2016年の2016を目指して(2)

2月29日(月)雨が降ったりやんだり

 2月は東京都に足を延ばし、港区、品川区、渋谷区、千代田区に足跡を刻んだ。1月からの通算では2都県、5市区に出かけたことになる。
 新たに東京都営地下鉄、JR東日本、東京メトロを利用し、1月からの通算では5社を利用したことになる。また、東急目黒線、都営三田線、JR山手線、東京メトロ半蔵門線を利用したので、通算では6路線を利用したことになる。さらに白金台、渋谷、目黒、上大岡、神保町の5駅を利用したので、利用した駅の通算は8駅である。新たに利用したバスの会社はないが(2社)、横浜市営バスの35系統、50系統、神奈川中央交通の43系統のバスを利用し、1月からの通算では9系統のバス路線を利用したことになる。

 この記事を含めて29件のブログを書いた。未分類が1(3)、読書が12(26)、日記が5(11)、詩が2(7)、映画が6(9)、推理小説が3(3)、歴史・地理が0(1)ということで、1月からの通算は60件である。4件のコメントを頂いた。1月からの通算は9件である。今までのところトラックバックはない。また693の拍手を頂き、1月からの通算は1421である。拍手コメントはなかったので、1月からの通算は4のままである。

 新たに渋谷の丸善ジュンク堂、三省堂本店という書店で本を購入し、本を購入した書店は3店となった。13冊の本を買い、10冊を読み終えた。買った本の合計は27冊、読んだ本の合計は20冊である。2月に読み終えた本の表題を列挙すると:田中啓文『鍋奉行犯科帳 浪花の太公望』、潮木守一『アメリカの大学』、田中啓文『鍋奉行犯科帳 京へ上った鍋奉行』、瀬川拓郎『アイヌと縄文――もう一つの日本の歴史』、レスリー・メイヤー『バレンタインは雪あそび』、シャーロット・マクラウド『ヴァイキング、ヴァイキング』、黒田龍之助『外国語を学ぶための言語学の考え方』、遠藤慶太『六国史――日本書紀に始まる古代の「正史」』、『水鏡』、山本紀夫『トウガラシの世界史』である。

 NHK「ラジオ英会話」を20回(40回)、「入門ビジネス英語」を9回(17回)、「実践ビジネス英語」を12回(24回)、「攻略!英語リスニング」を8回(16回)、「ワンポイント・ニュースで英会話」を21回(41回)聴いている。「ワンポイント・ニュースで英会話」のなかの5回分は、再放送らしい。「まいにちフランス語」、「まいにちイタリア語」をそれぞれ21回ずつ聴いている。1月からの通算はそれぞれ41回ずつである。

 今年になってから始めてシネマヴェーラ渋谷、神保町シアター、横浜駅西口ムービルで映画を見た。1月からの通算では5館で映画を見たことになる。2月に見た映画は『女教師 私生活』、『官能教室 愛のテクニック』、『ニューヨーク 眺めのいい部屋売ります』、『Re:Life リライフ』、『青年の椅子』、『喧嘩太郎』、『スティーブ・ジョブズ』、『あした晴れるか』、『日本列島』の9本である。見た映画の1月からの通算は12本となった。

 2月28日にニッパツ三ツ沢球技場でJ2第1節の横浜FC対カマタマーレ讃岐の対戦を見に出かけた。1月に全国高校サッカー選手権の2回戦、3回戦、準々決勝のそれぞれ2試合ずつを見ているので、サッカーの試合を7試合観戦したことになる。

 ノートを5冊、ボールペンの芯2本(0.7ミリと0.5ミリ、それぞれ黒)、修正液2本、テキストサーファー(黄)1本を使い切った。

 アルコールを口にしなかった日は3日にとどまった。

 2016年はまだ始まって間もないと心得て、様子を見ながら調子を整えているようなところがある。4月から新しい年度が始まるので、何か新しいことを始めるかもしれないが、先立つものが乏しいので、目立った動きを見せたくても見せられないというのが苦しいところである。 
スポンサーサイト

『太平記』(92)

2月28日(日)晴れ後曇り、比較的温暖

 今回から第11巻に入る。鎌倉幕府の実権を握っていた北条氏一門は新田義貞の軍勢が鎌倉に攻め込んだ際に、討ち死にし、あるいは自害をした。元弘3年(1333年)5月22日、敵陣深く入って奮戦を続けていた長崎基資が、得宗・北条高時が最期の地として選んでいた東勝寺に帰参して腹を切ると、続いて北条高時以下873人が自害し、ここに鎌倉幕府は滅亡したというところで、第10巻は終わっている。なお、吉川英治の『私本太平記』では高時の最期の様子を『太平記』とは全く別の描き方をしているので、それも歴史についての一つの解釈であろうかと思っていることを書き添えておく。

 第11巻は「義貞すでに鎌倉を治(しず)めて、威遠近に(おんきんに)振るひしかば、東八ヶ国の大名、高家、手を束(つか)ね、膝を屈せずといふ者なし」(第2分冊、165ページ、義貞は既に鎌倉を平定し、その威風が至る処に及んでいたので、関東八ヵ国の大領主や名門の武士に、手を合わせ屈服しない者はいなかった)。長年、北条氏の恩顧を受けていた武士たちでさえそのような様子であったので、利害関係だけにつられて北条氏に属していた武士たちになると、彼らのへつらうさまはあさましい限りであった。こういう連中は、出家して世を捨てている北条一門の人々を寺から引きずり出して虐殺し、夫を失ったので、再婚する意思はないとして出家しようとする女性たちをあちこちで探し出して、亡き夫への操を守ろうとする志を無にするようなことをしたのであった。

 ここで、『太平記』の作者は次のような評言を差し挟んでいる:
「悲しいかな、義を専(もっぱ)らにして忽ちに死せる人は、永く修羅の奴となつて、苦しみを多劫の間に受けん事を。痛ましいかな、恥を忍んで苟(いやしく)も生けるものは、立ち処に衰窮の身となつて、笑ひを万人の前に得たる事を」(第2分冊、165-166ページ、忠義を全うして潔く討ち死にした人は、永く修羅道に落ちて、永遠の苦しみを受けることになる。恥をこらえてかりそめにも生きるものは、忽ち落ちぶれ品窮の身となって、万人の前に笑い物となる)。岩波文庫版の脚注によると、修羅は衆生が輪廻する六道の一つで、闘いで死んだ者が赴く怒りと闘争の世界である。多劫はきわめて長い年月である。(厳密に言えば、「永遠の苦しみ」ではなくて、「きわめて長い間の苦しみ」ということになる。仏教の地獄は、キリスト教(カトリック)でいう煉獄に相当するという学者がいるが、ダンテの『神曲』を読んでいても、キリスト教における「時間」が、仏教における「時間」よりもかなり短いことが分かる)。

 さて、そういうみっともない変節をした武士たちの中でも、もっとも目立った例が五大院(ごだい)右衛門宗繁であったという。彼は北条高時が篤い恩顧を与えた武士であっただけでなく、彼の妹は高時の寵愛を受けた側室の新殿(にいどの)であり、高時の子、相模太郎邦時、相模次郎時行は、彼の甥であった(時行については、第10巻で、諏訪盛高に伴われて諏訪に落ち延びて再起の機会を窺うことになったと記されている)。
 高時は、宗繁が新殿の兄であり、自分の息子たちの伯父であることから、彼を深く信頼し、邦時を託して、どんな方便をめぐらしてでも、邦時を守って、再起の機会を窺うようにしてくれと言い渡していた。それで、宗繁は、新田義貞の軍勢に降参して、ひそかに邦時をかくまっていた。
 こうして3日、4日がたって、北条一門が悉く滅びた様子ではあったが、新田(・足利)の軍勢は、まだ生き残ってどこかに隠れている北条一門のものを探し出せば賞を与えるという。こうして見つけ出された北条一門のものはすぐに処刑され、捕えたものは捕えられた北条一門の人々の領地を与えられ、かくまっていた人々はその所領を没収されることが続いていた。

 五大院右衛門はこの有様を見て、いやはや運の尽きた人を助け養おうとして、運よくつなぎとめた命を落とすよりは、邦時の所在を知っていることを新田方に通報して、新田方に異心を抱いているのではないことを明らかにし、所領の一部だけでもいいから、安堵する(所領であると認められる)ほうがよいのではないかと思い、ある夜、この相模太郎に向かって、次のように述べた。
 あなたが、この家にかくまわれていることは、誰も気づいていないと思っておりましたが、どのようにして秘密が露見したのでしょうか。新田義貞の執事(家老)である船田入道が、明日この邸を捜索にやってくるという情報を伝えてきた人がおります。なんとしても、今日の内に居場所を変えられないといけません。夜の闇に紛れて、伊豆山神社の方にお逃げください。宗繁もお供したいとは思いますが、一家そろって逃げるとなると、人目につきやすく、船田入道もさてこそと気づくと思われますので、御供はしないつもりですとまことしやかに言葉を並べたのである。これを聞いた相模太郎は、確かにその通りだと、身の置き所がなくなったことをあらためて実感しながら、5月27日の夜に、ひそかに鎌倉を出発したのである。

 幕府滅亡以前には、天下の主であった相模入道(高時)の長男であるので、ちょっとした物詣や方違え(かたたがえ=外出の方角が悪い時、いったん別の場所に泊まって方角を変えて目的に向かうこと)などにも大勢の家臣たちがつき添って警固したものであるが、時勢が変わったことで、みすぼらしい中間1人に太刀をもたせ、伝馬(公用の旅のために宿駅に常備された馬)も利用せずに、破れた草鞋に、編み笠を着て、どこへともわからずに、泣く泣く伊豆山神社に向かって、足に任せて向かおうとする、その心中を察するとあわれに思われる。

 五大院右衛門はこのようにして相模太郎を騙して出発させた後で、自分の手で彼を討ち取って義貞に差し出したならば、長年の方向の恩を忘れたものとして非難されるであろう、適当な源氏(新田方)の武士に討ち取らせてその褒賞の領地を(源氏の侍と)分け合って、領有したいと思ったので、急いで船田入道のもとに赴き、「相模太郎の行方を詳しく聞き出しました。ほかの兵士たちを交えずに討ち取ることができれば、きっと格別のご褒美をたまわることになるでしょう。このようにお知らせしたのですから、当方の所領を安堵するというご推挙をお願いできればと思います」と言上する。船田入道は心中に、目先のことだけを考えているいやなことをいうやつだなぁとは思ったものの、承知したといって、五大院右衛門とともに先回りをして相模太郎が落ちのびてくるのを待ち受けた。

 相模太郎は、待ち受けているものがいるとも知らずに、5月28日の明け方、なさけない落ちぶれた姿で、相模川を渡ろうと、渡し守を待って、岸の上に立っているのを、五大院右衛門はひそかにあれがその当人ですと教えたので、船田の家来の者が3人で、馬から飛び降りて、逃れる隙間もなく相模太郎を生け捕ってしまった。本来ならば、身分のある囚人なので、乗せるべき張輿すらもなかったので、船の縄で、相模太郎をがんじがらめにしばりつけ、馬に乗せて、中間2人にその馬の口を取らせ、白昼に鎌倉へと護送した。その姿を見聞きして、涙をこぼさない人はいなかった。相模太郎はまだ若く、世の中から糾弾されるような罪状はなかったのだけれども、朝敵の長男だということで、放っておくことはできないとして、直ちに翌日の暁に、ひそかに首を刎ねられた。

 この一部始終を聞いて、五大院右衛門が、我が身可愛さに、旧主の恩を忘れ、その子どもを敵の手に渡したのは義に背く行為であると非難する声が高くなり、それが新田義貞の耳にも達して、五大院も処刑すべしとの決定が内々になされたので、これを伝え聞いた宗繁は、あちこち逃げ隠れしたのであるが、悪いことはできないもので、誰も彼を助けようとしなくなったために、「忽ちに乞食の如くになりはて、道路の衢(ちまた)にて、飢ゑ死にけるとぞ聞こえし」(第2分冊、170ページ)と『太平記』の作者は記している。

 信頼していた伯父に裏切られ、処刑された相模太郎はかわいそうではあるが、宗繁を信頼しきっていた高時の思慮が浅かったことも否定できない。宗繁の行動は非難されるべきであろうが、それに対し、早めに断固たる措置を取らない新田義貞にも問題があるかもしれない。とにかく、いろいろな意味で後味の悪い記事が、鎌倉幕府の滅亡の後に記されていることは注目しておいてよい。 

『水鏡』

2月27日(土)晴れ、温暖

 書店の岩波文庫のコーナーを見たら、『水鏡』の増刷版が並んでいたので、「やったぁ!」と小躍りして喜びかけたのだが、落ち着いて考えてみると、<四鏡>でまだ読んでいないのは、『今鏡』であった。『水鏡』は、岩波文庫以外の版で既に読んでいるのだが、改めて読み直してみてもよいかなと思って、文庫本で110ページあるのを一気に読み終えた。昨日の当ブログで遠藤慶太『六国史――日本書紀に始まる古代の正史』を取り上げたので、今日は<四鏡>の内の1冊で、取り上げた時代において《六国史》と重なる部分が多い『水鏡』を取り上げるのも面白いだろう。

 『大鏡』、『今鏡』、『水鏡』、『増鏡』を<四鏡>という。成立年代からいうと、『大鏡』が院政時代に入った12世紀初め、『今鏡』、『水鏡』が同じく院政時代だが、12世紀後半、『増鏡』は南北朝時代の14世紀後半に成立したと考えられる。『大鏡』が文徳天皇の嘉祥3年(850年)から後一条天皇の万寿2年(1025年)までの歴史を紀伝体で語ったものであるのに対し、『今鏡』は『大鏡』のあとを受けて、万寿2年から高倉天皇の嘉応2年(1170年)までを取り上げ、これまた紀伝体の型式を取っている(そうである――読んだことがないから確かなことは言えない)。『増鏡』は治承4年(1180年)の後鳥羽天皇のご誕生から、後醍醐天皇が隠岐から京都に還幸される元弘3年(1333年)までを扱っている。『大鏡』、『今鏡』と違って、編年体で記されていること、『栄華物語』と同様に各巻に優美な題名が付けられていることも特徴と言える。

 これに対し『水鏡』は「かの嘉祥3年よりさきの事をおろおろ申すべし」(18ページ、(『大鏡』の発端となっている)あの嘉祥3年よりも前のことをおぼつかないなりに語りましょう)と言い、さらに神代のことは省くとして、神武天皇から仁明天皇までの事柄を扱っている。ほかの3つが作者にとってかなり近い時代を取り上げ、多くの史料を活用して書かれているのに対し、作者の時代からかなりの距離のある時代を取り上げているために、史料としての価値が低く、編年体で書かれていることから見ても、作者が内容についての自分なりの意見をもって書いているわけではないことが推測できる。

 <四鏡>はすべて、並外れて年老いた老人(『水鏡』の場合は仙人)が昔の話をするのを、書き手が聞いて書きとどめるという枠物語の型式をとっている。『大鏡』は京都紫野の雲林院の菩提講、『今鏡』、『水鏡』は初瀬(=長谷寺)、『増鏡』は嵯峨の清凉寺が出会いの舞台となっている。それぞれ寺院が絡んでいるのだが、『水鏡』は特に仏教色が強いのも特色と言えよう。特に神武天皇からの歴史を語りだす以前に、仙人が仏典に書かれた時間の枠組みについて語るが、これはほかの3つには見られないものではないかと思う(確認していない)。他にも寺院の成り立ちなどがかなり詳しく記されているのが特徴的である。これらのことと関連して、時間に対してのこだわりがあり、その関心が外国における年代にも向けられている。神武天皇の即位の年について「釈迦牟尼仏涅槃に入り給ひてのち、290年に當り侍りし」(19ページ)とか、懿徳天皇の32年に孔子が没したとか、外国の年代と日本の年代を計算しながら、記述している。

 歴史的な出来事というよりも、説話的な、不思議な出来事の方に作者の関心が向けられているのは、既に書いたように、対象となる時代が作者の時代から離れていることも手伝っているのであろう。浦島太郎の原型である浦嶋子が雄略天皇の22年7月に蓬莱(竜宮ではない!)に出かけたことは、昨日取り上げた遠藤慶太『六国史』31-33ページにも言及されているが、『今鏡』には淳和天皇の天長2年に「浦島の子は帰れりしなり、もたりし玉の箱をあけたりしかば、紫の雲西ざまへまかりて、のち、いとけなかりける形、忽ちに翁となりて、はかばかしく歩みをだにもせぬ程になりにき。雄略天皇の御世にうせて、ことし347年とといひしに帰りたりしなり」(106ページ)と、浦島の帰還まで記されている。淳和天皇の治政は《六国史》中唯一その大部分が散逸してしまった『日本後紀』に記されていたので、浦島の帰還が正史に書きとどめられているかどうかは確認できない。

 このような好奇心が、『水鏡』全編に横溢しているので、読んでみて面白いことは面白いのだが、その好奇心が野次馬的なものになり下がっているように思われる点が多々ある。とくに有名な説話として、藤原仲麻呂(恵美押勝)が孝謙天皇のもとで権勢を誇ったが、道鏡との権力争いに敗れて反乱を起こし、討伐されたという話に関連して、「大臣の女おはしき、色かたちめでたく世にならぶ人なかりき。鑑真和尚の、この人千人の男にあひ給ふ相おはす、とのたまはせしを、ただうちある程の人にもおはせず、一二人程だにもいかでかと思ひしに、父の大臣うちとられし日、御方のいくさ千人悉くに、この人を犯してき。相はおそろしき事にてぞ侍る」(84ページ、大臣には娘がいらっしゃいました。容貌に優れていてくらべられる人はありませんでした。鑑真和尚が「この人は千人の男と結婚される相をもたれています」とおっしゃったのを、ふつうのかたではいらっしゃらない、一人二人というのでもどうだろうかと思っておりましたが、父の大臣が討ち取られた日に、官軍の兵士たち1000人のすべてが、この人を犯しました。相というのはおそろしいものです)というのがある。
 平安時代の初めに最澄と論争した会津の僧徳一は藤原仲麻呂の遺児であったという伝説があり、同じ伝説を書き記すのであれば、こちらを書いたほうが文章の格調が高くなると思うのだが、それは現代人の見方なのであろうか。

 今の若者が歴史に興味を持たないのは、物語としての歴史を教えないからだという人がいるが、物語にもいろいろな種類がある。若者が好奇心をもちそうな物語だけを教える歴史が、はたして歴史学研究の出発点としてふさわしいものか、歴史物語としての<四鏡>を読み返すことで、その効果と問題点の両方があぶりだされるのではないかと思う。

遠藤慶太『六国史――日本書紀に始まる古代の正史』

2月26日(金)晴れ

 遠藤慶太『六国史――日本書紀に始まる古代の正史』(中公新書)を読み終える。

 六国史とは、『日本書紀』、『続日本紀』、『日本後紀』、『続日本後紀』、『日本文徳天皇実録』、『日本三代実録』という6部にわたる奈良時代から平安時代の中期にかけて国家の事業としてまとめられた歴史書をいう。
 この書物は六国史の成立事情、その内容と特色、史料としての重要性、後世における受容などを概観したものであり、「成立時期の古さ、体系的な情報量、いずれをとっても六国史は古代史を語る上での根本史料である」(ⅲページ)ことが繰り返し強調されている。この本の中でも紹介されているが、六国史については坂本太郎の同名の概説書があり、両方を合わせて読むことが、これらの歴史書を理解するうえで重要であるように思われる(私もそうしようと思ったのだが、持っているはずの坂本の著書が見当たらないので、見つけ出して、読み直してみようと思っている)。

 書物は全体として以下のような構成を取っている:
序章  六国史とは何か
第1章 日本最初の歴史書――『日本書紀』
 1 全30巻の構成と記述――神代から第41代持統天皇まで
 2 伝承と記録のあいだ
 3 素材――公文書から外国文献まで
第2章 天皇の歴史への執着――『続日本紀』『日本後紀』
 1 奈良時代史への入り口――『続日本紀』
 2 英主、桓武天皇の苦悩――特異な成立
 3 太上天皇への史臣評――『日本後紀』
第3章 成熟する平安の宮廷――『続日本後紀』『日本文徳天皇実録』『日本三代実録』
 1 秘薬を飲む天皇の世――『続日本後紀』
 2 摂関政治への傾斜――『日本文徳天皇実録』
 3 国史の到達点――『日本三代実録』
第4章 国史を継ぐもの――中世、近世、近代の中で
 1 六国史後――「私撰国史」、日記による代替
 2 卜部氏――いかに書き伝えられてきたか
 3 出版文化による隆盛――江戸期から太平洋戦争まで

 ここで取り上げた目次に記された文字を見ただけで、著者がかなり多彩な内容を盛り込んでいることが分かるはずである。一方で考古学者によって発掘された資料、他方で文学作品にも目を配りながら、六国史を執筆した人々と、そこで取り上げられた人々の動きを追っている。書く人と、書かれる人が、かなりの程度、重なっていることも見落としてはならない。

 序章には、六国史一覧の表が掲げられているので、ここでも念のために紹介しておこう:

 書名         巻数         成立年
日本書紀       30巻・系図1巻   養老4年(720)
続日本紀       40巻         延暦16年(797)
日本後紀       40巻(現存10巻)  承和7年(840)
続日本後紀      20巻         貞観11年(869)
日本文徳天皇実録 10巻         元慶3年(879)
日本三代実録    50巻         延喜元年(901)

 なお、最後の2書は、『文徳実録』『三代実録』と呼ばれることが多いが、著者は日本を省かず、六国史が全体として日本という国号を書名に含んでいることをことさらに強調している。そのあたりに著者の考え方の特徴を認めてもよさそうである。
 また、この序章で、著者は六国史が『史記』、『漢書』といった中国の歴史書に比べてつまらない、「官報を綴じ込んだようなもの、毎日毎日書いたものが何時の間にか集まったもの」(4ページ)という内藤湖南(1866‐1934)に対し、むしろそのように多量の政府文書を利用し得たことが、六国史の史料としての価値を高めていると反駁する。私としては内藤の説の方に賛成で、『史記』には歴史的な人物や事件についての司馬遷の論評が加えられているという著者も認めている点に加えて、それらの論評が司馬遷自身が各地を旅して歩いて見聞したことによって裏書されているという点を見逃すべきではないと思うのである。

 六国史は史書の型式として、天皇の治政ごとの編年体という形がとられているのが特徴で、この点は紀伝体をとる中国の正史とは異なるが、帝王の言動を記録して、後世の鑑――判断の基準とするという編纂の目的は共通していることが指摘されている。書名として『紀』と『実録』という2つの群に分かれるが、両者の間の明確な違いはないという。その他、六国史を理解するうえで重要な事柄を記して、序章は終わっている。全体として『六国史』の史料的な価値を重視し、その意義を強調する姿勢が顕著であることがこれまで述べてきたことからも明らかであろう。第2章以下の詳しい内容については、また、機会を見つけて紹介していくことにしたい。

日記抄(2月19日~25日)

2月25日(木)曇り後晴れ

 2月19日から本日までの間に経験したこと、考えたこと、前回までのブログの補遺など:
2月19日
 NHKラジオ「実践ビジネス英語」では”Accentuate the Positive" (ポジティブ評価)という話題を取り上げている。アメリカのビジネス界では、社員の働きぶりのポジティブな面をより重視する傾向が強まっているということの当否をめぐって議論が展開されている。ビジネスではなくて、教育の世界でも、「ポジティブ評価」は効果的であるかもしれないが、いくつか気をつけるべき点がありそうである。
 1つは当たり前のことだが、的確な評価をすること。大学で教えていたときの同僚で、ロクに学生を観察もせずに、適当に褒めまくっていた人がいたが、そういうことはやめた方がいい。このことと関連して、第2は、全人格的な評価をしないこと。きちんと仕事をしたとか、いいレポートを出したとか、個別的に評価すべき事案があったら、それを個々に評価すべきだということ。だからと言って、その学生が立派な学生だなどと太鼓判を押すのは控えた方がよい。評価する側も、される側も、長所と欠点についての情報を増やしていく必要がある。第3に、気が付いたら、すぐにその場で、直接本人に言い、間接的に誰かに言ってもらおうとしないことである。すぐに褒めることが適切ではないと思ったら、黙っていた方がよい。第3者が入ると、話がややこしくなったり、誤解されたりする恐れがある。当の学生が伝達者である第3者に好感を持っていなかったりすると、最悪の事態も予想できる。以上は、自分の経験を踏まえた意見であるが、私自身が教師をしていたころに、すべてがうまくいったわけではないのは言うまでもない。

2月20日
 NHKラジオ「攻略!英語リスニング」では”Kangaroos”の話題を取り上げた。
The little one's called a joey, the mother is called a doe, or sometimes a jill. A male adult kangaroo is called a boomer, or sometimes a buck or jack. (おチビちゃんたちは「ジョーイ」、お母さんカンガルーは「ド-」とか、ときには「ジル」とか呼ばれます。大人の雄のカンガルーは「ブーマー」とか、他には「バック」「ジャック」などと呼ばれることもありますね。)ということで、こういう区別がされているくらいに、カンガルーがオーストラリアとその周辺の人々にとって身近な存在なのだろうと考えさせられた。

2月21日
 既に書いたが、神保町シアターで「恋する女優芦川いづみ アンコール」の中から『あした晴れるか』と『日本列島』の2本を見た。 いつだったかテレビで吉永小百合さんが芦川さんの思い出として、自分が風邪をひいて熱を出していたときに、芦川さんが徹夜で看病してくれたことが忘れられないというようなことを話していたそうである。芦川さんのデビュー作は、川島雄三の松竹時代の作品『東京マダムと大阪夫人』で、彼女は月丘夢路さんの「東京マダム」の妹を演じているのだが、その後、日活入りしてからも、月丘さんの妹役を何度か演じている。その芦川さんの妹役を演じることが多かったのが、吉永さんで、さらに吉永さんの妹役を演じることが多かったのが和泉雅子さんというつながりになる。源氏鶏太の小説『家庭の事情』を映画化した『四つの恋の物語』では、芦川さんが長女、十朱幸代さんが二女、吉永小百合さんが三女、和泉雅子さんが四女という四人姉妹の恋愛模様が描かれている。以前に書いたことがあるが、源氏鶏太の原作は、これより以前に吉村公三郎監督が大映で映画化し、そこでは四人姉妹は若尾文子、叶順子、三条魔子、渋沢詩子という組み合わせである。(さらに、四人姉妹の父親の再婚相手として月丘夢路さんが出てくるのが面白い。) 両作品で、一番違っているのは、三女の描き方で、そのことに映画化された当時の吉永さんの人気が現われているといってよかろう。
 芦川さんを映画界入りさせたのは、川島雄三であるが、今回の特集上映では、「滝沢英輔監督や西河克己監督らが手掛ける文芸映画」のヒロインとしての芦川さんの活躍を強調するという趣旨のためか、川島作品が1本も選ばれていないのがちょっと残念である。川島の『風船』の中には、新珠三千代を芦川さんが看病する場面があり、それが吉永さんが語っている芦川さんとのエピソードと重なるように思われる。

2月22日
 NHK「まいにちフランス語」では、クロード・ルルーシュ監督が1966年に発表した『男と女』(Un homme et une femme)の主な舞台が北フランスの保養地ドーヴィル(Deauville)であることが話題として取り上げられた。私の学生時代に、同年配の女子学生と映画の話をすると、この映画がいいという人が少なくなかったのだが、それぞれ心に傷をもつ30代の男女の恋愛を描くという物語に20代前半の女性がどの程度共感できたのか、今から思うと多少疑問が残る。

2月23日
 2020年度から小学校の英語が教科の扱いになり、週2コマが割り当てられるという記事が『朝日』に出ていた。その程度の学習では英語ができるようになるわけではないのだが、なぜ、学校現場の困難な状況を無視して、無理矢理実施しようとするのだろうか。私は英語の授業がある私立小学校を卒業したが、その頃から60年以上英語を勉強してきて、まだ十分に英語ができるとは言えない。

 同じ新聞に史上最大の素数を発見したアメリカのセントラル・ミズーリ大学のカーチス・クーパーさんの記事が出ていた。なぜ、最大の素数の発見を目指すのか――大学の宣伝のため、優秀な学生を集めるためという答えが、実によかった。もちろん、その他にも理由はある、素数の発見そのものにも意味はあるし、学問的な発見というのはそういうものだが、クーパーさんでさえも気づいていない、全く新しい意味が隠されているのかもしれないのだが、そういうことについては触れていないのが粋である。

2月24日
 NHK「ラジオ英会話」の時間では"A Song 4 U (A Song for You)"として、The King of Rock 'n' Roll と言われたエルヴィス・プレスリーのヒット曲I Want You, I Need You, I Love You (1956年)を取り上げた。プレスリーがI Want You, I Need You...というところで、wantとyou、needとyouをはっきり区切って発音していたのが印象的であった。講師の遠山顕さんによると、この方が丁寧な言い方になるそうである。

2月25日
 NHK「ラジオ英会話」の時間では”Love, Love, Love"として、ジュリエット・ドルエがヴィクトル・ユーゴーに宛てた手紙、ジェーン・オースティンの小説『説得』に出て来るフレデリック・ウェントワースからアン・エリオットへあてた手紙、詩人のジョン・キーツがファニー・ブローンに宛てた手紙の3通のラヴ・レターが紹介された。最初のものは、フランス語からの翻訳であろうか。
 『説得』は読んだはずなのだが、オースティンの他の小説に比べて印象が薄い。また、読み直してみようと思った。オースティンの小説では『高慢と偏見』がいちばん好きである。というより、ヒロインのエリザベス(リジー)が好きだというほうが正確な言い方かもしれない。
 シャーロット・マクラウドの『ヴァイキング、ヴァイキング』で、ヘレンと結婚して新しい生活を楽しんでいる主人公のシャンディ教授が、子猫を飼いはじめて、その名前がジェーン・オースティンということになっている。推理小説と言えば、『高慢と偏見』の続編という形で書かれたP・D・ジェイムズ『高慢と偏見、そして殺人』という本が、ハヤカワ・ポケット・ミステリーの1冊として出ている。私は、あまり感心しなかったが、興味のある方は(『高慢と偏見』を読んだうえで)読んでみてください。私があまり気に入らなかった理由が突き止められるかもしれないし、あるいは、別の感想をもつかもしれない。そこはご自由に。
 

シャーロット・マクラウド『ヴァイキング、ヴァイキング』

2月24日(水)曇り、一時小雨

 2月23日、シャーロット・マクラウド『ヴァイキング、ヴァイキング』(創元推理文庫)を読み終える。
 ニューイングランドのどの州に属するのかはわからないが、バラクラヴァ郡にあるバラクラヴァ農業大学の応用土壌学の教授であるピーター・シャンディが活躍するシリーズの『にぎやかな眠り』、『蹄鉄ころんだ』に続く第3作。しばらく絶版になっていたが、この度新版が刊行された。原題はWrack and Runeで『残骸とルーン文字』とでも訳せばよいのだろうか、原題と邦題の意味は、物語の展開を読めば、おのずと理解できる。

 バラクラヴァ郡の地方週刊新聞の記者クロンカイト・スウォープは間もなく105歳の誕生日を迎えようとしているミス・ヒルダ・ホースフォールをインタヴューしている。彼女の農場の近くにはルーン文字を刻んだ石碑があるという話を聞いて、その石碑を探し出そうとしていると、農場で作男として働いていたスパージョン(スパージ)・ランプキンが奇怪な死に方をするという事件が起きる。農場での作業を手伝いに来ていた(いつもは学生たちと一緒なのだが、夏休み中なので、1人だけでやってきている)応用土壌学の教授であるティモシー(ティム)・エイムズが事件に不審を感じて、シャンディ―に連絡を取る。

 農場の経営は厳しく、ヒルダとその甥のヘンギスト(ヘニー)・ホースフォールはスパージの助けを借りて細々と農園を維持してきたのである。それで、この土地を開発しようとする不動産業者が2人にうるさく迫っている。さらに農場の近くで怪しげな古道具屋を経営している2人の人物の姿も見え隠れする。また、この土地の相続をめぐって親族の間での小競り合いもあるようである。しかも、ここしばらく、2人に対する嫌がらせ事件が続いているが、警察署長は事件を取り上げようとせず、スパージの死についても事故死として片づけてしまう。何しろ、警察署長の妹が不動産業者なのである。

 ところが1人でルーンの石碑を探しに出かけたクロンカイトがとってきた拓本を見ると、本当にルーン文字で何かが書かれているようである。そこでシャンディ―とティム、クロンカイトは大学の学長でスウェーデン出身であり、古代スカンディナヴィアの文化に詳しいスヴェンソン学長に意見を求めに出かける。学長の7人いる娘のうち5番目のビルギットが結婚することになって、その結婚式に列席するためにスウェーデンからやってきている学長の大叔父の102歳になるスヴェンは英語は自由に話せないが、この問題についてはさらに詳しいという。
 スヴェンが解読したところでは、石碑には「オルム・トーケッソンがみつけたのは、まずい酒と気むずかしい女たちだけだった。ここは呪われている」という文言が刻まれていた。どうやら、中世にニューイングランドまで到達したヴァイキングの1人がこの石碑を残したらしい。このニュースをクロンカイトが書き立て、新聞の号外を配ったために、多数のやじ馬が押しかける騒ぎとなり、その一方で、この「呪い」を証拠立てるような怪事件が続いて起きる。さらにスヴェン老人は、ヒルダに熱を上げ、合計年齢207歳という「大」恋愛が進行しはじめる…。

 合計年齢207歳の「大」恋愛に代表されるおおらかで温かなユーモアが満ちたコージー・ミステリ―であるが、農民たちの土地を奪おうとする者に対する怒りのようなアメリカ文学の伝統的な正義感も物語を支えている。中世ヨーロッパを席巻したヴァイキングと呼ばれる北欧の海の民たち――その代表的な1人が、この物語でも言及されているイングランド、デンマーク、ノルウェーの王であったカヌート(c.993-1035)である――が、アイスランド、グリーンランドを発見し、さらに北アメリカに到達したという言い伝えがある(この他にも、コロンブス以前に北アメリカに達した人物がいるという伝説はいくつかある)。だから、ヴァイキングにまつわる遺物が発見されれば、大発見ということになる。バラクラヴァ郡はなぜか、この州の他の郡と違って、北欧系の名前をもつ人々が多いという設定なので、大騒ぎが起きることも理解しやすくなっている。作者であるシャーロット・マクラウドはその名前から考えてスコットランド系(或いはアメリカに多いアルスター・スコッツと呼ばれるスコットランドから北アイルランドに、そしてアメリカに移住した人々)であろうが、スコットランドと北欧の距離は近いので、親近感があったとも思われる。
 ルーン文字というのは中世にゲルマン人たちによって、ゲルマン諸語を書き記すために使われていた音素文字であり、鋭角的というのかな、その独特の字形が印象的である。その後はラテン文字(ローマ字)に取って代わられたのだが、北欧と英国ではこの文字を記した遺跡が発見されることがある。文字資料だけでなく、ヴァイキングの隠した財宝が発見されたというニュースも英国では時々報じられてきた。

 スパージを殺した犯人は誰か、ヒルダとヘニーが耕している土地は守られるのか、正当に相続されてゆくのか、石碑とその上に記された文言は真実を語っているのか、そして合計207歳の恋の行方は…もともと奇想天外で波乱にとんだ物語は、さらに波乱を重ねながら、思いがけない結末へと進んでゆく。共通の祖先をもつ古くからの家柄の一族の入り組んだ関係が物語の進行に絡み、その関係を頭に入れないと展開が理解しにくいのが欠点ではあるが、ユーモアたっぷりの語り口は、最後まで読者の興味をそらさない。

 物語とはあまり関係がないのだが、スヴェン老人が英語をあまりよく話せず、発音もあやしいというのが、その年齢設定とともに興味深い。種田輝豊さんの『20ヵ国語ペラペラ』という書物の冒頭に、英語ができないスウェーデン人が登場する。この書物を何度も読み返したらしい、黒田龍之助さんが英語ができないスウェーデン人というのは信じられないという意味のことを書いていると記憶するが、かなり昔のスウェーデンにはそういう人がいたのかもしれない。 

ダンテ・アリギエリ『神曲 煉獄篇』(24-1)

2月23日(火)曇り後晴れ

 ダンテはウェルギリウスに導かれて、煉獄の第6環道へとたどり着いた。そこでは霊たちが地上で犯した飽食の罪を償っていた。2人には第5環道から、白銀時代のローマの詩人であるスタティウスがついてきていた。彼は罪の償いを終えて、天国に向かおうとしていたのだが、ウェルギリウスへの尊敬の気持ちから、2人とともに煉獄を歩もうとしていた。ダンテは、ここで、若いころに、戯れの詩を作ってお互いをからかいあっていた、旧友のフォレーゼの霊に出会う。彼は死後間もないにもかかわらず、貞潔な妻であるネッラが彼のために祈り続けていたために、天国に間近なところまで死後の歩みを進めていたのである。

話が歩みを、歩みが話を遅らせることは
なく、さながら順風満帆の船のように、
私達は議論しながら力強く進んでいった。
(350ページ) 第6環道にいた霊たちは、彼らの周りを取り巻いていたが、ダンテが生きてこのような場所を歩んでいることに気付き、驚きの目で彼を見ていた。フォレーゼにウェルギリウスについて語っていたダンテはさらに、スタティウスが2人とともに歩んでいることを告げ、さらに、彼らを取り巻く霊たちの中にダンテの知人がいないかを尋ねる。

 修道院に入った後に、兄であるコルソの野望の道具とされて、同じくフィレンツェ黒派の有力者であったロッセリーノと政略結婚させられたフォレーゼの妹のピッカルダが天国にいると知らされる。さらにフォレーゼはこの環道にいる人物たちの名前と贖罪の理由を挙げる。

 最初にその名を挙げられるのが詩人であり、公証人でもあったボナジュンタ・ダ・ルッカ(1220頃‐90)であった。彼の後ろにいる「ひびわれた顔の」人物は美食家であったローマ教皇マルティヌスⅣ世(1210-85)であり、「絶食により/ボルセーナの鰻とヴェルナッチャの白葡萄酒を償っている」(352ページ)と説明された。これは市民の反発を受けてローマに拠点を構えることができず、オルヴィ干支やペルージャなどの地方を転々としていたマルティヌスの政治的な軌跡を、これらの地方に近いボルセーナ湖産の鰻をフランスのイタリア進出の拠点であるリグリア地方にあるヴェルナッチャ産の白ワイン漬けにして焼いた料理を好んだ罪を償っているという表現で批判しているものと理解できるそうである。この時代に、イタリアでは鰻をこのように料理して食べていたということに驚くのだが、天国にいけそうもない私は、むしろこのイタリアのウナギ料理を食べてみたいという気持ちにとらわれている。もっとも、最近は健康上の理由から、ウナギは食べないことにしているのである。

  ボナジュンタは、霊界を遍歴するダンテを助ける有徳の女性の存在を伝えると、自分の目の前にいる人物が「愛の本質を解する貴婦人達よ」(354ページ)という書き出しで始まる詩集『新生』の作者であるかと問う。『新生』は青年ダンテが清新体派の詩人として書き記した詩集である。
そこで私は彼に、「私こそは、愛が私に息吹を吹き込んだ
その時に記し、そして愛が私の中で口述する
そのままを言葉に置き換えていくその一人だ。」
(354-355ページ)とダンテは答える。

 ボナジュンタ・ダ・ルッカはプロヴァンスやシチリア派の詩法をトスカーナに直接持ち込んだシクロ=トスカーナ派の詩人で、ダンテたちとは対立していたのだが、ダンテと詩法をめぐる議論を展開する。その中でダンテが属していた清新体派に至るまでのイタリア俗語詩の流れを要約的に語る。俗語というのは、この時代すでに古典語であったラテン語ではない、当時の人々が社会生活の中で日常的に使っていた言語であり、ダンテにとっては何よりも、イタリア語、南フランス語、フランス語の3つの言語を意味していた。清新体というのは、ダンテ、グイド・カヴァルカンティ、グイド・グィニツェッリなどの詩人が属した、最初にボローニャ、次にフィレンツェで起こった詩派であると説明されている。また、ダンテの答のなかに、彼の考えたところでの清新体派の詩の特徴がまとめられているようである。

日本列島

2月22日(月)曇り、一時雨

 2月21日、神保町シアターで「恋する女優芦川いづみ アンコール」特集上映の中から『あした晴れるか』(1960、中平康監督)と、『日本列島』(1865、熊井啓監督)を見た。その後で、上映された『霧笛が俺を呼んでいる』(1960、山崎徳次郎監督)も熊井啓が脚本を書いているうえに、横浜が主な舞台であり、さらに主演の赤木圭一郎は私の中学校の先輩という関係もあるので、見たい気持ちはやまやまだったのだが、3本連続で映画を見るのは負担が大きく、この映画は既に1度見ているので、やめることにした。(以前に、この映画を見たときに、当ブログで書いたのだが、キャロル・リード監督の『第三の男』が下敷きになった作品で、私は見ているうちに気付いたのだが、初めからそういうつもりで見ても、たぶん、それなりに楽しめる映画である。吉永小百合さんの映画入り2本目の作品であることも忘れてはならない。)
 さて、本題に戻って、今回は『日本列島』について書くことにする。吉原公一郎の「小説日本列島」を原作として、熊井啓が脚本を書いた社会派サスペンスで、日米間に起きた様々な事件の背後に、国際的な規模で様々な謀略を展開している機関の暗躍があるという設定で、1960年日米安保条約改定の前夜の緊迫した社会情勢を背景に、それ以前に起きたが、その謎の解明が続いていた下山事件や松川事件など実際に起きた事件や、実際に起きた事件をモデルにした架空の事件が入り乱れて展開される。下山事件を題材にした山村聰監督(鈴木清太郎=清順助監督)の『黒い潮』を思い出させる画面が登場したりする上に、舞台俳優が多く起用される地味な配役も手伝って、ドキュメンタリー風の仕上がりになっている。

 1959(昭和34)年秋、SキャンプCID(犯罪調査係)に転任してきた米軍のポラック中尉は、かつて自分の部下であったリミット曹長が、前年に沖縄に向かおうとしていた羽田空港で食事中に突然姿を消し、死体で発見された事件に不審を抱き、基地の通訳主任である秋山(宇野重吉)に個人的に調査を依頼する。リミット曹長の死体が発見された後に、アメリカ側は日本側の意向を無視して、無理矢理に死体を本国に運び去ったうえに、日本の警察を無視して一方的に事故死であったと発表して幕引きを図っていたのである。

 秋山は、終戦直後に北海道で教師をしていたが、新婚間もない妻が米兵によって暴行を受けて殺害されたにもかかわらず、事故死として処理された過去の経験があり、基地の通訳になったのもその犯人を突き止めるためであった。彼はこの事件に関心を抱く新聞記者の原島(二谷英明)らの助けを借りて、真相の究明を続けていく。
 リミット曹長のオンリーであった小林厚子(木村不時子)は、秋山の北海道時代の教え子で、死の床で、涸沢という人名と、ザンメルという言葉を残す。その後の調査でザンメルがドイツ製の精巧な印刷機であり、戦争中、敵のかく乱のために偽札製造などの目的で使用されたこと、その捜査にかかわった人物が行方不明になっていることなどが分かる。行方不明になっている人物の1人の娘で、現在は小学校の教師をしている伊集院和子(芦川いづみ)が最初は、口を閉ざしていたのだが、次第に父の失踪の事情など、事件にかかわる記憶を語るようになる。秋山は関係者の家族から嫌がられたりしながらも、次第に事件の内奥に迫っていくが、突然、ポラックから捜査の打ち切りを言い渡される…。

 日本の社会がアメリカへの従属によって、目に見える形、見えない形で影響を受けているというレベルでこの映画の主張を受け止めるか、それともある種の陰謀の存在を事件の背後に見るかというところで、映画の評価は違ってくる。中島貞夫の『戦後秘話 宝石略奪』などという映画は、後者の要素を強く持った作品であり、その分、娯楽性が強くなっていた。映画の内容にあまり立ち入らずに、問題提起の意味をもつ作品として評価しておいた方がよいと思う。

 もう一つ指摘しておきたいのは、映画における配役・演出をめぐる問題である。1974年頃のことだったと思うが、京都に北大路トウラスという高林陽一が主宰するミニシアターがあり、そこで、大島渚を招いて映画ファンと語り合う機会を設けたことがある。その際に、ある参加者が、熊井の『忍ぶ川』には感動したが、大島の映画には感動したことがないという感想を述べ、大島が、そういうことをいってくれるのはありがたいというようなことを述べたという記憶がある。今考えてみると、この意見は、両者の演出の違いを見抜いていたものとして貴重である。大島は自分の思想表現の手段として演技を考え、それが客観的にどのように見えようと、自分の目から見て自然であればよいという考えていたのであろうが、熊井の場合は、客観的に自然に見えることを求めようとしたのであろう。だから、大島は配役について1に素人、2に歌歌い、3・4なくて5にスターなどと定式化してい(実際には、自分の気心のしれた「大島組」の俳優を使っ)たのに対し、熊井は新劇俳優を使うことが多かったという違いになって表れたと思われる。(大島が「うまい」俳優を必ずしも起用しなかったのに対し、熊井は「うまさ」にこだわっていたということである。) 映画におけるリアリズムとは何か、演出はいかにあるべきかということを考えるうえで、両者の対比は重要な示唆を与えると思う。

 以下は余談である:
 神保町シアターではロビーに上映中の映画作品の配役表を配布していて、もちろん、それは入手しているのだが、上映後、確認したいことがあって、あらためて配役表を見直した。その時に近くにいた人と、「一番悪い奴の1人を大滝秀治がやっていることを確かめたかったのですよ」「大滝秀治はいい役をやることの方が多いような気がする」「もっと昔は悪い役をやることもあったんです」「その頃はあまり映画は見なかったから…」というような会話を交わした。もっと落ち着いてそういう話をしたかったと思う。

 熊井啓は、この作品の後、裕次郎主演の『黒部の太陽』で興行的な成功をおさめ、その後に、井上光晴原作の『地の群れ』を製作するが、こちらはそれほどの評価を受けなかった。1969年の秋に私はコマーシャル映画の撮影の手伝いをしたのだが、その撮影を担当したのが、『地の群れ』で撮影監督をしていた墨谷尚之さんであった。その後、墨谷さんの名に出会ったことがないのが気がかりである。

『あした晴れるか』

2月20日(日)晴れ

 神保町シアターで「恋する女優芦川いづみ アンコール」特集上映の中の、『あした晴れるか』(1960、日活、、中平康監督)と『日本列島』(1965、日活、熊井啓監督)を見る。今回は『あした晴れるか』を取り上げる。『東京新聞』に連載された菊村到の小説を原作として、池田一朗と中平康が脚本を書いている。カタカナ言葉がふんだんに出てくる芦川の台詞など、モダニストとして名をはせた中平の才気が盛り込まれた風俗喜劇である。もっとも、映画が終わった後で若い観客から21世紀の映画ではないね、という評価が聞かれたが、東京タワーが最新の風俗で、都電やオート三輪が走っている東京の街は、今や懐かしの風景になってしまっていることも確かである。その当時最新であったものが、最新であったが故に郷愁の対象となるという逆説も幾分かは感じられる。

 青果市場で働きながら、カメラマンとして頭角を現しつつある青年三杉耕平(裕次郎)がさくらフィルムの宣伝部長の宇野(西村晃)の抜擢を受けて、”東京探検”というテーマでの写真を依頼される。それぞれの写真がスポンサーとなる会社の宣伝用に使われるという約束で、”探検”のサポート役として、宣伝部の社員である八巻みはる(芦川いづみ)という黒メガネのインテリ女性がついてくることになる。この2人組は、本来仕事の相棒というだけの関係なのだが、周囲が恋人同士だろうと勝手に推測したり、本人同士もその気になったり、喧嘩したり…という中で、仕事を進めていくことになる。

 打ち合わせに出かける途中で、ネクタイを万引きした男とぶつかったことから、彼を追いかけていた店員梶原セツ子(中原早苗)に犯人と間違われてひと悶着がある。打ち合わせのあとで、宣伝部長と飲みに出かけると、そのセツ子が今度はバーのホステスとして現れるという都合のいい展開である。耕平はみはると飲み歩いた末に、彼女の家に泊まることになる。みはるには大学の数学の先生をしている父親(信欣三)、母親(高野由美、『風船』、『あいつと私』でも芦川いづみの母親役であった)、書道教室で教えている姉のしのぶ(渡辺美佐子)、実は弟ではなく従弟で、大学生だが大学には出かけずに、家にもよりつかなくなっている不良じみた弟の昌一(杉山俊夫)がいる。耕平とみはるが飲み歩いているうちに、すでに昌一とは出会っている。耕平はしのぶが断りたい求婚者を欺くためのにせの恋人役を引き受けさせられたり、昌一のトラブルに巻き込まれたりしながら、みはるとともにあちこちの取材を続ける。世間は狭いのであろうか、あちこちで、人間関係がつながっていく。ところが、耕平のとった一枚の写真、それはセツ子の父親である清作(東野英治郎)を写したものであったのだが、思わぬ波紋を広げていく…。

 この時期の日活映画では芦川いづみと中原早苗がヒーローの争奪戦を展開する作品が多く、今回の特集上映でも取り上げられている(当ブログでも取り上げた)『喧嘩太郎』、『堂堂たる人生』などもその例である。単に、恋敵という存在だけでなく、中原が出てくることで、映画のストーリーが動くという場合が多いが、今回も、セツ子の父親である清作が今は、花屋をしているが、もともとはばくち打ちで、出入りの際にけがをさせた昔の敵根津(安倍徹)が、刑期を終えて出所してきたことから騒動が起きるのである。
 
 耕平がとる写真は、必ずしも協賛企業の求めるものではなかったように思われるのだが、それでも成功していくという物語になっている。それが時代の勢いというものであったのだろうか。時代と言えば、映画の中で実在の企業名がポンポン出てきて、これでいいのかと思わせる。今だったら、クレジット・タイトルに協賛企業として長々と企業名が並ぶところである。
 中平康は助監督時代に、その有能さで知られ、さらにこの映画で助監督を務めている西村昭五郎は、その後、監督に昇格してから会社の要求に応えながら様々な映画を作った器用人である。主人公とヒロインとが東京のあちこちを歩いて、さまざまな現場を取材する。そういう映画に使えそうな現場を見つけて、撮影の段取りをつけていくのも助監督の仕事であり、この映画は、助監督としての腕の振るいどころがあちこちにある映画だともいえる。それ以上に、昌平が働いているボーリング場の場面など、この時代、オートメーションが進んでいなかったので、その限りでいくらでも仕事があったことが分かる。

 菊村の原作小説は、新聞連載当時読んでいた記憶はあるが、何せ、こちらがまだまだ子どもだったので、断片的な場面の記憶があるだけである。それでも、映画は原作に忠実にというよりも、映画として面白そうなところだけを抜き出し、強調してつくっているということはわかる。原作ではセツ子はダイスのセツ子とあだ名されていて、個性的な存在として描かれてはいるが、みはるの恋敵という役どころではなかったように記憶する。セツ子の役を中原早苗に割り当てることで、原作とはまた別の個性が生まれている。登場人物の大半は類型化されているのだが、それでも映画は全体として1960年頃の日本社会の活気とも元気ともいえる「空気」をそれなりにとらえた作品として、その価値を認めていいように思う。

 この時代、才気に満ちた作品を作り続けていた中平がその後、日本映画の停滞と軌を一にするか゚のように、不振を続けたまま世を去ってしまったのは残念なことである(新藤兼人が脚本を書いた『混血児リカ』など、私は面白いと思ったのだが、当時の評判は悪かった)。表面的な風俗を追うことには長けていても、より本質的な時代の精神をつかむことができなかったことが原因なのか、それとも、日活の女優さんたちから総スカンを食ったというような人間掌握術の拙さが問題なのか、そういったことは今後さらに彼の作品を見ながら考えていきたいところである。

 今回の映画鑑賞について、事前に連絡のコメントがあれば、映画鑑賞後に直接感想を語り合うべく、こちらからも連絡するつもりだったのだが、残念ながらそういう連絡はいただけなかった。また、同じようなことを考えることもあろうかと思うので、その時はよろしくお願いしたい。

スティーブ・ジョブズ

2月20日(土)雨

 横浜駅西口ムービル5で『スティーブ・ジョブズ』(2015、ユニバーサル)を見る。アップル社の創業者の1人で、その優れた企画開発力と強烈な個性によって、IT産業と技術に革新をもたらした企業家スティーブ・ジョブズ(1955-2011)の生涯を、ウォルター・アイザックソンの書いた評伝に基づいて、アーロン・ソーキンが脚本を執筆、ダニー・ボイルが監督した映画である。ソーキンの脚本は、評伝に沿って彼の生涯を追うのではなくて、1984年のMacintosh,1988年のNeXT Cube,1998年のiMacの3つの製品発表会の舞台裏に焦点を当て、一種の対話劇としてまとめており、その中で彼の製品の性能へのこだわり、経営や営業実績をめぐる他の会社幹部との対立、元恋人のクリスアンとの口論、2人の間の娘であるリサとの距離感などが浮かび上がる、人間としてのジョブズの実像を描きだそうとした作品になっている。

 映画の中で、ジョブズ(マイケル・フェスベンダー)と、彼とともに技術開発に携わってきたアンディ(マイケル・スターバーグ)、営業担当として彼の事業の展開を支えてきたジョアンナ・ホフマン(ケイト・ウィンスレット)、アップル社の社長であったジョン・スカリー(マイケル・スタールバーグ)らの登場人物のと関係が、回想場面を挿入しながら描かれる。大部分の人々が現存しているので、このあたり描きにくかったかもしれないが、会話の様子がいかにも芝居がかっていて現実感が乏しいことは否定できない。

 フェスベンダーが、『ジェーン・エア』でかつてオーソン・ウェルズが演じたロチェスターの役を演じていたからかもしれないが、情報産業界の巨人を描くという映画の主題と、回想場面を織り交ぜる映画作りの手法は、『市民ケーン』を思い出させる。映画の進行の中で主人公の生い立ちの謎の部分が明らかになっていくところも共通している。この作品は『市民ケーン』のように、さまざまな視点から主人公を描くというやり方はとっていないけれども、その代わりにジョブズが事業を展開させていく中で生じた多様な個性のぶつかり合いを描いているので、その点での見応えがある。それから独善的で横暴ではあるが、魅力的で憎めないところがあるジョブズの性格の描き方が、ケーンを思い出させることも確かである。

 ジョブズはボブ・ディランとビートルズを愛していたようで、そのあたりのことがしっかり描かれていて、それがアメリカの精神史の一コマの証言になるように思われる。ジョブズの年齢からいうと、彼は少年時代にこれらの音楽と接したはずで、その意味では、彼が養子として育った少年時代のことが会話の中で語られるだけで済んでいることに物足りなさがある。彼の新製品のプレゼンテーションが熱狂的な支持を受けた様子はかなり克明に描かれているのだが、支持者たちがどのような環境のなかにいる人々であったのかが描かれていないのも物足りない点である。

 とはいうものの、ジョブズという優れた個性を描いたという点で一見の価値のある映画である。そこからどのようなメッセージを受け取るかによって、観客一人一人が自分の個性を読み解く一つの機会となるだろう。

『太平記』(91)

2月19日(金)晴れ

 元弘3年(1333年)5月21日、倒幕の兵を率いた新田義貞の軍勢は、鎌倉市中に攻め入った。鎌倉に火が放たれ、幕府方に裏切りが続出する中、北条一門の多くは討ち死に、また自害した。得宗家の内管領を務めた長崎円喜の孫である長崎次郎基資は武蔵野の合戦から引き続いて戦闘に参加し、奮戦を重ね、いったん北条高時のもとに戻って、もはや体制を挽回することはかなわないまでも、最後の奮戦をしてから、冥途の御供しましょうといって、旗印を隠して敵陣のなかに忍び込み、新田義貞のすぐ近くまでたどり着いたが、正体を見破られ、かくなるうえはと激戦を続けた。

 基資は声を張り上げて、自らが長崎円喜の孫、基資であると名乗り、手柄を立てようとするものはやって来いといい、鎧の袖や草刷りを切り捨てて、次第に軽装になってなおも戦おうとするが、部下の者がその馬の前に立ちふさがって、何をされるのですか! 敵は鎌倉の谷(やつ)のひとつひとつに乱入し、もはや大勢は決しています。早くお帰りになって、高時様にご自害あそばされるようにお勧めすべき時ですという。それで基資は「そのとおりだ、人を斬るのが面白いので、高時様と約束したことを忘れてしまった。さあ、それでは、高時様のもとに帰ろう」と主従8騎で、鎌倉の山の内に戻っていく。基資と戦っていた、武蔵七党の一員である児玉党の武士たち50余騎が、「卑怯だぞ、戻ってきて戦え!」と叫ぶ。基資の率いる8騎の兵は、敵が近づいてくると戦って追い散らし、いったん離れてまた敵が近づいてくると戦い、山の内から高時の待つ東勝寺のある葛西谷(かさいのやつ)まで17度も戦いを繰り返してたどりついた。

 基資は鎧に矢が23本、蓑に編んだ菅や茅のようにそのまま、あるいは折れて突き刺さっているそのままの姿で、高時のもとにはせ参じた。思っていたよりも遅くなってからの帰参であったので、祖父である長崎円喜は、なんでこのように遅かったのかと問いただしたが、もし敵の大将である新田義貞に出会えば、組み合って、勝負を決しようと思って、20回以上敵陣のなかに攻め入りました。敵の様子を窺ったのですが、ついに大将と思しき武士には出逢わず、とるに足るとも思われないような武蔵、相模の小名たち、雑兵たちを4・5百人切って捨てました。さらに連中を海岸に誘いだして、輪切りにでも、胴切りにでも、縦割りにでもしてやっつけてやろうと思っておりましたが、高時様がいかがなされているかが気になって戻ってまいりました。どうか、早く鎧、兜をお脱ぎ棄てになって、ご自害くださいますよう。基資がまず手本をお示しいたしましょうと、鎧を脱いで投げ捨て、高時の前に置かれていた盃をもち、弟の新左衛門に酒を注がせて3杯まで飲んで、近くにいた摂津刑部大輔入道道準の前に盃を置き、席次の順にかまわずにあなたに盃を回しました。私の最期の様子を肴にして、盃をあけてくださいと腹を切る。

 これを見た道準は盃を取って、なんともすばらしい肴であることよ、これを見たら、どんな下戸でも酒を飲まずにはいられなくなると、冗談交じりに言いおき、盃半分を飲み残して、諏訪左衛門入道の前に盃を置いて、同じく腹を切る。この諏訪左衛門入道というのは、高時の次男である亀寿を背負って落ち延びていった諏訪盛高の父である。諏訪入道はその盃を取り上げ、心静かに3度傾けて、高時の前に盃を置き、若い連中はなかなか見事な芸を見せてくれましたが、私どものような年配のものもなにも芸を見せないままでいるわけにはまいりませんと言い、これから後は、これを送り肴にしましょうと十文字に腹を切り、その刀を高時の前に置いた。

 長崎円喜は、これまでも高時の様子を心配しながら見守っていたが、その孫で基資の弟である長崎左衛門次郎がその前に畏まって、父祖の名誉を保つことが、子孫の孝行の1つだと思うので、これからすることを仏神もお許しくださるでしょうと、円喜の肘の関節のあたりの下腹を刺し貫き、返す刀で自分の腹を切って、同じ枕に倒れ伏す。元服したての若者である左衛門次郎の振舞に促されるように、高時も腹を切ったので、その傍に伺候していた城入道安達時顕も続いて腹を切った。

 この様子を見て、東勝寺の本堂の内外にいた北条一門の人々、側近の家来たちがそれぞれ自害を始めた。その後で館に火を懸けたので、黒い煙がもうもうと立ち込め、さらに家臣のもので、炎のなかに駆け込んで腹を切ったり、刺し違えて死んだりするものが後を絶たなかった。知が大河のように流れ、町はずれの墓場のように死骸が積み重なっていた。高時とともに自害した人の数は、後で調べたところ873人と分かった。さらに北条氏の恩を受けた様々な人々が僧俗を問わず、自殺し、その数は6千人を超えたと伝えられる。

 「於戯(ああ)、この日いかなる日かな、元弘3年5月22日、平家9代の繁昌、片時(へんし)に皆滅び畢(は)て、源氏多年の愁訴を一朝に開きたる事を得たりけり」(第2分冊、161ページ、ああ、この日はどのような日であったのだろうか、元弘3年5月22日、北条氏の9代の繁栄が、一瞬のうちに皆滅び去ってしまい、源氏は長年の愁いや悲しみを一時にして払うことができた)と『太平記』の作者は記す。この動乱が源平の対立という枠組みに収まりきらないものであることを作者は知らなかったのか、あるいは知っていても意識的に無視したのであろうか。

 北条氏得宗の高時たちが集団で自殺したことをもって、鎌倉幕府が滅びたと書いたし、一般にもそのように理解されているが、形式的にせよ、鎌倉幕府の最高権力者は京から下った征夷大将軍である守邦親王であった。宮将軍とその周辺の動きについて何も記されていないところにも、この時代の人々の意識を読み取ることができよう。
 なお、『増鏡』は『太平記』がこまごまと記した戦況を(義貞が稲村ケ崎で太刀を海神に奉じた件なども省いて)「かくて日々の軍(いくさ)に打ち負ければ、同じき廿二日高時以下、腹切りて失せにけり」(講談社学術文庫版、下、369ページ)とごく簡単に片づけている。『太平記』の作者のほうが、鎌倉幕府の滅亡を詳しく記すことによって、ひそかに同情を示していると考えることもできるだろう。『梅松論』の記述は、また違って、鎌倉幕府の滅亡を記しながら、「時政の子孫七百余人同時に滅亡すといへども、定置ける條々は今に残り、天下を治め弓箭の道をただす法と成けるこそ目出度けれ」(群書類従第20輯、162ページ)と、武家政治の基本原則は鎌倉幕府が滅んでも残ったと記している。その後に成立した室町幕府にとって都合のいい論調である。

 こうして『太平記』第10巻は、鎌倉幕府の滅亡、後醍醐天皇による倒幕の事業の完成をもって終わる。この後の第11巻は滅亡後の様々な出来事を拾い上げる内容となっている。それがどのようなものであるかの紹介は、次回以降に譲ることにしたい。

日記抄(2月12日~18日)

2月18日(木)晴れたり曇ったり

 J・Jこと植草甚一さん(1908‐79)は71歳で亡くなられたのだが、私もあと半年足らずで71歳になる。『植草甚一スタイル』(コロナ・ブックス)という本を読むと、J・Jは糖尿病、胃潰瘍、心筋梗塞というかなりの病気持であったが、そのいくつかが私と重なっているし、J・Jよりも私のほうが太っているから、気をつけなければいけないぞと思っているところである。
 J・Jの生涯の映画ベスト・テンは『愚かなる妻』(シュトロハイム)、『蠱惑の街』(グルーネ)、『吸血鬼』(ドライヤー)、『三十九夜』(ヒッチコック)、『大いなる幻影』(ルノワール)、『自由を我等に』(クレール)、『歴史は女で作られる』(オフュルス)、『戦火のかなた』(ロッセリーニ)、『地下鉄のザジ』(ルイ・マル)、『カサノバ』(フェリーニ)だそうで、このうち半分の5本を私も見ている。親子以上に年は離れているのだが、植草さんの趣味の少なくとも一部は、確実に継承しているつもりである。(そしてさらに誰かに継承してもらいたいからこのブログを書いているわけである。)

 2月11日から、横浜駅西口のJOINUSの地下街ではバレンタインのプレゼントのためのブースというかストールというかお菓子屋さんの出店が並んで、商戦を展開していたが、例年に比べて売れ行きは芳しくないように思われた。むかし、大学をやめて、別の職場に勤務するようになったら、バレンタイン・デーにもらうチョコレートが激減し、そのことをある大学の先生に言ったら、そんなに貰うんですかというような感想が帰ってきたのを思い出す。実はその人は、セクハラ事件の渦中にあったようである。

 2月8日付の当ブログで紹介した潮木守一『アメリカの大学』にジェームズ・ラッセル・ローウェルというハーバード大学の近代語の教授だった人物が登場する。彼が1870年の国勢調査の時に、自分の職業を他の同僚のように「大学教授」とは書かずに、「詩人」と書いたという話を潮木さんは紹介している(250-1ページ)が、実は彼はアメリカ文学史の中で、ロマン主義を代表する詩人という評価を得ているので、これはある意味当然のことであったようである。ローウェル家はニューイングランドの名門の1つで、ジェームズ・ラッセルの高踏的な態度もこのことと結びついているのであろう。以前、当ブログで紹介した、明治時代の日本を訪れ能登への旅行記を残したパーシヴァル・ローウェルの父親と、ジェームズ・ラッセルは従兄弟にあたる。

2月12日
 100年前にアインシュタインがその存在について予言しながら、観測が難しくて存在を確認できなかった重力波をアメリカの研究チームがついに突き止めたと発表した。もう40年ほど昔になるが、初めて務めた学校の学生の1人が、なぜかアインシュタインの本を愛読していて、その中のライプニッツについて書いた個所が分からないといって質問にきたことがある。そんなことは聞かれたってわからない。彼は卒業後、その県の県庁の職員になり、私が県庁のある市の道を歩いていたら、偶然出会ったことがある。ちょっと時間を取って、今、何をしている?と世間話をしてもよかったなと今になって思う。今や古参の職員(たぶん、技官)になっているはずだが、どんな暮らしをしているのだろうか、ちょっと気になる。

2月13日
 英国の日刊紙『インディペンデント』の廃刊が決まったそうである。私は、主に『ガーディアン』を読んでいたので、『インディペンデント』を手にとることは少なかったが、それでも何度か手にした記憶がある。英国の高級日刊紙は、『インディペンデント』が中立、『タイムズ』と『テレグラフ』が保守党より、『ガーディアン』が労働党より、『フィナンシャル・タイムズ』は経済に特化ということで、この新聞を愛読する人も少なくなかったはずであるが…廃刊は寂しい。

 NHKラジオ「攻略!英語リスニング」は”Steinbeck"を取り上げた。彼の作品は読んではいないが、映画化された『怒りの葡萄』(ジョン・フォード)と『エデンの東』(エリア・カザン)は見ている。アメリカのフォーク・ソングの草分け的な存在であったウディ・ガスリーが映画になった『怒りの葡萄』を見に行く金もない人のためにと、「トム・ジョードの歌」という、この映画のあらすじを歌にして広めたという話があり、そのことに触れてもよかったかもしれない。

 Eテレで再放送されていた『アイ・カーリー』が最終回になった。シアトルのハイスクールに通う少女カーリーは、親友のサムとともにウェブ番組『アイ・カーリー』を始める。カーリーのアパートの向かい側に住んでいる同級生のフレディが技術担当ということで番組作成に加わる。放送がかなり進んでから、3人の同級生であるギビーが加わる。彼らのほかに、カーリーの年の離れた兄のスペンサーが番組に出演したりしている。さて、カーリーの父親は軍人で、海外に駐在していて、ほとんど帰ってこないのだが、久しぶりに帰ってきて、結局、カーリーは父親とともにイタリアのフィレンツェの近くで暮らすことになる。
 来週からは、サムと、「ビクトリアズ」の登場人物の1人であったキャットが主人公となる『サム&キャット』の再放送になるというのだが、『アイ・カーリー』の出演者たちが、実際にも仲良しであることが分かるような雰囲気にあふれていたのに対し、『サム&キャット』は主演者2人の間の関係が険悪だったそうで、それが番組にも反映しているように思われる。『カーリー』では、スペンサーがスパゲティ・タコスを作ったりすると、みんなで喜んで食べる場面がよくあったが、『サム&キャット』ではキャットが一生懸命作った料理を他の登場人物が見向きもしないという場面がみられた。こういうドラマは、雰囲気が暖かい方がいい。

2月14日
 バレンタイン・デーである。昨年は行きつけの店の女性従業員が、おなじみの男性客全員に配っているというチョコレートを1個もらったが、今年はその店が閉店したので、貰ったチョコレートは0に終わった。

 神保町シアターで『青年の椅子』と『喧嘩太郎』を見たことについては、この日付のブログでも書いたが、近くを歩いていた年配の女性が、野球の監督の娘さんと結婚した歌手がいるでしょう…?というような話をしていて、どうやら吹石一恵さんと福山雅治さんの話をしているらしいのだが、一恵さんの父親の吹石徳一さんは、監督ではなくて(現在は実業団の日本新薬の)コーチである。近鉄バファローズの控えの内野手であったが、1988年10月19日の連勝すれば、近鉄がリーグ優勝というロッテとのダブルヘッダーの第2試合で、一時勝ち越しとなるホームランを打ったのが、一番記憶に残っている。この試合のラジオでの中継を最後の方だけ聞いた(したがって吹石選手の本塁打の場面は聞いていない)ことを思い出す。

2月15日
 NHKラジオ「まいにちフランス語」の中の会話:
Cette région est çélèbre pour ses fromages. (この地域はチーズで有名です。)
Ah bon ! Quels fromages ? (ああ、そうですか! どんなチーズですか。)
Le pont-l'évêque, le livarot et le camembert. (ポンレヴェック、リヴァロそれとカマンベールです。)
Je connais le camembert mais je ne connais pas les autres. (カマンベールは知っていますが、他のは知りません。)
私もご同様である。

2月16日
 昨日に続いて、「まいにちフランス語」の話題を取り上げる。パートナーのジャン=フランソワ・グラヅィアニさんが紹介した、フランスの大統領であったシャルル・ド・ゴールの言葉:
≪Comment voulez-vous gouverner un pays qui possède 365 sortes de fromages ? ≫ (チーズが365種類もある国をどうやって統治できるというのかね)
 これは、フランスの地方や村が、またフランス人がそれぞれ誇りをもって、ときには頑固に自分の個性を育てているということであるという。

2月17日
 NHK「ラジオ英会話」に
They are cool as cucumbers. (彼らは冷静沈着で全く慌てない。)という表現が出てきたが、文字通り訳すと、「彼らは胡瓜のように冷静である」ということになる。なぜ、こういう言い方をするのかはよくわからない。

 NHK「実践ビジネス英語」の”Quote...Unquote"のコーナーでは:
All happy families resemble one another, each unhappy family is unhappy in its own way (from Anna Karenina)
      ―― Leo Tolstoy
(Russian writer, philosopher and political thinker, 1828 - 1910)
幸福な家庭は皆、互いに似ているが、不幸な家庭はそれぞれ異なる形で不幸である。
という言葉が取り上げられた。これは『アンナ・カレーニナ』の書きだしの部分であることをご存知の方も少なくないと思う。それにしても、この英訳は誰の手になるものであろうか?

 レーヴィット『ヘーゲルからニーチェへ(下)』(岩波文庫)、吉見俊哉『「文系学部廃止」の衝撃』(集英社新書)を買う。『ヘーゲルからニーチェへ(下)』のルソーについて書かれた部分は、シティズンシップとその教育について考える際に重要な示唆を与えるものではないかと思った。

2月18日
 昨日、レーヴィット『ヘーゲルからニーチェへ(下)』のルソーについて書いてある部分を読んで、やはりこの本はそもそものはじめからしっかり読まないといけないと思い、『上』のゲーテとヘーゲルについて書かれた部分から読みはじめた。ナポレオンがイエナとヴァイマールを通過した1806年に、ヘーゲルは『精神現象学』を完成させ、ゲーテは『ファウスト』の第1部を書き上げたという。「ドイツ語がそのもっとも豊かな広がりと最も充実した深さを獲得したのが、この2つの作品である」(25ページ)とレーヴィットは評価する。2人は色彩についての興味を共有していたが、彼らの議論は当時の学会から認められず、後継者も育たなかったとレーヴィットは言う。大学時代の同僚だったデザインの先生が、デザインの方で色彩について考えるときには、ゲーテが出発点になるといっていたような記憶がある。

 2月21日(日)に神保町シアターで上映される『あした晴れるか』(13:15~)と『日本列島』(15:30~)を見に行くつもりなので、同じ時間帯で見に出かけるという方がいらっしゃればコメントをください。

ダンテ・アリギエリ『神曲 煉獄篇』(23-2)

2月17日(水)晴れたり曇ったり

 ダンテは地獄から彼を導いてきたウェルギリウス、煉獄で現世における罪を浄めて天国に向かおうとする途中、第5環道で2人に合流し、ウェルギリウスへの尊敬の念から2人とともに歩もうとするローマ白銀時代の詩人スタティウスとともに、煉獄の第6環道へと達した。ここでは飽食の罪が贖われている。そこで、ダンテはフィレンツェ市の有力者の一族の一員で、旧知のフォレーゼの霊に出会う。

 ダンテはフォレーゼに向かって、力が尽きて、罪を犯すこともできなくなった死に際になって悔悛し、神と和解したはずの彼が、死んでからまだ5年もたっていないのに、煉獄の上の方まで進むことができたのはなぜかと尋ねる。1000年以上も昔の人間であるスタティウスがやっと天国に向かおうとしているのであるから、これは不思議である。
「・・・
どうやってすぐにこれほどの上へ来た。
俺はもっと下でおまえに会うと思っていた。
時が時でもって償われている場所で」。
(344ページ)

 するとフォレーゼは、寡婦となった彼の妻ネッラが夫の死後もなお貞潔を捧げつづけ、恥じらいや慎ましさを忘れない生活を送りながら、彼の魂のために祈り続けているからであると答える。そして、近い将来に
厚顔無恥なフィレンツェの女達に対し
乳房も露(あらわ)にした胸を見せて歩くことへの禁令が下されるであろう。
(345ページ) このような禁令がダンテの時代に下されたことは、歴史的な事実としては確認されていないと傍注に記されている。オランダの歴史学者であるホイジンガが『中世の秋』で書いているように、中世の終わりごろの時代は、一方でこのように女性が自分の体を露出することを恥じない時代でもあった。この箇所をめぐって、あるいはダンテが、政変によって人心が一新されることを暗に示しているのではないかという解釈もあるようである。

肌を隠して道を行かせるために、
教令や罰則などを必要とする、
そんな蕃夷の女たちが、そんなサラセンの女達がいたか。
(346ページ) ここではフィレンツェの女性たちの放恣を、サラセン(=イスラーム世界)の女性たちにたとえているのだが、これはダンテがイスラーム世界の女性の姿を知らなかったことを示している。自分たちの髪や肌をスカーフや衣服で隠しているイスラームの女性たちは、肌を思いきり露出した中世ヨーロッパの女性たちとは対照的である。自分たちの姿を隠すから、そこで女性たちの姿は神秘的に映る。文学史家によると、この『神曲』にはイスラーム世界における恋愛詩の影響がみられるということなので、ダンテは自分の文学史的な位置がどのようなものかを考えずに、好き勝手なことを書いているといわれても仕方がなさそうである。

 そして、今度はフォレーゼがダンテに、なぜまだ生きているのに死後の世界である煉獄に来ているのか、また導き手である2人は何者であるのかを尋ねる。ダンテは、自分の若いころの友人であるフォレーゼに対して、2人がお互いを嘲笑する詩を交換していたころのことを思い出し、それが自分たちの罪のはじまりであったが、迷いのなかに落ち込んだ彼をウェルギリウスが救い出したのだという。そしてもう1人の同行者は、天国へと向かっているスタティウスであると答える。このような会話を交わしながら、ダンテの一行は先へと進んでゆく。ここでは、詩人として神の意思を人々に伝えるのではなく、政治闘争に没頭してしまった、ダンテの過去の生き方への反省が述べられていると翻訳者は考えている。

レスリー・メイヤー『バレンタインは雪あそび』

2月16日(火)晴れ

 レスリー・メイヤー『バレンタインは雪あそび』(創元推理文庫)を読み終える。1999年に発表された、主婦探偵ルーシー・ストーンをヒロインとするシリーズの第5作である。原題はvalentine Murder(ヴァレンタインの殺人)で珍しいほどの大雪の中、「雪あそび」などとのんきなことをいっていられないような事件が展開する。
 アメリカの東北部にあるメイン州の田舎町ティンカーズコーヴに住むルーシーには夫で修復専門大工であるエドとの間に1男3女がいて、その子育てだけでも大変だが、地元の週刊新聞『ペニー・セイヴァ―』の臨時記者を務め、さらにブロードブルックス図書館の理事の職務まで引き受けてしまった。図書館は目下増築工事中である。図書館の理事会に初めて出席しようとしたのだが、定刻に遅れ、司書であるビッツィの様子を見に行くと、彼女が殺されていることに気付く。彼女は何者かに射殺されたようである。

 慌てて警察に通報したところ、顔なじみのはずの州警察のホロヴィッツ警部補は、第一発見者である彼女を容疑者扱いにしただけでなく(実際に、第一発見者が犯人である可能性は少なくない)、事件に首を突っ込まないように釘を刺される。事件発生当時理事たちは全員図書館に集まっていた。だとすると、その中の1人が犯人だということであろうか。
 理事を務めているのは、理事長である、つい数か月前までウェストミンスター大学の学長を務めていたジェラルド・アスキス、他の5人の理事は長らくこの図書館の司書を務めていたジュリア・ウォード・ハウ・ティリー、ケータリング業者のコーニー・クラーク、弁護士のチャック・キャナディ、建築請負業者のエド・バンパス、アンティーク店の共同経営者であるヘイデン・ノースクロスである。この理事たちには、それぞれ秘密、あるいは抱え込んでいる問題がある。(それは読んでいくうちに分かる…)

 図書館の入り口ホールには、ティンカーズコーヴに最初に定住したヨーロッパ人であるジョサイア・ホプキンズの子孫によって寄贈されたふたつき大ジョッキ(タンカード)が飾られているのだが、さらにその後、このタンカードが盗まれ、間もなく、ヘイデンの死体が発見されて、その傍にタンカードが転がっていたので、ホロヴィッツはヘイデンがタンカードを盗み、それをビッツィに咎められて彼女を射殺、その後良心の呵責に耐えかねて自殺したという経過を推理して、一件落着を宣言する。(もっともこの物語はルーシーの立場から語られているので、本当にホロヴィッツがそう思ったのか、捜査上の作戦としてそのように言ったのかは、多少考える余地がある。ルーシーに余計な手出しをするなと言ったのも、同じように2つの解釈が可能である。)

 ルーシーの見るところ、ヘイデンは殺人を犯すような人物ではないし、同性愛者の彼が一緒に事業をしていたラルフも、彼の死が自殺ではなく他殺であるという考えである。さらにヘイデンの死体のかたわらに転がっていたタンカードはどうもニセモノらしい。ジェラルドが学長をしていたウィンチェスター大学では創立100周年の記念品として、ジョサイアのタンカードの複製品を作っており、複製には大学の紋章が刻印されているが、それを消すのは簡単であることが分かる。ヘイデンの葬儀の際に、ジェラルドが逮捕される。彼は賭博にのめり込んでいて、多額の借金をしていたらしい…。

 一方で家事と子どもたちの世話に終われ、新聞社から頼まれた特集記事を執筆し、図書館の理事会に出席し、他の理事たちと相談・協議しながら、買い物をしたり、友達とおしゃべりをしたりする。宝くじとコンピューターが人々の暮らしにとっての新しい刺激になっているのだが、ルーシーは宝くじについての原稿を書き、子どもたちに教わりながらコンピューターで調べ物をする。これまで通りの生活と新しい試みの中で、物語が進展していく。

 時は2月で、バレンタイン・デーが近づいているが、あいにく大雪と暴風が町を襲おうとしている。
 「・・・三人が考えていたことをラルフが口に出した。
 :「ニューイングランドの冬は、見た目は美しいが苛酷だ。しかも、今年の冬はとりわけひどい。そろそろ、大勢の人たちが自暴自棄になりかけているんじゃないかな。夏のあいだにどうにかためたわずかな蓄えは底をつき、灯油が食料を買う金もない・・・・・それなのに、きびしい寒さはまだこの先2か月はつづく」
 そのとおりだとルーシーは思った。田舎では貧困の度合いがひどくなる。森の奥に隠され、風雨にさらされた下見板にかこまれて見えないが、内実は悲惨な限りだ。・・・いまは福祉改革とやらで、大勢の人々が寒さの中に文字どおり置きざりにされ、自力で生きのびていくほかなくなっている。」(119ページ)

 社会正義を求める気持ちに加えて、ニューイングランド地方とそこでの暮らしに対するルーシーの愛着が強いだけに、事件の真相を突き止めようとする、またその背後にある事情を見つけようとする彼女の努力も止められないものになるのである。
 「日常の暮らしがカードの絵のようならいいのに。ルーシーはニューイングランドの暮らしが――小さな町、武骨な人々、毎年の町民会すら――大好きだった。独立独歩の精神、勤勉さ、つつましさ、良識、大型のボストンクラッカー。まるでターシャ・テューダーの絵本に出てくる子供のように、子供たちが頬を真っ赤にして帰ってくる瞬間が、大好きだった。」(247ページ) このような愛着があるからこそ、彼女の正義感と探求心が生まれるのであり、それが物語の底を流れていることを見落とすべきではないだろう。

 バレンタイン・デーの過ごし方をはじめ、ニューイングランドの暮らしぶりの中での主婦探偵の主婦らしさがしっかりと描きこまれているから、最後の方になるとホロヴィッツ警部補がほとんど登場しないとか、物語の運びにいろいろ問題があっても、それがあまり気にならず、展開についていける。アメリカの公共図書館やその事業についても、かなりありのままに近い姿が描かれているように思われて、興味深い。

春はまだ遠く

2月15日(月)曇り、寒くなる

春は まだ 遠く

なにごともなく
近づいてきたと
思っていたのだが
春はまだ
遠いようだ

だんだん
暖かく濁った
空気の中で
富士山が
遠ざかっていくと
春になるのだが

いったん暖かく
吹きよせた風が
冷たくなって
寒さだけでなく
雲までも吹き寄せてしまった
重く垂れこめた雲の下で
遠くの景色など見る余裕もなくなった

学生の頃
今の季節は
試験に終われていたものだ
自らの怠惰ゆえに
先の展望を啓けずに
元の学年を過ごした
ことも何度かあった

上空の雲よりも
地上の人間に意地悪く
強く吹き付けてくる風に
落第を繰り返した
昔のことを思い出しながら
頭を低く下げて
歩く

明日は
遠くに
白い 富士山を
見ることができるのだろうか

『青年の椅子』、『喧嘩太郎』

2月14日(日)朝のうちは風雨が強く、その後、晴れ間が広がる。気温が上がる。

 神保町シアターで「恋する女優芦川いづみ アンコール」特集上映の中の2編、『青年の椅子』(1962、西川克己監督作品)、『喧嘩太郎』(1960、舛田利雄監督作品)を見る。ともに源氏鶏太の原作で、石原裕次郎の扮する正義派の若手サラリーマンが活躍する。両作品で、主人公の恋人役を演じているのが芦川いづみで、『青年の椅子』では同じ会社のタイピスト、『喧嘩太郎』では婦人警官という設定である。私が中学・高校生時代につくられた映画であるが、見るのは初めてである。ただ映画の内容については多少の予備知識があった。神保町シアターのチラシの『喧嘩太郎』の紹介文の中に「こんな人に捕まりたい、麗しい婦警姿の芦川にうっとり」とあるが、サラリーマンと婦人警官の恋というのはちょっと異色で、どんな物語の展開になるのかという点に興味があった。

 『青年の椅子』は日東電機という会社の九州の支社から本社勤務になった高坂虎彦(裕次郎)という青年社員が、営業部長の湯浅(宇野重吉)の推薦で、会社が取引先を招いて行う宴会の接待要員の1人に選ばれる。そこで、会社の2大取引先の一方の矢部商会の社長の娘である矢部美沙子(水谷良重、現在の八重子)、彼女に付き添ってきた矢部商会の社員木瀬恒夫(山田吾一)と知り合う。美沙子は会社の専務である田崎(高橋昌也)との結婚を勧められているが、気が進まず、むしろ高坂の方に魅力を感じる。高坂の同僚であり、乗り物に弱いという彼の特徴を知ってなにくれとなく面倒を見るタイピストの伊関十三子(芦川いづみ)は美沙子と同級生で、お互いに打ち解けて話ができる仲である。
 高坂は宴会の席で、会社のもう一方の主な取引先の畑田社長(東野英治郎)とトラブルを起こしてしまうが、その後、浴場で出会った時に意気投合する。
 映画の冒頭で日東電機の社長(大森義夫)が会社の業績が悪化しているので、創業20周年の行事を契機として業績の回復を図れと重役たちに指示するが、常務(芦田伸介)が部課長に対して行う指示、菱山総務部長(滝沢修)が接待要員に選ばれた社員たちに与える指示とだんだん、危機感が薄れていくのが会社という組織についての見方を示していて、おもしろい。ただ、映画を最後までみても、20周年の行事までたどり着かないのが、脚本の問題点である。
 会社の主導権をめぐって、菱山総務部長と湯浅営業部長の間に対立があり、菱山は自分が営業部長になって取引先からリベートを取って一稼ぎしようと、矢部商会の田崎と交渉を続けている。田崎は銀座のバーのマダム(楠侑子)と懇ろの仲で、開業資金は彼が出しているらしい。十三子が婚約している営業部の大崎(藤村有弘)は、営業部員であるが、菱山総務部長に取り入って出世しようと画策している。高坂の同僚で、勤務年数が長いわりにうだつが上がらない岡谷(谷村昌彦)が矢部商会からリベートを受け取ったとして、辞表を提出させられる。さらに湯浅も会社を去ることになる。この裏には何かありそうだと、高坂は、畑田社長の支援を受け、木瀬と協力して真相を突き止めようとする。
 高坂と木瀬が会って話をするバーのマダム(武智豊子)が、若いホステス(安田千永子)に向かって、高坂や木瀬は、その若いホステスが店をもつようになる時には課長になっているだろうから、今のうちに大事にしておくんだよと言い聞かせる場面があり、1960年代はそういう未来についての見方ができる時代だったのだなと思ったりした。実はこのホステスが菱山と田崎が会っているバーをやめてやってきたというところから、物語は急展開しはじめる。

 『喧嘩太郎』は、そのようにあだ名される第百商事という会社の青年社員宇野太郎(裕次郎)が、ボクシングの試合を見に出かけて近くにいた愚連隊に絡まれている子ども連れの男性を助けるが、その男性が自分の会社のライバル会社である東洋物産の社長・岩下隆介(三津田健)であることから、社長の令嬢である秀子(中原早苗)に見初められる。第百商事の社長や重役たちはこのことを利用して、ライバル会社の秘密を探りだすという任務を太郎に授ける。第百商事は日本の戦後賠償に絡む事業の受注をめぐり東洋物産と競合しているのだが、社長の早田(嵯峨善兵)、大竹部長(芦田伸介)たちは必要以上の大儲けを企んで、国会議員や官僚と密議を進めているらしく、太郎の直属の上司である北浦課長(東野英治郎)はそれを思いとどまるように諫言を続け、それが受け入れられないまま定年退職してしまう。
 太郎はというと、秀子よりも、ボクシングの試合の乱闘の後で、警察で事情聴取を受けた際に、調書を書いていた若い婦人警官の深沢雪江(芦川いづみ)の方に魅力を感じていて、そこで話がもつれるのだが、第百商事のやっていることについては警察も注目していて、雪江に太郎と近づくことで、事件の真相を探る任務を与えているという事情もある。

 『青年の椅子』の方は、主人公の会社の中の内紛が勧善懲悪的に描かれているのだが、『喧嘩太郎』は主人公の会社の上層部の腐敗が問題にされているというところがちょっと珍しい。原作を読んではいないのだが、舛田利雄の演出はかなり大胆である。太郎だけでなく、彼の同僚たちを含めて、社会のあり方や会社の現状について不満や怒りを感じており、そのことが映画の中でかなりストレートに表現されているところに、この映画が作られた1960年という年が反映されているとみるべきであろう。映画の中には街頭デモの場面も登場する。太郎は最初、北浦に対して反感をもっているのだが、次第に彼もまた正義感を共有する人物であることが分かって、近づきはじめる。最後には国会での委員会の様子が描写されるなど、物語はアクションとロマンスだけでなく、政治的・社会的な性格ももっている。定年退職した北浦課長が、元部下の太郎には出世して思い通りになる生き方をさせてやりたいので、そのために身を引いて、社長令嬢との結婚を実現させてくれないかと雪江に頼む場面や、それに対する雪江の答など、娯楽作品ではあるが、観客に自分のものの見方の再検討を迫るような要素があることも否定できない。

 裕次郎の主演するアクション・ロマンスには相手役以外に、主人公に恋心を抱く女性が登場することが多いが、『青年の椅子』では水谷良重、『喧嘩太郎』では中原早苗が、それぞれ役柄としては社長令嬢と同じ役柄で登場している。水谷はこの時期には映画出演が多かったが、その後は舞台を主に活躍するようになる。まだ私が大学に入って間もないころ、新派の舞台を見る機会があって、その時に1度だけ実物にお目にかかっている(先代の水谷、花柳章太郎、森雅之なども見た)が、華やかな雰囲気があって、観客から盛んに拍手を浴びていたことを思い出す。この映画でもいかにも社長令嬢らしい雰囲気が感じられる。他方、中原早苗はこの作品では社長令嬢であるが、この特集上映の上映作の1本である『堂堂たる人生』では裕次郎を追いかけ回すホステスの役で、そういう芸の幅の広さが持ち味である。小林旭の『渡り鳥シリーズ』でも、主人公を追いかける女性で登場することが多く、中原が登場すると、物語が動きだすという場合が多いので、貴重な女優であったと思う。あらためて彼女の冥福を祈りたい。そういえば、『喧嘩太郎』で裕次郎が芦川いづみを誘って「西部劇」を見る場面があるが、この映画が「西部劇」ではなくて、和製ウェスタンの『渡り鳥シリーズ』であり、小林旭と宍戸錠の姿が映っていたので、おかしくて仕方なかった。これは一種のご愛嬌であろう。このほか、両作品を通じて、宇野重吉、滝沢修、東野英治郎、三津田健、芦田伸介といった新劇畑の俳優が多く登場して、画面に厚みを加えていることも見どころの一つだろうと思う。

 「恋する女優 芦川いづみ アンコール」は、2月19日までがここに紹介した2作品と『堂堂たる人生』、『祈るひと』を上映し、2月20日~26日までは『日本列島』、『無法一代』、『霧笛が俺を呼んでいる』、『あした晴れるか』を上映する。今のところ、『日本列島』と『あした晴れるか』を見に出かけるつもりである。芦川いづみの女優としての魅力と実力とを再確認するだけでなく、1950年代の終わりから1960年代にかけて、日活映画が見せた様々な様相と魅力を発掘する楽しみも味わいたいと思う。

『太平記』(90)

2月13日(土)曇り後雨

 元弘3年(1333年)5月、上野の国の武士新田義貞は倒幕の兵を起こしたが、幕府の政治に不満をもつ関東一円の武士たちが参集して大軍となり、幕府が派遣した討伐軍を破り、5月18日は鎌倉を攻囲して、極楽寺坂、小袋坂、化粧坂の三方から攻撃を開始した。討幕軍は極楽寺坂の戦いで苦戦したが、5月21日の早朝に大潮を利用して義貞の軍が稲村ケ崎を渡渉して鎌倉市中に攻め入るとほぼ勝敗は決した。市中のあちこちに火が放たれ、幕府軍からは裏切りが続出した。その中で北条一門や得宗被官の武士たちの中には飽くまで戦って最期を遂げたり、辞世の歌や頌を残して自害したりしていった。北条高時の弟泰家は、諏訪三郎盛高に、彼にとっては甥にあたる亀寿(北条時行)を連れて落ちのびるように命じ、自らも身をやつして東北方面へと落ち延びていった。

 長崎次郎基資は長崎円喜の孫、高時の内管領である高資の子であり、小手指原・久米川で新田勢と戦って敗れた幕府軍の大将の1人であったが、その時から昼夜80度余りの合戦に常に先頭に立って戦ってきたので、自身も負傷を重ね、また部下の兵士たちの大部分を失って、今はわずか140騎余りの武士たちが従うだけになってしまっていた。22日、新田方の兵士たちが鎌倉のあちこちの谷(やつ)に攻め入り、北条氏の主だった武将たちが戦死するという中で、とくに決まった部署を守るということではなく、各地に転戦して敵と戦い続けていた。馬がつかれれば、別の馬に乗り換え、太刀が折れてしまえば、また新しい太刀を佩いて、32人の敵を切り捨て、8度敵の軍勢を追い散らした。

 こうして北条高時が戦火を避けている東勝寺にやってきて、表門と本堂の間にある中門のところから畏まって申し上げることには、基資を含む長崎家が数代にわたってありがたくも北条家にお仕えして、朝夕間近で殿のお顔を排し奉るそのおなごりも、この世ではこれが最後だとお思いください。基資はこれまで数カ所の合戦でそれぞれ敵を打ち払い、それぞれの戦闘で勝利を収めてまいりましたが、あちこちの防御線が破られて、新田方の軍勢が鎌倉中にあふれており、今となってはどのように武勇をふるいましても形勢を挽回することは不可能に思われます。敵の手に懸かるのではなく、自ら命を絶たれることを語覚悟なさいませ。とは申しましても、基資がもう一度戦いに出かけて、帰ってくるまでは自害されずに、お待ちください。殿が御存命中に、もう一度敵のなかに懸け入って、思う存分戦い、冥途のお供をするときに、その様子を思い出話としてお聞かせいたしましょう。こういいおいて、基資は再び東勝寺を出ていったが、その姿を見送りながら、高時は涙を流したのであった。

 基資はこれが最後の合戦であると思っていたので、高時が建立し、材木座の近くの弁谷(べんがやつ)にあった禅宗寺院である崇寿寺の長老(住職)である南山和尚のもとに出かけた。禅師は上座に座って面会された。事態は差し迫っており、鎧・兜を着た(通常の衣服ではない)者は、正規の挨拶はしないものなので、基資は庭に立ったまま軽く左右に会釈して、次のように問うた。「如何なるか、是(これ)勇士恁麼(いんも)の事(じ)」(第2分冊、154ページ、勇士はこうしたときにどうふるまうべきか)。和尚は次のように答えた。「吹毛(すいもう=吹きかけた毛を切るほどの名剣ということで、剣を意味する禅語)急に用ゐて、前(すす)まんには如かじ」(同上、剣を激しくふるって進むほかない)。基資はこの言葉を聞いて、合掌低頭して和尚に別れを告げた。何か心中に期するところがあったのか、自分が率いる兵たちの笠符(かさじるし)をみな棄てさせ、寺の門前から馬に乗って、150騎を自分の前後に配置し、静に馬を進めて、新田勢の軍中に紛れ込んだ。義貞に近づいて、彼の命を奪おうという意図からである。

 基資は旗を揚げずにどこの軍勢かはわからないようにして、刀剣もさやから抜かないようにして近づいていったので、新田の兵たちはこれが敵だとは気付かずに、そのまま中に通してしまい、基資たちの軍勢は新田義貞がいるところからわずかに半町(50メートル)というところまで近づいた。これならば、義貞を討ち取れるかもしれないというところまで来たときに、義貞の前に控えていた由良新衛門という武士が、今、旗を揚げずに近づいてきた武士は長崎基資らしい。逃がさずに、討ち取れと下知を下す。義貞の前に控えていた武蔵七党の武士たち1,000余騎が東西から基資の率いる軍勢を取り囲み、包囲して、殲滅しようとする。
 もう少しのところで正体がばれてしまったので、基資は自分が率いる150余騎の兵たちに一所に固まって鬨の声を上げるように指示し、包囲してきた武蔵七党の武士たちに対し、縦横に攻め入って、攪乱を図る。武蔵七党の武士たちの1人で、義貞の家来であった長浜という武士が、基資の率いる兵たちは笠符をつけていない、そういう武士たちを狙って組み付いて行けと指示する。そこで、基資の率いる武士たちに組み付いて、馬から引きずり落とし、頸を取ろうとする。両者入り乱れての乱戦が続く。

 大軍に包囲され、配下の武士の数は減っていったが、それでも長崎次郎は戦死せずに戦い続け、主従8騎になっても、まだ義貞に近づいてその命を奪おうとしていた。その姿を見た武蔵七党の1つ横山党(武蔵国玉郡横山、現在の八王子市の一部を本拠とした武士たち)の1人横山太郎重真が組み付こうと近づく。基資も自分にふさわしい相手であれば組み付こうとして見ると、横山なので、これは自分にはふさわしくない相手であると判断し、4尺3寸という長い刀で一気に彼を斬り捨てる。横山が乗っていた馬が尻もちをつくほどの気合である。今度は武蔵七党の児玉党の武士である庄三郎長久が相手になろうと挑みかかるが、庄の相手をするくらいならば横山を嫌うことはないといって、彼の鎧をつかんで投げ飛ばし、投げられた庄はそのまま血を吐いて死んでしまう。

 武蔵七党(党というのは小名の集まりをいうそうである)は、日本史の教科書にも取り上げられる、東国の武士を代表する存在なのだが、北条得宗の被官である基資の武勇の前にはかたなしである。とはいうものの、基資の武勇はろうそくが消える前の炎の揺らめきのようなもので、大勢を逆転するようなものではない。基資の運命は、そして彼を含む長崎一族と、長崎一族が使えてきた北条得宗家の人々の運命は、すでに定まっているように思われるが、どうなるのだろうか。
 なお、安田元久『武蔵の武士団――その成立と故地を探る』(有隣新書)によると、横山党はもともと小野氏で、武蔵の国から上野、相模にもその一族の勢力は拡大し、横山氏のほか、小野・遠田・椚田(くぬぎだ)・井田・荻野・成田・中条・箱田・奈良・田谷・河上・玉井・別府・愛甲・海老名・山口など数十の家系が横山党を称していたそうである。横山氏は三浦氏、とくにその1人である和田義盛との結びつきがあって、鎌倉幕府でも大きな存在であったが、建保元年(1213年)の和田合戦で勢力を失う。安田さんの本では、これで滅んだことになっているが、残ったものもいたことが『太平記』によって分かるのである。
 同書によると児玉党は武蔵七党の中では最も大規模であったが、児玉氏はもともと有道氏で、現在の児玉郡から本庄市一帯を本拠地として勢力を拡大していたようである。安田さんの著書では武蔵の武士団と成立期の鎌倉幕府の関係に重点が置かれているが、『太平記』を読むと、鎌倉幕府の滅亡にも武蔵七党がかかわっていたことが分かり、興味深い。

 このブログを始めてから、読者の皆様にいただいた拍手の数が13,000を越えました。お礼を申し上げるとともに、今後も変わらずにご愛読いただくようお願いします。

瀬川拓郎『アイヌと縄文――もうひとつの日本の歴史』

2月12日(金)曇り

 2月11日、瀬川拓郎『アイヌと縄文――もうひとつの日本の歴史』(ちくま新書)を読み終える。縄文人とか弥生人とかいう言葉は最近ではしばしば聞かれるようになってきた。

 分かりやすく説明するために、昨年の7月から9月にわたってNHKカルチャーラジオ『私たちはどこから来たのか 人類700万年史』の中で講師の馬場悠男さんが解説していることを引用しておこう:
「私たち日本人は、全体としては、文化的にも遺伝的(生物学的)にも、渡来系弥生人の影響を強く受けているといえる。/古墳時代には、日本列島の中央部では渡来系の人々と縄文系の人々との混血が渡来系の人々の割合が多い状態で進んだが、周辺では縄文系の人々の影響が色濃く残っていた。なお、古墳時代末期から平安時代にかけては、オホーツク文化人が樺太から北海道北東部にやってきて、縄文人の子孫と部分的に混血したが、顔かたちにはほとんど影響を与えなかった。/現在の日本列島では、北部九州から関西を中心とするほぼ全国に渡来系弥生人の影響が強い本土日本人が住んでいる。もちろん、同じ本土日本人の中でも、渡来系弥生人の子孫と縄文人の子孫が均等にまじりあっている訳ではなく、周辺部ほど縄文人の影響が強いことは、形態学的な特徴だけでなく、遺伝的な特徴の研究でもはっきりしている。北海道では、縄文人の影響が強いアイヌの人々が3万人ほど住んでいる(各地にも散らばっている)。南西諸島では、縄文人と渡来系や偉人の影響がおよそ半々の琉球人が住んでいる。3つの集団とも、おおもとは縄文人だが、大陸から渡来した人々の影響をどれだけ受けたかによって、顔や身体の特徴が徐々に違ってきたのであって、その過程で、築いてきた文化も違っている。/したがって、日本人は単一民族ではなく、3つの民族によって構成されている。なお、圧倒的に人口の多い本土日本人は、過去にアイヌと琉球人を迫害したことを忘れてはならない」(NHKカルチャーラジオ『科学と人間』テキスト、135-136ページ)。過去に迫害ではなくて、現代でも差別はつづいているような気がするが、それはここでは深く追求しないことにする(「過去に」としないと、NHKで放送できなかったのかもしれないからである)。

 アイヌが日本の歴史の中でどのような位置を占めてきたかは、簡単には語り尽くせない問題である。この書物はアイヌの歴史を考古学的な方法を中心として研究してきた著者による、アイヌと縄文人、弥生人の関係、さらにまたオホーツク文化人の関係を含めてそれらの変遷とそれぞれの特徴を考察した問題提起の書である。書物の構成は次のようなものである:
はじめに
第1章 アイヌの原郷――縄文時代
第2章 流動化する世界――続縄文時代(弥生・古墳時代)
第3章 商品化する世界――擦文時代(奈良・平安時代)
第4章 グローバル化する世界――ニブタニ時代(鎌倉時代以降)
第5章 アイヌの縄文思想
おわりに
 今回は「はじめに」の部分だけを紹介する。この書物の出発点となる考え方や、基本的な概念が概説されているので、この部分だけを読んでも著者の意図は十分に理解できるはずである。

 「はじめに」で著者は自分自身が縄文時代の研究をしているが、縄文人を自分の祖先として身近に感じることはなかったが、「人類学の本に耳垢の乾いているのが弥生系、湿っているが縄文系と書いて或るのを読んで、自分の耳垢が湿っているので縄文人に親しみを感じているようになったと書いている。しかし、それ以上に著者が強い印象を受けたのは、西日本の漂海民たちの間に、抜歯や刺青という縄文時代にさかのぼる古層の習俗があったことを確認できたことであるという。また彼らの間には物の売買を忌避する縄文的な伝統も残されていたという。そしてこのような習俗や伝統をもっとも強く残してきた人々がアイヌであったというのである。

 そしてもともと日本列島の全域に住んでいた縄文人が、大陸から渡来してきた弥生人との接触の中で、次第にその文化を受け入れていったのに対し、北海道の縄文人は、弥生化を受け入れて農民となる道ではなく、縄文伝統の上に立って交易のための狩猟生活に特化していったのではないかと著者は考えている。とはいうもののアイヌの社会と文化は、本州との関係によって大きく影響されていた(交易がおこなわれていたのであるから当然のことではある)。逆に本州の文化、とくに山の文化の中には縄文時代の痕跡を残すものがあるかもしれないという。

 縄文文化を知るためには、アイヌの歴史を辿りながら、その生活や習俗の変遷を明らかにすることで分かってくるものが少なくないのではないかと著者は考え、アイヌの歴史を考えるうえでの基本概念と、時代区分について概説している。取り上げられているのは、アイヌ、旧石器文化、縄文文化、続縄文文化(本州以南における弥生・古墳時代に相当する)、オホーツク文化(続縄文時代の後期になって、サハリンから南下してきた海獣狩猟や漁撈に特化した海洋適応の生業をもち、続縄文人とは大きく異なる文化をもった人々、13世紀ごろまで北海道にとどまっていたが、最終的に擦文文化人に同化された。現在サハリンの北部などに暮らす先住民ニヴフは、彼らの子孫と考えられている)、擦文文化(奈良・平安時代に並行する時期のアイヌの文化)、ニブタニ文化(鎌倉時代以降に並行するアイヌの文化。この時期は北東アジアとの交流が盛んになる)である。

 この書物では縄文と弥生という単純な対比を避けて、両者の接触、交流の実態を探り、また縄文の中での様々な変化を詳しくたどっている。多様性の中の多様性を探ろうという意欲が見て取れるのである。それが具体的にどういうことかは、機会を改めてみていきたい。
 どうも私自身は、人類学的な形質からして、弥生人らしいのだが、ものの考え方や嗜好の点でむしろ縄文人的なものもあるかもしれないなと思っている。刺青を嫌い、公衆浴場などに入場させないというのは弥生人的(身体髪膚これを父母に受く…という東アジア的)な発想のようであるが、英国などでは高校生くらいの女子でも平気で刺青をしているのを見かけたものであり、縄文人的な習俗を奇異なものと考えない方がより一般的なのかもしれないと思っている(要するに自分の趣味を相手に強要しないことが重要である)。いずれにしても、このような個人間の差異を、何らかの価値と結びつけて優劣を判定するというようなことはやめるべきである。

日記抄(2月5日~11日)

2月11日(木)晴れ

 2月2日の当ブログ「ダンテ・アリギエリ『神曲 煉獄篇』(22-2)」で、原初の世界が人類にとっての黄金時代であり、團栗の実でさえも滋味に富み、流れる水が甘露であったという個所をめぐり、セルバンテスの『ドン・キホーテ』に主人公が団栗を齧りながら、黄金時代について長広舌をふるう場面があると書いたが、これは前編第11章の出来事である。その際に「羊飼いの夕食」と書いたが、正しくは「山羊飼いの夕食」であった。訂正しておく。

2月5日
 NHKラジオ「実践ビジネス英語」では”Man Versus Robot”(人間対ロボット)と題して、ロボット工学の発展により人間の社会はどう変化するかについての話題を取り上げているが、本日はロボットの文章を書く能力が発展すると、ロボットがピューリッツァー賞を取るという事態が出てくるのだろうかという発言に対し、
Or be sued for libel or plagiarism. (あるいは、名誉棄損や盗用で訴えられるかです。)と別の登場人物が反応する。そこで、今度はロボットの弁護士が出てくるのではないかという話の運びになる。しかし、ロボットのジャーナリストや弁護士の出現以前に、人間のジャーナリストや法律家がロボット化するほうが現実的でもあり、怖いような気がする。

2月6日
 NHKラジオ「攻略!英語リスニング」では”The Great Depression"(大恐慌)という話題を取り上げた。1929年の大恐慌に先立つ”the Roaring Twenties"(狂乱の20年代)の経済的な繁栄と、1932年に当選したフランクリン・D・ルーズヴェルト大統領によるニュー・ディール政策までが扱われていた。
 テキストの”Tidbits"欄に講師の柴原先生が、子どものころにミュージカル映画『メイム』を見たという話を書いている。the Roaring Twentiesを体現するような派手な生活をしているメイムという女性のところに、孤児になった甥のパトリックが引き取られるが、大恐慌で一家は没落…ところが、という話で、私は日本公開時に封切で見ている。それ以上に、試写会で『ザッツ・エンタテインメント』を見ていたら、この映画の最後が『メイム』の紹介になる、近くで見ていた女性たちがメイムを演じている女優さんは誰かしら…と話していたので、ルシル・ボールだと教えたことを思い出す(これは1度書いたことがある)。それで、あっそうか、どこかで見たことのある顔だと思った…と感謝されたのである。

 1960年代に、”The Roaring Twenties"というアメリカのドラマが『マンハッタン・スキャンダル』という題名で日本のテレビで放映されていた。1920年代のニューヨークの町で働く新聞記者の活躍を描く者で、主人公の恋人の歌手兼ダンサーの役でこの番組に登場していたドロシー・プロヴァインという女優が私の御贔屓で、『おかしな、おかしな、おかしな世界』とか、『グレート・レース』とか彼女の出演した映画はよく見ている。『グレート・レース』を監督したブレーク・エドワーズ、出演したトニー・カーティス、ナタリー・ウッド、ジャック・レモン、ピーター・フォーク、そしてドロシー・プロヴァイン、みんなあの世に行ってしまった。せめて、この映画の主題歌である”Sweet Heart Tree"でも聞いてみるか…。

 経済学者のガルブレイスが、自分の生涯で起きたいちばん大きな出来事は、ケインズ革命であったと回想しているのを読んだことがある。ニューディールもケインズ革命の一端と言えるのだが、ガルブレイスにとっては経済理論のほうが政策よりも印象が強かったようである。今は理論においても政策においてもケインズはわきに追いやられているように思われるが、この番組がニューディールを肯定的に取り上げたのは、ちょっと興味深い。

2月7日
 Eテレの『日本の話芸』で桂米丸師匠の落語の口演を見ていたのだが、あまりにもつまらないので途中で切ってしまった。別に新作落語がよくないというのではなくて、米丸さんの話が面白くないということである。同じ新作中心でも、故人になった春風亭柳昇師匠の高座はうまいとはいえなかったが、愛嬌があって面白かった。どういうことか、もう少し、寄席で落語を聞きこんでおけばよかったと思う。

2月8日
 NHKラジオ「まいにちフランス語」ではla Cathédrale Notre-Dame de Rouen (ルーアンの大聖堂)が取り上げられた。この大聖堂の尖塔は151メートルの高さがあるそうである。パートナーのジャン=フランソワ・グラヅィアニさんによると、その高さは、天への飛翔、神に近づくことを象徴的に表しているという。日本の五重塔や三重塔にも同じことが当てはまるのであろうか。

2月9日
 医師の診察を受けに出かけ、その後薬局で薬が揃うのを待っていたら、近くにいた人がいやに立派な薬手帳を持っているので、薬手帳をほめても仕方がないなと、なぜかうちで飼っている猫がよく立派な尻尾をしていると褒め?られることを思い出した。
 その後、黄金町の駅の近くの「洗濯船」という洋食店でナポリタンを食べる。この店は、今柊二さんが神奈川の定食屋シリーズの中で取り上げていて、よく前を通るのだが、初めて入ってみた。ちょっと手狭ではあるが、家庭的な雰囲気の好感の持てる店である。シネマ・ジャックで映画『Re:Life リライフ』を見て、天気がいいので、地下鉄に乗る気分ではなく、バスに乗って帰ってきた。

2月10日
 田中啓文『鍋奉行犯科帳 今日に上った鍋奉行』(集英社文庫)を読み終える。鍋奉行こと大邉久右衛門が相撲部屋で寄せ鍋を食べるというくだりがあり、2月3日付の当ブログで、このシリーズが歴史的な事実をよく押さえていると褒めた(ちゃんこ鍋の起源はそれほど古いものではない)のを後悔している。江戸時代の鍋料理は基本的に小鍋仕立てであったことを作者は知っているはずであるが、抑えが利かなくなったようである。

2月11日
 朝日新聞の「天声人語」に、故・小沢昭一さんの「寒月や出ていく末の丁と半」という句が紹介されていた。丁が出ても、半が出ても冬の寒さは変らないという気持ちもこめられているかもしれない。

 「実践ビジネス英語」の”Quote...Unquote"のコーナーで紹介された言葉:
No one should be ashamed to admit they are wrong, which is but saying, in other words, that they are wiser today than they were yesterday.
----Alexander Pope (English poet, 1688 - 1744)
(自分が間違っていると認めることをだれも恥じるべきではない、それは、別のことばで表せば、きょうはきのうより賢くなっている、と言っているのだ。)

ダンテ・アリギエリ『神曲 煉獄篇』(23-1)

2月10日(水)晴れ

 1300年4月12日、ダンテはウェルギリウスに導かれて、煉獄の第6環道を歩んでいる。煉獄で罪を浄め、天国へと向かっているローマ白銀時代の詩人スタティウスがウェルギリウスとともにダンテの前を行き、詩法についての対話を続けている。彼らは上下が逆になった不思議な大木に出会う。

私が緑の茂みに向かって、まるで小鳥の後を追って
人生を虚しく過ごすものがいつもそうしているように
目を凝らしている間に。

父より大きな存在でいらっしゃる方が私にこう話していた。「息子よ、
もうここを立ち去るのだ。我らに与えられた時は
もっと有意義に配分せねばならぬからだ」。
(336ページ) ウェルギリウスはこういって、道を急ぐべきであると諭す。こうしてダンテがまた先へと進もうとすると、
するとここに涙を流しながら歌うのが聞こえた。
「我が唇を、主よ」と。それは
喜びと憐れみをもたらすような響きだった。
(336-337ページ) ダンテはこの声が誰のものであるかをウェルギリウスに問い、ウェルギリウスは第6環道で罪を贖っている霊たちのものであろうと答える。

私達の後ろから、敬虔な魂たちの一団が、沈黙を守りながら
ひときわ急いだ足取りでやってきて追い越しながら
私たちを驚き眺めていた。
(338ページ) 彼らの痩せ衰えた姿は想像を絶するものであり、ダンテは彼らの姿を驚き眺めていたが、その中の1人がダンテに声を掛ける。

するとある影がここで、顔の深い窪みの底にある
目を私に向けてじっと凝らした。
それから強く叫んだ。「これは何という恩寵が私に」。
(340ページ) 声の主はダンテの若いころの詩人仲間であったフォレーゼ・ドナーティ(?-1296)の霊であることに気付く。彼はダンテと政治的に敵対したフィレンツェ黒派の有力者コルソ・ドナーティの弟であり、ダンテの妻であるジェンマは彼の従姉妹であった。ダンテとフォレーゼとは戯れ歌のような詩を交換していた仲である。そして、彼はダンテとの再会を喜びながら、彼を導いている2人の霊が何者であるかと問う。

 これに対して答える前に、ダンテは、フォレーゼがなぜこのようにやせ衰えた姿をしているのかを問い、フォレーゼは、自分が中庸の徳を破って飽食に明け暮れる生活をしていたからであると答える。第6環道は飽食の罪を浄める場所なのである。ここで飽食というのは、文字通りの飽食も含めて、虚栄やぜいたくな生活にあこがれる気持ちを含んでいるようである。
涙を流して歌っているこの人々は皆、
中庸を越えて食を追い求めたため
ここで飢え渇くことにより再び清くなる。

緑の茂みの上に撒かれる
飛沫から立ち上る、そして果実から漂う香りが、
飲み食べることへの欲望を我らのうちに掻き立てる。
(342ページ) 彼らは生前に犯した飽食の罪をこうして償っているのであるが、罪を浄めるために罰を受けることによって、天国に近づいているという希望があるので、喜びの感情を失っているわけではないという。ダンテの時代にはアリストテレスの哲学で説かれている中庸の徳が何よりも大切なものと考えられていたのである。

Re:Life~リライフ~

2月9日(火)晴れ

 横浜シネマ・ジャックで『Re:Life~リライフ~』を見る。原題は”The Rewrite"で「書きなおし」ということ、実在するアメリカの大学が舞台になっているが、物語は飽くまで架空のものであると断り書きがされている。

 アカデミー賞の脚本賞を受賞したものの、その後15年にわたりヒット作に恵まれず、妻には逃げられ、一人息子とも会えなくなっている脚本家のキースマイケルズ(ヒュー・グラント)は、他に仕事がないので、エージェントからニューヨーク州のビンガムトンの大学で脚本の書き方を教えてくれる作家を探しているという話に飛びつき、ほぼ毎日晴れているロサンジェルスから、曇りや雨の日が多いビンガムトンへと飛行機を乗り継いでやってくる。

 夕食に出かけた店で自分が教えることになった大学の美人女子学生3人に出会い、まだ自分の名声が通用するといい気になってはめを外した翌朝、自分の隣にはそのうちの1人であるカレン(ベラ・ヒースコート)が寝ていた。学科長のラーナー(J.K.シモンズ)から受講希望者70人が書いた脚本を渡され、すべてを読んだうえでその中から受講者10人を選ぶようにと言われるのだが、そんな面倒なことは御免とばかり、大学のウェブサイトから学生たちの情報を見て、美人の女子学生ばかりを選ぶ(申し訳に、2人の男子学生を選ぶが、この2人がその後の物語の進展に大きくかかわることになる)。

 懇親会の席ではジェーン・オースティンの研究で有名な学者である女性教授ウェルドン(アリソン・ジャネイ)と事を構え(彼女は大学の倫理委員長なので、それが後で尾を引くことになる)、第1回の授業では、提出した脚本の続編を1か月後までに書き終えるように言い渡して、それまでは休講にするといい放つなど、勝手放題にふるまうのだが、学科長や同僚の助言もあって、とにかく授業に取り組むことになる。無理に押しかけて11人目の受講者となったホリー(マリサ・トメイ)は、もともとブロードウェイでダンサーをしていた経歴の持ち主で年配であり、しかも2人の娘をもつシングル・マザーであるが、その経験を生かして、授業の方向性にかかわる助言をしながら、キースのやる気を引き出していく。物語をなぜ書こうとするのか、主人公、登場人物、それらをどのように生かしていくのか、自分の経験を交えながら、キースは語り、そこから受講者たちの意識が変わり、彼らの書いている脚本も書き直され、改善されていく。

 特にクレムという神経質そうな男子学生の書いている脚本がすぐれた出来栄えで、キースはエージェントと連絡を取って、その作品をハリウッドの制作者たちに紹介する。その一方で、もう1人の男子学生は『スター・ウォーズ』に入れあげていて、そこからどのように自分の世界を造り上げるようになるのかのかじ取りがなかなか難しい。他方、カレンとキースとの関係があからさまにされ、キースは辞職するか、倫理委員会で審査を受けなければならないことになる…。『スター・ウォーズ』の学生は、入るべきか否かを考えていたサークルに入るのだが…。

 キースははじめ、脚本書きは天賦の才能で、努力は関係ないといってホリーと対立するが、自分の指導の結果、学生たちが腕を上げているのを見て、次第に考えを変え、またホリーに惹かれはじめる。確かにピカ一の学生であるクレムは才能があるのかもしれないが、他の学生も捨てたものではない…。

 この映画はもともと大学の教師をするつもりがなかったキースの変貌の話であり、もう一方では伝統的な文学についての考え方を教育の場で展開しつづけ、大衆の文化について全く理解を示さないウェルドンのような先生方と、より革新的なプログラムの必要性を考える人々との対立の物語であるようにも思われる。そういうことから、昨日の当ブログでも書いた、アメリカの大学がどのような存在であり、何を目指して若者たち(中年以上の男女たち)を教育しているのかについて、潮木守一さんが書いているのとは少し違う結論を示しているように思われる。
 潮木さんの著書は、ほとんど有名私立大学の改革についてのみ触れていて、しかも有名私立大学でもスタンフォード大学の成立とその発展については触れていないなど、かなりの偏りのある内容であった。この映画は、ニューヨーク州に実在する州立(ということは公立ということになる)を舞台に選び、それほど有名ではないし、ひょっとして経営もそれほど簡単ではないかもしれないような大学のもっている教育的な可能性を示している。念の入っていることに、キースの疎遠になっている息子はスタンフォード大学に入学したという設定である。その意味で、潮木さんの著書がいいのがしたこと、あるいは見逃したことを映像の中で語っているのである(もっとも別の著書で潮木さんがスタンフォード大学の設立の状況についても語っていることを書き加えておかないと、公正さを欠くことになるだろう)。それやこれやの問題はさておいても、ビンガムトン大学という、日本ではほとんど無名の公立大学がいかに優れた施設をもっているか、ということを映画の中で実際に見るだけでも、この映画の価値はあると考えるべきである。繰り返しになるかもしれないが、日本とアメリカの大学の一番大きな違いは、入学者選考のシステムにあるのではなく、ごく単純に大学の財政基盤が豊かであるか否かということにあるのである。

潮木守一『アメリカの大学』

2月8日(月)晴れ

 2月7日、蔵書の整理をしていて見つけた潮木守一『アメリカの大学』(講談社学術文庫)を読み終えた。

 「この本には、1820年から1910年頃までのアメリカのカレッジや大学の変化の歴史が書かれている。つまり、この本にはアメリカでの出来事は書かれていても、日本のことはまったく書かれていない。またこの本には、昔話は書かれていても、現在や将来のことにはまったく触れられていない。

 なぜこの日本に住むわれわれにとって関係のない、アメリカの昔話を書いたりしたのか。その理由は簡単である。それは決して現在のわれわれに無関係ではないからである。

 それではどういう意味で関係があるというのか。(中略)

 ・・・このよその国の昔話のなかに,吾々が現に直面し、また近い将来直面するであろう諸問題が、すでに含まれているからである。過去は決して過ぎ去ってしまったのではなく、現在を示し、未来を予告し、さらには警告さえしている。つまり、過去のなかに閉じ込められ、ともすれば忘却のかなたに追いやられようとしている「現在」や「過去」を、できるだけ呼び戻してみようというのが、この本のねらいである。」(3-4ページ)と、著者はこの書物を書きはじめている。

 アメリカの1820年から1910年頃までの高等教育機関をめぐる改革動向とその結果のなかに、今日の日本の高等教育をめぐる様々な問題の多くが既に含まれているというのである。この書物は1982年に第一法規出版から、『教育学大全集』の中の「大学と社会」と題された1冊として出版され、1993年に講談社学術文庫の1冊として再刊された。私が持っているのは、その文庫本の方で、紀伊国屋書店のカバーから推測すると、まだ地方の大学の教師をしていたころに買ったようである。

 この書物の構成は次のようになっている:
第1章 伝統的カレッジの構造
第2章 早すぎた改革
第3章 改革への胎動
第4章 伝統的カレッジからの脱却
第5章 研究大学の登場
第6章 大学院大学の登場
第7章 アイデンティティの葛藤

 第1章では19世紀のアメリカにおけるカレッジの一般的な様子が描きだされている。カレッジの学生の多くはまだ十代で、寄宿生の大学の厳しい規律と、復唱中心の退屈な授業への不満を抱えており、より先進的な学術に触れようとドイツに留学するものが少なくなかったこと、そして帰国後ドイツに倣ってアメリカの大学を改革しようとするものもいたことが述べられている。
 第2章では1820年代にハーバード大学の学長であったジョージ・ティックナーの大学教育の改革の取り組みとその失敗が語られる。
 第3章では1828年にイェール大学の教育をめぐって、古典語中心の伝統的な教育を肯定する結論を取りまとめた『イェール報告』の影響と、にもかかわらずハーバードとイェールで科学教育への取り組みが開始されるようになった経緯が論じられている。
 第4章では1869年から1909年まで40年もの長きにわたって、学長として大学教育の改革に取り組んだハーバード大学のエリオット学長の取り組みの概要が語られている。
 第5章では1870年代にギルマン学長のもとで、大学院中心の研究型大学として発足したジョンズ・ホプキンズの出現とその余波について述べている。
 第6章ではジョンズ・ホプキンズの理念をさらに先鋭化し、大学院だけの大学として出発したクラーク大学の苦闘と、ロックフェラー財閥の支援の下に研究大学を含む総合的な大学として発展したハーパー学長率いるシカゴ大学の台頭の様子が描かれている。
 第7章では19世紀の後半から20世紀の初めにかけての、アメリカの大学が経験した研究と教育の対立、大学間のフットボール試合の人気が大学の様相を一変させたこと、研究型の教師と学生の人生相談に向き合える教師の対立に始まる、教師文化の多様性の問題など、大学のアイデンティティにかかわる様々な問題が取り上げられている。
 著者はアメリカの大学のここまでの歴史の中で、現代の日本の大学を含めて、大学教育が内包する様々な問題が出つくしていると考えているようである。特に「教育型教師」「研究型教師」「運営型教師」「学外活動型教師」というような大学の先生の類型化は興味深いものがあるのだが、著者自身は自らをどこに位置づけているのか気になるところである。(私自身は、「研究型教師」を施行しながら、足を引っ張られて「教育型脅威」に生きがいを見つけようとしたが、常に「運営型教師」であることを求められつづけて来たように思われる。)

 この書物全体を通じて著者の関心は一部の有名私立大学に向けられていて、モリル法については言及はされているが、その結果として全国で発展した州立大学とその役割について、それと関連して大学とそれを取り巻く地域社会の問題については十分に論じられているとはいいがたい。さらにニューディール時代以後に顕著になって来た政府の政策形成に対する大学の貢献、さらに第二次世界大戦後に巨大化した産軍複合体に対する大学の関与のようなより新しい問題については、多少ほのめかされている部分があるとはいうものの、十分に語られているとは言えない。アメリカの大学と日本の大学を考える際にもっとも重要な相違点である財政問題について、十分な考察がなされていないのも不満に思われる点である。

 とはいっても、この書物がアメリカの大学教育を概観し、日本の大学教育を考える際に重要な手がかりを与える書物であることは間違いない。ここから問題意識をどのように広げていくかは、読者それぞれが取り組むべき課題であろう。

『太平記』(89)

2月7日(日)晴れ

 元弘3年(1333年)5月21日早朝、新田義貞の率いる討幕の軍勢は稲村ケ崎を渡渉して鎌倉市中に攻め入った。市中のいたるところで火が放たれ、幕府方からは裏切りが続出した。北条一門や得宗被官の武士たちは飽くまで戦って戦死したり、もはやこれまでと自害したりしていった。

 得宗被官の武士たちの1人で、諏訪左衛門入道の子息である諏訪三郎盛高は、連日数度の合戦で配下の武士たちをほとんど失い、とうとう主従2人だけになって、北条高時の弟である泰家のもとにたどりついた。泰家は分陪河原の合戦では大将を務めたが、それより前正中3年(1326年)に高時が病気で執権職を退いた時に、跡を継ぐものと思っていたところ、内管領である長崎高資の反対で継ぐことができず、怒って出家したという経緯があって、高時とは距離を置いていた。泰家こそが主君であるという武士たちも多く、盛高もその1人であったのである。諏訪氏は信濃の一宮である諏訪上社の社家(世襲の神職の家柄)であり、鎌倉時代に得宗の被官となって、その勢力を伸ばした。全国に諏訪神社があるのはこのためである。

 盛高は、鎌倉市中での合戦もほぼ決着がつき、あとは自分の命を絶つだけになってしまった。あの世までお供するつもりなので、早く腹をお切りくださいと泰家に勧めていった。
 これに対して、泰家は人払いをしたうえで、盛高に向かって次のように囁いた。
 「この闘ひ慮(はか)らざるに(出で来て)、当家すでに滅亡する事、更に他なし、ひとへに相模入道殿の御振る舞ひ、人望にも背き、神慮にも違(たが)ひたりしゆゑなり。但し、天たとひ驕りを悪(にく)み、充(み)てるを欠くとも、数代積善の余慶家に尽きずは、この子孫の中に、絶えたるを継ぎ、廃れたるを興す者、いかでかなからん」(第2分冊、146-147ページ、この戦いが思いがけずに起きて、北条氏が滅亡しようとしていることは、全くほかでもない、ひとえに相模入道(北条高時)殿の振舞が、人望にも背き、神の思し召しと違っていたためである。とはいうものの、天がたとえ驕りを憎み、満つれば欠くという世の習いがあっても、数代にわたって積み重ねてきた善行の果報が当家に尽きないならば、この子孫の中に、絶えた家系を継ぎ、廃れた家名を再興するものが、どうしてないといえるだろうか。)
 そして中国の春秋五覇の一人である斉の桓公にまつわる説話を引用して、無道な君主のために滅びかけた国を忠臣が君主の一族を伴って国を去って、その後帰国して再建した例もあるといい、自分には深く考えるところがある。むやみに自害をすべきではない。困難には違いないが、ここはいったんどこかに逃れて、敗戦の屈辱を晴らす時を窺うべきだと思う。おまえ(=盛高)もよく考えて、どこかに逃げ隠れるか、そうでなければ降参したふりをして、自分にとっては甥である高時の次男の亀寿(後の時行)を隠し育て、時が来たと思われるときに再び大軍を起こして宿願を遂げるべきである。高時の長男である万寿は、母方の伯父である五大院(ごだい)右衛門に託してあるからまず安心だという。

 これを聞いて、盛高はびっくりした。これまで必死に戦って、そのうえで自分の忠義を明かしだてるために主君とともに腹を切ろうと覚悟を決めていたのに、泰家は何とか落ちのびて再起を図ろうと考えていたのである。それでも、すぐに死を決意するのはたやすいが、生きながらえて謀を廻らし、これを後世に示すのは難しい。しかしながら、とにもかくにも泰家に言いつけられたことに従ってみようと、高時の寵愛する側室であり、万寿(邦時)と亀寿の母である新殿(にいどの)のいる扇ガ谷に向かった。そこにはまだ亀寿が残っている。

 盛高が新殿のもとを訪れると、彼女は大いに嬉しそうな様子を見せて、大変なことになってしまったが、自分は女性であるから何とか隠れる場所も見つかるだろう。万寿は彼女の兄である五大院右衛門が連れていったので安心だが、亀寿のことが気にかかってならないという。盛高は、泰家の言葉をそのまま伝えて安心させようかとも思ったが、女性のことで口が軽いので、どこかに秘密が漏れては困ると思い、心を鬼にして、もはや北条一門の逃れる道はない、万寿についても敵は厳しく追及しているし、亀寿については高時が手元に呼び寄せて道連れにしようとされていると嘘をつき、亀寿の身の回りの世話をしている女性たちが泣き叫び、止めようとするのを無理やりに連れ出して、自分の背に追って入って屋敷を出た。女性たちの泣き叫ぶ声が門を出てもまだ聞こえてきた。亀寿の乳母は悲観の余り井戸に身を投げて死んでしまった。

 盛高は亀寿を連れて信濃の国に戻ることができ、諏訪社の神官である祝(はふり)氏を仲間に引き入れて、この後、建武元年(史実は2年=1335年)にしばらく関東一円を支配し天下に争乱(中先代の乱)を引き起こすことになった。(それについては、また語るときが来るはずである。)

 その後、泰家は信頼できる家来たちだけを集め、自分は思うところあって、奥州に落ち延びたうえで、再起を図ろうと思う。南部太郎と伊達次郎の2人は(それぞれ青森県八戸市、福島県伊達郡の武士であり)、土地の地理に詳しいものであるからついて来るように、その他のものは自害して、屋形に火を懸け、自分が切腹したように敵に思わせろと指示を与える。20人余りの武士たちが一言の異議も挟まず、仰せに従うと答えた。伊達と南部の2人は徴用された雑兵に身をやつし、中間の者2人に鎧を着せて馬に乗せ、新田の紋を書いた笠符(かさじるし)をつけ、泰家を青駄(あおだ)と呼ばれる即製の釣り輿に乗せて、その上から血の付いた帷子を打ちかけて、負傷した武士が本国に帰る様子に見せかけて、まず武蔵の方に落ち延びていった。

 かなり時間がたってから、残っていた20人ほどの武士たちは中門まで走り出て、殿はもうご自害された、心あるものはお供せよと叫び、屋形に火を懸け、煙の中で腹を切った。これを見て、庭先や門前で守備にあたっていた武士たち300人ほども切腹して、猛火の中に倒れ伏した。この様子を見たので、泰家が落ちのびていったと思うものは誰もいなかった。

 幕府方の武士たちの様子を、裏切るもの、あくまで戦って最期を遂げたもの、自害したものと描いてきて、今度は落ち延びて再起を図ろうとする北条泰家と、諏訪盛高、盛高に連れられた北条時行の動向を記す。泰家が盛高に時行を託したのは、盛高が信頼できる武士であったことに加えて、諏訪氏が信濃に強固な勢力をもっている一族であったからであろう。分陪河原の合戦では緒戦の勝利に油断して、大敗し、鎌倉陥落の原因を作った泰家であるが、それなりに智略と強靭な精神をもった武将であったことが見て取れる。さて、泰家の兄である相模入道高時はどうしているのであろうか。

ニューヨーク 眺めのいい部屋売ります

2月6日(土)晴れ

 横浜シネマ・ジャックで『ニューヨーク 眺めのいい部屋売ります』(リチャード・ロンクレーン監督作品)を見る。この映画館では1月30日に上映が始まり、本日から2週目に入って1日に1回だけの上映となったものの、ほぼ満席となった。口コミで評判が広がっているらしい。

 あまり売れない画家のアレックス(モーガン・フリーマン)と元教師のルース(ダイアン・キートン)は結婚の数年後に見つけたブルックリンのアパートの最上階の部屋にもう40年以上住んでいる。黒人のアレックスと、白人のルースは画家とモデルとして知り合ったのだが、周囲の反対を乗り越えて結婚し、いろいろな困難を乗り越え、愛犬のドロシーとともに、それなりに幸福な生活を送ってきた。しかし、エレベーターのないアパートでの生活は老境に入った2人、とくにアレックスにとって、またドロシーにとって大きな障害となりはじめている。ルースの姪である不動産エージェントのリリー(シンシア・ニクソン)の助けを借りて、アパートを売って、どこかもっと楽に暮らせる住まいを探そうと、2人は一方でオープン・ハウスでアパートの買い手を探し、その一方で、自分たちが新たに住むことになる住まいを探す。とはいうものの、売却をめぐって2人の間には温度差があり、ブルックリンを離れたくない2人にとって、自分たちが住んでいるアパート以上の住まいを見つけることは難しいこともわかってくる。

 住み慣れた住居への愛着と、にもかかわらず年をとって体の自由が利かなくなったことから新しい住居を探そうとする気持ちの葛藤、その一方で愛犬のドロシーの体調が悪化し、入院・手術という小さいなりに重大な事件も起きる。アパート売却の取り組みと並行して、ブルックリンのつり橋でトラックが事故を起こし、交通がマヒしている中で、運転手が行方不明になったという事件が起きて、運転手がテロリストではないかという疑惑が広がって大騒ぎになる。騒ぎはアパートの売却とは無関係のはずだが、どうも無関係ではいられないところが2人、とくにアレックスのほうにはある。

 アパートを売ると100万ドルほどの金ができるという。しかし、あたらしいアパートを買うとなると、もっと金がかかりそうである。ドロシーの病状は深刻で、CTスキャンだの、手術だの、1000ドルとか、1万ドルとかいう費用が掛かる。金額の桁が大きいところにアメリカと日本の違いを感じるとはいうものの、年をとってきたので住み替えようとか、その住み替えをめぐって夫婦の意見がかみ合わないとかいうのは、米日共通の事柄ではないかと思われる。そういうところに共感する観客が多いことは容易に推察できることである。

 ブルックリンを舞台にした映画は数多くつくられてきた。もともとニューヨークとは別の市だったのが、ニューヨークに合併されたこと、マイノリティーが多く住む町であったことなどは周知の事柄である。かつて、この町を本拠地とした大リーグ球団ドジャーズが、最初の黒人大リーガーであるジャッキー・ロビンソンを入団させ(最初の黒人大リーガーは、サッチェル・ページであるなどというようなマニアックな話はさておく)、同じニューヨークを本拠地とする(より高い社会階層の支持を集めている)ヤンキーズとワールド・シリーズで対決を繰り返していたことは大リーグの歴史に詳しい人ならばご存じのはずである。ブルックリンにはマイノリティーがその存在を主張できるような風土があり、それがこの映画の主人公夫婦を引き留めている理由であろう。黒人の夫と白人の妻というカップルが周囲とのそれほどの違和感なく暮らせてきたのは、ブルックリンならではのことなのである。

 結婚の経緯とか、その後の生活の中に、それだけで1本の映画ができそうな話題を含みながら、それらを過去のエピソードとして圧縮し、老境に達して、思い出の詰まったアパートを売りに出そうとする場面に焦点を当てることで、物語としての緊張感を生み出している。決して平凡ではない歩みを重ねてきた夫婦の、平凡な試みを描くことで、観客が自分の経験に照らし合わせながら、問題を考えることを可能にしている。映画が終わった後で、まだ若い男性がこの映画には原作があると、連れの女性に得々と語っていたが、そんなことよりも、住まいをめぐる自分の経験と照らし合わせて、この映画を語るべきである。 

あるできごと

2月5日(金)晴れ

 横浜駅西口からバスに乗ろうとした時のことである。ちょうど私の直前に並んでいた2人の老女(と言っても、こっちも老人なので、同じくらいの年齢であったかもしれない)が、神奈川県S会館に行きたいのだが、どの停留所で降りたらよいかと尋ねている。この施設は、結構わかりにくい場所にあるので、道を歩いていてどうやっていけばたどりつけるかと尋ねられることがよくある。

 実際問題として、横浜駅からこの施設まで出かけるならば、バスなど利用せずに、歩いていく方がよい。この文章を書くために、施設の案内を検索してみたのだが、駅から徒歩15分とある。実際にはそんなにかからないはずである。彼女たちも歩いていくのがいちばんいいことはわかっている様子だったのだが、道を間違えたくないのでバスに乗るという話だった。実際には、所在を示す標識もあるし、素直に標識に従えば間違えるはずがないところにあるのだが、どうも素直に考えられない事情があるようである。彼女たちの考えていることとは全く逆で、バスに乗って出かければますますわかりにくくなるので、本来ならば、どこにあるのかが分かっている私が案内するのがいちばんいいのだが、そういう気分になれなかった。

 2人組はさらに、バスの中の同じような年配の女性たちとどこで下りればよいのかという話をしていたのだが、要するにバスに乗っていけば大回りになるという話が繰り返されただけで、誰一人として、じゃあ、自分が案内しましょうという人はいなかった(そこまで親切にしたくはないのである)。彼女たちが持っている案内の文書には、市営バスの○番に乗って、これこれの停留所で下りて、…というかなり詳しい(それなりに親切な)経路の説明が記されているようであった。実際問題としては、別の系統のバスに乗って、別の停留所で降りて歩く方が分かりやすい。

 彼女たちの相手をしたほとんどの人が、皆それぞれに親切だったのだが、私を含めて、どこか、なにか、その親切さに欠けている部分があったのではないか。年をとると、その分、経験知が蓄積されてはいるが、それが理論的に整理されておらず、あたらしい事態に即応できなくなっている。そのため目の前で問題が起きたときに的確に対応できなくなるようである。それに、実際に自分で体を動かして何かするというのはおっくうなのである。乗り合わせていた客たちは、それぞれ、彼女たちが降りるべき停留所の前でバスを降りていったので、彼女たちが無事施設にたどりつくことができたかは確認できなかった。

 施設の案内は、それなりに詳しく記されているが、どこか利用者の事情を考えていないところがある。それを手掛かりに出かけようとする人たちも、案内しようとする(私を含め)周りの人間たちも、なにか勘違いをしていたり、大事なところを外していたり、すべきことをしようとしなかったり、そんなことが重なって、人々の善意?にもかかわらず、社会はますます住みにくくなっているのだな…と考えさせられた。

日記抄(1月29日~2月4日)

2月4日(木)晴れたり曇ったり

 先週の補遺:
 1月28日のNHKラジオ「実践ビジネス英語」で、Civil Warについて、civil warとすれば「内戦」「内乱」だが、the (American) Civil Warと大文字にすれば、アメリカの「南北戦争」(1851-1865)を意味する。また特に南部史の立場からはWar between the Statesとも呼ぶと解説されていた。Civil Warにはほかに、the English Civil War (1642-1649)、the Spanish Civil War (1936-1939)が「有名」である。さらに古くローマの優れた軍人・政治家であり、弁論家・文筆家でもあったユリウス・カエサル(前100-44)に、前49年1月のルビコーン渡河に始まり、48年8月のパルサルスの戦いで事実上の幕を下すポンペーイウスとの戦いを記録した『内乱記』Commentarii de bello civili という著作が残されている。

 1月29日から本日までの間に経験したこと:考えたことから:
1月29日
 NHKラジオ「まいにちフランス語応用編」「ファッションをひもとき、時を読む」は2014年10月~12月に放送された分の再放送であるが、その最初の1か月分、1966年にフランスで公開された『ポリー・マグーおまえは誰だ?』(Qui Êtes-Vous, Polly Maggoo?) の内容紹介が終わった。架空のモデルをめぐる様々な情報をドキュメンタリー風に構成しながら、ファッションとは何かというテーマを掘り下げる作品であるが、欧米という閉じられた世界の中に視野を限定していて、より広い世界の動きを考えていないのではないかという気もする。アジア・アフリカ出身のマヌカンたちが活躍しはじめるのはいつ頃からであろうかということも合わせて考えてもよいのではないかと思う。

 NHKラジオ「実践ビジネス英語」の第20課:”To Tip or Not to Tip"(チップを置くべきか否か)が終わった。1940年代や50年代には、10パーセントの心づけを残すのが普通だったが、最近は20パーセントが最低額になっているようである。その一方で、最近、ニューヨークでは「チップ不要」のレストランもできてきたという。Tipping ins't as ubiquitous a custom in Britain as it is here in the States.(英国ではチップを置くことは、ここアメリカほど一般的な習慣ではありません。)という発言もあったが、留意しておく必要がある事柄である。

1月30日
 田中啓文『鍋奉行犯科帳 お奉行様の土俵入り』(集英社文庫)、飯島周『カレル・チャペック 小さな国の大きな作家』(平凡社新書)を読み終える。前者は昨日の当ブログで取り上げた。チャペックの作品は『山椒魚戦争』と旅行記のほか、童話作品を読んでいる(中野好夫による英訳からの重訳である)。郵便局に小人が住んでいたりするように、身近な場所にファンタジーを生み出す一方で、妖精がハリウッドのスターになったり、ヤカマシ小僧という化け物が政治家になったりという展開に、一種の皮肉を感じたものである。このチェコの作家は、一筋縄ではいかない創造性をもっていて、それが魅力になっている。

1月31日
 金子勝 児玉龍彦『日本病 長期衰退のダイナミクス』(岩波新書)を読み終える。生命科学の知見を経済の分析に活用して、現代の日本経済の複雑な問題に取り組み、その危機の本質を明らかにして、解決策を探ろうとする書物である。このところの日本経済はますます複雑怪奇な様相を示しており、「データ化しにくいものに価値がある」(217ページ)、「すぐれて人文科学・社会科学的な人間は悪が求められる」(220ページ)というような著者の主張がますますその意義を増しているように思われる。

2月1日
 病院に出かける。その後、とくに見たい映画もなかったのだが、せっかく東京に出てきたのだからとシネマヴェーラ渋谷で「映画作家 田中登」の特集上映から、『女教師 私生活』と『官能教室 愛のテクニック」の2本を見る。日活ロマンポルノ、それも比較的初期の作品を見るのは久しぶりである。後の作品で高校の体育教師を演じている田中真理の元気のよい演技が印象に残った。それも時代の勢いであったのかなぁと思う。

2月2日
 NHK「ラジオ英会話」で
I lost my wallet somewhere. (財布をどこかでなくしてしまいました。)
という表現が出てきた。てもとのLongman Active Study Dicrionary によると
walletは
a small flat case in which you carry paper money, bank cards etc (紙幣やカードをその中に入れて持ち運ぶ小さくて平たいケース)とある。「札入れ」というほうが適切ではないかと思う(『リーダーズ英和辞典』には「札入れ」という訳語が挙げられている)。私が使っているのはロンドンのコヴェント・ガーデンで25ポンドで買ったもので、目下のところ、中身より札入れのほうが価値があるのではないかという状態の時が少なくない。

2月3日
 NHKラジオ「実践ビジネス英語」の”Word Watch"のコーナーでscience fictionという語が取り上げられた。日本語ではSFでも通じるが、英語では普通sci-fiと略すそうである(発音はサイ・ファイのようになる)。 
 もう40年以上昔になりが、アメリカから研修旅行にやってきた学校の先生のグループに付き添ったことがあり、その中の1人が、アメリカでは何を教えているかと言われて、SFを教えていると答えていたのを未だに覚えている。アメリカにはそういう運動を展開している学校の先生たちがいたのである(今はどうか知らない)。彼女はキリスト教よりも、仏教のほうが宗教としては優れているというようなことをいっていたが、これはアーサー・C・クラークに影響されたのであろうと、今になって思う。やっぱり、いろいろと勉強しておく必要がある。

2月4日
 NHKラジオ「実践ビジネス英語」の”Word Watch"のコーナーで、generic repot(一般的な記事)という語が取り上げられた。スポーツ記事や天気予報など、ある程度定型化されていて、主として数字やファクトなどを入れ替えればロボットでも書くことができると思われる記事のことを指すのだそうである。genericには「(商標登録による保護を受けず)一般名称で販売される」という意味があり、日本語でも「ジェネリック医薬品」という場合はこの意味である。

 同じく”Quote...Unquote"のコーナーで取り上げられた言葉:
There are only two kinds of men: the righteous who think they are sinners and the sinners who think they are righteous.
----Blaise Pascal
(French philosopher, mathematician, physicist and inventor, 1623-62)
人間には2種類しかいない。つまり、自分は罪人だと考える善人と、自分は善人だと考える罪人である。
 自分が悪いことをしたと思うのは、良心が残っている証拠であり、良心を失ってしまうと自分のやっていることは何でも正当化できるということらしい。まあ、しかし、私は自分が罪人だと考える罪人であると思うね。

田中啓文『鍋奉行犯科帳 お奉行様の土俵入り』

2月3日(水)晴れ

 1月30日、田中啓文『鍋奉行犯科帳 お奉行様の土俵入り』(集英社文庫)、2月2日、田中啓文『鍋奉行犯科帳 浪花の太公望』(集英社文庫)を読みおえる。この作家の作品では『あんだら先生と浪花少女探偵団』(ポプラ文庫)を取り上げたことがある。片方は、江戸時代、もう片方は現代と時代は違うが、大阪が舞台であり、登場人物が遭遇する謎を秘めた事件に絡んで、さまざまな話題が取り上げられ、作者のうんちくが傾けられるというところは共通している。「ごった煮の この大阪が 好きやねん」というもりのぶの川柳に読まれているような、雑然として活気があり、人情にも篤いそんな雰囲気に満ちた作品群である。

 『お奉行様の土俵入り』はシリーズ5冊目、『浪花の太公望』は3冊目、シリーズものの楽しみの1つは、常連となる登場人物が増えたり、彼らの境遇や人間関係が変わったりするのを確認することであり、シリーズものを読む時はできるだけ書かれた順序を追って読むことにしているのだが、探している本が本屋の店頭に並んでいなかったり、並んでいてもこちらの懐具合との折り合いがつかなかったりで、必ずしも思惑通りにはいかない。

 タイトル・ロールの鍋奉行は、大坂西町奉行の大邉久右衛門で、相撲取りと間違えられそうな巨体の持ち主で、大食いの大酒呑み、食べることとなると熱心で、浪花を騒がせている事件などどこ吹く風なのだが、なぜか、食べ物がらみで動き回っているうちに事件を解決してしまう。その配下には定町廻り与力岩亀三郎兵衛と盗賊吟味役与力鶴ヶ岡雅史、さらに若い同心の村越勇太郎がいて、最初のうちはこの奉行の言動にあきれていたが、次第にその良さを理解し、心服するようになっている。しかし一番、この奉行に心酔しているのは、奉行所の料理方をしている源治郎であろう(というのが、この奉行のすべてを物語っている)。他方、貧乏旗本である大邉の家政を切り盛りしている用人の佐々木喜内は、何もかも見通していて、時々厳しいことをいうのだが、やはりこの奉行を信頼しているようである。シリーズは大邉の破天荒な行状と事件解決のあれこれを物語るのだが、物語の軸となるのは若い村越であり、彼が通っている(用務繁忙を理由に足が遠のくことがある)剣術道場のあるじである岩坂三之助の一人娘小糸、村越の母で元は売れっ子の芸者であったすゑ、すゑが目を掛けてる稽古屋の師匠で若い綾音が登場し、小糸と綾音が村越を我がものにしようと競い合う(さらに第三の女性が現われるかもしれない…)。さらに村越の仕事を手伝う役木戸の千三は芝居小屋の木戸番を本業としながら、水茶屋を経営し、戯作者や狂言作者も兼ねるという多才ぶりで、この他にも絵師の鳩好とか、釣り名人の少年三平とか一膳飯屋・業突屋を営む老婆トキとか、それぞれ見逃せない個性や能力をもつ人物たちが登場する。しかも「酒ついであなたはしかしどなたです」(橋本緑雨)というようなつながりから、新たな顔ぶれを加えて、奉行所の人脈はさらなる広がりを見せそうである。佐々木喜内という名が、講談の『大久保彦左衛門』に登場する用人の笹尾喜内を連想させるというような安易な部分もあるにはあるが、それは御愛嬌ということにしておこう。

 『お奉行様の土俵入り』という書名のもとになった短編「餅屋問答」は大坂に本拠を置く貧乏な相撲部屋が蒙っている不当な被害と、それを埋め合わせようとする奉行や村越の努力を描く。餅が好きで、十分に食べられないからと言って部屋を飛び出した若手力士が、結局戻ってきて、大活躍することになる。その力士と奉行が餅の食べ比べをする場面が傑作である。久右衛門が相撲の稽古を熱心に見に出かけるようになったのは、稽古のあとで供される食事が目当てであったという個所も魅力的である(この時代に、まだちゃんこ鍋がなかったことなど、時代考証はしっかりしている)。「もともとこういった手間をかけない、豪快で大ぶりの料理が好みなので、相撲部屋の素朴な献立がどんぴしゃりに合ったのだ。飯もこせこせせず、丼にてんこ盛りによそってあるし、なんと酒までも丼でいただく。」(15ページ) こういう久右衛門の好みが私の好みにもあっていて、そうはいってもこちらは年をとって食べたいものを食べたいだけ食べるというわけにもいかなくなっているので、余計に感情移入しながら読んでいたのであった。

ダンテ・アリギエリ『神曲 煉獄篇』(22-2)

2月2日(火)晴れ

 ウェルギリウスに導かれて煉獄を歩むダンテは、その第5環道でローマの詩人スタティウスの霊と合流する。スタティウスはその罪を浄めて、天国へ向かうところであるという。彼らは8つある煉獄の環道の内の第6環道に達し、そこでウェルギリウスはスタティウスがどのような罪を浄めなければならなかったのかと問う。

あなたのおかげで私は詩人となった。あなたのおかげで私はキリスト者となった。
けれども私が素描したものをより深く理解していただくために、
手を伸ばして色を施しましょう。
(326-327ページ)と、スタティウスは、彼がウェルギリウスに導かれて詩人となり、彼の予言のためにキリスト教への信仰をもったことに感謝しながら、自分の在世中の生き方について詳しく語ろうとする。

かつて世界は永遠の王国の使徒たちにより
種が蒔かれ、すみずみまで
真実の信仰をはらんでいました。
(327ページ) 人類の歴史の初めに黄金時代があったという考えは、ギリシア・ローマ的なもので、それはただ人々が自然の富の中で豊かに暮らしていたというだけでなく、地上に正義が行われていた時代であると考えられた。ウェルギリウスがその『牧歌』などの作品で歌ったのはこのような時代の記憶であるという。中世の人々は、このようなギリシア・ローマの黄金時代の考えを、旧約聖書の人類のエデンの園における幸福な生活と結びつけて考えていた。つまりキリスト教は、ギリシア・ローマ時代の人々の考えの自然な延長線上にあると考えたのである。
 そしてスタティウスは黄金時代≂神の教えが人々の心の中に満ちていた時代への郷愁から、キリスト教に近づいたと述べる。が、ドミティアヌス帝の時代にキリスト教が迫害された(これは歴史的な事実とは言えないそうである)ことで、信仰に近づき、洗礼を受けて信者にはなったものの、その信仰を隠し続けていた。このように隠れながらのキリスト者であったことから、その臆病さの罰として、彼は400年の長きにわたって、煉獄の第4環道で怠惰の罪を償っていたという。

 このように自分について語った後、スタティウスはローマの劇作家、詩人たちが今、どこにいるのかをウェルギリウスにたずねる。ウェルギリウスは、スタティウスが名を挙げたローマの劇作家、詩人たちが、彼らがその作品で取り上げた女性たちとともにリンボにいることを明らかにする。名を挙げられた女性たちは、広西にその徳をたたえられるような行為によって記憶される女性たちである。そして、煉獄の環道をこれまで通り崖の方に右肩を向けながら回っていくのがよさそうだといい、スタティウスと並んで、前を歩む。

二人は前を進み、私はただ一人
後ろに続きながら、彼らの話を聞いていた。
それは私に詩法の知恵を明らかにしていた。
(332ページ) 

しかし突然、道のただなかに見えた一本の木が
その喜ばしい話を断ち切った。
さわやかでおいしそうな香りの果実が実っていた。

そしてもみの木が、高みに向かって枝から枝へと
細くなるように、この木は下に向かって細っていた。
私が思うには、人は上へと登らせぬためであろう。
(同上) この上下がさかさまになった木は、旧約聖書の「創世記」に出てくる<善悪の知識の木>であり、天、すなわち神の真理から養分を得ているために、さかさまになっているのである。が、その一方で、預言者としての詩人の姿を示すものと受け取ることもできる。

 2人の詩人がこの木に近づくと、「おまえ達はこの食べ物を欠くであろう」(333ページ)という声が聞こえる。これは善悪の木の実を食べてはならないという「創世記」の中の神の警告を言い換えたものであるが、第6環道が飽食の罪を浄める場所であることを考えると、深い意味を考えずにそのままの警告と受け取ることもできる。そして、さらに質素な飲食をたたえる様々な言葉が聞こえる。

原初の世界は、すなわち黄金の美しき時代は、
粗食ゆえに団栗の実でさえ滋味に富んでいた。
そしてどの流れの水も喉の渇きゆえに甘露となった。
(334ページ)という3行はその中でも特に印象に残る。(セルバンテスの『ドン・キホーテ』のなかに、羊飼いたちの夕食に招かれて団栗を齧りながら、ワインを飲んだ主人公が、いい調子になって黄金時代について語る個所があるが、セルバンテスはダンテを読んでいたのかもしれない。) さらに砂漠の中で蜂蜜とイナゴを糧に暮らしていた洗礼者ヨハネの偉大な徳をたたえて第22歌は終わっている。

 これで『煉獄篇』前33歌の3分の2を読み終えたことになる。ダンテはいよいよ天国に近づくが、天国に向かうことはウェルギリウスと別れることを意味する。ウェルギリウスとスタティウスの会話を聞きながら、彼は何を考えていたのであろうか。

夢の中の図書館

2月1日(月)曇り、一時小雨

夢の中の図書館

今夜のうちに
読んでしまおうと
ベッドの中で読んでいたはずの本を
いつの間にか取り落として
眠った

夢の中で
学生時代に戻って
大学の図書館の書庫に入り込み
書物の背文字を追いかけていた

どんな本でも読めるような
気持ちがしていた
あのころに戻っていたが
読める本は限られていることを
知っている老人のぼくが
むかしのぼくに忠告しようとした
すると
賢くなったかもしれないが
野心も感性もなくしてしまったじゃないかと
むかしのぼくが言い返した

目が覚めて
ベッドから落ちていた
本を拾い上げる
昨夜のうちに読み終えるつもりだった
本を読み終えるのが
また一晩遅くなった
プロフィール

tangmianlaoren

Author:tangmianlaoren
FC2ブログへようこそ!

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR