2015年の2015を目指して(8)

8月31日(月)午前中は雨が残っていたが、曇り空に変わる

 8月は今年になって初めて東京都杉並区に足を運び、年内に出かけたことのある市区は8つとなった。都県は相変わらず2つである。新しく東急の大井町線とJR東日本の中央・総武線(1つに数えることにする)を利用した。今年になってから利用した鉄道は6社、15路線ということになる。新たに、仲木戸、神奈川新町、阪東橋、阿佐ヶ谷、水道橋の5駅を利用した。これで今年利用した駅は19駅となった。(この外に横浜市営と相鉄のバスを利用している。70歳になって優待パスが使えるようになったので、バスを利用することが増えたが、数字にはあまり表れていない。)

 ブログは今、書いている分を含めて31件投稿。1月からの通算では246件である。3件のコメントを頂いた。1月からの通算では24件である。638の拍手を頂いた。1月からの通算は集計していないが、5,000前後と思われる。トラックバックと拍手コメントはなかった。

 14冊の本を購入し、10冊を読んだ。1月からの通算では購入した本は103冊、読んだ本は79冊である。読んだ本は似鳥鶏『いわゆる天使の文化祭』、似鳥鶏『昨日まで不思議の校舎』、望月麻友『京都寺町三条のホームズ2』、R.P.ファインマン『ご冗談でしょう、ファインマンさん 下』、椎名誠『おれたちを笑うな! わしらは怪しい雑魚釣り隊』、藤子不二雄Ⓐ『81歳いまだまんが道を』、永井晋『源頼政と木曽義仲』、益川敏英『科学者は戦争で何をしたか』、平松洋子『ステーキを下町で』、アリ・ブランドン『書店猫ハムレットの跳躍』ということで、推理小説を中心として、軽い本ばかり読んでいる。水村美苗『増補 日本語が滅びるとき』、納富信留『プラトンとの哲学』、バトラー後藤裕子『英語学習は早いほど良いのか』など、なかなか読み終えることができない。

 NHK「ラジオ英会話」を16回、「入門ビジネス英語」を7回、「実践ビジネス英語」を9回、「攻略!英語リスニング」を8回、「ワンポイントニュースで英会話」を16回分聞いている。またNHKラジオ「まいにちフランス語」を14回、「まいにちイタリア語」を15回、「アラビア語講座」を4回分聞いている。
 またカルチャーラジオ「プロテスト・ソングとその時代」、「ボブ・ディランの世界を読む」、「私たちはどこから来たのか 人類700万年史』をそれぞれ4回ずつ聴いた。

 『野火』、『集金旅行』、『長屋紳士録』、『或る夜の殿様』、『アパッチ砦』、『マルクス捕物帖』の6本の映画を見て、1月からの通算は26本となった。今年になって初めてラピュタ阿佐ヶ谷に出かけ、足を運んだ映画館は9館となった。このところ、どうもある程度評価の定まった映画ばかり見ているので、少し冒険をするように心がけたいものである。

 サッカーの試合を2試合観戦。J2のリーグ戦1試合、天皇杯の1回戦1試合。相手が格下とはいえ、横浜FCが天皇杯の初戦で勝利して、少し安心しているところである。

 ノート3冊、ボールペン1本、ボールペンの替え芯2本、修正液1本を使い切った。

 アルコールを口にしない日が4日あった。

 暑さで、数字が伸びないうえに、少し集計が雑になっているが、主な数字を集めると160~170になり、12倍するとだいたい2000に近いところに届くので、なんとか頑張っていこうと思っている。 
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益川敏英『科学者は戦争で何をしたか』

8月30日(日)小雨が降りつづく

 益川敏英『科学者は戦争で何をしたか』(集英社新書)を読み終える。

 理論物理学者・素粒子論の研究家で、2008年度のノーベル物理学賞受賞者である著者は、その師である坂田昌一の「科学者は科学者として学問を愛するより以前に、まず人間として人類を愛さなければならない」(19ページ)という言葉を胸に刻んできたという。ここで著者が論じていることは科学が戦争に利用されないためにはどうすればよいかということである。

 第1章 「諸刃の科学――「ノーベル賞技術」は世界を破滅させるか?」では科学には「いいも悪いもない。ただ新しい物質や事象が発見されたり、それを応用する技術が進化していくだけのことです。ただし、それを人間がどう使うか、社会に対する役割を考えたときに、裏と表の顔が生じてくる」(25ページ)と主張される。ノーベルは自分の開発したダイナマイトが平和目的だけでなく戦争目的にも利用されていることに悩み、それがノーベル賞の創設の背景となった。科学は人類に役立つかもしれないし、悪用されて人類を危険にさらすことになるかもしれない。科学者にはその両方の面を社会に知らせていく義務がある。世の中のことは考えずに研究に没頭するというのではなく、社会に生きる人間として思考を停止させるべきではないのである。
 そして著者は放射能の発見でノーベル物理学賞を受賞したピエール・キュリーがその悪用について警告した例、アンモニアの合成法を発見したことでノーベル化学賞を受賞したフリッツ・ハーバーが戦場で使われる塩素ガスの開発者でもあったという例(彼は第一次世界大戦におけるドイツの勝利のために毒ガスの開発に取り組んだのだが、ユダヤ人であったためにその後英国に亡命するという皮肉な運命を辿る)を紹介する。このように、科学の悪用の実例を挙げた後に、最近のノーベル物理学賞が「実用的な物理学を評価する傾向がある」(33ページ)と指摘している。これは科学が人間の社会の中での影響力を持ってきたということであるが、その分軍事目的に使われる可能性も高くなってきたということであるという。そして無線技術や核兵器の事例を挙げて、ノーベル賞技術が軍事目的に使用されてきたと述べている。

 第2章「戦時中、科学者は何をしたか?」ではマンハッタン計画に集約されるアメリカの原子爆弾製造を目指す強力な科学者動員や、日本における戦時中の科学者動員の事例が触れられているが、著者が直接かかわった事柄ではないので、当事者の1人であったファインマンの回想や、当事者たちからの聞きとりが主な情報源になっている保阪正康『日本原爆開発秘録』に比べると、証言としての重さに欠けるように思われる。この章ではむしろ、第2次世界大戦後における科学者たちの平和と核廃絶の訴え:「ラッセル・アインシュタイン宣言」やパグウォッシュ会議の活動の方に重点が置かれ、それが政治家たちによって無視されてきたことへの怒りが表明されている。

 第3章「『選択と集中』に翻弄される現代の科学」では、学問研究が巨大化の一途をたどり、人手も金も多くかかるようになってきたことで、科学者でさえ、自分の従事している研究の全貌が見えない、研究に参加している研究者同士が顔を知らなかったりするという事態が生まれてきたことがもたらす問題点が論じられている。選択と集中というのは有望な研究に集中的に予算を割り当てるという研究への市場原理の導入であるが、科学の分野でどの研究が成功して、大きな利益を生むかはそもそも予測困難であり、このようなやり方は科学本来の姿から遠ざかるものではないかと著者は危惧している。
 STAP細胞問題の根底には科学研究には巨額の金が必要とされるという現在の研究システムそのものの問題がある。『科学研究が市場原理に巻き込まれ、利益追求の『成果』だけに人々の関心が集中する現代社会――そうした現状のシステムにこそ根深い問題がある」(84ページ)という。さらに研究の成果の公開はオープンにすべきだという主張が添えられているが、これはこれで1冊の書物のテーマとなりうる問題であろう。

 第4章「軍事研究の現在――日本でも進む軍学協同」は戦後日本学術会議が発足した際に「軍事目的のために科学研究を行わない」ことが表明された(必ずしも参加者の一致した意見の結果ではなかった)が、科学が巨大化し、個々の研究の全貌が見えにくくなっていく過程の中で、多額の資金をばらまく軍事研究に取り込まれていく研究機関や研究者が少なくないことが指摘されている。科学の軍事利用を考えるときに、問題になるのは「民生にも軍事にも使用可能な『デュアルユース』という問題」(98ページ)である。日本のビル街でテレビの電波がビルに反射し、画像がぶれるというゴースト現象が発生、ある塗装会社に勤める科学者がビルの壁面に塗ると電波を吸収してゴースト現象が起きにくくなるという塗料開発した。ところが、その10年後、その塗料が米軍のステルス戦闘機に使われたことが判明した。「もはやデュアルユースの問題は、私たちの生活と密接につながっていて、単純には切り離せない、非常に複雑な様相を呈してきている」(100-101ページ)のである。このような状況だからこそ、ますます科学者の想像力、人間としての生き方が問われるのだと著者は結んでいる(10ページほど、内容の紹介を飛ばしているが、飛ばした部分にかなりの読み応えがあるので、そこをしっかり読んでください)。

 第5章「暴走する政治と『歯止め』の消滅」では、安倍首相が強引に進めようとしている政治体制の変革、それに反対する勢力の弱体化をめぐる危機感が表明されている。それでも「物理の研究と平和運動は2つとも同じ価値がある」という信念をもっていた坂田昌一の信念を継承して、「日本を戦争のできる国にしては絶対にいけません」(146ページ)と著者は言い切る。
 第6章「『原子力』はあらゆる問題の縮図」では原発事故が原子力発電の技術が未熟であることと、それを隠蔽して発電所の設置と発電を進めた電力会社の営利主義にあることを述べ、原子力発電の未来について独自の提言をしている。
 第7章「地球上から戦争をなくすには」では、物事を数百年という長期的なスパンで考えることの重要性、不満を力で押さえ込むのではなくどこかで埋めていくような取り組みを進めるべきであること、戦争をなくすために発言しつづけるべきであることが説かれている。

 著者は自然科学者が社会の問題に関心を持つことの重要性を繰り返し語っているが、人文学、社会科学の研究者も社会の問題に関心を持ち、科学技術の発展にも目を向けることが重要ではないかと思った。このように社会問題への関心を植え付けられた背景として、名古屋大学理学部で坂田昌一のもとで素粒子論を研究したことを語っているが、私の学生時代の同期生に坂田の子息がいたこと、大学に務めるようになってからの同僚に坂田の研究室の出身者がいたことなど、坂田とはちょっとした結びつきがあることも手伝って興味深く読んだ。「議論は自由に、研究室では平等だ」(106ページ)というのが言葉だけでなく、研究室内にそのまま実践されていたというくだりなどは、いろいろ考えさせられるものがあった。
 私は著者よりも5歳年下であるが、基本的に同じようなものの見方・考え方をしていると思う点が多かった。それは世代的なものもあるし、その時代の大学の雰囲気の影響もあるのだろう。著者同様に私も在職中はずっと組合員であったが、二足の草鞋をしっかりと履いたという自覚はなく、その点では著者に引け目を感じてしまう。平和の願いや、研究の自由を大事にするということに加えて、できるだけ広い目で物事を見るということの重要性がこの書物の中で説かれているように思われる。

 8月30日に、作業中に眠り込んでしまい、また投稿が1日遅れた。不測の事態に備えて、できるだけ、原稿を書き溜めておくようにしているのだが、なかなかうまくいかない。涼しくなって、暑い時期の疲れが出てきたのか、あるいは別の理由があるのかはわからないが、まだまだこういうことはありそうなので、ご寛恕の程をお願いしておく。

火星とパーシヴァル・ローウェル

8月29日(土)曇り、一時小雨

 NHKラジオ「攻略! 英語リスニング」は、この番組で月に1回取り上げているDr Hooper's Science Made Easyの一環として”Mars"(火星)について取り上げた。

Earth's nearest neighbor in spae is the planet Mars, and it is just as interesting as the person in the aprtment next door.
(地球の一番近いお隣さんは、惑星の家政なんだけど、これがまた、アパートのお隣さんがどんな人かっていうのと同じぐらい興味深いんだよ。)

 火星には「赤い星」として知られているが、これはその土壌に大量の酸化鉄が含まれているからだという。
There is ice on the surface but no liquid water. But there has been in the past.
(地表に氷はあるけれど、液体としての水はない。でも、昔はあったんだ。)
なぜそういえるかというと、惑星探査機の撮った映像には水の流れによってできたと考えられる地形の変化が写っているからだそうである。ここで、思い出すのは、火星に興味を持ってアリゾナ州フラッグスタッフに天文台を設けて、観測・研究を続けたアメリカ人パーシヴァル・ローウェルPercival Lowell (1855-1916)のことである。

 彼はもともとニューイングランド地方の名門の生まれで、実業の世界で活躍していたのだが、ハーヴァード大学では物理学や数学を専攻し、火星に興味があったために研究生活に入ったのである。彼は観測の結果、火星の表面には「運河」のような線が見えるとして、その図面を著書に残しているが、今日の観測結果によってそれらの「運河」の存在はすべて否定されている。SF作家のアーサー・C・クラークによると「一体どうしたら、あんなのが見えたのだろう」ということである。

 もっとも、彼の建てた天文台→ローウェル天文台は立地条件がよかったので、その後惑星研究の中心地となる。またローウェルはその際晩年になって天王星と海王星の軌道運動に理論と違ったところがある所から、当時まだ発見されていない惑星Xが存在するのではないかと考えて、その軌道を計算し、探索に務めたが、発見に至らなかった。彼の死後、ローウェル天文台は研究を再開、1930年にクライド・トンボーが冥王星を発見することになったのは有名な話である。しかし、冥王星を惑星Xとするにはあまりにも小さく、その後もこの問題をめぐっては研究と論争が続いているのもご存じのとおりである。なお、冥王星(Pluto)の最初の2文字PlはPercival Lowellの頭文字でもある。2006年に冥王星が惑星から外されたことで、ローウェルの業績の評価が下がったような気がしているのは私だけのことであろうか。

 ところで、火星研究を始める前にローウェルは日本や朝鮮を訪問し、当時日本に滞在していたチェンバレン、ハーン、フェノロサらと親交を結んだ。1891(明治24)年にNoto: An unexplored Corner of Japan (能登・人に知られぬ日本の辺境)という書物を出版している。この書物は加藤秀俊『紀行を旅する』(1884)の中で紹介されているのを読んで初めて知ったが、その中ではこの書物の宮崎正明による翻訳が1979年にパブリケーション四季という金沢の書店から出版され、その後のと印刷出版に引き継がれていると付記されている。私の手元にあるのは1991年に金沢の十月社という出版社から出た版であるが、その後また版元が変わっているかもしれない。

 Notoは「ふとした思いつきで能登へ出かけることにした。私の気まぐれを友人たちはいぶかしく思ったようだが、これは一目惚れと言うやつで、私は今でも言訳はしたくない」(41ページ)と書きだされている。なかなか魅力的な書き出しで、能登を中心とする北信越の旅(加藤の前掲書では富山から穴水までの区間だけが紹介されているが、実際の紀行文は東京(上野)で汽車に乗り遅れるところから、天竜川を下って浜松に出るところまでの旅行の次第を記している。とにかく、ローウェルが火星の研究を始めたのも、一種の一目惚れであったのかもしれない。

 さて、番組の中で講師の柴原さんは火星人が地球を攻撃するというH.G.ウェルズの『宇宙戦争』が1938年にアメリカのラジオ局で放送され、番組がドキュメンタリー風の迫真的な構成と内容をもっていたために、一部の聴取者の間にパニックを引き起こしたという話題に触れていた。新しいラジオ・ドラマの可能性を追求していたオーソン・ウェルズは、舞台をアメリカに移し、臨時ニュースの形式なども取り入れて放送を行ったのである。ただしこの事件については、ラジオという新しいメディアが自分たちの影響力を脅かすのではないかと恐れていた新聞界がパニックについて過剰な取り上げ方をしたのではないかという見方もある。
 ローウェルによる観測とH.G.ウェルズによる創作とは、その後長く火星についての大衆的なイメージを作り出すことになった。現代の科学的な探査はその多くを否定してきているが、そのことによってウェルズの小説の評価がどのように変化しているのかも注目すべき問題である。一方、火星への移住計画などを構想している向きもあるようだが、それよりもまず、今、われわれが住んでいる地球をもう少し住みよくしてほしいものである。

『太平記』(60)

8月28日(金)曇り、一時雨

 カオリ丸さんのブログ「南北朝についての日記?」によると8月24日には大塔宮祭が行われたそうだ。このブログでは、ほかにも品川神社が二階堂道蘊と縁があることなど多くのことを教えられた。

 さて、元弘3年(1333年)3月に赤松円心の率いる軍勢は京都に迫り、何度も攻撃を試み、3月28日には比叡山の衆徒たちが六波羅を攻撃しようとしたが、失敗に終わった。4月3日、京の南部一帯で戦闘があり、赤松方の妻鹿孫三郎の大力が見るものを驚嘆させたが、赤松勢はまた敗退した。

 京都に迫っている赤松勢が、攻撃を試みるたびに失敗し、八幡、山崎に陣取っている人数も少なくなってきているということをお聞き及びになった後醍醐天皇は伯耆国(鳥取県)船上山に皇居を設けて滞在されていたが、そこに修法の祭壇をお立てになって、帝自ら一字金輪法という大日如来の真言を唱える除災の法を行われた。修法を始めて7日目の満願の夜に、日天子、月天子、明星天子の三光天子が光を連ねて壇上に出現したので、願いが成就することを確信されたのである。

 そこで誰かを大将に任命して、赤松と力を合わせ六波羅を攻撃させようというので、側近の六条少将忠顕朝臣を頭中将に任命され山陽、山陰両道の軍勢の大将として京都に派遣されることとした。その軍勢は蜂起を出発するまではわずかに1,000余騎ということであったが、因幡、伯耆、美作、丹後、丹波、若狭の武士たちが加わって、間もなく20万7千余騎となった。

 元弘の乱の際に、幕府によってとらえられ、但馬の国に流されていた聖護院宮静尊法親王を、但馬の守護である太田三郎左衛門尉が取り立て奉って、近国の軍勢を集め、丹波の篠村(京都府亀岡篠町)で忠顕の率いる軍勢と合流した。大将である頭中将は大いに喜んで、錦の御旗を立て、この宮を上将軍と仰ぎ奉り、さらに近隣の武士たちに軍勢の催促の令旨を発行した。
 頭中将というのは蔵人所の頭と近衛中将を兼ねた人物の通称で、後醍醐天皇のもとに蔵人所のようなものが組織されていたかどうかは疑問だが、本来武官である近衛中将は、名門貴族の子弟が上位に昇進していくための通り道の1つとなっていた。そういう例を考えると、後醍醐天皇がなぜ忠顕を頭中将に任じて六波羅攻撃の大任を託したのか疑問に思われる。

 4月2日、静尊法親王を戴く軍勢は篠村を出発、西山の峯堂(みねのどう=京都市西京区御陵峰ケ堂町にあった法花山寺に陣営を構えられた。これに従う軍勢は20万余騎、峯堂の近くにあった谷堂(たにのどう、西京区松室地家山にあった最福寺)、峯堂、葉室(西京区山田葉室町)、衣笠(北区と右京区の間の衣笠山)、万石大路(西京区松尾万石町)、松尾(西京区松尾)、桂に宿をとったが、人数が多すぎて、半分ほどの者は野宿しなければならなかった。この時点で殿法印良忠は京の南の八幡に、赤松円心は西南の山崎に陣を張っており、忠顕の陣営との距離はそれほどなかったのに、連絡を取り合おうとはしなかった。忠顕は自分の率いる軍勢が大きいことを頼りとしたのであろうか、あるいは手柄を自分一人のものとしようと思ったのであろうか、ひそかに日を決めて、4月8日の早朝に攻撃を開始した。よりにもよって、仏生会の行われる日に合戦を始めるというのは「天魔波旬の道」(421ページ)を歩むものだと、『太平記』の作者は忠顕を非難している。

 源氏は白旗、平氏は赤旗を掲げて戦う習いであるが、この戦いについてみると、攻めるほうも守る方も源平が入り乱れているので、同士討ちの恐れがあり、それを避けるために白い絹を切って、風という文字を書いて鎧の袖につけて目印とした。これは孔子の言葉に「君子の徳は風なり」(同上)とあるのによったものである。草は風になびく。諸国の武士たちは、宮方の風になびいて、さらに見方が増える――ということになるだろうか。

 一方、六波羅側は西から大軍が攻め寄せてきたというので、東大宮大路の三条から五条までの通りに面したところに兵を設け、またやぐらを築いて防備を固めた。櫓には弓の射手を登らせ、都のそれぞれの小路には千騎、二千騎の武士を置いて、相手の出方によって自在に軍を展開できるようにしていた。「寄せ手の大将を誰ぞ」という問いに対して、「先帝第六の若宮、副将軍千種頭中将忠顕朝臣」という答えが返ってきたので、「さては、軍(いくさ)の成敗心にくからず。源は同じ流れなりと云ふとも、『江南の橘を江北に移されては枳(からたち)と成る』習ひなり。弓馬の道を守る武家の輩(ともがら)と風月の才を事とする朝廷の臣と、闘ひを決せんに、武家勝たずと云ふ事あるべからず」(422ページ、それではいくさのやり方はたかが知れている。千種(六条)忠顕は村上源氏なので、武家の家である清和源氏と同じ源氏の流れであるとはいっても、「長江の南の橘を北方に移すと枳殻になってしまうように人は育つ環境によって性質が変わるものである」。弓馬の道を守る武家と詩歌など文才を専門とする朝廷の臣とが、戦うというのだから、武家が勝たないというわけがない)と意気盛んに700余騎が大宮大路で待ち構えた。

 次第に数的に劣勢になっている六波羅方であるが、経験豊富な武士が揃っていて、まだまだ士気は高い。これに対して宮方は特に中国地方の多数の武士を集めることができたが、指揮官と作戦の面で優位に立つことができそうにない。千種(六条)忠顕軍と赤松軍との連携が試みられていないというのも気になるところである。この戦いの帰趨はどのようなことになるか。

逢侠者

8月27日(木)晴れ

 河上肇の『第二貧乏物語』は社会問題としての貧乏の解決をマルクス主義に求める趣旨から、この思想体系について解説を試みた書物であり、思想史あるいは文学史的に見て気になる点がいくつかあって何度か読み返してきた。気になっているのがどのような個所かについては、そのうち機会を見て書くことにして、この書物の本題とはあまり関係ないが、河上の人柄を考えるうえで興味のある個所を取り上げる。それはこの書物の最後の部分(このあたりは対話体で書かれている)で、「古詩にいふ、『燕趙悲歌の士、相逢ふ劇蒙の家、寸志言盡きず、前路日将に斜めならんとす』。僕は今この詩を思ひ出す」(角川文庫版、262ページ)と結んでいることである。

 ここに引用されているのは唐の詩人銭起の「逢侠者」という詩で(なお、3行目の「寸志言盡着ず」というのはおそらく河上の記憶違いがそのままになっていて、「寸心言い尽くさず」が正しいのではないかと思う)、井伏鱒二の『厄除け詩集』の中にも取り上げられている(講談社文芸文庫版、46ページを参照のこと)。この詩について、河上は「社会についての批判を十分に語らないうちに、紙数が尽きてしまった」という気持ちから引用しているのだろうが、井伏が訳しているように遊侠の徒が「ダテナハナシ」に興じているうちに、日が暮れてしまったというのが本当のところではあるまいか。河上の解釈にはこじつけのようなところがあるが、それでも、何かの折に、こうした漢詩が口をついて出てくるのは悪いことではないと思うのである。

 井伏のように鮮やかに4行にまとめ切るということはできないが、自分なりに訳詩を試みた:
強きをくじき 弱きを助ける 男伊達
運よく出逢った 親分の家で
そんなこんなの 話が尽きず
いつかあたりは 夕紅(ゆうくれない)に

日記抄(8月20日~26日)

8月26日(水)曇り、時々雨

 8月20日から本日までの間に経験したこと、考えたことを書く前に、前回、書き落としたことをいくつか書いておきたい。

 8月18日にラピュタ阿佐ヶ谷で『集金旅行』、神保町シアターで『長屋紳士録』、『或る夜の殿様』を見た中で、小津安二郎が1947年につくった『長屋紳士録』だけ論評しないままになっていた。
 東京の下町の、どうやら戦災を免れたらしい一角にある長屋。貧しいなりに安定した暮らしを営んでいる住人達の1人が、九段で父親にはぐれたという男の子を連れてきて、一人暮らしのお種婆さん(飯田蝶子、婆さんといっても、初老というところで、昔の人は老けるのが早かったが、今だったら中年で通る年齢であろう)にその世話を押し付ける。初めは迷惑がっていたお種であるが、次第に子どもに愛着がわいてくる。ところが、本気で面倒を見ようと思い始めた矢先に、父親が現われ、子どもを引き取ってゆく…。
 長屋の人々が寄合で集まって、まだ若い笠智衆が覗きからくりの「不如帰」一下りを語って見せるなど、和やかな雰囲気が漂い、これが戦後すぐの時期につくられた映画なのかと驚くほどののんびりした雰囲気の場面があるかと思うと、戦災で親を失った子どもたちの姿を映す場面があり、安定と不安定とが共存しているところが注目される。この後、小津は戦後の庶民生活の不安定な部分を強調した『風の中の牝鶏』を作るのだが、不評で、安定した世界の中に閉じ籠ることになったといわれる。まだ市井の映画青年だった佐藤忠男さんが『風の中の牝鶏』を見て感動したという話もあり、批評と製作の関係がどのように作家の方向性に影響していくかは大いに考えるべき問題だと思った。

 8月19日にNHKラジオ「まいにちロシア語」の文化コーナーでここ20年間の間に目覚ましい発展を遂げたといわれるロシアの都市カザンの話題が取り上げられた。タタルスタン共和国の首都であり、ロシア人とタタル人が同じくらいに住んでいるほか、多くの民族の人々が暮らしている町だという。番組の中では触れられなかったが、カザン大学はトルストイとレーニンが学んだ大学であり、ゴーリキーが大学に入ろうとしてやってきたが、入学資格を満たすことができず、うろうろしながら、その間の人生経験で作家としての成長の基礎を築いた『私の大学』となった町でもある。

8月20日
 シネマヴェーラ渋谷で『アパッチ砦』(1948、ジョン・フォード監督)と『マルクス捕物帖』(1946、アーチ-・L・メイヨ監督)を見た。『アパッチ砦』はTVで、『マルクス捕物帖』はこの劇場での上映で既に1度見ており、それぞれ2度目の観賞である。『アパッチ砦』の批評は当ブログの非常用にとっておくこととして、『マルクス捕物帖』の方を取り上げてみる。
 いったん映画界から引退したマルクス兄弟であったが、チコの要望で、もう1度だけ兄弟が顔を合わせての出演となった作品。カサブランカのホテルを主な舞台として、ホテルの支配人が何人も変死を遂げる事件と、ナチスの残党がそのホテルに隠している財宝をめぐる騒動が描かれる。ナチスの残党である「伯爵」が支配人になって財宝を持ちだそうとするのだが、別の人間が支配人になってしまう。
 ホテルの周辺をうろうろしている怪しげな人物がハーポ、ホテルの前でラクダタクシーの客を探している「運転手」がチコ、新しく支配人になるのがグラウチョのマルクス3兄弟で、この3人が中心になってドタバタ喜劇を展開する。チコがピアノを弾き、ハーポがハープを弾く場面がそれぞれに設定されており、兄弟の達者な芸が楽しめる(チコがピアノで弾いた「ビア樽ポルカ」を、ハーポがその後の場面でハープで弾くのが特にうれしい)。口が利けないという設定のハーポがパントマイムでチコに情報を伝える場面などの見せ場もある。小林信彦さんがこの作品を見て、マルクス兄弟、とくにハーポが好きになったというのはよくわかる。

 NHKカルチャーラジオ「ボブ・ディランの世界を読む」は第8回で前回に引き続き、ブルースの歴史とそれがディランの作品に与えた影響について概観された。ブルースが5線譜に書き留められ、定型化が進められたことはプラスにも、マイナスにも作用してきた。これはほかの民衆芸術についても当てはまることではないかと思った。

8月21日
 NHKカルチャーラジオ「私達はどこから来たのか 人類700万年史」は第8回で、「ネアンデルタール人は白人だった」と題されていた。彼らが今日の白人の祖先にあたるというのではなくて、高緯度の土地で暮らすために白い皮膚をもつように進化していったという意味だそうである。

8月22日
 藤子不二雄Ⓐ『81歳いまだまんが道を・・・』(中公文庫)を読む。藤子Ⓐは『まんが道』やその他の著作で自分の履歴についていろいろと語ってきたので、知っている話が多いのだが、それでも初めて知った話がいくつかある。『まんが道』の中に、立山新聞(実際は富山新聞)に入社して図案部(実際は広告部だそうだ)に配属され、そこで変木さんという部長と2人で仕事をすることになるという個所があったが、その変木さんのモデルになったのが金守世士夫というのちに版画家として有名になった人物だという記述(43ページ)。漫画でも変木さんが版画で賞をとったというエピソードが出てきたので、モデルは誰だろうと思っていたのである。金守は棟方志功のただ1人の弟子といわれる人で、藤子Ⓐは社会人としての最初のところでかなり運のいい出会いをしたことになる。
 その他講談社の漫画担当の編集者であった牧野武朗の話(80ページ)などもそれに相当する人物が出てくる『まんが道』のエピソードを思い出して興味深い個所であった。漫画家や編集者だけでなく、吉行淳之介や芦田伸介との交友の話も出てきて、なかなか面白かった。後、映画関係の話題も多く、著者が柏原兵三の小説『長い道』から漫画化し、映画としての製作に携わった『少年時代』(1990、篠田正浩監督)の話も興味深い。さらに当ブログでも取り上げた映画『トキワ壮の青春』(1996、市川準監督)について、当事者としての立場から感想が語られていて(212-214ページ)、この映画に興味のある方は必読である。

8月23日
 NHKEテレ「日本の話芸」では柳家小三治師匠の「お茶くみ」が放送された。花魁がお茶で目をぬぐって嘘泣きをしているのに、だまされたふりをして大いにモテてきたという男の話を聞いて、もう1人の男が出かけてゆき逆に自分が泣いて花魁を騙そうとしたが、見破られていたという噺。こういう場所での男の客と遊女との騙し合いでは、男の客は騙されている(あるいは騙されたふりをしている)ほうがもてるという「実用的?」な教訓が読み取れる。小三治師匠は外見が真面目そうなので、郭噺には不向きである。それにずいぶん年をとったなぁという印象がある。時々、次の台詞が出てこないような場面があるのも気にかかった。

 雨が降りそうで降らない、不安定な空模様でどうしようかと思ったのだが、ニッパツ三ツ沢球技場へ横浜FC対ジェフ千葉の試合を見に行く。後半のアディショナル・タイムまで0-0が続いたのだが、最後の最後で1点を失い、またもや敗戦。選手がよく頑張ったのは認めるが、負けは負けである。

8月24日
 NHK「ラジオ英会話」は月末の特別版で”Britain unveils statue of Gandhi in central London"(英政府 議会前広場にガンジーの銅像設置)というニュースを取り上げた。そういえば2005年7月7日に起きた爆破テロ事件の舞台の1つであったタヴィストック・スクエアにもガンジーの銅像があったなぁと思いだした。この近くの大学に在外研修で滞在していたので、よく出かけたのである。
 ガンジーの思想や運動を賞賛する人は多いが、本当にそれを継承しようとする人はそれほど多くはないのではないか。行動の人であったガンジーが、言葉の人であったタゴールと激しい論争を展開したことの意味を掘り下げて考える必要がある。
 まぎれもなくガンジーの後継者の1人であったマーティン・ルーサー・キングの非暴力・不服従の公民権運動の展開について、ああいう暴力的な運動はよくないと、その当時滞米中だった犬養道子さんにその友人の1人が語ったという話が『マーティン街日記』に出てくる。その友人というのが障害を持つ黒人女性であったというのは、いろいろ考えさせられる。(ガンジーやキングの考えではデモ行進は非暴力であるが、その女性の考えではデモ行進も暴力であると考えていたのではないか。暴力と非暴力の境界線をどこで引くかが問題になる。場合によると、暴力的なデモ行進とそうでないデモ行進を分ける人もいるだろう。そういえば、私が学生のころは、デモの形態をめぐっていろいろと論争があったのを思い出す。)

8月25日
 NHKラジオ「入門ビジネス英語」にこんな意見が出てきた:
Japanese politeness does not always appeal to American customers. They look for friendliness rather than politeness.
(日本の礼儀正しさは常にアメリカ人顧客の心をとらえるわけではありません。アメリカ人は礼儀正しさよりもむしろ親しみやすさを求めるのです。)
 講師の柴田真一さんは、ある時アメリカのタクシーに乗ったら運転手さんがやたら世間話をする人で、降りるときには彼の家族構成を全部覚えていたと話していた。アメリカ人だけでなく、英語を使う文化圏の人にはこういう傾向があるようだ。ロンドンでタクシーに乗ったら、その運転手がシーク教徒だったという話は以前にも書いたのではないかと思うが、お互いにシーク教徒は初めてだ、日本人は初めてだと世間話をして、握手をして別れたものである。タクシーの運転手と握手をするというのは英語圏以外では経験したことがない。(シーク教徒ということはインド亜大陸、おそらくはパンジャブ地方の出身なのだろうが、かなり英国の習慣に溶け込んでいるわけである。)

8月26日
 NHKラジオ「実践ビジネス英語」の”Quote...Unquote"のコーナーで紹介された言葉:
A man is not old until regrets take the place of dreams.
----John Barrymore (U.S.actor, 1882-1942)
後悔が夢に取って代わるとき、人の老いが始まる。
 直訳すると後悔が夢に取って代わるまでは人間は年をとってはいないということになる。どこに強調点を置いて訳すかが問題になりそうである。 

ダンテ・アリギエリ『神曲 煉獄篇』(12‐1)

8月25日(火)曇り、夜になって一時雨

学校の先生のように心の優しいあの方がお許しになっていた間、
私は重荷を背負わされたその魂と歩調を合わせ、
軛を嵌められた一組の牛さながらに、姿勢を同じにして歩いていた。
(174ページ) 第12歌も、第10歌、第11歌に引き続いて煉獄で高慢の罪を贖っている魂を描く。ダンテは第11歌で出会った旧知の細密画家オデリージと同じ姿勢で高慢の罪を浄めていた。しかし、ウェルギリウスは、彼に「翼」と「櫂」を使って進むようにと指示する。「できうる限り、皆それぞれに船を進めねばならぬ」(同上)、ダンテには彼に与えられた使命があり、そのために先を急ぐべきなのである。こうして、彼はオデリージをあとに残し、先へと進む。

私は急ぎ、そして喜んで
我が師の歩みに続いていき、二人とも
いかにも軽々とした様子をしていた。

そしてあの方は私におっしゃった。「視線を下に向けろ。
おまえの足が踏みしめる大地を見れば、
心安らかに道を進もうとする、おまえのために役立つはずだ」。
(174-175ページ) ヨーロッパの教会には床下に死者がほうむられて、その墓の上面が床となっている場合がある。その場合、死者を思い出すような画像が足元に描かれていることが多いが、ここでは山の外側に張り出した道幅一杯に神の手になる浮彫が施され、そこには旧約聖書とギリシア神話の中から高慢を戒める説話の場面が描かれていた。

 まず目に入ったのは、「どの被造物よりも高貴に造られた」(176ページ)天使ルシフェルが、天地創造直後に神に反逆したために「まっ逆さまに空から稲妻のように堕ちていく」(同上)姿であった。さらにギリシア(ローマ)神話の中のゼウス(ユーピテル)に反逆した巨人たちがばせられる姿が目に入る。そして、
私は目の当たりにしていた、巨人ニムロドを。
大建造物の足元から、ほとんど茫然自失の態で
シナルの地で彼とともに増長した人々をじっと見ていた。
(177ページ) 巨人ニムロドはバベルの塔の建設をくわだてたが、神はこの計画をよしとせず、それまで同じ言語を話していた人々の言葉を混乱させて(相互無理解は戦争をもたらす)、言葉と事物のかい離が生じた(真実の表現が困難になった)。もっとも、旧約聖書を読み直してみると、ニムロドが「地上で最初の勇士となった」(創世記10.9)、あるいは彼の王国の主要な都市がシナル(新共同訳ではシンアル)の土地にあった(創世記10.10)、さらにアッシリアの諸都市を建設した(創世記10.11)ということは書かれており、シナルの人々がバベルの塔を立てようとしたことから、言語の混乱が起きた(創世記11)ことは書かれているが、塔の建設の指導者がニムロドであったとは書かれていない。ただ、一般にニムロドがバベルの塔を建てようとしたという理解は広がっていて、ジョン・ヒューストン監督の映画『天地創造』でも、ニムロドが塔を建てて、その上の方から点に向けて弓を射る場面が出てきた。だから聖書解釈としては問題があるのだが、相互無理解と高慢とが紛争や戦争の原因となるという認識そのものは否定できない。

 次にダンテが目にするのは、ギリシア神話の2人の子どもしか生まなかったレート-女神よりも7男7女を生んだ自分のほうが尊敬に値すると高言したためにすべてを失うことになるテーバイの王妃ニオベ、神の怒りに触れて自殺したイスラエル初代の王サウル(旧約聖書全体を通じて、自殺した人物はほとんどいないことに注目すべきである)、そしてそのサウルを見殺しにしたギルボア山はサウルの後継者ダヴィデの祈りで、雨のまったく降らない山になった。ギリシア神話の機織りの技をアテナ女神と競ってその驕慢を罰せられ、クモに変えられたアラクネ(余談だが、志賀直哉の「荒絹」という小説はこの神話の翻案である)、ソロモンの息子で王位についたのち、北の民からの租税軽減の要求を拒否し、周囲の忠告を退けて増税を断行したために王国の北の部分を失ったレハブアムの事例である。

 続いてダンテが目にするのは戦争に関係した事例である。ギリシア神話のテーバイの王位をめぐる戦いの中で女神ハルモニア―の首飾りを得るために夫を売ったエリピューレ‐、神を侮辱したために天使によって一晩でその軍勢を殲滅され、1人で敗走して帰国したものの息子たちに殺されたアッシリア王センナケリブ、スキタイの女王の息子を謀殺したものの、戦争に敗れた彼女により首を刎ねられ血で満たした革袋の中に放り込まれたペルシアの王キュロス、ユダヤに侵攻したが寡婦ユディトに首を落とされたバビュロニアの将軍ほろふぇるねすの姿が描かれ、最後にギリシア神話に登場するトロイアの首都イーリオンがその高慢のために陥落し、炎上する様が眼前に展開された。

鋭敏な才能を持つ者をも
そこに見入らせるであろうほどの形、先を引いたとは、
いかなる絵筆の、あるいは鉄筆の巨匠であったのだろうか。

死者たちは本当に死に、生者たちは生きている姿だった。
私が下を向いて歩いている間に踏んだものについて、
真実を目撃したものでさえ、私よりはっきりと見たわけではない。
(180ページ) こうして足もとに描きだされた高慢の罪が罰せられる様子を見ていくうちに、ダンテの心から高慢の念が消え去っていったようであり、彼の足取りは軽くなっていく。

 ここでダンテ(とウェルギリウス)が踏み越えていくのは、マンホールのふたなどとは比較にならないほど精妙な浮彫である。彼が旧約聖書の説話や歴史的事実とともに、ギリシア神話から多くの事例を引きだしているのが興味深いが、それはキリスト教信仰とどのように関係していくのだろうか。ダンテは彼なりの結論をもっていたようであるが、むしろダンテにおけるキリスト教的なものと異教的なもの、神学的なものと現実的なものとの対立を出発点として、さまざまな思索をめぐらすことの方が有意義なのではなかろうか。
 煉獄の道のりの中で、贖罪のために教訓となるような様々な事例が浮彫や、その他の手段によって魂たちに示されているというのが今日の視聴覚教育の先例となっているようで興味深い。このように人々の感覚に訴えることで、その魂の覚せいを促そうというのが、ヨーロッパの伝統のようである。中世以来のヨーロッパの教会は壁画や祭壇の彫像などによって人々の信仰心に訴えようとしてきたのである。現実の芸術が、抽象的な理念の世界へと人間の精神を導きうるのかというのは、解決困難な問題であり、芸術が現実的なものである限り、現実にしか働きかけられないと考えることも可能である。考えようによっては、『神曲』といいながら、この煉獄篇はきわめて現世的な性格をもっているとも受け止めることができるのである。

永井晋『源頼政と木曽義仲』

8月24日(月)曇り

 永井晋『源頼政と木曽義仲』(中公新書)を読み終える。

 治承4年(1180年)5月に起きた以仁王の挙兵から元暦2年(1185年)3月の壇ノ浦の戦いに至る全国規模の内乱は、専門家によって治承・寿永の内乱、一般には源平合戦と呼ばれている。この内乱は源氏と兵士の対立という単純な図式に収まるものではないと著者は言う。この合戦を平清盛から源頼ともへの単純な権力移行とみるのではなく、内乱の発端となる以仁王挙兵に関わった源三位頼政、その挙兵に呼応して平氏政権を都落ちさせた木曽義仲の2人を通して、当時の複雑な政治背景を読み解くのがこの書物の試みであるという。

 著者は、源平合戦の様子を描いた『平家物語』の諸本の中でも、内容が詳細な読み本系の諸本、とりわけ延慶本と長門本から多くの説話を取り上げ、京都で情報を集めている公家や寺院の資料も活用して、歴史的な事実の実相を拾いだしながら、その中で展開される興味深い人間模様を描きだしている。保元の乱、平治の乱を経て、平家の支配が確立される中で、平家とともに部門を代表する源氏の代表者としての地位を得たが、成り行きで以仁王の挙兵の軍事的な指導者となる頼政、決断力に富む有能な武人である一方で、身近な人々への依存・愛着の気持ちを断ち切れない義仲の2人の人間性とともに、その周辺にいた様々な人々の言動が分析されている。著者は歴史学者として、できるだけ事実に即して客観的に事態の推移を描こうとしているのだが、描きだされた人間模様はかなり文学的な色彩を帯びているように思われる。

 第1章「保元・平治の乱へ」と第2章「平清盛の全盛期」では、平安時代末期の宮廷における複雑な権力闘争と、その中での武士が果たした役割、平清盛がその権力を確立していく過程と、平氏に次ぐ実力を備えていた頼政がそれを補完する存在となっていった過程とが描きだされる。それが一転、第3章「以仁王の挙兵」では、もともと園城寺(三井寺)と興福寺の大衆による嗷訴によって平氏政権に圧力をかけるという意図であったものが、次第に武力による闘争に発展し、頼政が苦悩の末、指揮をとることになる。「77歳の頼政は、一軍の将として、軍勢を指揮できても、一騎当千の武者として戦場に出て戦うには老いていた」(94-5ページ)。以仁王と頼政の死によって内乱は終わるが、落ち延びることのできた武士たちや大衆はさらに抵抗を続け、また各地の源氏が進んで、あるいは状況に押し流されて、蜂起することになる。

 そのような源氏の武将の1人が木曽義仲である。第4章「木曽義仲の激闘」では内乱の前半で大きな役割を果たした義仲の戦歴が概観される。父の帯刀先生義賢が北関東における支配権をめぐって甥(義仲にとっては従兄)の悪源太義平と戦って敗れ殺された後に、木曽に落ち延びて成人した彼は、兄である仲家が頼政とともに戦死したことから、平家との戦いに立ち上がり、信濃、越後、そして北陸に勢力を拡大していく。その一方で、父と敵対した義朝の子で義平の弟である頼朝とは対立を続ける。優れた武将として多くの武士から慕われ、勇戦を続けて平氏を都から追い出した義仲であるが、政治力に欠け、また頼りになる謀臣にも恵まれなかったために京都の政界の中で孤立していく。第5章「木曽義仲と後白河院、そして源頼朝」では、義仲が孤立し、滅亡していく姿が描かれる。そして終章「残された人々」では以仁王・頼政のゆかりの人々、木曽義仲のゆかりの人々のその後の運命について簡単に触れ、最後に頼政と義仲が(おそらく意図せずしてではあるが)「大きな社会変動の幕開きを務めた先駆者となった」(198ページ)と結んでいる。

 源頼政について、これまで知らなかった多くのことを知ったが、彼が歌人であることは触れられていても、歌人としての彼の評価に深く立ち入っていないのはやむを得ないところであろうか。その点がやや物足りない。とはいうものの、私は木曽義仲が好きで、それはこの本を読んでも変わらない。よく言われることであるが、『平家物語』の作者を始めとして、合戦当時の京都の人々は木曽義仲が嫌いで、『平家物語』には彼の挙動が美化されず(平重盛あたりとは対照的である)にありのままに描きだされているが、そのことが、後世の読者にとって義仲を魅力的に思わせている。文学は作者の意図を越えて受容されてゆく場合があるという一例である。

 文学といえば、この書物の中で文学的に面白いのは、既に書いたように父を失った義仲が信濃に落ち延びるエピソード(16ページ)、平治の乱の後に頼朝と義経が辿った運命について語る「頼政と河内源氏」(41-42ページ)あたりではなかろうか。彼らについて文学作品を書こうと思っている人は是非、参考にしてほしい。このほか、何度も出てくる戦闘場面についての分析も行き届いていて、例えば『太平記』について読む時にも参考になる。

 頼政と義仲というこの書物の主役に焦点を当てての紹介となったが、以仁王と頼政だけでなく、平家の池大納言頼盛などの運命にも大きくかかわった八条院(後白河天皇→法皇の妹)や、まったくどうしようもない存在である源行家(義朝の弟、頼朝、義経の叔父)などその他の人物も活写されている。

 著者は長く金沢文庫の学芸員を務めたとのことで、私も以前よく金沢文庫に出かけたことがあり、ひょっとするとどこかですれ違っているかもしれないなどと思う。実は、この書物以前にも著書は読んでいるのだが、どうも著書と著者とが結びつかなかった。この書物を読んで、やっとその仕事ぶりを身近に感じることができた(もちろん、私の不勉強がいけないのであるが…)。

オスカー・ハマースタイン2世

8月23日(日)晴れ後曇り、一時雨が降りだすかと思ったのだが、本格的な雨は降らなかった。

 8月22日(土)、8月23日(日)とNHKラジオ「攻略!英語リスニング」では”Oscar Hammerstein Ⅱ”(オスカー・ハマースタイン2世)をトピックとして取り上げた。なお、2世に相当する部分は英語ではthe secondと読む。ハマースタイン(1895-1960)はブロードウェイ・ミュージカルの脚本家・作詞家であった。とにかくすごい業績を残した人物なので、それぞれの業績についていちいち調べて書いていると、何冊も本が書ける。だから、ここではこのラジオ番組の本文に即して、気が付いたことだけを書いておこう。

His first musical was called Always You, but his big brak-out success was Show boat.
(彼の初めてのミュージカル作品は『オールウェイズ・ユー』だが、大成功した出世作は『ショウ・ボート』だ。)
テキストの「語句解説」によると、showboatは19世紀初めから20世紀初めにかけて使われた劇場を備えた船をさすそうである。ミシシッピ川などを中心に各地を回り、そこで演芸や劇を披露していた。ハマースタインの出世作『ショウボート』は、エドナ・ファーバー(Edna Ferber, 1885-1968)が1926年に発表した小説をミュージカル化したもの(1927)である。1936年にジェームズ・ホエール監督により映画化され、アイリーン・ダンとアラン・ジョーンズが主演、映画の中でポール・ロブスンが扮するジョーの歌う”オール・マン・リヴァ―”(Ol' Man River)が特によく知られている。この映画は同年、日本でも公開され、当時大学生だった私の父が見たことがあると語っていた。白人と黒人の間に生まれたために、どちらとも結婚できない運命の美人歌手ジュリーを演じていた ヘレン・モーガン(1900-41)の演技が印象的だったそうである。この映画は1951年にジョージ・シドニー監督、キャスリン・グレイソン、ハワード・キール主演で再映画化され、その際にジュリーの役はエヴァ・ガードナーが演じている。この作品の一部は『ザッツ・エンタテインメント』に収められていて、その部分は見ている。この作品はハマースタインの脚本、作詞にジェローム・カーンが作曲しているが、ハマースタインとのコンビで有名な作曲家はリチャード・ロジャーズである。

Even you've heard of some of the musicals they did together: Oklahoma!, Carousel, The King and I, South Pacific, and, of course, The Sound of Music.
(協力して作り上げた作品は、君でも知っているものがあるはずだ:『オクラホマ!』、『回転木馬』、『王様と私』、『南太平洋』、そしてもちろん、『サウンド・オブ・ミュージック』。)
 『オクラホマ!』、『回転木馬』は見ていない。『王様と私』は19世紀のシャム(タイ)の近代化に尽力したラーマⅣ世の宮廷に、王子・王女たちの家庭教師として招かれた女性の実話をもとにブロードウェイの舞台ではガートルード・ローレンスとユル・ブリナーが主演した。その舞台を見ようと、淀川長治が渡米準備中にローレンスが死んでしまったので、取りやめたという話があって、すごいなぁと今でも思っている。ローレンスの伝記を映画化した『スタァ!』というジュリー・アンドルーズ主演の映画があって、見たいみたいと思っているのだが、未だに見ていない。ガートルード・ローレンスと彼女の恋人であった劇作家・俳優のノエル・カワードが共演した『逢びき』(Brief Encounter)はデヴィッド・リーン監督、シリア・ジョンソン、トレヴァ・ハワード主演で映画化されていて、映画史上に残る名作とされている。学生時代に深夜テレビで見て、すっかり感動した作品で、案外このあたりが私の映画へのこだわりの出発点かもしれないと思っている。英国の鉄道の駅はむかしの姿を留めているものが多くて、とくにjunction(乗換駅)という存在がまだ役割を果たしているのに接すると、映画『逢びき』を思い出してしまう。(年少の友人・知人にこの話をしても、まるで通じないのが実にさびしい。)
 『王様と私』の映画化作品はむかし大阪にあった名画座の大毎地下で見たという記憶があるが、その際に、あの主演女優はきれいな人だけど、誰かしら…などと後ろの方で話していた女性客がいて、よほど「デボラ・カー」といってやりたかったけれども、なぜか言わなかったのを覚えている。もっとも、歌は吹き替えで、マー二・ニクソンが歌っている。こちらも誰が吹き替えていたのかを忘れてしまって調べなおしたので、エラそうなことは言えない。
 『王様と私』はブロードウェイで何度も上演され、ヒロインのアンナを演じた女優もセレステ・ホルム、サリー・アン・ホウズ、アンジェラ・ランズベリー、モーリン・マクガヴァン、ヴァージニア・マッケンナ、ヘイリー・ミルズ、ステファニー・パワーズ、コンスタンス・パワーズなどなど百花繚乱の様相を示している。

 『南太平洋』の中では”魅惑の宵”(Some Enchanted Evening"という歌が言及されていたが、この歌はエリザベス・テイラーとウォーレン・ビーティーが共演した『この愛にすべてを』という作品の中でビーティーが多少音程を外して歌っているのが印象に残ってしまっている。先ほど、大毎地下という映画館について触れたが、こちらの作品は確か北野シネマで見たはずである。『南太平洋』の中の歌では、舞台に引き続き映画にも出演しているファニータ・ホールの歌う”バリ・ハイ”のほうが好きである。というよりも、他人の迷惑を顧みずに大声で歌いたい歌を2つ挙げると、”オールマン・リヴァ―”と”バリ・ハイ”というのが私の好みである。好みといえば、『南太平洋』で主演しているミッツィ・ゲイナ-の明るさも好きではある。彼女の代表作の1つである『ゴールデン・ガール』で見せているレビュー・ガールとしての魅力のほうが好きなのではあるけれども。

 さて、番組では
I think he's famous for making musicals less about the stars and the individual songs; he was more about the story. He used songs to further plot.
(私が思うに、ハマースタインはミュージカルにおけるスターや個々の曲の比重を下げたことで有名なんだ。それよりもストーリーを重視した。プロットを推し進めるために、歌を使ったんだね。)
と結論的に語られている。やや、抑えた言い方であって、ハマースタインは『ショウボート』でアメリカのミュージカルに初めて人種問題を持ち込み、社会的な差別や抑圧の問題を絶えずその物語のなかにひそませていたというのがより正確ではないだろうか。ハマースタイン自身がユダヤ系であった(エドナ・ファーバーも同様である)ことも多少は影響しているだろうし、ハリウッドではなく、より多文化的なブロードウェイの観客たちがそのような物語を欲していたということもあるのではないかと思う。

 それで『サウンド・オブ・ミュージック』についてまだ触れていないが、この作品がメイン・ストーリーとサイド・ストーリーを巧みに織り交ぜながら、どちらかというとサイド・ストーリーの方で自分の本音を語るというハマースタインのやり方をやはり踏襲していること、そしてナチスの人種差別的な政策への批判を穏やかだがきっぱりとして描き方で展開していることを指摘しておこう。それから、最後にもう1つ、もう10年くらい前にロンドンのホテルでTVを見ていたら、この映画の特集をやっていて、この作品の出演者たちはその後ずっと1年に1度集まって旧交を温めているという話を紹介していた。そういう人間の結びつきの温かさへの眼差しもまたハマースタインの持ち味ではないかと思うのである。

晩夏

8月22日(土)晴れ

晩夏

汗ばみながら
上り下りする
坂道に
わずかに残された
手つかずの 斜面の
木々にとまっている
蝉の声を聞く。

同じ斜面の
草むらでは
日が暮れると
鈴虫やマツムシが
鳴きはじめる
木の上の声と
木の下の声とが
合奏を始める。

やがてセミは鳴く声も
枯れ果てて
草むらの中に
落ちてゆく。
それからどうなるか、
その後の運命は
あまり誰も気にかけない。

セミの運命は
そしてマツムシや鈴虫の運命は
悲劇だの喜劇だのと分類できない
自然の成り行き
しかし、彼らの運命が展開されている
この斜面がなくなってしまったら
都会の中で
身近に親しんできた自然のかけらを
失うという
悲劇を体験することになるだろう。
虫たちの命の繰り返しを
見守るわれわれ人間の
人間らしいまなざしを
失うことになるだろう。

『太平記』(59)

8月21日(金)晴れたり曇ったり、一時小雨

 元弘3年(1333年)、宮方に呼応して摩耶城に立て籠もっていた赤松円心の軍勢は、六波羅方の攻勢を退けた後、兵力が十分とは言い難かったのだが、京都へと攻め寄せる。3月12日に桂川を渡り、軍勢の一部は六波羅の門前にまで押し寄せたが、結局は撃退される。その後、3月15日には六波羅勢が都を出て西岡で赤松勢と戦った。28日には比叡山の衆徒が六波羅を攻略しようとしたが敗退した。4月3日、またも赤松勢は京都に攻め寄せたが、六波羅方も十分に準備をしていたので、戦況は赤松勢にとって思わしいものではない。

 現在の岡山県北東部に相当する美作国にいた菅原氏族の武士団は四条猪熊あたりまで攻め寄せ、六波羅方の武田兵庫助、糟谷、高橋たちの1,000余騎の軍勢と長時間にわたって戦っていたが、後から続いてくる味方の軍勢がいるどころか、退却していった様子などを認めて、元より後に引く気はないということであっただろうか、あるいは敵に後ろを見せて敗走するのはみっともないと思ったのであろうか、子の一段の有力な武士であり、現在の岡山県美作市に住んでいた有元菅四郎佐弘(すけひろ)、同じく五郎佐光(すけみつ)、また三郎佐吉(すけよし)の3兄弟はそれぞれ近づく相手に組み付いて、戦いを挑む。佐弘は朝の戦いで膝にけがを負うたのが影響して、力をふるうことができず、武田七郎に組み押さえられて頸をとられる。佐光は逆に武田次郎の首をとる。佐吉は武田の郎等と刺し違えて命を落とす。
 有元3兄弟と武田兄弟の死闘の中で生き残った佐光と武田七郎は、「死に残ってもなにもすることはない。イザ、勝負をしよう」と、それぞれが手にしていた大刀を捨ててお互いに組み合って、刺し違えて死ぬ。これを見た菅家の一族である福見彦次郎佐長、殖月彦五郎重佐、原田彦三郎佐秀、鷹取八次郎種佐のそれぞれも今はこれまでと、味方同士でお互いに組み付いて刺し違えて死に、この方面での赤松勢は壊滅したのであった。

 また播磨の国、今の兵庫県姫路市飾磨区妻鹿(めが)に住んでいた武士である妻鹿孫三郎長時は9世紀(平安時代初期)の歴史的な記録である『日本三代実録』に登場し、『今昔物語』にもその逸話が語られている薩摩氏長という力士の子孫であり、「力人に越え、器量世に勝れたり」(417ページ、力は人並み以上で、度量は世に抜きんでていた)。12歳のころから相撲をとっていたが、日本60余州の中で、彼が片手で相手をしてもかなう相手はいなかった。類は友を呼ぶというが、彼の引き連れている17人は皆たいへんな力持ち揃いであった。そういうわけでこの一隊は他の軍勢の助けを借りることなくやすやすと前進、六条大宮まで進出したが、東寺、竹田の戦闘で勝利を収めて引き揚げる途中の六波羅勢に取り囲まれ、妻鹿を除く17人はすべて討ち死にした。

 妻鹿は心の中で考える:「生きて甲斐なき命なれども、君の御大事、これに限るまじ。一人なりとも生き残つて、後のご用にこそ立ため」(417-418ページ、長生きしたところで意味のある命ではないとはいうものの、後醍醐帝の命運を分かつ一大事はこの合戦に限るまい。一人だけでも生き残って、今後の御用に役立とう)。こうしてただ1騎になって、西の朱雀を目指して落ち延びていこうとすると、北条一族の印具駿河守時高の軍勢が50余騎で後を追ってきた。その中で年の程20歳ばかりの20歳ばかりの若武者が功名心にはやって妻鹿の馬に追いすがる。そして妻鹿孫三郎に組み合おうと、鎧の袖に手を伸ばしたところ、妻鹿は長い腕を伸ばして、鎧の背中につける揚巻結びの飾り紐をつかんでその若武者をぶら下げ、3町(300メートル強)の距離を走る(妻鹿の大力も相当なものだが、乗せて走っている馬も大変だろう)。この若武者は相当な身分のものであったのか、「討たすな」と50余騎が後を追い続けてくるのを、妻鹿は横目で後ろをにらんで、「敵も敵によるぞ。一騎なればとて、われに近づいてあやまちをすな。欲しくばこれ取らせん。請け取れ」(418ページ、敵といってもいろいろあるぞ。1騎だけだからといって(軽く見て)、わしに近づいてけがをするな。欲しければこれをやろう、受け取れ)といって、左手でぶら下げていた鎧武者を右手に持ち替えて、えいやと投げつけたところ、跡を追いかけてきた6騎の武者たちの上を飛んで、近くの田んぼの中に投げ込まれ、その深い田んぼの泥に吸い込まれて姿が見えなくなってしまった。これを見た50余騎の軍勢は、すぐさま全力で逃げ出したのであった。

 赤松入道はこの度の合戦で、自分が最も信頼していた一族の武士たちがあちこちで奮戦虚しく敗退し、800人ほどが討たれたというのを知って、すっかり気力をなくし、力を落として、八幡、山崎に軍を退却させた。

 有元一族と妻鹿を比べてみると、有元が死を選んでいるのに対し、妻鹿は生き延びて再起を期すという道を選ぶ。『太平記』の作者は妻鹿の剛勇ぶりを描くことで、彼の生き方を承認しているように思われる。彼の剛力は超人的に誇張されているが、実際はどのようなものであったのだろうか。赤松入道には都を包囲してじりじりと六波羅の勢いを弱まらせるという戦術を選ぶこともできたはずで、このあたりは大塔宮の思惑も絡んでいて、どこまでが彼の判断であったのかは判断しがたい。しかし、有力な援軍なしに六波羅を陥落させることは不可能なのは明らかになってきたはずである。

集金旅行

8月20日(木)曇り、時々雨

 シネマヴェーラ渋谷で『アパッチ砦』(1948、米、ジョン・フォード監督)と『マルクス捕物帖』(1946、米、アーチ-・L・メイヨ監督)を見る。18日に『集金旅行』、『長屋紳士録』、『或る夜の殿様』と3本の日本映画を見たことは既に書いたが、8月前半の怠けぶりがうそのような頑張りようである(もっとも新しい作品を見ていないのは、やはり一種の怠惰の表れであろう)。

 『集金旅行』(1957)は井伏鱒二(1898-1993)の同名小説(1937)の映画化。井伏鱒二は私の好きな作家の1人であり、今年になってから彼の作品の映画化されたものを2本:『駅前旅館』(豊田四郎)、『本日休診』(渋谷実)と2本みているのもその表れである。とはいっても、この『集金旅行」は読んだことがあるが、何度も読み返したということはなく、詳しいことは忘れてしまっている。ただ、映画化にあたって、時代を昭和戦前から戦後(映画の製作された昭和32年頃)に移しているほか、男女が中国四国地方を『集金旅行』をして歩くが、どうもうまくいかないという大枠は残しながら、かなりの脚色を加えているようである。

 東京のアパート望岳荘では持ち主の仙造の妻の浜子が住人の1人と駆け落ちして、それにショックを受けた仙造がやけ酒を煽るうちに急死してしまう。仙造は生前、高利貸の香蘭堂から多額の借金をしており、アパートはその抵当に入っている。住人達が鳩首協議した結果、仙造の手元には彼が貸した金の借用証書がかなり残っており、また家賃を貯めたまま逃げ出した元住人もいるので、それを集金して、香蘭堂の借金の返済と残された仙造の子どもの勇太の養育費に宛てようということになる。潰れかけている出版社の社員である旗(佐田啓二)がその仕事を押し付けられるが、汽車に乗り込んだところ、同じアパートにいる謎の女小松千代(岡田茉利子)が勇太を連れて乗り込んでいる。彼女はあちこちに昔の男がいて、そこから慰謝料を取り立てるために、旗と同じ方面を旅行して回るのだという。

 2人は岩国、山口、萩、松江と旅してまわる。千代はなかなかの芝居上手で旗よりも多くの金を集めているが、萩で医者の箕屋(トニー谷)と見合いをすることになり、この男が千代の美貌にすっかりのぼせて、松江まで付きまとい、それやこれやで出費も少なくない。四国に渡って、駆け落ちした浜子に出会い、千代の必死の説得で勇太を引き取らせるが、それまで集めていた金のほとんどを渡すことになる。そして・・・

 物語の進行に連れて、訪問先の各地の名所や民謡、踊りなどが披露される展開であるが、松江でトニー谷が泥鰌掬いを、徳島で岡田茉利子とアチャコが阿波踊りを踊るというように、土地の人の芸も映像に収められているとはいうものの、主要な出演者の芸の披露の方に重点が置かれているというのが面白い。さらにトニー谷が岡田茉利子に向かって「焼酎のポスターのようだ」というセリフなど(当時、岡田茉利子は焼酎のポスターのモデルをしていた)楽屋落ちがいくつかあって、ラピュタ阿佐ヶ谷の年配の客層がにやにやとうなずく場面が少なくなかった。実は、本日見た『マルクス捕物帖』で痛感したことであるが、出演者が見ごたえのある芸を披露するというのは、映画にとって大事な見せ場になるということである。この作品の物語の進行にとってトニー谷はただただ邪魔な存在であるが、にもかかわらず、その芸によって映画を見る楽しみを増す存在にもなっている。そのあたりが映画とは何かということについて、あらためて考えさせる。

 それまでは東宝にいた岡田茉利子が松竹に移っての専属第1作ということは、クレジットにも明記されている(五社協定が厳しく守られていた時代なので、そういう細かいところに注意する必要がある)。旗と小松さんとがお互いに惹かれあっているような、そうでないような、親和と反目を続けながら旅行するという展開は、どこかとぼけた筆致で時に残酷な人生の真実を描きだす井伏らしいものではある。かなり怪しげな過去をもつ小松さんを岡田茉利子が演じることが適切かどうかは議論が分かれるかもしれないが、同じく井伏の原作を川島雄三が映画化した『貸間あり』で乙羽信子が演じた女性と比較してみると、ほんわかととぼけた感じが漂う岡田のほうが、人生の真実が滲み出す乙羽よりも適役だったのではないかという気がする。
 とにかく、移籍第1作だということで岡田が張り切っていることが分かる一方で、佐田啓二になんとなく疲れた感じがみられるのはどういうことであろうか。この作品で2人が結ばれなかった(原作がそうなんだから、仕方ないだろう)のは残念だという声がかなり多かったらしく、翌年松竹はこの2人に高橋貞二、桑野みゆきのコンビを絡ませて、『モダン道中 その恋待ったなし』という映画を製作、今度は東北・北海道を旅行させる。この映画については昨年、取り上げたが、当時助監督だった山田洋次のオリジナル脚本で、井伏の『集金旅行』がさりげなく作品中に描きだしている社会の哀歓のようなものが十分に取り込まれていない分、前作よりも見劣りがするようである。また、すでに述べたように、出演者の芸を披露させる場面がないのが、映画の興をそぐことになっているようにも思われる。

 昭和戦前に書かれた原作の時代を、戦後に置き換えたにもかかわらず、その時代そのものが今では歴史的な過去になっている。映画製作当時の景観や交通手段の様子を記録した映像が多いのも、それらが大きく変化してしまった現代の目から見て価値をもっているように思われる。

日記抄(8月13日~19日)

8月19日(水)曇り

 このブログを始めて以来、読者の皆さんからいただいた拍手の数が9,000を越えたことにお礼を申し上げます。

 さて、8月13日から本日にかけてどんなことに出会い、どんなことを考えたかを書く前に、前週に書き忘れたことをいくつか書いておきたい。

 8月6日・13日放送の「ラジオ英会話」に
I got laid off from my job. (私は仕事をレイオフされました。)
という表現が出てくる。lay off (一時解雇する)は通常”一時”でないことが多く、解雇をズバリと表す語(fire, dismissなど)を避けた言い方であるという。この表現について講師の遠山顕さんがそのものずばりを避けて婉曲表現として用いられた語が、結局はズバリ表現になってしまうというのが言語の宿命のように思えるといっていたのが、印象に残る。

 8月6日・13日放送の「実践ビジネス英語」の”Quote...Unquote"のコーナーで紹介された言葉。
Poor is the pupil who does not surpass his master.
----Leonardo Da Vinci (Italian polymath, 1452-1519)

「哀れなのは、師を超えることのない弟子だ。」
 レオナルドは自分の師であるヴェロッキオを越えたが、レオナルドの弟子たちは一人として、その師を越えるものがいなかった――ということをどう考えるべきか。

8月13日
 8月10日~14日の「ワンポイント・ニュースで英会話」はNHKワールドのニュースではなく、米ABCテレビのニュースを取り上げている。本日、取り上げたのは6月21日放送のジョージ・ブッシュ前大統領の弟であるジェブ・ブッシュ氏が共和党の大統領候補に名乗りを上げているというニュースである。
 このニュースとは関係がないのだが、アメリカで2人の大統領を出した家系は
Adams (第2代と第6代)、Bush (第41代と第43代)、Harrison(第9代と第23代)、Roosevelt(第26代と第32代)
の4つであるが、大統領3人という家系はまだ出ていない。AdamsとBushは父子、Harrisonは祖父と孫、Rooseveltは遠縁という関係である。

8月14日
 このところずっと映画を見ていないので、シネマジャックに『野火』を見に出かけた。この映画館へのアクセスであるが、京浜急行の黄金町から行くのが一番近いけれども、その次に近いのが横浜市営地下鉄の阪東橋からで、私は市営地下鉄に無料で乗れるので、今回は往復とも阪東橋を利用した。映画館で上映スケジュールを見ていて、『野火』は21日まで上映されるので、この日で上映が終わる『チャップリンからの贈り物』を見た方がよかったかなと思ったりした。上映スケジュールや作品の内容については事前にいろいろと調べておいた方がいいと改めて思った。

8月15日
 NHKラジオ『アラビア語講座』の「おしゃべりマクハー」のコーナーではアラビア語の「辞書」について取り上げた。アラビア語の辞書にはアルファベット順で引くものと、単語の語根から引くものとの2種類があるそうである。引き方ではないが、日本の漢和辞典では一般に音訓によるものと、字画数によるものと2種類の索引が設けられていることを連想した。辞書とのつきあい方は言語によってけっこう多様なようである。

8月16日
 S-masaさんのブログ「越後悠々散歩」に新潟県上越市川原町の「平和公園」についての記事が出ていた。30年以上昔に上越市に住んでいたのだが、太平洋戦争中の捕虜収容所の跡地につくられたこの公園については知らなかった。(その後、S-masaさんとのコメントのやり取りでわかったことだが、公園が作られたのは私が上越市から引っ越した後のことのようである。)
 上越市に住んでいる時に、自動車の運転免許をとったのだが、その運転免許も更新しないことにしたので、いよいよ想い出が痩せ細ってきた感じである。

8月17日
 NHKラジオ「まいにちイタリア語」に出てきた表現:
Vi presento i miei colleghi di ufficio.
(皆さんに、ぼくの会社の同僚を紹介します。)
"i miei colleghi"の"i"は定冠詞、"miei"は所有形容詞で、定冠詞と所有形容詞を重ねて使うというのはほかの言語にはあまり見られない使い方である。

8月18日
 ラピュタ阿佐ヶ谷で10:30から上映される『集金旅行』を見ようと出かけたのはいいが、阿佐ヶ谷に到着したのが10:20頃で、ここしばらくラピュタに出かけていなかったために所在地を探し当てるのに苦労して、ぎりぎりになってようやく入場した。

 その後、神保町シアターに出かけたのだが、『東京五人男』の入場券は売り切れましたという掲示が出ていた。もともとこの映画を見るつもりはなかったのだが、監督が喜劇映画の名手として知られる齊藤寅次郎で、古川緑波、横山エンタツ、花菱アチャコ、石田市松、柳家權太樓という5人が戦災からの復興に立ち上がるというドタバタ喜劇だそうで、円谷英二が特撮で参加しているというのを知って見逃したのを残念に思った。石田市松はノンキ節で知られ、衆議院議員であり、いわばタレント議員の草分けであった。落語家の柳家權太樓は、当代から数えて先代にあたるはずである。他に、千葉泰樹監督の『へうたんから出た駒』などでも、物語はともかく、伝説的な漫才師であるミス・ワカナと玉松一郎が芸を披露する場面があるというから、その場面だけでも見たいと思ったりした。

8月19日
 NHKラジオ「実践ビジネス英語」に
... we're making an all-out effort to attract top-notch talent.
(最高の人材を惹きつけるために全力を尽くしているところです。)
という表現が出てきた。ヘザーさんが言っていたが、talentという語には、日本でいうような「タレント」という意味はなくて、「人材」という意味で使うだけだそうである。この「日記抄」の昨日の項で「タレント議員」という言葉を使ったが、「芸能人出身議員」というほうがよいということだろうか。
 

或る夜の殿様

8月18日(火)曇り

 午前中、ラピュタ阿佐ヶ谷で『集金旅行』(1959、松竹、中村登監督)、その後、中央・総武線を乗り継いで水道橋で下りて、神保町のランチョンで日替わりランチを食べ、その後神保町シアターで「戦後70年特別企画 1945-1946年の映画』の特集上映から『長屋紳士録』(1947、松竹、小津安二郎監督)、『或る夜の殿様』(1946、東宝、衣笠貞之助監督)を見る。それぞれ面白かったのだが、一番感心したのは、衣笠貞之助(1896-1982)の戦後第1作である『或る夜の殿様』であり、まずこの作品を取り上げて論じてみたい。

 明治19年(1886年)の夏、箱根山中につくられた豪華建築のホテル箱根山泉楼では、宇都宮と水戸の間に敷設する予定の鉄道の計画をめぐり、このホテルに滞在する江本逓信大臣(大河内伝次郎)の承認を得ようと、菅沼(菅井一郎)、波川(清川荘司)らのグループと、この計画をどこかで聞きつけた越後屋喜助(進藤英太郎)の2つのグループが暗闘を続けていた。越後屋のやり方が強引であるのと、その妻のお熊(飯田蝶子)の成り上がりぶりが気にくわないと、お熊の旧知の北原虎吉(志村喬)が菅沼らのために一計を案じる。
 江本によるとこの計画には水戸の旧藩主の承認がいるが、彼を説得できるのは1人だけだろうという。それは15代将軍の弟で他家に養子に出たが、戊辰戦争の際には幕府を支持、その後謹慎を命じられ、その命令が解けて以来行方をくらましている平喜一郎である。そう言いおいて江本は所用で東京に戻ってしまったのだが、ホテルに滞在する人々が誰もその顔を知らない若者を、喜一郎に仕立て上げて一杯食わせてやろうというのである。
 ホテルの女中で客たち、とくに菅沼たちに信頼の篤いおみつ(山田五十鈴)は、ちょうどその役にぴったりの若者がいるという。このホテルに腹を減らしてたどりついた書生(長谷川一夫)を、喜一郎に仕立て上げようというのである。若い、出世しそうな書生の面倒を見るのが夢だというおみつが、ここでちょっといたずら心を起こしたのが思わぬ波乱を呼び起こす。

 書生を喜一郎だといい触らす作戦は図に当たり、越後屋が食いついて来ただけでなく、お熊もまた虎吉に頭を下げてくるようになる。ここまではよかったのだが、越後屋は喜一郎をかこいこんだだけでなく、娘の妙子(高峰秀子)を喜一郎に近づける。二人とも、相手の性格や教養がすっかり気に入った様子で、相手のことを真剣に思い始めているようである。となると、おみつもまた気が気ではない。戦後すぐに製作された映画で、オールスターの共演だとはいえ、山田五十鈴と高峰秀子の両手に花は贅沢の極みである。もっとも、この2人が大女優という評価を得るようになるのはもっと後のことで、この当時は単なる人気女優であったようである。それでも日本風の顔立ちと表情の山田五十鈴に対し、より近代的な容貌の高峰秀子、大正生まれのこの2人の女優が、この映画の制作時はまだともに20代で、それぞれの美貌と演技力を競っているのはそれだけで楽しい見ものである。

 物語そのものはまったくの創作であろうが(脚本は小国英雄、さらに映画の最初と最後の部分に一種の「枠」が設定されていることも注目する必要がある)、その時代が1886年に設定されているというのが一つの工夫である。内閣制度はできているが、その一方で憲法はまだ制定されず、国会もまだ成立していない。国会ができると、自分たちの利権争いについて追及する奴らが出てくるというので、今のうちに仕事を進めようというのが2つのグループが共通に抱いている思惑である。それで物語は、得体のしれない若者を大名の若様に仕立てるという、たくらみがいつバレルかわからないような怪しげな綱渡りの展開となり、そこに笑いが生まれる。が、祭り上げられている若者には、彼らが理解できない新しい人間性が備わっているようにも思われる。
 さらに越後屋の夫婦は自分の娘の妙子を何とか華族に嫁がせようとしているが、当の妙子はそんなことは大したことではないと考えている。またこの夫婦は、東京の商人山崎(清水将夫)とその妻の里野(吉川満子)がその娘綾子(三谷幸子)と華族との縁談を進めようとするのに敵愾心を燃やしているのだが、妙子と綾子はお互いに仲良くしようとしている様子であり、お互いの長所は認めあっている。
 つまりこの映画では年長の世代に比べて、若い世代のほうが新しい文明の影響を受けて開化され、啓蒙されてより高次の人間性を身につけているという描き方がされているようである。新しい世代のほうがより大きな可能性を持っている、それは啓蒙の結果であるという考えはきわめて啓蒙主義的に思われる。
 もちろん、われわれはそのような啓蒙主義を客観的に批判することはできる。しかし、衣笠という一方で前衛的・実験的な作品を世に問い、他方で商業的に成功した娯楽作品を何作も作りえた、さらにその集大成として、『地獄門』でカンヌ映画祭のパルム・ドールを得た作家の戦後における出発点がこのような啓蒙主義であったことは注目に値するように思われる。

 衣笠はまた新派の女形としての前歴から江戸・明治の社会と文化について深い理解を持ち、その雰囲気を再現することに長けた作家でもあった。この作品では明治中期の古いものと新しいもののせめぎあいの様相を描いているが、とくに面白いのはホテルが雇っている音楽隊が盛んに「ジョージア行進曲」を演奏していることである。これはアメリカの南北戦争の際の歌だそうであるが、日本では大正時代に「東京節」とか「パイのパイのパイ」という題名の替え歌で親しまれた曲であり、この歌が何度も演奏されているところに、監督である衣笠の遊び心が現われているとみることもできよう。そして監督の遊び心を登場人物の誰がいちばん体現しているかを見ていけば、この作品の結末と、作者の意図とが読み取れるはずなのである。

 音楽といえば、この作品の枠の部分に滝廉太郎の『箱根八里』が使われているが、この歌が小学唱歌として発表されたのは明治33年(1900年)のことであるが、物語の中ではなくて、枠の部分で使われているので、よしとしておこう。

ダンテ・アリギエリ『神曲 煉獄篇』(11‐2)

8月17日(月)雨が降ったりやんだり

 ウェルギリウスに導かれながら煉獄山を登るダンテはこの山の急な斜面の最初に現れた台地(山を取り巻く第一環道)に達する。ここでは魂たちが高慢の罪を贖っている。ここでダンテは旧知の細密画家オデリージ・ダ・グッビオ(?-1299)に出会う。彼は生前、自分の浮ついた名声に胡坐をかいて、より優れた才能が後から現れていることに気付かなかったために、ここで高慢の代価を支払っているという。彼の名声はフランコ・ボロニェーゼのそれに取って代わられたが、それもいつまで続くかはわからない。そして細密画以外の領域においても同じようなことが起きている。

チマブーエは確信した、絵画界で
天下をとったと。しかし今やジョットが覇を唱え、
ために彼の名声はかすんだ。
(168-169ページ) チマブーエは本名チェンニ・デ・ペーポ(1240-1303)。この時点ではまだ生きていたから、そのうわさが語られているだけである。チマブーエはフィレンツェ出身の画家で、ビザンティン様式の影響を受けながら、それまでの非現実的な絵画を克服して、現実の観察をもとに生き生きとした描写を最初に行ったといわれる。
 ジョットと呼ばれるジョット・ディ・ポンドーネ(1266-1337)は、自身優れた画家であり、ルネサンス時代の多くのイタリアの画家たちの列伝を著したヴァザーリによれば、少年時代に父親の家畜を見張っている際に、地面に描いた落書きがあまりにも精妙だったために、それを見かけたチマブーエが自分の弟子にしたという。絵画に奥行きを導入して遠近法の表現に道を開き、人物のモデルに市井の人々を用いて絵画の色彩を一変させた。つまり後にルネサンス芸術と呼ばれる運動の先駆者となった。ヴァザーリは彼がダンテの親友であり、その肖像画を描いたとも記しているが、それは原さんの翻訳の注記には出てこない。ダンテが「中世最後の人」と呼ばれるのに対し、ジョットは「中世最後の、そして近代最初の画家」と呼ばれると子ども向けの西洋史の本で読んだ記憶がある。

 オデリージはさらに言葉を続けて、
同様に一人のグイドが別のグイドから
言の葉の栄光を奪った。だがおそらくは生まれているのだ、
二人ともをその巣から追い出すことになる者は。

この世のざわめきなど風の
ひと吹きにほかならず、今はこちらからそよぎ、今はあちらからそよぎ、
向きが変わるにつれ名を変えていく。

君が、年老いてから肉体を脱ぎ捨てたとしても、
『おまんま』や『お金』といった幼児語を離れる前に死ぬのと比べて、
どれほどの名声を保っているだろうか。

千年後には、その千年ですら、
永遠を前にすれば、天空の中でも最遅の速度で動く円周に
比された瞬(まばた)きより短い間だというのに。
(169-170ページ)と歌う。最初に登場するグイドはグイド・グイニツェッリ(1235頃‐76)、ダンテが属していた詩派である清新体派の創始者、「別のグイド」と呼ばれるのは清新体派の当時の第一人者であったグイド・カヴァルカンティ(1255-1300)のことである。「言の葉の栄光」というのはラテン語に対し、生れつきの言語とされた「俗語」における詩作の栄誉である。この2人に取って代わるものと予言されているのは、ダンテ自身のことだとする説が有力。ここでそのように歌っても、それは高慢の罪を犯したことにならない――かどうかについては、原さんの翻訳の解説を詳しく読んでほしい。
 ここでは同時代の文学に対するダンテの評価とともに、彼の言語感覚の鋭さにも注目しておく必要があるだろう。幼児語について触れている点が特に興味深い。また講談社学術文庫版の巻末に収められている原さんのカヴァルカンティ、ダンテ、ペトラルカについての論考も読んでほしい。清新体派と呼ばれる人々の作品は恋愛を哲学的に論じたものが多く、原さんはカヴァルカンティとダンテの哲学的な違いについて強調しているが、それ以上にダンテがその詩の主題を恋愛からより広い世界に広げ、単に哲学的であるだけでなく、リアリスティックな現実描写によって自分の思索を補強していることに注目すべきであろう。(ダンテが自分の詩の社会的・倫理的な性格について想定していたことは、原さんも指摘している。)
 「天空の中でも最遅の速度で動く円周」というのは第8天空である恒星天。ダンテは天動説に従って『神曲』の世界像を描きだしている。

君ら人類の名声とは草の色。
萌えては褪せる。それを枯らすのは、
地面に若葉を茂らせるものだ。
(170-171ページ)とオデリージは続ける。この詩行に続いて、第11歌の最後に言及されるのは、プロヴェンツァーノ(プロヴェンツァン)・サルヴァーニ(1220-69)というシエナ商人であり、その財力から都市における権力を獲得し、神聖ローマ帝国の皇帝の命令をも無視するようになったという高慢の罪を犯した。
 そして漠然とした形でではあるが、オデリージはダンテがこの旅を終えた後にたどる運命について、予言めいたことを語る。権力の座から失墜し、他人の善意に縋って生きなければならなくなる運命はダンテ自身にも訪れるものであった。

 ダンテが第11歌でチマブーエに代わってその弟子のジョットが絵画における第一人者として広く認められるようになったと歌っている個所はとくに有名で、しばしば引用される。チマブーエに代わってジョットが、2人のグイドに代わってダンテが、あたらしい芸術の担い手になっているというのは、単に若い世代が台頭しているというだけでなく、より現実を詳しく観察し、表現するものが師事を集めているという芸術哲学の変化についての議論である。もちろん、芸術(そして思想)表現の歴史はある方向に向かって絶えず前進するというような単純なものではない。しかし、社会の転換期にあたって、リアリズムの偉大な表現者が現われたという事実には注目しておく必要があるのではないだろうか。

椎名誠『おれたちを笑うな! わしらは怪しい雑魚釣り隊』

8月16日(日)晴れ後曇り後雨、一時強く降る

 椎名誠『おれたちを笑うな! わしらは怪しい雑魚釣り隊』(小学館文庫)を読み終える。2013年6月に小学館から単行本として刊行された内容に加筆・修正を加えて文庫本化したものである。なお、2013年9月5日の当ブログで、同じ著者の『あやしい探検隊 済州島乱入』とともに単行本として刊行されたこの書物の書評を掲載している。したがって取り上げるのは2度目だが、今回は単独で論じることになる。

 椎名さん率いる<雑魚釣り隊>の行状録第4作。もともと関東近辺の釣り場を取り上げる専門誌である『つり丸』に連載されていたのが、この本の終わり近くに記されているように、『週刊ポスト』に連載の場を移した。長年、世界各地で「探検」を展開し、その顛末を面白おかしくつづる「あやしい探検隊」シリーズを書いてきた椎名さんの、釣りに特化した連載ものであり、その目的を聞いて馳せ参じてくる隊員の個性と行状が描きだされている。もともと雑魚どころか、便座カバーとか破れ傘などどうしてこんなものが釣れるのかというようなものが釣り上げられて、釣りの専門雑誌の連載ものとしては異色すぎる内容が書き連ねられていた。その後、次第に隊の水準も上がり、メンバーにも釣りの名手が増えたとはいうものの、隊の釣果と隊員たちの言動とは乱高下が著しい。兵庫県では魚は取れないなどという信じがたい暴言が飛び出す(嘘だと思ったら、45ページをご覧ください)。

 釣りを愛した文学者というと、幸田露伴、井伏鱒二、開高健などという名が思い浮かぶ。それぞれの個性の違いはあっても、悠揚迫らぬ風格を感じさせるところがある。椎名さんはというと、悠揚迫らぬというよりも、直接行動的、雑魚釣り隊のメンバーでもある西澤亨さんが書いているように、「本来、釣りの人ではない。突き・手掴みの人なのだ」(370ページ)。そして、その行動は個人で、秘密の釣り場を探すというよりも、集団的で、にぎやかに展開される。

 『哀愁の町に霧が降るのだ』の場末のアパートでの共同生活や『本の雑誌』の創刊に至る過程など、椎名さんには独特の組織論が付きまとっているように思われる。それは自分自身の趣味やわがままさを徹頭徹尾前面に出して、自然発生性を強調するというもので、目的意識性を前面に出して、組織のために自分のわがままを殺すというような組織論と正反対のものである。したがって、ある程度の支持者、共感者は生み出すが、それほど大きくならない代わりに、あまりほかの人に迷惑を掛けることもないし、参加者の人間性を傷つけることもない。たとえ、新入会員に「ドレイ(≒奴隷」という使い走りの待遇を与えるのが恒例だとしてもである。

 雑魚釣り隊が主に活躍するのは関東近辺、とくに三浦半島で、釣りの趣味はないが、横浜で育った私にはなじみ深い場所が多く取り上げられていて、身近な感じで読める。そうかと思うと、韓国の済州島に出かけるというかなりの遠出もある。大漁で大いに活気づくこともあるし、全くの不漁のこともある(それでも宿舎では大漁の時と同じように飲んで騒いでいる)。

 2013年の9月の当ブログでも取り上げたのだが、「世の中にはいろんなことに興味を持つ人がいるもので、政治、経済、科学、宗教、野球、プロレス、カブトムシ、ギョーザ、将棋、囲碁、麻雀、バカラ、風呂、酒、めしとくるとそのあと女かニワトリか。この辺どちらを選ぶかでその人の個性や生い立ちが問題になりますな」(262ページ)という問いかけがあり、このように並べられても、当方としてはあまりはかばかしい答えを用意できないのが残念なところである。強いていえば、たんめん老人だからギョーザには興味があるというところだろうか。それでも椎名さんの本を愛読しているのが興味深いところではなかろうか。

 気になるのは、本の中に収められた写真で見る椎名さんの老け方である。日焼けで色の黒いのは相変わらずだが、頭髪がかなり白くなり、笑い方が柔和になってきた(普通ならいいことかもしれないが、この人の場合は心配である)。 それに最近では、雑魚釣り隊のメンバーが増えすぎて、その個性を描き分けにくくなっていると弱音を吐いているとも解説されている。どうも心配である。兵庫県では魚が取れないといった隊員は、その後食道がんでこの世を去り、雑魚釣り隊がその計画を変更して、弔い酒に酔うというくだりもある。多くの人、たぶん、ほとんどすべての人が、まだ、しばらく椎名さんの弔い酒は飲みたくないはずである。ほぼ同じ年齢の私としては、強くそう思う。

加東大介『南の島に雪が降る』(4)

8月15日(土)晴れ

 1944年(昭和19年)11月3日、大阪を出港してちょうど1年目のこの日に、演芸分隊の第1回正式公演が行われた。まだ劇場が出来上がっていないので、将校集会所を会場として使用した。その時のプログラムは
① 歌謡曲 コロンビア歌手 及川一郎(今川一等兵)
② 落語 市川莚司(加藤軍曹→加東大介)
   前進座の舞台に立っていたときの芸名で落語をやるというのも何かおかしいと加東は書いている。
③ 手品 如月寛太(青戸兵長、前回に触れたが実はニセモノである)
④ 物語 市川莚司
⑤ 漫才 吉田富士男(見習い軍医)
       東勇(篠原曹長)
⑥ 踊  花柳五郎(前川一等兵)
⑦ 音曲 杵屋和文次(叶谷一等兵)
 叶谷の芸名は本物だが、あとは自分で勝手につけたものである。小原上等兵が腕を振るって仕上げた緞帳が本格的なもので、一座の貴重な財産となった。
 「――第1回の公演で、わが演分にもスターができた。・・・それは立女形の前川一等兵と、三味線という郷愁をそそりたてる武器を持った叶谷だった。特に、女装の麗人は、人気を一手に集めた。」(123ページ)

 第1回の公演が好評ですぐに第2階の準備に取り組むことになる。しかも演劇評論家だった顧問格の杉山大尉の助言で今度は芝居に取り組むことになる。まだ、芝居をするのは無理かもしれないが、とにかく隊員を訓練してやってみようというのである。そこで分隊員たちに芝居のABCを教える稽古が始められた。と同時に座員の二次募集を行った。芝居をするという噂を聞きつけてムーランルージュの脚本家だった門馬実善一等兵がやってくる。彼の話では高射砲の部隊に中山上等兵という、関西の辻野良一劇団という剣戟一座の座付役者がいるという。そこで問い合わせてみると、病気が重態で寝込んでいるらしい。これは大変とすぐに入院させるように手配を行う(このおかげで中山は生きて日本に帰国できるのである。まさに芸は身を助けである)。また浪花節に合わせて所作を行う節劇の役者だったという蔦浜一等兵という二枚目がやってくる。普通の芝居には不向きだからと断るのだが、一からやり直すというので採用を決める。

 午前中は農耕、午後は劇場の建設工事、夜が次の演目の準備と”日常訓練”という忙しい日々を送る中で、しばしばあちこちの部隊からお座敷がかかる。演芸分隊の食料は乏しいので、このお座敷でもらう祝儀の食料を当てにしなければならないという事情もあり、二手に分かれて出かけるようになった。
 そのうち、女形の前川上等兵(進級)の人気が高くなり過ぎた。「カツラをかぶり、キモノをまとった前川は日本の象徴だった。色恋ではないのだ。女装をした前川には内地があった。だから、取り合いは必死だった。」(136ページ、ここは「必至」のほうがいいのではないかとも思うのだが、「必死」と書いたほうが適切に思われる確かにある。) 前川の取り合いで部隊間に波風が立つことを心配した村田大尉の配慮で「支隊司令官付」に転属することになる。

 1945年(昭和20年)2月に第2回の公演が開かれる。例によって歌謡曲と踊りもあったが、門馬上等兵が書いたマゲ物喜劇<うかれ捕物帳>が上演された。配役は
 目明し莚司・・・市川 莚司(加藤)
 乾分・八公・・・杵屋和文次(叶谷)
 松平伊豆守・・吉田富士男
 家老・・・・・・・・東    勇(篠原)
 寛 左門・・・・・如月 寛太(青戸)
 浪次(芸者)・・花柳 五郎(前川)
 藪医者・・・・・・市川鯉之助(蔦浜)
 群衆A・・・・・・及川 一郎(今川)
  〃 B・・・・・・塩島 茂
         ×     ×
 浪曲口演・・・・真野狩亭虎太郎(日沼)

 この芝居をもって各部隊を巡回している時に、たまたま長谷川伸の戯曲集が手に入る。そこで第3回の公演では『瞼の母』を上演することになる。「戦地にいて、一番考えるのは、国のお袋のことですものね」(142ページ)というのが加東の実感でもあった。

 そのうち突如として、深堀少将に無電で転属命令が届いた。この噂が伝わってきたころに、加東は小林参謀に呼び出される。深堀少将が転属にあたり、加東と前川を連れて行きたいとの意向を示しているというのである。受けるか受けないかは本人の意思に委ねられている。司令官についていく方が生き残れる可能性は大きい。しかし、加東が去ってしまえば演芸分隊はやって行けなくなるだろう。しばらくの猶予を貰った加東は、ほぼ完成された劇場の木でできた舞台を踏みながら考えて、マノクワリに残ることを決心する。

 深堀中将(転属と同時に進級)は出発前に『瞼の母』の出来上がっている部分だけの上演を見て去っていく。この上演は中将に従って転属する前川の引退興行でもあった。マノクワリの将兵のあこがれの的であった前川の転属は全将兵にショックを与えた。あくる日、深堀中将と小林参謀ら数人の幕僚、前川はマノクワリを去っていく。
 「海岸沿いに進んで、昼はジャングルのなかにひそみ、夜だけ舟を走らせながら、飛行機のあるところまで、何日もかかってたどりつく行程であった。」(148ページ)
 この箇所を引用したのは、さらに悲惨な戦局を描いた映画『野火』に同じような行動を描く場面があったからである。すでに戦局の主導権を完全に奪われても、まだ戦闘をやめないのは愚かであり、どこかねじが外れている。

 一座の立女形がいなくなって窮地に陥った演芸分隊は新たな女形要員を探さなければならなくなる。分隊の中では三味線の叶谷とテーラーの斎藤が使えそうなので、女形に仕込むことにした。
 その頃、イモばかり食べていたのでは抵抗力がなくなるということがわかり、各隊ではトウモロコシをつくりはじめていた。ところがうまくいく隊と、いかない隊がある。うまくいった隊では収穫祭をやる。そこへ演芸分隊が正体を受け、御馳走になる代わりに、アトラクションを提供することになる。
 第6中隊ではトウモロコシがうまく実らせたので、収穫祭を行った。そこで隊員たちが盆踊りをした中で、長束上等兵が女形として使えそうなので、隊長と交渉して転属させてもらう。しかも彼は本業が床屋であった。さらに農業の技手として働いていた軍属の斎木を転属させる。芝居をすることを渋っていた斎木であるが、やがてその魅力に惹かれるようになる。

 1945年(昭和20年)4月29日、その頃は天長節といったその日に「マノクワリ歌舞伎座」が開場した。御大層な名前ではあるが、みんなが望んでつけた名前である。マノクワリに2台しかない発電機のうちの1台が、深堀中将の言い置きで、ここに備え付けられた(もう1台は司令部にあった)。本職の電気屋がいたので、舞台照明は整っている。
 公演は「及川一郎とマノクワリ楽団」の”歌と軽音楽”から始まり、杵屋和文次の音曲、真野狩亭虎太郎の浪曲と続いて、いよいよ『瞼の母』が演じられた。配役は
 番場の忠太郎・・・・・・市川莚司
 水熊女将・お浜・・・・・東   勇
 娘・おとせ・・・・・・・・・・杵屋和文次
 料理人・善三郎・・・・・如月 寛太
 博徒・金町半次・・・・・市川鯉之助
 半次の母・・・・・・・・・・塩島   茂
 半次の妹・・・・・・・・・・斎藤弥太郎
 博徒・宮の七五郎・・・日沼長四郎
 〃  突藤の喜八・・・及川 一郎
 浪人・鳥羽田要助・・・市川鯉之助
東勇(篠原曹長)の女形がその熱意を反映して役に備わった貫録すら見せるようになり、カツラ師から役者兼業になった塩島が老けの女形をこなしたのも驚くべき進境であった。幕が開くと、
「そこには、なつかしい内地があった」(162ページ)。
 観客は障子の白さに目を瞠り、柿の実やなだらかな山で表現された日本の秋にその目をくぎ付けにした。美術担当の小原の熱心な作業の成果である。
 「舞台には長火鉢さえあった。これだけは、演芸分隊の手に負えないので、司令部にたのんで、求人募集をしてもらった産物である。たまたま、本職の指物師が応募してきた。こっちもありがたかったが、、その兵隊も、
「いやあ、こんなところで、長火鉢を作らせてもらえるとはねえ」
と、ほくほくしていた」(163ページ)。
 やってみると、装置に使うのがもったいないほど、本格的な長火鉢を作る。舞台装置なんだから、そんなに丹念に造らなくてもというと、「これをやってるあいだだけは、戦争を忘れられるんでさ」(164ページ)という答えが返ってきた。出来上がった長火鉢を囲んで、演芸分隊の面々はしんみりしてしまう。

 「――私たち出演者にとっては、いささか心外なことに、この序幕はもっぱら背景が主役の形であった」(165ページ)。観客たちは久しぶりに日本を思い出したのである。

 公演はさらに青戸主演の『軽喜劇 金ちゃん』を上演して終わる。しみじみと泣いた後の喜劇は気楽に楽しめるものであった。この日からずっと、マノクワリ歌舞伎座はほとんど1日も休まずに公演を続けることになる。

 日本から遠く離れたニューギニアのあまりにも違う風土の中で、故郷での普通の暮らしを懐かしむ将兵の姿が印象的であり、久しぶりに自分の本職に戻ることができて「戦争を忘れられる」喜びに浸る職人の話が感動的である。自分の故郷の風景や、日常の暮らし、仕事に愛着を持てない人間が多くなっているから、日本を戦争ができる普通の国に戻そうなどという政治家を支持する人が少なくないのかなと思ってしまう。普通の人の普通の暮らしと、戦争とは相反するものだと、あらためて思う。

 昨日(8月15日)、作業の途中で寝てしまい、更新が1日遅れとなった。しばらくはこの状態が続きそうであるが、ご容赦ください。

野火

8月14日(金)晴れたり曇ったり、一時雨

 横浜シネマ・ジャックで塚本晋也監督の『野火』を見る。フィリピンのレイテ島における戦争体験を記した大岡昇平の同名小説の映画化。1959年に市川崑監督によって映画化され、日本映画史に残る名作に数えられているが、私は見たことがない。今回は2度目の映画化で、塚本監督が同時に主人公である田村一等兵に扮して主演者も兼ねているところに特徴がある。

 大岡は京都大学の卒業生だというだけでなく、南関東の育ちであるのに京都大学に進学したという点でも私の先輩である。吉田健一が書いているところでは、京大在学中であっても、東京の酒場で飲んでいたというところは、私にはまねができなかった。語り継がれているところによると、大岡は京大在学中既に作家を志していたのでジイドの『贋金つくり』1作のみを研究して、ほかには目もくれなかったという。彼は実験的な作風を事とし、リアリズムとは無縁な作家であろうとしていたようである。

 映画の中で、大岡の分身と思しき主人公の田村一等兵は、召集前に何をしていたかと聞かれて、小説家を目指して原稿を書いたり本を読んだりしていましたと答える。敗色が濃いなどというものではない、軍隊がとっくの昔にその統制と規律とを失って、ただひたすらに逃げることだけを目指している、士官たちはどこかに消えてしまって、下士官がかろうじて少数のグループのまとまりを維持しているという状況の中で、主人公が高学歴の持ち主だということは意味を持たないように見える。しかし、なぜか、彼は米軍の空爆と、ゲリラの襲撃、陸軍の下士官・兵士間でのいじめの中で生き延びるのである。

 この映画で描かれているフィリピンのレイテ島における日本陸軍の敗走は、軍の上層部のどのような判断ミスに起因するのかとか、軍隊の内部に巣食っている官僚制の弊害によるものかというような問題はあまり触れられていない。多分、原作者にとってそれはどうでもいい問題であったのである(あえてそこを問わないというのが大岡昇平と、例えば野間宏の違いであろう)。映画の初めの部分で結核を病んでいる田村一等兵は自分の所属する部隊と野戦病院との間を何度も往復させられる。日本陸軍が陥ってしまった非人間的な体質が描かれていないわけではないが、大岡が訴えたかったのはおそらく別の問題である。

 田村一等兵が出会う敗残兵たちは、ニューギニアやその他の戦地での戦闘も体験し、敗戦を重ねてさらに逃亡を続けている人々である。田村一等兵と、彼が同行することになる兵士たちの辿る道は、日本兵たちの死体が折り重なり、死臭が立ち込めている。現地の住民たちにとって、彼らは得体のしれない敵である。だから現地の言葉でいくら自分たちが殺意がないことを説明しても、その言葉は通じない。これまでの幾つもの独善的な行為の結果として、今度はこちらがいくら善意を強調しても、コミュニケーションが成立しなくなっているのである。

 その一方でフィリピンの自然の美しさ、豊かさも確かに描かれている。だからこそ敗亡の兵士たちの惨めさ、死屍が重なる戦場の悲惨さが強調されることにもなる。その中で大岡が問うているのは秩序を失い、人間が本能だけで生きているような極限状況の中で、人間はどこまで人間らしく生きられるのかということではないだろうか。映画の中で繰り返される問答は、人間の肉が食えるかということである。しかし、魯迅の『狂人日記』は、ごく普通の村落の生活の中でも人間が人間を食べて社会の秩序を維持しているということを告発しているのではなかったか。

 1959年の市川監督による「映像」を強調したといわれる映画化作品は見ていないので、何とも言えないのだが、戦争と戦闘の悲惨さをリアリスティックに描こうとする塚本監督の映画化は、半ば成功し、半ば失敗しているように思われる。成功しているのは、極限状況の現実を観客に生々しく訴えることにおいてであり、失敗していると思われるのは、そのような現実にこだわりすぎて、原作者が発しているより大きな問い、人間はどこまで人間らしく生きられるのだろうか――について、中途半端な答え方しかしていないように思われることにおいてである。戦争時における個人的な体験を越えて、人類に普遍的な問題を問いかけようとしている大岡の原作の映画化には能舞台のような抽象性が求められるのではないかというのは暴論であろうか。

『太平記』(58)

8月13日(木)曇り、時々雨

 元弘3年(1333年)3月、六波羅から派遣された軍勢を撃退した赤松円心率いる軍勢は、逆に京都に攻め寄せ、3月12日には桂川を渡り、一部が六波羅の門前まで達する猛攻を見せたが、六波羅側の河野・陶山を中心とする武士たちの反撃にあって退却した。その後も両軍の攻防が続き、さらに3月28日には比叡山の衆徒たちが六波羅を攻撃しようとしたが、敗退した。赤松勢はその兵力が1万騎足らずに減ってしまったが、なお、その士気は衰えず、4月3日に京都をまたも攻撃した。これに対して六波羅方は十分に準備をして臨み、両者の激戦が続く中、次第に六波羅方が優勢になってきた。

 「ここに、赤松勢の中より、ただ二人進み出でて、敵の数千騎ひかへたる中へ、是非なく打つて懸かる兵あり。その勢ひ決然として恰(あた)か樊噲(はんかい)、項羽が怒れるその勢ひ、形にも過ぎたり」。(411ページ、ここに赤松勢の中から、2人だけ進み出て、敵の数千騎が待ち受けるなかへ、やみくもに、討ってかかろうとする兵がいた。その勢いは思い切った様子で、あたかもむかしの漢楚の戦いの際の漢の樊噲と、楚の項羽が怒りながら戦ったその勢い、姿を思わせ、それを越えるようであった。) 2人が近づくにつれてその姿がはっきりしてきたのを見ると、身長2メートルを超す男がひげを顔の左右に伸ばし、目をかっと見開き、楔帷子の上に鎧を重ねて着、大立挙(おおたてあげ)の臑当(すねあて=膝頭から大腿部の外側を防御する大きな臑当て)に膝鎧(=腿、膝を防御する防具。佩楯(はいだて)ともいう)をつけて、龍の頭の前立物(まえだてもの=兜の前の飾り)をつけた兜を深くかぶり、約1,5メートル余りの大太刀(おおだち)を身につけ、約2,4メートル余りの金(かな)さい棒(いぼの付いた鉄棒)の八角形なのを手にもつ所を60センチほど短くして、実に軽々とひっさげていた。六波羅勢は数千人が控えていたが、彼ら2人の様子を見て恐れをなして後ずさりを始める。

 勝負を挑むように敵を招き、2人は名乗りを上げる。「備前の国の住人、頓宮(はやみ)又次郎入道が子息孫三郎、田中藤九郎盛兼が舎弟孫九郎盛泰と云ふ者なり。われら父子兄弟、少年の昔より勅勘武敵の身となつて、山賊海賊を業として一生を楽しめり。しかるに今、幸ひにこの乱出で来たり。忝くも万乗の君の御方に参ず。しかるを、先度の合戦にさしたる軍(いくさ)もせで、御方の負けをしたりし事、我らが恥と存ずる間、今日においては、たとひ負けて引くとも引くまじ。敵強(こわ)くともそれに依るまじ。敵の中を分けて通り、六波羅殿に対面申さんと存ずるなり」(412-413ページ、頓宮は、備前国邑久郡福岡=岡山県瀬戸内市長船町福岡の武士。田中は赤松一族だそうである。勅勘武敵は帝のおとがめを受け幕府の敵の身の上となってということ。本来、宮方でも、武家方でもないという。「幸ひにこの乱出で来たり」というのは物騒な発言である。それで畏れ多くの帝のお味方に参った。しかしこれまでは負け戦で、自分も大した功名を立てていない。そこで、今回は頑張るぞというのである)と大口をたたいて、仁王のように猛々しく突っ立った。

 六波羅方の島津安芸前司父子3人、これを聞いて部下のものに向かって次のように述べた。これまでうわさに聞いていた。西国一の力持ちというのはこの連中のことだと思われる。大勢で立ち向かっても、彼らを討ち果たすことはできそうもない。部下の者はむしろしばらくほかの場所で、その他の敵と戦うべきである。我々3人が近づいて、馬を走らせて駆けたり引いたりして相手を悩ませれば、どうにか勝ち目が出てくるのではなかろうか。彼らの力がどれだけ強くても、身に矢が立たないことはないだろう。いくら足が速くても馬に追いつくことはないだろう。長年犬追物(=犬を馬で追って射る)と笠懸(馬上から遠くの的を射る)で鍛えた腕前をここで役立てなければ、いつ役に立つのだろうか。さあ変わった一合戦をして人々に見せてやろう」と、5人の敵に近づく(さっきまで2人と書いてあったのが、いつの間にか5人になっている。これは写本によって人数が違っているようである)。

 田中はこれを見てよい敵に出会ったと喜び、生け捕りにして味方に引き入れようなどと相手を呑んでかかり、例の金さい棒をふりまわしながら静かに近づく。島津も馬をゆっくりと進めて、矢の届く距離に近づいたので、まず安芸前司が3人で弦を張る強い弓に、十三束三伏という長い矢をつがえ、しばらく矢を引き絞り、ぴしりと放った。その矢は過たず田中の右の頬先を射通したので、いかに力自慢とはいえ、その痛みをこらえることができず、進むことができなくなる。

 舎弟の孫九郎が走り寄って、その矢を引き抜いて捨て、兄の仇を討つぞと金さい棒をとって、これまた打ち振って襲い掛かろうとすると、さらに頓宮三郎入道、その子の孫三郎もそれぞれ約1.6メートルの太刀を引っ提げて、小躍りして続いた。島津はもともといくさ慣れしているうえに、騎馬に上達し、矢継ぎ早に矢を射る名手なので、落ち着いて、田中が追ってくると、間合いをとって馬に鞭打って、体をねじらせて矢をはたと射る。右手に回ると、弓を右手に向けてぴしりと射る。西国に名高い打物(刀・槍などの打ち鍛えた武器)の名手と、北国に並ぶ者ない騎馬の名手との攻防は前代未聞の見物となった。

 そのうち、島津の矢が尽きてしまい、打物による対決になろうという様相を見せ始めたので、是では島津が危ないと、それまで様子を見守っていた小早川が150騎を率いて大声を上げて襲い掛かってきたので、田中の後ろにいた兵たちがパッと引き退き、その間に田中、頓宮、父子兄弟4人は鎧の隙間や兜の内側に、それぞれ矢を2,30筋も射立てられて、太刀を地面につきたて、皆、立ったまま死んでしまった。見る人聞く人、後々までも惜しまないものはいなかったという。

 これまでも六波羅勢は騎馬の武者が中心、赤松勢は歩兵が中心ということを書いてきたが、その両者の特色がよく出た対決の様子が描かれている。島津、小早川の六波羅勢がいくさに経験を積み、武技に練達しているのに対して、頓宮、田中の赤松勢はもっぱら剛勇に頼っている。田中がその強靭な肉体のために重装備で向かってくるのを、島津が走らせて疲れさせようと策を講じるところに両者の経験の違いが現われているようである。田中、頓宮が山賊、海賊あがりだと自称しているところも注目すべきで、赤松が集めた軍勢の性格がよくあらわれている。

 『太平記』の戦闘の記述はそれぞれに参加した武士たちの記憶に基づいて構成されているのだろうが、かなりいい加減な部分もあり、調子に乗って前後のつじつまが合わないような描写をしている個所もあるので、注意を要する。 

日記抄(8月6日~12日)

8月12日(水)曇り

 8月6日から本日にかけて経験したこと、考えたことなど:
8月6日
 NHKカルチャーラジオ「文学の世界」『ボブ・ディランの世界を読む』はディランが彼の尊敬するフォーク歌手であるウディ・ガスリーからうけた影響と、そこから脱却して新しい彼自身の歌を創造していく過程を辿る内容で、聞きごたえがあった。初めのうちディランはガスリーのオクラホマ訛りをまねた歌い方をしさえしているそうで、そのあたりも聞き分けられたら面白いのだろうなぁと思った。

8月7日
 この日の投稿をもって、「たんめん老人のたんめん日記」の記事数は1,000に達した。ということは、次は1,001ということになるので、『千一夜物語』についての記事を書こうと思って参考文献を探したのだが、思ったような結果は得られなかった。

8月8日
 NHKラジオ「攻略!英語リスニング」は”The Brontë Sisters"(ブロンテ姉妹)を取り上げた。実は、彼女たちの作品の中で読んだことがあるのは、シャーロット・ブロンテの『ジェーン・エア』だけである。川本静子の『ガヴァネス』という本を読むと、19世紀前半の英国の文学作品に登場したもっとも有名なガヴァネスはサッカリーの『虚栄の市』に登場するベッキー・シャープと『ジェーン・エア』であったという指摘がある。ガヴァネスがこの時代の文学のなかで重要な役割を果たしたのは、それなりの社会的な背景があってのことである。”family isn't well off so the daughters become governesses or teachers(一家の暮らし向きは楽とはいえず、そんなわけで娘たちは住み込みの家庭教師や教師になった)というが、これは特殊な例ではなくて、ほかにも多くの似たような例があった。ブロンテ姉妹の場合で特殊だったのは、彼女たちが文学的な才能に恵まれていたということなのである。
 原作は読んでいないが、ウィリアム・ワイラーの映画『嵐が丘』は見ている。『ジェーン・エア』はジョーン・フォンティーン、スザンナ・ヨークの主演作、そして最近の映画化の3作を見ている。それぞれに印象に残るが、ジョーン・フォンティーンの主演作の中の霧の中でジェーンとロチェスターが出会う場面が忘れられない。

 似鳥鶏『昨日まで不思議の校舎』(創元推理文庫)を読む。相変わらず、主要な語り手である葉山君の語りのほかに、別の誰かの語りが混じるという、ある意味で不親切な構成で展開される学園ものユーモア・ミステリー。葉山君の通う蘇我市立高校のいくつもある同好会の中でもマイナーかつ得体のしれない存在である「超自然現象同好会」の会誌『エリア51』臨時増刊号が特集した「市立七不思議」が何者かに影響を与えたのだろうか? 突如休み時間に、七不思議の一つ「カシマレイコ」を呼び出す放送が流される。そんな女子生徒は、もちろん在学していない。さらにその日の放課後に、4カ所で発見された「口裂け女」を模したいたずら、さらに翌日には「1階トイレの花子さん」までが用務員室に出現した。なぜ、七不思議のうち、この3つが現われたのだろう? 葉山君、下級生の彼をおもちゃにしている前演劇部長の柳瀬さん、そして演劇部員のミノ君を主なメンバーとするイレギュラーな探偵団が捜査を始める。なぜ七不思議のうち、この3つが現われたのだろう? 捜査を進めるうちに、学校のOGでもある菅家先生が何かを知っているらしいことが分かってくる。彼女によれば、昔は「市立三怪」といわれていたそうなのである。しかし、真相はなかなか明らかにならず、もう卒業して、大学に進学している名探偵の伊神先輩を引っ張り出さなければならなくなりそうである。さて、どうなるか・・・。

 望月麻衣『京都寺町三条のホームズ2』を読む。この本で見つけた問題点についてはすでに、8月10日付の「『太平記』の周辺」で触れた。語り手の女子高生葵ちゃん、そのバイト先の骨董店の御曹司清貴君を中心に、その祖父であるオーナーの誠司さん、父親である店長の武史さん、第1作に取り上げられた事件の関係者でイケメンだがおっちょこちょいの俳優秋人君、葵ちゃんと同じ高校に通う親友である呉服店の妹娘香織ちゃん(姉のほうが今回は登場しないのがちょっと不気味)が引き続いて登場、今回はさまざまな美術品、工芸品の真贋が物語の主な核心となる。誠司さんの女友達の好江さん、元贋作作家の米山さんなど新しく常連になりそうな人物が登場する中で、注目すべきは清貴君のライバルになりそうな贋作家円生の出現であろう(ただし、シリーズもので、レギュラー登場人物をやたら増やしていくことは控えるべきではないかと個人的には思っている)。京都の名所を訪問する主人公たちの足取りを追って、それぞれの情景を想像しながら、ミステリの展開を少しさめた目で見守るのも一興であろう。

8月9日
 R.P.ファインマン『ご冗談でしょう、ファインマンさん(下)』を読み終える。コーネル大学の教授だったファインマンは、ブラジルを何度か訪問した後、カリフォルニア工科大学に移ることになる。日本を訪問して、日本式の旅館に泊まった思い出、湯川秀樹との交流などの記事も面白い。ブラジルでも日本でも異文化体験を楽しむファインマンであるが、寒い、雪の降る東部のコーネル大学よりも、温暖なカリフォルニアのほうがよかったようである。「実践ビジネス英語」のパートナーのヘザー・ハワードさんはコーネル大学の卒業生で、最終学年の時に近くのワイナリーを歴訪するドライブ旅行をした経験を楽しそうに語っていた(8月7日放送分)が、ファインマンにはそういう趣味はなかったようである。(ヘザーさんはアラスカ州の出身なので、寒さには慣れているということもあるかもしれない。)
 趣味といえば、ファインマンはブロンドの美人が好きで、そういう好みを隠さずに語っている率直さがこの人らしいのだが、ファインマンのようなユダヤ人でも、ブロンドの美人がいいというアメリカ風の好みに染まってしまうのかなと少し意外に感じた。アヌーク・エーメとかクレア・ブルーム(ともにユダヤ系)のような美人がいいのかな、と思うとそうでもないようである。

8月10日
 NHKラジオ「ワンポイントニュースで英会話」は今週、ABCニュースの一部の紹介の特集を放送するという。今回は”Take a Bow"(黒人女性初の首席バレリーナ)というニュースでニューヨークのバレー団で初めて黒人女性がPrincipalとなったという記事が放送された。彼女は13歳になってからバレーを始めた(極めて遅い)など異例尽くしのバレー人生を送ってきたのだが、今回この栄誉により、バレーの歴史にその名を刻むこととなった。これがどういう意味を持つのかを詳しく論じるほど、バレーに通暁していないのが残念ではある。

8月11日
 NHKラジオ「ワンポイントニュースで英会話」は”Fireworks fears"(花火で火災が多発)という記事を取り上げた。花火見物の浴衣姿の男女を見かけることが少なくない一方で、庭先で花火を楽しむ光景を見かけることは少なくなっているような気がする。

8月12日
 自動車の運転免許証の取り消しの申請に出かける。高齢者の講習を受けるのも面倒であるし、体の動きも悪くなったので思い切って取り消してもらうことにした。通知書を渡されるときに「ご苦労様でした」といわれたのだが、それはこちらの方でいうべき台詞ではなかろうかと思った。 

ダンテ・アリギエリ『神曲 煉獄篇』(11‐1)

8月11日(火)曇り後晴れ

 古代ローマの詩人ウェルギリウスを導き手として、人生の暗闇から抜け出し、地獄を回って煉獄へとたどり着いたダンテは、地球の南半球にある巨大な山である煉獄の麓をさまよい、第9歌でやっとその入り口に達し、門をくぐって、第10歌で山を登り始める。そして山の途中にある平坦な場所で、煉獄にやってくる魂たちに高慢を戒め、謙譲の徳を身につけさせるために神の手で彫られた浮彫を目にする。その前を、地上で犯した罪を重荷として背負いながら、息も絶え絶えになってやってくる魂の行列が通過する。

「おお、我らが父よ。あなたが天空にましますのは、
封じられているためではなく、高き所でなしたもうた原初の事物に
ひとしお愛を持たれているため。

そのあなたの御名と御力があらゆる被造物から
称えられますよう、あなたの優しい力の息吹への
感謝となるにふさわしいまでに。

我らのもとにあなたの王国の平和が来ますよう。
我らは独りでは行くことがかなわぬのですから
到来するのでなければ、全知全能を傾けようとも。
(以下略、160ページ)。 煉獄を歩む魂たちはこのような歌を歌っている。キリスト者の方々はすぐに気付かれると思われるが、これはイエスが弟子たちに教えた「主の祈り」(パーテルノステル)にダンテ自身が説明を加えたものである。

 魂たちはここで、7つの大罪の第一に挙げられる高慢の罪をあがなっている。

このようにあれらの影は、自分たちの、そして生ける私たちの
善き行く末を祈りながら、時に悪夢に見るものにも似た、
あの錘の下になって進んでいた。

皆は程度の差こそあれ、苦悩し衰弱し、
第一の囲いの中を周回しながら
現世の迷夢を清めていた。
(162ページ) その魂たちに、どこが近道かを教えてほしいとウェルギリウスは問いかける。その問いに答えて、道を示したのは、血統ゆえに高慢となった封建貴族であるウンベルト(オンベルト)・アルドブランデスキ(?-1259)の魂である。
…高慢は我にだけ災いを
もたらしたわけではない。それはわが一族郎党もろともを
破滅へと引きずり込んだ。

それがため、我はここで
この錘を運び続けねばならぬ、神が満足なさるまで、
生者の間でできなかったがゆえ、我はそれをここ、死者の間でなす」。
(162ページ) 

 この問答の間に、ダンテの顔を知っている魂が彼に話しかけようとする。ダンテは彼が自分の友人で、教皇庁で多くの仕事をした細密画家のオデリージ・ダ・グッビオ(?-1299)であることに気付く。傍注によると彼の署名のある細密画を載せた聖書が1冊残っており、ヴァザーリの『画家列伝』にも記述があるという。才能ゆえに高慢になったことで彼の魂はここで苦しまなければならないのである。
 彼は今やフランコ・ボロニェーゼという画家が彼に取って代わったという。
今や誉れはすべて彼のものだ。私の誉れなど比べるべくもない。

だが、もちろん私は生きている間に、
今のようにはそうすべき寛い心が持てなかった。
私の心が執着していた優越への大いなる野心ゆえだ。

このような高慢に対する対価がここで支払われている。
付け加えると、罪を犯しかねなかったときに、もしもではあるが、
神に向かうことがなかったならば、まだ私はここにはいなかっただろう。

おお、人の力でなしうる虚しき栄光よ、
緑の梢がはかなく枯れていくにも似る、
野蛮な時代が後に続けばそうではないが。
(168ページ) 人間の力と神の力の間には言語に絶した差異がある。もし平和な時代が続けば、ある才能はそれに続く才能によって乗り越えられるので、自分の才能を過信することには意味がないのである。
 オデリージ・ダ・グッビオと彼を凌駕したと記されているフランコ・ボロニェーゼについては作品が失われているために確かなことがわからないそうである。この後に、オデリージ・ダ・グッビオの口から語られる中世の絵画や詩についての歴史的な評価が、しばしば引用されてきた。その歴史的な評価がどのようなものかについては次の機会に譲ることにしたい。それにしても、芸術創造の歴史性についてダンテが考えをめぐらしているというその点が興味深く思われる。

『太平記』の周辺

8月10日(月)朝のうち、雨が降ったようであるが、その後は晴れたり曇ったり

 8月8日、望月麻衣『京都寺町三条のホームズ2』(双葉文庫)を読む。その中に気になった個所があった。最終章「迷いと悟りと」の中で、ヒロインの女子高生・葵;彼女のアルバイト先の骨董店「蔵」のオーナーの孫、その鑑定眼と観察眼の鋭さから「ホームズ」とあだ名される清貴;第1作で扱われた事件の当事者の1人で清貴の友人となった駆け出し俳優の秋人の3人が天龍寺に向かう。清貴が葵に説明する:
「庭が美しいことで知られている、この天龍寺は桓武天皇ゆかりの禅寺で、ここも世界遺産に登録されているんですよ」(263ページ)。天龍寺について「足利将軍家と桓武天皇ゆかりの禅寺」という人もいるから、こういう説明の仕方もあるのだろうが、普通であれば、「足利尊氏が夢窓疎石の勧めで、後醍醐天皇の冥福を祈って建てた寺」であろう。その建設費を調達するために中国(元)との貿易船が仕立てられ、それを天竜寺船といった。これは高校の日本史の教科書に出ているはずである。さらに「鎌倉時代、日本庭園をきわめた禅僧・夢窓疎石」(264ページ)という極めて乱暴な説明も登場する。これじゃ夢窓国師は時の権力者の心のよりどころとなった名僧ではなくて、ただの庭作りでしかない。夢窓疎石にとってみれば、庭作りは寺の僧たちが悟りに至る道を切り開くための一つの手段であったはずである(もっとも、手段だ目的だなどとこだわっているうちは、悟りからは遠いのかもしれない)。

 天龍寺の敷地はもともと後嵯峨天皇とその子・亀山天皇が離宮とされ、亀山殿と名付けられた場所である。亀山というのは、この地の西にある小倉山の山容が亀の甲に似ていることによるものである。その後、亀山天皇の子孫である大覚寺統の天皇・上皇によっても離宮として使われたが、大覚寺統から出た後醍醐天皇が吉野に去り、さらに崩御された後、尊氏がここを寺に作り替えたのである。南北朝の対立の背景の1つであったのは、皇位をめぐる大覚寺統と亀山天皇の兄である後深草天皇の子孫である持明院統との争いであった。「皇位をめぐる」と書いたが、現実にはむしろ「院政を行う」(=治天の君の)地位を争う戦いであった。ただ、天皇親政の復活を目指す後醍醐天皇の出現によって、事態はより複雑なものとなる。

 もっともさらに古い話がある。後嵯峨天皇がここに離宮を造営される前は、平安中期まで存在した檀林寺という寺院の跡地であった。平安初期の嵯峨天皇の皇后であった橘嘉智子(檀林皇后)が建立した寺で、唐から義空という僧を迎えて開山とした日本で初めての禅寺であったという。その美貌と仏教への信仰の深さで知られる嘉智子は橘氏から出た最初で最後の皇后である。
 ことばの意味は時代によって変化することを考慮すべきではあるが、檀林というのは栴檀林の略で、僧侶の学校、あるいは寺そのものを意味する。日本における禅宗の最高学府の1つである駒澤大学の北原白秋作詞、山田耕筰作曲の校歌の中で「栴檀林」という言葉が繰り返されているのを思い出す方もいらっしゃるかもしれない。
 嵯峨天皇の父親が桓武天皇であるから、ここでやっと桓武天皇と結びつくのである。

 鎌倉にある宝戒寺はもともと北条義時以来の鎌倉幕府の執権の邸跡に建てられた寺である。寺に伝わる足利尊氏の寄進状に「北条高時の慰霊のため、その屋敷跡に後醍醐天皇が建立した」旨の記述がみられるそうである。だが、実際に寺が建てられたのは後醍醐の崩御の後のことのようである。後醍醐天皇は北条高時の顔を見たことはなかっただろうが、足利尊氏は北条高時にも後醍醐天皇にも親しく接しているはずである。鎌倉の宝戒寺と、京都の天龍寺という2つの慰霊の寺院を建立することになった尊氏の胸中はどのようなものであったか、なかなか想像できるものではない。なお、宝戒寺は天台宗、天龍寺は臨済宗の寺である。

 そういえば、吉川英治の『私本太平記』は後醍醐天皇が隠岐に配流されるあたりまでしか読んでいないが、尊氏と高時の対決の場面などあって、吉川の想像力の豊かさを知らせてくれる。最近、山岡荘八にも『新・太平記』という作品があることを発見した。吉川英治の場合、架空の人物(たとえば尊氏の愛人で、直冬の母となる藤夜叉)が登場したり、隠岐に流される後醍醐の一行を徒然草の作者が追いかけたりするという架空の場面が設けられたりはしているが、全体としては歴史的な事実を客観的に再現しようとしているようで、当時の日本史学界の話題の1つであった散所の話題なども取り入れられているのも興味深い。それに比べると山岡荘八のほうが架空の人物が活躍する場面が多く、より伝奇性が強いような気がするのだが、あくまでも一見しての印象である。ただ、吉川英治のように歴史をできるだけありのままに解釈していく作風のほうが、山岡荘八のように自己流の解釈を前面に出す作風よりも好ましいという気はする。
 さて、吉川英治は湊川の合戦での楠正成の戦死までで『私本太平記』を終え、山岡荘八は新田義貞の戦死までで筆を擱き、ともに『太平記』の最後の、尊氏の後継者足利義詮が死に臨んで、自分の後継者となる義満を補佐する管領として阿波から細川頼之を呼び寄せ、後事を託するというところまでは書き切ってはいない。それよりもかなり前の方で打ち切っている。岩波文庫で3冊目まで刊行されている『太平記』は全6巻となる予定である。私のやっているのは『太平記』に描かれた鎌倉時代末→南北朝時代の争乱の過程を新たに創作しなおすことではなく、既にある『太平記』の概要を紹介していくだけのことであるが、その第1巻を紹介しきっていないのに、すでに57回という連載回数になっており、この分だと、最後までいけば350~400回を要することになりそうである。

 これからも折に触れて『太平記』関連のことを、本文の紹介とは別に書いていきたいと思う。一つには日本人には南北朝時代、室町時代に対する一種のアレルギーがあるように思い(京都の「時代まつり」で室町時代の行列が欠けているのを、外国人の指摘を受けるまで気付かなかったという話を聞いたことがある)、そういうアレルギーの克服を目指して、自分なりの読み込み作業を進めていきたいからである。
 他人の書いた文章に突っ込みを入れることから書きはじめた文章だが、どうも突っ込み所がたくさんある、隙だらけの文章になってしまった。批判は甘んじて受けるつもりであるが、できるだけ好意的な批判を頂ければ幸いである。 

加東大介『南の島に雪が降る』(3)

8月9日(日)曇り後晴れ

 昭和19(1944)年の秋、ニューギニア西部のマノクワリで孤立していた日本軍の一員であった加藤徳之助(→後の加東大介)は、召集を受ける前に前進座の俳優であったという前歴を買われ、敗色濃厚な中で荒んでいた軍の士気を維持し、鼓舞するために演芸分隊を組織するように命じられる。すでに三味線弾きであった叶谷、スペイン舞踊の教師だった前川という2人の人材を見つけていたし、演劇評論家の杉山誠が将校として同行していた。分隊の組織は実は杉山の裏工作が功を奏したものらしい。
 分隊の編成にあたり、全部隊から応募者を募り、試験を行って隊員を選抜したところ、針金職人で浪曲の名手である日沼、美術学校出身で友禅のデザインをしていた小原(舞台装置要員)、洋服屋の斎藤(衣装部要員)、実家がカツラ屋だという塩島、僧侶で博多仁輪加の名手である篠原が集まった。このほかに、まだ病院で治療を受けているコロンビアの歌手今川が加わるはずである。

 連合国軍は飛び石作戦でフィリピンの方に攻撃の矛先を向けている。ニューギニア西部の日本軍は戦闘はない代わりに飢えとマラリアに苦しめられている。毎日の主な仕事は自分たちの食料を確保するための農作業である。南国なので季節の変化が全くない。そういう中で演芸分隊の出現は変った出来事として、みんなの注目を集めた。あちこちから声がかかる。そこで、とりあえず加東(衛生軍曹である)が属していた病院で舞台稽古のようなことをしてみようということになった。とはいっても芝居のようなことはできないので、それぞれの特技を披露するだけのことである。
 舞台衣装としてピンクの単衣を作ってもらって前川が、叶谷の三味線と今川の歌を伴奏として踊り、日沼が一席ウナり、叶谷が都都逸をやり、加東が落語の「長屋の花見」を演じた。
「結果は……ただ拍手の波だった。やせさらばえ、ヒゲぼうぼうの病兵たちが、熱狂して手をたたいてくれる姿には、こっちが泣けた。
 特に、圧倒的な絶賛を博したのは、前川の踊りだった。というよりは、衣装のキモノだった」。(87ページ) 兵士たちは急ごしらえのキモノに、日本を思い出したのである。

 大好評に気をよくして、分隊を率いる村田大尉はこの分隊の設置を提言した1人である小林参謀に連絡を取り、第1回の公演の日程を決める。公演の内容について相談すると、次々に奇抜な案が飛び出すが、裏方勢は口では文句を言いながらもけっこう張り切っている。
 司令部の将校集会所に仮設された舞台の上で、叶谷が三味線を弾いて「イッヤァーン」を演じ、加東が物語風の芝居話を語り、日沼が浪曲、篠原が博多仁輪加を演じた。最後に前川が女装してそうらん節を踊った。「マノクワリには、ぜったい、いないはずの…若く美しい日本女性」(90ページ)の出現に満場は一瞬息を飲み、そして大歓声をあげた。

 公演を見た司令官の深堀少将は常設の演芸場を建設しようといいだす。そこで演芸分隊の面々は土地探しを始めるが、ちょうど
よい土地が見つかったので、ここにしようと決める。なぜか、村田大尉は乗り気ではない様子だが、みんながいいというのならばいいだろうということになる(後でわかったことであるが、そこは墓地だったのである)。マノクワリは、ニューギニア一帯の戦域を控えた前線兵站基地になる予定だったので、肝心の戦闘員である歩兵部隊が少ないわりに、裏方みたいな部隊はほとんど揃っていて、工事は順調に進む。

 演芸分隊の活動がだんだん大仕掛けになってきたので、隊員を増やす必要が出てきた。篠原は博多仁輪加のほかに漫才もやり、その相棒がいるという。吉田という見習い軍医で将校に準じる存在だから、隊員にするわけにはいかないが、幸か不幸か分隊にマラリアがはやったので、その治療のために出張を命じるという形でやってくることになった。また、それまで入院していた今川が病気が治って参加することになった。

 そんな中、高射砲舞台にエノケン劇団の如月寛太がいるという噂が広まってきた。如月といえば有名な喜劇俳優である。加東は村田大尉に相談し、司令官から如月寛太=青戸光の転属命令を出してもらう。ところが、実際にやってきた青戸兵長を見ると、本物とは似ても似つかぬ人物である(加東は前進座時代から映画に出演していたし、如月の実物も何度か見かけている)。村田大尉に相談すると、「オレたちは、ここで死ぬかもしれないんだよ。もう生きて帰れないとすれば、内地の長谷川一夫よりは、ここにいるニセモノの如月寛太のほうが、ありがた味がある」(108‐109ページ)といわれる。加東は役者の立場から考えているが、村田大尉は観客の立場から考えている――と納得し、青戸から事情を聞きただしたうえで、ご本人にはずっと如月寛太でやっていいが、あまり特別風を吹かすなとくぎを刺して、一件を落着させる。そして、村田大尉の緘口令は最後まで守られることになる。

 ここまで加東が分隊を統率していく手腕はなかなかのものである。役者であるだけでなく、踊りも名取であり、落語もできるという芸の幅の広さも手伝っているのかもしれない。隊員を集めていく過程は、加東の代表作の1つ『七人の侍』を思い出させるが、あそこでは集められる側であったのが、ここでは集める側である。深堀少将(後に中将)、小林参謀、村田大尉など上官にも恵まれている。
 これから、いよいよ演芸分隊の活動は本格化していくが、兵士たちがその活動によって活気づいていくのは、演芸を通して日本を思い出す、感じることができたからであるということが分かるはずである。女形への人気には他にも理由があるかもしれないが、変化に乏しい生活の中で、少しでも日本と日本での自分たちの日常の暮らしを感じさせるものが求められていたことが分かる。 

『太平記』(57)

8月8日(土)曇り

 元弘3年(1333年)閏2月、3月に六波羅勢は摩耶城に立て籠もる赤松勢の討伐に向かったが敗退、3月には逆に赤松勢が京都に迫り、いったんは洛中に侵攻したが、撃退され、山崎・八幡に陣を置き、西国との連絡・補給を遮断して六波羅を苦しめた。3月28日に、比叡山の衆徒が法勝寺で六波羅勢と戦って敗退した。

 六波羅勢は赤松勢、比叡山の衆徒たちの攻撃を撃退してきたが、決定的な勝利を得ることはできず、比叡山が再び六波羅攻撃の準備をしていると知って、懐柔策に出て、荘園を寄進する。このため山門における議論も、幕府の味方をするものがまた勢力を盛り返したために、まとまらなくなってきた。

 八幡・山崎に陣を張っていた赤松勢は、これまでの戦いで兵力を減らし、1万騎に満たない軍勢になっていたが、武家方の軍勢は一、京都の防御体制は大したことがないと判断をして、7,000余騎を二手に分け、4月3日卯の刻(早朝6時ごろ)にまたもや京都へと押し寄せた。一方の軍勢は関白二条良実の孫で、大塔宮の執事であった殿法印良忠、中院中将定平を大将として、伊東、松田、頓宮(はやみ)、富田判官の一党、現在の大阪府枚方市内に相当する真木・葛葉のあぶれ者(=ならず者)たちを射手にして総勢3,000余騎が伏見、木幡に火を放ち、鳥羽、竹田から押し寄せる。もう一方の軍勢は赤松入道円心をはじめとして、赤松の一族である宇野、柏原、佐用(さよ)、真島、得平、現在の岡山県和気郡和気町衣笠の武士である衣笠、岡山県英田郡にいた菅原氏の血を引く一党総勢3,500余騎で、京都市西京区川島、桂に相当する一帯に火を放ち、西の七条から攻め寄せる。

 六波羅の2人の探題はこれまでの軍に勝利を収めてきたことで、士気は上がっており、3万余騎の兵力が計算できるために少しも慌てる様子は見せなかった。比叡山は再び幕府支持に方針を変えたとはいうものの、油断はできないと近江守護佐々木時信、常陸前司の小田時朝、長井縫殿(ぬい)に3,000余騎を率いさせて鴨川と高野川の合流地点、下鴨神社の一帯である糺河原に差し向けた。また3月12日の戦闘で戦功をあげた河野・陶山に5,000余騎をつけて、前回活躍した法性寺大路に派遣した。石川県石川郡野々市町に住んでいた富樫、同じく白山市に住んでいた林、越前(福井県東部)の守護であった島津、広島県竹原市に住んだ小早川の一族にその他の国々の兵6,000を委ねて、西八条、東寺方面を守らせ、備前(岡山県)の守護であった加治源太左衛門尉、隅田、高橋、糟谷、神奈川県平塚市土屋に住んだ武士である土屋、阿波(徳島県)守護である小笠原に7,000余騎をつけて西七条口へと差し向けた。そのほか、戦局に応じて支援に加わる兵力として六波羅に1,000余騎の軍勢が控えていた。

 その日の巳の刻(午前10時ごろ)から絵か所で両軍の戦いが始まり、兵力を交替させながら戦った。赤松勢は騎馬の兵が少なく、徒歩の射手が多いので、小路小路を塞いで盛んに矢を射掛ける。六波羅勢は騎馬の兵が多く歩兵が少ないので、相手を蹴散らしながら包囲していこうとする。両者ともにさまざまな作戦を繰り出して戦ったので、なかなか勝負はつかない。

 夕方近くなって河野・陶山が300余騎を率いて猛攻撃を掛けたために、木幡に陣を張っていた赤松勢3,000余騎が踏みとどまることができず、宇治へと退却した。陶山と河野は深追いをせずに、竹田河原を斜めに横切って鳥羽殿の北の門を迂回して作り道へ出て、東寺周辺の赤松勢を攻撃しようとする。赤松勢はふりを悟って、京都府向日市寺戸のあたりを指して敗走していく。

 小早川と島津は東寺周辺にいた敵と戦っていたが、河野・陶山に敵の第一陣を追い払われて、味方に後れを取ったことが悔しく思われ西七条に押し寄せてきた敵と戦って手柄を立てようと西の朱雀へと向かう。ここにいたのは赤松円心の率いる3,000余騎で、一番の精鋭がそろっていてそう簡単に負けるような相手ではなかったのだが、横合いから河野・島津が襲い掛かってきたことで、それまで戦っていた六波羅の兵が元気を取り戻して、さかんに攻め立てたので、赤松勢の陣形は崩れて、危なくなってきた。

 ここに登場した武士たちの姓を見てゆくと、その後の時代に活躍した氏族がいくつか見いだされる。その一方で小早川氏が源頼朝に挙兵の時から従った土肥実平の子孫であるというように過去とのつながりも認められる。そんなことからも『太平記』が歴史の過渡期を描いた文学作品だということを窺い知ることができる。騎馬武者の多い六波羅勢と徒歩(かち)立ちの兵士たちが多い赤松勢という対比も、古い勢力と新しい勢力とがそれぞれ独特の戦法をもっていることを示しているようである。赤松円心が決して多くはない兵力で京都を攻め続けるのは戦術的に正しいかどうか疑問に思われる。ただ、その攻撃の背景には大塔宮護良親王のご意向が何らかの形で反映しているのかもしれない。

私の世界地図は単純ではない

8月7日(金)晴れ後曇り

私の世界地図は単純ではない

私の世界地図は単純ではない
地球そのもののように
青くて丸く
その中で生きている
1人1人の人々の
生活を描こうとするものだ

私の世界地図は単純ではない
海があり陸地があり
島があり山があり
木々が緑を競い
花が咲いている

どこかの国の大統領の世界地図は
2色に塗り分けられていて
不可思議な国境線が
あちこちに引かれ
敵と味方とが
詳しく書き記されている(らしい)
私は大統領ではないから
本当のことはわからない
でも2色に塗り分けられているのは
本当のことだろう

私の世界地図は単純ではない
あるがままの世界
そのものの色を
捕えようとする
世界を乱暴に二分して
敵か味方か
敵の敵は味方か敵か
敵の敵の敵は味方か敵か
などという
分類ばかりに熱中したりしない

ありのままは豊かで複雑だ
海と陸地
動物と植物
村や町や人々の
生きた姿を
豊かで複雑な
ありのままに捕えようとする
それが私の世界地図だ

加東大介『南の島に雪が降る』(2)

8月6日(木)晴れ

 広島に原子爆弾が投下されてから70年目となる。当ブログでは、8月6日には被爆死した俳優・丸山定夫と彼が主宰していた劇団・さくら隊、その一員であり、稲垣浩監督の映画『無法松の一生』で吉岡夫人を演じた園井恵子について書くことにしている。といっても、同じことを何度も書くわけにはいかず、加東大介の『南の島に雪が降る』の紹介がここしばらく滞っていたので、その中にこの映画について触れた個所があったのを思い出して、取り上げることにした次第である。

 戦後、加東大介という名前で映画・舞台で活躍する本名・加藤徳之助は、前進座の俳優として市川莚司を名乗って舞台に立っていた1943(昭和18)年の10月に2度目の召集を受け、陸軍衛生伍長として西ニューギニアのマノクワリに派遣されることになる。戦局の悪化の中で、マノクワリの部隊は孤立し、戦闘よりもまず生存のための苦闘を余儀なくされる。その中で、部隊の士気を保ち、鼓舞するための演劇分隊の創設が提案され、内地では前進座の役者として演芸の経験のある加東を中心に何人かの隊員が集められ、それぞれの芸を披露することになるが、なかなかのもので、忽ち人気を博すことになる。

 ところで、物語の全体を紹介した後で、書こうと思っていて、わざと紹介せずにいた個所がある。この書物の基調になっていることの1つは加東の役者バカ的な生き方、演劇と部隊への情熱であるが、それとともに見逃せないのが、肉親への愛情である。ご承知の通り、彼の兄は沢村国太郎、姉は貞子、そして国太郎の息子は長門裕之と津川雅彦という芸能一家である。といっても、現存しているのは津川一人というのは寂しい限りなのだが、一家の結束の中で、甥である長門裕之と津川雅彦に寄せる思いが記された個所を紹介しておくことにする。

 召集を受けた加東は舞台に立っていた大阪から東京へ向かう。夫人(同じく前進座の女優であった京町みち代)と実兄の沢村国太郎が同行する。入隊する前に、両親と姉の沢村貞子が住んでいる桜上水の家に立ち寄る。その家には舞台があったので、父親の要望に応えて、夫人と2人で<鶴亀>を舞うと、姉の貞子が記念にと舞扇をくれる。その舞扇を持って入隊することにする。
「――乗船準備のために大阪へ移送されると、港のそばの宿屋に分宿した。私はただちに管区司令部へ「全員到着」を報告にいかされた。
 大阪城にある司令部へ出頭しての帰り途、市電で道頓堀にきかかったとき、窓の外に映画の看板が見えた。
『稲垣浩監督<無法松の一生>主演 阪東妻三郎 園井恵子』
 ちょいと見ていこうかなと思った。このシャシンには、兄の長男沢村アキヲが、吉岡少年の役で出ている。まだ8つぐらいで、これが映画への初出演だった。いまの長門裕之である」(30-31ページ)。

 映画のことをシャシンというのは一種の業界用語である。戦後、映画俳優として活躍することになった加東であるが、戦前から前進座の俳優として映画に出演していた。そこで千日前で市電を降りて、映画の開映時刻を聞くとちょうどいいので、切符を買ったところで、憲兵に見とがめられる。公用外出の帰りに映画を見ることはまかりならぬというのである。自分が前進座の俳優で、甥がこの映画に出ているので、その姿を見ておきたいのだと事情を説明すると、その憲兵が話のわかる人で見逃してくれる。
「シャレタ奴だった。おかげで、ゆっくりアキヲと別れを楽しめた」(34ページ)。
 さらに兄の国太郎がまだ3歳であった(津川)雅彦を連れてきたのに会ったことも記されている。
 芸能一家の肉親のうらやましいほどの結束ぶりがよく描かれている。

 加東大介は実際に舞台に立っていたのだが、加東よりも少し年少で昭和10年代(前半)の慶応ボーイであった私の父親のように、築地小劇場などで戦前の名舞台に接した経験を持つ人たちも少なくなかった。ところが、私の父親も、同世代の人々の多くも、そのような戦前の築地の舞台に立っていた俳優たちの戦中戦後の消息には疎く、その分戦後の復興のために一生懸命に働いたということかもしれないが、丸山定夫が被爆死したことも知らないという人に出会ったときには正直驚いた。学生時代の趣味を就職後も維持していくことが難しいのは、昔に限ったことではないが、芸能人たちがどのように戦争を経験したか、戦死したり、戦災死したりした芸能人が少なくなかったことをやはり記憶し続け、語り続けるべきだろうと思っている。

 そんなことを考えると、加東の戦中の体験記であるこの書物はきわめて重要な意義を持っているのである。彼の主宰する演芸分隊のマノクワリにおける活躍ぶりについては、また次回以降。

日記抄(7月30日~8月5日)

8月5日(水)晴れ

 7月30日から本日までの間に経験したこと、考えたことから:
7月30日
 似鳥鶏『間もなく電車が出現します』(創元推理文庫)を読み終える。主要な語り手である葉山君の通学する市立○○高校で起きた様々な事件を、葉山君の先輩である伊神さんが中心となって、高校生自身の力で解決していく。葉山君はワトスンに終始するかというと、そうでもなく、さらに葉山君に関心を寄せているらしい、演劇部の部長である先輩の柳瀬さんの存在も物語の不思議な推進力となっている。

7月31日
 NHKラジオ「まいにちフランス語」応用編「ニュースで知りたいフランス文化」はエッフェル塔を取り上げた。
Ou'ont en commun Tokyo, Las Vegas, Hangzhou et Tegucigalpa? Réponse: toutes hébergent une réplique plus ou moins réussie
 de la tour Eifel, probablement le monument le plus imité du monde.
(東京、ラスベガス、杭州、そしてテグシガルパは、共通点として何をもっているでしょうか。答えは、すべて(の都市)が、出来栄えの良しあしはあるとしても、エッフェル塔のレプリカをもっているということです。エッフェル塔は、おそらく世界で一番イミテーションが作られている記念建造物です。) エッフェル塔を設計したギュスターヴ・エッフェル(Alexandre Gustave Eiffel,1832-1923) は傑出した技師で、パナマ運河の設計にも貢献しているのだが、その功績はアメリカ人に横取りされてしまった(ということは番組では触れられていなかった)。

8月1日
 昨日、加藤武さんが急死されたというニュースが飛び込んできた。旧制麻布中学で、フランキー堺、仲谷昇、小沢昭一、なだいなだ、内藤法美(作曲家で越路吹雪の夫)らと同学年であったという話は有名。一人逝き、二人逝き・・・かと次第に他人事でなくなる自分の余生についてどうしても考えてしまう。加藤さんが吹きこんだ芥川の短編集のテープをもっているので、聞いてみようかなと思う(フランキー堺が菊池寛を演じた大映映画『末は博士か大臣か』に加藤さんは出演していないが、芥川龍之介の役で仲谷昇が出演していた)。

 NHKラジオ「攻略!英語リスニング」では"Right Side of the Brain / Left Side of the Brain” (右脳・左脳)という話題を取り上げた。神経心理学者のロジャー・スペリーがてんかん患者の治療に取り組む中で左脳が人間の言語を管轄しているのではないかと考えたのが事の起こりなのだが、人によってどちらの脳が多く使われるというようなことはないそうで、
That’s more pop psychology than anything else.(それはいかにも通俗心理学だという話である)と結ばれていた。心理学に興味のある一般人は少なくないが、その大部分が心理学と通俗心理学の区別がついていないようであり、さらに言うと、心理学と通俗心理学の境界も実はあいまいだ…というのが一番の問題ではないかと思う。

8月2日
 NHKEテレ「日本の話芸」で昔昔亭桃太郎師匠の新作落語『カラオケ病院』を聞く。マクラに桃太郎さんの師匠であった故春風亭柳昇の思い出を持ってきたのが、先日聞いた桂ざこば師匠が『笠碁』のマクラにつかった桂米朝の思い出話を思い出させた。全体として評価すると、噺の中にちりばめられたギャグの1つ1つは面白いのだが、落語としてのまとまりに欠けるように思われるのが新作落語の限界であろうか。あるいは、何人もの落語家によって演じられているうちに、まとまりができていくということであろうか。

 高校総体の陸上が終わり、先週話題として取り上げた東大阪大学敬愛高校の石塚晴子選手は、結局女子400メートル、400メートル障害、1600メートルリレーの3冠で終わり、800メートルは2位だったとのことである。それでも彼女の活躍に加えて、400メートル障害で2位、1600メートルリレーでは石塚選手にバトンを渡すなどの活躍を見せた村上瑞季選手や、その他の選手の活躍もあり、東大阪大学敬愛高校が最高得点をあげた。石塚選手の将来に期待するとともに、彼女の陰に隠れた存在になりがちであった村上選手が今後どのように自分の才能を伸ばしていくかも注目してみていきたい。

8月3日
 似鳥鶏『いわゆる天使の文化祭』(創元推理文庫)を読み終える。葉山君以外の語り手が登場し、それぞれが語る事件が実は違う時期に起きたということに気付くのに時間がかかる。複雑で手の込んだミステリーではあるが、その工夫が読者を楽しませているかどうかについては議論が分かれるのではないか。葉山君の「年下の男の子」としての魅力が次第に明らかになっているのがシリーズを読み進む上でのお楽しみであろう。
 似鳥さんは市立千葉高校の出身で、先輩には椎名誠さんがいるそうだが、年齢差もかなりあるし、高校生活の体験もかなり違い、その結果としておふたりの作家としての特徴も共通点は乏しいようである。それにしても、千葉県は市立習志野高校、市立船橋高校など、市立の有名高校が多いのが一つの特色である。神奈川県も市立横浜商業(通称Y校)とか、市立横浜桜丘高校とか、市立で名の通った高校があるが、千葉県ほど華々しくはないという印象がある。都道府県によって公立学校の設置形態は結構違いがあるので、調べてみると面白いかもしれない。

 NHK「ラジオ英会話」にThat’s big news! (それは大ニュースですね!)という表現が出てきた。ここで注意すべきは「ニュース」のことを英語では「ニューズ」と発音するということ(テキストには「ニューs」ではなくて「ニューz」だと書かれている)だといわれたが、アメリカ人の発音を聞いていると「ニューz」か「ヌーz」かわからないことが少なくない。

8月4日
 NHKラジオ「まいにちロシア語」の時間を聞くともなしに聞いていたら、ロシアでは「アントノフカ」という小さな、青い、酸味の強い(ということは中央アジアの森林に自生しているというもともとの種に近い)リンゴが生食用にも、ジャムの原料としても人気があるという話が出てきた。日本では大きな、赤い、あまいリンゴのほうが好きだというのが一般的ではなかろうか。アメリカの各地にリンゴの苗木や種を配って歩いたというジョニー・アップルシードJohnny Appleseed (1774-1845) の伝説など、リンゴには様々な物語が付きまとっている。こちらも多種多様ということであろう。

8月5日
 NHK「ラジオ英会話」にズボンのウェストバンドについて It's too loose. (ゆるすぎます)という表現が出てきた。looseという語は、日本では「ルーズ」と読まれることが多いが、英語では「ルーs」である。

ダンテ・アリギエリ『神曲 煉獄篇』(10-2)

8月4日(火)晴れ後曇り

 煉獄の門をくぐって岩山の急な斜面の左右に折れ曲がる裂け目を登り、ダンテとウェルギリウスは斜面がいったん終わって山の周辺に平坦な土地が広がっている場所にたどりつく。そこには高慢の罪を矯正するために謙譲の美徳の例を示す浮彫が、刻まれていた。まず、天使ガブリエルが処女マリアのもとに遣わされる<受胎告知>の場面が
私たちの前に、真に迫って、
物言わぬ像とは見えぬほど
優美な姿でそこに彫られていた。
(149ページ) ダンテがそれに見とれていると、
「知性を一所に留めておいてはならぬ」。
人の心臓がある側に私を
おいて、心優しき師はおっしゃった。
(150ページ) ウェルギリウスの言葉に従って、ダンテは視線を動かし、別の物語を刻んだ浮き彫りに向かった。
そのため私はウェルギリウスを追い越し、
私の目にさらにそれがはっきりと映るように近寄った。
(150-151ページ) 

 そこには旧約聖書に出て来るイスラエルとユダヤの王になったダヴィデがペリシテ人を滅ぼしたのち、神の聖櫃をエルサレムに運び込もうとしたことが描かれていた。聖櫃に触れられるのは神官だけだったが、運搬中に牛がよろけ、ウザという男が聖櫃に手を触れ、神の怒りの雷撃で死んだ(聖櫃に触れるのが神の怒りに触れる越権行為だというのだが、どうも納得できないところがある)。
 3か月後、聖櫃はエルサレムに運び入れられ、
そこでは、祝福された器の前を
服を跳ね上げて踊りながら、謙虚な詩篇の作者が進んでいた。
その時の彼は王以上でもあり以下でもあった。
(152ページ) 「祝福された器」は聖櫃のこと、「詩篇の作者」はダヴィデのことである。旧約聖書の「詩篇」はダヴィデ1人の創作によるものだとは考えられないが、長らくそのように信じられてきたし、ダンテもそう考えていた。彼が喜んで踊る姿は、神に仕える姿であり、人々には召使のように見えたが、神に仕えるが故、神にとっては王以上であった。
 ダヴィデの妃であるミカルはダヴィデの踊る姿を見てさげすんだが、その報いで彼女は子を持てなかったと旧約聖書の『サムエル記』には記されている。ダンテはミカルがダヴィデをさげすむ姿を見たと歌っているが、その後の運命については記していない。(もっともダヴィデの正室であるミカルに子どもができなかったことで、ダヴィデの死後、側室の子どもたちの間で王位継承をめぐり血なまぐさい宮廷内の闘争が起きるのだが、それはこの場面の主題とは無関係である。)

 ダンテが最後に見た浮彫は、ローマの五賢帝の1人であるトラヤヌスの逸話を刻んだものである。トラヤヌスが身寄りのない未亡人の殺された自分の息子の仇をとってくれという訴えを聞き届ける話は、ローマの皇帝が神の定める正義である法と慈悲の精神を実行した例として、ローマ教皇グレゴリウスⅠ世を感動させ、この教皇の祈りを受けてトラヤヌスは生き返って、教皇から洗礼を受けて、天国へ行ったという伝説が中世になると語られるようになった。歴史上のトラヤヌスはキリスト教徒を迫害したのであるが、それは忘れられたのである。そしてダンテは、皇帝であっても神の法の前には謙虚であったとして、ここにその行為を描きだす。新約聖書に基づく物語、旧約聖書に基づく物語、そしてローマ帝国の物語が取り上げられているところに、ダンテの世界観が現われているとみるべきであろう。

 ダンテがこれらの謙譲の徳の例に接して喜びの気持ちに浸っていると、
「ついに現れた。遅々とした歩みだが、
――詩人は呟いていた――大勢の人々が、
この人々が高く連なる階段へ続く道を我らに示してくれるだろう」
(155ページ) 煉獄で現世における罪を清めようとしている人々の霊の群れが現われる。彼らが岩に押しつぶされそうになりながら、地面に這いつくばって進もうとする姿にダンテは驚く。それらの魂は
涙を流しながらこう言っているかのようだった。「もう耐えられぬ」。
(159ページ) 翻訳者である原さんは「ゴシック建築の聖堂の中には、天井や屋根を支える持ち送りや柱の柱頭などに、それを支える彫刻が施され、その中に「私にはもう耐えられません」と記されているものがある」(159ページ)と注記している。たとえ、そう思っても、耐え抜かなければ天国への道は開かれないのである。

<創造性>をめぐって

8月3日(月)晴れのち曇り

 教師を目指す学生たちの中には、子どもたちの創造性を伸ばすにはどうすればよいのかというようなことを考えるものが少なくないのだが、実際に教師になってみると、現場の現実に流されてそれどころではなくなる例が多いというような発言を目にしたことがある。就職してみると、学生時代に想像していたよりもはるかに忙しい現実があるということは否定できないし、先生方が雑用に忙殺されているというのは、日本の教育の未来のために解決すべき問題の1つであるのだが、それはさておいて、「子どもたちの創造性を伸ばすにはどうすればよいのか」という思考には気になる点がある。

 1つには<創造性>と言っても、芸術的な創造性、科学的な創造性、企業の中での商品開発における創造性、経営手法の創造性などいろいろな形での創造性があって、それらに共通性があるとは思えないことである。芸術的な創造性1つをとってみても、音楽と美術、美術の中でも絵画と彫刻では創造性のあり方が違ってくるのではなかろうか。<創造性>を考えるのであれば、もっと具体的な場面に即して、しっかりした定義をする必要がある。

 もう1つは、学生たちが考えるほど、子どもたちの将来にとって<創造性>が必要なものなのかということを真剣に考える必要があるということである。教育の目的の1つは普通の子どもたちを普通の大人に育てていくことである。この当たり前のことを無視してはいけない。子どもたちに周囲の環境に働きかけて、それを変えていく、新しいものを作り出すことを教えることは教育の重要な仕事の1つであるが、その前に周囲の環境に適応し、それに慣れ親しませるように心がけるべきである。<創造>は、そうした適応の努力で対応できない、その先にある危機的な場面を解決しようとする営為である。だからそれ以前に蓄積された、既存の文化や技術を学ぶ膨大な努力を必要とするはずである。

 だから<創造性>を育てる教育というのは、ちょっと変わった授業を工夫するというようなことではなくて、子どもたちに努力を積み重ねて、その努力が意味のあるものになるようにするにはどうすればよいかということを体得させることである。授業の工夫よりも、子どもたちの日常的な生活態度への働きかけが重要なのである。このような場合に手がかりを与えてくれるのは、役割モデルを設定することである。子どもたちに科学への興味を持たせるためには、科学者や発明家の伝記を読ませるのがよいといわれるが、そういう伝記を読んで、自分なりのあこがれの人間を持つことが創造へのきっかけとなるはずである。(ただし、興味を持たない子どももいるし、興味を持っても子ども自身の素質や環境の問題もあるから、すべての子どもにそれを当てはめようとするのは無理である。)

 子どもの発達段階にもよるのだが、きれいごとだけを書き連ねた伝記よりも、否定面を遠慮せずに書いた本のほうが印象に残るのではなかろうか。最近、梅棹忠夫の『知的生産の技術』が増刷されて書店に並んでいるが、私にとっての役割モデルの1人である梅棹のこの本よりも、梅棹の秘書を務めた藤本ますみが彼の知的作業の内実を描いた『知的生産者たちの現場』のほうが面白い。あるべき姿や願望を書き連ねた本よりも、失敗や否定面を包み隠さずに書いた本のほうが後進にとって役立つことが多い。

 結局のところ、<創造性>というのは努力や失敗と表裏の関係にあって、その表裏の関係は口先だけで教えられるものではなく、もっときめ細かな教師自身の生き方を含めた働きかけを必要とするものである。だから教師自身が毎日の生活について創造的な態度を持つ、魅力的な存在である必要があるだろう。中学時代に2年間担任をしていただいた先生は、日本の伝統文化に深い関心を持ち、俳句や茶道をたしなまれる一方で、生徒たちの学業指導に熱心で、毎週の計画表を作らせて、それがきちんと実践できているかを点検されていた。私は子どものころから、成果さえ出せば、その過程はどうでもいいだろうという人間だったので、あまりおほめにあずかることはなかったのだが、それでも、どのような努力を積み重ねて、どのような目的につなげていくかということを計画することを先生が強調されたのは間違いではなかったと思う。努力は計画的に積み重ねることができるが、成果としての<創造>は計画的に生み出されるものではない。<創造>は突然やってくるし、来ないかもしれない。「人生は運、鈍、根」という言い方がよくあてはまる。

『太平記』(56)

8月2日(日)晴れ後曇り、一時雨が降ったかもしれない

 元弘3年(1333年)3月12日、播磨に本拠を置く赤松一族は京都に進撃、その一部は六波羅付近まで迫ったが、幕府方の河野九郎左衛門尉と陶山次郎の活躍により撃退される。12日の合戦に敗れた赤松勢は、中院貞能を聖護院宮と称して大将とし、山崎・八幡に陣を置いて西国への道を塞いだ。15日、六波羅勢は西岡で赤松勢と戦った。

 京都で合戦が始まったものの、赤松勢がややもすると不利になる場面があることが伝わってきたので、大塔宮から使者が比叡山延暦寺に派遣され、廻し文が届けられた。大塔宮は以前、天台座主として比叡山にいらっしゃったので、まだ残る影響力を利用して、比叡山の僧兵たちを味方に引き入れようというのである。これを受けて3月26日に比叡山の僧侶たちが大講堂に集まってっ協議した結果、比叡山はもともと皇室を守る垣根の役割を果たしてきた寺院であり、仏法の道場であるとはいえ、その一方で仏敵を滅ぼすために武装を固めてきた。現在の状況を見ると、幕府が横暴をきわめて天皇が苦しまれている。我々は僧侶ではあるが、国家と朝廷のために立ち上がるべき時であるという結論を得る。

 3月28日には六波羅に攻め寄せようと決議され、その知らせが末寺末社だけでなく、付近の武士たちにも届き、3月27日に集まった兵を数えると10万6千余騎に達していた。これだけの大勢で攻めれば、そのうわさを聞いただけで六波羅勢は逃げ出すだろうと勝手に判断して八幡、山崎に陣を構えている赤松勢と連絡を取り合うこともせず、28日の卯の刻(午前6時ごろ)に岡崎の法勝寺で勢揃いをすると決めたので、しっかり武装も整えず、兵糧を食べておくということもせずに、比叡山を東の方へと下る今路、あるいは西の方へと向かう雲母坂を通って都へと向かって行った。

 六波羅の2人の探題はこの情報を得て、比叡山の衆徒たちは大勢ではあるが十分な武装も整えていない烏合の衆である。騎馬の射手をそろえて、三条河原のあたりに待機させ、馬を散開させたり集合させたり自在に動かして、射まくれば追い散らすことができるだろうと判断する。

 比叡山の衆徒の方はそうとは知らず、都に入ったら適当な民家を見つけて宿として、略奪してやろうと(ロクなことを考えていない)集まってくる。前の方の僧兵たちが岡崎の法勝寺、浄土寺の真如堂に到着したころに、後ろの方の僧兵たちはまだ坂本を出発していない。六波羅を圧倒的に上回る兵力であるので、大勝は疑いなしとすでに敵を呑んでかかっている。

 先方の僧兵たちが法勝寺にともかくも到着したころに、六波羅勢7千余騎が三方から攻め寄せて、鬨の声をあげる。急なことで慌てて1,000人余りの兵が西門から迎え撃とうとすると、攻め寄せてきた武士たちは退き、僧兵たちが戻ろうとすると、また進んで攻め寄せようとする。こういうことが何度か続いて、徒歩の僧兵たちがつかれてきたころを見計らって六波羅勢は矢を射かける。僧兵たちが法勝寺に逃げ込もうとすると、西門のあたりに佐治孫五郎という剛勇の武士が待ち構えていて、約1.6メートルというそれまではなかったような長大な刀をふりまわして、僧兵3人を胴切りにして、刀が少し曲がったのを門の扉に宛てて押し直し、さらにやってくる敵は切り捨てるぞと馬上でにらみを利かせている。僧兵たちはこれを見て、その勢いに圧倒され、法勝寺にさらに敵がいるかもしれないと思い、そのまま真如堂の前、神楽岡の後ろを二手に分かれて比叡山へと敗走する。

 敗走する僧兵たちの中に豪鑑、豪仙という比叡山中に名を知られた荒法師がいた。いったんは北白川を目指して逃げかけたが、このまま敗走しては比叡山の名折れになるだけだ、勇ましく戦って名誉を挽回しようと申し合わせて、法勝寺の北門の前に建ち並んで大声で名乗りを上げ、武士たちに勝負を挑む。こうしてしばらくは戦い続けたが、後に続くものもいないまま、雨がfるように矢を浴びせかけられたので、2人とも10カ所以上の傷を負い、今はこれまで、冥途までも同道しようと腹を十文字にかき切って最期を遂げる。これを見て、「日本一の剛の者かな」と惜しまない人はいなかったという。豪鑑、豪線のこのような働きはあったが、比叡山の僧兵たちは、そのほとんどが山上に逃げ帰ったのであった。

 比叡山の衆徒が護良親王の廻し文を受け取って展開する議論は、なかなか形が整っているのだが、肝心の六波羅攻撃になると、指揮系統がはっきりせず、作戦もなにもなくただ押しかけて、経験豊富な武士たちの防戦にあっさりと敗走してしまう。赤松が京都と西国との連絡を遮断したように、北陸地方や東海地方との連絡を遮断するとか、ゲリラ戦で六波羅を挑発して疲弊させるとかいう作戦が取れないところに、優れた指揮官を持たない比叡山の弱点があらわれているようである。

 法勝寺という寺は今はなく、法勝寺町という地名が残っているだけだが、真如堂は今でもあるし、神楽岡、北白川など、私が学生時代を過ごした京都大学近くの地名が登場し、だいたいどのあたりで何が起きたかが想像できた。この時代、鴨川よりも東の一帯に住む人は現在に比べてはるかに少なく、野原や畑であった土地も少なくはないのだろうが、僧兵たちや武士たちの戦闘のために生活を蹂躙されるのはひどい苦しみであっただろうとも思う。
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