2016年の2016を目指して(4)

4月30日(土)晴れ

 3月末に風邪をひいたのが尾を引いて、4月はあまり動き回るということがない月になった。

 動き回ったのが1都2県、2市4区というのは変化なし。
 利用した鉄道が、7社、10路線、11駅というのも変化なし。
 バスについては新たに1路線(横浜市営44)、1停留所を利用したので、3社、14路線、12停留所を利用したことになる。〔66〕

 この項を含めて30件のブログを書いた。内訳は
 読書16件(58件)
 日記5件(23件)
 映画2件(15件)
 詩 3件(12件)
 未分類1件(6件)
 推理小説1件(5件)
 歴史・地理1件(2件)
 外国語1件(1件)
ということである。そろそろジャンルを細分しようと思っているのだが、なかなか実行できない。1月からの合計は122件である。コメントを1件(10件)、拍手を803拍手(2893拍手)、拍手コメントを1件(7件)いただいている。〔139〕

 買った本は11冊で、今年になってから購入した本の合計は51冊になった。他に友人からの著書の寄贈が1冊ある。本を買った書店は3軒である。読んだ本は10冊で、1月からの合計は40冊になった。それぞれの著者名+書名を挙げると:
宮下奈都『太陽のパスタ 豆のスープ』、宮下奈都『窓の向うのガーシュウィン』、ジル・チャーチル『大会を知らず』、益田ミリ『心がほどける小さな旅』、望月麻友『京都寺町三条のホームズ・4 ~ミステリアスなお茶会~』、西田照子『金太郎の母を探ねて』、木村俊一『天才数学者はこう解いた、こう生きた』、松前健『日本の神々』、シャーロット・マクラウド『猫が死体を連れてきた』、田辺聖子『おくのほそ道を旅しよう』
の10冊である。女性が書いた本が10冊中8冊を占めるというのが特徴的である。〔43〕

 NHK「ラジオ英会話」を20回(79回)、「入門ビジネス英語」を8回(32回)、「攻略!英語リスニング」を7回(31回)、「実践ビジネス英語」を12回(48回)、「ワンポイント・ニュースで英会話」を20回(41回)聴いている。また「まいにちフランス語」を20回(79回)、「まいにちイタリア語」を20回(79回)、「まいにちロシア語」を20回、「レベルアップ中国語」を14回聴いている。中国語の時間を聴いていないことが多いのは、単なる聞きのがしである。中国語についても入門レベルの番組を聴いたほうがよいのかもしれないが、興味を失わないということを考えて、少し難しくても、こちらの方を聴いている。ロシア語の方は長年のブランクを経ての学習だけに、かなり苦戦をしている。特に応用編は聞くだけになっているが、内容が興味深いので何とか頑張っている。英語はもう少し集中力をもって取り組む必要があり、フランス語は学習量を増やす必要がありそうだ。その他の言語は趣味でやっているのだから、あまり成果を期待しない方がいいと自分に言い聞かせている。

 NHKカルチャーラジオ『教養としてのドン・キホーテ』を2回聴いたが、その後の2回を聞きのがしている。

 映画は2本観ただけであった。出かけた映画館は7館と変わらず、観た映画の通算は20本である。4月に見た映画は:『勲章』、『流れる』の2本である。〔27〕

 サッカーの試合はJ2を1試合、なでしこ2部を2試合、合計3試合観ている。1月からの通算は15試合である。どういうわけかわからないが、サッカーは女子のほうが面白い。4月29日に日産フィールド小机で行われた横浜FCシーガルスと吉備国際大学の試合を見逃したのが残念である。

 A4のノートを2冊、A5のノートを2冊、0.5ミリのボールペン(黒)を3本、0.7ミリのボールペン(黒)を1本、0.5ミリのボールペン(グレイ)を1本、薄墨の筆ペンを1本使い切った。

 アルコールを口にしなかったのが18日で、久しぶりに月の過半となった。酒量を押さえている割に、体調がよくならないのが問題である。
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藤の花

4月29日(金)晴れ後曇り

藤の花

丘を登ってゆく
バスの窓から
崖の上の藤の花が見える

宅地造成の手が
とうとう及ばずに残った
崖はコンクリートで固められているが

まだ少しは残っている
樹木と お互い
励まし合うように
藤の花が咲いている

コンクリートの崖の
上の方を一面に覆っている
藤の花は
雨に打たれ
風に吹かれ
少しその色が
薄れているかもしれないが

崖の上で
誰の世話を受けることもなく
咲きつづけ
坂道を
上り下りする
人と車に
自分が咲いていることを
知らせつづけている

日記抄(4月22日~28日)

4月28日(木)雨

 4月22日から本日までの間に経験したこと、考えたことを書き連ねる前に、前回に書き落としたことを1つ紹介する:
 4月21日に西田照子『金太郎の母を探(たず)ねて 母子をめぐる日本のカタリ』(講談社選書メチエ)を読み終えた。金太郎⇒坂田金時(本来は公時)よりもむしろ山姥だとされているその母の方に焦点を当てて、古代・中世における母子神信仰の流れを辿ろうとしている。興味深い主題を取り上げているのだが、取り上げ方と論の展開についてもう少し工夫があってもよかったのではないか。

4月22日
 木村俊一『天才数学者はこう解いた、こう生きた 方程式四千年の歴史』(講談社学術文庫)を読み終える。古代バビロニアから現代に至る数学の歴史を、方程式の解法の探求を軸にしてたどった書物である。言葉や記号が数学にとってどのような意味を持ってきたか、数学の発展に寄与した天才数学者たちの生涯はどのようなものであったのかが、この軸に絡めて語られている。
 プロローグ 大発見と天才伝説
 第1章 古代の方程式――バビロニア、エジプト、ギリシア、アラブ世界
 第2章 伊・仏・英「三国志」――数学のルネッサンス
 第3章 ニュートンとラグランジュと対称性――科学革命からフランス革命まで
 第4章 19世紀の伝説的天才――アーベルとガロア
 エピローグ 未解決問題のフロンティア
 加減乗除の四則計算とn乗根を求めるというやり方で5次方程式の解の公式は作れないことを証明したのがアーベルとガロアであることは(知識として)知っていたが(この本には、その証明が記されているのであるが、情けないことに分からない)、それ以外の方法を使うことで、アイゼンシュタインとエルミートが5次方程式の解の公式を発見し、さらに6次方程式についても解の公式が見出されているが、7次方程式以上は未解決のままである(数学者の関心が別の方向に向かっていることにもよるようである)という。

4月23日
 ニッパツ三ツ沢球技場でなでしこリーグ2部の公式戦:ニッパツ横浜FCシーガルスとスフィーダ世田谷の対戦を観戦する。シーガルスが前半に先取点を挙げたが、後半に追いつかれ、さらに逆転されて、またもや白星を逃した。

4月24日
  NHKラジオ『攻略!英語リスニング』は”Neckties"(ネクタイ)を話題として取り上げた。30年戦争の際にフランス軍に傭兵として参加したクロアチアの兵士たちが首に布切れを巻いていたのが、フランスの貴族たち、とくにルイXⅣ世の目に留まって、彼らの間でネクタイが流行するようになった。
This piece of clothing was called the cravat, which was a corruption of the French word for Croats, Croates.(この布切れがクラヴァットと呼ばれたが、これはクロアチア人を意味するフランス語、「クロアット」がなまってそう発音されたのである。) 貴族たちの間では複雑な結び方をすればするほど格式が高いと考えられていたのだが、産業革命以後、タイを身につけたいという人が増えて、より簡単な結び方のできるものが普及したという。
 それにしても、退職してしまうと、ネクタイとは縁がなくなり、私がネクタイをしたのは、ことしに入ってからまだ1度きりである。

 Eテレの「日本の話芸」で桂米助師匠の「阿武松(おおのまつ)」を視聴する。能登の国から力士になろうと江戸の武隈親方のところに弟子入りした青年が、大飯ぐらいであるために暇を出され、板橋の宿屋の主人の好意で今度は錣山部屋に入門して、めきめきと力をつけ、ついには6人目の横綱:阿武松緑之助になるという噺。米助師匠はスポーツ、とくに野球に詳しいことで知られ、タレント《ヨネスケ》としても活躍しているだけに、それなりに面白い話のタネを仕込んではいるのだが、もう少し落語としてまとめていく努力が必要ではないかと思った。

 山形県の天童市で人間将棋大会が開かれた様子がインターネットで紹介されていた。3月14日のNHKラジオ「まいにちイタリア語」で取り上げられていたが、天童市は人間チェス大会を2年に1度実施しているイタリアのマロスティカの町と姉妹都市になっている。

4月25日
 4月20日の「まいにちロシア語」の時間でクイズとして出題された
Раъота не водк...
 直訳すると「仕事はオオカミではない」というのは、「オオカミとは違って森の中に逃げていかないから、仕事はいつでも間に合う」という意味だそうである。ロシア人の仕事観がよく出ているように思われる。

4月26日 
 『入門ビジネス英語』の時間に「方向性を探る」ための発言の一例として紹介されていたのが、
Perhaps we can meet halfway. (お互い歩み寄ることができるかもしれません。)
「中間地点で会う」、つまりお互いが譲歩して着地点を見つけようとすることであると説明されていた。日本人は(私も含めて)これが苦手のようである。

4月27日
 NHK『ラジオ英会話』では”A Song 4 u (A Song for you)"として、Brothers Four のヒット曲”Greenfields"を聴いた。懐かしかった。

 『実践ビジネス英語』の”Quote...Unquote"のコーナーで取り上げられた言葉:
You are not only responsible for what you say, but also for what you do not say.
     ――Martin Luther (German friar, priest and professor, 1483-1546)
あなたには、自分が言うことについてだけでなく、言わないことについても責任がある。
 この場合のyouは4月28日の「ラジオ英会話」の”Grammar for Better Conversation"で解説された「一般論を語るためのyou」と解することもできる。

 蒼月玉兎さんのブログ「屋根裏の名画劇場」で紹介されていた映画『殺人魚フライングキラー』の製作者の1人チャコ・ヴァン・リューウェンが1950年代から60年代にかけて日活映画で活躍した筑波久子さんのことであることをどれだけの方がご存じだろうか。
 私の小学校時代の同級生の1人が進学した私立中学校で同級になった生徒の1人が慶応の先生の息子で、自分の家に筑波久子が遊びに来た(彼女は慶応の学生であった)という話を聞いたことがある。うーん、同じ年齢でも、経験の違いは大きいね。私は未だに日活時代の筑波久子の映画を見たことがない。見たのは彼女が渡米後に製作・監督した『ヘイ・ベイビー THE SEX LIFE』と製作した『ピラニア』だけである。

4月28日
 『実践ビジネス英語』の”Quote...Unquote"のコーナーで紹介された言葉:
A man can get discouraged many times but he is not a failure until he begins to blame somebody else and stops trying.
     ――John Burroughs (U.S. naturalist and nature essayist, 1837 -1921)
人は何度も挫けることがあるが、他人のせいにしはじめて、努力するのをやめるまでは、落伍者ではない。 

『太平記』(102)

4月27日(水)曇り

 鎌倉幕府の滅亡後、護良親王は信貴山に留まって兵を集められて、その勢いは天下の大半を圧倒しようかというものであった。親王がなかなか入洛されないので、後醍醐天皇は坊門清忠を遣わして、僧籍に戻るように命じられたが、親王は足利高氏の野心を警戒してこれを拒まれた。(吉川英治が『私本太平記』で描いているように、天皇の命令に従わないというのは、異例である。) 天皇はやむなく、親王の征夷将軍職への就任を認められ、元弘3年(1333年)6月13日、護良親王は大軍を率いて入京された。その後妙法院宮(尊澄法親王=宗良親王)、万里小路藤房、円観、文観らが配所から帰洛し、後醍醐天皇の隠岐配流中に不遇だった人々は、わが世の春を謳歌した。一方、公家の下僕のように扱われるようになった武士たちは、再び武家の天下となることを望むようになった。

 この年、8月3日から、倒幕の戦いの恩賞を与えるために、その上卿(議事の主席の公卿)として洞院左衛門督(かみ)実世卿が任じられた。そこで全国の武士たちが、軍功の証拠を持ち寄り、恩賞を望んだが、その数は何千、何万にのぼった。ところが、じっさいに功績のあるものは、自信があったのでへつらったりしなかったが、そうでないものは奥にいる貴人や実権を握る家来に媚びて、偽りの奏上をしたので、数か月の間にようやく20人余りの恩賞を決めたのであったが、恩賞が公正に行われず、すぐに恩賞の所領を召し上げられた。

 そこで上卿を交替させようということになり、万里小路藤房卿が上卿となって事務を引き継いだ。藤房はその任につくと、それぞれの忠義のほどや、戦功の深浅を正確に評価して、公正に恩賞を与えようとしたのだが、後宮からひそかに天皇に奏上して策をめぐらす輩が絶えず、もともと朝敵で最後の方になって宮方に寝返ったものがその所領を安堵されたり、大した戦功もないものが5カ所、10カ所の所領を給わるなど不公平な沙汰が繰り返され、藤房は天皇に何度も諫言を申し上げたのであったが、お聞き入れにならなかったために、病気を理由にしてその任から降りてしまった。『太平記』の作者は藤房を良識のある硬骨漢として描きだしている。(彼の辞任によって、後醍醐天皇の新政の問題点が明らかにされたはずであるが、この程度のことで問題が認識されるわけではない)。

 そのまま放っておくわけにもいかないとして九条民部卿光経(みつつね)が次の上卿に任じられ、恩賞の処理にあたらせた。光経は、大将たちにその部下の軍勢の勲功の有無を詳しく訪ね、功績が明らかな武士には必ず恩賞を与えるようにしようとしたのであるが、北条嫡流家の領地のすべては皇室領とされ、その弟の北条泰家の領地は護良親王のものとされ、大仏貞直の遺領は後醍醐天皇の寵妃である阿野廉子の所領とされた。それだけでなく、北条氏の所領、北条氏に従った人々の所領をそれほどの功績も上げなかった郢曲歌道の家、蹴鞠(しゅうきく)能書の輩(=今様などの雑芸や蹴鞠や書をもっぱらに従う輩)、さらに朝廷の武官や文官、女官や官僧に至るまで、所領の1,2カ所を後宮から天皇に奏上してことを取り計らっていただいたので、今は66か国ある日本の国土の中で、武士に恩賞として与えるべきごく狭い土地さえも、空いた土地はなくなってしまった。こういうわけで、光経も心中は公平な恩賞を心掛けていたのだが、何もできないまま時を過ごすのであった。

 また雑訴(様々な訴訟)の処理のために、郁芳門(ゆうほうもん)の左右の脇に、決断所を設けた。その議事に携わる人々として、学才に優れた公卿殿上人や、漢籍や法律を家学とする太政官の役人たちを3組に編成して、月に6度決断の申し渡しをすることを定めた。これは制度としては整ったものに思われたが、世を治め国を安泰にする政治とはいえなかった。後宮を通しての内奏により、原告が天皇の許可を得ると、決断所では被告に勝訴の決定をする。決断所で本来の所有者に土地の所有を認めると、内奏によりそれを恩賞として別の者に与える。このような混乱が続いて、1カ所の領地に4,5人の所有者がいるという騒ぎになり、収まりようがなくなった。

 混乱が続くうちに、7月の初めから後醍醐天皇の中宮である禧子の体調が思わしくなかったが、8月2日にお亡くなりになった(10月12日に亡くなられたと『尊卑分脈』には記されているそうである)。詳しいことは森茂暁『太平記の群像』を読んでいただきたいが、「禧子の生涯は後醍醐天皇によって翻弄されたといってよい」(森『太平記の群像』、角川文庫版、30ページ)というのが大まかな評価ということになるだろう。11月3日には東宮が亡くなられたと『太平記』は記すが、この時期後醍醐天皇は皇太子を立てられておらず、光厳天皇のもとで皇太子であった康仁親王はまだ御健在であった。政治の乱れが、異変となって表れるというのが『太平記』の作者のものの見方であり、そのために事実でないことも記されたと考えられる。これはただ事ではなく、これまでの戦乱で死亡した士卒の亡霊の怨害であると四大寺(=東大寺、興福寺、延暦寺、園城寺)で写経を行わせ、法勝寺で供養が行われた。

 新政府のもとで、武士たちに与えられるはずの恩賞をめぐり、不正が絶えなかったことは、政治的な混乱を招き、新政権の将来に暗雲を漂わせることになる。それを自分たちの失敗と考えずに、怨霊の仕業とするあたりに、この時代の人々の考え方が現われているのである。

松前健『日本の神々』

4月26日(火)晴れ、温暖というよりも、暑いと感じられるほどだった

 松前健『日本の神々』(講談社学術文庫)を読み終える。中央公論社(当時)から発行されていた『歴史と人物』に連載された日本の神話の中で代表的な神格について書いた文章の中から若干を選び、補足を加えて、1974年9月に中公新書の1冊として出版された書物が、40年以上たって今度は講談社学術文庫の1冊として刊行された。日本の神話についての実証的な研究は、歴史学と、民俗学・比較神話学の2つの方法によって進められてきたが、著者である松前健(1922-2002)はその両者の橋渡し的な役割を担ってきた研究者であり、そのような研究の成果を簡潔にまとめている。
 もちろん、この書物が書かれてから40年間もたっており、「政治・文化の中心があったという微証は、考古学的にはほとんど無に近い」(61ページ)と著者が断じている出雲から重要な考古学的発見が続いたというような、論旨の変更を迫る部分がないわけではない。それでも、問題の立て方や、研究の進め方を含めて、この書物は日本神話研究において重要な手引きとなる本であろう。著者が「はしがき」で列挙している一連の前著とともに、関心のある読者の書架に置かれ、繰り返して読まれるべき書物である。

 この書物は以下に示すように、5章から構成されている。
第1章 イザナギ・イザナミ神話の形成
第2章 スサノヲ神話の形成
第3章 アマテラス神話の源流
第4章 伊勢神宮とアマテラス
第5章 日本神話と歴史とするために
 第1章から第4章までは、日本神話における代表的な神格をめぐる神話の性格や、(特に第3・4章においては)祭儀について論じており、第5章では、著者の神話研究の方法論が述べられている。

 第1章では日本の創世神話の主人公であるイザナギ・イザナミについて、この2神が海洋神的な性格をもつことを指摘したうえで、それぞれが天父・地母であり、その結合と国生み、さらにその別離の神話が「もともと天と地の結合、および万物の化生とその分離を物語る、いわゆる天地勏判(ほうはん)神話の一変形であろう」(14-15ページ)という説が有力であると述べる。
 「イザナギ・イザナミ二尊の内性は、はたして天父と地母であるのが原初的なものなのか、それとも、海洋との関係が古いものであるのか、単純には決めがたいものがあるが、・・・後世には両者の要素が併存していることは事実である。
 そのほかに、・・・この二神には、人類の祖先としての要素、日月二神としての要素、竜蛇神としての要素、また道祖神としての要素などもあり、その神格の成立には、複雑な多元的要素が基盤となったことを物語っているのである」(16ページ)とその神格がさまざまな要素を組み合わせて成立してきたものであると論じている。

 しかし、その一方で、イザナギ・イザナミは、本来、一地方神にすぎなかったという推定も取り上げられている:
「この二神が、皇祖神アマテラスの親神とされ、高天原パンテオンの上席に位置を占めるに至る前は、単に淡路島を中心とする漁民集団「海人(あま)」たちの奉じる一地方神であったらしい」(16ページ)について、さまざまな資料を引き合いに出して論証する。
 「イザナギ・イザナミはもともと淡路の海人の奉じる創造神であった。したがってその国生みは、もともと淡路島を中心とする小規模な話であったのであろう。これが大八洲全体の国生みというスケールに拡大されたのは、ある時期における政治的配慮によるものである」(18ページ)と論じられる。パンテオンという言葉はさまざまな意味で使われているが、ここでは神々の集まる場所と理解しておけばよろしい。「大八洲(おおやしま)」は日本の国土のことで、むかしの人は日本が8つの大きな島からなっていると考えていたようである。「ある時期における政治的配慮」というのがどういうことかは、この書物の後の方で出てくるはずである。

 第1章はまだまだ続くのだが、今回はここまでで終えることにする。地方神であったはずのイザナギ・イザナミが、国生みを行った神、皇祖神の祖神とされるに至ったことは、日本の神話がどのようにして形を整えるに至ったかを考えるうえで重要な手がかりを与えるものであり、繰り返しになるが、今後、詳しい考察がなされることになる。

遠藤慶太『六国史――日本書紀に始まる古代の「正史」』(9)

4月25日(月)晴れ後曇り

 《六国史》とは奈良時代から平安時代にかけて編纂された『日本書紀』、『続日本紀』、『日本後紀』、『続日本後紀』、『日本文徳天皇実録』、『日本三代実録』の6部の歴史書を総称する言い方である。既に紹介したこの書物の第1章「日本最初の歴史書」は、『日本書紀』を、第2章「天皇への歴史の執着」では『続日本紀』と『日本後紀』が取り上げられていた。第3章「成熟する平安の宮廷」では、残る3部が取り上げられているが、今回は、『続日本後紀』について取り上げた部分を論じることにする。

 『続日本後紀』という大きく構えた書名にもかかわらず、この歴史書が扱っているのは仁明天皇一代の治世のみ、天皇の在位期間、詳しくいうと天長10年(833)2月乙酉(きのととり=28日)の即位から、嘉祥3年(850)癸卯(みずのとう=25日)の葬送までが記されているという。天皇の在位は18年にわたっているが、それが20巻にまとめられている。『続日本後紀』は1年間を1巻に編成することを基本方針としているが、天皇即位の年である天長10年と「承和の変」が起きた承和9年(842)については記事が多いために2巻から構成されているという。

 『続日本後紀』を締めくくる仁明天皇の崩伝は、天皇が思考力にすぐれ、学芸に心を寄せられていたことを記す。「伝記には政治的な事績に関する記述は一切なく、足かけ18年の治世を振り返る文章が学芸の紹介で占められている。天皇が在位した9世紀の宮廷、さrに『続日本後紀』という史書の関心がどこにあったかを示している」(125-126ページ)と著者は述べる。
 続いて、天皇が病弱のためか、医薬に深い関心を寄せられていたことが触れられる。「『続日本後紀』は仁明天皇が病歴・服薬歴を回顧した発言を掲載し、…天皇の父嵯峨太上天皇から「金液丹」の服用を勧められたことを記す。この薬は一般の医師が服用を反対する秘薬であった」(127ページ)。

 病弱と、学問好きの2つが重なって、仁明天皇は医術書を読みふけり、医師を黙らせるほどの知識を身につけられた。植物原料の薬を服用されているうちはよかったのだが、病状が進んで薬が効かなくなった時に天皇の父の勧めにより、黄金や水銀などの鉱物を主成分として調合された秘薬である金液丹を服用するようになった。そのおかげで、41歳まで生き延びることができたと天皇は回顧されているのだが、中国の歴史に照らしても、水銀を服用することで寿命を縮めたり、精神に異常をきたしたりした皇帝の数は少なくないようである(水銀が有害であることについて著者は触れていないが、当然の前提としていると思われる)。

 この薬好きの天皇が自ら<五石散>を調合され、公卿らに試しに服用するように言われたことがある。他の公卿が嫌がる中、天皇側近の藤原良相(よしみ)だけが一気に飲んで、周囲のものから感嘆を受けたという。「これは美談なのであろうか。得体の知れない薬を天皇から勧められた廷臣たちの困惑が目に浮かぶ」(128ページ)とと著者は記す。おそらくは脱線を避けて、著者は、<五石散>について詳しく説明していないが、中国で後漢から唐の時代にかけて流通していた一種の麻薬であり、鍾乳石、硫黄、白石英、紫石英、赤石脂という5種類の鉱物を磨り潰して作られた聞くだけでも怪しげな薬物である。特に魏晋南北朝時代には、文人たちの間でこの薬の服用が盛んで、魯迅が「魏晋の気風および文章と薬および酒の関係」という講演の中でこのことについて語っているので、興味のある方は(あまりいらっしゃらないと思うが)読んでみてください。

 問題はその藤原良相が『続日本後紀』の編集に携わっていることである。もともと、『続日本後紀』の編纂に携わっていたのは彼の兄の藤原良房であったが、その良房が太政大臣に任じられたために、良相が追加補充された。彼は仁明天皇と親密であり、天皇の事績をまとめる史書編纂に力を注いだと思われる。その彼を補佐したのが、政務に長けた伴善男であったが、貞観8年(866)の応天門の変で、伴善男が失脚、良相も雌伏を余儀なくされる。

 結局、この史書の完成まで編纂事業にかかわり続けたのは、政界の頂点に立つ藤原良房と、学者として編纂作業を進めた春澄善縄の2人だけであった。「対象とした年月(仁明朝一代、18年)、上奏した撰者(藤原良房、春澄善縄)、ともに小さくまとまった第4の国史『続日本後紀』の完成である。」(133ページ)

 著者は最後に、善縄の経歴とその性向とについて触れている。彼は「文章博士出身者で初めて参議に任じられ、国政を審議する資格を与えられた。・・・他の名門出身者に混じって政務を論じたとは考えられない。あくまで善縄の本領は学問にあった」(135ページ)とする。
 『続日本後紀』は宮廷で行われた詩宴について、その時に出された詩題を書き留めているが、これは他の5部の史書には見られないことであると著者は指摘する。そしてこれには善縄の意が込められているかもしれないと記している。「9世紀の日本では文章博士を養成する制度は機能していた。知識の継承が行われ、漢文による歴史の編纂が続いたのだ。またそれだけ文章博士に対する期待もあった」(137ページ)と著者はまとめる。こうして、『続日本後紀』で春澄善縄が果たした役割は、『日本文徳天皇実録』では都良香、『日本三代実録』では菅原道真と文章博士に引き継がれていくのである。

 『続日本後紀』をめぐる部分では、仁明天皇、藤原良相、伴善男、春澄善縄とかなり個性的な人物が、この史書の編纂にかかわって登場するのだが、それらがうまくまとめられているとはいいがたいし、実際に、まとまりにくい部分があったのかもしれない。その中で藤原良房が政治の実権を握り、歴史書の編纂の功績を打ち立てることで、二重の意味で歴史の勝者となっていったのが不気味に思われる。著者は「成熟する平安の宮廷」という章題を掲げているが、その「成熟」の意味について問いただしたい気分にさせられる。

『太平記』(101)

4月24日(日)曇り時々雨

 鎌倉幕府の滅亡後、後醍醐天皇は都に戻られたが、護良親王は信貴山に留まって兵を集められていた。後醍醐天皇は坊門清忠を親王のもとに遣わして、僧籍に戻るように命じられたが、親王は足利高氏の野心を警戒して拒まれた。天皇から征夷将軍職を許された護良は、元弘3年(1333)6月13日、大軍を従えて入京された。

 その後、妙法院(護良親王の同母兄弟の尊澄法親王≂宗良親王)が四国の武士たちを率いて讃岐から上洛された。尊澄法親王は兄とは対照的な性格の持ち主で、配流中も作歌にいそしまれていた。都に戻ってからは天台座主に復帰されたが、これらのことは『太平記』の作者によって省かれている。
 万里小路中納言藤房は、笠置合戦の後、常陸の国に流されていたが、その際の預人(あずかりうど)であった小田高知(治久と改名)を伴って上洛した。弟の東宮大進(東宮坊の三等官)季房も同じく常陸に流されていたが、病死していて、兄弟で明暗を分けた。父親である宣房は喜んだり悲しんだりで、老いの涙でその袖を濡らすのであった。

 法勝寺の円観上人は、元弘の変で奥州に流され、結城宗弘に預けられていたが、預人である宗弘とともに上洛してきたが、天皇は上人が無事に戻ってきたことをお喜びになって、(上人の配流中の面倒をよく見たということで)、やがて結城に本領安堵の綸旨を下されたのであった。円観は森茂暁『太平記の群像』(角川文庫)によれば、当時の宗教界の大物であったと考えられ、建武新政のもとでの動向はよくわからないが、その後は宮方と武家方の融和に尽力したりしている。また、『太平記』の成立に大きな役割を演じたという説もある。文観上人は硫黄島(鹿児島県鹿児島郡)から、忠円僧正は越後の国から都に戻ってきた。文観は後醍醐天皇、その後は後村上天皇の護持僧を務めるなど宮方と強く結びついた僧侶であり、その後も天皇の側近の僧として活躍した。

 天皇が笠置に落ち延び、その後幕府にとらえられて隠岐に配流された際に官を解かれたり、停止されたりした人々、死罪や流刑となった人々の子孫たちはあちこちから呼び出されて、(重要な役職につき)これまでの不満うっぷんを一度に晴らしたのであった。 「されば、日来(ひごろ)武威に誇つて、本所を蔑如(ないがしろ)にせし権門高家の武士ども、いつしか諸庭の奉公人となつて、或いは軽軒香車の後(しりへ)に走り、或いは青侍格勤(せいしかくご)の前に跪(ひざまず)く」。(第2分冊、219ページ、そうであるから(公家たちの勢威が盛んになったので)、これまでは自分たちの武力の威勢を誇って、本所(荘園領主である公家や寺院)をないがしろにしてきた官位の高い、あるいは名門の武士たちは、いつの間にか公家の諸家の庭に集まる奉公人となり、或いは軽快で美しい車の後を追って走り、或いは公家に仕える侍の前に跪く有様である。)
 「世の盛衰、時の転変、嘆くに叶はぬ習ひとは知りながら、今の如くにて公家一統の天下なれば、諸国の地頭、御家人は皆奴婢雑人(ぞうにん)の如くなるべし。」(第2分冊、219-20ページ、世の盛衰、時の転変は嘆いても思い通りにはならないのが世の常であると知ってはいても、今のように公家が天下をまとめる状態では、諸国の地頭、御家人は皆公家たちの身分の低い使用人のようになってしまうだろう。)
 「あはれ、いかなる不思儀も出で来て、武家四海の権を執る世の中にまたなれかしと、思はぬ人はなかりけり。」(第2分冊、220ページ、悲しいことだ。どのような異変が起きて、武家が天下の実権を握る世の中にまたなってほしいと思わない者はいなかった。)

 北条氏が鎌倉幕府の実権を握っていた時代に逼塞していた公家や寺院が我が世の春を謳歌しはじめる一方で、武士たちの間には不満が立ち込め始める。実際に幕府を倒したのは自分たちだという意識があるだけに、この不満に目をつぶることはできない。天皇とその側近の公家たちは、この事態にどのように対処しようとしたか、それはまた次回に語ることにしよう。

ダンテ・アリギエリ『神曲 煉獄篇』(27-2)

4月23日(土)晴れたり曇ったり

 1300年4月12日の夕方、ローマ黄金時代の詩人ウェルギリウスに導かれて異界を巡歴していたダンテは煉獄の7つの環道を通り抜け、最後の贖罪の火をくぐって、煉獄山の頂上にある地上楽園へと続く階段を登ろうとする。煉獄でその罪を浄め、天国へと向かおうとするローマ白銀時代の詩人スタティウスが2人に同行する。階段に差し掛かったところで日が暮れ、彼らは各々が一段を寝床として休むことになる。

あの時、私達三人はそうやって夜を過ごした。
聳える崖に両側から挟まれて
私は山羊のようであり、あの方たちは牧人のようだった。

そこからは外がわずかしか見えなかったが、
しかしその狭まった中に、いつもより明るく大きな
星を私は見ていた。
(404ページ) ダンテの見上げる夜空は、崖に遮られて一部だけにすぎないが、星の輝きは普段に勝っているように思われる。ダンテの宇宙観では、天国は月天、水星天、金星天、太陽天、火星天、木星天、土星天、恒星天、原動天、至高天から構成されていて、恒星の光は天界のメッセージとも受け取れる。そして彼は眠り込むが、その夢の中に1人の貴婦人が現われる。彼女は旧約の「創世記」に登場する族長ヤコブ(全人類の象徴)の妻レアであると名乗る:
「・・・
私は歩きながら美しい手を
まわりに伸ばして自分のために花輪を編む。

鏡で自分を愛でるため、ここで自分を飾る。
けれど私の妹ラケルは決して鏡の前から
動こうとしない。そして一日座っている。」
(405-406ページ) レアとラケルの姉妹は、ここではレアが「神に至るための能動的な生」を、ラケルが「神に至るためのもう一つの道、観想的な生」を象徴するものとして描かれている。2人は旧約聖書によると、ヤコブの伯父であるラバンの娘で、「レアは優しい目をしていたが、ラケルは顔も美しく、容姿も優れていた」(創世記29-17)。この2人と、彼女たちの侍女たちから、イスラエルの12支族の先祖となる兄弟たちが生まれるのだが、それは別の話ということにしておこう。レアとラケルの描き方が、必ずしも旧約聖書の文脈に即したものとは言えないことだけ、注目しておけばよいと思う。

 ダンテが自分の魂の故郷である天国に近づいていることを喜びながらめざめると、すでに彼の同行者たちは目を覚まし、立ち上がっていた。ウェルギリウスは、ダンテに向けて次のような祝福の言葉を述べる:
「あの甘き果実を多くの枝の中に
探しながら必滅の者達の思いは歩んでいくが、
今日、それがおまえの飢えを満たすであろう」。
(406-407ページ) ここで繰り返し述べられているのは、天国に向かう道がひとつだけではないということ、人間の生き方は多様でありうるということである。そしてさらにウェルギリウスは、ダンテが自分の導くことのできる全行程を終えたことを告げ、あとは自分の力で進んでいくように言い渡す:
「・・・
これからはおまえの望みを導き手とせよ。
おまえは坂道を通り抜けた。狭い道を通り抜けた。
・・・

我が言を、我が許しを待ってはならぬ。
おまえの意志は、自由で、まっすぐで、健やかなのだ。
その意志の判断に従わぬことこそ過ちとなるべきだ」。
(409ページ) 新約聖書の「マタイによる福音書」に「狭い門から入りなさい。滅びに通じる門は広く、その道も広々として、そこから入るものが多い。/しかし、命に通じる門はなんと狭く、その道も細いことか。それを見出すものは少ない。」(7-13,14) ダンテは既に地獄の広い門と、煉獄の狭い門をくぐっている。さらに彼は煉獄山の頂上にある地上楽園に向かう。浄罪の火を潜り抜けたことで、ダンテは天国によりふさわしい存在となっている。

流れる

4月22日(金)晴れたり曇ったり

 4月21日、神保町シアターで「生誕110年 女優杉村春子」の特集上映から、『流れる』(1956、東宝)を見る。1955年に発表された幸田文の同名小説に基づいて、田中澄江と井手俊郎が脚本を書き、成瀬巳喜男が監督した。

 大きな川が流れている東京の下町。この町にある芸者置屋・つた屋に夫と子どもに死に別れた中年の女・梨花(田中絹代)が女中として雇ってほしいとやってくる。あるじのつた奴(山田五十鈴)に気に入られた彼女は、この家を切り盛りしはじめる。つた屋にはとうがたった老妓のそめ香(杉村春子)、若いなな子(岡田茉利子)という芸者が勤め、つた奴の娘であるが芸者にならなかった勝代(高峰秀子)と、つた奴の妹で板前の夫と別れて身を寄せてきた米子(中北千恵子)、その娘の不二子(松山なつ子)が同居している。

 つた屋は古くからの置屋であるが、経営状態は悪く、芸者の数も減る一方で、つた奴は姉のおとよ(賀原夏子)や、料亭・水野の女将であるお浜(栗島すみ子)から借金を重ねている。勝代は職安に出かけたり、履歴書を書いたりして、仕事を探している。以前、つた屋にいたなみ江の伯父(宮口精二)が金をゆすりにやってきたり、不二子が病気になって、米子の前の夫(加東大介)が顔を見せたりする。浪江の伯父の一件は警察沙汰になり、つた屋は苦境に追い込まれる・・・。

 戸板康二『物語近代日本女優史』(中公文庫)の「山田五十鈴」の章は次のように書きだされている:
 「舞台の三代女優という…(と)、それは水谷八重子、杉村春子、そして山田五十鈴ということになっていた。
 その前に日本映画の二大女優として、田中絹代と山田五十鈴を挙げる人もいた(津村秀雄)。いずれにせよ、なみなみならぬ評価といわなければならない」(315ページ)。実はこの後の部分が、女優としての山田五十鈴の特徴を要約して語っていて、読み応えがあるのだが、ここでは省略する。1948年に松竹が田中絹代主演で『女優須磨子の恋』(溝口健二監督)を製作したのに対し、東宝は同じく松井須磨子をヒロインとする『女優』を山田五十鈴主演で製作した。因縁浅からざる2人の共演である。
 この2人に杉村春子が加わり、私が引用した個所で「大女優」といて言及された4人のうち3人がこの映画に出演し、日本の映画史の中で、田中絹代と山田五十鈴に続く世代の代表的な女優である高峰秀子、さらにこの作品の撮影中はまだまだ若手であったが、のちに松竹に移り、吉田喜重との結婚を経て大女優としての評価を得るようになった岡田茉利子が顔を見せている。さらにまだ無声映画時代にスターとして活躍した栗島すみ子が特別出演しているのであるから、それだけで見る価値があるというものである。(男優陣はそれに比べるとかなり見劣りがするが、加東大介、宮口精二と『七人の侍』のうちの2人が顔を見せていること、仲谷昇の若い姿が見られるあたりが見どころであろうか。)

 梨花を除くほとんどの登場人物が、他人のことについては的確な指摘をするのに、自分のことになると物事が冷静に考えられない。そのあたりの人間模様が細かく、丁寧に描きだされている。物語は起伏に乏しく、地味である。いわば川の下流のように流れていく。大きな事件は起きないが、着実につた屋は没落していく。羽織の表よりも裏に凝るというのが、江戸趣味だそうだが、江戸っ子である成瀬は、豪華配役で地味な映画を作ることで、そんな「粋」を追及しているようにも思われる。もっとも、その「粋」な世界をリアルに描いて見せて、幻想を打ち砕くという演出もされている。初めの方で梨花に置屋の中を案内する場面で、汚いところでしょうというセリフがあるが、お座敷に出るときの着飾った装いと、掃除が行き届かず、荒れた置屋の様子との対象は、「粋」などというものではない。

 当ブログ3月28日の『晩春』(1949、小津安二郎監督)の論評で、杉村春子が2度結婚したことを知らずに筆を滑らした個所がありました。謹んで訂正いたします。

日記抄(4月15日~21日)

4月21日(木)曇り

 熊本県を中心として九州で起きた地震について、「日記抄(4月8日~14日)」にお見舞いの言葉を掲載したのだが、その後さらに大きな揺れを経験しただけでなく、余震がなかなか鎮まらないままである。1日でも早く地震活動が収束すること、被害に現れた方々の安全と健康、そして不幸にして亡くなられた方々のご冥福を祈る。

 英国の劇作家であるアーノルド・ウェスカーさんが4月12日に亡くなられたと、14日の新聞に出ていた。83歳。1999年にリヴァプールに滞在していたときに、彼の作品の多くが市のユニティー劇場で初演されたことを知った。いわゆる「怒れる若者たち」を代表する文学者の1人であるが、脚本を読んだことも、舞台をいたこともないのが残念である。

 4月4日付の当ブログで宮下奈都さんの『太陽のパスタ 豆のスープ』について取り上げたが、その宮下さんの作品が本屋大賞に選ばれた。宮下さんの作品では『窓の向うのガーシュウィン』も読んでいる。わりに行間のゆったりとした作品を書く作家さんだという印象がある。今後のさらなる健筆を期待したい。

4月15日
 昨日(木曜日)からNHKラジオ「まいにちロシア語」応用編『ロシア語大好き 12の扉』では19世紀ロシアの作家トゥルゲーネフの「疑惑の日々、祖国の運命を思い煩う日々にも、おまえだけが支えであり、拠り所だ。ああ、偉大で力強く、真正にして自由なるロシア語よ! お前がなかったら、祖国で起こっていることのすべてを目の当たりにして、どうして絶望せずにいられようか。だが、これほどの言葉が偉大な国民に与えられていないとはどうしてお信じられないのだ!」(『散文詩』)と詩句を取り上げた。
 ロシアの社会のも、民衆にも希望を抱けなくなった亡命作家がロシア語だけは愛しつづけているというのは凄い。ゲストの河合エフゲーニャさんによると、プーシキン、レールモントフ、トゥルゲーネフ、ドストエフスキー、トルストイがロシアでは5大文学者とされるそうで、この中にゴーゴリが入っていないのは、彼がウクライナ人だからか、反動的な思想の持ち主であったからか、気になるところではある。
 トゥルゲーネフ(日本ではツルゲーネフという言い方のほうが一般的)は二葉亭四迷をはじめとする明治以来のさまざまな訳業によって日本の文学愛好家たちに親しまれ、影響を与えてきた。そういう意味でも、無視しがたい作家である。

4月15日 NHKラジオ「攻略!英語リスニング」では”Magna Carta"を話題として取り上げた。中世のイングランドでは国王(King)と貴族たち(Barons)と教会(Bishops)とが政治の主導権をめぐって争ったが、次第に国王の権力が強大になる。国王がいい国王であれば問題はなかったが、ジョン王という悪い国王が出て失政を重ねたために、貴族たちが怒って自分たちの要求を国王に認めさせようとした。
According to the Magna Carta, the king had to obey the law. (マグナ・カルタによれば国王は法律に従わなければならなかった。)
 ジョン王は署名を拒んだが、貴族たちが反乱を起こしたので、1215年についにテームズ川の南岸にあるラニーミードという場所で署名した。
 「マグナ・カルタ」の中で要求されたルールで、今なお引き継がれているのはhabeas corpus(人身保護令状/平ビアス・コーパス)、統治する側は誰かを秘密裏に投獄できないというものであるという。
Even if most of it didn't become law, it had a masseive influence on the idea of liberty and government in the future. (マグナ・カルタのほとんどは法律にはならなかったとはいえ、その後の自由と統治の考えに多大な影響を及ぼした。)
 
 益田ミリ『心がほどける小さな旅』(幻冬舎文庫)を読む。一人旅も、編集者や友人との二人旅もあるが、国内のあちこちを旅行した時の経緯が記されている。四コマ漫画や他のエッセー同様に、作者の人間心理への観察眼がさまざまな感想を生み出している。

4月17日
 Eテレ「日本の話芸」で桂文我「紺田屋」を視聴する。京都の三条の呉服問屋の一人娘が病床に就き、餅をのどに詰まらせ敵を失ったのを死んだと誤解され、埋葬されてしまうが、手代の一人に助けられる。2人は江戸に出て、同じ紺田屋という店ののれんを掲げて繁昌し、没落して巡礼の旅に出ていた父母に出会う。文我さんの口演は丁寧な語りぶりで好感が持てた。文我さんは、今はなき桂枝雀の弟子であったが、先代文我によく稽古をつけてもらっていたらしい。先代文我は一通りでない痩せ方をした噺家で、これも故人になった桂春蝶とその痩せ方をよく比べられていた。

 ニッパツ三ツ沢球技場で横浜FC対東京ヴェルディの対戦を観戦する。前半、寺田選手のゴールで1点先行したのだが、後半になって追いつかれた。風が強かったが、ハーフ・タイムに奥寺さんが、風下のほうが戦いやすいという話をしていたのがそのとおりの展開であった。

4月18日
 朝日新聞の「今こそ」という欄で、竹中労のことが回顧されていた。むかし、東映の京都撮影所の近くに竹中労の事務所があったのを見かけて、『美空ひばり』の著者はこんなところで仕事をしているのかと思ったことがあった。

 日曜日に新聞広告で見かけていた『スタンダード神奈川』という雑誌の神奈川県のユース・サッカーの特集記事を立ち読みした。昨年も県予選⇒全国大会で活躍した桐光学園のDFジェファーソン選手が真っ先に取り上げられていたが、今季はどのような活躍を見せるだろうか。横浜FCユースは、かつてトップ・チームの中心選手だった小野信義さんが監督に就任したそうで、これ前の重田監督の仕事をどのように継承・発展させていくかこちらも楽しみである。昨年の県予選で2次予選まで勝ち進んだ小生の出身校も取り上げられていた。

4月19日
 望月麻友『京都寺町三条のホームズ ④ ミステリアスなお茶会』(双葉文庫)を読み終える。京都寺町三条にある骨とう品店「蔵」の店主の孫で「ホームズ」と通称される家頭清貴の活躍を描くコージー・ミステリ。語り手であるアルバイトの女子高生・真城葵との関係も気になるところではあるが、今回は、清貴の祖母、弟分などが新たに登場している。探偵の周辺の人間模様を複雑にすることで読者の関心を盛り上げようとしているのかもしれないが、登場人物はあまり多くない方が作品のゲーム性を損なわないのではないか。

 NHKラジオ「まいにちロシア語」入門編の昨日の「ロシア語クイズ」で出た問題:
Я сова. (私はフクロウ)
「フクロウのように夜ふかしをしている」という意味だそうである。

4月20日
 昨日の「ロシア語クイズ」:
Слово не вороъей. (言葉はスズメではない)
「いったん口に出した言葉は、もはや取り返すことができない」という意味だそうである。

4月21日
 NHKラジオ「実践ビジネス英語」の”Word Watch"のコーナーでは”gender-neutral"(ジェンダーの〔性的〕区別のない)という語が取り上げられた。Alexは男性にも女性にもあるunisex nameで、男性の場合はAlexander, 女性の場合はAlexandraのニックネームである。同じように、PatはPatrickとPatricia, SamはSamuelとSamantha, ChrisはCristopherとChristineの場合があるという。

 同じ番組の”Quote...Unquote"のコーナーで紹介された言葉:
Life appears to me too hort to be pent in nursing animosity, or registering wrong. (from Jane Eyre)
     Charlotte Brontë (Englih novelist and poet, 1816-55)
(憎しみを抱いたり、不当な扱いを忘れずにいたりして過ごすには、人生は短すぎるように、私には思える。)
 シャーロット・ブロンテは姉妹の中では一番長生きしたが、それでも40歳までは生きなかった。それでも、人を憎んだり、恨んだりせずに生きるのは賞賛されてよいことである。

 本日は、神保町シアターに『流れる』を見に出かけるつもりで、早めにブログを更新した。23日(土)の14時から、ニッパツ三ツ沢球技場でニッパツ横浜FCシーガルスとスフィーダ世田谷FCの対戦を見に出かけるつもりである。ご関心のある方は、コメントをください。このところメールの送信が難しくなっていて、ブログへのコメントが一番確実な連絡方法になりそうな様相である。。  

それぞれにお家の事情がある

4月20日(水)晴れ

 NHKラジオ「レベルアップ中国語」では「家家有本難念的経」(それぞれにお家の事情がある)という表現を中心に番組が展開された。家ごとに、すらすらとは読めない難しいお経がある⇒家ごとに、それぞれの難しい事情があるということのようである。

 この表現と関連して、トルストイの長編小説『アンナ・カレーニナ』の冒頭部分の日本語訳と中国語訳も紹介された:
「幸福な家庭はみな同じように似ているが、不幸な家庭は不幸のさまもそれぞれ違うものだ」(原卓也訳)
幸福的家庭都是相似的、不幸的家庭各様各的不幸」(曹資翰訳)
 そういえば、2月17日の「実践ビジネス英語」の時間の”Quote...Unquote"のコーナーでもこの言葉が紹介されていて、一度「日記抄」で取り上げたはずだが、再度引用すると
All happy families resemble one another, each unhappy family is unhappy in its own way.
 ロシア語ではどうなっているのか、知りたいところだが、探している暇も、探し出す技術も持ち合わせない。

 先週の金曜日である4月15日の「レベルアップ中国語」ではアメリカ人のジョン・P・オードウェイ(John P. Ordway, 1824-80)の歌”Dreaming Home and Mother" (故郷と母を夢にみて)のメロディーに中国の李叔同(1880-1942)が歌詞をつけた≪送別≫が紹介され、歌われた。このオードウェイの歌は、日本では明治時代に犬童球渓(1879-1943)が自由訳による歌詞をつけて「旅愁」として歌われてきた。本国であるアメリカでは忘れられた歌であるが、日本と中国では少し趣を変えてはいるが、歌い継がれてきたという。

 「この曲のメロディーと歌詞の著作権は、日本・中国・アメリカのいずれの国においても切れており、自由に使える」そうであるが、歌いだしの部分だけ、英語、日本語、中国語で紹介すると:

Dreaming of home, dear old home!
Home of my childhood and mother.

更けゆく 秋の夜 旅の空の
わびしき 思いに 一人悩む

長亭外、古道辺
芳草碧連天
晩風払柳笛声残
夕陽山外山


 英語の歌詞では歌い手は故郷と子ども時代、母親を懐かしみ、その夢を見たことを喜んでいるのに対して、日本語では歌い手は旅で故郷を離れて、父母を慕う内容である。さらに中国語訳では父母は登場せず、友人たちだけが歌詞に登場し、それも散り散りになってしまったと嘆く。そして「せめて一杯の濁り酒で、楽しみを尽くすとしよう。今夜は、別れの夢を見て、寒々となりそうだから」と夢の役割が英語によるもともとの歌詞とは逆になり、歌い手が酒を飲もうとするところなど、漢詩の世界を思い出させる。それぞれ、YouTubeでどんな歌かを確かめることができるらしいから、興味のある方は試聴してみてください。

 それぞれの歌詞を分析していくと、言語の違いだけでなく、その背景にある文化の違い、社会の歴史の違いといったものが窺われるところが興味深い。(なお、中国語の部分について、簡体字が入力できないので、日本語で使う漢字を使用していることにご留意ください。)

『太平記』(100)

4月19日(火)晴れ

 この連載も100回に達した。これまで『太平記』と並行して、時代についての観察を記してきた『増鏡』は今回の主な記事である護良親王の入洛をもって、その物語を終える(未完に終わっているという意見もある)。物語が一段落して、また新しい物語が始まろうとしている。

 鎌倉幕府の滅亡後、護良親王は信貴山に留まって兵を集めていた。後醍醐天皇は僧籍に戻るように命じられたが、護良は足利高氏の野心を警戒して拒んだ。天皇は高氏追討については認めなかったが、しぶしぶ将軍職就任を認めたのであった。

 「これによつて、宮の御憤りも散じけるにや、6月6日、信貴を御立ちあつて、八幡に7日ご逗留あつて、同じき13日、ご入洛あり」(第2分冊、217ページ)と『太平記』の作者は記す。このあたりの記述は、口語訳の必要がないほど平易である。親王の上洛の様子はまことに壮観であったという。

 「その行列の行粧(ぎょうそう)、天下の壮観を尽くせり」(同上)と親王の行列の様子が描かれている。先頭を進むのは赤松入道円心の率いる1,000余騎の武士たちである。次に、大塔宮の執事である殿法印良忠が700余騎で馬を進めた。3番目に進むのは、後醍醐天皇の側近であった四条少将隆資で、500余騎を引き連れている。その次に、華やかに武装し、太刀を帯びた護衛の兵士たちを500人、二列に並ばせて続かせた。

 その次に、親王が姿を現す。「宮は、赤地の金襴の鎧直垂(よろいひたたれ)に、火縅(ひおどし)の鎧の裾金物(すそかなもの)に、獅子の牡丹の陰に戯れて前後左右に追ひ合ひたるを、草摺長(くさずりなが)に召され、兵庫鏁(ひょうごぐさり)の丸鞘の太刀に、虎の皮の尻鞘懸けたるを(太刀懸けの)半ばに結うて下げ、白箆(しらの)に節影(ふしかげ)ばかり染めて、鵠(くぐい)の羽を以て矧(は)ぎたる征矢(そや)の26差したるを、筈高に負ひなし、二所籐(ふたところどう)の弓の銀のつく打つたるを十文字に拳(にぎ)つて白瓦毛(しろかわらげ)なる馬の尾頭(おがしら)あくまで太くして逞しきに、沃懸地(いかけじ)の鞍を置いて、厚総(あつぶさ)の鞦(しりがい)のただ今染め出したるを芝打長(しばうちなが)に懸けなし、侍12人に諸口(もろぐち)を押させ、千鳥足を踏ませて、小路を狭しと歩ませける」(第2分冊、217-8ページ、宮は赤地に金糸を織り込んだ絹織物でできた鎧直垂=鎧の下に着る装束に、緋色の糸で縅した=綴った鎧の袖や草摺の裾の飾りの金物に、獅子が牡丹の影でふざけて前後左右に追いかけ合っている様子を、草摺=鎧の道につりさげて腿を防御する武具を長く垂らしてお召しになり、兵庫両で作られたたちの帯につける銀の鎖の丸鞘の太刀に、虎の皮の鞘の覆いを懸けたのを左側の草摺の太刀懸け半ばに結び付けて下げ、矢竹の節のくぼみだけに少し漆を塗り、くぐい=白鳥の矢羽をつけた征矢=実戦用の矢を26本差したのを、矢の先端を高く突きだして箙(えびら)を背負い、二カ所ずつ間を置いて籐を巻き、銀のつく≂つがえた矢を固定する金具をつけた弓を、腕と直角に握り、白みを帯びた瓦毛の馬の尾や頭があくまで太くたくましいのに、厚い総飾りの鞦=馬の尻にかけるひもの色鮮やかなのが地面につくくらいに長く懸け、12人の武士に馬の両側から手綱をひかせ、馬を悠然と、都の小路が狭く思えるほどに歩ませた)。親王の行列同様に飾り立てた文章で、読み取りにくいが、護良親王の軍装が華美であること、にもかかわらず、いつでも先頭に取り掛かる用意がある用意があることを示そうとしていることはわかる。

 何かあってはと、後醍醐天皇の側近中の側近である千種忠顕が1,000余騎を率いて宮の背後を固めていた。さらに、その後から紀伊や熊野地方の武士たちを中心に畿内、近国の兵たちが続いて、総勢20万7千余騎が一日がかりで都を練り歩いたのであった。

 「時遷り事去つて、万(よろ)づ昔に替はる世なれども、天台座主、忽ちに将軍の宣旨を給はつて、甲冑を帯し、随兵(ずいひょう)を召し具して御入洛ありし有様は、珍しかりし壮観なり」(第2分冊、218ページ)と『太平記』の作者はその感想を記している。護良親王の一行の入洛の様子は『増鏡』にも記されているが、『太平記』のほうが圧倒的に詳しい。両者ともに、このあと、鎌倉幕府に依って都を追われていた人々が戻ってくる様子を描くのだが、『増鏡』はそこで、筆を擱く。(『太平記』が世の中の移り変わりをどのように描くかは次回以降に記すことにする。) 『増鏡』は他の鏡物と違って、結びに相当する部分がなく、世の中の転変を歌った何者かの歌を引き合いに出して終わっている。

 すみぞめの色をもかへつ月草のうつればかはる花の衣に
(墨染の法衣をも華やかな色の衣に変えました。月草が移ると、衣の色が変わるように、月日が推移すると人の心も変化して)
(『増鏡 下』講談社学術文庫版、379ページ、381ページ)

 『増鏡』における歴史は推移するもの、有為転変は世の習いという考えも、時代と、世情の変化に対する一つの感想ではあろうが、『太平記』には全体として、もう少し逞しいものの見方がみられるように思うし、そのあたりのことを今後とも書いていきたい。 

遠藤慶太『六国史――日本書紀に始まる古代の「正史」』(8)

4月18日(月)晴れ後曇り後雨

 この書物は、序章「六国史とは何か」で《六国史》(『日本書紀』、『続日本紀』、『日本後紀』、『続日本後紀』、『日本文徳天皇実録』、『日本三代実録』)の全体について概観した後に、第1章「日本最初の歴史書」で『日本書紀』の構成とその性格、成立にあたって利用された史料などの問題を、また第2章「天皇の歴史への執着」の初めの2節で、『続日本紀』の成立事情と内容とのかかわりについて考察している。今回は、その後をうけた第2章の残りの部分、『日本後紀』について論じている部分を取り上げる。

 「第三の国史『日本後紀』は、桓武天皇の治政後半と平城・嵯峨・淳和、延暦11年(792)正月丙辰朔(1日)より天長10年(833)2月乙酉(28日)までの42年間を全40巻に収めていたはずである」(100ページ)。著者が「はずである」と書いているのは、『日本後紀』は《六国史》の中で唯一散逸して、現代では、江戸時代に発見された「桓武紀」4巻、「平城紀」2巻、「嵯峨紀」4巻が伝わっているだけだからである。散逸した部分について、六国史を記事別に再分類した『類聚国史』や六国史などを要約した『日本紀略』などに引用された個所からの復元作業が行われ、「現在では残された10巻と収集された逸文を合わせて、『日本書紀』の全貌がほぼ明らかになっている」(101ページ)と著者は言う。何が書かれていたかはほぼ明らかになったであろうが、それが具体的にどのように記述されていたかはわからないというのが本当のところではないか。とにかく復元作業の結果については、もう少し具体的にまとめてほしかったという気がする。(さらに言えば、江戸時代に『日本後紀』の一部が発見された過程をめぐっても、複数の説があるようで、その点についても踏み込んでほしかった。)

 『日本後紀』の編纂上の問題点は、天皇の代替わりごとに史書の編纂担当者が任命され直し、いわば編纂作業の仕切り直しがなされたことにあると著者は言う。「三人の天皇にわたった編纂事業で一貫して参加していたのは、藤原緒嗣(774-843)ただ1人である。そこから学界では、『日本後紀』の性格を藤原緒嗣の個性から理解する見方が提起されている。果たしてそれが妥当なのか」(104ページ)と著者は問いかける。なお、前後の文脈からこの見方を提起したのが坂本太郎であると理解できる。そうならばそうと書けばいいじゃないかという素朴な疑問が脳裏を去らない。

 さて「『日本後紀』の特徴は、人物伝での評価が厳正なことである。・・・位階をもつ官人の伝記、つまり「薨卒伝」にそれを見ることができる」(同上)と著者は言う。これは、通説を踏まえたものである。なお、「薨」は親王および3位以上の貴人の死に、「卒」は諸王と4位・5位の人の死について用いる語である(11ページ参照)。<紀伝体>の歴史書の場合、人物評は列伝の中に収められるが、《六国史》は編年体なので、編年の中にはめ込まれた死亡記事に関連してその人物が論評される。『日本書紀』ではこのような人物評は行われていないが、『続日本紀』の後半から顕著になってくるという。

 『続日本紀』における人物評には、歯に衣着せぬ形のものが多いことを、著者は実例を挙げて例証する。これも通説を踏まえており、さらにこのような論評だけでなく、しかるべき人物については、相応の評価をしていることも述べたうえで、人物評における特色を、聡明であり頑固でもあったが、複雑で屈折した官人としての履歴を辿った藤原緒嗣の個性と結びつけている(これも通説に従っているようである)。

 問題は、『続日本紀』における平城天皇への厳しい論評をどのように評価するかである。著者が紹介するところによると、坂本太郎は、平城天皇が桓武天皇の崩御後、新しい年の初めを待たずに改元を行った(当年改元)への批判と、平城天皇への崩伝に着目しているという。中国では、前皇帝の遺徳をしのんで崩じた年のうちは改元を行わず、新しい年を迎えて改元する(踰年改元)のが通例である。(道徳的な意義はさておき、踰年改元のほうが計算には便利だと思うのだが、日本ではいまだに当年改元を行っている。したがって、『続日本紀』における批判は実際的な意味は持たなかったことになる。この点について、著者は触れていない。)
 
 もう一つは平城天皇が弟の嵯峨天皇に譲位後、再び政治に情熱を燃やし、いわゆる〈薬子の変〉の当事者となったことについてで、それについては著者も指摘しているように、直接ズバリとは書かずに、遠回しの書き方で批判を加えている。結局、兄弟の対立は弟である嵯峨天皇の勝利に終わり、しかも嵯峨天皇は『日本後紀』の完成に至るまで御存命であった。このため、平城天皇に対する厳しい評価も、嵯峨天皇(上皇)の視線を意識したものではなかったかと論じる。編纂者の個性よりも、編纂を命じた天皇の歴史に対する姿勢の方を重く見るべきではないかというのが著者の論点のようである。

 坂本と著者が、歴史家の個性というものをどのように考えているかがはっきりしないので、議論が曖昧になっているところがある。この点と関連して、第2章を「天皇の/歴史への執着」と読むべきか、「天皇の歴史への/執着」と読むべきか、前者は天皇の視点から、後者は編纂者の視点から、編纂作業を見ることになるので、このように紛らわしい、どちらとも読むことのできる標題をつけるべきではなかったと思うのである。『日本後紀』が批判精神に満ちた書物だから散逸したと考えることもできるわけで、このあたり、さらに研究が必要とされるのではないだろうか。

『太平記』(99)

4月17日(日)午前中から昼過ぎにかけて風雨激し。その後、晴れ間が広がるが、風が依然として強かった。

 鎌倉幕府が滅び、後醍醐天皇は京都に戻られた。

 『太平記』第12巻は次のように書きだされている:
 「元弘癸酉(きゆう)の歳(とし)、四海九州の朝敵残る所なく亡びしかば、先帝重祚(ちょうそ)の後、正慶(しょうぎょう)の年号は廃帝のの改元なればとて、これを棄てられて、本(もと)の元弘に返さる。その3年の夏の比(ころ)、天下一時(いっし)に評定(ひょうじょう)して、賞罰法令悉く公家一統の政(まつりごと)に出でしかば、群俗風に帰すること、霜を披(ひら)いて春の日を照らすが若(ごと)く、中華軌(のり)を懼(おそ)るること、刃を履(ふ)んで雷霆(らいてい)を戴くが若し」(第2分冊、213ページ。元弘3年=1333年、日本全土の朝敵は残る所なく滅亡したので、後醍醐天皇が再び帝位につかれ、正慶という年号は廃帝=光厳天皇のもとで改元されてできた年号であるということで、これをやめて、元の元弘に戻された。その元弘3年の夏の頃、朝廷で一本化された政治が行われ、諸国の民が朝廷の徳風に順うさまは春の日ざしに霜がとけるようであり、京洛の民が法令を恐れ敬い従うさまは、刃を踏んで頭上に雷を戴くようであった)。
 これまでも元弘という年号を使ってきたが、鎌倉幕府によって擁立された光厳天皇は正慶という年号を使っており、その2年であったが、それをやめて元弘に戻した。ここで「先帝重祚」と、後醍醐天皇がいったん退位されて、また帝位に復帰されたという認識を示していることに留意してほしい。それから後醍醐天皇が武家政治だけでなく、摂関政治も、院政も否定されて、天皇親政を目指されたことについて、「公家一統」というあいまいな表現が使われていることにも『太平記』の作者の歴史認識の一端を見ることができる。なお、癸酉は「みずのととり」とも読む。
 しかし、『太平記』の作者が言うように、後醍醐天皇の親政が人々をその徳風に順わせたかをめぐっては、異論があるはずである。実際に、『太平記』はこの後、天皇親政のもとで起きた矛盾や混乱について語っている。

 鎌倉幕府を倒した最大の功労者の1人が護良親王であるが、親王は幕府滅亡後も信貴山に留まって兵を集められていた。6月13日に上洛されるという予定であったが、これといった理由もないままに延引し、さらに軍備を整えられて、合戦の準備をされているという噂が伝わってきて、都にいる武士たちは不安になったのであった。信貴山というのは奈良県生駒郡の信貴山にある朝護孫子寺であり、毘沙門天を本尊とし、「信貴山縁起絵巻」で知られる。以前にも書いたことがあったが、東大寺の大仏にかかわる仕事をしていて、「信貴山縁起絵巻」の中の東大寺の大仏が出てくる場面の写真を借りに、朝護孫子寺に出かけたことがあった。もう50年近く昔の話で、今、朝護孫子寺の「交通案内」を検索してみたのだが、私が出かけたころとはだいぶ様子が変わっているようである。なお、『太平記』第3巻に楠正成が信貴山の毘沙門天の申し子であるという話が出てきており、『太平記』との関係は深い。

 護良親王がただならない動きを見せていることを心配された後醍醐天皇は、側近の右大弁宰相(=参議)坊門清忠を親王のもとに遣わされ、幕府が滅びて、天下が穏やかになった時に、なお兵を集め、合戦の準備をしているのはどういうことか、倒幕のためにいったん還俗したのはやむを得ないことであったが、平和が戻ったのだから、急ぎ僧体に戻って門跡寺の住持を継ぐことを第一とすべきだと伝えさせる。
 坊門清忠は『大鏡』でその人物像を活写された藤原隆家の子孫である。隆家の子孫は、平治の乱の張本人である藤原信頼、その後に源頼朝の助命嘆願をした池禪尼など、歴史上のさまざまな場面で意外と重要な役割を果たしてきた人物を出したが、清忠はその最後に位置する人物ではないかと思う。この後も、清忠の登場する場面はあるので、ご注目のほどをお願いする。これも既に書いたけれども、九州の菊池氏は隆家の子孫を自称しているが、真偽のほどは定かではない。太宰権帥として刀伊の入寇を防いだ隆家は公家社会では不遇であったが、武士のあいだでは人気が高く、その子孫を名乗るものが少なくなかったのである。
 後醍醐天皇のお言葉を清忠がそのとおりに伝えていたかどうかは、今となってはわからないが、どこか冷たいものを感じさせられるのは私だけのことだろうか。少なくとも、親王が倒幕に大きな貢献をされたことは確かであり、そのことに対する称賛、あるいは慰労の言葉があってもよいと思うのである。

 清忠に対して、親王は言葉を選んで、かなり長い回答を述べられる。かいつまんで言うと、天皇が京都に戻られ、親政を開始される中で、足利高氏が不穏な動きを見せている。自分が兵を集めているのはそれに備えているのであって、他に何かくわだてているわけではない。皇族で出家した後に、また還俗した例は過去にいくらでもあって、自分も将軍としてようやく回復された平和を維持することに貢献したい。

 清忠が天皇に復命すると、天皇は高氏が不穏な動きをしているという発言は信じがたい。親王が将軍の位を望むというのも自分の政治方針に照らして好ましいことではないが、まずやむを得ないだろうと仰せられて、親王を征夷将軍に任じるとの宣旨を下された。

 後醍醐天皇は聡明かつ学識の深い方であったと思われるが、その分、自信が強くて、他人の意見をいれるということが少なかったのではないか。護良親王と父子でじっくり話し合う機会があれば、その後の事態も変わっていたのではないかと思われる。多くの子どもを儲けられた後醍醐天皇であるが、それぞれのお子様方の人となりをしっかりと把握され、それぞれの個性を生かした配材をする必要があったのではないかと、惜しまれる。

夜更け

4月16日(土)晴れ後曇り

夜更け

高さを競い合っている
ビルディングに
視界を遮られて
遠くないはずの都心の夜景は
ほとんど見えない

それでもわずかに見える
街の灯りも
そろそろ疲れてきたのだろうか
彩りも少なく
光も弱くなってきた

週末の夜
酒場では 元気のよい
話し声が聞こえていたが
その声も
広がって来た
暗闇のなかに
呑み込まれたようだ

そして
静かな暗闇の中で
どんな明日が出番を待っているのだろうか

ダンテ・アリギエリ『神曲 煉獄篇』(27-1)

4月15日(金)晴れ

 ダンテはウェルギリウスに導かれて、煉獄の第7環道を歩んでいる。第5環道から、その罪を浄めて天国に向かおうとするローマ白銀時代の詩人スタティウスが2人に合流する。スタティウスはウェルギリウスを敬慕しているのである。詩人は、その詩によって、どのように神の道に人々を導くべきか、ダンテは煉獄でその罪を浄めている先行詩人たちの例と対話しながら、次第に結論に近づく。

 すると、ここでも天使が現われて、「心の清い人々は、幸いなるかな」と言い、
その後で、「この先に進むことかなわず、もしもその前に、
聖なる魂よ、火に咬まれなば。火中に入られよ。
そして、向こうからの歌に耳を傾けるように」
(396-397ページ)と彼らに告げる。

 燃えさかる火を見て、ダンテは怯える。「かつて見た、焼かれた人体が/まざまざとおもいだされた。」(397ページ) 彼の時代には、異端者たちが公開で火刑に処されていた。ダンテ自身も、そういう現場に出会ったはずである。
 すると、ウェルギリウスは、「ここに責め苦はありうる。が、死はない。」(398ページ)と言ってダンテを励ます。
「・・・
捨てされ、さあ、捨て去るのだ。あらゆる怯懦を。
そこで正面を向いて進め、自信をもって入れ。」
(同上)

 それでもダンテが前に進もうとしないので、ウェルギリウスはベアトリーチェの名前を出して、彼を前に進ませようとする。そして、自ら先頭に立って、火の中を歩み、これまでは2番目に道を歩いていたスタティウスに、最後に来るように頼む。2人に挟まれて、ダンテは火の中に入らざるを得なくなる。

私が中に入った瞬間、体を冷やすために
溶けたガラスの中に私は飛び込んだであろう、
火はそれほどに、際限なくそこで燃え盛っていた。
(400ページ) そして彼らを身備蓄用に、燃え盛る火のかなたから歌声が聞こえる。

「太陽が消えていく――響きはつけ加えた――そして夕べが来る。
留まることなかれ。歩を急げ、
西の空が闇に染まらぬ間は」。

すでに低くなっていた太陽の光線を
私が遮って消している方角に、
道は岩山の中をまっすぐ上がっていた。

そしてほんの数歩だけ急な階段を味わったところで、
影が消えたために、私と我が賢者たちは
背後で太陽が休みに入ったことを知った。
(402ページ)

 ウェルギリウスはベアトリーチェの名を引き合いに出して、ダンテを前に進ませようとする。この場合、ベアトリーチェは神への愛のアレゴリーであると翻訳者である原さんは論じている。実在した、ダンテの初恋の女性と考えたいのはやまやまであるが、そうではなくて、観念的な存在であるというのである(両者が微妙に入り混じっているが、理想化が激しいと考えるべきではなかろうか)。

 天使と出会った際にダンテは額に刻まれた文字を消されたはずであるが、そのことについての描写はなされていない。彼らはいよいよ煉獄山の頂上にある地上楽園へと足を踏み入れることになる。地上楽園と天国とが別物だというところに、ダンテの考え方が現われているとみるべきである。

日記抄(4月8日~14日)

4月14日(木)曇り

 前回のブログで書き落としたこと、これまでのブログの補遺、4月8日から本日までの間に経験したこと、考えたことなど:

 4月7日、NHKカルチャーラジオ「文学の世界」『教養としてのドン・キホーテ』の第1回を聴く。講師は清泉女子大学の吉田彩子教授である。『ドン・キホーテ』という小説の題名はよく知られているが、実際にどんな物語化はあまり知られていない。この講座では、この物語がいつ、どのような状況で書かれ、文学作品としてどのような特徴を備えているかなどを論じていくという。
 ドン・キホーテはイダルゴ(ふつうは郷士と訳されている)と呼ばれる最下級の貴族であり、誇りは高く、さまざまな特権を持っている一方で、イベリア半島をムスリムの手から奪還するレコンキスタで功績を挙げた(そのために貴族の身分を得た)先祖のような武勲を上げる機会もなく、武器は古び、馬は痩せ、日常の鬱屈を騎士道生活を読むことで紛らわせている。その結果、だんだん自分も騎士のように活躍しようと思いだす…。
 この物語は騎士道小説の常道を行き、複数の著者がいるという設定がなされている。物語の途中で、この物語はアラビア人の歴史家シデ・ハメーテ・ベネンヘーリによって書かれたことが分かるが、もちろんシデ・ハメーテ・ベネンヘーリは架空の人物である。
 第1回は、このように『ドン・キホーテ』が一筋縄ではいかない小説であることを紹介して終わっている。
 
4月8日
 NHKラジオ「実践ビジネス英語」の”Quote...Unquote"のコーナーで紹介された言葉:
Old minds are like old horses; you must exercise them if you wish to keep them in working order.
----John Adams (Second U.S. president, 1735-1826)
(老いた知性は、老いた馬のようなものだ。使えるように保ちたいのなら、それを鍛えなくてはならない。)
 ジョン・アダムズの息子のジョン・クィンシー・アダムズは第6代のアメリカ大統領となった。『ヘンリー・アダムズの教育』の著者は、ジョン・クィンシーの孫である。大学時代に外国人教師をしていたアダムズさんというのが、この一族の出身だと聞いたことがある。

 4月7日の「まいにちロシア語」応用編『ロシア語大好き‼12の扉』では18世紀ロシアの学者ロモノーソフの「ローマ皇帝カール5世は、スペイン語は神と語るのにふさわしく、フランス語は友人と、ドイツ語は敵と、イタリア語は女性と語るのにふさわしいといった」と書き記していることを取り上げたが、本日はその続きで『しかし、もし彼がロシア語に通じていれば、ロシア語の中に、スペイン語の荘重さ、フランス語のみずみずしさ、ドイツ語のゆるぎなさ、イタリア語の優しさを見出しただろうし、さらにそのうえ、ギリシャ語とラテン語の持つ豊かさと簡潔な表現力を見出しただろう」と、ロシア語の賛美で締めくくられている。実際に、文学や社会思想、科学の領域における優れた業績がロシア語で書かれるようになるのは19世紀になってからのことであった。
 カール5世というのは神聖ローマ帝国の皇帝で、ネーデルランドとスペインを中心に広大な世界を支配したが、宗教戦争と大航海時代の征服戦争のさなかで各地を移動しながらその生涯を送ったという。『ドン・キホーテ』の作者が生まれたのが、この人=スペイン国王カルロス1世の統治下のことであった。

4月9日
 ニッパツ三ツ沢球技場で今年からなでしこリーグ2部に昇格したニッパツ横浜FCシーガルスと愛媛FCレディースの対戦を見る。女子サッカーの試合を実際に見るのはこれが初めてである。入場は無料で、メイン・スタンドだけが開放され、売店は営業していた。活発な点の取り合いとなったが、3-4で敗戦。早く初勝利の報せを聞きたい。

4月10日
 朝日新聞の朝刊によると、中国で羊肉料理が流行して「爆食」の結果、羊毛の価格が高騰し、日本の学校の制服の価格に影響が出ているという。「風が吹けば桶屋が儲かる」を思い出すが、再利用のネットワークを広げるなどの対応も必要だろう。

 Eテレ「日本の話芸」で柳家さん喬師匠の「火事息子」を視聴する。火事が好きで、火消し人足になった息子が、実家の火事の際に駆けつけて両親と再会する。世間体と親子の情の間で揺れ動く親子の気持ちの表現が難しい話である。さん喬師匠は多彩な表情の演出でこのあたりを描きだそうとしたが、もう少し話のほうにも工夫があってよかった。この話は、6代目三遊亭円生の口演が印象に残っているが、さん喬師匠とは流派が違うか…。

 NHKラジオ「攻略!英語リスニング」は”pudding"(プディング)の話題を取り上げた。
What exactly pudding is? (プディングとは、正しくはどんなものを指すのか?)
アメリカと英国で、事情は違うらしい。そういえば、英国で食べたことのあるblack puddingについても言及があり、
a type of pudding -- black pudding, it's called, and it's a type of sausage that contains a great deal of pig's blood (プディングの一種で、ブラック・プディングと呼ばれているものは豚の血をふんだんに含むソーセージの一種である)
It was Henry Ⅷ's favorite type of pudding. (ヘンリーⅧ世お気に入りのプディングだった)
 puddingという言葉そのものは旧いフランス語やラテン語の「ソーセージ」という意味の言葉に由来しているのだが、
how has that led to what I think of as pudding?
(それが何で私がプディングだと思っているものにつながっているのか?) puddingと日本の「プリン」の違いはさらに大きい。

4月11日
 NHK「ラジオ英会話」は子どもが学校の科学祭に向けてソーラーオーブンを作るという話で
I need a pizza box and aluminum foil. (ピザの箱とアルミ箔が必要なんだ。)
という。pizzaは「ピッツァ」と発音するという注意があった。イタリアでも北の方では「ピッザ」と発音するという話を聞いたことがあるし、イタリア語の時間のパートナーの方々のzの発音を聞いていても、人それぞれである。

4月12日
 三舟隆之『浦島太郎の日本史』に出てくる浦島関係の話で、興味深い物を2つ紹介する。
 福井県に伝わる伝説:
 浦島は故郷に戻ってきたが、800年も前に死んだということになっていて、人々から幽霊だと思われる。そこで玉手箱の前で3つ手を叩いて着物や金を出して人々に分け与える。それを聞きつけた役人が、これはキリシタン・バテレンの仕業だろうといって浦島を捕まえようとする。そこで浦島は着物や金を出して見せるが、役人は勝手に玉手箱をあけてしまう。すると、煙が流れ、あとはもういくら手を叩いても玉手箱から物は出てこなくなった。
 『宇治拾遺物語』に出てくる浦島の弟の話
 陽成院の釣殿で夜、番人がうとうとしていると、池の中から老翁が出てきて、自分は浦島子の弟でこの池に1200年住んできたが、「社を造って自分を神として祀れ」という。番人は自分にはそんな権限はないから、もっと上の方の人に言ってくれと答えたが、翁は怒って彼を3回も空に放り投げ、一口で食べてしまう。〔結局、神社は建てられなかったし、池も埋め立てられてしまったので、誰も得していない、食べられた番人が一番損をしたという話である。浦島に弟がいたというのは初耳であるが、1200年も池に住んでいたというのならば、むしろ兄というほうが似つかわしい気がする。〕

4月13日
 「実践ビジネス英語」の”Quote...Unquote"のコーナーで紹介された言葉:
To do easily what is difficult for others is the mark of talent.
To do what is impossible for talent is the mark of genius.
----Henri-Frédéric Amiel (Swiss philosopher, poet and critic, 1821-81)
(ほかの人にとって難しいことをやすやすとやるのは、才人の証しである。才人にとって不可能なことをやるのは、天才の証しである。)
 大学院時代の終わりごろにはアミエルの『日記』をよく読んでいたが、その後、全く読まなくなった。どういうことだろうか。

4月14日
 「実践ビジネス英語」の”Word Watch"のコーナーでcorporate university programu(企業内大学プログラム)という語が取り上げられた。企業が社内に儲ける社員用研修制度の一種であるという。正式な大学ではないが、中にはMBレベルのカリキュラムをそろえているものもあるという。日本では終身雇用制度が崩れるとともに、企業内の研修制度も外注されたり、なくされたりしているという話を聞くが、終身雇用でもないアメリカで社内研修に力を入れている例があることにもっと注目する必要があるかもしれない。

 NHKカルチャーラジオ『教養としてのドン・キホーテ』の第2回。『ドン・キホーテ』の著者ミゲル・デ・セルバンテス(1547-1616)が生きた時代のスペインの社会の状態について。カルロス1世の跡をうけて即位したフェリペ2世はカトリックへの信仰心が強く、排外主義的な政治を行い、国外からの書物の輸入や、スペイン人が国外の大学で学ぶことを禁止したりした。この時代、セルバンテスも従軍したレパントの海戦(1571年)には勝利するが、イングランドを攻撃しようとした1588年の海戦では惨敗する。戦争と経済危機が続いたフェリペ2世の治政の後、フェリペ3世が即位しいくらか落ち着いた平和な時代が到来する。
 セルバンテスが『ドン・キホーテ』を書いたのはこのフェリペ3世の時代である。番組ではドン・キホーテの最初の家出と、「騎士への叙任」の次第、帰宅した後、彼の周囲の人々が騎士道に関する本の中で<有害な>ものを焼き捨てようとしてえり分けるが、家政婦が怒りに任せて、有害なものもそうでないものも全部焼き捨ててしまったこと、にもかかわらず、元気を取り戻したドン・キホーテが準備を整え、近くの農夫であるサンチョ・パンサを従者として雇い入れて、騎士としての遍歴の旅に出発するところまでを紹介した。

 九州で起きた強い地震の被害に遭われた方々にお見舞いを申し上げます。

勲章

4月13日(水)曇り、時々小雨

 4月8日、神保町シアターで「生誕110年 女優杉村春子」の特集上映の中から、渋谷実監督の『勲章』(1954)を見た。俳優座の製作による映画であり、俳優座のほか、新人会など俳優座の養成所出身者が結成した劇団の俳優が多数出演している中で、文学座から杉村が出演しているのが注目される。他に、香川京子と佐田啓二が顔を見せている。
 この特集で上映される17本中では成瀬巳喜男の作品が、『めし』、『晩菊』、『流れる』、『鰯雲』、『娘・妻・母』、『女の座』と6本を占めるが、小津安二郎作品が『晩春』、『東京物語』の2本、木下恵介作品が『大曾根家の朝』、『野菊の如き君なりき』の2本、渋谷実作品ではこの『勲章』が上映され、松竹の全盛期を支えた3人の監督の演出の中での杉村の演技を見ることができるのも見どころの1つではないかと思う。

 元陸軍中将岡部雄作(小沢栄、のちに栄太郎)は戦後、義弟である実業家の西野梅吉(永田靖)の家の離れで、犬の訓練などをしながら、娘のちか子(香川京子)、息子で大学生の憲治(佐田啓二)と暮らしているが、義弟の一家からは邪魔者扱いをされている。梅吉の娘の久美子(岩崎加根子)の結婚式に出かけるのに、金鵄勲章を佩用して出かけようとして止められる場面がある。その披露宴で、今は保安隊(現在の自衛隊)の要人である黒住(松本克平)から、戦争中に自分たちの罪をかぶって戦犯となった部下の寺位(東野英治郎)が、彼と同じく中将だった三島(千田是也)を探して復讐しようとしていると聞く。
 そこで岡部は帰りがけに三島を訪ねる。妻を失った三島はむかしの女中(お手伝い)と結婚して、今川焼き屋をやっている。岡部蒲生一旗揚げようと思っているのに対し、三島は市井に埋もれて平和に暮らそうとしている。
 岡部は黒住に寺位を自分のところにまずよこすように伝えておいたのだが、彼に会いに来た寺位はむかしの恨みは忘れたといい、あけぼの会という怪しげな団体を組織して、再軍備の運動に乗り出そうとしているという。その団体の代表に岡部を迎えようというのである。(怪しげというのは、例えば、その本部がストリップ劇場と同じ建物の中にあるというようなことである。)

 こうして岡部は全国を走り回って、再軍備を推進しようとする。賛同者も増え、それにつれて義弟一家の彼を見る目も変わり、義弟の会社の顧問に迎えられたりする。それまでと違って生き生きとしはじめた様子に娘のちか子ははじめのうち喜んでいたが、父親が彼女を寺位と結婚させようといいだしたことに反発して、父のもとから離れていく。彼女には鉄工所で働く宗行二郎(岡田英次)という恋人があるのである。憲治はアルバイトに走り回る一方で、町内の演芸大会で知り合った囲われ者の浅子(東恵美子)と親しくなり、その家に入り浸っている。浅子に手当てを渡しているのは金貸しの島村よね(杉村春子)であるが、彼女は戦争中にマレー方面で活躍し、旧軍人たちと顔なじみであるばかりでなく、岡部が戦地で設けた隠し子についての情報を握っている。やがて岡部に近づいたよねは、運動の資金を提供する代わりに、岡部が戦後も持っていた郷里の山林を担保にとる・・・。

 軍人にとっては名誉のしるしである勲章も、戦争が終わって世の中が変わってしまえば、おもちゃ同然となる。しかし、再軍備が実現すれば…という風刺喜劇で、士官学校で教育を受け、軍人として国のために重ねてきた努力が報われないわけがないと思い込んでいる主人公の性格描写が、例えば軍隊を会社に置き換えれば今でも通用しそうな、日本の男性の一つのタイプをよく表現している。益田ミリさんの『オトーさんという男』というマンガが描きだしている男性像がそっくりとは言えないまでも、多くの共通するものを感じさせる。会社人間の小市民の場合には小悲喜劇で済むことが、陸軍となるとそうはいかないのである。もちろん、日本の男性がすべてそうだというわけではなく、この作品には岡部を利用しようとする連中や、三島のように過去を忘れて新しい人生を生きようとする人物、保安隊(自衛隊)の中で成功していく世渡り上手な人間なども描かれている。ただ、その中で愚直で利用されやすい人物を主人公に設定してしまったことで、この作品は風刺喜劇としては成功しなかったように思える。

 さらにいえば、その後の歴史を見てきた観客が、60年以上の時間を隔ててこの作品を見ると、かなり複雑な気分になるのではなかろうか。この映画が作られた1年後には、「保守合同」で自由民主党が成立し、その長期政権のもとで、自衛隊の軍備は増強されてきたし、生存者叙勲も復活したのである。そういえば、この映画が作られた年は安倍首相が生まれた年でもある。

歴史の中の浦島太郎

4月12日(火)晴れ

 遠藤慶太『六国史――日本書紀に始まる古代の正史』の中で、『日本書紀』に浦島太郎の原型である浦嶋子が登場するという話が出てくる。古代の人々が語り伝えていた伝説の中で漠然と雄略天皇の時代のこととされていた説話に、『日本書紀』の編纂者はあえて具体的な時間を与え、雄略天皇22年7月のことであるとする。
 その一方で平安時代の末に書かれたと考えられる『水鏡』には淳和天皇の天長2年(825年)7月7日に浦嶋子が帰ってきたと記されている。それで、浦嶋子は蓬莱山(後の浦島太郎の説話では竜宮)に347年間いたと計算される。(なお、『水鏡』には浦島の出発についても記述されている。)

 『水鏡』は、平安時代の比叡山の僧であった皇円が神武天皇から堀河天皇までの歴史を編年体でまとめた『扶桑略記』という漢文で書かれた書物を和文で簡潔にまとめたものであるというのが定説である(ただし、『水鏡』が対象としているのは、神武天皇から仁明天皇までの歴史である)。2009年に吉川弘文館から出版された三舟隆之『浦島太郎の日本史』によると、『扶桑略記』の347年という数字に基づいて、『水鏡』は年代を割り出したらしい。三舟さんは、この書物をまとめるにあたり、浦島の伝説を記した平安時代までの様々な書物について目を通しているが、浦島が蓬莱山にいたのは348年であるとする書物もあるそうである。

 347年というのはずいぶん長い時間で、浦島は古墳時代の終わりごろに日本から旅立ち、平安時代の初めになって戻ってきたわけで、この間に人々の暮らしぶりはずいぶん変化したはずである。もっとも我々はむかしのことを考えるときに、都に住む社会の上層の人々の暮らしぶりをすぐに考えるが、地方に住む庶民の暮らしぶりの変化は、それほど顕著なものではなかったかもしれない。なお、その後の浦島伝説の中には、浦島は竜宮に800年いたというようなものもあるという。現在から347年さかのぼれば江戸時代のまだまだ初めの方ということになるが、800年さかのぼると鎌倉時代のこれまた初期ということになる。

 しかし、もっと別のことを考える必要もあるのではないか。浦島の事績を記した『日本書紀』が最終的にまとめられたのは養老4年(720)のことであり、『水鏡』が書き終えられた年代は不明であるが、12世紀の終わりごろと考えられている。ということは、両者の間に450年以上の時間的な隔たりがあるということになる。この隔たりは、浦島が竜宮にいた期間よりも長い。そしてそれは歴史というものについての考え方、歴史の中での伝承のとらえ方の変化と無縁ではないはずである。研究者によると『水鏡』は歴史を間接的・暗示的に描きだす中で、仏教的な末法観を浮かび上がらせようとしている点で同時代の他の歴史書とは異なる特色を持っているという。

 浦島太郎の出発が「六国史」の中の『日本書紀』に記され、帰還が「四鏡」の中の『水鏡』に記されているというのは、日本人の歴史に対する見方の変化を辿るうえで、興味ある手がかりを提供しているのではないか。加えて言えば、「鏡物」は歴史というよりも文学であろうが、文学のほうが歴史観を含めて時代の精神をよりよく語るということもありうると、私は思っている。

『太平記』(98)

4月11日(月)晴れたり曇ったり

 元弘3年(1333年)6月、鎌倉幕府滅亡の報せを受けて、幕府によって隠岐に配流され、その後脱出して伯耆の船上山で勤王の兵を募っていた後醍醐天皇は京都に戻られた。
 一方、九州では3月13日、九州探題北条英時を攻めた菊池入道が戦死したが、その折に、菊池を裏切った少弐と大友は、六波羅探題滅亡の報せを受けて、5月25日、九州探題を攻め滅ぼした。長門探題北条時直は、降伏して命を許されたが、間もなく病死した。北陸では、5月12日、越前牛ヶ原の地頭淡河(あいかわ)時治が、平泉寺の衆徒に攻められて、妻子ともに自害した。17日、越中守護名越時有の一族が、宮方に攻められて自害し、妻子らは海に身を投げた。

 京都の町は平穏さを取り戻したが、楠正成の立て籠もっていた千剣破城のある、大阪府と奈良県の境に位置する金剛山を囲んでいた幕府軍が、奈良にとどまって、京都に攻め寄せようとしているとの噂があったので、宮方では六波羅攻めに貢献した中院中将定平を大将として、5万余騎を京都から奈良へと向かわせ、楠正成に畿内の兵2万余騎を率いて河内から出撃させた。

 奈良に立てこもっていた北条の残党は、そのかなりの部分が既に各地に逃げ散っていたとはいうものの、まだ残っているものは5万余騎を数え、再び激しい戦闘が展開されるのではないかと思われたが、奈良の軍勢の戦闘意欲は既に衰えていた。太平記の作者は「日来(ひごろ)の義勢(ぎせい)尽き果てて、いつしか小水の沫(あわ)に吻(いき)づく魚の体になつて」(201ページ、これまでの見せかけの勢いは尽き果てて、いつの間にか小さな水たまりであえぐ魚のような様子になって)と戦闘に備えるわけでもなく、日々を送る彼らの様子を描写する。
 南都(奈良)を固める第一の城門である般若寺を守っていた宇都宮公綱と、その率いる紀氏・清原氏の2つの党の武士団の700余騎が綸旨を給わって上洛する。宮方の切り崩し工作により、奈良にいた武士たちは次々に降伏して、北条氏の一族と代々その恩顧を受けてきた譜代の家臣たちを除いて、残るものはいないという状態になった。

 こうなったら命を惜しまずに最後の戦いを挑み、その武勇のほどを後世に知らしめるべきところであるが、前世の業のゆえの現世に対する執着の情けなさを見せつけたのは、北条一門の主な武士たち、長崎円喜の息子の四郎左衛門高貞、これまでもしばしば登場してきた二階堂道蘊らが般若寺で出家して、律宗の僧となり、その姿で宮方に降伏したことである。

 宮方の大将である定平は彼らを迎えると、両手を後ろ手にして厳重に縛り上げ、伝馬(宿駅の馬)の鞍の中央に俯せに縛り付けて、京都に連れ戻った。平治の乱の後には源義朝の長男である悪源太義平が平家に捕らわれて首を刎ねられ、治承寿永の合戦の後には平家の棟梁であった平宗盛が源氏に捕らわれて京の大通りを引き回された。これは敵の策略に引っかかったり、自害する暇がなかったために受けた恥辱であったが、それでも源平の子孫の人々は後々までもこの事を忘れなかった。ところが、今回の北条一門とその譜代の家臣たちの場合は、策略に陥れられたわけでもないし、自害する余裕は十分にあったはずなのに、最後の戦いを挑まずに降伏してしまったのは武士として何とも恥ずべきことであった。

 囚人たちが京都に着くと、彼らが来ていた僧侶としての黒衣を脱がせ、法名を元に戻して、1人ずつ大名のもとに預けた。出家したことを認めずに、あくまで朝敵として処分しようというのである。こうして処刑を待つうちに、鎌倉に残してきた妻子の噂が彼らの耳に入り、いよいよなさけない気持ちが増すのであった。

 7月9日に、阿曽時治ら15人の武士たちが阿弥陀峯で斬首された。阿弥陀峯は京都の東山の1つで、古くは鳥辺山といって葬地であった。今は豊国廟がある。本格的な政治を行う前に刑罰を行うのは仁政とは言えないという後醍醐天皇のお考えから、処刑は内密に行われ、首をさらして市中を引き回すということはせずに、それぞれを適当な寺に送りつけて、彼らの後世菩提を弔わせたのであった。
 二階堂道蘊は幕府で重要な地位にあった武士であるが、かねてから賢才の評判が高く、新政権でも用いるべきであるとして、その所領を安堵されていたが、陰謀に加担したとの嫌疑を受けて、やはり処刑されたのであった。

 北条一門の佐介宣俊は、5月初めに宮方に降参していたが、再度捕えられて斬られ、鎌倉の妻も自害した。

 こうして100年以上にわたって天下にその威勢をふるってきた北条一門はあっけなく滅びたのであった。『太平記』の作者は北条氏の失政がその滅亡を招いたとして、「驕れるものは失し、倹なるものは存す」(209ページ、驕れるものは滅び、質実なものは長らえる)という道理がこれまでの経緯の中で貫かれていると主張する。道理に基づいた政治が「太平」をもたらすというのである。

 以上で『太平記』第11巻が終わる。11巻は鎌倉の陥落を描いた10巻と、建武新政の開始とその混乱を描く12巻の間をつないでいるが、特に後半は京都と鎌倉以外の北条一門の滅亡について語っているのだが、詳しすぎるように思われる。逆に、そういうくどいほどいろいろなことを書いているところに、『太平記』の特色があるとも考えられるのである。また、あるべき政治の姿から、歴史的な経緯を論評する姿勢も『太平記』の特色と言えよう。

遠藤慶太『六国史――日本書紀に始まる古代の「正史」』(7)

4月10日(日)晴れたり曇ったり

 「六国史」とは奈良時代から平安時代にかけて、国家の事業としてまとめられた日本の歴史書:『日本書紀』、『続日本紀』、『日本後紀』、『続日本後紀』、『日本文徳天皇実録』、『日本三代実録』の総称である。ここで取り上げる遠藤さんの書物は、この6編の歴史書の概要を辿り、「六国史」の全体像を明らかにしようとするもので、これまでの6回では『日本書紀』にかかわる部分を論評してきたが、今回から、『続日本紀』について論じた部分を取り上げることにする。

 「六国史」の第2である『続日本紀』は文武天皇元年(697年)から桓武天皇の延暦10年(791年)までの95年間を40巻にまとめた歴史書である。この書物の中には平城京に都が置かれていた710年から784年までの歴史が含まれており、奈良時代の歴史を知るための基本的な史料として研究が積み重ねられてきた。この時期、大宝元年(701年)に制定された(遠藤さんは「施行」としているが、この律令が全国に知らされたのは翌年のことなので、「施行」は702年と考えるほうが理に適っていると思う)「大宝律令」によって国家の体制が本格的に確立された。「また『続日本紀』は『日本書紀』とは違って紀年の延長や神話の巻がない。政府の公文書を材料にして事実を書いているので、史料の性格を把握しやすい」(72ページ)という。
 しかも律令の不備を補うために、臨時に出された詔勅などの格(きゃく)は『光仁格』『貞観格』『延喜格』として集成され、さらに平安時代後期になってから『類聚三大格』として再分類された。したがって、『続日本紀』の記事と、『類聚三大格』の記事とを対照できる事例が少なくない。対照・検討した結果として『続日本紀』が伝える情報がこの時代について他の史料よりも多くを伝え、またその信頼性も高いことが結論できる。さらに、考古学的な発掘によって発見された木簡や、正倉院に長く伝えられてきた文書と云う奈良時代についての第一次資料が豊富に存在し、それらと対照して研究を進めることもできる。
 「『続日本紀』を基本に複数の史料を駆使すると、場合によっては日時や個人の動向といったかなり細かな部分まで歴史を再現することが可能になる。奈良時代史研究の強みである」(77ページ)。『続日本紀』(その後の4編の歴史書)はその時代に起きた出来事の中からさまざまな活動を要約し、限られた字数に凝縮している。それを他の史料と付き合わせて我々の知ることのできる歴史の世界をさらに豊かにすることができると著者は述べている。

 このように史料的な価値の高い『続日本紀』であるが、その成立事情は複雑であると遠藤さんは言う。『続日本紀』の編纂を命じたのは桓武天皇であるが、その治世の前半は『続日本紀』、後半は『日本後紀』に二分されて記載されている。「六国史は国家の正史であると同時に天皇の年代記でもある。記事は天皇の治世ごとにまとまり、全体で編年の史書となる。したがって天皇紀がふたつの史書に分かれていることは、六国史の基本性格からみて異例である」(84ページ)という。そしてその原因を編纂を命じた桓武天皇の歴史(あるいは歴史的評価と言った方がいいかもしれない)へのこだわりに求めている。

 「『続日本紀』は桓武天皇に提出されたときの上表(臣下が天皇に奉った文書)が残るので、どのような過程でまとめられたかがわかっている。ただし上表はふたつ、延暦13年(794)2月と延暦16年(797)8月のものがある。
 これに対応して、『続日本紀』40巻はふたつの部分からできている。

 前半20巻 文武天皇元年(697)から天平宝字2年(758)7月まで
 後半20巻 天平宝字2年(758)8月から延暦10年(791)まで

 前半は62年間、後半は34年間を扱う。同じ20巻の分量で収録した年数の違いを比較するだけでも、記事の密度に違いがあるであろうことは予測がつく」(84-85ページ)。

 著者によれば実は後半部分のほうが先に完成されて、延暦13年に提出された。それはこの時代の歴史をまとめたいという桓武天皇の意思を反映するものであったという。そして、『日本書紀』との空白を埋める前半部分が付け加えられて、『続日本紀』が完成した。前半部分についてはもともと奈良時代、藤原仲麻呂の絶頂期に編纂された30巻からなる「曹案」が存在し、それが転変を経て桓武天皇の時代に書きなおされ、20巻に圧縮されて、後半部分とともに『続日本紀』を構成することになったという。しかし延暦13年に提出された後半部分は14巻であった。この14巻に桓武天皇の治世時代の歴史をまとめた6巻を足して20巻とすることがあらかじめ構想されていたと著者は推測している。

 このように『続日本紀』がふたつの成り立ちを持つことによって、神亀6年(729)の長屋王の変や、桓武天皇の権力の確立の過程で皇位継承をめぐる戦いに敗れて除かれ(死後、祟り神として畏れられることになっ)た同母弟の早良(さわら)親王をめぐる記述に微妙な影響が出ているという。晩年に親王の怨霊に悩まされた(自分自身の良心の呵責に苦しんだというのが真相ではないか)天皇は親王に対する態度を表向きあらためる。「現状の『続日本紀』では、早良親王が皇太子を廃されたことはわかるが、なぜ廃されたのか、いつ死去したのかがわからない。記録としては欠陥のある歴史書である。それでも、天皇によって歴史評価が変わったのだから、歴史書そのものも変わったのだ」(100ページ)と著者は論じている。

 20代のころに東大寺にかかわる仕事をしたので、奈良にはよく出かけたし、奈良時代については人並み以上の知識は持っているつもりだし、奈良という町も好きなのだが、奈良時代という時代はあまり好きになれない。都ではなくなって、のんびりした門前町になってしまった奈良のほうが好きだというと、怒られるかもしれないが、それが正直なところである。遠藤さんは『続日本紀』が奈良時代研究の入り口の役割をはたす優れた歴史書だといい、またそれが奈良から京都に都を移した桓武天皇の意思を反映して編纂された歴史書であるとも論じている。その意見について特に異論はないが、『続日本紀』を読んでみようという気にはならないというのが正直なところである(と言いながら、本屋で講談社学術文庫に入っている『続日本紀』の口語訳を部分的に立ち読みしてきたことも付け加えておこう)。 

ダンテ・アリギエリ『神曲 煉獄篇』(26-2)

4月9日(土)晴れ

 1300年4月12日、ウェルギリウスに導かれてダンテは煉獄の第7環道に達した。ここでは淫乱の罪、詳しくいえば、同性愛者たちと中庸を逸脱して獣的な異性愛に走ったものの、自分の罪を悔い改めたことにより、地獄に落ちなかった魂たちがその罪を浄めている。炎に焼かれて罪を浄めている魂たちの中で、ダンテに話しかけたのは、文学史上<清新体派>と呼ばれる詩風の創始者であるグイド・グィニツェッリであった。ダンテ自身もこの詩派に属していたから、この詩人の魂には敬意を表す。

私や、さわやかで雅びな愛の歌を幾度も書いてきた、
私よりも優れた他の人々の
父ともなられた方がご自身で名乗られるのを聞いたその時に、

そして私は聞くことも話すこともせず、思いをめぐらせながら、
長いこと彼を見つめて歩いた。
けれども火のために、それ以上は近づかなかった。

心ゆくまで彼を見た後で、
彼の求めにはすべて応じる用意があることを
相手に信頼を与える誓いとともに申し出た。
(389-390ページ) 

 するとグィニツェッリは、ダンテが生きているのに異界を遍歴していることが生前の記憶を棄てて異界で生きている自分にとってさえ記憶される出来事であると言いながら、ダンテが自分に敬意を払っているのはなぜかと問う。
そこで私は彼に、「あなたのさわやかな愛の詩ゆえに、
それは、今の世における言の葉の習いが続く限り、
その詩集を愛でさせるでしょう」
(390ページ)と答え、グィニツェッリの愛の詩が不滅の文学的価値をもつという(本当のところ、ダンテが彼について言及したから、文学史家たちも彼を重んじてはいるが、一般大衆が彼の詩を口遊むことはないだろうという気がする)。

 すると、グィニツェッリは自分よりも前を行く一人の魂を指さして
「母なる話し言葉での最良の詩の作り手だった」(391ページ)と称賛する。賞賛されたのは、プロヴァンス語で詩を書いたアルノー・ダニエル(1150頃‐1210頃)である。ダンテが「母なる話し言葉」というのは学校やその他の場所で文法規則とともに教えられる言語ではなく、生れつき生活の中で習得されていく言語であった。具体的にはラテン語ではなくて、イタリア語や古プロヴァンス(オック)語であった。
 そして、アルノー以外ではジロー・ド・ボルネイユ(1100年代後半―1200年代初頭)は俗受けのする詩を書いてはいるが、それは人々が24歌で言及されたグイットーネ・ダレッツィオを賞賛したのと同じように賞賛された。けれども、今や彼らの作品は否定的な評価を受けているという。そして、グィニツェッリは自分の魂のために、ダンテが天国で主と対面したときには、主の祈りを唱えてほしいといって、去ってゆく。次に、ダンテに話しかけたプロヴァンスの詩人アルノーは、
今、君に頼む、君を階梯の頂まで導く
あの御力にかけて、
時至ればわが苦しみを思い起こしてくれんことを
(394ページ)との言葉を託して、やはり自分の罪を浄める炎の中に姿を消していく。詩人として、いかに愛の言葉をつづるかよりも、自分の魂が早く天国に到達することの方が大事なのである。
 神の愛を、詩という形で、いかに人々に伝えることができるのかというのが第22歌からこの第26歌までのダンテの課題であり、愛は世界のあり方と人間の発生の仕方そのものであるととらえることで、この課題に答えようとしている。

 いよいよ、ダンテの煉獄における遍歴も終わりに近づこうとしている。この先、どのような体験が、彼を待ち受けているのであろうか。 

ジル・チャーチル『大会を知らず』

4月8日(金)曇り

 ジル・チャーチル『大会を知らず』(創元推理文庫)を読み終える。主婦探偵ジェーン・シリーズの第14作である。この後、チャーチルは同じシリーズに属する作品を2編書いているが、それらはまだ翻訳されていない。本屋の棚に1冊だけ残っていたのを買って読んだということと合わせて推測すると、あまり売れ行き良好とは言えないシリーズのようであるが、この作品を読んだかぎりでは面白かった。彼女の他の作品も読んでみようと思う。

 交通事故で夫を亡くした専業主婦のジェーン・ジェフリーは3人の子どもたちの子育てに奮闘中だが(第14作のこの作品では、子どもたちも大きくなって、世話がかからなくなってきている)、身近なところで殺人事件が起きたりすると、隣の家に住む親友のシェリイとともに事件の解明に活躍してきた。
 その彼女たちが住む町のホテルで、ミステリ作家や出版関係者が集まる大会が開かれると知り、ジェーンは喜び勇んで参加を決める。会場となるホテルにシェリイの夫が投資をしている関係で、スイートルームが確保してあるという。この部屋を使えば、大会に入り浸っていられるわけである。長らくジェーンが乗り続けてきたおんぼろのステーション・ワゴンがまったく動かなくなったので、これを機に新しい車を買う。2人はこの車でホテルに向かう。
 ジェーンはこれまでずっと小説を書き続けてきた。この大会に参加する編集者か代理人に、どうやら書き上げたその作品を読んでもらうことも大会参加の目的である。女性作家に厳しいことで知られる批評家のザック・ゼブラや、かねてから愛読している女流作家のフェリシティ・ロアンがホテルにチェック・インしている姿を見かける。そうかと思うと新進作家のヴェルネッタ・ストラウスマンが夫と2人で西部風の派手な衣装で現われるのにも出逢う。
 ジェーンがフェリシティ・ロアンの本を読みながら、様子を窺っていると、ご本人から声をかけられる。ジェーンとシェリーはフェリシティとすっかり意気投合し、彼女から大会参加者についての情報を得る。大会には大物編集者のソフィ・スミス、書籍販売人と自称するがミステリについては誰よりも詳しいチェスター・グリフィス、それにこの種の大会には必ず参加して、その場にいない作家の悪い噂を探りだす謎の批評家ミス・ミステリが来ているという。
 開会式で演壇に立ったソフィ・スミスが体調を崩して病院に運ばれるという出来事はあったが、大会は順調に進行し、ジェーンとシェリーは手分けをしてセミナーに出席し、いろいろなことを学んだり、出席して損したと思ったりする。そのうちザック・ゼブラが行方不明になり、負傷して発見され、命には別条ない様子であるが、折よく居合わせたジェーンの恋人であるメル・ヴァインダイン刑事(大会で講演をするためにホテルにいたのである)から現場の様子を聞いた彼女にはどうも腑に落ちないことがある…。

 ミステリ作家の大会という、おそらくは著者にとってなじみの深い場所を舞台にして、殺人や強盗といった事件は起きないけれども、作家にとってみると大事な問題をめぐっての事件が展開する。登場人物の性格や行動はユーモアを交えて誇張されているが、それなりの現実感がある。翻訳者である新谷寿美香さんはこの作品でのジェーンの姿が、作家としてデビューする以前のジル・チャーチル自身の経験を踏まえて描かれているのではないかと推察しているが、出版会の内情を知るという意味でも興味の持たれる作品である(ただし、作品発表から10年以上たっているので、出版にかかわる事情は多少変わってきているかもしれない)。

 内容からすれば、『大会を知らず』という題名はおかしいのだが、「(井の中の蛙)大海を知らず」のもじりということだろう。原題はBell, Book and Scandalで、これは映画俳優・監督・製作者であったリチャード・クワイン(1920-89)が1958年にキム・ノヴァク主演で監督した『媚薬』(Bell, Book and Candle)の題名をもじったものだそうである。この主婦探偵ジェーン・シリーズの題名はすべて何か他の作品の題名のもじりで、Grime and Punishment (ゴミと罰)とか、War and Peas (エンドウと平和)などというのはすぐに元の題名が分かるが、この作品についてはわかりにくい。リチャード・クワインというと、一時キム・ノヴァクとロマンスがあり、彼女をヒロインにした凝った(気取った?)映画を作っていた監督として知られるが、ミステリも何作か手掛けている(『刑事コロンボ』も何本か監督している)。あるいはジル・チャーチルさんはこの監督の作品がお気に入りなのかもしれず、『媚薬』という映画を私は見ていないのだが、映画の中で<媚薬>がどのように使われたかが分かれば、そこからこの作品の命名の理由が分かるかもしれないと勝手に想像している次第である。

日記抄(4月1日~7日)

4月7日(木)雨後曇り

 4月1日~7日の間に経験したこと、考えたことなど:
4月1日
 新しい年度に向けて、いろいろと計画を立ててみたのだが、ラジオの教養番組は4月4日から新年度に入るようなので、それまでは計画を実行しないでおこうと考えている。

4月2日
 NHKラジオの「ラジオ英会話」、「入門ビジネス英語」、「攻略!英語リスニング」、「実践ビジネス英語」、「まいにちフランス語」、「まいにちイタリア語」、「まいにちロシア語」のそれぞれ4月号を購入する。今年は、ロシア語と中国語も勉強してみようと考えている。以前にも書いたことがあるが、中国語は大学時代に中級まで単位をとっていて、その後も時々、ラジオの講座を聴いて来たから多少の素養はある。ロシア語も大学時代に初級だけは勉強したが、こちらはすっかり忘れてしまった。ただ、英会話やイタリア語の時間の前後にロシア語の時間の端の部分を聴いて興味がわいたので、もう一度勉強してみようと思った次第である。

4月3日
 Eテレの「日本の話芸」で一龍齋貞心の『徂徠豆腐』を聴く。江戸時代の儒学者荻生徂徠が貧窮の中で勉学に励んでいたときに、援助してくれた豆腐屋に恩返しをするという話で、その豆腐屋が芝の増上寺の門前で仕事をしているというくだりをこれまで聴き落としていたことに気付いた。

 NHKラジオの『レベルアップ中国語』の4月号のテキストを購入する。中国語については、少し手ごたえのある番組を聴いたほうがいいだろうと考えたのである。

4月4日
 NHK「ラジオ英会話」は新しい年度を迎えたが、講師の遠山顕さん、パートナーのケイティ・アドラーさん、ジェフ・マニングさんという顔ぶれは変わらず。4月は”John Doe Goes Green"(ジョン・ドウ、環境にやさしくなる)という一連の対話を通じて、環境保護に関する語彙・表現を学ぶことになる。
 「入門ビジネス英語」は、講師の柴田真一さんは昨年と同様だが、パートナーがリンジー・ウェルズさんに代わった。4月のテーマは「ミーティングで発言する」ということである。
 「まいにちフランス語」入門編は倉舘健一さんとクロエ・ヴィアートさんがともに「学習パートナー」ということで進めるという。「<つながる>フランス語」がテーマである。
 「まいにちロシア語」は4月号のテキストの犬がロケットに乗っている姿を描いた表紙がかわいいが、旧ソ連がアメリカとの間に展開した宇宙開発競争の中で、人工衛星に犬をのせて打ち上げることに成功したのはもう60年近く昔の話である。講師はオレーグ・ヴィソーチンさんで、”ロシアアナウンサー”のいちのへ友里さんがアシスタントを務めている。入門編のテーマは「千里の道も一歩から」。 
 「まいにちイタリア語」は、講師が白崎容子さんでパートナーがマッテオ・インゼオさんとインマ・ロマーノさんという何度目かの顔ぶれで、テーマは”Ciao Italiano! (イタリア語へようこそ!)”ということである。
 「レベルアップ中国語」は、講師が加藤徹さん、「アナウンサー声」のプロである李洵さんと、京劇俳優でもある魯大鳴さんが出演する。4月から6月までのテーマは「つかみの中国語」、会話の際に相手の心を「つかむ」ような表現を毎回1つずつ取り上げるということである。今回は歇後語xiehouyu(熟語の前半部分だけをいって、後半部を省く表現)の一例を紹介したが、登場人物は実際には後半部分まで口にしていた。物語は現代の北京、道路の横にタクシーが止まっていると、一人の女性が慌てて走ってくる。運転手が彼女に「美女(meinü)」と呼びかけるが、これは最近の流行語で若い女性に使うのだそうだ。
 そういえば、「まいにちフランス語」でも登場する若い女性が、タクシーに乗ろうとするのが発端であったが、ここでは”Bonjour!"とあいさつをしてから行き先をいうべきだろうと、運転手がちょっと機嫌を損ねた様子を見せていた。

4月5日
 テレビ東京の『開運!なんでも鑑定団』の司会者が変わり、鑑定依頼人が登場する際にこれまではコンパニオンが扉を開けていたのが、自動的に開くなど、番組の進行にもいくつか変化が出た。そういえば、コンパニオンの顔ぶれから新妻さとこさんが消えていたのがちょっと寂しかった。聞くところでは、新妻さんは本当に新妻になったそうで、それはめでたいことなのだが、だったらそれも番組内で公にしてもよいことではなかったかと思う。

4月6日
 NHKラジオ「実践ビジネス英語」は昨年度に引き続き、講師が杉田敏さん、パートナーがヘザー・ハワードさんであるが、日本からNYに派遣された上田翔太が登場する新シリーズで、第1話は”On Day One (出勤初日)”で、翔太が出勤初日にCEOとHRD担当者の2人とランチをともにする場面から始まった。番組の終わりの”Quote...Unquote"のコーナーで古今の名言が取り上げられるのは昨年通りで、
He who does not understand your silence will probably not understand your words.
-- Elbert Hubbard (U.S.author, 1856 -1915)
あなたの沈黙を理解しない人はおそらく、あなたの言葉を理解しないだろう。
というのは、いろいろな受け取り方ができる言葉である。沈黙といっても、ほんとうに沈黙していることもあるし、言葉にならないメッセージを発信しつづけていることもあるからである。

4月7日
 3月の末に風邪をひいたことがきっかけで、本日も含めて10日間連続で酒を飲んでいない。風邪は治ったのだが、なぜか酒を飲む気が起きない。この間、昨日まで7営業日連続で日経平均株価は下がり続けていたが、本日は少し上がったようである。

 NHKラジオ「まいにちフランス語」応用編は、昨年7月~9月に放送された番組の再放送で、講師が井上美穂さん、パートナーがヴァンサン・デュレンベルジェさんで「ニュースで知りたいフランス文化」の話題を取り上げる。昨年は、大部分を聞き流してしまったが、ことしは力を入れて聴くつもりである。

 「まいにちロシア語」応用編は、2014年10月から2015年3月にかけて放送された『ロシア語大好き! 12の扉』の再放送で、講師が八島雅彦さん、ゲストが河合エフゲーニヤさん、ロシア語のレベルが高くて、ついていけないが、ロシア語とロシアをめぐる興味深い話題が取り上げられていて、聞き流すだけでも興味深い。今回は18世紀ロシアの学者で、モスクワ大学の創設者として知られるロモノーソフ(1711-65)の「ローマ皇帝カール5世は、スペイン語は神と語るのにふさわしく、フランス語は友人と、ドイツ語は敵と、イタリア語は女性と語るのにふさわしいといった」という言葉を取り上げた。(だから私はフランス語とイタリア語に力を入れている――というわけでもない!!) 

 「まいにちイタリア語」応用編は講師が花本知子さん、パートナーがアンナ・マリア・マッツォーネさんと、アリーチェ・セッテンブリーニさんで、「イタリア語☆翻訳工房」という看板を掲げ、4月は手紙とエッセーを日本語からイタリア語に翻訳するという作業をする。日本語をイタリア語に翻訳するだけの能力はまだないから、こちらも聞き流すだけである。

 「レベルアップ中国語」の第4回で、〝魔高一尺、道高一丈”(mo gao yi chi, dao gao yi zhang, 魔物が1尺高くなれば、道は1丈高くなる⇒最後は正義が勝つ)という表現が取り上げられた。これはもともと〝道高一尺、魔高一丈”(悟りを求める修行者が道の高みを1尺登ると、その10倍の高さの1丈ほどの背丈の邪悪な魔物がたちあらわれ、修行者の邪魔をする⇒一難去ってまた一難)という意味で使っていたのが、中国が革命と戦争を経験する中で、「正義は必ず勝つ」という信念が強くなって、逆の言い回しのほうが優勢になったのであると説明されていた。
 この番組では警察官に向かって”警察同志(jincha tongqhi)"と呼びかける言い方が出てきたが、「ラジオ英会話」で登場する警官に向かっては”Officer"と呼びかけられていた。警官に対する呼びかけ方に、単に言語の特色だけでなく、社会や人間関係も反映されることが見て取れる。 

入学式を終えて

4月6日(水)曇り

入学式を終えて

丘の上にある高校の
入学式が終わって
新入生が
お母さんと
時にはお父さんと
特には両親とともに
坂道を下ってくる

ちょっと晴れがましく
ちょっと嬉しい
気持ちを抑えるように
ならんで歩いている親と
言葉を交わしているが
親だって
ちょっと嬉しい気持ちで
いっぱいのようだ

入学式だというのに
みんなリュックをしょって
授業のある日と変わらないような
姿で歩いているが
この姿が3年はつづくはずだ
これから坂道を
上がったり下がったりしながら
3年を過ごすはずだ

その後のことも考えているかもしれない
さらに上の学校に進学するか
就職するか
そしてさらに その後のことも考えているかもしれない
その後の後のことさえ考えているかもしれない
高校生活はまだ 人生の前半戦だ
まだまだこれから
出発、再出発、再々出発
挑戦が続く

どんな道をたどろうと計画し
また実際に辿ろうと
その最初の日には
今日と同じように
ちょっと晴れがましく
ちょっと嬉しい気分で
いてほしい
今日のことを
覚えていてほしい

北杜夫と蛭川幸茂

4月5日(火)朝のうちは雨が降っていたが、その後は曇り

 最近、北杜夫『どくとるマンボウ青春記』(中公文庫)を読み返している。この書物の多くの部分が著者の旧制松本高校時代の思い出を語っていて、戦後の学制改革によって姿を消してしまった旧制高校の教育を懐かしみ、賛美する文脈で言及されることが多いが、詳しく読んでみると、否定的な部分についても目を向けてゐることが分かる。若さに任せた愚行や蛮行は青春にはつきものである。多くの旧制高校生の生活が、そのような行為と結びついていた。それをしも、懐かしむ人もいるだろうし、顧みて忸怩たる気持ちになる人もいるだろう。思い返すと恥ずかしくなるような部分を含めて、旧制高校はよかったと語っている本であるという印象を強く持った。よかった――と思う第一の理由は、教師と生徒の関係にあると、この本は言おうとしているようである。

 人並み以上に諧謔を好んだ北のことであるから、旧制高校の変っているところ、奇妙なところを強調しすぎているきらいがある。本人も「わざとおかしな例ばかり書いたが」(62ページ)と断っている。北が旧制松本高校に在学していたころの先生や友人などの奇行愚行の数々が列挙される。この本が書かれたときには存命であった人が多かったから、特に名前を挙げなかったり、イニシアルだけで出てきたりする場合が多いのは仕方がない(しかし、悪いことはできないもので、かなりの部分の実名が判明している)。
 ただ、教師の中では彼にドイツ文学とトーマス・マンへの興味を植え付けた望月市恵と、旧制松本高校の名物教師であった蛭川幸茂(1904-1999)の2人は実名で語られている。そのことに、この2人への北の敬慕の気持ちがあらわされているとみるべきであろう。(友人の中ではTというのが2人出てきて、一人が実は辻邦生であることが明かされているが、もう1人のTは国文学者で大学の先生をしているというだけ記されていて、最後まで実名は明かされていない。)

 さて、蛭川幸茂は東京の生まれだが、早く名古屋に移り、旧制中学4年修了で旧制第八高等学校に進学、その後、東京大学に進んだ。専門は数学であるが、陸上競技に熱心に取り組み、松本高校にその指導に出かけたのがきっかけで、教えることになったといわれる。普通より1年早く大学を卒業してすぐ旧制高校の先生になったので、その時点では日本で一番若い旧制高校の教師であり、松本高校の中には32人も彼より年長の生徒がいたという。「髭づらで容貌は野武士のごとくである。しかし、その目はすこぶる優しい。旧制高校を愛し、高校生を愛したことこの先生に比すべきものはあるまい」(63ページ)と北は記す。どのような教え方をしていたかは、実際に本を読んでみてください。

 この本にも書かれているように、戦後の学制改革で旧制高校がなくなり、新制大学の一部になることになったが、旧制高校に愛着を持っていた彼は、それ以外の学校で教える気になれず、思案の末、小学校の先生になった。この本にはそこまでしか書かれていないが、4年ほど小学校に勤めた後、愛知学院大学に迎えられ、その一方で、名古屋大学でも教えるようになった。名古屋大学では教養部の数学を担当した。名古屋大学の教養部は蛭川の母校である第八高等学校が戦後の学制改革で姿を変えたところである。
 むかし務めていた大学の同僚の1人が、名古屋大学で蛭川の授業を受けたという話を聞いたことがある。数学の話ではなくて、旧制高校時代の思い出を喋りながら、なにか書きつけている。後で気が付いたことだが、そうやって書き留めたことを何冊かの本にまとめたのであった。『落伍教師』以下、蛭川が旧制高校の思い出をつづった書物は何冊か出版されていて、古本屋のカタログや図書館の目録で見かけることがある。そのうち、機会を見つけて読んでやろうと思う。

 「わざとおかしな例ばかり書いたが」と書いた後に、北は「旧制高校の先生のよい点は、生徒と一緒になって人生を語り、親身になって相談に乗ってくれることであろう」(62ページ)と続けて、旧制高校のよい点が、教師と生徒との関係にあったことを指摘している。蛭川の場合、就職した当初、生徒たちとあまり年齢が変わらなかったことで、親近感を持っていたのがずっといい影響を持ち続けたのだろうが、もっと別の個性を発揮していた他の教師たちには他の教師たちの事情があっただろうと思う。「生徒と一緒になって人生を語り、親身になって相談に乗ってくれる」ような教師は、現在の日本でもやはり望まれるわけだが、そういう教師になるまでの経路はいろいろあるはずで、その経路と個性の多様性を打ち消すような教育のあり方は、たぶん、否定的な結果しか生み出さないはずである。

 北が最後まで実名を明かさなかった、もう1人のTという友人は、国文学者でお茶の水女子大の名誉教授である堤精二だそうである。北があるところで講演をすることになって控室で青ざめていると、突然堤が現われてニヤリと笑ったので、北はすっかり逆上してでたらめな講演をしてしまった、以来、講演はすべて断っていると書いて、「この友人が大学の教壇ですました顔で講義をしているところを一度ぜひ見に行ってやろうと考えている」(162ページ)と結んでいるが、「友人」の勤務先が女子大であることを知っていると、北の思いがどこにあるのか、分からなくなってくるところがある。 

宮下奈都『太陽のパスタ、豆のスープ』

4月4日(月)朝のうち雨、その後、曇り

 4月3日、宮下奈都『太陽のパスタ、豆のスープ』(集英社文庫)を読む。文庫本のコーナーに平積みにされていた本の題名を見て、地中海周辺の食べ歩きエッセーかと思ったのだが、中身を立ち読みした限り小説らしかったが、料理の話が出てきそうな感じだったので買ってみた。同じ著者の『窓の向うのガーシュウィン』も一緒に買ったのは、この作家の作品はすぐに読めそうだという見通しが立ったからである。(すぐに読めるような本と、なかなか読めないような本を混ぜて読むのが、私の読書のやり方である――実際は、なかなか読めない本を最後まで読み通すことはあまりない。)

 結婚式を2か月後に予定していた明日羽(あすわ)は、突然相手から婚約を解消される。失意の中に落ち込んで何もする気が起きないでいる彼女に、若い叔母のロッカは”ドリフターズ・リスト”を作ることを提案する。「やりたいことを全部リストにするの」。

 それまで父親、母親、フリーターの兄と同居していた(兄と違ってずっと正社員であることを続けてきたことをひそかに誇りにしていた)明日羽は、親の家を出てロッカの住むアパートに近い、別のアパートに引っ越すことにする。幼馴染で女装家の美容師の京に髪を短くカットしてもらう。結婚資金としてためていた200万円を使ってしまおうと、(実は結婚後の生活のために買おうと思っていたのだが)高い鍋を買う。きれいになろうと京の知り合いのエステティシャンにもとに出かける。書き直したり、書き足したりしながら、リストに書き連ねたことを試していく。

 ロッカさんが料理が下手であること、それに対して自分が上手であるらしいこと、今まで気付かなかったことが生活の変化とともに見えてくる。ロッカさんと出かけた青空マーケットで会社の同僚である同僚の郁ちゃんが豆の店を出しているのを見かける。彼女は豆のスープに力を入れているのだが、炎天下で売れ行きが悪い。冷たいスープを作ったのだが、暑さで氷がとけてしまったという。手伝うつもりで氷を買いに出かけた明日羽は、熱中症で倒れてしまう・・・。

 婚約破棄をきっかけとして、明日羽は生活を変えようとしたのだが、そのために、郁ちゃんの豆に対するこだわり、自分の母親がイタリアに興味を持ち、イタリア語を勉強していること、兄がソムリエの資格を取ろうとしていることなどなど、それまで見えていなかったことが、見えてくる。会社での仕事ぶりも変わって来て、同僚たちから能力を認められる。その一方、エステティシャンの桜井さんからはやりたいことのリストではなくて、不可能なことのリストを作った方がいいといわれる・・・。

 「豆のスープ」は物語の中で大きな役割を演じているが、「太陽のパスタ」らしい物は出てこない。あるいは、それこそが将来に期待される明日羽の可能性であるのかもしれない。すべきこと、したいことのリストを手元において、点検しながら生きていくことも必要な場合があるが、手元になくてもすべきこと、したいことが分かっている生活のほうが好ましいのではなかろうか。

 作者である宮下さんは、20代後半の明日羽よりも、彼女の母親よりもだいぶ年下の妹だというロッカの方に近い年齢でこの作品を書いたはずである。一族の中では明日羽とロッカだけが、そこらにはあまりない、変わった名前である。物語は明日羽の一人称の語りで進むが、その軸になっているのは2人の交流である。なお、宮下さんは福井県の出身だそうだが、福井市内には足羽(あすわ)山という山があり、また足羽川という川が流れている。ロッカは六花と書く――ということは雪のことで(ふつうは、リッカというのではないかと思う)、何らかの思いがこもった命名のようである。

 明日羽の一人称で語られる、彼女の生活と生活態度の変容の物語なのだが、まだまだ大きく変容しそうな気配を見せながら物語は終わる。一人称で語られることで、気づきにくくされているが、彼女を取り巻く人間関係は、全体として暖かい。特に希薄なようでいて、彼女の家族がまだその結びつきを失っていないことが示されている。婚約破棄直後、母親に優しい声をかけられた明日羽はこんな感想を述べる:「母親って大変だ。こういうとき痛感する。娘を心配して逆に怒鳴られ、八つ当たりされる。割が合わないのもいいとこだ」(18ページ)。そう思うならば、八つ当たりしなければよいのだが、あたってしまう。そういう親子の依存関係は、必ずしも誰にでもあるわけではなく、京の場合にはないらしいことも触れられていて、作品の奥行きができている。作者の人間観察が、今後どのような方向に進んでいくか、その点にも興味が持たれる。

『太平記』(97)

4月3日(日)朝のうち雨、その後、曇り

 元弘3年(1333年)5月12日に、六波羅の両探題滅亡の報せを受けた伯耆の船上山の後醍醐天皇は、23日に上洛の途につき、30日に、兵庫の福厳寺で鎌倉幕府滅亡の報せを受け、6月5日に京都に到着、6日に二条内裏に入られた。
 九州ではこの年の3月13日に、後醍醐天皇と連絡を取っていた肥後の豪族菊池入道寂阿(武時)が九州探題北条(赤橋)英時から宮方内通の疑いをかけられ、こうなったら仕方がないと、同じように宮方に内通していた少弐入道妙恵(貞経)、大友入道愚鑑(貞宗)とともに英時を攻撃しようとしたが、両者ともに応じなかったばかりか、少弐は菊池の使者を斬ってその首を英時のもとに届けた。菊池は怒って、わずか150騎で九州探題の館を強襲した。一時は危地に陥った英時であったが、少弐、大友が加勢に駆けつけたために形勢は逆転し、菊池入道は嫡子武重を故郷に帰らせたうえで、最後まで敵と切り結び、全滅するまで戦った。

 少弐と大友の今回の振舞は人の道に外れたものだと世間から悪くいわれるなかで、それらの悪口が聞こえないようなふりをしながら、両者は天下の形勢を窺っていたが、両六波羅滅亡、千剣破を包囲していた大軍も奈良に撤退したという知らせを聞いて、少弐入道は慌てふためいた。このように事態が宮方に有利に展開してきた以上、九州探題を討ち取って、これまでの行為の補いをつけようと思ったので、まず菊池と大友のもとに内々に使者を遣わして相談を持ち掛けたところ、菊池は前回の例があるので、相談に乗ろうとはせず、大友は臑に傷もつ身であるので、こうすれば助かるかと思って、堅く承知したのであった。

 いつ攻撃しようかと時日を選んでいるところに、英時は、少弐が陰謀をくわだてているという噂を聞いて、それが本当かどうか確かめることを部下の長岡六郎に命じた。長岡は少弐のもとに向かい、会って話がしたいと申し入れると、今、病気を患っているといって、相手になろうとしない。長岡は、仕方がなく少弐の息子である新少弐(頼尚)のところに出かけて、会いたいと申し入れ、さりげなく、屋形のあちこちの様子を窺うと、これから戦闘の場に赴く様子で、楯を作ったり、鏃を研いだりしている最中である。また主殿から離れたところを警備している侍の近くには、蝉本(せみもと)といって旗竿の先端、蝉(旗を巻き上げる小さな滑車)のついているところを白くした青竹の旗竿がたててあった。長岡は、少弐が船上山から官軍の旗である錦の旗を頂いたという噂を聞いたが、ほんとうのことであったかと思い、直接、対面した暁には刺し違えてあの世への道連れにしようと心の中で誓う。
 そうとも知らぬ様子で、新少弐は長岡の前に現れる。長岡は席に着くや否や、けしからん謀叛人どもの企てだと叫んで、腰の刀を抜き、新少弐にとびかかる。新少弐も機敏な武士であったので、身近にあった将棋の番をとって、長岡がつく刀を防ぎ、長岡にむんずと組みついて、上になったり下になったりの格闘を展開する。そうこうするうちに少弐の家来たちが大勢やってきて、新少弐を組み伏せている長岡めがけて切りつけ、押さえつけられていた新少弐を助けたので、長岡はその意図を達することができずに、命を落としたのであった。

 この一件で少弐筑後入道は、自分たちの倒幕の企てが九州探題に知られていることを悟り、こうなった以上は仕方がないと、大友入道とともに、7,000余騎を率いて、5月25日の正午ごろに、英時の館に押し寄せた。世の中が乱れてくると、義を重んじるものは少なく、利に走るものは多いのが習いなので、これまでは探題の威令に従っていた九州の武士たちは、これまでの恩を忘れて逃げ出したり、名誉を惜しむことなく裏切ったりしたので、わずかな時間のうちに英時は破れて、忽ちに自害をしたので、一族郎従340人が、続いて腹を切ったことであった。
 
 少し前には九州探題に従って菊池を討った少弐、大友が、今度は九州探題に反旗を翻して、英時を打ち、滅ぼしたのである。『太平記』の作者は「行路の難なること、山にしも在らず、水にしも在らず。ただ人の情の反覆の間に在り」(188ページ、行く路の険しさは、山にあるのでも水辺にあるのでもない。ひとえに人情の移ろいやすい間を行くことにある)という白居易の詩を引き合いに出して、少弐、菊池の変わり身の早さにあきれた様子を見せている。

 長門探題北条時直は、都に向かおうとして水軍を組織したが、六波羅が滅びたという知らせを受け、九州探題に合流しようとしたが、こちらも滅亡したことを知り、少弐、大友の軍に降伏して命を許されたが、間もなく病死した。
 北陸では、5月12日、越前牛ヶ原の地頭淡河時治が、平泉寺の衆徒に攻められて、妻子ともに自害した。17日、越中守護名越時有の一族が、宮方に攻められて自害し、妻子らは海に身を投げた。鎌倉と京都以外でも北条一族は宮方の武士たちの攻撃を受けて滅びていったのである。

 北条時直、淡河時治、名越時有の最期について、『太平記』の作者は詳しく記しているが、それをそのまま紹介していくのも面倒であり、ここでは簡単に概要だけを書き記すことにした。ただ、全国的な動乱の様子を逐一書き留めようとしている作者の態度には頭が下がる。そのことによって戦乱の世に生きることの厳しさが強調され、「太平」の世への渇仰がより強く表現されているように思える。

遠藤慶太『六国史――日本書紀に始まる古代の「正史」』」(6)

4月2日(土)曇り

 前回は、『日本書紀』の壬申の乱についての記述が、各氏族から提出されたそれぞれの家の資料を編纂したものであり、確かに勝者である大海人皇子側に有利な内容ではあるが、一定の客観性も備えているはずであるという著者の主張を紹介した。それでは、『日本書紀』は全体としてはどのような資料をもとにして編纂されているのであろうか。

 『日本書紀』の完成については『続日本紀』に記載されているが、そこでは『日本紀』と記されている。正式な書名が『日本書紀』か『日本紀』かをめぐっては古くから議論が続けられてきたが、もともと両方の呼び方があったのではないかと著者は論じる。
 日本の歴史を書物にまとめようという試みは推古天皇28年(620)年に聖徳太子・蘇我馬子らが中心となって『国記』『天皇記』の編纂をくわだてたことから始まるという。これらの書物は645年の乙巳の変で蘇我氏の屋敷が焼けたときに、焼失したとされている。この書物では触れられていないが、近年蘇我氏の邸宅跡の発掘作業が進められていて、その一部が発見されるかもしれないと期待されている。この修史事業自体が後世の作り話であるという説もあるので、余計、発掘の進展に興味が寄せられるのである。7世紀の前半には、まだ日本の支配者は「天皇」ではなく、「大王」を名乗っていたので、「天皇記」ではなく、「大王記」であったはずだとする説があることも付け加えておく。

 その後、天武天皇10年(681年)に天武天皇が「帝紀」(天皇の系譜・事績)と「上古の諸事」(古い時代の伝承・説話)を記定するようにと命じられたことが『日本書紀』に記されている。「このようにして始まった歴史の編纂では、政府の公文書はもとより、記録・伝承の類を採録し、古代国家の史書としてまとめられていく」(60ページ)。 

 著者は『日本書紀』の材料を8項目に分けて考えた坂本太郎の整理に立ち返ったうえで、その中の⑥個人の手記・日記と⑦外国文献について、それらをだれが提供したか考察している。
「⑥は『日本書紀』が分註として書名を挙げて引用した記録・文献である。内容を消化して本文にするのではなく、『高麗沙門道顕日本世記』『伊吉連博徳書』『難波吉士男人書』などの書名を明示して原文を引用したのは、その文献を典拠として尊重しているからである。『日本書紀』がまとめられた時点で、一定の評価を得ていた文献と思われる」(同上)と著者は言う。最後のところが、この後の議論と関連して問題になる。そもそも<一定の評価>とはどのような評価なのか?

 『高麗沙門道顕日本世記』は現在まで伝わっていないが、7世紀後半に倭国と朝鮮半島の諸国との外交交渉に参画した高句麗の僧の記した外交史の書物で、唐と連合した新羅に対して厳しい目を向ける独自の視点を持つという。
 『伊吉連博徳書』、『難波吉士男人書』も現存しないが、7世紀後半の倭国の対外交渉(特に遣唐使)に参画した渡来系の人々であり、彼らが加わった斉明天皇5年の遣唐使一行は百済への侵攻を決定していた唐の政府によって長安で幽閉され、その後やっと帰国するという経緯があった。

 歴史書にとって年代の表示が大事であることは言うまでもないが、その年代は『日本書紀』の場合、「帝紀」と3つの百済史書によって表示されている。このため、⑦外国文献(『魏志』『晋起居注』『百済記』『百済新撰』『百済本紀』)の存在は重いと著者は言う(既に述べたように、日本側の年代と外国文献の記す年代とが100年ばかりずれている例があるということが念頭にあると思われる)。
 他方で、外国文献の引用の仕方には偏りがある。中国の資料『魏志』と『晋起居注』は「神功皇后紀」にのみ引用されている。これに対して、朝鮮半島との交渉にかかわって百済の3つの歴史書からの引用は、「神功皇后紀」から「欽明紀」まで盛んに行われているという。「『日本書紀』に占める百済記事の比重はきわめて大きい」(65ページ)反面で、「『日本書紀』で記される新羅は、多くの場合非難の対象である」(67ページ)。

 「8世紀に成立した『日本書紀』が、素材史料の持っていた偏りから逃れる歴史叙述は難しかったであろう。百済史書からの引用は、『日本書紀』の歴史観や偏りの一端を示している」(68ページ)と著者はこの間の事情を要約している。そういう事情もあるかもしれえないが、『日本書紀』が編纂された時代における日本と、朝鮮半島を統一した新羅との関係はあまりよくなく、そのことが過去の歴史における新羅の記述にも反映しているという面と、さらにそのことが資料の選択にも反映したという面もあるのではないか。現在の国際関係が過去からの国際関係に影響されたものだという面はあるだろうが、現在の関係が過去の事実の評価に影響を与えるという面もある。そのために資料の選択が偏るということも否定できないのではないだろうか。(この点と関連して、当時の日本の支配層は百済よりであったかもしれないが、日本国内にはかなり強い親新羅勢力がいたはずであることも考えておく必要があるだろう。)

 第1章の終わりに、遠藤さんは『日本書紀』が複数の人物の手を経て編纂されたこと、さまざまな素材を利用し、「先行する歴史記述や古い伝承の価値を認めて」(68ページ)それらを取り込んでいることの意味を考えるべきであり、この特色がその後の歴史書でも踏襲されたという。古い伝承や歌謡を取り込むことが中国の歴史書にはなかったというのは言い過ぎである(『史記』にはある程度取り込まれている)。そうはいっても、伝承や歌謡は人々の精神のありようを知るうえで重要な手掛かりであること、史料の扱い方に見られるように『日本書紀』が多少なりとも複眼的な歴史の見方をしていることにその特色を認めていることには賛意を表したい。

ダンテ・アリギエリ『神曲 煉獄篇』(26-1)

4月1日(金)晴れ後曇り

 ウェルギリウスに導かれて煉獄山の周囲をめぐる環道の内で最も高い、第七環道にダンテはたどりつく。ローマ時代の詩人であるスタティウスが途中から同行する。彼が合流した第21歌からこの第26歌までに登場する人物は詩人たちであり、世界を動かす原理である<愛>とそれが世界のしくみにどう関係するかについての考察が終わって、どのようにして神の愛の言葉を人々に伝えるのかという詩人たちが抱く課題が、煉獄における贖罪の描写との関連で論じられている。この間、第五環道では貪欲、第六環道では飽食、第七環道では淫乱の罪がどのようにして清められるのかが目撃された。第七環道では内側の崖から炎が噴き出して、その炎に焼かれて魂たちが淫乱の罪を清め、道のもう一方の端では上に向けて風が吹き、炎をはじき返していた。3人は、炎と絶壁の間の狭い道を一人一人進まなければならなかった。

こうして一人が前に、もう一人が後ろになり、
私達が縁を進んでいた間、優しき師はしばしば
私におっしゃっていた。「気をつけるのだ。わが教えを生かすがよい」。

太陽は右肩の方から私を照らし、
すでに光線を放ちながら、西の空をすみずみまで
空色から白に変えているさなかだった。

そして私は影を映して炎の
赤をひときわ深く見せていた。多くの影達が
歩きながらこの徴(しるし)に注目しているのを私は見た。
(380ページ) 沈み始めている太陽は、生きた肉体をもつダンテの体から長い影を投げかけさせ、そのことが炎の中で罪を浄めている魂たちの好奇心を動かした。炎の中の1人がダンテに話しかけてきたが、始まりかけた対話は、同性愛者たちと、中庸を逸脱して獣的な異性愛に走った人々に分かれた贖罪者たちの集団の出会いによって中断された。

ある人々は去っていき、別の人々は近づいてくる。
そして涙を流しながら、はじめの歌と
それよりも彼らにふさわしい叫びに戻った。

すると私に願い出た人々と同じ人々が、
先ほどと同じように私に近づいてきた。
その表情は話を聞こうとして真剣だった。
(384ページ) ダンテたちは右方向に進んでおり、同性愛者たちは左に、異性愛の者達は右に進む。「はじめの歌」とは、土曜日の早朝一番の聖務日課で歌われる歌で、1631年以前には「無上に憐れみ深き神よ」と歌いだされ、終わりには「我らから悲しき淫乱を取り去りたまえ」という一節があった。歌い終えると同性愛者たちは「ソドムとゴモラ」、異性愛者たちは「牝牛の中にパーシパエーは入る、雄牛が走り来て、彼女の淫欲を満たすよう」と叫ぶのである。神話中の人物であるクレータ島のミノス王の王妃パーシパエーは雄牛に恋をして、名工ダイダロスが作った牝牛の姿そのままの木像に入って交わり、怪物ミノタウロスを産み落とした。ダイダロスは迷宮を設計して、その中にミノタウロスを隠すことになった。

 ダンテがなぜここにいるかを聞こうとしている魂たちの真剣な態度に打たれて、ダンテは自分がまだ死んでいない、生身の人間であること、そして彼の旅の使命について語る:
私がここを通って高みに行くのは、盲目であり続けぬためだ。
私のために恩寵を得た貴婦人が上にいらっしゃる。
その恩寵ゆえに私は必滅の身をあなた方の世界で運んでいる。
(385ページ) そして、自分に問いかけてきた魂が誰であったのか、また去っていった魂たちが何者であったのかを尋ねる。

 最初にダンテに話しかけようとした人物が口を開く。去っていった人々は同性愛者であり、自分たちについては
我らの罪は両性間のものではあった。
けれども人としての則を守らず、
けだもののように欲望に従ったがゆえに、
(388ページ)ここでその罪を浄めているのだという。自分たちが誰であるかを語り尽くす時間はなく、また全員の名を知っているわけではない。しかし、自分の名前だけはいうことができるという:「・・・
私はグイド・グィニツェッリ。すでに贖罪をしているのは、
最期の時より前に正しく悔悛したことによる」。
(同上) 詳しくは次回に論じるが、グィニツェッリはダンテ自身が属していた清新体派の創始者とされる詩人である。ダンテは自分自身の直接の師であるブルネット・ラティーニの死後の姿を『地獄篇』第15歌で描いたし、かつての親友で好敵手でもあったグイド・カヴァルカンティについても否定的な評価をしているが、グィニツェッリについては煉獄の一番上の天国の近いところに置いたというのは興味深いことである。
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