2015年の2015を目指して(10)

10月31日(土)曇り、雨が降りだしそうで、とうとう降らなかった。

 10月もずっと横浜で過ごした。それで1月から通算すると、神奈川県(横浜市)で過ごしたのが303日、東京と(文京区)で過ごしたのが1日ということである。新しくどこかに出かけたということもなく、これまでに出かけたのは2市8区、利用したのは鉄道6社、バス2社、乗り降りした駅は鉄道21駅、バス5停留所ということである(9月に数え間違えをしていた)。

 ブログを、このブログを含めて32書き、1月からの通算は308である。2件のコメントを頂き1月からの通算では26件ということになる。トラックバックはなく、1月からの通算では3件、拍手が656、拍手コメントが1件(1月からの通算では10件)ということである。これまでにいただいた拍手が10,000を越え、感謝の気持ちでいっぱいである。これからもご支援をよろしくお願いしたい。

 14冊の本を購入し、1月からの通算では132冊である。9月のまとめで、買った本の合計を116冊と書いたが、118冊であった。読んだ本は11冊で1月からの通算がちょうど100冊になる。読んだ本を紹介しておくと:貝塚爽平『富士山の自然史』、シャーロット・マクラウド『納骨堂の奥に』、愛川晶『三題噺 示現流幽霊』、大倉崇裕『オチケン!』、オヴィディア・ユウ『プーアール茶で謎解きを』、ヴォルテール『カンディード』、今野真二『常用漢字の歴史』、松尾義之『日本語の科学が世界を変える』、本多健一『京都の神社と祭り』、大倉崇裕『オチケン! ピンチ』、シャーロット・マクラウド『にぎやかな眠り』である。推理小説が多いが、落語に関係するものが多く、翻訳作品では、アメリカのニューイングランド地方を舞台にしているシャーロット・マクラウドの作品が2点あるところに好みが現われていると思う。『にぎやかな眠り』よりも2日早くカトリーヌ・アルレーの『犯罪は王侯の楽しみ』を読みはじめ、しかもあるレーの作品のほうが量が少ないにもかかわらず、マクラウドの方を早く読み終えて、批評までブログに掲載した。英米系のミステリーを好む傾向が顕著である。なお、本を購入した書店は3店のままである。西田龍雄のアジアの文字についての本を読んで、中国の少数民族の言語と文字について級に興味がわき、内山書店と東方書店を覗いたりしているので、これから数字が少し伸びるかもしれない。

 NHKラジオ英会話を17回(1月からの通算では196回)聴いている。「入門ビジネス英語」は10月から再放送になったので、72回のまま、「実践ビジネス英語」は11回で1月からの通算では120回、「刻略!英語リスニング」は6回で1月からの通算は78回、「ワンポイント・ニュースで英会話は22回で、通算では201回、「まいにちフランス語」が9回で1月からの通算が181回(応用編は1~3月の再放送)、まいにちイタリア語が17回で1月からの通算が193回、このほかに現在はやめているが「アラビア語講座」を24回、「まいにちドイツ語」を59回聴いているということである。

 NHKカルチャーラジオの「琳派400年の美」を5回分、また「弥次さん喜多さんの膝栗毛」を5回聴いている。この外に、「プロテスト・ソングとその時代」を12回、「ボブディランの世界」を12回、「私たちはどこから来たのか」を11回、「私の落語はくぶつ誌」を12回、「17音の可能性」を12回、「シルクロード10の謎」を11回、「ガリバー旅行記」を11回、「富士山はどうしてそこにあるのか」を10回分聴いている。

 映画は5本みて、1月からの通算では40本である。『挽歌』(秋吉久美子ではなくて久我美子の方)、『還って来た男』、『ビッグ・シティ―』、『チャルラータ』、「アリバイ」というのがその中身で、月の初めにかなり昔の映画を4本みて、月の終わりになってからこれまた1本古い映画を見たというのがありのままのところ、今の自分と同時代の映画を映し出す映画を見る意欲がなかなか起こらないのが問題である。

 サッカーの試合は1試合見ただけであった。1月からの通算では17試合で、全国高校サッカー選手権が4試合、J2が12試合、天皇杯が1試合ということである。

 ノートを2冊、ボールペンの替え芯2を2本、テキストサーファーを1本使い切った。このあたりの数は必ずしも正確ではない。オータム・ジャンボが5枚(末等)あたり、1月からの通算では22枚が当たったことになる。アルコール類を口にしなかったのが5日で、1月からの通算では36日ではないかと思う。

 個々の数字は正確さに欠けるところがあって、これから正確な数字の把握に努めるつもりであるが、何とか2015年の2015は達成できそうなので、最後の追い込みに入っていくつもりである。 


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ダンテ・アリギエリ『神曲 煉獄篇』(17‐1)

10月30日(金)曇り

思い出してみてほしい、読者よ、山々の中で、
もぐらのまぶたと同然に物を見えなくする霧に
思いがけず包まれたことがあるならば、

重く湿った蒸気が散りはじめた時に、
太陽の円い光がどれほど
弱々しくその中に射し込んでくるのかを。

そうすれば君の想像力は、いかにして私が
太陽を再び目にしはじめたかを見ることに
軽々と成功するであろう。それはすでに沈みつつあった。
(248ページ) 第15歌でダンテとウェルギリウスは煉獄の第3環道にたどりつく。1300年4月11日の午後のことである。第3環道では魂たちが憤怒の罪を贖っている。第16歌に描かれているように、そこでは知性を象徴する光が奪われ、ダンテたちは闇の中を進まなければならなかった。しかし、その闇が次第に薄れて、太陽の光が届くようになるが、すでに日没に近づいていたことを第17歌の歌いだしの部分は述べている。闇の中のダンテを導くのは理性の象徴であるウェルギリウスであり、太陽は神の真理を表すものである。また、中世にはもぐらの目は皮膚に覆われているとされていた。実際にはそうではない。ダンテは読者が自分の経験から詩人の経験を想像するように歌いながら、近代の経験科学者のようには自分の身の回りの事物を観察していないのである。

 この後、神はダンテに「怒り」の罪を解き明かすため日の光を与えた。それはダンテの知性に触れて、その中で予言の夢のように像を結び、その幻像の中にギリシャ神話のプロクネー、聖書の義人モルデカイ、ローマ建国神話のラウィーニアが現われた。それぞれ怒りに任せた行為が本人と周囲の人物に不幸をもたらすことを示す物語である。ダンテが幻視の意味を考えていると、強い光が差してきて、彼の考えを遮る。

 ようやく闇から脱したダンテは、自分がどこにいるのかを見極めようとあたりを窺うが、その時「ここから登るがよい」(252ページ)という声が聞こえる。
その声は私から他への注目を一切奪うと、

話している方をよく見るように
私の欲望を激しく掻き立てた。
それはかの方と直に対面しない限り鎮まることはないが。
(252ページ) 声の主は2人にこれから進むべき道を指し示そうとする天使であった。ダンテはその天使の姿を見ようとする。『神曲』の旅も半分を越えて、多くの罪を浄めたダンテには神と直接に対話しようとする気持ちが大きくなってきている。しかし、ダンテの視力ではまだ天使の姿を見ることはできない。ウェルギリウスは天使の言葉に従って、まだ太陽の光が残っているうちにできるだけ前に進むことを勧める。

我が導き手はこうおっしゃり、私は彼とともに
私たちの歩を階段に向けて進めた。
すると、私が一段登ったそのとたん、

私のすぐそばで翼が一打ちされたのを感じた。
そして私の顔に風をそよがせながら、おっしゃるのを聞いた、「幸いなるかな、
平和な人々は。悪しき怒りなしにある」。

すでに、後ろには夜が続く最後の光線が
私達のはるか上の高みに届き、
星々はあちこちに現れていた。(254ページ) 

 「幸いなるかな、…」は新約聖書の「マタイによる福音書」(5.9)<山上の説教>からの引用である。登るにつれて、ダンテは自分の足取りが重くなってくるのを感じ、それでも階段がこれ以上は登っていないと思われる場所までたどり着いた。そこが第4環道の一部であるかどうかを確信できず、不安に駆られる。

シャーロット・マクラウド『にぎやかな眠り』

10月29日(木)曇り、一時雨、その後晴れ間が広がる

 シャーロット・マクラウド『にぎやかな眠り』(創元推理文庫)を読み終える。シャーロット・マクラウド(1922-2005)はカナダ生まれで、アメリカで活躍した作家で、このブログでは、その作品の中からボストンを中心に若い人妻セーラ・ケリングが活躍するシリーズの中から『納骨堂の奥に』、『おかしな遺産』の2編を既に紹介している。この作品は彼女の出世作となったもので、ニューイングランド地方の(架空の)地方都市であるバラクラヴァを舞台として、この町を特徴づけている農業大学の応用土壌学の教授であるピーター(ピート)・シャンディの活躍を描くシリーズ第1作である。

 バラクラヴァの町が人々の注目を集めるのは、クリスマスの時期だけであり、普段は静かな町全体がこの時期はクリスマス仕様に彩られ、見物客の大群が押し寄せる。その見物客を相手の商売で学生たちの懐は潤うし、町と大学の宣伝にもなっているのだが、この騒ぎを喜ばない人もいた。その1人であるピーター・シャンディは、毎年自分の家だけは自分の家にイルミネーションを施さずに過ごしていた。クリスマスは静かに過ごすべきだと考えていたからである。このことをめぐって、彼の同僚で親友のティモシー(ティム)・エイムズの妻であるジェマイマと衝突を繰り返してきた。ジェマイマは自分の身の回りのことや家事はほったらかしにして「大学の人間であれ町の住人であれ、見境なしにおせっかいを焼いて嫌われていた」(62ページ)。彼女は頼まれもしないのに、古くから大学に寄贈され、長い間ほったらかしにされていたバギンズ・コレクションと呼ばれる図書の整理のための司書助手を引き受け、そしてそのことを自慢ばかりして、仕事らしい仕事は一つもしていなかった。

 彼の家にもイルミネーションを施すべきだとジェマイマに執拗に迫られたピーターは、自分の家に思いきって派手なイルミネーションを施して、クリスマスの期間中は気晴らしのための旅に出かけ、家を留守にする。ところが事故のために旅行が予定より短く終わり、帰宅してみると自宅の中にジェマイマの死体が転がっていた。連絡を聞いて駆け付けてきた大学の警備主任であるグリンブルはあまりにもけばけばしい照明の1つを取り除こうとして踏み台から落ちて死んだ事故だといい駆けつけたいしゃのメルシェットやや警察のオッタ-モールもそう考えるが、ピーターには腑に落ちない点がある。彼には3つ以上の数は自分で数えて確かめようとする癖があり、彼が思い出とともに保存していた38個のビー玉が1個見当たらなかったこと、背の高いジェマイマが踏み台を使う必要がなかったと考えられること、さらに彼の家のなかに侵入するには家の鍵を持っていなければならないはずだが、そのカギを持っている人間は限られ、厳重に管理されているはずだからである。

 ジェマイマとティモシーには2人の子どもがいるが、すでに成人して息子の方は南極に出かけ、娘の方は出産が迫っている。そこでピーターはジェマイマの葬儀が終わったら、ティモシーにカリフォルニアにいる娘のところに出かけるように勧める。その代りに、家の留守番としてティモシーの娘の夫の親戚筋にあたるヘレン・マーシュという女性が言えの留守番にやってくることになる。50歳を過ぎて独身のピーターは、空港でヘレンにあって、この40歳を過ぎたばかりの女性に好感を抱く。彼女の方もピーターに好意を持ったようである。もともとニューイングランド地方の出身である彼女は、図書館学の学位と司書の資格を持ち、カリフォルニアで職についていたのが、勤め先で喧嘩をして辞職して、戻ってきたのである。彼女は農業大学を取り仕切っている学長と、その学長を尻に敷いている学長夫人に気に入られ、ジェマイマの後任として働くことになる。

 ピーターはヘレンと会うのを楽しみにしながら、ジェマイマの死をめぐる不審な状況を調べていくが、謎は深まるばかりである。そして、大学の財政を握っていたベンジャミン・カドウォールが彼のオフィスで死んでいるのに出会う。これは事故死ではなく、明白に他殺であり、ピーターの見たところではタリウムを使った毒殺であった。彼の死とジェマイマの死との間には関係があるのだろうか。あるとすれば背後に隠された動機は何か…?

 この作品の原題はRest You Merry であり、翻訳者の高田惠子さんによれば有名なクリスマス・ソングの中の言葉で「心楽しく眠りにつけよ」というような意味であるという。2人の人間が殺され、放火事件が起きるという展開ではあるが、登場人物の性格が詳しく描きこまれ、いかにもその地位にふさわしい性格と行動を示す人間や、自分の能力をわきまえずに出しゃばってばかりいる人間、専門馬鹿に見えて意外に鋭い知性を示す人間、小悪党などどこにでもいるような人間たちと、さらに類型的な描かれ方をする人物がうまく配合されて独特な人間劇が組み立てられている。高田さんは学長夫妻、とくに夫人の描き方が興味深いと書いているが、私は警備主任のグリンブルが面白く感じられた。大学の古参の(あまり出世していない)職員にはこういうタイプがいる(多いとはいわない)ものだと、自分の昔の経験を思い出したのである。

 明治時代に札幌農学校で欧米式の農業と生活様式を教え、「少年よ大志を抱け」という言葉を残したクラークはニューイングランドの名門校であるアマースト大学の卒業生で、マサチューセッツ農業大学の学長をしていた。ニューイングランド地方の農業大学というのはそれなりの実力と威信を持っているのだということを知っておいた方がよかろう。主人公のピーター・シャンディはカブの新種を開発し、それが大学の財政を潤すことになっていると云う設定である。学者としての実力も名声も備えているというわけである。それが身近な人間とのちょっとした行き違いから大きな事件を起こしたということで、責任感を感じて事件の真相を解明しようとする。クリスマスが終わってもイルミネーションはつづき、観光客も多くやってきているし、学生たちもまだ残っているという設定の中で、推理劇が進行していく。事件は次第次第に思いがけない方向に進展し、大事だと思われていなかったものが、実は重要な意味を持ってくる…。

 ベンジャミン・カドウォールの死の原因となったのはタキシンで、これは「どこにでもあるイチイの針状の葉から抽出」(232ページ)できるのである。そのすぐ前にイチイの果実が有毒だという話が出てくるが、その毒を使っているのがアガサ・クリスティの『ポケットにライ麦を』であった(この作品については、当ブログで論じたことがある)。もっと古く、コナン・ドイルの『バスカヴィル家の犬』の中にもイチイの木の並木が出てくるのだが、イチイの毒性についての記述はない。そんなことを考えると余計に楽しめる。私はどちらかというとアメリカよりも、英国を舞台にした推理小説のほうが好きであるが、ニューイングランド地方は英国の文化的な影響が強く残っているので、そんなこともニューイングランド地方を主な舞台とするマクラウドの小説を楽しく読んでいる理由であろうと思う。

 

日記抄(10月22日~28日)

10月28日(水)晴れ後曇り後雨

 前回の「日記抄(10月15日~21日)」で書き落としたこと:
 10月21日のNHKラジオ「実践ビジネス英語」でconspicuous consumption(顕示的消費、財力〔地位〕を誇示するために物を買うこと)という言葉が出てきたが、これはアメリカの経済学者で制度学派と呼ばれる学派の創始者であるソースタイン・ヴェブレン(Thorstein Veblen, 1857-1929)の著書『有閑階級の理論」(The Theory of the Leisure Class)において提案された概念である。番組パートナーのヘザー・ハワードさんは Sometimes conspicuous consumption is out of fashion. (今では顕示的消費は時代遅れだ)と発言していたが、さて、どうだろうか。

 10月22日から本日までの間に経験したこと、考えたことから:
10月22日
 NHK「ラジオ英会話」では「もっと話したくなる英会話文法」の一環として、「代名詞の利便性 その1 they」を放送した。誰か知らない人から電話がかかってきたが、忙しくて手が離せないので、今、私はいないといってくれという場合
Tell them I'm not here.
という。不特定の誰か、人数や性別が分からない誰かについては、theyを使う。例えば次のような用法がある:
Everyone has their own problems. (皆それぞれ自分の問題を抱えています。) また組織や、匿名の権威ある人々についてもtheyを使う。例えば
I see they're raising the consumption tax. (〔彼らは〕消費税を上げるのですね。)
また
Researchers say drinking coffee may reduce the risk of death from disease. They say the same thing goes for drinking green tea.(研究者の発表ではコーヒーを飲むことで病死するリスクが減るということです。緑茶にも同じことが言えるということです。)

 「実践ビジネス英語」でヘザーさんがsilver bulletという言葉を使ったが、辞書では「≪問題解決の≫特効薬、魔法の解決策、(werewolfなどの魔物を倒すには銀の弾丸に限るとの俗信から)」と説明されている。werewolfは「狼男」と訳されるが、狼男というと、藤子不二雄Ⓐ さんの『怪物くん』に登場する愛嬌のある狼男を思い出す。

 NHKカルチャーラジオ「文学の世界」『弥次さん喜多さんの膝栗毛』は第4回「『道中膝栗毛』の頃――洒落本から生まれた滑稽本」として、黄表紙作家として活動を始めた一九がこの世界になじんだが、それでも生活の安定を図るため、寛政10年の末か、11年ごろに商家の婿養子となったこと、生活が安定したために狂歌仲間の寄り合いに顔を出したり、吉原通いや深川遊びにふけったりするようになり、そこでの経験をもとに洒落本を書くようになった。しかし、洒落本禁止令が出たために、執筆は短期間で終わる。とはいうものの、主として対話体で書かれる洒落本執筆の経験が、後の『膝栗毛』に生かされることになる。

10月23日
 オータム・ジャンボ宝くじは末等しか当たらなかった。次回に期待することにしよう。

10月24日
 NHKラジオ「攻略!英語リスニング」はExoskeltons(外骨格)を取り上げた。脊椎動物は体の中に骨があるが、地球上の動物の多くは体の外に骨格がある。エビやカニや貝類を見ればこれはよくわかることである。確かに外骨格のほうが外敵から身を守るのに適しているし、体内の水分の蒸発を防ぐこともできる。
These days, exoskeleton has another meaning. It can refer to a machine-powered suit made for humans to wear.
(今日では、外骨格には別の意味も出てきている。人間が着用する、機械で動くパワードスーツを意味することがある。)
 パワードスーツにはさまざまな可能性が考えられるが、
It would also help in the care of elderly people who may be unable to move without aid.
(手助けがないと動けないお年寄りの介護にも役に立つはずだ。)
 うーん、私がもっと年をとって、動けなくなる時までに、パワードスーツの開発はどこまで進んでいるだろうか。

 話はまったく変って、中学・高校時代の友人の1人は極度に痩せていたので「シャリコツ(舎利骨)」とあだ名されていた。卒業後、勉学に励んだ結果として、或る一流大学の教授になり、政府機関の委員なども務めたが、今ではかつての面影なく太っている。同期会であった折に、シャリコツの面影はまったくないねえと言ったら、おまえだって学校時代から見れば太っているといわれた。他人のことは言えないのである。

 本多健一『京都の神社と祭り』(中公新書)を読む。現在、京都市内で登録されている神社は約300あるが、それらの中から代表的な9つの神社(下鴨・上賀茂・松尾・稲荷・八坂〔祇園〕・北野・上御霊・下御霊・今宮)と祭を取り上げて、それらの歴史や特徴などを考察した書物である。京都の市街地の変遷と神社の関係や、祭祀の盛衰などが簡潔に紹介されていて読み応えがあった。

10月25日
 午後、英国から来訪した研究者を囲むセミナー、夜は懇親会に出席していた。半日とはいえ英語漬けになるのは疲れる。

 その疲れもあって、先週、第1回が放送された『トミーとタペンス』の第2回を見逃す。『秘密機関』のドラマ化だと書いたが、『NかMか』が原作だという説もあって、確認の必要があったのである。第3回で確認することにしよう。

10月26日
 この1週間は「ワンポイント・ニュースで英会話」を除くNHKラジオの語学番組は前の週の番組を再放送するので、少し気楽に過ごせそうだ。

 1915年10月26日に生まれた亡父の思い出については、この日付の当ブログでいろいろ書いたが、書き落としたこと。阪神タイガースから国鉄スワローズに移り、控え捕手兼代打の切り札として活躍した谷田比呂美選手は、どうも亡父と一時期会社の同僚だったらしく、他のプロ野球選手とは全く別の応援の仕方をしていた。谷田選手のホームランで国鉄が勝ったなどという翌日はスポーツ新聞を全種類買ってきたりしたのである。父の勤務先の会社は、女性社員が多いために男性社員は管理職への道がわりに開かれていたためであろうか、昭和25年(1950年)にプロ野球が2リーグに分裂して、社会人野球の選手が大量にプロ入りしたときに、その影響をあまり受けなかったようで、都市対抗野球などで強豪として名をはせていた。谷田選手はその中で例外的な存在であった。強打の捕手だったためにプロ球界が見逃さなかったのであろう。

10月27日
 大倉崇裕『オチケン、ピンチ』(PHP文芸文庫)を読み終える。大学の落語研究会を題材にした推理小説。私は落語が好きだが、関東で育ったのに京都の大学に進学したもので、大学時代は落語好きを封印していた。京都大学の落語研究会ができたのは私が大学院に進学した後のことではないかと思うが、落語を聞きに出かけたことはない。今から思うと、1度くらい聞いておけばよかったという気がする。

10月28日
 夕方、ダイヤモンド地下街の喫茶店で中年の女性が2人で小型のパソコンを手に俳句の先生に提出する俳句の相談をしているのを見かけた。自分の周囲の事物を観察・写生するのではなくて、ただの言葉遊びとして俳句を作ろうとしているのならば、あまり感心できないことである。それに2人で相談して、句数を稼ごうという料簡が気に入らない。まあ、他人にはその人なりのやり方があるのだと納得することにしよう。

『太平記』(72)

10月27日(火)晴れ

 元弘3年(1333年)5月7日、足利高氏と千種忠顕、赤松円心らは西と南から京都に攻め寄せ、六波羅探題方の河野通治は京都の北の旧内裏の一帯で足利勢を迎え撃ったが、衆寡敵せず敗退した。東寺一帯の戦闘でも妻鹿孫三郎の活躍で赤松軍が勝利した。

 前線での戦いに敗れ、味方の被害が大きいということで幕府軍は六波羅の城に立て籠もろうとする。討幕軍は勝ちに乗じて六波羅勢を追い、5万余騎が六波羅を五条の橋爪から七条河原まで密集して、ほとんど隙間なく包囲したが、東の方角だけはわざとあけて、敵の逃げ道を作っていた。こうすれば容易に六波羅の城を陥落させられるだろうという謀略のためである。

 寄せ手の指揮をとっている千種頭中将忠顕は、城塞の一般的な攻防戦のように六波羅をゆっくりと攻めていると、千剣刃城の楠正成を包囲している幕府方の軍勢が戻ってきて、われわれの背後をつくかもしれない。ここは気持ちを一つにして、一気に攻め落とせと下知する。これはまったく正しい戦法で、第8巻で児島高徳にその臆病さを非難された忠顕であるが、味方に勢いが出てくると、いうことが違ってくるようである。この指示を受けて忠顕に従って出雲、伯耆からやってきた兵士たちが荷運びの車を200台、300台と集めて、その轅(車を引くために、車軸から伸ばした2本の棒)を結び付けてさらにその上に民家を壊して載せ、城塞の櫓の下に材木を山と積んで火をつけて、六波羅の城の木戸の1つを焼き破った。

 このように包囲された六波羅勢の中で、光厳天皇の弟君である天台座主梶井宮尊胤法親王の配下の僧兵たち300人余りが、鎧兜を身につけて(六波羅蜜寺の)地蔵堂の北の門から五条の橋爪へと攻撃を仕掛けた。後醍醐天皇の側近である坊門雅忠、大塔宮の執事である二条良忠の率いる3,000騎を超す軍勢を押しまくり、鴨川の河原を3町(約300メートル)ほど追い回したが、御方の小勢を自覚して深追いはせずに、六波羅の城塞の中に戻っていった。

 包囲する側に比べて、六波羅に立てこもる軍勢は少なくなっているとはいうもののまだその数は5万騎を越えていた。若し籠城軍が足並みをそろえて反撃すれば、まだ形勢を逆転する機会はあったはずであるが、「武家の滅ぶべき運の極みにてやありけん」(第2分冊、69ページ)、日ごろ武勇に名をはせた武士たちもなぜかただ茫然として、あちこちに群がり立ち、逃げ支度をするばかりで、気勢も上がらなかった。

 「名を惜しみ、家を重んずる武士どもだにもかくの如し」(同上)。武士たちが浮足立って、逃げ支度をしているのだから、光厳天皇と、後伏見、花園の両上皇を始めとして、女院、摂関家の女性たち、貴族たちやその侍者たちまで、これまで先頭を見聞したことはない人々なので、武士たちの鬨の声や、矢叫びの声を聞いて、おびえきってしまい、どうすればいいのだろうと消え入るばかりの様子であった。その様子を見て、彼らが頼りにすべき六波羅の2人の探題は、ますます士気を衰えさせるのであった。このように城中が浮足立ってしまったので、夜になると、閉ざされていた木戸を開き、敵から城砦を守るために組んでいた逆茂木を乗り越えて、逃げ出すものが後を絶たなかった。自らの武名を重んじ、あくまで幕府のために戦おうと城塞の中に残る武士は1,000騎にも満たない様子であった。

 六波羅に天皇や両上皇を迎えるというのは最初は日野資名・(柳原)資明兄弟の考えであったのだが、これが必ずしも安全な策ではなくなってきた。資名は光厳天皇に近侍しつづけているが、『太平記』のこのあたりの部分には資明は出てこない。あるいは別の場所で、新たな策を練っていたのかもしれない。吉川英治が『私本太平記』で示唆しているように、六波羅をめぐる動きとは別に西園寺家のような鎌倉幕府に近い貴族は独自に自衛体制を築いていたと考えるべきで、光厳天皇や両上皇も、もう少し別の動き方を考えてもよかったのではないかと思われる。いずれにせよ、六波羅の滅亡は旦夕に迫っている。

父の思い出を辿る

10月26日(月)晴れ

 私の父は、もう亡くなってから久しいが、1915年10月26日生まれなので、生きていれば100歳になる。

 「父の思い出を辿る」という表題はあいまいで、さまざまに受け取られそうであるが、ここでは父が私に語った思い出話の中で、父の周辺にいた有名人についての思い出を、辿ってみようと思う。思い出話というのは不正確なものだが、有名人についてはある程度の正確さをもってその言動を確認できる。有名人にこだわるのはそういうわけからである。

 小学校時代に関東大震災に出会い、家が焼失して三井財閥の誰かの邸宅の植木小屋に住んでいたことがあるらしい。三井家というのはいろいろ分家があったようだが、とにかくその中のどこかに私の祖父が世話になっていたようである。この時、ごみを捨てに出かけたら、タヌキを見かけて大騒ぎになったという話をよくしていた。近頃、東京のかなり都心の方でもタヌキが出るという話を聞くが、大正時代からしぶとく生き延びてきたようである。
 父は次男であった。その兄である私の伯父がなかなかの秀才で、府立四中(現在の東京都立戸山高校)に入学したが、その厳しい校風についていけず、立教中学にかわり、一時期体調を悪くしたりしたが、東京商大(現在の一橋大学)に進学して、外務省に入省したが、やめて満州にわたり、終戦直後に没した。父は、その伯父の跡をなぞって立教中学に進んだ。そこでエドワード・ガントレット(Edward Gauntlett, 1868-1956)に英語を学んだという話をよくしていた。ガントレットの妻は山田耕筰の姉ガントレット恒である。また英語の先生の中に千葉周作の孫がいたという話も聞いたことがあるが、これは確かではない。

 その後、慶應義塾大学に進んだ。慶応閥の大企業に入社しようという計画を持っていたためであると生前よく話していた。計画性があるといえばあるが、あまり大した計画性ではないと、父親に似ずまったく計画性がない息子は思う。食堂で帽子をかぶったまま食事をしていて、小泉信三に「帽子をとりたまえ」と注意されたのが、小泉と口をきいた唯一の機会であると話していた。あまり自慢できる話ではない。
 大学ではマンドリン・クラブに入部して活動した。クラブで一緒だったのが後にフルート奏者として有名になる吉田雅夫(1915-2003)でその後も連絡は保っていたらしい。また作家の堀田善衛(1918-1998)もマンドリン・クラブの部員で面識があったようである。
 そのほか、箱根駅伝に出場するという話もあったらしい。とにかく現在と違って陸上競技経験者でなくても20キロほどの距離を走れる学生ならば誰でもよいと、かり集めて出場するという時代であったのだが、走ってみるとほかの学生が自分よりも速く走るので、劣等感を感じていたところ、慶應が関東学連を脱退したため、走らずに済んだという。調べてみると、父が在学していたのは昭和8年(1933年)から14年(1939年)までの間であるが、13年と14年は確かに慶応は箱根駅伝に出場していない。なお、1934年に慶応は総合3位、35年も3位、36年は4位と上位の成績を収めているが、この時期には菅沼俊哉とか竹中正一郎のような名選手がいた。なお、この時期の早稲田には後に早稲田大学、SB食品の監督として瀬古俊彦らの選手を指導した中村清がいた。
 それで思い出すのは、俳優として、また競歩の選手として活躍した細川俊夫(1916-1985)と面識があったらしいことで、都電に乗っていたら、細川が明治神宮外苑で競歩の練習をしている姿を見たと話していたことがある。細川はもともと陸上長距離の選手だったのだが、あるマラソン大会で走っていて腹が減ってどうにも我慢ができなくなり、競歩の方が腹が減らないだろうと競歩に転校したという話を読んだことがある。何年か前に国立近代美術館フィルムセンターで石井輝男監督の『黒線地帯』を見ていたら、主人公の天地茂のライバルとなる新聞記者役で細川俊夫が出ていて、物語の進行とは全く別に、懐かしく思ったりした。(私の子どものころの横浜の町の様子が出てくるので、懐かしかったという部分もある。)
 これもスポーツと関連するが、大学時代の親友の1人がベルリン・オリンピックの棒高跳びで3位になった大江季雄(1914-1941)であったという話も聞いた。

 慶応出身の作家の1人である柴田錬三郎(1917-1978)によると、この頃、慶應の学生は田町の駅を降りてからまっすぐに大学に向かわずに、筑前琵琶の大家であった高峰筑風の家の前を通って登校するものが多かった。筑風の令嬢の高峰三枝子(1918-1990)が家の前で掃除をしている姿を見たいからであったという。父はこの話を否定して、自分の学生時代には、すでに高峰は女優になっていて、時々慶応にも遊びに来ていた、その頃の大学は男ばかりだったからよく目立ったというのだが、どちらが正しいかすぐには決めがたい。
 高峰三枝子というと、私の大学時代の恩師の1人が学生とのコンパの際に、この歌はあまり歌わないのだがと言われながら、高峰の戦時下のヒット曲「湖畔の宿」を歌われたことがあるのを思い出す。その先生と高峰三枝子は8歳ほどの年齢差があったが、戦時下の厭戦気分を共有したという点では同じ世代を生きたといえるのであろう。それと対比してみると、私と松坂慶子さんの年齢差は7歳であるが、別に何かの気分を共有するという感じがまったくないのは、いいことか悪いことかわからない。
 その先生や私の父親、伯父たちの世代は働き盛りに戦争に巻き込まれて、本来ならばできるはずの社会的な活動ができなかったし、人生の楽しさを十分に享受できなかったのだが、ひるがえって戦後の平和の中で生きてきた自分はどうだったか、全力を尽くして生きてきたかと思うと内心、忸怩たるものがないわけではない。

『太平記』(71)

10月25日(日)晴れ

 元弘3年(1333年)5月7日、倒幕の意思を明らかにした足利高氏は篠村から京都の西北の方面に攻め入り、千種忠顕、赤松円心らの兵は西南の方角から京都に迫った。六波羅探題方の河野通治は、内野で足利軍を迎え撃ったが、衆寡敵せず敗退した。

 八幡、山崎から京都に迫る軍勢に対しては、六波羅探題は東寺に兵を入れて、防戦しようとした。そこへ押し寄せたのは赤松円心が率いる3,000余騎の兵力である。円心の長男である信濃守範資が守りを固めている逆茂木を取り除くように指令を出すと、赤松一族の宇野、柏原、佐用、真島の血気にはやった若い武士たちが200余騎ほどが馬を乗り捨てて走り寄り、城塞と化した東寺の様子を窺った。西は羅城門(らしょうもん)の跡地でその土台が残っているあたりから、東は八条通りが鴨川に接するあたりまで材木をえぐりぬいて頑丈に城柵を組み合わせ、その前には杭を打って縄を張り巡らして、騎馬武者たちが侵入しようとするのを防ごうとし、さらにその前に広さ3丈(約9メートル)ばかりの濠を掘って、流れる水を引き入れていた。飛び込んで攻め入ろうとしようにも濠の深さが分からず、橋を渡って攻め込もうにも橋を引っ込めてしまっている。

 どうしたものかと考えているところに、8巻にも登場した播磨の国の住人妻鹿孫三郎長宗が馬から飛び降りて、濠に自分の弓を差し下してその深さを計ってみた。すると弓の上の方が水につからなかったので、これなら大丈夫自分は自ら頭を出して渡れると5尺3寸(およそのところで1メートル60センチ)の太刀を抜いて肩にかけ、貫(つらぬき)という騎馬武者がはく毛皮の沓(くつ)を脱ぎ捨てて、「かつぱと飛び浸かりたれば」(第2分冊、65ページ、勢いよく水の中に飛び込んだところ)、水は鎧の胴の最上部である胸板のところに達しなかった。これを見てその跡に続いていた武部七郎という武士が、「濠は浅かりけるぞ」(同上)と、身長5尺(約1メートル50センチ)ばかりの小男が、大男の妻鹿と自分の身長差を考えずに飛び込んだので、水の中にはまってしまった。それを長宗が見て、自分の上巻に捕まって水から出ろと云う。武部七郎は妻鹿の鎧の上帯を踏んで肩に乗りかかり、一跳びすると対岸に着いた。

 妻鹿はからからと笑って、「御辺(ごへん)はわれを橋にして渡りたるや。いでさらば、その塀引き破つて捨てん」(第2分冊、66ページ、御辺=貴公、おまえさん)と言いながら、岸より上へ飛びあがり、塀を支える柱が、塀から4,5寸上に突き出て見えるのに手を掛けて、「えいやえいやと引くに」(同上)、掘りあげて山のようになっていた上土が、塀とともに5,6丈崩れて、濠は埋められて平地になった。これを見て、築地塀の上に築かれていた300カ所以上の櫓から籠城している武士たちが「差しつめ差しつめ散々に射る。その矢、雨の降るよりも繁し」(同上)。長宗の鎧兜にその矢が突き刺さったままで櫓の下に走り込み、寺の守護神として山門の両側に立つ金剛力士の前に太刀を突き立てて上唇を噛んで立つ妻鹿の姿は、仁王像と見間違えるほどであった。

 東寺、西八条、針、唐橋に控えていた六波羅方の兵1万余騎が木戸口の合戦が大変だと騒いで、こぞって東寺の東門の脇から暑い雲が雨を帯びて夕暮れの山から出るように、軍勢が真っ黒に密集して、討ちかかってきた。妻鹿も武部も今にも討たれてしまいそうであったので、佐用兵庫助(名越高家を射止めた佐用左衛門三郎と同一人物と考えられている)範家を始め、赤松一族の得平源太、別所六郎左衛門、同じく五郎左衛門らが迎え撃って必死に戦った。彼らを戦死させてはならないと、赤松円心、その嫡男の範資、次男の筑前守貞範、三男の帥律師則祐、赤松一族の真島、上月(こうづき)、衣笠の武士たち、それに美作国の本姓菅原を名乗る武士団の一党、合わせて3,000余騎が一斉に刀を抜いて応戦しようとする。「六波羅勢一万余騎、七縦八横に破(わ)られて、皆七条河原に追ひ出ださる」(第2分冊、67ページ、七縦八横に=縦横無尽に)。

 妻鹿孫三郎の剛勇ぶりが軍記物語独特の文体で生き生きと描かれていて読み応えがある。孫三郎は第8巻では長時、ここでは長宗と記されているが、現在の姫路市飾磨区妻鹿に住んでいた武士で、既に述べたように9世紀に実在した力士薩摩氏長の子孫だという。余計な話だが、黒田孝高(官兵衛、如水)に仕えてその剛勇で知られ、黒田節に名を残した母里太兵衛も妻鹿の出身とされる。あるいはどこかで孫三郎の血を引いていたのかもしれない。黒田如水の先祖もまた、赤松一族に従う武士であったと考えてよいのではないか。

 それにしても、1万余騎の六波羅勢が3,000余騎の赤松勢に押しまくられて敗走するというのは、理解できない。しかも東寺周辺にかなり厳重な防御線を張り巡らしていたのだから、余計に不可解である。妻鹿の武勇が強調されているが、六波羅方の士気が低かったうえに、内通者、内応者がいたのではないかと推測される。さらに戦線を離脱したり、降伏したりしたものも少なかったのであろう。六波羅方は弱り目に祟り目という状態に陥ってきた。さて、戦局はどう展開していくのであろうか。

松尾義之『日本語の科学が世界を変える』

10月24日(土)晴れ

 10月23日、松尾義之『日本語の科学が世界を変える』(筑摩選書)を読み終える。今年の初めに刊行された書物で、私が買ったのは第4刷である。そのくらい反響の大きかった書物を読まずに見過ごしていたというのは、われながらみっともないと思う。よく読まれ、大きな反響を読んだ書物を読まずにいるというのは、読書人にありがちなことではあるが、自分の専門に関係する領域の書物ならば、のんきなことをいってはいられないのである。

 この書物の主題は、(英語ではなく)日本語で考えた科学者たちの研究が、世界を変えるような多くの研究成果を生み出しているということである。著者の主張は書物の表題にほぼ要約されており、書物を構成するそれぞれの章の内容も見出しの通りで、きわめてわかりやすい。この書物よりも出版されたのは後になるが、私が読んだのは先になる施光恒『英語化は愚民化』(集英社新書)もこの書物と重なる部分が大きく、(台湾で生まれて日本語で高等教育を受けた著者の発言として)日本語の科学研究における適切性(といっていいのかどうかはわからないが)を実証することで、この書物の主張を補強しているといえるだろう。

 この書物の重要性は、科学研究における言語の問題を様々な角度から考察していることにある。著者は理科系の大学の卒業者で、長年科学ジャーナリストとして活躍してきた経験を踏まえて議論を展開している。
 第1章「西欧文明を母国語で取り込んだ日本」では日本人が欧米の科学の成果を日本語に翻訳して科学研究を行ったことが日本における科学研究の隆盛を招いたと論じている。(数学や理科の授業は英語で行っている国が少なくないが、そのような国々では、すぐれた科学研究が展開されているとは言えないというのである。)
 第2章「日本人の科学は言葉から」では欧米の科学用語が日本語に翻訳され、その苦労を通じて日本人が科学的な概念を自分のものとしてきたことが述べられている。ここでは幕末維新期の日本の知識人たちが、漢語を用いて欧米の科学用語を日本語化したことの意義が強調されている。
 第3章「日本語への翻訳は永遠に続く」では著者の経験を踏まえて、日本人の科学研究は日本語によって行われており、そのために海外の成果が常に日本語に翻訳されなければならないが、そのことが新たな研究の可能性を開拓していることが論じられている。
 第4章「英国文化とネイチャー誌」は、著者と英国の「科学論文誌」である『ネイチャー』誌との関係を紹介しながら、日本には日本語の科学体系があり、英語では説明しきれない部分もあることなどが主張されている。
 第5章「日本語は非論理的か?」では非論理的であるどころか、独特の論理を持ち、科学研究を進めていくうえでその独自性を役立てることができると論じられている。ここは科学の哲学と方法論を踏まえながら、もう少し立ち入った議論を展開してほしい個所であり、日本語の構造と日本の伝統的な文化のどちらがこの際重要かについての考察も必要であろうと思う。
 第6章「日本語の感覚は世界的発見を導く」では「日本語でなされた思考作業によって、世界的な成果がなされた」事例として、中間子論と中立説を取り上げ、日本語による研究の意義を強調している。
 第7章「非キリスト教文化や東洋というメリット」では日本人が欧米とは全く異なる視点を持つことによって、科学の世界でも独自の着眼点をもって研究を進めていることの利点を論じている。
 第8章「西澤潤一博士と東北大学」では、東北大学の西澤潤一教授の多岐にわたる業績を紹介し、「日本語は、工学や技術を進めるうえで、メリットを持った言語かもしれない」(183ページ)という仮説を展開している。
 第9章「ノーベル・アシスト賞」では、日本ではノーベル賞受賞に至る研究をアシストするような研究が多く行われてきたという事実が、列挙されている。
 第10章「だから日本語の科学はおもしろい」では日本語によって表現された科学的な概念が新しい科学の展開の可能性を秘めているということが列挙されている。それは日本だけでなく、世界の科学の発展に役立つものではないかと論じられている。

 以上、かなり羅列的ではあるが、日本の科学者たちが日本語で思考することによって積み重ねてきた科学的成果の世界的な意義について論じている。注目すべき点は、日本語の表記が(そしてそれに引きずられた日本人の思考が)表意文字である漢字の長所に影響されて直観力に優れているという指摘ではなかろうか。他のところでも論じたが、日本語の表記上の特徴は表音文字であるかなと、表意文字である(とも言い切れないが)漢字とをそれぞれの特徴を生かしながら巧みに使いこなしていることであり、これは実は古代のメソポタミア文明やエジプト文明の表記法にもみられる特徴なのである。表音文字であるアルファベットのみを使用して、ギリシア・ローマ以後の文明は発展したのだが、その結果として忘れられたものもあるのではないだろうか。日本語がかなと漢字を併用しているのは、それなりの歴史的な背景があるのだが、その意義を改めて見直してみる必要があるのではないかと思っている。もちろん、松尾さんが指摘するような「実学」に代表される日本の学問的な伝統や、もっと広い文化、生活の中で生かされてきた技術に目を向ける必要もあるだろう。
 著者の主張のすべてに賛同することはできないけれども、大いに示唆に富む書物である。 

ダンテ・アリギエリ『神曲 煉獄篇』(16‐2)

10月23日(金)晴れ後曇り

 煉獄の第3環道でダンテは北イタリアの宮廷で活躍したマルコ・ロンバルドの霊に出会う。地上から「あらゆる美徳の一切」が失われた理由を尋ねるダンテに対し、深いため息を漏らし、その後、次のように答える。

「君ら生ける者達は、あらゆる事象の原因を
ただ天上に帰する、まさしくそれが
すべてを運行に合わせて必然により動かしているかのように。

もしそうであるならば、君らのうちに
自由意志は存在できなくなり、そのため
善には喜び、悪には死で報いることは正義でなくなる。
(240ページ) 地上に生きる人間たちは天空の世界によって地上のすべての出来事が決定されていると考えている。しかし、1人1人の人間には自由意志が備わっているので、人間は自分の意思でよいことをできるし、悪いこともできるという。マルコは続けて、

天空が君らの活動の始点ではある。
すべてがそうだとは言わぬが、しかしそう我が言ったとしても、
君らには善と悪を明らかにする光と、

そして自由な意志が与えられている。それは、
空との最初の戦いで苦戦するが、
もしも正しく育まれたならば、ついにはすべてに打ち勝つ。

さらに大いなる力とさらに優れた本性に
自由なる君らは従うのだ。それこそが
君らのうちに知性を創造するが、それは空が支配下に置いていないものなのだ。
(240-241ページ) 自由意志は神から与えられたものであり、絶対の神と直接関係をもつために天空の影響を受けない。諸天空の力は人間の衝動に影響を与えるが、人間は神与の理性と自由意志とによってそれを乗り越えなければならない。(ダンテは天体の運行が社会や個人に影響を及ぼすということは信じていた。しかし、それがすべてではないというわけである。) すべてに勝る神の力に従って人間はさまざまな試練を乗り越えなければならないのである。

 したがって、ダンテを取り巻く世界が道を外れているものだとすれば、それは神意に基づくものではなく、人間の自由な行為の結果と考えるべきである。特に社会を乱しているのは「富」への愛着である。
最初に小さな富の味を覚えると、
そこで欺かれ、その後ろを走ってついていく、
導き手か抑え手が彼の愛を矯(た)めなければ。
(242ページ)

 人々が地上世界の富をめぐって争って、世の中は乱れる。そして、その原因となったのは「邪悪なる導き」(244ページ)である。
ローマは善なる世界をなした後、
常に二つの太陽を持っていた。それらは二つの道を
照らして見せていたのだ。一方は世俗の、他方は神の。
(244ページ) 中世の世界は、世俗世界の指導者である神聖ローマ帝国皇帝(抑え手)と神の世界の(地上における)指導者であるローマ教皇(導き手)とがそれぞれの仕事を分担・協力することによって秩序を保ってきた。ところが
一つがもう一つを消し去り、剣は
司教杖に結びつけられた。両者が
無理強いされて一つになれば、忌むべき事態が生ずるのは当然である。
(同上) ローマ教皇が皇帝と対立するだけでなく、自ら世俗世界の君主として武力を行使し、各国の政治に介入するようになった。

もはや断言せよ、ローマ教会は
己のうちに二つの統治権を混ぜ合わせようとしたために、
汚泥の中に倒れるであろうと、己と積荷を汚すであろうと。
(246ページ) 教皇と皇帝がそれぞれの支配する領域を守り、お互いの支配に干渉しないこと、今日的に言えば政教分離の原則を守ることが社会を平和に保つ道であると結論される。ダンテとウェルギリウスを第4環道へと導く天使の出現を感じて、マルコは姿を消す。

 『地獄篇』が34歌から構成されているので、煉獄篇の16歌を読んだところで、『神曲』全体の半分を読み終えたことになる。第16歌では世俗的な権力と宗教的な権力との対立が取り上げられたが、この問題はダンテが一生を掛けてその解決に取り組もうとしたものであった。政教分離の問題は今日でも重要な問題であり、そこにダンテの文学の今日性、あるいは永遠性の一端を見ることができる。
 これまでも何度か『神曲』を読んできて、「煉獄篇」までは何とか読み通すことができたが、「天国篇」で躓いて全部を読み通すことができなかった。だから半分を読み終えたからといっても、気持ちを緩めず、完読を目指していこうと思う。

今野真二『常用漢字の歴史』

10月22日(木)晴れ

 10月21日、今野真二『常用漢字の歴史』(中公新書)を読み終える。

 「常用漢字」というと昭和56年(1981年)にそれまでの「当用漢字」に代わって内閣告示され、平成22年(2010年)に改定された「常用漢字表」を思い浮かべる人が大半であろう。しかし、この書物はもう少し広い視野から日本語の中での漢字の扱いについて論じようとしている。
 日本語は普通、ひらがな、カタカナ、漢字、時としてローマ字を使いながら表記される。その中で、どの程度漢字を使うか、またどのような漢字を使うかということが古くから議論をされてきた。漢字の字体や音訓、送り仮名、筆順などについても同様である。「日本語が漢字とどのように向かい合ってきたか、それはつまり日本語使用者が漢字をどのように使ってきたかということであるが、そうした歴史的な観点を織り込みながら『常用漢字』ということについて考えていきたい」(20ページ)と著者は述べる。日本語表記における漢字の取り扱いをめぐる様々な議論を紹介しながら、著者は明治以後の日本の言語政策および言語教育政策についての自らの意見を多く述べており、傾聴すべき部分が少なくない。

 この書物は
序章 常用漢字とは何か
第1章 漢字制限の歴史
第2章 さまざまな常用漢字表
第3章 字体をめぐる問題
第4章 音と訓とはどのように決められたか
第5章 常用漢字は常用されてきたか
第6章 今、漢字はどう使われているか
終章 日本語と漢字
の各章からなり、それぞれの章の標題を見れば、その内容はかなりはっきりわかるはずである。読んでいていろいろと気になる部分が多く、論評し終えるのにかなり時間がかかりそうであるが、とりあえず、今回は第1章についてだけ取り上げておきたい。

 第1章「漢字制限の歴史」では幕末から現在に至る漢字制限という発想と議論の展開を辿り、その中で提案された内容を整理している。漢字制限の出発点ともいうべき議論は慶応!!2年12月(1867年1月、普通慶応2年は1866年とされるのだが、日本ではまだ太陰太陽暦である天保暦を使っていたので、年の始まりがグレゴリオ暦を使う場合とずれていたのである)に前島来輔(密)が将軍慶喜に提出した「漢字御廃止之議」という建白書である。ここで前島は日本が先進列強諸国に伍して富強を図るためには日本語の表記をかなに統一して教育の普及を促進すべきだと述べている。
 明治5年(1872年)の学制の公布を受けて、文部省は漢字辞書である『新撰字書』の編纂に着手する。そこでは世間で最も普通の漢字として3167字が挙げられていたが、その後の急速な社会の変化の中で漢字をめぐる状況は激変し、今日の目どころか、大正時代の目から見ても、普通に見かけられるとは思われない漢字が含まれていたようである。
 明治6年(1873年)に福沢諭吉は『第一文字之教』を著し、日常的に使用する漢字を2,000字から3,000字に節減することを提案した。さらに明治19年(1886年)に矢野文雄(龍渓)が『日本文体文字新論』の中で、3,000字程度に漢字の使用を制限すべきであると述べ、自らが社主であった『郵便報知新聞』でこの主張を実践しようとした。
 明治33年(1900年)に教育の質的な向上を目指す教育関係者の団体である帝国教育会の国字改良部が「国字国語国文ノ改良ニ関スル請願書」を内閣及び文部省等各省の大臣、貴族院、衆議院両院議長に提出した。そこでは漢字の使用を節減すること、またその形・音・義についても標準を定めるべきことが盛り込まれていた。この議論を深めて、国字改良部漢字部では、明治34年(1901年)に漢字節減の標準について議定しているが、この議定は今日から見ても示唆に富むものであったと著者は評価している。この議定はまた、漢字の字種を制限するのではなく、使い方を制限しているところに特徴があるという。(請願書を受け取った方の対応が記されていないのが問題である。)
 その一方で教育の現場では、明治33年(1900年)に第3次小学校令が公布され、この後40年にわたって小学校教育を規定することになる。この法令に基づいて「小学校令施行規則」が制定されるが、その16条には3つの表が掲げられており、第1表では小学校で教える際に使うかなとその字体、第2表ではかなの音と仮名遣いについて、第3表ではどのような漢字を使うかについて示している。ここでは1200字が掲げられており、現在の小学校で教育する1006字に比べれば多いが、これまでの議論の中で挙げられてきた3000字に比べるとだいぶ少ない。また、この一覧表では文字だけが示されていて、音訓については示していないのが、現在の「常用漢字表」と異なる。

 この章では最後に、日本語をローマ字で表記すべきだという議論の系譜をたどっている。
 日本語のローマ字化論を最初に展開したのは西周であり、彼は明治6年(1873年)に創刊された『明六雑誌』の巻頭論文「洋字ヲ以テ国語ヲ書スルノ論」でローマ字使用が読書層を拡大し、大衆の表現力を向上させると論じた。明治17年(1885年)に羅馬字会が発足するが、明治25年(1892年)には解散する。しかし、細々ながらローマ字化運動は継続する。ローマ字で日本語を書くことは現実離れした主張のように思われるが、かなり多くの人々が(実は私もそうであるが)日本語入力ソフトにローマ字入力をしているという現実もあると著者は指摘する。また日本語教育に取り組む際にも、ローマ字使用が現実性を持ってくるはずである。
 「漢字以外の文字によって日本語を書くということをつきつめることによって、日本語にかかわるいろいろなことが見えてくることがある。そういう意味合いにおいても、仮名文字論、ローマ字論は現代的な課題を多く含んでいると考える」(54ページ)と著者は指摘している。さらに明治7年(1874年)に清水卯三郎が平仮名だけで著した純和文の化学入門書『ものわりのはしご』について紹介しているが、これは別の場所に挿入するほうがよかったのではないかと思う。

 仮名と漢字とを混用して表記する日本語のような例は、他にあまり例のないものである。そのことの長所と問題点を詳しく見ていくことは、単に国語教育だけでなく、外国語教育にも役立つはずであり、そういうことからも示唆に富んだ書物だと思っている。これからもできるだけ詳しくその内容を紹介・検討していくつもりである。 

日記抄(10月15日~21日)

10月21日(水)晴れ

 10月15日から本日までの間に経験したこと、考えたことなど:
10月15日
 NHKラジオ「実践ビジネス英語」の”Quote...Unquote"のコーナーで紹介されたイプセンの言葉:
The majority is always wrong, the minority is rarely right.
             --Henrik Ibsen
                (Norwegian playwright, theatre director and poet, 1828-1906)
(多数派は常に間違っているが、少数派が正しいことはまれである。)
ということは、正しい意見はまれにしか見いだされないということで、ノルウェーから離れて生活することが多かったイプセンらしい物の見方であるといえよう。

 同じく「ラジオ英会話」のなかに出てきた表現で
Good question. (いい質問だな。)
というのは、「相手の質問に答えられない、あるいはこたえない方がよいと判断したときにも使う」と説明されていた。もちろん、文字通りの場合もあるが、これ以上この話題にはかかわりたくない、これでおしまいという意味にもなるそうである。

 カルチャーラジオ『弥次さん喜多さんの膝栗毛』の第3回:大坂で暮らしていた一九は寛政6年に再び江戸に出た。この当時、寛政の改革の余波で黄表紙本の作者が払底していたため、文才があり、絵も描ける一九は黄表紙の執筆を依頼される。こうして彼は戯作の世界に足を踏み入れるが、最初のところは山東京伝の影響の強い作品を書いていた。

10月16日
 NHKラジオ「ワンポイント・ニュースで英会話」は”Search for Queen Nefertiti's Tomb" (ツタンカーメンの墓に”隠し部屋”)というニュースを取り上げた。
 Nefertiti is thought to be King Tutankhamun's mother-in-law. She lived more than 3,000 years ago, when ancient Egypt thrived.(ネフェルティティはツタンカーメンの義理の母であると考えられている。彼女は古代エジプトが繁栄していた3,000年以上昔に生きていた。)
 これだけでは何のことかわからない。ネフェルティティは古代エジプト3大美女の1人に数えられる美貌の持ち主で、紀元前14世紀に多神教が支配的であった古代エジプトでアトンという唯一神を尊崇する宗教改革を行ったアメンホテプ4世の妃であり、2人のあいだの娘がツタンカーメンの妃となった。考古学者たちがツタンカーメンの墓を調べなおしてみたところ、2つの隠し部屋があることが分かり、その1つが歴史上の謎とされてきたネフェルティティの墓である可能性が高いということになって、本格的な調査が行われようとしているという話である。

 同じく”Enjoy Simple English"の時間では日本の昔話「文福茶釜」を”Raccoon Dog Teakettle"として放送した。『斎藤和英大辞典』で「ちゃがま(茶釜)」の項を引くと、A tea-kettle; a boiler (used in tea-ceremony)(中略) ▷文福茶釜 Tea-kthe Bewitched ettle -- the Enchanted Boilerとあった。いずれにせよ、人間とタヌキが仲のよい隣人同士として暮らしていくと云うのは望ましい状態ではなかろうか。放送ではタヌキが見世物になって恩人を助けるというところで終わっているが、昔話では、金持になった恩人が茶釜をまた寺に納めるというところで終わっていたはずである。

 熊倉一雄さん、橘家円蔵師匠の訃報が届く。熊倉さんはテアトル・エコーを本拠として、舞台俳優、演出家として多くの喜劇、とくに井上ひさしさんの作品の上演を手掛け、また声優としては『ひょっこりひょうたん島』の海賊トラヒゲ役や、エルキュール・ポワロの吹き替えなどで活躍された。調べてみると、映画『蟹工船』(山村聰監督)や『幕末太陽伝』にも出演されている。これらの作品は見ているのだが、どこでどの役だったのか気づいていないのはうかつである。円蔵師匠は高座に接したことはないが、ラジオではよく聞いたし、歌謡番組の司会をされていたのを聞いていた時期もある。そそっかしい人物を演じさせたら天下一品で、愛嬌のある明るい芸風の噺家さんであったが、頼りないというか、いい加減なところもあり、それでも憎めないのがいいところであったのであろう。お二人のご冥福を心からお祈りしたい。

10月17日
 NHKラジオ『攻略!英語リスニング』では”Clara Schumann"を取り上げた。
Clara Schumann was one of the greatest pianists of the 19th century, a composer, too, but she's chiefly remembered as a pianist. She was a great virtuoso, one of the first to play from memory and also one who was interested in making the piano sing, not just using it as a way of showing off technical pyrotechnics.
She was married to the composer Robert Schumann. They'd first met when she was eight and he was seventeen.
(クララ・シューマンは19世紀最高のピアニストの1人であり、作曲家でもあったが、もっぱらピアニストとして記憶されている。彼女は卓越した技量を持った名演奏家(ヴィルティオーゾ)であり、暗譜で演奏を始めた草分けの1人であり、ピアノを「歌わせる」ことに関心を持っていた。技術的な華々しさをひけらかすのではなしに。
彼女は作曲家のロベルト・シューマンと結婚していて、クララが8歳でロベルトが17歳の時に初めて出会った。)
 virtuosoはもともとイタリア語であるが、確か森鴎外の書いたものの中に「バーチュオーゾ」と英語読みで出てきたのを見かけたような記憶がある。クララは女性だから、イタリア語ではvirtuosaが正しい。シューマン夫妻の同時代人で、同じくロマン派の音楽家に数えられるフランツ・リストは「技術的な華々しさをひけらかす」演奏の代表的な1人であった。
 クララ・シューマンをめぐっては、ちょっと後悔していることが2つある。1つは45年ほど昔のことであるが、大阪にあった北野シネマでカサリン・ヘップバーンがクララを演じている映画『愛の調べ』(クラレンス・ブラウン監督)を上映していたのだが、その頃はこの種の映画を敬遠していたので見なかったことである。もう1つはレコード屋でクララ・シューマンの作曲したピアノ協奏曲のCDを見つけて、試聴はしたものの買わなかったことである。

10月18日
 ニッパツ三ツ沢球技場で横浜FC対京都サンガFCの対戦を見る。0-0で引き分け。先発出場した三浦知良選手が負傷退場したのが心配である。

 NHKテレビでアガサ・クリスティー原作の連続ドラマ化『トミーとタペンス――2人で探偵を』の第1回を見る。このシリーズの第1作『秘密機関』のかなり原作から離れたドラマ化。原作は第一次世界大戦後に設定されているが、このドラマでは第二次世界大戦後になっており、原作では久しぶりにあった昔の友人同士⇒結婚という設定なのだが、ドラマではすでに結婚して、中学生くらいの子どもがいる。原作をどのように作り変えているかを見ていく楽しみに満ちているという点では、見逃せない作品である。

10月19日
 NHKラジオ「まいにちフランス語」ではアルザスの料理の話が話題として取り上げられた。アルザスはフランスとドイツの国境付近にあり、19世紀の終わりから20世紀の初めにかけてはドイツ領であった。もともとドイツ系の文化の影響の強い地方で、料理についても
Certaines des spécialités alsaciennes se retrouvent à quelques differénces près dans les pays de culture germanique, en Allemagne, en Autriche et dans certaines régions d'Europe centrale.
(アルザスの名物料理のいくつかは、多少の違いはあるが、ドイツ語文化圏のドイツ、オーストリア、それに中央ヨーロッパのいくつかの地域にもある。)
とのことである。

10月20日
 アルザスの料理をめぐる話題の続き:
Il exist un proverbe alsacien qui dit: ≪En Allemagne, c'est beaucoup, mais ce n'est pas bon. En France, c'est bon, mais ce n'est pas beacoup. En Alsace, c'est bon et c'est beaucoup.≫
(アルザスには次のようなことわざがある。「ドイツでは、量はたくさんあっても、おいしくない。フランスは、おいしいけれど、量が少ない。アルザスは、おいしくて、量も多い。」

 NHKラジオ”Enjoy Simple English"では落語「六尺棒」の英語版”Six-foot Pole"を放送した。道楽息子が夜遅く帰宅すると、父親が待っていて、おまえは勘当されたからもう他人で、家に入れないという。押し問答していると、父親が六尺棒をもって追いかけてくる。逃げ回っていた息子がうまく家に入り込んで、今度は父親を締め出す。毎週、火曜日の放送は古典落語を短縮・英訳して放送するのだが、結構面白い。

 サミュエル・ジョンソンの『幸福の探求』を読み直し終える。

10月21日
 NHKラジオ『実践ビジネス英語』の”Quote...Unquote"のコーナーで紹介されたフランツ・カフカの言葉:
Anyone who keeps the ability to see beauty never grows old.
-- Franz Kafka (Czech writer of novels and short stories, 1883-1924)
カフカは若くして死んだからこんな言葉を残したが、もっと長生きしていたら、また別の感想を持っただろう。

焼きうどん

10月20日(火)晴れ

焼きうどん

ちょっとビールというところから始めて
飲み歩き、
締めに焼きうどんを食べる
おにぎりでもなく
お茶漬けでもなく
焼きうどんにこだわるようになったのは
いつ頃からだろうか

焼きうどんの思い出は
学生運動の想い出だ
50年前に
あちこちの大学の学生たちが
日韓条約の締結に反対し
行動していたときに
その1人として
立て看板を作ったり
ビラをまいたり
会議や打ち合わせに出たりで
授業にも出ずに走り回っていた
そして毎晩
夜遅く、
年寄りの夫婦がやっている
小さな店に立ち寄っては
焼きうどんを食べていた
おかげで1年長く
大学にいることになった
焼きうどんは
落第の想い出と結びつく

あの時の焼きうどんと
今の焼きうどんとは
同じ味だろうか
ふりかけられている海苔は
多くなっているが
味そのものの記憶ははっきりしない
50年というのは長い年月だ
それでも
時の流れの向うの
焼きうどんの味を
思い出そうとする

どんなふうに世の中が
変わってきたか
焼きうどんを手掛かりにして
考え直そうとする

ヴォルテール『カンディード』

10月19日(月)曇り後晴れ

 ヴォルテール『カンディード』(光文社古典新訳文庫、斉藤悦則訳)を読み終える。この作品の中でも取り上げられている1755年のリスボンの大地震を扱った「リスボン大震災に寄せる詩」が付け加えられ、作品をめぐる時代背景がより鮮明にされているのが特徴的である。

 ヴォルテールはルソーとともに18世紀のフランスを代表する思想家の1人である。彼らの思想と著作とがフランス革命の知的な背景となったことは受験知識的にはよく知られているが、彼らが具体的にどんなことをいっていたのかを知り、語る人は少ないのではなかろうか。ヴォルテールの著作の中で、現在、もっともよくよまれているのがこの『カンディード』であるというのは確かであるが、同時にいろいろと考えさせられることでもある。

 ヴォルテールが『カンディード』を発表した1759年に、英国ではサミュエル・ジョンソンがわが国では『幸福の探求』と訳されて岩波文庫に入っている(朱牟田夏雄訳)『アビシニアの王子ラセラスの物語』を発表している。この2つの小説は、世間知らずの若者が各地を遍歴して人生の意味を問うという物語の展開において類似しており、出版当時からさまざに比較され、論評されてきた。地震や暴風雨のような自然災害に加えて、戦争が起きたり、政府高官が処刑されたり、美女が凌辱されたり、主人公が巨万の富を手に入れたり、だまされて財産を失ったりと『カンディード』の世界が波乱に富んでいるのに対し、『ラセラス』の方は登場人物があちこちの賢人のもとを歴訪して回るというのが主な筋で、物語の展開にそれほどの起伏はない。ただ、『カンディード』が人生の、そして人間性の残酷な側面も視野に入れているのに対し、『ラセラス』の方は登場人物のそれぞれが善良で、温和であり、そのあたりにフランスと英国というよりも、ヴォルテールとジョンソンの人間性の違いを感じるのである。だから、物語としては、『カンディード』の方がはるかに面白いのだけれども、『ラセラス』の魅力も捨てがたいと思う。

 むかし(と書きだされているのだが、1755年のリスボンの大地震が描かれているのだから、それほど昔のわけがない)、ドイツのウェストファリア地方のツンダー・テン・トロンク男爵の城にカンディードという名のまことに気立ての優しい一人の若者がいた。彼は男爵の妹がある貴族との間に儲けた子どもであったが、そのことは公にされず、城の中で男爵の娘である美しいクネゴンデやその兄である男爵の跡取り息子と一緒に暮らし、パングロスという名の家庭教師の教育を受けていた。パングロスは「物事は現にそれがそうなっているようにしかありえない。なぜなら、ものごとはすべて何らかの目的のためにつくられたものであるから、必然的にすべては最善の目的のために存在する。・・・『すべてが最善である』」(9ページ)という「最善説」の哲学、現実を楽観的に肯定する考え方を教え、カンディードはそれを素直に信じていた。実際、城の中ではみんなが幸福に暮らしていたからである。

 ところが、パングロスが奥方の侍女に「実験物理学を教える」姿を見たクネゴンデが、カンディードに自分の思いを伝えようとして2人が抱き合っているところを男爵に見つけられてしまい、カンディードは城を追い出される。彼は無一文で彷徨ううちにブルガリア(実在のブルガリアではなくて、ヴォルテールが創作した架空の国である)の軍隊に入れられる。カンディードは軍隊でひどい目に合うが、ブルガリアが隣国であるアバリアと戦争を始め、お互いが相手の国の国民たちを虐殺する中で、軍隊を脱走する。

 オランダに逃れたカンディードは、善人ジャックに助けられ、街を歩いていると一人の乞食に出会う。その乞食がパングロスであった。ブルガリアとアバリアの戦争の際にツンダー・テン・トロンク男爵の城はブルガリアの兵士たちの攻撃を受けて落城し、男爵と奥方は殺され、クネゴンデも凌辱された上に殺された。パングロスは何とか逃げ出したものの、侍女から病気を移されてなさけない姿に落ちぶれてしまったという。パングロスも善人ジャックに助けられて、片目と片耳をなくしたものの病気を治してもらう。ジャックは2人を連れて商用でポルトガルに向かうが、航海の途中で大嵐に出会い、ジャックは命を落とす。かろうじて命拾いをしたカンディードとパングロスはリスボンの港にたどりつくが、今度は大地震に遭い、さらにその後の復旧作業を手伝ううちにパングロスが語った言葉が異端審問官に咎められて、パングロスは地震を鎮めるために行われる派手な火あぶりの刑に処せられることになり、カンディードも投獄される。

 30章からなる物語のここまでがはじめの6章の要約で、物語はここから二転・三転、カンディードはヨーロッパからアメリカへと遍歴を続けるが、その間、死んだと思った人物が死んでいなかったり、さまざまな運命に弄ばれた人物が次々に道連れに加わったりという起伏の多い展開が続く。18世紀の初めに世界を旅したガリヴァーはずっと孤独であり、航海から帰ると人間嫌い(馬好き)になってしまうのだが、世紀半ばの主人公であるカンディードが旅の終わりにたどりつくのはどのような結論であろうか。少なくとも、彼は孤独に生きることにはならないように思われる。

 翻訳者である斉藤さんは物語の「軽さ、軽やかさ、軽薄さを楽しむのがよい。…『カンディード』は話の展開も文章もスピード感が味わいどころである」(292ページ)という。カンディードと彼を取り巻く人々の運命は悲惨きわまるもので(もちろん、ときにはいいこともあるが)、善人ジャックの運命が示しているように、善が栄えて悪が滅びると決まったものではない。こうしたことはパングロスの哲学を否定するもののように思われる。にもかかわらず、パングロス自身の姿を含めて、物語にはどこか滑稽感も付きまとっている。どんな悲惨な運命に置かれても笑いを忘れないことが生き抜いていく秘訣であるかもしれない。また経験を通じて、カンディードもその周辺の人々もわずかながら賢くなっているようにも思える。だとすれば、パングロスの哲学もまったく唾棄すべきものだとは思えない。物語の展開の目まぐるしさもさることながら、その展開を通じて探求される人生の意味について「軽く」考えてみることも意味のないことではないだろう。

白上謙一『ほんの話――青春に贈る挑発的読書論』(2)

10月18日(日)曇り

 もともとこの書物は、山梨大学の生物学教授だった白上謙一(1913-1974)が「ほんの話」と題して『山梨大学学生新聞』に1962年5月25日の第102号から始めて、京都大学に転ずる直前の1971年4月12日の第167号まで9年間、約50回にわたって連載した記事を、著者の死後にその人となりと業績とを慕う人々によってまとめられたものである。著者としては手を入れて単行書にまとめるつもりであったらしいのだが、著者が思うような形に推敲を加えることなしになくなってしまったために、勤務校の具体的な問題など生々しい記事も散見される。単純に読書をめぐる思い出や、読書法をめぐる示唆というだけでなく、著者が大学・大学院生として、また専門学校の教師として過ごした昭和10年代と、大学の教師として過ごしている昭和30年代・40年代の世相を重ね合わせ、世の中の動きに対して敏感であり、積極的にかかわることの重要性を訴えているところにこの書物の特色があるといってよかろう。そして、昭和30年代から40年代にかけて大学・大学院生であった私にとって、この書物が単に読書論という以上の意味をもっていることは、前回(10月11日)の当ブログで述べたとおりである。

 今回は、この書物の中で、読書には道案内や道連れが欠かせないという著者の主張について紹介していくことにしたい。著者自身は図書館の利用者でもあり、相当な蔵書家でもあったのだが、図書館の利用よりも、書物を買い集め、揃えて読んでいくことのように情熱を傾けていたようである。そしてその蔵書家と呼ばれるべき資格についてこんなことを書いている:
「私が蔵書家とみとめるのは、無理なことをいうようだが、私がこの人なら当然持っているはずだと思う本を持っている人なのである。さらに、私などが見たことも聞いたこともない本でも、その人なら当然持っているべき本を、ちゃんと持っている人なのである。」(48ページ)
「私のいう蔵書家の資格は、書物に対する愛情と、加うるにある題目に関しての完蒐を期するたえざる情熱である。」(50ページ)
 例えば夏目漱石の本を集めるということになると、彼の全集を1揃い持っていてそれで満足するというのではなくて、全集を出版されただけすべて集め、さらに単行本も集め、研究書も集め…ということが「完蒐」になる。私は柳田国男の本を集めているので、自分が白上のいう「蔵書家」の定義からほど遠いことがよく分かる。

 このことと関連して、悔やまれることがある。何度目かの職場で図書委員をしていて、職場が移転するために図書館の蔵書を大幅に整理することになった。その際に図書館の世界ではかなり有力者だという図書館長が、辞典の類は一番新しいものが1種類あればよいので、古いものは整理するという方針を述べたのだが、それに反対意見を述べたいと思ったものの、事を荒立てたくないので(というよりも反対しても先は見えていたので)、何も言わなかったことがある。辞典類の説明の変化を辿ることも研究上必要な場合がある。歴史学者であった私の伯父は、『広辞苑』の初版を終生手放さなかった。新しいものが常にいいものだとは限らない。そんな当然の理屈が通らない世の中になっていることが恐ろしい。

 詳しいことは省くのだが、白上は大学を卒業した後、大学院に籍を置きながら、旧制の自由が丘中学(現在の自由が丘学園中学・高校)で週に2日ばかり教えることになる。この学校の校長をしていた藤田喜作の書斎を訪問した時の驚きについて彼は次のように語っている:
「先生の背面一ぱいの書棚には、哲学と社会学、とくに社会科学関係の洋書がギッチリ並んでいたのである。その時目についたのはカシラー版のカント全集とか、マックス・ウェバーの著作集、ラッサ-ル全集、マルクス・エンゲルス・アルヒーフ、それからふっくすの風俗史揃といったものだったが、その後何度も訪問し、最後にはこの先生とともに生活をするようになって分かったことは、先生もまだその時は移転されたばかりであり、箱づめのままになっている本がその他何十箱もあったのである。「本を持っている」というのは、こういうものか、と思い知らされたのはこの先生の蔵書であった。妙な話であるが、当時の私は中学校の校長先生などというものが、こんなに大変な本を持っているものとは夢にも考えなかった。」(53-54ページ)
「あとで分ったのだが、この先生は、ただものではなかった。東大で教えておられたこともあり、1922年頃からのインフレ時代のドイツでその蔵書の基礎を作られた…」(54ページ)。

 中学校といっても、旧制の話なのでとんでもなく偉い先生が校長であったという例は少なくない。私も、芝学園中学校高等学校を訪問した際に、この学校の校長であった渡辺海旭の像を見てびっくりしたことがある。渡辺は有名な仏教学者であり、日本に『ラーマーヤナ』を本格的に紹介した人物であり、且つ武田泰淳の伯父である。この学校の生徒たちが渡辺の像をどんな気持ちで毎日眺めているのかにはちょっと興味がある。渡辺がどんな人物であるかは、かなりの数の書物を読まないと理解できないはずである。

 読書遍歴には案内者や道連れがいた方が楽しくなるという著者の主張を紹介するつもりだったのが、著者と藤田喜作という偉大な蔵書家(であり、教育者でもあった)との出会いについて触れただけで、それ以上のことを書き進めていく時間が無くなってしまった。ただ、この蔵書家との出会いが白上を読書人として成長させていったことは間違いなく、フジタが彼の案内者の1人であったということは間違いない。 

『太平記』(70)

10月17日(土)曇り、朝のうちは雨が降っていたかもしれない。

 元弘3年(1333年)、北条高時から上洛の命を受けた足利高氏は、その催促が礼を失したものであることに怒り、幕府への謀叛の決意を固めた。京についた高氏は伯耆の船上山の後醍醐天皇に使いを送り、朝敵追討の綸旨を得た。4月27日、名越高家と足利高氏の幕府軍は、八幡・山崎の後醍醐方の討伐に向かったが、大手の大将であった名越は、久我縄手で赤松一族の佐用範家に射られて戦死した。搦手の大将高氏はこの戦闘に加わらず、大江山を越え、丹波の篠村に入り、倒幕の意思を明らかにすると、近国の兵が集まってみる見る軍勢は膨れ上がった。5月7日に篠村を出発、篠村八幡に願文を納め、戦勝を祈ると、大江山を越える際に白旗の上につがいのハトが飛んできて道を案内するかのごとくに飛び、神祇官の跡地にあった樗の木にとまったので、一行はこれを吉兆としてますます戦意を高めた。(欧米ではハトは平和の象徴とされるが、日本では弓矢の神である八幡神の使いとされる。)

 一方、六波羅では味方の兵力6万余騎を3つに分けて、そのうちの1つを都の北の方の神祇官の跡地のあたりに控えさせ、足利高氏の軍勢に備えた。またもう1つを南の方の東寺のあたりに差し向けて、千種忠顕の率いる軍勢が竹田、伏見の方面から攻めてくるのに備えた。巳の刻(午前10時頃)から大手、搦手ともに戦闘が始められ、市中が戦塵に包まれ、鬨の声があちこちに聞こえ渡った。

 北の方面の旧大内裏の一帯にはこれまでも都の防衛戦で活躍してきた陶山次郎と河野九郎左衛門通治を始め、選りすぐりの勇士2万余騎を派遣した。足利方も彼らの武勇を承知しているため、そう簡単には攻撃を仕掛けられず、両陣営ともにらみ合いながら、しばらくは矢軍(やいくさ)が続いた。足利方は5万余騎、六波羅方は2万余騎なので、両者が正面衝突すれば勝敗は明らかであるが、これまでの経過からもわかるように、京都は家が建てこんで道が狭いため、前線で戦う兵力は限られ、それぞれの陣営が前線の兵力を入れ替えながら戦うことになる。したがって、必ずしも兵力が少ないからと言って不利にはならなかったのである。

 そのうち、足利側から一人の武者が出て一騎打ちの勝負を挑む。尊氏の領地である三河国設楽郡(愛知県北設楽郡設楽町)の武士設楽五郎左衛門尉である。すると、六波羅方の方からも一人の老いた武者が進み出る。藤原利仁の末孫で斎藤伊予房玄基であると名乗る。(藤原利仁は芥川の「芋粥」の原作となった『今昔物語』の説話の主人公の1人で、『平家物語』に登場する斎藤実盛も彼の子孫である。) 設楽は斎藤を組み伏せるその首をとろうとするが、斎藤も設楽をしたから突き刺し、二人は相打ちになる。(老いた武者である斎藤の姿は、『平家』の斎藤実盛の姿を思い出させるものであるが、実盛の死に方が劇的に描かれているのに対し、玄基の方はリアルに描かれている。)

 また、足利方から大高次郎重成という武士が現われて、「先日度々(どど)の合戦に高名したりと聞こえたる陶山備中守、河野対馬守はおはせぬか。出で合ひ給へ」(第2分冊、62ページ)と陶山、河野を名指して戦いを挑む。陶山は南の方面からの敵勢が手ごわいというので、東寺の方に赴いていて、その場にいたのは河野だけであったが、もともと血気にはやって突進する武者なので、ここで躊躇するわけがなく、進んで挑戦に応じようとした。
 これを見て河野の甥でその養子になっていた七郎通遠という今年16歳になる若武者が、父を討たせまいと思ったのであろうか、真っ先に大高の前に出て組み付こうとする。大高は河野七郎の鎧の上巻(あげまき=飾り紐)をつかんでその体を持ち上げ、こんな小者とは勝負するまいと押しのけようとしたが、鎧の笠じるしには傍折敷(そばおしき)に三という文字が書かれている(河野の紋である)。これも河野一族のものかと、片手で持った刀を振り下ろして両膝をすっぱりと切って落とし、そのまま投げ飛ばした。(誇張があるにしても、力の差が歴然としている。) 養子であるとはいえ、自分がかわいがっていた若者を殺されて怒った河野は、自分の率いる武士たちとともに大高に襲い掛かる。これを見て足利方の武士たちも戦闘に加わる。両者ともに不利になると後退し、後に控えている別の軍勢と後退して戦闘を続ける。「一条、二条を東西へ追つつ返しつ、七、八度が程ぞ揉(も)うだりける」(第2分冊、64ページ、一条通、二条通を東西に一進一退の攻防が続き、7,8度ほど激しく戦った。) どちらが豪胆で、どちらが臆病ということで優劣はつけがたかったが、源氏(足利方)の方が兵力が多かったので、次第に平氏(六波羅方)は後退し、六波羅の方に戻ってゆく。

 こうして都の北の方面の戦闘は高氏の率いる討幕軍が勝利を収めたが、南の方面での戦闘はどうなったか。それはまた次回。
 北の方面での戦闘を見ると、設楽、大高という尊氏の家臣たちが前線に出て戦っており、高氏麾下の将兵たちの士気の高さがうかがわれる。これまで六波羅を攻撃してきたのは主に西国の武士たちで、東国の武士を多く集め、騎馬戦に長じている六波羅方はその特色を生かして防戦してきたのが、足利方は東国の武士が多く含まれているので、これまで以上に手ごわい相手となっていることが分かる。

ダンテ・アリギエリ『神曲 煉獄篇』(16‐1)

10月16日(金)雨が降ったりやんだり

地獄の暗黒も、あらゆる星がすべて
消えた貧しい空の下、
雲があたう限り濃くする夜の闇も、

ここに私たちを包み込んだあの煙と同じほど
分厚い目隠しと化して我が視線を遮ったことはなく、
触れると痛みを与える毛織物と化したこともなく、

それゆえに私は目を開けてはいられなかった。
(234ページ) ダンテがウェルギリウスに導かれて歩んでいる煉獄の第三環道は霊たちが憤怒の罪を贖う場所である。怒りは知性を盲目にし、そのためにこの環道では知性を象徴する光が奪われている。地獄のような現世を象徴する闇の中で、視覚を奪われたダンテは<理性>の体現者であるウェルギリウスに支えられて歩む。
私は、「私から引き離されぬよう注意せよ」と
話し続ける我が導き手に耳を傾けながら、
濁った息苦しい大気の中を必死に進んでいた。
(235ページ) その闇の中から声が聞こえる。

…どの声も皆
平和と憐れみを求めて、
罪を取り去ってくださる神の小羊に祈っているようだった。

常に「神の小羊よ」に始まる祈りが繰り返されていたのだ。
皆が声を合わせて一つの言葉、同じ一つの抑揚、
そのために声の間には十全なる調和が顕現していた。
(235-236ページ) ダンテは、ウェルギリウスに祈っているのは霊たちなのかと問う。暗闇の中で霊たちは「怒りの結び目を解きながら進んでいる」(236ページ)のだとウェルギリウスは答える。闇の中から2人の対話を聞いて、彼らが何者であるのかを尋ねる声が聞こえてくる。ウェルギリウスはダンテに、彼がこの質問に答え、また自分たちが正しい道を歩んでいるのかも尋ねるように伝える。ダンテは尋ねてきた声に対して、自分が神の意思によって生きたまま異界を旅していることを告げ、声の主が生前に誰であったのか、また自分たちの歩んでいる道が正しいのかを問う。(これまでの旅によって、ダンテが次第にその知性の力を増してきていることが示されている。)

 すると、声の主は自分が生前にはマルコ・ロンバルドと呼ばれていたことを告げる。その名が示すように、ロンバルディアの出身で、今ではその伝記は詳しくはわからなくなってしまったが、当時の有名人で各地の宮廷に仕えて活躍していた人物のようである。マルコは「古い徳を愛した」(238ページ)と言い、その言葉に反応してダンテは
現世は明らかに、あなたが私に聞かせたように、
あらゆる美徳の一切を失い、
邪悪をうちに宿し、またそれに覆われてもいる。

だが、その原因をこそ私に示すよう頼みたい、
私がそれを理解し、他人に明確に伝えられるように。
(239-240ページ)と問いかける。すると、マルコの霊は深いため息を漏らす。
・・・「兄弟よ、
地上は盲目だ。そして君もまさにそこから来ている。
・・・」(240ページ) なぜ、地上は盲目であるのか、マルコの議論はつづくが、ここでダンテは彼の口を借りて自分自身の政教分離を原理とする政治思想を展開することになる。それがどのようなものであるのかは、また次回に譲ることにしたい。

オヴィディア・ユウ『アジアン・カフェ事件簿① プーアール茶で謎解きを』

10月15日(木)晴れ

 10月14日、オヴィディア・ユウ『アジアン・カフェ事件簿① プーアール茶で謎解きを』(コージーブックス)を読み終える。原題はAunty Lee's Delightsで、ヒロインである老婦人アンティ・リー(本名はロージー・リーなのだが、こちらの方が通りがいい)が経営するカフェの店名である。アンティauntyは「おばちゃん」という意味であるが、翻訳者である森嶋マリさんはアンティ・リーという呼び方で通している。日本語訳の題名になっている「プーアール茶」がどこで出てくるかは読んでのお楽しみとして、取っておいてください。

 シンガポールで名物カフェ〈アンティ・リーズ・ディライト〉を経営するアンティ・リーは、知りたがり屋で裕福な老婦人である。自力でかなりの財産を稼ぎ出していた彼女は、大富豪の後妻となり、その死後、莫大な財産を相続した。しかし、このカフェを経営しつづけているのは、料理をする楽しみのためだけでなく、もっと多くの人々と知り合い、仲良くなりたい、必要ならば親切にしたいという気持ちのためでもある。彼女のそばにはフィリピン人のメイドであるニーナ・バリナサイがいて、シンガポールの多くの雇い主が家事使用人に対してそうであるような冷酷な態度をとらずに、自分を信頼してくれる主人の手足となって働いている。彼女はアンティ・リーのおかげで自動車の運転免許をとり、コンピューターを使いこなせるようになっている。そのようなアンティ・リーとニーナの関係だけでなく、アンティ・リーが夫の財産を相続したことについても喜んでいないのが、アンティ・リーの今は亡き夫が前妻との間に儲けた2人の子どもの内の長男マークの嫁であるセリーナ・カウ・リーである。富豪のセレブな暮らしにあこがれる彼女は、本来ならば自分たち夫婦のものであるはずの(実際には夫にはもう1人英国で暮らしている妹が入る)財産を使って、実業界で活躍し裕福な生活を送ることができるはずだと信じている(実際には彼女の夫のマークは事業に失敗して、アンティ・リーの援助でワインの輸入業を細々と展開しているだけなのである)。

 好奇心旺盛なアンティ・リーはシンガポールのセントーサ島で女性の死体が発見されたというニュースに興味をもつ。その日、彼女のカフェではマークとセリーナが主催する〈ワインと料理の会〉が開かれることになっている。そこではワインとともに、アンティ・リー特製のプラナカン料理が提供される。プラナカンとは15世紀以降、マレー半島に移り住んできた中国系の子孫のことで、マレー文化に中国、欧米の文化がミックスして、独自の文化を生み出してきている。特にプラナカン料理(ニョニャ料理ともいう)が有名である。〈ワインと料理の会〉にはアンティ・リーのほかに、主催者であるマークとセリーナ、オーストラリアからの長期滞在観光客であるハリー・サリヴァン、オーストラリアからの観光客であるフランク・カニンガムとルーシー・カニンガムの夫妻、アンティ・リーの隣人であり長年の友人でもあるピーターズ一家の長男のマイクロフトの妻のチェリルだけである。マークとセリーナの友人であるローラ・クィーは欠席するとメールを送ってきた。さらにマイクロフトの妹のマリオンも欠席だという。ローラは前回の〈ワインと料理の会〉で失態を演じていたため、出席しづらいのかもしれない。セリーナは<アンティ・リーズ・ディライト>に否定的な記事が雑誌に掲載されたことに人々の注意を向けさせようとするが、うまくいかない。席が終わりに近づいた時、切羽詰まった様子の1人の女性が入ってくる。カーラ・サイトウと名乗るその女性は、ここでローラ・クィーと会うはずだったという。アンティ・リーはローラと連絡を取ろうとするが、電話は通じない。

 翌日、アンティ・リーは警察のサリム・マワール上級巡査部長の訪問を受ける。発見された死体がローラ・クィーのものだと確認され、リーが警察にローラが行方不明だと通報していたからである。しかも、その後の捜査によって、セリーナが受け取ったメールはローラの死後に発信されたものであり、〈ワインと料理の会〉の最中にカフェの外から送られたものであることが分かる。さらにローラの携帯電話がカフェの外から発見される。捜査が滞っているうちにやはり連絡が取れていなかったマリオンの死体も発見される・・・。

 シンガポールのミステリーが日本に紹介されるのは多分、これが初めてである。この小説がシンガポールでどの程度の読者と人気をもっているのかはわからないが、作者であるオヴィディア・リーはシンガポール出身で、この作品の舞台もシンガポールに設定されているし、描かれているのはシンガポールの多民族・多文化の人間模様である。作品中には華人(中国系)、インド系、マレー系のシンガポール人、フィリピン人のメイド、オーストラリアからの観光客、日系のアメリカ人とエスニシティも文化も異なる人々が登場する。そして民族的なステロタイプを越えて、作中人物のそれぞれの価値観が個性的に描き分けられている。アンティ・リーは多分、作者の理想の存在なのだろうが、エスニックな偏見から自由で、人間をそれぞれの能力・個性で評価する。だからフィリピン人のメイドであるニーナを信頼し、愛情を注ぎ、インド系のピーターズ一家の人々や、マレー人のサリム巡査部長に対しても親切である。さらにゲイやレスビアンに対しても偏見を持たない。彼女と対照的なのがセリーナでアンティ・リーの能力とカフェの成功ぶりを正当に評価せず、ニーナを泥棒扱いし、(出身階層が低いためにきちんとした英語が話せない)インド系のチェリルがマークとワインの話をしているのを秋波を送っているものと誤解し、白人であるハリーを盲目的に信頼している。そしてカフェの経営権を何とか奪おうと策略を廻らしている。おそらくはそのためにアンティ・リーは常に「お馬鹿なセリーナ」と彼女を呼んでいるのである。しかし、「人生をより複雑で、より味わい深いものにしてくれているのは、セリーナなのだから。激辛の唐辛子が料理の味を引き締めてくれるのと同じこと」(26ページ)と彼女の存在をそれなりに評価し、全面的に否定しないのがアンティ・リーの凄いところである。とにかくアンティ・リーとサリム、そしてその周辺の人々の捜査活動がそれぞれに進展したときに、事件は解決に向かう。多文化社会で起きた事件は、多文化の協力によって解決するのである。

 隙だらけの紹介で、察しのいい方には既に犯人もわかってしまったかもしれないし、作者であるオヴィディア・ユウがシンガポールで初めてのフェミニスト作家であるといわれていることも実感しているかもしれない。作者の関心がシンガポールの多文化性やその多文化性をめぐる価値観の葛藤に向かっており、社会経済的な関心に乏しいことが欠点として挙げられるかもしれないが、アンティ・リーが作る料理の多様性はコージー・ミステリの読者の欲求を十分に満たすものであり、東南アジアの料理に関心を持つ人々にとっても見逃せないものであろう。

 とにかく、シンガポール製のミステリというだけでなく、その社会の文化的な特色と、価値観の対立を描いているという点で読み応えがある。シンガポールの事情について料理を中心に適当に解説が施されているので、読みやすい。『アジアン・カフェ事件簿①』とあるからには続編もあるはずだと、次回作以降の展開にも期待しているのである。

日記抄(10月8日~14日)

10月14日(水)晴れ

 10月12日付の当ブログの記事「シーボルト」について、「地誌のはざまに」の管理人であるkanageohis1964さんから丁寧なコメントをいただきました。私の説明が不十分だったのですが、彼は日本滞在中にはオランダ人を装っていたために自分の名前を「シーボルト」とオランダ風に呼んでいたのですが、ヨーロッパに戻ってからは「ズィーボルト」に戻したということで、kanageohis1964さんの「オランダ語風に自分の名前を発音するように心がけていた」という推測の通りだと思います。
 ドイツ語の発音に忠実にということになると、ケンペルKaempferもケㇺファーというほうがよいということになって、誰のことかわからなくなってしまうので、これは程度問題ということでしょう。なお、ドイツ語圏でもオーストリアではSaをサ、Siをスィというふうに発音するようで、モーツァルトの生まれた町は現地の発音では「サルツブルク」と言っているという話です。以前、飛行機の中でウィーン工科大学の先生と一緒になったことがありましたが、彼は別れ際にAufwiedersehen のsehenを「セーエン」と発音していたのを思い出します。

 さて、10月8日から本日までの間に経験したこと、考えたことなどを書いていきます(以下、である調で書きます)。

10月8日
 NHKラジオ「実践ビジネス英語」は”Breakfast Styles"という、アメリカにおける朝食のとり方の変化、例えば昔ほどオレンジジュースを飲まなくなったというような話を内容とするビニェットの第5回で、大手食料品ブランドが生き残りたいならば、朝食食品市場におけるこれらの大きな変化を熟知し、将来の動向を予測する必要があると結んでいた。このビニェットでは日本式の朝食が米国で普及していく可能性についても論じていたのだが、登場人物の1人の
I don't think natto will catch on as a breakfast favorite with Americans anytime soon. (納豆がアメリカ人のお気に入りの朝食としてヒットすることは、当分ないでしょう。)
という発言が締めくくりになっていた。日本式の朝食には地方による違いがあって(個人差もあって)、日本人でも納豆を受け付けない人は少なくないので、納豆を典型的な日本食として取り上げるのには異論がある(私自身は、納豆は大好きである)。

 同じくNHKラジオの「英会話タイムトライアル」を聞いていたら、英語で”Good luck."というのは、日本語の「頑張ってください」に相当する表現であるという話が出てきた。日本語の「頑張れ」に相当する表現は英語にはないといわれてきたが、”Good luck."には多少なりとも重なる意味があるかもしれない。しかし、スポーツの応援などでは”Good luck."は使わないだろう。

 愛川晶『三題噺 示現流幽霊』(創元推理文庫)を読み終える。

 NHKカルチャーラジオ<文学の世界>『弥次さん喜多さんの膝栗毛』の第2回。一九は天明元年(1781年)に駿府町奉行になった小田切直年(1743-1811)に見いだされて、実家である重田家の跡を継がず、直年に仕えて江戸、さらに大坂で祐筆のような仕事をしていた。しかし、はっきりした理由はわからないが、官途を退いて浄瑠璃作者となり、その間香道に励んだり、絵の修業をしたりしていた。後に一九は寺子屋などで教材として使われた往来物、案文物の作者としても活躍するが、それには彼が町奉行のもとで経験を積んでいたことが生かされていると考えられる。

10月9日
 「実践ビジネス英語」は”Breakfast Styles"の第6回、Talk the Talkでパートナーのヘザー・ハワードさんがビニェットに関連して自分の経験を話したが、
I must confess to being a stereotypical "foreginer" when it comes to those two [pickled plums and natto]. (私は〔梅干しと納豆という〕2つのものの話になると、典型的な「外国人」であると認めざるを得ない。)
とのことであった。

10月10日
 午後、映画を見に出かけようかと思ったのだが、見たいプログラムが見当たらなかったので、横浜駅西口から市営バスの25番に乗って保土ヶ谷駅の西口まで出かけてみた。特に用事もないので、保土ヶ谷駅前で少し時間をつぶして、帰りのバスに乗った。この路線は野球場やサッカー場のある神奈川県立保土ヶ谷公園を通るので、また利用することがありそうである。帰りのバスの窓から見たところ、野球場には照明がついていて、ソフトボールの試合が行われているようであった。

10月11日
 このところ、落語に関係のある推理小説を読み漁っている。大倉崇裕『オチケン!』は大学の落語研究会の3人しかいない部員の活躍!?を描く連作の第1作。部員が2人になると自動的に廃部になるし、かろうじて確保している部室を狙っているサークルも多い。新入生の越智健一はその名前を気に入られて無理やり入部させられ、混乱に巻き込まれる…。
 
10月12日
 大倉崇裕『オチケン!』(PHP文芸文庫)を読み終える。第2話の「馬術部の醜聞」という題名はシャーロック・ホームズ物の短編第1作「ボヘミアの醜聞」を思い出させる題名である。今時「醜聞」という言葉はほとんど使われていないのではないか。ただ、事件の解決だけではなく、醜聞のもみ消しもまた探偵=推理小説の中で大きな地位を占めていることは確かである。ホームズ物では「ボヘミアの醜聞」のほか、「恐喝王ミルヴァ―トン」とか「高名な依頼人」などがこのジャンルに当てはまるだろう。これらの作品でのホームズの活躍ぶりはそれほど目立ったものではないが、読み物として面白いことは否定できない。「高名な依頼人」の場合など、事件そのものよりも、依頼人が誰かということのほうが読者を惹きつける謎になっているのである。

10月13日
 NHK「ラジオ英会話」にも”Good luck."という表現が登場した。
The trouble is that my mid-term paper is due tomorrow. (問題は中間リポートが明日締め切りなんだ。)
Have you starte on it? (もう始めたの?)
Nope. I'll have to knock myself out to finish it on time. (いいや。死ぬ気で間に合わせないといけない。)
Good luck. (頑張ってね。)
というやり取りで、「頑張ってね」とはいうものの、多少見放したようなところが感じられないでもない。

10月14日
 NHKラジオ「実践ビジネス英語」の”Quote...Unquote"のコーナーで紹介された言葉:
A rolling stone gathers no moss, but it gains a certain polish.
--Oliver Herford (U.S. writer, artist and illustrator, 1863-1935)
転がる石に苔はつかないが、いくらか磨きはかかる。

 オヴィディア・ユウ『アジアン・カフェ事件簿① プーアール茶で謎解きを」(コージーブックス)を読み終える。面白かった。この作品については、いずれ詳しく論評するつもりである。
 

『太平記』(69)

10月13日(火)晴れ

 元弘3年(1333年)4月16日に京都に到着した足利高氏は鎌倉幕府から、京都の防御を固め、後醍醐天皇を奉じて伯耆の国の船上山に立てこもっている軍勢を討伐するように指示されていたが、得宗である北条高時の礼を失した催促に腹を立て、後醍醐天皇と連絡をとって内通の意思を固めていた。4月27日に北条一族の名越高家を大手の大将とし、高氏を搦手の大将とする軍勢が八幡・山崎の赤松勢の討伐に向かったが、大手の大将である名越は、久我縄手で赤松一族の佐用範家に射られて戦死した。搦手の大将高氏はこの戦闘に加わらず大江山を越えて、丹波国篠村で倒幕の意思を明らかにしたところ、近隣の武士たちがこぞって参集し、その軍勢は2万騎を超えた。

 「さる程に、明くれば5月7日寅刻に、足利治部大輔高氏朝臣、2万5千余騎を率して、篠村の宿を立ち給ふ」(第2分冊、56ページ、寅刻は午前4時ごろである)。まだ夜は明けていないが、東西を見渡すと林の中に神社が見える。由緒がありそうな社なので、馬を降りて戦勝を祈り、いかなる神社かと居合わせた巫女に聞くと、「これは八幡を移しまゐらせて候ふ間、篠村の新八幡宮と申し候ふ也「(第2分冊、56-57ページ)という答えが帰ってくる。八幡神は源氏の守り神である。高氏はそこで祈願の文書を奉納しようとする。
 実際に篠村八幡宮にはこの時の高氏の願文が保存されていて、それは『太平記』に記されているものよりも短く、また日付が異なっている。『太平記』では5月7日に出陣の際にこの文書を書いて奉納することになっているが、篠村八幡宮に現存する文書の日付は4月29日である。この文書の真贋をめぐっては論争があるようだが、高氏が篠村八幡宮に倒幕の祈願をしたことは歴史的な事実であろう。ただ、それがいつのことであるかが問題になる。『太平記』では、出陣の際に祈願を行ったと劇的に描かれているが、願文が本物だとすると祈願をしてから高氏は10日近く様子を見ていたことになる。
 そもそも、この篠村八幡宮はこの神社の所伝では尊氏の先祖でもある源頼義が延久3年(1071年)に勅宣(天皇の仰せ)によって誉田(こんだ)八幡宮(大阪府羽曳野市)を勧請して創建したものだそうである。頼義の子が八幡太郎義家、その子義国の子義康が足利氏の祖である。なお八幡太郎義家というのは、石清水八幡宮で元服したからこの名があるので、上賀茂神社で元服した彼の弟は賀茂次郎義綱、新羅神社で元服した弟は新羅三郎義光を名乗った。誉田八幡宮は応神天皇陵とされる誉田御廟山古墳のすぐ南にある神社で、八幡神は応神天皇と同一視されているから、きわめて由緒のある神社である。なお、岩波文庫の脚注では誉田八幡宮ではなく、石清水八幡宮を勧請したとされている。

 尊氏はおそらく篠村が先祖の時代から源氏に縁の深い土地であることは知っていて、そのことを挙兵のきっかけとして利用しようとしたのである。篠村八幡に願文を収めたのもそのためである。高氏の祐筆である疋檀妙玄(ひきだみょうげん)が筆をとって起草した願文は、八幡神が源氏の守り神であることを述べてその徳を称え、鎌倉幕府の実権を握った北条氏の悪政が人々を苦しめていること、さらには後醍醐天皇を隠岐の島に流罪にしたことを告発し、このような北条氏を討伐することは天の道に適うことなので、加護を給わりたいと理路整然と述べるものであった。そして、儀礼用の鏑矢を1筋納め、続く将兵もこれに倣ったので、「その矢社壇に積もつて塚の如し」(第2分冊、59ページ)という有様であった。

 そうこうしているうちに夜が明けたので、軍勢を進め、大将である高氏が大江山を越えようとするときに、「山鳩一番(ひとつが)ひ飛び来たつて、白旗の上に翩翻(へんぽん)す」(第2分冊、59ページ)。鳩は八幡神の使い。岩波文庫版では石清水八幡宮の使いと特定されているが、鶴岡八幡宮の社号の八がつがいの鳩に象られていることをみても、特定する必要はないのである。とにかく、八幡神の使いが源氏の白旗の上にとまったのは吉兆である。鳩は神祇官の跡地の樗(栴檀)の木に飛び移った。平安京の内裏があった場所を高氏の軍勢が進むと、敵は続々と降参し、篠村を出発したときは2万5千余騎であった軍勢が、右近の馬場(現在の北野神社の東南)に達したときは5万騎に倍増していた。

 一族郎党を引き連れて高氏が鎌倉を出発したときは3千余騎であった軍勢が5万余騎に膨れ上がっている。岩波文庫版の校訂者である兵藤裕己さんが「解説2」で指摘しているように、「裏切り、向背つねない人間が描かれるのは『太平記』の作品的本性とさえいえる」(536ページ)。足利高氏が大軍を率いるに至ったのは、六波羅方の武士たちが続々と裏切って味方について来たからであり、それらの武士たちが大義名分よりも、自分たちの利害を優先させためであろう。大将の高氏自身が鎌倉幕府から見れば裏切り者である。しかも、後醍醐天皇支持の旗幟を明らかにする前にだいぶ迷っていた様子も見て取れる。ただ、そうやって迷っているところが高氏の人間性であり、新しいこと、これまでになかったことをしようとする際のためらいのようなものも、高氏の迷いの中には見いだせるのである。高氏は優柔不断なところがあるが、それを弱点として切り捨ててしまうと、彼の人間性は理解できなくなるだろう。

シーボルト

10月12日(月)晴れ

 10月10日、11日にNHKラジオ第2放送で放送された『攻略!英語リスニング』では、”Siebold"(シーボルト)を取り上げた。フィリップ・フランツ・バルタザール・フォン・ジーボルトPhilipp Franz Balthasaar von Siebold (1796-1866)はドイツの医師、博物学者でオランダ商館付きの医師として来日し、患者の治療を行うだけでなく、動植物の研究をしたり標本を採集したりしたほか、地元の役人の治療に協力したことから出島以外で活動することを許され、鳴滝塾を開いて、西洋式の医術の普及に努めた。彼はその間、日本の様々な品々を収集したのだが、その中に伊能忠敬が作成した日本地図(の写し)があったので問題になった。というようなことが語られたのだが、彼の伝記と業績にかかわることで気になっていて、放送でも触れられなかったことがいくつかある。

 すでに気づかれた方もいらっしゃると思うが、Sieboldはドイツ人なので、「ジーボルト」(もっと正確にはズィーボルト)と発音するのが正しい。しかし、長らく「シーボルト」という呼び方に慣れてきているので、うるさく言う必要はないだろう。もう1つ彼の名前にかかわって気になるのは、彼の長い名前の中に、貴族にしか使われないvon(フォン)という前置詞が入っていることで、調べたところ、やはりシーボルトは貴族の出身であった(どういう貴族であるのかはわからない)。

 ここまではどうでもいい話である。ここからの話が重要である。ジーボルトが来日したときに、長崎のオランダ語通詞からあなたのオランダ語はおかしいと指摘されて、オランダ語にはいろいろな方言があって、自分は普通のオランダ人が使わない方言を使っているといい抜けたという話を読んだことがある。ドイツ語には低地ドイツ語と中高地ドイツ語とがあり、オランダ語はその低地ドイツ語の一部が、オランダの政治的独立により独立の言語としての地位を得たという経緯を考えると、かなりうまいいいわけではある。しかし、ジーボルトのオランダ語がおかしいと見抜いたオランダ語通詞の能力を私は賞賛したいのである。

 江戸時代に日本にやってきて、日本について詳しく紹介する書物を書いた人物として、ドイツ人のケンペル(Engelbert Kaempher, 1651-1716)、スウェーデン人で分類学の祖であるリンネの弟子のツンべルク(Carl Peter Thunberg, 1743-1822)とジーボルトの3人が有名である。3人ともにオランダ商館の医師として来日したこと、にもかかわらずオランダ人ではなかったことが共通している。ケンペルとツンべルクはオランダ人ではないことを見抜かれなかったようであるが、ジーボルトは見抜かれた――ということは徳川300年の間に長崎のオランダ語通詞の能力が確実に前進していたことを物語る。なお、ツンべルクが江戸に出かけた折には、彼がそれまでの商館付きの医師と違って、すぐれた学者らしいという評判が広がっていたために、『解体新書』の翻訳にも加わった中川淳庵と桂川甫周が質問に出かけ、ツンべルクからそのオランダ語の能力を賞賛されただけでなく、彼の帰国後には手紙を届けている。だから蘭学者の方も確実に語学力を向上させていたのである。ツンべルクの場合は江戸参府の際に質疑を行う程度の交流であったのが、ジーボルトは塾を開いて医学教育を行った。そのあたりの西洋医学への関係の深化も見落とすべきではなかろう。

 ところで、彼ら3人は日本についての主要な著作をラテン語で書いている。だから彼らが書いたものを当時の日本人はほとんど理解できなかったはずである。中川淳庵と桂川甫周について触れたが、彼らとともに『解体新書』の翻訳に取り組んだ前野良沢がオランダ語だけでなく、ラテン語の学習にも取り組んだことはよく知られており、少なくとも蘭学者のレヴェルでは世界にはかなり多様な言語が行われていること、ラテン語が学問の世界における共通言語として使われていることが認識されていたようである。幕末に近づくにつれて、オランダ語以外のヨーロッパの諸言語も少しずつではあるが学習されるようになる。そういえば(時代はかなり後になるが)司馬遼太郎の小説『胡蝶の夢』の主要登場人物である司馬凌海がラテン語で日記をつけていたことが知られている。その日記がかなりとんでもないもので、ラテン語で書かなければならないような内容を書き記したものであったことは詳しく書かない方がよいだろう。

 番組ではジーボルトの娘の楠本いねについても触れていた。ジーボルトは日本の女性との間に子どもを儲けていた。ということは彼は多少は日本語を話せたということで、この点も見落とすべきではなかろう。以前、ピエール・リトヴァルスキーさんが横浜FCの監督をしていたときに、インタビューはドイツ語で行っていたのだが、実はリティーは日本語が話せるのだけれども、間違いがないようにドイツ語でしているという話であった。おそらくジーボルトの日本語も同じようなレヴェルではなかったかなどと想像している次第である。

白上謙一『ほんの話――青春に贈る挑発的読書論』

10月11日(日)午前中雨、その後曇り

  白上謙一『ほんの話――青春に贈る挑発的読書論』は著者の死後、1976年に『現代の青春におくる挑発的読書論』として昭和出版から刊行されたものを、1980年に現代教養文庫の1冊として編集しなおして、社会思想社から刊行された書物である。昭和出版から出版されたものは、私の最初の職場の校費で購入したので、手元にはない。多分、そこの図書館に収蔵されているのだろうが、どんな学生に読まれたのか、あるいはすでに廃棄されてしまっているのか、その運命が気になる。とにかく、私の手元にあるのは現代教養文庫版である。

 白上謙一(1913-1974)は動物学者で発生細胞学という領域の開拓者であり、山梨医専、その廃校後は20年以上にわたり山梨大学で生物学を教え、京都大学に転出したが間もなく没した。この書物は、その間1962年から1971年まで『山梨大学学生新聞』に連載した記事をまとめたものであり、碓井益雄による解説に引用された八杉龍一の言葉によれば「一人の際立った発生生物学者、理論生物学者、そして科学哲学者でもあった」(304ページ)のさらにもう一つの顔――読書人としての顔を描きだすものである。そして、学生に向けて語るというスタイルから、彼の教育者としての姿も明らかになる。
 すでに絶版になって久しい書物であるが(社会思想社自体が解散してしまった)、今年のノーベル生理学・医学賞を受賞された大村智さんが山梨大学(学芸学部)を卒業されたと知って、あらためて読み直してみた。大村さんの伝記的な記事を読んでも白上の名前は出てこないし、この書物の中にも大村さんのことは出てこないが、大村さんが白上の授業を聴講していた可能性はあるし、そうでなくてもどこかですれ違っていたと想像することはできる。

 山梨医専は1944年に開校し、1947年に廃校となった。1945年7月の甲府空襲で校舎・附属医院が全焼したこと、設置者である山梨県の財政状況が厳しかったことのためである。ただし在学生のための救済措置として(旧制)山梨高校が設置され、1951年まで存続したそうである。ただし、この書物には山梨医専のことは出ていても、山梨高校のことは出ていない。山梨医専の図書館の蔵書について、白上は次のように語っている:
「戦争の末期、私が山梨医専にやってくる少し前、私はモノスゴイ『見えざる敵』とたたかったことがある。善い本の少ない時であったが、私が目をつけていた大半の本があっという間に消え失せてしまったのにはおどろいた。もっとおどろいたことにその本の大部分が私が着任した山梨医専の書庫におさまっていたのである。
 見えざる敵は今は学芸学部におられる長谷川八郎教授(昭和53年逝去)であった。二人は今でも戦火にやかれてしまった当時のことを語りあう。かつて甲府の町に存在したことのある山梨医専の蔵書のすばらしさは吾々の胸の中にしか残っていない」(33-34ページ)。

 甲府空襲の際に白上は応召していて中国の北部にいた。その間のことはこの書物の最初のエッセーである「絶海の孤島に携える『たった一冊の本』」で、またその他のエッセーの中でも折に触れて語られている。この時、白上が選んだ1冊の本は岩波文庫の『ソクラテスの弁明、クリトン』であった。「この本の中でソクラテースは『ただ生きることではなく、よく生きることが問題にされねばならない』と云っているが、当時の私にはよくどころか生きること自体が見込うすであった」(23-24ページ)。
 「戦争がすんで、今は体育学教室におられる長谷川さんと二人で『今ひとたびの』という映画を甲府で見た… 当時吾々は、戦時中甲府に創立された山梨県立医学専門学校を、なんとかして存続させようとして、つらい努力を重ねていた。/岐阜とか松本とか、甲府と同じ時期に、方々でできた医専の多くは今では医科大学にもりたてられている。そして山梨県は、このような医専を見殺しにした日本でたった2つの県の内の1つであったのである。/挫折した努力の空しさを、それぞれにかみしめながら2人は映画を見た。…この映画は戦争の向うに埋もれてしまった…私たちの青春時代をよく描いていたように思う」(168-169ページ)。

 この戦地での、また戦後の経験から、彼は研究と教育に取り組む一方で同時代の出来事について常に目を向け、発言を続けた。医専がつぶれたようにはならなかったが、学芸学部は教育学部になり、数物・文芸・商経という(教員養成を目指さない)専門コースの3学科は必要ではないとされるなど、彼の勤務先自体にも変化があった。この書物の内容をなす学生新聞への連載の後半の時期は私が大学・大学院に在学した時代に重なり、学芸学部から教育学部への変化は私の学生時代の出来事であった。過去と現在とを重ね合わせながら、日韓条約(1965年)について、羽田闘争(1967年)について、三島由紀夫の自決(1970年)について、それぞれ白上は自分の意見を学生たちに語りかけようとしているのだが、まさに語りかけられた相手の世代であったのである。

 大村さんのノーベル賞受賞を受けて日本の地方国立大学の存在意義を再評価することを訴えるつもりで書きはじめた(私は15年余り地方国立大学に在任していたし、その後も教えに出かけたことがあるので、その行く末が気になって仕方がないのである)のだが、どうもそこまでいきそうもない。この書物の魅力について、また地方国立大学の存在意義については、また機会を改めて書き続けていきたいが、この書物の中でここで特に詳しく紹介しておきたいのは次の箇所である:
 国民の広い階層が漠然とした「住みにくさ」を感じはじめ、それが侵略的な強大な隣国のイメージに転化される。これに対抗するものははげしい軍備拡張をおいて他にはない。これに反する一切の行動は利敵行為である。このような思想が吾々日本人の最も美しい諸点、最後には「愛国心」までをまきこんで濁流の中におしながしてしまった。
 1961年1月、アイゼンハウアー大統領はその告別演説の内で、国民に対して軍部と産業の結合体(ミリタリー・インダストリアル・コムプレックス)の動きについて警告を発している。かつてはノルマンディーにおける”最も永き日”の立役者であったこの政治家とおなじく『戦争国家』(みすず・ぶっくす46)を書いたフレッド・クックは現代アメリカにおいて、地下の不気味な流れに耳をかたむけている一人であるらしい。(38-39ページ)。
 産軍の結合体が学術研究まで巻き込むことについて、学生時代に反対していたつもりなのだが、どうもそれは言葉だけで実感の伴わないものであったことを、その後、研究者の端くれになって研究には金がかかることを実感するようになって気づいた。研究には金がかかるからこそ、研究の社会的な責任に対して厳しくなければならないのである。

『太平記』(68)

10月10日(土)曇り後雨、一時激しく降る。

 元弘3年(1333年)4月に上洛した名越高家と足利高氏の幕府軍は27日に、八幡・山崎の後醍醐方の軍勢の討伐に向かったが、大手の大将名越は久我縄手で赤松一族の佐用範家に射られて戦死した。搦手の大将であった足利高氏は、北条家得宗である高時の出兵への例を失した催促に怒り、また源家再興の志を秘めていたので、船上山の後醍醐天皇と連絡をとって内通の意思を伝え、綸旨を得ていた。そのため、搦手の大将であったにもかかわらず、名越と赤松の戦いには加わらず、大江山を越えて、丹波の篠村に入り、ここで倒幕の意思を明らかにして近国の兵たちを集めた。名越高家の戦死と足利高氏が倒幕の意思を明らかにしたことは、六波羅に衝撃を与え、都は上を下への大騒ぎとなった。

 後醍醐方の軍勢は5月7日を期して京都に攻め入るとの協定を結んだ。4月8日に千種忠顕が京都に迫った時は、多勢を恃んで赤松勢と連絡をとらずに京都を攻撃して失敗したが、今回は篠村、八幡、山崎の討幕軍には意思統一ができている。先陣の兵士たちは京都の西と、南の方に陣営を構えて、かがり火をたく。山陰、山陽道は後醍醐方の兵士でふさがれている。また若さの国、現在の福井県小浜市から琵琶湖の西岸を経由して京都の八瀬・大原を通り抜けて京都に向かう若狭路から、あるいは別の道を通って、京都の北の方から、丹波の武士たちや児島高徳が率いる一党が攻め入ろうとしているという噂も聞こえてきた。都は3方から包囲された形となり、わずかに東山道(とうせんどう=近江・美濃から木曽路を経て東国に至る道)だけが空いていたが、比叡山には反幕府の勢力も少なからず存在しているので、琵琶湖南端の勢多川にかかる勢多の橋の周辺に兵を構える可能性もないわけではない。こうして六波羅の軍勢は四方を包囲された状態になっており、表面上は意気盛んではあったが、内心ではかなりうろたえていた。

 それにしても幕府軍にとって悔やまれるのは、楠正成の立て籠もる千剣破(ちはや)の城に大量の兵力を投入していたことである。このため、危機に陥った六波羅を防ぐ軍勢は不足している。まさか、京都が危機に陥るとは思っていなかったための不測の事態である。

 六波羅方がかねてから相談のうえ決めていたことは、平場での野戦になると数の少ない幕府軍は不利である。そこで六波羅の館の西側の濠に鴨川の水を引き入れて、残り三方を囲む塀を高くし、櫓を構えて、六波羅を要害の地として守り抜こうという構えである。「誠に城の構へは謀(はかりごと)あるに似たれども、智は長きにあらず。剣閣嶛(たか)しと雖も、これに憑(よ)る者は蹶(つまず)く。根を深くし臍(ほぞ)を固くする所以に非ざるなり。洞庭深しと雖も、これを負(たの)む者は北(ほろ)ぶ。人を愛し国を治むる所以に非ざるなり。今、天下二つに分かれて、安危この一挙に懸けたる合戦なれば、粮を捨て舟を沈むるはかりごとをこそ致さるべきに、今よりやがて後ろ足を踏んで、わづかの小城に籠もらんとかねて心を使はれける、武略の程こそうたてけれ」(第2分冊、55-56ページ、まことに城塞の構えは謀があるように思われるが、長期的な戦略をもって備えているわけではない。高い城壁をきずいたとはいっても、これだけを頼りにしては失敗する。しっかりとした構えをしているとは言えないからである。深い濠を構えても、それだけを頼りにするものは滅びる。城塞の防備よりも大事な人心の支持を得ていないからである。今、天下は2つに分かれて、天下分け目の決戦が行われようとしているので、決死の戦いを挑む作戦を立てるべきであるのに、すでに初めから踵を返して逃げようとして時間稼ぎに小規模な城砦に立て籠もろうとしているその心がけと武略とはなさけないことであった。)

 六波羅の作戦は中途半端で後手に回っている。京都を防衛するのであれば、盆地の出入り口である各要所に兵を配備して防ぐべきであるのに、すでに盆地の内部に敵が入り込んでいる。現在ならば、千剣破やその他に派遣されている味方の兵を集め直すこともできたであろうが、この時代の交通と通信の技術ではそれはかなり困難である。さらに鎌倉幕府と六波羅探題は京都の人々の支持も失っているようである。そうこういっているうちにも倒幕を目指す兵力は京都へと近づいてくる。

シャーロット・マクラウド『納骨堂の奥に』

10月9日(金)晴れ

 10月7日、シャーロット・マクラウド『納骨堂の奥に』(創元推理文庫)を読み終える。

 ボストンの名門ケリング一族に生まれたセーラは10代の後半に寡夫であった父を不慮の事故で失い、子どものころから慕ってきた年長の従兄であるアレグザンダー(アレックス)と結婚する。「一世代ほど前までは、ケリング一族はまたまた従兄弟やまた従兄弟、それどころか実の従兄弟の中からさえ配偶者を選ぶことがしょっちゅうだった。理由の半分は結束の固い集団であることで、もう半分は財産の流出を防ぐため。セーラの両親は同じ一門の別々の分家から出たが、誰も特筆すべきこととは考えなかった。また親類の誰も、その2人の結びつきから生まれたたった1人の子が親のまたまた従兄の子と正式に結婚したのを、よろしくないとは思わなかった。アレグザンダーがもうじき41、孤児になったばかりのセーラがまだ19にならない頃のことだったが」(11ページ)。

 セーラの大伯父にあたるフレデリックは一族の長老であったが、遺言で死んでもマチルダ大伯母とは一緒に葬られたくないといったため、一族が昔使っていた納骨堂を開けて中の様子を確認しなければならなくなった。彼女は従兄のアドルファス(ドルフ)とともに納骨堂に出かける。何十年ぶりかで開けられた扉の向こうには赤レンガの壁が築かれていて、それを壊して入ってみると、朽ち果てた死骸が一体横たえられていた。その死骸の歯にルビーが光っていることから、それが30年というもの行方が知れなかったストリッパーのルビー・ディーのものであることがわかった。

 セーラが帰宅するとアレグザンダーは親友のハリーから夕食に誘われたといって、彼女を急かすので、この日あったことを話しそびれてしまう。ハリーはアレグザンダーと高校、ハーヴァード大学を通じての友人であり、資産家の娘のライラと結婚して、出版社を経営している。アレグザンダーもセーラも時々その仕事を手伝わされるのだが、報酬はほとんどない。
 夕食にはある事故のために目が見えなくなっているアレグザンダーの母のキャロラインも出席する。彼女は障害があるにもかかわらず元気がよく、我がままでもあり、アレグザンダーは目の不自由な彼女のためにその時間の大半を割いている。キャロラインとライラは中央と地方の政治の様々な行事に参加するなどして、仲がよいが、2人ともセーラを見下した態度をとる。(2人ともケリング一族の人間ではないことも注意しておいてよい。)
 夕食にはさらにハリーの部下の若者ボブ・ディーとハリーの出版社から新たに本をだすことになったマックス・ビターソーンという宝石の専門家が参加することになっているが、マックスはまだやってきていない。パーティーの席は昼間の事件の話題で盛り上がるが、ここで初めて事件について知ったアレックスはなぜか動揺する。やがて、ビターソーンが来場する。食事の席でボブ・ディーとビターソーンはケリング家の宝石についていろいろと質問するが、キャロラインはこたえようとしない。

 セーラは納骨堂で見た煉瓦の壁の、煉瓦の色に見覚えがあった。キャロラインとアレグザンダーが作った「秘密の花園」の壁がこれと同じ煉瓦で作られていたのである。セーラは事件が気になって、手がかりになりそうなことを調べてまわる。彼女には、これまでも気になってきたことがあった:
「アレグザンダーの父親つまりギルバート伯父は、ケリング一族の誰にも劣らぬ資産家だった。ということは相当な財産を意味する。それはキャロライン伯母の医療費は莫大なものであったであろうし、金にも昔ほどの価値はなく、最低限の費用しかかけないにも関わらず二つの地所の維持費もかさむ一方だ。とはいえ、不動産と宝石を別にしても、ギルバート伯父の遺産は大半が残っているはずである。
 にもかかわらず、結婚以来セーラと夫とその母親の3人は、一族の水準からいえばささやかな、セーラ自身の相続した財産の利子で食べている。それが事実なのはわかっていた。アレグザンダーが毎年、利子収入、支出、そして信託財産の残高が全て記録された明細書を見せるといってきかないのだ。
 なぜアレグザンダーの金でなく自分の金で生活しているのか、セーラは未だに完全には理解していない。父親の遺書がアレグザンダーをセーラの保護者と定めている以上、それでよいのであり、セーラの不利になることを夫がするはずがないと思ってきた。それに夫婦なのだから、わかち合うのは正しい。だが本当にいいことなのだろうか? この守銭奴めいた傾向が何か奥深い病気の症状であることに、セーラとしては気づくべきではなかったのか?」(121-122ページ)

 納骨堂から出てきた死骸と、セーラの一家の切りつめた生活の間には探り出すのが恐ろしいような関係が潜んでおり、ある人物の悪意がセーラの一家とセーラとをしばりつけているのである。アレグザンダーは名門の出身で、名門高校・大学を出て、いろいろなスキルを身につけており、優しく、几帳面であるが、事態を打開できないのにはそれなりの理由があることが分かっていく。

 作者シャーロット・マクラウドはカナダ生まれでアメリカで活躍した女流作家であるが、アレグザンダーを始め、名門の出身であることを笠に着て威張り散らすが、現実的な問題解決にかかわるのは避けたがるドルフや、一族の大半とケンカ別れをしている独身の遊び人である叔父のジェレミー(ジェム)などの男性たちの性格が生き生きと描かれているのはなかなかのものである。そういう中で育ってきたので、ヒロインのセーラは父親がホーム・スクーリングで学校に通わせずに育て、一族の中の人間としか付き合わせなかったにもかかわらず、勇気があり、世の中にも積極的に立ち向かおうとする。それに一族の結束の固さもいざとなれば彼女を後押しする(かもしれない…)。

 2つの問題がどのように結びつくかの謎が明らかにされるまでは、ある事件の実行者が分かっても、その背後にさらにそれを指示した人物がいる…というふうに事態は二転、三転する。その展開が、人物描写の詳しさと相まって、読み応えがある。
 1979年に書かれて、日本では1989年に翻訳が刊行されたこの作品は、その後シリーズ化され、大学教授ピーター・シャンディが活躍する作品シリーズとともにマクラウドの代表作となった。マクラウドの作品はユーモアにあふれたコージーなものが多いといわれるが、この『納骨堂の奥に』は名門一族のどろどろとした内幕を背景に、サスペンス感に富んだ展開となっている。マクラウドの作品ではすでに『おかしな遺産』(創元推理文庫)を読んでいて、これはシリーズの最後から2番目の作品だそうであるが、『おかしな遺産』の解説を書いた大矢博子さんによるとシリーズには個性的で魅力的な登場人物が数多く登場し、『納骨堂の奥に』と『おかしいな遺産』だけではその全貌はわからないそうであり、それらの登場人物がどのように描かれているのか、読んでみたいと思う。すでに刊行されたけれども、現在は書店に並んでいないシリーズの他の作品が再び読まれるようになることを期待したい。

 

ダンテ・アリギエリ『神曲 煉獄篇』(15-2)

10月8日(木)晴れ

 『煉獄篇』第15歌の前半で、ダンテとウェルギリウスは煉獄の第三環道に移動する。そこでは魂たちが憤怒の罪を贖っている。ダンテは、
自分が新たな環道に着いたことが分かり、
好奇心にあふれた我が目は輝き、私は沈黙した。

そこで私は突然、魂を連れ去るような
幻視の中へと引き込まれたように感じ、
(228ページ)3つの幻を見る。第1は新約聖書の「ルカによる福音書」に出てくるマリアとヨセフが12歳のイエスを連れてエルサレムの祭りに出かけたが、イエスとはぐれてしまい、3日間必死になって彼を探す。そしてラビたちの議論に加わっている自分たちの子どもの姿を見出して、自分たちが必死の思いで彼を探していたことを優しく言って聞かせる場面である。第2は古代アテネの僭主であったペイシストラトスが自分たちを愛する者たちに対する寛容を説いた場面、第3は初期キリスト教の殉教者である聖ステファノが自分たちを迫害する者たちを神が許すように祈った場面である。第2の場面が古代ギリシアにおける、ある条件のもとでの寛容を説くものであったのに対し、第3の場面では全人類への愛が語られている。

 ダンテは意識を取り戻し、自分の見たものが真実を伝える幻であったことに気付くが、その彼をウェルギリウスは叱責する。彼が自分の歩むべき道を進む足取りが遅いことを咎めているのである。そして2人は先を急ぐ。
私達は、この目が探れる限りの遠くまで、
午後遅くの輝く光線に逆らって注意を払い、
夕暮れ時を歩いていった。

そしてここに少しずつ一塊の煙が、
まるで夜の闇のように私たちに近づいてきた。
やり過ごすことができる場所などなかった。

これが私たちから視界と澄んだ大気を奪った。
(233ページ) どうも不安を掻き立てるような闇に似た煙が2人に近づいてくる。怒りは知性を盲目にする。この煙はそれを象徴するものである。2人の前途にどのような世界が現われるのであろうか。

 このブログを始めて以来、読者の皆様から頂いた拍手の数が10,000を越えました。ご愛読を感謝するとともに、今後ともよろしくお願いします。

日記抄(10月1日~7日)

10月7日(水)晴れ後曇り

 10月1日から本日にかけての間に、経験したこと、考えたことから:

10月1日
 NHKカルチャーラジオ「文学の世界」では新たに『弥次さん喜多さんの膝栗毛~十返舎一九生誕250年』が始まった。『膝栗毛』の作者である十返舎一九は、江戸の町人だと思われがちであるが、静岡生まれで、奉行所の同心の跡取り息子だったということなど、あまりよく知られていない彼の生涯を掘り起こすことから話が始まる。

10月2日
 貝塚爽平『富士山の自然史』(講談社学術文庫)を読み終える。1月~3月に聞いたNHKカルチャーラジオ「富士山はどうしてそこにあるのか」と重なる部分が少なくなかったが、紹介されている研究成果という点では少し古いようである。富士山が極めて特異な場所にできた火山であるということはわかったが、まだどうしてこの火山ができたかはわからないと論じている。

 この日見た映画のうちの1本:『挽歌』についての補足。ヒロインの怜子は地方都市の劇団に参加して、美術を担当している。しかし、そこでの活動に満足していないから、桂木家の生活にかかわるようになる。彼女が周囲の芸術青年たちに感じている違和感・疎外感は原作者である原田康子自身のものであったかもしれないと思う一方で、地方で(予算不足のため)ガリ版刷りで刊行されていた同人誌から、ベストセラーが生まれるという時代の活力に驚嘆させられる。

10月3日
 NHKラジオ「攻略!英語リスニング」では”Paper"(紙)をトピックとして取り上げている。製紙法は中国で発見され、中東を経てヨーロッパに伝わったと考えられている。
We all know that it's old --that the papermaking process was invented in China in the vicinity of 2,000 years of age. We can all guess that knowledge of that process traveled through the Middle East and into Europe, where the first water-powered paper mills were created.
(昔からあるのは知っての通りで、紙の製法は中国で2,000年ほど前に開発された。想像がつくと思うが、その製法は中東からヨーロッパへと伝わり、そこで初めて水力を作った製紙工場が生まれることになった。)
 これだけでは、和紙と洋紙の違いがどうして生まれたのかは説明できない。そこを説明してくれた方がありがたかった。

10月4日
 NHKEテレ「日本の話芸」で三遊亭金馬師匠の『死神』を視聴する。演技の悪いことばかり言って、客をしくじり続けていた幇間が死神から秘密を打ち明けられたことで運命が変わる。2種類ある結末の、これは明るい方の口演。師匠が小金馬といって、二代目の江戸屋猫八(物まね)、一竜斎貞鳳(講談)と「お笑い三人組」として活動していたころから、かれこれ60年くらいその高座に接している。あまりうまいとは思わないが、それなりの風格を感じさせるのが年功というものであろう。

10月5日
 都内の病院に診察を受けに出かける。診察を受けている間、医師が使っているのボールペンが、机の上にあった他の文具とは違って私物らしい高級品であるのが気になった。その後、薬局で観た銅版画がマントヴァの町の様子を描いているとか、その後昼食をとった中華料理店が食器に店の名前を入れているとか、細かいことばかりが気になった。

10月6日
 NHKラジオ「ワンポイント・ニュースで英会話」は”Actor Fukuyama takes a knot"(福山雅治さん吹石一恵さんと結婚)という話題を取り上げた。結婚は何にしてもおめでたいことではあるが、わざわざ英語で報道するほどのニュースかなと思った。

10月7日
 NHKラジオ「実践ビジネス英語」で登場人物の1人が
When I was a kid, binging on cereal while watching cartoons was a Saturday-morning ritual.
(私が子どものころには、アニメーション映画を見ながらシリアルを食べたいだけ食べるのが、土曜の朝の習慣でした。)
という。”Word Watch"の説明によると、「アメリカでは1960年代から1990年代くらいまで土曜日の朝はHanna-Barberaのanimated cartoonが次々にテレビで放送されていた』という。1999年に私は英国のリヴァプールで半年ばかり過ごしたのだが、BBCテレビも土曜日の朝はハンナ=バーベラのアニメ、確かThe Flintstonesを放映していて、それが終わってから朝食をとっていたと記憶する。

 シャーロット・マクラウド『納骨堂の奥に』(創元推理文庫)を読み終える。なかなか読み応えがあった。 

ビッグ・シティ

10月6日(火)晴れ後曇り

 昨日(10月5日)に見た映画2本のうちの残り1本である『ビッグ・シティ』(1963)を取り上げる。昨日に見た順序と製作年代からいえば、こちらの方が先であるが、物語が設定されている時代が新しいので、後回しにした。昨日取り上げた『チャルラータ』と同様、マドビ・ムカージーがヒロインを演じている。サタジット・レイ監督の映画歴の中では中期に属する作品である。

 1953年(ということは映画が作られた時期の10年ほど前)のコルカタ(カルカッタ)。夫が銀行に勤めている主婦のアラチは、男の子1人の母親であり、専業主婦であったが、夫の両親と夫の妹が同居することになって、家計が苦しくなる。義理の父親は元教師で、その経歴を自慢しながらも、それがまったく世間的に評価されないことを憤り、結局のところ毎日クロスワード・パズルを解いて暮らしている。(パズルに正解すれば賞金がもらえるのだが、それほど学歴のない知人が賞金を獲得したのに、義理の父の方は正解したためしがない。) プライドだけがやたら高く、現実的な能力のない人物はレイの作品にしばしば登場するが、義理の父親はその典型的な1人であり、大学を卒業しているにもかかわらず、銀行の中間管理職という地位にとどまっている、ヒロインの夫にもその片鱗は感じ取ることができる。

 アラチは働きに出ることを決心し、上流家庭に手編み機を売りつけている会社のセールス・レディの職に応募して採用される。夫は渋々それを認めるが、義理の父はいい顔をしない。新しい職場では仲のいい友達もでき、仕事も思ったより順調に展開する。それに仕事ぶりを社長に高く評価される。その一方で、子どもの世話を見ることができなくなり、夫は自分の不甲斐なさを感じて、なんとかアルバイトを見つけ、収入を増やして妻の仕事をやめさせようとするが、そんな中で夫の勤めている銀行が倒産してしまう・・・。

 まだ女性が外に働きに出ることがそれほど一般的でなかった時代の話ということになっているが、それから10年経ったこの映画の製作の時点では、より多くの人々にとって身近な話になっていたのではないかと思われる。夫の両親と同居する妻の苦労とか、嫁姑の関係、外に働きに出ることと子育て、インドのベンガル地方という地域の物語であるが、世界の様々な国・地域で多かれ少なかれ似たような問題を見出す観客が多いはずである。その中で、例えば最近のイラン映画『別離』がイランの普通の人の暮らしの中の問題点を描きだし、世界の様々な家庭に共通する問題と、イランの特殊な問題とを浮き上がらせたことを私は思い出していた。

 ヒロインのアラチは自分の家庭のために働きに出るのだが、正しいと思ったこと、必要だと思ったことはすぐに言葉に出し、行動に打つタイプである。職場で自分の権利を主張するだけでなく、病気で休んでいる同僚の分まで働いたり、その同僚に気遣いを見せるというような外に開かれた心も持っている。とはいうものの、彼女の生活圏は世界有数の大都会に住んでいるにもかかわらず、広くはない。もっと広い世界や、人類に共通の人権を知ることで彼女たちの生活は変っていくはずである。大都会に住んでいるということが、彼女とその一家に希望を与えるはずだということを示す形でこの映画は終わっているが、世界に広く視野を広げることが人間にとって重要だということの、監督であるレイが観客に訴えたかったことの1つではなかったかと思う。

チャルラータ

10月5日(月)曇り

 シアター・イメージフォーラムで「シーズン・オブ・レイ」と銘打って特集上映されたサタジット・レイ監督(1921-1992)の中期を代表する2作品:『ビッグ・シティ』(1963)と『チャルラータ』(1964)をデジタルリマスター版で見た。前者は1963年、後者は1964年のベルリン国際映画祭でともに監督賞を受賞した作品である。『チャルラータ』は1975年に上映された際に見ており、40年ぶり2度目の観賞であった。物語のあらすじは記憶しているが、記憶している画面はほとんどない。意外なことに、ヒロインがベンガル地方の農村で暮らした少女時代の思い出を急によみがえらせる場面が、全体としてはリアリスティックなこの作品の中で例外的に幻想的な場面であるにもかかわらず、記憶に残っていた。

 1879年のコルカタ(カルカッタ)。富豪であるブパチは英国統治下のインドの現状に不満を持ち、英語による政治的な主張を展開する新聞を発行している。新聞の編集の仕事に忙しく、広壮な邸宅の広い庭は荒れ放題であり、若く美しい妻のチャル(マドビ・ムカージー Madhabi Mukherjee, 1942-)が退屈と孤独感にさいなまれていることに気付こうとしない。新聞の経営を円滑に行うためにチャルの兄を呼び寄せて経理を担当させるが、チャルは刺繍をしたり、小説を読んだりして毎日を過ごすだけである。そんなときにブパチの従弟であるアマルが一家を訪問する。文学を愛し、自由奔放にふるまうアマルの出現は、チャルの生気をよみがえらせる。ブパチはチャルが一種の文才をもっていると思っており、それを育てる仕事をアマルに託す。アマルとの交流の中で、チャルは少女時代の思い出を文章にまとめ、その文章は雑誌に掲載される。その一方で、チャルの兄がブパチの財産を横領して逃亡する。アマルは従兄の重荷になりたくないと、自活の道を求めて邸から去っていく…。

 1913年にインド人として(アジアでも初めて)ノーベル文学賞を受賞したラビンドラナート・タゴール(Rabindranath Tagore, 1861-1941) の短編小説『壊れた巣』(ベンガル語 Nastanirh,英語 Broken Nest)が原作であり、タゴール自身の経験が物語の素材になっているという。1870年代から80年代にかけて、インドのベンガル地方ではベンガル・ルネサンスと呼ばれる文化的な繁栄期を迎えており、その時代の雰囲気が物語の背景となっている。ブパチはリベラルな思想をもち、新聞でもそういう主張を展開しているのだが、仕事に追われて家庭を顧みない。自分が抱いているはずの思想と、現実の行動がちぐはぐになっている。妻の気持ちと向き合うことで、ブパチはそのことに気付くことになる。

 興味深いのは、夫であるブパチが英語の新聞を発行し、妻のチャルがベンガル語の小説を読み、また創作活動をしようとしていることで、日本でも男性は漢文、女性は和文という伝統が長く続いたことを思い出させる。そのことが、両者の思想や行動に影響しているとも考えられるのである。伝統は大事にすべきだが、文化的な溝があることは好ましいことではない。レイ監督はカリグラフィーの名手でもあったとのことで、映画の中でアミールやチャルが書くベンガル文字の美しさが印象に残る。美しいといえば、チャルを演じているベンガルの女優マドビ・ムカージーの魅力も忘れがたい。

 インドは世界有数の映画製作国であるが、製作されている映画の大半が歌や踊りにあふれた商業的な娯楽作品であり、その中でリアリズムを基調としながら様々な芸術的実験を展開するレイの作品はあまりにも異質であると論じられてきた。また彼の映画が国際的な名声を博している一方で、インド国内では少数言語である(といっても2億2千万人という日本語に比べてはるかに多い話者人口をもつ)ベンガル語で製作されているためにインドでは多くの観客を獲得できないともいわれた。ハリウッド映画に対するニューヨーク派の映画というのに似ているが、それ以上に懸隔は大きいようである。

 レイ監督の作品がリアリズムを基調としていると書いたが、そのことによって近代化の過程における、また現代のインドの人々のありのままの姿が捕えられていることも評価すべきであろう。8月中旬に見た衣笠貞之助監督の『或る夜の殿様』(1946)が1886年(明治19年)の日本を舞台にしているのを思い出し、日本の欧化がインドのそれと比べるとはるかにぎこちないものであったという感想をもったが、同時にそれは日本が欧州列強の植民地にならなかったことと結びついているということで、必ずしも否定的に評価すべきことではないのだと複雑な気持ちになっているところである。(ただし、インド人の使う英語が独特のものであるとか、インドの女性の大部分がサリーを着ているというように、インドがその近代化の過程で西方の文化に決して同化しなかったという側面も見逃すべきではなかろう。)

 「シーズン・オブ・レイ」の上映は10月8日までであるが、この後、大阪のテアトル梅田、名古屋シネマテーク、京都みなみ会館、神戸の元町映画館で上映されるということで、関心のある方はぜひ見てください。私自身、もし横浜シネマジャック&ベティで上映してくれれば、また見に出かけようと思っているところである。

『太平記』(67)

10月4日(日)晴れ

 元弘3年(1333年)4月27日、名越高家を大手、足利高氏を搦手の大将とする幕府軍が八幡・山崎に陣を構える赤松勢の討伐に向かったが、大手の大将である名越は功を焦り、前線で戦ううちに、久我縄手で赤松一族の佐用範家に射られて戦死した。搦手の大将である高氏は、すでに船上山の後醍醐帝から倒幕の綸旨を受けており、戦いに加わることなく京都を離れ、大江山を越えて丹波の国の篠村(京都府亀岡市篠町)に向かった。

 篠村に到着した高氏はいよいよ倒幕の兵をあげることを宣言して、在地の武士たちを招集した。その時に真っ先に駆けつけたのが丹波の武士久下(くげ)弥三郎時重で140騎から150騎の軍勢を率いてやってきたが、その旗の紋、笠符(かさじるし)にみな「一番」という文字を書き記していた。これを見て高氏は不思議に思い、執事である高師直を呼んで、「久下の配下の武士たちは、笠符に一番という文字を書いているが、これは久下家の門であるのか、われわれのもとに一番にはせ参じたという記号であるのか」と尋ねた。師直が畏まっていうことには「これは由緒ある紋でございます。彼の先祖である武蔵の国の住人久下次郎重光は、頼朝大将殿が(石橋山の合戦に敗れた後)土肥の杉山で再起を図られたときに、一番に駆けつけたので、大将殿が大いに感激されて、もし自分が天下を保つことができれば、おまえに一番に褒美を与えようとおっしゃって、自ら「一番」という文字を書き与えられました。それを家の門としているのでございます」。この答えを聞いた高氏は、久下の一団がまず最初に駆けつけたことは源氏嫡流たる足利家にとっても吉例であると大いに喜んだ。師直が武士の故実について詳しい知識を持った武士であることが窺われるやり取りである。その師直の知識を高氏が重んじていることから、この主従の息が合っていることも推し量ることができる。

 4月に千種忠顕が京都を攻めて敗れたときに、別行動をとって丹波の高山寺に立てこもっていた足立、荻野、児島、位田(いんでん)、本庄、平庄の一党は、いまさら足利の指揮下には入れないと、丹後、若狭方面に向かい、京都を北方から攻撃しようと企てた。そのほかの丹波の武士たち、久下、中沢、志宇知、山内、葦田、金田、酒井、波賀野(はがの)、小山、波々伯部(ほうかべ)、このあたりの武士たちは一人も残らず参集し、そのため篠村の軍勢はほどなく2万余騎となった。もともと高氏・高国(直義)兄弟が率いていたのは3,000余騎で、六波羅を出発したときは他の武士たちが加わって5千余騎になっていた。そのうち、前回に登場した中吉(なかぎり)十郎と奴可(ぬか)四郎のように高氏の叛意を見抜いて脱落した武士もいただろうが、幕府に対する不満を抱きながら、倒幕に踏み切れなかった武士たちが、高氏という大将を得て、ここで立ち上がったことの意味の方が大きかったということである。

 六波羅はこの情報を得て、今回の合戦は天下の分け目になるだろうと予測する。4月に10万の大軍で京都に迫った千種忠顕は公家で武略には疎かったが、今回の高氏は幕府の有力な武将であり、しかも源氏再興の一念をとうとう顕わにしてきたことも見逃せない。議論の結果、万が一にも負けることがあれば、光厳天皇と後伏見・花園の両上皇をお連れして関東に下り、鎌倉を都としてあらためて大軍を組織し、反乱軍を鎮圧しようとの結論がまとまる。治承・寿永の戦乱の際に平家は安徳天皇を奉じて西国に脱出したが、今回は鎌倉幕府の本拠地である東国に脱出しようというのである。そこで六波羅の北の館を御所として、天皇と2人の上皇をお迎えした。この年の3月12日に赤松勢が京都を攻めたときも、光厳天皇と後伏見上皇は六波羅に避難されたと第8巻にあるが、その後、また御所に戻られていたのであろうか。3月に天皇と上皇を六波羅に入れたのは日野資名、資明兄弟であったが、今回は資名は天皇の近くにいるようであるが、資明の名前が見えない。『太平記』の作者は光厳天皇の弟である尊胤法親王について記す。法親王は天台座主という身分であるから世の中が変わっても恐れることはないはずであるが、進んで六波羅に入られた。兄である天皇のご無事を近くからお祈りしようという心から出たことらしい。

 さらに国母(光厳帝の母)である広義門院(西園寺)寧子、皇后である寿子内親王、その他の高貴な女性たちと摂関家、大臣家の公家たち、朝廷の官吏、尊胤法親王の弟子たち、公家たちに仕える武士たち、その他大勢が我も我もと押しかけ、京都の市中はすっかりさびれた様子を見せ、その一方で鴨川の東の一帯は人々であふれかえった。

 「『それ天子は四海を以て家とす』と云へり。そのうえ、六波羅も都近き所なれば、東洛渭川(いせん)の行宮(あんぐう)、さまで御心を傷ましめらるべきにはあらざれども、この君御治天の後、天下つひに未だ静まらず。剰(あまつさ)へ百寮忽(たちま)ちに外都の塵にまみれぬれば、これひとへに帝徳の天に背きぬるゆゑなりと、罪一人に帰して、主上殊に歎き思し召されければ、常は五更の天に至るまで、夜の御殿(おとど)にも入らせ給はず、元老、智化の賢臣どもを召されて、ただ堯舜、湯武の跡をのみ御尋ねあつて、更に怪力乱神の徒(いたず)らなることをば聞し召さず」(第2分冊、52‐53ページ、「そもそも天子は四海をもって家とする=至るところすべてが住処である」と言われる。そのうえ、六波羅も都の近くであるから(現在は京都市の一部であるが、この時代はまだ鴨川の東は京都市内とはみなされていなかった)、鴨川の東に仮の御所を設けられたことは、それほど気に病むようなことではなかったのだが、光厳天皇が即位された後は、天下はいつまでたっても不安定なままであり、それだけでなく宮廷の役所も都を離れてい舞った。これはひとえに天皇としての徳が天の意思に背いているためであると、光厳天皇は自分をお責めになって、嘆かれていた。そのために明け方の五更(午前4時から6時まで)までご寝所にもお入りにならず、官位の高い老臣や知恵のある賢臣たちをおめしになって、中国古代の伝説的な聖天子である堯舜、殷の湯王や周の武王のことだけを御尋ねになり、神頼みのようなことはなされなかった。) ここに書かれていることがどこまで事実かはわからないが、『太平記』の作者が光厳天皇について同情的に記していることは注目しておいてよいだろう。

 都は後醍醐天皇に心を寄せる諸国の兵の攻撃を受けて、人心が安定せず、4月16日は4月の2度目の申の日で、延暦寺の鎮守である日吉神社の祭礼が行われるはずなのが取りやめになり、4月の2度目の酉の日である17日に行われるはずの葵祭の前の神事も行われず、はたして何が起こるのかと人々は世の中の行く末を不安に思ったのであった。

 都の西南の八幡・山崎には赤松一族と千種忠顕が陣を構え、西北からは足利高氏の軍勢が侵攻しようとし、北からは荻野彦六、児島高徳らが攻め入ろうとしている。比叡山の動き、奈良の僧兵たちの動きも不気味である。六波羅の2人の探題はこの危機にどのように対処しようとするか。それはまた次回。 

『太平記』(66)

10月3日(土)晴れ

 北条高時から上洛の命を受けた足利高氏(後の尊氏)は、非礼の催促に怒り、幕府を裏切って後醍醐天皇に味方しようとする決意を固める。弟の高国(後の直義)、重臣たちも同意して、上洛する。京都に到着した高氏は、ひそかに後醍醐天皇に使いを送り、朝敵追討の綸旨を得た。元弘3年(1333年)4月27日、名越高家を大将とする7,600余騎が大手の軍として鳥羽の作道から<南下、足利高氏が率いる5,000余騎が搦手の軍として、西岡を経由して、八幡、山崎に陣を構える赤松勢を討伐に向かった。赤松勢は交通の難所に精鋭を送り込み、内応の連絡のあった高氏の軍に対しては用心のために野伏を潜ませて、攻撃に備えていた。

 岩波文庫版の『太平記(一)』の381ページに京都周辺図が掲載されているのを眺めるとわかるが、赤松勢は鴨川、桂川、宇治川、木津川などの河川が合流して淀川になるあたりで、その川を挟んで陣営を構えている。湿地帯なので騎馬軍にとっては不利で山の上から矢を射掛ける先方が効果的である。八幡は源氏の守護神である石清水八幡宮のある土地であり、山崎は後の時代に羽柴秀吉と明智光秀が天下分け目の合戦を展開した場所である。

 大手の大将である名越高家は、搦手の大将である高氏が夜が明けないうちに京都を出発したとの知らせを受けて、高氏に先駆けされたかと気が気ではなく、鳥羽の作道から久我縄手に出て、馬を急がせる。既に述べたようにこのあたりは湿地帯で、馬が足をとられやすいのに、無理な強行軍を続ける。高家は血気にはやった若武者であり、今度の合戦では人々が驚くような活躍を見せて、その名声を増そうと、かねてから期待していたので、馬、鎧兜などの物の具、敵味方を区別するための笠符(かさじるし)に至るまで美々しく飾り立てていた。

 その美々しい出立を朝日の光に輝かせて軍勢の戦闘に立つだけでなく、ややもすれば軍勢よりも先に飛び出してしまいがちな姿を見れば、これが今日の合戦の大将であると誰の目にも明らかである。そこで赤松勢もそのほか大勢の雑兵たちには目もくれず、この武者一人をめがけて、ある時は散開し、ある時は密集して襲い掛かるが、高家の着ている鎧は丈夫で矢を通さない、しかも彼は剣のなかなかの使い手であったので、近づく敵は切って捨てられてしまう。「その勢ひの参然たるに辟易して、官軍数万の兵、すでに開き靡くぞと見えたりける」(第2分冊45ページ、その勢いの盛んなさまにしり込みを始め、官軍数万の兵が退却しそうな様子を見せていた)。

 その中で赤松一族の佐用左衛門三郎範家という強い弓で矢を次々に射る弓矢の名手がいた。彼はまた山野に隠れ伏しての戦いの巧者であり、兵法にも通じていた。彼はある心積りがあって鎧兜を脱ぎ捨てて身軽になると、弓矢をもってたのあぜ道伝いに歩き、藪をくぐって、隠れるのに都合のいい場所を見つけると大将に一矢射かけようと待ち構える。
 時家は三方の敵を追いまくって、名越家に伝わる名刀である鬼丸に一日を押し拭い、扇子を開いて、一休みしているところを、範家が近寄っていって狙いを定め、弓をよくひきしぼって「ひやうど射る」(第2分冊46ページ)。その矢は高家の眉間に命中し、さしもの猛将も落馬して命を落とす。範家が敵の大将名越高家を打ち取ったと矢叫びの声をあげると、形勢は逆転、赤松勢は勢いを盛り返し、高家の率いていた軍勢は壊滅状態になる。

 大手の合戦は、4月27日の午前8時ごろから始まり、その間戦塵が舞い上がり、鬨の声が遠くからも聞こえたはずであるが、搦手の大将である足利高氏は味方に駆けつける様子もなく、桂川の西岸で軍勢を休ませ、酒盛をしていた。何時間かたって、大手の合戦で寄せ手が敗北し、大将である名越高家も戦死したという通報があったので、
「足利殿、「さらばいざや山を越えん」とて、おのおの馬に打ち乗って、山崎の方(かた)をば遥かの他所(よそ)に見捨てて、丹波路を西へ、篠村へとぞ馬を速められける」(47ページ、足利殿(=高氏)は『そういうことならば、さぁ山を越えよう』と云って、めいめいが馬に乗り、山崎の方から遠ざかって、丹波路を西に、篠村へと馬を進められた)。丹波路は山陰道の一部で、京都市西京区大枝の老いの坂から篠村(京都府亀岡市篠町)を経て丹波に至る道筋である。

 尊氏に従っていた武士たちの中で備前の国の住人中吉(なかぎりの)十郎と摂津の国の住人奴可(ぬかの)四郎とはこの高氏の行動を怪しみ、大江山の麓で隊伍を離れて相談し、高氏に叛意があることを六波羅に告げようと軍勢から離脱する。この報告を受けた六波羅の2人の探題は、頼りにしていた名越高氏は戦死し、血縁の仲なので裏切ることはないだろうと思っていた足利高氏は敵になり、今やだれを頼りにすればよいのかと、家臣の者たちさえ信じられない気持ちに襲われるのであった。

 北条方にとっては名越高家の戦死は痛い打撃であった。単に勇猛なだけの武将では、このような事態を打開するのには適任とは言えない。高家が血気にはやって先を急ぐのを諌めるような智略に優れた家臣がいなかった、あるいは随行していなかったことが北条氏にとっては惜しまれる。この時、まだ千剣破城を包囲している幕府方の将兵もいて、その中には二階堂道蘊のような有能な武将もいたのだから、呼び戻していれば事態は変っていたかもしれない。後醍醐天皇方は時に失敗することがあっても先手・先手と仕掛けているのに対し、幕府の対応は遅れがちである。篠村に向かった高氏はどのような行動をとるか。それはまた次回。

還って来た男

10月2日(金)曇り

 神保町シアターで『挽歌』(1957、歌舞伎座映画製作=松竹配給、五所平之助監督)、続いて『還って来た男』(1944、川島雄三監督)を見る。『挽歌』はかなりのお客を集めていたのだが、上映後の反応は今一つというところであった。原田康子(1928-2009)の原作小説(1956)はこの時代のベストセラーであり、文庫化もされたが、本屋での立ち読み程度にしか読んだことはない。ただ、1976年に河崎義祐監督、秋吉久美子主演で2度目に映画化された作品は見ており、五所平之助監督、久我美子主演の1957年作品がどのようなものであったのかという好奇心にかられて劇場に足を運んだことは確かである。1957年作品も1976年作品も北海道でロケをして撮影したのであろうが、町も自然もこの20年足らずの間にかなり様子を変えており(さらに生活の様相も変わっており)、1957年作品の方が原作の雰囲気を伝えているのであろうということは理解できた。ヒロインの怜子の異常にも思われる行動が、本人にも制御できないような波紋を彼女と接触した人々に起こしていく。それまでの日本文学には見られなかった新奇な展開を評価するか、それとも物語の不道徳性を非難するかというところで評価が分かれるのではなかろうか。1957年作品における八住利雄・由起しげ子による脚本、五所平之助の演出ともにきわめて丁寧であることは認めておいてよい。

 『還って来た男』の方はお客は少なかったが、それなりの反響があったようである。この映画は織田作之助の短編小説「清楚」と「木の都」をもとに織田自身が脚本を書いたもので、彼と親交のあった川島の監督第1作である。戦争中の映画の題名以外は(スタッフも出演者も)紹介されないことでわかるような不自由な条件の中で作られ、残されたプリントも状態が悪いことなど、あらかじめ承知で見ている観客が多かったと思われる。「木の都」については今年の3月15日付の当ブログで取り上げている。その際に、この映画についても言及したが、もう1つの原作である「清楚」を読んでいない(この短編小説は失敗作という評価があるようだ)ので、あまり詳しく取り上げて論じなかった。

 『還って来た男』は昨年、池袋の新文芸坐で川島雄三監督作品の特集上映を組んだ際に見ているので、これが2度目の観賞である。依然として「清楚」という短編小説は読んでいない。ただ、今回映画を見直して、作品の中で主人公の南方での任務を終えて帰還した軍医=帰って来た男である中瀬古庄平(佐野周二)が見合い相手の名前が小谷初枝だと聞いて「清楚な名前だ」と感想を述べる場面があることに気付いた。名前が清楚だからといって、ご本人が清楚な女性かどうかはわからない。登場人物がそれぞれ名前通りの容姿や性格だというのは芸術作品の人物造形としてはかなり単純で、現実性に欠けるといわれても仕方がない。

 南方から帰って来た軍医中瀬古は、旧制高校の教師をしていた父親(笠智衆)から財産を譲られ、応召中に戦地で栄養状態の悪い子どもたちを見てきたことから、帰国後は日本でそのような子どもたちを健康に育てる施設を作ろうと考えている。父親から、そのためにも結婚すべきだといわれたが、その前にあっておきたい人がいるといって、しばらくの猶予をもらう。帰還の列車の中であった女性(三浦光子)や、知り合いの家を探して道を尋ねた国民学校の先生(田中絹代)と、その後何度か偶然に出会い、戦地でたまたまその最期をみとった中学時代の友人の妹がやはり国民学校の先生であったり、新聞記者をしている中学校時代の友人に会ったりという偶然が重なりながら、日々を過ごしている。

 健康で直情的、本人も認めるようにおっちょこちょいの主人公が国民学校の運動会の飛び入りマラソンで優勝したりする展開は、戦時下でも明るくという製作者の心意気を物語るものであろう。奈良の大仏を見て、自分の目に見えるものが小さく見えていたのが、三浦光子に再会して、見るものが実物大に戻ったと語る場面や、戦地で治療した兵士がバスに乗っている主人公を追いかける場面など、明るい笑いを呼ぶドタバタぶりで、監督の喜劇へのこだわりを感じさせる。主人公が自分の夢の施設について何度も語るのは、同じ佐野周二が『戸田家の兄妹』で妹の高峰三枝子に夫として世話をしたい男性の理想を何度も語るのを思い出させるが、個人的な理想ではなく、社会的な広がりをもつ理想である分、好感が持てる。
 とは言うものの主人公の性格設定には無理を感じるところがある。おっちょこちょいな軍医というのは危なっかしい感じがするし、彼の言動に独善的なものを感じないでもない(見合いは1回しかしない。相手の女性を傷つけたくない――と言いながら、実は物語の展開の中で知り合った何人かの女性を本人は自覚せずに傷つけているようである)。原作者の織田作之助も、監督の川島雄三も体が弱かったから、その彼らが健康で陰のない人物を描くということに無理があったのかもしれない。何か作り物という感じがする主人公よりも、中学校時代の友人である新聞記者が極め付きの「雨男」であるという描き方や、レコード屋の子どもが名古屋に働きに出かけたが、家が恋しくて何度も戻ってくるので、父親と姉も一緒に名古屋に引っ越して働くことにする(これは「木の都」の中のエピソード)という部分などに庶民生活の哀歓を感じさせられるのである。「木の都」の中に描きこまれている石段の続く坂道が映画にも盛んに登場するのだが、原作と違ってあまり象徴的な意味は感じさせない。ただ、こういう風景へのこだわりは、その後の川島の映画にもみられるのは注目すべきことであろう。
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Author:tangmianlaoren
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