日記抄(9月24日~30日)

9月30日(水)晴れ

 9月24日から本日までの間に経験したこと、考えたことから:

9月24日
 エイモス・チュツオーラ『薬草まじない』(岩波文庫)を読み終える。チュツオーラはナイジェリアの作家で、ヨルバ語が母語らしいが、英語で創作活動を続けている(その英語が独特のものらしい)。主人公は妻が妊娠しないために、子づくりのための薬を求めて不思議な冒険旅行をする。彼の代表作『やし酒飲み』同様に、生と死との区別が曖昧な魔法の世界が描かれている。それは近代化以前のアフリカの世界を体現するものかもしれないし、近代化に直面しているアフリカの現実そのものであるのかもしれない。(ラテン・アメリカを代表する作家のガルシア=マルケスがあなたの作品はきわめて幻想的ですが?と質問されて、ラテン・アメリカではこれが現実なのだと答えたという話を思い出す。)

 NHKカルチャーラジオ『ボブ・ディランの世界を読む』が終わる。ディランの歌の歌詞がエズラ・パウンドやT.S.エリオットなどの20世紀の英語世界の詩人たちの詩と共通する特徴をもつという指摘が面白かった。

9月25日
 NHKラジオ「まいにちフランス語」応用編「ニュースで知りたいフランス文化」、「まいにちイタリア語」応用編「イタリア語発音ラボ」の放送がそれぞれ終了する。「イタリア語発音ラボ」の最終回には、ダンテの『神曲』の冒頭部分が「イタリアの人が生まれ育つ中で自然に身につけている11拍の感覚」を示す一例として紹介された。
Nel mezzo del cacmmin di notra vita
 mi ritrovai per una selva osccura,
ché la diritta via era smarrita.

Ahi, quanto a dir qual era è cosa dura
esta selva selvaggia e aspra e forte
che nel pensier rinova la paura!

人の世の道半ば
 私はある暗い森のなかにいた
 目が覚めるとまっすぐに続く道が見失われてしまって
森がどんな様子だったのかを話すのはあまりにつらい
 鬱蒼として深くこの未開の森を
 思い起こすだけで恐れが再び戻ってくる

9月26日
 NHKラジオ「アラビア語講座」「話そう! アラビア語」の放送が終わる。アラビア語は文字からして異質で、まるで歯が立たなかったが、それでも番組を通じてアラブ世界の文化についての情報をいろいろと得られたので、聞いたことが全く無意味だったとは思わない。

9月27日
 大倉崇裕『オチケン探偵の事件簿』(PHP文芸文庫)を読み終える。部員わずか3人という学同院大学落語研究会がなぜか奇怪な事件に巻き込まれる。シリーズ3作目だそうで、第1作、第2作を読んでから論評するつもりである。

 テレビ東京の『開運!なんでも鑑定団』は8月4日放送分の再放送であったが、東京都あきる野市への出張鑑定の場面で、司会の原口がフランスのシャモニーを知らなかったのは、少しお粗末だと思った。モンブランの麓にある町で、第1回の冬季オリンピックの開催地でもある。

 NHKEテレ「日本の話芸」は桃川鶴女の講談「太閤記より 太閤と曽呂利」を放送した。豊臣秀吉と曽呂利新左エ門についての逸話集で、取り上げられるそれぞれの話の順序が整っておらず、もう少し整理する必要があるのではないかと思った。

 ニッパツ三ツ沢競技場でJ2の横浜FC対愛媛FCの試合を観戦する。リーグ戦で上位にいる愛媛がやや押し気味に試合を進めたが、FW西田選手が決定的な場面でシュートを外したりして、前半は0-0で終わる。後半愛媛が1点を先制したが、その直後に途中から出場した横浜の永田選手がゴールを決めて追いつき、さらに小池選手のゴールで勝ち越して、そのまま逃げ切り、ホーム2連勝を飾った。監督が交代してから選手の動きがよくなったという印象があるのは、これまでの練習量が不適切であったか、作戦がわかりにくかったのがわかりやすくなったのかのどちらかであろう。

9月28日
 本日より、NHKラジオ「まいにちフランス語」初級編「もっと話せるフランス語~文法より実践練習2」、「まいにちイタリア語」入門編「2歩目からのイタリア語」の放送が始まったので、聞きはじめる。「ラジオ英会話」、「ワンポイントニュースで英会話」も聞き続け、「入門ビジネス英語」は再放送なので、聞きなおすことにする。


9月29日
 テレビ東京の『開運!なんでも鑑定団』にゲスト出演していた生田智子さんの鑑定依頼品、横山一夢(1911-2000)の木彫「鯉」の値段をぴったり当てた。長く見つづけていると、こういうこともあるものである。

9月30日
 NHKラジオ「実践ビジネス英語」は朝食(breakfast)を話題として取り上げた。1960年代には10人に9人のアメリカ人が朝食を欠かさずとっていたのに、その50年後にはそうしているのはわずか3分の1ほどに減少したという。
We're looking at the decline of the great American breakfast.
(私たちはあの偉大なアメリカ式朝食の衰退に直面しているのです。)
 そういえば、「まいにちイタリア語」の9月23日放送分の再放送で、
Hai già fatto colazione?
(朝ごはんはもう食べたの?)と夫が妻に聞く場面があった。

 右目の周辺が腫れてきたので眼科に出かける。医院よりもその後でいった薬局の方が親切に対応してくれた。薬局の方は普段から顔なじみだからであろう。

 中野重治『村の家 おじさんの話 歌のわかれ』(講談社文芸文庫)を読み終える。村の暮らしと町の暮らしを比べながら、伝統的な暮らしを見つめ直す「おじさんの話」には特に考えさせられた。

 NHKカルチャーラジオ「琳派400年」の放送が始まる。町衆の新しい文化と公家の伝統的な文化とを結び付けて、個性的で自由な芸術を創造した琳派の世界を、武家と結びついた狩野派や、守旧的な土佐派と対比しながら、解明していこうということらしい。こういう番組はテレビ向けで、ラジオには不向きだなと思いながら聞いていた。講師が林屋辰三郎を辰五郎といったのは聞き捨てならないミスである。

 高野秀行『移民の宴』(講談社文庫)を読み終える。第3章「震災下の在日外国人」が強い印象を残す。ぜひ、読んでください。
 
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日記(9月29日)

9月29日(火)晴れ

 8月に自動車の運転免許証を返納したが、運転経歴証明書をまだ受け取っていないので、警察署に受け取りに出かけ、その後、東京まで足を延ばして映画を見ようと、計画していた。実は昨日実行するつもりだったのだが、どうも体調が悪く、1日延期し、今日はというと寝坊して時間の余裕がなくなったので、とにかく警察に行って証明書だけもらおうということにした。

 横浜駅から京浜急行のエアポート急行で仲木戸駅に向かい、歩いて神奈川警察署。証明書を貰って、間もなくヒルを迎えるので、近くの順海楼という中華料理店で昼食をとる。神奈川警察署に用があるときは、たいてい、吉田飯店で食事をしていたのだが、今回は、この店の前で弁当を売っていたこともあり、なんとなく好奇心にかられて入ってみた。後から来た客の動きを見ていると、奥にも部屋があるようだが、見たところではカウンターだけで、中国人らしい若い女性が2人で料理を作っている。夜になるとまた違ってくるのかもしれないが、中国人の女性だけ営業しているというのは珍しいと思った。常連らしい客が料理について「好吃」と中国語を使ってほめていたが、私の感想としては、もう少し今後の努力を期待したいというところである。帰り際にまた来てくださいといわれたが、この方面に来る機会は少ないので、この店の魅力を見出すのはいつのことになるだろうか。

 仲木戸駅から京急新逗子行きのエアポート急行で横浜に戻る。知っている人は知っている(知らない人は知らないので損をする場合がある)のは、JRの東神奈川駅と京急の仲木戸駅はすぐ近くにあるということである。新幹線で新横浜まで来て、横浜線に乗り換え、横浜まで出てから京急に仲木戸まで乗るという人がいるが、これはあまりにももったいない。ついでに言えば、東神奈川駅と東急の東白楽駅までの距離もそれほど遠くない。駅名が違うけれども、近くにあるという例はよくあるので、知らない土地に出かける場合には事前に地図などでよく調べておくとよい。
 最近は高齢者優待のパスを貰ったので市営地下鉄を利用して、京急を利用することはあまりないのだが、京急は地上を走る区間が長いので、それが魅力である。また東急に比べると京急の車両にはボックス・シートが多く、とくにエアポート急行の座席が気に入っている。今回は、短い区間しか乗らなかったのだが、行き帰りとも、ボックス・シートの座席に座ることができた。特に帰りに乗車した際は、このまま金沢文庫あたりまでずっと乗っていって、それから引き返そうかと思うくらい、乗り心地が気に入ったのである。

 野地秩嘉『ヨーロッパ美食紀行』((小学館文庫)を読み終える。題名から受ける印象と、内容をじっくり読んでからの感想が違う本は少なくないが、これもその1冊。確かにヨーロッパの各地(オーストラリアのメルボルンのギリシア料理店、イタリア料理店の話が含まれているが、これもヨーロッパの延長と考えられる)で食べたり飲んだりしての印象がつづられているのだが、むしり飲み食いにかかわる人間模様の方に著者の関心が向かっているように思われる。
 旅の中で著者が出会った人々や、言い伝え、出来事の中で印象に残るものを抜き出してみると:
 スロヴェニアのコルチュラ島の人々は、一般にヴェネツィアの出身だと思われているマルコ・ポーロがこの島で生まれたと信じており、彼の子孫を称する人物もいるし、生家と伝えられる家なども残されているという。
 シチリア島は古代から多くの民族が訪れ、さまざまな文化を残していったが、人々は「シチリアは神のものだ。私たちシチリア人は神から島を借りているだけだ」(149ページ)と考えている。
 ペリーが日本に来航して浦賀奉行を接待したときに使われたのはマデイラワインであった。
 「私たちにとってのカンパリはおしゃれな飲料かもしれないが、イタリア移民にとっては労働の疲れを癒し、故郷を思い出させる酒だった。強いだけの酒、甘いだけの酒ではなく、ビターな味のカンパリが彼らの生活を陰から支えていたのである」(204ページ)。
 パリを愛し、この都市を知り尽くしていた写真家のロベール・ドアノーの逸話。彼がどんな店で食事をすることを好んだかを語る部分も興味深いが、晩年にセバスチャン・サルガドの写真を見て、自分にはあんな写真は撮れないと述べたという話が特に印象に残る。

 最後に、「『実物は小さい』と言われてしまう絵画、銅像はいくつもある」(253ページ)と著者は書いているが、むかし、私の同僚が、東京に出てきて渋谷のハチ公の銅像が小さいのでびっくりしたと話していたのを思い出してしまった。でも、巨大なハチ公の銅像というのも想像できない。反対に、思っていたよりも大きいのでびっくりしたのが、ルーヴル美術館にある「サモトラケの二ケ」の像だという。この彫刻を背後から見ると新たな発見があると著者はいう。そういえば、私も荻原守衛の「女」を東京国立近代美術館で見た際に、後ろからも見て、前から見るのとは別の印象を受けたことを思い出す。

 「君は船に乗った。後悔した。着陸した。上陸し給え」(264ページ)
著者が最近、よく読んでいるローマの皇帝マルクス・アウレリウスの『自省録』の中の言葉だそうである。彼はこの本を、彼にとっては外国語であるギリシア語で書いたと記憶するが、私も、ギリシア語で読むのは無理だとしても、外国語への翻訳で読み直してみたい(何度か読んだことはある)。外国語で本を読むことも一種の旅行だと思うからである。

土岐健治『死海写本 「最古の聖書」を読む』(4)

9月28日(月)晴れ

 この書物の表題には「「最古の聖書」を読む」という字句が含まれている。死海写本が今日旧約聖書を構成するとされている多数の文書の写本を含んでいることは既に述べたとおりである。そして旧約聖書の研究に死海写本が大きな役割を果たすことは容易に理解できる。これに対して、新約聖書と死海写本の関係はかなり微妙な問題を含んでいる。死海写本の中にはイエスと初期キリスト教の活動について言及したものはないし、逆に新約聖書の中にクムラン宗団あるいはエッセネ派についての言及もない。ただし、福音書の中でその活動が極めて重要なものと記されている洗礼者ヨハネがクムラン宗団あるいはエッセネ派と何らかの関係をもっていた可能性は否定できない。それから著者は第3章で、大量の写本を洞窟に隠したのちに、宗団の一部の人々が原始キリスト教に合流した可能性もあると述べている(81-82ページ参照)。クムラン宗団と原始キリスト教は地理的にも時代的にも近いところにあったし、両者の思想にも共通点がみられる。ただし、そこでどのような共通性を強調するかが問題になりそうである。

 第7章「死海写本と新約聖書の関係」は「神の王国とメシア」、「復活」、「知恵とやがて現れるべき秘密」、「ミュステーリオン」という各項目に分けて、この両者の関係を論じている。著者は原始キリスト教の持っていた終末論的な性格を強調する(現在のキリスト教は一部の宗派を除いて、終末論的な傾向はもっていない。それどころか聖書に帰ることを主張した宗教改革においても、終末論的な傾向は一部には見られたものの支配的にはならなかった。ただキリスト教原理主義と呼ばれる傾向の中には、終末論的な性格が濃厚であり、これはあまり歓迎すべきことではないと私は個人的に思っている)。著者が原始キリスト教における終末論的な傾向を強調するのは実証的な研究の成果である限り、尊重されるべきであるが、だからキリスト教はむかしに戻って終末論的な傾向を強めるべきだ…と主張するのであれば、それは研究ではなく宗教城の問題であり、その現実の社会に及ぼす影響に即して論じられる必要があるだろう。

 著者は「新約聖書の特色ある概念として、まず「神の王国」(あるいは神の王的支配・王権)と「メシア」が挙げられる」(209ページ)と論じている。そして「これらは、初期ユダヤ教の黙示的終末論にその背景を持つ」(同上)と続けている。初期ユダヤ教についての説明が書けているのは不親切である。私の知る限りの旧約聖書の成立史のなかで、黙示的終末論が現われるのは比較的新しい時期においてであることを注記しておこう。
 世界の終わりにやってくる「神の王国の出現は、悪人の断罪と義人の永遠の至福をともなう」(210ページ)、そして神の王国への期待はメシアへの期待と結びつく。メシアとは、基本的には「神から特別な使命を受けて派遣される人物」(同上)を意味する。時がたつにつれてメシアはダビデの子孫の中から現れると思われるようになった。「ダビデの末裔であるメシアは、平和的な支配者であり、神の王国は、ただ神自身の力によって出現する。ダビデの子なる王的メシアの力の源は、軍事力や財力にではなく、神と、神から与えられる聖霊にある」(212ページ)。「神の王国」の出現だけでなく終末における義人の復活も信じられるようになる。

 クムラン文書においても神の王国(王権)は語られている。世界の終末における善と悪の戦いについて述べた文書も見いだされるが、それはローマの支配への反抗⇒武装闘争を意味するものではない。概してクムラン宗団は平和的なグループであったと考えられる。またメシアについて言及している写本は少ないという。他方新約聖書はイエスをダビデの子孫としてのメシアと考えている。

 クムラン写本の中には、義人の復活に触れているとみられる断片があるが、永遠の生命への言及が一般的な反面で、「肉体のよみがえり」の信仰は一般的ではないという指摘もある。著者はクムラン宗団が重視した旧約の各篇において述べられている復活信仰が「『少数派』の意のものであったとは考え難い」(225ページ)と説くが、さらなる実証の積み重ねが必要であろう。また著者は義人の復活について触れた文献がさらに貧者への福音の伝達に言及している文脈が新約聖書と共通していることも指摘している。
 またクムラン文書の知恵文学的な写本の中には「やがて現れるべき秘密」という言葉が頻出すると著者は述べる。この「やがて現れるべき秘密」を新約聖書の「神の王国」の共通性を強調する意見もあるが、「神の将来の計画を知ることとかかわりつつ、それを知り学ぶことは現在の生を知恵と幸福に満ちたものとする」(233ページ)という個所は、著者の意見なの方の学者の意見なのかわかりづらく、おそらく著者は終末論と知恵文学の両立を図り、そのような両立がクムラン宗団においても、原始キリスト教においても実現していたと信じたいのであろうが、クムラン写本のさらなる解読作業の結果をみずに結論を急ぐことはできないだろう。
 この「神の王国の奥義」はイエスの教えの中核・核心を示す言葉である。「新約聖書の福音書において、イエスは、終末的預言者、カリスマ的治癒者であると同時に知恵の教師として現れる」(235ページ)という要約的な指摘が唐突にさしはさまれており、これがクムラン宗団とどのように関係するかはあいまいなままである。

 「最初期のキリスト教は、ユダヤ教の1グループとして出発したことを考えれば、旧約聖書を始めとする共通の先祖の遺産を受け継ぎつつ、共通の文化的宗教的な土壌に生まれ育った2つのグループが類似していることは、むしろ当然であり、類似点の中には他のユダヤ教グループ(文献)と共通するものも少なくなく、より広い視野のもとに、両派の関係は研究され論じ続けられている。
 虚心坦懐にイエスの言葉に耳を傾け、新約聖書の告知を真摯に受け止め、この世界の罪過の共同性を深刻に感じ取り、知的誠実を貫こうとする人々にとって、クムラン文書から学ぶべきものは決して少なくない」(236ページ)と著者は結ぶ。おおむね妥当な議論ではあるが、「新約聖書の告知を真摯に受け止め」ることが、その終末論的な性格の強調と、現代社会についての原理主義的な解釈・適用に結びつかないように配慮すべきであろう。

 この後、この書物には「補遺」として、ユダヤ教の中のエッセネ派について論じた古代の主要な文献の翻訳が付け加えられている。一方で彼らの信仰や暮らしぶりを理想化しすぎているものがあるかと思うと、その一方で誤伝や誤聞に基づいていたり、悪意に基づいていると思われる記述もある。本文の特に4章、5章と比べながら読むと興味が増す内容であるが、この補遺をつけるくらいであれば、もっとユダヤ教の成り立ちについて、またクムラン宗団とエッセネ派の関係について、詳しく論じてほしかったという印象を持つ。

 この本を読んで、クムラン宗団と原始キリスト教がそれぞれ終末論的な信仰を持っている点が共通していることは理解できたが、著者がさまざまに引用している文献の整理の仕方は十分に理解できなかった。そのため、今一つ著者の展開する議論には承服しがたいものを感じている。両者には共通性もあるが異質性もあり、共通性を生み出しているのは(著者も最後に述べているように)その時代のユダヤ民族を取り巻く環境や彼らのになってきた文化的伝統に由来する側面が多く、宗教的な関心からはむしろ異質性の方に目を向けるべきではないか、そうすることによってクムラン宗団と原始キリスト教、さらにはユダヤ教のその他の宗派(サドカイ派、パリサイ派)のそれぞれの特色を明らかにすることの方が重要ではないかと私は考えるのである。

付記:生来の粗忽さでこの書物の表題のうち「死海写本」とあるべきところを「死海文書」だと思い込んで、そのようにずっと書いてきて、最後になって自分の間違いに気付いて、あわてて訂正する仕儀となった。著者である土岐健治さんと出版社の方々、またこのブログの読者の方々に深くお詫びする次第である。

『太平記』(65)

9月27日(日)曇り後晴れ

 鎌倉幕府によって退位させられ、隠岐に配流された後醍醐天皇は、脱出に成功して土地の有力者である名和長年の力を借り、伯耆の国(鳥取県西部)の船上山に御所を構え、幕府に不満をもつ中国地方の武士たちを集め、さらには京都の攻略のために大軍を派遣するまでに勢力を拡大させる。京都を守る2人の六波羅探題は頭中将千種忠顕の率いる大軍を退けたものの、さらなる攻撃を予想して、鎌倉に援軍の派遣を要請する。得宗の北条高時は情勢の変化に大いに驚き、名越尾張守(高家)を大将とする大軍の派遣を決める。この遠征への参加を求められた足利尊氏(当時は高氏)は、服喪中であり、健康もすぐれないので気が進まなかったが、高時から再三の催促を受けてやむなく承諾の意思を伝えたものの、憤懣やるかたなく、幕府を裏切って宮方に味方する決意を固める。彼が妻子を伴って入洛するという噂を聞いた高時は長崎入道円喜(高綱)の入れ知恵を受けて、高氏に妻子を鎌倉に置き、幕府への忠誠を誓う起請文を書くように言い渡す。高氏は弟の直義(この当時は高国)と相談し、「大儀の前の小事」、「大行は細謹を顧みず」との弟の助言に従い、これらの条件を受け入れて京都に向かう。尊氏、直義兄弟を始め、足利一族の吉良、仁木、細川、今川、荒川、足利家譜代の家臣で兄弟の母の実家である上杉、同じく執事を務めてきた高一族を集めて3,000余騎が元弘3年(1333年)3月7日に鎌倉を出発、4月16日に京都に到着した。(前回も書いたが、鎌倉から京都に向かうのに、1か月以上を費やすのは時間の掛け過ぎである。尊氏の健康状態が好転するのを待っていたか、あるいは別の事情があったのか、気になるところである。)

 京都の治安維持や裁判のために鎌倉幕府が鴨川の東側の六波羅に設置した役職である探題の地位にあったのは、南探題が北条時益、北探題が北条仲時であった。「両六波羅は、度々(どど)の合戦に打ち勝つて、西国の敵なかなか恐るるに足りずと欺(あざむ)きながら、宗徒の勇士と慿(たの)まれたりける結城九郎左衛門尉、敵になつて山崎の勢に馳せ加はり、またその外国々の勢ども五騎、十騎、あるいは転漕に疲れて国々に帰り、あるいは時の運を謀つて敵に属(しょく)しける間、宮方は負くれども勢いよいよ重なり、武家は勝つと雖(いえど)も兵日々に減ぜり」(40-41ページ、六波羅の2人の探題は、何度かの合戦に勝利して、播磨の赤松軍や千種忠顕の率いる山陰・山陽勢はひどく恐れるほどの力はないと侮ってはいたが、主力の勇将とあてにしていた勇気九郎左衛門尉(結城親光。のちの建武政権の「三木一草」の一人)は、敵になって山崎に陣を構える赤松軍に加わり、またその他の国々の武士たちも5騎、10騎と、あるいは兵糧の運送に疲れ手故郷に帰り、またあるいは時代の趨勢を窺って敵方に鞍替えをしたりしたので、宮方は負けてはいるけれどもその勢いは増す一方であり、武家方は合戦に勝利を収めているとはいっても、その兵力は日々減少していた)。このような状況では先行きが危ういと思う人々が多かったところに、足利、名越の2人の大将の率いる雲霞のような大軍が上洛してきたので、いつの間にか人々の心が変わって、もう大丈夫だろうと気を取り直して勇気を奮い起こしたことであった。

 そのような状況であったが、足利殿(尊氏)は、京都に到着した次の日から、伯耆船上へと密使を送って宮方に味方するとの意思を伝えたので、後醍醐帝はことにお喜びになって、諸国の官軍を結集して、朝敵を追罰すべきであるという綸旨を下された。
 森茂暁『太平記の群像』によれば尊氏がいつ頃後醍醐方に転じたかは明らかではないという。すでにみたように『太平記』では、京都に到着した翌日に後醍醐のもとに密使を送ったとされるが、『梅松論』ではもっと早い時期に後醍醐帝のもとに細川和氏と上杉重能を遣わして綸旨を得て、近江国鏡駅でそれを重臣たちに披露したと書かれている。いずれにせよ、彼が本当に決断を迫られるのはその後の場面においてである。

 六波羅の2人の探題も名越高家も尊氏が寝返りを企てているなどとは思っていなかったから、毎日作戦会議を開き、赤松軍が陣地を築いている八幡、山崎をどうやって攻略するかという内密の相談を何度も行って詳しく打ち合わせたのは、世の移り変わりのはかなさを物語る出来事であった。足利家は代々北条氏と婚姻を結び、尊氏(当時高氏)は得宗の高時から偏諱を受けているだけでなく、多くの褒賞も得ており、また執権であった赤橋盛時の妹を妻にしているなど、身内同然であると信じて疑わなかった。

 4月27日には、八幡、山崎の合戦とかねてから決められていたので、名越高家が大手の大将として7,600余騎を率いて、朱雀大路の南端から鳥羽へと一直線に南下する道である鳥羽の作道を進んだ。足利尊氏は敵の背後を攻める搦手(からめて)の大将として5,000余騎を率い、京都府の向日市一帯である西岡(にしのおか)へと兵を進めた。(尊氏がもともと率いていた兵力は3,000余騎だったので、2,000騎ほどを加勢として付け加えられたことになる。)

 八幡、山崎に陣を構える赤松軍は、これを聞いて、往来の困難な場所に兵を伏せて、敵の不意を襲おうと準備をする。千種忠顕は500余騎で桂川・宇治川・木津川が合流するあたりの橋である大渡の橋を渡り、赤井河原(京都市伏見区淀から羽束師(はつかし)の桂川西岸の地)に控えていた。結城親光は300余騎を率いて、山崎と八幡の間の渡しである狐川のあたりで敵を迎えようとする。赤松円心は3,000余騎を率いて、淀の古川(伏見区羽束師古川町)、久我縄手(こがなわて)の南北に3カ所の陣を張った。「これ皆、強敵(ごうてき)を拉(とりひし)ぐ気、天を廻(めぐ)らし地を傾(かたぶ)くと云ふとも、機をとぎ勢ひを呑める今上(いまのぼ)りの東国勢一万余騎に対して戦ふべしとは見えざりけり」(43ページ、これらは皆、強敵の勢いを挫こうとする心が、天を回転させ地を傾けるほどといっても、英気を養い気勢の盛んな上洛したばかりの東国勢1万余騎に対して戦うことができるようには見えなかった)。『太平記』の作者は赤松軍が数の上でも勢いについてみても劣勢であることを強調しているが、赤松勢の戦い方は、その劣勢を承知して、劣勢なりにどのように戦うかを兵法に基づいて考えているようである。「負けて覚える相撲かな」という言葉を聞いたことがあるが、何度も六波羅との戦いに敗れた経験が、生かされているのである。

 搦手の大将である足利尊氏からは内通の連絡があったが、万一欺きなさることもあろうかと、坊門雅忠が、寺戸(京都府向日市寺戸町)、西岡の野伏(農民・漂泊民などの武装集団)たちを5~600人ほど動員して岩蔵(西京区大原野石作町)のあたりに向かった。
 後醍醐陣営の慎重さが窺われる個所ではあるが、この程度の兵力では尊氏の軍勢がまともに攻めてきたらひとたまりもない。の武士を動員しているということは、ゲリラ戦に持ち込むつもりであったかもしれないが、坊門雅忠(この人については詳しいことはわからないそうであるが、公家であり武士ではないことは間違いない)がどの程度軍事的な才幹を備えていたかは不明である。いずれにせよ、この方面での衝突は起きなかったことが、この続きで明らかになる。
 表面だけ見ると、新たな援軍を得た六波羅方が優勢に思われるが、実際にはそうではない。赤松方は既に紹介した「負くれども勢いよいよ重なり」という上昇基調がまだまだ続いている。武家方から宮方へと転じる機会を窺う尊氏の本心は直義と主だった家臣たちにしか明かされていない。内通の意思が既に赤松勢には伝わっているのに対し、六波羅の方では尊氏を疑っていないのは、足利一族の結束の固さ、大将である尊氏の人望の高さを物語るものである。尊氏の人望と統率力こそが時代の望むものであった――というのはまだ早いか。
 なお、尊氏の上洛に時間がかかった理由の一つとして、細川氏が三河の国の細川(現在の愛知県岡崎市の一部)を地盤とするというように、東海道一帯に一族が勢力を伸ばしていたことも挙げられるのではないか。今川氏も吉良氏もその後東海地方に勢力を築くことになる。 

土岐健治『死海写本 最古の聖書」を読む』(3)

9月26日(土)午前中の雨は降りやんだが、曇り空が続くk。

 第2次世界大戦の終了直後、死海の北西岸のクムランと呼ばれる場所の一帯で発見された一連の文書は、今から2000年ほど前にこの近くで俗世間から離れて集団生活を営んでいたユダヤ人たちの集団=クムラン宗団が残したものであり、それらの文書の中には宗団の生活の決まりや成立の事情をめぐる文書のほかに、今日旧約聖書を構成している各篇の写本が含まれていた。

 第6章「死海写本と旧約聖書の関係」は、死海写本の発見が、旧約聖書の本文の成り立ちやその解釈にどのような影響を及ぼしてきているか、また及ぼすであろうかについて述べている。もちろん、死海文書のほかにもわずかながら、旧約聖書の一部を記した断片は発見されているが、これほど大量に発見された例は他にないのである。
 「旧約聖書の原典のほとんどはヘブル語で、全体から見ればごくわずかな部分(エズラ紀4-8~6-18、7-12~26、ダニエル書2-4(後半)~7-26、エレミヤ書10-11、創世記31‐47の2語)がアラム語で記されている。
 ヘブル語とアラム語は横書きで、右から左へと書き(古代ギリシア語も古くは同じ)、そのアルファベットは基本的に子音であり、ごくわずかな文字のみが子音とともに母音をも表す。(アラビア語およびアラビア文字を使って表記する諸言語の場合も基本的には子音だけが記される。
 旧約聖書のヘブル語(一部アムル語)本文は紀元前後ごろまでには標準的なものがほぼ定まりつつあったが、後2世紀ごろまではなお流動的で、写本により本文が異なる。」
(193-194ページ)

 その後5世紀から9世紀ごろにかけて活躍したマソラ(「伝承」の意)学者たちによって旧約聖書の本文が最終的に確定され,その際に発音の仕方が示され、母音符号が付けられた。こうして確定した本文を「マソラ本文」Masoretic Text=MTと呼ぶ。このMTにおける旧約聖書の配列は
 トーラー(モーセ五書=創世記~申命記)
 「前の預言者」=ヨシュア記、士師記、サムエル記上・下、列王記上・下
 「後の預言者」=イザヤ書、エレミヤ書、エゼキエル書、ホセア書以下の12の小預言者の書
 「諸書」=詩篇、箴言、ヨブ記、雅歌、ルツ記、哀歌、伝道の書(コへレトの言葉)、エステル記、ダニエル書、エズラ記とネヘミヤ記(この2つは一書に数えられる)、歴代誌上・下
というものである。これはキリスト教で使っている旧約聖書の配列とは異なるところがある。(たとえば、MTで一番最後に置かれている「歴代誌 上・下」はキリスト教の旧約聖書では、列王記の次に入る。)
 このような区分はMTの成立以前から行われていたものと考えられてきたが、クムラン遺跡から出土したある文書には「モーセの書と預言者たちの言葉とダビデと各世代の年代記」(95ページ)が学習の対象として挙げられている。ダビデは「詩篇」、各世代の年代記は「歴代誌」と考えられ、MTの分類、配列、各篇の評価と異なっている。

 「旧約聖書の原典本文としてMTは最も信頼性の高い本文伝承を伝えているが、…完全無欠ではない。旧約聖書の原典本文研究は、さまざまな古代語訳などや他の伝承資料をも参照しながら行われなければならない」(196ページ)と著者は論じている。さらにつづけて「そもそも、MTに伝えられるヘブル語原典には意味不明、理解不能ないし困難な箇所が数多く存在する。そのことは、アメリカのユダヤ教団が発行した英訳聖書であるTANAKHを見れば、一目瞭然である。TANAKHでは各頁数カ所ほどの割合で、『ヘブル語の意味不明』という脚注が付いている」(196-197ページ)という。これは好奇心を掻き立てる記述であって、今回は、ほんとうかどうか確認できなかったが、インターネットでじっくり調べるか、銀座の教文館に出かけて参考になりそうな本を探してみようと思う。

 旧約聖書は古くから様々な言語に翻訳されてきた。まず前6世紀後半以降エジプトから西南アジアにかけてのオリエント一帯で最も通用する言語であったアラム語。この旧約聖書のアラム語訳を「タルグム」という。「イエスと弟子と使徒たちが、周囲の人々と共有し、宣教活動の前提とした聖書も、タルグムであった可能性が高い」(197ページ)。「部分によって程度の差はあるものの、一般にタルグムはかなりの敷衍ないし解釈を含んでいる。これらの敷衍的解釈には、当時のユダヤ教の中で、伝承として受け継がれてきた聖書解釈の伝統が反映している可能性が高い。クムラン洞窟からはレビ記とヨブ記のタルグムの写本が発見されている」(197-198ページ)。
 次にギリシア語。ヘレニズム時代になると、都市に住んだユダヤ人を中心にギリシア文化との接触・対話が盛んになる。このような中で旧約のギリシア語訳がくわだてられるようになるが、その代表的なものが「七十人訳」である。「LXX(七十人訳)はMTより優れた読みを残して(伝えて)いる(MTの方が元来の形から離れ、LXXのギリシア語訳の背後にあるヘブル語本文の方がオリジナルに近い)と判断される場合も少なくなく、旧約聖書の原典本文研究にとってきわめて重要な、不可欠の資料である」(199ページ)。
 さらにユダヤ教の一派であるサマリア派によって伝承されてきたモーセ五書=サマリア五書は、古い特殊なへブル文字で記されているが、「箇所によっては、MTより古い、よりオリジナルに近い読みを伝えている可能性があり、重要な資料である」(202ページ)。

 クムラン洞窟からは約900の写本が発掘されているが、そのうち、旧約聖書の本文を伝えているのはほぼ200の写本である。その中にはエステル記を除く旧約聖書の全写本のほか、七十人訳聖書の写本(レビ記、民数記、申命記)、レビ記とヨブ記のタルグムの写本、さらにかなりの数の旧約外典・偽典の写本が発見されている。
 これらの写本の内容を調べるとMTと一致する本文をもつものが多く、独自の本文をもつものも少なくないが、サマリア五書や七十人訳の背後に想定される本文も少なからず含まれており、「前3世紀から後1世紀にかけての、旧約聖書ヘブル語本文は極めて流動的で、多様性に富んでいる」(205ページ)と論じている。

 また旧約聖書本文の分布について調べてみると、モーセ五書の写本がもっとも多く、詩篇、イザヤ書がこれに続くという。モーセ五書の中では申命記の写本が最も多く、次いで創世記であるという。宗団の中ではモーセ五書と、モーセ自身が書いたと当時は信じられていたヨブ記が特に重んじられていたようである。
 「新約聖書との関連で見ると、クムラン写本中の旧約聖書写本においてモーセ五書、とりわけ申命記と、詩篇とイザヤ書が突出してその数が多いことが注目される。新約聖書において引用される旧約聖書の中でも、この3つが突出して多いからである」(208ページ)。このように著者はクムラン宗団の持つ思想傾向が、初期のキリスト教徒共通する部分が少なくないことを示唆しているが、直接的な影響関係の有無については(有力な証拠がないので)積極的な発言を避けている。

 今回で終わらせるつもりであった紹介であるが、特に私の関心の向かっている部分を取り上げた章であるために詳しく論じ過ぎ、完結をさらに引き延ばすことになってしまった。モーセ五書の中では申命記が重んじられていたこととか、イスラエル民族の歴史について記し、お互いに重なる部分の多い2書の中で、列王記よりも歴代誌の方が歴史的な記述として重んじられたらしいというようなこともほのめかされている程度の書き方であるが、大いに好奇心を刺激される。詳しく論じるだけの知識も時間的余裕もないのだが、イスラエル民族の宗教文化の伝統の中の、特定の部分がクムラン宗団によって継承・強調され、それはキリスト教の起源を考えるうえで無視できない背景の1つであるというのが著者の述べたいことであり、それがどの程度具体的に語られ、こちらがそれを理解できるかというのが、この書評完結に向けての課題となるわけである。

老人たちが待っている

9月25日(金)雨

老人たちが待っている

医院の待合室は
老人でいっぱいだ
そういう私も
やはり老人

静かに順番を待つ人
頻りに順番を気にする人
世間話をしている人
おいてある雑誌を読んでいる人
老人といっても十人十色
私と同じような人は一人もいない

先生に診ていただく時間は
みじかいはずだが
待っている時間は長い
あるいは
診ていただく時間も長くなるかもしれない…

そして薬局で
また同じ顔触れに出会う
今度はみなして薬が出されるのを待っている
のんびりと待っている人もいるし
せっかちな人もいる
薬屋でも十人十色
そしてそのうち
薬を手にして
家へと帰っていく。

ダンテ・アリギエリ『神曲 煉獄篇』(14)

9月24日(木)曇り後雨

「あれは誰だ、死が飛翔を与える前だというのに
我らの山の周囲をめぐり、
意のままに目を開け、閉じるのは」。

「誰かは分からんさ。けれど1人でないということはわかる。
近くに入るおまえがあの者にたずねてみろよ。
話してもらえるよう、くれぐれも丁重に彼を迎えろよ」。
(204ページ)

 ダンテがウェルギリウスとともに、嫉妬の罪が贖われている煉獄の第2環道を進んでいると、このような会話を交わす声が聞こえてきた。第2環道の魂たちは、両瞼を鉄の糸で縫い合わされ、目を開けて外の世界を見ることができないのだが、2人の動きは気配でわかったのである。どの都市出身かという問いに対して、ダンテは都市名を直接明かさず、ある川沿いとあいまいに答えた。魂の1人はそれがアルノ河のことと理解して、フィレンツェを含むアルノ河流域の諸都市の住民たちがけだもののような振る舞いを続け、やがては悲惨な最期を迎えるであろうと予言する。アルノ川流域のトスカーナ地方だけでなく、その東北のロマーニャ地方もまたかつての輝かしい時代の精神を失っている。

そして貴婦人たちや騎士たち、苦難と歓喜のことを。
それは愛と宮廷の習いが我らに探求させたのだ。
そのような土地なのに人の心はかくも邪悪に変じてしまった。
(214ページ) そして2人の魂は、
「だが、トスカーナ人よ、もはや去れ。我は今、
話すよりむしろ涙を流していたい。
というのも我らの話はわが記憶を苦しめ乱すからだ」。
(216ページ)と語って、2人を前に進ませる。

 ダンテとウェルギリウスが2人きりになると、また、「空気を切り裂くときの稲妻」(同上)のような声が彼らの耳に響く。ウェルギリウスは、嫉妬の罪は魔王ルシフェルの仕掛けた罠で引き起こされるが、人は地上の事物にではなく、神の入る美しい空にあこがれるべきだと言い聞かせる。

 解説によると、この時代のイタリアの都市貴族たちは教皇庁と結びつき、皇帝と対立していたが、都市の職人層や都市の支配下にある農村の農民層は、重税を課す教皇庁の支配に対抗するために、武力をもつ皇帝党の領主たちと結びつきをもとうとしていた。ダンテが皇帝を支持したのは、このような都市市民層の意識を代表してのことで、昔の貴族たちがもっていた美徳が失われていることを嘆く詩句がみられても、それは単なる懐古趣味、保守主義ではないと考えるべきなのである。

日記抄(9月17日~23日)

9月23日(水)晴れ

 9月17日から本日までの間に経験したこと、考えたことから:
9月17日
 NHKラジオ「実践ビジネス英語」は先週からいじめの問題を取り上げているが、
You may be surprised to learn that it's the most common form of violence among young people in the U.S. Experts estimate that more than 13 million kids are bullied in one way or another each year.
(いじめはアメリカの若者の間では最も一般的な形の暴力だと知れば、みなさんは驚くかもしれません。専門家の推定では、1300万人を超える子どもたちが何らかの形で毎年いじめに遭っているのです。)
という発言が出てきた。ここで<いじめ>が暴力の一つの形formであるといわれているのが注目される。今、続編が上映されている映画『テッド』の最初のところで、クリスマスになると悪ガキたちがユダヤ人の少年をつるし上げるという場面があって、その仲間に入れてもらえない少年もいるという話なのだが、ユダヤ人に暴力を振るうのもいじめであり、ある少年を自分たちの仲間に入れないというのもいじめである。その点はどのように考えられているのか。

 NHKカルチャーラジオ『ボブ・ディランの世界を読む』でディランの「青にもつれて」という歌に出て来る13世紀イタリアの詩人の詩について、講師の飯野友幸さんはダンテの「新生」であろうと論じていたが、あるいはダンテも属していた「清新派」の代表的な詩人であったグイド・カヴァルカンティである可能性も否定できないと思いながら聞いていた。

9月18日
 NHKラジオ「エンジョイ・シンプル・イングリッシュ」の日本の昔話では、「鉢かつぎ」を放送したが、これは実は「鉢かづき」というのが正しい。鉢を担いでいるのではなくて、かづく=被っているのである。

9月19日
 NHKラジオ「攻略!英語リスニング」ではピカソの壁画”Guernica"(ゲルニカ)を取り上げた。共和国派とナショナリスト(フランコ)派が戦ったスペイン内戦の際に、ナショナリスト派の軍を率いていたフランコ将軍はドイツとイタリアに支援を要請し、そこで両国の空軍がバスク地方のゲルニカという町を爆撃した。
The attack was the first time a modern air force bombed defenseless civilians.
(近代的な空軍が、無防備な民間人を爆撃したのは、これが最初のことであった。)
 共和国派から壁画制作の依頼を受けていたピカソはこの事件に衝撃を受けて、驚くべき速さでこの作品を完成させたのだという。

 講師の柴原さんはスペイン共和国の支援に各国から義勇兵が参加し、その中にヘミングウェイがいたという話をした(『誰がために鐘は鳴る』はこの経験をもとにした作品)が、ジョージ・オーウェルやジョン・ドス=パソスも参加しており、彼らのその後の文学的な軌跡はそれぞれの個性によって異なる。それから、在米日本人で共和国軍に加わり、戦死した人もいることを忘れてはならない。

9月20日
 NHKEテレ「日本の話芸」で月亭八方師匠の「胴乱の幸助」を視聴する。まじめに働いて財産を築いた幸助という男が主人公で、仕事一筋だったためにこの男は趣味らしいものを何一つ知らずに過ごしてきた。それでもけんかの仲裁をすることに喜びを感じるようになった。喧嘩があると、その仲裁に入って腰にぶら下げた胴乱から金を出して、2人に酒をふるまって仲裁をするのである…この男が義太夫の世界の出来事を現実と取り違えたために、起きる珍騒動を描く落語。もう一つ大阪と京都という2つの都市の間に少しばかり距離があるというのが、この話の眼目である。無難な出来であったが、それよりもタイガースのことばかりさわいでいた八方師匠が今やこれだけの落語家になったのかという感慨のほうが大きかった。(ちなみに、私は八方師匠のそのまた師匠の月亭可朝師匠が好きである。)

 ニッパツ三ツ沢球技場でJ2の横浜FC対ツエーゲン金沢の対戦を観戦した。前半に大久保選手のゴールで先行した横浜が、後半に黒津選手のゴールで引き離し、その後の金沢の猛攻をしのいでリーグ戦では久しぶりの勝利を収めた。2トップがそれぞれゴールを挙げたのはよい兆候である。

9月21日
 墓参りに行くつもりだったが、体調が今一つだったので延期。

 似鳥鶏『さよならの次に来る <卒業式篇>』、『さよならの次に来る <新学期篇>』を読み終える。主人公葉山君の周辺では相変わらず不思議な事件が起き、解決しようと骨を折っても解決に至らず、結局は先輩の伊神さんの登場となる。そして、なぜか演劇部の部長である柳瀬さんがまとわりついてくる。後半になって、思いがけない展開になる――その伏線を作者はいろいろと用意しているのだが、それが煩雑で読みにくいと思うのは、作者が未熟なのか、読者が未熟なのか。伊神さんはあまり好きではない。その分、柳瀬さんが魅力的である。

9月22日
 墓参りに行くつもりだったが、またもや延期。

 夕方、NHKラジオ「まいにちイタリア語」を聞きながら、寝てしまい、目を覚ましたところで、文化講演会の放送になっていて、町田宗鳳さんらしい人がしゃべっているので、そのまま聞いていた。番組が終わったところで確認したが、やはり町田さんだった(直接の面識はないが、知人の元同僚である)。創造性というのは自分の内側から湧き上がってくる声を聞くところから生まれるという意見には賛成なのだが、なかなか湧き上がってくれないのをどうするのかというのが問題なのである。

 書店に出かけて『ラジオ英会話』『攻略!英語リスニング』『実践ビジネス英語』『まいにちフランス語』『まいにちイタリア語』のそれぞれのテキスト10月号を買う。『入門ビジネス英語』は4~9月の番組の再放送だというので、古いテキストを使って聞くつもりである。そういえば、本日をもって『入門ビジネス英語』の4~9月の放送分が終わった。

9月23日
 やっと墓参りを済ませる。
 午後、外出していたために、『まいにちフランス語』入門編の4~9月放送分の最終回を聞きのがす。再放送を聴くことにしよう。『まいにちイタリア語』は帰宅後、最終回を聴いた。

 NHKカルチャーラジオ「芸術その魅力」は「プロテスト・ソングとその時代」を放送してきたが、本日で最終回を迎えた。いろいろと考えさせられる番組であった。 

Age before beauty

9月22日(火)晴れ

 NHK「ラジオ英会話」の時間では、英会話のフットワークをよくするための実用知識を月に1回ずつ取り上げているが、本日の放送では「ドア」が話題になった。

 ドアは英語圏の世界では長い歴史をもっており、したがってドアに関連した英語の表現も多いが、その一方で、実際のドアは、kindness(親切)を表現する場として大変よく使われているという。具体的に言えば、ドアを開けて、そのドアを押さえ(hold the door)て後から来た人の手間を省いたり、その人を先に通してあげるということが行われる。このdoor holdingは男性がデートの相手に、夫が妻に、男性が母親にといった具合に、男性がイニシアチブをとることが多く、それはchivalry(騎士道)に由来するgentleman志向に基づいているという説もある。

 ところで同じNHKの語学番組である「実践ビジネス英語」では9月2日~12日までの間、"Redefining Etiquette"(エチケットを定義しなおす)というストーリーを放送していた。登場人物の1人が、きちんとした格好をした1人の中年女性のために、エレベーターのドアを押さえて開けておいたのだが、当のご婦人はそれを全くありがたく思わなかったようで、エレベーターを降りる際に、彼をにらみつけた。
I don't understand why my well-intentioned gesture got such a negative reaction. (私の善意のつもりのちょっとした行為に対して、なぜあのような不愉快そうな反応をしたのかが、私にはわかりません。)
 これに対して、アメリカで広く受け入れられていたルールは”ladies first"(レディファースト)であったが、最近はそれが違ってきているというところから主題である「エチケットを定義しなおす」議論が始まる。

 今のところ、エチケットは相対的、流動的な側面が強くなってきているということなのだが、それでも親切にされたら感謝の言葉を述べるべきであろう。私の場合、これまでは親切にすべき立場であったが、次第次第に親切を受ける側に立場を移しているところであり、親切な行為を受けた場合に感謝の言葉が素直に出て来るように(何せへそ曲がりなので)努力しないといけない。

 それでまた、「ラジオ英会話」に戻るが、ドアを開けて、"Please go ahead."(どうぞお先に)、”Thank you."(ありがとう)、”You're welcome。”(どういたしまして)というのが一般的な流れだが、お先にといわれた方が女性であれば、そのまま黙って先に入ってしまってもよいそうである。しかし、男性と女性の年齢さが大きい場合など、女性のほうが遠慮してお先にどうぞという場合がある。
”After you."(お先にどうぞ)
”No, ladies first." (いや、レディーファーストで)
”Thank you." (ありがとう)
という場合もあるが、女性のほうが
”Age before beauty." (美の前に年齢を)
ということがある。これはユーモアを含んだ発言とされていて、男性は
”All right."
と、負けて受けるのが普通だそうである。

 真偽は不明だが、ある女流作家が仲の悪い別の女性に対して、
”Age before beauty."といったという話がある。私は美人で、あなたは年寄り=ババア(だから親切にするのよ)ということだろうが、言われた女性が
”Pearls before swine." (豚の前に真珠ね) 私は真珠で、あなたは豚(だから親切を受けて当然ね)とやり返した。これは新約聖書の「マタイによる福音書」7:6に見られるcast (one's) pearls before swine (豚に真珠を与える)という表現を踏まえたものであるという。実際に「マタイによる福音書」をみると、「神聖なものを犬に与えてはならず、また、真珠を豚に投げてはならない。それを足で踏みにじり、向き直ってあなたがたにかみつてくるだろう」とある。高価なものを、その価値のわからないものに与えても意味がないということである。なお、豚がswineとなっているが、これはおそらくKing James Version [Bible] (欽定英訳聖書)に基づくもので、私の手元にある和英対訳聖書はToday's English Versionを使っており、そこでは豚はpigになっている。そうはいっても、”Pearls before swine."というほうが古めかしいだけ、しゃれていて、口げんかの段階で止まるだろうが、pigといってしまうと、敵意があからさまに見え透いて取っ組み合いのけんかになるかもしれない。

English can open many new doors. と番組は結んでいたが、ドアが開けられるようにするための努力の余地はまだまだ多く残されていると実感している。 

土岐健治『死海写本 「最古の聖書」を読む』(2)

9月21日(月)晴れ

 この書物は7章と補遺から構成され、1~3章の内容については、一昨日(9月19日)の当ブログで紹介したので、今回は第4章と第5章の内容を紹介する。

 「死海写本」はこれら一連の文書が発見されたクムランという丘陵地に残る遺跡に住んでいた人々(著者は「クムラン宗団」と呼んでいる)が残したものであり、彼らはヘレニズム・ローマ時代のユダヤ教の重要な部分を構成していたエッセネ派の少なくとも一部、それも中核的な一部であったと考えられている。

 第4章「クムラン宗団の思想」は「死海写本」の内容を分析して、終末論的二元論(神の審判によって善悪の最終的な判断が下される世界の終末が迫っているという考え。二元論というのはこの世の中で善と悪が対立し・戦っているということである)と知恵文学(確かに世の中は罪と悪とに満ちているが、しかしその世界を創造したのは神の知恵であり、人間はその知恵を探求すべきであるとする考え)との両方の傾向の文書が残されているという。クムラン宗団が俗世間を離れて荒野で自給自足的な集団生活を送っているのは、世界の終わりが近づいているから、自分たちだけでも正しく生きようという終末論が根底にあるが、その一方で彼らは常識や世間的な知恵を重んじる態度も示しており、これは新約聖書における終末論的な傾向と知恵文学的な傾向の混在とよく似たものである。

 「クムラン宗団は、現在を終末直前の時代(マルコ福音書1-15「神の王国は間近に迫っている」、マタイ福音書15-28および並行個所、ヨハネ黙示録1-3,22-10参照)、あるいはむしろ、終末時代の初期段階とみなしている(この実現した終末論、あるいは実現しつつある終末論という見方は、新約聖書と共通する)。」(140ページ)
 旧約聖書の正しい解釈は、神から特定の指導者を通じて宗団のメンバーだけに啓示され、とくに旧約聖書の預言書の内容は現在の彼らを取り巻く状況を予言したものであると考えられている。これは旧約聖書がイエスの事実を予言したものであると考える新約聖書と同じ考え方である。
 「彼らは間近な終末における、モーセないしエリヤのごとき預言者と、2人のメシアの到来を信じているが、メシアの1人は祭司、もう1人は王的人物で、前者はアロンの末裔、後者はダビデの末裔である。(中略) 祭司的メシアが王的メシアの上位にあり、宗団の構成員の中でも非祭司(一般信徒)に対して祭司が上位に位置付けられている。クムラン宗団が祭司的共同体とも呼ばれるゆえんである。これはのちのキリスト教における神父や牧師と一般信徒の関係と類比的である。」(141ページ) 

 宗団に属する人々は自らを「光の子ら」、自分たちに敵対する者たちを「闇の子ら」と呼んでいたが、「自らの卑しさ罪深さと、すべてに先行する神の自由な恵みをその祈りの中で強調した。これは新約聖書の中で見出すことが容易な考え方であると著者は言う。彼らは荒野での禁欲的な生活を送って、来たるべき終末に備えていたが、このような集団はユダヤではほかにもみられたようである。その一方で彼らは権力と結びついたユダヤ教の祭司たちの言行を否定し、パリサイ派やサドカイ派などのユダヤ教の他の宗派に対しても批判的な態度をとったが、パリサイ派の一部が悔い改めて自分たちに合流する可能性は否定しなかった。

 クムラン宗団は自分たちの信仰生活を維持していくうえで暦の役割を重視し、独自の暦を作り出していた。また、遺跡からは日時計が発見されており、彼らがこれによって季節と1日の時間を計っていたことが確認できるという。宗団にとって暦は終末論的な思索と密接的に結びついて、神学的な意味をもつものであったのである。

 第5章「考古学から見たクムラン遺跡」は考古学的な調査結果に基づいて、クムラン宗団がこの場所でどの程度の期間活動していたか、その規模はどの程度のものであったか、その他どのような特徴が見いだされるかを考察している。遺跡の発掘調査において指導的な立場にあったドゥ・ヴォーはクムラン宗団がここに居住していた期間は紀元前130年ごろから紀元68年までとして、それを「第1期a」(前130年頃~前100年頃)、「第1期b」(前100年頃~前31年)、「第2期」(前4から前1年頃~後68年)、「第3期」(68年~73/4年)の4つの段階に分けた。その後、彼の研究を見直したJ・マグネスにより年代の修正が行われ、ドゥ・ヴォーのいう第1期aは存在せず、第1期bは地震前(前100から50年頃~前31年)と地震後(前31年~前9/8頃)とに分けられ、第2期、第3期はドゥ・ヴォーのいうとおりであると論じられている。
 クムランにどの程度の人々が暮らしていたかははっきりしないが、多く見積もって150人から200人程度であり、少数の女性と子どもを除き、大多数が男性であり、汚れから身を浄めるための沐浴(ないし浸礼)を重視し、遺跡内にはそのための多くの水槽が残されている。マグネスはクムラン遺跡に居住していた人々の生活が「徹底して反ヘレニズム・ローマ文化的」(192ページ)であったと論じている。

 著者である土岐さんはキリスト者なので、クムラン宗団の考え方が新約聖書の考えと共通する部分が少なくないことを強調している。この点については次の機会に紹介する第6章「死海写本と旧約聖書の関係」、第7章「死海写本と新約聖書の関係」でさらに掘り下げられるはずである。その一方で、宗教思想史の見地から見て、クムラン宗団の独自性がどこにあるのかという点はあまり明らかにされていないように思う。ただ、この書物における聖書からのさまざまな引用は興味深いものであり、あらためて聖書を読み直してみようという気持ちにさせられたこともたしかである。

 現代人にとって終末論的な考え方がもつ影響力は小さいものではないし、現代の社会にはクムラン宗団のように俗世間を離れて共同体的な生活を送る人々もあまり目立たないけれども存在している。これらの問題についても可能な限りで考え、また書いていきたいと思う。

『太平記』の周辺(2)

9月20日(日)晴れ

 『太平記』は鎌倉時代の終わり、文保2年(1318年)に後醍醐天皇が即位されてから、貞治6年(1367年)に室町幕府の二代将軍足利義詮が病没し、その遺言で後事を託された一族の細川頼之が管領に就任して太平の時代が到来するというところまで約50年間の全国的な争乱を描く。ホメーロスの叙事詩『イーリアス』がトロイア戦争の全体を描かず、ギリシア軍の大将であるアガメムノンとアキレスの反目から始めて、トロイア軍の指導者であった王子ヘクトルの葬儀をもって終わっているのと同様に、南北朝の争乱は細川頼之の管領就任によっては終わらずに、元中9年(1392年)に南朝の後亀山天皇が京都に戻ることで一応の結末を迎えるのである(一応と書いたのは、結果的に騙された形になった南朝の皇族・貴族たちはまた京都から離れていわゆる後南朝として抵抗を続けることになるからである)。

 この時代の戦乱は既に書いたように全国的な規模にわたり、日本国内のいたるところに、探してみるとこの時代の歴史の痕跡が見つかるはずである。とはいうものの、その中で、主な舞台となっているのは京都と鎌倉である。私は大学・大学院時代の11年間を京都で過ごし、それ以前の学校時代は横浜で過ごしたので鎌倉には何度も出かけたので、両方ともおなじみの町である。この2つの都市に次いで、顔を出す南都=奈良も大学院時代によく出かけたので、多少の知識はある。歴史散歩とか、近くの山をハイキングするとかいう趣味はないので、知識といっても限られてはいるが、自分なりにこれらの都市についての印象は持っている。その1つは京都に比べると鎌倉は都市として小さいということである。宮部みゆきさんのエッセーに旧平安京をぐるっと回ってみた経験をつづったものがあったと記憶するが、1日で歩き切れなかったはずである。しかし、面積が広いか狭いかというのはそれほど重要な問題ではない。京都育ちの歴史学者で、横浜市大で教えていたことのある今谷明さんが京都の緑のほうが、鎌倉の緑よりも鮮やかだということを書かれているが、私は逆の印象を持っている。『太平記』を読む際に、こういった京都や鎌倉についての個人的な印象を持っていることが大事なのではないかと思う。よく、鎌倉は武士の都といわれるが、職人の都でもある。京都にしても、奈良にしても、職人が集まっていた。都市の顔は多面的である。その多面性を見落とすべきではない。

 鎌倉幕府の滅亡から南北朝の対立に至る一連の出来事の背景をなすのは、皇室が後深草天皇の子孫である持明院統と、亀山天皇の子孫である大覚寺統とに分裂し、それぞれが自分の血統から天皇を出そうとして争っていたことである。小うるさいことをいうと、この時代は、院政が機能していたので、最高権力者は治天の君=政治を司る上皇であった。そうはいっても、この地位につくにはまず自分が天皇になり、自分の子どもか弟を天皇にする必要があった。この皇位継承をめぐる争いに鎌倉幕府が介入したので、話がややこしくなった。だいたいにおいて持明院統は鎌倉幕府よりで、幕府の親王将軍も持明院統から出ていた。これに対して大覚寺統は鎌倉幕府には距離を置き、しかもその中から、倒幕の意図を明らかにした後醍醐天皇が即位されたことで、事態が急転していくのである。
 歴史的には、皇室だけでなく、主だった大名や武士たちの間でも一族の間で、また相互の間で所領やその継承をめぐる争いが絶えなかったとされる。まさに骨肉の争いの時代であったことは、『太平記』の本文に照らして明らかである。

 『太平記』と同じ時代の出来事を語る書物として、『増鏡』と『梅松論』がある。『増鏡』も『梅松論』も、鎌倉幕府の最初の方から書いていて、この点では『太平記』よりも古い時代を取り上げているが、『増鏡』は後醍醐天皇が隠岐から船上山を経て、京都に戻られたところで終わり、『梅松論』は光明天皇の即位で終わっていて、ともに幕引きは『太平記』よりも早い。要するに、この時代の人は、早く戦乱の世が終わって、太平の世が到来することを熱心に願っていて、物語を早く終わらせたがっていたものと考えられる。実際には戦乱の世がずっと続くのではあるが…。『増鏡』は時代を宮廷の側から記し、『梅松論』は武士の立場に立って室町幕府の正統性を論じている。『太平記』はいろいろな資料を寄せ集めて成立しているので、その立場は必ずしも一貫しているわけではないし、ある時代には宮方を擁護する書物とみなされていたが、基本的には室町幕府の正統性を主張する書物である。ただ、『梅松論』ほどには、その論旨が一貫していないところがあるわけである。いずれにせよ、『太平記』について論じるときには、『増鏡』や『梅松論』を参照する必要がある。歴史学の立場からいえば、この時代の公家や寺社が残した日記類や、その他の一次資料をあたって記述を確認していくべきではあるが、私の場合は『太平記』を読むということに関心があって、この時代についての歴史学研究を展開するつもりはないので、できるだけ実証的な研究成果を利用しながら、本文を読み進んでいくというところで満足している。

 それから他の軍記物語、とくに『平家物語』(『源平盛衰記』)と『太平記』を対照してみることが重要である。なお、『平家物語』には異本が多くあり、『源平盛衰記』はそのような異本の一種である。『平家物語』は驕る平家は久しからずとして平家の末路を描くことに強調点があるが、『源平盛衰記』では源氏と平家が交代して朝廷の兵権を握るというところに強調点がある。そして、この『源平盛衰記』の考え方は『太平記』に引き継がれていて、鎌倉の源家将軍が3代で滅びた後、平氏出身の北条氏が執権として幕府の実権を握り、それを源氏の流れである足利氏・新田氏が滅ぼす(まだ、当ブログの連載はそこまでいっていないが)というのが当然のように語られている。(室町幕府を滅ぼした織田信長は平家の末裔を自称し、豊臣秀吉を挟んで、その後に江戸幕府を開いた徳川家康は新田氏につながる家系の出身であると自称した。)

 9月20日は久しぶりに横浜FCが勝利したので、少し気が緩んで、ブログに何を書こうかと思案しているうちに寝てしまった。このところ勉強不足で、本日(9月21日)中に9月21日分の原稿が書けるかどうか心もとない。 

土岐健治『死海写本 「最古の聖書」を読む』

9月19日(土)晴れ

 土岐健治『死海写本 「最古の聖書」を読む』(講談社学術文庫)を読み終える。2003年に講談社現代新書の1冊として公刊された『はじめての死海写本』を文庫版として刊行したものである。あとがきによると、新書版にほとんど手を加えていないそうである。

 1946年から1947年にかけての冬に、死海の北西岸にあるクムラン丘陵に点在する洞窟の1つから、瓶(かめ)に入った7つの古い写本が発見された。これが「死海写本」である。
 これらの写本は今から2000年以上も前のもので、従来、旧約聖書の最も古い写本とされてきたナッシュ・パピルスと同時代、あるいはさらに古い時代に書かれたものであることが明らかになると、欧米で大きな反響が巻き起こった。これらの写本によって、イエスと新約聖書を含む初期キリスト教の背景が解明されるのではないかという期待が膨らんだこともこの反響の一部であった。
 写本が発見された当時のパレスティナ一帯は、「イスラエル」建国をめぐる争乱状態にあったため、最初に発見された写本、さらにその後続々と発見された写本はその所属や整理・研究をめぐって数奇な運命を辿ることになった。写本の整理・復元は専門家にとっても容易なことではなく、予想をはるかに超える長い年月がかかることになった。
 この間、写本の内容とはほとんど無縁の空想の産物としか言いようがない所説を盛り込んだ少なからぬ本が出版された。それらに共通するのは、死海写本にはイエスや初期キリスト教の実態が記されているという妄想である。多くの人々の関心を集めながら、研究が進まず、その成果の公表が遅れたことがこのような結果を生み出した。それでも1991年頃から、「死海写本」の内容の公開が進み、それとともに多くの研究成果が明らかにされてきた。この書物は最新の研究成果を踏まえて、死海写本の内容を旧約・新約聖書などと関連付けながら紹介しようとするものである。

 第1章「写本発見と公刊への数奇な道」は写本発見の経緯と激動するパレスティナ情勢に影響されて、また写本の解読と「構成要素の書けているジグソーパズルの組み立て」(36ページ)という困難な作業のために、写本の全容の公開が遅れたが、1991年以降急速に進んできていることを論じている。これらの写本を残した人々について、著者は「クムラン宗団」との名前を仮に与え、ヘレニズム・ローマ時代のユダヤ教の主要な宗派の1つであったエッセネ派の少なくとも一流、それも中核的な一部であり、クムラン遺跡はおそらくエッセネ派の中核的な施設であったとの考えを抱いていると断っている。これは多くの人々が支持している考えであるが、まだまだ謎は残されているようである。

 第2章「死海写本の背景――ヘレニズム・ローマ時代のユダヤ」はアレクサンドロス大王の時代からローマ時代にかけてのパレスティナを中心としたユダヤ民族の歴史を簡単にまとめている。ユダヤ民族はアレクサンドロスの遠征の結果として、ヘレニズム文化の渦の中に巻き込まれていくが、アレクサンドロスの死後はエジプトとシリアの間でこの地の争奪戦が続いた。その中で独立の機運が高まり、紀元前167年から142年にかけて、マカベア戦争という独立を目指す反乱が続き、その指導者であったハスモン家が王位を世襲するハスモン王朝が独立を回復する。しかし、その支配に対する反発も根強く、クムラン宗団もそのような動きの中で創設されたのではないかと考えられている。やがてローマの勢力がパレスティナの地に及んでくると、ローマに巧みに接近したヘロデが政治の実権を握り、ヘロデ王朝を樹立する。その死後、ユダヤ州はローマの属州となった。
 初代総督コポニウスの後3,4人の総督を経て、紀元後26年にポンティウス・ピラトゥスが総督に就任し、36年まで在位した。
『新約聖書からは、彼の優柔不断あるいはユダヤ人への迎合的な姿勢を印象づけられるが、他の資料はおおむね彼を典型的な悪代官として描いている」(72ページ)そうである(本題とはあまり関係ないのだが、興味深い個所なので、引用しておいた)。
 その後、またローマに取り入って王になったヘロデの孫アグリッパⅠ世のもとで、ユダヤは王国に戻るが、その死(紀元44年)後、再びローマの属州とされる。反ローマ感情の高まりの中で、66年に第1次ユダヤ戦争が勃発、ローマはこの鎮圧に手間取るが、70年に皇帝となったウェスパシアヌスによって鎮圧される。この時に、クムランの遺跡も破壊されたと考えられる。
 「ユダヤ人は、それまでエルサレム神殿に納めていた「半シケル(2ドラクマ)」を、ローマのユピテル・カピトリヌスの神殿に献げることを強制され、これと引き替えに、かろうじてユダヤ教信仰の自由が認められた。こうして、後66年から70(74)年の戦乱・破局は、ユダヤ教とユダヤ民族の歴史を大きく二分する転換点となった」(77ページ)。
 第一次ユダヤ戦争の後、115年~117年に、エジプトなど各地に離散したユダヤ民族の間で、ローマ支配に対する反抗が広がった。やがて、132年~135年の第二次ユダヤ戦争において、半世紀を越えて抑圧され蓄積されてきた反ローマ勧請が、再び爆発する。この反乱を指導した人物の名により、「バル・コクバの乱」とも呼ばれる。この反乱の敗北により、パレスティナのユダヤ民族は壊滅的な被害を受ける。

 第3章「写本には何が書かれているか」はクムラン写本の内容を概観している。クムラン宗団の残した写本はおおよそ次のように大別されるという。
①エステル記を除く、旧約聖書のヘブル語原点の写本と旧約聖書のアラム語訳(レビ記とヨブ記)およびギリシア語訳の写本。
②旧約聖書外典・偽典の一部の、ヘブル語やアラム語の本文。
③これらのいずれにも属さない、これまで知られていなかった文書。宗団独自の文献が多いが、中にはこの宗団の人々と何らかの親しい関係にあったグループのまとめたものと考え得るものも含まれる。(82ページ)
 この章では③に属する5つの文書を中心にその内容が紹介されている。これらの文書には宗団への入会の手続き、集団生活の規則、彼らの持っている神学や神に感謝する詩篇などが記されているが、その中には旧約聖書の知恵文学、新約聖書の中の手紙などと共通する内容を持つものが認められる。それらからは、この時代、ユダヤ教徒たちが聖書を自由な解釈をしながら読んでいたことが分かる。

 第4章「クムラン宗団の思想」、第5章「考古学から見たクムラン遺跡」、第6章「死海写本と旧約聖書の関係」、第7章「死海写本と新約聖書の関係」、補遺「エッセネ派に関する古代史料」については、またの機会に取り上げることにする。きわめて興味深い存在ではあるが、その実際の内容がどのようなものであるかについて知ることの少ない「死海写本」について、包括的に概観し長良、あらためて様々な問題提起をしている読み応えのある書物である。

『太平記』(64)

9月18日(金)曇り、夕方になって雨が降りだす

 元弘3年(1333年)、復位を目指す後醍醐天皇は隠岐を脱出、伯耆の船上山に御所を構え、六波羅攻略を目指して大軍を派遣した。大将である千種忠顕の失策と、六波羅方の奮戦で攻略軍はいったん敗退するが、なお京都近郊にとどまって攻撃の機会を窺う状態が続いている。六波羅は鎌倉に援軍を要請し、鎌倉では一門の名越高家と、外様の有力大名である足利高氏を大将といて大軍を派遣することを決める。高氏は健康がすぐれず、父の喪に服している時でもあり、気が進まなかったが、再三の催促に仕方なく、上京すると返答する。しかし、心中では、宮方に寝返る決心を固めていた。

 高氏が上洛の準備をする中で、一族郎党はもちろんのこと、女性や小さな子どもたちまで引き連れて出かけるという噂が伝わり、それを聞きつけた北条得宗家の執事(家老)で、得宗北条高時のもとで内管領を務めている長崎高資の父、長崎高綱が高時のもとに急いで出かけて進言する。嘘か本当か知りませんが、足利殿は奥方や若殿まで同行させて、上洛するという話です。どうもあやしく思われます。このような危急の事態にあっては、北条一門の主だった方にさえ用心なさるべきです。まして足利殿は源氏の嫡流を自認され、源家将軍の時代が終わってから長い時間がたっておりますので、なにかたくらみごとをなさっているかもしれません。異国でもわが国でも、世の中が乱れたときは天下の覇者が諸侯を集めて盟約をさせるのが習いです。その場合、起請文を書かせるか、諸侯の子どもを人質として留めさせてきました。源義仲がその子義高を頼朝のもとに送った例もあります。これらの例を見ても、足利殿の子息と奥方を鎌倉にとどめ置かれ、足利殿には起請文を書かせるべきでしょうという。

 高時は高綱の意見をもっともだと思い、すぐさま高氏のもとに使者を遣わして次のように伝える。東国はまだ平和な状態が続いているので、幼いご子息は皆鎌倉にとどめ置かれるのがよかろう。足利殿は赤橋相模守盛時の妹を奥方に迎えており、北条家と縁の深い方であり、疑うつもりはないが、世間では疑いの目を向ける人もいるので、一筆、誓いの言葉を残して出発していただきたい。これを聞いて高氏はますます不快な思いを強くする。しかし、その思いを表情には出さず、少し時間がたってから回答しますと述べて、使者を返す。

 その後、一歳年下の弟である高国(後の直義)を呼んで、どうすればよいだろうと相談する。信頼できる弟がいるのが高氏の強みである。高国はしばらく考えていたが、「この一大事を思し召し立つ事、全く御身のためにあらず。ただ天に代はつて無道(ぶとう)を誅(ちゅう)して、君の御ために不義を退けんためなり。その上の誓言は神も受けずとこそ申し習はして候へ」(第2分冊38-39ページ、このような重大な決心をされたのは、まったく兄上自身のためのことではありません。ただ天に代わって人臣の道に反するものを罰し、天皇のために不義を退けるためです。そのうえで高時に誓言をされても、神はそれを受納はされないといわれています)と、大義のためには偽りの誓いもやむを得ないという。高時への誓いよりも、天皇への忠義のほうが大事である。子どもと奥方を鎌倉にとどめ置くことは、「大儀の前の小事」(同上39ページ、大事業の前の小さな事柄)である。子どもたちについてはそのために家臣たちを残しておけば、なんとか取り計らって逃げ出すことができるだろう。奥方は幕府の執権である赤橋盛時の妹だから、その縁で何とか命は助かるだろう。とにかく、小さなことにくよくよせずに、大事業の計画を進めるべきである。
 この言葉に高氏は納得して、嫡男の千寿王(後の義詮)と夫人である赤橋登子を鎌倉に残して京都へと出発することとなった。そして起請文を書いて高時のもとに届けたので、高時は不審の思いをなくし、大いに喜んでよく手入れをした馬を乗り換え用にと10頭、銀で飾った鞍をつけ、同じく銀で飾った鎧を10両引き出物として贈った。

 「足利殿御兄弟、吉良、上杉、仁木、細川、今川、荒川以下の御一族32人、高家の一類43人、都合その勢3千余騎、3月7日、鎌倉を立つて、大手の大将名越尾張守高家に3日先立つて、4月16日には、京都にこそ着き給ひにけれ」(40ページ)。「足利殿御兄弟」と尊氏、直義に敬語が使われていることが注目される。吉良、仁木、細川、今川、荒川は足利氏の一族。上杉は尊氏・直義兄弟の母の実家の一族で、代々足利氏に仕えてきた。高氏は足利氏の執事の家柄である。尊氏・直義には父・貞氏が北条家から迎えた正室との間に儲けた高義という兄がいたのだが、若くして死んだために高氏が家を継ぐことになった。高義、高氏、高国と兄弟3人が北条高時から高の字を貰っている(偏諱を受けている)。すでにふれたが、高氏の正室は鎌倉幕府最後の執権である赤橋盛時の妹・登子で、高氏との間に義詮、基氏らの子どもを儲けている。尊氏と登子の結婚の理由をめぐっては大衆小説家がいろいろと(登子がすごい美人で尊氏の目がくらんだのだとか、かわいかったからだとか、尊氏の母・上杉清子の計らいだとか)、想像を膨らませているが、足利氏は代々北条氏との間に婚姻を結んでおり、それだけ鎌倉幕府の中で重んじられていたと考えるべきである。頼朝と政子の間の子どもが頼家、実朝…と出来があまりよくないのに対し、義詮、基氏は二代目としては無難な存在であった。これは本人の資質というよりも、足利氏が本家を盛り立てる一族、家臣に恵まれていたからだと考えられる。猜疑心の強い頼朝に比べて、尊氏は人を信頼することのできる人であった。また信頼しなければやっていけないところがあったのかもしれない。優柔不断なところのある尊氏にとって、剛毅果断な直義はよい協力者であった。この2人が反目することになる未来を誰が想像しただろうか。それから、3月7日に鎌倉を出発して、4月16日に京都に到着したというのはむかしの話だとしても、少し時間がかかりすぎているのではないか。もう1人の大将名越高家よりも先着したとはいえ、高氏が時間稼ぎをしていたと想像することもできよう。このあたり、気になるので、『梅松論』も読んでみたが、『太平記』のような詳しい記述はないので、何とも云いかねるのである。 

ダンテ・アリギエリ『神曲 煉獄篇』(13-2)

9月17日(木)雨

 ウェルギリウスとともに煉獄山の山腹を走る第2環道に達したダンテは、そこが魂たちの嫉妬の罪を浄める場所であることを知る。ダンテの目には崖と道の他に何も見えなかった。これは一面が冷たい鉛色で、道行くものの視界を閉ざしているからである。ウェルギリウスは闇を照らす、太陽の光の輝きを祈り、2人は前へ進む。歩きはじめると、姿の見えない何者かが慈愛の例を大声で叫んで飛び去っていった。これらの言葉は、温かく他人に向かう精神と行動を象徴するものであり、嫉妬とは正反対の実例を示すものであった。
 次に、ウェルギリウスに言われてダンテが遠くを見ると、内側の崖に沿って嫉妬の罪を贖っている者たちが、壁や道と同色の悔悛布でできたマントを着て、両瞼の上下を鉄線で縫いつけられていた。瞼が縫いつけられているのは、嫉妬の罪が語源的に他人を正しく見ない罪と中世には説明されていたためである。

 贖罪者たちは贖宥の日に教会の前に集まる乞食達のように並び、ダンテとウェルギリウスはその中を進む。ダンテは魂たちに問いかける:
ここにいるあなた方の中にラテンの魂がいるかどうか。
(196ページ、ここで「ラテン」はローマの栄光を直接継承するイタリアという意味で使われている。) するとある魂が答える。
「我が兄弟よ、どの魂も皆、ただ一つの真理の都市の
市民なのです。けれどもあなたが言いたいのは、
流浪の魂の時にイタリアで生きたということなのですね」。
(196-197ページ、魂の祖国である天国を遠く離れた地上波異郷であり、そこでの生活は流浪に他ならないというのである。)
 こう答えたのはダンテの故郷であるフィレンツェと同じトスカーナ地方にあり、フィレンツェよりも南の(ローマに近い)方角にあるシエナの出身であるサピーア・サルヴァーニの魂であった。ダンテが第1環道で見かけた「現世で自信過剰だった」プロヴェンツァーノ・サルヴァーニのおばにあたる。ただし、この2人は仲が悪く、サピーアが煉獄で罪を贖っているのもそれが理由の一つである。

 サピーアは生前、神をないがしろにして、都市間の争いに熱中していたが、人生の最後になって神との平和を望み、フランシスコ会の第三会員であった櫛屋ピエル・ペッティナイオが彼女のために祈ってくれたこともあってここにいるという。そして、まだ生きているダンテがここにいることを不思議がって、彼について尋ねる。ダンテは、彼女に自分の使命を告げ、やがてトスカーナに戻ると述べ、サピーアは生きている縁者たちへの伝言を頼み、シエナの未来についての予言の言葉を述べる(ダンテの異界旅行は1300年の4月に行われたことになっているが、『煉獄篇』が書き終えられたのは1316年のことと考えられており、1300年の時点で予言であったことの少なくとも一部の結果は煉獄篇執筆の時点でわかっていたはずである)。

 ここの魂の運命とその贖罪の様子の描写もさることながら、ダンテが中世を通じて激しかったイタリア諸都市間の戦いを嫌悪し、それが肉親の愛情さえも引き裂いていることを憂えていたことが分かる。彼の煉獄第2環道の道中はまだまだ続く。
 

日記抄(9月10日~16日)

9月16日(水)曇り、夕方になって一時雨

 9月10日から本日にかけての間に経験したこと、考えたことなど:
9月10日
 NHKラジオ「まいにちフランス語」応用編「ニュースで知りたいフランス文化」では「ボージョレー・ヌーボー」を話題として取り上げた。生まれてこの方、ボージョレ―・ヌーボーを飲んだことがない私から見ると、取り上げるのが少し早い話題という気がしないでもない。
Touls les ans, il faut attendre le troisième jeudi de novemre avant d'ouvrir la première bouteille de beaujolais nouveau de l'annee. Grâce au décalage horaire de huit heures entre Paris et Tokyo, les Japonais peuvent le déguster avant les Français.
(毎年、11月の第3木曜日を待ってから、その年の最初のボージョレ―・ヌーボーの瓶を開けなければなりません。パリと東京の間の8時間の時差のおかげで、日本人はフランス人よりも前に、それを味わうことができるのです。)

 ボージョレ―・ヌーボーはほかのワインと違って、醸造がとても速く行われることに特色があるという。また、2013年に日本は790万本のボージョレ―・ヌーボーを輸入し、180万本のアメリカや73万本のドイツを引き離して輸入量では首位に立っているとのことである。

9月11日
 NHKラジオ「まいにちフランス語」応用編は「万聖節と菊の花」の話題を取り上げた。いまどきは「諸聖人の日」(Le jour de la Toussaint, The All Saints' Day)というほうが一般的で、「万聖節」というのは大時代的な響きがする。これも昨日の話題と同様に少し早いのではないかという気がするが、「諸聖人の日」の前夜であるハロウィーンに向けた商戦が既に始まっているので、決して早くはないということなのだろう。

 神保町シアターに出かける。その前に、少し時間があったので、新宿三丁目まで足を延ばして紀伊国屋本店で小倉博行『ラテン語とギリシア語を同時に学ぶ』(白水社)を購入する。この2つの古典語について見通しを得るのには便利な本ではないかと思う。夜、ベッドに入ってから読むことにする。この本と、芳沢光雄『新体系・高校数学の教科書』の2冊が枕元にあれば、安眠間違いなしである。読んでいるうちに面白くて、眠れなくなればなったで、喜ぶべきことに違いない。

 すずらん通りの檜画廊で早川修 詩画?展 kami-tsuku tamasiiを見る。この作家の展覧会を見るのはこれで3度目のはずである(4度目かもしれない)。一方でかわいく見えるが、他方どこか不気味な雰囲気をもつ人物の振る舞いを描いてきた作者であるが、今回は神仏が主題だという。「鬼はおそってこない/いつしか心に/潜むだけ/福は救いにこない/いつしか心に/宿るもの/鬼は内 福も内/金の延べ棒より/金棒を選んだ僕は/豆をポリポリかじる」と、その詩もどこまでが作者の真実に迫っているのか、謎を秘めている。

 神保町シアターで中平康監督の『その壁を砕け』と、鈴木清順監督の『散弾銃の男』を見る。前者についてはすでに9月11日付の当ブログで論評している。後者は二谷英明主演の和製ウェスタン。山奥で怪しげな事業を営んでいるボスの情婦役の南田洋子が綺麗だと思った。芦川いづみはその背の高さが目立つ。彼女の健康的な性格表現がよく引きだされた作品でもある。

9月12日
 NHKラジオ「アラビア語講座」では序数詞について取り上げた。アラビア語で「アッ・ダウル⌒ル・アウラル」(第1の階)というのは2階であり、1階は「アッ・ダウル⌒ル・アルディ―ユ」(地面の階)というそうである。アメリカ英語では1階=first floor, 2階₌second floorであるが、イギリス英語では1階₌ground floor, 2階₌first floorという。アラビア語の場合は、イギリス英語や、大陸の諸言語と同じような言い方をしているわけである。

 NHKラジオ「攻略!英語リスニング」では”Grapes"(ぶどう)について取り上げた。
It is a kind of berry. It's a beryy that grows in bunches on vine.
(それはベリーの一種です。つるに房状に実をつけるベリーです。)
berryは日本では漿果と訳される。講師の柴原さんが英国に留学した際に、いろいろなベリーがあるのでびっくりしたという話をしていたが、逆に言えば、英国の土地でできるベリー以外の果物はリンゴだけである。英国に出かけることがあれば、各種のベリーのジュースだのジャムだのをできるだけたくさん味わうべきだということである。
 また
The area where they first made wine was what's now called Georgia and Armenia.
(初めてワインを作った地域は、今ではジョージアとかアルメニアがあるあたりです。)
と語られていて、この2つの国は今でもワインを作っているが、アルメニアではそれ以上にアルメニャックと呼ばれるブランデーが有名で、旧ソ連時代にシベリア鉄道の旅をした故・宮脇俊三さんの旅行記にも盛んに登場していた。ぶどうから作られる酒はワインだけではないのである。

 シネマ・ジャックで亀井岳監督の『ギター・マダガスカル』を見る。上映初日だったので、亀井監督自身が来場されて、あいさつをされた。ほぼ同じ時間帯にシネマ・ベティの方では高橋伴明監督の『赤い玉』が上映され、こちらは奥田瑛二さんを初めとする出演者の挨拶と、上映後のサイン会があって、上映前には(サイン会にも)長蛇の列ができていた。それで、亀井監督もあいさつの中で、こっちの方に来ていただいて感謝しますと強調していた。
 マダガスカルはアフリカ南東部のインド洋上に浮かぶ大きな島であるが、水田があったりで、その景観はアフリカ本土とは違い、むしろ東南アジアに近いのではないか。実際問題としてこの島の住民・文化はインドネシアの住民・文化との近縁性が指摘されてきた。そういう文化人類学的な興味と、マダガスカルの音楽への興味とが十分に整理されずに、よく言えば多義的なメッセージを提示している映画といえよう。上映中、居眠りをしてしまって、いくつかの重要らしいシーンを見落としてしまったのが残念である。

 四方田犬彦『ニューヨークよりも不思議』(河出文庫)を読み終える。1987年4月~1988年3月、2015年1月~4月の2度にわたってコロンビア大学の客員研究員としてニューヨークで暮らした際の経験をまとめた書物である。著者の行動範囲はマンハッタンを中心としていて、そこから大きく離れることはあまりないのだが、その分、マンハッタンで暮らしている有名無名の様々な人物との交流は濃密であり、興味深い。特に親しく付き合っている人物の多くが東アジア系であることも注目される点である。多少は身に覚えのあることだからである。

9月13日
 NHKEテレ「日本の話芸」で三遊亭圓丈師匠の『掛け算刑事』を聞く。数学的な話題が織り込まれた新作落語で圓丈師匠の才気が感じられる一方で、落語らしいおかしさというのがあまり感じられなかったのが残念なところである。

9月14日
 NHKラジオ「まいにちイタリア語」入門編に
Avete mai visto i masaici del Duomo di Monreale?
(あなたたちはモンレアーレのドゥオーモ(大聖堂)のモザイクを見たことがありますか?)
という分が出てきた。モンレアーレはパレルモ郊外の町で、ここの大聖堂は世界遺産に指定されているとのことであるが、カナダの大都市モントリオールをフランス語ではモンレアルと発音し(というよりも、この都市はフランス語人口のほうが多いのだから、モンレアルと呼ぶ方が適切だと思うのだが)、この両者には何か関係があるのかなと思って調べてみたところ、直接の関係はないが、ともに「王の山」という意味であることがわかった。

9月15日
 NHKラジオ「まいにちロシア語」の終わりの方を聞いていたら、ロシア人パートナーのアナトリーさんが好きな日本の果物がキンカンだという話が出てきた。実は私もキンカンが好きで、大学で卒業論文を書いている時に、干し柿とキンカンを買い込んでそれをかじりながら論文を書いたことを思い出した。

9月16日
 NHKラジオ「実践ビジネス英語」では”Defusing Bullying"(いじめをなくす)というテーマを取り上げ始めた。登場人物の1人が
I'm working on a campaign to prevent bullying. It's a major problem nationwide. Next month is National Bullying Prevention Month.
(私は、いじめ防止キャンペーンに取り組んでいるところなのです。これは全国的に深刻な問題です。来月は、全国いじめ防止月間なのですよ。)
という。1990年代に日本ではいじめが深刻な問題とされていた一方で、アメリカでは一部の問題と考えられていたという印象がある。英国では日本同様かなり深刻だったのに対し、ドイツではあまり見られないということであった。ところがその後様相が変わってきたということだろうか。

 本日の時事通信の報道によると、「教師蹴る小1、通行人暴行≂荒れる小学校、対応模索――問題行動調査」ということで、もはや<いじめ>の枠に収まりきらない子どもたちの暴力的な傾向の拡大と低年齢化が新たな問題となってきているようである。特に大阪府で問題が深刻で、「規範意識に乏しい子ども、自分の感情を抑えきれない子ども」が多いと指摘されているが、これは子どもだけの問題ではないという気がしてならない。

 NHKカルチャーラジオ「プロテスト・ソングとその時代 日本フォークの50年」は東日本大震災以後の反原発運動の盛り上がりの中で生まれ、歌われてきている歌を取り上げていたが、安全保障関連法案の審議が大詰めに差し掛かっているこの日に、この番組が放送されることには意味を認めるべきであろう。講師は、少し怖くなったのか、番組の最後で連続テレビ小説『アマちゃん』のテーマを流したりして、砂を掛けていたが、そのことが逆にそのほかの内容を強調する結果になったかもしれない。

池波正太郎『食卓の情景』

9月15日(火)晴れたり曇ったり

 蔵書の整理をしていて、池波正太郎『食卓の情景』(新潮文庫)を見つけた。1971年から1年半ほど『週刊朝日』に連載されたエッセイをまとめて、1973年に朝日新聞社から単行本として発行されたものが、1980年に新潮文庫に収められた。私の手元にあるのは1980年に発行された第4刷であるが、この本はその後増刷を続けて、現在でも刊行されており、70刷を越えている。この本を購入した前後の事情はとっくに忘れているが、池波正太郎の随筆類はこの書物を含めて愛読してきた。私にとって池波正太郎は随筆家であって、小説家ではない。

 池波の随筆を好んで読むようになったのは、彼の映画の見方が納得のいくものだったからである。どうも私は映画評論家よりも、他に職業があって、このんで映画を見ているという類いの人物の映画評の方を信用する傾向がある。池波という人は、何がしかの理論を組み立てて、正面切って議論をしてくるという人ではない。自分の人生経験を踏まえて、映画についてふとした感想を述べている――という場合のその感想がいいのである。
 この書物では、そういう感想が述べられている個所はそれほど多くはないが、マイク・ニコルズ監督の『愛の狩人』という映画について、ジャック・ニコルソンとアン・マーグレットがいかにもまずそうに腹を満たしているシーンが2人のあいだの性の荒廃を描きだしているだけでなく、アメリカ社会全体の荒廃も象徴的に描いていると述べて、「映画にしろ、芝居にしろ、食物と食卓を扱うとき、これが、その作品の主題や人間描写にからみ合っていないときは、まったくむだになってしまう。/これは、時間的に濃縮され、切取って見せる芸術だからであろう」(56ページ)と指摘する。

 池波は小学校を出ただけの学歴ではあるが、職歴は多彩で、株屋の小僧、東京都職員(保健所の環境衛生の仕事から税務事務所の仕事まで)、新国劇の座付役者・演出家、そして作家、旅行を好み、行く先々で様々な職業に携わる人物とみられ、それを好んだという。「その中で、もっとも多いのは、なんと〔呉服屋〕なのである」(59ページ)。そこで自分から長崎の「べっこう屋」になったり、京都の〔呉服屋〕になったり、札幌の〔電気器具商〕を名乗ったりした。刑事と間違えられたこともあるという。演出だけでなく、自分自身でも演技を楽しんでいたのである。

 子ども時代の思い出、青年時代のさまざまな冒険、戦後の波乱に満ちた生活などに加えて、執筆当時=1970年代前半の生活ぶりと見聞きしたものについての感想が記されている。青年時代に横浜のホテル・ニューグランドで見かけてあこがれた大佛次郎に、戦後、直木賞を受賞した際に選考委員と受賞者として出会い、祝いの言葉を受けたというくだりは印象的である。ちなみに池波の師である長谷川伸、吉川英治、それに大佛など、横浜は大衆小説で名を成した人物を多く生んでいる。その長谷川や、子母澤寛の想いでも心に残るし、ビリー・ワイルダーの『お熱い夜をあなたに』の試写会で、吉村公三郎、中村登両監督にあった話なども面白いのだが、極め付きのエピソードは1972年の初めに伊勢に旅行に出かけようと考え、その前に1日だけ京都に立ち寄った際のものであろう。
 駅の売店で新聞を買って映画館の広告を調べ、新京極のS座で東京で見逃していた『ダーティ・ハリー』を見て、「河原町の電車通りを突切り、M館で東映の藤純子引退の記念映画『関東緋桜一家』を見物する。/映画そのものより、藤を見る観客の熱気が館内に充満している」(77ページ、M館とあるが、この時期、東映の封切館は河原町通りの東側にあった京劇であったはずである)。その後、腹が減ったので、新京極への通りを歩いていると、「後ろから来た男が私を追い越したので何気なく見やると、新国劇の辰巳柳太郎氏だ」(同上)。昔の仲間である。辰巳もまた藤純子を見てきたという。それで、木屋町の逆鉾という店でちゃんこ料理をごちそうになったという。京都の地理を多少知っているとわかるが、行ったり来たりである(その行ったり来たりが楽しいのであろう)。
 この時代は、私にとっても京都での大学・大学院時代の後半部分であり、ひょっとすると新京極通で池波や辰巳とすれ違っていたこともあったのではないかと読んでいて懐かしく思った。書くのが遅くなったが、S座というのは松竹座である。『ダーティ・ハリー』という映画は何度か見ているが、この映画館での封切りで見たかどうかの記憶は定かでない。『関東緋桜一家』は封切り上映が終わった後で新京極の菊映で見たのではないかと思う。菊映というのは変った館名だと小林信彦さんが書いていたが、これは菊水映劇を略した呼び方で、この映画館のチェーンの本館は神戸の湊川(菊水を家紋とした楠正成の討ち死にした場所)にある。

 この本の中で取り上げられている旅館や料理店のかなりの部分が、今は営業していなかったり、代替わりをしていたりするはずである。にもかかわらず、この本が引き続き読まれているのは、古き良き時代への郷愁もあるだろうし、経験に培われた作者の人間観察の妙と人生の知恵への共感もあるだろうと思う。とはいえ、既に書いたようにこの随筆が書かれた1970年代は私にとって懐かしい時代なのだが、それは池波の知る昔とは異質のものなのである。
 池波は伊賀上野を訪問した際の感想として、「荒木・渡辺が河合一行を要撃した上野城下の鍵屋ヶ辻に立つと、西方の長田川にかかる長田橋を河合又五郎一行が馬を連ねて城下へ入って来る有様が、十年前には、/(目に浮かぶような・・・・・)/おもいがしたものだ。/しかし今は、風致がまったく変ってしまい、そのおおもかげは消えた。/鍵屋ヶ辻の、又右衛門が数馬とともに身をひそませていたという茶店の「鍵屋」だけが、/みぎいせみち・ひだりなら路/としるした石の道標を前に、古風なたたずまいを見せている」(229-230ページ)と、既に昔の景観が失われていることを書き留めているのである。
 この書物の挿絵も水彩画をよくした池波自身が手掛けている。実は、池波にはこの書物では書いていない趣味や道楽がほかにもあって、それはほかの随筆集をひもとくとよくわかる。井伊直弼の曽孫であり、彦根市長であった井伊直愛の三味線に合わせて、長唄の「勧進帳」を歌うくだりがあって、そういえば「勧進帳」は8代目三笑亭可楽の出囃子だったなと余計なことを考えながらよんでいた。そういうわけで、旅や食べ物と映画についての感想を折に触れてまとめたという体裁のこの随筆集から、多くのことを学び、考えさせられたのである。

青いリンゴ

9月14日(月)曇り

青いリンゴ

ロシア人は
アントノフカという
小さくて、
青くて、
酸っぱい
リンゴが好きだという。

中央アジア原産だという
リンゴは
野生の原種を
たずねてみると
小さくて、
青くて、
酸っぱいというから
ロシア人が好きな
リンゴが
たぶん
本当のリンゴなのだろう。

楽園にいたイヴが
蛇にそそのかされてかじった
知恵の実が
リンゴだというのは
後世の作り話だが

小さくて
青くて
酸っぱい
リンゴを
イヴがかじっている姿は
人間の未完成性を
示しているようだ。

小さいリンゴが
大きくなり
青いリンゴが
赤くなり
酸っぱいリンゴが
甘くなっても
リンゴはリンゴであり続け
人間はやはり未完成な存在だ

それでも何か
変わったと言いたいのが
人間たち
自分たちは、変わった、変わったといいながら、
自分たちよりももっと変わった
リンゴをかじっている。

『太平記』(63)

9月13日(日)晴れたり曇ったり、一時雨(傘をどこかに置き忘れて、あらためて買い直す)

 今回から『太平記』第9巻の内容の紹介を始める。岩波文庫版では第2分冊に取り掛かる。そして、足利尊氏(まだこの頃は高氏)が本格的に登場する。

 これは、吉川英治の『私本太平記』がはじめから高氏を登場させているのとは対照的である。『太平記』は「覆って外なきは天の徳なり。明君これに体して国家を保つ。載せて棄つることなきは地の道なり。良臣これに則って社稷を守る。若しその徳欠くる則は、位ありと雖も持(たも)たず」(第1分冊、33ページ、天は万物に慈愛を垂れる。すぐれた君主はこの道理を実現して国家を保つ。地は万物を育み載せる。すぐれた臣下(武士)はこのことを肝に銘じて政治を行い、朝廷を支える。若しこのような徳が不足しているような場合は、国家社会における高い地位を得ていても、それを保つことができない)という考えをその冒頭に掲げている。第1分冊で「地の道」から外れた北条高時の治政と、それを打倒して朝廷による政治を取り戻そうとする後醍醐天皇の戦いが描かれていた。しかし、『太平記』の作者は無条件に後醍醐を賞賛しているわけではないようである。高時、後醍醐帝、この2人とは違った人間の登場が待ち望まれる状況を長々と描いておいて(実際のところ、高氏は第3巻に元弘元年(1331年)鎌倉幕府が笠置山に立てこもる後醍醐天皇の討伐のために派遣した大軍の『大将軍』の1人として名前を挙げられている)、大将軍としての実力を持ち、人物的にも優れた存在として高氏を登場させている。文学的にはあまり巧みではないが、政論としては見るべきもののある展開である。

 前巻に引き続き、元弘3年(1333年)のことである。「先朝船上に御座あつて、討手を指し上せられ、京都を攻めらるる由、六波羅の早馬頻りに打ち、事難儀に及ぶ由、関東に聞こえければ、相模入道、大きに驚いて、「さらば、重ねて大勢を差し上せ、半ばは京都を警固し、宗徒は船上を攻め奉るべし」と評定あつて、名越尾張守を大将として、外様の大名20人催さる」(第2分冊、35ページ、先帝(後醍醐天皇、『太平記』がこの呼び方をしていることに注目すべきである)が(流刑地である隠岐を脱出されて)鳥取県の船上山に皇居を構えて(勤王の兵を集められ)、京都へと討伐軍を贈られたという事情について、六波羅から早馬による至急の連絡が頻繁に到着し、事態が深刻であるという評判が鎌倉にも伝わったので、北条高時は大いに驚いて、「そういうことであれば、もう1度大軍を差し向け、その半分は京都を防衛し、その他の軍は船上を攻撃することにしよう」と評定の結果が出て、北条一族の名越尾張守高家を大将として、北条一門以外の大名20人が召集された)。

 召集された外様の大名の中に足利高氏がいた。彼は体調を崩していたのだが、20人の外様大名の数の中に入れられて、西に向かうようにと度々の催促を受ける。「足利殿、この事によつて心中に憤り思はれけるは、われ父の喪に居して未だ三月を過ぎざれば、悲嘆の涙乾かず、また病気身を侵して負薪の愁へ未だ止まざる処に、征罰の役に<随へて相催す事こそ遺恨なれ」(第2分冊、31-36ページ、足利殿は、このことのために心の中で憤り思われたことは、自分は父の喪についてまだ3か月もたっていないので、悲しみの涙が渇いていない、また病気に見舞われて体調が思わしくないのに、討伐軍に参加させられるのは納得できない)と云うのが高氏の心情である。高氏の父である貞氏が死んだのは元弘元年(1331年)9月のことであり、服喪中というのはおかしいという説もあるが、『梅松論』も「今度は當将軍の父浄妙寺殿御逝去一両月の中也」(『群書類従、第20輯、157ページ)と記している。察するに、高氏はどうも気が進まなかったのである。個人的な経験に即してもこういうことはないわけではない。いやだいやだといっている人に仕事を押し付けるとロクな結果にならない。

 高氏は心の中で考える:
時代の変化とともに身分の上下が変動するのは世の習いではあるけれども、高時は北条四郎時政の子孫である。北条氏は桓武平氏の流れであり、皇族の血を引くとはいっても、時代の経過とともにその血縁は薄くなっている。自分は源氏代々の高貴な家柄である。清和天皇から数えて16代目にあたる。本来ならば、家柄を重んじて無理な命令はしないはずなのに、このような命令を受けるのは自分が未熟だからである。
 足利氏の祖である義康は八幡太郎義家の孫であり、保元の乱で源義朝とともに戦い、義康の子義兼は頼朝の妻政子の妹の時子と結婚するなど、足利氏は義朝、頼朝流に協力し、北条氏と姻戚関係を結んで、鎌倉幕府の中で重要な位置を占めてきた。将軍家の血筋が絶えた後は、足利氏が武家源氏の嫡流と一般に思われていたが、足利氏は北条氏との協調関係を崩さなかった。しかし、そこにはかなり屈折した思いがあったと考えられている。高氏自身も北条一族の有力者で16代=最後の執権となった赤橋盛時の妹=登子を正室としている。
 高氏の派遣をめぐる事情は、どの程度まで歴史的に信頼できる史料があるかという問題にもなるが、京都や西国における情勢が急を告げており、有能な武将の派遣が望まれるという点から高氏が選ばれたという見方もできる。そのあたり、幕府中枢と尊氏との間でどうも意思の疎通が十分になされていなかったという解釈も成り立つ。

 とにかく高氏は当世風に言えば、ブチ切れたのである。これ以上、上洛せよという命令が重ねられるのであれば、一家を挙げて上洛し、先帝(後醍醐天皇)の味方をして六波羅を攻め落とし、足利の家の命運を立て直そうとまで思いはじめる。後でまた紹介することがると思うが、『梅松論』は夢窓疎石による高氏の人物評として、勇猛で危機にあっても笑みを絶やさず、仁慈の心に富み、寛大かつ公平であると論じている。あるいはこのような性格のために高氏は周囲の人々から甘くみられるところがあったかもしれない。

 相模入道=北条高時はそんな高時の心中を想像できるほどの能力はなく、幕府の有力御家人である工藤左衛門尉高景を使いとして、「ご上洛が遅れるのは理解できない」と何度も催促する。ひどいときには1日に2回も催促されるほどである。高氏は、かくなるうえはと幕府に反旗を翻す覚悟を決めて、とくに反論はせずに、直ちに上洛いたしますと回答した。

 このあたり、北条高時とその周辺の拙劣な政治的手腕がよくわかる場面である。高時が高氏の心情をもう少し斟酌する度量があれば…とも思うが、その一方でこの時代の武士が源氏の次は平氏が天下の兵権を握るのだというものの見方をしていたことを考えると、両者が腹を割って話して、あたらしい政治のあり方を探るなどということは不可能だったのだろうなぁとも思う。

椎名誠『さらば新宿赤マント』

9月12日(土)晴れ

 この度の豪雨の被害を受けられた方々に遅ればせながらお見舞い申し上げます。

 鬼怒川の堤防決壊をめぐって、いくつかメモをとっていたつもりになっていたのですが、今、調べてみたら、全くメモが残っていないという体たらくで、年は取りたくないものだと思っております。ごく一般的な議論ですが、有史以来、何度も鬼怒川は洪水を起こしていて、流域の住民の方々はそのことを熟知されていたのに、河川行政に携わる官僚たちは、あまりに気に留めていなかったという事情があるのではないかと思っています。官僚機構には、腐敗を防ぐという名目で、ある仕事に携わる担当者を定期的に入れ替えるという習慣がありますが、このことが、自分の担当業務に対する無知と楽観主義の根拠になっているのではないかと憂慮している次第です。

 9月10日、椎名誠さんの『さらば新宿赤マント』(文春文庫)を読み終わりました。(今回は、です調で文章を書きはじめましたので、最後までこのスタイルで行くころにします。) 1990年以来ずっと、『週刊文春』に書き続けてきたエッセイが2013年4月4日号をもって擱筆、その最後の部分(2011年5月26日号~2013年4月4日号)をまとめて、2013年10月に単行本として発行されたものの文庫化です。2013年10月29日付の当ブログで既に取り上げているのですが、今回読み直して(といってもほとんど内容は忘れておりましたが)感じたこと、考えたことを書き記してみます。

 好奇心と行動力に任せて、したいことをする、したくないことをしないというある意味で分かりやすい生活を送ってきた椎名さんですが、老境を迎え、いかに人生の幕を引くかということに関心が向かい始めているようです。「簡単にできることで一生やらずに死んでいくのも虚しいのではないか」(20ページ)ということを列挙している「死んでくんだ論」などには、そういう思いが読み取れます。「カラオケのある銀座のB級クラブで、ホステスと『銀座の恋の物語』をデュエットしたことがない。女と一緒にギンコイを歌わずに死んでいくんだ」(21ページ)というあたりには、複雑微妙な思いが見え隠れします。「銀座のB級クラブ」でという前段と、「女と一緒に」という後段の設定の間にはどうも無理があるように思います。「ギンコイ」という略語を使っているあたりに突っ込み所がありそうです。

 そうはいっても、やはり衰えない好奇心の矛先の一つが最先端の自然科学だというのは見上げたもので、「彗星来い、こっちの水は汚いぞ」では「ニュートリノ(中性微子)が光よりも早く進む、という実験ニュースには胸が躍った」(97ページ)とかっこいいところを見せています。本題と関係のある部分ももちろん面白く読めます。世界各地の未知の世界を踏破するという楽しみが若い世代には共有されなくなりはじめているという「距離の暴虐」(これはもともとオーストラリアの地政学的な位置を表す言葉です)という文章では実感とか実体験というものの重要性が強調されています。そして福島で「粗大ゴミ合宿」をしたり、韓国の済州島で「貧困旅」をしたりと、気の合った仲間とともに自分の好みに合った時間の過ごし方をする時間を見つけていく手際にも感心させられます。

 最後から2番目のエッセイである「コロッケパンのような人生」では自分がこれまで読んだ本やその他もろもろの中でのナンバー1を選ぶという作業が紹介されています。SF小説がリチャード・モーガンの『オルタード・カーボン』、自然科学部門がエドワード・ホールの『かくれた次元』、短編小説が芥川龍之介の「鼻」、映画がロバート・アルトマンの『ロング・グッドバイ』、飲み物がビール、食べ物がコロッケ、自分が選ぶとすれば何になるか、それよりもどのような部門でナンバー1を選ぶことにするかのほうが椎名さんとの距離を考えるうえで面白いと思います。例えば、私が選ぶと、SF小説がヴェルヌの『氷のスフィンクス』、推理小説としてコリンズの『月長石』ということで、だいぶクラシックになりますね。それで、私と椎名さんの距離が測れるわけです。

 とにかく、連載は終了されました。終了したのは椎名さんなりの「終活」の一環と思われますが、椎名さんよりも1歳下の私の目から見て、どうも早すぎます。椎名さんの古くからの友人である沢野ひとしさんは、解説で再開を熱望されていますが、果たしてどうなりますか。世を捨て人知れずあの世に赴くのも一つの生き方であり、死ぬまで俗塵にまみれて仕事をし続けるのも一つの生き方です。残念ながら、自分の思う方向を選ぶような自由は、あまりわれわれには与えられていないようです。そういうことから考えても、まだまだ椎名さんには頑張ってほしいという思いが私にもあります。

その壁を砕け

9月11日(金)晴れ後曇り

 神保町シアターで『恋する女優 芦川いづみ』特集上映の中から、『その壁を砕け』(1959、中平康監督)、『散弾銃の男』(1961、鈴木清順監督)を見る。新藤兼人が脚本を書いた冤罪サスペンス作品である『その壁を砕け』が、見応えがあった。

 自動車修理工の渡辺三郎(小高雄二)は、3年間働いて貯めた金でワゴン車を買い、職場をやめて新潟に車を走らせる。結婚を約束した恋人の道田とし江(芦川いづみ)が新潟で待っている。高速道路網が整備されていない時代の話なので、車での旅行は例外的で、時間もかかる。日が暮れてから三国峠を越える場面などかなり危なそうである。

 新潟に入って通過したある集落で、酒屋と郵便局が隣り合っているのだが、その酒屋にいた男が車の通過を見ている。路上に白いコートを着た男がいて、車を止め、駅まで連れて行ってくれといい、三郎はこの男をのせて駅に向かうが、その近くの橋のたもとで、男は降りてゆく。

 郵便局では強盗事件が起きて、隣の酒屋で将棋を指していた駐在の森山巡査(長門裕之)が駆けつけて、本署に連絡する。新潟へと急いで車を走らせる三郎であったが、途中で巡査に止められ、すぐに犯行現場で面通しをされる。重傷を負った被害者の妻(岸輝子)は三郎が犯人だと断言する。

 看護婦として勤めていた病院を退職して、待ち合わせる約束をした新潟駅へと向かっていたとし江は、三郎が強盗殺人事件の容疑者として逮捕されたことを知らされる。しかし、彼女は三郎の無実を信じる。警察署長(清水将夫)は、とし江の様子からあるいは三郎が無実かもしれないと思うが、捜査の流れで起訴せざるを得ないことを彼女に告げる。そして、公判が長岡で行われること、長岡に鮫島(芦田伸介)という有能な弁護士がいるので、弁護を頼んでみてはどうかと示唆する。

 お手柄を立てて本署の刑事に昇格した森山であるが、始まった裁判で被害者の長男の嫁・咲子(渡辺美佐子)が裁判の途中で姿を消したことに不審を抱く。咲子は被害者の長男の死後、郵便局の仕事をしていたのだが、家族ではのけ者扱いにされていて、事件の当日に犯行のあった部屋の隣で寝ていたにもかかわらず、事件について近所に通報したのが遅いということで離縁されて、故郷の柏崎に帰っていったのである。森山が柏崎に咲子をたずねてみると、彼女は結婚して、佐渡に移ったという。佐渡で彼女に会ってみると、事件の当時、近くで工事をしていた石工の1人と所帯を持っている。どうも不自然である。公判では三郎が同乗させた白いコートの男についての情報がないことがもんだいとなるが・・・

 凶器に犯人の指紋がついていないことは法廷での論点になっているし、奪った金の行方も曖昧にされたままである。三郎のアリバイが確認できない一方で、実は犯人が三郎だという物証もほとんどないので、現在であれば、捜査はもう少し慎重に行われるはずである。あまりにも早く、あっけなく犯人が逮捕されたことについては疑ってみる必要があるし、未亡人である長男の嫁と、次男夫婦が同居するという被害者の複雑な家族構成など考慮に入れるべき問題は少なくない。

 この作品で注目すべきなのは、普通ならばお手柄で昇任していい気になっているはずの森山が、あらためて自分の捜査について疑い始め、それを警察の上司たちも認めていくようになるという警察の自浄作用のようなものが描かれているということである。そういう設定は甘い、警察が官僚機構である限り、そんなに簡単にいったん到達した結論を引っ込めるわけがないという批判は当然あるだろうが、警察官たちが改めて捜査をやり直し、またそういう態度を裁判官が認めていくという物語の進行には新藤兼人の正義への信頼を認めてよいだろう。

 実は、私の身内に司法関係者がいて、一審で無罪だったにもかかわらず、上級審で有罪となって刑が確定したが、その後冤罪であることが明らかになって再審で無罪になった事件の一審の判事の1人であった。判決をめぐって上級審の判事jたちに、田舎判事に何がわかるかといわれ、職務の合間に親戚の農作業を手伝いながら、法律の勉強をやり直していた姿が印象的であったと身近にいた人が葬儀の際に語っていた。この映画には官僚機構の中での中央と地方の関係のようなものは描かれていないし、警察署内での上級と下級の関係はかなり親和的に描かれているとはいうものの、実際はもっとぎくしゃくしていることも少なくないだろうし、いったん方向が逸れた事件がこれ程うまく解決しては行かないだろうなあという感想を持つ人が少なくないのではないか。既に書いたが、現在のより科学的な捜査ならば、三郎が起訴されることはないのではないかという意見もあるかもしれない。

 長門裕之、渡辺美佐子が好演、さらに裁判長役の信欣三がいかにも裁判官という感じでよかった。弁護士役の芦田伸介と判事役の大滝秀治は刑事を演じるほうがよかったかもしれない。新潟に住んでいたことがあるので、芦川いづみが万代橋を渡る場面を見て、この橋がその名の如く、何十年もその姿を変えていないことに感動した。もう50年以上前につくられた映画であり、ロケ地の大半がその姿を変えてしまっているのは当然のことであるが、変わらないものもあるのである。
 

アリ・ブランドン『書店猫ハムレットの跳躍』

9月10日(木)雨が依然として降りつづいている。

 8月31日、アリ・ブランドン『書店猫ハムレットの跳躍』(創元推理文庫)を読み終える。

 テキサス州ダラスで暮らしていた30代半ばの女性ダーラ・ペティストーンは自分がその名を貰った大叔母から、ブルックリンにある建物とその中で営業している書店を相続する。ぺティ・ストーンズ・ファイン・ブックスという名のこの書店には、10年ほど前から黒猫のハムレットが暮らしていて、「典型的な書店の猫なら、入口の近くで枝編みのかごにかわいらしく丸まって寝転がり、ゴロゴロと喉を鳴らして客を迎えるところだが、ハムレットは猫版チンギス・ハーンのように堂々と書棚を徘徊する。黒い毛を輝かせて、緑色の目をエメラルドのように冷たくきらめかせながら」(13ページ)。ハムレットという名前はこの猫が自分で本棚から落として自分専用の小さなベッドにした戯曲の本からつけられたものである。ハムレットは客をランク付けし、もしダーラが店の従業員を雇うとすれば、この猫が好む従業員を雇うしかないとダーラは認めていた。書店には地元の大学で英語の先生をしていたジェイムズ・T・ジェイムズが店長として勤務していた。専門的な知識は十分だったし、ハムレットともうまくやっていたが、彼だけでは手不足である。そのため、パートタイムの従業員を探すのだが、ハムレットのお眼鏡にかなった人物がなかなか現れない。

 ダーラの建物の隣に住んでいるメアリーアン・プリンスキは70代の女性であるが、1階でアンティーク店を経営、上の階はアパートとして貸しているというダーラと同じような建物の使い方をしている。彼女は建物の外でハムレットを見かけたという。彼女のアパートの間借り人が引っ越していったので、あたらしい間借り人を探しているという。ダーラのアパートを借りているのは、元警官で銃撃事件で一生足を引きずることになるけがをしたために早期退職したジャクリーン⇒ジェイク・マルテッリで、新たに私立探偵を開業した。ダーラとジェイクは仲がよく、一緒に食事をしたりする。また、彼らの近くでバス用品とボディケア用品を扱う店を開いているキューバ系のヒルダ・アギラールの店が気に入っていて、ヒルダとも顔見知りである。

 ダーラの店に面接にやってきたティーンエージャーのロバートは、以前にダーラとトラブルがあった青年であるが、メアリーアンの推薦状をもっており、面接の内容から見て十分に仕事ができそうなので、採用するつもりになる。しかも彼はハムレットとうまくやれそうなのである。ところが、ロバートのもとの雇い主であるビルが文句を言いに来た。険悪な展開になっているところにやってきたのが、店の顧客である建築業者のカート・ベネデットでビルは彼ともトラブルを抱えているらしい。ダーラは陽気すぎるカートはあまり好きではないのだが、彼の共同経営者であるバリー・アイゼンには興味以上の気持ちを持っている。ビルは退散するが、カートも建物の外でハムレットらしい黒猫を見かけたという。カートは女好きでジェイクに興味があるような様子を見せる。彼がヒルダの娘で大学生のテラと付き合っていることは、ダーラも知っていることである。

 1週間ほど後、ダーラはバリーから食事に誘われ、外出する。バリーが仕事をしている建物のところまで来ると、市の職員であるトビーが待ち構えていて、工事についてのクレームをつける。建物に入ろうとすると、鍵がかかっておらず、何か不審な様子が見て取れる。建物の中を探すと、カートの携帯が、そして彼自身の死体が見つかる。「カートの死体から、動物の足跡――遠ざかるごとに薄くなっているさび色の動物の足跡が5,6歩分延びていた」(119ページ)。どうもその足跡はハムレットのものではないかとダーラは思う。

 この事件を担当するのは、ジェイクの元相棒でダーラとも顔見知りのフィオレッロ・リース刑事である。カートの死体が見つかったのと前後して、ヒルダの娘で、カートと付き合っていたテラが行方不明になる。事件の少なくとも一部に、ハムレットがかかわり、あるいは目撃している可能性がある。そしてハムレットは不思議な行動をとり、ダーラとジェイムズ、ロバート、そしてジェイクはハムレットの行動を様々に解釈しながら、事件の真相を追っていく。

 これまで書いてきたあらすじから判断して、誰がカートを殺したか、犯人を絞り込むことは容易ではなさそうである。ロバートですら、ダーラから見て不審な行動を見せたりする。犯人が絞り込めないという意味ではよくできた作品で、終盤になって物語が二転三転することも加わって、読み応えがある。実際には、猫が書棚から犯人を示唆するような表題や内容をもつ書物を落とすというようなことはあり得ないと思うのだが、ハムレットという個性的な猫の描写が、そういう非現実的なストーリーの展開をうまく支えている。

 原題はA Novel Way to Dieで”novel"には「新奇な」という意味と「小説」という意味とがあり、おそらくその両方の意味が込められている。翻訳の表題は小説の内容をくみ取ってつけたものだろうが、実際には作品中で猫は「跳躍」しないので、もう一工夫してほしかった。とはいうものの、第4作まで刊行されている書店猫ハムレット・シリーズを主人猫の魅力がいちばんよく伝わると判断した第2作から刊行していくという翻訳者の周到な作業ぶりには好感が持てる。

そういえば、現在読んでいる四方田犬彦『ニューヨークより不思議』(河出文庫)は1987年から1988年にかけてと、2015年に四方田さんがニューヨークで暮らした際の経験を記した書物であるが(ニューヨークといっても、こちらはブルックリンではなく、マンハッタンに住んでいた)、その中の「新しい聖マルクス書店」という文章の中に、「この本屋のことを書こうとしてまず思い出されてくるのは、白い太った猫のことだ。どういう事情ですみ着いたのか、だれが何をやっているのか知らないが、ともかくいつ訪れても、一匹の猫が堂々と客の足の間を歩き回ったり、平積みにされた大型本の新刊書の上で眠っていたりした」(四方田、182-3ページ)という個所がある。本屋の性格はかなり違う(所在地の違いが反映されているのかもしれない)し、こちらは白猫であるが、本屋にネコという組み合わせの実例である。本棚の本にたまる埃と、猫の抜け毛で掃除がたいへんではないかと思うのだが、どうなのだろうか。

日記抄(9月3日~9日)

9月9日(水)雨、台風が東海・北陸地方を通過、進路からはかなり離れていても、時々雨が激しく降る。

 このところ雨が降りつづき、夏変じてすっかり雨の季節になってしまった。今日は夜に研究会があるので、昼から東京に出かけるつもりだったのが、雨が小降りになるのを待って、ゆっくり出かけることにした。夜の帰りは遅くなりそうなので、ブログは早めに更新しておく。例によって、9月3日から本日にかけて経験したこと、考えたことから:

9月3日
 NHKラジオ「まいにちフランス語」応用編「ニュースで知りたいフランス文化」の時間では、la frite (フライドポテト)の起源をめぐるフランス・ベルギー両国間の論争?について取り上げた。
Français et Belges revendiquent la paternité de la frite, ce plat emblématique dont les origines plongent dans la culture populaire des deu pays.
(フランスとベルギーが、フライドポテトの元祖であることを主張しています。(両国の)象徴ともいえるこの料理は、両方の国の庶民の文化に深く根差しているのです。)
 それぞれに言い分があるようだが、番組パートナーのヴァンサン・デュレンベルジェさんによると、フランスではフライドポテトはメインディッシュ、一般的には肉料理の付け合わせとして、ナイフとフォークを使って食事の時間に食べられているのに対し、ベルギーではfriterieと呼ばれる屋台で売られているのを買って、手や木製の爪楊枝を使って食べるのが一般的で、それぞれの国における食べ方には大きな違いがあるようである。

9月4日
 シネマヴェーラ渋谷で「映画史上の名作13」の特集上映から、『上海から来た女』(The Lady from Shanghai, 1947、オーソン・ウェルズ監督)と『三十九夜』(The 39 Steps, 1935、アルフレッド・ヒッチコック監督)を見る。ともに主人公が身に覚えのない罪を着せられるという設定が共通しているが、前者が後半は法廷へと舞台を移すのに対し(それからまた、舞台が変わるのだが、それは見てのお楽しみ)、後者は主人公(ロバート・ドーナット)が逃げまくる。その途中で出会った美女(マデリーン・キャロル)を道連れにするうち、恋に落ちる。マデリーン・キャロルは1930年代、1940年代に英米で最も人気のある女優の1人だったが、ヒッチコックの映画に登場するブロンド女優第1号でもある。

 19時からルーテル市ヶ谷ホールで別府葉子さんのシャンソン・コンサートを聞く。昨年に続き2度目。ジャンルにこだわらず、自分がいいと思った歌を歌っていくという曲目の選択で、「バラ色の人生」や「愛の賛歌」のようなスタンダード・ナンバーもあるが、フランスといわず、世界各地(日本を含む)のいろいろな歌が取り上げられ、「マイ・ウェイ」を原題の「コム・ダビチュード(いつものように)」として歌うなど、独自のこだわりも見せている。「砂漠の薔薇」のように自作・自演の歌、シャルル・アズナヴールの「声のない恋」のように訳詩を担当している歌もあって、手作り感のある、親しみやすい雰囲気が会場に広がっていた。そういうことも影響したのだろうか、第1部よりも、自らギターを弾きながら歌った第2部の方が盛り上がっていたような気がする。

9月5日
 NHKラジオ「アラビア語講座」の「おしゃべりマクハー」のコーナーでは、アラブの食事について取り上げた。「アラブのお料理は、じっくり煮込む者が多いようです。中でも、トマトで煮込むお料理が目立ちます。しかし、パン(ピタのようなぺたんこパン)とごはんと、ときにはマカロニが一度に出てくるのにはまいります」とのことである。イスラム教では飲酒を禁じているので、その分炭水化物の摂取量が多くなるのであろうか。なお、アラビア語でマカロニというのは麺(パスタ)類の総称だそうである。またモロッコではモロヘイヤというとオクラのことだそうである。

 シネマヴェーラ渋谷で「映画史上の名作13」から『三つ数えろ』(The Big Sleep, 1946, ハワード・ホークス監督)、『けだもの組合』(Animal Crackers, 1930, ヴィクター・ヒアマン監督)を見る。前者はハンフリー・ボガートが扮する私立探偵マーロウの活躍を描くレイモンド・チャンドラーの小説を、ウィリアム・フォークナーを含む面々が脚本を書いて、映画化した作品。後にフランスのヌーヴェル・ヴァーグの作家たちから高く評価されるようになるが、こういう金を掛けて、大規模なセットを組み、丁寧に作った映画と、予算をあまりかけず、ロケーション中心で、即興演出の多いヌーヴェル・ヴァーグの映画のどこに共通点を見出せばよいのか、疑問に思う。マルクス兄弟の出演作である後者については、すでにふれたので省く。

9月6日
 NHKEテレ「日本の話芸」では柳家権太楼師匠の「子別れ」を放送した。腕はいいが酒癖の悪い大工が、子どもまでいる奥さんを追い出して、遊女あがりの女性と一緒になるが、うまくいかず、心がけを入れ替えて、一生懸命に働き、ひとかどの職人にとして認められるようになったところで、偶然、自分の子どもに再会し、それがきっかけで元の鞘に収まるという噺。滑稽噺の要素と人情話の要素があって、権太楼師匠の演出は人情の方に強調点を置いているようだが、この話、むしろ滑稽な面を強調しながら人情味を交えるという演出のほうが、柳派の伝統に即したものだと思うし、私の好みにも合う。

9月7日
 NHKラジオ「ワンポイントニュースで英会話」では”African Octopus in Japan (セネガル閣僚がタコの売り込み)”というニュース(8月20日放送分)を取り上げた。
Senegal is aiming to export some of its eight-leggged delicacies to the Japanese market.
(セネガルはその8本足の美味(=タコ)の一部を日本市場に輸出しようと意図している。)
ということで、東京で開かれた国際見本市で大いに売込みに努めたという。
Visitors was treated to sashimi and takoyaki, a ball-shaped savory pancake containing small pieces of octopus.
(来客たちは刺身やたこ焼きでもてなされた。)
 これまで日本には北アフリカからタコが輸入されてきたが、漁獲量が減少してきたため、セネガル産のタコがその減少分を埋めようとしているとのことである。ニュース解説でセネガルを「南アフリカ」にあるといっていたが、「西アフリカ」というべきであろう。

9月8日
 NHKラジオ「入門ビジネス英語」では日本の企業で研修をする外国人に日本の文化についてどのように理解を深めてもらうかという物語を放送中であるが、本日は相撲が話題になった。力士が土俵に上がるときに、まいているのは何かという質問に対して、
It's salt, used for purifying the ring. In Japan, salt has been aa symbol of purity since ancient times.
(塩ですね。土俵を清めるために使われます。日本では、塩は古代からずっと清らかさの象徴とされてきました。)
と答えている。テキストに記されている余談で、「塩については、雪道にまく凍結防止用の塩をイメージしてか、
Is it because salt makes the ring less slippery?
(土俵を滑りにくくするためですか?)
などという質問を受けたことがあると語られている。以前、元大関朝潮の高砂親方が、土俵に塩がたくさんまかれていると足を滑らせ安くなり、押し相撲の自分にとっては不利であった。自分の弟弟子の水戸泉(現在の錦戸親方)は塩をたくさんまくので有名だったが、自分の前の取り組みで相撲をとるときは、できるだけ塩をまかないように注意していたと語っているのを目にしたことがあり、実際はまったく逆なのである。その高砂親方が、この日の『開運 なんでも鑑定団』にゲストとして登場していたので、こういうつながりもあるのかと思ってみていた。

9月9日
 NHKラジオ英会話の時間に
We can't bury our heads in the sand forever.
(私たちはいつまでも見てみぬふりはできません。)
という表現が出てきた。これは不満を伝える表現で、bury one's head in the sandは、危険を察知したダチョウが頭を砂に埋めるという、実際にはない現象に基づく表現だそうである。砂の中に頭を埋めてしまえば、危険は見えなくなるが、危険が去るわけではない。ダチョウの学校で、危険が起きたときには、砂の中に頭を埋めて対処しなさいと教えられた生徒の1人が、それでは危険は防げませんと質問して、変なことをいうなと怒られるが、そのあとすぐに学校が危険に見舞われ、先生に反論した生徒だけが生き延びるという話をジェームズ・サーバーが書いている。実はこの話、大学で英語を教えたときに教材として使ったものの中に含まれていたのである。

ダンテ・アリギエリ『神曲 煉獄篇』(13‐1)

9月8日(火)雨

私達は、登るものの罪悪を祓う山の
二番目に切り開かれた場所、
つまり階段を登りきった頂にいた。

ここでも一番目のものと同様に
一つの枠が丘の周囲を取り囲む。
ただしその曲線はさらにきつい。

その場所には何かの影も形も見えない。
ただ崖が見え、そして岩石の鉛色をした
まっ平らな道が見えていた。
(188ページ) 第10歌から第12歌にかけて、煉獄の第一環道で高慢の罪を浄めたダンテはウェルギリウスとともに第二環道へとやってきた。彼の目に見えるのは鉛色をした崖と道だけである。翻訳者の解説によると、これは『新約聖書』の「ヨハネの手紙」の中の、憎しみと闇のイメージを受け継いだ描写で、「この『鉛色』とは嫉妬に焼け焦げた血液の色、つまり憎しみの色であり、この闇のように理性の視界を閉ざす」(543ページ)と、さらに解説はつづく。あたりに誰がいるかはわからないので、ウェルギリウスは闇を照らす、太陽の導きを祈る。

 二人は道を急ぐ。
私達は思いがはやり、その場所で
ここ現世では一里(ミッリア)と数えられる距離を
すでにわずかな時間のうちに進んでいた。
(190ページ) ミッリアというのがどのくらいの距離かはわからないが、ローマ時代の1マイルが1.5キロ弱、ヤード・ポンド法の1マイルは1.6キロ強であるから、そのくらいの距離と考えてよいだろう。と、彼らを教え さとすような声が聞こえる。最初の声は、「葡萄酒がなくなりました」と繰り返し、次の声は「我こそがオレステース」と叫んでいた。ダンテはこの声は何かとウェルギリウスに質問したが、それと同時に「あなた方を迫害するものを愛しなさい」という声が聞こえた。ウェルギリウスはダンテに、この第二環道で浄められるのは嫉妬の罪であり、これらの声は嫉妬を抑え、人間を正しい道へと導くための例となる者であり、やがてダンテは嫉妬の罪が罰せられる例も目にするだろうという。
 「葡萄酒がなくなりました」というのは『新約』の「ヨハネによる福音書」に出てくるカナの婚礼で聖母マリアが「葡萄酒がなくなりました」というと、イエスが水をぶどう酒に変えたという説話、「我こそはオレステース」というのは説明が長くなるが、アイスキュロスの悲劇『オレスティア三部作』で知られるギリシア神話の英雄オレステースの物語で、母と叔父の裏切りにより父アガメムノンを殺されたオレステースは、従兄弟ピュラデースの助けを得て仇の2人を殺すが母殺しの罪を負った。この罪を浄めるため、2人はトアース王の治めるタウリス国のアルテミス像を盗んでアポロン神に捧げようとして捕まり、トアース王はオレステースを殺そうとした。ピュラデースは身代わりに自分がオレステースだと名乗り、オレステースも友のために名乗り出た。
 翻訳者の傍注はここまでで終わっているが、物語の続きを書いておくと、アルテミス像のある神殿の巫女をしていたのが数奇な運命を経てこの神殿で暮らしているオレステースの姉のイフィゲネイアで、殺されようとしているのが自分の実の弟だということを知って、計略を設けて神像を盗み出し2人とともに逃げる。エウリピデスの『タウリスのイフィゲネイア』は彼らがアテーナ女神の助けで無事に逃げたところまでを描く。ダンテがこの神話をどのように把握していたかは、『神曲』の展開とは別に興味のある問題ではある。
 第三の声はイエスの「山上の説教」の中の言葉である。これらの声が嫉妬を戒めるよい教訓となるかどうかは疑問であるが、聖書とギリシア神話の両方から教訓が選ばれているのが、すでに何度か繰り返されているやり方であるとはいえ、やはり興味深い。
 そして
「だが、しっかりと視線を定めてこの大気を見通すがよい。
さすれば我らの前に座っている人々が見えるであろう。
その人々は皆、この断崖に沿って坐っている」
(192ページ)と示唆する。この言葉を受けてダンテは
そこで私は前よりもさらに大きく目を見開き、
前方を凝視した。すると岩と違わぬ色の
マントを着ている影の群れが見えた。
(同上) 彼らは馬の毛でおられた繊維で作られごつごつしている悔悛布を身につけ、お互いに支え合いながら、聖母や聖人たちの名を叫んでいた。

憐れみがすぐにも他人の中に沸くように、
言葉で頼むだけではなく、
同じだけものを言う、見た目にも訴えるためだ。

そして目の見える者たちには太陽が届かぬように、
この場所の影たち、私が今話している彼らに、
空の光は自身を与えることを望んではいない。

というのも全員の両瞼の上下を一本の鉄の糸が貫き、
縫いつけていたからだ。・・・
(194ページ) 第二環道に座りこんでいる魂たちの姿は誰にとっても同情の心を呼び覚まさせるようなものであった。ダンテは彼らにどのように話しかければよいのか迷って、黙ったままでいたが、ウェルギリウスは「話すがよい。短く的確に」(195ページ)と指示する。

 第一環道においては教訓が視覚を通して与えられていたのに対し、第二環道では聴覚を通して与えられている。ダンテが「嫉妬」と考えているものが何か、そしてそれがなぜ罪なのかについての説明はまだ十分に与えられているようには思えないが、だんだん明らかになっていくだろうと思う。

『けだもの組合』、『マルクス捕物帖』――マルクス兄弟の映画2本

9月7日(月)曇り、時々雨

 8月8日から9月11日までの予定でシネマヴェーラ渋谷で特集上映されている「映画史上の名作13」は、サイレント時代の作品を含めて喜劇が多く含まれている所に特徴がある。もっとも、そう書いたけれども、私がこのプログラムの中で見た映画は『アパッチ砦』(Fort Apache, 1946)、『マルクス捕物帖』(A Night in Casablanca, 1946)、『上海から来た女』(The Lady from Shanghai, 1947)、『三十九夜』(The 39 Steps, 1935)、『三つ数えろ』(The Big Sleep, 1946) 、『けだもの組合』(Animal Crackers, 1930)ということで、見た6編のうち喜劇はマルクス兄弟が出演する2編だけである。

 トーキー初期にその奇天烈極まりない芸で活躍したグラウチョ、ハーポ、チコの3兄弟の映画には興味があり、この映画館の名作特集が、マルクス兄弟の映画をかなり熱心に取り上げているおかげで、以前にも『オペラは踊る』(A Night at the Opera, 1935)と『マルクス兄弟デパート騒動』(The Big Store, 1941)を見ている。これらのほかに、テレビで『マルクスの二丁拳銃」(Go West, 1940)を見ている。

 マルクス兄弟は、年齢的にはサイレント喜劇の全盛時代に活躍したチャップリンとおなじくらい、キートンやロイドに比べるとむしろ年長なのだが、グラウチョのおしゃべり、ハーポのハープ、チコが一本指で弾くピアノという特技がトーキー時代になってやっとその効果を発揮しはじめたのだといわれる。『けだもの組合』で見るかぎり、グラウチョのダンスはなかなかのものであり、映画の中では口が利けないという設定になっているハーポのパントマイムも売り物の一つではあるのだが、それだけではサイレント映画時代には頭角を現せなかったということらしい。彼らの最初のヒット作『ココナッツ』(The Coconuts, 1930)が製作されたのは世界大恐慌の起きた1929年の翌年であり、彼らの狂騒的な持ち味が、不況の中で行き先を見いだせずに苦しんでいた庶民の心情に大いに訴え、大ヒットとなったという。

 裕福な未亡人で、社交界の花形であるリッテンハウス夫人(マーガレット・デュモン)の邸ではパーティーが開かれようとしている。主賓はアフリカから戻ってきたばかりの探検家ジェフリー・スポールディング大尉(グラウチョ)で、彼のためにヨーロッパから買い寄せた名画が展示されることになる。この絵が展示されれば持ち主であるリッテンハウス夫人は社交シーズン中、話題の中心となるだろうと嫉妬した客の母娘が作品をすり替えることを計画する。さらにリッテンハウス夫人の娘アラベラ(リリアン・ロス)はこの機会に無名画家である彼女の恋人の腕を認めさせようとこちらはこちらですり替えを計画する。

 パーティーにはスポールディング大尉のほかに、イタリア人音楽家のエマヌエル・ラヴェッリ(チコ)、得体のしれない教授(ハーポ)が参加している。スポールディングが本当にアフリカに行ったかどうか、彼の体験談を聞く限りあやしいものであるし、教授は下着姿で運動をしたり、気に入った女性を追いかけ回したりするという混乱の中で、絵がすり替えられ、スポールディングが今度は探偵役になって犯人捜しを始める。

 女性を追いかけ回したり、コートからナイフとフォークを何本も出したり…というハーポの動き、特に眠り薬を噴霧器に詰めて、出演者を片っ端から眠らせていく場面が面白い。もちろん、ハープも演奏するし、チコのピアノの腕前も披露される。そういう個人技に加えて、財産や権力を笑い飛ばすような不羈奔放な物語の展開が、不況下の庶民の心を動かしたのであろう。

 『マルクス捕物帖』はカサブランカを舞台に物語が展開し、実際名作『カサブランカ』によく似た場面があるため、あわや訴訟沙汰になりかけたという。既に1度、「日記抄 8月20日~26日」で取り上げているが、あらためて、あらすじを紹介すると:ホテルの支配人が続けて急死する。実はこのホテルにはナチスの残党の財宝が隠されていて、その1人がホテルの支配人になって財宝を持ちだそうとして、支配人を殺してきたのだが、今回はなぜか砂漠の中で怪しげなホテルの支配人だった男(グラウチョ)が支配人になってしまう。ホテルの客にたかって生計を立てている2人組(チコとハーポ)は、ナチスの残党がホテルの支配人の命を狙っていることに気付く。身辺の危機を感じた悪人一味は、国外逃亡を図り、支配人と2人組、そして事件に巻き込まれたフランス軍の将校とその恋人は、彼らを追いかけ、脱出を食い止めようとする…。

 作品の初めの方で支配人が毒殺されたため、警察官たちが緊急に捜査を始める。ホテルの近くに怪しげな男(ハーポ)がいて、ある建物に寄りかかっている。「おまえはこの建物を支えてでもいるのか?」という問いにうなずく男。そんなことがあるものかと彼を連行し、男が建物から手を離したとたんに建物は崩れる――小林信彦さんが熱をこめて何度も語っている有名な場面。あるいは終わりの方で悪人一味が逃げ出そうと荷造りをしている部屋に忍び込んで邪魔を繰り返す場面、さらには飛行場での追跡の場面など…スラップスティック喜劇の楽しさを堪能させる場面がある。それにしてもこの当時、兄弟で最年長のチコは59歳、他の兄弟も50代後半のはずで、よく体が動くねえと感心させられる。

 マルクス兄弟の作品の面白さは、個人個人の芸の確かさ、それぞれの体の動きもあるのだけれども、とくにハーポによって体現されているアナーキーな奔放さの魅力でもあると思う。それは、世界恐慌のような歴史的な事件の産物かもしれないが、時代を越えて生き延びるだけの訴えをもっているのである。

 追記:『上海から来た女』は原作も購入したので、原作を読み次第取り上げるつもりである。『アパッチ砦』、『三十九夜』、『三つ数えろ』について、それぞれ余韻を温めながら、いろいろと細かいことを調べているところであり、さて、どうなるか。

『太平記』(62)

9月6日(日)曇り後雨、夜になって一時激しく降る

 元弘3年(1333年)4月、後醍醐天皇の命を受けた千種忠顕を大将として、山陽・山陰道の軍勢が京都に向かった。西山に陣をとった忠顕は、4月8日、山崎・八幡の赤松勢と連絡を取らずに京都へ攻め寄せて大敗し、忠顕軍に従軍した児島高徳(備後三郎)は大将の臆病ぶりに憤慨した。

 千種忠顕が西山の陣から落ち延びたという噂を聞いて、4月9日に六波羅方の軍勢が、後醍醐軍が宿所としていた谷堂(最福寺)、峯堂(法花山寺)、浄住寺、松尾、万石大路、葉室、衣笠に乱入し、仏閣神殿を破壊し、僧坊や周辺の民家から略奪を行い、財宝を全て運び去って後、あたり一帯に火をつけた。折悪く強い風が吹いていたので、浄住寺、最福寺、葉室、衣笠、さらには二尊院(嵯峨にあり、釈迦・阿弥陀の二尊を祭る。嵯峨天皇の勅願で円仁が建立し、法然が再興した)、これらの寺院の堂舎300余宇、民家が5,000件余り、一時に灰燼となって、仏像も経巻も煙となって消えてしまった。
 『太平記』の作者は忠顕が4月8日=仏生会に戦闘を起こしたことを非難したが、今度は六波羅の軍が西山の仏事に略奪・放火を働いたことを非難している。被害を受けた中には神社もあったはずであるが、そのことについてはほとんど触れていないのも注目してよい。敵軍が退散した後に、無関係な寺院や民家を襲い、略奪するのは無法極まりない。

 この谷堂(最福寺)というのは源義家の孫(源義親の子)伊予守義信の嫡子であったが、出家した延朗上人が造立した霊地である。この上人は、武士の家柄に生まれたが、若いころに出家して、すぐれた学識を現した。上人が法華経を読む窓の前には松尾大社の主神である松尾明神がやってきて耳を傾け、真言の秘法を行う時には総角髪(あげまき)の護法童子が手を合わせて乙返したといわれる(総角髪の護法童子というのは、「信貴山縁起絵巻」に描かれた姿を思い出してほしい)。「かかる有智高行の上人の草創せられし砌(みぎり)なれば、五百余歳を経て今に至るまで、智水の流清く、法燈の光明らかなり」(430ページ、このような知恵があり業を積んだ高僧が草創された霊場であるから、500年以上を経て現在に至るまで、すぐれた学問の伝統を伝え、絶えず仏法の光で夜の中を照らし続けてきた。脚注でも指摘されているように、延朗上人は源頼朝の同時代人であるから、500年というのは大げさで、150年の間違いではないかと思われる。200年と書く写本もあるそうである。) さらに焼け落ちた最福寺がいかに見事な大伽藍であったかが強調されている。京都観光Naviによると、『太平記』に描かれた兵火による焼失以後、再建がかなわず、現在は延朗上人の坐像を安置した延朗堂だけが残っているそうである。

 また浄住寺について、戒律の法が広く行われている土地で、律宗修行の場所であると記されている。そしてこの寺には釈尊の肉体の一部が伝えられているとして、その伝説を語る。釈尊が入滅された折に、まだ棺の蓋が閉じる前に捷疾神鬼(しょうしつじんぎ)という名の鬼神が、釈尊がその下で涅槃に入られた沙羅双樹の木陰に近づき、仏の犬歯を1つ引き抜いてこれをとった。そばにいた比丘(びく=男性の僧侶)、比丘尼(びくに=女性の僧侶)、優婆塞(うばそく=男性の在家信者)、優婆夷(うばい=女性の在家信者)という4種類の仏弟子たちは驚いて、これを止めようとしたが、この鬼神はその名の通り足が速く、瞬くうちに4万由旬(由旬は古代インドの距離の単位で、牛の引く車が1日にたどることのできる距離をいう)を飛び越えて、須弥山の中腹にある四天王の宮殿に逃げ込もうとしたところ(四天王は仏法の守護神であるので、なんでわざわざそんなところに逃げ込もうとしたのか、理解に苦しむ)、増長天に仕える仏法の守護神で足が速い韋駄天が追いかけて奪い返し、それを中国の唐代の高僧で南山律宗の祖である道宣律師に与えた。脚注によると、この説話は『宋高僧伝』の中の道宣伝に出てくるらしい。この仏歯がその後、日本にわたってきて浄住寺にあったのだという。「大いなるかな、大聖世尊、滅度二千三百余歳の後、仏肉なほ留まつて、分布天下に普(あまね)し」(431ページ、偉大なことではないか、釈尊が入滅されて2,300年の後、その肉体の一部がなおとどまり、釈迦の教えが広く天下に流布していることは。岩波文庫版の脚注でも指摘しているが、ここでも年代の計算が間違っている)。
 『太平記』の作者は浄住寺が嵯峨天皇の時代に建てられたと書いているが、この寺を真言律宗の道場としたのは鎌倉前期の叡尊である。また、調べたところでは、この寺は葉室家の菩提寺であり、この後も応仁の乱、さらに永禄10年(1567年)にも火災にあったそうであるが、江戸時代の初めに黄檗宗の僧鉄牛道機によって再興され、現在では黄檗宗の寺となっているようである。

 「異瑞奇特の大伽藍を、故なくして滅ぼされければ、ひとへに武運の尽くべき前相なりと、人皆唇を翻しけるが、はたして幾程もあらざるに、両六波羅、都を攻め落とされて、近江国番場にて亡びにけり」(431-432ページ、格別にめでたいしるしを現した大寺院を、理由もなく滅ぼしてしまったのは、まったく幕府の運命が尽きる前兆だと、人々は非難したが、果たしてそれほど時間がたたないうちに、六波羅の2人の探題は、都を攻め落とされて、近江国の番場(滋賀県米原市番場)で最後を迎えることになってしまった。) ここでも仏教的な世界観が述べられているのが興味深い。
 こうして第8巻は終わる。最後の下りは、第9巻における番場での惨劇を予告する形になっている。これで岩波文庫版の第1分冊掲載分が終わり、第2分冊に進むことになる。第2分冊は第9巻から第15巻までで、この間、世の中はめまぐるしく変転することになる。どのように変転するかは、実際にお読みください。

『太平記』(61)

9月5日(土)晴れたり曇ったり、一時雨が降ったかもしれない

 元弘3年(1333年)4月、赤松円心の率いる軍勢が京都近郊にまで迫りながら、六波羅を攻略できない状態が続いていることを知り、後醍醐天皇は船上山(ふねのうえやま)の皇居に壇を立てて金剛の法を行い、六条(千種)忠顕を大将として、山陽・山陰道の軍勢を京都に送った。西山に陣をとった忠顕は4月8日、山崎・八幡に陣を構える赤松勢と連絡を取らずに京都へと攻め寄せたが、六波羅側も準備を整えて待ち受けていた。

 千種忠顕は、かつて神祇官の役所があった場所(東大宮大路の近く)まで来ると、その軍勢を分けて上は大舎人寮(神祇官の南西にあった舎人の役所)から続く通り、下は七条まで小路ごとに千余騎ずつの兵力を差し向けて攻撃した。六波羅方は防御壁を築き、前面に弓の射手を配置して、騎馬武者を後に置き、一斉射撃によって敵がひるんだところを騎馬武者が駆け出して追い散らそうとする戦術をとった。官軍は攻め寄せた兵力が蹴散らされると、今度は新しい兵力が入れ替わって攻撃を試み、それも追い散らされるとまた新手を繰り出し、土煙を天に巻き上げるような勢いで攻め立てる。「官軍も武士ももろともに命を軽んじ、名を惜しんで死を争ひしかば、御方助けて進むはあれども、敵に逢うて退くはなかりけり」(423ページ、官軍も六波羅方もともに自らの命を軽んじ、名誉を重んじて競って命を捨てて戦ったので、味方を助けて進むことはあっても、敵に逢って退くものはいなかった)。

 こうしてどちらが勝つか勝負の行方がわからないうちに、後醍醐方の但馬、丹後の軍勢の中で、かねてから京都市中に忍び込ませておいた者たちが市内のあちこちに火をつけた。このため、第一陣として応戦していた六波羅方の武士たちは東大宮大路のもといた位置に戻ったが、依然として市中にとどまっていた。これを知った六波羅の2人の探題は弱い方面への加勢として残しておいた佐々木判官時信、隅田、高橋、南部、下山、河野、陶山、富樫、小早川(こばいかわ)の5,000余騎の軍勢を一条大路、二条大路の西の端に差し向けた。北野方面から後醍醐方の側面を攻撃したことになる。この新しく加わった軍勢のために後醍醐方の有力な武士であった但馬の守護太田三郎左衛門が戦死したことで、二条方面の攻略軍は壊滅した。

 丹波の国の住人、荻野彦六と足立三郎は500余騎を率いて四条油小路あたりまで攻め込んだが、二条方面の見方の軍勢が敗走したことを知って、自分たちも引き返す。金持(かねじ)三郎は七条東洞院まで攻め込んだが、負傷して退却もできなくなり、六波羅方の捕虜になった。丹波国神池(みいけ)寺の衆徒たちは五条西洞院まで攻め込んだが、味方が退却しているのを知らないまま奮戦して、全滅した。

 こうして後醍醐方の軍勢は多くの戦死者を出して、生き残ったものも退却し、桂川の西岸に引き上げたが、名和小次郎と児島備後三郎が率いる一条の寄せ手は一歩も引かず、すでにこの物語に何度も登場して武勲を挙げている六波羅方の陶山と河野の率いる防御軍と激戦を続けていた。攻める方と守る方は平素お互いに付き合いがあり、それだけにここで恥をさらすことはできないと必死の戦いを繰り広げていた。
 既に退却していた忠顕は一条の攻略軍がまだ戦いを続けていると聞いて、神祇官の跡地まで引き返し、児島と名和を呼び戻そうとしたので、彼ら2人は陶山、河野に向かってまた後日お目にかかろうと挨拶をして、引き返すことになった。

 日が暮れだしたので、千種忠顕はもとの陣地である峯堂に戻り、戦死者、負傷者を数えると7,000人に及んだ。その中には太田、金持の一族など彼が頼りにしていた主要な武士たちもいたので、すっかり気を落として、児島備後三郎高徳を呼び寄せ、「敗軍の士、力疲れて再び戦ひ難し。都近き陣は悪しかりぬと覚ゆれば、少し堺を隔てて陣を取り、重ねて近国の勢を集めて後、また京都を攻めばやと思ひ候ふ。いかが計らふ」(426ページ、敗軍の士卒たちは、その力もつかれてまた戦うこともおぼつかない。都の近くに陣を構えるのはよくないと思うので、少し距離を置いて陣を構え、もう一度近国の軍勢を詰めて後、また京都を攻めようと思うのだが、どう考えるか)と相談を持ち掛ける。あまりにも弱気な発言に児島のほうが怒り心頭に発し、言い返す。「軍の勝負は時の運に依る事にて候へば、負くるも必ずしも恥ならず。ただ引くまじき所を引かせ、懸くまじき所を懸けたるを以て、大将の不覚とは申すなり」(同上、戦闘の勝敗は時の運によることなので、負けることは必ずしも恥ではない。ただ、退却すべきでないところで兵を退却させ、進むべきでないところで進むのは、大将の不名誉な過ちというべきである)と非難の言葉をにじませながら返答する。
 彼はさらに、言葉をつないで、赤松円心はわずかに1,000余騎の兵で3度まで京都市中に攻め入り、成功しなかったので、八幡、山崎に陣を構えて、それよりも後ろに退こうとしない。この戦いで多くの戦死者を出したとはいっても、まだ残る兵力を集めれば、六波羅に集まっている軍勢を上回っているはずである。この峯堂の陣地は後ろが深い山で、前には桂川という水量の多い川が流れている(兵法にかなった陣地である)。ここから退却しようなどという考えを絶対に起こされるべきではない。あるいはこちら側が負けて疲れているところに付け込んで、敵が夜襲を掛けてくるかもしれないので、高徳は七条の大橋のたもとに兵を率いて待ち受けるつもりである。あなたは頼りになる兵を4~500騎ほど桂川の主な渡りである梅津と法輪の辺りにおいて、そなえているのがよかろう。そのように言いおいて、七条の橋の西側に向かい、そこで夜襲に備えていた。

 千種忠顕は高徳にたしなめられて、しばらくは峯堂に腰を据えていたが、敵がもし夜襲を仕掛けてきたらという高徳の言葉が悪い方に影響して、すっかり臆病風に吹かれ、夜半過ぎのころに、静尊法親王を御馬に載せ奉って、口を引かせて、八幡の方角へと落ちのびていった。
 備後三郎はそういうこととは思いもよらず、夜更けになってから峯堂を見やると、陣地に星のように輝いて見えた篝火の数が次第に減って、あちこちで消えかかっている。これは大将が逃げ出したのではないかと思って、葉室大路から峯堂に昇ろうとすると、荻野彦六朝忠と浄住寺(葉室=京都市西京区山田開キ町にある真言律宗の寺院)で出逢った。荻野が言うには、大将は深夜子の刻(午前零時ごろ)に落ち延びてしまったので、われわれも仕方なく、丹波の方に落ち延びようと思う。一緒に行きましょう。これを聞いて備後三郎は大いに怒り、このように臆病な人を大将にしたのがそもそもの間違いであるといい放つ(これは誰が考えてもその通りである)。そうではあっても自分の目で様子を確かめなければ後日非難を受けることもあるだろうと考えて、荻野には先に行くように勧め、自分は峯堂に登って、宮様の所在を確認したうえで、あとから追いつくという。引き連れていた兵士たちをそこにおいて、一人で落ち延びようとして峯堂から下ってくる兵士たちをかき分けて峯堂へと登った。

 たどりついてみると、よほど慌てて逃げ出したものだと見えて、官軍の錦の御旗や、鎧の下に着る装束まで捨てられていた。備後三郎はまたもや腹を立て、「あはれ、この大将のいかなる堀か崖へも落ち入つて死に給へかし」(428ページ)と独り言をいい、憤懣やるかたなく、しばらくその場に立ち尽くしていた。
 とはいえ、自分の手のものを浄住寺に残してきているので、錦の御旗だけをついて来た下人にもたせ、急いで浄住寺に戻って自分の家来たちと合流し、少し馬を急がせて進んだので、追分の宿(京都府亀岡市追分)のあたりで荻野孫六に追いついた。荻野は丹後、丹波、出雲、伯耆に落ち延びようとしていた武士たちが篠村、稗田(亀岡市稗田野)のあたりに3,000余騎ほど集まっていたのを加え、道中を待ち受けている野伏たちを追い払い、丹波の国高山寺(こうせんじ、兵庫県丹波市氷上町の弘浪山上にあった寺)に立て籠もった。

 今回で、第8巻を終えるつもりだったが、京都市中での戦闘、後醍醐軍の敗北と千種忠顕の臆病ぶり、児島高徳の憤慨と紹介すべき内容が多く、あと1回分を残すことになった。ご存知の方も多いと思うが、この臆病な千種忠顕が、建武の新政のもとでは後醍醐天皇の朝恩によって成り上がり、三木一草(三木は楠(正成)、伯耆=名和長年、結城(親光)、一草は千種)と呼ばれた人々の1人となった。その一方、必死になって京都攻略の戦いを続けた赤松円心にはほとんど恩賞が与えられなかった。そういう武士は赤松に限らず、他にもいたわけで、それが新政崩壊の一因ともなるという経緯はまたその時に述べることになるだろう。一つだけ書いておくと、児島高徳=『太平記』の作者だともいわれる小島法師という説があって、そういう目で今回紹介した部分を読むと、ますます興味がわくはずである。

ジャンヌ・バレ 初めて世界一周した女性

9月4日(金)晴れたり曇ったり、一時雨

 シネマヴェーラ渋谷でオーソン・ウェルズ監督・主演『上海から来た女』、アルフレッド・ヒッチコック監督『三十九階段』を見て後、市谷ルーテル・ホールで別府葉子さんのシャンソン・コンサートを聴いた。なかなか充実した1日であったが、何をブログに書いてよいか迷ってしまう。とりあえず、別府さんのコンサートで歌われた「悪魔の積荷」に関連して、フランス人としてはじめて世界を一周したルイ=アントワーヌ・ド・ブーガンヴィル(Louis-Antoine de Bougainville, 1729-1811)の航海に男装した女性が紛れ込んでいて、結果的に彼女が世界一周をすることになったという話を思い出し、詳しいことを調べてみた。

 別府さんの9月2日付のブログにも出てくるが、「悪魔の積荷」というのは女性が船乗りとして船に乗り込むことを許されなかった時代のことを歌った歌である。それでも船員として船に乗った女性がいたのではないか、それが歌になって歌い継がれることになったのではないか。私が思い出したのは、初めて世界を一周した女性といわれているジャンヌ・バレ(Jeanne Baret, BaréあるいはBarretともいわれる、1740-1807)のことである。彼女は、ブルゴーニュ地方の生まれで、植物学者であるフィリベール・コメルソンの家の女中であったが、コメルソンの妻が早く死んだためにその家の家事一切を取り仕切っていたようである。フランス科学アカデミーによって、ブーガンヴィルの世界一周にコメルソンが随行することが決まった時に、病弱なコメルソンには身の回りの世話をする人間が必要であり、そのためにジャンヌが男装して航海に加わり、かねて助手の役割も果たすことになったようである。

 ブーガンヴィルは若くして数学と法学をまなび、その両方で前途を嘱望されていたのだが、フランス海軍の軍人となった。世界一周を目指して1766年の12月半ばに、ブーガンヴィルは新たに建造されたフリゲート艦ラ・ブードゥーズ(ふくれっ面)号で出発。この月の末に出発した輸送艦のレトワール号と南米で合流した。コメルソンとジャンヌはレトワール号の方に乗船していた。コメルソンの荷物が多く、広い部屋を与えられていたうえに、船長用のトイレを使用することを許されていたためにジャンヌが女性であることを隠すことができた。「悪魔の積荷」ではフランスの港町ナントとブラジルのリオが歌われているが、ブーガンヴィルが出発したのはブレストだそうである。ブレストというと、ジャック・プレヴェールのシャンソン「バルバラ」を思い出す。その頃から、ブレストは海軍の軍港であったのだろうか。

 寄港先のモンテビデオとリオデジャネイロでコメルソンは植物を採集。リオで採集した未知の植物にはブーゲンビリアという名前が付けられることになる。この間、機材や標本の運搬はジャンヌが行ったようである。さらに標本の整理もかなりの部分、彼女が引き受けることになった。太平洋を横断して、後にブーゲンヴィル島と名付けられることになる島に立ち寄ったりしたが、この間、ジャンヌが実は女性ではないかという噂が広がるようになる。ブーガンヴィルの『航海記』によるとこのことが最終的に明らかになったのはタヒチ島でのことだという。これは探検隊にとって好ましくないことであると考えられた。

 一行は中国に立ち寄ることを考えていたが、結局断念し、インド洋を渡って、当時フランス領であったモーリシャス島に到着。ここにコメルソンの友人の植物学者であるピエール・ポワヴル(Pierre Poivre)がいたことから、コメルソンとジャンヌは下船して、ここを根拠地として植物採集を行うことになる。この間、彼らと別れた本隊は1769年に帰国する。さて、1773年にコメルソンが病死し、ポワヴルもすでに帰国していたことから、ジャンヌは居酒屋で働くなどして生計を立てていたが、1774年にフランスに帰国途中のフランス陸軍の下士官ジャン・ドゥベルナ(Jean Dubernat)と結婚、1775年頃に帰国したようである。こうして、彼女はあまり世に知られないまま世界を初めて一周した女性となった。

 帰国後の1776年にジャンヌはコメルソンの遺言による遺産を受け取ることができ、それを元手に夫の故郷で鍛冶屋を開業した(実際に作業をしたのは、夫のジャンのほうであっただろう)。1785年には、コメルソンの植物採集の事業を助けた功績により年200ルーヴルの年金を与えられることになった。その後、フランス革命とナポレオンの時代に彼女がどう生きたかは定かではないが、1807年に没している。

 一方、ブーガンヴィルの方は帰国後、ラファイエットらとともに、アメリカの独立戦争を助けるために戦い、フランスに戻ってからは北極探検を計画したが、当時のフランス国家の財政難で実現しなかった。ブーガンヴィルは一種の万能人といえるが、その本質は軍人というよりも探検家であったのではないかという気がしてならない。ルイ16世支持派だったのだが、フランス革命の時代を生き延び、ナポレオンに重用され、国葬で送られた。ブーガンヴィルがその『航海記』で南太平洋の島々の住民についてルソーの「高貴な野蛮人」を思わせるところがあると書いたことが、その後の欧米における人間観・教育観に大きな影響を及ぼすことになる。

 ブーガンヴィルの業績の評価はさておき、ジャンヌが彼女自身の「世界一周」によってではなくて、「コメルソンを助けた」ことによって年金を授与されることになったのは、当時のフランス社会における女性観を要約しているようで興味深い。とにかく、初めて世界一周をしたと一般に認められている女性の生涯は、いろいろなことを我々に語りかけているように思われる。

ダンテ・アリギエリ『神曲 煉獄篇』(12‐2)

9月3日(木)晴れ後曇り、夕方になって雨、蒸し暑い

 1300年4月11日の朝、ダンテはウェルギリウスとともに煉獄の門をくぐり(第9歌)、煉獄山の急な斜面の岩に穿たれた狭い裂け目を登って、煉獄山の壁面をめぐる第1環道へと達する。そこでは死者の魂が高慢の罪を償っている(第10歌)。そこでは神の手になる浮彫が謙譲の美徳の実例を教え、魂たちは大岩に押し潰され、地面に這いつくばるようにして歩いている。そのような魂たちの中に、ダンテは自分の知人の姿を見出す。細密画家オデリージの魂との出会いを通じて、文学・芸術が人々を導く社会的・倫理的な性格をもっていること、そして社会の移り変わりとともに新しい文学・芸術が現われていくが、究極の存在である神の前ではそれらは空しく、はかないとする彼の芸術観を語る(第11歌)。彼は、道に刻まれた高慢の罪の事例を顔を伏せた謙譲の姿勢で見つめながら、先を急ぐ(第12歌の前半)。

集中していた私の心が
思っていたより、すでに私達は山の周囲を多く踏破し、
太陽の歩みもずっと先に進んでいた。
(181ページ) その時に、ダンテの案内役であるウェルギリウスが、1日の正午を告げる天使が彼らの前方に現れていることに注意を促す。
「おまえの顔と態度を敬意で飾るがよい。
我らを上に呼ぶことがあの方の喜びとなるように。
この太陽が今日と同じ日の出を繰り返さぬことを思え」

時を失うことなかれ、との
あの方の警句をこれまでも聞いていたので、それゆえに
その話の意味が私には明らかだった。
(182ページ) 天使は2人に近づいてきたが、
・・・その顔はまるで
明けの明星のように輝き瞬いていた。
(同上) 「朝日に先立つ明けの明星の輝きは、新たなる生を予告する」(183ページ)と翻訳者が傍注で解説している。

 天使は、第1環道から第2環道へと登る階段へと2人を導く。そしてダンテに向かって道中の無事を約束して去ってゆく。坂は急ではあるが、階段によりやわらげられている。
ただ、切り立つ岩盤は左右をかすめる。

私たちがその場所に向かって進むと、
「心貧しきものは幸いなるかな」、声が
歌った、それを言葉では言い表しようもない。

ああ、そこでの入り口は地獄の諸圏のものと
何と違っていることか、ここでは歌に包まれて、
奈落では惨い嘆きの叫びに包まれて入るのだ。
(184ページ) ダンテは地獄では、次第次第に重い罪を犯した人々の魂が置かれる圏へと下降していったが、煉獄では罪を贖いながら天国へと前進する魂たちとともに移動しているのである。嘆きの叫びと歌声とには残酷なほどに大きな隔たりがある。

 階段を登りながら、ダンテは自分の体が軽くなっているのを感じて、ウェルギリウスにそのわけを尋ねる。ウェルギリウスは煉獄の門で、門を守る天使からダンテがその額に刻み付けられた7つのP(第9歌 112-114行)へと注意を向けさせる。その時、天使は煉獄の門の「中に入ったならば、/これらの傷を洗い流すようにせよ」(142ページ)と言っていたのである。ダンテが自分の額に触ってみると、Pの字が1字消えていた。

それを見て、我が導き手は微笑まれた。
(186ページ) こうしてダンテは煉獄における最初の環道での試練を乗り切った。しかし、まだ6つの罪に対応する6つの環道が残されており、彼の煉獄での道のりはまだまだ続く。「地獄篇」が34歌で構成されていたのに対し、「煉獄篇」は33歌からなっているので、あとまだ21歌分が残っていることになる。煉獄における彼の歩みがどのように歌われるか、人間が現世で犯した罪がどのように回想され、評価されるのか、今後の展開に興味が尽きない。

 

日記抄(8月27日~9月2日)

9月2日(水)午前中は雨が残っていたが、午後になって晴れ間が広がった。

 最近は秋霖の期間が長くなる傾向があるとどこかで読んだ記憶があるが、今年は8月の終わりから秋霖の雨が降りつづいている。なお、秋霖といわずに秋雨といいかえる傾向があるが、秋霖は春雨ではなくて、梅雨に対応する夏と秋の境を分ける雨なので、注意する必要がある。「秋雨じゃ、濡れてゆこう…」というわけにはいきそうもないのである。

 8月27日~9月2日までの間に経験したこと、考えたことなど:
8月27日
 NHKラジオ「実践ビジネス英語」には
As the Japanese saying goes: "Sit on a stone for three years" In other words, perseverance will lead to success.
(日本のことわざにもあるように、「石の上にも3年」ですよ。要するに、忍耐は成功につながるのです。)
という個所があった。
 念には念を入れよということで、『斎藤和英辞典』(日外アソシエーツ)で探してみたら、
Persevearance will not fail of its reward.
とあった。こちらのほうが日本語の表現のひだをよく伝えているように思うのだがどうだろうか。

8月28日
 この日をもって横浜駅西口ダイヤモンド地下街のかなりの店舗が閉店、あるいは改装のために閉店した。リニューアルは必要なことではあるが、最近では渋谷駅とその周辺の再開発のように必ずしも成功しているとは思われない事例も見られるので、西口のリニューアルについても今後の成り行きを慎重に見ていく必要がある。

8月29日
 既にこの日付の当ブログでも書いたが、NHKラジオ「攻略!英語リスニング」では”Mars"(火星)を取り上げた。1938年にH.G.ウェルズの『宇宙戦争』をオーソン・ウェルズがラジオ・ドラマ化した放送が米国の一部の地方でパニックを起こしたことについても触れたが、ドラマの一部の録音が残っていて、講師の柴原さんは聞いたことがあるが、大騒ぎになっても不思議はないほど迫真性のあるものだったということである。探して聴いてみてもよいが、多分、英語がわからないのではないか。

 そういえば、作家の都筑道夫の兄である落語家故・鶯春亭梅橋(1926-55)について、これも故人になった桂小南が語っていた思い出で、本職のアナウンサーを抱き込んで、動物園からゴリラが逃げましたという偽ニュースをラジオで流して、大騒ぎになり、警察から大目玉を食ったという話がある。逃げるもなにも、その頃の日本の動物園にはゴリラはいなかった…のである。

8月30日
 午前中、世界陸上の女子マラソンの実況中継の後半部分を見ていた。3人の代表選手が中盤まで先頭集団につけて健闘したが、後半になってアフリカ勢に引き離され、伊藤選手が7位、前田選手が13位、重友選手が14位という結果に終わった。団体戦というのがあれば、ケニア、エチオピアに続いて日本は3位になるのではないかと思ったが、上位2か国との差を縮めるのはかなり難しいように思われる。

 ニッパツ三ツ沢球技場で天皇杯の1回戦、横浜FC対tonan前橋の試合を観戦する。群馬県代表として天皇杯に駒を進めたtonan前橋は現在関東リーグ所属で、横浜FCから見れば格下のチームではあるが、このところリーグ戦では連敗続きであり、是非とも勝っておきたい相手である。そのことが主力の一部を休ませながらも、かなりの部分を先発させるという選手起用に現れていた。注目されるFWは本来MFの内田智也選手と、今シーズンいまひとつ実力を発揮していないFWの黒津勝選手を起用。ゴール裏の席で観戦したのだが、黒津選手への声援が盛んであった。チームの今後の浮沈を考えると、過去の実績のある黒津選手の活躍はどうしても欠かせないので、これは当然のことかもしれない。前半7分にゴール前での攻防から横浜の佐藤選手がシュートを決めて先取点を挙げ、37分には同じく松下選手がFKを決めて加点した。後半になるとなかなか得点が入らない、じれったい攻防が続き、31分には横浜ベンチがエースの大久保哲哉選手を投入することになったほどであるが、37分にゴール前で黒津選手のヘディングがゴール枠をとらえ、3点目を得て勝利を決定的なものとした。tonanも決して弱いチームではないので、駒落としで3-0での勝利はまずまずの結果であるが、イエロー・カード4枚というのが今後のことを考えると心配である。観客が1256人というのにはちょっとがっかりさせられた。天皇杯の紹介ビデオがスコアボードに流れたときに、1998年度の大会でフリューゲルスが優勝した場面で拍手が起きたのは、このチームの原点を忘れないサポーターが少なくないからだろうと思っている。

 平松洋子『ステーキを下町で』(文春文庫)を読み終える。今回は、日本各地に特色のあるうまい物を求めての食べ歩きの旅の斬ろう。編集者やカメラマンを随行させて遠出する取材よりも、日常生活の延長のような近場での取材のほうが平松さんらしいと思うのだが・・・。

8月31日
 NHK「ラジオ英会話」ではなぜか、尾崎紅葉の『金色夜叉』の中の貫一とお宮の話が出てきて、
They had a falling-out at Atami beach.
(2人は熱海の海岸で仲たがいをしたの。)
と語られていた。原作に即して言うと仲たがいをしたのは、熱海の海岸ではなくて、梅林であるということを飯沢匡が書いていた。『金色夜叉』の岩波文庫版をもっていたのだが、全部読まないで古本屋に売ってしまったので、海岸か梅林かという問題は確認していない。

9月1日
 NHKラジオ「入門ビジネス英語」は第41課「日本の食文化について語る(2)」で日本酒について説明されている:
Sake is a fermented beverage.
(日本酒は醸造酒です。)
 あるいは、
Unlike sake, shochu is distilled.
(日本酒と異なり、焼酎は蒸留してつくられたものです。)
 外国人に日本の食べ物や酒について説明する場合、あるいは実際に食事をする場合に、一般的な説明が自分の嗜好とは違っている場合もあるので、そのあたりが苦労するところである。外国からのお客さんの中には、自分は菜食主義者だというように、食事についての意向をはっきりさせてやってくる人がいるが、この点は見習うべきではないかと思っている。
 
9月2日
 NHK「ラジオ英会話」に出てきた英語のことわざ:
Two is company, three is a crowd.
(二人は仲間、三人では多すぎる。)
 落語の「三人旅」の枕でも同じようなことが語られている。洋の東西を問わず、こういうことには共通性があるらしい。

『風船』、『誘惑』

9月1日(火)曇り、一時小雨が降る

 神保町シアターで「恋する女優 芦川いづみ」の特集上映の中から、『風船』(1956、日活、川島雄三監督)と、『誘惑』(1957、日活、中平康監督)の2本を見る。松竹少女歌劇団・松竹音楽舞踊学校に所属していた1953年に川島に見いだされて、同年『東京マダムと大阪夫人』に出演、1955年に川島の勧めで日活に入社して、その後、1968年に引退するまで主力女優の1人として活躍した。特に中平康の作品への出演が多く、今回上映される15本中5本が中平の監督作品である。彼女を見出した川島と、最も縁の深かった中平の作品を続けてみるのは、意味のあることだろうと思う。

 『風船』は大佛次郎の原作で、もともと画家を目指していたが、カメラの会社を起こして社長になっている村上春樹(森雅之、どうでもいいがどこかで聞いたことのある名前である)という初老の実業家と、その妻でやたらと世間体を気にする房子(高野由美)、父の会社で部長をしている息子の圭吉(三橋達也)、子どものころに小児麻痺を患って引きこもりがちの娘珠子(芦川)の家族を中心に、戦後の世相の中での人間の幸福とは何かを探る。圭吉はバーのホステスである久美子(新珠三千代)と愛人関係にあるが、父親の昔馴染みである都筑(二本柳寛)にそそのかされて、クールで奔放なシャンソン歌手ミキ子(ミッキー、北原三枝)と次第に深い仲になる。その一方で珠子は久美子を慕うようになる。京都に出かけた春樹はむかし下宿していた家の娘であるるい子(左幸子)とその弟のつつましい暮らしぶりに接して、自分の生き方について改めて考え直し始める。圭吉との仲が冷えてきたことを悲観して久美子が自殺を図る・・・・。

 もともとが新聞の連載小説で、戦後の世相風俗を描いただけの内容といえばそれまでであるが、川島のカメラ・アイは同時代の風俗を的確に描いていて、それだけでも見応えがある。今は過去のものになってしまった東京と京都の風景がいろいろと描かれているのだが、祇園の石段のあたりはあまり変わっていない。1950年代につくられた映画を見ると、当時の世相がどのようにとらえられているかを、自分の思い出と重ね合わせて映画の筋とは関係なしに物思いにふけってしまうのが私の習いである。
 ひ弱だが心優しさをたたえている芦川いづみ、暗い影を振り払おうとしている新珠三千代、派手な魅力を振りまく北原三枝、生活感と生命力をみなぎらせる左幸子というそれぞれ違った個性を持つ女優が、それぞれに違った生き方をしていく展開も興味がもたれる。子どものころに小児麻痺を患ったことで、物語の展開の中でやや傍観者的なたち位置に置かれている珠子は、自身が難病を抱えながら映画に取り組んだ川島自身の分身的な要素があるのかもしれない。この後、芦川は『洲崎パラダイス 赤信号』、『幕末太陽伝』で、登場人物のすったもんだの大騒ぎを、少し離れたところで見守る役どころを演じている。そのような設定はこの作品から始まっているのではないかと思ったりした。そういえば、『洲崎パラダイス 赤信号』での役名もタマコ(玉子)であった。
 川島のつくった映画は51本だそうで、中にはプリントが残っていないものや、状態がよくないものもあり、何本みられるかはわからないが、これまでみているのは19本、まだ見ていない作品のほうが多いので、これからもできるだけ見ていこうと思っている。なお、この作品の脚本は川島と今村昌平の共同執筆、助監督は今村昌平とクレジット・タイトルに記載されている。

 『誘惑』は伊藤整の小説の映画化。中平の一番の傑作だという評価もあるようで、ストーリーの展開が散漫な印象はあるが、登場人物の心中の独白が多用され、それぞれの思惑の食い違い、すれ違いが強調されるなど、よくできた喜劇である。銀座で洋品店を営業している杉本省吉(千田是也)は妻に先立たれて娘の秀子(左幸子)と2人で暮らしているが、もともと画家を志していたので、店の2階を画廊にしようと工事中である。店で働いている竹山順子(渡辺美佐子)は有能なのだが、化粧っ気も愛想もなくて、そのために店の売り上げが不振なのではないかと省吉は考えている。
 秀子は前衛生け花を製作していて、仲間と展覧会を企画している。省平の画廊をその会場にしようとするのだが、予算が足りず、知り合いの売れない画家のグループと提携することにする。このグループのリーダーである松山小平(葉山良二)に秀子は惹かれはじめる。グループには、田所(安井昌二)という時々やってきて、自由奔放にふるまうメンバーがいる。省平の店にやってきた田所は順子に自分の荷物をあずけ、君の顔は化粧すればきれいになるといって去っていく。その通り、順子が化粧すると店をはじめ周囲の雰囲気が一変して、物語も急展開しはじめる。
 展覧会の準備をする中で、秀子は同じ生け花教室で、伝統的な生け花を習っている中年婦人の園谷コト子(轟夕起子)に声をかけられる。彼女は省平を生命保険に勧誘したいのだが、それだけでもないようである。田所と順子、小平と秀子の恋の行方は、あるいは省平にも再婚の機会が訪れるかもしれない。実は省平は若いころに栄子(芦川いづみ)という恋人がいたのだが、前途を設計できないままに、彼女のほうが結婚してしまったという過去がある。省平は小平にどこかで出会ったような感じがする…。

 ストーリーが間延びするところがあるのが欠点だが、ところどころドタバタ場面を組み込んで快調なテンポで演出されている。とくに生け花のグループの描き方が面白い。左幸子と芦川いづみがそれぞれ母親と娘の1人二役を演じるというのが見どころの1つ。母親役で回想シーンに登場した芦川が娘の役ではなかなか登場せずに、観客を焦らすのも一つの工夫であろう。轟夕起子がこの時点で既に三枚目的な役柄を演じていることを知ったのは一つの収穫。さらに岡本太郎、東郷青児、勅使河原蒼風といったお歴々が特別出演しているのも見物ではある。なお、この作品の助監督は松尾昭典である。

 この特集は9月18まで続く予定であるが、上映作品のうち何本を見ることになるだろうか。
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