2016年の2016を目指して(5)

5月31日(火)晴れ

 5月に新たに出かけたというところはなく、これまで足跡を記したのが1都2県、2市4特別区から増えていない。
 利用した鉄道も7社、10路線、11駅から増えていない。バスだけは新たに神奈川中央交通の港61と、相鉄の浜7の2つの路線に乗り、新たに1つの停留所を利用したので、3社、16路線、13停留所とこの部門では数字が増えている。{69}

 この稿を含めて31件のブログを書いた。1月からの合計は153件である。内訳は、読書が9件、ダンテ『神曲』、『太平記』、日記がそれぞれ5件、外国語、推理小説がそれぞれ2件、歴史・地理、映画、未分類が各1件ということである。今月に入って、読書からダンテ『神曲』と、『太平記』の項を独立させたが、通算の集計では読書の中にこの2つを含めておくと、読書が77件、日記が28件、映画が16件、今月は1つも掲載しなかった詩が12件、未分類と推理小説がそれぞれ7件、外国語と歴史・地理がそれぞれ3件である。コメントを4件(14件)、拍手を926拍手(3819拍手)、拍手コメントを1件(8件)いただいている。{175}

 買った本は15冊で、1月からの合計は66冊(+贈呈を受けた本1冊)である。その15冊をすべて読み終えたのは、ちょっと自慢してよいのではないか。三浦佑之『風土記の世界』、太田昭彦『山の神さま、仏さま』、似鳥鶏『家庭用事件』、宮下奈都『メロディ・フェア』、児美川孝一郎『夢があふれる社会に希望はあるか』、宮下奈都『よろこびの歌』、金子民雄『ルバイヤートの謎』、椎名誠『流木焚火の黄金時間 ナマコのからえばり』、加藤周一『夕陽妄語 Ⅰ』、榎原雅治『室町幕府と地方社会』、島田裕巳『「日本人の神」入門 神道の歴史を読み解く』、田中啓文『鍋奉行犯科帳 猫と忍者と太閤さん』、小林道正『世の中の真実がわかる確率入門』、宮下奈都『終わらない歌』、田辺聖子『東海道中膝栗毛を旅しよう』がその15冊である。読み終えた本の1月からの通算は55冊に増えたが、本を買った書店は3軒のままである。{58}

 「ラジオ英会話」を17回(96回)、「入門ビジネス英語」を8回(40回)、「攻略!英語リスニング」を7回(38回)、「実践ビジネス英語」を9回(56回)、この他に「ワンポイント・ニュースで英会話」を17回聴いている。
 また「まいにちフランス語」を16回(95回)、「まいにちイタリア語」を17回(96回)、「まいにちロシア語」を17回(37回)、「レベルアップ中国語」を13回(27回)聴いている。

 このほかにカルチャー・ラジオ『教養としてのドン・キホーテ』を3回分聴いた(通算では5回)。この番組は面白いのだが、聞きのがすことが多いので、気をつけないといけない。

 6本の映画を見て、1月からの通算は27本になった。新たに出かけた映画館はなく、出かけた映画館の合計は7館のままである。『蜜のあわれ』、『何故彼女等はそうなったのか』、『風の中の子供』、『Mr.ホームズ』、『風』、『グランド・フィナーレ』という日本映画3本、外国映画3本である。{34}

 サッカーの試合を4試合観戦した。J2が2試合、なでしこリーグ2部が2試合、別の見方をすると男子が2試合、女子が2試合である。今月は新たに日産スタジアムに出かけた。1月からの通算では、見た試合が19試合、出かけた競技場が2カ所ということになる。{21}

 ノートを4冊、ボールペンの芯(黒0.5)を5本、ボールペン(黒0.4ミリ)1本、テキストサーファー(赤)1本、(黄)2本を使い切った。

 アルコール類を口にしない日は10日で、まずまずのペースではないかと思う。
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語学放浪記(51)

5月30日(月)雨が降ったりやんだり

 この記事の50回目というのを書いたのが、去年の8月1日だったから、10か月ぶりということになる。外国語の勉強についての思い出はいろいろあるし、また勉強を続けてもいるのだが、その中で、何を書いていくかについては迷うことが多い。自分自身の内発的な関心もあるが、行きがかりとか、ちょっとした思い付きというようなふらふらした理由もあって、この4月からは中国語とロシア語のラジオの番組も聞くことにした。拘束される時間が増えて、生活全体にもそれが波及し、あまりうまくいっていない。今後の方針を立てていくためにも、現状を整理してみた方がよいと思って、ここに書き記す次第である。

 現在、定期的に聞いているラジオの語学番組は「ラジオ英会話」、「入門ビジネス英語」、「攻略!英語リスニング」、「ワンポイント・ニュースで英会話」、「実践ビジネス英語」と英語が5番組、その他の言語では「まいにちフランス語」(入門編・応用編)、「まいにちイタリア語」(入門編・応用編)、「まいにちロシア語」(入門編・応用編)、「レベルアップ中国語」を聞いている。

 英語についていうと、「ラジオ英会話」と「入門ビジネス英語」がB1(社会生活での身近な話題について理解し、自分の医師とその理由を簡単に説明できる)、「攻略!英語リスニング」と「ワンポイント・ニュースで英会話」がB2(社会生活での幅広い話題について自然に会話ができ、明確かつ詳細に自分の意見を表現できる)、「実践ビジネス英語」がC1(広範で複雑な話題を理解して、目的に合った適切な言葉を使い、論理的な主張や議論を組み立てることができる)という位置づけになっている。この目安はヨーロッパ言語共通参照枠に基づいて設定されたものだそうであるが、具体的に個々の番組を聞いてみないと、「幅広い話題」とか、「広範で複雑な話題」というのはこういうことだろうなと分からないところがある。
 「ラジオ英会話」は講師の遠山顕さんとパートナーのケイティ・アドラーさん、ジェフ・マニングさんの組み合わせが長く続いており、息の合った番組の進行が聞き手にも伝わってきて、楽しく聞いているが、すべてを理解できているというわけでもない。「入門ビジネス英語」は昨年同様に柴田真一さんが講師を担当しているが、パートナーがリンジー・ウェルズさんに代わった。昨年度のハンナ・グレースさんが女優で発音がきれいな一方で少し頼りない感じがあったのに対し、リンジーさんは英語教育の専門家のようで、どんな番組になるかが気になるところである。”Practical Business Phrases"というコーナーが新たに設けられ、役立つ表現についてさらに多く学ぶ機会が増えたが、どこまでそれらの表現を覚えていけるか。「攻略!英語リスニング」は最も力を入れて聴いている番組であるが、2日目の”Repeat and Look up"という英文の暗唱のコーナーがなかなかうまくできない。「実践ビジネス英語」は内容的には難しいが、とりあえずは内容を理解するという受け身の姿勢で何とか聞き続けている。
 英語については、番組を聴くだけではなく、テキストに収録されている文章を読むとか、いろいろな問題を解くとかいう取り組みも必要だし、それ以上に自分の興味のある問題について、英語で書かれたものも読んでいく事にももっと熱心に取り組むべきだと思っている。

 今年は、フランス語を大いに勉強しようと思っているのだが、なかなかうまくいかない。日常のメモなど、できるだけフランス語を使おうと思っていたのだが、結局フランス語でかっくのは日付だけであるというのが現状である。初級編は何度も繰り返して聴いてきたので、だいたいわかるのだが、終盤になって急に難しく思われてくる…ということがないようにしっかり聞いていこうとは思っている。それ以上に、応用編の方にしっかり取り組めていないのが問題である。ラジオの番組を聴くことに加えて、簡単な本を読むことも心掛けるつもりで、その簡単な本を見つけるのがなかなか難しい。

 イタリア語については今のところ順調だが、そもそもなんでイタリア語を勉強しているのかというと、楽しみのためということで、あまり実用のプレッシャーがかからないから気楽だということのようである。応用編のイタリア語の作文の時間は、ほとんど聞き流しているのだが、6月は漱石の『吾輩は猫である』のイタリア語訳が試みられるので、態度を改めようと思っているところである。

 「レベルアップ中国語」を聞いていると、私が大学時代に習ったのとは、中国語がかなり違ってきているし、その分難しいという感じがするのだが、テキストで展開されている物語が面白いのと、講師の加藤徹さんと2人の中国人出演者との会話の面白さで何とか持ちこたえて聴いている。現在の番組は6月までの放送で、7月から内容が変わるので、それから先も聞き続けるかどうかは、その時に考えることにしようと思っている。

 ロシア語については、入門編からすでにお手上げという感じで、40年を超える空白期間の大きさを実感しているところである。それでも入門編における講師のオレーグ・ヴィソーチンさんと、アシスタントのいちのへ友里さんの息の合った進行がなかなか楽しく、ロシアの文化とか、ロシア人の考え方について知る機会というつもりで聞くことにしている。10月以降も聞き続けるかどうかは、これまたその時に決めるつもりである。実はテレビ番組の方に切り替えようかということも考えている。

 私の関心からいえば、中国語やロシア語を勉強するよりも、ラテン語とギリシア語を勉強するほうが有益だと思うのだが、なかなか取り組むことができずにいる。古典語については、ラジオ・テレビで番組を組んでいないので、自分で時間を見つけて勉強しなければならないが、それが結構難しい。何事にせよ、それがどのくらい難しいかというのは、実際に取り組んでみなければわからないところがある。だから、実際に取り組んでみた方がいいというのが私の哲学である(落語の『試し酒』の精神である)。

ダンテ・アリギエリ『神曲 煉獄篇』(29-2)

5月29日(日)晴れ

 ローマ時代の詩人ウェルギリウスの霊に導かれて、煉獄山の7つの環道を登り切って、地上楽園に到達したダンテは、神をたたえる歌を歌う美しい貴婦人に出会う。彼女の説明によると、地上楽園は原初の人間がそこで暮らし、罪を犯したために追放された場所であるという。人間がその能力だけで到達できる限界がこの地上楽園であり、それは天国の先駆けにすぎない。ダンテの前に、強い光が出現し、神の世界が彼に開かれることを予示する。
 その後、ついに空から神的な何かが降りてきて、神を賛美する「ホサナ」の声とともに、精霊からの7つの贈り物(賢明、知性、忠告、剛毅、学問、慈愛、神への畏れ)を示す7つの燭台の光をダンテは見た。

私は驚きでいっぱいになって
善良なるウェルギリウスを振り返ると、
彼も私に劣らぬ驚愕の視線で答えた。
(431ページ) 善良ではあっても、異教徒であるウェルギリウスには手の届かない世界が出現している。「そして彼の驚愕の中には、弟子との別れを予感し、また、真理を知ることのできない悲しみが隠されているはずだ」(609ページ)と翻訳者である原さんは解説で補っている。

 貴婦人はダンテに、先頭の光だけでなく、その後に続くものに注意を向けるように促す。光の後を行列して歩く人々の姿をダンテは見る。彼らは純白の衣服を身に着けていた。行列は、ダンテがその流れに沿って歩いて来た小川の向う側を歩んでいたのだが、
水が左側の脇で燃え上がっていた。
それを私が覗き込めば、さながら鏡のように、
私の左半身の姿を反射していた。
(432ページ) 水に映し出されているダンテの左半身は、彼の罪の最後の痕跡である。

 ダンテは行列をもっとよく見ようとする。
・・・
二十四人の長老が二人ずつ組になり、
頭に白百合の花冠を載せて近づいてきた。
(434ページ) 24人の長老とは、新約聖書「ヨハネの黙示録」4.4に「また、玉座の周りに24の座があって、それらの座の上には白い衣を着て、頭に金の冠をかぶった24人の長老が座っていた」(新共同訳)とあるのに基づいている。24という数字は旧約聖書全24巻を指している。彼らはキリストを身ごもったマリアをたたえる歌を歌いながら進んでいく。

 さらに、その後から
空では星座が聖座を追ってくるように、
彼らに続いて四頭の霊獣がやって来た。
それぞれが緑の冠を被っていた。
(同上) 4頭の霊獣は新約聖書の4福音書(マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネ)を表す。霊獣たちの姿は旧約聖書の『エゼキエル書』と新約聖書の『ヨハネの黙示録』に描かれた通りであった。

 こうしてダンテの前に神の世界が姿を現し始める。聖書の世界が具体的なイメージによって表現されていることが注目される。この描写はまだまだ続き、その描写の中でダンテの世界観、キリスト教観が語られてゆくことになる。

田中啓文『鍋奉行犯科帳 猫と忍者と太閤さん』

5月28日(土)曇り時々晴れ

 5月27日、田中啓文『鍋奉行犯科帳 猫と忍者と太閤さん』(集英社文庫)を読み終える。大坂西町奉行という重職にありながら、美食と大食いの方に精力を傾けている…が、その周辺で起きる難事件・珍事件を次々に解決していく大邉久右衛門とその配下の者の活躍を描くシリーズ第7弾である。田中さんには、落語家を主人公にする「笑酔亭梅寿謎解噺」という先行するシリーズがあるが、それを追い抜く勢いで書き進められているのは、こちらの方への読者の後押しが強いからであろうか。

 『猫と忍者と太閤さん』というと落語の三題噺めくが、実際は、太平の世に用がないはずの忍者が登場し、しかも久右衛門の命を狙う、それも奉行所の糠床が目当てなのだが、さる大名家の御家騒動が絡んで奉行所の天井裏で2人の忍者が鉢合わせをする…という「忍び飯」、芸はしっかりしているが猿面ゆえになかなか目を出せない老優に『太閤記』の秀吉の役をやらせて成功するが、この役者の命を狙う一団が登場するという「太閤さんと鍋奉行」、京都のお公家さんの家庭の事情に猫が絡むという「猫をかぶった久右衛門」の3編の中編小説から構成されていて、それぞれの間に筋の関連はない。

 最初の2編は2つの一見関係のない事件がどこかで結びつくという展開、「猫をかぶった」は猫とその世話係の少年の間柄の描き方が興味深い。さらに、シリーズ常連のそれぞれの個性の描き方にまた新たな工夫がみられる。相変わらず大食漢ぶりを発揮する久右衛門であるが、「太閤さん」では食べ過ぎて腹を壊して、用人の佐々木喜内をそろそろ隠居する頃合いかと心配させたり、「猫をかぶった」では迷い込んできた猫にネコ飯を作ってやったりと、これまでにない側面を見せる。奉行の配下で、大坂市中を見回る同心の村越勇太郎、その手下で役木戸を務めながら水茶屋を経営し、戯作者も兼ねるという蛸足の千三、勇太郎の直属の上司で堅物ながら、苦労人ぶりも発揮する与力の岩亀三郎兵衛、勇太郎に思いを寄せる道場主の娘小糸、奉行所お抱えの腕のいい料理人の源治郎、勇太郎の叔父で医者の赤壁傘庵など毎回登場する人物のほかに、「隠し包丁」という忍者の仲間を抜けて料理人になろうという権六、江戸から移り住んで雑喉場(ざこば)仲買人をしながら勇太郎の手下も勤めようという繁太など、新たにレギュラー入りをしそうな顔ぶれも見られる。権六の元「上司」である名張の寸二も今後悪役として再登場の可能性がある。小糸と勇太郎を争ってきた綾音はどうも方向転換をしたらしく、ほとんど登場しないが、千三におしのという恋人?ができたという聞き捨てならない話題もでてくる・・・

 読みながらなぜか、オランダの外交官・東洋学者で駐日大使を務めたこともあるロバート・ファン・ヒューリックのディー判事(狄仁傑)シリーズを思い出していた。一方は実在の人物で、則天武后(武則天)に諫言をしたという硬骨漢、他方は架空の人物で江戸後期の一見役立たず。ディー判事が地方の知事を歴任してそれぞれの土地の怪事件を解決して行く(最後には長安に戻って政府の高官になる)のに対し、久右衛門はさまざまな役職を経て、どうも大坂西町奉行が最後のご奉公らしい。ただ、両者ともグルメで(ディー判事の場合、主人公よりも作者のほうがグルメだったという意見もある)、異能の部下たちを集めているというのが共通点であろうか。もっとも鍋奉行シリーズの場合、久右衛門の個性が強すぎて、部下の能力がかすんでしまっているようにも思われる。鍋奉行シリーズが続く中で、登場人物のどのような取捨選択が進んでいくかも、読み進む際の楽しみの一つである。

『太平記』(107)

5月27日(金)雨後曇り

 元弘4年(1334年)7月に建武と改元された。これは前漢を滅ぼして新を建国した王莽を破った、漢の一族である劉秀(光武帝)が紀元25年に後漢を建国した際の年号に倣ったものである。鎌倉幕府が滅びて朝廷に政治が一本化したことにより、権勢を得ておごり高ぶるものもいれば、不満を抱くものもいた。倒幕の論功における不公平な恩賞がそれをさらに増大させた。疫病が流行し、病死するものが多かった。8月、内裏に怪鳥が飛来し、隠岐広有という武士がそれを射落とすという出来事があった。

 兵乱が収まっても、まだ天下を覆っていた邪気は収まらず、それを消すためには真言密教の霊験に勝るものはないとこれまでも雨乞いや、怨霊をなだめるための宗教行事が行われる場として利用されていた神泉苑をあらためて修法の場として改造することになった。

 神泉苑というのは平安京の大内裏が造営された際に、周の太祖文王が鳥獣を養った霊囿(神聖な園)になぞらえて、8町四方の広さに造営された庭園である(もともとこの一帯にあった湖沼を利用して、天皇御遊の庭園としたが、修法の場ともなった。なお『新潮日本古典集成』版の頭注によると、実際は南北4町、東西2町の広さであったそうである)。その後、桓武天皇の時代に朱雀門の東西に2つの寺を立て、内裏から見て左手にある寺を東寺、右手にある寺を西寺と名付けたと『太平記』の作者は書いている(この記述にいくつ間違いがあるか、というのはクイズの問題になりそうで、『太平記』の書かれた時代の歴史的な知識の水準が決して高くなかったことがよく分かる)。
 『太平記』の作者は<朱雀門>と書いているが、これは内裏の正門であって、そこから朱雀大路が南へと延び、その端に羅城門があって、羅城門の東に東寺、西に西寺があったというのが正しい。さらに東寺、西寺というのは通称であって、東寺は教王護国寺というのが正式な寺号である。西寺はこの後なくなってしまったので、手元にある本には寺号が注記されていない。

 「東寺には、高野の弘法大師、胎蔵界の七百余尊を安じて、金輪(こんりん)の宝祚を守り、西寺には、南都の守敏僧都、金剛界の五百余尊を顕して、玉体の長久をぞ祈られける。」(第2分冊、265ページ、東寺には高野山の弘法大師が母胎が子を育むように、万物を包容し慈しむ悟りの境地である胎蔵界を図画化した胎蔵界曼荼羅を置いて、天皇の皇位を守り、西寺には奈良の守敏僧都が智恵の働きで一切の煩悩を打ち砕く悟りの境地である金剛界を図画化した金剛界曼荼羅を安置して、天皇のご長寿を祈ったのである。実際には、西寺の開基は慶俊であったと岩波文庫版の脚注には記されている。

 そうこうしているうちに、延暦23年(804年)に弘法大師が求法(ぐほう)のために中国にわたられた。そのため、留守中は守敏僧都一人が天皇のお近くで朝夕祈祷を行っていた。
 ある時、天皇が手を洗おうとされたが、水の上に氷が張ってあまりにも冷たかったので、しばらく躊躇されていると、守敏がその水に向かって火の印を結んで法を行ったところ、氷がたちまちにして解けて、冷たかった水が湯に変じた。
 天皇は不思議に思われて、今度は守敏が伺候した際に、火鉢の炭を多くして、障子を締め切り、部屋の中を暖めて、春の2月か3月のような様子にした。天皇はうっすらと汗をにじませながら、「この火を消してほしい」とおっしゃると、守敏はまた火に向かって水の印を結んだ。これによって火鉢の中の火はすぐに消えて、灰だけが残り、部屋の中は冬の寒さとなった。
 この後も、守敏は数々の神変を顕したので、天皇が守敏を深く信じ仰ぎ従うことは、大変なものであった。

 このようなことが続いているうちに、弘法大師が帰国されて、すぐに参内した。天皇は中国の事情をいろいろとお尋ねになった後に、大師の留守中に守敏が自分の身を守りながら、いろいろと不思議な霊験を現したことを語られた。大師はこれを聞いて、昔のインドで有名なバラモンがどんな論戦にでも勝っていたのを、実は鬼神に助けられていたのだと馬鳴(めみょう)という仏教詩人が見破ったという話、月支国の王が七宝の塔に礼拝したところ、塔が崩れ、これは自分の運命が傾く前兆かと心配したところ、国王の徳の高さに外道の建てた塔が崩れたものであることが分かったという話を持ち出し、自分の留守中に守敏が顕した奇特は、自分が戻ってしまえば、簡単にはできなくなると彼を見くびる発言をした。

 この後、そこで起こった守敏と弘法大師の間で法力の競争が展開される。物語としては面白いが、2人で協力して国土を平穏に保つために法力を使った方がよかったのではないかという思わないでもない。建武の新政の展開の具体相が語られると思いきや、神泉苑での修法の話から脱線して、弘法大師を主人公とする説話が展開される。これも『太平記』の語り口の特色の1つである。 

日記抄(5月20日~26日)

5月26日(木)曇り後晴れ、風強し

 5月20日から本日までに経験したこと、考えたことなど:
5月20日
 NHKラジオ「レベルアップ中国語」によると、中国の『全唐詩』には、日本人が書いた詩も収録されているという。その1つは熱心な仏教の信者であった奈良時代の政治家・長屋王が千の袈裟を作って中国の僧侶に送った際に、その袈裟に刺繍されていた
山川異域、風月同天。
寄諸仏子、共結来縁。
(山川域を異にすれども、風月、天を同じうす。諸(これ)を仏子に寄す。共に来縁を結ばん。⇒私達が生まれた国土は違いますが、天空を吹く風や、月には国境がありません。この袈裟を、仏教を学ぶ皆様にお贈りします。共に永遠の縁を結ぼうではありませんか)
という偈頌(げじゅ=仏教でいう詩)だそうである。中国の高僧・鑑真もこの詩を読んで、とても感動し、それが日本にわたる決心をした理由の一つになっているという。番組中では触れられていなかったが、鑑真が6度目の渡航の試みにようやく成功して奈良の都に到着した天平勝宝6年(754年)よりもはるか昔、神亀6年(729年)に長屋王は政変に巻き込まれて自害していた。おそらく、自分の「詩」が中国の少なからぬ人々を感動させ、その記憶に留められたことを王は知らなかっただろうと思われる。

5月21日
 横浜シネマ・ベティで柳下美恵さんのピアノ演奏付きのサイレント映画『風』の上映を見た。その後、同じ映画館で『グランドフィナーレ』を見る。『風』はサイレント映画時代の大スターであるリリアン・ギッシュが主演し、スウェーデンからハリウッドにわたったヴィクトル・シェストレムが監督した作品で、東部から風の強い地方に移り住んできた若い女性が、過酷な環境と運命にさらされながら生きていく物語で、強い北風を白馬が暴れているという先住民の言い伝えが映像化されているというような幻想的な場面がみられる。ビリー・ワイルダーの『フロント・ページ』の中で、スーザン・サランドンが映画館でピアノを弾いていたのを思い出したりしながら見ていた。
 パオロ・ソレンティーノ監督の『グランドフィナーレ』はアルプスの高級ホテルで休暇を過ごしている、今は引退した英国人指揮者・作曲者がフィリップ殿下の誕生日の演奏会で自作の音楽を指揮してほしいというエリザベス女王の懇請を、この歌が歌えるのは別居している自分の妻だけだと断り続ける、その一方で彼の友人である映画監督は気心の知れた老女優を主演させて新しい映画を作ろうとしているのだが…。物語の展開よりも、映像のすばらしさのほうが印象に残る作品である。
 老音楽家を演じているのがマイケル・ケーン、老女優がジェーン・フォンダで、この2人は若いころに、オットー・プレミンジャー監督の『夕陽よ急げ』で夫婦を演じていたなぁなどと思いだす。売り出し中のフェイ・ダナウェイ、黒人の大女優兼歌手のダイアン・キャロル、悪徳保安官というはまり役を演じていたジョージ・ケネディなど今から考えると豪華な配役であった。

5月22日
 ニッパツ三ツ沢球技場で、横浜FC対セレッソ大阪の対戦を観戦する。保土ヶ谷区民デイということで、さらにセレッソのサポーターの数が多かったこともあり、久しぶりに1万人を超える観客が集まった。一進一退の攻防が続いて前半0‐0で折り返し、後半になってセレッソのほうが優勢になってきたかなと思った終盤の87分に横浜が先取点を挙げ、その直後に大阪が1点を返し、結局1-1で引き分けになった。見ごたえのある試合であったが、横浜が勝ってくれればさらによかった。

 椎名誠『流木焚火の黄金時間 ナマコのからえばり』(集英社文庫)を読み終える。映画の撮影システムと画面の大きさの話とか、駅弁の話とか、著者が興味を持って書いていて、こちらも興味があって、比較的細かいことを詳しく書いている個所が面白い。どこまで集中力を切らさずに対象を描き切るかがエッセーを書く時の勝敗の分かれ目だななどと考えていた。

5月23日
 東京の病院に出かける。帰りに白金台のROROでスパゲティ・ミートソースを食べる。まずまず。この店は時々、テレビで紹介されるが、常連客が多く、その中に芸能人もいるということからではないかと思う。

5月24日
 榎原雅治『室町幕府と地方の社会 シリーズ日本中世史③』(岩波新書)を読み終える。いろいろと有益な示唆を得られる書物であるが、取りあえず1つだけ書いておくと:
(足利)成氏は鎌倉に戻ることができず、古河にとどまったので、古河公方と呼ばれる。
 そして年号が享徳から康正に変わっても、成氏はこれに従わず、実に27年にわたって享徳年号を使用し続けた。南北朝時代、2つの朝廷がそれぞれに年号を立て、北朝に服する者は北朝年号を、南朝に服する者は南朝年号を使用したことが示すように、ある年号を使用するということはその年号の制定者に服することを意味する。京都の改元に従わないということは、京都の政権には従わないという意思の明確な宣言であった。(180ページ)
 但し、この件をめぐっては、単なる事務的な手続きの行き違いが原因であるという説もあるようである。

5月25日
 NHKラジオ『実践ビジネス英語』はLesson 4: Bike Month and Keeping it Safe (自転車月間と安全確保)というビニェットに入ったが、登場人物の中のマンハッタンに住む何人かは職場に自転車通勤をしている。
Being able to bike to work is one of the plus of living in the heart of the Big Apple.
(自転車通勤ができるのは、ビッグアップルの中心部に住むことのメリットの1つです。)
 会話を聞きながら、思い出したのだが、ニューヨーク市はBronx, Brooklyn, Manhattan, Queens およびStaten Islandの5つの区(borough)からなっている。1つ1つの区がかなり大きいのが特徴的で、市の行政の実態など、もっと詳しく知っておく必要がありそうだと思った。

 同じ番組の”Quote...Unquote"に登場した言葉:
Vanity and pride are different things, though the words are often used synonymously. A person may be proud without being vain. Pride relates more to our opinion of ourselves; vanity, to what we would have others think of us.
                      (from Pride and Prejudice)
----Jane Austen (English novelist, 1775-1817)
虚栄心と自尊心は、同じ意味で使われることが多い言葉だが、別のものである。人は、虚栄心を伴わずに自尊心を抱くかもしれない。自尊心は、どちらかというと、自分自身への評価にかかわるものであり、虚栄心は他人に自分がどう思われたいのかにかかわるものだ。
 なかなか鋭い洞察である。『高慢と偏見』は読んだことがあるのだが、この言葉についての記憶はない。また、読み直してみよう。

5月26日
 NHKラジオ『実践ビジネス英語』の”Quote...Unquote"に出てきた言葉:
Better to be without logic than without feeling.
(from The Professor)
---- Charlotte Brontë (English novelist and poet, 1816-55)
感情がないよりも、理屈がない方がいい。
 他人を説得しようと思ったら、相手の気持ちに配慮しなければならない。いくら正しい理屈を並べても、相手の気持ちを傷つけてしまったら、自分の誠意は通じないだろう。

 島田裕巳『「日本人の神」入門 神道の歴史を読み解く』(講談社現代新書)を読み終える。「なぜ歴代の天皇は伊勢神宮への参拝を避けたのか」について、神宮の神の祟りを恐れたからであるという議論を展開している。本来、おそろしい、祟りをもたらす存在であったはずの日本の神が、どこでどう変質したのかについての考察が十分であるとは言えないが、問題提起の書としては読み応えがある。

加藤周一『夕陽妄語 Ⅰ』

5月25日(水)曇り

 5月23日、加藤周一『夕陽妄語 Ⅰ』(ちくま文庫)を読み終える。1984年7月から1991年12月にかけて『朝日新聞』に連載され、1987年に『夕陽妄語 Ⅰ』、1990年に『夕陽妄語 Ⅱ』、1992年に『夕陽妄語 Ⅲ』として朝日新聞社から出版された時評を1冊にまとめたものである。論評の対象は政治・社会、歴史・民俗、文化・芸術、学術・思想と多岐にわたる(スポーツと身辺雑記があまりないのも特徴かもしれない)。

 冒頭の「夕陽妄語の辨」で著者はこの標題(「せきようもうご」と読む)が、江戸時代の詩人菅茶山の『黄葉夕陽村舎詩』をいくらか思い浮かべて、「新聞に載せるよしなしごと」(16ページ)という意味合いであると説明しながら、題名にかかわる思い入れはそれだけではないと述べている。東京で育った著者は、子どものころに見た西方に広がる遠い山脈と富士山の上に広がった夕景が忘れられず、それが著者自身の価値観や美意識を形成してきたという。「私が好むのは、長い年月の間に楽の茶碗に染み出す微妙な色調であり、沈みゆく町に沈む夕陽の最後の輝きであり、あらゆる価値に対する懐疑主義である。もし私の雑文に時節があるとすれば、その時節は夕暮れにちがいないだろう」(17ページ)と夕暮れに対する愛着を語る。著者自身が人生の夕暮れを迎えているという認識もあるかもしれないが、それでも、「私は、夕暮れの文を作って、闇夜の文を作らない」(19ページ)。日が暮れて夜が明ければ、また明日が来る。著者は文明の歴史を語り、未来を展望している。内容の理解を助けるために、1年ごとにその年に起きた主な出来事がまとめられている(年表作成者=大久保由理)が、この時期は1989年(平成元年)11月のベルリンの壁の崩壊に代表されるように、激動の時代であるとともに、この時期に議論されていたことが、現在も引き続き取り上げられている例が少なくないことに気付く。

 時事問題に関連する発言としては、「太平洋のいくさの末期、フィリピンで死んだ敗戦の日本軍部隊の仲間たちに、「化けて出てくれ」と大岡昇平氏が呼びかけたのは、1958年、岸信介内閣が安保条約改定交渉を始めた年である」(188ページ)と書きだされる、「化けて出てくれ」(1987年8月17日)、核兵器の使用を論じながら手段と目的の混同について警告を発している「何故原爆を落としたか」(1989年8月23日)など説得力に富むし、現在われわれが直面している問題を考える場合にも有益であろう。

 またより、文明の内奥に分け入った論考としては、一神教=好戦的、多神教=平和的という考え方を実例に基づいて批判した「日米内外」(1990年2月15日)、東(南)アジアにおける儒教の影響と経済の発展についての様々な説を分析した「儒教再考」(1990年7月17日)にも注目すべき議論がみられる。さらに、私の個人的な関心からいえば、マルクスとトックヴィルという19世紀を代表する2人の思想家について、「歴史の一方の見方が決して他方の見方に還元されぬ事」(243ページ)を感じさせられたという「歴史の見方・1848」(188年6月16日)がもっとも考えさせられる文であった。

 だからと言って、著者の議論のすべてに納得しているわけではなく、不満を感じる部分もある。
 1987年6月15日に発表された「日本における『反ユダヤ主義』」は、ユダヤ人たちが共同謀議を凝らして米国を、そして世界を支配し(ようとし)、「日本いじめ」もその表れの1つであるという日本の一部で「人気?」のある考え方を取り上げた文章である。著者は、このような考えがたびたび表面化する理由を5つ挙げて論じているが、それぞれに説得力がある。そして「反ユダヤ主義」は一時の流行に終わるだろうが、流行の背景をなすものはそれほど簡単になくならないだろうという。ここまでは特に異論もないのだが、経験に基づいていっておきたいことがある。
 著者は「日本国にはユダヤ人がほとんどいない」(180ページ)と書いているが、この時期は日本の各地でイスラエル人の露天商がアクセサリー類を売りさばいていたのではなかったか。そして、彼らの商売繁盛ぶりが日本における「反ユダヤ主義」のある種の虚構性を示していたのではないかと思う。

 ごく一部しか取り上げていないが、取り上げなかった部分にも、もちろん読むべき意見は多い。漠然とではなく、この文が書かれた時期に自分は何をして、何を考えていたかを思い出しながら読むべき本であると思ったが、そういう思い出を持たない若い世代にはまた別の読み方があるだろうと思う。

遠藤慶太『六国史――日本書紀に始まる古代の「正史」』(12)

5月24日(火)晴れ、気温が高かった

 《六国史》とは、奈良時代から平安時代にかけて律令政治のもとで国家の事業として編纂された6冊の史書:『日本書紀』『続日本紀』『日本後紀』『続日本後紀』『日本文徳天皇実録』『日本三代実録』を総称して言う。遠藤さんのこの書物は序章で、「六国史とは何か」を概観し、第1章で『日本書紀』、第2章で『続日本紀』『日本後紀』、第3章で『続日本後紀』『日本文徳天皇実録』『日本三代実録』について、それぞれの成立にかかわって注目すべき事情や、その内容に見られる特徴を論じてきた。そして、『日本三代実録』以後、このような歴史書が編纂されることなく、歴史書の持っていた役割の一つである政務の手引きが、日記に取って代わられるようになったこと、その背景には、貴族社会の変質⇒それぞれの家柄に応じて、主として担うべき職掌が決められるようになったことが指摘された。

 第4章は「国史を継ぐもの」として、完成した《六国史》がその後の時代にどのように受容され、理解され、利用されていったかを辿る。もっとも、《六国史》以後も歴史書編纂の試みが途絶えたわけではない。
 「延喜元年(901)に完成した『日本三代実録』を最後に、勅撰によって歴史書をまとめることは途絶えた。史書編纂を打ち切る決定がなされたのではない。結果として、『日本三代実録』に続く勅撰史書が完成しなかったのである。」(172ページ)と著者はその後の経緯をまとめる。
 宇多天皇の孫にあたる村上天皇のもとで、撰国史所が設けられ、大江朝綱が別当に任じられた。鎌倉時代にまとめられた『本朝書籍目録(ほんちょうしょじゃくもくろく)』には『新国史』という書物が記載され、大江朝綱、或いは藤原実頼の著述であると記されている。著者はこれが撰国史所の作業の結果残されたものであると考え、おそらくは修史事業の総裁が実頼、編集実務は朝綱が担当していたと推測している。しかしこの記事には異論もあり、そのように議論が分かれているのは結局、この書物が奏上されることなく、未定稿のまま残されたからであるという。しかも、平安後期の学者である大江匡房の『江談抄』には外記を務めた中原師平が『新国史』を焼いたという説話が収められていたようであるが、惜しいことにこの説話は標題だけが伝わるのみであるという。(『江談抄』は所持しているはずなので、探し出して読んでやろうと思っている。)

 遠藤さんは大江氏と修史事業のかかわりについては、かなり詳しく論じているが、総裁であったらしい藤原実頼が『水心記』(あるいは『清慎公記』)と呼ばれる、現在では散逸してしまった日記を書いていたことについては、触れていない。実頼は摂関の地位に登ったが、弟の師輔のように天皇の外戚となることができず、実頼から始まる小野宮家は藤原氏の中では傍流の地位に追いやられていく。その中で、実頼の孫で養子の実資は『小右記』という日記を残し、一族は日記と有職故実についての知識をもって貴族社会の中での地位を保つのである。だから、実頼と小野宮家についても少し触れておいてよかったのではないかという気がする。(左大臣であった道長の『御堂関白記』と、右大臣であった実資の『小右記』という2つの日記が残っていることは、歴史家にとってきわめてありがたいことのはずである。)

 国史にかわって貴族たちが個々の立場で政務の記録を残し、それを子孫の参考として伝えることが一般的になった。しかも、時代が下がってくると、鎌倉時代の藤原宗忠の日記『中右記』のように、官人の死没を記すときに略歴まで書く者が出てくる。これは《六国史》の薨卒(こうしゅつ)伝を思わせるもので、日記が史書に近づいているのである。遠藤さんは書いていないが、この時代の日記は基本的には子孫に残すもので、読み手が内輪の人間であることを想定して、思い切った感想も書けるという特徴がある。

 平安時代に成立し、神代から後一条天皇までの歴史を編年体で記した『日本紀略』は遠藤さんも何度か言及してきた書物であるが、《六国史》以降の分をまとめるために『新国史』や外記日記を利用している。また平安中期から鎌倉期までのことを記した史書『百錬抄』も日記類を利用してまとめられているという。「したがって史書と日記、二つの史料が持っていた機能は限りなく近い」(175ページ)と著者は指摘している。

 こうして一方で、各種の日記が書き留められ(貴族だけでなく、寺社の僧侶や神官、武士たちまでが日記を残すようになる)、他方でそのような日記を利用して、個々の知識人たちが歴史書を書くようになる。これを「私撰国史」などと呼ぶことがある。勅撰の史書が編纂されなくなったのは、修史事業の後退のようにも思われるが、むしろ、自由で多様な歴史書の編纂を可能にしたと考えるべきではないかと思う。遠藤さんはさらに、平安時代になって出現した物語などの文学ジャンルと、史書との関係についての考察を展開しているが、それはまた次回に取り上げることにしたい。

三浦佑之『風土記の世界』(3)

5月23日(月)晴れ、気温が上がる

 この書物の第3章「常陸国風土記」には、「もう一つの歴史と伝承の宝庫」という副題がついている。著者は、第1章「歴史書としての風土記」の中で、現在、『風土記』と呼ばれている一連の文書が、律令政府が歴史書を編纂する過程で、必要な地方の史料を集めようとして出した通達である「符」に対する、回答「解(げ)」であったという考えを述べている。そして第2章「現存風土記を概観する」で現在もその全部、あるいは大部分が残っている常陸、出雲、播磨、豊後、肥前の風土記について概観している。そして、一応の全体像を述べたうえで、あらためて「常陸国風土記」を取り上げ、その特徴について詳しく述べていこうということらしい。
 現存風土記の中で、常陸国風土記と出雲国風土記は他の3書に比べて内容的に面白く、研究も進められてきており、そういう状況も反映して、それぞれ単独で講談社学術文庫に入っている。そういえば、私も常陸国風土記と出雲国風土記について書かれた本を読んだことがあるが、その他の風土記についてはそのような経験はない。

 常陸国風土記で特に注目されるのは、中央の歴史書、『日本書紀』にも『古事記』にも登場しない、「倭武天皇」という天皇の伝承が記されていることである。『古事記』には倭建命、『日本書紀』には日本武尊として登場する皇子はいる(三浦さんも指摘するように両書の中でのその描き方はかなり異なっている)が、彼が即位して天皇になったとは記されていない。
 「常陸国風土記に見られる倭武天皇の伝承には、古事記や日本書紀と関連する話は一つもない。本風土記の撰録時には日本書紀は成立しておらず、古事記は、律令国家にとって公式の歴史書としてあったわけではないから、両書と共通しないのは当然である。」(70ページ)

 「そのなかで、あえていえば、…大橘比売という妃の名が古事記や日本書紀のヤマトタケルを連想させる程度である。・・・タチバナという名の妃とともに旅をするというのが倭武天皇の定番といえそうだ。その点で古事記や日本書紀に重なる部分をもつが、常陸国風土記の伝承には、走水(浦賀水道)における遭難と妃オトタチバナヒメの死という古事記や日本書紀の伝承が伝える詩の影はまったく見いだせず、穏やかな旅が語られているという印象しかない。」(同上)

 さらに続けて三浦さんは、ヤマトタケルがいくつかの伝承を組み合わせて造形されたという推測を展開し、そのタチバナヒメとのかかわりについても論じている。「タチバナという植物は、古事記のタヂマモリ伝承(中巻、イクメイリビコ〔垂仁〕天皇条)が伝えているように、常世の国に育つ木である。おそらく、タチバナを名にもつ女性には聖なるおとめのイメージがこめられているのだろう」(71ページ)と、タチバナをめぐる伝承との関連についても触れているのが注目される。

 ヤマトタケルがなぜ東京湾を横断して房総半島から常陸に向かったのかというと、古東海道が三浦半島から東京湾を横断して房総半島に至っていたという歴史的な事実が反映されているのであろうが、現在でもフェリーが欠航することがあるように、東京湾を横断するのは常に安全というわけではなく、そのこともヤマトタケルの伝承には反映されていると考えるべきである。
 そうは言っても、私が住んでいるのが、昔風にいうと武蔵国橘樹郡であり、橘樹神社という神社も何社か存在しているから、ヤマトタケルの一行がなぜこちらの方を通らなかったかというのはやはり疑問である。東急東横線の多摩川駅から田園調布駅にかけてかなり大きな古墳群があり、この地方に有力な豪族がいたことが推測されるが、彼らが中央の政府から危険視されていたとか、東京湾は現在よりも広く、海岸部を歩くのは難しかったとか、古東海道が海路を行く理由はいろいろ考えられるのだが、どうも納得のいく説明とは思われない。

 細かいことにこだわると、常陸国風土記に登場するのはオオタチバナヒメで、走水で入水するのはオトタチバナヒメ、名前を比べてみると常陸国風土記の方は姉、走水の方は妹ということになる。これも考えてみていいことではないかと思う。つまり著者はそこまで突っ込んではいないけれども、まだまだ突っ込み所があるのが常陸国風土記の魅力ということである。

 今回は、書物の紹介・論評に加えて、この書物の内容に関連して、日ごろ疑問に思っていることを書いてみた。常陸国風土記と倭武天皇をめぐる三浦さんの考察はまだまだ続くが、それらについては、次回以降に譲ることにしよう。

ダンテ・アリギエリ『神曲 煉獄篇』(29-1)

5月22日(日)晴れ

 地上楽園に到達したダンテは、そこで神の愛について歌う美しい貴婦人に出会った。彼女は地上楽園が、旧約聖書に記されたエデンの園であり、そこでの生活の記憶が古典古代の詩人たちによって黄金時代として歌い上げられたのであると説明する。

 説明を終えた彼女は、旧約聖書の『詩篇』の章句を引用して歌を続ける:
「罪を覆っていただいた者達は幸いなるかな」。
(426ページ) ダンテのかつての詩人仲間であったカヴァルカンティの詩に登場する貴婦人と違って、彼女は神の愛を常に意識しており、人間は自分たちの努力だけでは天国に入ることはできないと自覚している。
 それから彼女は、川に沿って再び歩きはじめ、ダンテもまた彼女と並んで、歩きはじめた。

私達がまだそれほど進まぬうちに、
貴婦人は全身で私のほうを向いた。
こう言いながら、「我が兄弟よ、見なさい、そして聞きなさい」。

するとここに不意に現れた一つの輝きが
この広大な森のすみずみにまで駆けめぐった、
あるいは稲妻だろうかと私が疑ってしまったような何かが。
(427ページ) しかしその輝きは、稲妻とは違って、光りつづけ、その光をさらに増していった。どうもこの光は、神的な何かが降臨することを示すもののようである。さらに光に満ちた大気とそれに調和する音楽が聞こえ、ダンテは、原初の人類エヴァへの非難を感じた。

 エヴァはすべてを知ろうと欲して神を裏切った。その罪は、人間の能力だけを頼りに、すべてを知ろうとする思想を暗示するものである。ダンテがそのような思想として念頭に置いていたのは、12世紀にスペイン、モロッコで活躍したイスラームの哲学者・医学者であったアヴェロエス(アラビア語ではイブン・ルーシッド 1126-98)の思想であり、彼に影響を受けた清新体派の詩人カヴァルカンティの思想であった。
 しかし、人間がその能力だけで到達できるのは地上楽園までであり、それは天国ではないとダンテは考えていた。だから
私が永遠の喜びの
先駆けとなる事物の間を、思考に集中して、
その中でさらなる幸福を望みつつ進んでいくと、

私達の前方では、緑の木々の下の大気が
目の前で、燃え上がった火の色に変わり、
そしてさわやかな音楽はすでに歌だと聞き分けられていた。
(428-9ページ)と、地上楽園は天国の「先駆け」であるという。その考えを裏書きするように、なにか神的なものの到来の予感がますます深まってくる。
 
 この後、現れてくるものを描くために、ダンテは「詩の乙女達」に呼びかける:
おお、神聖なる詩の乙女達よ、あなた方のために
飢えをしのぎ、寒さに耐え、眠らずに私がこれまで努力したのならば、
ゆえあってあなた方に心から助けを願う。
(429ページ) 古典古代の叙事詩では、詩人たちはその詩を歌いはじめる最初のところで、9柱の詩と学芸の女神であるムーサたちに呼び掛ける。キリスト教の詩人であるダンテが、この形式に倣いながらも、そっくりそのまま従っているわけではない点にも注目しておこう。
 なお、9柱のMuseは:
Calliope (書板と鉄筆を持ち叙事詩をつかさどる)、Clio (巻物(入れ)を持ち歴史をつかさどる)、Euterpe (笛を持ち音楽・抒情詩をつかさどる)、Thalia (喜劇のマスクを持ち喜劇をつかさどる)、Melpomene (仮面・ブドウの冠をつけ悲劇の靴を履き悲劇をつかさどる)、Terpsichore (竪琴を持ち、歌舞をつかさどる)、Erato (竪琴を持ち抒情(恋愛)詩をつかさどる)、Polyhymnia (賛歌をつかさどる)、Urania (杖を持ち天文をつかさどる)
である。ダンテが
詩神ウーラニアーに女神を率いていただき、
思うだけでも難きことを私が韻文にするのを助けてもらわねばならぬ。
(430ページ)と、天文学をつかさどるウーラニアーに呼び掛けているのが印象的である。

 その後、ついに空から神的な何かが降りてきて、神を賛美する「ホサナ」の声の声とともに、最初に聖霊からの7つの贈り物(賢明、知性、忠告、剛毅、学問、慈愛、神への畏れ)を示す7つの燭台の光をダンテは見た。
職台の上には美しく並んだ炎が
中旬頃の真夜中の
澄み切った空の月より明々と燃え上がっていた。
(431ページ)

 第29歌も3回に分けてみていくことになりそうである。ダンテは古典古代を、キリスト教の枠の中に収めようと、必死になっているが、私は古典古代の方に興味があるので、ダンテの詩行とは均衡の取れない解説になっているかもしれないが、容赦されたい。

コロンブスの卵

5月21日(土)晴れ

 NHKラジオ「攻略!英語リスニング」では”Columbus' Egg"(コロンブスの卵)を話題として取り上げた。
It refers to an idea or an invention or a discovery that, on hindsight, looks amazingly easay, like anyone could do it.
(後から見れば、拍子抜けするほど簡単で、誰でもできると思うような考えや発明や発見のことを指していう。)

 コロンブスがアメリカに「到達」したのちに、スペインの貴族たちと食事をしていた際に、貴族たちの1人が、コロンブスがアメリカに到達したのは運がよかっただけだといったところ、コロンブスは卵を持ってこさせて、貴族たちにその卵を立ててみろと迫った。貴族たちは立てられなかった。
Then Columbus tapped it lightly on one end so that it broke slightly and then balanced it on the table.
(するとコロンブスは卵の端を軽くたたいて少しだけ割って、テーブルの上に立ててみせた。)

 この逸話は、コロンブスと同じイタリア人のジローラモ・ベンゾーニ(Girolamo Benzoni)という人物が1565年に刊行した『新世界史』(The History of tne New World)という書物に初めて登場するのだが、どうも作り話らしいといわれている。ルネサンスの偉大な建築家、フィリッポ・ブルネレスキ(Filippo Brunelleschi, 1377-1446)と、彼が設計したフィレンツェのサンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂のドームをめぐって、同じような話が伝えられているからである。

 番組では触れられていなかったが、このブルネレスキの逸話が、コロンブスの逸話の原型だと指摘したのは18世紀の大思想家ヴォルテールである。ヴォルテールがどこで、ブルネレスキの逸話を知ったのか、わからないので、ひょっとするとブルネレスキの方も作り話かもしれないと、疑い深くなっているところである。少なくとも、ヴァザーリの『ルネサンス彫刻家建築家列伝』にはこの話は出ていない。なお、サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂のドームの建築をめぐって、ブルネレスキがそのライバルであったギベルティと争った件についてのヴァザーリの記述は、立ち読みで済ませるにはもったいないほど面白かった。そのうち、きちんと読んでみようと思う。

 コロンブスは新世界を<発見>したわけではない、というのは既にそこに住んでいる人がいたからであり、ヨーロッパからの「到達」ということについても、彼以前にアメリカ大陸に接近・上陸した事例があることが指摘されている。早くも昭和16年(1941年)に花田清輝は「架空の世界」(戦後『復興期の精神』に所収)の中で次のように書いている:
「アメリカは、ヴァイキングの間では、「葡萄の国(ヴィンランド)」として、はやくから知られており、その最初の発見者は、グリーンランド生まれのリーフ・エリクソンだというので、コロンブスの名声を真向から否定しようとする人々がある。その他、種々の記録は、コロンブス以前にアメリカを発見した男の、いくたりもあったことを物語る。時間は、コロンブスの死後も、その復讐の手をゆるめないらしい。遮二無二、歴史の一頁から、かれの名前を抹殺しようとして、躍起になっているかのようだ。」(講談社文庫版、80ページ)

 この直前の箇所で、花田は新大陸の名前が「フィレンツェの商業資本家の手さきであった、アメリゴ・ヴェスプッチの名前からとられた」(同上、79ページ)とも書いている(「商業資本家の手さき」という規定が正しいかどうかはわからない)。余談になるが、日本にある唯一のボッティチェッリの作品にその肖像を描かれたシモネッタ・ヴェスプッチは、アメリゴの一族である。もう一つ付け加えれば、トマス・モアの『ユートピア』のカタリて、ラファエル・ヒスロディがアメリゴ・ヴェスプッチの航海に同行したと書かれていることをご記憶の方もいるだろう。閑話休題、ここで花田が主張しているのは、どのようにコロンブスの業績を否定しようとも、彼によって新しい時代が始まったことは否定できないということである。

 コロンブスは新世界の「発見」の功績により、さまざまな特権と称号を得るのだが、それを1500年に剥奪される。コロンブスの息子であるディエゴ・コロン(?‐1526)はその特権と称号の復活のために奔走し、その一生を終えることになるのだが、さらにその息子であるルイスの時代に妥協が成立して、ベラグア公爵の称号を得た。この家系はスペインの貴族として続き、現在の当主は18代目で、先祖と同じクリストバル・コロンを名乗っているそうである。だから、この点ではコロンブスは時間によって復讐され続けたわけではないようである。

『太平記』(106)

5月20日(金)曇り

 鎌倉幕府が滅亡し、後醍醐天皇が都に戻られて、世の中はこれまでとは一変した様相を呈した。天皇の配流中に不遇出会った人々はわが世の春を謳歌したが、武士たちの中には再び武家の天下となることを望むものも少なくなかった。8月に論功行賞が行われたが、後宮の内奏による不正が少なくなかった。元弘4(建武元)年正月、大内裏の造営が決定された。兵乱の直後に諸国に税を課し、「昔より今に至るまでわが朝には未だ用ゐざる紙銭を作り」(第2分冊、247ページ)してまで行われる大内裏造営の企てには眉を顰めるものが多かった。
 この年の春、筑紫、河内、伊予などで北条氏の残党が蜂起したが、間もなく鎮圧された。新田義貞はじめ諸国の軍勢が上洛し、恩賞の沙汰が行われたが、赤松円心は佐用の庄を安堵されただけであった。後醍醐天皇の寵臣たちの中でも、千種忠顕と文観の奢りは目に余るものであった。

 元弘4年(1334年)7月(正しくは正月だそうである)に改元があって、年号が建武と改まった。これは前漢の帝位を奪って新を建国した王莽を劉秀が破り、紀元25年に漢を再興した(=後漢)際に建てた年号とおなじであり、中国の佳例を念頭に置いてのことと思われる。

 しかし、この年、疫病が流行して多数の病死者を出した。その秋の末に、内裏の正殿である紫宸殿に毎夜怪鳥が飛んできては鳴く声が「いつまでいつまで」と聞こえた。その声は多くの人々の眠りを覚まし、これを不吉な前兆であると思って恐れる人々が多かったのである。(新潮社の『新潮日本古典集成』版では、怪鳥の声には建武の新政がいつまで続くか怪しいものだという予兆の意味が込められていると注記されている。) 

 そこですぐさま、公卿たちが集まって協議した結果、堀河天皇(在位1086‐1107)の時代に同じような怪異があった時は源義家が3度弓の弦を鳴らしてこれを鎮め、近衛天皇(在位1141‐55)の時代に鵺という鳥が現われたときは、源三位頼政が射おとしたという先例がある、源氏の武士からしかるべきものを選んで退治させようということになる(このように先例を重視するのが、この時代の貴族のやり方である)。

 ところが源氏の武士たちの中で、名乗りを上げる者はいない。失敗して、面目を失うことを恐れたのである。そこで、上北面(しょうほくめん=院の御所を警固する北面の武士たちの中で昇殿を許されたもの)、公家の諸家に仕える武士たちの中でしかるべき者はいないかと探してみると、関白左大臣であった二条道平のもとで召しつかわれている隠岐次郎左衛門尉広有が適任であろうと推薦する者がいた。

 そこで呼び出された広有は清涼殿の中の鈴の間に控えていたが、様子を窺ってみると、この鳥は小さく、あたりは暗い。とはいうものの、目に見えるくらいの大きさの鳥で、矢が届く範囲にいるのならば、なんとかできるだろうと、家来にもたせていた弓矢を取り上げ、鳥の様子を見ると、「鳴く時口より炎を吐くかと覚えて、声の中より電(いなびかり)してぞありける」(第2分冊、262ページ)。関白以下の公卿たち、殿上人、武士たちが見守る中、弓に矢をつがえて声を頼りに矢を射る。見事に怪鳥を射おとし、しかもそれが紫宸殿の屋根に落ちないように工夫して射たということが分かり、後醍醐天皇も感心されて広有を五位に叙され、豊かな荘園を恩賞として与えたのであった。

 登場するのは実在する人物ではあるが、物語に登場する鳥の姿など現実離れしており、これが現実の事件であったかどうかは疑わしい。怪鳥の出現が、建武政権に対する警告であったとすると、誰がその警告を発しているのかを突き止め、その警告の真意を突き止める(さらには、政治のあり方を改める)ことが必要だと思うのだが、ここでは作者も登場人物も、怪鳥を退治することだけを考えて、それ以上のことを考えていない。そのことが、建武新政の前途を暗くしているように思われる。『太平記』の作者が現実にあったとは思えない事件をここに挿入しているのは、政権の前途が明るいものではなかったというその後の展開をよく知っていたからで、これは事後予言として挿入されているようである。

日記抄(5月13日~19日)

5月19日(木)晴れ

 5月13日から本日までの間に経験したこと、考えたことなど:
5月13日
 近所の郵便局ではなく、駅前の郵便局で貯金を下ろす。その際に目撃した事件(?)でいろいろと考えさせられた。
 窓口で色の黒い外国人の男性(後で考えると、ブラジル人らしい)が何やら押問答をしている。彼のつれている女性が郵便局のキャッシュカードを作ったのだが届いていないということらしい。女性の方はほとんど日本語ができない様子で、こちらもそれほど日本語が達者だとは思われない男性が仲立ちをしているのだが、多分、そのことも手伝って、一向に納得する様子がない。
 郵便局の職員の説明ではキャッシュカードは書留で女性の自宅に送り、それを受け取ったという記録が残っている。したがって、家を探してみれば、カードを入れた封筒が見つかるはずだという事である。女性の方は、受け取っていないの一点張りで、こういうのを説得するのは難しいだろうなぁと思っているうちに、私の用事が済んだので、その後どうなったかは見届けずに郵便局を出てきた。職員としては、単に事情を説明するだけでなく、相手のいっていることをちゃんと聞いているということを理解させる努力が必要だったのではないかと思う。会話は、理屈だけでなく、気持ちにも支配される。多分、職員のいっていることが正しいのだが、正しいからといって理解されるというものでもないのである。

 横浜シネマ・ベティで『蜜のあわれ』(石井岳龍監督)を見る。室生犀星がその晩年に書いた小説の映画化である。心身の衰えを感じはじめた老作家と若い女性の出会いを描くというところは、永井荷風の『濹東綺譚』と共通するようにも思われるが、女性が金魚の化身だという幻想的なところが特徴である。幻想といえば、老作家が過去に出会った女性の幽霊のほか、芥川龍之介の亡霊が登場する。芥川は何人かの俳優が演じているが、『末は博士か大臣か』で仲谷昇が演じていたのが一番印象に残り、今回の高良健吾はかなり劣る。
 『濹東綺譚』は1960年に豊田四郎監督、山本富士子主演、1992年に新藤兼人監督、墨田ユキ主演で映画化された(その他の映画化もある由である)が、新藤の作品しか見ていない。この映画化では荷風の日記も取り入れて、彼が戦争で焼け出されたり、文化勲章を受賞したりしながら次第に老いていく過程を描いているところに新藤自身の老いが重ね合わせられているように思われた。何とか、豊田の方も見てみたいものである。『蜜のあわれ』よりも新藤版の『濹東奇譚』のほうが面白いと思ったのは、演出の差と、映画を見たときの私の年齢の両方が絡み合ってのことではないかと思う。

5月14日
 ニッパツ三ツ沢球技場でなでしこリーグ2部の横浜FCシーガルスとちふれの対戦を観戦する。0-2で敗れる。これまでの試合と違って、チームとしての格の違いを見せつけられる完敗であった。

 NHKラジオ「攻略!英語リスニング」は”Herbs and Spices"(ハーブとスパイス)を話題として取り上げた。中世ヨーロッパではスパイスはぜいたく品の一つで、中東からのスパイス貿易は長らくヴェネツィアが独占してその富を築いていたが、各国が金銀とともにこのスパイスを求めて各地に探検家を派遣するようになり、”the Great Age of Discovery" (大航海時代)の幕が開いたという次第が語られた。講師の柴原さんが述べていたように、欧米の目からこの経緯を見るのと、日本人として見ていくのとではこの過程に対する見方が違っていいはずである。

5月15日
 Eテレ「日本の話芸」で笑福亭鶴光さんの「五貫裁き」を視聴する。東京では三遊亭円生の口演をラジオで聞いたことがある。道楽で身を持ち崩し、それを苦にして両親が死んだ八百屋のせがれが、棒手振りから八百屋をやり直そうと大家さんに奉加帳を作ってもらって、開業資金を集めようとする。困っているところを父親に救われた恩義があるはずの質屋に出かけると、吝嗇で有名な質屋は1文しかよこさず、ひと悶着が起きる。奉行所に訴え出たところ、奉行は1文といえども天下の財貨を粗末にしたのは八百屋の方に非があると、五貫文(5,000文)という科料を言い渡す。それを毎日1文ずつ質屋に持参し、質屋が奉行所に届けると云うのがそれに付随した手続きである。1文を奉行所にもっていくといっても、主人が町役同道で届けなけばならず、1文を届けるのに相当な出費がかかってしまう…。
 鶴光というと、若いころにタレントとして活躍していたころの印象しかなく、どんな芸なのかなと思ってみていたのだが、それなりに風格も備わり、落ち着いた話しぶりであった。ただ、どうもうまく具体的に表現できないのだが、私が好きな芸風ではない。

5月16日
 NHKラジオ英会話で
I saw a huge eel swimming out of a cave. (大きなウナギが洞穴から出てくるのを見たよ。)
というセリフが出てきたが、ここはウナギよりもアナゴのほうがそれらしいのではないかと思って、辞書で調べてみたところ、アナゴはconger (eel)であるが、eelという語は、ウナギだけでなく、アナゴのように、ウナギに似ている魚についても使う場合があることが分かった。

 NHKラジオ「レベルアップ中国語」第26課の「今日のつかみの一言」は”梁山泊的軍師――無(呉)用”(Lianshanpo de junshi -- wu yong 梁山泊の軍師――役に立たない、軍、師、無、呉は簡体字)であった。梁山泊に集まった豪傑たちの中の序列第3位の頭領、智多星の呉用はさまざまな計略をめぐらして、梁山泊の力を強大にすることに貢献するが、呉と無は同音であるところから呉用=無用と、からかわれている(呉用が失敗する場面もあることが意識されているという説もあるようである)。

5月17日
 NHKラジオ「レベルアップ中国語」第27課の「今日のつかみの一言」は〝杳如黄鶴”であった(yaoruhuanghe =杳として消息が分からない。鶴の字は簡体字になる)。ある酒楼にやってきては酒を飲んで、金を払わない老人がいた。彼は実は仙人で、ある時、お礼にと彼が酒楼の壁に描いた鶴が飛び出すことが評判になって、酒楼は繁昌する。(落語の「抜け雀」に似ている。) その後、再びやってきた仙人が壁から呼び出した黄色い鶴に乗ってどこへともなく消え去ったという故事から出た表現である。

5月18日
 加藤周一『夕陽妄語Ⅰ』を読み進んでいるのだが、1985年に書かれた「日伊比較事始」という文章が面白かった。リソルジメント(国家統一)とその後の工業化の速やかな進行の過程が、幕藩体制の崩壊⇒統一国家の形成から殖産興業を進めた日本との対比で注目してよいのではないかという。実は私も、日本の社会や歴史について考えるときに、ヨーロッパの主要国:英・仏・独と比較することも大事だろうが、イタリアやスペインと比較してみることも意味があるのではないかと思っているのである。特に地方自治をめぐる問題など、示唆を与えられる点が少なくないのではなかろうかと考えている。

5月19日
 横浜シネマ・ベティで『Mr. ホームズ』(ビル・コンドン監督)を見た。90歳を越え、イングランド南部で養蜂に従事しながら老後を送っているホームズは、彼の最後の事件における「失敗」を気にして、それを自分の手で書き記そうとしている。ミステリというよりも、ホームズというキャラクターを借りて、老いとか衰えとかいうものを描きだそうとした作品のようである。イングランドの、特に田園風景がいかにもという感じで描かれているのに対し、ホームズが甥による記憶の減退を防ぐ妙薬として「山椒」を入手しようとして訪問する日本の描写はまことに現実離れがしている。それに個々の出来事がいつのことかが、きちんと整理されて提示されていないのも減点材料であるが、それでも見応えがあった。やはり自分自身の老いを重ね合わせてみることができるからであろうか。

 映画を見た後、末吉町の洋食屋・洗濯船でビーフカレーを食べる。みそ汁、野菜サラダがついて、750円。こういう店が横浜駅の西口にあったらなぁと思う。

 金子民雄『ルバイヤートの謎 ペルシア詩が誘う考古の世界』(集英社新書)を読む。11世紀のペルシアで活動した数学者、天文学者であったオマル・ハイヤームが残した四行詩(ルバーイイ、ルバイヤートはその複数形)集は、英国の詩人エドワード・フィッツジェラルドによるかなり自由な英訳によって広く知られることになった。この詩集をめぐる様々な話題について、やや雑然と語っている書物である。

 5月に入ってから9冊の本を買っているが、そのうち7冊を読み終えているという、これまでになく順調な読書生活を送っている。これからも、この調子が続いてほしいものである。
 

『何故彼女等はそうなったのか』『風の中の子供』

5月18日(水)晴れ

 シネマヴェーラ渋谷で「没後50年メモリアル 孤高の天才・清水宏」特集上映の中から、『何故彼女等はそうなったか』(1956、新東宝)と『風の中の子供』(1937、松竹)の2本を見た。この監督の作品を見ることが、今までなかったことを残念に思う。プログラムによれば、「独特の移動撮影と天衣無縫な演出で小津や溝口から天才と称賛され、”早すぎたヌーヴェルヴァーグ”とも評される清水宏は現在では、あらためてその作品を見直すべき時に来ている作家の1人なのかもしれない。

 『何故彼女等はそうなったか』は、四国の城下町にある教護施設を舞台にした、社会派のドラマでこの施設に入った少女たちへの世間の偏見が、少女たちの非行を拡大している状況を指弾する内容であるが、少女たちに寄り添い、その更生を願っている小田先生を演じる香川京子の演技が映画の中心になっている。それに加えて、施設に収容されている少女たちを演じているのが、池内淳子、三ツ矢歌子、原知佐子、それにこの施設を脱走してで戻ってくる少女を演じているのが宇治みさ子と、当時としては特に目立つものではなかったのかもしれないが、今になってみると話題が豊富な女優陣が配役されている。
 俳優についてもそうなのだが、監督についてみても、清水以外にも、まだまだ、適切な評価を得られない作家が何人もいるのではないかと、そんなことばかり考えていた。出演者の中で、先生役の香川京子さんが健在で、少女役を演じている池内さん、三ツ矢さん、宇治さんが他界されているのも皮肉に思われる。物語の進行を通じて、何によらず、自分の思いを正直に打ち明けられる人間関係というのが好ましいのは言うまでもないが、それが最も必要とされる施設において、それが最も困難だという現実がそのまま描かれていることに大いに考えさせられた。

 なお、クレジット・タイトルによると、この作品でチーフ助監督を務めたのは後に新東宝、東映で活躍した石井輝男であり、映画を撮り進める立場と、ただ単に面白がって映画撮影の現場の周辺をうろうろしているのとでは、現場の雰囲気のつかみ方が大きく異なることを考えさせられる。石井が清水の映画作りから何をどのように学んだのかを考えることも、重要ではないかと思う。

 『風の中の子供』は、坪田譲治の同名の児童文学作品を原作とする。地方都市で会社を経営している父親の2人の息子善太と三平を描く作品である。優等生の善太と遊び好きでガキ大将の三平の兄弟は、喧嘩もするが、本当のところ仲はよい。ところが会社を経営している父親が、会社の乗っ取りを図る株主たちの訴えで逮捕され、三平は母親の兄で、山奥の村で医院を開業している伯父のもとに引き取られることになる。ところが、もともとやんちゃな三平は、高い木に登ったり、たらいに乗ったまま急流に流されたり、かっぱが出てくるという言い伝えの池に出かけたり、曲馬団に入ろうとしたり…しかしそれはもともと住んでいた家で、父母、兄と一緒に暮らしたいという三平の願いから出た行動であった…。

 坪田の児童文学作品は現在ではあまり高く評価されていないように思われるが、鈴木隆『けんかえれじい』の最後の方で、喜多方の(旧制)中学を退学になって東京に出た主人公が、曲折の末、早稲田大学に入って、そこでまた曲折があって、坪田譲治に出会い、彼こそ、生涯の師であると思い、児童文学に志す。そのきっかけになったのが、坪田譲治の『善太と三平』シリーズを彼が読んでいたことであったのである。なお、新藤兼人によるこの作品の脚色を、さらに書き直した鈴木清順監督の『けんかえれじい』では主人公が北一輝に出会って(本当に彼に出会ったかどうかはあいまいなままの描き方がされている)、2・26事件の報道に接し、上京するところで終わっている。映画のこの結末は、原作が大学時代を描き、そこからさらに人生の進路を見つけて前進しようとする姿を描きだしているのと大きく違っているだけでなく、原作本来のテーマや方向性もゆがめているように思われる。

 それはともかくとしても、『風の中の子供』は今から80年ほど前の子どもたちがどの木登り、・チャンバラ・川で遊びまわる姿を描いて、その点だけでも懐かしい(といっても、現在70歳を数える私から見ても、かなり昔の生活ぶりである)ように毎日を過ごしていたかについて詳しい描き方がされているように思われる)。川遊びの場面で、子どもたちがふんどし姿になったり、父母の家の台所になっている土間のへっついに映画が作られた時代が描きだされているだけでなく、兄弟がそのへっついの火をおこして飯炊きをする場面なども強い印象を残す。清水宏という作家への再認識を迫られた作品である。 

宮下奈都『よろこびの歌』

5月17日(火)雨

 宮下奈都『よろこびの歌』(実業之日本社文庫)を読み終える。

 有名なヴァイオリニストの一人娘で、音楽好きの御木元玲は母の方針で特別な音楽教育を受けずにいたが、入学できると思って受験した音大の付属高校の入試に失敗して、音楽科のない、比較的新しい私立の女子高である明泉に入学する。第一志望で入学してくる生徒がほとんどいない学校であるが、そういう入学の経緯を忘れさせるように学校行事が多く組まれ、生徒たちはそのひとつひとつに取り組むことで、何となく自分の学校生活が充実しているような気分になるのである。

 2年生になった秋に、玲はそのような行事の一つである校内合唱コンクールの指揮者に推される。推薦したのは、1年の時に、音楽室でピアノを弾いていたのを見かけた原千夏である。合唱の伴奏者が決まれないので、玲は千夏を推薦する。コンクールに向けての練習が始まるのだが、玲の指導は厳しく、その一方でクラスのメンバーのやる気は乏しく、練習に参加するものはわずかで、コンクールは惨敗に終わる。
 その後に行われたマラソン大会で、もともと走るのが苦手な玲は最後尾を走ることになる。足を引きずりながらたどりついた学校のトラックを回っていると、千夏をはじめとする同級生たちが、コンクールで彼女たちが歌った『麗しのマドンナ』という歌を歌って彼女を励ましていた。その自然に起きた歌声に玲は励まされた。

 父親が脱サラしてうどん屋を始めた千夏は、中学時代に玲の母親である響のヴァイオリンの演奏を聴いて音楽の魅力に取りつかれるようになった。しかし、家庭の経済状態から音楽を勉強するのは無理である。2年生になって玲と同じクラスになった千夏は、なんとか玲と話をしたいと思いはじめる。マラソン大会の後で、千夏は玲から音楽を続けるといいよと言われ、二人は少しずつ接近しはじめる。

 同じクラスの中溝早希は中学時代にソフトボールのエースで4番で、強豪校に進学が決まっていたのが、投げすぎて肩を壊して、高校での競技をあきらめ、明泉に入学する。彼女と仲のよい牧野史香は、他の人の目には見えない人間が見えてしまう霊能者である。自分の意思を生きている人々に伝えたがっている霊たちの存在を絶えず感じている彼女は、できるだけそういう例に出会わないように、あたらしい学校である明泉を選んだ。マラソン大会の時の歌声を聞いていた担任の浅原先生は(音楽の先生であるが)、卒業生を送る会でもう一度『麗しのマドンナ』を合唱してみてはどうかという。その練習の中で、史香は玲を見つめている一人の老人の姿を見る。

 6人の女子高校生の語る、自分自身のこと、2年生の後半になって合唱コンクールに出場したことから起きてきた、クラスと生徒一人一人の変化を描く7つのストーリーで構成されている(最初と、最後の話を玲が語る形になっている)。6人のうち、玲、早希、クラス委員の佐々木ひかりの3人の語り手は、この学校に進学するつもりではなかったのに対して、千夏と史香は望んで進学してきている。もう1人の合唱するクラスのみんなを絵に描こうとしている美術部員の里中佳子は、どうだったのかを語っていない。
 音楽が好きで、努力もしているつもりであったが、自分の才能が母親に及ばない(というよりも方向が違うということだろうが)ことを知って、自分を見失いかけた玲が、自分よりも音楽が好きだが、その一方で実家のうどん屋を手伝ったりして現実と折れ合いながら生きている千夏と出会う。この2人の関係を軸に、語り手と語り手ではない同じクラスの生徒や、彼女たちの家族、小・中学校の時の友人、学校の教師たちの交流が描きだされる。玲は早希の思いがけない一面を知ったり、文香からは死んだ自分の祖父の霊が自分を励ましていると知らされたりする。生徒一人一人の変化は、それぞれの個性の発見と、それに伴う将来の道筋の見通しとつながっている。

 女主人公がある種の失意から立ち直って、今まで気付かなかった自分を発見しはじめるという物語の展開はこの作家にとってなじみのあるもののようであるが、こういう物語を欲している人は少なくないのではないかと思える。失意に陥っても、多くの場合、まだまだ人生は長いのである。この物語の登場人物たちは高校生なので、先が長いだけでなく、もっと大きな失意に見舞われる可能性だってある。それでも、自分の個性を発見し、他人の個性を受け入れることで将来への希望が生まれ育っていくはずである。作者は、一人一人の登場人物に愛情を注ぎながら、饒舌に語りすぎず、読者にある程度の想像の余地を残して物語を語っている。

遠藤慶太『六国史――日本書紀に始まる古代の「正史」』(11)

5月16日(月)曇り、一時晴れ〔21:23ごろ、地震があった。〕

 《六国史》は奈良時代から平安時代にかけて国家の事業としてまとめられた6部の歴史書:『日本書紀』『続日本紀』『日本後紀』『続日本後紀』『日本文徳天皇実録』『日本三代実録』を総称して言う。この書物では、これらの歴史書の成立の経緯や内容の特徴を概観し、その編纂に携わった人々の姿を描きだそうとしている。すでに第1章「日本最初の歴史書」で『日本書紀』、第2章「天皇の歴史への執着」で『続日本紀』『日本後紀』、第3章「成熟する平安の宮廷」の『続日本後紀』『日本文徳天皇実録』を論じた部分を取り上げてきたが、今回は最後の『日本三代実録』について論じた部分を検討することにしたい。

 『日本三代実録』は清和・陽成・光孝天皇の3代、天安2年(858)8月27日から仁和3年(887)8月26日までの30年間を50巻にまとめている。《六国史》の中では最も巻数が多く、1巻ごとの収録年月は平均して7か月弱で《六国史》の中では最も密度が高い。これまでの史書編纂の経験を踏まえ、9年弱の編纂期間で手際よくまとめられている。

 『日本三代実録』の編纂は宇多天皇(在位877‐897)によって命じられ、当初、撰者となったのは大納言源能有、中納言藤原時平、参議菅原道真、大外記大蔵善行、備中掾三統理平(みむねのまさひら)である。命じられたのは『日本紀略』によれば寛平4年(892)5月1日のことである。撰者の顔ぶれを見ると、その筆頭にいるのが源氏の源能有であることに遠藤さんは注目し、これを宇多天皇の摂関家以外の人材を積極的に登用しようとする政策と結びつけている。

 しかし能有が世を去り、宇多天皇も譲位され、醍醐天皇が即位されたので、事情が変わる。さらに昌泰4年(901)の昌泰の変で菅原道真が失脚し、延喜元年(901)『日本三代実録』を奏上したのは藤原時平、大蔵善行の2人であった。
 ここで遠藤さんは『日本三代実録』が対象とする3代の天皇の系譜的な関係に注目する。清和天皇は仁明天皇の孫、陽成天皇は曽孫であるのに対し、光孝天皇は子であり、世代をさかのぼっての相続が行われている。これは、陽成天皇が事件を起こして廃位されたことによるものであるが、即位後、一旦、自分の子どもたちをほとんど臣籍に下した光孝天皇は、周囲の人々の要請を受けて、自分の子どもである定省(さだみ)(後の宇多天皇)を皇族に復帰させて、皇太子とした。このような皇位の継承をめぐる問題は、政界の実力者であった藤原基経をはじめとする藤原氏がさらに力を伸ばして、摂関政治への道を開きつつあった政治情勢とも 関連するものであった。

 「宇多・醍醐二代の天皇にしてみれば、傍系から皇位を継いだのであるから、以前の皇統とは違うよき天皇としての実績を示す必要に迫られた。醍醐朝には勅撰で法典の『延喜式』や和歌集の『古今和歌集』がまとめられ、のちには聖代(すぐれた天子の治める、めでたい時代)と理想化された。歴史書『日本三代実録』はこの時代に完成したのである。」(162ページ)

 『日本三代実録』では状況の推移にかかわる詔勅(天皇が出した命令)や上表(臣下が奉った文書)をなるべく原文のままで掲載しており、それが結果として詳細な記事につながることとなった。また年中行事を詳しく記しているのは、これまでの歴史書とは異なる、この歴史書だけの特色であるという。

 歴史書は、過去を省察し、現代や未来を考えるための手本として読まれるだけでなく、日常の政務や行事を行う際に、先例を参照する手引きとしても用いられるようになった。このため、宇多天皇は菅原道真に命じて、過去の歴史書の記事を内容ごとに分類して構成する『類聚国史』を編纂させた。この書物には『日本三代実録』の内容も含まれており、その部分も道真が分類したのか、後人の増補によるものであるのかをめぐっては議論があるが、道真が失脚前に分類したという説が有力になってきているという。

 この時代(寛平・延喜年間)になると、官人の勤務日数や成績をもとに昇進を決めるという律令政治の原則が、家柄ごとにその職歴や昇進のあり方が決まるという方向に変わってくる。そうなると、それぞれの家柄の貴族たちが知っておく必要がある政務や行事がそれぞれの家柄によって決まるようになり、総合的な歴史ではなくて、家柄の職能に対応して専門化した日記を残せば、それが後の世代の参考とされるようになる。こうして、貴族社会の中での歴史書の役割は終わりに近づくのである。こうして、光孝天皇の崩御が『日本三代実録』の、そして《六国史》の最後の記事となった。

 しかし、その後も歴史書編纂の動きがなかったわけではないし、《六国史》を書き写し、読み継ぐ作業は行われたのであり、この書物の第4章は、《六国史》をめぐるその後の時代におけるさまざまな動きを追っている。

 遠藤さんは菅原道真の歴史への取り組みを高く評価されているが、前回に述べたように、道真は都だけが自分の活躍の場だと考えているところがあって、それは真の歴史家の態度とは言えないのではないかと思う。それから、藤原時平であるが、『大鏡』に「さるは、やまとだましひなどはいみじくおはしましたるものを」(岩波文庫版、57ページ、それでも、事を処理する才略などは優れていらっしゃったのですが)と書かれているように、それなりの能力を備えた人物であったので、そちらの方にも目を向けておいてもよかったのではないかと思われる。 

ダンテ・アリギエリ『神曲 煉獄篇』(28-3)

5月15日(日)晴れ

 1300年4月13日、ダンテは天国の貴婦人の依頼により、彼を異界への旅へと導いたローマ黄金時代の大詩人ウェルギリウス、ひそかにキリスト教へと改宗しながら、それを隠し続けた怯懦の罪を煉獄で償い終えて、天国へと向かう途中の第5環道で2人に追いつき、ウェルギリウスへの敬慕の念から2人に同行するローマ白銀時代の詩人スタティウスとともに、煉獄の第6、第7環道を通過して、煉獄山の頂上にある地上楽園に到達した。
 神が地上に造った森のすみずみまで知りたいという思いに駆られて、ダンテはその奥深くに入るが、途中で小川にぶつかり、それ以上進めなくなった。すると、小川の向う岸に一人の美しい貴婦人が現われ、彼に心の中で抱いている疑問があれば、質問するようにという。ダンテは、地上で学んだ学問の内容と、地上楽園の様子が違うことに戸惑っていたのである。

 地上楽園でダンテの前に現れた貴婦人は、ここがもともとは創造主によって人類の住処として作られた場所であるという。
・・・「・・・
至高の善は…
善良かつ善を目指すように人類を創造され、この場所を、
永遠の平和の前約束として人類に与えられたのです。

人類は間違いを犯したため、ほんのわずかな間しかここに住みませんでした。
人類は間違いを犯したため、無垢なる笑いと幸せな歓びは
涙と苦悩に変わってしまいました。
(418-419ページ) もともと、この楽園には人類の始祖として創造されたアダムとエヴァとが暮らしていた。しかし、彼らが犯した間違いのために、人類がここに住んでいる期間はごくわずかであったという。
 この地上楽園は、煉獄山の頂点、地球を包む大気を3つの圏に分けると、その最上部の第3圏に、地上の気象変化の影響を蒙らないように創造されていた。そして宇宙から伝えられる動きに合わせて大気が動き、それがこの地上楽園(=エデンの園)にぶつかっているために、風が起きているのであるという。つまり地上楽園は宇宙の調和の一部をなしているのであるという。

 そして、言葉を続けて言う:
あなたの見た水の流れは、吐量が増減する他の川のように、
冷気が水蒸気を液化させることで湧く
水源から流れ出ているものではなく、

いつも不変で尽きることのない泉から発しています。
それは二方向に分かれた注ぎ口から流した分だけ、
神の御意志によって足されるのですから。

このあたりを流れ下っている水は
人の罪の記憶を奪う力があり、
別の方の水はあらゆる善き行いを取り戻させます。

それゆえ、こちらはレーテ、別の流れは
エウノエと呼ばれ、双方の水を味わうまでは、
どちらも効力を持ちません。
・・・」
(421-422ページ) 地上の川とは違って、神の意志によって、地上で犯した罪の影響を拭い去る川レーテと、善の記憶を意味する川としてダンテが作りだした、エウノエの2つの流れが流れている。レーテはギリシア神話では冥界を流れていて、その水を飲むと生前のことを一切忘れてしまうという川であるが、それをダンテは煉獄の頂上に置き、自分が想像したエウノエの流れとともに罪の償いの最後にある存在として描きだしている。

 そして貴婦人はこの地上楽園こそ、ギリシア・ローマの詩人たちがパルナッソスとして描きだしたものであり、川の流れは詩人たちがネクタルと歌いあげたものであると付け足す。
その時に私は全身で後ろを振り返り
我が詩人たちに向き合った。そして彼らが微笑みを浮かべ、
最後の一節を聞いているのを見た。

その後で私は美しい貴婦人に視線を移した。
(424ページ) こうして地上楽園がかつての「エデンの園」であること、また古典古代の詩人たちが夢みたパルナッソスはこの楽園に他ならないことを述べて、古典古代の詩人たちの夢想とキリスト教の神話とを結び付け、第28歌は終わる。(前回も述べたが、あくまでもキリスト教的な価値に、古典古代の価値を統合するところに、ダンテの世界観の特色があり、ギリシア・ローマの文化がキリスト教に呑み込まれないほどに偉大な独自の特色を持つという考えは、もう少し後にならないと出てこないのである。)

世代とgenerations

5月14日(土)晴れ

 5月12日から始まったNHKラジオ「実践ビジネス英語」の第3課は”Generation Gaps in the Workplace"(職場における世代間ギャップ)という話題を取り上げている。この番組では、「世代」の問題を話題として取り上げることが多く、私がこの番組を聴くようになってから、昨年度の第3課”Sizing Up the Millennials"(2000年世代の評価)(2015年4月29日~5月16日放送)、第19課「Z世代の出現」”Generation Z Rising" (Z世代の出現)(2016年1月6日~1月16日放送)と世代にかかわる話題を取り上げてきた。
 日本では一般に「世代」と訳されるgenerationには、てもとのLongman Active Study Dictionaryをみると
all the people in a society or a family who are about a same age (社会あるいは家族の中のだいたい同じ年齢のすべての人々)
the average period time between your birth and birth of your children (人間が生まれてから、彼の子どもたちが生まれるまでの平均的な期間) ※ここでのyourは、「ラジオ英会話」の今年の4月28日放送分に出てきた「一般論を語るためのyou」の所有格である。
という2つの意味があるが、生まれてからその子どもが生まれるまでというほど長くはないにしても、ここでいうgenerationがかなり広い年齢層にわたるものであることは念頭に置いておいてよいことである。

 今回のビニェットで登場人物の1人が言うところでは、
There are now four generations in the workplace in the U.S.,but each generaion is known by more than one name. Plus the time period covered by each name differs depending on who you talk to. A lot of Americans are confused about this too. And we have to be carefuo about not stereotyping.
(今、アメリカの職場には4つの世代がいますが、それぞれの世代は複数の名前で知られています。おまけに、それぞれの名前がカバーしている期間は、あなたが話す相手によっても違います。多くのアメリカ人も、これについては混乱しているのです。それから、型にはめる見方をしないように、気をつけなければなりません。)

 その4つの世代とは、
the veterans: folks born from the prewar period to the end of the war in 1945
(ベテラン世代:戦前期から1945年の終戦までの間に生まれた人たち)
the baby boomers; people who were born between the end of war and the mid-60s
(ベビーブーマーたち:終戦から60年代半ばまでの間に生まれた人たち)
Generation X, aka baby basters (people born between the mid-60s and roughly the end of the 1970s
(X世代、別名ベビーバスター。60年代半ばからだいたい70年代末までの間に生まれた人たち;slackerという呼び方もされるという)
Generation Y, a.k.a. the Millennials: people who were born between 1980 and 2000 or thereaboutss
(Y世代、別名2000年世代:1980年から2000年くらいまでの間に生まれた人たち)
である。
 Z世代について取り上げたビニェットの終わりの方で、登場人物の1人が
Wait a minute, we've reached the end of the alphabet. Waht are we going to call the net generation?
(ちょっと待ってください、アルファベットの最後まで来てしまいました。次の世代はなんと呼びましょうか?)
という。Wikipediaによると、この次の世代はGeneration Alpha(アルファ世代)と呼ぶ人が多いようである。アルファベットが終わったら、今度はギリシア文字を使いはじめるということらしいが、この言い方がどこまで英語使用者になじむだろうか。

 今回のビニェットの中で、Generation Xの特徴として、
The put a high premium on eduation and creativity. (彼らは教育と創造性を非常に重視します)
と指摘されていたのが興味深かった。アメリカの世代分類を日本にそのまま持ち込むのは、適切ではないかもしれないが、私が大学で教えていたころの学生の大半がこの世代に属していた。彼らの中のかなり多数の部分が教育に過大な期待を抱いたり、創造性の開発に興味を寄せていたように思う。(この連中が、現在の初等・中等教育機関の管理職になっているわけであるが、彼らの価値観が現実に反映されているかどうかは興味ある問題である。)

 Generation Y (Millennials)について取り上げた昨年度の3課では、この世代の特徴として
They're the first generation in the modern era to have higher student loan debt, poverty and unemployment than the two generation preceding them had at the same age.
(彼らは近代において、先行する2世代の同年齢時よりも、学生ローンの負債額、貧困率、失業率が高い初めての世代です。)
One of the most important things about the Millennial mob is that they're digital natives.
(2000年世代の人たちについて最も重要な事柄の1つは、彼らがデジタルネイティブだということです。)
と語られていた。

 一方、Generation Zについては、昨年度の19課で
Generation Z represents a significant blend of races ane ethnic backgroundes. And don't forget that they comprise a quarter of the U.S. population.
(Z世代は、人種や民族的背景の著しい融合を象徴しています。そして、彼らがアメリカの人口の4分の1を占めていることを忘れてはなりません。)
They're also the first generation of real digital natives.
(Z世代はまた、真の意味でのデジタルネイティブの第1世代です。)

 昨年度の3課では、Generation Yがデジタルネイティブだといい、19課ではGeneration Zが真の意味でのデジタルネイティブの第1世代だといっているのは、世代の特徴の捕まえ方について混乱の表れであろう。

 しかし、多少の混乱があるにしても、国民を世代に分けながら、その特徴を探っていくことには、人口政策や教育政策を考えていくうえで果たすことのできる重要な意味があるのではないか。Generation Yがさまざまな苦難を抱えながらも、全人口の4分の1を占めているということなど、日本の同世代の若者の問題と対比してみれば、日本の今後の社会と人口構成を考えていくうえで、示唆を与えるものは多いと思う。

『太平記』(105)

5月13日(金)晴れ、気温上昇

 鎌倉幕府の滅亡後、後醍醐天皇が京都に戻られ、公家による政治が復活を見た。天皇の配流中に不遇であった人々は、京都に戻ってわが世の春を謳歌したが、武士たちの中には不満を抱き、再び武家の天下に戻ることを望むものもいた。元弘3年(1333年)8月に論功行賞が行われたが、後宮の内奏による不正が多かった。元弘4年(建武元年)正月には大内裏の造営が決定されたが、兵乱の直後で財政難を押して強行されようとすることに、眉を顰めるものが多かった。この年の春、筑紫、河内、伊予などで北条氏の残党が蜂起したが、間もなく鎮圧された。新田義貞はじめ諸国の軍勢が上洛し、恩賞の沙汰が行われたが、赤松円心は、佐用庄を安堵されたのみであった。天皇の寵臣の中でも千種忠顕の奢りは甚だしかった。

 とはいうものの、千種は俗人であるから、ぜいたくな生活を送ってもさほどの批判には値しない。それに比べると文観僧正の振舞には僧侶にあるまじき不思議なものが感じられたと『太平記』の作者は続ける。
 「たまたま一旦名利の境界を離れて、三密瑜伽の道場に入り給ひし甲斐もなく、ただ利欲名聞(みょうもん)にのみ趍(はし)つて、さらに観念定座(じょうざ)禅の勤めを忘れたるに似たり」(第2分冊、253ページ、なにかの機縁があってひとたびは名声や利欲の世界を離れて、密教の悟りを得る道場に入った甲斐もなく、ただ利欲や名声のみを求める方向に走り、さらに仏の世界を心に念じて座禅するという勤めも忘れたようであった)。特に用もないのに、財宝を倉に積み、貧しい人々に分け与えるでもなく、武具を集め、武士たちを周囲に集めている。彼の権勢に媚びて、利益を得ようとやってくるものには、忠義なものではなくても賞を与えたので、文観僧正の手下と称して、徒党を組んで威張り散らす者たちが、都中にあふれ、5/600人に及んだ。それで、御所から遠くない場所にいたのに、僧正の乗る輿の前後を数百騎の武士たちが囲んで路地を歩いたので、都の人々は大いに迷惑し、戒律を顧みない僧侶であると人々に非難された。

 『太平記』の作者は、中国の名僧といわれる人々の例を挙げて、「心ある人は皆、古(いにし)へも今も光を韜(つつ)み、跡を消して、暮山の雲を伴とし、一池の荷(はちす)を衣として、道を行ひ、心を澄ましてこそ生涯を尽くす事なるに」(第2分冊、254ページ、心ある人はむかしも今も才能を隠し、姿をくらまして、夕暮れの雲を友とし、池の蓮の葉で衣を作り着て仏道修行をして、一生を過ごすべきであるのに)、この文観は名声と利欲の絆に縛られていたのは、尋常なことではない、必ずや仏法の敵である悪魔が乗り移ってこのような振る舞いをさせたのであろうという。

 そして、鎌倉時代の高徳の僧であった解脱上人が、伊勢神宮にお参りした際に、阿修羅たちが会議をしている不思議な夢を見多という説話を語る。日本には解脱上人という僧がいて仏法を盛んにしているので、阿修羅の軍勢が勝つことができない。後鳥羽上皇に幕府を滅ぼそうという野心を植え付け、幕府方が勝利するようにしくみ、後堀河天皇が即位するようにすれば、この方は解脱上人に前々から帰依しているので、解脱上人は高い位につくことになるだろう。そうすると、解脱上人にも驕慢の心が生じるので、阿修羅が付け入る隙が生まれるだろうと策を練っている(ずいぶん手の込んだ、遠大な策略である)。これを夢見た解脱上人は、神仏が自分の修行を妨げないようにとこのような夢を見させたのだと感激し、南山城(京都府南部)の笠置山にこもって厳しい修行に明け暮れた。すると、阿修羅たちが予言したように承久の変が起きて、鎌倉幕府が勝利し、後堀河天皇が即位されて、解脱上人を高い位につけようという使いが遣わされたが、固辞して受けず、いよいよ行い澄ましてその生涯を終わった。これに比べると文観の行状は凡俗の目から見ても非難すべきものであった。文観が権勢に驕ったのもつかの間、ほどなく建武の乱がおき、彼は自分の法流を継ぐべき弟子が一人もいないまま、孤独衰窮の身に落ちぶれ、吉野のあたりを彷徨った挙句に世を去ったという噂であると『太平記』の作者は結ぶ。

 森茂暁『太平記の群像』によると文観が重く用いられたのは、「法験無双の仁」と呼ばれるほどに、彼の呪験力が強いものであったことによるのだそうである。森さんによると、文観は没する前にもう一花咲かせており、『太平記』の作者が記すほど落魄した哀れな最期を遂げたのではなさそうであるが、驕れるものは久しからずと、多少の創作を交えて語るところに、文学としての『太平記』の意義と主張があると理解すべきであろう。文観の行状については彼が密教の僧侶であったことが大きくかかわっているのであるが、『太平記』の作者の中にも密教の関係者がいたはずで、そのあたりのことを考えながら読み進めていく必要がある。

日記抄(5月6日~12日)

5月12日(木)晴れ

 5月6日から本日までの間に経験したこと、考えたことについて書いていくが、その前にお詫びと訂正、そして補足:
5月10日付の当ブログ「横浜の迷い方」で、横浜市営バスの35番には内回りと外回りがあると書いたが、これは私の認識不足で、浅間下、三ツ沢方面から栗田谷・松本を通って、反町に出て、横浜に戻ってくる路線しかなかった。したがって、バスに乗り込んできたおばあさんのいうことが正しく、私のほうが間違っていたことになる。おばあさんの間違いは、50番に乗ればいいところを、35番に乗ってしまったということになる。とにかく、早とちりで間違った情報を掲載してしまったことについてはお詫びしなければならない。

 この記事をめぐり、「散歩三昧」の管理人であるAz-Takさんから私の出身校についてのコメントを頂いた。Az-takさんが見抜かれたように、私の母校は横須賀から大船に移った学校であるが、硬式野球部がない代わりに、全国高校サッカー選手権に2回出場している。(実は在学中に、私の1年下の学年が頑張って全国大会に出場し、サッカー部員が募金活動をやっていたことを覚えている。) 硬式野球といえば、Az-Takさんの母校は私の高校時代、のちに東京六大学で完全試合を達成する渡辺泰輔投手を擁して2年連続で神奈川県大会の決勝に進んだものの、全国制覇を達成した法政二高に敗れた学校である――と書けば、どこか、わかるはずである。

 4月29日に春の叙勲者が発表されたが、その中に、元同僚がいたので、お祝いの手紙を書こうと思ってまだ書いていない。お祝いにことよせて、近況を知りたいというのが本音であるが、だからといって、遅れてもいいということにはならない。
 そういえば、女優の富司純子さんが旭日章受章を受賞したのだが、彼女は私と同年である。わたしと同年というと、波野久里子さんとか、水前寺清子さんもそうであるが、今回は対象から外れたようである。同じ年の早生まれというと、吉永小百合さんとか、栗原小巻さんとか、松原智恵子さんとか、(どさくさ紛れに付け加えると)本間千代子さんがいるのだが、今のところこの種の噂を聞かない。

5月6日
 太田昭彦『山の神さま・仏さま』(ヤマケイ新書)を読み終える。著者は高校時代にワンダーフォーゲル部で活動し、その後社会人山岳会で経験を積んだ登山家⇒山岳ガイドであるとともに、縁あって神仏先達の道を歩み始めたという経歴の持ち主である。山と神仏との関わり、実際に登山を通じて感じられる神仏の存在や、登山に際して守るべき作法などについて広く記されている。目を通しておいて損はない書物ではないかと思う。

5月7日
 似鳥鶏『家庭用事件』(創元推理文庫)を読み終える。これまで「市立高校シリーズ」として発表された作品の隙間を縫いつくろう形で書かれた短編小説集である。シリーズのこれまでの作品を読んでいる読者には、それぞれの読み方があると思うのだが、この作品から始めて、シリーズの他の作品を読む読者はどんな感想をもつだろうか。

 ニッパツ三ツ沢球技場でなでしこリーグ2部第8節の公式戦:横浜FCシーガルス対日体大Fields横浜の対戦を観戦した。シーガルスが1点を先行したのだが、日体大が追いついて1-1の引き分けに終わった。どうも同じような試合を繰り返しているという印象が残る。

5月8日
 これまでの英語、フランス語、イタリア語の勉強に加えて、4月から、中国語とロシア語をさらい始めているが、イタリア語とロシア語については応用編は難しくて歯が立たない。それでも習うより慣れろというわけで、番組を絶やさず聴くようにしている。その一方で、読む方についてもなにか易しく、読みやすい文献を読もうとインターネットで探しているのだが、見つからないままである。
 
5月9日
 ゴールデン・ウィーク中は再放送であったNHKラジオの語学番組が先に進み始めた。「英会話タイムトライアル」と「ラジオ英会話」がDo you need help? という表現を共通して取り上げていたのが、番組間の連携の一例として興味深かった。

 ヨハンナ・シュピリの『ハイジ』の英訳がプロジェクト・グーテンベルクに入っているのを見つけ、2章まで読んだ。NHKラジオ「攻略!英語リスニング」の確か4月23日放送分で、講師の柴原智幸さんがmercenary(傭兵)という言葉に関連して、ハイジの祖父である「アルムおんじ」がかつて傭兵であったというくだりを読んでびっくりしたという話をしていたが、物語の最初の方で、ハイジの亡くなった母親の妹(ということは叔母)であるデーテが、アルムおんじは裕福な地主の跡取りだったのが、身を持ち崩して財産を失い、そのためにナポリに出かけて兵隊となったという話をしている。まだイタリアが統一国家になっていない時代に、南イタリアの大部分はナポリ王国の領土であったのである。

5月10日
 テレビ東京の『開運!なんでも鑑定団』が4月から模様替えになり、これまでアシスタントであった吉田真由子さんが卒業しただけでなく、4人いたコンパニオンの1人であった新妻さと子さんも姿を消したことについては、既に書いたが、美人が2人いなくなると、どうも番組の魅力が薄れるように思える。そのためであろうか、新妻さんが出演するCMが番組中に挿入された。残る3人のコンパニオン、青木さん、永浜さん、橋本さんに頑張ってもらいたいのはもちろんであるが、新人の補充を期待したいし、希望者はいくらでもいるのではないかと思う。

5月11日
 横浜駅西口のバス乗り場に若い女性が2人並んでいて、一見したところではわからなかったが、2人が話している言葉で、中国人だと推測した。別に喧嘩しているわけではないのに、対話が喧嘩腰に聞こえたのはどういうことであろうか。
 その前に、英語での会話を聴いていたので、余計に、中国語での会話のきつい調子が記憶に残った。英語の方は多少聞き取れたのであるが、中国語の方はほとんど聞き取れなかったのである。

 朝日新聞のいしいひさいちさんによる連載漫画「ののちゃん」の本日の回にタブチ先生という人物が登場した。「ホームランはヒットの延長はまちがいだ。ヒットはホームランの打ちそこないだ」などと威勢はいいのだが、実際には空振りばかりしている。いろいろと、考えさせられる。

 児美川孝一郎『夢があふれる社会に希望はあるか』(ベスト新書)を読み終える。夢があふれていても、実現の可能性がないというのは、かなり悲惨な状態である――ということを述べた書物である。

5月12日
 午前中、NHKカルチャーラジオ『教養としてのドン・キホーテ』の5月5日放送分の第5回「黄金世紀とは?--セルバンテスとロペ・デ・ベガ」の再放送を聴きなおしたが、夜放送された第6回「幻の短編小説――名作の誕生秘話」を聞きのがした。黄金時代(Siglo de Oro) はとても栄えた意味で広く使われる「黄金時代」と区別して、16・17世紀のスペイン文化について語るときに使われる言葉だという。当ブログで、ローマ黄金時代という言葉をよく使うが、これはローマの初代皇帝アウグストゥスの治世(紀元前27-紀元14)時代についていう。この時代、ウェルギリウスをはじめ、ホラーティウス、オウィディウスなどの大詩人が輩出して文運が隆盛を極めた。この時代を英語でAugustan Ageという。辞書によると、この表現は「一国の文芸隆盛時代、古典主義時代」についても用いるという。イングランドでは1700-26年ごろのアン女王、ジョージ1世の治世の時代、ポープ、アディソン、スウィフトなどが活躍した時代についていう。文学だけでなく、そのほかの文化の領域でもさまざまな才能が開花した、私の好きな時代の1つである。ウェルギリウスがその田園詩で歌いあげた黄金時代(英語でGolden Age)というのは、これとは別で、人類の歴史の最初期に神話的に想定された、万物の実りが豊かで、人間は働かなくても自然の富により生活ができた時代をいう。
 

宮下奈都『メロディ・フェア』

5月11日(水)曇り、風強し。

 宮下奈都『メロディ・フェア』(ポプラ文庫)を読み終える。

 宮下さんは近作『羊と鋼の森』で第13回本屋大賞を受賞するなど、注目度が上がっている作家であるが、この作品を読むことになったのは、医院の待合室で読む本を探していて、これがよさそうだと思ったという単純なものである。もっとも、実際には、医院に出かける前に読み終えてしまい、待合室では感想をまとめていたというのが真相である。

 「ピンクがテーマカラーの化粧品会社のカウンターに勤め始めて一か月になる。」(8ページ)
 語り手でもある主人公の小宮山結乃(よしの)は、大学卒業後、郷里に戻って化粧品会社の美容部員(ビューティーパートナー)になる。この仕事を選んだのは、もともと化粧に興味があったからだが、再び同居することになった母と妹は2人とも化粧っ気のない生活をしており、彼女の仕事に理解を示さない。彼女がその意に反して配置された職場は、郊外のショッピングモールの中にある化粧品コーナーのカウンターで、6年次上だという馬場あおいさんという女性と2人で仕事をすることになる。馬場さんは既婚で子持ち、退職してパートとして戻ってきたのだが、美人で仕事の手際がよく、顧客のほとんどに一人で対応している。そんな中で、ぼちぼちと結乃の客ができはじめる。

 題名となっている「メロディ・フェア」は彼女の職場で夕方の5時20分になると流れる音楽の題名でもある。この時間になると「表情も年齢もわからないくらい濃いメイクを」(15ページ)をした女性が現われる。馬場さんはこの女性を嫌がっているのだが、あるきっかけから彼女が、結乃の小学校時代の親友であった真城ミズキであったことが分かる。長い時間の後に再会した彼女は、自分の夢が世界征服であると語る…。いくらなんでもそれは大げさではないか…。

 大学時代の同級生で、<化粧の心理学>を研究したいといっていた女子学生がいた。大学レベルの心理学で、どれだけのことが言えるようになるのかはわからないが、とにかく大手の化粧品会社に就職できたようである。多分、就職後、相当しごかれたのではないかと思う。<化粧の心理学>といっても漠然とし過ぎている。化粧品を売りつけようとする会社側の考える消費者の心理と、個々の顧客の心理とではかなり隔たりがある。そのどちらの側の心理を研究するというのか。
 打ち明けると、もう40年ほど前に他界した私の父は、そのサラリーマン生活の最後の方で化粧品の販売の会社に勤めていた。どう考えても、柄に合わない仕事で、そうやって会社から追い出されようとしていたのかもしれない。柄に合わない仕事を押し付けられるのは、私の場合も同様であったなぁと思う。そういう、化粧品会社で働いている人間の心理というのもある。
 ごく簡単な心理現象は、経験を積んだり、起きたことを日記に書き記したりすることである程度はわかってくるものである。そこから心理学研究への距離は相当に遠い。同級の女子学生がしごかれただろうなぁと思うのは、そういう理由からである。

 この小説では、地方都市に住む様々な女性たちの化粧を通じての自己表現、生活への取り組みの諸相と、それを受け止めながら、自分のキャリアを積み重ねようとしている美容部員の主人公の成長が描かれている。一人前の美容部員になるのに心理学は必要ない、むしろ経験から学ぶことが必要である。化粧という営為を媒介にして、職場や家庭での人間関係を描きだして行くというやり方は、(近頃では男性のあいだでも化粧への関心が高まっているし、性の境界もかなり変化してきてはいるとはいえ)女性作家ならではと思われるものであるし、男性の作家であれば気づかないであろう日常の営みや心理の動きなどの描写が新鮮である。宮下さんの作品を読むのは『太陽のパスタ、豆のスープ』、『窓の向うのガーシュウィン』に続いて3作目であるが、それぞれ登場人物の職場と家庭の問題を絡めながら、ひたむきに生きようとする彼らの姿を温かく描きだしているところに特徴がある。ただ、これまで読んだ3作に共通していえることは、男性の影が薄いことで、この点がこれからの作品の中でどう変化するのか、しないのかには興味がある。

 男性の影が薄いといえば、物語の語り手が小学生だったころに、父母が離婚したらしいことが語られているが、この物語が、いつ頃の話なのかはぼかされているし、そのため、語り手と作者との距離もわからないように設定されている。あまりはっきりとは述べられていないが、(方言についての発言などからわかるように)この作品の舞台となっているのは福井市である。ただし、どこの町でも起きるような出来事が続き、地方色というのはそれほど強調されていない。冬の雪についての描写もないし、地方特有の行事が描かれているわけではない。地方都市の明け暮れがより普遍的な意味をもつものとして読者に提示されているのである。

横浜の迷い方

5月10日(火)曇り

 横浜駅西口でバスに乗ったところ、あとからやってきたおばあさんが運転手さんにこのバスは反町に行きますかときいている。向こうの4番乗り場で35番か50番に乗ってください、このバスはいきませんよと運転手さんが答える。おばあさんは納得しない。この間35番に乗ったけど、遠回りだったので、もっと近道を通るバスに乗りたいんですという。運転席から少し離れたところで聞いていたので、詳しい話は分からなかったが、おばあさんはとうとうこのバスに乗り込んでしまった。

 実は私も横浜から反町まで(あるいはその逆)バスで行くことがあるので、よくわかるのだが、運転手さんの言っていることは正しいのである。ただ、説明の中で足りなかったのは、35番という路線は循環線で、内回りと外回りがあり、内回りだとすぐに反町に達するが、外回りだと少し時間がかかってやっと反町に到着するということになる。両者が同じ発着場から出発するので、どちらか確認して乗る必要がある。先日、その確認を怠って乗り込んだという失敗をしたばかりだったので、おばあさんの気持ちもわからないではない。私とおばあさんとは同じ失敗をしたのだが、失敗の受け止め方がどうも違っているようだ。

 地名に多少のなじみのある方は疑問に思われるかもしれない。反町は東急東横線で横浜から渋谷方面に向かう1駅目であって、わざわざバスに乗らなくても電車に乗れば簡単に行けるはずである。しかし、おばあさんが(そして私が)そうしない理由は2つある。1つは東急の横浜駅も反町駅も地下の深いところにあって、利用が大変だということである。それから、横浜市の発行している優待パスを使えば、バスは無料で利用できるのに対して、東急の場合はそうはいかないということもある。年寄りというのは少額であってもそういう費用の問題には神経をとがらすのである。

 おばあさんはバスに乗り込んだものの、そのバスが先日失敗した35番の外回りの路線と同じコースを走っていることに気づいてのことだろうか、途中で降りて行った。それからどうやって目的地に到着したのか、到着できなかったのかはわからない。バスに乗る際に、このバスはどこへ行くかとか、どこを通るのか程度のことを運転手さんに質問するのは構わないと思うが、質問によっては案内所で聞いたほうが良いようなことがある。反町というのは、実はかなり漠然とした質問で、バス停についてみると、反町、東横線反町駅前、二ッ谷町など、行き先に応じて最も便利な停留所は違うし、そこを通るバス路線も違うのである。年をとると気が短くなって、自分のしたいことを詳しく説明することも、人の説明をゆっくり聞くこともしたくなくなるようになる場合が少なくないが、大事の前の小事ということで、我慢することも必要であろう。

 途中で外に出ることがあったりして、横浜に住んでいる期間は人生の半分を少し超える程度であるし、中学・高校は横須賀にあった学校に通い、職場は東京であった。だからというわけではないが、横浜の地理にはそれほど詳しくないし、せっかく優待パスを手に入れたので、バスに乗りまくってやろうと思っているが、なかなかうまくいかないところがある。それでも習うより慣れろということで、これからもバスに乗り続け、時々は、バスを通じて知ることのできた横浜の地理や人間模様などについて書いてみたいと思う。

三浦佑之『風土記の世界』(2)

5月9日(月)曇り後雨(はじめは小雨程度だったが、その後本格的に降りだす)

 『風土記』は律令政府が和銅年(713)に発した命令に従って、当時のわが国を形成していた各国がそれぞれの国についての情報を編纂して提出した書物であるが、今日では常陸・出雲・播磨・豊後・肥前の5ヵ国の分だけが伝わるにすぎず(それも多くは不完全な形でしか残っていない)、あとは後世の書物に引用されて伝わる逸文の形でしか伝わっていない。とはいうものの、それが古代についての貴重な情報に満ちていることは否定できない。前回(5月4日)に取り上げた、この書物の第1章「歴史書としての風土記」は、その『風土記』が律令国家による国史編纂事業が、当初は紀伝体の日本の歴史書編纂を目指す中で、<列伝>、<志>の部分に相当する情報を提供するはずのものであったとその成立事情を推測している。きわめて興味深い議論である。今回は、第2章「現存風土記を概観する」について取り上げることにしよう。

 既に述べたように、完全なものではないが、ほぼ全容をつかむことのできる形で現在残されている『風土記』は常陸・出雲・播磨・豊後・肥前の5ヵ国分だけである。ここではまず、常陸国風土記が取り上げられている。
 常陸国風土記は「常陸の国の司の解 古老の相伝ふる旧聞を申す事」(34ページ)という表題から始まっており、それが官符に対する報告文書「解」であることがはっきりと示されているという。その内容については、続く第3章で詳しく見ることになるのだが、「物語的性格が強く、読み物として面白い」(35ページ)との特徴が指摘されている。成立年代について、本文中で地方の行政組織が国郡里制によって記述されていることから、官命を受けて4年以内にまとめられたのではないかと推測される。すると、その時期に国守であった阿部狛朝臣秋麻呂か石川朝臣難波麻呂が編纂の責任者であったと考えられるという。とすると、常陸国風土記は『日本書紀』の完成以前に編纂されており、『日本書紀』に即位の記述がない「倭武天皇=日本武尊」の記事を載せていることも、説明できると論じられている。

 出雲国風土記は和銅6年の宣命から20年後の天平5年(733)に、出雲国造であった出雲臣広嶋から朝廷に提出されたことが巻末にはっきりと記されている。そして、各郡にかかわる撰録者の名前もわかる。常陸国風土記に比べて、作成に時間がかかっているところに謎があるが、この謎については第4章で詳しい分析を展開するという。現存する他の風土記に比べると、地誌的な性格が強く、天皇が登場する伝承を一つも伝えていない点が目立つ。さらに、一方で独立した世界である出雲という認識と、他方で律令国家の一部であるという二重化された視座からこの風土記は書かれているという。おそらくはそのことと関連して、出雲風土記には『古事記』の中で大きな分量で語られている出雲神話が語られていない。しかし、そのこと自体が、『日本書紀』的な律令国家の論理によりこの書物が編纂されていることを物語るのではないかとも考えられるという。

 播磨国風土記の成立は常陸国風土記と同じく、和銅6年(713)から霊亀3年(717)のあいだと考えられるが、撰録責任者を特定することはできない。民間伝承として語られていたらしい地名起源譚が多く採録されていること、ヤマトの天皇たち、特にホムダワケ(応神天皇)の伝承が多く、その中に滑稽な話が含まれていること、出雲を本拠とする神(オホナムヂ、大汝命」がしばしば登場すること、土地の日よ草の状態が詳しく記されていることなどが特徴であるという。

 豊後国風土記と肥前国風土記は西海道(九州)の国の風土記であるが、今日残る逸文等も参考にして整理すると、西海道風土記の逸文には、律令国名が付けられた風土記(甲類風土記)、律令以前に九州全体を指していた筑紫国という呼称のもとでまとめられた風土記(乙類風土記)との2種類が見いだされるという。甲類風土記は、霊亀3年以降に、郡里制にかわって施行された郷里制によって各地方が記されており、『日本書紀』からの引用も見られることから、『日本書紀』が成立した養老4年(720)以降に成立したと考えられている。また大宰府によって最終的な撰録がなされたとも考えられている。
 今日風土記からの逸文として伝えられているものの中には、和銅6年の官命に応じて書かれた古風土記の一部を伝えているものもあるが、そうではない、後世に書かれたものも含まれており、判断が難しいという。しかし、引用した人物が面白いと思って抜き書きした部分であるだけに、現代の読者の目から見ても面白いものが少なくない。他の文献からは知ることのできない古代についての情報の宝庫であるといえる。

 この章はその最後に、「古老相伝旧聞遺事について」論じている。「古老」は律令国家ではなく、村落共同体の側の伝承の担い手となる存在であり、彼らが相伝する「旧聞遺事」を国家が集めようとしたのは、諸国を中央に対する地方として律令国家の一部として取り組むためであった。この時代には国家の側から語られる伝承があり、共同体の枠の外を漂泊する人々の伝承があり、また共同体の中で相伝されてきた伝承があった。そのような伝承のごく一端だけが書き留められ、残されているのであり、その点については慎重に対処すべきであるという。

 今回は、現存する風土記の概要を述べた部分のそのまた概要を述べるというだけのものになってしまった。」しかし、現存する5部だけをとってみても、風土記が多様性をもつ情報の集成であり、興味のある書物であることを知ることができた。次回から、ここの風土記の内容をさらに詳しく分析した章を読むことになる。お楽しみに。 

『太平記』(104)

5月8日(日)晴れ

 鎌倉幕府の滅亡後、後醍醐天皇は都にお戻りになられ、武家政治復興の機会を窺っているとして足利高氏の動きを警戒し、信貴山に留まって兵を集めていらっしゃった護良親王も元弘3年(1333年)6月に大軍を従えて入京された。その後、後醍醐天皇の隠岐配流に伴って諸国に配流されていた皇族・公卿の人々が帰京し、天皇の隠岐配流中に不遇だった人々はわが世の春を謳歌することとなったが、公家の下僕のように扱われるようになった武士たちの間には、再び武士の世の中になることを望む声が上がりはじめた。8月に論功行賞が行われたが、後宮の内奏による不正が多かった。元弘4(建武元年、1334年)正月、大内裏の造営が決定された。兵乱の直後に諸国に税を課し、紙銭を発行してまで行われる大内裏造営の企てには、眉を顰めるものが多かった。

 この年の春(『太平記』の作者は元弘3年の春と記しているが、北条氏滅亡後の元弘4年(1334年)の春というのが正しい)、筑紫、河内、伊予などで北条氏の残党が決起したが、「これらの凶徒、法威を武力に加へて退治せずは、早速の静謐堅かるべし」(248ページ、これらの反乱者たちに対しては、仏法の威力を武力に加えて退治すれば、すぐさまに世の中の平和がもたらされることは確実である)と、とり急いで紫宸殿の皇居に壇を構え、竹内僧正(曼殊院の門跡)であった慈厳(じごん)をお召しになって、天下安泰の修法を行わせられた。

 この法を行っている間、武装した武士たちが内裏の四方の門:建春・建礼・宜秋・削平門を堅め、内弁(公事を奉行する公卿の首席、当時、左大臣であった二条道平)、外弁(げべん、公卿の次席、右大臣であった近衛経忠であろうか、内弁は、御所の正門である建礼門のすぐ北にある承明門の内側で、外弁は外側で政務を行ったのでこのように表現されるという)、さらに近衛府の武官たちが紫宸殿の階下に居並び、宮中に仕える楽師たちが音楽を演奏し、武士たちが紫宸殿の南の庭の左右に立ち並んで、剣を抜いて四方を鎮めようとするという厳重な警戒態勢が敷かれた。四方の門の警護に当たったのは、結城親光、楠正成、佐々木(塩谷)高貞、名和長年である。南の庭で警護に当たるのは右に三浦介(高継)、左に千葉介貞胤と決められていた。(玉藻の前伝説で、絶世の美女を退治する役を仰せつかったのが三浦介と千葉介であったという伝説や、頼朝挙兵の際に両者が果たした役割から、南関東における武士の二大名門とされてきた家柄同士ではあるが、この2人は仲が悪かった。) 両者の中が悪かったために、両者ともに出仕を拒むこととなった。「天魔の障碍(てんまのしょうげ)、法会(ほうえ)の違乱(いらん)とぞなりにける」(第2分冊、249ページ、仏法を妨げる魔物の障害で、法会に混乱を生じた)。

 「後に思ひ合はするに、これぞ早や、天下久しく無為(ぶい)になるまじき表事(ひょうじ)なりける」(第2分冊、249ページ、後で思い合わせてみると、これこそ早くも、天下が長く太平になることのない前触れであった)と『太平記』の作者は記す。とはいうものの、この修法は功を奏したようで、各地の反乱軍は間もなく鎮圧された。

 東国も、西国も平和が取り戻されたので、筑紫からは大友、少弐、菊池、松浦の武士たちが大船700艘に乗り込んで上洛してきた。東国からは新田義貞がその一族郎党7,000余騎を引き連れて上洛してきた。このほか、各地の武士たちが都に上ってきたので、「王城の富貴、日来(ひごろ)に百倍せり」(第2分冊、250ページ)と記されている。

 全体の数が多いので、個々の恩賞を決定するのには時間がかかるが、大功をあげたものを選んで、恩賞を与えるべきだということで、足利高氏に武蔵、常陸、下総の3か国、その弟の直義に遠江、新田義貞に上野、播磨、その弟の義助に駿河、楠正成に摂津、河内、名和長年に因幡、伯耆の2か国が与えられた。

 そのほかに、公家たちが2か国、3か国を与えられていた中で、六波羅を数次にわたって攻撃し、その陥落に大きな役割を演じた赤松円心についてはその本拠地である播磨国の佐用荘を安堵されただけであった(事実としては、播磨の守護に任じられたのだが、赤松一族と護良親王との結びつきが後醍醐天皇とその側近に警戒されて、召し上げられたのである)。その後、武家方が宮方に再び反旗を翻した際に、円心が武家方についたのはこの時の恨みが原因であったと噂された。少数の例外はあったが、恩賞は公家に有利になるように割り当てられた。そこで、公家やその家臣たちは大いに羽振りがよくなったのである。

 その中でも特に目立ったのが千草忠顕であった。彼は和漢の学芸に通じた六条内府有房の子であり、本来、文学の道に進むべき人物であったのが、若いころから、「わが道にもあらぬ笠懸、犬追物を好み、博奕、淫乱を事とせられる間、父有忠卿、父子の義を放たれて、不孝(ふきょう)の由にてぞ置かれける」(251ページ、自分の家の道でもない笠懸=傘を的にする騎射、犬追物=犬を追って的にする騎射を好み、賭け事と淫らな遊びに耽っていたために、父である有忠卿は、父子の縁を切られて、勘当されたのであった)。とはいうものの、この人物には一時だけでも栄華の花咲く時期が生まれるという過去の因縁があったのであろうか、後醍醐天皇が隠岐に遷幸された際にお供し、さらに六波羅への討伐軍の大将となった(その時の不甲斐なさを児島高徳に嘆かれたことは第8巻に記されている)。とにかく、後醍醐天皇は忠顕の忠勤を評価されて、大国3か国、闕所(けっしょ=幕府方からの没収所領)数十か所を拝領したので、財政的に豊かになり、その驕る有様は周囲の人々を驚かせるものであった。

 自分の邸宅に配下の4位・5位の貴族たち、武士たちを呼び集めて酒をふるまったところ、その数は300人を超えた。これだけの饗応は、多くの蓄えがなければできないはずである。また、邸宅の厩にはよく超えた立派な馬が5/60頭もつながれていた。宴会が終わって、まだ遊び足りないと思うときは、数百騎を従えて、都の北の方に出かけて、小鷹狩りでその日を過ごした。その際に身にまとう衣装が華美で贅沢であったので、心ある人は眉をひそめたのである。

 『太平記』の作者は建武の新政が、倒幕にかかわる恩賞を公家に有利に、武家に不利に与えたことで、多くの武士が不満を抱いたと考えているが、それ以外にも新政の問題点はあったはずである。この点をめぐって、赤松円心と千種忠顕への処遇が対照的に描かれていて、この後の波乱を予示しているのは作者なりの工夫であろう。
 森茂暁『太平記の群像』(角川文庫)によると、新政が実現してから後、忠顕の活動を示す文書は少なくなり、建武元年(1334年)以降はますます乏しいという。あるいは、新政権の中でもその人物と仕事ぶりについての不信が増大して、主流から外されていたのであろうか。森さんは忠顕が、日野家における資朝同様に、「傍系の反逆児」であったために、同じく皇統の中での「傍系の反逆児」であった後醍醐天皇の信認を受けたのではないかと推測している。しかし、資朝に比べると忠顕は、天皇の信認の篤い人物ではあったが、それにこたえるだけの能力はなく、新政のもとでの厚遇にのぼせ上がって、忽ち馬脚を現してしまったという印象がある。 

ダンテ・アリギエリ『神曲 煉獄篇』(28-2)

5月7日(土)曇り後晴れ

 ダンテは、地獄から煉獄へと彼を導いて来たローマ黄金時代の詩人ウェルギリウス、煉獄でその罪を浄めて第6環道から2人に合流したローマ白銀時代の詩人スタティウスとともに、第7環道を経て地上楽園に達した。好奇心にかられて、地上楽園の美しい森のなか深く分け入ったダンテは、小川にその歩みを遮られ、川の流れに沿って歩いていると、小川の向う岸を若く美しい貴婦人が歌いながら歩いているのを見かける。

 ダンテは貴婦人の美しさに感動しながら、彼女の歌がもっとよく聞こえるように、近づいてほしいと頼む。この時、ダンテが思い浮かべたのは、ギリシア神話に出てくるプロセルピナ(ギリシア語ではペルセポネー)の神話である。神々の王であるユピテル(ギリシアではゼウス)と大地の豊穣さをつかさどる女神ケレス(ギリシアではデメテル)との間に生まれたプロセルピナは美しい女神であったが、ユピテルの弟で冥界の王であるプルートーンが彼女に思いを寄せ、プロセルピナがシチリアのエンナの野で花を摘んでいるところを誘拐して冥界に連れ去った。母デメテルが彼女を探して天界を出たため、地上は冬を迎え、草も生えず、花も咲かなくなった。そこでユピテルがあいだに入って、プロセルピナを地上に戻そうとしたが、彼女は既に冥界の無花果を食べていたために、1年の半分を冥界で過ごすことになった、このため地上には四季が生まれたという。(翻訳者の原基晶さんの解説では無花果になっているが、私が子どものころ読んだ神話ではザクロであったと記憶する。天文学に興味のある方なら御存じだと思うが、ユピテルは木星、ケレスは小惑星の中で最大の天体で今日では準惑星に位置づけられ、プルートーンは冥王星でこれまた準惑星ということである。)

 こうして永遠の春が失われ、大地の実らない時期が冬となったという。これは人類の再生のアレゴリーであり、地上楽園の貴婦人はイタリア語で春を表すプリマヴェーラ、つまりプリマ・ヴェッラ(最初に来るもの)を表していると解説されている。解説を読まなくても、このあたりの詩行を読んでいると、ボッティチェッリの名作『春』が目に浮かぶ。ルネサンスの画家であったボッティチェッリはより異教的な描き方をしているが、彼がダンテの熱心な読者であったこと、『神曲』の挿絵に取り組んでいることをつけたしておこう。

彼女は鮮紅色と黄色の
花々の上で私のほうを向いた。その仕草は
恥じらいながら目を伏せている乙女のものだった。

それから近くに寄ってきて
私の願いを満たし、清らかな声が
詞の意味といっしょに私にまで届いてきた。
(415ページ)

川は私達を三歩ほど隔てていただけだった。
(416ページ) ダンテは自分自身の地上における罪の記憶のために川を渡って彼女のもとに行くことができない。小川を渡れないことをダンテが恨めしく思っていると、貴婦人が話し始める。地上楽園はもともと神が人類の住処として創造したものであった。ここで彼女がほほ笑んでいるのは、神の創造の美をたたえているからであると旧約の「詩篇」の一部を引き合いに出して説明する。なお、原さんは貴婦人が言及した『喜び祝わせて』が「詩篇」91.5-6であると傍注に記しているが、92.5-6が正しい。機会を見つけて訂正してほしい。
 その美しい地上楽園は、人類の祖先が原罪の起源となる罪を犯した場所でもある。貴婦人はダンテが歌を聴きたいと思っているだけでなく、さらに多くの疑問を心中に抱いていることを見抜いて、思っていることを質問するように促す。彼はこれまで自分が聞いていた地上楽園の様子と、今、自分がいる地上楽園の様子が違うことについて質問しようとする。

 ダンテがギリシア・ローマ神話の説話を多く取り入れていることに驚くかもしれないが、彼の場合、古代の神話は飽くまでキリスト教の教義を補強するものであって、キリスト教からは独立した独自の価値をもつものとは考えなかあったのである。それから、彼のギリシア・ローマの文化への理解が、十分なものではなかったことも念頭に置く必要があるだろう。彼は地球が丸いと考えていた点で、同時代の人々よりも進んでいたが、プトレマイオスの天動説の体系に基づいて、地球の自転という考えを持っていなかった。宇宙の中心である丸い地球の内部に地獄を、南半球に煉獄を置くという宇宙観はやはり中世的なものである。ただ、それまでの多くの人々が煉獄も地下にあると考えていたのに対して、天国により近い山のような世界として描きだしている点に特徴がみられる。

遠藤慶太『六国史――日本書紀に始まる古代の「正史」』(10)

5月6日(金)曇り後雨

 六国史は、奈良時代から平安時代の初めにかけて国家の手でまとめられた我が国の歴史を記す6部の書物:『日本書紀』、『続日本紀』、『日本後紀』、『続日本後紀』、『日本文徳天皇実録』、『日本三代実録』の総称である。遠藤さんのこの書物は、《六国史》の成立の事情や内容、そこに見られる歴史観について概観するものであるが、当ブログでは『日本書紀』から『続日本後紀』までの4部について既に取り上げてきた。今回は、『日本文徳天皇実録』について論じた部分を見ていくことにしたい。

 著者は殊更に『日本文徳天皇実録』と書名に「日本」をいれて表記しているが、ふつうは『文徳天皇実録』とか、『文徳実録』とかいわれる。『続日本後紀』がその仰々しい書名にもかかわらず、仁明天皇の治世一代18年間を対象とするものであったのに続き、『文徳実録』はその書名の通り文徳天皇の嘉祥3年(850)3月25日から天安2年(858)9月6日にわたる在位期間を対象とする。この間、9年間を10巻にまとめているが、これは《六国史》の中では最も小部である。「規模が小さい分編集が丁寧で、官人の死没は5位以上すべてを採録している。従来は4位以上に限られていたものである。」(138ページ)と遠藤さんは指摘している。

 『文徳実録』は藤原基経らが清和天皇の命を受けて編纂にあたったが、その作業の途中で天皇が陽成天皇に譲位され、編纂者の中からも死去するものが出て、あらためて基経、さらに菅原是善が中心となって編纂が進められ、元慶3年(879)にようやく完成した。
 その際、上表された『文徳実録』の序文は当時式部少輔兼文章博士であった是善の子道真が執筆したことが明らかになっている。遠藤さんは、道真がこの序文で司馬遷を引き合いに出して、「疑問のあることがらは記さない」という歴史家としての態度を明らかにしていることに注目している。

 さて、この時代、日常的な政治のあり方が大きく変化していた。奈良時代の天皇が朝堂における公卿たちの協議に臨席するという「朝政」が形骸化し、天皇の参加のない「陣定」が実質的な国政懐疑となる。その結論が、摂関、さらに天皇のもとに届いて最終的な採否が決定されるのである。文徳天皇は健康上の理由から、内裏に入って政務を処理されることがなかったと記録されている。「文徳天皇が内裏にいなくても、政務に支障が出ない状況が整えられていく」(146ページ)とこの間の状況を遠藤さんは要約している。

 このような政治的な変化を主導したのはもちろん、藤原基経であり、彼が自分を責任者とする歴史書に、天皇が政務をとることを邪魔したと書くわけはない。「摂関家の当主、藤原基経が編纂事業を総裁した国史では、表面には現れない微妙な青砥氏が書き留められていない」(148ページ)。その間の事情は、同時代の貴族の日記などから知ることができる(次第次第に、官製の歴史よりも、貴族の私的な日記のほうが史料的な価値が増していることで、《六国史》の終焉が近づいているわけである)。とはいえ、天皇が内裏に参入されなかった事実が書き留められていたことで、摂関政治への政治の流れが証言されているのであると著者は論じている。

 菅原道真が司馬遷を引き合いに出していることから、考えてしまうのは、司馬遷が皇帝の巡幸に随行して、或いは独自に各地を旅行して、見聞を深めたうえでその歴史書を書いているのに対して、《六国史》の著者たちには、地方官として赴任したりして、都以外の土地についての見聞がないわけではないのに、そういう知識が歴史書編纂に生かされているようには思えないことである。道真にしても、讃岐守になったことがあるが、そこで地元の歴史を調べるというようなことはしなかったようであるし、のちに太宰権帥に左遷されたときも、地方から巻き返しを図るなどということは思いもせずに、都と宮廷を恋しがってばかりいたようである。道真が司馬遷から学ぶべきであったのは、「疑問のあることは記さない」以前に、疑問は実地に赴いて徹底的に調べるということでなかったかと思うのである。私自身も、地方で暮らしていたときに、その土地の歴史を掘り下げるという作業はあまり取り組まずに、東京に職を得て、喜んで移住した経験があるから、あまり大きいことは言えないのだが、地方についての知識の重要性はいくら強調しても強調し足りないということはないのである。

日記抄(4月29日~5月5日)

5月5日(木)晴れ

 4月29日から本日までの間に経験したこと、考えたことから:
4月29日
 田辺聖子『おくのほそ道を旅しよう』(角川文庫)を読み終える。1989年に講談社から『「おくのほそ道」を旅しよう』として刊行され、1997年に文庫化された書物を、発行元を変えて出版したものである。実際に、東京の深川から東北・北陸を旅行して、大垣に至る芭蕉の行程を辿って、書かれた書物で、『おくのほそ道』のわかりやすい解説になっている。田辺さんは大阪生まれで、関西で生活してきたので、完全アウェーの旅行である。それだけにさまざまな発見に満ちている。芭蕉が土地の富商・清風鈴木八右衛門に歓待を受けた尾花沢で、土地の人が芭蕉の「眉掃を俤にして紅粉(べに)の花」という句が紫式部によって壊された紅花のイメージを、再び取り戻してくれたと恩に着ているという話などは興味深い。もちろん、出版社の編集者をお供に連れ、途中での中断がある旅行ではあるが、芭蕉だって一人旅ではなかったのだから文句を言う筋合いではない。

4月30日
 NHKラジオ『攻略!英語リスニング』は”Pluto"(冥王星)について取り上げた。「ワンポイント・ニュースで英会話」でも紹介された探査機ニュー・ホライズンズによるこのdwarf planet (準惑星)にはice volcanoes (氷の火山)やglaciers (氷河)があるという発見が語られた。巻末のFree Talkによると、ニュー・ホライズンズ号には冥王星の発見者であるクライド・トンボーの遺灰の一部が積み込まれていたのだそうだ。

 書店で長谷川たかこ『ワカメちゃんがパリに住み続ける理由』(KKベストセラーズ)という本を見かけた。長谷川さんのブログ「長谷川たかこのパリのふつうの生活」は時々覗いているのだが、彼女が長谷川町子の姪であることは知らなかった。13歳の時に伯母のお供でパリを訪問し、それ以来その魅力に取りつかれているという。うらやましい話だ。

5月1日
 Eテレの「日本の話芸」で春風亭小柳枝師匠の「二番煎じ」を視聴する。この噺は春風亭柳橋(奇しくも4代目の春風亭小柳枝であった)や8代目の三笑亭可楽(これまた6代目の小柳枝であった)がよく演じていた他に古今亭志ん朝が演じたものを聴いた記憶がある。火事が江戸の名物の1つに数えられていた江戸時代のこと、町内の旦那衆が火の用心の夜回りをするのだが、寒いのでこっそり酒や肴を持ち込んで、休み時間に味わっていると、見回りの役人がやってくる。まだ江戸の記憶の残る関東大震災前の東京で育った柳橋や可楽、彼らと同世代の父親の薫陶を受けた志ん朝とは別の噺を作っていかなければならない世代の9代目小柳枝であるが、しっかり自分の噺にしていたのには感心した。口調のもたついたところはあるにしても、よくまとめていたと思う。昔々上野の鈴本で実際に口演に接したこともあり、ラジオ等では何度も聞いているのだが、その時よりもずっと上達しているように思った。

5月2日
 モンペリエっ子さんのブログ「海外生活紀」でLe chant des partisans (パルチザンの歌)という歌が紹介されていた。昔々、イヴ・モンタンが歌ったのを聴いた記憶があるが、歌の題名は知らずにいて、今回初めて知ることができた。モンタンの世代と、より若い世代の歌手とでは戦争に対するかかわり方が違い、そういう経験の違いは、歌への取り組みにも現れるはずである。
 私が若かったころは、自分よりも年長の戦争体験のある人たちがかなり多く存命中で、したがってかなり多様で個性的でもあるそれぞれの戦争体験について聞くことができた。戦争が好ましくないのは当然のことであるが、その戦争についての記憶を画一的にまとめてしまおうとすることが、好ましいことだとは思わない。
 文化や価値観の伝達ということで学校教育の役割が重視されるが、文化の中には学校教育の影響を受けにくい領域もある。「唱歌、校門を出でず」という言葉に示されるように、音楽などは学校教育から学ぶものの少ない領域ではないかと思う。
 (私のコメントに対して、モンペリエっ子さんから丁寧なコメントを返していただきました。あらためて感謝いたします。)

5月3日
 日産スタジアムでJ2の横浜FC対ファジアーノ岡山の試合を観戦する。横浜がこのところ好調なので、期待していたのだが、あまりいいところなく、0-2で敗れたのは残念であった。

5月4日
 七森さんのブログ「◎あちこち神社」は京都御苑の中の白雲神社を取り上げていて、西園寺家とのかかわりを記していた。西園寺家といえば、現在は京都大学の所有となっている田中関田町(せきでんちょう)の清風荘は西園寺公望の別荘の1つであった。西園寺さんはあちこちに別荘を持っていたのである。

5月5日
 太田和彦『山の神さま・仏さま』(ヤマケイ新書)という本が朝日新聞で紹介されていたのを見て、面白そうだと思って買って読んでいるところである。自分の経験を踏まえて山と伝統的な信仰との結びつきについていろいろと語っている本で、詳しいことは読み終えてから書こうと思うが、山登りは段階を踏んで難しい山に挑戦をするようにすべきであるというのは、4月28日放送(5月5日再放送)の「ラジオ英会話」に出てきた
You have to learn to walk before you can run.
(歩くことを覚えて初めて走ることができる。人間基礎固めが大切)
というのと共通する意見だなあと思った。
 四国八十八カ所のお遍路に出かける余裕がなくても、御府内八十八ヶ寺のように身近に巡礼の場が設定されているという個所に出会い、御府内八十八ヶ寺というのは初めて聞くなあと思って調べてみたが、一時私が文京区に住んでいたときの住まいの近くの寺が含まれていたりして、興味深かった。以前、玉川八十八か所というのに興味を持っていくつか寺を回ったのだが、それとは別のものである。わたしには玉川のほうが身近なので、再度挑戦してみようかと思っている。

 このブログを始めてから、読者のみなさんよりいただいた拍手の数が15,000を越えました。どうも有難うございます。これからも努力してブログを続けていくつもりですので、ご愛読くださるようお願いいたします。
 

三浦佑之『風土記の世界』

5月4日(水)早朝に雨が降った跡が残っていたが、その後は晴れ、風が強く、温暖。

 三浦佑之『風土記の世界』(岩波新書)を読み終える。これまで当ブログで9回にわたって取り上げてきた(まだ完結していない)遠藤慶太『六国史 日本書紀に始まる古代日本の「正史」』と重なる部分が多く、日本の古代史についてどのように取り組むべきかをめぐり考えさせられるところが少なくない。

 この書物は次のような構成をとる:
 はじめに
第1章 歴史書としての風土記
第2章 現存風土記を概観する
第3章 常陸国風土記――もう一つの歴史と伝承の宝庫
第4章 出雲国風土記――神の国ともう一つの文化圏
第5章 語り継がれる伝承――播磨国風土記と豊後国・肥前国風土記
 まとめにかえて

 今回は、第1章までの内容を取り上げることにする。「はじめに」では今日『風土記』と呼びならわされている一連の文書が、8世紀の初めに地方の国々が中央政府に提出した報告文書であり、正式には「解(げ)」と呼ばれるべきものであることが指摘されている。その成立にかかわる詳しい事情は第1章に譲られているが、この第1章は遠藤さんの『六国史』(或いはそれに先行する坂本太郎『六国史』)とのかかわりにおいて、詳しく読み込むことを要求される内容を含んでいる。

 第1章では、われわれが『風土記』と呼びならわしている書物が編纂されたのは、律令政府が和銅6年(713年)に発した命令によるものであると述べている(これは「日本史」の授業で習ったかもしれない事柄である)。ここで発せられた官命の内容を整理してみると
 1 郡や郷の名に好ましい漢字をつける
 2 特産品の目録を作成する
 3 土地の肥沃状態を記録する
 4 山川原野の名前の由来を記す
 5 古老が相伝する旧聞遺事(昔から伝えられている不思議な出来事)を載せる
という5項目にまとめられる。

 このような命令がなぜ発せられたかをめぐっては、律令国家が地方の事情をより詳しく把握しようとしたという理由のほかに、史書編纂事業とのかかわりが想定できるという(遠藤さんの『六国史』さらに、それ以前の坂本太郎の『六国史』における議論と矛盾しない――ということは、学界の通説を踏まえた議論である)。
 そして『日本書紀』の成立をめぐり、その書名を踏まえた少し大胆な推測が展開される。もともと日本の歴史は紀伝体で編纂されようとしたのであるが、紀伝体の歴史書を構成する紀・志・伝のうち何らかの理由で紀だけが成立し、その他の部分の編纂が中断されたまま、史書の編纂は終わったものとみなされてしまった。そこで、後世の歴史書は紀だけで編纂されることになったと考えられている。
 「正史「日本書」が完成するには「日本書」志と「日本書」列伝とがそろっていなければならない。」(13ページ)のだが、実際に、志や列伝の編纂作業が着手されたことを傍証する資料はほとんどない。ただ『日本書紀』の持統天皇5年の18の氏族にその先祖の墓記を提出させたという記述、或いは「撰善言司」という役所を設けたという記述が、歴史編纂事業とかかわっているのではないかと想像できるという。さらに列伝の一部を構成したであろう何人かの人物が想定できるという。それは日本武尊であり、聖徳太子であり、藤原鎌足である。さらに、そのような列伝に収められるべき人物として記述された、あるいは創作された可能性があるのが浦島子であるとも論じられている。そして今日、『風土記』と呼ばれているものは、地理志として正史の志の部分を構成すべく編纂されたものではなかったのかというのである。

 歴史学者である遠藤慶太さんが慎重に口ごもっているところを、神話や伝承の研究家である三浦さんは大胆に議論を進めていっているという印象が残る。(そういえば、三浦さんは作家の三浦しをんさんの父君である。もともと三重県のご出身のようだが千葉大学の先生をされていた当時に、房総半島や茨城県で研究を展開されたためであろうか、この書物でも房総半島の伝承への関心が目立つ。三浦といえば、三浦半島を拠点として、房総半島にも勢力を伸ばし、中世の南関東で活躍した豪族を思い出すが、そういうことも著者の念頭にあるのかもしれない。) 

『太平記』(103)

5月3日(火)曇り

 鎌倉幕府の滅亡後も、護良親王は信貴山に留まって、兵を集められていた。後醍醐天皇は親王に僧籍に戻るように命じられたが、護良親王は高氏の野心を警戒して天皇のご命令を拒否された。天皇から征夷将軍の職を許された護良親王は、元弘3年(1333年)6月13日、大軍を率いて上洛された。その後、妙法院宮(尊澄法親王)、万里小路藤房、円観、文観らが配所から帰洛し、天皇の隠岐配流中に不遇であった人々は、わが世の春を謳歌した。一方、公家の下僕のように扱われるようになった武士たちは、再び武家の天下となることを望んだ。8月に論功行賞が行われたが、後宮の内奏による不正が多かった。

 元弘4年(1334年)正月11日に、公卿たちが議論して、次のような結論に至った。天皇による親政が復活して、その政務が多忙なため、多くの役人と位を設けることとなった。現在(当時)御所としていた二条富小路内裏はわずか4町四方で場所が狭く、儀式を滞りなく行うのには支障がある。そこで、内裏を四方に1町ずつ広げて、新たに建物を建てた。これでもまだ、かつての皇居には及ばない、皇居や官八省を包摂する大宮殿(大内裏)を造営すべきであるということになり、安芸の国と周防の国を料国(費用を拠出する国)に定められ、全国の地頭、御家人たちから彼らの所領からの収益の20分の1を徴収することとした。(これも諸国の武士たちの不満を生み出すことになったのは、容易に推察できることである。)

 大内裏というのは、秦の始皇帝がその首都咸陽に築いた阿房宮の一部を模倣して、桓武天皇の時代に造営され、嵯峨天皇の時代から使用されてきたものであると『太平記』の作者は言う(どの程度、本当のことかをまだ確かめていない)。以下、大内裏がどのような構造になっているかを、作者は詳しく語る。問題は、その後の記述である。大内裏は、度々の火災により焼失し、再建を繰り返し、とうとう、現在では昔の大内裏の礎石だけが残っているという有様になってしまった。

 なぜ火災がたびたび起きたかという理由を考えると、昔の中国の唐堯、虞舜というような聖天子たちは中国全土の支配者としてその徳は天地にかなうほどであったが、宮殿を質素にする善政を行ったと言われる。「況(いわ)んや、粟散国(ぞくさんこく)の主としてこの大内(だいだい)を造られたる事、その徳に相応すべからず」(第2分冊、228ページ、まして粟粒のような小さな国の主人として、この大内裏を造営されたことは、その徳にふさわしいはずもない)と、きびしく論難している。後に続く天皇たちが、大した徳もなく、自分たちの住処を安泰に保つことだけを考えているのであれば、国の財政はそのことで使い果たされてしまうだろう。だから「君子は飽かんことを求むることなく、居安からんことを求ることなし」(同上、君子は食に飽き満ちることを求めず、安楽な家に住むことも求めない。これは『論語』学而篇の言葉だそうである)という。

 大内裏の門の額の文字を書いたのは高野大師(弘法大師=空海)であったが、この道理を御存じだったので、「大極殿」の題の字を書く際に、大を火という字に、「朱雀門」の朱という字を米という字にされたという。これを見た小野道風が「大極殿は火極殿、朱雀門は米雀門」(第2分冊、228‐229ページ)と非難したという。神仏の道理に通じた聖人が未来のことを見通してそのようにされたことを、俗人が非難したことの咎によるものであろうか、小野道風はその後中風になって、字を書くときに手が震えるようになったという。この説話は『古今著聞集』にも記載されている由であるが、この後が実は面白い。道風は草書を得意としたのであるが、手が震えるようになって、ますますその書に趣が出たという。このように、ひとつの結論で安心してしまわないところが、『太平記』の特徴の1つであろう。

 さて、貞観18年(876年)に大内裏が焼失した後、再び造営されたが、延長8年(930年)にまたもや落雷によって焼失した。この落雷は北野天神の家来の雷神の仕業であったとして、『太平記』の作者は北野天神=菅原道真の説話を、長々と語ることになる。

 今回、紹介した個所では、『太平記』の政治論的な性格(後醍醐天皇のもとでの大内裏の再建を批判して、為政者は質素な暮らしをすべきであり、もっと先に実行すべき政策があるはずだと論じているところ)、説話的な要素の混在(小野道風の説話)などの特徴がよく出ていて、興味深かったと思う。嵯峨天皇、橘逸勢とともに書の「三筆」に数えられる空海(774-835)と、藤原行成、藤原佐理とともに「三蹟」に数えられる小野道風(896-966)とでは100年以上の時代の開きがあり、書の流行も変化していたことが、後世の説話記録者によってどのように受け止められたかという問題として道風の説話を解釈すべきであるのかもしれない。

ダンテ・アリギエリ『神曲 煉獄篇』(28-1)

5月2日(月)晴れ

 1300年4月13日、ダンテと彼を導いて来たウェルギリウス、途中から2人に同行しているスタティウスの3人は煉獄山の頂上にある地上楽園に到達した。それは神の造った森であり、27歌におけるウェルギリウスの言葉:
「あの甘き果実を多くの枝の中に
探しながら必滅の者達の思いは歩んでいくが、
今日、それがおまえの飢えを満たすであろう。」
(406-407ページ)が表現しているように、現世におけるしあわせの到達点である。そしてウェルギリウスはこの後は、ダンテが自分自身の判断で行動するようにと言い渡した。

その前から私は、あたらしい日の光を目にやさしくやわらげる、
常緑の豊かな神の森を
その奥から果てまで訪れてみたいと心がはやり、

それ以上の許しを待つこともなく岸壁を後にし、
あらゆる場所が香る土を踏みしめ、
平野を少しずつ少しずつ進んでいった。
(410ページ) この美しい森をすみずみまで探索したいとはやる気持ちを抱きながら、ダンテは恐る恐る「少しずつ少しずつ」進んでいく。

さわやかなそよ風が、変化の
気配さえなく、まさに心地よい風となって
私の額に吹きつけていた。

そのために木々の葉は皆どれも揺れながら、
聖なる山が朝の最初の影を投げかける
方角に素直になびいていた。
(410-411ページ) そして木々の枝では鳥たちが喜びにあふれた自然の音楽を歌い、葉のざわめきがその伴奏となっていた。ここでは万物が調和を保っていた。とはいうものの、ここは地球上の場所である。

まるでアイオロスがシロッコを解き放つとき、
キアッシ海岸の松林の中で
枝から枝へと奏でられる演奏のように。
(412ページ)と、ダンテはラヴェンナ(彼がその生涯を終えることになり、彼の墓のある都市である)近郊の風光明媚なキアッシ海岸(現在はクラッセといって内陸部になっているそうである)の風景を引き合いに出して、その美しさを描いている。アイオロスはギリシア神話に登場する風を司る神であり、風が勝手に吹かないように鎖でつないでいるという。シロッコは3月から7月にサハラ砂漠から吹いて来る湿潤な風だそうである。

 ダンテは森のなかに深く分け入る。
するとそこで一筋の川が進むのを遮った。
その小川は岸から伸びている草の茂みを
小さな細波(さざなみ)で左にそよがせていた。
(412ページ) その川の水は、地上のどのような川の水よりも、澄んで清らかであった。
 ダンテは足をとめて、小川の向う岸で5月の花が咲き誇っている色模様を眺めた。ここで5月の花というのは、毎年、5月1日にフィレンツェで開かれる春の祭典を念頭に置いた表現である。その祭典は多くの花に飾られる。

するとそこで私の前に現れたのだ。まるで、
人を驚かせて他の想念をすべて消し去るような何かが
突然に現れるように、

たった独りきりで貴婦人が、
歌いながら道を一面に彩る
花の中から花を選(よ)って歩いていた。
(413-414ページ) この貴婦人は何者であろうか。彼女の姿は、ダンテがこれまでであって来た煉獄でその罪を浄めている魂とは全く別物である。

 第28歌に入って、『煉獄篇』の描く世界は、明るく、美しいものとなる。それだけにダンテの描写も精彩があり、その魅力にひかれて今回は引用が多くなってしまった。それで28歌は3回に分けて取り上げることになりそうである。翻訳者の原基晶さんによると、この貴婦人との出会いから始まる個所には、ダンテと同時代人で、彼も一時期は属していた清新体派の代表的な詩人グイド・カヴァルカンティからの引用が多くみられる由であるが、それらのことについては次回考察を加えることにしたい。
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