2016年の2016を目指して(9)

9月30日(金)曇り

 一昨日も書いたが、どうも体調が悪い。「京都の霊能者 龍戒」さんのブログ(9月28日)によると「彼岸明けの不調は墓参りで憑依されたことが原因?」ということであるが、とりあえず、医者に出かけて診断してもらうことにする。これまでは墓地の近くにある医大関係者がよく利用するイタリア料理店があり、そこで精進落としをしていたのが、その店が廃業したのである。まあできるだけおとなしくして10月を迎えることにしよう。

 9月は別府葉子さんのコンサートに出かけたり、新宿三丁目まで映画を見に出かけたり、墓参りに出かけたり、いろいろと動きがあった。このため、東京都新宿区、東急副都心線、市ヶ谷駅、新宿三丁目駅、東京都営バス、東急バスを新たに利用、新しいバス停も3つ利用したので、1都2県、2市6特別区、7社11路線18駅、バスが5社20路線19停留所ということになった。〔91〕

 この原稿を含めて30件のブログを投稿した。1月からの合計は277件ということになる。読書が8件、『神曲』が3件、『太平記』が4件、日記が7件、映画が3件、歴史・地理と未分類がそれぞれ2件、推理小説が1件である。7件というこれまでにない数のコメントを頂き、感謝に堪えない。まだ回答してないものがあるが、できるだけ回答するつもりでいるので、お待ちください。拍手は666拍、拍手コメントが2件ということである。1月からの通算ではコメントが25件、拍手が6721拍、拍手コメントが12、トラックバックが1件ということである。〔315〕

  9冊の本を購入し、7冊の本を読み終えた。読んだ本は、ジェイン・オースティン『マンスフィールド・パーク』、神田秀全『銀の世界史』、佐藤信也『周――理想化された古代王朝』、田中啓文『地獄八景』、嘉数次人『天文学者たちの江戸時代』、徳川宗英『徳川家が見た戦争』、数は少ないがなかなか内容は多彩である。体調を崩したため、読めないままでいる本が少なくないことを付け加えておく。1月からの通算では108冊の本を買って86冊の本を読んだことになる。新たに紀伊国屋の新宿本店で本を買ったので、書店の数が4軒になった。〔90〕

 「ラジオ英会話」の時間を22回、「入門ビジネス英語」の時間を8回、「実践ビジネス英語の時間」を14回、「攻略!英語リスニング」を8回分聞いている。1月からの通算では『ラジオ英会話』が179回、「入門ビジネス英語」が72回、「実践ビジネス英語」の時間が107回、「攻略!英語リスニング」が70回である(これはまだ本年度の放送が2回分残っている)。
 「まいにちフランス語」を15回、「まいにちイタリア語」を16回聞いた。体調を崩したために、番組を聞きながら寝てしまったことがあったのが残念である。1月からの通算は、「まいにちフランス語」が165回、「まいにちイタリア語」が166回である。
 「レベルアップ中国語」と「まいにちロシア語」はどうもついていけないので、この際断念することにした。
 10月からはカルチャーラジオを聴くこと、スペイン語を勉強しなおすことを考えている。〔789〕

 6本の映画を見て、1月からの通算は61本になった。出かけた映画館も1館増えた(8館)。見た映画は『不良姐御伝 猪の鹿お蝶』、『忍びの卍』、『めし』、『だれかの木琴』、『女であること』、『娘・妻・母』である。一方で原節子の特集上映を見て、もう一方で池玲子の映画を見るというのも極端だね。もう少し、現在の作品を見るように心がけたい。〔69〕

 サッカーの試合はJ2のリーグ戦を1試合観戦、1月からの見た試合は33試合となった。これから全国高校サッカー選手権も上位チームの対決となるし、見る試合は増えそうである。〔35〕

 A4ノート3冊、A5ノート2冊、ボールペン(黒)芯0.4ミリ、0.5ミリ3本、修正液1本を使い切った。
 酒類を口にしなかった日が9日である。

 
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日記抄(9月23日~29日)

9月29日(木)曇り、時々雨

 9月23日から本日までに経験したこと、考えたことなど:
9月23日
 9月23日のNHKラジオ「実践ビジネス英語」の”Quote...Unquote"のコーナーは
Books are the bees which carry the quickening pollen from one to another mind.
       ――James Russell Lowell
                   (U.S. poet, critic, editor and diplomat, 1819-1891)
(本とは、心を刺激する花粉を1つの心から別の心へと運ぶミツバチである。)
ジェイムズ・ラッセル・ローウェルはアメリカ・ロマン主義を代表する詩人であり、このコーナーにすでに何度か登場した。ローウェル家は東部の名門であり、彼の従兄の子どもであるパーシヴァル・ローウェルは日本にやってきて能登を旅行して、旅行記を書き、アメリカに帰ってからは天文台を立てて火星の研究をしたことで知られる。

 神保町シアターで「伝説の女優原節子」特集上映から『女であること』(1958、東京映画、川島雄三監督)を見る。これで私の見た川島作品は20本ということになる。弁護士の佐山(森雅之)は殺人罪を犯し、一審で死刑判決を受けた被告の娘妙子(香川京子)を引き取って面倒を見ているが、落ち着かない様子である。そこへ妻の文子(原節子)の友人である音子(音羽久米子)のわがまま娘さかえ(久我美子)が家出して転がり込む。結婚してだいぶたつが子どものない夫婦は、突然2人の年頃の娘の世話をすることになって戸惑う。おとなしい妙子と、活発で奔放なさかえの二人は性格も対照的でなじみあおうとしない。ところが、妙子には学生の恋人がいるらしい(襟章がLなので文学部である)。文子は、昔の恋人で会った清野(三橋達也)と再会を果たす。川端康成の原作による作品。川端の世界と川島の世界はどうも異質で、融和が難しいという印象が残る。
 上映が終わった後で、私よりも若い観客がしきりに「面白かった」と言っていたが、川島の映画の面白さはこの程度のものではない。オープニングで主題曲をまだ若かった丸山(美輪)明宏が歌い上げるところなど十分に効果的とは言えない。三橋達也が複雑な役どころで出演しているのが、一番川島らしいといえようか。映画の中に登場する浅間神社が、私も何度か参拝した多摩川の浅間神社なのかどうかというのが一番気になっている。

9月24日
 NHKラジオ「攻略!英語リスニング」は”Iron Curtain"(鉄のカーテン)を話題として取り上げた。この言葉は1946年に当時の英国首相ウィンストン・チャーチルが行った
”From Stettin in the Baltic to Trieste in the Adriatic an Iron curtain has descended across the continent."「バルト海のステッティンから、アドリア海のトリエステにいたるまで、大陸を横切って鉄のカーテンが下ろされた」という演説がこの言葉の起こりで、もともと「鉄のカーテン」とは劇場で防火用に使われるカーテンのことを言うのだそうだ(そういえば、ヒッチコックに『引き裂かれたカーテン』という映画があるね)。
 中華人民共和国が成立すると、アジアには「鉄」ではなく「竹のカーテン」が下ろされているいうようないいかたもされた。また1961年からジャイアンツの川上監督(当時)が行った厳しい取材規制について「哲のカーテン」という取沙汰もあったそうである。

 田中啓文『地獄八景』(河出文庫)を読み終える。地獄を舞台にした短・中編小説が8編収められていて、今は亡き米朝や枝雀が演じていた落語とはまた違った世界を味わうことができる。

9月25日
 朝日新聞の朝刊を見ていたら、日本鉱物科学会が行った投票による選考の結果、日本の石には「ヒスイ」が水晶に19票差をつけて選ばれたそうだ。今、西口の有隣堂で鉱石の即売会をやっているが、ヒスイは展示されていないようだ。
 昔見た映画『慕情』で中国人の父と欧米人の母の間に生まれたヒロインが重慶政府と運命を共にしようとしている一族の人々とは別の道を歩む決意を明らかにすると、一族の人々が形見にヒスイを残していく…という場面を思い出す。
 私は水晶は何種類か持っているが、ヒスイとは縁がない。

 横浜FCはアウェーで讃岐カマタマーレに0-1で敗れ、6位との勝ち点差が5に開いた。

9月26日
 朝日新聞の朝刊に「今こそ 高橋和己」とこの作家の再評価を促す記事が掲載されていた。高橋の小説は読んだことがないのだが、彼が京大の先生をしていたころは、私の京都時代と重なり、中国語の履修者の中にはファンもいて、結構身近な存在であった。高橋の京大への就任については吉川幸次郎先生の強い推薦があったようである。後で知ったことだが、我々に中国語を教えてくださった尾崎雄二郎先生をモデルにした人物が『憂鬱なる党派』に登場しているという。

9月27日
 徳川宗英『徳川家が見た戦争』(岩波ジュニア新書)を読み終える。著者は8代将軍吉宗の次男田安宗武から始まる田安徳川家の11代当主で、学習院、江田島海軍兵学校を経て、戦後慶応義塾大学工学部を卒業。終戦の際に、兵学校の栗田健男校長が「今回の戦争は、科学の力が足りない日本が、アメリカの技術に負けた。皆はこれから技術系に進んで、どうかアメリカを見返してほしい」(32ページ)と語ったことを受けたもののようである。海兵の伝統が紳士の育成を目指すものであったこと、徳川300年の平和の伝統が、明治以後の徳川の末裔たちの中でどのように継承されたかなどが逸話をつなぐ形で語られている。この書物の中でも触れられている尾張徳川家の徳川義親の『最後の殿様』という本を、どこかで復刊してほしいと思う。

9月28日
 NHKラジオ「エンジョイ・シンプル・イングリッシュ」は落語の「松山鏡」を取り上げた。親孝行ものに褒美を与えることになり、鏡を渡し、他人に見せるなという。親孝行ものは、父親そっくりの顔つきだったので、鏡の中の自分の画像を父親と思って、毎日眺め、話しかけていた。ところが、それを男の嫁が見て、鏡の中に醜~い女がいるのを見て、男が浮気をしていると疑い、怒り出す。それで2人で鏡を見て、男が言う「自分の父親とお前がいる」。(元の落語では、近所の尼さんがやってきて仲裁して、鏡を見て、女は面目ないと言って頭を丸めたので安心しろという。) 

9月29日
 NHKラジオ「実践ビジネス英語」の”Quote...Unquote"のコーナーから:
A great many people think the are thinking when they are merely rearranging their prejudices.
              ―― Wiiliam James (u.S. philosopher and psychologist, 1842-1910)
(非常に多くの人たちは、自分の先入観を並べ替えているに過ぎない時に、自分は思考していると思っている。)
 アメリカの哲学者で同じようなことを言っている人が少なくないところを見ると、アメリカ人にはこう言う人が多いらしい。

娘・妻・母

9月28日(水)曇り、夕方から雨が降り出す

 9月26日、神保町シアターで「伝説の女優 原節子」の特集上映から、『娘・妻・母』(1960、東宝、成瀬巳貴男監督)を見る。このところ、体調が悪く、この日は定期健診で東京の病院に出かけて体温を測ったり、血圧を測ったりしただけでなく、採血までしたのだが、どうも東京まで出てくると、そのまま帰りがたく、映画を見に出かけたのである。おかげで、体調は依然として改善せず、書物の内容を要約するというような作業は避けて、映画の感想を書くことにした次第である。原節子が出演した最後の成瀬作品であるこの映画はまだ上映が終了しておらず、明日、明後日と神保町シアターで上映されるので、興味のある方はご覧ください。

 東京の中流家庭坂西家は母(坂西あき=三益愛子)、会社の部長である長男(雄一郎=森雅之)、その妻(和子=高峰秀子)、孫(義郎=松岡高史)に未婚のOLである三女(春子=団令子)が同居する3世代家族である。長女の曽我早苗(原節子)は日本橋の大きな商家に嫁いだのだが、折り合いが悪く、夫を放り出して実家に帰っている。次女・谷薫(草笛光子)は幼稚園の先生をしながら、学校の教師である夫の英隆(小泉博)、夫の母加代(杉村春子)と同居しているが、この共働き生活を加代は気に入らず、薫は家を出てアパートを借りることを夢見ている。次男の礼二(宝田明)はカメラマンで、喫茶店経営者で年上の妻美枝(淡路恵子)とアパートで暮らしている。

 早苗が実家に戻っている最中に、その夫は業者の慰安旅行で伊豆に出かけ、バスが転覆して死亡する。そのことで早苗は立場を失って実家に戻されることになる。ただ生命保険が100万円手に入り、それが唯一の財産なのだが、それを軽々しく口に出すところが世間知らずである。早苗が戻ってくることを知った和子はそれまで雇っていた女中のたみ(江端秀子)に暇を出す。はっきりと表に出ないのだが、高峰秀子が演じている和子と、原節子の演じている早苗、長男の嫁と長女の間で暗闘が展開される。一家が裕福な時に成長し、裕福な家庭に嫁いだためにおっとりと世間知らずの早苗が外出を続ける一方で、頼るべき親戚もなく、苦労して育ってきた和子が無言で家事に取り組んでいる姿の対比が映画の基調をなしている。早苗が紅茶を淹れるのが得意なのに対し、和子が夫とコーヒーを楽しむようにしているというのも対照的である。物語の進行の中で、早苗には、年下の黒木(仲代達也)という恋人?ができたりする。

 和子のただ一人の肉親である鉄本庄介は町工場を経営しているのだが、資金繰りが苦しく、勇一郎は縁を切りたいのだが、そこを何とかと借金をさらに申し込んでくる。早苗の友人の戸塚菊(中北千枝子)は最初、一家に離職の話を持ち込んできたのだが、後半になると早苗の再婚話のために奔走する。

 明確な悪意を抱いている人物はいないのだが、利害の衝突が次第に一家を離散に至らしめそうである。この映画の登場人物たちは最新式のアパート住まいの礼二夫妻は別として、当然のように、畳の部屋に布団を敷いて寝ており、昔の話だなぁと思うのだが、その一方で、遺産の相続と配分とか、嫁姑の同居・別居、老親をだれが引き取るかというような問題は現代にいたるまで一向に変わっていないことを考えさせる。
 
 家族の問題を取り上げた映画としてみるか、原節子と高峰秀子の共演ぶりに焦点を当ててみるかは観客の自由である。もちろん、それ以外の楽しみもあるはずである。映画の中ですでに8ミリの映画撮影機が登場し、それが物語の進行と微妙にかかわっている。自分が家事をしている姿を戯画的に移された和子が機嫌を損ねる場面は実感が出ている。(うーん、原節子と高峰秀子を比べると、私は高峰秀子の方が好きであることを告白せざるを得ない。) 蛇足までに付け加えると、映画の最初の方で礼二がポスターのための写真の撮影をする場面があり、そこでモデルの役を演じているのが、その後、日活と専属契約を結んで活躍した笹森礼子でヌードでも水着でもないのは残念(まあ当たり前の話)だが、ちゃんとセリフがあるので、注意してみてほしい。

ダンテ・アリギエリ『神曲 天国篇』(3-1)

9月27日(火)晴れ

 煉獄山の頂上にある地上楽園から、ベアトリーチェに導かれて飛び立ったダンテは、天国の一部である月に到達する。ダンテが月の表面に見える明暗がなぜ生じるのかを問うたのに対し、ベアトリーチェは神から伝えられた力の違いによるのだと回答を与える。

かつて私の胸を愛で温めてくださったその太陽は、
私に対し、立証と反証を行って、
美しい真理のさわやかな容貌を明らかにされた。
(48ページ) そして、ダンテはすぐに、自分の理解と感謝の気持ちをベアトリーチェに伝えようとしたが、

しかしある光景が現れて
私がそれに見入るよう心を惹きつけたため、
告白を忘れてしまった。
(同上) その光景とは、

まるで滑らかで透明なガラスを通して、
あるいは水底が見通せぬほどには深くない
澄んだ静かな水を通して、

私達の顔の輪郭が、私たちの瞳へと、
色白な額に飾られた真珠ほどにも
はっきりしないおぼろな姿で戻ってくる。

それと同じようにおぼろだが、話したそうな顔をいくつも私は見た。
(48-49ページ) これらの姿は、鏡に映った姿だと思ったダンテは後ろを振り返るが、何も見えなかった。そこでベアトリーチェの方を向くと、彼女はダンテの前に表れているのは月天の魂たちであるという。「はっきりしないおぼろな姿」であるのは、彼らの力が生前に神から与えられた力を十分に発揮しなかったことを暗示している。そして、ベアトリーチェは魂たちに話しかけてみるように言う。

そこで私は、誰より話したがっているように
見える影に向き合うと、それから
望みがありすぎて混乱している人の様子で話しはじめた。
(51ページ) 

 その魂は、「・・・
私は現世では修道女だった。
もしもあなたが自分の記憶をたどってみれば、
私がさらに美しくなってはいても、

見紛うことなくピッカルダだと分かるはず。
祝福されたこれらの人々とともにここに置かれ、
最も遅くめぐるこの天空で祝福されている。

私達の思いは、精霊の望みに合うように
燃え立たされているから、
その方の秩序に応じていることに喜びを感じるのよ。

これほど低く見えているこの境地ではあるけれど、
これが私達に与えられたのは、なぜなら私達が誓願を
おろそかにし、どこかしらが足りなかったから」。
(52-53ページ) その魂は、生前修道女であり、死後形相だけになったので生前の姿よりさらに自分らしい姿になり、美しくなったといったのちに、自分はダンテの詩友であるフォレーゼ・ドナーティの妹であるピッカルダと名乗る。ダンテはフォレーゼが煉獄の第6環道(煉獄篇第23歌)で飽食の罪を清めている姿を見ていた。さらにフォレーゼとピッカルダの兄であるコルソ(1250頃‐1308)は、ダンテをフィレンツェから追放したフィレンツェ政界の重要人物であったが、煉獄篇第24歌でその最後が予言されている(『神曲』は1300年に起きた出来事として描かれているが、実際に執筆されたのはもっと後で、コルソの死は事後予言なのである)。さらに、ピッカルダはダンテの妻ジェンマの従姉妹であった。彼女が月天にいるのは、自分が神に対して立てた誓いを破った、つまり誓願を果たさなかったからであるという。

 ダンテは、相手が親友の妹ピッカルダであることを知り、すでに、ピッカルダがダンテの質問を先取りして自分の事情を話しているにもかかわらず、
「・・・
だが私に教えてほしい。ここで幸せにしている君達は、
もっと神を見るため、さらに近しくあろうとして
より高い場所を望みはしないのだろうか。」
(54ページ) 相手が親友の妹だからということで、かなり聞きにくいことを聞いているが、ピッカルダの答えは、彼女のこれまでの発言と変わらないものである(その具体的な内容についてはまた次回)。

 いよいよ天国の魂たちとダンテとの交流が始まり、物語が動き出す。 

嘉数次人『天文学者たちの江戸時代――暦・宇宙観の大転換』

9月26日(月)曇り

 嘉数次人『天文学者たちの江戸時代――暦・宇宙観の大転換』(ちくま新書)を読み終える。7月に入手して、全5章のうちの4章の半ばまで読み進んでいたのだが、本がどこかに紛れ込んだために読書が中断していた。本を見つけ出すとすぐに読み終えることができたのは、この書物が読みやすく面白いからである。

 日本では長らく中国から暦を輸入して使っていた。ところが平安時代の862年に宣明暦法が採用されて以来、ずっと新しい暦を輸入する試みが絶えてしまった。江戸時代は、ようやく日本人が自力で暦を作り出すようになった時代であり、1685(貞享2)年から施行された「貞享暦」、1755(宝暦5)年から施行された「宝暦暦」、1797(寛政9)年に完成し、翌年から施行された「寛政暦」、1844(天保15)年から施行された「天保暦」と、改暦が繰り返され、その間、中国の暦法の採用から、西洋天文学に基づく暦の作成への転換が行われた。天文学は暦と天文占いの2つの柱を立てて発展してきたが、江戸時代を通じて、天文占いは後退し、合理的・科学的な天体観が次第に発展していった。また天文学は暦法以外にも、伊能忠敬による日本地図の作成作業などでも重要な役割を果たした。

 この書物は大まかに言って以上のような内容を持つ。徳川の300年を通じて、次第に西洋天文学の影響が強くなってきたというだけでなく、その西洋の天文学がこの時代、天動説から地動説へ、ケプラーの楕円説、ニュートンの引力説、ハーシェルによる天王星の発見と、劇的に変化していたのであり、そうした変化の波が日本にもゆっくりと押し寄せてきていることにも気づく。

 目次は次のとおりである:
プロローグ 天文と暦――日本の天文学ことはじめ
第1章 中国天文学からの出発――渋川春海の大仕事
1 800年ぶりの改暦――渋川春海と貞享改暦
2 渋川春海は星占い師?――天文占いと星座研究
3 西洋天文学との出会い
第2章 西洋天文学の導入――徳川吉宗・麻田剛立が開いた扉
1 西洋天文学を導入せよ――徳川吉宗の試み
2 西洋天文学が変えた宇宙像――麻田剛立が見た宇宙
3 吉宗の願いが叶う時――寛政の改暦
第3章 改暦・翻訳・地動説――高橋至時・伊能忠敬による発展
1 下級武士が取り組んだ改暦事業
2 拡大する天文方の仕事――蘭書翻訳と伊能忠敬の測量事業
3 地動説への取り組み
第4章 変わる天文方の仕事――間重富・高橋景保の奮闘
1 町人学者の改暦参画――間重富
2 伊能忠敬の全国測量異聞
3 オランダ語と天文学――蛮書和解御用
4 広がる天文学研究――彗星と天王星
第5章 西洋と東洋のはざまで――江戸の天文学の完成期
1 シーボルト事件と天文方
2 渋川景佑の活躍と天保の改暦
3 幕末の天文学
4 江戸の天文学の終焉

 渋川春海が幕府の碁方である安井算哲の実子で碁打ちでもあったこと、吉宗が大望遠鏡を作らせたが、まだ性能が低く、土星に耳があるように見えたこと(74ページに図入りで紹介されている)、伊能忠敬が地図作成事業に取り組んだのは、彼の師である高橋至時が地球の大きさを知りたいと考え、そのために子午線の長さを実測によって求めようとしたことが発端であること、高橋至時は地動説を採用せず、ティコ・ブラーエの地動説との折衷的な天動説を正しいと考えていたこと(当時の観測の水準からすれば、これは当然のことである)、渋川景佑が英国で発行された航海暦を手掛かりとして天王星の観測に成功したことなど興味深い記述が多く盛り込まれている。

 明治以降の日本の天文学は、内発的な発展の成果というよりも、海外からの輸入によって成立したもので、宇宙観の内発的な発展や観測資料の継承など、江戸時代の天文学から引き継ぐべきものも多くあったのだが、それを無視してしまったことは残念なことである。

シャーロット・マクラウド『浮かんだ男』

9月25日(日)曇り、時々晴れ

 シャーロット・マクラウド『浮かんだ男』(創元推理文庫)を読み終える。原題はThe Balloon Man (熱気球の男)で、物語の中で、双子の男女が熱気球に乗って降りて来ることとは符合しない。何かほかに作者が意図していることがあるのだろうかという不審の念が残る。1979年に発表された『納骨堂の奥に』(The Family Vault、家族の地下納骨所)から始まるセーラ・ケリング・シリーズの最終作品。作者であるシャーロット・マクレオド(Charlotte MacLeod、1922-2005)は1978年に刊行した『にぎやかな眠り』に始まるシャンディ教授シリーズで名声を得た作家で、セーラ・ケリング・シリーズはシャンディ教授ものほどのユーモアはないが、ボストンの名門家庭に生まれ育ったセーラ・ケリングが、様々な事件に遭遇し、それを解決する中で、自分の背後にある血縁関係や一族の文化の桎梏を乗り越えて、新しい自分を見つけていくというところに特徴がある。

 セーラの夫であるマックスの甥マイクが結婚することになり、彼女がその野外結婚式の陣頭指揮を執る(マックスはユダヤ人であるが、結婚式はユダヤ人の風習を残しながら、世俗的に行われているようである)。当日は好天に恵まれ、多くの招待客が集まる。マックスはセーラの結婚の贈り物について作成中のリストと照合してほしいという指示を無視して(数が多すぎると判断したのである)贈り物を眺めていたが、その中に長年失われていたケリング家の宝石が並んでいたことで呆然とする。それだけでなく、どうもこの宝石を目当てらしい錠前破りのルーと名乗る泥棒が「死体!」に変装して登場したり、夕刻になって会場のテントの1つの上に、熱気球が着陸して、テントを壊し、気球からはこの結婚式が行われているケリング家の元別荘の隣人であったザッカリー家のアリスター(アリー)とカルプルニア(カリー)の双子の兄妹が現れる。

 翌日の朝、家から外に出たマックスは何者かが仕掛けた発煙弾に出会い、あたりが真っ暗闇になるのを経験する。その後、やっと片付けにやってきたテント設営業者たちは、気球によってつぶされたテントの下に死体を見つける。死んでいたのはジョー・マクベスという名の作業員であった。死体の様子から見て、どうも他殺体をどこからか運んできて、気球に押しつぶされたように見せかけようとしたらしい。それだけでなく、結婚式に参加していたケリング一族のジェレミー(ジェム)の車がいつの間にか盗み出されていた・・・。

 一連の不可思議な事件は、それぞれに関係があるのか、ないのか。『納骨堂の奥に』で行方不明になっていたケリング家の宝石が出現したということは、これらの事件とどう関係するのか。セーラを中心に美術品専門の探偵であるその夫のマックス、マティーニをカラフェから飲むという度し難いのん兵衛の遊び人だが、ケリング一族の歴史に詳しいジェム、その忠実で有能な執事のエグバート、セーラの従兄のブルックス、その妻で紅茶占い師だった経験から他人の心理を読み取り推理することが巧みなシオニア、セーラの又従弟で探偵見習中のジェシーというケリング一家(≒ビターソーン探偵社)のメンバーが活動を始める。セーラとマックスの一粒種であるデイヴィの動きにも目が離せない。彼は、気球から降りてきたのが火星人だと信じていて、気球に乗りたがるのである。

 ユーモア・ミステリ作家としてのマクレオドの真価は(シャンディ教授ものほど顕著ではないが)こうした一人一人の登場人物の性格や行動の描写に表れている。結婚式に招待されなかったケリング一族の一人で、セーラの従姉であるメイベルが、TVの報道で結婚式とその周辺で起きた事件について怒り心頭に発して電話をかけてくる。ジェムをはじめとする一族の何人かの悪口を言い続ける。「…セーラは本気でくすくす笑い出したくなっていた。マックスはすべての言葉をテープに録音していた。なぜならこれが最も悪意のある時のメイベルであり、もしも誰からケリング家の歴史について書く余裕ができた時には、記録として保存しておくべきだからだ。メイベルはますます怒りを煮えたぎらせており、電話代はすべてメイベルの方にかかっていることをそれとなくセーラに仄めかされなければ、一族の残りの人間についてまで話を続けそうな勢いだった。結局、セーラの仄めかしが功を奏した。メイベルは最後にやっと理解すると「まあ、なんてこと!」というなり電話を切った。」(186ページ) 強要するような笑いではないが、二重、三重に笑いの罠が仕掛けられていることがわかる箇所である。またブルックスの古い友人であり、物語の後半で重要な役割を果たすトウィーターズ・アーバスノットは、サンカノゴイのようなうるさい音を立てると表現されているが、サンカノゴイという鳥は、『バスカヴィル家の犬』で不思議な咆哮(?)を聞いたワトソンに対して、ステープルトンが、鳥の鳴き声かもしれないというその鳥である。

 物語はシリーズの締めくくりとして、もともと、WASP(=White Anglo-Saxon Protestant)であるボストンの名門に生まれ育ったセーラが、ユダヤ系のマックスと結婚することで、一族とその文化から離れ、新しい人生を築こうとしていることも読み取れる。そして、一族の受け継いできた宝石が戻り、セーラがその宝石には愛着がないと宣言することで、新しい人生への決意を示しているようである。新しい人生を歩もうとするセーラとマックスの美術探偵ぶりや、デイヴィの成長にも興味があるのだが、そこまでを描くことを作者に望むのは欲が深すぎるということだったろうか。

吉田健一「海坊主」

9月24日(土)雨が降ったりやんだり

 1956(昭和31)年4月18日から7月27日まで、吉田健一(1912-1977)は『西日本新聞』に「乞食王子」という随筆を連載し、同じ年の10月に同名の随筆集として新潮社から出版した。ここで紹介する「海坊主」はその中の1編であり、随筆のように書き出されてはいるが、実は短編小説である。随筆集の中に短編小説を紛れ込ませるのは、一種のいたずらとも受け取れるが、吉田健一にとっては随筆とか、小説とかいう分野の区分はあまり重要なことではなかったのではないか。とにかく、思い浮かんだことを書く。もともと日本の随筆にはそういう性格がある。『徒然草』の中にだって、短編小説のような味わいを持った段がみられる。

 戦後首相を務めた吉田茂の長男であり、一時首相を務め、現在は副首相兼財務相である麻生太郎氏の伯父である(吉田の妹の和子が麻生氏の母親である)が、吉田が首相在任中、父子の折り合いはあまりよくなくて、健一は闇屋やモク拾いのまねごとをしたり、(まあ一種のしゃれで)乞食をしたりしていた。『乞食王子』という随筆の題は、もちろん、マーク・トウェインの有名な作品からとったのだけれども、吉田健一には、確かに「乞食」的な部分と「王子」的な部分が同居していた。そして、乞食と王子が1人の中に同居することの傍観者性と気楽さを確認したうえで、この立場から社会・文明を批評としている。「没談国事」ということで、政治的な議論はできるだけ避けているのだけれども、時々、真の保守主義とはどのようなものであるのか、というような議論が展開される。そこに、英文学に親しむ中で、英国の社会と政治についての文学的な感受性を身に着けた吉田らしい意見を見出すことができる(全面的に賛成しているわけではない)。社会や文明に対する批評が時として、たとえ話になり、たとえ話が一種の小説になるのはすでに書いたとおりである。

 このところ雨が降り続いているので、「海坊主」という話を紹介するのには好都合である。
 語り手が銀座の松屋裏にある岡田屋という料理屋で、一人杯を傾けていると、背の高い、がっしりした体格の男が入ってきた。初めてこの店に入ってきたらしい男であるが、体格がいいだけでなく、酒の飲み方がよくて、見とれるほどであった。それだけでなく、彼の奇妙にかすれた感じの声も親しみが感じられ、「一杯如何ですか」とこの男から酒を勧められると、席を移して一緒に飲み始めたのはごく自然なことであった。
 男は無口なうえに、「どこか、自然を卓子の向こうにおいて一人で飲んでいる、という風な感じにさせてくれる人間だった」(講談社文芸文庫版、150ページ)ために、盃が進んだ。

 どこか別の店で飲もうということで、語り手のなじみのバアであるエスポアールに出かけると、男は急に能弁になり、店の女の子たちを喜ばせ、座を盛り上げた。男は、語り手の予期に反して、銀座には詳しい様子で、さらにほかの店、焼き鳥屋やビフテキ屋に出かけたが、この男の食べっぷりには目覚ましいものがあった。最後に、男がなじみにしているらしい、隅田川の川っ縁の料理屋に入る。

 「川っ縁で飲むのもいいものである。雨は止んだ、月まで出ていた。隅田川の水はその光を受けて、川のようでもあり、海の感じもして、潮が上げて来ているのが水面を一層広くして見せた。男は、ここでは「岡田」の時と違って、盃を置いてからまた飲むまでの時間が長くなり、飲んでは川を眺め、その合間に、いつ頃行ったのか、南洋の話をしたりなどした。」(154ページ)

 酒を1人で飲むのもいいが、誰か相手がいて飲むのもいいものである。そしてその相手は、安心感のある人間がいい。この男の正体は読んでのお楽しみとして、こういう「自然」を感じさせるような相手と一緒に飲むのが楽しいと吉田が思っていたことは確かである。それだけでなく、雨とか、濡れた歩道の光とか、月に照らされた川など、舞台装置もよく整っている。そして、最初に銀座の松屋裏などと実在の場所を持ち出して、自分の実際の経験のように見せかけておき、次第に幻想の世界へと入っていくのであるが、これは計算というよりも、吉田のいつもの思考の反映であったようにも思われる。
 この作品を何度読んでも、こんな風にして酒が飲めればよいと思ってしまう。(そんな風にして酒ばかり飲んでいたから、吉田は「貧乏」で『宰相御曹司貧窮す』などという本を出す羽目に陥ったのである。――吉田はこの本の題名が気に入らず、同じ内容の『でたらめろん』という私家版をつくったようではあるが・・・ もちろん、「貧乏」というのは半分以上洒落であり、それがわからないとこの作品の面白さもわからない。) 

『太平記』(125)

9月23日(金)雨が降ったりやんだり

 中先代の乱を平定して鎌倉に入った足利尊氏は、配下の武士たちから将軍と呼ばれた。また関東管領として新田一族の所領を彼らに分け与えたことで、尊氏と義貞の中は険悪になった。建武2年(1335)10月、鎌倉の尊氏のもとから、義貞を誅罰すべしとの奏状が朝廷に届けられた。それを知った義貞も、尊氏追討の奏状を上奏した。公卿僉議が行われたが、護良親王殺害の一件が朝廷の知るところとなり、また尊氏が諸国に発した将軍御教書が進覧されたことで、後醍醐天皇は尊氏討伐を決意された。11月19日、新田義貞は朝敵追討の宣旨を賜り、同日、官軍の大手・搦め手の軍勢は東海道と東山道を下った。鎌倉では、直義が兄尊氏に出陣を促したが、尊氏は天皇に恭順の意を示すべきだとして取り合わなかった。23日、直義は上杉らの勧めで出陣したが、27日、三河国矢矧の合戦で軍勢の数では上回っていたにもかかわらず敗れた。

 日がすでに暮れてしまったので、合戦はまた明日のことになるだろうと、足利勢は矢作川の東に陣をとっていたのであるが、何を思ったのであろうか、ここでは不利であると、その夜、矢矧から退却して鷺坂(静岡県磐田市匂坂)に陣を構えた。(前回述べたように、矢作川の東側の岸は高く、急斜面になっているので、守りやすいはずである。足利勢の敗因は、義貞の計略に引っかかって、その岸から降りて、川を渡って相手方に攻め込んだことにある。そのことが自覚されていない。)

 新田勢では宇都宮公綱(楠正成と天王寺で戦ったが、その後官軍に降参していた)、仁科、熱田大宮司、愛曽(伊勢の豪族)の武士たちが6,000余騎の兵を率いて遅れて到着し、矢矧の合戦に間に合わなかったのを無念に思ったためであろうか、すぐさま鷺坂へと向かい、矢を射かけることもしないで、一斉に刀を抜いて攻め寄せたので、浮足立っていた足利勢は、鷺坂の陣を支えることもできず、足も止めずに退却したのであったが、そこに足利直義が20,000余騎を率いて到着したので、これに力を得て、手越(静岡市駿河区手越、安倍川の西岸)に陣をとった。

 12月5日、新田勢は、矢矧、鷺坂で降参した軍勢を合わせて8万余騎となり、手越河原に近づいて敵の陣営を見ると、新しい軍勢が加わったらしく、前に見た時よりもその数が多い。たとえ何万騎の軍勢が新たに加わったとしても、敵の大半はこれまでの敗戦で意気消沈した士卒である。後方の軍勢が退却すれば、敵は立て直すことができないだろう。とにかく攻撃を仕掛けてみよと義貞が下知する。そこで義貞の弟の脇屋義助、下総守護の千葉貞胤、宇都宮配下の紀姓、清原姓の党の武士団6,000余騎の軍勢で安倍川の河原を東西に17度もわたりながら戦い続ける。

 夜になると、双方ともに人馬を休め、川を隔ててかがり火をたく。月初めの月が雲に隠れて、夜すでに深く暮れていたので、義貞の方から、強い射手を300人選んで、藪の陰から敵の陣近く忍び寄り、足利勢の陣営の後ろの方をめがけて雨が降るように多くの矢を射こみかけた。(前段にあるように義貞は足利方の後方の軍勢の動きが勝敗を左右すると考えていた。) この矢の雨に数万の足利勢は驚き慌てて、後ろの方から退却を始めた。新たに加わった兵も、命知らずの勇士たちも、退却すべきではないと声を限りに軍勢を止めようとしたのだが、逃げようとする軍勢の勢いには逆らえず、鎌倉まで落ち延びていった。

 官軍は、たびたびの戦闘に打ち勝って、伊豆の国府(現在の静岡県三島市)に到着したが、足利方の武士たちの中には、旗をまき、兜を脱いで、官軍に降伏するものが数え切れないほどであった。足利方であった宇都宮貞泰は、一族の惣領の公綱が義貞軍にいるので、その縁を頼って官軍に加わる。佐々木道誉は、弟の貞満と家臣の奴賀四郎が手越で戦死しただけでなく、手勢も少なくなったので、しばらくの間謀をめぐらして義貞の先陣として馬を進めていたが、敗走していた士卒を寄せ集めて、また500余騎になったので、箱根の合戦の時に、取って返して、また足利方として戦ったのであった。

 ここまでのところでは新田義貞の作戦がことごとく当たり、足利方を圧倒している。足利方は尊氏に戦意がないうえに、それ以外の上層部、直義、細川和氏、上杉憲房、高師直、佐々木道誉の足並みがそろっていない。戦局の有利・不利を見て、足利方から新田方に寝返る士卒も少なくない。手越の戦いの後では佐々木道誉までがいったん、新田方に降参したふりをした。新田方はこれまでのところ、数は少ないが、意思統一も取れ、義貞の指示も守られていたが、これから、怪しげな味方が増えてくるのがかえって不安材料である。 

日記抄(9月16日~22日)

9月22日(金)雨

 9月16日から本日までの間に経験したこと、考えたこと、この間にブログに掲載した記事の補遺など:
9月16日
 『朝日』の朝刊に「呼び込め世界の修学旅行生」という見出しで、海外からの修学旅行生客を日本に呼び込もうとする働きかけが紹介されていた。修学旅行、特に海外にまで出かける修学旅行が万国共通のものか、調べてみる必要はあると思うが、それ以上に、向こうから来てもらう以上、こちらからも修学旅行に海外に出かけていくことが望まれるわけである。

9月17日
 NHKラジオ「攻略!英語リスニング」では”Wedding Dress"を話題として取り上げた。現在では、白いドレスを着ることが一般的になっているが、ヴィクトリア時代以前は単に一張羅(Sunday best)を着ればよかったのだという。
 昨日の当ブログで取り上げた、ジェイン・オースティンの『マンスフィールド・パーク』の中で、バートラム家の長女のマライアが、地方で一番の金持ちの地主であるラッシュワースと結婚することになるが、結婚式の衣装について「花嫁はとても上品な花嫁衣装を着て、花嫁の付き添い役の女性は、2人とも作法通り地味な感じで」(305ページ)と記されている一方で、ヒロインであるファニーがその際にサー・トーマスに白いドレスを作ってもらって参列している(ということは、花嫁のドレスは白ではなかったらしい)。
 白い衣装というのはヴィクトリア女王がアルバート公と結婚した時に着たのがきっかけとなって広まり始めた、white clothes were a luxury so it was a way of shouing off (白い服はぜいたくで、お金があることをひけらかせるわけだから)という。it wasn’t intended to be a symbol of purity and virginity (純粋さと純潔の象徴というつもりではなかった)と述べられていた。
 花嫁衣裳の色よりも、最近の結婚披露宴などで着る衣装で、花嫁が肩をむき出しにしていることの方が私には気になるのであるが・・・

 この日付の当ブログで取り上げた映画『だれかの木琴』の原作者は、他の作品を取り上げたことのある井上荒野さんである。今度は、井上さんのどんな作品を取り上げることになるか、予測がつかない分、楽しみでもある。

9月18日
 この日付の当ブログで桂南光さんの『佐野山』について取り上げたが、この噺のヤマになる千秋楽の結びの一番の際に御璽を務めているのが、東京だと木村庄之助になるのが、大坂では木村玉之助になるということを書き忘れていた。(南光さんは「トモノスケ」といったようにも聞こえたのだが、大坂相撲の立行司は木村玉之助である。) この名跡は大相撲の東西合併後も残り、東京相撲の木村庄之助、式守伊之助に続くものとして、昭和34(1959)年に定年で辞めた第13代木村玉之助まで続いていた。
 あまりはっきりしたことはわからないのだが、大阪相撲には木村、式守のほかに、岩井、吉岡という行司の家柄があったという話である。そういうことを調べて行くと噺に膨らみが出てくるのではないか。

9月19日
 敬老の日。年長者を人生の先輩として敬意をもって接するのは当然のことで、わざわざこのような祝日を設けることについては再考の必要がある。みんなが一斉に休む休日を増やすよりも、個々人がそれぞれの理由で休むことのできる自由を拡大する方がいい。

9月20日
 台風が接近して、雨降りが激しいので本日に予定していた墓参りを延期する。

 テレビ東京の『開運なんでも鑑定団』の中の『出張 なんでも鑑定団』は広島県福山市での開催であった。香月泰男の若いころの絵が出てきたのが一番の収穫であった。そういえば、横浜のそごう美術館で香月の展覧会が開かれたのを見に出かけたことがある。

9月21日
 墓参りに出かける。

 NHKラジオ「実践ビジネス英語」は”Graying America" (高齢化するアメリカ)というビニェットに入った。
I'd say the prospect of the "retirement crisis," as the media call it, tops the list for most Americans. (たいていのアメリカ人が一番心配しているのは、メディアの言う「引退後の危機」に将来見舞われるのではないか、ということでしょうね)と登場人物の1人が言う。
You know, the whole concept of retirement is quite recent in historical terms. Until the beginning of the 20th century, most people worked until the end of their lives. There was no question of retiring. (そういえば、引退生活という考え自体が、歴史的に見てかなり最近のものですね。20世紀初頭まで、たいていの人は一生涯働きました。引退はありえなかったのです。)
 引退してから、この番組を聞くようになったのだが、現役中に聞いていた方がよかったと、後悔している。

9月22日
 「実践ビジネス英語」では退職者について
You had a retirement dinner, speeches were made and you got your gold watch. (人々は退職記念の食事会をしてスピーチを頂戴し、金時計を贈られました。)と語っていた。”Word Watch"のコーナーではLongman Dictionary of English Language and Cultureの中の、a watch made of gold or coloured like gold, often given as a mark of respect to people who have worked for a company for a long time and have come to the end of their working life(金製の、あるいは金色に塗られた時計、しばしば、長い間会社のために働き、その職業生活の終わりを迎えた人々への敬意のしるしとして与えられる)と説明されていることが紹介されていた。(私の手元にあるLongmanの辞書はただの英和辞典である。) 夏目漱石の小説に出てくるが、昔、大学を優秀な成績で卒業すると銀時計をもらった。大正時代に東大を卒業した私の義理の伯父の遺品の中に、銀時計があったそうである。私は、銀時計とも、金時計とも縁がなかったが、まあ、それはやむを得ないことであろう。

 横浜FCはパロマ瑞穂スタジアムで行われた第96回天皇杯の3回戦で、AC長野パルセイロを3-2で下し、4回戦(16強)に進出した。3勝したのは久しぶりのことで、さらにもう1勝を積み上げてほしいと思う。この試合に三浦知良選手が途中出場して、天皇杯における最年長出場記録を更新した。

 

ジェイン・オースティン『マンスフィールド・パーク』(3)

9月21日(水)曇り、晴れ間がのぞくこともあったが、雨が降り出すこともあった。台風は通り過ぎたが、秋霖の雨雲が居座っている。

これまでのあらすじ
 親が愚かな結婚をしたために、貧乏人の子沢山の家で育ったファニー・プライスは、10歳の時に、母の姉の夫である准男爵サー・トーマスの屋敷マンスフィールド・パークに引き取られる。虚弱体質で内気な少女は、伯母であるノリス夫人のいじめと、従兄であるトマス、従姉のマライア、ジュリアのからかいに会いながら、もう一人の伯母であるバートラム夫人のお世話係として、ひたすら耐える日々と送る。その中で味方となるのは、従兄(次男)のエドマンドで、ファニーは彼の影響で読書の喜びを知り、立派な道徳心を身に着けた、感受性豊かな女性へと成長する。そして、ファニーはエドマンドに対して、恋心を抱く。
 マンスフィールド教区の新しい牧師になったグラントのもとに、グラント夫人の異父弟妹であるヘンリーとメアリーというクロフォード兄妹がやってくる。ロンドン仕込みの機知あふれる個性的な美人メアリー・クロフォードの魅力にエドマンドはひかれ、メアリーも自分本位に遊びまわっているトムよりも、まじめでひたむきなエドマンドの方が魅力的だと考え始める。一方、ヘンリーはマライアとジュリアの両方の心をもてあそぼうとする。
 トムを訪ねてマンスフィールド・パークにやってきたイェーツの話がきっかけとなり、屋敷の若者たちの間で芝居を上演しようという話が持ち上がる。西インドのアンティグアにある自分の農園に滞在中の父親で、謹厳なサー・トマスがいれば賛成しない計画であるとエドマンドは反対するが、計画はどんどん進んでいく。その中で、ヘンリーはジュリアよりもマライアに心を寄せていることが明らかになる。

第16章
 芝居への出演を頼まれたファニーは、自分が好きに使っている<東の部屋>でどうしようかと思案に暮れていると、エドマンドがやってきて、素人芝居に外部の人間を巻き込んで騒ぎを大きくするよりも、自分が出演することで内輪の催しにとどめる方がいいだろうと思い、芝居に協力・参加することにしたと語る。その決心の背後に、メアリ・クロフォードの影響力を感じたファニーは不安になる。

第17章
 エドマンドが芝居に協力することを知ったトムとマライアは喜ぶ。ファニーが演じるように頼まれていた農夫のおかみさんの役は、教区牧師の妻であるグラント夫人が引き受けてくれた。ファニーは芝居の準備の中で果たすべく役割もなく、寂しい思いをするが、「サー・トマスのことを考えると、絶対に反対しなければならないこの素人芝居に、私が参加するわけにはいかないのだ」(243ページ)と自分に言い聞かせる。芝居の準備からのけ者にされているのはジュリアも同様であった。ヘンリー・クロフォードは姉の方が好きだということを知った彼女は、「婚約中という姉の立場を心配することもなかったし、自分のために冷静に落ち着きを保とうという努力もしなかった。」(244ページ) それでもジュリアは、イェーツ氏の心づかいだけは時々受け入れていた。

第18章
 芝居の準備は順調に進んでいるように見えたが、ファニーは意外なことに「べつに大きな障害が生じたわけでもないのに、みんなはこの準備をすっかり楽しんでいるわけでもなさそう」(250ページ)だということに気付いた。エドマンドの内輪だけで上演するという意見は無視されて、トムの意向で上演は大掛かりになり、そのトムは自分のセリフは全部覚えてしまったのに、ほかの出演者がもたもたしているため、待つ身のつらさを味わっていた。ほかのみんなも何かしら不満を抱えていて、ファニーがそれらの不満の聞き役になっていた。稽古の中でマライアとヘンリーとは熱いところを見せて、ラッシュワースをいらだたせていたが、そのラッシュワースのセリフの覚え方が遅いのも問題であった。
 ファニーが針仕事を抱えて<東の部屋>に戻り、物思いにふけっていると、メアリ・クロフォードがやってきて自分の稽古に付き合ってほしいという。彼女がそうしていると、エドマンドがやってきて、ファニーは劇中の2人が恋愛について語る場面の稽古にプロンプター兼観客として付き合うことになる。
 ディナーののち、最初の3幕のリハーサルを行う予定になっていたが、グラント牧師が体調を崩したために、グラント夫人が参加できなくなり、ファニーが農夫のおかみさんのセリフを読むように頼まれる。リハーサルが始まったが、突然、部屋のドアが開き、ジュリアが現れて、サー・トマスが帰宅したと告げる。

第19章
 芝居に参加していなかったジュリアが、父親にあいさつするために出ていくと、トム、エドマンド、そしてマライアも迎えに出ていく。ヘンリー・クロフォードの助言であいさつに出かけた方がよいといわれたラッシュワースも3人の後を追う。ファニーは、クロフォード兄妹、イェーツとともに後に残る。クロフォード兄妹はサー・トマスの怒りや、芝居が中止になることを予測して、そのまま帰宅したが、イェーツはその場に残るという。
 ファニーは遅れて、客間にいるサー・トマスのところに出かけるが、思いがけなく優しい対応をされる。ラッシュワースもたいへん丁重に扱われる。
 しばらく団欒が続くが、サー・トマスが自分の部屋の様子を見てくると席を立ったために、彼の部屋を使って芝居の準備をしていた一同は慌て始める。部屋ではイェーツが自分の演技の稽古をしているのである。サー・トマスはイェーツがトムの友人の1人であることを知り、主として彼の口から、芝居の計画について知る。イェーツは空気を読めずに、得々としゃべりたて、サー・トマスの怒りを書き立てる。ラッシュワースは(自分がうまく溶け込めなかったからであるが)芝居の計画を非難し、サー・トマスに称賛される。

第20章
 翌朝、エドマンドは父と会って、事情を説明する。サー・トマスは素人芝居の計画を中止させ、舞台装置など、芝居に関係するすべてのものを屋敷から一掃することで、子どもたちに自分の意思を示すだけで、特に説教することはしなかったが、ノリス夫人に対しては、なぜ芝居の計画をやめさせなかったのかと問いただした。「サー・トマスが…反対している素人芝居が、そんなにいけないことだとは思わなかったと告白するのは恥ずかしいし、かといって、自分の影響力が不十分で、忠告しても無駄だったということを認めるのもいや」(282ページ)なノリス夫人は、全力を傾けて話題をそらせる。
 サー・トマスが芝居に関係するものをすべて処分するのを見て、イェーツは反発するが、その威厳に満ちた態度に押されておとなしくなる。マライアは、ヘンリー・クロフォードから求婚されるという愚かな期待を抱くが、ヘンリーはバースの叔父のもとに去っていく。それから1日か2日後にイェーツもマンスフィールド・パークを去る。
(ノリス夫人がヘンリーはジュリアに恋をしたはずなのに、なぜ実らなかったのだろうと不思議に思ったという記述で、ノリス夫人の観察力の不足が明らかになる。一方、ファニーは婚約者のいるマライアとヘンリーの中を心配しているのである。)

第21章
 サー・トマスは他家との親密な付き合いを好まない方なので、マンスフィールド・パークはこれまでとは打って変わって、陰気な様相を見せるようになった。ただラッシュワース家だけは例外であった。エドマンドは、この変化を嘆くが、ファニーはこれがもともとの姿だと気にしない。エドマンドは父親がファニーの変化に気付いたといって、彼女の美点を褒める。そういう称賛の言葉の中に、ミス・クロフォードの影響がみられるのがファニーには気になる。
 ラッシュワースをよく知るようになってサー・トマスは彼が最初に考えたほど賢明な人間ではないことに気付き、マライアのことが心配になる。それでマライアに結婚についての彼女の意思を確かめるが、マライアは一瞬のためらいを見せたものの、結婚したいという気持ちに変わりはないと答える。
 11月半ば前にラッシュワースとマライアの結婚式が行われ、「とてもきちんとした立派な結婚式だった」(305ページ)。この結婚に最も貢献したことを自認するノリス夫人はこれ以上はないほどにご機嫌な様子であった。彼女の自信に満ちた勝ち誇った表情を見た人々は「ノリス夫人は生まれてこの方、不幸な結婚生活というものを一度も耳にしたことがないのだ。それに、自分が手塩にかけて育てたマライアがどういう性格か、まったくわかっていないのだ」(306ページ)というだろうと、作者は書き記している。
 ラッシュワース夫妻は、数週間ブライトンで過ごし、その後、ロンドンに行く予定であった。当時は普通のことであったのだが、ジュリアもブライトンに同行することになった。2人がいなくなったことは、マンスフィールド・パークの生活に大きな隙間ができたような変化をもたらした。(そのことで、物語の新しい局面が開けてくるのである。)

 この小説はエドマンドに寄せるファニーの思いが中心になるのだが、そのエドマンドはメアリ・クロフォードに心を奪われている。メアリの兄ヘンリーはマライアとジュリアの心をもてあそび、婚約者のいるマライアと親密になるが、結局彼女を置いて去っていく。マライアが大して好きでもない大金持ちのラッシュワースと結婚するのは、その腹いせの気持ちもあるようである。ヘンリーの行為に、ジュリアは大いに傷つくが、そのジュリアに貴族の子どもだという以外に取り柄のないイェーツが思いを寄せている。このように複雑な恋愛模様を、主役脇役の行動や性格の描写をちりばめて展開していく作者の筆致はなかなかのものである(もちろん、弘法も筆の誤り、英語で言うとEven Homer sometimes nods. という部分も無きにしも非ず)。
 このところ、当ブログ上での紹介が途絶えているのだが、ゴーゴリの『死せる魂』も時代的に接近しているロシア農村社会の地主たちの暮らしを描いているので、両者を比べていろいろなことを考えさせられている。
 

佐藤信也『周――理想化された古代王朝』

9月20日(火)雨

 佐藤信也『周――理想化された古代王朝』(中公新書)を読み終える。中公新書の1冊として刊行された落合淳思『殷――中国最古の王朝』の後を受けて、殷に続く周王朝の歴史を概観する書物である。

 この書物は次のように書きだされている:
 「周は、紀元前11世紀後半ごろに殷王朝を倒すことで成立し、およそ800年後の前256年に滅んだ中国古代の王朝である。この州の時代は2つの時期に分けられる。前771年までの前半部を「西周」といい、動乱によって西周最後の幽王が敗死して以降の後半部を、「東周」と呼ぶ。東周の時代はまた通常春秋期と戦国期とに二分される。」(ⅰページ)

 これまでのところ、中国の歴史に関心のある一般の読者が興味を寄せるのは、「東周」の方が主であり、西周の歴史はその前段として扱われることが多かったと著者はいう。中国史学の大家である宮崎市定(1901-1995)などは幽王による西周の滅亡とその後の東遷は後世による創作であるという「西周抹殺論」を唱えさえした(これは私も読んだ記憶がある)。「しかしこの「西周抹殺論」は、西周の同時代資料となる金文、すなわち青銅器の銘文を無視して組み立てられた空理空論である。そして金文を主要な資料として再構成された西周の歴史は、東周の前段に甘んじなければならないほど空疎なものではない」(ⅱページ)というのが著者の見解である。この認識に立って、この書物は文献研究と考古学の成果の両方を踏まえて、周王朝の歴史を西周に力点を置きながら概観している。東周の歴史を西周の後日談と位置づけることで、春秋時代の覇者や、秦の始皇帝の事業のこれまでとは違った側面が見えてくるはずだという。

 周王朝の在り方を示すキーワードとなるのが「祀(し)」(祭祀)と「戎(じゅう)」(軍事)であるという。政治と一体化した祭祀儀礼の作法や制度、さらに社会的な規範が整えられて行く中で、それらをひとまとめにした「礼制」が形成される。西周の時代に成立し、行われていたと信じられていた礼制を復興し、再現しようとしたのが孔子をはじめとする儒家の人々であった。しかし彼らは西周の礼制を忠実に再現できたのであろうか。周の歴史とともに、礼制の歴史(それは現代の日本人にとっても無縁なものではない)もこの書物の関心事となっている。

 この書物は次のような構成をとっている。
序章  新出史料から明らかになる周代の歴史
     1 伝世文献と出土文献
     2 西周期と東周期
第1章 創業の時代――西周前半期Ⅰ
     1 王朝成立以前
     2 殷周革命
     3 反逆する殷の遺民
第2章 周王朝の最盛期――西周前半期Ⅱ
     1 諸侯の封建
     2 周王の主催する会同型儀礼とは
     3 南征に倒れた昭王
第3章 変わる礼制と政治体制――西周後半期Ⅰ
     1 礼制改革
     2 王朝を動かす執政団
第4章 暴君と権臣たち
     1 追放された暴君
     2 中興の光と闇
     3 西周の滅亡
第5章 周室すでに卑し――春秋期
     1 周の東遷
     2 覇者、斉の桓公と晋の文公
     3 東周王朝の祀と戎
第6章 継承と変容
     1 礼制の再編、孔子の登場
     2 断章取義する春秋人
終章  祀と戎の行方――戦国期以後
     1 王朝の終焉
     2 周の祀は継承されたか

 序章 「新出史料から明らかになる周代の歴史」では、まず研究の手掛かりとなる史料について、『尚書』や『史記』のように伝統的に受け継がれてきた漢籍である伝世文献と、考古学的な発掘あるいは盗掘や偶然の発見によって出土した文字資料である出土文献、さらに出土文献の中でも金文と甲骨文と竹簡とがあることを概観して、周王朝についてどのような情報が与えられているかを明らかにしている。
 次にこれまでの研究成果から西周が
西周前半期Ⅰ 文王・武王・成王の時代。周王朝の創建期。(→第1章)
西周前半期Ⅱ 康王・昭王・穆王の時代。支配領域拡大期。(→第2章)
西周後半期Ⅰ 共王・懿王・孝王・夷王の時代。周王朝の政治的秩序が完成された安定期。(→第3章)
西周後半期Ⅱ 厲王・宣王・幽王の時代。混迷期。(→第4章)
に4分され、東周が
東遷期 紀元前770年から前723年まで。地方を収める諸侯が時代を動かす中心となっていく趨勢が固まるまでの混乱期・移行期。(→第5章)
春秋期 有力諸侯が覇者として他の諸侯を指導した時期であるが、西周以来の政治的枠組みがそれなりに有効な時期でもあった。(→第5章、第6章)
戦国期 「戦国の七雄」と呼ばれる諸侯たちがそれぞれ王と称して争ったが、秦が最も有力となり、始皇帝によって中国が統一されるまでの時期。(→第6章、終章)
に分けて記述されることが示されている。(これらの区分については研究者の意見がまだ一致していないことも記されている。)

 第1章「創業の時代 西周前半期Ⅰ」では、まず伝世文献に基づくと、王朝成立以前の周の人々は定住(農業)と移動を繰り返してきたとされることを紹介し、これは歴史的な事実の反映というよりも、周の人々が定住性の農耕民と、移動性の非農耕民の2つのアイデンティティの板挟みになっていたことによるものではないかと論じる。この2つのアイデンティティは、政治的・軍事的な情勢に応じて使い分けられていたようでもある。周の東で強大な勢力を持つ農業国の殷との交流は盛んであり、王室を支える存在にまでなっていたという。
 紀元前11世紀の後半に周が殷を倒す(克殷)ことにより、周王朝が成立した。しかし、周の創業期には殷の遺民による反乱が繰り返し起きた。周はこれらの反乱を鎮圧し、一族を封建してその支配を強化した。またこのような軍事行動に加えて、周王朝の新しい拠点として現在の河南省洛陽市一帯の地域で成周(洛邑)の造営が行われた。
 この章では、なぜ周が殷を倒そうとしたのかがどうもはっきりしない。周が農耕民と非農耕民の二重のアイデンティティを持っていたというのは、旧約聖書のイスラエルの人々を思い出させるのだが、周では農耕民のアイデンティティの方が重視されていたようであるが、旧約の場合は非農耕民のアイデンティティの方が価値があるものだと考えられているというのが大きな違いである。

 第2章「周王朝の最盛期――西周前半期Ⅱ」では、まず周王朝のこの時期における統治機構が概観される。政務や軍務の指導を行うのは、王室出身者など特定の重臣であったと考えられる。周王朝の直轄範囲は周王直属の官が管理するが、その外側の地方については諸侯が管轄する。ただし、直轄地である王畿内においても、実際に周王やその官が直接統治するのは主要な都邑だけで、その周辺の地域は周王に使える貴族(=邦君)に与えられていた。この時期の周王朝は、邦君の支配する采邑だけでなく、諸侯国にも同じように命令を発することができた。
 各地の諸侯に任じられたのは王室・重臣の子弟である。諸侯は与えられた拠点や交通路の確保とともに、王朝への効能や戦時の軍役への参加などの各種の義務の遂行が期待された。
 周王は、邦君や諸侯などの臣下を統合するために、官僚機構を通じた統御とともに、自らが主催する儀礼や祭祀に参加させた。このような王の主催と多種多様な人々の参加によって成り立つ儀礼を、著者は「会同型儀礼」と名付けている。これらの儀礼の際に、王はさまざまな階層の人々と接し、宝貝などの物品の賞与によって関係を結ぶことができた。このような儀礼の中心となったのが辟雍(へきよう)であり、円環形の璧玉のような形をした池水で、真ん中の部分が円形の島となっている施設である。辟雍は祭祀儀礼の場であるとともに、池水に魚が飼われ、その周辺に虎や狼のような猛獣を含む動物が放し飼いにされた野外動植物園としての性質も持っていたようである。ところが、辟雍については野外動植物園であったということは記憶されず、祭祀儀礼の場であることだけが伝わり、のちの時代には天使の学校であったというように誤解されるようになる。
 このような会同型儀礼は殷の制度を継承したものであり、周王朝は殷王朝の礼制を踏襲し、その基礎のもとに発展させていったと考えられると著者は論じる。
 第4代の昭王については南方への遠征中に死亡したという説話がある。この事実を裏付ける金文はないが、「戎」の失敗を「祀」によって補おうとした形跡はあるとする学者もいる。しかし、それだけでこの危機は乗り切れるものではなく、周王朝の「祀」はさらなる変革を迫られることになる。

 第3章以下の紹介と論評は、またの機会に譲るつもりである。中国の歴史を概観した書物は、一般的に、伝世文献にその多くを負っているわけであるが、そこには歴史的な事実や、その時代の考え方が、正しく伝わっている部分と、そうでない部分があるということを、改めて確認させられ、興味深く読み通すことができた。さらに農耕民族と非農耕民族の二重のアイデンティティという問題は、古代のさまざまな民族、国家に共通する問題であると思うので、改めて考えなおしてみたいと思う。

ダンテ・アリギエリ『神曲 天国篇』(2-2)

9月19日(月)雨が降ったりやんだり

 ベアトリーチェに導かれて煉獄山の頂上にある地上楽園から飛び立ったダンテは、月天に到着する。そして月が固体であるにもかかわらず、その中へと入った。ダンテはベアトリーチェに月の下半分が暗いわけを尋ねた。それに対し、ベアトリーチェはダンテがその理由をどのように考えているかを問い、ダンテは粗密によるものではないかと答えた。ベアトリーチェは、宇宙を構成する多数の天体の多様性は、粗密という一つの原理だけでは説明できないといって、ダンテの議論を論駁する。

 ベアトリーチェはさらに議論を続ける。もし月の表面の模様が粗密によるのであれば、
日蝕の際、光が密度の薄いものに差し込んだ時のように
通過することではっきりとわかるはずです。
(39ページ) 実際には太陽の光が月を通り抜けて地上を照らすことはない。次に、月の中のある層が光を反射し、それが地球に届くまでの距離の差で明暗がつくという説を取り上げて、
試しさえすれば、実験によって
あなたをこの反論から解放することができます。
それこそは、あなた達人類の技術の流れが発する源となってきたのですから。
(40-41ページ)と、この説が実験によって否定できると述べる。翻訳者である原基晶さんの傍注によると、ここで「技術」と訳されているのは「原文アルテ。人間の営為、特に技術を意味するギリシャ語のテクネは、アリストテレスの翻訳を通じてラテン語のアルス、イタリア語のある手になった。中世では思考が重んじられ、技術や実験は学問とは見なされなかったため、実験を重視するダンテの態度をガリレオの先駆者とみる意見もある」(41ページ、傍注)そうである。この後で、ベアトリーチェは鏡を3つ使う実験を提案しているが、ガリレオは実際にこの実験を行ったと彼の『星界の報告』に書いているそうである。(ガリレオの『星界の報告』は持っているはずで、探してみたが、見つからなかった。見つけ次第、確認してみるつもりである。)

 そしてベアトリーチェはダンテに月の翳りの真の理由について説き始める。
神の平和に満ちている天空の中では、
包含する全事物の存在をその力のうちに潜在させている、
一つの天体が回転しています。
(42ページ) 「神の平和に満ちている天空」(=至高天)は静止しているが、その中で「一つの天体」(=第九天空である原動天)が高速で回転し、その下にある全事物の存在をもたらす力をもつ。ダンテは「天体」と書いているが、第九天空には特定の天体はないはずなので、物体ではなく、力そのものと考えられる。

続く天空は数多の星を持ち、
その事物をあらしめる力を様々な本質に分け与えますが、
それらの本質はその天空から独立し、かつその中にあります。

下位の諸天空は、それらのうちに伝えられた細分化した力を、
多様な違いを通じて、
各々の目標を実現すべく、種に向けて整えるのです。
(42-43ページ) 原動天が発する力は、第八天空の恒星天に伝えられ、それが第八天空に存在する多数の恒星に分けられ、その恒星天で細分化された力は、そこから土星天、木星天、火星天、太陽天、金星天、水星天、月天を複雑な行程を経て伝わりながら、組み合わされ、質量を得て「目標」が実現することになる「種」、つまり種々の叡知的形相、プラトンの説くイデアに到達するという。

さまざまに異なる力は、
それが命を与える貴重な物質と様々な合金を作り出し、
その中で、あなた方のうちにある生命のように一体となっています。
(45ページ) 「貴重な物質」は天体をなす永遠の質量であり、土・気・火・水の四元素でできた地上を離れた天空にある第五元素であるエーテルに、力が形相を与えると星になると考えられた。そして星の生成の比喩として、貨幣鋳造のための貴金属の合金を作ることが用いられているのである。天上の現象の比喩として、貨幣鋳造という現実的・世俗的な事柄が用いられているところに、銀行家の家柄に生まれたダンテの想像力の特徴が表れているように思われる。

混ぜ合わされた力は、由来する生来の喜ばしさのおかげで、
ちょうど喜びが目に生き生きと輝くように
その物質を通して光り輝くのです。
(45ページ) この伝えられた力は、神に由来するがゆえにその喜びによって物質は光り、それぞれの天体の明暗や色の違いも、その伝えられた力の違いに由来するのだという。

 月の表面にはなぜ模様が見えるのかという問いは、結局ガリレオのように望遠鏡で月をより詳しく観察することによってしか答えられない性質のものである。ここで、ダンテは、日蝕の際のおそらくは自分の観測や、思考の枠内でのことではあるが実験によって天体をめぐる様々な謎を解明しようとしているが、実際のところ、彼の得た結論は中世的な思弁の世界の範囲から脱してはいない。彼が美しい文体で描き出した理論的思索は、今日の我々にとってあまり役に立たないものである。そんなところにも中世と近代の境目の、どちらかというと中世よりのところで、神の真理に即して秩序が構成された、平和な社会を考えているダンテの姿をうかがい知ることができる。

 月の表面をめぐる謎が解明された(とダンテが思った)ところで第2歌は終わる。第3歌でダンテは月天にいる魂たちと出会うことになる。

日記(9月18日)

9月18日(日)雨が降ったりやんだり

 家の中に黒猫が2匹入り込んでいる夢を見た。何とかしようと抱き上げたら、やせていて、汚れが目立つ。その身の上に同情はするのだが、すでに2匹の猫を飼っている我が家で、これ以上の猫を飼うのは無理だと考えている…ところで目が覚めた。

 Eテレの『日本の話芸』は桂南光さんの『佐野山』を放送した。力は強いが体が小さいのでなかなか上に上がれないでいる親孝行な十両力士の佐野山の身の上に同情した横綱の小野川が、本場所の千秋楽の結びの一番で佐野山と取り組み、わざと負ける。佐野山はこの一番で得た多額のご祝儀で、父親が営んでいた漬物屋を再興し、親孝行(香香)ができた。
 この噺、東京では谷風が負けてやることになっているが、上方では近江の国大津出身の小野川になっていることを知る。佐野山は現在の大阪府泉佐野市の出身だという設定も初めて聞いた。小野川も佐ノ山も現在の大相撲の年寄名跡になっているのは面白い符合である。私の子どものころには、大相撲に小野川部屋があって、成山、信夫山、海乃山などの力士がいたことを思い出す。北の湖が小野川部屋を再興するという話もあったのだが、実現しなかったのは何となく残念である。
 噺の内容だけでなく、見台を置いたりするところにも上方落語らしさがでていた(上方の落語家さんでも見台を置かない人も少なくない)が、全体としては上方風の特色を抑えて、全国の視聴者にわかりやすく話そうとしているように思われた。噺の中には出てこなかったが、十両の筆頭(大相撲の番付だと二段目の一番右側)のことを貧乏神という(これは『広辞苑』に出ている)のは、この噺で覚えたのである。幕内ではないのに、幕内力士と当たることが多いので、この名があると聞いた。

 バスの中で、若い父親が幼い娘と話している。○○ちゃんは大きくなったら、バスの運転手になりたいんだって? 私の子どものころに、そんな夢を持つ女の子はいなかったと思う。小さな女の子が大人になったらバスの運転手になりたいという夢を語るーーというように、世の中は変わってきたのだな、と思った。

 ニッパツ三ツ沢球技場でJ2第32節横浜FC対京都サンガの対戦を観戦する。現在7位の横浜にとって、6位の京都との対戦はJ1昇格のためのプレー・オフ進出のためには負けられない一戦である(1位、2位は自動昇格、3~6位のチームでプレー・オフが行われる)。京都のゴールを守るのは、以前、横浜でプレーしていた菅野孝憲だから、横浜のゴール裏のサポーター席からは拍手とブーイングの両方が聞こえた。
 試合開始前に、スタンドにいた若い女性が、ピッチのほうに何か声援を送っているので何かと思ったら、横浜FC専属チアリーダーの「F!リーダーズ」の1人が彼女の娘さんだったらしい。サッカーよりも自分の子どものチアリーディングのほうが気になっている人もいるのかと思った。(若いといっても、70歳過ぎの私から見て、相対的に若いということであり、すでに彼女の関心は自分の娘の成長のほうに移っているようなのである。)
 試合は前半、風上に立った京都がFWエスクデロ競飛王を中心に速い攻めを見せて優勢に立つが、横浜はエスクデロの出足を2人がかりで止めるなどよく守り、13分にFKのチャンスを得て、イバが左足でしっかりゴールを決めて先行。後半は横浜が風上になり、58分にゴール前でのもみあいから、またもイバが左足で決めて2点目を得る。これに対し、京都が猛反撃を見せて、PKのチャンスを2回奪うが、2回とも、横浜のGK南がセーブするという神がかり的な守備を見せて、しのぎ切り、2-0で勝利して、貴重な勝ち点3を挙げた。この試合のMVPには南が選ばれた。
 横浜がエスクデロを厳しくマークし続けたのと同様に、京都の厳しいマークに満身創痍の状態になりながら、最後までピッチに立ち続けたイバが、試合後、ゴール裏最前列のサポーターと笑顔でハイタッチをしながら、引き揚げていたのが印象に残った。リーグ戦は残り10試合、横浜のさらなる健闘が望まれるところである。

だれかの木琴

9月17日(土)晴れたり曇ったり

 シネマート新宿で『だれかの木琴』(東陽一監督)を見る。

 専業主婦である小夜子(常盤貴子)は、警備保障関係らしい会社に勤める夫と中学生の娘の3人暮らし。最近、郊外の新居に引っ越してきた。新しい土地で見つけた美容院で少し髪を切る。彼女を担当した海斗(池松壮亮)という若い美容師からその日のうちにお礼の営業メールが届く。ふつう、この種のメールには返信しないものだが、彼女は返信する。

 彼女の夫は営業担当なのだろうか、オフィスの外で走り回っている。中間管理職で今のところ仕事は順調のようであるが、その分、小夜子は置き去りにされている。中学生の娘も学校で忙しい様子である。そんな中で小夜子は海斗に何通もメールを送り、たびたび美容院を訪ねて彼を指名する。彼がふと漏らした言葉から、そのアパートを突き止めて呼び鈴を押してしまう。

 海斗には唯(佐津川愛美)という付き合っている女性がいて、小夜子が海斗のアパートを訪れた時も一緒であった。海斗は唯に、小夜子の中学生の娘が美容院に出かけ、母親と間違えたことから、娘の髪も切ったことを話したらしい。この辺りまでは笑い話ですむことであったかもしれない。しかし、小夜子が唯の職場に出かけておそらくは着ることがないだろう高額のワンピースを買ったり、その服を夜中に海斗のアパートの戸口に置いたりということになると、話は違ってくる。その前に、海斗に髪を短く切ってもらった小夜子は、海斗と唯の行きつけの居酒屋で唯と騒動を起こし、顔にけがをしたりする…。

 小夜子の住む家は警備過剰のところがあって、彼女はしばしば警報に悩まされる。しかし、外敵の侵入よりも彼女が体調を崩したり、孤独に苦しんだりすることのほうが問題なのではないか。彼女の娘が父親に言う、鍵があればそれで大丈夫じゃないかというのはその意味で的を射た意見である。とはいえ、小夜子が海斗を追いかける事件と並行して、美容院の周辺で頻発している放火事件の顛末も描かれている。だから警備が無駄だとは言えないのである。その一方で、小夜子の夫の浮気も描かれる。夫婦がそれぞれ別の方向に突っ走りかけているという危機について、一番よく察知しているのは娘のようである。

 『だれかの木琴』という題名は、ヒロインが子どものころに見かけた、誰もいないように見える大きな家の中で、小さな女の子が1人で木琴をたたいている音を聞いたという記憶に基づいている。この記憶がどの程度正確なものかはわからない。映画は時々、登場人物の一方の側から描いた場面を、他方の側から描きなおして、観客に注意を呼びかけることをしている。実はこの映画は、海斗がアパートで朝を迎える場面から始まっているのだが、海斗が和風の食事にこだわっているのに対して、小夜子が家族のために洋風の食事を作っているのも2人の意識の微妙なずれを示すものであるかもしれない。それでも、警報音や雑音の多いこの映画の中で、ヒロインが音楽というよりも音楽以前の音にこだわっているのは、郷愁だけの問題ではないようである。

『太平記』(124)

9月16日(金)曇り、時々雨

 中先代の乱を平定して鎌倉に入った足利尊氏は、配下の武士たちから将軍と呼ばれた。また関東管領として新田一族の所領を配下の武士たちに分け与えたことで、尊氏と義貞の仲は険悪になった。建武2年(1335)10月、鎌倉の尊氏のもとから、義貞を誅罰すべしとの奏状が朝廷に届けられた。それを知った義貞も、尊氏追討の奏状を上奏した。公卿僉義が行なわれたが、護良親王殺害の一件が朝廷の知るところとなり、また尊氏が諸国に発した将軍御教書が進覧されたことで、後醍醐天皇は尊氏討伐を決断された。11月19日、新田義貞は朝敵追討の宣旨を給わり、同日、官軍の大手の軍勢は東海道を、搦め手は東山道を下って鎌倉へと向かった。

 尊氏討伐の軍勢が大手、搦め手に分かれて既に京都を出発したと、飛脚をもって鎌倉へ告げる人が多く(ということは、都にも尊氏に心を寄せる人が少なくなかったということである)、事態を知った直義、足利家の執事である高家、尊氏・直義の母清子の実家である上杉家、一族の仁木、細川の人々が尊氏のもとにやってきて、足利家を滅ぼすために朝廷は義貞を大将として、東海道、東山道から大軍をもって攻め寄せてきている。敵に難所を越されてしまうと、守りが難しくなるので、三河の矢矧や駿河の薩多(さった、現在では薩埵と書く)のような要害の地に陣営を構えて防戦すべきだと進言した。これを聞いても、尊氏はしばらく何とも云わなかったが、やがて口を開き、後醍醐天皇のおかげで自分は高い地位に就くことができた、そのご恩は忘れるべきではない。天皇のお怒りの理由は護良親王殺害の件と、各地に軍勢催促の御教書を下したということであるが、2件とも、尊氏自身は関与していない(護良親王殺害は直義が独断で行ったのはすでに見たが、軍勢催促も誰から尊氏の名を使って行ったらしい)。お前たちは自分で身の処し方を考えてほしい。自分は天皇にお会いして申し開きをするし、それが認められなければ頭を丸めて出家するだけだと自分の胸中を語る。そしてそのまま奥へと引っ込んでしまったので、人々は言葉を失う。

 こうして2,3日が経つうちに、討伐軍はすでに三河、遠江に接近してきたという情報が入ってくる。三河、遠江は足利一門の武士たちが多く住んでいる一帯である。足利氏の重臣である上杉兵庫助入道道勤、細川和氏、尊氏の盟友である佐々木道誉が直義のところまでやってきて、相談をする。尊氏の言うところも一理はあるが、建武の新政で公家一統の時代が復活し、武士の間には不満が強い。これまではその不満を代弁する武家の棟梁となるべき人がいなかったが、今は尊氏が将軍として信望を集めている。将軍も、もし自分の身に直接危害が及ぶようなことになれば、考えを変えるのではないか。今、ここで会議に時間をかけていると、敵がどんどん難所を越えて迫ってきてしまう。尊氏を鎌倉に残し、直義を大将とする軍勢が西に向かい、伊豆、駿河のあたりで一合戦して、自分たちの運を試そうという結論に達した。直義はこの意見を喜び、直ちに鎌倉を出発した。

 直義にしたがって出陣したのは、足利一族の吉良、桃井、細川、畠山、斯波、仁木、今川、岩松の武士たち、執事の高氏一族、外戚の上杉一族の武士たちに加えて、外様では佐々木道誉、小山、三浦、宇都宮、佐竹、武田、坂東の八平氏、武蔵の七党が加わり、総勢20万6千余騎に達した。11月23日、鎌倉を出発、27日に三河の国矢矧の東の宿に着いた。

 さて11月26日の早朝に、新田義貞、脇屋義助兄弟の率いる6万余騎の軍勢は矢作川に押し寄せ、敵の陣を見ると、その勢20万から30万余騎も集まっている様子である。義貞は、長浜六左衛門という配下の武士を呼び、この川を渡れる場所があるか、偵察してくるように命じる。長浜が戻ってきて、渡れそうな場所は3か所あるが、向こう岸が高く、屏風を立てたようで、敵も矢先をそろえて待ち構えている。こちらから渡って攻めるのは相手の思うつぼにはまることになろうかと思う。ただしばらく、河原に面したところに軍勢をとどめて、挑発してやれば、向こうから川を渡って攻めてくるだろう。その時、こちらからも迎え撃って川の中に敵を追って、厳しく攻め懸ければ、1度の戦闘で勝利を得ることができると進言する。他の家来たちもこの意見に同意して、技と足利軍に川を渡らせようと、河原に馬の駆ける場所を残し、西の宿の端に南北20余町に本体を展開させ、矢の射手たちを中州の細長く突き出て岬のようになった部分に並べて、遠矢を射させて敵を挑発した。
 
 計略通り、足利方の吉良、土岐、佐々木が6,000余騎で上流の浅瀬を打ち渡り、新田方の堀口、桃井、山名、里見の軍勢に打ってかかる。両者、命を惜しまず火花を散らす攻防が続き、足利方が300余騎、新田方が200余騎の戦死者を出して、お互いに退いた。次に足利方の高師直らが2万余騎で、下流の浅瀬を渡って義貞の右側に陣を構える一族の大島、額田、小森沢、岩松と戦う。3番に足利方の仁木、細川、今川、石堂の1万余騎の軍勢がやはり下流の浅瀬を渡って、義貞の本隊に向かって押し寄せた。義貞はかねてから自分の馬の周りをすぐれた兵を7千余騎に囲ませて、さらに栗生、篠塚、名張八郎という天下に有名な大力の武士を先頭に立て、8尺(2メートル40センチほど)の金さい棒(いぼのついた太い鉄棒の武器)に畳楯(じょうだて、面が広く大きい楯で、蝶番で折り畳みができる)の広く厚いのをつきならべさせて待ち受けていた。
 部下の者たちには敵が攻めかかってきても、むやみに攻めてはいけない。たとえ相手が退却しても、陣形を乱して追ってはいけない。駆けよってくれば切って落とせ。敵が陣を割って入りこもうとすれば、こちらの馬の轡を隙間なく並べて防げ。攻め懸けることはあっても、一歩も退いてはならないと義貞は指示を下す。このため、足利軍は新田軍の密集陣形を崩すことができないまま、次第に疲れ果てていった。そこへ義貞・義助の率いる7,000余騎が整然と攻め寄せたので、足利軍の1万余騎はなすすべなく対岸へと退却、この軍勢も500余騎の戦死者を出したのであった。

 軍勢の多寡だけを考えれば、足利軍の方が有利なはずだが、中先代の乱を戦ったばかりで疲れがある上に、一族がどちらの陣営にも兵を送っていたり、いざとなると裏切る武士も少なくなさそうである。新田方は休養十分、官軍ということで士気も高い。それに、新田義貞は兵力で劣る分、十分に作戦を練って、戦いに臨んでいる。新田方の初戦の勝利が、今後の戦局にどのように影響していくかは、次回以降で見ることにする。

日記抄(9月9日~15日)

9月15日(木)曇り、雨が降りそうで降りださない。

 9月9日から本日までの間に経験したこと、考えたことなど:
9月9日
 現行の暦だと9月9日は残暑がまだ厳しく、重陽あるいは菊の節句という風情には遠いのだが、あちこち探しまわって次の句を見つけた。
 負け菊をひとり見直す夕べかな 一茶
 江戸時代には、菊づくりが盛んになり、菊合わせというコンテストがあちこちで催された。自分が丹精を込めて作った菊が入選できなかったので、家に持ち帰って、一人で眺めている。一茶らしい句だなと思う。
 大学に勤めていたころのこと、事務職員で菊作りが趣味という人がいて、季節になると自分の育てた菊の花を校舎内に飾っていた。それを見て教官は一応お世辞を言うのだが、学生は見ているのか、見ていないのか、感想を聞いたためしがなかった…。

9月10日
 NHKラジオ「攻略!英語リスニング」は”Queen Victoria"をとりあげている。
She reigned for 63 years from 1837 all way to 1901.( 彼女は1837年からずっと1901年まで王位にあった。)
So much changed during that time -- in the sciences, the arts, technology, society and culture. Darwin published his theory of evolution; railways spread across Britain; London got its Underground.... (その間、――科学、芸術、技術、社会、文化において――とても多くの変化があった。ダーウィンが進化論を発表し、鉄道網が英国全土に広がって、ロンドンには地下鉄ができた。。。)
She had nine chilren who married into nobility, earning her the name of Grandmother of Europe. (彼女には9人の子どもたちがいて、かれらは各国の貴族と結婚し、ヨーロッパの祖母というあだ名までもらったのであった。)

 シネマヴェーラ渋谷で「鈴木則文復活祭」特集上映から『不良姐御伝 猪の鹿お蝶』(1973)、『忍びの卍』(1968)を見る。上映されるほとんどの作品が1時間半以内の時間枠に収まっているところにプログラム・ピクチュアとしての特徴が出ているが、その中にどこか映画らしい見せ場が設けられている。

9月11日
 『朝日』の朝刊によると、明日(新聞の休刊日である)は1916年(大正5年)9月12日に『大阪朝日新聞』に河上肇の『貧乏物語』が連載され始めてからちょうど100年目に当たるという。

 Eテレの『日本の話芸』は林家正雀師匠の『男の花道』。旅行中に眼病にかかった歌舞伎俳優とそれを治療した医者の友情物語で、講談や舞台でよく取り上げられてきたし、映画化されたこともある。落ち着いた話しぶりであったが、落語として演じるには不向きな噺ではないか。

 横浜FCはアウェーで町田ゼルビアと対戦して1-1で引き分け、7位に浮上した。

9月12日
 『Rosemaryとハーブの日記帳』というブログで、「ローリー・グリーク・フェスティバル」という催しに参加して、ギリシアの歌と踊り、料理を楽しんだという記事を読む。インゲンとピラフがサイドに添えられているのは、トルコ料理と同じだそうだ。横浜の中華街にあるギリシア料理店でコーヒーを飲んだことがあるが、ギリシア・コーヒーとトルコ・コーヒーも基本的には同じもののようである。

9月13日
 NHK「ラジオ英会話」に出てきた言い回し:
That's easier said than done. (それは口で言うほどやさしくはない。) That'sをつけない方が一般的であるようだ。『リーダーズ英和中辞典』では”say"の項にEasier said than done. (諺、口で言うほどやさしくはない。言うは易く行うは難し)、『ロングマン英和辞典』では”easy"の項にThat's easy for you to say. (他人がいうのは簡単だ)と記されている。

 同じく「まいにちイタリア語」ではサッカー観戦の際に使われるような表現を取り上げていた。
Come posso arrivare allo stadio? (スタジアムにはどうやって行けばいいですか?)
La Roma gioca in casa? (ローマはホームで試合をしますか?)
などなど。サッカーのチーム名(略称)についてみると、ローマはla Romaと女性だが、ミラノはil Milanと男性である。メインスタンドのことはtribunaというそうで、結構覚えるのが大変である。

9月14日
 『朝日』の朝刊に「城内の学校改築どうする」という記事が出ていた。江戸時代(以前)に建築された城の中にある学校を改築する際に、史跡を保存するために学校を移転させるのがよいのか、それともすでに一定の歴史を築いてきた学校の改築を優先すべきか。難しい問題である。それでも、一部とはいえ、城が残っているのは幸運なことで、戊辰戦争で徹底的に破壊された城もあることも忘れてはならない。

 NHKラジオ「実践ビジネス英語」の”Word Watch"のコーナーで取り上げられた表現:
Kindness is it own reward. (親切な行為はそれ自体が報酬である。)
Virtue is its own reward. (徳はそれ自体が報いである。善行の報いはその中にある)ということわざもある。前項に対する見返りを期待すべきではないということだそうである。世の中には誰の目から見ても善行だと思えることもあるし、有難迷惑の親切の押しつけもある。今日は銀行のATMでひと騒ぎを起こし、近くにいた中年の女性からどうしましたと質問されたが、別にオレオレ詐欺の被害にあいそうになったわけではありません。でも、心配してくれた親切には感謝しておこう。

 同じく”Quote...Unquote"に出てきた表現:
Acquaintance. A person whom we know well enough to borrow from, but not well enough to lend to.
               (from The Devil's Dictionary)
-- Ambrose Bierce
(U. S. journalist, short story writer and satirist, 1842 - c.1914)
(知り合いとは、お金を借りるくらいよく知っているが、貸すほどにはよく知らない人のこと。)
 ビアスの『悪魔の辞典』の中に出てくる言葉である。そういえば、昔の知り合いが、ビアスの短編小説「アウル・クリーク橋の一事件』を映画化した、ロベール・アンリコの短編映画『ふくろうの河』(1962)の映写技師をしていて、映写しながら、怖くて怖くて仕方なかったと話していたのを思い出す。この映画を見たことがないのは私にとって幸福であろうか、不幸であろうか。

9月15日
 「実践ビジネス英語」の”Quote...Unquote”のコーナーで紹介された言葉:
True friendship is like sound health; the value of it is seldom known until it be lost.
              (from Lacon; Or, Many Things in Few Words)
---- Charles Caleb Colton
(English cleric, writer and art collector, 1780 - 1832)
(真の友情は、正常な健康状態に似ている。その価値は、失ってはじめてわかることが多い。)
 大学卒業前後によく会って話をしていたのだが、郷里に帰るといって別れたきり、音信が絶えてしまった友人がいる。悩みが多かったころの付き合いであったので、彼のことをよく思い出す。
 

ジェイン・オースティン『マンスフィールド・パーク』(2)

9月14日(水)雨が降ったりやんだり

 これまでのあらすじ
 親が愚かな結婚をしたため、貧乏人の子沢山の家庭で育ったファニー・プライスは10歳の時に義理の伯父である准男爵サー・ジョン・バートラムに引き取られ、その屋敷であるマンスフィールド・パークで生活することになる。体が弱く内気なファニーは、伯母である准男爵夫人の世話係をしながら、もう1人の伯母(3人姉妹の長女)で指図好きでえこひいきの強いノリス夫人の意地悪と、いとこたちのからかいに会いながらも、次第に元気を取り戻し、美しく成長していく。唯一の味方は従兄(バートラム家の次男)のエドマンドで、賢明で心優しい彼は、ファニーの境遇に同情しながら、彼女をかばい、その成長に手を貸す。

 長男のトムの不始末もあって、傾いてきた家計を立て直そうと、サー・トーマスは自分のサトウキビ園のあるアンティグアにトムを連れて旅立つ。バートラム家の長女であるマライアは年収が1万2千ポンドという大地主であるラッシュワースに見初められ、結婚話が急速に進んでいる。
 マンスフィールド・パークは静かな田園地帯にあるが、そこにロンドンの悪に染まったヘンリーとメアリーというクロフォード兄妹が現れる。エドモンドは牧師になろうとしている真面目な青年であるが、機知溢れる個性的な美人メアリー・クロフォードの魅力に幻惑される。マライアと次女のジュリアは、(マライアにはすでに婚約者がいるのに)ロンドン仕込みのプレイボーイであるヘンリー・クロフォードの取り合いを始める。アンティグアから一足早く帰ってきたトムは、で歩いてばかりで弟妹たちの恋愛模様には無関心である。クロフォード兄妹の異父姉であるグラント夫人はヘンリーとジュリア、メアリーとトムを結び付けようとしていたのだが、どうも事態は別の方向に動きそうである。
 バートラム家の兄妹たち(トムを除く)とファニー、クロフォード兄妹がノリス夫人に付き添われて、ラッシュワースの屋敷であるサザトン・コートを訪問した時、邸内を案内され、礼拝堂に入ったときに、メアリーはエドマンドが牧師になろうとしていることを知り、喜ばない。牧師(教会)の社会的な影響力は低下していると考えるメアリーは、エドマンドが他の職業、例えば弁護士(イングランドにはバリスター=法廷弁護士とソリシター=事務弁護士の2種類の弁護士があるが、バリスターの方)になることを勧めたりする(この時代、紳士の階層に属する人々が選べる職業といえば、牧師とバリスターのほかは陸・海軍の軍人くらいのものであった)。

第12章
 9月の鳥撃ちのシーズンに入り、ヘンリーは自分の屋敷に戻り、トムがマンスフィールド・パークに戻ってくる。メアリーはトムとエドマンドを比べてエドマンドの方が魅力的だと思う。マライアとジュリアはヘンリーがいなくなったのを寂しがり、どちらも自分の方が彼から愛されていると思い込んでいた。そしてヘンリーが戻ってきた。トムの友人のイェーツがマンスフィールド・パークを訪問したことから、5組のカップルが組めそうだということになり、急きょ舞踏会が開催される。ファニーにとっては最初の舞踏会である。何度か踊って、踊っているのが若者たちだけになり、相手がいないので取り残されたファニーが、相手となるはずのトムを待っていると、ノリス夫人とラッシュワース夫人の会話が聞こえてきた。マライアとラッシュワース、ジュリアとヘンリー・クロフォードがほとんど一塊になって踊るさまを見て、この2組が理想的な夫婦になるだろうなどとうわさ話に余念がない。トムが戻ってきて、年長者のカード・ゲームの相手をしたくないことからファニーと踊りはじめる。(この場面で、エドマンドとメアリーが踊っていることに注目して、マライア、ジュリアのカップルと同じように、恋人同士のようだというのはトムである。人々はトムとメアリーを結び付けたがっているが、トムの方はあまり関心がなくて、事態を客観的に見ているのである。一方、ひそかにエドマンドを慕っているファニーは、それどころではないはずである。この場面で、イェーツがファニーではなく、グラント夫人に相手を申し込んでいるのはどうも不思議であるが、あるいは友人であるトムが踊るものと思って遠慮したのであろうか。物語の後の展開で、彼はジュリアを追い求め始める。)

第13章
 トムの新しい友人であるジョン・イェーツ閣下は、金遣いが荒く、貴族の次男で、相当の独立財産を持っていること以外は、ほとんど何もとりえのない人物であった。彼は別の友人の屋敷で行われる素人芝居のパーティーに参加するつもりだったのが、その屋敷で不幸があったため、取りやめになって、そのままマンスフィールド・パークに姿を現したのである。そして、ここでも若い人々が芝居に興味をもっていることを知り、中止になった計画について残念そうに話していると、トムがここで芝居を上演すればいいと提案する。マライア、ジュリア、ヘンリーの3人は賛成するが、サー・トーマスの留守中に勝手なことをすべきではないとエドマンドは反対するが、押し切られる。そして、上演にふさわしく、屋敷を改造する計画が進められる。ノリス夫人は準備の作業を指図できること、その作業の中で多少とも自分の懐を豊かにすることができるため、計画に賛成する。

第14章
 上演するのは悲劇がよいか、喜劇がよいか、何を選ぶかということで議論は難航したが、イェーツが別の友人たちと上演しようとしていた『恋人たちの誓い』を取り上げることにした。題目は決まったが、今度は配役をめぐっていさかいが起きる。ジュリアは配役が不満で、話し合いの席から飛び出していく。ファニーは上演しようとする芝居も、登場人物も道徳的なものとは言えないので、取りやめになることを望む。(「訳者あとがき」によると、オースティンはこの芝居を見ているようであり、ファニーの気持がどの程度作者の感想を反映しているかは興味ある問題である。)

第15章
 エドモンドはファニーの勧めもあり、彼らが上演しようとしている劇がその社会的身分にふさわしい内容ではないし、道徳的でもないと中止させようとするが、ノリス夫人はこれまでの準備にかけた金が無駄になる(実は彼女は1選も自分の金は使っていない)といって、続行を主張する。ファニーにまで出演を求めたり、屋敷の人々が知らない人間にまで声をかけたりして、上演計画は膨らんでゆく。

 この小説は第48章まであるので、もう少しペースを速めて紹介していきたいと思うのだが、なかなか思い通りにならない。オースティンの代表作『高慢と偏見』が一種のシンデレラ物語であると書いた英文学者がいたが、この『マンスフィールド・パーク』も地主の大きな屋敷に引き取られた少女が、いじめやからかいを受けながら、成長するという話で、これでハッピー・エンドになれば、やはりこれまたシンデレラ物語の一種ということになる。さて、どうなるか・・・。 

ジェイン・オースティン『マンスフィールド・パーク』

9月13日(火)雨

 ジェイン・オースティン『マンスフィールド・パーク』(中野康司訳、ちくま文庫)を読み終える。ジェイン・オースティン(Jane Austen, 1775-1817)はその生涯を通じて6冊の長編小説を書いた:
 『分別と多感』(Sense and Sensibility, 1811)
 『高慢と偏見』(Pride and Prejudice, 1813)
 『マンスフィールド・パーク』(Mansfield Park, 1814)
 『エマ』(Emma, 1816)
 『ノーサンガー・アビー』(Northanger Abbey, 1817)
 『説得』(Persuation, 1818)
『マンスフィールド・パーク』を読んだことで、その6冊全部を読んだことになる。翻訳者である中野さんは個人でこの6冊を翻訳するという仕事を10年間でやり遂げたのだが、最初に翻訳したのが『高慢と偏見』で、最後になったのがこの『マンスフィールド・パーク』であったとあとがきに記されている。私が一番最初に読んだのが、『高慢と偏見』で、『マンスフィールド・パーク』を読むのが一番最後になったから、その点は一致している。たしかに、オースティンの作品を読むのであれば、『高慢と偏見』から始めるのが、最も適切であり、『分別と多感』、『エマ』あるいは『説得』を読んで、オースティンの作品に愛着を感じるようになったら、残る2作品を読むというのがいいような気がする。

 オースティンの6編の小説はすべて、地方(それもイングランドの南部か中部)の田園地帯の地主か牧師の家庭の娘の結婚話が題材となっており、その相手も地主か牧師か軍人であり(オースティンは牧師の娘であり、彼女の兄弟たちも牧師や軍人になった)、田園生活の日常が皮肉とユーモアを交えながら描かれ、ゆったりとした調子で物語が進行していくかと思うと、突如急展開したりする。しかも、それぞれの作品のヒロインたちの性格が見事に描き分けられているということに示されるような人間観察の見事さが特徴的である。 結婚話と書いたが、それに財産の相続の問題が絡むことが多いことも彼女の小説の性格を考えるうえで重要なことではないかと思っている。

 「訳者あとがき」によると「オースティンの小説はあらすじだけ聞くとあまり面白くなさそうなのに、読みだすと面白くて途中でやめられないとよく言われる」(735ページ)そうであるが、私もこの本を読みながら、物語が進めば進むほど先が知りたくなって、とうとう午前3時ごろまで読み耽ったりして、ブログ更新のペースを狂わせたりした。とにかく、長い小説なので、あらすじをまとめていくことから始めたい(あ、すでにオースティンの小説を読みたいと思われている方は、私の以下の文章は読まずに、本屋に行って、オースティンの本を探して、読み始めてください)。

 ケンブリッジシャーのウォード家には美人の3人姉妹がいたが、そのうちの次女マライアがノーサンプトンシャーのマンスフィールド・パークという邸宅の当主である准男爵サー・トマス・バートラムと結婚するという玉の輿に乗る。彼女の姉は、サー・トマスの友人である貧乏な牧師と結婚したが、サー・トマスの援助もあり、幸福な結婚生活を送ることができた。ところが三女のフランシスは教育も財産もなく、ろくな親戚もいないプライス海軍中尉と結婚し、姉2人とは絶縁してしまう。しかし、子だくさんで収入が少ないという家庭の状態に困り果て、姉たちに援助を乞う。サー・トマスはノリス夫人の助言もあって、プライス家から女の子を1人引き取って養育することを決心する。そうしてプライス家の長女である10歳のフランシス(ファニー)がバートラム家に引き取られる。このファニーが物語の主人公である。

 ファニーは病弱なうえに内気で、新しい環境になじむことができない。伯母は穏やかな性格の持ち主だが、ものぐさで子どもたちには無関心である。伯父は(実は優しい心の持ち主であることが分かるが)いかめしい態度を持つ厳格な家長で、子どもの教育に熱心だが、実は見落としている部分がある。バートラム家には長男のトム、次男のエドマンド、長女のマライア、次女のジュリアの4人の子どもがいたが、その中でエドマンドがファニーの境遇に同情し、彼女のためにいろいろと配慮したことで、彼女も次第にこの家になじむようになる。

 そして年月が経って、ファニーはだんだん元気になり、美しく成長していった。バートラム家の兄妹たちの中で、トムはのんきな性格で金遣いが荒く、父親にとって心配の種であったが、エドマンドはオックスフォード大学に進学し、牧師を目指し、マライアとジュリアは美貌に加えて才芸を身に着けた魅力的な女性になっていた。

 ファニーが15歳の時に、伯母の夫であるノリス牧師がなくなった。ノリス牧師はマンスフィールド教区の牧師であり、この教区の聖職禄は地主であるバートラム家が持っていたのだが、トムの浪費癖のために借金が増えて、聖職禄を他人に売却せざるを得なくなる。バートラム家は別にもう1つの聖職禄を持っていたから、エドマンドはその教区の牧師になればよいのだが、彼の収入は減ることになる。サー・トマスはこのことでトムに訓戒を与えるが、トムが気に留めた様子はない。

 ノリス牧師に代わって新たな教区牧師として45歳のグラント博士が15歳若い妻とともに到着した。夫婦ともに友好的・社交的な人柄で教区民たちから歓迎されたが、博士には食道楽という欠点があった。
 それから1年もたたないうちにサー・トマスがバートラム家の財政を立て直すためにアンティグア島に所有するサトウキビ園に自ら赴くことに決め、悪友たちと切り離すためにトムも同行させることにした。
 留守中、バートラム家ではエドマンドが父親の代わりを立派に務め、マライアとジュリアは社交界で活躍する。ものぐさなバートラム夫人に代わって、ノリス夫人が2人の付き添い役を務め、家にとどまっているバートラム夫人の相手はファニーが務めるようになった。父親よりも早く、アンティグアからトムが帰国する。

 バートラム家の姪たちを偏愛する世話好きなノリス夫人はこの地方で一番の大地主であるが、それ以外にはあまりとりえのないラッシュワースがマライアを見初めたことに気付き、2人の結婚のために奔走する。
 ファニーが18歳になって間もなく、村の社交界に2人の新顔が登場する。グラント夫人の異父弟妹であるヘンリー・クロフォードとメアリー・クロフォードである。グラント夫人はヘンリーをジュリアと、メアリーをトムと結婚させようと考えている。ヘンリーは美男子ではないが魅力的な人物で、なかなかのプレイボーイであるらしい。メアリーは才気に富んだ美人である。
 バートラム家の4人兄弟と、クロフォード兄弟はすぐに親しくなる。ただ、メアリーにとって、兄妹とともに、バートラム家で生活しているファニーが気にかかる存在らしい。
 トムが邸を離れた後、ラッシュワースがマンスフィールド・パークで開かれたディナー・パーティーに出席し、みんなでラッシュワースの屋敷であるサザトン・コートを訪問することが決まる。メアリーがハープを演奏することを知ったエドマンド(とファニー)は彼女の演奏を聞きたがる。エドマンドはそれ以外のことでもメアリーに惹かれているようだが、彼女がときどき礼儀に外れるようなことを言うのが気に入らない様子である。

 サザトン・コートをノリス夫人、バートラム家の3人、ファニー、クロフォード兄妹が訪問する。マライアが婚約者であるラッシュワースをほったらかしにして、ヘンリーと散歩したり、エドマンドとメアリーが親しげに話し合ったり、この訪問中に垣間見られる彼らの人間関係は波乱含みである。(つづく)
 

ダンテ・アリギエリ『神曲 天国篇』(2‐1)

9月12日(月)うす曇り

おお諸君、小さな船に乗り込み、
聴きたさのあまり
わが船が歌いながら渡るその後をついて来た人々よ、

君らの岸辺をもう一度見るべく戻りたまえ。
洋々たる海に乗り出してはならぬ。君達は
おそらく私を見失い、途方に暮れるだろうから。
(32ページ) 第1歌で、ダンテはベアトリーチェとともに地上楽園から天空へと飛び立った。そして天上の世界を歴訪しようとする。第2歌は、まずこの篇(『天国篇』)の内容についてこられないような読者は、これ以上読むのをやめよという読者への厳しい言葉で始まっている。

神に形相を与えられた王国に対する、
本能にしてかつ永久に続く渇望が、私達を
諸君の見ている空と同じ速さで運んでいった。

ベアトリーチェは上を、私は彼女を見つめていた。
すると矢が的を射抜くのも弦受(つるうけ)から放たれるのも同時、
おそらくはそれと同じほどの短い間に、

驚くべきものが私の視線を引き付けたその場所に
到達したことを知った。
(34ページ) 2人は天空を驚くほどの速さで飛び、月に到着したのである。「諸君の見ている空」は、恒星天をさす。プトレマイオスの天動説では、土星の軌道のさらに外に恒星天があり、それは毎日、地球の周りをまわっている⇒その回転する速度が、人間の目にする事物の中で最も速いと考えられていた。(恒星が猛スピードで地球の周りをまわっているという考え方にはどこか無理があり、天動説の弱点の1つであった。)

まるで太陽が輝かせる金剛石のような、
光り輝く、厚い、固体の、滑らかな雲に
私達は覆われているかのように感じていた。

永遠に割れぬ真珠はその内部へと
私達を受け入れた、ちょうど水が二つに割れることなく
光線を受け入れるように。
(34‐35ページ)  ダンテ達は月が固体であるにもかかわらず内部に入った。月は神の光をもとに作られており、人間もまた神の似姿であるので、月も人間も本質としては同じものであると考えられていた。

 ダンテは「この天体の/暗い斑点は何でしょうか。それは下の地上で/カインにまつわるおとぎ話を人々に語らせていますが」(36ページ)とベアトリーチェに質問する。日本には月のウサギの伝説がある(これはもともと中国の伝説である)が、イタリアでは旧約の『創世記』に登場し、弟であるアベルを殺したカイン(アダムとエヴァの息子)が罰せられている姿だという伝説があったのである。

 この質問に対しベアトリーチェは、人間の理性は感覚を利用して事物を理解するにあたり、総合的な前提を知らない場合、思い違いを起こすことがあるといった後で、月の明暗についてダンテの考えをたずね、ダンテは月には粗密があるためであるという自分の考えを述べる。これに対し、ベアトリーチェは反論を展開する。

第八天空はあなたたちに多数の星の光を
見せています。それらには
質においても大きさにおいても多様な姿が見分けられます。
(38ページ) 第八天空(=恒星天)に属する星は、明るさやその光の色など多様である。地上の様々な出来事は星の影響を受けている(だから占星術が行なわれる)。その地上の出来事はきわめて多様であり、それは星が多様であることの反映である。宇宙の原理は粗密という1つの原理だけでは説明できないのだという。

 ダンテがまじめに信じていたように、星占いを信じるわけにはいかないし、それ以上に宇宙の星の動きと、我々の社会生活とがそう簡単に結びつくものだとは思われないが、宇宙と社会の多様性についてのダンテの議論には、その歴史的な制約を考慮しながらも、傾聴すべきものがある。

ジュール・ヴェルヌ『インド王妃の遺産』

9月11日(日)雨が降ったりやんだり

 北朝鮮によるミサイルの発射や核実験のニュースを聞いて、ヴェルヌの『インド王妃の遺産』という小説を思い出した。ヴェルヌが1879年に発表した作品で、原題はLes cinq cents millions de la bégum(インド王妃の5億)である。日本では1968年に集英社から『ヴェルヌ全集』12巻として、中村真一郎による翻訳が刊行され、その後、1993年に集英社文庫に収められた。

 フランス人の医師であり、衛生問題の専門家であるサラザン博士は、英国のブライトンで開かれている国際学会に参加していた際に、シャープという事務弁護士の訪問を受ける。彼の祖母の兄が、インドで軍人として功績を挙げ、藩王の未亡人と結婚し、その莫大な遺産の用益権者となったが、すでに死亡、二人の間の子どもも死亡したので、サラザン博士はただ1人の相続人として5億フランを超える遺産を手にすることになったという。
 ところが、サラザン博士の祖母には姉がいて、その孫と称するシュルツ教授というドイツの大学教授も遺産相続の権利があると主張してくる。結局、サラザン博士とシュルツ教授は5億フランを2人で平等に分けて、2億5千万フランずつを受け取ることにする。サラザン博士は米国の西海岸に民族のあらゆる特性を伸長させ、強健で勇敢な若い世代を育成するのにふさわしい環境を整えた理想の都市を建設するという構想を発表していたが、シュルツ教授も負けずに、その近くに自分の理想を実現し、ゲルマン民族の優秀さを証明するような都市を建設することを計画する。
 サラザン博士にはオクターヴというあまりできのない息子がいて、それでも何とか中央工芸学校(実在するグラン・ゼコール)に入学し、技師への道を歩み始めている。彼にはマルセルという友人がいて、努力家で優秀な人物であり、サラザン博士の家庭にも出入りするようになり、サラザン博士の理想都市建設を手伝うことを約束する。

 それから4年、オレゴン州の砂漠の中に作られたシュルツ教授のシュタールシュタット、つまり鋼鉄都市は、シュルツ教授の所有する鉄の鉱山と炭鉱、製鉄、とりわけ新旧両大陸で最大の大砲製造工場から成り立っていた。シュルツ教授のもとで作られる大砲はその優秀性と、その一方ですぐにダメになることで知られていた。こうして彼は世界のあらゆる国に自分の大砲を売り付け、荒稼ぎを続けていたのである。
 他方、同じくオレゴン州に建設されたサラザン博士のフランス市は都市計画の行き届いた、衛生的で、教育施設の整った都市として発展し、すでにその人口は10万人に達していた。産業は自由であり、すべての指示がシュルツ教授によって与えられているシュタールシュタットとは対照的であった。(何が主要な産業であるのかは記されていない。)

 2つの都市がまだ計画中であった時から、シュルツ教授はフランス市の計画に対して敵対的であり、その不気味な敵意の真相を探るべく、マルセルがシュタールシュタットに変名を使って潜入していた。
 ある日、フランス市の首脳陣が晩餐会の席に集まっているときに届いたニューヨーク・ヘラルド紙(1835年から1924年まで発行されていた実在の新聞。その後、ニューヨーク・トリビューン紙と合併して、ニューヨーク・ヘラルド・トリビューン紙になる。スタンリーのアフリカ探検を後援して、1871年にスタンリーとリヴィングストーンの会見を実現させたことで知られる。なお、ニューヨーク・トリビューンの方はマルクスがヨーロッパ通信員をしていたことで知られる)に、シュタールシュタットがフランス市を攻撃する計画を具体化していると警告する記事が出ていた。フランス市の人々が慌てて、対策を講じようとしているところに、マルセルが現れた…。

 集英社文庫版の解説で三木卓が書いているように、「この作品の百年前のフランスの対ドイツ民族感情のリアリティは、正直言って気味が悪いほどである」(236ページ)。ヨーロッパ統合が推進されて、このような敵対感情は過去のものになりつつあるように思っていたが、事態はそれほど単純ではないということを最近のヨーロッパ情勢は示している。さらに言えば、この小説には当時の米国西海岸で問題になっていた中国人苦力(クーリー)のことが触れられていて、100年以上の年月が過ぎて、あらわれ方は変わっても、やはり外国人労働者の問題は解決されずに残っていることを考えさせられる。そして、ここではドイツとフランスの対立として描かれているものを、北朝鮮とその近隣の国々という風に読み替えることも可能なのである。

 実在する機関や新聞の名前を登場させながら、作者は物語に現実性を持たせようとしているのだが、まったくの作り話である。この作品には、ヴェルヌの他の作品にもみられる特徴――ロビンソン的な要素と結びついたユートピア志向がかなり前面に出てきている。どこか、新しい未知の場所に移り住んで、そこで新しい理想の社会を作ろうというのである。この作品では、そういう夢とともに、(シュルツ教授のシュタールシュタットも一種のユートピアであるとすれば)危険性も洞察されているように思われる。ヴェルヌの晩年の作品が見せる暗さがすでに表れ始めているとも受け取れる。ある人にとって理想であることが、ほかの人々にとっては悪夢であるということもありうるのである。そしてヴェルヌがどのように社会を理解し、理想を描いていたかも興味ある問題ではあるが、それ以上に、ヴェルヌの夢を手掛かりとして、それをどのように解釈し、自分たちの理想を描いていくかという現代の人間に課せられた課題の方がより重要なのではなかろうか。

 夢想するだけでは事態は解決しないのであるが、それでも、この文章を読んで多少の興味をもった方は、『インド王妃の遺産』を最後まで読んで、シュタールシュタットとフランス市の対立がどんな結末を迎えるのかを見届けてください。

 なお、中村真一郎の翻訳ではシュルツ教授の建設する都市の名が「シュタールシュタート」 と表記されているのだが、私のドイツ語の知識では「シュタット」とする方が適切に思われるので、そのように表記している。念のため。

宗教改革を自分に引き付けて考える

9月10日(土)晴れ

 中学・高校の6年間、カトリックの学校に通った。その6年間のうちにカトリックの信者になった同期生はかなりの数に及ぶ。それからもともとカトリックの信者だったというのが少数いた。入学した時から卒業するまで信者にならずじまいというのも少なかったはずである(私はその1人)。ごく少数だが、プロテスタントの信者というのがいた。その1人が、卒業後だいぶたってから会ったときに、宗教の時間で自分が述べた意見は、キリスト教の外部からではなく、内部からの批判なので、先生方が答えるのに苦労されたようだと、多少面白そうに話していた。

 一般的に言って、同じキリスト教信者でもカトリックとプロテスタントでは、あまり交流しないようである。だから、カトリックの学校にプロテスタントの生徒が入学したというのは、お互いにとって自分の意見を確認し、相手の意見を聞いて話し合う、よい機会となったのではないかと思う。
 あまり交流しないというのは、日本だけのことではないようである。家人は私と違ってカトリックの学校を卒業して、だいぶたってから信者になったのであるが、イングランドのある地方都市で、国教会の大聖堂(アガサ・クリスティーの小説に出てきたことがある)の前に、SPCK(Society for Promoting Christian Knowledge, キリスト教知識振興協会)のショップがあったので、そこで、カトリックの教会がどこにあるのか尋ねたところ、知らないといわれた。結局、私が地図で探して、連れて行ったのだが、キリスト教関係の図書やグッズを売っている店の従業員でも自分の宗派(イングランド国教会)以外の教会はどこにあるのか知らないのである。

 以前、このブログで紹介したことがあるHendrik Willem Van Loon, The Story of Mankindの”Reformation"の章に、こんな記述がある。昔、この本の翻訳が岩波の少年文庫に入っていた時に、読んだ時から、ずっと記憶に残っていた箇所で、今でも時々読み返している。
  Take my own case as an example. I grew up in the very Protestant centre of a very Protestant country. I never saw any Catholics until I was about twelve years old. Then I felt very uncomfortable when I met them. I was a little bit afraid. I knew the story of the many thousand people who had been burned and hanged and quartered by the Spanish Inquisition when the Duke of Alba tried to cure the Dutch people of their Lutheran and Calvinistic heresies. All tha was very real to me. It seemed to have happened only the day before. It might occur again. There might be another Saint Bartholomew's night, and  poor little me would be slaughtered in my nightie and my body would be thrown out of the window, as had happened to the noble Admiral de Coligny.
 (私自身の場合を例として取り上げよう。私はプロテスタントが極めて有力な国のそのまたプロテスタントの中心部で成長した。私は12歳ぐらいになるまでカトリックの人々とあったことがなかった。それで、私は彼らと会った時にとても居心地の悪い思いを感じた。私は少し怖かったのである。私はアルバ公がオランダの人々がルター派やカルヴァン派の異端であることをやめさせようとしたときに、スペインの異端審問によって火焙りにされたり、首をくくられたり、四つ裂きにされたりした何千人もの人々の物語を知っていた。そのすべてが私にとってとても現実的なものであった。それはつい前日に起きたことのように思われた。それはまた起きるかもしれなかった。もう一度聖バルトロメオの夜の(虐殺)が起きて、哀れな子どもの私は寝巻のまま虐殺され、私の死体は窓から投げ捨てられるかもしれないと思ったのである。あの高貴なコリニー提督の身に起きたように。) ルーンはオランダのロッテルダムの出身であり、この本の冒頭にあるロッテルダムの教会の塔に昇った経験のように、学校教育を通じてというよりも、塔の番人やその他自分の周辺にいる歴史に詳しい人々との交流を通じて、オランダの独立とその背景としての宗教改革の歴史を学び取ったのである。

 Much later I went to live for a number of years ina Catholic country. I found the people much plesanter and much more tolerant and quite as intelligent as my former countrymen. To my great surprise, I began to discover there was a Catholic side to the Reformation, quite as much as a Protestant.
(ずっと後になって、私は長い間、あるカトリックの国で暮らすことになった。私はその国の人々がはるかに楽しげで、はるかに寛容で、そして私のもとの国の人々と同じくらいに頭がいいことを発見した。大変驚いたことに、私はプロテスタントの場合とまったく同様に、宗教改革についてのカトリック側の見方というものがあることを発見し始めたのである。)

 Of course the good people of the sixteenth and seventeenth centuries, who actually lived through the Reformation, did not see things that way. They were always right and their enemy was always wrong. It was a question of hang or be hanged, and both sides preferred to do the hanging. Which was no more than human and for which they deserve no blame.
(もちろん、実際に宗教改革の中を生きていた16世紀と17世紀の善良な人々は、物事をそんな風には見なかった。彼らは常に正しく、かれらの敵は常に間違っていた。それは相手を絞首刑にするか、自分が絞首刑にされるかの問題であった。そして、どちらの側も相手を絞首刑にする方が好きだった。どちらが人間的かとか、それが当然のことであるのかというようなことは問題にならなかった。)

 ルーンは歴史の流れが、大きな振り子のように、前進と後退を繰り返していると、この前の方で述べているのだが、欧米の人々が問題にしている紛争の焦点がキリスト教の中のカトリックとプロテスタントの対立から、キリスト教(あるいは、のようなもの)と、イスラム教(あるいは、のようなもの)の対立に移っているということは言えるかもしれない。最近出版された祝田秀全『銀の世界史』(ちくま新書)には、江戸時代の初めごろの東アジアの情勢をめぐり、明はカトリックを受け入れて、スペイン、ポルトガルとの結びつきを強めようとしたのに対し、徳川家康はプロテスタントのイングランド、オランダとの貿易を推進しようとしたというようなことが書かれている。宗教改革は、ヨーロッパだけの出来事ではなく、グローバルな影響力を持っていた――日本にもその影響が及んだというのである。同じようなことは、現代にも言えそうだが、相互理解の努力なしに、自分たちは正しく、敵は常に間違っていると決めつける――思うだけならまだしも、行動に移す――ことが多くなってくると、振り子の揺れどころの話ではなくなってくるかもしれない。

『太平記』(123)

9月9日(金)晴れ

 中先代の乱を平定して鎌倉に入った足利尊氏は、配下の武士たちから将軍と呼ばれた。また関東管領として新田一族の所領を彼らに分け与えたことで、尊氏と義貞の仲は険悪になった。建武2年(1335年)10月、鎌倉の尊氏のもとから、義貞を誅罰すべしとの奏状が朝廷に届けられた。それを知った義貞も、尊氏追討の奏状を上奏した。公卿僉義が行なわれたが、護良親王殺害の一件が朝廷の知るところとなり、また尊氏が諸国に発した将軍御教書が進覧されたことで、後醍醐天皇は尊氏討伐を決意された。

 「11月19日、新田左兵衛督義貞朝臣、朝敵追罰の宣旨を下し給はつて、その勢3,000余騎にて、参内せらる。馬、物具、事柄、まことに爽やかに勢ひあつて出で立たれたり。」(第2分冊、358ページ、建武2年=1335年、11月19日に、新田義貞は、朝敵追罰の宣旨を下し給わって、3,000余騎の軍勢を引き連れて、参内した。馬、鎧兜などの武具、風采、まことに爽やかに勢いがある様子で出かけたのである。)『新潮日本古典集成』版(2)では、11月8日のこととして記し、『元弘日記裏書』によると11月19日であるという頭注がついている。

 「内弁、外弁の公卿、近衛の階下に陣を引き、中儀の節会を行われて、節刀を下さる。」(同上、内弁は公事を奉行する公卿の首席。外弁は次席以下の公卿。宮中の紫宸殿の南階下の左右近衛の陣に、公卿が列座した。中儀というのは大儀に次ぐ朝廷の儀式で、6位以上の官人が列席する。節会は、天皇が臨席される宴。節刀というのは出征する将軍に官軍のしるしとして給う刀のことである。(なお、新潮社版の頭注によると、将軍に節刀を給わるというのは、中儀ではなくて、小儀であるはずだという説があるそうである。)
 治承4年(1180年)に東国で挙兵した源頼朝の追罰のために、平維盛が代将軍として下向する際には、しるしの鈴だけを給わって戦場に向かい、富士川で敗れた故事があって、不吉だというので、今度は承平天慶の乱(935-941)で平将門追討に向かう征討将軍藤原忠文が節刀を給わった故事に倣ったものである。義貞は、節刀を給わって、二条河原に兵を進め、まず尊氏の宿所である二条高倉に執事である船田入道を差し向けて、鬨の声を3度あげさせ、鏑矢を3矢射させて、中門の柱を切って落とした。これは嘉祥3年(1108年)に平清盛の祖父である正盛が、頼朝の曽祖父である源義親が反乱を起こしたのを追罰のために出羽国へ下ったときの先例に倣ったものだそうである。(実際には、出羽ではなく、出雲に出かけたはずである。) さまざまな儀式を行って、軍勢を送り出すのが宮廷政治らしいが、あまり先例にこだわっても仕方がないのではないか――と私は思う。

 その後、東国の管領に任じられた尊良親王が、300余騎で、二条河原へ進み出られて、内裏から下された官軍の錦の御旗を、蝉本(旗竿の先端)を白くした旗竿に付けて、さっと差し上げたところ、急に風が激しく吹いて、金銀で打って付けた月日の御紋が、切れて地に落ちたのが不思議な出来事であった。これを見ていた人々は、皆呆然として、今度の合戦の前途ははかばかしくあるまいと、不吉に思わぬ者はいなかった。

 同じ日の正午ごろに、対象である新田義貞が都を出発した。元弘3年にこの人は鎌倉幕府を滅ぼして、その功績は他の武士たちに勝るものであったが、尊氏が天皇の側近くにいたため、それほどの恩賞は与えられなかったが、義貞の陰徳(目立たない徳行)がついに表に出て、今や天下平定の大将の人につかれたので、新田一族も、それに従う他家や他の一門も、今は妬み恨む心を失って、彼の配下に参集しないという武士はいない様子である。

 まず新田一門では、義貞の弟である脇屋義助、その子義治、新田一族の堀口貞満、綿打刑部少輔、里見伊賀守、里見大膳亮、鳥山修理亮、鳥山右京亮、細屋右馬助、大井田式部大輔、大島讃岐守、籠守沢入道、額田掃部助、世良田兵庫助、金谷治部少輔経氏、羽川備中守、一井兵部大輔、足利一族の桃井遠江守、岩松民部大夫、山田郡堤(桐生市)の武士である堤宮内卿律師、これらを主だった一族として、源氏一族が37人、その軍勢を合わせて7600余騎、大将の前後を囲む。
 新田一門の他では、千葉介貞胤、宇都宮一族の総領である治部大輔公綱、大友左近証言、菊地肥後守武重、大内新介、佐々木塩冶判官高貞、熱田大宮司晶能、武田甲斐守、小笠原信濃守などを主だった武将として、諸国の大名323人、率いる軍勢を合わせると6万7千余騎、前陣が既に尾張の熱田に到着した時に、後陣はまだ京都市山科区四宮を流れる四宮川の河原を渡っていた。

 以上の主力が東海道、つまり鈴鹿山脈の南側の道を東へと向かったのに対し、搦め手の東山道を行く軍勢は、順徳天皇の曽孫である大智院宮忠房親王をはじめとする皇族・公卿に、鎌倉攻めの際に活躍した新田一族の江田修理亮行義、大館左京大夫氏義、その他の武士たちが6,000余騎の兵を率いて鎌倉へと向かい、信濃の国からは、同国の国司堀川中納言が3,000余騎を率いて加わったので、その軍勢は1万騎を越えた。

 足利尊氏・直義兄弟を討伐するために派遣された軍勢は大軍ではあるが、この後の物語の展開を見ているとわかるように、戦局の有利・不利を見るために積極的に戦闘に加わらなかったり、寝返ったりするものが出るため、前途予断を許さないというのが本当のところであろう。錦の旗が地に落ちるという事件が記されているのは、このことを暗示するものであろう。朝廷方が儀式の形式を整えたり、先例にこだわったりしているのも、なんとなく頼りない。

日記抄(9月2日~8日)

9月8日(木)曇り、昼過ぎから雨が降り出したかと思ったら、降りやんで青空がのぞく。変わりやすい空模様が続く。

 9月2日から本日までの間に経験したこと、考えたこと、その他:
9月2日
 『朝日』朝刊で鷲田清一さんが担当している「折々の言葉」というコラムで、吉本隆明の「『なんのために』人間は生きるかという問い…を拒否することが<生きる>ということの現実性だというだけです」という言葉が引用されていた。哲学専攻ではない私が、「倫理・哲学」という科目を担当することになったときに、学校の校長が「生き方の基本的なことを教えればいいのです」というようなことを言ったのを記憶している。学校の授業というのは、意図的、計画的なものであり、人生のかなりの部分は偶然から出来上がっている。学校の授業を通して「生き方」を教えるというのは土台、無理な話である。

 NHKラジオ「実践ビジネス英語」の”Talk the Talk with Heather Howard"のコーナーで、ヘザーさんがいったこと:
I get a lot of enjoyment out of finding the right way to express things in the writing I do for work, for example. It's like a puzzle and I'm looking for the right piece. Some great expressions in English don't have an easy parallel in Japanese, and vice versa. I get a real feeling of accomplishment when I manage to find a smooth conversion. If we find that kind of fun in our jobs, whatever they are, going to work feels much less like an obligation.
(例えば、仕事で文章を書いている時に適切な表現方法を見つけることは、私の大きな喜びです。それはパズルと同じようなもので、正しいピースを探しているのです。英語の素晴らしい表現の中には、簡単な類似の日本語がないものがあり、その逆の場合もあります。しっくりくる表現に何とか置き換えられた時には、心からの達成感を覚えます。どんな仕事であっても、この種の楽しみを見出せば、仕事に行くことを義務のようにはあまり感じなくなります。)

9月3日
 横浜FCはアウェーでV・ファーレン長崎を2-1で破る。

9月4日
 NHKラジオ「攻略!英語リスニング」は”Octopus"(タコ)を話題として取り上げた。
The octopus, a mollusk, has the most complex brain of all invertebrates and is one of the most intelligent animals of land or sea.
(タコは、軟体動物で、無脊椎動物の中では脳が一番発達している。そして陸や海に住む動物の中でももっとも知能が高い部類に入る。) 自分の体の色を周囲の色と同じにカムフラージュすることができるが、この能力をほかのタコとのメッセージのやり取りや、敵かもしれない相手を威嚇するためにも使っている。タコの墨のことを英語ではinkという。日本語では墨とインクは区別しているが、英語ではしていないということのようである。タコは道具も使えるし、学習能力があるという証拠もあるという。
They have three hearts, a special kind of blood, and exceptional eysight.
(心臓は3つあり、特殊な血液が流れていて、とても目がいい。)
タコを見る機会があれば、よく見た方がいい。
The octopus might be the closest you get to seeing what an alien life form looks like.
(タコは宇宙人に一番近いのかもしれない。)
 昔はタコのような火星人がよく描かれたものだが、もっと遠くにタコのような宇宙人がいないとも限らないという話である。

 Eテレ「日本の話芸」は三遊亭小遊三師匠の「付き馬」。吉原の遊郭で遊んだ挙句金を払わない客についていった付き馬(金の取り立てについてくる店の従業員)が、逃げられた上に、特大の早桶を押し付けられる。馬が、馬を引っ張って帰るという話。こういう噺ができるほどに吉原の遊郭の取り立ては嫌がられたということであろうか(だったら、遊びに行かなければよいのである)。「居残り佐平治」と似ているが、こちらの方が客の振る舞いが陰湿に思える。好きな噺ではないが、小遊三師匠の話しぶりは、なかなか良かった。

9月5日
 『朝日』の朝刊は「今こそ 大野晋」という記事で、国語学者・大野の仕事を回顧している。彼が言葉の意味に徹底的にこだわったこと、最近の言葉遣いの中で語彙が限定されてきていることを憂慮していたことなどが取り上げられていたが、再評価すべき業績は他にもいろいろあるだろう。(大野の自伝の中に、有坂秀世にあったとき、大野が構想していた研究を有坂が否定したのでやめたという話が出てきたが、そのあたり、もっと掘り下げてみる必要があるかもしれない。)

 NHK「ラジオ英会話」に
I lost my balance on the escalator at the mall. (モールのエスカレーターでバランスを失った。)
という表現が出てきたが、年を取ってくると、そういうことがいつ起きても不思議ではなくなる。私もエスカレーターでバランスを失ったことがあったが、大事なかったのは幸いであった。

9月6日
 アジア諸国歴訪中の安倍首相が中国からラオスに到着。
 ラオスというと思い出すのは、キセルの火皿と吸い口とを接続する竹管を羅宇(らお、らうとも)といったことで、これはラオスから渡来した黒斑竹が主として使われていたことによるものである。今ではキセルを使わずに、紙巻きたばこを吸う、いや、タバコ自体を吸う人が少なくなってしまって、忘れられかけているが、むかしは羅宇屋といって街を歩きながら、キセルの羅宇のすげ替えを商売とする人がいた。

 紫檀楼古喜という狂歌の名人。もとは立派な旦那衆だったが、店を潰して裏長屋住まい。それでも狂歌はやめずに、まいにち市中を「羅宇屋ァ、きせる」と羅宇のすげ替えに歩いていた。ある冬の夕方、両国薬研堀の小奇麗な家ですげ替えを頼まれ仕事をしていると、そこの新造(若奥さん)と女中が自分のことを「汚い爺」といっているのを小耳にはさみ、
牛若の御子孫なるか御新造の吾をむさしと思ひ給ひて
と詠んで渡す。新造も狂歌の心得があったので、
弁慶と見しはひが目かすげ替への才槌もあり鋸もあり
と返歌をした。古喜もこの才知に感心して、さらに
弁慶にあらねど腕の万力は キセルの首を抜くばかりなり 紫檀楼
と返す。これを見た新造はびっくりして、恐縮して、この寒い中、風邪などひかないようにと綿入れの羽織を渡そうとする。「いや、御新造、その御心配には及びません。あたしはこの荷さえ背負っていれば、ほれ、羽織ゃ~着てる(羅宇屋ァ~きせる~)」
というのが落語の「紫檀楼古喜」。8代目の林家正蔵(彦六)と、三遊亭圓生が演じたが、私には、正蔵の演じたものの方が懐かしく思われる。

 「一口にいえば、紫檀楼古喜という人はたいへん苦労のない、やりたいだけのことをやって一生を終えた幸せな江戸人である。近世文芸や狂歌の研究家でも紫檀楼古喜という名を知っている人は少ない。しかし、その反面、落語ファンなら、「ああ、あの羅宇屋のおじさん」とすぐ思い出してくれることだろう。名前ばかりでなく、袖口や襟がピカピカ光った着物や飄々とした歩きぶり、少し皮肉な口の利き方まで目の辺りに思い浮かべてくれることだろう。古喜老人にとっては、江戸文学史に不朽の名を留めなくとも、庶民の思い出の中にいつまでも残っていた方がむしろ本懐に違いない。どんなに生活は貧しくとも名利にはそっぽを向いて、長年磨き上げた自分の生活を静かに守りつづけることが江戸市井の風流精神だからである。」(永井啓夫/矢野誠一『落語手帖』、131ページに引用)

9月7日
 NHKラジオ「エンジョイ・シンプル・イングリッシュ」は”Lazy, lazy family"という、無精者の親子の噺。自分の家が火事になっても、消火が面倒くさいといっているうちに焼け死んだ親子が、閻魔様の前に引き出されて、次は人間ではなく、動物に生まれ変わることになるが、どんな動物になりたいか希望があれば申し出ろと言われて、親子ともに口の近くに白い点のある黒猫になりたいという。ネズミが点をご飯粒と間違えて口の中に飛び込んでくるだろうというのである。この噺、明治時代の三遊亭円遊の速記本の中に出ていたはずだが、起源はもっと古いのであろう。ステテコ踊りで一世を風靡し、その一方で鼻が大きいので、鼻の円遊と言われた円遊であるが、彼の落語の中では生まれ変わったら象になると予言されている。

 横浜FCはアウェーでロアッソ熊本を1-0で破り、順位を8位に上げた。

9月8日
 NHKラジオ「実践ビジネス英語」は昨日から”Pay It Forward" (恩送り)というビニエットを放送している。
It's doing good deeds for others without asking for anything in return. Instead the recipient is asked to do a good turn for someone else in need.
(〔恩送りとは〕何の見返りも求めることなく、他の人のためによい行いをすることです。善意を受けた人は恩返しをする代わりに、困っている他の人のために良いことをするよう、求められます。)
登場人物の一人は言う。
But I want to do it in a way that doesn't draw attention to myself.
(でも、目立たないように行いたいのです。)
 これは、近世の東アジア世界に広がっていた「陰徳思想」と通じるものがあるような気がして、興味深かった。明治期の落語の速記本などを読んでいると、この時代までの日本人の道徳観はこの「陰徳思想」の影響を強く受けていたように思われるからである。

めし

9月7日(水)晴れたり曇ったり、(一時雨が降ったかもしれない)

 神保町シアターで「一周忌追悼企画 伝説の女優・原節子」特集上映の中から『めし』(1951、東宝、成瀬巳喜男監督)を見る。
 岡本初之輔(上原謙)と三千代(原節子)は周囲の反対を押し切って恋愛結婚をして5年、初之輔の転勤に伴って大阪に移り住んで3年、市の南、天神ノ森の横町の長屋で暮らしている。初之輔は証券会社に勤め、三千代は家事に専念しているが、東京育ちの三千代には慣れないことが多い。生活はあまり楽ではなく、近所に住む人々も雑多で付き合いにも気を遣う。おまけに空き巣が入ったりして結構物騒である。朝、出勤前に三千代は初之輔にいろいろと話しかけるのだが、初之輔は生返事を繰り返すばかりである。三千代は最近になって子猫を飼い始め、それで気を紛らせている。会社の中で自分で株を買っていないのは初之輔だけだが、それには理由があるらしい。その理由でも少しは話せば、いいと思うのだが、話したがらない。

 そこへ初之輔の姪の里子(島崎雪子)が結婚話に気乗りがせずに、家出をして大阪にやってきて、居候を始める。若く、奔放で、派手な感じの里子の存在で家庭内での波風がだんだん大きくなってくる。初之輔は里子を連れて大阪市内を遊覧することを提案して、切符を3枚買ってくる。三千代もあまり大阪を知らないから、この際、一緒に出掛けてみようという心遣いを見せるのだが、三千代の方は家事がたまっているから行かないという。(この後の物語の展開を見ていると、初之輔は東京に戻らずに、大阪で地位を築こうとしているのに対し、三千代は東京に戻りたいという気持ちが見て取れる。女学校出の彼女は、東京に戻りたいというだけでなく、働きたいという気持ちもあるようである。) この大阪見物の場面が、戦後の大阪の復興の様子をとらえていて、興味深い。

 東京の女学校を出た三千代であるが、大阪在住者が少数いて、その仲間での同窓会に出た三千代は、留守中に里子と初之輔がいたにもかかわらず、靴を盗まれたことを知り、そのだらしなさに怒る。初の輔は会社で前借をして、靴を買おうとする一方で、三千代にも家計の足しに金を分け、里子にも小遣いをやろうとするが、そういう金銭感覚を三千代は喜ばない。前借をした後で、会社の同僚に飲みに連れていかれ、儲け話に加わるように求められるが、家に帰って、飲んだ話はしても、儲け話の話をして相談しようとはしない…。
 二人の溝は次第次第に大きくなって、三千代は里子を連れて、東京(というけれども、実際は川崎らしい)の実家に戻る(里子は、彼女の父の家に戻る)。

 林芙美子が朝日新聞連載中に急死したために絶筆となった小説の映画化。川端康成が監修して、井手敏郎と田中澄江が脚本を書いている。原作を読んでいないので、どのあたりで芙美子の描いた物語が中断しているのかはわからない。川端、井手、田中のそれぞれの意見がどのように映画の展開に反映したのかは興味あるところだが、今となっては確かめる方法はない。なお、原節子はこの後、『山の音』(1954、東宝、成瀬監督)、『女であること』(1958、東京映画、川島雄三監督)と川端康成の原作作品に出演している。田中の夫君は劇作家の田中千禾夫であったから、夫婦間での微妙な意見のずれについては田中の意見が強く反映しているのかもしれない。映画の結末をめぐり、作者の意図したところとは違うのではないかと論争があるが、一応まとまった作品になっていることは否定できない。深刻な内容の話ではあるが、成瀬巳喜男の演出はなかなか軽快で、近所の子どもが登校の際に母親が何度注意しても同じところで転ぶ場面のように、日常生活で起きがちな滑稽な出来事が所々に描かれている。

 初の輔は大阪での夢を膨らませ始め、三千代は東京に戻って仕事をしたがっている。それぞれの思いはかなり漠然としていて、言葉にしてまとめて表明できそうもないから、かえって話はややこしくなるのだが、どこかで折り合いをつけるか、あるいはあきらめて分かれるかしかない。私は関東で育ち、京都の大学を出たし、最初の職場は大阪で、最後の職場は東京だった。その間、地方都市で仕事をした期間が長かったので、東京と大阪というような大都市の中での文化的な伝統の違いよりも、大都市と地方都市の生活の違いに苦しんだというのが正直なところである。どこでの生活に生きがいを感じるかということは個人によって受け止め方が違うので、誰を相手にしても、自分の感情や価値観をあまり前面に出しすぎない方がいいようである。

 昨年(2015年)の9月29日と30日の別府葉子さんのブログに「ミッション・ポッシブルに挑む」、「ミッション・ポッシブルに挑む その2」として、天神ノ森にこの映画の面影を探しに出かけた記事が出てくるので、興味のある方は探してみてください。
 余計なことをつけ足せば、島崎雪子というのは芸名で、原節子がその代表作の1つ『青い山脈』(1949、東宝、今井正監督) で演じた女教師の名前である。その島崎が、「本家」⁉である原と共演しているというのが面白い。並んでみると、かなり背が高いはずの原節子よりも、さらに背が高いのにびっくりした。

京都の大仏

9月6日(月)晴れ、雲が多くなってきた。

 昔、奈良の大仏の目が落ちたことがあった。どうやってはめようかと相談していると、一人の男が私に任せろという。そして、大仏の目のところまで行って自分が中に入って目をはめた。目をはめたのはいいけれど、どうして出てくるのだろうかと、下で見ていた連中が気をもんでいると、鼻から出てきた。ここから頭のいい人のことを、目から鼻に抜ける人というようになったというのだが、あてにならない。

 落語の「大仏餠」はこの笑い話をまくらに使う。江戸の大店の前で、6歳になる子どもを連れた、目の不自由な乞食が膝から血を流している。聞けば新米の乞食で、縄張り荒らしだと大勢の乞食たちから袋だたきにされたという。同情した店の主人は手当てをしてやった上に、今日は自分の子どもの袴着の祝いだったが料理が残ったと、残り物を与えようとする。古事記が手にしている面桶(めんつう)を見ると、朝鮮鍬鑵(さわり)の水こぼしを使っている。
 「お前さんはお茶人だね」と家へ上げていろいろときいてみると、芝片門前でおかみの御用達をしていた神谷幸右衛門だという。「あなたが神幸さん。あなたのお数寄屋のお席開きに招かれたことのある河内屋金兵衛です」と、お薄を一服揚げ、菓子として大仏餠を出す。ところが、幸右衛門がこの大仏餠を喉につまらせて苦しんだので、河内屋が幸右衛門の背中をたたくと幸右衛門の目が開いた。
 「あれ、あなた目が開きなすった。」「は、はい、開きました。」「目が開いて、鼻が変になんなすったね。」「はァ、食べたのが大仏餠、目から鼻ィ抜けた。」

 この噺はもともと三題噺で、三遊亭圓朝がお客から出された「大仏餠」「袴着の祝い」「新米の盲乞食」という3つ題から作ったという。3つの題をうまくこじつけて作り上げた、突っ込んでいくとかなり問題点がある噺をうまくまとめ、登場人物の様子をいかにもそれらしく演出していくのには、相当な技量が必要である。8代目の桂文楽と、同じく8代目の林家正蔵(彦六)が得意としていたが、文楽が高座でこの噺を口演中絶句して、「また勉強して、出直してまいります」と高座を降り、これが最後となったことで知られる。

 さて、問題の1つは噺の舞台が江戸であるのに、大仏餠が京都の名物であったことである。大仏餠が京都の名物であったということは、京都にも大仏があったということである。しかも上横手雅敬『日本史の快楽』(角川文庫)によると2つもあったというのである。有名なのは、豊臣秀吉が方広寺に造った大仏である。これは当時戦火で焼け失せていた東大寺の大仏に代わるものであった。その大仏造立にことよせ、秀吉は農民から武器を没収する刀狩令を出し、没収した刀や脇差は、大仏殿の釘やかすがいに充てると述べた。刀狩令にはこれは国土安全、万民快楽の基なのだと記されているという。全国の農民たちから取り上げた刀や脇差の量は、大仏殿の釘やかすがいに必要な量を上回るのではないかと思うが、当時の人々にとって大仏と仏縁を結んで救われたいという願いは大きかったので、これは説得力を持った説明であったと上横手さんは論じている。

 しかし、この大仏は不運であった。秀吉が造った大仏は地震で壊れ、秀吉の子の秀頼が再建した。この時に、鐘の銘に「国家安康」とあったのを、「家康」の名を2つに切り離したと、家康がクレームをつけ、それが大坂の陣の原因となった。その大仏も寛文2年(1662年)の震災で倒れ、鋳つぶされて銭貨となった(江戸幕府は奈良の大仏の再建の方に取り組んだ)。同7年に木像が造られたが後落雷で焼け、天保14年(1843年)に造られた木像も昭和48年(1973年)に焼けてしまった。「出来のよい仏像ではなかったが、大仏が完全に失われたのは惜しまれる。」(179ページ)と上横手さんは記している。
 方広寺は、現在南隣にある豊国神社、京都国立博物館から三十三間堂までも囲い込んだ広大な寺域を保っていた。「方広寺の門前には名物の大仏餠屋があった。300余年も続き、店の表構えは昭和32年まで残っていたという。」(同上、180ページ)

 方広寺の大仏が焼けたというニュースは大学院在学中に新聞で読んだ記憶がある。その後、跡地に出かけたこともあるが、どうしてまだ大仏があったときに行かなかったのかという後悔は大きい。それにしても、大坂の陣の原因となった銘文の刻まれた鐘の方はいまだに残っているのだから、歴史というのは不思議なものである。上横手さんも、昭和32年まで残っていたことについては確認できたはずなのに、していないらしいが、私は昭和32年の3月に京都に出かけて、三十三間堂も拝観しているので(わけのわからない小学生だったとはいえ)、ひょっとして大仏餠屋の店構えを見ていたかもしれないのだが、一向に記憶がない。

 京都にあったもう1つの大仏は、鎌倉時代に摂政であった九条道家が、東大寺、興福寺を合わせた壮大な東福寺の建立を思いつき、東大寺の大仏に倣って、その東福寺に造立したものである。ただし東大寺の盧舎那大仏に対して、東福寺は釈迦仏であった。(ちなみに方広寺は盧舎那仏、鎌倉は阿弥陀仏)
 こちらの大仏は明治14年(1881年)の火災で焼け失せ、わずかに左手だけが残って、今も保存されているという。「東京に都が移ったとたんに、おつとめを果たしたごとく、大仏殿も消失しました」という東福寺の僧侶の発言が上横手さんの著書に引用されている(106ページ)。

 京都の大仏をしのぶよすがというのは、現在でも京都銘菓として売られている大仏餠だけになっているらしい(写真で見たところ、のどに詰まるようなものではないと思う…というのも突っ込みどころの1つである)。

 文中、不適切な表現があったかもしれませんが、典拠とした資料をできるだけ忠実に再現しようとしたためなので、ご容赦ください。 

ダンテ・アリギエリ『神曲 天国篇』(1-2)

9月5日(月)晴れ、残暑厳し

 地球のまだ未知の部分であった南半球にそびえる(とダンテが想定した)煉獄山の頂上(つまり、天に最も近い部分)にある地上楽園に達したダンテは神の恵みの象徴であるベアトリーチェと出会い、彼が俗界で犯してきた罪を清める。こうして彼は天国を訪問するのにふさわしい状態となる。
 『天国篇』はダンテが天国を訪問した後に、地上に戻って書かれたという形をとっている。したがって、最初の方で自分が天国のことを正確に記憶しているかどうか心もとないが、全力で取り組むと述べる。そして『天国篇』を書きあげるために、古典古代の異教神であったはずのアポロンの助けを求める。これはルネサンス的な古典復興の気持からではなく、キリスト教と古典古代の文化の融合を目指そうとするものであったと解釈できる。
 地上楽園に降り立ったベアトリーチェは(神の光を象徴する)太陽を見つめ、その影響でダンテ自身も太陽を見ているうちに、自然に、気づかないまま飛翔していた。

 ダンテの考える(プトレマイオスの天動説的な宇宙観を下敷きにした)世界の中では、神は時空を超えた不動の至高天にいて、他の天体に神への渇望を持たせて回転運動をさせ、その運行の中で、神の完全性を表現する調和の音楽を奏でるとされていた。この音楽が聞こえるのは、ダンテに神的な力が備わったからである。そして、太陽の光が空に大きく広がっているのが見えた。
太陽の炎によって燃え上がる
空の広がりが私の前に現れた、雨も川も
これほど大きな湖をなしたことはなかった。

聞いたこともない調べと巨大な光は、
その原因への探究心を私のうちに
かつて感じたことがないほど強く燃え上がらせた。
(25-26ページ)

 ダンテが音楽や太陽の光の広がりの理由を知ろうとしているのを見抜いたベアトリーチェは彼がすでに地上楽園から飛び立っていることを教える。ダンテは、肉体をもつ彼がそれより軽い空気や火を越えて昇っていけるのか疑問に思い、それを彼女にたずねる。
 彼女は、森羅万象はすべて神によりそれ固有のあり方を与えられて作られ、かつ完璧な調和を保ち、その調和こそが神の似姿としての宇宙の「形相(この場合は本質)」であり、知性を持つ人類や天使は、その造られ方の中に神の創造の神秘を感得すると述べた。
高等な被造物たちは永遠の徳の刻印を
この秩序の中に見ています。この徳こそが、
今触れた創造の原理が志向するように整えられている到達点です。

森羅万象は、私の言う秩序の中で、
多様なその宿命、すなわち根源により近いか近くないかにより、
それぞれが固有の傾向を帯びています。

ゆえにどれもみなそれぞれ異なる港を目指して
与えられた本能に動かされて
存在の大きな海を進んでいます。
(28ページ) 地上の事物への間違った愛を、地上楽園で矯正したダンテは高等な被造物(人間と天使)としての神へと向かう本能に動かされて、天国へと昇っているのだという。

被造物は時にこの進路から
離れ、このように後押しされているにもかかわらず、
別の方向に逸れていく可能性を持っているのは真実です。
(30ページ) 神の似姿として、神に向かうように造られていても、道を踏み外す人間がいるのは確かである。とは言うものの、ダンテはその罪を清めているのだから、天に向かって上昇していても、それは川の水が高いところから低いところへと流れているのと同様に、不思議ではないことなのであるという。

ここで彼女は再び視線を空に向けられた。
(31ページ) ここで『天国篇』第1歌は終わる。

 ダンテはプトレマイオスの天動説にしたがって宇宙を描き出しているので、宇宙の中心にあるのは地球であり、月、水星、金星、太陽、火星、木星、土星、恒星がその周辺を回っていると考えた。これまで読んだところでは、地球の内部に地獄があり、南半球に煉獄があった。これから月をはじめとする天界をダンテは歴訪するが、それぞれが天国の中に位置づけられている。
 宇宙の音楽という考えは、ピュタゴラス(派)が言い出したことで、それはプラトンに継承され、宇宙の数的な調和の中で音楽が演奏されているといい、それゆえ、中世・ルネサンスの大学では音楽が教養課程のカリキュラムの重要な一部を構成していた。翻訳者である原さんは、「西欧の大学で音楽美学が講座を持つのに対し、演奏する音楽の講座がない」(509ページ)のは、この伝統に基づくと書いているが、英国の大学では文学部に音楽科があって、演奏も教育している例があった。

人間からの離脱

9月4日(日)曇り、一時晴れ

 最近、梅棹忠夫の著作を読み返していて、彼の議論の先見性や普遍性を再認識する一方で、予想が外れている部分もあることを見つけてなんとなく安心しているところである。そう言う読書の中で梅棹と湯川秀樹の対談をまとめた『人間にとって科学とはなにか』(中公新書)に出会い、いろいろと考えさせられた。1967年に初版が出て、私の手元にあるのは1993年に出た第33版であるから、かなり多くの人に読まれた書物らしい。
 最初に梅棹さんのことを書いたのだが、この書物に限って言う限り、主役は湯川さんの方である。湯川さんは1907(明治40)年生まれであるから、単純に計算して、1967年には60歳、梅棹さんは1920(大正9)年生まれであるから、47歳ということになる。このころ、昭和生まれの私はまだ大学の学生であった(今や対談が行なわれた時の御二方の年齢をはるかに超えてしまった)。明治生まれと大正生まれの学者の対談を、昭和生まれが読んだことになるが、湯川さんがこの対談の中で問題にしているのは、そういう時間の推移の中で、科学が人間を置き去りにして、限りない巨大化・精密化の道をたどり始めているということなのである。

 書物の中の湯川さんの発言を引用しながら説明すると、数学にせよ、物理学にせよ、日常の経験的な世界を忠実に記述する学問として発展してきた。ところが、数学においては非ユークリッド幾何学、物理学においては量子論が現れて、経験科学からの離脱が始まった。量子論を始めたプランクが好んで使った言葉が「人間からの離脱」という言葉である。
 「…自然界は19世紀までの段階では、それほど奇妙なものではなかった。ところが量子論というようなものは、実に奇妙なものなんですね。もしも、彼[プランク]あるいはほかのだれかが、実験で得られた事実を、是が非でも説明しようと努力しなかったならば、そんなおかしな考え方は、出てこなかったに決まっている、そういう性質のものです。老子の最初に「道の道とすべきは常の道に非ず」とありますが、これを曲解すれば――、あるいは正解かも知れんが――20世紀の物理によくあてはまる。」(7~8ページ)

 もともと物理学は「人間の感覚や経験からそう遠くない現象、人間を包んでいる普通の環境とそう違っていない状況で経験しうる現象」(6ページ)を扱っていたのが、そうではなくなったというのである。夏目漱石の『三四郎』に登場する野々宮宗八は寺田寅彦をモデルにしているというのが(本人は否定していたそうだが)一般的な理解である。それで、中川信夫監督の映画『夏目漱石の三四郎』(1955、新東宝)を見ていたら、野々宮が自分は朝起きてから、夜寝る前に人間が出会うさまざまな現象を解明することを心掛けているというようなセリフを言うくだりがあったことを思い出した。原作、あるいは寺田の随筆の中に、このような言明があるかもしれないと思って探しているのだが、今のところ見つけていない。ただ、寺田の業績をまとめた本の中に、同じような考えが記されていたことを記憶している。とにかく、湯川さんが物理学を始めたころは、この寺田のような考え方が一般的であったのではないか。誰でも、日常の生活の中で直面するような様々な不思議に取り組むのが物理学だという寺田の考えは、ごく健全なものである。だが、物理学はそこから離れて、独自の道を歩み始めたと湯川さんは認識している。

 そこで、どうしても思い出すのが、京都大学の理学部で湯川さんの先輩であり、日本で初めて量子論の研究を始めた田村松平先生のことである。私が京都大学に入学した時に、教養部の物理学の授業を受け持っていたのが、田村先生であった。先生と呼ぶのは、授業を聴講して、可だったか良だったかは忘れたが、単位を頂いたからである。先生は、私のようなわけのわからない、そのくせ生意気な文科系の学生向けの物理学の授業を開講される一方で、理科系の学生相手には、中西太さんが仰木彬監督の下でヘッドコーチをしていたように、湯川さんの研究グループの代貸し格として指導に当たられ、物理学の教科書も何冊か書かれていたはずである。

 8月に亡くなられた作家の真継伸彦さんは、京都大学の卒業生で、学生時代の経験を基にした半自伝的な小説『青空』を『毎日新聞』に連載されていたことがある(後に単行本になった)が、その中に、田村先生のことが村田という名で出てくる。村田先生の物理学の試験問題というのが「物理学と天皇制」ということで、点数については自己採点で好きな点数を書き込むと、それが成績表にそのまま記載されたという話である。真継さんの小説以外にも、同じような話をする先輩がいるので、多分、本当のことなのであろう。そして、私は長いこと、この話を一つの笑い話として記憶してきた。(昔務めていた学校に、京都大学の理学部を卒業された先生がいて、入学早々、田村先生の授業を聴きに行ったが、一つもわからない。やっとわかったことは、前の年の講義が終わらずに、その続きを話しているということであった――という話を懐かしそうにされていた。そういうたぐいの逸話の多い先生である。)

 しかし考えると、田村先生は日本における物理学の「人間からの離脱」の口火を切られた方である。そしてその一方で、田村先生や坂田昌一は違うらしいのだが、京都大学の物理学教室の少なからぬ関係者が、実験、理論の別なく太平洋戦争中に海軍の原子爆弾の開発計画に携わったようなのである。そう考えると、「天皇制」が出てくるのは飛躍しすぎであったかもしれないが、物理学の人間的、あるいは社会的な意義について、学生に考えさせるというのは、重要な問いかけであったと思うのである。

百万本のバラ

9月3日(土)晴れ後曇り、夕方になって雨

 9月2日、ルーテル市ヶ谷ホールで開かれた「別府葉子シャンソンコンサート in 東京」に出かける。一昨年、昨年に続いて3度目である。ピアノが鶴岡雅子さん、ベースが中村尚美さん、ヴァイオリンが東京ライヴのみの参加の会田桃子さん。なかなかの盛り上がりで音楽の楽しさを改めて確認した。(一部の音楽教育家は「音楽は音を楽しむことだ」と言っているらしいが、これは間違いで、古代中国では「楽」というのは音楽のことであった。音楽を聴いていると楽しくなるから、「楽しい」という意味が後から派生したのである。) それほどの音楽愛好家ではないので、見当はずれのことや脱線が多くなると思うが、感想を書き留めておきたい。

 コンサートの中で、「百万本のバラ」を歌った際に、この歌へのYouTubeでのアクセスが10万を越えたという報告がされた。大いに慶賀すべきことだが、それ以上に歌の題名通り100万アクセスを目指してほしい。
 コンサートを聴いて、家に帰って、このブログを訪問してくださった方々のブログを見ていたら、「百万本のバラ」の訳詞をされた松山善三さんが8月27日に亡くなられていたという記事に出会った。ここで「百万本のバラ」という題目を掲げたのは、別府さんのコンサートを聴いたことの感想だけでなく、松山さんへの追悼の気持が加わっている。松山さんは神戸生まれだが、横浜市磯子区で育って、旧制の横浜第三中学(県立横浜緑ヶ丘高校の前身)を卒業された。私などは、松山さんというと、映画の脚本家、映画監督という以上に、大女優高峰秀子さんの夫という目で見てしまうのだが、映画以外の領域でも活動され、同じ磯子区育ちの美空ひばりさんのために、広島への原爆投下を題材とした「一本の鉛筆」を作詞されたことでも知られている。ご冥福をお祈りする。

 さて、別府さんのコンサートに戻って、シャンソンというのはフランス語で「歌」という意味であるから、世界中からいろいろな歌を探して演目に加えていたのは、これまで通りである。別府さんの推測される人柄や、声の質から、明るい、元気のいい歌が多かったかというとそうでもなくて、「世界中の子どもたちのために」(Pour les enfants du monde entier)をはじめ、メッセージ性の強い歌、あるいは何らかのメッセージを感じさせる歌が多かったのは、別府さんなりの時代のとらえ方、少し飛躍して解釈すれば不条理な暴力によって一人ひとりの人間の幸福が脅かされている事態への抗議の気持が表現されているのであろう。それでも最初に歌った船乗りの歌「ウィスキーウィスキー」などは別府さんの元気な個性がよくでいたように思う。
 2番目の「残されし恋の後には」(Rue reste-t-il de nos amour?) は、ジャズでよく演奏されるという説明だったが、シャルル・トレネの歌で、別府さんの世代だと、トレネというのは過去の歌手としてしか認識していないのかなと思ったりした。トレネが活躍したのは1930年代であるが、1950年代には来日して、その公演がラジオで放送されたのを私も聞いた覚えがある。ついでに言うと、フランソワ・トリュフォーがトレネの歌が好きで、『夜霧の恋人たち』は、トレネの歌「盗まれた接吻」が原題になっていた。さらに余計なことを書くと、トレネの来日の際のプロモーターが今は亡き石井好子さんで、歌は素晴らしいのだが、人間的に汚いというようなことを詳しく書き連ねたエッセーを読んだことがある。(でも、野次馬的な立場から見れば、そういう人の方が面白い。)

 しっかりと仕上げられた「愛の讃歌」に続き、昔、サーカスが歌った「ミスター・サマータイム」の元歌である「夏物語」を聴いて、この歌が、夏の休暇中に出会った男女の恋の歌であることを知り、同じような夏祭りの中での男性との出会いを引き裂かれた女性のうたである「群衆」、「世界中の子どもたちのために」と続いて、別府さんはいったん退場、会田桃子さんが作曲した”Candombe 400"という楽曲が演奏されて、第1部が終わる。

 第2部はジャック・ブレルの「アムステルダム」から始まる。これも船乗りの歌であった。南フランスの近世以後長く牢獄として使用された塔を歌う「コンスタンスの塔」、そしておなじみの「百万本のバラ」、宮沢和史さんの「島唄」と耳になじんだ歌が続いた後、ロシア民謡をシャルル・アズナヴールが編曲した「二つのギター」、別府さんのオリジナル曲「蔦が揺れる」が歌われ、プログラムの最後に「シャンソン・コンフィドンシェル」という翻訳の難しい題名の歌が登場した。アンコールで「マイ・ウェイ」が歌われ、かなりの盛り上がりではあったが、客席と一体になって歌われるというところまではいかなかった。1966年だからちょうど50年前に、今は亡き岸洋子さんのコンサートを聴きに出かけたことがあって、その時は、アンコールで「夜明けの歌」が歌われたと記憶する。当時、よく耳になじんでいた歌であり、さらにプログラムに楽譜が印刷されていたので、客席からも唱和するのが容易であった。このあたり、工夫の余地のあるところではないか。

 会場を出て、近くを歩いていた中年の女性の2人組が話していたように、もう少し、聴く人が多くてもよかった。この文章がその「もう少し」の人たちの関心をとらえるのに役立てば、幸いである。

ゴーゴリ『死せる魂』(4)

9月3日(土)晴れ

 1830年代初めのロシア。北部地方(モスクワの西、あるいは西北の一帯)のNNという県庁所在市にチチコフという男が乗り込んでくる。名刺には六等官、地主と書かれているから、官吏を退職した地主であろうか。到着したあくる日から、知事、裁判所長など、市の有力者を訪ね歩いて、社交界への足掛かりを作った彼はひどく愛想がよくて腰の低いマニーロフや、いささかがさつなソバケーヴィッチなどという市の周辺の地主たちと知り合いになる。さらにノズドリョーフという元気はいいが、賭博好きらしい地主も彼と親しく口を利くようになる。
 滞在が1週間を過ぎたころ、チチコフはマニーロフを訪ねて歓待を受ける。彼はマニーロフの所有している農奴で前回の戸口調査の際には生きていたが、その後死亡した(法律上は生きて事になっている)農奴をもらい受けて、自分のものとして登記したいと申し出る。払わなくてもいいはずの戸口税を肩代わりしようというのだから、地主にとってはうまい話だが、どうも胡散臭い。しかし、マニーロフはチチコフの口車に乗って、売却を承諾する。
 チチコフは次にソバケーヴィッチを訪ねようとするが、御者のセリファンが道を間違えたために、コローボチカという老女地主のところに迷い込む。物分かりが悪く、そのくせ神経質なコローボチカは、チチコフの申し出を頑強に拒否するが、結局彼の説得に負けて死んだ農奴の売却に同意する。
 本街道に出て、とりあえず食事をとり、ソバケーヴィッチのところに赴こうとしていたチチコフは、定期市に出かけて、そこで開かれていた賭博で大損をしたノズドリョーフに出会う。ノズドリョーフはチチコフを強引に自分の屋敷に連れてゆき、いろいろなものを見せびらかしたり、売りつけようとしたり、最後にはチチコフを賭博に誘い、暴力沙汰になりかけたところで、チチコフはノズドリョーフに警告に来た警官のおかげでようやく逃げ出す。
 ノズドリョーフのもとを逃げ出したチチコフは、馬車を急がせたために、危うく馬車同士の衝突事件を起こしかける。相手の馬車には女学校を出たばかり位のかわいらしい女性が乗っていた。その後、ソバケーヴィッチのもとにたどり着いたチチコフは、他の地主たちと同様に彼からも死んだ農奴を買い入れようとするが、ソバケーヴィッチは思いがけない高い値段で売りつけようとして、チチコフは必死になって買値を値切らなければならなかった。
 さらにチチコフはソバケーヴィッチがその吝嗇を攻撃した地主であるブリューシキンを訪ね、死亡した農奴だけでなく、蓄電した農奴を合わせて200人余りを譲り受けることに成功した。こうして魂が死んでしまったような地主たちの間を渡り歩いたチチコフは、実際にはいないが、いることになっている農奴たち(=死せる魂)を大量に手に入れたのであった。(以上第1部第6章まで)

 NN市の旅館に戻ったチチコフは1晩ぐっすりと眠った後、さっそく裁判所で買い入れた農奴の登記を行うための書類作成に取り掛かる。地主たちが渡してくれた書類を眺めながら、チチコフがいろいろと想像をめぐらしたのと、農奴の数が多かったことのために、作成には午前中いっぱいかかってしまう。それでもどうやら書類を作成したチチコフは、通りへ出て、裁判所に向かおうとすると、マニーロフに出会う。マニーロフは裁判所まで同行するという。
 裁判所に到着した2人は、役人風を吹かせて、やたらもったいぶった事務官たちの間を行ったり来たりした末に、不動産登記部にたどり着き、そこで押し問答の末、知り合いである裁判所長の名前を出して、所長との面会にこぎつける。
「…真面目くさって事務を取っていた下役の一人で、常々テミスの女神に忠誠をつくすあまり、両袖が肱の辺でぽっかり口をあき、そこから、裏地がもうずっと前から覗いていたが、その癖やっと14等官にありついていようといった先生が、ヴェルギリュウスがかつてダンテを案内したようにぺこぺこしながら我らの主人公たちを所長室へと案内した。」(中巻、27ページ) (『神曲』を実際に読んでみればわかるが、ペコペコしているのはむしろダンテの方である。ゴーゴリもそんなことは承知で、読者をからかっているのであろう。) 
 所長室に入ると、そこには所長のほかに、なんとソバケ―ヴィッチまでが姿を見せていた。チチコフはばつの悪い思いをしながらも、書類を見せて、その日のうちに登記を済ませたいというと、裁判所長は関係者に連絡して手続きを急がせる。所長室で売買に関係する話をしているうちに、証人たちがやってくる。「証人の足りないところはもちろん、余計な分まで、役所の連中が代理に選ばれた。」(中巻、37ページ) こうして手続きが済み、その費用も驚くほどの安価で済んだ。
 所長はチチコフと、地主たちを連れて、警察部長のところに出かけ、そこで売買登記が済んだことを祝う大宴会を開いた。酒肴は部長がその役柄に物を言わせて、商店や市場から徴発してきたものである。宴会の主役として大いに持ち上げられたチチコフはいい気分になって、旅館に戻る。(第1部第7章)

 「チチコフの農奴買い入れはひとびとの話題になった。さまざまの風評や意見が市じゅうにひろまって、移住の目的で農奴を買うことが果して有利かどうかについて、いろんな論議が行なわれた。」(中巻、48ページ) こうした様々な取沙汰や判断の結果、チチコフは大金持ちではないかという彼にとっては好都合な推測が人々の間に広まった。その結果として、彼は市の上流婦人たちの間で人気を博することになる。そして、知事の家で開かれる舞踏会で彼が人気の中心になることが予想された。
 チチコフは知事の舞踏会に出席して、参加者たちから大いに歓迎されるが、知事の娘に紹介されて、すっかりぼーっとしてしまう。その娘こそは、ソバケ―ヴィッチの屋敷に向かう途中で衝突しかけた馬車に乗っていた美しい娘であったのである。チチコフは彼女に気に入られようと、さまざまな話をするのだが、若い女性向けの話題ではないので、すっかり退屈されてしまう。そして、この態度は他の婦人たちの不評を買う。さらに間の悪いことに、賭博に負けたうえに、酔っぱらったノズドリョーフがやってきたのである。彼は酔いに任せて、チチコフが買い入れたのが死んだ農奴であることを大声で言いふらしたので、チチコフはいたたまれなくなって退席する。さらに間の悪いことに、彼がいなくなったころ合いに、彼が農奴を買い入れたことについて不審な思いをぬぐい去ることのできない、老女地主のコローボチカがやってきたのである。(第1部第8章)

 チチコフが訪問して、農奴を買い入れた地主たちが、登記とそれが済んだ後に、続々と登場して、物語を思いがけない方向へと展開させてゆく。それどころか、第5章で幻のような出会いをした美少女が、再度登場して、知事の娘だということが分かり、物語の展開に一役買う。お役所仕事の堂々巡りや、その一方での拙速ぶり、役人たちのたかり根性、そして根も葉もない(というより少しはある)風評が広がっていく過程など、ゴーゴリの写実と風刺の筆は冴えている。ここまでは順調に進んだかに見えるチチコフの企てであるが、果たしてこの後、どのように展開するのであろうか? 

『太平記』(122)

9月2日(金)晴れ

 建武2年(1335年)7月、北条高時の次男時行が信濃で、一族の名越(北条)時兼が北国で挙兵し、時行の軍は急激に勢力を増して鎌倉に攻め寄せた。鎌倉を守っていた足利直義は形勢の不利を見通して7月26日に鎌倉を退却したが、その際に拘束中の護良親王を殺害した。京都からは時行追討のために足利尊氏が派遣されたが、その際に彼は征夷将軍と関東管領の職を求めた。後醍醐天皇は関東管領のみを許し、征夷将軍は追討の結果によって考えると伝えた。尊氏の軍は、三河の矢矧の宿で直義の軍と合流し、東海道を西へ攻め寄せてきた時行軍を破り、鎌倉を回復した。北国で挙兵した名越時兼も、大聖寺で討ち死にした。こうして中先代の乱を鎮圧した尊氏の勢威は、急速に大きくなった。

 今回から、第14巻に入る。『太平記』は全40巻からなるが、現存する写本の中で、旧い姿を残しているもの=古態本では第22巻が欠けている。岩波文庫版は古態本に基づいているので、実際には39巻という構成である。ということは、既に『太平記』の3分の1を紹介してきたということで、前途はまだまだ遼遠であるとは言うものの、かなりの道のりを歩いてきたことが分かる。さらに一歩、一歩と歩んでいきたい。

 さて、尊氏は中先代の乱を鎮圧し、関東を平定した。関東を平定すれば、尊氏を征夷将軍に任じるという後醍醐天皇の御勅約を頂いているうえは、もはや征夷将軍になったも同然であると、まだ天皇からの宣旨は下されていないのに、配下の武士たちからは将軍と呼ばれるようになった。さらに関東管領としての職務はすでに天皇の御許しを得ているので、反乱の鎮圧に際して武功を挙げた武士たちに、恩賞を与えることになったが、その際に、武蔵、相模、上総、下野にあった新田の一族の武士たちが拝領した土地を、領主がいないことにして、自分の家臣たちに分け与えたのであった。

 この知らせは京都にいる新田義貞のもとに伝わり、義貞としては面白いわけがなく、対抗措置として、越後、上野、駿河、播磨の国で足利の一族が知行している荘園を押さえて、自分の家臣たちに預けた。こうして新田、足利の仲は険悪なものとなり、各地で両者の対立が表に出てきた。

 この対立の根源はどこにあったかというと、元弘3年(1333年)に義貞が鎌倉を陥落させて幕府を滅亡させた功績は、明らかであったので、東国の武士たちは義貞による推挙を望んで、彼のもとに集まるものと考えていたところ、その頃3歳であった尊氏の3男の千寿丸(後の義詮)が戦闘終了後、下野から鎌倉に入ると、父親である尊氏の名声が影響してか、義貞のもとを去って義詮のもとに向かう武士たちが多かったという事情があった。

 義貞はこれに怒って、尊氏と一戦交えようかとも思ったのだが、新しい政治が始まろうとしているときでもあり、仲間喧嘩は慎んだのであった。とは言うものの、新田義貞と足利尊氏の、武門の棟梁をめぐる争いは止めることのできない者であり、やがては天下を揺るがす大乱のきっかけとなるものであった。(このあたりの経緯は、吉川英治の『私本太平記』では鎌倉幕府が滅んだ直後の部分で描かれている。その場面に尊氏の腹心の細川和氏を登場させているあたりも、配慮が行き届いている。)

 さて、京都の後醍醐天皇の身辺では尊氏が反逆を企てていると讒言する者がいて、天皇もひどくお怒りになって、すぐに尊氏追罰の宣旨を下そうとおっしゃられたのに、公卿たちが詮議を行って、まだ疑惑の段階で、大功を挙げた尊氏を処罰するというのは、仁政とは言えないと奏上したので、それではと、後醍醐天皇の信任の篤い恵鎮上人(円観ともいう)を鎌倉に派遣して真相を突き止めてから、場合によっては追罰の宣旨を出すということに決まった。(これは歴史的な史料による裏付けがないようである。ただ、恵鎮上人が極めて重要な人物として尊敬を集めていたことはわかる。恵鎮上人が『太平記』の編纂にもかかわったという証言もあるが、そのことについては、機会を見て論じるつもりである。)

 恵鎮上人が天皇の御命令を承って、鎌倉に出発しようとしていた時に、尊氏のもとから細川和氏が尊氏の書状をもってやってきた。書状の中で尊氏は自分が朝廷に対してあげた功績を列挙し、義貞が一門のために私欲をむさぼっていると述べて、義貞を追討することを求めていた。この書状がまだ重臣による内覧を経ていないうちに、義貞がうわさを聞きつけて、尊氏こそが関東で勝手にふるまっており、なかんずく護良親王を殺害した罪は重いと、彼の討伐を求める書状を上奏した。

 そこで朝廷では公卿による詮議の場を設けて議論したが、何か言うと後が怖いことになる雰囲気で誰も何も言いだそうとしない。その中で、すでに何度か登場してきた坊門清忠が護良親王殺害の一件が本当かどうかを見極めたうえで、結論を下すべきであると意見を述べ、この意見が採用された。坊門清忠というのは、平安時代に藤原道長と対立した伊周の弟の隆家の子孫である。以前、この血統からは歴史上思いがけない役割を演じている人物が出ていると書いたことがあるが、清忠も例外ではない。

 そうこうするうちに鎌倉から、護良親王の身辺のお世話をしていた南の御方(持明院中納言保藤の娘)が上洛してきて、親王が殺害された時の様子をありのままに申し上げたので、天皇はけしからぬ振舞いであるとお怒りになり、さらに尊氏が四国、九州の武士たちに将軍として軍勢催促の文書を発行していることが分かって、もはや尊氏の反逆は疑いもないと決まり、尊良親王を東国の管領に任じ、新田義貞を大将軍と定めて、東国に討伐に下るよう命じた。

 鎌倉幕府の滅亡後、兵火もようやく収まって平和が回復される兆しが見えてきたところに、再びこの戦いに諸国の武士たちが動員されることになったのはどういうわけであろうかと、人々は落ち着かない気持ちに駆られたのであった。

 実は尊氏、義貞の書状はかなり長いのだが、要点だけを述べた。この個所だけでなく、今回は、かなり先を急いでいる。ともに八幡太郎義家の子孫であり、鎌倉幕府を倒すためにともに戦った義貞と尊氏が、次第次第に対立するようになり、ついに敵味方に分かれて戦うことになる。その戦いの帰趨はどうなるか…また次回以降に。
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