2016年の2016を目指して(10)

10月31日(月)晴れのち曇り

 ハロウィーンで仮装した子ども(だけでなく大人)がうろうろしている一方で、今年もあと2か月かという声もあちこちで聞かれる。
 10月の特に初旬は体調が悪かったために、あまり遠出をしなかった。新しく出かけたところもなく、足跡を記したのは、1都2県、2市6特別区、7社11路線18駅、5社20路線19停留所という数字は変化していない。〔91〕

 この原稿を含め、ブログを31件投稿、内訳は読書が10、『太平記』と日記がそれぞれ5、ダンテ・アリギエリ『神曲』が4、未分類が3、外国語が2、詩と映画が各1ということである。1月からの通算は308件ということである。今月は6件のコメントを頂いた。9月の7件には及ばないとはいうものの、それに次ぐ数である。1月からの通算は31件ということになる。トラックバックはなく、1月からの通算でも1件のみである。拍手は637拍いただいている。1月からの通算は7358拍である。拍手コメントはなく、1月からの通算は12件のままである。〔352〕

 13冊の本を買い、8冊を読んだ。1月からの通算では121冊の本を買って、94冊を読んでいることになる。読んだ本はM・W&W・ウェルマン『シャーロック・ホームズの宇宙戦争』、造事務所『仰天⁉ 乗りたい 日本と世界の長距離列車』、ディーノ・ブッツァーティ『古森の秘密』、Alessandro Giovanni Gerevini, Dolcissimo italiano, 家入一真『さよならインターネット』、田中啓文『シャーロック・ホームズたちの冒険』、大橋泰夫『出雲国誕生』、椎名誠『どーしてこんなにうまいんだあ!』である。2か月づけて読んだ本が10冊に達しなかったのは、海外で過ごした1999年以来のことではないかと思う。9月はそれでも読んだ本の内容と多様性を言い訳にできたが、今月はその点でも後退している。11月は何とか巻き返さなければなるまい。〔本を買った書店の数4を足して、98〕

 「ラジオ英会話」を21回(10月分20回、11月分1回)、「実践ビジネス英語」を12回、「攻略!英語リスニング」を10回(9月分2回、10月分8回)を聴いている。1月からの通算では「ラジオ英会話」が200回、「実践ビジネス英語」が119回、「攻略!英語リスニング」が80回ということである。このほかに、「入門ビジネス英語」を72回聴いた(10月からも聴き続けているが、4~9月放送分の再放送なので、数に入れていない)。さらに、「ワンポイント・ニュースで英会話」を21回、その他の英語番組も聞いているが、これも数に入れないことにしている。
 また、「まいにちフランス語」を21回(10月分20回、11月分1回)、「まいにちスペイン語」を20回(10月分19回、11月分1回)、「まいにちイタリア語」を19回(10月分10回、11月分1回)聴いている。1月からの通算では「まいにちフランス語」が186回、「まいにちスペイン語」が20回、「まいにちイタリア語」が185回である。中国語とロシア語をあきらめた代わりに、むかし、かなりの時間をかけて勉強したスペイン語について、また勉強というか、耳慣らしをしてみることにした。
 このほかに、カルチャーラジオの「鴨長明と方丈記」を4回、「漱石、近代科学に出会う」を3回聞いている。〔869〕

 映画は『奇蹟がくれた数式』を見ただけに終わった。1月からの通算は50本である(9月の集計がどうも間違っていた)。映画を見た映画館の数は8館のままである。〔58〕

 サッカーの試合はJ2の2試合を見て、1月からの通算は35試合となった。出かけたスタジアムは2か所で変わらない。J2の試合は残り少なくなったし、なでしこリーグは終わってしまったが、これから全国高校選手権の神奈川県大会があるので、もう少し数字は伸ばせると思う。〔37〕

 A4のノートを3冊、A5のノートを1冊、ボールペンの芯(黒)0.5ミリを4本、0.4ミリを1本、0.7ミリを1本、筆ペン(薄墨)を1本、テキストサーファー(黄)を1本使い切った。

 酒を飲まなかった日が18日ある。

 〔 〕の中の数字を合計すると、1505ということになり、2016を達成するためには、10月末で1680くらいになっていないといけないので、かなり数字が足りない計算である。ここに書いた以外の領域でも数字をまとめて、何とか2016に近づけてやろうと考えている。

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大橋泰夫『出雲国誕生』

10月30日(日)曇り

 大橋泰夫『出雲国誕生』(吉川弘文館・歴史文化ライブラリー)を読み終える。

 古代(この言葉を安易に日本の歴史にあてはめてよいのかという疑問はあるのだが…)の国郡制に基づく地方行政のシステムがどのように成立し、機能していたかを、出雲(島根県東部)における考古学的な調査の結果から明らかにしようとする書物である。このような書物の主題から、さまざまな遺跡の様子を踏まえて、主として奈良時代の出雲がどのような様相を呈していたか、それがほかの国々とどのように共通するか、あるいはしないと考えられるかということが論じられている。著者は栃木県(≒下野国)出身で、現在は島根大学の教授であり、奈良時代の日本国家にとって、それぞれ固有の意味で重要な存在と考えらえていた地方の様子をより具体的に理解しようというのが出発点であったと思われる。

 実際のところ、私はもっと古い時代の出雲の様子に興味があって、あまり内容を確かめずにこの書物を買ってしまったので、多少の違和感を持ちながら読み進むことになったのだが、出雲が日本海を隔てた対岸の異国との交流をもっていたこと、出雲における仏教の受容の具体相と神社の様子など興味深い事柄を知ることができた。律令制のもとでの地方行政制度の整備の実情を知るという著者の意図も、これらの事柄、さらには「古代」における道路(と道路行政)の実際が考古学的な知見をもとに詳しく論じられていることで、さらに補強されていると思う。

 書物は次のような構成をとっている。
古代出雲国の成立――プロローグ
姿を現した出雲国府
 地方の古代都市
 国庁の建物をさぐる
 出雲国府と国郡制の成立
郡から見た出雲国
 地方支配の拠点
 出雲国の郡家
 郡家と正倉
 動く郡家
祈りの場
 『出雲国風土記』と寺院
 仏教の浸透と広がる寺院
 出雲国分寺の造営
 出雲の神社
出雲国の道と景観
 姿を現した正西道
 官道と国府・駅
 外国への窓口としての出雲国――エピローグ

 奈良時代(とそれ以前)における出雲国の様子は天平5年(733)に中央政府に提出された地誌である『出雲国風土記』に記されている(後で論じられるが、この時点においては出雲国分寺は造営されていない)。各国にその編纂が命じられた『風土記』の中で現在、完全な形で残っているのは『出雲国風土記』だけであり、このため、この書物は出雲だけでなく、古代の日本を研究するうえで重要な史料の1つとなっている。この書物の内容と、考古学的な知見とを組み合わせて、著者は古代出雲、さらには奈良時代の日本における地方行政の整備の様相を掘り下げていくのである。

  「出雲国の中心にあったのは国府であり、『風土記』に「国庁」として記され、北側の十字街(じゅうじのちまた)付近には意宇(おう)郡家、黒田駅(くろだのうまや)、軍団が置かれていた。出雲国は松江市大草町を中心にした意宇平野に位置し、六所神社の境内地と重なって中心施設の国庁が見つかり、その後方に展開する実務的な官衙(役所)施設とともに史跡公園となっている。」(1-2ページ) 国府の設置によって、「政務と儀礼空間の国庁や実務的な官衙施設、国司館の設置、直線的で大規模な正西道の建設とそれを基準とする条里施行など、それまでの出雲になかった都市的空間が形成された。」(3ページ) 著者は国郡制の施行により、出雲においても従来になかった都市的な空間が作り上げられたことの意義を強調したいようである。(かつてはそのような都市的空間があった場所が、現在では水田が広がるだけの場所と化していることも見落とされているわけではない。)

 人民の統治を進めるうえで都を立派にすることが重要であるという考え方は『続日本紀』の神亀元年(724)年の太政官奏言に見えるという。そこでは経済的に余裕のあるものはできるだけ瓦葺の家を建てるように要望がされていた。このような歴史的背景をもとに建造された家の瓦が考古学的な遺物として残り、律令国家の成立と天界の過程を知るための手掛かりを提供しているという。そして、地方支配の拠点として設けられた国府も都に倣い、地域の人々に国家の権威を誇示するために瓦ぶきの建造物を造営し、道路を整備したのである。

 出雲国は7世紀後半に領域的な国が成立し、それに伴って国司が派遣され、国府が成立したことをきっかけとして官衙や官道が一体的に整備されたことが『出雲国風土記』によって知られる。この時代に国も地域社会も大きな変容を遂げることになる。そのような変容の実態が出雲国の国府やその他の施設の発掘を通じてわかるというのである。

 長年の発掘調査の結果として、出雲国の国府の様子は明らかにされてきている。こっくふは地方支配の拠点として、儀礼を行う国庁を中心に国司の居宅である国司館や様々な施設が設けられ、周辺には寺院や神社、工房や市、津などが置かれた。「大陸風の丹塗り白壁造りの建物が立ち並び、それまでの古墳時代から続く景観とは大きく異なる、地方における古代都市であった」(17ページ)という。

 出雲国府の創設は、考古学的な発掘調査の成果によれば7世紀後半にさかのぼり、役所に特有な大型の掘立て柱建物が見つかっている。各地の国府跡を見ると、今でもその土地の中心地となって市街化が進んでいる場合と中心地でなくなっている場合とがみられるが、出雲の場合は整備された官道の名残である十字街が細い道路の交差点として残るだけで、まったくの水田地帯となっている。また、出雲国府は、平城京のような条坊制をとったものではなく、意宇平野の中に国庁を中心にして、十字街付近が官庁街となっていたと考えられる。(各地で発掘調査が進められているが、国府についてみると、条坊制をとったものと、そうでないものが認められるという。) 

 地方行政よりも寺社に、もっと具体的に言えば国分寺、一宮、総社などがどのようにして成立していったのか、現状はどうなのかということに興味があるので、どちらかというと半身の構えで読み進んだのだが、都市と農村の対立という図式から見ると、日本の歴史にはかなり鮮明な特徴がみられるのではないかという印象を受けた。つまり、オリエントやギリシア・ローマ、さらには中国の場合、都市は自然発生的に形成されたようなのだが、日本の場合は都市を人為的に作り出していったということが特徴的に思われるし、そのことが日本の都市には城壁や環濠をめぐらす例があまりないということと結びつくようにも思われる。各地にこのような人為的な都市を作り出すという施策が相当な無理を伴っていたのではないかということも容易に想像できる。 

『太平記』(130)

10月29日(土)曇りのち雨

 建武2年(1335年)11月、朝敵追討の宣旨を賜った新田義貞の率いる軍勢は東海道と東山道を下り、足利尊氏・直義兄弟のいる鎌倉へと向かった。鎌倉では、直義が兄尊氏に出陣を促したが、尊氏は天皇に恭順の意を示すべきだとして取り合わなかった。23日、直義は伯父である上杉憲房らの勧めで出陣したが、27日、三河国矢矧の合戦に敗れ、鷺坂、手越でも敗退した。鎌倉に帰った直義は、尊氏に兄弟はたとえ出家しても討伐の対象となることに変わりはないという偽の綸旨を見せて出家を思いとどまらせた(『梅松論』では別の理由により翻意したことになっているが、いずれにしても敗戦が続いて状況が切迫したので、やむを得ず出陣したという描き方である)。12月11日、尊氏と直義は出陣し、翌日、箱根、竹ノ下一帯で官軍(義貞軍)と激しい戦闘となった。箱根では義貞軍が優勢だったが、竹ノ下の戦闘で大友、塩冶が尊氏方に寝返り、官軍は総崩れとなった。
 義貞の軍勢は箱根から退却した時には100騎に満たなかったのが、熱田大宮司、菊池の軍勢を合わせて300余騎となり、尊氏勢がすでに占拠していた伊豆の府(こう)を配下の栗生・篠塚の武勇で通り抜け、敗残の兵士たちを集めて2000余騎となって西へと向かった。

 「この勢にては、敵たとひ百重千重に取り籠(こ)むとも、などか懸け破つて徹らざるべき」(第2分冊、391ページ、この軍勢であれば、敵がたとえ百重、千重に取り囲んだとしても、どうして駆け抜けて通れないということがあろうか)と喜んで進んでいくと、黄瀬川宿(沼津市黄瀬川)で2,000余騎の軍勢に遭遇する。旗印を見ると、足利方の小山判官の軍勢らしい。新田一族の山名・里見の人々を中心にこの軍勢に攻めかかり、100騎ばかりを討ち果たして、通り抜けていく。

 こうして愛鷹山の南側の麓にあった浮島原という湿地帯を過ぎていくと、松原の影にまた軍勢とその旗印が見える。土地の人々に敵か味方かを聞くと、足利方の甲斐源氏(武田・一条・小笠原)の軍勢であるという。これは良い相手に巡り合った、取り囲んで打ち取ろうと、2,000余騎の軍勢を2つに分けて、南北から押し寄せると、敵わないと見たのか、甲斐源氏の軍勢は一矢もいることなく、降参した。

 降参した甲斐源氏の軍勢を先頭にして進んでいくと、新田の中黒の旗を見て、これまで隠れていた新田勢の武士たちが、あちこちから駆けつけて、7,000余騎となった。これだけの軍勢が集まれば大丈夫だと喜んで、現在の富士市内である今井・見着(附)を通り過ぎるあたりで、また2,000余騎ばかりの軍勢を見かける。降参して先頭を進んでいた甲斐源氏の一団にこの敵は誰かと尋ねると、これは武田、小笠原の者どもであるという答えである(これまた甲斐源氏の一団である)。そうであれば、攻め滅ぼせと攻撃に取り掛かるのを、新田16騎の1人である高田薩摩守義遠が、この敵を全滅させようと攻めかかれば、味方にも相当な損害が出るでしょう。大敵は囲まずに(逃げ道を残して)攻める方が有利に戦うことができますと進言する。新田の家来である由良・船田が、なるほどその通りであると、東の方を開けて、三方から攻めかかると、敵のこの軍勢は少しばかり遠矢を射ただけで、東の方へと逃げていった。

 この後は、あえて新田軍の進路を遮ろうとする軍勢にも出会わなかったので、負傷者を助け、遅れてきた軍勢を待ちつれて、12月14日の暮れ方には天竜川の東の宿にたどり着いた。

 その折、川上に雨が降って、川の水が増水していた。長い行軍で馬が疲れているので、川の中を騎馬で渡るのは難しいと判断して、付近の民家を壊して、浮橋を作った。この時、もし足利方の大群が、あとから追いかけて新田軍と戦っていれば、京勢を全滅させることもできただろうに、足利方では吉良・上杉の人々が議論を続けていて、3・4日を無駄に使ってしまったために、川の浮橋を間もなく軍勢が渡ってしまった。『太平記』本文には「数万騎の軍勢、残るところなく一日が中(うち)に渡つてけり」(第2分冊、393ページ)とあるが、新田勢が数万騎であったとすると、これまでの記述と整合しない。なお、吉良は足利一族、上杉は足利氏の譜代の家臣で、尊氏・直義兄弟の母=上杉清子の実家である。

 兵士たちを皆渡し終えたのちに、大将である義貞とその執事(家老)の船田入道が渡ろうとすると、軍勢の中に裏切り者がいたらしく、浮橋を1間(1.8メートル)ばかり縄を切って空いた部分を作っていた。馬の口取りの下男がそれとは知らず、馬をひいて渡ろうとしていたのだが、馬とともに川の中に落ちて、浮かんだり沈んだりして流されていくのを船田入道が見て、誰か、あの馬を引き上げろと芸すれば、その後に続いてた栗生左衛門が鎧を着たまま川の中に飛び込み、2町(1町は約109メートル)ばかり泳いで馬に追い付き、馬と下男を左右の手で差し上げて、肩を超す水嵩の川の流れの中を静かに歩いて、対岸へとたどり着いた。

 この馬が落ちた時に、橋がさらに2間ばかり落ちて(ということは3間≒5.4メートルほど、浮橋が開いてしまっているということである)、わたることができそうもなくなっていたのだが、船田入道と義貞とは2人で、手を取り組んでゆらりと跳び渡ってしまった。(5メートル以上の間隔を跳び越えるということは、走り幅跳びの記録を参考にして考えると、かなり難しいことではないかと思う。まして、2人は鎧兜に身を固めているのである。) その後についていた20人ほどの武士たちは、跳ぶこともできそうにないので躊躇していたのを、伊賀の国の住人の名張八郎という、大力の武士が、渡してやろうと、鎧を着た武士たちの鎧の背中についている総角結びの飾りひもをとって持ち上げて、20人ほどを投げて渡した。さらに2人残っていたのを左右の脇に軽々と挟んで、1丈あたり落ちていた橋をゆらりと飛んで、向かいの橋げたを踏んだのだが、踏むところが少しも動かず、実に軽やかに見えた。(その前に3間といっておいて、すぐに1丈という。どちらが正しいのか、判断に迷う。1丈であれば、普通の成人男性が飛び越えられる間隔である。) これを見ていた人々は、ものすごいものだなぁ、凡人にできることではない、大将といい、部下といい、どちらが劣っているとは思えないが、(これだけの力がある人々の軍勢が)武運拙く、この戦に負けてしまったのは嘆かわしいことであると口々に述べたのであった。

 その後、浮橋を切って流してしまったので、敵が押し寄せてきても、簡単に天竜川を渡れるはずがなかったのに、浮足立った軍勢の常として、大将と心を合わせさらにまた一合戦しようと思う者がいなかったのであろうか、矢矧に1日宿営しているうちに、昨日まで2万余騎あった兵が、あちこちに逃げ散ってしまって、3分の1もいなかった。(もともと7,000余騎であったのが、数万余騎になったらしいのだが、その過程が描かれていない。途中から降参して軍勢に加わった甲斐源氏の一群などはこの機会に逃げていったということは十分に考えられる。あるいは、2万余騎になったというのにも、誇張があるのかもしれない。なお、『梅松論』には、兵が橋を切り落とそうとしたのを義貞はやめさせ、渡し守に橋を警護させて去ったので、尊氏の兵はその振る舞いに感激したとあるそうである。) 

 早朝、京方についていた宇都宮一族の惣領である宇都宮治部大輔が義貞の前にやってきて、味方の軍勢が手薄になってきているようなので、このままここにとどまっていると、敵襲を受けた際に危ない。もう少し都の方に後退して、葦数(あじか=岐阜県羽嶋市足近町)、墨俣(大垣市墨俣町)を前に臨むような、京都に近いところに陣を張るほうがよろしかろうと思いますと述べた。ほかの大将たちも、都のことが心配に思われるので、都から遠いところに長くいるのもどうかと思うと同意した。義貞は、そういうことであれば、ともかく皆さんのご意見に従おうとその日のうちに尾張の国まで退却した。

 退却しながらも、義貞軍はその武勇の片鱗を示す。そのあたりに『太平記』の作者の義貞への同情心が感じられる。その一方で、現実的な打算だけで義貞軍と尊氏軍の間を行ったり来たりしている武士たちがいることも読み取れる。一般の武士たちは後醍醐天皇の朝廷から、義貞ほどの厚遇を受けていないので、朝廷でも「幕府」でも自分を優遇してくれる方の味方をしようと思っているわけである。

佐藤信也『周――理想化された古代の王朝』(5)

10月28日(金)曇りのち雨

 第1章「創業の時代」と、第2章「周王朝の最盛期」では、殷にとってかわった周王朝が祀(祭祀)と戎(軍事)という2つの働き(という言葉を著者は使っていないが)を通じて支配を行い、その最盛期を現出した西周の前半の時代、第3章「変わる礼制と政治体制」と第4章「暴君と権臣たち」では礼制と政治の在り方の改革にもかかわらず、西周が衰退した後半の時代の動きをたどっている。西周最後の王である幽王が敗死、次の平王は都をより東方の洛邑に移す。これ以後を東周という。第5章「周室既に卑し」では周が東遷したのちの、「春秋」期における諸侯たちの動き、特にその中の軍事的な指導者である覇者がどのように礼制を扱ったかを中心に時代の変化を描いている。第5章の最後で、周王朝が「祀」の維持のための努力をつづけた一方で、春秋後半期以後に新しい潮流が起きて、王朝は次第に「祀」の中心から外されていくと、第6章以下の内容が予示されている。

 第6章「継承と変容」では春秋後半期における新しい動きを具体的に追っている。東周王朝は、覇者たちが西周的な枠組みを尊重する意識をもっていたことを利用して、西周以来の伝統を強調することで、王朝としての「祀」の存続を図ったが、春秋後期になるとそのような枠組みや意識を乗り越えようとする動きが起こってきたという。西周の時代において、天命を受けて四方を領有し、平和を実現する「天子」は周王だけであったのが、この時代になると秦や呉のような辺境の諸侯たちが「天子」と自称するようになる。紀元前600年ごろになると、貴族の階層によって墓葬に用いられる礼器の種類が使い分けられるようになった。諸侯や上級の貴族は、西周後半期の形式を模した復古調の礼器を用いるようになったという。

 このような儀礼の再編は、孔子を開祖とする儒家の誕生と、その思想が社会に受け入れられる背景となったと考えられる。孔子は西周、特に自分が生まれ育った魯の始祖である周公旦を理想視していた。孔子の活動した時期は、呉・越対立の時期と重なる。その後儒家たちは、自分たちが西周の礼制と信じるものを体系化し、『周礼』『儀礼』や『礼記』に収録されている諸編といった礼に関する書をまとめ、礼制を成文化した。身分ごとに守る礼制を区別する儒家の考え方は諸侯や上級貴族にとって受け入れやすいものであった――というよりも、儒家の方が彼らの要請に応えようとしたといえるのかもしれない。しかし、彼らの主張にもかかわらず、彼らが「西周の礼制を忠実に再現し、取り入れることができたわけではない」(186ページ)。時代の隔たりは大きく、社会も変化していたのである。例えば、『礼記』の諸編では天子・諸侯・卿・大夫・士・庶人と身分を区別しているが、西周末以前には卿とか大夫とかいう呼称自体が存在しなかったという。「要するに儒家の提示した礼制とは、当時の東周の礼制に、彼らが西周のものと信じる要素…を加えて復古的なものに仕立て上げ、体系化したものだったのである。」(187ページ)

 儒家はまた、礼制に道徳的な要素を付け加えた。例えば、もともと祖先の霊をもてなすという意味であった「孝」が父母や直系の祖先への奉仕という意味を持つものとされ、儒家の思想の中で仁や忠などとともに重要な徳目の1つとして位置づけられるようになる。「三年の喪」も、その人の孝の精神を示すための儀礼的な手段として、儒家によって創造されたのではないかと考えられる。

 春秋期には、礼制の再編と並行して西周の歴史や文化に関する事柄のテキスト化が進められた。春秋時代の諸侯の動きを記した『左伝』や『国語』には、この時代の人々が発言の中で西周時代の政治文書や詩を引用する場面が出てくる。そのような引用の中で、もともとのテキストが読み替えられたり、自分に都合よく解釈されたりすることが少なくなかった(孔子はそういう行為に批判的ではなかった)。そして次第に儒家の手によって六経がまとめられていく(『楽経』が失われて五経となる)。こうした文書は広く普及した。しかし、礼制の再編や文献の普及は諸侯や貴族、儒家の人々によって進められたのであり、周王朝は何ら主導権を発揮しなかった。

 終章「祀と戎の行方――戦国時代以後」は、戎が中国を統一した秦、漢によって継承されたのに対し、「祀」の方はそれほど単純には継承されなかったと説く。ここでは戦国時代に入ってからの周王室の衰退と、その権威の喪失(秦の孝公に覇者としての「文武の胙」を贈ったが無視された)、領土の分裂と滅亡について記し、漢の武帝の時代以後、儒学の尊重の機運の高まりから、周の後裔が再び脚光を浴びるようになったという。前漢を滅ぼして、新王朝をを建てた王莽は周公の「祀」を復興しようとしたが、彼が造営させた辟雍は建築物であったが、西周時代の辟雍は祭祀儀礼の場であるとともに、周王の苑囿であったというような誤りがあった。「周王朝の「祀」は、儒教の国教化によって後代の王朝に継承されたが、もとの形のまま継承されたわけではない。「古典中国」の中に埋没してしまった周王朝の「祭祀」を浮かび上がらせるには、その違いを意識するところから始めなければならない」(216ページ)とこの書物は結ばれている。

 新しい考古学的な発見や、文献研究に基づく知見を活用しながら、周王朝の歴史を再現しようとした著者の努力は半ば成功したといってよかろう。特にこの書物で強調されているのは、西周時代の政治を支える重要な手段の一つであった「祀」あるいは礼制が、その後の儒家によって新しい解釈を施され、政治や社会生活の規範として我々の生活にまで影響を及ぼしている一方で、その本来の姿が知られないままであるということである。著者によって再現された「祀」の様相が「劇場型政治」などと呼ばれる今日の政治との共通性を感じさせるのは、興味深いことであり、儒教思想というフィルターを外して国家というものを考えていくうえでも、この書物は重要な手掛かりを与えてくれるのではないかと思う。 

日記抄(10月21日~27日)

10月27日(木)晴れのち曇り

 10月21日から本日までの間に経験したこと、考えたこと、その他:
この1週間、ずいぶん多くの方々の訃報に接した:ラグビーの平尾誠二さん、川柳家の尾藤三柳さん、登山家の田部井淳子さん、俳優の平幹二郎さん、声優の肝付兼太さん、大相撲の元羽黒岩の戸田智次郎さん、作家の高井有一さん、浪曲師の春野百合子さん、そして昭和天皇の弟でオリエント学者であった三笠宮さま。謹表弔意。死はすべての人間に平等に訪れるとは言うものの、同じ歩調で歩み続けているはずの時間が急に足取りを速めたような気がする。私が訃報を気にしすぎているというだけのことかもしれないが…。

 10月20日のNHKカルチャーラジオ『鴨長明と方丈記』第3回「治承の辻風と福原遷都」で長明がこれらの出来事に対し、現地のお状況を積極的に見て回っていることに注目して、それを「当代きっての歌人」であった西行の源平の争乱にかかわるまいとする姿勢と対比している。それぞれ自分の信念に基づく行動であり、どちらがいいというものではないと思う。それに、西行も奈良の大仏の再建に協力というような形で、時代とはかかわっているのである。

 訂正
 10月20日付の「日記抄」10月14日の項で、W.B.イェイツが1865年生まれで森鴎外と同年であると書いたが、鴎外は1862年生まれであった。同じような間違いを繰り返さないように、以後気を付けたいと思う。

10月21日
 NHKラジオ「実践ビジネス英語」の”Quote...unquote"のコーナーで紹介された言葉:
The teacher is one who makes two ideas grow where only one grew before.
          ---- Elbert Hubbard (U.S. author; 1856 - 1915)
(教師とは、それまでアイデアが1つしか育たなかったところに、2つ育つようにする人のことである。)
 そういう教師は実に少ない。

 同じく「まいにちイタリア語」応用編『古代ローマ幻想散歩』ではローマ時代の衣服(l'abbigliamento)について話題にした。典型的なローマ市民の男性はトガ(toga)という服を着ていた。英国やアメリカの高校・大学ではトガ・パーティーというのを催すことがある。むかし『アニマル・ハウス』というアメリカ映画で見たのは、ただトガを着て騒ぐだけのものであったが、本当はラテン語で話をするということらしい。

 NHKカルチャーラジオ『漱石 近代科学に出会う』は『吾輩は猫である』の中のニュートン力学にかかわる箇所を取り上げて、その理解の正確さを示す内容であった。

 NHKラジオの「エンジョイ・シンプル・イングリッシュ」は4月~9月に再放送であるが、昼食に何を食べるかというところでcurry and riceといったのが気になった。curry and riceというのは、少し気取って、カレーとライスが別の入れ物に入って出てくるものをいう。同じ皿の上に載っているのはcurry with riceというはずである。

10月22日
 『朝日』の朝刊に「家庭教育支援 国が方針」という記事が出ていた。家族・家庭の在り方が多様化していく中で、特定の方向だけを推進する施策がとられるとすれば問題である。

 NHKラジオ「攻略!英語リスニング」は”George Gershwin"を話題として取り上げた。彼は20世紀を代表する作曲家の1人であり、
a bridge between popular and classical music in his inimitable urbane way (他の人にはまねのできない、あか抜けたやり方で、ポピュラー音楽とクラシック音楽の橋渡しをした)という。ロシア系ユダヤ人移民の子で、ブルックリンで生まれ育った彼は、ほとんど独学でピアノを学んで、ティン・パン・アレーで「ソング・プラガー」つまり楽譜を探しに来たお客さんに曲を演奏して聞かせる宣伝係として働いていた。ティン・パン・アレーというのはアメリカでもっとも影響力のあった音楽出版社グループの名前で、ニューヨークに実在する地名に由来する名前である。

 サッカーの皇后杯1回戦が各地で行われ、横浜FCシーガルズは5-0で徳山大学に勝利。これからどこまで勝ち進めるだろうか。

10月23日
 『朝日』朝刊に大学入試改革をめぐる記事が掲載されていて、「日本の大学も近年、推薦・AO入試の拡大など入試改革が進展し、優秀な学生獲得で成果を上げ始めた」という意見が出ていたが、実例や数字を挙げて成果を示さないと説得力がないのではないか。推薦・AO入試に向けた受験産業の取り組みの進展というような別の側面も視野に入れて問題を考えてほしいものである。大学は入試改革によって優秀な学生をとることよりも、教育の改革に取り組んで、凡庸な学生を優秀に育て上げることの方に力を入れるべきであるという私の意見に全く変わりはない。

 同じく、書評欄に門玲子編著『幕末の女医 松岡小鶴 1806-73』という書物が取り上げられていた。彼女の日記は当時の女性としては例外的に、風変わりな漢文で記されているという。柳田国男の祖母についての本格的な研究のようである。

 この書物と並んで、ジャック・ルゴフ『時代区分は本当に必要か? 連続性と不連続性を再考する』(藤原書店)が取り上げられていた。これも読んでみたくなる話題を取り上げた書物である。

 ニッパツ三ツ沢球技場で横浜FC対ザスパ草津の試合を観戦する。横浜が開始早々、野村選手のゴールで1点を先行するが、草津に連続して得点を許し、1-2で前半を終える。後半52分にイバ選手のミドル・シュートが決まって追いつくと、73分に津田選手がゴールを決めて逆転、そのまま逃げ切って3-2で勝利した。順位は依然として8位、6位の京都が引き分けたので、勝ち点の差は縮まっている。

10月24日
 声優の肝付兼太さんが亡くなられていたことが分かった。1963年ごろから声優としてアニメーションの吹き替えで活躍され、特にテレビ朝日の『ドラえもん』のスネ夫役が印象に残っている。実人生でも親友であった故たてかべ和也さんの演じるジャイアンとコンビでのび太をいじめる、その呼吸が絶妙であった(それで調子に乗っていると、ドラえもんに復讐される)。原作者である藤子不二雄さん2人に気に入られて、その作品のアニメ化のほとんどに出演、スネ夫以外では、『忍者ハットリくん』のケムマキがよかった。藤子作品以外では赤塚不二夫原作の『おそ松くん』のイヤミ、変わったところでは、「少年徳川家康」の木下藤吉郎役なども演じていたようである。
 スネ夫の先祖は武士で、手柄を立てて殿様からご褒美を頂いたということを自慢しているのだが、肝付さんは庶流とはいえ、戦国時代に南九州に勢力を張っていた豪族で、のちに島津家の重臣となった肝付氏の一族だというのだから面白いめぐりあわせである(つまり、ご褒美を頂いたのではなくて、本当に殿様であったのである)。さらにその前はというと、(大)伴氏で、歴史に名を残す伴善男の子孫だというのだから、話半分に聞いてもなかなかのものである。
 家が金持ちであることを鼻にかけ、ずるがしこく立ち回るのだが、結局は失敗することの多いスネ夫は1970年代、1980年代を通じて、『ドラえもん』の中でもっとも、現実感のあるキャラクターであった。長くこの役を務めた肝付さんが亡くなられたのは、その意味で非常に寂しい。

10月25日
 田中啓文『シャーロック・ホームズたちの冒険』(創元推理文庫)を読み終える。ホームズ物のパスティーシュである「「スマトラの大ネズミ」事件」、アルセーヌ・ルパンのパスティーシュである「mとd」(ホームズも登場する)、赤穂浪士の討ち入りのさなか、雪の降り積もる吉良邸で起きた密室殺人「忠臣蔵の密室」、実はシャーロキアンだったアドルフ・ヒトラーがナチス・ドイツの戦局を左右しかねない事件に挑む「名探偵ヒトラー」、ラフカディオ・ハーンが”怪談”の数々を解き明かす「八雲が来た理由」の5編からなる短編集。推理小説のようでもあり、怪奇小説のようでもあり…異種格闘技という印象が残る。「スマトラの大ネズミ」事件で、解決のカギをチャレンジャー教授が与えてくれたとか、ハーンがパーシヴァル・ローウェルの日本旅行記を読んだとか、当ブログで話題にしたことと関連するネタもある。

10月26日
 1915(大正4)年に生まれた私の父の(もし生きていたら)101歳の誕生日。父は大学時代マンドリン・クラブに所属していたのだが、なぜか駅伝の選手として駆り出されたことがあるらしく、おそらくはそのため俳優で競歩の選手でもあった故・細川俊夫と面識があった。神宮外苑で競歩の練習をしている人がいるので、誰かと思ったら細川だったと話していたことがある。父の在学当時はまだ競歩に転向する前で、細川はエース格の選手だったはずであるが、幸か不幸か所属する大学が脱退騒ぎを起こしたために、箱根には出場しなかった(記録を調べても、私の父親の名前は出場選手の中には出てこない)。

 豊洲問題をめぐる石原慎太郎元東京都と知事の回答:「まったく記憶がない」「職員に任せていた」
ロッキード事件の時の「高官」たちと同じことを述べている。歴史は繰り返す。しかし、そういう歴史を繰り返させる方にも問題がある。「泣いた女が馬鹿なのか、だました男が悪いのか…」という「東京ブルース」が流行ったのは、1964年の東京オリンピックの年であった。

10月27日
 NHK「ラジオ英会話」は”Listen for It Special"として、これまでに登場したCMのうち3つを再度取り上げた。CMを聞いて、それがどんな役に立つかというようなことをこたえる内容だったのだが、
such comfort food like curry rice, soba and udon noodles and suchi (ほっと心和む料理、例えばカレーライス、そばやうどんの麺類、すし)という表現が出てきた。10月21日の項で、curry and riceとcurry with riceの区別について書いたが、英語でも、curry riceと言ってしまってよいようである。 

ジェイン・オースティン『マンスフィールド・パーク』(5)

10月26日(水)晴れ

 10歳の時に母親の姉の夫であるサー・トマスの邸宅マンスフィールド・パークに引き取られたファニー・プライスは、もう1人の伯母であるノリス夫人のいじめをはじめとする環境の変化に戸惑い、苦労を重ねながらも、18歳の美しい娘に成長する。従姉であるマライアが結婚し、もう1人の従姉妹であるジュリアも新婚の姉について家を出たので、彼女はマンスフィールド・パークで唯ひとりの若い女性となり、その存在が重要なものとなった。
 マンスフィールド教区の牧師であるグラント博士の妻には2人の異父弟妹がいて、兄のヘンリー・クロフォードも妹のメアリー・クロフォード裕福な資産家であるが、ロンドンの快楽志向と堕落を体現する人物である。ファニーは彼女を子どものころからかばってくれた従兄のエドマンドを慕っているが、エドマンドはメアリーに心を奪われている。メアリーもエドマンドの才能と性格に引かれてはいるが、彼が牧師になろうとしていることが気に入らない。一方、久しぶりにマンスフィールドを訪れたヘンリーはファニーに魅力を感じて、彼女との結婚を考えるようになる。
 ファニーの兄であるウィリアムは海軍の見習い将校であるが、マンスフィールド・パークを訪れて歓迎され、ファニーが踊るところを見たいという彼の願いをサー・トーマスが覚えていて、マンスフィールド・パークで舞踏会が開かれることになる。ファニーは喜ぶ一方で、衣装や装身具のことで頭を悩ませる。兄の贈り物である琥珀の十字架を首にかけるための鎖がないのである。悩んでいると、メアリーがヘンリーからもらったというネックレスをプレゼントしてくれる。しかし、その真意がどこにあるのかわからないファニーにとっては、心配が減ったというよりも、種類が変わったということになった。(以上第26章まで)

第27章
 ファニーが自分の部屋に戻ると、エドマンドがやってきて金の鎖を買い求めたといってプレゼントしてくれる。それはファニーがほしいと思っていたようなシンプルなものであった。エドマンドは、これまでの成り行きを聞いて、メアリーからもらったネックレスも舞踏会で身につけるように言う。舞踏会の開かれる木曜日がやってきて、ファニーは十字架とネックレスの両方を身につけて客間に向かう。

第28章
 舞踏会に参加する人々が集まり始め、ファニーはヘンリー・クロフォードから最初の2回のダンスを申し込まれる。2人が結ばれることをひそかに期待しているサー・トマスはこのことを知って喜ぶ。ファニーとヘンリー・クロフォードは舞踏会で戦闘尾に立って踊ることになる。控えめなファニーは断ろうとするが、サー・トマスは許さない。
 「いよいよ舞踏会が始まった。ファニーは、少なくとも最初のダンスは、幸せを感じるというよりも、ずっしりと重い名誉だけを感じながら踊った。パートナーのクロフォード氏はすこぶる上機嫌で、ファニーにもその上機嫌を与えようとしたが、ファニーは恐ろしさが大きすぎて、とてもダンスを楽しむどころではなく、もうみんなから見られていないと思うまでは落ち着かなかった。しかし、若くて、美しくて、上品なファニーは、そのぎこちなさもかえって魅力になって、彼女を褒めない者はいなかった。」(418ページ)
 とはいうものの、ファニーとヘンリー、メアリーとエドマンドの間はどうもぎくしゃくしたままである。
 ウィリアムはポーツマスに戻らざるを得ず、ロンドンに用事ができたヘンリーと一緒に翌朝早く出発することになった。サー・トマスは出発前の朝食にヘンリーを招く。

第29章
 翌朝、ウィリアムとヘンリーは出発し、聖職叙任式に出席するためにエドマンドもマンスフィールド・パークを去った。最初、別れを悲しんだファニーであるが、次第に落ち着きを取り戻す。サー・トマスとバートラム夫人は次女のジュリアがマライアと一緒にロンドンに出かける許可を求めてきたことで、寂しく思う一方で、ファニーを家に引き取ってよかった口にする。
 一方、メアリー・クロフォードはエドマンドが聖職叙任式を済ませてもなかなか帰宅しないことにいら立ち、ファニーにエドマンドの様子を聞こうとする。が、ファニーも詳しい事情は知らないのである。

第30章
 牧師館にヘンリーが戻ってきて、ファニーに結婚を申し込むつもりだとメアリーに告げる。メアリーは驚きながらもその決心を喜び、2人はファニーの美点について話し合う。

第31章
 翌朝、マンスフィールド・パークを訪問したヘンリーは、ファニーに彼が叔父であるクロフォード提督にウィリアムを紹介し、提督から働きかけてウィリアムを少尉に昇任させることに成功したという手紙を見せる。続いて、彼はファニーに結婚のプロポーズをするが、ファニーは必死で断る。いったん、帰宅したヘンリーは、その日のマンスフィールド・パークのディナーに招待されていたので、メアリーからファニーにあてた手紙を持参して、ファニーに渡す。メアリーは自分もヘンリーとファニーとの結婚に賛成であると手紙に書き記していた。「ミス・クロフォードは、結婚に関してはあんなに気位が高くて、非常に世俗的な考え方をしているのに、自分の兄と私のような女との結婚を、本気で推し進めるとは考えない。いずれにしても、私とクロフォード氏との結婚ほど不自然なものはない」(467ページ)とファニーはいぶかしく思う。ファニーは震える手で、メアリーへの返信を認め、ヘンリーとの結婚の意志がないことを伝えようとする。

第32章
 翌日、ヘンリーはまたマンスフィールド・パークを訪問する。ファニーは、彼女の部屋を訪れたサー・トマスからヘンリーが彼女に求婚したのに、なぜその申し出をためらっているのかと質問される。ファニーは2人は性格も違うし、結婚してもお互いを幸せにできないだろうと自分の考えを述べるが、サー・トマスは納得しない。しかし、彼はファニーの言葉をヘンリーに伝える一方で、この求婚の件は内密にしておくことを約束する。彼はヘンリーの求婚が性急すぎて、ファニーが戸惑っているのだと思い、まだ2人の結婚の可能性は残っていると考えている。

第33章
 サー・トマスはファニーを呼んで、再び結婚の申し出を受諾するようにと説得を試みるが、ファニーの意志を変えることはできない。ヘンリーがかつて従姉のマライアとジュリアの心をもてあそんだ経緯を知っているファニーは、彼と結婚するつもりはないのだが、そのことは従姉たちの名誉のために口に出せない。結婚申し込みの話を知ったノリス夫人は不機嫌そうに黙り込み、バートラム夫人は勝手にはしゃぎまわる。

 全部で48章からなるこの小説の結末、誰が誰と結婚するか、あるいはしないかというところまで全部の物語を紹介するつもりはないので、たぶん、この紹介記事はあと1回で終わるはずである。バートラム家の4人兄妹のうち、3人(トム、マライア、ジュリア)が目下のところ、物語から姿を消しており(29章からはエドマンドも姿を消す)、その一方で、クロフォード兄妹の存在が大きくなってきている。そのことで、事態はいよいよファニーを中心に動き始めていることが分かる。第33章の終わりに出てくる、ファニーの2人の伯母の対照的で、それぞれに的外れな態度も面白く描かれている。以前にも紹介したが、訳者である中野康司さんがあとがきで書いているように「オースティンの小説は、あらすじだけ聞くとあまり面白くなさそうなのに、読みだすと面白くて途中でやめられない」(735ページ)といわれてきた。こうして、紹介しながら、その言葉を思い出すのである。

ダンテ・アリギエリ『神曲 天国篇』(5-1)

10月25日(火)曇りのち雨

 ベアトリーチェに導かれてダンテは第1天空である月天に到達する。ここで彼は誓願を果たさなかった人々の魂に出会う。彼はこの出会いを通じて、他人の暴力により意志の実現を妨げられた場合、その責任は妨げられた本人にあるのか、プラトンが『ティマイオス』で説いたように、魂はもともと天空にあって、たまたま地上に降りてきて人間の魂と結びつき、肉体が滅びると天空に帰って、また新たな肉体との結合を待つというのは正しいかという2つの疑問を抱く。ベアトリーチェは後の方の質問から答え、魂はそれぞれの人間に固有なものであることは、これまでダンテが見聞したことで明らかであるが、魂が星々の影響を受けていることは否定できないとプラトンの言説を部分的に肯定する。さらに暴力に対して抵抗しなかった場合には、それに賛同したと考えられるとして、本人にも責任があると答える。(これを男性優位の考え方ととるか、時代の制約の中で社会的弱者であった女性に天国の門を開いた点を評価すべきであると考えるかは、読者の判断にゆだねられる。)
 ダンテはここでさらに、誓願は何か同じような価値のあるもので償いうるのかどうかという疑問を抱く。その質問を受けたベアトリーチェの目は、ダンテの視界の中でさらに輝きを増し、彼は気を失いそうになりながら、かろうじて意識を保っていた。

 「私が、地上で見られるものをはるかに超越した
愛の熱であなたを包んで燃やし、
あなたの視覚の力を圧倒しても、

驚いてはなりません。なぜならこれは
理解すればするほど理解された善の中へと歩みを進める、
完全な視覚ゆえに生じているのですから。

私には、あなたの知性の中で、
永遠の光が反射しているその様子がはっきりと分かります。
見られた後では、唯一それだけが永久に愛を燃やすあの光が。

それ以外のものがあなた達の愛を惹きつけるとしても、
それは、あの光が残した何らかの痕跡が
中に透けて見え、それが誤って認識されたものにほかなりません。

あなたは、果たされなかった誓願に代わる別な功績によって、
魂が約束を違えたとの訴えを退けるに足る
十分な埋め合わせができるのか知りたがっているのですね」。
(76-77ページ)とベアトリーチェはダンテが心の中に抱いていた質問をはっきり口にする。

 ベアトリーチェは人間には神の寛大さからその「最大の贈り物」(78ページ)として自由意志が与えられているという。誓願とは人間がその自由意志を放棄することであり、それは人間と神との契約であるから
それゆえ、何を誓願の償いとして捧げられましょう。
(78ページ)最も高い自由意志に発して、自由意志と引き換えに制限はなされるのであるから、それに匹敵するものはないというのである。

しかし聖なる教会がそれについて適用免除を与えています。
(79ページ)と、実際には教会は誓願の「適用免除」を行っているという。
誓願は神との契約とその内容から成立し、契約自体をなくすことはできないが、内容は同等以上の価値をもつもので代替できるという。しかし、「あらゆる代替は愚かと知りなさい」(81ページ)ともいう。
必滅の者達は誓願をおしゃべりのように考えてはならないのです。
(82ページ)と、浅慮からの誓願をしないように強く言う。そして、誓願に縛られて自分の娘を生贄にささげた古代イスラエルの士師エフタ(旧約聖書「士師記」11)と古代ギリシャのアガメムノン王(ミューケナイの王で、トロイア戦争におけるギリシア軍の総指揮官)の例を悪しき例として挙げる。

キリスト教信者よ、あなた達はもっと慎重にふるまいなさい。
どんな風にも飛ばされる羽根のようであってはなりません。
どんな水でもあなた達を洗ってくれると信じてはなりません。

あなた達には新約と旧約の聖書があり、
さらにあなた達を導く教会の牧者もいます。
これであなた達の救済には十分なはず。
(82-83ページ) 最後にこの誓願に類するような規定を利用して金銭欲を満たすような高位聖職者への批判がなされ、ダンテの質問への回答が終わる。

 ダンテが(のちに宗教改革において主要な論点の1つとなる)自由意志を重視する議論を展開しながらも、古代イスラエルからキリスト教へと続く精神的な伝統とともに、ギリシャ・ローマの伝統も重視していることが浅慮を戒める例の取り上げ方からもわかる。誓願を守り通すことのできなかった人間として、女性だけが登場したことも前回に問題にしたが、彼の視野に入っていなかった問題もあることにも留意する必要がある。

作家の出会い――芥川龍之介と中野重治

10月24日(月)晴れたり曇ったり

 最近、中野重治の『むらぎも』(1954)を読み返している。高校時代に、友人が持っていたのを借りて読んだことがあるだけで、その時は、登場人物の誰が実在の誰をモデルにしているというような興味しか持てなかった。中野については、小説よりも詩の方をよく読んでいて、大学時代に属していた詩のサークルの仲間から、お前の作品には中野の影響が強く感じられるといわれたことがある。そのころになって、「歌のわかれ」(1939)を読んで、こちらの方はよくわかったという記憶がある。「歌のわかれ」は中野自身をモデルにする片口安吉という人物の旧制高校卒業、大学に入学してしばらくたつまでを描いた作品なので、大学生としての自分の経験が少しは理解に役立ったのであろうと思う。『むらぎも』は安吉が、大学の中で社会運動や文学活動に参加しながら、大学を卒業するまでを描く教養小説である。安吉の成長の一方で、年号が大正から昭和へと変わる。時代の違いということもあるし、大学卒業前の安吉の活動範囲と経験は、同じ年代であった私の活動範囲と経験とをはるかに上回っており、その時点で読んでもやはりなかなか理解できなかっただろうと思う。

 この小説の中で、強い印象を残す場面の一つが、安吉が作家の葛飾伸太郎(≒芥川龍之介)を訪問する箇所である。今回、読み直してみて、この場面が作品のかなり後の方に置かれていることを知って自分の記憶の不確かさを感じさせられた。この場面が、小説の最後の方に置かれているのは、安吉の文学に対する取り組みが、(一見文学とは関係のない労働争議への支援活動を通じて)本格的なものになってきたことを示す意図もあってのことだと思われる。(講談社文芸文庫版の「作家案内」によると、中野が芥川の招きに応じて彼を訪問したのは1927年6月のことであったのが、安吉が葛飾伸太郎を訪問したのは1927年1月のこととされているそうである。)

 安吉は師匠株の詩人である齋藤(≒室生犀星)のもとに集まっていた文学青年仲間の深江(≒堀辰雄)や鶴来らと『土くれ』(実際には『驢馬』)という同人雑誌を出しており、葛飾はこの雑誌に寄稿している青年たちの動きに注目を寄せている。どこからか、安吉が文学をやめようとしているといううわさを聞いていた葛飾は、彼の家を訪問した安吉に、その噂の真偽を確かめ、安吉が否定したので、安心したという。その後の葛飾の言葉を、中野は安吉の受け止めた内容に書き直している。

 「われわれはもはや古い。思想の上でも感覚の上でも。君らは両方で新しい。それだけに、古いと自分でわかっているものとしてやはりそれを言っておきたいのだ。人は、持って生まれてきたものを大事にしなければならぬだろう。文章で見たのとも人伝てに聞いていたのとも違って、葛飾の語り口が才気煥発というふうでないことが安吉に重くかぶさってきた。葛飾は、「人は持って生まれてきたものを大事にしなければならぬだろう。」ということを、自分に言い聞かせるような調子でいっていた。ありもしない責任のようなものが背中にくくりつけられてくる。そんな責任はない。ないけれども、まったくないのでなくて少しはあるかも知れぬだけにいっそう重苦しくかかってくる・・・・・」(350ページ)

 葛飾は、『土くれ』の同人の中で「才能として認められるのは、深江君と君とだけでしょう?」(352ページ)ともいう。暗に、齋藤だけでなく、葛飾のところにももっと顔を出すようにと促しているようにも受け取れる。(実際には、芥川が翌月に没したために、2度目の会見は実現しなかった。)

 この原稿を書こうと思っていろいろ調べてみて気づいたのだが、芥川龍之介は1892(明治25)年生まれ、中野は1902(明治35)年生まれであるから、10歳しか年が違わないのである。もちろん、10歳という年齢差は大きいのだが、芥川が1927(昭和2)年に没したのに対し、中野は1979(昭和54)年まで生きていたので、この両者にはもっと大きな隔たりがあると思っていた。漱石が芥川の「鼻」を激賞した話は有名だが、両者の年齢差は25歳であり、師弟として十分な隔たりである。それに比べると、芥川と中野の年齢差は芥川の名声にもかかわらず、中野に敬意を抱かせるのには十分でなかったかもしれまい。さらに2人が会見したときには、(『むらぎも』における安吉の観察を信じる限り)芥川は衰弱した姿であったらしい。芥川の声が中野にしっかりと届いたとはいいがたいのは、この衰弱のためもあるかもしれない。

 ところで、芥川は漱石門下であったが、鴎外ともかなり親密な関係にあった。高橋英夫さんの『作家の友情』には、漱石の葬儀の際に鴎外がやってきたのだが、その時に受付をしていたのが芥川であったというエピソードが記されている。さらに鴎外の「細木香以」には、芥川がこの江戸時代の大通人の一族の末裔であることが記されていて、彼が芥川に寄せる親近感がなみなみならないものであったことが感じられる。さらにいうと、鴎外と芥川は多彩な作品を発表しているという点での共通点がある(それだけ多様な取材源をもっていたということでもある)。ただ鴎外が陸軍の軍医を本務としながらも、各種の原稿を書くだけでなく、学校の講師をしたりしたのに比べると、芥川は初期には学校の先生をしていたが、やめて作家活動に専念している。鴎外の方が我慢強いというか、たくましいというか、官僚的な体質があるのに対し、芥川は自由人的である。

 英国の哲学者・思想史家であったI・バーリンは『ハリネズミとキツネ』という本の中で、ロシアの文学者たちを、いろいろなテーマで作品を書いたプーシキンのような「キツネ」型と、一つのテーマにこだわり続けたドストエフスキーのような「ハリネズミ」型とに分類している。この分類は興味深いが、文学者のタイプがこの2つにまとめられるかというのは疑問である。実際、バーリンはトルストイについて「自分をハリネズミだと思い込んだキツネ」という注目すべき定義を下している。

 この定義を日本の文学者にさらに乱暴にあてはまると、鴎外は典型的なキツネ型、漱石はキツネ型から出発してハリネズミ型になっていった作家といえるだろう。芥川はキツネ型であり、中野はハリネズミ型である。だが、タイプが同じだからといって、親近感を持つとは言えないし、違うからといって接触しないのは偏狭な態度というべきである。芥川と中野の会見が、芥川の死の直前の出来事であったのは、どうも残念で、もう少し早い時期に接触していれば、その後の両者の運命ももう少し違っていたかもしれない。

アレッサンドロ・ジョヴァンニ・ジェレヴィーニ『最上級にスイーツなイタリア語』

10月23日(日)曇り、時々晴れ

 10月20日、Alessandro Giovannni Gerevini, Dolcissimo Italiano (NHK出版)を読む。イタリア語と日本語の両方で記されたエッセイ集で、2010年に同じくNHK出版から刊行された同じ著者のDolce Italiano(スイーツなイタリア語)に続くものである。著者は日本在住の翻訳家、作家で、よしもとばなな、松浦理恵子の作品の翻訳を多く手掛けているよしである。学校時代の思い出や、身辺の出来事から、大学でイタリア語を教えている際に出会う問題まで、内容は多岐にわたっている。読んだといっても、日本語の方を読んで、イタリア語の方は眺めた程度という読み方で、どの程度内容を理解しているかは疑問が残るが、それでも分かった部分は楽しく読めた。

 巻頭のエッセイ”L'Italia di Suga Atsuko, la mia Italia" (須賀敦子のイタリア、私のイタリア)では、須賀さんの『ミラノ 霧の風景』をある学校の翻訳コースで取り上げて読み込んだ際に気づいたことが記されている。日本とイタリアの文学交流に果たした須賀さんの功績は大きいが、それとともにそのエッセイの中の的確な人物描写が、ジェレヴィーニさんの記憶の中に残っている人物と重なることがあるという。須賀さんがミラノで暮らしたのは、イタリアが「経済の奇跡」(miracolo economico)と呼ばれる経済成長を果たしていた時代のことであるが、その時代の後で生まれたジェレヴィーニさんにとっても、年長者の思い出話と重なり合ったりするという。それだけでなく、ジェレヴィーニさんの知っている人物と似ている人物の姿が、須賀さんのエッセイの中には描き出されているという。

 イタリア人の過剰なまでのジェスチャーの使用を紹介し、自分も例外ではないという”Il linguaggio del corpo degli italiani" (イタリア人のボディーランゲージ)、「スローライフ」という日本製英語の背景になった運動がイタリアで生まれたことに触れて、日本固有のスローライフの確認を促す”Lo slow life della lumaca" (カタツムリのスローライフ)、クレモナというとすぐに思い出される伝統的な弦楽器製作がユネスコの無形文化遺産となったことに対するクレモナの人々の無関心と、日本における世界遺産指定をめぐる熱狂の対比から文化遺産に対する取り組みを考える”Cremona e il suo partimonio culturale immateriale" (クレモナの無形文化遺産)も興味深い。

 かつてイタリアの植民地だったアフリカのエリトリアで、イタリア語のミサに参加した経験をつづる”L'Italiano del cuore" (心のイタリア語)はいろいろなことを考えさせる。Una lingua, a differenza dei colonizzatori che la usano, non ha nessuna colpa.Se poi quella stessa lingua ti entra nel cuore e diventa tua, allora senti l'impellenza di usarla anchei nel momenti importanti, come ad esemplo quando si prega Dio.(46-47ページ、「一つの言語」には、その言語を話す植民地建設者と違って、罪はない。そしてその「一つの言葉」は自分の自分の心の中に入ってしまえば自分のものになり、神に祈りをささげるような重要な時に、必然的に使いたくなる。) エリトリアという異国で自分と違った人種の人たちが、イタリア語を使っていたことで、「直接心に響くイタリア語の一番美しい音色を体験できたような気がする」(47ページ)と著者は結んでいる。
 この文章を読んだおかげで、私はロンドン滞在中に仲良くしていた黒人学生がエリトリア人で、イタリアを経由して、ドイツに住み着き、ドイツで公務員をしていると話していたことを思い出した。彼の学校時代には、エリトリアはエチオピアの一部にされていて、そのことのほうが嫌な思い出として残っている様子であった。

 イタリア語とその学習に関してはイタリア語とスペイン語が似ているからこそ、両方を一時に勉強することの問題点を記す”Olga, chi???" (オルガって誰???)は示唆に富む。「確かにロマンス系の言語の文法や語彙はかなり似ており、その中でもイタリア語とスペイン語は特に類似しているが、長年にわたって蓄積してきた経験から言わせてもらうと、スペイン語の学生は優秀な成績をなかなか取れない。その理由は極めて簡単である。言葉が似ているからこそ、学生はかなり混乱し、細かい間違いをいつまでも直せないでいる」(89ページ)という。「ロマンス系のどれかの言語をすでに習得し始めた学習者へのアドバイスとして挙げられるのは、まだまだ「自分のもの」になっていない段階だったら、同じ系統の言語に同時に挑戦しない方がいいということだ」(89,91ページ)ともいう。

 その他、兄の一家と一緒に暮らしていたアルバニア人の少年⇒青年について語る”Il figlio albanese”(アルバニアの息子)、イタリアにおけるSMSの普及とそれに伴う表現の変化を描く”Se vi dicono TVB"(TVBと言われれば)(TVBはTi vogilo bene君が大好きの略語)なども興味深い。

 最近のNHKラジオの語学番組は、英語だけでなく、他の言語でも「発信型」になっていて、日本の社会や文化をその言語で紹介する内容のものが多いが、改めて外国の事情について外国語を通して知ることの重要性を実感させられる書物である。とは言うものの、この著者が日本の社会や文化についてどのように考えているかも、いつかは、まとめてほしいと思う。

奇蹟がくれた数式

10月22日(日)曇り

 渋谷BUNKAMURAル・シネマ1で『奇蹟がくれた数式』(The Man Who Knew Infinity、マシュー・ブラウン監督)を見る。インドの天才数学者シュリニマーサ・ラマヌジャン(1887-1920)の生涯を、彼の才能を見出した英国の数学者ゴッドフレイ・ハロルド・ハーディ(1877-1947)との交流を軸に描き出した伝記映画である。ハーディの共同研究者として多くの業績を挙げたジョン・エデンサー・リトルウッド(1885-1977)や、彼らと同じ時期にケンブリッジ大学の同僚であったバートランド・ラッセル(1872-1970)らの実在の人物も登場する。ロバート・カニーゲル『夭折の数学者・ラマヌジャン 無限の天才』(工作舎から翻訳が出ているそうである)が原作になっているそうだが、必ずしも歴史的な事実そのままが映画化されているわけではなく、数学をよく知らない観客にわかりやすくされている部分もあるようである。

 学歴がないためになかなか就職口を見つけることのできない青年ラマヌジャン(デヴ・パテル)は彼の数学的な才能に関心を抱く人物に出会ったおかげで、マドラスの港湾事務所の事務員の仕事を見つけ、母と新婚の妻と一緒に暮らすことができる。事務所の所長であるサー・フランシス・スプリング(スティーヴン・フライ)の勧めで、彼は自分の研究について記した手紙をケンブリッジ大学のハーディ教授(ジェレミー・アイアンズ)に送る。その内容に驚いたハーディは彼をケンブリッジ大学のトリニティ・カレッジに招くことにする。

 敬虔なヒンズー教徒であるラマヌジャンの母は英国行きに反対するが、妻の励ましもあって彼は英国に向かう。ケンブリッジでリトルウッド(トビー・ジョーンズ)とハーディに迎えられた彼は、これまでの研究をまとめたノートを見せて、2人を驚嘆させる。しかし、彼が正規の数学教育を受けていないことから、彼の展開する数式には厳密な証明が欠けており、その点を補うように指導を受け、直観でものを考えるラマヌジャンはその考えがなかなか受け入れられず、対立する場面もある。同僚のラッセル(ジェレミー・ノーサム)は自由に研究させた方がいいというが、ハーディはあくまで厳密な証明を求め続ける。トリニティ・カレッジにはインド人の学生も何人かいたが、全体としてはインド人であるということだけで、彼の能力を疑う雰囲気が強く、彼を苦しめる。妻との音信が途絶えていること(母親が妻の手紙を発送せずにいたためである)、菜食主義者であるために、英国の習慣になじめないことも彼にとってはつらい環境である。

 折悪しく、第一次世界大戦がはじまり、リトルウッドはその数学の能力を大砲の弾道の計算に生かすことを期待されて英陸軍に召集される。ラッセルは戦争に反対する言動がおそらくは理由となって、大学を追われる。ハーディもラッセルの後を受けて、戦争に反対したために、大学での立場は悪くなる(もともとよくないのである)。カレッジもツェッペリンの爆撃を受ける一方で、その中庭には傷病兵を収容する病院が設けられる。戦局が悪化する中で、インド人学生に対する世間の目は冷たく、菜食主義者が口にできる野菜の入手も難しくなる。栄養不良でラマヌジャンは結核を患い、次第にそれが悪化していく。それでも彼の研究が次第に形を整えてきたことを認めたハーディはラマヌジャンをカレッジのフェロー(研究員)にしようとするが、この提案は否決される・・・。

 数学についてはわからない部分が多いのだが、この映画は大学の中の出来事だけでなく、社会の動きもしっかり描きこんでいて、ケンブリッジの大学人が戦争の中で、それに巻き込まれていく姿と、にもかかわらず自分たちの学問を守り、続けていこうとする姿と両方の側面を描いているところが共感できる。ただ、ケンブリッジの学問の自由や独立性が、大学がその歴史を通じて築いてきた特権と結びついていることも見落としてはならないだろう。

 その一方で、この映画はインドの独立運動とか、その前提となる社会の事情などについては詳しくは描いていないのだが、ラマヌジャンの生涯を見ていくと、ショタジット・ライの『オプー三部作』の3作目『大樹のうた』の主人公のオプー(ベンガル出身である)と重なる部分が見られるのが興味深い。実在の人物と架空の人物(ただし、作者自身がモデルになっている)を対比させるのは多少の無理があるにしても、ラマヌジャンは南インド出身でタミル語を母語とするが、ブラーフマナ出身であること、母親との関係の濃密さ、大学を中退せざるを得なかったことなど、共通する点ではないかと思う。ただしオプーの場合は大学在学中に母親を亡くすのに対し、ラマヌジャンの場合は母親がずっと生きていて、嫁姑という別の関係がまとわりつくことになる。
 特に両者を隔てているのは、ラマヌジャンは文学ではなく、数学という、インドではその才能を認められにくい領域に才能があったために、英国に渡るという大冒険をすることになったという点である。(ただ、この時期の英国の数学研究の水準は必ずしも高くなく、ほかならぬハワードとリトルウッドが高めたという事情がある。) ラマヌジャンはその数学的なインスピレーションを自分の信仰するヒンズー教の女神から得ているといって、無神論者であるハーディと対立するのだが、次第にハーディはラマヌジャンを理解するようになる(インスピレーションというのはどこか神がかった部分があるものである)。天才というのは生まれつきのものだが、それを認めることができるようになるのは、後天的な努力によるのではないかと思う。

 数学が分からないから、数学の歴史ももうひとつわからないところがあるが、ラマヌジャンの生涯には時代に先んじた不幸が強く感じられる。現在の英国であれば、インド亜大陸の出身者は数知れないし、ケンブリッジ大学のカレッジの食堂でインド料理が供されるのは珍しいことではなくなっている(というか、一度、ケンブリッジのカレッジの食堂でインド料理を食べたことがある。ただ、ナイフとフォークでインド料理を食べなければならないのは一苦労であった)。だから、生活環境の違いによる苦労もだいぶ少なくなっているはずである。また、もし、ラマヌジャンが長生きして、ケンブリッジに戻ったならば、ウィットゲンシュタインやチューリングと交流を持つ場面があったかもしれない、そのような交流によってどのような新しい数学が生まれていただろうか…などと考えると彼の若死にを惜しむ気持ちがさらに増す。 

『太平記』(129)

10月21日(金)晴れのち曇り

 建武2年(1335年)、足利尊氏討伐を決意した後醍醐天皇の追討の宣旨を賜り、11月19日に新田義貞が大軍を率いて、尊氏の本拠である鎌倉へと向かった。大手の軍勢は東海道、搦め手は東山道を進んだ。鎌倉では直義が兄尊氏に出陣を促したが、尊氏は天皇に恭順の意を示すべきだとして取り合わなかった。23日、直義は側近の武将たちの勧めで出陣したが、27日、三河国矢矧の合戦で敗れ、鷺坂、手越でも敗退した。鎌倉に帰った直義は、尊氏に偽の綸旨を見せて出家を思いとどまらせた。12月11日、尊氏と直義は出陣し、翌日、箱根、竹之下一帯で義貞と激しい戦闘となった。箱根では義貞軍が優勢だったが、竹之下の戦闘で大友、塩冶が尊氏方に寝返り、義貞軍は総崩れとなった。

 大手である箱根路の合戦は、義貞軍が戦うたびに優勢を続けていたので、防戦一方になっている足利直義とその軍勢を追い落として、鎌倉に入るという目標は間もなく達成できるであろうと、寄せてはみな勇気凛々、夜の明けるのを今や遅しと待っていたのであるが、搦め手である竹下での戦いで義貞軍が破れて、軍勢はみな追い散らされたといううわさが広がってきた。そこで義貞軍の中でも諸国から刈り集めた軍勢や、道中の戦で新田方に降参した関東勢は、陣営を離脱し、旗をまいて、我先に落ち延びていった。広い箱根山に、新田勢が隙間なくあふれて陣を構えていたはずだったのが、人がいるとは思えないようなありさまになった。

 新田義貞の執事(家老)である船田義正は、箱根路の戦闘の第一の前線で敵と対峙していたが、直義が他の陣に「竹下の合戦は、将軍(=尊氏)が勝利して、敵をみな追い散らした」と、早馬で駆け付けた伝令が伝えている声を聴いて、本当のことであろうかと不安に思ったので、ただ一騎、味方の陣を回って様子を見ると、幕ばかり残って、人がいる陣はなかった。さては竹下の合戦で味方が負けたというのは本当のことだったか、こうしてはいられないと、急いで大将の陣に向かい、詳しい事情を報告した。義貞はしばらく思案していたが、「何にしても陣を少し引き退いて、落ち延びていく味方の軍勢を集めて体勢を立て直してから、合戦をしよう」と、船田を引き連れて、箱根山を下りて西の方に向かう。そのせい、わずかに100騎を越えるものではなかった。

 しばらく馬を控えて、後ろを見ると、あの16騎の党を組んだ弓の精兵たちが続いてきた。「北にある山に沿って、三葉柏の旗の見えるのは、敵か味方か」と義貞が問うと、熱田大宮司昌能が100騎ばかりの兵を連れて、義貞を待っているのであるという答えが返ってきた。この軍勢と合流して、箱根から三島へと下る嵩(たけ)七里の山道を進んでいくと、菊池武重の率いる300余騎が合流してきた。

 そこへ、宮方の伝令・間諜を務めている散所法師が西の方から1人でやってきて、船田の馬の前に出てかしこまって次のように述べた。「これはどちらの方にお通りになろうというのでしょうか。昨日の暮れに、脇屋殿が竹下の合戦に負けて、落ちていかれた後、足利尊氏の率いる80万騎が伊豆の府(こう=三島)に集結していて、木下、岩の陰、人のいないところはいないという有様です。いま、このような小勢で通られようとするならば、決して成功なさることはないと思われます」。これを聞いて、新田方の中でも勇者として知られる栗生と篠塚が、それぞれ並んで馬を進めていたが、鐙を踏ん張って体を伸び上がらせ、味方の軍勢を見て、「さあ、皆の衆。一騎当千の武者とは我々のことを言うはずだ。80万騎に味方は500余騎。これでちょうどいい相手である。さあ敵の軍をかけ破って、道を切り開こう。続けや人々」と勇気を奮い立たせ、数万騎が集まっている敵の中に駆けてはいる。

 府中にいた甲斐の武士で尊氏方の一条次郎という大将が、3,000余騎を率いて参戦していたが、義貞を見て、恰好な敵だと思ったのであろうか、馬を近寄せて組み付こうとしたのを、篠塚が割って入って遮り、一条が打ち込んできた太刀を左手の袖で受け止め、巨漢の武士を弓の長さ2張分ほど投げ飛ばした。一条も大力に加えて身のこなしが機敏な武士なので、投げられても倒れることなく地面に立ち、よろめく足を踏みなおして、なお義貞に走りかかろうとするのを、篠塚は馬から飛び降りて、両膝をけり倒した。倒れると同時に、そのまま一条の首をとった。

 一条の郎党たちは目の前で主人が討たれたので、何とか復讐を果たすために篠塚を討とうと、馬から飛び降り飛び降り、篠塚にとびかかろうとするが、それを篠塚は蹴倒し、蹴倒しては首をとり、休むことなく、その場で9人まで首をとり続けた。この剛勇ぶりを見ては大勢を誇る足利方もあえて新田勢に手を出すことを控えるようになり、義貞は伊豆の府をそのまま静かに通ることができた。すると、宵のうちに戦いに敗れて逃げてそのあたりに隠れていた義貞方の兵たちが、あちこちからかけ加わり、その数は2,000余騎ばかりとなった。

 「散所法師」あるいは、散所をめぐっては林屋辰三郎らの研究があるので、興味のある方は参照していただきたい。『私本太平記』の執筆の際に吉川英治が、林屋から多くの示唆を得ているらしいことは、すでに述べた。搦め手の軍が敗走したことから、大手の義貞軍はそれまでの優勢な戦いから一転して退却を余儀なくされるが、篠塚の剛勇で足利方に対し、一矢を報いる。ただし、このあたりの記述は、尊氏の軍が伊豆の府に到着する前に義貞は逃げていたとする『梅松論』の記述とは大きく異なる。「昔より東士西にむかふ事寿永3年には範頼義経。承久には泰時時房。今年建武2年には御所高氏直義。第三ヶ度なり。御入洛何のうたがひかあらむとぞ勇悦あいける」(『梅松論』上、『群書類従』第21輯、171ページ)と、こちらはまことに元気がいい。しかしながら、尊氏はなかなか都を確保できず、戦いはさらに続く、「太平」が待ち望まれる状態が続くことになる。この戦いで少なからぬ武士たちが、勝てば官軍と様子を見ては、強い方に鞍替えをする。味方が大勢でも、相手が決死の覚悟で迫ってくれば、真剣には戦わず、そのままゆき過ごさせてしまう。武士たちもできることなら、戦いたくない、楽したいという気持ちが強いことが分かる箇所が続くことも注意してよいところである。

日記抄(10月14日~20日)

10月20日(木)晴れ、気温が上がる。

 10月14日から本日までの間に経験したこと、考えたことなど:
10月14日
 NHK「カルチャーラジオ」「科学と人間」は『漱石、近代科学と出会う』の2回目。『猫』の寒月、『三四郎』の野々宮宗八のモデルといわれる寺田寅彦と漱石の関係について、寅彦が漱石の創作活動にヒントを提供した例などを中心に話が進められた。
 ところで、ボブ・ディランがノーベル文学賞を受賞したことが話題になっているが、イタリアの詩人・劇作家でノーベル文学賞を受賞したルイジ・ピランデッロは漱石と同じ1867年の生まれである。何か、ピランデッロの方が若いような印象があるのはどういうことだろうか。
 Margery Brady(1990), The Love Story of Yeats & Maud Gonneという本の中にウィリアム・バトラー・イェイツ(1865-1939)がノーベル文学賞を受賞した際の話が出ていることも思い出す(1865年生まれということは、森鴎外と同じ年の生まれということになる)。イェイツは『アイリッシュ・タイムズ』紙(現在も刊行されている、アイルランドの高級紙)の編集長からの電話で受賞を知ったという。彼が最初に質問したことは、賞金がいくらかということであり、7,500ポンドという答えを聞いて、当時生活に余裕がなかったイェイツは大いに喜んだ。それで、奥さんとワインでお祝いをしようと思ったのだが、ワインがなかったので、ソーセージだけで済ませたという。翌日、イェイツはダブリンのシェルボーン・ホテルでお祝いのディナー・パーティーを開いたが、その席に最初に届いた祝電が、ジェイムス・ジョイス(1882-1941)からのもので、彼は大いに喜んだ。アイルランドの文学を代表するこの2人の作家は、お互いに批判もしあっていたが、やはり尊敬しあっていたのである。

10月15日
 NHKラジオ「攻略!英語リスニング」は”The Fall of Constantinople"(コンスタンチノープルの陥落)を放送した。4世紀にコンスタンティヌス大帝によって作られ、
It was one of the great centers of medieval Christendom, a place of culture and learning and magnificent architecture.
(中世におけるキリスト教世界の拠点の1つであり、文化と学問と素晴らしい建築があった場所であった。)
 しかしイスラム教を奉じるオスマン帝国の力が強くなり、1453年にその若いスルタンであるメフメットⅡ世による攻撃を受けてついに陥落する。包囲戦は50日以上に及んだが、その間に様々な敗北の前兆があったという。ところで、その前兆の1つがa partial eclipse (部分月食)であったというのだが、月はイスラム教徒がシンボルとして使っているのだから、攻囲軍の敗北の前兆と考える方が自然だと思うのだが、そういうことはもはや考えていられない状態であったのだろうか。コンスタンチノープルから西方へ逃げた学者や芸術家たちと、彼らが伝えた知識や技術がルネサンスの一因になったといわれる。

10月16日
 Eテレの『日本の話芸』では月亭八方「コテコテ版 男の花道」を放送した。桂文枝作の新作落語で、旅芸人の一座が解散し、その座長がイタリア料理店にウェイターとして転職するが、予想以上にうまくいく…という噺である。一座が解散するところと、イタリア料理店での社長との会話という2つの部分がうまくつながっているとはいえず、その点での工夫の余地が残されている。

 横浜FCはアウェーで水戸ホーリーホックと1-1で引き分ける。

 夜空に浮かぶ満月を見ながら、ダンテの『神曲』の月天の部分を思い出していた。

10月17日
 この日の当ブログにアンジェイ・ワイダ監督の『灰とダイヤモンド』について書いたが、この映画を始めてみたのは、大阪にあったATG(アート・シアター・ギルド)の北野シネマでのことであった。

10月18日
 『朝日』の朝刊によると、京都の下鴨神社は同社の神職の家柄に生まれた『方丈記』の作者鴨長明の没後800年を記念して、彼の座像などを10月28日からの「京都非公開文化財特別公開」に先立って、公開するそうである。
 NHKの「カルチャーラジオ」では木曜日の「文学の世界」で『鴨長明と方丈記』を放送している。その第1回によると、私が通った京都大学の本部構内の時計台の北側あたりに長明が生まれ育った南大路亭があったそうで、長明と『方丈記』により親しみを覚えた。
 当ブログの2012年12月30日の項に「思いで」という詩を投稿しているが、下鴨神社と糺の森にかかわる思いでをまとめたものである。

10月19日
 NHKラジオ「ワンポイント・ニュースで英会話」では、平城京の遺跡から出土した木簡にペルシャ人らしい名前が記されていたことが分かったというニュースを放送していた。唐時代の中国にはペルシャ人は大勢住んでいたようであるから、その中の1人や2人が日本にやってきても不思議はない。問題は、その人の名前がペルシャ人らしいということで、ペルシャ人と決めつけてしまう考え方の方である。

 同じく「エンジョイ・シンプル・イングリッシュ」で落語の「芝浜」を圧縮した話を放送していた。大みそかの12月31日という表現が出てきたが、大みそかが12月31日になったのは、明治5年(1872年)に太陽暦を採用したのちのことである。それまでの天保暦(太陰太陽暦)では1年は365日ではなく、354日であった。これは気を付けておいた方がいいことの一つである。

10月20日
 NHKラジオ「実践ビジネス英語」の”Quote...Unquote"のコーナーで取り上げられた言葉:
Do not go where the path may .lead. Go instead where there is no path and leave a trail.
---- Ralph Waldo Emerson
(U.S. philosopher, poet and essayist, 1803 - 82)
(敷かれた道を進んではならない。そうではなく、道のないところを進んで足跡を残しなさい。)
 高村光太郎(1883-1956)の有名な詩、
僕の前に道はない
僕の後ろに道は出来る
を思い出させるところがある。一海知義先生は、この高村の詩が、魯迅(1881-1936)の短編小説「故郷」の結びの
もともと地上には道はない。歩く人が多くなれば、それが道になるのだ。
と対比できるものだとどこかで書かれていた。さて、この魯迅の言葉と同じようなことをスペインの「1898年世代」の詩人であるアントニオ・マチャード(1875-1939)が書いているが、魯迅とマチャードはお互いにお互いの著作を読んだ形跡がないという話を読んだことがある。高村光太郎の詩は新しい道を切り開くというところに強調点があり、魯迅の言葉は、むしろ新しい道が将来の主流になることを希望するというところに強調点があると思うのだが、マチャードを含めて、彼らがほぼ同時代人であるという点が興味深い。

佐藤信也『周――理想化された古代王朝』(4)

10月19日(水)晴れのち曇り

 周は紀元前11世紀後半ごろに殷王朝を倒すことで成立し、およそ800年後の紀元前256年に滅んだ中国古代の王朝である。この州の時代は2つの時期に分けられる。紀元前771年までの前半部を「西周」といい、動乱によって西周最後の幽王が敗死して以降の後半部を、「東周」と呼ぶ。この書物は、周の歴史を、「西周」の方を重視しながら、伝世文献と出土文献その他の考古学的な史料を手掛かりに構成するものである。その際、周王朝の在り方を示すキーワードとして「祀」(祭祀)と「戎」(軍事)に注目する。特に「祀」から派生して発展した「礼制」は孔子に始まる儒教の思想の中で重視されただけでなく、仏教にも部分的に取り入れられている。しかし、儒教は「西周」時代の「礼制」を忠実に再現できたかをめぐっては疑問が残る。

 この書物の第1章「創業の時代」では周がその影響を受けてきた殷を滅ぼして、王朝を築いた過程が記され、第2章「周王朝の最盛期」では、初期の王たちが「祀」と「戎」を通じてどのように支配を行ったかが検討される。第5代の穆王の時代に南征が失敗し、その後の王たちは、「戎」での失敗を補うべく、「祀」の改革へと乗り出すことになった。第3章「変わる礼制と政治体制」では、従来、殷のやり方を踏襲していた会同型儀礼から、臣下に権限や物品を授与するより実利的な「冊命儀礼」への変化があり、政治体制においても特定の重臣による政治から、執政団の行う政治への変化がみられる。ところが第4章「暴君と権臣たち」によると、「西周」の後期の終わりになると、政治体制をもとの執政団政治に戻そうとする動きなど、不安定な要素が多くなり、王位継承をめぐる争いや、異民族との戦いも絡まって、「西周」は滅び、周室は東遷することになる。第5章「周室既に卑し」の最初の節「周室の東遷」では、周室の東遷をめぐる謎や、諸侯との関係の変化などが取り上げられた。 

 第5章では引き続き、「覇者、斉の桓公と晋の文公」で春秋時代の覇者について述べる。一般に「春秋五覇」と呼ばれるが、その5人が誰であるかについての定説はない。むしろ、「五覇」という言葉の方が先にあって、あとから対応する歴史的な人物があてはめられていったのではないかと思われる。しかし、その中で、斉の桓公と晋の文公については、必ず覇者と考えられているので、この2人を取り上げることにするという。
 斉の桓公が覇者と目されるようになったのは、紀元前679年のことである。この年、斉は東周の都である洛邑より東に位置する東方諸侯の指導者として認められるようになったのである。この斉に対抗したのが、南方にある楚である。楚は西周時代からその存在を示してきたが、おそらくは周室の東遷のころから、君主が王を自称することになる(周王室からの自立を示す行為である)。そして春秋時代になると北方に進出し、斉とその間に存在する諸国を攻撃、これらの国々を支援する斉と戦闘、講和のための話し合いを繰り返すようになる。このような話し合いの際に、自分たちの主張を補強する論拠として、西周の故事が使われたという。
 斉の桓公の威信は、紀元前651年に行われた葵丘の盟で絶頂に達する。この時、桓公は東周第6代の襄王から派遣された使者により、周の始祖である文王・武王の祭祀に供された祭肉、すなわち「文武の胙」を与えられている。これは四方の諸侯を統括し、周王朝を保護する役割を認められたことを意味する。しかし、桓公の死後に彼の息子たちによる後継者争いが起こり、斉の覇者としての地位は失われることになる。

 晋は周王室の一族を祖とするとされ、東遷期に晋の文侯が周の平王を支持し、携王を殺したことに見られるように、周の王室との強い結びつきをもっていた。紀元前636年に(19年の亡命生活を経ていたといわれる)文公が即位すると、周王室の内紛に際して、東周第6代の襄王の復帰を実現している。そして紀元前632年には城濮の戦いでその率いる連合軍に大勝し、その翌年に諸侯との会盟を行うとともに、周の襄王から侯伯すなわち覇者に任じられている。「文公は策命すなわち冊命によって侯伯に任じられているが、その儀礼の形式も西周期に行われた冊命儀礼に準じている」(164ページ)。そして、このことからも「春秋期は、まだまだ西周的な意識や枠組みが色濃く残っている時代だったのである」(同上)としている。
 この晋の覇権は、文公の時代の紀元前632年の践土の盟から定公の時代の紀元前506年の皐鼬の盟まで120年以上存続した。晋の君主が一貫して会盟を主催し、諸侯がそれに服するという、晋による「覇者体制」が成立したのである。斉の桓公の覇権が洛邑より東に偏っていたのに対し、晋の覇権は洛邑を中心とする中原全体に及んでいる。ただし、東方の斉、西方の秦、南方の楚はこの派遣の範囲外にある。しかし、同盟国の秦からの離反が進んで、その覇者体制は解体され、これに代わって南方の呉・越が台頭することになる(孔子が活躍した時期とも重なってくる)。

 東遷後の周王朝は、それまでと同様に王位をめぐる内紛を繰り返し、そのことが王朝の軍事力や指導力、すなわち「戎」の部分を弱めていき、諸侯の討伐などは行われなくなり、逆に諸侯の力が強くなる。襄王の孫の第9代の定王の時には、楚の荘王に「鼎の軽重」を問われるという出来事が起きたほどである。一方、斉の桓公に「文武の胙」を贈り、晋の文公に対しては西周以来の冊命儀礼の形式に則って侯伯への任命を行うというように覇者をはじめとする諸侯に対して西周以来の伝統と権威を強調するという方針をとった。このような形で「祀」の部分の維持を図ったのだが、春秋時代の後期になると、新しく起きてきた潮流によって周王朝は、次第に周の「祀」の中心から外れていくことになる(新しい潮流とは、孔子によってはじめられた儒家の「周礼」復興の動きである)。

 覇者というと、武力によって敵を圧倒してその威信を樹立するという印象を持ってきたが、ここでは周室による儀礼によって一定の権威を与えられていたことが分かって、興味深かった。現在の世俗化された国家においても、何かの儀式を行わないと権力者の権威が示せないということと共通するところがあるように思う。この書物は周の歴史について、その前半の「西周」時代の様子を詳しく論じることを主眼として描かれたものなのだが、私の書評はむしろ、後半の春秋時代以後の方が詳しくなりそうな様子である。しかし、「祀」と「戎」をキーワードについて王朝の運命と、後世への影響を検討するという著者の姿勢を無視するつもりはない。
 

ダンテ・アリギエリ『神曲 天国篇』(4-2)

10月18日(火)晴れたり曇ったり、温暖

 ベアトリーチェに導かれて、地球上にある煉獄山から天空の世界へと旅立った。そして第一天空である月へと到達した。そこには誓願を果たさなかった人々の霊がいた。霊たちの中に、ダンテは親友であり、煉獄で出会ったフォレーゼの妹であるピッカルダがいる。彼女は修道院に入っていたが、もう1人の兄であるコルソの手で強引に引き出され、政略結婚させられて、その誓願を果たすことができなかったのである。ダンテは、他人の暴力により意志の実現を妨げられても、その責任はその人にあるのかという疑問、プラトンの『ティマイオス』に書かれている、人間の魂はもともと星の世界に住んでいて、地上の人間の肉体と偶然に結合することがあるが、肉体が死ぬと星の世界に帰って、次の肉体との結合を待つということは本当かという疑問の2つの疑問をもつ。ベアトリーチェは、魂は生まれ変わることなく、一人一人に固有のもので、死後は天国か地獄に行くのだと答える。

 次にベアトリーチェはもう一つの疑問に対して答える。
暴力による強要というものが、暴力を受ける者が
それをふるう者に一切与しない場合に存在するのであれば、
あれらの魂は暴力を理由にして言い訳できません。

なぜなら意志とは、望まぬ限り消えることはなく、
火の中の本性が暴風によって幾千回も下に向けられようと
立ち上ってくるように、むしろ立ち上がるものだからです。

このことゆえに、もし意志が多少を問わず折れるのならば、
力に従っているのです。そしてあれらの魂は、
聖なる場所に再び逃げ込むことができた場面で、このように従いました。
(68-69ページ) 暴力による強要は、強要を受けた側が従わなければ成立せず、抵抗がない場合にはそれに与したと判断せざるを得ないとし、そのため、暴力を受けなくなった時点で2人は再び世俗を捨てて女子修道院に逃げ込めたはずだと論じる。翻訳者である原さんも指摘しているように、「現実には、男性優位主義で力が称揚された社会にあっては、力も権力も知も得られない女性には、暴力や力による妥協を強いられない人生は考えにくかった。」(523ページ) だからダンテの議論は、暴力をふるう側の正当化に悪用される危険性を持っている。 

もし彼女たちの意志が、ラウレンティウスを網焼きにし、
ムキウスに自身の腕へ厳格な態度をとらせたほど
十全であったならば、

それは彼女たちが解放されたときに二人を押して、
かつて引かれていった道を帰らせたはずでした。
ですがそれほどの固い意志はあまりに稀です。
(70ページ) ラウレンティウス(?-258)は古代キリスト教の殉教者で、ワレリアヌス帝によるキリスト教徒迫害の際に、貧しい信徒たちを守ろうとして生きたまま網焼きにされたという伝説がある。ムキウスは紀元前6世紀ごろの人物だと伝えられるローマの伝説的英雄である。もともと王が支配していたローマであったが、タルクィニウス・スペルブス(傲慢な)という最後の王が暴政を布いた上に、その息子のセクストゥスが軍の副指揮官であるコラティヌスの妻のルクレティアを気まぐれで凌辱するという事件が起きて、ローマから追放され、共和制が成立する。追放されたタルクィニウスは(彼自身もエトルリア系だったのだが)、イタリア半島中部に都市国家を築いていたエトルリア12種族の中で一番勢力が強かったポルセンナを頼る。そこで、ポルセンナはローマの攻略に乗り出す。ムキウスという貴族の若者が、ローマを包囲しているポルセンナ軍に変装して侵入し、暗殺を企てるが失敗してしまう。ところが王の前で失敗した右手を焼いて罰を与えて、剛勇を示し、ローマの壊滅を防いだとされる。(ムキウスについてはグスターフ・シャルク『ローマ建国の英雄たち 神話から歴史へ』(白水社、1997)を参考にした。) キリスト教とローマの歴史から2人の暴力に一切与しなかった例を挙げているが、これほどの行為は誰にでもできるものではない。暴力にもかかわらず、自分の意志を曲げないことを示した2人の人物が男性であり、自分の意志を曲げざるを得なかった2人が女性であるのは特徴的である。

 その一方で、暴力に屈したことによって、それを肯定する結果となった女性たちが月天とはいえ、天国に置かれているのはなぜかというさらなる疑問に対して、ベアトリーチェは
身の危険を避けるため、意志に反して
すべきではない行為を行う…

この点からあなたに理解してほしい。
強制力はそれを受ける側の意志と混ざり、
それが言い訳の余地のない罪を犯すことを。

絶対的な意志は悪に同意していません。
ですが、抵抗があったとしても、より大きな苦しみに陥ることを
恐れるその分だけ悪に同意しています。
(71,72ページ) 彼女は、絶対的な意志と個別的な意志とを区別し、月天でダンテがその姿を見たコスタンツァは絶対的意志においては変わらなかったが、個別の意志の表現である行動では、状況に規定されてそれを貫徹できなかったのであると説明する。

 ダンテはさらなる疑問を解くことができたことを感謝しながら、
果たせなかった誓願を
あなた方のはかりに載せても軽すぎない他の善をもって
あなた方に贖うことが許されているのか私は知りたいと思います。
(74-75ページ)と新たな疑問をベアトリーチェに問いかける。 こうして第4歌は終わる。

 この個所における議論は、暴力、特に女性に対する暴力が様々な形で不幸の原因となっている現在においても取り上げる価値のあるものである(もちろん、ダンテの考えをそのまま承認すべきではないのは言うまでもない)。

 ところで、この項を書いている際に、最近わりに使われるようになったserendipity (思いがけない発見)の例になりそうな発見をした。漱石の『吾輩は猫である』の3に、苦沙弥先生の奥さんと迷亭が話している中で、「昔羅馬に樽金とかいう王様があって」「なんでも7代目だそうです」、その王様のところに一人の女が本を9冊持ってきた。王様に値段を聞かれた女が答えると、王様は高いという。すると、女は3冊の本を火にくべる…。結局本が1冊だけ残ったのを、女が初めに言った値段で買うことになったという話をして、苦沙弥は「少しは書物の有難味が分かったろう」というのだが、奥さんには何のことかわからないという。迷亭は樽金は奇妙だが、ローマの7代目の王様であるTarquin the Proud (ラテン語ではTarquinius superbus、在位紀元前534-510)であろうといっているが、シャルクの『ローマ建国の英雄たち』を読んでいたら、この話は、タルクィニウス・スペルブスではなくて、その2代前の王であるルキウス・タルクィニウス・プリスクスの治世の最後の年に起きた話として登場する。7代目の樽金は暴君であったが、5代目は賢王であった。同じタルクィニウスなので、漱石は勘違いをしたのであろうが、あるいは漱石が正しくて、シャルクの方が間違っていることだってありうるが、どちらの王の逸話とするかによって、話の趣が全く違ってくるのが興味深いところである。

『灰とダイヤモンド』とオギンスキのポロネーズ

10月17日(月)雨

 「日記抄(10月7日~13日)」でアンジェイ・ワイダ監督の訃報について触れたが、あまりに簡単すぎたので、彼の代表作の一つ『灰とダイヤモンド』について考えていることを少し書いておきたい。この映画はイェジ・アンジェイェフスキが1948年に書いた同名の小説を1958年に映画化した(日本公開は1959年)もので、原作が執筆された時期との政治状況の微妙な変化を反映して、登場人物の性格付けなど原作とは異なる部分がある(原作者も脚色に加わっている)。学生時代に原作を読み、その後、映画も何度か見た。ただし、その後長い時間が経過し、記憶にたよって書いているため、以下の記述には不正確な部分があるかもしれない。なお、この映画の題名は、原作(と映画)の中で引用されているポーランドの詩人ノルビットの詩に基づいている。

 1945年5月、ドイツ軍の降伏により独立を回復したはずのポーランド。ロンドン亡命政府派とソ連軍の力を背後にもつ共産主義者が戦後の主導権を争い、後者が優勢である。亡命政府派の青年マチェクは、モスクワから帰ってきた共産党の幹部であるシュチューカの暗殺を依頼されるが、誤って別人を殺害してしまう。あらためて彼はシュチューカを暗殺しようとするが…。

 この映画からはいろいろな意味を読み取ることができるはずであるが、私の心に一番突き刺さっているのは、終わり近く、戦勝記念祝賀会で、そろそろみんなが踊りつかれてきたときに、シュチューカがショパンの『軍隊ポロネーズ』を演奏し、踊らなければならないと言い出す場面である(曲名を言うのではなく、楽曲の出だしを歌って指示する)。それまで演奏されていたのは、ポーランドの作曲家ミハウ・クレオフォス・オギンスキ(1765-1833)の『ポロネーズ第13番イ短調』<祖国への別れ>である。どちらもポロネーズであるし、ポーランドの作曲家の曲であるから似ているといえば、似ている。しかし、両者を比べると、オギンスキの曲の方がポーランド的な感じがする。

 これは私の独断と偏見で言うのだが、ポーランドの楽曲というのはやたら装飾音符が多いという印象がある。オギンスキもそうだし、チェーホフの戯曲『三人姉妹』で姉妹の隣人の家から何度も聞こえてくる「乙女の祈り」などという曲もそうである(末娘のイリーナがこの曲を嫌がっているのは、たぶん、装飾音符過剰のためであろうと私は思っている)。ポーランドを去ってフランスを中心に活動をつづけたショパンの楽曲も装飾音符は多いが、やはりある程度抑制され、民族的な特色は抑えられているように思う。とはいうものの、オギンスキの曲はポーランドの独立の回復の思いとともに長く演奏され続けてきた歴史を持つ。つまり、この場面から私は民族主義的な感情と、より国際的・普遍的なものを目指す理念の対立を読み取ったのである。それにしても、ここでのシュチューカの態度はひどく横暴に思える。そういう演出がなされている。

 興味深いのは、1971年にソ連(当時、現在ではベラルーシ)で製作された(日本では1972年に公開)『小さな英雄の詩』(レフ・ゴループ監督)という映画は、『灰とダイヤモンド』よりも前の独ソ戦の中で親に死に別れた音楽少年のさすらいを描いているが、この作品で少年が出会うポーランド人のオルガン弾きがオギンスキのポロネーズを強く愛しているという設定になっていることである。ネタバレになるからあまり書きたくないのだが、この映画の最後の場面で、ワルシャワで開かれた音楽コンテストでヴァイオリニストとして成長した少年がオギンスキのポロネーズを弾く…ということになっている(オルガン、ヴァイオリンで演奏することで、装飾音符が多少省かれているということがあるかもしれない)。この映画のスタッフが『灰とダイヤモンド』を見ているか、見ていたとすれば、どのように受け止めていたかということにも興味がある。(それから『小さな英雄の詩』がロシアではなく、ベラルーシで製作されていたということも注目してよいのかもしれない。)

 主人公であるマチェクの運命、暗殺が成功するかどうかということもさることながら、夜遅くまで踊った(踊らされた)人々の運命、あるいは彼らがどのように戦後のポーランドを生きたか、あるいはどのように音楽と付き合ったのかということも気になる。それが『灰とダイヤモンド』の主要なテーマではないのかもしれないが、音楽(あるいは文化一般)の中での民族的なものと国際的あるいはより普遍的なものとの対立・葛藤という問題が私をとらえて離さないままなのである。

 永井荷風の『断腸亭日乗』1939年9月の項に、ドイツとポーランドの間で戦争が始まったことを記し、ショパンとシェンキェヴィッチの祖国に勝利の栄光あれかしと書き留められている。荷風のヨーロッパ文化に対する愛着と理解とが同時代の日本人の多くに勝るものであったことを物語る箇所ではあるが、『灰とダイヤモンド』という映画を見ていると、それでもまだ荷風には理解できなかったであろう部分があるということも知らされるのである。(ポーランドはショパンとシェンキェヴィッチの祖国であるとともに、オギンスキとミツキェヴィッチ=彼の『パン・タデウシュ物語』をワイダは映画化しているの祖国という受け止め方もある。)
 

語学放浪記(53)

10月16日(日)晴れたり曇ったり

 今日の『朝日』の朝刊に、NHKラジオ「英会話タイム・トライアル」のスティーブ・ソレイシィさんが登場して、”Let's 道案内”という見出しで、英語を話す人に道を尋ねられた時の心得として、「身ぶり、笑顔…心遣いが大事」と語っていた。特に、詳しく道を教えようとせずに、”this/that way"を使って、大まかな方向を示す方がわかりやすいというのは、「英会話タイム・トライアル」でも言われていたことである。

 「英会話タイム・トライアル」という番組は、NHKラジオ・テレビの英語番組の中ではA2に位置づけられる番組である。繰り返しになるが、説明しておくと、A0「ごく簡単な表現を聞きとれて、基本的な語句で自分の名前や気持ちを伝えられる」という水準の番組がテレビの「プレキソ英語」と、ラジオの「基礎英語1」であり、「プレキソ英語」の方は小学生向け、「基礎英語1」の方は中学1年向けという設定になっている。「基礎英語1」はA1(日常生活での基本的な表現を理解し、ごく簡単なやり取りができる)に少し入り込んでいる。そのA1のレベルに設定されているのがラジオの「基礎英語2」とテレビの「エイエイGO!」である。「基礎英語2」よりも少し高いレベルに設定されているのがラジオの「エンジョイ・シンプル・イングリッシュ」であり、「エンジョイ」はA2に少し入り込んでいる。

 A2というのは「日常生活での身近な事柄について、簡単なやり取りができる」という水準で、ラジオの「基礎英語3」、「英会話タイム・トライアル」、テレビの「おとなの基礎英語」がここに位置づけられている。「基礎英語3」は「中学3年レベルの文法・表現をベースに、「使える英語」を学びます」、「おとなの基礎英語」は「海外旅行で役立つフレーズが、中学校レベルの英語で身につきます」、「英会話タイム・トライアル」は「日常会話をテンポよくスムーズに話せるようにトレーニングします」というのが狙いである。大体、中学校3年、英検で言うと3級レベルということのようであるが、実は中学校3年生がすべて狙い通りの英語の能力を身につけているわけではないし、その後、高校やそれ以上の学校で勉強し、あるいは自分で英語の勉強しても、この水準を達成・維持できているとは限らないというのが、おそらくは一番の問題である。

 「英会話タイム・トライアル」という番組は、月曜日から金曜日までの午前8:30~8:40、午後0:15~0:25、11:00~11:10に放送され、土曜日の午前7:00~7:50、日曜日の午後11:30~月曜日の午前0:20まで月~金曜日の放送分をまとめて再放送される。その狙いをもう少し詳しく言うと、「英語の瞬発力を鍛える」、何かの折にすぐに英語で対応できるスキルを養うということで、私を含めて会話が苦手な人間にとって、グサリグサリとその会話スキルの問題点を突いてくるところがある。英語、特に英会話の勉強をしているという人は少なくないが、この番組を熱心に聴いている人というのには、あまりであったことがないのは、この点と関連しているのではないかと思う。(文法よりも会話が大事だなどという人が、会話について努力しているとは限らないのである。)

 とにかく、中学校3年生レベルの英語を使いこなして、どのように英会話を進めるかという点について、この番組を聞くことで学ぶ点は多いので、私はこの番組については、午後11時からの放送を中心に、うまく放送時間にラジオが聞けるときは、聞き流すことにしている。テキストも発売されているのだが買わずに、気になったことだけメモしている。「エンジョイ・シンプル・イングリッシュ」についても同じ取り組み方である。

 この番組の中で、ソレイシィさんが特に強調しているのが、言葉をそのまま訳すのではなく、やさしく言い換えることが必要だということで、日本語の根底にある発想と英語の根底にある発想が違うのだということをそれとなく気づかせてくれる。この点がまずもって重要である。面白かったのは、以前にも書いたことがあるが、「がんばれ」という日本語に相当するのは”Good luck!"だとか、英語の”Look forward"には「どうぞよろしく」という意味合いがあるということで、これは日本語と英語の両方についてかなりよく知っていないといえないことである。(日本語の「がんばれ」に相当する英語の表現が、どういうものかについてはいろいろな意見があり、中には、英語では「がんばれ」といわずに、むしろ”Take it easy"といって、相手の緊張を解くことの方が重視されているという意見もある。この辺りは、時と場合を見て、使い分ける必要があるのではないかと思う。)

 昔ある作家が子ども時代に森田思軒の訳したヴェルヌの『十五少年』を熱心に読んだ。”Good morning"を「好朝」と訳すような直訳であったが、気にならなかったと回想していたのを読んだことがある。私も森田の訳は読んだことがある(当ブログでも取り上げた)が、これはその作家の記憶違いで、「好朝」という表現は出てこない。しかし、誰かがどこかで、「好朝」という翻訳をしていることはありうることなので、これは探してみる価値があるかもしれない。何が言いたいのかというと、あいさつの類はそのまま、訳しても仕方がないので、この言葉に対応する言葉がどのようなものかを探してみる必要があるということである(英語などは、あいさつが比較的定型化している言語であり、日本語はそうでもないというようなことに、このことから気づくはずである)。

 なお、ソレイシィSoresiという名前はどうしても、音階のSo + Re + Siを思い出してしまうところがあるが、この番組で日本語の歌を英語に訳して歌ったりしているのは、パートナーのジェニー・スキッドモアさんの方である。また番組内で、英語の個人レッスンを受けるような場合には、その先生のスキルやキャリアについて受講者の方でもチェックしておく必要があるといっていた(これは貴重な助言)が、語学番組を聞く場合にも、講師やパートナーの方々のキャリアについてチェックしておく必要がある、どのような英語(あるいはその他の言語)を理想とし、また実際に使っているかを知ることが、自分にとって重要なことであると認識すべきである。

ディーノ・ブッツァーティ『古森の秘密』

10月15日(土)晴れ、温暖

 ディーノ・ブッツァーティ『古森の秘密』(東宣出版:はじめて出逢う世界のおはなし)を読み終える。20世紀のイタリアを代表する作家の1人であるブッツァーティ(Dino Buzzati, 1906-1972)の2編目の長編小説Il Segreto del Bosco Vecchio(1935)の長野徹さんによる翻訳である。

 物語は次のように書き出されている:
「セバスティアーノ・プローコロ大佐がヴァッレ・ディ・フォンドにやってきて暮らしはじめたのは1925年の春だとされている。叔父のアントーニオ・モッロが遺言で、村から10キロばかり行った場所に所有する広大な森林の一部を彼に残したのである。
 残りのもっと広い森は、大佐の亡き弟の息子で、まだ12歳のベンヴェヌート・プローコロの手に渡った。母親も亡くしていたベンヴェヌート少年は、フォンドからさして遠くない私立の寄宿学校で生活していた。
 それまで大叔父のモッロが務めていたベンヴェヌートの後見人の役目は、大佐が受け継ぐことになった。」(7ページ)

 プローコロ大佐は長身で筋骨たくましく、彼が相続のために退役することになった時、彼の指揮する連隊の部下たちが安どのため息をついたほどに、厳格で規則にうるさい指揮官であった。一方、ベンヴェヌート少年は病弱で、同じ学校の遊び仲間たちから味噌っかすの扱いを受けている。
 プローコロ大佐が屋敷とともに相続した「古森」と呼ばれる太古の森の木々には精霊が宿っており、それゆえ、ここにある木は大昔から一木たりとも伐られることがなかった。だが、プローコロは森林委員会のベルナルディ(実は人の姿を借りた木の精)の忠告を無視し、森の伐採を実行しようとする。危機を感じたベルナルディは、洞窟に閉じ込められている暴風マッテーオを解き放つことによって大佐に対抗しようと考える。だが、森の秘密とベルナルディの妨害計画を察知したプローコロ大佐は、逆に自分の手でマッテーオを解放し、服従を誓わせる。やがてプローコロ大佐は、ベンヴェヌートを亡きものにして遺産を独り占めしようと考えはじめる。
 物語は、プローコロ大佐とその甥であるベンヴェヌートという2人の血縁はあるが対照的な2人の登場人物と、彼らを取り巻く森の住人たち(木の精、けだもの、鳥、虫、風…)とのかかわりあいを軸に展開し、さらに、人間と自然、自然と対立する大人と自然の中の声を聴き分けることのできる子どもという対立軸が設けられている(ベンヴェヌートbenvenutoはイタリア語で「ようこそ」という意味である)。その一方で、ベンヴェヌートが成人することにより、自然との結びつきを失ってしまうことも予示されている。このように、幻想的・寓意的な物語の展開がすでに紹介した冒頭の部分からもわかるように、1925年から27年までの出来事として、年代記風に語られている。幻想的・寓意的な物語の展開が、新聞記者をしていたというブッツァーティの新聞記事風の語りによって、ひょっとしてそんなことがあったのかもしれないという現実感を与えられている。

 森の住人たちの中では、木の精ベルナルディと暴風マッテーオが重要な存在で、さらにプローコロ大佐の影までが自己を主張し始める。かつては水力発電所のダムを崩壊させるほどの力をもっていたマッテーオであるが長年、洞窟に閉じ込められているうちにその力を失い、ベンヴェヌートの殺害に失敗するだけでなく、彼の不在中の20年間、谷を支配してきた別の風エヴァリストとの決闘に敗れてしまう。そこには時間の流れによる世の中の移り変わりが見て取れる。とともに、そのようなマッテーオの衰えがプローコロ大佐の変化とも重なり合うと考えられるのである。

 解説で長野さんは「イタリア文学の中では、『神曲』の冒頭でダンテが迷い込む、罪深い生活の象徴としての『暗い森』が連想されるが、ブッツァーティの『古森』もまた、自然、罪業、危険、生と死などの要素が多義的に結びついたシンボルであり、そこで神秘が顕現し、魂のドラマが演じられる舞台となっている」(218ページ)と書いているが、『神曲』の世界があくまで(ダンテが解釈した限りで)キリスト教的であるのに対し、こちらは異教的・アニミズム的な雰囲気を持っている点が重要ではないかと思う。なお、ブッツァーティの森はboscoであり、ダンテの森はselvaである。どこがどう違うのかといわれても、わからないし、同じことを別の言い方をしているだけかもしれないが、念のために書き添えておく。長野さんも指摘しているように、イタリアの作家の作品ではあるが、ドイツなど、イタリアより北方の文学の影響が見受けられる点も興味深い。ブッツァーティがイタリアでも北の方の出身だからであろうか。

 ブッツァーティがこの作品の後に書いた『タタール人の砂漠』は彼の代表作とされ、岩波文庫にも収められているので読んでみようと思う。また現代イタリアの短編小説をイタリア語と日本語の対訳で紹介する関口英子・白崎容子『名作短編で学ぶイタリア語』(ベレ出版)にはブッツァーティの短編小説”Qualcosa era successo ”(何かが起こった)が収められているほか、「原書に挑戦!」のコーナーで、このIl segreto del bosco vecchioが推薦されている(翻訳が出る以前に出版されたので、長野さんの翻訳については紹介されていない)。解説によると、『古森の秘密』は1993年にエルマンノ・オルミ監督の手で映画化されているそうで、機会があったら見てみたいと思う。

 このブログを始めて以来、読者の皆さんからいただいた拍手の数が19,000を越えました。お礼を申し上げるとともに、これからもご愛読くださるようお願いいたします。

『太平記』(128)

10月14日(金)曇り、次第に空が明るくなってきた。

 建武2年(1335年)11月19日、足利尊氏討伐を決心された後醍醐天皇の朝敵追討の宣旨を賜り、新田義貞が大手の大将として6万7千余騎の兵を率いて東海道を下り、搦め手として1万の兵が東山道を下って信濃から鎌倉に向かおうとした。鎌倉では、直義が兄尊氏に出陣を促したが、尊氏は天皇に恭順の意を示すべきだとして取り合わなかった。23日、直義は上杉憲房らの勧めで出陣したが、27日、三河国矢矧の合戦に敗れ、鷺坂、手越でも敗退した。鎌倉に帰った直義は、尊氏に偽の綸旨を見せて出家を思いとどまらせた。12月11日、尊氏と直義は出陣し、直義は箱根路を支え、尊氏は箱根山の北の竹下に向かうことになった。新田勢は箱根に敵の主力が集まると考えて義貞が7万余騎を率いて向かい、竹下には尊良親王に義貞の弟の脇屋義助をつけて向かわせた。箱根路では激戦が展開されたが、次第に新田方が有利になった。

 竹下へは中務卿である尊良親王の配下に、公家の諸家に仕える武士たちや、院の御所を守護する北面の武士たちを集めて500余騎が控えていたが、自分たちの力のほども考えずに、各地の武士たちに先んじられては面目が立たないと考えたのであろうか、官軍のしるしである錦の御旗を先頭にして、竹下に押し寄せ、敵がまだ矢を一矢も射ないうちに、「一天下に王たる君に向かって、弓を引き、矢を放つもの、天罰を受けるであろう。命が惜しければ、兜を脱いで、降参せよ」と口々に叫んだ。

 足利方の三浦因幡守、土岐道源、赤松筑前守は前回にも触れたように、300余騎で宵のうちから先陣に立っていたが、新田方の軍勢の馬の進め方、旗の文様から判断すると、公家侍の一隊がやってきたと思われる。矢が無駄だから味方に遠矢を射させるな。一斉に刀を抜いてかかれと指示を下し、300余騎の兵が武勇の家に生まれたものは名を惜しむが、命を惜しむものではないぞ。そういわれてきたのが本当かどうか、実戦で確かめてみようと、はなから(実戦経験の乏しい)相手を見くびり、鬨の声をあげて、轡を並べ、刀を一斉に抜いて戦闘に取り掛かる。(この時代の戦闘はまずたがいに遠矢を射て、様子をうかがい、それから接近戦に持ち込むのが普通だったのが、足利方は、新田方の公家侍の力が劣ることを確信して、いきなり接近戦を仕掛けたのである。)

 新田軍は坂のふもとの方に控えていたので、高い方から勢いをつけて攻め寄せてくる足利方の攻勢に対して、どうして一足も踏みこたえることができようか。一戦も交えることなく、退却を始めた。「さっき吐いた高言はどうした、汚いぞ、戻ってこい」と足利方は辱めながら、追撃を続け、尊良親王の軍勢500余騎は捕虜になったり、戦死したりして、残り少なくなってしまった。

 戦闘開始の合戦で失敗した(公家侍達が出しゃばったのがつまずきのもとである)ために、新田方にひるんだ様子が見えたので、足利方の仁木、細川、高、上杉の軍勢が勇躍、尊良親王の陣に攻め寄せる。副将軍である脇屋義助が7,000余騎で馬を進め、鬨の声をあげて、敵の側面から攻めかけた。足利方はこれまでの優勢で勢いづいて下り、側面からの攻撃にもひるむはずがなく、縦横に交差する形で、新田の大中黒の紋と、足利の二引両の紋が、入れ違い入れ違い、東西になびき、南北に分かれて、いつまでも戦い続ける。この一戦に命をかけて戦う兵たちの、二匹の虎が争うようなきっこうした戦いとなって、どちらも退却することがなかったので、馬の蹄が川のように流れる血をけりたて、地面には死骸が散乱していた。

 脇屋義助の子どもの義治は、まだ13歳になったばかりだったが、本隊とはぐれてしまい、3騎だけで敵の中に取り残された。彼は年は若かったが、機敏な人であったので、自分が身に着けていた笠符を引きちぎって捨て、敵に顔が乱れないように、顔を隠して、動揺しない様子でいた。
 父の義助はこのことを知らず、義治の姿が見えないのは戦死したか、捕虜になったかのどちらかであろう。息子の生死を確かめなければ生きているかいがないと、大声をあげて足利方の大群の中に駆け込む。義助が二度にわたり攻撃をかけてきたので、敵の大勢も疲れ、一斉に退却したところ、義治は馬を引き返し、足利方の武士と偽って、退却するのは卑怯である、敵は小勢であるから、もう一戦戦って、討ち死にしよう」と叫び、主従4人で走っていくのを、足利方の兵2騎があっぱれな振る舞いとお見受けした、お供すると一緒に戻ってくる。義助の陣近くなった時に、義治は3人の郎党に目で合図して、主従4騎で、ついてきた2人の武士を切り殺し、その首をとって、味方の陣に戻った。義助は義治が戻ってきたのを、死者が生き返ったように喜び、しばらく人馬を休めよと元の陣に戻っていった。

 新田方の先陣が戦いに疲れたので、控えの新しい軍勢と入れ替えて戦闘を継続しようとしていたところ、後ろの方に1,000余騎を率いて控えてきた大友左近将監、佐々木塩冶判官が何を考えたのか、一矢も射ずに、旗をまいて足利方に加わり、かえって、新田軍に盛んに矢を射かける。尊良親王の軍勢は、最初の合戦で大勢のものが戦死して、もはや戦闘能力がなく、義助の兵は、2度の先頭で人馬が疲れて、軍勢に勢いがない。これらに代わって前線で戦うことを期待されていた大友、塩谷が裏切って、尊良親王に向かって弓を引き、義助に戦いを挑んできたので、新田軍は支えようがなくなった。敵に背後に回られる前に、箱根路の義貞軍に合流しようと、佐野原(静岡県裾野市佐野)へと退却する。

 仁木、細川、今川、荒川、高、上杉、武蔵、相模の兵たちが3万余騎でこれを追走する。ここで、尊良親王が股肱の臣下とお考えになっていた二条中将為冬が戦死し、義助の部下たちは、何とか踏みとどまって持ちこたえようとするのだが、300余騎があちこちで戦死した。このような味方の様子を顧みる余裕もなしに、浮足立った新田軍は我先にと逃げてゆき、佐野原にもとどまることができず、伊豆の府(三島)も持ちこたえることができなくなって、搦め手の兵3万余騎は、東海道を西へと逃亡したのであった。

 新田方が主力を箱根に向けたことで、直義に対しては優勢に戦いを進めることができたが、足利方は主力を竹下の方に向けていた。しかも竹下では新田方の戦術ミスに加えて、大友・塩冶の裏切りが出て、足利方が圧勝するという結果になった。これまでのところ、新田方の方が軍勢は少ないのだが、士気が盛んなうえに、義貞とその執事である船田入道の作戦が見事に当たって、足利方に対し優勢に戦いを進めてきたが、ここで戦局に大きな変化が現れ始めた。
 『梅松論』(この間の事情について、『太平記』とはかなり違う記述がされている)には、大友は裏切る前にすでに足利尊氏と連絡を取っていたと記されており、尊氏の大将としての器量が義貞を上回っていることも察せられる。森茂暁『太平記の群像』には、「尊氏が武家の棟梁としての意識を強くもっていたことは、六波羅探題陥落の前後から、的確な情勢判断の上に立ち、全国から上京する兵士たちの着到状を受理し、証判を加えた事実に明瞭である」(角川文庫、124ページ)とあるが、武将としての能力に加えて、全体を見通す政治的な判断力をもっていたところに尊氏の強みがあったようである。
 さて、箱根路の義貞はどうするのか、というのはまた次回。 

日記抄(10月7日~13日)

10月13日(木)曇り

 10月7日から本日までの間に経験したこと、考えたこと、その他これまでの記事の補足など:
 Ray BradburyのThe October County (邦訳:十月はたそがれの国)という短編集がある。ブラッドベリの作品をよく読んだ時期があったが、今はあまり読む気がしない(そのうち、また読みたくなるかもしれない)。彼の作品は10月が一番似つかわしい雰囲気を持っているといえそうだ。ほかにもThe October Game and Other Stories (邦訳:十月の旅人)という短編集と、The Halloween Tree (邦訳:ハロウィーンがやってきた)という長編小説がある。

10月7日
 NHKラジオ「まいにちフランス語」応用編はフランコフォンの人たちへのインタビューを放送していて、本日はフランス、カナダ(ケベック州)、カメルーンの人が登場した。世界中には2億7400万人のフランコフォンの人たちがいるという(たぶん、中国語、英語、スペイン語に続いて世界で4番目に多くの人々によって使われている言語ということである)。

 同じく「まいにちイタリア語」は「古代ローマ幻想散歩」(Una fantastica passeggiata nell'Antica Roma)という番組を放送しているが、I Romani facebano una distinzione tra amore e matrimonio. (古代ローマ人は恋愛感情と結婚を区別していた)という話である。

10月8日
 『朝日』と『日経』の朝刊によると、政府の教育再生会議は新たに「学校・家庭・地域の役割分担と教育力の充実」と「子供の自己肯定感改善の環境づくり」の2つのテーマに取り組むことになったようである(『朝日』はもっぱら前者の方を強調して報道)。家庭の在り方が多様化している中で、特定の役割を果たすことを期待することがどのような効果を生むのか。「子供の自己肯定感」とはそもそもどういうことを言うのかなど、議論を煮詰めていく必要がある。

 ニッパツ三ツ沢球技場で横浜FC対V・ファーレン長崎の対戦を観戦する。横浜が前半2点を先制するが、後半に追い付かれて2-2で引き分ける。ハーフタイムの解説で奥寺さんが後半の守備が問題になるというようなことを話していたが、攻撃の方ばかりいじっていた中田監督の采配に疑問が残る。

10月9日
 NHKラジオ「攻略!英語リスニング」では”Oscar Wilde"について取り上げた。the Irish playwright -- not just playwright, but journalist, poet, novelist, aphorist, aesthete -- a great celebrity in his time, the greatest celebrity, known for his wit, his flamboyant clothes, his decadance. (アイルランドの劇作家――劇作家というだけでなく、ジャーナリストで詩人で、小説家で、警句家で、耽美主義者で――あの時代の超有名人、有名人の頂点ともいえる人で、そのウィットや、けばけばしい服装や、デカダンスで知られた人物――ということである。
 ダブリンのメリオン・スクェア近くのホテルに泊まったことがあるが、その隣のアメリカン・カレッジ・イン・ダブリンという学校の建物が、昔、ワイルドが住んでいた邸宅だったそうで、メリオン・スクェアにはワイルドを記念する像や碑がいろいろあったことを思い出す。

10月10日
 ポーランドの映画監督であるアンジェイ・ワイダさんの訃報が届く。見逃している作品も少なくないので、回顧上映などで見る機会があれば拾っていこうと思う。

 NHKラジオ「ワンポイント・ニュースで英会話」で、沖縄の遺跡からローマとオスマン・トルコの銅貨が発見されたという話題を取り上げていた(ローマというのは東ローマ帝国のことであろう)。貨幣が国境を越えて、また時代を超えて使われる例は少なくないので、どのようにこの銅貨が伝わってきたのかには様々な可能性が考えられる。

10月11日
 「みんなにアンケート」というブログに「「がんばれ」の言葉の第一印象は「ポジティブ」or「ネガティブ」」という質問の結果が掲載されていて、ポジティブとするものが71件(42%)、ネガティブとするものが41件(24%)、どちらともいえないとするものが38件(34%)ということであった。まあ、一般的に言えば、「ポジティブ」に受け止めることが多いとは思うが、誰に何についてどのような励まし方を受けるかによって、反応は違ってくる。益田ミリさんの漫画に「好きになれない人」というのがあったと思うが、そういう相手に何か言われると、たとえそれが励ましの言葉であっても、気分が本当に悪くなる。

10月12日
 『朝日』の朝刊に「京都非公開文化財特別公開」(10月28日~11月7日)の記事が出ていて、今回新たに京都ハリストス正教会の内部が公開されるということで、そういえば、この教会の前をよく通ったなぁと懐かしく思った(詩のサークルで集まる場所の近くだったのである)。記事には書かれていなかったが、調べてみたところ、日本最初のイコン画家である山下りん(1857-1939)の描いた聖像が2点(『受胎告知』と『大十字架』)所蔵されているはずである。そういえば、我が家の近くにもハリストス正教会があることを思い出したが、いつ出かけても人がいる気配のないのが気になるところである。

10月13日
 NHKラジオ「英会話タイムトライアル」を聞いていたら、look forward toには「どうぞよろしく」という意味があるのだという話が出てきた。こういうことはもっと早く知っておきたかったね。

 同じく「実践ビジネス英語」では”Hoarding Disorder"の話題から、”Obsessive decluttering"(極端なまでの整理整頓)へと話題が移り、さらにThe real danger is what some people call "information obesity" or "infobesity" for short. (本当に危険なのは、人によって「情報による肥満」とか、略して「情報肥満」と呼ぶものだ)という方向に話が展開した。確かに、物の整理とともに、情報の整理、a digital dietが必要な時代になってきているようだ。 
 

佐藤信也『周――理想化された古代王朝』(3)

10月12日(水)やっと晴れ間が広がる。

 紀元前11世紀後半に殷を滅ぼして成立した周王朝は、殷の遺民たちの反乱を鎮めながらその基盤を固め、第3代康王、第4代昭王の時代に最盛期を迎える。王国の基盤を固めるために、王室や重臣の子弟を邦君(王畿内の采邑を領有する)と諸侯(外服の地を治める)に封建し、諸侯を集めて行う儀礼と軍事的な遠征によって統治を進めたが、やがて、遠征の失敗から、宗教的な権威の強化の方に力を注ぐようになる。
 このような変化に伴い、それまでは殷の儀礼を踏襲していたのが、諸侯により実利的な権限や物品を与える冊命儀礼が重視されるようになり、政治も特定の重臣が政務や軍務を指導する体制から、邦君や諸官の長が執政団を形成する集団指導型に変化していく。ところが、第11代宣王の時代になると、重臣による指導と軍事的な遠征が再び試みられるようになる。このために邦君・諸侯の離反を招き、異民族との戦いや、王位の継承をめぐる王室内の戦いが加わって周王朝は存亡の危機に立つことになる。

 第5章「周室既に卑し――春秋期」は、周王朝がその本拠を東方に移したものの、次第に衰退していった状況をたどっている。題名になっている「周室既に卑し(いやし、ひくし)」は戦国時代の竹簡の中に含まれていた『繋年』と呼ばれる史書の第三章「周室既卑、周王東遷、止于成周」(146ページ、周の王室が衰えると、周王は東遷し、成周に留まった)という記述によったものである。
 一般的には西周最後の王である幽王の死(紀元前771年)をもって、春秋期に移ると考えられているが、吉本道雅は幽王の死の翌年から春秋期という呼び方の由来となった『春秋』の記述が始まる紀元前722年(魯の隠公元年)までを東遷期と考えている。(『春秋』は孔子が彼の生まれ育った魯の歴史をまとめた書物であるが、魯以外の同時代の諸国の動向も記されている。)
 『史記』周本紀では幽王の死後、ただちに諸国が東周初代の平王を擁立し、犬戎を避けるために洛邑(成周)に東遷したと記されているが、実は平王の擁立も東遷もそうすんなりと進んだわけではない(と考えられる証拠があるから、吉本説が提唱されているわけである)。

 『竹書紀年』と呼ばれる史書には幽王の死後、彼の弟である携王(王子余臣)と、幽王の子である平王とが、それぞれの支持勢力に擁立されて王位についていたが、携王は在位21年で晋の文侯(春秋の五覇に数えられる晋の文公=重耳とは別人)に殺され、9年間の空白期間を置いて、平王が即位したと記されている。携王については、『春秋左氏伝』の「昭公26年」でも触れられていると著者は記している(143ページ)が、これは当該箇所を紹介する方が親切であろう。
 魯の昭公26年は西暦紀元前516年にあたり、東周の第12代景王が没して、子の悼王が即位すると、その庶兄で父のお気に入りであった王子朝が反乱を起こす(このあたりの経過はこの書物の168~169ページに記されている)。その際に王子朝が諸侯に対して発した布告の中に「幽王の時、天は周に思いやりなく、王は愚かにして頑迷、ためにその位を失い、攜王が王を僭称したが、諸侯はこれを廃して、かわって王嗣(平王)を建て、(洛陽)に遷都した。」(岩波文庫、『春秋左氏伝 下』、270ページ。携ではなく攜という字が使われているほか、(洛陽)としたところ、夾辱にそれぞれ「おおざと」がついた文字が使われている。) だから、紀元前6世紀には、幽王と平王の間に携王という王がいたと伝えられていた。佐藤さんも指摘しているように、「『史記』周本紀が携王について言及していないのは、いささか不審である」(143ページ、あるいは王が複数いて、国政が混乱した状態を司馬遷が好まなかったためであろうか)。

 『竹書紀年』によれば、東遷の年代もふつう言われるように紀元前770年ではなくて、738年ということになるかもしれないが、東遷のはっきりした理由はわからない。東遷の地も、正確には西周期の成周の中心地からやや離れた、漢代の河南県域に相当する王城であることが考古学的に確認されている。
 周王とともに、王畿内に采邑を持つ邦君も東遷を行った。その代表的な例が鄭の桓公であり、西周第10代厲王の子(第11代宣王の弟)あるいは宣王の子とされる。いずれにしても周室に血縁的に近い存在である。その桓公もまた陝西省の華県から今の河南省新鄭にあたる地に東遷する。桓公の子である荘公は次第に邦君というよりも、諸侯のような存在になっていき、後世の学者たちから「小覇」と呼ばれる、春秋時代の覇者の先駆けのような働きをすることになる。(『春秋左氏伝』の最初のところに、鄭の桓公の説話が出てくるだけでなく、「夏五月、鄭伯、段に鄢に克つ」という『春秋』の記述は、五経の中の俳句だという笑い話になっているのはご存知の方も少なくないはずである。)

 今回で、この書物の紹介を終えるつもりだったが、関連して『春秋左氏伝』を読み返したりしたために、余計な興味がわいてきて、脱線が多くなり、春秋時代の周についての記述の論評さえ終えることができなくなってしまった。今、しばらくのお付き合いをお願いする次第である。

ダンテ・アリギエリ『神曲 天国篇』(4-1)

10月11日(火)曇り

 地球の南半球にそびえる煉獄山の頂上にある地上楽園でベアトリーチェに会ったダンテは、彼女の導きで天界へと旅立つ。最初に到達したのは月天で、天体であるとともに、天国の一部である。そこには誓願を果たすことができなかった霊がいる。そのような霊の中にダンテは親友であり煉獄でその魂に出会ったフォレーゼ・ドナーティの妹であるピッカルダを見出す。彼女は修道女であったのが、もう1人の兄コルソによって無理やり修道院から引き出され、政略結婚させられたのである。

 この出会いからダンテは2つの疑問を抱く。その2つの疑問のどちらを最初に口に出すべきか、ダンテは迷う。そして
等距離に離れ、等しく食欲をそそる
二つの食べ物の間にあると、自由なる人間は、
その一つを歯でかじる前に飢えて死ぬ、
(62ページ)という荒唐無稽なたとえを持ち出す。翻訳者である原さんの解説によると、ダンテは理性により意志は導かれるのであり、人間には完全な自由意志があるから、人間の行為の責任はその人間自身にあると考えていたという。ふつう、この考えはトマス・アクィナスの影響を受けたものとされているが、トマスは理性が意志に従属するという立場をとっていた。そこから、神の本質は理性にではなく、意志、換言すれば欲望にあるとする考えが出てくる。これは自身のあらゆる行動を神の意志ゆえのものとして正当化した<教皇の絶対的に無謬な自由>や絶対君主の自由に繋がっていく。これに対して、ダンテは理性によってそのような<自由>を規制しようとする立場に立っているのであるという。〔少し言葉遣いを変えると、現代の政治状況の中での意志決定の在り方につながる意味が見いだされる。〕

私は沈黙していた。しかし私の願いは
自分の顔に描かれ、それは話して表されるより、
ずっと熱意にあふれて問いかけていた。
(62-63ページ) ダンテの表情から彼が抱いている2つの疑問を読み取ったベアトリーチェは、それを言葉に変えてダンテに説明する。1つは、他人の暴力により意志の実現を妨げられても、その責任はその人にあるのかということであり、もう1つはプラトンが『ティマイオス』で述べていること、人間の魂は死後もとの住処であった星へと戻っていくというのは本当のことかというものである。

 ベアトリーチェは、第2の疑問から答えていく。ダンテが月天で出会った魂たちも、実は最高位の天使たちや旧約聖書の預言者、使徒、さらには聖母マリアと同じく、至高天にその座を持ち、
実は皆、第一の天輪を美しく飾っています。
そして永遠の息吹を感じる多少に従い
さまざまに異なる清らかな生を送っています。
(65ページ)という。ダンテが月天で彼らの霊に出会ったのは、至高天の内部で霊的な功績に従い、席が下から円をなして階段状に積み重なっていて、彼らはその一番下の席にいる。人間の理解は感覚をもとに行われるので、言語で表現不可能なものを、別なものを語ることで表現して伝えなければならないからだと、説明する。
あなた達の資質に対しては、このように話しかけることが必要なのです。
なぜならそれは、ただ感覚のみにたよって、
後で知性が整理するものを知るのですから。
(66ページ) 人間はまずもって感覚的な存在であるという考え方は、西洋の認識論や教育学の歴史の中で大きな流れを形成していて、ダンテもその流れの中にいる1人であることがわかる。そういえば、ダンテが旅してきた煉獄の道筋には、人間の感覚に訴えてその信仰や道徳性を改善しようとする仕掛けがいくつも見られた。〔人知を超えた存在について人知の範囲内で説明することは不可能なはずだが、それを可能にしようとアレゴリー(寓意、象徴)という手段が用いられる。芸術を通して人間性を改善しようとする試みは、そういう流れの中にあるのだが、果たしてどこまで有効なのか…という問いが、トーマス・マンの『ヴェニスに死す』の最後の方で展開される。〕

 プラトンは『ティマイオス』で人間の魂は肉体以前から存在し、星に住み、肉体と偶然に結合し、肉体が滅びると星に帰って次の肉体との結合を待つという考えを述べている。ベアトリーチェはこの考えは全くの間違いではないという(キリスト教的に解釈しなおす余地があるということである)。中世キリスト教の影響下にあったダンテの考えでは、魂は人間の誕生時に神により創造され、生まれ変わることはなく、固有のもので、死後、地獄か天国に行くことになっていた。しかし、人間の世界で起きることが、天界の動きに影響されているという考えは
幾分かの真理を射抜いているのです。
(67ページ)とベアトリーチェに言わせている。しかし、古典古代の人々は、このような影響をユピテル(木星)、メルクリウス(水星)、マルス(火星)などの神々として神格化するという誤りを犯したともいう。異教ローマ世界は、それらの神々が実在し、星の世界に住み、地上の出来事を決定するという信仰を持っていたとダンテは考えていた〔実際のローマ人の信仰のありようはもっと複雑で、多様であった。その一方でより明快な生きる原理を示すストアやエピクロスの哲学や、キリスト教がローマ人の間に浸透していったことも見落としてはならないだろう〕。
 たぶん、多くの日本人にとって、ダンテよりもプラトンの考えの方が人間の魂の運命についての説明として受け入れやすいと思うのだが、どうだろうか。ベアトリーチェはダンテのもう一つの問いにどのように答えるかをめぐっては、また次回に。

マンリー・W・ウェルマン&ウェイド・ウェルマン『シャーロック・ホームズの宇宙戦争』

10月10日(月)曇り

 マンリー・W・ウェルマン&ウェイド・ウェルマン『シャーロック・ホームズの宇宙戦争』(創元推理文庫)を読み終える。原題はSherlock Holmes's War of the Worldsで直訳すれば『シャーロック・ホームズの世界と(異)世界との戦争』とでも訳せるだろうか。1969年から1975年までというかなり長い年月をかけて、マンリーとウェイドのウェルマン父子が書いたSF小説であり、コナン・ドイルが創造した2人のヒーロー:シャーロック・ホームズとチャレンジャー教授(『失われた世界』その他に登場)が、異世界からの侵入者と戦うという物語で、その全体がドイルの同時代人であったH・G・ウェルズの『宇宙戦争』に対する異説となっている。シャーロック・ホームズを主人公とする作品群から、ワトスンはもちろんのこと、下宿のおかみさんのハドスン夫人、大学時代の友人であったヴィクター・トレヴァ、スコットランド・ヤードのスタンリ・ホプキンズ警部(最後の方で、名前だけレストレイド警部も登場する)、「ブナ屋敷」の依頼人であったヴァイオレット・ハンターなど、思い浮かぶままに抜き出してもかなりの数の顔ぶれが登場し、チャレンジャー教授を主人公とする作品群からは冒険家のジョン・ロクストン卿が登場するほか、物語の最初の3章の記録者がチャレンジャー教授の冒険の記録者であるエドワード・ダン・マローンという設定になっている(彼が事件とどのようにかかわったのかがはっきり描かれていないのが残念である)。そして後半の2章の記録者はもちろんジョン・H・ワトスンという設定である。

 1901年の11月にシャーロック・ホームズはロンドンのグレート・ポートランド街にある骨董屋でこぶしほどの大きさの水晶の球を見つけて購入する。その水晶には不思議な風景が映し出されていることに気付いた彼は優れた自然科学者であるチャレンジャー教授に連絡を取って、翌日、彼とともに水晶を改めて観察する。他の事件にかかわっているホームズから水晶を預かったチャレンジャーは、水晶の中に映し出されている風景が地球ではなく火星のものであると考える(月が2つ出ているからである)。2人はこの発見を2人だけの間の秘密として保持することにするが、火星に都市があること、タコのような火星人があることなどを知ることになる。

 1902年の1月に2人は有名な作家のH.G.ウェルズが水晶の謎を雑誌で取り上げようとしていることを知るが、できるだけこの事件については隠し通そうとする。5月に、ウェルズの記事が雑誌に掲載され、そこには謎の水晶を「灰色の服を着た背の高い、髪の黒い男」のことが書かれていたが、それがホームズだとは断定されていなかった。同じ5月に火星で何らかの爆発が起きたことを示す閃光が観察された。しかもそれは1度限りのことではなく、何度も続いて起きたのである。

 6月6日、ホームズは外務省のパーシ・フェルプス卿(「海軍条約事件」に登場)から巨大な円筒状の発射物がウォーキングの付近に落下し、その中には生物らしい存在が認められるという電報を受け取る。チャレンジャー博士も、またそのほか多くの科学者たちも現場に急行しているようである。現場に到着すると、一部の天文学者たちが中心になり、「火星からの来訪者」たちとの話し合いをしようとしているところである。しかし、来訪者たちは決して友好的ではなく、彼らの発した緑色の煙と閃光とによって話し合いを始めようとしていた人々を皆殺しにする。それが発端となって、次々に円筒状の発射物がイングランド南部に到着し、宇宙人の攻撃によって多大な被害が出ただけでなく、ロンドンはほとんど彼らの支配下に置かれる。お互いに連絡が取れないまま、いったんはロンドンを離れたホームズとチャレンジャーであるが、落ち着きを取り戻すとそれぞれロンドンに戻り、やがて合流して、宇宙人をどのようにして撃退するかを考える…。

 異星人の襲来という物語そのものよりも、ホームズやチャレンジャー教授の冒険物語のさまざまなエピソードが、この物語とどのように絡むかという、熱心な読者であればあるほど面白く読めるはずの仕掛けがこの小説には仕組まれている。H.G.ウェルズのほかに、アルフレッド・ラッセル・ウォレス(ダーウィンとほぼ同時に進化論を唱えたことで知られる博物学者)とかフランスの作家であるモーパッサンのような実在の人物の名前が引き合いに出されたりして、物語の現実感が補強されている。「著名な急進派にして無神論者」(228ページ)などとウェルズについては芳しからざる評価が述べられているのだが、そのような否定的な評価の多くがワトスンによるものであること、この作品中ではワトスンがかなり虚仮にされているところがあることも読み取るべきであろう(大体、物語の枠組みはウェルズのものを借りているということを無視できない)。なお、ドイルは保守党から2度下院議員に立候補して2度とも落選し、ウェルズは労働党から2度下院議員に立候補して2度とも落選していることを付記しておこう(まだ、保守党と自由党が二大政党であった時代に、労働党から立候補したウェルズにはある種の先見性があったといえよう)。方や推理小説の鼻祖、こなたSF小説の先駆けと、いろいろと対照的な2人であるが、同時代人であるし、社会問題に対する関心が強かったことなど、共通点も少なくない(第一、ドイルだってSF小説を書いている)。

 実際に読んでみた時の楽しみを残すために、物語のかなりの部分を省略したり、説明しなかったりしているのだが、それでも、この物語の読み応えを感じ取っていただけたら、幸いである。ホームズとチャレンジャーは電話で連絡を取り合っているが、その一方でロンドンではまだ馬車が有力な乗り物である。このあたり、ホームズの≪正典≫と突き合わせて検討すると、面白いことがわかるかもしれない。唯一残念なのはイタリアの火星観測家のスキャパレリの名前と「運河」の話は出てくるが、アメリカで火星を観測した(日本にも縁の深い)パーシヴァル・ローウェルの名前が出てこないことである。

ジェイン・オースティン『マンスフィールド・パーク』(4)

10月9日(日)午前中雨、午後になって降りやみ、次第に晴れ間が広がる。

これまでのあらすじ
 親が愚かな結婚をしたために、貧乏人の子沢山の家で育ったファニー・プライスは10歳の時に母の姉の夫である准男爵サー・トマス・バートラムの屋敷であるマンスフィールド・パークに引き取られる。体が弱く、内気なファニーは母のもう一人の姉であるノリス夫人のいじめや、従姉たちのからかいに会いながら、バートラム家の次男であるエドマンドの助けもあって、次第に道徳心堅固で感受性豊かな女性へと成長する。物語はファニーが18歳になったころから本格的に展開し始める。
 バートラム家の長男のトムは賭博の悪習に染まって一家の財政を悪化させ、そのためサー・トーマスはアンティグア島にある自分の農園に出かけて屋敷を留守にする。その間、新たに教区牧師となったグラント博士の義理の弟妹であるヘンリーとメアリーのクロフォード兄妹が教区に現れ、さらにトムの悪友で貴族の次男であるということ以外に取り柄がない(なんでこれが取り柄なのだ!!)イエーツ氏が加わって、芝居を上演しようという話が持ち上がる。エドマンドは反対だったが、不承不承参加させられ、ファニーも反対だが、いろいろと手伝いをさせられる。この間、バートラム家の長女マライアは婚約者がいるのに、ヘンリーとの恋愛遊戯にふけり、次女のジュリアは姉とヘンリーを争って敗れたために芝居から身を引くが、イェーツが自分に好意を寄せていることには無関心ではない。牧師を目指すエドマンドはメアリーに魅力を感じるが、メアリーはエドマンドの才気が気に入っても、彼が牧師になろうとしていることが気に入らない。
 サー・トマスが帰国して芝居の話は取りやめとなり、マンスフィールド・パークには以前の秩序が戻る。マライアの婚約者であるラッシュワース氏は大金持ちの大地主であるが、どちらかというと愚鈍で、感受性の強いマライアとは性格が合わない。それでも、ヘンリーが自分に偽りの愛で接したことに失望したマライアはラッシュワースと結婚する。結婚した2人は新婚生活を送るために保養地として知られるブライトンに向かい、(当時の一般的な風習として)ジュリアが同行する。(マライアもジュリアもサー・トマスの厳しい目を逃れて「自由」な生活を送りたかっただけで、このことが物語の後の方になって様々な波紋を起こすようになる。)

第22章
 「マライアとジュリアが旅行でいなくなったため、ファニーの存在が重要性を増すこととなった。いまはバートラム家の客間で唯ひとりの若い女性となり、家族の中で一番興味深い年齢の若い女性として、今までは三番目という控えめな位置にいたが、突然唯一の存在となったのである。それゆえ、今まで以上にみんなの視線と、思考と、配慮の対象にならないわけにはいかなかった。誰かが用を言いつけるとき以外でも、「ファニーはどこにいるの?」という言葉がたびたび聞かれるようになった。」(308ページ) 第22章はこのように書き出されている。マライアの結婚をきっかけとして、彼女とジュリアがマンスフィールド・パークを離れたことから、2人の陰に隠れていたファニーが屋敷の中で唯ひとりの結婚適齢期の女性として注目を浴びるようになる。

 マンスフィールド・パークだけでなく、牧師館でもファニーは貴重な存在となった。教区牧師であるグラント博士の義理の妹であるミス・クロフォード(メアリー)は持ち前の好奇心から(彼女が思いを寄せているエドマンドのことを詳しく聞き出したいという気持ちも手伝って)ファニーと親しく付き合おうとする。ファニーはメアリーの遠慮のない態度に当惑することがしばしばあった。2人は牧師館の散歩道を歩きながら、会話を交わすが田園生活になじんだファニーと、都会の生活にこだわりを持つメアリーの話はかみ合わない(2人がともに思いを寄せているエドマンドに送ってほしい生活のありようも違うわけである)。
 そこへ、グラント夫人とエドマンドが姿を現す。エドマンドにマンスフィールド・パークの家督を継いでほしいメアリーと、今のままでいいと思っているファニーの間で、エドマンドの呼び方をめぐりささやかな言い争いがある。金銭的な豊かさを重視するメアリーは、エドマンドが牧師になろうとしていることに反対で、別の職業に就くことを勧める。牧師館を去り際に、ファニーはグラント夫人から翌日のディナーに招待される。

第23章
 ファニーが牧師館でのディナーに招待されたことをめぐり、マンスフィールド・パークではひと騒ぎが起きるが、エドマンドとサー・トマスの配慮で、馬車に乗って牧師館に出かけることになる。到着してみると、メアリーの兄であるヘンリー・クロフォードがやってきていることがわかる。エドマンドは彼に会えたことを喜ぶが、ファニーはそんな気持ちになれない。ヘンリーは少し前にマンスフィールドで起きた芝居の上演をめぐる騒ぎや、マライアとの恋愛遊戯についてまるで反省の気持ちを持たない様子で、ファニーは怒りを感じる。エドマンドはグラント博士から聖職禄をめぐる話を聞かされ、ヘンリーはエドマンドが「湯水のように使えるほどの収入が手に入る」(341ページ)というが、もともとエドマンドが牧師になることに反対のメアリーはその話を喜ばず、エドマンドが得る聖職禄の額にも不満である。(聖職禄に限らず、登場人物の保有する財産が具体的な数字を挙げて記されている例が、オースティンの小説ではきわめて多い。)

第24章
 ヘンリーは牧師館での滞在を伸ばすことを決心しただけでなく、ファニーが自分に恋するように仕向けるつもりだとメアリーに打ち明ける。メアリーは兄の目論見にあきれて、反対するが、ヘンリーが気持ちを変えないので、意見を言い続けるのをやめる。ファニーはヘンリーの過去のふるまいを忘れてはいないし、よい思いを抱いてはいないけれども、相手が礼儀正しく振舞っている以上、相応の礼儀正しさでふるまわないわけにはいかなかった。(ファニーはエドマンドを慕い続けてきたので、ヘンリーに心を動かそうとはしなかったのである。)
 そこへ、ファニーの兄である海軍の見習い将校のウィリアムが、それまで長い間イギリスを離れて航海に出ていたのだが、帰国するという知らせが届く。この知らせを受けたサー・トマスはウィリアムをマンスフィールド・パークに招待する。
 マンスフィールド・パークに到着したウィリアムは7年ぶりに再会した妹と思い出話にふけった。マンスフィールド・パークの人々も海の幽社として経験を重ねた、まだ若いウィリアムを歓迎し、ヘンリーは彼をキツネ狩りに誘い、狩りを楽しんだウィリアムから感謝される。

第25章
 バートラム家とグラント家の交際が復活して、グラント家のディナーにバートラム家の一同が招待される。その席で、サー・トマスはヘンリーがファニーに思いを寄せているらしいと気づく。一方、ウィリアムは、ファニーが踊るところを見たいという気持ちを打ち明ける。

第26章
 ウィリアムの願いに心を動かされたサー・トマスはファニーのためにマンスフィールド・パークで舞踏会を開くことを決める。ファニーは舞踏会に何を着ていくか、兄であるウィリアムからプレゼントされた琥珀の十字架をどのように首にかけるかなど、いろいろな心配を抱えている。他方、エドマンドは間近に迫った聖職叙任式と、メアリーへの求婚をめぐり頭を悩ませている。アクセサリーのことで迷ったファニーは牧師館に相談に出かけ、途中で出会ったメアリーからネックレスをプレゼントされる。

 ヘンリーがファニーに思いを寄せる(はじめのうちはふりをしているだけなのが、だんだん本気になる)ことで、話がさらに入り組んでくる。エドマンドはメアリーを愛しており、メアリーもエドモンドに関心がないわけではないのだが、牧師の妻になるという気持ちが彼女には全くない。自分の姉であるグラント夫人が牧師の妻で、それなりに豊かな生活を送っているのに、それがあこがれの対象にならないのである。グラント夫人は頭も気立てもよい女性に描かれているが、美人ではないので、他の登場人物から軽んじられているところがある。彼女の前に教区牧師夫人であったノリス夫人が美人だけれども、意地悪で、ケチで、しかも牧師館を管理するということになるとまるで無能であったのと対照的な描かれ方になっているので、この辺りは注意を要するところである。ファニーがグラント夫人の庭造りの趣味の良さを褒めるのと、メアリーがそのあたりのことにまるで無関心だという対照は単に両者の性格だけでなく、物語のその後の展開の伏線にもなっているように思われる。

秋霖

10月8日(土)雨、午後になって晴れ間が覗く

秋霖

秋霖は
夏を終わらせる雨
それが9月に降りやまずに
10月になっても降り続けている

夏の名残の暑さで
悪い汗をかいたのが後を引いて
なぜか体調が戻らないまま
禁酒を続けて2週間が過ぎた

昼酒でも飲んで気を紛らわしたいと思いながら
しばらく酒はやめなさいという医者の声も耳に残る
降り続く雨と
酒が飲めない酒飲みの
根比べが続く

秋霖の時期は長くなってきていると
気象学者は言っているらしい
いくら長くなっても
必ず終わりはあるはずだ

早くすっきりとした
秋の酒を飲みたいものだが
それまでに体調を戻すには
まだどれだけの我慢が要るのだろうか???

『太平記』(127)

10月7日(金)晴れのち曇り

 建武2(1335)年11月19日、新田義貞は朝敵追討の宣旨を賜り、同日、官軍の大手・搦め手の軍勢は鎌倉の足利尊氏・直義兄弟を討伐すべく、東海道と東山道を下った。鎌倉では、直義が兄尊氏に出陣を促したが、尊氏は天皇に恭順の意を示すべきだとして取り合わなかった。23日、直義は伯父である上杉憲房らの勧めで出陣したが、27日、三河国矢矧の合戦に敗れ、鷺坂、手越でも敗退した。鎌倉に帰った直義は、尊氏に偽の綸旨を見せて出家を思いとどまらせた。尊氏が出家を思いとどまったと知って、京方に降参しようとしていた大名たち、あちこちに落ち延びようとしていた軍勢も、ここで急に気を取り直して鎌倉方に集まってきたので、鎌倉じゅうの軍勢はまた30万騎を数えるに至った。

 12月11日、尊氏・直義の両陣の手分けがあり、直義は箱根路を支え、尊氏は箱根の北、足柄路の要所である竹下(たけのした=静岡県駿東郡小山町竹之下)に向かうことが決まった。そうはしたけれども、これまでたびたびの合戦に連敗してきた武士たちは、気分を切り替えて奮い立たせることができず、どっちつかずでいた挙句に最近になってはせ参じてきた武士たちは大将の出陣を待ってぐずぐずしていたので、義貞の軍はすでに伊豆の府(こう=三島)を出発して、その夜三島から箱根へ至る山道である野七里山七里(のくれやまくれ)を越えたという噂であったが、鎌倉勢はまだ箱根へも竹下へも向かおうとはしていなかった。

 鎌倉方の大名である三浦因幡守(貞連、矢矧の戦いに参加していた)、土岐道源(矢矧の戦いに参加していた)、赤松筑前守貞範(赤松円心の次男。円心は鎌倉幕府を滅ぼすにあたり大きな功績をあげたにもかかわらず、播磨守護職を召し上げられた不満から足利方についていた)の3人は、竹下に向かうことになっていたが、「このようにお互いに顔色を窺いあって、鎌倉でぐずぐずしていても仕方がない。この際、他人のことはどうでも構わない。とにかく、まず竹下に打ち向かって、あとから味方がやってくる前に敵が攻めてくればそれはその時のことで、討ち死にするまでだ」と決死の覚悟を決めて、11日の夜に、竹下へと急ぎ向かう。彼らに従う軍勢はわずか100騎ばかりなので、どうも心配で落ち着かない様子である。(流布本では3人のほかに、足利(斯波)高経・家兼兄弟、土岐道謙の兄の頼遠、佐々木道誉も竹下に先発したことになっている。)

 竹下に到着して、敵の陣をはるかに眺めてみると、西は伊豆の府、東は野七里山七里に篝火をたいて野営している様子がはっきりと見え、その数は数百万もあろうか、数え切れないほどであり、晴れた夜に星の光が、青い海に映るようである。「こちらも、篝火を焼け」と、雪に埋もれた枯れ草を払って、ところどころに刈り集め、やっとのことで火を吹き付けたが、夏山の狩りで、夜中に鹿寄せのために焚く篝火のようにまばらな様子である。それでも、足利方の運が強かったので、新田方はこの夜のうちには来襲しなかった。

 夜がすでに開けようとしているころ、尊氏が10万余騎を率いて竹下へ到着する。直義は、6万余騎で箱根の峠に到着した。

 明けて12日の辰刻(午前8時ごろ)、義貞軍は伊豆の府で軍勢の配置を行った。竹下には、中務卿(尊良)親王に貴族たちを30余人お付けして向かわせることとなったが、大将となる武士がいなくてはまずいだろうと、義貞の弟の脇屋義助の他、大友左近将監、塩谷判官高貞らを向かわせた。箱根路には、敵の主だった大将がやってくるだろうと、義貞とその一族20余人、千葉、宇都宮、大友、菊池などの大名30余人、合わせて7万余騎が大手(箱根路)に向かった。

 同日、午刻(正午ごろ)戦闘が開始され、大手、搦め手十余里(箱根八里というから、十余里は誇張である)、敵味方80万余騎(これまた誇張で両軍合わせて50万余騎もいないはずである)が、天地を響かせて攻め戦う。箱根では、九州の大名菊池肥後守武重が先陣を承り、山を下って攻め立ててくる敵3,000余騎を追い散らし、追い上げて、坂の途中に盾を突き刺して、一休みする。その後、千葉、宇都宮、河越、高山、愛曽、厚東、熱田大宮司、それぞれが陣を構えて、えいえいと掛け声を出して、一息休んでは喚き叫んで戦う声が、しばらくもやむ時がなかった。

 新田方に加わっていた道場坊祐覚という山法師は、稚児10人、同じ僧房に住む僧30人とともに従軍していたが、稚児は紅下濃(紅色の縅毛を下に行くほど濃く染めた鎧)、僧兵は黒糸の鎧をそろいできて、稚児全員に紅梅の造花を一枝ずつ兜の正面に着けさせていたが、盾から身をあらわして進んできた。実戦向きではない装飾過剰の一隊である。足利方は、稚児だからと言って手加減するなと、盛んに矢を射かける。稚児たちが重傷を負って倒れたので、其の首をとろうと足利勢の武士たちが襲い掛かるが、祐覚と同宿の僧兵たちが太刀の切っ先を並べて、負傷者の上を飛び越えながら、切って切って切りまくる。祐覚たちの方が大きな太刀を使っていたので、足利方の武士は劣勢になり、祐覚たちは負傷者を無事収容して引き上げた。

 義貞の配下に十六騎が党という弓の名手達がそろっていて、戦いの要所要所でその弓矢が効果を発揮する。義貞の執事である船田入道が戦目付の役割を果たし、義貞が戦いの全体を見守る中、新田方の千葉、宇都宮、大友、菊池の軍勢は次第に足利方を圧倒し、6万あった直義は以下の兵たちはその10分のもいないのではないかと思われるほどである。こうして、大手の戦いで新田勢は優勢に立ち、足利勢を追い立て始める。鎌倉勢の中で気を吐いたのは信濃の武士で清和源氏の村上信貞で、500余騎で新田軍の追撃を食い止めた。これには直義も大いに感激して信濃の国の塩田庄を褒美として与えるとの約束を与えたほどであった。

 今回も新田軍の方が優勢に戦いを進めているが、敵の主力が箱根の方にやってくるという重大な判断ミスをして、義貞は直義の方と戦い、尊氏の本隊が竹下の方に向かっていたことを計算に入れていない。実は勝敗の分かれ目になってくるのは、その竹下の戦いの方である…ということは次回。 

日記抄(9月30日~10月6日)

10月6日(木)晴れたり曇ったり、残暑厳し

 体調はまだ完全には回復していない。
 前回の「日記抄」で書き落としたことを2つほど:
9月26日の『読売』に東京五輪を目指し政府が100億円の予算をかけて自動翻訳機の開発を急ぐという記事が出ていた。この記事では9言語での開発に取り組んでいるというが、パナソニックとJTBで取り組んでいるのは日本語、英語、中国語、韓国語の自動翻訳だそうである。「主語や目的語のない、砕けた話し言葉や、長文の翻訳は難しく、今後の課題となる」という。この程度のことならば、翻訳機を開発するよりも、係員の研修に取り組む方が機械の開発よりも効果は大きいのではないか。たとえ片言でも、言葉が通じる喜びというのが人間には感じられるが、機械はそんなものは感じないのである。

9月29日の『ラジオ英会話』に出てきた早口言葉:
「瓜売りが瓜売りにきて瓜売り残し売り売り帰る瓜売りの声」
Of all the felt I ever felt,
I never felt a piece of felt
Which felt as fine as that felt felt,
When first i felt that felt hat's felt.
パートナーのケイティ・アドラーさんとジェフ・マニングさんが「瓜売り」をしゃべって聞かせてくれたが、私の方がうまくしゃべれると思った。逆に英語の早口言葉の方は、どう頑張っても敵わない。とりあえず、そういうものだと思っておこう。

9月30日
 NHKラジオ「実践ビジネス英語」の”Just in Jest"のコーナーで紹介された表現:
Life is a zoo in a jungle.
「人生とは、弱肉強食の世界にある動物園のようなもの。檻の中に閉じ込められて窮屈な思いはするが、食われてしまうよりはまだましか」という解釈もあるとテキストには記されている。

10月1日
 NHKラジオ「攻略!英語リスニング」は”Our Common Ancestor" (共通祖先)という話題を取り上げた。今から40億年ほど時代をさかのぼると
Finally, we meet a basic lifeform that biologists call LUCA. The name stands for Last Universal Common Ancestor. LUCA is the lifeform we, and all life on Earth, come from.
(ついに、生物学者がLUCAと呼ぶ原始的な生物に行き当たる。LUCAはLast Universal Common Ancestor (全生物の最終共通祖先)の略である。LUCAから人類と、地球上の生物すべてが生まれたのである。)

 そういえば、昔はコアセルベートという物体が生命の起源に重要な役割を果たしたと考えられていた時代があったが、どうも生命の起源にいたる過程は、そのころ考えられていたよりもはるかに複雑なものであるらしい。

10月2日
 横浜FCはアウェーで愛媛FCに0-3で完敗、8位に後退した。何とか残る試合をしっかり勝ち抜いてほしいものである。

10月3日
 一昨日から痛風の発作らしきものが起きているので、かかりつけの医者で診察してもらう。病気はこれだけではなさそうだが、一つ一つ取り組んでいくことにしよう。

10月4日
 大隅良典東京工業大学栄誉教授が今年度のノーベル医学生理学賞の受賞者に決まる。私も東京工業大学で教えていたことがあったので、ニュースを聞いての嬉しさが割り増しされるところがある。
 
10月5日
 NHKラジオ「実践ビジネス英語」の”Quote...Unquote”のコーナーで取り上げられた言葉:
More light!
  -―Johann Wolfgang von Goethe
(german poet, dramatist and novelist, 1749 -1832)
(もっと光を。)
 臨終の床に横たわっていたゲーテが、あたりが暗かったので、もっと明るくしてくれといったというのが真相だともいわれる。なお、国会議員になったニュートンが、唯一議会で発言したのが、議場が暗いから窓を開いて明るくしてくれといったことだという話もある。ゲーテは色彩論、ニュートンは光学でも大きな仕事をした。だから、光にはうるさかったのだと考えておこう。

10月6日
 「実践ビジネス英語」の”Quote...Unquote"のコーナーで取り上げられた言葉
Reason and free inquiry are the only effectual agents against error.
           ――Thomas Jefferson (third U.S. president, 1743 -1826)
(理性と自由な探求が、間違いを防ぐ唯一有効な力である。)
たぶん、そうではない。間違いをしたら、「それは間違っている!」と助言してくれる人が、誰か近くに一番いることが間違いを防ぐためには一番有効な力となるだろう。 

佐藤信也『周――理想化された古代王朝』(2)

10月5日(水)曇り

 古代中国の殷に続く王朝である周は、紀元前771年までの西周と、その後の東周の2つの時代に分けられる。そして東周の時代もまた、通常春秋と戦国の2つの時代に分けられている。
 農耕と定住を理想としながらも、移動性の非農耕民としてのアイデンティティも強くもっていた周は、殷の文化を摂取しながら次第に強大化し、やがて殷を滅ぼして新しい王朝を建設する。しかし殷の遺民たちの反乱は続き、それを抑止するために国王や重臣たちの一族を諸侯として封建することで国づくりを進めていった。その中で特に重視されたのが「祀(祭祀)」と「戎(軍事)」である。西周の前半期には会同型の儀礼を通じて国王から臣下にいたる人々の結びつきの強化が図られたが、そのような祭祀の主要な性格は殷から継続してきたものであった。また西周の前期は、盛んに外征が行われていたことを示す記録もある。

 しかし4代目の昭王が南征中に没したという伝承が伝えられているように、このような外征が挫折する時代が訪れたことが推測される。昭王の次の穆王の時代から金文の内容に変化が見られ、軍事行動は防衛が中心となり、その分、祭祀儀礼が盛んになって、宗教的な権威の強化によって統治体制の立て直しが図られたのではないかと考えられる。(以上、第2章までの要約)

 第3章「変わる礼制と政治体制 西周後半期Ⅰ」ではまず「礼制改革」が取り上げられる。
 考古学的にみると、祭祀儀礼で用いられる青銅礼器の種類やデザインが変わり、殷の影響を離れた周の独自性が出てくるという。また、金文に見える儀礼を通じて知ることができるのは、「会同型儀礼」の記録が次第に減少し、一定の形式で周王が臣下に官職や職務を命じる冊命儀礼の記録が増加するということである。このような儀式を通じて、臣下のものは一定の権限を与えられただけでなく、その権限を示す官服や車馬具などを与えられた。「会同型儀礼」の場合よりも、実利性が重んじられるようになってきたのである。

 西周後半期になると、それまでの特定の重臣が政務や軍務を指導する体制に変わり、国王に血縁的に近い一族で他の諸侯を指導する立場にある邦君や諸官の長が執政団を形成し、集団で指導する体制となる。
 冊命儀礼を行うようになったのは、第5代穆王の時代であったが、その子である第6代の共王は冊命儀礼を推進するとともに「会同型儀礼」の保持を図ろうとしたようである。この時期の諸王(第6代共王・第7代懿王・第8代孝王、第9代夷王)は伝世文献でその事績が語られることがなく、影が薄い。夷王については諸侯に対する暴虐な振る舞いや暗愚さが文献に記されており、それがその後の三大の王に受け継がれることになったとも想像できる。

 第4章「暴君と権臣たち 西周後半期Ⅱ」は、「追放された暴君」として第10代厲王の治世の特徴を論じることから始まっている。伝世文献では暴君とされる厲王は親征を繰り返すことで、昭王の時代までの軍事王としての性質を取り戻そうとし、周王としては例外的に長銘の金文を残している点などを考えると、おそらくは祭祀王としての性質も取り戻そうとしていた。このようにそれまでの諸王とは大きく異なる政治姿勢を示したことで、厲王は臣下の不安と反発を招き、在位37年にして国人の反乱により周から亡命することになった。
 「『史記』周本紀によると、その後、周では召公(これもおそらく召穆公を指す)に匿われていた太子静、のちの第11代宣王が成長し、厲王が彘(てい)の地で没するまで、14年にわたって王が置かれず、召公と周公(周公旦の子孫であろう)の2人の大臣が政務を司り、共に和して政治を行ったということで「共和」と号したという。これが世襲君主の存在しない政治体制を指す、republicの訳語としての共和制の語源である。この「共和の政」が開始されたのは、西暦では前841年のことである。」(115ページ)
 しかし、著者はこの『史記』の記述に異論を唱え、『竹書紀年』を手掛かりとして、共伯和という人物が天子たる王に成り代わって政治を行ったと考えるべきではないかと論じている。

 共和14年に厲王が亡命先で死去したことを受けて、第11代となる宣王が即位した。この王の時代から、周王だけでなく臣下についても伝世文献と金文の双方で照合が可能な人物が増えてくるそうである。
 宣王は父厲王と同じく執政団政治に代えて、特定の権臣に政務を執行させる体制を採用するなど、復古的な政策を実施した。積極的に外征を行ったのも同様である。宣王は『詩経』では中興の英主とたたえられているが、白川静によるとそれらの詩は、この時代に鼓舞された復古精神の産物であったようである(はっきりと入っていないが、自画自賛だということである)。(執政団政治の方が特定の権臣による政治よりも国王にとっては有利なはずなのに、その判断ができないのは、すでに特定の権臣が宮廷内の有力者としてのさばっていたという既成事実があったと考えるべきであろう。)

 宣王の子が西周最後の王となる第12代幽王である。幽王が美女褒姒に迷って彼女を笑わせようと知恵を傾けた→国を傾けたという説話はともかくとして、昭王による南征の失敗以後の長期間にわたる周王朝の緩やかな衰退、周の西北に勢力を持ってたびたびその領域を侵犯してきた犬(玁=けん)戎による圧迫(さらに周の東南にいる異民族である淮夷との戦いも加わる)、さらに王朝内での王位や政治の実権をめぐる内紛が滅亡の原因として考えられる。犬戎は周と同じく農耕と非農耕の二重のアイデンティティを持つと考えられる人々であり、その実態をめぐっては謎の部分が大きく、西周の滅亡をめぐってもまだまだ謎に包まれた部分が多いというのが正直なところなのではないかと思う。

 佐藤さんはおそらく知っていて、無視しているが周の穆王をめぐる民間伝承の類は優に数冊の本が書けるほどの量があり、実は私も無視して紹介しなかったが、『太平記』第13巻に穆王が天馬に乗って天竺の舎衛国で釈尊が法華経を講ぜられている場面に到達するという説話が出て来る。そしてそのあと菊慈童とその長寿の説話に続く。法華経というのがいかにも中世の日本的で、『穆天子伝』では崑崙山で西王母と会ったという話であったそうである。なお、穆王が遊び歩いているうちに、東方にあった徐の偃王が急速に勢力を拡大してきた。しかし、偃王は平和主義者だったので穆王が軍隊を率いて鎮圧に向かってきたというのを聞くと、そのまま逃げだして、山中にこもってしまい、その後、その山を徐山と呼ぶようになったという。なぜ、この話を書いたかというと、秦の始皇帝に不老不死の薬をとってこいと言われて、日本にやってきたといわれる徐福はこの偃王の子孫だという説があるからである。

 書物の本筋を少し離れてしまったが、周王朝というのが外国の、我々とは無縁な王朝ではないということが、日本の説話文学の行間をたどっても、わかると思うのである。春秋時代以後の周王朝の行く末についてはまた機会を改めて。 

ダンテ・アリギエリ『神曲 天国篇』(3-2)

10月4日(火)曇り 依然として体調が悪くて、パソコンに向かいながら眠り込んでしまうことが少なくなく、そのため、皆様のブログを訪問することが難しくなっておりますが、ご容赦のほどを。

 1300年4月13日の正午に、煉獄山の頂点にある地上楽園からダンテはベアトリーチェに導かれて天界へと飛び立つ。彼らは地球から最も近いところにある天体である月天に到着する。そこには生前にその誓願を果たさなかった人々の魂が置かれている。ダンテは、ここで彼の親友であるフォレーゼ・ドナーティの妹であるピッカルダの魂に出会う。(フォレーゼにはすでに煉獄で出会っているのである。) ダンテは、相手が親友の妹である(自分の妻の従姉妹でもあることを知り、神から一番遠い場所である月天にいることに不満はないかと直接に質問してしまう。

彼女は、最初に他の影達とともにしばらく微笑み、
その後で私にとてもうれしげに答えた、
(54ページ) 天国ではあらゆる魂が神の一つと一緒になっているので、神の決定に不満を抱くということはありえないという。

 次にダンテは、彼女の身に生前何が起きたのかを尋ねる。
「ある貴婦人が完全なる生と高き功績により天空の
ひときわ高きにおわし――彼女は私に言った――その方の定めに従い、
下界のあなた方のいる現世で修道女たちは決められた服を着て面紗を被る、

慈愛ゆえに自身の御心に沿う誓願を
くまなく受け入れるかの夫と
死ぬまで寝起きをともにするために。

俗世を嫌い、その方に続くために、まだ若かった
私は出家し、その服に身を封じて
その方が創始した修道会の示す道に誓いを立てた。
…(57-58ページ) 「ある貴婦人」はアッシジの聖フランシスコ(1181/2-1226)の弟子で、聖キアラ女子修道院を創設したアッシジの聖キアラまたはクララ(1194-1253)を指す。彼女の女子修道院では厳しい清貧と禁欲生活を通じて、神の感想が目指された。イタリア語での読み方は「キアラ」であり、原さんもキアラと表記している。なお、有島武郎に彼女を主人公とした「クララの出家」という短編小説がある。「かの夫」はイエス・キリストをさす。ピッカルダはフィレンツェ近郊のモンティチェッリ修道院に入った。

その後で男たちが、彼らは善よりも悪に親しい者達だったけれど、
私を清らかな僧院の回廊から外にさらっていった。
その後で私の人生がどうなったのか、もちろんご存知のこと。
(58ページ) ピッカルダは1285年(1288年ともいわれる)に彼女のもう1人の兄コルソにより強制的に還俗させられ、フィレンツェの有力者であったロッセーリーノ・デッラトーザの妻とされた(つまり政略結婚の道具とされたのである)。

 そして彼女の右側でその運命を自らの運命のように聞いている魂の存在を紹介する。
・・・
こちらは偉大な帝妃コスタンツァの光。
彼女こそは、シュタウフェンの第二の風との間に
第三の風にして最後の威光をお産みになった方よ」。
(59ページ) 帝妃コスタンツァと呼ばれているのはノルマン朝シチリア王ルッジェーロ2世の娘、コスタンツァ・オートヴィル(1154-98)で、1186年、神聖ローマ帝国ホーエンシュタウフェン朝のハインリッヒ6世の妻となった。彼女が修道女であったのを無理やり還俗させて帝妃にしたというのは教皇党が、皇帝を攻撃するために作り出した噂だそうである。語り終えると、ピッカルダは「アヴェ・マリア」と歌い始め、歌声とともに姿を消していった。ダンテは改めて、ベアトリーチェに質問を始めようとする。

 ここではとりあえず、13世紀、14世紀の都会の裕福な階層の女性たちはあまり自由な生き方ができず、修道院が一種のアジールではあったが、それも万能ではなかったことに気付けばよいだろうか。帝妃コスタンツァはあまり面白くもない付け足しだが、ダンテとアッシジの聖フランシスコは100年とその時代を隔てておらず、聖フランシスコの生涯を絵画に残したジョットーはまさにダンテの同時代人であることを考えると、すでに干からびてしまったような歴史が少し、生き返ったような感動を覚えるのである。

 ここで、「煉獄篇」第11歌のあまりにも有名な評言を改めて引用しておこう。
チマブーエは確信した、絵画界で
天下をとったと。しかし今やジョットが覇を唱え、
ために彼の名声はかすんだ。
(煉獄篇168-169ページ) 

 この後でダンテは
この世のざわめきなど風の
ひと吹きにほかならず、今はこちらからそよぎ、今はあちらからそよぎ、
向きが変わるにつれ名を変えていく。
(煉獄篇169ページ)と書いているが、そういう時代の変化はあるにしても、彼の生活していたトスカーナ地方が人類の社会・文化にとって重要な意味を持った生活を実現していたことは否定できないだろうと思う。それから、「煉獄篇」と「天国篇」で『風』の意味が違っている可能性があることも気にかけておこう。

Côte du Poivre

10月3日(月)雨が降ったりやんだり

 梅棹忠夫の『東南アジア紀行』(中公文庫)を初めて読んだのは、おそらく30年以上昔のことであるが、その後、タイに出かける機会があり、帰国してからこの本を読み直して、旅行前にそうしなかったことを後悔した記憶がある。

 梅棹がタイを中心にカンボジア、ベトナム、ラオスの東南アジア諸国への学術旅行を行ったのは1957年から58年、今から60年近く前のことである(その後、1961年に。解説で石井米雄(外務省留学生としてタイに滞在中、梅棹の旅行の一部に同行した)が書いているように、これらの国々の状況はその後大きく変化した、「にもかかわらず、〔文庫本が刊行された1979年からさかのぼって〕ふた昔も前の旅行の噺が、いま読み返してみて、少しも古さを感じさせない。むしろ、特派員の報道以上に、新鮮な感覚を味わうことができるのはなぜだろうか。それは、梅棹さんが、揺れ動いて止まらない現象の背後にある、歴史の流れに視座を置き、透徹した歴史の目で、東南アジアの本質をとらえようロしているからだと私は思う」(309ページ)と書いている。この書物が、各国の変化にもかかわらず、価値を失わないというのは石井の評価するとおりである。それはなぜか、ということになると、私の書いていることも、石井の書いていることと本質的に変わらないのかもしれないが、その時点、その時点でのそれぞれの土地に住んでいる人々の姿をどんな家に住んで、何を食べて、何をして生計を立て、どんな服装をしているか…といった生活の具体相を克明に探り出し、描き出しているからではないかと思う。

 そういう梅棹の好奇心と観察眼、記録眼がよく出ている箇所が、カンボジアの数少ない港町であるカムポットからプノムペンに帰る途中で見かけた農家の様子をめぐる箇所である:
来るときから気がついているのだが、この付近の農家には、他と全く形の違うのがある。ずっと見慣れてきたカンボジア風の高床住宅ではなく、土間になっている。それから何かえたいの知れぬ作物がある。ワラで日よけ棚のようなものを作って、ひどく集約的な栽培をしている。これは何だろうか。
 本箱の中にE.H.DobbyのSoutheast Asiaがある。それを読んでいるうちに、カムポット付近が世界第2のコショウの生産地であり、しかも知れが中国人の農民によって栽培されている、という記述を発見する。「ははあ、これだなあ」とわたしは合点する。あの奇妙な作物は、コショウに違いない。それに、あの土間の家も、中国人だとすれば、納得がゆく。本箱にはまた、A Agardno, L'Union Indochinoise Française ou Indochine Orientaleの訳がある。それによると、コショウの栽培はカムポットおよびタケオの2州に限られ、海岸地方は別名をCôte du Poivre (コショウ海岸)という。そして、コショウに対する課税は、カンボジア政府の財源の中で、最も重要なもののひとつであると記してある。(以下略)」(下巻、65-66ページ)〔集約的な栽培をしているというのは、商品になるような作物を作っている可能性が高い。〕

 石井が解説で書いているように、ジープに乗って東南アジア諸国を歴訪中に梅棹は後部座席に寝転んで『移動図書館』と名付けた木箱の中の書物をかき回しては、自分の好奇心にこたえるものを見つけて、問題を一つ一つ探し当てていった。ここで、彼の探求の後追いをするのはやめて、もう少し先回りをすると、現在のカンボジアではコショウはどの程度生産されていて、それは世界のコショウ生産の中でどのような位置を占めるのか、コショウ生産の担い手は依然として中国系の農民であるのかという問題が残る。(コショウの生産と生産地の変遷は、世界史における重要な問題の一つなので、機会を見つけて調べていきたい。たぶん、この問題については包括的に論じた書物があるはずである)。梅棹はDobbyの書物により、カムポットおよびタケオ州の自然条件がコショウ生産に適していることを記し、中国人が商人ではなく、農民として海外に定住しているのは珍しい例であり、その理由については不明な点が大きいと述べている。

 肉食が主流で冷蔵技術が未発達であった西洋の中世ではコショウは料理に不可欠なだけでなく、肉類の長期保存のためにも大いに重視され、その主要な産地である南アジア・東南アジアへの海路による到達を目指すことが大航海時代の動因の1つであったとも考えられている。日本の正倉院御物にもコショウがあるよしだが、日本人はコショウを求めて海外に進出していこうとは考えなかった。

 さて、Cote du Poivreというのは初めて聞いたのだが、この種の地名で国家の正式名称として残ったのがCote d'Ivoire (コートジボアール、英語ではIvory Coastという方が普通である)。西アフリカのギニア湾北岸の地域をthe Gold Coast(黄金海岸)、その西側がすでに述べた象牙海岸(Ivory Coast)であるが、東側を奴隷海岸(Slave Coast)と呼んでいた。黄金海岸や奴隷海岸は今日地図に地図からその名を消し始めているが、黄金を収奪者や商人たちから強奪すること、奴隷貿易にかかわることに比べて、アフリカゾウを乱獲してその象牙を他の世界に持ち出したことが、歴史上の記憶に値する行為であったかどうかは疑問である。

語学放浪記(52)

10月2日(日)晴れ

 もう30年以上昔の話のことである。私の大学院の後輩が、短距離で有名な桐生選手の出身校で非常勤講師をしていて、桐生選手ほどではないが、やはりインターハイで活躍した選手が教え子の中にいて、無事一流大学への推薦入学を獲得した。その彼が「先生、ドイツ語の辞書は何がいい?」と尋ねてきたそうである。私の後輩がドイツ語がよくできるのを知ってのことではあろうが、気が早すぎると思う。学問研究のドイツ語とスポーツのドイツ語の違いを考えに入れる必要がある。この場合の、一番いい答えは、大学に入って専門のスポーツの指導をしてくれる先生と相談して語学の履修や辞書について教えてもらうといいということである(もっとも大学の先生がそれほど親切かどうかはわからない、でも相談してみる価値はあるだろう)。大学の専門の先生は海外に留学したり、外国人に指導を受けたりして、自分たちの流儀を持っているはずである。

 1969年に発行された『20か国語ペラペラ』(実業之日本社)というの本の中で、著者である種田輝豊は「現在の仕事では、翻訳以外、話すドイツ語はほとんど活用できない。国際会議では、ドイツ語の影は薄れている」(131ページ)と書いている。 ここで注意してよいのは、ドイツの影が薄くなったわけではなくて、「ドイツ語の影」が薄くなったということである。ヨーロッパ統合の中でドイツが果たした役割は中心的なものであったといっていいし、ドイツ経済は世界の上位に位置し続けてきた(今でもそうである)。ドイツ語の影が薄くなったのは国際会議等で公用語としての使用が避けられたことと、1970年代くらいからコンピューターが普及しだして、abc26文字だけで表現ができる英語が有利になったことのためである。もちろん、多くのドイツ人が英語がよくできるためでもある。

 ところが、惰性というのは恐ろしいもので、1970年代の半ばになっても第二外国語というと当然のようにドイツ語という風潮は残っていたし、大学に先生たちの中には大学の教師や大学院生の現状を考えずに、とにかく、ドイツ語なら先生の売れ口はあると、勧める人がいた。能ある鷹は爪隠すということで、大学の体育の先生の中にはドイツ語のできる人は少なからずいたようである。ドイツはさまざまな運動競技における先進国であり、サッカーやバスケットボールだけでなく、ドイツ語を通じて学ぶことのできる領域は少なくないはずである。それからドイツ語ではなく、フランス語やイタリア語、スペイン語を通じて学ぶということもあっていいはずである。大学の先生の中には自分の専門の知識の習得のためにいろいろな語学を身に着けている人もいるし、そういうことが必要ない人もいる。私が最初に就職した大学で第二外国語というのはドイツ語だけだったが、これはどう考えても筋が通らず、先生連中の留学歴などの多様性と対応しなかった。非常勤講師を探したり、大学の教員の間で融通しあったりして、他の言語も開講すべきだっと思う。実際、そういうことを言う先生もいらしたのだが、旧態墨守という考えが強かったのか、表面化しなかった。教養の授業として開設するのではなく、例えばイタリア美術史のような専門の授業として開設しておいて、教養科目に読み替えるというような工夫もあってよかったのだが、大学自体がもっと別のことで大騒ぎしていたこともあったかもしれない。

 現在、世界で最も多くの人々に使用されている言語は中国語である。たぶん、日本国内でも(少なくとも横浜市内では)2番目に多く話されている言語である。その次に来るのが英語とスペイン語であるが、なぜかスペイン語は私の学生時代、いや教師になっても、日本の大学で教えられる例が少なかった。大学院時代の指導教官がドイツ語の教師の口ならいくらでも紹介するといったのを聞いても、そもそもドイツ語の本を1冊も読んだことのない私がドイツ語の教師になれるわけはなく、むしろ長期計画で、スペイン語を勉強するほうが先の見込みはありそうだと、その後30年余りスペイン語の勉強を続けることになった。残念ながらこの目論見は外れたが、大学時代の私の同僚の中には数人、私よりもかなりスペイン語が達者な研究者がいた。つまり、私だけが変わったことを考えていたというわけではないのである。

  何かいろいろなことを書いてしまったが、大学では専門として何をするかということと結びつけて外国語の学習をすべきであり、例えばオランダ東インド会社の研究をしたいというのであれば、英語やドイツ語ができるに越したことはないが、やはりオランダ語が必須であろうし、フェルナンド・ペソアの詩の研究がしたければ、ポルトガル語をまず勉強すべきであろう。大学院に進学せずに就職するという場合でも、何か特定の領域での外国語による訓練を受けることが就職後の財産となるはずである。スポーツの選手の場合、大学の外の会話学校に通うことも一つの可能性だが、自分の先生の思いがけない能力を発見するということもあるかもしれない。
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