2016年の2016を目指して(8)

8月31日(水)晴れ

 8月は風邪をひいたり、台風が襲来したりで、生活リズムが乱れたところがあり、それがさまざまな数字にも表れているかもしれない。
 8月中に新たに足跡を記した都県、市区はなく、新たに利用した鉄道会社・路線・駅、バスの会社・路線・停留所もない。それで1都2県、2市5特別区、7社10路線16駅、3社18路線16停留所という数字に変化はない。〔80〕

 この記事を含めて31件の記事を書いた。1月からの合計は247件ということになる。映画が7件、『太平記』が6件、日記、読書、ダンテ『神曲』が5件、詩が2件、未分類が1件ということになった。726の拍手を頂いたが、コメント、トラックバック、拍手コメントはなかった。1月からの通算はコメントが18件、拍手が6055、トラックバックが1、拍手コメントが10ということである。〔276〕

 9冊の本を買い、8冊の本を読み終えた。1月からの通算では99冊の本を買って、79冊を読んだことになる。読んだ本の内訳は:望月麻衣『京都寺町三条のホームズ⑤ シャーロキアンの宴と春の嵐』、阿部冠『谷根千少女探偵団 乙女稲荷と怪人青髭』、岡谷公二『伊勢と出雲』、ダンテ・アリギエリ『神曲 煉獄篇』、伊福部昭『音楽入門』、ブーシェラ・ラムゥニ・ベンセーダ ヨウン・スラウィ『文明の交差路としての地中海世界』、平野芳英『古代出雲を歩く』、椎名誠『怪しい探検隊済州島乱入』ということである。それなりに変化はあるが、社会科学系と理数系の本がないので、これから気を付けて読むようにしよう。〔82〕

 「ラジオ英会話」の時間を18回、「入門ビジネス英語」の時間を8回、「攻略!英語リスニング」の時間を6回、「実践ビジネス英語」の時間を10回、「まいにちフランス語」を15回、「まいにちイタリア語」を14回、「まいにちロシア語」を14回、「レベルアップ中国語」を15回、「ワンポイント・ニュースで英会話」を23回聴いている。1月からの通算は「ラジオ英会話」が157回、「入門ビジネス英語」が64回、「攻略!英語リスニング」が62回、「実践ビジネス英語」が93回、「まいにちフランス語」が150回、「まいにちイタリア語」が150回、「まいにちロシア語」が92回、「レベルアップ中国語」が78回ということである。
 7~9月放送分のカルチャー・ラジオは聞いていないが、4~6月放送の『教養としてのドン・キホーテ』を6回聴いている。〔836+6〕

 8本の映画を見て、1月からの通算は48本ということになった。内訳は『ストリート・オーケストラ』、『ブルックリン』、『スピオーネ』、『ガリバー旅行記』、『シング・ストリート』、『お嬢さん社長』、『凸凹猛獣狩』、『マルクスの二挺拳銃』ということである。日本映画1本、外国映画7本で、外国映画の新作の鑑賞数が10本を超え、ベスト・テン選出が可能になった。『お嬢さん社長』は2度目の鑑賞、『マルクスの二挺拳銃』をスクリーンで見たのは初めてだが、テレビで2度見ている。出かけた映画館は7館のままである。〔55〕

 サッカーの試合をJ2が2試合、天皇杯の1回戦1試合、合計3試合観戦した。1月からの通算は32試合である。出かけた球技場は2か所のままである。〔34〕

 ノートを5冊(A4が3冊、A5が2冊)、ボールペンの替え芯を2本(黒の0.5ミリが2本)、ペンの修正液が1本、テキストサーファー(黄色)1本、使い切っている。

 酒を飲まなかった日が14日あった。全体としても酒量が減っているのはいい傾向かもしれない。

 初めにも書いたが、8月は生活のリズムが乱れたところがあったので、9月はその立て直しを図る必要がありそうだ。さて、どうなるか。

 このブログを始めて以来、読者の皆様から頂いた拍手の数が18,000を越えました。厚くお礼を申し上げます。今後もよろしくご愛読ください。
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ダンテ・アリギエリ『神曲 天国篇』(1-1)

8月30日(火)雨が降ったりやんだり、午後になって晴れ間が広がる。

万物を動かされる方の栄光は
全宇宙をあまねく貫き、その反射は
あるところでは強く、別なところでは弱く輝く。
(18ページ) 1300年4月13日の正午。ダンテはベアトリーチェとともに、煉獄山の頂の地上楽園にいる。
 宇宙全体(万物)を動かす運動の開始点である神の「栄光」とは、善と知と力が一体となった神的な光であって、通常の太陽を光源とする物理的な光ではない。神の栄光により、事物は存在の根拠を与えられる。そして神の栄光が創造した事物は、神の光を反射して輝き、初めて存在するのであるという。

その方の光をひときわ強く受ける天空のまっただ中に
私はいた、そして誰しもがその天空から降りると
語るすべも語る力も持たぬ事物を見た。
(同上) 『神曲』の世界では天国は、月天、水星天、金星天、太陽天、火星天、木星天、土星天、恒星天、原動天、至高天から構成されている。それぞれがどのような性格を持つのかは、それぞれの箇所で説明する。「その方の光をひときわ強く受ける天空」はそのうちの至高天を表している。ダンテは至高天に言ってきたと述べる。それは言語を超えた世界であるという。

なぜならその望みに近づくほど、
われらの知性はその中に深く入り込むため、
記憶がその後を追うことはできないからだ。
(同上) ダンテ自身の霊的部分は神が創造されたものであるので、至高天に遍在している神の中に「深く入り込」み、その結果として自分の見たものを地上に帰ったのちに再現することができなくなっているというのである。

それでも、聖なる王国について
わが記憶の中の宝にできた限りを
これより我が歌の題材としよう。
(18-19ページ)と、ダンテは天国で見聞きしたことを歌いあげることを宣言する。そして古典古代の叙事詩で詩人たちが詩の女神たちに霊感を与えてくれるように祈った例を踏まえて、詩の神であるアポロンに助けを求める。中世にはパルナッソス山には2つの峰があり、その1つにアポロンが、もう1つに詩の女神たちが住んでいるといわれていた。詩の女神たちは人間の知恵と能力を、アポロンは神の英知を象徴するので、ダンテはアポロンに祈るのである。異教の神にキリスト教の天国を描くための助けを祈るのは奇妙に思われるが、キリスト教と古典古代の文化との融合が意図されていると解釈しておこう。

 そしてダンテは、自分がベアトリーチェとともに煉獄山の頂上にある地上楽園に立って、地球の北半球が光に、南半球が闇におおわれている壮大な眺めを目にしていたことを思い出す。ここから彼は天空へと飛び立つのである。
その時に私はベアトリーチェが左側を
向き、太陽にじっと目を凝らされるのを見た。
鷲でさえこれほど鋭くそれを凝視したことはない。
(22ページ) 彼女に倣って、ダンテも太陽を見つめたが、
私には長くは耐えられなかった、しかし
まるで火の中から出てくる溶けた鉄さながらに、
それが辺りに火花を散らすのを見られぬほど短くもなかった。

すると突然、日の光に日の光が
加えられたように見えた、まるで全能なる方が
もう一つの太陽で空を飾られたかのように。
(23-24ページ)。ダンテはさらに、ベアトリーチェを見つめ続けるが、「彼女を見ているうちに私の内面は変容した」(24ページ)。ベアトリーチェを媒介にして神の光がダンテに伝えられ、ダンテ「超人化」(同上)するのである。

 まだこの時点でダンテは気づいていないのだが、ダンテは地球を離れ、天空へと飛翔を始めている。こうしてダンテの天国の旅が始まる。

 これまでに少なくとも2度、『神曲』に取り組んだのだが、2回とも、『天国篇』に入ったところで進めなくなって、全編を読まずに終わってしまった。『天国篇』は前2編に比べて、神学的・哲学的な思索が多く含まれ、それだけ難解であり、読みづらいが、原基晶さんの翻訳は、これまで私が呼んだ翻訳に比べるとわかりやすいし、解説も丁寧なので、何とか頑張って最後まで読み通そうと思っている。

ともだち

8月29日(月)台風接近、曇り時々雨

ともだち

小学校の時、
相撲を取って、
捨て身技に不覚を取り
投げ飛ばされた
投げられて 空中で裏返しされた時のことを
地面に叩きつけられた時の
痛みよりも強く覚えている。

卒業以来、
久しぶりに会って、
酒を酌み交わした時に
またまた不覚を取って
酔いつぶれてしまったことを思い出す。
私よりも、
死んだ母の方が、その時のことをよく覚えていたようだ。

死んだ父が言っていた。
サラリーマンになったはじめのころの
仲の良い友人たちは
みんな若いうちに死んでしまった。
酒の飲みすぎだったのだろうか。

小学校の時に私を投げ飛ばした
友人は、今はいない。
親子二代にわたり、
仲のいい友人は若死にするという
ジンクスの中で生きてきて、
父親が死んだ年を10歳以上越えた
量は少なくなってきたとはいうものの、
やはり酒を飲み続け、この世にいない友のことを思い出している。

『太平記』(121)

8月28日(日)雨が降ったりやんだり

 建武2年(1335年)7月、北条高時の次男時行が信濃で、一族の名越時兼が北国で挙兵した。時行の軍は鎌倉に迫り、その大軍に対抗できないと判断した足利直義は鎌倉から引き揚げて東海道を西へと逃走した。その際、淵野辺甲斐守に命じて、土牢に監禁していた護良親王を殺害した。時行蜂起の知らせを受けた朝廷では、足利高氏に追討を命じた。征夷将軍と関東管領の職を望む尊氏に、後醍醐天皇は関東管領のみを許し、またご自分の名の一字を許して尊氏の名を与えられた。(征夷将軍は成良親王がすでに任じられていたので、尊氏には出発後、征討将軍の号が授けられた。また、後醍醐天皇が「尊」の字を与えたのは、元弘3年(1333年)8月というのが史実である。)

 関東8か国(相模・武蔵・安房・上総・下総・常陸・上野・下野)の土地と住民とを支配する職である管領に任じてほしいという要求が差し支えなしとされ、将軍のことは今後の戦功次第であると天皇からの約束を得たので、尊氏はすぐに関東へと向かった。まず、一族の吉良兵衛佐満義を派遣し、自分自身は5日ほど遅れて出発した。都を出た時に率いていた軍勢はわずか500騎ほどであったが、近江、美濃、尾張、三河、遠江の武士たちが加わって、駿河の国に到着した時には3万余騎となり、直義が率いていた2万余騎と合わせて5万余騎、矢矧の宿からまた鎌倉へと向かった。(この後の記事を参考にすると、近江から尊氏の盟友佐々木道誉が、三河で足利一族の仁木・細川が加わったと考えられる。高氏が直義と合流したの三河の矢矧の宿のはずであるから、その後さらに遠江、駿河で合流してきた武士たちが少なくなかったようである。なお、後醍醐天皇が尊氏の関東管領の申し出を承諾されたのは、新田義貞も関東を本拠としていることを考えると、軽率な措置であったことが、その後の経緯からわかる。)

 この動向を聞きつけて、相模次郎時行は源氏(足利軍)は非常に大勢だということなので、待ち戦をして、敵に気勢で圧倒されては勝てないだろう。先手を打った方が相手を負かすのに有利であると判断して、自分は鎌倉にいることにしたが、一族の名越式部大夫(というだけで名前はわからない)を大将として、東海道、東山(江戸時代の中山)道に軍を進めようとする。その軍勢は3万余騎、8月3日に鎌倉を出発しようとする夜に、突然強い風が吹き、家々の間を吹き抜けていたので、鎌倉の大仏の近くに露営していた武士たちが、この強風を逃れようとして大仏殿の中に逃げ入り、息をひそめて嵐が通り過ぎるのを待っていたところ、大仏殿が倒壊して、中にいた武士500人余りが1人も残らず押し潰されて命を失った。(現在、鎌倉の大仏は露座の大仏として知られるが、もともとは大仏殿があったのである。)

 戦場に赴く門出に当たって、このような天災にであった。この戦はうまくいかないだろうとひそかにささやくものもいたが、そのままでいるはずにもいかず、改めて日程を定めて、名越式部大夫は鎌倉を出発し、兵馬を急がせて、8月7日には前陣が現在の静岡県の掛川市と島田市の間にある峠である佐夜の中山を越えた。

 尊氏はこの情報を得て、武宣王(武成王というのが正しいそうである。周の武王を助けて殷を滅ぼした太公望呂尚が唐の時代にこのような追号を受けた)の兵法書である『六韜』に「敵長途を経て来たらば討て」(第2分冊、337ページ)と書いてあるといい、同じ8月8日の早朝から平家(北条方)の軍勢に猛攻を仕掛けた。それぞれ前線で戦う兵を入れ替えながら、1日中戦闘を続けたが、北条方に裏切る兵が出てきて、形勢が足利方に傾き、北条方は現在の湖西市新居町に当たる橋本の陣から退いて、佐夜の中山で支えようとした。

 足利方の先鋒を務めるのは足利一族の仁木、細川の人々、彼らが勇敢に戦えば、北条方の中心になっているのは、時行を鎌倉から救い出した諏訪頼重で、これまた勇気を励まして戦場に臨む。しかし、時の運というものであろうか、北条方はこの戦いでも敗れて、箱根の水飲の峠(三島市の山中新田のあたり)へと後退した。

 箱根の山は東海道一の難所なので、足利方もそう簡単には攻められないだろうと思っていたところ、佐々木道誉(赤松貞範とする本もある)の率いる軍勢が険しい山道にもひるまず、息も継がせず攻め立てて、北条方を切り崩したので、北条方はついに大崩(元箱根)まで退却する。北条方の有力武将であった清久山城守は引き返して応戦したが、北条方の兵に囲まれ、腹を切る余裕すらないままに生け捕りにされ、家来たちは皆討たれてしまった。

 道中数度の合戦に連敗したが、北条方の軍勢はなお士気は衰えず、相模川を渡って、川の東岸に陣を構えた。折から、秋の大雨が降り続き、川の水量が増していたので、足利勢もそう簡単には渡れないだろうと北条方は少し油断して、負傷者を手当てしたり、馬を休ませたりして、陣営を立て直そうとしているところに、夜に入って、尊氏の執事の高師直の弟師泰が上流の浅瀬を渡り、佐々木道誉と長井時春が下流の浅瀬を渡って、北条方の後ろに回り、東西に分かれて、同時に鬨の声を上げる。北条方は、前後の敵に囲まれて、かなわないと判断したのか、一戦も交えずに、鎌倉を目指して逃げかえるが、鎌倉への入り口である腰越で軍勢を引き返して応戦したものの、ここでも敗れ、有力な武将の1人であった蘆名盛員も戦死した。

 遠江の橋下、佐夜の中山、江尻(静岡市清水区江尻)、高橋、箱根、相模川、片瀬、腰越、十間坂(茅ヶ崎市十間坂)、酒屋(小田原市酒匂)と17度の戦闘に、もともと2万余騎であった北条方の兵は、300余騎にまで減っていたので、諏訪頼重をはじめ、主だった大名43人が大御堂(鎌倉市雪ノ下に合った勝長寿院、源頼朝が父義朝の供養のために建立した寺)の中に入り込み、皆自害して、先代北条氏の滅亡の跡地にその名を残したのであった。その死骸を見ると、皆顔の皮をはいで、誰が誰かということが分からないようになって、見分けがつかなかったので、相模次郎時行もこの中にいるだろうと、その知らせを聞いて悲しまない人はいなかった。(実は、時行はまたもや逃げ出して、各地に身をひそめながら、再起を図り、『太平記』に再び登場することになる。)

 三浦介入道(時繼)だけはどうやって逃げたのかはわからないが、尾張の国へ落ち延びて、船から上がったところを熱田大宮司(熱田神宮の神主、藤原昌能)が生け捕って京都に送ったので、六条河原で首を斬られた。(熱田大宮司の家柄は、源頼朝の母親の実家であり、そのことからもこの地で強い勢力を持ち続けていたことが分かる。頼朝挙兵の時に合流しようとして雨のために遮られた三浦一族の子孫が、熱田大宮司に生け捕られたというのは歴史の皮肉である。)

 北条氏の再興の企ての機会が熟していなかったのか、あるいは企て自体が天命に違うものであったのか、名越時兼が3万余騎を率いて京都に攻め上ろうとした企ても、越前と加賀の境界の大聖寺(石川県加賀市大聖寺)というところで、土地の武士たちのわずかな軍勢に敗れて、失敗したのであった。

 時行が関東で亡び、時兼が北国で戦死したことにより、北条一門のものは、姿を変えて、身を隠したりするものはまだいたが、再起の望みが絶たれたことを自覚しないわけにはいかなかった。北条一門の恩を受けていた人々も、こうなっては、気持ちを切り替えて、足利尊氏に臣従しようというものが多くなった。さればこそ、尊氏の勢威が自然に重くなって、公家一統の世から、また武家の名分が重んじられる世になった。

 こうして中先代の乱を平定したことで、足利尊氏の勢威が急速に大きくなったと述べて、第13巻は終わっている。先代の北条氏、当代の足利氏に対して、時行を中先代(『梅松論』には「廿日先代」という言い方もすると記されている)というのである。尊氏が5万余騎の軍勢を集めたところで、時行を兵力の点で上回っていただけでなく、数が少ないので、先制攻撃をかけようと勇み立つ時行に対して、相手が急いで攻め寄せてきて、疲れているところをたたこうと計略を練る尊氏という武将としての戦術の立て方の優劣も勝敗に影響しているように思われる。北条方にはしっかりとした作戦を立て、指揮を執ることのできる武将がいなかったと『梅松論』が論じているのは、妥当な見解である。『梅松論』には尊氏が、北条方の残党に寛大な措置をとったと記されている。このあたりも彼の勢威を大きくした一因であろう。 

伊福部昭『音楽入門』

8月27日(土)曇り、時々雨

 伊福部昭『音楽入門』(角川文庫)、ブーシュラ・ラムゥニ・ベンヒーダ、ヨゥン・スラウィ『文明の交差路としての地中海世界』(白水社:文庫クセジュ)を読み終える。ともに面白かったが、より印象の強かった『音楽入門』を取り上げることにする。

 著者である伊福部昭(1914-2006)は作曲家、音楽教育者であり、芥川也寸志、黛敏郎、矢代秋雄などの後進を育てたことで知られる、という以上に映画音楽作曲者として『ゴジラ』シリーズや、『ビルマの竪琴』、『座頭市』などの音楽を手掛けた。だから、彼の名前を知らなくても、その音楽を耳にしたという人は少なくないはずである。そういえば、神保町シアターで伊福部昭が音楽を手掛けた映画の特集上映をやっていたという記憶がある。(彼の教え子も映画とは縁が深いだけでなく、芥川は草笛光子、黛敏郎は桂木洋子と女優と結婚しさえした――もっとも芥川は離婚したのであるが…)

 この書物は1951年に初版が刊行され、その後1985年に現代文化振興会から改訂版が、2003年に全音楽譜出版社から新装版が刊行され、今回角川文庫の1冊として再刊されたのは2003年の新装版をもとにして、文庫化に当たり『衝撃波Q  4号」(1975年)掲載の伊福部へのインタビューが加えられている。また、解説を作曲家の鷺巣詩郎さんが執筆していて、鷺巣さんの父親の鷺巣富雄(うしおそうじ)が円谷英二の片腕であり、伊福部とも親交があったと記しているが、うしおそうじには子ども漫画家としての顔もあって、私が子どものころ彼の作品をいくつも読んだことを思い出したりした。

 伊福部は音楽学校の教師、作曲家となるまでは北海道大学出身の林務官であり、理科的な思考力の持ち主であっただけでなく、北海道や樺太(サハリン)の各地を歩き回り、多分、それだけでなく、仕事の合間にアイヌやギリヤーク(現在ではニヴフという)の音楽を収集して回ったようである。そういう彼の音楽経験の広がりが背景にあることがこの書物の魅力の1つである。

 大雑把にいうと、この書物から私が読み取ったことは3つにまとめられる。1つは音楽は「直覚的な…ある意味では極めて原始的でさえある感覚を基礎としている芸術」(10ページ)という伊福部の音楽論であり、第2は音楽のそのような性質から、音楽の創造と鑑賞とは音楽を聞いた際の直接的な感動を出発点とすべきであるということである。第3は歴史的、空間的に広い範囲で様々な音楽を聞いて、自分なりの音楽観を形成すべきだということである。これは前2者と違って、本文にはっきりと論じられているわけではないが、この書物の全体にわたり、さまざまな民族の音楽や、歴史上の多彩な作曲家の作品が言及されていることから、このことが推測できる。(インタビューから知ることができるが、伊福部は様々な楽器の蒐集家でもあった。)

 余計な知識ではなく、音楽を聞いての感動を重視するということで、この書物の第8章「音楽観の歴史」を読みながら、自分の音楽についての知識と音楽観とをお浚いしてみるのがいいだろう。古いところでは「バッハとヘンデル」や「ウィーン楽派」に偏らず、ヨーロッパ全域の古代から近世に至る音楽の流れを概観しているのは親切だし、ヘンデルの作品にはムラが多いが、バッハは「あまりに完全にできている」(104ページ)という評価などその的確さに感心させられる。バッハとストラヴィンスキーの関係について論じているのも興味深いところである(伊福部はストラヴィンスキーを高く評価しているような印象がある)。第9章の『現代音楽における諸潮流』はロマン主義、印象主義以降の音楽を作曲家ならではの整理の仕方でまとめている。その中で民族的な思考と非民族的な思考が音楽の中にどのように反映してきたかを論じているのも興味深いところである。
 思い出すのは、昔よく「ロシア音楽の5人組」ということで、バラキレフ、キュイ、ボロディン、ムソルグスキー、リムスキー=コルサコフなどという固有名詞を覚えた(あるいは覚えさせられた)ことである。ボロディン、ムソルグスキー、リムスキー=コルサコフの音楽は結構耳にすることができたのだが、あとの2人が問題で、かなり年を取ってから、バラキレフとキュイの音楽に接したという記憶がある(その過程で、バラキレフがすごい作曲家であったということを自分なりに認識することになった)。伊福部は、バラキレフ、ボロディン、ムソルグスキーについてはゲーテの「真の教養とは、再び取り戻された純真さに他ならない」(152ページ)という言葉を音楽の世界で実現したと肯定的で、リムスキー=コルサコフについては否定的、キュイについては無視を決め込んでいる(そういえば、チャイコフスキーやラフマニノフについても無視を決め込んでいる)。この考えが正しいかどうかはこれを読んだ皆さんが、5人の作品を聴き比べて判断する以外にないのだが、私自身はかなり納得している。
 もう一つ思い出すのは、ポーランド映画『灰とダイヤモンド』の終わりの方のパーティーの場面で、映画の主題曲的な扱いを受けているポーランドの作曲家の作品が演奏されているのに対して、モスクワから戻ってきた共産党の幹部がショパンの「軍隊ポロネーズ」を演奏しろと命令する場面で、確かに、前者は民族的、後者はより国際的な性格をもった音楽である。どちらがいいかというのは好き好きだし、両方ともいいという考え方もありだと思う。どちらかの立場をすべての人間に対して強要するというのは、音楽という芸術の趣旨に添わないと思うのである。

 どうも話が本からそれてしまった。とにかく譜面1つ使わずに、音楽についてこれだけ簡潔にまとめた入門書は少ないと思う。「ゲーテは「不遜な一面がなくては芸術家といわれぬ」と述べていますが、鑑賞することもまた立派な芸術であることを忘れたくはないものです。」(157ページ)というこの書物の末尾の言葉は、一生(といっても残りわずかであるが)忘れることのできない言葉の一つとなるだろう。

『凸凹猛獣狩』と『マルクスの二挺拳銃』

8月26日(金)晴れ後曇り

 8月25日、シネマヴェーラ渋谷で「映画史上の名作15」の特集上映から『凸凹猛獣狩』(Africa Screams , 1949, チャールズ・バートン監督)と『マルクスの二挺拳銃』(Go West, 1940,エドワード・バゼル監督)の2本を見た。この特集上映シリーズは「映画史上の名作」と謳ってはいるが、中にはかなりの怪作・奇作も紛れ込んでおり、それがかえって上映を魅力的なものにしているところがある。今回の2本も、それほどの傑作ではないとは言うものの、喜劇映画に興味がある人間ならば見ておく必要がある作品である。

 1940年代にデビューして人気を博したバッド・アボット(Bud Abbott, 1897-1974)とルウ・コステロ(Lou Costello, 1906-1959)のコンビについて、小林信彦は次のように紹介している。「アメリカの漫才は、片方がマトモで、片方がイカレ型と、タイプが決まっているが、この場合は、大男で人相の悪いアボットがマトモ型で、すねた子供みたいな顔をしたデブのコステロがイカレ型だった。」(小林(1983)『世界の喜劇人』(新潮文庫)、85ページ) 実際、この作品でも笑いを振りまくのはコステロ1人だけで、アボットは全く面白くない。

 デパートの書籍売り場で、なぜかサファリ・スタイルでアフリカについての本を売っている店員のスタンリー・リヴィントン(コステロ)は、売り切れた本を探している2人組から、その本の中の地図を思い出して再現できれば1000ドルやるといわれる。彼の上司(アボット)のところにはダイアナ(ヒラリー・ブルーク)という美人がやってきて、やはり同じようなことを要求し、2500ドル出すという。実は、この2組はグルであり、スタッフを集めてアフリカに行こうとしているのだが、猛獣狩は表向きで、何か他に狙いがあるらしい。

 スタンリー・リヴィントンというのはアフリカ探検で有名な2人の人物ヘンリー・モートン・スタンリーとデヴィッド・リヴィングストーンを合わせたような名前だが(一説に、もともとはスタンリー・リヴィングストンという名前だったのが、どこかの段階でタイピストが名前を打ち間違えてこうなったのだという)、こちらのスタンリーは子猫にも恐れをなすほどの動物嫌いで、臆病な性格なのだが、欲に目のくらんだ相棒のアボットにのせられて2人で猛獣狩についていくことになる。
 アフリカでは、ゴリラを生け捕りにしようと落とし穴やわなを仕掛けている人物に出会ったりするが、その落とし穴に落ちたゴリラを間違えて助けたことから、スタンリーはこのゴリラに好意を持たれることになる。彼の臆病が知れ渡ってきたことから、名誉挽回のための芝居を思いつき、実行しようとするが、事態は思わぬ方向へと進んでいく・・・。

 『マルクスの二挺拳銃』はセールスマンのグラウチョと、金鉱を掘り当てようというチコ、ハーポの2人組が西部に出かける。彼らが西部に向かう鉄道に乗り込もうとしている駅でひと騒ぎがあるが、それは見てのお楽しみ。西部のある町で、対立している2つの家系があり、その息子と娘が恋仲であるというロミオ&ジュリエット的な設定があって、男の方が大陸横断鉄道の路線を相手の家系の地所に通すことで、対立を解消しようとして鉄道会社に提案をする。チコとハーポは娘の祖父に出会って、土地の証文と伝言を託されるのだが、無一文なのに、酒が飲みたいということから、町の酒場でその証文を手放してしまう。

 何としても証文を取り戻さないといけないことに気付いた2人は、偶然再会したグラウチョとともに、町のボスの家に乗り込み、留守を幸いに金庫を破って(彼らのことだから、どんな破り方をするか分かったものではない)証文を取り戻す。そして恋人たちと馬車で駅に向かう。この場面でハーポがあまり見かけない楽器を演奏しているが、ジョー・ハープであろうか。それから先住民の集落で一泊させてもらうが、グラウチョとチコが下らないことをしゃべって酋長の気を悪くさせるのに対し、口がきけないハーポが気に入られるというくだりがおかしい。(「猛獣狩」で原住民の酋長から、コステロが「好物」のデブとして狙われ、追いかけられるというギャグよりも、異文化交流の機微をつかんでいる。) そのあと、「ネロ以後のもっとも有名なハープ奏者」と呼ばれるハーポのハープ演奏が聞ける。そして、証文が東部の鉄道会社に届くのを阻止しようという悪人たちと、3人組の間で手に汗握る列車大追跡の場面が展開される。小林信彦さんはこの大追跡が「スラップスティック史上に残る傑作」、「これは、おそらく、マルクス末期の輝き」(小林、前掲、76ページ)であったと高く評価している。ここで、蒸気機関車が石炭ではなく薪を燃料にして走っているのが大事なポイントだが、実際に薪を燃料にしている例はどのくらいあったのだろうか。

 小林信彦さんはもっぱらスラップスティック喜劇の復興という視点から、凸凹、マルクス兄弟の芸風や作品について論じていたのであり、それゆえコステロの表情のおかしさとか、ハーポのパントマイム芸の巧みさが強調されているのであるが、かれらがトーキー映画の時代になってから活躍したこと、特にマルクス兄弟の場合、おしゃべり(主にグラウチョ)と楽器演奏(チコのピアノと、ハーポのハープ)、それに歌のうまさも見逃してはいない。マルクス兄弟の時代はまだまだラジオの時代であったのが、凸凹は映画で落ち目になってからテレビに活路を見出したというようなところにも、かれらの芸がそれぞれの時代を反映していたことの証拠が見いだされそうである。

日記抄(8月19日~25日)

8月25日(木)晴れたり曇ったり

 8月19日から本日までの間に経験したこと、考えたことなど:
8月19日
 大学入試センター試験の後継新テストをめぐり、記述式の導入の検討が進められているそうである。受験者の多様な可能性を掘り起こすことができるという意味で、歓迎すべき変化には違いないが、他にも改善すべき点はあるし、入試制度さえ改善すれば大学はよくなるというものではない。

 『朝日』朝刊の連載記事「笑いにのせて」の最終回で、久米宏さんが「波風立てる それがテレビ」「お上は必ずしも正しくないぞ」と主張している。大橋巨泉さんと『11PM』から学んだのは、誰だってミスをするということであったという。巨泉さんの発言には毒があり、それが波風を立てて、視聴者を適度に緊張させていたと思う。「お上は必ずしも正しくない」というのは物事の一面で、「民衆は必ずしも正しくない」というのも一面ではないか。視聴者を適度に緊張させ、考え直させるというのも、司会者にとって大事な役割の一つである。

8月20日
 リオ・オリンピックの女子競泳に出場していた池江選手が、帰国してすぐに高校総体に出場して活躍している。元気だなぁと感心させられる。

8月21日
 ニッパツ三ツ沢球技場で横浜FC対清水エスパルスの対戦を観戦する。前半は0-0で持ちこたえたが、後半、地力の差が出て0‐2で横浜が敗れる。隣県ということもあるが、清水サポーターの数が多く、横浜駅近くの飲食店もそれなりに潤ったようである。

8月22日
 NHK「ラジオ英会話」はコミュニティーカレッジから州立大学の3年次に編入してきたジェシカという女子学生の大学生活を取り上げているが、今週は”Two Weeks into the Semester" (新学期が始まって2週目)ということで、ジェシカが図書館で勉強をしている場面から始まる。
I have tons of homework. I have to read this novelette, and write a paper about it by tomorrow! (宿題が山のようにあるの。この中編小説を読んで、そのリポートを明日までに書かなくてはならないの!)
と彼女は言う。homeworkは宿題という意味のほかに、予習という意味もある。英国の学校を訪問した際にhomework roomというのを見たことがある。住宅事情などが劣悪で、本来、家庭ですべき学習作業ができない生徒のために設けられた部屋である。noveletteは中編小説で、short story (短編小説)より長く、novel (長編小説)よりも短いものをいうそうである。フランス語だとconteが短編小説、nouvelleは短・中編小説、romanが長編小説だというから、気を付けないといけない。

8月23日
 「ラジオ英会話」の”U R the ☆!” (You are the star!)で練習した会話:
This is a tough one. (これは難問だ。)
What question are you on? (今どの問題に取り組んでいるのですか?)
What are the three great gardens in Japan. (日本の三名園は?)
I see. Do you need help? (なるほど。手伝いましょうか。)
番組では答えを示していなかったが、水戸の偕楽園、金沢の兼六園、岡山の後楽園というのが一般的な回答ではないか。

8月24日
 NHKラジオ「実践ビジネス英語」は”Juggling Work and Life" (仕事と私生活を両立させる)というビニェットに取り組み始めた。work-life balanceは仕事と私生活〔家庭〕のバランス〔調和〕ということであるが、The line between work and home is becoming increasingly blurry for urban professionals. (都会の専門職の人たちの場合、仕事と私生活の境界線はあいまいになっていく一方です。)
という意見がある一方で、If people like what they do, there's no reason to make a strict demarcation between the two. (自分の仕事が好きならば、その2つを厳密に分ける理由はありません。)という意見もある。

 同じ番組の”Quote...Unquote"のコーナーで取り上げられた言葉。
Those who do not complain are never pitied.
(from Pride and Prejudice )
(不平不満を言わない人は、決して哀れみは受けない。)
 それだけで済めばいいのだが…。

8月25日
 「実践ビジネス英語」のビニェットの続き。"work-life balance"ではなく、"work-life integration"(仕事と私生活の融合)を実現しようとする人々がいるという話から、創造的な分野で働く人の中には、仕事がほとんど遊びの一種である幸運な人たちがいるという発言が飛び出し、それに対して、
Creativity isn't necessarily confined to the arts. Imagination and passion are important qualities in all kinds of fields. (創造性は必ずしも芸術だけのものではありません。想像力と熱意は、あらゆる種類の分野で重要な資質です。)
という意見が述べられる。

 シネマヴェーラ渋谷で「映画史上の名作15」の特集上映から『凸凹猛獣狩』と『マルクスの二挺拳銃』の2本立てを見る。この2本については改めて論評するつもりである。

ゴーゴリ『死せる魂』(3)

8月24日(水)晴れたり曇ったり、昼頃には雨が降った。

 1830年代初めごろのロシア。モスクワの西か、西北の県庁所在地であるNN市に、チチコフという男が現れた。もとは官等が高くもなく低くもなかった役人であったらしいこの男は、市の有力者たちを訪問して回り、さらにこの市の主な社交の場に出入りしながら、彼らの心をとらえるようになる。それだけでなく、彼はマニーロフ、ソバケーヴィッチ、ノズドリョーフといった市の周辺の地主たちとも知り合いになる。
 1週間ほど市に滞在した後に、チチコフは郊外に足を延ばし、マニーロフを訪問して歓待を受けるが、その際に奇怪な申し出をする。その頃のロシアでは7年あるいは10年に1度農奴の人口調査が行われ、その結果にしたがってもし、農奴が死んでも次の調査の結果が出るまで地主は人頭税を支払わなければならなかった。そこで死んだ農奴を自分が買い入れて、自分の財産として登記しようというのである。地主の側からすれば、うまい話なのだが、どうも胡散臭い。しかし、マニーロフはチチコフの弁舌に説得されて、この申し出を受け入れる。
 最初の試みがうまくいったことに喜んでいたチチコフであるが、マニーロフの屋敷で手厚いもてなしを受けて、すっかりいい気になったチチコフの御者セリファンが道を間違えて、コローボチカという女地主の屋敷で一晩を過ごすことになる。物分かりが悪く、そのくせ神経質な彼女は、死んだ農奴を売ってほしいというチチコフの申し出を頑固に拒否するが、結局、彼の説得に負けて売り渡すことに同意する。
 本街道に出て、ソバケーヴィッチを訪問しようと思っていたチチコフは、料理店で食事をとっていると、思いがけず、定期市に出かけて、そこで行われた賭博で無一文になったノズドリョーフに出会い、無理やり彼の家に連れていかれる。ノズドリョーフは酒を飲んだり、チチコフを賭博に誘ったりした挙句、暴力をふるいだし、折よく警察官がノズドリョーフのかかわったある事件で彼が審理中である旨を警告に来たのを利用して、這う這うの体で逃げ出した。(以上第1部第4章まで)

 本街道に戻ってきたチチコフは、馬車の衝突事件を起こしたりするが、ようやくソバケーヴィッチの村に到着する。ソバケ―ヴィッチの村はなかなか大きくて、おそらくは彼の考えを反映したがっしりとしたつくりの不細工だが丈夫そうな家々が並んでいた。ソバケ―ヴィッチはマニーロフとは大いに違う性格の持ち主で、自分の周辺のあらゆる人間に辛辣な評価を下しまくった。とくに自分よりも多くの農奴を所有しているが、きわめて吝嗇な生活を送っている近所のプリューシキンという地主のことを悪く言うので、チチコフはかえってこの男に興味をもつ。死んだ農奴の売買という話になると、ソバケーヴィッチは欲の皮を突っ張らせて、1人当たり100ルーブリなどと法外な売値を持ち出し、チチコフとの間の交渉はなかなかまとまらない。それでも交渉がまとまると、ソバケ―ヴィッチは手付金を、これに対抗してチチコフは受取証を要求する。ソバケ―ヴィッチの態度に腹を立てながら、彼の屋敷を出たチチコフは、彼が悪く言っていたプリューシキンという地主を訪ねようと思って、道で出会った農夫に道筋を訪ねると、農夫はプリューシキンなどという名は知らないが、あの《襤褸(ぼろ)っさげ》のことですかという。「まったくロシア人の毒舌にかかっては堪らない!」(上巻、207ページ) チチコフはこの渾名の見事さに感心してしまう。

 ということで、ゴーゴリはこのことから、ロシア語がロシア人の国民性とどのように結びつき、どのような特色を持っているかについてのちょっとした議論を展開するのである:
 円頂閣や円塔や十字架を頂いた寺院や修道院が、聖なる信仰の国なる我がロシア帝国に数限りなく散在するように、数限りない人種や、民族や、国民がこのこの地球上に群れつどい、ごたごたと入り乱れて、押し合いへし合いしている。そのどの国民もが、それぞれ才能の兆しを持ち、創造力に富む精神や、おのおのの水際立った特異性や、その他いろんな天分を兼ね具えながら、それぞれ固有の言語によって他の民族との間に劃然たる区別をつけている。しかもその言語たるや、いかなる事物を表現しても必ずその表現に独自の国民性の一部を反映している。イギリス人の言葉には人心の洞察力と、人生に対するどこまでも賢(さか)しい認識が感じられ、フランス人のはかない言葉は軽佻な洒落となってぱっと輝くと、そのまま雲散霧消してしまい、またドイツ人の知的ではあるが、ぎこちない言葉は、ちょっとまねのできない独自の工夫や発明をやすやすとやってのける。けれど的確に表現されたロシア語ほど大胆不敵で、しかも心の奥底からほとばしり出て、生気溌剌として沸き立つ言葉は他にないだろう。」(上巻、208-209ページ) このゴーゴリの言葉をツルゲーネフがその散文詩で表明した「これほどの言葉が偉大な国民に与えられていないとはどうしても信じられないのだ」という言葉と比べてみると、ロシア語への愛は両者に共通するとは言うものの、ロシアの社会や国民への信頼と希望は、ゴーゴリの方が強かったと思われるのである。(以上第1部第5章)

 さて、チチコフは広大だが荒廃した村にたどり着く。そこがプリューシキンの村であった。プリューシキンの住処らしい「この法外にだらだらと長い奇妙なお城は、どこか老いぼれの廃兵といった恰好をしている」(上巻、214ページ)。その地主館から出てきた男なのか女なのか、家政婦なのか執事なのかわからない人物が実はプリューシキンその人であり、もともとは平凡だが幸福な生活を送っていたのが、妻に先立たれて、次第に吝嗇の性向が強くなり、子どもたちも去って行ってしまったので、ますます社会から孤立して「莫大な自分の財産の番人、管理者、所有者として、独りぼっちになってしまった。孤独な生活はいやがうえにも彼を吝嗇にした。周知のとおり、吝嗇というやつは狼のように貪欲なもので、がつがつと貪れば貪るほどいよいよ貪婪になるものだ。彼の心には、さなきだに人間らしい感情が乏しかったのに、それが刻一刻とうすれて、見る影もなくぼろぼろになった身からは日ごとに何かが失われていくのだった」(上巻、226ページ)という存在である。目に入るものはすべて持ち帰って自分の財産にし、家政には気を配らず、仲買人にも頑固一点張りの対応しかしなくなった。
 吝嗇漢であるプリューシキンはチチコフの申し出が自分の利益になるものであることを見抜いて、承諾し、旧友で(チチコフにとっても新しい友人である)裁判所長に手紙を書いて登記のための手続きの依頼をした。死んだ農奴に、蓄電した農奴を加えると200人を超える農奴がチチコフの手に入った。

 こうして(「死せる魂」の持ち主である)地主たちのもとを回ったチチコフは夥しい数の超える死んだ農奴たち(=もう1つの意味における『死せる魂』) を手に入れ、NN市の旅館に戻り、ぐっすりと眠ったのであった。(以上第1部第6章)

 すでに書いたように、『死せる魂』はダンテの『神曲』に倣った『地獄』『煉獄』『天国』の3部構成を取りながら、ロシア社会の善と悪、現実と希望を描き出そうとする構想に基づいて執筆された者である。しかし、『地獄』に相当する第1部こそ完成したものの、第2部の執筆が遅々として進まないまま、ゴーゴリはその大半を焼却したりして、発表しないままこの世を去り、第2部は一部分だけしか残されていない(岩波文庫版の下巻が第2部を収録している)。
 ダンテの地獄は、語り手が歩めば歩むほど重罪人の罰せられている場所に達するのであるが、チチコフの出会う地主も、だんだん人格の破壊がひどくなっていくように思われる。ダンテは中世的な数の考えを使いながら、緻密に地獄を計算して表現したが、ゴーゴリはロシア農村の写実的な描写を徹底させることで、社会の罪や悪の問題を抉り出そうとしているようである。とはいえ、ゴミ屋敷と化したプリューシキンの地主館や彼の暮らしぶりの描き方など、写実的であるとともにユーモアを潜ませていて、この作家の強い個性を感じるのである。

 地主たちへのチチコフの訪問と、「死せる魂」の買い付けは、ここで終わり、物語は新たな展開を遂げることになる。それはまた次回以降のお楽しみに。
 

『太平記』(120)

8月23日(火)曇り

 建武2年(1335年)7月、北条高時の次男時行が信濃で、名越(北条)時兼が北国で挙兵した。鎌倉にいた足利直義は、時行の大軍を防ぐことができず、7月26日に鎌倉から退却して西に向かった。その際、部下の淵野辺甲斐守に命じて、土牢に監禁していた護良親王を殺害した。

 足利直義は、鎌倉を脱出して京都に向かおうとしたが、気にかかるのはその際に難所として知られる場所を通らなければならないことで、まず頭に浮かんだのが駿河国入江庄(静岡市清水区入江)である。もし、北条時行に味方する武士たちがここで道を防いでいると、大変なことになると直義の率いる士卒は皆これを危ぶんだのであった。そこで、この入江庄の地頭である入江左衛門春倫(はるとも)のもとに、使者を送り、味方として協力してほしい旨を伝えた。
 春倫の一族の中でも、北条氏が再興の時節がやってきたと判断していた者たちは、ここで直義を打ち取って、北条時行のもとにはせ参じようと意見を述べたが、春倫はつくづくと思案して、「天下の落ち着く先は、愚かな我々の知るべきところではない。ただ、義の向かうところを考えると、入江庄はもともと得宗領であったものを、朝廷の恩顧により我々の所領として下され、この2,3年の間というもの、一族を豊かに守り育てることができた。我々はもともとの天子の恩に加えてさらに恩を受けている。今、この時、宮方の運が傾いた弱みに乗じて、不義の振る舞いをするという道義に合わぬことがどうしてできようか」と、さっそく春倫自ら直義を迎えに出かけた。これには直義も大いに喜んで、さっそく彼らも合流させ、三河の国の矢矧(やはぎ)の宿に陣を取り、ここでしばらく、疲弊した馬を休ませ、京都に早馬を立てて急を知らせた。(入江氏はもともと得宗の被官であったから、時行に味方するという選択肢もあったのだが、春倫は建武の新政権により入江庄が自分たちの所領になったということの方を重んじた。ご本人は、「義」を重んじているといっているが、客観的に見れば、利に従っているようにも見える。矢矧宿は現在の愛知県岡崎市矢作町、矢作川沿いにあった宿場で、鎌倉時代に守護所が置かれ、足利氏が三河守護だった関係で、一帯には多くの一族が住んでいた。直義がここを反攻の足掛かりとしようとしたのは、ごく当然の判断であったと思われる。)

 この知らせを受けて、京都では公卿たちが合議を行い、急いで足利尊氏を討伐のために派遣することに決まった。そこで勅使を尊氏のもとに派遣して、この旨を伝えた(尊氏は、本文で「宰相」(=参議)と呼ばれていることからすると、公卿たちの合議に参加できるはずなのだが、どうも加わっていなかったらしい)。
 尊氏が勅使にこたえて言うには、建武の新政権が樹立されるにあたって、彼が他の武士たちに影響力を発揮して朝廷方に引き入れた功績は大きい。東国に下るにあたり、できれば征夷将軍の官を授けてほしい。征夷将軍は武士の家柄である源氏と平家のものが軍国によって就任してきた例が多い。「この一事殊に朝のため、家のため、望み深きところなり」(第2分冊、334ページ、将軍に就任するということは、特に朝廷のため、我が家のため、特に深く望むところです)という。
 さらに戦闘の後で軍功を都に報告して判断を待っていたのでは時間がかかってしまうので、暫定的に関東8か国の管領を許していただき、賞罰をその場で行うことを認めててほしい。この2つの御願いを聞き入れていただくのでなければ、関東の討伐は他の武将に任せてほしいというのである。

 征夷将軍への任官、関東管領という2件は、この後天下が乱れる発端になる重大事であったので、天皇もよくよくお考えになるべきであったのに、尊氏が申請したとおりに、簡単に承諾されてしまった。(歴史的事実としては、両方とも勅許をえられないまま、尊氏は出発したというのが真相である。) 「征夷将軍のことは、関東平定の成否に依ることにしよう。関東8か国の管領のことは、問題ない」とお考えになって綸旨を下された。これだけでなく、もったいないことであるが、天皇の尊治というお名前の一字を高氏に与え、尊氏と名乗らせたのであった。(史実では、元弘3年(1333年)8月のことである。吉川英治の『私本太平記』が、この件をめぐり『太平記』ではなく、史実の方に従っていることも注目しておこう。)
 すでに何度も援用している森茂暁『太平記の群像』には、この間の事情をめぐり、「翌8月、尊氏は反乱鎮定のための下向を決意し、征夷大将軍・惣追捕使の職を後醍醐に要求するが許されず、かわりに征東将軍に補された。その様子は『神皇正統記』に記されている。
 高氏は申うけて、東国にむかひけるが、征夷将軍ならびに惣追捕使を望みけれど、征東将軍になされて、悉くはゆるされず。」
(森、角川文庫、126ページ)と記されている。征夷将軍として既に成良親王が直義とともに鎌倉に派遣されていたのだから、尊氏の要求はかなり横暴なものであったと考えられなくもない。)

ダンテ・アリギエリ『神曲 煉獄篇』(33-2)

8月22日(月)台風の通過で風雨強し。午後になって、弱まったが、曇り空が続く。

 1300年4月13日。煉獄山を登って、その頂上にある地上楽園に達した(第28歌)ダンテはベアトリーチェに出会い、彼が神の道から外れていたことを責められるが(第30歌)、己自身の罪を悔いて気を失っているうちに地上楽園で最初に会った貴婦人により地上楽園を流れるレーテ川に浸され、地上における罪を忘れるその水を飲まされた(第31歌)。神の真理を体現するベアトリーチェの素顔を見ることができたダンテは、彼女から、これから彼の目の前に出現するキリスト教とその教会の運命を示す幻をよく見て、地上の人々に伝えるように言い渡される。世俗化し腐敗したローマ教会は、フランス国王により教皇がアヴィニョンに連れ去れるという悲惨な運命にさらされている(第32歌)。この運命を嘆き悲しみながらもベアトリーチェは1人の<五百十五>(515をラテン数字化して並べ替えるとDVXとなり、これはラテン語で「指導者」ということである)が現れて、教会の敵を滅ぼすであろうと予言する。そして善悪を知る知恵の木が普通の木とは逆に立っていて、誰もこの木に登れないようになっているのは、神の正義が人間を含む他の何物からも干渉されてはならないことを意味しているという。これらのこともまた地上の人々に伝えるべきことである。(第33歌前半)

 ダンテは、次のようにベアトリーチェに応える。
…「印章を受ければ
象られた形を変えることのない蝋のごとく、
あなたから今やわが頭脳は印を捺されました。

しかし待ち望んだあなたの言葉は
私の視界のはるか上空を飛翔し、
追いかけようとするほどに見失われてしまうのはなぜなのでしょうか」。
(493-494ページ) ベアトリーチェの言葉はよく覚えたが、その言葉は理解しようとすればするほどわからなくなるというのである。それに対してベアトリーチェは、それはダンテの学んだ哲学(おそらくラテン・アヴェロエス主義であろうと考えられている)が、神の意志、すなわち真理から外れているのを理解させるためであると答えた。

 ダンテは
…「私には
かつて私があなたから遠ざかってしまった記憶などなく、
そのことで自らをとがめるような意識もないのですが」。
(494ページ)というが、ベアトリーチェは、いましがた彼がレーテの忘却の水を飲んだことを思い出すように言う。
そして煙によって火の存在が導かれるように
その忘却は、他に向いていたあなたの願望に
罪があったことをはっきり示しています。
(495ページ)と言い切る。

太陽はひときわ烈しく輝き、ひときわゆっくりとした足取りで、
見る場所が異なるに従いあちこちに場所を変える
南中線にさしかかっていた。
(496ページ) ベアトリーチェとともに天上から降臨してきて、この33歌のはじめの方で、彼女から先に行くようにと言われて、先の方を進んでいた7人の貴婦人たちが
涼しい木陰との境で立ち止まった。
それはまるで山々の黒い枝に茂る緑の葉の下、
冷たい流れの上にある影のようだった。

彼女たちの前でユーフラテス川とティグリス川が
一つの泉から湧き出て、そしてまるで友人達のように
別れ難そうにしながら離れていくのを私は見ているように思った。
(496ページ) 原基晶さんは傍注で、ボエティウスが『哲学の慰め』の中で、ティグリス川とユーフラテス川は同一の泉から湧き出ていると書いていると指摘する。ボエティウス(Boethius, 480-524)はローマの哲学者で、ダンテが尊敬する人物の1人であり、ダンテが「中世最後の人」と呼ばれるのと同じように、「古代最後の人」と呼ばれる。
 なお、『創世記』には「エデンから1つの川が流れ出ていた。園を潤し、そこで別れて、4つの川となっていた。…第3の川はチグリスで、アシュルの東の方を流れており、第4の川はユーフラテスであった。」(新共同訳、創世記2.10,14) とある。ここで「アシュル」はアッシリアのことであろう。本当のところ、ティグリスとユーフラテスは下流で合流して一つの川になっている。(エデンの園はこれらの川の下流域にある肥沃な土地がモデルになっているという説もある。)

 ダンテはベアトリーチェに泉から流れ出している川について聞くと、彼女は、マテルデにたずねなさいという。地上楽園でダンテがはじめに出会った貴婦人の名はマテルデといったのである。マテルデは、川の名については一度説明した(28歌)はずだが、なぜ忘れてしまったのかと不思議がり、ベアトリーチェが、おそらくほかのことに気を取られて失念したのであろうとかばう。そして、その水を飲むと地上における罪を忘れるレーテの川と対をなす、善を記憶するエウノエの川の水をダンテに飲ませるように言う。マテルではダンテの手を引いて進み、またスタティウスにもついてくるように言う。こうして、エウノエの川の水を飲んだことで、ダンテの浄罪は完成する。

私はいとも聖なる波間から
新しい葉で新たに飾られた
新しい草のように生まれ変わって戻ってきた、

無垢になり、昇る構えができたのだ、星々を目指して。
(499ページ)
 こうして、『煉獄篇』は完結し、いよいよ『天国篇』33歌に続くことになる。参考のために、山川丙三郎(岩波文庫)と壽岳文章(集英社文庫)による、この最後の4行の翻訳を紹介しておこう。

さていと聖なる浪より歸れば、我はあたかも若葉のいでて新たになれる若木のごとく、すべてあらたまり
清くして、諸々の星にいたるにふさはしかりき
(岩波文庫版、212ページ)

私は、こよなく聖なる浪から出てきた、新しい葉をつけ、すっかり衣がえした新しい樹々をさながらに、よみがえり、
身を清め、いざ登るべく、かの星々へ。
(集英社文庫版、431ページ)
 罪を清めて生まれ変わったダンテが原さんの訳では「新しい草」にたとえられているのに対し、山川訳では「新たになれる若木」、壽岳訳では「新しい樹々」と樹木にたとえられているのは、気になるところである(今、すぐにというのは難しいので、近いうちに原文を調べて、確かめてみるつもりである。)

 原さんの訳(講談社学術文庫)には、「『煉獄篇』を読み終えて――カヴァルカンティ、ダンテ、ペトラルカ」という13世紀末から14世紀におけるイタリアの詩のなかでの「愛」の取り上げ方をめぐる論考が付録としてつけられている。紹介されているカヴァルカンティの詩は理念的すぎるように思うのだが、この時代の文学についてもっとよく知るためには、さらにほかの作品や論考も見ていかなければならないのではないかと思っているところである。

 さあ、来週からはいよいよ『天国篇』である。ベアトリーチェに導かれてダンテはどのような旅をするのであろうか。

お嬢さん社長

8月21日(日)曇り

 横浜シネマ・ベティで「ひばりチャンネル」第78回の『お嬢さん社長』の上映を見る。この企画で、この作品を見るのは2回目である。美空ひばりが歌に踊りに活躍するこの作品は、昭和28(1953)年12月29日に封切られた松竹の正月映画である。ひばりの愛称の「お嬢」はこの作品がきっかけとなって定着したものだそうである。この後、ひばりは東映と専属契約を結び、映画スターとして新たな一歩を歩みだすことになる。また、この作品を監督した川島雄三と、出演者の1人である月丘夢路は間もなく日活に移った。いろいろな意味で、区切りとなる作品である。

 16歳の大原マドカ(美空ひばり)は日本一乳菓という製菓会社の社長の孫娘である。祖父の溺愛を受けて育った彼女はわがままいっぱいで、今日もSKDの男役スターである江川滝子(本人)を連れ出してゴルフを楽しみ、開演時刻に間に合いそうもなくなった彼女をタクシーで国際劇場に送る。劇場の舞台監督をしている秋山五郎(佐田啓二)は彼女が人気スターを独り占めしようとするわがままさを批判する。マドカは彼の言葉に心を改め、浅草の稲荷横丁の秋山の住まいを訪ね、そこで幇間の三八(桂小金治)、インダストリアル・デザイナーの並木啓吾(大坂志郎)、近所に住む娘の森川菊子(小園蓉子)たちと知り合う。三八の師匠である一八(坂本武)は、マドカの後姿を見て、何か気にかかることがある様子である。

 日本一乳菓はマドカの祖父小原重三郎(市川小太夫)がワンマン社長として君臨し、薄利多売をモットーとして経営してきた。経理部長である赤倉(清水一郎)が社長の方針に不満を漏らしたために解任し、その後任としてくしゃみをする癖が抜けない貝谷鉄太郎(有島一郎)を据える。貝谷の娘である由美子(月丘夢路)は社長の秘書である。重三郎は自分の血圧が高く、体調が思わしくないことから、孫娘を社長にしようと考えているのだが、肝心のマドカは歌が好きで、歌劇スターを夢見ている。実は彼女の母親は歌劇のスターだったのである。

 水上バスで浅草に出かけたマドカは案内放送をしていた菊子に呼び止められ、稲荷横丁に出かける。秋山と再会した彼女は、自分も母のようになりたいという夢を語るが、秋山は相手にしない。そこでマドカは演芸大会に飛び入りで出場して自慢のうたをうたい、秋山を納得させるが、その時、祖父の重三郎が倒れたという知らせが入る。急いで駆け付けたマドカは社長に就任するように言われ、渋るが、由美子が会社は新しい力を必要としているといって、彼女を説得する。(ここで、マドカは「皇太子さまです」というのが、現天皇の皇太子時代の人気というのを思い出させて、奇妙に納得した場面である。あの頃、『平凡』だの『明星』だのという雑誌には、「皇太子さま」の記事があふれていたものである。)

 社長に就任したマドカは、由美子の助言もあって、社員が昼休みに歌を歌うことを提案する。こうして社内の空気は少し明るくなったが、その一方で、重三郎に首にされた赤倉は会社の乗っ取りをたくらみ、専務の安田(多々良純)らと謀議を凝らしている。貝谷経理部長もその仲間に引き込まれているのを、由美子はうすうす気づき始める。
 様々な書類に社長印を押してばかりいるのに飽きてきたマドカは少しずつ社長業に目覚め始め、不審に思った書類を並木に点検してもらう。そして、並木を社員に採用して、経営戦略の見直し、テレビを利用した宣伝活動を展開することを提案・実行する。テレビの『日本一アワー』という番組に社長自らが歌手として出演し、視聴率を稼ぐのである。その演出にあたったのは秋山である。こうして、経営の革新を図るマドカに対し、専務の一派もさまざまな手を用いて妨害活動を行い、会社の乗っ取りを画策する。・・・
 
 この後に制作されるひばり主演の時代劇のかなりの部分がそうであったように、この映画の物語の大筋は、「お家騒動」であり、さらに、これにマドカは彼女の父が、一八の娘であった歌劇スターとの間に設けた子どもであるという出生の秘密と、会社社長と幇間という2人の祖父の間の確執がもう一つのストーリーを作る。(さらに、マドカの秋山に寄せるほのかな恋心と、秋山と由美子の間の恋、さらには並木と菊子の間の恋の行方も絡む。) 物語の作り方は、このように伝統的な手堅い構造をもっていて、その中で新旧の対立が語られているわけである。こうした物語の進行の随所にひばりの歌がはめ込まれていて、川島の右腕であった脚本の柳沢類寿の構成に感心する一方で、川島監督が実景とセット撮影とを組み合わせながら、時代の風俗を巧みに描ききっていることも注目したいところである。

 はじめにも書いたが、これが松竹で製作された最後のひばり主演映画であり、その後の彼女の出演策への一つの跳躍台となる作品であったように思われる。川島の前作、『東京マダムと大阪夫人』への出演者が、「東京マダム」を演じた月丘をはじめとして、「大阪夫人」の夫役であった大坂志郎、坂本武、桜むつ子、多々良純、小藤田正一、稲川忠寛と7人に及ぶ(もっといるかもしれない)。桂小金治は川島がその師匠であった桂小文治を口説いて映画界入りさせたという、川島組の常連の1人であり、小園蓉子は『とんかつ大将』で目の不自由な若い娘の役を演じた出演歴がある(ひばりとは『リンゴ園の少女』で共演したことがある)。というわけで、川島は正月映画としてのこの作品の撮影に当たり、気心の知れた俳優を集めているようである。(大坂志郎について、高橋治がその小津安二郎論で書いていることを念頭に置けば、「気心の知れた」ということの意味がもっとよくわかるはずである。) ついでに言うと、この作品のチーフ助監督は中平康で、おそらくは彼の段取りの良さも手伝って、映画の撮影は快調に進んだものと思われる。

 おまけにつけ加えると、私はこの映画を見るために、横浜駅前から滝頭行きのバスに乗ったのだが、横浜市磯子区滝頭は美空ひばりの出身地なのである。

シング・ストリート 未来へのうた

8月20日(土)晴れたり曇ったり

 横浜シネマ・ベティで『シング・ストリート 未来へのうた』を見る。帰宅後、その感想を書いて、ブログを更新するつもりでパソコンに向かううちに眠ってしまった。それで、更新をあきらめて、早めに寝ることにした。おかげで、夏風邪は治ったのだが、ブログの更新がまたもや1日遅れになった。8月21日は、午前中に横浜シネマ・ベティで<ひばりチャンネル>第78回の『お嬢さん社長』を見て、夜は横浜FC対清水エスパルズの対戦を見に行く予定なので、あまり時間が取れない。22日は、シネマヴェーラ渋谷で『凸凹猛獣狩』と『マルクスの二挺拳銃』を見に行く予定(もっとも台風の動きによってどうなるかはわからない)なので、ブログで取り上げる話題の方には事欠かないが、更新している時間がとれるかどうか我乍ら不安である。そんなこんな、自分のわがままな都合でブログの更新の遅れが続きそうだが、その分、できるだけ面白い記事を書くつもりなので、ご容赦ください。

 さて、『シング・ストリート 未来へのうた』(Sing Street)であるが、1980年代のアイルランドの首都であるダブリン。この少し後になると、アイルランド経済は「ケルトの虎」などと呼ばれ、活況を呈することになるが、この時代は慢性的な不況に苦しみ(今もまた、この時代に逆戻りしているようである)、青年たちは希望がないままに英国やアメリカに希望を見出して、移住しようとしていたころの話である。ダブリンで暮らすコナーは、父親が失業したために、授業料の高いイエズス会の学校から、授業料の安いクリスチャン・ブラザーズの学校(つまり、シング・ストリートSynge Streetの学校)に転校させられる。母親の不倫で夫婦関係が壊れているのに、親の言うことが絶対で、彼の兄も音楽への夢をあきらめ、大学を中退させられたのである。親だけでなく、教師の権威もまだまだ絶対的で転校早々、校長から黒い靴を履いていないことで文句をつけられ、黒い靴を買うまでは、校内では靴を履くなと言われる。比較的裕福な家庭の子どもが通う学校から転校してきたこともあって、この荒れた学校の血の気の多い生徒たちからは恰好のいじめの対象になりかける。

 彼に好意をもったのが、チビで茶髪、頭がよく働くというかずる賢そうで、世話好きらしい少年である(私の中・高校時代を思い出しても、こういうチビで頭が良くて世話好きというタイプが何人かいたね)。彼と2人で歩いていると、モデルだと自称する(その割に背が低い)大人びた美少女ラフィナを見かけ、すっかり夢中になった彼女は「僕のバンドのPVに出ない」と口走る。例の少年をマネージャーに仕立て上げ、彼が紹介してくれた楽器なら何でもこなすという音楽好きの同じ学校の生徒とバンドを結成することにして、さらに仲間を集め、猛練習と曲作りの日々が始まる。バンドの名前を、学校の所在地(Synge Street)をもじって、(Sing Street)とする。コナーの兄も何かと協力してくれ、バンドはだんだんと実力をつけ始める。ラフィナも協力はしてくれるのだが、彼女には恋人がいるらしい・・・・。

 私が英語を習った先生の1人がアイルランド人で、クリスチャン・ブラザーズの学校を出て、アイルランド国立大学ダブリン校(UCD)を卒業されたとうかがった。(この作品のチラシに、コナーの転校先が「公立の荒れた学校」と書かれているのは間違いで、そもそもアイルランドには日本でいうような公立の学校というものがないのである。たしか、ジョイスの『若き芸術家の肖像』にイエズス会の学校と、クリスチャン・ブラザーズの学校の違いが描かれていたと記憶するが、要するに裕福な家庭の子どもが通う私立学校と、そうではない家庭の子どもが通う私立学校とがあるということである。もちろん、これ以外の団体が経営する私立学校もある。) クリスチャン・ブラザーズ(=キリスト教学校修士会)というのは、貧しい家庭の子どもたちに教育を授けるために結成された宗教的な団体であるが、修道会ではないというキリスト者(カトリック)ではない人間にとっては、わかりにくい性格の組織である。とにかく、この映画に描かれた学校と教師たち(特に校長)の姿はろくなものではなく、映画のエンディングの部分のタイトルを拾い読みしていたら、この学校の姿は昔のもので、今は違うというようなことが書かれていた。そういえばクリスチャン・ブラザーズがその経営する学校を手放して、別の団体にゆだねることにしたというようなニュースを読んだ記憶がある。アイルランドは英国の支配を受ける中で、かれらの言語(アイルランド語)は手放したが、カトリック信仰は手放さなかったというのが大方の評価であるが、カトリック信仰がアイルランド人に対して果たしている役割についてアイルランド人自身が再考を迫られているように思われる。

 映画の終わりのところで、学校についての断りを入れるということは、それだけこの作品が監督であるジョン・カーニーの10代の頃の思い出と結びついた半自伝的な性格を持っているということであり、描写も現実的で、作者の思い入れも強いということであろう。バンドの仲間を増やしていくところは、この作品よりも20年以上以前の、ダブリンとはアイリッシュ海を隔てた東側、リヴァプールにおけるジョン・レノンの10代のころの姿を描いた『ノーウエア・ボーイ』を思い出させるところがある。どこか気分のつながる仲間を探し当てていく喜びというのは、時空を超えて共通するものかもしれない。なお、リヴァプールはイングランドで一番、アイルランド系の住民の多い市であり、ある英国人などは、英国におけるアイルランドの植民地だなどと冗談を言っていた。(ビートルズのメンバーも、4人中3人までアイルランド系である。) 1人当たりのビール消費量が世界2位(1位はチェコ、3位はドイツ)というアイルランドの映画なのだが、登場人物がティーンエージャーなので、パブの場面が出てこないのも特徴的である。酔っ払いが多いというのはアイルランド人が歴史的に感じてきた抑圧感の現れなのだが、ここではその代わり、別の貧困の病理が描かれていることに注目する必要があるだろう。
 
 Synge Streetという通りの名称は、劇作家のJohn Millington Syngeにちなんだ命名だと思うのだが、登場人物はそんなことは知らないし、気にもしない様子である。彼らと違って私は、アイルランドの文学的な伝統には興味と敬意を持っている一方で、映画の中で流れる1980年代のブリティッシュ・サウンドにはあまりなじみがない(そもそも、この時代に私はすでに中年になっていた)。とはいってもダブリンはなじみのある市で、この映画で描かれた場所の近くをうろうろしていたこと、自分自身がカトリック系の学校で教育を受けている(日本のカトリック系の学校の先生にはアイルランド人が少なくない)こともあって、かなり懐かしい気分で映画を見ることができた。そういう経歴を持っていない方々でも、かなり時代のずれはあるのだが、ジョイスの『若き芸術家の肖像』を読むと、少し、この映画の舞台となっている、音楽の市であり、文学の市でもあるダブリンの雰囲気の理解が深まるのではないかと思う。

『太平記』(119)

8月19日(金)晴れたり曇ったり、暑し。

 建武2年(1335年)7月、北条高時の次男時行が信濃で、北条一族の名越時兼が北国で挙兵した。鎌倉にいた足利直義は、時行の大軍に抗しきれず、7月26日に鎌倉を退却したが、その折、淵野辺甲斐守に命じて、土牢に監禁していた護良親王を殺害した。

 なぜ、淵野辺が刀の切っ先を口で銜えた大塔宮の首を、殺害を命じた直義のもとに持参せずに、近くの藪に捨てたのかについては、理由があったのである。

 昔、中国では周の天子のもとに諸侯がそれぞれの領地を統治していた時代のこと、長江の中流域にあった楚という国を治めていた諸侯は野心家で、武をもって天下を取ろうとして、家臣たちに戦闘の訓練をさせ、自らも武芸を好んだ。ある時、楚王の后が、暑いので、鉄の柱に寄り添って涼んでいたが、不思議な気持ちに襲われて、その後すぐに懐妊し、月満ちて、鉄の球を産み落とした。楚王はそれを不思議に思わず、おそらくこれは金鉄の精霊であろうと、干将という鍛冶を召しだして、この鉄を鍛えて名剣を作れと命じた。

 干将はこの鉄をもって、その妻である鏌鎁(ふつうは莫耶と書く)とともに呉山という山にこもり、そこの神聖な水で毎日身を清めながら、精魂込めてその鉄を3年間にわたって鍛え、雌雄二振りの剣を作り上げた。この件を楚王のもとに持ってゆく前に、鏌鎁が夫に向かって言うことには、この二振りの剣は、精霊がひとりでに宿って、そのままでも怨敵を滅ぼすはずの剣です。私が今、胎内に宿している子どもは、必ず強くたくましい勇者になるはずです。それで、1振りの剣を楚王に奉っても、もう1振りの剣は隠して、私が生むはずの子どものものにしてください。
 干将は妻のこの申し出にしたがって、雄剣ひと振りを楚王に献上し、雌剣をまだ見ぬ我が子のために隠しておいた。

 楚王は、献上された雄剣を見ると、普通の剣ではなく、まことに精霊が宿っていることが分かるようで、刀身の焼き入れで生じた刃文が、ムカデの足が動くように見えたので、大いに喜んで、箱の中に大事にしまっておいた。ところが、箱の中にしまわれた剣は、いつも悲しげな声を上げる。不思議に思った楚王は家臣たちにその理由を聞くと、この剣はもともと雄と雌の二振りであったもので、相手の剣と一緒にいられないので、それを悲しんで泣いているのに違いありませんという。そこで、楚王は大いに怒って、干将を呼び出し、彼の首をはねて殺してしまった。

 その後、鏌鎁は男の子を生んだ。顔つき、体つきが尋常なものではなく、身長は1丈5尺(約メートル50センチ)、500人力という大変な力持ちである。顔の幅が3尺(約90センチ)あって、両方の眉の間が1尺(約30センチ)もあったので、人々は彼を眉間尺と呼んだ。彼が15歳になったときに、父親が書き残していた書付を見て、剣の隠し場所を探し当て、楚王を殺して父親の敵を討とうと旅だった。

 楚王の方でも眉間尺がいる限り、安心しているわけにはいかないと数万の軍勢を差し向けたが、眉間尺1人の力に圧倒されて、多くの死傷者を出して敗走する始末であった。

 そうこうするうちに、父親である干将の古い友人がやってきて、眉間尺に次のように述べた。自分はお前の父親と長年親友として付き合っていた。だから、お前と一緒に楚王を滅ぼそうと思う。お前がもし、父の敵を討ちたければ、持っている剣の先を3寸食い切って、口中に含んで死ぬのだ。私がお前の首を取って楚王に献じれば楚王は喜んでお前の首を見ようと売るだろう。そのときに口に含んだ剣の先を楚王に吹き付けて、彼の命を取るのだ。
 これを聞いて眉間尺は大いに喜び、剣の先を3寸食い切って口の中に含み、自分で自分の首を切って、男の前に差し出した。

 男は、眉間尺の首をもって、楚王のもとに出かけ、それを献上した。楚王は大いに喜んで、獄門にかけたのだが、3か月たってもその首は生きたままの様子で、目を見張り、歯を食いしばて、常に歯噛みをし続けている。それで楚王はこれを恐れて、近づくことをしなかった。そこで3本足の金属製の器である鼎の中に入れて、7日7晩に立てた。強く煮たてたので、首も少し弱ってきた様子で目を閉じたので、これなら大丈夫だろうと楚王が鼎のふたを開けて首を見たところ、眉間尺の首は口の中に含んでいた剣の先を楚王にばっと吹きかける。県の先が過たず楚王の首の骨を刺し抜き、楚王の首は体から離れて鼎の中に落ちた。
 楚王の首と眉間尺の首とは煮えたぎる湯の中で上になり下になり、食いあったが、ややもすると、楚王の首の方が優勢な様子であった。すると、眉間尺の首を持ってきた男が自分の首を切り落として、首を鼎の中に投げ入れる。男の首が眉間尺の首に加勢したので、楚王の首は2人の首に食いちぎられた。すると、眉間尺の首は「死んでから後、父の仇を討ったぞ」と叫び、彼を助けた男の首は「あの世で親友の恩に感謝するぞ」と叫んだのであった。そしてともに煮え爛れてなくなってしまった。

 この眉間尺が口に含んでいた剣は、燕の太子丹が秦王(後の始皇帝)の暗殺を企てた時に、刺客として派遣された荊軻が隠し持っていた匕首となったとか、その後、代々の皇帝に秘蔵されたが、南北朝時代の陳の時代になって、龍になって姿を消したとかいう話がつけ加えられている。

 淵野辺はこのような先例を知っていたから、刀の先を加えた護良親王の首をあえて、直義の目に入れようとしなかったのであると『太平記』の作者は記している。(実は、首を取らないで、護良親王を東北方面に逃がしたのだという言い伝えもあることは、前回にも書いた。) この後、護良親王の亡霊は様々な形で直義に襲いかかるが、それはその時に。
 また、眉間尺の説話は、『法苑珠林』巻27、『呉越春秋』、『捜神記』、『祖庭事苑』、『孝子伝』など中国の多くの書物に見える民間説話でもあり、日本にも古くから伝来して、『今昔物語集』(巻9)、『宝物集』、『曾我物語』などにもひかれているそうである。私は『捜神記』しか読んでいない。『今昔』『宝物集』も手元にあるので、探してみようと思う。既にお気づきの方もいらっしゃると思うのだが、魯迅の「鋳剣」という短編小説は、この説話に彼独自の解釈を加えたものである。

 『太平記』は中先代の乱のようにかなり緊迫した事態を描く際にも、このように長々と中国や日本の説話を挿入することがある。それぞれ、その時の気分で、詳しく取り上げたり、省略したりしてきたが、これからも同じように適当に取り扱っていくつもりである。

日記抄(8月12日~18日)

8月18日(木)晴れたり曇ったり、夕方、急に激しい雨が降った。夜にもまた雨が降った。

 8月12日から18日までの間に経験したこと、考えたこと:
8月12日
 NHKラジオ「実践ビジネス英語」は8月3日から2週間にわたり”Technology with the Human Touch" (人間味あるテクノロジー)という話題を取り上げてきた。この中で取り上げられたことの1つはデジタル時代においては、勤務時間と私的な時間との境界があいまいになっている(the blurring of the line between private time and work time)ということである。職場でコンピューターに向かっていても、仕事をせずにネットサーフィンをしているかもしれないという。しかし、昔、外回りの仕事をする人が、喫茶店に入ったり、映画を見たり、パチンコをしたりして時間をつぶして、仕事をしているように見せかけていたという話を聞くから、果たしてこれがデジタル時代特有の現象かどうかは考えてみる余地がありそうだ。

8月13日
 NHKラジオ「攻略!英語リスニング」の時間では”Gandhara"を話題として取り上げた。
It was right on the main overland route that connected India, Central Asia, Persia, and beyond, controlling the mountain passes which travelers, traders, artians, scholars, pilgrims -- everyone really -- had to use. A result of all these different people passing through, there was a great mix of religions and artistic styles there, hence the art that we saw today. (インドと中央アジア、ペルシャ、そしてさらに先までを結ぶ主要な陸路が通っていた場所に位置していて、旅人や商人や職人、学者、巡礼者とか、誰もが通らなくてはならなかった峠を掌握していたのである。いろいろな人が通るもので、いろいろな宗教や芸術様式がガンダーラで混ざり合って、それ故にいま私たちが目にするような芸術が生まれたのである。)

8月14日
 横浜FCがアウェーの味の素スタジアムでの対戦で、東京ヴェルディを2-0で破って、これで4連勝を続けている。

 リオデジャネイロ・オリンピックの女子マラソンの実況を見ていた。暑さの中でアフリカ勢が速いペースでレースを作っていったのに、日本選手は対応できなかった。アメリカの代表がかなり後半まで3人一緒に走っていたのに比べて、日本は各選手がばらばらに走っていた感じで、どのような展開を予測してレースに臨んでいたのかを聞いてみたいと思った。オリンピックのように実力の接近した選手が大勢で押し合いへし合いするレースでは、できるだけ後半までチームとして固まって走った方がリスクは少ないはずである。 
 女子マラソンの代表選考をめぐっては、選考方法に議論が集中する傾向があるが、実力に大した違いのない選手の間での選考に運不運があるのはやむを得ないことで、むしろ、実業団中心の選手の養成方法とか、代表を選んだ後の調整の仕方の方にもっと注意を向けていく必要があるのではないか。

8月15日
 終戦記念日。死んだ父は「玉音放送」を聞いた1人であるが、ラジオの受信状態が悪くて職場で聞いていた人たちの誰も、放送の内容が理解できず、多分、もう少し頑張れという放送だと思っていたところ、そのあとで、情報が届いて、「負けた」という放送だと知ったという。放送の趣旨が国民のかなりの部分にすぐには伝わらなかったのは、放送設備の問題なのか、それとも、聞き手の方が戦争に負けるわけがないと思っていた為であるのか、今となっては検証しにくい問題になったように思われる。(徳川夢声の日記には、昭和天皇のお声のやさしさに感動したと書かれているそうだから、いいラジオを持っていた人には天皇の肉声が伝わっていたようである。)

8月16日
 『朝日』の朝刊で永六輔さん、大橋巨泉さんなど初期のTVで活躍した方々が最近相次いで亡くなられたのをしのんで「笑いにのせて」というインタビュー特集を掲載している。第1回は萩本欽一さんで、永六輔さんのことばかり喋って、大橋巨泉さんのことは一言も話していないが、あまり馬が合わなかったようである。

8月17日
 「笑いにのせて」の第2回は、作家の五木寛之さんが登場されて、初期のテレビで活躍された方々の多くが三木鶏郎の冗談工房の関係者であったことを指摘されていたのが、興味深かった。五木さんとか、野坂昭如さん、井上ひさしさんなどは活字の世界に転じていったのだが、永六輔さんとか、大橋巨泉さんはあくまで話し言葉の世界で頑張ったとその仕事ぶりを評価されていたのも注目してよいことである。

8月18日
 「笑いにのせて」の第3回は、私と同い年のピーコさんが、「戦争いやだ」の声が心にしみた、目撃した人の声の力強さを感じたと述べている。戦争を経験した自分よりも上の世代の実感を受け止められる世代と、それが受け止められなくなっている世代というのがあるのかもしれない。

 阿野冠『谷根千少女探偵団 乙女稲荷と怪人青髭』を読み終える。実在する舞台に多少の脚色を加えて、美少女が3人行方不明になるという事件を、これまた一応美少女4人組が探していくという奇想天外な探偵ストーリーが展開する。当ブログをずっとお読みいただいている方はご承知かと思うが、私も一時、谷根千(というか千駄木)で暮らしていたので、舞台についてイメージを浮かべながら読み進んだ。
 

ダンテ・アリギエリ『神曲 煉獄篇』(33-1)

8月17日(水)晴れたり曇ったり

 地球の南半球にそびえる煉獄山の頂にある地上楽園に到達したダンテは、天上から降臨してきたベアトリーチェに会う。賢明・中庸・剛毅・正義の4つの枢要徳と慈愛・希望・信仰の3つの対神徳を表している7人の貴婦人たちに囲まれたベアトリーチェは、彼女とともに天から降りてきた戦車(教会を象徴する)をめぐっておきる出来事をしっかり記憶して、地上の人々に伝えるように言い渡す。ダンテは、彼の時代のキリスト教会の世俗化・腐敗堕落と、そのために生じた教皇のアヴィニョン捕囚に代表される教会の政治的な危機を示す幻影を見た。

「神よ、異国の民が来たりて」、貴婦人達は
今は三人の組、次は四人の組と、交代しながら麗しい
「詩篇」の朗誦をはじめた、しかも涙を流しながら。

ベアトリーチェはため息をついて悲しみながら、
悲痛な表情で彼女たちの歌を聴いていた、
十字架の下で泣き崩れたマリアと変わらぬ姿で。
(486ページ) 「神よ、異国の民があなたの嗣業を襲い/あなたの聖なる神殿を汚し/エルサレムをがれきの山としました」(「詩篇」78.1)と原さんは487ページの傍注に記しているが、これまでも何度か書いてきたように、ダンテがこの作品を書く際に使っているのはウルガタ版(正ヒエロニムスによるラテン語訳)であって、「新共同訳」では79.1になる。ここでは教会の腐敗ととくにフランス王によるアヴィニョン捕囚が非難されている。
 教会は地上におけるキリストの神秘的な肉体とされ、それが迫害を受けているために、「ベアトリーチェは…十字架の下で泣き崩れたマリアと」とキリスト受難を暗示する表現がされているのである。

 ベアトリーチェは7人の貴婦人たちに先に行くように指示し、彼女とともに残ることになったのはダンテと、地上楽園で彼が最初に会った貴婦人、そして煉獄で罪を清めて天国へと向かうスタティウスの4人だけとなった。

こうして彼女は歩いて行った。私が思うには
地面に十歩目を置く前だったが、
その時にその眼差しが私の目を貫いた。

そして涼やかな表情で「もっと急ぎなさい。
――私に言った――そう、あなたに話しかけた時に、
はっきりと私の話を聞ける場所にいられるように」。

そうすべきであったので、彼女に並ぶと、
私におっしゃった。「同胞(はらから)よ、なぜあなたは勇気を出して
私と一緒に歩いている今、私にたずねようとしないのか」。
(487-488ページ) ベアトリーチェはダンテに「同胞よ」と呼びかけることで、2人が今や対等の関係で話してもよいことを示す。

 しかし、ダンテはなかなか自分の疑問を口に出すことができない。ベアトリーチェは、ペテロが立ち上げた教会は変り果て、もはやかつての姿ではないといいながら、神の復讐は必ず成し遂げられるであろうということを謎めいた言葉で口にする。そして彼女の謎めいた言葉を
あなたは記憶に記しなさい。そして私が話しているそのままに、
死へと絶え間なく向かう生命を生きる
生者たちにこれらの言葉を告げなさい。
(490-491ページ) そしてとくに善悪の知恵の木についてありのままを伝えるようにという。知恵の木は神のみに属するものであった(=神の正義は他の存在から何らの干渉も受けてはならない)のに、
最初の魂はこれをかじってしまったために、
五千年以上にわたり、罰に服しながらただ願い続けて、
食べたことへの罰を引き受けられた方を待ち望みました。
(492ページ) この木の普通の木と違う異様な姿をしっかりと記憶すべきであるという。そして、ベアトリーチェの預言を地上の人々に伝えよという。

ガリバー旅行記

8月16日(火)曇り、夕方から台風7号の接近に伴ってときどき激しい雨

 『ガリバー旅行記』はベティ・ブープやポパイの生みの親として知られるフライシャー・スタジオが、ディズニーの『白雪姫』の成功に刺激されて、1939年に手掛けたこのプロダクションとしては最初の長編アニメーション映画である。16ミリのフィルムによる上映で、日本語への吹き替え版であり、プリントの劣化が進んでいて、もともとの色彩が分からないのが残念であった。

 フライシャー・スタジオの中心になっていたのは、この作品の監督を務めているデーヴと、作画を担当しているマックスのフライシャー兄弟であり、1930年代を通じてディズニーに対抗した唯一のアニメーション制作集団であった。『白雪姫』にミッキーマウスが登場しないのと同様に、『ガリバー』にはポパイは登場しない。スウィフトの原作は4部から構成されているが、この作品は第1部のリリパット(小人国)の話だけのアニメーション化であり、原作を大きく書き換えて、小人の世界に漂着したガリバーがリリパットのリトル王と同じく小人の国であるブレフューセンのボンボ王との意見の些細な食い違いから起きた戦争をやめさせ、両国の間に平和をもたらすという物語になっている。

 さらに原作にはない、リリパットのグローリー王女、ブレフューセンのデヴィッド王子、町の触れ回り役人であるギャビー、ボンボ王がリリパットに送り込んだ3人のスパイであるスニーク、スヌープ、スナッチ、ボンボ王と3人のスパイの間の連絡を取る伝書鳩のトゥインクルトー(伝書鳩に見えないのがご愛敬である)などが登場する。
 ガリバーが漂着して、海岸に倒れているのを見つけたギャビーが、大騒ぎしながら王様に知らせに行く。王様は自分の王女であるグローリーと、ボンボ王の王子であるデヴィッドの結婚式を明日に控えて、それどころではない。ところが、結婚式の日に、リリパットのしきたりに従って「誓いの歌」を歌うか、ブレフューセンのしきたりに従って「永遠の歌」を歌うかをめぐり、けんかが始まり、ボンボ王はデヴィッド王子を連れて自分の国に引き上げてしまい、戦争の準備を始める。

 そこでようやくリトル王はギャビーの報告に耳を傾け、大勢の小人たちが動員されて海岸のガリバーを縛って、車に乗せ、王宮に運ぶ。目を覚ましたガリバーは彼を縛った縄を切ってしまい、小人たちは逃げ出す。と、そこにボンボ王に率いられた艦隊が攻め寄せてくるが、ガリバーの巨体を逃げ帰る。このため、リリパットの王様と国民はガリバーに対する警戒心を解き、歓迎するようになる。

 とはいうものの、ボンボ王は戦争をあきらめたわけではなく、3人のスパイを使ってガリバーのピストルを盗ませ、ガリバーを亡きのにしようと企てる。グローリー王女とデヴィッド王子の恋はどうなるのであろうか。また、ガリバーは自分の故郷に帰れるのだろうか。ガリバーをはじめ、王子と王女などはシリアスな役どころ、ギャビーや3人のスパイは喜劇的な役どころと、登場人物の性格付けがかなりはっきり分かれているが、喜劇的な役どころの方がよく造形されているのは、『白雪姫』の七人の小人たちと同様である。とはいえ、七人の小人たちに比べると彼らの性格設定は詳しくもないし、その役柄も十分に生かされているとはいいがたい。それから、『白雪姫』には白雪姫の継母である女王という明確な悪役がいるが、『ガリバー』にはそういうそういう明確な悪役がいない。物語は誤解、すれちがい、ディスコミュニケーションから展開されてゆく。『白雪姫』の勧善懲悪の描き方の方が分かりやすいことは確かである。

 しかし、社会における対立や悪を、はっきりとした悪役を設定して描くことと、自分たちのコミュニケーションの不徹底が原因だと考えることとでは、後者の方が俗受けはしないが、社会認識としてより深いものであることは否定できない。そうはいっても、『白雪姫』と『ガリバー旅行記』ではストーリーの豊かな展開とか、登場人物の性格の掘り下げなどの点において『白雪姫』の方が優れていて、それは結局、ディズニーの方がフライシャー兄弟よりも、有能なスタッフを集めて、そのスタッフの才能を生かすのに長けていたことに依ることも確かであろう。

 この後、フライシャー兄弟は『バッタ君町に行く』(1941)を製作する。実は、私の記憶に残るいちばん古い映画がこの作品で、その後60年ほどたってこの作品を見たところ、記憶している場面があったほどで、個々の場面やそこでのギャグには見るべきものがある。物語が大人向きであり、ハッピーエンドになっているとはいっても、それほど明るい内容ではないことも手伝ったのであろうか、興行的には失敗した。(今日では、傑作という評価を受けている。) ここでも虫たちと、かれらが住んでいる庭の持ち主である作曲家の一家のコミュニケーションが問題になっていることは記憶しておいてよかろう。(この点については森卓也さんの指摘がある。) 

 『ガリバー旅行記』の後、フライシャー・スタジオは解散し、『バッタ君町に行く』が興行的に失敗したことで、フライシャー兄弟が長編アニメーション映画を製作する機会もなくなったが、今日、フライシャー兄弟のアニメーションの発展に残した功績は高く評価されている。なお、『海底二万哩』や『ミクロの決死圏』を監督したリチャード・フライシャーは、マックス・フライシャーの息子である。

スピオーネ

8月15日(月)曇り時々晴れ

 シネマヴェーラ渋谷で「映画史上の名作 15」特集上映から、『スピオーネ』と『ガリバー旅行記』の2本を見る。「映画史上の名作」シリーズでは随分いろいろな作品を見てきたが、少なくともこの2作品については、名作かどうかは議論が分かれるかもしれないが、映画史上、記憶されるべき作品であることは間違いない。この2作品は、8月18日(木)にも上映されるので、興味のある方はぜひ、見てください。

 『スピオーネ』は無声映画時代からトーキー初期にかけてドイツで活躍したオーストリア出身の監督フリッツ・ラング(Fritz Lang, 1890 - 1976)が1928年に制作した無声映画である。ただし、今回の上映はHDデジタル上映ということで、音楽がつけ加えられている。『シネマヴェーラ通信』167号によると上映時間は150分ということだが、145分とする資料もあるから、デジタル化で延びた部分があるということかもしれない。

 Spioneというのはドイツ語のSpion (=スパイ、諜報部員)の複数形であり、第一次世界大戦後のヨーロッパのどこかの国の情報部と、さまざまな破壊活動を行って国際的な平和をかく乱しようとする秘密組織との対決を描く。この映画が製作された1928年ごろは、まさにスパイの活動が活発化して、国際関係が緊張していたので、時代の雰囲気を読み取っての企画であった。なお、Spioneは標準的なドイツ語では、「シュピオーネ」と発音するはずである。

 要人が襲われたり、秘密書類が盗まれたりして、世論の非難を浴びているヨーロッパのある国の情報部の代表者は、得体のしれない敵との対決のために、敵方に顔がばれていないはずの情報部員326号(ヴィリー・フリッチュ)を起用する。代表者の部屋に入るなり、彼は職員の1人が隠しカメラを持っている(つまり、敵方のスパイである)ことを見抜く。敵は、情報部の内部にまで入り込んでいて、情報が筒抜けになっている。

 破壊活動の頂点にいるのは、ハッギ銀行の頭取であるハッギ(ルドルフ・クライン=ロッゲ)という人物である。彼は銀行の建物の中の隠し部屋を本拠にして、さまざまな指示を出す。(ルドルフ・クライン=ロッゲという俳優は、ラングの『ドクトル・マブゼ』シリーズでマブゼ博士を演じているので、わかる人にはわかる配役がされているのである。) 326号とハッギはともに変装の名手であって、両者の変装合戦も見ものの一つである。
 実は326号のことも、ハッギは知っていて、自分の部下であるソーニャ・バラニコヴァ(ゲルダ・マウルス)という亡命ロシア人の美しい女性を彼に近づける。ソーニャは指示されたように326号に近づくが、彼が自分の兄(帝政時代に処刑されたことが後でわかる)に似ていることから、恋心を抱いてしまう。326号もソーニャに惹かれるものを感じ、彼女の跡を追う。実は、ハッギもソーニャを恋していて、そのことから326号を消そうとする。

 秘密書類を盗んだ1人がイェルジッチ(字幕ではジェルシックになっていたが、Jellusicの最後のcの上に∨型の記号がついているので、多分ハンガリー系の名前ではないかと思う。ジェルシックの方が正しければ、チェコ人の可能性がある)という大佐であることに気付いた326号は彼の後を追う。しかし、そのこともハッギには筒抜けで、イェルジッチは粛清される。さらにマツモト(ルプ・ピック)という日本の外交官が登場したり、かれから秘密書類を盗み取ろうとハッギがキティ(リエン・ダイヤース)という女性を近づけたり、物語は複雑な展開をしていく。
 イェルジッチがオリエント急行で逃げるのを、326号が飛行機で追うくだりはヒッチコックや、イアン・フレミングの007を思い出させる。列車の場面はほかにも設定されているので、見てのお楽しみ。秘密書類を奪われたマツモトが切腹する場面があり(おそらくこのために、この映画は戦前の日本で上映されなかった)、その前後の画面の構成が表現主義的であるとPaul M. Jensen(1969), The Cinema of Fritz Lang という本には論じられている。なお、ラングには、『ハラキリ』(1919)という日本を舞台にした映画があるそうである。

 『シネマヴェーラ渋谷通信』には「複雑なストーリーをさばく見事な脚本、緊張感あふれる演出、豪華なセットが素晴らしい。近年評価が高まりラングの最高傑作という呼び声も高い一本」と記されているが、脚本は、この当時彼のパートナーであったテア・フォン・ハルボウ(Thea von Harbou, 1888 - 1954)の原作小説に基づいて、彼女とラングが共同執筆している。2人の協力関係はサイレント時代の1920年代に始まり、『死滅の谷』(1921)、『ドクトル・マブゼ 賭博者』(1922)、『ニーベルンゲンの歌』(1924)、『メトロポリス』(1926)、トーキー初期の『M』(1931)と続くが、ナチスが台頭してくると、ハルボウはその動きを支持するようになり、1932年に2人は離婚、それでも1933年の『ドクトル・マブゼ』では両者の協力関係は続いている。ユダヤ人であったラングはフランスに逃れて、『リリオム』(1934)を作り、さらにアメリカへと渡る。
 アメリカでラングは『激怒』(1936)、『暗黒街の弾痕』(1937)、『マン・ハント』(1941)などの作品を監督、アメリカにわたってからの彼の作品についてはピーター・ボグダノヴィッチがPeter Bogdanovich (1967), Fritz Lang in Americaという本を書いている。ジャン=リュック・ゴダールなど『カイエ・デュ・シネマ』から出発した映画人たちが評価したのはアメリカ時代のラングの作品であり、その結果、1963年に製作されたゴダールの『軽蔑』にラングが出演することになった。この映画の中でゴダール自身がラングの助監督の役柄を演じているのが興味深い。

 実は、すでに引用した『通信』の文章にもあるように、ドイツ時代のラングの映画はSF的な内容の作品が多いこともあって、豪華なセットを組んで作られているのだが、そういう映画の作り方は、ゴダールたちが否定したものではなかったのか、ロケーション撮影や即興演出を重視するというのが「ヌーヴェル・ヴァーグ」の基本的な映画作りの姿勢ではなかったのか…という疑問がある。ラングの映画作りが、彼の渡米をきっかけとしてどのように変化したのかを詳しく検討していかないと、この疑問は解けそうもないのだが、どうも私はアメリカにわたってからのラングの作品をあまり見ておらず、これからどの程度見ることができるのかわからないので、(私にとって)永遠の疑問になるかもしれない。

 それからラングとハルボウの関係であるが、1958年にラングはドイツに戻ってインドを舞台にした『大いなる神秘 第一部 王城の掟 第二部 情炎の砂漠』という映画を製作しているが、この原作者がハルボウである(すでにこの時には、彼女は事故死していた)。だから、これも一筋縄ではいかない関係のようだ。
 映画の中でハッギを裏切って326号に協力するソーニャを演じたゲルダ・マウルス(Gerda Maurus, 1903 - 1968)はこれがデビュー作であったが、その後、ナチス時代にも活躍、戦後も西ドイツの映画やテレビに脇役として出演していたらしい。彼女はオーストリア出身だが、クロアチア人の血を引いているので、ロシア人の役を演じたのであろう。ハッギに忠実な女スパイを演じたリエン・ダイヤースはオランダの女優だそうで、第二次世界大戦中に英国、さらにアメリカに移住したが、その際に女優をやめて、その後の詳しい消息はよく分からないそうである。

 ラングと彼の作品に興味をもって、作品を見たり、文献を集めたりしていたのはずいぶん古い昔のことなので、情報の偏りがあるかもしれない。いろいろ、好き勝手に書き散らしたが、映画史的に見ても、また映画自体についてみても、興味ある作品であることは間違いない。一見をお勧めしたい映画である。

ブルックリン

8月14日(土)晴れたり曇ったり

 1950年代初めのアイルランドの地方都市。食料品店を週1日だけ手伝っている若い娘エイリシュ(シアーシャ・ローナン)は姉の知り合いでブルックリンに住むフラッド神父(ジム・ブロードベント)の紹介で、アメリカにわたって働くことになる。学校の成績も、気立てもよい彼女だが、アイルランドでは仕事が見つからないのである。(アイルランドは第二次世界大戦では中立国であったのだが、中南米諸国とは違って、中立国であることの恩恵にはあずからなかったらしい。)

 まだこの時代、大西洋を横断するのは船の方が一般的であった。貧乏な移住者ともなれば、なおさらである。(無声映画時代のチャップリンの『移民』という映画では船の揺れが誇張して描かれているが、経験した人にとっては、笑い事ではなかったようである。チャップリンは英国人であったが、やはり移住者であり、映画には自分自身の経験が反映していると考えられる。) それでも周囲の人たち、特に同室になったアイルランドに一時帰省していたらしい女性が、船の中の過ごし方や、入国審査についていろいろ教えてくれる。アイルランドからアメリカに移住する人は多いので、入国審査は厳しかったらしい。

 ブルックリンに到着したエイリシュは寮(boardinghouse.字幕では「寮」と訳されていたが、賄い付きであり「下宿屋」に近い)から勤務先のデパートに通うことになる。慣れない仕事で戸惑うこともあるが、周囲にアイルランド系の人たちが多いので、助けられる。とくに、職場で彼女を指導する女性がしっかりと彼女を見ていて、ホームシックにかかったりすると、フラッド神父に連絡を取ってくれたりする。神父の配慮で彼女はブルックリン・カレッジ(ニューヨーク市立大学ブルックリン校の通称)に通って簿記の勉強をすることになる。フラッド神父は彼女を自分の事業のスタッフの1人として育てていくつもりのようであり、クリスマスには神父の手伝いで年老いても財産を作ることができず、行き場のない老人たちのための食事を提供する手伝いをしたりする。アイルランドの歌(アイルランド語で歌われる)を聞いたりして故郷を思い出す一方で、アメリカが人々の期待や努力に必ずしも公平に応える国ではないことを身をもって知る。(この場面で、老人たちがスタウトを飲んでいるのが印象に残る。スタウトの銘柄がギネスであったか、マーフィーズであったか、確認できなかった。)

 彼女は、教会のダンス・パーティーでトニー・フィオレロ(エモリー・コーエン)という青年と出会う。イタリア系の配管工である彼は、アイルランド人の女性と近づきになりたかったのでこのパーティーにやってきたという。職場の指導係の女性をはじめ、周囲の人々は彼がまじめな人間だと判断して、付き合うことに賛成である。彼の家での食事に招かれ、寮の女性たちにイタリア料理の食べ方の特訓を受けたりする。実際に食事に出かけて、アイルランド人に対するイタリア人のステロタイプな見方(警官が多くて、イタリア人をいじめる)とか、野球の話(一家を挙げてドジャーズの応援をしている)に戸惑ったりするが、全体として好感を持つ。(この時代、ニューヨークには3つの野球チームがあり、ミドル・クラスはヤンキーズ、ローワー・ミドル・クラスはジャイアンツ、ローワー・クラスはドジャーズと社会階層に応じてひいきチームが分かれていた。)

 仕事にも慣れ、簿記についての資格も取り、トニーとの仲も順調に進んでいたエイリシュであるが、アイルランドで働きながら、母親の面倒を見ていた姉が急死したという悲報が届く。葬儀には参列できなかったが、彼女は仕事を休んで、母親を慰めに帰国することにする。トニーは、2人だけででも結婚式を挙げておこうという・・・ この後、エイリシュはアイルランドに戻って、アメリカに移住する以前にはしなかった経験を重ねることになる・・・・。

 ジョン・クローリー監督の演出は手堅く、奇を衒わない。エイリシュを演じているシアーシャ・ローナンは赤みがかった髪の毛とがっしりした体格がアイルランド女性らしく、最初の方の場面では緑色のセーターを着ていることが多いが、緑はアイルランドのナショナル・カラーである。そういう風に多少類型的な描き方をされているが、次第にアメリカでの生活になじんでいく。アイルランドの地方都市での生活は、地域の人々がお互いに顔と名前を知っていて、地域的な結びつきが強いが、その中で意味のないうわさ話が飛び交ったりして、閉鎖的で停滞している。アメリカでのアイルランド人・コミュニティは新しい土地でお互いに助け合っていこうという意識が強く、イタリア人との恋愛を認めたりしてより開放的に思われる。アイルランド人もイタリア人もカトリック信者が多いことと、それほど裕福でない人が多いという点で親近感があるということであろうか。アメリカは東部から西の方に発展したが、西に移動するだけの財産がない人々は東の方にとどまっていた。アイルランド系が東部に多いのはこのためである。イタリア系の場合はアメリカへの移住が比較的遅く起きたために、東部に住む人が多くなったということである。

 60年以上昔の話であり、その頃から比べて交通や通信が大きく変化して、アメリカとアイルランドの距離は縮まっているし、その結果として生活やその中での意識も変わっているはずである。とはいえ、アイルランドは、1840年代のジャガイモ飢饉の影響もあり、アイルランドに住むアイルランド人よりも、アメリカ、英国、オーストラリアなど外国に住むアイルランド系の人々の方が多いという移住者の国である。ダブリンの国立図書館を訪問した際に、外国からの閲覧希望者の窓口が2つあって、一般の外国人と自分たちの先祖について調べに北アメリカ人向けの窓口に分かれていたことを思い出す。そういう経緯があるからこそ、移住は歴史の一部として記憶され、移住についての映画が繰り返し制作されるということではないか。国民としてのアイデンティティの形成にも様々な姿があるということについて考えさせられた。

(付記:8月14日の夜、オリンピックの女子マラソンの実況中継を見ていて、更新ができなかった。これからしばらく、1日遅れの状態が続きそうだが、あしからず。)

ストリート オーケストラ

8月13日(土)晴れ

 横浜シネマ・ベティで『ストリート オーケストラ』、その後、シネマ・ジャックで『ブルックリン』を見た。ともに、人間が成長を遂げ、変化していく姿を描く作品であるが、前者は若者たちの群像が描かれ、後者は1人の若い女性に焦点が当てられている。今回は、『ストリート オーケストラ』を見て感じたことを書き留めておく。

 『ストリート オーケストラ』(セルジオ・マシャード監督)はブラジルのサンパウロのスラム街で1人のヴァイオリニストが弦楽器の演奏の指導を通じて、若者たちに音楽の喜びを知らせていくという物語である。
 黒人ヴァイオリニストのラエルチ(ラザロ・ハーモス)はサンパウロ交響楽団のオーディションの最終選考に残ったのだが、いざというときになると緊張してしまって、演奏できなくなる。子どもの時分には神童と呼ばれ、両親の期待を背負って育ってきた。どうもそのことが重荷になっているらしい。弦楽四重奏の仲間にも、イライラして当たり散らし、そのために1人が抜けて、演奏活動ができなくなる。家賃も払えなくなりかけた彼に、友人がスラムにある学校で弦楽合奏の指導をするという仕事を持ち掛けてくる。

 実際に学校に出かけてみると、生徒たちはやる気を見せない。教師の言うことを聞かず、ラエルチを「オバマ」と呼んだりして反抗的で、授業中もけんか口論が絶えない。それ以上に困ったことに、楽器の扱い方も知らない(その後、わかることであるが、楽譜も読めない)。これまでに2人の教師が担当したのだが、やめてしまったという。生徒たちの中には、サムエル(カイケ・ジェズース)のように音楽の才能を示すものがいる一方で、VR(エウジオ・ヴィエラ)のように少年院から戻ってきたばかりで、カードを使った詐欺を続けているだけでなく、スラムを支配している麻薬売人のボスの子分から借りた金の取り立てに直面しているというものもいる。もし音楽の授業をやめたら、VRは間違いなく少年院に逆戻りするだろうと校長はラエルチに言う。

 ラエルチはスラムのボスの子分につかまって演奏を強要され、パガニーニの曲を弾いて彼らを感動させ、それで少し、かれらの覚えをよくする(あとで、このことが物語の進行に意味を持ってくる)。ラエルチは、これまでの指導者に比べて優れた演奏家なので、そのことが教育を支える力になっていく。とはいえ、演奏の基礎を教えたら、やめて、また自分自身の演奏の可能性を探ろうと思っているのだが、生徒の方はだんだん、彼に信頼を寄せ始める。合奏の授業を受けているときは、自分が存在していることの意味を感じることができるというのである。

 サムエルは音楽が好きなのだが、彼の父親は昼働いて、夜勉強して、スラムから1日も早く脱出することを願っている。(音楽に専念する方が、スラム脱出の可能性は高いのだが、そのことが理解できない頑固者なのである。) それでVRの家で練習をしたりしていたが、親と衝突して、とうとう家を出ることになる。サムエルとVRが仲が良いこと、VRが非行から足を洗おうとしないことが、物語を複雑なものにしていく。

 生徒たちの技量はだんだん上がってきて、演奏会に向けて準備が進む(その間、スラムのボスの娘の誕生祝としてワルツを演奏させられたりする)が、ラエルチは再びサンパウロ交響楽団の今度はパートのリーダーのオーディションを受けることになる。モーツァルトのヴァイオリン協奏曲を演奏することになって、今度は自信をもって演奏することができた…。

 何かの理由で失意を味わった音楽家が、再起するというのは音楽映画の定番的なストーリーであるが、ここではスラムの若者たちに音楽を教えるという、これまでになかった取り組みが描かれている。これは、中南米で展開されているエル・システマと呼ばれる音楽を通じて若者たちの貧困からの脱出を支援しようとする教育プログラムの影響を受けてブラジルで展開されているバカレリ協会の音楽教育活動の実践をモデルにしているそうである。この取り組みを通じて、若者たちだけでなく、教える側のラエルチも変わっていき、失意を克服していく。変化が相互的であるのも特徴的である。(エル・システマについては、シネマJ&Bで配布されている『毎日クマ子の映画でイッパイいっぱい』215号によって知った。)

 貧困や非行について、あるいは登場人物の心理や行動の背景など、十分に描き切れているとはいいがたいが、映画のスタッフが音楽の力を信じて、映画を作っていく過程に、出演者も巻き込まれていくという感じが伝わってきて、大いに感動的である。

『太平記』(118)

8月12日(金)曇り後晴れ

 元弘3年(1333年)に鎌倉幕府は亡びたが、最後の得宗であった北条高時の弟である泰家と、高時の次男相模次郎時行は逃げ延びて、再起を図っていた。泰家は、ひそかに上洛して西園寺家に身を寄せていたが、建武2年(1335年)に、西園寺家の当主であった公宗は泰家と謀り、京都、関東、北国での蜂起の手はずを整えた。さらに後醍醐天皇を御遊にことよせて自邸に招いて、とらえようと企てたが、弟である公重の密告により陰謀が露見して斬られた。この年の7月に、信濃で時行が挙兵し、北国でも名越(北条)時兼が挙兵した。東国を鎮定すべく鎌倉に派遣されていた足利直義は、時行の大群に抵抗するのは無理であると判断し、7月26日に退却したが…。

 直義は、鎌倉を小袋坂方面から退却したが、そろそろ山内(山内=現在の建長寺の付近)を通り過ぎようとする辺りで、部下の淵野辺甲斐守を呼び寄せて次のように述べた:「味方の兵が足りないので、いったん鎌倉から退却するとはいっても、美濃、尾張、三河、遠江の軍勢を集めて、やがてまた鎌倉に責め戻り、相模次郎時行を滅ぼすであろうことは、踵を返すほどの時間もかからないであろう。そうはいっても、足利家のために邪魔になりそうな人物は、兵部卿親王(=護良親王)である。死罪にせよという天皇のお許しはないが、この際ついでに、殺害してしまおうと思う次第である。貴殿は急いで薬師堂谷に戻り、宮を殺してほしい」と下知を下す。原文では直義が、護良親王に対して敬語を使っているので、余計に不気味である。
 淵野辺は、JR東日本の横浜線で淵野辺という駅があるのでわかるが、相模原市の一部で、甲斐守はこのあたりに住んでいた武士である。余談であるが、横浜線で八王子に向かうと、長津田でいったん神奈川県に別れを告げ、東京都町田市に入る(東急の長津田操車場は長津田と言いながら、町田市の南成瀬にある)。成瀬、町田と東京都町田市の駅が続いて、その次はまた神奈川県相模原市の古渕という駅になり、その次が淵野辺である。矢部、相模原、橋本、相原までは神奈川県で、片倉からまた東京都になる。どうもややこしい。
 とにかく淵野辺は、かしこまって、直義の命令を承る。そして山内から主従7騎で、宮が幽閉されている薬師堂谷へと向かう。薬師堂谷(やくしどうのやつ)というのは現在の覚園寺から鎌倉宮の方へと、地図に書かれていないので、川の名前はわからないが、二階堂川の支流の小川の左右に広がって延びる谷(やつ)で、覚園寺のさらに北にある薬師堂がその名の起こりらしい。

 宮は、常に真っ暗な土牢の中で、昼夜の移り変わりもわからない状態のまま、燈火を頼りに、読経を続けられていた。淵野辺がお迎えに参ったという伝言を聞いて、庭に宮をお乗せするための輿を下したのをご覧になり(それが分かるのであれば、昼夜の別もわかるはずで、このあたりの記述には矛盾がある)、「お前は、私を殺すための使いにやってきたのであろう。そんなことくらいわかっているぞ」と淵野辺の太刀を奪おうと、走り寄る。(天台座主であったころに、武芸ばかりたしなんで、不思議な方だといわれていただけあって、ご自分の武勇には自信がおありなのである。) 淵野辺は、自分のもっていた太刀を取り直して、宮の膝のあたりを強く打つ。半年ばかり牢内で暮らしていたために、宮の足腰は弱っていて、そのために気持ちは勇み立っていても、体の方がいうことを聞かない。打つ備瀬にお倒れになって、起き上がろうとするのだが、そこに淵野辺が乗りかかって、腰の刀を抜き、宮の首を取ろうとする。宮は、首をすくめて淵野辺の刀の先をしっかりと銜えられる。こうして刀を奪おうという必死の抵抗である。淵野辺も剛勇の武士なので、刀を奪われてはならじと引き抜こうとして、両者が力の限りを尽くすうちに、刀の先が1寸ばかり折れてなくなってしまう。淵野辺はその刀を投げ捨てて、脇差の刀を抜いて、宮の胸元を2回突き刺す。宮がひるんだところを、その髪をつかんで、首をかき落とした。

 宮の首をつかんで、淵野辺は牢の前に走り出て、明るいところでその首を改めてみると、食い切った刀の先がまだ口の中にとどまって、宮の目は生きている人のように見えた。淵野辺はこれを見て、「思い当たることがある。このような首を宮が恨みに思っている人に見せない方がよさそうだ」といって、近くの藪の中に投げ捨てて帰って行った。

 宮のお世話をするために、京都から随行してきた南の御方と呼ばれる女性(持明院保藤の娘)は、このありさまを見て、そのあまりの恐ろしさと悲しさに、身もすくみ、手足も動かないという状態であったが、少し時間がたつとその気持ちも落ち着いてきたので、藪の中に捨てられた宮の首を取り上げてみると、まだ体温が残っており、目もとじないままで、生前のままのご様子をとどめていたので、これは夢ではないか、夢であるならば、冷めて現実に戻ってほしいと、泣き悲死んだのであった。遠くから様子を見守っていた理致光院の長老が、事態を知って、宮の葬礼を営んだのであった。南の御方は、出家して、事態を報告すべく、泣きながらも京都に戻っていったのであった。
 少し前に出てきた、日野名子といい、この南の御方といい、大変な修羅場を目撃することになり、気を失ったり、呆然としたりするが、そのあと、気持ちを取り直して、しっかりと生きていこうとする。そういう根は強い女性を描くことを、男性中心の軍記物語である『太平記』の作者がどのように感じていたかは興味あるところである。

 わずか28歳で不本意な殺され方をした護良親王の無念はどれほどのもとであったか、誰でも同情を禁じ得ないところである。そのことが、淵野辺が捨てた首が時間がたってもまだ生きているように思われたという記述に表されている。普通であれば、淵野辺は首をもって直義のもとに戻るはずなのに、近くの草むらに捨てたのは、思うところがあったからである。その思うところがあったというところに、この武士が粗野な田舎武士ではないことが現れており、おそらくはだからこそ、直義は彼に殺害を命じたのであろう。
 なお、淵野辺は実は親王を殺さずに、落ち延びさせたという伝説もあるそうである。また、彼が境川流域に住んでいた悪龍を退治したという伝説も残っており、それほど悪人だとは思われてこなかったのは、彼が大将の命令を忠実に守っただけであることと、この後すぐに戦死してしまったことの為であろう。この殺害事件で一番悪役にされたのは、命じた直義かというとそうでもなく、命じたわけではないのに、足利高氏ということになってしまう。とんだ貧乏くじである。
 護良親王の慰霊のために、明治になってからこの現場の付近に鎌倉宮が建立される。坂東三十三か所の第一番札所である杉本寺を参拝した際に、その近くを通ったことがあるのだが、お参りしたことはない。この連載を続けているうちに、少なくとも一度はお参りをしなければと思っている。(後醍醐天皇が北条氏の慰霊のために足利高氏に命じて建立させた宝戒寺も同様で、こちらも一度きちんと参拝するつもりである。) なお、杉本寺に出かけたところ、美智子さまが皇太子妃時代に、浩宮さま(当時)とこのお寺を訪問されたという写真が飾られていた。ということは、鎌倉宮も参拝されたのであろうか。ちょっと気になるところである。なお、杉本寺も『太平記』に登場することになるが、それはそのときに。

 

日記抄(8月5日~11日)

8月11日(木)晴れ

 8月5日から本日までの間に経験したこと、考えたことなど:
8月5日
 『朝日』朝刊に「世界遺産」の指定を受けているリヴァプールが市の再開発の結果、その地位が危うくなっているという記事が出ていた。この年で数か月過ごしたのはもう20年近く昔のことになってしまったが、古くからの景観を残しながら、再開発を行うのが難しいということはよくわかる。

 NHKラジオ「実践ビジネス英語」の”Quote...Unquote"のコーナーで紹介された言葉:
A wise man gets more use from his enemies than a fool from his friends.
     ---- Baltasar Gracián (Spanish prose writer and philosopher, 1601 - 58)
(賢者がその敵から得るものは、愚者がその友人から得るものより多い。)
この言葉を逆の方角から見て、敵から多くを学ぶことのできる人を賢いといい、友人の親身な忠告に耳を貸さない人を愚かであるということもできよう。

8月6日
 現地時間では8月5日、日本時間では本日の午前中にオリンピックの開会式が行われた。古代ギリシアのオリンピックでは、戦争の最中でも戦闘を停止して、競技に参加したというが、近代オリンピックは戦争のために3度中止された。今回は参加する国・地域の数が国連の加盟国を上回っただけでなく、難民の選手団も結成され、参加している。近代オリンピックが古代オリンピックに比肩する平和の祭典になるときが近づいてきているのであろうか。

 広島に原爆が投下された日。トルコの詩人であるナーズム・ヒクメットに「死んだ女の子」という原爆の被害者を歌った詩があり(作曲もされている)、中学受験の模擬試験の問題に出題されたことがあったのを覚えている。飯塚書店から刊行されていたヒクメットの詩集を持っていたのだが、手放してしまった後で、友人の知人であるトルコからの留学生がこの詩集を探しているというので、見つけ出して買って、貸したところ、その留学生が詩集を紛失してしまったといって、また新たに買い求めて返してくれた。その詩集も、今は手元にはない。

 NHKラジオ「攻略!英語リスニング」は”Samba"という話題を取り上げた。
Samba music has an interesting history. I've always associated it with Brazil, and Rio de Janeiro, but its origins go back much further to Africa. Many people from Africa were forced to go to Brazil as slaves (around 4 million over 300 years according to some estimates), and they took with them their music and their religious traditions. These mixed with European and Latin American dance to become what we now know as samba.
(サンバには興味深い歴史がある。私はずっと、サンバというとブラジルとリオデジャネイロだと思ってきたのだが、サンバの起源は、さらにはるかアフリカまでさかのぼる。アフリカからたくさんの人がブラジルに奴隷として強制的に連れてこられ(300年以上に渡し、400万人くらいになるという推定もある)、その人たちは、自分たちの音楽や宗教的伝統もこの地に持ち込んだ。これらがヨーロッパやラテンアメリカのダンスと混ざって、いま私たちがサンバとして知っているものになったのである。)
 今では日本でも、夏になると各地でサンバを踊る催しが繰り広げられている。

8月7日
 『朝日』の朝刊の地方欄に神奈川区の浦島小学校が横浜の浦島伝説を掘り起こす活動を総合学習として行っているという記事が出ていた。そういえば、神奈川区のゆるキャラは亀太郎で、浦島伝説にちなんでのものである。浦島伝説はかなり広い範囲に分布しているので、伝説の残る各地域間で交流してみるのもいいかもしれない。

 望月麻衣『京都寺町三条のホームズ ⑤ シャーロキアンの宴と春の嵐』(双葉文庫)を読み終える。埼玉県から京都に移り住んだ高校生の葵は、寺町三条に店を構える古道具屋『蔵』でアルバイトをすることになった。店は「オーナー」と呼ばれる祖父、「店長」と呼ばれる父、「ホームズ」とあだ名される清貴さんの3代にわたる男性が経営しているのだが、「ホームズ」はその名の通り、主として骨董品が絡む数々の難事件を解決してきた。
 シリーズ第5作に当たる今回は、シリーズ主要メンバーの天橋立と城崎温泉への旅行から、葵の親友である香織の姉で呉服店の跡取り娘である佐織の恋愛問題、清貴と葵が出かけた京都のシャーロキアンたちの集まりで起きた踊り人形による脅迫文の事件、葵の在学する大木高校の卒業生で京都サンガで活躍する選手の不振の原因、そして清貴に嫉妬心を燃やす贋作師炎症による新たな挑戦まで、4編からなる。
 以前にも書いたが、大木高校というのは府立鴨沂高校がおそらくはヒントになっている命名で、山本富士子、団令子、田宮二郎など、日本の映画史に名を残す俳優たちの母校である。

 この日、横浜FCはアウェーでのC大阪戦で、0‐2から三浦カズ、イバがゴールを決めて同点に追いつき、ロスタイムに内田がゴールを挙げて、3-2で逆転勝利をおさめた。内田のゴールは本当に久しぶりで、復調ぶりはうれしい。

8月8日
 最近は、新聞の記事を読むよりも、新聞に掲載されている雑誌(特に週刊誌)の広告の見出しを読む方が楽しい感じがする。勤めていたころは、電車の中づり広告の見出しを楽しんでいたことを思い出す。『週刊東洋経済』8月13・20日合併号に「十字軍の思想」という記事が出ているらしい。アメリカのブッシュ前大統領がテロとの戦争を十字軍になぞらえていたという記憶があるが、ブッシュのように一流大学を出た人でも、十字軍は第2次を除き、ほとんどが失敗に終わっているという歴史的な事実を無視しているように思われるのは、困ったことである。

8月9日
 『朝日』朝刊に「発見・検証 日本の古代」シンポジウムの概要が紹介されていて、改めて「騎馬民族征服王朝」説をめぐる議論で盛り上がったと記されていた。私の書架に江上波夫『騎馬民族国家 日本古代史へのアプローチ』(中公文庫)があるが、単なる思い付きの結果とは思えない浩瀚な著作である。冒頭のアジアをその地理的環境によって4つに分ける議論など、和辻哲郎の『風土』や梅棹忠夫の『文明の生態史観』などよりも精緻な議論だという気がする。

8月10日
 NHKラジオ「エンジョイ・シンプル・イングリッシュ」では落語の『桃太郎』を英語に直して放送した。昔の子どもは、お父さんが桃太郎の話をすると、喜んで聞いているうちに眠ってしまったが、今の子どもは父親の話にいろいろ難癖をつけた挙句、自分なりの解釈を親に聞かせる…と親の方が眠ってしまうというお話。
 実はおとぎ話の『桃太郎』を題材にした落語はもう1つあって、『桃太郎後日談』といい、桃太郎が鬼ヶ島から帰ってきたのはいいが、なぜか元気がない。犬と猿と雉が聞きただしたところ、鬼の王様の娘に恋をしたというので、世話を焼いて結婚させるという話で、先代の昔々亭桃太郎(柳家金語楼の弟)がよくやっていたのはこちらの方だったはずである。実は、結婚したのはいいが…というさらにその先があるようで、続編を作り出すときりがなくなるのは、この話に限ったことではない。

8月11日
 NHKラジオ「実践ビジネス英語」の”Word Watch"のコーナーで”from Toronto to Timbuktu"(世界中に、世界の隅々まで)という表現が紹介されていた。TorontoはもちろんカナダOntario州の州都、Timbuktuはアフリカのマリ共和国にあり、16世紀には西アフリカ最大のイスラム都市だったところで、「遠く離れた場所」(any distant of remote place)の代名詞としても使われる。長い旅のことを"from here to Timbuktu"というそうである。また”From Timbukktu to Kalamazoo"などのように珍しい地名(KalamazooはaMichigan州の都市)や、”fromToronto [Tallahassee] to Timbuktu”のように頭韻を踏んだ地名と並べて用いることもあるという(TallahasseeはFlorida州の州都)。
 Timbuktuは、砂漠の交易路の要衝としてその地位を築黄、黄金都市として知られるようになった。イスラーム世界の大旅行家イブン・バットゥータの旅行記に登場するほか、ヨーロッパの冒険家たちがこの都市を目指して危険な旅行を企てた。ユネスコの世界遺産になっているはずだが、イスラーム過激派による破壊活動の結果、その地位が危うくなっていると聞いたことがある。ジュール・ヴェルヌの小説にこの都市が登場する作品があるので、探してみてください。

 ニッパツ三ツ沢球技場で横浜FC対札幌コンサドーレの対戦を観戦した。ここ2連勝中の横浜と、目下J2首位の札幌の対戦で、序盤は札幌が優勢だったが、その後は互角の展開となり、後半70分にCKから札幌のGKがはじいた球を横浜のFW大久保選手が左足でけりこみ、これが決勝点となった。横浜は終盤に内田選手が登場、その一方で三浦カズ選手がベンチにも入らなかったが、14日の東京ヴェルディ戦に備えて温存したか、あるいは他の理由があったのか気になるところである。

ゴーゴリ『死せる魂』(2)

8月10日(水)晴れのち曇り、依然として暑し

 おそらくは1830年代のはじめごろのロシア。モスクワの西、あるいは西北に位置するとある県庁所在市にチチコフという男が軽四輪馬車(ブリーチカ)で乗り込んでくる。市の有力者を訪問して、その近づきを得た彼は、さらに市の周辺の地主たち、マニーロフ、ソバケーヴィッチ、ノズドリョーフらと知り合いになった。滞在が1週間を超えたころ、彼は馬車を走らせて、マニーロフを訪問する。食事の後、チチコフはマニーロフに相談を持ち掛ける。彼が所有している農奴で、戸口調査名簿には掲載されているが、調査の後で死んだ者がいれば、その農奴をチチコフに何らかの方法で譲ってほしいというのである。この奇怪な申し出にマニーロフは驚くが承知する。
  題名になっている『死せる魂』はロシア語ではМёртвые Душиといい、Души(これは複数で、単数はДуша)には霊魂、農奴という2つの意味がある。岩波文庫版上巻の「解題」にあるように、この表題はその2つの意味を含めて用いられている。「つまり、主人公チチコフが地主から買い求めて歩く《死んだ農奴》(7年ないし10年に1度行われる農奴人口調査の帳簿には登録されているが、実際は死に、次の調査までは抹消されずにいる)と、作者の描いた地主、役人ら《魂の死んでしまっている人間たち》を示している。」(下巻、249-250ページ) 作中で何度も語られているように、名簿上抹消されていない農奴には(生死にかかわらず)人頭税がかかる。死んだ農奴を譲ってほしいというチチコフの申し出は、余分な負担を取り除くものだから歓迎されそうなものであるが、地主たちはそれほど単純には考えない…(以上、第1部第2章まで)

 最初の企てがうまくいったので、チチコフは今度はソバケ―ヴィッチのもとを訪問しようと乗り込んだ馬車の中で、すっかりいい気になって物思いにふけっていたが、御者のセリファンもマニーロフの家で受けたもてなしにすっかりいい気になって、馬を走らせながら勝手なおしゃべりをしていた。そのため、マニーロフの家で教えられた道筋通りに馬を走らせず、激しい雷雨に出会ってびっくりした彼はどこに続くかわからない道に馬車を乗り入れて、馬どもを急がせた。ずぶぬれになっただけでなく、馬車が横倒しになって泥だらけになったりしたが、ちょうど聞こえてきた犬の鳴き声を頼りに、2人はある女地主の屋敷にたどり着いて、一夜の宿を乞う。女地主の言葉から、チチコフは彼らがかなりの僻地に迷い込んだことを知るが、羽根布団の上に横になると、更紗布団を上にかけて眠り込んでしまった。
 翌朝、目を覚ましたチチコフは、老女地主の村の暮らし向きが悪くなさそうであるのを見て取って、コローボチカというこの女地主に愛想よくし始める。そして、死んだ農奴を自分に譲ってほしいというが、コローボチカは死んだ人間は売ったことがないと、断り続ける。チチコフは手を変え、品を変えて売るように迫るが、無知で頑固な彼女は考えを変えない。チチコフはだんだん我慢できなくなるが、「チチコフが腹を立てるのは間違っていた。もっと偉い人物や、お上の役人の間にすら、どうかするとこのコローボチカそっくりなのがあるものだ。そういう連中は、噛んでふくめるように言い聞かせても、とんと納得させることができず、どんな明々白々な論拠をもって臨んでも、まるで暖簾に腕押し同様で、さっぱり手ごたえがないのだ。」(上巻、95ページ)と、作者は人間観察の一端をのぞかせて、この種の人物が決して例外的な存在ではないことを述べる。
 チチコフが旅の商人だと思っている老婆は、彼が政府の御用を務めているという脅し(もともと役人であったらしいことは、彼が旅館に泊まる際に官名を書きいれていることで分かるが、すでに役所を離れていることも明らかである)に驚いて、農奴を売ることに同意するが、それと引き換えに農産物を大量に買ってもらうことを考えている。今度こそソバケーヴィッチの家に向かおうと馬車に乗り込むチチコフのために、老婆は道案内としてはだしの少女をつけてくれる。セリファンは彼女を嫌がるが、彼女がいなかったら、またもや道に迷ったところであろう。(以上、第1部第3章)

 本街道に面した料理店の前に来ると、チチコフは馬車を止めさせて食事をとろうとする。(コローボチカのところで軽食らしいものを口に入れているのだが、ゴーゴリも書いているように、この種の二流の紳士は底抜けの食欲を持っているのである。) 子豚の丸焼きを頼んだチチコフは、例によって料理店の主人である老婆から近在のいろいろな噂を聞きだす。もちろん、どんな地主がいるかという噂も聞くが、老婆はマニーロフとソバケーヴィッチを知っていて、マニーロフの方が上品な人物であるという。
 そんな話をしていると、料理店の前になかなか立派な3頭立ての馬車が止まり、ブロンドと黒髪の2人の男が下りてきた。遅れて店に入ってきた黒髪の男は、チチコフが検事の家で食事をともにしたことのあるノズドリョーフであった。2人は定期市に出かけていたのだが、ノズドリョーフはそこで行われていた博奕で持ち合わせをすってしまい、妹婿であるミジューエフの馬車に同乗してここまでやってきたのだという。ノズドリョーフは、チチコフがソバケーヴィッチの屋敷を訪問しようとしていると聞いて、それよりも自分のところに来いとチチコフを強引に連れ込もうとする。チチコフはノズドリョーフの賭博好きと乱暴で無頓着な性格を警戒するが、農奴をタダで譲ってくれる可能性もあると、同行することになる。
 35歳になるノズドリョーフは、学校時代のガキ大将がそのまま大人になったような男で、「彼が顔を出した限り、どんな会合でも無事に収まったためしがない。」(上巻、132ページ) 気が多くて、遊び好きで、浪費家で、ほら吹きである。チチコフは彼の屋敷と村を案内されるが、馬小屋は空でヤギが1匹いるだけ、それに対して犬小屋にはたくさんの犬がいた。とにかく、彼の屋敷の中にあるのは役に立たないがらくたが多く、食事もいい加減だが、ノズドリョーフは意に介さず、ミジューエフと酒ばかり飲んでいる。酔っぱらったミジューエフが、やっとのことで帰宅した後、チチコフは農奴を譲ってくれと言い出そうとするが、ノズドリョーフはカルタをしようと言ったり、チェスを指そうと言ったり、自分の世界に彼を引き込もうとし続ける。やむなくチェスを始めたが、言い争いになり、すぐに暴力に訴えるノズドリョーフと、それに加勢する召使たちに囲まれて窮地に陥る。折よく、最近、ノズドリョーフが最近起こした暴力事件について審理中であると警察署長が通告しにやってきたので、逃げ出すことができた。(以上、第1部第4章)

 第1部は、前回にも述べたようにロシアの農村の様子が詳しく描かれ、ダンテの『神曲』『地獄篇』に相当する者として構想された箇所であるが、作者が問題にしているのは人々の生活ぶりよりも、地主たちや役人たちの性格である。農村の世界はコローボチカの村がそうであるように、豊かとはいえないまでも悪くはない。チチコフがコローボチカに提供された寝床に潜り込む場面や、彼女がチチコフのために準備する、「茸、ピロシキ、目玉焼き、バター入り揚げ菓子、厚焼きや薄焼きの揚げ物…」(上巻、104ページ)にそれは明らかである。ノズドリョーフの土地と邸のように、もしそれが荒廃しているならば、それは地主の性格と、その反映である農地の経営方針の結果なのである。一方で、人間の心の在り方を問題にしながら、農村生活の具体相を詳しく描き出していく、ゴーゴリのペンは、精神主義と現実主義の両極をさまよいながら、進もうとしている。

『太平記』(117)

8月9日(水)晴れ、暑し

 元弘3年(1333年)5月に鎌倉幕府が滅亡し、後醍醐天皇が都に戻られて、政治の中心が朝廷に一元化された。翌年、建武と改元され、後醍醐天皇の側近と倒幕に功績のあった武士たちを中心に新しい政治が進められようとしたが、戦乱による疲弊にもかかわらず、新政権の中枢にある人々は贅沢な生活を送り、新政権から疎んじられている武士たちの不満は高まっていた。
 北条家の最後の得宗であった高時の弟泰家は、ひそかに上洛して西園寺家に身を寄せていたが、その当主であった公宗と共謀して、京都、関東、北国での北条氏残党による蜂起の手はずを整えた。さらに紅葉狩りの御遊にことよせて後醍醐天皇を自分の邸である北山第に迎え、とらえようと計画したが、公宗の弟公重の密告により陰謀が露見して斬られた。公宗の北の方はその時懐妊中であったが、出産した赤子にまで追及が及んだのを、祖母である昭訓門院春日が歌を詠んで取り繕い、その子は実俊となって西園寺家を継ぐことになる。

 「今、天下一統に帰して、寰中(かんちゅう)無事なりと云へども朝敵の与党、なほ東国にありぬべければ、鎌倉に探題を一人置かでは悪(あ)しかりぬべしとて、当今(とうぎん)第八宮を、征夷将軍に成し奉つて、鎌倉にぞ置きまゐらせられける。足利左馬頭直義、その執権として東国の成敗を司る。法令皆旧を改めず。」(第2分冊、321ページ、今、天下は朝廷のもとに統一されて、畿内は無事であるとはいえ、北条氏の残党がまだ東国の方には残っているので、鎌倉に探題(=地方の政務・軍事を司る職)を1人置かないといけないだろうというので、後醍醐天皇の第8皇子、成良(なるよし)親王を征夷将軍として、鎌倉に駐在していただくこととなった。高氏の弟の足利直義が、その執権として東国の政務・軍事を司ることとなった。法令はすべて、鎌倉幕府時代のものを改めず使うこととした。)

 そうこうするうちに、西園寺公宗の陰謀が発覚して、関係者が処刑されたため、京都で挙兵しようと企てていた北条氏の残党たちは、皆、東国、あるいは北国に逃亡し、幕府再興というかねてからの念願をあくまで達成しようと考えていた。北国の大将である名越太郎時兼には、越中の野尻、井口、長沢、倉満の各家の武士たちが参集し、さらに、越中、能登、加賀の武士たちが加わって、ほどなく6,000余騎になった。

 高時の次男である相模次郎時行は、第10巻に亀寿という幼名で登場していた。幕府滅亡の際に諏訪三郎盛高に背負われて信州に落ち延びていたが、諏訪頼重、三浦時繼、若狭持明、蘆名盛員、那和政家、清久山城守、塩谷民部大夫、工藤四郎左衛門以下、主要な大名50人余りがその陣営に加わったので、伊豆、駿河、武蔵、相模、甲斐、信濃の武士たちは、この大将に従わない者はいないという様子であった。

 時行は、その軍勢5万騎を率いて、信濃で挙兵するとすぐさま、鎌倉に攻め寄せようとした。足利一族で、直義の妻の弟である渋川義季、下野の豪族である小山秀朝たちが武蔵の国に出陣して迎え撃とうとしたが、多勢に無勢で打ち破られ、渋川と小山はともに自害し、その軍勢は全滅したのであった。さらに新田四郎が上野の国蕪川(かぶらがわ、現在では鏑川と書いている)で防戦したが、衆寡敵せず、200人以上の兵を死なせて敗走した。

 その後、時行の軍はますます多くの兵を集め、三方から鎌倉へ押し寄せてきた。直義は敵の進撃が速いのと、味方の軍勢が少ないのを考えて、なまじっかここで戦っては、敵にさらに勢いをつけさせるだけであると、成良親王とともに、建武2年7月26日の朝早く、鎌倉を出て、東海道を西に落ちていった。

 西園寺公宗の陰謀未遂の余波で、東国では再び戦乱が起きた。この戦乱は、やがて全国に広がることになる。新政権に不満を持つ武士たちを糾合することに時行は成功したが、彼自身がまだ若いので、前途多難に思われる。対する直義は、兄の高氏が武人としての性格が強いのに対し、政治的な手腕に長けていたようで、鎌倉で腰を抜かして、なすところなく敗死した北条高時と比べても、このあたりの判断は冷静である。さらに直義は逃げるついでに、恐ろしいことをたくらむ。それは何か、というのはまた次回に。

ダンテ・アリギエリ『神曲 煉獄篇』(32-3)

8月8日(月)曇り、一時晴れ

 煉獄山の頂上にある(地球上でもっとも天国に近い)地上楽園に達したダンテは、ベアトリーチェに出会い、彼女から天上の世界が指し示す道から外れた生活を送ってきたことを責められるが、彼女とともに天上から降りてきた霊のとりなしもあって、楽園を流れるレーテの川を渡り、その忘却の水を飲んで、これまでの罪を忘れることができた。ベアトリーチェを中心とする行列は、神がアダムとエヴァにその実を食べるなと命じた善悪を知る知恵の木の立つところにやってくる。その木は枯れていたが、行列の中にいたグリフォンが牽いていた凱旋戦車の轅をその木に結ぶと、木には生気がよみがえり、花を咲かせる。そのときに耳にした妙なる調べの響きの中でダンテは眠ってしまう。目覚めると、ベアトリーチェに従っていた一行は、ベアトリーチェと賢明・中庸・剛毅・正義の4つの枢要徳と慈愛・希望・振興の3つの対神徳を表している7人の貴婦人たちを残し、天上に帰っていくところであった。7人の貴婦人たちに囲まれて座ったベアトリーチェは、ダンテにグリフォンが知恵の木とつないだ戦車(教会を象徴する)をめぐっておきる出来事をしっかり目撃して、地上に帰ったのちに、人々に伝えるように言い渡す。

 ダンテはまず知恵の木と戦車とを雷火と「ユピテルの大鳥」(480ページ、ローマ帝国の表象である鷲)が襲う幻を見る。これはネロ帝からディオクレティアヌス帝までの皇帝たちによるキリスト教徒迫害を示すものである。
そのためにまるで嵐の中の船のように、
今は風下、次には風上と波に翻弄されるがごとく車は傾いた。
(480-481ページ)

 そのあとで、腹を減らした狐(正統信仰を失った初期の異端者たち)が戦車の内部に襲いかかったが、護教的英知の象徴であるベアトリーチェに撃退されて逃げてゆく。続いて鷲が、戦車を飾り立てる(コンスタンティヌス大帝が教会に寄贈を行ったことを表す)が、それが教会にとって重荷となるであろうというペトロの嘆きが聞こえてくる。
 続いて1頭の龍が戦車をその尾で串刺しにし、戦車の底の一部を持ち去っていくのが見える。この個所については解釈が分かれているようだが、イスラーム教勢力の台頭により、キリスト教世界の一部が失われたこと、あるいは聖職売買による教会の腐敗堕落が進んだことが示されているというのが有力な意見である。さらに戦車は羽毛でおおわれていくが、これは正統な教会も聖職売買の悪癖に脅かされ、教会を刷新するものと期待されたフランシスコ会やドメニコ会などの修道会も世俗化し腐敗したことを示すと解釈されている。

 いつの間にか戦車は怪獣に姿を変え、2本の角をはやす3つの頭が戦車の梶棒のところに、角が1本だけの4つの頭が戦車の4隅に出現していた。10本の角をはやした7つの頭の怪獣というのは、新約聖書の『ヨハネの黙示録』の17に登場する。
高い山頂にある城塞にも似た傍若無人の体で、
帯を解いた娼婦が怪獣の上に一人座り、
私の前に現れ、周囲に流し目をくれていた。
(484ページ) 怪獣の上に娼婦が座っているというのも、「黙示録」の内容を承けている。

そして、まるでその女を奪われぬためであるかのように、
その横に1人の巨人が直立しているのを私は見た。
2人は互いに幾度も口づけを交わし合っていた。
(同上) 娼婦は一般にローマ教皇庁、巨人はフランスのフィリップ美王を示すと考えられている。巨人は娼婦があたりかまわず流し目を送るのに腹を立てて、娼婦と怪獣とを森の中に引きずり込んでしまった。これは1309年にフィリップ美王が行った、教皇のアヴィニヨン捕囚のことを指すと考えられている。この捕囚はダンテの死後の1376年まで続いたので、彼はその結末を目撃していないのである。

 この「煉獄篇」第32歌は、『神曲』全編を通じて、160行と最も長いが、新約聖書の「黙示録」に発想を借りた超常的なイメージを使いながら、当時のキリスト教会の世俗化・腐敗堕落と、そのために陥った政治的な危機が描かれていると解釈されている。天国を間近にしたダンテがこのような幻影を見るというのは不思議に思われるが、天国でこの話題を持ち出すことは控えた方がいいという判断があったのであろうか。ここで示されている解釈は、決定的なものではなく、他の解釈を許す性格のものであることを付け加えておく。

落語東西

8月7日(日)晴れ、暑し

 生まれたのは西日本であるが、育ったのは神奈川県である。大学は京都大学であったが、大体東日本で働いていた。「身は竹斎に似たるかな」で東と西を行き来している(とはいっても、本州の中央部をうろうろしていた、というだけのことかもしれない)。

 学校で授業をしている時に、本題だけを喋っていればよいのだが、時として、脱線することがある。自分の専門とする学問領域の話、自分の学生時代の思い出、趣味の話・・・ 少しは授業の内容と関係する場合もあるのだが、あまり関係がないことも少なくない。

 経験上、言えることだが、あまりしない方がいいのは:①自分があまりよく知らない話をする、②自分の趣味を押し付ける、③学生にとって差しさわりがある話をする ことである。自分と学生とでは趣味が違う場合もある(むしろその可能性の方が大きい)し、話の種類によっては、自分よりも学生の方が詳しい場合がある。いろいろな場合を想定する必要がある。授業を準備する過程では余談のことまで考えていないだろうから、余計に注意が必要である。

 自分が学生であったころの話で、ある先生が上方落語がお好きで、東京落語などよりも、上方の方がいいという話をされた。関東出身で、8代目の三笑亭可楽(その頃はすでに没していた)が好きだった私からすれば、聞き捨てならない雑談である。しかも、その理由をはっきりと語らずに、関西の言葉の方が柔らかだというようなことで話を締めくくられたように記憶する。

 東京の落語と上方落語のどちらかが好きかというのは趣味の問題である。どちらが好きでも構わない。私自身はというと、その後、ずいぶん上方落語も聞いたし、東京の落語も聞いたから、どちらがいいかというよりも、その中で誰が好きかとか、どの噺が好きかということの方が重要だと思っている。

 もし、上方落語が好きだということであれば、その理由として考えられるのは次のようなものであろう。1つは、上方落語の方が演者と観客の距離が近く、演者の愛想がいいということである。それ以上に上方落語は滑稽を旨とするが、東京落語は必ずしもそうではない、複雑なところがあるという違いがある。宇井無愁が『落語のみなもと』(中公新書)で書いているところによると、江戸時代に江戸では、奉行所から何度も落語(というよりも、その前身である落とし咄)の会や、寄席での興行の禁止令が出た。しかし町人たちは落とし咄を好み、とうとう文化13年にマジメな話に限って興行を許すというお触れが出た。
 「そもそもハナシカに「マジメな噺をせよ」とは、ない物ねだりの無理な注文。禁止に等しい。老獪な当局は、ていよくオトシバナシの自然消滅を胸算用していたのかもしれないが、民衆はそう都合よくあきらめはしなかった。以上くどくどと、禁止と潜行のいたちごっこをたどってきたのは、こうした政治事情が江戸落語の性格を決定し、屈折した話芸を作り上げたと考えるからである。
 まず周囲をはばかってはやし鳴物をひっこめ、素咄(すばなし)形式が定着した。人情咄や怪談咄などの「おかしくない落語」が主流を占め、世話講談との区別上、最後に「サゲ」をとってつけて、笑いに来た客への申しわけとした。よくしたもので、おかしくても笑わない客が落語の通とされるようになり、江戸っ子はニガ虫をかみつぶしたような顔で落語を聞くのが常であった。」(宇井、13-14ページ)

 明治大正になっても事情は変わらなかったが、落語の世界も世代交代が進み、円朝とか燕枝というような名人が没すると、笑いを求める観客は「おかしくない落語」に背を向け始め、そのことに危機感を抱く落語家が出現する。その筆頭が3代目の柳家小さんであり、彼は上方落語の中で、自分の芸風にあったネタを練り直して、高座にかけた。(宇井は触れていないが、3代目の弟子で、上方落語の『貧乏花見』を『長屋の花見』に作り替えた2代目の蝶花楼馬楽の存在も忘れてはならない。) それでも上方の二代目桂春団治と、東京の三代目柳家小さんの録音を聞き比べてみると、春団治がひたすら滑稽を追求しているのに対し、小さんは人情のような付加的な価値を探っているように思われる。

 上方落語を東京に移した「もう一人は大阪生まれの三代目円馬。うまい落語家ではなかったがネタ数を知っていて、東京落語家に教えて成功した例が多い。円馬エージェントを通してかなりの数の上方ネタが東京化され、現在も東京落語として演じられている。ネタの東西交流は常に上方出超の片貿易であった。江戸っ子の人情の流通県が狭く限られているのかもしれない。」(同上、15ページ)
 3代目の円馬が「うまい落語家ではなかった」という意見には異論があるかもしれない。8代目桂文楽と3代目三遊亭金馬という2人の実力者が3代目の円馬に傾倒していた。その3代目の金馬の弟子である故・桂小南は「なるほど、文楽、金馬両師は、芸風は違いましたが、咄の端々によく似ているところがありました。これは、おかしなもので、どうしても咄を教わった師匠に似るもんなんですね。
 さて、この円馬という人は名人といわれたそうで、それも後世の人がいうんですから間違いない。
 …この円馬師匠だけは、評論家先生からもお客様からも名人といわれたというから名実ともに実力があったんですね。」(小南『落語案内』、205-206ページ)と書いている。円馬の心酔者の1人が正岡容でその弟子で落語家になったのが、これも故人になった桂米朝である。だから、とにかく、影響力は大きかった。
 それでこの文章の趣旨とも関連して、書き落とせないのが、3代目の円馬は東京落語と上方落語の両方を演じた落語史上唯一の人物だということである。宇井は片貿易と書いているが、先日、上方落語の桂福団治師匠が東京落語の「唐茄子屋政談」を上方風に「南京屋政談」として演じたのを聞いたところで、最近では東京から上方への移植も行われているようである。

 それで、歴史的に見れば、東京落語は上方落語から多くのネタを受け入れることで現代の落語として発展したので、だから上方落語の存在は大きいということはできる。しかし、これは上方落語の方が好きだという理由にはなりにくい。むしろ、両者で描かれている生活や人情の違いから、上方落語の方が好きだというのは筋が通っている。例えば、先にあげた「貧乏花見」と『長屋の花見』については、先日亡くなった永六輔さんが「東京の『長屋の花見』が、大家の発案で店子連中しぶしぶ出かけるのに対し、『貧乏花見』は朝の雨がやんで仕事に出そこなって、身をもてあましていた店子たちの相談がまとまって、いわば自発的に出かける。大家が顔を出さないあたりが大阪的だ」(矢野誠一『落語手帖』、201ページに引用)と述べているが、この点とか、『貧乏花見』は女性もつれていくが、『長屋の花見』は男性だけだというような点とかに着目して、上方落語の方が好きだ(逆に東京落語の方が好きだ)というのは議論としての説得力がある。

 さて、宇井無愁は東京の落語家について、「高座に上ってもニコリともせず、ニガ虫をかみつぶしたような顔でまくし立てて下りてしまうのが、戦前までの東京落語家の一般的気風で、これを江戸前といった。昭和39年に死んだ八代目可楽が最後の見本だが、客の存在など眼中になく、客との交流を避ける傾向があったのも、禁令の余風だろうか。
 彼らに多少ともサービス精神が見えてきたのは戦後、ラジオの民間放送開始以後である。独自の出ばやしも使うようになった。マスコミのおかげで収入が増え、芸よりは知名度が収入に影響する時代になって、かれらも「顔を売る」必要を感じだしたらしい。」(宇井、15ページ)とも述べている。8代目の可楽にしても、私が聞くようになったのは文化放送の専属になってからで、それによってご本人の性格も芸もそれまでと変わって明るくなったといわれているし、私の記憶する限りで、愛想を振りまくというところまではいかなかったが、それなりに客のご機嫌をうかがうことはしていたように思う。宇井は「まくし立て」ると書いているが、確かに8代目は早口であったが、まくし立てるという感じではなかった。

 東京の落語家たちは宇井が指摘するように、ラジオの民間放送開始以後(ちょうど先代の林家三平が人気を集め始めるころであったが)、だんだんサービス精神を表に出すようになった。私が大学で上方落語の方がいいという雑談に憤慨したころというのは、東京落語はまだ昭和の名人たちが存命で、若手も伸びてきていたが、上方は四本柱と呼ばれた松鶴、米朝、春団治、小文枝(後に文枝)が再興に奮闘している時期で、勢いは明らかに東京の方にあった。それでも可朝、仁鶴、三枝というような若手が台頭し、落語家の頭数がそろってくると、その分、芸の個性化、多様化も進むことになった。それ以前からも、その以後も、東京と上方は互いに交流し、影響しあい、そこから、それぞれが変わっていき、新しい展開がみられたのである。

 だからあまり手前勝手で身びいきな東京落語、上方落語の礼賛論は願い下げである。東京にも上方にも好きな落語家はいるし、それぞれに好きな咄もあるのだが、やはりどちらかというと、東京風の屈折した滑稽感の方が私は好きである。そういう滑稽感が理解できないという人もいるかもしれないが、理解できないという理由で、不当な評価を下すのはやめてほしい。それは落語に限ったことではない。 

ジェイン・オースティン『ノーサンガー・アビー』(4)

8月6日(土)晴れ、暑し

 18世紀から19世紀に入ろうという頃、イングランド南西部のウィルトシャーのフラートン村の牧師の娘で17歳になるキャサリン・モーランドは「容姿はとても感じがよくて、きれいに見えるときには美人の部類に入る。そして頭の方は、17歳の娘の例にもれず、無知で無教養」(16ページ)であったが、村で一番の地主で、彼女を可愛がっているアレン夫妻に随行して、同じ南西部の有名な保養地で社交の中心でもあるバースで過ごすことになった。彼女はグロスター州の名門の出身で、牧師のヘンリー・ティルニーという24・5歳の紳士に紹介され、一緒に時間を過ごすうちに惹かれるようになる。その一方で、アレン夫人の旧友であるソープ夫人の娘であるイザベラという派手な美人と出会い、彼女と仲良くなる。キャサリンの兄ジェイムズはイザベラの兄ジョンと友人で、イザベラに恋している。ジョンはキャサリンに関心がある様子だが、キャサリンは、軽薄でうそつきのジョンが好きになれない。
 ヘンリーにはエリナーという妹がいて彼女は、イザベラとは対照的に控えめな性格だがやはり美人で、キャサリンは彼女と友人になろうと苦労する。ヘンリーとエリナーにはフレデリックという海軍大尉の兄がいるが、キャサリンはこの兄はあまり好きになれない。また兄妹の父親であるティルニー将軍にも何か近づきがたい気持ちを抱く。
 ジェイムズはイザベラに求婚し、両家の親たちからも結婚の承諾を得るが、イザベラは譲渡される財産の額に不満があるらしい。そして、彼女の美貌に興味を抱いたフレデリックに秋波を送ったりするので、キャサリンは気が気ではない。エリナーは、キャサリンを自分たちの屋敷であるノーサンガー・アビーに招待し、ゴシック小説の愛読者であるキャサリンは、アビーと呼ばれる屋敷が、彼女が愛読してきたゴシック小説の中でしばしばその舞台となることから、この招待を喜んで受ける。

 キャサリンはティルニー一家とともに、ノーサンガー・アビーに向かうが、その旅の中で将軍が彼女にひどく気を遣うのでかえって恐縮してしまう。途中でキャサリンはヘンリーと一緒に馬車に乗ることになったが、ヘンリーの手綱さばきの見事さに感心し(ジョン・ソープとは大違いである)、ノーサンガー・アビーでの生活への期待に胸を膨らませる。

 実際にノーサンガー・アビーに到着してみると、旧い建物の内部は現代風に作り直されていて、キャサリンはがっかりする。ティル二―将軍は時間に厳格な態度を示し、キャサリンは落ち着かない気持ちになるが、それでも自分にあてがわれた部屋が快適な様子なので安心する。それでも、夜は嵐が邸の外で吹き荒れたので、キャサリンは様々な想像をめぐらす。

 フレデリックは海軍の軍人として船に乗っており、ヘンリーも普段は自分の教区の牧師館で暮らしているので、ノーサンガー・アビーで暮らしているのは将軍とエリナーだけである。将軍は自分の財産を自慢する一方で、言っていることと実際に思っていることが食い違っていることが多いようである。ヘンリーとエリナーはこの性格に気付いているのだが、キャサリンはなかなかそれが分からない。とにかく、将軍の謎めいた態度が物語の後半の展開で物語を大きく変転させることになる。
 さて、ノーサンガー・アビーで、キャサリンはどのような冒険をするのか(しないのか)、ヘンリーとキャサリンの間柄はこの後、どのように進展していくのであろうか。バースに残してきたイザベラと、ジェイムズの恋の行方も気になるところであるが、それらは読んでのお楽しみとしておこう。

 この小説には3つの家族が登場する。地方の比較的裕福な牧師であるモーランド家は、なんとなくのんびりした暮らしぶりに加えて、子だくさんなために子どもの教育についてはあまり厳しくないところがあり、ジェイムズもキャサリンもおっとりしていて、恋の複雑な駆け引きは苦手で、物事をいい方に解釈する傾向がある。同じく地方のきわめて裕福な地主であるティル二―家は、妻を失った将軍とその3人の子どもからなり、将軍は裏表のある性格で、フレドリックも似たようなところがあるが、次男のヘンリーと娘のエリナーは気立てがよい。ただ、ジェイムズやキャサリンよりも他人の言動については現実的な判断ができる。ロンドンの近くに住むソープ家は、弁護士だという父親が登場せず(あるいはすでに故人であるのかもしれない)、子どもたちを溺愛している母親のもとでジョンもイザベラも利己的で嘘を平気でつく人間になっている。この家族の描き方が興味深い。

 それから、イングランドの田園地帯の、比較的世の中の変化から取り残されているような地方を舞台にはしているが、それでも世の中の変化が小説の中に描きこまれている点も注目される。ノーサンガー・アビーでの朝食の場面で、キャサリンが食器の素晴らしさをほめると、将軍は「いや、確かにこれは、とてもシンプルで上品な素晴らしい食器です。私はわが国の製品を大いに応援すべきだと思っています。私は紅茶の味にはそれほどうるさいほうではないが、スタッフォード州(ウェッジウッド社の製造工場がある)で作られた食器で飲む紅茶も、ドイツのドレスデン(マイセン焼で知られる)やフランスのセーヴル(セーヴル焼で知られる)で作られた食器で飲む紅茶も、おいしさに変わりはない。…」(263ページ)と長広舌を振るう。18世紀後半に作られ始めたウェッジウッドの食器が次第に(この領域における)先進国の製品に追いついている様子が知られるのである。余計なことを言うと、ウェッジウッド社の創立者であるジョサイア・ウェッジウッドの孫が進化論で有名なチャールズ・ダーウィンであり、彼の妻であるエマもジョサイアの孫(チャールズの従姉)である。

 『ドン・キホーテ』が先行する騎士道小説のパロディとして書き始められ、それをしのぐ作品となったことはよく知られているが、『ノーサンガー・アビー』はゴシック小説のパロディとして書かれたものの、彼女の生前には出版さえされなかった。とはいうものの、その後のオースティンの作品、地方に住む地主や牧師の娘の恋愛と結婚という内容は既に含まれていて、ゆったりとした展開の中に人生の機微が描かれ、これはこれで読み応えのある作品となっていると思う。
 オースティンの全部で6編の長編小説のうち、これで5編を読み終えたことになる。残るは『マンスフィールド・パーク』だけで、近いうちにこれも読むつもりである。 

『太平記』(116)

8月5日(金)晴れ、暑し

 鎌倉幕府の滅亡時に姿をくらましていた、北条泰家(高時の弟)は、ひそかに上洛して西園寺家に身を寄せていたが、鎌倉幕府との結びつきが強かった西園寺家の当主公宗は、泰家と計画をめぐらし、京都、関東、北国で幕府再興を図る蜂起の手はずを整えた。さらに御遊にことよせて後醍醐天皇を自邸(北山第)に迎えてとらえようと謀るが、弟公重の密告により陰謀が露見して斬られた。公宗の妻・名子は、流刑と決まった夫と別れを告げるために彼が捕らえられていた中院定平の屋敷に向かい、夫が殺害される一部始終を目撃して、泣く泣く、北山の屋敷に戻る。

 これまで邸内に大勢いた身分の低い侍や侍女たちは、どこへともなく逃げ去っていて、人の姿が見えないだけでなく、翠簾や几帳が引き落とされている。居間を見ると、興が向いた折に公宗が歌を詠んで書き留めた短冊があちこちに散らばっている。これも今は亡き夫の形見かと思うと、涙が沸いてくる。寝所を見れば夜具はそのままになっているが、枕を並べて寝た夫の姿はない。
 「庭には紅葉散り積もつて、風の気色(けしき)も冷(すさま)じきに、旧き梢の梟(ふくろう)の声、気疎(けうと)げに泣きたる暁の物寂しさ」(第2分冊、315ページ)、どうやってこれから耐えて住み続けるかと思っているところに、西園寺の邸は、公宗の弟の公重が引き継ぐことになったと青侍達が大勢やってきて、屋敷を占拠してしまったので、その不快さが夫との別れのつらさに加わって、北の方(名子)は仁和寺(右京区御室)の近くにあまり人が訪ねて来ないような家を見つけて移り住み、夫である公宗の百箇日に当たる日に無事出産、若君が誕生した。

 世が世であれば、大騒ぎしてお祝いするところであるのに、粗末な住まいで、乳母をつけることもできず、母親が自分で抱いて育てていた。生まれた子どもが少しずつ成長するにつれて今は亡き公宗に似てきたのを見て
 形見こそいまはあたなれこれなくは忘るるときもあらまし物を
(第2分冊、316ページ、あの人が残した形見が今は恨めしい。これがなければあの人を忘れるときもあろうものを。)という『古今和歌集』の歌が思い出されて、涙の種となった。

 このように夫を失った悲しみが消えず、赤ん坊を生んだばかりだというのに、中院中将定平のもとから使いが来て、お産のことについて内裏からお尋ねがあった。もし生まれたのが若君であれば、乳母に抱かせてこちらにいらっしゃってくださいと伝える。母親(=名子)は男の子が生まれたという噂がどこから伝わったのであろうか。嘆きながらもこの子を育て、大納言の忘れ形見として見るだけでなく、成人したならば僧にして、父の菩提をともらわせようと思っていたのに、まだ乳離れもしない赤ん坊のうちに、武士の手にかけてその命を奪うというのでは、この後何を頼りにして生きていけばよいのかと嘆き悲しむ。

 公宗の母で、亀山天皇(上皇)の妃昭訓門院(西園寺実兼の娘)に仕えた春日局が名子に付き添っていたが、泣きながらも、使いのものと会って、母親が懐妊していた折に大変なことが起きたためでしょうか、生まれ落ちてすぐに、亡くなりました。罪人の遺児なので、どのような措置を下されるのかと、上からの御咎めを恐れて隠しておいたのですが、私が嘘を言っているのではないという一言を物心にかけて申し上げましょうと、泣く泣く手紙をしたためる。その奥に
 偽りを糺の森に置く露の消えしにつけて濡るる袖かな
(第2分冊、317ページ、偽りをただすという名の糺の森の葉に置く露のように、子どもがはかなく亡くなってしまい、そのことにつけても袖が涙にぬれることだ。糺の森は、下鴨神社の森で、歌枕とされてきた。私が京大に入ってすぐのころ、下鴨に下宿していたので、糺の森という名前にはなじみがある。

 使いの者がこの手紙を持って帰ってきたので、定平は涙を抑えながら後醍醐天皇にこれを御覧に入れる。この一言に天皇もあわれと思召されたのであろうか、その後は遺児の追及は沙汰止みとなった。名子は喜びながらも、なお慎重に配慮しながら子どもを3年間秘密裏に育てた。建武4年(1337)に建武の乱がおきて、足利尊氏が将軍になると、この人は朝廷(北朝)に仕えて、西園寺の跡を継ぎ、北山大納言実俊となった。
 西園寺実俊(1335-89)は北朝成立後、3歳(満では2歳)で従5位の下に任じられ、康永3年(1344)に従3位で公卿の仲間入りをして、貞和5年(1349)に正3位権中納言となる。母親の名子が典侍(ないしのすけ)として宮中に出仕していたから、幼いうちはその周囲でよちよちしていたものと思われる。現代であれば中学生という年頃で中納言ということである。『太平記』の30巻以降に登場し、ここでは大納言と記されているが、最終的には右大臣となり、また武家執奏という朝廷と室町幕府の連絡調整の役割を務めた。

 朝廷の追及を歌で交わした昭訓門院春日の才知はなかなかのもので、あるいは定平も後醍醐天皇も子どもが生きているのには気づいていたが、歌に免じて追及をやめたのかもしれない。春日は大納言二条(藤原)為世の娘で、二条家は藤原定家の孫為氏が起こし、同じく孫の為経が起こした京極家とともに和歌の家として知られる。二条家は大覚寺統、京極家は持明院統に近づく傾向があったはずである。亀山天皇(上皇)は大覚寺統の天皇であり、西園寺家は両方に自分の娘たちを后妃として送り込んでいる。娘たちを高貴な家柄に嫁がせようとしている一方で、息子の嫁ということになると、和歌の家とか学者の家とか、実力派の貴族の家柄から迎えている。実俊の誕生・成長をめぐってはこの戦術が奏功したように思われる。さらに言うと、後伏見院の女御となり光厳天皇、光明天皇を生んだ西園寺寧子(1292-1357)の存在も忘れてはならない(いずれ彼女の出番が回ってくるはずである)。

 この後、作者は琵琶の名手であった公宗が北野神社に奉納した楽曲の音色を聞いて、この大納言の末路を予言した同じく琵琶の名手である藤原孝重の説話を取り上げる。奉納した楽曲の中に「玉樹」という曲があるが、これは中国で亡国の音楽とされてきたものであり、その中で不吉な音をことさらに強調して演奏するのはどうも不思議だと孝重は思ったが、ほどなく、公宗は陰謀に失敗して刑死してしまったという。
 公宗の陰謀は氷山の一角であり、建武の新政をめぐってわだかまっていた不満がこの事件をきっかけにあちこちで表面化する。その詳細は次回以降に。

日記抄(7月29日~8月4日)

8月4日(木)晴れ、暑し

 7月29日から本日までの間に経験したこと、考えたこと、その他:
 岡義武『近衛文麿』(岩波新書)が本屋の書架に並んでいるのを見つけ、立ち読みしたところ、7月16日付の当ブログ「倉本一宏『藤原道長『御堂関白記』を読む』(4)」の中で、筆を滑らせた箇所があるのに気づいた。京大の学生であった近衛が在学中、大学の近くの清風荘で静養中の西園寺を訪ねたところ、西園寺が近衛を上席に座らせたというのは、私の記憶違いでそんなことは書かれておらず、ただ、学生服姿の近衛に向かって「閣下、閣下」と呼びかけたということだけが記されていた。
 近衛は一高在学中、岩元禎の影響を受けて哲学を勉強しようと思い、東大の哲学科に進んだのだが、社会問題への関心が強くなり、京大に入りなおしたのである。岡の書物を読み直して(といっても立ち読みだが)、今度は高橋英夫『偉大なる暗闇――師岩元禎と弟子たち』(講談社文芸文庫)に近衛のことが出ていなかったかと、帰宅してから本棚を探して見つけ出して読んでみると、明治42(1909)年に一高に入学した山本有三が近衛と同期であったことが77ページに記されていた。
 なお、倉本さんの著書の216ページに、近衛家の先祖である道長と、西園寺家の先祖である道長の叔父公季の会話についての記述があり、近衛家も、西園寺家も途中で養子を迎えたりしているので、西園寺公望と近衛文麿が公季と道長の子孫とは言えないのだが、その後の歴史を考えると興味深い。
 清風荘は小川治兵衛による日本庭園と数寄屋造りの主屋、茶室等からなり、近代和風住宅建築の代表作とされているそうである。1944年に京都大学に寄贈され、2012年には重要文化財の指定を受けた。

7月29日
 NHKラジオ「実践ビジネス英語」の”Just in Jest"のコーナーで
Money talks but it rarely says "I shall return."
(お金はモノを言うが、「私は必ず戻ってくる」とはめったに言わない。)
という表現が紹介された。I shall return.は、第2次世界大戦中の1942年に、Gen. Douglas MacArthurが日本軍の攻撃を受けてフィリピンから退却するときに言った、有名な言葉である。この場合のshallは辞書によると、「一人称を主語として、強い決意、強情を表す」という用例にあてはまるようである。

7月30日
 NHKラジオ「攻略!英語リスニング」では”Plate Tectonics"について取り上げた。
The theory that describes the motion of the plates over the mantle is called plate tectonics.
(マントルに載ったプレートの動きを扱う理論がプレートテクトニクスである。)
 これだけでは何のことかわからない。
The surface of the planet is called the crust. Rather than one seamless shell, the crust is made of about 15 interlocking plates.
(地球の表層は、「地殻」と呼ばれている。とはいっても、継ぎ目のない殻があるわけではなくて、大体15個ぐらいのプレートが組み合わさって地殻を形成しているのである。)
 地殻の内側にはマントルと核があるというのが地球の大まかな構造だそうである。

 Japan sits at the intersection of four plates, and their movement can cause earthquakes.
(日本は4つのプレートが交差する場所に位置していて、そのプレートの動きが地震を引き起こすこともある。)
ということであるが、地球上の15余りのプレートのうち4つが日本列島で交差しているというのは、なかなかすごいと思う。

7月31日
 Eテレ「日本の話芸」では、五街道雲助師匠の「お初徳兵衛」を放映した。地味で着実な語り口は師匠の金原亭馬生譲りかと思うのだが、途中で居眠りしてしまって、全部を聞きとおしてはいないので、確かなことは言えない。

 ニッパツ三ツ沢球技場で横浜FC対ジェフ市原・千葉の試合を観戦する。GENOVAデーということでメイン・スタンドが満員になり、ジェフ側の観客席に座ったので、応援を自粛した。前半16分にジェフがFW船山選手のゴールで先制したが、28分に横浜がゴール前で相手の反則を誘い、FWイバ選手がPKを決めて同点に追いつき、38分にはイバ選手が転がしたボールをMF佐藤選手が左足で決めて逆転、後半のジェフの猛攻をしのいで、2-1でホームでは久々の勝ち点3をもぎ取った。

8月1日
 元横綱千代の富士の九重親方(本名=秋元貢さん)が亡くなられた。どうも残念である。

 NHK「ラジオ英会話」の8月のテーマは”College Life" で、コミュニティ・カレッジから州立大学に編入してきた女子学生を主人公にして、アメリカの学生生活に関連する語彙や表現を学習する。『アメリカン・グラフィティ』という映画の主人公が、東部の4年制大学に進学するか、故郷の市のカレッジに進むか最後まで悩む姿を思い出す。日本では地域の短大から、大学に編入するというシステムがあまり普及・定着しなかったが、どういうことであろうか。

8月2日
 『朝日』の朝刊に小学校・中学校・高等学校の新しい学習指導要領の審議まとめ案が掲載されていた。それによると高等学校の古典A、古典Bが「古典探求」に一本化されるようである。また、世界史B、日本史Bもそれぞれ「世界史探求」、「日本史探求」となるそうである。探求ということは、学習者の主体性を重視しようというのだろうが、実際にはどのような教授・学習が展開されるのか、その結果、どのような知識・理解が定着していくのかというのは、やってみないとわからないところがある。

8月3日
 NHKラジオ「エンジョイ・シンプル・イングリッシュ」の水曜日の放送は落語を英語で紹介しているが、本日は”Okiku"を取り上げた。皿屋敷の井戸から出てきて「一枚、二枚…」と数えるお菊の幽霊が評判を呼ぶ。ある時、10枚を超えて数え続けているので、どうしたのだと聞くと、明日休みを取るつもりだという。ふつうは、風邪をひいたので、明日は休むという落ちになるのだが、風邪ひきである様子を英語で表現するのが難しかったのであろうか。

8月4日
 NHKラジオ「実践ビジネス英語」の”Quote...Unquote"のコーナーで紹介された言葉:
No one ever became great except through many and great mistakes.
     ---- William E. Gladstone
(British politician and prime minister, 1809 -98)
(たくさんの大きな過ちを犯さないで偉大な人物になった人はいない。)
 偉大な人物になれればいいのだが、大きな過ちをたくさん犯したが偉大にならずに終わる人間も少なくないはずである。) 

花火

8月3日(水)晴れたり曇ったり、一時雨

花火

駅に続く地下街を
色とりどりの
浴衣姿が歩いていた

そういえば、今日は花火の夜
彼女たちはどこで、
そして誰と、花火を眺めるのだろう

地下街にいても
ドドンという音は聞こえる
ちょっと弾んだ
夏の響きだ

花火はもう始まってしまったか
うちに帰ってから見ることができる分は
あまり残っていないかもしれない

バスを待ちながら
そんなことを考える
ビルの谷間から部分的に姿を見せる
花火を携帯で写している人もいる

わき目も振らずに
歩いてきて 並んでいる そこのお兄さん
ゲームの画面ばかり見ていないで
少しは周りに目を向けたらどうだろう?

今日は市内が
花火で盛り上がっているのに
自分だけの世界に閉じこもっていては
世の中の多くの
楽しみを見逃すことになるかもしれない

浴衣で歩いている女子たち
ドドンという音
花火の光と匂い
夏の色と闇

背を向けていたら
君はますます孤独になるだろう

ゴーゴリ『死せる魂』

8月2日(火)晴れたり曇ったり、暑し。

 7月31日、ゴーゴリ作、平井肇・横田瑞穂訳『死せる魂(上)』(岩波文庫)を読み終える。この岩波文庫版は上中下3巻からなり、上巻と中巻が原作の第1部、下巻が第2部に充てられている。19世紀の前半、ロシアをまだ皇帝が治めていて、農民たちの大部分が農奴として土地に縛り付けられ、地主たちの飽くなき収奪にさらされていた。ナポレオンとの戦争には勝利したものの、社会は矛盾だらけで、心ある人々は、その改革の必要性を強く感じていた。

 ロシアのある地方の県庁所在地に、チチコフという見たところ特徴のない「中流どころの紳士」が馬車でやってきて、この種の都市によく見かけるようなありふれた旅館のありふれた部屋に宿を定めた。彼にはセリファンという御者と、ペトルーシカという従僕が従っている。彼は食事を言いつけて、給仕からこの地方の様子や主だった役人・地主たちについて詳しく聞き、街を散策した後に、宿所に戻ってその日を過ごした。

 翌日、チチコフは県知事を訪問し、続いて副知事、検事、裁判所長、警察部長、専売官、官営工場監督官…と地方の主だった官吏たちのところを訪問して回った。「こういう有力者たちとの談合の間に、彼は実に手際よく、その一人ひとりに取り入った。」(18ページ)そして知事の開いた夜会に招待を受けたが、そのための支度に彼は2時間もかけた。
 夜会に出席したチチコフは、知事から歓迎を受ける。会場に集まった人々を見ていると、やせていて絶えず夫人の傍に付きまとっている連中と、肥っているか、あるいはあまり肥ってもいず、痩せすぎてもいないという(チチコフと同じような)カード・ゲームの一種であるホイストをしたがっている人々の2種類がいることに気付く。作者は「ああ! この世の中では、痩せ形の連中よりも肥り肉(じし)の連中のほうが確かに上手に物事をやり遂げてゆく」(23ページ)という経験に基づく洞察を述べる。チチコフは肥った人々の方に近づくが、「そこには、すでに彼の見知り越しの人物が、ほとんど全部そろっていた」(24ページ)。

 「その場で彼は、ひどく愛想がよくて腰の低い地主のマニーロフや、見たところ、いささかがさつなソバーケヴィッチと知り合いになったが、このソバーケヴィッチは、しょっぱなから彼の足をふんづけておいて、『やあ、ごめんよ。』といったものだ」(25ページ)。ホイストに加わりながら、チチコフはこの2人に特に注意を向ける。彼らがどのくらい農奴を持っているか、また領地はどんな状態に置かれているかということを知って、彼はますます2人に近づこうとし、マニーロフは「非常に鄭重に頭を下げ」(27ページ)、ソバケーヴィッチはというと「これはきわめてあっさりと」(同上)した調子で、チチコフを自分の屋敷へと招待したのであった。

 「翌くる日、チチコフは警察部長のところの午餐と夜会に招かれ、午後の3時からホイストをやりだして、夜中の2時まで勝負を続けた。」(25ページ) そこで彼はノズドリョーフという賭博好きらしい地主と一緒になる。その後も約1週間にわたり、チチコフはあちこちの催しに顔を出し、どんな会話にでも巧みに相手となり、人々の好ましい評判を獲得したのであった。

 こうして1週間以上を楽しく過ごしたチチコフは、「今度はいよいよ訪問の矛先を市外に向けて、かねての約束を果たすために地主のマニーロフやソバケーヴィッチを訪ねることにした」(30ページ)。そして御者のセリファンに軽四輪馬車の準備をさせると、まずマニーロフの住んでいるという村を目指す。言われていたよりも長い距離を走ってチチコフはマニーロフの屋敷に到着する。マニーロフは約束通りの歓待ぶりを見せて、屋敷の中を案内して回り、家族に紹介する。それに対してチチコフはお世辞を言い続ける。
 歓待が一段落したところで、チチコフは意外な用件を切り出す。当時、地主は自分の所有している農奴の数に応じて税金を払うことになっており、そのために戸口調査名簿を提出しなければならなかった。チチコフは、その調査を提出した後に、死んだ農奴はどのくらいいるかと質問したのである。これらの農奴は、実際には死んでいるが、書面上は生きていることになる。彼らをチチコフに譲渡し、その旨の売買登記を済ませようというのである。取引を済ませると、チチコフはマニーロフが引き止めるのを振り切って、ソバケ―ヴィッチの屋敷を目指してさっさと出かけるのである。

 どうやらチチコフは、実際には死んだが戸籍上は生きている農奴を自分の財産として登記し、何かの役に立てようとしているらしい。それが何かはさらに読んでいかないとわからない。
 ニコライ・ヴァシリェイヴィッチ・ゴーゴリ(1809-1852)がこの長編小説に着手したのは1835年のことで、プーシキンの示唆を受けて、ロシアの農村社会の悲惨さを風刺的に戯画化して描き出そうと考えていたのであるが、書き進めるうちに、この作品の中から思いもよらぬ偉大なものが飛び出してくるのではないかと思い始めた。そしてロシアの全貌とその生活に包含された<善>と<悪>を暴露しようと考えだして、すでに取り組んでいた作品の筋立てを改めて立て直し、ダンテの『神曲』を模した三部作として構想した。すなわち、第1部はもっぱら<悪>の描写にささげられ、『神曲』の『地獄篇』に対応するものであり、第2部は作中に皇帝的な人物が登場するもので、『煉獄篇』に相当し、最後にロシア人の魂に内在するあらゆる<善>を聖化して表現しようとした第3部が『神曲』の『天国篇』に相当するものとなるはずであった。

 ダンテの『神曲』を『煉獄篇』のほぼ終わりまで読み進んできた目で、『死せる魂』を読むと、ダンテが自分の神学に基づいて地獄や煉獄の精緻な構造図を描き、その中で人間の悪や罪の様相を位置づけているのに対し、ゴーゴリはあくまで農村の現実から目を離さず、地主たちがさまざまな悪徳の体現者として類型的に描かれているにしても、その姿はかなり現実的に思われる。聖書の知識に加えて古典や海外文学、そして民話を巧みに織り込んで叙事詩を作り出したダンテに比べて、ゴーゴリは農村の現実や民話が主な出典である分、典雅さにおいて見劣りがするが、その代わりに、地に根ざしたようなユーモアが読者を楽しませる。優劣の比較よりも、それぞれの個性を味わいながら、読み比べるべきであると思う。

 なお、この岩波文庫版は、1938年に出た平井の翻訳を戦後、平井が病没したために、その友人であった横田が1977年に改訳を加えたものである。その際、平井訳をできるだけ尊重した旨を横田があとがきで書き記している。古びているが、それが一種の格調を加えていて、独特の魅力をもった訳文である。
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