日記抄(12月28日~12月31日)

12月31日(木)晴

 昨日に引き続いて12月28日から本日までの間に経験したこと、考えたことを書き記す――前に、昨日の当ブログで書き洩らしたことを1件書き留めておく:
12月26日
 マーカス・デュ・ソートイ『数字の国のミステリー』(新潮文庫)を読み終える。12月24日付の当ブログでこの書物の第1章「果てしない素数の奇妙な出来事」、第2章「とらえどころのない形の物語」の面白さの一端を紹介したが、第3章「連勝の秘訣」は確率について、第4章「解けない暗号事件」は数学の応用としての暗号について、第5章「未来を予測するために」は、未来予測の問題とカオスと呼ばれる数学現象について述べている。
 これらの章の中で、一番強く記憶に残っているのは、第二次世界大戦中、英国のBBCはラジオニュースの放送の際に、必ずベートーヴェンの交響曲第5番(「運命」)の冒頭の部分を流したという話である。この交響曲の出だしの部分は、モールス信号で・・・-というのと対応し、これはアルファベットのVを表すものであり、V for victoryというわけである。もちろん、電信が発明される以前の人物であったベートーヴェンは、そんなことまで考えて作曲したわけではなかった。

12月28日
 コリン・ホルト・ソーヤー『殺しはノンカロリー』(創元推理文庫)を読み終える。チビのアンジェラ・ベンボウと巨大な体躯のキャレドイア・ウィンゲイトの老女2人組が、内陸部で美容のためのダイエット・スパ<タイムアウト・イン>を経営するドロシー・マグロ―の頼みに応じて、高級老人ホーム<海の上のカムデン>から足を運び、<タイムアウト・イン>で起きた従業員の死亡事件の捜査を始める。
 物語の終わりの方で、こんな個所がある。登場人物の1人について、アンジェラは「ヘロデ王の前に進み出るサロメを演じたときのリタ・ヘイワースにそっくりだと思った。/・・・『チャールズ・ラフトンがヘロデ王でサロメを見る眼つきの淫らだったこと!』」(293-294ページ) ここで言及されている映画は『情炎の女サロメ』(Salome, 1953)で、リタ・ヘイワース(Rita Hayworth, 1918-1987)がサロメを、チャールズ・ロートン(Charles Laughton, 1899-1962)がヘロデ王を演じた。ロートンは1932年にアカデミー主演男優賞を取り、クリスティの舞台劇『アリバイ』で史上初めてエルキュール・ポアロを演じた名優であり、「ラフトン」というのはちょっと困った表記の仕方である。翻訳者には雑学が必要だと改めて思った次第である。

12月29日
 田中啓文『鍋奉行犯科帳 道頓堀の大ダコ』(集英社文庫)を読み終える。4話からなり、巨漢で大食いの大坂西町奉行大邉久右衛門のもと、若い同心の村越勇太郎が走り回り、町を騒がす不思議な事件を解決?していく。食い倒れ時代小説第2弾。時代考証のしっかりした、現実味のある話というよりも、奇想天外な話の運びに特徴があり、その意味で第4話「長崎の敵を大阪で討つ」の荒唐無稽に徹した面白さが印象に残った。(「江戸の敵を長崎で討つ」ということわざで長崎は遠い場所の譬えとして使われているが、この作品では長崎に別の意味をもたせているようである。) 架空の人物ばかりの中で、実在した町人学者の山片蟠桃が登場するというのがアクセントになっている。1年のうちに120冊本を読もうと思って、読みやすそうな推理小説ばかり読んでいる(これが今年になって118冊目)。

12月30日
 蔵書の整理をしていたら、小林標『ラテン語の世界』(中公新書)が出てきた。この本の終わりの方(277-278ページ)に京都大学で長く非常勤講師としてラテン語を教えられていた水野有庸(ありつね)先生のことが語られている。実は私も水野先生の授業に出席していたのだが、先生が熱心に教えられるあまり、毎回毎回、授業がいつまでたっても終わらないので、都合がつかなくなってやめてしまった。途中でやめたことを今でも残念に思っている。
 
12月31日
 全国高校サッカー選手権の1回戦を見ようと、ニッパツ三ツ沢球技場に出かけたら、長蛇の列ができていて、30分ほど並んだが、切符売り場まであと50メートルくらいのところまでたどり着いたところで、切符が完売になり、観戦できなかった。仕方がないので、家に帰って、年末ジャンボ宝くじの抽選会をテレビで見たが、これまたはずればかりであった。

 望月麻衣『京都寺町三条のホームズ③ 浮世に秘めた思い』(双葉文庫)を読み終える。京都寺町三条にある骨とう品店「蔵」の店主の孫で「ホームズ」の異名をもつ家頭清貴がその周辺で起きた様々な事件の謎を解く様子を、この店でアルバイトをしている女子高生の真城葵の目を通して描くコージー・ミステリ。謎解きよりも、京都の名所とか、骨董についての雑学的な知識があちこちで披露されていているのが特徴である。以前に書いたことがあるが、わたしは京都の通りのなかでは寺町通が好きで、それも丸太町から三条までの間が特に気に入っている。作者が書いているように三条と四条の間では寺町通よりも新京極のほうがにぎやかで親しみやすい。第3章に<新京極八社寺詣り>の場面があるが、一度出かけてみたいものである。

 今柊二さんの「かながわ定食紀行」で取り上げられたことを大いに宣伝している、近くのそばやで年越しの意味を込めて、天ざるを食べる。なかなかよかった。
不機嫌をなだめる年越しそばの味
今さんは私の住まいの近くの商店街にも出没しているらしく、11月に廃業した私のなじみの古本屋のことも、定食紀行に出てきていた。古本屋についても、もっと宣伝してくれていればよかったのにと思う。

 田中啓文『鍋奉行犯科帳 お奉行様のフカ退治』(集英社文庫)を読み終える。大坂の町には次々と怪事件が起こるが、西町奉行大邉久右衛門と、その配下の与力・同心、とくに若い同心の村越勇太郎の活躍で解決を見る。第1話「ニシンを磨け」に登場する和泉の「暴れ旦那」食(めし)佐太郎は、上方落語の切ネタである「莨の火」の主人公でもある。篇中に、明らかにこの噺を踏まえたエピソードがある。「莨の火」は八代目林家正蔵(彦六)が大阪の名人・二代目桂三木助から聞き覚えて、東京に移植したという。そういえば、八代目の演じる「莨の火」を聞いた記憶がある。読んだ本の中身はともかく、これで1年で120冊の本を読むという目標をどうやら達成した。 

 1年間、当ブログに目を通していただいた皆様、ありがとうございました。来年もまた、よろしくお付き合いのほどをお願いいたします。新しい年における皆様のご健康と、ご多幸をお祈りいたします。 
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日記抄(12月24日~27日)

12月30日(水)晴れ

 12月24日から27日までの間に経験したこと、考えたことなど:
12月24日
 NHK「ラジオ英会話」ではクリスマスの歌の1つである”The Twelve Days of Christmas"を取り上げ、マペットとジョン・デンバーの歌うこの歌を聴いた後で、講師の遠山顕さんと、パートナーのケイティ・アドラーさん、ジェフ・マニングさんがこの歌の替え歌を歌うのを聞き取ってテキストの空欄を埋めるという作業をさせられた。”The Twelve Days of Christmas"とは、Christmas Day (12月25日)からEpiphany (1月6日、公現祭」までの12日間を指す。この期間はYuletideとかChristmastideと呼ばれ、この間、宗派によっては毎日ギフトを贈る習慣があり、この歌はその習慣をうけて、12日間ずっと恋人からギフトが贈られてくるという内容である。ただし、1日目に贈られてきたa partridge in a pear tree(梨の木に止まるヤマウズラ)が、2日目にも贈られ、それに加えてtwo turtle doves (2羽のキジバト)が贈られてくる、3日目にはヤマウズラとキジバトに加えて、three French hens (3羽のフレンチ・ヘン)が贈られてくるというように、贈り物がだんだん増えてくるcumulative rhyme (積み上げ詩)の形をとっている。それで、今度は何が贈られてくるのかというのが聞き手の興味を惹く歌である。番組の中で歌われる替え歌は、脈絡が取りづらくて、ほとんど聞き取れなかった。まだまだ勉強すべきことはありそうである。

12月25日
 シネマヴェーラ渋谷でアルフレッド・ヒッチコック監督の『巌窟の野獣』とオーソン・ウェルズ監督の『偉大なるアンバーソン家の人々』を見たことは既に書いたが、『偉大なるアンバーソン家の人々』に出演して、その演技で注目を浴びた1人であるアン・バクスターについて書いておきたいことが1つ残っている。ネビル・シュートの小説『パイド・パイパー』は引退した老弁護士が第2次世界大戦の戦局が悪化する中、アルプスの山中から預けられた子どもたちを連れて英国に向かうが、その道中で次第に子どもの数が増えて旅の困難が増していく、はたして無事に帰りつくことができるだろうかという物語で、発表された1942年にすぐ映画化されている。創元推理文庫の『パイド・パイパー』の翻訳者である池央耿さんはあとがきのなかで、映画の主演者を「モンティ・ウーリーとアン・バンクロフト」と記しているが、アン・バンクロフトではなく、アン・バクスターの誤りである。アン・バンクロフトのほうが活躍時期が新しく、記憶に残りやすいので間違えたのであろうか。この種の間違いはありがちなことなので、気をつけてほしい。

12月26日
 田中啓文『鍋奉行犯科帳』(集英社文庫)を読み終える。大坂西町奉行所の定町廻り同心を務める村越勇太郎は現在21歳、父の死後、この仕事を継いですでに3年になる。奉行所では新しい奉行を迎えることになったが、その奉行=大邉久右衛門は、昔芸妓であった勇太郎の母すゑの顔見知りらしい。「大鍋食う衛門」とあだ名されていたという奉行は、大兵肥満、大酒呑みで甘いものにも目がなく、食べること・呑むことにはひどくうるさい人物である。ただ、飲み食いへのこだわりからさまざまな知識・経験を重ねて、一筋縄ではいかない洞察力の持ち主らしい。勇太郎をはじめ、奉行所の与力・同心たちはこの型破りな奉行にふりまわされながら、さまざまな事件に対処していく。ロバート・ファン・ヒューリックの『判事ディー(狄)』シリーズにちょっと似た雰囲気の作品であるが、久右衛門の食道楽ぶりのユーモラスな描写が特色となっている。そういえばアンドレア・カミッレーリの創造したモンタルバーノ警部もイタリア人らしくかなりの食道楽ではあるが、久右衛門に比べると桁が小さい感じがする(それはそれで個性的でいいのである)。

 手違いのために、別府葉子さんの東京でのコンサートを聞きそこなったのは残念である。

12月27日
 コリン・ホルト・ソーヤー『フクロウは夜ふかしする』(創元推理文庫)を読み終える。シリーズ第3作である。高級老人ホームである《海の上のカムデン》に住む2人の老婦人チビのアンジェラ・ベンボウと身長も体重も人並み以上のキャレドニア・ウィンゲイトの凸凹コンビが、ホームで起きた連続殺人事件に取り組む。いや、警察の捜査に協力するつもりだったのだが、危ないからやめてくださいといわれるばかりである。しかもアンジェラは、警察が有力な容疑者としてマークしている人物を、犯人ではないと考えて、証拠集めに走り回る・・・。

 シネマヴェーラ渋谷でジャン・ルノワール監督の『浜辺の女』と、アルフレッド・ヒッチコック監督の『バルカン超特急』を見た。『浜辺の女』は乗船していた船が機雷に触れて沈没したときの後遺症に苦しむ中尉が、盲目の画家の妻と出会ったことから、悪夢のような経験に引きこまれていく…。盲目の画家は自分の作品をしまい込んでいて、売りに出そうとしない。一番の傑作は妻のヌードを描いた作品だという(残念ながら、その絵は画面には出てこない)。よく考えてみたら(考えなくてもわかることだが)、ジャン・ルノワールの父親は画家のオーギュスト・ルノワールであった。画家を演じているのはロバート・ライアンなのだが、この頃はまだ若かったはずなのに、かなりの年配の役を演じているのはどういうことだろうかと思ってみていた。

『太平記』(83)

12月29日(火)晴れ

 上野の国の豪族新田義貞は、八幡太郎義家に連なる名門の当主であったが、鎌倉幕府によって冷遇されていた。とはいうものの、その一族は北関東から越後・信濃へと勢力を拡大していた。元弘3年(1333年)3月に幕府の命によって金剛山を包囲していた義貞は倒幕の意思を明らかにして、朝敵追討の綸旨を得(本来、綸旨は天皇が発行するものであるが、護良親王が発行しているというところに手続き上の問題がある)、病気と偽って戦線を離脱して上野の国に帰り、倒幕の準備を進めていたが、おりしも兵糧徴発のために新田庄に入った幕府の使者の強引なやり方に腹を立てて彼らを斬り、幕府が追討の軍勢を派遣するという情報を得て、かくなるうえはと5月8日に生品明神で倒幕の兵を挙げる。

 間もなく越後をはじめとして近隣各地の新田一族が駆けつけ、5月9日には鎌倉を脱出した足利千寿王(高氏の子で、後に義詮)が200余騎で合流すると、関東一円の武士たちが合流を始めた。足利氏も新田氏と同じく、八幡太郎義家の子孫であったが、下野を本拠地として勢力を拡大し、源氏の名門として鎌倉幕府からも重んじられる家柄であったのである。鎌倉幕府は新田勢の討伐に桜田貞国を大手の大将として6万余騎を率いて、鎌倉道の上道を進ませ、金沢貞將を搦手の大将として5万余騎を率いて江戸湾沿いに北上させた。5月11日、小手指原の合戦の後、5月12日の久米川の合戦で新田軍が勝利し、これを聞いた鎌倉幕府は得宗である北条高時の弟の泰家を大将として大軍を派遣し、5月15日の分陪河原での合戦では北条軍が勝利した。しかし、三浦大多和義勝の率いる相模勢が新田軍に加わると、緒戦の勝利に油断した北条軍は壊滅的な大敗を喫して、鎌倉へと敗走することになる。関東一円の武士たちは先を競って義貞の軍勢に参集し、その数は80万余騎に達する。

 鎌倉に迫った義貞はその大軍を3つに分けて、一族の武将2人ずつをそれぞれの部隊の指揮官として割り当てた。西南の方角から鎌倉に向かう極楽寺の切通しには大館宗氏と江田行義の率いる10万余騎、西北から円覚寺、建長寺の近くを通って、鶴岡八幡宮の方に向かう小袋(=巨福呂、こぶくろ)坂には堀口真満、大島讃岐守の率いる7万余騎、そして佐介谷から寿福寺の方角に向かう気和井(=化粧、けわい)坂には義貞とその弟の脇屋義助の率いる新田一族の大井田、山名、桃井(もものい)、岩松、里見、額田、一井(いちのい)、羽川(はねかわ)の郎等たちを中心とする60万余騎が攻め寄せた。

 三方を山に囲まれ、残る一方は海に面している鎌倉は、攻めるのが難しく、守るのに容易な要害の地である。名越、朝比奈、巨福呂(こぶくろ)、亀ヶ谷、化粧(けわい)、大仏、極楽寺を「鎌倉七口」というのは江戸時代になってからの数合わせであるが、河野眞知郎さんが『中世都市鎌倉』(講談社選書メチエ)で論じているように、これらが鎌倉への主要な通路であったことは間違いない。新田軍はもっぱら西側から鎌倉を攻めているが、東の方の名越、朝比奈切通しから攻め込むという選択肢もあったはずで、実際にこの後の戦史をみていくと朝比奈切通しから鎌倉に攻め込んだ例もある。あるいは、実際にはこの経路からの攻撃もあったが、『太平記』の作者が書き落としたという可能性も考えられる。

 鎌倉の人々は関東においてさえも、人心が幕府から離れ、新田義貞の軍勢に多くの武士たちが加わっていることが予期できなかったが、北条泰家と金沢貞將の大手・搦手の討伐軍が惨敗を喫して敗走してきた姿を見て、あらためて事の重大さに気付いたのである。それだけでなく、鎌倉を取り巻く近隣の地で、攻め寄せてきた討幕軍が火を放って、その騒ぎが鎌倉にも伝わり、人々は慌てふためいた。

 新田軍が3方から攻めてきたので、幕府軍も兵力を3分して対処することになる。気和井坂方面を守るのは金沢有時を大将軍とする安房、上総、下野の武士たち3万余騎である。極楽寺の切通しを防ぐのは、大仏貞直を大将とする、甲斐、信濃、伊豆、駿河の武士たち5万余騎である。小袋坂に迫って来た軍勢に立ち向かうのは幕府の執権・赤橋盛時を大将とする、武蔵、相模、出羽、奥州の武士たち6万余騎である。それぞれ大将は北条一門の武士たちであり、赤橋盛時は、足利高氏の正妻である登子の兄でもあった。このことが、この後の戦局に影響を与えることになる。さらに鎌倉の市中にはまだ10万余騎の武士たちが、状況に応じて劣勢に陥った方面に援軍に向けるために残されていた。

 5月18日の巳の刻(午前10時ごろ)に両軍は合戦の初めに行う矢合わせの行事を行い、終日終夜の激戦が展開された。新田勢は数において勝り、最前線で攻撃する武士たちを次々と入れ替えて戦線を突破しようとし、幕府方は数において劣るとはいうものの、防御の重要地を占めていたので、それを利用して巧みに防御する。それぞれの軍勢があげる鬨の声と、両陣営が戦いの中で叫ぶ声が天を響かせ、地を揺るがす。幕府軍が魚鱗の陣形で固まって大軍の中に突入すれば、新田軍は鶴翼の陣形でこれを包み込み圧倒しようとする。新田勢が抜刀して攻撃に懸かれば、幕府軍は一斉に矢を放つ。それぞれが決死の覚悟で戦い、なかなか勝敗は決しない。

 歴史的な鎌倉と、現在の鎌倉市は同じものではない。ここに描かれている戦闘は、歴史的な鎌倉をめぐる攻防であって、新田軍はすでに現在の鎌倉市内に入り込んでいる。歴史的な鎌倉は現在の鎌倉市よりも狭い地域であったが、もっと多くの人々が住んでいたようである。とはいうものの、『太平記』に記された軍勢の数は両軍合わせて100万を越え、現在の鎌倉市の人口を考えると、誇張されているように思えてならない。もっとも休日に鎌倉の小町通あたりを歩いていると、その人通りの多さに圧倒されてしまう。そういえば、間もなく新しい年を迎えることになるが、鎌倉の寺社に初もうでする人々の数はどのくらいになるのだろうか。
 

ダンテ・アリギエリ『神曲 煉獄篇』(20-1)

12月28日(月)晴れ

 ウェルギリウスを案内者として煉獄を旅するダンテは、第19歌で貪欲の贖罪者たちがいる第5環道に達した。そこで彼は教皇ハドリアヌスⅤ世の魂が、現世における政治権力の追求の罪を贖っているのに出会う。ウェルギリウスとダンテはさらに道を急ぐ。

私は歩きだした。すると我が導き手は、
さながら城壁の上を壁に沿って行く者のように、
内壁すれすれの空いている場所を歩まれた。

というのも、全世界を占領している悪を一滴、また一滴と
目を通じてぽたぽたと搾り出している人々が、
外縁の端のほうにあまりに集まっているからだ。

呪われるがよい、太古からの雌狼よ。
その底なしに深い飢えゆえに、
おまえは他のどの獣より獲物を屠(ほふ)る。
(290-291ページ) 「雌狼」は貪欲のアレゴリーである。『地獄篇』第1歌で、「暗い森」(地獄篇、26ページ)に迷い込んだダンテは、雌豹(地獄篇、28ページ、「羨望」のアレゴリーとも「淫乱」のアレゴリーとも解釈されている)、「獅子」(地獄篇、30ページ、「高慢」のアレゴリーである)によって脅かされ、さらに「雌狼」(同上)に依って行く手を阻まれようとした。

私達は歩幅も狭く、遅々とした歩みで進んでいたが、
私はといえば、影達に注意を払い、
哀れを誘う彼らの嗚咽と呟きを聞いていた。
(291ページ)

 すると聖母マリア、ローマの執政官であったカイウス・ファブリキウス、聖ニコラウスの清貧の徳を称える声が聞こえる。それを好ましく思ったダンテはその霊に話しかける。すると、話しかけられた霊はダンテが神の恩寵を特に受けていることのために、彼の問いに答えるのだと断って、
「・・・

余は全キリスト教世界を翳(かげ)らす
悪しき木の、根であった。
その木から善き果実がもがれることは滅多にない。

・・・

向こうでの余の名はユーグ・カペーであった。
余から生まれしは幾多のフィリップとルイ。
この者らにより昨今のフランスは統(す)べられている。

…」(294ページ)と名乗る。すなわち、彼は歴代のフランス国王の祖であるユーグ・カペーであり、そのフランスが不法に王位を奪った彼の子孫によって統治され、その対外拡張政策によってヨーロッパの平和を乱していることを述べる。「その血族の暴力と詐術を駆使した/略奪が始まったのだ」(296ページ)とカペーの霊に言わせるダンテのフランスに対する厳しい態度を示している。カペーの霊はさらに、間もなくフランスが(イタリアに)侵略戦争を起こし、「その遠征では、領土ではなく、罪と屈辱を/得るであろう」(297ページ)と予言する。(『神曲』に描かれたダンテの旅は1300年に起きたこととされているが、実際にはもっと後になって書かれている。したがって、カペーの言葉は「事後予言」である。『神曲』にはこのような事後予言がしばしばみられる。)

 詳しくは翻訳者である原基晶さんの解説を読んでいただきたいが、フランス国王の動きは、教皇と皇帝を頂点に頂く汎ヨーロッパ的・中世的な秩序を破壊して、近世的な絶対王権が率いる国民国家を確立しようとするものであった。このような歴史的な文脈に即して、中世的な秩序の回復を夢見るダンテの思想を時代遅れと考えるか、それとも彼の平和の願いに時代を超えた普遍性を見出すかが『神曲』の評価における重要な分かれ目になるはずである。 

バルカン超特急

12月27日(日)晴れたり曇ったり

 シネマヴェーラ渋谷で「映画史上の名作14」の特集上映の中から、ジャン・ルノワール監督の『浜辺の女』(The Woman on the Beach, 1947)、アルフレッド・ヒッチコック監督の『バルカン超特急』(The Lady Vanishes, 1938) の二本立てを見る。『浜辺の女』を見るのは初めて、『バルカン超特急』を見るのは映画館では少なくとも2度目、そのほかにTVで1度、VTRで何度か見ている。私の好きな映画の中に数えられる、何度見ても飽きない、多くの魅力を含んだ作品である。既に述べたようにヒッチコックの英国時代の傑作で、この作品の成功によって彼はハリウッドに招かれることになる。

 ヨーロッパのどこか東の方にある独裁国の国境付近の駅近くのホテルは、雪崩のために鉄道交通が遮断され、めったにない満員状態になっている。その宿泊客の中には、英国で待っている婚約者と結婚するために帰国するつもりの富豪の令嬢アイリス(マーガレット・ロックウッド)、この国で6年間音楽を教えてきたという老婦人フロイ(デーム・メイ・ウィッティー)、世界中の民族音楽を研究している青年ギルバート(マイケル・レッドグレイヴ)、帰国してクリケットの国際試合を見るのを楽しみにしている2人連れ(ノーントン・ウェイン&ベイシル・ラッドフォード)、不倫旅行中の男女(セシル・パーカー&リンデン・トラヴァース)という何組かの英国人たちがいる。アイリスとフロイは、自分の部屋で男女に民族舞踊を踊らせているギルバートがうるさいと腹を立て、彼を部屋から追い出そうとするが、いったん追い出されたギルバートはもとの部屋に戻ることに成功する。フロイは窓の下で彼女のために歌っている男の歌に耳を傾けているが、その男が何者かに殺されたことに気付かない。

 翌日、国際列車が出発することになり、アイリスはそれまで一緒に旅行していた友達2人と別れ、ロンドンに向かおうとするが、カバンが見当たらないというフロイと一緒に荷物を探そうとして、何者かが落とした植木鉢で頭を打つ。(それまでの物語の流れで、アイリスではなく、フロイを狙ったものだということは観客だけに分かる。) 頭がぼーっとしているアイリスをフロイはいたわり、食堂車に連れていってお茶を飲ませた後で、眠るように言うが、アイリスが目覚めると、フロイの姿がいない。それどころか、同室の客や乗務員、食堂車の係員も彼女の存在を否定する。やはり同じ列車に乗っていたギルバートが彼女の言い分に耳を傾けて、一緒になって探すが、フロイの存在を証言する人は出てこない。わずかに残っていた証拠が消えてしまったりして、アイリス自身もこの事を忘れかけようとしていたとき、ギルバートは食堂車の係員が捨てたごみの中に、フロイが愛用している茶のバッグがあることに気付く。なぜ、このような不可解な事件が起きているのか。彼らが知らない、もっと大きな動機が背景に隠れているのだろうか。

 舞台となっているのは架空の国であるが、アルプスのような山が出てくるからスロヴェニアあたりを想定しておけばよかろう。ドイツ語、イタリア語(あるいはスペイン語のように聞こえることもある)、スラヴ系らしい言語が乱れ飛び、なかなか英語が通じない。アイリスは何とか自分が正しいことを証明し、フロイを助け出そうとするが、ギルバートがいくつもの言語に堪能であることから、いろいろなことが分かりはじめる。密室状態の列車の中での失踪、ところがアイリスと同室だった女性(メアリ・クレア)は独裁国の内務大臣の妻であり、さらにイタリア人の魔術師の一家が乗り合わせている。物語の進行につれて、だんだん謎解きが核心に迫ってくる。信頼できると思っていた人物が敵であったり、思いがけないところから味方が現われたりして、物語が二転三転する。

 第二次世界大戦勃発間近のヨーロッパの不安と緊張の中で作られた作品であり、そのような時代の雰囲気が映画の中に満ちている。フロイを誘拐した独裁国の政府当局が、アイリスとギルバートが事件の真相に迫れば迫るほど、その暴力的な姿をさらけ出していくというファシズムの脅威を描く部分もあり、フロイを探す男女が最初の反目から、お互いに惹かれあっていくというロマンチック・ミステリーの要素もある。さらにすでにアメリカに世界の盟主の地位を奪われながらも、自分たちの誇りと生活様式を崩さず、外国にいてもなかなかその国に溶け込もうとしない英国人の姿が戯画化して描かれるなど、笑いに紛れての比較文化論的な要素も見られる。ハリウッドにわたって以後のヒッチコック作品に比べると、まだいろいろな要素・可能性が秘められているように思われる。

 そういえば、ギルバートを演じているマイケル・レッドグレイヴの娘であるヴァネッサ・レッドグレイヴがヒッチコック賞を受賞した際に、自分の父親が最初に出演した作品の監督であるヒッチコックに因んだ賞を受賞するのは感慨深いとスピーチしたという記事をどこかで読んだ記憶がある。歴史的な名作ではあるが、現代においてもファシズムの脅威が完全に過去のものとなったとはいいがたいことに留意すべきであろう。12月30日にも上映の予定があるので、時間的な余裕のある方にはぜひご覧になるようお勧めしたい。

巌窟の野獣

12月26日(日)晴れ

 昨日、シネマヴェーラ渋谷で「映画史上の名作14」特集上映の中から、『偉大なるアンバーソン家の人々』とともに見た作品。この特集では、ヒッチコックの英国時代の作品が『暗殺者の家』(The Man Who Knew Too Much, 1934、ヒッチコック自身が1956年に再映画化し、『知りすぎていた男』という日本語題名で上映された)、『バルカン超特急』(The Lady Vanishes, 1938)とこの作品の3本取り上げられている。以前の特集上映では『三十九階段』(The 39 Steps, 1935)が上映されており、企画者の英国時代のヒッチコックへのこだわりが感じられる。

 『巌窟の野獣』というのはすごい題名だが、原題は”Jamaica Inn"で、物語の主要な舞台となる宿屋と酒場を兼ねた店の名である。この作品はダフネ・デュ・モーリア(1907-1989)の小説『埋もれた青春』(Jamaica Inn)の映画化で、この後、ヒッチコックは『レベッカ』(Rebecca, 1940) ,『鳥』(Birds, 1963)とモーリアの作品を2回映画化している。昨日の当ブログにも書いたが、『巌窟の野獣』はヒッチコックの英国での最後の作品で、この後彼はアメリカにわたって活動する。彼の前作である『バルカン超特急』が注目されてハリウッドから招かれたのである。

 イングランドの南西部に突きだした形のコーンウォール地方は、航海の難所であり、19世紀の初めごろは、盗賊たちが嵐の夜などに船を間違った方向に誘導して難破させ、略奪を行うことさえ行われていた。若く美しい娘メアリー(モーリン・オハラ)は母が死んだので、ただ一人の身寄りである叔母のペイシェンスを頼ってコーンウォールにやってくる。乗合馬車の御者は叔母夫婦の住所であるジャマイカ・インで停車せずに、地主(チャールズ・ロートン)の館の前で彼女を下す。メアリーは地主に馬を借りて、ジャマイカ・インに向かおうとするが、地主は親切にも彼女とともに馬を走らせて送り届け、自分はこのあたりの治安判事をしているので、困ったことがあれば相談に来なさいという。

 義理の叔父であるジャマイカ・インの主人ジョスは実は、難破船を襲う盗賊団の首領なので、彼女を追い返そうとする。その一方で盗賊団は仲間の中に、分け前を横取りしているものがいるのではないかと、あたらしく加わった若者に疑いをかけ、彼の首をくくろうとするが、それを見ていたメアリーが縄を切って男を助け、結局2人はジャマイカ・インから逃げ出すことになる。そして、地主の館にたどりつくが、ここから物語が急転することになる。

 盗賊団には黒幕がいて、その黒幕が誰かということと、彼らの悪事がどのように暴かれるのかというのが興味の対象となるが、意外性はあまりなくて、むしろ物語の展開の速さで観客の興味をつなぎとめている。勧善懲悪の箍がかなり強くはめられているが、その分はらはらしながらも、安心してみていることができる。

 コーンウォールは、かつてアングロ・サクソン人が民族大移動の動きの中でブリテン島に到来したときに、先住のケルト系の人々が逃げのびた地方の1つ(あとは、アイルランド、スコットランド、ウェールズ、そしてフランスのブルターニュ地方に逃げた)であり、独自の文化が残り、風光明媚で観光地として知られる一方で、産業に乏しく貧しい地域であった。この作品では、文化の方は無視されて、自然環境の特異性と地域としての貧しさだけが強調されている。

 地主を演じているチャールズ・ロートンがこの時代におけるイングランドの上流階級の退廃ぶりをなかなか見事に表現てしており(メアリーに親切にしているのは、彼女が美人なので、その歓心を買おうとしているだけである)、ジャマイカ・インの歪んだ構造は表現主義的であり、荒れ狂う海岸の描写は迫力がある。そして、この作品がデビュー作(クレジット・タイトルにIntroducingと記されている)モーリン・オハラの美しさと気丈な性格表現が観客の同情を呼ぶはずである。最後に、今年、その訃報が伝えられたモーリン・オハラの冥福を祈っておきたい。

偉大なるアンバーソン家の人々

12月25日(金)晴れ後曇り後雨

 シネマヴェーラ渋谷で「映画史上の名作14」の特集上映の中から、アルフレッド・ヒッチコックの英国時代最後の作品である『岩窟の野獣』(Jamaica Inn, 1939)とオーソン・ウェルズが『市民ケーン』に続いて作った映画である『偉大なるアンバーソン家の人々』(The Magnificent Ambersons, 1942)の2本を見た。今年は、昨年に比べてあまり映画を見ていないのだが、その中でオーソン・ウェルズの作品を『上海から来た女』と『偉大なるアンバーソン家の人々』の2本も見ることができたのは、彼の生誕100年、没後30年という節目の年にふさわしいことではないかと思う。

 『偉大なるアンバーソン家の人々』は、1918年に発表されたブース・ターキントンの同名小説に基づいてウェルズが脚本を書き、監督したものであるが、前作『市民ケーン』の興行成績が不振であったために、ウェルズの発言力が低下し、40分余りもフィルムが切り縮められ、ラストも変えられたという。『市民ケーン』と違って、物語は時間の流れに沿って展開し、アメリカのおそらくは中西部の地方都市の古き良き昔を多少のユーモアを交えて説明的に描く導入部など、作者の観客に対する配慮がうかがわれる一方で、特に後半になると、物語の運びが粗く不自然に感じられるようになるのは、製作をめぐるこのような事情からであろう。

 19世紀の後半、ある地方都市で一番の名族であるアンバーソン家の令嬢イザベル(ドロレス・コステロ)の恋人であったユージン(ジョセフ・コットン)が彼女の邸宅の前でセレナーデを演奏しようとして、泥酔していたために、ころんで楽器を壊すという失態を演じ、彼女の不興を買う。そのため、彼女は別のもっと平凡な男と結婚してしまう。イザベルとその夫との間に生まれた一人息子のジョージは、とんでもない我儘息子になって、町の人々から憎まれる。

 さて、その息子ジョージ(ティム・ホルト)が成人して、アンバーソン家では彼の帰省を祝う舞踏会が開かれる。その席に、ユージンがその娘ルーシー(アン・バクスター、若い!!)を連れて出席する。イザベルに失恋して町を離れていた彼は、その後発明家として自動車の開発にかかわっており、その事業を拡大しているところである。ジョージとルーシーは惹かれあうが、ルーシーはジョージの鼻持ちならない部分が我慢できず、彼の求婚に応じようとしない。ジョージの母のイザベルが、ルーシーの父であるユージンの求愛を退けたのは、名門の令嬢としての誇りのなせるわざであったが、ルーシーはジョージが就職せずに社会事業に献身する(実はアンバーソン家にはそんなことをする経済的な余裕はなくなってきている)というような名門意識が気に入らないようなのである。ところが、息子と娘だけでなく、イザベルも、非社交的な夫に飽き足らず、昔の恋人であるユージンへの恋心を復活させているようなのである。(ルーシーは、イザベルが父の昔の恋人であったことを素直に認め、特に問題視しないのに対し、ジョージは2人の関係をスキャンダルだと思って、なんとか終わらせようとする。) これらの人間関係にイザベルの夫の妹で、ジョージにとっては叔母であるファニー(アグネス・ムーアヘッド)が絡む。その一方でアンバーソン家の経済状態も、イザベルの健康も次第に悪化していく…

 トーマス・マンの『ブッデンブローク』のようにある都市の名門の没落を、周囲の環境の近代化と絡めて描く物語は少なくないが、ここでは新しい産業の発展と、都市そのものの発展がそれと対照的に描きだされていて、いかにもアメリカ的な作品になっている。最初期の自動車工場の様子が少しだけ描かれているとはいうものの、都市の発展が十分に映像的に描きだされているとは言えないのは残念であるが、アンバーソン家の豪壮な邸宅内での人間模様は丹念にまた演劇的に描かれている。特にファニーを演じているアグネス・ムーアヘッドの熱演が印象的である(アカデミー助演女優賞にノミネートされた)。ある年代以上の日本人にとっては、TVの『奥さまは魔女』のヒロインであるサマンサの母親エンドラ役でおなじみの女優であるが、オーソン・ウェルズの率いたマーキュリー劇団の一員で、『市民ケーン』ではケーンの母親の役を演じていた。(後、オーソン・ウェルズがロチェスターを演じた『ジェーン・エア』でジェーンのおばの役を演じていたのをご存知の方もいらっしゃると思う。) ジョージを演じているティム・ホルトはジョン・フォードの『駅馬車』を途中まで見送った騎兵将校の役で知られる俳優である。ルーシーを演じているアン・バクスターはこの映画撮影時にはまだ20歳になっていなかったから、若く見えるのは当然なのだが、その後1947年にアカデミー助演女優賞を受賞している。

 自分本位の思考と行動をどこまでも貫こうとするジョージは、にもかかわらず、どこか魅力的なところがある。このあたりは脚本・監督のオーソン・ウェルズの自画像的なところがあるのかもしれない。この作品はウェルズがつくった作品を大きく削って、つじつまが合わなくなった部分をジョセフ・コットンを始めとする何人かが脚本を新たに書いて、それをフレッド・フレックとロバート・ワイズ(編集を担当、後に監督として成功する)が演出した場面を付け加えて最終的な形をまとめたという話であり、詳しく分析していくと、さらに面白いことが分かるかもしれないなぁと思う。

 この作品は『市民ケーン』同様に、19世紀から20世紀にかけてのアメリカの発展の過程を社会の変化と個人の人生の軌跡を絡めて描きだそうとするもので、その意味でアメリカ市民としての作者の自画像的な意義をもっていると思われる。ウェルズとしては、できるだけ観客に分かりやすい映画を作ろうとした意図が感じられるのだが、それが必ずしも周囲に理解されなかったのは不幸なことであった。

マーカス・デュ・ソートイ『数字の国のミステリー』

12月24日(木)曇り後晴れ

 マーカス・デュ・ソートイ『数字の国のミステリー』(新潮文庫)はなかなか面白い本である。このブログでは、原則として読み終えた書物を取り上げているのだが、(ほかに書くことが見つからないという事情もあり)、まだ半分も読んでいないこの本を取り上げることにした。内容を紹介するよりも、読んでいて気付いたことをいくつか書き留めるというやり方をとるのは、これらのことによるものである。

 第1章「果てしない素数の奇妙な出来事」では素数と完全数について述べた個所が気になった。来年は平成28年であるが、28は現在47個しか発見されていない完全数の中で2番目に小さいものである。完全数というのはある数の約数の和(ただし、その数自体は除く)が、その数と一致するような数をいう。一番小さい完全数は6で、その約数である1,2,3を足すと6になる。28の場合の約数は1,2,4,7、14で合計すると28になる。
 「おもしろいことに、これらの完全数の後には素数が潜んでいる。さらに細かくいうと、ひとつひとつの完全数がメルセンヌ素数と呼ばれる特殊な素数・・・に対応しているのだ。・・・偶数の完全数はすべて2ⁿ‐¹×(2ⁿ-1)の形をしている。しかも、この形をした数が完全数になっていれば、2ⁿ-1は必ず素数になり、その逆も成り立つ。しかし、奇数の完全数が存在するかどうかはまだわかっていない。」(54ページ)

 そこで、実際に自分で計算してみた。
 n=2とすると、2ⁿ‐¹×(2ⁿ-1)=2×3=6
 n=3とすると、4×7=28
となって、ともに完全数であるが、
 n=4の場合は 8×15=120
となって、15は素数ではないから、完全数ではない(はずである)。しかし
 n=5の場合は 16×31=496
となって、31は素数であるから、496は完全数のはずである。そしてそして
 n=6の場合は 32×63=2016
となって、これは西暦で来年のことであるが、残念ながら63は素数ではないから、完全数ではない(実際に調べてみたが、約数の和が2016を上回ってしまう)。
 n=7の場合は 64×127=8128
となり、127は素数であるから、8128は完全数にはなる(はずである)。そろそろいやになってきたから、これでやめるが、本の中に出てくる例に即して、自分でもいろいろと計算してみると、ますます面白くなることがお分かりいただけると思う。

 第2章「とらえどころのない形の物語」を読んでいたら、17世紀の天文学者・数学者であったヨハンネス・ケプラーが雪の結晶に腕が6本あるわけを数学的に解明しようとしたという話が出てきた。「ケプラーは、球形の雨粒が雲の中で凍って、ザクロの種のようにぎゅう詰めになると考えた。これはなかなかよい着想だったが、けっきょくはまちがいであることが判明した。雪の結晶に腕が6本あるのは、実は水の分子構造のせいだった。しかしそれがわかったのは、1912年にX線結晶学が登場した後のことだった」(ソートイ、134ページ)。

 雪の結晶に腕が6本あることをめぐるケプラーの考えは間違っていたが、その過程で彼が考えた空間を球で埋めるには、球が6角形を形作るように敷き詰めて層を作るのがもっとも効率的な方法だという彼の予想はケプラー予想と呼ばれ、その後長く数学者たちの頭を悩ませることになった。この予想が正しいことが証明されたのは、20世紀も終わりに近づいてからのことであったという。

 この逸話で魅力的なのは、雪の結晶の謎を解くのに、ケプラーがザクロという自然にある果物をヒントとして使っているところである。頭の中だけで考えずに、自分の身の回りにある自然現象を手掛かりとして利用しようとしたというのは、楽しい発想の仕方だと思う。

 数学にかかわる興味深い話題が、サッカーの選手の背番号といった例を持ち出しながら、とっつきやすく語られている(必ずしもわかりやすいとは言えないが、難しいなりに食いついてやろうという意欲を掻き立てるのである)。そういうわけで、数学は苦手だという人でも楽しく読める本ではないかと思う。なお、2016年1月1日付で刊行される(はずの)本を、まだ2015年なのに、もう読んでいる。これもミステリーである。

日記抄(12月17日~23日)

12月23日(水)小雨が降ったりやんだりしている

 12月17日から本日までの間に見聞したこと、考えたことから:
12月17日
 NHKラジオ「実践ビジネス英語」の”Quote...Unquote"のコーナーから
1Science, my lad, is made up of mistakes, but they are mistakes which it is useful to make, because they lead little by little to the truth.
          ――Jules Verne (French nobelist, poet and playwright, 1828 - 1905)
君、科学は複数の間違いでできているが、それらはしくじることが役に立つ間違いだ。なぜなら、それらが少しずつ真実に導いてくれるから。
 生物学者の白上謙一が、山梨大学で教えていた時代に、学生新聞に掲載したエッセーをまとめた『ほんの話』(現代教養文庫)は当ブログで以前にも紹介した書物であるが、その中で、著者はヴェルヌの科学についての態度をめぐり次のように書いている:
「ヴェルヌの小説が私の少年時代、青年時代と同様に現代においても新鮮で愉しいにちがいない理由は、彼がいつも人類の幸福の増進に関していかに多くの規定と信頼を科学にかけていたかという点にあるように思う。彼は一生を通じて科学戦未来記のようなものを書いていない。彼の最大の傑作『神秘島物語』の中では、軽気球に乗って文字通り無一物で孤島にたどりついた人々の生活を物語っている。従来の漂流記が難破船としたちょっとしたスーパーマーケット底抜けの物資を当てにしがちなのに対し、主人公たちは徒手で土をこねてかまを作り鉄を冶金し、ついにはアザラシの油と硝石からニトログリセリンを作って治水工事を行うに到るのである。
 現在の科学の進歩は率直に云って人間の幸福に対してむしろ暗い影を投げているように見えるではないか。ペニシリンやDDT(少し大時代になっているのは10年の年月であろう)の発明は科学が水素爆弾やミサイルを作る本業の片手間の仕事のようにも見える。
 ところで元来科学は人間を幸福にすべきものなのだ。これがヴェルヌのまごうことなき主張である。
 彼の作品にみなぎっているのは科学の力への讃歌ではなく、科学を駆使しつつ幸福をきずき上げてゆく人間の善意と勇気への讃歌である」(59-60ページ)。
 ここに引用した部分の後の方で、白上は若いころにヴェルヌを読んで感じた作者の気迫が、ヴェルヌ作品の新しい翻訳からも、また当時のSF小説からも感じられなくなったことを嘆じている。その理由を考えてみるのも意味あることではないかと思う。

 今野浩『工学部ヒラノ教授のアメリカ武者修行』(新潮文庫)を読み終える。著者が30代の終わりにアメリカのパデュー大学のビジネス・スクールで客員助教授として過ごした経験を中心にアメリカの大学とビジネス・スクールの実態を描いた書物である。著者の海外体験の豊かさ、観察眼の鋭さに感心する個所が少なくなかった。

 椎名誠『ここだけの話』((PHP文芸文庫)を読み終える。「よく恩師とか先生とかいうけれど、ぼくの場合、教えてくれたのは友人である。全部横のつながりである。特に同じゼネレーションというのは、価値判断の基準がお互いに分かりやすくて通じ合うものがある。これが縦の関係になって数年ずれたりすると、その判断の基準が微妙にずれてしまう。そういう意味では、同じ学年で、同じ土地に育った人々、つまり故郷の友達が自分の一番近い」(14-15ページ)という意見がいかにも椎名さんらしくて面白かった。同世代の影響力は重要であり、機長でもあるが、異質の価値観に触れることも必要なのではないかと思う。

12月18日
 紀伊国屋そごう横浜店でNHK[ラジオ英会話」、「攻略!英語リスニング」、「実践ビジネス英語」、「まいにちフランス語」、「まいにちイタリア語」の各1月号と、飯島周『カレル・チャペック 小さな国の大きな作家」(平凡社新書)を購入する。「入門ビジネス英語」は4月~9月の番組の再放送なので、テキストは買わないことにしている。英語、フランス語ともに、新しい勉強の仕方をなにか工夫する必要がありそうである。

12月19日
 NHKラジオ「攻略! 英語リスニング」ではニューヨークの”Central Park"を取り上げた。
It's about three and a half square kilometers, stretching all the way up from 59th Street to 110th Street.
(ほぼ35平方キロの広さがあり、59丁目から110丁目まで、ずっと続いている。)
というのだから、相当な規模の公園である。よく、映画の舞台として取り上げられるけれども、出てくるのは公園の一部だけであるということがよく分かった。

 見に行きたい映画もなく、スポーツの試合もないので、電車の中で本を読もうと、逗子行きの京急の急行電車に乗る。羽田空港と新逗子を結ぶエアポート急行の車両は、ボックス型の座席が多いのに目をつけていたのだが、残念ながら行き帰りとも乗ったのはロングシートの車両であった。
 新逗子の駅の近くに亀ヶ岡八幡という神社があったので、お参りした。鎌倉の鶴岡八幡と何か関係があるのかと思ったが、なにもないようである。

12月20日
 NHKEテレ「日本の話芸」で桂文珍師匠の「寝床」を見る。東京では8代目の桂文楽、8代目の三笑亭可楽がよく演じていた噺(我ながら古いね)。商家の旦那が義太夫を語って聞かせるというので、この旦那が大家をしている長屋の連中や使用人たちは戦々恐々、それぞれが理由をつけて欠席しようとする。旦那の義太夫があまりにもひどく、まともに聞くと体調がおかしくなるようなものだからである…。だいたいが好人物の旦那だが、こと義太夫になると人が変わったようになる。周囲の人々もそんな旦那との付き合いに苦労するのである。このあたりの人物描写が面白いところである。文珍師匠の語り口は安定していて、落ち着いて聞くことができた。高座での折り目正しい態度も印象に残った。

12月21日
 NHKラジオ「まいにちフランス語」ではシュノンソー城について取り上げた。この城が建設された16世紀はヨーロッパではどんな世紀だったのかというと
Le XVIe siècle est en France le siècle de la Renaissance, qui vient d'Italie et se propage à toute l'Europe durant cette période. C'est aussi celui des querres de religion, avec le tristement célèbre massacre de la Saint-Barthélemy en 1572.
(16世紀は、イタリアから始まり、ヨーロッパ全土に広がったルネッサンスの世紀である。またまた、1572年のサン・バル輝美の虐殺などで、残念ながらよく知られている宗教戦争の世紀でもある。)

12月22日
 冬至である。
 横浜駅西口のダイヤモンド地下街あらためJOINUSの地下道にはクリスマスのケーキを売るワゴンが店を開いていた。また、年末ジャンボ宝くじの発売の最終日で売り場には長蛇の行列ができていた。
 NHKラジオ「エンジョイ・シンプル・イングリッシュ」の時間では落語の「やかんなめ」を短縮・英訳したものを放送した。日本のヤカンと欧米のkettleは形状が違うから、ヤカン頭という連想が欧米の人にはできるだろうか?

12月23日
 NHK「ラジオ英会話」では”A Song 4 U (for you)"「今月の歌」でポール・アンカの”My Home Town"を聞いた。オタワ市出身のレバノン系カナダ人である彼のデビュー作である”Diana"(1957年)は大ヒットとなった。この時、ポールはまだティーンエージャーであったという。したがって、小学生だった私とそれほど年は変らないのである。
 「ダイアナ」という歌は替え歌の作りやすい歌で、マルヴィーナ・レイノルズという歌手による替え歌”It isn't nice"というプロテスタント・ソングは多くの歌手によって歌われていた。

『太平記』(82)

12月22日(火)晴れ

 元弘3年(1333年)3月に新田義貞は朝敵追討の綸旨を得て、金剛山から上野国に帰って、挙兵の準備を進めていた。一方、足利高氏が宮方に寝返ったという知らせを受けて、鎌倉幕府は京都に大軍を派遣する計画を立て、その兵糧の確保のために関東地方の荘園から臨時の税を取り立てようとした。その使者が義貞の地元で税金を過酷に取り立てたので、義貞は怒って使者を斬り、5月8日に生品明神で倒幕の旗を挙げた。間もなく近隣の新田一族が集まり、翌9日には足利千寿王(後の義詮)が200余騎とともに合流すると、関東一円から一族以外の武士たちも馳せ加わった。
 新田の討伐に向かった幕府軍が、小手指原・粂川の合戦で敗れると、北条高時の弟泰家が大軍を率いて加勢に向かい、15日、分陪河原での緒戦に勝利した。ここで幕府軍が攻撃を続ければその後の展開は違ったかもしれないが、先行きを楽観して追撃しなかった。

 さて、相模の国の武士で三浦一族の大田和平六左衛門義勝は、以前から源氏に心を寄せていたので、相模の国の武士たち、大胡(群馬県前橋市北東部)、山上(やまのうえ、茨城県鹿嶋市)、江戸、豊島、松田(神奈川県足柄上郡松田町)、河村(同じく松田町)、土肥(とひ、足柄下郡湯河原町)、土屋(平塚市)、本間(厚木市)、渋谷(藤沢市)の一党を引き連れて、6千余騎で15日の早朝に、義貞軍の陣営に駆けつけた。義貞は大いに喜んで、すぐにそれぞれのものと対面して、合戦についてのそれぞれの意見を訊いた。
 大田和氏は横須賀市の大田和(現在では太田和と書く)を本貫とし、源頼朝が挙兵した際に衣笠城を守って討ち死にした三浦義明の三男義久を祖とする。ここで三浦一族の義勝が新田義貞のもとに駆けつけたことは、当然、三浦一族が頼朝挙兵の際に大いに活躍したことを踏まえて記述されていると思われる。江戸、豊島はともかく、大胡、山上は北関東の武士なので、相模の武士と一緒にされているのは、本文の混乱によるものかもしれない。土屋は三浦一族、土肥は源平の合戦で活躍した土肥実平の一族である。渋谷というと東京の渋谷を思い出すのだが、他にも同じ地名の場所があるようである。

 大田和義勝が畏まって言うのには、今、天下は2つ勢力に分かれてお互いの存亡をかけて戦っており、十度も二十度も合戦が続くことが予想される。とはいうものの「始終の落居は、天運の帰する所にて候へば、つひに泰平を致されんこと、何の疑ひか候ふべき」(第2分冊、114-115ページ、最終的な勝敗は天命により決まっていますので、ついには敵を平らげることは、全く疑いありません)といい、さらに続けて、自分たちの兵が加わっても義貞軍は10万余騎であり、幕府方の軍勢よりも少ないが、次の合戦で義貞軍が勝つことは予想の範囲内のことであるという。その理由は敵は緒戦に勝って油断しているからであると、秦末に挙兵して、秦の宰相李斯の子・李由の軍に勝利したことで驕り、秦の将軍章邯に滅ぼされた項梁(項羽の叔父)の例を挙げて説く。義勝は前日にひそかに部下のものに幕府軍の様子を探らせたが、勝利におごっている様子であったと付け加え、次の合戦には軍勢のどこかの方面の先鋒を務めて一合戦してみたいと申し出る。義貞は彼のいうところが一一もっともだと思ったので、翌日の戦いの手配を義勝に任せることにした。

 あくる5月16日の寅刻(午前4時ごろ)、三浦(大田和)は10万余騎の兵を前進させ、分陪河原へと向かわせた。敵の陣が近くなるまで、わざと旗の裾を解きのばさずに(旗をまいた状態で)、鬨の声も上げさせようとしなかった。これは幕府軍の意表をついて、一気に強襲をかけようという意図によるものである。
 予想通り、先日数度にわたって合戦を行ったことで人馬ともにつかれているうえに、まさかまたも敵が押し寄せてくるとは思っていなかったのであろうか、幕府方は馬に鞍も置かず、武具も身に着けず、遊女と共寝をしているものがいるかと思うと、前夜の飲み過ぎで眠り込んでいるものもいるという有様で、戦おうなどという態勢ではない。

 義貞軍が近づいてくるのを見て、河原に面したところに陣を張っている者たちが、西の方から旗をまいた大軍が、静に馬を歩ませて近づいてきていますが、もしかして敵かと思われます、準備を進めてくださいと連絡すると、大将たちは、思い当たることがある、三浦大田和が相模の国の武士たちを率いて、味方に駆けつけるという情報を得ているので、彼らがやってきたのであろう。さらに味方が加わるとはめでたいことだなどといって、驚きもしない。運が尽きるというのはこういうことで、全く嘆かわしいことである。

 そうこうしているうちに、義貞勢の10万余騎が三方から幕府軍に襲い掛かり、一斉に鬨を作る。幕府方はこの鬨の声に大ろいて、慌てて武装を整えようとするが、そこに大手から新田義貞、脇屋義助兄弟の兵が攻め込んで、幕府の兵を縦横無尽に討ち取っていく。大多和義勝は、豊島、葛西(東京都東部)、河越(埼玉県川越市)、鎌倉(鎌倉市、藤沢市に住んだ梶原、大庭氏など)、坂東の八平氏(上総・千葉・三浦・土肥・秩父・大庭・梶原・長尾の諸氏)、武蔵の七党(武蔵国に住した中小武士の連合体、丹・私市・児玉・猪俣・西・横山・村山)を率いて搦手から攻めかかり、あちこちを走り回って幕府軍を攪乱・蹂躙する。数十万を数え、義貞軍を上回るはずの幕府軍は壊滅状態になって鎌倉に引き返さざるを得なくなる。
 ここで、武士たちの名前が列挙されているが、かなり混乱があって、重複して名前を挙げられている例がある。このうち、鎌倉をはじめ、梶原、大庭、長尾などは神奈川県の地名にゆかりがある武士たちである。

 幕府軍の総大将である北条泰家も逃げていくうちに、関戸(東京都多摩市関戸)のあたりで命を落としそうになるが、家来の横溝八郎が自分の命を捨てて奮戦し、その他の家来たちも次々に主君を守るために引き返しては戦い、300人余りの者が命を捨てて、泰家の逃走を助けた。

 大将の1人であった長崎次郎は戦いで得た首を家来にもたせて鎧に突き刺さった矢をそのままにして鎌倉に戻り、北条高時のもとに駆けつけたが、これを見て祖父である長崎円喜がおまえはできの悪い孫だと思っていたが、よく戦ったとその武勇をほめたたえ、長崎次郎の方は目に涙を浮かべて感じ入るという場面もあった。とはいうものの、予期していなかったはずの敗戦に鎌倉の空気は一変したはずである。

 「源氏すでに数ヶ度の合戦に打ち勝ちぬと聞こえければ、東八ヶ国の武士、付き順(したが)ふ事雲霞の如し。関戸に一日逗留あつて着到をつけらる。八十万騎と注(しる)せり」(第2分冊、119ページ、義貞の軍はすでに数次の合戦に勝利したとの情報が伝わったので、関東8か国の武士で、帰順するものは雲霞のような数となった。関戸に一日逗留して、軍勢の来着を書き留めたが、その数は80万騎と記された)。

 北条一門は自分たちの本拠であるはずの関東地方の武士たちの離反に直面することとなった。これまで様子を見ていた多くの武士たちが討幕軍に参集したことで、いよいよ鎌倉幕府の命運は旦夕に迫ってきたようである。 

2015年の2015を目指して(12)

12月21日(月)曇り後晴れ

 このシリーズはずっと月末に掲載してきたが、今年もあと10日というところで、目標達成に向けて現状を確認しておくことにした。

 これまで、出かけた都県は2で、12月に新たに逗子市に出かけたので、市区町村の合計は3市8区ということになる。

 鉄道7社を利用している(前回6社と書いたのは数え間違い)。利用した路線は、新たに京急の逗子線を利用したので17路線になる。
 利用した駅は新逗子駅が加わって22駅である。
 バスは、新たに神奈川中央交通を利用したので3社、横浜市営バスの2路線と神奈川中央交通の1路線を利用したので、合計7路線のバスを利用していることになる。停留所は7カ所となった。

 ブログはこの記事を含めて22件を書いたので、360件ということになる。いただいたコメントは1件で合計は30件、トラックバックはなかったので、通算3件と変わらず、拍手コメントは1件いただいているので通算11件ということになる。

 10冊の本を買い、2冊の贈呈を受け、7冊の本を読んだ。読んだ本は中野明『東京大学第二工学部』、ジョン・ディクスン・カー『髑髏城』、山折哲雄『「歌」の精神史』、シャーロット・マクラウド『蹄鉄 ころんだ』、今野浩『工学部ヒラノ教授のアメリカ武者修行』、椎名誠『ここだけの話』、梅棹忠夫『日本語と事務革命』である。購入した書籍の1月からの通算は150冊、贈呈を受けた本の通算は4冊、読んだ本の合計は113冊である。

 「ラジオ英会話」を15回、「実践ビジネス英語」を9回、「攻略!英語リスニング」を6回、「ワンポイント・ニュースで英会話」を13回、「まいにちフランス語」を9回、「まいにちイタリア語」を15回聴いている。1月からの通算では「ラジオ英会話」を228回、「入門ビジネス英語」を72回、「実践ビジネス英語」を141回、「攻略!英語リスニング」を92回、「ワンポイント・ニュースで英会話」を235回、「まいにちフランス語」を203回、「まいにちイタリア語」を229回、「アラビア語講座」を24回、「まいにちドイツ語」を60回聴いている。同じ年のうちに再放送された番組は数に入れないことにしているので、こういう数字になる。

 NHKカルチャーラジオ『競い合う美 琳派400年』と『弥次さん喜多さんの膝栗毛』を3回ずつ、合計では12回ずつ聴いている。この他に「カルチャーラジオ」の番組を91回聴いている。

 12月に入ってから見た映画は2本で、1月からの合計は48本である。見た映画は『黄金のアデーレ』と『珍品堂主人』である。出かけた映画館は9館で変わりがない。

 サッカーの試合は12月に入ってから見ておらず、1月からの通算は21試合のままである。年末には全国高校サッカー選手権を見に出かけるので、もう少し数は伸びるはずである。

 アルコール類を口にしなかった日が5日あり、1月からの通算では45日である。

 上記のすべての数字を合計するわけではなく、適当に選んで加えていくわけであるが、どうやら2015年の2015は達成可能であると判断できる。

ダンテ・アリギエリ『神曲 煉獄篇』(19-2)

12月20日(日)晴れ

 ウェルギリウスの導きのもとに、煉獄の山を登るダンテは高慢の罪を贖う第1環道、嫉妬の罪を贖う第2環道、憤怒の罪を贖う第3環道、怠惰の罪を贖う第4環道を通り、第5環道へとたどり着いた。

私が第五の円周の中に放たれたとたん、
地に全身をうつぶせに寝かされ、
苦しみに泣いている人々が一面に見えた。

「私の魂は塵の上に臥せっています」、
私は彼らがこう声を上げるのを聞いていた。あまりに激しい嘆きが混じり、
その言葉はかろうじて聞き分けることができたほどだったが。
(282‐283ページ) 「私の魂は塵の上に臥せっています。御言葉によって、命を得させてください」と旧約聖書の「詩篇」118.25に歌われている。人間の肉体は塵から作られているので、地上の事柄に拘泥する。これが貪欲の罪の本質であるという。地上性、つまり肉体性のために魂も穢れることがここでは歌われている。聖書の言葉の後半は魂の解放を祈るものである。ダンテはここで地上の幸福よりも魂の解放を優先させる中世的な世界観を述べているのである。

 先を急ぐウェルギリウスは、魂たちに「高きに登る道」(283ページ)を示すように頼み、魂たちの1人が道を教える。ダンテは、しばし立ち止まって、ウェルギリウスに答えた魂と会話を交わす。
「・・・
あなたが誰であったのか、あなた方がなぜ背中を上に向けているのか、
そしてあなたへの功徳を得るため私が現世で祈ることをお望みか、
教えてほしい。そこから私は生きながらにして来たのだ」。
(284-285ページ) するとその魂は現世では教皇ハドリアヌスⅤ世であったと答える。もともとオットボーノ・フィエスキ(1210-1276)というジェノヴァの貴族であり、叔父である教皇インノケンティウスⅣ世のもとで枢機卿となり、特に外交関係で重要な役割をはたしたという。1276年に高齢で教皇に選ばれるが、間もなく病に倒れ、死去する。「貪欲であったという史的記述はないが、ダンテは彼の政治権力の追求を悪辣とみなしていたと思われる」(285ページ傍注)と翻訳者である原さんは注記している。

 ハドリアヌスⅤ世の魂は言う。
「余は1月と少しの間思い知った、
かの大いなるマントが泥にまみれぬよう守る者にとり、
それがどれほど重いか、他のあらゆる重みも羽毛にしか思えぬ。
(286ページ) 彼が教皇の座にあったのは「1月と少しの間」であった。彼は、地上の権力への固執の空しさを知り、神をあがめるようになったが、それは遅い「改宗」であった。
その瞬間まで、余の魂は惨めにも
神から遠く離れ、貪欲にまみれていた。
今や、ご覧のとおり、その罰をここで受ける。

貪欲のなしたことは、この場所で、
改宗した魂達の贖罪により明言されている。
この山中にあってこれ以上に苦い罰はない。

余らの目が高みを向かず、
地上の事物に固着した、
まさにそのまま、正義はここで余らの目を地に沈めた。
・・・」
(287ページ) 地上の事物に固執して貪欲の罪を犯したゆえに、彼らの目は地面に沈められているというのである。

 ダンテは相手が地上において教皇であったことを知って、敬意をもって接しようとするが、ハドリアヌスの魂は
「・・・余もまた同輩として
君や他の方々とともに、唯一の御力に仕えるものなり。
・・・」
(288ページ)と神の前にはすべての人間が平等であると語り、ダンテに先を急ぐように言い聞かせる。そして自分はなおも贖罪に専念するという。ここでは教皇と教皇庁がその本来の宗教的な任務を忘れ、世俗的な権力に関心をもちすぎていることが批判されている。その一方で、本来の任務に立ち返る可能性も否定されていないことも見逃すべきではなかろう。

梅棹忠夫『日本語と事務革命』

12月19日(土)晴れ

 梅棹忠夫『日本語と事務革命』(講談社学術文庫)を読み終える。1988年にくもん出版から「くもん選書」の1冊として刊行された『日本語と事務革命』が、その後、中央公論社から刊行された『梅棹忠夫著作集』の1冊『日本語と文明』に同じ題名で収録されたものを底本として、講談社学術文庫に収めたものである。人類学者として国際的に活動を展開し、エスペランティストであり、複数の言語を駆使し、大衆的なレヴェルでの知的生産と情報の収集・蓄積の活動にも関心を寄せ続けた梅棹忠夫(1920-2010)が「日本語と事務革命」をめぐり1960年代から1980年代の終わりまでに書いた様々な論文を集めて、新たに編集しなおしたもので
Ⅰ 事務革命
Ⅱ 文書革命の現実と将来
Ⅲ カナモジ・タイプライターは実用になるか?
  カナかなタイプライター始末記
Ⅳ ワード・プロセッサーは知的生産の新しい道具になりうるか
  ワープロのもたらしたもの――事務革命は終わったか
の各部分から構成されている。このうち「カナモジ・タイプライターは実用になるか?」は1960年代の初めに行われた大淵和夫(1927-1977)との対談をまとめたものである。なお、カナモジ・タイプライターはカタカナだけを打ち出す、カナかなタイプライターはカタカナとひらがなを両方ともに打ちだすことのできるタイプライターである。それから、この書物の前半では「事務革命」の進行が描きだされているのだが、後半になると著者の関心は「知的生産」の方に移ってしまって、企業の現場での文書作成の実態からは離れている。その点で一貫性が欠けているように思われる。

 さよう、この書物でいう「事務革命」の主役はタイプライターである。もともと事務文書は日本では筆で、欧米では鵞ペンで書かれていた。それが19世紀になって、鉱物を材料にした金属ペンに取って代わられた。これを梅棹は第一次事務革命という。そして19世紀の後半になると、タイプライターが発明され、普及することになる。タイプライターの特色は誰にでも読めるような文字が、迅速に打ち出されるということである。
 欧米と書いたが、タイプライターはローマ字を使う言語用のほか、左縦書きのモンゴル文字用、右横書きのアラビア文字用のものも考案されたと梅棹は書いている。梅棹は書いていないが、キリル文字用、ギリシア文字用のものもあるはずである。要するにタイプライターが作られるのには、その表記に使われる文字や記号の数が少ない方がよいのである。人間の手の指は10本、それぞれの指が演じることのできる役割はそれほど多くはない。
 日本では19世紀後半に筆から金属ペンへの転換が起きるが、日本語の表記の特色(常用される文字の数が多い)から、タイプライターへの転換は行われないままであった。確かに和文タイプライターの発明はあったが、これは欧文のタイプライターとは別の原理に基づくものであった。タイプライターの特色の1つは、手書きよりも早く文書が作成できるということであり、和文タイプの場合は手書よりもむしろ時間がかかるのだから、話が違うのである。その一方で、大阪の実業人たちを中心として、カナタイプを企業活動の現場で使おうという動きがあり、戦後になってそれが急激に発展した。

 以前にも書いたことがあるが、学生時代、図書館学の先生が図書館学の実習ではタイプライターを使うという話をされて、授業を受講しようかと思ったことがある。つまり私の心のどこかに、タイプライターへのあこがれがあったようである。また、京都大学の全学自治会である同学会の部屋で何やら時間を過ごしていると、大学のエスペラント研究会の学生が部誌の発行のために謄写印刷機を貸してほしいと何人かでやってきて、それだけでなく、持ってきたタイプライターで原稿を作成しはじめたのは、ちょっとした見物であった。梅棹はエスペランティストであったから、タイプライターにはなじみが深かったのであり、フィールドに出かけても、ローマ字でフィールド・ノートを作成したり、戦後のある時期にはローマ字で書かれた学術誌の刊行に携わったりしたほどである。(ローマ字の学術誌を刊行するくらいならば、英語で書いたほうがいいのではないかと思ったりするが、そこをローマ字表記の日本語で頑張るというのが、梅棹の梅棹たるゆえんである。)

 繰り返しになるが、タイプライターを使うことの利点は、迅速に誰にでもわかる文字が書けるということである。ところが、日本語は表音文字であるひらがな、カタカナと、表意文字である漢字とを混用しているので、日常的に使用する文字数が多く、携帯に便利ですぐに文書を作成できるようなタイプライターを考案し、使用することができない。ということは、タイプライター使用が可能なように、日本語の書き方を変えていく必要があるのではないか、つまり漢字の使用を制限し、分かち書きを励行していくべきであるというのが梅棹の意見である。漢字の使用を制限するということは、できるだけわかりやすく日常的な言葉を使うということにもつながる。確かに、梅棹の文章は漢字が少なく、できるだけ平易で分りやすい文章であることを心掛けて書かれている。

 梅棹が推進しようとしたのは、かなだけを使う(当然、分かち書きが必要となる)タイプライターの使用であり、かなタイプを日常的に利用するだけでなく、ある企業と連携してより使いやすいかなタイプ、さらには電動式のカナかなタイプの開発にも乗り出す。ところが、さまざまな技術的な問題があって、これは商業化に至らなかった。そして、1980年代になると、新たな機器としてワードプロセッサーが使用されはじめる。ワープロの出現によって、和文タイプライターでは迅速に文書が作成できないという問題は解決され、カナで書かれた語彙が比較的簡単に漢字に転換されるようになったが、そのことが逆に、日本語を平易で分りやすい方向に作り替えていくという流れに逆行する動きをもたらしたようにも思われる。

 その後、ワープロがコンピューターに取って代わられ、日本語の文章におけるカタカナ言葉の使用が増えたことで、梅棹が論じている問題はより複雑な様相を呈し始めているように思われる。表意文字と表音文字とを混用する日本語の表記が豊かな思考と芸術的な創造力を育むという意見もある一方で、日本社会がますます国際化していく中で、漢字の使用をできるだけ制限していくことが好ましいとする意見もある。(漢字を使用することが、日本に近いいくつかの国々の人々にとって日本語を学習する際に有利だと思われるので、問題はさらに複雑なのである。) かつては漢字と字喃(チュノム)という民族的な文字を使用していたが、ローマ字使用に切り替わったヴェトナム語、同じく漢字とハングルとを使用していたが、ハングル一本に切り替えた韓国・朝鮮語の事例など、その教訓を学ぶべき経験が少なからずあり、さらには中国の少数民族言語の事例もあるので、この問題は慎重に対処していくべきなのであろう。この書物の巻末に付け加えられた京極夏彦さんと、山根一眞さんの解説が、梅棹の問題提起をそれぞれの立場からしっかりと受け止めてそれぞれの意見を展開されているのが、好感が持てるし、読み応えもある。日本語、とくにその表記について、事務処理だけでなく、教育や知的生産とかかわって考える際に見落とすことのできない論点を含んだ、読み応えのある書物である。

西田龍雄『アジア古代文字の解読』(3)

12月18日(金)晴れ

 今回は、この書物の第6章「契丹文字解読の新展開」を取り上げる。今回でこの書物の紹介を完結させるつもりであったが、未解読の契丹文字は、解読できたかぎりでも複雑な構造をもち、その複雑さを説明しているだけでも相当な労力を要することが分かり、完結は次回にまわすことにした。

 契丹文字についてはすでに第1章「未解読文字への挑戦」で未解読文字の1つとして、その性格と未解読の理由が簡単に述べられている。この文字は920年から1191年まで約270年間、中国の東北部にあった遼の国字として使われていたもので、契丹文と漢文とが対照できる資料がわずかながら残っているが、確実な資料があまりにも少ないこと、残された資料が墓碑銘なのでその内容に偏りがあること、契丹語の子孫となる言語が不明であること、それに契丹文字が表意・表音文字の混合体であるという性格をもつことのためにまだ最終的に解読できたとは言えない状態のままである。もっともこの文字が解読されても、契丹民族の文化と社会についてはすでに多くのことが分かっているので、その点では役に立たないが、彼らの言語がどのような組織をもち、系統に属しているかが明らかになるだろうと述べている。(契丹語は女真語と同じくアルタイ語系の言語であることは第5章「女真文字の成立と発展」に触れられているほか、第6章ではアルタイ語系の蒙古語との比較が盛んに試みられている。)

 第6章「契丹文字解読の新展開」では、1971年に吉林の小学校で出土した銅鏡に契丹文字が刻まれていたこと、中国の学者によるこの文字の解読作業について紹介したうえで、実は他の中国の学者たちの研究で契丹文字がかなり厳密な表記法をとっていたことが分かってきたと述べている。
 907年に契丹族は中国北部に契丹王朝(遼)を立てた。そして建国後の920年に契丹の太祖耶律阿保機(やりつあぽき)は自ら考案した契丹文字を公布した。これは漢字を参考にしてつくられた表意文字であったために、契丹語の多音節単語や種々の接辞を表記するのに不便であった。それで数年たって、太祖の弟の迭剌(てつらつ)がウイグルの使者から表記法を学んで、表音文字である契丹小字を考案した。このように表意文字と表音文字を組み合わせて表記するやり方は、女真文字と共通し、おそらくは女真文字のほうが先行する契丹文字をまねたのであろうと考えられる。

 契丹文字の資料はきわめて限られており、契丹語と漢語の二言語資料はさらにわずかであるが、それでも中国、日本、ソヴィエト(当時)の学者たちによって研究が進められ、1970年代の後半になって中国では新しい画期的な研究成果の発表があった。著者はこのような研究成果を踏まえながら、自説を交えて、契丹小字解読作業の当時の段階について述べている。具体的な解読作業の様相については紹介を省くが、契丹文字の解読は「確実な根拠から特定の原字に、一定の音価を与えうる段階にまで到達した」(203ページ)として新たな研究の成果を高く評価している。「それと同時に、この不可解な文字の背後には、予想以上に多くの漢語が、契丹語に混ざって表記されていることがわかったのも、これまた実に驚くべき事実である」(同上)とも述べる。さらにさまざまな手掛かりをもとに、契丹語の音を再構していく過程が記されていて興味深い。さらに著者は契丹小字による契丹語表記の基本原則について推論を展開している。

 これまで、契丹語は蒙古語に比べてずっと古い形式を保存しており、その文書の解読⇒契丹語の形態の判明は、アルタイ祖語の再構成に役立つのではないかという期待があったが、「契丹語の実態が少しわかってくるにつれて、この期待はずっと薄れ、契丹語はむしろ中期蒙古語や蒙古文語よりもかなり簡単化した形をもっていたのではないかと推測したくなる方向に進んでいるように見える」(223-224ページ)という解読作業の進展のもう一つの余波も取り上げられている。
 さらに最後に、契丹大字とその解読作業の状況について触れられている。この文字の字形を見ていくと、漢字とのつながりが顕著であるが、女真文字とのつながりも確認できる。したがって、この方面からも今後は解読作業が進められていくことが期待されている。ただ、この文字への関心に便乗しようとするニセモノの資料にも注意する必要がある。

 契丹文字の解読作業には、未解読の文字を解読することのほかに、契丹語というまだその性格と構造が十分に知られていない言語の復元とそのアルタイ語族の中での位置づけ、さらに表意文字と表音文字を組み合わせる表記の仕方が日本語の表記を考えるうえでも参考になりそうだということなど、予想以上に多くの意義が認められそうである。契丹(遼)というと、『水滸伝』で梁山泊の豪傑たちが皇帝の命令を受けて遼の国を討伐に出かけるくだりを思い出すのであるが、そこでは遼に独自の言語や文字が存在することなどまったく無視されている。異文化の独自性を認めることにより、ものの見方がさらに複雑に広がって、世界がより面白く認識できるということを考えると、『水滸伝』の作者がこの物語をより面白くできる機会を見逃したことは残念に思われる。

『太平記』(81)

12月17日(木)曇り、一時雨

 元弘3年(1333年)5月7日、鎌倉幕府に反旗を翻し、丹波の篠村で挙兵した足利高氏は京都に兵を進めた。京都の南に陣を構えて、六波羅の軍勢と何度も戦ってきた赤松円心、千種忠顕の軍勢もこれに呼応、幕府側は裏切りが相次いで六波羅を支え切れず、京都を脱出して関東で再起を図ろうとするが、執拗に襲い掛かる野伏たちに行く手を阻まれて進退に窮し、5月9日に近江国番場の宿で、六波羅北探題の北条仲時と、それに従ってきた432人の武士が腹を切った。六波羅探題一行とともに関東へ向かっていた主上(光厳天皇)、東宮(康仁親王)、両上皇(後伏見・花園上皇)は官軍に警護されて京都に戻った。

 足利高氏の三男である千寿王は、父親が上洛する際に、人質として鎌倉にとどめ置かれていたが、5月2日に脱出、このことから幕府では京都の情勢を不安視し、大軍を派遣しようと計画した。上野の国の武士である新田義貞は、3月に朝敵追討の綸旨を得て、上野に戻り挙兵の準備を進めていたが、幕府が兵糧徴発のために新田庄に使者を派遣したため、この使者を斬って5月8日に生品明神で旗揚げした。間もなく上野、越後など各地の新田一族が合流し、翌9日に、千寿王が200余騎とともに馳せ参じると、関東一円から武士たちが参集して、その軍勢は20万余騎に膨れ上がった。

 このような次第なので、各地から鎌倉に早馬が頻りに急を知らせてきた。これを聞いて、時代の変化に鈍感なものは、異国の軍勢が攻めてきたならともかく、国内の武士たちが幕府に反旗を翻すのは、身の程知らずも甚だしいと侮っていたが、少しでも物の道理のわかる人々はこれは大変なことになった、畿内だけでなく、幕府のおひざ元である関東地方でも反乱が起きたと、幕府の行く末を案じたのであった。

 幕府は5月9日に軍評定を行い、翌朝巳の刻(午前10時ごろ)北条一門の金沢貞将に5万余騎の兵を授け、下河辺(埼玉県北葛飾郡)に派遣した。これは上総、下総の兵を動員して、敵の背後を突こうとする戦略によるものであった。もう一方にはこれも北条一門の桜田貞国を大将として、北条氏の内管領である長崎高資の子の基資、長崎一族の泰光、それに武蔵の国の武士である加治次郎左衛門入道をつけ、武蔵、上野の兵たち6万余騎を率いて、鎌倉から関戸、府中などを通り、入間川に向かう鎌倉道を進ませた。これは大河を前に陣を構えて、敵が渡河してくるところを攻撃しようという作戦からであった。承久の変以来、関東地方では戦闘らしい戦闘というものは起きておらず、武士たちが武装して進軍するのは珍しい眺めであり、幕府方の武士たちは華美な装束を身につけていたので、余計に見栄えがした。

 それぞれの軍勢が途中1日の休息をとり、5月11日の辰の刻(午前8時ごろ)に武蔵の国の小手指原(埼玉県所沢市の西部)で両軍が遭遇した。幕府方の軍勢が新田勢を見ると、予想をはるかに上回る数十万の兵が集まっていて、恐れをなして足が止まってしまう。新田勢はどんどん入間川を渡り、鬨の声をあげ、兵を進めて、当時の合戦の習いとして、双方が鏑矢を射合う儀礼の矢を射、草しながら自分たちの軍勢の隊形を整えた。両者ともに小手調べの兵を出し、次第にその数を増して30度ほど戦闘を繰り返したが、それぞれ戦死者を出し、お互いに疲れてきたうえに、日も暮れかかったので、この日の戦闘を休止させた。

 新田勢は3里退却して入間川に陣を取り、北条勢も3里引いて久米川(東京都東村山市久米川町)に陣を構え、それぞれかがり火をたいて、夜が明けるのを今や遅しと待ち構えていた。

 夜が明けると新田勢は先手必勝とばかりに久米川へと押し寄せる。北条勢もこのことは予期していて、軍勢を展開して攻撃を仕掛け、敵軍を分断しようとするが、新田勢は軍勢を一つにまとめて、分断されまいとする。激しい戦いが続いたが、北条勢のほうが戦死者を多く出し、ついに分陪(ぶんばい、東京都府中市分梅町あたり、久米川の南)に退却した。

 新田勢は勢いに乗ってさらに攻め寄せようとしたが、連日の戦いで人馬の疲労がはなはだしく、いったん馬の足を休めようと、久米川に陣をとって夜明けを待つこととなった。

 新田討伐軍が苦戦しているという情報が鎌倉に伝わり、幕府は得宗である北条高時の弟の泰家を大将軍とし、20万余騎の援軍を派遣した。その軍勢が5月15日の夜半に分陪に到着したので、幕府方はまた力を得て、先に進もうとする。
 新田勢のほうでは、幕府が援軍を派遣してきたとは知らずに、夜が明ける前から攻撃を開始したが、北条勢は屈強の弓の名手をそろえて新田勢に矢を浴びせかけ、その攻撃の足を止めたうえで、左右から新田勢を挟み撃ちにして猛攻を仕掛けた。数的に劣勢になった新田勢は、これにひるまず、戦場を駆け巡って北条勢の攻撃に対抗したが、衆寡敵せず、20万余騎の大軍が6万余騎にまで減って(おそらくは戦死したものよりも、戦場を離脱したもののほうが多かったのではないか)、堀金(埼玉県狭山市堀兼)に退却した。

 「その日、やがて追つ掛けたりしかば、源氏は一人も残らず亡ぶべかりしを、今は何程の事かあるべき、定めて新田義貞をば武蔵、上野の者どもが討つてぞ出ださんずらんと、大様(おおよう)に憑(たの)みて時を移す。これぞ平家の運命の尽くる処のしるしなる」(第2分冊、113-114ページ、その日ただちに北条軍が追撃していれば、新田勢は一人も残らず滅びたはずなのに、今はもう恐れるほどのことはあるまい、新田義貞を武蔵、上野の武士たちが討伐するに違いないと、のんきにあてにして、時を過ごしてしまった。これが平家の運命が尽きる兆候であった)と『太平記』の作者は記す。

 幕府は自分たちの実力と、人気の両方をまだまだ過信している。新田義貞の率いる軍勢の多いこと(さらにはその戦いぶり)を見れば、彼らが東国の武士をさえ、統率できなくなっていることは明らかであるが、そのことに気付かない。高時の弟の泰家は出家していたのが、還俗してここで戦いに加わっている。彼はこの後も『太平記』に何度か登場し、かなり重要な役割を演じることになる。分陪河原の戦いに勝利した後、敵を追撃しなかったのが彼の判断によるものかどうかはわからないが、それほどすぐれた人物ではないまでも、兄の高時に比べれば分別があったのではないかと思われる。

日記抄(12月10日~16日)

12月16日(水)晴れ、温暖

 12月10日から本日までの間に経験したこと、考えたことなど:
12月10日
 NHKラジオ「英会話タイムトライアル」で”Christmas Tree Song"の話題が取り上げられていた。もともとドイツ民謡で”O Tannenbaum"というのが、アメリカにわたって広く歌われるようになったもので、労働運動の歌である「赤旗の歌」や、コーネル大学の校歌、さらにメリーランド州やアイオワ州の州歌としても歌われているそうである。日本では「モミの木」という題名で歌われるが、「赤旗の歌」の方もよく知られている。

 NHKラジオ「実践ビジネス英語」の”Quote...Unquote"のコーナーでフランスの政治思想家アレクシス・ド・トクヴィル(Alexis de Tocqueville, 1805-59)の次の言葉が紹介された。
As one digs deeper into the national character of the Americans, one sees that they have sought the value of everything in this world only in the answer to this single question: how much money will it bring in?
(アメリカ人の国民性を深く掘り下げていくと、彼らはこの世のあらゆるものの価値を、次のたった1つの問いかけへの答にのみ求めてきたことが分かる。つまり、それでどれだけ儲かるのか、ということ。)
 トクヴィルの『アメリカのデモクラシー』は、(特にアメリカ人によって)アメリカとその政治制度を賛美した書物と受け取られることが多いが、アメリカの社会と制度について結構辛辣なことも行っているのである。

12月11日
 「実践ビジネス英語」の”Graffiti Corner"のこの日付のページに(実際には番組で取り上げられなかった)
To err is human, to forgive is against company policy.
(許すことは当社の方針に反する)
というgraffiti (落書き)が紹介されていた。
To err is human, to forgive, divine.
(過つは人の常、許すは神の業)
というのは英国の詩人Alexander Pope (1688-1744)が「批評論」(An Essay on Criticism)の中で使った有名な句だそうである。そういえば、高校時代の英語の時間でこの句を習った記憶がある(キリスト教の学校だったのである)。ラテン語で
Errare humanum est, sed presevere dibolicum.
(誤りを犯すのは人間的なことだが、誤りをし続けるのは悪魔的なことである。わたしの試訳なので、間違っているかもしれない。)というセネカの言葉があるそうで、あるいはポープはこの言葉を念頭に置いていたのかもしれない。

12月12日
 NHKラジオ「攻略!英語リスニング」ではBeethoven's Symphony No. 9 (ベートーヴェン 交響曲第9番)の話題を取り上げた。この曲は1824年にウィーンで初演されたのだが、
By this time, Beethoven was deaf and when the audience started clapping, Beethoven couldn't hear them. One of the singers had to walk over to Beethoven and turn him around so that he could see the people clapping.
(その頃、ベートーヴェンは耳が聞こえなくなっていて、聴衆が拍手を初めても、ベートーヴェンには聞こえなかった。歌手の1人がベートーヴェンのところまで歩いていって振り向かせ、聴衆が拍手をしているのが見えるようにしてあげないといけなかったのである。)
 これは有名な逸話だが、ベートーヴェンを振り向かせたのは独唱者の1人であったカロリーネ・ウンガ-(Caroline Unger, 1803-1877)というアルト歌手であった(カロリーナとかカルロッタという名も知られ、ウンガ-もUngherと書く場合があるそうである)。まだデビュー間もない時期のことで(デビュー前に彼女を短期間だが、シューベルトが指導したという話もある)、怖いもの知らずだったのではないかと思う。その後、イタリアとフランスで活躍したが、ベートーヴェンを振り向かせたという話がいちばんよく知られている。彼女の伝記は、少なからず出版されているようなので、興味がある方は読んでみてください。

12月13日
 NHKEテレ「日本の話芸」で三遊亭小遊三師匠の「たいこ腹」を視聴する。この話はあまり好きではないのだが、小遊三さんの語り口はよかったと思う。

12月14日
 NHK「ラジオ英会話」では”Exclusive Interview with Scrooge"(スクルージに独占インタビュー)として、ディケンズの『クリスマス・キャロル』の主人公への架空のインタビューで番組を構成している。ディケンズの作品はこの『クリスマス・キャロル』を含めて映画やTVでいくつも見ているのだが、原作を読んだことはない。せめて『オリヴァ・トゥイスト』くらいは読んでおこうと思っているのだが、まだである(来年こそは!) 廣野由美子『ミステリーの人間学 英国古典探偵小説を読む』(岩波新書)では、英国における探偵小説の源流として、ディケンズの作品の持つミステリー性に着目しているので、そういう点についても考えていきたいと思っているからでもある。

12月15日
 「ラジオ英会話」のU R the ☆ ! (= You Are the Star!)という応用練習のコーナーでの対話:
How was your life in college? (学生時代の生活はどうでした?)
I call it my ramen days. (ラーメン時代と呼んでいます。)
Oh? Why? (そうなんですか? なぜですか?)
Money was tight. (経済的に厳しかったので。)
思い当たるところ、多し。(ラーメンは主として、インスタントの方であった。)

12月16日
 「実践ビジネス英語」は今日から”Sweatworking"という新しいビニェット(Vignette)に入った。スウェットワーキングというのは、スポーツジムなどで汗をかきながらのビジネスネットワーキングのことだそうである。
 本日の放送の中で、schmoozeという動詞が出てきて、「⦅米俗⦆おしゃべりをする」と説明されていた。schで始まる語は、もともとイディッシュ語であったものが多く、schmをつけてわざとイディッシュ風の単語を作って使うこともあるそうである。気になって調べてみたが、schmoozeという語は手元の『リーダーズ英和中辞典』(2000年の版)、『ロングマン英和辞典』のどちらにも掲載されている。『リーダーズ英和中辞典』には、Yiddishについて「イディッシュ⦅ドイツ語にスラヴ語・ヘブライ語を交え、ヘブライ文字で書く言語;欧米のユダヤ人が用い、LondonのEast Endでも用いられる⦆.」と説明されているが、ロンドンのイースト・エンドは以前ほどユダヤ系の人々が多く住まなくなっているようなので、最後の記述は余計であろう。あるいは、すでに新しい版では削られているかもしれない。

『太平記』(80)

12月15日(火)曇り

 足利高氏の京都での謀叛の知らせが鎌倉に到来する前に、高氏の子千寿王(後の義詮)は鎌倉を脱出したが、兄の竹若は浮島が原で捕えられて斬られた。上野の武士である新田義貞は3月に朝敵追討の綸旨を得て金剛山から帰り、挙兵の準備を進めていたが、鎌倉幕府が京都に大軍を派遣するための兵糧徴発のために新田庄に使者を派遣して、厳しく取り立てを行おうとしたのに腹を立て、使者の1人を斬り、もう1人を生け捕りにしたので北条氏得宗である高時の怒りを買って、幕府の追討軍を向けられることになった。

 新田義貞とその弟の脇屋義助は、幕府が軍勢を差し向けるとのうわさを聞いて、一族の主だったものを集めてどのように対処すべきかとの表情を行った。集まった人々の意見が定まらない中で、義助はしばらく思案を凝らしていたが、「弓矢の道、死を軽くして名を重くするを以て、儀とせり」(第2分冊、103ページ、弓矢をとる武士の道は、死を軽くして主君の命令を重くするのを正しい振舞としている)として、これまで天下の武士たちは北条得宗の命令を重んじてきた。だから、どこで戦ったとしても、その命令を軽んじたということに変わりはなく、自分たちの運がなければ勝てないだろうし、人々の心がバラバラでは長く戦い続けることすらできない。他国に逃げても、幕府に反抗したことで悪い評判を立てられるだけである。我々が綸旨を得たのはそもそも何のためであったのだろうか。ここは運を天に任せて、幕府を相手に戦いを挑むべきであると説く。すると、そこに集まっていた一族の者達がみな賛同の意を表する。
 それでは、この計画が漏れないうちに打って出ようと、5月8日の午前6時ごろに生品大明神(群馬県太田市新田市野井町の生品神社)で旗を挙げ、宣旨を開いてこれを3度拝し、笠懸の野辺(みどり市笠懸町)へと打って出た。この時、彼らの軍勢はわずか150騎ほどであった。

 ところがその日の夕刻になると、利根川の方から、馬も武具も鮮やかに見える兵2,000余騎が、彼らの騎乗する馬の盛んな土煙とともに駆けつけてきた。敵かとみると、そうではなく、新田一族の、里見氏(群馬県高崎市里見に住む)、鳥山氏(太田市鳥山に住む)、田中氏(太田市新田田中に住む)、大井田氏(新潟県十日町市に住む)、羽川(栃木県小山市羽川に住む)の武士たちであった。
 義貞は大いに喜んで、進む馬をとめて次のように述べた。あらかじめ倒幕の企てはあったといっても、今日、明日とは思っていなかったのに、急に挙兵することになったという事情があって、お知らせする暇もなかったのに、どのようにし手御存じになったのであろうか。一族の大井田経隆が、馬の鞍にまたがったまま答えた。お知らせがなくては、知ることはないはずです。帝の仰せによって倒幕の大事業を決意されたことを、去る5日に使いのものだという山伏が1人、越後の国を1日中触れ回っていたので、こちらも昼夜兼行で駆けつけた次第です。もっと遠くにいる武士たちは明日にでも参集することになるでしょう。上野の国の外へ出陣されるおつもりであれば、さらに味方の兵が集まるのをお待ちください。それから、経隆をはじめとする武士たちは馬から降りて、挨拶を始めた。そうこうするうちに、後から続いてやってきた越後の武士たち、武田・小笠原・村上などの甲斐・信濃の源氏の武士たちが、それぞれの家の旗を掲げて、5,000余騎で小幡庄(群馬県甘楽郡甘楽町小幡)のあたりで加わった。

 このように倒幕の意思が伝わり、軍勢が増えていくことは、ひとえに源氏の守り神である八幡大菩薩のご加護によるものである、この上はぐずぐずせずに先に進もうと、5月9日に義貞は上野の国から武蔵の国へと兵を進めた。その時、記五左衛門が、足利高氏の子息である千寿王を連れて、200余騎で追いついてきた。この噂が広まると、上野、下野、上総、下総、常陸、武蔵(関八州から安房と相模を除いた部分)の武士たちが予期していなかったのに馳せつき、召集をかけないのに馳せ来て、1日のうちに20万騎になった。
『太平記』の作者ははっきりとは書いていないが、千寿王つまり後の義詮の参集が決定的な意味をもったことは明らかで、これで北関東の武士たちが高氏の意向を察知して倒幕に加担することになった。千寿王自身はまだ元服していない子どもなのだが、その象徴している権威は義貞以上に大きかったのである。その前に新田一族が不思議な山伏の知らせで集まったというのは、あとから尾ひれがついた話で、おそらくは義貞が一族に急使を派遣したというのが真相であろう。記五左衛門という人物はどうも謎で、『太平記』の各本でそれぞれ名前が違っていたりするようである。(第9巻の初めの方で、高氏は北条高時の命令で、いわば人質として千寿王を鎌倉に留めおくことになったのだが、その時から、千寿王を無事に逃がすための手はずを整えていたようである。千寿王は三男ではあるが、高氏の正妻である赤橋登子の子なので、すでに高氏の後継者と決まっていた。そう考えると、殺された竹若がいっそう気の毒である。なおその後、高氏は醍醐寺の僧隆舜に竹若の後世供養を委ねているそうである。)

 このように大軍が集まったので、広い武蔵野の地に(『太平記』の作者は「四方八百里」と書いているが、これでは広すぎる)、人や馬が身動きできないほど大勢入り込んだので、空を飛ぶ鳥も飛び回ることができず、地を走る獣も隠れ場所を見つけることができないという様子である。「草の原より出づる月も、馬鞍の上にj衡(ほのめ)き、尾花が末を過ぐる風も、旌旗の影に止まれり」(第2分冊、107ページ)とはいくらなんでも大仰な描写である。

 時の勢いというのであろうか、義貞の挙兵は瞬く間に大軍を集めることになった。とはいうものの、この大軍のかなりの部分が、義貞ではなく、千寿王を大将と仰いでいたことは、その後の動きから明らかである。鎌倉幕府は思いがけない強敵に直面することになるが、その討幕軍にも矛盾の種が潜んでいたことになる。

シャーロット・マクラウド『蹄鉄ころんだ』

12月14日(月)曇り

 12月13日、夜遅くまでかかってシャーロット・マクラウド『蹄鉄ころんだ』(創元推理文庫)を読み終えた。おかげで、この日のうちに当ブログの更新ができなかった。シャーロット・マクラウド(Charlotte MacLeod,1922-2005)はニューイングランド地方にあるバラクラヴァ農業大学の応用土壌学の教授であるピーター・シャンディが大学とその周辺で起きた事件を解決するユーモアたっぷりの推理小説シリーズを10編書いており、この作品は原題をThe Luck Runs Outといい、1979年に発表された。1978年に発表された『にぎやかな眠り』(Rest You Merry)に続くシリーズ第2作である。

 『にぎやかな眠り』に描かれた事件が起きてから4か月ほどが過ぎ、シャンディは事件の解決のよき協力者でもあった図書館司書のヘレンと結婚し、その友人で妻を失ったティモシー(ティム)・エイムズは家政婦を雇って日々を送っていた。その家政婦のロレーヌ・マクスビーというのが働き者ではあるが、衛生にやかましくやたらと殺菌、消毒に励む、多少困った性向の持ち主である。シャンディと結婚するとともに、大学図書館の司書助手の地位も得たヘレンは大学に慣れようと、あちこちを探検して回っている。目下のところは畜産学部て、馬に蹄鉄を打っている年配の女性装蹄師マーサ・フラックレーの仕事ぶりに興味を持ち、親しくなろうとしている。作業中の彼女に話しかけながら、ヘレンが並んでいる8つの馬房に目を向けると、「それぞれの馬房には馬の名前を彫りこんだむくのウォールナットの板がかかげられており、上下に分かれた扉のしたの部分に、馬の蹄鉄がひとつずつ打ちつけられてい」(11ページ)た。ヘレンは蹄鉄をかけるときに、必ず輪になっているほうを下にするのはなぜかと疑問を口にする。ミス・フラックレーは自分の考えを述べるが、ちょうど通りかかった畜産学部長のストット教授のほうが適切な答えを与えるだろうという。ストット教授は「幸運が逃げていかないようにするためだよ」(13ページ)と答える。(原題のThe Luck runs out.=幸運が逃げていくは、ここからきているようである。) ミス・フラックレーだけでなく、豚の飼育に打ち込んでいるストット教授にも興味を持ち、2人を夕食に招待する。
 実はこのところ、ヘレンは立て続けに夕食会を開いているのである。この日の夜も、地域の人々から尊敬を集めている動物誌の名誉教授であるエンダーブルとその夫人に加えて、ティムとその家政婦であるロレーヌ・マクスピーを招待していた。食事の席でもマクスピーはとげとげしい態度をとり、夕食会の食器が銀製ではないことがお客への礼を失するものであることを暗にほのめかす。
 
 シャンディとヘレンは、ヘレンがミス・フラックレーとストット教授を夕食に招待した金曜日の午前中に、地域の有名店であるカーロヴィンジャン工芸店に銀器を買いに出かける。その後で、ヘレンの友達で竜巻に家を吹き飛ばされたために、あたらしい仕事を求めてやってくるイデューナを迎えに空港に出かけ、その後、夕食会の準備をするという段取りである。その前日、ヘレンは畜産学部に豚を見に行ったのだが、馬房の蹄鉄を全て引きはがしてひっくり返し、輪になっているほうを上にした(ギリシア文字のΩのようにした)者がいて、ストット教授がそれを気にしていたと話す。その頃、バンクラヴァ農業大学は、年に一度の馬の競技大会を控えて沸き返っていたのだが、誰かが不吉ないたずらをしたようである。
 工芸店を訪れた2人は、2人組の男性がこの店の金庫室から金と銀の地金を盗み出す場面に遭遇し、ヘレンが犯人たちの逃走中の安全を確保するための人質にとられる。幸い、それほどの時間がたたないうちに彼女は無事に戻ってくる。犯人は顔を隠していなかったし、大量の金銀を積んだバンに乗っているので、逮捕にはそれほど手間取らないはずである。(ところが、それなりに巧妙なたくらみが仕掛けられていて意外に手間取ってしまう…)

 ギリギリのところでイデューナを出迎えることができた2人は、自宅に戻る。あまり時間がなかったにもかかわらず、ヘレンはイデューナの助けを借りて、夕食会を見事に準備する(イデューナはずば抜けて料理が上手であるという設定である)。夕食会は大成功に終わったのだが、翌朝早く、2人はストット教授に起こされる。教授が大切にしているだけでなく、大学全体が誇りにしている種豚のバラクラヴァ・バルサザールの一番最新の相手で、妊娠中のメス豚べリンダが姿を消したというのである。しかも彼の家に電話がかかり、家のドアマットの上にはガラス瓶に入った「豚の足の酢漬け」が置かれていた。そして、今度はシャンディに電話がかかり、家のドアマットの上に豚肉が置かれていた。しかし、この肉はべリンダのものではないらしい。そうこうしていると、今度はスヴェンソン学長がやってくる。学長も相当に動転した様子で、装蹄師フラックレーの死体が発見されたという。
 この一連の事件に取り組むために、スヴェンソン学長は全学集会を開いて、学生たちを動員して捜査にあたらせる。シャンディはどこに住んでいるのかわからなかった装蹄師フラックレーの住所がフォージャリー・ポイントというところにあることを知り、州警察の(地元の警察は当てにできない)コービン警部補とその場所に向かう(ここでシャンディが考えたり、思い出したりしたことがその後の展開の伏線になる)。フラックレーの住まいには、彼女の甥だという30代の後半くらいの髭を生やした男性がいて、自分はフラックレー一族の一人で、ロデオ一座の装蹄師をしていたが、一座が解散したので、故郷に戻ってきたという。

 装蹄師フラックレーの殺人と金銀の地金の強奪、メス豚の誘拐、連続して起きた3つの事件がどのように関連しているのか、シャンディは『にぎやかな眠り』事件で見せた慧眼ぶりを発揮して、次第次第に事件の真相に迫っていく。前作に引き続いてスヴェンソン学長とその夫人がそれぞれのやり方で教職員と学生たちをコントロールしていくし、同僚の妻であるミレールは相変わらずお馬鹿ではた迷惑な推理を展開して捜査をかく乱しているが、新たに登場する人物も多く、とくに学長夫妻の7人の美しい娘たちの中で、現在この大学に在学中で、1人だけ性格的に父親に似ているビルギット・スヴェンソンと彼女の恋人で「なにごとにつけても、信じられないほどすばらしいか、でなければ目をおおいたくなるほどひどいかのどちらかで、どちらの目が出るかは、やってみるまでだれにもわからない」(127ページ)ヤルマル・ウーラフセンの2人が要注意である。特に、ビルギットはヴィジャラント・ヴェジタリアンズ(<寝ずの番をする菜食主義者>と翻訳者の高田惠子さんは訳しているが、vigilantesは自警団と訳す方が自然だろう。肉食に反対して、動物たちの命を守る自警団である)の戦闘的な活動家で、そのことと事件は関係があるのだろうかと、シャンディも読者も考えるはずである。学長夫妻、イデューナ、ヤルマルと北欧系の出自を思わせる登場人物が多く、オーディンとかロキというような北欧神話の神々の名が大学の飼っている馬につけられているのは、作者の趣味だろうが、作品に興趣を添えている。

 推理とは別に、「これまでずっと、絶滅の危機に瀕している”独立派農民”の砦としての役割をはたしつづけてきた」(123ページ)というバラクラヴァ大学の教育と経営の描写がなかなか魅力的である。たとえ、何人かはできそこないの教職員、学生がいても、情熱的な学長、仕事熱心で専門的な能力豊かな教授たち、全学集会に召集されれば集まってくる学生たちの姿は、全体として魅力的に思える。作者は、自分の高等教育への理想の一端をここに描きだしているのではないかと思うが、これほど理想的な状態にはなくても、アメリカにはこのモデルになるような農業大学があるのかなと思ってしまった(アメリカの、とくに州立大学は農学部と工学部中心に発展したのである。もう1つ付け加えておくと、アメリカの「工科大学」には文系の学科もちゃんと設けられているのが普通で、「文系学部廃止」を考えているお偉方にもそのあたりのことも視野に入れてほしいと思うのである)。

 1988年に翻訳が刊行され、その後版を重ねていたのが、ここ15年ほど増刷が途絶えていた。シリーズのこの他の作品も再刊されることを望みたい。マクラウドには他に、ボストンを舞台に若い女性セーラ・ケリングが探偵として活躍するもう一つのシリーズがあって、こちらのシリーズもよみがえりつつあるのは楽しく、また頼もしいことである。

冬のバス

12月13日(日)雨が降ったりやんだり

冬のバス

買い物が長引いて
いつも乗るバスの
時間に乗り遅れ
歩いて帰ることになった

歩いていく私の
横を
長距離バスが
走り抜けていく

家まで歩いて帰るのが
おっくうになって来た私だが
私よりもはるかに、はるかに長い距離を
バスに乗っていこうとする
人たちがいる

行き先は北の地方
凍り付いているかもしれない山路を
越えた先

また戻ってくるのだろうか
それとも故郷にそのまま残るのだろうか
そして
どんな暮らしと疲れと
夢とを抱きかかえて
旅先に向かっているのだろうか

とりあえず
バスとその運転手さんに
気をつけて
無事に帰って来いよと
心の中で叫んで
見送る

ダンテ・アリギエリ『神曲 煉獄篇』(19-1)

12月12日(土)晴れ

 ダンテはウェルギリウスに導かれて煉獄の第4環道に達し、生前における怠惰の罪を贖っている魂たちに出会った。時は深夜であり、魂たちが去った後、ダンテは眠りに落ちる。第19歌は、ダンテが明け方に見た夢から歌いだされる。

真昼の熱が、大地や、時には土星に負け、
月からの冷気を
もはや温めぬことができぬ時刻、
(276ページ) つまり明け方、午前4時ごろに、彼は夢を見る。この時代、月と土星は冷性の天体であって、地上に冷気をもたらすと考えられていた。また中世には、夜明け前に見る夢は真実を語ると考えられていた。

私の夢の中に、吃音で
斜視、足が曲がって
手がひしゃげ、土気色をした一人の女が現れた。
(同上) 吃音は喉に関する飽食の罪、斜視は淫乱の罪、手足の歪みは貪欲の罪のアレゴリーであると解説されている。

私は彼女をじっと見つめていた。するとまるで
夜が重く冷やしてかじかんだ体を太陽が生き返らせるように、
私の視線は、彼女の舌を

滑らかにすると、それからわずかな間に
彼女の全身をまっすぐに伸ばし、生気を失っていた彼女の顔を
愛が望むのに合わせて色づけていった。
(276-277ページ) 彼女は、ギリシア神話に登場する海の怪物セイレーンであった。水夫たちをその甘い歌声で誘惑し、殺していたが、オデュッセウスは水夫たちに彼女の歌が聞こえないように細工を施し、自分自身をマストにしばりつけさせて、その歌声を聴きながら、彼女たちの近くを無事に通過していったと、ホメーロスの『オデュッセイア』に歌われている。
 ダンテがその歌声を聞いていると、「機敏にして聖なる一人の貴婦人」(278ページ)が現われて、ウェルギリウスにダンテを夢から覚ますように言う。この貴婦人が誰であるかについては、定説がないそうである。

 セイレーンはダンテの視線の中で、魅力的になっているだけで、実は醜い姿のままであり、それをウェルギリウスが示すと、ダンテは夢から覚める。
すっくと私は立ち上がった。するとすでに聖なる山の各環道は
どこも皆、空高い日の光に満たされていた。
そして私達は新たな太陽を背に進んでいった。
(279ページ)  しかし、ダンテはまだ夢の意味を考えて、うつむきながら先へと進もうとしていた。天使が現われて、2人をさらに上の第5環道へと導く岩山の裂け目を示した。2人はその指示に従って、上を目指す。ダンテがうつむいているわけを尋ねたウェルギリウスは、ダンテが夢の中で見たセイレーンが現世の福に執着した愛ゆえの罪、つまり<貪欲>、<飽食>、<淫乱>の罪を象徴する存在であることを語り、
「・・・
もうこれくらいにしておけ。地面を蹴って進むのだ。
永遠なる王が、大いなる幾重もの輪とともに回す
誘いにその目を向けよ」。
(282ページ)と、神のアレゴリーである宇宙の美に目を向けるように諭す。

まるで鷹が、はじめは足元ばかり見ているが、
呼び声に顔を上げると、自分を遠くに引きつける獲物を
欲して身を乗り出す、

私はそのようになった。そしてそのまま、
登坂者の道となって岩が裂けている中を
再び円周をめぐる場所に至るまで登った。
(同上) こうして2人は煉獄の第5環道に達する。1300年4月12日の朝のことである。これまでの箇所をめぐっては、さまざまな解釈が可能であるが、現世、地上の事柄に執着するのではなく、来世と宇宙に目を向けて生きるべきだと主張されていると考えておこう。ダンテはプトレマイオスの天動説の体系に従って宇宙を考え、地上、地獄、煉獄を地球上に、天国を地球外の天体にあるとして『神曲』の世界を構想しているが、彼の考えていた宇宙は現在のわれわれが知る宇宙に比べると、きわめて小さいものであった。ダンテが現代の天文学の知に触れたら、どんな感想をもつだろうか、ちょっと想像してみたい気がする。

西田龍雄『アジア古代文字の解読』(2)

12月11日(金)午前中、激しい風雨(主として強風、冬らしくない温暖な風で、家から出たときに眼鏡が曇ったほどである)、その後、晴れ間が広がる。夕方になって、また雲が多くなってきた。

 前回(12月3日付)は、この書物の第3章までを取り上げた。第1章「未解読文字への挑戦」では、未解読文字の解読作業はどのようにして行われるかを概観しているが、チベット文字で書かれた文書を残した謎の言語であるシャン・シュン語や、920年から1191年まで約270年間中国の東北部にあった遼の国字である契丹文字(未解読)の事例を持ち出しているのが、この後の内容を予想させるものである。第2章「ロロ文字のはなし」では四川省の南、涼山彝族自治区で今でも使われている彝文字≂ロロ文字について概観している。もともと表意文字であったものが、次第に表音文字化してきたもので、その動向は今後の中国における簡体字の動きとも関連して興味深いものだと著者は論じている。第3章「水文字暦の解読」は貴州省に住む水族のタイ語系の言語を記す文字である水文字(水族の中でも巫師だけが使っていたので、彼らがいなくなってしまったため、読めなくなったのである)について、その解読作業の様子を記している。

 第4章「西夏文字の組織と使い方」は、11世紀から13世紀にかけて中国の西北部にあった西夏国の公用語である西夏語を書き表すために用いられた西夏文字について概観している。前回にも述べたように西夏文字の解読とそれを通じての西夏語の復元は、西田の最も顕著な業績として知られている。西夏語はシナ・チベット語族に属する言語であるが、現在では使用する人々がいなくなっている。とはいうものの、研究者によって大量の文献が発見され、漢語やチベット語と対照できる資料も豊富に揃っており、特に各文字につけられた反切(もともと漢字の発音を示すために考案された方法であるが、ここでは西夏文字の発音を示すために用いられているようである)が、西夏語の発音の重要な手掛かりとなる。また西夏人の手によって編纂された単語集も貴重な手掛かりとなる。
 ここでは文字の実例を示すことができないので、簡単に言うと、西夏文字は漢字と同様に、いくつかの要素を組み合わせて一定の意味を示す文字を作るのであるが、その組み合わせ方にも決められたやり方があって、きわめて複雑な文字体系である。西夏語はシルクロードと東西の交流を知る上でも重要な言語であり、その解読資料として仏典が大きな役割を果たしたことも興味深い。とはいうものの、未解決の問題も残されていることを著者は包み隠さず語っていることも注目される。

 第5章「女真文字の成立と発展」では西夏の東にあった金の主要民族であった女真族の言語を記すために、西夏文字から少し遅れ、12世紀に、漢字や契丹文字の影響を受けながら考案された女真文字について取り上げている。女真文字の資料としては少なからぬ碑文のほかに、漢語との対訳単語・文例集である『女真館訳語』という信頼度の高い書物が残っていて、早くから研究が進んでいた。とはいうものの、金では仏教は盛んではなかったので、仏典などの資料はなく、また金人による女真語の著作の例も見当たらないのが西夏語の場合と違うところである(金の知識人たちは漢語でその著作活動を行っていたのである)。しかし近年になって新しい資料が発掘され、その研究は新しい方向へと進んでいる。
 「大雑把に言うと、契丹文字と女真文字は、やや近い性格をもつが、それらと西夏文字は、少しかけ離れた体系を示している。
 アルタイ系言語の契丹語・女真語とチベット・ビルマ語系の西夏語の性格の相違は、単語構造にもっともはっきりと認められる。したがって、それぞれの文字の性格の相違もその単語構造の差異を反映するところにもっとも顕著にあらわれる」(156ページ)と著者は言う。女真文字の場合は、西夏文字のように一字が一音節を表記しているとは限らず、表意字形と表音字形とが混用されている。さらに表意字の中には漢字の字形を借用している例もある。西夏文字が単体文字のほかに、漢字の会意・形声字にあたる合体字を多く含んでいるのに対し、女真文字は単体文字だけであるという。西夏文字の場合のように漢字の構成原理についての十分な理解をもとに考案されたのではなく、表面的な模倣によって成立したものであったために、女真文字はきわめて覚えにくい文字であり、そのために不人気であり続けたという。これは文字の学習について考える際に重視すべき事柄ではないかと思う。

 では、この女真文字に影響を与えたとされる契丹文字はどのようなもので、どの程度、解読が進んでいるのか、またこれらの文字すべて、そしてそれ以外の周辺の文字にも影響を与え続けてきた漢字について、どのように考えるべきかは、さらに1回機会を設けて論じることにしたい。 

山折哲雄『「歌」の精神史』

12月10日(木)曇り後雨

 野坂昭如さんが12月9日に亡くなられていたそうである。野坂さんはもともと三木鶏郎の冗談工房にいて、一方で風刺的なコメディ、他方でCMソングの製作に携わり、例えば『明るいナショナル』というCMソングは野坂さんの作詞になるものである。その後、作家として頭角を現され、その作品を読んだり、あるいは映画化を通して接したりしてきた。ご自身の戦中・終戦直後の体験をもとに、時局に対して様々な発言を重ねられ、大学闘争時には「心情三派」を自称されたり、「転向宣言」を公にされたりしていたのが記憶に残っている。闘争の終焉後に、三島由紀夫との対談が掲載された雑誌を買って、本棚においていたのを、少し後になってから自分自身でなんでこの雑誌をもっているのわからないといったら、後輩に三島由紀夫と野坂昭如の対談が載っているからでしょと指摘されたのが忘れられない。結構右往左往される人であったが、そのことをめぐっての責任の所在をはっきりさせる方でもあったと思うのである。
 隙間風 野坂昭如 ノー・リターン
 初時雨 バージンブルース 歌う人
 あの世でも 体験忘れぬ 黒メガネ

 12月8日、山折哲雄『「歌」の精神史』(中公文庫)を読み終える。論争的な書物の体裁をとっているが、誰に対して、どのような論争を仕掛けようとしているのかが今一つはっきりしない。
 この書物は「現代詩」によって日本の民族的な伝統をつないできた「短歌的抒情」が失われている現状を憂い、わずかに「演歌」の中にそのような抒情が保たれているという。そのことを、現代詩の詩句と歌謡曲の歌詞との分析を中心に詳しく展開していくのかと思いきや、日本の伝統的な詩歌と無常観についての考察に移り、さらには宗教と文芸の結びつきについての議論が続く。個々の議論はそれぞれに読み応えがあるのだが、一応、「現代詩」を書いているだけでなく、山折さんが批判的に取り上げた中野重治や、小野十三郎を尊敬し、その後に続くつもりで来た人間としては、喧嘩を吹っかけておいて、途中から気が変わって現場から離脱してしまったという感じが消えないのである。

 山折さんは中野重治や、小野十三郎や、桑原武夫といった昭和の、それも前半に展開された短歌的抒情の否定論を取り上げているのだが、詩論だけでなく、実際の作品に目を向ける必要がある。それに現代詩と、短歌と、俳句を十把一絡げにして短歌的抒情を継承する文芸といってよいのだろうか。また現代詩の歴史でいえば、戦後の『荒地』を中心とする動きや、さらにその後の動向にも目を向けておく必要があるのではないか。新聞の歌壇や俳壇の傾向だけを見て、これが現代における詩歌の傾向だと断言してしまうのは、あまりにも性急な議論である。

 そういえば20歳を過ぎて間もないころのことである。当時所属していたサークルの会報に、中野重治の「歌」という詩が短歌的な抒情を否定していることを批判したエッセーを書いた人がいて、それについて、中野が否定している抒情の質をもっとしっかりと見極める必要があるというような反論を書いたことがある。今、考えてみると、短歌的な抒情を盛り込んだ詩を書いても、それを否定する詩を書いても、それは作者の自由、あるいは好みの問題で、どちらが正しいという議論ではない。ただ、山折さんが述べているのとは別の意味で、短歌的抒情否定論には欠点があることも認識しておく必要があるだろう。
 実際問題として、中野の詩や小説は、彼の表向きの言説にもかかわらず、彼がそこから離れたはずの短歌的、あるいは民族的な伝統を背景にもつ抒情が基調になっていて、そのことをもっと深く追求してみる必要があるのではないかと思う。もう一つ、小野の議論についていえば、小野が短歌的抒情がモンスーン的風土を基盤にしていると論じているのは、和辻哲郎の『風土』における議論を踏まえているように思われるのだが、しばしば指摘されているように、和辻の風土館は世界の多様性を十分に認識しているとは言えないもので、同じように詩歌の世界ももっと多様性をもったものであることをこそ認識すべきなのではないかと思うのである。

 詩歌がどのように社会の動きとかかわるかをめぐっては、例えばギリシアの詩の歴史を振り返ってみると、最初は共同体の共通の記憶としての叙事詩があり、その後に個性の発現としての抒情詩が現われたということが言えるかもしれないが、これがすべての民族に共通してあらわれる現象だとは言えない。社会の歴史的な転換期には、偉大な叙事詩が生まれるというヘーゲルの議論は、特定の文明世界における現象だけを根拠にした議論で、どこまで普遍性をもつかは分からないといってよい。ましてや叙事詩が最高の文学の携帯であるというような議論は、まことに独断的なものと言わざるを得ないのである。

 要するに、山折さんの個別的な考察、とくに親鸞上人の和讃についての議論などは大いに学ぶべきところがあると思うが、全体としての論旨には賛同しがたい。とはいうものの、山折さんの問題提起は、受けて立つだけの価値のあるものがあると思うので、詩歌の創作に携わっている人、作詞を手掛けている人、思想史に関心をもつ人は、この本に目を通すことで、自分のよって立つ所を再確認してみるのがいいだろうと思う。

日記抄(12月3日~9日)

12月9日(水)晴れたり曇ったり

 12月3日から本日までの間に経験したこと、考えたことなど:
12月3日
 NHKラジオ英会話に
I thank my lucky stars. (私は自分の幸運の星に感謝しています。)
という表現が出てきた。星々(英語ではstarsと複数になっていることに注意!)が人の運命を司るという考えがもとになっている慣用句だという。

 NHKラジオ「実践ビジネス英語」でエレベーターelevatorのことを英国ではliftというのが、アメリカと英国で用語の違う典型的な例として言及された。そのほかに、apartment(米)とflat(英)、sidewalk(米)とpavement(英)、fall(米)とautumn(英)、gas / gasoline(米)とpetrol(英)、drugstore(米)とchemist's(英)などの例が紹介された。

 中野明『東京大学第二工学部――なぜ、9年間で消えたのか』(祥伝社新書)を読み終える。1942年に開学し、1951年に閉校したこの学部は千葉市に置かれ、本郷の工学部とほぼ同一の構成で研究・教育を行っていた。この学部の設置は、工学部に重点を置いた名古屋帝国大学や、私立の藤原工業大学(現在の慶応義塾大学理工学部)の創設と軌を一にする、戦時体制に対応できる技術の開発や技術者養成を目指すものであったが、この書物では、第二工学部が多くの経営者を輩出したことに記述の重点を置いている。この書物でも参考文献に挙げられている今岡和彦『東京大学第二工学部』(1987、講談社)も読んだ記憶があり、私自身も工業系の学校で教えた経験があるので、技術者養成がどのように時代の動きと対応するかをめぐっては、これからも考えていこうと思っている。

12月4日
 NHKラジオ「まいにちイタリア語」応用編「楽しくイタリア語力を鍛えよう!」では、サッカーの(架空の)実況中継を教材として取り上げた。イタリア語では、ゴールキーパーをportiere、ディフェンダーをdifensore、ミッドフィルダーをcentrocampista、フォワードをattaccanteというそうである。英語とはかなり違っていて、なかなか面白い。イタリア語以外の言語で、これらのポジションを何というのかも、これから調べてみたいと思った。

12月5日
 NHKラジオ「攻略!英語リスニング」では”Acropolis"という話題を取り上げた。アクロポリスというのは、丘の上にある砦のことで、ふつうは守りやすい険しい丘の上に築かれたが、その中でとくに有名なのはアテネのアクロポリスで、アテネの守護女神であるアテナを祀ったパルテノン神殿が築かれている。ギリシアが異民族、異文化の支配に置かれるようになると、パルテノン神殿も数奇な運命を辿ることになるが、
Eventually, when Athens was under the control of the Turks and the city was under siege by the Venetians in the 17th century, a cannnon ball hit it and exploded.Still, what's amazing is that this much still survives.
(アテネがトルコ人に支配されていた時代、17世紀にヴェネツィア軍に包囲されてしまった時には、ついにパルテノンは火薬庫として使われた。不幸なことに、砲弾が命中して大爆発してしまった。それでも、これだけ多くのものが残っているのだから大したものである。)

12月6日
 NHKEテレ「日本の話芸」では金原亭伯楽師匠の落語「お直し」を放送した。伯楽さんにとっては大師匠(師匠の師匠)にあたる5代目古今亭志ん生が得意とした噺である。吉原遊郭に何度も通った経験のある志ん生が演じると生き生きとした噺になるが、遊郭が消えて50年以上がたった今日、どうしても説明的な語り口が付きまとうのは致し方のないところである。
 むかし、私の勤めていた大学に伯楽さんのファンの学生がいて、大学に招いて一席話してもらうことになった。その時に、大学の施設の使用を許可する件で、担当の先生が「キンバラテイ」というので、「あっ、それはキンゲンテイと読むのですよ!」と注意したのだが、無視された。どうも私が落語や寄席芸能に詳しいと、教職員の誰も思わなかったらしい(学生には結構知れ渡っていたのであるが…)。

 ジョン・ディクスン・カー『髑髏城』(創元推理文庫)を読み終える。ライン川の川岸に奇怪な姿でそびえる髑髏城で起きた怪事件をめぐり、パリの予審判事アンリ・バンコランとベルリン警察のフォン・アルンハイム男爵の仏独を代表する名探偵が事件解決に火花を散らす。
 ライン川と聴くと、京大卒業生の私は、旧制三高寮歌「逍遥の歌」の4番を思い出してしまう。「ラインの城や アルペンの/谷間の氷雨 なだれ雪/夕べは辿る 北溟の/日の影暗き 冬の波」
 多分、作詞者はライン川を眺めたことはないだろうと思うのだが、そう書いている私も見たことはない。大学時代の同僚が、阿賀野川を見ると、ライン川を思い出すというようなことを話していた。こういう話は実地で見てきた人のほうの勝ちである。

12月7日
 神保町シアターに井伏鱒二原作、豊田四郎監督、森繁久彌主演の『珍品堂主人』を見に行ったのは、この日付の当ブログに書いたとおりである。
 行きがけにすずらん通りの檜画廊で西岡民雄「生きものたちのラプソディ」展を見る。ウサギを主に、動物たちが動き回る絵が多く、民話風の楽しい画風であった。この展覧会は12日(土)までであるが、18日(金)から27日(日)まで国立市のギャラリー花風林(国立駅南口サンクス脇の旭通り徒歩5分、国立シルクビル2F) で同じ作家の「窓」という個展が開かれるので、興味のある方はお出かけください。
 さて、森繁について書き落としたことがあるので、書いておく。1973年に彼が有吉佐和子原作の『恍惚の人』に主演した際に、大阪で開かれた試写会で挨拶をしたのを見たことがある。その時の道学者じみた印象がどうもよくなくて、彼の映画はあまり見なかったのだが、ごくごく最近になって彼のもっと昔の映画を何本か見て、その実力を再認識した次第である。

12月8日
 山折哲雄『歌の精神史』(中公文庫)を読み終える。この本については、あらためて取り上げるつもりである。

 横浜駅西口の中華料理店<龍味>に出かけたら、観光旅行中のアメリカ人らしいお客が大勢店内にいた。帰りがけに店員ににぎやかだねと声をかけたら、注文を確認するのに一苦労だったといっていた。

12月9日
 NHKカルチャーラジオ『競い合う美 琳派400年」の第11回は、院展の主要画家たちが琳派からうけた影響について概観する内容であった。日本文化の伝統の一つに素材主義があるのではないかという意見が述べられて、興味深かった。
 

『太平記』(79)

12月8日(火)曇り

 今回から第10巻に入るが、その前に第9巻のおさらいをしておこう。元弘3年(1333年)3月7日に鎌倉幕府から上洛の命を受けた足利高氏は鎌倉を出発、4月16日に京都に到着している。ところが翌日、高氏は伯耆国船上山の後醍醐天皇のもとに密使を送り、朝敵追討の綸旨を得た(これは歴史家に依って議論の分かれるところで、『梅松論』にはもっと早く後醍醐天皇と連絡を取っていたと記されており、吉川英治の『私本太平記』もその説を採用している)。高氏と同じく鎌倉から派遣されてきた北条一族の名越高家は、高氏よりも遅れて到着、六波羅で戦略を練った後に、4月27日に六波羅に迫っている千種忠顕・赤松円心らの後醍醐方の兵力の討伐に向かう。戦功を焦った名越高家は、赤松方の佐用範家に射られて戦死し、彼の率いる軍勢は壊滅状態となるが、高氏は戦闘に加わらず、丹波の篠村に向かい、そこで倒幕の意思を明らかにすると多くの武士たちが結集、5月7日に、千種忠顕・赤松円心と呼応して京都に迫り、その日の戦いに勝利して、六波羅の2人の探題は天皇・東宮・上皇を伴って鎌倉に向かい、再起を図ろうとした。しかし一行は、野伏の大軍に行く手を遮られ、近江国東北部の番場で自害を遂げ、光厳天皇と後伏見・花園の両上皇は都に帰還されることとなった。三種の神器を始めとする宝器を後醍醐方の兵力に渡されたということは、後醍醐天皇の復位が事実上決まったということである。

 さて、六波羅陥落によって京都と近畿地方における情勢は一変したが、鎌倉の様子はどうだったのだろうか。このような変化が起きている間に、鎌倉には高氏が離反したという情報は届いていなかった。ところが5月2日の夜半に尊氏の三男である千寿王が行方をくらます。千寿王(後の義詮)は高氏とその正室である赤橋登子の子で、北条高時の命令で母とともに鎌倉にとどめ置かれていたのである。このことから、千寿王の父である高氏が幕府に反旗を翻したのではないかと憶測が飛び交いはじめる。

 北条高時は噂の真偽を確かめるために長崎為基と諏訪木工左衛門入道を京都に派遣する。5月2日に鎌倉を立って、夜を日に継いで急行する途中の駿河の高橋(静岡市清水区高橋)で六波羅からやってきた使者に出会い、「鎌倉の事もおぼつかなし」(第2分冊、99-100ページ、鎌倉のことも心配だ)と鎌倉に引き返す。
 尊氏が足利一族の加古基氏の娘との間に儲けた長男の竹若は伯父にあたる宰相法印良泉が伊豆山神社の神宮寺の僧侶であったので、そこに引き取られていたが、必ずや鎌倉から討手が差し向けられるだろうと山伏に変装し、同宿の13人の僧侶たちとともに京都に向かおうとした。ところがその途中の浮島原(静岡県沼津市愛鷹山の南麓)で長崎と諏訪にばったり出会い、宰相法印は何も言わずに馬上で切腹し、竹若は捕えられてその夜のうちに殺されてしまう。哀れを留めたのは同宿の僧13人で、首を斬られてその首を浮島原にさらされたのである。
 千寿王が行方をくらましたのが、5月2日の夜で、長崎と諏訪とが鎌倉を出発したのが5月2日というのはおかしいが、夜明け前に千寿王が行方をくらまし、夜が明けて評判が立って、六波羅への急使派遣となったものか、あるいはもともと六波羅の様子を探りに行く予定があったものか、いろいろと想像はできる。この後の物語の展開から、千寿王は北関東に向けて逃げたことが分かる。竹若も箱根から、山中を東北の方角へと逃れた方が助かる可能性は高かったと思われるのだが、山路は苦手だったのであろうか。

 さて、上野の国(群馬県)の武士である新田太郎義貞は、千剣破に立てこもった楠正成を攻撃する幕府方の軍勢に加わっていたのであるが、「相模入道の行跡を見るに、滅亡遠きにあらず」(第7巻、第1分冊、345ページ、相模入道=北条高時)と考えて、大塔宮護良親王から倒幕の綸旨を得る(本来、綸旨を発給できるのは天皇だけなので、手続きとしては問題がある)。そして病気と称して本国に戻り、身近で話のわかりそうな武士たちを集めて、倒幕のための挙兵の計画を練っていた。
 新田もこのような計画を進めているとは知る由もない北条高時は、足利高氏が敵になったと聞いて、自分の弟である北条泰家に10万余騎の兵を率いて上洛させ、西国の動乱を鎮定しようと考えていた。そのためには多大の兵糧が必要となるので、関東地方の荘園から臨時の税金を取り立てようとした。

 その中でも新田庄世良田郷(群馬県太田市世良田町)には有徳の者(富裕のもの)が多いというので、高時は2人の家臣を派遣して、5日間のうちに6万貫の銭貨を手配せよと厳命し、荘園の管理者の家に大勢の部下を乱入させて、厳しい税を取り立てたのは法外なことであった。自分の本拠地でこのような振る舞いをされた新田義貞は大いに怒り、「館の隣壁を(りんぺき)を馬の蹄に懸けつる事こそ安からね」(第2分冊、102ページ、屋形の周囲を馬で踏み荒らしたのは腹立たしい)と大いに怒って、多数の部下たちを差し向けて、2人の使者を生け捕りにし、1人を縛り上げ、もう1人の首を刎ねて、さらし首にした。

 この話を聞いて、今度は北条高時が怒った。これまで久しく、人々が北条家の命令に従わないということはなかった。ところが最近では、遠隔の地ではともすると幕府の命令を軽んじ、近くの地方でも命令に背く例が出てきた。それだけでも腹立たしいのに、加えて、幕府のおひざ元の関東で幕府の使者をとらえたり、殺したりするのは許せない行為である。ここでもし寛大な処置をとるならば、今後さらに悪い習わしが広まるだろうと、武蔵、上野の武士たちに新田義貞とその弟である脇屋義助を討伐せよとの命令を伝える。

 既に述べたことがあるが、新田氏は八幡太郎義家の孫、義重を祖とし、上野国に勢力をきずいてきたが、義重の弟義康を祖とする足利氏に比べて、鎌倉幕府の中での地位は低かった。新田氏の一族である里見氏や山名氏が新田氏から離れて幕府の御家人になっていたほどである。義貞には、勤王、倒幕のほかに、新田氏を源氏の嫡流として認めさせようという気持ちも強かったと思われる。
 ここでは、兵糧の準備に銭貨を集めるというくだりが注目される。平清盛による日宋貿易以来、わが国にも貨幣経済が浸透してきたことが分かるからである。とはいうものの、この後の時代、武士たちの収奪と略奪とに苦しむ農民を始めとする一般庶民の苦しみはいかばかりであったか。義貞が怒るのは、自分の支配領域で勝手な真似をされたというだけの理由からではないようである。なお、後の時代になって、徳川氏は新田氏の一族の得川氏の子孫であると称し、世良田には東照宮が建てられているが、『太平記』のこのあたりの記述はそのこととも関連するようである。有徳=富裕と岩波文庫版の校注者である兵藤裕己さんは脚注に書いているが、有徳人というのは中世独特の存在であり、かつ松平一族が有徳人であったという説もあって、このあたり掘り下げてみると面白いのである。

 千寿王=足利義詮が足利高氏の三男、竹若が長男とすると、次男は誰で、どこにいたのだという話になるが、後に足利直冬と名乗る次男は、この時期の動静について不明な点が多い。

珍品堂主人

12月7日(月)晴れ

 神保町シアターで「森繁久彌の文芸映画大全」特集上映(12月25日まで)から井伏鱒二原作、豊田四郎監督の『珍品堂主人』(1960、東京映画⇒東宝)を見る。今回の特集は森繁久彌(1913-2009)の数ある出演作品の中から、20作品を選んでいる。「文芸映画」と銘打ってはいるが、20作品すべて違う原作者の作品で、森繁の出演作品の多様性を強調する狙いのほうが強いと思われる。森繁は『珍品堂主人』のほかにも、井伏鱒二原作・豊田四郎監督の『駅前旅館』に出演しているが、こちらのほうが20作品から省かれているのは4月に神保町シアターで上映されているという事情もあるだろうが、やはりいろいろな原作者の作品を選ぼうという意図からであろう。

 とはいうものの、選ばれた20作品を「文芸映画」と称するのには無理を感じないでもない。一方で漱石の『坊っちゃん』(森繁の赤シャツの演技は絶品である)とか、高見順の『如何なる星の下に』とか、織田作之助の『夫婦善哉』とかの有名作品があり、もう一方で菊田一夫の『がめつい奴』のような演劇作品の映画化もあり、さらには原作者名も作品名もそれほど有名とはいえず、数をそろえるために無理に加えたと思われる作品も見受けられる。しかし、そのような選定上の無理にもかかわらず、選ばれた作品は映画として見た場合には興味深い組み合わせになっている。監督別にみると豊田四郎6本、久松静児4本、丸山誠治、千葉泰樹、川島雄三各2本、青柳信雄、稲垣浩、鈴木英夫、森崎東各1本ということで、9人の監督の演出に接することができるし、観客が自分の好みに応じて森繁と映画監督との組み合わせを選ぶこともできる(解説チラシを見た限りでは、久松静児監督作品に面白いものがありそうだと思ったのだが、あいにくと風邪をひいたり、他に用があったりで、見逃したのが残念である)。

 「珍品堂」と呼ばれる骨董品の目利きの加納夏磨(森繁久彌)は、知り合いの骨董屋・宇田川(有島一郎)が大金持ちの久谷(柳永二郎)に唐三彩の器を売りに出かけるのに立ち会うことになり、その席でお茶の先生でやはり骨董に詳しいという蘭々女史(淡島千景)に出会う。珍品堂も蘭々女史も宇田川の持ち込んだ唐三彩があやしいとなぜか意見が一致する。妻(乙羽信子)がいるのに「三蔵」という小料理屋の女将・佐登子(淡路恵子)とも懇ろになっている珍品堂であるが、蘭々女史にも惹かれるのである。
 その一方で、珍品堂は久谷の持っている邸に目をつけ、そこを改築して高級料亭として営業してみたいと持ち掛ける。珍品堂をめぐる様々な評判を聞き分けたうえで、久谷は開業を後押しする。料亭の女中頭には佐登子という心積りをしていた珍品堂であるが、久谷の意向で蘭々女史が経営に参画、女中頭には女史の腹心である於千代(千石規子)が送り込まれる。かくして料理はもちろん、器にも意を用い、珍品堂の趣味の行渡った料亭が営業を始め、大いに繁盛するのだが、次第次第に雲行きが怪しくなる。商売繁盛で帰宅するのはまれであり、三蔵に顔を出すこともなくなっているが、料亭の経営をめぐる蘭々女史の態度が次第に変わり、その背後には久谷がいるらしい…。
 
 物語の展開はおおよそ想像がつくものであり、むしろ≪器用貧乏≫で、女性に甘い(女性に惚れると鑑識眼に狂いが出る)珍品堂の性格表現と彼を取り巻く色と欲の人間模様の方に興味が向かう。とぼけているようで要点を外さない井伏鱒二の人間観察ぶりと、自分の趣味にこだわり続ける人間への愛着を豊田と森繁が巧みに映像に移し替えている。料亭が舞台になるが、珍品堂は包丁さばきよりも素材や調味料の方を気にしているようで、そのあたりのこだわりが物語の展開とも関連してくる。最後の方、森繁が一杯やっているかたわらで、下戸のアルバイト学生役の高島忠夫が南京豆を食べているのがうまそうだった。(何を隠そう、わたしは南京豆が好きなのである。) 淡島千景、淡路恵子、乙羽信子という顔ぶれも楽しい。故人になってしまったお三方のまだ、若く美しかった時代の姿を見るだけでも、この映画を見る価値があると思う。

ダンテ・アリギエリ『神曲 煉獄篇』(18‐3)

12月6日(日)曇り

 煉獄の第4環道に達したダンテは、「あらゆる善行もその逆も、愛に起因する」ことについてウェルギリウスに問う。キリスト教以前の人物であるウェルギリウスは、古代の哲学者の考えた哲学に基づいて、人間は愛に基づいて行動を起こすが、どのような行動を選ぶかの自由が与えられているので、その結果には道徳的な責任が伴うと説明する。この説明に納得したダンテは眠気に襲われる(時は1300年4月11日の深夜である)。

しかしこの私の眠気は、
たちまちに、私達をめがけ背後からすでに
山を回って迫ってきていた人々により破られた。

・・・彼らの足はあの環道を駆ける。
私が彼らのことを見た限りでは、向かってくる彼らに、
善き願いと正しき愛が拍車をかけている。

彼らはすぐ私達に追いついた。なぜならその群集の巨大な塊は、
走って移動していたからだ。
そして先頭の二人は泣きながら叫んでいた。

「マリアはあの山へと急いで走った。
カエサルはイレルダを制するべく、
マルセイユを撃ってから急転、スペインを急襲した」。
(270-271ページ) 第4環道を走っているのは、生前における怠惰の罪を贖おうとする魂たちの群れであり、先頭の2人が叫んでいるのは、キリストとそれに続く教会の誕生をもたらしたマリアの受胎告知の事跡、次には地上世界の平和をもたらすことになる(この平和がキリスト誕生をもたらした)ローマ帝国の成立を準備したユリウス・カエサル(ジュリアス・シーザー)について、彼が覇権を握る過程で重要な契機となったポンペイウスとの内戦で、イベリア半島のレーリダ(イレルダ)に集結していた敵の主力に奇襲を掛けた事跡が語られる。(これらの行為、とくに後者が道徳的に善であるかどうかは疑問である。)

「急げ、急げ、足りぬ愛ゆえに、
時が失われぬよう。――続く者達が叫んでいた――
熱意が恩寵を再び茂らせるよう」。
(272ページ)

 ウェルギリウスはこの一群に、さらにこの上にある第5環道へと登ることのできる崖の裂け目がどこにあるかと質問する。彼らは、とどまって相手をすることのできない非礼を詫びながら、自分たちの跡をついてくるようにという。彼らが2人を追い抜いて去っていった後で、ウェルギリウスは約束の地への旅に疲れてモーセに背き、砂漠で滅びたイスラエルの民(の一部)と、アエネーアースに率いられてトロイアを脱出したものの、途中で離脱してシチリアにとどまった人々の話を引き合いに出す。安逸に流れて正しい判断ができなかった人々の例は少なくないはずだが、ウェルギリウスはこの二例だけを語っているのは、翻訳者である原さんが書いているように、怠惰なもの、正義の実現をためらうものへの軽蔑の気持ちからであろう。

 遠ざかってゆく魂たちの姿を見て、ダンテはさまざまな考えを思い浮かべる。
そこからさらに切れ切れの考えが幾つも生まれた。
そして次から次へと移ろい、
ぼんやりと目が閉じると、

やがてとりとめのない思いは夢へと形を変えた。
(275ページ) あれと考えているうちに眠ってしまうということはありがちなことである。ダンテとウェルギリウスは第17歌の途中で第4環道にたどりつくが、第17歌と第18歌の大部分が、愛と善悪、人間の自由意志をめぐる哲学的な問答によって占められていて、怠惰の罪を贖っている魂の描写はごくごく短い。その理由は既に述べたとおりであるが、肉体(質料)から離れたはずの魂(形相)が走るという肉体的な罰を課せられているというのは、象徴的な意味あいだとしても納得がいかないところがある。すでに何度か繰り返して述べられてきたように、ダンテの理想とする世界はキリスト教とローマ帝国の結びついた世界である。宗教的な理想だけでなく、世俗的な制度の重要性を認識していた点は、彼のものの見方がわずかながら近代に近づいていることを示すものであろうが、まだまだ偏狭で独善的であるという印象をぬぐい去ることはできない。

 

黄金のアデーレ 名画の帰還

12月5日(土)晴れ

 横浜駅西口ムービル2でサイモン・カーティス監督作品『黄金のアデーレ 名画の帰還』を見る。

 アメリカ西海岸で洋裁店を経営している老婦人マリア(ヘレン・ミレン)は実はユダヤ人への迫害をのがれてオーストリアから亡命してきた過去をもつ。過去は忘れて、新しい生活だけを考えようとして生き、年老いてきた彼女であるが、姉の死後、ある文書を目にしたことから、捨ててきたはずの自分の過去と向かい合い、ナチス時代に奪われた自分の家の財産であるクリムトが描いた自分のおばアデーレの肖像を取り戻そうと、オーストリア国家を相手に訴訟を起こす。彼女の訴訟を助けるのが、彼女の友人の孫で、大作曲家アルノルト・シェーンベルク(1874-1951)の曽孫である若い駆け出しの弁護士のランディ(ライアン・レイノルズ)である。この映画は実話に基づいて作られており、マリアもランディも実在の人物である。

 文書というのはウィーンの美術館に展示されている彼女のおばの肖像画は、おばの遺言で寄贈されたものであると通知するものであった。しかし、彼女は自分の家族の財産であったはずの伯母の肖像画が、ただの絵画として美術館に飾られていることに納得がいかない。アデーレとその夫には子どもがいなかったため、マリアと姉は実の子どものように可愛がられてきた。幼かったマリアは、なぜ、この絵の画面の大部分が金色でおおわれているのかが分からない。アデーレは、クリムトの絵だからよという。アデーレが早く死んだので、肖像画は伯母の思い出につながる大事な手掛かりなのである。彼女にとっては金色でおおわれていない、伯母の少し悲しげな表情が忘れられないものである。そしてマリアには新婚直後にナチス・ドイツによるオーストリア併合とユダヤ人弾圧を逃れて、姉のいるカリフォルニアに脱出してきた過去がある。彼女の父母を始めとして親族の多くが収容所で命を落とした。それはユダヤ系の人々の多くに共通する経験であり、ランディの曽祖父母もやはり収容所で命を落としているのである。

 オーストリアの政府がナチスによって略奪された芸術品の持ち主の返還の請求を受け付けるという知らせを受けて、はじめはウィーンに2度と戻りたくないといっていたマリアもランディとともにウィーンに向かう。現地で協力する人も現れて、短期間のうちに様々なことが分かるが、返還の要求は拒否される。あとは法廷に持ち込んで返還を求める以外の手段はないのだが、絵画の価値が高いためであろうか、訴訟費用が莫大でこの手段に訴えるのは不可能に近い。帰国して、昔の生活に戻ろうとした2人であったが、ある日、本屋でウィーンの美術館が発行した画集を目にしたランディは、米国内で、オーストリア政府を相手どって訴訟を起こすことが可能であることに気付く。

 返還を求める働きかけの進捗状況と、マリアの幸福だった少女時代の思い出、彼女がナチスによるユダヤ人への迫害が過酷になる状況の中でウィーンを脱出する過程が、順不同に描きだされる。幼い子どもがいて、さらに妻が新しい子どもを生もうとしているランディの家庭の事情も描かれるが、彼の生い立ちや、祖父のエピソードは映像としては出てこない。ただし、映画の中での会話で始終、あなたはあの作曲家と関係があるのですかと質問を受けている。だいたいまじめに答えているのだが、最後の方のウィーンの音楽会の切符を買うシーンでごまかしているところに、ランディの成長した姿を認めていいのではないか。
 ナチスによるユダヤ人の迫害、人権侵害、文化遺産の略奪や破壊をどのように受け止め、評価すべきか、いくつもの感動的なスピーチが展開される。それを特殊な事例として理解すべきではなかろう。ナチスがユダヤ人の財産である美術品を略奪したことが糾弾されるのであれば、同じように糾弾されてよい略奪行為は少なくない。どのような民族の文化も、財産も侵害されるべきではないのである。この映画は抽象的な美術史、美術への理解に対する家族の歴史、記憶からの異議申し立てを意味のあるものとして描いていて大いに考えさせられた。美術品の帰属をめぐる法律的な係争は鑑賞・批評とは別の、これはこれで重要な問題を提起していると思うが、わたしは門外漢なので関心をもったとだけ書いておく。

 映画の中でマリアとランディは同じユダヤ系であるとはいうものの、年齢も、人生経験も大きく異なる。(映画ではあまりはっきり描かれていないが、2人の家系の文化的・社会的な背景も異なっているようである。ユダヤ系といっても十把一絡げにはできない)。そういう違いが、時に対立や反目を生むのだが、新しい可能性を開くことにもなる。芸術史的な知識から拾い集めたことを書いておくと、シェーンベルクは後期ロマン派から出発して、十二音音楽へと向かった。アメリカ亡命後は音楽教育家として活躍し、ジョン・ケージを始めとする多くの作曲家を育てた。だから、彼の名を知る人はアメリカには多いのである。私は後期ロマン派が好きなので、シェーンベルクは敬遠してきたのだが、今回その音楽の片りんに接して、あらためて彼の音楽を聴いてみようと思った。
 余計なことをもう一つ書いておくと、シェーンベルクは画家のカンディンスキーと仲が良かっただけでなく、自分でも絵を描いていた。カンディンスキーの後期の抽象画はそれほど好きではないが、初期のロシアの民話に題材をとった作品は好きである。実話だから仕方がないといえばそれまでなのだが、クリムトではなくて、カンディンスキーの絵が問題になっていたのならば、もっと面白く映画を射ることができたのではないか…などと考えている。

 少女時代、新婚前後、老年とマリアを3人の女優が演じているのだが、老境に達してなお気品と気骨を失わない女性の姿をヘレン・ミレンが魅力的に演じているのが印象に残る。こういう同年配者がいると思うと、大いに心強い思いがするのである。

未来

12月4日(金)晴れ

未来

今の年齢の
半分どころか
3分の1か4分の1くらいの
年齢だった昔

理想に燃えていた私は
自分勝手に未来を夢想し
その中での自分の役割まで
勝手に決めていた

そんな若いころの
熱が冷めて
人並みに職場に
通うようになり
自転車に乗ったり
バスに乗ったりしながら
この通勤経路と
自分の人生は
どうつながるかなどと考えていた

決められた軌道を歩んで
目的地を目指す
計画を立て
ルール通りに
着実に
進んでいこうとしていた

夢を見たり
夢の実現に努めたり
夢を裏切られたと思ったり
やっと実現したと思ったり
さまざまな経験を通り抜け

夢の大部分は実現しないまま
歴史のくずと消え、
実現したものは
過去の出来事となった
確かな現実になっているものもないではないが
失望のほうが多いのが正直なところだ

そして少なくない過去を引きずって
職場からは離れ
都会の片隅で
年金暮らしを続けている
だが、少なくなったとはいうものの
やはり未来の夢はある
いろいろな変転を経て
それでも残った
夢がある
自分でもつかみどころがないと思っているが
同じようにつかみどころのない未来に挑戦する闘志を失わない
夢がある

西田龍雄『アジア古代文字の解読』

12月3日(木)雨後曇り

 この書物は1982年に『アジアの未解読文字』という表題で大修館書店から刊行されたものを、その後の研究の進展に基づいて修正を施し、2002年に中公文庫の1冊として発行しなおしたもので、私の愛読書の1冊である。私は古代文字や暗号の解読の話が好きなのである。古代の謎の文字の解読にかかわる書物は、矢島文夫を始めとする何人かの人々によって著されているが、この書物は、アジアの文字を中心として議論を展開していること、著者が実際に謎の文字の解読にかかわっていることを特色としている。

 著者である西田龍雄(1928-2012)は西夏文字の解読者として知られ、長く京都大学でチベット・ビルマ諸語を中心としてアジアの諸言語の研究を続けた。この書物を読んでも、彼が多くの言語に通じていただけでなく、歴史、宗教、民俗などの関連領域についても深い学識をもっていたことが分かる。全共闘の学生によって大学の敷地・建物が封鎖される中、西田が自分の学問をおろそかにすることはできないと、学生たちを言い負かして、研究室で研究を続けたことは、彼の研究成果とはまた別に、その人間性についての評価を高めた出来事である。

 第1章「未解読文字への挑戦」ではシャンポリオン、ローリンソン、ベントリスらの未解読文字の解読の先例を引き合いに出しながら、まず未解読文字と暗号の解読の違いについて述べている。第1に暗号は通常、誰でも扱える記号を使っているが、未解読文字の場合は、使われている記号自体が分からない場合が多い。(シャーロック・ホームズの「踊る人形」に出て来る暗号は、誰もが使う記号とはいえないのではないか?) 第2に、暗号は当事者には読めるが、部外者にはわからないようにつくられているが、未解読文字の方は、もともと誰にでも読めるように書かれていたはずであるという違いがあるという。そして「わかっている体系を隠しているのが暗号であり、分からない体系が隠れているのが未解読文字であると」(17ページ)と両者の違いを要約するが、実際の例はもっと複雑であるとして、次のように事例を整理している。

 A型 既知の文字で既知の言葉が書かれているもの
 B型 未知の文字で既知の言葉が書かれているもの
 C型 既知の文字で未知の言葉が書かれているもの
 D型 未知の文字で未知の言葉が書かれているもの
(19ページ) B型とD型では文字の解読が主題であり、C・D型に対しては、言葉の復元が主な研究課題となるという。
 A型の場合は何も問題はないではないかという議論に対して、西田は中国人の記録した16世紀のシャン語の事例を引いてこのような資料も検討の価値があると論じている。(もっと身近な例でいえば、われわれは『万葉集』を完全には読み解いてはおらず、学者によって解釈の違いがあることを忘れてはならない。)
 B型の場合は、資料の出土地点から言語を推測することが少なくない。そしてD型の場合もこちらに移ってくることがありうるとする。当該文字が表意文字か表音文字かは、どのような種類の文字がどの程度使われているかによって判断できる。ただ、日本のかなのような表音節文字は大量の資料がないと判断が困難である。
 C型の例としてはチベット文字で記されたシャン・シュン語の事例を挙げて、この言語の解読作業が、資料が少ないためになかなか進まないと述べている。
 D型の場合は、何らかの二言語対照テキストが発見され、さらにその中に解読の手掛かりとなりそうな固有名詞が見いだされると、それが重大な役割を果たすことがある。しかし、いつもうまくいくとは限らないという。

 このように、西田は豊富に実例を挙げながら、きわめて理論的に道の文字の解読の作業について整理・概観している。そして単に未知の言語・文字に対する好奇心だけでなく、日本語と中国語の研究にこれらの言語・文字についての研究が役立たないか、言語政策・言語計画の問題を見据えて研究を展開していることも特徴的である。

 第2章「ロロ文字のはなし」では現在も四川省の南、涼山彝(イ)族自治区で使われているという特異な字形をもつ彝文字(一般に知られている名称を使えばロロ文字)について、それがヨーロッパ人たちの注意を引き、解読の試みがなされていた経緯が語られている。現在でも使用されているのだから、その全貌が分かるだろうというと必ずしもそうではない。地方によって、時代によってお変化があり、もともと表意文字であったものが次第に表音文字的に変化してきたようである。文字の簡略化や規範化が進むと、それは日本で万葉仮名からかなが作られてきた過程と似ているし、中国の文字改革の方向性にも示唆を与えるものとなるだろうと述べている。このあたり、さらに読み返して、理解を深めたい箇所である。

 第3章「水文字暦の解読」も中国の少数民族の間に伝えられている文字であり、タイ語系の水語を書き記し、主に宗教活動のために用いられてきた水文字について、これも研究しを中心に述べている。この文字で記された書物はもともと占卜に使うもので、巫師だけが読めるという性格のものであったので、文字を読める老人たちがいなくなってしまうとわからなくなってしまったようである。しかし西田は「まだすっかり読めてはいないが、楽しい字形」(89ページ)だという感想を漏らしている。

 第4章「西夏文字の組織と使い方」、第5章「女真文字の成立と発展」、第6章「契丹文字解読の新展開」は中国の周辺に出現した民族とその言語、文字を中国語・漢字との関係で論じたもので、それらのまとめの意味も兼ねて第7章「漢字――東アジアの世界文字」が東アジアの文字・書記法を概観している。これらの章については、また機会を見つけてあらためて紹介していきたい。

 すでにみてきたところから明らかなように、書名には「古代」という語句が含まれているのだが、著者は中国語と漢字の世界の周辺にいる諸民族が、自分たちの言語を中国語と漢字の影響や刺激を受けながら、どのように表記しようと努力してきたか、その現代的な意義や今後の言語政策・言語計画にかかわってのその意義について論じようとしているように思える。そのことについても、後半部を論評する際に、さらに立ち入って論じてみたい。

日記抄(11月26日~12月2日)続き

12月2日(水)曇り、一時雨

 研究会が終わり、日付が変わらないうちに帰宅したが、この記事を書いている時点では日付が変わっている。中断した記事の続きを書き継ぐことにする。

11月29日
 アラン・ブラッドリー『不思議なキジのサンドウィッチ』(創元推理文庫)を読み終える。アメリカ人の作家が英国を舞台にして書いた、化学好きの少女フレーヴィアが探偵として活躍するシリーズの第6作。行方不明だった彼女の母親の死体がヒマラヤ山中で発見され、葬儀が行われることになるが、その過程で、母親の死にまつわる秘密が明らかにされてゆく。物語は1951年に設定されており、この年はエリック・シプトンを隊長とするエベレストへのネパール側からの偵察隊が派遣されている(それまでのエベレストへの登攀はチベット側から行われていた)。なおエベレストが登頂されるのは1953年のことである。シリーズを一応読んではいるのだが、忘れている部分も多く、登場人物の性格設定が十分に理解できないまま読んだのが残念である。

11月30日
 NHK『ラジオ英会話」は”Urban Coyotes" (都会のコヨーテ)として、アメリカの都市の公園で北米に住むイヌ科の野生動物であるコヨーテの目撃情報が増えているという話題を取り上げている。日本でも都会に生息するタヌキの目撃情報が増えているようである。タヌキもコヨーテと同じくイヌ科なので、その点は共通している。なお、タヌキだけでなく、ハクビシンが繁殖しているという話もあるそうだが、こちらはジャコウネコ科である。

 レスリー・メイヤー『新聞王がボストンにやってきた』(創元推理文庫)を読み終える。アメリカ東北部メーン州の田舎町ティンカーコーブで子育て中の主婦で、かたわら地方新聞『ペニーセイヴァ―』の記者としてパートで働いているルーシー・ストーンはこの新聞が「今年の最優秀コミュニティ新聞」に選ばれたことで、ボスのテッドと一緒にボストンで開かれる新聞協会の年次総会に出席することになった。ところがパーティーのさなかに、新聞業界の大立者であるルーサー・リードが急死し、しかも殺害されたらしく、警察が捜索に乗り出す。リード家の別荘がティンカーコーブにあり、ルーサーの孫のベビー・シッターのアルバイトをルーシーの娘のエリザベスがしているというつながりがあって、ルーシーとしても無関心ではいられない…。事件の真相解明よりも、ルーシーが留守の間のストーン家がうまくやっていけるのかというほうに読者の関心が向かうかもしれない。いろいろな要素が中途半端に詰め込まれているという印象もあるが、それなりに楽しく読むことのできた作品である。

12月1日
 NHK「入門ビジネス英語」は4月~9月の再放送であるが、講師の話を聞いていたら、プレゼンテーションの引継ぎに関連して「バトン・タッチ」という言葉が出てきた。これは「バトン・パス」というべきではないか。陸上競技のリレーで、バトンは触るものではなく、手渡すものである。

12月2日
 NHK「まいにちイタリア語」で<場所(地方、州)の表し方>についての説明があった。基本的には前置詞in + 州や地方の名前で
A Natale andavo sempre in Toscana a trovare i miei nonnni.
(クリスマスに私は、祖父母に会いにいつもトスカーナ州に行ったものでした。)
のようにあらわすが、
マルケMarcheの場合、Marheは女性名詞複数形なので、定冠詞を使って必ずnelle Marcheとする。それえ
Durante le vacanze, il tempo nelle Marche era quasi sempre bello.
(ヴァカンスの間、マルケ州の天気は大抵いつもよかったです。)
というふうになる。また、Lazio,Venetoのように州の名前が男性形の場合には定冠詞をつけることもある。特にLazio州はnel Lazioという場合が多いという。
Dormivo dai parenti nel Lazio in provincia di Viterbo.
(私はラツィオ州のヴィテルボ県にいる親戚のところに泊まっていました。)
 イタリアの州名はToscanaをはじめ、Lombardia, Umbria, Campania, Calabria, Sicilia, Sardegnaなど女性名詞単数形が多いのだが、そうでない州もあるので、上記のようになる。しかし、MarcheのほかにPiemonteやMoliseも女性複数形であり、Veneto, LazioのほかにAbruzzoも男性形であるが、定冠詞は使わないらしい。パートナーのアンドレア・フィオレッティさんが言われていたように、どうもイタリア語には例外が多く、やはり一つ一つ覚えていく方が確かなようである。 
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