2016年の2016を目指して(6)

6月30日(木)曇り

 6月に新たに出かけたところはなく、これまでのところ足跡を記したのは1都2県、2市4特別区のままである。また新たに利用した鉄道もなく、7社10路線15駅という数字も変わらない。新たに、神奈川中央交通の横44と、相鉄の浜13に乗り、停留所では小金町を利用したので、バスは3社18路線14停留所を利用したことになる。〔72〕

 この記事を含めて、ブログは31件を書いた。1月からの通算では184件である。内訳は読書が10件、日記が5件、『神曲』と『太平記』がそれぞれ4件、映画が3件、詩が2件、歴史・地理と外国語がそれぞれ1件ということである。コメントを2件、拍手を783拍手、拍手コメントを1件いただいた。1月からの合計はコメントが16件、拍手が4602拍手、拍手コメントが9件ということになる。〔209〕

 本を9冊購入、今年になって買い入れた本の合計は75冊となった。ほかに1冊贈呈を受けている。昨年買った本を含めて10冊を読み、読んだ本の1月からの通算は65冊である。読んだ本の内訳は:椎名誠『殺したい蕎麦屋』、東海林さだお『レバ刺しの丸かじり』、下川裕治『ディープすぎるユーラシア縦断鉄道旅行』、宮下奈都『田舎の紳士服店のモデルの妻』、松本直樹『神話で読み解く古代日本――古事記・日本書紀・風土記』、倉本一宏『藤原道長「御堂関白紀」を読む』、水村美苗『増補 日本語が亡びるとき』、セルジオ越後『補欠廃止論』、カミ『ルーフォック・オルメスの冒険』、本間龍『原発プロパガンダ』である。社会科学関係、哲学関係の読書がおろそかになっているので、今後はその点にも気を付けていきたい。本を買ったことのある書店の数は3店と変わっていない。〔68〕

 NHK「ラジオ英会話」の時間を22回、「入門ビジネス英語」を8回、「攻略!英語リスニング」を8回、「実践ビジネス英語」を14回聞いている。1月からの合計はそれぞれ118回、48回、46回、70回となる。そのほかに「ワンポイント・ニュースで英会話」を18回聞いている(あと4回は再放送らしい)。
 「まいにちフランス語」を20回、「まいにちイタリア語」を22回、「まいにちロシア語」を22回、「レベルアップ中国語」を21回聞いている。1月からの合計はそれぞれ116回、117回、59回、48回である。
 カルチャー・ラジオの『教養としてのドン・キホーテ』は最終回の第13回しか聞かず、合計は6回にとどまった。〔628〕

 6本の映画を見た。1月からの合計は33本である。内訳は:『すれちがいのダイアリーズ』、『つむぐもの』、『バベットの晩餐会』、『女真珠王の復讐』、『黄線地帯 イエローライン』、『恋愛ズバリ講座』である。日本映画4本、外国映画2本、小林信彦さんと違って、古い日本映画と新しい外国映画を主にみているが、今月はそうでない映画が2本混じった。出かけたことのある映画館は7館にとどまっている。〔40〕

 サッカーの試合を5試合観戦。横浜FCの試合が3試合、ニッパツ横浜FCシーガルズの試合が2試合。1月からの通算は24試合、出かけた球技場は2か所である。〔26〕

 ノート6冊、ボールペンの芯0.5ミリ3本、0.7ミリ1本、グレイのボールペン1本を使い切った。

 酒を飲まなかった日が10日である。

 2016を12で割ると168、2で割ると1008ということであり、これまで積み重ねてきた数字を見れば、2016年の2016は十分達成可能であるが、外国語番組などは多すぎて頭の中が混乱しているところがあり、内容の整理充実が必要である。
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日記抄(6月24日~30日)

6月30日(木)曇り

 6月24日から本日までの間に経験したこと、考えたことなど:
6月24日
 あまりテレビは見ないのだが、陸上の日本選手権の第1日の様子を見た。女子100メートルの予選3組に登場した福島千里選手がスタンドが騒がしかったために何度もスタートをやり直し、4度目にやっとスタートしたのが気の毒だったが、そんなことには関係なく1位で予選を通過したのはさすがであった。
 
6月25日
 NHKラジオ「攻略!英語リスニング」は”Amazon River"を取り上げた。"At about 6,400 kilometers, it's the second longest river in the world -- the largest river if you go by the amount of water that flows through it." (およそ6,400キロで、世界で2番目に長い川であり――流れる水の量から言うと、世界一である)。 ペルーのアンデス山脈を源として、コロンビア、ガイアナ、エクアドル、ベネズエラ、ボリビア、そしてブラジルを流れて、大西洋にそそぐ。3,000種以上の魚がいて、その周囲には世界最大の熱帯雨林が広がっている。アマゾンという名の由来は、16世紀にこの一帯を探検した最初のヨーロッパ人の1人であるフランシスコ・デ・オレリャーナというスペイン人が、川の近くで、女性の戦士たちに率いられた部族と戦ったと報告したため、ギリシア神話の女性戦士たちの国アマゾンが川の名前となった。
 ところで、番組テキストに講師の柴原さんがこんなことを書いている:『買っただけで数年間放置している『ピダハン――『言語本能」を超える文化と世界観』という本があるのですが、これはアマゾンに住む少数民族について扱っています。その言語体系が非常に興味深く、文法には過去形や未来形もなく、名詞には単数形も複数形もないなど、私の知っている「言葉」とはかなりかけ離れています」(6月号、52ページ)。日本語の動詞には過去形も未来形もないし、名詞には単数形も複数形もないが、講師は日本人であるのに日本語を知らないのであろうか⁉

6月26日
 Eテレ「日本の話芸」で柳家権太楼師匠の『くしゃみ講釈』を聞く。あまりうまいとは思わなかったが、面白いことは面白かった。桂小南『落語案内』によると、先代の権太楼というのが「わたしの記憶している噺家の中で、上手下手は別として、この人くらい客を沸かした人は知りません。お客さんは、はじめから最後まで爆笑でした」(216ページ)ということで、そういう落語家を目指しているのだが、道半ばというところだろうか。

 ニッパツ三ツ沢球技場で横浜FC対FC町田ゼルビアの対戦を観戦する。今日は神奈川区民デーでA席(バックスタンド)が大入りになったため、S席(メインスタンド)で観戦した(65歳以上なので、どの席種でも500円で入場できるのである。切符売りのおばさんに年齢を証明するものを見せてくださいと言われる。A席だとそれほどうるさくないのだけれどもね)。横浜は後半、この日J2出場200試合を達成した寺田選手のクロスを、大久保選手が頭で決めて1点を挙げ、途中退場者が出て1人少なくなったものの、その1点を守り抜き、久しぶりでホームでの勝利を挙げた。

6月27日
 「朝日新聞」の朝刊によると、EU離脱か残留かを問う国民投票の結果が出てから、「EU離脱とは」どういうことかとインターネットで検索する英国人が多かったそうだ。つまり、知らないで投票して、騒ぎが大きくなったので、改めてその意義について考え始めた人が少なからずいたということである。他山之石可以攻玉。

6月28日
 吉田健一『東京の昔』を読み直し終える。今と昔、日本と外国を対比しながら、文化と文学を語る部分が興味深かった。若いころ、この小説を読んだときは、物語の方に関心が向いて、文化論の方は読み飛ばしていたが、年を取って読み方が変わってきたことを感じる。

 水村美苗『増補 日本語が亡びるとき』(ちくま文庫)をようやく読み終える。著者とは文学観が違うのだが、近代の日本文学が作り上げてきた書き言葉の伝統を重視せよという主張には全く賛成である。水村は漱石の『明暗』の続編を書いたほど、漱石に傾倒している作家であり、漱石が英文学とどのように格闘したかを詳しく論じている。
 中学の同期生の1人が漱石の孫であり、同じ年に(違う)大学を受験したのが吉田健一の娘であった。だから、私は世代的に、夏目漱石よりも、吉田健一の方に近く、英文学へのかかわり方についても、漱石よりも吉田健一の方に共感する部分が大きいように思う。

 だいぶお話変わって、セルジオ越後『補欠廃止論』(ポプラ新書)を読む。ここで著者が「補欠」といっているのは、控え選手のことではなくて、スタンドで応援しているような運動部員のことである。高校サッカーの試合を観戦していると、強い学校に入ってスタンドで応援するのと、あまり強くない高校で試合に出場するのとどっちがいいのかというような話をしている人がいるが、まさにそういう議論が展開されている。何よりスポーツは<する>もの、楽しむものであるという著者の主張には共鳴する部分が多いが、あまり具体的な提案がなされていないのが残念である。

6月29日
 NHKラジオ「実践ビジネス英語」の”Quote...Unquote"のコーナーで紹介された言葉:
I hope I shall possess firmness and virtue enough to maintain what I consider the most enviable of all titles, the character of an honest man.
   ―― George Washington (first U.S. president, 1732-99)
(あらゆる肩書の中で最もうらやましく思っているのは正直者という称号であり、その称号を維持するに足る毅然さと美徳を、私は持ち合わせたいものだ。)
 ワシントンが桜の木を切り倒したというのは作り話らしいが、彼が正直だったというのは本当のことだそうだ。

 カミ『ルーフォック・オルメスの冒険』(創元推理文庫)を読み終える。オルメスとはホームズ(Holmes)のフランス風の読み方。シャーロックならぬルーフォックはちょっといかれたを意味するという。フランスのユーモア作家カミによる捧腹絶倒の探偵コント集。「訳者あとがき」で高野優さんが指摘しているように、落語に通じるこっけいさがあって、その点が興味深い。どういうところが似ているかは、読んでのお楽しみにしておこう。

6月30日
 昨日に続き、「実践ビジネス英語」の”Quote...Unquote"のコーナーから:
It is the duty of government to make it difficult for people to do wrong, easy to do right.
   ―― William E. Gladstone (British politician, 1809 - 98)
(人々が間違ったことをしにくいようにし、正しいことをしやすいようにするのが、政府の義務である。)
 リヴァプールで泊まっていたB&Bの近くにグラッドストーンが生まれたという家があった。リヴァプールはビートルズの町であるだけでなく、グラッドストーンの町でもあって、あちこちで彼の足跡に出会うのである。

 本間龍『原発プロパガンダ』(岩波新書)を読み終える。『原発プロパガンダは、国民に対しては原発政策支持者を増やすための『欺瞞』であり、メディアに対しては真実を報道させないための『恫喝』という極端な二面性を持っていた」(31ページ)という。横浜を選挙区にしている、問題解決能力よりも、問題隠蔽能力に長けているある政治家のことを思い出す。
 

倉本一宏『藤原道長「御堂関白紀」を読む』(2)

6月29日(水)曇り

 よく言われることだが、日記には「人に読ませる日記」と「人に読まれないように書く日記」の2種類がある。もっとも、「人に読まれないように書く日記」のほうが、面白いことが多い。実際問題として、この両者を区別することは難しく、映画作家のジョナス・メカスのように「本当の日記」と「映画日記」という2種類の日記を書いて、「映画日記」の中で時々「本当の日記」を引用したり、石川啄木のように奥さんには読まれないようにローマ字の日記を書く、英国の王政復古期の宮廷の様子を書き残したサミュエル・ピープスのように一種の暗号で日記を書くというような人もいる。解読できる人には読まれてもかまわない、あるいは自分が死んでからのことは知らないということのようである。

 平安時代以後の貴族の場合、これまで何度か書いてきたように「人に読ませるための日記」を書く例が多かったのだが、その場合でも読者として想定されていたのは、自分の子孫とか身近な人々で、読まれたくない人もいたに違いない。道長の場合はどうだったかというと、倉本さんは「他人の目に触れることを想定しておらず、自分の備忘録のようなつもりで記した」(34ページ)ものではないかと推測している。『御堂関白記』だけから判断すると、道長の字は汚い、下手な字であるが、「道長は本気で綺麗な字を書こうと思えば書けた」(43ページ)のであり、そのことからも他人に見せることを想定して書かれたものではないことを示すものであろう。そして最初のほうに述べたように、だからこその面白さが、この日記にはあるのである。

 この書物は『御堂関白記』の原本写真、翻刻文(原文)と現代語訳、そして解説を並べていくという工夫をしながら、日記の興味深い部分を紹介している。前回に紹介したように、第1章は「権力への道」と題されていて、長徳元年(995)5月11日に権大納言であった29歳の道長が、兄である関白道隆、その後関白を継いだ兄で右大臣の道兼が連続して薨去した後に、彼よりも上位の内大臣であった道隆の子伊周をさしおいて、内覧の宣旨を得る。道長の同母姉であり、一条天皇の母であった詮子の意向が強く反映したものと考えられる(道長自身がそのことを認めている)。「伊周よりも下位の権大納言のままでは都合が悪かろうということで、道長は右大臣に任じられ、太政官一上(だいじょうかんいちのかみ)(首班)となった。右大臣となった道長が改めて関白にならなかったのは、一条の意志なのか、それとも道長の謙譲なのかはわからないが、結果的には道長は関白の地位に就かなかったことによって、伊周を抑えて公卿議定(ぎじょう)を主宰でき、その権力を万全にしたのである。」(28ページ)

 しかし、当初は道長の権力は安定したものではなかった。彼自身病弱であり、長女の彰子は8歳と幼少、嫡男の頼通は4歳とさらに幼少で、彼が長期政権を築き、頼通を後継者としてその家系のみを摂関家とする伝統を残すと想像する者はいなかったはずである。道長の短期政権の後に、中宮定子の兄伊周が政権の座に就くということも十分に考えられた。「一条と定子・伊周との親密な関係は、『枕草子』に余すことなく描かれるところである」(30ページ)と倉本さんも記している。

 長徳4年(998)7月5日、当時流行していた疫病に対する措置を蔵人頭である藤原行成に命じたというのが、現在残る『御堂関白記』の最古の記事である。翌年の長保元年(999)になると道長は日記をつけることが多くなるが、その主な内容は長女の彰子を一条天皇の後宮に入れ、女御としたことである。彼女が女御の宣旨を受けた11月7日は、奇しくも定子が一条天皇の第一皇子である敦康親王を出産した日であった。一条天皇はこの出産を喜ばれたが、公卿社会の関心は、むしろ彰子の女御宣旨の方に向けられていたことは、公卿の列に加わっていた実資の『小右記』によって窺うことができる。

 定子が一条天皇の寵愛を受けているうちは、伊周が道長にとって代わる可能性があるので、彰子と一条天皇の関係は道長にとって重要な関心事であった。(彰子のもとに紫式部、和泉式部、赤染衛門らの才女を結集したのはこのことが背景にある、また定子の側には清少納言がいたのは、ご承知のはずである。) 彰子をめぐる様々な儀礼にどのような公卿が参集したかは『御堂関白記』に詳しく記されている。(道長の兄で、『蜻蛉日記』の作者の息子である道綱が、いつも顔を見せているのが興味深い。) さらに、自分が主催する催しにだれがやってきたか、来なかったかなども記しているのが、いかにも政治家的である。

 その一方で、道長は剛胆な一面も持っていた。寛弘3年(1006)7月、大和守源頼親と興福寺との紛争の結果、不利な判定を受けた興福寺の大衆が上京し、圧力をかけたが、一条天皇は宣旨を下して僧たちを追い立てた。「院政期の僧兵に対する朝廷の対応と比較して、いまだ朝廷、および天皇の権威は大きなものであったことを実感させられる」(82-83ページ)と著者は記す。道長も興福寺の別当が脅しにやってきたのを、逆に脅して退去させている。自分のこの行為について、道長は自賛の言葉をその日記に記す。「このような剛胆なトップに率いられた公卿社会というのは、やはり後世、聖代として仰がれることになるのも、謂れのないことではないのであった」(83ページ)と第1章は結ばれている。

 この書物を詳しく読むと分かるように、「聖代」の主役である一条天皇と道長の関係はかなり微妙なものであったが、いざというときには一致して事に当たることができたというのも大きいなあと、その後の歴史と比べて考えさせられる。

遠藤慶太『六国史――日本書紀に始まる古代の「正史」』(16)

6月28日(火)雨のち曇り

 <六国史(りっこくし)>は、奈良時代から平安時代にかけて天皇の命令を受けて国家の事業として編纂された6部の歴史書:『日本書紀』『続日本紀』『日本後紀』『続日本後紀』『日本文徳天皇実録』『日本三代実録』の総称である。歴史書には過去を知るために残す記録という役割のほかに、当代の人間が自分たちの職務を遂行する上で先行とする先例集という役割も生じた。平安中期以降、貴族社会の中で様々な家柄が形成され、それらの家柄によって職歴や昇進の経路が定まり、それぞれの専門の分野が固定してくる。そうなると、それぞれの家柄で、先例を伝えるために子孫に残す日記が書かれるようになり、包括的な歴史書の果たすべき役割が減少し、結局公の歴史書は編纂されなくなる。その一方で多様な<私撰国史>や歴史物語が書かれるようになる。
 鎌倉・室町時代を通じて<日本紀の家>としての地位を保ったのは卜部氏で、<六国史>、特に『日本書紀』「神代巻」の継承と解釈、その成果の講義を続けた。そこでは天照大神の本地を大日如来とするようなこの時代独自の解釈が含まれていた。これらの活動を通じて地位を高めた卜部氏吉田流は、吉田と家名を改め、公卿に列することとなった。
 室町時代の公卿である三條西実隆は『源氏物語』の研究の過程で、<六国史>の権威をも利用しようとし、その収集・書写に努め、その努力は子孫に継承された。

 江戸時代になると、出版文化が盛んになり、<六国史>もこの時代に出版された。そのような風潮の先駆けとなる事業を展開したのは徳川家康である。彼は日本の歴史にかかわる古典の書写を命じ、その中には<六国史>も含まれていた。そうして作成された写本は「慶長御写本」と呼ばれ、大部分は現存する。家康は教養として古典を重んじただけでなく、それらを幕府による法典整備の資料として活用した。さらに書写の過程で禁裏や公家から書物を借り出し、系統的に写本作業を行うことにも幕府の権威を示すという側面がある。家康が駿府に所蔵した書物の一部は、尾張徳川家に伝来し、現在は名古屋市蓬左文庫の中核をなしているが、その中に金沢文庫から伝わった『続日本紀』の現存する最古の写本が含まれている。

 家康は写本によって自分の蔵書の拡充を図っただけでなく、中国の書物である『群書治用』の出版を命じるなど、出版にも理解を見せた。このような彼の施策の実施に当たって中心的に活動したのが林羅山である。彼はそれまでの学問が貴族の家柄によって秘伝として独占されていたのに対し、広く民間に公開しようとした。家康が彼を登用したのも、そのような新しい姿勢を評価したからである。
 さらに宮中でも後陽成天皇は『日本書紀』「神代巻」の出版を計画され、朝鮮からもたらされた活版印刷の影響を受けた古活字版が刊行された。その後、民間でも出版事業が展開され、17世紀後半には散逸していた『日本後紀』を除いて、すべての<六国史>が出版され、流通するようになった。

 このような中で歴史への関心が高まり、水戸の藩主であった徳川光圀は『大日本史』の編纂を企て、学者を招聘して、各地で史料を収集させたが、『日本後紀』を発見することはできず、また『大日本史』も完成しなかった(最終的に完成したのは明治39年=1906年である)。
 『大日本史』の校正に従事したこともある塙保己一(1746-1821)は幕府に働きかけ、日本の古典を研究調査する専門機関である和学講談所を設立する。その事業の中で、40冊のうちの10冊だけであるが、散逸していた『日本後紀』が発見される。
 江戸時代の後期になると、国学者たちを中心に<六国史>の会読(一種の読書会)を行うことが盛んになる。

 明治政府は近代化を推進する一方で、王政復古の理念に基づいて過去の伝統の継承・復活を目指した。その中で歴史書の編纂も企てられるが、停滞し、1895年に帝国大学(現在の東大)に新たに「史料編纂掛」が設置される。そこでは『大日本史料』『大日本古文書』が編纂・刊行されるが、この事業には<六国史>を継承しようとする姿勢が顕著にみられるという。

 その後、政府により歴史書を編纂しようとする企てもあったが、頓挫し、<六国史>も民間の手で出版され続けてきた。「塙保己一以来、いよいよ国史を継ぐ者は民間である、といってよいのではあるまいか」(222ページ)と遠藤さんは本文を結んでいる。

 自分の興味にしたがって、詳しくなったり、粗っぽくなったりしながら、この書物の議論をたどるうち、16回になってしまった。それだけの読みごたえはあったのだが、この本の中でも触れられている坂本太郎の同名の書物程の格調の高さはないような気がする。坂本の著書も持っているので、探し出して、読み直してみようと思う。この書物の論述は時間の流れに沿って、①『日本書紀』の成立事情と意義、②その後の5部の歴史書の意義、③その継承と理解という3つの部分に分けられると思うが、①と②だけに限定して、<六国史>それぞれの内容と性格をより詳しく論じるほうがよかったのではないか、③については、また別の本にまとめていく方がよくわかるのではないかと思う。個人的な意見としては<六国史>よりも<四鏡>の方に興味があることに変わりはないし、<六国史>では『日本書紀』を読んだ(けがをして入院中に全巻読み通したのである)だけであるのに対し、<四鏡>は『今鏡』を残して、あとの3部は読んでいるので、やはりそちらの方を優先させたいなぁと思っているのである。

ダンテ・アリギエリ『神曲 煉獄篇』(30-3)

6月27日(月)晴れ

 ウェルギリウスに導かれて煉獄山を登り切り、地上楽園に達したダンテは、そこでかつて彼が詩文集『新生』の中で彼女への愛をうたった女性ベアトリーチェが天国から降臨する場面に出会う。入れ替わるように、ウェルギリウスは姿を消していた。(もともと、「人生の暗い森」をさまよっていたダンテを、そこから連れ出し、地獄と煉獄を遍歴させるようにウェルギリウスに依頼したのはベアトリーチェであった。) ダンテに対し、ベアトリーチェは厳しい態度で臨み、彼が己の罪を悔悛しなければならないと告げた。

母親が息子に容赦ない態度をとるように、
彼女は私に対した。なぜなら厳しい慈しみには
苦い味わいがつきものだからだ。
(449ページ) 「やさしい父」(446ページ)であったウェルギリウスが去り、ベアトリーチェは厳しい母としてダンテに対する。父と母の性格付けがなぜ逆転しているのかは興味ある問題である。彼女はなぜ、ダンテの罪を追求したのか。「なぜなら、おそらくダンテは、神の恵みに護られた地上楽園に来なくとも、人は自身の力だけで世界のすべてを知り、至福に至ることができると、かつて信じていたからだ」(613ページ)と翻訳者の原さんは解説している。

あの方は沈黙した。すると天使達がすぐに
歌った。「あなたにこそ主よ、私は希望を託したのです」。
けれども「わたしの足を」より先には進まなかった。
(450ページ) 天使たちはベアトリーチェにダンテをとりなすように「あなたにこそ主よ、…」という旧約聖書詩篇31-2から始まる箇所を歌って、ダンテが信仰に立ち返ったことを述べた。原さんは、巻末の解説で詩篇30としているが、壽岳文章訳の脚注では「ウルガタ詩篇30の2-9(詩篇31の2-9)の起句」(壽岳訳、390ページ)とある。「新共同訳」では詩篇31になっているので、注意が必要である。壽岳さんは「詩篇からの〔『神曲』中〕最も適切な引用。しかも詩篇・煉獄篇ともに30歌」(同上)とダンテの構成の巧みさに注意を喚起している。「ウルガタ」(Vulgata、英語ではVulgate)は405年に完成したラテン語訳の聖書でカトリック教会で使用されている。ダンテの時代に一般に知られていた聖書はこれだけであった。詩篇31-9では「わたしを敵の手に渡すことなく/わたしの足を/広いところに立たせてくださいました」と歌われているのだが、ダンテにはまだ赦しが与えられていないので、赦しを示す後半部分は歌われないのである。

さながら生きた木々に積もった雪が
イタリアの山の背で
スロヴェニアの寒風に吹かれて固く凍りつき、

次に、影の消え去るあの大陸が息を吹くだけで、
まるで火が蝋燭を溶かすように溶け、
その中に水が滲んで広がっていくように、
(450ページ) 天使たちの歌声には「貴婦人よ、なぜそれほどにこの者を責めるのか」という以上の同情の気持ちが込められており、ダンテの凍りついてしまった心を溶かした。

 これに対して、ベアトリーチェは天使たちにこたえる形で、ダンテが神の道から外れた罪を自覚させようと、彼女の厳しい態度の理由を語る。こうして彼女は、ダンテに、彼の罪と、そしてそれに対してすべきことを教えようとしたのである。
 ダンテは自然が彼に与えた素質と、神が彼に与えた素晴らしい資質を備えていたにもかかわらず、神の知恵から離れて地上の事物、地上での出来事に己の全存在をかけてしまったとベアトリーチェは語る。なお、これはダンテ1人のことではなく、彼が人類を代表しているという解釈も可能であると原さんが解説で述べている。

「・・・
この者はあまりに堕落し、ついにはどのような手段もすべて、
この者の救いには届かなくなりました。
失われた民をこの者に見せること以外には。

このために私は死人どもの扉を訪れ、
この者をここまで導いてきた人物に、
涙を流しながらわが祈りを聞かせたのです。
・・・」(455ページ)

 ベアトリーチェはこの罪に対する悔悛が行われて初めて地上楽園を流れるレーテ川の水を飲むべきであり、悪行の記憶と罪を洗い流して天国に上るのにふさわしくならなければならないと述べる。こうして『煉獄篇』30歌は終わる。神から離れて、自力で至福に至ることができると考えることが厳しく糾弾されていることに、ダンテの宗教・道徳観が基本的に中世の枠の中にとどまるものであることが現れていると思われる。そういう彼の思想的な部分よりも、その思想を語ろうとして彼が比ゆ的に取り上げている自然描写や表現の巧みさのほうに心惹かれてしまい、それが今回の引用個所の選択にも表れていることをご理解いただきたい。

黄線地帯 イエローライン

6月26日(日)晴れたり曇ったり

 6月23日、神保町シアターで「天知茂――ニヒルの美学」特集上映から、『女真珠王の復讐』(1956、新東宝、志村敏夫監督)、6月25日に、同じく『黄線地帯 イエローライン』(1960、新東宝、石井輝男監督)、『恋愛ズバリ講座』(1961、新東宝、オムニバス作品:第1話:三輪彰、第2話:石川義寛、第3話:石井輝男監督)を見た。ここでは主として、この中で最も注目すべき作品であると思われる『黄線地帯 イエローライン』について取り上げる。主な舞台が神戸であるこの作品について、神戸出身の映画評論家である淀川長治が好意と批判を織り交ぜた論評を当時の『キネマ旬報』誌に発表したという話であるが、あいにく、その批評は目にしていない。作品の舞台は神戸なのだが、実際には横浜でロケをしたという話で、私は横浜育ちである。横浜といえば、同じ1960年に石井輝男は横浜を主な舞台とした『黒線地帯』という映画を手掛けており、こちらは既に見ている。

 『黄線地帯 イエローライン』は、『黒線地帯』が白黒であったのに対し、カラーで撮影されており、それが効果を上げている場面がいくつかある。東京で税関長の会議があり、それに参加するために上京してきた神戸の税関長を殺害してほしいという依頼を受けた殺し屋が、殺害に成功するのだが、実は麻薬の密輸入にかかわっている連中がそれに対して厳しい態度をとる税関長の殺害を依頼したのである。依頼主に裏切られた殺し屋(天知)は、復讐を誓い、神戸に向かおうとしていたダンサー(三原葉子)を人質に取り、東京から逃げ出す。ダンサーの恋人である記者(吉田輝雄)が2人の後を追い、税関長殺人事件、神戸に存在すると噂される黄線地帯(外国人船員たち向けに日本人の女性をあっせんする売春組織)、そしてダンサー誘拐の謎を解こうとする。

 殺し屋とダンサーは神戸のカスバに逃げ込む(脚本も担当している石井らしい設定であるが、当時、神戸にこのような地域があったかどうかは不明)。ダンサーは一方で脳天気なところを見せながら、何とか外部と連絡を取ろうと様々な策を弄する。その一つ、メッセージを書き込んだ百円札をたまたま手にしたOL(三条魔子)は、黄線地帯に目をつけられていて、誘拐される。手間取りながら(そうでないと話が持たない)、記者は事件の真相に次第次第にたどり着く…。

 物語の展開はさておいて、冒頭の殺人の依頼主のクロース・アップとか、一種の迷宮である『カスバ』の幻想的な描写とか、神戸港(実は横浜港)のドキュメンタリー風の描写などに石井らしさが出ていると思うのだが、私は石井が『黒線地帯』で見せた同時代の横浜港周辺をドキュメンタリー風に(製作費が限定され、短時日で撮影されることを要求された映画作品であるが故の怪我の功名かもしれないのだが)とらえた演出が忘れられず、その分、いかにも作り物めいた(実際にセット撮影だそうである)神戸のカスバの場面には疑問が残る。この場面に城米彦造(私が敬愛する詩人の1人である)の亜流みたいな詩を売る詩人が登場するのには、あまり腹が立たないのであるが…

 カラーであること、三原葉子の演技と魅力に磨きがかかっていることは『黒線地帯』に比べてこの作品の長所であるが、その一方で狭い個人的な趣味にのめりこんで映画を作るという性癖が、より多く前面に出ているようにも思われる。石井輝男の新東宝時代の作品には見るべきものがあるが、次第次第に自分勝手な美学にのめりこんでいった作家という印象をぬぐい去ることはできない。

 残る2作品について少しだけ:
 『女真珠王の復讐』は、ある貿易会社の社長秘書・香川夏岐(前田通子)が専務(藤田進)の陰謀で自分の恋人(宇津井健)が社長殺害の犯人であり、自分も共犯者にされる。専務に随行して東南アジアに向かう途中でこのニュースを知り、彼女をわがものにしようとする専務の手から逃れて、ある島に漂着する。島には、同じく漂流した5人の漁師たちがいて、その中で彼女をめぐり争いが起きるが、彼女を守ろうとした2人の漁師(沢井三郎、天知茂)が生き残り、やがて島の海底から豊かな真珠を見つけて、巨万の富を築く… 死刑を宣告された自分の恋人を救い出そうと、彼女は女真珠王ヘレン南と名前、姿を変えて日本に戻る…
 南の島で、夏岐のふんする前田通子がオール・ヌードになる場面が話題を呼んだ。豊かな胸と、脚線美を持つ前田のヌードは印象に残るが、それを除くと、物語がいかにもご都合主義的に構成されており(そんなに簡単に天然真珠が採取できるわけではなかろう…)、前田のヌードを生かし切っているとはいいがたい。新東宝は、この後、同じようなエロティック・サスペンス映画を何本か製作することになるが、そのあとを受けて同じような作品を製作する映画会社はなかった。この点についていえば、この作品が曲がりなりにも<女性の勝利>を描いている点が重要であろう。

 『恋愛ズバリ講座』は1961年の(そして新東宝最後の)正月映画で、白黒で撮影されていることからも、この当時の新東宝の財政事情が垣間見られる。3話からなるオムニバス映画で、第1話はケチを信条とする男女2人の社長が、見事に騙されて財産を奪われるという話。男性社長を天知が演じている。第2話は原子力発電所の立地をめぐり、建設省から役人が来るというので、ある村が総出で歓迎体制を敷くが、村長の娘(池内淳子)の恋人(菅原文太)がやってきたのを役人と間違えて、騒動が起こる。第3話は結婚詐欺師(沖龍次)が狙ったカモの幼稚園の先生(三原葉子)が意外にしたたかであったという話である。正月映画として、このようなストーリーがふさわしいかどうかは疑問で、第2話をもっと膨らませて、明るく楽しく締めくくる方がよかったのではないか、そういうことが思いつけないほど、新東宝という会社が全体として追い詰められていたのかということを考えさせられる。今から思えば、まだ娘役だった池内淳子と、菅原文太が恋人同士の役どころを演じるというのは見ものであり、大空真弓が最後のほうでバスの車掌として登場するのも見逃しがたい。なお、新東宝の労働組合の最後の委員長が天知茂だったそうである。天知茂だけでなく、新東宝にはほかにも多彩な個性をもった俳優がいたのに、それぞれの潜在的な可能性を十分に生かしきれなかったのは残念だなぁという月並みな感想を抱きながら、これらの作品を見ていた。

 『女真珠王の復讐』の上映は終わったが、『黄線地帯』、『恋愛ズバリ講座』は、『あぶく銭』(1970、大映、森一生監督)、『孤独の賭け』(1965、東映、村山新治監督)とともに7月1日まで上映される(4本立てではなくて、1本ずつの上映なのでお気を付けください)。「天知茂 ニヒルの美学」の特集上映は7月8日まで続くので、興味のある方は、上映スケジュールを調べてみてください。 

倉本一宏『藤原道長「御堂関白記」を読む』

6月25日(土)曇り

 倉本一宏『藤原道長「御堂関白記」を読む』(講談社選書メチエ)を読み終える。

 この書物は
 序章  『御堂関白記』とは何か
 第1章 権力への道
 第2章 栄華の初花
 第3章 望月と浄土
 終章  再び『御堂関白記』とは何か
という構成を取り、平安時代中期を代表する政治家である藤原道長(966-1027)の日記『御堂関白記』の概要と、その内容を通じて知られる道長の人間像、この時代の政治の特徴を描き出している。

 2013年に発行された書物であるが、遠藤慶太『六国史――日本書紀に始まる古代の「正史」』のなかに、国家の事業として歴史書が編纂されなくなった理由の1つとして、貴族の家柄が固定化して、それぞれの家柄で昇進できる地位や実際に担当する職掌が決まるようになり、その際に参考にするために先例として記録する範囲が限られるようになり、一般的な歴史書の編纂がそれほど必要とされなくなったという事情があり、それぞれが自分の子孫に伝えるために日記を書き残すようになったという経緯を知ったからである。

 道長は、父である兼家の摂政就任後に急速に昇進し、長徳元年(995)、兄である道隆・道兼の薨去により、一条天皇の内覧(関白に准じる職。奏上・宣下の太政官文書を内見する)となって、いきなり政権の座に就いた。右大臣、次いで左大臣にも任じられ、内覧と太政官一上(いちのかみ)の地位を長く維持した。
 長徳2年に道隆嫡男の伊周(これちか)を退けた後は政敵もなく、一条天皇の後継者問題をめぐる微妙な問題や、三条天皇との確執も存在したが、娘である彰子・妍子・威子を一条・三条・後一条天皇の中宮として立て、「一家三后」を実現するなど、摂関政治の最盛期を現出させた。

 道長は、政権を獲得した長徳元年から日記を記しはじめ、何回かの中断を経た後、寛弘元年(1004)からは継続的に書き続けている。著者である倉本さんは、この日記の研究者であり、講談社学術文庫からその現代語訳を刊行した(それだけでなく、同じ文庫から、道長の同時代人である藤原行成の日記『権記』の現代語訳も刊行している。後で倉本さんも書いているが、道長、行成のほかにも、この時代の有力な政治家であった藤原実資の日記『小右記』も伝わっていて、後世、道長の時代が貴族にとって模範を示す時代として尊重されていたことが分かる)。倉本さんによると「現存する『御堂関白記』は長徳4年(998)から治安(じあん)元年(1021)に至る、道長33歳から56歳までの記事を収めている。摂関政治全盛期の政治・社会・文化・宗教を、豪放磊落な筆致と独自の文体で描いている」(16-17ページ)という。

 さらに日記の具体的な姿について:「罫線を引き、暦博士や陰陽師・宿曜師(すくようじ)、それに道長家の家司(けいし)が干支や日の吉凶などの暦注(れきちゅう)を記した具注暦の日付の間の二行の空白部(「間明き」)に、日記を記している。とくに書ききれなかった場合、また特に和歌や儀式への出席者や賜禄の明細などを別に記したかった場合には、紙背に記載した裏書も81か所を数える」(17ページ)と記されている。日記の全部が残っているわけではないが、部分的に本人の自筆による巻が残され、その他の部分も写本が残されていて、ほぼ全容を窺うことができる。同時代の日記が写本の形でしか残されていないのに対し、部分的にせよ自筆本が残されていることは、道長という人間が、摂関家の歴史にとって極めて大きな存在であったことを示すものである。

 『御堂関白記』特に、自筆本は(その筆致に道長の心の動きがあらわされていることがあって)彼の人間像を知る大きな手掛かりとなる資料である。というよりも、日本の歴史の中で、藤原道長という人は、名前は有名だが、その人間像についてはあまり知らない、というよりも興味を持たれない人の1人ではないかという気がする。しかし、そうではなく、すでに「豪放磊落」という貴族には似つかわしくないような形容が出現していることで分かるように、長所と弱点とを含めて、興味深い人物であったのである。(「豪放磊落」ということをめぐっては、『大鏡』もこれを裏付ける挿話を記載しているが、注目する人は少ないようである。) 具体的にどんなことが分かるか、どんな人間像が浮かんでくるかについては、また機会を改めて書くことにしよう。 

『太平記』(110)

6月24日(金)曇り

 今回から『太平記』13巻に入る。
 鎌倉幕府が滅亡し、12巻の冒頭に述べられるように「公家一統の政道」が復活する。しかし、いろいろな点で、この政権の政治にはほころびが目立ち始めてきた。それだけでなく、倒幕の最大の功労者の1人であった護良親王が足利高氏の讒言により、後醍醐天皇の怒りを買い、鎌倉に配流され、幽閉されるという出来事が起きた。
 これまでも何度か触れたが、『太平記』を補う意味で重要な書物が2冊あり、1冊は『増鏡』、もう1冊は『梅松論』である。『増鏡』は、北朝に仕えた上層貴族(羽林家あるいは大臣家以上の家柄出身)の著作と考えられるが、後醍醐天皇と、その復古政策には賛意を述べている。『梅松論』は室町幕府を武家政権として支持する立場で書かれている。だからこの3冊を比べながら、読み進んでいくと、事態の真相がより明らかになるのだが、あいにく、『増鏡』は護良親王が京都に戻られるところで擱筆されてしまい、これからは、『太平記』と『梅松論』だけの時代になる。「平家なり 太平記には月も見ず(其角)」という発句があるが、その「月も見ず」という部分を補っていたのが、『増鏡』だということも言えるので、話がいよいよ武ばったものになるのは避けられそうもない。

 これからのこともあるので、少し古くなるが、歴史家である林屋辰三郎の『太平記』の主人公はだれかという論考を引用しておこう:
「『太平記』全40巻は、4つの時期を画することができる。第1は、後醍醐天皇の正中~元弘の時期で、鎌倉幕府の解体過程の中で、「悪党」的人間が活動する。第2はいわゆる建武新政府の時代で、やがて足利・新田の水火の争いが南北朝を現出させる。第3は南北朝対立から、新田義貞の戦死、後醍醐天皇の崩御を経て正平の天下一統すなわち観応の擾乱の後、武家方の勝利が定まって、武家方大名のもっとも得意な時代となる。最後は、守護の領国が守護代の国人層把握によって確定し、その上に上洛した守護の代表細川頼之が正式の管領となって、足利義満を補佐する体制が生み出されて「太平」な結びとなる。
 そうすると、楠木正成・足利尊氏・佐々木道誉と細川頼之が、それぞれの時期を代表するといってもよかろう。とくに『太平記』の全巻は、時期的に見てそのまま道誉の生涯に当たるのである。『太平記』が細川頼之の登場によって完結した「中夏無為」の時期とはまさに応安4年(建徳2=1371)前後と考えられているが、道誉の没する2年前のことである。」(林屋辰三郎『佐々木道誉』、平凡社ライブラリー、178-179ページ)

 注目してよいのは、この林屋の見解が吉川英治の『私本太平記』に大きく取り入れられていることである。この作品では足利尊氏が『太平記』以上に大きな存在感をもって描かれているだけでなく、楠正成、佐々木道誉も大きく取り上げられている。『私本太平記』は正成が湊川で討ち死にするところで終わるため、細川頼之は登場しようがないのだが、細川一族の和氏がかなり重要な役割を果たしている(和氏は『太平記』ではあまり出番がないが、『梅松論』では取り上げられている)。

 さて、『太平記』の本文に戻る。12巻でも、護良親王の京都における幽閉場所として登場していたが、後醍醐天皇は二条富小路にあった御所の1町西の二条高倉に馬場殿という騎射などを観戦するための建物を造営された。そして足しげくお通いになり、競馬や笠懸などをご覧になって楽しまれたのであった。

 「その比(ころ)、塩冶(えんや)判官高定がもとより、龍馬(りゅうめ)なりとて、鴾毛(つきげ)なる馬の長3寸ばかりなるを引き進(まいら)す。」(第2分冊、287ページ、その頃、〔出雲の守護である〕塩冶判官高定のもとから、きわめてすぐれた馬だといって、白色に赤みを帯びた毛色の馬の、肩までの高さが4尺3寸ばかりであるのを献上してきた。) 通常の馬は肩までの高さが4尺であるから、それよりもかなり大きいということである。
 献上された日の午前6時ごろに出雲の富田(島根県安来市広瀬町富田)を出発して、午後6時ごろに京都に到着した。その間76里、馬に乗っていたものの言うことには、つむじ風が顔に吹きかかってきて我慢するのが大変だったということである。この当時、天下一の馬乗りとされていた本間孫四郎という武士を呼び寄せて、騎乗させてみると、「四つの蹄を縮むれば、双六盤の上にも立ち、一鞭を当つれば、10丈の堀をも超えつべし」(第2分冊、288ページ)という大変な名馬ぶりを発揮する。(1里=36町≒3.9キロと定めたのは、豊臣秀吉であり、この時代の1里はもっと短かったことを考えても、確かに俊足ではある。それから、この時代の馬は、現代の馬よりも小さかったことも考える必要がある。)

 天皇はある時、公卿たちを引き連れて馬場殿でこの馬をご覧になったが、その時おそばにいた洞院公賢(とういんきんかた)に向かい、中国には千里の馬の話があるが、日本ではこのような馬の話を聞いたことがない。私の治世になって、このような馬がこちらから求めたわけではないのに、遠くからやってきたのはどういうことか、吉か凶かとお尋ねになった。公賢は故実に通じ、『拾芥抄(しゅうがいしょう)』という著書を書いたことで知られる。彼は「これ聖明の徳に依らずば、天豈(あ)にこの嘉祥を降し候はんや。」(第2分冊、288-289ページ、これが天子の明徳に依るものでなければ、天がどうしてこのようなめでたいしるしを下されることがあるのでしょうか)と、周の穆王と菊慈童の故事などを持ち出して、「しかしながら仏法王法の繁昌、宝祚長久の奇瑞にて候ふべし」(第2分冊、292ページ、ひとえに仏法と〔仏法に守られる〕王の治世の繁栄であり、帝の位が末永いことの目出たいしるしでありましょう)と、これが吉兆であるという意見を述べた。

 ここで省略した周の穆王や菊慈童については様々な説話があり、比較説話学的な興味から見ると面白い箇所であることを付け加えておく。『太平記』は説話の宝庫でもあるのである。

日記抄(6月17日~23日)

6月23日(木)雨が降ったりやんだり

 1日はまだだいぶ残っているが、今日は夕方から出かけるつもりなので、早めに日記をまとめることにする。
 前回のこの欄で書き落としたこと、6月17日から23日までの間に経験したこと、考えたことなど:

 6月16日の「レベルアップ中国語」で、「今日のつかみの一言」として「説曹操曹操到(shuo Caocao Caocao dao)(曹操を話題にすると曹操が来る⇒噂をすれば影がさす)という語句が取り上げられた。
 曹操(155-220)は後漢の末、王朝の力が衰え、天下が乱れた際に、献帝を保護することを口実に実権を握った武将・政治家で、頭の回転が速く、謀略に長けていた。『三国演義』やそれをもとにした演劇・講談では、地獄耳を持つ悪役とされる。このほかにも、彼が登場する成語や歇後語は多いそうである。例えば、
 吃曹操的飯、想劉備的事――人在心不在
(実力者ではあるが悪人である)曹操の飯を食い、(弱小勢力だが正義の人物である)劉備のことを思う。その心は、人々の心は他のところにある(面従腹背)。

6月17日
 NHK「ラジオ英会話」の”Weekly Review"の”Write It"のコーナーで、「彼女はごみゼロの政策を強く要求っするでしょう」という分の英訳が課せられた。「ごみゼロの政策」は”a zero-waste policy"というヒントが与えられた。そういえば、横浜市では530(ごみゼロ)という政策を実施している。数字の語呂合わせというのが極めて日本的である。

 同じく〔実践ビジネス英語〕の”Just in Jest"のコーナーで
How is it that "fat chance" and "slim chance " mean the same thing?
fat(太った)とslim(やせた)は反意語なのに、fat chanceとslim chanceが同じ意味なのはどうして?という問いである。”slim chance”は一般的な表現で「わずかな見込み」「心細い見込み」のことであるが、”fat chance"は反語的な言い方で「望み薄」「見込みゼロ」ということで、両者がほぼ同じ意味になることがある。こういう反語的な言い方には気を付けて対処する必要がある。

6月18日
 ニッパツ三ツ沢球技場でPlenusなでしこリーグ2部のリーグカップ戦である横浜FCシーガルズとノジマステラ相模原の対戦を観戦する。リーグの下位と上位という位置がそのまま出た展開で、0-2で敗北した。

 NHKラジオ「攻略!英語リスニング」は”Abraham Lincoln"(エイブラハム・リンカーン)という話題を取り上げた。彼の有名な"the Gettysburg Adress"は
"Four score and seven years ago our fathers brought forth on the continent, a new nation, conceived in Liberty, and dedicated to the proposition that all men are created equal."
(87年前、われらが父祖が、この大陸に、新たな国を生み出した。自由のもとに生まれ、すべての人間は等しく作られているという主張にささげられた国を。)
と語り始められている。ここでscoreというのは20という意味で、ちょっと古めかしい、いかめしい言い方だそうである。この言い方をすることで演説に格調を与えようとしているのであろう。

 「朝日新聞」に文部科学省が無戸籍児や虐待に対応して、小学校未修了でも中学に入学できるようにするという通知を出したというニュースが載っていた。やむを得ないことではあるが、それ以前に、未修了が出ないように小学校に努力を求めることも重要であろう(さらにそれ以前の問題があり、そのまた前の問題がある…という負の連鎖をどう突き止め、解決していくかは、重い課題である。)

6月19日
 Eテレ「日本の話芸」で桂吉弥師匠の「蛸芝居」を視聴する。芝居好きの店で奉公人が仕事をしながら、芝居のまねをする。出入りの魚屋も、魚屋が持ってきた蛸も芝居のまねをする。蛸が芝居がかりで脱走しようとするのを、その店の主人がこれまた芝居がかりで止めようとする…。演者の表情としぐさの変化を楽しむ落語である。マクラの部分でNHKの朝ドラ(吉弥さんはそのかなりの作品に出演している)の話をしたのが、一部の客にとってはサービスになったのであろうが、どうも邪魔に思われた。

 ニッパツ三ツ沢球技場でJリーグ2部の横浜FC対FC岐阜の対戦を観戦する。前半は横浜の動きがよく、三浦カズ選手の今季初ゴールで1点を先行したが、後半岐阜の動きがよくなり、特に岐阜のFWレミネイロ選手のスピードにかき回されて2点を失い、逆転負けした。
 試合に先立ち、ユース・チームが関東の大会で優勝したことが報じられ、キャプテンと、小野信義監督のビデオ・メッセージが紹介され、ゴール裏のサポーター席からは久しぶりにシンギ・コールが繰り返された。ユースが強くなっても、本体が強くならないのでは困る。

6月20日
 NHKラジオ「入門ビジネス英語」でCVという言葉が使われていた。これは英国英語で「履歴書」のこと、アメリカではresumeという。(いわゆるレジメの場合には第1音節に、履歴書の場合には最後の音節にアクセントが置かれる)。CVはcurriculum vitaeの頭文字で、curriculum vitaeは「人生の物語」という意味だと解説されていたが、厳密にいえば、「人生の行路」のほうが適切ではないか。curriculumはラテン語では「走路」というのがもともとの意味である。

6月21日
 昨日に続き「入門ビジネス英語」の話題を取り上げる。会社の採用面接で、応募者が
Japanese and Italian are my native languages. I also fluent in English and speak conversational Spanish.
という。英語による採用面接の場合、語学力については、積極的な表現で答えるほうがいいというのがりんじーさんの助言であった。確かに、この応募者はかなり積極的な言い方をしている。ただ、売り込みすぎてあとで困ることがないように注意することも必要であるとも言われていた。

6月22日
 NHKラジオ「実践ビジネス英語」では”In Celebration of Father's Day"(父の日を祝って)という話題に入った。日本でも同じようなことがいえるが、「父の日」は「母の日」に比べて影が薄い。ある登場人物が言う:
We say that people ask, "When's Mother's Day?" but "When was Father's Day" Meaning people only remember Father's Day when it's too late.
(私たちはこう言っているのですよ、人は「母の日はいつかしら」と聞くけれども、「父の日はいつだったかしら」と聞く、とね。つまり、人々が父の日を思い出すのはいつも、とっくに過ぎてしまってからだ、という意味です。)
 しかし、こういう発言もでてきた:
Well, for a lot of of people, Mother's Day is an excuse for a splurge. Like taking Mom out for a fancy gourmet dinner.
(まあ、多くの人にとって、母の日は贅沢をする口実ですね。例えば、母親を高級グルメディナーに連れていくのです。)

6月23日
 「実践ビジネス英語」の”Quote...Unquote"のコーナーで紹介された言葉:
Music is the universal language of mankind.
  ―― Henry Wadsworth Longfellow (U.S. poet and educator, 1807-82)
音楽は人類共通の言語である。
むかし、『ビートルズ・レット・イット・ビー』という映画を見ていたら、ビートルズの音楽をわけのわからない音楽だと言って拒否するおばさんたちの姿が描かれていた。世代や民族・文化によって音楽的な表現も受容も異なり、「音楽は人類共通の言語である」というのは理想でしかない。世界中には実に多様な音楽がある。それを妙音と聞くか、雑音と聞くか、受容もさまざまであるはずである。音楽活動も、音楽教育も、「音楽が人類共通の言語である」という前提に立ってではなく、そういう理想を目指して行われるべきであろう。

遠藤慶太『六国史――日本書紀に始まる古代の「正史」』(15)

6月22日(水)午前中は雨が降っていたが、昼前にやんだ

 奈良時代から平安時代にかけて天皇の命令で編纂された6部の歴史書――『日本書紀』『続日本紀』『日本後紀』『続日本後紀』『日本文徳天皇実録』『日本三代実録』を<六国史>といい、神代の昔から、平安中期に至る国家の動向が連続して記録されている(ただし『日本後紀』のかなりの部分が散逸してしまった)。平安中期以降、貴族社会の変質のために、国家の事業としての歴史書編纂は行われなくなり、貴族の日記がこれに代わって内外の出来事を記録し、先例を参照するための手引きとして利用されるようになった。それらの日記を利用しながら、個人の手で執筆された<私撰国史>が、さらには歴史物語が出現する。
 その一方で<六国史>は朝廷における祭祀にかかわっていた卜部氏によって、それらの祭祀の由来や先例を知る典拠として書写され、伝承された。卜部氏は「日本紀の家」と認められるようになったのである。

 卜部氏には京都の吉田神社の神職になる吉田流と、平野神社の神職になる平野流の2つの系譜があったが、吉田流では『日本書紀』を鎌倉時代の末に卜部兼夏が書写した乾元(けんげん)本が、平野流では同じく鎌倉時代に卜部兼方が書写した神代巻の『日本書紀』である弘安本が伝えられ、それぞれの家の学問を支えた。また兼方は『日本書紀』の注釈書である『釈日本紀』を編集したが、そこには天照大神の本地は大日如来であり、「大日本国」とは「大日如来の本国」という意味であるというような従来にはなかった解釈が展開されていた。「皇室の祖神アマテラスの本地が大日如来であるなど、古代では考えられなかった解釈である。皇室の祖神が変貌するのは、神話の文献を自在に引用解釈し、中世独自の世界観を提示する中世の代表的な見解である。これが「日本紀の家」の最も重要な写本に〔裏書の形で〕知らされている。卜部氏の『日本書紀』研究は、単に先祖の学説を守り伝えただけでなく、時代の要請に応じ新しい解釈を受け入れていたのだ。」(189ページ、〔〕の中は前後の文脈から私が補った。)
 いわゆる「中世神話」が卜部氏の『日本書紀』「神代巻」の解釈に取り入れられているというのは、その通りだと思うが、アマテラスの本地が大日如来であるという考えは、かなり根が深いのではないか。そもそも東大寺の大仏が廬舎那仏(大日如来)であるというのは、伊勢に祀られる皇室の祖神を意識してのことではなかったかと思われるからである。(鎌倉の大仏が阿弥陀仏であるのは、八幡神の本地が阿弥陀仏であると考えられていたからである。)

 その一方で、鎌倉時代以前に行われていた古い<日本紀講>の中で用いられた訓読が残され、その結果として平安時代初期の日本語の訓みが残されているという側面もあるという。(ここで「上代特殊仮名遣い」を「奈良時代に行われていた古い発音の仮名表示」(190ページ)と説明しているのは、国語史の観点から見て、あまり適切な表記ではなく、版を改める際に訂正してほしい。)

 室町時代以降、「日本紀の家」として存在感を高めたのは、吉田流のほうで、朝廷で神器に関する案件が持ち上がった際には意見を求められるなど重んじられるようになったが、その間、自分たちの来歴を高めようと、<六国史>の写本の記事を改竄するようなことまでしたことを著者は指摘している。卜部氏吉田流の兼煕は南北朝合体にかかわるなど、政治的にも大きな役割を果たし、吉田を家の名として公卿の地位を得ることになる。兼煕の跡を継いだ吉田兼敦が早く死んだために吉田家は危機に陥るが、兼煕から『日本書紀』の秘説を伝授されていた、当代一流の学者であった一条兼良から伝授を受けて切り抜ける(この時代の学問は現在のように公開されるべきものではなく、少数の人々に秘伝として伝えられるものであったのである)。
 その後、吉田家からは吉田兼倶(1435-1511)が現れ、「唯一宗源神道」を唱えた。「兼倶が自邸に設けた斎場所には茅葺の八角建物、大元宮を中心に神祇官の八神、伊勢の両宮、日本全国の式内社3132座が祭られた。慶長6年(1601)に再建された大元宮は、兼倶の思想を体現する建築空間として、今も京都大学の東隣、吉田神社(京都市左京区)に現存する。」(196ページ) だんだん、話が<六国史>から離れてきているように思われるが、私もこの大元宮を見た記憶があるので、ここは見逃せない箇所である。

 吉田兼倶の同時代人であり、歌人として知られる三條西実隆(1455-1537)は平安文学を中心に膨大な文献を書写したが、<六国史>の収集と書写にも努めた。『日本後紀』40巻のうち10巻しか伝わらないのは、実隆が入手できたのがこの10巻だけであったためであるというほど、今日の<六国史>研究者は彼の大きな恩恵を受けているのである。吉田兼倶は自分の陣営に実隆を引き入れようとしたが、実隆は兼倶の神道説を受け入れず、むしろ『源氏物語』の研究に力を注いだ。彼の子である公条はその著『明星抄』の中で、「神道では『日本書紀』を「宗源」と呼んだように、(『源氏物語』という書名は「万の道の源」という意味であることは明らかである。」(201ページ) もちろん、これはこじつけであるが、実隆と、彼の子孫である三條西家の公卿たちが『源氏物語』を<六国史>を継承する物語として、その研究を家の学問といた理由を物語っているのである。

バベットの晩餐会

6月21日(火)雨のち曇り

 横浜シネマジャックで『バベットの晩餐会』を見る。デンマークの作家イサク・ディーネセンが本名カレン・ブリクセンで書いた同名の小説をもとに、ガブリエル・アクセルが脚本・監督を手掛け、1987年度のアカデミー賞最優秀外国語映画賞を受賞した作品である。日本では1989年に公開されたが、その時は見逃し、今回のデジタル・リマスター版による再上映で初めて見ることができた。

 1880年代のデンマーク、ユトランド半島の海岸にある小さな漁村に2人の老姉妹が暮らしていた。姉はマルティーネ(ビルギッテ・フェダースピール)、妹はフィリッパ(ボディル・キュア)といったが、これは宗教改革を始めたマルティン・ルターとその僚友であるフィリップ・メランヒトンの名にちなむものであった。姉妹の父親(ポウェル・ケアン)はルーテル派の中で(前後の文脈があまりよく読み取れなかったので、推測で書くが)敬虔主義的な分派を結成した牧師で、かなり以前に没していたが、姉妹はその遺志を継いで、その時間を信仰と慈善活動とに費やしていた。若いころ、姉妹は大変に美しく、その美貌に惹かれて教会にやってくる若者が少なくなかったが、自分の活動を手伝ってくれる娘が離れていくことを嫌った父親が、若者たちの求婚を退けるうちに、2人は年老いてきたのである。信徒たちの数は減り、彼らもまた年老いてきたが、姉妹のもとで集会が続けられていた。その家で、家事を手伝っているのは、パリ市の動乱で家族を失ったバベット(ステファーヌ・オードラン)という未亡人であった。

 姉妹が若いころ(マルティーネをヴィーベケ・ハストルプ、フィリッパをハンネ・ステンスゴー)、村の外からやってきて、彼女たちに恋した男が2人いた。1人はスウェーデンの将校であるローレンス(グドマール・ヴィーヴェソン)で、借金を作ったためにこの村に住む伯母の館で謹慎させられていたのだが、マルティーネを見初めて、牧師を囲む集会に出席するようになる。しかし、マルティーネと結婚できないことが分かると、スウェーデンに戻り、信仰心の深い王妃に取り入ることに成功し、その侍女と結婚して出世街道を歩み始める…。もう1人はフランスのバリトン歌手アシール・パパン(ジャン=フィリップ・ラフォン、実際にバリトン歌手である)で、フィリッパの声の美しさに魅せられて、歌のレッスンを申し出る。レッスンを続けるうちに、フィリッパのほうでこれ以上レッスンを続けることを断る(はっきりした理由は語られていないが、レッスンの内容となる歌曲が世俗的な愛の歌であることと、声楽のレッスンの場合、教師が生徒の体に触れたりすることはごく当たり前に行われることが、彼女の信仰心と相いれなかったのであろうと推測できる)。ローレンスもパパンも姉妹のそれぞれにふさわしい相手で、彼らの恋も真剣なものであったことが、映画の後半部分に影響する。

 1870年代のある嵐の夜、姉妹のもとを訪れた女性がいて、パパンの手紙を携えていた。その女性がバベットであった。第二帝政の崩壊時に、夫と子どもを処刑され、自分の命からがら逃げだした彼女は料理の名手であることを述べて、姉妹の身近で働かせてほしいと述べられていた。姉妹は始め、自分たちの経済状態では人を雇えないといったが、彼女のたっての願いを受け入れて、家政を任せる。バベットは村の暮らしになじみ、姉妹の生活も少しずつ楽になる。

 それから14年だったか、15年だったかが経ち、姉妹も信徒たちもさらに年を取り、信徒たちの間では昔のことを思い出しては、いさかいが絶えなくなっていた。一方、バベットはフランスにいる友達と宝くじを買ってもらうだけの文通を続けていたが、ある時、その宝くじが当たって大金が手に入る。それで姉妹が、自分の父親の生誕100年を祝う食事会を開こうとするのを知って、かつてフランス料理のシェフとして働いていた腕を振るった料理を提供する、晩餐会を開くことを申し出る…。そしてその晩餐会には、今や将軍に出世したローレンス(ヤール・キューレ)が伯母とともに出席することが知らされる…。

 バベットはフランスから料理の材料を取り寄せて、料理に取り掛かるのだが、これまで見聞きしたこともない材料が運ばれてくるのに、姉妹も村の人々もびっくりする。地元の食材を生かして料理を作るというのも、料理人としての生き方だと思うのだが、彼女は、パリのレストランで、自分が客に出していたのと同じ料理を提供しようとする。正直なところ、<ウミガメのスープ>だの、<ウズラのパイ>などというメニューはぞっとしないのだが、このあたりに彼女のこだわりがある…というだけでなく、原作者であるディーネセンの考え方が出ているのかもしれない。それでも、映画を見ていると、料理を食べるほうは(ローレンスを別にして)戦々恐々としており、裏方として料理を手伝っている老人と少年のほうが生き生きとして見えるのは、どういうことであったのか…。

 晩餐会を通じて、そこに集まった人々の気持ちがなごみ、信徒たちの間には一体感が復活し、ローレンスとマルティーネの間には新たに信頼感が生まれたように見える。料理を味わうというのは、現世的、世俗的なことなのだが、そのことを通じて、人々は彼岸の世界が近づいてきたような気持になる。そういう物語を通じて、人生の目的はなんであるのか、この世にあるのか、来世にあるのか、そんなことを問いかけているようでもある。

 バベットを演じているステファーヌ・オードランはエリック・ロメールの『獅子座』(1959)、クロード・シャブロルの『いとこ同士』(1959)などに出演した後、シャブロルと結婚して、彼の作品の中でわき役を演じ続けてその製作活動を支え、主演した『女鹿』(1968)でベルリン映画祭の女優賞を獲得した女優である。ジャン=リュック・ゴダール夫人であったアンナ・カリーナが常にゴダール作品では主演し続けたのとは対照的だが、両方ともその後離婚したのは共通している。シャブロルの夫人であったころから、アナトール・リトヴァクの『殺意の終末』(1970)とか、ルイス・ブニュエルの『ブルジョアジーの秘かな愉しみ』(1972)などの作品に出演していた。『獅子座』では主人公を追い出すホテルの女主人の役で、なんとなく意地の悪そうなところが一つの持ち味で、サスペンス映画(シャブロルは「フランスのヒッチコック」という異名も持っていた)などで強い個性を発揮していた女優である。この作品では、そういう意地の悪そうなところが消えて、一種の風格が漂う、堂々たる演技を見せている。(『殺意の終末』はセバスチャン・ジャプリソの推理小説『新車の中の女』の映画化で、この映画を見に、わざわざ京都から大阪の千日前まで出かけたことを思い出す。)

 老いたローレンスを演じているヤール・キューレはイングマル・ベルイマンの『ファニーとアレクサンドラ』などに出演している俳優であるが、ベルイマンといえば、スウェーデンを訪問したパパンがどこか静かなところで休息したいというと、それならユトランドにいい場所があるといって勧める貴婦人を演じているのが、スウェーデンの名女優ビビ・アンデッショーン(アンデルソン)で、特別出演という感じであろうか。この作品の一般の解説には彼女が出演していることが書かれていないものが多いので、注意を要する。実は、ビビ・アンデッショーンは私の好きな女優の1人なのである。

 この映画のシネマ・ジャックでの上映は6月24日までで、上映時間は11:35~13:30、ご覧になりたい方はお急ぎください。 

塔に住んで

6月20日(月)晴れのち曇り

塔に住んで

塔に住んで
コペルニクスのように星を眺め
モンテーニュのように本を読んで 考えにふけり
イェイツのように 詩を書きたい

現実派というと
アパートの2階に住んで
都会の空に頼りなく光る 星の光を追いかけ
整理の悪い本棚から あれやこれやの本を引っ張り出して 駄文をこねている
思想が沸くことはほとんどなく 日々を過ごしている

それでも
少しずつ前進していこう
コペルニクスが生涯見ることのなかった 水星を見て
モンテーニュよりも広く多様な世界を見据えて 学識を磨き
詩を書き続けていこう

(二番煎じは避けたいと思っているのだが、2012年12月6日の当ブログに書いた詩に、少し手を加えて再度発表する。「経済、政治については何も知りませんが、便宜上文化と呼ばれているものには深い関心を持ち、それが全世界で栄えることを望んでいます」とエドワード・モーガン・フォスターは語った(「反ナチス放送講演3篇」の中の第1篇「文化と自由」、E.M.フォースター著作集11『民主主義に万歳二唱 1』所収、49ページ)。フォースターと同じような立場から、いろいろな事柄について、書きたいことはあるのだが、うまく考えをまとめられず、彼もモンテーニュに対する敬慕の念を語っていることから、自分なりに出発点に近いところに戻ってみようと、以前に書いた詩に改めて手を加えてみた。以上蛇足まで。)

ダンテ・アリギエリ『神曲 煉獄編』(30-2)

6月19日(日)晴れ後曇り後雨

 人生の「暗い森」をさまよっていたダンテは、天国の貴婦人であるベアトリーチェの依頼を受けたローマ黄金時代の大詩人ウェルギリウスに導かれ、地獄を通り抜け、地球の南半球にある高い山である煉獄山を登って、その頂上にある地上楽園に達した。煉獄山を登る途中で、ローマ白銀時代の詩人スタティウスが2人に合流していた。地上楽園で3人は美しい貴婦人に出会い、ここが人類が生まれて、その歴史の最初の時代を過ごし、その罪のために追放された場所であることを知らされる。
 貴婦人はダンテに彼がそれから出会うものに注意するように促し、彼の目の前に精霊からの7つの贈り物を表す7つの燭台の光を見る。それに続いて旧約聖書、新約聖書を擬人化した人々の行列が続き、イエス・キリストを表す霊獣グリフィンに牽かれた戦車が進んできて、止まった。そして、ダンテの目の前に、1人の貴婦人が降臨した。彼女はその顔を隠していたが、彼が昔、『新生』でその思いをうたい上げた女性であることがすぐにわかった。

これ以上ははっきりと目で確かめられなくとも、
あの方から発する神秘の力のために、
かつての古い愛の大いなる強さを感じた。
(445ページ)

 そして彼は、左側を向き、
恐怖を感じた時や心を痛めた時に
幼子が母親に助けを求める視線を向けて

ウェルギリウスに言おうとした、「ほんの幾許(いくばく)かの
血でさえ私の中で震えていないものはないのです。
かつての炎の現れが分かるのです」。
(446ページ) 傍注によると、これはウェルギリウスの『アエネーイス』の第4歌23行をそのままラテン語からイタリア語に翻訳したものだという。手元にある岡道男・高橋宏幸訳(京都大学学術出版会)によると「この方ただ一人だけが私の感覚をたわめ、よろめくばかりに心を/突き動かした。私にはわかる、これは昔の炎の名残。」(145ページ) どうも違いが大きいので、泉井久之助訳(岩波文庫)を見ると「わたしの心をゆるがせた、人はあの方ばかりです。/古い焔のあとかたが、胸にあるのを感じます。」(上巻、207ページ)となっている。これは、『アエネーイス』の主人公であるアエネアスが、トロイアの滅亡後、新しい安住の地を求めてさすらう途中で、恋に落ちたカルタゴの女王ディードーが、彼が去ったことを知っていうセリフである(詳しい状況を説明すると、話が長くなる)。翻訳者である原さんは、「ここでダンテが、「かつての炎の現れが分かるのです」と言おうとしたくだりは、尊敬するラテンの詩人へのオマージュとなっているだけでなく、多くの詩人の種火となり、ダンテに『神曲』を書かせることにもなったウェルギリウスとその作品に対して、世を照らした『炎』だったというダンテの評価を、文脈を離れて明らかにしている。そしてダンテはその炎を継いだのだ」(613ページ)と論じている。言葉だけ取り上げてみれば、そういう議論もできるだろうが、言葉が発せられている文脈を考えると、複雑な気分にさせられる。

だが、ウェルギリウスは私達を残して
立ち去っていた、ウェルギリウス、やさしい父は。
ウェルギリウス、救いを求めて私自身の身を託した方は。
(446ページ) 「私達」というのは、ダンテとスタティウスを指す。善良ではあったが異教徒であるウェルギリウスはそれ以上進むことを許されず、リンボに戻らなければならなかった。一方、生前、キリスト教信者であることを隠していた罪を煉獄で償ったスタティウスは、さらに天国まで進むことができる。

 彼の耳元に、貴婦人の声が聞こえる。
「ダンテ、ウェルギリウスが行ってしまったからといって、
まだ涙を流してはならぬ。まだ涙を流してはならぬ。
これとは別の剣によりお前は涙を流さねければならぬ」。
(447ページ) ウェルギリウスとの別れを悲しむダンテに対し、貴婦人は艦隊を指揮する海将さながらの態度で、ダンテに対し己の罪を悔悛しなければならないことを告げた。なお、傍注によれば、ダンテの全作品中で、自身の名を作品中に出すのはここだけだそうである。後に見るように、罪の赦しのための悔悛は、個人の責任のもとに行われるため、ここでその名を明らかにする必要があったという。

 神の知恵のアレゴリーである「ミネルヴァの枝」(=オリーヴの枝)によって締められた面紗がその顔を隠してはいたが、貴婦人は威風に満ちた態度で語り続けた。
「よいか、ここを見よ。よいか、私だ、よいか、私だ、ベアトリーチェだ。
なぜおまえはこの山を登る気になった。
おまえはここで至福に至ることを知らなかったか」。
(449ページ) ある時期のダンテが、人は自身の力だけで世界のすべてを知り、至福に至ることができると考えていたことを知っていた彼女は、なぜ彼が神の世界に足を踏み入れることになったかと追及する。

 『地獄篇』(47ページ)の傍注によると、ベアトリーチェという名は<恵みをもたらすもの>、つまり<神の恵み>を表し、作品中では神学のアレゴリーとなっている。この登場人物はフィレンツェの女池の娘ベアトリーチェ・ポルティナーリ(1266-90)と同一視され、彼女への恋愛感情がダンテの詩的原動力とされてきた。最初期の詩想の源は彼女であったかもしれないが、現在『神曲』については純粋に詩的な存在と考えられている。ベアトリーチェとの交流を詩と文章でつづった『新生』は彼の自伝的な作品と考えられてきたが、歴史的な事実と符合しない(つまり創作が交えられている)ことも確認されているそうである。

 ダンテの別世界への旅行を企画したのはベアトリーチェであったが、ダンテと出会った彼女は、彼が罪の悔悛を果たしていないことを責める。まことに厳しい態度である。

『太平記』(109)

6月18日(土)晴れ、暑し

 鎌倉幕府の滅亡後、隠岐から京都に戻られた後醍醐天皇を中心として、朝廷に一元化された政治が行われるようになったが、倒幕にかかわる恩賞の不公平や性急な内裏の造営など、武士をはじめとしてその政策に批判や不満を持つ人々が少なくなかった。その声を反映するかのように、怪しい出来事が起きた。建武元年(1334)8月、隠岐広有に命じて内裏に飛来する怪鳥を射させることがあり、また天下の妖気を消すべく、弘法大師ゆかりの神泉苑が再興された。
 建武2年3月(史実では建武元年10月)、足利高氏と対立していた護良親王が、高氏の讒言により逮捕・拘禁された。高氏の讒言を後醍醐天皇に取り次いだのは寵姫の阿野廉子だった。

 護良親王は、当時二条富小路にあった内裏の1町西の二条高倉(二条通と高倉通りの交差点)に造営された馬場殿の一間四方の部屋に押し込められた。(1間≒1.8メートルで、1間四方ということは1坪≒3.24平方メートル、8畳の部屋に相当する。私の学生時代に8畳の下宿に住んでいるのものはまれであった――たいていはもっと狭い部屋を借りていた――が、時代も身分も違いすぎるので、これは参考にはなるまい。) 部屋の周囲をクモの脚のように材木を厳重に交差させ打ち付けた中に住まわせられて、面会に訪れるものは1人もなく、日々を泣きながら過ごすことになった。いったい自分はどのような因果で、元弘年間には幕府の追及を逃れて、倒木の下や岩陰に隠れ、また寝起きして、露に濡れた袖を乾かすこともせずに過ごし、京都に戻ったのちは、1日の楽しみが終わらないうちに、讒言をするものが現れたために罪人の汚名を着せられ、刑罰に苦しむことになったのかと、自分にはわからない前世の行いの報いをことごとく思いめぐらせたのであった。
 事実無根の噂は長続きしないといわれているので、今お怒りになっている天皇もいずれは事の真相をお知りになるであろうと、思われていた。ところが、朝廷の評議は「遠流」に決まったという噂が聞こえてきた。律令政治の下での刑罰では流刑は死刑に次いで重い刑で、京都からの距離で近流・中流・遠流と分けられ、遠流が最も重い流刑であった。それを聞いて悲しみのあまり、親王は気心を通じていらした女房に命じて(誰も面会に訪れるものはなくという前段の記述と食い違う)、詳しい弁明のお手紙を書かれ、伝奏(てんそう=天皇への上奏を取り次ぐ職)に託して、正しい事情をお伝えするようにと仰せ付けられた。

 以下、その手紙が続くが、省略させていただく。このような手紙がなぜ、『太平記』の作者の知るところとなったのかはわからない。あるいは作者が親王のお気持ちを忖度して、想像で書いたのかもしれない。私は、『平家物語』の終わりのほうで、壇ノ浦の合戦で捕虜となった平宗盛親子を連れて鎌倉に戻った源義経が、頼朝の勘気を受けて、鎌倉に入ることを許されず、弁明のために書いたとされる「腰越状」を思い出すのである。「腰越状」が直接に頼朝宛には書かれず、その側近の大江広元宛に書かれているように、護良親王の消息も「前左大臣殿」あてに書かれている(「前左大臣」が誰かがわからない――岩波文庫版の脚注には二条道平と記されているが、史実と照合しないという異論もある――ので、余計、この手紙が胡散臭いのである)。なお、「腰越状」 も偽作であるという説が有力であることを書き添えておく。先に、護良親王が『太平記』の中では源義経になぞらえられているという説に触れたが、ここもその一例ではないかと思うのである。

 この手紙の内容が、もし天皇のお耳に入ったならば、罪を許すというお沙汰もあったかもしれないのであるが、伝奏の役人が天皇の側近の人々の怒りを買うことを恐れて、ついに上奏することはなかったので、天皇のお耳には届かず、心からの訴えは通らなかった。しかもこの2・3年の間、親王に付き添って、忠義に励み恩賞にあずかろうとしていた候人(こうにん=妻帯の僧)たち30人余をひそかに処刑してしまったので、もはやとやかく言っても無駄という次第になってしまった。

 ついに建武2年5月5日(史実は建武元年11月)に護良親王を足利高氏の弟の直義に引き渡したので、佐々木(京極)道誉をはじめとする数百騎の軍勢が道中の警護に当たり、鎌倉に護送して、二階堂谷(やつ)に土牢を作ってその中に幽閉した。
 親王の父である後醍醐天皇は遠流の地である隠岐を脱出して帝位に返り咲き、さらに古く源頼朝は伊豆に流されたものの、平氏打倒の兵を起こして勝利し、征夷大将軍になった。しかし、政敵である高氏の弟の直義に引き渡され、高氏の盟友である佐々木道誉が護送するということになると、再起の望みは極めて薄いことになる。鎌倉幕府の末期の元弘2年(1332)に道誉は後醍醐天皇の側近であった源具行を(表向きは)鎌倉に護送する途中、幕府の密命で近江の柏原で斬ったという前例がある。

 持明院保藤の娘で南の御方と呼ばれる身分の高い女房1人以外は、おそばにいるものはおらず、月日の光も見えない暗い部屋の中で、横殴りに降る雨に袖を濡らし、崖から滴り落ちる滴に枕も乾くことなく、半年を過ごされた、その心中を推し量ると悲しみでいっぱいであったと思われる。天皇は一時の怒りに駆られて、鎌倉に遠流という沙汰をおくだしになったのであるが、これほどひどい目に合わせようとはお考えではなかったのに、直義が、以前からの怨みがあって、土牢の中に拘禁してしまったのはあさましいことであった。

 『太平記』の作者は親王の消息の中に「申生死して晋の国傾く」という字句に読者の注意を向けさせ、親孝行な息子が父親に対して誠実な態度をとっているのに、継母が自分の邪魔になる先妻の子を除こうとして讒言を用いるようなことがあると、国を傾け、家を失う例が少なくないと、『史記』晋世家その他に見える晋の献公と、その后の死後に寵愛を受けた驪姫、その讒言によって殺された献公の長男の申生、国を捨てて亡命した重耳(後に晋に復帰して春秋五覇の1人となった文公)、夷吾(後の恵公)の説話を記す。この部分は省略するが、最後に、次のように書いて12巻を締めくくっていることを付け加えて置く:
「そもそも今、兵革一所に定(しず)まりて、廃帝重祚を践み給ふ御事は、ひとへにこの宮の武功に依りし事なれば、たとひ小過ありとも、誡めてしかも宥めらるべかりしを、是非なくして敵人の手に渡されて、遠流に処せられん事は、朝庭再び傾いて、武家またはびこるべき瑞相にやと、人々申し合ひけるが、はたして大塔宮失はれさせ給ひし後、忽ちに天下皆将軍の代となりにけり。「牝鶏の晨(あした)するは、家の尽きんずる相なり」と古賢の云ひし言(ことば)の末、げにもと思ひ知られ足り。」(第2分冊、283-284ページ、そもそも今、戦乱が短期間で鎮まって、後醍醐天皇が再び帝位につかれたことは、ひとえにこの宮の武功によることであったので、たとえ小さな過失があったとしても、諫めることは諫めても寛大に処すべきであったのに、事の善悪を顧みず、直ちに敵の手に渡されて、遠流という刑を下されたことは、朝廷が再び傾いて、武家がまた盛んになる瑞相(=めでたい予兆)ではないのかと人々は噂したのであるが、果たして大塔宮が亡くなられたのちに、忽ちに天下は皆足利高氏のものとなってしまった。「めんどりが朝の時を告げる(後宮の女性が政治に口出しする)のは、家(国)の滅びるしるしであると、昔の賢者が言ったことは確かにその通りであると思い知らされることであった。)

 『太平記』の作者はこのように、護良親王に同情的な意見を述べているが、森茂暁さんが『太平記の群像』で書いているように、「徹底的な天皇独裁制を貫徹すべく摂政・関白のポストを置かなかった後醍醐にとって、たとえ皇子であろうと征夷大将軍を置くことは明らかに政治路線の後退を意味した」(森、角川文庫版、93ページ)のであって、天皇と親王の間も必ずしも円滑なものではなかったことを考えるべきである。しかし、その森さんも、「享年28歳。倒幕戦での果敢な活躍、かの勇壮な入洛とはうらはらの、あまりにも悲惨であわれな最期であった」(同上、94ページ)と、親王への同情を込めた書き方をしているのは、当然と言えば当然のことであろう。ただし、「瑞相」という言葉は、明らかに武家の立場から発せられたものであり、『太平記』の複雑な成り立ちが、こういう表現からもうかがわれるのである。第13巻(護良親王の最期もその中で描かれている)になると、事態は急展開を始めるが、それはまた次回以降に紹介していくことにする。

宮下奈都『田舎の紳士服店のモデルの妻』

6月17日(金)晴れ、暑い。

 6月16日、宮下奈都『田舎の紳士服店のモデルの妻』(文春文庫)を読み終える。

  専業主婦の梨々子は、夫の達郎がうつ病になり、田舎へ「帰ろうと思ってる」(13ページ)と言い出したことで、不本意ながら、「北陸の一番目立たない県の県庁所在地」(21ページ)に引っ越すことになった。生まれも育ちも八王子の彼女は、都心の会社で上司から「田舎つながり」の同僚を紹介されて、彼が社内で有望視されている存在であるために、「ほとんど体当たりで何とか捕獲した」(21ページ)。その夫が、うつ病で退社して、自分の親が経営する小さな会社を手伝うことにしたのである。

 幼稚園でのママ友の1人である筒石さんから彼女は餞別として10年連用日記を渡される。梨々子はその笑顔を見ながら、彼女の自分に対する一種の敵意と、自分の10年後の将来が得体のしれないものであることに気付く。実際に夫の故郷である地方都市に移り住んでみると、当惑することが多い。マンションの隣人は笑顔を見せない。ところがその隣人たちが、達郎を紳士服店のチラシの写真のモデルに推薦し、彼は1年に1度、仕事を務めることになる(だから「モデルの妻」といっても、「専業モデルの妻」というわけではなく、題名の意味は、読んでみなければ本当にはわからないのである)。地元紙にだけ挟まれるチラシの束の中の1枚に載っている写真である。こうして、梨々子の「田舎」での生活が始まる。物語は日記の内容を2年ごとに追う形で展開される。

 宮下さんの小説は「北陸の一番目立たない県の県庁所在地」を舞台にして、東京からそこに移り住む人間の失意とその後に起きる自分自身の発見が描かれることが多い。その一方で、必ず音楽にかかわるエピソードが現れるのもその特徴であり、この作品も例外ではない。宮下さん自身が30代後半まで舞台となった地方都市で3人の子どもの子育てに取り組んだという経験が、子どもの姿や姑や実母との関係はもちろんのこと、学校の担任の先生とのやり取り、地域の人たちとの交流にも生かされているはずである。一方で、作者が語らずに、読者の想像に任せている部分が多いのも相変わらずである。達郎がなぜうつ病になったのかがわからないのはある意味で当然であるが、彼の会社での地位の変化とか、梨々子の義理の兄夫婦の問題とか、描かれないまま何度なく投げ出されている問題は少なくない。夫はうつ病、2人の息子はそれぞれの理由は違うが、学校になじめないで問題を起こすというのは、かなり大変な状況のはずであるが、梨々子は、それらの問題に平静に対処しながら、次第に地域になじんでいく・・・。平静に対処できたのは、それなりの理由があったのであるが、それは読んでのお楽しみということにしておこう。この物語で最も作り話めいた部分と関係があるとだけ言っておこうか。それでも作者は、梨々子の次男の問題をめぐって、「話す言葉が遅れがちだったうえに、読む言葉にもあまり興味を示さないため、教えることをなおざりにしてきた。特別に遅れているわけではない。今はまだその時期ではないだけだと思う。もちろん、それは梨々子に都合のいい解釈であって、あの時専門家に診せていれば、あるいはせめて保健センターの育児相談に連れて行っていれば、といつか後悔する可能性がないとも限らない」(109ページ)と書いている。ここでヒロインの心情よりも、より客観的な作者の目が顔を出していることにも注目すべきであろう。(都合のいい解釈をして、次男の問題に必死に向き合わなかったのは、引っ越した土地への違和感が手伝っていたという推測も成り立つ。)

 「田舎」というが、県庁所在地は、そうではない市町村から出てきた人間からすれば歴とした「都会」である。問題は、その「都会」の範囲が広く、近年「平成の大合併」によってますます広くなっていることである。ということは、同じ「市」の中に「都会」と「田舎」が混在している状況が、かなり一般的になっているということであり、梨々子の地元である八王子市でも同じことがいえるのではないかと思ってしまう。

 宮下さんが高校までを過ごした(のちに子育てをした)北陸地方の県というのが、私が最初に就職した職場のある県であり、梨々子は30歳近くで地方に移り住み、私も同じように30歳前後で就職したので、彼女が感じた違和感はわからないでもない。とはいえ、私の職場は、県庁所在地ではないところにあったのだから、梨々子の様々な不安や不満はかなり贅沢なものだと思ってしまうところがある。まあ、私の場合、「田舎」の学校に就職することは当然だと思っていたので、職場の所在地や職場に対する不満というよりも、自分がよりによって教養部時代に不合格だった科目の教師として就職させられたーー自分が全く正当に評価されていないことへの不満が、大きかったというのが真相ではあったのだが…。そういうわけで、就職してはじめのうちは、京都や大阪に足を延ばしていたのが、そのうち、県庁所在地に出かけるだけで、ちょっと満たされた気持ちになっていたことを覚えている。地方に住む人間にとって県庁所在地はやはりそれなりの夢の場所なのである。

 梨々子とは違って、自発的に10年連用日記を買って、ずっと書き続けようと思ったことがあり、その日記帳は今でも手元にあるが、ほとんど何も記入されていない。自分の経験を踏まえても、2年、3年というのは日記を書きやすく、将来の計画も立てやすいのだが、10年というのは戸惑ってしまうところがある。自分がその10年を7たび重ねてきたのかと思うと、たどってきた人生の乱雑さに改めて恥じ入るだけである。この小説では10年たって、梨々子がどのように生きているかだけでなく、日記を渡した筒石さんのその後も語られる。それがどんなものかは読んでのお楽しみである。

日記抄(6月10日~16日)

6月16日(金)雨が降ったりやんだり

 6月10日から本日までの間に経験したり、考えたことなど:
6月10日
 NHKラジオ「まいにちロシア語」応用編に登場したなぞなぞ(面倒くさいので、謎の部分のロシア語は省略):
 夏は畑で、
 新鮮、緑。
 冬は樽の中、
 固くて、しょっぱい。

 答え: Огурцы

 じっとしているおじいさんが、オーバーを着ています。
 脱がそうとする人は、
 涙を流します。

 答え: Лук

 最初の謎の答は「キュウリ」、2番目の答は「タマネギ」。ロシアのキュウリとタマネギを食べたことはもちろん、観たこともないが、日本のものよりも大きいのではないかと勝手に想像している。問題は大きさではなく、どんな味がするかだ‼

6月11日
 シネマジャックで『つむぐもの』を見る。初日だったので、上映後に犬童一利監督の舞台挨拶があり、質疑が交わされた。越前市を中心とする福井県の丹南地域と、韓国の扶余(プヨ)を舞台に、妻を亡くし要介護となった和紙職人と、勘違いで来日した韓国人ヘルパーとが、ぶつかり合いながらも、次第に心を通わせていく。和紙職人を芸歴50年目にして初主役という石倉三郎、ヘルパーをキム・コッピが演じている。犬童監督によると、越前市と扶余との交流がひとつのきっかけになって、和紙作りという伝統産業の継承、介護の問題を組み合わせて取り組んだということだが、問題が多すぎてストーリーが拡散し、不自然になっているのではないかという印象を拭い去ることができなかった。

 東海林さだお『レバ刺しの丸かじり』(文春文庫)を読み終える。内容よりも、解説で平松洋子さんが触れている東海林さんの入院の件が気になる。「さて、12月某日、無事に社会復帰を果たした東海林さんを囲んで、地元西荻窪でささやかな退院祝いを催しました。退院以来、初めてのおんも。不本意な食事事情に甘んじてきた東海林さんにとって、待望の、しかしおそるおそるの外ごはん。ただし、何より好きなビールはしばらくお預けだと言われちゃってねえ、と哀しげな表情です。」(229ページ、平松さんの解説より) あとはどうなったか、ご自分で確かめてみてください。

6月12日
 Eテレの『日本の話芸』で入船亭扇遊師匠の「明烏」を視聴する。堅い一方のせがれの将来を心配した父親が町内の遊び人に頼んで、御稲荷さんのお籠もりだと偽って、吉原へと連れだしてもらう。はじめのうちは騙されていた息子であるが、とうとうここが吉原だと気づいて…。といっても、噺の冒頭でも触れられていたように、吉原の廓がなくなってから60年近い日時がたってくると、この噺の面白さというのが伝わりにくくなってきているのではないか。私が若いころに廓噺を聞かせていた落語家たちは、「私も見学に行きました」などと自分の経験を差し挟んでいたが、そういうことも難しくなっているわけである。

 私の住所一帯の鎮守の神社の祭礼と近くの高校の学園祭が重なる。高校の学園祭の方が圧倒的に人気を集めて、市営バスが増発されるほどの盛況ぶりであった。学園祭の人気と神社の祭礼の不人気を対照して、大いに考えさせられた。

6月13日
 NHKラジオ「まいにちイタリア語」の「聴きとってみよう」のコーナーで放送された会話:
Moglie: Andiamo a vedere questo film? (妻: この映画、観に行かない?)
Marito: È un film d'amore, vero?  (夫: 恋愛映画だろ?)
Moglie: Sì, ma da cosa lo capisci? (妻: そうだけど、どうしてわかるの?)
Marito: Daltitolo! Senti, io preferisco rimanere a casa. (夫: タイトルを見ればね! あのさ、 僕は家にいるほうがいいや。)
私は、恋愛映画を見るのはそれほどいやではない。むしろ男性向きにつくられているような映画の方を敬遠したいところがある。

6月14日
 NHKラジオ「まいにちフランス語」で《entendre》と《écouter》の違いが説明された。《entenre》な「意思とは関係なしに、耳に入ってくる」、《écouter》は「意思をもって聞く」という違いがあるという。例えば、ラジオで音楽が流れた後に、こんなナレーションが入る。Nous venons d'entendre la symphonie no 2 de Brahms. (ブラームスの交響曲第2番をお聞きいただきました。) うーん、ブラームスの4番まである交響曲のうち、ここで2番が出てくるのはなぜか、番組関係者の誰かが好きな曲なのか?などと余計なことを考えてしまった。

6月15日
 日活ロマンポルノの初期に活躍した中川梨絵さんの訃報が流れたかと思ったら、東宝の主力女優の1人であった白川由美さんが亡くなったというニュースが報じられた。お二人の年齢差は12歳で、活躍された時期を振り返ってみると、日本の映画の歴史の一断面を知ることができる、などときいたようなことを書いたが、実はお二人の出演作品はほとんど見ていない。白川さんの出演作では川島雄三の『特急ニッポン』(これはなかなかの傑作)を見ているくらいである。夫君であった故・二谷英明さんの映画はかなりの数みているのだが・・・。

6月16日
 北海道南部を中心に東北地方にも広がるかなり強い地震がありました。幸い、大きな被害は出なかったようですが、揺れを感じた方々にお見舞い申し上げます。余震に気をつけてください。

 NHK「ラジオ英会話」に出てきた表現:
"the life of the party "というと「場の盛り上げ役」、逆に〝the death of the party"というと「盛り下げ役」ということになる。

 宮下奈都『田舎の紳士服店のモデルの妻』(文春文庫)を読み終える。

下川裕治『ディープすぎるユーラシア縦断鉄道旅行』

6月15日(水)曇り

 下川裕治『ディープすぎるユーラシア縦断鉄道旅行』(中経の文庫)を読み終える。「中経の文庫」の1冊であるが、KADOKAWAから出版されているというところが不思議である。奥付によると発行日は6月17日であるが、書店で12日ごろに見かけて、14日に購入した。400ページ近い本であるが、買ったのが14日の19時過ぎで、読み終えたのが15日の21時前という、かなり速いペースで読み通した。それだけ読み応えのある内容が詰まっている。

 アジアを中心に格安旅行を展開し、その記録を発表してきた下川さんと、その相棒であるカメラマンの中田浩資さんが、ユーラシア大陸最南端の鉄道駅であるシンガポールのウッドランド駅から鉄道路線を乗り継いで、大陸最北端のムルマンスク駅を目指す。この経路の大部分が、昔、中国でとれたお茶を陸路ロシアまで運んだ最後のシルクロードともいわれる茶葉の道と重なる。ということで、バンコクからお茶の研究家である須賀努さんが加わって3人旅となる。

 第1章 最南端駅からアジアの風に吹かれて北上1920キロ
      ――シンガポールからバンコクへ
 第2章 ようやく開いた土煙の国境道340キロ
      ――バンコクからダウェイへ
 第3章 激しい揺れとダニにやられるミャンマー列車1680キロ
      ――ダウェイからムセへ
 第4章 茶葉を追いつつ中国縦断5108キロ
      ――瑞麗から北京へ
 第5章 マイナス20度の草原を北上、1735キロ
      ――北京からスフバートルへ
 第6章 寝ても覚めてもタイガのシベリア。
      最北端駅へ7953キロ
      ――キャフタからムルマンスクへ
という6章からなり(須賀さんが書いた「万里茶路を行く」という「附章」が付け加えられている)、ここで示されている距離数を合計すると18736キロということになり、もう少しで地球を半周しようかという距離である。残念ながら、鉄道を利用できなかったり、鉄道そのものが開通していなかった部分がある。また、ミャンマーから中国へと国境を超えることが許されず、ミャンマーからいったん帰国して、中国に入国し、ミャンマーに一番近いところから旅行を続けるというような苦肉の策もとられている。

 全体としてみると、これまであまり日本の旅行者が足を踏み入れなかったミャンマーにおける鉄道旅行の顛末である第3章が一番読み応えがある。章題にあるように下川さん一行はダニにやられ、ミャンマーの鉄道の縦横の「揺れ」に苦しめられ、散々な目に合うのだが、それだけ生々しい迫力が感じられる箇所である。それに比べると、シベリア鉄道の旅が大部分を占める第6章では好奇心の働かせようがないくらいに疲れ切っているのが対照的である(宮脇俊三が『シベリア鉄道9400キロ』で見せている好奇心とは大変な違いである。そういえば、『シベリア鉄道9400キロ』は角川文庫に入っていたはずである)。できるだけ金をかけずに旅行しようという意図が相変わらず旅行の全体を貫いているのだが、それが旅行者と、それに対応する人々の様々な人間模様を描きだすことになっている。大学で歴史を勉強し、『中央公論』の編集者であった宮脇の旅に対する取り組みの端正さに比べると、こちらは雑然としているが、それでも植民地支配や、中ソの関係の変化など、歴史の動きが旅行の経験を分析する際にきちんと視野に入れられているのは大したものである。

 そうした目は、マレーシアのブミプトラ政策をめぐって「マレーシアはマレー人、華人、インド系住民などで構成される多民族国家である。それは、運送業の世界では、見事に色分けされていた。マレー鉄道はマレー人、長距離バス会社を経営するのは華人、LCCのエアアジアはインド系だった」(30ページ)というような箇所に現れている。人々は国内移動に際して、長距離バスやLCCを選び、鉄道を利用しないが、赤字経営の鉄道はマレー人系であるために政府からの援助を受けることができる。あるいはミャンマーの中国との国境近くに住んでいた、清朝時代のイスラム教徒弾圧を避けて逃げてきた回族の末裔であるパンディーと呼ばれる曲少数民族が交易と文化交流に果たした役割への関心なども注目すべき個所である。

 主題の1つであるお茶をめぐる見聞もいろいろあり、中国の長沙の茶市場での経験や、赤壁でロシア人が作っていた茶の工場の跡を探るくだりも興味深い。そして帝政時代のロシアの貴族たちが中国から輸入された高価で高級な紅茶をサンクトペテルブルクで味わおうという下川さんの目論見は成功するのであろうか?――というのも物語を支える興味の一つである。
 本文の末尾にムルマンスクのホテルの一室で「ビールを飲みながらオーロラを待つ。旅は終わった。オーロラは出なかった」(351ページ)という下川さんの写真が掲載されているが、そのビールのラベルに”Степан Разин(スチェパン・ラージン)”(17世紀の後半に帝政に対する反乱を起こしたコサックの頭領)と記されていて、そこにはオーロラとはまた別のロマンの気配が漂っているのが見て取れるのである。

松前健『日本の神々』(2)

6月14日(火)晴れ後曇り

 4月26日のブログでこの書物の第1章「イザナギ・イザナミ神話の形成」の最初の部分について取り上げ、この2柱の神がもともと地方神であったのが、ある時期における政治的配慮によって日本全体の国土を生み出した神ということになったという著者の説を紹介した。その際に述べたように、この書物は40年以上むかしにまとめられたものであって、その議論の中にはその後の考古学・歴史学研究の発展によって修正されるべき個所も存在するが、最近、出版された松本直樹『神話で読み解く古代日本―古事記・日本書紀・風土記』(ちくま新書)では、この松前の議論をさらに一般化・理論化した議論が展開されていることに見られるように、この部分での松前の主張は多くの支持を見出しているようである。

 イザナギ・イザナミが地方神であった根拠として、松前は『延喜式』神名帳によれば、この二尊を祀る神社が、淡路島にある伊佐奈伎神社を本社として、近畿とその周辺のみに散在していることを挙げる。特に『古事記』の真福寺本系の諸本にはイザナギの社「淡海(近江)の多賀」と記され、『延喜式』神名帳には「近江国犬上郡多何(たが)神社二座」(19ページ)とある滋賀県の多賀大社が注目される。イザナギ・イザナミは舟航を得意とする淡路の野島海人や三原海神の手によって周辺の海人の間に広まり、さらに近畿地方の内陸部の近江や大和盆地にまで運ばれたのであろうと松前は推測している。また、この二尊は、古くは宮廷に祀られてはいなかったし〔現在でも宮中八神の中には数えられていない〕、皇祖神の親神とされてはいなかった。
 『三代実録』によると、貞観元年(859)に記紀の神話的系譜が宮廷の序列に適用されたらしく、淡路のイザナギが一品に神階を引き上げられたのをはじめ、他にも神階を引き上げられた神々が記録されている。また阿波の神社の祭神の中にはイザナミが焼死した際に誕生したミヅハノメやハニヤマヒメの名があり、この地方にこれらの神々の神話が分布していたと考えられる。おそらくは田畑の豊穣を祈るために祀られていた女神たちへの崇拝が、淡路から持ち込まれたイザナミの崇拝に取って代わられるとともに、元の女神たちの神話がイザナミと結びつけられることになったのであろうと推測している。

 次に松前は「阿波は農耕が発達していたから、イザナミ女神の社ができたのは了解できるが、農地のない南紀の熊野に、イザナミの神陵があるのはなぜだろうか」(23ページ)と問うて、熊野さらに出雲とイザナミの関係についての考察を展開する。熊野は山地であるとともに、海に面してもおり、熊野海人が淡路の海人たちと接触する中で、イザナミの崇拝を取り入れたのではないかと推測する。一方、『古事記』ではイザナミは出雲と結びつけられて語られているが、他の文献を見る限り、イザナミと出雲の関係は薄い。「この両者の関係は、おそらく後世の政治的潤色によるものであろうと考えられる」(25ページ)とする。
 この件について、「出雲神話の世界が、宮廷神話の体系の中に割り込ませられた時期は、オホナムチの信仰を持ち運んだ出雲人と称する巫覡の徒の全国的な活動が行われた7,8世紀の律令制下であろう」(26ページ)と松前は論じているが、この点については(この書物が執筆されて以後、出雲でなされた考古学的な発見を踏まえて)、異論の余地がありそうである。

 日本の創世神話の特色とされているのは「国生み」である。「『国生み』は単なる創造ではなく、男女神の性交によって女神が娠(はら)み、次々と島々がその胎内から生まれることである」(26ページ)。その際、淡路島が最初の島であるという伝承は、記紀のほとんどすべての伝えにあり、それはこの神話を伝えたのが淡路島の海人であったことを物語る。

 日本の創世譚には、国生みだけでなく、国作りも語られたことは、オホナムチ・スクナヒコナの国作りの話を見てもわかる。『万葉集』に
  おほなむち 少御神(すくなみかみ)の 作らしし いもせの山は 見らくしよしも(巻7)
とある。しかしそれは、「国作り」であって、「国生み」ではない。「国生み」はイザナギ・イザナミ二尊にのみ帰せられる。

 このように女神が島々を生むという神話を伝えている民族は世界にあまり例がない。松前は比較神話学者の知見を援用して「ただ一つ南太平洋のポリネシア人にだけ行なわれている」(28ページ)ことに注目する。そしてポリネシアの各島に伝わる神話の「観想」の中に、日本の古代神話と共通するものがあることを指摘していくのだが、その点についてはまた機会を改めてみていくことにしようと思う。

 三浦佑之『風土記の世界』(岩波新書)の紹介を進めることがなかなかできず、少し間が空いたが、こちらの方を取り上げることにした。現在、神話に関する本を他にも何冊か並行的に読んでいて、内容の整理に手間取っているのだが、現段階でどのようなことが言えるのかについて、できるだけ詳しく検討していくことにしたい。
 

遠藤慶太『六国史――日本書紀に始まる古代の「正史」』(14)

6月13日(月)雨、夕方になって降りやむ

 第4章の第2節では、平安時代の末から戦国時代にかけて《六国史》がどのように書き伝えられたかを、貴族社会と神祇関係者の動きに焦点を当てて述べている。ここで大きな役割をはたしたのは、《日本紀の家》 と呼ばれた卜部氏吉田流であるという。

 この節を著者は、天理大学付属図書館に収められている『日本書紀』乾元(けんげん)本と呼ばれる、乾元2年(1303)に卜部兼夏によって書写された国宝指定の写本を見たときの深い感動から書き起こしている。「この『日本書紀』乾元本は、神祇への奉仕を職務とした卜部氏吉田流で伝承されてきた根本の神代巻である。中世で『日本書紀』をはじめとする六国史を伝承したのは、紀伝道の博士家でなく卜部氏であった」(186ページ)という。卜部氏はその名のごとくウミガメの甲羅を焼いて吉凶を占う亀卜を行った古代氏族であったが、やがて神祇官に仕えて、祭祀を専門とする氏族となり、京都の平野社の神職となる平野流、吉田社の神職となる吉田流の二系統に分かれ、ともに家の学問として神祇の先例やしきたり、『日本書紀』などの古典についての研鑽を重ねていく。「したがって、正しい本文と先祖代々の解釈が加わった『日本書紀』乾元本のような写本は、『日本紀の家」にとって、家の存立にかかわる大事な写本(家の証本)だった」(188-189ページ)という。

 「日本紀の家」としての卜部氏の活躍の例として、著者は『太平記』の中の逸話を挙げる。
 「北朝の貞和年間(1345-1350)、伊勢国国崎(くざき)で得られた神秘的な剣が朝廷に持ち込まれたことがある。この剣は源平合戦の時に壇ノ浦に沈んだ神器の宝剣ではないかと議論になる。そこで相談に与ったのは平野流の卜部兼員(かねかず)であった。
〔以下『太平記』の該当部分が現代語で記される〕
その後、〔大納言日野資明(すけあきら)は平野社の神主である神祇大副(たいふ)の兼員を呼んで、「神代のことは、何としても『日本紀の家』で知っておくべきことだ。〔中略〕専門家の意見を尊重したいから、兼員の考えを正しい説とすべきである。少しばかりこの機会に理解しておきたい事情がある。詳しく説明してほしい」とおっしゃった。
(『太平記』巻25 宝剣進奏両卿意見の事)
「日本紀の家」の面目が窺える挿話である。」(187ページ) そして、現存する吉田兼員の手紙から、これが貞和4年(1348)に実際に起きた出来事であると考えられるという。

 現在、このブログでは『太平記』を読み進めているが、まだ12巻までしか辿りついておらず、だいぶ先の話である。とはいうものの本は買ってあるので、調べてみたところ、巻25ではなく、巻26にこの話が出ていた(岩波文庫版の第4分冊所収、当該箇所は181-2ページ)。『太平記』の写本には古態本と流布本の2系統があり、岩波文庫版(兵藤裕己校註)は古態本に基づいて編纂されている。『太平記』は40巻からなるが、22巻が欠けている。また岩波文庫版には「宝剣進奏両卿意見の事」という章段名は見えず、「伊勢国より宝剣を進す事」となっており、続く「黄粱の夢の事」もこの出来事に関連する内容である。おそらく遠藤さんが利用した『太平記』は流布本の系統に属するものであるため、このような違いが出てきているように思われるが、遠藤さんがこのあたりの事情を記していないのは読者に対して丁寧な態度とは言えない。

 ここで「両卿」というのは、当時の北朝の朝廷で強い発言力を持っていた日野(柳原)資明と坊城(勧修寺)経顕で、日野資明は『太平記』5巻から持明院統⇒北朝方の公家として活躍していた。この2人はその発言力・影響力を競っていた。岩波版の「梗概」に従うと、「その頃、円成(えんじょう)という僧が、かつて壇ノ浦の海に沈んだ宝剣を、伊勢で発見したと称し、日野資明のもとに持参した。卜部兼員から三種の神器の由来を聞いた資明は、兼員に命じて剣を平野社の神殿に籠めて祈らせると、はたして伊勢から宝剣が奉られる夢を足利直義が見た。8月18日、宝剣は朝廷に迎えられたが、坊城(勧修寺)経顕が、黄粱の夢の故事を説いて上皇を諌め、剣は卜部兼員のもとに差し戻された」(第4分冊、164ページ)という経過を辿る。したがって、必ずしも卜部兼員はこの文脈で面目を施しているわけではない。しかし、兼員が語る三種の神器の由来は、「中世神話」の一例として、一読に値するものであり、私が『太平記』をこの箇所まで読み進むことができれば、じっくり検討してみようと思うような、興味に満ちたものである。それはともかくとして、『太平記』のこの一件を卜部家の「日本紀の家」としての地位の例として引き合いに出すのは、必ずしも適切ではないことが分かるはずである。

 兼員の祖父兼方(かねかた)は『日本書紀』の注釈書である『釈日本紀』を編集した。これは兼方の父である兼文が蒙古襲来のあった文永11年(1274)から摂関の一条実経(さねつね)に『日本書紀』の講義を行い、その内容にまとめたものである。「実際の講義を重ねる中で、日本紀学とでもいうべき卜部氏の学問が固められていった。」(188ページ) 遠藤さんは、あまりはっきりとは記していないが、そこで形成された学問は少数者の独占する、神秘性をもったものであった。このような独占が破られるのはもう少し後になってからのことである。

 今回は、『太平記』の話が出てきたので、脱線してしまった。次回も卜部氏やその他の室町貴族たちの《六国史》とのかかわりについての著者の論述を見ていくことにする。

ダンテ・アリギエリ『神曲 煉獄篇』(30‐1)

6月12日(日)晴れ後曇り

 1300年の4月13日に、ダンテは彼を「暗い森」から救い出し、地獄と煉獄とを案内してきたローマ黄金時代の詩人ウェルギリウス、煉獄でその罪を償い終えて、2人に途中から合流したローマ白銀時代の詩人スタティウスとともに、地上楽園に達した。彼らはそこで、美しい貴婦人に出会い、この楽園が人類の祖先が創造され、その罪によって追放された場所であることを知る。そして彼らは神の世界から地上楽園へと降りてきた7つの燭台とそれに続く行列の到来を目撃する。行列は聖書の世界を示すものであり、その中心に1台の荘厳な戦車がグリフォンに引かれて進んでいた。戦車がダンテの目の前に来たときに、行列は止まり、新しい何かが起きることが予感された。

始原の空の七星、
没することなく、昇ることなく、
罪の覆い以外の霧にも曇らぬそれは、

あの場所で皆に己のすべきことを自覚させていた。
最下層の天空の七星が、港を目指して
舵を切る操舵手に指示を与えるごとく。

その七星が立ち止まった時、
グリフォンとその間を歩いていた正しき人々は、
彼らの平和があるその車に向かって振り向いた。
(442ページ) 「始原の空の七星」は第29歌で登場した7つの燭台のことである。7つの燭台は7つの恩寵(賢明、知性、忠告、剛毅、学問、慈愛、神への畏れ)を示し、それらは神の第3の位格である聖霊を意味する。そのため、「始原の空の七星」は「没することなく、昇ること」もない、つまり時間の存在しない永遠の神の在所である至高天を象徴しているという。
 この七星は、下界の七星(北斗七星)が操船の目印になっているように、人類の乗る船である歴史の進むべき目標となっている。そのため、この七星に率いられた行進は天地創造から最後の審判までの人類の歴史を書き記している聖書を象徴する。

 「グリフォンとその間を歩いていた正しき人々」は旧約聖書を象徴しているが、その中の1人が「来たれ、花嫁よ、レバノンから」(442ページ)と「雅歌」の1節を歌い(花嫁よ、レバノンからおいで/おいで、レバノンから出ておいで。「雅歌」4.8)、他の者がそれに唱和した。そして100体もの天使たちが姿を現した。
私はかつて見たことがあった、一日のはじまりに
東の方角が一面、薔薇色に染まり、
反対側の空は澄み切った美しさに飾られ、

やわらいだ太陽の顔が生まれ出るのを。
それゆえ目はその蒸気の覆いを通して
その顔を長い間見ていられた。

それと同じように、天使の腕から立ち上がっては
車中やその周辺に落ちていく
花が作る雲の中、

純白の面紗の上にオリーヴの冠を被った
貴婦人が私の前に降臨した。緑の外套の下に
鮮やかな炎の色の服をまとっていた。
(444-445ページ) ダンテは、その貴婦人の姿に見覚えがあった。

そして我が霊は、それまでの長い
年月がたつ間、あの方の前で畏怖に圧倒され、
慄(おのの)いたことはなかったが、

これ以上ははっきりと目で確かめられなくとも、
あの方から発する神秘の力のために、
かつての古い愛の大いなる強さを感じた。
(445ページ) 貴婦人は、ダンテが若いころに思慕の対象とし、死んだ後に天国にいる幻を見て、『新生』のヒロインとして描きだした女性であった。

かつて幼いころを脱する前の私に
深傷(ふかで)を負わせた至高の力が
視線を通じて私を射抜いた途端、

私は左側を向き、
恐怖を感じた時や心を痛めた時に
幼子が母親に助けを求める視線を向けて
(446ページ) 彼は、ウェルギリウスに話しかけ、その助けを得ようとした。しかし、ダンテに気付かれることなく、ウェルギリウスは姿を消し、彼がもといたリンボに戻っていた。ダンテは別れの悲しみに、涙を抑えることができなかった。

 『地獄篇』第1歌からずっとダンテを導いて来たウェルギリウスが、ここで姿を消す。ここから先は人間の努力だけで到達できる世界ではないのである。『煉獄篇』の終わりが近づいてきた。しかし、ダンテとこの叙事詩はさらに彼方を目指している。

civil war

6月11日(土)晴れ、気温が高くなった

 NHKラジオ『攻略!英語リスニング』の時間では、”The American Civil War"(南北戦争)を話題として取り上げた。

In the early 19th century, slavery was part and parcel of American Society. (19世紀初頭、奴隷制度はアメリカ社会の屋台骨だった。) 奴隷たちは主に南部の農場やプランテーションで働いていたが、北部では奴隷制度に反対する運動が高まった。
Southern states began to think that the central government would abolish slavery altogether, so they separated from the North to form the Confederate States of America. (南部諸州は、中央政府が奴隷制度を完全に廃止すると考え、北部から分離して南部連合を組織した。これに加わったのは、サウスカロライナ、ミシシッピ、フロリダ、アラバマ、ジョージア、ルイジアナ、テキサス、ヴァージニア、アーカンソー、ノースカロライナ、テネシーであった。1861年に北部の側が、南部にあったいくつかの砦を南部連合に引き渡すことを拒否したために戦争が起こり、4年間続いて、1865年にようやく終息、北部が勝利したことえ、憲法が修正され、奴隷は解放されて「法の下に等しい保護」を受けることになり、黒人の参政権が認められた。

 講師の柴原智幸さんが話していたが、奴隷制度を認めていても、北部の側に加わった州もあり、それぞれの州の内部で状況は複雑であった。とくに北部にとどまったメリーランド州と南部に加わったヴァージニア州では州内での対立が激しくなり、ヴァージニア州からウェストヴァージア州(北部)が分離独立することになった。アメリカの首都ワシントンはメリーランド州から割譲された場所にあるので、メリーランド州が北部にとどまったことは北部にとって歓迎すべきことであった。一方、ヴァージニア州出身のロバート・E・リー将軍は個人的には奴隷制度に反対であったが、郷土愛から南軍の司令官となる。柴原さんがテキストに書いているところでは:「北軍の兵士の数は南軍のほぼ倍、しかも工業生産や兵器の生産では北部が圧倒的に有利でした。どう考えても南部の惨敗となりそうなのですが、戦争開始から2年ほどは、北軍の苦戦が続きます。どうやら、軍の指揮官に関しては南軍に有能な人物がそろっていたせいだったようです。」ということである。

 私が昔、リヴァプールに滞在していたときに、大学の中で与えられた部屋というのが、南部連合の領事館だった建物の3階の多分、召使部屋だったのだろうけれども、天井が屋根の傾斜を反映して斜めになっている部屋であった。英国では19世紀どころか、もっと古い建造物が今でも使用されている例が数なくないが、南北戦争という歴史の本と、『風と共に去りぬ』のような映画でしか知らない出来事と、自分自身の経験とがかすかながら交錯した貴重な経験であった。

 さて、手元にあるLongman Active Study Dictionaryでは"civil war"はa war between groups of people from the same country (同国内の人々の集団間の戦争)とそっけなく説明されているが、『リーダーズ英和中辞典』には「内乱、内戦; AMERICAN [ENGLISH、SPANISH] Civil War」とあり、(内戦とか内乱というのは歴史上いくらでもあるはずだが)アメリカの南北戦争だけでなく、イングランドとスペインの内戦も歴史上の大きな出来事と考えられていることが分かる。

 ”The English Civil War” は1642年から1649年までクロムウェルの率いる議会軍とチャールズ1世が率いる国王軍が戦った戦争で、Englishというけれども、ウェールズ、スコットランド、アイルランドをまきこんだ戦闘が展開され、議会軍の勝利、チャールズ1世の処刑をもって終結する。1911年版のEncyclopedia Britanicaでは”Great Rebellion" (大いなる謀叛)と記されている一方で、クリストファー・ヒルのようなマルクス主義系の歴史家は”English Revolution"という言い方をしてきた。”Great Rebellion"というと、コナン・ドイルのThe Hound of the Baskervilles (バスカーヴィル家の犬)の中の、モーティモア医師がホームズのところに持ち込んだバスカーヴィル家に伝わる「犬」の伝説の起こりとなる事件を記した文書の中で、その時代について
in the time of the Great Rebellion (大いなる謀叛の時代に)
と書かれているのを思い出す。

 ”The Spanish Civil War"(スペイン語ではLa Guerra Civil Española)は1936年から1939年にかけて、スペインの人民戦線政府とフランコ将軍の反乱軍が戦った戦争で、ナチス・ドイツとファシスト・イタリアの支援するフランコ派が、コミンテルンの支援を受けた人民戦線政府に勝利して終結した。第二次世界大戦に際して、フランコはドイツ、イタリアの枢軸国に加わらず、中立を守った。なかなかしたたかである。人民戦線側には国際的に支援が寄せられ、作家のアーネスト・ヘミングウェー、ジョン・ドス・パソス、ジョージ・オーウェル、アンドレ・マルロー、写真家のロバート・キャパらが義勇軍に参加した。ヘミングウェーの『誰がために鐘はなる』や、オーウェルの『カタロニア賛歌』がこの時の経験をもとに書かれていることをご存知の方は少なくないはずである。

 このほか、ローマ共和制末期にユリウス・カエサルとグナエウス・ポンペイウスが戦ったBellum Civile Alterum (紀元前49-45)も歴史上注目すべき内乱であり、カエサルはこれについてCommentarii de Bello Civili (内乱記)という記録を残している。

 内乱に際しては地域や家族の中でも対立が生じる、あるいはもともとあった対立が露になる例が少なからずあり、その評価も歴史家が、出来事にどのようにかかわったかを反映して大きく分かれるのが常である。この点は歴史書を読む際に常に心掛けておくべきことの1つである。

『太平記』(108)

6月10日(金)晴れ、暑くなった。

 鎌倉幕府が滅び、公家一統の政治が回復されたが、新政は順調には展開されず、倒幕の恩賞への不満もあって、なにかと不安な日々が続いていた。『太平記』の作者は「妖気なほ禍ひを示す」(第2分冊、264ページ)と記している。元弘4年(1334年)の7月(正しくは正月29日)に年号が建武と改められた。8月に隠岐広有に命じて内裏に飛来する怪鳥を射させることがあり、また天下の妖気を消そうとして、弘法大師ゆかりの神泉苑が再興された。

 兵部卿であった大塔宮護良親王は鎌倉幕府を倒すための戦いの中で、幕府方の追及から逃れるためやむなく還俗なさっていたのだが、世の中がすっかり穏やかに収まったので(と、『太平記』の作者は書いているが、実際はそうでもなかった)、元のように天台座主として宗教界の指導者となり、仏法と王法(仏法に加護された朝廷)を受け継ぎ盛んにすることこそ、仏の道にもかない、父である後醍醐天皇のご意志にも沿うことであったのだが、「征夷将軍の位に備はつて、天下の武道を守るべし」(第2分冊、271ページ)と、強引に征夷大将軍になる許しを天皇に迫ったので、天皇は御不快に思われたが、親王の望みをいれて、とうとう征夷将軍に任じるという宣旨を下された。(鎌倉幕府の終わりごろになると、京都から皇室の男子を迎えて将軍とするという「親王将軍」が続いていたから、護良親王が将軍になることはそれほど奇異なことではないが、将軍は武家政治の頂点に立つ存在であり、幕府を開いて、再び公武の二元政治が復活する危険があることを、後醍醐天皇は警戒されたのであろう。護良親王はそれなりの武力を確保されていたのである。)

 このような事情なので、天下の平和を支える存在として慎重に身を処し、将軍の地位の威信を高めることに意を用いるべきであったのに、思うままにふるまい、おごりを極め、世間のそしりをしり目に、淫らな楽しみばかりに耽っていらしたので、天下の人は皆、世の中が再び乱れるのではないかと危惧したのであった。大規模な戦乱が終わった後は、弓矢をしまい、楯と鉾(武器)を袋に入れ、使用しないものだといわれている。ところが、特に用があるとも思われないのに、強い弓を射るものや、大刀を使うものだというと、それほどの手柄を立てた経歴もないのに自分の従者として配下に加えられていた。
 それだけでも問題なのに、これらの荒くれ者たちが、毎晩、京・白河(今日の鴨川以東の地)をうろうろして、辻切り(刀剣の切れ味を試すために人を斬ること)を行ったので、路上で出会った尼、法師、女性、子どもたちがあちこちで切り殺され、不慮の死を遂げるものが後を絶たなかった。これもただ、親王が足利高氏を討伐しようと思われていたために、兵を集め、武芸の訓練をされた結果起きたことであった。

 そもそも高氏卿は、後醍醐天皇と朝廷にこれまでずいぶん忠義を尽くしてきただけでなく、天皇のご信頼を笠に着ての分を過ぎた心得違いの振舞もなかったはずであるのに、護良親王が高氏を目の敵にしたのにはそれだけの理由があった。その前年(元弘3年=1333年)に官軍が六波羅を攻め落とした時に、大塔宮の執事である良忠の配下の者たちがどさくさに紛れて強盗行為を働いた、すなわち、京都市内の土倉(土塗りの倉をもつ高利貸業者)のところに押しかけて、財宝を運びだすという狼藉を働いた。市内の治安を守るために、高氏・直義兄弟の側から兵を出して、この賊たちを召しとり、六条河原で20人余りを処刑して、その首をさらした。そして高札に、処刑されたのが、大塔宮の執事である良忠の配下のもので、強盗を働いたので処刑したと書き記したの江で、良忠は心穏やかではいられず、あることないこと、あるいはないことないこと、悪口を護良親王に告げ続けた。こういうことが重なってくると、護良親王としても次第次第に高氏への敵意を募らせられ、信貴山にいらっしゃった頃から高氏追討を企図されたが、天皇の御許しが出なかったので、発言を慎まれていたのだが、さらに良忠が悪口を吹き込み続けたためであろうか、ひそかに諸国に向けて高氏追討の令旨を出して、兵を集められていた。

 高氏卿はこの次第を耳にして、後醍醐天皇の寵妃であった阿野廉子を介して天皇に上奏を行い、護良親王は帝位を奪おうとの野心を抱かれ、諸国の兵を集められています、その証拠ははっきりしていますと、宮が諸国に向けて発行された令旨を天皇のご覧に入れた。天皇は大いにお怒りになり、この宮を流罪にせよと仰せられる。そして宮中の清涼殿(中殿)で行われる和歌・管弦の御遊の会にことよせて、護良親王をお召しになった。親王の方ではそんなこととは気付かれないまま、少数の家来だけを連れて人目に立たないように参内されたのを、結城親光と名和長年が、天皇のご命令に従って準備を整えて、宮中の鈴の間の辺に待ち構えて、親王を拘束し、馬場殿に幽閉した。

 鎌倉幕府の追及から逃げている際には不思議な力を発揮されていた親王であるが、ここではあっさり捕まえられているのは、僧侶としての身分を棄て、修行から遠ざかっていた結果であろうか。『太平記』の作者はそのように考えていたと思われる。親王が高氏と敵対するに至った理由は、どうも親王の方に非があるのだが、親王自身よりもその執事である良忠が高氏に怨恨を抱いたのが波及したという書き方になっている。また作者は阿野廉子についてはここでも厳しい態度をとっているように思われる。自分の子どもを帝位につけようと思っている彼女にとって、実力も実績もある護良は目の上のたん瘤以上の存在であったはずである。

日記抄(6月3日~9日)

6月9日(木)今のところ、あまり強くない雨が降ったりやんだり

 梅雨の季節になった。それぞれの性格や人生経験を反映して、この季節が好きだという人と、好きではないという人がいる。好きな面と嫌いな面があるという人も少なくないだろう。映画を見に出かけるのに天候はあまり関係がないが、雨の中でスポーツの試合を観戦・応援するのはいやである(負け試合だと余計にいやになる)。

 6月3日から本日までの間に経験したこと、考えたことなど:
6月3日
 横浜シネマ・ジャックで『すれ違いのダイアリーズ』を見たことは既に書いたが、映画館に出かけるのにこれまでは地下鉄を利用していたが、今回はバス(市営68番)を利用してみた。この路線の途中の藤棚の停留所の近くにシネマ・ノヴェチェントがあり、横浜市内の特色ある映画館2カ所がこの路線の沿線にあることになる。横浜駅東口から出ている102番も似たようなコースを走っているはずである。
 なぜ、バスに乗ったかというと、太陽の光を浴びるほうがなんとなく安心だからである。黄金町(この停留所を利用したことはない)で下りたのだが、京浜急行の黄金町駅や平戸桜木道路(国道202号)と藤棚浦舟道路の交差点よりも北側にとまったので、映画館まではだいぶ歩くことになった(次の阪東橋で下りた方が近いはずである)。映画館に向かう途中でウナギやすっぽんの料理の店を2軒も見つけたが、このあたりがむかし「青線」であったことと関連するのだろうか。ウナギは食べない方がよいと医者に言われているので、この発見はあまり役に立たない。
 映画を見た後、末吉町の洋食屋・洗濯船で食事をした。この店は夜は酒が飲めるようで、〆張鶴や八海山など新潟の酒の名が貼りだされていた。シネマ・ジャック&ベティの近くには有名無名の飲食店がかなりあり、映画館の半券をもっていくと割引してくれる店もあるので、いろいろ探索してみようと思っている。

6月4日
 ニッパツ三ツ沢球技場で横浜FCシーガルズとアンジュヴィオレ広島の対戦を見る。なでしこリーグ2部9位の横浜と10位(最下位)の広島の対決で、広島での試合では横浜が勝っているので、3勝目(ホーム初勝利)の期待がかかったのだが、1-2で敗れた。広島は初勝利である。どうも、選手の力量に差があり、チームもばらばらである。監督の指示が正確に伝わっていない様子であり、なにかテコ入れが必要に思われる。

 横浜駅西口一帯の鎮守である浅間神社の祭礼で、浅間下のバス停の辺りから神社の方角に向かって露店が出ているのがバスの中から見えた。旧東海道沿いにある大網金刀比羅神社のほうが横浜駅には近いのだが、浅間神社が鎮守になっているのは、知名度の問題であろうか。

 椎名誠『殺したい蕎麦屋』(新潮文庫)を読み終える。私は蕎麦屋で酒を飲むことが多いので、上品ぶった蕎麦屋に腹が立つという椎名さんの気持ちはわからないでもない。

6月5日
 Eテレ「日本の話芸」で、古今亭志ん輔師匠の「火炎太鼓」を視聴する。演者の大師匠である5代目の古今亭志ん生が得意にしていた噺で、あまり目の利かない道具屋が僥倖で大金を手に入れるという物語の危なさと、志ん生のご本人の性格丸出しの語りぶりとがうまく合っていたのを思い出す。一度、高座での口演を見ておきたかった。

6月6日
 NHK「ラジオ英会話」は”Fact or Fiction?”(真実か虚構か)というシリーズを取り上げている。今回は”Unidentified Flying Objects" (=UFO、未確認飛行物体)についての会話で
I have a feeling htey're out there.
(彼らはどこかそのあたりにいるような気がします。)
と登場人物が、UFOが既に地球上に宇宙人を上陸させているような気がするという見解を述べる。
 それはともかく、1978年の3月に北陸のかなり広い範囲でUFOが目撃されたことがあって、私も目撃者の1人であった。ちょうど映画館で『未知との遭遇』を上映していた時期で、よくできた偶然の一致だと思った。映画を見に行ったら、ばったり教え子に出会い、これは「既知との遭遇」であった。

6月7日
 NHKラジオ「まいにちイタリア語」で
I giovani italiani leggono molto i manga giapponesi.
(イタリアの若者たちは日本の漫画をたくさん読みます。)
という文が出てきた。"manga"は日本語そのままで、-aで終わるイタリア語の名詞は普通女性名詞であるのに、なぜか男性名詞で、しかも単複同形ということである。その一方で、果物の柿も日本語からの外来語でcachi(カーキ)という。イタリア語の-oで終わる男性名詞は複数では-iという語尾を取るので、cachiは複数だとして、1個の柿という意味で(カーコ)という人もいるそうである。

6月8日
 NHK「ラジオ英会話」では
Do you believe Bigfoot is really?
(ビッグフットは実在すると信じますか?)
という話題が取り上げられた。ビッグフットは大きな足を持つ猿人で、北米などに実在するといわれるが、真偽のほどは定かではない。ヒマラヤの雪男のアメリカ版である。以前、Eテレで放映されていた『アイ・カーリー』の第65回で、主人公のカーリーがビッグフットは存在すると考えているのに、ほかの登場人物は存在しないといい、実際に山の中に捜索に出かけるというのがあった。ビッグフットについての本を書いた学者が、本が売れないので、自分で毛皮を被ってビッグフットになりすましたりして、例によって大騒ぎが続く…。

 ニッパツ三ツ沢球技場でJ2の横浜FC対水戸ホーリーホックの試合を観戦する。1-1で惜しくも引き分け。
 ついでに言えば、ホーリーホックhollyhockというのはタチアオイで、水戸の殿様の家紋に因んだ命名、名古屋グランパスのgrampusはシャチで名古屋城の鯱鉾に因む。和歌山にもJリーグのチームができると、御三家が揃うのだが、見通しはあまりなさそうだ。

 NHKラジオ「レベルアップ中国語」では「つかみの一言」として「打草驚蛇(dacao jingshe)」という表現が出てきた。日本語の「藪をつついて蛇を出す』というのとは違って、蛇がいるか探るために草を叩いてみようということで、消極的な意味でも、積極的な意味でも使われるという。出演者の魯さんが暮らしていた北京は緯度が高いので蛇にお目にかかることはまずないが、日本の公園に遊びに出かけて蛇に出会い、びっくりしたと話していた。
 一昨日紹介したColyn Joyceさんのエッセーの中で”Japan is a safe country."という"myth"に言及して
We have very few snakes, of these very few are poisonous and these are only mildly posonous.
(わが国にはほとんど蛇はいないし、その中でも毒蛇はきわめて少ないし、いても猛毒ではない。)
と述べていたのを思い出す。世の中には蛇とか爬虫類が好きでたまらないという人もいるから、一概には言えないが、蛇には気を付けた方がよいだろう。

NHkラジオ「実践ビジネス英語」の時間は、”Don't Work Too Hard"(働きすぎないで)というビニェットを取り上げることになった。登場人物の1人が言う:
It seems America has become a no-vacation nation.
(アメリカは、休暇のない国になってしまったようです。)
 労働環境が変化しているのは日本だけではないらしいが、だからと言って、労働者の基本的な権利を無視してよいというわけではない。

6月9日
 本日の『朝日新聞』朝刊で女優・監督のジョディ・フォスターさんが新たに監督した作品『マネーモンスター』のことや、ハリウッドでなかなか女性監督の作品が製作されないという問題について話していたのが興味深かった。今回の作品が監督第4作になるという。
 日本では、田中絹代が6本監督したのが最高とされているが、浜野佐知監督が5本、三島有紀子監督が今年公開予定の『少女』を含めて4本と追い上げている。ただ、浜野さんは一般映画のほかに、ピンク映画を数え切れないほど手掛けていて、その中には、見るべき価値のある作品も少なくないという。このあたりをどう評価するのか、観る側の映画観が問われるところであろう。

 NHK「ラジオ英会話」の本日の回は、ネッシーの話題を取り上げた。もう20年くらい昔になるが、スコットランドのエディンバラで過ごしたことがあって、そこで見かけた絵葉書のなかでネッシーが舌なめずりをして、「先日やって来た観光客はおいしかったので、もっとよこしてください」と観光局に手紙を書いていたのを思い出す。英国ではこの種のユーモアを盛り込んだ絵が絵葉書が土産物屋にならんでいるので、眺めていると面白い。 

遠藤慶太『六国史 日本書紀に始まる古代の「正史」』(13)

6月8日(水)晴れ

 《六国史》とは奈良時代から平安時代にかけて国家の事業としてまとめられた6部の歴史書:
『日本書紀』、『続日本紀』、『日本後紀』、『続日本後紀』、『日本文徳天皇実録』、『日本三代実録』
の総称である。そこでは天地のはじまりから、仁和3年(887)8月26日までの、つまり神代の昔から平安中期までの日本の社会の動きが中央の政治を中心にまとめられている。
 延喜元年(901)に『日本三代実録』が完成した後も、これに続く歴史書を編纂しようとする動きがなかったわけではないが、試みられても未完成に終わったり、提案だけで終わったりした。これは、平安時代の中期になると、貴族たちの多くが日記を記すようになり、政治の実務を行う上で先例を探すためには、歴史書に頼らなくても、しかるべき日記を読めばよくなったからである。

 ということで、本日、倉本一宏『藤原道長「御堂関白記」を読む』(講談社選書メチエ)を買ってきた。この本の中で倉本さんは「都合の悪いこと、関心のないことは、道長はいつも書かないのである」(倉本、42ページ)と指摘されているが、これは道長の性格もあるだろうが、貴族たちの地位や職掌が次第に能力ではなく家柄によって決まるようになってきたので、自分の子どもたちに書き残すべきことが限定されてきたこととも関係するだろう。遠藤さんも、このような傾向が強くなる中で、「朝廷の政務全体ではなく、焦点を絞った情報」(169ページ)が求められるようになるという。逆に、いろいろな家(あるいは寺社)に伝わる日記を参考資料として私撰国史が著述されることもあった。

 このように記した後で、遠藤さんはかなり気になる問題提起をしている。つまり、「平安中期以降に登場した仮名による文学作品こそが国史を継ぐものだ」(176ページ)という見解、特に『源氏物語』は《六国史》を継承する歴史書として読まれるべきであるという「中世」に盛んになった議論を取り上げているのである。そしてそこから、大江氏と「歴史物語」の1つである『栄花物語』との関係について議論を広げていく。『栄花物語』の作者とされる赤染衛門は大江匡衡の妻であり、匡衡の祖父維時は《六国史》の後を継ぐ歴史書として企画された『新国史』の編纂者の1人であり、編纂事業のために集められた史料が利用された可能性がある一方で、『源氏物語』や『紫式部日記』も参照されているという。

 それから紫式部が『源氏物語』をお側のものに読ませて、お聴きになっていた一条天皇によって「この人は日本紀をこそ読みたまへけれ」(180ページ)と評されたという『紫式部日記』の中の記述が言及される。紫式部はその一方で、『源氏物語』の「蛍」の巻で「日本紀などはほんの一面にすぎないのだ」(183ページ)と、文学の歴史記述に優越する性格を説いていることも指摘する。そして、
「…平安期に登場した『栄花物語』や『大鏡』などの仮名による歴史書は、南北朝期に成立した『増鏡』がいったように、「仮名の日本紀」である。漢文の編年体であった六国史からは段階を越え、日本の独自性が発揮された最初の史書とする見方も成り立つ」(183ページ)と書きながら、しかしこれらの仮名の日本紀の成立も、《六国史》の遺産を継承し、その努力を継続させようとするものであったことを否定すべきではないと結ぶ。(『増鏡』の本文にあたってみたところ、「かの雲林院の菩提講に参りあへりし翁の言の葉をこそ、仮名の日本紀にはすめれ」(岩波文庫版、10ページ)とあり、『増鏡』の中で「仮名の日本紀」と評されているのは『大鏡』だけであるが、『増鏡』を含めて歴史物語全般を「仮名の日本紀」と呼んでも、別段の差支えはないだろう。) 『源氏物語』を歴史書として読むのは、無理だと思うが、このような物語文学の出現が、歴史観や歴史記述に大きな影響を与えたという議論は重要ではなかろうか。

 ここでは、《六国史》、貴族の日記と私撰国史、物語、仮名の日本紀(=歴史物語)における歴史観や歴史記述の問題が、ごく大まかに論じられているが、『紫式部日記』への言及はあるものの、貴族の男性が自分の仕事のために書いた日記と、女性たちが自分たちの観の上や心の動きを記した日記の違い、それから(『扶桑略記』に代表される)仏教的な歴史書の存在について議論が及んでおらず、どうも議論が粗雑である。『大鏡』と『今鏡』が《六国史》の編年体を乗り越えて、紀伝体で記述されたことについても(ただし史料の選択には問題があるかもしれない)、議論を展開してほしかった。「歴史とは何か」「歴史記述はどうあるべきか」を目って、重要な問題が提起されていると思われるので、この点に焦点を当てた新しい著作がまとめられることが期待される。

雨が降る

6月7日(火)曇り、昼過ぎから雨が降りだした。

 梅雨の季節に入った。NHK「ラジオ英会話」のテキストにColin Joyceという人が”Japanglopilia"というエッセーを連載していて、その昨年12月号に掲載されていた”The Japanese Myths"という文章の中に私が考えているのと同じようなことが書かれていた。
  Japan has four seasons. Almost every foreigner who goes to Japan gets told this and they don't know how to respond. I initially thought it must be the start of a joke, but no punchline came. (My own delusion was that all countries have four seasons; it never occurred to me that some places have little variation throughout the year.) But many Japaneses apparently think Japan is the only place with four seasons, when in fact it is very common. I wouldn't even say that when I lived in Japan I found the seasons to be clearly defined. In Tokyo there is not as much green space as other places I have lived so I didn't see the changes in nature. It's hot in summer but otherwise the temperature is fairly even. So: Like many other countries, Japan has four seasons.
(日本には四季がある。日本に出かけるほとんどすべての外国人がこう言われ、彼らはどう答えていいかわからない。私ははじめ、これはてっきり冗談のはじまりにちがいないと考えたのだが、オチもなにも続かなかった。(私自身の勘違いはすべての国には四季があるということで;どこかの場所が1年を通じてほとんど変化しないというようなことは私には起こらなかった。) しかし多くの日本人は明らかに日本は四季を持つ唯一の場所だと考えている。実際には、四季があるというのはきわめてありふれたことなのである。わたしは日本に住んでいたときに、季節にはっきりとした区別があることが分かったとさえいうつもりはない。東京には私が住んでいたほかの場所に比べて緑の空間が多くないこともあって、私は自然の変化というのが分からなかった。夏は暑かったが、ほかの点では気温はかなり平均していた。それで:他の多くの国々と同様、日本には四季がある。)

   Japan has four seasons. I know that I wrote this above but I find it strange for another reason: Japan has a rainy season (tsuyu). Japanese people laugh at me when I mention this, saying that it’s just "part of summer".I would say that the weather is significantly (even dramatically) different from the period that comes after, and it lasts for several weeks so it's a season of sorts. So: Japan has four main seasons.
(日本には四季がある。と、私は上の方で書いたが、もう一つの理由でそれが奇妙なことだと思う:日本には梅雨という季節がある。日本の人々は私がこう言うと笑って、「それは夏の一部」にすぎませんよという。わたしはこの時期の天候がそれ以前の時期、それ以後の時期とは相当に(いや劇的といっていいほどに)違うこと、この季節が数週間続くので、それは季節といってよいのだと言いたい。それで:日本には4つの主要な季節がある。)

 Joyceさんは前半で、日本以外の多くの場所でも四季はある(そのありようは違うかもしれないが、例えば、英語でもspring, summer, autumn or fall, winterという)、後半では、日本では春と夏のあいだに「梅雨」という独立した季節とみなしていいような時期があるではないかと述べて、「日本にだけ四季がある」という大方の日本人の認識に再考の余地があることを指摘している。どうも外国人の意見を引き合いに出して、自分の意見を述べるのは気が引けるのだが、これらの点については私も同感である。

 さて、「雨が降る」という言い方にも、言語によって多様性がある。6月2日に放送されたNHK「ラジオ英会話」の”Grammar for Better Conversation"(もっと話したくなる英会話文法)は”it”の多様性について取り上げていて興味深かった。「性別が分からないとき」、「相手が誰だか認識できないとき」、「ものの原因を表す」、「漠然としたit」、「時間、距離を表す」、「意味が希薄なのにドラマチックな効果が出せる」というそれぞれの用例が紹介されたのだが、とくに面白かったのは、
「漠然としたitは天候を表す際にも使われます。例えば、雨が降っていることを知らせるのに、Rain is raining. やRain is pouring. といえば、歌や詩のような印象があります。そこでここでも、
It's raining / pouring. (降っています/どしゃぶりです)
のように、漠然としたitが使われます」という説明であった。

 英語で「雨が降る」は”rain"だが、形式的に主語のitをつけて”It rains."というと習った時に、先生がどのような教え方をしたのかは記憶にない。私は比較的優秀な生徒であったから、そのまま覚えてしまったのだろうと思うが、ほかの言語を勉強しはじめると、「雨が降る」というのにはいろいろな言い方があることを知った。以前にも書いたが、大学時代にロシア語を教えていただいた小野理子先生はもともと中国語中国文学を専攻された方で、中国語では「下雨」という言い方をするが、これは「天下雨」の「天」が省略された言い方だといわれた。この説明が正しいかどうかは知らない。ただ、日常生活のレベルでは、なぜ雨が降るのかいちいち考えていても仕方がないことも確かで、したがって、大事なこと以外は省略されるというのはありそうなことである。

 英語の3人称の代名詞はhe, she, itの3つであるが、フランス語はil, elleの2つであり、「雨が降る」という場合に”il pleut"という言い方をする。有名なヴェルレーヌの詩を引き合いに出すと、
 Il pleure dans mon coeur
 Comme il pleut sur la ville.
 Quelle est cette langueur
 Qui pénètre mon coeur?
 (町に雨が降るように
 私の心にも雨が降る。
 私の心に沁み込んでくる
 この物憂さは何だろう?)
ということになる――などと、いい調子になっていたら、最初の行でpleureと接続法現在が使われていることに気付いて、なるほど、この詩をいろいろな人がいろいろに訳しているのは、そういうことであったかと改めて得心した次第である。もっと正確な訳をするとどうなるのか、考えのある方がいらっしゃったら、教えていただきたい。

 フランス語と同じく、スペイン語やイタリア語も中性という性はなく、男性と女性のみである。これらの言語のもとになっているラテン語には中性があるのに、そこから派生した諸言語にはないというのはどういうことであろうか。その一方で、これらの言語に共通して「雨が降る」という動詞は非人称動詞(3人称以外の人称形を持たない動詞)である。
 この点をめぐり、松平千秋・国原吉之助『新ラテン文法』に、「これらの動詞は本来他動詞で、主語に超人的な行為者が考えられていた。Jupiter tonat. 「ユピテルが雷をならす」。事実Jove fulgente 「ユピテルが稲妻を光らせているとき」という表現がその起源を暗示している」(188ページ)という記述を見つけた。
 ラテン語(とイタリア語)の場合、動詞の形で主語が分かる場合には主語を省略していいので、「雨が降る」は”pluit"だけでよい。イタリア語の場合には”piove"ということになる。

 そういえば、昔、場末の映画館で映画を見ていると、何度も上映されてプリントが痛んでいるせいか、画面に何本も白い縦の筋が現われることがあって、それを「雨が降る」と言っていた。これを外国語でいう場合には、相応の説明をつけて翻訳すべきであろう。

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ダンテ・アリギエリ『神曲 煉獄篇』(29‐3)

6月6日(月)曇り

 煉獄山の7つの環道を歩きぬいて、その頂上にある地上楽園に達したダンテは、ここまで彼を導いてきたウェルギリウスから自分の意思で行動するようにと言われ、ウェルギリウス、そして煉獄での道中の途中から合流したスタティウスに先立って、楽園の森のなかを歩む。楽園の中を流れる川の向う岸に、彼は美しい貴婦人を見つける。彼女は、ここがむかしアダムとエヴァが暮らした楽園であり、その記憶を古典古代の詩人たちは黄金時代として歌い上げたのだと説明する。そしてさらに、彼らの方角へとやってくる行列に目を向けるように促す。
 精霊からの7つの贈り物を示す7つの燭台が、神を賛美するホサナの声とともに現れ、それに続いて白い百合の花冠を被った24人の長老たちの行列が現われた。白い百合はキリスト降臨を信じた信仰を示すものであり、彼らは旧約聖書を表すという(「24人の長老」が新約聖書の黙示録4-4によることは、435ページの傍注21に示されるとおりであるが、その数が旧約聖書全24巻に対応しているというのはおかしい。新共同訳で調べてみたところ旧約聖書を構成するのは39編である)。
 彼らに続いて今度は4頭の霊獣がやってきた。「それぞれが緑の葉の冠を被っていた。」(323ページ)とダンテは歌う。緑は、希望を現し、4頭の霊獣は新約聖書の4福音書を象徴する存在である。

彼ら四頭の中央の空間が収めていたのは
一台の、二輪を備えた凱旋の戦車であり、
一頭のグリフォンの首に引かれていた。
(436ページ) 「戦車」は勝利する(あるいは戦う)教会の象徴であり、その二輪については、新約と旧約、フランシスコ会とドメニコ会の二大修道会、聖職者と信者など様々に解釈されているようである。そしてグリフォンは神性を表す鷲の頭と翼、人性を表す獅子の胴と手足をもつ空想上の動物で、キリストを象徴する。翼と空とで三位一体を象徴する大三角形を作っている。ダンテはこれほど壮麗な戦車を見たことはなかったし、人類の歴史上もなかったであろうと歌う。(ここでいう「戦車」は古代の戦士たちを乗せた馬車であり、現代のタンクとは似ても似つかぬものであることは御承知であろう。)

 戦車の右手には3人の貴婦人が輪になって踊りながら進んでいた。3人の貴婦人は3つの対神徳を現し、右側のほうが優越する側である。真っ赤な貴婦人は慈愛(カリタス)、緑色の貴婦人は希望、白い貴婦人は信仰を示す存在であった。
左の車輪の側では四人の貴婦人たちが、
緋色の衣を身にまとい、顔に三つの目を持つ一人の
後ろに従って祝福の舞を踊っていた。
(438ページ) 余人の貴婦人たちは人間の倫理に対応する4つの枢要徳である賢明、剛毅、中庸、正義を表し、赤系の緋色の服を着ているのは、枢要徳が神徳、特に慈愛に従属することを示すものである。

 その後から2人の老人が威厳ある重々しい態度でやってきた。1人は医師のように見え、医師であったと伝えられるルカが書いたと伝えられる「使徒言行録」のアレゴリーであり、もう1人の剣を持ち、その姿を見たダンテに恐怖を与えたが、その剣は「霊の剣」、パウロの手になるとされる「エフェソの信徒への手紙」(6-17)に記された「霊の剣、すなわち神の言葉」に対応し、老人は新約聖書の中の書簡を擬人化した存在である。この2人に続いて「控えめな外見をした」(439ページ)4人の老人が歩んできた。彼らは新約の中でその重要性において劣ると当時考えられていたペテロ、ヨハネ、ヤコブ、ユダの書簡を擬人化したアレゴリーである。
 余計なことを書いておくと、エフェソは世界の七不思議に数えられていたアルテミス(ディアーナ)の神殿があることで知られる小アジア(現在ではトルコ)の古代都市で現在では遺跡だけが残っているそうである。12使徒の1人であるヨハネはパトモス島での流刑が終わった後に、この市で司教を務め、その合間に「ヨハネによる福音書」を書いたと伝えられるが、現在の聖書研究家たちからはその信憑性は否定されているそうである。また、聖母マリアも使徒ヨハネとともにエフェソで余生を送ったと伝えられている。ユダというのは、イエスを裏切ったイスカリオテのユダではなくて、使徒である別のユダであるが、この名前は「ルカによる福音書」(6-16)にしか出てこない(「マタイ」と「マルコ」ではタダイという人物が12人の中に数えられている)。
 さらにその後から
・・・老人がたった一人、
眠りながら、けれども鋭い顔つきをしてくるのを私は見た。
(439ページ) 老人は眠りながら預言を夢見ている。「ヨハネの黙示録」を擬人化したアレゴリーである。
 彼ら7人は「薔薇やそれ以外の鮮紅色の花々を飾りにしていた。」(440ページ) 新薬の人々が被る赤い花の冠は神への<愛>を象徴するものである。またまた余計なことを書くが、カトリック教会の枢機卿は真紅の衣をまとい、同じく帽子をかぶる。

 戦車がダンテの目の前に来たときに、雷鳴がとどろき、行列は静止した。ダンテの前で何事かが起きようとしているというところで、第29歌は終わる。

 このあたりでは、いろいろな色彩がどのような意味を表しているかが興味深かった。その頃に比べて現在のわれわれは多くの色彩を知り、また区別しているはずで、同じ名称で呼ばれていても、実際は違うということもありそうである。とはいえ、現在でもさまざまな色がさまざまな意味を象徴している多くの例があり、文化や時代を通じて、共通するもの、しないものを考えていくと面白いかもしれない。 

言葉もいろいろ 私もいろいろ

6月5日(日)雨が降ったりやんだり 関東地方も梅雨に入ったとのことである

言葉もいろいろ 私もいろいろ

ドラえもんとのび太とスネ夫は「ボク」と言い
ジャイアンは「おれ」と言い
しずかちゃんは「私」という

自分を「吾輩」と呼んだむかしの猫がいたし
もっと昔の侍は「拙者」などと呼んでいた(らしい)

いろいろな人間が
自分のことを
いろいろと呼んできた

英語では自分のことは
”I"といい
男性も女性も
大人も子どもも
金持も貧乏人も
そういうことに変わりはないが
やっぱりいろいろな人間が
いろいろな自分自身を生きている

歴史の中を
いろいろな人間が生きてきた
言葉もいろいろ 私もいろいろ

記録にその名を残した人もいるし
そのまま忘れられた人もいる
伝記が絵本になって読まれている人もいるし
未だに悪口を言われ続けている人もいる
骨を発掘された人もいるし
ミイラを保存されている人もいる…
(おやおや、話がグロテスクになってきた)

いろいろな人がいるが
それぞれが誰かにとってのあなたであったり
おまえであったり
さらに誰かさんにとっての「彼」であったり「彼女」であったり、あいつであったり
ひっくるめて言えば人間であることに変わりはない
違いはあるが、それでも同じ
人間

(「心のうた|みよ@こたつむりが詠む詩集」に載せられていた「私はわたし」という詩を読んで、自分なりに考えたことを詩にしてみた。きっかけを与えていただいた「みよ@こたつむり」さんへの感謝の言葉を書き添えておく。)


『太平記』(108)

6月4日(土)曇り、風が強かった。

 鎌倉幕府が滅び、政治が朝廷の手に一本化されることになったが、新しい政治も前途多難であることを思わせるようないくつかの出来事が起きた。建武元年(1334年)8月、隠岐広有に命じて内裏に飛来する怪鳥を射させることがあり、また天下の妖気を消すべく弘法大師空海が雨乞いの修法をして以来、祈雨の修法の道場となっていた神泉苑が再興された。この神泉苑をめぐっては東寺の弘法大師と、西寺の守敏との間にそれぞれの祈祷の効力をめぐる競争があった。すなわち、空海が唐にわたっていたとき、天皇の護持僧として守敏がさまざまな不思議な力を現したが、帰国した空海が自分の方が力が上であるといい切った。

 そこで、天皇は弘法大師を別室に隠されたうえで、守敏をお召しになって、薬を飲むための水が冷たいので、温めてほしいとおっしゃった。守敏は火の印を結んで法を行ったが、水は冷たいままである。天皇は不思議なこともあるものだとおっしゃって、左右のものに目配せをされた。今度は典侍(宮中の女官の二等官)が熱湯をもってきた。天皇はこれは熱すぎるとおっしゃった。守敏は先の失敗にも懲りずにまた水の印を結んで法を行ったが、湯は冷たくなるどころか、沸き立つ一方である。守敏が失敗に色を失っているところに、弘法大師が姿を現し、「いかに守敏、空海これにありとは存知せられ候はざりけるか。星の光は朝の日に消え、蛍の火は暁の月に隠さるるぞ」(第2分冊、268ページ)と笑った。面目を失った守敏は、心中に大きな恨みを抱きながら退出した。

 守敏は天皇を恨み、骨の髄まで憤って、天下に大干ばつを起こして、国中の人々を飢餓に追いやろうと全世界の龍神たちを小さな水がめの中に閉じ込めてしまった。このため陰暦3月から5月にかけて雨が降らず、農民は耕作ができず、これというのも天皇の不徳のためであるという声が高まった。(東アジアでは、天災地変は君主の不徳が原因であるという考え方が古くからあった。)

 そこで天皇は天災が人々に害を及ぼすことを心配されて、弘法大師に雨乞いの法を行うように依頼された。大師は勅命を承って、まず7日間にわたり黙想して、三千世界の様子を窺い、世界中の龍神たちが守敏の方によって水がめの中に閉じ込められていることを見抜いた。ところが娑竭羅(しゃから)龍王の娘である龍女だけは守敏より高位の菩薩(仏に次ぐ聖者)であったので、守敏の法に従わず、天竺の大雪山(ヒマラヤ)の北にある龍王が住むといわれる無熱池=阿耨達池(あのくだっち)の中にいた。大師は瞑想をやめて、この次第を天皇に申し上げると、天皇は急いで内裏の前に池を掘らせ、清らかな水をたたえたその池に善女龍王が来られるように要請された。すると善女龍王は小さな蛇に姿を変えて、この池に到来、その結果として国中に雨が降り注いだ。

 守敏はこれにいよいよ腹を立てて、こうなったら弘法大師を調伏=祈祷により降参させてやろうと、西寺に引きこもって参加ックの壇を構えて、本尊を北向きに立てて、軍陀利夜叉の法を行った。これを聞いた弘法大師は東寺に壇を構え、大威徳明王の法を行う。両者ともに功徳・修行を積んだ尊い僧なので、軍陀利明王と大威徳明王の射る鏑矢が空中でぶつかって落ちて、その音が鳴りやまない。弘法大師は守敏に油断をさせようと、自分が死んだという噂を流させたので、人々は悲しみ、それを聞いた守敏が油断をした隙に、弘法大師の法が功を奏して、守敏は死んでしまった。

 このような経緯があって、東寺は繁栄し、西寺は滅亡してしまった。その後、大師は、茅(ちがや)という草を結んで、空に投げると、それが大きな龍になって天竺の無熱池に飛び帰っていった。善女龍王はそのまま神泉苑の池の中に留まって、今に至るまで時節に従って雨風の恵みをもたらし、祈りの真心に答えてくれるのはありがたいことであると『太平記』の作者は記す。

 どうも、本筋と関係のない脱線になってしまった(作者が悪いのである)。空海と守敏の法比べの話は『古事談』にもみられる由であるが、後世の作り話である。『太平記』は天皇の名を記さないが淳和天皇の時代のこととされているそうである。神泉苑は新たに掘られたわけではなく、もともと京都盆地は大きな湖だったのが、次第に陸地が広がったと考えられ、その湖の跡があちこちに残っていたのを利用して神泉苑が造営されたと考えられている。徳川家康が二条城を築城した際に、神泉苑の大部分が取り込まれたが、残った一部が真言宗の寺院として現存する。善女龍王は法華経の提婆達多品に登場するほか、雨乞いの対象として様々な信仰と伝承の対象となっているそうである。
 二条城には何度か足を運び、外国からのお客さんを連れて出かけたこともあるし、二条城前広場はメーデーの際の集合場所であったことを思い出す。そのくせ、神泉苑に入ったことがない。どうも私の京都についての経験は偏っているので、これからも機会を見て拡充していく必要がありそうだ。

すれ違いのダイアリーズ

6月3日(金)晴れ

 横浜シネマ・ジャックで『すれ違いのダイアリーズ』(2014、タイ、ニティワット・タラトーン監督)を見る。

 アマチュア・レスリングの選手だった過去の栄光はあるものの、なかなか就職できない青年ソーン(スクリット・ウィセットケーオ)はある小学校の水上分校の教師になる。タイの北部の山の中の湖の上にドラム缶を浮かせて、その上に材木で骨組みを組み、トタン屋根を載せた学校で、電気はなく(その後、発電機が届く)、水道もなく(貯水タンクがあるのだが、そこから水を出すのが一苦労であり、一騒動がある)、携帯電話は天気がよい時にはつながる(かもしれない)という大変な場所である。子どもたちは新しい先生が来たということを知らないから、学校にやってこない。学校備え付けのモーターボートを動かそうとして失敗したソーンは利き腕の右腕に大けがをする。それでもやっと子どもたちを集めたが、学年はバラバラで、それぞれの学習すべきことは違うし、授業に興味を持たず、教師にもなつかない。

 そんなある日、彼は前任の教師エーン(チャーマーン・ブンヤサック)が教室の中に置き忘れていた日記を見つける。そこには、彼と同じように学校の置かれている不便な状態にびっくりしながらも、子どもたちと向き合って、彼らを理解しようと奮闘している彼女のまいにちの姿が、都会の学校に勤めている野心的な教師とのなかなかお互いを理解し合えないまま続く遠距離恋愛の顛末とともに綴られていた。彼女の日記を読み、その経験に学びながら、ソーンは体当たりで子どもたちと接する。自分が都会で同棲していた恋人が新しい男性と付き合い始めたことを知り、水上学校での勤務と遠距離恋愛の両立の難しさを感じて、彼女への共感を深める。
 ソーンは学校に現れた毒蛇を必死で退治し、台風で破壊された校舎を先頭に立って修理する。子どもたちは週末に帰宅する以外は、水上の学校で生活をするのだが、次第次第にソーンになつく一方で、前任のエーンのことも忘れない。日記を通してエーンに惹かれるようになったソーンは彼女の行方を探し、彼女が水上学校を去ったのは結婚のためであったことを知る… ソーンが教師としての力不足を感じて勉強しなおそうと1年で水上学校をやめた後に、都会の学校での経験で傷つ記、またも恋人と別れたエーンがまた水上学校に戻ってきて、ソーンの仕事ぶりを知る。漁師である親の仕事を手伝うために学校を離れた少年を学校に戻らせようと、漁師の手伝いを買って出たりしたことが分かる。今度は、エーンがソーンに興味を持ち始める。そういうすれ違いが物語を構成する。恋愛喜劇であるし、教育について、教師について問いかける物語でもある。

 何よりもびっくりするのが、都会の学校では施設が整い、ITさえ導入されているというのに、水上学校では何から何まで手作業であるというその格差である。タイでは貧しい北部とバンコクを中心とする豊かな南部との対立があるといわれるが、その北部でも都会と山村とでは大きな格差があるようである。湖の魚を取って生計を立てる漁師として生きることを自分の未来であると思って疑わない子どもたちに算数(というより、数学といった方がいいと思われるのは、小学校高学年の段階で既に代数が教えられているからである)を学ぶことがどういう意味をもつのか、教師たちは説明を迫られる。

 小学校を卒業できない子どもの存在とか、新しい教育方法が先輩の教師や学校の周囲の大人たちに必ずしも理解されるわけではないとかいう問題は、フランスの教育家セレスタン・フレネの若いころの苦闘を描いた『みどりの学園』と共通するのだが、若き日のフレネが自分の教育実践を他の学校の教育実践との交流によってさらに大きな運動へと発展させようとしたのに対し、こちらは2人の教育実践から先に進む気配はない。水上分校の本校の校長が、はじめのうちは厳しいことをいっているのが、次第にエーンの能力に理解を示し、ソーンについても態度をやわらげるというように変化を見せる(一つには分校の教師をしようという人材が得難いこともあるのだろう)のと、エーンの恋人が口では彼女を理解する、自分を変えていくと言いながら、実際はあまり変化を見せないのが対照的であり、教育家というものの様々な類型について考えさせられる。

 恋愛劇として見た場合、エーンがどういう生き方を選ぶかが、最後まで分からず、観客の気をもませ、その意味でのサーヴィス精神もなかなかのものである。山奥の湖といっても、結構水が汚染されていることを知る一方で、霧にかすむ山の姿や星空にまだまだ残されている自然の豊かさを感じたりする。ソーンが、算数の問題に関連して、汽車を見たことがないという子どもたちに汽車とはどういうものか教えようとする場面は感動的である。ただ、その感動には留保をつけた方がよいのかもしれない。梅棹忠夫の名著『東南アジア紀行』に1961年に彼が2度目にタイを訪問した際に、バンコクからチェンマイへの移動に汽車を利用したことが記されている。今だったら、飛行機を利用するだろう。私は10年ほど前に1度だけタイに出かけたことがあるが、その時のバス・ツアーのガイドの説明では、汽車は時間どおりに運行されているとはいいがたいというような話だったと記憶する。だとすれば、算数の問題に汽車を引き合いに出すのは、時代遅れということかもしれず、その時代遅れにさらに遅れている子どもたちがいるという話なのかもしれないと改めて思った。この映画に描かれている出来事は、私がタイを訪問した時よりも、後に起きたことのはずなので、自分の貧弱な経験を交えて、さらにいろいろと考えさせられたのである。

 この映画は、6月4日から10日までは16時から17:50まで、11日から17日までは9:25から11:20までの時間帯に横浜シネマ・ジャックで上映されるので、ご都合のつく方は是非ご覧ください。私の論評に対する意見を含め、映画についてのご意見・ご感想をお知らせいただければ幸いである。
 

日記抄(5月27日~6月2日)

6月2日(木)晴れたり曇ったり

 5月27日から本日までの間に経験したこと、考えたこと、これまでの日記の補遺など:
 5月26日付の『朝日』によると、中学校3年生を対象として新しい英語のテストを実施し、<読む・書く・話す・聞く>の4技能を測定することになるというが、中学生が大人になった時に個々人としてどのくらい英語が必要になるとか、個々人としてどのような英語を身に着けるべきであるとか、共通に必要とされる英語の基礎というのはどのようなものかということを説明しないと、テストを実施して英語力を測定し、英語教育を「改善」しても、結局テストの成績が向上したというだけの結果になりかねない。テストができることには限界があるのだということを認識(説明)したうえで、できるだけ公正で透明性のあるテストを実施していく必要があるだろう。(一番目が当てられないのが、子どもたちが50代、60代になった時に、英語が中国語とか、ヒンディー語に取って代わられていて、英語ができても国際会議では隅に追いやられているということで、そういうことはまずないとは思うが、一応保険はかけておいた方がいい。)

5月27日
 NHkラジオ「実践ビジネス英語」の”Quote...Unquot"のコーナーで取り上げられた言葉:
A torn jacket is soon mended; but hard words bruise the heart of a child.
----Henry Wadworth Longfellow (U.S. poet and educator, 1807-82)
破れたジャケットはすぐにつくろえる。だが、きつい言葉は子供の心を傷つける。
(問題は、子どもには個性があって、どんな言葉に傷つくかは、子ども一人一人、その言葉を発する大人一人一人によって違うということではなかろうか。)

5月28日
 NHKラジオ「攻略!英語リスニング」では”Derby"(ダービー)を話題として取り上げた。
It's the horse race, one of the most prestigious horse races in the world. It's hold once a year, in early June, down in Surrey, at the Epsom Downs Racecourse.
(競馬、世界で最も格式のあるものに数えられる。年に一度、6月初めに、イングランド南部のサリーにあるエプソム競馬場で開催される。)
 ダービーという言葉はあちこちで聞かれる。
A Derby can refer to a great race anywhere in the world, but the original is this deerby, which was first held in 1780 and hosted by the Earl of Derby.
(世界中で行われている大きなレースを「ダービー」と呼ぶこともあるが、本家はこのダービーで、1780年にダービー伯爵によって初めて開催された。)
 このレースを始めたのは第12代のダービー伯だそうで、その後、14代目のダービー伯は19世紀後半に3度にわたり英国の首相を務めた。
 ダービーのコースはone mile, four furlongs, and ten yards (1マイル、4ハロン、10ヤード)だそうで、なぜそんな数字になったのかは番組では説明されなかった。マイル、ハロン、ヤードはそれぞれヤード・ポンド法の長さの単位で、メートル法にすると1マイルは1,609メートル、1ハロンは201.17メートル、1ヤードは0.9144メートルというのがだいたいのところだそうである。もっともハロンという単位は競馬以外ではあまり使われないようである。

 小林道正『世の中の真実がわかる「確率入門」 偶然を味方につける数学的思考力』(講談社ブルーバックス)を読み終える。あまりよく分からなかったのだが、最後に、「確率や統計の学習では、…実験結果と理論的計算結果を対比すると理解が深まるのです。/理論的な学習だけでは、何を求めているのかさえ分からなくなってしまうことが多いのです。たとえコンピューターを使った実験でも、実験してみることが大事なのです」(228ページ)と述べられているのが印象に残った。

5月29日
 『朝日』の地方欄に鎌倉アカデミアについての回想記事が出ていた。1946年から50年にかけて鎌倉で活動した個性豊かな高等教育機関である。出身者の名が列挙されていた中に、鈴木清順監督の名がなかったのは遺憾である。

5月30日 
 『朝日』の地方欄に、川崎市の麻生区一帯の義経伝説を取り上げた記事が出ていた。義経は奥州の藤原秀衡のもとにいたのが、兄である頼朝に合流しようとわずかな手勢を引き連れて南に向かう、この時に、内陸部の道を歩んだことを推測させる伝説である。
 (以下つけたし) 平家の追討軍を撃退して鎌倉に戻る途中で義経に遭った頼朝は、二人の先祖である八幡太郎義家が後三年の役で奥州に向かった際に、義家の弟の新羅三郎義光が都での職務をなげうって駆けつけた故事を引き合いに出して喜びを語る。このあたり、いろいろな解釈が可能で、歴史小説作家の腕の振るいどころだといえよう。

5月31日
 『朝日』によると、昭和の言論界にその博識と毒舌をもって君臨した大宅壮一の残した資料をもとに事業を展開している大宅壮一文庫の経営が苦しくなってきているそうである。うーん、寄付をしたいけれども金はなく、ボランティアで事業を手伝いたいけれどもしかるべき技能と時間はなしということで、勝手連的に支援を呼びかけるだけにしておく。

 田辺聖子『東海道中膝栗毛を旅しよう』(角川文庫)を読み終える。以前に講談社文庫から出版された際にも読んだ記憶がある。昨年の10月~12月にNHKカルチャーラジオで放送された『弥次さん喜多さんの膝栗毛』を聞いていたので、さらに理解が深まる。この本と、土田よしこさんのまんが、あるいはそのどちらかを読めば、『膝栗毛』についての一応の知識は得られ、原作を読む必要はなくなるのではないか。というよりも、原作を無理して読む必要はないと思うのである。それに田辺さんも再三にわたり指摘している、原作の猥雑さが、女性(田辺さんand/or土田さん)の目で見直されて、現代の常識の枠の中に引き戻されているからでもある。
 それにしても、滑稽道中とはいっても、『ドン・キホーテ』と『膝栗毛』とでは文学としての格が違うねぇとあらためて考えさせられている昨今ではある。

6月1日
 NHKラジオ「実践ビジネス英語」の”Quote...Unquote"のコーナーで紹介された言葉:
To buy books would be a good thing if we also could buy the time to read them. (from Counsels and Maxims)
         ――――Arthur Schopenhauer (German philosopher, 1788-1860)
(もし本を読む時間も買えるのなら、本を買うのはいいことだろう。)
最近は、時間だけではなく、本を置く空間も大事だという人が少なくない。本だけならいいが、保存しておく必要のある書類がバカにできないほど多い。
 「デカンショ節」の「デカンショ」はデカルト、カント、ショーペンハウアーだという俗説があるが、その哲学体系の中に宇宙論があるデカルト、カントと、自分の世界に閉じ籠りっぱなしのショーペンハウアーでは相撲の横綱と十両くらいの開きがあると私は思っている。

6月2日
 NHKラジオ『レベルアップ中国語』の「今日のつかみの一言」は「天羅地網」(tianluo diwang =水も漏らさぬ包囲網)であった。語学の教科書や、教育番組のなかにはミステリ仕立ての展開になっているものが時々見られるが、現在放送中の語学番組ではこの『レベルアップ中国語』と「まいにちフランス語」の初級編のストーリーがそれに該当するようである。『レベルアップ中国語』では張飛とか、呉用とか、中国の有名な小説の登場人物と同じ名前の人物が登場しているのが合わせて興味深い。
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