2016年の2016を目指して(1)

1月31日(日)曇り

 昨年に引き続き、今年も西暦の数だけ、いろいろと積み重ねて1年を記念したいものである。2016というのは12の倍数で、単純に計算すれば、1か月に何でもいいから168のことを積み重ねれば、この目標は達成できるという計算である。

 1月は、とうとう多摩川を渡らず、それどころか鶴見川も渡らずで、ずっと神奈川県で過ごし(1)、横浜市を出ることなく(1)、利用した鉄道は東急と横浜市営地下鉄の2社のみで、利用した駅も3駅にとどまっている。バスは横浜市営バスと、神奈川中央交通の2社で、利用した路線は横浜市営の34,68,87,102,202、それに神奈川中央交通の01の6路線、乗り降りした停留所は5カ所である。{22}

 1月に寄港したブログは、今書いているこのブログを含めて31件、内訳は読書が14件(そのうち『太平記』が5件、ダンテ『神曲』が4件、五味文彦『中世のはじまり』が3件、その他が2件である)、日記が6件(このブログを含む)、詩が5編、映画が3件、未分類が2件、歴史・地理が1件ということである。5件のコメント、4件の拍手コメントを頂いた。トラックバックはない。さらに726件の拍手を頂いている。{40}

 買った本は14冊で、すべて紀伊国屋横浜店で購入、読んだ本は10冊で、それぞれの著者名・題名を挙げると:
東海林さだお『さらば東京タワー』、後藤健『メソポタミアとインダスのあいだ 知られざる海洋の古代文明』、竹内真『ディスレスペクトの迎撃』、五味文彦『中世社会のはじまり シリーズ日本中世史①』、西来路文朗・清水健一『素数が奏でる物語 2つの等差数列で語る数論の世界』、諏訪哲二『尊敬されない教師』、乃至政彦『戦国の陣形』、田中啓文『鍋奉行犯科帳 お奉行様の土俵入り』、飯島周『カレル・チャペック 小さな国の大きな作家』、金子勝・児玉龍彦『日本病 長期衰退のダイナミクス』である。歴史関係が2冊、社会科学が3冊、数学が1冊、作家研究が1冊、エッセーが1冊、推理小説が2冊ということになる。まずまずの成果であるが、哲学・思想関係の書物がないのが問題かもしれない。(『戦国の陣形』は軍事史と考えて、社会科学に入れたが、歴史に分類することも可能である。){11}

 NHKラジオ英会話を20回、入門ビジネス英語を8回、実践ビジネス英語を12回、攻略!英語リスニングを8回、「ワンポイント・ニュースで英会話」を20回聴いている。(「入門ビジネス英語」は再放送であるが、年度が変わったので、数の中に加えている。) NHKラジ「まいにちフランス語」を20回、「まいにちイタリア語」も20回聴いている。「まいにちフランス語」の応用編は以前放送されたものの再放送だが、同じ年の内の放送ではないので、これも数に入れている。{108}

 横浜シネマジャックで『マイ・ファニー・レディー』、『ローマに消えた男』、シネマ・ノヴェチェントで『百合子、ダスヴィダーニヤ』を見る。シネマ・ノヴェチェントには初めて出かけた。これまでのところ、映画館は2館、見た映画は3本である。{5}

 ニッパツ三ツ沢球技場で全国高校サッカー選手権の2回戦、3回戦、準々決勝のそれぞれ2試合を観戦した。神奈川県代表の桐光学園高校が3回戦で敗退したのは残念であったが、各都道府県の代表同士の見ごたえのある試合が多く、選手たちの健闘をたたえたい気持ちでいっぱいである。{7}

 A4のノートを3冊、A5のノートを1冊、ボールペンの替え芯を3本(0.5ミリ2本、0.7ミリ1本)、テキストサーファー(黄)1本を使い切った。{8}

 アルコール類を口にしなかったのが7日あった。{7}

 1月のものとして列挙した数字を合計すると170を越えるはずである。これを12倍すれば2016を越える―のでまず滑り出し順調である。2月以降もこの調子が続いていけばいいのだが、さて、どうなるか。 
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『太平記』(88)

1月30日(土)雨後、曇り

 元弘3年(1333年)5月21日早朝、鎌倉を攻囲していた新田義貞の軍は稲村ケ崎を渡渉して鎌倉市中に攻め入った。市中に火が放たれ、幕府方から寝返るものが続出する中で、北条一門や得宗の被官の武士たちの中には飽くまで奮戦するものや、自害するものがみられた。

 北条得宗家の被官である塩飽新左衛門入道聖円(しょうえん)は養子である三郎忠頼を呼び寄せて、次のように述べた。鎌倉の防御線はことごとく破られて北条家一門の方々はほとんど切腹されたということなので、自分も北条高時に殉じて忠義を示そうと思う。おまえはまだ北条家に公式に仕えているわけではないので、ここで死ななくても、義を知らないと非難されることはないだろう。どういう形でもいいから脱出して、出家して養父の後生を弔い、またおまえ自身の罪障を償うのがよいだろう。これに対して、三郎は涙ながらに、私自身がご恩を蒙ることはなかったにせよ、わが家がこれまで存続してきたのは幕府(北条家)のおかげです。又私がはじめから僧侶であったのならば、ここで生き延びて仏道に専念するのもよいでしょうが、命を棄てるのが惜しさに出家したというのでは面目がたちません。と言ったかと思うと、袖の下から刀を抜いて、居ずまいを正して切腹して果てた。

 その弟である塩飽四郎も続いて腹を切ろうとしたのを聖円は押しとどめ、私の最期を見てから、静に腹を切れといったので、四郎は刀を納めて、父親の前にうずくまった。入道は曲彔(きょくろく)という僧侶の使う椅子をもってこさせて、その上に結跏趺坐して自分が着ている大口袴(裾口が広い袴)に辞世の頌(じゅ)を書きつけた:
  五蘊有に非ず
  四大本より空なり
  大火聚裏(じゅり)
  一道の清風
(第2分冊、142ページ、五蘊=心身を形成する色・受・想・行・識は実体ではなく、四大=万物を形成する地・水・火・風は本来空である。大火が燃えさかる中にも、一筋の清風が吹いている。この頌の第一・第二句については異同があるようである。)
 そして禅宗の礼法に従って左手を胸に当て、それを右手で覆って、四郎に首を討てというと、四郎は臆することなく、父の首をすっぱりと切り落とす。そしてその刀を取り直して、自分も腹を切る。こうして親子3人が最期を遂げた。

 安東左衛門入道聖秀(しょうしゅう)は上野国甘楽郡(群馬県西南部)の地頭で、北条得宗家の有力な被官の1人であったが、その姪が新田義貞の夫人であった。そこで義貞の夫人は、義貞の書状とともに、自分の手紙を添えて、ひそかに聖秀のところに使いを送った。

 聖秀ははじめ、3,000余騎を率いて極楽寺に近い稲瀬川に向かったのであるが、新田一族の世良田太郎が稲村ケ崎から自分の軍の後方に回って攻め立ててきたために多くの兵を失い、わずか100余騎になって自分も数々の負傷をしながら、屋敷に帰りついてみるとすでに館は焼き払われ、妻子はどこに逃げていったのか見当もつかない。北条高時の邸も焼けて、高時は東勝寺に落ち延びたと聞いて、高時の邸が無抵抗のまま敵軍に焼き払われたのは悔しいことである。この上は、高時の屋敷跡で自害して、自分たちの忠義を示し、高時の恥を雪(すす)ごうと邸のあったところまでやってくる。今朝までは壮麗な建物が立っていたところが、焼け跡になっているのを見て、また自分の友人知己が戦死したことを思って、涙にくれる。

 と、そこに義貞の北の方からの使いの者がやってくる。使いの者がたずさえた北の方の手紙には、鎌倉の様子を伝聞すると、もはやこれまでと思われる。私のほうから叔父上のことは何とかとりなしましょうと書かれている。
 これを読んで聖秀は大いに怒る。武士の妻たるものはその心構えをしっかりと持たなければならない。鎌倉が陥落するような事態になり、北の方が聖秀の命を案じるのは仕方がないにしても、手紙を言づけようとするのを夫の義貞が止めなければならない。義貞は自分が幕府を裏切って、生き延びようとするような武士だと思ったのであろうか。あるいは新田殿は敵の力を分断しようとこのような手紙をよこしたのかもしれないが、だとすれば北の方の方で私の伯父はそのような武士ではありませんと止めるべきであった。このように恨み言をいったり、涙を流したりしていたが、手紙を刀に取り替えて、死者の見ている前で腹を切って果てたのであった。

 『太平記』の作者は第10巻では、このようにかなりの紙面を割いて、鎌倉方の武士たちの最期の様子を語っている。実際には、すでに登場した島津四郎のようにあっさり裏切るものが少なくなかったのであろうが、幕府に忠義を尽くして死んでゆく武士たちの姿を書き留めることによって、作者自身の掲げる大義名分の一端を示そうとしたようにも思われる。安東聖秀が鎌倉にいる縁者を助けようとする義貞夫妻の態度を批判するのは、その後の物語の展開の伏線の1つとも受け取ることができる。この後、作者は、奮戦したり、幕府への忠誠心から自害したりした武士たちとは違った、生き方をする武士たちを描き、さらに高時たちの最期を描きだすのだが、それはまた次回以降。

話したくない

1月29日(金)雨が降ったりやんだり

話したくない

初恋は
いつのことでしたか?と
質問されたことがある

話したくない

話せば その分
思い出が
遠ざかっていくような気がする

それが
初恋

想い出がだんだん
薄くなって
消えてゆく

そういうことにならないよう
少しでも思い出の切れ端を
探し当てて
心の中に
しまっておきたいと思う

それが
初恋

日記抄(1月22日~28日)

1月28日(木)晴れ、温暖

 前回の「日記抄」で書き洩らしたことをいくつか:
 映画『百合子 ダスヴィダーニヤ』を見に出かける前提として、日本では教養小説と呼べるような小説がほとんどない(中野重治の「歌のわかれ」や『むらぎも』はその中での例外と言える)中で、野上弥生子や宮本百合子のような女性の作家の作品の中には教養小説と言えるものがあるのではないかという興味があった。これは日本の教育制度が、男性の教育は上(公権力の側)から、女性の教育については下から(民間の篤志によって)発展してきたことと関連するのではないか…などと考えている。それよりも、何よりも、野上や宮本の作品を読まなければならない(どちらかというと、わたしは林芙美子のほうが好きである)。

 NHKラジオ1月21日放送の「まいにちフランス語」応用編で、映画『ポリー・マグ―おまえは誰だ』に関連して、シンデレラ(フランス語ではサンドリヨン)の物語には、シャルル・ペローが書き記した物語のほかにも様々な異伝があるという話が出てきた。その中には、王子がサンドリヨンの家に出かけると、姉娘が出てきて、王子が持ってきた靴を履くが、足が大きくて靴が入らない。母親が、王妃になれば歩く必要がなくなるといって、姉娘の足の指を切り落とさせる(講師の芳野さんが怖いですねぇといっていた)という異伝が紹介されたが、グリム童話の話の運びはこちらの方になっていると記憶する。山室静『世界のシンデレラ物語』(新潮選書)は持っているだけで、目を通したことはないのだが、読んでみたら、さらにさまざまな展開があるのかもしれない。

 1月22日から本日までの間に経験したこと、考えたことなど:
1月22日
 NHKラジオ「実践ビジネス英語」の”Quote ...Unquote"のコーナーで紹介された言葉:
Do not talk a little on many subjects, but much on a few.
  ――Pythagoras (greek philosopher and mathematician, c.570- c.495.BC)
(たくさんの事柄について少し話すのではなく、少しの事柄についてたくさん話しなさい。)
 漱石の『猫』の11《最終話》に、「ピサゴラス曰く天下に三の恐るべきものあり曰く火、曰く水、曰く女」という個所があり、ここではピタゴラスではなく、ピサゴラスと発音されているが、現代の英語ではパイサゴラスというような発音になっているようである。

 竹内真『ディスレスペクトの迎撃』(創元推理文庫)を読み終える。銀座の文壇バーという華やかな舞台で、大御所ミステリー作家である辻堂珊瑚朗が、その周辺で起きる様々な怪事件の解決に挑む。登場人物の個性が楽しく入り組み、その点で読みでのある短編集である。

1月23日
 NHKラジオ「攻略!英語リスニング」では”Elizabeth Taylor"をトピックとして取り上げた。英国のパブでちょっとしたクイズ大会が開かれ、リズ・テイラーについての問題が出題されるという設定で、
(1) In what city was Elizabeth Taylor born? ---- in London.
(2) What was the name of the 1944 movie that made her a star? ----National Velvet
(3) For which movies did Elizabeth Taylor win an Academy Award? ----Butterfield 8 and Who's afraid of Virginia Woolf?

(4)and(5) Of the seven people Elizabeth Taylor married during her life, who did she marry twice and on which movie did she meet him? ---- Richard Burton and Cleopatra
(6) Elizabeth Taylor is famous for saying, "Big girls need big ..." what? ----diamonds.
(7) What color was Elizabeth Taylor's eyes said to be? ---- Violet.
(8) Elizabeth Taylor was passionate about raising money to combat what illness? ---- AIDS.
という問題が出題されたのだが、こういう質問にはほとんどこたえられる。私はリズよりもオードリーのほうが好き(という点ではごく一般的な映画ファン)であったのだが、それでもリズについてはかなりのことを知っていて、あらためて自分の英語力の偏りについて考えさせられた。むかし、京都に祇園会館という映画館があって、そこでエリザベス・テイラーの出演映画2本(『花嫁の父』と『危険な旅路』と記憶する)と『三人の女性への招待状』の3本立てを上映していたので、『三人の女性…』を見に出かけたのだが、その後で、級友から映画館でおまえの姿を見かけたが、リズが好きなのか? おれも好きなのだと話しかけられた記憶がある。私達の年代というのが、日本ではリズ・テイラーが好きだという連中がいた最後の世代ではないかと思う。
 『三人の女性への招待状』はスーザン・ヘイワード、レックス・ハリソンという2人のアカデミー主演賞受賞者をはじめ、その直後にアカデミー主演賞を取ったクリフ・ロバートソンとマギー・スミスが出演しているという豪華キャストで、エリザベス時代の劇作家ベン・ジョンソンの『ヴォルポーネ』が下敷きになっているという凝りに凝った作品である。招待される3人の女性の1人をオードリー・ヘップバーンの親友であったキャプシーヌが演じているというのも見どころであろう。『まごころを君に』(『アルジャーノンに花束を』)でクリフ・ロバートソンがアカデミー主演男優賞を取った時に、淀川長治さんがこの映画におけるロバートソンの演技をほめちぎっていたことを思い出す。(どっちかというと、スーザン・ヘイワードの秘書でオールド・ミスになりかかっている女性を演じていたマギー・スミスの演技のほうが強い印象を残したという記憶がある。)

1月24日
 NHKEテレ「日本の話芸」では笑福亭三喬師匠の「初天神」を聞いた。東京では昨年亡くなった橘家円蔵師匠が得意にされていた噺であるが、上方での演じ方は子どもが親たちの余計な話をばらすので、親が慌てるという東京にはない展開を含んでいる。まあまあの出来ではなかったかと思う。

1月25日
 NHKラジオ英会話ではアラスカにある北米大陸最高峰Mount McKinleyがDenaliと呼び方を改められることになったというニュースを取り上げた(昨年8月31日のニュースである)。番組の終わりに講師の遠山顕さんが言及していたが、McKinleyは1984年に植村直己さんが冬季における単独初登頂をなしとげ、その下山中に行方不明になったことで、日本人の記憶に残る山である。

 西来路文朗 清水健一『素数が奏でる物語 2つの等差数列で語る数論の世界』(講談社ブルーバックス)を読み終える。分からない部分が多々あったが、分かった部分についていえば面白かった。2以外の素数は4n+1と4n+3の2つに整理できるということから議論が展開される。つまり素数にはその2種類があるという話になるのだが、それぞれの特徴が興味深い。

1月26日
 NHKラジオ「まいにちフランス語」の舞台はマルセイユの観光名所であるイフ城(Le château d'If)である。
C'est dans cette prison qu'Edmond Dantès était enfermé! (エドモン・ダンテスが閉じ込められていたのは、この牢屋の中です!)というのは小説の中の話であるが、多くの観光客が訪ねているらしい。

1月27日
 NHKラジオ英会話では”A Song 4 U"(A Song for you")として、ハリウッド映画の全盛時代を代表する名画Casablancaの中でサム役のドゥーリー・ウィルソンによって歌われた”As Time Goes By" (時の過ぎゆくままに)を聞き、その一部を歌った。『カサブランカ』というのは、わたしの好きなアメリカ映画で、『アラスカ珍道中』とともに、よくレンタルビデオ店から借り出したという記憶がある(あと、『バルカン超特急』もよく借り出したのだが、これは英国映画であった)。

1月28日
 NHKラジオ英会話では”First Laughs of the Year" (新春初笑い)と題して、申年にちなんだriddle(なぞなぞ)7題を出題、その後大人向けのジョークを取り上げた。最初のなぞなぞは:
Why did the monkey take his bananas to the doctor? (どうしておさるさんはバナナをお医者さんのところにもっていったのか?)
Because they were not peeling very well. (うまくむけなかったから)
not peeling well (うまくむけていない)と、not feeling well (気分が悪い)をかけたジョークである。
 この種の問題が7題あって、そのうち2題を解いた。満更でもない。

 諏訪哲二『尊敬されない教師』(ベスト新書)を読み終える。示唆に富む書物であるが、著者の個人的な体験に頼っている部分がかなりあって、その点で説得力が限定されてしまっているのではないかと思う。

五味文彦『中世社会のはじまり シリーズ日本中世史①』(3)

1月27日(水)晴れ

 第2回で、この本の前半部分について取り上げたのに続き、今回は後半部分である第4章~第6章を読んで、印象に残ったところ、気になったところを列挙していく。

 第4章「武者の世と後白河院政」では保元・平治の乱とそれに続く平氏の隆盛について論じていることは、既に述べたとおりであるが、その一方で、
「院政時代になって氏から家が形成されてきたが、このことを歴史物語として語っているのが『今鏡』である。これに先立つ『大鏡』の記事が終わる万寿2年(1025)から嘉応2年(1170)にかけての歴史を描き、『大鏡』が藤原道長個人を扱うのとは違って、150年に及ぶ歴史の流れを、「すべらぎ」「藤波」「村上の源氏」「御子たち(源氏)」の4つの氏の流れに沿って語り、それらから漏れた話を「昔語り」「打聞」として載せている。
  「すべらぎ」では国王の氏の流れ、「藤波」では御堂流の藤原氏の流れ、「むらかみの源氏」では村上天皇の皇子具平(ともひら)親王の子師房に始まる源氏の流れ、「御子たち」では村上源氏以外の源氏の流れについて描いており、その関心事は氏の流れから生まれた家の展開にあった。」(136ページ)
 <四鏡>というと、『大鏡』、『今鏡』、『水鏡』、『増鏡』であり、『大鏡』は文徳天皇の嘉祥3年(850年)から、後一条天皇の万寿2年(1025年)までの、『今鏡』は後一条天皇の万寿2年(1025年)から高倉天皇の嘉応2年(1170年)までの、『増鏡』は治承4年(1180年)の後鳥羽院の御誕生から、元弘3年(1333年)に後醍醐天皇が京都に還幸されるまでの、そして『水鏡』は神武天皇から仁明天皇の嘉祥3年までの歴史を記している。(『水鏡』→『大鏡』→『今鏡』→『増鏡』の順で、日本の歴史を語っているのだが、ところどころで空白の期間ができているのはどういうことであろうか。)
 著者はさらに、「実は『今鏡』の作者はその為忠の子の為経であって、為忠は『大鏡』の作者と考えられる。為経は美福門院に仕え、その女房加賀との間に隆信を儲けたが、隆信は散逸した歴史書の『弥世継』の著者とされている。ならば『今鏡』は、歴史物語を表す家の継承を考えて書かれたともみられる。この家には多くの情報が集まり、蓄積されてきていた」(138ページ)とも書いている。藤原為忠の「家」が世継の物語を書くことをその職としていたというのである。ではなぜ、「鏡物」なのか(軍記物語や説話集とどこがどう違うために、ある「家」の独占物とされようとしたのか)、「鏡物」の成立と展開を考える際に、これは見逃せない見解なので、機会を見て五味さんなり、その他の著者がこれらの問題についてまとまった著書を刊行されることを期待する。

 第5章「身体の文化」では、「中世」を代表する仏師である運慶の畿内にとどまらず関東にも及んだ創作活動について触れた後に、「運慶の造った仏像は生身(しょうじん)の仏と見られて崇められた」(176ページ)と書き、さらに「この時期の仏像には、生身仏として崇められた傾向がある」(同上)と指摘する。「同じく「生身の如来」の信仰が広まったのが、永観元年(983)に宋に渡った奝念がもたらした嵯峨の清凉寺の釈迦如来像である。この生身の如来の霊験に与ろうとする多くの参詣・参籠者で賑わうようになったのは、治承元年(1177)の頃からで、『清凉寺縁起』によれば、多くの人の夢に清凉寺の釈迦が西に帰るという告げがあって、上下万民が雲霞のごとく群集し名残を惜しんだので、日本にとどまるという告げが再びあったという。」(177ページ) 著者は触れていないが、この話は同じ時代に成立したと考えられる仏教説話集『宝物集』の発端ともなっている。鹿ケ谷の陰謀に加わったために鬼界が島に流されたが、神仏のご加護に依って都に帰ることのできた男(平康頼)が、東山にこもって信心を深めていると、清凉寺の釈迦が西に帰るという噂を聞いて、その前に一度お参りしなくてはと清凉寺に出かけ、そのまま寺に籠もるというところから話が始まる。生身の如来の信仰が広範なものであったことをここからも確認できる。

 第6章「職能の文化」では『徒然草』をめぐる著書がある五味さんらしく、兼好が職人たちの生活や考え方をよく理解していたことを述べているのが興味深い。その一方で、兼好が自分の有職故実についての知識を披露して、売り込みのための材料として活用していたことも指摘されている。
 また、世阿弥の『花伝書』が、年齢の階梯に沿って、各段階の芸のあり方を記していく中で、「型」の重要性を強調しており、これが日本の芸能における伝統となったと述べているのも興味深い。7歳くらいから芸を始めるのがよいが、あまりおしえこまない方がよいというので、思い出したのは、落語家が噺を覚える際に、前座の段階では大づかみに覚えて、詳しい稽古をつけてもらうのは二つ目になってからだという話である。そういう意味で、中世の文化的な伝統の影響は今日にも及んでいるのだなぁと思ったりした。

 この本を読み終えた後で、吉川幸次郎『元明詩概説』(岩波文庫)の中の、第1章「13世紀前半 金の亡国による抵抗の詩」を読み返していて、金が蒙古の攻勢を受けて都を中都=北京から新都「汴京」=開封に移したが、開封の繁栄は南宋の都杭州ほどではなかったにせよ、贅沢な消費生活が展開されていたとする。「若いころの元好問が、蒙古の脅威をよそに繁栄する新都開封の町の、「元夕」すなわち正月十五日のにぎわいを詠じた七言絶句にいう、
 袨服華粧著處逢   袨(きらびや)かなる服と華やぐ粧(よそお)いに著(いた)る処にて逢う
 六街燈火鬧児童   六つの街の灯火に児童鬧(さわ)ぐ
 長衫我亦何為者   長衫の我れは亦(また)何為(す)る者ぞ
 也在遊人笑語中   也(ま)た遊人の笑語の中(うち)に在り
 詩人自身は、「長衫」マントを羽織る書生であった。しかし月明のもと、六つの大通りは灯籠のイルミネーションにかがやき、「袨服華粧」の女性に充満するのであった。日本ではちょうど『新古今集』の時代であり、源実朝が殺されたころであるが、京都や鎌倉にくらべて、はるかに繁華な都市であった」(吉川、同上、32-33ページ)。
 金について、中国の北方で中国の文化を学びながらも、独自の文化を作り出そうとした国というように、五味さんのこの書物の最初の方で述べられているが、その実態はもっと複雑であり、一方で、国風文化を作り出そうという動きがあり、他方で、中国の言語や文化を学んで、それよりももっとすぐれた文化を生み出そうとする動きもあった。そして金の文化的な堆積の中から、大詩人元好問が生まれたのであるが、金国は滅びる運命にあった。

 西欧の中世は何よりも<都市>の時代であったが、日本の「中世」における<都市>は規模の点でも、その勢力の点でも、及ばないような気がする。周囲を城壁で囲んでいるという点では、中国の<都市>のほうが、西欧の<都市>に近いのではないかと思う。そういう点も含めて、五味さんのこの書物は結論の書というよりも、問題提起の書として読まれるべきであると思う。

ダンテ・アリギエリ『神曲 煉獄篇』(22-1)

1月26日(火)晴れたり曇ったり

すでに天使は私達の後ろにいらした。
天使は私の顔から一振りで印を消し、
第六の環道に私たちを差し向けられ、

それからその方は、己の願望を正義に置く人々は
幸いなるかな、と私たちにおっしゃったが、その声は
「渇く」だけを唱えて、それ以外はおっしゃらずにその一節を示された。
(320ページ) 第20歌の終わりで、煉獄の第5環道を歩んでいたダンテとウェルギリウスは「地震」と歓声を聞く。第21歌で2人に追いついてきた魂が、これらは煉獄の魂が償いを終えて天国へと歩み始めるときに起きる現象であると説明し、自分はローマの詩人スタティウス(45頃‐96)であったと名乗る。ダンテを案内しているのが、自分の尊敬する先達のウェルギリウスであることを知って、スタティウスはウェルギリウスを抱きしめようとした。彼らの後ろにすでに、天使がいて、ダンテの顔から、煉獄の門で額に刻み付けられた7つのPの文字(第9歌)のうちの1つを消し、第6環道への道を指示した。天使は「義に飢え渇く人々は、幸いである、その人たちは満たされる。」(マタイによる福音書5.6、新共同訳による)という聖書の言葉の、「渇く」だけを唱えて、「飢え」は口にしなかった。これから彼らが辿ることになる第6環道で償われる罪が「飽食」であり、その罰が「飢え」であるからである。

 こうして彼らは第6環道に続く道を登りはじめた。また1つ罪のしるしを消すことができたダンテの足取りはますます軽く、確かなものになり、何の苦労もなく健脚の霊たちについていった。
その時ウェルギリウスは話しはじめた。「愛は、
徳によって燃え上がると必ず他の愛を燃え上がらせる。
その炎が外に姿を現しさえすれば。

それゆえ地獄のリンボにいた我らの間に
ユウェナリスが降りてきて、
君の愛情を私に明らかにしたその時以来、

君に対する我が好感は、
まだ見ぬ人物に対して人が持った例(ためし)がないほどだった。
そのため今の私にはこの階梯が短すぎるように思われることだろう。
(320-321ページ) 第21歌ではスタティウスのウェルギリウスへの傾倒が彼の口から語られたが、ウェルギリウスのほうでもユウェナリス(デチムス・ユニウス・ユウェナリス(47-130、松下仁助・岡道男・中務哲郎編『ラテン文学を学ぶ』のユウェナーリスの項によると、67?‐127以降と推定されている。彼は同時代においてそれほど高く評価されず、作品の中で自らについて語ることも少ないため、その伝記については不明な点が多いという)というスタティウスと同時代の詩人の魂が死後、リンボにやってきたときにスタティウスのウェルギリウスへの愛情を伝えたので、スタティウスには関心をもっていたと語る。

 そして友人として質問したいと前置きをして、「・・・
一体どうやって貪欲が
君の心に居場所を見つけられたのか、研鑽ゆえに
あふれるほどに豊かな君の知の中に」
(322ページ)と、彼が煉獄でその罪を贖っていた理由を尋ねる。歓呼に送られて天国に向かう魂というのはスタティウスの魂なのであるが、煉獄にいた期間は1000年を超す長さであり、彼が貪欲の罪を償っていたというのもウェルギリウスには理解できなかったのである。
 この問いに示されたウェルギリウスの自分に対する友情にスタティウスは感動しながら、自分は貪欲ではなくその正反対の性向浪費のために煉獄で長い時間を過ごしたのだという。吝嗇も浪費も貪欲と共に罰せられるのである。スタティウスは言う:
『黄金への聖なる渇望よ、おまえはなぜ
必滅の者達の欲求を抑えられぬ』というくだりのことですが、
往復を繰り返しつつ、惨めな馬上槍試合の激突を味わっていたことでしょう。

あの時に、わたしは金遣いの荒い両腕が
浪費の翼を開きすぎることがあると気づき、
浪費についても他の悪徳と同様に悔悛しました。
(324ページ)と、ウェルギリウスの『アエネーイス』の中の詩句が彼の浪費癖を改めさせることになったことを告げる。スタティウスが口にしたのは『アエネーイス』の第3巻56行~57行で、『神曲』の翻訳者である原さんは、傍注で「この箇所には商行為に寛容さを示す訳文のほか、『黄金への忌むべき渇望よ』とする解釈もある。ただし両解釈とも、黄金に対する過剰な執着(吝嗇)、あるいは軽視(浪費)諌めている」(325ページ)としているが、岩波文庫の泉井久之助訳では
ああ黄金のいまわしい、欲が駆るとき人間は
あえて何でもなすものか。
(『アエネーイス(上)』147ページ)
 また京都大学学術出版会の西洋古典叢書の岡道男、高橋宏幸訳では
おまえが人の心に無理強いできぬものなどあろうか、
黄金への呪われた渇望よ。
(岡、高橋訳、103ページ)となっている。Penguin ClassicsのDavid Westによる英語・散文への翻訳では
Greed for gold is a curse. There is nothing to which it does not drive the minds of men. (p.58)
(黄金への欲は災いのもとだ。それが人間の心を動かさないというのは嘘だ。)
と、今、私の手元にある本を探してみた結果は上記の通りで『アエネーイス』の本文の文脈に照らしてみても、黄金への欲望は呪われたものと理解するほうがいいように思われる。

 さらにウェルギリウスはスタティウスがなぜキリスト教に帰依したのかを尋ねる。これに対して、スタティウスは自分が詩を書くようになったのも、キリスト教に帰依するようになったのも、ウェルギリウスの詩に触れたおかげであると答える。
・・・「あなたこそが、最初に私を
パルナッソス山に送り、その洞穴の泉水を飲ませ、
そして最初に神の御許につくよう私の蒙を啓いてくださったのです。

あなたは夜に歩く人、
光を後ろにたずさえ、己のためにはならずとも、
後に続く人々に道を知らせる人と同じことをなさった。

あなたがこうおっしゃったその時に、『世界は新たになる。
正義と原初の人類が帰り、
新たな子孫が空から降臨する』。
・・・」(326ページ) スタティウスがウェルギリウスの影響のもとに詩を書いたことは文学史的に確認できる。最後でスタティウスが引用するのはウェルギリウスの『牧歌』の中の詩で、ある神秘の男児の誕生とともに世界に正義の女神が帰り、原初の黄金時代が戻るということを意味しているが、中世にはこれがキリストの誕生を予言するものと理解されていた。ウェルギリウスの詩の中の黄金時代への回帰の願望と、初期キリスト教の終末論的な考え方、あるいは中世のキリスト教の終末論的な考え方の間にはもちろん共通性はあるだろうが、それでもエピクロス的な「隠れて生きよ」という考え方の中で『牧歌』を書いたウェルギリウスとキリスト教の間にはかなりの距離があると考えるべきではないかと思う。

 さて、すでに援用した松本・岡・中務編『ラテン文学を学ぶ』でスターティウスについて調べてみたが、その評価は芳しいものではない。「スターティウスは良くも悪くも職人的詩人であって、詩作の要諦は心得ているものの、しばしば情感の深さを欠いており、彼の崇めた「神々しき『アエネーイス』には及びえなかったのである」(209ページ)と片付けられている。
 リンボに入るウェルギリウスにそのスタティウスのことを伝えたことになっているユウェナーリス(原さんはデチムス・ユーニウスと教会ラテン語・イタリア語風に発音しているが、『ラテン文学を学ぶ』では古典ラテン語風にデキムス・ユーニウスとしている)は、ローマの風刺詩の伝統の最後を飾る詩人として、今日もなお多くの読者を得ている。彼の名を知らなくても、「パンと戦車競走を(⇒パンとサーカスを)」とか、「健全な身体に健全な心」とかいう彼の詩の中の句を聞いたことのない人は少ないはずである。
 ダンテはスタティウスをユウェナーリスよりも高く評価しているように思えるが、それは叙事詩人スタティウスは風刺詩人ユウェナーリスに勝る、叙事詩は文学の他の形態よりも優れた形態であるという考えのためではないだろうか。歴史の転換期には優れた叙事詩が出現するのだと論じた歴史哲学者がいたが、さまざまな民族の歴史に照らして、さらに詳しく検証されるべきではないかと思う。

五味文彦『中世社会のはじまり シリーズ日本中世史①』(2)

1月25日(月)晴れ

 昨日は、この書物の内容を概観したので、今日はこの書物の中で注目すべき個所、また気になった個所について抜き出して取り上げてみたい。全体について触れていくつもりだったのだが、時間の関係で前半の第1章から第3章までを対象とした。

 この書物の特徴の1つは東アジアという国際的な枠組みの中で、日本の歴史変動を理解していこうとしていることである。第1章「中世社会が開かれる」にはこんな指摘がある。
「…960年に宋王朝が建てられると、これと前後してその周縁で新たな国家や王朝が建設されていった。
 朝鮮半島では高麗が、中国の北辺では西夏・遼・金などの諸国が、中国の南部でもベトナムに大越、雲南に大理が建国された。これらの国々のうち西夏・遼・金の三国では西夏文字・契丹文字・女真文字などの独自の文字を用いるなど、国のあり方に応じて中国文化の影響を受けつつも「国風文化」への取り組みがあった。
 日本の文化が「国風化」の傾向を示したのはそれと同じ動きであった。」(14ページ)
 「中世」になっても、例えば中国の貨幣が流通していたように、外国との交流は途絶えたわけではなかったし、「唐物」は珍重されていたが、その一方で「国風化」の動きも止まらなかったという。ここで、先日取り上げた西田龍雄『アジア古代文字の解読』の中で考察された文字が「国風化」を目指す動きの一例として登場しているのも興味深い。

 もう1つの特徴は、昨日も述べたが、中央だけでなく地方の動き、中央と地方の関係に焦点を当てようとしていることである。第2章「地域権力と家の形成」では、受領による地方支配のあり方が、代理人である目代の派遣等によって変化し、「受領が任国に下る必要はなくなり、任初に国内の神社への参拝(神拝)を行って国内支配の遂行を祈ったり、任の終わりに感謝したりするためだけに下ることになった。国内の有力な神社を一宮・二宮以下の格式を与えて組織し、国内諸社の神を国府近くの神社に勧請して惣社として祀り、これらを参拝して京に帰っていった。それとともに律令国家によって保護されてきた式内社や国分寺・国分尼寺は衰退してゆく。
 受領が下らなくなったことから、在庁官人は国衙の機構を利用して郡や郷・保・名などに所領をもち、勢力を国府近傍に広げた。国司の二等官である介を名乗りとした三浦介や北条介など地名に「介」をつけた苗字…を名乗る武士たちが国衙に権益を有し勢力を広げていった。」(48ページ) これらの見地から興味深いのは上野の国で、一宮から十宮まであって、これはほかの国には見られないことである。上野は常陸、下総とともに親王任国なので、そのこととどう関係するのかというのが気になっている。三浦介は歴史的に見れば、三浦義明がそのように名乗り、伝説のなかでは千葉介とともに玉藻前を退治することになる。北条介というのは実は初めて見かけた。武蔵国分寺が新田義貞の鎌倉攻めの際に(なぜか『太平記』には出てこないが)焼失したというように、国分寺は規模が大きかったために戦乱の被害を受けやすかったということも衰退の理由ではないかという気がしている。

 第3章「地域社会の成長」では平泉の毛越寺をめぐる考察が注目される。「この時期に奥州藤原氏の勢力が陸奥・出羽から出て、関東から北陸に及んでいたことを考えるならば、「毛」とは毛の国こと上野・下野国を、「越」とは越の国こと越後・越中・越前国などの国々を意味していたと考えられる。下野に広がる藤原氏は秀郷流の同族、越後から北陸道にかけては奥州藤原氏と京を結ぶルートであった。
 毛越寺の鎮守が「惣社・金峰山、東西に崇め奉る也」とあるのも注目される。惣社は各地の有力な神を勧請した神社のことで、諸国の惣社の場合は国の鎮守としてその国内の神を勧請していた。京にある仁和寺や法成寺の鎮守も惣社であった(『長秋記』、『吉記』)。毛越寺の惣社には、陸奥・出羽国のみならず、毛の国と越の国に所在する有力神社の神も勧請されていたのであろう。もう一つの鎮守の金峰山は、蔵王権現への信仰が修験とともに北陸道から奥州・出羽に広まっており、その弥勒信仰との関わりもあって勧請されたものと見られる。」(101-102ページ) 平泉の奥州藤原氏の勢力がかなり広い地方に浸透していること、そのことが彼らの建立した寺社の性格に反映されていることが興味深い。神仏が集合した日本独自の宗教の展開の中でも、さらに地方色があったことも見逃すことができないことであろう。

 以上みてきた限りで、一方で国際的に視野を広げ、他方で地方の動きに目を配り、文化・宗教の動きから、時代の人々の心の動きを探ろうとしているなどの点に、著者の意図を見ることができる。 

五味文彦『中世社会のはじまり シリーズ日本中世史①』

1月24日(日)晴れ

 五味文彦『中世社会のはじまり シリーズ日本中世史①』を読み終える。

 著者である五味さんはこの書物を次のように書きはじめている:
「中世社会は古代社会の達成の上に築かれた。これまでとは違う新たな動きがおきて、それへの対応から大きく展開をみることになる。その動きの一つが9世紀に日本列島を襲った自然の大変動であるが、ほかにも大陸では大きな政治的変動がおきており、さらに日本列島内部からの社会変動もあるなど、これらが時に大きく襲いつつも、ゆっくりと影響をあたえたことから、中世社会の枠組みが形成された」(ⅰページ)。

 「自然の大変動」として列挙されているのは貞観11年(869年)に東北地方を襲った大地震と大津波であり、貞観6年(864年)における富士山の大噴火である。さらに飢饉や疫病が律令政治の根幹を揺るがし、摂関政治の誕生を促したと述べられている。もちろん、摂関政治の開始が中世のはじまりであるなどと論じているわけではない。社会と政治の動揺の中から武士が台頭し、それが新しい勢力として次第に力を増していくことになったということである。東北地方で起きた前九年の役の当時者であった安倍氏は従来と違う支配の形態を実現した地方政権を樹立しており、それがのちの鎌倉幕府の原型となったという。このような東北地方における新しい動きに呼応するかのように、中央でも11世紀の後半から後三条天皇によって新しい政治の動きがはじめられた。そしてその後に続く白河・鳥羽・後白河の3人の上皇によって院政という新しい政治の形態が確立されてゆく。

 この『シリーズ日本中世史』は全4巻から構成され、本書『中世社会のはじまり』を第1巻として、
②近藤成一『鎌倉幕府と朝廷』
③榎原雅治『室町幕府と地方の社会』
④村井章介『分裂から天下統一へ』
と続くことが予定されている。「中世」として院政時代から安土桃山時代までのかなり長い期間が想定されているようである。

 しかし、ここで疑問をもつ読者も少なくないはずである。そもそも院政時代から戦国時代までの期間を一つの歴史的な時代として一括できるのか、さらにそれを「中世」と呼んでよいのかということである。それまでの時代と違う新しい時代の初まりを、鎌倉幕府の創立に設定するか、平清盛の政権掌握に求めるか、あるいは院政の開始によると考えるかは、議論の分かれてきたところであり(この書物では院政の開始をはじまりと考えている)、さらに「中世」という呼び方によって、それを西欧中世と基本的に同じ性格をもつ時代と考えるのか、あるいは便宜的にそのように呼ぶだけのことかという問題がある。また日本の「中世」が西欧の中世と同一の性格をもつと考える場合に、さまざまな民族がその歴史の中で同じような段階を経て社会を発展させてゆくのか、それとも社会の発展の形態は多様であるのかという問題があり、多様な中で、日本と西欧は同じような発展を遂げてきたのではないかという考え方もできる。著者は、この書物が日本の「中世」の歴史の特徴を概観するものであるといいながら、これらの問いの多くに応えていない(答えている部分については、これからの論評の中で明らかになるはずである)のは、この書物の価値を大いに減じるものである。中世史研究に大きな功績を残した網野善彦が西洋史学者との対話を怠らなかった誠意を著者は学ぶべきではなかったのかと思う。(フランスの有名な歴史学者であるジャック・ルゴフは「中世」は西欧だけに見られることを強調したし、実際、西暦年代では同じ時代に書かれた『神曲』と『徒然草』を同一次元で対比することは不可能ではないかと思われる。この書物では文化史的な性格が強調されているが、ヨーロッパの中世には「大学」が出現したのに対し、日本の中世における教育の繁栄は「大学」を生み出すことができなかったことを我々は無視すべきではないのである。もっとも1549年に渡来したキリスト教の宣教師ザヴィエルが書いているように日本にも「大学」に似たようなものは存在したわけで、そのあたりをどう評価するかも問題ではある。)

 話が横道にそれ過ぎた。要するに、「中世とは何か」ということをもう少し広い視野で論じてほしい、著者は十分に広い視野で論じたつもりだろうが、それでも不十分だということである。以下、この書物の構成について紹介する。
 第1章「中世社会が開かれる」では中世の前提としての古代、とくに9世紀における日本の社会の変動とそれに対応して中央の政界で起きた変化(律令政治から摂関政治へ)と国風文化の展開、地方における開発と武士の台頭、商人を始めとする民衆の動き、この時代の文学作品に見られる独特の(翻訳ではない)自然観・人間観、神仏習合の宗教思想と浄土教の普及などについて論じている。
 第2章「地域権力と家の形成」では、著者が「中世」のはじまりと考えている院政時代について、院政がどのようにして始まったのか、この時代に自分の子孫にその地位を継承させようとする「家」の形成が皇族・貴族から始まって、寺院や神社、武士たちにも及んだこと、中央・地方の武士たちの「家」が組織されていったことが述べられている。
 第3章「地域社会の成長」では、中央において院政と結びついた形で武士の「家」である平家が台頭したこと、中央でも地方でも「家」の継承をめぐる争いが絶えなかったこと、その一方で「家」を継続させるために職能・文化の継承が重要な課題として認識されるようになっていたこと、さらに東国における動き、平泉の繁栄の様子などが述べられている。
 第4章「武者の世と後白河院政」では保元・平治の乱を通じて、平清盛を中心とする平家の力が強化され、武家権門が成立するが、その一方で、ますます「家」の役割が重要になってきたことが説かれている。
 第5章「身体の文化」では治承・寿永の乱から鎌倉幕府の成立、内乱の時代における仏教の新しい動き、物語世界の広がり(軍記物語や説話集の執筆が盛んになる)、それらの文化的な動きが新体制をもつものであったことなどが述べられている。
 第6章「職能の文化」では、モンゴル襲来から室町時代にかけての政治・文化の動きを職人たちが切り開いた新しい文化と芸能の出現、その中での「型』の重視という考え方について注目しながら概観している。

 だいぶ荒っぽいまとめ方をしたが、中央における政治の動きを追うというだけでなく、地域的にも職能的にも多様化した社会のあり方を、経済や文化における変化も視野に入れながら総合的に見ていこうという試みであることが、以上でわかると思う。そうはいっても、物足りない点があることは否定できない。そのことを含めて、著者が特に力を入れて論じているところや、読んでいて気になったところについて、機会を見てさらに補足を試みるつもりである。

『太平記』(87)

1月23日(土)曇り、寒い

 元弘3年(1333年)5月21日早朝、新田義貞の率いる軍勢は稲村ケ崎を渡渉して鎌倉市中に攻め入った。あちこちで火が放たれ、幕府方から裏切るものが続出する中で、得宗の北条高時は自分の館を出て、父祖以来の墳墓のある寺である東勝寺に退いた。得宗家の執事である長崎円喜の一族である長崎為基は来太郎国行が鍛えた名刀を手に奮戦して、そのまま行方知れずになった。

 昨日まで極楽寺坂の切通しを守っていた北条一門の大仏陸奥守貞直は、新田勢が海岸沿いに攻め込んで、背後から攻撃したためにその軍勢が壊滅し、わずか300余騎となり、前後を敵にふさがれて攻撃も退却もできない状態に陥った。遠くを見ると、高時の邸に火の手が上がっているのが見える。それを見て、もはやこれまでだと思ったのか、主人に自害を勧めるつもりであったのか、貞直の郎等30人余りが海岸に出て切腹した。

 貞直はこれを見て、「日本一の不覚人(ふかくじん)の振る舞ひかな。千騎が一騎になるまでも、敵を亡ぼして名を後代に残すをこそ、勇士の本意(ほい)とする処なれ。いでさらば、最後の軍快くして、後人(こうじん)の義を勧めん」(第2分冊、136ページ、日本一の不心得者の振舞であることよ。千騎が一気になるまでも、敵を亡ぼしてその名を後世に残すことをこそ、勇士の本意とするべきである。さあそれならば、快く最後の一合戦を戦って、後代のものに義(の道)を勧めよう)というと、残った250騎余りの武士たちが一斉に騎馬で敵の軍勢の中に懸け入る。まず、新田一族の山名、里見の兵が3,000余騎で控えているところに「をつと呼(おめ)いて懸け入り、一太刀打ちして懸け出でて見給へば、五十騎ばかり討たれて、二百余騎になりぬ」(同上)。続いて、これも新田一族の額田、桃井の軍勢が2,000余騎で控えているなかに攻め込み、駆け抜けたときは180騎になっていた。さらに大井田、鳥山の1,000余騎の中に攻め込んで、パッと引いてみると、60余騎になっていた。4番目に搦手の大将で、義貞の弟である脇屋義助が6万余騎で控えているなかに懸け入り、全滅したのであった。

 小手指原合戦の大将であった北条一門の金沢武蔵守貞将は、山内の合戦で郎従800余人が戦死を遂げ、自らも7カ所傷を受け、北条高時のいる東勝寺に戻ってきたが、高時はその奮戦ぶりに大いに感じ入って、六波羅の南北両探題職に任じる(貞将は既に六波羅の南探題を経験しているのだが、南北両方というところに意味があるのだろうか)という御教書(みきょうじょ=幕府が発給する公式文書)を作成した。貞将は、北条一門はこの日のうちに滅亡するだろうと思ったが、長年抱いていた望みがこれでかなったので、これを冥途の土産にしようと喜んで、また戦場に打って出た。その際に、御教書の裏に
 我が百年の命を棄て
 公(きみ)が一日の恩を奉ず
(第2分冊、138ページ)と大書して、これを鎧の引き合はせ(胴の右わきにある合わせ目)に収め、攻め寄せる大軍の中に懸け入って、討ち死にされたのはあわれなことであった。

 北条(普恩寺)基時は、高時の前に鎌倉幕府の執権を務めた人物であり、はじめ3,000余騎を率いて気和井坂(化粧坂)に向かっていたものの、5日間続いた合戦にその兵の多くを失い、今はわずかに36騎が従うのみとなった。鎌倉市中に敵兵が満ち溢れているので、基時が創建した普恩寺の中に走り込み、皆、同時に自害を遂げた。後で、その現場の様子を見たところ、普恩寺入道(基時)は、子息である越後守仲時が近江の国の番場で自害したことを思い出されたのであろうか、御堂の柱にその血で
 まてしばし死出の山行く旅の道同じく越えて憂き世語らん
(同上、しばらく待ちなさい。死出の山道をともに越えて、この憂き世のことでも語り合おう) と書きつけられていた。長年たしなんでこられた和歌の道なので、最後の時になってもそれを忘れず、自分の愁い悲しみを述べて、後世に伝えようとされたその風雅の心は殊勝に思われたことであった。

 北条(塩田)国時(陸奥入道道祐)の子息である俊時は父親に自害を勧めようと腹を切った。それを見て父親の道祐はかえって心乱れたが、息子の菩提を弔おうという気持ちもあって、日ごろ読誦してきた法華経を読んで、読み終えたら自害しようと郎等たちにそれまで矢を射掛けて防ぐように言いつける。
 その中で長年、家来を務めてきた狩野五郎重光というものがいて、道祐はこの武士に自分が自害したら屋形に火を懸け、自分の首が敵の手にわたらないようにせよといい渡し、身近に置いておいた。読誦が8巻ある法華経の5巻に差し掛かった時に、重光は表に出て、四方の様子を見て、防ぎ矢を射ていた者たちはすべて戦死し、敵が近くに迫っております。早く腹をお切りください、わたしもお供しますという。そこで、道祐は左手で経巻を握り、右手で刀を抜いて、切腹を遂げた。重光はというと、腹を切るどころか、屋形に火を懸けることもせず、主人2人の着用していた物具を始めとする財宝類を使用人にもたせて運び出し、しばらくは円覚寺の蔵主寮(蔵主=経蔵の管理僧の僧坊)に隠れていた。これだけの財宝があれば、一生の間不自由はしないだろうと思われたのであるが、天罰が当たったのであろうか、新田義貞の執事である船田義昌に生け捕りにされて、首を斬られてしまった。

 さらに北条得宗家の被官であった塩飽新左衛門入道聖円とその養子の三郎忠頼、実子の四郎も今はこれまでと腹を切ったのであった。

 今回の箇所では、北条一門と得宗家の被官達のさまざまな最期の遂げ方が、語られたが、これで終わりではない。一門の足並みがそろっていないだけでなく、家臣の中には狩野五郎のような不心得者がいる。そういう状態だから北条氏はほろんだのだともいえるが、むしろ時代そのものがこのように乱れていたと考えるべきではないかと思う。

帽子の冒険

1月22日(金)晴れ後曇り

帽子の冒険

風に飛ばされた帽子が
そのまま鳥になって飛んでゆく 夢を見た
帽子から鳥を出して見せる
マジシャンたちは どう思うだろうか

白い鳥が
高く高く飛んで
白い雲に溶け込んでいった
雲がいっそう白くなった

白い雲が抜けてしまいそうに
青い青い空が
ぼくの方に迫ってきて

ぼくも鳥になって飛び立った
空をもっと
青くするために

〔昨夜、ブログを更新しようとしたら、パソコンがインターネットにつながらなくなり、今朝になって復旧した。みよ@こたつむりさんのブログ「心のうた|みよ@こたつむりが詠む詩集」に「星の金平糖」という詩が出ていて、空の星が金平糖になるというものであったが、逆に自分が作った金平糖が空に飛んでいって星になるという発想もあるなと思い、わたしが昔書いたこの詩を思い出した次第。ちょっと季節が合わないのではないかと思うが、更新を急いでいる時なので、その点には目をつぶってほしい。〕

日記抄(1月15日~21日)

1月21日(木)晴れ後曇り

 以前に京都大学時代に受けた外国語の授業の思い出を書いた際に、ロシア語の山口巌先生について大阪外後のご出身であると書いたことについて、先生は京都大学の言語学科のご出身であると訂正するコメントを頂いた。大阪外語出身であったのはもう1人のロシア語の先生であった植野修司先生の方であるとのことである。

 1月15日から本日までの間に経験したこと、考えたこと、ブログの補遺など:
1月15日
 NHKラジオ「実践ビジネス英語」で1月6日から本日まで放送された”Generation Z Rising"(Z世代の出現)は
The first batch of Generation Zers will be graduating from college soon. (Z世代の人の第一陣が、間もなく大学を卒業します。)
という状況を踏まえて、彼らがこれからのアメリカ(と世界)の社会に果たす役割についての期待と不安を取り上げた。Generation Xの子どもたちであり、2010年代にティーンエージャーになった彼らは、アメリカ社会が多様化した中で生まれ育ち、生まれ落ちたときからテクノロジーを介してインターネットにつながっているデジタルネイティブであることを特徴とするという。
 ビニェットの最後で、登場人物の1人が
Wait a minute, we've reached the end ofthe alphabet. What are we going to call the next generation? (ちょっと待ってください。アルファベットの最後まで来てしまいました。次の世代は何と呼びましょうか。)というが、次の世代の出現する時期まで私は生きていそうもないから、その点はあまり心配していない。むしろ講師の杉田敏さんがZを”Zedd"と発音し、パートナーのヘザー・ハワードさんが”Zee"と発音していたことの方が気になった。

1月16日
 NHKラジオ「攻略!英語リスニング」では”Hamlet"を取り上げた。シェイクスピアの有名な悲劇である。劇の最後でホレーショーがいう”Good nigth, sweet prince: And flights of angels sing thee to thy rest! "(お休みなされ、優しき王子よ。天使たちの歌が、汝を安らぎへと誘わん。)というセリフが感動的であったと結ばれていたが、原作は、まだこの後があって、ノルウェーの王子であるフォーティンブラスがデンマークの宮廷を訪れ、ハムレットを丁重に葬るとともに、後を片付けるように言って、ハムレットを惜しむ言葉を述べる。フォーティンブラスが登場すると、物語が複雑になるので、省く場合もあるようで、そのあたりをどう考えているのかも気になるところではある。

 紀伊国屋書店の横浜そごう支店でNHK「ラジオ英会話」、「攻略!英語リスニング」、「実践ビジネス英語」の2月号テキスト、諏訪哲二『尊敬されない教師』(ベスト新書)を購入する。

1月17日
 NHKEテレ「日本の話芸」で、1月9日に亡くなられた桂春団治師匠の「皿屋敷」を視聴する。10年ほど前の録画である。姫路の播州皿屋敷の井戸から夜な夜なお菊の幽霊が出るというので、それを見に出かける連中が引きも切らないという怪談のような、ふざけたような噺。師匠は非常にまじめな性格であったといわれるが、そういう人柄がよく出ていたと思う。

 この日のブログで浜野佐知監督の『百合子、ダスヴィダーニヤ』を取り上げたが、浜野監督がピンク映画の世界で多くの作品をつくっていることについて知らないまま、書いていた。そういわれてみると、映画が描いている世界の狭さが、そのためであるのかもしれないと思ったりした。

1月18日
 大雪で足元が悪かったが、それ以上に寒いのが体に応えた。

 NHKラジオ「まいにちフランス語」初級編では、今週、マルセイユを舞台としてスポーツの話題を扱う。パートナーのジャン=フランソワ・グラヅィアニさんによると
Marseille a toujours été une ville de commerce et d'échanges.(マルセイユはむかしから交易都市でした。)
それよりもまず港町であることをいうべきであろう。マルセル・パニョルの舞台劇「マルセイユ三部作」は、アレクサンドル・コルダ、マルク・アレグレ、パニョル自身によって、戦後はジョシュア・ローガン監督によって映画化されているほか、日本でも2度以上翻案・映画化されている。実際のところ、マルセイユは私が一番行ってみたいフランスの都市であるが、それはパニョルの劇の影響によるものらしい。

 NHKラジオ「まいにちイタリア語」入門編は、今週、”Una ricetta"(レシピ)という話題を取り上げる。イタリア料理に関係する単語が多く取り上げられて、楽しい週になりそうだが、身近なところに手ごろなイタリア料理店がないのが残念である。

1月19日
 ラジオ「まいにちフランス語」初級編の昨日の続き:元サッカー選手のジダンについて、
C'est à Marseille qu'il est né.  (彼が生まれたのはマルセイユです。)
とマルセイユの多文化性がジダンを引き合いに出して説明された。パートナーのジャン=フランソワ・グランヅィアニさんによると
Marseille a connu plusieurs vagues d'immigration successives : Italiens, Arméniens, Maghrébins ou Comoriens. (マルセイユには、イタリア人、アルメニア人、北アフリカの人たち、あるいは(インド洋にある)コモロ諸島の人たちが、次々に移民としてやってきました。)
ということである。ここでMagrébins(マグレブ人)が「北アフリカの人たち」と訳されているが、北アフリカの西の方のモロッコ、アルジェリア、チュニジアの人々について呼ぶ言葉で、同じ北アフリカでもエジプト、スーダン、リビアについてはこの呼び方をしない。以前にも書いたと思うが、ロンドンにあるMaghreb Bookshopという本屋に足しげく通ったりして、この地域には強い興味を持ち続けている。(ただ、アラビア語は全くダメ、フランス語もあまりできないので、十分な知識がなかなか得られそうもないのが残念である。)

1月20日
 NHK「ラジオ英会話」の時間に
I've get the housework slide. (家事はそのままにしている。)
という表現が出てきた。houseworkが「家事、家事労働」であるのに対し、homeworkは「家庭でする仕事、《特に》内職、宿題;《会議などのための》下調べ、予習」についていう。英国の学校を見学しているとhomework roomというのがあって、これは本来家庭でするはずの勉強が、家庭環境劣悪なためにできない児童生徒のために、設けられた部屋である。

 紀伊国屋書店横浜そごう支店でNHKラジオ「まいにちフランス語」、「まいにちイタリア語」の2月号テキスト、竹内真『ディスレスペクトの迎撃』(創元推理文庫)、西来路文雄・清水健一『素数が奏でる物語』(講談社ブルーバックス)を購入した。

1月21日
 NHKラジオ「実践ビジネス英語」の”Quote...Unquote"のコーナーで紹介された言葉:
To do common things perfectly is far better worth our endeavor than to do uncommon things respectably.
                       (from House and Home Papers)
----Harriet Beecher Stowe (American abolitionist and author, 1811-96)
(普通のことを完ぺきにやるように努めるほうが、普通でないことをそこそこやるように努めるよりも、はるかに価値がある。)
ハリエット・ビーチャー・ストウは『アンクル・トムの小屋』の著者である。
 
 

古代における歴史記述をめぐって

1月20日(水)晴れ後曇り

 ヨーロッパの「大航海時代」の人々は、人類の歴史を、現在われわれが考えているよりもはるかに短いものだと思っていたので、インドや中国の文明に遭遇して、そこで信じられている歴史が自分たちの歴史よりも長いものであることを知って驚いた。彼らが見出した年代誌の中には、聖書の年代誌よりも古い年代を記すものがあって、彼らの頭を悩ましたのである。

 この場合、一番簡単な態度は、異教の年代誌は虚偽であるとして、切る捨てるというものである。パスカルは「中国の歴史」と題した断章で、「死を顧みぬほどの証人をもつ歴史をしかわたしは信じない」と述べて、神の真理の証人として死んでいった預言者たちや殉教者たちを有しているのは、キリスト教のみであるとの理由から、聖書以外の歴史記述を拒否する態度を示した。

 古代中国における歴史記述をめぐるいくつかの説話を知っている人であれば、パスカルのいっていることが偏見以外の何物ではないと思うはずである。例えば、『春秋左史伝』に記されている大史と南史の説話を取り上げてみたい。
 斉の荘公の6年、権臣崔杼の美貌の妻に横恋慕していた荘公は、欠勤した崔杼の病気見舞いと称して杼の家に押しかけた。そしてその妻女の部屋に入ろうとしたところを従者ともども崔杼の家来に打ち取られた。崔杼が荘公の後釜に自分が懇意にしている景公を擁立すると、斉の大史は簡策に「崔杼、その君を弑す」と書きつけた。(簡策というのは竹の札で、まだ紙が発明されていなかったので、字を書きつけるために使ったのである。) そしてこれに激怒した崔杼に大史が殺されると、その弟が同様に記録して殺され、兄弟3人までもが殺された。しかし4人目の弟が同じように記録すると、さすがの杼もあきらめてそのままにした。この時、大史とは別の歴史記録者の家である南史の当主が、大史一家がすべて殺されたと聞き、簡(かきつけ)を執って駆けつけたが、途中で記録が全うされたことを知り、引き上げたという。(稲葉一郎『中国の歴史思想』39-40ページによる、本来ならば、『春秋左史伝』の本文にあたるべきだったのだが、草している時間がないので、ご容赦ください。) 中国における歴史記録がこのような命がけの営為によって書き継がれてきたことを認識すべきなのである。

 そして東洋の歴史記述の価値を認めることが、ヨーロッパの人々の歴史認識を変える一つのきっかけとなり、そこから啓蒙時代の歴史観が生まれていくのである。

 そうはいっても、『旧約聖書』が神の真理とかいうようなこととは別の、歴史をめぐる赤裸々な記述に満ちていることも見過ごせない。列王記の冒頭、英雄ダビデ王が年老いてヨタヨタになった姿が描かれる。
 ダビデ王は多くの日を重ねて老人になり、衣を何枚着せられても暖まらなかった。そこで家臣たちは、王に言った。「我が主君、王のために若い処女を探して、御そばにはべらせ、お世話させましょう。ふところに抱いてお休みになれば、暖かくなります。」 彼らは美しい娘を求めてイスラエル領内をくまなく探し、シュネム生まれのアビシャグという娘を見つけ、王のもとに連れてきた。この上なく美しいこの娘は王の世話をし、王に仕えたが、王は彼女を知ることがなかった。(「列王記」1.1~4.)
 ダビデ王が老いたのを見て、次男であるアドニアが王になろうとの野心を抱く。しかし、王の周囲の有力者たちは、ダビデの寵妃バト・シェバの子ソロモンの擁立を図る。ソロモンの権力掌握に至る過程は説話としてみれば面白いが、ユダヤ王国にとって決して自慢できるような記述ではない。実際問題として、旧約聖書の別の書である「歴代誌」では、ソロモンはダビデによって後継者に指名されて、何も問題なく即位したように書かれている。(同じことについて、2つ以上の別の書き方がされているのは、聖書では珍しいことではない。ついでに言うとヨセフスの『ユダヤ古代史』では両者を折衷した書き方になっているが、うまくまとめられているとは思えない。とにかく、あまり自慢できるようなことではない権力闘争の様相をそのまま書き記しているところに、古代の記録者たちの良心を感じることができるのである。

 これは15年ほど前に書いた文章を改めて書きなおしたもので、初めに原稿を書いた時点では、「列王記」のこの箇所は同時代、あるいはダビデ、ソロモンの時代の少し後に書かれたものだと考えていたのだが、実際はもっと後になってから書かれたものである可能性が大きいと考えるようになった。それで歴史的な事実という書き方ではなく、説話だというふうに修正を加えているが、そのために論旨がぼやけてしまったかもしれない。

ダンテ・アリギエリ『神曲 煉獄篇』(21-2)

1月19日(火)晴れ

 第20歌で煉獄の第5環道を歩んでいたダンテは、自身と煉獄の山全体から湧き上がった歓声に驚き、それがなぜ起きたのかを知りたいと思う。その時、一つの影がダンテとウェルギリウスに追いついた。ダンテが心の中に抱いていた疑問を察したウェルギリウスは、その影に地震と歓声がなぜ起きたのかについて質問する。
 すると影は自身と歓呼の声は、煉獄の魂が償いを終えて天国に向かって歩きはじめたときに起きる現象であり、自分がその天国に向かっている魂なのだと答える。

「・・・
私のことですが、この苦しみに伏して
五百年以上になりました。たった今、
より良き場所への閾をまたぐ自由なる願望を感じました。

それゆえにあなたは地震を感じたのであり、
敬虔な霊たちは全山あげて
かの主に賛美をささげました。あの方が彼らをすぐにも招かれますよう」。
(312ページ) この答えによって、ダンテ(とウェルギリウス)の疑問は解消する。ウェルギリウスは影に向かい、彼が誰であったかを尋ねる。

「優れたるティトゥス帝が、至高の王の
ご加護により、ユダの裏切りから血が流れ出た傷への
正しき復讐を果たした時代、

ひときわ長く廃れず、抜きん出て栄誉をたたえられるその名において、
私は向こうで――その霊は答えた――
名を知られていました。だがまだ信仰を持ってはいませんでした。

我が霊感の歌の響きは素晴らしく甘美であり、
そのため、トローサ出身の私をローマが呼び寄せ、
そこで桂冠により我が額を飾る誉れを受けました。

スタティウス、人々は今でも向こうで私をそう呼びます。
(314ページ) 影はローマの白銀時代の詩人プブリウス・パピニウス・スタティウス((45頃‐96)であると名乗る。「優れたるティトゥス帝」というのはローマ皇帝ティトゥス・フラウィウス・ウェスパシアヌス(39-81、皇帝在位79-81)であり、「ユダの裏切りから・・・正しき復讐」というのは70年におけるローマ軍によるエルサレムの破壊を意味する。ユダヤに対するローマ帝国主義的な侵略行為が、キリスト教的な観点からイエスを処刑したエルサレムへの正義の行使として正当化されている。もっとも、エルサレムを攻略・破壊したのは確かにティトゥスであったが、戦争の総指揮官であったのはティトゥスの父のティトゥス・フラウィウス、サビヌス・ウェスパシアヌス(9-79)であった。彼はネロ死後の内乱を収束させて、帝位について、フラウィウス朝を始めた。ダンテはスタティウスを神の意思を代行してエルサレムを陥落させた皇帝の治政の下で活動したと表現することで、詩の社会的・政治的な責務についての彼の意見を表明しようとしたと考えられる(若干の事実誤認はあったにせよ)。中世には、南フランスのトローサ《トゥールーズ》生まれの同じ名前の詩人と混同されたが、1417年(ということは『神曲』以後)に発見された抒情詩『シルウァエ』によってナポリの生まれであったことがわかった。〔初代のローマ皇帝アウグストゥスは紀元後14年に病死するが、この年から、第16代マルクス・アウレリウス帝の治政の終わる180年までをローマ文学の白銀時代という。それに先立つ「黄金時代」の文学が調和や均斉を重んじたのに対し、白銀時代になると誇張や、理想よりも現実を重視する傾向が強くなるといわれる。〕

 スタティウスは名乗った後に、さらに自分の作品について述べる。彼は古代ギリシアの都市国家の一つであったテーバイ王家の悲劇を歌った叙事詩『テバイデ』を書き、トロイア戦争の英雄アキレウスを歌う叙事詩『アキレイデ』を書きはじめたが、ミカンのうちに世を去ったという。自分の詩業のすべてはウェルギリウスの『アエネーイス』に負うていると、ウェルギリウスへの敬慕の念を口にする。

 これを聞いたウェルギリウスは自分がそのウェルギリウスであることを黙っているようにダンテに目配せしたが、ダンテは我慢できずに表情を緩め、それをいぶかしく思ったスタティウスがダンテを問い詰めたために、ウェルギリウスは問いに答えるように言う。ダンテは、「・・・
我が目を至高に導いているこの方こそ、
かのウェルギリウス、あなたが
人間たちと神々を歌う力を得た、その方です。
・・・」
(318ページ)と、彼の同伴者こそがウェルギリウスであることを告げる。スタティウスは感動から、自分が影の身であることを忘れて同じく影の身であるウェルギリウスを抱きしめようとしてしまった。

 こうして天国に向かう魂であるスタティウスがダンテとウェルギリウスの道行きに加わることになる。3人はすべて詩人であり、地上に平和と正義をもたらすために詩を書こうとした点で共通するが、スタティウスとダンテはキリスト以後の人間であり、ウェルギリウスはそうではない点が異なる。スタティウスがキリスト教信者であったかどうかは不明であり、ウェルギリウスの影響を受けた詩人であったことは確かでも、普通の文学史には登場しない人物で、それほど重要な詩人であったかどうかは疑問に思われる。(おそらくスタティウスの作品を読むことはないと思うので、断定はできないのだが…) とにかく、スタティウスはこの後の『煉獄篇』の展開において重要な役割を演じることになる。

後藤健『メソポタミアとインダスのあいだ』

1月18日(月)朝、雪が積もっていた。その後、雪は雨に変わり、降ったりやんだりしていた。路線バスは後輪にチェーンをまいて走り、坂道を登り切れないで立ち往生している乗用車を見かけたりした。寒い。

 1月17日、後藤健『メソポタミアとインダスのあいだ』(筑摩選書)を読み終える。なかなか読み応えのある書物であった。

 この書物は前3千~前2千年紀のアラビア湾(ペルシア湾)、とくにアラビア半島東部沿岸地方における文明の興亡を歴史の中に正しく位置づけようと試みるものである。書物の構成は次のようなものである:
     はじめに 目的と方法
第1章 メソポタミア文明の最初の隣人たち
第2章 イラン高原の「ラピスラズリの道」――前3千年紀の交易ネットワーク
第3章 ウンム・ン=ナール文明――湾岸文明の成立
第4章 バールバール文明――湾岸文明の移転
第5章 湾岸文明の衰退
     おわりに

 今回は、「はじめに 目的と方法」を取り上げて、この書物の目的と方法を把握するつもりである。ここでは、著者の研究がメソポタミアとインダスのあいだのアラビア湾岸で展開された文明の性格とその興亡の理由を突き止めることを目的とし、そのための主な方法として考古学的な資料の解釈を主として用い、補足的に文献史学の成果を活用していくことが述べられている。
 
 この地域の考古学的な研究は、近年急速に進展してきていると著者は言う。アラビア湾岸はもともと可耕地に乏しいため、農耕を伴う新石器文化は未発達で、狩猟漁撈民と遊牧民の活動痕跡だけが知られている。前3千年紀の半ばにアラビア半島の一部であるオマーン半島では、湾岸で最初の文明、ウンム・ン=ナール文明が興った。「不思議なことに、農耕文化が発達した地域でもないのに突然都市文明が誕生したように見え、それが持続的発展をしたようには見えない」(10ページ)。これまで常識だと思ってきた古代文明の成り立ちとは異なる、文明の起源があったように考えられるのである。

 現在、人類史上最古とされる文明はメソポタミア文明で、前4千年紀の中ごろに最初の都市社会が生まれ、しばらく後に文字による記録が開始された。
 次いでエジプトのナイル河畔では前3250年頃に第一王朝が成立した。さらに前2600年ごろにインダス文明が成立したと考えられるが、この文明は前1800年頃に終焉を迎える。
 中国文明はこれらの三大文明に比べて相当遅い年代に成立した。殷時代前期に相当する二里岡期の始まりは前1500年頃のことであり、最古の王朝「夏」に相当するとされる二里頭期がそれに先行するとしても、その起源は前2千年より早いとは考えられないという。〔著者は「中国文明」の名のもとに黄河文明について論じているが、最近では高校の世界史の教科書でも長江文明についても論じており、長江文明の存在が著者の論旨に影響を及ぼすものではないにせよ、一言二言の言及はあってもよかったのではないかと思われる。〕

 これらを「四大文明」と呼びならわすと、それぞれが独立した、自己完結的なものであったかのように錯覚されてしまうが、20世紀の特に後半以降に展開された研究の成果として、これらの文明以外の文明の存在、またこれらの文明の相互の交流や影響関係についての情報が蓄積された。それらを踏まえて、著者は古代文明の発生をめぐって従来の研究による説明に疑問を感じたという。
 従来の研究では古代文明の起源を、灌漑農耕による生産性の飛躍的な向上、それによって生まれた余剰の蓄積、それを可能おとした労働力の集中と社会的・政治的ヒエラルキーの確立などの面から、つまりそれぞれの文明の枠の中の自己完結的な動きとして説明していた。しかし、メソポタミアを例として考えてみても、文明成立の当初から、メソポタミアの外の、しかもかなり遠くから運ばれた物資が遺物として見いだされる。つまり、メソポタミアだけでなく、より広い地域にわたって文明の起源を考えなければならないのではなかろうかと著者は論じる。

 メソポタミアでは農産物は豊かであるが、それ以外の物資は乏しかった。それに対して周辺の地域にはそれぞれの特産物があったが、農産物は乏しかった。メソポタミアにとって必要であるが、自前では調達できなかったものの一例が金属である。オマーン半島は銅の有力な産地であり、古くからメソポタミアと交流があったと考えられる。銅のような重いものは陸路で運ぶことは困難で海路、船を使って運ばれた。さらに木材、貴金属、宝石なども外部からメソポタミアに持ち込まれた。このように、メソポタミア文明は当初から、交易の相手方を必要とし、それらの存在によって文明を発展させたのではないかというのである。

 メソポタミアにとって物資の供給地の1つであり、インダス文明との交易の中継基地でもあった湾岸の文明は多くの遺跡・遺物を残しているが、楔形文字資料はそれほど残していないので、遺跡の考古学的な分析と、メソポタミアから出土した文書の中のこれらの地域への言及を手掛かりとして研究を進めていくと著者は述べている。

 古代文明の成立の過程と、その基本的な性格をめぐって画期的な議論を展開しようとする野心的な試みであり、どのような事例をもとに議論を組み立てていくのか、今後の展開が楽しみである。

百合子、ダスヴィダーニヤ

1月17日(日)曇り後、小雨(雪に変わるという予報もある)

 横浜シネマノヴェチェントで浜野佐知監督の2011年作品『百合子、ダスヴィダーニヤ』を見る。シネマノヴェチェントは横浜市西区の藤棚商店街に昨年開館したミニシアタアーで、一度出かけてみたいと思っていた。ちょっとわかりにくい場所にあるのだが、一度出かけてしまえば、どこにあるかはわかる。相鉄の西横浜、あるいは京急の戸部が最寄り駅だということであるが、バスを利用するという生き方もある(優待パスをもっているので、わたしはもちろんバスを利用して出かけた)。「映画女優 菜葉菜 特集‼」の一環としての上映である。

 1924年(大正13年)、ロシア語を勉強しながら、雑誌『愛国夫人』の編集に携わっていた湯浅芳子(1896-1990、菜葉菜演)は、先輩作家の野上弥生子(1885-1985、洞口依子演)の紹介で、小説家の中條百合子(後に宮本百合子、1899-1951、一十三十一=ひとみとい演)と出会う。百合子は17歳の時に「貧しき人々の群」を発表して文壇の注目を浴びたが、19歳の時にアメリカに遊学し、コロンビア大学で古代ペルシア語を研究していた15歳年上の荒木しげる(大杉漣演)と出会い、結婚したが、結婚を機に帰国し、社会的な地位を得たことで、その安定を持続させようとする荒木と、新しい生き方を求めて文学にかかわり続けようとする百合子の間の溝は深まっていた。一方、芳子は百合子の招きに応じて、百合子の祖母(吉行和子演)が住む福島県の安積・開成山(現・郡山市)に赴き、二人の仲は親密さを増す。

 ロシア文学の翻訳者として知られる湯浅芳子と作家の宮本百合子の7年間の共同生活の最初の一か月半を取り上げた作品。沢部ひとみ『百合子、ダスヴィダーニヤ』と、宮本百合子『伸子』、『二つの庭』を原作として、山崎邦紀が脚本を書いている。「ダスヴィダーニヤ」はロシア語で「さよなら」という意味であるが、最後の方で、2人がロシアに旅立ち、帰国後、離別に至ったことがごく短く描かれている。おそらくは予算の関係でロシアでのロケ撮影ができなかったことが、このような構成をもたらしたのであろう。題名からいえば、二人の出会いの部分よりも、離別の部分に焦点を当てるべきではなかったかと思われる。

 2人が出会ったのが1924年ということは関東大震災の翌年であり、社会的な不安が大きかった時代である。映画はヒロインたちの人間関係に焦点を当て、ほとんど時代背景には言及していない。ただ、荒木と、芳子が百合子と出会う以前に同棲していた芸妓のセイの2人が胸を患っているというところに世相の一端が見えるのである。
 この時期、中野重治が『むらぎも』で描いた労働争議があり、農村でも小作争議が頻発していたはずである。そう考えてみると、この映画と『むらぎも』を足してみると、見えてくることがいくつかありそうである。映画の中で女性と結婚生活、伝統と新しい生き方についてのやり取りがあるが、『むらぎも』の中で中野の分身である片口安吉が友人の平井(後に東京教育大学でフランス語を教えた中平解がモデルであると、なにかで読んだ記憶がある)と天皇制や家族制度について会話を交わす場面があるし、野上弥生子は夏目漱石の門下といってよいのだが、『むらぎも』には漱石門下の芥川龍之介をモデルとする葛飾伸太郎という作家が登場して安吉に新しい思想をもった人間の文学が待望されている一方で、「人は持って生まれてきたものを大事にしなければならぬだろう」(講談社文芸文庫版、350ページ)という場面がある。文壇にも新しい動きが感知されはじめてきた時代である。

 湯浅芳子によるチェーホフの翻訳は高校・大学時代にずいぶん読んだ記憶がある。同じ時期、神西清の翻訳も読まれていたが、湯浅が神西の翻訳を直接にその名を挙げずに、批判していたことを思い出す。どちらの翻訳がすぐれているのかを判断するほど、こちらはロシア語ができないのだが、ちょっと意固地になった批判の仕方がいかにも湯浅らしい(『百合子、ダスヴィダーニヤ』の資料には記されていないが、湯浅の人となりについては瀬戸内寂聴が詳しく書いていた)。中條(宮本)百合子については、1951年に世を去っているので、学生時代の私から見ても、過去の人という印象があったが、戦後の作品、「播州平野」などは読んでいる。映画では可愛いけれども、おっちょこちょいな感じに描かれているが、戦後に百合子と接触した本多秋五の印象などを読んだかぎりでは、かなり政治力のある女性という感じがしていたので、多少の違和感をもった。あるいは宮本顕治との結婚や、戦争中の経験によって逞しく変貌したという部分があるのかもしれない。それよりも何よりも、野上弥生子の長男である野上素一の講義を聴講したことがあった。映画の中で、弥生子と百合子がアベラールとエロイーズの恋愛の話から、男性の女性観をめぐって議論を交わす場面があるが、野上素一の講義の中で、ベル・エポック時代のイタリアの男性が女性をめぐって決闘を行うことがしばしばあり、それを知った女性がすぐに目を回すという話を聞いたことを思い出す。母親の思想や問題感覚を息子は必ずしも継承していないという話だが、野上のかなり豊かな暮らしぶりが無批判に描かれていることも注目しておいてよいのかもしれない。

 百合子が動揺を続けるのに対し、芳子はあまり動かない。動と静という演出上の対比がある。芳子はずっと着物姿を通しており、百合子は和装と洋装を使い分けている。服装に2人の経済的な背景の違いが示されているわけであるが、その一方で、2人が原稿や手紙を書くときには万年筆を使っていることが共通している。そこに新しさがあるわけである。万年筆ということで思い出したのだが、この作品には「カメラ=万年筆」論を唱えたアレクサンドル・アストリュックの作品を思わせるところがある。心理的な描写に重点を置いているところとか、その一方、時々即興的な演出がみられるところなどである。伝統的な社会の抑圧の中で、あたらしい生き方を求めて、文学の道を歩もうとした2人の女性のぶつかり合いを描くというこの主題をこのような手法で描くことには、多少の疑問があり、もっと本格的に予算を掛けてロシアへのロケも行ったりして、取り組んでほしかったという印象がなくもない。

 だから、日本の文学史、思想史を考えるうえで興味深いエピソードに取り組んでいるという意味で、興味深い映画ではあったのだが、主題にふさわしい重厚感をもちえなかったことが減点材料になる、本格的な作品というよりも習作にとどまっているというのがだいたいの感想である。吉岡しげ美が担当した音楽がよく、CD化もされているとのことで、興味のある方は探してみてください。
 

『太平記』(86)

1月16日(土)晴れ

 元弘3年(1333年)5月18日、新田義貞の率いる討幕軍は極楽寺坂、小袋坂、化粧(けわい)坂の3方から鎌倉への攻撃を開始した。洲崎を守っていた北条(赤橋)盛時は、自分の妹が足利高氏の妻であることから、幕府の中枢により内通の嫌疑をかけられているのではないかと思い巡らし、勇士として身の明かしを立てようと自害してしまう。北条(大仏)貞直が守る極楽寺坂方面では苦戦した義貞は、21日早朝に大潮で稲村ケ崎の海岸が干上がったのを利用して鎌倉市中に攻め寄せ、北条勢を壊滅させた。北条高時と長崎円喜が最後の入り札として送り出した島津四郎は、新田勢に降伏してしまい、これを機に北条方から裏切るものが続出する。

 新田勢は由比ガ浜に面した民家、初瀬から由比ヶ浜にそそぐ稲瀬川の東西に火を懸けたので、ちょうど浜風が激しく吹いて来たのに煽られ、車の輪のような炎が、黒い煙を上げながら燃え盛り、どんどん燃え広がっていったので、その中に新田勢の兵士たちが乱入し、逃げ場を失った幕府方の兵たちをここかしこに射伏せ、切り伏せただけでなく、煙の中に逃げ惑う女性や子どもたちが火の中、煙の中に倒れ込む有様は、阿修羅の従者どもが帝釈天との戦いに負けて罰せられて火炎と剣戟のもとに伏し倒れ、地獄の罪人たちが牛頭馬頭の鬼たちに責めさいなまれて、煮えたぎる溶けた鉄の湯に落ち込んでいくというのもこのようなさまであるのかと思い知らされるのであった。京都における戦闘でも同様であったが、戦闘とは関係がないのに、住まいに放火された庶民たちはいい迷惑である。

 放火されたのは由比ガ浜の一帯であったが、その煙が西から東に流れて、相模入道(北条高時)の居館の近くにも押し寄せてきた。高時は一千余騎の武士たちを連れて、居館(現在、宝戒寺のある場所)を出て、その東南の葛西谷(かさいのやつ=現在の鎌倉市小町)にある東勝寺に引きこもった。これは北条泰時が建立した臨済宗の寺で、北条氏の菩提寺であった。父祖代々の墳墓の地なので、兵士たちに防ぎ矢を射させて、その間に心静かに自害しようというのである。説明し忘れていたが、「谷(やつ)」というのは谷あいの地をいう。鎌倉と房総地方の方言で、横浜や東京では「保土ヶ谷」とか「渋谷」というように「や」という言い方をする(まったくついでの話だが、神奈川県にも渋谷という地名はある)。

 北条得宗家の執事を務めている長崎円喜の叔父である長崎左衛門入道とその子息の勘解由左衛門為基の2人は極楽寺切通方面の敵を防ごうと必死で戦っていたが、敵の軍勢が既に小町口に達して、北条高時の居館も放火されたとの情報が入ってきたので、引き連れていた2,000余騎を戦場に残し、手勢600余騎を率いて小町口へと向かった。新田勢はこれを見て、包囲して討ち取ろうとしたが、長崎父子は自在に駆け回って新田勢を翻弄し、数万を数える兵たちがこの小勢のために若宮小路へと押し戻される。

 そうこうするうちに化粧坂南の佐介の天狗堂と、北の扇谷(おうぎがやつ)のあたりに馬の蹴立てる土煙が見えて、敵の軍勢が迫っているようなので、長崎父子は、左右に分かれてそれぞれの敵と対戦しようとする。子息の為基はこれが最後だと思ったので、父の方を名残惜しげに見ていたが、父親の左衛門入道は、おまえも私も今日のうちに戦死することは明らかであり、明日は冥途で再会することになるだろうから、名残惜しいことはないと息子を励ました。為基は涙を抑えて、大軍の中に切り込んだ。従う兵はわずか十余騎であったので、新田勢は取り囲んで討ち取ろうとした。

 為基が佩いている太刀は京都粟田口の名工来太郎が丹精をこめて作り上げた名刀なので、新田勢の武士たちの鎧兜を切り裂いて恐るべき威力を発揮し、新田方の兵たちは恐れて近づこうとしなくなった。ただ遠巻きにして矢を射掛けるだけである。こうして為基が乗っている馬に矢が7本も刺さったので、為基は馬を乗り捨て、しかるべき相手を見つけて組み付こうと由比ガ浜に立っていた鶴岡八幡宮の大鳥居の前にただ一人、くだんの名刀を杖にして仁王立ちで待ち受けていた。新田勢はこれを見て、近づこうとはせずに、なおも遠矢を射掛けていた。それで、為基は負傷したように見せかけようと膝をついて倒れかけたところ、50騎ほどの武士たちが首を取ろうと押しかけてきた。「為基、かっぱと起きて、『何者ぞ、人の軍(いくさ)に疲れて昼寝したるを驚かすは。いで、己れらが欲しがる首取らせん』」(第2分冊、135ページ)と大声を上げて、太刀を打ち振って近づいてきた武士たちに迫ったので、武士たちは慌てて大急ぎで逃げ出したのであった。

 為基はさらに敵の背後に回りこんだり、取って返したりして縦横に戦っていたが、そのうちどこかで戦死したのであろうか、行方が分からなくなった。

 新田軍が鎌倉市中に入って、勝敗は決したかに見えるのだが、『太平記』の作者は先を急がずに、北条方の武士たちの最後の奮戦の様子を描き続ける。長崎為基の戦いぶりなど、いかにも軍記物語という語り方であるが、もっと別の時とところで発揮された方がよかったような勇戦ぶりであるとも思われる。これに対する新田勢の武士たちの腰の抜けた対応ぶりも興味深く、『太平記』が従来の軍記物語とは一味も二味も違った文学作品であることがよく示されている。
 私は子どものころから何度も鎌倉に出かけてきたし、学生時代を京都で過ごしたので、普通の人よりもこの2つの都市については経験を積んでいると思うのだが、鎌倉は京都に比べるといかにも狭い。その狭さが、北条氏滅亡に至るこの箇所を読んでいると改めて実感されるのである。

西田龍雄『アジア古代文字の解読』(4)

1月15日(金)晴れ後曇り

 漢族の支配あるいは影響を受けながら、漢語とは別の自分たちの言語・文化をもつ諸民族にとって、自分たちの言語をどのように表記するか、その表記によって自分たちの文化的な伝統をどのように伝えるか、あるいは外来の文化を自分たちのものとして摂取し、再構成していくかということが、問題となった。この書物は、そのような漢字文化圏の周辺にある諸民族の自分たちの言語を独自の文字で表現しようとする試みを取り上げ、その中で未解読だった文字がどのようにして解読されたか、あるいは解読されようとしているかを論じている。

 既に紹介した第1章「未解読文字への挑戦」では、未解読の文字を解読していく手続きをめぐり、暗号解読との違いを引き合いに出しながら、その文字が未知のものであるか、既知のものであるか、文字が記している言語が未知のものであるか、既知のものであるかによって、解読の手続きが異なることについて、これまでの解読の事例を引き合いに出しながら論じている。未知の言語の解明作業の魅力について語る著者の言葉が印象的である。第2章「ロロ文字のはなし」では中国の四川省の南、涼山彝族自治区で今なお使われている彝族の独自の文字、いわゆるロロ文字についてその概要を述べている。第3章「水文字暦の解読」では中国南方に居住する少数民族である水族の巫師たちが使っていた文書に記されていた(巫師たちが存在しなくなったために、解読できなくなった)文字の解読作業について述べている。「古い異体の文字が並んでいるのを見ていること自体が、それだけで実に楽しい思いを抱かせる」(89ページ)という個所には、文字に対する著者の情熱の一端が感じられる。
 第4章「西夏文字の組織と使い方」は、11世紀の初頭から13世紀にかけて中国の西北部に存在していた西夏国の言語である西夏語を記した西夏文字が漢字の構成原理を巧みに取り入れて、さまざまな構成要素の組み合わせによって表意文字として機能しながら、同時に文法情報も伝達した、漢字を越える文字であったことを述べている。第5章「女真文字の成立と発展」は西夏よりも少し遅れて、その東の方に国家を形成した女真(金)の言語と文字について論じている。女真文字は、先行する契丹(遼)の文字と共通する性格があるが、ごく大まかに言って表意文字と表音文字とを混用する文字体系であったと考えられる。しかし西夏文字のように体系性をもった文字の原理がないので、完全な解読には至っていない。第6章「契丹文字解読の新展開」では契丹文字をめぐる研究の発展を記しながら、この文字には表意文字である大字と表音文字である小字があったこと、漢文との二言語資料も発見されてはいるが、まだ完全に解読されたとはいいがたいことが述べられている。

 第7章「漢字――東アジアの世界文字」ではこれまで述べてきた、漢字の影響を直接・間接に受けながら発展してきた東アジアの諸文字が、ロロ文字を除いて、現在では使われなくなってきているのに対し、漢字が変化しながらも使われつづけて来た恐ろしく長い伝統をもった文字であることが強調されている。漢字はある特定の時代の特定の地方の言語の使用状況と結びついて意味をもち、発音されてきた文字の体系であり、さまざまな民族によって、さまざまに借用されてきた。
 「漢字は東アジア地域の一種の共通文字であって、その価値づけと運用は、特定の時代の特定の言葉の体系と結びついて可能になる。漢字はそのような特定の言語体系に支えられて生きつづけて来たのである。そして、支えられた言葉の体系を通して、はじめて漢字は立派に表音能力をももつことができるのである」(238ページ)と著者は言う。漢字の「夜」を中国では「ヤ」と発音していた(現代の中国の標準語ではyèと発音する)時代に、日本人はこの字を受け取り、「よ(る)」という訓を与えた。中国語における意味と発音、日本語における訓と音とはそれぞれに(無関係ではないにせよ)独立したものである。

 漢字は単なる象形→表意文字ではなく、指示、会意、形声という手続きを経て、さらに多様な意味を表現できるようになっただけでなく、形声字を多く創作する方向に向かったことによって、漢字は安定した表記体系となり、その一方で複雑な性格をもつようになった。

 他方、中国人は外国語の発音を表記するために漢字を使わざるを得ず、そのような例は中国と異民族の接触の長い歴史の中で多数見いだされ、漢字による異言語の表記はかなり正確になされている場合が多く、言語資料として大いに有用である。
 中国の少数民族のなかには独自の文字をもつように見えて、実は崩れた形の漢字を使っている例がみられる(例えば苗族)。
 ベトナムでは漢文のほか、ベトナム語の表記にも漢字を使うようになり、その際に特有の字形が考案された。これを字喃(チュノム)という。ここでは漢字の仮借・会意・形声という機能が応用されている。この種の文字は、他にも江西省一帯に居住していたタイ系民族の間でもつくられていた。しかし、「ベトナムでは16世紀にローマ字を改めた表記法を採用し、その他のタイ系諸言語もいまは修正したラテン文字によって表記する方向をたどっている」(250ページ)という。もっともこれは中国とベトナムの国内での話であって、タイやラオスでは独特のタイ文字が使われているのは御存じのはずである。

 文庫化にあたって著者は「『アジア古代文字の解読』付記」というかなり長い一文を添えて、その後の研究の進展等についての概要を補足している。
 まず、ロロ文字よりも彝文字のほうが一般的な呼び方になったとしながら、彝文字について、本文で紹介された西昌涼山地区における規範彝文のように表音化の方向を進めるのではなく、彝語の全方言に共通する文字としての使用を目指す表意的な規範化の動きが起きていることを紹介している。この「付記」が書かれてから10年以上の年月が経っており、その成否も気になるところである。
 水文字=水書については新しい資料が発見されていることを述べている。著者がこの文字の「魔術的」な特徴に魅力を感じていたことが窺われて、論旨とは別に興味深く思われる。
 西夏文字をめぐっては、西夏語と西夏文字が漢語から多くの影響を受けたことに加えて、チベット語との交流も無視できないものであったことを述べている。
 女真文字については、近年満州語研究が盛んになるにつれて、再び女真語研究にも活気が出てきているとしながらも、その解読作業には「女真文字自体が統一性を欠いた字形集団であったため、文字組織そのものが堅実でないところに困難があるように思える」(276ページ)という感想が述べられている(西夏文字の作り方に規則性があることを発見して、その解読に成功した著者らしい指摘であり、注目される)。
 契丹文字については、とくに小字をめぐり多くの資料が発見され、解読が進んではいるが、まだ全容の解明には至っていないと述べられている。最終的には、死語である契丹語の復元が目標とされるべきであるが、契丹小字と契丹大字の両方がその道筋となるはずだという見通しが語られる。

 これらアジアの文字は、それぞれ漢字の影響下にあり、漢語とは別の言語を表記するためにさまざまな工夫を加えて成立したものであった。最後に著者は「アジアの諸文字の研究には、まだまだ未知の部分が残されていて、新資料の出現とともに新しい観点に立った開拓を期待しなければならない」(281-282ページ)と結んでいる。著者が研究の対象としたのは、中国と漢字の影響下にある地域であったが、アジアといっても東アジア以外の地域には、全く別の文字体系が多数存在しており(チベットなどもその中に含まれている)、「新しい観点」が生まれる余地はきわめて大きいと思われる。西田教授が書き残された『生きている象形文字』(中公新書)など、この本以外の著作を改めて読み直してみたいと思う一方で、その亡き後の研究の進展についても調べていきたいと思う。

日記抄(1月8日~14日)

1月14日(木)晴れ

 1月8日から本日までの間に経験したこと、考えたこと、ブログの記事の補遺など:
1月8日
 NHKラジオ「実践ビジネス英語」の”Quote...Unquote"のコーナーで紹介された言葉:
Time is what we want most, but what we use worst.
(from Some Fruits of Solitude)
-- William Penn
(English real estate entrepreneur, founder of the Province of Pennsylvania, and philosopher, 1644-1718)
時間とは、私たちが最も欲するものなのに、もっとも下手な使い方をするもの。
 まったくその通りである。「ラジオ英会話」の時間でも”Time Management"(時間管理)というテーマで様々な会話例を取り上げている。ウィリアム・ペンは宗教的な対立が厳しかった17世紀のイングランドでフレンド派(クエーカーと俗称される)に改宗したため迫害を受け、ペンシルヴェニア植民地を建設した。ロンドンのユーストンの駅の近くにフレンド派の建物があって、そこの本屋の宗教書籍が充実していたので、よく買いに出かけたことを思い出す。

1月9日
 NHKラジオ「攻略!英語リスニング」では”Gold"(黄金)という話題を取り上げた。インカ人たちは黄金のことを”tears of the sun" (太陽の涙)と呼んだそうである。巧みな表現だが、「涙」というところにインカ人たちの運命を予感させるところがある。

 後藤健『メソポタミアとインダスのあいだ』(筑摩選書)とダンテ『神曲(注)』(岩波文庫、山川丙三郎訳)を購入する。講談社学術文庫版の『神曲』の翻訳者である原基晶さんによると、山川訳は原文に忠実、河出文庫の平川祐弘訳はわかりやすく、集英社文庫の壽岳文章訳は大量の注による豊かな情報量を特徴とするという。このほかに河島英昭さんによる翻訳が進行中だとのことで、それぞれをぼちぼちと買い揃えていくつもりである。
 原さんによると山川訳は原文に忠実過ぎて、また文体が古いので、現代の読者にはよくわからなくなってきているという。試しに、第21歌(山川訳では「二十一曲」)の冒頭部分を紹介してみると
サマーリアの女の乞ひ求めたる水を飲まではとゞまることなき自然の渇(かわき)に
なやまされ、かつは急(いそぎ)に策(むちう)たれつつ、我わが導者に従ひて障(さゝはり)多き道を歩み、正しき刑罰を憐れみゐたるに(134ページ)
確かに、これはわかりにくい。

1月10日
 この日の当ブログ「『太平記』(85)」では新田義貞が稲村ケ崎で龍神に太刀をささげて、海の潮が引き、磯伝いに鎌倉に侵攻することができて、幕府軍を壊滅させたという個所を紹介したが、『梅松論』ではこの箇所をどのように書いているかというと、「爰(ここ)にふしぎなりしは、稲村崎の浪打際。石高く道細くして軍勢の通路難儀のところに、俄に鹽干て合戦の間干潟にて有りし事、かたがた仏神の加護とぞ人申ける」(群書類従第20輯、161ページ、句読点等一部表記を改めている)と、太刀の件は書かれていないが、異常なほどに潮が引いたことは記されている。なお、新田義貞による鎌倉攻略についての『増鏡』の記述はきわめて簡単で、六波羅攻略をめぐる詳しい描写とは対照的であることも注目に値する。

1月11日
 NHKラジオ「まいにちフランス語」では南仏のアンティーブにあるピカソ美術館が舞台となった。ピカソは第二次世界大戦後、コート・ダジュールにあるいろいろな町に住んだが、彼が埋葬されたのは内陸部のエクス・アン・プロヴァンスの近くにあるヴォヴナルグ城の庭園内であるという。パートナーのジャニック・マーニュさんによるとこの豪華な敷地からはセザンヌが好んで描いたサント・ヴィクトワール山が一望できるそうである。Ce qui a fait dire à Picasso: ≪J'ai acheté la Sainte-Victoire de Cézanne. Laquelle? La vraie.≫(それで、ピカソをして、「私はセザンヌのサント・ヴィクトワール山を買った。どのサント・ヴィクトワール山かって? 本物のだよ」と言わしめました)という。私はセザンヌのサント・ヴィクトワール山の絵は好きなので、この点ではピカソと趣味が一致しているといえそうである。

1月12日
 竹内整一『ありてなければ 無常の日本精神史』(角川ソフィア文庫)とモンス・カッレントフト『秋の城に死す 上』(創元推理文庫)を購入する。このところ、読書が停滞していて、いつ、読み終えることができるだろうか。

1月13日
 NHKラジオ「実践ビジネス英語」の”Quote...Unquote"のコーナーで英国の詩人ポープの
Fools rush in where angels fear to tread.
(愚か者は、天使が足を踏み入れるのを恐れる場所に飛び込んでいく。)という言葉を紹介していた。E.M.フォースター(Edward Morgan Forster, 1879-1970)の『天使も踏むを恐れるところ』(Where Angels Fear to Tread, 1905)という小説の題名はこの句に基づいている。この作品は翻訳で読んだことがあるが、題名通りの展開が待っている。

 同じく「まいにちフランス語」の時間で、パートナーのジャン=フランソワ・グラヅィアニさんがピカソとマチスの関係についてこんな逸話を紹介していた。
Picasso aurait dit un jour à Matisse : ≪J'ai le dessin et je cherche la couleur et toi c'est l'inverse.≫ (ピカソは生前、マチスに向かって、「私はデッサンは得意なので、今は色を探求している。それに対して、君は逆だね」といったといわれています。)
 まあ、好みの問題ではあるが、わたしはマチスのほうが好きだ。

1月14日
 NHKラジオ「実践ビジネス英語」の”Quote...Unquote"のコーナーで紹介された言葉:
In no other country in the world is the love of property keener or more alert than in the United States, and nowhere else does the majority display less inclination toward doctrines which in any way threaten the way roperty is owned.  (from Democracy in Ameria)
----Alexis de Tocqueville (French political thinker and historian, 1805-59)
(アメリカ合衆国におけるほど、財産に対する執着が激しかったり用心深かったりする国は世界ではほかにないし、財産の所有形態をどんな形であれ脅かす政策に対して、大多数の人がこれほど嫌がる国もほかにない。)
 この観察がどの程度正確なものかを確認する機会がなさそうなのが残念である。

 これまでのところ、読んだ本が1冊、見た映画が2本、サッカーの試合が6試合で、いつもとは全く違う展開になっている。さて、どうなるか。 

ゴンちゃん

1月13日(水)晴れ

ゴンちゃん

小学校の時に
クラスの暴れん坊将軍で
元気いっぱいだった
ゴンちゃんが
入院中だという
重体だという

都会の中の学校に
途中から転校したので
居心地悪く
それで大いに
自分を主張したのだと
本人は言う

まだ都会といっても
広い田畑に囲まれていた時代
教育熱心だった両親が
転校させたらしい
地主の息子だとは言っても
大いに土の香りがしていたので
都会風に「おとな」びてはいても
ケンカでは勝てない
弱虫の同級生たちは
ゴンベとかゴンちゃんとか
彼を呼んだ

みんなに半分はおそれられ
半分は尊敬されていた彼は
成長して企業戦士となり
元気に働いていたが
突如病気だと告げられた

がんばれ!などといっても
あんなもやしみたいだった
弱虫の応援はいらないぞと
強がるかもしれないが
それでも やはり
回復して
その大声を
一帯に響かせてほしい

[昨夜、別の原稿を書き上げて、掲載しようと思ったら、パソコンがネットにつながらないという表示が出て、掲載できなかった。こういうのが一番悔しい。このところこういう不調がしばしばあって、投稿が滞らないか心配である。]

ダンテ・アリギエリ『神曲 煉獄篇』(21-1)

1月12日(火)午前中、少し雨(所によっては初雪だったらしい)、その後は曇り

生まれながらの渇きは決して癒されることはない、
サマリアの貧しき女が恩寵といて所望した、
あの水でなければ。

その渇きに私は苛まれていた。そして我が導き手の後ろで、
思うようには進めない道のために急いであせり、
さらに正しき報いの罰に憐れみを覚えてもいた。
(306ページ) 第20歌でダンテは煉獄山全山を揺るがす地震を経験する。そしてイエス・キリストの誕生の時に、ベツレヘム近郊の羊飼いたちのもとに天使と天の軍勢がやってきて歌ったとされる「最も高き空にまします神に――皆が――栄光あれ」という歌が聞こえてくる。これはどういうことなのかと、ダンテは「ためらいつつも深く思索しながら歩いていった」(304ページ)と第20歌は結ばれていた。
 「生まれながらの渇き」は、人間の持っている知的好奇心であり、「サマリアの貧しき女」は『新約聖書』の「ヨハネによる福音書」の4に登場して、井戸から汲んだ水をイエスに与えた女性であり、地上の水を飲んで渇きをいやしても、やがてまた水を飲みたくなるが、「わたしが与える水を飲むものは決して渇かない。 わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る」(ヨハネ4・14)といわれる。ここでイエスがなぜ、サマリア人の女性と会話するのかについては、ユダヤとサマリアの対立という歴史的な経緯がある。「ヨハネによる福音書」のこの少し前の箇所に「ユダヤ人はサマリア人とは交際しないからである」(ヨハネ4・9)としるされている(Today's English VersionではJews will not use the same cups and bowls that Samaritans use. ユダヤ人たちはサマリア人たちが使うコップや鉢を使おうとしない――と、より具体的に書かれている)。なぜ、このような関係が生まれたかについては諸説あるので、ご自分で調べるなり、キリスト教に詳しい人に聞くかしてください)。
 ここでダンテが言おうとしているのは、ギリシアの哲学者たちが言うように人間は生れつき好奇心を持っているが、神の恩寵、つまり理性による理解を越えた、神の真理の開示によらなければ最終的な疑問は解決しないということである。余談になるが、長崎にある活水女子大の「活水」は「ヨハネによる福音書」のこの箇所に由来するらしい。ロンドンのチャイナタウンにも「活水」と名の付いた中国系のキリスト者たちの本屋があって、在外研究でロンドン滞在中にそこの書店員と長話をしたことを思い出す。

 煉獄の第5環道を行くダンテとウェルギリウスの前に一人の影が現われる。2人はこの影に気付かなかったが、影の方から2人に声を掛ける。「我が兄弟達よ、神があなた方に平安を与えんことを」(307ページ)これは復活後に弟子たちの晩餐に現れたイエスが発する「あなた方に平安があるように」(ルカによる福音書24・36)を踏まえた挨拶である。これに対してウェルギリウスは挨拶を返し、ダンテがまだ生きている人間であり、自分がその案内者であることを告げ、地震と歌声の理由を尋ねる。

 彼はこの問いに答えて話し始める。煉獄は秩序正しく構成されており、
「ここにはどのような気象の変化もありません。
空が自らもたらし、自らのうちに内包するもの、
それ以外に原因となるものはありえないのです。
(310ページ) 山裾の前煉獄を除き、煉獄のあらゆる事象の原因は神に発して諸天空を経て降りてくる力である。彼は続けて、
それゆえにあの三段の短い階段の上では、
雨は降らず、雹は落ちず、雪は舞わず、
露は滴らず、霜は降りず、

また厚い雲も薄い雲も現れず、
稲妻も起きず、下界でしばしば場所を変える、
タウマースの娘もいません。
(同上) 「あの三段の短い階段」というのは第9歌に出てきた煉獄の門の前の階段のことである。「ダウマースの娘」は虹のことで、ギリシャ神話の神々の使者である虹の女神イーリス(アイリス)はタウマースとエーレクトラーの娘とされている。われわれが日常的に経験する気象現象はすべて煉獄の門より上では起きないという。また地震も起きたことはないのである。では、なぜ山が揺れたのか、
ここが揺れるのは、自身が清められたことを悟って、
誰かの魂が上へと昇るために
起き上がるか動きはじめたときであり、あの歓声はそれに続きます。
・・・」(311ページ) 「地震」と歓呼の声は、煉獄の魂が償いを終えて天国に向かって歩きはじめたときに起きる現象なのであり、自分がその原因となった天国に向かっている魂なのだと答える。煉獄山で起きた揺れは、現世の人間が経験する地震とは異質のものであるというのである。では、この魂は何者であるのか?

いつもと違って

1月11日(月)晴れ後曇り

いつもと違って

いつもと違って
今夜の
中華料理店の雰囲気が
明るいのは
和服姿の若い女性が
彼氏と二人で食事しているからか…

今日は「成人の日」で
和服姿の若い女性を
大勢見かけたが、
便乗して、
和服で出かける
それほど若くない女性も
少なくないらしい

若さは美しく
和服も美しいが、
両方の美しさがぶつかり合って
なんとなく落ち着かないのが
成人の日の和服姿だ
これから二つの美しさが
次第次第に一つのものに
育っていくはずだ…と信じることにしよう

中華料理店のもう一方では
老女が嬉しそうに
酢と醤油とラー油を混ぜて
餃子のたれを作っている
嬉しそうな表情の
意味は不明だが
とにかく嬉しいことはいいことだ

和服姿の若い女性は
落ち着いた様子で話しながら
料理を食べて
彼氏と二人で出ていった
彼女の和服の着こなしは
堂に入っていたので
新成人には見えなかったが
あるいは新成人であったかもしれない

あと50年もすれば
彼女は
嬉しそうに餃子の
たれを作っていた老女の年齢に達する
その時、彼女は
50年前のことを
どのように思いだすのだろうか
その頃彼女は
まだ和服を着ることがあるのだろうか
そして誰が
彼女の和服姿をほめるのだろうか

『太平記』(85)

1月10日(日)晴れ

 元弘3年(1333年)5月8日に、倒幕の意思を固めていた上野の武将・新田義貞は生品明神で挙兵した。まもなく越後の新田一族がはせ参じ、翌9日、足利千寿王が200余騎で合流すると、関東一円の武士たちが馳せ加わった。新田の討伐に向かった幕府軍が、小手指河原・久米川の合戦で敗れると、北条高時の弟の泰家が大軍を率いて加勢に向かい、15日、分陪河原での緒戦に勝利したが、三浦大田和義勝率いる相模勢が新田軍に合流すると、翌日の合戦では大敗した。鎌倉に迫った新田軍は、18日、極楽寺坂、小袋坂、化粧(けわい)坂の三方から攻撃を開始した。幕府最後の執権、北条(赤橋)盛時は、自分の妹が嫁している足利高氏が幕府を裏切って後醍醐天皇方につき、六波羅を攻め落としたことに自責の念を感じ、洲崎の陣で自害した。このため、洲崎方面を守っていた幕府軍が壊滅し、18日の夜には新田軍は山内にまで攻め入った。新田軍は極楽寺坂方面で盛んに攻勢をかけたが、幕府方も必死に守り、新田方の大将である大館次郎宗氏が戦死し、軍勢も肩(片)瀬、腰越まで退却を余儀なくされた。
 この知らせを聞いて、5月21日の夜に義貞は2万余騎の兵を率いて、肩瀬、腰越方面の様子を探ったが、幕府方の守りは固く、しかも陸上だけでなく、海上にも軍船を並べて波打ち際を攻め寄せようとする兵力を狙って一斉に矢を射かけようとしている。「げにもこの陣の合戦に、寄手叶はで引きけるは理(ことわ)りなりとぞ見給ひける」(第2分冊、128ページ、まさしくこの陣の合戦で、攻撃側が劣勢になって退却したのは当然のことだとご覧になったことである)。

 義貞は、馬から降りて、兜を脱いで、海上の方角を伏し拝み、竜神に向かって誓いを立てるお祈りをされた。「伝え聞くところによると、日本の国土の創造の主である天照大神は神の本体を大日如来のお姿の中に隠し、変化身を青海原の龍神と現じられた。大神の子孫であられる後醍醐天皇が逆臣北条氏によって隠岐に流刑にされるという憂き目に遭われている。義貞は今、臣下としての道を尽くすために逆賊である北条氏と戦おうとしている。その志はひとえに王の徳化(政道)をお助け申し上げて、蒼生(人民)を平安ならしめるためである。(以下原文のまま) 仰ぎ願はくは、内海外海の龍神八部、臣の忠誠を鑑みて、朝敵を万里の際に退け、道を三軍の陣に開かしめ給へ」(第2分冊、128-129ページ)と心を込めて祈り、自分が佩用していた金細工で飾った太刀を外して、海中に投じられた。

 この祈りを龍神八部も聞き届けたのであろうか、その日の月の入りの刻限にこれまで決して干上がることのなかった稲村ケ崎の海岸が20余町(2キロ以上)干上がり、「平沙まさに渺々たり」(第2分冊、129ページ、平らな砂浜がはるばると広がった)。沖合から矢を射かけようと待機していた多数の軍船もはるか彼方に流されて海上をさまよっている有様である。
 義貞は漢の将軍李広利が刀で山を刺すと、飛泉が湧出した例、神功皇后が新羅を攻められた時に、干珠を海に投げ入れる利雄が引いた例を挙げて、これは戦いに勝つ前兆であると士卒を励ました。そこで、新田一族の江田、大館、里見、鳥山の人々をはじめとして、越後、上野、武蔵、相模の軍勢が一緒になって、稲村ケ崎の遠くまで広がった干潟を一文字に駆け抜け、鎌倉中に乱入した。極楽寺坂を守っていた幕府軍は敵が背後に回ったのを知って、慌てふためき、混乱するばかりである。

 幕府方の武士で島津四郎というものがいたが、彼は大力の評判高く、外見も武技の能力も優れているとの評判が高く、幕府の一大事の時に頼りにすべき人物であると大事にされてきて、北条高時の内管領である長崎円喜が元服の名付け親になり、一人で千人にあたる勇士と頼りにされ、鎌倉を防衛している七口の前線に出さずに、最後の切り札として高時の身近に配置されていた。
 稲村ケ崎が突破されて、新田軍がいよいよ若宮小路まで攻め込んできたと騒がしくなってきたので、高時は島津四郎を呼んで、自ら酒を注いで進め、3杯ほど飲んだところで、厩に置かれていた坂東一といわれる比類のない名馬があるのに、銀で縁飾りをした鞍を置かせて、島津四郎の乗馬として与えた。周囲の人々はこれを見て羨まぬ者はいなかった。
 高時の邸の門前から、この馬に乗って、由比ガ浜の潮風に大きな笠符を吹き流させ、周囲を威圧して同道と向かってきたので、数万の軍勢はこれを見て、噂通り一騎当千の武士であると思うのであった。これまで、長崎円喜が彼を勝手気ままにふるまわせてきたのも、この時のためであったのかと誰もが思ったほどの武者ぶりである。

 新田勢の武士たちは、これを見て、よい敵に出会ったと思ったので、栗生(群馬県桐生市)、篠塚(邑楽=おうら郡邑楽町)の武士たち、それに畑六郎左衛門などの剛勇の武士たちが、自分こそ先に勝負しようと馬を進めて近づいていった。両軍の大力で名高い武士が、余人を交えず、勝負を決しようとするのを見て、敵味方の軍兵、かたずを飲んで見守る中で、島津は近くまで寄るには寄ったが、馬から降りて、兜を脱ぎ、新田勢に降参して、幕府攻撃軍に加わることを申し出た。「貴賤上下これを見て、悪(にく)まぬものはなかりけり」(第2分冊、131ページ)と『太平記』の作者は記している。

 これを降参するものの初めとして、長年北条氏の重恩を受けた家来たち、あるいは代々仕えてきた家来たちが、親を離れ、主人を捨てて、新田軍に降参し、幕府攻撃に加わったので、両者の力関係はもはやこれまでというところまで決定的な違いを見せるに至った。

 小学唱歌「鎌倉」は、芳賀矢一(1867-1927)の作詞によるものであるが、その第1番で「七里ガ浜の磯伝い、稲村ケ崎名将の 剣投ぜし古戦場」と歌う。『私本太平記』で吉川英治が書いているように、太刀を海中に投げ入れたというのは、『太平記』の作者の創作であり、むしろこの日が大潮であったことを義貞が見抜いたことこそ、高く評価すべきであろう(義貞がこのことを近くの漁師から聞いたのか、暦法の知識があったのかには、想像力を働かせる余地がある)。義貞が龍神に向けて祈る言葉は、中世人である『太平記』の作者のものの考え方をよく反映したものとして、特に<中世神話>との関連で興味深い。
 天照大神⇔大日如来という組み合わせは、八幡神⇔阿弥陀仏という組み合わせと対比して考えるべきであろう。巨大な阿弥陀像である鎌倉の大仏の近くの稲村ケ崎から侵入した新田軍が、鶴岡八幡宮から由比ヶ浜に至る若宮小路に迫ったというのには、現実的な意味以上の象徴的な意味があったと考えるべきではないか。

 『保元物語』の源(鎮西八郎)為朝、『平治物語』の源(悪源太)義平、『平家物語』の平(能登の守)教経というように軍記物語には、この人物の活躍で形勢が逆転するのではないかという剛勇の人物を敗者の側に配している例が続いてきた。『太平記』の島津四郎は北条一族ではないし、これまで作品中で活躍したわけでもないので、逆転のヒーローとしての活躍を期待するのは土台無理なのである。高時から大いに期待されながら、いともあっさり高時を裏切ってしまう。こういう人物が登場してくるところに『太平記』の新しさがあるわけであるが、それが歓迎すべき質の「新しさ」であるかどうかは、読者の判断にゆだねられる。

ローマに消えた男

1月9日(土)晴れ

 横浜シネマ・ジャックでイタリア映画『ローマに消えた男』(Viva la liberta)を見る。原題は「自由万歳」ということで、日本語題名とかなりの落差がある。それが日本とイタリアの社会と政治の落差かもしれないと思った。

 総選挙間近なイタリアで、最大野党である左派政党の党首エンリコ・オリヴェーリ(トニ・セルヴィッロ)は不人気なうえに、反対派を締め出す方針を貫いていて、支持率が低迷している。党の集会でも、締め出したはずの反対派のヤジが飛ぶのを気にしている。ある日、彼は書置きを残して、アパートから姿を消す。党の幹部たちは大騒ぎで、その行方を探るが、そのうち、彼の双子の兄弟で精神病院に入院しているジョヴァンニ・エルナーニ(ト二・セルヴィッロ一人二役)が彼とそっくりであることを知り、ジョヴァンニを当座しのぎの替え玉に起用する。ところが、口の重いエンリコとは対照的に、名文句が口から次々と飛び出すジョヴァンニの発言がマスコミと大衆に受けて、政党の支持率は急上昇していく。その一方で、エンリコはパリに住む昔の恋人ダニエル(ヴァレリア・ブルーニ・テデスキ)のもとに姿を隠す。彼女は東洋系の映画監督であるムングと結婚して子どもを儲けており、ムングの映画撮影のために南仏に移ったエンリコは、映画の製作を手伝うようになる。もともと彼は映画が好きで、ダニエルとも映画を通じて知り合っていたのである。双子の兄弟それぞれの動きは、エンリコの側近の政治家たち、エンリコの妻、ダニエルの家族など、彼らに関係する人々をまきこんでいく・・・。

 エンリコもジョヴァンニもそれぞれ病気治療中で、薬を毎日服用している。日本だと薬を買うのに医師の処方箋が必要な病気のはずだが、イタリアやフランスではそうではないのだろうか。以前公開されたイタリア映画『人生ここにあり』(Si può fare!)に描かれていたように、イタリアの精神科の治療は日本とはかなり違うようである。ジョヴァンニが病院の仲間にも人気があるという描き方には意味がありそうである。『ローマに消えた男』という日本語の題名だが、映画の舞台はローマだけでなく、パリ、そして南仏にも設定されているので、『ローマから消えた男』のほうが内容に近いのではないかと思う。

 表面的にはイタリアの政局の混乱を風刺した喜劇と受け取れるかもしれないが、より一般的・普遍的な意味をもつドラマであるかもしれない。自由民主主義は自由と平等の2つの原理の調和を図ろうとする考え方であるが、その中で左派政党は一般に平等を強調して、自由を軽視する傾向がある。その党首が自由を求めるというのがまず皮肉である。彼の選択した自由は、映画製作であり、その双子の兄弟は政界でもてはやされることを選択する。それぞれの選択が他ならぬ映画で描かれているというのも皮肉と考えてよさそうである。

 ジョヴァンニはやたら、文学作品の中の名文句を引用する癖があり、その芝居がかった調子が大衆の人気を博す。古典についての知識もなく、現実も見えず、修辞の技能も身に着けていない日本の政治家の文学的な素養の貧しさに慣れてしまっていると、この映画は案外新鮮に感じられるのではないか。政治的な演説をする場合に、過去の文学作品と統計的な数字の引用が効果的であるといわれるが、彼の場合は片方が欠けているのである(彼の演説に拍手を送っている大衆がそのことに気付いているかどうか)。現実的な裏付けのない名文句の羅列と名調子は、どれだけマスコミの支持を受けても、どこかで化けの皮が剥がれるものである。
 双子がもとに戻ったら、悲劇が起きるかもしれず、このまま突き進めば、悪夢が展開するかもしれない。悲劇か悪夢かという選択には救いがない(悪夢は夢だから、まだ救いがあると考える人もいるだろう…!?) それがイタリアだけのことと考えるか、もっと普遍性をもつものと考えるか、それはこの映画の評価と結びつくだろうし、もし普遍性をもつとすれば、それがどのように日本の社会あるいは政治の評価を結びついてくるのかも考えてよいことではないかと思うのである。

マイ・ファニー・レディー

1月8日(金)曇り後晴れ

 横浜シネマ・ジャックでピーター・ボグダノヴィッチ監督の『マイ・ファニー・レディ』を見る。原題は”She's Funny That Way”で「あの娘はあんな風にファニーなんだよね」というような意味である。ハリウッドのスターに上り詰めた若い女性イジー(イサベル:イモージェン・プーツ)が記者の質問に答えながら、自分がスターになってきた過程を思い出していくという枠の中で、彼女と偶然に出会ったブロードウェイの売れっ子演出家アーノルド(オーウェン・ウィルソン)や、その妻で女優のデルタ、デルタに好意を寄せるスター俳優、イジーに一目ぼれする脚本家、その脚本家の恋人のセラピスト…などが登場する。

 アーノルドはイジーに「君の将来のために3万ドルをプレゼントする」と言われ、さらにその後、彼が演出し、彼の妻のデルタが主演する舞台劇に出演するオーディションを受けることになる。そして見事に合格し、上演に向けての稽古が始まる。実は狭い世界の中での入り組んだ人間関係がもつれ合いながら繰り広げられるシチュエーション・コメディーである。舞台劇への取り組みを描きながら、映画の構成は必ずしも演劇的ではなく、現在と過去が映画的にまとめられている。3万ドルを与えるときに、リスとくるみの譬えが使われるのだが、これがある映画のパクリであることが、物語の進行とともにわかる。そんなことも見ていての楽しみの一つであろう。

 イジーにインタビューしている女性記者が何とか彼女の過去、コールガールだったという告白をひきだそうとするのだが、イジーもさるもので、なかなか口を割らない。その中で『ティファニー』をはじめとしていろいろな映画の中の台詞や映画スターのエピソードを引き合いに出す。イジーがどちらかというと理想に傾斜した「伝説」を語りたがるのに対して、記者が「真相」をぶつけて彼女自身の真相を暴きだそうとする。その丁々発止のやり取りも見どころの一つである。その中でリタ・ヘイワースのエピソードが出てきて、イジーとアーノルドが馬車に乗る場面が描かれるが、これは『上海から来た女』のリタ・ヘイワースとオーソン・ウェルズの場面を意識したのかな、と思ったりした。

 シチュエーション・コメディーというのはシチュエーション(状況)が生み出す喜劇ということで、この作品の初めの方でアーノルドがホテルに泊まって女を呼ぼうとして、自分の携帯電話とホテルの電話とを交互に使っている場面などがシチュエーションを利用した笑いの典型例といえるだろう。この他にも、偶然の鉢合わせとか、立ち聞きとか、考えられる喜劇的なシチュエーションは網羅されているようである。ここで笑いを呼ぶシチュエーションは、不倫とか二股恋愛が絡んでいるのだが、それほど猥雑であるとは感じられない。怪しげな職業をしているが、そういう雰囲気を感じさせないイジーの性格表現が生きている。彼女が『ティファニーで朝食を』のオードリ―・ヘップバーンの演技と台詞を引き合いに出しているのも効果的に思われる。記者の役をはじめ、イジーの尾行を依頼されている探偵の役とか、その他さまざまな脇役の個性的な表現が、主要登場人物の性格描写をさらに盛り上げている。

 それやこれや、一方で映画史の研究家として知られ、他方で喜劇づくりの名手でもあるボグダノヴィッチ監督の個性がよくいかされ、往年の名作を模した画面や台詞が頻繁に使われていて、その意味でも楽しい映画に出来上がっている。ただ、映画についてある程度の知識がある観客にとって面白くても、そうではない観客に面白いと思ってもらえなければ、興行的な成功は望めない。ボグダノヴィッチ監督の若いころの作品ではシチュエーション・コメディーとはいっても、ドタバタ場面が効果的に使われていたのだが、この作品では入り組んだ人間関係の織り成す喜劇性の方だけが強調されている。演技するほうだけでなく、演出するほうにとってもドタバタは体力がいるのかな、と思ったりした。もっと単純に笑わせてほしかったという気持ちもないではない。

日記抄(1月1日~7日)

1月7日(木)曇り

 1月1日から本日までの間に経験したこと、考えたこと、ブログに書き洩らしたことなど:
1月1日
 ここ数年、除夜の鐘をきかず、横浜港に停泊している船舶の越年を知らせる汽笛も聞かずに年を越している。私の住処のある丘の反対側に寺があって、昔はそこの除夜の鐘が聞こえていたのだが、聞こえなくなったのはいつのことであろうか。

 正月の過ごし方は少しずつ変わっている。変化を見逃さないようにしたいものである。

1月2日
 ニッパツ三ツ沢球技場で全国高校サッカー選手権の2回戦2試合、鳴門高校(徳島県)対矢板中央高校(栃木県)、富山第一高校対日章学園高校(宮崎県)の試合を観戦する。第1試合の開始早々に矢板中央高校のMF坪川選手が鳴門のGKが前に出ていたのを見逃さずに、センターサークル付近からロング・シュートを決めて先制点を奪う。さらに後半2点を挙げて、矢板中央が快勝した。第2試合は富山第一高校が前半に挙げた1点を守り切って、3回戦進出を決めた。
 今年の大会は、場内で酒類を販売していないのが目立った変化である。

 この日のブログに「年号」のことを書いたが、日本で最も長く続いた年号は「昭和」で1926年から1989年まで、次が「明治」で1868年から1912年までであるが、3番目は何かというと「応永」で明徳5年7月5日(ユリウス暦1394年8月2日)疱瘡の流行により改元~応永35年4月27日(ユリウス暦1428年6月10日)正長に改元するまで続いている。後小松天皇、称光天皇の在位期間にまたがり、室町幕府の将軍は足利義満、義持、義量と代わっている。この時代に生まれた有名人としては、一休宗純(1394-1481)、一条兼良(1402-1481)、蓮如(1415-1499)があげられる。一休さんがまだ小坊主で頓智を働かせていた時代と考えると、この時代への親しみがわくのではなかろうか。

1月3日
 ニッパツ三ツ沢球技場で全国高校サッカー選手権の3回戦2試合を観戦する。地元の桐光学園高校の試合があるので、早めに出かける。予想通り、かなりの混雑になった。第1試合は矢板中央高校と富山第一高校の対戦で、矢板が前半に1点を先制したが、富山が後半に同点に追いつき、アディショナル・タイムに1点を挙げて逆転勝ちした。第2試合は、さらに劇的な展開となった。桐光学園高校(神奈川県)と青森山田高校の対戦で、桐光が前半にFW小川選手の2本のゴールで先行、後半に入っても有利に試合を進めたが、小川選手がPKを外して追加点を奪えなかったのが、尾を引くことになる。青森山田は最終盤になってセット・プレーから2点を挙げて追いつき、まさかのPK戦となった。両チームともに4人ずつがPKを決め、桐光の5人目が小川選手だったが、ゴールをとらえることができず、逆に青森山田の5人目の選手はPKを決めて、大逆転となった。桐光は終盤で勝ちを意識しすぎたのが悪い結果を生み、青森山田は最後まで勝負をあきらめない執念が実を結んだ形である。

1月4日
 紀伊国屋そごう横浜店で東海林さだお『さらば東京タワー』(文春文庫)とレーヴィット『ヘーゲルからニーチェへ(上)』(岩波文庫)を購入する。木田元さんは、その著『マッハとニーチェ』(講談社学術文庫)の中で、19世紀の(哲学を中心とする)思想史を整理・概観した書物は今のところ無きに等しい状態であるといいながら、レーヴィットの『ヘーゲルからニーチェへ』は「一つのみごとな19世紀思想史である」(12ページ)と評し、斎藤忍随、生松敬三と3人で名著なのに翻訳がこなれていないのはもったいない、「けっして読みやすいとは言えない現行の翻訳の悪口」(同上)をいいあったことを思い出している。悪口をいわれたのは柴田治三郎訳で、今回は三島憲一の翻訳で刊行されている。一応哲学史なのだが、哲学以外の領域にも配慮しているのはレーヴィットの本も、木田さんの本も同じである。

 横浜駅西口JOINUSの蕎麦屋である更科一休に初めて出かける。以前はJOINUSとザ・ダイヤモンドに1軒ずつ店を出していて、ダイヤモンドの方の店にはよく出かけていたのだが、地下街の再編成で店が1つにまとめられ、わたしから見ると不便な場所に店が移ったので足が遠のいていたのである。顔見知りの店員がいたので、昔話のような、そうでないような話をした。

1月5日
 ニッパツ三ツ沢球技場で全国高校サッカー選手権の準々決勝2試合を観戦する。地元校が敗退したとはいうものの、かなりの観客が詰め掛けていた(競技場の収容人数が少ないということもあるかもしれない)。第1試合の青森山田高校対富山第一高校、第2試合の国学院久我山高校(東京A代表)対前橋育英高校(群馬県)ともに前半は0-0、後半に、第1試合は青森、第2試合は国学院が得点して1-0で勝つという競り合いになった。どちらの試合も、どちらのチームを応援するというわけではない(そういえば、昔おしえた学生の中に富山第一の卒業生が何人かいたが、応援したくなるほどのかかわり方ではなかった)のだが、それぞれに見応えがある好試合であった。

 東海林さだお『さらば東京タワー』(文春文庫)を読み終える。年をとると老と病とが主に頭を襲ってくる、内側からはボケ、外側からはハゲ、気になるのはハゲのほうだと東海林さんは言う。それでも、「池上彰さんという人がいますね。/『いい質問ですね』の人。/あそこまではいってませんからね、ぼくは」(11ページ)と、自分の頭の状態について他人と比較しながら検討を怠らない。
 昨年10月15日の「ラジオ英会話」で”Good question."(いい質問ですね)という表現は、相手の質問に答えられない、あるいはこたえない方がよいと判断したときにも使うと解説されていた。アメリカ英語と英国の英語の違いはあると思うが、英国人が何度か、この表現を使う場面に出会った。必ずしも、その質問を喜んでいるというニュアンスではなかったように思う。英語がよくできる池上さんのことだから、この表現のニュアンスはよくご承知のはずである。問題は、そういわれた方の返し方であるかもしれない。

1月6日
 NHKラジオ「実践ビジネス英語」は”Generation Z Rising"(Z世代の出現)という話題を取り上げている。昨年の4月末から5月にかけてのこの番組では”Sizing Up the Millennials"(2000年世代の評価)という話題を取り上げたが、そのMillennnialsに続く世代がGeneration Zで、1990年代の後半から後に生まれた、現在10代の若者たちを指していう言葉だそうである。第二次世界大戦後のベビー・ブームで生まれたBaby Boomersのあとに、1960年代・70年代生まれのGen(eration) Xer (X世代)が続き、そのつぎがMillennials,そしてGeneration Zということになる。Generation Zのあとの世代は何と呼ばれることになるのか、それがわかるときまでこちらが生きているかどうかがあやしい。

1月7日
 NHKラジオ「まいにちイタリア語」応用編は〝Un passo avanti!"(~今さら聞けない文法の不思議~)という新しい番組が始まった。
 定冠詞は、聞き手が「それと分かっているだろう」、「区別できるだろう」と、話し手が判断したという前提で用いるという。だから、「私は、友人に会った。」というのをイタリア語に訳すときに
Ieri ho incontrato un mio amico.
と、不定冠詞を使わなければならない。友達は大勢いて、その中の特定の誰であるかは聞き手にはわからない。(英語だと、冠詞と所有形容詞を並べて使うことはないが、my friendではなくて、a friend of mineとしなければならないと考えると、分かりやすい。)
 どうも冠詞の使い方は難しいが、ラテン語には冠詞はなかったというところまで話が及んだ。冠詞の使い方がどうも苦手だという人は、ラテン語を勉強するといいということになるのだろうか。
 冠詞がないといえば、ロシア語、あるいはその他のスラヴ系言語の大部分も冠詞がない。あるロシア人が、ロンドンの町で時刻を訊こうと思って、”Excuse me, what is time?" と話しかけたところ、それは大変に難しい問題ですと答えられたという笑い話を高校時代に勉強したことがある。この場合、”What is the time?"(あるいは、われわれが普通、英語の時間で習う言い方を使えば、What time is it ?")といわないといけない、”What is time?"では「時間とはどういうものですか?」という意味にとられてしまうのである。

 本日をもって、渋谷シネマライズが閉館とのニュースを知る。最近、足を運んでいなかったが、そのことを含めて残念に思う。また、映画館がひとつ消えた。(その一方で、新しく開館する映画館もないではないのだが…)

七種や茶漬に直す家ならひ  朱拙
 柴田宵曲『古句を観る』(岩波文庫)を読み返していて、この句に出会い、定食屋で女主人と客とが七草粥と茶粥をめぐっていろいろと話していたのを思い出した。こちらは脇で聞いていただけだから、どういう脈絡だったのか、よくわからないのである。宵曲が書いているように、この句にもわかりにくいところがある。
七種や八百屋が帳のつけはじめ  汶村
 「新年も松の内位までは、めでたく平穏な日が続く上に、いろいろ暮にととのえた物があって、庖厨に事を欠かぬ。七日に至ってはじめて八百屋に用が出来るのは、七種粥の関係もあるが、この日あたりを境界として、漸く平生の生活に還ろうとするためであろう。八百屋の帳面にも初めて記載事項が出て来る。・・・/「八百屋が帳のつけはじめ」は瑣事中の瑣事である。こういう事柄を捉えながら、さのみ俗に堕せず、のんびりした趣を失わぬのは、元禄の句の及びがたい所以である。」(柴田、36ページ)
 この句は昨年も取り上げた。こんなふうにおっとりとではあるが、確かな足取りで、普段の生活に戻っていきたいものである。(汶村にはもちろんのこと、宵曲にもあこがれるところがある。)

故郷――『リトアニアへの旅の追憶』から

1月6日(水)曇り後晴れ

故郷――『リトアニアへの旅の追憶』から

逃げた
故郷から逃げた
憲兵に追いかけられていたし
新しい生活にあこがれる気持ちもあった

ぼくは海を渡り
新しい土地にたどりついた
そこでぼくは
孤独と出会った
孤独と出会っただけでなく
孤独な人たちとも出会った
それぞれの孤独を確認しようと
カメラを買って
映画を撮りはじめた
孤独な心が
少しずつ結びつきはじめた
――ような気がした

平和が戻り
そこそこ財産ができて
ぼくは故郷に帰ってみようかと
思った

故郷はむかしのままの姿で
ぼくを迎えてくれた
新しい土地で
豊かで便利な生活になじんでしまうと
故郷はまったくの異郷に思えてくる
懐かしいという気持ちだけでは
暮らすことはできそうもない

故郷でもぼくは
カメラを回したが
過去の記憶が
どこかへ消え去ってしまっていたことに気付く
それはもう
取り戻そうとしても
取り戻すことはできない

ぼくはまた
孤独に出会った
距離を埋めることはできても
時間の隔たりを埋めることはできない
故郷はそんな
遠くにある

ダンテ・アリギエリ『神曲 煉獄篇』(20-2)

1月5日(火)晴れ、温暖

 1300年4月12日にダンテはウェルギリウスとともに煉獄の第5環道にたどりついたと第19歌では歌われていた。第19歌でダンテは貪欲の罪を贖う魂たちの中から、ローマ教皇であったハドリアヌスⅤ世の魂に出会ったが、第20歌ではフランス王家の先祖であるユーグ・カペーの魂に出会う。カペーの魂は彼の子孫であるフランスの王たちが、対外侵略を繰り返していることを非難する。

「…白百合の花の楯がアナーニに侵入する。
代理人格の中にいるキリストがとらえられる。
・・・」(298ページ、「白百合の花」はフランス王家の紋章。アナーニは当時のローマ教皇であるボニファティウスⅧ世の出身地で、彼の夏の居館が置かれていた。フランスのフィリップ美王は1303年に、アナーニの居館にいた教皇を襲い、幽閉し、教皇は解放されたもののその直後に憤死した。この出来事をめぐり、ダンテは教皇をキリストに、フランス王をキリストに死刑判決を下したピラトになぞらえて描く(度々の繰り返しになるが、フランス王のイタリア侵略は、ダンテがカペーの魂に煉獄で出会った後の出来事であり、カペーの発言は予言の性質をもっているが、実際にはダンテは侵略戦争の結果を知ってこのくだりを書いているのである)。
余には見えているのだ、あの方が再び嘲られる。
余には見えているのだ、酢に苦いものが加えられた侮辱が新たにされ、
あの方はよみがえった盗賊の間で殺される。
(同上) 

 そしてカペーは彼の子孫であるフランスの代々の王の貪欲=征服欲を非難しつづける。彼のほかにも、生前に征服欲にかられて侵略戦争を続けていた国王たちが、第5環道を贖罪の声を上げて歩いて回っているのである。

すでに私達は彼から離れて、
そしてでき得る限り、
遠くまで道を進もうと力をふりしぼっていた。

その時に私は感じた、まるでどこかが崩落しているかのように
山が揺れるのを、それゆえ私は、死刑へと赴く者が
決まって襲われる類の寒気に襲われた。
(302ページ) カペーから離れて、道を急ぐ2人は煉獄山全体を揺らす地震に出会う。日本と同じく火山の多いイタリアに暮らしていたダンテは、地震を何度も経験していたはずであるが、そのような彼でも驚くような大地震であった。

その後で山のあらゆる場所から同じ一つの叫びが上がりはじめた。
その声に、師が私のほうへ身を寄せられたほどだった、
こう言いながら、「我がおまえを導く限り、怯えることなかれ」。

「最も高い空にまします神に――皆が――栄光あれ」
と言っていた、あたりのものから私が理解した限りでは。
彼らの叫び声からそう聞き分けることができたのだ。
(302-303ページ) なぜ、イエス・キリストの降誕の時に羊飼いたちが歌った歌が、ここで聞こえてくるのか。歌と地震との間にはどのような関係があるのか。ダンテにはわからない。
知らないということで、わたしは未だかつてあれほど攻め立てられ、
知りたいという欲求に満ちていたことはなかった、
我が記憶がそのことで誤っていないのならば。

それほどに、あの時、私は深く考え込みながら知りたがっている様子を見せていた。
急いでいるために私はあえて質問しようとはしなかったし、
あの場のことを私一人では理解できもしなかった。

こうして私は、ためらいつつも深く思索しながら歩いていった。
(304ページ) 第4環道から第5環道にかけて、ダンテは人間の行動の原動力となる愛がその不足や過剰によって世界に不幸をもたらすこと、とくにこの世になぜ戦乱が絶えないのかについて考えてきた。地震と歌声は、彼の新しい疑問を抱かせ、それがこれからの旅の中で解明されていくことになる。

 

2015年の2015

1月4日(月)晴れ

 2015年には2都県に足跡を記した(東京、神奈川)。
 市区町村では3市(横浜、川崎、逗子)、8区(文京区、千代田区、新宿区、豊島区、杉並区、渋谷区、港区、品川区)。
 利用した鉄道は6社(東急、京急、JR東日本、東京メトロ、横浜市営地下鉄、東京都営地下鉄)。
 路線は17路線(東横線、目黒線、大井町線、本線、逗子線、東海道線、根岸線、山手線、総武・中央線、半蔵門線、南北線、東西線、丸ノ内線、副都心線、グリーン・ライン、三田線、新宿線)。
 バス社3社(横浜市営、相鉄、神奈川中央交通)、7路線(横浜市営25,34,35,87,202、相鉄浜7、神奈中1)。
 鉄道の駅(25)とバスの停留所(7)の詳細は省くことにした。〔78〕

 2015年に書いたブログが370件、頂いたコメントが32件、トラックバックが3件、拍手コメントが12件であった。このほかに2015をはるかに上回る拍手を頂いている(感謝)。〔417〕

 買った本が162冊で、読んだ本が120冊。12月に読んだ本は14冊で、中野明『東京大学第二工学部』、ジョン・ディクスン・カー『髑髏城』、山折哲雄『「歌」の精神史』、シャーロット・マクラウド『蹄鉄ころんだ』、今野浩『工学部ヒラノ教授のアメリカ武者修行』、椎名誠『ここだけの話』、梅棹忠夫『日本語と事務革命』、田中啓文『鍋奉行犯科帳』、マーカス・デュ・ソートイ『数字の国のミステリー』、コリン・ホルト・ソーヤー『フクロウは夜ふかしをする』、コリン・ホルト・ソーヤー『殺しはノンカロリー』、田中啓文『鍋奉行犯科帳 道頓堀の大ダコ』、望月麻友『京都寺町のホームズ③ 浮世に秘めた想い』、田中啓文『鍋奉行犯科帳 お奉行様のフカ退治』である。年末の帳尻合わせのために読みやすい本ばかり読んだという感じがしないでもない。本を買った本屋は紀伊国屋横浜店、紀伊国屋本店、丸善ジュンク堂渋谷店の3軒である。〔123〕

 NHK「ラジオ英会話」を233回、「入門ビジネス英語」を72回、「実践ビジネス英語」を144回、「攻略!ビジネス英語」を94回、「まいにちフランス語」を206回、「まいにちイタリア語」を234回、「アラビア語講座」を24回、「まいにちドイツ語」を60回聴いている。このほか、「ワンポイントラジオで英会話」を240回聴いたことになるのだが、再放送が多いので、正確な回数はわからない。なお、テキスト70冊分をこなしたことになる。〔1137〕

 NHKカルチャーラジオの「富士山はなぜそこにあるのか」を10回、「ガリバー旅行記」を11回、「続シルクロード10の謎」を11回、「17音の可能性」を12回、「私の落語はくぶつ誌」を12回、「私達はどこから来たのか」を11回、「ボブ・ディラン」を12回、「プロテスト・ソングとその時代」を12回、「琳派400年」を12回、「弥次さん喜多さんの膝栗毛」を13回聴いている。合計で116回になる。これも正確な数を数えたわけではない。このうち、「ガリバー」、「私達は」、『弥次さん喜多さん』についてはテキストを購入して聞いている。
〔119〕

 12月に6本の映画を見て、1年間に見た映画は52本となった。12月に見た映画は『黄金のアデーレ』、『珍品堂主人』、『巌窟の野獣』、『偉大なるアンバーソン家の人々』、『浜辺の女』、『バルカン超特急』である。年間を通してみると、監督別では鈴木清順とヒッチコックがそれぞれ3本、豊田四郎、中平康、川島雄三、S・ライ、オーソン・ウェルズがそれぞれ2本ということになる。俳優では芦川いづみ、渡辺美佐子の出演作を4本、淡島千景の出演作を3本みている。他にも3本以上出演作を見た俳優はいるかもしれない。中平康監督の『誘惑』、『その壁を砕け』の2本には芦川いづみさん、渡辺美佐子さんともに出演している。出かけた映画館は9館で、神保町シアターで16本、シネマヴェーラ渋谷で12本、横浜シネマ・ジャック&ベティで10本、イメージフォーラムと横浜駅西口ムービルでそれぞれ4本を見ている。〔61〕

 サッカーの試合を2つの競技場(ニッパツ三ツ沢、等々力)で20試合(全国高校選手権4試合、J212試合、天皇杯1試合、高校選手権神奈川県大会3試合)観戦している。〔22〕

 ハドソン・テラスさん(「楽しいスケッチ」)、早川修さん、西岡民雄さんの個展を見に出かけている。別府葉子さんのコンサートを聞きに出かけた。〔4〕

 酒を飲まなかった日が12月は10日あり、1年では50日に達した。〔50〕

 研究会やその他の用事で、早稲田大学、青山学院大学、明治学院大学に出かけた。〔3〕

 先祖の墓のある寺に墓参りに出かけ、また逗子の亀ヶ岡八幡に参拝した。〔2のつもりだったが、後で数え直したら、1でよかったので、墓参りの方を省略する。〕

 これでかなり怪しげで、誤差もありそうだが、2015の2015を達成したことにさせていただく。

 2016年も2016を目指すが、もう少ししっかりと数えられるように記録を整備するつもりである。

『太平記』(84)

1月3日(日)晴れ、温暖

 元弘3年(1333年)5月8日、上野の国(現在の群馬県)の武士・新田義貞は生品明神で倒幕の兵を挙げた。近国の新田一族の武士たちが加わり、翌9日には、鎌倉を脱出した足利高氏の子・千寿王(後の義詮)が合流し、これを知って関東一円の武士たちが次々に討幕軍に加わった。新田の討伐に向かった幕府軍が、小手指原・久米川の合戦で敗れると、幕府は北条高時の弟である泰家に大軍を与えて加勢させた。15日の分陪河原の戦いで、幕府軍が勝利したが、三浦大田和義勝の率いる相模勢が新田軍に合流すると翌日の合戦では油断しきっていた幕府軍は大敗した。鎌倉に迫った幕府軍は18日、鎌倉への入り口である極楽寺坂、小袋坂、化粧坂(けわい)坂の三方から攻撃を開始した。新田勢は大軍で押し寄せ、幕府側は数で劣るとはいえ防御の要地を占めていたので、なかなか勝敗は決しなかった。

 赤橋相模守盛時(守時)は、小袋坂の西の洲崎{鎌倉市の寺分(てらぶん)・山崎・上町谷のあたり}に向かったが、敵の勢いが強く、昼夜65度の戦闘の結果、数千騎を数えた郎等もあるものは負傷し、またあるものは敗走したために今やわずかに300余騎となってしまった。同じく洲崎で戦っていた侍大将の南条左衛門高直に向かって、次のように述べた。むかし、漢の高祖と楚の項羽とが戦った時、高祖は度々敗戦したが、最終的には勝利した。春秋五覇の1人である晋の文公も斉との戦いに何度も敗れたが、最終的には勝利した。それゆえ百度敗れても、最後の一戦で大勢を逆転できるというのが戦いというものである。現在、新田勢が有利に戦いを進めてはいるが、だからといってこれにより幕府が敗れ、亡びるとは限らない。
 そういいながらも、盛時は、自分自身については、戦いの最終的な結果を見届けずに、ここで自刃するつもりだという。それは、彼の妹が足利尊氏(なぜか、本文ではこうなっている)に嫁しており、そのことのために北条高時以下の幕府の要人たちは自分を警戒しているからであるという。そしてまた戦闘が続いている中で、陣幕の内で腹を切ってしまう。
 これを見た南条左衛門も大将が自刃した以上、士卒も戦い続ける意味はないと腹を切り、さらにその配下の380余騎の武士たちも腹を切ってしまったので、幕府方の洲崎の陣は破れて新田勢は山内まで攻め入った。現在では山ノ内というが、円覚寺と建長寺の間のあたりである。この赤橋盛時の行為は謎が多い。高氏との姻戚関係から得宗への忠誠心を疑われるというだけのことが自刃の理由になるかどうかは疑問であるし、戦闘中に自刃してしまうのは、一種の利敵行為であるという意見もある。忠誠心を見せるのであれば、自刃せずに最後まで戦って討ち死にするほうが筋が通っている。

 本間山城左衛門は北条一門の大仏貞直の被官で、大仏氏が守護を務めていた佐渡の守護代であった(後醍醐天皇の側近の1人であった日野資朝を斬った佐渡の本間佐渡入道の一族である)が、その頃、貞直の不興を買って、自分の邸に引きこもっていた。しかし、極楽寺坂方面の敵が強いという噂を聞いて、いてもたってもいられなくなり、自分の配下の若い武士や下級の武士たち100人ほどを引き連れて、極楽寺坂に向かった。新田勢のこの方面の対象は新田一族の大館宗氏であったが、決死の意気込みで攻めかかったので、新田勢は支えきれず、腰越あたりまで退却した。(現在の江ノ電の駅名を念頭に置いて、想像すればだいたいの様子が分かるはずである。)
 この間の戦闘で本間の郎等が敵の大将である大館宗氏を討ち取ったので、本間はその首をもって貞直の陣に駆けつけ、これまで長年にわたり奉公してきたご恩にこの戦をもって報いることができました。怒りを受けたままのみで死ぬならば、死後までの妄念となるだろうと思われます。今はお許しを得て、心穏やかにあの世に行きたいと思っていますと、その場で腹を切って死んでしまったので、あたりにいるものは皆感動を覚えたという。これまたよくわからない話である。

 極楽寺坂方面に向かった大館宗氏が戦死して、軍勢が肩瀬(現在では片瀬と書く)、腰越まで退却したと聞いて、新田義貞は2万余騎の軍勢を率いて、21日の夜半にこの方面に向かい、極楽寺坂のあたりの様子を窺った。北の方は切通しで、山は高く道は険しいうえに、城柵を設け、垣のように楯を並べ数万騎の兵が守りを固めている。南は稲村崎で波打ち際の道が狭い上に逆茂木をあちこちにひっかけ、さらに沖の方に浮かべた船の上から矢を射かけようと準備をしている。これでは攻めようがないと思われるほどに防御は万全である。

 大軍で攻める新田義貞に対して、幕府側も必死で守ろうとしているが、赤橋盛時にしても、本間山城左衛門にしても、幕府が人々の支持を失っていることを薄々とでも気づいているのか、幕府への忠誠を口にしながら、自刃を急いでいる。鎌倉幕府滅亡の時が近づいているような様子がだんだん強く感じられるようになってきた。

新年雑感二題

1月2日(土)晴れ、午前中は雲が多かったが、次第に晴れ間が広がる。温暖。

 ニッパツ三ツ沢球技場に全国高校サッカー選手権の2回戦を見に出かける。昨年末の混雑を思い出し、また体調も万全とはいえないので、どうしようか迷ったのだが、出かけてみたら、入場者は少なく、拍子抜けした。神奈川県代表の桐光学園高校の試合が川崎市の等々力競技場で行われていたので、そちらの方に大部分の客足が向かったらしい。とすると、明日の3回戦(桐光学園は2回戦を勝ち抜いた)では、三ツ沢はまた大混雑になりそうである。帰りがけに、公園入口の陸橋付近から富士山のシルエットがかすかに見えた。

 昨年の12月24日の当ブログの記事「マーカス・デュ・ソートイ『数字の世界のミステリー』」の二番煎じになるが、今年は西暦2016年、平成28年で
 28=2³⁻¹(2³-1)=4×7
 2016=2⁶⁻¹(2⁶-1)=32×63
である。2ⁿ⁻¹(2ⁿ-1)はnが素数の時に完全数(その数を除く、約数の和がその数と同じになるような数、例えば6=1+2+3、28=1+2+4+7+14)となる(n=2の時に6、N=3の時に28)。6は素数ではないので、2016は完全数ではない。とはいうものの、28と2016には他にも結びつきがある。

 そもそも 28=2²×7
 2016=2⁵×3²×7 と素因数分解できるから、28が2016の約数であることが分かる。
 このように、西暦の年数が、対応する年号の年数で割り切れるのは、平成に入ってから2年(1990÷2=995)、4年(1992÷4=498)、7年(1995÷7=285)、14年(2002÷14=143)と4回あり、今回が5回目である。これは昭和の5年(1930÷5=386)、7年(1932÷7=276)、11年(1936÷11≂176)、25年(1950÷25=78)、35年(1960÷35=56)、55年(1980÷55=36)に次ぐ記録で、ここまでのペースは昭和よりも早いのであるが、この次は平成71年(2059÷71=29)ということになるので、おそらくは昭和を抜くことはできないだろう。

 西暦と年号の対応関係を知るには、西暦から明治は1867、大正は1911、昭和は1925、平成は1988をひけばよいのだが、1867は素数であり、1911=3×7²×13、1925=5²×7×11、1988=2²×7×71と素因数分解できる。したがって、それぞれの数字の約数を年数とする年は、西暦が年号の数で割り切れることになるのである。大正については、3年、7年、11年で計算して試してみてください。なお、来年は平成29年、2017年になるはずであるが、29も2017も素数であって、こういう組み合わせが明治以降、いくつあるかは、来年の楽しみにとっておくことにする。

 さて、江戸時代の学者である伊藤東涯の『制度通』は、太古から江戸時代の初めごろまでの中国と日本のさまざまな制度について比較・考証した書物で、歴史について考えるときに参考になる点が少なくない。東涯は仁斎の長男で、その学問を継承する一方、このような歴史研究に励んだ。以前、『福翁自伝』について紹介した際にも触れたが、福沢諭吉の父・百助が最も尊敬していた学者である。『制度通』の巻一が「元年改元のこと」であり、年号に関連する事柄が記されている。要点を抜き出して記すと次のようになる。

 中国の周の時代には、天子・諸侯が即位した年を元年といった。「元」とは「はじめ」という意味である。その前の天子・諸侯が崩御・薨去した次の年が元年となる。
 天子・諸侯の在位中は元年・二年・三年と数えていたのが、春秋時代の秦の恵文王の時に、年号は立てないが、元年をやり直すということが行われた。漢の文帝の十七年になって吉祥がみられたので、あらためて後元年ということにした。天子の在位中に元年を改めたのはこれが最初である。さらに武帝が即位したときにはじめて建元という年号を建てた。
 大昔は年号はなかったのだから、使わない方が聖人の道に適うと論じる人がいるが、『朱子語類』ではこの考えを退けている。後の時代になってから導入されたものであっても、それが人々の暮らしを便利にするものであれば、使うべきだというのであって、これはもっともな考えである。
 日本では天皇の即位、祥瑞、災変、および革令・革命の時には改元が行われてきた。
 もともと日本では神武天皇元年辛酉の年以来、年号はなかったが、孝徳天皇元年乙巳の年を大化元年と号したことから年号が始まり、その後、年号が定められたり、定められなかったりしたが、文武天皇五年辛丑の年に大宝という年号を定めた。「これより以後、歴代相続して、即位並びに祥瑞・災変には必ず改めらるるなり。大抵、中国の外、古今相伝して年号を建つる国は、史伝の間、かつて見あたらず。南詔国・安南国、少々年号あれども、数百年相続して年を紀することなし」(平凡社東洋文庫版『制度通1』17ページ)。「南詔国」というのは唐代にインドシナ半島にあった国で、大理国に滅ぼされた。「安南国」は元ヴェトナムの中部にあった王国である。
 日本では辛酉・甲子の年には必ず改元を行ってきた。これは『易』に基づくもので、中国ではこのようなことはない。
 中国の宋・元の時代の年号の制度は、漢や唐のものを踏襲していた。
 明の時代になって一帝一号という制度が設けられ、清の時代になってもこれが続いているようであるが、「書籍未だ伝わらざれば、詳らかなることはしりがたし」(同上、19ページ)。

 東涯ははっきりと述べてはいないのだが、日本では中国のように「踰年改元(年を踰えて改元す)」ではなくて、年のうちであっても改元をする。そこが大きな違いである。現在の日本の年号をめぐる制度は、東涯がまだはっきりとしたことが分からないと述べている明以後の中国の制度に倣っているところが多いので、彼の議論は全面的に役立つわけではない。また彼が歴史的な事実だと考えていたことが、現在の歴史学研究ではそうではないとされているところが少なくないのであるが、そういう制約を視野に入れても、この記述は年号というものについて考える際の手助けにはなるだろう。それに彼が、はっきりしたことがわからないことには、そのように書き記している姿勢には大いに見習うべきものがあるのではないかと思うのである。

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