2015年の2015を目指して(7)

7月31日(金)晴れ

 7月は新たに東京都豊島区に出かけ、池袋駅を利用した。今年になって出かけたのは2都県、9市区である。
 新たに利用した鉄道路線はない。1月からの合計では6社、13路線、15駅ということである。

 今月書いたブログは31件で、1月からの通算では214件である。3件のコメント、612の拍手を頂いている。1月からのコメント合計は17件になる。

 買った本は16冊、読んだ本は10冊で、買った本の合計は89冊、読ん本の合計は69冊ということである。読んだ本を列挙すると、キャロル・ネルソン・ダグラス『おやすみなさい、ホームズさん(上)』、キャロル・ネルソン・ダグラス『おやすみなさい、ホームズさん(下)』、佐高信/松元ヒロ『安倍政権を笑い倒す』、杉之尾宜生『大東亜戦争 敗北の本質』、R・P・ファインマン『ご冗談でしょう、ファインマンさん(上)』、加東大介『南の島に雪が降る』、施光恒『英語化は愚民化』、沢村浩輔『夜の床屋』、似鳥鶏『理由あって冬に出る』、似鳥鶏『まもなく電車が出現します』ということで、どうも軽読書が多くなっている。涼しい時間を利用して、もう少し内容のある書物を読むように心がけたいものである。

 ラジオ英会話を23回、、入門ビジネス英語を8回、実践ビジネス英語を15回、攻略!英語リスニングを8回、ワンポイントニュースで英会話を23回、まいにちフランス語を21回、まいにちイタリア語を23回、アラビア語講座を4回聴いている。1月からの通算では、ラジオ英会話が141回、入門ビジネス英語が58回、実践ビジネス英語が87回、攻略!英語リスニングが56回、フランス語が136回、まいにちイタリア語が139回、アラビア語講座が16回ということである。このほか1~3月に「まいにちドイツ語」を59回聴いている。

 NHKカルチャーラジオ「プロテスト・ソングとその時代」、「ボブ・ディランの世界を読む」、「私達はどこから来たのか 人類700万年史」をそれぞれ3回ずつ聴いている(1回ずつ聴き落としているらしい)。4~6月に「私の落語はくぶつ誌」「17音の可能性」を12回ずつ、1~3月に「続シルクロード10の謎」と『ガリバー旅行記」を11回ずつ、「富士山はなぜそこにあるのか」を10回聴いている。

 7月に見た映画は市川崑の『プーサン』、鈴木清順の『肉体の門』『殺しの烙印』の3本にとどまった。1月から見た映画の通算は20本と、少し少なめである。それに新しい映画をあまり見ていないのが問題といえよう。池袋の新文芸坐に出かけたので、今年になってから足を運んだ映画館は8館となった。

 サッカーの試合は横浜FC対水戸ホーリーホックの1試合にとどまった。1月からの通算では12試合で、全国高校サッカー選手権が4試合、J2が8試合ということである。

 ノートを2冊使い切り、1月からの合計は16冊である。3色ボールペンの芯(黒0.7ミリ)を2本、(黒0.5ミリ)を1本、テキストサーファー(黄)を2本、使い切っている。

 酒を飲まなかったのが6日で、少し増えてきた。1月からの合計では23日である。

 梅雨明け後の猛暑に圧倒されて、頭を使うのも、体を動かすのもおっくうだが、いつまでも続くわけのものではないので、何とか乗り切っていきたいと考えている。
 いよいよ70歳を迎え、高齢者用のパスが使えるようになった。無理をせずに、使えるものは使いながら、毎日を過ごしていくつもりである。
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夏の坂道

7月30日(木)晴れたり曇ったり
夏の坂道

坂道を登ってくる
日焼けした顔が
暑いねぇと言いながら
近づいてくる

うん、暑いねぇと
こたえて
久しぶりにあったのに
立ち話もせずに
そのまま
坂道を下る

子どものころに
一緒に坂道を下り
学校に向かい
坂道を登って
家に帰った
友人のことだ

無事にすれ違っただけで
よしとしよう
そんなことを考えながら
さらに坂道を下る
下る方が楽だとはいうものの
もう汗びっしょりになっている

日記抄(7月23日~29日)

7月29日(水)曇り、依然として暑さが続く

 7月23日から本日にかけての間に経験したこと、考えたことなど:
7月23日
 NHKラジオ「まいにちフランス語」応用編「ニュースで知りたいフランス文化」では「カンヌ映画祭 脚立のギャング団」という話題を取り上げた。
À Cannes, devant le Palais des Festivals, il y a un boulevard où les stars arrivent en voiture de luxe. (カンヌのパレ・デ・フェスティバル(カンヌ映画祭会場の施設名)の前には大通りがあり、スターたちは高級車でそこに到着します。) Et au milieu de ce boulevard, il y a une bande étroite de terrrain qui sépare les voies. (そしてその大通りの中央には、車線を分ける細長い帯状の土地があります。) Des fans s'y installent pour regarder de près leurs idoles. (ファンたちは、そこに陣取って、彼らのアイドルたちを間近から見るのです。)
 映画祭の開催中、帯状の土地(中央分離帯)に設置される柵に南京錠で 脚立を結び付け、映画祭が始まる何時間も前からファンたちはスターたちを待ち受けるのである。カンヌ映画祭が、映画の発展に貢献してきた歴史を考えると、こういう決死隊的なファンが大勢出てきてもそれほど不思議なことだとは思われない。

7月24日
 NHKラジオ「ワンポイントニュースで英会話」では、”Stores help tourists with tax-free shopping"(コンビニ、外国人旅行者をターゲットに)というニュースを取り上げた。デパートや大手家電量販店だけでなく、コンビニもまた増え続ける外国人の顧客の便宜を図ることで、さらに多くの顧客を得ようとしているという内容である。考えてみると、私の英国滞在中、家人はデパートや有名店舗よりもスーパーやコンビニで土産物を買いあさっていたものである。さらに1ポンドショップというのがあって、我が国の100円ショップのようなものだが、これもかなり利用していた。リヴァプールには1ポンドどころか50ペンス・ショップというのがあって、ここで売っているスリッパなどは大喜びで買いあさっていたという記憶がある。

7月25日
 NHKラジオ「アラビア語講座」の「おしゃべりマクハー」のコーナーではコーヒーが話題として取り上げられた。コーヒー(アラビア語ではカフワ)を飲む場所がマクハーで、アラビア語と文化をめぐる雑談コーナーの名称になっているということである。

 『朝日新聞』のスポーツ欄に今年の高校総体の陸上部門で5冠獲得の期待がかかっているという石塚晴子選手(東大阪大学敬愛高校3年生)の記事が出ていた。女子400メートル、800メートル、400メートルの3種目で今季の全国最高記録を持っているのだという。800メートルの選手は800メートルと同じ中距離の1500メートルを得意とする選手が多いが、時々、400メートルと800メートルを得意とする選手がいる(少し古いが、キューバのファントレナ選手などはその例であった)。石塚選手が今後どういう方向に進んでいくか、さまざまな可能性が考えられ、楽しみである。

7月26日
 施光恒『英語化は愚民化 日本の国力が地に落ちる』(集英社新書)を読み終える。英語化がもたらしそうな問題が列挙されているが、特に「モノづくり」を支える知的・文化的基盤が損なわれる、外国語での嗜好が創造性を損なう、「翻訳」の衰退が日本人の思考力を衰弱させ、日本語の地位を低下させるという指摘は読み応えがある。

 ニッパツ三ツ沢球技場で横浜FC対水戸ホーリーホックの対戦を観戦する。前半こそ優位に試合を運んだが、後半動きが目に見えて悪くなった横浜が0-2で敗れる。それにしても、どうしてこんなにホームで弱いのであろうか。こんな試合をしていては、サポーターが離れていくばかりである。

7月27日
 NHKラジオ「まいにちロシア語」の終わりの方を聞いていたら、ロシアにおける地下鉄の話が出てきた。ロシアではモスクワ、ペテルブルクを始めとしていくつかの都市に地下鉄があるという。もっとも古いのはモスクワの地下鉄で、ぺテルブルクのある駅は地下100メートルを超す深さをもっていて、地下鉄駅としては世界第2位の深さであり、ペテルブルクの地下鉄の平均的な深さは世界一なのだそうだ。聞くところによると、旧ソ連時代に独ソ戦を想定して地下鉄を作っておいたという話だが、それと関係があるのだろうか。
 私は地下鉄がわりに好きで、仙台の地下鉄には乗ったことがないが、札幌、東京(メトロ、都営)、横浜、名古屋、京都、大阪、神戸、福岡、ソウル、ロンドンの地下鉄に乗ったことがある。リヴァプールにも地下鉄のようなものがあるのだが、これは数には入れられないらしい。ローマのようにちょっと掘るとすぐに遺跡が出てくる街は地下鉄には不向きであり、ニューカッスルのようにもとも と炭鉱があった都市は地下鉄を通しやすい。ペテルブルクのような埋立地の近く深くに地下鉄が開通しているというのも興味深い。

 沢村浩輔『夜の床屋』(創元推理文庫)を読み終える。語り手が体験する不思議な事件を集めた短編集かと思ったら、最後の方でそれぞれのエピソードに関連があるかもしれないという話になる。後半になって怪奇色が強くなり、あらためて推理小説と怪奇小説の歴史的展開について考えたりした。匂いについての記述が多いのもこの作家の特色で、作者が思い描いている匂いをどの程度読者が復元できるかというのもこの作家の作品を読む時のポイントになりそうだ。

7月28日
 なぜか夢の中で神戸に住もうと家を探していた。その途中、駅のプラットフォームに金髪で紫色の着物を着た西郷隆盛にであう。夢の中とはいえ、どうも不思議な話だった。

 高校野球の神奈川県大会決勝、試合開始のだいぶ前から長蛇の列ができて、球場は超満員になったらしい。ドラフト1位指名確実な選手を2人も揃えて、危なげなく勝ち進んできた東海大相模高校と、伝統校ながら今年は陣容が整わずノー・シードから何度も接戦を制して勝ち残ってきた横浜高校の対戦。横浜の渡辺監督はこの大会を最後に勇退を決めているということで、話題には事欠かない対戦であったが、東海大相模高校が9-0で横浜高校に大勝して甲子園に進出した。

7月29日
 似鳥鶏『理由(わけ)あって冬に出る』(創元推理文庫)を読み終える。ある高校の文化部の部室が詰め込まれている建物に「幽霊」が出るという噂が立ち、高校生たちがその真偽を確かめようとする。その中にそれぞれの部活を盛んにしたい、先輩=後輩の関係、恋愛関係など、さまざまな感情がもつれ合って物語が進んでいく。高校の部活(というよりも部活に寄せる部員の思い)の描写が面白いのだが、私が常日頃見かけている高校生たちは、どんな部活をして、どんな思いを寄せているのだろうか。

ダンテ・アリギエリ『神曲 煉獄篇』(10‐1)

7月28日(火)晴れ、暑さが続く。

 第9歌では、前煉獄の王侯の谷で夜を過ごすうちに眠りに誘われたダンテを、空から助けに降りてきた聖女ルチーアが煉獄の門の前まで運び、ダンテとウェルギリウスは剣を持った天使に護られた煉獄の門を通って先に進むことを許され、先に進むことになる。

門の閾(しきい)のうちに私達は入った。
その門は、人々の魂に巣食う悪しき愛が
歪んだ道をまっすぐであるかのように見せるため、人が通わず、

それゆえに、その後ろで扉が音を立てて再び閉じられるのが聞こえた。
(146ページ) 地上で人々は「悪しき愛」ゆえに権力や財産を欲し、地上の栄光には至るが神に至ることのない「歪んだ」道を「まっすぐ」と考えてしまう。そのために天国に至る煉獄の門をくぐる魂は少ない。ダンテとウェルギリウスが通り抜けた後、門の扉は再び閉められる。煉獄の門を通り抜ける際に後ろを振り返ってはならないと厳命されているので、ダンテは扉が閉まる音を聞くだけである。

私達は一つの岩塊に穿たれた裂け目の中を登っていった。
それは右に左にうねり続け、
まるで寄せては返す波のようだった。
(同上) 2人は煉獄山の急な斜面を苦心しながら登っていく。そして山を取り巻く第1の環道である「台地」にたどりつく。そこには純白な大理石に見事な浮彫が刻まれていた。
自然さえもがその前では顔色を失うほどの出来栄えだった。
(149ページ) 

 2人が最初に目にするのは「受胎告知」、天使ガブリエルが処女マリアに神の子の受胎=神と人類の間の<和解の布告>を行う場面である。マリアの姿には「神の侍女はここにおります」(150ページ、「ルカによる福音書」1.38に見られる) という言葉が刻まれているように見えた。

 この第10歌から第12歌までの間で描かれているのは「高慢」の罪への贖いであり、受胎告知の場面は聖母マリアの謙譲を示すことによって、煉獄山を登る魂たちに教訓を与えるためのものなのである。原さんの解説は「中世人ダンテにとって数は象徴的な意味を持つ。…神の奇跡を表す数字「9」を持つ前歌(第9歌)で、ダンテは天使から告解の秘跡を受けて贖罪の道に入った」(533ページ)といい、さらに、「10」が完全数として神を表しているという。それゆえ、『地獄篇』『煉獄篇』『天国篇』の各々で第10歌は神と直接関係する主題が取り上げられているという。(ところが、一般に理解されている「完全数」というのは、その数自身を除く約数の和がその数と一致する数:例えば6=1+2+3 とか28=1+2+4+7+14をいうので、ダンテの数についての考え方は注意して取り扱う必要がありそうである。)

 この後さらに、謙譲の徳を示す浮彫が2人の眼前に展開されるが、受胎告知の場面と合わせ、キリスト者ではない人間の目から見ると、それが果たして謙譲の徳を示すものであるのか、疑問がわいてくる。

 第10歌の紹介も1回で済ませるつもりだったが、どうもパソコンの調子が悪く、2回に分けて取り上げることになった。ということで、残りの部分は次回に。

隔たり

7月27日(月)晴れ、相変わらず暑い

隔たり

ずっと続いていた
暑さが
少し収まった
夕方になって
中華料理屋に出かけた

駅の近くの
繁盛している店で
紹興酒の
杯を重ねる

李白のように
豪快に飲むには
年をとってしまったし
懐もさびしい

陶淵明のように
ちびちびと
人生を考えながら
飲んでいくことにしよう

1000年以上の隔たりは
酒の味と
味わい方を変えるとはいうものの

町の雑踏の声を聞きながら
田園詩人の飲んでいた
酒の味について想像をめぐらす

時の隔たりを越えて
人間を酔いに向かわせる
人生の哀歓について考える

『太平記』(55)

7月26日(日)晴れたり曇ったり、蒸し暑い

 元弘3年(1333年)3月12日、赤松円心の率いる軍勢が京都に迫って、桂川を渡り、その将兵の一部は一時六波羅の近くにまで押し寄せたが、六波羅方の河野九郎左衛門尉と陶山次郎の活躍により、六条・七条一帯の戦闘で赤松勢は撃破され、都から退いた。

 とはいうものの、世の中は大いに乱れ、兵火は天を焦さんばかりである。光厳天皇は位につかれてから、年中穏やかな時はなく、武臣たちは戦闘を続けている。これは仏法の威力をもって反乱の鎮定を図らなければ天下の平和は得られそうもないと、各地の有力寺院に、さまざまの大法秘法を行うことを申付けられた。

 天台座主である梶井宮親王は、光厳天皇の弟宮でいらっしゃったので、内裏に修法の壇を作って、仏眼尊を本尊として息災の祈祷を行われた。上皇御所においては裏辻の慈什僧正が壇を立てて、薬師如来を本尊とした厄難消除の修法を行った。武家もまた山門(比叡山延暦寺)、南都(興福寺)、園城寺(三井寺)の僧兵たちの支持を得、仏のご加護を頂くために各地の荘園を寄進し、さまざまの宝物をささげて祈ったのであるが、公家がこれまで行ってきた政治は正しいものとは言えず、武家も悪事を重ねてきたために「神は非礼を享けず」という言葉通り、これらの寺院を味方に引き入れようとする試みはうまくいかず、時がたつにつれて、地方における反幕府の動きは盛んになる一方だとの知らせが相次いだ。

 3月12日の合戦直後に、赤松勢は相当な痛手を蒙っていたので、すぐに追撃の兵を出して、討伐すればよかったのに、都から撃退したことで油断して、そのまま放置しておいたために、あちこちから敗軍の兵が集まってきて、ほどなくその勢いを取り戻したので、赤松は中院貞能を起用して後醍醐天皇の第4皇子聖護院宮と偽り称し、山崎と八幡に陣を張り、木津川、宇治川、桂川が合流して淀川となるあたりを閉鎖して、西国との交通往来を遮断した。「これによつて、洛中の商賈停(しょうことど)まつて、士卒皆転漕の助けに苦しめり」(396ページ、このために洛中の商売は停滞し、士卒は兵糧運搬に駆り出されて苦労した)。ここで中院貞能とあるのは、花山院師賢が後醍醐天皇になり代わって、比叡山に向かわれた際に随行した公卿の1人で、このいきさつは『太平記』2巻に記されているが、そこでは貞能ではなく、貞平とその名を記されている。後醍醐天皇の身代わりを立てるという戦術は護良親王の周辺から出たものであったが、今回の聖護院宮の擁立も護良親王の周辺から出た作戦であった可能性は、赤松と護良親王の関係を考えるとますます大きくなる。

 六波羅の2人の探題は、この事情を知って、3月12日の戦況から判断しても赤松の兵はそれほど大勢ではないのに、大暴れを赦してしまったのは不覚であった。今回は六波羅側から戦いを仕掛け、相手を追い詰めて壊滅させようと5,000余騎の兵を編成して、3月15日に山崎へと向かわせた。この軍勢ははじめ2手に分かれていたが、久我縄手は道が細く土の深い田であるので、進退が不自由であるとの判断から八条から合流して、桂川を渡り、川島(京都市西京区川島)を経て、物集女(もずめ、京都府向日市物集女町)、大原野(京都市西京区大原野)のあたりから押し寄せようとした。

 赤松円心はこの情報を得て、3,000余騎を3手に分けて、1手は足軽の射手をそろえて500余騎、大原野の西の山である小塩山(京都市西京区大原野南春日町)に忍ばせ、別の1手は野伏に騎馬の兵を少々交えて1,000余騎、八幡と山崎の間の渡し場である狐川のあたりに待機させる。もう1手には刀、槍などの武具だけをもった800余騎の兵力をそろえて向日明神(向日市向日町の向日神社)の後ろにある松原に潜ませた。異能集団をそろえての攪乱戦の構えである。

 六波羅勢のほうでは敵がここまで来て迎え撃つとは予想しておらず、むやみに深入りしてあたりの民家に放火をして、先頭の兵が既に向日明神の前を通り過ぎようと過ぎるところに、小塩山の東南の山である吉峰(西京区大原野小塩町、山頂に善峰寺がある)、岩蔵(いわくら、西京区大原野石作町のあたり、西岩倉山金蔵寺がある)の上から足軽の射手たちが一枚の板で作った軽い楯を手に麓の方に駆け下りてきて、散々に射掛けてくる。寄せ手の兵士たちは馬で駆け上って蹴散らそうとするが、山の傾斜が急で昇ることができない。平地へとおびき出して叩き潰そうとするが、その手には乗らない。この連中はそのまま放置して、行きすぎ、敵の主力と戦おうということに決して、西岡(向日市一帯)を通り過ぎようとすると、西岡の武士である坊夫左衛門尉が50余騎のせいで思いがけずも向日明神の近くの小さな松原から攻めかかってくる。これは小勢なので、取り囲んで討ち果たそうとすると、赤松一族の田中、小寺、八木、神崎の兵が100人、200人の小部隊で思い思いに攻め入り、こちらが魚鱗の隊形(敵陣を突破する先頭を細くした鱗形の隊形)で進めると、相手は鶴翼(鶴が翼を広げた形で敵を包囲する陣形)で囲もうとする。これを見て狐川に控えていた500余人が、六波羅勢の背後を絶とうとあぜ道などの一直線の道を伝って道を遮り、包囲しようとするので、六波羅勢は不利を悟って退却した。

 1時間ほどの戦闘だったために六波羅勢の戦死者はそれほどのものではなかったが、美々しく着飾って威風堂々と出発した兵士たちが、ひどく汚れた格好で戻ってきたために、京の町の小路に立って見物していた人々はひどいねぇ、陶山と河野を討伐に向かわせたら、ここまでひどく負けて帰ってくることはなかっただろうにと評判しあいながら、あざ笑った。負けたことで、陶山と河野の名前が上がるという結果となった。

 もともと京都の町は六波羅のある鴨川の東が武士たちの世界で、鴨川の西の洛中は公家たちの世界というすみわけがなされていた。鎌倉時代の末になるとこの秩序が次第に崩れ、洛中の人々が武士を目にすることが多くなった。洛中の庶民たちが武士たちに厳しい目を向けるのには、彼らにとって迷惑な戦闘を展開しているだけでなく、そもそも自分たちの世界に不法侵入してきた連中だという意識があったことも手伝っているようである。

 赤松勢は(数が少ないこともあって)京都を攻略することができず、六波羅勢は反幕府の兵を滅ぼすことができない。個別的な戦いではそれぞれ勝利を収めることがあるが、決定的な勝利は得られないままである。この膠着した戦況に、いつどのような形で転機が訪れるのであろうか。

 

加東大介『南の島に雪が降る』

7月25日(土)晴れたり曇ったり

 加東大介『南の島に雪が降る』(ちくま文庫)を読む。丸々とした体躯にもかかわらず、精悍な感じで機敏な動きを見せ、主役、脇役、悪役とそれぞれの役柄に応じてその個性を生かして好演を見せることが多かったこの俳優が1975年7月31日に没して間もなく40年となる。この時期に、彼が生前に残した唯一の著作から、彼の戦争体験と役者魂とを読み取るのも意味のあることではないかと思う。

 1943(昭和18)年10月に大阪で前進座の舞台に立っていた当時の市川莚司(えんじ)、後の加東大介は2度目の召集を受ける。前回に現役を済ませたとき、伍長勤務上等兵(後の兵長)だったので、召集されると即日、衛生伍長となり、兵站病院に務めることになった。任地に赴く前に世田谷の豪徳寺に分宿、召集されてきた兵士を集めて部隊が編成される。その名簿を見ていたら、長唄師匠という職業を記載した叶谷という二等兵がいた。会ってみると、杵屋和文次という三味線弾きで、『勧進帳』では前進座の舞台を踏んだこともあるという。さらに、宴会で踊っていた前川二等兵がもともとスペイン舞踊の教師であったことを発見する。任地に輸送される船の中で輸送指揮官(輸送の責任者は本科の将校でないとできない。それで病院長の軍医中佐とは別に陸軍大尉が輸送指揮官として船に乗り込むことになる)の横で、実際に命令を下している副官がいたが、これが若手演劇評論家の杉山誠であった。彼から輸送先は西部ニューギニアのマノクワリであると教えられる。大変なことになったと驚いていたが、杉山は兵站地を開いたら、みんなで演芸でもやろうという。とにかく演芸関係者が4人いるということがわかったのである。

 昭和18年11月3日に大阪を出帆して、ニューギニアに到着するのは12月8日である。途中マニラに立ち寄った時、敦賀から出帆して西部ニューギニアに向かうという船団の兵隊に逢う。どうも不思議なことだと思って杉山中尉に聞いてみると、2つの船団のうちのどちらかが相手に沈められることを初めから考えているのだという。その後も救命具の支給の際に病院の連中には救命具は配らないといわれる。病院は船艙にあり、もし魚雷が発射されればあたるのは船艙であるからどの道助からない、不足している救命具を配る必要はないというのである。マノクワリに到着してみると、司令部は立派な建物だが、実は慰安所として建てられたもので、その慰安婦たちを乗せた船がすぐ近くの海で撃沈されたので、司令部に転用されることになったのだといわれる。どうも大変な戦局であるが、それでもしばらくは叶谷とあちこちを慰問したりして時を過ごすだけの余裕はあった。しかし敵が間近に迫って、事態はそれ以上に悪化する。

 マノクワリに敵機がビラをまくようになる。降伏しなければ上陸して総攻撃を掛けるという。怖気づいた首脳部のある将官がマノクワリに残っていた日本陸軍の半分近い1万人に転進命令を下す。「半分は転進し、残りの半数はここを死守せよ」(51ページ)。兵站病院の250名の人員のうち100人が転進に加わることになった。加東は玉砕組に振り分けられた。転進組は南の方に向かって行進を開始した。「私たちに気兼ねして、表情を殺してはいたが、内心のうれしさは、ビンビンとこっちの胸に響いてきた」(同上)。
 ところが、これが、ずさんな計画に基づいて多数の将兵がジャングルの中を当てもなくさ迷い歩き、飢えとマラリアで死んでいったた「ニューギニア死の行軍」の始まりだったのである。

 残された兵士たちはいよいよ覚悟を決めていたが、事態は予測したのとは逆の方向に動きはじめる。それまでの第二軍司令官豊島(てしま)中将に代わって指揮をとることになった深堀少将は連合軍がマノクワリを放置して、ハルマヘラ島に攻撃の矛先を向けようとしていることを察知し、長期態勢をしくように命令する。(なお、ハルマヘラ島にはこれまた戦後映画俳優として活躍する池部良がいて、後年『ハルマヘラ・メモリー』という本をだしている。) 
 そういわれても、食糧の方は底をついているし、士気は滅入る一方である。加東は叶谷の熱心さにほだされて、病院で少しはまともな慰問演芸をすることにした。ある時、ふと思いついて患者の中から飛び入りを募集すると、汚い、やせ衰えて、今にも死にそうな患者が立ち上がる。危ぶんでいると、「長崎物語」を実にうまく歌う。素性を尋ねるともとはコロンビアの歌手で浅草オペラにも出ていたという。喜んだ病院長はこの患者=今川一等兵に秘蔵のパイナップルの缶詰を与える。
 「あとで、本人が大まじめでいっていた。
「私は、あのパイカンのおかげで、生き返ったんです。あれを食べなかったら、たぶん、すぐあとで死んでたでしょうね」」(57ページ)
芸達者をまた一人見つけた加東は、早くよくなれと激励して別れる。

 食糧事情が悪化して各部隊に「野草採集隊」が編成される。「バナナは実だけが食糧ではなかった。幹も、根までも食べた」(60ページ)。それでも農業技師出身の将校がいて、イモの栽培を各部隊に勧める。どうやら餓死しないで済みそうな見通しがつく。そうなるとまた気が緩んで、兵士間の些細なことからのけんか・口論が絶えなくなる。
 1944(昭和19)年の秋に、加東は司令部から呼び出しを受ける。高級参謀の小林少佐と通信参謀の渡辺少佐が兵士相手の演芸会を開いてはどうかと持ち掛ける。杉山大尉(昇進)の意見でもあるが、兵士たちの情操教育のために演芸を見せようというのである。とりあえず試演ということで、司令部の前で加東と叶谷、前川の3人で越後獅子を演じてみる。これを見た深堀少将は演芸分隊の設置を決断する。

 そこで、司令官の名前で各部隊から演芸分隊の要員を募集することになる。映画俳優としての加東大介というと、黒澤明の名作『七人の侍』で最後まで生き残る3人の侍の1人七郎次、加東のはまり役で彼のあだ名の由来ともなった『大番』の主人公・猪突猛進型の株屋牛ちゃん、それに彼の実録を彼自身が演じた『南の島に雪が降る』であろうか。『七人の侍』では農民たちから自分たちの村を野伏から守ってほしいと頼まれた勘兵衛(志村喬)が侍が7人は必要だと人探しを始める。人探しの中で以前、ある城を守っていたときの配下の武士で、落城した際に離れ離れにしまった七郎次に逢う。勘兵衛にとっては信頼できる存在である。思い出話の中で七郎次が「あの時は死ぬるかと思いました」というのが耳にこびりついている。映画を見たときは、加東の『南の島に』がベストセラーになった後なので、彼の戦争体験が台詞の実感を支えているのだなぁと思ったりした。この本を読んでみると、それだけでなく、さらに人集めの実感もこもっていたのだなと気づかされる。(加東は私の父や伯父たちとほぼ同世代であり、伯父たちから「あの時は死ぬかと思った」などという思い出を聞くことがあったのである。)

 演芸分隊は部隊として独立することになる。ということは将校の責任者が必要だということである。小林少佐の提案で、会社の重役で召集を受け、大尉ではあったが司令部の経理部長(司令部の部長は佐官クラスが務めるのが通例だが、戦局の悪化で人材がいなかったのである)をしている村田大尉が選ばれる。分隊要員の選抜試験当日、集まって来た受験生は100人近く、その中の72人が浪花節専攻であった。試験官は村田大尉、小林少佐、それに加東軍曹(昇進)。72人分の浪花節を全部聞かされるのかと思うとマラリアが起こるよと小林少佐が言うと、「我慢して、聞いてやりましょう。みんな、イモの葉っぱの弁当を持って、遠くから歩いて来たんですから…」(72ページ)となだめる。
 合格者第1号は72人目の浪花節受験者=日沼一等兵。本職は針金職人でそちらの方の腕も確かである。第2号は美術学校を出て友禅のデザインをしていた小原上等兵。舞台装置に興味がある。本職は洋服屋の斎藤上等兵が衣装部要員として合格。会社員だが、実家がカツラ屋だという塩島上等兵が加えられる。本職は僧侶で博多仁輪加の名手の篠原軍曹が、軍の規則による様々な問題はあったが、それを何とか解決して採用になる。あとは今川一等兵の病気回復を待つばかりである。

 司令部から正式の辞令が下り、渡辺参謀が加東を全員にあらためて紹介した。「この加藤軍曹は、前進座にいた本職の役者である。みなも知っていると思うが、前進座というのは、沢田正二郎の<国定忠治>で有名な劇団だ」。
「前進座と新国劇をゴッチャにしているのだった」(82ページ)。

 こうして演芸分隊が組織され、マノクワリ歌舞伎座も建設されて、その活動が始まるが、ここまでの紹介が長くなったので、続きは別の機会に譲りたい。笑いながら読んでいたし、このすぐ上の箇所にもみられるように、加東はいかなる場合にもユーモアを忘れない人であったようだ。しかし、そういう笑いの下に隠された戦争の悲惨さの描写を見落とすことはできない。笑いが強調されているから、余計この落差が目立つのである。(直接引用の箇所を除き「加東」に表記を統一しているが、彼の本名は加藤徳之助であり、本文では「加藤」が使われていることを注記しておく。)

 昨夜(7月25日)は作業の最中に寝てしまって、原稿の投稿が1日遅れた。梅雨が明けて猛暑が続き、生活のリズムを維持するのが難しくなってきているが、なんとか頑張ってブログを書き続けていくつもりなので、ご支援をよろしくお願いする。

日記より(7月24日)

7月24日(金)晴れたり曇ったり、一時雨、渋谷駅で浸水騒ぎがあるなど豪雨に見舞われた地域もあったようだ。

 午前中、鶴見俊輔さんが亡くなられたことを知る。93歳というから天寿を全うされたといってよい年齢なのだが、それでもまだ生きていていただきたかったという気持ちが消えない。もう少し世の中の移り行きを眺められてからあの世に行かれてもよかったという気がしてならない。

 鶴見さんは、私の恩師の1人の友人であり、スキーで転がったり、座り込みをしてごぼう抜きにされるときの快感を楽しんでいるというようなエピソードから、身近で親しみやすい方だという印象をもっていた。それに長く京都に住まわれていたにもかかわらず、1度も直接お目にかかったことがなく、遠くから見かけるなどということもないまま過ごしてしまい、訃報に接することになってしまったことが残念に思えてならない。

 鶴見さんは哲学者であった。むかし、一高の名教頭といわれた三上隆正は、生徒の質問に対して、哲学は自分の頭で考えることだといった。ただし、その際に他人と対話して、その知恵から学ぶことが必要だと付け加えるのを忘れなかった。鶴見さんは漫画が好きだったが、どんな漫画が面白いかについて、漫画に詳しい友人の意見を聞いてから読む漫画を選んでいたようである。他人の知恵を自分の思索に生かすということに長けた人であったという印象がある。

 鶴見さんは旧制中学時代、いっぱしの不良少年で、そのため前途を心配した周囲によってアメリカに留学させられ、ハーヴァード大学に学ぶことになる。どうもスケールの大きな話だが、自分の頭で考える訓練をアメリカで受けたということがその後の思想の展開に大きな影響力を持ったように思われる。スケールの違いということを胸に刻み込んでおきながら、なんとか鶴見さんの知的営為の後を追いかけていこうと思う。

 話が全く変わって、R.P.ファインマン『ご冗談でしょう、ファインマンさん(上)』を読み終える。ファインマン(1918-88)は、理論物理学者で、この本は科学少年だった彼がMITを経て、プリンストン大学の大学院に学び、第二次世界大戦中のアメリカの原子爆弾製造計画にかかわり、さらにコーネル大学の教授になるところまでを、実験や発明、いたずらと失敗の様々なエピソードを織り込みながら語った自叙伝である(下巻で、カリフォルニア工科大学に移ってからのことが語られるようである)。理論物理学者ではあったが、実際的な生活や他の学問領域にも興味を失わないその生き方はきわめて魅力的に思われる。

 アメリカの大学は日本の大学に比べて学生の知的な独立を促すということに成功しているのではないか――それはなぜかということを考えてみる必要がありそうだ。(もちろん、アメリカの大学で勉強しても、知的に独立できない学生のほうが多いだろうし、そうでなければ、アメリカが大衆社会であることが説明できない――というのももう一面の真実ではあるだろう。)

 

How old are you?

7月23日(木)晴れたり曇ったり、一時雨

 ある場や目的に即した言い回し、あるいは特定の集団で使われる言い回しをregister(言語使用域)というという話が、本日の「ラジオ英会話」の時間で取り上げられた。たいていの人間は、仲間だと思っている集団内で話している時の言葉遣いと、そうでない場合の言葉遣いは使い分ける。ただ、これはそれほど簡単なことではない。私の経験からいえば、高校から大学に入った時などには結構このことで苦労する。

 高校から大学に上がった時に言葉遣いで苦労するというのは、1つには同じ学年であっても浪人したりして、年齢が違う学生がいるということである。さらに学年が下でも、年齢は上だという場合さえありうる。もう1つは同性ばかりの学校から男女共学の学校に進学したりすると、どうも戸惑うことがある。逆の場合もあるかもしれない(私は男子校から、男女共学の大学に進学したが、その逆で男女共学の学校から女子大に進学したりすれば、それなりに問題を感じるかもしれないということである。ただし、自分が経験したわけではないので、何とも言えない)。

 この最初の問題と関係するのだが、日本の言語文化では、年齢が大きな役割を演じる。相手の年齢がわからないと、どのレヴェルのregisterを使うか不安だということがある。(同じ学年でも相手が年上だと、丁寧な言葉遣いをしたりする。大学院に進学したりすると、社会人から大学に戻って来た人がいたりして、さらに問題は複雑になる。)

 ところが英会話では、相手に面と向かってHow old are you? と質問することは皆無といって間違いないという。さらに英語圏では年齢の上下が、言語的な”上下感覚”を生み出すことはないという。相手の年齢を尋ねることが人間関係の円滑化に寄与しないのが、英語圏であるということが強調された。そうすると、相手の年齢をきく表現は別に教えなくてもいいことになるのだが、なぜか英語の教科書から省かれることはない。(フランス語の場合も同様である。)

 もっとも日本でも男性から女性に年齢をきくのは失礼であるということになっているはずである。あまり書きたくないが、若いころの私は年上の女性に恋心を抱く傾向があって、この点では苦労した。ま、いずれにしても昔の話である。

日記抄(7月16日~22日)

7月22日(水)晴れ、暑さに加えて風が強い

 7月16日から本日までの間に経験したこと、考えたことなど:
前回(7月9日~15日)の補遺
 オマー・シャリフさん(7月10日、心臓発作のためカイロ市内の病院で死去、83歳)と入船亭扇橋師匠(本名橋本光永、7月10日、呼吸不全のため死去、84歳)の訃報を取り上げるのを忘れておりました。謹んでご冥福をお祈りします。

 7月15日放送のNHKラジオ「実践ビジネス英語」の”Word Watch"のコーナーではcheckupという語を取り上げた。「健康診断、身体検査」の意味。正式にはphysical checkupというが、口語ではphysicalかcheckupのどちらかで間に合うそうである。日本では2007年頃から「身体検査」が政治用語として使われるようになり、この場合は事務所経費の問題やスキャンダルがないかどうか、その人物の身辺を事前に調査することであるが、英語ではvettingあるいはvetting processという。これは「獣医」という意味のveterinarianを略した言葉で、動詞としては「(動物を)診察する」「綿密に調べる」ということ、そこから転じて、アメリカの政界では「経歴調査(background check)を行う」という意味で”vet"を使うようになったとテキストに記されている。政治家は動物扱いらしい。そういえば、タイのバンコクの国会議事堂の前に動物園があったのを思い出した。

 1906(明治39)年に首相になった西園寺公望が雨声会というサロンのようなものを設けて、文人たちを集めてその意見を聞こうとした際に、招かれた1人である夏目漱石が「時鳥厠半ばに出かねたり」という句を詠んで出席を断ったことについて、佐高信・松元ヒロ『安倍晋三を笑い倒す』の中で佐高さんが取り上げて、高く評価しているが、このことについて、厠で時鳥の声を聞くというのは凶兆だという言い伝えのようなものが貴族社会にあったことを漱石は知らなかったのではないかというひとがいる。だから、漱石は西園寺に対して大変に非礼な対応をしたというのだが、むしろその非礼の報いは漱石の方に及んで、漱石は若死にしたが、西園寺は長生きしたと考えることもできる。
 漱石は三方が原の戦いで徳川家康を守って戦死した夏目吉信の子孫であり、戊辰戦争の際に会津口征伐大参謀であった西園寺に対していい気持ちをもっていなかったとする意見もある。彼が一高における同僚で長州出身であった杉敏助を津木ピン助、菊池寿彦を福地きしゃごという名前で『吾輩は猫である』の小悪役として登場させているのもそういう気持ちと無関係ではない。
 佐高さんは森鴎外が西園寺に呼ばれて出かけて行ったことに批判的であるが、山県有朋の子分であった鴎外が山県の政敵である西園寺のところにあいさつに出かけるのは気分がよくなかっただろうが、それでも出かけていることを評価すべきである。
 少なくとも、漱石は断るのであれば、文学は政治に従属すべきものではないというような大義名分論を堂々と開陳して断るべきであった。それが嫌なら、彼の弟子の内田百閒が芸術院会員になる事を打診された際に言ったと伝えられる「いやだからいやだ」という断り文句を使うべきであった。『吾輩は猫である』の最後の方で多々良三平の結婚披露に招かれた苦沙弥は「いやだからいやだ」に近い断り方をしている。相手が総理大臣だからそうはいかないというのであれば、やはりふざけた断り方はすべきではなかったと思うのである。

7月16日
 NHK「ラジオ英会話」ではアメリカ人の老夫婦がタイ旅行に出かけるというストーリーを取り上げていたが、旅の終わりには南部のプーケットに出かけ、いろいろな体験をする。それでも終わりよければ、すべて良しということか、夫のほうが最後にいう感想が:
This is the life! (人生、こうでなくては!)
これは積極的な意味で言っているのだが、Such is life. とかThat's life.とかいう言い方になると、それほど積極的な意味合いではなくなるようである。この辺の言葉の使い分けはかなり微妙に思われる。

7月17日
 NHKラジオ「まいにちフランス語応用編」「ニュースで知りたいフランス文化」は今年の末に開館する予定のルーブル・アブダビle Louvre Abou Dabi について取り上げた。
Faired'Abou Dabi la place culturelle de demain, susciter une ouverture et un échange des cultures, mais aussi de renforcer le prestige de la France et les vinanced du Louvre. (アブダビを将来の文化の拠点に仕立てる、文化の開放と交流を促す、同時に一方ではフランスの威信とルーブルの財政を強化する。)
というのがその目的のようである。

7月18日
 NHKラジオ「アラビア語講座」の「おしゃべりマクハー」のコーナーで米国製ではなく、イスラームのコーラを飲もうという動きが、アラブ地域で広がっているという話題が取り上げられた。アラブ・コーラやイラン製のザムザム・コーラなどが飲まれるようになっていて、その中には収益をパレスティナの人々への支援に宛てているものもあるという。

 杉之尾宜生『大東亜戦争敗北の本質』(ちくま新書)を読む。元自衛官・防衛大学校教官で戦史・戦略研究を続けてきた著者による太平洋戦争の過程の実証的な研究。最大の敗因を「情報」と「兵站」の軽視に求めているのは、最近の一般的な歴史研究の成果とも共通している。「攻撃は最大の防御なり」という言葉に意味がないという指摘など、一読の価値がある個所が少なくない。

7月19日
 NHKラジオ「攻略!英語リスニング」の最後に講師の柴原さんが「内田百閒や吉田健一の(鉄道旅行の)エッセーを読むと」というようなことをいっていたが、確かに古き良き時代の旅行エッセーというとこのあたりになるだろう。もっとも2人とも出版社から前借(いわゆる錬金術)をしたりしての旅行であったという裏の事情もある。「宮脇俊三や種村直樹」などといったら、通じる人が限られてくるだろうなぁとも思ったりした。

 NHKEテレ「日本の話芸」では桂ざこば師匠の『笠碁』を放送した。最初、最近亡くなった彼の師匠である米朝の思い出を語り、米朝と囲碁・将棋の思い出話をいくつかして、本題に入っていたのはなかなか聴きごたえのある話術であった。肝心の中身は同じことを繰り返したり、どうも出来がよくなかったが、これはあるいは枕の部分の工夫に頭を使い過ぎたためであったかもしれない。

7月20日
 中野重治の短編小説「村の家」に出てくる父親からの手紙の中に、桐の木が話題として記されているのが気になった。昭和の初めごろは、農家で桐の木を育てて、売っていたらしいのである。ところが輸入材に押されて振るわなくなり、ほとんどの農家が栽培をやめてしまった。「日本でも加賀白山下の産は火鉢材として珍重されたのであるが、之さえも此節(このせつ)トント振わぬ」(62ページ)という。学生を連れて山間部で合宿研修をしたりすると、山中の桐の花をよく見たことを思い出した。「赤ままの花を歌うな」という詩を書いた中野であるが、『梨の花』という小説を書いている。桐の花についてはどんな気持ちをもっていたのだろうか。

7月21日
 「ラジオ英会話」「入門ビジネス英語」「実践ビジネス英語」「攻略!英語リスニング」「まいにちフランス語」「まいにちイタリア語」のそれぞれテキスト8月号を購入する。これらの番組を聴くほかに、寝る前にラテン語の問題集を読むことにしているのだが、読んでいるうちに寝てしまう。ラジオの番組についても、聴いているうちに寝てしまうことが少なくないのが問題である。

7月22日
 NHKラジオ「実践ビジネス英語」の”Quote...Unquote"のコーナーに出てきた言葉:
I would rather die of passion than of boredom. --Vincent van Gogh (Dutch painter, 1853-90)
退屈がもとで死ぬより、情熱のために死ぬ方がいい。
 ポール・グリモ―の長編アニメーション映画『王と鳥』(『やぶにらみの暴君』)のためにジャック・プレヴェールが書いたシャンソン:「ロバと王様と私/明日はみんな死ぬ/ロバは飢えで/王様は退屈で/そして私は恋ゆえに…」というのを思い出す。

ダンテ・アリギエリ『神曲 煉獄篇』(9)

7月21日(火)晴れ、暑し

 第7歌で煉獄の門のありかを探し当てることができないまま日没を迎え、放浪の吟遊詩人ソルデッロの案内で王侯たちの谷で夜を過ごすことにしたウェルギリウスとダンテは、第8歌で前煉獄の魂達を誘惑しようと近づく蛇と、その蛇から魂を守ろうとする天使の姿を見る。2人は日没とともに谷に下りて、そこで地上に正義と平和をもたらすという使命を帯びながら、自分たちの一族への偏愛のために煉獄への入り口の前に置かれている王侯たちの魂に出会う。

 そうこうしているうちにも時間は過ぎて、午後9時ごろになる。他の魂たちと違って、生身の肉体をもっているダンテはここで睡魔に襲われる。そしてその眠りの中で不思議な夢を見る。
私たちの知性は、肉体から
ひときわ高くへ抜け出ると、より現実にとらわれなくなり、
ほとんど預言的に像を描き出すのだが、

夢の中で私は、
黄金の羽毛に覆われた一羽の鷲が中空に浮きながら、
翔を広げ降下の準備をしているのを見ているような気がしていた。
(133-134ページ) その鷲は、ダンテをつかむと地上界と空との境となっている火天まで連れてゆき、そこで鷲もダンテも燃える。
 この時代、明け方に見る夢は、霊的な存在である知性が肉体を抜け出して、宇宙の星々を経由して降りてくる神的な力との接触から生まれるとされ、預言的なものと考えられていた。この夢は、原さんが「各歌解説」の530ページに書いているようにその後の展開との関係で、さまざまな解釈が可能であり、叙事詩の進行の中でも預言的な性格を荷っている。

その場所で鷲と私は燃えているようだった。
そして夢見た火炎は激しく燃え上がり、
眠りは破れてしまわずにはいられなかった。
(134-135ページ)
 夢から覚めたダンテのかたわらには相変わらずウェルギリウスがいて、「・・・
安心するがよい、我らは素晴らしい到達点にいる。
だから心を抑えるな、そしてあらゆる力を奮い立たせるがよい。

おまえは今や煉獄まで到達したのだ。
これをぐるりと取り囲む断崖を見よ。
割られているかのようなこの入り口を見よ。・・・」
(136ページ)と、2人が煉獄の門の近くにいることを告げる。ダンテが眠っているうちに天国から現れた聖女ルチーア(恩寵の光)が彼を取り上げて、ここまで運び、ウェルギリウスがそれに続いたのだという。ソルデッロたちは元の場所に残された。こうして、2人は今度は煉獄の門へとやってくる。

 ここでダンテは、詩の主題とスタイルが変わり、より複雑なものとなることを読者に宣言する。

 煉獄の門は広く開け放しの地獄の門と違って狭い。その煉獄の門の前には3つのそれぞれ色の異なる段があり、一人の衛士が剣を手に門を守っていた。罪に堕ちるのは簡単であるが、罪から抜け出すのは難しいことをこれら2つの門は示しているのである。2人が何ゆえ、この門を通ろうとしているのかについて問われ、ウェルギリウスが説明する。そして2人は階段の上を歩むように言われる。
私達はその前に進んだ。すると最初の一段は
滑らかで鮮明な白い大理石で、
私はその上に自分の姿をあるがままに映すことができた。

二段目は黒紫よりも暗い色をして、
焦げてざらざらした一つの岩でできており、
縦と横に大きくひび割れていた。

三段目は、その上に一塊にのり、
私には斑岩だと思われたが、動脈からほとばしった血のように、
鮮やかな炎の色をしていた。
(141ページ) 一段目の白く滑らかな石は、己の罪を見つめる汚れのない心を表し、罪の自覚を促す告解を意味する。二段目の黒紫の色は心の苦しみを、ざらつきはその痛みを表し、ひび割れは十字架形に入っているとされるが、罪深い頑なな心を砕くことを表し、全体では痛悔を示している。鮮やかな赤い色は神への愛を表し(キリストの殉教をも表すとの説もある)、贖罪を意味すると注記されている。

 煉獄の門の閂を外してくれるように、煉獄の門を守る天使にへりくだって頼むようにとウェルギリウスに助言され、ダンテはその体を投げ出して開門を願う。その天使は手にした剣の切っ先でダンテの額に7つのPを刻み付け、門の中に入ったら、これらの傷を洗い流すようにといいつける。Pはイタリア語のPeccato(罪)の頭文字である。そして聖ぺテロから預かっているという2本の鍵を取り出して、門の鍵穴に入れると、幸いに鍵穴の中で鍵は回り、彼は中に入ることができる。
「入るがよい。だがおまえ達に知らせておく、
振り返って後ろを見た者は、外に戻ることになる」。
(144ページ)と天使は告げる。
こうして軸受けの上で
あの聖なる大門の心棒が回った時、
金属の棒は軋みながら音を立てた。
(144ページ) この扉が開くときの重く軋る音は、贖罪の艱難の主さと厳しさを表すものである。門の中から「テ・デウム」という神に感謝する歌声が聞こえてくる。それは天国を満たす宇宙の調和の前兆のような調べであった。こうしてダンテとウェルギリウスは煉獄に本格的に足を踏み入れる。

 少し乱暴に要約したかもしれないが、今回はどうやら1回で紹介を済ませることができた。これまで以上に象徴や寓意が多くなり、解釈が難しいが、翻訳者の原さんの注解を助けとして、ダンテたちの道のりを一歩一歩追いかけていきたいと思う。

中野重治「歌のわかれ」

7月20日(月)晴れたり曇ったり

 このところ中野重治の『村の家 おじさんの話 歌のわかれ』(講談社文芸文庫)を読み返している。中野がプロレタリア文学の一翼を担って書いた作品から、運動からの転向を表明したものの、執筆活動を続けることが困難な状況の中で書かれた作品までを集めた作品集である。全体を読み終えていないし、中野の戦前における文学活動の全般について論じることはかなりの労力を要する作業なので、ここでは、私が学生時代に何度か読んだ記憶のある「歌のわかれ」について考えたこと、感じたことを書いておこうと思う。

 「歌のわかれ」は雑誌『革新』の1939年4月号、5月号、7月号、8月号に発表された中編小説であり、作者自身をモデルとする北陸の農村出身の青年片口安吉の金沢における旧制高校での生活から、高校を卒業して帝国大学で学生として送る日々までが描かれている。「歌のわかれ」という題名は、この小説の終わりで、旧制高校時代に短歌を作ることに自己の最大の表現を見出していた安吉が帝国大学の中で開かれた歌会に出席して、違和感を感じ、短歌とは別れて「兇暴なものに立ちむかっていきたいと思いはじめていた」(281ページ)ということに由来する。「歌」=短歌は表現の形式の一種である。表現は形式だけでは成立しない。表現すべき内容である感情、あるいは思想があるはずである。安吉が「歌」という表現と別れようとしたことは、彼の思想に変化が生じていたことを示している。(1939年=昭和14年という時期は、その思想的な変化を記述する自由が認められていない時代であった。)

 実際、この小説は安吉の下宿生活や、友人との交流、時々の帰省といったことに多くの紙面を割き、彼の心の動きが主な内容になっているように思われる。しかし、安吉には旧制高校で学び(落第を繰り返しているが)、大学に進学した後で、文学の道に進みたいという志がある。だから、嫌いな勉強はしないし、教科書類はすべての古本屋に売り払ってしまおうと思っている一方で、ドイツ人教師のドイツ語の試験では「できれば百点を取りたいと思ってあれこれと答案をつついていた」(186ページ)りする。

 そういう一種の一途さというのが中野の持ち味ではないかと思う。この作品を読んでいて、私が中野と決定的に違うと思ったのは、地方人である中野が金沢という小都市に違和感を感じ、さらに東京という大都市に違和感を感じ、都市に違和感を感じ続けていることである。私は都会育ちだったので、地方の学校に就職して、どうにも違和感を感じた。中野が生涯を通じて感じていた違和感と、全く逆の違和感が私の中では尾を引いているような気がする。中野の場合そういう違和感を一つの基調として自分の文学の完成へと向かったという点があるだろうが、私の場合には単なる違和感として引きずりっぱなしになってしまった。中野が一途さをもっているのに対し、私の方は気が多いというのも違う点ではあろう。

 安吉=中野が旧制高校で落第を繰り返すことになったもう一つの原因は恋愛事件であり、そのことは小説中では簡単に触れられているだけであるが、この作品集の解説で触れられている中野の旧制高校時代の短歌を見ると、その影響が深刻なものであったことが分かる。恋愛と作歌が重なっているところもあったかもしれない。安吉は東京に出てきて、大学の中で開かれた歌会に参加し、高校時代に経験した歌会とは違った印象を持つ。金沢で感じていた安定した雰囲気が、よそよそしさに取って代わる。とはいうものの地方都市と大都会の違いの1つは、大都会のほうが出会いが多いということである。よそよそしさだけが大都会の雰囲気ではない。東京に違和感を感じながらも、あたらしい出会いによって中野は自分を変えていこうとする。その1つが「歌のわかれ」ということではなかろうか。

 この小説を読んだのは大学生のころで、その後読み返したかどうかは記憶がない。今回読み返してみて、中野が戦後に書いた、安吉の帝大卒業前後の様子を描いた『むらぎも』の内容とこの作品の内容が私の記憶の中でごちゃごちゃになっていることに気付いた。『むらぎも』を読み直してみないとはっきりしたことは言えないが、この2つの作品の中の安吉の姿にはかなりの違いがある。少なくとも「歌のわかれ」では安吉は思想としてのマルクス主義にまだ到達していない。その一方で、自分の郷里の伝承や自分を取り巻く文化的な伝統についてはしかるべき好奇心をもっている。作品中に名前は出てこないが、ハイネが民俗学的な関心を抱き続け敵たこと、中野の業績の1つがハイネの翻訳であったことなども思い出されるのである。

 中野の作品を読み返すことによって、彼の思想形成の軌跡を整理しなおすことは、芸術表現における思想と形式の問題を考えるうえで重要な手掛かりになるのではないかと考えているところである。 

オリエント急行

7月19日(日)午前中は晴れて暑く、午後になって曇り、時々小雨

 7月18日、19日放送のNHKラジオ「攻略!英語リスニング」は”Orient Express"(オリエント急行)を話題として取り上げた。

 1883年にパリとイスタンブールを結んで運行を開始、最初は全線が結ばれているわけではなく、途中で乗客は列車を降りて船で旅行を続けたりしていた。直通運転が始まったのは1889年になってからのことである。また当初はExpress d'Orientといい、1891年にOrient Expressと名前を改めたという。2009年に運転をやめたが、それは
Bargain flights and high-speed trains meant there wasn't really any need for it. (格安航空便や高速鉄道の出現で、需要がなくなってしまったんですね。)
からであると説明されていた。そういう事情もあるかもしれないが、中東情勢の不安も影響しているのではないかという気がする。

 オリエント急行を舞台にした有名なミステリー小説というとアガサ・クリスティの『オリエント急行殺人事件』(1934)であろう。番組では作者と書名しか紹介していなかった。イラクで起きた事件を解決したポアロは、列車を乗り継いでイスタンブールに出て、オリエント急行に乗り込む。彼は飛行機が嫌いなので、列車で英国に帰ろうとしているのである。が、冬なのになぜか列車は満員、雪で運行は遅延、そして、殺人事件が起きる。
 この作品は1974年にシドニー・ルメット監督、アルバート・フィニーのポアロで映画化され、翌年日本でも公開された。豪華キャストの映画化であった(イングリッド・バーグマンがこの作品でアカデミー助演女優賞を受賞したのはその一端である)が、どうもその当時の私はその豪華さを楽しむ精神的なゆとりがなくて、あまり面白いと思わなかったのを覚えている。それに、その頃はクリスティの作品をほとんど読んでいなかったのである。今、この映画を見たら、かなり違った感想を持つのではないだろうかと思う。

 Which Bond novel features the Orient Epress? (小説007シリーズで、オリエント急行が出てくる作品は?)
 That's right, Ian Fleming's From Russia with Love, both the movie and the book, feature the train. (そのとおり、イアン・フレミング作『ロシアから愛をこめて』で、映画でも原作でも、オリエント急行が出てきます。) 原作は1957年に発表され、1963年に映画化された(日本公開は1964年)。講師の柴原さんはこの映画を見ていないが、主題歌が好きだというようなことを話していた。私は原作も読んでいるし、映画の方は何度も見ている。原作ではボンドはソ連のスパイと戦うのだが、米ソの平和共存時代につくられた映画の方は架空の組織スペクターが相手になっている。映画の最初のほうのチェスの場面、最後の方のヴェニスのゴンドラの場面など記憶に残っている。それにショーン・コネリーのボンドと共演しているダニエラ・ビアンキは歴代のボンド・ガールの中で一番好きである。というよりも、最近の007映画は現実離れが進み過ぎて、ついていけなくなってきている。このあたりの作品が、私には一番なじみやすい。

 What famous 1897 gothic novel features the train? (この列車が登場する、1897年に書かれた有名な怪奇小説は何でしょうか?) Very good, Dracula. Dracula fells London for Varna by sea but his pursuers overtake him by using the Orient Express. (よくわかりましたね、『ドラキュラ』です。ドラキュラはロンドンから船に乗ってバルナに逃れますが、追っ手はオリエント急行を使って先回りするんです。) バルナ(ヴァルナ)はブルガリア東部の黒海に面する港町で、1949年から1956年まではスターリンといっていたそうである。確かに船に乗るよりも、列車で行く方が速い。そういえば、『ドラキュラ』の作者ブラム・ストーカーBram Stoker (1847-1912)は最近、読んだキャロル・ネルソン・ダグラスの小説『おやすみなさい、ホームズさん』に登場している。

 オリエント急行には乗ったことがないが、イスタンブールからパリということになると、いくつもの国境を超えるし、車窓の風景が何度か大きく変化するわけである。『オリエント急行殺人事件』の時代、『ロシアから愛をこめて』の時代、そしてその後の時代とユーゴスラヴィアの解体もあって、オリエント急行をめぐる地政学は大きく変化した。そういう変化を確認する旅行というのも面白いが、肝心の急行が運行をやめてしまったのは残念なことである。

『太平記』(54)

7月18日(土)曇り、時々小雨

 元弘3年(1333年)3月12日、赤松円心の率いる軍勢が京に迫り、桂川を挟んで六波羅勢と対峙したが、円心の子息である則祐が川を渡って馬を進め、六波羅勢を後退させた。下京一帯に火が放たれる中、光厳天皇と主だった皇族の方々は六波羅に避難され、多くの貴族がそれに従った。しかし、この夜、六波羅方の河野九郎左衛門尉と陶山次郎の活躍により、六条・七条一帯の戦闘で六波羅方が勝利し、赤松勢は後退を余儀なくされた。

 円心の子息である筑前守貞範と則祐の兄弟は、桂川を渡った際に敵が逃げたのを追いかけて、後に続く味方の兵がいないことにも気づかず、主従6騎で竹田から法性寺大路(奈良方面から京都の南東の方角に向かう幹線道路)を駆け上り、六条河原に達し、六波羅探題の館の西門の前に馬をとめて、続く軍勢を待ち、軍勢が整えば六波羅を攻撃するつもりにしていた。ところが東寺方面から攻め寄せた味方の軍勢が敗退し、自分たちは四方を敵に囲まれていると気付いて、こうなったら敵の中に潜り込んで見方をまとうと敵味方を区別する笠符(かさじるし)をかなぐり捨てて、目立たないところに控えていると、探題から防衛の指揮権を与えられている隅田と高橋が回ってきて、軍勢の中に赤松方のものが紛れ込んでいるかもしれない。彼らは川を渡ってきたので、馬や物の具が濡れていないはずがない。そういうものがいないか、よく調べてみよと触れ回ったので、貞範も則祐もこれはまずいと覚悟を決めて、6騎で轡を並べ、叫び声をあげながら敵の7,000の兵の中に駆け込んだ。そして名乗り声を上げたり、敵に紛れ込んだりしながら戦い続けた。六波羅方は、敵が6人しかいないとは気付かなかったために、大混乱に陥り、各所で同士討ちが起きた。

 それでも大敵を騙すには人数が足りなかったので、6人のうち4人は戦死し、貞範と則祐は離れ離れになった。則祐はただ1騎になってしまって、七条通りを西に、大宮通を南に進んで逃げていくところを、北条一門の印具(いぐ)尾張守の郎等8騎が追いかけて、敵ながらも殊勝な武士と見かけられる、名を名乗ってほしいと呼び掛ける。則祐は馬を急がせながら、名乗る程の武士ではないと言い、8騎との距離を巧みに保ち、逃げ続けた。西八条にある東寺の前を通って、南側に出ると、一族の信濃守範資と先ほど離れ離れになった貞範が300余騎の兵を集めて、平安京の南の入り口であったら城門の後の近くを流れるせせらぎで馬の足を冷やしながら、落ち延びてくる味方の兵を待ち受けていた。則祐はこれを見て、馬を急がせて、この兵士たちの群れの中に駆け込んだので、追ってきた8騎はせっかくいい敵だと思って追いかけてきたのに、とうとう討ち取ることができなかったのは残念だといって去っていった。

 しばらくたつと七条河原、西の朱雀で敗退した兵士たちが集まってきて、ほどなくその数が1,000騎を越えた。赤松はその勢を東西の小路から進ませ、七条あたりでまた鬨の声を上げさせたので、六波羅勢7,000余騎が六条院(伊勢の神官で歌人・風流人として知られた大中臣輔親(954-1038、能宣の子で、伊勢大輔の父)の邸跡)を背後に陣容を整えて迎え撃ち、約4時間ほど攻防が続いた。このままでは戦いの勝敗がつきかねると思われたその時に、河野と陶山の軍勢500余騎が東大宮大路を南に駆け下って赤松勢を包囲しようとしたので、敵に背後に回られた赤松勢は壊滅状態になって多数の戦死者を出し、山崎を目指して敗走する。

 河野、陶山は勝ちに乗じて作道のあたりまで追いかけたが、赤松勢がややもすると反撃に転じる構えを見せるので、これ以上の深追いは無用と鳥羽殿(京都市南区上鳥羽・伏見区下鳥羽の一帯にあった城南離宮)の前で引き返し、六波羅にかけ戻って、生け捕りにした20余人、とった首73人分を切っ先に貫いて披露する。光厳天皇は御簾を捲かせて御覧になり、六波羅両探題は毛皮の敷物に座してこれを改める。天皇は河野と陶山の働きを賞賛され、臨時に宣旨(天皇のご命令)を下されて、河野を対馬守に任命されて御剣を下され、陶山次郎を備中守に任命されて主馬寮の馬を与えられた。これを知った武士たちは、2人が面目を施したことを羨んだり、そねんだりしていた。(光厳天皇のご様子はやや落ち着きがないものに感じられる。)

 赤松の兵が去った翌朝、隅田と高橋は京都中を走り回ってあちこちで行き倒れたり、死んだりしたものの首を集めて、六条河原にさらし首にしたが、その数は873に及んだ。戦死者はそれほど多くなかったはずであるが、自分の功名を言い触らしたいために、無関係な人々の首まで集めて数をそろえたのである。その中に赤松円心入道の首というのが5つもあった。誰の首かわからなかったので、どうせなら敵の大将の首ということにしようということにしたらしい。「京童部(きょうわらんべ)、これを見て『頸を借りたる人は、子をつけて返すべし。赤松入道の討たれもせぬを討たれたると云ふ事は、武家の滅ぶべき相なり』と口々にこそ笑ひける」(394ページ、京の市中にいる口さがない無頼の若者たちは、これを見て、「にせ首を借りて手柄を申し立てる者は、利子をつけて返せ。赤松入道が戦死してもいないのに、戦死したというのは幕府が滅ぶ前兆である」と口々に言って嘲笑ったのであった)。

 今回は、京都市中における合戦の描写となり、地理がわからないと様子がわからないところがある。京都の町は家が建てこんで、道が狭いから、その中での市街戦となると軍勢の多寡よりも士気や作戦の優劣がものをいうことになる。六波羅方の河野、陶山の活躍、宮方の赤松勢の奮戦ぶりはこのことを物語っている。それにしても、勝手に火をつけられたり、家を荒らされたりする住民の迷惑はいかばかりであろうか。かれらが隅田、高橋のような実際にはへっぴり腰で戦いながら、手柄を立てたということについては臆面もなく言い触らす武士たちに厳しい批判の目を向けたのは当然のことであっただろう。

殺しの烙印

7月17日(金)午前中は雨が残っていたが、次第に晴れ間が広がる

 7月14日に池袋新文芸坐で見た鈴木清順作品2本のうちの1本。1967年の作品で、殺し屋たちがランキングの順位を競っているという現実離れのした設定の中で、No.3 のNo.1を目指す戦いがランキングをもつ殺し屋たちと彼の妻、謎の女を巻き込んで展開される。同じ年に、斎藤耕一が殺し屋の青年がブラジル移住を目指すというやはり現実離れのした物語『囁きのジョー』を彼の第1作として手掛けている。ストーリー性よりも映像表現に興味があるということを除くと、かなり傾向の違った作家が、殺し屋を主人公とする映画を作っているのは、時代に対する不満のようなものが根底にあったということであろうか。

 殺し屋のNo.3にランク付けされている花田五郎(宍戸錠)は妻(小川万里子)とともに旅行から戻って来た空港で仕事を依頼される。ある人物を護衛して送り届ける仕事であるが、この仕事の途中で彼はNo.2とNo.4を倒して、No.2にランクを上げる。ところが彼の前に現れた謎の女美沙子(真理アンヌ)から依頼を受けた仕事に失敗して、狙撃するはずの相手を倒せず、同行者を射殺してしまう。殺し屋としての使命の達成に失敗した彼は、失格者として組織から追われる羽目に陥り、No.1(南原浩治)の手配するさまざまな術策の中で生き延びるために戦い続けなければならなくなる。

 斎藤耕一の『囁きのジョー』が非現実的なストーリーを現実に潜り込ませようと悪戦苦闘しているのに対し、鈴木清順は非現実的な世界の出来事をそのまま押し通そうとしている。花田五郎が白飯の匂いを好んだり、美沙子が蝶を部屋中に集めているというような細かいこだわりの一方で、都会の風景の描写や銃撃戦の舞台となる廃屋、埠頭などは大雑把に描きだされている。このようなアンバランスな作り方が作品に独自の魅力を与えているし、主人公が次々に難敵を倒していくという物語の持つゲーム性を支えているようである。ゲーム性と書いたが、映画は双方向的なメディアではないから、今のところゲームそのものにはなりえない。ゲームには規則があり、そのことは映画の中でもルールをめぐるNo.1とNo.3の議論の中で触れられているが、規則が理解できない人、呑み込めない人もいて、そういう人にはこの映画はつまらないだろうと思う。

 この作品を見た当時の日活の社長=堀久作はわけがわからないと怒り、それが引き金になって翌年、鈴木は日活との契約を解除されることになる。それだけでなく、シネクラブ研究会が企画し、日活と交渉を進めていた鈴木清順全作品の上映会のためのフィルム貸出交渉も打ち切り、鈴木作品の「封鎖」を宣言した(そのくせ、自社の経営する二番館では『肉体の門』などの上映を行っていた。私が『肉体の門』を最初に見たのもそうした上映の際のことである)。鈴木が日活を相手に起こした民事訴訟と鈴木清順問題共闘会議の活動についてはここで詳しいことは触れない。ただ、この事件を通して日活の企業イメージを悪化させただけでなく、映画製作における迷走を続けることになった経営陣の責任を問題にしておく必要があるのではないかと思う。

 映画作品の中にはカルト作品=一部の愛好家に熱狂的に支持される作品というのがあり、『殺しの烙印』もその中に位置づけられる。映画が広い範囲での人気を得ていた時代であれば、それは一部における動きであったかもしれないが、1960年代に映画界の斜陽化が進み、五社のなかでは、戦後になって映画製作を再開したことで後発の不利があったことも災いして、業績を悪化させていた日活にとって鈴木が一部に熱狂的なファンをもっていたことは悪い材料ではなかったはずである。映画が映画館で上映されるだけでなく、VTRさらにはデジタル化されて広く観賞されるようになると、個々の作品にはまた別の商品的な価値が生まれてくる。1967年前後に映画製作再開当時から会社を支えてきた幹部が路線対立により退社し、堀社長のワンマン体制が固められていた日活が近視眼的な経営方針にふりまわされたことは長い目で見て映画界にとって幸福なことではなかった。

 とにかく、当時の経営陣には不評を買った作品ではあるが、この映画を見て映画作りを目指すようになったり、批評家への道を歩み始めた知り合いが何人かいる。その影響力には計り知れないものがある。1999年に英国にいたときに、TVでこの作品を放映するという記事を読んだ記憶があるから、国際的にも認知された作品なのである。とはいうものの、よく指摘されることではあるが、女優さんの使い方は巧みであるとはいえず、ヌード場面が多い割には空回りの印象を受ける。またまた引き合いに出すが、『囁きのジョー』の麻生れいこがきれいにとれているのと、この作品の真理アンヌがあまり印象に残らないのは、本人の容貌よりも監督の腕の違いと考えてよさそうである。

 実は昨夜、原稿を書いているうちに寝てしまい、1日遅れの投稿となった。今後、このようなことが起きないように、気をつけていくつもりなので、あしからずご了承ください。

肉体の門

7月16日(木)曇り、後雨が降ったりやんだり

 7月14日に池袋新文芸坐で『検証日本映画 vol.15 川島雄三と鈴木清順 絶対支持宣言』の特集上映の最終日の上映となる鈴木監督の『肉体の門』(1964)と『殺しの烙印』(1967)の2本立てを見た。『肉体の門』を見るのは3度目、2度目に見たときから40年以上の年月が経っているが、今回が一番面白く見た。清順の他の作品も見て作風に慣れてきたことの影響が大きいようである。『殺しの烙印』は初めてである。この2本の映画についての感想を1度にまとめて書くと、相当な量になりそうなので、とりあえず、『肉体の門』について書いておく。

 終戦から間もない1947(昭和22)年の東京の下町、廃墟とバラックが並んでいる街の中で闇市がたくましく商売を続け、それを暴力団が取り仕切っているが、彼らよりもさらに強力な権力として進駐軍が存在している。兄がボルネオで戦死して、全くの1人になってしまったマヤ(野川由美子)はその日の食べ物にも困っていたが、関東小政となのるせん(河西都子)を頭目とする街娼の一団に入れてもらい、次第に仕事を覚えていく。この集団にはジープのお美乃(松尾嘉代)、ふうてんのお六(石井富子)、そして少し年長で戦争未亡人のお町(富永美沙子)がいる。グループは金をとらずに男と寝たら、裏切り行為として私刑を加えたうえで追い出すという規律をもっている。

 この作品の原作は田村泰次郎(1911-1983)が1947年に発表した同名の小説で、1948年にマキノ正博・小峰政房によって(最初小峰が手掛けたのだが、手に負えなくなって、マキノが引き受けたのである)映画化され、1964年の映画化に際しては、当方の恩地日出夫による映画化『女体』と競作になり(こちらは、田村のもう1つの小説『埴輪の女』もストーリーに取り入れているそうである)、その後1977年に日活ロマン・ポルノの1作として西村昭五郎により映画化され、さらに1988年に五社英雄監督によっても映画化されている。ストーリーや登場人物がそれぞれ、手を加えられているようであるが、これらの作品は見ていないし、原作も読んではいない。ただ、配役一覧を見ると、1948年版(浅田せん=轟夕起子、夏目マヤ=月丘千秋)、1964年版(マヤ=野川由美子、関東小政=河西都子)、『女体』(菅マヤ=団令子、浅田せん=楠侑子)、1977年版(マヤ=加山麗子、小政のせん=山口美也子)、1988年版(浅田せん=かたせ梨乃、菅マヤ=加納みゆき)ということで、マヤを強調するか、関東小政=せんを強調するかというそれぞれの配役の方針から、作品における重点の置き方が多少推測できると思う。この1964年版はマヤの野川由美子、小政の河西都子ともにほとんど新人で、他の映画化作品に比べると良くも悪くも<若さ>が目立つ。出演料や、大胆な演技への期待もあったのかもしれないが、<若さ>が強調されている。
 もう一つの特徴は女たちにそれぞれの色を与えて描き分けていることである。小政が赤、お美乃が紫、お六が黄、マヤが緑である。お町には色はないが、黒っぽい着物を着ている。小政とお六には(そしてお町には)明確な主張があるが、中間色のお美乃とマヤには思想的な動揺があるということだろうか。

 考えてみると、田村泰次郎は昭和10年前後の日本経済の一時的な繁栄を経験してから、戦争に出かけているのだが、鈴木清順は大正2ケタ生まれで、旧制高校を中退して兵隊に出かけている。田村には戦争が終わった後戻るべき元の人生の快楽は見えていたが、鈴木にとっては戦争が人生のすべてであったというところがありそうだ。それだけに戦後についての印象もかなり違っているようである。田村がこの小説を通じて主張しようとしたことは比較的単純で、現世的な快楽をとにかく信じるということだが、鈴木はそれについてどうも懐疑的なようである。

 女たちのグループに進駐軍と悶着を起こして追及を受けている復員兵の伊吹(宍戸錠)が入ってきて、物語が動きだす。なじみの客にほれ込んで、金をとらなくなったお町に対してグループは制裁を加えるが、伊吹はそれを見ながら、お町の体に感心している。少しずつ、グループの結束に亀裂が入ってきているようでもある。
 色気と食い気以外は信じないという伊吹の哲学は、鈴木の目に映じた原作者のものの考え方であろうが、鈴木はそれにかなり魅力を感じながらも、信じ切っていないようである。これ以上は物語の結末にかかわるので書けないが、戦争が終わって20年近くたった時点で、終戦後の混乱期を振り返って、鈴木は田村よりも内省的になろうとしているように思われる。それは適切であるとは思えないのだが、映画の要所でマヤの物語をめぐるナレーションが入ることでも感じられる。

 『肉体の門』というから、この映画に描かれているのは、あくまで入り口としての門の状況であって、登場人物も作者も、これから門を通ってその中の世界に入っていくはずである。門が地獄の門なのか、天国の門なのか、はたまた煉獄の門であるのかはわからない。ただ、この鈴木版は原作者と、さらにはおそらく監督の意図も越えて、出演者の<若さ>が物語の展開とは別の<明るさ>を与えているように思われる。

 関東小政の河西都子はこの後、ほとんど出演作がなく、詳しいことがわからない。野川由美子、松尾嘉代のその後の活躍については多言を要しない。それぞれ私とほぼ同世代であり、野川由美子については、京都の高校で彼女と同学年だったとか、同じサークルにいたとかいう知人が2人いる。松尾の方は最近引退状態になっているのが残念である。東京の下町の話なのに、京都出身の野川が主人公、東京出身の松尾がわき役というのも奇妙かもしれないが、それぞれの個性を見きわめての判断であろう。鈴木監督は東京の下町の出身なのだから、何も考えていないはずがないのである。そういえば、新藤兼人監督の『性の起源』では東京出身の松尾が京都の寺の娘を演じている。これも彼女の個性を見ての判断のようである。
 しかし、この作品で一番頑張っているのはふうてんのお六を演じている石井富子(後に石井トミコ)であろう。他の出演者よりも年長の彼女は、脇役が大半とはいうものの、他の出演者を圧倒する出演作品数を誇り、この作品については暗くなりがちな物語をコミック・リリーフとして支え、また彼女の代表的な出演作の1つとしている。その後の長きにわたるおばさん役女優としての彼女の活躍は、みなさんがご自分で出演作品を検索してみることをおすすめしたい。そこから日本の映画史の流れの1つが読み取れるはずである。

日記抄(7月9日~15日)

7月15日(水)晴れ後曇り、夜になって雨が降り出す

 7月9日から本日までの間に経験したこと、考えたことなど:
7月9日
 NHK「ラジオ英会話」の”U R the ☆! (You are the star!)”のコーナーの会話の前半部分
Wow, there are a lot of bees! (まあ、ハチがたくさん!)
Yes, they're sucking nectar. (ええ、花の蜜を吸っています。)
 ここで「花の蜜」と訳されているnectarはギリシア神話でこれを飲むと不老不死になるという神々が飲む酒に語源をもつ。nectarと対になるのが、ambrosiaという食べ物で、これも食べると不老不死になるという。こちらは辞書によるとbeebread =「蜂パン(蜜蜂が花粉で作って巣に貯え幼虫の食料とする)」という意味も持つそうである。

7月10日
 NHKラジオ「まいにちフランス語」応用編は「夏時間への移行」という話題を取り上げた。
En France, il y a l'heure d'été et l'heure d'hiver. Le passage à l'heure d'été à toujours lieu le dernier dimanche de mars. À la télévision, on explique alors qu'il ne faut pas oublier d' avancer sa montre d7une heure. (フランスには、夏時間と冬時間があります。夏時間への移行は、常に3月の最後の日曜日に行われます。その時テレビ絵は、腕時計を1時間進めるのを忘れないように、という説明がされます。)
 これはフランスだけのことではない。
Les dates de changement d'heure sont les memes pour tous les membres de l'Union européenne. (自国の変更日は、EUのすべてのメンバー国に関しておなじです。)
 だから冬時間が行われている間は、日本とフランスの時差は8時間、日本と英国の時差は9時間だが、夏時間になると日本とフランスの時差は7時間、日本と英国だと時差は8時間ということになる。

7月11日
 NHKラジオ「アラビア語講座」でレバノンの国民的な歌手であるファイルーズの「ヤ・アナー」(聞き違いがあるかもしれない)という歌の一部を放送した。この歌はベートーヴェンの曲にアラビア語の歌詞をつけたものだという説明であったが、聞こえてきたメロディーはモーツァルトの交響曲40番であった。この番組は毎年、ほとんど同じ内容で放送されているのだが、誰もこの間違いに気付かなかったのであろうか。

 同じく「攻略! 英語リスニング」では”Marie Antoinette"を取り上げた。The last queen of Franceとして紹介されていたが、厳密に言えばこれは間違いである。ルイ16世でフランスの王制はいったん途切れるが、その後また復活し、さらに立憲王政になり、1848年まで続く。その意味で、最後の王妃というのはルイ=フィリップの妃であったマリー・アメリー・ド・ブルボン≂シシレ(1782-1866)ということになる。彼女の後に、ナポレオン3世の妃のウジェニー・ド・モンティジョがフランスの君主の妃となるが、ウジェニーはqueenではなくてempressである。とはいうものの、マリー・アメリーはマリー・アントワネットと比べてはもちろんのこと、ウジェニーと比べても話題に乏しい女性である。肖像画を見ても、かなり見劣りがするのは気の毒である。

7月12日
 「攻略!英語リスニング」は”Marie Antoinette"の続き。講師の柴原さんは彼女に同情的なコメントをしていたが、私は、彼女がルソーの「自然に還れ」というスローガンをごく表面的に理解して、プチ・トリアノン宮に小屋を建てて、そこで田舎娘の扮装をして時間を過ごすのを好んだという話を思い出す。フランス革命を準備した思想の多くの部分が宮廷と貴族たちのサロンで醸成されたという思想史的な経緯も見過ごすべきではないのである。マリー・アントワネットは彼女なりに時代の空気を感じ取ってはいたのだが、その意味を深く理解できなかったところに悲劇がある。

 NHK Eテレ「日本の話芸」は桂文楽の「鰻の幇間」を放送した。名人といわれた先代・文楽がよく演じていた噺だが、社会的な弱者である芸人=幇間が騙されるという筋なので、あまり後味がよくない。先代は自分や周囲の人間の経験を踏まえて、それなりの実感をもって演じていたのだが、当代の文楽にはそのような経験がない分、いくら基本に忠実に演じてもどうも噺が平板になっているのではないかと思う。というよりも聴いているうちに寝てしまったので、しっかりした感想が書けない。

 私の家の近くにある高校の生徒が「生麦事件」について、教科書の本文に出てこないけれども、試験の問題になったというような話をしているのが聞こえた。彼らが通っている道からちょっと曲がって少し歩いたところにある本覚寺は、生麦事件の際に被害に遭った英国人の一部が逃げ込んだ場所であり、当時はアメリカ公使館として使われていた。歴史を書物ではなくて、自分の足で確かめるような勉強をしてほしいものだと思うことしきりである。

7月13日
 佐高信 松元ヒロ『安倍政権を笑い倒す』(角川新書)を読む。安倍首相と笑いというのは興味深いテーマであるが、ここでは本題の脇で語られている話題のいくつかについて論評しておく。
 漱石と鴎外を比較して、漱石が西園寺首相に招かれても同席を断った一方で、鴎外はのこのこ出かけて行ったこと、彼は官僚としても出世街道を歩んだことなどを指摘しているが、これはむしろ世の中をどのようによくしていこうと考えるかについての2人の考え方の違いと解釈すべきではなかろうか。漱石は制度の外から論評し、鴎外は中から改革しようとしたということではないかと私は思っている。
 佐高さんは私と同い年なのだが、飯沢匡とその業績についてあまりよく知らない様子なので、ちょっと驚いた。大人向けの活動についてはともかく、子ども向けの放送番組制作で大きな業績を残された方である。佐高さんは子ども時代にラジオ番組の『ヤン坊 ニン坊 トン坊』とか、テレビ番組の『ブーフーウ-』とかに接したという記憶がないのだろうか。
 とはいうものの、この本の中で紹介されているマルセ太郎の「思想のないお笑いは見たくない」という発言には賛同しておきたい。かつて、伊丹万作がルネ・クレールの風刺喜劇映画について「思想のない風刺」であって、必ず行き詰まると予言していたという話を思い出す。
 
7月14日
 暑い中、大汗をかきながら墓参りに出かける。たまたま私の家の墓の隣の隣の隣の墓にお参りに来ていた女性が話しかけてきた。私の家の隣の墓が、このところお参りに来る人がいない状態になっているのだが、もともとその家は女性の近所に住んでいた一家なので、交流があったことを思い出し、なんとなく気になって…という話であった。

 その後、池袋の新文芸坐で鈴木清順の『肉体の門』と『殺しの烙印』の2本の映画を見る。これらの映画については、機会を見つけて書いてみるつもりである。

 NHKラジオ「入門ビジネス英語」で講師の柴田真一さんがアメリカ人はあまり謝罪をしないようだがという話題を持ち出した際に、パートナーのハンナ・グレースさんが”apology without solution"でも困ると切り返していたのが印象に残った。文句を言う人が本当に求めているのは「解決」であって、「謝罪」ではない。「謝罪」によって、「謝ったのだからこれでいいだろう」と「居直り」を決め込むというのでは問題は先延ばしされるだけである。 

7月15日
 夜になって雨が降り、少し涼しくなったが、日中は暑かった。医者からはもう少し水分をとらないと熱中症になる恐れがあるといわれる。 

 「安保」法案、衆院の特別委で強行採決。首相はこれから国民に丁寧に説明するというが、順序が逆ではなかろうか。 

ダンテ・アリギエリ『神曲 煉獄篇』(8-2)

7月14日(火)晴れ、暑し。

 前煉獄で旧友ニーノ・ヴィスコンティに出会ったダンテは彼ら北イタリアの貴族たちがその一族の現世における交流を目指して戦いの日々を送った挙句、結局はその一族さえも幸福にできないという結末をえたことを知らされる。
中庸を失わずに心中で燃え上がる
あの正しき怒りの刻印が
押された表情で、彼はこう話していた。
(126ページ)

好奇心に満ちた私の視線は空へと向かい続けていた、
回転軸に最も近い輪のように
星々の動きが最も遅いあたりへと。

すると我が導き手は、「息子よ、上の何を見つめているのだ」。
そこで私はあの方に、「あの三つの松明を、
こちら側の極全体がそのために燃え上っているのです」。

するとあの方は私に、「おまえが今朝方見ていた
四つの明るい星々は、向こうに沈んでしまった。
そしてこれらがその場所に昇ってきたのだ」。
(126ページ、北半球に住むダンテは南半球の星を見たことはない。「四つの明るい星」は『煉獄篇』第1歌で現われ、彼らの頭上に輝いていたのだが、4つの枢要徳(=賢明、剛毅、中庸、正義)のアレゴリーである。これに対し、「三つの松明」とは第7歌に登場した3つの対神徳(=信仰、希望、慈愛)を象徴するものである。ダンテの世界観では、皇帝アウグストゥスによって地上の平和が実現した(地中海沿岸とその周辺だけのことであるが、それがダンテにとっては全世界であった)ことにより、対神徳による神との関係が築かれたことが築かれたのである。(単にイエスが福音を述べたというだけではなく、ローマ帝国の世界史的な意義をキリスト教的に解釈しているのである。)

 ダンテとウェルギリウスがこのような会話を交わしていると、ソルデッロは煉獄の魂達を誘惑しようとして近づいてきた蛇に彼らの注意を向けさせようとする。
小さな谷の中でも備えがない
あのあたりに、一匹の蛇がいた。
おそらくはエヴァにあの苦い食べ物を与えた奴であろう。
(127ページ) 蛇、つまり悪の誘惑は人の最も弱い部分から攻めてくることが語られていると注記されている。

 しかし、蛇は煉獄の魂を守るためにやってきた天使たちの力によってすぐに撃退されてしまう。ソルデッロに注意を向けられるまで、ダンテが話していた相手であるニーノ・ヴィスコンティのかたわらに、いつの間にかもう1人の魂が近寄ってきていた。彼はマラスピーナ侯爵家の一員である(誰かは研究者によって特定されていない)。ここで初めて、ここで罪を償わされている君侯たちが一族への偏愛ゆえにこのような扱いを受けていることが分かる。しかし、ダンテはマラスピーナ家が当時のイタリアの複雑な政治情勢の中で、教皇庁からの独立を保って正しい歩みを歩もうとしていることを認める。これに対するマラスピーナの答えは事後予言で、フィレンツェを追われたダンテはマラスピーナ家の保護を受けることになるのである。

 「地獄篇」でダンテは彼の同時代だけでなく、古代の人々の姿も見かけ、対話を交わしていたが、「煉獄篇」に入ると、同時代の、しかも顔見知りの人物が多く登場していることに気付く。それは「煉獄」の魂達が時を経て、天国へと導かれていることにもよるのであるが、ダンテの同時代のイタリア社会とヨーロッパの政治状況への意見、さらには政治的な意見を通して窺い知ることのできるより一般的なものの見方、考え方について「煉獄篇」が極めて重要な手掛かりをあたえてくれることも示しているのである。

坂道の主人公

7月13日(月)晴れ、台風の影響だろうか風が強い。檀家めぐりのお坊さんを2人も見かける。草履で坂道を上り下りするのは大変なのではなかろうか。

坂道の主人公

坂の登り口にある
家の庭の
サルスベリが
今年もピンクの
花を咲かせはじめた

坂道を彩って来た
アジサイの花の
色も褪せ、
タイサンボクの
大きな白い花も
盛りを過ぎたようだ

ライバルとなるような
夾竹桃も
木槿も
この坂道には姿がなく
しばらくは
サルスベリが
この坂の主人公に
なりそうだ

そんなことを考えながら
坂を登っていくと
たくさんの実をつけた
夏ミカンの木に出会った
花よりも
実のほうが
大事だというのも
一理あるなと思い直して
さらに坂道を登る

むかしから
あまり変わらない
家々の並んだ坂道を
季節の変わりめを告げる
風が吹き抜けている

プーサン

7月12日(日)晴れ後曇り

 7月9日、神保町シアターで「夏休み特別企画 漫画から生まれた映画たち」特集上映の中の1編である『プーサン』を見た。市川崑が目がフォンをとった1953(昭和28)年の東宝作品。横山泰三(1917-2007)が1950年から1953年まで『毎日新聞』夕刊に連載した同名の4コマ漫画と『サンデー毎日』に連載した『ミスガンコ』から登場人物をとっているが、題名、登場人物名を除くと、原作からはかなり自由に物語が作られているようである(脚本は和田夏十)。第一、主人公の名前が野呂米吉(伊藤雄之助)であって、これがなぜ『プーサン』なのか全く説明されていない。

 原作が新聞・雑誌に連載されていたのは、私が小学校低学年のころであるから、題名と絵柄については記憶はあるが、どんな内容であったか詳しい記憶はない。ただ、両作品とも世相への風刺が込められた、かなりドライな感じの漫画であったようである。横山泰三は『プーサン』の連載が終わった後、1954年から1992年までの長きにわたって『朝日新聞』朝刊に11コマ漫画『社会戯評』を連載した。戦後を代表する風刺漫画といわれる。
 野呂米吉は妻に先立たれて独身の予備校の数学教師。役所で税金の計算をしている公務員の金森風吉(藤原釜足)の家に下宿し、この家の娘で銀行に勤めているカン子(越路吹雪)にひそかに思いを寄せている。学校では経営者≂院長(加東大介)にいいようにこき使われ、板書を代行してくれた学生に手間賃を払ったり、外食券を買わされたりで、一生懸命に働いている割には収入も社会的な尊敬も低い、割に合わない生活を続けている。映画は渋谷に住む彼が珍しく銀座に出かけ、トラックに轢かれそうになって消火栓に躓いてけがをして病院に運び込まれる場面から始まる。警察、病院と彼の世話を焼く男たちの姿から、世相が浮かび上がる。男たちの一人(トニー谷)が紹介してくれた渋谷の病院に通うことになり、そこに雇われている若い医師(木村功)や、親切なのかもの好きなのかわからない可愛い看護婦(八千草薫)と知り合うようになる。一方事故以来さらに臆病の度合いが増した彼は、近所の派出所の警官(小林桂樹)と親しくなる。警官はちっとやそっとのことで驚いていてはだめだと彼を元気づける。そんな彼の日常に、陸軍の軍人からベストセラー作家になってさらに国会議員に選出された男(菅井一郎)や、その甥で野呂の学生である青年(小泉博)が物語に絡む。
 学生に勧められてデモに参加した米吉は、負傷・逮捕されただけでなく、デモに参加している姿が新聞に掲載されたことで予備校を首になる。その性格からガンコとあだ名されるカン子は残業続きのまいにちを過ごしているが、恋人がいるらしい。米吉が頼りにしていた先輩(山形勲)は会社を辞めて行商人になってしまい、米吉はカン子の母の勧めで朝鮮特需で人手が不足している会社の入社試験を受けに出かけることになる。・・・

 さまざまな人物が登場し、それぞれ勝手に動き回る。朝鮮戦争による特需で戦後の復興に勢いがつきはじめた時代の世相を、市川崑はかなり表面的にとらえている。パチンコ店の盛況を天井裏から映し出した場面などはその一例といえよう。外食券食堂で些細なきっかけで始まった喧嘩を描く場面があるが、様式化されたドタバタを演じるわけではなく、平板でおとなしい描写が続くだけである。下宿人が下宿先の娘に思いを寄せるというのは『プーサン』よりも南部正太郎の『屋根裏3ちゃん』的な心情であって、原作も、市川崑の個性ももう少しドライではないかという気がする。だから、米吉よりも、カンコのほうがよく描かれていて、最後の方で彼女の恋愛がうまくいかずに自殺を図る場面で、若い女性が裸で睡眠薬自殺と聞きつけて、大勢の警官が駆けつける場面などは横山泰三の原作の雰囲気をよく伝えているのではないかと思う。実年齢よりも少しばかり若い役を演じている越路の下着姿がなかなか見事である。

 見どころは少なくないが、散漫な印象は否定できない。どうせなら、米吉がさまざまな職場を転々とするという物語にした方が世相を描きやすかったのではないか。社会批判とか、風刺とかいうものは、時代が変わり、世相が変わると、その力を失うことが少なくない。要はどれだけ対象となる社会の問題点を掘り下げることができるかということである。市川が映像にこだわる映画作りをするのは間違いではないが、その映像を通じて同時代の特徴をもう少し自覚的に探っていくべきではなかったのかと思う。そういう映画作りをすれば、また違う印象が生まれただろうと思う。越路吹雪の魅力のほかに、まだ宝塚に在籍していたころの初々しい八千草薫の魅力が印象に残る。

 この作品について調べていて気づいたことを1つ付け加えておく。映画の中で予備校生の役を演じている小泉博さんは、神保町シアターで同じ時期に上映されていた『サザエさんの青春』でマスオさんの役も演じているが、今年の5月31日に亡くなられたそうである。遅ればせではあるが、ご冥福をお祈りしたい。

『太平記』(53)

7月11日(土)晴れ

 元弘3年(1333年)3月12日、京の近郊に迫った赤松勢は、桂川を挟んで六波羅勢と対峙したが、円心の子息則祐が桂川を渡って攻撃を仕掛け、軍勢の数では優っているはずの六波羅勢はその勢いに圧倒されて退却、赤松勢が勝利を収めた。下京一帯に火が放たれる中、日野資名・資明の兄弟は主上(光厳帝)と三種の神器を内裏から出して六波羅に入れた。

 同じ3月12日の夜、六波羅の2人の探題は七条大路の東端の鴨川の河原に兵を率いて近づく敵を待ち受けた。もともと赤松勢はそれほどの大軍ではないので、六波羅の大軍を見て嫌気がさしたのか、あちこち走り回って火をつけたり、鬨の声を上げたりはするものの、同じ陣地から動こうとはしない。両探題はこれを見て、敵はきっと小勢に違いない、向かって行って追い散らせと、北探題である北条仲時の家臣である隅田と高橋に3,000余騎の兵をつけて八条口(八条大路の西端)に向かわせた。この隅田と高橋の2人の武士はこれまでも登場し、特に第6巻では楠正成にさんざんに打ち負かされているのだが、仲時は依然として彼らを信頼しているようである。このあたりに六波羅方の判断の甘さがあると言えそうである。さらに伊予の豪族である河野九郎左衛門尉、備中の武士である陶山次郎に2,000余騎をつけて、蓮華王院(三十三間堂)へと向かわせた。

 陶山が河野に向かっていうことには、ただ寄せ集め忠家の軍勢を率いて軍に臨むと、そのことが却って足手まといになって進軍と退却を自在に行うことができないだろう。そこで、六波羅殿からさし添えられた兵士たちを八条河原辺に控えさせて、鬨の声を上げさせ、我々はもともとの配下の兵を率いて、蓮華王院の東から敵の中にかけ入り、四方八方縦横無尽に敵陣を掛け破り、敵を左手、右手において、獣を馬で追って射る追物射のように射てやろうと提案する。河野もこれに同意して、自分の配下ではない兵士たち約2,000騎を鴨川の西側、塩小路東洞院にあった時宗の七条道場、金光寺の前に配置し、河野は自分の手勢300余騎、陶山の手勢150騎はそれとは分かれて蓮華王院の東へと向かった。

 あらかじめ決めておいた時刻になったので、八条河原の軍勢が鬨の声をあげると、赤松勢はこれと対戦しようと馬を西向きに立てて敵襲に備えていると、陶山と河野の400余騎が、思いがけない方角である後ろの方から鬨の声を上げて攻め寄せ、東西南北に駆け巡って、赤松勢を蹴散らした。自分たちよりも大勢の赤松勢の中を縦横に走り回り、陶山と河野が一緒になったり、離れたり自在に攻めまくった。このため赤松勢は多くの死傷者を出して退却を余儀なくされた。

 陶山と河野は逃げていく敵には目もくれず、西の七条辺の合戦の様子はどうだろうか、気がかりであると、七条河原を斜めに西へと横切って、七条大宮に落ち着いて、朱雀の合戦を見やると、隅田、高橋の3,000余騎が赤松勢の2,000余騎に攻めたてられて陣容を整えることさえできずにいた。河野がこの様子を見て、味方が不利なので、自分たちが攻め寄せて加勢しようというと、陶山がそれをとめて、まだ戦況がはっきりしないうちにわれわれが加勢すると、隅田と高橋は心がけが悪い奴らであるから買ったのを自分たちの手柄だといい裁てるだろう。敵が勝利を収めても、大したことはないだろうから、しばらく様子を見ようという。それで両者は戦いの様子をしばらく眺めていた。

 そうこうしているうちに隅田、高橋は赤松の軍勢に追い立てられて、軍勢を立て直すことができず、北へ逃げるもの、東に逃げるもの、逃げたくても馬を奪われて逃げられずに戦死するものなど、散々の体たらくであった。陶山はこれを見て、余りにのんびりして、味方が弱るのを見ているのも意味がない、この様子では兵を進めた方がよかろうといい、河野も同意して、両勢が一緒になって敵の大勢の中に攻め寄せ、百戦錬磨の勇士たちが臨機応変に戦ったので、赤松勢はここでも敗北を喫し、寺戸(向日市寺戸町)へと引き返した。

 『太平記』に記された軍勢の数がどこまで正確かはわからないが、この時点でも六波羅=幕府は宮方の赤松勢よりも大勢の兵力をもっていたようである。しかし、赤松勢のほうが士気が高く、統率もとれているのでここまでは優勢に戦ってきた。しかし、さすがに六波羅の近くまで攻め寄せると、その勢いにも衰えが見える。六波羅方から河野、陶山という歴戦のつわものが登場すると、自分たちよりも兵力の少ない彼らの軍勢に打ち負かされることになる。とはいうものの、隅田、高橋のように全くいいところがないのに、六波羅探題の信認を得ている武士もいる。数は多くても一枚岩とはいいかねる六波羅方が果たしてどこまで宮方の攻撃を撃退しつづけるだろうか。 

見えない神

7月10日(金)晴れ

 久しぶりに晴天に恵まれ、午後から東京に出かけて、神保町シアターで市川崑監督の『プーサン』を見た。東京まで出かけるのも久しぶりだったせいか、ひどく疲れて、新しくものを考える元気が出ないので、昔書いた文章を手直しして、掲載することにする。

 『旧約聖書』の『歴代誌』はアダムから始まったユダヤ民族の系譜と歴史を記している。『上』の最後で、ダビデの王位を継承したソロモンの繁栄が『下』の最初の方で語られるが、彼の死後、王国は北のイスラエルと南のユダヤに分裂する。ユダヤはソロモンの息子であるレハブアムの子孫が王位を継承したが、イスラエルはソロモンの課していた重税に反発したヤロブアムと彼を支持する人々が新たに建設した王国であった。

 イスラエルは周囲の様々な民族の宗教の影響を受け、国王たちは祖先から継承した宗教をないがしろにする傾向があったのに対し、ユダヤでは祖先から継承した宗教を守ろうとする努力が続けられていた。とはいうものの、そこから逸脱する国王もいた。その1人であるアハズは、ユダヤの悪王の1人とされ、「彼はイスラエルの王たちの道を歩み、その上バアルの神々のために像を鋳て造った。主がイスラエルの人々の前から追い払われた諸国の民の忌むべき慣習に倣って、ベン・ヒノムの谷で香をたき、自分の子らに火の中を通らせた。またまた聖なる高台、丘の上、すべての茂った木の下でいけにえをささげ、香をたいた」(新共同訳、歴代誌下28.2-5)とその治政ぶりを要約されている。ユダヤの王であるのに「イスラエルの王たちの道を歩み」というのは厳しい評価である。

 要するに祖先から継承したユダヤ民族の神、唯一神、偶像崇拝を拒否する神ではなく、そのほかの神々を(あるいはそのほかの神々も合わせて)信じるようになったということである。多神教的で、現世利益的な信仰が前面に出てきたということでもあるらしい。

 もともとユダヤ民族は遊牧民族だったが、カナンの地に定住して農耕民族化すると、周囲の民族の影響で農耕神(雷の神)を信じるようになったと考えられている。ユダヤ民族は12支族の連合体で、それらの支族は共通の祖先をもつと信じられていたが、実はそうではなくて異質な集団の連合体であったのではないかという学者もいる。この考え方からすると、12支族のすべてが遊牧民族だったのではなくて、中には初めから農耕民族であったグループもいたのかもしれない。ユダヤの神はこのような12支族統合の要となる神であった。その信仰が揺らぐということは民族の結合が弱まることでもあった。

 私の旧知のある聖書研究家によると、北で盛んであり、南にも影響が及んだ「聖なる高台」の祭祀は日本の神道に似たところがあり、そのことが聖書の理解に役立つと語っていた。この考えにはいろいろと教えられるところがあったのだが、疑問に思うとこrもある。神道(あるいは日本人の原初からの信仰)における神は、歴史的にさまざまな解釈や意義付けをされながら、姿を現さない、隠れた神であるという点は維持し続けたのではないかと考えている。この点は旧約聖書の編纂者から批判された「聖なる高台」の信仰よりも、ユダヤ民族が祖先から継承した神についての考え方に似ているのではなかろうか。

 北にイスラエル、南にユダヤという2つの王国に分裂した時代となると、本来の信仰と農耕神であるバアル信仰とが混ざり合い、日本で固有の信仰と仏教が混ざり合ったのと同じような現象が起きる。それでも、ユダヤ民族は偶像崇拝を退けようとしたし、日本でも「仏は常にいませども、うつつならぬぞあはれなる。人のおとせぬ明け方に、ほのかに夢に見え給ふ」という今様に歌われているように、仏が、日本の固有の神のように見えない存在であるという考えは尾を引くのである。

 もちろん、日本の八百万の神々の中には住吉大神のように時として姿を見せると信じられている神もいて、話はそれほど簡単ではないのだが、「神は見えない」というのが一般的な理解であったし、それは尊重すべき伝統であると私は考えている。日常的な経験のレヴェルで宗教を考えるというのも1つの生き方ではあろうが、宗教は現実の日常のかなた、抽象的な世界について考える一つの手掛かりとして重要なのではないかと思うのである。

雨の降り注ぐ公園で

7月9日(木)雨が降ったりやんだり

雨の降り注ぐ公園で

梅雨の
雨が
やみそうもなく
降り続ける
昼休み

公園で
若者たちが
濡れながら
それでも楽しそうに
時を過ごしている

高校生だろうか
職人だろうか
若い男性が4人
1人が投手
1人が打者
1人が捕手
そして1人が野手の
位置にいて
投手が
コントロールも
スピードも落第点の
ボールを投げ
それを打者が
何でもかんでも打ち返そうとする
空振りが続き
時々凡ゴロが転がる
そして野手がそのゴロを処理して
投手にボールを返す
(どうでもいいけど
この野手がいちばんボールさばきが
上手だ)
ボールは次第に
泥だらけになり
彼らの服も
濡れて
汚れてゆく

その一方で
公園の片隅で
金髪と茶髪の
若い女性が2人
傘をさして
雨をよけながら
しゃがんで
弁当を食べながら
何かおしゃべりをしている
よほど面白いことを
話しているのだろうか
雨が強くなってきたのも
気づかない様子だ

どちらも
楽しそうに
昼休みを
過ごしているのだが
もっと
楽しく
過ごせるかもしれないし
そういう可能性を
見つけるほうが
よさそうだ
そんなことも考えない様子で
彼らは彼らの
今の時間を
楽しく
過ごしているらしい。

日記抄(7月2日~8日)

7月8日(水)雨が降ったりやんだり

 7月2日から8日にかけて経験したこと、考えたことなど:
7月2日
 NHKカルチャーラジオ「文学の世界」は『ボブ・ディランの世界を読む』の第1回。彼が世に知られるきっかけとなった『風に吹かれて』という歌が、単なる反戦歌ではなく、より多様な解釈を可能にする内容をもち、その後の彼の音楽活動の展開を示唆するものだという。それよりも、「風に吹かれて」という歌がディラン自身ではなく、ピーター・ポール&マリーの歌唱によって広がったという話のほうが考えさせられるところが多かった。この番組はその性格上、講義形式であるが、ディランの歌は原詩を検討したり、歌唱を聴き比べたりして、演習形式で掘り下げていく方が面白いだろうと思う。

7月3日
 7月から始まったNHKラジオまいにちフランス語応用編「ニュースで知りたいフランス文化」は「復活祭とチョコレート」という話題を取り上げた(4月に放送するほうが適切な話題ではないかと思う)。
C'est pour fêter la résurrection du Christ. La date n'est pas fixe, mais le dimanche de Pâcques tombe toujours entre le 22 mars et le dans certains autres pays. Le lundi qui le suit est un jour férié. Les enfants ont environ deux semaines de vacances scolaires.
(キリストの復活をお祝いするためのものです。日付は固定されていないのですが、フランスとその他の複数の国々では、3月22日から4月25日までのどこかに、復活祭の日曜日が必ず来るようになっています。その次の月曜日は祭日です。子どもたちには、約2週間の学校休暇があります。)
Autrefois, pendant les Paques, on offrait de vrais œufs. Aujourd'hui, on offfre des œufs en chocolat, ou les enfants font la chasse aux œufs.
(昔は、復活祭の期間に、本物の卵を贈っていました。現在では、チョコレートでできた卵を贈ったり、子どもたちは卵探しを行ったりします。)
Pour petits et grands, pas de fêtes de Pâquetes sans chocolat.
(子どもにとっても大人にとっても、チョコレートなしの復活祭なんてありえません。)
その一方、
Une grande quantité de chocolat est vendue chaque année au Japon à la Saint-Valentin.
(毎年日本では、バレンタインデーに大量のチョコレートが販売されます。)
それは結構なことなのだが、チョコレートの生産・輸出国であるコートジボアールやガーナの生産現場の現状にも目を向けてほしい。

 NHKカルチャーラジオ「私たちはどこから来たのか 人類700万年史」の第1回を聴く。「人類の進化は複雑であり、全体像をとらえるのは難しい」という。急いで結論を求めることなく、のんびりと聴いていくことにしよう。

7月4日
 NHKラジオ「攻略!英語リスニング」では”Venicce"(ベネチア)を取り上げた。講師の柴田さんは英語では「ベニス」だが、現地語であるイタリア語では「ベネチア」であるというようなことをいったが、イタリア語には様々な方言があって、私が調べたところでは現地の方言ではヴェネシアというような発音になるらしい。「現地語」という言い方も気をつけて使わないといけない。

 キャロル・ダグラス・ネルソン『おやすみなさい、ホームズさん 上』(創元推理文庫)を読み終える。『シャーロック・ホームズの冒険』の冒頭の作品「ボヘミアの醜聞」(A Scandal in Bohemia)に登場するホームズがその知恵の働きに脱帽したただ一人の女性であるアイリーン・アドラーが、アメリカの宝石商ティファニーの依頼を受けて、マリー・アントワネットゆかりの宝石の行方を探るというストーリー。実在の人物(ティファニーとか、オスカー・ワイルドとか、作曲家ドヴォルザークとか)と、ホームズの世界の人物(ホームズ、ワトスン、アイリーン・アドラー)と作者が新たに創作した人物が入り乱れて物語は進行していく。

7月5日
 NHKEテレ「日本の話芸」で入船亭扇遊師匠の「不動坊」を聴く。ある長屋で借金を残して死んだ講釈師の妻の行く末を案じた大家が長屋の中で一番の働き者に借金を返すことを条件に、この妻と所帯を持つという話を持ち掛ける。この話を聞いた同じ長屋のひとり者連中は面白くないので、近所に住む落語家の弟子に不動坊の幽霊を演じさせ、結婚をぶち壊そうとするが…。面白いことは面白いが、当時の長屋の様子というのが今一つよくわからないので、どうやって幽霊をぶら下げるかなどの描写が不十分であり、肝心の幽霊が化けて出る場面の効果が薄れている。いっそのこと、「落語劇」という形にして上演した方がわかりやすいかもしれない。時代の変化で落語の中には、別の形をとったほうがわかりやすいものがほかにも出てきそうである。

7月6日
 キャロル・ネルソン・ダグラス『おやすみなさい、ホームズさん 下』(創元推理文庫)を読み終える。作曲家ドヴォルザークに見いだされ、東欧でプリマドンナとして成功を収めたかに見えたアイリーンであったが、ボヘミアの皇太子をめぐる宮廷内の陰謀に巻き込まれ、国王暗殺事件の謎を見事に解いて見せたのはいいが、皇太子→新国王の愛人として囲われようとする動きに反発して英国に逃げ帰る。そして、「ボヘミアの醜聞」に描かれた事件が、アイリーンの側から語られることになる…。誰でも一度は考えてみるが、作品にまとめてみるのは難しい、アイリーンの側から「ボヘミアの醜聞」を描くという試みにかなり見事に成功している。

7月7日
 雨の日や曇り空の日が続いているのとどのように関係するのか(あるいはしないのか)分からないが、午後、パソコンに向かっているうちに居眠りを始めることが多くなっている。TVを見ていたら、タイでは干ばつが続いて、道路にひびが割れたりさまざまな影響が出ているという。グローバルな気象の変化が、これからも続くのか、さらにそのことによってどのような影響が生じるのか、気になるところである。

7月8日
 水村美苗『増補 日本語が亡びるとき』をさらに読み進んでいる。水村さんがベネディクト・アンダーソンの『想像の共同体』における「宗教的想像共同体」と「聖なる言語」の議論について言及している個所に出会い、6日付の「ローマ帝国の言語」で私が書いたようなことをアンダーソンも書いていること(つまり、私が引用したソーヤーは多分、アンダーソンの本を読んでいたということである)に気付く。「聖なる言語」をめぐるアンダーソンの議論は水村さんにとっては世界の言語状況を考えるうえでそれほど決定的な意味を持つものではないようである。このあたり、さらに掘り下げてみたいと思う。

 NHKカルチャーラジオ「プロテスト・ソングとその時代」は木曜日放送の「ボブ・ディランの世界を読む」と連動しているような、いないようなところがある(する、しないは、聴いている方の意識の問題かもしれない)。1971年の第3回全日本フォーク・ジャンボリーをきっかけとして、日本のフォーク界は第2世代が台頭し、一種の世代交代が起きたことが当時の録音を紹介しながら語られた。同時代を生きていながら、これらの動きにそれほど関心もなく、かかわりもしなかったのはなぜか…ということを今になって考えている。 

ダンテ・アリギエリ『神曲 煉獄篇』(8-1)

7月7日(火)雨が降ったりやんだり

 煉獄山の入り口を求めてさまようウェルギリウスとダンテは第6歌で、ウェルギリウスと同じくマントヴァ出身で、ダンテよりも少し前の世代の吟遊詩人ソルデッロの霊にであう。第7歌でソルデッロは、道を急ごうとする2人を引きとめ、王侯の谷で一晩を過ごすことを勧める。そこには自分たちの政治的な任務を完全には果たさなかった王侯たちの霊が、自分たちの罪を許されて天国に向かう日を夢見て祈り暮らしていた。

親しい友に別れを告げてきた日、
船出したものは思いを振り返らせて
心をやわらげる。

あるいはその日一日が死を迎えるのを
悼んで泣いているかのような鐘の音が遠くに聞こえれば、
旅に出たばかりのものを故郷への愛が刺すその刻限、
(118ページ) 人生の岐路に直面して苦しんでいたダンテはウェルギリウスを案内人としてこの大旅行に旅立つことになった。叙事詩の中の彼は、故郷のフィレンツェから追われて旅をする作者自身の反映である。彼は故郷への思いを感じ、その一方で谷から聞こえてくる終祷の聖歌の歌声に耳を奪われる。

「創造主よ、光が消え去る前に、あなたへ」と
その唇からいかにも敬虔に発せられ、その心地よい響きに、
我が知性は己を忘れてそれに惹きつけられてしまった。
(119ページ) これは夜に人間を襲う悪魔的な誘惑を遠ざけ、肉体が穢れぬよう万物の創造主に祈る詩句である。それは天国を窮する声であるとともに、ダンテにとってはフィレンツェの政治に復帰し、平和と安定を実現する希望と重なるものであった。

 ダンテは、
読者よ、ここで鋭い視線を真実へと向けよ。
というのもその覆いの膜はごく薄く、
軽々と中を見通すことができるからだ。
(120ページ)と歌い、読者にアレゴリーの解釈をするように求めている。
 王侯たちのへりくだって恐怖している姿は、髪による救済のためには生前の映画は何の意味ももたないこと、彼らが天空を見つめる姿は神と直接の関係を結ぼうとする希望の表れであり、ただ神を思うことだけが救済をもたらすということが表現されている(ようである)。

 そして、彼は2人の天使が剣を携えて、煉獄に死者の霊を誘惑しようとやってくる蛇から霊たちを守ろうとやってくる姿を見る。一方、ソルデッロは谷を下って、王侯たちの霊に交じり、彼らと話し合うことを勧める。

 ダンテがまず出会ったのは彼がニーノと呼びかける旧知のピサ教皇党の貴族ニーノ・ヴィスコンティ(1265-1296)の霊である。
彼は私に向かって歩み寄り、そして私は彼に向かって歩み寄った。
高貴なる裁き手ニーノよ、どれほど私がうれしかったことか、
邪悪なる罪人どもに混ざらぬ君を見たあの時には、

私達は互いに歓待の言葉をことごとく言い尽くした。
(122-123ページ) そしてニーノはダンテがいつから煉獄にやってきたのかを問い、ダンテは彼がまだ生きていること、そして神の特別の計らいによりこの旅行を続けていることを打ち明ける。すると、ニーノは、もし地上に戻ったら自分の娘のジョヴァンナに自分のために祈ってくれるように伝えてほしいという。死んでも、自分の娘、一族への愛着は残っている。翻訳者である原さんはジョヴァンナの運命について語る。彼女は祖国ピサから追放され、父の死の際には政治的な理由から遺産を剥奪され、トレヴィーゾ僭主の妻となるも、夫は暗殺され、ついには貧窮状態に陥り、フィレンツェ政府の援助で暮らすようになった。王侯たちは、一族の現世的な交流を目指したのだが、その結果として一族のものさえ幸せにできなかったという事実が踏まえられているという。

 ニーノはミラノのヴィスコンティ家、ピサのヴィスコンティ家の対立や自分の妻と娘の運命について嘆かわしそうに語る。ヴィスコンティ家は、ミラノと北イタリアで勢力をふるい、ローマ教皇を出しさえしたのであるが、そういう地上における勢力も魂の救済とは無関係である。封建的な身分の束縛が、この世だけでなく来世にも及ぶという通念に異議を唱えながら、ダンテの叙事詩はつづいていく。

ローマ帝国の言語

7月6日(月)雨が降ったりやんだり

 水村美苗『増補 日本語が亡びるとき 英語の世紀の中で』(ちくま文庫)を読んでいる。いろいろと考えさせる本である。

 この書物の中に次のような個所がある:
…ローマ帝国が滅びてからなんと10世紀にわたってラテン語はヨーロッパの<普遍語>としてしぶとく生き延びた。(66ページ)
子の歴史的な事実を踏まえると、英語も「少なくとも私たちの知る文明が存続する限りの<普遍語>となる可能性が限りなく強いのである」(同上)という。

 ある言語が人々の間で使用されるのは、一方で国家による言語政策の結果であるが、そのほかに経済的な要求や宗教的な制度などの様々な影響も受ける。現実問題として、ラテン語がヨーロッパの<普遍語>となっていった理由はそれほど単純なものではなさそうである。蔵書を整理していたら、John Sawyer, Sacred Languages and Sacred Texts(ジョン・ソーヤー『聖なる言語と聖典』)という書物が出てきた。この書物の中に、紀元200年頃のローマ帝国の言語状況について触れた個所がある。

 それによると、ローマ帝国の西の部分(北はガリアとゲルマニア、南はスペインと北アフリカ)では教養のある人々はラテン語を使用していたが、この外にギリシア語もできる人が多かった。
 人口の大部分はそれぞれの地域の言語を話していた。例えば北アフリカではベルベル語かフェニキア語、ブリテン島とガリアではケルト語、ゲルマニアではゴート語という具合である。
 一方、東の部分(東はペルシア、南はアラビアまで)では教養のある人々はギリシア語(コイネー)を使用していたが、ラテン語もできる場合が多かった。
 人口の大部分はそれぞれの地域の言語を話していた。例えばパレスティナではアラム語、エジプトではコプト語、その他小アジア、アラビア、ペルシアの諸言語が話されていた。

 ローマは帝国の統治に分割統治政策をとっていたから、ラテン語の使用を強要しなかったのである。それでもラテン語が浸透していったのは、英国のインド統治における英語の場合とよく似ているが、植民地統治者と現地民の中間の媒介者になるためという理由と、経済的な理由のどちらか、あるいはその両方のためである。

 既に書いたように、帝国の東の部分ではラテン語よりもギリシア語のほうが盛んに使われていた。ソーヤーの書物の中に、イエスの時代にはユダヤでは広い範囲でギリシア語が使われていたと書かれていた。しかし、日常的にもっとも広く使用されていたのはアラム語であり、少数ながらヘブライ語を使う人々もいた。ヘブライ語よりもギリシア語を使う人が多かったことは確かである。イエスの12使徒の中でも半数近くがギリシア語の名前をもっていた:ペトロ、アンデレ、フィリポ、タダイ、バルトロメオである。この中でタダイというのはギリシア語の名前のテオドトゥスがアラム語化した形、バルトロメオはバル≂プトレマエウス(プトレマエウスの息子」という意味であった。

 ラテン語もかなり普及していて、イエスが十字架に架けられた時の罪状書きはヘブライ語、ラテン語、ギリシア語で書かれていた(ソーヤーは「ヨハネによる福音書」の19-21にそう記されていると書いているが、私が「新共同訳」にあたってみたところでは「それは、ヘブライ語、ラテン語、ギリシア語で書かれていた」(19-20)とあった。) ヘブライ語、ラテン語、ギリシア語は公式に使われる言語であったが、アラム語は日常生活の言語であったということらしい。

 で、何が言いたいのかというと、言語はそれが話されている国家と無関係ではないが、国家との関係だけを強調しすぎるのはその本質を見誤ることになるのではないかということ、ラテン語の場合にはカトリック教会や、西欧社会における学問文化の発展との関係を重視すべきであるし、英語の場合にも国際的な経済活動や、水村さんも「今やインターネットという技術も加わった」(66ページ)と書いているようにインターネットの存在などに支えられて浸透しているという側面がある。また、ラテン語が結局、ポルトガル語、スペイン(カスティーリャ)語、ガリシア語、カタルーニャ語、フランス語、ラングドック、イタリア語、ルーマニア語等々に分化していったように、英語も世界中に浸透・拡散している一方で、多様化している現実がある事も無視すべきではないだろうということである。

 文学を専攻し、自身作家である水村さんが言語の運命として考えていることと、私が言語の運命として考えていることは重なる部分と、重ならない部分があるのは当然のことであるが、水村さんが日本語の運命についてどのような予見を抱いているのかはさらにこの本を読み進まないとわからない。途中まで読んだだけで書いた感想なので、全体を見ないで部分的なことだけについて触れた、多少無責任な意見の開陳になっているかもしれないが、考えたことを取りあえず記しておいた。

海外旅行断片

7月5日(日)雨が降ったりやんだり

 NHK「ラジオ英会話」の7月放送分は”Thailand Adventure"をテーマにして旅行の際の英会話を取り上げ、同じく「攻略!英語リスニング」ではこの夏の休暇に”Venice"に旅行に出かけるという女性が語る話が放送された。「ラジオ英会話」の6月29日~7月3日までの放送分はBangkokでの出来事を取り上げているので、私がもう10年以上前にこの都市を訪問したときのことを思い出した。特に7月2日放送分はバンコクのThe Grand Palace訪問の場面であり(We can get there easily by riverboat. そこまでは川船で簡単に行けるわ)、さらにThe Temple of the Emerald Buddhaに舞台が移るのだが、エメラルド寺院は私も出かけたし、川船にも乗ったので、その時のメモを改めて探してみた。

 昼食後、ホテルに戻り、着替えをして(ネクタイ着用だったのを外して)、14時ごろから市内観光に出かける。プロン・ボンからBTS(高架鉄道、当時はまだ地下鉄がなかった)に乗り、サイアムを経由してサプラン・タスキンから川船でチャオプラヤー川をさかのぼり、ター・チャーンで下りる。船の料金が8バーツとあきれるほど安いのに驚く。その代り、乗り降りの際はぼんやりしていると川に落ちそうになるぐらい運行は乱雑である。ワット・プラケオー(エメラルドの寺院)をまず訪問する。日本でいうと伊勢神宮と東大寺を一緒にしたような国家寺院だそうである。到着したのが遅かったので、本尊のエメラルドの仏像は、外からしか見られなかったが、「ラーマ―・ヤナ」のタイ・バージョンである「ラーマキエン」物語を描いた壁画を見物できたのでまずは満足する。実際のところ、有名な建造物よりも、境内のいたるところに置かれた狛犬!?が興味深く、何枚も写真をとった。続いて大涅槃仏像のあるワット・ポーを見学する。

 その後、タ-・ティアンから渡し船に乗ってワット・アルンを見物する。渡し賃はわずかに2バーツである。ワット・アルンは1767年にビルマからの攻撃を受けてアユタヤ王朝が崩壊した後に、ビルマ軍を撃退した英雄タークシン将軍がトンブリーを首都として王朝を開いた時に国家寺院とした、現バンコク王朝のワット・プラケオーに相当する寺院である。タークシン将軍は晩年精神錯乱状態となって寺に幽閉され、処刑されてその生涯を終え、バンコク王朝が成立したのだそうだ。

 この寺院は三島由紀夫の『暁の寺』の舞台となったそうだが、そんなことよりも仏塔に上がったときに見かけた黒猫がかわいかったことのほうが印象に残っている。もっとも、三島も猫が好きだったという話である。その後、近くの土産物店でも猫を見かけた。タイはシャムネコの本場であるが、すべての猫がシャムネコというわけではもちろんなく、黒猫だの白黒のぶち猫だのがのんびり昼寝をしているのはあまり日本と変わりがない。

 再び渡し船を渡って、川下りの舟に乗り継いだが、空模様があやしくなってきたのでオリエンタル・ホテルの船着き場で下船する。ホテルの喫茶室でお茶を飲んだのだが、同じ時間帯に大江健三郎さんが読者に囲まれて談話会のようなことをしている姿を見かけた。大江さんが灰色の詰襟服を着ていたのにどうも違和感を感じた。このホテルに泊まったサマセット・モームとか、三島とか、有名な文学者の著作が展示されていたのだが、一番会ってみたいのはノエル・カワードだなと思った(もっともすでに故人になっている)。ロンドンのヴィクトリア駅の近くにノエル・カワード・ホテルというのがあったことを思い出したりした。雨の勢いが一向に衰えないので、タクシーでサパーン・タクシーンに向かい、BTSでプロン・ポンに戻る。

 読み返してみて、好奇心全開とは言えず、見たいものしか見ていない感じがする。旅行から帰って梅棹忠夫の『東南アジア紀行』を読み直して、旅行に行く前に読んでおけばよかったと後悔したものである。それでもバンコクに入ったことがあるから、少しはあそこはどういうところだということはできる。

 一方、以前にも書いたことがあるが、イタリアには出かけたことがないから、当然、ヴェネツィアにも出かけたことがない。はるか昔につき合っていた女性が、ある代表団の一員としてイタリアに出かけたのだが、フィレンツェやローマなどを見て回ったのはよかったのだが、ヴェネツィアに到着したあたりで仲間の中で小競り合いが始まって、その結果ヴェネツィアについてはあまり印象に残っていないという話をしていたのを思い出す。旅行では、旅行者同士のけんかや、病気、事故などによって旅先の印象が大きく変わることがある。ただ、現地に出かけたことがあるというだけで、わかることはそれほど多くはないのかもしれない。

叫び

7月4日(土)雨

叫び

心の中に
叫びがある

叫びたい

しかし
その叫びが
人を傷つけるかもしれないし
声が大きすぎて
うるさい‼――と
文句を言われるかもしれない

ある人が
心の中の
叫びを
叫ぶ

その人が
他の人よりも
金持だったり
地位が高かったりすると
他の人は
文句を言わずに
我慢するかもしれない

だれもが
たぶん
心の中に
叫びをもっている
ある人たちだけが
叫びつづけているのは
なぜだろう
ある人たちの叫びには
文句を言う人がいて
別の人々の叫びには
我慢し続ける人々がいるのは
なぜだろう

なぜだろう
というのも
叫びには違いない
いや、叫ばずに
とにかく呟いておこう
大きい声が
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『太平記』(52)

7月3日(金)雨

 元弘3年(1333年)閏2月、倒幕の意思を明らかにした播磨の国の赤松円心が勢力を増し、摂津の国の摩耶城に拠点を築いて都を窺う勢いになっていたのに対して、六波羅は5千余騎の兵を差し向けるが緒戦に敗退し、3月にも軍勢を送ったが、酒部・瀬川で戦って大敗した。円心は摩耶城に引き上げようとしたが、子息で護良親王と気脈を通じている則祐が「この勢ども、今4,5日は毎度の負け戦にくたびれて、人馬ともに用に立つべからず。臆病神のさめぬ前に、続いて攻むるものならば、などか六波羅を一戦の中に攻め落とさでは候べき」(377ページ、幕府方の兵は、ここ4,5日は度々の負け戦に疲れはてて、人馬ともに使い物にならないでしょう。臆病神が憑いているうちに、続いて攻めたてれば、どうして六波羅を一度の戦いで攻め落とせないことがありましょう)と勧めるので、幕府方の軍勢を追撃して京都まで攻め寄せることを決心した。

 「六波羅には、かかる事をば夢にも知らず、摩耶城へは大勢を下しつれば、敵を攻め落とす事日を過ぐさじと、心安く思はれて、その左右(そう)今や今やと待ちたりける処に、寄せ手打ち負けて逃げ上りぬと披露はあつて、実説は未だ聞かず。何とある事やらんと、不審端多き処に、3月12日の申刻ばかりに、淀、赤井、山崎、西岡の辺30余ヶ所に火を懸けたり。「こは何事ぞ」と問ふに、「西国の勢、すでに三方より寄せたり」とて、京中上を下へ返して騒動す」(378ページ、六波羅では、そんなこととは夢にも知らず、摩耶城へは大軍を派遣したので、敵を攻め落とすのにそれほどの時日はかからないだろうと、安心してその知らせが今届くか今届くかと待っていたところに、派遣した軍勢は負けて逃亡したという報告はあっても、まだ真相は明らかにならない。どういうことだろうかと不審な点が多い中で、3月12日の午後4時ごろになって、淀(京都市伏見区淀)、赤井(伏見区羽束師から淀の桂川西岸の地)、山崎(京都府乙訓郡大山崎町)、西岡(伏見区羽束師の西、向日市の一帯の総称)に火が放たれた。「これはどうしたことだ」と問うと、「西国からの兵がすでに三方から押し寄せてきたのだ」というので、都中が上を下にの大騒ぎとなった)。

 両六波羅、つまり南探題の北条時益と北探題の北条仲時は六波羅蜜寺の地蔵堂の鐘を鳴らして、京都市内の兵力を集めようとしたが、主だった兵たちは摩耶城攻撃に参加して敗北した結果、散り散りになっており、そのほかは奉行、頭人などと日頃は武芸とは関係のない武士たちばかりで、右往左往するだけで、大した力にはなりそうにもない。

 六波羅の北探題の北条時益(と、本文にはあるが、実際は仲時であったと脚注に記されている)、都の中で戦うよりも都の外で戦うほうがよいと判断して、配下の検断である隅田、高橋にその頃在京していた2万余騎の兵をつけて、今在家(京都市伏見区今在家町)、作道(朱雀大路の南端から鳥羽へ一直線に南下する道)、西八條(朱雀大路より西側の八条大路)、西の朱雀(下京区朱雀)の一帯に派遣した。これは雪解けによる増水で川の流れが急なのを利用して水辺の合戦をせよという謀である。

 そこへ赤松円心が3,000余騎の兵を二手に分けて、大手は久我縄手(鳥羽から山崎へ至る桂川西岸)、搦手は西七条(朱雀大路より西側の七条大路)から攻め寄せた。大手の軍勢が、まず桂川の西の岸から川向こうの六波羅勢を見渡すと、思いのほかの大軍がひしめいている。とはいうものの、六波羅勢は桂川を前にして防げという指示が出ているので、川を渡って攻撃しようとはしない。赤松勢は敵兵の数が予想以上に多いので、むやみに攻め寄せようとせず、お互いに川を挟んで、矢軍を続けるだけであった。

 その中で円心の息子の則祐は、矢軍を続けていたが、馬に乗って桂川を渡ろうとする。父親の円心はこれを見て、むかしの勇士たちが馬で川を渡って功名を立てたのは、川が増水していなかったからである、それに大軍の中に単身乗り込むのは無謀であると止めようとする。しかし、則祐は敵の不意を突く攻撃が肝要であると川に馬を乗り入れる。これを見て、何人かの主だった武士たちが続いて馬を川に乗り入れ、5騎が敵陣に切り込む。対岸にいた赤松方の兵士たちも、この5騎を犬死させるなと続いて攻め寄せたので、その勢いに押されて六波羅勢は敗走する。

 この間に赤松の配下のものが京都市内の大宮、猪熊、堀川、油小路のあたりの50カ所に火をつけた。さらに何カ所かで小競り合いが起き、市内は騒然とした状態になった。このような騒ぎの中で日野中納言資名とその弟の左大弁宰相(参議)資明の2人は牛車で内裏に向かったが、内裏の四方の門は空いたままで警固の武士もいない。これでは光厳天皇の身辺は危ないと判断した2人は、天皇に六波羅へと移っていただくことにする。天皇が六波羅に向かわれるうちに、大納言堀河具親、三条源大納言(三条通顕、脚注によると実は内大臣であった)、鷲尾中納言(不詳だそうである)、宰相(参議)坊城経顕らが途中で追いついてお供申し上げた。この情報をお聞き及びになって、後伏見院、花園院、東宮の康仁親王、皇后の寿子内親王、光厳天皇の弟で天台座主の尊胤法親王までが六波羅に移られた。六波羅のほうでも驚いたが、とりあえず北庁の館を空けて、上皇と天皇の御所とした。

 どうも大変な事態になってきた。それでも六波羅探題、持明院統に忠義を尽くす日野兄弟はまだまだ思案を巡らすだけの余裕をもっている。六波羅に移った方々の中では鎌倉幕府によって皇太子とされた大覚寺統の康仁親王が異色の存在である。幕府はまだ両統迭立の決まりを重んじて、持明院統の光厳天皇の後継者には大覚寺統の後二条天皇(後醍醐天皇の兄)の孫の康仁親王を立てていたのである。一方、光厳天皇の母である広義門院(西園寺寧子)の名がないのは、実家である西園寺家に身を寄せられていたのか、西園寺家のような大貴族の家柄になれば、自分の邸宅を守るだけの武士は身辺にいたと考えられる。あるいはすでに出家されていて無関係ということであったのか。この後、広義門院は非常に重要な存在となられるだけに注目しておいてよいことである。 

Jean Webster, Daddy-Long-Legs

7月2日(木)朝のうち雨、その後晴れたり曇ったり

 6月20日に、Jean Webster, Daddy-Long-Legsを読み終えた。英国のLeicesterにあるKnightという出版社から刊行されたペーパーバックス版で、私の手元にあるのは1974年に出た第7刷である。この本をどこで、どんな気分で買ったのか、今となってはまったく記憶にない。多分、京都の三条河原町を少し下ったところにあった文祥堂書店という小さいけれども、SFや推理小説を中心に英語の本もかなりの数置いていた書店で買ったのではないかと思う。その後、この書店を訪問したときに、店の構えも品揃えも変わってしまっていたのでがっかりした記憶がある。

 アメリカ東北部のどこかにあるジョン・グリア孤児院の最年長の孤児であるジルーシャ・アボットは孤児院の理事会が開かれた後、院長に呼び出される。どうもロクな用事ではなさそうだと院長室に向かう途中、最後に残っていた理事が帰り道につこうとするその後姿を見る。彼を乗せようとする自動車のライトに照らされて、The shadow pictured grotesquely elongated legs and arms that ran along the floor and up the wall of corridor. It looked, for all the world, like a huge, wavering daddy-long-legs.
(影の姿は滑稽に手足が引き伸ばされていて、それは床と廊下の壁にまで届いていた。それはどこから見ても、まるで揺れ動いている巨大なガガンボのように見えた。)
意外にも機嫌よくジルーシャを迎えた院長は、理事会で彼女の今後の進路について協議されたこと、ジルーシャは特別な計らいでハイスクールに進学していたのだが、英語の成績がよく、彼女が書いた”Blue Wednesday"(憂鬱な水曜日)という作文が理事の1人の目にとまって、彼女をカレッジに進学させる学資を出してくれることになったと語る。その理事はジルーシャがその後姿(と影)だけを見た紳士であったが、本名を明かさず、その際に要求される条件はただ1つ、彼女の学業の進捗状況について定期的に手紙を書くことだけが求められた。こうして、孤児であるジルーシャ・アボットは東部のカレッジに進学することになった。その後の物語は、要求通りに彼女が匿名の紳士に宛てて書いた手紙によって構成されている。

 全寮制らしいカレッジで彼女は最初のうちは準備不足があってまごつくが、次第にその文学的才能を開花させ始める。ジルーシャ改めジュディ・アボットは学年の人気者になっていく。寮では同じ学年のサリー・マクブライドとジュリア・ペンドルトンという学生と一緒になる。サリーはニューイングランド地方の事業家の娘、ジュリアはニューヨークの名門の娘である。サリーにはジミーというプリンストン大学に通う兄が、ジュリアにはジャーヴィス・ペンドルトンという若い叔父がいて、それぞれジュディに思いを寄せ始めているようである。ジュディは2年、3年、4年と進学し…作家への道を順調に歩み続ける・・・。

 この作品は一般に児童文学に分類されているが、それよりも少し年長、中学生くらいにならないと面白くないのではないか。人間の成長にとって大学がどのように大事な場所であるか、大学は身分や階級にかかわらず伸ばすべき才能を持った若者に門戸を開いている(少なくとも、開くべきである)、そして大学では何を勉強するのかというようなことがヒロインの大学生活の様々な様相とロマンスを描きながら問いかけられている。

 作者であるジーン・ウェブスター(Jean Webster, 1876-1916)は1894年から今日のニューヨーク州立大学フレドニア校の前身である師範学校に通った後に、1897年にニューヨーク州にある名門ヴァッサー・カレッジに入学する。東部にある他の6つのカレッジとともにSeven Sistersに数えられる名門カレッジで、現在は男女共学になっているが、当時は女子だけが入学し、教養中心の教育を学生に施すリベラル・アーツ・カレッジであった。この作品はウェブスターのこれらの体験がもとになっているが、ヴァッサーのほうの体験が重要な比重を占めていることは想像できる。ウェブスターは、この作品を読めばわかるように女性の参政権の獲得を待望し、孤児院の改革や貧困者の間でのセツルメント活動に熱心な社会改革家であり、社会主義に関心を寄せていた。彼女が大学をそのような社会問題への目を開かせる場、また女性たちの社会的な訓練の場(サリーが学年のPresidentに立候補して当選する個所がある)と考えていたことは明らかである。

 ということで、実際にこの小説を原文で読んでみると、結構難しい。例えばジュディは手紙の中でフランス語やラテン語を使っている。例えば
Cher Daddy-Jambes-Longes,
Vous etes un brick!
Je suis tres hereuse about the farm, parsque je n'ai jamais been on a farm dans ma vie and I hate to retourner chez John Grier, et wash dish tout l'été.
(親愛なるあしながおじさま
あなたはとても頼もしい方です。
私は農場についてとてもうれしく思っています、なぜならば一生のうちで農場にいたことは一度もなく、ジョン・グリア孤児院に戻って夏じゅう皿洗いをすることは嫌だからです。) イタリックの部分がフランス語である。

 今から100年以上も昔の大学の話なのだが、こういう手紙を書いているくらいだから、教育のレベルはかなり高い。必修科目も多いし、成績が悪いと補講や追試がある。今の日本の大学のように大学に入ってからフランス語やラテン語を勉強したわけではなく、1年生からどんどんフランス語やラテン語の本を読んでいったのだから大変である。もちろん、今のアメリカの大学ではラテン語を勉強するのはごく少数の学生だけになっている。

 とはいうものの、この時代、女子がラテン語を学ぶということは、彼女たちの権利のための闘争の一環であったことを見落とすべきではない。ヴァッサー・カレッジは日本で最初に高等教育機関を卒業した女性である山川(後の大山)捨松の母校である。山川は英・仏・独語を使いこなし、ドイツに留学した大山巌と結婚したのもドイツ語による縁があったといわれる。19世紀のアメリカでは(英国でもそうだったようだが)女子の中・高等教育をめぐり、ラテン語やギリシア語の教育を行うよりも、同じ屈折語であるドイツ語の教育を通じて彼女たちの知性を陶冶するほうが賢明であるというわけのわからない議論が有力で、ドイツ語の教育が盛んであった。山川捨松が在学した時代のヴァッサーはそのような教育を行っていた。
 それが女子もラテン語、さらにはギリシア語を学ぶべきであるというふうに変っていく。ジュディ・アボットの時代のヴァッサーではどうやらラテン語がドイツ語に取って代わっていたらしい(このあたりは詳しく調べれば面白いことが分かるはずである)。ラテン語やギリシア語は難しいから女子には無理だという議論は、結構後の時代にも残っていて、私の大学院生時代に私のいた大学でも女子が西洋の古典を専門的に学ぶことをめぐっての議論が起きたことがある。21世紀の今日になってみると、西洋古典学を専攻する女性が内外ともに多くなっていて、時代は変ったことを実感させられる。

 そういうふうに見ていくと、Daddy-Long-Legsには時代の変化を写した、時代とともに変わる部分と、時代を超えて愛されるべき部分とがあることが分かるはずである。ジュディは孤児という設定だが、この設定はルソーの『エミール』と共通するし、小説の本文中にもルソーが自分の子どもを孤児院に棄てたというエピソードが紹介されている。19世紀の英文学とその他の欧米文学の動向についても一通りの知識が盛り込まれていて、それらの作品がこの物語に与えた影響も考える必要がありそうである。ただ漠然とこの物語を読んでいても、なかなかそういうことはわからないので、もし教材として読むのであれば、教師が物語の背景について説明するだけでなく、生徒たちが自分で調べられることを調べていくように指導すべきであるし、翻訳の際の解説も同じような工夫を凝らすべきであろう。

 ヴァッサー・カレッジをめぐり、以前メアリ・マッカーシーとその映画化もされたベストセラー小説『グループ』について触れたが、蛇足ながらこの大学に在学した有名人としてジャクリーン・ケネディ・オナシスとジェーン・フォンダの名前を上げておこう。残念ながら2人とも中退で、ジャクリーンはおそらく”寿”退学だが、ジェーン・フォンダの方は女優業が忙しくなったのでやめたのだろう。

 一度原稿を書き終えてから、気になることがあって辞書類を調べて気づいたことがある。Daddy-Long-LegsとかBrickとかいうのは英和辞典によると「俗語」だそうである。そういう「俗語」をやたら使うのが、当時の女子大生の話し方だったのか、それとも著者がジュディの性格や生い立ちを描きだすのにふさわしいと思ってそうしたのか、気になる点がますます増えて困っているところである。
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