日記抄(3月25日~31日)

3月31日(木)晴れたり曇ったり

 3月25日から本日までの間に経験したこと、考えたことなど:
3月25日
 医療費の払い戻しの件で、区役所に出かける。横浜駅西口から市バスの59番に乗って出かけたのだが、降りる停留所を間違えて、一つ手前で下りた。その分、運動ができたのだからよいとしよう。

3月26日
 NHKラジオ「攻略!英語リスニング」は”Geoengineering"(地球工学)という話題を取り上げた。
Taking control of our planet's natural systems -- geoengineering, as it is known -- is no small matter.
われわれが住む惑星の自然システムをコントロールすること――「地球工学」として知られている――は、生易しいことではない。

 ニッパツ三ツ沢球技場で横浜FC対愛媛FCの対戦を観戦する。先週の日曜日の対戦と違って、観客が3,000人に満たず、横浜FCの試合運びも慎重すぎる感じで、0-0で引き分けとなった。明るい材料に思われることは、南選手に代わってゴールを守った渋谷選手が相手の得点を封じてその役目を果たしたことくらいだろうか。

3月27日
 Eテレの「日本の話芸」で林屋木久翁師匠の『林屋彦六伝』を視聴する。最初の師匠であった3代目桂三木助が病気に倒れたとき、他の師匠たちは花だの果物だのをお見舞いにもってきたのに、彦六(当時は8代目林家正蔵)は、現金をもってきて、三木助のおかみさんが、これが一番助かるお見舞いだといっていたという話が、印象に残る。昨年、入船亭扇橋師匠がなくなったので、三木助の弟子だった落語家で残っているのは、木久翁以外は三遊亭円輔くらいだろうか。円輔もほとんど高座には現れなくなっているね。

3月28日
 病院に検診に出かけたのだが、薄着だったので、風邪をひいたらしい。何をしているのやら。

 病院が終わって、目黒通りの台湾料理店で昼食をとり、何気なく菜単を見たところ、ラーメンが老麺と書かれていたので、面白いなと思った。池波正太郎が書いていたが、その師であり、横浜育ちだった長谷川伸は「ラウメン」と言っていたという話を思い出した。「老麺」は中国語の発音で、「ラウメン」に近くなるはずである。柳麺と書く店、垃麺と書く店、ラーメンと書く店、それぞれがそのように書いている理由を調べてみたら面白いと思うが、店の人にうるさがられるかもしれないね。 

 神保町シアターで稲垣浩監督の『手をつなぐ子等』を見る。昭和12/3年(1937/8年)ごろの小学校を舞台に、知恵遅れで授業についていけない子どもを、笠智衆が演じる先生が一生懸命に指導して卒業させるまでを描く。途中から、今度はガキ大将でほかの子どもをいじめる子どもが登場して先生の困難はますのだが、このほうがやりがいがあるとますます意欲的に取り組む。今日の目から見ると、子どもの生活の描き方など、いかにも古い感じがするのだが、この映画が作られたころは、まだ子どもの数が多く、学校に活気があったことが窺われて、その点が新鮮である。

 今野真二『漢和辞典の謎 漢字の小宇宙で遊ぶ』(光文社新書)を読み終える。今野さんが「大学生になってから使い始めたのは、小川環樹・西田太一郎・赤塚忠編『角川新字源』(1968年初版)だ」(32ページ)ったと書いているが、私もこの漢和辞典を使っている。今野さんは小川環樹が貝塚茂樹、湯川秀樹の弟であることを盛んに書いているが、小川環樹というと、中国語の授業で尾崎雄二郎先生がよく小川先生、小川先生とその噂をしていたことを私は思い出す。尾崎先生は吉川幸次郎教授、小川環樹助教授時代の中国語中学文学講座で学ばれたのである。しかし『新字源』を使っている本当の理由は、もう1人の編者である西田太一郎先生の『東洋社会思想史』という授業で、95点という学年末の評価をいただいたことによる。(いい点数を貰ったという話になれば、私の同期生の中には「体育実技」で100点を取ったのが大勢いる≂出席点だったのである。)

3月29日
 長谷川修二『研究者としてうまくやっていくには 組織の力を研究に生かす』(講談社ブルーバックス)を読む。とりあえず一人前の顔をして研究者としてやっていくにはどうすればよいかということを理科系の学生、大学院生向けに書いた書物であるが、そうでない人にも役立つ部分はいろいろあるはずである。特に研究データとノートについて、それが個人のものではなく、組織のものであると述べていることが印象に残る。3月号だったかの『新潮45』で小畑峰太郎という人が小保方晴子さんに対して、「手記よりも先に実験ノートを出せ」と書いていたが、はたして彼女の研究ノートはどこにあって、だれが持っているのであろうか。

 NHKラジオ「まいにちフランス語」は3月22日放送分の再放送だったが、
英語の歌My Wayを聴いた後で、
Êcoutez bien aussi cette chanson qui s'apelle ≪Comme d'habitude≫.
(≪Comme d'habitude≫ (いつものように)という歌もよく聴いてください。)
Les paroles sont différentes mais je trouve que c'est la même musique.
(歌詞は違いますが、同じ音楽だと思います。)
La version française est plus ancienne que la version anglaise.
(フランス語のバージョンのほうが英語のものよりも古いのですよ。)
という会話が展開された。フランスのシンガーソングライターであるクロード・フランソワの歌をポール・アンカがもともとの歌詞から自由に英語の歌詞をつけ、フランク・シナトラが歌ってヒットした。このあたりの経緯も番組で語られたが、以前に別府葉子さんのコンサートで同じ話を聞いた記憶がある。

 テレビ東京の『開運!なんでも鑑定団』で司会者の石坂浩二さんとアシスタントの吉田真由子さんが番組を卒業することになって、最後にもう1人の司会者である今田耕司から花束が渡された。今田からではなく、コンパニオンの女性たちから渡すというやり方もあったのではないかと思う。

3月30日
 アメリカの女優パティ・デュークさんの訃報が届く。子役としては舞台⇒映画の『奇跡の人』でアカデミー女優助演賞を史上最年少で受賞したりして、華々しかったが、その後の作品には恵まれなかった。フレッド・コー監督の『ナタリーの朝』あたりが目につくところだろうか。私よりも1歳若いということもあって、しんみりとした気分になっている。謹んでご冥福をお祈りします。

3月31日
 武澤秀一『大仏はなぜこれほど巨大なのか 権力者たちの宗教建築』(平凡社新書)を読み終える。建築家の目を通して、宗教史・政治史の謎に迫ろうとする書物であり、奈良の大仏の建立をめぐる謎解きから始まって、インドのストゥーパ、ローマの円形神殿へと考察を展開する。建築物やその中に配置された仏/神像から宇宙と人間をめぐる様々の問いと、それにこたえようとする試みが見て取れるという。個人的な意見としては、海外に目を向けずに、奈良の大仏と鎌倉の大仏の対比でまとめてほしかったという気がする。 
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伊東光晴『ガルブレイス――アメリカ資本主義との格闘』

3月30日(水)晴れ

 伊東光晴『ガルブレイス――アメリカ資本主義との格闘』(岩波新書)を読み終える。

 ジョン・ケネス・ガルブレイス(John Kenneth Galbraith, 1908-2006)は20世紀の特に後半を代表するアメリカの経済学者であり、彼の『ゆたかな社会」(The Affluent Society, 1958)はC・W・ミルズの『パワー・エリート』と並んで、20世紀後半を代表するアメリカの社会科学の書物であると著者は評価する。(どちらも、20世紀後半とはいっても、かなり早い時期に書かれた書物であることが問題である。)

 この書物は次のような構成をとっている:
Ⅰ アメリカ 対立する二つの極
 第1章 アメリカ社会と思想
      ――イデオロギー化する「自由」とプラグマティズム哲学
 第2章 アメリカの経済学――輸入経済学対制度学派
Ⅱ ガルブレイスの半生
 第3章 生い立ち、そして経済学者への道
Ⅲ ガルブレイスの経済学
 第4章 経済学への前奏曲『アメリカの資本主義』
      ――ガルブレイス流産業組織論
 第5章 現代資本主義論の提起――歴史に残る名著『ゆたかな社会』
 第6章 成熟した巨大企業体制の解剖――主著『新しい産業国家』
 第7章 公共国家のすすめ『経済学と公共目的』
      ――経済的弱者を守る知識人の戦い
  補章 『大恐慌』――私たちは歴史に学ばなければならない
  終章 「新しい産業国家」から「新しい金融国家」の中で
      ――ガルブレイスの晩年

 著者は2012年に病気に倒れて生死の境をさまよい、その後身体の自由を失った中で、ガルブレイスの死後10年に完成を目指してこの書物を書き上げたという。そのような著者の執念が感じられる一方で、云いたいことをまだ十分に言っていないのではないかと思われる部分もある。経済学には門外漢で、特に後半部分はわかりにくかったのだが、分かったことの中から、特に考えさせられたことを中心にまとめてみたいと思う。

 まず、アメリカ社会の歴史的な特質として、移民の国であるがゆえに、ヨーロッパ(や日本)と違って、共同体の伝統を持たず、そのために、共同体的な伝統との戦いから生まれた「自由」や「平等」についての考え方が広がらず、「自由」が極めて観念的にとらえられる傾向があるという指摘が注目される。アメリカの「小さい政府」や「自由な市場」の擁護者たちは、実はアメリカ経済が大企業によって動かされていて、自由な市場が成立する余地があまりないことを無視している。「自由」がイデオロギー化しているのであるという。
 そのようなアメリカの経済学は、ドイツに留学した学者たちによって発展させられたが、その次の世代であるヴァイナーはイギリスのマーシャルの経済理論を継承し、そのミクロ分析を精緻化し、その後の新古典派経済学の制度化への道を開いた。
 これらの輸入経済学に対して、アメリカ社会の現実を実証的にとらえ、そこから有為な政策を導き出す――ブラグマティックな方法論のもとにアメリカ独自の経済学として発展したのが制度学派(Institutional School)でヴェブレン(1857-1929)によって代表される。ヴェブレンの社会改革の考えは空想に終わったが、彼の後に続いたコモンズ(1862-1945)はルーズベルト大統領によるニューディールを指示し、その政策の立案と実施に積極的に参画した。しかし、政府の経済への介入を嫌う保守層の抵抗を受ける。この保守層の抵抗に批判を加えることになるのがガルブレイスであり、その彼を育てたのは1930年代のハーバード大学の大学院における経済学研究であったという。

 ガルブレイスはカナダのオンタリオ州の小さな村で、スコットランドからの移民の家庭に生まれた。彼の家庭は比較的大規模で裕福な農家であったが、その労働は厳しく、その一方で村にはスコットランドから受け継がれた助け合いの精神が生きていたという。彼はオンタリオ農業カレッジに進学し、家業を継ぐべく畜産を専攻したが、その後関心が農業経済に移り、カリフォルニア大学(バークレー校)の研究生に応募して採用され、カリフォルニアに移ることになる。バークレーでガルブレイスは経済学を基礎から学び、農務省の部長からバークレーに移っていたトーリー(後にニューディールにおける農業政策の推進者の1人となる)の知遇を得る。この時代の彼の友人の1人であるロバート・メリマンはヘミングウェーの小説『誰がために鐘はなる』の主人公ロバート・ジョーダンのモデルと言われる。メリマンを含む友人たちとの自由な討論の中で、ガルブレイスはその思想を形成していった。
 彼の思想形成に大きな影響を与えたのは、当時学生の間で広く読まれていたヴェブレンの書物であった。社会の現実を直観的に見抜く手法、社会に対する批判的な精神をガルブレイスはヴェブレンから学んだが、ヴェブレンとは違って彼は建設的な方向を目指した。カリフォルニアの農業を改善し、農民たちの困窮を少しでも和らげようと考えたのであった。カリフォルニアの農民たちの役に立つ知識や技術の普及の努力から、彼は農学部の分校の講師となり、さらにその過程で書かれた論文により博士の学位を取得、1934年にハーバード大学の講師に招かれる(トーリーが推薦した)。

 彼が赴任したハーバードでは、それまでの旧体制がこの時期に急激に変りだしていた。多くの教授がニューディールには反対している中で、ガルブレイスの指導教授であった農業経済担当のブラックはニューディール支持派であり、彼にプラグマティックな研究の方法について具体的に教えるとともに、農業経済以外の領域へと目を向けさせた。また、ブラックに紹介された実業家のデニソンと議論を繰り返すうちに、彼はケインズの『雇用・利子および貨幣の一般理論』(1936)を手にする。当時、ケインズの著書はアメリカでも広く読まれ、ハーバードの大学院生たちの中にはケインズ派に改宗する者が多かったが、教授たちは否定的で、考えを変える者はいなかったという。

 ガルブレイスはケインズに直接師事しようと、ロックフェラー財団から奨学金を得て、ケンブリッジ大学にわたる。残念ながらケインズ自身は病床にあって、会うことはできなかったが、ケインズ・インナー・サークルと呼ばれるケインズに身近な経済学者たちとの交流から多くのことを学ぶ。その一方、ケインズと対立していたLSE(ロンドン・スクール・オブ・エコノミクス)のロビンズやハイエクのような保守派の経済学者のゼミナールにも出席している。
 帰国後、ハーバードにおける人事の混乱から、彼はこの大学を去らなければならず、プリンストンを経て、ワシントンで第二次世界大戦下の経済政策にかかわり、実業界との衝突に疲れはてて、1943年に雑誌『フォーチュン』に勤めることになる。ハーバード時代の恩師であるブラックは彼をハーバードに呼び戻すことを提案し、ケインズ主義者である彼の採用には抵抗があったが、1949年にハーバード大学の教授となる。

 ガルブレイスの半生はかなり波乱に富んでおり、興味深く、予定していたよりも多くのことを書いてしまったので、今回はここでやめておくことにする。もちろん、大陸からアメリカへと渡ったシュンペーターや、ブルームズベリー・グループの一員であったケインズの正体もそれぞれ波乱に富んでいるのだが、著者も指摘しているように、エリート教育の伝統の中で勉学を続けたシュンペーターやケインズと、農村の現実と向かい合いながら、実学とアカデミズムの二本立ての学問的な経験を積み重ねたガルブレイスの違いは大きそうである。それにしても、ガルブレイスの経済学に影響を与えたといわれるヴェブレンとケインズは、相当違う理論を展開しているのではないか、それが彼の中でどのようにまとめ上げられているのかは興味ある問題で、また機会を見て詳しく掘り下げることにしたい。 

1年生になったら

3月29日(火)晴れ、温暖

 1年生といっても、小学校ではない、大学の1年生である。
 大学は、卒業式が終わって、新入生を迎え入れる、新入生のほうでは入学に備える、そういう時期ではないかと思う。

 1年生になったら、どんな生活を送り、どんな勉強をすべきかをめぐっては、大学でのガイダンスがあるだろうと思う。ただ、大学というところは、大学の先生たちが思っているよりも広い、大きな世界である。そしてその大学を取り巻く、もっと広い世界がある。

 本日付の朝日新聞の「折々のことば」という鷲田清一さんが担当しているコラムで、英文学者、評論家として、また新劇の指導者として活動した福田恒存の次のような言葉が取り上げられていた:「教育においてもっとも大切なことは、すべてを意識化してはならぬということ、またそんなことはできぬと諦めること」。ガイダンスの際に、大学の教員は学生のことを全部知っているのだから、君たちもそのいうことによく従うべきだということを毎年繰り返して話していた同僚がいたが、教員が学生についてそんなに良く知っているわけはない、ただ、入学試験の成績や、高校時代についての調査書についての情報を得やすい立場にあるというだけのことである。そしてそれは個人情報であるし、職業上知り得た秘密であるから、そんなことを言い触らすのは職業倫理にもとるのではないかという気が今でもする。

 大学時代に卒業論文の審査をしたある女子学生について、主査ともう1人の副査の先生が、この子はおとなしい子ですねえという話をしていたが、実はけっこう乱暴なドライバーであったということを私は知っていたけれども、黙っていた。どんな学生も教師の知らない側面は持っている。そしてそれを別に知る必要もないだろうと思う。
 教師の目が届くわけではないからと言って、学生は何をしてもいいわけではない。むしろ、自分のすることには自分で責任を負うべきである。成績が悪ければ、自分が勉強しなかったからであって、それを教師の指導が不十分であったからだなどといい逃れようとするのは誰も認めようとしないだろう。

 さて、そこで、自分自身が学生として、また教師として、中途半端にしかできなかったことではあるが、大学生としてはこうすべきだということを列挙しておく。
1 重要書類や身分証明に必要なものはしっかり保管しておく。また、どこでどうやって入手できるかを知っておく。
2 行事や授業、サークル活動やアルバイトなどの予定と実行について、手帳やダイアリーでしっかり管理する。それぞれの大学や、その生活協同組合で出している手帳やダイアリーがあれば、それを利用すべきである。
3 将来、就職しようと思っている場合は、そのために必要だと思われる資料を集めて、整理・保管しておく。保管するだけでなく、時々虫干しを兼ねて、眺めて心の準備をしておく。
 教職や研究職につきたいと思っている場合には、授業の資料の類はできるだけ整理・保管しておく。それだけでなく、繰り返し見直すことが望ましい。

 予定と実行についての記録を取っておくのは、自分についてできるだけ客観的に知ることができるようにするためである。あることをするのにどのくらいの時間がかかるか、どのくらいの努力を要するか、他人と比較してどうなのかなど、知っておくべきことは少なくない。何もしないまま自分自身について無限大に近い可能性を信じているのは、まことに危険である。
 確かに、青年時代というのは個人差が目立つ時期ではある。自分の将来の進路を決めて、それに突進するものもいるし、決めかねてうろうろしているものもいる。将来の希望があっても、それを実現していくための裏付けがないのは困ったことで、だから、自分について客観的に知る、将来の希望実現のための足掛かりを作っていくことが求められるのである。私などはうろうろしているほうだったが、そこで居直れなかったために、損をしたと思う。自分が得意でもないし、実績もない分野での就職を強要されて、散々な目にあったからである。その話はまた別の機会にしたいと思うけれども、別にうろうろするのは悪いことではない。学生生活はいろいろだと思った方が大学時代は楽になるはずである。

 本日、長谷川修司『研究者としてうまくやっていくには 組織の力を研究に生かす』(講談社ブルーバックス)という本を読み終えた。これは理科系の研究者を目指す人を対象に書かれた書物であり、大学の1年生よりも、大学院の修士課程の1年生くらいで読むとためになる本だと思うが、それ以外の人が読んでも参考にできる部分がある。大学というのは組織であるから、その特徴や、組織であることの利点を理解することも必要である。そういうことについてのガイダンスがされているか、誰がしてくれるかを注意してみる必要がある。

 4月を目前にして風邪をひいてしまった。それほど重くならないように気をつけることにしよう。

 このブログを始めてから、読者の方々にいただいた拍手が14,000を越えた。あらためてお礼を申し上げるとともに、今後ともご支援をお願いする次第である。

晩春

3月28日(月)朝のうち雨、その後晴れたり曇ったり

 神保町シアターで「生誕110年 女優 杉村春子」特集上映の中から、稲垣浩監督の『手をつなぐ子等』(大映京都、1948)、小津安二郎監督の『晩春』(松竹大船、1949)を見る。最近、小津安二郎作品への関心が高まっているように思われるし、『晩春』に主演した原節子が昨年死去したこともあり、『晩春』を取り上げることにする。それにしても、杉村春子が「生誕110年」というのはまったく意外で、もっと若いと思っていた。女優の年齢というのは一種の謎で、その謎解きが映画や舞台での演技に接する際の楽しみの1つでもある。

 『晩春』は『長屋紳士録』、『風の中の牝鶏』に続く小津の戦後第3作であり、一般にこの作品から戦後の小津の作風が安定したものとなっていったと評価される。高橋の評伝が記すところによれば、シンガポール滞在中に小津が見た多くのアメリカ映画、『風と共に去りぬ』や『市民ケーン』、そして「ジョン・フォード、ウィリアム・ワイラー、ウォルト・ディズニー・・・日本じゃまだ誰も見ちゃいないんだ。ワイラーの真似をしてるだけでも、4,5年はやって行けるぜ。そうしてる中には、シンガポールで仕込んだ肥料がジワジワと効いて来る」(高橋治『絢爛たる影絵』、文春文庫、400ページ)。その効き始めた作品であった。

 大学教授の曾宮周吉(笠智衆)は、妻に先立たれ、27歳になった娘の紀子(原節子)と2人で鎌倉で暮らしている。戦争中の無理がたたって体を壊した紀子は婚期に遅れ、周吉の妹である田口まさ(杉村春子)は何とか彼女に良縁を見つけようとする。曾宮の助手をしている服部(宇佐美淳)は好青年で、紀子とも仲がいいが、すでに紀子の後輩と結婚の予定であることが分かる。曾宮家と親しい小野寺(三島雅夫)も妻に先立たれたのだが、再婚している。紀子は小野寺が再婚したことについてあまり好意を持たない。小野寺の娘のアヤ(月丘夢路)は紀子の親友であるが、結婚に失敗して速記者として自立している。紀子はまさから縁談を進められるが、父親が自分なしは生活できないのではないかと気になってなかなか結婚に踏み切れない。まさは周吉に再婚の可能性があることをほのめかし、周吉もそれを否定しない…。

 あらすじからわかるように、この映画は結婚が主題となっている。ところが監督である小津、主演の原節子、そして彼女に結婚を勧める杉村春子の3人は、ともに生涯独身であった。象徴的であるのは、見合いも、結婚式も、紀子の結婚相手さえも映画の中で登場しないことである。
 北鎌倉の駅(この映画が撮影されてから60年以上たつのだが、あまり変わっていないのがすごいと思う。当時、松竹の撮影所の最寄り駅であった大船の次の駅なので、スタッフはごく身近な感じでとらえていたのであろう)の描写から、茶道の教室でのまさと紀子の出会いという映画の発端から、動きの少ない、安定した画面の中で、登場人物たちの心の中の動きを押し殺した描写の中で物語が展開していく。最後の方で、周吉と紀子が京都に旅行するシーケンスがあり、竜安寺の石庭を見ながら、周吉と京都で合流した小野寺が会話する場面がある(同じ対象物を眺めていることを確認することによって、意志の疎通を確認するのが伝統的な日本のコミュニケーションのやり方である)。一方で伝統的な文化や暮らしがあり、他方で戦後の新しい風俗(海岸にコカ・コーラの宣伝の標識が立っていたりする)がある。しかし、そのような雅俗(伝統と現代)の折衷、伝統を完全に否定せずに、取り入れられるところから少しずつでも新しい文化・風俗を取り入れていくのも日本の伝統と言える。

 杉村春子は『手をつなぐ子等』での演技を認められてこの作品に起用され、その後、小津作品には欠かせない演技者の1人となった。高橋治によると、小津が「信頼からくる溢れる優しさで接した」(高橋、同上、60ページ)女優が杉村であった。読み合わせに参加しなくても、舞台との掛け持ちで出演しても文句をいわれなかったという。『秋日和』の打ち上げパーティの際に、1番バッターだといわれた岡田茉利子が、「私が一番で、なら、四番はだれ」(高橋、同上、251ページ)ときいたところ、
「うん、杉村さんだよ」
「杉村さん」
「うん、若い中(うち)はね、一番で良いんだよ」
 四番打者に求められるのは塁上の走者を生かす安定感のある打撃である。加えて、小津は杉村の演技に松竹の撮影所が蒲田にあったころの残影を見ていたのではないかとの推測もなされている。この後、高橋は小津が自分の映画の配役についてどのような構想を持っていたかを推測している。それについての論評ができるほど、私が小津作品を見ていないのが残念である。

 小津の映画作りの長所を認めてはいても、動きの少ない、省略の多い、小津の映画のつくり方には彼の助監督を務めた多くの映画青年たちが反発し、彼のもとから離れていったと、高橋治は記している。「先輩である斎藤武市も、今村昌平も…小津組を去ったと聞いている。わたしもそんな1人だったにすぎない」(高橋、同上、19-20ページ)。ここで言及されている斎藤武市の名が、クレジット・タイトルに名を連ねた4人の助監督の末尾に記されている。ということはおそらく、この作品の撮影時にカチンコをたたいていたのは斎藤であって、やたらテストを繰り返して、画面の中の絵を完成させようとする小津の映画作りに対する反発が、撮影の進行にかかわる中で芽生えていったはずである。ただ、斎藤の場合、反発はしても、小津を超える作品を作ることができなかったという問題はある。

 原節子について書くのを忘れていた。彫りの深い顔立ちで、照明によって、その表情が大きく変化する。周吉と紀子が能を鑑賞に出かける場面があり、そこで周吉が再婚を考えているという女性に出逢うのだが、能面が縁者の動きによって微妙にその表情を変化させるように見えることを考えると、父娘の対立のきっかけの場として選んだというだけでなく、映像的な効果によって心理の動きを物語ろうとしているようにも思われる。同じことの繰り返しになるが、もっと小津作品を見ないと、はっきりしたことは言えそうもない。

 本日はこの作品についてまとめることで時間を掛けてしまい、他の方々のブログを訪問する時間をとることができなかった。明日は(と言ってもすでに29日になっているのだが)十分に時間を掛けて、訪問・拝読するつもりである。ご了承のほどを。 

『太平記』(96)

3月27日(日)晴れ

 元弘3年(正慶2年、1333年)5月7日、足利高氏、千種忠顕、赤松円心らの兵が鎌倉幕府の京都における拠点であった六波羅を攻め落とし、六波羅の2人の探題は都を落ちて、鎌倉で再起を図ろうと、光厳天皇、2人の上皇、東宮を伴って東山道を進むが、南探題の北条時益は早々に、流れ矢にあたって命を落とし、残る北探題北条仲時らも5月9日、番場の峠を越えることができず、432人が自害する。これとほぼ時を同じくして、5月8日に上野の武将である新田義貞が生品明神で討伐の兵を挙げると、見る見るうちに幕府の政治に不満を持つ関東の武士たちが集まり、倒幕の兵は勢いを増して、幕府が派遣した追討軍を撃破し、5月18日には鎌倉を三方から攻撃する。そして、21日には義貞の軍は稲村ケ崎を渡渉して鎌倉市中に攻め入り、22日には北条氏の得宗である北条高時をはじめとする873人の武士たちが、自害して、鎌倉幕府は滅びる。
 5月12日に、六波羅探題滅亡の報せを受けた船上山の後醍醐天皇は、23日に上洛の途につき、播磨の書写山円教寺、法華山一乗寺などを経て、30日、兵庫の福厳寺で新田義貞が送った使者から鎌倉幕府滅亡の報せを受けた。赤松一族や楠正成らに警護された天皇の一行は、6月5日に東寺、6日に二条内裏に入り、その日、足利高氏・直義兄弟はそれぞれ治部卿と左馬頭に任じられた。
 九州では少弐貞経、大友貞宗、菊池武時らがまだ後醍醐天皇が船上山に滞在されていたころから連絡を取って、綸旨と錦の御旗を受け取ってはいたが、行動を起こさずにいたところ、彼らの内通が九州探題の北条英時の知る所となった。英時の呼び出しを受けた菊池武時は、ここまで事態が進めば、九州探題と一戦を構えるだけだと、少弐、大友にも使者を派遣して、3人で英時を攻めようとする。

 大友は、天下の形勢がどうなるかわからないというので、はっきりした返事をしようとはしない。少弐はというと、六波羅での攻防戦が幕府に有利に展開しているという情報を得ていたから、宮方に心を寄せていたという罪を軽くしようと計算して、菊池との約束を破り、菊池のもとから遣わされてきた八幡弥四郎宗安を討ち果たし、その首を探題のもとに差し出した。菊池入道(武時は)大いに怒って、「日本一の不覚人どもを憑んで、この一大事を思ひ立ちけるこそ落ち度なれ。よしよし、その人々の与力せぬ軍はせられぬか」とて、3月13日の卯の刻に、わづかに二百五十騎にて、探題の館へぞ押し寄せける」(第2分冊、182ページ、「日本一の卑怯者たちを頼りにして、この一大事を思い立ったのが間違いであった。ままよ、少弐、大友が味方しなくても戦ができないわけではない」と、3月13日の午前6時ごろに、わずかに150余騎で、探題の館に押し寄せた)。

 菊池入道(英時)が、櫛田宮(福岡市博多区上川端町の櫛田神社)の前を通り過ぎようとした時、神が合戦の凶事を示されたのか、または騎馬のまま通ったことを咎められたのか、菊池が乗った馬の足が急にすくんで、一歩も前に進まなくなってしまった。菊池入道は大いに怒って、「どのような神でおわされようと、寂阿(=菊池入道、武時)が戦場に向かおうとする途中で、騎馬のまま通ることをおとがめになるご様子である。そのようになされるのならば、矢を一つ射てみましょう。受けてごらんなさい」と箙の上側に刺す儀式用の鏑矢を抜き出して、その2本の矢を2本とも、神殿の扉めがけて射たのであった。矢を射ると同時に、馬のすくみが直ったので、「それ見たことか」と笑いながら通り抜ける。後で社壇を見ると、2丈(6メートル)余りの大蛇が、菊池の鏑矢に当たって死んでいたのが不思議であった。(櫛田神社は博多の総鎮守として市民の信仰を集めてきた神社であるが、その由来や祭神については諸説あるようである。また、ここで馬が立ちすくんだこと、武時の射た矢で馬の足がもとに戻ったこと、それが神意とどのように関係するのか、大蛇と神はどのような関係にあるのか・・・・などすべて謎である。)

 このように幕府に敵意を持つ武将が攻めてくることは、すでに探題も察知していたので、多くの兵を城門から外に出して戦わせたのであるが、菊池は小勢ではあったが、皆、決死の覚悟で攻め寄せてきたので、守っている探題方の兵力の消耗ははげしく、とうとう九州探題方の兵たちは本丸に立てこもらざるを得なくなった。菊池の勢はいよいよ勢いに乗って、塀を乗り越え、木戸を切り破って、隙間もなく攻め入ってきたので、探題であった英時はもはやこれまでと覚悟を決めて、自害しようとしたのであった。
 ところが、この時に少弐、大友が6,000余騎を率いて、菊池の軍の背後をつこうと迫ってきた。

 菊池入道はこれを見て、嫡子である肥後守武重を呼んでいうことには、「自分は今、少弐、大友に出し抜かれて、戦死しようとしているが、道義に適うことをしているので、命を落とすことを後悔はしない。したがって、寂阿は、この城の攻防戦で戦死する覚悟である。おまえは急いで故郷の館に帰って、城の守りを固め、さらに兵を集めて、自分の仇を討て」と申し渡し、若い郎等たち50騎を選び出して、武重につけて、肥後国に帰らせようとした。故郷に残してきた妻子たちが、出陣したのが最後の別れになるとも知らないで、帰宅するのを今か今かと待っているであろうと、あわれに思われたので、一首の歌を袖の笠符に書きつけて、故郷へと送った。
  古里に今夜(こよい)ばかりの命とも知らでや人のわれを待つらん
(第2分冊、184ページ、私が今夜かぎりの命とも知らずに、ふるさとの妻は私を待っているだろう。)

 武重は40歳を越えたばかりの父親が戦死の覚悟をして大敵に立ち向かおうとしているのを見て、自分も一緒に戦死したいと必死に申し出るのだが、おまえを天下のために生き残らせるのだと父親が何度も厳命するので、やむなくこれを最後と父と別れて、泣く泣く肥後の国へと戻った。その心中があわれに思われる。

 その後、菊池入道はもう1人の子どもである肥後三郎とともに、残った100余騎の兵を前後に建てて、背後から迫る少弐・大友の軍勢には目をかけず、英時の館をひたすら目指して、一歩も引かず、九州探題の軍勢の1人1人と刺し違えながら、1人残らず討ち死にした。

 武時がふるさとの妻に宛てて書き残した歌は、地方の武士らしい、技巧を凝らさずに率直に心情を詠んだ歌であることが、かえって心を打つ。この箇所では、倒幕の意思をはっきりさせた菊池一族と、幕府に対して不満を抱きながらも、その力がまだまだ強大であることからまだ帰趨を決めかねている少弐・大友両氏の動きとが対比される。『太平記』の作者の記すところを信じれば、大義を重んじ、歴史の流れは大義の実現に向かっていると信じる菊池と、より現実的な少弐・大友の考え方の違いである。これら2つの勢力は結局、呉越同舟して後醍醐天皇に味方することになるが、その後、またそれぞれの利害関係の対立が明らかになる。

遠藤慶太『六国史――日本書紀に始まる古代の「正史」』(5)

3月27日(土)曇り、時々晴れ

 『日本書紀』が歴史的な事実をどのように記述し・評価しているかを考える際に、きわめて重要になってくるのが、大友皇子と大海人皇子が皇位を争った672年の壬申の乱であると著者は論じる。『日本書紀』全30巻のうち、最初の2巻が神代にあてられ、その後の28巻が歴代の天皇(と神功皇后)の治政を記しているが、顕宗・仁賢天皇が1巻にまとめられ、天武天皇が2巻に分けられているほかは、1人が1巻という構成である。その2巻に分けられた天武天皇紀の上巻が壬申の乱を扱っているため、「壬申紀」とも呼ばれてきた。

 著者は『日本書紀』にはとかくの批判がある中で、「撰者自身が判断を下せないことについて『後に考える者が明らかにするだろう』(継体天皇25年12月条の分註)と、後代に判断を委ねる謙虚さも持っている」(46ページ)として、その記述が決して一方的に偏ったものではないことを示そうとしている。とはいうものの、一方に偏った歴史を記さない努力の中で、「公的な立場に縛られている」(47ページ)のが壬申の乱をめぐる部分であると論じている。

 『日本書紀』がまとめられた奈良時代の天皇は天武天皇(大海人皇子)の子孫であり、人心の乱は奈良時代の人々にとっていわば「現代」の出発点となる出来事であった。そのことが天武天皇の治政をいつから数えるかという問題にあらわれているという。「672年(壬申)の6月、大海人皇子は吉野で決起し、近江大津宮の大友皇子との戦端を開いた。およそ1ヵ月にわたる戦闘は大海人皇子の勝利に帰し、敗北した大友皇子は自害する。7月、飛鳥に入った大海人皇子は、翌673年2月に即位して天武天皇となった。『日本書紀』は即位からは巻を改め、巻第29天武紀下となる。ただ『日本書紀』は即位に先立ち、672年壬申を天武天皇元年として数え始めるので、巻第29は天武天皇2年で始まる。『日本書紀』では、皇位は天智天皇から弟の天武天皇へと継承されたとの立場を堅持し、大友皇子の即位は認めていない。また皇位の空白も是としないために、671年12月に天智天皇が崩じると、翌年は天武天皇の元年とした」(同上)。

 ところが、『日本書紀』成立以前に記された薬師寺東塔の檫(さつ=仏塔の頂部にある相輪の一部分で、心柱を包む金属製の管)には天武天皇が、病気になった皇后(後の持統天皇)の快癒を祈願するために薬師寺造営を発願された庚辰の年(680)年を天武天皇8年と記している。『日本書紀』では9年としているのである。詳しい議論は省くが、『日本書紀』の「紀年は天武天皇を天智天皇の正統な後継者とする『日本書紀』の立場が表明された原則論なのだ」(50ページ)と論じている。

 壬申紀は養老4年(720年)からさかのぼること50年足らず前の争乱について、各氏族からの報告や従軍した下級官人の記録に基づいてまとめられたものである(考えてみると、私が大学に入学したのが今を去ること51年前で、養老4年から壬申の年を振り返るよりも、もっと時間がたっている)。江戸時代、水戸藩で『大日本史』の編纂に従事していた学者たちは『日本書紀』とは異なる資料も参考にした結果、大友皇子が即位していたという結論を導き出し、その結果として明治時代に、大友皇子(=弘文天皇)は天皇歴代に加えられる。

 ここでも著者の議論は『日本書紀』の内容を重く見る立場を崩していない。『日本書紀』の読者となる人々は、その一方でこの書物の編纂の過程で資料を提供した氏族に属する官人たちであったから、天武天皇を正当とする立場を崩さないにしても、それほど一方的な記述を展開しているわけではなく、あまりに一方的であると、官人たちの承認を得られなかったであろうという。
 天智天皇が亡くなられた後、大友皇子が即位されたかどうかをめぐっては歴史家の間に様々な説があって、遠藤さんが記しているほど単純なものではない。天智天皇の母である斉明天皇が亡くなられた際に、天智天皇はすぐに即位されず、称制(しょうせい=天子に代わって政務をとること)という形で政治をされた。それと同じように、天智天皇が亡くなられた後、大友皇子は称制をされたのだという考えもあるし、天智天皇の皇后が称制されたという説もある。このあたりのことは直木孝次郎『壬申の乱』に詳しく論じられていたと記憶するが、何せ、この本を読んだのが50年以上昔のことなので、記憶が確かではないことを割り引いて読んでほしい。遠藤さんは参考文献に直木の書物を2冊挙げているが、『壬申の乱』には目を通していないようで、このあたりが残念である。ただ、「そもそも即位を認定するという行為は、現在の古代史研究でそれほど意義はないだろう」(53ページ)という意見も述べていることを付け加えておこう。

 『日本書紀』がさまざまな資料を材料にして編纂されていることを指摘したことから、著者は、材料となった資料の問題を次に取り上げることになる。その点の考察については、また次回に譲ることにしたい。

ダンテ・アリギエリ『神曲 煉獄篇』(25-2)

3月25日(金)晴れ後曇り

 「…人生を半ばまで歩んだ時/…暗い森をさまよっている自分に気づいた」(地獄篇、26ページ)ダンテは、天界の貴婦人たちの意思を受けたローマ黄金時代の大詩人であるウェルギリウスの魂に導かれて、死後の世界を遍歴することになった。そして彼は地球の内部にある地獄を経て、南半球にそびえる煉獄山を登り、その7つある環道の最後の道にたどりついた。途中から、ローマ白銀時代の詩人であり、キリスト者であることを隠していた罪を煉獄で償い終えて、今や天国に向かおうとするスタティウスが、2人に合流する。ダンテは、死後の世界の魂達は食事をとらないのに、なぜ、飽食の罪を犯した第6環道でその罪を償っている魂が、痩せ細っているのかを疑問に思って問う。ウェルギリウスはその問いに答える役割を、スタティウスに譲る。スタティウスは魂が人間の中にどのようにして宿るのかを説明する。

 この人間の魂、つまり霊的魂は肉体が滅んだ死後も消滅しないとスタティウスは説明する。それどころか
他の能力はすべて沈黙してしまうが、
記憶、知性、意志は
生前よりもさらに鋭敏に活動する。

それは休むことなく自ら、人智を越えた驚異的な方法で
二つある岸辺のどちらかに落ちていく。
そこに至ってはじめて己の進む道を知る。
(374ページ) 神に由来する形相である人間の魂は、質料である肉体がなくても、空気を質料にして感覚を組織し、自身の持つ欲望や感情に従って形が変わるのだと、スタティウスは言う。
以後、これにより彼は外見を手に入れるので、
それは影と呼ばれる。またこれらにより
諸感覚が視覚に至るまで組織される。

これにより我らは話し、これにより我らは笑う。
これにより我らは涙を流し、山中で
君が聞くことのできた、歎きを上げる。

我らに影響を与える欲望や
その他の感情に従い、影は形を変える。
そしてこれが君の驚き見たことの理である」。
(375‐376ページ) ダンテは想像力をめぐらして、人智を超えた世界の事柄を説明しようとする。

 そしていよいよ、ダンテ、ウェルギリウス、スタティウスの3人は煉獄の第7環道を本格的に歩み始める。
ここでは崖の壁が炎を外縁に向けて射かけ、
そして外縁は上方へ息を吹いて
炎をはじき返すことでそれを自分から遠ざけ離している。

そのため私達は壁のない側を
一人々々進まねばならなかった。そして
私は内側では炎を恐れ、外側では転落を恐れていた。
(376-377ページ) 一方には炎の燃え立つ壁があり、他方には断崖がある道を魂たちは進まなければならない。ダンテたちが、この第7環道で出会った魂たちは、淫乱の罪と貞潔の美徳との間で自分たちの生き方を振り返りながら罪を消していこうとしていた。

 いよいよ天国が近づいてきたはずではあるが、ダンテたちの歩む道のりは依然として厳しい。しかし、ダンテは魂たちが炎に焼かれても、その傷(罪)を癒すことができるはずだと思ったのであった。

日記抄(3月18日~24日)

3月24日(木)雨後曇り、肌寒い

 3月18日から本日までの間に、経験したこと、考えたことなど:
3月18日
 オリンピックのマラソン代表が決まる。選考方法をめぐって異議を唱える向きもあるが、アメリカのように「一発選考」にすれば、もめないかもしれないが、選考のためのレースに指定されない大会の関係者からすれば面白くないし、「一発選考」が結果を出すかどうかはまた別の問題である。ある意味では「もめる」くらい、選手の層が厚いことは、いいことではないかと思う。

3月19日
 NHKラジオ「攻略!英語リスニング」は”Yasujifo Ozu"(小津安二郎)を話題として取り上げた。日本文化を「発信する」英語力を育てることを目指して、このテーマが取り上げられたのだろうが、溝口でも、黒沢でもなくて、小津というのが気になるところではある。小津のロー・ポジションが”tatami shots"と言われていることを知る。

3月20日
 ニッパツ三ツ沢球技場で横浜FC対レノファ山口FCの試合を観戦する。横浜はルス監督に代わり、増田功作ヘッドコーチが指揮することになった第1戦である。これまで3試合無得点であったからだろうか、三浦カズ、イバ、小野瀬という3トップを先発させたことが目立った。実質的にはワン・トップのイバはまだチームになじんでいないのか、十分に活躍できず、三浦カズもボールを奪われたりする場面が少なからず見受けられたが、後半になって若い小野瀬が2ゴールを挙げて、山口を突き放した。後半から大久保が登場。イバと大久保という上背のある2トップは相手を威圧するに十分な迫力があり、小野瀬の成長と相まって今後が楽しみだなと思った。とにかく、勝ってよかった。これで17位に浮上。

3月21日
 NHKラジオ英会話の時間は月末のスペシャル・ウィークが始まり、”Old News Is New Again"として、”Titanic's last lunch menu to auctioned off"と"Pluto may have ice crust"という2つのニュースが取り上げられた。Pluto(冥王星)はアメリカ人であるパーシヴァル・ローウェルがその存在を予言し、その助手であったトンボーが発見したので、冥王星が”dwarf planet"(準惑星)に格下げされたことに不満を持つアメリカ人が多かったそうである。英語のPlutoを「冥王星」と訳したのは大仏次郎の兄である野尻抱影で、横浜の人であるが、準惑星への格下げに不満を持つ横浜市民が多かったかどうかは不明である。

3月22日
 墓参りに出かける。本当は昨日出かけたかったのだが、体調を考えて1日遅らせたのである。

 アリ・ブランドン『書店猫ハムレットのお散歩』(創元推理文庫)を読み終える。ダ―ラ・ペティストーンは大叔母から相続したブルックリンの個性的な書店を経営ししている。店長はもともと大学の教授だった黒人のジェイムズ。1人しかいない店員はティーンエイジャーのロバート。それに、前の経営者の時代からこの店で毎日を過ごしている黒猫のハムレットも、店には欠かせない存在であるが、どうも、最近、彼は元気がない。「猫のセラピスト」の意見では、自分をできそこないのように感じているのだというのだが、これがどこまで信じられる意見であるかはわからない。その一方で、ダーラとロバートが通っている武術道場で、そこの「師匠」であるトム・トムリンソンが殺されるという事件が起きる。トムの飼い犬であったローマはなぜかロバートになつくのだが、トムの妻のジャンは犬を取り戻そうとする…。
 今回は猫に加えて犬が登場し、トムを殺した犯人捜しのほかに、ハムレットをどのようにして立ち直らせるか、ローマの身の振り方という猫と犬をめぐる問題がそれに絡む。立ち直る過程でのハムレットの活躍ぶりが現実離れがしていて、その点をどのように評価するかが、この作品の評価の分かれ目になりそうである。

 神保町シアターで加藤泰監督の『江戸川乱歩の淫獣』、高橋治監督の『死者との結婚』を見たことは既に触れたが、高橋による小津安二郎の評伝『絢爛たる影絵』を思い出して、読み返してみる。高橋は小津の「弟子」である佐々木康の弟子である堀内真直に師事したというだけでなく、『東京物語』の最下位の助監督として🎬カチンコをたたくという経験をした。『東京物語』の出演者の1人である東山千栄子が『死者との結婚』で重要な役割を演じているというのも興味深い。小津には佐々木のほかに、原健吉という「弟子」がいたが、その原に師事したのが高橋と同期の篠田正浩だそうである。
 小津の助監督で、高橋の表現を借りると「少しでも不逞なものを秘めた」(19ページ)なものは、齋藤武市にしろ、今村昌平にしろ、彼のもとを去っていったという。高橋もその1人であることを自認している。スーちゃん=田中好子が死んだときに、彼女を『黒い雨』で起用した今村昌平が「小津安二郎の映画に出演させてみたかった」と言ったというエピソードが盛んに言及されたが、今村は演出者としての好奇心からこう発言しただけのことで、スーちゃんをほめて言ったわけではないと思う。
 カチンコをたたくということについていえば、山田洋次が自分の助監督としての出発点は川島雄三の作品で🎬をたたいたことだと話していたことを思い出す。山田はもちろん、野村芳太郎の「弟子」であるが、野村の兄貴分であった川島や、その師匠であった渋谷実からうけた影響について考えてみるのも興味深いことかもしれない。

3月23日
 ユーロスペースで『風の波紋』を見たことについては、既に書いた。この映画を見ていて、江戸時代の文人である鈴木牧之の『北越雪譜』と『秋山紀行』のことを思い出した(ほかに書くことがないので、無理に結びつけているというのが真相である)。
 牧之の友人であった十返舎一九は2度越後を訪れ、どこかで聞きつけて秋山郷(信越国境の集落であるが、越後ではなく、信州に属している)について興味を持ち、しきりにその様子を知りたがったので、牧之は実際に秋山郷を訪ねて『秋山紀行』を書いたのだが、それに先立って一九は世を去っていた。昨年の10月から12月にかけて放送されたNHKカルチャーラジオ『弥次さん喜多さんの膝栗毛』で、一九の越後・信州旅行とその成果である『滑稽旅賀羅須』について触れられていた。一九がもう少し長生きして、牧之の『秋山紀行』を目にしていれば、また別の作品が生まれたかもしれないと思うと、ちょっと残念な気がする。

3月24日
 NHKラジオ「実践ビジネス英語」の”Quote...Unquote"のコーナーで紹介された言葉:
Man is but a reed, the most feeble thing in nature, but he is a thinking reed.
    ―― Blaise Pascal
(French philosopher, mathematician, physisicist and inventor, 1623-62)
(人間は1本のアシにすぎず、自然界で最も弱いものだが、考えるアシである。)
 原文はもちろん、フランス語で、もっと長かったような記憶がある。このコーナーでは英米だけではなく、それ以外の人々の「名言」が紹介されている。フランスと古典ギリシアの人たちの言葉が多いような気がする。

 NHKラジオ「まいにちロシア語」の放送の中で、井上靖の小説『おろしや国酔夢譚』の映画化について触れられていた。この作品でロシアの女帝エカテリーナをフランスの女優であるマリナ・ヴラディMalina Vladyが演じていたことについても語られた。彼女はもともとはロシア人だそうであるが、エカテリーナはもともとドイツ人なので、どこか勘違いがあったような気がする。
 ヴラディはフランスで有望な新人女優に与えられるシュザンヌ・ビアンケッティ賞を1954年に受賞している(古い話だね)が、1948年にこの賞をとったオディール・ヴェルソワOdile Versoisは彼女の実姉である。ヴェルソワはカトリーヌ・ドヌーヴの主演作『めざめ』に出演していたのを記憶している。姉妹女優としての知名度ではヴェルソワ、ヴラディをしのぐフランソワーズ・ドルレアック、カトリーヌ・ドヌーヴはどちらもシュザンヌ・ビアンケッティ賞をとっていない。不思議だが、ほんとうの話だから仕方がない。

風の波紋

3月23日(水)晴れ後曇り

 渋谷ユーロスペースで『風の波紋』を見る。

 『阿賀に生きる』で撮影監督を務めた小林茂が、同じく新潟県内ではあるが、今度は山里に住む人々の生活を季節の移り変わりの中で見つめたドキュメンタリー映画である。

 越後妻有(えちごつまり)の村に都会から移り住んで、茅葺き屋根の古民家を修復し、打ち捨てられていた田んぼも再び耕しながら、生活している木暮さん夫婦や、草木染職人の松本さんの一家の暮らしぶりを追う。基からこの土地に住んでいる人たちももちろん登場する。一方で山菜やキノコなど、野山の豊かな恵みの恩恵を受け、他方で冬の積雪のような厳しい自然に直面する。映画は5年間の歳月をかけて、集落の人々の生活に密着しながら製作されたという。手作り感と、熟成された味わいが感じられる映画を作ろうとしたようである。歌や演劇的なパフォーマンスを挟んで、5年間の出来事を拾い上げているので、やや雑然とした印象はあるが、現実というのは雑然としたものである。

 私は北信越で20年近く生活した経験があるから、何度か豪雪を経験しているし、自分たちの住む地方都市よりもはるかにすごい豪雪を経験する地域があることも聞いている。とはいうものの、映画の中で何度となく描かれる積雪には圧倒される。4メートルを超える積雪で、屋根に重く降り積もった雪を取り除くのは並大抵の作業ではない。それでも、休み休み、ゆっくりとしかし確実に作業を進めていく。いやになるほど降り積もった雪であるが、そのうち全部がとけてしまう。そして、また冬が来て大雪が積もる。
 映画の初めの方で山羊の子が生まれる場面があるが、その後育っていったそのうちの1頭が屠殺されて料理としてふるまわれる場面もある。その山羊の子が飼い主になついていたことが笑いながら語られる。
 時間は何事もないように過ぎていくように見えて、やはり何事かはあるのである。

 映画の後半で、都会から移り住んで20年間民宿を経営しているという人の、もともとこの土地に住んで生活してきた人にはかなわないという感想が述べられる。集落から去っていって、墓参りにだけ訪れるという人の声も聞かれる。映画はいろいろな人たちの姿を描きだす。地震で倒壊しかけた木暮さんの家が多くの人たちの協力で建てなおされる。その祝賀のための集まりの様子が面白い。民謡を歌う人がいるかと思うと、木暮さんは、昔の「歌声喫茶」でよく歌われた「仕事の歌」を歌う。上手な人もいるし、下手な人もいるが、盛大に拍手が送られる。
 家屋の修復にせよ、雪掘りにせよ、料理にせよ、田植えや稲刈りにせよ、名人クラスがいるかと思うと、全くの素人もいる。それぞれがお互いを大事にして、協力し合って生活しようとする。特に子どもがかわいがられる。都会の生活、企業の中の生活だと、見落とされたり、大事にされなかったりする個性が、ここでは生き生きと発揮されているように思える。

 とはいうものの、過疎の現実がある。映画に登場する人たちのほぼ全員が、山里で暮らす人がなくならないことを願っている。それと、自分がそこで暮らそうという決心とが必ずしも結びつかないのが問題であり、映画を通しての問いかけとなっている。

 昨日はこの映画を見てから研究会に出席、さらに二次会で夜遅くまで過ごしたので、更新が遅れてしまった。悪しからず、ご了承ください。

『江戸川乱歩の淫獣』、『死者との結婚』

3月22日(火)晴れ、温暖

 神保町シアターで「横溝正史と謎解き映画の快楽Ⅱ 本格推理作家の世界」特集上映から、加藤泰監督の『江戸川乱歩の淫獣』(松竹、1977)、高橋治監督の『死者との結婚』(松竹、1960)を見た。事前のプログラムでは、ジョルジュ・シムノンの「仕立て屋の恋」の翻案映画化である『その手にのるな』(松竹、1958、岩間鶴夫監督)が上映されることになっていたのだが、上映プリントの状態が非常に悪く、『江戸川乱歩の淫獣』が代わりに上映されることになったとのことである。『その手にのるな』は、高橋貞二の主演作品で、高橋の本格的な演技にあまり接したことがなかったので、楽しみにしていたのだが、上映中止は残念である。どこかで、もっと良い状態のプリントが発見されて、上映される機会が生まれることを期待したい。

 さて、『江戸川乱歩の淫獣』であるが、本格推理作家を自認する寒川光一郎(あおい輝彦)が、実業家の夫人である妖艶な美女・小山田静子(香山美子)から、昔の恋人から脅迫状が届いているという相談を受ける。その恋人というのは、謎の探偵小説家として知られる春泥であるらしい。寒川を担当している雑誌編集者の本田辰雄(若山富三郎)も、行方不明になっている春泥の正体を突き止めようと、寒川に協力し、捜索を始める。寒川は怪奇・幻想的な趣向を織り込んだ春泥の作風には批判的なのだが、彼の目前で展開し、その解決を求められる事件はむしろ怪奇・幻想的なものである…。

 上記以外にも、大友柳太郎、川津裕介、中山仁、仲谷昇、野際陽子、加賀まりこ、尾藤イサオ、藤岡琢也、菅井きん、花柳幻舟、倍賞美津子、クレジット・タイトルで見かけたが、画面で確認できなかった配役として桜町弘子、石井とみこというかなり多彩な配役で、日活ロマン・ポルノに出演していた田口久美が外国人女性の役で出演しているのも見どころには違いない。明暗をはっきりと対照させた画面構成や、見世物小屋のセットなど、加藤泰の腕が振るわれている場面も少なくないが、寒川が事件の真相に迫っていく過程がどうもまだるっこしく、名探偵には程遠いのが気になる。もっともあおい輝彦の個性が、寒川の愚図なところをうまく表現しているという評価もできよう。香山美子が物語の要求する妖艶さを十分に表現しているとは言えないのも気になるところではある。原作を読んでいないので、その点の評価が難しいのだが、探偵小説における「著者の特権」は映像化によって奪われる場合が多いことを考えさせられる作品であった。

 『死者との結婚』はウィリアム・アイリッシュ(コーネル・ウーリッチ)の原作小説の翻案・映画化で、脚本を高橋治と田村孟が書いている。恋人である競輪選手の中西(高野真二)に裏切られて、自殺しようとして死にきれないまま、光子(小山明子)は旅に出る。中国地方から四国にわたる連絡船の中で、また自殺を図るが、富豪の子息である保科忠一(春山勉)に助けられ、その妻の妙子(瞳麗子)と一晩語明かそうとするが、海難事故に遭う。光子は助かったが、保科夫妻は死亡し、たまたま妙子の指輪をはめていた光子は妙子と間違えられる。そして、四国の富豪である保科家の人々、とくに忠一の母であるすみの(東山千栄子)は彼女を温かく迎えるが、忠一の弟である則男(渡辺文雄)はかすかな疑いを抱く。しかし、光子が家族に尽くす姿を見ているうちに、則男の態度にも変化が生まれる。ところが・・・。

 光子には秘密があるために、態度が控えめになるのだが、それが家族に好感をもって迎えられる。観客は真相を知っているので、この好感がどこかで別のものに変わらないかとはらはらしながら見守る。旧制三高寮歌「逍遥の歌」(紅萌ゆる)が忠一の愛唱歌として演奏されるが、光子はこの曲を知らない…。どこで秘密が露呈してもおかしくない中で、ヒロインがけなげに頑張っていく。小山明子の美貌がサスペンス感を盛り上げている。物語の発端が発端であるだけに、単純な勧善懲悪に終わらないが、そこを無理しても、勧善懲悪にもっていった方が興行的には成功したかもしれない。四国が舞台であるのに、そういう風土の特色が浮かび上がってこないのはどういうことであろうか。

 監督である高橋はその後、作家に転身し、1984年に小説「秘伝」で直木賞を受賞したほか、小津安二郎の評伝『絢爛たる影絵』の著者としても知られる(小津の代表作に数えられる『東京物語』の5番目の助監督だった今村昌平が身内の不幸で参加できなくなったので、それに代わって助監督に起用されたといいう経歴がある)。
 あまり関係のない話題になるが、この作品に参加したキャスト・スタッフの中で、大島渚夫人となった小山明子だけでなく、渡辺文雄それに、脚本の田村孟も、その後大島渚作品の常連となったというのがなんとなく気になる。映画そのものだけでなく、映画がつっくられた時代の雰囲気とか、具体的な環境にも好奇心がわくところがあるのである。

近藤成一『鎌倉幕府と朝廷 シリーズ日本中世史②』

3月21日(月)曇り後晴れ

 3月19日、近藤成一『鎌倉幕府と朝廷 シリーズ日本中世史②』(岩波新書)を読み終える。1月25日、26日、28日付のこのブログで紹介した五味文彦『中世社会のはじまり』に続く、『シリーズ日本中世史』の第2弾である。その時にも書いたが、そもそも西洋の<中世>とパラレルな<中世>を日本社会に設定できるのかという根本的な問題は、このシリーズでは回避されている。その点はさておいて、「鎌倉時代」の通史としてこの書物は大いに読み応えがあるし、この時代について考える際に重要な問題の多くが取り上げられているので、この時代の研究に興味がある、あるいは取り組んでみようと思っている歴史愛好家、学徒には必読の書物であろう。

 この書物の目次を紹介すると:
はじめに
第1章 鎌倉幕府の成立と朝廷
 1 治承・寿永の乱
 2 征夷大将軍
 3 承久の乱
第2章 執権政治の時代
 1 執権泰時と御成敗式目
 2 乱後の朝廷
 3 得宗家の成立
第3章 モンゴル戦争
 1 鎌倉時代の対外関係
 2 文永・弘安の役
 3 戦争のあとに
第4章 徳政と専制
 1 弘安徳政
 2 両統迭立
 3 得宗専制
第5章 裁判の世界
 1 裁判のしくみ
 2 裁許状を読む
 3 訴訟の多発する社会
第6章 鎌倉幕府の滅亡
 1 悪党の登場
 2 後醍醐天皇
 3 幕府の滅亡

 この目次を見て気づくことは、幕府の成立過程よりも、その内包する矛盾や、滅亡の過程の方に重点が置かれていること、また第5章に典型的に示されているように、この時代の制度的な枠組みがどのようなものであったのかに記述の重点を置いて、人々の暮らしやその心情は、枠組みの考察の中から推察するというやり方を取っていることである。最近、私が歴史における制度の重要性について関心をもっているからかもしれないが、この書物は朝廷という制度、幕府という制度、それらの制度の変遷に焦点を当てており、そのことが時代の理解に役立っているように思われるのである。

 以前、鎌倉を取り上げたTV番組を見ていたら、リポーターが「鎌倉幕府最後の将軍源実朝が…」などといっていたので、これが今の日本の歴史教育の成果なのかと慨嘆したことがある。実朝が甥の公暁によって暗殺されたのは1219年で、鎌倉幕府が滅亡したのは1333年である。幕府というのは、将軍がいなければ成立しない制度である。100年以上の間、将軍なしで、幕府が維持できたなどと考えるのは制度というものを理解していない思考である。この書物にも書かれているし、それよりもまず、日本史の教科書にも書かれているはずなのだが、実朝の死後、九条家から頼朝の縁につながる貴公子を迎えて将軍とする(摂家将軍)、その後は皇室から親王を迎えて将軍とする(親王将軍)ということが行われた。だから実朝は最後の源氏将軍ではあるが、鎌倉幕府最後の将軍ではない。このあたりが常識にならないと、鎌倉時代の正確な理解が広まったとは言えない。

 もう一つ、著者も「はじめに」で力説しているように、鎌倉時代というのは、政治の中心が鎌倉にあった時代ではなくて、京都と鎌倉に政治の中心が分立していた時代である。その中での政治的な意思決定がどのようになされ、人々の生活にどのように影響を及ぼしたかについては、さまざまな様相があり、それがこの書物の内容ともなるのだが、それは、今後、機会を見て詳しく考察していくことにしたい。『太平記』に関連して、以前に書いたことがあるが、私の個人的な実感として、京都と鎌倉は都市としての規模からいっても、文化的な伝統の厚みからいっても、勝負にならないほど京都が優位に立っている。しかし、それでも大仏がいい例であるが、鎌倉が一矢か二矢かを報いているところがあって、単に≪武士の都≫などというのではなくて、鎌倉という都市に宿っていた力が何なのかも考えていきたい点である。

『太平記』(95)

3月20日(日)晴れたり曇ったり

 元弘3年(1333年、なお、光厳天皇のもとで用いられた年号によれば、正慶2年)5月7日、足利高氏は丹波の篠村から方向を転換して六波羅を攻撃、これに千種忠顕、赤松円心らの軍勢も呼応して幕府軍を大いに破ったので、六波羅の2人の探題は鎌倉を指して逃亡したが、5月9日、東山道の番場の峠で大軍に包囲されて進退窮まり、432人の武士が自害した。2人の探題とともに東国に向かわれていた光厳天皇、後伏見・花園両上皇、東宮の康仁親王らは京都に帰還された。
 東国では、5月8日に新田義貞が上野国生品明神で倒幕の兵を挙げ、鎌倉を脱出した足利高氏の子千寿王(後の足利義詮)が合流すると、諸国の武士たちがこの軍勢に加わり、20万を超える大軍となって鎌倉に迫り、18日には三方から鎌倉を包囲・攻撃、21日に義貞の率いる兵は稲村ケ崎を渡渉して鎌倉市中に入り、22日には東勝寺に籠もっていた得宗の北条高時以下873人が自害して、鎌倉幕府は滅亡した。

 5月12日伯耆の国の船上山で六波羅探題滅亡の知らせを受けた後醍醐天皇は、5月23日に上洛の途に付き、播磨の書写山円教寺、法華山一乗寺などを経て、30日、兵庫の福厳寺で新田義貞からの早馬により鎌倉幕府滅亡の報せを受けた。赤松一族や楠正成らに警護された天皇一行は、6月5日に東寺、6日に二条内裏に入り、その日、足利高氏・直義兄弟はそれぞれ治部卿と左馬頭に任じられた。

 京都は足利高氏ら、鎌倉は新田義貞らの武功によって平定されたが、鎌倉幕府によって九州に派遣された一族や、彼らに心を寄せる武士たちの勢力は侮ることができないと、京都では摂政関白二条兼基の子である二条大納言師基を大宰府の帥に任じて、鎮西探題である赤橋英時を攻撃するように計らった。英時は、鎌倉幕府の最後の執権で、洲崎の陣で自刃した盛時の弟であり、足利高氏の正室登子はその姉妹である。『太平記』の作者が「帥」と記すのは誤りで、正しくは「権帥」である。「帥」は親王が任じられ、京都にとどまられていて、「権帥」が現地に赴いて、政務をとることになっていた。菅原道真のように「権帥」になって左遷されたと泣き暮らしていた人もいたし、藤原隆家のように日本に侵攻してきた異民族の武装集団刀伊を撃退し、その後の新羅との外交交渉に辣腕を振るった人もいる。

 師基の一行が九州に出発しようとしている時に、九州の菊池、少弐、大友という有力な豪族からそれぞれ「九州の朝敵、残る所なく退治候ひぬ」と申し上げてきた。その後事情を詳しく調べたところ、次のようなことが判明した。後醍醐天皇がまだ船上山にいらっしゃった頃に、少弐入道妙恵(貞経)、大友入道愚鑑(貞宗)、菊池入道寂阿(武時)の3人は心を合わせて、天皇にお味方するとの意思を伝えたところ、天皇の方から綸旨と錦の旗を下された。勤王の兵を挙げるという企てを3人は隠していたけれども、いつの間にか鎮西探題である英時の耳にそのうわさが入った。

 最近、刊行された近藤成一『鎌倉幕府と朝廷 シリーズ日本中世史②』(岩波新書)によれば、赤橋英時は少弐貞経、大友貞宗に島津貞久らの武将に攻められて滅亡した。貞経、貞宗、貞久がそれぞれその名に貞の字を用いているのは、北条高時の父親であった得宗貞時の一字を与えられたものである。このように、幕府あるいは北条氏と近い関係にあったはずの一族が幕府を裏切っている。敵味方が、一瞬のうちに変化しかねない時代の流れがこのあたりによく表現されている。なお、少弐氏というのは、代々大宰府の次官である少弐を職としたことによりついた家名でもともとは武藤氏である。歴史上では平将門を討伐し、伝説では近江の国三上山のオオムカデを退治した俵藤太こと藤原秀郷の子孫であると称していた。菊池氏は藤原隆家の子孫、大友氏と島津氏は源頼朝のご落胤の子孫を称していたが信じるだけの根拠はない。

 『太平記』の作者はそこまで立ち入っていないが、九州にもともとから土着して勢力をのばしていた武士たち、さらに元寇に際して防備を固めるために他の場所、とくに東国から移ってきた武士たちは、自分たちの必死の戦いに対する恩賞の少なさに不満を持っていたので、それが幕府に対する不満、さらには武力行使につながったのであろう。彼らは幕府だけでなく、お互いに対してもさしたる信頼を持たず、それがこの後の行動にも反映されているとみるべきである。

 英時は彼らの裏切りが本当かどうかをよく確かめようと、まず菊池入道寂阿を博多に呼んだ。菊池はこの呼び出しの意図するところに気付いて、おそらくは自分たちの陰謀が露見したために自分を殺害しようとして呼び寄せているのであろう。相手が先手を打ってきた以上、こちらも覚悟を決めて博多に攻め寄せ、一か八かの勝負を掛けてみようと思って、かねてから約束をしてきた少弐、大友のもとにこれまでの次第を知らせた。報せを受けた少弐と、大友はどうしたかをめぐってはまた次回。

母よ、

3月19日(土)雨が降ったりやんだり

 渋谷Bunkamuraル・シネマで『母よ、』を見た。イタリアのナンニ・モレッティ監督の最新作で、もともとの題は"Mia Madre"(私の母)、ヒロインである映画監督のマルゲリータが、個人的な様々な問題を抱えながら、病床にあって次第に衰えていく母親と向き合うという内容で、「私の母」という原題には仕事に終われて母の世話は、同居している兄に任せきりで、入院している母を見舞うだけのヒロインにとっての「母」の意義、さらには「母」との関わりを問う意味が込められているのであろう。

 ある会社の従業員の削減の問題をめぐる労使の対立を描く映画を監督中のマルゲリータ(マルゲリータ・ブイ)は、映画の主題がなかなか理解されないこと、また映画製作上の様々な問題に頭を悩ませているだけでなく、恋人とは別れたばかり、前の夫との間にできた娘は悩み事を祖母には打ち明けても、母親には打ち明けない。その祖母=彼女の母は、兄のジョヴァンニ(監督のナンニ・モレッティ自身が演じている)とともに暮らしていたが、心臓だか肺だかを悪くして(正確な病名が分からないのも悩みの種である)、入院中で、大したことはないと思いたいのだが、実は次第に衰弱が進んでいるのに気づかない(あるいは気づこうとしない)。

 彼女が製作中の映画に登場する社長の役を演じるため、アメリカからやってきた俳優のバリー(ジョン・タトゥーロ)は気性が激しく、自己主張が強いだけでなく、イタリア語の台詞をなかなか覚えられず、正確に発音できずということもあって、マルゲリータとは何度もぶつかり合う。(マルゲリータを、マルガリータというのも、彼女には気に入らないようである。) 家族や個人の問題を取り扱う映画が多い中で、社会的な問題を取り上げている映画を製作している監督自身が、実は家族や個人の問題で悩んでいるという皮肉な展開が、登場人物に過度の感情移入をしないようにする歯止めとなるはずである。

 高校のラテン語教師であった母親には友人や、彼女を慕う教え子たちが大勢いて、はたして彼らを彼女に会わせるほうがよいのか、体に負担をかけないために会わせない方がよいのか、母親の世話をしている兄にも判断できないことがある。その相談を持ち掛けられても、マルゲリータには判断ができないところがある。兄は仕事を休職し、さらにやめようかと思っているようなのだが、身内の人間とこの問題をめぐる相談はしていないようである。祖母はしっかりしている部分と、そうでない部分が目立ち始め、しっかりしている部分では、孫娘にラテン語を教え、まだまだ生きていたい様子であるが、医師たちの判断は違う。

 目まぐるしい忙しさの中で、人間として、家族として、どのような価値を優先させていくべきか、それを考えることが煩わしくなってくる。現在と過去、現実と幻想の場面が交互に現れるこの映画のつくり方は、そうした煩わしさを強調しているようにも思われる。実は私はこの映画の登場人物たちよりも年をとって退職してから、ヒロインの母よりもかなり年をとった母と、その後で伯母の死を経験したので、自分の場合と、映画の場合を比べながら見ていた。入院している母親に付き添っていたマルゲリータが、母親を抱きかかえて歩こうとするところで、私よりもかなり体重の軽かった母親を抱きかかえようとして抱えられなかったその<重さ>を思い出してしまった。とはいうものの、長生きしただけいいこともあったのかなと、母と伯母について思う。映画の展開を終わりまで詳しく紹介することは避けたいが、重い、緊張感に満ちた経験を描くということよりも、その経験の先に、何があるかということの方に、監督の視線が向けられているように感じた。

 映画が終わった後で、何人かの観客が拍手をしていたが、その拍手が監督に届くことを願う。


ウェルズ恵子『アメリカを歌で知る』

3月18日(金)晴れ後曇り

 ウェルズ恵子『アメリカを歌で知る』(祥伝社新書)を読む。

 アメリカのフォークソングを中心として、この国で歌われている様々な歌の成り立ちを、社会で起きた出来事との関連で歴史的に概観した書物である。著者の好みを反映したと思しき、記述の精粗、濃淡があって、きわめて個性的で、読み応えのある書物である。

 この本は5章から構成されている:
「第1章 愛される歌」では、「フォークソングの真髄」として、フォークソングの成り立ち、ジミー・ロジャーズ、ウッディ・ガスリー、ピート・シーガー、ボブ・ディランというその歴史に大きな貢献を残した歌手の足跡とその代表作とが紹介されている。(カーター・ファミリーをはじめ、省かれている歌手や作品が少なくないことも特徴的である。)

「第2章 なくてはならない歌」では、「船乗りと七つの海の歌」として、長い間船による交通によって外の世界とつながり、発展してきたアメリカでは、船乗りたちの歌が特別な意味を持ってきたことを語っている。また、メルヴィルの『白鯨』を初めとして捕鯨にかかわる歌が数多く取り上げられている。

「第3章 記録する歌」では、「フロンティアに生きる」として、アメリカ社会の西部への発展の中で、ゴールド・ラッシュ、カウボーイたちの活動、鉄道の延伸などの出来事がさまざまな歌を生み出したこと、またその中で伝説となって歌われたヒーローやヒロインたちのことが取り上げられている。

「第4章 つぶやく歌」では、「『ブルーズ君』の語ること」として、黒人の間で歌い継がれたブルーズの成り立ちを語る。アメリカのフォークソングの歴史を考えるうえで、ブルーズの存在も無視してはならないというのである。

「第5章 表現する歌」では、「近代化の犠牲の中で」として、資本主義と工業の発展の犠牲になった労働者たちによって歌い継がれた歌が取り上げられる。特に炭鉱と紡績工場で歌われた歌に焦点が当てられている。

 以上、目次を辿って概略を紹介しただけでわかるように、この本は実に多くのことを語っているが、その分、多くのことを語り落としている。新書版では多くのことを語り切れないし、脱線した話題は語るべきではないだろう。たとえば、第2章で触れられている「シェナンドー川」について、同じ名前のアンドリュー・V・マクラグレン監督の映画があって、これはカサリン・ロスの映画への初出演作であったのみならず、内容的にもウィリアム・ワイラー監督の『友情ある説得』と共通するものを含んだ重要な作品であったとか、メルヴィルの『白鯨』のジョン・ヒューストン監督による映画化に際しては、レイ・ブラッドベリが脚本を書いているとか、自分の知っていることをつけたしながら読んでいた。

 そういう中で、一番気になっていることを挙げると、第5章でフランシス・カボット・ロエルという実業家がマサチューセッツ州で紡績事業を展開したこと、そこで歌い継がれていた歌の特徴が述べられているが、このフランシス・カボット・ロエル(ローウェル)は「アメリカ産業革命の父」と言われるだけでなく、今年になってから、当ブログに登場した3人目のローウェル一族の人物である。あとの2人というのは、明治時代に来日して能登を旅行、帰国してから火星の研究に専念しただけでなく、冥王星の存在を予見したパーシヴァル、アメリカのロマン主義を代表する詩人でハーヴァード大学の教授であったジェームズ・ラッセルである。

 人種・民族が融合して新しい文化を作り出す「るつぼ」であるといわれ、その一方で、さまざまな文化が融合せず、むしろそれぞれの特色を保ちながら共生する「サラダ鉢」であるともいわれるアメリカ社会の特色が音楽を通じて語られているが、ケルト系と黒人の音楽については比較的詳しく、フランス系とヒスパニック系についてもある程度触れられている一方で、ユダヤ系をはじめとしてほとんど触れられていない民族文化がある。著者は「はじめに」で「アパラチア地方の伝統やデルタ・ブルーズのことなどは、ぜひまた稿を改めて本にしたい」(6ページ)と書いているので、この言葉が実現するのを待つことにしよう。

 ウェルズさんはフォークソングの歌詞の研究が専門だとのことで、歌詞について詳しい分析を展開し、その隠された意味を多く明らかにしているだけでなく、注の中でもとの歌詞についても詳しく紹介しているが、そこまでするぐらいなら、CDを付録につけるとか、なにか工夫をして一部だけでもいいから歌そのものを聞けるようにしてほしかった。そうはいっても、私が買いためてきたアメリカン・フォークソングのCDを改めて聞きなおすきっかけとなりそうな本であるという意義は否定できない。

日記抄(3月11日~17日)

3月17日(木)晴れ

 3月11日から本日までの間に経験したこと、考えたこと、前回までの当ブログの補遺など:
3月11日
 東日本大震災から5年が経過。その一方で、横浜駅西口JOINUSではホワイト・デーのプレゼントのための菓子類を売るワゴンが並んでいる。

 オヴィディア・ユウ『アジアン・カフェ事件簿② 南国ビュッフェの危ない招待』を紹介する際に書き落としたのだが、事件の被害者の秘書で、重要な手掛かりを握っていた女性がおそらくは国外に逃亡している(372ページ)と書いた後で、予審で証言した(444ページ)と書いていて、この矛盾のつじつまを合わせていない。シリーズ3作では、こういう個所がなくなっていることを望む。

3月12日
 NHKラジオ「攻略!英語リスニング」では”The Birth of Mobies"(映画の誕生)という話題を取り上げた。エドワード・マイブリッジのzoopraxiscopeに始まり、ウィリアム・ディクソンがエジソンの指導の下に考案したKinetographが映画撮影用カメラの原型となり、その後フランスのリュミエール兄弟によってそれが改良されてcinematographとなったこと、ジョルジュ・メリエスの『月世界旅行』やエドウィン・ポーターの『大列車強盗』の製作に至る映画の最初期の歴史が概観されていた。

3月13日
 Eテレの『日本の話芸』では桂春若さんの「鹿政談」が放送された。どうも前置きや脱線が多かったような気がする。

 京都大学名誉教授の日本古代史研究家・上田正昭さんが亡くなられた。教養部でドイツ語の単位を落として2度目の2回生であったころに、着任されたのではないかと思う。直接授業を聴講したことはなかったが、著書を通じて多くのことを学ばせていただいた。謹んでご冥福をお祈りする。

3月14日
 NHKラジオ「まいにちイタリア語」では、ヴェネト州のマロスティカ(Marostica)という町で2年に1回行われるla "Partita di scacchi a personaggi viventi" (人間チェス⇒生きている人間によるチェスの対局)について取り上げた。
Il luogo dove si tiene la partita i chiama Piazza degli Scacchi. C'è tanta gente che indossa costumi d'epoca. (対戦が行われる場所はチェス広場という名前です。時代衣装を身にまとった人たちが大勢いるんです。)
A proposito, sapete che Marostica è gemellata con la città giapponese di Tendô? Qui si tiene la "Partita i shôgi a personaggi viventi"(ところで、マロスティカは天童という日本の町と姉妹都市なのを知っていますか? ここは「人間将棋」が開催されるんです。). 天童は将棋の駒の生産地として有名であるが、マロスティカではチェスの駒を作っているのだろうか? なお、江戸時代の天童の殿様は織田信長の次男信雄の末裔であったことも付け加えておこう。

3月15日
 やっと、所得税の確定申告を済ませる。どうもこういう作業は苦手である。新横浜の税務署に出かけると、予想したほどではないとはいうものの、やはりかなり長い列ができている。窓口を間違えて、時間を浪費しているのではないかという老人がいたり、税金のことはどこ吹く風で、アメリカの大統領選挙の話、ヒラリー・クリントン候補の悪口ばかり言っている初老の女性がいたりする。他人のことはともかくとして、私についていうと、どうやら、書類を書き終えて、提出。正直、ほっとした。

 Versoさんのブログ「フランス語をともに楽しく学びましょう」に『枕草子』の最初の部分のフランス語訳が掲載されていたので、Ivan Morrisによる英語訳を紹介してみる:
  In spring it is the dawn that is most beautiful. As the light creeps over the hills, their outlines are dyed a faint red and wisps of purplish cloud trail over them.

3月16日
 NHKラジオ「実践ビジネス英語」の”Quote...Unquote"のコーナーで取り上げられた言葉:
Men are happy to be laughed at for their humor, but not for their folly.
---- Jonathan swift (Anglo-Irish satirist and churchman, 1667 - 1745)
人が笑われてうれしいのは、その人のユーモアであって、愚かさではない。
ごもっとも、ごもっとも。(スウィフトは、アイルランドの聖パトリック大聖堂で説教している時に、聞きながら居眠りしている信徒たちを意識して、居眠りしている人の魂はどこに行くのかというようなことを話題にしていたという。笑われるよりも、居眠りされることの方が悲惨かもしれない・・・)

3月17日
 アイルランドの守護聖人聖パトリックの日。1996年に英国のコヴェントリーを訪問した際に、アイルランド系の人たちが前夜祭をしているのに紛れ込んだことを思い出す。(英国の国旗ユニオン・ジャックは、イングランドの守護聖人聖ジョージ、スコットランドの守護聖人聖アンドルー、アイルランドの守護聖人聖パトリックの3人の聖人の十字架を組み合わせたものであることは御存じかと思う。ウェールズが抜けているところが問題で、国際的なスポーツ大会でウェールズの選手が優勝したりすると、ユニオン・ジャックとウェールズのドラゴンの旗の両方をもってウィニング・ランをしたりする。)

 「実践ビジネス英語」でfragranceという語をめぐり、パートナーのヘザー・ハワードさんはfragranceとかaromaはいい匂いであり、smellは匂い全般、odo(u)rは悪い匂いだと自分は理解しているが、辞書によってはodo(u)rがいい匂いだとしているものもあると話していた。手元のLongmanの辞書でodo(u)rをひくと、a smell, especially an unpleasant oneとあり、Collins(こちらはodourとなっている)にはparticular smellとある。このあたり、英米(その他の地域)の違い、人それぞれの好みの問題が絡んで、簡単には分けられないのであろう。日本語の「におい」と「かおり」でも同じようなことが言えるかもしれない。

 『枕草子』か『徒然草』の英訳を原文と照らし合わせながら読み進んでみたいと思っているのですが、もし、一緒に読んでみたいという方がいらっしゃれば、非公開(公開でも結構ですが)コメントで連絡してください。どちらかというと、『徒然草』の方に(『太平記』がらみで)興味があるのですが、『枕草子』でも結構です。『太平記』については、横浜駅東口ルミネのカルチャーセンターで、『太平記』を取り上げるらしいので、できたら聴講してみようかと思っています。
 

遠藤慶太『六国史――日本書紀に始まる古代の「正史」』(4)

3月16日(水)晴れたり曇ったり

 この書物は史学史、つまり歴史記述、歴史研究の歴史についての本であり、昔の歴史の本がどのようにして書かれ、どのような特徴をもっているかがその主な内容となっている。とはいえ、その本に書かれていることが歴史的な事実であるかどうかも、関連して考えの中に入れる必要がある。

 『日本書紀』における紀年のずれの問題について論じた後で、伝説と史実とを『日本書紀』の編纂者たちがどのようにすり合わせているかの例として、この書物では「神功皇后紀」における中国の歴史書の引用の問題を取り上げている。ここで著者は、戦後の歴史学の中で神功皇后の実在性が問題とされてきたと述べているが、具体的にどのような議論がなされたかは記されていない。史学史の問題とすれば、むしろ神功皇后の<紀>を設けたことの方が重要であるが、そこは避けている。中国では原則として女性の皇帝を認めないが、それでも女性が最高権力者であった場合には、<本紀>を設けてその事績を記している。『史記』には「呂太后本紀」、『漢書』には「高后紀」があって、呂后の執政時代の歴史を記し、新旧の『唐書』でも武則天(則天武后)については<本紀>を設けて扱っている。これに対して清末に権力をふるった西太后(孝欽顕皇后)について『清史稿』は<本紀>を設けず、「后妃列伝」の中で記述している。つまり新しい歴史家のほうが現実に誰が権力をふるったかということよりも、大義名分の方を重んじ、昔の歴史家のほうが柔軟で現実的に歴史を把握していたということになる。『日本書紀』の編纂者が「神功皇后紀」を設けたのは、『史記』、『漢書』の例が念頭にあったとも考えられる。

 神功皇后の実在性との関連で、著者が問題にしているのは、『日本書紀』の編纂者が中国の歴史書(『魏志』『晋起居注』)に登場する「倭の女王」を神功皇后に相当すると考えて、「神功皇后紀」の記事の中に割書き(分註)の形で引用を行っていることである。これについては、もとから記されていたのではなくて、後世の人が書きこんだのだという説もあるようであるが、著者は中世の写本にすでにこの記事があることから、これらは当初からの記事で、「分註によって中国史書との対応関係を表示した」(41ページ)と考えている。この他にも、「神功皇后紀」には歴史記録を取り込んで構成された部分があり、石上神宮に伝わる七支刀は神功皇后52年に百済王が献じた<七枝刀>と同一視されるが、神功皇后52年は『書紀』の紀年では西暦252年に相当するが、七支刀の銘文からは369年の出来事であると考えられる。「ここでも『日本書紀』の紀年が100年以上(おそらくは干支2巡分の120年)延長されていることが分かる」(42ページ)という。紀年については問題があるにせよ、奈良時代の人々が神功皇后の実在を信じていたといいたいのであろう。
 邪馬台国論争に興味のある方なら(そうでなくても)ご存知だと思うが、「倭の女王」は卑弥呼とその後継者である壹与(あるいは台与)の2人がいて、卑弥呼は247年か248年に没しているので、『魏志』の女王は卑弥呼であるが、『晋起居注』の方は壹与であると考えられる。ただし、そのように考えるようになったのは近年のことだそうである。したがって、『日本書紀』の編纂者がこの問題に気付いていなくても、仕方がないが、現代の読者にとっては気になるところである。

 さらに著者は『風土記』などの地方の伝承に神功皇后の事績が含まれていること、『日本書紀』に登場する神功皇后関連の神社や氏族の実在が考古学的に確認できることなどを取り上げて、「皇室系譜の上で神功皇后が存在したこと」(46ページ)は認めてよいのではないかと論じている。これだけでは何が言いたいのかはっきりしない言い方である。むしろ、『日本書紀』の編纂者たちが神功皇后の実在性を信じていたこと、そのために中国の歴史書に出てくる「倭の女王」と同一視したことをよりはっきりした形で記せば事足りたのではないかと思う。(邪馬台国をめぐる議論の中では、卑弥呼=神功皇后という考えはあまり取り上げられてこなかったように思うが、それがなぜかというのも興味ある問題である。)

 司馬遷は黄帝に始まる五帝からその<本紀>を書きはじめた。その前に三皇の時代があったという伝承は信じなかったのである。そこに彼の歴史的な批判精神を見ることができる。今日の歴史家たちは五帝、あるいは夏の時代というのを否定する(中国の歴史家たちは夏が実在するという考えが好きなようである)が、だからと言って、司馬遷の業績を否定するというわけではない。遠藤さんの「神功皇后紀」をめぐる議論は、どうも要点を外したりして、空回りしているような気がしてならないが、だからと言ってこの書物が読むに値しないものだということにはならない。

the ides of March

3月15日(火)晴れ

 ”Beware the ides of March"(3月15日を警戒せよ)というのは、シェイクスピアの歴史劇Julius Caesarに出て来るセリフだそうであるが、確かめたわけではない。この言葉通り、3月15日にカエサルは暗殺された。

 そもそもローマに太陽暦を持ち込んだのはユーリウス・カエサル(100-44B.C.)その人であった。彼が大神祇長官(Pontifex Maximus)であった紀元前46年に、その命令でローマの暦は改正され、1年は365日、4年ごとに366日とされたのである。

 ところが、ローマの暦では、3月1日、3月2日というような月日の数え方をしなかった。毎月の第1日をKalendae, 毎月の真ん中の日をIdus, Idusから逆算した9日目をNonaeと呼んだ。

 Idusは大の月(31日からなる月)である3月、5月、7月、10月では15日であるが、その他の小の月では13日に相当する。したがって、Nonaeは毎月7日か5日になる。なお、1月、8月、12月は31日からなるが、小の月として扱われる。
 そこで3月1日はKalendae Martiae, 3月7日はNonae Martiae, 3月15日はIdus Martiaeと呼ばれた。

 以上の3日以外の日はすべて、上記の3日の中のどれか最も近い日を起点として、「その日より何日前」というふうに表される。例えば、3月10日は、「3月のIdusの6日前」dies sextus ante Idus Martias, 3月26日は「4月1日より7日前」dies septimus ante Kalendas Aprilesという言い方をした。どうもわかりにくい。

 カエサルがエジプトから太陽暦を持ち込んで、ローマの暦法を改めたのはその功績に数えられるが、ついでに、月日の呼び方ももっとわかりやすく変えておけば、ローマ史やラテン語を勉強する人がどれだけ助かったか、わからない。ローマの暦で7月はQuincitilisと言ったのが、カエサルの名を取ってJuliusと呼ばれるようになった。英語のJulyである。その後、彼の後継者のアウグストゥスがSextilisと呼ばれていた8月をAugustusと呼ばせるようにした。英語のAugustである。アウグストゥスは8月も31日あることにしたために、暦がややこしくなった。とにかく、いろいろな不都合があるが、それでも基本的にはローマの暦を世界中の多くの人々が使っているのは面白いことである。それでも月日の呼び方は、ローマ人が呼んでいたその通りではなくなっているのは当然のことであろう。(「ローマの暦」については松平千秋・国原吉之助『新ラテン語文法』の記述を参考にした。理解が不足している部分があるかもしれないことを書き添えておく。)

ダンテ・アリギエリ『神曲 煉獄篇』(25-1)

3月14日(月)雨、肌寒い

 第24歌の終わりで、ダンテの一行は飽食の罪を贖う煉獄の第六環道から、淫乱の罪を贖う第七環道へと進むように促される。

休まず登らねばならないほど時刻は進んでいた。
(366ページ)と、ダンテは第25歌を歌いはじめる。今や午後2時である。

私達も、狭いために登坂者が
横に並べぬ隘路へと
一人ずつ階段に向かい、分け入った。
(同上) いよいよ煉獄山を取り巻く最後の環道へと彼らは登っていく。しかし、先を急ぎながらも、ダンテには一つの疑問が生じていた。なぜ死後の世界の魂達は食事をとらないのに、飽食の罪を犯した贖罪者たちは痩せ細るのか。このように問われたウェルギリウスは、同行しているスタティウスに疑問を解く役を譲った。

 スタティウスは説明する:
完全なる血液は、それを欲しがる
血脈に飲まれずに、あたかも
食卓から取り上げられた手つかずの食べ物のように残る。

それは、血脈を伝って届いた先で諸器官を形成する
血液と同様、心臓の中で
人間のあらゆる諸器官をなす、形相を与える力を獲得する。

それはさらなる熟成を受けて、話すより黙っているほうが
よい器官に降りてくる。そしてそこから次に
自然の壺の中にある他人の血液の上に滴る。

そこで双方の血液がいっしょになって一つに集まる。
片方の血液は作用を受けるべく定められ、もう片方の血液は
完全なる場所に由来するがゆえに、作用を及ぼすべく定められている。
(369-370ページ) 翻訳者の原さんは「哲学・神学的議論」とこの議論を特徴づけているが、むしろ医学的な議論のように思われる。人間はまず肉体をもつ地上の存在として、能動的な、アリストテレスが言うような意味での形相を与える力をもつ、完全な血液からできる男性の精液と、受動的な作用を受ける肉体、アリストテレス的な意味での質料を準備する女性の血液とが、子宮で一つになる。

そして男性の血液は、女性の血液と一体化すると、
最初に凝固させる作用を開始し、その次の段階では、
液体を質料にして形成した対象に生命を与える。
(370ページ) そして、形相を与える力の活動によって肉体が作られる。

能動的な力がなした
植物のそれであるところの魂、両者の唯一の違いは、
魂はまだ過程にあり、植物は終着の岸に着いていることにあるが、
(370-371ページ) 魂はその生命と形状とをもつ植物のような段階を経て、

それはあたかも海綿と同様に
早くも魂が動き、知覚するに至るまで作用を続け、その段階から
それ自身が起源である諸感覚器官を組織しはじめる。

この時に開くのだ、息子よ、この時に伸びていくのだ、
本性が肉体へくまなく伝えられる場所、
父親の心臓に由来する諸力は。
(371ページ) 感覚し、行動をする動物的魂である胎児が出来上がるのであるという。

しかし動物がどのようにして言葉を持つ人間になるのか
君にはまだ分かっていない。
(372ページ) 胎児はどのようにして、理性をもつ存在となるのか。ダンテは「言葉を持つ」と表現したが、「言葉」の問題は、『俗語論』の著者でもあるダンテにとってきわめて重要な問題であった。

・・・胎児の
頭脳の組織形成が完成したその瞬間に、

第一動者はこれほど見事な自然の技ゆえに
うれしげに胎児に向くと、諸力を完全に備えた、
新たな霊を吹き込むのだ。
(372ページ) 胎児の頭脳ができた瞬間、宇宙のあらゆる現象の根源的原因、第一動者である神が、その完成を喜びつつ愛を胎児に向け、自身に由来する諸力を完全に備えた新しい霊を胎児に吹き込む。

その霊は胎児の中で活動しているものと出会い、それを己の実体の中に
引き入れ、そしてただ一つの魂となる。
それは生き、感じ、自ら己をめぐり振り返る。
(372-373ページ) するとこの霊は、形相を与える力がつくった魂に浸透し、それを己のものとして一つの魂となる。

 このようにスタティウスは人間が霊魂を備えた存在として生まれてくるのはなぜかを説明した。しかし、これだけではまだダンテのもともとの問いに答えてはいない。スタティウスの説明はさらに続く。

 ダンテがここでスタティウスに語らせている説明を、非科学的だとか、男性を能動的、女性を受動的と規定するのはおかしいとか、批判するのは簡単であるが、彼がその時代のさまざまな学知を援用しながら、できるだけ合理的に物事を説明しようとしている努力は評価すべきであろう。と言っても、やはり現代の科学の目から見れば、彼のいっていることの多くが取り上げるに足りない議論となっていることも否定できない。

三月の雪の思い出

3月13日(日)曇り

三月の雪の思い出

三月も半ば
春の彼岸も近づいてきたが
天気は気まぐれ
暖かくなったり
寒くなったり

待ち望んでいる
春がまた遠くに行ったような
肌寒い曇り空を見つめながら
雪国で暮らしていたころの
ことを思い出す

雪国の三月
しつこく降る
湿り気交じりの
春の雪の中を
のそのそと
電車は走っていた
暖房のきいた
電車の乗客たちは
もう春の気分で
これから先のことばかり話していた
だんだん
その饒舌に疲れて
居眠りを始める人もいた

そんな三月の雪と
雪の中での人々の姿を思い出しながら
寒い風に吹かれて
黙って
バスを待つ
都会の三月は
なかなか饒舌になれない
季節だ

『太平記』(94)

3月12日(土)曇り

 元弘3年(1333年)5月12日、六波羅探題滅亡の報せを受けた船上山の後醍醐天皇は5月23日に上洛の途につかれた。都から天皇の御供をしてきた貴族だけでなく、名和長年を始めとする山陰地方の武士たちが隊列を固め、前年の3月に都から隠岐へと護送されたときとは打って変わって、勢い盛んな様子である。

 5月27日、後醍醐天皇は播磨国の(現在の兵庫県姫路市にある)書写山円教寺に立ち寄られ、かねてからの参詣の願いを果たされた。諸堂をめぐられた後に、この寺の開山である平安時代中期の有名な法華経行者・性空上人の肖像を祀る堂である御影堂を訪ねられ、この堂を開かせて御覧になると、さまざまな由緒あり気なものが出てきたので、それらを寺の長老にどのようなものか説明させた。『太平記』の作者は性空上人ゆかりだとされる経典や遺品についての来歴についての説明を書きとどめている。それらは上人の超人的な霊力を物語るものとして説話としては面白いが、ここで詳しく紹介するほどの価値がないと思われるので、省略する。とにかく、後醍醐天皇はこの説明を聞いて感心され、円教寺に近い荘園を法華経を書写する費用を賄うための所領として寄進された。

 28日には(現在の兵庫県加西市坂本町にある)法華山一乗寺に立ち寄られ、寺の諸堂を巡拝された。この後、道を急がれて、30日には兵庫(神戸市兵庫区)にある禅寺の福厳寺に滞在された。この時、赤松入道父子4人(円心と範資・貞範・則祐)が500騎を率いて天皇のもとに駆けつけた。天皇はご機嫌麗しく、天下統一の功績は、赤松一族が大いに力を用いた忠義の戦いにある。おのおのの望みに任せて恩賞を取らせるつもりであると仰せられた。そして行在所である福厳寺の門を警固させた。

 ここに1日ご逗留あって、都に戻られるための行列を整えられていたところ、その日の正午ごろに、通行手形を首にかけた早馬2騎が門前まで乗り付けて、寺の庭に急を告げる文書を捧げだした。天皇の側近にいた貴族たちが驚いて、急いでこの書状を見ると、新田義貞のもとからの、北条高時らの一族を滅ぼし、東国は既に平定されたという知らせである。
 両六波羅を滅ぼしたものの、鎌倉幕府の本拠である関東を攻略するのは難しいのではないかと天皇はお考えになっていたところ、この知らせが届いたので、大いに喜ばれた。そして使いの者に恩賞を取らせた。

 兵庫に3日間逗留されて、6月2日に出発されようとしたところ、楠多門兵衛正成が3千余騎を率いて天皇のもとに参じた。その様子は堂々として立派に見えた。天皇は御簾を高く巻かせ、正成を近くに召されて、「大義早速の功、ひとへに汝が忠戦にあり」(第2分冊、178ページ、朝敵=幕府を速やかに滅ぼした功績は、ひとえに汝の忠義の戦いにある)と、お褒めの言葉をかけられたのに対し、正成は飽くまでも謙虚に天皇の徳のしからしむるところであり、自分の功績はわずかなものであると答えたのであった。

 兵庫を出発されるときから、天皇の行列の先頭には正成の率いる武士たちが進み、全体の隊列は整然と都に向かった。こうして6月5日の夕刻には京都の東寺(正しくは教王護国寺で、現在の京都市南区九条町にある)に到着した。武士だけでなく、貴族たちも集まってきたので、大変な人数になった。

 東寺に1日ご逗留あって、6月6日、二条内裏へと還幸された。その日、臨時の宣下があり、足利高氏が治部卿に、その弟直義が左馬頭に任じられた。(なお、江本好一『源義朝を祀る サバ神社 その謎に迫る』という本によると、源氏の一門で左馬頭に任じられたのは、義家と義朝の2人であるから、これはかなりの厚遇である。) 

 天皇の輿の前で警護に当たったのは、頭中将である千種忠顕であるが、まだまだ油断はできないと警備を固める。貴族たちの列の後に高氏と直義の兄弟が騎馬で武装して付き従った。その後に宮方で功績を挙げた楠正成、名和長年、赤松円心、結城親光、塩冶高貞らがそれぞれの配下の武士たちを引き連れて、しずかに行進した。都の道筋には見物人が集まって、天皇の徳を大いにたたえたのであった。

 『太平記』は基本的に武士の立場から書かれているから、行列についても武士の存在を強調して記述しているが、『増鏡』は貴族の動きについて詳しく記しているので、両者を合わせて読むと余計に面白い。貴族と武士とが同じ隊列にならんで、行進しているが、このような共存状態がどこまで続くだろうか。この点では『増鏡』のほうが厳しい見方をしているように思われる。また、『太平記』第4巻の後醍醐天皇が鎌倉幕府によって隠岐の島に配流になるくだりを改めて読み直してみるのもよいかもしれない。 

オヴィディア・ユウ『アジアン・カフェ事件簿② 南国ビュッフェの危ない招待』

3月11日(金)曇り

 オヴィディア・ユウ『アジアン・カフェ事件簿② 南国ビュッフェの危ない招待』(原書房:コージーブックス)を読み終える。
 シンガポールのフェミニスト作家オヴィディア・ユウによる、シンガポールでカフェを営むアンティ・リーが活躍する推理小説シリーズの第2弾。原題はAunty Lee's Deadly Specials (リーおばちゃんの死を呼ぶ特別料理)とでも訳せばいいだろうか。

 前作に引き続き、カフェ〈アンティ・リーズ・ディライト〉の主人であるアンティ・リーが持ち前のお節介な気性をあらわにして事件の解決にあたり、そのメイドであり、何か事件があればその手足となって活躍するフィリピン人のニーナ、前作にも登場しているが、今回からカフェの従業員という新しい役どころを与えられたチェリルがいわば探偵事務所員で、警察本部のラジャ長官、地区担当のサリム警部がヒロインと協力して事件の真相を解明する警察関係者、前作で活躍したティモシー・パン巡査部長は他の部署に「栄転」したという設定ながら、重要な役割を演じるというところまでは前作を引き継いでいるが、新たにきわめて官僚的な女性のパンチャル巡査部長が登場する。
 その一方で、アンティ・リーの夫の先妻の息子であるマークと、その妻であるセリーナが、カフェの経営権を手に入れようとあの手この手の作戦を繰り出して、物語の展開をややこしくする、「敵役」的な役柄を与えられている。マークは自分の愛好するワインを客に飲ませて、その嗜好を広げることを考えているのに対し、アンティ・リーはおいしいものを楽しめばいいという考え方である。とはいうものの、前作に比べるとその「敵役」性は薄らいでいるように思われる。

 アンティ・リーは法律事務所を経営するメイベル・スゥーンが、実の娘であるシャロンに事務所の経営権を譲ることを記念するパーティーのケータリングを頼まれる。シャロンは、このようなパーティーを開くことには反対である。彼女は、事務所の経営がかなり悪化しているという事実の確証を得ている。メイベルと、医師であるその夫のヘンリーの間にはシャロンのほかに、レナードという息子がいるが、アメリカに留学して、いくら金を掛けても学位をとることができずに帰国してきたというこのレナードについてはさまざまな噂がある。

 パーティーにはこのレナードの主治医であるというヨーンをはじめとして怪しげな、あるいはアンティ・リーがどこかで出会ったような人物が出席しているのだが、裏門で、自分の知り合いがこの邸で働いているはずだと押問答をする男性が出現し、その後、アンティ・リーが持ち前の好奇心でこの邸のあちこちを偵察していると、旧知のドリーンに出会い、いろいろと話をしていると、メイベルとレナードの死体が発見されたという知らせが入る。自殺か、他殺か、あるいは事故死か。死因は、このパーティーの料理を提供したアンティ・リーの店のつくったアヤム・ブア・クルアという鶏肉料理による食中毒だという噂が流れる。それどころか、ヘンリーの周辺から、アンティ・リーの店についての非難が寄せられ、彼女のカフェは営業停止になる。この措置に納得がいかないアンティ・リーは例によって独自の捜査を展開し、事件の背後に臓器の移植をめぐる闇組織の活動が見え隠れしていることを突き止める…

 シンガポールは国際的な「学力」テストにおいて、常に上位を占め、その大学も世界的に高い評価を得ている。だとすると、そこで養成された医師とか弁護士という専門職の人々は、国際的に見て極めて優秀な人々であるかというと、そうでもなさそうだ…というのがこの作品の出発点のようである。アンティ・リーも、チェリルも大学卒という学歴は持たず、もともとの頭の良さとその後の経験から学ぶことで、事件に対処する推理力を身に着けてきた。これに対して、より高い学歴をもつ人々のなかには現実を見極めずに、学歴やその他の外見的な特徴だけで相手の人間性を判断する例が少なからずみられる。もちろん、これは小説の作者による設定であって、それがどこまでシンガポール社会の現実を反映・描写しているかは疑問である。

 それでも、登場人物の多くがどこか無理をしながら、夢を追いかけているのに対し、ちょっと立ち止まって現実を楽しむことを考えようと呼びかけているアンティ・リーの姿勢には教えられるところがある。このことと関連して、多民族が移住・共生し、新しい文化を造り上げようとしているシンガポールには独特の魅力が感じられることも否定できない。多文化の共生には時間がかかり、利害関係者の相当の忍耐を必要とするのである。そういうなかで、忍耐の苦しみを和らげる可能性があるのが料理であるというのがこのシリーズの主張の1つであろう。東京には何軒かシンガポール料理の店があり、私もある研究会の流れでそのうちの1軒に出かけたことがあるが、さらに新しい店を発掘する努力を続けていくつもりである。 

日記抄(3月4日~10日)

3月10日(木)曇り

 3月4日から本日までの間に経験したこと、考えたことなど:
3月4日
 横浜駅西口の幸川に沿って並んでいた屋台の最後の1軒が撤去されたと報道された。実は、近くのルノアールでほぼ毎日コーヒーを飲んでいるのだが、屋台街の動静には気づかなかった。西口で特色のある飲み屋街というと、この屋台と、駅の近くの狸小路ということになるのだが、両方とも足を運んだことはない。「酒場詩人」吉田類さんが狸小路を呑み歩いているTV番組を見たことがあるが、屋台に足を運んだことはあったのだろうか。

 NHK「実践ビジネス英語」の”Word Watch"のコーナーでbring home the bacon (生活費を稼ぐ)という表現が取り上げられた。英国人の暮らしとベーコンは切り離せないところがある。英国のB&Bでベーコン&エッグとトースト、紅茶という朝食を詰め込んで、1日に備えたことを思い出す。さらに、スティーヴンソンの『宝島』で、語り手の少年の両親が経営する宿屋に現れた謎の男が”Rum and bacon and egg is what I want." (ラムを飲ませてベーコンと卵を食わせてくれりゃあそれでいい)という個所もなぜか思い浮かぶ。しかし、この男が言うような食生活は、体に悪いだろうね。

 同じ番組の”Quote...Unquote"のコーナーで紹介された言葉:
Be courteous to all, but intimate with few, and let those few be well tried before you give them your confidence.
             ――George Washington (First U.S. president, 1732-99)
(すべての人に礼儀正しくしなさい。ただし、親しくするのはわずかな人だけにし、信頼する前に、そのわずかな人を十分試しなさい。)
 もっと若いときに、この言葉に接していれば、人生も変わったであろうと思う。

3月5日
 NHKラジオ「攻略!英語リスニング」の時間では”Caravaggio"を取り上げた。Michelangelo da Caravaggio (1571? -1610)はバロック様式の創始者とされるイタリアの画家である。
There's something about those paintings, the dramatic lighting (the chiaroscuro), the violence, the realism, the intensity of the emotion that grabs me and won't let me go.
(劇的な明暗法《キアロスクーロ》、暴力、リアリズム、感情の激しさ。そういったものが私をわしづかみにして離さないんだよなぁ。)
 3月7日放送の「ワンポイント・ニュースで英会話」でも、カラヴァッジョの真作とみとめられた作品が日本で公開されるというニュースを報じ、3月7日から始まる週の「まいにちイタリア語」にも
Si dice "Chiaroscuro". (それをキアロスクーロっていうんだ。)
という表現が使われている。3月1日~6月12日の間に国立西洋美術館で開かれる『カラヴァッジョ展』が語学番組で大いに宣伝されているというのも興味深い。

3月6日
 最後の職場での仕事の前任者であった方を偲ぶ会が開かれたので、出席した。会場に向かう途中で乗っていた地下鉄の中で見かけた母子が二人とも電車の中で眠り込んでいて、母親の妹らしい女性に停車駅で揺り起こされていたのが印象に残った。こういう風景は日本以外ではあまり見かけないものではないかと思う(眠り込んでしまうほどに、地下鉄の車内は安全ではないのがグローバル・スタンダードではないだろうか)。

3月7日
 NHKラジオ「入門ビジネス英語」は昨年の4月~10月の再放送だが、相撲に関連して
Unlike judo, wrestling, or boxing, there are no weight classes in sumo. (柔道、レスリングやボクシングとは異なり、相撲には体重別階級はありません。)と言われていることが気になった。もともと柔道には体重別階級はなく、西郷四郎のような小柄な柔道家が、大男を投げ飛ばすのが柔道の妙味であったのだが、国際化し、オリンピック種目になる過程で、体重別の階級が設けられたのである。その経緯を改めて考え直す必要があるかもしれない。

3月8日
 「入門ビジネス英語」では、登場人物たちが相撲を観戦できるようにチケットを手配するというところまで話が進んだ。
I'll arrange the tichets as soon as I can. (できるだけ早くチケットを手配しますね。)
別に相撲を見たいとは思わないが、国技館で何かつまみながら、酒を飲んでみたいという気持ちはある。最近、蔵書を整理していて見つけた獅子文六『食味歳時記』(文春文庫)のなかに、「私は、五月場所に角力場に行くのが、好きだが、それは、そら豆の魅力が与かってた」(81ページ)という個所があり、田中啓文の小説の中の「鍋奉行」こと大邉久右衛門のように、簡単な肴(大相撲の五月場所の場合にはその昔は焼鳥とそら豆ぐらいしか出さなかった)で酒を飲むのがいいと、獅子文六も思っていたらしいことが分かって面白かった。(この本を読んでいると、麻生副総理兼財務相の祖父である吉田茂元首相が豆腐が好きだったというような話が、なぜか面白い。)

3月9日
 NHKラジオ「まいにちイタリア語」入門編は、今週、美術館を訪問した父子の対話を取り上げながら、美術・芸術に関する語彙や称賛・感嘆・強調の表現についての学習を進めているが、本日の第66課では
Sono proprio appassionato/a d'arte rinascimentale!
(私は本当にルネサンス美術に夢中なんです!)
という文が出てきた。ルネサンスという文化運動は、イタリアで始まったが、ルネサンスという言葉はフランス語であるというのが、気になるところではある。

3月10日
 NHKラジオ「実践ビジネス英語」の”Quote...Unquote"のコーナーで取り上げられた言葉:
Some people will never learn anything, for this reason, because they understand everything too soon.
               ――Alexander Pope (English poet, 1688-1744)
(一部の人は決して何も学ばないが、その理由は、つまり、彼らは何でも理解するのが早すぎるからだ。)
 あまり頭のいい人は、研究者向きではないというのは経験的によくわかることであるが、その一方で、何人かは頭のいい人が研究者のなかにいないと、大学内の行政や対外的な折衝に差しさわりができることがある。私は、自分では研究者としてふさわしい程度に頭が悪いと思っていたが、他人からは頭がいいと思われて雑用ばかりやらされていた。結局、だれの役にも立たず、もちろん自分の役にも立たなかったのではないかと自省している。  

遠藤慶太『六国史――日本書紀に始まる古代の「正史」』(3)

3月9日(水)雨が降ったりやんだり

 『日本書紀』の特徴の1つは、雄略天皇の22年(478年)7月に浦島子が蓬莱国に向けて出発したという記述に示される、本来、漠然と雄略天皇の時代の出来事として伝承されていた事柄に対してさえも、具体的な年代を与えるというような年代表示への固執であると著者は指摘する。

 では、このような年代はどのような暦法に基づいて設定されているのだろうか。この点については天文学者である小川清彦(1892-1950)の推定が定説になっているという。「『日本書紀』の暦日は、初代神武天皇から20代安康天皇までは儀鳳暦、21代雄略天皇から41代持統天皇までは元嘉暦によって組まれているのである」(34ページ)。
 元嘉暦は中国・南北朝時代の南朝の宋の天文学者である何承天が作った暦法で、445年から509年まで中国の南朝で用いられた。百済もまたこのこの暦法を使用している。「南朝・百済の文化圏にあった5世紀の倭国も、暦法を使用したのであれば元嘉暦に拠ったはずである」(同上。なお、ここで「暦法を使用したのであれば」と著者が条件をつけていることも注目する必要がある)。
 儀鳳暦は唐の天文学者李淳風が作り、665年から728年にかけて唐で用いられた麟徳暦が、唐の儀鳳年間(676~679)に日本に伝わったためにこの名で呼ばれていると考えられている。
 「元嘉暦は旧く、儀鳳暦は新しい。ところが…『日本書紀』の暦法は逆転している」(36ページ)。この問題について、著者はあまり詳しく論じていないが、公式の歴史書として作成するために、年代の記述が必要だと編纂者たちが考えたものと推測している。『古事記伝』の著者である本居宣長は、『日本書紀』よりも『古事記』のほうが日本人の本来の精神を表す内容をもっていると考えた。彼は、むかしの日本ではもともと暦の使用が一般的でなかったし、そういう時代の出来事に具体的な年代を与えようとした『日本書紀』の態度は不自然だと考えたようである。こういう考えもあることを念頭においてほしい。

 伝承されてきた事柄に、具体的な年紀を与えようとすることから、『日本書紀』の記述には他にも無理が生じている部分がある。古代中国の、辛酉の年には大変革(革命)が起きるという考えを受けて、推古天皇9年(601年)の辛酉の1260年前の紀元前660年正月に神武天皇が即位したと記された(太陰太陽暦の年紀を太陽暦の年紀にあらためて計算すると正月ではなく2月になるというのが「建国記念の日」の根拠になっているのは御承知の通りである)。
 このような紀年操作の結果、伝承されている天皇の数が限られていたので、その治政の年数が延長される結果となったと著者は記す(これは日本だけのことではなく、『旧約聖書』の初めの方の登場人物の寿命が著しく長いのも、同じような理由からである)。「素材
史料を改変しない立場と、史書としてどうしても紀年を設定したい立場のせめぎあいの中で生じた矛盾である」(38ページ)。
 著者は続けて次のように記す:
「延長した紀年は、やがてどこかで実年代に合わせなければならない。幸いなことに5世紀代については、『日本書紀』の記事と全く別系統の史料(5世紀の同時代史料、中国史書、朝鮮史書)とを比べることで、相互の記事を検証することができる」(同上)。
 このような手続きを経てみると、「『日本書紀』の紀年延長が解消され、実年代と合ってくるのは雄略朝の末年、つまり5世紀後半である。歴史資料として『日本書紀』の真価が発揮されるのは、ひとつには巻第14雄略紀以降とみるべきだろう」(40ページ)と著者は結論している。

 昨夜(3月9日の夜)に、この原稿を書いている途中でうとうとして、この調子ではまとめ切れないと思って、翌日に持ち越した次第である。主として『日本書紀』の紀年の問題についての著者の意見を紹介したが、まだまだ『日本書紀』をめぐる論点は残っていて、簡単にはまとめられそうもない。著者は『日本書紀』を日本の古い昔についての優れた歴史書であるというかなり弁護的な立場で、この書物を書いているように受け取られるが、この見解には疑問の余地がかなりあるので、さらに詳しく検討を加えていきたいと思う。 

ジェイン・オースティン『分別と多感』

3月8日(火)曇り後晴れ、温暖

 ジェイン・オースティン『分別と多感』(ちくま文庫)を読み直し終える。

 19世紀の初めごろ、イングランド南東部のサセックス地方に住む大地主であるダッシュウッド家を受け継いだヘンリー・ダッシュウッドが世を去り、その財産の大部分は彼の先妻の息子であるジョンと、そのまた息子であるハリーが相続することになった。ジョンと、その妻のファニーは裕福であったが、冷酷で、それまでノーランド屋敷と呼ばれるダッシュウッド家の邸宅で暮らしていたヘンリーの妻と3人の娘たちは、自分たちが相続したごくささやかな財産とともに、別の場所で暮らすことになった。

 折よく、ダッシュウッド夫人の従弟で(イングランド南西部の)デヴォンシャーに住むサー・ジョン・ミドルトンが自分の所有する家の1つであるバートン・コテッジを貸すと申し出てきた。意地悪な義理の息子夫婦から離れて暮らす喜びのほうが、住み慣れた邸を後にする悲しみに勝って、夫人と3人の娘、19歳のエリナー、16/7歳のマリアン、13歳のマーガレットの3人の娘はデヴォンシャーに旅立つ。そしてサー・ジョンに温かく迎えられる。(「サー」というのは従男爵、あるいはナイト爵をもつ男性のタイトルであり、たぶん、サー・ジョンは従男爵であろう。)

 バートン・コテッジに落ち着いた一家は、サー・ジョンのもとで、その妻のミドルトン夫人、彼女の母親で世話好きのジェニングズ夫人、サー・ジョンの親友でドーセットシャーのデラフォード邸の当主であるブランドン大佐と出会う。35歳になるのに独身のブランドン大佐は、無口であるが思慮深そうな人物で、どこか寂しげであるが、彼はマリアンの姿を見、その歌とピアノを聞いて、彼女に魅力を感じた様子である。

 ある日、マリアンとマーガレットは散歩に出かけるが、天候が急変して雨に出会い、山の斜面を駆け下りていく途中でマリアンが転んで、立ち上がれないほどのけがをする。狩猟のために近くにいた若い紳士が彼女を抱きかかえてバートン・コテッジに運ぶ。紳士はウィロビーという名で、近くのアレナム・コートという邸に滞在中であるという。ウィロビーとマリアンは趣味の点で一致することが多く、二人の仲はたちまち接近するが、2人が確実に結婚の約束をしたように思えないことをエリナーは心配する。
 エリナーは、ノーランド邸で暮らしていたときに、ファニーの弟であるエドワード・フェラーズという頭も気立てもいいが、内気であまり野心をもっていない青年と恋仲になっていた。エドワードの母フェラーズ夫人とファニーは、エドワードが出世すること、金持で身分の高い女性と結婚することを夢見ていて、いつもエドワードには失望している。そしてエリナーとエドワードの結婚には大反対である。そのエドワードが、バートン・コテッジを訪問するが、どうも元気のない様子で、その態度は謎めいている。・・・

 この後、さらに新しい登場人物が出現し、人間関係が入り乱れてさらに複雑になり、誰と誰とが結婚するのか最後まで目が離せなくなる。以前、この作品の映画化である『いつか晴れた日に』をテレビの放送で見たことがあったが、あらすじが複雑すぎて、何が何だかわからなかったという記憶がある。この物語の理解に関しては、ページをめくり直して、あらすじや人間関係を再確認できる本のほうが便利である。

 原題はSense and SensibilityでSenseという語と、そこから派生したSensibilityという語が持つ意味を、2人の姉妹の性格と重ね合わせている。Senseには①感じ、②物事を認識する感覚、③思慮、分別、才覚という意味があり、冷静で慎重な長女エリナーの事態に理性的に対処する姿勢は、③の意味でのSenseを体現し、Sensibilityは①感覚、感情、感性、②芸術的な感受性であり、情熱的で思ったままに行動し、ロマン派の文学や音楽を愛する次女マリアンの性格を要約するのにふさわしい語であろう。『分別と多感』(姉=分別、妹=多感)という訳だと、「違うけれども、同じ根をもち、似たところもある」という2人を十分に表現できないのが残念である。
 この2人の姉妹は、時に意見が対立したりするが、だいたいにおいて仲がよく、それにはエリナーの自制的な性格が大いに貢献しているようにも思われる。翻訳者も書いているが、マリアンの方が読者の人気があるようであるが、作者であるオースティンはエリナーの方に多く共感を寄せているような気がする。

 『説きふせられて』について書いた時にも触れたが、オースティンの小説は、彼女の時代の主な出来事(例えば産業革命)を無視して(さすがに第二次エンクロージャー運動は出てくる)、地方(とロンドン)の上流階級(と言っても、その中では下の方の地主たち)の生活ぶりを細かく書いていくところに特徴があるが、時代性を強調していないことのために、物語の中のロマンスの進展が現代の読者にとっても身近なものに感じられるのではないかと思われる。小説の中で何度か言及されているデヴォンシャーの都市エクスターには出かけたことがあり、イングランド南部の風光を思い出して、懐かしく読むことができた。

ダンテ・アリギエリ『神曲 煉獄篇』(24-3)

3月7日(月)雨

 ダンテは、彼を案内してきたウェルギリウスと、自分の罪を浄めて天国に向かおうとするスタティウスの2人のローマ時代の詩人とともに、魂たちが飽食の罪を贖っている煉獄の第6環道を進み、ダンテの旧友フォレーゼ、生前、ダンテと対立する文学グループにいたボナジェンタに出会い、普遍的で神と結びついた愛を歌う、ダンテたちの清新体派が、地域的で利己的な愛を歌う詩人たちよりも優れた詩を生み出していることが彼らの問答の中で確認される。ボナジェンタたちが去っていった後、フォレーゼもダンテとの再会を願いながら、去っていく。

 フォレーゼが、ダンテの視界から消えると、
豊かに実って青々と色づいた別の樹の
茂みが、私の前、あまり遠くないところに現れた。
その時になってやっと私はそちらを向いたからだ。
(360ページ) この木の下で、人々がその実をもぎ取ろうと手を伸ばしているのが見えたが、木は人々の欲望をさらに掻き立てるように、どんどんその実を高いところに移していった。そして人々はそれを見て、あきらめて去っていった。
そして私達も忽ちに大木のところに来た。
多くの願いと涙を拒否してきた木だ。
(同上) このたわわな果実が実る美しい緑の樹は現世の悦楽の象徴だと考えられる。

「近寄ることなく越えて過ぎよ。
エヴァの噛んだ木はさらに上にあり、
この木はかの木から生じた」。
(360-361ページ)という声がどこからともなく聞こえた。「エヴァが噛んだ木」は、旧約の「創世記」に出てくる<知恵の木>である。木の実を食べて、善悪を知ることができるようになった人間は、そのためにかえって神から離れて虚栄に生きるようになった。(このあたりの考え方は、分かりにくいところがある。)

 木から離れよという、この言葉に従って、3人の詩人たちは自分たちだけで倫理的な瞑想にふけりながら足を進める。すると、天使の声が聞こえて、道を曲がって、さらに上の環道に進むようにと促す。

そして夜明けを告げる使者、
五月の大気が青草や花々であふれかえり、
香りをふりまきながらそよぐように、

一つの風が額の中心に
触れるのを私は感じ、同時に翼が動くのをはっきりと感じとった。
それはアムブロシアーの香りをかがせた。
(364ページ)  ダンテの額には彼の罪を表す7つのPの文字が煉獄の門をくぐるときに刻まれており、そのうちの5つが既に消されてきた。彼が額の中心に風を感じたというのは、そのPの文字がまた1つ取れたことを示唆する。「アムブロシアー」はギリシャ・ローマ神話の中の神々の食べ物であり、「不死の」という意味をもち、蜜よりも甘く、香りが高く、これを食べたものは不死になるという。煉獄山の頂上に設定されている地上楽園、さらには天国が近づいている気配が察知される個所である。

それからこう話すのが私には聞こえた。「あふれるほどの恩寵に
照らされるものは幸いなるかな。味覚への愛が、
過ぎたる欲望の煙でその者達の胸を塞がず、

正しきもののみ、常に飢えて求めるがゆえに」。
(同上) これは「マタイによる福音書」(5-6)の「義に飢え渇く人々は、幸いである、その人たちは満たされる。」を受けたものである。文脈から、「正しきもの」は神の正義であり、その中に中庸を守ることも入っていると考えられると、傍注に記されている。「義に飢え渇く」ことと、美食・飽食を求めることが対比的にとらえられているとみるべきである。

 こうしてダンテたちは第7環道へと進む。スタティウスにとっては、天国が近づいているということであるが、ウェルギリウスにとっては、またリンボに戻るときが近づいてきているということであり、3人の思いは一様ではないはずである。

春は ぼん ぼん ぼんやりと

3月6日(日)曇り後雨が降ったりやんだり

春は ぼん ぼん ぼんやりと

吹き寄せる
風が
やわらかく
あたたかく
なるに
つれて

遠くに 見える
富士山が
白さを 失い
だんだんと ぼやけていく

春は
ぼん ぼん
ぼんやりと
あいまいに やってくる

遠藤慶太『六国史――日本書紀に始まる古代の「正史」』(2)

3月5日(土)晴れ後曇り

 2月26日付の当ブログに書いたように、この書物の第1章では『日本書紀』、第2章では『続日本紀』と『日本後紀』、第3章では『続日本後紀』、『日本文徳天皇実録』、『日本三代実録』という構成で、《六国史》の内容とその特徴を述べている。『日本書紀』が30巻、『続日本紀』が40巻、『日本後紀』が40巻(現存10巻)、『続日本後紀』が20巻、『日本文徳天皇実録』が10巻、『日本三代実録』が50巻というそれぞれの巻数だけでなく、それぞれの書物が扱っている年代の幅も考慮されて、このような構成になったものと考えられる。今回は、第1章「日本最初の歴史書――『日本書紀』」について取り上げることにする。

 『日本書紀』は天地が初めてできた神代から持統天皇の時代までの歴史を記し、養老4年(720年)に舎人親王(676-735)によって天皇に提出された書物である。「内容は多岐にわたり分量も多い。『日本書紀』は神話・伝承を含んで物事の起源を明らかにする面と、6世紀以来の歴史記録の面が同居している」(27ページ)と著者はその特徴をまとめている。

 『日本書紀』を始めとする《六国史》の特徴の1つは、それがさまざまな材料を集めて編纂した書物だということである。著者は坂本太郎(1901-87)の『日本書紀』は8つの材料からなっているという説を継承している。その8つの材料とは:
①帝紀(大王の系譜)
②旧辞(神々や英雄の物語)
③墓記(所氏族の系譜・歴史)
④風土記(諸国に伝わる伝承)
⑤寺院の縁起(元興寺の縁起など)
⑥個人の手記・日記(『高麗沙門道顕日本世記』『伊吉連博徳書』『難波吉士男人書』)
⑦外国文献(『魏志』『晋起居注』『百済記』『百済新撰』『百済本紀』)
⑧政府の記録
である。問題は、このように多様な材料がどのような意図をもって、まとめ上げられたか、あるいはただ雑然と並べられているだけであるかということではなかろうか。この問題を判断する手がかりとなるのは、編纂者が個々の材料をどのように評価していたかを知ることである。
 著者はこれらのうち最も重要なのは<帝紀>であるという。「帝紀とは、天皇の系譜や継承関係、その治政での重要事項などを記した記録である」(28ページ)。帝紀は「日嗣」とも呼ばれ、葬送の儀礼で読み上げられるだけでなく、書き記されたものが存在していたという。

 著者はまた、これらの材料の中で風土記が利用されていることに注目している。「風土記とは、和銅6年(713)5月の命令により、各地方の物産や土地の肥沃状態、地名の由来を提出させた報告書である。完全な形で残るのは出雲だけで、省略・欠損のある常陸・播磨・豊後・肥前と合わせて5ヵ国分がよく知られる。この他にも逸文(他の文献で引用された断片)で日本各地の風土記が残る」(30-31ページ)。
 ところで、雄略紀には浦島伝承が記されていて、これは現在、逸文で伝わる丹波国風土記の伝える伝承と重なっているという。このように、地方の情報が盛り込まれていることも『日本書紀』の特徴であるという。(『万葉集』に高橋虫麻呂による浦島伝承を歌った歌が収録されていることを著者は無視している。)

 それにしても不思議なのは、浦島伝承が具体的な地名や年代をもって歴史書に記されていることである。「浦島伝承の記事がある雄略天皇22年は西暦の478年、『宋書』夷蛮伝の倭国条によれば、倭王武が宋の皇帝に使者を派遣して上表文を奏上した年にあたる」(33ページ)。浦島伝承はおそらく、漠然と雄略天皇の時代の事柄として意識されていたのを、『日本書紀』の編纂者が無理やりに具体的な年代を与えて書き記したのだと著者は考えているが、これは無理のない推測である。(『万葉集』の最初に出てくるのが雄略天皇の作と伝えられる歌謡であり、『日本霊異記』の最初の説話が雄略天皇に関するものであることなど、この天皇を取り巻く伝承は多いのである。)

 そこで、『日本書紀』の編纂者が「年代」についてどのように考え、書物の中でどのような扱い方をしているかが次の問題となる。第1章の紹介を今回1回で終わらせるつもりであったが、問題が込み入ってきたので、この後の部分はまたの機会に続けていくことにする。私見をいくつかカッコ書きで記しておいたが、この書物の著者は、一方で『日本書紀』が伝承・説話を含む(それどころか歌謡も収録している)ことに目を向けながら、文学作品も含めた広い精神史的な文脈の中で『日本書紀』をとらえ直すという姿勢はとっていないように思われる。『日本書紀』と『古事記』を対照して論じる個所がないのも、著者の考え方の特徴を表すものではないかと思うが、この点については次回以降、詳しく論じてみたい。

『太平記』(93)

3月4日(金)晴れ

 元弘3年(1333年)5月、鎌倉幕府が滅んで後、北条高時の長子邦時は、母方の伯父五大院右衛門の密告により、捕えらえて斬られた。
 これより早く、5月7日に六波羅が陥落し、六波羅探題一行は関東へと向かったが、9日に近江の番場で行く手を阻まれ、北条仲時以下432人が自害した。
 都を制圧した千種忠顕、足利高氏、赤松円心はそれぞれ、伯耆の船上山の後醍醐天皇のもとに早馬を走らせ、京都が宮方の支配下に入ったことを伝えた。

 この知らせを受けて、後醍醐天皇のもとに集まっていた諸卿はただちに都に戻るべきか否かをめぐって議論を重ねた。その中で勘解由(かげゆ)庁(=国司が交代するときの引継ぎの書類を監査する役所)の次官であった藤原光守が次のように発言した。「六波羅の二人の探題が既に都を去り、鎌倉に向かう途中で死亡したとはいっても、楠正成の籠もる千剣破城を包囲している幕府方の武士たちをはじめとして、幕府方の武士は畿内にあふれており、その勢いは京都を呑み込むほどです。また、下々のことわざに、関八州の軍勢だけで、日本中の軍勢に打ち勝つともいわれています。だからこそ、承久の変の際に、幕府の京都守護であった伊賀光季はたやすく討ち取ることができたのですが、関東の軍勢が改めて上洛してくると、官軍は敗北し、天下は久しく武士の権威に従うことになりました。今、戦いの勝敗を計ると、まだ全体を十とすると、そのうちの二か三に相当する勝利を得たにすぎません。『春秋公羊伝』には「君子は刑人に近づかず」という言葉が記されていて、これは罪人には、危害を加えられる恐れがあるから近づかないという意味です。しばらくはこのまま船上山に留まられて、諸国の武士たちに綸旨を下され、東国の形勢を窺われるのがよろしいかと思います」。この意見に、居合わせた諸卿は皆同意したのであった。

 後醍醐天皇は、それでも上洛の機会を決めるのが難しいと思われていらしたので、自ら周易の書物を開かれて、京都にお戻りになるのが吉か凶かを筮竹で占われた。その結果は、軍隊を率いるのに正しく行う。徳のあるものが統率すれば吉で過ちがない。天子の命で、功あるものに国を与え、家を継がせる。徳のない者(小人)は重用してはならないというものであった。このような卦が出た以上、京都に戻ることは疑いなく吉であるとして、5月23日に、伯耆の船上を出発して山陰地方から東へと向かわれたのであった。

 天皇が都に向かわれる行列の様子は通例とは異なり、頭大夫(蔵人所の頭で京職、修理職などの長官=太夫を兼ねていた)一条行房と勘解由次官光守の2人だけは貴族の正装である衣冠を身につけていたが、その他の貴族の面々は鎧兜に身を固めて付き従っていた。その周囲を武士たちが武装して警固している。「前後三十余里」(第2分冊、173ページ)も行列が続いたというのはいくらなんでも大げさであるが、大軍が従ったのは確かであろう。出雲の守護であった塩谷判官(佐々木)高貞が1,000余騎を率いて、先頭に立ち、(島根県出雲市朝山町の武士)朝山太郎が、一行から1日遅れた行程で、500余騎を率いてしんがりを務めた。(鳥取県日野郡日野町金持(かもち)の武士)金持(かなじ)大和守が官軍の旗である錦の旗を掲げて行列の左を歩み、これまで後醍醐帝を支えてきた名和長年が剣を帯する警護役として天皇の右側を歩んだ。堂堂たる行列の様子である。

 考えてみると、1年前の春の末に、天皇が隠岐の国へ流刑になった時に、無念の思いでご覧になったのと同じ風景が、今はお喜びの気持ちに応えるかのように、その眼前に展開している。あたりの風光が天皇のために万歳を唱えているかのように思われ、すべてが明るく、繁栄しているように思われたのであった。

 天皇が自ら筮竹を手にされて、今後の運勢を占われたのは、それだけ上洛の気持ちが強かったのであろうが、身近に占いに通じた臣下がいたはずであるから、その判断にゆだねるほうがよくはなかっただろうか。天皇は聡明で、学識に富まれた方であったので、何でもご自分でやってしまおうという気持ちが強かったのかもしれないが、側近の者の長所を巧みに利用することも必要であったのではないか。その後の「建武の新政」の展開をみると、占いでいわれていることが忠実に守られたとはいいがたいことも念頭においてよいことかもしれない。

日記抄(2月26日~3月3日)

3月3日(木)晴れ

 2月26日から本日までの間に経験したこと、考えたことから:
2月26日
 昨日(2月25日)、黒田龍之助『外国語を学ぶための 言語学の考え方』(中公新書)を読んだのだが、論評が済んでいないので、ここで取り上げることにする。外国語を学ぶ際に必要なのはまず語彙と文法であるが、それだけではその言語に上達することはないだろう。外国語学習を料理にたとえると、食材だけでは料理ができない。調味料が必要である。その調味料の役割をするのが、言語学であるという。
 言語は常に変化するという考えてみれば(考えなくても)当たり前のことが、なかなか理解されない世間の中で、言語についてどう考え、どう教えていくかについての様々な思索が詰まった書物である。
 
2月27日
 NHKラジオ「攻略!英語リスニング」では”Obesity"(肥満)を話題として取り上げた。私自身が、かなりの肥満体だから、一生懸命になって聞いていたか――というとそうでもないのが、人情の不思議なところである(なんて言っていていいのかな!?)

2月28日
 ニッパツ三ツ沢球技場に、Jリーグ2部の第1節:横浜FC対カマタマーレ讃岐の試合を見に出かけた。10,000人近い観衆が集まり、座る席を探すのに苦労したのだが、0-1で敗れる。相手のゴール近くにまでは迫るのだが、決定力がないという欠点は今年も解決されそうもない。

2月29日
 NHK「ラジオ英会話」ではI feel like a million dollars!(私は最高の気分です!)という表現を学んだ。直訳すれば、「私は百万ドルの気分です!」ということで、dollarsの代わりに、euroやyenを使う場合もあるというが、euroはともかく、yenだとかなり値打ちが低い感じがするのではなかろうか。
 むかし、神戸の大学で学会があった際に、懇親会でその大学の学長が「神戸の百万ドルの夜景をお楽しみください」と言った。その後の談話の中で、昔のプロ野球南海ホークスの百万ドル内野陣{飯田―岡本(森下)―蔭山―木塚}というのを思い出すといったら、近くにいた人たちから「古い」と言われたのを思い出す。

 山本紀夫『トウガラシの世界史』(中公新書)を読み終える。
 トウガラシは中南米原産で、大航海時代以後に世界中に広がった。
 トウガラシは、辛い品種ばかりでなく、そうではないものもある。
 トウガラシは日本から韓国へと伝わった(らしい)。豊臣秀吉が朝鮮に出兵した際に、韓国に伝わったという説がある。(日本のほうが韓国よりもヨーロッパと接触するのは早かったので、これは、かなり妥当性のある議論である。)

 先週は「まいにちフランス語」の時間で映画『男と女』の話題が取り上げられたが、今週は「まいにちイタリア語」で映画をめぐる話題が取り上げられている。
Anna Magnani è la prima attrice italiana a ricevere il Premio Oscar.
(アンナ・マニャーニはアカデミー賞を受賞した初めてのイタリア人女優です。)
Sofia Loren ha recitato la parte di Giovanna, la protagonista.
(ソフィア・ローレンは主人公のジョヴァンナ役を演じました。)
 アンナ・マニャーニがアカデミー主演女優賞を受賞したのは1955年の映画『バラの刺青』である。彼女の出演作で私が見ているのは『無防備都市』『サンタ・ビットリアの秘密』「フェリーニのローマ」の3本。彫りの深い顔立ちで、線の太い個性が強い印象を残す女優であった。
 ソフィア・ローレンが主人公のジョヴァンナ役を演じた映画は『ひまわり』(I Girasoli)である。第二次世界大戦のロシア戦線で行方不明になった夫を訪ねて旅するジョヴァンナが一面に広がったひまわりの畑の中を歩いていくシーンと、テーマソングが印象に残っている。

3月1日
 イタリア語で、映画作品を評価する表現:
È un film da non perdere. (この映画は見逃すべきではない≂絶対に観た方がいいよ。)
Vale la pena di perderlo. ((その映画を)観る価値があるよ。)
Non vale la pena di vederlo. ((その映画を)観る価値はないよ。)
Non vale niente!(何の価値もないよ(つまらない映画だよ)!)

3月2日
 「実践ビジネス英語」の”Quote...Unquote"のコーナーで、
Freedom is the recognition of necessity. (from Anti-Dühring)
  ――Friedrich Engels (German social scientist and philosopher, 1820-1895)
(自由とは、必要性を認識することである。)
という言葉が紹介されていた。むかし読んだ『反デューリング論』ではnecessityに相当する語句(もともとはドイツ語のはずである)は「必然性」と訳されていたと思う。

 オリンピックのアジア地区最終予選の28日の試合でオーストラリアに1-3で敗れた日本女子代表チームは、韓国と1-1で引き分け、オリンピック出場がいよいよ難しくなった。相手チームによる日本チームへの研究が進んで、なかなか勝てなくなってきたようである。

3月3日
 NHK「ラジオ英会話」は、スカーレット・オハラがレット・バトラーが出ていったことを友人に語るという内容で、最後に
After all, tomorrow is another day.(何はともあれ、明日は別の日!)と、気持ちを切り替える。小説、および映画『風と共に去りぬ』の最後の台詞で、今でもヴィヴィアン・リーの口調をまねて、普通だと強調しない前置詞のafterや、be動詞isも強調してこの言葉を口にする人がいるという。
 ヴィヴィアン・リーが学んだRoyal Academy of Dramatic Artsの近くに滞在していたことがあり、その後も何度かこの演劇学校の前を通った。他のどの学校の前を通ったことよりも、英国の多くの名優の母校であるRADAの前を通ったことが、忘れられない思い出になっている。 

ジェーン・オースティン『説きふせられて(説得)』

3月2日(水)晴れ

 ジェーン・オースティン『説きふせられて』(富田彬訳、岩波文庫)を読み直し終える。当ブログの「日記抄(2月19日~25日)」の2月25日の項で取り上げたように、この日のNHK「ラジオ英会話」で、この小説の終わり近く、第23章で、ヒロインのアン・エリオットに宛てて、その昔の恋人であったフレデリック・ウェントワースが書いた手紙が紹介されたので、改めて読み直してみようと思ったのである。原題はPersuation で、岩波文庫版の翻訳者である富田さんは『説きふせられて』と訳しているが、「ラジオ英会話」では『説得』という訳語を使っていた。

 19世紀の初め、イングランド南西部のサマセット州に住む従男爵ウォルター・エリオットは3人の娘を残して夫人が死んだ後、再婚せず、夫人の親友であったラッセル夫人と友達づきあいをしながら、娘たちと暮らしていた。父親似の長女エリザベスは、父親と仲がよかったが、アンは父親には可愛がられず、むしろラッセル夫人によって、亡くなった彼女の母親の再来として大事にされていた。アンは19歳の時に海軍の若い将校であるフレデリック・ウェントワースと出会い、お互いに惹かれあって結婚を考えたが、ラッセル夫人の反対のために断念せざるを得なかった。その後、この地方でエリオット卿に次ぐ大地主の長男であるチャールズ・マスグローヴが彼女に求婚したが、今度は彼女のほうが乗り気にならず、むしろ三女のメアリがチャールズに熱を上げて、結婚したのである。

 エリオット卿には娘しかいないので、爵禄や土地財産は遠縁のウィリアム・ウォールター・エリオットという法律を学んでいる青年が継承することになっていた。エリザベスはこの男性と結婚することを望んでいたが、ウィリアムは身分は低いが金持の女性と結婚してしまった。そうこうするうちに、エリオット卿の家計は、次第にひっ迫しはじめ、ケロッグ邸をだれかに貸して、自分たちはよそでより質素な暮らしをすることになる。借りることになったのが海軍の軍人であるクロフト提督で、その夫人の弟というのがかつてアンの恋人であったフレデリック・ウェントワースで、その当時とは違い、大佐に昇進して財産もきずき上げていることが知れた。

 アンはバースに家を求めた父・姉と離れて、しばらくケリンチに近いアッパークロスに住む妹のメアリの許で暮らすことになる。メアリの嫁ぎ先のマスグローブ家はエリオット家のような気どりもなく、仲のよい一家であり、夫チャールズにはヘンリエッタとルイーザという2人の年頃の妹がいる。間もなく、ケロッグ邸の借主となったクロフト提督一家とも近所付き合いが始まり、間もなくフレデリックも顔を見せるようになった。こうしてアンとフレデリックはまた、ぎこちなく顔を合わせることになる。ヘンリエッタには従兄で僧職にあるチャールズ・ヘイターという仲のいい男性がいるのだが、フレデリックの出現で気が変わったようにも見える。その妹のルイーザは海軍の軍人に魅力を感じている。

 フレデリックには海軍の同僚でけがをして保養地のライムで暮らしているハーヴィル大佐という親友がいて、その話を聞いたマスグローブ家の人々とアンは、ライムに出かけ、ハーヴィル大佐夫妻と、ハーヴィルの妹の恋人であったベンウィック大佐に出会う。恋人を慕う気持ちがなかなか抜けないベンウィックにアンは同情心を覚えるが、ライムの旅館で、アンの美貌に見とれる男性に出会う。その男性こそ、姉のエリザベスを振ったウィリアム・ウォールター・エリオットであった。彼は妻を失ったばかりだったのである。一方、ルイーザはフレデリックとふざけていて、大けがをしてしまう…。

 アンは、そしてフレデリックは、誰と結ばれることになるのか。「彼らは前よりは思い遣り深くなり試練を経ていた。お互いに相手の性格や真実性や愛情をすっかり呑み込んでいた。今では実行する資格ができ、実行しても差し支えなくなっていた」(378ページ)という「彼ら」2人は、誰と誰なのか。
 ナポレオン戦争や産業革命に代表される社会の動きをほとんど構いつけないように、イングランド南西部の穏やかな風光の中で、地主たちのあまり広いといえない社交生活の中で、心理的なドラマが展開される。ちょっとした言葉のやり取りと、その解釈が人生を左右したりしかねない。作者の時代の社会情勢がほとんど無視されている一方で、ここで描かれている人間模様には現代に通じるものがあるように思えるところが、オースティンの作品の魅力であろう。

 ここで、少し、歴史的な注釈をいれておこう。従男爵baronetというのは英国の最下級の世襲位階で、baronの下、knightの上であるが、貴族ではない。オースティンの小説ではしばしば不動産の相続が問題になるが、これは単純不動産権、限嗣不動産権、生涯不動産権、期間不動産権、任意終了不動産権などというふうに慣習法によって複雑な権利が設けられており、男系相続が一般的(女系相続という場合もある)であることによるらしい。(『高慢と偏見』、『分別と多感』、この『説きふせられて』など、子どもが娘だけなので、家屋敷が血縁のある男性の手に渡るという話ばかりである。)

 「ラジオ英会話」で紹介されていたフレデリックの手紙は次のようなものである:
You pierce my soul. I am half agony, half hope. Tell me not that I am too late, that such precious feelings are gone forever. I offer myself to youo again with a heart even more own than when you almost broke it, eight years and a half ago. Dare not say that man forgets sooner than woman, that his love has an earlier death. I have loved non but you.
(あなたは私の魂まで突き通すのです。わたしは半ば苦悩し、半ば希望する者です。私に言わないでください、あなたは遅すぎたと、そのような愛しい気持ちなど永遠に消え去っていると。私は私自身を再びあなたにささげます、8年半前、あなたによって折れそうになり、今はより自分らしくなった心とともに。断じて言わないでください。男は女より忘れるのが早いとは、男の愛はより早く死を迎えるとは。わたしはあなただけを愛してきたのです。)
 小説中の手紙の中から省略された部分がある。それから、「男は女より忘れるのが早い」というのは登場人物の中のある人物の行為に対する評価と結びついている。これらのことについて、もっと詳しく知りたい方は、『説きふせられて』を読んでください。
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