾張に留まっていたのである。事ここに及んでは、都を防衛するために戻るべしと伝えることになった。引田九郎は出雲の塩冶高貞から後醍醐天皇に献上されていた駿馬(第13巻に登場していた)に乗って、早馬で使いに出た。この馬に乗ると4,5日かかる行程を1日のうちに往復できるといわれていた。馬に鞭を当てて走ると、まさしく思った通り、12月19日の辰刻(午前8時ごろ)に経を出発して、その日の午刻(正午)に近江国愛智川(滋賀県愛知郡愛荘町)の宿に到着した。ところが、この宿で、駿馬は様子がおかしくなり、そのまますぐに死んでしまった。こんなことが起きてしまうと、こうなるだろうという前兆として、前もってこの馬が出現したのだと思われてきた。いまさらながら、万里小路中納言藤房卿が、天皇に諫言として、「天馬が必要になる場合を考えますと、帝への謀叛が起きた時に、遠くの地方にその急を告げるときです。泰平の朝廷において、反乱がおきたときの準備となるものが現れるというのは、不吉な前兆ではないでしょうか」と申し上げたのは、こういうことを予測されていたのかと思い当たるのであった。

 そうこうするうちに、引田は予備の馬に乗って、時間をかけて尾張の国に到着し、天皇のご命令の趣旨を義貞に伝えた。「そういうことであれば、まず京都へ引き返して、宇治橋を支えて味方の軍勢に合戦をさせよう」と上洛することにしたのである。

 情勢は急変してきた。後醍醐天皇が尊氏討伐を決心されたのは、護良親王殺害の件(これは、尊氏ではなくて直義が命令したのであり、親王を遠ざけたことについては天皇にも責任があるはずである)と、全国に将軍の御教書(命令書)を発行して武士たちを動員しようとしたことのためである。これら2つの理由の中では、あとの方が大きかったように思われる。しかし、討伐軍が派遣されるという情報が届く中で、尊氏は両方とも自分の関知しないことであると取り合わなかったと記されていた。とは言うものの、これまでの経緯を見ると、御教書は各地の武士たちに確実に届き、そして彼らは動き始めているのである。この間の事情が現代の歴史研究者によってどのように整理されているかというと、森茂暁さんが『足利直義』(角川選書)で書かれていることがわかりやすい。諸国の武士たちが「御教書」と受け取った文書は、軍勢督促状であり、その発行者ははじめのうちは直義、12月13日以降になって尊氏であるという。「逡巡する尊氏を後目に、直義は素早く軍事的な対応策をとっている」(『足利直義』、43-4ページ)。このように事態が急変する中では、決断が早い方が(その決断の内容にもよるが)有利である。後醍醐天皇から新田義貞のもとに向かった使者が途中で駿馬の急死という事態に会って遅れたのは、その意味でも不吉に思われる。

内田洋子『皿の中に、イタリア』

11月12日(土)晴れ、気温上昇

 11月10日、内田洋子『皿の中に、イタリア』(講談社文庫)を読み終える。題名の通り、イタリアの食生活について綴った本であり、食生活の様々な場面で出会った人々との交友録でもある。
 食べて、暮らす。
 日常の断片を、パンのかけらや肉片、野菜の切り口に見る。
 何よりのごちそうは、かみ応えのある仲間なのだ。
(360ページ)と、「あとがき」で内田さんは書いている。
 
 イタリアは個性の強い地方の集合体であり、ここではそういうイタリアのごく一部――内田さんが現在、住んでいるロンバルディア、かつて住んでいたリグリアという北イタリアの2州と、しばしば出かけたサルデーニャ、それにナポリを中心とするカンパーニャ州という20州のうちの4州(11月7日付の当ブログで書いたように、南部のカラブリア州から北部に移住した人々の話も出てくる)での経験だけが取り上げられているので、これをもってイタリアのすべてが語られているというのは早合点もいいところなのだろうが、取り上げた地方の個性はしっかりととらえられているように思われる(自分が行ったことがないから本当のところはわからない)。

 この書物の「解説」で福原義春さん(資生堂名誉会長)は次のように書いている。
「内田洋子さんは不思議な人だ。
 イタリアとの仕事を始めてから、今年(2016)で38年だそうだ。日本の大学在学中に、単身イタリアに渡ってナポリへ留学、その後もずっと組織に所属せず一匹狼を貫いてこられた。日伊両国の関係性に着目し、イタリアのニュースソースと日本の関心事を結びつけ、独自に集めたイタリアの情報を日本のマスコミに売り込む通信社をつくったのもすごいが、カプリやイスキアやサルデーニャのような島をはじめ、いろんなところに住み、75年前に船大工が手作りした古い木造帆船を買って、6年間も船上生活を送られたこともあるという。通信社に必要な、急を要する連絡などどうしていたのだろう。」(362ページ)
 6年間の船上生活の話は、「船乗りの知恵」というこの本の中ほど(182-199ページ)に収められているエッセーで語られているのだが、サルデーニャ出身の船乗りとの出会いに、マグロやオリーブ油の話がまぶされている。人と、食べ物は分けて考えられないというのが内田さんの考えのようだ。

 内田さんが現在の本拠としているのはミラノであり、住んでいるのは運河地区である。ミラノというと、須賀敦子が描いた霧を思い出す。霧の主要な発生源が運河であるわけだが、その運河について、内田さんは次のように書いている:
「この運河は、町の中央に聖堂を建てるにあたり、レオナルド・ダ・ヴィンチが内地の運輸の不便を解消しよう、と考案して12世紀以来に掘られた人口の川である。内陸部にあるミラノには、他所からの訪問者を迎える表玄関がなかった。ところが運河が引かれ船着き場ができて、ミラノに<港>が誕生した。」(95ページ) 須賀さんの抒情詩的な霧の描き方に対して、内田さんは運河について散文的な説明を展開する。(もっとも、レオナルドがミラノで活動したのは16世紀であり、運河についての内田さんの説明はそのままうのみにできないところがありそうである。) 両者ともにさまざまに展開されるイタリアの個性のある部分を切り取っているのだが、この辺が両者の個性の違いであろうか。須賀さんがヴェネツィアやトリエステなど、東の方の都市に興味を寄せたのに対して、内田さんは西の方に歓心を抱いているようにも思われる。

 散文的と書いたが、食べ物に寄せて喜怒哀楽さまざまな人間の感情が書き留められている。日常的なありふれた料理の話が多く、魚料理の話が比較的多いが、肉料理も取り上げられるし、パスタやピッツァ、オリーブやワインだけでなく、パンや水にも出番が用意されている。生きる喜びを実感させるような味わいのエッセーがあるかと思うと、「遠くに立ち上る陽炎のようで、かみ締めても食感は素っ気なく、ほろ苦く、そして固くて、石をかじるようだった」(287ページ)と結ばれているエッセーもある。が、一番印象に残るのは「母の味」というエッセーに描き出された、近所のバールのデリアという名の初老の女店員がつくる各地の郷土料理を挟み込んだパニーニの話である。毎日、パンも違うし、中身も違っている。「デリアは、常連たちの故郷と懐かしい味を知っている。皆の母の味が、このバールにあるのだ。」(144ページ) イタリアの食生活と人間模様の多様性と、その中で輝く個性が、それらの一端だけかもしれないが生き生きと描かれている書物である。

〔昨日(11月12日)、横浜FCのホーム最終戦を見に出かけたのだが、不完全燃焼という気分が強く、表だけでなく、帰宅後も意地汚く酒を飲んでいるうちに寝てしまい、原稿が書けなかった。本日も、予告通り、高校サッカーの神奈川県の決勝戦、桐光学園と相洋高校の対戦を見に出かけたのだが、こちらは接戦の末に延長後半の終わり近くに決勝点が入るという 好ゲームで、まだその余韻に浸っているところである。〕

コンサートの思い出――りりィさんを偲んで

11月11日(金)雨が降ったりやんだり

コンサートの思い出――りりィさんを偲んで

夏の闇の中で
明るく照らされている
野外音楽堂のステージで
あなたが歌っているのを聞いた
音楽堂は満員で
遠くからあなたの姿を見ていた

下田逸郎さんと
遠藤賢司さんのステージが続いて
遠藤さんが盛り上げた後に
あなたが出てきた

ちょうど「私は泣いています」がヒットしていた時で
いつこの歌が歌われるのかと思っていたら
客席で赤ん坊が泣く声が聞こえた時に
次にこの歌を歌うといったので、
拍手が起こった
歌う前から拍手が起こってくらいだから
コンサートは大成功であった

もう40年以上昔の話だ

秋から冬へと移り変わる時期に
ぐずぐずと降り続けている雨の中で
あなたの訃報を聞いた
あなたが私よりも年下であることを知り
まだ未来が残されていたはずだったと残念に思った
そしてもっともっとたくさんの未来が
あった時代――あなたのコンサートを聞いたころの思い出を
いろいろと探った

私が描いた似顔絵を
ちっとも似ていないじゃない
りりィじゃなくて、私に似ている…
といった女性がいたが
どうしているのかなと
関係があるようなないような話を考えたりした

人生は長く
起伏に満ちている
あの夏の闇の中の
照らされたステージのような
場面に何度出会うことだろうか

〔本日=11月11日朝、歌手で女優のりりィさんが亡くなられたというニュースが届いた。たぶん1974年のことだったと思うが、彼女のコンサートを聞きに出かけたことがある。なぜ出かけたのか、本当の理由となっているものは思い出せないが、出演作である大島渚監督の映画『夏の妹』を見ていたことも影響したのだと思う。会場であった京都の円山野外音楽堂は、学生時代によくデモ行進の後の集会でなじみのある場所だったが、それとは別の――ただし若者が多いという点が共通した――集会の熱気を感じた。あまりコンサートには出かけないので、かなり詳しく記憶が残っている。りりィさんのご冥福を心からお祈りする。〕

日記抄(11月4日~10日)

11月10日(木)曇り

 木枯らしが吹き、次第に冬が近づいてきていることを感じさせる昨今であるが、表をシャツ姿で歩いている人を見かけることもある。人それぞれである。

 11月4日から本日までの間に経験したこと、考えたこと、その前に前回書き落としたことなど:
 NHK「ラジオ英会話」は講師の遠山顕さんが体調を崩したとのことで(早期の回復を祈る)、予定していた”Harvey and Shirley Downsize"の放送をやめて、同じHarveyとShirleyの夫婦が登場する2014年7月の”Arizona Adventure"を再放送している。ハーヴィーは妻のシャーリーとともに、アリゾナ州のセドナへと退職記念の旅に出るが、悪天候のため飛行機が予定していたフェニックスではなくトゥーソンに着陸することになるなど、出だしから順調とはいえない。トゥーソンでレンタカーを借りようとしていたハ―ヴィーはRVのレンタル店に1台だけ残っている車を見て興味を持つ。店の主人によると
This luxury sleeper has all the bells and whistles. (この豪華寝台車には付加機能がすべてついてるよ。)
 bells and whistlesは辞書には「(成句)付加機能」とある。whistleには①笛、ホイッスル、②口笛、③(列車・船などの)汽笛、霧笛、④≪通例単数形で≫笛[ホイッスル]の鳴る音、⑤≪通例単数形で≫(風などの)ヒューという音、⑥(鳥の)鋭い鳴き声[さえずり]という多くの意味があると記されている。笛といっても色々あるが、Tin whistle (ティンホイッスル=親指用の穴がなく表面に6つ穴がある笛)という楽器は英国やアイルランドの楽器店でよく見かける。③の意味では、むかしピーター・ポール&マリーが歌っていた『500マイル』という歌を思い出す。
 RVを借りようかとハーヴィーが迷っていると店の主人は
You should. You only live once. (そうしなさいよ。人生1回きりだ。)
という。むかしフリッツ・ラング監督、ヘンリー・フォンダ主演の”You only live once"(1937)という映画があった。日本での公開題名は『暗黒街の弾痕』で全然違う。その後”You only live twice"(1967)という映画がつくられた。日本では『007は二度死ぬ』という題名で公開。映画の大部分が日本で撮影されたことで知られ、ショーン・コネリーのボンドの相手役に浜美枝が起用されていた。

11月4日
 NHKラジオ「実践ビジネス英語」の”Quote...Unquote"のコーナーで紹介された言葉:
Hide not your talents, they for use were made. What's a sundial in the shade?
      ---- Benjamin Franklin
(U.S. statesman, diplomat, inventor and scientist, 1706- 90)
(才能を隠してはならない。それは使うためにあるからだ。日陰に日時計を置いていてもしかたがないではないか。)
 日本で「能ある鷹は爪を隠す」というのと逆である。なお、和英辞典によると
Still waters run deep. (流れの静かな川は深い、物静かな人は思慮深い)
というのが、「能ある鷹は爪を隠す」に相当するという。

 同じく「まいにちイタリア語」応用編「古代ローマ幻想散歩」は”L'infanzia e l'istruzione"(幼少期と教育)という題で、ローマ時代の学校教育について取り上げた。ローマ時代の初等教育の場となったのは”ludus litterarius”であるが、Ludus litterarius vuol dire "gioco delle lettere". (ルードゥス・リッテラーリウスとは「文字遊び」という意味である。)
 Alcuni maestri usavano lettere di legno e forse anche dei biscotti (crustula) a forma di lettere, per far apprendere ai bambini l7alfabeto attraverso il tatto e l'osservazione. Quintiliano (Quintilianus) invitò i maestri a utilizzzare le coer più divertenti e piacevoli da toccare, quardare e nominare per quell'età. (教師の中には、子どもたちに触れたり、見たりすることでアルファベットを覚えさせようと、文字の形をした木や、クッキーを使う人たちもいたと思われる。クインティリアーヌスは教師たちに、その年ごろの子どもたちが触ったり、見たり、名前を読んだりするのが楽しくなるようなものを使うよう促した。)
 ラテン語の辞書を見たが、確かにludusは「遊び」という意味であった。

11月5日
 川崎の等々力総合競技場で第95回全国高校サッカー選手権神奈川県大会の準決勝2試合を観戦した。第1試合は相洋高校と法政二高の対戦で、小田原の相洋高校は初めてのベスト4進出である。細かいパスをつないで攻める法政がやや優勢に試合を進めたが、相洋もよく守り、時々左サイドから鋭い攻めを見せて対抗、前半は0-0で折り返した。後半の終了間際に、やはり左からボールを運んだ相洋のMF石橋選手がゴールを決めて均衡を破り、1-0で相洋が勝利した。翌日の新聞で読んだのだが、石橋選手はムラの多い選手で、夏はベンチにも入っていなかったそうである。これをきっかけに大化けしてほしいものである。
 第2試合は昨年度代表の桐光学園と過去に全国大会出場の実績のある県立座間高校の対戦で、昨年も出場していた桐光のタビナス・ジェファーソン選手が今年はキャプテン・マークを付けて登場、1メートル95という長身のGK茂木選手とともにその存在感を見せつけていた。桐光が前半2点、後半1点を奪って、3-0で完勝。後で知ったことであるが、ジェファーソン選手は川崎フロンターレに、茂木選手はセレッソ大阪に入団が内定しているそうである。

11月6日
 三ツ沢グランドの前を通ったところ、J3のYSCC(横浜スポーツ&カルチャークラブ)ののぼりが出ていたので、調べてみると、今日はガンバ大阪U-23との対戦があるということなので、天気もいいことだしと見に出かけた。前半2点をリードされたが、後半に2点を返して同点に追いつき、引き分けた。J2の横浜FCの試合は高齢者優待で500円で見ているが、こちらは1800円を払った。前半の試合ぶりでは、金返せと叫びたくなるところであったが、後半に追いついたので、よしとするか。それに入り口でシャンプーをもらったのである。

 一方、岐阜でFC岐阜と対戦した横浜FCは0-2で敗戦。プレイ・オフ進出にまだ一縷の希望を残してはいるが、厳しい状況となった。それにしても、自分よりも下位のチームによく負けるのは、どういうことであろうか。

11月7日
 『朝日』朝刊にセンター試験の後継の試験で、国語に論述式の問題を導入することについて、現場から懐疑的な意見が上がっていることが報じられていた。論述式の導入そのものについては悪いことではないと思うのだが、その導入の仕方に問題があるということであろうか。

11月8日
 NHKラジオ「ワンポイント・ニュースで英会話」で安倍首相がアウンサンスーチーさんと会談したことが報じられていたが、その中で新政権が発足してから初めてということが強調されていたのに違和感を持った。彼女は1985-86年に日本に滞在しているし、2013年にも来日しているのである。1985年に彼女が京都大学東南アジア研究センター(当時、現在は研究所)の客員研究員として来日した際の受け入れ口となったのはタイを中心として東南アジアの研究家として活動した石井米雄(1929-2010)で、その活躍ぶりの一端は梅棹忠夫の『東南アジア紀行』に活写されている。知る人ぞ知る存在であった彼女が国際政治の前面に出るようになってから手のひらを返したように厚遇を始めたどこかの国の政治家のあさましい根性の方が、ニュースの表現よりも問題であるかもしれない。

11月9日
 アメリカの大統領選挙で共和党のトランプ氏が民主党のクリントン氏を抑えて当選した。事前の世論調査ではクリントン氏有利であったのだから、英国のEU離脱問題といい、世論調査がいかにあてにならないかということを示す出来事であった。どうも得票数ではクリントン氏の方が多いのだが、選挙人の数でトランプ氏が勝っている、つまり彼はカリフォルニアのように大敗した州がある一方で、僅差で勝利した州が少なくない。特に事前に激戦区と予想された州のほとんどでトランプ氏が勝利した、ということはトランプ氏の方が有能な選挙参謀を抱えていたことが勝因であったかもしれないと思ったりした。

 サッカーの天皇杯4回戦で、横浜FCは0-1で大宮アルディージャに惜敗。中田監督はリーグ戦を優先させて、主力を温存していたようで、まだまだプレイ・オフ進出をあきらめていない様子である。

 『朝日』の朝刊の漫画「ののちゃん」で菓子屋の親父がモンブランならぬマッキンレーという菓子を作ったという話が出てくるが、この北米の最高峰は最近ではデナリと呼ぶようになっている。

11月10日
 『朝日』の朝刊に小学校での英語必修化の影響で小学生の英検熱が高まっていると報じられている。英語とその学習についてではなくて、資格のようなものに関心が集まるのは、大学の教育よりも入試に関心が集まるのと同根であるかもしれないと思った。

 「まいにちイタリア語」応用編「古代ローマ幻想散歩」では”I mercati romani e gli acquisti" (古代ローマの市場と買い物)では、
Trajano construi a Roma i grandi mercati che ancora oggi si possono percorrere all'interno. (トラヤヌス帝はローマに大きな市場を建設し、今なおその内部を歩くことができる。)
という話題が登場した。五賢帝の1人に数えられるトラヤヌスはイベリア半島の出身で、ローマではよそ者であったために、市民の歓心を買おうとさまざまな工事を行った。市場の建設はその代表的なものである。富裕層はぜいたくな買い物をしたが、
In età imperiale gli orologi ad acqua e meccanici erano molto di moda tra le persone ricche. (帝政期にはからくり式の水時計が富裕層にとても人気があった。)
ということである。

 11月12日(土)は三ツ沢で横浜FC対ツエーゲン金沢の試合を、13日(日)は同じく全国高校サッカー選手権の神奈川県の決勝戦を見に出かけるつもりである。 

黒瀬奈緒子『ネコがこんなにかわいくなった理由』(2)

11月9日(水)曇りのち晴れ

 前回はこの書物の第1章~第3章を紹介した。今回は残る第4章~第6章を取り上げるつもりである。
 第1章「ネコが来た道」には、人間が農耕生活を営み定住するようになると、ネズミが近づき、そのネズミを狙って小型のネコ科動物であるヤマネコが人間の近くに寄ってきたが、その中でリビアヤマネコがネコの祖先になり、家畜として飼いならされ、世界中にその分布を拡大するようになった過程が記されていた。第2章「ネコ科はどう生まれたか」は、生物進化の過程をたどり、食肉目の中でネコ科が捕食者として高度に特殊化したグループであると論じられていた。第3章「ネコはどう生まれたか」は、ネコ科の中でネコ科がどのように進化し、どのような種が属しているか、それぞれの種がどのような分布を見せているかを述べ、ネコ科の動物たちがそれぞれ巧みにすみ分けて生き延びてきたが、近年はヒトの影響で多くの種が絶滅の危機に瀕している、その中で猫だけが繁栄を続けていると指摘していた。

 第4章「ネコが繁栄した理由」はネコが家畜であることから話を始めている。家畜はその用途によって、「農用動物」、「実験動物」、「伴侶動物」に分けられるが、ネコは伴侶動物と認識されている。家畜化しやすい動物の要件として:
①群居性が強く、順位制で群れの秩序を保つ動物であること
②オスが性的に優位で、配偶関係が不定の動物であること
③大胆でヒトに慣れやすい動物であること
④草食性または雑食性で、何でも食べる公食性の動物であること
⑤環境への適応力が高い動物であること
⑥性質が温和で従順、行動が遅鈍な動物であること
まとめていうと「なんでも食べて、どこででも生きていけるたくましい動物」が望ましいということである。ネコは単独生活で肉食、気まぐれで俊敏、家畜に向いているとは言えない。しかし②の配偶関係の不定、③のヒトに慣れやすいは問題がなく、⑤の適応力については、リビアヤマネコの中の特に適応力の高い個体が家畜化されていったと考えられる。さらに⑥の温和な性質についてはヒトの努力によって都合のように改良されてきたという。「ネコはいわば「ヒトの熱意」が生みだした、、ある意味で特殊な家畜」(119ページ)であるという。
 ネコは「ふわふわで手触りがよく、成長しても目が大きく、額が広く、輪郭も身体全体も柔らかく、幼い個体に特有の「かわいい」容姿を成長しても保っていますから、養育欲や庇護欲をそそる」(121ページ)。このように見た目がかわいいだけでなく、ネコは甘え上手という特性もあり、感情が読みにくいこともかえって魅力と感じる人がいる。ネコは鳴き声やにおいの点で他のペットよりも飼いやすく、そうしたこともネコの繁栄の理由となっている。

 第5章「ヒトがつくるネコの話」では、ネコの様々な品種がどのようにしてつくられてきたかが語られている。ネコの品種は主として被毛の違いによって生まれ、イヌと比べると見た目の多様性は乏しい。これはネコが「かわいい」という動機で飼育されてきて、より「かわいい」品種を生みだそうとの努力が続けられてきたことによるものである。
 まず、シャムネコは遺伝的浮動によって自然発生したと考えられる。ネコの中で古い品種の1つと考えられているエジプシャンマウは先祖であるリビアヤマネコによく似ているが脚と尻尾の縞が異なるという。アビシニアンはインド洋沿岸部や東南アジアで進化した品種である。ペルシャネコは遺伝子の変異によって長毛になったと考えられている。尻尾のないネコであるマンクス(短毛)とキムリック(マンクスの長毛タイプ)も突然変異によって生まれた遺伝子が、隔離された環境で長い時間をかけて定着したものと考えられる。」このほか、ヨーロッパや北方の土着ネコ、どのようにしてネコの新しい品種を作り出すかという話が展開され、ネコの話としてだけでなく、遺伝学の復習にも役立つ内容となっている。
 特に興味深いのは、ネコの性格に関係する遺伝子が発見されてきているということで、外見重視で品種改良を重ねられてきたネコがその結果性格も固定される可能性があると指摘されている点である。「たとえば、スコティッシュフォールドは温和で人なつっこい甘えん坊、アメリカンショートヘアーは陽気で遊び好きなど、品種ごとにある程度、性格に特徴がある」(165ページ)と述べられているが、我が家の飼いネコであるエビはスコティッシュフォールドの血の入った雑種、タマはアメリカンショートヘアーなので、思い当たる節がある。

 第6章「ネコとヒト、その関係とこれから」ではヒトには、ネコを含む肉食動物に対する嫌悪感と自分の奥底にある衝動の投影という矛盾した感情が潜んでいると指摘したうえで、ネコが媒介する感染症についての注意、ネコ以外のネコ科の動物たちが絶滅の危機に瀕している現状、野生化したネコが生態系への脅威となっているもう一つの現状が指摘され、「ネコ問題はヒトの問題である」こと、それゆえに「持続可能」なネコとの暮らしを構築する必要があることなどが論じられている。著者はネコだけでなく、動物全般が好きだというだけあって、家畜と野外で暮らす動物の双方を視野に入れて、どちらかに偏ることなく議論を進めている。「ネコにやさしく、結果的に自分たちも豊かになれる社会を築く」(218ページ)という最後に語られている夢も説得力が感じられる。

 生物学的な知見を踏まえてネコについて概観した書物であるが、ネコが「かわいい」というのはどういうことかを客観的に記し、それがネコの品種改良に果たした役割を強調している点に特徴がある。その意味で、第5章が一番読み応えがあった。確かダーウィンの『種の起源』の中に、イヌには多様な品種があり、それぞれの差異は大きいが、ネコはそうでもないのはなぜかということが書かれていて、読んだときは納得したのだが、その後、ネコの被毛の多様性はこの動物が複雑な変異の過程を経てきたことを物語るという説に出会って、考えを変えたことがある。それにネコの大きさはあまり変わらないといっても、やはり大きいネコと小さいネコはいるのである。私の住まいの近所にアビシニアンのネコがいて、近所の人気者だったが、かなり小型であったのを思い出す。それに比べるとうちのエビとタマは大きいのである。家人は食生活のせいだと思っているようであるが、私の考えでは遺伝性のものである。そんなことを考えながら、読んでいた。第6章は著者の最近の研究の成果と重なる部分が多いようであるが、改めて別の著書にまとめてみた方がよいように思う。
 

ダンテ・アリギエリ『神曲 天国篇』(6-1)

11月8日(火)曇り

 ベアトリーチェに導かれてダンテは、地球の南半球にそびえる煉獄山の頂上にある地上楽園を飛び立ち、月天に達して、煉獄で出会ったかつての詩友フォレーゼ・ドナーティの妹であるピッカルダをはじめ、誓願を立てたがそれを果たせなかった人々の霊に出会った。彼らとの出会いを通じてダンテはいくつかの疑問を感じるが、ベアトリーチェはそれに対して明快な答えを与える。彼らはさらに飛翔して、水星天に到着した。そこで輝く魂が彼のほうに近づいてくるのを見た。ダンテはこの魂が何者で、水星天にはどのような魂がいるのかと尋ねた。

 魂はダンテの問いに答えた。第6歌は魂による答えからなっている。
「コンスタンティヌス帝が空の運行の道とは逆方向に
鷲を差し向けて以後、ちなみにその道こそはその鷲が、
ラウィーニアを娶ったかの原初の男の後に従ってたどったものだが、

百年に百余年を重ねた年月の間、
神の鳥はヨーロッパの東の果て、最初にそれが巣立った
山々のそばに留まった。

そして聖なる羽根の影で覆って、
人の手から手に渡る間も地上の世界を統治した。
紆余曲折を経て、こうして鷲はついに余の手に到来した。
・・・(90ページ)よく知られているように、3世紀ごろからゲルマン諸族のローマ帝国領内への侵入が激しくなり、330年にコンスタンティヌスはトラキア(ひいてはヨーロッパ)の最東端のビュザンティオンを都と定め、その名をコンスタンティノープルと改めた。「空の運行とは逆方向に」という表現で、ダンテはこの遷都が神意に沿わないものであったことを示している。「鷲」は神与のローマ皇帝権を象徴する。ローマ帝国の国章は単頭の鷲であったのが、東ローマ帝国の末期のパレオロゴス王朝時代に双頭の鷲が使われるようになった。双頭というのは、東ローマ帝国に加えて西ローマ帝国も自分たちの支配に属するという意味があったらしい(実情とは遊離していた)。なお、神聖ローマ帝国とハプスブルク家、ロシア帝国も双頭の鷲を紋章としていた。
 「かの原初の男」はローマ建国の英雄アエネーアース、ラウィーニアはその妻。小アジアにあったトロイアの滅亡後に、その王子であったアエネーアースは一群の人々を率いて地中海の東の部分をさすらい、イタリア半島に達して新たな都市を建設する。その苦闘を描いた叙事詩『アエネーイス』を書いたのが、ダンテの地獄・煉獄を通じての導き手に設定されたウェルギリウスであった。ローマ帝国が都をコンスタンティノープルに移したことは、ローマの人々がアエネーアースの出発した場所の近くに戻ったことを意味する(ただし、コンスタンティノープルがヨーロッパに属するのに対して、トロイアはアジアに属する。ボスポラス海峡の向こう側とこちら側という違いはある。アジアの入り口になっているのが、イスタンブールの対岸のイスキュダル(=ウスクダラ、ある年齢以上の人なら大抵知っている江利チエミのヒットソングの舞台となった町)であるが、ここも現在ではイスタンブール市内になっているそうである)。 

 魂は東ローマ帝国の皇帝ユスティニアヌス(483-565、皇帝在位527-565)であると名乗り、ローマ法を集成した有名な『ユスティニアヌス法典』を編纂させたことを語る。彼はもともとキリスト単性論を信じていたが、ローマ教皇アガペトゥスⅠ世の説得に応じて正統派のキリスト両性論を信じるようになった。そして、
余が教会とともに歩みだしてほどなく、
高き壮挙を志すよう恩寵によって夜をお導きになることが
神の御心にかない、自身のすべてをそれに注ぎ込んだ。
・・・(92ページ) 395年にローマ皇帝テオドシウスⅠ世が没した後、帝国はローマを首都とする西ローマ帝国と、コンスタンティノープルを首都とする東ローマ帝国に分割される。476年に西ローマ帝国は滅びるが、ユスティニアヌスはその西ローマ帝国の領土も含めてローマ帝国の領土の回復を目指し、部分的に成功する。なお、ダンテは彼がキリスト単性論を信じていたと書いているが、これは誤解のようである。なお、ユスティニアヌスの皇妃テオドラは踊り子という下賤の身分の出身ではあったが、聡明かつ剛毅果断な性格で、ユスティニアヌスをよく助けたといわれる。彼女をヒロインとして描いた『戦車を駆る女 テオドラ』という映画が1954年にイタリアで製作され、日本でも公開されているそうである。テオドラ役ではないが、ギリシャの名女優イレーネ・パパスがこの映画でデビューしている。
 ユスティニアヌスの死後、東ローマ帝国の勢力は衰えて、回復したイタリア半島の支配も維持できず、ダンテの時代にはコンスタンティノープルとその近くの地域しか支配していなかった。そして、1453年にはそのコンスタンティノープルも陥落するが、それはまだあとの時代の話である。

 閑話休題、ローマ法を集成した法典の編纂と、帝国の旧領回復が神意によるものだとユスティニアヌスが述べていることは、ローマ法による支配こそ、神意にかなう、あるべき統治だというダンテの主張を反映するものである。その後、ユスティニアヌスの魂は、ダンテの時代における皇帝党と教皇党の争いが神意に背くものであるといい、さらに歴史的に全地上世界の統治権、すなわち正義がどのような変遷をたどってローマ皇帝の地位と結びついたのかを説明する。

 正義はアエネーアースの都市国家建設に始まり、ローマと同族の都市国家アルバ・ロンガにあったが、アルバ・ロンガ滅亡とともにロム留守が建国したローマに移り、周辺の都市国家を併合した王政ローマの時代を通じてローマを拡大させた。そして共和制ローマになると文化的にも地域的にも異なる民族、体制を持つ国と争い、皇帝はいなくても、様々な諸国・地域に支配権を及ぼすという意味での帝国となった。

 そして諸地域と多民族をその版図に収めるこの共和制国家はやがてカルタゴを破って、地中海の覇権を握り、スペイン、エジプトも征服した。地上の平和を実現するためにカエサルが登場し、「ローマの希望に従い鷲を手に入れた。」(95ページ) 地上に平和を実現しようとするカエサルの意図を妨害した裏切り者は、その後継者によって滅ぼされた。
続く運び手とともに鷲のなした事績ゆえに
ブルートゥスとカッシウスは地獄で吠え、
モデナとペルージャは悲しみに暮れた。

そのことで邪悪なクレオパトラ、鷲を前にして逃亡し、
蛇により突然のか黒い死を迎えたこの女も、
今なお苦しみの涙を流している。
(96-97ページ) ダンテは地獄でブルートゥスとカッシウスの姿に出会っている。クレオパトラに同情的な詩を書いたローマの詩人もいたのだが、ダンテの態度は冷たい。

この運び手とともに鷲は紅海の岸まで進んだ。
鷲は彼とともに世界に平和をもたらし、
かくてヤヌス神殿の扉は閉じられた。
(97ページ) ヤヌス(ヤーヌス)は出入り口と扉をつかさどる神で、ローマ神話の多くの神々がギリシャ神話に対応する神を持つのに対して、この神に対応するギリシャの神はいない。ふつう前と後ろに顔のある双面神としてあらわされる。伝説的な存在であるローマ2代目の王ヌマ・ポンピリウスが好戦的なローマ市民に平和の大切さを教えるために、ローマのフォルム・ロマヌムに建立され、その扉は戦時に開き、平和時には閉じることとされ、ヌマの治世の間は、扉はずっと閉ざされていた。ヤヌスは扉の神というところから、物事の始まりの神ともされ、1月を英語でJanuaryというのはJanusの月という意味である。ローマの平和が何を生み出すことになるのかについては、また次回。
 ここでは(これまでもそうだったが)ギリシャ・ローマの神話・伝説・歴史をダンテが自分に都合がいいようにキリスト教的に解釈しなおしているのが目につく。その努力を、新しい思想文化を作り出そうとするものとして肯定するか、ご都合主義として切り捨ててしまうか、判断に苦しむところがある――というよりも、その両者が入り混じっていると考えるべきではなかろうか。

カラブリア州とカンパネッラ

11月7日(月)曇りのち晴れ間が広がる

 イタリアで出会った食べ物と人々の暮らしぶりについて描いた内田洋子『皿の中に、イタリア』(講談社文庫)を買って、読み進んでいるところなのだが、この書物は次のように書き出されている:
「イタリア南部に、カラブリアという州がある。この州のことを、誰も知らない。外国人だけではなく、イタリア人すら知らない。」(7ページ)

 ところが、私はカラブリア(Calabria)という地名をかなり早い時期(たぶん、高校時代)から知っていた。岩波文庫に入っているシラノ・ド・ベルジュラック(Cyrano de Bergerac, 1619-1655)の『日月両世界旅行記』(今、私が手にしているのは有永弘人訳だが、新しい訳が出ているはずである)の第二部「太陽諸国諸帝国」で、主人公兼語り手は、地球から飛び立って太陽に到着し、鳥たちにつかまって裁判を受けるというような様々な経験をしたのちに、一人の老人に出会う。彼は言う:
「わたしの名はカンパネッラといい、国からいえばカラブリヤ人です。太陽に来てからというもの、わたしはこの大きな球体の諸々の土地を訪れて、その奇観を発見することに時をつかいました。太陽は王国と共和国と州と公国に分れていることは地球と同じです。こうして四足獣も、鳥類も、植物も、石もそれぞれ、その国を持っています。そしてその中には異種族の動物、殊に鳥類が何よりも不倶戴天の敵として憎んでいる人間には入国を許さない者たちがいるにかかわらず、わたしは危険を冒すことなく旅行できます。というわけは、哲学者の魂は、人がそれを苦しめるために使用する道具よりもさらに繊細な部分から織りなされているからです。」(有永訳、153ページ)
 
 カラブリヤ(=空振り屋?)という地名が強く印象に残っただけでなく、大学進学後にユートピア思想に興味を抱き、このカンパネッラと名乗った老人が『太陽の都』(Civitas Solis)の著者トンマーゾ・カンパネッラ(Tommaso Campanella, 1568-1639)という実在の人物であること、カラブリアが長靴型のイタリア半島のつま先の部分、海を渡ればシチリアという場所にある州の名前であることを知るようになった。だから、シラノ・ド・ベルジュラックとトンマーゾ・カンパネッラのおかげで、カラブリアという名前とその場所だけは、記憶にとどめてきたのである。

 いろいろな要素がまじりあって複雑な展開を見せるこのかなり不思議な物語の中でカンパネッラが言うところによると、彼は死後、その魂が太陽にやってきたのだという。普通の人間が死ぬと、その魂は太陽と一体化するのだが、哲学者はそうならずに、太陽の世界の住人となる。自分はすでに述べたように、太陽帝国の各地域を旅行していたのだが、最近、到着した友人(=デカルト)に会うために旅行を中断して、哲学者の王国へと急いで戻る途中なのであった。

 有永を含む多くの研究者が、シラノのこの書物は、カンパネッラの『太陽の都』に大きな影響を受けていると考えている。実在のカンパネッラはガリレイと交わったりして最先端の科学知識を身につける一方で、独自の自然哲学を構想し、その一方で魔術に関心を寄せたり、宗教改革に同調したり、かなり揺れ幅のある人物であったようである。晩年、イタリアからフランスに亡命して、シラノの哲学の師であるといわれるピエール・ガッサンディ(Pierre Gassendi, 1592-1655)とも交流があったというから、シラノも生前の彼に会った可能性はある。ガッサンディはエピクロス哲学の復権に貢献したほか、「理性」を重んじるデカルトに対して、「経験」の重要性を主張して論争を展開した(スウィフトの『ガリヴァー旅行記』の第3部第8章にこの論争に関連した箇所があるので、興味のある方はお読みください)。シラノの『太陽帝国』の最後には、デカルトが登場するのだが、この作品全体を通じて流れる考え方は、エピクロス的で、シラノはやはりガッサンディに近い思想をもっていたのではないかという気がする。

 『太陽の都』を読んだことはあるが、本がすぐには見つからない状態なので、詳しいことが書けないのは残念である。共産主義的な制度が支配する架空の都市を描いたこの書物はトマス・モアの『ユートピア』やフランシス・ベイコンの『新アトランティス』と並んで、ルネサンスのユートピア文学を代表する作品と考えられている。川端香男里『ユートピアの幻想』(講談社学術文庫)は、『太陽の都』に多くのページを割いていないが、宗教改革の影響がヨーロッパに広がる中で、この世の中の終わりが間もなくやってきてキリストが再臨するというような千年王国的な期待が高まり、そのような宗教的な期待の中で生み出された典型的なユートピアが『太陽の都』であったと論じられている。

 さらに川端さんは「アルフレート・ドーレンはこのカラブリアがピュタゴラスやエンペドクレースや、ジョアッキーノ・ダ・フィオーレの故郷であり、この後も黙示録的期待の発祥地であることを指摘した」(川端、講談社学術文庫、111ページ)と書き添えている。カラブリアには古くからギリシャ人の植民地が築かれていて、一種の精神的な伝統が形成されていたということらしい。学者の中にはカラブリア州の精神的な風土について注目する人もいたわけである。とともにカンパネッラが貧しいカラブリアの貧しい農家の出身であったことも忘れてはならないだろう。そして、(最初に戻るが)内田さんの本には、イタリア西北部のリグリア州にカラブリア州から移住する人が少なくないという話も記されている。都会で働くのではなく、漁師は漁師として、農民は農民として働く例が多いという。いろいろと考えさせられる。 

富士山

11月6日(日)晴れ

富士山

美貌ではあるけれども
恥ずかしがり屋で
暖かい季節は
青い遠景の中に
姿を隠している
富士山が
見える季節がやってきた

都会と都会とを結んで走る
高架鉄道の上からは言うまでもなく
ビルが雑然と並ぶ都心部と
平屋や二階屋や少し高いマンションが
雑然と並ぶ住宅地を結んで走る
バスの中からも
時々富士山が見えるようになった

夕方にシルエットで見ると
わからないが
午前中にかすかに見える富士山は
遠目に見ても
そろそろ雪が積もり始めている
恒例の薄化粧ですね
年齢の割には化粧が厚くないのが
美人たるゆえんですね
などと

美貌を保つ苦労を知らない
やじ馬たちが
ほめそやす声を聞いて恥ずかしいのか
富士山が視界から
遠ざかっていくような気がする
呼べば呼ぶほど
遠ざかっていくような気がする

『太平記』(131)

11月5日(土)晴れ、等々力総合競技場から富士山が見えた。

 建武2年(1335年)11月19日、新田義貞は朝敵追討の宣旨を賜り、東国で武家政権樹立への動きを見せる足利尊氏を討伐すべく、鎌倉へと兵を進めた。鎌倉では、直義が兄尊氏に出陣を促したが、尊氏は天皇に恭順の意を示すべきだとして取り合わなかった。23日、直義は上杉憲房らの勧めで出陣したが、27日、三河国矢矧の合戦に敗れ、鷺坂、手越でも敗退した。鎌倉に帰った直義は、尊氏に偽の綸旨を見せて出家を思いとどまらせた。12月11日、尊氏と直義は出陣し、翌日、箱根、竹ノ下一帯で官軍と激しい戦闘となった。箱根では義貞軍が優勢だったが、竹之下の戦闘で大友、塩冶が尊氏方に寝返り、総崩れとなった官軍は、尾張国まで退却した。

 そうこうするうちに12月10日、讃岐国(香川県)の住人である高松三郎頼重から早馬による連絡があった。足利の一族である細川定善(じょうぜん)が11月26日にわずか16騎で兵をあげたところ、讃岐藤原氏の詫間、香西らがこれに加勢し、たちまちその勢力は300余騎となった。頼重はすぐに討伐しようと国中の武士たちに召集をかけたのだが、定禅が先手を打って夜討ちをかけてきたうえに、土地の軍勢が裏切ったために、頼重らは必死になって戦ったのだが大敗してしまった。讃岐藤原氏の詫間・香西讃岐橘氏の寒川・三木などの武士たちが残らず定禅の味方について、その数は3,000余騎に達した。最近では瀬戸内海を渡って、備前(岡山県)の児島につき、京都へ攻め上る準備をしている。御用心くださいというのである。(江戸時代に高松の城主となったのが、水戸黄門の兄の松平頼重だったというのは偶然ではあるが、面白い符合である。また、この後も、細川氏は阿波=徳島県を中心に活動を続ける)。

 このような情報を受けても、京都には新田義顕(義貞の長男)をはじめ、結城親光、名和長年、楠正成をはじめ、主だった大名たちがそろっているので、四国の朝敵たちが攻め上ってきても、大したことはあるまいと驚き慌てることはなかったのだが、同じく11日に、備前の国の住人である児島三郎高徳のもとからも早馬による連絡があった。11月26日に、備前の佐々木一族である佐々木信胤と田井新(たいしん)信高らが細川定禅の誘いに乗って、備中の国に兵を進め、福山城に立てこもったので、備中の国の目代(=国司の代官)が自分の部下たちを引き連れて討伐に向かったが、国中の武士たちはそれに合流しようとせず、衆寡敵せずで引き上げようとすると、敵軍は勝ちに乗じて目代の軍勢に襲い掛かって、数百人が討ち死にをした。その翌日に備中の武士たちが反乱軍にはせ加わり、間もなくその軍勢も3,000余騎になろうとしている。
 そこで備前の国の地頭、御家人らが備中の国の一の宮である吉備津神社(岡山市北区吉備津)に集まって、反乱軍を待ち受けていたところ、出雲の武士である朝山備後の守が、備後の守護職に任じられて任地に向かってきたところだったので、その軍勢を合わせて11月28日に、福山城に攻め寄せた。児島高徳の一党は大手を打ち破り、城中に入ろうとしていたところに、叛心を抱く在地武士たちが、急に裏切って味方に矢を射かけてきたために、搦め手の軍勢が多くの死者を出して敗退してしまった。
 官軍はついに負け戦となり、備前国に引き返して三石城(岡山県備前市三石)に立て籠もっていたところ、備前の守護に任じられた松田十郎盛朝らが到着したので、その軍勢を合わせてまた引き返し、備前の和気の宿(岡山県和気郡和気町)で合戦に及んだ。その夜、官軍に加わっていた備前の武士内藤弥次郎がひそかに敵を味方の陣営に引き入れ、敵が味方の陣地を攻め取っている間に、官軍は散り散りになってしまった。高徳の一族はかろうじて逃げのびて、山林に身を隠し、味方の到着を待っているところである。すぐに援軍を派遣されないと、西国(この場合は中国・四国)の動乱は取り返しのつかないことになるだろう。

 このように中国・四国地方で少なからぬ武士たちが建武政権に反旗を翻した。その他の地域でも反乱が次々に起きた。上横手雅敬はその著『日本史の快楽』(角川文庫)の中で、大正・昭和戦前期の小学校の国定教科書が建武政権の失政について触れずに、武士たちが「大義名分」を忘れたことから政権は崩壊したと説明していたことに触れ、歴史が「道徳的色彩」を帯びてきたことに苦言を述べているが、各地の武士たちが反旗を翻したのは、よく言えば、その方が自分たちの暮らしがよくなると考えたから、悪く言えば、欲に目がくらんだからであり、「大義名分」はそういう身の振り方を正当化するための方便の1つでしかなかったことが、このあたりの登場人物の行動を見ているとよくわかる。

 備前の国の武士であったといわれる児島高徳については、すでに第4巻で、隠岐に流される途中の後醍醐天皇の救出を試みて失敗した話、第8巻で京都の攻略のため大軍を率いて押し寄せて大敗した千種忠顕の臆病ぶりに憤慨した話をはじめとして、何度か登場している。『太平記』以外の書物に登場しないこと、物語の進行の中で『太平記』の作者の心情を伝えるような役割で登場していることから、実在性を疑う、あるいは、何人かの人物の事績を1人の人間のこととしてまとめたのではないかと考える意見もある。その一方で、『洞院公定日記』の応安7年(1374)5月3日の条に記されている「伝聞、去廿八九日之間、小嶋法師円寂云々、是近日翫天下太平記作者也、凡雖為卑賎之器、有名匠聞、可謂無念」(森茂暁『太平記の群像』、321ページより、伝え聞く、去る二十八・九日の間、小嶋法師円寂云々、是近日天下に翫(もてあそ)ぶ太平記の作者也。卑賎の器なりといえども、名匠の聞こえあり、無念というべし=聞くところによると、先月の28・9日の間に、小嶋法師が亡くなったとのことである。彼は最近天下で評判の高い『太平記』の作者である。卑しい身分の人物ではあるが、名匠であるとの評判であった。惜しんで余りあることである。)という「小嶋法師」は児島高徳のその後であるという説もある。(すでに述べた児島高徳の『太平記』における登場の仕方と関連させて考えると、名前の類似からのこじつけとして切り捨てるわけにはいかないように思われる。)

 さて、物語は西国以外の各地で起きた反乱に目を向けてゆくが、その具体的な様子はまた次回に。

ジェイン・オースティン『マンスフィールド・パーク』(6)

11月4日(金)晴れ、昨日に比べて雲が多く、富士山は見えなかった(大山は見える)

これまでのあらすじ
 親が愚かな結婚を認めに、貧乏人の子沢山の家庭で育ったファニー・プライスは、10歳の時に伯母の夫である准男爵サー・トマス・バートラムの屋敷=マンスフィールド・パークに引き取られる。虚弱体質で内気なファニーはもう1人の伯母であるノリス夫人のいじめをはじめ、様々な困難に耐えながら、次第に美しい娘に成長する。サー・トマスには4人の子どもたちがいたが、その中で次男のエドマンドはファニーを何かとかばってくれたので、彼女は彼を慕っている。
 マンスフィールド教区の牧師であるグランド博士の夫人の異父弟妹であるヘンリーとメアリのクロフォード兄妹が牧師館を訪れ、ロンドンの悪をマンスフィールド・パークに持ち込む。エドマンドはメアリに惹かれる。派手で個性的な美人であるメアリは、エドマンドに魅力を感じるが、彼が牧師になろうとしていることが気に入らない。サー・トマスの長女のマライアは大地主で大金持ちの(ただしあまり頭の血の巡りはよくない)ラッシュワースと婚約していたのだが、ヘンリーに夢中になり始める。しかし、結局はラッシュワースと結婚し、マンスフィールド・パークを去る。次女のジュリアも姉と行動を共にしたので、マンスフィールド・パークに残った若い女性はファニーだけになる。
 プレイボーイのヘンリーは、ファニーをからかうつもりだったのが、本気になってしまい、彼女が社交界にデビューする舞踏会の後、正式にプロポーズする。ファニーにはウィリアムという海軍の見習い将校をしている兄がいるが、ヘンリーはつてを使って、彼が少尉に昇任するように取り計らう。サー・トマスはヘンリーのファニーへのプロポーズを喜ぶが、ヘンリーのこれまでの行状をよく知っているファニーは必死で断ろうとする。しかし、周囲の人々はみな乗り気である。

第34章
 聖職叙任式を終えても、エドマンドがピーターバラの友人のもとにとどまっていたのは、メアリ・クロフォードに自分の愛を受け入れられなかったと思い、クロフォード兄妹がロンドンに戻った後にマンスフィールド・パークに帰ろうとしたためであったが、帰ってみると、兄妹に出会い、メアリから心のこもった歓迎を受けたので、驚きながらも喜んだ。彼は父のサー・トマスからファニーがヘンリーの求婚の申し込みを受けたことを聞く。ファニーの期待していたのと違って、エドマンドはこの結婚に反対ではなく、ただヘンリーがあまりにも性急に事を運ぼうとしていることが問題だと思ったのであった。

第35章
 エドマンドはサー・トマスに説得されて、ファニーに結婚に同意するように言い聞かせる役割を引き受けることになった。ファニーは「私たちは、性格も生活習慣もまったく違います」(531ページ)とヘンリーと結婚できない理由を述べる。エドマンドは性格は違う方がいいんだと説得を試みるが、ファニーの気持ちを変えることはできない。さらにエドマンドは、メアリがファニーの拒絶を怒っていること、グラント夫人もこの結婚には賛成であることを伝える。しかし、ファニーが疲れた様子を見せたので、話を打ち切るのであった。

第36章
 エドマンドは、ファニーの話を聞いて、もう少し時間をかけないと彼女の心を動かすことはできないと判断し、その意見にサー・トマスも同意する。彼らとは別に、この結婚話を進めることに熱心であったのが、メアリである。「エドマンドのことですごく勝ち誇っていて自信たっぷり」(544ページ)なメアリと2人きりで話すことをファニーは避けていたのだが、マンスフィールド・パークにやってきた彼女と2人で話さなければならなくなる。メアリは間もなくロンドンに赴くといい、さまざまに言葉を並べてヘンリーとの結婚に同意するように迫る。そして、ヘンリーとの結婚についてはメアリの意志に任せるが、彼女に手紙を書くこと、姉のグラント夫人を訪問することは約束してほしいという。翌朝、クロフォード兄妹はマンスフィールドを去った。

第37章
 クロフォード兄妹が去った後、ファニーに変わった様子が見られないことに、サー・トマスとエドマンドはそれぞれ別の驚き方をする。ファニーの兄のウィリアムは海軍少尉に昇進したばかりであったが、10日間の休暇を得てマンスフィールドをまた訪問することになり、この機会に彼と一緒にファニーをポーツマスの実家に里帰りさせることをサー・トマスは思いつく。エドマンドもこの計画に賛同する。彼はロンドンに出かけてメアリに求婚しようと計画していたのだが、ウィリアムとファニーのために出発を延期することにした。そしてウィリアムとファニーの兄妹はポーツマスに出発する。

第38章
 ファニーは兄とともにマンスフィールド・パークを離れてポーツマスへの旅路をたどるが、馬車に揺れながら、何通も届いたメアリからの手紙について思い出す。手紙にはヘンリーの添え書きがあり、さらにエドマンドが手紙を読み聞かせてほしいといい、聞いた後でメアリをほめそやすのが、彼女にとっては苦痛であった。
 一泊ののち、2人はポーツマスに到着し、実家の戸口に立つ。11歳の弟のサムが出迎えて、ウィリアムにすぐに船に戻るように伝える。彼は海軍の見習い兵として兄と同じ船に乗り込むことになっていたのである。ファニーは父母や弟妹と再会するが、実家がみすぼらしく、家族が騒々しく、だらしないことにびっくりし、落胆する。ただ、妹の14歳になるスーザンと、末っ子のベッツィーが喜んで迎えてくれたのに満足した。ウィリアムは迎えに来た軍医のキャンベルと船に戻る。ファニーは疲れ果ててその一日を終える。

第39章
 ポーツマスの実家で1週間を過ごして、ファニーの失望は大きくなる。「・・・ファニーが取り残された家は、ほとんどすべての点で、自分が願っていたものと正反対だった。…プライス家は騒音と混乱とに支配され、礼儀作法などまったくない家だった。自分の役割をきちんと果たすものは一人もいないし、家の中で正しく行われることは何一つなかった。」(594ページ) それでもファニーの言うことはよく聞いていたサムも、軍艦に乗るために家を出てしまい、ますます寂しい気持ちになった。彼女にとって、兄弟げんかが絶えないポーツマスの実家は苦痛に感じられるだけだった。
 
 今回でこの記事を終えるつもりだったのだが、物語はさらに一波乱があるので、さらにもう1回紹介を続けることにする。それにしても長い小説である。ただ、登場人物の性格と性格描写には感心するところが多く、この小説が1814年に書かれていることに驚く(もっとも、英語で『源氏物語』を読んだ人は、これが1000年も昔の話だということに驚くそうであるが…)。内気なファニーではあるが、ヘンリーと結婚できない理由をはっきりと述べる。同じ時代の日本では考えられないことである(日本では1815年に杉田玄白らによって『解体新書』が刊行された)。

 念のために整理しておくと、プライス家には10人の子どもがいる。長男のウィリアムは19歳、物語にはすでに登場して、海軍の少尉になっている。長女がファニー(フランシス)である。その次の名前だけ出てくるジョンはロンドンの役所で事務員をして働き、同じく3男のリチャードは海軍の見習い将校をしている。次女のスーザンは14歳で、家事を手伝っている。なかなかの美人で、物語の最後で多少の活躍をする。スーザンの下に、メアリという妹がいたのだが、幼いころに死に、スーザンに食器のナイフを形見として残した。そのナイフを末娘のベッツィーが勝手に使おうとするので、喧嘩が絶えないのである。4番目の男の子がサムで、海軍の見習い兵になり、5男がトム、6男がチャールズで、まだ学校に通っている。そしてその下がベッツィーで5歳ほどで、母親に溺愛されているという設定である。10人兄妹のうち1人が早世、4人が就職、ファニーが伯父一家で養育されたので、家にいるのは、スーザン、トム、チャールズ、ベッツィーの4人になっている。

 39章の終わりに、サミュエル・ジョンソンの「結婚生活には多くの苦しみが伴うが、独身生活には何の喜びもない」という言葉をもじって、「マンスフィールド・パークの生活には多少の苦しみが伴うが、ポーツマスの生活には何の喜びもない」(600-601ページ)というファニーの感想が記されている。もともとのジョンソンの言葉は、『ラセラス』第26章と注記されている。この作品は「幸福の探求」という題名で岩波文庫に収められている。アビシニアの王子ラセラスは王子たちは王位を継ぐまでは山奥の谷間に設けられた王宮で幽閉生活を送るという国法に従って暮らしていたが、外の世界を見たいと思うようになり、イムラックという経験豊かで賢い家臣の助けを得て、ここを脱出する。同じ気持ちをもっていた妹のネカヤア姫が侍女のペクアーを連れて、兄とともに旅に出る。エジプトに達した彼らは、カイロでさまざまな人々と交わって、幸福への道を見出そうとする。そのなかでネカヤア姫はさまざまな家庭を訪問して家庭生活の降伏について探るが、なかなか結論を見出すことはできない。兄との会話の中で、彼女は最後にこのような感想を述べる。(朱牟田夏雄訳、岩波文庫版、111ページ参照) ヴォルテールの『カンディード』と比較されることの多い哲学小説であるが、『カンディード』に比べるとスケールが小さく、社会への批判や風刺も穏やかである。そういうところに、著者の性格の良さが現れているように思われる。あるいは、フランスと英国の人情の違いも反映されているのかもしれない。 
 

 

日記抄(10月28日~11月3日)

11月3日(木)晴れ、日中は気温が上がる。三ツ沢公園付近から富士山が見えた。

 10月28日から本日までの間に経験したこと、考えたこと、その他:
 10月27日のNHKカルチャーラジオ『鴨長明と方丈記』第4回は、「養和の大飢饉と元暦の大地震」として、治承4年(1180)の末に起きたさまざまな異常事を締めくくるように起きた平家の攻撃による奈良炎上、翌治承5年の高倉上皇の崩御、平清盛の死と、前年から続く天変地異の中で目撃された悲惨な光景の長明による描写、京都の死者たちの極楽往生を願ってその額に阿字を書いて回ったという隆暁法印の慈悲行、寿永2年(1183)の平家の滅亡と元暦2年(1185)の大地震などが長明によってどのように描き出されているかを追った。

10月28日
 NHKラジオ「まいにちイタリア語」応用編は”I gioielli e gli accessori" (宝飾品とアクセサリー)という話題を取り上げた。ローマの共和政期には、宝飾品を身につけることは禁止されていたが、帝政期になると人々は自分の富を公然とひけらかすようになったという。

10月29日
 NHKラジオ「攻略!英語リスニング」は”How Stars Are Born"(星の誕生)という話題を取り上げた。
Our galaxy contains billions of stars, lots of empty space, but alos huge clouds of gas large amount of matter, mostly made of hydrogen atoms. (銀河には数十億個の星と、何もない空間がたっぷりとあるが、そのほかにも巨大なガスの雲がある。この雲は大量の物質を含んでいて、そのほとんどは水素原子である。)
 何かのはずみでガスが1か所に集まり、その塊の密度がさらに高くなると巨大な圧縮された水素の球が出き、圧縮された水素原子が融合してヘリウムになり、莫大な量の光と熱が発生する。こうして、恒星が誕生する。
You can see one of the most famous star nurseries with you own eyes. In the constellation of Orion, look for Orion's belt. Hanging below his belt is his sword. The central star of the sword looks a bit fuzzy. That's because it is in fact a cloud of gas ---- a star nursery.(星の新生児室の中でも、もっとも有名なものの1つを、肉眼で見ることができる。オリオン座の、オリオンのベルト(三ツ星)の部分を探してごらんなさい。ベルトの3つ星からぶら下がるように、オリオンの「剣」(小三ツ星)がある。その中心の星は、ちょっとぼやけて見える。というのも、実はこれは星ではなくてガス雲―つまり星の新生児室なのである。
 放送の中で、Orion(オライオン)といっているのが、Lion(ライオン)と聞き分けられなかった。依然として克服すべき問題が残っている。

 中学・高校の同期会に出席する。いちいち付き合っていられないほど、いろいろなことを言われる。親友のはずの1人が、高校3年の時に事故にあっていたことを知らなかった。彼の記憶するところでは、私が彼に中国語の年賀状を出したというのだが、私はそのことを忘れていた(外国語の年賀状を出すこと自体は、それほど難しいことでも、また珍しいことでもない)。

 女子サッカーの皇后杯2回戦で、横浜シーガルズはなでしこリーグ1部の大阪高槻を3-1で破り、3回戦に進出した。2部チームが1部のチームを破ったのは大殊勲というべきである。リーグ戦では不振だった分、トーナメントで頑張ってほしい。天皇杯で2度優勝した横浜フリューゲルスの強さの何分の1かでも継承していってほしい。

10月30日
 爪が伸びてきたのだが、爪切りが見当たらないので、東急ハンズで探したところ、「関の孫六」の爪切りというのを見つけて、買い求める。
 中山安兵衛は
 高田馬場で18人を斬って伯父の仇を討ち
 (実際に斬ったのは3人だったそうだ)
 憂国の士
 三島由紀夫は
 腹を切った
 その関の孫六で
 たんめん老人は
 爪を切る。
(どうもだんだん、スケールが小さくなる。)

 横浜FCはアウェーでレノファ山口を2-0で破る。イバが2得点を挙げる。J1のスカウトが大勢、試合を観戦していたそうだ。

10月31日
 NHK「ラジオ英会話」の”Try It in a New Situation"ではその日の会話を”My Darling Clementine"(愛しのクレメンタイン)の旋律に合わせて歌うという試みがなされた。この歌、1947(昭和22)年に日本で公開された(前年11月製作)映画『荒野の決闘』(My Darling Clementine) の原題となっている。旧制第三高等学校の山岳部が日本語の歌詞をつけた『雪山讃歌』は日本で広く歌われている。作詞の中心になった西堀栄三郎は、後に日本の最初の南極越冬隊の隊長となったのはあまりにも有名。彼の著書としてベストセラーになった『南極越冬記』は実は、彼のメモ類をもとにして梅棹忠夫が書いたという話もかなり有名である。

 椎名誠『どーしてこんなにうまいんだあ!』(集英社文庫)を読む。小岩のぼろアパート克美荘での共同生活、あやしい探検隊(第一次、第二次)、さらに怪しい雑魚釣り隊を通じて出会い、身につけた料理⁉の数々が披露される。すでにおなじみのものが多いのだが、改めて読んでみても、その面白さがあせないところが、この著者の文章の魅力である。

11月1日
 『朝日』朝刊に、「今なお 愛されスヌーピー」という見出しで、チャールズ・シュルツの『ピーナッツ』の衰えない人気についての記事が出ていた。『ピーナッツ』に登場する子どもたちは、文化と年齢を越えて、我々に身近な感じがする。愚妹は、私がチャーリー・ブラウンに似ているという。そういう彼女はサリーに似ているといえるかもしれない。なぜか、私の周辺の女性は、サリーに似ているタイプが多い。チャーリーの親友はライナスだが、私の友人でライナスに似ているのはいないような気がする。似ているところがあっても、ライナスほどの天才ではなかったりして・・・。

 亡母の93回目の誕生日。特に、記念するようなことはせず。

11月2日
 NHK「ラジオ英会話」は、講師の遠山顕さんが体調を崩したということで、予定を変更して2014年11月に放送された”Arizona Adventure"を再放送している。退職したハーヴィーは妻のシャーリーと、退職記念の旅行に出かけるが、悪天候でアリゾナ州のフェニックスに向かう予定の飛行機がトゥーソンに迂回することになり、たまたま大会がいくつか開かれているために、トゥーソンのホテルはどこも満員ということで、やっと見つけたホテルの部屋がハーヴィーには気に入らない。そういう彼にシャーリーが一言:
Beggars can't be choosers. (乞う者は選ぶ者になれず。⇒選り好みをしてる場合ではない。)
 手元にあるRonald Ridout & Clifford Witting, English Proverbs ExplainedにはBeggars must not be choosers.という形で出ていた。

11月3日
 『朝日』朝刊の地方欄に、神奈川県の女性サッカーチームとして初めて、ノジマステラ相模原がなでしこリーグ1部への昇格を果たしたことが報じられていた。相模原市も競技場の整備など、支援を惜しまないようである。

 ニッパツ三ツ沢球技場で横浜FC対モンテディオ山形の対戦を観戦する。「明治安田生命横浜支社」Special Matchということで7,000人近い観客が入っていたが、依然としてゴール裏のサポーター席に空席が多い。山形のサポーター席の方がぎっしり埋まっている感じであった。J1への昇格のためのプレイ・オフ進出への可能性を残した横浜と、J2からの降格の瀬戸際の山形の対戦であるが、山形の方が思いが強いようで、前半から押しまくられた。しかし、MFの松岡選手が反則を重ねて退場となり、山形は1人少ない陣容での試合を余儀なくされる。横浜は前半39分に得たFKのチャンスをイバ選手が絶妙のキックでものにして1点を先行、前半を終える。後半、76分に山形は佐藤選手のゴールで同点に追いついたが、87分に横浜はゴール前のもみ合いからDFの永田選手がこぼれ球を左足で押し込んでゴールを決め、これが決勝点となった。ハーフ・タイムの「世界の奥寺が斬る」のコーナーで奥寺さんが話していたように、山形の方のプレーに負けるものかという気持ちが感じられたのに対し、横浜はなぜかそういう闘志が感じられなかった。ただ、山形の気持ちの強さが、反則の多さにつながってしまったのが、敗因となったのではないかと思われる。とにかく、勝ちは勝ちで、横浜は7位に浮上、プレイ・オフへの希望を残した。しかし、今一つ選手の闘志が不足しているように思われるのと、後半、再三の好機にイバ選手がゴールを決められなかったのが気になるところである。

 NHKラジオ「まいにちイタリア語」応用編「古代ローマ幻想散歩」では”La donna e la sua condizione sociale" (女性とその社会的立場)が話題として取り上げられた。
Nella Roma di età monarchica e republicana alle donne non era consentito parlare in pubblico. (王政期、および共和政期のローマでは女性は人前で話してはいけなかった。)
 しかし、共和制末期になるとこのような状況は変わり始め、帝政期になると、自分の教養を披露し、公共浴場に通い、ワインを飲む女性たちが現れ、そして自分の好きな時に離婚する女性さえいたとのことである。

 NHKカルチャーラジオ「鴨長明と方丈記」は第5回「鴨長明の前半生」、彼が育った父方の祖母の家を離れて、孤独感を深めたこと、音楽、和歌に才能を発揮し、当代一流の歌人としての地位を築いたが、彼の歌の中には『方丈記』やそれ以外の著作の内容と関連するものがみられることなどが語られた。

 NHKラジオ「実践ビジネス英語」の”Quote...unquote"のコーナーで紹介された言葉:
The most certain sign of wisdom is cheerfulness.
   ---- Michel Eyquem de Montaigne
(French philosopher and essayist, 1533-92)
(賢さを最もよく表しているのは、性格の明るさである。)
 モンテーニュらしい言葉だと思う。

昨日、このブログで取り上げた『猫がこんなにかわいくなった理由』(PHP新書)の著者遠山奈緒子さんのブログ「大妻女子大学社会情報学部環境情報学専攻黒瀬ゼミの活動記録」から訪問を受けた。当ブログに訪問を頂いている方々の中にはネコ好きの方も多いようなので、ぜひ、このブログもご覧になることをお勧めしたい。

 11月5日(土)13時から川崎市の等々力総合競技場で全国高校サッカー選手権の神奈川県大会準決勝、相洋高校対法政二高、15時から桐光学園対座間高校の試合が行われる。これまでも準決勝と決勝は見てきたので、今年も見に出かけたいと思っている。
 

黒瀬奈緒子『ネコがこんなにかわいくなった理由 No1ペットの進化の謎を解く』

11月2日(水)曇り、一時雨

 11月1日、黒瀬奈緒子『ネコがこんなにかわいくなった理由 No1ペットの進化の謎を解く』(PHP新書)を読み終える。

 この書物の「はじめに」の部分で断っているように、著者である黒瀬さんはネコの専門家ではない。主な研究対象はイタチ科の動物で、食肉目イタチ科の「分子系統学」的研究で博士号をとり、その後、「保全遺伝学」さらには「保全生物学」に研究の力点を移したという。イタチ科の中でもオコジョに強い興味を持っており、ライフワークとして追い続けている一方で、二ホンイタチや、アナグマ、さらにイヌ科のタヌキやキツネ、(イタチ科の)「外来種」であるアライグマやハクビシンにも関心をもっているという。しかし、子ども時代から動物が好きで、たくさんのペットを飼ってきたし、その中にもちろんイヌやネコもいた。また野生動物にも関心を抱いていたので、「伴侶動物」としての側面と「外来種」としての側面とがあるネコについて二律背反的な気持ちを持っており、それが執筆の背景をなしているという。

 第1章「ネコが来た道」ではネコがいつ、どこで、どうやって飼いならされ、ヒトのそばで生活するようになったかがたどられている。通説では古代エジプト人が約3600年前にネコを飼い始めたとされてきたが、2004年に地中海のキプロス島で9500年前の墓に人とネコが一緒に埋葬されている事例が見つかった。人が農耕生活を営み、定住するようになると、貯蔵された食物を狙ってネズミが近づき、そのネズミを狙って今度はヤマネコがヒトに近づいて、ヤマネコがネコになり、約1万年前ごろからネコがヒトのそばにいるようになったと考えられる。小型のネコ科動物であるヤマネコはヒトにとって警戒心を与えない大きさであったことが両者が接近した理由であろう。

 ヤマネコは5つの系統に分かれて、各地に生息しているが、遺伝子解析の結果、それらのヤマネコの中でリビアヤマネコと呼ばれる品種だけがネコと区別できないほどよく似た遺伝子パターンを持っていることが分かった。リビアヤマネコはほかのヤマネコと違い、ヒトに対して比較的警戒心が弱く、またヒトになつく性質があったために、ネコの祖先になったのだと考えられる。また、その生息地域がメソポタミアであった(リビアヤマネコというから、北アフリカにすんでいるのだと思ったが、北アフリカから中近東、さらには中央アジアにまで住んでいるようである)ことも大きく影響した。そして農耕の広がりとともに、ネコも各地に移動していった。

 ネコはヒトの命令をほとんど聞かないので、ネコがヒトに近づいたのはむしろネコの方の都合によるものであったと考えられる。ネコにはネズミを捕るほかに、イヌほどではないにせよ、他の動物を近づけないという役割もあるようである。またネコには人に「飼いたい」「かわいい」という気持ちを起こさせる身体的な特徴があり、ヒトとの距離は縮まっていったが、完全に家畜化するまでには6000年ほどの年月がかかった。エジプト文明はヤマネコを飼いならしてネコにしたのではなかったにせよ、ネコのペット化を促進し、ネコを世界に広めたのである。

 日本では弥生時代の中期にネコが飼われていた痕跡がある。日本のネコというと短尾が特徴であるが、古い時代のネコは長尾で短尾のネコが多くなったのは江戸時代に入ってからのようである。しかし、最近は外来のネコとの混血が進んで、長尾のネコが増えているので、二ホンネコの保存も課題になってきている。

 第2章「ネコ科はどう生まれたか」では、原始生命から哺乳類、「食肉目」、「ネコ科」への進化の過程が分子系統解析の結果に基づいて語られている。「食肉目」はネコやジャコウネコが属するネコ亜目と、オオカミやクマ、イタチなどが属するイヌ亜目に分けられ、ネコ亜目は、ネコ科、ハイエナ科、ジャコウネコ科、キノボリジャコウネコ科、マングース科、マダガスカルマングース科の6つに分かれ、ネコ科の各動物は捕食者として高度に特殊化を遂げたさまざまな種に分かれてきたという。

 第3章「ネコはどうして生まれたか」ではネコ科に属する動物の種類や分布が概観されている。ネコ科に属する動物は37種で、イエネコをリビアヤマネコの亜種と考えれば36種となる。ネコ科の動物は8系統に分類される。大型ネコ(ライオンやトラなどの「ヒョウ系統」)、「ボルネオヤマネコ系統」、「カラカル系統」、「小型オセロット系統」、「オオヤマネコ系統」、「ピューマ系統」、「ベンガルヤマネコ系統」、「イエネコ系統」である。ネコ科動物はアジアを期限に世界中に移動し、様々な環境に適応している。それだけでなく、藪に潜むトラ、高山のユキヒョウ、樹上も利用するウンピョウというように、それぞれの好む環境や生活圏、えさの種類などを変えることでニッチをずらし、無駄な争いを避けてすみわけを実現してきた。しかし、ヒトとの衝突のために、多くの種が絶滅の危機に瀕している。その中でネコだけは減ることなく、繁栄を続けているのが現状である。(有名な「化石種」であるサーベルタイガーが実はネコ科ではないとか、ライオンがかつては世界じゅうに分布していたとか雑談用の話題には事欠かない章である。)

 残る3章の紹介はまた別の機会に譲ることにして、ここまで読んだ感想を述べると、まず、当然のことながら、非常に科学的にネコとネコ科の動物について、またその他の動物についての情報が記されているということである。先日、酒を飲んでいたら、隣の席で「アライグマはタヌキ科だ(実際はイタチ科、タヌキ科というかはなく、タヌキはイヌ科に属する)」というようなでたらめを吹聴する酔っ払いがいたが、動物の分類と進化について最新の学問的知見に基づいて概説してくれているのは、非常にありがたい。この点については、ネコ好きでなくても大いに役立つと思われる。
 このことと関連して、著者が動物全般に興味があるため、客観的にネコの特徴をとらえているところがあるということも言える。特に著者が専門とするイタチ科のフェレットが最近人気を集め始めていることをめぐっても、おそらくはネコに及ばないだろうと述べているところなどは興味深い。
 それからネコの進化をめぐっては、遺伝子解析の結果など科学的なデータだけでなく、ヒトの社会や文化とのかかわり、特に農耕文化の発展というような事柄と結びつけて議論を展開していることも注目される。ネコについての知識を増やすだけでなく、動物一般についての知識をより確実なものにし、人間と動物の関係について考え直す機会を提供する書物であるといえよう。

ダンテ・アリギエリ『神曲 天国篇』(5-2)

11月1日(火)午前中は雨、午後になって晴れ間が広がる

 ベアトリーチェに導かれて、地上楽園から月に到達したダンテは、そこで誓願を果たすことのできなかった霊たちに出会う。彼は、霊たちとの出会いを通じて、暴力によって誓願を果たすことができなかった場合でもその責任は本人に帰せられるのか、人間の魂は天上から来てまた天へと戻り、さらにまた別の人間と結びつくことがあるのか、誓願を果たすことができなくても、それと同等の行為をすることで埋め合わせることができるのかという疑問を抱く。ベアトリーチェは、たとえ暴力によって邪魔されても本人に責任はある、人間の魂はその人間に固有のものである、人間の自由意志に基づく誓願は神聖なものでほかの行為によって埋め合わせは出来ず、それゆえ誓願を立てる際には慎重でなければならないと答える。

 こうして答えたのちに、彼女は神を念じようとして沈黙した。(念じることによって別の天へと移動しようとしているのである。)
その方の沈黙と変容した姿は、
好奇心に満ちたわが知力に黙するよう強いた。
すでに新たないくつかの疑問を前にしていたのだが。
(84ページ)

 ベアトリーチェとともに、ダンテは月天から新しい天へと移る。
そして、弦が静止するより早く
的を射抜く矢のように、
私たちは第二の王国へと走りついた。
(同上) 2人は「第二の王国」=水星天に到着する。

ここに私は見た、歓喜にあふれたわが貴婦人を。
その天空の光の中に入られた時、
それゆえに惑星は輝きを増したのだ。

そして星でさえ変容し微笑んだのなら、
まず本性からしてどのようにも変わりやすい
この私が一体どれほど変容したことか。
(84-85ページ)

 そして2人が近づいてくるのを見て、彼らの方に多くの魂たちが向かってきた。
優に千を越える輝きが私たちのほうに寄ってくるのが
私には見えた。各々の中に声が聞こえた。
「おお、私たちの愛を豊かにする人がここに」。

皆が私たちに向かって近づくにつれ、
彼ら自らが放つ光輝の中に、
喜びにあふれる影が見えてきた。
(85ページ) 魂たちが彼らに近づいてくるのは、愛のためである。(第4歌で明らかになったように、魂たちはもともと至高天にいて、そこからダンテに会うためにやってきたのである。) 魂たちの放つ光(それは愛の強さを示すものであるが)を見て、ダンテはその地上における境遇を聞きたいと思う。そしてベアトリーチェの励ましもあり、彼は魂に言葉をかける。
…するとその光は
前よりもはるかに輝きを増した。

太陽が光を和らげる濃い朝靄を
熱で消散させると、自らを
強すぎる光で隠すように、

聖なる姿はさらなる喜びのために
光の放射に包まれて私から姿を消した。
(88-89ページ) この魂が何者であったかは、次の第6歌で明らかになる。翻訳者である原さんは、月天でダンテが会った魂たちが人間的な表情を見せていたし、ベアトリーチェも人間的な表情を浮かべていたのが、水星天になると魂たちの神に近づいた側面が強調されているという。

 ダンテの『神曲』の描く宇宙はプトレマイオスの天文学の体系に基づいているが、そこでは、地球の周りを月、水星、金星、太陽、火星、木星、土星が回っていると考えられていた。水星は動きが速いので、地球に近いと考えられたのであろうか。しかし、ギリシアのヘーラクレイトスは観測に基づいて、水星と金星とは太陽の周りを廻っていると考える方が合理的であると考え、アリスタルコスなどは太陽が地球の周りをまわるのではなく、地球が太陽の周りをまわると考える方が合理的であるとした。ギリシアの学者たちが自分で空を眺めて観測した結果を重視していたことは称賛に値する。5大惑星のうち、金星、火星、木星、土星は比較的容易に観測できるのだが、1年のうちの限られた時期の、早朝と夕方に、地表すれすれのところに出現する水星は難しい。ダンテ自身は、水星を見たことがあるのだろうか。
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Author:tangmianlaoren
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