2015年の2015を目指して(11)

11月30日(月)晴れ

 11月もまたどこか遠くに出かけることなく過ごした。それで足を運んだのは年間の通算で2都県、2市8区のままである。
 利用した鉄道会社は6社で、路線は16路線のままである。バスは2社で、新たに横浜市営バスの202系統を利用したので、4系統ということになった。鉄道の駅では新丸子、武蔵小杉、品川の3駅を今年になって初めて利用し、24駅、バスの停留所も1つ増えて5つとなった。

 ブログを30件書いたので、1月からの通算は338となった。コメントを3件いただき、1月からの通算では29件、トラックバックと拍手コメントはなし(1月からの通算はそれぞれ3,10)、拍手は710件いただいている。

 購入した本は10冊で、読んだ本は6冊にとどまった。1月からの通算では142冊の本を買って、106冊を読んだことになる。読んだ本は:レスリー・メイヤー『授業の開始に爆弾予告』、野崎昭弘『「P≠NP」問題』、田中啓文『あんだら先生と浪花少女探偵団』、荒井献『ユダとは誰か 原始キリスト教と『ユダの福音書』の中のユダ』、アラン・ブラッドリー『不思議なキジのサンドウィッチ』、レスリー・メイヤー『新聞王がボストンにやってきた』である。6冊中4冊が推理小説であり、買った本を読む割合が下がっていること、本を読む速度が落ちてきていることが問題である。このところの読書傾向に問題があるということで、少し難しい本を読もうとしたことも原因していると思われるが、こちらの方はあきらめずに頑張っていこうと思う。なお、本を購入した書店は3軒である。なじみにしていた古本屋さんが店をたたんで、これからはインターネットでの商売に切り替えるという。これも時代の流れであろうか。

 「ラジオ英会話」を21回、「実践ビジネス英語」を12回、「攻略!英語リスニング」を8回、「ワンポイント・ニュースで英会話」を21回、「まいにちフランス語」を13回、「まいにちイタリア語」を21回聴いている。1月からの通算は「ラジオ英会話」が217回、「入門ビジネス英語」が72回、「実践ビジネ英語」が132回、「攻略!英語リスニング」が86回、「ワンポイント・ニュースで英会話」が222回、「まいにちフランス語」が194回、「まいにちイタリア語」が214回、「アラビア語講座」が24回、「まいにちドイツ語」が59回ということである。

 NHKカルチャーラジオ『競い合う美 琳派400年』、『弥次さん喜多さんの膝栗毛』を各4回聴き、それぞれ通算は9回ずつである。このほか、8つの番組を91回分聴いている。

 11月に見た映画は6本で、1月からの通算は46本となった。新しく出かけた映画館はなく、今年になって出かけた映画館の合計は9館である。見た映画は:『カプチーノはお熱いうちに』、『ロマンス』、『氷の花火、山口小夜子』、『ギターを持った渡り鳥』、『ヒロイン失格』、『3泊4日、5時の鐘』である。今年に入ってからでは珍しく、あたらしい映画を見ることが多い月になったが、質・量ともに満足な内容とは言えない。

 サッカーの試合は全国高校サッカー選手権の神奈川県大会の準決勝2試合と、決勝戦、それにJ2の横浜FCの今季最終戦の4試合を観戦した。今年になってから始めて等々力陸上競技場で試合を観戦した。横浜FCの女子チームである横浜FCシーガルスがなでしこリーグ2部昇格のための入れ替え戦に出場するので、応援に出かけようかと思っているが、さてどうなるか。

 ノートを4冊、ボールペンの芯をゼブラの0.5ミリ(黒)を2本、PLUSの0.7ミリを1本、テキストサーファー(黄)を1本使い切った。このあたりはメモしていないことが多く、正確な数字が分かりにくい。

 酒類を飲まなかったのが4日あり、1月からの通算では40日ということになる。どうも、酒量が減っていないのが問題である。

 昨日来、風邪気味で、なかなか気分が集中しない。早く体調を戻して、年末に向けて頑張っていこうと思う。幸い、上の数字を眺めていただければわかると思うが、無理なラスト・スパートをかける必要はなさそうなので、数をそろえるよりも、中身の充実に努めるように心がけるつもりである。 
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ダンテ・アリギエリ『神曲 煉獄篇』(18-2)

11月29日(日)晴れ、少し雲が多くなってきた。

 古代ローマの詩人であり、この叙事詩では理性の象徴としての役割を与えられているウェルギリウスに導かれて、ダンテは第17歌の中ほどで煉獄の第4環道に達した。既に書いたように、『煉獄篇』は33歌からなるので、17編はちょうどその中央の一を占める。ここでダンテはウェルギリウスに対し、第4環道ではどのような罪が清められているのかを問う。すると、ウェルギリウスは善への愛の不足=怠惰がここでは償われているという。そして創造主と被造物をつなぐ存在が愛であり、この宇宙を構成する摂理が、煉獄を構成していると語る。
 ウェルギリウスの説明を聞いて、ダンテにはさらに疑問が生じる。第18歌はあらゆる善行もその逆も愛に起因するというウェルギリウスの説明が納得できないのである。ダンテは、かつて清新体派の詩人の1人として愛を至高善と考える詩を作っていた。これに対しウェルギリウスは愛それ自体は善であっても、人間の「心」がそれに盲目的に従った結果は善であるとは限らないという。ダンテは行為の源となる愛が生まれつきのものであるならば、魂は自分の行動に責任を負えないのではないかとさらに質問する。ウェルギリウスは、それは信仰の問題であると断りを入れたうえで、彼の知る哲学の範囲内での説明を試みる。

あらゆる本質的形相、その中でも
質料とは区別され、かつ質料と一体化しているものは、
種特有の能力を己のうちに保持している。

その能力は活動しなければ感知されず、
活動の結果を除いて姿を現すことは決してない、
緑の葉によって植物の生命が知られるように。
(266-267ページ) 人間の本質的な形相である魂は、肉体とは別個に存在し、かつそれと結合している。天使は形相だけからなり、一方動植物は質料が滅びると形相も消滅する。人間は質料である肉体が滅びても、形相である魂が残る。本質的形相とは事物をそうあらしめる形相因(例えば種としての特徴)であり、この他に二次的な特徴(例えば個としての特徴)を与える偶有的形相因がある。人間を人間たらしめる形相因である魂は質料と一体化しているというのである。「種特有の能力」は人間特有の能力のことで、それは可能性として存在している。だから、能力は実際に何かをしてみないと分からない。

それゆえ、人類は第一概念の知が、
また第一に欲する事物への愛が
どこから来たかを知らぬが、

それらは、蜜蜂の中に蜂蜜を作る
欲望があるように、おまえ達の中にある。この第一の欲求は、
賞賛に値するか非難に値するかの問題を含まぬ。
(267ページ) 「第一概念」とはアリストテレス哲学で論理的思考の基盤となる論理・知識で、理性を成立させる概念である。同じくアリストテレス哲学において人間が最初に求める価値は真・善・幸福である。それらは人間に生れつきのものであるという。

さて、この欲求にその他の欲求を合致させるために、
判断する能力がおまえ達の中に生来備わっており、
かつ、それが同意の閾を司っていなければならぬ。

これこそが、善なる愛または悪しき愛を受け入れるか拒絶するかに
従い、おまえ達に対する賞罰の理が
獲得される、その原則である。
(268ページ) 古典古代の哲学者たち、とくにプラトンとアリストテレスはこれらの問題を深くまた詳しく研究し、人間が生まれつき持っている自由に気付いた。そしてそのことを後世に伝わる倫理学に関する著作のなかに書き留めた。

したがって、おまえたちの中で燃え上がるあらゆる愛が
必然により起き上がるのだと仮定しても、
おまえ達の中にはそれを支配する力が存在する。

この高貴なる力こそ、ベアトリーチェが
自由意志と呼ぶものだ。
(同上) 善なる愛、悪しき愛のどちらを選び、行動するかの自由が人間にはあるという。この「高貴なる力」を哲学では<生得的自由>である「生来の自由」、神学では「自由意志」と呼ぶ。ここでベアトリーチェは神学を象徴する存在として描きだされている。

 こうしてウェルギリウスから説明を聞いて、疑問を解かれたダンテは、眠気に襲われてぼんやりとする。

 私が昔、少し齧ったカトリックの哲学では、人間には理性と良心、自由意志があるということであった。ここで展開される議論では良心が登場せず、自由意志が強調されているのが特徴的である。ダンテがアリストテレスの哲学をかなり詳しく読み、理解していることに驚くが、彼の理解が正確なものかは、彼のキリスト教信仰がどのようなものかと並んで、『神曲』を読むものが追求していくべき問いではないか。

中島敦「悟浄出世」

11月28日(土)晴れ

 昨日の当ブログで中島の「かめれおん日記」について書いたが、そのために同作品を読み直したついでに、ちくま文庫版の『中島敦全集 2』に収められている「悟浄出世」も読み返した。三蔵法師に出会う以前の沙悟浄の思想遍歴を描くこの作品は、孫悟空、猪八戒とともに三蔵に随行して天竺までの旅行を続ける中での沙悟浄の思いを描く続編「悟浄歎異」とともに、中島の死の直前である1942年の11月に今日の問題社から刊行された第二作品集『南島譚』の中の一編として発表された。ちくま文庫版の勝又浩執筆の「解題」によれば、「歎異」よりも「出世」のほうが後から書かれたと推定されるといい、中島が「僕のファウストにする意気込」(み、ちくま文庫版『全集 2』、552ページ)で書いたというだけあって、内容的にも充実し、完成度も高い作品である。

 流沙河に住む妖怪の1人である沙悟浄は気が弱く、いつも自分に不安を感じ、後悔や自責の念にさいなまれている。彼は物事を素直に受け取ることができず、懐疑の念をもって見てしまう一種の「病」に取りつかれており、それが彼の精神だけでなく、肉体も苦しめるのであった。医者である魚怪は、そんな彼を見て、この病は自分で治さなければ治らないという。
 苦しみ悩んだ末に、悟浄は流沙河に住む妖怪たちの間を訪ねて回り、その教えを乞おうと決心して旅立つ。流沙河の妖怪たちの間では様々な思想が説かれていて、それらが互いを受け入れてより高次な思想に達するということはなく、対立したままになっていたのである。
 こうして悟浄は幻術の大家である黒卵道人のもとを訪ねるが、彼とその弟子たちは法術を用いて敵を欺いたり、財宝を得たりという実用的なことばかり問題にしていて、悟浄の疑問には誰も答えてくれない。次に訪問した沙虹隠士(さこういんし)は虚無的な哲学を解いた末に死んでしまう。坐忘先生は常に座禅を組んだまま眠り続け、50日に一度だけ目を覚ます。このわずかな機会に悟浄は質問を繰り返すが、先生の回答は禅問答式に簡潔に過ぎて、悟浄には理解できない。
 遍歴を続ける悟浄は、神を信ぜよと四辻で説く若者の叫びを理解するが、自分の問いに答えるものではないと思う。この若者のいた場所から遠からぬ場所で出会った醜怪な老人は、自分の体が自由にならないにもかかわらず、自分は不幸ではないと肩を怒らせた。悟浄はその師父であるという女偊氏(じょうし)を訪れてみようと思い立つ。
 虯髯鮎子(きゅうぜんねんし)は当面の欲望を満たすために、すぐに行動に移ることが大事だといい、危うく悟浄は彼に食べられそうになる。隣人愛の説教者である(蟹の妖精)無腸公子は、慈悲の説を説きながら、自分の飢えを満たすために自分の子どもを食べてしまう。蒲衣子(ほいし)は自然の調和の中に透過することを理想としている。彼とその門弟たちは自然の生み出した美しいものを見て、その最奥の秘密に辿りつき同化しようとするのだが、できないままである。しかし、門弟の一人であった美少年は水に溶けてしまった。500余歳という年齢にもかかわらず若々しい美しさを保っている女怪・斑衣けつ婆(はんいけつば、「けつ」にあたる漢字を見つけられず)は、性の喜びが無上のものであるという。
 このように5年間にわたり遍歴を続けたが、「悟浄は結局自分が少しも賢くなっていないことを見出した」(ちくま文庫版『全集 2』、136ページ)。「思索による意味の探索以外にもっと直接的な解答があるのではないか、という予感もした。こうした事柄に、計算の答のような解答を求めようとした己の愚かさ。そういう事に気が付きだした頃」(同上)、彼は女偊氏のもとにたどりついた。
 女偊氏は取り立てて何かを教えようとはせず、「自分の病は自分で治さねばならぬ」(ちくま文庫版『全集 2』、137ページ)という選任だったので、悟浄はあきらめてその許を去ろうとすると、思索にふけるよりも、とにかく実人生で行動することが大事だと説かれる。「物凄い生の渦巻の中で喘いでいる連中が、案外、はたで見る程不幸ではない(少なくとも懐疑的な傍観者より何倍もしあわせだ)ということを、愚かな悟浄よ、おまえは知らないのか。」(ちくま文庫版『全集 2』、139ページ)
 悟浄はこの教えをありがたく感じるが、それでもどこか釈然としないまま、師の許を辞した。結局、自分が説きたいと思っていることは、誰もわかっていない。分かっていないという約束事が出来上がっているとすると、それを質問して回っている自分は実に困った存在だということになる…というようなことを考える。
 こうして悟浄は、「自分でもまだ知らないでいるに違いない自己を試み展開してみようという勇気が出てきた。躊躇する前に試みよう」(ちくま文庫版『全集 2』、141ページ)
 と、ある日、彼は疲れ切って深い眠りに落ち、目が覚めてさっぱりとした気分になって歩いていると、観音菩薩とその従者である木叉恵岸に出会う。菩薩は「爾(なんじ)は観想によって救わるべくもないが故に、之より後は、一切の思念を棄て、ただただ身を働かすことによって自らを救おうと心掛けるがよい。時とは人の作用(はたらき)の謂(いい)じゃ。世界は、概観による時は無意味の如くなれども、其の細部に直接働きかける時始めて無限の意味を有つのじゃ。悟浄よ。先ずふさわしき場所に身を置き、ふさわしき働きに身を打込め。身の程知らぬ『何故』は向後一切打捨てることじゃ。」(ちくま文庫版『全集 2』、144-145ページ)と言い聞かせる。そして、この年の秋に天竺に取経の旅を続けている三蔵法師と孫悟空、猪八戒の一行が流沙河を通るので、その一行に加わり、西方に赴くようにという。特に一行の中の孫悟空から学ぶところは大きいだろうという。(なお、『西遊記』のもともとの話では、釈迦如来から取経の僧を探しに行くようにと命じられた観音菩薩が最初に逢うのが悟浄で、最後に三蔵と出会うことになっている。)
 疑い深い悟浄は、これが夢だと思うが、その一方で、ほんとうに取経の僧の一行に出会うような気もしてくる。そして実際に、彼は三蔵の一行に加わることになるが、それでも昔の癖が残っていて、「あまり見事な脱皮ではないな!」(ちくま文庫版『全集 2』、147ページ)などと呟くのであった。

 昨日紹介した「かめれおん日記」と同様、存在論的な懐疑が基調となっているのだが、さまざまな漢文の文献や時としては西洋の哲学から紹介された哲学的な議論が『西遊記』という枠の中でにまとめられている、その展開は見事である。中島敦は1909(明治42年)生まれで、花田清輝(1月)、大岡昇平(3月)、太宰治(6月)、中里恒子、松本清張(12月)と同年だと全集の年譜は記しているが、この顔ぶれに埴谷雄高(12月)を加えることができる(埴谷は戸籍上は1910年の元日の生まれということになっているが、実際の出生は12月だそうである)。これらの文学者の中で、思想傾向は違うし、中島の文学の中の哲学的な部分を強調するのも一面的な理解かもしれないが、花田、中島、埴谷は哲学的な傾向の強い作品群を残している点が共通している。そして、それが明治以降の欧米の文化の流入の中で、どのように伝統的な文化との関係を結ぶか(あるいは伝統文化に取って代わるのか)という問題とかかわっている点も共通するのではないかと思う。

 昨日も述べたが、中島の祖父・撫山は漢学者であり、彼の父親・伯父たちも旧制の中学校や専門学校で漢文の教師をしていた(漢文だけではないが…)。しかし、中島が「斗南先生」で描いているように、そうした学問と人間像は時代遅れのものとなり始めているという意識もあった。中島の伯父の一人である中島竦(しょう、たかしとも、1861-1940)はその業績が白川静によって高く評価されているような優れた学者であったが、そうであればあるほど、その業績と時代とのかい離が傷ましく思われるのである。

 中島が抱いていた存在論的な懐疑は、彼の幼少からの、家庭環境によるところもあるだろうし、青年期特有の思索の結果という側面もある(実際に、自分自身の経験を含めて考えてみても、身に余る難問に無謀にも取り組むという傾向が青年時代にはつきものである)が、自分のもっている多様な可能性のうちのどれを生かすべきか、自分の周囲の大人たちの身につけた教養を継承すべきかという、文化・社会の変化する相貌にかかわるものではなかったか、それは同時代の青年たちの少なくとも一部分にとって深刻な問題であったが、中島の場合それが漢学とのかかわりで深く問われているところに特徴があると思う。

 だからこの作品は、漢文や中国文学に興味があり、また多少の素養もみにつけている人にとっては、素晴らしく面白いが、そうでない人にはまるで分らないというちょっと困った性質を持った作品であるともいえる。悟浄がさまざまな妖怪・仙人のもとを訪ね歩く場面のユーモラスな描写を理解できるか、できないかのほうが、作品の主題を読み解くことよりも、鑑賞上、重要なのではないかと考える次第である。 

中島敦「かめれおん日記」

11月27日(金)晴れ、温暖

 11月25日に、元女優の原節子(本名=会田昌江)さんが9月に亡くなられていたことが報道された。私が盛んに映画を見るようになったのは原さんが映画界から引退された後のことであり、古い日本映画を見るのが好きではあるが、原さんの映画はそれほどには見ていない。原さんというと縁を感じるのは、やはり横浜つながりである。

 原さんは、横浜市保土ヶ谷区の出身で、旧制の横浜高等女学校(現在の横浜学園)を中退して映画界に入られた。現在の横浜学園は磯子区にあるが、この時代の横浜高等女学校は中区にあったのである。横浜の女子教育機関はミッション・スクールが優勢であったので、日本の女性はあくまで日本の女性らしくということで創設されたのが横浜高等女学校であった。原さんが入学されたのは昭和8(1933年)のことだと思われるが、この年、横浜高等女学校の理事長であった田沼勝之助が校風の刷新を図って新進有為の教師7人を採用した。その7人の中には東京外国語学校を出た英語教師の岩田一男(1910-1977)、武蔵野音楽学校を出た音楽教師の渡辺はま子(1910-1999)、そして東京帝大を出た国語教師(英語も教えた)の中島敦(1909-1942)がいた。この外の先生方の中でも、後に大学の先生になった人がいたと記憶する。校主である田沼としてみれば、これらの先生が長く学校で教えることを期待したのかもしれないが、大部分はその後、さらに大きな世の中に出て活躍することとなった。岩田と渡辺は横浜の人であるが、中島は東京生まれで、父親の仕事の関係で京城中学に学んだ(4年修了で旧制一高に入学している)。中島が採用されたのは、彼が田沼の旧師である漢学者で教育家の中島撫山(本名=慶太郎、1829-1911)の孫であったからである。原さんが中島(あるいは岩田、渡辺)の授業に出席していたかどうかは定かではないが、同じ時期に同じ学校の生徒であり、教師であったことは確かである。そしてその時代の学校を取り巻く雰囲気について知るのに、中島敦の短編「かめれおん日記」が役立つと思う。

 「かめれおん日記」は中島敦が横浜での教師経験を踏まえて書いた短編小説で、原稿には1936(昭和11年)12月に脱稿したと記されているが、実際は1938年(昭和13年)~1939年(昭和14年)に完成したと推測されている。中島はその後、1941年に持病のぜんそくがひどくなって横浜女学校を休職、その間に南洋庁に島民のための教科書編集の担当者として採用され、パラオに赴任するが、予期に反して健康状態は一層悪化、翌1942年3月に帰国する。パラオ滞在中に彼が兄事していた深田久弥のもとに残していた「山月記」、「文字禍」、「光と風と夢」などの作品が中央の文芸誌に発表されて注目を浴び、南洋庁をやめて作家として立つことになったが、1942年の12月にはぜんそくが悪化してこの世を去る。帰国後8か月間のうちに爆発的に傑作を書きまくったが、さらに多くの可能性を残したままこの世に別れを告げたのであった。

 「かめれおん日記」はそのような中島の晩年(といってもまだ30代の前半であったのだが)における作家としての開花以前の、晩年とはまた異質の可能性の片りんを見せている作品である。語り手である中学校の博物(現在の生物)の教師が生徒からカメレオンを託される。親戚の船員が手に入れたのだが、学校で教材として役立てた方がよくはないかということで持ってきたのだという。教師たちの間でいろいろ相談したのだが、とりあえず、語り手が自分のアパートにもって帰り、飼ってみることにする。「久しく私の中に眠っていたエグゾティスムが、この珍奇な小動物の思いがけない出現と共に、再び目覚めて来た。」(ちくま文庫版『中島敦全集 2』、197ページ)

 アパートでカメレオンと暮らすうちに、語り手は自分がカメレオンを見ているのではなく、カメレオンが自分を見ているような気分になる。博物の教師であるのに、懐疑主義や厭世主義の哲学書を読んだり、ラテン語やギリシャ語を齧ったりと専門外の領域の勉強に取り組んでいる自分自身の姿が、カメレオンの目にどのように映じるのであろうか。自分自身のあり方をめぐる懐疑がカメレオンとの同居生活で新たな展開を見せ始める。とはいえ、次第次第にカメレオンが弱っている様子なので、同僚にたのんで、上野の動物園に寄贈することになる。カメレオンがいなくなった後、主人公は横浜の外人墓地を歩き、あらためて自分探しの問いを続ける。

 この短編と表裏をなす習作がちくま文庫版の『中島敦全集 3』に「無題」として収められている。そこでは横浜の女学校を舞台に、中島=中山、岩田=石田というような実名に近い教師たちの人間模様が描きだされているが、中山と石田が、女学校での経験から得た教訓をアフォリズム風にノートに書き溜めているという個所がある。「かめれおん日記」の文章は、まさにアフォリズムを重ねたようなものであり、この「無題」の習作に、カメレオンという作者の存在論的な懐疑を映す鏡のような存在が組み込まれることによって、「かめれおん日記」が成立したといえよう。登場人物の設定が現実からより遠ざかり、高等女学校ではなく中学校が舞台となるというように虚構の要素が強くなることによって、「かめれおん日記」はより文学的な成功に近づくことになる。

 存在論的な懐疑を表現するアフォリズムの例としては次のようなものがある:「懐古的になるのは身体が衰弱しているからだろうと人はいう。自分もそうは思う。しかし何といっても、現在身を打込める仕事を(或いは、生活を)有っていないことがいちばん大きな原因に違いない。」(『全集 2』、204ページ)。
「全くの所、私のものの見方といったって、どれだけ自分のほんものがあろうか。いそっぷの話に出て来るお洒落鴉。レオパルディの羽を少し。ショペンハウエルの羽を少し。ルクレティウスの羽を少し。荘子や列子の羽を少し。モンテエニュの羽を少し。なんという醜怪な鳥だ。」(『全集 2』、214ページ)

 ただ、中島はいつまでもそのような懐疑に沈潜しているわけではなく、横浜の(昭和20年=1945年の)大空襲によって失われてしまった風景を生き生きと描きだしてもいる――私がこの作品で好きなのは、そういう部分である。「外人墓地にかかる。白い十字架や墓碑の群がった傾斜の向うに、増徳院の二本銀杏が見える。冬になると、裸の梢々が渋い紫褐色にそそけ立って、ユウゴウか誰か古い仏蘭西人の頬髯をさかさまにした様に見えるのだが、今はまだ葉もほんの少しは残っているので、その趣は見られない。」(『全集 2』、226ページ)

 「無題」の短編の中には高等女学校の生徒たちの様子の描写もある:「彼はこの間の服装・所持品検査の時に発見された夥しいブロマイドの数を思った。それから、又、何時か不意に試験を行った時、「ピタゴラスの定理に依って」と書くべき所を、「アスパラガスのていりに依って」と書いた名答案のあったことも思い出した。」(『全集 3』、302-303ページ)
 「土曜なので4時間でおしまいである。今週からハーフ・コートを脱ってジャㇺパーだけになった生徒達が嬉々として跳ねながら帰って行くのは、いかにも明るい眺めだ。」(全集 3』、309ページ)

 かなり恣意的に抜き書きしてみたが、女学校の教師としての経験を中島がどのように文章化したかを通じて、彼の作家としての可能性のいくつかの部分が見て取れるのではなかろうか。そして、「かめれおん日記」を始めとする短編には、当時の横浜の映画館や女学生の風俗についての記述がみられ、そのような記述から原節子さんの女学生時代を想像してみるのも楽しいことではないかと思うのである。

 中学・高校の6年間を通じて、わたしは京浜急行を利用して通学したので、当時はまだ女子だけの学校だった横浜学園の生徒と同じ電車に乗ることも少なくなかった。原さんの訃報に接して思い出すのは、中島敦のことだけでなく、また、岩田一男の『英語に強くなる本』をけなしながらも、彼の英文法の本を勧めていた英語の先生方のことだけでなく、電車の中で一緒だった横浜学園の生徒たちのことである。そういうことも含めて、原節子さんのご冥福を祈りたいと思う。

今野真二『常用漢字の歴史』(5)

11月26日(木)晴れたり曇ったり

 前回で第5章「常用漢字は常用されてきたか」の前半を取り上げたのに続き、今回は後半について、またそれに続く部分を取り上げて、この論評を締めくくることにする。第5章の前半部分では昭和21年(1946年)につくられた「当用漢字表」と平成22年(2008年)につくられた「改定常用漢字表」の背景にある基本的な原則が必ずしも一貫していないのではないかということが、論じられている。できるだけ漢字の使用を制限しようという方向が緩められたり、フリガナの使用が容認されたりすることが、はっきりと説明なしに行われていることに危惧が表明されている。

 「改定常用漢字表」はその「前書き」でこの漢字表が「一般の社会生活」の中での漢字使用の目安を示すものだと述べている。文脈から「一般の社会生活」はある程度の「公性」を帯びたものと考えられるが、その一方で、それが「日常の言語生活一般」と全く別のものであるとも考えにくい。

 ここで著者は「航続半径」という考え方を持ち出す。これは航空機が途中の給油なしに行って帰れる距離をさすという。著者が考えているのは、「改定常用漢字表」の「航続半径」、つまりこの漢字表の知識でどの程度古い文献が読めるのだろうかを試してみようということである。そこで著者は明治41年(1908年)9月1日から『大阪朝日新聞』に連載された漱石の『三四郎』の1ノ1を取り上げて、そこで使用されている漢字の字種、訓、それに字体について検討を加えている。
 まず字種については252字種のうち246字種が(人名用漢字も含めれば)「改定常用漢字表」に載せられているという。ところが訓についてみると、「改定常用漢字表」が認めていないものが多く、その大部分が「主に漢語をかくのに使われている漢字」(208ページ)にかかわるものである。「改定常用漢字表」が漢字の訓を絞っているために、その漢字の意味が分かりにくくなっている例が少なくないと著者は指摘する。そして言葉が変化するものである以上、漢語も和語もこれから変化するであろうし、「常用漢字表」の訓をさらに見直す機会が出てくるだろうと予見している。
 字体についてみると、明治時代に旧字体≒康煕字典体を常用していたと考えられがちであるが、必ずしもそうではないという。また「改定常用漢字表」における康煕字典体の理解も不十分で一貫性を欠いていることが、灯と燈、窓と窗の例を取り上げて指摘されている。大枠としての「改定常用漢字表」の有効性を認めながらも、訓に幅を持たせたり、康煕字典体と「常用漢字表」の事態とを結び付けることなどの教育的工夫を図るべきではないかというのが著者の考えのようである。

 第6章「今、漢字はどう使われているか」では、『朝日新聞』が独自に作成している漢字表とその運用の実態について検討している。さらに現代の文学作品における漢字の使用例も検討して現代の書き言葉の中での漢字の役割が変化していることを指摘する。これは電子メールの普及によって文字化される言葉が急激に変化していることとも関連している。これまでの言語政策が漢字とその音訓をどのように制限することかに重点を置いてきたのであるが、漢字の書き言葉の中での比重がそれほどでもなくなってきていることから、新たな言語政策の展開が求められるはずであると説く。その際に、一方で、「電子化」の問題、他方で「手書」の問題をどのように考えていくかが重要であるとも論じている。
 また一定の品詞をかな書きするという方向性が、明治時代の書き言葉におけるやり方と異なっており、書き言葉の連続性を図るうえでは問題があるとも述べている。

 終章「日本語と漢字」では、これまでの日本語の歴史の中で、漢字が果たしてきた役割を再認識することにより、日本語についても新たな知見を得る可能性について示唆して議論を終えている。

 「当用漢字」「常用漢字」というと、どのような漢字が選ばれているのか、ということに関心が向かいがちであるが,この書物では送りがな、音訓、ふりがな、字体といった問題も取り上げて、文明開化の時代以後の日本語の中での漢字の使用について包括的に論じているのが参考になる。特に訓の問題に焦点を当てて、言葉の意味をどのように表現し、理解していくかにかかわってその役割を強調し、明治時代にはもっと多くの多様な訓が用いられていた事実を指摘して、「常用漢字表」における訓の許容の幅を広げることを提言しているのは注目される。全体として、日本語とその書記法について歴史的な理解を持つべきことを読者に訴えており、その訴えは確かに心に響くものである。言語政策が歴史的な連続性を考慮すべきことは確かであるが、その中で肯定的に継承されるものは何かという言語をめぐる価値観をどこに求めるのかも問題となるのではないかと思っている。

日記抄(11月19日~25日)

11月25日(水)雨が降ったりやんだり

 このブログを始めて以来、読者の皆様から頂いた拍手が11月21日に11,000に達しました。遅ればせながら、厚く御礼申し上げます。今後ともよろしくお付き合いの程をお願いいたします。

 11月19日から本日までに経験したこと、考えたことから:

11月19日
 NHKラジオ「実践ビジネス英語」の”Quote...Unquote"のコーナーでは
The drops of rain make a hole in the stone, not by violence, but by oft failing.
----Lucretius (Roman poet and philospher, c.99- c.55 BC)
(雨のしずくは、激しい力にってではなく、幾度となく落ちることによって石に穴をあける。)
という語句を取り上げた。ルクレティウスはローマの詩人で、ギリシアの哲学者エピクロスの思想を「事物の本性について」という叙事詩にまとめた。エピクロス派の哲学は一般に快楽主義として知られるが、「隠れて生きよ」という教えに従って、社会生活の主流から離れたところに隠れ住んで共同生活を営み、その中でささやかな快楽を求めて生きたというのが実際のところである。『神曲』の『地獄篇』『煉獄篇』でダンテの導き手となるウェルギリウスはもともと田園でエピクロス的な隠遁生活を営んでいたのだが、その後、ローマの遠祖である英雄アエネアスを描いた叙事詩『アエネイス』に着手する。これはアウグスティヌス帝の統治を文学的に正統化する政治的な試みであった。神聖ローマ帝国の皇帝によってヨーロッパが平和に統治されることを夢見たダンテが、ウェルギリウスを尊敬したのはこのような事情からであったからと考えられる。『神曲』の哲学的な議論は、哲学的な議論を叙事詩に組みこむことに成功したルクレティウスの影響を間接的に受けているといえる。

 NHKカルチャーラジオ『弥次さん喜多さんの膝栗毛』は第8回で「一九の駿府の旅と弥次・喜多の諸国めぐり」として、一九が同時代の戯作者たちと違って、何度も旅行をしたこと、したがって地方の知識に詳しいはずであるにもかかわらず、彼が『膝栗毛』の中で、各地の方言を忠実に写していないことを指摘した。それは、一つには読者の大部分が江戸っ子であるという事情を考えたこと、もう一つは、方言や地方の風習を笑うのではなくて、弥次喜多の滑稽な失敗に焦点を当てて作中の笑いを構成しようとしていることのためであると論じている。

11月20日
 既に書いたように、横浜シネマ・ジャックで『3泊4日、5時の鐘』を見る。映画を見る前に腹ごしらえをしようと伊勢佐木町通りの中華料理店を探したら、これまで何度か出かけた店の店名が変わっていた。紹興酒を頼む、かなりの量の落花生を持ってきてくれたので気に入っていたのだが、今後はどうなるのだろうか。そのうち、試してみることになるだろう。

 相撲協会の理事長である元横綱の北の湖親方が亡くなられた。「花のニッパチ」と呼ばれる昭和28年(1953年)生まれの力士の代表的な存在だったが、土俵での強さとは対照的にあっけなくこの世を去っていかれたという印象が残る。私よりも若いのに亡くなったというので、さびしい限りである。

11月21日
 NHKラジオ「攻略!英語リスニング」は”matcha"(抹茶)を話題として取り上げた。
I know, I know, it' bitter, isn't it? (わかるわかる。苦いよな?) と語りはじめられていたが、抹茶は「苦い」というよりも、むしろ「渋い」のではないかと思う。このあたりは個人の味覚によって受け取り方が違う。わたしの場合、20代の半ばの頃、アルバイトで東大寺に関係したスライド製作の仕事をして、東大寺に何度も通っていろいろとお願い事をしたのだが、その際にお坊さんから抹茶を頂くことが多かったことを思い出す。別に「苦い」とも「渋い」とも思わず、淡々と飲んだという記憶がある。

11月22日
 午後、東京で研究会、夕方からはその懇親会に出席していた。研究会の中で、日本の青年たちは外国の青年に比べると「自尊感情」が低いことが指摘されているが、自分を大事にできない人間は他人も大事にできないということから人権教育に取り組んでいるという発表があって、印象に残った。

11月23日
 今にも雨が降りそうな空模様だったが、ニッパツ三ツ沢球技場でJ2の今季最終戦横浜FC対ザスパ群馬の対戦を観戦する。前半に横浜のゲーム・キャプテンであるMF寺田選手のミドル・シュートが決まり、1点を先行、そのまま逃げ切った。試合終了後、シーズンを締めくくるセレモニーがあり、サポーターの選ぶ今年のMVPにはFWの大久保選手が選ばれた(これにはだれも異論がないはずである)。その後、今シーズン限りでチームを去る10選手のうちから、野崎選手、中島選手、黒津選手がサポーターにあいさつをした。特に中島選手は2006年のシーズンに横浜FCがJ2で優勝したときのメンバーの1人で、その後別のチームにいたのが、また復帰していたので、名残惜しい。来季の左のサイドバックはどういうことになるのかも気がかりである。

11月24日
 NHKラジオ「まいにちフランス語」に出てきた表現:
Je suis un passionné(e) de films policiers.
(私は探偵(刑事)映画の大ファンです。)
 推理小説を、素人探偵が活躍するものと、警察組織のメンバーが活躍するものの2種類に分けると、英米では両者が拮抗しているが、ヨーロッパ大陸では警察の活躍が目立つように思われる。詳しいことは、それぞれの国でのジャンルの名称を見ながら考えていこうと思っている。(なお(e) というのは名詞、形容詞の女性形に使う語尾である。)

11月25日
 NHKカルチャーラジオ『響き合う美 琳派400年』は「江戸琳派の祖――酒井抱一」を取り上げた。抱一は姫路藩主の家に生まれた(藩主の弟)が、江戸で育ち、気質的に江戸っ子であったという。光琳に私淑し、その画風を継承・発展させ、江戸に定着させたが、若いころは歌川豊春に習って浮世絵を描いたり、俳諧をたしなんだりとさまざまな方面に興味を持ち、才能を発揮した人物であったという。
 大名酒井家は大別すると左衛門尉家と、雅楽頭家(うたのかみけ)となり、前者が庄内、後者が姫路の殿様であった。酒井雅楽頭というと、落語の「三味線栗毛」を思い出す。民間の暮らしをよく知る、粋な殿様が多かった家柄のようである。

 荒井献『ユダとは誰か 原始キリスト教と『ユダの福音書』の中のユダ』(講談社学術文庫)を読み終える。イエスとその教団を裏切り、イエスを売り渡したとされるユダについての4福音書やその他の文献の記述を分析して、キリスト教と新約聖書の成立におけるユダの役割を論じた書物であるが、その作業を通じて、4福音書の成立史やその性格を理解しなおすこともできるのではないかと思った。付録として収められている石原綱成「ユダの図像学」を含めて、教えられるところ、考えさせられるところの多い著作である。

冬に備える

11月24日(火)晴れ

冬に備える

今日は晴れて
暖かかった
だからといって
油断してはならない
冬は近づいている

来年のカレンダー
来年の日記
来年の予定
70歳を越えても
今を忘れて
将来のことを考えると
結構夢が膨らむ

忘年会の準備で
走り回っている人を見かける
年賀状の印刷を
頼む人たちもいる
商店街では
クリスマスと正月の準備をしている
膨らんだ夢が
現実に溶け込みそうな気分になる

だが人込みを離れると
風は確実に冷たくなってきている
クリスマスも正月も冬の一部に違いはないが
冬にはいろいろな部分がある
寒さに震えるのも冬
凍った道で転ぶのも冬
冬には冬の支出があり
消費者の一人としては
浮かれてばかりもいられない
去年着た冬服をまた
引っ張り出す
流行など構うものか

出席するような忘年会はほとんどないし
年賀状の数もだいぶ減った
身軽な体だが
寒風は身に染みる
まず目の前に迫った
冬に備えよう
そして用心深く
用心深く
もっと先のことを考えよう

『太平記』(77)

11月23日(月)曇り、時々小雨

 元弘3年(1333年)5月7日の夜に、討幕軍の攻勢を受けて六波羅の2人の探題は、光厳天皇と東宮、2人の上皇を奉じて、六波羅を脱出、関東に落ち延びて再起を図ろうとした。しかしいたるところで野伏たちの襲撃を受け、南探題の北条時益が命を落とし、北探題の北条仲時らは、いったんは窮地を脱したものの、5月9日、近江国番場の峠で亀山院の五宮を大将に担ぐ数千の野伏に行く手を阻まれた。すでに味方の軍勢は500余騎に減っており、一行の後からついてくるはずの近江守護佐々木時信の到着を待って、どこかの城塞に立てこもり、鎌倉からの応援を待とうということになったが、その時信は北探題一行が全滅したという噂を信じて後醍醐天皇方に降伏していた。

 仲時は時信の到着をまだかまだかと待ち受けていたが、その姿を見ることはなく、「さては、時信も早や敵になつてけり。今はいづくへ引つ返し、いづくまでか落つべきなれば、さはやかに腹を切らんずるものを」(第2分冊87-88ページ、さては時信もすでに敵になったか。今はどこへ引き返し、どこまで落ちのびることもできないので、いさぎよく腹を切るほかなさそうだ)と、かえって気持ちが落ち着いて決心を固めたのであった。

 仲時は従ってきた武士たちに、武運が傾いて北条氏の滅亡が近づいていることが分かっていても、武士としての名を重んじ、これまでの幕府からうけた恩義を忘れずに、ついてきてくれたことを感謝し、もはやそれにこたえることはできないのが残念だという。そして自分は平氏(北条)一門の列に連なるものであるので、敵は自分の首を取った手柄として莫大な恩賞をくれるだろう。自分の首を敵に渡し、幕府に仕えていたというこれまでの過去を、あたらしい主君への忠義で補うようにせよという言葉も終わらぬうちに、鎧を脱ぎ、上半身の着衣を脱いで肌を出し、腹をかき切って倒れ伏す。

 これを見て糟屋三郎は、自分のほうが先に自害して、あの世での先払いを務めるべきであると思っていたのに、先に行かれたのは残念である、この世では殿の御最期をお見届しましたが、またあの世で殿をお見捨てするはずはありませんと、仲時が腹を切った時に使った刀をとって自分も腹を切り、仲時の膝に抱き着いてうつぶせに倒れ込む。これに続いて合計で432人のものが同時に腹を切った。
 『太平記』本文には近江番場で自害した六波羅方の武士たちの名が列挙されており、これは岩波文庫版の脚注によると彼らの墓所のある番場蓮花寺の過去帳(陸波羅南北過去帳)の記載とほぼ重なるという。この過去帳は番場の時衆同阿が記したもので、『梅松論』に「彼時同腹切者の名字共を番場の道場に記し置ければ。世のしる所なり」(第20輯、159ページ、岩波文庫版の脚注では「この時の腹切りは、名字等馬場道場に注し置く。世の知る所なり」となっている)とあって、早くからその存在が知られていた。人命列挙は『太平記』の作者が過去帳を見て書き写しているものではないかと推測されている。

 あたりは血の海となり、まるで屠畜場を見るような有様であった。光厳天皇、後伏見・花園の両上皇はこれらの死人たちの有様をご覧になり、「御肝心(おんきもこころ)も御身に添はず、ただあきれてぞ御座(ぎょざ)ありける」(第2分冊、92ページ、気を失わんばかりで、ただ呆然とされていた)。

 そうこうするうちに、五宮の官軍の軍勢が光厳天皇、両上皇を確保し、その日は長光寺(近江八幡市長光寺町にある真言宗寺院)に宿泊させた。三種の神器(皇位継承のしるしである鏡・剣・玉の3種の宝器)、琵琶の名器である玄象(げんじょう)、下濃(すそご)、清涼殿の二間(夜の御殿の東隣りで夜居(よい)の護持僧が伺候する)に安置されていた本尊の観音像まで自ら五宮に渡された。『太平記』の作者は秦の三世皇帝子嬰が漢の高祖(劉邦)に降伏したときの様子にこの有様をなぞらえている。
 玄象は絃上とも書くという説と、玄象と絃上は別物であるという説とがあるらしい。この琵琶は三種の神器に次ぐ宝器とされてきた。『今昔物語集』第24巻第24(玄象の琵琶、鬼の為に取らるる語)に何者かが玄象を盗み出したのを、醍醐天皇の孫で音楽の名手として知られた源博雅が取り戻す話が出てくる(本文にははっきりと「鬼」とは書かれていないで、暗示する形になっている)。三世皇帝子嬰はその後で項羽によって殺されるが、光厳天皇はその後また政治の表舞台に復活する機会を得る。一方、五宮のその後の運命についてはあまりよく知られていない。

 番場宿は東山道の宿場で、江戸時代には中山道の宿場町として栄える。長谷川伸の戯曲『瞼の母』の主人公である番場忠太郎はここの出身者ということになっている。私の母は、滋賀県彦根市の出身であったが、かなりの年配になるまで番場に行ったことはなかったようである(実は私も彦根で生まれたのだが、番場には一度も行ったことがない)。彦根と番場は近いようで遠い。母の実家は琵琶湖のすぐ近くにあり、かつての東山道⇒中山道は琵琶湖から離れた所を走っていた。
 長谷川伸は横浜の日ノ出町の近くで育ったと記憶するが、実際に生母と生き別れになり、その体験が『瞼の母』の背景をなしている。別の家に嫁いだ長谷川の母が暮らしていた場所というのが、今、私が住んでいるところの比較的近くらしい。この件については稿を改めて書くつもりである。北条仲時一行の惨劇よりも、『瞼の母』のほうが多くの人々に知られているらしい――ということをどのように考えればよいのだろうか。

『太平記』(76)

11月22日(日)曇り

 元弘3年(1333年)5月7日、足利高氏と千種忠顕・赤松円心らが西と南から京に攻め寄せ、六波羅方の武士たちの中には降参したり逃亡したりするものが相次ぎ、六波羅の二人の探題は糟屋三郎宗秋の進言を受けて光厳天皇、後伏見・花園両上皇、東宮の康仁親王を伴い、関東に落ち延びて再起を図ろうとする。しかし、この一行は六波羅から山科に抜ける苦集滅道(くずめじ)で野伏たちの攻撃を受け、南探題の北条時益が命を落とした。北探題である北条仲時を始めとする一行は野伏の大軍に包囲されて窮地に陥ったが、中吉(なかぎり)弥八の計略で切り抜けることができ、近江の国の篠原の宿にたどりつくことができた。

 そうこうするうちに、六波羅の2人の探題が京都での合戦に負けて、関東へと落ち延びていくことが知れ渡ったので、三宅(滋賀県守山市三宅町)、篠原(野洲市大篠原)、日夏(彦根市日夏町)、大所(おいそ、近江八幡市安土町老蘇)、愛智川(えちがわ、愛知郡愛荘町)、四十九院(犬上郡豊郷町四十九院)、摺針(すりはり、彦根市中山町摺針峠)、番場(米原市番場)、佐目井(さめがい、米原市醒井)、柏原(米原市柏原)、鈴香山の山立(やまだち=山賊)、強盗、あぶれ者(=ならず者)たちが2~3,000人ほど一晩のうちに急ぎ集まって、五辻宮守良(いつつじのみやもりよし)親王が世を捨てられて伊吹山の麓に隠棲されていたのを大将として推戴し、官軍の旗である錦の旗を差し上げて、東山道第一の難所といわれる番場の宿の東の小山の峯一面に群がって、崖の下を通っている細い道に六波羅探題の一行が差し掛かるのを待ち受けていた。

 夜が明けて5月9日、北探題の北条仲時は篠原の宿を出発して、天皇の行幸を山々の重なる奥へとお進めした。都を出てから前日までは2,000余騎の軍勢がつき従っていたが、道中が進む中で離脱するものが少なくなかったためであろうか、この日は700騎に満たない数が従うのみであった。もし後ろから追撃してくるものがいればその攻撃を食い止めるようにと、近江の守護である佐々木(六角)時信とその配下を後ろに残し、賊徒が道を塞ぐことがあれば追い散らすようにと糟屋宗秋に先陣を命じた。

 天子の乗る輿に続いて、糟屋が番場の峠を越えようとすると、数千人の敵が道を中に挟んで、楯を一面につき並べ、矢先をそろえて待ち構えているのが見える。糟屋はその様子を遠くから眺めて、これは近江の国と近国の悪党たちが落人の武器を剥ぎ取ろうとして集まっているのであろう。こちらが手ひどく攻めたてるならば、命を捨ててまで戦うことはよもあるまいと36騎の武士たちを率いて、騎馬で敵を蹴散らそうとする。一番手前で待ち構えていた野伏たち500人余りが、峯の上の方に追い立てられて、次に控えていた軍勢に逃げ加わった。

 糟屋は敵の第一陣をうち破ったことで、今はまさか行く手を遮るものはあるまいと安心して、朝霧が晴れてゆく中、行く手のやあっ道を見渡すというと、錦の旗が強風の中にはためき、5~6,000人の兵が要害を恃んで待ち構えている。糟屋は二陣で待ち構えている敵が予想していたよりもはるかに多かったために圧倒されて、思案に暮れる。第一陣と同じように騎馬で蹴散らそうにも、六波羅方の人馬は最初の戦いで疲れているうえに、敵は険しい坂の上に構えているので、困難に見える。近づいて矢軍(いくさ)にしようと思っても、矢を使い果たしていているうえに、敵は味方の何倍もの大軍である。とにもかくにも通過することはできないと判断して、峠の麓の道端の堂があったので、そこでみな馬を下りて、後続の軍勢を待つことにした。

 仲時は前方で戦闘が起きていると聞いて、馬を急がせてやってきた。糟屋が仲時にいうには、「弓矢取る身の死すべき処にて死なねば、恥を見る事ありと申し習はしたるは理にて候ひけり。われら都にて討死すべう候ひし者が、一日の命を惜しみ、これまで落ちもて来て、今、云ひ甲斐なき田夫野人の手に懸かつて、尸(かばね)を路径の露には曝さん事こそ口惜しく候へ」(第2分冊、86ページ、武士として弓矢を取る身であってみれば、資すべきところで死なずにいると、恥を見ることがあるといわれてきたのはまことに理であった。我々は都において討ち死にすべきであったのが、一日の命を惜しみ、ここまで落ちのびてきて、今、取るに足らない田舎者たちの手に懸かり、死骸を道端の露にさらすことになるのはくやしいかぎりである。) もともと六波羅から関東に落ち延びることを進言したのは糟屋であったので、この言葉には彼の後悔の気持ちが現われている。そして、必死になって戦えばこの弓馬を切り抜けることができるだろうが、敵はここ一カ所だけにいるわけではなく、この後美濃の国では土岐一族が攻撃を仕掛けてくるかもしれず、遠江でも反乱を起こそうとするという噂がある。ここは後からやってくる佐々木時信の軍勢を待って、(佐々木は近江の守護であり、湖南に地盤を持っているので)どこか適当な城を見つけて、籠城して時間を稼ぎ、幕府の軍が上洛してくる時まで待ってはどうかと進言する。仲時もその意見はもっともだといいながら、これまでの事態を見ていると、佐々木も心変わりをするかもしれない。とにかく、彼がやってくるのを待って、決断しようと500余騎の兵が堂の庭で馬を下りて待機することになった。

 佐々木時信は本隊から一里ほど後を500余騎で馬を走らせていたが、どうしたわけであろうか、あるいは悪魔の仕業であったのか、六波羅探題は番場の辻堂で野伏に襲われて、軍勢は全滅したという連絡が入る。そのため時信は、もはやどうしようもなくなって、愛智川から引き返し、後醍醐帝の命令に従って降人となり、京都へ上がってしまった。

 なお、『太平記』の作者は五辻宮守良親王を「先帝(=後醍醐天皇)第五宮」(第2分冊、82ページ)と記しているが、正しくは亀山院の第五皇子だそうである(岩波文庫版の脚注による)。『増鏡』には「伊吹といふほとりにて、なにがしの宮とかや、法師にていましけるが」(講談社学術文庫版『増鏡 下』、365ページ)と記されている。この皇族のことについては『梅松論』は触れておらず、その一方で野伏・悪党の結集については『増鏡』は触れず、『梅松論』は「同国(=近江国)番場の宿の山に先帝の御方と号して近江美濃伊賀伊勢の悪党共旗を上。楯をつきならべて海道をさしふさぎ責戦」(群書類従、第20輯、159ページ)と『太平記』ほど詳しくはないが、彼らの果たした役割について記している。このあたり、それぞれの書物の書き手の意識のありかがよく分かる。

 短期間のうちに野伏たちが結集したのは、自然発生的な動きであったとも考えられるが、誰か背後で彼らを組織する人物がいたと考える見方もある。彼らが伊吹山の麓に集まったことから、この一帯を本拠地とする佐々木(京極)導誉が黒幕だったと推測する意見もあり、吉川英治の『私本太平記』はこの意見をとっていたと記憶する。しかし、野伏・悪党の結集に努めたといえば、大塔宮護良親王の働きも思い浮かぶ。どちらにしても確証は得られそうもない。近江源氏佐々木氏は北に京極、南に六角の2つの家系が勢力を張って、戦国時代まで続くことになる。源氏といっても、この流れは清和天皇にさかのぼるものではなく、宇多天皇を祖とし、一族の中にはこれまでみてきたところでも、鎌倉幕府に忠実な人々と、反旗を翻そうとする人々とがみられる。この点では源氏といっても、清和源氏である足利氏、この後の部分から活躍する同じく新田氏とは大きく異なる。もっとも武家の系図というのは案外あてにできないものであることも付け加えておく必要があるだろう。

3泊4日、5時の鐘

11月21日(土)晴れ

 11月20日、横浜シネマ・ジャックで『3泊4日、5時の鐘』を見る。この日がこの映画館での最終上映日であった。”Chigasaki Story"という副題がついている。茅ヶ崎にある旅館に3泊して4日の時を過ごす一群の人々を描く映画である。湘南の海岸にあるこの市では、夕方の5時になると、時間を知らせる鐘の音が響く。海岸に鐘の音が流れる場面が繰り返される。監督・脚本の三澤拓哉は茅ヶ崎出身だそうで、映画全体を通じて自分の生まれ育った町への愛着が感じられる。

 茅ヶ崎の海岸近くにある茅ヶ崎館という旅館は、湘南が上流の人々の保養・別荘地であった時代の名残をとどめる老舗で、かつては小津安二郎監督が滞在して多くの作品の想を練り、脚本を書いたという来歴をもっている。夏の終わり、この旅館でアルバイトをしている知春も所属する大学の考古学研究室の合宿が開かれ、旅館は満員になる。務めていた会社を辞めて旅館を継ぐことになった理沙(堀夏子)が結婚して、海岸で披露宴を開くというので、会社で同僚だった真紀(杉野希妃)と花梨(小篠恵奈」がそのパーティーに出席するために、保養を兼ねてやってくる。会社ではもともと理沙がやっていた仕事を真紀が引き継ぎ、花梨の上司になったという関係である。何事もきちんとしないと済まない性質の真紀は奔放な性格の花梨とあまりうまくいっておらず、この滞在を機会に関係を改善したいと考えているようだが、花梨の方は旅館に到着するや否や年下の若い男性である知春をからかったりして、滞在を楽しむことだけを考えている。合宿中の学生の1人である彩子は自分の仕事を地道にこなしている知春をひそかに慕っておる。

 到着の翌朝、早く起きた花梨は海岸の清掃をしている知春を誘って自転車で遊びまわる。水族館に出かけて花梨と打ち解けた話をするつもりだった真紀は予定が狂って腹を立てる。実は真紀は合宿中の学生たちと同じ研究室の出身であり、研究室の近藤教授に指導を受けていた。近藤と再会した真紀は昔を思い出し、学生たちと一緒に行動したりして、時を過ごす。理沙の弟の宏太も旅館を手伝っており、彼女の身近な人々が顔を出したり、が宿の打ち上げの準備や理沙の結婚披露パーティーの準備が進行する一方で、理沙の夫はなかなか姿を見せない。

 ご本人にとっては大事なことであっても、外から見るとそれほど大事に思われないことがある。この映画は登場人物のそのような心理的な衝突をいくつも抱え込みながら、派手な事件の展開がないまま、結婚披露パーティーへと収束していく(小津安二郎が活躍した時代の松竹映画が結婚式で終わる展開を常套としていたことを思い出してほしい)。

 映画全体を通して最も魅力的なのは、旅館そのものである。実在する旅館を映画の舞台として特別に使うことができたということでこの映画は成立し得た。旅館が保っている「おもてなし」の心(あまりこの表現は好きではないのだが、他に表現のしようがない)が映画に生命を与えている。吉田健一が書いているが、昭和30年代には、酔っぱらって降りるはずの駅を乗り越してたどりついた駅で旅館を探し、そこで一夜を過ごすということがごく普通にあった(あるいは吉田健一だけの普通であったのかもしれないが)ようである。その頃に比べると旅館は少なくなった。さらに交通機関の発達によって、茅ヶ崎と東京の距離は近くなった。それだけ「おもてなし」にあずかる機会は減っているといえるのかもしれない。
 鎌倉に住み、茅ヶ崎に隠れ家を求めていた小津にしても、やがては信州の蓼科に別荘を構えて、そこで脚本を書くようになる。茅ヶ崎に都会の喧騒を離れた楽天地を求めるのは難しいことになっている。実際問題、茅ヶ崎に住んで、東京に通勤していた私の友人が何人もいる。それでもまだ湘南の海岸で遊ぶことはできるし、この映画は都会での生活を忘れたかのような時間を過ごす人々を描いている。もちろん、3泊4日の滞在が終わってしまえば、また都会での生活が待っている。そしてその生活は、ここでの経験をすっかり洗い流してしまうかもしれないのである。ここでの経験にどのような意味を与えるか、それは登場人物のそれぞれがこれから取り組むべき課題であろう。その一方で旅館にはこのまま存続してほしいと思ってしまう。

 この映画で主演している小篠恵奈と杉野希妃はともに、二階堂ふみが主演した『ほとりの朔子』に出演していたが、若い女性の夏の終わりにおける体験を描くという点では、両作品の間に共通性がある。ただ、『ほとりの朔子』のヒロインが予備校生であったのに対し、こちらは社会人であり、しかも自分たちよりも年上の人間がほとんど登場しない展開になるという点が違っている。さらに言えば、実際の年齢と役の上での年齢も近く設定されているようである。それかあらぬか、ごく自然体の演技が展開されているという印象がある。杉野希妃はエグゼクティブプロデューサーも兼ねており、あまり無理のない映画作りを心掛けていたのではないかという推測もできる。それで、『ほとりの朔子』に比べると出演者の知名度は全体として低いのだが、生き生きとした演技を引き出している点では見劣りがしないと思われる。 

雨の中の坂道

11月20日(金)曇り、一時雨が降ったり、晴れ間が広がったり
雨の中の坂道

季節の分かれ目というには
あまりにも弱弱しく、頼りないが
冷たい雨が 降る坂道を
いささか大げさに
コートを着て帽子をかぶり、
傘をさして下ってゆく

一斉に傘の花が
開いているわけではない
傘を持ったままの人
傘を持たずに濡れて歩く人
人さまざまだが

背の高い
黒人の青年が
スキンヘッドの頭を濡らしたまま
向うから坂道を登って来た

今から何か用事があるのか
それとも自分のアパートに帰るのか
それはわからない
わかるのは
彼が異国の坂道で
異国の雨に濡れているということだ

スキンヘッドの頭に
じかに雨を受けるのは寒いだろうと
自分の禿げ頭を帽子に隠して
歩きながら考える

雨は 頼りなく降りつづき
青年は うつむき加減だが
足取り しっかりと歩み去っていった
季節は 秋から冬へ
はっきりしないまま
移り変わっていきそうだ

ダンテ・アリギエリ『神曲 煉獄篇』(18-1)

11月19日(木)晴れ後曇り

 33歌からなる『煉獄篇』の中間に位置する第17歌でダンテとウェルギリウスは煉獄の第4環道に達した。そこで、ダンテはこの環道ではどのような罪が償われているかを質問するが、ウェルギリウスはより大きな見地から、神の被造物に対する愛にもかかわらず、人間の愛が罪を生む可能性について語り、煉獄が7つの大罪に対応して、第1環道=高慢、第2環道=嫉妬、第3環道=憤怒、第4環道=怠惰、第5環道=貪欲、第6環道=飽食、第7環道=淫乱の罪を浄める構造になっていることを説明する。

 ウェルギリウスの説明を聞いて、ダンテにはさらに疑念がわく。彼がさらなる疑問を発すべきかどうか悩んでいることを見抜いたウェルギリウスは、問いをためらわないようにと促す。ダンテは問う:
愛について私に解明してください。あなたは
あらゆる善行もその逆も、愛に起因するとされますが」。
(263ページ) ダンテがかつてその1人であった清新派と呼ばれる集団の詩人たちは愛を至高善と考えていた。ウェルギリウスの語る内容は違う。

心、それは愛するという性質を与えられて創造され、
美によってそれが目覚めて現実体となるや、
惹かれる物ことごとくを追って動く。

おまえ達の認識力は現実の存在から、
表象をつかみ取り、それをおまえ達の内面で像に開いて、
心をその像へと向けさせる。
(264ページ) ここで「心」(animo)というのは「魂」(anima)の持つ知能や意欲の部分だと解説されている。魂は全人格的で、死後の賞罰の対象となる。心は愛するように創造されているので、魂が惹かれる対象である美によって、その愛するという性質が目覚めるのである。

そして心がそちらへ向き、もしもそれへと傾倒するならば、
その傾倒こそが愛なのだ。すなわちそれが、
美ゆえに、おまえ達の中にそのたびごとに起こる本性である。

その後、あたかも火が、
己と同じ質料に囲まれてより長く持続しうる場所へと
昇るべく生まれついたその形相ゆえ、高所へ向かうのと同様、

愛にとらわれた心は欲望の段階に入る。
それは霊的次元の活動であり、その活動は
愛された対象が魂を喜ばせるまで休むことはない。
(264-265ページ) 愛にとらえられた心は「霊的」、つまり魂全体にかかわる精神的活動として欲望し、満足を求める。「質料」はアリストテレス哲学において素材・材料をさす言葉である。月天と地上の間には火天が存在し、火はその本来の場所である火天において最も持続すると考えられていた。「形相」はアリストテレス哲学における形式、概念であり、素材(質料)に形式・秩序を与えて事物をあらしめると解説されている。火は高いところに燃え上り、燃え広がろうとし、魂は霊的な精神が対象に触れるまで欲望し、触れると欲望は消えて喜びが生じる。

 それゆえ、愛は至高善であるとする清新派の詩人たちの考えは間違っている。
おそらくその説は、愛の質料が常に善であると
見えるためであろう。しかしたとえその蠟が善であっても、
あらゆる刻印が善であるわけではない。
(265ページ)とウェルギリウスは言う。日本ではあまり見かけないが、手紙などの封印としてに熱で溶かした蠟をたらし、それに印を押すことが西洋では広く行われていた。愛するという性質は善であっても、質料を得て現実のものとなった個々の愛、つまり刻印のように押された形がすべて善であるわけではないという。

 そんな面倒なことをいわなくても、親の子どもに対する愛情がなぜかゆがんだ形をとることとか、不倫とか、愛の結果として起きることがすべて善ではないことは日常的な経験からわかる。もっと簡単に言えそうなことに、これだけ手間を掛けるのは、アリストテレス哲学に不備があるのか、ダンテの哲学理解とその応用に不完全な部分があるのか、わたしには判断がつかない。

 ウェルギリウスの説明を聞いて、ダンテはさらに深い理解に達し、その結果としてさらなる疑問を抱く。行為の源となる愛が生れつきのものであるのならば、魂(人)は己の行動に関して道徳的責任を負えないのではないかというのである。これに対して、ウェルギリウスは「理性がここで見通せるものだけを/私はお前に話すことができる。それより先のことでは、おまえはベアトリーチェだけを頼りとせよ。/それは信仰の問題であるからだ」(266ページ)と答える。根本的な解決はベアトリーチェ(神学)によって与えられるだろうが、古代の哲学に結晶した理性の範囲内で答えられることは答えようというのである。

 創造主によってこの世界がどのように作られ、動かされているか、創造主の愛がその中にどのように行き渡っているか、ダンテの詩行はきわめて哲学的な形をとって展開されている。あらためて古代、中世の哲学について勉強しなおさないと十分に理解できないように思えるが、とにかく一歩一歩、ダンテの行程を追っていきたい。理解を深めるために、第17歌と同様、第18歌も3回に分けて紹介することをご了承いただきたい。

日記抄(11月12日~18日)

11月18日(水)晴れ後曇り後雨

 11月12日から本日までの間に経験したこと、考えたことなど:
11月12日
 NHKカルチャーラジオ『弥次さん喜多さんの膝栗毛』は第7回「落咄の会への参加と狂歌師一九」と題して、一九が諸国を旅行しながらその土地の狂歌愛好者たちと交流し、それが戯作の話題を提供していたと述べていた。その際、一九が特定の派閥に属する狂歌師として活動していなかったことが、地方をめぐるときにはかえって幸いしたようであるとのことである。

11月13日
 NHK「実践ビジネス英語」は”America's Declining Mall Culture"(アメリカの衰退するモール文化)の最終回で、この問題をめぐって講師の杉田敏さんがパートナーのヘザー・ハワードさんにモールについてのご自分の経験を語ってもらっていた。夏休みのアルバイトが、高校生(と大学生)にとって経験を広げ、さまざまな出会いの場となるのは日本もアメリカも同じようである。
Malls were also a big source of summer work. That's where most of my first jobs were: the one at the ice cream store, the retail cloghing outlet, and the video store. I'd walk all around the malls, looking for signs saying "Help Wanted" and going in to fill out an application. Or go in without a sign if the place looked interesting. (私が若いころに経験した仕事の多くは、モールにあった。例えば、アイスクリーム店、衣料品店、そしてビデオ店での仕事だ。モール中を歩き回って「店員募集中」と書かれた貼り紙を探し、店に入って申込書に記入したものだ。あるいは、面白そうな店だったら、貼り紙がなくても中に入っていった。) 
 日本では「夏休みのアルバイト」となるところがsummer workで済んでいる。そういえば、日本語のアルバイトはドイツ語のArbeitが語源であるが、これは「労働」という意味である。

11月14日
 NHKラジオ「攻略!英語リスニング」は”Water crisis"(水不足)という話題を取り上げていた。
70 percent of the earth might be covered by water, but only 2.5 percent of it is fresh, and most of it is inaccessible. It's in glaciers and snowfields.(地球の7割は水に覆われているかもしれないが、そのうち淡水は2.5%で そのほとんどは人間が利用できない。氷河や雪原という形で存在しているから。)
 以前「実践ビジネス英語」で出てきた話題でアメリカの飲料水のほとんどは五大湖とコロラド川を水源としているという話だった。2.5%の淡水のそのまたごく一部分だけが飲料水として使われているということで、地球が巨大な水の大陸であることが分かる。

11月15日
 NHKEテレ「日本の話芸」で桂雀三郎師匠の『船弁慶』を視聴した。おかみさんに嘘をついて舟遊びに出かけた男が、川に涼みにやってきたおかみさんに真相を見抜かれて、能の『船弁慶』よろしく大立周りを演じるという噺。しぐさが多いので、テレビ向きといえよう。

 109シネマズ川崎で『ヒロイン失格』を見る。幼馴染の男子に思いを寄せる女子高校生が、他の生徒に彼を奪われそうになり、自分もまた他の男子高校生と親密な中になるが、なかなか元の男子が忘れられない…という話。20代半ばの俳優さんたちが主な役を演じており、高校生活もかなりデラックスに描かれていて、現実離れがしている。おそらく、その現実離れを楽しむ楽しむように作られた作品であり、原作コミックスの画面を再現するような場面もみられる(原作を読んでいるわけではないから、確実なことは言えない)。ヒロイン(本人はヒロイン失格だと自己嫌悪に浸っていたりする)からボーイフレンドを奪う役どころを我妻三輪子が演じている。我妻の出演作は『恋という病』、『さよなら歌舞伎町』、この作品と3本みていて、それぞれに個性的な役柄を演じているが、それらに共通している彼女の個性というのが今一つはっきりしないというのがちょっと心配である。

11月16日
 NHK『ラジオ英会話』の本日のDialogueの題名は”Mother Knows Best"で、これは米国の1950年代の人気テレビシリーズ『パパは何でも知っている』(Father Knows Best)から連想されたものらしい。この番組は日本でも1960年代に日本テレビ系列で放送されていた。

11月17日
 薬がなくなったので医者に出かけ、このところ体調がよくないという話をしたら、風邪の引きはじめかもしれないと葛根湯を処方してくれた。落語のマクラに使う小話でどんな病気の治療にでも葛根湯を呑ませる「葛根湯医者」というのがあるのを思い出して心の中でニヤニヤしていた。この話の原型と思われるのは子どものころ読んだ民話である。村人が物知りのところに出かけて、病気になったというと葛の根を煎じて飲めという。そのうち、村人の飼っている馬が行方不明になったので、どうすればよいかと聞いたところ、葛の根を煎じて飲めというので、いい加減にしろと思ったが、山の中に入って葛を探していたら、山の中を迷っていた馬を見つけることができたという話である。

11月18日
 NHKカルチャーラジオ『響きあう美 琳派400年』の第8回は「大坂で活躍した中村芳中」という題で、芳中(?-1819)は、琳派の影響を受けながら、一方で文人画の影響も受け、多くの文人と交流しながら、おおらかでユーモアに富んだ画風で知られた画家であったという。彼が琳派の始祖の1人である俵屋宗達と同様に扇面画をよくしたという話が出てきて、宗達のことは仮名草子の『竹斎』にも出てくるということだったので、岩波文庫の守随憲治校訂『竹斎』を探し出して、読んでみた。初めの方の「あふぎは都たわら屋がひかるげんじのゆふがおのまきゑぐをあかせてかいたりけり」(28ページ、扇は京都の俵屋(宗達)が源氏物語の夕顔の巻(の場面)を絵具をふんだんに使って書いたものである)という部分について言及したらしい(「あかせて」を「ふんだんに使って」というのは前後の関係を考えての意訳である)。この種の研究は、状況証拠を積み重ねての推論が多くなるということを実感した。

 『竹斎』というのは江戸時代の初めに著された仮名草子で、京都に住む藪医者の竹斎が食い詰めた挙句、江戸に移り住んで再起を図ろうと東海道を下り、その間、神社仏閣・名所旧跡を訪ねて狂歌を詠むという趣向の滑稽・失敗の物語である。好評を博したため、今度は竹斎が東海道を上って京都に戻るという物語を書く者が現われ、さらにその続編ということで、竹斎は東海道を行ったり来たりすることになった。さらに芭蕉が『野ざらし紀行』の中で、「狂句木枯の身は竹斎に似たる哉」と詠んだことで有名になった。岡本かの子の短編小説「東海道五十三次」のなかに、
「 木枯しの身は竹斎に似たるかな
 十一月も末だったので主人は東京を出がけに、こんな句を口誦んだ。それは何ですと私が訊くと
「東海道遍歴体小説の古いものの一つに竹斎物語というのがあるんだよ。竹斎というのは小説の主人公の薮医者の名さ。それを芭蕉が使って吟じたのだな。確か芭蕉だと思った」
「では私たちは男竹斎に女竹斎ですか」
「まあ、そんなところだろう」
 私たちの結婚も昂揚時代というものを見ないで、平々淡々の夫妻生活に入っていた。」(ちくま文庫版『岡本かの子全集 第5巻』73-74ページ)
という個所がある。小説の登場人物も、岡本かの子自身も『竹斎』をそれほど詳しく読んでいなかったようである。岡本かの子と一平の夫婦生活はまことに波乱にとんだものであったことを考えると、「東海道五十三次」はかの子が猫をかぶり続けて書いたような印象を受ける。一種、息を殺した感じが行間に漂っているというのは、考え過ぎであろうか。
 

黒岩涙香と『萬朝報』

11月17日(火)晴れ後曇り後雨

 蔵書の整理をしていたら、1992年に社会思想社から現代教養文庫の1冊として刊行された黒岩涙香『弊風一斑 蓄妾の実例』が出てきた。巻末の伊藤秀雄による解説の冒頭部分をそのまま引用すると「本書は、明治の異色の日刊紙『萬朝報(よろずちょうほう)』明治31(1898)年7月7日から9月27日まで連載された『弊風一斑 蓄妾の実例』510例を収録したものである。当時、男子の玩弄であった妾に対して、同情を披瀝し、妾を持つ男子に反省を促したものであった。現在なら名誉棄損で問題になるこの記事の発表者は、『萬朝報』を主宰する黒岩涙香であった」(187ページ)。

 黒岩涙香(本名・周六、1862-1920)は明治時代のジャーナリストで、海外の多くの文学作品をかなり自由な翻訳を通じて日本に紹介しただけでなく、大衆文化の向上と社会の改善を目指して論陣を張り、その主宰する『萬朝報』においてはセンセーショナルな記事を掲載しては、当時の政治と社会を批判し続け、「まむしの周六」と呼ばれた。この『弊風一斑 蓄妾の実例』はそうした黒岩の取り組みの代表的なものの1つで、書中にも登場する当時の政界の指導者伊藤博文が、朝起きると必ず、自分のことが出ていないか確かめたという噂が広まったほどである。510例の中には複数回登場する人物もいるが、有名無名様々な人物が登場している。解説には「臑に傷をもつ多くのものは、今度は己の番かと、恐怖の念を抱いて毎朝の朝報を眺めていた」(197ページ)と記されている(先ほどの伊藤博文についての噂もそのあたりと関連する)が、他方、自分の妾のことをのせてほしいという苦情も寄せられたようである(まるっきり懲りていない)。

 記事は朝報の記者たちが狙いを定めた人物の跡を尾行して取材したものを、涙香がまとめたもので、抜き出してみると、次のようなものが目につく:
(25)鳩山和夫 はこれまで数人の妾を置き書生に逃げられたることなどあり。(以下略、15ページ、51ページにも再登場)
(32)弁護士秋山源蔵 元勅任判事の肩書を光(ひけ)らかして近頃弁護士となりたる同人は本宅を・・・に構え、・・・に妾宅を構え…妾を囲う。(18ページ)
(51)鉱毒大尽古河市兵衛 は有名なる蓄妾家なるが吾輩の探り得たるものを挙ぐれば(中略、と6人の妾とその居所を記し)、この外にまだ2,3人ある由なれば分り次第に記す可し。(実際には、調べ上げることができなかったらしく、記されていない。24ページ)
(70)大勲位侯爵伊藤博文 の猟色談は敢えて珍しからず世間に知られたる事実も亦多しと雖もここに茲(ここ)に記する事実の如きはけだし珍中の珍、秘中の秘たる可し。(以下略、30ページ)
(260)伯爵大木喬任 …は有名の蓄財家にして、日常の買物すら自ら台所に到りていちいち品物を撿(あらた)め値段の談判までなして買入れ、剰(あまつさ)え代価は先月の分を今月の末に支払うを以て例とし家風を知らぬ出入商人は往々迷惑することあり。しかるに伯爵は又非常の好色家にして斯程(かほど)の節倹家に似合わず女のためには思わざる金を失いて後悔すること数次(しばしば)あり。近所の細民中には金に困りたる時態(わざ)と女房や娘をお手伝と称して邸へ到らしめ旨く伯の機嫌を取らしめ一夜のお伽料若干を得て帰り、これを以て一種の融通法となしおるものさえあり。伯も亦少しも恥ずることなく平気に獣行を逞しうして金銭を与えつつあるが(後略、83ページ)
(405)男爵末松謙澄 の夫人生子は大勲位侯爵伊藤博文の娘なるがため万事に就て我儘の振舞多く、偶(たまた)ま謙澄が夜深けて帰ることあれが恐ろしき権幕にて叱り附くるを以て、さすがの謙澄も大に閉口し小糠三合の俗戒を思出して窃(ひそか)に嘆声を発することありとはかつて我輩の聞く所なるが、好きの道は又格別なりと見えいつの頃如何にして手に入れしかは知らざれども、彼は夫人生この厳重なる監視の目を潜り…を妾とし、(以下略、135ページ)

 その他、今日でも有名な人物を列挙すると、(14)犬養毅(12ページ)、(19)森鴎外(14ページ)、(38)北里柴三郎(19ページ)、(40)侯爵西園寺公望(20ページ)、(48)益田孝(23ページ)、(49)元帥大将侯爵山県有朋(23ページ)、(60)伯爵井上馨(26ページ)、(61)男爵楠本正孝(28ページ)、(78)尾上菊五郎(34ページ)、(81)文学博士重野安釋(35ページ)、(90)渋沢栄一(37ページ)、(99)松旭斎天一(39ページ)、(100)男爵伊藤巳代治(39ページ)、(109)浅野総一郎(42ページ)、(139)子爵榎本武揚(50ページ)、(192)原敬(65ページ)、(201)伯爵佐野常民(68ページ)、(346)高田早苗(113ページ)、(364)松本順(118ページ)、(369)ベルツ(121ページ)、(377)伯爵勝安房(海舟)(126ページ)、(400)旧琉球王侯爵尚泰(133ページ)、(422)黒田清輝(140ページ)、(446)男爵九鬼隆一(149ページ)、(458)海軍大将元帥侯爵西郷従道(157ページ)、(475)子爵芳川顕正(162ページ)、日本人だけでなく、外国人の名前も少なからずあげられている。森鴎外の名が出ているので、ついでに書いておくと、夏目漱石の妻鏡子の父(119)中根重一(45ページ)も名が出てきている。こういう例を探していくと、大変なことになりそうである。

 黒岩は社内に「眼無王侯。手有斧鉞(眼は王侯になく、手には斧鉞あり〕という『水滸伝』の中の言葉を神に書いて貼ったという。王様でも権力者でも遠慮せずに批判するという意味で、その通り地位の高低、貧富、学歴などまったくお構いなしに蓄妾の事実を暴きぬいているように思われるが、実は宮家については遠慮しているなど、筆鋒が鈍っている個所もないではない。それでも、池上の本門寺や靖国神社を含む寺社の住職や神官の蓄妾を指摘して宗教界の堕落を攻撃し、東京感化院長高瀬真卿についての調査結果を詳しく記して、「実に高瀬の如きは大偽善者なり。我輩は早晩社会の制裁が彼れの身に加えらるるの時あるを堅く信じて疑わざるなり」(180ページ)と記すなど、黒岩の虚偽を憎む姿勢をよく示す個所であろう。

 この書物の解説も多少触れているが、黒岩はルコック探偵が活躍するガボリオーの探偵小説や、ヴェルヌ、ウェルズのSFを日本に紹介した人物でもあり、探偵(推理小説)が社会の暗黒面に対する関心や、それを改善しようとする試みとどのように関連しながら発展してきたかを考えるうえでも重要な人物であるように思われる。さらにいえば、「ボヘミアの醜聞」に代表されるように、スキャンダルのもみ消しもまた探偵小説のヒーローたちの重要な仕事であったことを考えると、黒岩と『萬朝報』の取り組みの評価はより複雑なものとなるはずである。

 探偵(推理)推理小説史上の意義はともかくとして、ここに収録されている記事自体が、その道徳的な評価を離れても、記事の様々な記述のいたるところから、当時の世相や風俗の実態を窺うことができ、さらなる探求を促しているという意味で、歴史的に重要な証言となっているのである。

読書の方法をめぐって

11月16日(月)晴れ後曇り

 宮川敬之『和辻哲郎――人格から間柄へ』(講談社学術文庫)の「学術文庫版へのあとがき」の中で、和辻がある問題について考えるときに、その問題について書かれた第一級の書物を詳しく読み込んで、ノートを作り、それを講義の種本にしたり、論文の草稿にしたりしていたという話が紹介されている。この和辻の読書の仕方は、『知的生産の技術』で梅棹忠夫が述べている読書の流儀とはかなり異なっている。

 梅棹は本を読む時には、線を引いたり書き込みをしたりしながら読んでいたようだが、その際にどうするか、次のように書いている:
「本に線をいれる個所にはあきらかにふたつの系列がある…。第1の系列は、『だいじなところ』であり、第2の系列は、『おもしろいところ』である。
 『だいじなところ』というのは、その本を理解するうえで、カギになるようなところか、あるいは、著者のかんがえがはっきりあらわれているところなどである。それはいわば、『その本にとって』だいじなところなのである。まえに、本は著者の身になってよむものだ、ということをかいたが、この『だいじなところ』に線をひくのは、まさにその精神のあらわれというべきだろう。
 ところが、じっさいには、その書物の本筋とはほとんど関係ないような、場合によっては著者が気がつかずにかいているようなことがらで、ひじょうにおもしろくおもって、傍線をいれている場合がすくなくないのである。これが、「おもしろいところ」であって、そのおもしろさはまさに、「わたしにとって」のおもしろさである。わたしの傍線をひいた部分を、もし著者がみたら、おどろきあきれるかもしれない、そういう性質のものである。
 すると、わたしは本をよむのに、じつは二重の文脈でよんでいることになる。ひとつは著者の構成した文脈によってであり、もうひとつは、わたし固有の文脈によってである。それは、まったくべつのもので、一本にはならない。」(111-112ページ)

 和辻の場合は、著者の意見をまとめながら、自分自身の意見も書き留めていったのであろうが、梅棹は2本立てを断行している。和辻と同じようにノートを作っている人は少なくない(ただし、和辻ほど密度の高いノートを長年にわたって、持続的に書き溜められるか
は保証の限りではない)。岩波新書から出ていた『私の読書法』の中で大内兵衛が新渡戸稲造から教えられたという読書法が、本を読む時は赤と青の色鉛筆をもて、大事なところには赤い線をひき、面白いと思ったところには青い線をひけというもので、梅棹の読書法と似ている。(梅棹の文章を読んでいて、彼のここで書いていることの趣旨とは関係がないのだが、彼が本当に漢字を使わない人だなぁということを実感した。これは青鉛筆の方の話である。)

 私は本に書き込みをしないようにしているので、楽しみのために本を読む時はただ読んで、なにか気になることがあれば、ノートに書き留めておくだけであるが、研究用の読書の場合は読書ノートを作る。あるいは外国語の本や論文を読む時は、翻訳もしくは要約のファイルを作成することもある。そういうときには、著者の意見と自分の意見が混乱しないようにインクの色を変えるとか、書体を変えるとかいう工夫をしている。梅棹はフィールドワークをしてその結果に基づいて研究を進めるのが本筋だった人で、読書はそうした研究を補完する作業だったのだが、私の場合は、読書のほうが本筋になる。だから全く同じ読書法をするわけにはいかないのである。

 何が言いたいのかというと、読書はさまざまな先人の工夫に学びながら、自分なりのやり方を考えるべきだということ、それにはまず本を読んで、考えて、考えたことを書き残しておくことが必要だということである。そして、自分なりのやり方を改善しながら、何年も努力を積み重ねていくことが大事だということである。

 『知的生産の方法』の最初の方で、梅棹は学校が「知識はおしえるけれど、知識の獲得のしかたは、あまりおしえてくれないのである」(3ページ)と書いている。当世風の例をもってくると、池上彰さんの時事解説を聞くことも勉強になるが、池上さんがどのように情報を収集し、整理・分析しているか、彼の勉強方法を教えてもらうことはそれ以上の意味があるのではないかということである。
 それでインターネットで池上さんの情報収集術について調べてみたが、新聞を読んで記事の切り抜きファイルを作るとか、『ニューズウイーク』や『エコノミスト』を英語で読むとか、暇な時はCNN放送を聞き流すとかいうような、一つ一つはある意味で平凡だが、持続させることは難しいようないくつもの努力をしていることがわかった。個々の方法にも学ぶべき点はあるが、一番学ぶべきであるのは努力を持続させることであろう。あと、ノートでもカードでもファイルでも同じことだが、努力して書き溜めたものが、必要な時にはすぐに取り出せるように整理していくことも必要で、この点では私はまだまだ梅棹から学ばなければならないことがありそうだと思っている。

今野真二『常用漢字の歴史』(4)

11月15日(日)雨が降ったりやんだり、その後晴れ間が広がる

 この書物では、昭和56年(1981年)に制定され、その後2010年(平成22年)に改定された「常用漢字表」だけでなく、日本語の読み書きにおいて日常使用されている漢字の使い方について、歴史的に検討を加え、そこから日本における言語政策の一部である漢字の使い方について国が定めた規則について論評を加えている。序章でこの書物の趣旨「常用漢字とは何か」とこの書物の問題意識を紹介した後、第1章では幕末以後の近代日本における「漢字制限の歴史」をローマ字論や仮名文字論を含めて辿り、第2章「さまざまな常用漢字表」は明治以後の漢字整理案と漢字表について概観している。第2章が主に字種を問題にしているのに対し、第3章「字体をめぐる問題」では標準的なものであるとして示された字体、第4章「音と訓とはどのように決められたか」では同じく漢字の音と訓をめぐる問題が検討されている。
 今回は第5章「常用漢字は常用されてきたか」の前半部分について検討を加える。前回、今回でこの書評を完結させるつもりであると書いたのだが、扱われている問題が現在の問題であること、著者の意見が、政府の言語→国語政策に対してかなり批判的であり、そのためにごくごく慎重に取り扱う必要があると判断したために、完結をさらに先延ばしすることにした。

 第5章では昭和56年(1981年)に制定された「常用漢字表」が、平成17年(2005年)の文部科学大臣諮問に基づいて改定された経緯について触れ、「情報機器の広範な普及」によって漢字の使用をめぐる環境が大きく変化したことを踏まえて、改定の諮問がなされている一方で、「手書自体が大切な文化である」(188ページ)と、あまり実証的な根拠もなしに論じられていることへの違和感が述べられている。「『手書自体が大切な文化』であるならば、これまで手書されてきた膨大な文書、文献を保存し、読める人を増やすなどということがあってもよいはずだが、そのような話は聞いたことがない。いわゆる「変体仮名」を読むことができる人の数はどんどん減り、『康煕字典体』も教育されることはない」(189ページ)という状況が、大臣の諮問の文言と対比的に紹介される。「筆者が大臣諮問や右の言説から感じるのは、過去の文化、過去の言語生活との連続性を大切にするということが明確には述べられていないことだ」(同上)とさらに危惧の念が表明される。

 「当用漢字表」を受けて、昭和31年(1956年)の国語審議会では「同音の漢字による書き換え」というきわめて大胆な提言がなされた。この提言に基づいて「決潰」は「決壊」、「焦躁」は「焦燥」、「悖徳」は「背徳」、「曝露」は「暴露」、「繃帯」は「包帯」と書かれるようになったという。ここではできるだけ字の意味の近い感じを選ぶ配慮がなされており、まずまずの案となっているとはいえるが、制限される漢字に出入りがあるために問題が生じている。「腎臓」の「腎」は当用漢字にも常用漢字にも入っていなかったので、「肝腎」は「肝心」と書くように提言されていたのが、「改定常用漢字表」に「腎」の字が入ったために、「肝心」と「肝腎」が併用されることになった。このように「唯一表記」が施行されてきたのが、「改定常用漢字表」以後、それが揺らいできているように思える。

 もう1つ揺らいでいるのは、「振り仮名の使用」をめぐる問題である。昭和21年(1946年)の「当用漢字表」の「使用上の注意」には「ふりがなは、原則として使わない」とあって、これが原則として働いてきたはずである。ところが「改定常用漢字表」では「ルビ使用」も許容できるとしている。
 これらのことから、著者は「当用漢字表」と「改定常用漢字表」とでは「『理念』として異なることが少なくない」(200ページ)という観察結果を述べる。言語は時代につれて変化するものであるから、これは当然のことかもしれないが、言語→国語政策にはある程度の連続性があってよいのではないかというのが著者の見解である。

 一時期はローマ字論者であり、その後もかなタイプを使用するなど、漢字の使用を極力抑えて、わかりやすい日本語を描くことを主張してきた梅棹忠夫が、ワープロの普及に対して、若干の不満があると述べていたことを思い出す。つまり、難しい漢字を簡単に入力できる技術が開発されたことにより、漢字を制限して分かりやすい日本語を書くという方向への深化にブレーキがかかるのではないかということである。今野さんはそこまでの議論を展開してはいないが、政府の言語政策の推移を注意深く分析していくと、技術の開発に対処すべき理念が欠如しているように思われる(あるいは、「当用漢字」が掲げていた理念を全面的に変更するということであるのかもしれないが、それならばそれを明言すべきである)。そして、「手書」の重視という発言がその教育上の効果についての実証的なデータもないままに、ただ文言としてだけ記されているのも大いに気にかかることである。

 「手書き」ということをいうのであれば、変体仮名について教育の中でどのように扱うかをはっきりすべきであるという今野さんの意見に賛成である。さらに言えば、草書、草かなについても取り上げることが必要ではないか。私の高校時代、というのは昭和30年代の後半、1960年代の初めであるが、私の友人が東京の蕎麦屋に出かけて「かの丼」を注文した。実は「かつ丼」のことだったのだが、変体仮名を知らなかったので、「かの丼」と注文してしまったのである。私にしても、当時も今も「生そば」と「しるこ」くらいは読めるけれども、変体仮名というとお手上げなのである。今では、だいたいの品書きに「かつ丼」と書いてあるのではないか。このように変体仮名を使用しないことで、活字文書も手書文書もわかりやすくなるという側面はあるだろうが、過去の文書とは縁が遠くなっていくという側面もあって、そのあたりを総合的にどのように評価するかが政策の課題となるはずである。

ギターを持った渡り鳥

11月14日(土)雨

 神保町シアターで「作曲家・小杉太一郎の仕事」特集上映から、『ギターを持った渡り鳥』(1959、日活、齋藤武市監督)を見る。同じ年に公開された『南国土佐を後にして』(日活、齋藤武市監督)の成功をきっかけとして製作されることになった『渡り鳥シリーズ』の第1作である。
 ギターを携えて荷馬車に揺られ北海道を旅してきた滝伸次(小林旭)は函館の町にたどりつき、バーで米兵に暴行されていた流しの男たちを助けたことから、そのバーのマダムであるリエ(渡辺美佐子)の口利きで、土地の顔役秋津礼三郎(金子信雄)のもとで働かないかと誘われる。縛られるのが嫌いだと断った滝は、小舟の中で夜を過ごしていると、モーターバートに乗った令嬢秋津由紀(ということは秋津礼三郎の娘ということである、浅丘ルリ子)に出会う。モーターボートが小舟の周りをまわる場面は中平康監督の『狂った果実』のラスト・シーケンスを思い出させる。秋津は自分の娘の前では本性を明らかにしないが、裏ではかなり非道なことをしているようである。そういうことを飲み込んだうえで、滝は秋津のもとで働くことになる。

 秋津は函館山の麓に娯楽センターの建設を考えており、その候補地に立地している丸庄海運の土地と建物を手に入れようとしているのだが、この会社の社長(木浦祐三)の妻である庄司澄子(中原早苗)は実は秋津の妹である。由紀は滝に惹かれるが、2人の間が進むことを秋津は喜ばない。秋津のもとで働いているうちに滝には彼のやっていることが次第に分かってくる。その一方で、秋津のもとに神戸からやってきた腕利きの殺し屋ジョージ(宍戸錠)の記憶から滝の身元が明らかになりかける。それに加えて、滝のいくところに謎の男(二本柳寛)が姿を現す。一方、ジョージを追いかけて函館へと流れてきたダンサー(白木マリ)の存在も何か気になる。ジョージと滝とは、丸庄海運から取り上げた船で出航し、麻薬を運んできた船から受け取ることになる…。

 冒頭の北海道の原野の場面は西部劇を念頭に置いたものだろうが、物語の主要な舞台は地方都市に置かれる。主人公がどこか謎めいた過去を引きずっており、同じように過去を引きずった悪役が出てきたり、その悪役を追いかけている女性が登場したりということでストーリーがにぎやかになっている。まだまだ手探りの感じで、小林旭が題名の通り「渡り鳥」よろしく日本列島の各地を流れ歩くシリーズのその後の作品におけるほどに、登場人物の性格設定もストーリーも洗練されているとはいいがたいのだが、小林旭、浅丘ルリ子、宍戸錠という主要登場人物の若さが、今日の目から見ると懐かしいという以上のものを感じさせる。いや、悪役を演じている今はなき、金子信雄にもそうした若さが感じられるのである。

 特に浅丘ルリ子が後年の研ぎ澄まされたような美貌以前の、少しふくよかな美しさを見せているのが魅力的である。この作品では、浅丘ルリ子は悪役の娘ではあるが、善良という少し複雑な役柄になっているが、これ以後の作品では悪役に土地を奪われようとしている令嬢という設定が多くなる。小林旭と早撃ちを競う負のヒーローを演じる宍戸錠の設定もシリーズが進むとともに次第次第に膨らんで楽しくなっているのは御存じの通り。この作品で中原早苗が演じている役どころは、この後は南田洋子が演じることが多くなるし、その方が適役だと思う。中原早苗はこの後、小林旭をあちこち追いかけ回している女性の役で登場することが多くなるが、そちらの方が明らかに適役である。この時期の日活のアクション映画全般について言えることではないかと思うのだが、中原早苗が登場すると、ストーリーが動く、という作品が少なくなかったように思う。悪役の情婦でバー(クラブ)のママという役どころは、この後、渡辺美佐子と楠侑子が分け合うことになるが、私は楠のほうが適役ではないかと思っている。ただこの作品での渡辺の存在感はなかなかのもので、小林旭と浅丘ルリ子があくまでもプラトニックな恋愛の空気の中にいることに不満な観客の不満を和らげるような体当たりの演技を見せている。そういう目で見ると、白木マリの出番をもう少し多くするとか、あるいは露出度を大きくするような工夫があってもよかったのかもしれない。

 昨年、NHKのBS放送で見ているし、見る機会に乏しい、「幻の映画」というわけではない。今回の上映でも、11月20日まで予定が組まれているので、興味のある方は足を運んでいただきたい。私は見逃してしまったが、『南国土佐を後にして』も近い時間帯で上映されることがあるので、時間に余裕がある方は両方ともご覧になることをおすすめする。娯楽映画には娯楽映画なりの存在理由があるし、年配の観客は俳優たちの若さに自分たちの若かった時代をかぶせてみることができるし、若い観客は過去の時代の魅力を探る機会になるだろうと思う(魅力を感じないというのであれば、それも一つの見識を得たということでよいのではないか)。

 最後に一言。金子信雄の夫人である丹阿弥谷津子がタクシーに乗ったら、運転手から「奥さん、あんな悪いやつとは別れた方がいいよ」と言われたことがあるそうだ。これは金子が自分のエッセーの中で書いていたと記憶する。丹阿弥が金子の夫人であるという知識を持っている人が、映画や演劇、テレビドラマでの役柄と実際の人生における人柄が別物であるということを理解できないというのは、どうも困ったことで、なぜそうなのか、いろいろと考えさせられる。

『太平記』(75)

11月13日(金)晴れたり曇ったり

 足利高氏、千種忠顕、赤松円心らが率いる軍勢が西と南から京に攻め寄せ、六波羅方も防戦に努めたが敗退した。六波羅方には裏切りが相次ぎ、関東へ落ちる決意をした北探題の北条仲時は、北の方と最後の別れを惜しんだ。光厳天皇・東宮(康仁親王)・後伏見院・花園院の両上皇を伴い京を脱出した六波羅探題一行は、六波羅から山科へと抜ける苦集滅道(くずめじ)で野伏に襲われ、南探題の北条時益が命を落とした。逢坂の関の手前でも一行は野伏の攻撃を受けたが、中吉弥八の機転で窮地を脱し、近江の国に入った。

 六波羅探題一行はその日(元弘3年5月8日)、江州篠原の宿にたどりついた。現在の滋賀県野洲市大篠原である。岩波文庫版の第2分冊83ページに近江の国の略図が掲載されているので、それを見るとわかるが草津から東山道を少し東北に行ったところで、1日の行程としてはあまりにも短い。野伏たちの攻撃が激しかったこと、武士たちだけでなく、移動に慣れない貴人たちを伴っての逃避行であることが影響しているのであろう。草津は言うまでもなく東山道(後の中山道)と東海道の分岐点であるが、六波羅探題の一行は東海道ではなく、東山道を東に向かっている。平治の乱で敗れた源義朝が同じ道を通って東国で再起を図ろうとしたことが一行の念頭にあったかどうか。
 「ここにてぞ、あやしげなる網代輿を尋ね出だして、歩立(かちだち)なる武士ども、俄かに駕輿丁の如くになつて、御輿の前後を仕(つかまつ)りける」(第2分冊80ページ、ここで粗末な網代輿=薄い板や竹で編んだ網代で屋形を張った輿を見つけ出して、徒歩の武士たちが、急ごしらえで駕輿丁=貴人の輿を舁(か)く下級役人のようになって、輿の前後でお仕えした)。

 光厳天皇の弟で、天台座主である梶井二品親王(尊胤法親王)は、これまで兄である天皇のお供をされてきたが、道中の行く末が心細く思われたので、一行を離れてどこかに身を隠した方がよさそうだと考えられて、そばに仕える弟子の僧たちに、一行の中に有力な僧侶としては誰がいるかと尋ねられた。すると5月7日の合戦でけがをしたためにお供せずに京に残ったり、あるいは心変わりして一行を去っていったりして、中納言僧都経超(きょうちょう)、二位寺主浄勝(にいのてらじじょうしょう)の2人以外はお供している出世(門跡寺に仕える清僧)、房(坊とも)官(門跡寺の雑務を差配する妻帯僧)は残っていないという。それではなおのこと、長い道のりの旅はできそうもないと考えて、ここから一行と別れて(東海道を)伊勢の方に向かわれることになった。
 ただでさえ山賊の多い鈴香山(現在は鈴鹿山と書く)を、手入れの行き届いた馬に銀で飾った高価な鞍を置いてお乗りになったのでは、山賊に狙われてかえって道中の妨げとなるだろうと、それまで乗っていた馬をみな宿の主人にお与えになった。とはいうものの、法親王は長く裾を引いた長絹の衣に檳榔の葉を裂いた糸で編んだ、裏をつけない草履をお召しになっているし、経超は肌着の上に着る裏付きの黒い着物に、水晶の念珠を手にもち、いかにも高貴な身なりである。そして普段は歩いたことがない貴人が歩こうというのだから見るからに危うい。これではだれが見ても、都を脱出してきた落人だと思わないわけがない。

 ところが比叡山延暦寺の守護神である日吉山王権現のご加護があったのであろうか、道で行き合った山路の木こりや、野辺の草刈りたちが、法親王のお手を引き、お腰を押して、鈴香山をお越えになるのをお助け申し上げた。そして法親王は伊勢の神官であった人を頼られたのであるが、神官は忠義心があり、身に危険が及ぶことも顧みずに、あれこれと梶井宮を隠し置いたので、ここで30日余りを隠れて過ごされ、京都の様子が少し収まったのを見て、都に戻られて、3,4年間は白毫院というところに世を避けた形でお住まいになっていた。岩波文庫版の脚注によると、白毫院は京都市北区紫野の大徳寺総見院のあたりにあった寺ということである。余計な話だが、大徳寺総見院は織田信長の菩提寺である。

 六波羅探題一行は光厳天皇を始めとする貴人たちを警固する形で東に向かっているのだが、『太平記』では一行が篠原にとまったと書かれているのに対して、『梅松論』では観音寺を一夜の皇居としたと書かれていて、一致しない。皇族や貴族たちが六波羅の城館の中に入った際に、西園寺公宗とか、柳原資明はどうしたのかというようなことを以前書いたが、それらのことは『増鏡』に詳しく書かれていることを発見した(発見したというのは表現としてはオーバーだが、蔵書の整理をしていて、ようやく『増鏡』を見つけたのである)。『増鏡』は宮廷に仕える貴族の誰かが書いたものと考えられ、その名前のわからない著者は、あるいはやはり六波羅の城館の中にいたのか、さらには六波羅探題の一行とともに東に向かったのかと想像力を廻らすほどに、慌てふためく貴族たちの様子は『増鏡』に詳しく描きだされている。
 補足的に書いておくと、『増鏡』によれば西園寺公宗は六波羅が陥落した際に天皇に同行せずに北山の自邸(今の金閣寺のあるところ)へと戻り、日野(柳原)資明は兄である資名とともに、天皇に同行した。なお、『増鏡』は資名が足を痛めて東山のあたりにとどまったという説も記しているが、『太平記』と同じく、その後出家したという記事も載せていて、記述の一貫性がない。

 とにかく、六波羅の陥落から、探題一行の逃避行がかなり混乱した状況で行われたことは前後の情報が錯綜していることでも推測できるのである。尊胤法親王の逸話は『増鏡』にも『梅松論』にも取り上げられておらず、『太平記』独自のものであり、そのことがこの物語の性格を考えるうえで一つの手がかりとなるのではないかという気がする。『梅松論』が武士の立場から、『増鏡』が宮廷貴族の立場から書かれているのに対し、『太平記』はよく言えば総合的、悪く言えばごちゃまぜの感じで、その中で宗教色が強いのも特徴と言えるのではなかろうか。その宗教性というのが、神仏が混淆したものであったことも見落とすべきではなかろう。 

ダンテ・アリギエリ『神曲 煉獄篇』(17-3)

11月12日(木)晴れ後曇り

 ウェルギリウスとともにダンテは煉獄の第4環道に達した。そこでは魂たちが怠惰の罪をつぐなっている。ダンテの問いに答えて、ウェルギリウスは創造主と被造物をつなぐものは愛であり、創造主の愛にどのような愛をもって応えるかは人間の自由意思にゆだねられている。ここでは神に向かう愛の熱意が足りないことが罰せられているのだという。さらに言葉を続けて、
さて、愛はその主体の幸いから
目を背けることが決して出来ぬゆえ、
万物は自身を憎悪することからは守られている。
(258ページ)という。人間は自分自身を憎悪することはないという。例えば、自殺者たちも自分を取り巻く周囲の状況が耐え難いから、自身の救いとして自殺したのだと考えられているのである。

そして、第一者から切り離され、かつ自身だけで己をあらしめる
何らかの存在など、思惟することさえ不可能であるがゆえ、
あらゆる被造物はその方を憎むことからも遠ざけられている。
(同上) 人間は神を憎むことはないという。

残る選択肢だが、私が適切に整理しているならば、
人が愛しうる悪とは隣人に対するそれである。そしてこの
愛は、おまえ達の塵の中で三様に生まれる。
(同上) 「塵」というのは「主なる神は、土の塵で人を形づくり」(「創世記」2.7)という聖書の言葉を受けて、人間の肉体のことをさし、人間の卑小さともろさとを表現している。

 人が愛しうる悪はそれぞれ隣人へと向かう。その第一は高慢である。
隣人が踏みつぶされることにより
自己の優越を望み、ただそのためだけに、
相手がその地位から転落することを熱望する者がいる。
(258-259ページ)
 第二の悪は妬みである。
他人の上昇によって、
権力、恩寵、栄誉、名声を失うことを恐れ、
それを憂えるあまり、逆に相手の失脚を愛する者がいる。
(259ページ)
 第三の悪は怒りである。
また、不正義な仕打ちゆえに激怒した姿を見せ、
その結果として復讐に飢えるあまり、
ついに他人への害悪を企まざるを得なくなる者がいる。
(同上)
 既に、ダンテは煉獄の第一環道で高慢が、第二環道で嫉妬が、第三環道で憤怒がそれぞれ清められていることを見てきた。
この三様の愛が、ここより下方で
涙により贖われている。ここからは、おまえに別の愛を理解してもらいたい。
それは過てる順序であの善へと向かうものだ。
(260ページ)

 人間は神と、神とともにあることの至福を漠然と理解し、それを欲し、その至福にたどりつこうとする。神を愛する熱意に不足があった場合は、ダンテたちがたどりついたばかりの、この第四環道で怠惰の罪を贖うのである。
 そして神のもとにある究極の善である至福以外の、地上の福(善、富、悦び)を過剰に愛した場合、それは<貪欲>、<飽食>、淫乱>の罪となり、ここから上の第五、第六、第七環道で贖われることになるという。
その他の福は人間を幸福にはせぬ。
それは幸福とは違う。それは善の
本質、すなわちあらゆる福の根と実になるものではない。
(260ページ) そしてウェルギリウスは、ダンテが自分の目で見て考えることにより、これらのことを真に理解するように勧める。

 神が善であるのならば、なぜ人間は悪を犯すのかという問いに、ダンテは神の愛と、人間の自由意志の問題を取り上げてこたえようとしている。不完全な人間が自由意志をもって生きていく場合に、さまざまな過誤が生まれる。人間は自分自身と神を愛しているが、それ以外の人間に対しては誤った気持ちを持つことがありうるという。さらに至福とともにある神ではなく、地上の幸福を過剰に愛する場合にも罪が生じるという。
 自由意志の問題は、例えば宗教改革の際に、エラスムスとルターの対立点となったし、その他に様々なところで議論の分岐点となった。その問題を、ダンテが詳しく、また詩的にまとめて取り上げていることは、『神曲』の価値を思想史的に見ても高めるものであろう。
 さて、ダンテとウェルギリウスは第四環道に達したが、まだそこで罪を償っている魂には出逢っていない。第四環道ではどのような出逢いがあるのだろうか。

日記抄(11月5日~11日)

11月11日(水)晴れたり曇ったり

 「日記抄(10月29日~11月4日)」で書き忘れたこと:
11月4日放送のNHKラジオ「まいにちイタリア語」で
Ti interessano le ceramiche giapponesi?
 ―Si, mi interessano molto.
という会話が出てくる。「君は日本の瀬戸物に興味がありますか?」「はい、とても興味があります。」と訳されている。「瀬戸物」には、「瀬戸焼」(愛知県の瀬戸市とその周辺の地域で作られる陶磁器)という意味と、「陶磁器一般の総称」という意味があるが、ここは「陶磁器」と訳すべきである。「坊っちゃん」の中で、うらなりの送別会に出かけた坊ちゃんが、会場の料亭に置かれていた陶磁器を見て、「大きな瀬戸物ですねぇ」と博物の先生に話しかけ、「あれは瀬戸ではなくて唐津です」と言われてきょとんとする場面があったと記憶する。
 同じ番組で、
Sono fan di Monica Bellucci.
(私はモニカ・ベルッチのファンです。)
という文が紹介されたが、ベルッチの発音が、「ベルッチ」と「ベッルッチ」の間くらいの微妙な感じになることに気付いた。

 11月5日から本日までの間に経験したこと、考えたことなど:
11月5日
 NHKカルチャーラジオ『弥次さん喜多さんの膝栗毛』は第6回「『道中膝栗毛』から「東海道中膝栗毛」へ」を放送した。十返舎一九は東海道の宿場町である駿府の生まれだったので、他の多くの戯作者と違って旅に抵抗がなかったようである。そのことから旅慣れた一九に東海道と狂歌を組み合わせた戯作を書かせるという企画が、『膝栗毛』の版元となる村田屋側にはあったのではないかと推測している。

11月6日
 シネマ・ベティで『カプチーノはお熱いうちに』、『ロマンス』の2本の映画を見る。『ロマンス』の上映に先立って、横浜を舞台にした短編映画『ロカビリーさん』が上映された。『カプチーノはお熱いうちに」(Allacciate le cinture)は『明日のパスタはアルデンテ』のフェルザン・オルぺテク監督の作品で、前作同様に物語の前後関係が錯綜して分かりにくいところがある。南イタリアの都市レッチェを舞台にして、エレナという女性がウェイトレスから独立して自分の店を持ち、繁盛させていた。結婚して子どもも出来たのだが…という人生の「乱気流」を描く。あまりすっきりした感じの映画ではない。短編映画『ロカビリーさん』は利重剛監督が横浜を舞台に、普通に生きている人々の心のひだや些細な感情を救い上げる短編小説のような連作の11作目で、ほとんどが居酒屋の2人の従業員の対話からなっている。実はその内容は結構重たいのだが、映画自体が短いのと、映画が観客の身近な場所に舞台を設定しているので、その重苦しさがやわらげられているように思われた。他の作品も機会があれば、見てみたい。『ロマンス』は小田急のロマンス・カーのアテンダント(というと聞こえはいいが、車内販売の売り子)である鉢子(大島優子)という女性がある事件から、何年も会っていない母親を探して箱根山中を回ることになるという物語。ロマンス・カーが舞台だから『ロマンス』ということで、あまりロマンチックではない展開である。

 レスリー・メイヤー『授業の開始に爆弾予告』(創元推理文庫)を読み終える。主婦のルーシーは新学期(新学年)を迎え、子どもたちに手がかからなくなるので、新聞社で働くことにする。ところが新聞社での留守番の最中に、彼女の娘が通う小学校で爆弾が仕掛けられたという通信が入る。幸い爆発は小規模で、新任の女性副校長キャロルの捨て身の活躍により、取り残された子どもも救出される。この美談に、彼女は英雄扱いをされるが、そんな矢先に殺されてしまう。自分の娘が通う学校で起きた事件だけに、ルーシーは新聞記者という立場を利用して、捜査にあたる。
 シリーズ第4作だそうだが、私が読むのはこの作品が初めてで、事件の謎解きよりも、その背景にあるアメリカの社会と教育をめぐるリベラルと保守の価値観の対立の描写のほうが興味深かった。実はそれが、ヒロインの家庭内でも家計のために外で働こうとする妻と、女性は家庭にいるべきだと考える夫との対立と関係してくるのである。

11月7日
 ニッパツ三ツ沢球技場で全国高校サッカー選手権神奈川県大会の決勝戦を見る。入場券売り場に長蛇の列ができていたが、入場してみるとまだまだ空席があるという非能率が毎年繰り返されている。どうも困ったことだ。
 全国大会に8回出場し、今大会はシードされて準々決勝から出場している桐光学園(川崎市麻生区)と、今大会のダークホース的な存在である横浜市立東高校(横浜市鶴見区)の対戦。桐光に対抗すると思われていた日大藤沢高校を準決勝で破り、初めて決勝に進んだ市立東の戦いぶりが注目された。会場に近いということもあって市立東は大応援団が盛んに声援を送ったが、桐光は勝って当然とばかりに応援にも余裕があり、対照的であった。
 試合は桐光のキャプテンを務めるFW小川航基選手が前半、後半にそれぞれゴールを決めて2-0で桐光が勝利した。試合後のインタビューでは、監督、小川選手に加え、ゴールをアシストしたFW(試合にはMFで出場)イサカ・ゼイン選手が質問を受けていた。試合の要所要所で、的確な判断を見せてプレーを続け勝利に貢献したイサカ選手を呼んだのは、適切な評価であったと思う。

11月8日
 ニッパツ三ツ沢球技場に横浜FC対大分トリニータの対戦を見に行くつもりだったが、雨が降ったので予定を変更して、14:30過ぎまで家にいた。

 NHKラジオ「攻略!英語リスニング」は”The Great Wall (万里の長城)”を取り上げた。昨日の第1回を聴かずに、いきなり第2回を聴いたので、今一つ調子が出なかった。日本では「万里の長城」と言うが、英語ではThe Great Wall、中国語では「長城」である。

 NHKEテレ「日本の話芸」で川柳川柳師匠の『ガーコン 歌でつづる太平洋戦史』を視聴する。太平洋戦争中の歌を歌いながら当時の戦局と世相を振り返る内容で、声の響きが84歳とは思えない。50年以上前に、師匠がまだ三遊亭さん生だったころ、その高座に接したことがある。その時の演目は、現在の『ジャズ息子』のもとになった噺であった。

 野崎昭弘『「P≠NP」問題 現代数学の超難問』(講談社ブルーバックス)を読み終える。分からない箇所も少なからずあったが、わかった部分だけについていえば、面白かった。

11月9日
 NHK「ラジオ英会話」の”Listen for it!"のコーナーではKatrina's Smorgasbordという架空のレストランのコマーシャルを聞くことになったが、『リーダーズ英和中辞典』によるとsmorgasbordは「スモールガスボールド、ヴァイキング料理≪立食式スカンディナヴィア料理で、オードブル・肉・魚料理・チーズ・サラダなどを出す≫」とのことである。 

 木田元『マッハとニーチェ』(講談社学術文庫)を購入する。ちょうど1年前に出た本であるが、ちくま学芸文庫の1冊だと勘違いして、探しても探しても見つからないと不思議に思っていたという間抜けな経緯がある。やっと手に入れたので、ぼちぼちと読んでいくつもりである。今年に入ってから哲学関係の本は7冊買っているが、読み終えたのは1冊だけで、もう少し読了率を上げようと思っている。

11月10日
 NHKラジオ「エンジョイ・シンプル・イングリッシュ」は落語「粗忽の使者」を縮約・英訳したものを放送した。

11月11日
 NHKラジオ「まいにちフランス語」に出てきた表現:
J'aime apprendre de nouvelle langue.
(私は新しい言葉を学ぶのが好きです。)
 これまでに勉強したことのある言語が多くなりすぎたためか、最近はなかなか新しく言葉を勉強しようという気が起きない。既習の言語の内実を充実させるとともに、新しい言語の世界にも目を向けるようにしよう。

今野真二『常用漢字の歴史』(3)

11月10日(火)雨が降ったりやんだり

 序章「常用漢字とは何か」でこの書物が取り扱う問題を整理し、第1章「漢字制限の歴史」で幕末から明治期までの漢字使用制限(さらには廃止)の議論を辿り、第2章「さまざまな常用漢字表」では明治以後、国の機関によって制定された「漢字表」の趣旨と内容の変遷を検討している。第3章「字体の問題」は、第2章で取り上げた様々な「漢字表」が、漢字の手書きの形と印刷の形をどのように扱ってきたかを辿り、その背後にある議論が一貫性を欠いていることも指摘した。今回は、引き続き第4章を取り上げていくことにする(第5章以下も取り上げて、今回でこの書物の紹介を終えようと思っていたのだが、そこまでいきつけなかった)。

 第4章「音と訓とはどのように決められたか」では、漢字の字種、字体に加えて音訓についても制限・整理を行おうとしたのは昭和21年に発表された「当用漢字表」以後のことであると述べられている。音訓を制限・整理する理由についても国語審議会によって説明がなされているが、それが必ずしも明確な原理に貫かれていないし、不十分なままになっているのではないかと著者は指摘している。

 特に制限・整理の対象となったのは「訓」の方である。特に国語審議会では、古訓の整理が重要な課題となったが、「『古訓』の整理とは、結局は古語の使用をしない、ということにつながる可能性をもつ。訓を『漢字のよみかた』の一つととらえると、『訓の整理』は『漢字のよみかたの整理』ということになるが、実はもう少し広い事柄にかかわっている」(173ページ)と著者は指摘する。
 国語審議会ではさらに「解釈訓」≒「拡大的な和訓」の問題を取り上げ、もっとも重要な問題として「異字同訓」の整理に取り組もうとした。しかし「同訓異字」という問題には「漢字の使い分け」という表現が付きまとうのである。漢字を中国語で使うように使うことによって問題を解決しようとする考えがある。しかし日本語と中国語は別の言語である。「漢字はもともと中国語を表わすための文字であったのだから、中国語の分布と対応している。しかし、中国語と日本語とは言語が異なるのだから、語の分布そのものが異なる」(178-179ページ)。
 「中国語と日本語とは言語が異なる。だから、この『同訓異字』ということは未来永劫すっきりしない可能性が高い」(179ページ)と著者は悲観的な見通しを述べる。そこで審議会のように徹底した整理ではなく、、「ほどほどの整理」を目指し、不必要に同訓を増やさないようにする、また仮名書きということを語表記の選択肢として考えることを提案している。

 さらに「訓」には漢字の単なるよみではなくて、その漢字があらわす語の語義理解にかかわるものであると指摘する。だから「訓」を減らすことが、漢語の理解の妨げになるようでは困るという。例えば「拙」という漢字には「つたない」という訓が認められているが、これは「拙」を含む漢語の理解に役立つ。逆に「総」という漢字には音しか認められていないが、仮に「すべて」という訓を認めれば、この漢字を含む漢語の意味をより容易に理解できるのではないかという。

 「『漢字制限』というと、漢字の種類について制限すると考えやすいが、『音・訓』についても『制限』することができ、現在では実際にそうしているということが案外と認識されていないかもしれない。使う漢字の種類を増やすよりも、漢字の種類はさほど増やさず、『音・訓』を増やすということもできる。・・・『音・訓』を媒介にして漢語を理解してきたという日本語の歴史を一方に置くと、『音・訓』特に『訓』の認定を広げることによって、漢語理解が助けられるという点があまり考慮されていない」(184ページ)と著者は問題を提起している。

 著者は日本語と中国語の言語としての違いを強調していて、その点に異論はないのだが、中国語の中での違い(たとえば大陸における用法と台湾における用法)とか、日本語と中国語の言語としての違いではなく、日本と中国の事物の違いについても検討を加える必要があるかもしれないと思った。実際、著者は中国で「猿」はテナガザルをさすという例を取り上げているが、そもそも日本には(動物園以外では)テナガザルはいないのである。日本と中国とで、同じ漢字を使っているけれども、それが示している事物は違うという例は探せばいくらでも見つかりそうである。漢字の「音訓」の問題はそう簡単には整理できない問題をはらんでいるという著者の議論はさらに補強できそうに思われる。

田中啓文『あんだら先生と浪花少女探偵団』

11月9日(月)曇り

 田中啓文『あんだら先生と浪花少女探偵団』(ポプラ文庫)を読む。大阪の新世界界隈を主な舞台として、小学校5年生の2人の少女と彼女たちが通う小学校の校長が、学校とその周辺で起きるさまざまな怪事件を解決しようと活躍する。第1話「真田の抜け穴」と第2話「布袋さんの祠」は、2009年に『あんだら先生とジャンジャラ探偵団』という題名で理論社から刊行された書物に収められていたものを加筆・訂正、さらに第3話「ツチノコを探せ!」が付け加えられて文庫化されたものである。

 田中啓文という作家については、同業者の大倉崇裕が落語の世界を舞台にした推理小説として田中の「笑酔亭梅寿謎解噺」シリーズが面白いと推奨していることから注目しはじめ、このシリーズや「鍋奉行犯科帳」シリーズを立ち読みしている。主として立ち読みで済ませているのは、本屋の店頭にシリーズが揃っておいてあるとは限らず、買いそろえるには至らないからである。とはいえ、落ち着いて読んで、批評してみるだけの価値のある作品を書いている作家であると思うので、とりあえずシリーズ以外の作品を取り上げてみることにした。この作品はもともと中高生向きに書かれたものではあるが、作者が認めるように、「ふたりの少女が主人公ではあるが、ヤクザは出てくるは、拳銃は出てくるは、覚せい剤は出てくるは、酔っぱらいのおっさんは出てくるは・・・・・教育上悪いっちゅうねん」(378ページ)という内容で、そうはいっても、勧善懲悪の枠組みにははまっていて、「子どもから大人まで楽しめる」おもしろ小説ということになるのであろう。

 祖父が営むうどん屋を父親が手伝うことになったために東京から大阪へ引っ越してきた森本めぐは大阪府立星くず小学校という奇妙な学校に転校する。そこでお好み焼き屋の娘である絵川千夏と親友になる。この学校の校長である「あんだら先生」(何かというと「あんだらあっ」と怒声が飛ぶのでこの名がある)=鶴羽圭輔は独自の教育論を持ち、学校と生徒を愛する熱血漢であるが、大酒呑みの大喰らいである。千夏はめぐを連れて学校のあちこちを案内するが、学校のすぐ近くの寺の境内でやくざ者と2人のクラスの担任の教師が会っている場面を見てしまう。しかし、その時間に、クラスでは担任が授業をしていた・・・というのが「真田の抜け穴」。2人はジャンジャラ探偵団を結成して謎解きに挑むが、その2人の挑戦を校長が励ます。

 第2話「布袋さんの祠」では2人の家を含む商店街でグルメ・ラリーが企画され、めぐの家のうどんを食べる大食い大会が近くの安曽呂寺の境内で開かれることになる。この寺には布袋さんの祠がある。めぐたちのクラスの男子も大食い大会に退去出場するが、、どうも近頃給食がたくさん食べられないという話が出る。そして、大食い大会になるが、優勝した大食いタレントも普段に比べると小食で、大会が終わった後目を回してしまう。なぜ、こういうことが起きたのか…。

 第3話「ツチノコを探せ!」ではめぐが芸能事務所にスカウトされて、モデルとしてデビューする話が進む。その一方で星くず小学校は耐震構造の不備を理由に市立小学校と統合されようとしている。学校を人一倍愛している鶴羽校長は5,000万円の賞金がついているツチノコを見つけ出そうと張り切るのだが、なかなか見つからない。その一方で、学校の近くのどこかに大坂の陣の際に真田幸村が埋めた軍資金が隠されているという噂も飛び交う。めぐは千夏との思い出作りに2人で漫才のコンビを結成し、コンテストに出演することを決める。千夏の離婚した母は、最近人気を伸ばしてきた漫才の片割れである…。

 田中の作品には大阪(を含む関西)、笑い、グルメというような共通項がある。この作品もその例外ではなく、偏食がよくないという議論に対して、「パンダを見てみい、笹食うだけであんなにでかいやないか」(58ページ)と反論する校長や、大食い大会について「うちはそんなことせんかて、毎日が大食い大会みたいなものや」(162ページ)と店の常連客の様子をもとに論評するめぐの父親など、2人の少女の周辺の大人たちがさまざまな笑いを提供する。少なからぬ登場人物がそれぞれの特技や必殺技をもった個性的な存在として描き分けられているのも面白い。落語に関係する話題と言えば、小学校の教頭がカツラをしているので、カツラ米朝とあだ名されているぐらいのところで、2人の少女が漫才に取り組むなど、漫才にお株を奪われている感じである。

 作者は言う:「ぼくははるき悦巳先生の「じゃりん子チエ」という漫画が大好きです。新世界界隈という、大阪の下町のなかでも非常にディープな場所を舞台としたユーモアものなのですが、すでに連載が終わっていて、新作が読めないことを残念に思っていました。この本ではぼくなりに「じゃりん子チエ」の世界を描いてみようとチャレンジしました。「パクり」ですって? いえいえ、こういうのは「トリビュート」というのです(汗)」(379ページ)。
 作者の意図は十分に達成されていると思うし、この作品の続編を期待する読者も少なくないはずである。

氷の花火 山口小夜子

11月8日(日)雨が降ったりやんだり

 シアター・イメージ・フォーラムで『氷の花火 山口小夜子』を見る。定員64人というミニ・シアターに観客が溢れ、しかも若い観客が多かったのが特徴的であった。山口小夜子の母校である杉野学園(ドレメ)から、渋谷は遠くないので、その関係者が多かったのかもしれない。上映終了後、この映画の監督である松本貴子さんの映画の内容を補足するようなトークがあった。

 冷たい「氷」と熱い「花火」は相容れない。氷は動かないが、花火は動く。両方ともに、つかの間のものであるという共通点はある。そして対立する2つの要素の葛藤から美が生まれるのかもしれない。
 日本国内だけでなく、パリ・コレクションにおいてもトップモデルとして活躍した山口小夜子(1949-2007)には、だれの目にも明らかな彼女が表現する性格と、にもかかわず秘められている謎の部分があった。この作品は2007年の8月に急性肺炎で死去した彼女の遺品がずっと保管されていたのを、親交のあった松本監督が開封させてもらったことから始まっている。彼女は衣装は捨てられないといっていた通りに、物凄い量の衣装が残され、子どものころから好きだった人形とか、彼女の手掛けた作品に関係する品々が明るみに出される。その中で松本監督の知らない山口小夜子の様々な側面が次第次第に出現し、その一方で、小夜子を愛し、懐かしむ人々の手によって、あらためて小夜子をよみがえらせるプロジェクトが立ちあげられる。(現存のモデルである松島花さんに小夜子そっくりのメークをして、ポーズをとってもらうことになる。)

 山口小夜子には実像の部分と虚像の部分があり、虚像を通じて表現したかった彼女の考えもあって、それが彼女を取り巻く謎を複雑なものとしている。山口小夜子というと思いだすことの一つがおかっぱ髪でこれは彼女の顔の自身のない部分であった額を隠すための工夫であったようである。また切れ長の目というのはメークアップによる演出で、実際の彼女は丸い大きな目をしていた。169センチという日本人女性としては高い身長の持ち主ではあったが、海外のモデルに比べると背は低く、それを実際以上に見せる工夫をしていたという。

 工夫と言えば、この映画では山口小夜子の天才的な側面よりも努力家としての側面のほうが強調されている。遺品の中には少女時代から作っていたスクラップブックがあり、そこには『セブンティーン』など雑誌からの切り抜きが貼られている。高校時代からすでにファッション・モデルを志して、食事にも気を使っていたという同級生の話が出てくる。ファッション・ショーの楽屋の片隅で、他の連中が紫煙濛々の中で酒を飲んで騒いでいる中で、本を読んでいたという逸話も紹介される。彼女と特に仲がよかったセルジュ・ルタンスが言うように、映像世代であったということもあるだろうが、映画をよく研究していたし、演劇や舞踊、人形劇まで劇場に足を運んでお気に入りを探していたようである。観客としてかかわるだけでなく、実際に彼女が踏み込んだ分野もあるし、そこまでいかなくても関係者と対話を続けることもあった。上映後のトークで松本監督が話していたところでは、小夜子さんはいろいろとアンテナを張っていたのである。

 山口小夜子の遺品を手掛かりに、彼女とかかわりのあった人々の証言や残された映像を利用しながら、彼女の実像に迫ろうというドキュメンタリーであるのだが、その手法が劇映画の傑作である『市民ケーン』に似ていることも想起されるべきであろう。ジグソー・パズルの様々なピースが集められたのだが、全体が復元されたかと言えば…そうとは言えない、というところまで、『市民ケーン』を思い出させる。わざと外されたピースもあるかもしれない。例えば、彼女の読んでいた本の中に寺山修司の本が何冊もあるのだが、彼女と寺山の関係についてはまったく語られていない。(これは単に、寺山が故人になっているからだけのことかもしれない。同じことがイヴ・サン=ローランについても言える。)

 映画は全体として山口小夜子の生き方を辿り、それを再現する方向に進むのだが、彼女がその生涯を通じて何を表現しようとしていたのか…ということをめぐってはまだ謎が残る。デザイナーたちのデザインした衣装を生かすために仕事をしているのだが、その中で彼女の個性が発揮される。デザイナーとモデルはともに時代の空気を吸いながら仕事をしている。そしてお互いに影響しあっている。そして山口小夜子自身が、杉野学園で洋裁を学んで、デザインもしたし、衣装に手を加える作業もしていた。

 映画は、その一方で2000年代に入って山口小夜子がより若い世代との交流に力を入れていたことも紹介している。都立忍ヶ丘高校の制服をデザインしたのもその一例で、遺品整理を手伝っている杉野学園の学生の中に、この高校の出身者がいて、あらためて自分たちと山口小夜子との結びつきを考えていたのが印象に残った。この場面を含めて、遺品整理を手伝う杉野学園の学生たちの表情や、作業の中での感想が新しい可能性を感じさせた。山口小夜子は死んだが、残るものがある…ということを一番、しっかりと語っているのは、彼女の後輩である杉野学園の学生たちの姿であったと思うのである。

河童

11月7日(土)曇り

河童

河童を見つけ出すだって?
よしなさいよ!
人間たちに追い詰められて
ひっそりと暮らしている
河童たちを追いかけるのは
勝手すぎる行為だ。

今は大都会の一角の
取り澄ましたつくろいのこの町にも
昔は河童が住んでいた。
ずっとずっと昔。
雑木林が広がり、
小川が流れていた昔。

丘の泉から
水が滝のようにあふれ出し
ところどころ深い淵を作っていた。
それが河童たちの住処。
河童たちは時々人間たちに
ちょっかいを出しながらも
自分たちの世界で
平和に暮らしていた。

河童の伝説は
ぼくの子ども時代にも残っていた。
舗装の行き届いた広い道路は
昔は狭い泥んこ道で
今は暗渠になってしまったが
汚いなりに小川が流れていた。
小川にまつわる
むかし話を覚えている人たちがいた。

小川がなくなったものだから
大雨になると
道路に水があふれる。
舗装道路のコンクリートが
地上と地下とを隔てている。
地中深く
生き残っているかもしれない河童たちは
地上の水を呼び寄せることができない。

遠くまで河童を探しに行く必要はない。
君の足もと深く
地下水の中に
まだ河童がたちが暮らしている。
でも彼らは君と君たちに
腹を立てているから
決して会おうとはしないだろう。

『太平記』(74)

11月6日(金)晴れ

 元弘3年(1333年)5月、足利高氏と千種忠顕・赤松円心らは西と南から京都に攻め寄せ、六波羅探題方の河野通治は、内野で足利軍を迎え撃ったが、衆寡敵せず敗退した。東寺一帯の戦闘でも赤松軍が勝利した。六波羅方には裏切りが相次ぎ、関東へ落ちる決心をした北探題の北条仲時は、北の方と最後の別れを惜しんだ。六波羅探題一行は、持明院統の主上(光厳天皇)、東宮(大覚寺統の康仁親王)、後伏見・花園の両上皇を伴って鎌倉へと向かった。

 当時の暦で5月というのは梅雨の季節であり、夜空は雨雲に閉ざされて「五月闇」と呼ばれる暗がりの中を一行は東に向かおうとしたが、六波羅から清水寺の南、小松谷を通り山科へと抜ける苦集滅道(くずめじ)の周りに農民・浮浪民などの武装集団である野伏たちが集まっていて、あちこちから一向に矢を射掛ける。南探題である北条時益はその矢に首の骨を射られて落馬する。探題に六波羅を去って鎌倉で再起を図ることを勧めた糟屋三郎の一族で、同じく時益の家臣であった糟屋七郎が馬から降りて、矢を抜き、助け起こそうとしたのだが、傷は重く、そのまま息を引き取ってしまった。どこに敵がいるかもわからない状況で、主人の仇を討つこともかなわず、人目を忍んでの逃避行なので、仲間たちに知らせて反撃戦をくわだてるわけにもいかない。主従の義を貫くには、自分も主人に殉じるしかないと思い、糟屋は泣く泣く時益の頸を掻き落とし、鎧直垂の袖に包んで、道のかたわらの田の中に深くこれを隠し、腹十文字に掻き切って、主人の死骸の上に覆いかぶさって最期を遂げた。

 天皇の乗り物が山科の四宮河原を通り過ぎようとするところに、「落人の通るぞ。打ち留めて物具剥げ」(第2分冊、76ページ)という声があちこちから聞こえ、矢が雨のように降ってくる。この様子では行く先が思いやられると、東宮である康仁親王を始めとして天皇に従っていた殿上人と公卿たちの多くがあちこちに離散していき、あくまで天皇に随行するのは大納言日野資名(すけな)、中納言勧修寺経顕(かじゅうじつねあき)、中納言綾小路重賢、参議禅林寺有光だけとなった。「都を一片の暁の雲に隔てて、思ひを万里の東の道に傾けさせ給へば、剣閣の遠き昔も思し召し合はせられ、寿永の秋の比、平家都を落ちて西国の方へ行幸成し奉りしもかくこそと、、叡襟断(た)えて、主上も上皇も御涙更にせきあへ給はす」(第2分冊76-77ページ、都を暁の一片の雲のかなたにしのび、思いを万里の東路にはせると、唐の玄宗皇帝が安禄山の変(755年)を逃れ、長安から蜀へと赴く途中で越えた険難な山である剣閣の道のりが思い合わされ、また寿永2年(1183年)7月に平家が都を落ちて西国の方に行幸したのもまさにこのようだったのと望みも絶えて、天皇も上皇も涙をとどめることがおできにならなかった。)

 梅雨時の五月を迎え、短くなっているはずの夜は明けきらず、逢坂の関(大津市逢坂)のこちら側はまだ暗かったので、杉の木陰に馬をとめて、一行はしばし休息をとった。ところがどこからともなく流れ矢が飛んできて、光厳天皇の肘に命中した。陶山備中守が急いで馬から降りて、矢を抜いて傷の手当てをしたが、流れる血が天皇の白い肌を染めてみるに堪えない様子である。「忝くも万乗の主(あるじ)、いやしき匹夫の矢先に傷められて、神龍忽ちに釣者(ちょうしゃ)の苦(あみ)にかかれること、あさましかりし世の中なり」(第2分冊、77ページ、忝くも天皇が、身分の低いつまらぬものの放った矢に傷ついて、尊貴な人=龍が卑しい者≂釣り人の手にかかるなどということが起きたのは、あさましい世の中になったものである)。

 そうこうするうちに、東の空がようやく明るくなって、朝霧がわずかに残っているとはいうものの、視界が開けてきた。ところが、見渡すと野伏と思しき500~600人ほどの集団が楯を構え、鏃(やじり)をそろえて待ち受けているのが見えた。一行の戦闘にいた中吉(なかぎり)弥八という武士が天皇が鎌倉に向かわれるのであるから、攻撃を控えて通すように言うと、野伏たちはせせら笑って、随行する武士たちが物の具をよこせば通してやらないでもないという。そこで中吉が取れるものならとってみろと馬を進めると野伏たちは逃げて行った。

 いったんは逃げたものの、自分たちのほうが数が多いことに気付いた20人ほどの野伏たちが中吉とその配下の武士6人を取り囲む。中吉は少しもひるむ様子を見せず、野伏たちの棟梁と思しき男と組討ちをしたが、あいにく刀が手元になく危地に陥ったのを、六波羅に宝物を埋めてきたとだまして、一行とともに六波羅に引き返す。戻ってみたものの、六波羅の焼け跡には宝物があるはずもなく、もう誰かが掘り出してしまったといって、野伏たちをごまかした。

 東宮である康仁親王が一行を離れたのは、もともと持明院統と対立する大覚寺統のご出身であり、後醍醐天皇は親王の大叔父にあたられるということで、一縷の望みをかけたのではないかとも思われる。あくまで鎌倉に向かおうとする一行の中では、光厳天皇が矢傷を負われるなど、道のりは多難である。天皇や上皇たちは平家の都落ちの歴史を思い出すのだが、随行する武士たちにはまた別の思いがある。野伏たちを欺いて一行の道を開く中吉の行動は、どことなくユーモラスで、このような狡猾さと笑いの要素は『平家物語』よりも『太平記』に多く見られるものではないかと思う。『平家』と『太平記』の都落ちの場面を対照的にしているのは、「野伏」という新しい存在の登場である。さらにまた木曽義仲の攻撃を受けた平家は都から西に逃げたが、同じ平家の血を引く北条氏は都から東に逃げて、勢力を挽回しようとする。平家は西国に落ち延びて勢力を挽回するのだが、北条氏も同じように勢力を挽回できるだろうか。

ダンテ・アリギエリ『神曲 煉獄篇』(17-2)

11月5日(木)晴れ

 ウェルギリウスに導かれて、煉獄の第3環道の闇の中で、魂たちが憤怒の罪を浄めているのに出逢ったダンテは、闇を通り抜けたところで天使に示された階段を登って第4環道に達する。既に日は暮れて、階段を登ってきたダンテは疲れて足を動かすことができない。休息しながら、ダンテは、この環道ではどのような罪が清められているのかをウェルギリウスに問う。

 ウェルギリウスは、
・・・「善への愛である。しかしあるべきほどには
至らぬため、それがここ、この場所で償われている。
ここではかつての悪しき緩慢の櫂が激しく漕がれるのだ。」
(256ページ) 第4環道では前への愛の不足、すなわち怠惰が償われているという。そして、ここまでの旅路で旅の全貌を理解する能力が備わってきたダンテに向かい、ウェルギリウスは煉獄全体の構造をそれぞれの環道がどのように人間の罪と関連しているかを説明する。

創造主も、被造物も決して、
・・・、愛なしであった例(ためし)はない。
それが本性のものであれ、心が選んだものであれ。…
(同上) 創造主と被造物とをつなぐものは愛である。「本性の」とは本能として備わっているもの。「心が選んだ」とは人間の魂に備わる自由意志と理性・知性による選択を示す。また被造物の中で自由意志の備わった魂をもつのは人間だけである。

 ウェルギリウスはさらに説明を続ける。
本性のものはいつでも誤ることはない。
だがもう一方は、悪しき対象ゆえに、
あるいは程度の過剰ゆえ、または程度の不足ゆえに誤る可能性がある。
(256-257ページ) 「本性の」愛も、「心が選んだ」愛も本来的な対象は神のもとにある至福であるが、<理性が選ぶ>愛が対象を誤る可能性はある。

その愛は、正しく第一の善に向き、
そして種々の二次的な善において節度を保っている限り、
悪しき悦びの原因になりようはない。
(257ページ) 愛が「第一の善」である神に向いていれば、「二次的な善」である地上的な福(善、富、悦び)にも節度を保って向く分には問題ないという。特に禁欲的な生き方を勧めていないことが注目される。

しかし悪へと逸れる場合、あるいは度を越して過剰な場合、
または不足な熱意で第一の善へと走る場合には、
被造物は創造主に対する離反を犯している。
(同上) 愛が「二次的な善」である地上的な福(善、富、悦び)ゆえに、悪へと向かう場合は、<高慢><嫉妬><憤怒>の罪が生まれる。<高慢>が第1環道で、<嫉妬>が第2環道で、<憤怒>が第3環道でそれぞれ償われているのをダンテは目にしてきた。また愛が地上的な福に過剰に傾倒する場合には、<貪欲><飽食><淫乱>の罪が生まれるという。これらについては、煉獄のさらに上の方で償われているのを見ることになるだろう。さらに「不足な熱意」を抱いて善を行おうとする場合は、<怠惰>の罪を犯したものとして、この第4環道で罪を償うことになる。

このことからおまえにも理解できるであろう。
おまえ達の中で愛はあらゆる徳の、
そして罰に値するあらゆる行いの種に、必然的になるのである。
(258ページ)

 第17歌は100歌からなる『神曲』の51歌目、また33歌からなる『煉獄篇』のちょうど真ん中の篇であり、またここでダンテが目撃している第4環道は煉獄の7つある環道の真ん中にあたる。ここで『神曲』の軸となる原理「愛」について歌われているのは意味のあることのはずである。(もちろん、「愛」と言っても、創造主=神への愛であって、世俗的な愛ではない。) それで、この17歌は丁寧に読んでいく必要があると思い、残る部分は、次回に残して、この17歌は3回に分けて取り組んでいくことにしたい。

日記抄(10月29日~11月4日)

11月4日(水)晴れ

 10月29日から本日までの間に経験したこと、考えたことなど:
10月29日
 シャーロット・マクラウド『にぎやかな眠り』(創元推理文庫)を読み終え、感想をブログに掲載する。昨28日に購入し、400ページを超える本であるが、2日間で読み終えた。一方、26日に購入したカトリーヌ・アルレー『犯罪は王侯の楽しみ』(創元推理文庫)は、240ページほどの書物なのだが、まだ半分も読んでいない。

 NHKカルチャーラジオ「文学の世界」『弥次さん喜多さんの膝栗毛』第5回、「弥次・喜多の旅はお伊勢参り」で一九が享和2年の1月から5月まで常陸、下総に旅行した際の経験が『浮世道中膝栗毛』に生かされることになったと論じられていた。その中で、下総の行徳で名物笹屋のうどんを食べたという記述が目に着いた。東日本ではそば、西日本ではうどんと大雑把に言われるけれども、東日本でもうどんが名物だという地方は少なくないのである。そういえば、東京の落語にも『うどん屋』という噺がある(上方では『時うどん』という噺が、東京では『時そば』になっているのは御存じの方も多いはずである。)

10月30日
 西田龍雄『アジア古代文字の解読』(中公文庫)を読み直す。ここで取り上げられている文字の多くが、それほど古いものではないので「古代文字」という言い方には引っかかるのだが、謎の文字、謎の言語への挑戦を続ける著者の学級心には頭が下がる。第2章「ロロ文字のはなし」と第7章「漢字――東アジアの世界文字」の2つの章がとくに面白かった。

10月31日
 神保町シアターに出かけ、そのついでに内山書店、東方書店を覗く。西田龍雄の本を読んで、中国の少数民族の言語と文字に触れたくなったのである。すずらん通り商店街ではブックフェスティバルの開催中でたくさんの露店が出ていた。もう20年ほど前に、すずらん通りのお祭りのくじ引きで大きな缶に入ったせんべいを当てたことを思い出す。

11月1日
 川崎市中原区の等々力陸上競技場で第94回全国高校サッカー選手権神奈川県大会の準決勝2試合、桐光学園高校対湘南工科大学付属高校対横浜市立東高校の対戦を観戦する。
 第1試合の桐光学園と湘南工科大学付属の対戦は、第1シードの桐光学園が序盤から優勢に立って湘南工科大学付属のゴールを脅かすのだが、なかなか得点できないままに前半が終わり、後半になると湘南工科大学も攻勢になる場面が多くなったが、桐光はスピードのある選手を前線に上げ、途中から出場したFW桑原選手がゴールを挙げて、その1点を守って勝利した。桐光のDFジェファーソン選手、湘南工科大学付属のFWの脇坂選手はともに2年生で、それぞれ足の速さが光り、将来が楽しみである。
 第1試合はメイン・スタンドで観戦したのだが、日陰になって肌寒く感じられてきたので、バック・スタンドに移って第2試合を観戦。横浜市立東高校を応援する、保護者と卒業生の皆さんの中に紛れ込んだ。昨年度の全国大会出場校で、この大会でも第2次予選の3回戦から出場している日大藤沢高校が優勢と思われたが、序盤こそ押し込まれたものの、市立東が主導権を奪って前半のうちに3点を奪い、後半も1点を加え、日大藤沢の猛反撃を1点に抑えて4-1で圧勝した。市立東の2年生FW山口選手が4点のすべてをあげるという活躍であったが、市立東の勝因は山口選手によくボールを集めて、得点の機会を与えたことにあるのではないかと思う。山口選手は横須賀の田浦中学出身ということは、横浜FCの大久保哲哉選手の後輩ということになるようである。同じく市立東の2年生GK高畑選手は1メートル88,81キロという恵まれた体格で、将来が楽しみである。試合前には、日大藤沢の圧勝か、市立東の僅差での勝利かと予想されたのだが、市立東の圧勝という予想外の結果となった。市立東の岡本監督がどのようなゲーム・プランを立てて、選手にどのように指示していたのか興味がもたれるのだが、まだ決勝戦を控えているので、そのあたりのことは口外しないということのようである。

11月2日
 NHKラジオ「まいにちイタリア語」『2歩目からのイタリア語』ではジェルンディオを使った現在進行形の文を学習した。
Sto seguendo un corso di lavoro a maglia. (私は編み物の講座を受講しています。)
印欧語族に属する言語の中でも、進行形がある言語とない言語とがあるので、注意が必要である。また、イタリア語の進行形の用法は英語の進行形の用法と違いがあるので、その点も気をつけなければならない。

11月3日
 秋の叙勲者の顔ぶれを見ていたら、知人が2人まじっていた。1人は中学・高校の同期生で中央省庁の局長だったからであろうか、70歳になったらすぐに叙勲を受けた。もう1人は大学時代の同僚で、79歳である。そういえば、高校時代に生存者叙勲の復活を批判する文章を新聞に投稿した同期生がいたが、彼も叙勲を受けるだけの業績を上げているので、今後どうするのだろうかと他人事ながら気になっている。

NHKラジオの文化講演会で、家元と家元制度の研究で知られる西山松之助の生涯についての話を聞いた。西山は姫路師範で校長であった野口援太郎の自由な教育方針に強い影響を受けたという話が印象に残っている。

 朝日新聞に1949(昭和24)年の夏の甲子園大会の決勝戦のことが出ていた。神奈川県代表の湘南高校が5-3で岐阜高校を破って初出場初優勝を飾った。故人になったが歴史学者の阿部謹也さんがこの時にまだ小学生で強い印象を受けたと記されていたのを思い出す。神奈川県と岐阜県でそれぞれ1,2を争う進学校同士が甲子園で対決しているのはこの時期ならではのことであろう。湘南で外野を守った佐々木信也選手と、岐阜でマウンドに立ち、その後外野を守った花井悠選手は共に慶応に進学、昨日の敵が今日の友となり、佐々木選手は内野手、花井選手は外野手としてプレーした。卒業後、佐々木選手はプロ野球の高橋ユニオンズ、花井選手は社会人の日本石油を経て西鉄ライオンズで活躍した。いずれにしても古い話である。

11月4日
 NHKラジオ「実践ビジネス英語」は”America's Declining Mall Culture"(アメリカの衰退するモール文化)という話題を取り上げている。アメリカにおける買い物の習慣の変化が、モールの衰退をもたらしているという。これはアメリカだけのことではないと思うので、どんな会話が展開されるか、今後が楽しみである。
 第1回はThanksgiving Day (感謝祭、11月の第4木曜日)の後の金曜日がBlack Fridayと呼ばれ、これは買い物客が殺到し、店が大幅な黒字になるところから来ているという、また週明けの月曜日はCyber Mondayと呼ばれ、この日からオフィスのコンピューターを使ってオンラインショッピングが急増するからであるという話であった。
Black Friday originated in the United States but it's becoming a major shopping day in the U.K., Canada and Australia too. (ブラックフライデーはアメリカで始まったものですが、英国、カナダ、それにオーストラリアでも一大買い物デーになりつつあります。)

 同じ番組の”Quote...Unquote"で紹介された言葉:
To learn to read is to light a fire; every syllable that is spelled out is a spark. (from Les Misérables)
      ーーーーVictor Hugo (French poet, novelist ,and dramatist, 1802-85)
読み方を学ぶというのは火をおこすこと。つづられる音節の1つ1つが火花である。

 火花と火というと、19世紀前半のロシアで改革を求めて弾圧されたデカブリストの1人であったアレクサンドル・オドエフスキー(1802-1839)がプーシキンの「シベリアに送る詩」に応えて書いた「プーシキンに答える」という詩の中の「火花から炎が燃え上がるだろう」という句を思い出す。大学時代に小野理子先生のロシア語の時間にこの詩を読んだのである。調べてみると、オドエフスキーはその後レールモントフとも知り合ったとのことで、興味深い人物である。
 

『太平記』(73)

11月3日(火)晴れ

 元弘3年(1333年)、5月7日、丹波国篠村で挙兵した足利高氏の軍勢は都の西南に陣営を構えた千種忠顕、赤松円心の軍勢と呼応して都に攻め入り、六波羅探題方の河野通治は、内野で足利軍を迎え撃ったが、衆寡敵せず敗退した。東寺一帯の戦闘でも、六波羅方は数的には優勢であったにもかかわらず、士気振るわず離脱者が相次いで敗退した。

 六波羅の南探題であった北条時益の被官である糟屋三郎宗秋が北探題北条仲時と南探題北条時益の前に出て次のように述べた。「味方の軍勢の中から離脱するものが次第に多くなって、今は六波羅の城塞の中に立てこもっているものが千騎に足りない有様である。これだけの軍勢で敵の大軍を防ぐことは、もはや不可能に思われる。東の方面を敵兵は明けているので、天皇、上皇をお連れして、関東に下り、あらためて大軍を率いて京都を攻めるべきである。近江の守護である佐々木(六角)時信が勢多橋を警固しているのを軍勢に引き入れれば、なんとか数も揃うであろう。また時信が軍勢に加わっていることを知れば、近江の国では手向かってくるものはないはずである。美濃、尾張、三河、遠江には幕府に反抗するものがあるという噂を聞いていないので、道中はきっと安全であろう。鎌倉に到着されれば、すぐに逆徒を退治する兵を組織され、反攻されるべきです。早く決心してください。『これ程の浅まなる平城に、主上、上皇をこめまゐらせて、名将、匹夫の鋒(きつさき)に名を失はせ給はん事、口惜しかるべきことにて候はずや』」(第2分冊70-71ページ、このように防御の弱い平地の城で、天皇、上皇を滞在させ、名のある武将がつまらない兵に討たれて名を失うことは、悔しいことではないでしょうか。)

 このように糟屋が強く申し上げたので、両探題もその通りだと思ったのか、それではまず身分のある女性、それからその他の女性を城から落ち延びさせようと話しをまとめ、その由を天皇、上皇の方に伝えた。そこで国母である西園寺寧子をはじめ、皇后、女院、摂関家の奥方たち、天皇に仕える女官たちが慌てて逃げ出していく。「ただ金谷園(きんこくえん)の春の花、一朝の嵐に誘はれて、四方の霞に散り行きし、昔の夢に異ならず」(71ページ。中国の西晋時代の富豪石崇は洛陽の郊外に金谷園という別荘を営んで豪奢な生活を送っていたが、やがてほろんだという故事を思わせる。春の花が朝の嵐に出会って、春霞の中に散っていった昔の物語を再現するものである。)

 既に述べたように討幕軍が東の方を包囲していなかったのは、それなりの計略を胸に秘めてのことである。孫子の兵法に一方向だけ逃げ道を作っておけば、包囲されている軍勢はそちらの方に気が散って、防御に全力を尽くすことはできないとある。六波羅方にしても兵法の知識はあっただろうが、大軍に包囲されてしまうとなかなか冷静な判断はしにくくなる。必死で交戦したうえで、政治的な妥協に持ち込むという戦法もあったはずである。
 糟屋は第3巻に六波羅探題の検断の1人として名が出てきた。現在の神奈川県伊勢原市粕屋の武士である。この段階で既に糟屋の発言も手遅れになっていることが、この後の展開で分る。武士の家族である女性たちが六波羅の城塞の中にいるのは理解できるが、非戦闘員である公家たちやその家族が入っているのはどうかと思う。もちろん、後醍醐天皇に気脈を通じる公家たちは城塞の中に入っていなかったのだろうが、持明院統に近い公家たちや大覚寺統出身の東宮である康仁親王やその側近の人たちは独自の動きをしてもよかったのではないかという気がする。

 北探題である越後守北条仲時は北の方を落ち延びさせる。子どもの松寿を同行させ、若し関東に無事に到着すれば迎えをよこすが、途中で戦死すれば、出家させて自分の後生を弔わせてほしいなどと泣きながら言い渡す。北の方は、頼りにする人もいないこの世に、ほんの少しの間でもあなたに棄てられて、生きて生ける心地はしませんと嘆き悲しむ。 
 ここで『太平記』の作者は自分の学識をひけらかしたいのか、漢の劉邦の大軍に包囲された楚の項羽が「力は山を抜き、気は世を蓋ふ」という詩を詠んだ故事を引き合いに出す。先の金谷園についてもそうだが、どうも場違いという感じがしてならない。どう考えても、仲時は項羽を引き合いに出すほどの豪傑ではなさそうである。

 北探題である仲時が奥方と別れを惜しんでいるうちに、南探題である左近将監時益は天皇の関東への下向の先導役として馬を進めていたが、仲時にもはや猶予はならないと急き立てる。馬を進める道すがら、妻子の泣き叫ぶ声がいつまでも仲時の耳に残る。これが最後の別れになるとは、お互いに知る由もなかった。そして、あとを振り向くと六波羅の城館は火の海になっていた。

 講釈師、見てきたような嘘をつきという川柳があるが、糟屋が関東に下向することを進言する場面は誰が目撃し、その発言を誰が記録したのであろうか。あるいは『太平記』の作者が、想像で描いたのであろうか。それとも、その場面を目撃した誰かが、生き延びて何がしかの記録を残したのであろうか。『太平記』は歴史的な事実をもとにした軍記物語ではあるが、ところどころに想像を交えた虚構や、事実の誤認がみられ、慎重に見ていく必要がある。『太平記』の作者が和漢の故事をやたら持ち出す癖にも気をつけるべきではないかと思う。

今野真二『常用漢字の歴史』(2)

11月2日(月)午前中は雨が降っていたが、その後降りやんだ。

 10月22日付の当ブログで、この書物の趣旨と、第1章「漢字制限の歴史」の概要を取り上げた。今回は第2章「さまざまな常用漢字表」と第3章「字体をめぐる問題」についてみていくことにしたい。
 第2章「さまざまな常用漢字表」は明治時代から今日に至るまで国の機関によって制定された漢字表9種類を中心に日常生活の中でどのように漢字を使って文章を書いていくかをめぐる政策の変遷をたどっている。これらの施策の底流にある漢字制限と仮名遣いの改定が、大正から昭和にかけての国語問題をめぐる議論をリードした保科孝一(1872-1955)の持論でもあったことが最初に触れられている。

 明治以降に国の機関によって制定された漢字表は次の9種類だという。
①小学校令施行規則第3号表 文部省       明治33年 8月  1200字
②常用漢字表           臨時国語調査会 大正12年 5月 1963字
③修正常用漢字表        臨時国語調査会 昭和 6年 5月  1858字
④標準漢字表           国語審議会    昭和17年 6月  2528字
⑤修正標準漢字表        国語審議会    昭和17年12月 2669字
⑥当用漢字表           国語審議会    昭和21年11月 1850字
⑦当用漢字別表          国語審議会    昭和23年 2月   881字
⑧常用漢字表           国語審議会    昭和56年10月 1945字
⑨改定常用漢字表        文化審議会    平成22年 6月  2136字

 著者もこの章の終わりの方で述べているが、ずいぶんいろいろな漢字表があったというのが率直な感想である。これらのほかに文部省は大正8(1919)年に漢字の字体を整理した「漢字整理案」を発表した。ここではこれまでの社会における慣用を重視しながら字形の整理を進めようとしているが、その背景として活字体と手書体の間に大きな違いが生まれていたことが注目される。字形の問題については第3章で改めて検討を加えることになる。

 1つ1つの表の制定の経緯やそれぞれが掲げている原則について論じていくと量がかさむので、詳しくは書かないが、漢字の使用を制限することは、制限された漢字を使わないで済むように語彙を変えたり、言い換えたりすることを促すものである。漢字表作成の作業は、一方で教科書、他方で新聞等の出版物の中でどのように漢字を使用するかという問題とかかわり、もっと大きく言うと日本語の変化ともかかわっている。逆に日本語がどのように変化しているかが、これらの漢字表の推移を辿ることによってわかると著者は述べている。

 第3章「字体をめぐる問題」は文部省が行った字体調査に基づいて明治41年に発行し、その後も版を重ねた『漢字要覧』を取り上げる。ここでは楷書体が主要な字体とされるが、これは江戸時代からの伝統を引き継いだ認識であったと考えられる。また、「正体」と「別体」の区別については『説文解字』、『干禄字書』、『康煕字典』などが参照され、「中国における漢字の字体規範を整理したもの」(112ページ)であって、「『日本における漢字の使用実績』から帰納されたものではない」(同上)ことに注意を向けている。さらに印刷と手書きの場合、筆順の問題などについても触れる。今日では電子的に文字が処理できるために、手書きするのが難しい文字でも使用されるようになって、漢字制限の背景にあった前提が崩れている。著者は「現代は、…『現在の技術でできることはやる』あるいは『こういうことを実現させるために技術を進める』という発想が主流となっているようにみえる。そのために、漢字をめぐる一貫した考え方というおのがなくなりつつあるように思われてならない。筋のとおった一貫した考え方は、いついかなる時においても必要であろうし、それは大事にしないといけないはずだ。しかしどうもそうではなくなってきている。『常用漢字表』が一貫性を失いつつあることには危惧観をもっている」(157ページ)と感想を述べてこの章を締めくくっている。傾聴すべき意見ではないかと思う。

 漢字の使用を制限する、あるいは字体を統一するというような取り組みの背景には、読む者にとって分かりやすく、書く者にとって便利なように表記法を改革していく、そのためには一定の品詞の表記には漢字を使用しないというような原則を定めて、その原則が広く浸透するように教育を進めるべきであるのだが、ワープロソフトの開発以後の日本語表記をめぐる動きはこれとは逆の方向に向かっているのではないか。著者が危惧しているのはこの点であると思われる。最近ではカタカナ言葉の使用がやたらと増えているのも問題であって、それが日本語の今後の方向とどのようにかかわっていくのかも考えないといけないと思う。

アリバイ

11月1日(日)晴れ

 10月31日、神保町シアターで「作曲家・小杉太一郎の仕事」特集上映のなかから『アリバイ』(1963、日活、牛原陽一監督)を見る。小杉太一郎(1927-1976)は俳優であり監督もしている小杉勇(1904-1983)の長男として生まれ、東京音楽学校で伊福部昭に作曲と管弦楽法を学ぶが、伊福部が学校の指導部と対立して辞任したのに同調して退学、伊福部のアシスタントを務めた後、1952年に「6つの管楽器のためのコンチェルト」により楽壇にデビュー、1953年に父の監督する映画『健児の塔』の音楽を担当し、以降、プロとしての音楽活動を続けた。内田吐夢の戦後復帰第1作『血槍富士』(1955)や『宮本武蔵』シリーズに代表される時代劇、現代劇、ドキュメンタリー、アニメーションなど300本を超える映画作品の音楽を担当したが、病魔のため若くして世を去った。

 『アリバイ』は警視庁の全面協力を得て製作された刑事ものの映画で、この作品でチーフ助監督を務めた熊井啓が脚本を担当している。都内の住宅地で経理士が射殺される。若い畑中(二谷英明)と退職間近の佐川(宮口精二)の2人をはじめ、捜査1課の刑事たちが捜査を進める。犯行に使われた銃の行方を追ううちに、大野(小高雄二)という男が浮かび上がり、その身柄を確保するが、凶器が発見できない。
 被害者の経理士のもとに送られていたギフトカードから、千恵(渡辺美佐子)という女と、その夫である貿易商の呉羽(陶隆)が捜査線上に浮かびあがる。呉羽は知能犯を追及する捜査二課が何度も疑惑を持ちながら、逃れ続けてきたいわくつきの男であり、捜査二課の刑事も加わって捜査を進める。

 千恵はもともと大野の恋人であり、大野と別れた後に呉羽と結婚していたのであった。彼女は事件の犯行時刻に、大野と2人で薬局でドリンク剤を飲んでいると証言、薬局から入手した空き瓶を調べた結果、大野の指紋が検出され、彼のアリバイが成立した。それでも佐川は長年の経験から大野が犯人に違いないと考え、いったんは大野の犯行ではないと思った畑中もそれに同調する。 呉羽は電機会社に融資話を持ち掛けて、損失を与えているのだが、スキャンダルの発覚を恐れた会社の執行部は警察に向けて事件とのかかわりを明らかにしようとしない。
 佐川には重病の妻がいるが、それでもこれが最後の事件になるという思いから捜査を続けている。捜査に協力しない会社の幹部たちが、呉羽の一味から襲撃される恐れがあるというので警戒を怠らない…。

 『アリバイ』という題名ではあるが、ストーリーの核心は「アリバイ崩し」にある。刑事たちの捜査にかける執念を描き、その一方で私生活も垣間見せるという点では、野村芳太郎の名作『張込み』(1958、松竹)を思わせる。『張込み』でもこの作品と同様宮口精二がベテランの刑事を演じているから余計にそう思われる。『張込み』が大作で、上映時間が長かったのに対し、こちらは低予算の映画で、上映時間も短い。事件のカギを握る女性を『張込み』では高峰秀子が演じ、こちらは渡辺美佐子が演じているというのが映画の性格を物語っている(優劣というよりも、個性の問題である)。『張込み』は犯人逮捕に至る過程の長さが、上映時間に反映されているのに対し、『アリバイ』は物語の展開が速く、アリバイ崩しに至る過程がやや安易に描かれているのは欠点と言えようが見ていて退屈することはない。

 展開の速さを支えているのは、新劇畑の俳優が多く出演していることによって生まれる現実感である。美男美女がほとんど出てこない(失礼!)こともあって、現実味がある。警視庁の協力を得ているので、捜査の手法や警察の組織系統についての知識を得ることができる一方で、官僚機構としての警察の非能率であるとか腐敗とかいう問題は登場せず、警察官がひたすら真面目に事件の解決に取り組む様子が描かれている。現在では捜査手法もさらに改善されている一方で、犯罪はより複雑になっている。したがって、より複雑な事件を描く映画(あるいはテレビドラマ)に接した後で見ると、まだまだ習作という印象が生まれてしまいそうではある。
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Author:tangmianlaoren
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