ジェイン・オースティン『ノーサンガー・アビー』(3)

7月30日(土)晴れ、気温が上がる。

 イングランド南西部のウィルトシャーの教区牧師の娘である17歳のキャサリンは、村の大地主であるアレン夫妻とともに、保養地であるバースで過ごすことになる。長所は性格がいいこと、短所は小説好きで現実と空想の区別がつかなくなることであるキャサリンは、バースでの社交生活の中で素敵な男性に出会うことを夢見ていたが、その通りグロスターシャーの名門の出身で牧師であるヘンリー・ティルニーという男性に出会う。その一方、アレン夫人は学校時代の同窓であったソープ夫人と出会い、キャサリンは、ソープ夫人の長女で派手な美人であるイザベラと仲良くなる。キャサリンの兄のジェイムズとイザベラの兄のジョンがオックスフォードの同じカレッジに在学していて仲が良く、この2人がバースに現れたので、キャサリンとソープ家の親交は深まる。ジェイムズはイザベラに恋しているらしい。
 ヘンリーにはエリナーというイザベラとは対照的に清楚な感じの美しさを持つ妹がいて、キャサリンは彼女と仲良くなろうとするのだが、ジョンが嘘をついてなかなか合わせようとしない。ジョンはキャサリンに惹かれているようなのだが、それを遠回しにしか言わないので、キャサリンは気づかない。ティルニー兄妹と散歩に出かけたキャサリンは、兄妹の趣味が自分と共通していること、かれらが自分よりも深い教養を持っていることに気付く。ジェイムズはイザベラに求婚し、両家の親もこの結婚に同意する。

 ティルニー将軍の家を訪問したキャサリンは、家の中のなぜかぎこちない雰囲気に失望してしまう。それでも翌日の夜の舞踏会でキャサリンはティルニー兄妹と楽しく時を過ごすことができる。この舞踏会には、ヘンリーとエリナー兄妹の兄で、海軍の将校であるティルニー大尉が休暇を利用して参加していた。大尉はやはり美男であったが、うぬぼれが強そうで、キャサリンは好感を持たない。大尉はダンスなど踊らないと公言しながら、同じく、(ジェイムズのことを考えると)踊る気分ではないといっていたイザベラとダンスを踊る。

 父母のもとに戻っていたジェイムズから2通目の手紙が届き、結婚にかかわる財産の贈与の規模が明らかになる。「現在モーランド氏は、年収約400ポンドの聖職禄を持っており、その贈与権も持っているのだが、息子ジェイムズが十分な年齢に達したら、その聖職禄を譲るというのである。これでモーランド家の収入はかなり減ることになるし、子どもはほかに9人もいることを考えると、これは決してケチくさい額ではない。その上、少なく見積もっても400ポンドの値打ちのある土地も、将来ジェイムズに譲るというのである。」(202ページ) しかし、この手紙を受け取ったイザベラはあまり喜ばない。キャサリンはそれが、結婚が遅れることへの不満なのだと思おうとした。(ソープ家の人々は、キャサリンの家を実際以上の大金持ちと考えているようであり、イザベラのジェイムズへの「愛情」もその誤解に裏付けられている。オースティンの後の作品『分別と多感』の登場人物の1人、エドワードが得た聖職禄は年収200ポンドであることを考えると、400ポンドというのは少ない額ではない。)

 キャサリンはアレン夫妻がバース滞在を当初予定していた6週間から8週間へと延ばすことが決まったときいて喜ぶ。ところが、それを告げようとエリナーに会うと、ティルニー家は来週の末にバースを去るといわれる。エリナーがほかに何か言いたそうにしているところに、ティルニー将軍が現れ、エリナーはキャサリンを一家の屋敷であるノーサンガー・アビーに招こうとしているのだという。(ここで、小説の表題である『ノーサンガー・アビー』が登場する。この表題は実は、オースティンの死後、兄ヘンリーの手で出版される際に、ヘンリーが命名したものであるが、小説の内容を考えると、なかなか巧みに選ばれている。屋敷の名前にアビーがつくと、その屋敷はもともと修道院であったことを示す。ヘンリーⅧ世が自分の都合でイングランドの教会をカトリックから離脱させたときに、修道院は廃止されたという歴史的な経緯がある。キャサリンはゴシック小説の愛読者であるが、そのゴシック小説の舞台として荒れ果てた修道院がしばしば登場するよしである。) キャサリンは、すぐに両親に手紙を書き、訪問の承諾を得ようとする。

 久々にキャサリンに会ったイザベラは兄のジョンがキャサリンに求婚したはずだというが、キャサリンは必死に否定する。2人が話しているところに、ティルニー大尉が通りかかり、イザベラと話し始める。キャサリンは不快に思うのだが、イザベラは気持ちをティルニー大尉に移しているようなのである。このことにはジェイムズも気づいて悩んでいる様子であり、キャサリンは思い切ってヘンリーに、彼の兄の大尉にイザベラの婚約のことを知らせ、手を引くように言ってほしいと頼む。ヘンリーは、兄には兄の考えがあって、自分の言うことなど聞きそうもないし、かりそめの恋ならばすぐに終わるといって取り合わない。いよいよ、キャサリンがティルニー家の人々に同行して、ノーサンガー・アビーに旅立つ日がやってきて、キャサリンとイザベラは必ず手紙を書くと約束しながら、別れを告げる(その通り、キャサリンは手紙を書くが、イザベラは約束を守らない)。

 これまで紹介してきたあらすじからも、キャサリンが他人の発言をそのまま受け入れる(何か底意や仄めかしがあるとは考えない)タイプの人間であることが分かると思う。イザベラ(とジョン)は平気でうそをついたり、その場をごまかしたり、首尾一貫しない発言を繰り返す。ヘンリー(とエリナー)は世の中には平気でうそをつく人がいることが分かる程度に、世故に長けている。これはネタバレになるから書かない方がいいのだが、キャサリンやイザベラと比べてエリナーが一番苦しい恋をしているのである。それを一向に表に出さないところが、やたらと自分の恋について話して、自分を見失いかけているイザベラとは対照的なところである。

 野上弥生子が夏目漱石に小説を書く際に手本とすべき書物を推薦してもらった際に、漱石は19世紀英国の女流作家であるシャーロット・ブロンテやジョージ・エリオットの作品と並んで、オースティンの作品を読めと勧めたそうである。より新しい時代の流行作家ではなくて、既に評価が定まった作品を勧めているところに漱石の見識がうかがわれる。漱石がオースティンをどのように読み、理解していたのかは私の知るところではないが、キャサリンのように発言をまっすぐにとらえ、嘘をつかない生き方をする人間に好意を寄せていたことは確かである。(『朝日』の連載ではまだそこまでいかないが、『猫』で独仙が雪江さんの学校にやってきて講演する「馬鹿竹」の話などはその一例である。) 
 その一方で、キャサリンの小説の読みすぎや空想癖についてはどのような見方をしていたのだろうか。そういえば、先日、「まいにちスペイン語」の時間を聞くとはなしに聞いていたら、夏目漱石が(もちろん英訳で)『ドン・キホーテ』を読んでいたという話が出てきた。これから、キャサリンの<ノーサンガー・アビー>での、ゴシック小説の中の出来事と自分の経験とをごちゃまぜにする経験が展開されることになるが、その話は次回(あまり連載を続けると、ネタバレになってしまうので、あと1回で終えるつもりである)。
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『太平記』(115)

7月29日(木)晴れ、気温が高くなる。

 建武政権のもとでの失政をめぐり、天皇にしばしば諫言してきた万里小路藤房が建武2年(1335)3月の石清水行幸の供奉を最後の職務として出家・遁世を遂げた。故北条高時の弟である泰家は、鎌倉幕府滅亡時に東北に逃げた後、ひそかに都に上り、西園寺家に身を寄せていたが、藤房の出家は朝廷にとっては大凶であるが、幕府再興を目指すものにとっては好機であると、西園寺家の当主である公宗と謀り、京都、北国、関東での蜂起の手はずを整えた。さらに御遊にことよせて後醍醐天皇を自邸に迎え入れ、とらえようと計画していたが、弟公重の密告により陰謀が露見して、公宗とその家司である三善文衡入道が捕らえられた。

 大納言である公宗を、彼を逮捕した中院中将定平の宿所に一間四方の部屋をせまい牢屋のようにこしらえて、幽閉した。文衡入道の方は結城判官(親光)のもとに預け、夜となく昼となくあらゆる手を尽くして拷問すると、陰謀の一部始終を余すところなく白状したので、すぐにその当時刑場として使われていた六条河原に引き出して首をはねた。

 公宗を伯耆守(名和)長年に命令して、出雲国に配流することとなった。公卿たちの会議で判決が下り、明日は配流先に赴くことに決まったその夜に、中院定平から公宗の北の方に知らせが届いた。北の方(日野資名の娘名子)は秘かに車を急がせて、泣く泣く公宗のもとに赴く。しばらく警護に当たっている武士たちを遠ざけて、幽閉されている夫の姿を見ると、1間四方の部屋の中にクモの脚のように材木を交差させ厳重に打ちつけた中に、身を縮めて、起き臥しもできないような状態で涙に沈んでいたので、北の方も涙を流し、耐えきれない思い出いっぱいになった。大納言は、北の方を一目見るなり、涙にむせぶばかりで言葉も出ない。北の方はどうなさったのでしょうかと涙を流し、衣(絹)を頭からかぶって泣いている。ややしばらくたって、大納言はようやく涙を抑えながら次のように述べた。「私がこのように引き出してくれる人もない干潟の小舟のように、重い罪を問われるにつけても、そなたが懐妊の身であるときいているので、わたくしの身の上への心配かららどんなに心を悩まされ苦しんでいることかと、それだけがあの世への暗い道を行く際の気がかりになるだろうと思う。生まれる子がもし男子であれば、将来の望みを捨てないで、慈しみの心をもって育ててください。これはわが家(西園寺家)に伝えるところのものなので、会うことのなかった親の忘れ形見としてほしい」と上玄・石上・流泉・啄木という秘曲を書いた琵琶の譜を一帖、肌につけたお守りから取り出して、北の方に渡された。西園寺家は鎌倉時代から琵琶の家として重んじられてきたので、生まれてくるはずの子どもにも、その伝統を受け継いでほしいという気持ちが込められている。そして、そばにあった硯を引き寄せて、包み紙に、一首の歌を書き記された。
あはれなり日影待つ間の露の身に思ひをかくる瞿麦(なでしこ)の花
(第2分冊、313ページ、日の光に会うとすぐに消えてしまう露のようにはかない私の命だが、生まれてくるわが子(撫でし子=瞿麦)

 硯の水に涙が落ちて、薄墨で書かれた文字が一層ぼやけてはっきりしない。見るだけでも心は消え入りそうだが、これを最後の形見として涙とともに受け取って、北の方はいよいよ悲しみが増して、なかなか口を利くこともできず、ただ顔も上げずに泣き続けているだけである。

 そうこうするうちに、罪人を配所に護送する役人がやってきて、「今夜まず長年のもとに護送して、朝になったら配所に赴かせることにしよう」という。このため辺りは次第に騒がしくなったので、北の方は隠れて様子を窺うことになった。それにしてもこれからの公宗卿の有様、どうなることかと気がかりに思われて、透牆(すいがい=竹や板で隙間を少し開けて作った垣根)の中に紛れて見ていると、大納言の身柄を拘束しようと、伯耆守長年が、鎧・兜を身に漬けた者たち2・300人ほどを引き連れて、庭の上に並んでいた。「夜が遅くなりすぎている」と急いでいたので、大納言は縄取りに引かれて、中門へと出ていく。その有様を見ていた北の方の心のうちは、何とも言いようのないものだった。既に庭の中に運び込まれていた輿のすだれを掲げて乗ろうとしたときに、定平が長年に向かって『早』と言われたのを、長年は命を奪えという意味だと取り違えて、大納言に走りかかって、その鬢の髪をつかんで俯せに引き倒し。腰の刀を抜いて、その首をかき落とした。北の方はこれを見て思わず「あっ」と叫んで、透牆の中に倒れてしまった。このままにしておくと息を引き取ってしまわれそうに見えたので、世話をする女房達が車に助け乗せて、泣く泣く北山殿に帰ったのであった。

 流刑にされるはずだった思いがけないことで公宗は命を失う。ただし、史実はこれと違っていた可能性がある。森茂暁さんは『太平記の群像』の中で、「『太平記』巻13は、かなりのスペースをさいて、この陰謀の顛末と公宗の遺子実俊のことを書いている」(森、2013、98ページ)と書いているが、その「かなりのスペース」がどのようなものかを、今実感しているところである。まだ30歳にならないという若年で、かなり重い地位に就き、責任を負わされた名門の当主公宗と、「元来、学問をもって朝廷に仕える家で、多くの練達した文筆系吏僚を出した」(森、前掲、47ページ)日野家の出身である名子の組み合わせはいろいろなことを考えさせる。それだけでなく、名子は『竹むきが記』という日記を残した当時一流の才女であった。「公宗は皇統の分裂、一門の抗争のあおりを一身に受けて命を縮めた、まさに悲劇の人であった」(森、前掲、101ページ)と森さんは論評する。物語はこの後、公宗の遺子実俊の身の上をめぐって展開される。

 森さんによると、公宗の陰謀は『小槻匡遠(おづきただとお)記』という実務型下級公家の日記の建武2年(1335)6月22日の条に記されていて、そこでは西園寺公宗と日野資名・氏光父子が逮捕されたとことなどが書かれていて、「逮捕者の規模は決して小さくないから、この事件はかなりの根の深い広がりをもっていたものと考えられる」(森、前掲、98ページ)そうである。公家では西園寺季経は素早く逃げ出し、武士としてこの事件の首謀者の1人である北条泰家も姿を消している。もっともこちらは、その後、彼の生存を示す資料がないので、間もなく命を失ったものと考えられているようである。森茂暁『戦争の日本史8 南北朝の動乱」(吉川弘文館、2007)のこの事件についての記述もほとんど同じ、村井章介『日本の中世⑩ 分裂する王権と社会』(中央公論新社、2003)では「最後の関東申次だった西園寺公宗が、北条高時の遺族と結んで後伏見法皇を担ぎ出す策謀をめぐらし、建武2年8月処刑された」(村井、59ページ)と記されていて、事件の背後に後伏見法皇の存在を推測しているのは森さんと同じだが、事件の要約の際の重点の置き方に微妙な違いがあるように思われる。

日記抄(7月22日~28日)

7月28日(木)晴れたり曇ったり、関東甲信地方の梅雨明けが宣言された。

 7月22日から本日までの間に経験したこと、考えたことなど:
7月22日
 『朝日』の朝刊にアジアの大学のランキングで日本の大学の順位が軒並み下がったという記事が出ていた。ランキングが大学の実力の正確な指標ではないが、それでも留学の際の進路選択の目安としての影響力は小さくないので、大学側も苦慮しているというような「常識的」な書き方がされていたが、実際のところ、問題はもっと大きいのではないか。1970年代以降、日本を含むアジアの諸国で多くの<新構想大学>が設置されたが、それらの大学の少なからぬ部分がアジアのランキングの上位を占めているにもかかわらず、日本の新構想大学は(東京教育大学の豊かな人的資源を継承した)筑波大学を除き、下位に甘んじているということがもっと深刻に受け止められる必要がある。つまりここ50年間ほどの日本の高等教育政策は間違っていたことを認め、その原因を究明する努力がなされなければならないということである。

7月23日
 NHKラジオ「攻略!英語リスニング」では„Greenwich Village "(グリニッジ・ヴィレッジ)を取り上げた。ニューヨーク市マンハッタン区の南
the area around Washington Square Park and west to the river
(ワシントン・スクエア公園付近とそこから西の川岸まで辺りの地域)
で、新しい芸術・文化の運動がここを中心に何度も起きたことで知られる。”Washington Square"というと、ヘンリー・ジェイムズの同名の小説があって、大学の2回生の時に喜志哲雄先生の英語の授業で読んでことがある。授業の際に先生が黒板にニューヨークの地図を描かれて、Washington Squareはこのあたりだと示されたのを覚えているが、授業をぼんやりときいていた不肖の学生である私は実際に足を運ぶことなく、人生を終えようとしている。この小説の映画化は日本では『女相続人』という題名で公開されたが、この作品でオリヴィア・デ・ハヴィランドがアカデミー主演女優賞を取ったことでよく知られている。

7月24日
 Eテレ「日本の話芸」で三遊亭遊三師匠の『抜け雀』を視聴する。小田原のある旅館に泊まった汚い身なりの武士が宿代代わりに屏風に描いた雀が毎朝屏風から抜け出すので評判になる。すると、ある時噂を聞いてやってきた立派な身なりの武士が、止まり木がなければこの雀は死ぬと言って、鳥かごの絵を描く。雀はそのかごの中に入って羽を休める。ますます評判が高くなって、小田原の殿様がこの絵を2000両で買い上げるといってくる。雀を描いた絵師の承認がないと売れないと主人が絵師を待っていると、以前とは打って変わって立派な身なりをして、その絵師が現れる・・・。親子で超絶した技量の持ち主であったという話である。口演中「えー」が連発されたこと、最後に親の勘当が解けたというのを2回言ったことが減点材料だが、その他の点では無難な出来であった。

 ニッパツ三ツ沢球技場で横浜FC対ギラヴァンツ北九州の対戦を観戦する。前半21分に北九州の池元選手がゴール前でのもみあいからシュートを決めて1点を先行、横浜にいた時は突破力には抜群のものがありながら、決定力に難があった池元選手であるが、成長ぶりを見せつけられた場面である。後半、54分に横浜の佐藤選手が左足で決めて追いついたが、その後追加点を奪えず、ロスタイムに入り、北九州の原選手がコーナーキックからゴールを決めて勝負あったかに思われたが、横浜が最後の土壇場にゴール前のもみ合いから永田選手のゴールで1点を奪い、辛くも追いついた。格下の相手に、辛くも引き分けというのはどうも情けない試合ぶりである。

7月25日
 『朝日』の朝刊に「姿なき国民的監督」という見出しで、アッバス・キアロスタミ監督の死がイランでどのように受け止められていたかという記事が出ていた。キアロスタミ監督の作品は国内では上映できない状態のようである。映画の製作活動が自由に展開できないにもかかわらず、キアロスタミ監督以外にも、『オフサイド・ガールズ』(ジャファール・パナヒ監督)とか、『彼女が消えた浜辺』、『別離』(ともにアスガー・ファルハディ監督)のようにイランからは注目すべき作品がうまれているのはその理由について考えてよいことである。

 病院に検診に出かける。この病院の古い建物はドラマなどでも撮影に利用されているようだが、改修工事が始まっていた。心電図を取ったりしたため、思ったよりも時間がかかり、この後で渋谷に出て『花影』と『けものみち』を見に行く予定を変更して、そのまま横浜に戻ることになった。

7月26日
 『朝日』の朝刊では26・7の2日間にわたり日本の国公立大学のいくつかを紹介する記事を掲載する予定で、今日は宇都宮大、九大、熊本大、筑波大、都留文科大、東京海洋大、東北大、秋田大が取り上げられていた。文科省高等教育局長の常盤豊氏による「社会に貢献できる大学へ」というインタビュー記事も掲載されていたが、どのような社会にどのように貢献するのかが問題である。

7月27日
 『朝日』の朝刊に吉川弘文館から刊行される須田勉『国分寺の誕生』という書物の広告が掲載されていたので、本屋で一部を立ち読みする。私の座右の書の1冊である玉手英四郎『わが心の国分寺』が参考にされていることが分かり、ちょっと嬉しく思った。本屋の書架に倉本一宏さんの現代語訳による『小右記』(吉川弘文館)が並んでいて、倉本さんが『御堂関白記』(藤原道長)、『権記』(藤原行成)に続き、藤原実資の日記の現代語訳にも取り組んでいることが分かった。

 NHKラジオ「実践ビジネス英語」の”Quote...Unquote"のコーナーで紹介された言葉:
The devil can cite Scripture for his purpose.
            (from The Merchant of Venice )
         ーーWilliam Shakespeare (English dramatist and poet, 1564 -1616)
(悪魔は、自分の目的のために聖書を引用しかねない。)

7月28日
 『朝日』の朝刊に福岡伸一さんという生物学者が「効率の価値 見せた画家」という見出しで、16世紀イタリアの画家ジョルジョ・ヴァザーリ(1511-1574)について書いている。レオナルド(1452-1519)やミケランジェロに比べると、作品は見劣りするが、依頼を受けた作品は期日までに必ず仕上げたので、高く評価されたという。それは遅筆のレオナルドにはできない仕事ぶりであった。ところで、福岡さんはヴァザーリがレオナルドと同時代人であると書いていたが、2世代ほど若いので、同時代人というのには少し無理があるのではないかと思う。(ヴァザーリは画家であるとともに、美術史家として名を残していることをご存知の方は多いはずである。)

 NHKラジオ「実践ビジネス英語」の”Quote...Unquote"のコーナーで紹介された言葉:
A lie can travel halfway around the world while the truth is putting on its shoes.
          ―― Mark Twain (U.S. writer, 1835 -1910)
(真実が靴を履いている間に、嘘は地球の反対側まで移動できる。)

バター

7月27日(水)曇り NHK「ラジオ英会話」は月末の”Special Week"に入り、O.Henryの短編小説”Witches' Loaves" (魔女のパン)をラジオドラマにしたものを放送している。今日放送されたのは、第3回で、あと1回で物語は完結する。これまでの話の展開を要約すると:
 小さなベーカリーを経営しているミス・マーサは自分の店に週2・3度やってくる、質素だが清潔な服装をした、強いドイツ語なまりで話す中年の男性が気になり始める。
He always bought two loaves of stale bread.Fresh bread was five cents a loaf. Stale ones were two for five. Never did he call for anything but stale bread. (彼はいつも古いパンを2本買った。出来立てのパンは1本5セント。古いパンは2本5セントだった。彼が古いパン以外を注文することは決してなかった。)
 ある時、彼の指に赤茶色の汚れを見つけたミス・マーサは彼が貧乏な芸術家であるに違いないと思うようになる。そして、毎日古パンで飢えを満たしているに違いない彼を助けようと考え始める。ある日、客がいつものように来店し、古いパンを注文した時に、店の表を消防車が走り抜け、客がそれに気を取られているうちに、彼女は突然の思い付きを実行に移す。
On the bottom shelf behind the counter was a pound of fresh butter that the dairy man had left ten minutes before. With a bread knife Miss Martha made a deep slash in each of the stale loaves, inserted a generous quantitiy of butter, and pressed the loaves tight again.
(カウンターの影の最下段の棚には、その10分前位に牛乳配達業者が老いて言った新鮮なバターが1ポンドあった。ミス・マーサはブレッドナイフで古いパンの両方に深い切り目を作り、バターをたっぷりと塗り込み、パンを再びピタリと閉じ合わせた。)
 そして、そのパンを客に渡す…。

 物語はあと1回で完結するが、どんな結末が待っているかは番組を聴いてください。パンにはバターがつきものだということについて、私たち(少なくとも私)は欧米人ほど敏感ではないようである。中津燎子さんの『なんで英語やるの?』に、東北に地方都市に民間の社交親善団体の企画した日米交換留学生制度でやってきた女子学生の話が出てくる。
 例によって、ひと騒ぎがあった後、女子学生は宮古市の有力者から招待を受けて、しばらくその家に滞在することになる。そこでの彼女の感想は「まいにちがスリル満点よ!」(106ページ)ということであった。
 「第一に朝の食事にバタが先に出てくるか、トーストが先に出てくるか、と考えることから私の一日は開始するんだから」
 「トーストとバタ? 一緒に出てこないの?」
 「お手伝いさん決して一緒に持って来ないのよ。きっと自分でトーストなんか食べないからなのね、バタをずっと後でもって来るの。でもトーストが冷えちゃうと、バタがつかないもの」
 「言えばいいのに・・・」
 「めんどくさいから二つ折りにして、バタサンドを作って口の中に入れるのよ。案外おいしいわ。(以下略)」(中津、106ページ)

 今から200年以上のイングランドの地方の地主の生活を描いたオースティンの『ノーサンガー・アビー』の、題名になっている邸宅の主人であるティルニー将軍は「バターが溶けているのに怒らない将軍を見るのも初めてだった」(オースティン、326ページ)と描かれていて、これだといつも、食事の際にバターが溶けていると機嫌が悪いらしい。食事の際のバターをめぐっては個人の好みの問題も手伝って、簡単に結論は降せそうもない。

 わかっているのは、元に戻って、バターはなくてもパンは食べられるが、やはりあった方がいいということである。アンデルセンの『絵のない絵本』に登場する小さな女の子に説明してもらおうか。彼女は4歳になるかならないくらいの年齢なのだが、ほかの兄弟同様にVaterunser (主の祈り)を唱えることができる。今夜も彼女は小さなベッドの、きれいな白いシーツの上に横になって、両手を組んで祈りを唱えた。
„Aber was ist das?" fragte die Mutter mitten im Gebet. „Als du sagtest: gib uns unser täglich Brot, da sagtest noch etwas anderes. Was war das? Du sollst es mir sagen!" Die Kleine schwieg und sah die Mutter verlegen an. „Was hast du noch weiter gesagt, als gib uns unser täglich Brot?" ”Sei nicht bös, liebe Mutti!" antwortete die Kleine; ich betete: und auch vidl Butter drauf."
(「おや、それなあに?」とお母さんが、お祈りの最中に、たずねました。「あんたは、われらに日々の糧を与え給え、とお祈りした時、まだ何か付け足して言いましたね。何なの? それをわたしに言ってちょうだい!」 小さい女の子は黙って、困ったようにお母さんの顔を見守っていました。「われらに日々の糧を与え給えの他に何を言ったの?」 「おかあちゃま、怒らないでね!」 小さな女の子は答えました。「あたいこうお祈りしたの。バタもたくさんつけてって。」)(原文はデンマーク語であるが、永野藤生編集の独和対訳本(大学書林)を使用。)

 パンとバターの関係は多様だが、パンにバターが加わる方がいいことに変わりはないようである。

村井章介『分裂から天下統一へ シリーズ日本中世史④』

7月26日(火)曇り、夕方になって雨が降り出す

 村井章介『分裂から統一へ シリーズ日本中世史④』(岩波新書)を読み終える。
 16世紀から17世紀にかけての、戦国時代の分裂から徳川時代の「天下泰平」への歴史的な動きを、東アジアに重点を置きながら、諸外国・諸地域との関係や海外交流に軸線を設定してとらえなおした書物である。このような視点を設定したのは、1つには文禄・慶長の役という16世紀最大の戦争がこの時期に戦われ、その理解のためには当時の世界情勢や国際関係を視野に入れる必要があること、戦国時代の日本の分裂状況が幕藩体制へと推移していく過程は同時代の世界の動きと連動したものであったことのためであるという。著者は、この時期の日本は世界から<銀>と<盗賊島>という2つのキーワードによって知られていたと述べ、外国人の目で見た日本、外国との交流を通してみた日本を強調しながら、この時代の歴史に新しい光を当てようとしている。また、北海道以北や独立の王国を形成していた沖縄の状況にも目を向けて、より総合的にこの問題をとらえようとしている。

 この書物は次のような構成をとっている:
第1章 戦国――自立する地域
 1 将軍家分裂と室町外交の終焉
 2 戦国大名と分国法
 3 琉球王国の盛衰
 4 アイヌと和人
第2章 銀と鉄砲とキリスト教
 1 後期倭寇と西国大名
 2 鉄砲伝来――「ヨーロッパ」の登場
 3 キリスト教と南蛮貿易
 4 石見銀山から見た世界史
第3章 天下統一から世界制覇へ
 1 織田信長の「天下」構想
 2 豊臣秀吉の国内「征伐」戦争
 3 「唐入り」への道
第4章 16世紀末の「大東亜戦争」
 1 文禄の役開戦と三国国割構想
 2 小西路線と加藤路線――日明講和交渉期
 3 矮小化された征服戦争――慶長の役
 4 倭城をめぐる交流と葛藤
第5章 江戸幕府と国際関係の再建
 1 対明復交への執着と挫折
 2 朱印船と唐人町・日本町
 3 生産力の開放、人口の急増
 4 「日本型華夷秩序」の創出

 今回は、第1章と第2章の概要を紹介し、多少の感想を述べることにする。
 第1章では、まず室町幕府のもとで進められていた明との勘合貿易が、将軍家の分裂・抗争や各地方の大名の強大化により、幕府のもとから離れて、大内氏と細川氏の間でその主導権が争われたのちに、大内氏の手に独占されるようになったが、その滅亡により日本と明の間の正式な外交・貿易関係が途絶えることになったことが述べられている。
 次に戦国時代の、特に東国の大名たちが自分たちの所領を支配する法的・経済的な制度を整備し、一種の地域政権を樹立していたことが論じられる。「この国家および国王が、自己完結的な発給文書体系と国法・法度をもち、独自の土地丈量=検地によって年貢収納と知行制度を実現し、有事には領内の全住民を動員しうる名分(「大途」の語で表現される)と体制を備えていた・・・これを、中近世ドイツの「領邦国家」になぞらえて「地域国家」と呼ぶことができよう」(26ページ)という。
 琉球は15世紀前半に「大交易時代」の繁栄を享受し、交易が下火になった15世紀後半には尚真王のもとで国内統治における最盛期を迎える。しかし倭人勢力、中国人密貿易商、ポルトガルの進出により、琉球は交易におけるその地位を失うことになる。このため琉球の地位は低下し、島津氏への従属を深めていくことになる。
 北海道には次第に和人が居住し、軍事拠点であり、物流の拠点である館を中心にアイヌとの交易に携わったが、暴利をむさぼろうとするその姿勢への反発が強まり、1456年にコシャマインの戦いが起きた。コシャマインはこの戦いで戦死したが、全体としてはアイヌの方が軍事的に優勢で、和人は渡島半島の南部に押し込められた。そのような和人の中で蠣崎氏が主導権を握った。江戸時代を通じて、北海道はまだ「日本の外」と考えられていた。

 第2章では、勘合貿易が廃絶した後、密貿易が公的な往来にとって代わり、物流の規模はむしろ増大したことが指摘される。この時期、明の海禁(民間人の私的な海外渡航の禁止)政策のほころびの中で、中国人を核に、その他の外国人が加わって、多種多様な民族が「後期倭寇」を形成し、各地の貿易港を結ぶネットワークを形成して、貿易と略奪を行っていた。西国の大名たちは倭寇と結びついて対外貿易に乗り出そうとしたが、あまり成功しなかった。
 15世紀以来、中国の特に江南地方で目覚ましい経済拡大が生じ、そのことが周辺に巨大な軍事勢力の台頭を促した。その代表的な存在が豊臣秀吉と清の太祖ヌルハチであった。(この2人については第4章で改めて論じられる。) アジアの側のこのような発展が、大航海時代のヨーロッパの進出と結びついて、日本にも影響を及ぼす。(鉄砲もキリスト教もヨーロッパ式の大型帆船ではなく、中国のジャンクで日本に運ばれたのだと著者は指摘する。)
 キリスト教と南蛮貿易をめぐる日本社会の対応は複雑であった。17世紀の初めに日本全体の銀産高は全世界の銀産の3分の1を占めたといわれ、石見銀山だけで世界の銀の15分の1を算出していた。銀の精錬技術について日本は朝鮮やその他の外国から学ぶところがあり、また銀は世界経済の中で大きな役割を果たした。

 著者はこの時代の日本の歴史におけるヨーロッパからの影響よりも、アジアの中での自生的な発展との関連性を重視すべきだと考えているようである。とすると、中国(と朝鮮)における生産と技術の変化が、日本における生産と技術の変化にどのようにかかわっているか、あるいは類似した発展の傾向を示しているかについての、より実証的な考察が必要ではないか。鉄砲が日本国内で急速に普及していった過程についての記述は興味深く、この調子でもっといろいろな考察を展開してよかったのではないかと思うのである。

ダンテ・アリギエリ『神曲 煉獄篇』(32-1)

7月25日(月)曇り

 煉獄山の頂点にある地上楽園に達したダンテは、10年前にこの世を去ったベアトリーチェが天国から出向いてきたのに出会う。彼女は、自分の死後に、ダンテが神の道を踏み外して誤った思想のもとに活動していたことを責める。彼女の近くにいる天井の貴婦人たちのとりなしもあって、彼は楽園を流れるレーテの川の水を飲み、これまでの罪を払われる。そして、それまで面紗に隠されていたベアトリーチェの素顔と微笑を見る。

わが両目は十年の渇きを癒す味わいに
あまりにも強く集中して夢中になり、
他のすべての感覚は消え去ってしまっていた。

そして両目は両側を無関心の壁に
遮られているかのようになり、聖なる微笑みは
古の網でこれほどまでに目を自らのもとに誘い込んでいた。
(470ページ) ダンテはベアトリーチェの微笑を見つめすぎ、対神徳を象徴する3人の貴婦人たちから見つめすぎないように言われ、力ずくで視線をそらされる。その時、すでに彼は太陽を見つめすぎた時のように、一時的にものが見えなくなっていた。ベアトリーチェの微笑は中世の文学の主な主題の1つである宮廷恋愛の愛を表現する<あこがれの微笑み>が神の愛に替えられたものであると翻訳者である原基晶さんは解説している。ここで言われているのは、神の光を直接見すぎてはならず、教会の神学的徳に従うべきだということである。

 視力を回復したダンテは、神秘の行列が7つの燭台を先頭に太陽に方角に戻ろうとしているのを見る。原さんの解説によると、これは24人の長老=旧約聖書、グリフォン=キリスト、霊獣やその他の人々=新約聖書、つまり神の言葉が人類に与えられ、神と人類の間に平和が戻り、歴史が神の国の到来に向けて動き出したことを表す。ダンテ達も、車輪の脇の七貴婦人の傍で歩き出した。
私を渡河させたかの美しい貴婦人と、
スタティウスと私は轍が小さな弧を描いているほうの
車輪についていった。
(472ページ) 

 そのあとでベアトリーチェが地面に降り、行列は背の高い枯れた知恵の木を囲み、「アダム」と叫んだ。それは、アダムの犯した原罪で木の葉がすべて落ちた、つまり人類の生命が失われたことの嘆きである。旧約・創世記(2.17)で神がその実を食べることを禁止した知恵の木について
その木の梢は、上に行けば行くほど
大きく広がり、インドの人々も
その高さゆえに彼らの森の中であっても驚き見たであろう。
(474ページ) ここでインドが出てくるのは、喬木の産地として古くから地中海地方の人々に知られていたからであると壽岳文章は注記している。(もちろん、ダンテはインドに出かけたことはないのである。私もない。)

 そしてグリフォンがその木の実を食べないことをほめると、グリフォンは「かくいたせば(甘い知恵の木の身を食べなければ)、あらゆる正義の出る種は保たれよう」(474ページ)と叫んだ。
それから霊獣は引いていた棍棒に戻ると
寡婦のように葉が失われた木の根元までそれを引いていき、
その木から生まれた棍棒を元の木に繋いだままにした。

大いなる光と空の魚に続いて輝く星座とが
交じり合いながら落ちる季節に、
私達のいる現世の木々が

瑞々しくふくらみ、その後、次の星のもとに太陽が
馬を繋ぐ前に、
それぞれ色を新たにするのと同じように、

薔薇よりも薄く菫よりも濃い色で
花開きながらその木は新生したのだ。
前には何もない枝だけだったのが。
(474-475ページ) グリフォンが戦車の棍棒を知恵の木に結びつけると、木には緋色の花が再び生い茂った。「大いなる光」は太陽、「空の魚」はうお座、「続いて輝く星座」は牡羊座である。牡羊座に「大いなる光」、つまり太陽が落ちる時期は3月21日から4月20日までである。(ダンテが地上楽園に到達したのは1300年4月13日のこととされている。) 知恵の木の再生は人類に死をもたらした知恵の木が十字架となって、人類と神の間に再び絆を結ばせたことを意味する。
 この時、そこに居合わせた人々は賛美歌を歌い、それを聴きながらダンテは眠ってしまう。

ジェイン・オースティン『ノーサンガー・アビー』(2)

7月24日(日)晴れ(とはいうものの、雲が多かった)

 イングランド南西部のウィルトシャーのフラートン村に住む牧師の娘で17歳になるキャサリン・モーランドは、年頃になって美しくなってきたが、それ以外には性格の良さだけが取り柄だという平凡な女性である。ところが、15歳を過ぎて小説を読む楽しさに取りつかれ、自分がヒロインになるような人生の冒険にあこがれるようになった。村の大地主であるアレン夫妻は子どもがいなかったので、キャサリンを可愛がっていたが、アレン氏が持病を治すために南西部の有名な保養地であるバースに滞在する際に、彼女も同行するように取り計らう。バースでキャサリンはヘンリー・ティルニーという若い牧師と知り合い、彼に惹かれる。その一方でアレン夫人の旧友で、バースで偶然再会したソープ夫人の長女で、派手な美人であるイザベラと仲良くなり、彼女と行動を共にすることが多くなる。イザベラの兄であるジョンは、キャサリンの兄ジェイムズとオックスフォード大学での学友であり、ジェイムズはイザベラに夢中になっている。それだけでなく、ジョンはキャサリンに興味があるらしいが、キャサリンは気づいていない。ヘンリー・ティルニーにはエリナーという妹がいて、イザベラとは対照的な清楚で気品のある美人で、キャサリンは何とかして彼女と親友になろうと考える。

 キャサリンは機会をとらえてエリナーと二人だけで話し合うことに成功し、二人は仲良くなる。キャサリンがヘンリーに恋していることにエリナーは気づく。舞踏会でヘンリーと踊っていたキャサリンは、年配の紳士が彼女を熱心に見つめていることに気付く。彼はヘンリーの父親のティルニー将軍であった。
 キャサリンはティルニー兄妹と散歩に出かける約束をしたのだが、ジョンとイザベラに言いくるめられてドライブに出かける。ところがドライブの途中でジョンが嘘をついていることが分かる。彼らに同行したジェイムズの馬車が遅いので、目的地に着くことができず、ドライブは終わったしまう。馬と馬車に興味があるジョンはモーランド家が馬と馬車に金を使わないのは筋が通らないと主張するが、キャサリンには彼の言っていることの意味が分からない(ジョンは、モーランド家が非常に裕福だと思い込んでいるのである)。

 翌日、キャサリンはミス・ティルニー(エリナー)を訪問して、事情を説明しようとするが、外出中だといわれる。その夜、観劇に出かけたキャサリンはティルニー兄妹に出会い、事情を説明する。劇場で、なぜかジョンがティルニー将軍と話をしていて、その後、キャサリンに将軍が彼女のことをほめていたと告げ、さらに彼女にお世辞を言い続ける。
 その翌日、キャサリンはイザベラとジョン、ジェイムズからまたもやドライブに誘われるが、必死に断って、ティルニー将軍の滞在先を訪ねる。そこで、ジョンがまたも嘘をついていたことが分かる。宿舎に戻ったキャサリンは、アレン氏からジョンとドライブに出かけるのは好ましいことではないと、彼女の行動を支持する意見を聞く。

 バースの近くのビーチン・クリフをティルニー兄妹と散歩したキャサリンは、ヘンリーが小説が好きで、自分よりも多くの小説を読み、しかもより広い視野で読み込んでいることを知る。兄妹の教養の深さを知って、キャサリンは恥じ入るが、ヘンリーはキャサリンにいろいろなことを教えることに喜びを見出したようである。
 「キャサリンは自分の無知を心から恥じた。だが実は、無知を恥じるのは間違っている。人に好かれたいと思ったら、むしろ無知であるべきなのだ。自分が何でも知っていると、相手に優越感を与えることができないし、相手の虚栄心をくすぐることができないからだ。分別のある人間なら、それは避けたいと思うだろう。とくに女性は、不幸にも豊富な知識を持っていたら、できるだけそれを隠すべきだろう。」(167ページ)

 翌朝、イザベラから手紙を受け取ったキャサリンは、彼女の宿所に赴く。イザベラはキャサリンが自分について何でも見抜いているようだというが、(純真と言おうか、鈍いと言おうか)キャサリンは彼女が何を言おうとしているのかわからない 。そしてやっと、イザベラとジェイムズが愛し合っているということだと気づくが、事態はそれよりも発展していて、2人が結婚の約束をしたことを知る。イザベラは勝手な思い込みでのぼせ上がっているところがあるが、少しばかり分別がついたキャサリンはあえて反対しないことにした。そして、小説に出てくるような出来事が身近で起きるのだと思ってうれしくなる。
 イザベラは結婚後の生活について次のような望みを述べる:
「私の望みは、ほんとにささやかなものなの… 何とか生活していけるだけの最小限の収入があれば、それで満足よ。お互いに本当に愛し合っていれば、貧乏そのものが豊かさになるわ。私は派手な暮らしなんて大嫌い。絶対ロンドンなんかに住まないわ。ひなびた村の小さな田舎家に住めたら最高に幸せだわ。リッチモンドに小さな素敵な家があるんじゃないかしら」(183ページ)
 愛し合っていれば、貧乏暮らしもいとわないという言葉の端から、古くから高級別荘地として知られてきたリッチモンドが引き合いに出される。イザベラは、人を感動させるような美辞麗句を連ねることが巧みなのだが、時々、こうしてぼろを出すように描かれている。
 2人の前にジェイムズが現れ、父母の結婚への許しを得るためにフラートンに向かうという。翌日、ジェイムズから手紙が届き、結婚への父母の承諾が得られたことがわかる。手紙が届くのをイザベラとともに待っていたジョンは、キャサリンに遠回しに求愛するが、キャサリンはそれが求愛だとは気づかない。宿所に戻ってアレン夫妻にジェイムズとイザベラの婚約について報告すると、夫妻は驚く様子を見せず、ジェイムズがバースに到着した時からこのことを予想していたといったので、キャサリンは拍子抜けする。

 さて、ジェイムズとイザベラの婚約は今後どのような経緯をたどるのであろうか。キャサリンはヘンリーと結婚するのか、あるいはジョンがキャサリンへの求愛に成功するのか、物語はこれまでのところ大きな起伏を見せないが、少しずつ変化の兆候を見せている。ソープ家の人々の言行の不一致や、首尾一貫性の欠如が明らかになる一方で、テイルニー将軍がまだまだ謎めいた存在であり続けている。作者はアレン氏を良識ある人物として描き出して、自分の意見を秘かに代弁させ、それに釣り合わない喜劇的な女性としてアレン夫人を描くことで、物語に幅を持たせている。

 キャサリンが小説の中の出来事と現実の区別がつきにくくなっているというのは、古くは『ドン・キホーテ』、19世紀では『ボヴァリー夫人』と共通する設定であるが、それほどの大波乱が起きずに物語が展開していくのが、いかにもオースティン風であるし、もう少し広げて言うと英国風、少なくとも古き良き英国の雰囲気を感じさせるのである。

『太平記』(114)

7月23日(土)曇り

 鎌倉幕府が亡びた後、都に戻られた後醍醐天皇を中心として、朝廷による政治が復活したが、失政が多く、この点をめぐっての諫言が容れられなかった万里小路藤房は、建武2年(1335年)3月の石清水八幡宮への行幸への供奉を最後の職務として出家・遁世した。鎌倉幕府の最後の得宗であった北条高塒の弟泰家は、ひそかに上洛して西園寺家に身を寄せていたが、西園寺家の当主であった公宗は泰家と謀り、鎌倉幕府の再興を目指して、京都、関東、北国での蜂起の手はずを整えた。さらに御遊にことよせて後醍醐天皇を自邸に迎え、湯殿に拵えた落とし穴を使って幽閉しようと計画した。御遊の前夜に天皇は神泉苑の竜女が行幸を取りやめるように勧める夢をご覧になったが、予定を変更されずにお出かけになった。

 西園寺の邸(現在の金閣寺のあるところ)までの道の途中でもあり、夢が気になるので、天皇は神泉苑に立ち寄られ、龍神に供え物をして祈られると、池の水が急に波立つ。風も吹いていないのに不思議なことだと思われて、しばらく神泉苑にとどまって思案にふけっていらっしゃると、西園寺公宗の弟の竹林院中納言公重が天皇の御許に駆け付けて、西園寺大納言公宗は陰謀を企てて、そのために天皇の臨幸を勧めたのだという情報が、ただ今、ある方面から手に入った。ここは御所に戻られ、西園寺一族の橋本中将季経(すえつね)、公宗の家司の三善春衡、文衡入道をお召しになって、詳しいことをお調べくださいと申し上げた。これをお聞きになった天皇は、前夜の夢のお告げ、池の波の様子、確かに何かわけがありそうだとお思いになり、御所にお戻りになられた。
 天皇は中院中将定平に結城判官親光、名和伯耆守長年を随行させて、西園寺公宗、橋本中将季経、文衡を召しとってくるように命じられる。中院定平は、かつて後醍醐天皇の身代わりとして花山院師賢が比叡山に上った際に随行、その後は赤松一族とともに六波羅攻めに功を挙げた公卿であり、結城親光、名和長年は天皇の信任の厚い武士(三木一草のうちの2人)であった。
 兄弟は他人の始まりというが、皇室が持明院統と大覚寺統に分かれて内訌を続けていたこの時代、兄弟で政治的に対立するという例は多かった(これまでも日野資名と資明が持明院統と鎌倉幕府を、その兄弟の資朝が後醍醐天皇を支持するという例があった。先回りして言うと、公宗の正室は日野資名の娘である)。

 天皇が派遣された使いの者が2,000余騎、南北から押し寄せて北山第を厳重に包囲した。公宗はまだ若かったが、さすがに名門の当主だけあり、陰謀が露見したことを悟っても、取り乱した様子はなく、かえって落ち着き払った様子である。しかし事情を知らない公宗の北の方、女房達、侍どもは慌てふためいて、走り回っている。季経はもともと機敏な人なので一人だけ脱け出して、裏山からどこへともなく姿を消してしまった。

 定平は、まず大納言(=公宗)に面会して、穏やかな口調でこの間の事情を説明し、釈明を求めると、公宗は涙を抑えて言うことに、私は不束者ではあるが、後醍醐天皇の亡くなられた中宮(=禧子)は私の祖父の姉妹であり、その縁もあって高い地位に就いてお引き立てをこうむってきた。これも天皇が慈悲深くお与えくださった恩恵なので、その後恩を深く感じているから、陰に隠れて裏切り、ご恩をいただいていながら天皇に弓を引くというような気持ちを抱いたことはない。よくよく考えてみると、西園寺家は何代かにわたって、他家よりも高い地位に就き、天皇の御寵愛を受けてきたので、清華家や名家の人々の中にはこれを嫉んで、ある事ない事言いふらして西園寺家を陥れようとする者がいるのではないかと思う。とは言うものの点が真実をご照覧あるならば、事実でない噂が長く天皇のお耳に入ることは決してないので、まずお召しにしたがって公卿列座の場に参り、犯した罪についてのご究明を仰ぐことにいたしましょう。 ただし、季経については今朝方既に行方をくらましておりますので、連行するには及ばないと思いますという。
 実際問題として、すでに述べたように、西園寺家は鎌倉幕府との密接な関係があり、鎌倉時代を通じて関東申次の役柄を代々世襲し、権勢をふるい、太政大臣に上るものも多く、また少なからぬ后妃を出してきた。ところが、後醍醐天皇の復位後の元弘3年5月に公宗は大納言の職を解かれ、8月には権大納言に還任したとは言うものの、政権の中枢からは遠ざけられていた。
 公宗の言葉の中の清華家というのは公家の家柄の一つで、摂政・関白の地位に就くことのできる摂関家に次ぐ。太政大臣を極官とし、大臣・大将を兼ねる家柄で、転法輪三条・今出川・大炊御門・花山院・徳大寺・西園寺・久我の7家であったが、後に醍醐・広幡の2家が加わった。公宗の言うところは、清華家の中では西園寺家が他家よりも優遇されてきたので、その妬みを買ったのではないかということである。清華家に続く家格が大臣家で太政大臣になることはできるが、近衛大将を兼ねることはできない。正親町、三条、三條西、中院の各家がこの家柄である。その次が羽林家で大納言まで昇進、近衛中将・少将を兼ねることができる家柄で、四辻・中山・飛鳥井・冷泉・六条・四条・山科などの諸家が属する。名家はその次で大納言まで昇進できるが、近衛中将・少将を兼ねることはできない。日野・広橋・唐橋などがこの家柄である。
 大臣家の出身である定平が、自分よりも家格の高い清華家の当主である西園寺公宗に対して穏やかな態度で接したということは、貴族の社会のしきたりとして当然のことである。(余計な話を書くと、近衛文麿が京都大学の学生であったころ、大学の近くに別荘を構えていた西園寺公望のもとを訪問したところ、当時すでに政界の有力者であった西園寺が近衛を上座に座らせて閣下と呼びかけたので、近衛の方がびっくりしたという話を読んだことがあるが、清華家の当主であった西園寺の摂関家の当主であった近衛への接し方としては当然のことである。)

 天皇の派遣された捜索隊は、さては季経を隠しおおせようとしているな、なんとしても探し出せと邸内を調べて回ったのだが、見つからず、捜索範囲を広げて付近の山までも調べて回ったが見つけ出すことができなかったので、公宗卿と文衡入道だけを逮捕して、夜中に都心へと戻ってきた。

 こうして西園寺公宗・北条泰家の企てたクーデターは未遂に終わるが、この事件はさらにその波紋を広げ、建武政権を揺るがすことになる。次回は、そこまで行かずに、公宗のその後の処遇や、残された家族の行方などを追うことになる。金閣寺には何度も出かけたのだが、そこが鎌倉時代に隆盛を極めた西園寺家の北山第の所在地であったことは忘れがちであった。宇治の平等院などもそうだが、史跡にはさらに古い歴史が潜んでいることが少なくない。『太平記』を読んでいると、そんなことにも気づかされるのである。 

ジェイン・オースティン『ノーサンガー・アビー』

7月22日(金)雨が降ったりやんだり

 7月21日、ジェイン・オースティン『ノーサンガー・アビー』(ちくま文庫)を読み終える。19世紀前半の英国の女流作家ジェーン・オースティン(Jane Austen, 1775-1817)はそのあまり長くない生涯のうちに6編の小説を書いた。翻訳者である中野康司さんのあとがきによると、この小説は『スーザン』という題名で、作者が22~23歳のごろに書かれ、27歳の時にロンドンの出版社に10ポンドで売られ、広告は出たものの出版はされなかった。その後も再三出版を試みたが実現せず、結局彼女の死後に兄ヘンリーにより『ノーサンガー・アビー』と改題され、1817年12月最後の長編小説『説得(説き伏せられて)』(3月2日付の当ブログで取り上げた)との合本全4巻の形で出版された。「版権が売れてから出版の実現まで苦難の道をたどったが、後年の推敲がほとんどないと推測され、…若きオースティンの作風が、いちばんストレートに伝わる作品である」(391ページ)という。

 イングランド南西部ウィルトシャーの裕福な牧師の娘として生まれ育ったヒロインのキャサリンは、上に3人の兄がいて、下に6人の弟妹がいるという家庭で、親から十分な教育を受けることもなく、伸び伸びと育つ。そのために教養も才芸もあまり身につかなかったが、15歳を過ぎて急に美貌に恵まれるようになり、また性格がよいので、誰からも愛される娘になった。ただ、彼女の欠点は小説が好きなことで、当時流行のゴシック小説を読みふけり、現実と空想の境界がおろそかになってしまうところがあった。あまりヒロインらしくない平凡な田舎の令嬢であったにもかかわらず、彼女は小説に出てくるようなロマンスにあこがれていたが、なかなかその機会に恵まれずに過ごしていると、父親の教区で一番の大地主であるアレン夫妻が近くの保養地であるバースに出かけることになり、キャサリンを可愛がっているアレン夫人が、誰か素敵な相手を見つける機会になればと考えて彼女も同行しないかと誘ってくれる。両親の赦しを得て、キャサリンは夫妻に同行することになる。アレン氏は分別も知性もある人物であるが、アレン夫人はこの夫がなぜこの妻を選んだかとみんなから呆れられるような女性で衣装道楽しか能のない軽薄な性格の持ち主である。

 バースには社交会館(アセンブリー・ルームズ)という施設があり、そこの司会進行役である儀典長がキャサリンのダンスの相手としてヘンリー・ティルニーという24・5歳の青年を紹介してくれる。キャサリンにとって幸運なことに、この青年はまずまずの美男子で、態度も申し分なかった。二人は会話とダンスを楽しみ、時を過ごす。アレン氏はこの青年がグロスター州の名門の出身で、牧師であることを知り、安心して2人を見守ろうとする。

 翌日キャサリンはティルニーに再会することを期待して、午前中の社交場であるポンプ・ルームに出かけるが、彼の姿を見つけることはできなかった。ところがアレン夫人の学校時代の友人であったソープ夫人が、アレン夫人に声をかけ、しばらく話し合ううちに、彼女の息子のジョンがキャサリンの長兄であるジェイムズとオックスフォード大学の同じカレッジに在学していることが分かる。ソープ夫人には3人の娘がいたが、そのうち一番年長のイザベラは派手なタイプの美人で、キャサリンと親友になろうと言い出す。

 二人はうわさ話をしたり、小説を読んだりして楽しく時を過ごすが、その2人の前にキャサリンの兄のジェイムズと、イザベラの兄のジョンが姿を現す。ジョンはうぬぼれ屋で馬車に異常なほどの興味を抱いているが、キャサリンに一目ぼれしたらしい。その夜の舞踏会でキャサリンはジョンと踊る約束をするのだが、会場で美しい女性(妹のエレノア)を連れたティルニーに出会い、一緒に踊る申し込みを受けたが、先約のために断らざるを得なかった。その一方でジョンはキャサリンには「お待たせしました」というだけで、すぐに馬や犬の話ばかりするので、キャサリンはうんざりする。キャサリンはティルニーの妹と友人になろうとするのだが、なかなか思い通りにならない。

 翌日、キャサリンはティルニーの妹に会おうと思っていたが、ソープ兄妹と彼女の兄が馬車でのドライブに誘いに来る。前日にランズダウン丘陵にドライブに出かけると約束していたのを忘れていたのだが、それとは反対方向のクラヴァートン丘陵に出かけるという。キャサリンは断ろうとしたのだが、断り切れず、同行することになる。キャサリンはジョンがたずなを握る馬車に乗ったのだが、彼の意味不明(に彼女には思われる)のおしゃべりに悩まされる。
「キャサリンはその生まれ育ちのゆえに、おしゃべりな人間の癖を知らないし、過剰な虚栄心をもった人間が下らない主張をしたり、恥知らずな嘘をついたりすることを知らなかった。キャサリンの両親は、ごく平凡な現実的な人たちで、機知を楽しむ習慣はなく、父親はときどき駄洒落を言う程度だし、母親はときどきことわざを口にする程度だった。だから彼女の両親は、自分を偉く見せるために嘘をついたり、いまこう言ったのに次の瞬間に正反対のことをいったりするはいっさいなかった。」(92ページ)
 世慣れない彼女ではあったが、キャサリンはジョン・ソープが実に不愉快な人物だとはっきり自覚する。

 ジョン・ソープはキャサリンに興味をもっているが、アレン夫妻に子どもがいないこと、彼女がその財産を受け継ぐ可能性があるかどうかを嗅ぎまわるなど、感情高いところを見せている。キャサリンはティルニーに思いを寄せているが、かれにはまだ謎の部分が多い。彼女はこれからどのように自分の気持ちをまとめていくのであろうか。

 地方に住む裕福な家庭(地主か牧師)の娘が同じような社会階層の男性(たち)と出会い、衝突やすれ違いを経て、最後にはふさわしい相手と結婚するというオースティンの6編の長編小説に共通するストーリーが展開される。物語の進行は全体にのんびりした、起伏の少ないものであるが、その分登場人物の心理や性格が細かく描写されている。とはいうものの、6編の小説にはそれぞれの特色があって、特にそれの小説のヒロインの性格の描き分けは見事であるといわれる。この作品におけるキャサリンは人生経験が浅く、それに加えて少女時代に勉強を怠ったため無知で、この後どうなるかが心配なところがある。今回は、まだ全体の3分の1ほどしか紹介できなかったが、もう少し物語を紹介したうえで、この作品について本格的な論評を行うつもりである。

日記抄(7月15日~21日)

7月21日(木)雨

 7月15日から本日までの間に経験したこと、考えたことなど:
7月15日
 神保町シアターで「恋する女優 芦川いづみ アンコール&リクエスト」特集上映から『男と男の生きる街』(1961、舛田利雄監督)と『硝子のジョニー 野獣のように見えて」(1962、蔵原惟繕監督)を見る。
 『男と男の生きる街』は舛田と熊井啓が脚本を書いている。事件記者の岩崎(石原裕次郎)は大阪のアパートで起きた殺人事件を調べるうち、事件が過去に起きた密輸事件とつながりがあるのではないかと考えるようになる。刑事だった彼の父は、若い北川刑事(加藤武)とともに事件を追っていたのだが、銃撃戦で命を落とした。功を焦って暴走しがちな北川を岩崎の父は止めていたのだが、そのことで恨まれていたかもしれず、岩崎は北川への疑いを捨て去ることはできない。一方、岩崎の姉(南田洋子)は北側と結婚しようと考えている…。命を落としたのは一時画壇で注目されていた画家で、パリに留学した後行方不明になっていたが、帰国したという噂もあったという。彼の周辺には謎の女(渡辺美佐子)の姿が見え隠れする。芦川いづみは京都の西陣で働いている、画家の妹の役を演じているが、物語の実質的なヒロインは渡辺美佐子である。この後、テレビの『三匹の侍』で人気を得る長門勇が脇役で出ていたのが目を引いた。

 『硝子のジョニー 野獣のように見えて』はアイ・ジョージのヒット曲に基づいた作品で、北海道が舞台である。漁師だった父親が外国に抑留された娘(芦川いづみ)は、人買い(アイ・ジョージ)に売られるが、脱走し、競輪の予想屋(宍戸錠)と一緒になる。予想屋は、若い競輪の選手(平田大三郎)に期待をかけているのだが、選手の方はそれを負担に感じている。人買いは執拗に芦川の行方を追いかけてくる。アイ・ジョージが何かというと「さよか~」というのが耳にこびりついてくる。この後、『肉体の門』でも発揮される宍戸錠の筋骨たくましい肉体の魅力が「野獣のように見え」る。芦川の代表作とされる一方で、フェリーニの名作『道』との類似性が指摘されてきた作品である。そういえば、昔、カラオケで『硝子のジョニー』を歌ったら、画面にこの映画の一部が使われているのに気づいたことがあった。今はどうだろうか?

7月16日
 ニッパツ三ツ沢球技場でプレナスなでしこリーグカップ2部の横浜FCシーガルズとちふれASエルフェン埼玉の試合を観戦した。前半1点を先行されたが、後半にセット・プレーから1点を奪って追いつき、1-1で引き分けた。

 同じくニッパツ三ツ沢球技場で横浜FC対ロアッソ熊本の試合を観戦する。これまた前半に1点を先行され、後半にPKの機会を得たのをイバ選手がきっちり決めて1-1で引き分けとなった。熊本の選手の勝利への執念と速い攻めに対し、横浜はなかなか自分のペースをつかめず、後半に熊本が退場者を出して1人多くなった有利さを生かしきれなかった。モロッコ出身の大型FWイバ選手はチームにも日本のサッカーにも十分になじんでいない感じがするが、それでも頼りにせざるを得ないのが問題である。

7月17日
 NHKラジオ「攻略!英語リスニング」は”Nero"を取り上げた。
It was said that when a great fire broke out in Rome, Nero, who had very un-emperor-like ambitions to be a poet, actor, and musician, stood on the rooftop watching the flames spread while playing music.
(話によれば、ローマで大火事が起きた時に、ネロは、ちなみに非常に皇帝らしくない、詩人や俳優や音楽家になりたいという野心を持っていたのであるが、屋根の上に登って楽器を演奏しながら、炎が広がるのを見ていたという。)
 講師の柴原さんが書いているところでは、ネロは円形劇場の出口を封鎖して、観客に自分の詩の朗読などを無理やり聞かせたといわれている(まるで落語の「寝床」である)。その程度ならご愛敬であるが、自分に反逆する意思があると思った人物を弾圧し、その多くを死に追いやった。こうなると宮廷や元老院の人々は落ち着いていられなくなり、とうとう元老院から死刑を宣告されて、自殺する。ローマの皇帝で自殺したのはネロだけのようである。
His last words: What an artist dies in me.
彼の最後の言葉:「なんと偉大な芸術家が失われることか」
番組では英語で紹介していたが、もともとはラテン語でQualis artifex pereo!
といったそうだ。これはスエトニウスの『ローマ皇帝伝』に記されている言葉だという。
 柴原さんは、ネロの芸術的な才能についてタキトゥスが酷評していると述べていたが、その際に彼を「ネロの同時代人」といったのは間違いで、タキトゥスは五賢帝時代の人である。(スエトニウスも五賢帝時代の人である。)

 Eテレの「日本の話芸」で桂福団治師匠の「南京屋政談」を視聴する。東京で「唐茄子屋政談」として演じられている噺を、上方の話にアレンジしたものだそうである。今は亡き古今亭志ん朝師匠にずいぶん習いましたと語っていたが、そのまた父親の五代目古今亭志ん生が得意とした話であった。船場の大店の若旦那が道楽が過ぎて勘当になり、食うに困って身投げをしようかと思っていると、叔父に助けられる。そして、天秤棒を担いでかぼちゃを売り歩く行商をさせられるが、食うに困っている後家さんに出会って売り上げを渡す。後家は、受け取れないと追いかけて出たのだが、彼女が住んでいる長屋の主が因業な奴でその金を取り上げてしまう… かぼちゃの呼び方が上方風になったところ以外は、あまり東京の落語と変わらないようにも思うのだが、これからだんだんと練り上げられていくことを期待しよう。

7月18日
 『朝日新聞』の朝刊が「今こそ ヴォルテール」と、「人間の理性の力」を信じ、多様性への寛容を説いた18世紀フランスの思想家について取り上げていた。アダム・スミスの『国富論』の翻訳者として知られる竹内謙二は、スミスがフランスの思想家から受けた影響についても詳しく研究した人物であるが、ヴォルテールとルソーが反目し、対立しあいながらも「呉越同舟してフランス革命に向かう」道筋をつけたと論じていたのを思い出す。

7月19日
 荒川洋平『日本語という外国語』(ちくま新書)を読み終える。今月は、読み終えた本が少ないのが問題である。

 NHKラジオ「入門ビジネス英語」に
I'm sure someday you'll have a female prime minister in Japan.
(日本にもいつか必ず女性の首相が誕生すると思います。)
という発言が登場していたが、いつのことになるだろうか。私が生きているうちに実現するかどうか、かなり微妙なところではないかと思う。

7月20日
 大橋巨泉さんが亡くなられる。永六輔さんが亡くなられたばかりで、連続して訃報を聞くことになった。テレビ番組を「作り出して」きた世代の人たちが亡くなり、テレビが既にそこにあった世代の人々の時代も終わりかけ、テレビに飽きた世代が登場してきている。

7月21日
 NHKラジオ「実践ビジネス英語」の”Quote...Unquote"のコーナーで紹介された言葉:
Creativity is not the finding of a thing, but the making something out of it after it is found.
----James Russell Lowell
(U.S. poet, critic, editor and diplomat, 1819 - 1891 )
(創造性とは何かを見つけることではなく、見つけたものから何かを生み出すことだ。)
 ジェームズ・ラッセル・ローウェルはアメリカのロマン主義を代表する詩人で、ハーヴァード大学と縁の深いニューイングランドの名門ローウェル一族の一人であり、ハーヴァードの近代語の教授となったが、「研究などというものは、古切手の蒐集と同じことで、無意味だ」(潮木守一『アメリカの大学』、250ページ)とうそぶき、1870年の国勢調査の際には自分の職業を大学の教授ではなく、詩人と記したという。このブログでも何度か登場した明治時代の日本を旅行し、その後火星の研究に従事したパーシヴァル・ローウェルとは、パーシヴァルの父親の従兄弟という関係である。

 ジェイン・オースティン『ノーサンガー・アビー』(ちくま文庫)を読み終える。
 

バスの運転手

7月20日(水)夜になって雨が降ったが、降りやんだらしい

バスの運転手

今日もバスに乗る
乗り込んでくる客もいろいろだが
バスの運転手もいろいろで
客をのんびりと見守るだけの人もいるし
早く何かにつかまれなどと世話を焼く人もいる
イヤホーンからの音漏れに神経を使う人もいるし
前後左右に気を配り絶えず注意を呼びかける人もいる

まいにちバスに乗っているのに
それも何回もバスに乗っているのに
一人として運転手の顔を覚えていない
時々は若い女性の運転手に
出会うこともあるのに
名前も顔も覚えないまま
まいにちバスに乗っている
ずいぶん大勢の人が
バスを運転しているらしい…
そしてまいにち
無事に目的地についている

むかしむかし
ずいぶんむかし
バスの運転手になりたいと
思っていたことがあった
私が小さな子どもで
バスが今よりも混んでいて
車掌が車内で切符を売っていたころのことだ
思うのは簡単だが
そう簡単になれるものではないと
気づいたのは
もう就職して何年もたって
自動車の運転を習い始めた時のことだ

運転免許を取る苦労の
先の先の先に
バスの運転手の免許がある
いろいろな顔の
運転手が
あちこちの道路で
バスを運転している
子どものころ
どんなつもりで
バスの運転手になりたいと思ったのか…
改めて考える

『貧乏物語』と「新しき村」

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嵐の前後

7月19日(火)晴れ、暑し

 ルネサンス・フランスを代表する文学作品であるラブレーの『第四の書 パンタグリュエル物語』の中に、主人公である巨人王子パンタグリュエルとその一行が航海を続けるうちに、大暴風雨に出会う有名な場面がある。この場面は18章から24章までというかなり長い分量を占めており、著者が何らかの寓意を込めてこのエピソードを語っていることを想像させる。

 パンタグリュエルが、パニュルジュ、ジャン修道士、エピステモンらの側近を連れて航海に乗り出したのは、『第三の書』から始まっているパニュルジュの結婚をめぐる議論に一向に決着がつかず、はるか遠いところにいるという徳利明神の託宣を得ようとするためである。

 航海の途中、一行は教会の公会議に赴く僧侶たちを乗せた輸送船に出会う。(この公会議が有名なトリエンテ=トレント公会議を指していることに、研究者の意見は一致しているそうである。) 大勢の高僧が乗船していることをパニュルジュはありがたがって多大の寄進をする。ところがパンタグリュエルは考え込んでいた。パンタグリュエルの態度を不審に思ったジャン修道士が尋ねかけた時に、船長から風向きが変わったという知らせが入る。

 カトリック教会の再生のために開かれる航海に赴く坊さんたちを有り難がっているパニュルジュは、おそらく会議の意味は理解していない。これに対しパンタグリュエルが何を考えていたかは語られていないが、おそらくは公会議の行く末に慎重な態度をとろうとしていること、教会の現状や将来についてもある種の危機感を感じていたことが推測できる。パンタグリュエルほどに思慮深くない、現実的なジャン修道士は、なぜパンタグリュエルが考え込んでいるかが分からないから質問する。坊さんたちの乗り込んだ船に対する三者三様の態度は、嵐が襲来した際に、さらにはっきりした分岐を見せる。

 暴風雨に出会って船が揺れだすと、パニュルジュは食べたものを吐き出し、甲板にうずくまって半死半生の体で、泣き叫ぶ。パンタグリュエルは船長の勧めによって船の舵を操り、ジャン修道士やその他の家臣たちも水夫を助けて働いていた。パニュルジュだけが甲板で泣きわめいている。18勝と19勝のかなりの部分が、パニュルジュの悲鳴を書き連ねている。

 パニュルジュのおびえた態度に対してジャン修道士はしっかりしろと言い聞かせるが、両者のやり取りが続く間に、嵐はますます激しくなる。21章になると遺言状について、神頼みについての議論が交わされる。22章に入ると、陸地が近づき、嵐も終わる気配が見えてくる。現金にも元気を取り戻したパニュルジュを、ジャン修道士は非難し続けるが、パンタグリュエルは「外の場合に健気に振舞いさえしていれば、この恐ろしい嵐危ない暴風雨の間に、奴が怖がったとしても、つまらぬ奴だなどとは毛ほどにも思わぬぞ」と受け入れる。この場合の、パニュルジュの態度はあまり褒められたものではないが、ジャン修道士のようにそれを非難するのではなく、彼が勇敢であった場合のことを思い出して、今回の怯懦を認めるパンタグリュエルの度量の広さに、ラブレーの真意を認めるべきであろう。

 嵐は自然の嵐だけではない。ラブレーの時代は宗教戦争の嵐の中にあった。時々勇敢であり、時々臆病であることによって、多くの人々が生き延びることができたのである。

 物語の少し前、『第二の書』でまだパンタグリュエルがフランス各地の大学を遍歴していたころの次のような経験が記されている:
 それからトゥルゥーズへきたが、そこでは、舞踏をしたり二束両刃の長剣を使うことが非常にうまくなった。しかし、これらの学生どもが、先生たちをまるで燻製鰊のように生きながら火焙りにしていたのを見て、ここに長居は無用と思い、こう言った。「桑原桑原、こんなお陀仏の仕方は真平御免だ。何しろこの俺は、生まれつきもう沢山だというほどに喉が渇いているのだから、これ以上からからほかほかにされなくてもよいぞ」と。(第二の書、第5章) 彼自身が認めているように、パンタグリュエルは生まれつき喉が渇いている⇒大酒飲みであるという設定である。

 トゥルゥーズはふつう、トゥールーズと表記されているのではないだろうか。この地の大学は1229年に創設され、16世紀においては特に法学部が優れていたそうである(パンタグリュエルは法律を勉強したことになっている)。この大学の気風はきわめて保守的で、宗教改革運動には敵対的であり、1532年にはこの大学の法学部のある教授がルター派の嫌疑をかけられて逮捕され、異端者として火刑に処せられるという事件があった。燻製鰊のように…という箇所は、この事件を踏まえたものと考えられる。ラブレーの知己の中にも、この町の不寛容な空気の犠牲となった人々がいた。頑迷な精神の持ち主たちが大勢で騒いでいる場面に出会ったら、三十六計逃げるにしくはないのである。
 ラブレーの信仰をめぐっては様々な説があるが、彼が師と仰いだエラスムスと同様に、教会の腐敗と形骸化した保守的なキリスト教神学には批判的であったことは確かである。しかもそのような批判をしながらも、カトリック側にとどまろうとするならば、おそらくカトリック教会の主流からも、プロテスタントの側からも攻撃を受けることになる。キリスト教をめぐる考え方だけではなく、修道会を出て医者になり、現世における享楽的な生活を賛美するかのような小説を書いたラブレーには、そのことによるうさん臭さも加わっていたに違いない。そういう自分の立場の危うさをよく自覚していたからこそ、彼は嵐の際におびえきって何もしなかったパニュルジュを切り捨てようとしないのである。

 トリエンテ公会議が開かれた時のローマ教皇は、スタンダールの小説『パルムの僧院』の主人公のモデルとされるパウロ(パウルス)Ⅲ世であった。スタンダールの小説のモデルになるぐらいだから、イタリア・ルネサンス爛熟期の策略や陰謀の渦巻いた時代の雰囲気をまだまだ強く身に着けていた人物のようである。ラブレーはこの教皇について、あまり好意的な記述を残していないが、さりとて人間的に魅力を感じていなかったともいえないのではなかろうか。本来世俗的な王侯として活躍すべき人が、宗教界の指導者になっている――それがあまり不思議に思われなかったという時代の話なのである。

(20年以上昔に書いた文章に少し手を加えたものである。ここで引用しているラブレーの翻訳は、すべて渡辺一夫によるものである。実は『神曲』についての連載が終わったら、次はラブレーを取り上げようと考えているのだが、『第四の書』のこの記事で取り上げた個所に到達するのは、いつのことになるだろうか?) 

ダンテ・アリギエリ『神曲 煉獄篇』(31-3)

7月17日(月)晴れ、暑し。

 煉獄山の頂点にある地上楽園に達したダンテは、彼の旅を計画していた神の恵みの象徴=ベアトリーチェと出会う。彼女は、ダンテの最初の作品である『新生』のヒロインでもあった。10年前に、若くして世を去った彼女は、自らの死後に、ダンテが進むべき道を踏み外して人生の暗い森にさまよいこんでいたことを責め、罪の悔悛を迫る。ベアトリーチェに彼が何を裏切ったのかをよく理解するように、自分の姿を見るように言われ、ダンテが顔を上げると、キリストを象徴するグリフォンを見つめるベアトリーチェの姿が目に入った。ダンテは心からの悔悛を行い、それまでの思想と詩と人生を振り返って、神の道からの逸脱が受ける罰について考え、己自身の罪を悔いて気敵を失った。
 彼が目を覚ますと、地上楽園で彼が最初に出会った貴婦人が彼をレーテの水に漬けていた。洗礼を思わせるようにレーテの水の中に漬けられ、生まれ変わるかのように罪が払われることを歌う「私を清めてください」という声が聞こえ、ダンテは罪を払われてレーテの向こう岸、ベアトリーチェ、つまり<神の恵み>のいる側に渡った。

 渡り終えたダンテを人間の倫理に対応する4つの枢要徳=賢明、剛毅、中庸、正義を象徴する4人の貴婦人たちが彼をベアトリーチェのところに連れていこうとする。4人は、ベアトリーチェの地上降臨の前からその侍女となるべく決まっていたと語るが、これは人類に真理の啓示が与えられる前から、枢要徳は神慮によりそれに仕えるよう定めらえていたと解釈されるという。つまり、キリストの降臨する前から人間には道徳性が与えられていたということが詩的に語られているということである。そしてまた、これは歴史的に見れば、キリスト誕生の準備が異教のローマにおいて、枢要徳の働きによりなされたということであるという。
「・・・
あの方の瞳の前まであなたを連れていきましょう。けれども瞳が宿す
歓喜の光の中で、あなたの視力を鋭くするのは
向こうにいる三人。彼女たちはもっと深く見通せるのです」。

歌いながらこう話しはじめた。そして次に
グリフォンの胸の前に彼女達自ら私を連れて行った。
そこではベアトリーチェが私達の方を向いていらした。
(466ページ) 「向こうにいる三人」は対神徳である慈愛、希望、信仰の象徴である。人間はこれらなしでは真理を受け取ることができない。

彼女達は言った。「視力の限りを尽くしなさい。
私達は、かつてそこから愛があなたを武器で射抜いた、
エメラルドの瞳の正面にあなたを置きました。」
(466-467ページ) ベアトリーチェの瞳はエメラルド色であるが、これは希望を象徴する色であり、また<奥義を知ること>という意味をベアトリーチェに与えるものであるという。

 ベアトリーチェが死んでから10年の間の思いを込めて、ダンテはベアトリーチェの目を見ようとする。
炎よりも熱い幾千もの望みが
わが目をそのきらめく目に結びつけた。
それはひたすらグリフォンだけに向きつづけていた。

まさしく鏡の中の太陽、それとまったく同じように
二重の種の生物はその瞳の中で、
今は片方の種の姿、次にはもう一つの種の姿を見せながら光を放っていた。
(467ページ) ダンテに視線を移そうとせず、ベアトリーチェは自分の目の前のグリフォンだけを見つめ続ける。グリフォンは胴体が獅子、首が鷲という空想の動物であるが、それがあるときは黄金の鷲、ある時は白に赤の混じった獅子と姿を変え続ける。それは神であり、人でもあったキリストを象徴する姿である。

 ベアトリーチェの目の前にいるグリフォンはその姿を変えないのに、彼女の瞳の中の像は姿を変えていることにダンテは驚く。そしてキリストの神性と人性が一体になっていることを知る。
 すると、対神徳を象徴する3人の貴婦人がベアトリーチェに、彼女の面紗を取って、素顔を見せるように懇願し、彼女は素顔とその微笑を明らかにする。ダンテはその美しさに言葉を失う。

おお、永遠の命の光が放つ輝きよ、
パルナッソス山の森にこもって
青白くなるほど努力し、あるいはその詩泉の水を飲んだとて、

あなたを描こうとすれば、
知性が至らぬと思われぬものがいるだろうか。
空が調和を奏でながら、いわばあなたの気配を描き出している場所で、

広がる大気の中に面紗を脱いだその時に現れた、そのままのあなたを。
(469ページ) ベアトリーチェの微笑みは肉体的なものではなく、神的な何かの顕現であった。その美しさを描き出すためには、詩のあらゆる技法は無力である(と言いながら、ダンテはしぶとく、詩行を重ねていく)。こうして31歌は終わる。
 

水村美苗『増補 日本語が亡びるとき 英語の世紀の中で』(3)

7月17日(日)曇り、時々晴れ、13:24ごろ地震があった。

 アメリカ中西部のアイオワ大学で開かれたIWP(International Writing Program)に参加した水村さんは世界各地から集まった様々な文筆家たちと交流することになる。そして
 「地球のあらゆるところで人が書いている。」(36ページ)
 「人は金持の国でも貧乏な国でも書いている」。(44ページ)
 「さまざまな政治状況のもとで書いている」。(53ページ)
ということに気付き、考えさせられた。

 しかし、このような諸条件以上に、さらに水村さんを考えさせることがあった。それは
「人はなんとさまざまな言葉で書いているのか。」(58ページ)ということである。言葉の違いにかかわらず、「さまざまな作家がそれぞれ<自分たちの言葉>で書いている。」(同上) 彼らは、英語やスペイン語や中国語で書くだけでなく、モンゴル語、リトアニア語、ウクライナ語、ルーマニア語、ヴェトナム語、ビルマ語、クロアチア語などで書いていた。

  「しかも、その<自分たちの言葉>で書くという行為――それが<自分たちの国>を思う心と、いかに深くつながっていたか。」(59ページ) モンゴルからやってきたダシュニムは、ソビエトに強制されてきたモンゴル語のキリル文字表記をラテン語アルファベットによる表記に改めたいという動きに賛同し、もう若くはないのに使いこなしているコンピューターでモンゴルの自然の美しさとその自然との調和に生きるモンゴル文化の美しさを語ろうとしていた。

 ウクライナからやってきたイフゲーニアは、ソビエト時代(厳密にはスターリン時代以降)に強制されてきたロシア語使用から、ソビエト崩壊後に起きたウクライナ語の復興への動きを経験し、自らもウクライナ語での執筆活動を行っている。既にウクライナ語よりもロシア語を使用する人々の数が多くなってきたにもかかわらず、ウクライナ語復興の動きは盛んであると水村さんは書いているが、最近のウクライナにおけるロシア系住民の分離独立の動きを見ていると、事態はそれほど単純ではないかもしれない。(ロシア文学を代表する作家の1人であるゴーゴリはウクライナ出身で、ウクライナの人は、ウクライナの作家だといっているようである。なお、私が調べたところによると、ウクライナ語ではホーホリというそうである。)

 イスラエルから来たシモンはヘブライ語で書いていたが、「ヘブライ語は、まさに<自分たちの国>を思う心でもって、不死鳥のように蘇った言葉である、」(61ページ)

 しかし、水村さんをもっとも驚かせたのは、彼女が親しくなったノルウェーの作家ブリットが、ノルウェーの2つの公用語のうち、少数派の「ニーノシュク」であることを知ったことである。ノルウェーにはデンマーク語の<書き言葉>をもとにした「ブークモール」(書物の言葉)と、イーヴァル・オーセンという言語学者が地方の方言をあちこちから集めて作った人工的な<書き言葉>である「ニーノシュク」という2つの公用語がある。実際にはブークモールの方が圧倒的に優勢で、ニーノシュクを読み書きする人口はノルウェーの人口の1割程度だという(もっと少ないという人もいる)。ブリットがあえてニーノシュクで書いているのは「彼女が漁村で生まれ育ち、「ニーノシュク」の方が自分の魂と奥深くつながっているような気がするかららしい」(63ページ)。

 このようにさまざまな言語による執筆活動を展開している作家たちと交流を重ねながら、水村さんは「英語が<普遍語>となりつつあること」(64ページ)、「言葉には力の序列がある」こと(同上)について考えさせられる。
 人々の交流が盛んになった結果として、一方で、ごく少数の人々にしか使用されていない言語がどんどん消滅していく、その一方で英語が<普遍語>の地位に上ろうとしているという2つの変化が起きている。ローマ帝国が亡びてもラテン語がヨーロッパの<普遍語>としてしぶとく生き延びたように、アメリカの地位に変動があっても、英語は生き延びるであろう。さらにインターネットという新たな技術が加わり、英語は<普遍語>となる可能性をさらに大きくしている。

 IWPに参加した作家たちの中で、1人だけ<自分たちの言葉>で文筆活動をしていない、バロロングというアフリカのボツワナから来た作家がいた。彼は英語で作品を発表し、その一方で、母語であるツワナ語のことわざを英語に翻訳したりしていた。しかし、彼のような作家がさらに増えていくかもしれないと、水村さんは考える。
 そして、英語が<普遍語>となり、日本の作家たちが英語で作品を発表するようになると、日本の近代文学は過去の遺物となってしまう…と考えるのである。

 水村さんの議論から少し離れて問題を考えてみよう。行方昭夫さんは『英会話不要論』(文春新書)の中で、川端康成のノーベル賞受賞に大いに貢献したと考えられるサイデンステッカーの『雪国』の翻訳の冒頭の部分を紹介している。
 原文――国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。夜の底が白くなった。信号所に汽車が止まった。
 翻訳――The train came out of the long tunnel into the snow country. The earth lay white under the night sky. The train pulled up at a signal stop.
「両者の違いが多くの日本人によって指摘されています。英訳は汽車がトンネルから出てくる情景をどこか上の方から俯瞰して描いているのですが、原文は、汽車に乗っている小説の主人公である島村の気持、内面、心理を描いていると思う日本人読者が多いようです。しかしサイデンステッカー氏は違った解釈をしたのですね。」(行方、121ページ)

 英語では適切に表現できない心理の動きがあり、その一方で、英語から受けた影響によってものの見方、感じ方が英語的に変化していくということも考えられる。そのことの意味を考える必要があると思うのである。

 このブログを始めて以来、読者の皆さんからいただいた拍手が17,000に達しました。ありがとうございます。これからもよろしくお願いします。

倉本一宏『藤原道長「御堂関白記」を読む』(4)

7月16日(土)曇り、時々晴れ、たびたび睡魔に襲われ、この日のうちに記事を更新できなかった。

 『御堂関白記』は平安時代中期、いわゆる摂関期に栄華を誇った藤原道長の日記である。道長は実は関白の地位に就いたことはなく、道長は実は関白の地位に就いたことはなく、さまざまな呼ばれ方をした日記が『御堂関白記』と呼ばれるようになったのは江戸時代の写本以来のことであるが、この呼び方が定着してしまっている。
 道長は政権を獲得した長徳元年(995)から日記をつけ始め、何回かの中断を経た後、寛弘元年(1004)からは継続的に書き続けている。現存する『御堂関白記』は道長が33歳であった長徳4年(998)から56歳の治安(じあん)元年(1021)に至る記事を収めている。
 長徳元年に権大納言であった道長は兄2人が相次いで没したために、一条天皇から内覧(関白に準じる職。奏上・宣下の太政官文書を内見する)宣旨を、さらに右大臣に任じられて太政官一上(いちのかみ=首班)の地位を得た。摂政・関白は公卿議定に出席しないが、道長はその地位に就かなかったために、議定を主宰でき、政敵である兄道隆の子・伊周を抑えて政治を運営することができた。そして伊周の妹であり、一条天皇の寵愛が深かった定子に対抗して、自分の娘の彰子を天皇の后として送り込み、自分の勢力を固めようとする。定子の死後、彰子は敦成親王(⇒後一条天皇)、敦良親王(⇒後朱雀天皇)の2人を生み、道長の権力の基盤は次第に固められていく。

 寛弘7年(1010)に道長は二女の妍子を東宮である居貞親王に入侍させた。自分の父である兼家や、兄である道隆に倣って、当時並立していた2つの皇統:冷泉・花山・居貞(⇒三条)/円融・一条の両方に自分の娘を送り込み、どちらにも自分の外孫が生まれるように画策したのである。そしてこの時期から、道長は居貞のもとを足しげく訪れて、一条天皇の譲位、居貞の即位後の政局運営に備えている。
 なお、これらの記事に先立って、寛弘7年の記事を収めた自筆本の縹紙見返しに「件記等非可披露、早可破却者也(件の記等、披露すべきに非ず、早く破却すべき者なり)」(119ページ)と書きつけられていて、道長がこの日記を自分自身のための備忘録として書き記していたことが知られる。
 またこの年の正月28日に、藤原伊周が薨去しているが、その記事は『御堂関白記』には見られないという。道長としてみれば、居貞親王と妍子の結婚の準備で構っていられないというのが本音かもしれないが、藤原行成の『権記』には29日、藤原実資の『小右記』の記事を抜き書きした『小記目録』には30日に、この記事が記され、「あたかも宮廷を挙げて伊周のことを忘れたがっているかのようである」(120ページ)。冷たいねえ。

 寛弘8年5月22日、一条天皇は病に倒れられる。在位26年目のことであるが、ご幼少のころに即位されていたので、まだ30代の前半という若さである(もっともこのくらいの年齢で譲位された例は多い)。道長は25日に早くも譲位工作を開始した。『御堂関白記』によると譲位にかかわる易占を行わせ、譲位どころか崩御の卦が出たという占文(うらぶみ)を見た道長は崩御を覚悟し、泣き出してしまった。。隣の清涼殿夜御殿にいらっしゃった一条は、これを見てしまわれ、ご自身の病状や道長による譲位の策動をお知りになって、いよいよ病気を重くされてしまったのである(『権記』)。
 崩御の直前、6月13日に一条は東宮居貞親王に譲位され、居貞は三条天皇となった(厳密にいえば、即位されたのであって、三条天皇と呼ばれるようになるのは、天皇が崩御されたのちのことである)。そして東宮には彰子が生んだ(道長から見れば外孫の)敦成親王が立った。道長は三条天皇からの関白就任要請を拒否し、引き続き内覧兼左大臣として政務を総攬する。次の懸案となるのは、道長の娘も含む三条天皇の后の扱いである。
 「25年もの東宮生活の末に即位した三条は、すでに独自の政治意志を持っていた。この「やる気」のある天皇と道長との政治的駆け引きも、これからつづくこととなる。」(123ページ) (三条の方が、一条よりも年長である。) 6月21日に、一条院は崩御されるが、その前後から天皇の葬儀・埋葬に至るまで政治的な駆け引きが続くが、これはまだまだ序の口である。

 政権を握っている道長、天皇のおそば近くに仕え、天皇と道長の間の連絡・調整に当たっている行成、少し離れたところで冷静に事態を眺めている実資、この3人がそれぞれ自分の日記を残しているので、王朝時代の政治的な駆け引きの様子が詳しくわかり、逆にその日記を書いている貴族たちの心中も推測できて、非常に興味深い場面が続く。

『太平記』(113)

7月15日(金)雨、一時雷雨が激しかった。

 元弘4年(1334年)7月に改元があって、年号が建武と変わった。その頃、出雲の塩冶高貞のもとから龍馬が献上された。後醍醐天皇は吉兆として喜ばれたが、万里小路藤房は必ずしも吉兆ではないと建武政権の失政の数々を説いて、天皇に諫言した。諫言が容れられなかった藤房は建武2年3月の石清水八幡宮への行幸の供奉を最後の職務として出家・遁世した。

 元弘3年に、鎌倉幕府滅亡の際に自害した最後の得宗・北条高時の弟である北条泰家は、一族のほとんどが自害して果てた中で、自害したように見せかけて、ひそかに鎌倉から落ち延びて、しばらくは奥州に身を潜めていたが、人に見知られないように(もともと出家していたのを)俗人の姿に戻り、京都に上り、当時、正二位権大納言であった西園寺公宗を頼って、その屋敷に田舎侍が地方から出てきて召し使われているというように見せかけて、機会をうかがっていた。(泰家が鎌倉を脱出した次第は10巻の高時たちの自害の直前に記されている。泰家は高時が執権職を退いたときに、その後任として執権になるつもりだったのが、反対する者がいてなれなかったので、怒って出家していたのである。)

 なぜ西園寺家を頼ったかというと、承久の乱の勃発時に西園寺公経が鎌倉幕府に内通してその勝利に寄与したという経緯があり、その当時の鎌倉幕府の執権であった北条義時が「子孫七代まで西園寺殿を慿(たの)み申すべし」(第2分冊、305ページ)と言い残していたので、その後ずっと幕府は西園寺家を他の家とは違って特別扱いにしてきた。それで代々の天皇の后もその多くが西園寺家の出身であり(姞子が後嵯峨、公子が後深草、嬉子・瑛子が亀山、鏡子が伏見、禧子が後醍醐のそれぞれ后になった)、諸国で官に任じられるものも、半分は西園寺の一族であった。それで当主は代々太政大臣にまで昇任し、最高位を極めないものはなかった。これはひとえに北条が目をかけてくれたおかげであると思われたのか、何とか死んだ北条高塒の一族を取り立てて、再び天下の件を取らせ、自分は公家の執政として、天下を掌中に収めようと思われ、泰時を還俗させ(すでに還俗したと書いてあったのだが、繰り返されている)、刑部少輔時興と名を変えさせて傍に置き、明け暮れはただ謀反の計画を巡らしていた。

 ある夜、公宗の家司である三善文衡(ふんひら)が公宗の前にやってきて述べるには、「国の興亡を見るには、政治の善悪を見るのが一番よろしいといいます。政治の善悪を見るには、賢臣がどのように用いられているかを見るのが一番よろしいのです。昔の中国の例を見ると、殷の紂王を諫めた微子が去ったために殷は亡び、楚の項羽に仕えて功績をあげた范増が項羽に疑われて、官を辞し去っていたことで項羽は亡びました。今の朝廷を見ると、ただ藤房だけが見るべき賢臣であったのですが、いち早く滅亡を
予知して、隠遁の身となってしまいました。これは朝廷にとっては大凶ですが、西園寺家にとっては運の開けることであろうと思われます。急いで謀反の決心をなされれば、北条に仕えてきた生き残りが各地からはせ参じて、天下を覆すであろうことは、一日とかからないでしょう」と謀反を勧めたのであった。

 公宗も文衡の言い分をもっともだと思い、時興を京都の大将とし、畿内・近国の兵を集めた。そのおいで高時の次男である相模二郎時行を、関東の大将として(彼は諏訪盛高に護られて信濃に落ち延びていた)、甲斐・信濃・武蔵・相模の軍勢を率いさせ、名越太郎時兼を北国の大将として、越中・能登・加賀の軍勢を集めさせた。

 このように諸方の軍と示し合わせてから、京都の西の方から番匠(大工)たちを大勢集めて湯殿を建てさせた。(西園寺家の屋敷は、北山のその後金閣寺となった場所にあったので、西の方から大工を集めたのは当然のことであろう。) これは、後醍醐天皇が御遊のために臨幸された際に、唐の玄宗皇帝が楊貴妃とともに遊んだ華清宮の温泉になぞらえて、浴室での酒宴をお勧めし、浴室に落とし穴を仕掛けて陥れようとするたくらみからであった。このようにさまざまのはかりごとを巡らし、兵をそろえて、「北山の紅葉をご覧になるために、おいでください」と天皇に申し上げたので、さっそく日程を定められ、行幸の儀礼を準備されたのであった。

 すでに、「明日午の刻(正午頃)に、臨幸なさるであろう」と仰せ下されたその夜、天皇がしばらくまどろまれた際の夢に、赤い袴に濃い鼠色の二枚重ねの衣を着た女が一人やってきて、「前には虎狼が怒って待ち受け、後ろには熊と羆の獰猛なものがいます。明日の行幸を思いとどまりください」と申し上げる。天皇は、夢の中で、「お前はどこからきたものか」とお尋ねになったが、「神泉苑のあたりに、多年住んでいるものです」と申して、帰って行った。それをご覧になって、ほどなくして夢から覚めた。天皇は、怪しい夢のお告げであったと思召されたが、ここまでしっかりと予定を組んでしまった臨幸を、土壇場で取りやめにするのはどうかと思われたので、予定通り乗り物の輿を出して出発するように命じられたのである。

 後醍醐天皇の御夢に登場した女は、おそらくは第12巻に語られた東寺の弘法大師と西寺の守敏の法力比べの説話の中で、弘法大師が雨を降らせるために天竺の無熱池から呼び寄せ、そのまま神泉苑に住み着いた善女龍王であろう。先祖代々の鎌倉幕府との深い結びつきから西園寺公宗が北条氏の残党と手を結んで建武新政権に対するクーデターを計画しているのは、新政権にとって一つの危機であるが、どうも危機は一つにとどまらないらしい。鎌倉時代に戻ろうとする動きがあれば、新しい武士の政権を作ろうという動きもあるかもしれない。『太平記』の世界は再び兵乱の連続になりそうな気配も見せている。 

日記抄(7月8日~14日)

7月14日(木)晴れ、夕方になって急に雷雨

 これまでに書き漏らしたこと:
 6月26日の『朝日新聞』にEUからの英国の離脱は「氷山の一角」に過ぎないというグリーンスパンFRB(米連邦準備制度理事会)元議長の発言が紹介されていた。同氏は「我々が直面しているのは欧州全体に広がる実質賃金の急激な減速」であると指摘し、生産性の低迷で賃金が上がらない状況が「米国だけでなく、(先進国で作る)経済協力開発機構(OEDCD)諸国に広がっている」との見方を明らかにしたという。筋の通った意見で、故人になった経済学者のガルブレイスがグリーンスパンとは考えが違うが、立派な人物であると述べていたことを思い出した。

 7月8日から本日までの間に経験したこと、考えたことなど:
7月8日
 神保町シアターで「生誕85年記念企画 天知茂 ニヒルの美学」特集上映から、『憲兵と幽霊』(新東宝、1958、中川信夫監督)と『肉体女優殺し 五人の犯罪者」(新東宝、1957、石井輝男監督)を見る。ともに新東宝というかつて存在した映画会社の特徴をよく示している作品だと思った。
 『憲兵と幽霊』は、憲兵中尉である波島が、部下の田沢伍長(中山昭二)の新婚の妻(久保菜穂子)に横恋慕し、彼女を手に入れるために田沢を陥れる。実は波島は日本軍の情報を中国のスパイに売り渡していたのだが、その罪を田沢に着せて、彼を銃殺する。ところが、田沢にそっくりの男が彼の周辺に出没する。果たして、田沢の幽霊なのであろうか…。怪談映画を得意として中川の持ち味が映画の後半になると特に強く出ている。中国のスパイのボスの情婦を演じている三原葉子に加えて、中国のクラブの踊り子として万里昌代が登場して、色を添える。
 『肉体女優殺し 五人の犯罪者』は、浅草のストリップ劇場で起きた殺人事件で、被害者の夫の楽師が逮捕されるが、新聞記者(宇津井健)が不審を感じて、事件を洗いなおそうとする。学士の妹のストリッパー(三ツ矢歌子)の協力を得て捜査を進めるうち、事件には麻薬が絡んでいることを突き止める…。謎めいた動きをしていた踊り子(三原葉子)が事故で死んだが、その死因も怪しい…。最後の方の地下の下水道での追跡劇はキャロル・リードの『第三の男』を思い出させる。熊井啓が脚本を書いた日活映画『霧笛が俺を呼んでいる』が『第三の男』を下敷きにしているのに対し、石井は物語の筋立てではなくて、クライマックスの追跡劇のところを取り入れている。熊井はストーリーへの、石井は映像への関心が強く出ているのが面白い。天知茂は謎の振付師を演じている。三ツ矢歌子が可愛い。

7月9日
 NHKラジオ「攻略!英語リスニング」は”Romeo and Juliet"を話題として取り上げた。モンタギューとキャピュレットという反目しあう2つの家の出身の若い男女の恋愛の始まりから終わりまでを描くシェイクスピアの悲劇である。
It's unclear exactly when Shakespeare wrote this play, which was based on Italian sources, then very much in vogue, but it was at some time in the early 1590s.
(シェイクスピアがこの戯曲をいつ書いたのかは、正確にはわかっていないが、イタリアに伝わる話をもとにしたもので、この話はその当時大変流行していた。とにかく1590年代初めのある時期に書かれた。)
It's one of the most frequently performed of Shakespeare's plays -- and it has been the inspiration for countless works of art, from plays and books to ballets and operas and films.
(シェイクスピアの戯曲の中で最もよく上演される作品の1つで――そのうえ数え切れないほどの芸術作品、演劇から本からバレエ、そしてオペラや映画に至るまで数々の作品に翻案されている。) 
 私が見た映画化作品の中では、1954年のレナート・カステラーニ監督(R:ローレンス・ハーヴェイ、J:スーザン・シェントル)によるものは後半が原作に忠実で、悲劇性が強く出ており、1968年のフランコ・ゼフィレッリ監督(R:レナート・ホワイティンぐ、J:オリヴィア・ハッセー)は前半が原作に忠実で、若々しい雰囲気が強調されていた。1968年版で、マキューシオを演じていたジョン・マッケナリーが印象に残っているのだが、私の友人の中には、ティーボルトを演じたマイケル・ヨークがよかったという意見もある。もちろん、主演の2人がよかったという人は数えきれない。1996年のバズ・ラーマン監督(R:レオナルド・ディカプリオ、J:クレア・デインズ)は未見。

7月10日
 Eテレの『日本の話芸』で三遊亭好楽師匠の「辰巳の辻占」を視聴する。まくらで元の師匠であった8代目林家正蔵(彦六)の話をしたが、本題との関連性がない。それに林屋木久翁師匠が8代目に対して働かせたほどの観察眼がないように思う。

 ニッパツ三ツ沢球技場で横浜FC対徳島ヴォルティスの対戦を観戦する。後半に2点を失い0-2で敗北。あまりいいところのない試合ぶりであった。

7月11日
 NHKラジオ「まいにちイタリア語」入門編は最後の方で即興的な会話をするのだが、本日は最後の最後にパートナーのマッテオ・インゼオさんが日本語でしゃべり、その日本語がうまいので感心した。外国語を教える側が(外国人であっても)、日本語も上手であるということは、外国語教育においてとても大事なことではないかと思うのである。

7月12日
 昨日、ザ・ピーナッツの伊藤ユミさんが5月18に亡くなられていたというニュースが報じられたが、続いて、永六輔さんの訃報が届いた。永さんの作詞、中村八大の作曲、坂本九による歌唱という六八九トリオは「上を向いて歩こう」をはじめとする多くの名曲を生み出した。テレビ初期に活躍した方々次々に亡くなられ(六八九トリオは永さんが死んで全員あちら側に去ってしまった)、時がたつにつれてこういうことが起きてくるのは仕方のないことだと思っても、やはり寂しい。

7月13日
 NHKラジオ「まいにちイタリア語」に出てきた文:
So che Laura vive a Monaco.
私はラウラがミュンヘンで暮らしていることを知っています。
イタリア語でMonacoというのはミュンヘンのことを言う場合があり、区別する場合には
Monaco di Baviera (バイエルンのモナコ)
Principato di Monaco (モナコ公国)
という。

7月14日
 NHKラジオ「実践ビジネス英語」の”Quote...Unquote”のコーナーで取り上げられた言葉:
Nothing is more deceitful than the appearance of humility. It is often only carelessness of opinion, and sometimes an indirect boast. (from Pride and Prejudice)
     ――Jane Austen (English novelist, 1775-1817)
(謙虚なそぶりほど、嘘っぽいものはない。それはたいてい軽率な考えにすぎず、時に間接的な自慢話である。) 
『高慢と偏見』は読み通したことがあるのだが、こんな言葉が出てきたかどうか、記憶が定かではない。また読み直してみよう。

違いを知ること

7月13日(水)雨が降ったりやんだり

 あるところでちょっとした話をしたので、更新が遅れた。その話の内容のあらましを(多少の補足・訂正を加えて)掲載する。

 学校で教えている英語について、学習指導要領のような大きな原則を示す文書では、「グローバル化する世界」とか、「知識基盤社会」とかいう大義名分を掲げて、英語学習の意義を説明しているが、個々の学習者は自分なりにその意義を見出すべく努力すべきである。1974年に出版されて話題を呼んだ中津燎子『なんで英語やるの?』は著者が岩手県のA市で主として小学生を対象とする英語教室を主宰してきた体験をまとめたものであるが、そこでは学習者1人1人に「なんで英語やるの?」という問いを投げかけてきたという(中津さんは2011年に亡くなられた)。

 ベネッセが行った高校生7万人を対象とする調査によると、高校生の大半が、高校卒業時に到達すべき英検2級レベルに達せず、中学校3年相当の3級レベルにとどまっているという。これをどのように評価するかで高校(と大学・専門学校)における英語教育の在り方は変わってくるはずである。1974年に平泉渉は、高等学校で英語を選択教科にして、一部の生徒たちだけに徹底的な訓練を施すことを提案したが、一部の生徒に徹底的な訓練を行うのはもう少し後の段階になってからでもよいかもしれない。

 平泉の提案は(7月11日の当ブログ「世界の言語を知る』でも触れたが)ほとんど実行に移されず、ただ「試案」の冒頭部分の英語学習の効率の悪さを批判し、それが教育政策上のもっとも重要な課題となっているという認識だけが、「受験」よりも「コミュニケーション」に重点を置いて英語を教育すべきであるという空気を醸成したように思われる。

 コミュニケーションの問題を考える際に、日本社会と日本語使用者のコミュニケーションの仕方と、英語圏の各社会と英語使用者のコミュニケーションの仕方の違いを認識することが重要である。中津は、ある調査のために学校に本を借りに行ったアメリカ人の女子学生に通訳として同行した際に、(善意に基づくものとはいえ)用件とは関係のない長話を続けて(その方が礼儀にかなったことだと思い込んでいる)、訪問者をイライラさせた学校関係者の例を引き合いに出している。相手の意図を理解しようとすること、相手の文化の中の慣習を理解し、お互いに歩み寄ることが必要である。

 さらに日本語と英語の文法・語法の違いにも注意する必要がある。とくに日本語は「主語」が省略されることが多いので、日本語の常用者ならばすぐにわかるはずの行為の主体が、そうでない人にはわからない例が少なくない。(この件をめぐって、行方昭夫『英会話不要論』に、太宰治の『斜陽』の会話の部分をドナルド・キーンが誤訳しているという興味深い事例が取り上げられている(同書108-111ページ参照)。コミュニケーションをめぐっても、言語をめぐっても、日英(日本でも東日本と西日本という風に、地域によって違いがあるかもしれないし、英語圏も多様な世界であることも忘れてはならない)の違いについて認識を深めていくべきである。

 英語教育、異文化理解には、これまでの実践を通じて様々な知見が積み重ねられている。今後の英語教育をめぐっては、「空気」ではなく実証的な調査に基づいて政策を作り上げていく必要がある。

 私の話に対して、中国語が英語にとって代わろうとする動きはないか、翻訳機械の発達により学習の負担が軽減されるのではないかという質問があったが、この2つの問題については永井忠孝『英語の害毒』で論じられているので、それを参考にしていただきたい。

水村美苗『増補 日本語が亡びるとき――英語の世紀の中で」(2)

7月12日(火)晴れ

 アメリカ中西部にあるアイオワ大学で開かれたIWP(国際創作プログラム)に日本からただ1人参加した著者は、世界各地からそこに集まった文筆家たちが、さまざまな言語で自分の創作活動を続けているという事実に大きな感慨を覚える。

 モンゴルからやってきた詩人であるダシュニムは、狩人を父親に持ち、大草原で大家族が同じテントに住むという少年時代を送ったが、たまたまソ連に留学し、博士号まで取得したが、帰国後はモンゴルをソ連の影響下から独立させる運動に参加したという。あまり達者とは言えない英語で、自分のさびしい胸中や、祖国への思いをつぶやいていた。「言葉の上手い下手にかかわらず人格の上下はおのずから明らかになるものと見え、ダシュニムは人格者としてみんなから信頼されていた。」(39ページ)
 ダシュニムの友達の若いリトアニアの詩人はギンターリスといい、日本の「ボンサイ」と釣りが趣味で、暇があるとアイオワ川で釣りをしていた。ある時、大きな魚が釣れたのをどうしてよいのかわからないでいると、ダシュニムが「見かねて料理したという。/捕った獲物は食せねばならぬ、というのが狩人をお父さんにもったダシュニムの哲学である。/でも、おいしくなさそうなので、自分は食べなかったとダシュニムは笑ってつけ加えた。」(40ページ)

 モンゴルと中国の関係の方がロシアとの関係に比べて長かったはずであるが、ダシュニムが中国の作家と話しているのは見たことがなかった。
 中国からは男の小説家が2人で、その1人の余華(ユイ・ホア)はカンヌ映画祭で審査員特別賞を取ったチャン・イーモウ監督の映画『活きる』の原作者であった。
 韓国からの作家は男が3人、一番英語の上手な詩人のイーサン・キムは韓国や日本料理に水村さんをよく誘った。他の2人を加えて「4人で忙しくお箸を使う時間は、アメリカでならではの、東アジア人の東アジア人に対する優しさと気楽さを感じる時間であった。」(41ページ) 次に英語の上手なキム・ヨンハは水村さんの作品が韓国語に翻訳されるのに一役買ってくれた。「韓国では随分と評価されている若手作家らしい。」(41ページ) 〔どうもそのとおりらしいのだが、彼の作品は日本語に翻訳されていない。〕 もう1人はあまり発言しなかったが、発表の時の振る舞いで、結構ユーモアの精神を持ち合わせていることが分かった。

 アルゼンチンからきているレオポルドという若い小説家も水村さんの作品のスペイン語訳の刊行の道筋をつけてくれた。会議の時はあまり話さなかったのだが、その後、翻訳の出版をめぐって頻繁にメールを交換するようになり、”Abrazo!”というスペイン語の別れの挨拶を覚えたという。
 レオポルドに野趣が感じられたのに対して、ドイツから来たマティアスには「これまたおかしいほど文明的な匂いがした。」(43ページ) イスラエルから来たシモンは菜食主義者であり、ポーランドから来たマルツィンは英語を話さないのでいつもむっつり酒ばかり飲んでいた。イギリスから来たグレゴリーは大変な環境主義者であった。
 「地球のありとあらゆるところで人は書いていた。」(44ページ) 多様な環境を背景として、さまざまな個性をもった参加者たちが小説や詩を書いていることを水村さんは実感する。

 そのような環境の違いで、とくに感じられたのは、「金持ちの国でも貧乏な国でも書いている」(44ページ)ということである。「金持ちの国からきた作家と、貧しい国からきた作家では、ドルのもつ意味が気の毒になるほどちがった。」(同上) 滞在中支給される1日20ドルで、水村さんは食べたり飲んだり、生活必需品を買ったりした。映画も見たし、ビールも飲んだ。
 一方、貧乏な国からきた作家は、少しでもドルを残して、自分の国へ持って帰るために、不自由をものともせずに自炊したり、菓子をかじったりしていたが、ただで食事が供されるという機会の噂を聞きつけると、どこからともなく姿を現した。

 「女の作家の貧乏は男の作家の貧乏よりもひりひりと肌で感じられた。」(46ページ) ウクライナから来た陽気なイフゲーニアは安物屋に吊るされた手袋を息子たちのために買って帰ろうか、どうしようかと迷っていた。水村さんと同室になったポーランドの哲学者アガータはナチスの侵攻と、その後のソ連の支配のもとで苦しんだ過去について語ったが、もしそういう過去に出会わなければ豊かな環境の中でその美貌にふさわしい生活を送ったかもしれないと思われた。
 そうした中でいつとはなしに仲良くなったのはノルウェーから来た女流作家のブリットであった。水村さんと彼女は豊かな国からきたもの同士ということで、一緒に昼間からビールを飲んだり、映画の話をしたりした。

 さらには、参加者を取り巻く政治状況も多様であった。「旧ソビエト圏からの作家にとっては、まずは、言論の自由というものが、あたりまえのものではなかった。」(53ページ) ルーマニアから来た小粋な仕草を見せる詩人のデニーサの頭の中は「国家権力とどう付き合ってきたか」というテーマでいっぱいだった。
 「もちろん、今現在、言論の自由の抑圧を経験している作家たちもいる。」(54ページ) 中国から参加した2人の男性作家のうちのもう1人は言論の自由の闘士であり、彼の書いた風刺小説の英訳コピーを水村さんに渡してくれた。そして当時はまだ軍事政権下にあったビルマ(ミャンマー)の初老の作家は、この会議中にアメリカに亡命してしまった。

 「実際、この半世紀ずっと平和が続き、しかも言論の自由が保障されていた国――すなわち、第二次世界大戦というものが最後の大きな傷跡であった国からきた作家は少数であった。」(57ページ)
 ヴェトナムからきた作家は、ヴェトナム戦争が終わった年にハノイで生まれた。チリやアルゼンチンなど南アメリカからの作家は軍事政権や内乱を生きてきた。イスラエルからの作家は今なお戦闘地域に生きているのに等しい。唯一イスラム教の信者であったボスニアからの作家は、非あざに銃弾の破片を入れたままであった。また唯一の黒人であったアフリカのボツワナからの作家は、祖国がイギリスの植民地だった時代に生まれている。韓国からの作家たちは〕まだ弊社で寝ている!』という夢を見て、恐ろしさに今も飛び起きることがあるという。

 参加者たちの経験してきた世界はそれぞれ違い、その中での対応の仕方も違う。これまで、歴史的な伝統や、経済、政治の問題を取り上げながら、話を進めてきた水村さんは、参加者の個性を描き分けながら、さらにもっと重大な問題について語ろうとする。それは作家たちがどのような言語で書いているかという、この書物の主題と密接にかかわりあう問題である。 

世界の言語を知る

7月11日(月)晴れ

 7月9日付の当ブログ「英語をなぜ勉強するのか」の続きで、そこで紹介した平泉渉の提案のうち世界の言語について学ぶ機会を中等教育段階で設けるというものについて考えてみる。7月4日付の「第二外国語」の終わりの方でも触れたが、世界にはどのような言語があって、それを学ぶことにどのような意義があるか――ということを知らされないまま、外国語の学習を強制されるのはおかしい。だから、平泉のこの提案は十分に考慮に値すると思う。

 その前に、「英語をなぜ勉強するのか」で、書き忘れたことがあって、それも今回の話題と関連することなのだが、数学・自然科学関係の論文は英語で書かれないと国際的に承認される可能性は低いということである。(ノーベル物理学賞を受賞された益川敏英さんのように外国語が苦手であっても、その業績が国際的に認められた例はある。) 社会科学においても同じようなことがいえる。水村美苗『日本語が亡びるとき』に次のような記述がある。「20世紀を迎えて既に3分の1を過ぎた1933年、カレツキというポーランド生まれの経済学者が、1つの論文を発表した。たんなる論文ではない。のちに古典となるケインズの『一般理論』にある原理を先に発見したという、重要な論文である。当然のことにその論文は人の目にとまらなかった。2年後、カレツキは同じ論文を<3大国語>の1つに訳して著すが、またまた気の毒なことに、かれが得意としたのは、フランス語であった。翌年の1936年、ケインズの『一般理論』が英語で出版され、経済学の流れを大きく変えることになる。それを見たカレツキは、今でいう、自分の「知的所有権」を主張しようとする。『一般理論』に先駆けること3年、自分はすでに同じ原理を発見していたという論文を発表するのである。だが、なんとカレツキは、その論文もまた性懲りもなくポーランド語で著わしたのであった。当然のこととして、その論文も、誰の目にもとまらなかった。/・・・気の毒なカレツキは、「英語で書かなかった」学者として、のちの世に名を残すことになったのであった。」(水村、184-185ページ)

 さて、世界にはどのような言語があって、それぞれがどのような役割を演じているかというのは、中等教育のある段階で1年間で教えられることであろうか。世界には5,000とか7,000とかいう数の言語がある。これに比べて国家の数は200ほどである。それで学者によって、また政治的な状況によって、その数は違ってくる。政治的な状況というのは、もともとペリカン・ブックスに入っていて、日本ではその翻訳が岩波新書に入っているトラッドギルの『言語と社会』(原題はSociolinguistics 〔=社会言語学〕)を読めば、さらに言うと、日本語の翻訳の初版と第二版、元の本の初版、2版、3版を読み比べるとよくわかる。とくに旧ユーゴスラヴィアの解体が言語の分類に及ぼした影響について書いてある箇所が参考になるはずである。

 そうはいっても、5,000とか7,000とかいう言語の中には、言語学者になるのでもない限り(最近は、言語学者でもそれほど多くの言語を勉強している人は少ないそうだが)、興味を持たなくてもいい言語が大半で、日本人が関係を持ちそうな言語は限られているのが現実である。それは、①日本国内でかなりの頻度で使われている言語。②日本の近隣の国々の言語。③日本と経済・政治・文化などの面で深い交流がある国々の言語、④多くの人々によって使われている、あるいは強い影響力を持つ文化の中で使われてきた言語ということになるだろうか。永井忠孝『英語の害毒』(新潮新書)は①日本で重要性の高い外国語:英語、中国語、朝鮮語、ポルトガル語、②世界の主要な地域共通語:アラビア語、スペイン語、ヒンディー・ウルドゥー語、ロシア語、③日本に固有の言語:アイヌ語、日本語、日本手話、琉球語のうち、生徒の母語でない言語を中学校から学ぶ(179ページ)という提案がされているが、ここで私が考えているのは世界にはどのような言語があるのかを学ぶ際の手がかりとしての分類である。

 横浜の、特に中区を歩いていると、外国語の表示を掲げた店が多く、これは中華街に限ったことではないし、その中華街でも、中国・台湾以外のアジアや、ギリシアなどアジア以外の国々の言葉を表示した店が少なくない(もっとも、最近は中華街に出かけていないので、様子が変わったかもしれない)。以前にも書いたことがあるが(語学放浪記)、昔の横浜ではノルウェー語とギリシア語に出会うことが多かった(あと、もちろん中国語)。しかし、前記『言語と社会』を読むとわかるが、ノルウェーもギリシアもかなり複雑な言語事情を持つ国であって、気楽に言語遊覧と決め込んでもいられない事情があるらしいのである。日本の中でも、地方によって、外国人の分布は違うし、歴史的にも変容している部分がある。林芙美子の『放浪記』の中に、トルコ人の行商人の話が出てくるが、昭和の初めには日本国内にかなりの数のトルコ人がいたらしい。1990年ごろには、イスラエル人がアクセサリーの露店を開いている姿や、ラテン・アメリカの音楽を路上演奏する人たちをよく見かけたが、今ではほとんどいないのではないか。その一方で、横浜、神戸、長崎の3大中華街のように、日本文化の伝統の一部となっているような存在もある。何が言いたいのかというと、日本の中でよく出会う外国語というのは、地方によって、また歴史的に変化があり、またそのような歴史を超えて生き延びている言語・文化もあるので、地方や学校の事情を考えながら、その言語を選んでいく必要があるということである。

 平泉が世界の言語・文化を教える機会を設けることを提案したのは、そのことによって英語の世界的・国際的重要性を学習者に理解させようと配慮したのだと思われるし、その考えは基本的に正しいが、英語の意義を画一的にとらえ、授業の中で強制的に「学ばせる」というのであってはならない。英語が世界的・国際的重要性を持つというのは客観的に見てその通りであるが、だから英語が好きで勉強しようと思うのも、英語が嫌いになるのも、学習者の自由である。まあ、できるだけ好きになってほしいとは思うが…。私の学生運動仲間で、「英語は帝国主義者の言葉であるから勉強しない」というのがいたが、敵を知ることも大事だから英語を勉強するという考えもあっていいはずである

 いろいろ書いてきたが、世界の言語・文化に触れるということは、学習者が世界の言語・文化に触れるというだけでなく、言語・文化をめぐる多様な意見に触れる機会となるはずである。外交官、商社員、旅行家、言語学者、芸術家、数学者、スポーツの選手、多様な人々が、自分が接してきた異言語・異文化について画一的に同じ考えを持つようになったとは考えにくい。それぞれの立場で、接してきた世界の言語について学ぶ機会というのがあってよいと思うのである。

ダンテ・アリギエリ『神曲 煉獄篇』(31-2)

7月10日(日)晴れ

 地球の南半球にそびえる煉獄山の頂上にある地上楽園に達したダンテは、「暗い森」の中をさまよっていた彼を救い出し、地獄、煉獄、天国を遍歴する旅へと導こうとしたベアトリーチェに出会う。彼は、10年ほど前に、詩文集『新生』の中で彼女への愛と、それが神への愛に昇華した経緯をうたい上げたのであった。しかし、ベアトリーチェは彼女の死後、ダンテが神への信仰の道から外れ、地上の様々な事柄に心を動かしたことを厳しく糾弾する。「流す涙の粒はどこかにおいて聞くがよい。」(460ページ) ダンテはベアトリーチェ異常に美しい存在に出会ったのだろうか。ベアトリーチェは、『新生』以後のダンテの文学生活における思想的な迷いを厳しく指摘する(これはダンテ自身の自己批判である)。

ちょうど少年達が恥じ入りながら黙り込み、
地面を見ながら立ったままで話を聞き、
己の間違いを知り反省する、

私もそのようにしていた。
(462ページ) すると、ベアトリーチェは、糾弾の言葉を聞くだけでは十分ではないと、自分の姿をしっかりとみるように言い渡す。彼女の言葉遣いに「毒」を感じ他ダンテは、いやいやながら、顔を上げる。もはや天使は花を振りまいてはおらず、
そして私の光る瞳は、いまだ視界がはっきりとはしていなかったが、
二種の生物の中に一つの位格を持つ霊獣に
まっすぐ向いているベアトリーチェを見た。
(463ページ) 霊獣とは、鷲の頭の下にライオンの胴体がついているグリフォンであり、人性と神性が一つの位格(ペルソナ)=子の中にあるキリストを表していると、傍注に記されている。

 ダンテには目もくれず、グリフォンだけを見つめるベアトリーチェの姿はダンテが知っている生前の彼女の姿よりもさらに美しかった。
その場所で悔悛の刺草(いらくさ)が私を激しく刺したため、
あの方以外の全事物の中で、私を魅了し
愛を感じさせたものは、それだけ私の憎むべき敵となった。

激しい悔悟の念が私の心を襲い、
私は意識を失い倒れた。私がどうなってしまったかは、
私に原因を与えた方が知る。
(464ページ) ダンテは気を失ってしまう。

 気が付いた時、彼は横になっていて、上の方に地上楽園で彼が最初に出会った貴婦人の顔が見えた。彼女は「私につかまりなさい。私につかまりなさい。」(464ページ)という。ダンテは貴婦人によって彼と彼女の間を流れていた小川(レーテ川)の水中に運ばれていた。
彼女は私を喉まで水に浸していたのだった。
そして私を後ろに引きずりながら
軽々とまるで平底船のように水の面を滑っていた。
(464-465ページ) 

 そしてダンテが、小川の対岸に近づくと、「私を清めてください」という旧約聖書・詩篇の言葉が聞こえてくる。
美しい貴婦人は腕を広げた。
私の頭を抱いて私を沈め、
そのために私は水を飲むことになった。
(465ページ) 第28歌で説明されていたように、レーテ川とエウノエ川という地上楽園を流れる2つの川の水には、「人の罪の記憶を奪う力」(422ページ)があるのである。

それから私を引き上げると、濡れた私を
4人の美しい貴婦人が舞う中に置いた。
すると皆それぞれが腕をかざして私を隠した。
(466ページ) 4人の貴婦人は29歌で説明されたように人間の倫理に対応する4つの枢要徳:賢明、剛毅、中庸、正義を表している。4人がそれぞれ腕をかざしたのは、おそらく十字を作ったのであろうと翻訳者である原さんは注記している。こうして罪を払われたダンテは、レーテ川の対岸であるベアトリーチェ=神の恵みのいるほうへと渡った。(ただし、まだエウノエ川の水を飲んでいないので、彼の悔悛は完了していないのである。また、あと3人の対神徳を表す貴婦人がその役割を演じていないことも気を持たせるところである。)

 こうしてダンテは、ベアトリーチェの厳しい叱責の言葉を浴びながらも、天国を訪問するのにふさわしく、自分を作り直していくのである。ダンテが、ここで神の世界から目を離して地上世界に魂を奪われた自分を叱責していることは、きわめて中世的な価値観の反映といえるが、『地獄篇』、『煉獄篇』を通じて、彼が現実の世界を観察し、再現しようとするリアリズムの手法をもって、キリスト教の抽象的な理念を、具体的に描き出していることは、近代性の萌芽と考えるべきではないかと思うのである。

なぜ英語を勉強するのか?

7月9日(土)雨、夕方には降りやむ。

 なぜ、英語を勉強するのか? 世界には5,000とも7,000ともいわれる言語がある。その中でなぜ、英語を選んで、小学校から、場合によっては保育園から勉強するようになっているのか? それは英語がどのような言語であるのかと関係してくる。

 英語は、いくつかの主要国と、かなり重要な国で(大部分の人々に)話されている言語である。英語は英国(イングランド、ウェールズ、スコットランド)とアメリカ合衆国、カナダ、オーストラリア、ニュージーランド、南アフリカ、それにアイルランドで使われている。英国のウェールズではケルト系のキムリア(ウェールズ)語との二言語併用政策がとられており(駅の表示など二言語で書かれている)、スコットランドでも同じくスコットランド・ゲール語の復興運動が展開されている(エディンバラでTVを見ていたら、スコットランド・ゲール語の番組が放送されて、まったくわからなくなってびっくりしたことがある)。カナダのケベック州はフランス語が優勢であり、カナダ全体として英仏二言語が公用語となっている。ニュージーランドもマオリ語との二言語併用政策がとられているらしい。南アフリカについてはよく知らないが、アイルランドでもアイルランド・ゲール語との二言語併用政策がとられている(駅や道路の表示は英語とアイルランド語の両方を使用している)。だから、英語使用国といっても、それぞれに複雑な事情を抱えているのだが、その一方で、非英語国の人々を対象とする英語教育がこれらの国々にとって重要な「産業」になっていることも否定できない。
 これらの国々の社会や文化に興味がある人、興味はなくても用事がある人は英語ができないと困るだろう。

 もう一つ、英語は国際会議や、国際機関で最も多く使われる言語である。また、商取引や個人レベルの国際交流、海外旅行の際にも役に立つことが多い。私がまだ、大学院にいたころ、韓国の梨花女子大学校の学生がやってきて、向こうは日本語ができず、こちらは韓国語ができず、英語で話をしたのだが、実にもどかしい気持になったのを思い出す。このように、お互いに、お互いの言語を理解してない場合にも、英語を使うことが多い(水村美苗さんの本にも出てくるが、ロシア語を使うことも意外に多い)。

 とはいえ、国家社会の見地から見た英語学習の意義は必ずしも、教育を受ける各個人に内在化はされないのである。うーん、どれをとっても関係がないなぁという人も少なくないのではないか。そのことをもう少し考える必要はないのだろうか。

 1974年に午夢館という書店から発行され、1978年に補筆修正を加えて文春文庫に収められた中津燎子『なんで英語やるの?』の最後の方にこんなことが書かれている。「日本人全部が通訳になる必要もない。一億、英語を総ペラペラという図は考えてもゾッとする。だが、現在の英語読みの英語知らずは、その昔の、論語読みの論語知らずとどこか共通していておかしいのではないか。/将来、島国日本は、世界の中でたしかに孤立しない方がいい。〔孤立しない方が確かにいい――の方が分かりやすいだろう。〕 それには、子供たちも孤立的な傾向に育てるべきではない。せっかく学校で英語をやっているのだから、それを最大限に利用して、最も重要な時期の子供たちに、国際社会で、生き延びていける知恵と、国際社会で、生き延びていける知恵と、技術と、心構えと、人間性を養う教育を与えるべきではないだろうか。受験英語教育と言うせまさの中で、殺されそうになっている中学、高校の英語の時間は、国際社会科としての勉強に切り替えてもいいのではないか」(362-363ページ)。「国際社会科」というのは1つの考え方である。他の考えもある。

 同じ年に平泉渉が提案した「外国語教育の現状と改革の方向」という提案を行う:。平泉は「従来の外国語(事実上、英語)教育が「ほとんど読めず、書けず、わからない」」という非常に遺憾な結果しか招かなったととらえ、受験英語を英語学習を歪める悪者とみている。そして、根本的な改革として、
1 世界の言語と文化についての常識を教える科目を中学課程に設ける。
2 すべての生徒に、英語についての常識を中学1年修了まで教える。
3 高校では英語は選択制とする。希望者のみを対象として、学習時間を増大し、毎年少なくとも1か月の完全集中訓練をも行う。
4 大学入試から英語を外す。
の書店を挙げているという。この提案に対して、英語学者の渡部昇一氏が反論を行い、論争が展開された。平泉渉・渡部昇一『英語教育大論争』を参照・引用すべきだが、書店で見つからなかったので、行方昭夫『英会話不要論』(文春新書)からの引用で済ませたため、平泉の真意を十分に理解できていないのだが、少なくとも2つのことがいえると思う。

 1つは、平泉の提案はほとんど実現されていないということである。大学入試から英語を外すどころか、英語の入試の改善の努力が続けられているというのが実情である。この提案を含めて、奇抜に思われる点もないではないが、それなりにやってみる価値のあるものではないかということである。どういう実施上の問題が予測されるかは、また機会を改めて述べてみたい。
 もう1つは、はじめに述べたことと関連して、受験英語否定、文法・訳読を重視せず、実際的なコミュニケーションを重視すべきであるという議論、そして1990年代以降のコミュニケーションを重視するという日本の英語教育の大勢は必ずしも、平泉提案によってではなく、ある種の「空気」として形成されてきたのではないかということである。日本の将来にかかわる重大な議論が、「空気」として形成されるというのは困ったことなのだが、それは今に始まったことではない。そういう政策形成を食い止めるための努力をすることこそが、歴史の教訓として実践されるべきことではないかと思うのである。

『太平記』(112)

7月8日(金)晴れたり曇ったり、暑し

 元弘4年(1334年)7月に、年号が建武と改められる。昔の中国で後漢の光武帝が漢王朝による政治を回復した例に倣ったものである。世の中はまだ戦乱の余燼がくすぶり、落ち着いた状態ではなかったが、紙銭を発行してまで内裏の造営が急がれ、その一方で倒幕にかかわる恩賞が不公平で不満を抱くものも少なくなかった。8月に、隠岐広有に命じて内裏に飛来する怪鳥を射させることがあり、また天下の妖気を消すべく、弘法大師ゆかりの神泉苑が再興された。建武2年3月に足利高氏と対立していた護良親王が、高氏の讒言により逮捕・拘禁され、5月に鎌倉の足利直義のもとに送られて禁獄された。
 その頃、出雲の塩冶髙貞のもとから龍馬が献上された。これは吉例であると喜ぶ後醍醐天皇に対し、万里小路藤房は建武政権の失政を説いて諫めた。「龍顔(りょうがん)少し逆鱗の御気あつて、大臣皆色を変じければ、置酒高会も興なくして、その日の御遊は闇にけり」(第2分冊、298ページ、天皇のお顔に少し怒りの色があって、大臣以下皆恐れをなして青くなったので、盛大な酒宴を開くつもりだったのが興ざめしてしまい、その日の御遊は中断してしまった。)

 これから後も藤房卿は、立て続けに諫言を奉ったけれども、天皇がお聞き入れにならず、内裏造営を続行され、贅をつくした詩歌管弦の遊びをなおもしきりに開かれたので、藤房は、これを諫めかねて、「臣下のものとしてなすべきことはすべて行った。こうなっては隠遁するほかあるまい」と決心されたのである。

 建武2年3月11日に、天皇は石清水八幡宮に行幸され、諸卿が皆参拝の道中の装いを凝らされた。藤房も当時検非違使別当を務めていたので、これが最後の御奉公だと思ったので、引率する配下の者たちにことごとく目を驚かすほどに目覚ましい服装をさせた。天皇の側近として世俗での繁栄を願ってきた身ではあるが、明日からは仏の道を歩もうと、参拝しながらも感慨にふけるのであった。行幸が終わって、藤房は辞表を出すために天皇のおそばに伺候し、中国の昔の諫臣たちの事績を申し上げて、明け方に退出した。藤房の目には涙が浮かび、内裏に浮かぶ月が滲んで見えたことであった。

 陣頭と呼ばれる内裏警固の武士たちの詰め所で、車を宿所へと返し、侍1人だけを連れて、北山の岩蔵(現在の京都市左京区岩倉)に向かい、そこで不二坊という僧侶に戒師(出家の際の儀式を執り行う僧)をお願いして、ついに文官として仕えた冠を脱ぎ、十種の戒を持する僧体になった。貧乏な暮らしを送り年を取った人物でも、夫婦・親子の御愛の情を棄てることができないのがふつうである。まして、身分も高く、まだ年齢も40歳に達していない人が、妻子に離れ、父母を棄てて、山川行脚の身となったのは、あまり前例のない発心であった。

 このことが天皇のお耳に入ると、大変に驚かれて、その在所を急ぎ探し出して、再び政道を助ける臣下とすべしと、藤房卿の父親である宣房卿に仰せられたので、宣房卿は泣く泣く車を飛ばして、岩蔵へと息子を訪ねていかれた。中納言入道(藤房卿)はその日の朝まで岩蔵の坊においでだったのが、ここもまだ都が近いので、浮世の人が訪問してくることもあろうかと、疎ましく思われて、どこともなく、足の向くままに旅立ってしまわれた。

 宣房卿が岩蔵の坊にたどり着かれて、このような人がいないかと尋ねられると、主の僧はその人は、今朝までここにいらっしゃいましたが、行脚の志があるとおっしゃられて、どこへともなく、旅立たれてしまいましたと答えた。宣房卿が涙を抑えて、藤房卿がこれまで住んでいた庵室の中をのぞいてみると、破れた障子の上に一首の歌が書き残されていた。
 住み捨つる山を憂き世の人問はば嵐や庭の松に答へむ
(第2分冊、302ページ、私が捨てたこの山を俗人が訪ねても、庭の松風のみが応じるだろう。)
 さらに出家のかたい決意を記した文言が連ねられていたので、宣房卿も、もはやこの世で息子と再会することはできないだろうと、涙にくれながらむなしく帰られたのであった。

 『太平記』の作者は、藤房の出家がおそらくは親の意に反するものであったにもかかわらず、彼の先祖にとって功徳を施すものであったと評価している。「百年の栄耀は風前の塵、一念の発心は命後の燈なり」(第2分冊、304ページ、百年続く世俗の栄華は風前の塵のようにはかないが、発心・出家は死後の長い闇路を照らす燈となる)という。

 しかし、より大局的に事態を眺めると、もう少し別の見方ができることも『太平記』の作者は承知していたようである。そのことについては次回に明らかにするが、万里小路藤房という硬骨漢を失ったことが、建武政権にとってどれほどの痛手であったかを、これからの物語は嫌というほど語ることになる。

 京都で過ごした学生時代、岩倉というのは大学からは少し遠かったが、通えない距離ではないし、多分、家賃が安かったこともあって、下宿している友人・知人が少なくなかった。京都の川が北から南に流れていることで分かるように、北の方が高く、また寒い。北の方では雪でも、少し下ってくると霙ということもあったのを思い出す。昔、京都に住んでいた人々が隠棲するということになると、盆地を囲むどこかの山の麓や中腹に居を構えた。慶滋保胤、鴨長明、兼好など皆しかり。私がもし京都の近くに隠棲するということになれば、宇治がいいね。寒いのは嫌だ。
 

日記抄(7月1日~7日)

7月7日(木)晴れ

 7月1日から本日までの間に経験したこと、考えたことなど:
7月1日
 朝日新聞の朝刊に、生活協同組合運動の父として賀川豊彦(1888-1970)の事業を顕彰する「賀川豊彦賞」を設けるという話題が取り上げられていた。牧師であり、社会事業家としての彼の事業は国際的にも知られ、ノーベル平和賞の候補者にも挙げられたという。徳島県鳴門市に彼の記念館があり、徳島に出かけた折に、私の伯母が若いころに賀川豊彦の弟子だったという記憶があって、訪問したことがある。後で分かったことであるが、伯母が通っていたのは赤坂の霊南坂教会で、師事したのは小崎弘道であった。霊南坂教会の関係者の中にはキリスト教社会事業家である留岡幸助がいるから、まったくの見当外れというわけでもないのである。賀川についてはとやかく言う人もいるが、一時期彼のもとで働いていた(後にマルクス主義に傾斜して離れていった)大宅壮一が終生、賀川への尊敬の念を変えなかったという一事を取ってみても、彼が偉大な人物であったことが分かる――と、私は思っている。

7月2日
 NHKラジオ「攻略!英語リスニング」は”Why Is Water a Liquid?" (水はなぜ液体なのか?)という話題を取り上げた。考えてみると、自然界に液体の状態で存在する物質は少ないのである。
The reason it is a liquid is because of some special aspects about how the atoms in water stick to each other. (液体である理由は、水において、原子同士が特殊なくっつき方をしているからである。)
 以下、日本語で説明されても、なかなかわからないようなことが英語で説明された。小学校4年の時以来、60年以上、英語と付き合っているのだが、やっぱりわからないことはわからないね。

7月3日
 Eテレ「日本の話芸」で柳家小満ん師匠の「鉄拐」を聞く。この噺は私が子どものころは時々聞いた記憶があるが、その後長く演者が途絶えていて、また復活してきたものである。中国の八仙に数えられる李鉄拐と張果老が登場する、かなり荒唐無稽な噺である。鉄拐は口からもう1人の自分を吹き出し、張果老は持っているひょうたんから馬を出すことができる。鉄拐が都に出かけ、寄席の人気芸人になって威張っているのを不満に思う人たちが、仙境から張果老を連れてくる。枕のところで、中国の有名な酒飲みというと李白と陶淵明があげられるという話題を取り上げているのが、最後になって意味を持つ。しかし、李白と陶淵明は時代が違うし、酒の飲み方も違うというところで違和感がある。この辺をどのように説明して、整理するかは演者の工夫次第ということになるが、その点でやや不満が残る。(蝶花楼馬楽という落語家の名跡は張果老仙人に由来するというから、中国の仙人の話は、日本の落語家にとってなじみの薄いものではなかったようである。)

7月4日
 NHK「ラジオ英会話」では”Liv's Trip to San Francisco" (リヴのサンフランシスコ旅行)というテーマでダイアログを学ぶことになった。リヴというのはOliviaの愛称だそうである。アメリカ中西部の小都市に住む18歳のリヴがサンフランシスコに住む兄を訪ねてやってきて、市内のあちこちを探訪するという物語が展開する。7月号テキストのはじめの”Notes from Ken"によると、講師の遠山顕さんが最初に訪問した海外の都市がサンフランシスコだったというから、気を付けて聞いていると何か面白いこぼれ話に出会うかもしれない。入国審査の際に係員が”You are Leo, huh?"(あれ、君は獅子座かい?)ときいてきた(自分もそうなんだといって、通してくれた)という話だが、そういう係員に出会ったことはないねえ。

7月5日
 昨日の続き。遠山さんの巻頭のメモにも出てくるが、サンフランシスコは、ロサンジェルスと違って、8月でも寒い。マーク・トウェーンが
 The coldest winter I ever spent was a summer in San Francisco. (私がこれまで過ごした中で一番寒い冬はサンフランシスコの夏であった。)
という言葉を残しているくらいである。本日のダイアログでも、
Here in the Outer Sunset District, it's chilly and foggy.(ここアウターサンセット地区は肌寒いし霧が多いんだ。)とか
The average temperature in July is 57 degrees. (7月の平均気温は57度だよ。)とかいうセリフが出てくる。なお57度というのは、華氏57度ということで、摂氏だと約14度ということのようである。)

7月6日
 イランの映画監督であるアッバス・キアロスタミさんが亡くなられた。76歳。日本で製作した『ライク・サムワン・イン・ラブ』くらいしかその作品を見ていないのだが、これから、少しずつでも見ていこうと思う。

 NHKラジオ「エンジョイ・シンプル・イングリッシュ」では落語をもとにした「権兵衛狸」を放送した。民話風ののんびりした話で、わりに好きである。(というか、落語には民話に由来するものが少なからず存在することを忘れてはならない。)

7月7日
 NHKラジオ「まいにちイタリア語」応用編は2014年の7月~9月に放送された「キモチで再発見! イタリア語文法」の再放送が始まった。パートナーのマッテオ・インゼオさんと、エヴァ・カンベッダさんはともに、イタリアで日本語を勉強した経歴の持ち主であるが、漢字を検索するのに、部首が分からず苦労したという体験を語っていた。日本人でもわからずに苦労することがあるよ。

倉本一宏『藤原道長「御堂関白記」を読む』(3)

7月6日(水)曇り後晴れ

 今回は第2章「栄華の初花」の初めの方の部分を取り上げる。第1章「権力への道」では、長徳元年(995)に疫病の流行で兄たちが薨去したことにより、道長が太政官の首班にのし上がったこと、その権力を固めるために長保元年(999)に娘の彰子を一条天皇のもとに入内させたこと、ところがなんという偶然であろうか、天皇の中宮である定子が同じ日に天皇の第一皇子である敦康親王を出産された。このため、道長は彰子を中宮に格上げしようとする。長保2年のことである。ところがこの年の12月に定子が崩御されてしまう。道長は万一の場合に備えて、敦康親王を彰子のもとに引き取らせ、その後見を続けた。道長の長男である頼通は長保5年に元服、寛弘元年(1004)に昇殿を許されて、後継者としての道を歩み始めていた。寛弘3年ごろになると、一条天皇と成長を遂げた彰子との間に応じ誕生の可能性が高まる。紫式部が彰子のもとに出仕したのは寛弘2年の末か3年のことと考えられる。

 道長と、兄道隆の遺子で中宮定子の兄弟である伊周・隆家との政権をめぐる争いについては、ほかの書物で多くのことが記されているので、この書物では道長の日記に即して最低限のことしか記されていない。通説に依れば、紫式部がその日記で清少納言のことを悪く論評しているのに、清少納言の『枕草子』には紫式部のことが出てこないのは、両者が宮廷生活を送った時期の違い(清少納言が定子に仕えていた時代の方が早い)によるものだというが、この書物はその見解を裏付ける内容になっている。

 寛弘4年(1007)に道長は金峯山に詣でているが、その隠された趣旨は彰子の懐妊を祈るものであったと思われる。その年のうちに彰子は懐妊する。翌年「「御懐妊五箇月」となった彰子は、多くの公卿を従え、4月13日に道長の土御門邸に退出した。いよいよ『紫式部日記』の世界が始まったのである。」(93ページ) 
 「なお、彰子のお産が近づくにつれて、『御堂関白記』の記事はめだって少なくなってきている。御産の準備に忙しすぎて、日記を記す暇もなかったのであろうか。それは紫式部によって仮名で記録された御産記である『紫式部日記』が『紫式部日記』がこの年の7月からはじまっていることと、見事に波長を合わせたかのようである。彰子の御産の記事では『御堂関白記』と『紫式部日記』で同じ表現をしている箇所も存在する。これはどういった事情によるものであろうかと、いつもあれこれ想像してしまう。」(96ページ)

 ご出産は物怪が出現する(と当時の人々が感じていた)中で行われたが、9月11日、彰子は皇子を無事に出産された(敦成親王、のちの後一条天皇である)。「栄華の初花」である。道長の周辺は喜びに包まれた。実資の『小右記』はこの時の道長の喜びの言葉を伝え、行成の『権記』はご誕生を「仏法の霊験」(102ページ)と記しながらも、敦康親王誕生の際には記した一条天皇の喜びの言葉を書き記してはいない。
 「ともあれ、これで敦康は、道長にとって全く無用の存在、むしろ邪魔な存在となったのである。同様、伊周をはじめとする中関白家の没落も決定的となった。そればかりか、外孫を早く立太子させたいという道長の願望によって、やがて一条との関係も微妙なものとなる。」(同上) それでもまだ敦康親王の即位の可能性をあきらめていない伊周との小競り合いはあったが、寛弘6年に起きた呪詛事件により、伊周の政治生命は全く絶たれてしまう。

 この年、一条天皇と彰子の間に、敦良親王が生まれる(後の御朱雀天皇)。『御堂関白記』、『紫式部日記』その他の当時の貴族の日記をみたところでは、前年の敦成親王の誕生の際に比べると熱気にかける出来事なのだが、「結局はこの皇子が後世まで皇統を伝えていくことにあるとは、この時点ではだれも予想できなかったであろう」113ページ)と著者は歴史の皮肉な側面を指摘している。

 こうして、道長は未来の天皇の祖父となる可能性を大きく膨らませていく(一条天皇、東宮である居貞親王⇒三条天皇には、道長の外孫以外の皇子がいたから、絶対に確実とは言えないのである)。伊周が失脚した後、道長にとって代わろうとする者も現れず、彼は順調にその権力基盤を固めているように思われる。

京都大学の歌

7月5日(火)曇り、一時雨

 京都大学には「九重に 花ぞ匀える」で始まる学歌(=校歌)がある。大学のホームページを見たら、入学式と卒業式にはこの歌を歌おうというようなことが書かれていた。そんなことを言われても、入学式の時にいきなり校歌が歌えるものではない(いきなりやっても大丈夫な大学は、早稲田大学だけであろう)。多分、今でも同じことをやっていると思うが、私が50年以上前に京大に入学したときは、入学式の前にガイダンスがあって、そこで合唱団による歌唱指導が行われた。その前に、女性の団員が1人前に出て、新入生に対する入部の勧誘をしたのだが、気の毒なほどにあがってしまって、何を言っているのかわからない状態であったことを思い出す。

 京都大学に関連する歌というと、一般になじみのあるのは「逍遥の歌(紅萌ゆる)」とか、「琵琶湖周航の歌(われは湖の子)」とか、「行春哀歌(静かに来たれ懐かしき)」あたりであるが、これらはすべて旧制第三高等学校の歌である。「琵琶湖周航の歌」は三高のボート部の歌であるが、山岳部の歌であった「雪山賛歌」もかなり広く知られている(ただし、歌詞が変わっている)。「逍遥の歌」の歌詞を順々に追っていくと、時々、輝くような詩句に出会うことがある。その輝きが好きである。昔、NHKラジオ第一放送で放送されていた「にっぽんのメロディー」で、「逍遥の歌」が流れた時、中西龍アナウンサーが昔の学生さん(厳密にいえば生徒なのだが)は難しい言葉をよく知っていたものですねえという感慨を漏らしていたのを思い出す。旧制高校に在学している十代の終わりごろというのは、難しい言葉を使いたがる年ごろであったということも影響しているようである。

 ところが「九重に」は旧制京都帝国大学の学歌として、昭和15(1940)年に制定されたものである。大学のホームページによると、その前年昭和天皇が下された「青少年学徒ニ給ハリタル勅語」にこたえる形で、水梨彌久という人が作詞し、下総皖一が作曲した。水梨がどういう人かは知らないが、下総(1898-1962)は東京音楽学校⇒東京芸大の先生で、童謡や全国のいろいろな学校の校歌を作曲した人として知られる。三高の生徒たちが作った歌に比べると、さすがに専門家だけのことがある重厚な歌曲である。(どうせなら、下総の先生であった信時潔に作曲してほしかったと、思っている…)

 戦後、新制京都大学が発足した後に、「光溢るる蒼空に」という「学生歌」が作られたそうだが、歌ったことはもちろん、聞いたこともない。それに比べると「新生の息吹に満ちて」という応援歌の方は、自分でも歌ったし、卒業後何度も聞くことになった。アメリカン・フットボールの試合でタッチダウンを取ったときに歌う歌になったからである。国立競技場にライス・ボウルを見に行ったのはもう30年ほど昔の話である。あのころに比べると、京都大学のアメ=フトは弱くなったものである。大学のホームページには出ていないが、学生運動の中で歌われた「京大反戦自由の歌」というのがあって、私の先輩の世代の方々、映画監督の森崎東さんなどは好んで歌われるようだし、鉄道ライターの種村直樹さんも著書の中でこの歌に触れられているが、私の世代以後になると、やや評価が変わってきているように思う。

 学生のころ、研究室のコンパもいよいよ終わろうかという頃になると、都合のいいことに、メンバーの中に応援団の団員がいて、彼が音頭を取り、教授、助教授、助手、院生、学生の別なく肩を組んで「琵琶湖周航の歌」、「逍遥の歌」そして学歌を歌う。音頭を取っていた男は、その後、猛勉強して公務員試験に合格し、ある官庁の幹部職員となった。一緒に肩を組んで歌ったあの男は、あの男は…と思いは尽きない(女子学生は少なかったのである)。

 学歌はさておいて、やはり京都大学の歌というと、「逍遥の歌」であろう。佐藤愛子さんのエッセーを読むと、気分を晴らすために「都の西北」をうたうという話が出てきて、その父親である佐藤紅緑の代表作『ああ玉杯に花受けて』の主人公は、一高寮歌『ああ玉杯に花受けて』をうたって自分を励ますのだが、そういう場合に、私ならば歌うのは「逍遥の歌」である。当り前じゃないか。

第二外国語

7月4日(月)晴れ、暑し

 20年以上昔、大学に勤めていたころに書いたメモが出てきた:
 ○月○日の教授会で、今年度△学部に入学した学生の英語以外の外国語科目の履修の割り振りが発表された。〔それまではこういう情報は伝わってこなかったので、教養部廃止を視野に入れてのことであったと推測される。〕 入学決定者に対して行った履修希望の調査に基づいて、割り振り定員との兼ね合いで調整した結果である。
 それによると、全体としての希望者数は、ドイツ語255人、フランス語108人、中国語95人、ロシア語39人、朝鮮語5人の順であったが、割り振り定員はというと、ドイツ語330人、フランス語40人、中国語80人、ロシア語80人、朝鮮語40人で、ドイツ語、ロシア語、朝鮮語の希望者が割り振りを下回り、フランス語と中国語が上回っている。結局、第2志望までの枠内で調整をして、ドイツ語313人、中国語80人、ロシア語60人、フランス語40人、朝鮮語9人という割り振りに落ち着いた学部の新入生数は502人)。

 その当時と現在とではかなり履修状況は変化していると思うし、していないと困るのだが、ここで重要なのは、学生の希望よりも、教師側の都合によって第2外国語の履修が決められていることである。私が大学に入学したのは、それよりさらに30年近く前のことであったし、大学も違うから単純に比較はできないが、第2外国語をドイツ語にするものが7割ほど、フランス語にするものが3割ほどで、それ以外の言語を履修しても、進級に必要な単位とは認められなかったし、大学院の入試科目も(英語以外は)この2つだけであった。だから大学の第2外国語というのはドイツ語というのが大勢である状態が戦後50年ほどは続いたことになる(戦前もそうだったから、もっと長くなる)。さらに言えば、地方の短大や高専では第2外国語としてドイツ語しか提供されていないというところも少なくなかったようである。

 いくつか問題があって、まず、何のために第二外国語を学ぶのか、またなぜその第二外国語としてドイツ語を選ぶのかということである。日本が近代化を遂げる中で、ヨーロッパで急速な近代化に成功したドイツの経験を学んだことが大きな役割を果たしたという過去の経緯はあるが、それはあくまで過去の話である。現在のドイツは世界有数の経済力を持ち、また国際社会における発言力も強い国であるが、ドイツ人は英語が達者な人が多いので、ドイツの文化や社会、あるいはその伝統に特別な興味があるという人を除いては、ドイツ語を勉強する必要はない。1969年に出た種田輝豊『20か国語ペラペラ』の中に「現在の仕事では、翻訳以外、話すドイツ語はほとんど活用できない。国際会議では、ドイツ語の影はうすれている」(131ページ)と書かれている。この傾向はさらに進み、今では、学校外で人を集めてドイツ語を教えている人というのは、フランス語、スペイン語、あるいはイタリア語に比べてもかなり少ないように思われる。ドイツ語学習の需要は大きく減少してきたというのが事実であろう。

 さらに教えるほうにも問題があって、大学で同僚だったドイツ人の教師は、「日本ではドイツ語を、ヨーロッパの大学におけるラテン語のようなやり方で教えている」つまり「死語として教えている」と酷評していた。森鴎外は「二人の友」という文章の中で<二人の友>の1人=(熱心なドイツ語学習者である)福間博(後に旧制第一高等学校のドイツ語教師)のドイツ語には「漢学者の謂ふ和習」があると指摘したが、ドイツとの頻繁な交流もない中で、日本の国内で勝手にドイツ語の教授=学習を積み重ねた結果が「死語として教えている」ことである。

 成毛眞さんによると『日本人の9割に英語はいらない』そうである。だとすると、大学進学率を50%とみて、大学生の2割くらいしか、英語を勉強する必要はない(その代わり、満足な程度まで上達する必要がある)という計算になる(もっとも6月24日付の『朝日新聞』によると、日本の大学をはじめから信頼せずに、海外の大学を目指す若者が増えているというから、将来的には2割を割り込んでいくことは十分に予想できる)。とすると、第2外国語を学習するものはさらに少なく絞られることになる。あるいは<習得する>ことははじめから目的とせずに、ただ大学に進んだという形式を整えるために、英語なり、第2外国語なりを勉強するということであれば、それはそれで筋は通る。

 ある言語を<学習する>ことと<習得する>ことは別である。私はなぜか、マーク・トウェーンの禁煙することは簡単だという言明を思い出す。母語以外の言語を<学習する>ことは条件さえそろっていれば、それほど難しいことではない。<習得する>ことが難しいだけである。だから大学は<学習する>機会だけ提供すればいいので、<習得する>ことは学生の自己責任で行ってほしいと居直るのが賢明な態度であるのかもしれない。その場合、世界にはどのような言語があるのかについて学習者に知悉させることと、希望に応じた学習の機会を提供する親切さが必要であろう。

ダンテ・アリギエリ『神曲 煉獄篇』(31-1)

7月3日(日)晴れ、暑し

 第30歌で、ダンテをこの叙事詩の第1歌から導いてきたウェルギリウスが去り、彼にとって父のような存在であったウェルギリウスに代わって、厳しい母のようなベアトリーチェが現れ、ダンテが罪の悔悛を果たしていないことを責める。彼が信仰に立ち返ったことを述べて、とりなそうとする天使たちに、彼自分の生まれつきの才能にもかかわらず、神の知恵から離れて地上の事物、地上での出来事に己の全存在をかけてしまったという罪を説明する。そして今度は、彼に向かって直接的にダンテが自らの罪を認めて、自分の罪を告白するように促す。

「さあ、聖なる川の向こう岸にいるお前、
――切りつけられるだけでも私には苦しかったはずなのに、
あの方は言葉の切っ先で私を突き刺しながら、

そのまま躊躇することなく、再び話しはじめた――
言え、言うがよい、これはまことか。これほど重大なる告発には、
おまえ自身の告白が添えられる必要がある。」
(456ページ) ダンテは、しかし、恐怖のためにこたえることができない。ようやく

困惑と恐れとが混ざっていっしょになり
私の口から「はい」という一語を出させたが、
目で見なければ分からぬほどかすれていた。

さながら弦と弓を強く引きすぎて
矢を放つために、弩(いしゆみ)が壊れてしまい、
屋が的に弱々しく当たるように、

この重い荷の下で私は押し潰され、
むせびながら涙をあふれさせたが、
声は喉でつまって小さくなった。
(457-458ページ) 

 ベアトリーチェはさらに、ダンテの神を思う気持ちが揺らいでしまった時のことを話すように告げ、厳しく非難しながらも助け船を出して、どのような誘惑に彼がとらわれていたのかを告解するように促す。
私は深く苦いため息を一つついた後で、
答えようとしてかろうじて声を出し、
唇はやっとのことで音を作れた。

泣きながら私は言った。「目の前にあった現世の事物が
偽りの美で私の歩みを変えたのです。
あなたのお顔が隠れてすぐのことでした。」
(458-459ページ) ダンテは地上の美の偽りの美しさに惑わされたと答えた。(地上の美をキリスト教的な価値に勝るものと考えることがルネサンスの思考の特徴の1つである。ここでダンテはルネサンス的な価値観に出会ったことを、キリスト教の立場から否定しようとしている。)

 ベアトリーチェはダンテが何を言おうと、神はご存知であるといいながら、
だが、自身の口から自己の罪への呵責が
素直にあふれ出るときには、われらの法廷では
砥石車が逆さに回って刃を鈍くする。
(460ページ)と、彼が自分の罪を告白したことについて、一応の評価をする。しかし、神の道を逸脱した罪はより詳細に語られる必要がある。

 異界への旅の約10年ほど前にダンテが『新生』で歌い上げたベアトリーチェへの愛と、彼女の詩は、彼を神の道に近づけるものであったはずである。しかし、その後、彼は神の道から外れてしまい、そのことを、天国の住人となった彼女から厳しく糾弾されている。これをダンテの中の世俗的、近代的なものと、来世的、中世的なものとの相克と考えることも可能であろう。そのことは、ベアトリーチェの相貌をどのような美しさを持つものとして描くかとかかわってくる。彼が異界にあるにもかかわらず、時間の支配を受けていることもいろいろなことを考えさせる。

水村美苗『増補 日本語が亡びるとき――英語の世紀の中で』

7月2日(土)晴れ、暑し

 6月28日、水村美苗『増補 日本語が亡びるとき――英語の世紀の中で』(ちくま文庫)を読み終える。読み終えたことをノートに記入しようとしたときに気付いたのだが、この本を読み終えるのに1年以上かかったらしい。それも、ゆっくりゆっくり読んだというのではなくて、途中で重苦しい気分になって投げ出してしまい、かなり長い間そのままにしていた。ところが最近、英国がEUを離脱することを国民投票で決定したことがきっかけとなって、国際社会における英語の地位とか、英語教育の目的とかいうことについて改めて考え始め、日本がどのようにグローバル社会で生き延びようとするのか、そのことと英語教育(だけでなく、国語教育を含めた言語教育)はどのようにかかわるべきなのかが気になりだした。その結果、この書物のことを思い出したというのが真相である。だから、私の関心は語学の対象としての英語にあるのだが、著者は文学者であり、文学の側から英語と日本語の関係について論じている。夏目漱石の未完の小説『明暗』の続編を書いたことで知られる著者の文学、特に近代文学、その中でも日本の近代文学への愛着が強く感じられる書物である。

 1章「アイオワの青い空の下で <自分たちの言葉>で書く人々」は、水村さんがアメリカ中西部にあるアイオワ大学で開かれたIWP (= International Writing Program)に参加した際に、世界の様々な国からやってきた「二十数名」の文筆家たちと交流した経験と、それをきっかけとする思索が記されている。「全米で初めて創立されたというアイオワ大学の創作学科は、今、全米で一番すぐれた創作学科だということにもなっている。そこで教えるのが作家として名誉なのはもちろん、そもそもそこで学ぶのが学生として名誉であるらしい」(28ページ。調べてみたところ、フィリップ・ロスやカート・ヴォネガットJrがここで教えていた。2人とも、その後もっといい大学に転じているのっではあるが…)。「文化事業でさえ徹底的に成果主義のアメリカではIWPの運営資金として、国務省に援助金を申し込むにも、地元の企業から寄付をつのるにも、IWPがいかに文化に貢献しているかが宣伝されねばならなかったのである」(32ページ)ということで、参加した作家たちは、様々な場所で、自分の作品や、自国の文学、自国の言葉について語ることを求められた。

 「わたしは、日本語など見たことも聞いたこともない人たちを前に、日本語は中国語とは全く違った系統の言葉であること、「漢字」と「カタカナ」と「ひらがな」という3種類の文字を使って書くこと、また、西洋語を使う人間には信じがたいだろうが、主語を必要としないことなどを説明した。」33ページ) 
 この個所で、水村さんの言語についての意識がかなり高いことが分かる。専門的な国語学の素養はないが、自分の頭で日本語については様々に考えてきたことが推測できる。日本語と中国語が全く違った系統の言葉であるというのは、その通りだが、共通語彙が多く、近世以前はもっぱら中国語が日本語に影響を及ぼしていたのが、近代に入ってからは日本語から中国語に入った語彙が増えているということを忘れてはならない。
 もうひとつ、「主語を必要としない」というところが問題で、学者によって説が分かれる。ラテン語では、例えば、デカルトの有名なCogito ergo sum. をフランス語のJe pense, donc je suis.と比べてみればわかるように、動詞の変化で主語が分かるような場合は、主語は省略される。イタリア語も同様である。このように、主語が省略されることがあるというのではなくて、文部省文法では文には主語があるとしているが、三上章をはじめとして、日本語には主語というものはないと主張する学者も少なくない。

 あちこちからやってきている人々と顔を突き合わせているうちに、水村さんはある感慨を抱くようになる:
 「人はなんといろんなところで書いているのだろう…。
 地球のありとあらゆるところで人が書いている。
 地球のありとあらゆるところで、さまざまな作家が、さまざまな条件の下で、それぞれの人生を生きながら、熱心に、小説や詩を書いている。もちろん、65億の人類の9割9分9厘は、そんな作家が存在したことも、そんな小説や詩が書かれたことも知らずに死んでいく。それでも作家たちは、地球のありとあらゆるところで、働いたり、子どもを育てたり、親の面倒を見たりしながら、時間を見つけては背を丸めてコンピューターに向かい、何やら懸命に書いているのである。与えられた寿命を多分少しばかり縮めながら、何やら懸命に書いているのである。
 私は本屋で買ってきた世界地図をよく机の上に広げるようになった。」(36ページ)

 「書いている」だけでなく、どのような言葉で書いているかが問題である。それが次に述べられることになる。(続く)
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