2015年の2015を目指して(6)

6月30日(火)曇り、夜になって雨が降り出した

 早いもので6月も終わってしまった。この1か月間、殆ど遠出らしい外出をしなかった。ずっと横浜で過ごしたので、1月からの集計では横浜で180日、東京で1日を過ごしたことになる。足跡を記したのは2都県、8市区と変化なし。利用した鉄道は6社、13路線、13駅とこれまた変化なし。来月には70歳となり、高齢者用の優待パスが使えるので、横浜市営バス、地下鉄など大いに利用して数字を伸ばすつもりである。

 書いたブログは31件、そのうち読書が14件、映画が2件、詩が4件、推理小説が1件、日記が6件、外国語が2件、未分類が2件で、今月は詩を比較的多く書いたようである。コメントを2件、拍手を644、拍手コメントを2件いただいた。トラックバックはない。1月からの合計ではブログが184件、コメントが16件、拍手コメントが7件、トラックバックが4件ということである。

 買った本は15冊、読んだ本は10冊で、それぞれ1月からの合計は73冊、59冊ということになる。もう少し、買った本を読み終える率を高めようと思っているが、どうなるだろうか。読んだ本を列挙すると、吉川徹『学歴分断社会』、森福都『ご近所美術館』、保阪正康『日本原爆開発秘録』、望月麻友『京都寺町三条のホームズ』、シャーロット・マクラウド『おかしな遺産』、永井忠孝『英語の害毒』、大倉崇裕『三人目の幽霊』、小林登志子『文明の誕生』、玉村豊男『旅の流儀』、泉幸男『英語学習の極意』である。

 「ラジオ英会話」の時間を22回、「入門ビジネス英語」を10回、「実践ビジネス英語」を12回、「攻略!英語リスニング」を8回、「ワンポイント・ニュースで英会話」を22回聴いている。1月からの通算はそれぞれ、122回、48回、74回、48回、122回ということである。また「まいにちフランス語」を22回、「まいにちイタリア語」を22回、「アラビア語講座」を4回聴いている。それぞれの1月からの合計は120回、121回、12回である。3月まで「まいにちドイツ語」を59回分聴いている。
 7月からも現在と同じ番組を聴き続けるつもりであるが、この外にラテン語の勉強を再開しようと思っている。フランス語についても、ラジオ番組を聴く以外の工夫をしてみようと考えをめぐらしている。

 カルチャーラジオの「私の落語はくぶつ誌」を4回、「十七音の可能性」を4回聴いて、それぞれ12回を聴き終えた。1月から3月の間に「シルクロードの消えた王国」を11回、「ガリバー旅行記とその時代」を12回、「富士山はどうしてそこにあるのか」を12回聴いている。7月からは人類の起源と進化についての番組を聴くつもりであるが、他の番組も聴くようになるかもしれない。

 『サンドラの週末』、『華氏451』と出だしはよかったのだが、結局6月に見た映画はこの2本に終わった。1月からの合計は17本、今年になって初めて渋谷BUNKAMURAル・シネマに出かけたので、映画を見た映画館の合計は6館となった。

 ニッパツ三ツ沢球技場でJ2の横浜FCの試合を2試合観戦している。ゴール裏で見ているので、観戦というよりも応援のほうが正確であるかもしれない。こちらも高齢者サービスで500円でS席、あるいはA席でも観戦できるのだが、どうもゴール裏のB席に足が向かう。1月からの通算で見た試合は11試合である(J2のほかに、全国高校サッカー選手権の試合を見ている)。

 ノートを3冊、ボールペンの替え芯を0.5ミリ1本、0.7ミリ1本使い切る。さらにテキストサーファーを1本、修正液を1本使い切った。

 酒を飲まなかった日が6日あった。5月に比べると、かなり増えたので、この調子で摂生に努めようと思っている。

 数え方がどうも正確ではなくて、これから数字が変わることもありうるが、どうやら2015は達成できそうな進捗ぶりなので、これからもいろいろなことに興味を持ちながら、数字を伸ばすことに励みたいと思う。 
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ダンテ・アリギエリ『神曲 煉獄篇』(7-2)

6月29日(月)晴れ

 1300年4月10日、復活祭の日にダンテはウェルギリウスに導かれて、地球の南半球にある(とダンテが想定した)煉獄山の麓へとたどり着く。煉獄の入り口を探してさまよううちに、マントヴァ出身で、ダンテよりも少し前の時代に活躍した詩人であるソルデッロの魂に出会う。ソルデッロは自分と同郷の大詩人ウェルギリウスに出会うことができたことを喜び、彼を称え、2人が負うている任務を知ると、夜の闇のなかを旅行するのは危険だといって、隠れた谷で一夜を過ごすことを勧める。

険しい山肌と平野との狭間に斜めの小径が続き、
私達を陥没の脇、
縁が穴の深さの半ば以上に削れている場所へと導いた。

黄金に純銀、真紅に白、
藍、リーニスの輝く透明な色、
砕ける瞬間の鮮やかなエメラルド、

そのどれもが、その谷の懐深くに配された
草木や花々の色には凌駕されるであろう、
小が大に負けるのと同じく、

自然はそこにただ絵を描いただけではなかった。
幾千もの香りがかもし出す心地よさが
渾然一体となった、ある未知の香りをも作り出していた。
(110-111ページ) ソルデッロもその一員であったプロヴァンスの宮廷詩人たちは彼らの詩のなかで貴金属や貴石などを使って宮廷の美しさ、荘厳さを描きだそうとした。しかし、そのような虚栄の美は自然の美には劣ることをこの章句でダンテは示している。王侯たちは自分たちの暮らした宮殿よりも美しいこの谷で、彼らが生前に享受した虚栄が、神の前では無力であることを改めて痛感させられているのである。

 谷からは、歌声が聞こえた。
「祝福あれ、空の王妃よ」、緑と花々の上に座って
歌っている魂達がそこからは見えた。
彼らは谷に隠され外に姿を見せていなかったのだ。
(112ページ) 11世紀に、教皇グレゴリウスⅨ世が金曜晩の礼拝で歌うように定めた交唱歌『サルウェ・レジーナ』が魂達によって歌われている。聖母マリアにキリストの救いを求める祈りの歌であり、前煉獄の魂が歌うのにふさわしい。

 ソルデッロは、日没前に彼らのもとへ降りてゆかずに、高台から彼らを眺めるほうが、それぞれの姿がよく分かるという。
ドイツ王国の拡張と経営に専心してイタリアを放置したハプスブルク家のルドルフ(1218-91)、
ルドルフと敵対し、そのイタリアなんかへの障害となったが、勇猛と善政で知られたボヘミア王オットカール(1233-78)、彼はルドルフ帝との戦闘で戦死したが、ここでは自分の使命を果たすことができなかったことを悔いているルドルフを力づけている。
「フランスの悪」(114ページ)とダンテにののしられているフィリップ美王の父フランス王フィリップⅢ世(1245-85)は隣国であるナヴァ-ラ王アンリⅠ世(1238-74)と親しげに話しているが、イタリア南部のシチリアをアラゴン(スペインの一部)王との戦いに敗れて奪われた屈辱を忘れかねている。(なお、現在のスペインとフランスの国境付近にあったナヴァ-ラ王国は、個々の国王であるアンリ・ド・ブルボンがフランス国王アンリⅣ世となった際にフランスに併合された。この国の住民の多くはバスク人であり、独立を取り戻そうとその後長く戦うことになる。日本にキリスト教を初めて布教することになるフランシスコ・ザビエルは代々このナヴァ-ラ王国の宰相を務める家柄の出身であり、このあたりのことを書いていくと、話が長くなるので、興味のある方はご自分で調べてください。) 第7歌では当時のヨーロッパのさまざまな王侯たちの姿を、彼らの生前の業績に即して描いていく。そして、彼の観察を踏まえて、次のように言う。

人間の美質が、枝分かれした子孫のなかに
蘇ることはまれです。美質をお与えになる方が、
それは自らに由来すると人々に言わせるため、こうお望みだからなのです。
(115ページ) 優れた王の美質がその子孫に受け継がれるとは限らず、逆に凡庸な王から名君が生まれる場合もある。すべては神の計らいによるのだとダンテは考えている。

 第7歌の中でダンテは当時のヨーロッパの王侯たちが自分たちの使命を十分に果たさなかったために、煉獄でその罪の償いを果たしている姿を描きながら、国の枠を超えて正義と平和を実現する君主の出現を待望しているが、これはその後のヨーロッパで近代国家が形成されてゆく過程とは全く違う見通しであった。ただし、国際連合や欧州統合などの動きは、ダンテの考えと無関係ではないともいえるだろう。

小林登志子『文明の誕生』

6月28日(日)雨が降ったりやんだり

 6月27日、小林登志子『文明の誕生』(中公新書)を読み終える。著者は冒頭P・ゴーギャンの「我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか」という油彩画を取り上げて、この書物の目指すものが「我々の文明はどこから来たのか 我々文明人は何者か 我々の文明はどこへいくのか」であるという。古代メソポタミアの最初期の文明であるシュメル文明についての長年の研究成果を基礎に据えて、文明とは何かを問うている。文明には時空を超えた共通性があり、我々の生活にはシュメルをはじめとする古代文明に起源をもつさまざまな道具や消費財が見いだされることを、さまざまな事例を引き合いに出して論じている。

 明治の文明開化以後、日本は本格的に西洋文明を受け入れ、悪戦苦闘を続けることになったが、その西洋文明の源流にあるのはシュメルに始まるメソポタミア文明であるという(異論を唱える向きもあるだろうと思う)。「文明社会には叡智もあれば、悪徳もある」(ⅲページ)。それは古代も現代も変わりがない。「物事の本質は祖型にこそよくあらわれる」(ⅳページ)。だとすれば、われわれが古代文明、とくにシュメル文明から学ぶことは少なくないのではないか。
 「本書が、「我々の文明はどこへいくのか」を考える際のヒントになれば、著者は本望である」(同上)とも書かれている。シュメル文明についての体系的な著述というよりも、シュメル文明とその後の様々な文明に現れる共通点をいわば雑学的に取り上げて論じながら、著者は読者がそこから何かの示唆を得ることを期待しているようである。

 この書物はその性格上かなり多くの話題を盛り込んでおり、
序章 都市国家とは――ギルガメシュの城壁
第1章 職業と身分の文化――シュメル版「職人尽」
第2章 時は力なり――暦と王朝表
第3章 交通網の整備――「下の海から上の海まで」を支配したサルゴン王
第4章 金属の利用――銀と銅
第5章 文字の誕生――楔形文字が結んだ世界
第6章 法の誕生――男と女のもめごとを裁くには
第7章 王の影法師――「ウルのスタンダード」は語る
第8章 詩を編む女、子を堕す女――女性たちの光と影
第9章 安心立命の仕組み――グデア王の釘人形
終章 歴史をきずいた「相棒」――馬を見たシュルギ王
という11章からなっている。序章、終章と銘打たれているが、そこに全体の構成にとって重要な内容が含まれているかどうかは疑問である。とにかく、話題の宝庫、文明にかかわる話題が無造作に詰め込まれているという感じである。今回はとりあえず第3章までの内容を紹介して、簡単な論評を付け加えることにしておこう。

 序章ではシュメル文明が都市国家を基盤に発展したこと、文明と都市国家、城壁の関係について論じられている。著者も指摘しているように日本の都市では環濠や塀は作られても、城壁は作られなかった。これはおそらく、海岸まで急峻な山が迫る日本の地形では天然の要害が城壁の代わりをしたからであるが、その点については著者は触れていない。見渡すばかりの平原が続くような土地では、城壁をめぐらして自分たちの都市を守ることは重要な防御策であった。都市は経済活動の中心地であったが、それゆえに自分たちを守る必要もあったのである。城壁をきずくことは都市国家の領主である王の務めであり、ギルガメシュは父子を求める旅が失敗に終わった後、王の責務を果たすべく壮大な城壁をきずく。その後も西洋の文明の中にある都市では城壁の建造とその城壁で守られた都市の攻略戦が続けられることになるのである。

 第1章では序章で述べられていたような城壁の内側にはどのくらいの数の人々が住み、どのような職業に従事して、どのような生活を送ってきたかについて述べられている。ここでは急にローマ帝国の初代皇帝であるアウグストゥスが行ったとされるケンスス(census=英語のcensus、日本語としても使われるセンサスの語源である)について取り上げられている。古代ローマでは王政時代からケンススが行われていたとされるが(定かではない)、アウグストゥスは自分の治世中に3度帝国全域におけるケンススを行ったことを誇りにしたそうである。
 それから著者はシュメル都市国家の人口をめぐる研究者たちの推計の結果について紹介しているのだが、どうもはっきりした数字は出ないようである。ただ、これは多ければ多いほど良いというものではない。確かアリストテレスは、都市国家の人口は8.000人くらいがいちばんいいと書いていたと記憶するが、これはかなり信頼できる議論であると私は思っている。ただ、その8,000人の内訳も問題である。
 シュメルの遺跡からは「職業名表」が出土していて、当時どのような職業が存在すると認識されていたかがわかる。その一方で「最古の文明社会シュメルは法の下に平等ではない身分制社会であった」(43ページ)。その一方で経済的格差が拡大すると、格差を是正することも行われていたという。一種の「徳政」が行われたり、弱者を保護する政策がとられたりする一方で、差別される弱者も存在したという。

 第2章では「時間は支配の道具である」と書き起こされ、人々が暦や、為政者の定めた時間に従って暮らすことが文明の秩序を維持する営為であったと論じられている。シュメル文明で採用されていたのは、基本的には月の運行を暦の基礎とした太陰太陽暦であった。しかし1年を354日とするこの暦では、季節の変化とのずれが生じるために、閏月が設けられていた。(「旧暦」のほうが季節の変化をよく反映しているなどとほざいている連中は、このあたりの歴史をきちんと勉強してほしいものである。) 暦は権力者の威信を示すものとして支配の道具として利用された。また、暦法の整備はそれに伴って帝王の事績を時間的に整理する年代記の編纂を促すことになった。

 第3章ではティグリス川、ユーフラテス川の河川交通がシュメル文明、その後のメソポタミア文明の発達に果たした役割が論じられ、河川交通だけでなく、海上交通や、陸上の道路網の整備までが進められたことが記されている。交通事故の処理に関する法律が整備される一方で、すでに地中海からインド洋に至る海洋が為政者たちの視野に入っていた。道路には軍用道路と生活道路があったが、人々がより多く利用し、その後も長く残ることになったのは生活道路の方である。

 シュメル文明は30を超える都市国家によって形成された文明であり、まだ統一的な国家が形成されなかったし、これらの都市国家のなかにはまだ発掘されていないものもあるので、全貌が分かっていない。したがってその後の文明との関係や類似性・共通性などもこれから新しく発見される部分もあるのではないかと思う。著者は自分のあらゆる知識を動員し、歴史上の様々な文明、明治維新以前の日本の文明についても触れながら議論を展開しているが、十分に理論的に整理された議論というよりも、雑学的な知識と批評の寄せ集めという印象を否定できない。それだけに突っ込みどころ満載という感じであるが、既に述べたように著者自身がそのような突っ込みと、そこから人類の文明についての具体的な、あるいは体系的な考察に関心をもつ若い世代の出現を期待していることが見て取れる書物なのである。

『太平記』(51)

6月27日(土)晴れたり曇ったり

 第7巻では倒幕計画が失敗して隠岐に幽閉されていた後醍醐天皇が、鎌倉幕府に不満を持つ武士たちの助けにより隠岐から脱出されて、伯耆の国の豪族名和長年のもとに身を寄せられ、長年が船上山に天皇をお迎えして勤王の兵を募り、幕府方の軍勢を撃退したところまでが語られた。

 「先帝すでに船上(ふねのうえ)に着御なりて、隠岐判官合戦に打ち負けし後、近国の武士ども皆馳せ参る由、出雲、伯耆の早馬、しきなみに打つて、六波羅に告げたりければ、事すでに珍事に及びぬと、聞く人色を失ふ」(371ページ、後醍醐天皇は既に船上山に到着されて、隠岐判官(幽閉中の天皇を監視していた佐々木清高)の軍勢が攻撃したが敗退した後、近国の武士たちが皆結集してきたということを、出雲(島根県東部)、伯耆(鳥取県西部)からの早馬が次々に絶え間なく到着して、六波羅に知らせたので、事態は重大になったと、聞く人々は顔色を失って恐れたのであった。)

 そこで、都から近いところに敵勢をとどめ置いては不都合であろうと、摂津の国で倒幕の兵を起こしている赤松円心の拠点である麻耶城(神戸市灘区)に押し寄せて、赤松を退治しようと佐々木(六角)時信、常陸前司(小田)時知に京都警護の篝屋(番所)の武士と京都に常駐していた御家人、さらには三井寺の僧兵300人余りを加えて、5,000余騎を麻耶城に向かわせた。「その勢、閏2月5日、京都を立つて、3月1日の卯刻に麻耶城の南の麓、求塚、八幡林よりぞ寄せたりける」(同上)。脚注によると、流布本、天正本では「同11日」となっているそうである。京都を閏2月5日に出発した軍勢が11日になって神戸市灘区の城砦の攻略を始めたというのでも、かなり遅い。何かいやいやという感じなのかもしれない。

 赤松入道(円心)は幕府の軍勢が押し寄せてきたのを見て、敵をわざと難所におびき寄せようと、あまり抵抗せずに退却し、幕府方が麻耶山の南の方の険しい坂を上り始めたところを狙って矢を浴びせかけ、ひるむところに精鋭を繰り出して攻め寄せた。幕府方は前衛と後尾の連絡がうまくいかず、大敗を喫し、結局1,000騎足らずの兵力になって都に帰ったので、六波羅も京都中の人々も事態の重大さを知って慌てふためいたのであった。「しかりと雖も、敵近国より起こつて、付き随ひたる勢さまで多しとも聞こえねば、たとひ一度二度勝に乗る事ありとも、何程の事かあるべきと、敵の分際を推量して、引けども機をば失はず」(373ページ、とはいうものの、敵は都の近くから挙兵して、付き随っている軍勢はそれほど多いという噂もないので、たとえ一度か2度勝利を得ても、それほどのことはないだろうと、敵の具勢の程度を推量して、緒戦に敗北したとはいうものの六波羅勢は気勢を失わなかった。

 そうこうしているうちに備前の国の地頭、御家人もほとんど敵方についたという情報が伝わってきたので、六波羅としてはどうしても麻耶城の軍勢を討伐しなければならないと考え、また1万余騎を派遣した。赤松入道はこれを聞いて、戦いに勝利するための作戦は、敵の不意をついて大軍の気勢を圧倒し、自在に作戦を変えて先手を打つに越したことはないと、3,000余騎を率いて麻耶城を出て、酒部(尼崎市坂部)に陣を張った。

 3月10日に、六波羅勢はすでに瀬川(大阪府箕面市瀬川)に到着したという情報があり、合戦は明日になるだろうと赤松勢は油断をしていたのだが、幕府方の阿波守護である小笠原氏の軍勢が押し寄せ、わずか50余騎の赤松氏の軍勢は苦戦するが、どうにか切り抜ける。このため、お互いに相手の戦力を侮りがたいものとみて、しばらくは戦闘をためらっていたが、やがて激戦が展開され、決死の勢いの赤松勢が大軍を頼んだ六波羅勢を圧倒しはじめ、劣勢になると大軍は崩れやすいという習いなので、六波羅方はまたもや多くの兵を失って都に引き返すことになった。

 大勝を収めて赤松円心は麻耶城に引き返そうとするが、護良親王に随っていた僧侶である息子の則祐がこの機に乗じて都に攻め上るべきであると主張したので、その意見を受け入れて、退却する敵を追撃しながら、都に攻め寄せることになる。

 第8巻に入って、宮方(後醍醐帝に味方する人々、なお、『太平記』作者は後醍醐天皇を「先帝」と記すなど、この段階でもかなり微妙な取り扱いをしていることに注目する必要がある)と幕府・六波羅方との攻防はますます激しさを増してくる。幕府に対する反抗はゲリラ的な「点」から、「線」さらには「面」へと拡大していく。その中で赤松円心を中心とする赤松氏が重要な働きをしていることも見落とすべきではない。赤松氏は功を焦って都の攻略に乗り出すが、これが適切な戦略であったかどうか。このあたりの歴史と物語の展開を考えると、気になるところである。 

たま駅長を悼む

6月26日(金)雨

たま駅長を悼む

たま駅長は
三毛猫で
ということはメスネコで
猫には珍しい
キャリアウーマンだった

うちの猫も
タマというが
オスネコで
来客があるとゴロゴロ
愛想を振りまくが
あまり役には立たない
そうそう
年齢は駅長の半分くらいだ

日向ぼっこをしている猫を見ると
心が和む
(和まないという人は見なければいい)
近寄ってゴロゴロと
愛想を振りまいてくれるかどうかは
お猫様のご機嫌次第

たま駅長は長い間の
御勤めで
ずいぶん苦労もしただろう
猫のわがままをおさえる
ことも多かったのではなかろうか
それとも実は
わがまま放題にやっていたのを
人間が勝手に解釈していただけなのか

とにかく
あの世では肩書はなくなる
もっともっと猫らしい
日々を過ごすことになるだろう

自分らしさを取り戻した猫は
ライオンになるかもしれず、虎になるかもしれず
あるいは猫のままで日向ぼっこをしているかもしれない
永遠に優しい 光の中で
たま駅長がのんびりと 日向ぼっこをしている
姿を夢みるのは人間の勝手だろうか

6月26日(金)雨



道で出会った人に
挨拶をする
道をやってくる年寄りに
道を譲る
行き先がどこにあるかを訊かれて
道を教え、そして時には案内する

高村光太郎は
自分が道を切り開くといい
魯迅は
歩く人が多くなれば
それが道になるといった
平凡な詩人の私にとって
道は既にあるもの
そしていつもその上を歩いているものだ

道の上に財布を落とすこともある
道に迷うこともある
時には道の上で
諍いが起こり 血が流されることもあるし
事故が起きることもある

それでも道は
どこかからどこかへと人々を導き
それぞれの人々の生活を助けている
広い道も狭い道も
長い道も短い道も
それぞれのやり方で生活を助けている

付記:<みよ@こたつむり>さんの「癒し」という詩をよんでいて、人情未だ衰えず、世の中それほど捨てたものではないよと思って書いてみた。同じ時代の同じ世相をどのように受け止めるかにはその人の境遇や性質に影響された個人差があり、その違いをどこまで個性として認めあえるかが重要だと思う。

日記抄(6月22日~25日)

6月25日(木)晴れ

 この1週間の間に経験したこと、考えたことの後半(2回に分割して記すことになった理由は昨日述べた通り):
6月22日
 NHKラジオ「入門ビジネス英語」では新しい商品開発のアイデアをめぐる話し合いのなかで、生体認証を扱える、あるいはどう化粧をしたらいいかについてアドバイスをする化粧台(dressing table)というアイデアが飛び出し、それに対して、別の参加者が『白雪姫』の魔女の女王の「鏡よ、壁の鏡」(Mirror Mirror on the wall)を使って茶化すという場面があった。『白雪姫』は英語でSnowwhiteという。ドイツ語ではSchneewitchenであったと記憶する。金田鬼一は「雪白姫」と訳していたはずで、こちらの方がもともとの言い方に忠実ではある。

6月23日
 シャーロット・マクラウド『おかしな遺産』(創元推理文庫)を読み終える。ボストンの名門に生まれ育ったセーラは、若い未亡人となった後、一族と縁の深いウィルキンズ美術館をめぐる事件にかかわったことから美術品専門の探偵であるマックスと知り合って結婚し、夫婦で探偵業を展開することになる。ところがマックスが海外出張中に、ウィルキンズ美術館を実質的に1人で支えてきた職員で画家のドロレス・アグニュー・トーンが何者かに殺されるという事件が起きる。さらにセーラ自身も身辺に危険が迫っていることを知る。美術館の新しい管財人委員会になったタルボットは何かと威張って自分の威信を示そうとする人物でセーラとは折り合いがよくない。ドロレスの遺言で遺言執行人にされていたセーラは、その遺品を調べるうちに彼女が過去に起きたある事件と関係をもっているらしいことに気付く…。
 私にとっては初めて読む作品であるが、すでに何冊も書かれているシリーズの中の1冊だそうである。しかし、独立したミステリーとして読むことは可能だし、伏線のはり方のうまさはなかなかのものである。それに1人1人の登場人物がかなりはっきりした特徴をもって描かれていて、犯人捜しよりもそちらの方が面白いくらいである。特に被害者であるドロレスの描写が詳しく、身近にいる人の特徴と比べながら読み進むと、余計に興味が増した。

6月24日
 NHK「ラジオ英会話」では月末のお楽しみということであろうか、”A Song 4 U (A Song for you)"として、ハリー・ベラフォンテ(Harry Belafonte)とオデッタ(Odetta)が歌う”There's a Hole in the Bucket" (バケツに穴がある)という歌を聴いた。もともとペンシルヴェニアに移住したドイツ移民によって伝承された子どもの歌であるが、現在ではbus song(バス旅行で歌う歌)あるいはcamp song(キャンプファイアを囲んで歌う歌)として親しまれているという。
 ベラフォンテというと、Banana Boat Song(1956年)が有名で、子どもの頃よく聞いたものである。ずいぶん、あとまで、この歌が英語で歌われているということに気付かなかった。

 昼食の際に隣のテーブルに座って、日本人らしい中年女性2人と英語で話をしていた太った黒人男性が、「ステュディオ」という言葉を発音していたのが聞こえた。日本だと「スタジオ」というが、英語のもともとの発音は「ステュディオ」あるいは「ストゥディオ」である。確か芥川龍之介の「河童」の中で、「ステュディオ」という言い方がされていたと記憶するのだが、定かではない。「スタジオ」という言い方が広がったのはいつ頃のことなのだろうか。

 NHK「実践ビジネス英語」のビニェットに登場する日本人が言う:
In Japan, the main emphasis in elementary education is reading, writing and the abacus, as my schoolteacher used to say. But I thought the U.S. placed more emphasis on speaking.
(日本の初等教育で重点が置かれるのは、私の先生がよく言っていたように、読み、書き、算盤です。でもアメリカは話すことをもっと重視していると思いました。)
 しかし、現在では学校教育でも実社会でも算盤は使わなくなってきている。abacusという語はもともとラテン語で、ヨーロッパでは近世まで算盤が使われていたのが、算用数字を使った筆算が普及することで使用されなくなった。唯一、例外的に使っていたのがロシアである――という話は、部分的にではあるが遠山啓『数学入門』に出てくる。
 中国や日本で使われる算盤は中国の宋の時代に普及したもので、梁の上に1・2個、梁の下に4・5個の珠があって、上の珠は5、下の珠は1を示す。この5を示す珠があるというのが東アジアの算盤が生き残った理由で、ロシアの算盤は梁がなく、ただ10の珠が串に刺さっているだけである。『水滸伝』のなかに神算子とあだ名される蒋敬という豪傑が登場するが、この人物が算盤をもった姿で描かれることが多いので、探してみてください。

 永井忠孝『英語の害毒』(新潮新書)を読み終える。論争的な書物である。「本当に世界の国々から見習うべきなのは、英語教育の早期化ではなく、複数の言語を学ぶことだ。1つだけまなんだのでは、その言語を絶対視してしまいやすい。最たる例がわれわれの英語幻想だ」(182ページ)。著者はエスキモーの言語の専門家であり、多様な言語をそれぞれに理解できるような人々を育てる言語教育を考えているようである。そして、これからは自動翻訳機が発展するから、会話重視の外国語教育はやめた方がいいという。確か『AERA』6月15日号(薬局で薬が揃うのを待っている時に眺めた)にもこれからは自動翻訳機が発展するから、外国語を勉強する必要がなくなり、日本人はこれまで以上にグローバルに活躍できるようになるだろうという記事が出ていたのを思い出す。自動翻訳機が普及すると、今度は機械が翻訳しやすいように話したり、書いたりするということになって何かと人間の表現活動が制限されるのではないかとか、プログラムの間違いでとんでもない誤訳が生じる事件が起きたらどうするのか…とか私などは心配するのだが、そういう点はさておいても、読んでみる価値のある書物ではないかと思う。

6月25日
 「実践ビジネス英語」では”Conscious Listening"(意識して耳を傾ける)という話題を取り上げた。確かに、話を「聴く」スキルを訓練するという話はあまり聞かないので、全体的に話を聞くのが下手な人間が多く、それが世間に様々な誤解を生みだす理由にもなっている。以前、ある医療系の学校で聞いた話であるが、若い看護師さんの方が仕事を覚えるのは早いから医師の側から見ると使いやすいけれども、患者さんの側から見ると自分の話をよく聞いてくれる年配の看護師さんの方が頼りになるのだそうである。話を聞くことは、訓練を受けるというだけでなく、人生経験の積み重ねによっても磨かれるスキルだということらしい。さらに言えば、看護師さん同士のコミュニケーションも重要だということであろうか。

日記抄(6月18日~21日)

6月24日(水)晴れ

 昨夜(ということはこれを書いているのは25日である)、6月18日から24日までの「日記抄」を入力して、ブログに掲載しようと思ったら、急にインターネットの調子がおかしくなり、投稿ができなかった。原因は特定できなかったが、どうやらノートパソコンがインターネットにつながるようになったので、異例にはなるが、6月18日~21日と、22日~25日の2回に分けて「日記抄」を掲載することにした。

6月18日
 NHKラジオ「まいにちイタリア語」応用編「描かれた24人の美女 24 bellezze nell'arte」は15世紀の画家ポッライオーロの<女性の肖像>を取り上げた。
Il Ritratto di dama di Pollaiolo esibiscde i requisiti della bellezza femminile dell'epoca.
(ポッライオーロによる<女性の肖像>は、当時、美女が備えていなければならないとされた条件をすべて満たしています。)
と語られている。若い女性の横顔を描いたこの肖像画は、彼女の衣服や装身具の豪華さから、結婚記念か見合い写真(のようなもの)として、上流階級の家庭の注文を受けて取り組まれたものだろうと考えられている。ポッライオーロは兄弟の画家で、そのどちらがこの絵を描いたかについての定説はないそうである。同時代の画家の肖像画に比べると、健康的な感じがするのは、画家の個性によるものだろうか。だとすれば、注文主も目が高かったということになるだろう。

 NHKラジオ「ワンポイント・ニュースで英会話」は「安保関連法案は違憲」として
Japanese lawmakers have been hearing expert views on their government's plans for national security. They're debating bills that would expand the role of the Self-Defense Forces and allow the country to engage in collective self-defense. Three academics told them those bills are unconsitutional.
(日本の立法府議員たちは政府の国の安全保障計画をめぐる専門家の意見を聴取した。議員たちは政府の自衛隊の役割を拡大し、国に集団的自衛権の行使を認める法案を議論しているところである。3人の大学人たちが議員たちに法案は憲法違反であると述べた。)

 NHKカルチャーラジオ「十七音の可能性」は戦後の俳句会に現れた新しい才能の持ち主たちを紹介したが、その中の1人関悦史の
人類に空爆のある雑煮かな
という句の持つ重苦しい雰囲気を、より古い世代に属する田川飛旅子の
ピーマンの青きこぶしや核戦争
という句の帆船反核運動の元気のよい描写と対比して取り上げていたのが耳に残った。

6月19日
 「まいにちイタリア語」応用編「描かれた24人の美女」は18世紀の画家ティエーポロの『マリアの教育 Educazzione della Vergine』を取り上げた。少女マリアが母アンナとともに本を読み(この時代のユダヤには本があっただろうか‼?)、読み書きを学んでいる。それを父ヨアキムが眺めている。ヴェネツィアの教会に飾られていたこの絵画は、女子もまた読み書きを学ぶことが重要であるというメッセージを伝えるものであり、それはこの時代の北イタリアにおける商業の発達が男子だけでなく女子も読み書き能力を身につけることを要求していたことを反映するものであったという。
Per secoli si è contato sulle donne solo per i lavori domestici. Ma lo sviluppo del commmercio fece aumentare la domanda di forza lavoro femminile: così molte donne cominciarono a imparare a leggere e scrivere. È questa situazione sociale che ha fatto nascere l'iconografia dell' Educazione della Vergine, che non ha alcun riferimento biblico.
(何世紀にもわたって、女性には家事労働のみ求められていました。しかし商業の発達は女性の労働力の必要性を増していきました。こうして女性たちは読み書きを習いはじめます。そのような社会状況が、聖書に典拠のない<マリアの教育>の図像を生み出したのです。

6月20日
 NHKラジオ「アラビア語講座」は第11課「今日は、図書館の休館日ではありませんか」(ア・ライサ⌒ル・ヤウム イジャーザタ⌒ル・マクタバティ?」をはじめとするさまざまな語句と表現を学んだが、「おしゃべりマクハー」の項では「キリスト教」が話題として取り上げられた。中東はキリスト教の発祥の地であり、現在でも少なからぬ人々がさまざまな宗派のキリスト教を信仰している。番組ではあまり詳しく触れられなかったが、東方教会やカトリック教会に属する人々、パレスティナに住んでいたアラブ人で、キリスト教に改宗すれば自分たちの地位が向上すると信じてプロテスタントに改宗した人々、アルメニア教会の信者でアルメニアから聖地の近くへと移住していた人々などさまざまな歴史を持つ人々が住んでいる。イラク戦争以後、それらの人々の地位が危うくなっていること、またキリスト教徒以外の宗教的マイノリティも様々な危険にさらされていることを、より多くの人々にもっとよく知ってほしいものである。

 望月麻衣『京都寺町三条のホームズ』(双葉文庫)を読む。京都の高校に転校してきた女生徒が、寺町三条に店を構える骨董店でアルバイトをすることになるが、ここの3代目の青年がちょっとした名探偵で、さまざまな事件を解決していく。京都で大学と大学院を合わせて11年間暮らし、寺町通は何度も歩いたし、その後京都を訪問する機会があると、できるだけ立ち寄ることにしている。その名のように革堂行願寺などの寺もあるし、仏教関係の書店や、その他さまざまな店舗が並んでいて歩くのが楽しい通りの1つである。
 女子高生が通う高校が「大木高校」でこれは「鴨沂高校」のことだと、わかる人にはすぐにピンと来るはずである。私の友人知人でこの学校の卒業生は少なくないが、山本富士子、団令子、田宮二郎という戦後の日本の映画の歴史に名を残した俳優たちがここの卒業生である。そういえば、私が高校3年の冬休みに、この学校で開かれた京都大学親学会の模擬試験を受けるために中に入ったことがある。

6月21日
 NHKEテレ「日本の話芸」で桂福團治師匠の「百年目」を見る。ある大店の一番番頭はのれん分け間近であるが、そのせいかそうでないかはわからないが、若い衆に厳しくあたっている。ところが彼には秘密があって、店の近くの長屋に箪笥を置いて、そこで上等の着物に着替えて遊びに出かけているのである。ある日、花見に出かけたのはいいが、そこで酔っぱらって騒いでいるところを旦那に見られてしまう。これでのれん分けどころか、解雇されてしまうのではないかと番頭は店にかえってびくびくしていたが、旦那は自分の金で遊び、店の金に手をつけない限り、いくら遊んでも構わない、それよりももっと若い衆をいたわるようにと優しく諭す。若い衆には厳しくあたっているが、実はかなり気の弱い(その分、たぶんまじめで商売熱心である)番頭の表現はよかったと思うが、もっと大きなところで店を見ている旦那の人間的な大きさが十分に描けているとは言い難い。福團治師匠は人情話の名手だという定評があるようだが、このあたりに工夫の余地があるだろう。それでも十分に聞きごたえのある口演であった。

 ニッパツ三ツ沢球技場で横浜FC対大宮アルディージャの対戦を観戦する。0-3で惨敗。こんな試合ぶりでも拍手をして選手を迎えるのだからサポーターもやさしいねぇというゴール裏の声あり。まあ、内田選手が終盤に登場して、今後の試合に希望を与えてくれたのでよしとするか…などと考えている私も優しいサポーターなのかなぁ。


 

ダンテ・アリギエリ『神曲 煉獄篇』(7‐1)

6月23日(火)晴れたり曇ったり、一時雨

 第6歌でともにロンバルディア地方のマントヴァの出身であることを確認しあったウェルギリウスとソルデッロはお互いに抱き合う。
喜びにあふれた格調高い歓待が
3,4度繰り返された後、
ソルデッロは後ずさりし、たずねた。「あなた方のことを」。
(104ページ) と、第7歌は歌いはじめる。同郷人に会った感激を残しながらも冷静になったソルデッロは、煉獄で出会った2人の旅人にただならない雰囲気を感じて、彼らの身の上をたずね、ウェルギリウスが答える。

「神の御許へと昇るにふさわしい魂達が
この山に差し向けられる前に、
我が亡骸はオクタウィアヌスによって葬られた。

私はウェルギリウス。それ以外の罪のためではなく、
信仰を持たぬがゆえに空を失った」。
その時我が導き手はこのように答えた。
(同上) キリスト受難以前には、旧約聖書にその事績が描かれたユダヤの長老などの義人たちの魂もウェルギリウスたちとともにリンボにいた。しかしユダヤの長老たちはキリストによって天国へと導かれ、キリスト教の信仰を持たなかったウェルギリウスたちはそのままリンボにとどまることになった。

 この答えを聞いたソルデッロはさらに驚く。1つには彼がウェルギリウスに出会うことができたこと、またウェルギリウスの魂がリンボにとどめられていることに対する驚きである。彼はウェルギリウスを賞賛する:
「おお、ラテン人の栄光よ、――彼は言った――その作品で
我らの言語に可能の限りを表現された方、
我が生まれ故郷の永遠の誉れよ。

いかなる功績、いかなる恩恵により私はあなたに見(まみ)えるのでしょう。
私があなたのお言葉を聞くのにふさわしければ、
もしや地獄からのお越しなのか。であれば何(いず)れの回廊からかお教えください」。
(105-106ページ) そして、ウェルギリウスのダンテとの旅がどのような理由に基づくものかを尋ねる。これに対して、ウェルギリウスは自分がリンボにいる理由を説明し、また彼らの旅の背景に神意が働いていることを述べ、煉獄の本当の入り口がどこにあるのかをソルデッロがもし知っていれば、教えてほしいと頼む。

 ソルデッロは
「…ご覧のように、もはや日はあれほど沈み、
夜には人が登ることはできません。
それゆえに、しかるべき休息をとるよう考える頃合いです。」
(108ページ)と答える。ここで太陽は神の導きを寓意するものである。そして
「ここから離れた右の方に魂達がいます。
私にご同意くださるなら、あなたを彼らのところまでご案内します。
あなたが彼らを知れば必ずやお喜びになるでしょう」。
(同上) と、彼らを王侯たちの魂が置かれている隠れた谷へと案内しようとする。
「あそこへ――その影は言った――私達は行きます。
斜面が窪んでいるあの場所に。
そこで新しい日を待ちましょう」。
(110ページ) ラテン語で詩を書いたウェルギリウス、オック語(古プロヴァンス語)で詩を歌いあげたソルデッロ、そしてトスカーナ方言で『神曲』を書こうとしているダンテの3人は、ともにイタリア人であり、使う言語は違っても古代のローマからイタリアへの文化的な伝統を継承し、また詩という言語表現によって人々の心を奮い立たせようとしている点では共通の立場にいる。彼らは隠れた谷でどのような人々に出会うのであろうか。

 第7歌も1回で終わらず、2回に分けて紹介することになった。当初の計画では年内に『煉獄篇』を終わらせて、『天国篇』にはいるつもりであったが、どうも見通しが甘かったようである。いい加減な理解でどんどん先に進むのは古典的な名作に対する礼を欠く振る舞いではあるし、ダンテ同様に、少しずつでも前進を心掛けながら、この作品を読み進んでいきたいと思う。 

城米彦造『街頭詩人・画家城米彦造”昭和を謳う”』

6月22日(月)晴れたり曇ったり

 何を書こうか考えがまとまらないまま、時計の針が0時を過ぎてしまったので、城米彦造(1904-2006)の詩と画業について、彼の展覧会を見た後で書いた文章を書きなおして掲載することにする。展覧会を観たのは7年前のことであるが、現在でも時々、どこかで城米をしのぶ催しが開かれることがあるようである。

僕が作った詩を
僕自身が詩集にし
僕自身で売っているのです。
よかったら買ってください。
と書かれたプラカードを首から下げて、1948(昭和23)年から10年間、有楽町の旧日劇側の駅前でガリ版刷り、こよりで綴じた詩集を売っていた城米は、その詩のなかで、戦災から復興しつつあった人々の暮らしと、それを見つめる自分の生活と心情を細やかに優しく見つめ、通りがかりにその詩集を買って読んだ多くの人々に生きるための励ましを与え、また彼らからの激励を受けた。その経験と人々から受けた支援を梃子にして、彼はその後昭和の風景を詩と絵(主として淡彩画)で描きだすという試みに取り組む。その中から「東海道五十三次」「京都百景」「東京百景」などの作品が生まれた。

 城米は京都の出身で、人生遍歴の中で出会った武者小路実篤に師事し、その「新しき村」の一員(村外会員)であった。彼は「詩は誰でも書ける。自分の言葉で誰でもわかる詩を書こう」を口癖とし、弱いものに温かい目を注ぎながら、自分の目で見たものを見たとおりに丹念に描いた。それは詩でも、絵でも同じことであった。「有楽町にて」という詩では、一方で
有楽町は変った
美しく魅力ある町へ益々生長して来た
どこまで変化生長して行くのか
底の知れない楽しさがある、謎がある

と歌いながらも

そして、少し疲れてくると
元の古巣である有楽町駅に戻ってくる
駅ばかりは私が立って詩集を売っていた頃と
殆ど変っていない

物売りの小母さん達も、駅員も
その上に、皆から粗末に投げやりにされ
忘れられているような所までが
昔のままなのが、懐かしく、面白く
僕は、変る事のない有楽町もまた好きなのだ
(『城米彦造”昭和を謳う”』79~81ページ)
と、自分の中の有楽町に対する2つの気持ちをありのままに吐露している。これは同時代を生きた多くの人々と同じ気持ちではないかと思う。また、彼は小学校時代に出会った初恋の人と結婚するなど、夢に行き、夢を実現させるために奮闘しつづけた人でもあった。

 1960年の安保闘争の直後に書かれた詩の次の一節が、私には特に印象に残る。
議事堂のまわりの樹木は
あるいは折られ、抜き去られ
私のスケッチブックに描いた、ある木など
クリクリ坊主になり、幹は百日紅のよう
テカテカと光る程に変っていた
(同上、69ページ)
大規模な抗議行動とそれを阻止しようとした人々によって傷つけられた樹木に作者は同情している。何かが忘れられているのではないかと問いかける作者の心情は、もっと多くの人々に共有されてよいものではないかと思う。

 絵画作品では「東海道五十三次」の神奈川を描いた作品、東横線(今では地下の路線になっている)のガードをくぐって保土ヶ谷の方に向かう道筋は私にとって身近なものなので、とくに懐かしく感じられた。100歳を超える長寿を保った城米と共有する時間はそれぞれの人によって違うかもしれないが、重なる部分を大事にして、その詩と絵を味わうことで、自分なりの思い出がよみがえってくるはずである。そうやって自分の思い出を温めることで、「新しき村」の会員でもあった著者の未来への思いもよみがえらせることができるだろう。

gentrification

6月21日(日)雨が降ったりやんだり、夕方になって次第に晴れ間が広がり、夜には月が見えた。

 当ブログの「日記抄(6月11日~17日)」の6月17日の項で、この日放送された「実践ビジネス英語」の”Word Watch"の項でgentrificationという語が取り上げられたが、この語は6月20日、21日放送の「攻略!英語リスニング」でも取り上げられるということを書いた。それで、「攻略!英語リスニング」の放送を聴いたのだが、2つの番組におけるgentrifiationのとらえ方がかなり違っており、簡単に言えば、「実践ビジネス英語」は肯定的、「攻略!英語リスニング」の方は懐疑的で、要するにこの現象のとらえ方は多様であり、いろいろな意見がありうるのだなということを実感させられることになった。

 手元にある『リーダーズ英和中辞典』(研究社)の2000年に出た初版第1刷を見ると、「紳士化、ジェントリフィケーション《都心の衰退地区への中高所得者層の移住〔流入〕に伴う地区の再生〔再開発〕;しばしば在来居住者の追い出しにつながる》」とある。ここでいうgentrificationは「紳士化」の意味ではないことは明らかであるが、1990年代にはすでにこのような都会における人口の変動と地域の性格の変化にかかわる現象が起きていたことが辞書の見出しからも確認できる。そして、事態を移入してきた富裕層の立場から見るか、在来からの居住者、さらには追い立てられた元居住者の立場から見るかで、言葉が意味するところも違ってくることが推測できる。

 さて6月17日に放送された「実践ビジネス英語」ではニューヨークの企業で働く日本人スタッフが同僚が前の年の夏にブルックリンのベッドスタイ(Bed-Stuy = Bedford-Stuyvesant)に引っ越したという話をした際にこの地区のおすすめの店として言及したマルセイユ・レストランに、ニューヨークを訪問中の日本人記者団を連れて出かけたという話題が出てきた。
I wanted show them how gentrifiation is changing Brooklyn.
(ジェントリフィケーションがブルックリンをどのように変えつつあるのかを、彼らに見せたかったのです。)
 そして”Word Watch"の項では
gentrifiation 劣悪化した住宅地区の再開発による高級化
と言う見出しのもとに、
都市において比較的貧困な層が多く住む停滞した地域(inner city)や倉庫街にアーテイストなどが流入する人口移動現象で、これによりアート関連の店やおしゃれなカフェなどができはじめる。やがて流行に敏感な若い層が集うようになって、中産階級も住み始め、街がより洗練されて、治安もよくなる。一方で、そうした地域の高級化により家賃や税金が上がり、それまで住んでいた人々が暮らせなくなったり、地域特性が失われたりすることがある。このように、gentrificationには二面性がある。ニューヨークではWilliamsburgやBedford-Styvesantなどが典型的な例である。(6月号、38ページ)
と解説されている。

 一方、「攻略!英語リスニング」では昔住んでいた街に久々にやってきた年配の女性がジェントリフィケーションによって変わってしまった街の様子について感想を述べるという形で話が進む。
The neighborhood has changed! It's gentrified like crazy. You know, gentrification. It's where wealthier people move into a poor neighborhod, making the prices go up, changing the culture of the place, and displacing the poorer people -- often people of color.
(雰囲気がガラッと変わったわ! そりゃもうすごい勢いで高級になってる。ほら、高級化ってやつよ。裕福な人たちが貧困地区に移り住むようになって、物価が上がって、その土地の雰囲気が変わって、貧しい人たちがそこから追い出される――たいてい、有色人種が追い出されるんだけどね。)
 「語句解説」の項では
gentrification
ジェントリフィケーション
として、
辞書には「高級化」という訳語も載ってはいるのですが、それあとちょっと英語の言い表していることを全部カバーできないと思いましたので、カタカナで表記してみました。(中略)
・この言葉は一般的には、「発展から取り残されたような、貧しい人々が多く住んでいるような地域を再開発して、高級化する」ということを指します。そして、その余波として「今まで住んでいた人が、追い払われてしまう」という副作用を含めて語られる場合が多いようです。(6月号、47ページ)
と説明している。

 両者を対照すると、「実践ビジネス英語」の方はgentrificationは「いいことだが、副作用もある」(ただし、その副作用については本文の会話のなかには登場しない)、「攻略!英語リスニング」の方は「いいことかもしれないが、昔から住んでいた人の暮らしが損なわれてしまうのはやり切れない」というような受け止め方の違いがある。これはそれぞれの番組の講師の先生の受け止め方の違いを反映するかもしれず、「実践ビジネス英語」の杉田敏先生は実際にベッド≂スタイに出かけた体験を話していたのに対し、「攻略!英語リスニング」の柴原智幸先生はロンドンで暮らしていた際にテムズ河畔のドックランドで起きたジェントリフィケーションの思い出を語っていたというようなそれぞれの体験の違い、あるいは年齢や留学先の違いのどのような要素が大きく影響しているのかを考えるのも興味深いことではないかと思う。

 また、「実践ビジネス英語」では地域の変化に果たした芸術家たちの役割が強調されているのに対し、「攻略!英語リスニング」では芸術家も生活費が安いために暮らす人々として労働者と一喝されているのは、どちらが真相に近いのだろうか。これは推測であるがgentrificationが起きたのは、その背後に何らかの都市再開発政策や住宅政策が作用していたはずで、そのあたりが触れられていないために両者ともに内容が今一つ不鮮明になっている印象を残す。

 gentrificationによってある地域の様相が変化し、治安がよくなったり、外見が綺麗になったりするのは、結構なことに思われるけれども、その結果として別の場所が貧困層の暮らす地域になるというのでは、結局イタチごっこを繰り返すだけのことになるのではなかろうか。貧困層が豊かになることが多分大事なのだが、それが、別の国の人々の貧困化をもたらしたりするのでは、やはり問題の解決になったとは言えない。世界の貧困についての浮世根問を展開するのは肩の荷が重いので、ここではgentrificationという言葉の受け止め方も、人によって違いうるのだという指摘にとどめておく。

脇村義太郎『趣味の価値』(3)

6月20日(日)晴れ

 この書物の残り3章は「美の商人たち――なぜロンドンが国際美術商品市場の中心となったか――」、「ペルシャ絨毯の美――アルメニア商人・マンチェスター商人・ロンドン商人――」、「美術蒐集家としての石油人――蒐集の楽しみ」から構成されている。美術関係の章の間に絨毯についての章がはさまれる構成になっているが、美術に関係するといっても、片方はオークションを通じて売りさばく方、もう片方は集めるほうについての文章なので、それぞれの独立性を認めて、書物の構成どおりに紹介していこうと思う。

 美術品の取引は海外(欧米)では公開オークションが中心になって行われているが、日本では入札が一般的であると記されている。あまり縁のない世界なので、現在ではどうなっているかはわからない。この章の主な内容はロンドンで活動し、さらにはニューヨークに進出したサザビーの沿革に割かれており、さらにクリスティズなど他の業者の活動についても触れられている。英国人は美の想像力にはそれほど恵まれていないが、そのことが却って美術品に対する公正な批評眼を培い、ロンドンの美術市場の隆盛をもたらしたというのだが、その後の美術市場の動きがこの指摘に沿っているかどうかはわからない。ただ、英国の美術館のコレクションがすぐれていることは、実際に歩き回ってみるとよく分かる。

 ペルシャ絨毯は16世紀にサファヴィッド朝のもとで国産の原料(絹または羊毛)、国産の染料(動植物)を使用して、高度な芸術の段階にまで達したが、その価値はヨーロッパではまだ認められていなかった。その理由の1つは絨毯そのものが普及していなかったことによるものである。
 しかし政治的な混乱のために18世紀にはペルシャにおける絨毯の製造は衰え、19世紀になってクアジアル王朝が成立して、長い平和の時代に入ると、再び盛んになるきっかけをつかんだ。トルコやペルシャの絨毯に対する西欧の需要が高まったことを察知したトルコ・ペルシャ国境近くのタブリッツの商人たちは、当時ペルシャには銀行がなかったこともあり、貯金ができると絨毯に投資しておくという慣習があった。こうして絨毯の取引は順調に拡大したが、16世紀につくられた絨毯はほとんど出尽くしたので、あたらしい絨毯の製造が求められるようになった。こうしてペルシャの各都市では絨毯の製造が再開され、できあがった絨毯が輸出されるようになった。その際にマンチェスター商人の手を経て羊毛がペルシャに提供され、またヨーロッパの合成染料の使用も一般的になっていった。
 それでペルシャ絨毯といっても古典的な絨毯と現代のものとの2種類があることになる。もちろん古典的な絨毯のほうが高額で取引されていたが、次第に蒐集家の手を離れて、博物館や美術館に所蔵されるようになってきている。ペルシャ絨毯というと、イランの固有のものという印象があるが、実はグローバルな市場の中で製造され取引されてきたという経緯が興味深い。

 最後の章では石油業者に限定して、主だった人々の美術蒐集ぶりを紹介している。これは執筆当時、松方幸次郎(1866-1950)の美術コレクションのうちフランスに残されていたものの返還が話題になっていた(現在の国立西洋美術館の所蔵品の基礎をなしている)事とも関連しているようである(松方は一般に造船業者として知られるが、石油業者でもあったと脇村は書いているのである)。
 美術蒐集に関心を寄せた石油人としてロスチャイルド(石油業に進出する以前から巨万の富を築いていた)、ロックフェラー、グルベンキアン、メロン、ゲッティについてその経歴と美術蒐集歴が描かれている。日本では松方幸次郎、小倉常吉、中野忠太郎、新津恒吉、出光佐三の5人の名があげられ、やはりそれぞれの経歴と蒐集歴が描かれているが、第二次世界大戦後の社会の変化の中で、蒐集が散逸していく様子までもがしるされている。最後に出光が日本の石油人として初めて美術館の解説に乗りだしたことについて触れ、「美術品の蒐集を維持するには、美術館を設けることが最も賢明な途であるが、公開美術館の経営発展は蒐集よりさらに数倍の困難がともなうものといわれている。石油界のためにも、美術界のためにも出光美術館の健全な発展を希望するが、それには広い大衆の支持が必要であろう」(204-5ページ)とこの章は結ばれている。
 脇村は自分自身が美術の蒐集家であり、彼自身が果たせなかった夢が出光美術館に託されていると思われる。商人に対する興味が、その商人たちの個性や趣味に対する興味となり、それがさらにより一般的な経済と大衆の趣味の問題へと視野を広げて語られている。この書物が書かれた時代に比べると、日本人の暮らしはより豊かになり、また大衆的な規模で様々な趣味・娯楽への素養も広がり、高まっているので、このような書物を書くことはより困難になってきてはいるが、範囲を狭めてでも趣味を経済的・社会的な視野の中で論じる書物が書かれること、また鶴見良行さんたちが試みてきたように、グローバルな規模での嗜好の展開とその生産現場で窮乏に苦しむ人たちの存在を追究することも必要な作業であろうと思う。

『太平記』(50)

6月19日(金)雨

 元弘3年(1333年)3月、後醍醐帝は警護役の佐々木義縄の手助けで、幽閉先の隠岐から六条忠顕を供として脱出、舟で伯耆の国名和湊に到着された。土地の有力者である名和長年に勅使を送ると、長年の弟長重の意見により一族は衆議一決し、天皇を船上山(ふねのうえやま/現在では「せんじょうさん」と呼んでいる)にお迎えし、城郭を構えてここを拠点として追っ手の攻撃に備えることとした。

 3月29日に後醍醐天皇を監視していた隠岐前司佐々木清高の兄弟3人と佐々木弾正左衛門が3,000余騎の兵を率いて船上山を攻略しようと押し寄せた。鎌倉時代、山陰地方には宇多源氏の佐々木一族が勢力をふるっていたが、すでにみたようにその内部では対立があったのは、後醍醐天皇の脱出をやはり一族の佐々木義縄が助けていることでもわかる。
 この船上山というのは中国地方の最高峰である大山に連なり、その名のように舟の底のようななだらかな山容をしているが、3つの方角に断崖が続いて要害の地である。とはいうものの、急に天皇をお迎えしたので準備が十分ではなく、濠を掘ったり、塀をめぐらしたりする余裕はなく、あちこちで大木を切り倒して防御の柵とし、この山の中にある船上寺(智積寺)の僧房の屋根を壊してその板を垣楯のように並べただけである。

 押し寄せてきた3,000余騎の兵が坂の途中まで昇って、城塞の様子を窺うと、深い森の中にどのくらいの兵が潜んでいるかわからず、前回に触れたように土屋彦三郎の計略であちこちに中国地方の武士たちの家紋を記した旗が翻っているので、近国の兵士たちが既に加勢に駆けつけているとすると、自分たちの兵力だけでは攻略できないと足取りも鈍りがちになった。立てこもっている兵士たちは自分たちが小勢であることを知られないように、森の木々のなかに隠れて時々遠矢を射かけて時間を稼いでいた。

 一方の寄せ手の指揮をとっていた佐々木弾正左衛門尉は、はるか麓の方に控えていたのだが、どこから飛んできたのかわからない流れ矢に目を射抜かれて、そのまま死んでしまった。このため彼が率いていた500騎は恐れおののいて戦線を離脱してしまった。一族の佐渡前司は800余騎で搦手(背後)に向かったが、急に気が変わって降参してしまった。そんなこととは知らない隠岐前司は正面から全力で戦い続けていた。
 ところが夕方になって天候が急変し、風雨があれ狂いだしたために寄せ手が臆病風に吹かれてその身を隠し始めたところに、山中に潜んでいた名和一族の武士たちが襲い掛かり、寄せ手の軍勢を壊滅させた。

 隠岐前司は命からがら逃げのびて、小舟に乗って隠岐の島に逃げ帰ろうとしたのだが、隠岐の島の人々もすっかり心を宮方に寄せるようになっていて、戻ってきたら討ち取ろうと待ち構えていた。そういう事情なので、上陸できず、日本海を漂流して敦賀にたどりつき、その後(第9巻で語られる)六波羅探題の一行が近江の国の番場で自害する時に、運命を共にすることとなった。「世澆季になりぬと云へども、天理も未だありけるにや、余りに君を悩まし奉りける隠岐前司が、三十余日が間に滅び果て、結句、、首を軍門の幢(はたほこ)に懸けられけるこそ不思議なれ」(366ページ、世は末世になったとはいうものの、天の正しい道理も未だあるということあろうか、天皇を苦しめた隠岐前司が、30日あまりのうちに身を滅ぼして、挙句の果てに首を旗鉾に刺し貫かれて曝されたのである)。

 主上が隠岐国から戻られて、船上山にいらっしゃるという知らせを受けて、中国地方各地の武士たちがはせ参じることとなった。まず、出雲の守護である塩谷判官高貞が、1,000余騎を率いて駆け付け、続いて脱出の手助けをした富士名判官(佐々木義縄)が隠岐から500余騎を率いて加わった。その後、島根県出雲市朝山町に住んでいた武士である朝山次郎が800余騎、鳥取県日野郡日野町金持(かねじ)に住んでいた武士である金持の一党が300余騎、大山の修験道場である大山寺の僧兵たちが700余騎というように、出雲、伯耆、因幡の3か国の武士たちで名のあるものはほとんどが結集したのである。

 さらにそれだけでなく、石見の国では島根県邑智(おおち)郡の沢(佐波とも)一族、浜田市三隅町の三角一族、安芸の国では源平の合戦で活躍した熊谷直実の子孫である熊谷一族、同じく土肥兼平の子孫である小早川一族、美作の国では菅原氏族の武士団で岡山県美作市江見に住む江見、久米郡美咲町垪和(はが)に住む方賀(はが)、津山市に住む渋谷、真庭市に住む南三郷(なんさんごう)の武士たち、備後の国では広島県三次市に住んでいた江田、広沢、三吉、福山市新市町の備後一ノ宮吉備津神社の社家である宮、備中では岡山県新見市の新見、高梁市の成合、三村、井原市の那須、浅口市鴨方の小坂、川村、小田郡の庄、総社市の真壁、備前では岡山県瀬戸内市邑久町の今木、大富、玉野市和田の和田、岡山市藤井の藤井、倉敷市児島の児島(既に4巻に、隠岐に配流されようとする後醍醐天皇を救出しようと企てたことが記されている)、中吉、岡山市北区一ノ宮の備前一宮吉備津彦神社の社家である美濃権介助重(佐重とも)らの武士が参集し、さらに四国、九州の武士たちまでも噂を聴いてわれ先に懸けつけてきたので、集まった軍勢は船上山に収まりきらず、山麓にも兵士たちがひしめいていたのである。
 集まった武士たちについて、岩波文庫の脚注を頼りにできるだけ詳しくその素性を記したが、面倒ならば読み飛ばしていただいて結構である。とにかく、北条氏得宗が支配する鎌倉幕府に対する反発が中国地方、そして四国、九州の武士にまで行き渡り、それが後醍醐天皇を支持する力となって船上山に結集することになった。後醍醐天皇が都に戻り、再び帝位につくことも夢ではなくなってきたのである。こうして、大きな力のうねりを記しながら、第7巻が終わる。次回からは第8巻に入る。 

坂道と向かい風の町

坂道と向かい風の町

向かい風の中で
坂道を登っていく
まだまだ足どりは
しっかりしているつもりだが
風が後押しを
してくれればなぁと思う

住宅地の再開発
さらには
再再開発で
樹木の数はめっきり減ってしまったけれど
それでも緑の葉影を
通り抜けてきた風は
わずかながらやさしく思える

山の風
海の風
湖の風
都会の風
いろいろな風に吹かれながら
齢を重ねてきたが
どうも向かい風が多かったのは
どういうことであろうか

前に進むためには
追い風の方がいいが
なかなか風に恵まれないままに齢を重ねた
それでも吹き付ける風に
心を若返らせて
さらに一歩を進める

日記抄(6月11日~17日)

6月17日(水)昼のうちは曇り空だったが、夜になって雨が降り始めた。

 6月11日から本日までの間に、経験したこと、考えたことなど:
6月11日
 NHKラジオ「実践ビジネス英語」は「アメリカン・ドリームを生きる」というビニェットを放送中で、すでに何度か紹介したように、夢を実現することが困難だと感じる人が多くなってきているという内容であるが、
The middle class is being hollowed out. A lot of people say that's bad for the country's long-term future.
(中流階級は空洞化しています。多くの人が、これはこの国の長期的な将来にとって悪いことだといっています。)
という意見が出てきた。これはアメリカだけのことであろうか。

 NHKラジオ「まいにちイタリア語」応用編「描かれた24人の美女」ではアントニア・カノーヴァの彫刻<ウェヌス・イタリカ>(Venus Italiaというのはラテン語風の呼び方で、日本ではこちらの方が一般的だが、イタリア語ではVenere italicaと呼んでいるそうである)が紹介された。ナポレオンがイタリアを占領したとき、多くの美術品をフランスに運んでしまったが、その中にウフィツィ美術館の<メディチのヴィーナス>も含まれていた。カノーヴァはこの作品の不在を補うだけでなく、国民感情を支えるために、この<ウェヌス・イタリカ>を製作したという。彼はナポレオン戦争後に奪われた美術品の返還交渉に尽力し、その結果<メディチのヴィーナス>はウフィツィ美術館に戻り、カノーヴァの製作した彫像は隣のピッテイ宮に移されることになった。紀元前3世紀のギリシャ彫像の紀元前1世紀末におけるローマン・コピーである<メディチのヴィーナス>よりも、モデルを使って製作された<ウェヌス・イタリカ>のほうが作品として優れているように思うのは私だけであろうか。

6月12日
 「まいにちイタリア語」応用編「描かれた24人の美女」ではフランチェスコ・アイエツの<キス>(1859年、ミラノ、ブレラ美術館所蔵)が取り上げられた。愛し合う2人の男女が人目を忍んでキスをしている場面を劇的に、また女性のドレスの絹の光沢など写実的に描聞上げた絵画であるが、実はこれは当時北イタリアを支配していたピエモンテ王国の宰相でイタリア統一運動の指導者であったカミッロ・カヴールとフランスのナポレオン3世の間に結ばれた反オーストリア同盟であるプロンピエールの密約を暗に示すものであったという。アイエツは、作家アレッサンドロ・マンゾーニと音楽家のジュゼッペ・ヴェルディという2人のイタリア文化の巨人と関係をもっていた。この作品が発表された1859年に、ミラノでは人々が壁に「ヴェルディ万歳」という落書きを盛んに残していた。表面的には偉大な作曲家を称えるメッセージであったが、「ヴェルディ」はVittorio Emanuele Re d'Italia (イタリア王ヴィットリオ・エマヌエーレ)の頭文字でもあったのである。イタリア統一が実現したのは1861年のことであった。

6月13日
 NHKラジオ「攻略!英語リスニング」では”Wall Street"(ウォール街)を話題として取り上げた。
Ever since the early 19th century, and especially from the beginning of the 20th century, it's become the the heart of the nation's financial sector.
(19世紀初め以来、そしてとくに20世紀初頭以降ウォール街はアメリカを代表する金融街となった。) アメリカだけでなく、世界の金融の中心地となっているのだが、ウォール街よりも前に世界の金融の中心であったのは、ロンドンのシティのなかのロンバード街 Lombard Streetであった。19世紀英国の経済学者・ジャーナリストで『エコノミスト』誌の編集者であったウォルター・バジョット(Walter Bagehot, 1827- 77)に『ロンバード街』という著作があり、岩波文庫に宇野弘蔵の翻訳が入っている。なお、ロンバードというのはイタリアのロンバルディア地方に因むものである。

6月14日
 NHK Eテレ「日本の話芸」で春風亭小柳枝師匠の『八五郎出世』を聴く。もう30年以上昔に、上野の鈴本で直接その高座に接したことがあるが、その時からあまり進歩していないという印象がある。どうもあまり口調がよくない。4代目の小柳枝であった6代目春風亭柳橋、5代目の小柳枝であった3代目の桂三木助、6代目だった8代目三笑亭可楽、そして7代目の小柳枝と当代を合わせて5人の小柳枝経験者の話を聞いている(なぜか8代目だけは聞いていない)が、これまでの小柳枝経験者に比べて、自分の個性というものを造り上げきれていないという印象が残ってしまう。

6月15日
 電車の中で小さな姉弟を連れた母親が向かい側の座席に座っていたのを見かけた。姉のほうが、本来ならば弟が乗るはずのベビー・カーを占領していろいろと喋っている(弟は空いている座席の上ではしゃいでいる)。それがシンデレラとかラプンツェルとか、ディズニーのアニメーションのキャラクターの話ばかりなので、いまどきの子どもにとっての昔話はディズニーなのかと大いに考えさせられた。学校教育を通じて伝えられる文化の繋がりというのとは別の、文化の継承関係というのがあってもよいのだが、実際のところどうなっているのだろうか。

 NHKラジオ「ワンポイント・ニュースで英会話」は”A Japanese Film A Hit in China" (「ドラえもん」中国で上映)というニュースを取り上げた。
Animated film "Stand By Me Doraemon" was a blockbuster in Japan, and now, it's a hit in China.
(アニメーション映画『スタンド・バイ・ミー ドラえもん」は日本で大ヒットしたが、今や中国でヒットしている。)
というのだが、『ドラえもん』の人気は既に中国に浸透しているはずで、それが改めて確認できたのか、それとも何か新しい動きがあったのかという点が報道されないと、ニュースとしては新鮮さがないように思った。中国の子どもの感想が英訳されて
It was so much fun. Doraemon is my best friend.
(とても楽しかったです。ドラえもんはぼくのいちばんの友達です。)
と伝えられていたが、もともとの中国語の「好朋友」というのが聞き取れて、ちょっとうれしかった。

6月16日
 NHKラジオ「入門ビジネス英語」では話を本題に戻すスキルが取り上げられた。このほか、進行役のかじ取りの工夫として、innovative (革新的な)とか、constructive (建設的な)とかいう形容詞をうまく使って前向きなトーンを出していくことが勧められた。
We appreciate your constructive suggestions for the project.
(プロジェクトにかかわる御社の建設的なご提案に感謝します。)

6月17日
 NHKラジオ「実践ビジネス英語」の”Word Watch"のコーナーで、gentrifiation(劣悪化した住宅地区の再開発による高級化)という語が取り上げられた。「都市において比較的貧困な層が多く住む停滞した地域(inner city)や倉庫街にアーティストなどが流入する人口移動現象で、これによりアート関連の店やおしゃれなカフェなどができはじめる。やがて流行に敏感な若い層が集うようになって、中産階級も住み始め、町がより洗練されて、治安もよくなる」という現象。横浜の黄金町駅周辺で進行中の再開発にもこれに似た側面があるかもしれない。(米国や英国でいうinner cityが日本に存在するかどうかというのが、今一つ私にはわからないのである。)
 実は「攻略!英語リスニング」の6月20日、21日放送分で取り上げる話題がこのgentrificationなので、予備知識をもつことができた。「攻略!」を効果的に聞くためには予習が欠かせないのだが、なかなかできない。「ラジオ英会話」「入門ビジネス英語」「攻略!英語リスニング」「実践ビジネス英語」と英語関係の4つの番組を聴いている中で、一番力を入れて聴く必要がありそうなのは「攻略!」だと思うので、今後ともにどうやってこの番組の予習・復習時間を確保していくかを考えていきたい。 

ダンテ・アリギエリ『神曲 煉獄篇』(6-2)

6月16日(火)曇り、一時雨

 前煉獄で
まったくの孤独のうちに
独り座し、我らをじっと見ている。
あの魂が最も早い道を我らに教えてくれるであろう
(93ページ)といって、ダンテの導き手であるウェルギリウスは、その魂に近づく。超然としていたその魂は、ウェルギリウスがマントヴァの出身であるということを知って、彼が同郷の(はるかかなたの時代の)大詩人ウェルギリウスであることに気付き、二人は抱き合う。この出会いの意味するところは複雑である。ソルデッロの魂は煉獄での試練を経て天国に導かれる可能性をもつ。ウェルギリウスの魂は最後の審判が下るまで、どうなるかわからない。その一方でウェルギリウスとソルデッロの詩人としての評価にもかなりの差がついている。ウェルギリウスの作品は、彼の代表作『アエネイス』以外の作品であっても、日本語で読むことは可能である。ソルデッロの作品を日本語で読むことはできるのだろうか? 『地獄篇』第4歌でのダンテと古代の大詩人たちの出会いの場面に引き続き、この場面も文学の評価をめぐる問題提起の場面と考えてよいのではないか。

 ソルデッロは党派間の闘争のなかで、相手を憎むだけでなく、赦す心をもちえたがゆえに煉獄にいる。彼は当時の騎士階級の倫理的堕落を憤り、その再生を図る詩を書いたという注釈者もいるようである。ウェルギリウスとソルデッロが抱き合っているのを見ながら、ダンテはイタリアと、彼の故郷であるフィレンツェの政治について急に歌いはじめる。
ああ、奴隷女イタリアよ、苦しみに満ちる宿、
荒れ狂う嵐の中に船長もなしに放り出された船、
諸邦(くにぐに)を総べる女王ではなくもはや娼婦。

あの高貴なる魂はあふれでる真心のままに、
生まれ故郷の懐かしい都市の名の響き、ただそれだけで
同郷の市民をここに祝福したのだ。
(95ページ) ウェルギリウスとソルテッロはお互いが同郷人だというだけで相手を認め合っている。もちろん、魂の世界なので、詩人の魂はお互いを認め合うことができるはずである。書き忘れていたが、マントヴァの町にはソルテッロの名をとった広場があるそうである。もしイタリアに旅行することがあれば、一晩でもいいからこの近くに滞在してみたいものである。注目すべきことはソルテッロが自分の詩を古プロヴァンス語で書いていたことで、このことについてもダンテは彼の未完の『俗語論』で触れているそうである。

 しかし、イタリアの各都市は互いに戦乱を繰り返している。
どこかおまえのうちに平和を享受しているところがあるか。
(96ページ) 東ローマ帝国、神聖ローマ帝国の皇帝たちの中にはかつてのローマ帝国の秩序を取り戻そうとした人々もいたが、そうでない人々もいた。イタリアの都市の間に秩序を取り戻すことに冷淡な神聖ローマ帝国の皇帝が続くうちに、イタリアにおける教皇党と皇帝党の間の党派闘争は抜き差しのならないところまで進んできた。
来たりて見よ、大義なき男。モンテッキ家とカッペレッティ家を、
モナルディ家とフィリッペスキ家を。
あの者どもはすでに悲惨、後の者どもも不安に怯えている。
(98ページ) モンテッキ家とカッペレッティ家というのは、お気づきの方も少なくないはずであるが、シェイクスピアの悲劇『ロミオとジュリエット』に登場するモンタギューとキャピュレットの両家のことである。モンテッキ家はヴェローナの皇帝党、カッペレッティ家はクレモナの教皇党の貴族である。ヴェローナは『ロミオとジュリエット』の舞台となった都市、クレモナはローマ時代から続く都市であるが、とくにヴァイオリン作りで名高い。

 イタリアが統一国家としてその威信を回復する可能性を見通すことはできない(ただし、近代的な国民国家の理念をダンテがどの程度予感していたかは私にはわからない)。そしてダンテはその目を彼の故郷であるフィレンツェ市に向け、その市民たちが政治への参加への強い意欲をもっていることについて触れる。
多くのものは心の中に正義をもつが、その矢を放つのは遅れる、
熟慮せずに弓を引くことはできないからだ。
ところがお前の市民たちは口先に正義を持つ。

多くのものは公の重責を嫌がる。
だがおまえの市民たちは呼ばれる前に
飛びつき、こう叫ぶ、「準備は万端整っております」。

さあ喜べ、なぜならおまえにはそれだけの理由がある。
おまえは満ち足りて、おまえは平和、おまえは賢いからだ。
私が真実を語っているのならば、それは結果にも表れる。

アテネもラケダイモーンも、
古代の法を作り上げてあれほどに都市文明化したが、
人としての秩序だった生活においては、おまえに比べれば

ほんの小さな事績を残したに過ぎない。
(100-101ページ) しかしこの言葉の中のかなりのものが反語である。ダンテを尊敬した同郷の後輩であるマキアヴェッリがフィレンツェの歴史にこのあたりの経緯をどのように記しているかは興味がもたれるところである。また、「アテネもラケダイモーンも」というあたりにいは、ダンテの古代ギリシアについての知識の限界が見られるように思われる。そして、ダンテは彼の時代におけるフィレンツェ市が党派闘争の間でその法令の朝令暮改を繰り返していたことを描きだし、
もしもおまえが記憶に優れ、光を見ることができるのならば、
羽根布団の上で寝ても少しも休めず、
のたうち回って苦しみを逃れようとする

病める女にそっくりな自分に気づくであろう。
(102ページ)と第6歌を結んでいる。ダンテはユスティニアヌス法典典にまとめられたローマ法の支配に、世界平和という人間の倫理的再生の希望を託しているのであると翻訳=注解者である原さんは記している。ローマの法体系と政治体制を理想とするというところが重要ではないかと思う。

保阪正康『日本原爆開発秘録』

6月15日(月)晴れ

 保阪正康『日本原爆開発秘録』(新潮文庫)を読み終える。
 太平洋戦争中に不利な戦局を打開する最終兵器として陸軍と海軍はそれぞれ原子爆弾の開発を進めようとしていた。当時の日本の経済力、技術力で原爆を作ることはきわめて困難であり、それ以上に原料となるウラニウムが入手できないという問題があったが、理化学研究所の仁科芳雄を中心とする日本の物理学者たちは、研究費を確保してできるだけ自由な研究をすること、優秀な研究者たちを軍事研究に従事しているという建前により戦場に送らせないようにすることのために、軍に協力して研究を進めていた。陸軍の「ニ号研究」には理化学研究所の仁科芳雄研究室を始め、東京帝大の嵯峨根研究室や西川研究室、そしてもちろん陸軍の研究機関が参画した。これに比べて遅れて発足した海軍の「F号研究」には京都帝大の荒勝文策研究室を中心に海軍の科学技術部門が参加した。戦局の悪化に伴い、東京にあった「ニ号研究」関係の施設は壊滅し、1945年4月段階で研究の続行は不可能になった。「F号研究」については1945年7月末に京都帝大側が原爆製造は理論的には可能だが、日本の国力では無理であるという結論を伝える。
 客観的に見て、「ニ号計画」にせよ、「F号計画」にせよ、アメリカの「マンハッタン計画」やドイツの原爆製造計画と比較して極めて低レヴェルにとどまっていた。吉岡斉の指摘するところでは、「原爆材料製造にはウラン濃縮により高濃縮ウランを得る方法と、『原子炉の炉心に装荷された中性子照射済みの天然ウランから再処理によってプルトニウムを抽出』する方法があるという。国者の場合は原子炉と再処理施設の二つが必要だった。マンハッタン計画ではこの前者と後者の路線が同時に進められ、前者で広島型の原爆、後者で長崎が他の原爆が製造されたのである。/日本はこの後者に全く手をつけなかった。さらに前者のウラン濃縮法として熱拡散法という「きわめて拙い方法」を採用したとしている」(153-54ページ)。
 その一方で軍部や、政界、国民の中には戦局を逆転させる最終兵器の開発を望む声が絶えなかった(もしその兵器が敵国によって開発され自分たちに向けられて使われたらどうなるかということを考えるものはほとんどいなかった)のである。

 研究者たちは日本における原爆の製造は不可能であると考えており、それだけでなく、アメリカが原爆の開発を進めていることは知っていたが、おそらく不可能であろうという推測を共有していた。それだけに1945年に8月6日に広島に投下された爆弾が甚大な被害をもたらしたことを知って衝撃を受け、それが原爆であると考えた科学者や技術将校は多かった。それどころか「ニ号研究」にかかわっていた武谷三男は1945年7月26日に発せられたポツダム宣言を8月4日に読んで、その中の「吾等ノ軍事力ノ最高度ノ使用」(214ページ)という語句に出会い、これが原爆投下を示すものだと直感していたと証言する。しかし、投下直後、政府当局は無益な噂が拡散することを懸念して、原爆であるとの判断を下さず、またポツダム宣言受諾も躊躇しつづけた。

 8月9日には長崎に原爆が投下されたが、その際にアメリカの原子物理学者3人が、かつて一緒に研究を進めた嵯峨根に宛てた手紙が別の場所にパラシュートで投下されていた。そこには自分たちがこの兵器の開発にかかわったことが不本意であるという気持ちをにじませながらも、嵯峨根が科学者として戦争の終結のために国の指導者たちに働きかけるべきであるとの呼びかけがなされていた。原子力が二度と兵器として使用されてはならないという気持ちは日米、いや世界の原子物理学者の多くが原爆の投下の経験を通じてもつことになり、それは核兵器廃絶と原子力の平和利用の出発点となるはずであった。

 しかしながら戦争中における原爆製造をめぐる取り組みの教訓はその後十分に考慮されず、
<原子爆弾の製造→戦争の終結→東西冷戦下の核開発→核の均衡による平和→核技術の”平和利用”>(301ページ)
というプロセスが核技術の研究開発にかかわる研究者たちの「どういう使い方をすれば前になり、どういう使い方をすれば悪になるのか」という主体的な問いかけなしに進行しているように思われるという。日本が核兵器使用の被害者というだけでなく、加害者になる可能性があったことについて、もっと多くの人が知り、考える必要があるだろう。
 著者は昭和50年代にまだ存命中だった多くの関係者から聞き取り調査を行い、また、その後発掘された史料も検討しながら事実を掘り起こし、重要な問題提起を行っている。聞き取り調査を受けた研究者たちの多くが開発研究への自分たちの直接的な関与を否定しているのが心に絡みつく。原子物理学とは全く縁のない私であるが、一応表看板としては政府に協力するような研究計画を出して金を貰い、できるだけ自分の好きなように研究したという「前科」があって、研究者の社会的な責任について、他人事ではなく、自分の問題としても改めて考えているところなのである。
 本の内容も、自分の考えもうまくまとめることができず、お粗末な記事になってしまったが、できるだけ多くの方々にこの本を読んでいただきたいと思う。

外国語学習をめぐる2冊の本

6月14日(日)曇り

 蔵書やら昔書いた文章やらの整理作業をしていたら、
ロンブ・カトー『わたしの外国語学習術』(ちくま文庫)
ピーター・フランクル『ピーター流外国語習得術』(岩波ジュニア新書)
という2冊の本について15年ほど前に書いた書評が出てきたので、改めてこのブログに掲載してみる。

 これら2冊の本は、片方が米原万里さんによる翻訳、もう片方が著者自身の日本語による書下ろしであるが、ともにハンガリー人が外国語学習について自分の経験をもとに書いたものであるという共通点をもつ。ハンガリー人はその主たる居住地の地理的な条件から周囲の様々な言語を話す人々と交流する機会が多いはずであり、この点は日本人とは違うかもしれない(最近では、日本でも様々な言語に接する機会が増えてきた)。そうはいってもハンガリー語はインド=ヨーロッパ語族には属していないし、語順など日本語と共通する部分が少なくないらしいので、著者たちの経験から我々が学ぶことのできる点は見つけられそうである。

 職業、あるいは外国語とのかかわり方についてみると、ロンブ・カトー女史は通訳であり(翻訳者の米原さんも通訳だから念が入っている)、フランクるさんは数学者であるからこの点はかなり違う。カトー女史は他人のいっていることをどういうふうに別の他人に伝えるかということに関心があり、フランクルさんは自分自身がどのように他人と交流するかということに関心があるということであろう。通訳、教師、翻訳家など外国語に関係のある職業を選ぼうという人にはカトーさんの本のほうが、外国語を使って自分の知りたいことを知ったり、言いたいことを相手に伝えるという、外国語を自分の職業の道具として利用したいという人にはフランクルさんの本のほうが面白いのではないか。

 実際に読んでいくと、カトーさんの方は言語そのものに興味があるように思われ、フランクルさんの場合には言語を通じて異質の人間や社会に出会う楽しみが前面に出ているように思われる。カトーさんが古典語であるラテン語を勉強しているのに対し、フランクルさんは勉強していないというのもそれぞれの立場と関連するのかもしれない(数学を勉強するのにラテン語だって役立つという議論もあるかもしれないが…)。このことと関連して、カトーさんが通訳という仕事の面白さを強調しているのに対し、フランクルさんが外国語ができると、自分の国の政府のいっていることに批判的な目をもつことができると強調しているのが印象に残る。外国語学習は、自分の生まれ育った国によりよく奉仕する可能性とともに、国家から自由に生きる可能性も切り開くものなのである。

 お二人が身につけた言語を順番に書き連ねてみよう(厳密に言うとカトーさんの場合は勉強に取り掛かった順、フランクルさんの場合は習得したと思った順である):
カトー:①ドイツ語、②ラテン語、③フランス語、④英語、⑤ロシア語、⑥(ルーマニア語)、⑦中国語、⑧ポーランド語、⑨日本語、⑩チェコ語、⑪スロヴァキア語、⑫ウクライナ語、⑬ブルガリア語、⑭イタリア語、⑮スペイン語
フランクル:①ドイツ語、②ロシア語、③スウェーデン語、④フランス語、⑤英語、⑥スペイン語、(この外に、ポーランド語、日本語、韓国=朝鮮語、中国語)

 ハンガリーの地理的・歴史的な条件も手伝ってか、お二人とも、最初に出会った外国語がドイツ語であることが共通している。しかし、その出会い方はかなり違う。第二次世界大戦以前に中等教育を受けたカトーさんの場合には、私達が中学校で英語を学ぶようにハンガリー人はドイツ語を学んでいたのであり、ハンガリーがソ連の支配下に置かれていた時代に中等教育を受けたフランクルさんの場合は、学校で勉強するロシア語よりも優先してドイツ語の勉強を始めたということである。それとどのように関係するかは、詳しく検討する必要があるだろうが、カトーさんの方はドイツ語が苦手で、結局通訳になってから最後に学び直すことになったのに対し、フランクルさんの方はドイツ語を母語とする人と付き合ったりして順調に習得している。学校で習う外国語があまり身につかないのは必ずしも日本だけのことではないらしい。というよりもそもそも学校で習うだけで一定の外国語を習得できるという考えそのものが甘いのである。(学習者自身の学校教育以外の場での学習が重要であるという点は特にフランクルさんが強調している。)

 双方ともに書き手自身の経験を踏まえて外国語学習についての様々なヒントを与えてくれる。どのヒントをどのように生かすかは読者1人1人が工夫すべき問題であろう。

 15年経って読み返してみて、私の考えの大筋に変化はないが、たくさんの言語を勉強するよりも、とにかく英語だけでも上達しようという考えのんほうが強くなってきている。カトーさんのリストの中でルーマニア語が括弧で囲まれているのは、勉強したけれども満足な上達は得られなかったということではないか。ラテン語とイタリア語を勉強しているので、ルーマニア語には興味がある。ただ、そういう興味だけでは学習を支え続けることはできないということも経験を通じて分かってきている。外国語への情熱と努力をどのように集中させたり、拡散させたりしながら持続を図っていくか、これからもいろいろな試みを繰り返し続けていきたい問題である。

社会的平等と大学の授業料

6月13日(土)曇り

 6月12日に放送され、13日に再放送された「実践ビジネス英語」のLesson 5「アメリカン・ドリームを生きる」の第6回の放送のなかで、番組パートナーのヘザー・ハワードさんが発言された内容が強い印象を残した。
 既に6月10日の「日記抄(6月4日~10日)」でも紹介したが、「アメリカン・ドリームを生きる(Living the American Dream)」は、「アメリカン・ドリーム=アメリカでは努力次第で誰もが成功し金持になれるとの夢」が破たんしたと考える人が多くなってきたという話題を取り上げた。そこで改めて大学教育の効用を再認識すべきだという議論になるが、
Most Americans saw their take-home pay decrease or stay flat from 2000 to 2013. And close to 50 percent of college stuent leave school without a degree. (たいていのアメリカ人は2000年から2013年にかけて、手取りの給料の現象か横ばいというものを経験しました。そして、大学生の50パーセント近くは、学位をとらずに退学しています。)
という現実が指摘される。
 よく「アメリカの大学は入学するのは簡単だが、卒業するのは難しい」ということが言われる。日本もそれに習うべきだというのだが、半数近くの学生が卒業できずに放り出されるやり方が日本の社会になじむかどうか。『しあわせの教室』とか『ドン・ジョン』とかいう最近の映画を見ているとわかるが、アメリカの大学のかなりの部分は履修したい単位だけ登録すればよいというシステムをとっていて、そもそも入学試験というものがない。しかし、こういうことができるのは大学が財政的に恵まれているからであって、入学制度をいじればすぐに実現できるというものではないのである。つまり、私が言いたいのは、日本では大学改革というと、すぐに入試改革というふうに短絡的に議論が進められてしまうけれども、大学の財政と学生(とその家族)が支払う授業料の問題のほうがもっと奥深い問題だということなのである。

 しかしながら、アメリカの大学も財政難が進行して、授業料が次第に引き上げられ、入学が困難になってきている例が少なくないようである。ヘザーさんが大学に在学していた1990年代の初めに年額16,000ドルであった授業料が、最近41,000ドルになり、確認のため調べてみたら49,000ドルになっていたという話であった(この部分、テキストに書いてないので、私の聞き違いがあるかもしれない)。ヘザーさんはIvy Leagueに属する超一流大学の出身なので、このくらいの授業料になるのだろうが、ほかのそれほど有力ではない大学でも軒並み授業料は上がっているようで、そのことが大学入学機会を狭めている。ヘザーさんは次のように述べていた:
A college degree can make such a difference in a person's life, and not just in terms of how much money they'll earn. It sharpens and broadens the mind. It helps people live a richer, fuller life. To take that away from anyone, to keep them down because their parents aren’t rich? That goes against the most fundamental of American principles: the belief that everyone deserves an equal chance to get ahead.
(それは、どれだけ収入を得るようになるかについてだけではない。大学教育は、知性と高めて視野を広げる。その人の人生をより豊かに、より充実したものにンする。親が裕福ではないという理由で、大学教育を受けさせず、その人の進歩を妨げるというのか。それは最も基本的なアメリカの原則、すなわち、成功する均等の機会を得る権利を誰もが有する、という理念に反する。)

 大学教育は経済的な観点からだけではなく、もっと広い視野からそれが学生に与える利点について考え、その機会を狭めるべきではないというのである。これは日本でも全く同じことであって、私が学生であったころに比べて、日本の国立大学の授業料は大幅に上昇している(それだけでなく、その際に私立大学との格差を是正するというもっともらしい理由づけがなされた!! それなら私立大学の授業料を引き下げるべきではなかっただろうか!!) 大学進学による経済的負担が学生の家庭と本人の両方の生涯の生活設計に大きな影響を及ぼしているのは御承知の通りである。では、どうすべきか、そう簡単には答えは出せそうもないが、これから少しずつでも、関連する議論や、そのことについて論じた著作を取り上げて紹介していきたいと思う。

『太平記』(49)

6月12日(金)曇り時々晴れ

 元弘3年(1333年)3月、隠岐の島に配流されていた後醍醐帝は、警護役の佐々木義縄の手助けで、六条忠顕を供として幽閉先を脱出し、幕府方の追及をかわして船で伯耆の国名和湊(鳥取県西伯郡大山町名和)に到着された。

 忠顕がまず1人で船を降りて、このあたりに有力な武士はいないかと問うと、道をゆく人が立ち止まって、「この辺には、名和又太郎長年と申すものこそ、その身さして名ある武士にては候はねども、家富貴(ふっき)し、一族広くして、心がさある者にて候へ」(361ページ、このあたりの住人では、名和又太郎という者こそ、それほど有名な武士ではございませんが、家は豊かで、一族のものも多く、器量のあるものでございます)と語った。森茂暁さんの『太平記の群像』には、『梅松論』のなかの湊に着いた時の船頭の言葉
「此の所に奈和又太郎と申す、福祐の仁候。一処において討死仕べき親類の一二百人も候はん。御慿み候てごらん候へ貸し』(森、79ページ)がまず引用されている。船頭から情報を得たという『梅松論』の記述のほうが、通行人から得たという『太平記』よりも現実にありそうなことだと思うが、とにかく、この地に名和長年を中心とする勢力が基盤を置いていることが分かる。

 名和氏は伯耆国名和の土豪。村上源氏の流を汲むというが、世に出てからその出自を飾りたてるのはよくあることなので、信を置くことはできない。長年の笠験(かさじるし)は帆掛船であり、この一族が海上交通と縁の深いことを示しており、おそらくは商業活動を通じて富を蓄え、勢力を培ってきたことを推測させると森さんは論じている。

 忠顕は詳しい事情を調べて、すぐに勅使を出して
「主上、隠岐前司が館(たち)をお逃げあつて、今この湊に御座あり。長年が武勇、かねて上聞に達せし間、御慿みあるべき由を仰せ出さるるなり。慿まれゐらすべきや否や速やかに勅答を申すべし」(361ページ、主上は隠岐前司の館から逃げ出されて、現在はこの湊にいらっしゃる。長年の武勇を兼ねてからお聞きになっていて、その力を借りたいと仰せられている。味方するかどうかを直ぐに答えてほしい)
と伝える。なお、『梅松論』では長年のことを知らせた船頭を案内役として忠顕が勅使として長年のもとに赴いたと記されている。後醍醐とともに隠岐を脱出したのは忠顕だけなので、勅使として彼が出かけるのは当然であるが、その一方で、後醍醐の身辺を守る者が1人もいないことになってしまう。このあたり、真相はわからない。

 名和又太郎はその時、一族を呼び集めて宴会を開いていたが、勅使を迎えて思い悩む様子であった。それを弟とも子息ともいう小太郎左衛門長重が、一族の名誉となることだといって、後醍醐に味方するように説いたので、決心を固め、後醍醐をお迎えに長重らの一党を派遣する。そしてやがて隠岐前司佐々木清高の一党の追っ手が襲来するだろうから、それに備えて船上山(ふなのうえやま=鳥取県東伯郡琴浦山にある大山火山群中の山)に砦を構えて、そこに後醍醐を迎え入れようと準備を進める。なお、『太平記』では長年が思い悩んだと記されているが、『梅松論』ではすぐに同意したと書かれていて、どちらが真相かはわからない。ただ、『太平記』が長重の言葉として、「われら忝くも十善の君に慿まれまゐらせて」(361ページ)などと名文句を連ねているのは、作者が自分の文章力を誇示したいための作り事であろう。

 突然のことなので、後醍醐を運ぶ輿の準備などはなかったので、長重が背負って船上山に案内した。長年は自分の館にある兵糧を船上山に運び込んだが、その際に近在の住民たちに1人で担げる量について宋銭500文ずつの手間賃を弾んだので、瞬くうちに兵糧の準備が整った。そして残った家内の財宝を地域住民に分け与えたうえで、自分の邸に火をかけて燃やしてしまい、一族こぞって船上山に移った。その中に土屋彦三郎という知恵者がいて、山のあちこちにこの地方の武士の家紋を記した旗を掲げたので、遠くから見ると船上山には大軍が潜んでいるように見えた。ここでは、名和長年の財力や、土地の人々の間にかちえている信望の大きさが窺われる。また、その決意のほども知られるのである。

 隠岐を脱出した後醍醐はとりあえず、名和長年という有力な武士を味方につけて、その力を頼りにすることができた。長年が商業活動を背景に富を蓄積してきた新しい型の武士であることもこの際注目しておくべきであろう。今後、中国地方の武士たちはどのように動いていくか。後醍醐は都に復帰することができるか。情勢はまだまだ波乱含みである。

脇村義太郎『趣味の価値』(2)

6月11日(木)晴れたり曇ったり

 前回にも触れたように、この書物は「特種な商品の希少価値」という経済学の特異な領域についていくつかの具体的な品目を例に挙げて論じたものであるが、その一方で、そのような商品の売買にかかわる商人たちの姿にも関心が払われている。著者は東京大学で経営史を講じていたが、留学時代の経験を通じてロンドンの商人たちの生活の実態について知ることができ、それがこの書物に世紀を与えているように思われる。とはいうものの、敗戦直後の物資不足のなかでその大部分が執筆され、戦後の高度成長のなかで、ようやく貿易自由化が実現した後の1967年に岩波新書の1冊として刊行されたこの書物が、最近はその勢いが鈍化しているとはいうものの、高度消費社会に入ったとされる今日の日本の読者の興味をどの程度惹きつけるかはわからないのだが、趣味・収集の対象となるような商品には、そのような消費動向の変遷を越えた魅力があるのではないかと思っ取り上げる次第である。

 「スイスとアメリカの時計――ウォルサム時計会社の破綻と再建――」は、スイスとアメリカの時計会社の技術開発と、世界、とくにアメリカの市場をめぐる競争の歴史を描いている。「天然資源に恵まれず、農業生産物も不足し、外国貿易に依存している工業国にとって、原材料が少量ですみ、熟練工を必要とする時計工業は最も適している産業である」(77ページ)。その歴史は16世紀ごろまでさかのぼるが、「スイスの時計工業が近代的の精密機械工業として確立し、国際市場における優秀なる地位を獲得するに至ったのは19世紀の末、あるいは20世紀になってからのことで、…意外に新しいのである」(78ページ)。
 1876年のフィラデルフィア国際大博覧会に出品された自動機械で生産されたアメリカの時計を見て、スイスの時計業者たちは自分たちの技術を革新する必要を認識し、アメリカに学んで自らの時計製造方法を一変させ、その結果としてその時計産業は飛躍的に発展し、スイスが中立国で戦争の影響を受けなかったこともあり、第2次世界大戦後には世界の全生産の4分の3以上の時計を一国で生産し、時計の国際貿易では90パーセント前後を一国で独占するようになった。これはスイスの業者間の激しい競争とその一方での協力作業の結果でもあるが、政府の後援によるカルテルの形成が役立ってきたことも否定できない。スイスの時計工場は地理的に見るとフランス国境に近い地方に集中し、またその重点が腕時計に置かれていることも特徴的である。

 スイス時計の進出によりもっとも大きな問題を起こしたのはアメリカである。ウォルサムをはじめとするアメリカの時計製造業者は19世紀の初めからの長い伝統をもち、アメリカの保護貿易政策により恩恵を受けてきた。しかし、1936年にアメリカとスイスの間で互恵通商協定が結ばれ、本格的なアメリカ市場進出が始まるとそのシェアは増大した。ところが、第2次世界大戦中ウォルサム、エルジン、、ハミルトンの3大メーカーを始め、有力な時計製造業者はすべて時限信管など軍需工業に転換したので、時計の需要はほとんどスイス製品に頼ることになってしまった。これに対しアメリカの業者たちは関税の引き上げなどの措置を求めたが、業者のなかには部品の製造をスイスの工業に頼っているものもあって、その足並みは必ずしもそろっていない。それでも1949年におけるウォルサム社の経営破たんはアメリカの時計製造業界が直面している困難を浮き彫りにしたが、それがスイスの時計製品の国内での大量な流通とどのように関係するかは論証しにくい。にもかかわらず、アメリカは関税に引き上げや、スイスの時計産業の独占禁止法違反容疑での起訴などの措置に踏み切った。これはしかし、アメリカとスイスの全体的な通商関係を見るとアメリカのほうが圧倒的にスイスに物資を輸出しているのであり、その中の例外的な存在である時計を取り上げて、国内製品を保護する政策をとろうとするのは筋が通らない。
 その後の推移や、時計製造技術の変化、スイスとアメリカ社会の変化など書き加えるべきことはかなりありそうだが、それらの点については新しく別の著者が書いているのではないかと思う。また日本について触れているところはほとんどないが、これも別の書物があるだろう。アメリカとスイスの時計製造業の歴史を対比してみると、政府の経済・貿易政策、戦争や軍需産業との関係について大いに考えさせる内容が含まれているのではないだろうか。

 「国際商品としての郵便切手」は、切手収集が趣味としてはかなり下火になってきている(昔からある切手商がどんどん店を閉めている)現状からいうと、もう内容的に古いといえそうである。
 郵便切手は有価証券の一種であるが、蒐集家による蒐集の対象として発行されている場合が少なくない。特にモナコ、リヒテンシュタイン、サンマリノ、ルクセンブルク、ヴァティカンなどのヨーロッパの小さな国では国家財政の収入をはかる意図で多くの切手が発行されているし、この外にも政治的な宣伝のために発行される例も後を絶たない。ヴァティカンおよび国際連合の発行する切手は特定の郵便局で使用すれば国際的に通用するそうである。個人的な思い出になるが、1999年にダブリンの聖マリア大聖堂の前を通ったら、売店があって、切手らしいものを売っている。ひょっとするとヴァティカンの切手ではないかと思ったのだが、その時は確認せずに通り過ぎた。その後、もう一度ダブリンの聖マリア大聖堂に出かけ、今度は中に入ったりもしたのだが、売店がなくなっていたので、ヴァティカンの切手を売っているかどうかは確認できずじまいだった。私の切手収集はどうも間歇的で、体系性がないので、こういう出来事がよくある。
 この記事を読む限り、脇村は自分の蒐集についてはまったく述べていないが、それなりのコレクションをもっていたことが推測できる。著者が特に取り上げているのはスエズ運河の国有化に関連するさまざまな場面にエジプト政府が発行した切手についていちいち紹介されている。また第二次世界大戦後、美術切手と石油切手の発行が顕著であると指摘しているのは興味深い。現在ではどのような傾向があるのだろうか。

 「切手の専門家は、切手は決して投資のために蒐めてはいけないといっている。しかしながら、良いものを蒐めると、なかなか有利な投資になるといわれている」(114ページ)。私の身近にいた年寄りたちのなかには、将来のためにとか何とか云いながら、記念切手が出ると買い集めている人が少なくなかったが、結局遺産として残されたのを金券ショップで引き取ってもらうことになって、額面よりも安い金額しか残らなくなる。「よいもの」を見抜くのは一通り以上の眼力がなければならないのである。
 切手蒐集の歴史の中で伝説的な存在であるイタリアのフェラリーのコレクションは第一次世界大戦後、フランス政府によって敵産として没収され、競売されたが、当時の金額で200万ドル前後になったという。このような一般的な蒐集が不可能になってからは、テーマ別の蒐集が行われているという。著者の友人のマルクス経済学者はマルクスの切手ばかりを集めているが、まだ100枚にならないし、価格もあまり高くないが、それでもすべてを集めるのは難しいと述べていたそうである。ピアノ製造業者のシュタインウェーは音楽切手の蒐集で有名だったが、そのコレクションは2万5千ドルで競売された。これは安すぎるのではないかと脇村は述べている。それに比べるとF.D.ルーズヴェルト大統領のコレクションは大したものはないという定評であったのに、10万ドルに売れたという。どうもあまり愉快な話ではない。

 今回で、この書物の後半部分の紹介を終えるつもりだったが、この2章の紹介が思った以上に量が多くなったので、さらに1回分書き足すことにしたいと思う。

日記抄(6月4日~10日)

6月10日(水)晴れたり曇ったり

 6月4日から本日にかけての間に、経験したり考えたりしたこと:
6月4日
 NHKラジオ「実践ビジネス英語」では昨日の放送から”Living the American Dream"(アメリカン・ドリームを生きる)という話題を取り上げている。”American dream is broken"(アメリカン・ドリームは破たんした)と考えて、大学に行きたいと思う従業員に学費を援助するという新しい方針を発表した事業家の意見が話題になる。このことから、"if you work har and had the freedom to choose your path, you could succeed and give your children a head start in life. " (一生懸命働き、自分の進路を自由に選べるならば、成功することができ、子どもたちに人生の良いスタートを切らせることができる)というアメリカン・ドリームを、今や多くの人々が信じなくなっている、この夢の頂点は1940年代終わりごろから1950年代にかけてであったという話になるのが昨日の放送分であった。
 本日の放送では、事業家の発表した方針の中で大学教育が重視されていることが注目される。”Having a college degree certainly opens many doors career-wise."(大学の学位を取得していれば、確かにキャリアの点でたくさんの門戸が開かれる)というわけである。

6月5日
 吉川徹『学歴分断社会』(ちくま新書)を読み終える。「格差社会」に人々を分断しているのは、彼らの上下に分断された学歴=大学を出ているか、いないかではないかという問題提起を、さまざまな統計に基づいて論証している。大卒層と高卒層という2つの学歴層の間に、それほど大きな生活格差が生まれないような学歴共生社会の創出が望まれるというのだが、現状を見るとかなり困難であるように思う。
 著者は触れていないが、生涯学習の重要性が増している世の中で、青年後期における教育体験はきわめて重要である。ある年齢層の半数が大学に行くような社会において、その残りの半数が大学教育に相当するような意味をもつ」社内教育や職場での訓練、あるいはその他の体験をすることが望ましいのだが、企業が新入社員を使い捨てにするような社会の雰囲気のなかでは難しいことであろうと思う。

6月6日
 ニッパツ三ツ沢球技場でJ2のリーグ戦横浜FC対FC岐阜を観戦する。横浜の中心選手として活躍したMFの嵩地選手、FWの難波選手のいる岐阜の攻撃に押され気味で、前半を1-2で折り返したが、後半2点を奪って逆転勝利した。ハットトリックを挙げたFW大久保選手の活躍もさることながら、再三の危機、とくにPKを防いだGK南選手の堅守が光った試合であった。

6月7日
 NHKEテレの「日本の話芸」で林家正蔵の「ねずみ」を聴く。仙台の貧乏な宿屋に泊った左甚五郎が、そこの主人の身の上に同情して、お客が増えるようにとねずみの像を彫ると、そのねずみが生きているようにちょろちょろ動くので、それを見ようとお客が集まりだすという噺。3代目の桂三木助がつくりあげ、得意としていた。正蔵の口演では甚五郎が水戸黄門のような描き方になってしまっていて、職人らしさが感じられない。子どものころから大勢の職人さんに囲まれて育ったはずだから、そうした職人さんたちから感じ取ったものが芸のなかに表現されるともっと味わいのある話しぶりになるのではないかと思う。

6月8日
 NHKラジオ「入門ビジネス英語」は、4月から講師が柴田真一さん、パートナーがハンナ・グレースさんに変わり、これまでの関谷英里子さんの歯切れのよい喋り方から、柴田さんの穏やかな話方への変化に加えて、ハンナさんの初々しい(失礼かもしれないが)反応が新しい魅力となっている。できるだけ世界各地のさまざまな英語を紹介しようとしているような番組の構成も興味深い。
 Business Phrase of the Dayは
The Asia-Pacific region will be a driving force. (アジア太平洋は原動力になるでしょう。)
であったが、driving forceのほか、engine, catalystという単語も覚えておくと使えるだろうという。

6月9日
 昨日に続き、「入門ビジネス英語」のBusiness Phrase of the Dayは
Please keep us informed about your progress. (進捗状況については引き続き報告してください。)
状況を適宜報告するという時には、updateという語を使うのもいいだろうという。
 この表現と関連して、日本のビジネスの現場でよく言われる「ホウレンソウ=報告+連絡+相談)」の話題が取り上げられた。柴田さんがドイツで働いていたときにできるだけ多く連絡を取るように部下に指示したところ、自分をそんなに信頼できないのかと反論されたという。ハンナさんの意見ではそれはアメリカ人としては当然の反応だそうである。
 ホウレンソウというと、少し前まで放送されていたJAバンクのホウレンソウが大事だと言われた新入社員が職場にホウレンソウを持ち込むというCMを思い出す。これはきちんと説明しない先輩社員のほうが悪い。

6月10日
 ラジオ「実践ビジネス英語」のアメリカン・ドリームをめぐる議論の続き。
It's hard to put a price tag on something so subjective, but one survey said that to achieve the American middle-class ideal costs an average family of four arount $130,000 a year. But only 16 illion U.S. households made that much in 2013. That works out to one in eight households.
きわめて主観的なものに値段をつけるのは難しいのですが、ある調査によると、アメリカの中流階級の理想をかなえるには、平均的な4人家族の場合、1年間におよそ13万ドルかかります。ところが、2013年にそれだけの収入を得たのは、アメリカの1,600万世帯に過ぎません。つまり8世帯に1世帯ですね。
と、ある登場人物が言う。会話は実際のものではないが、ある程度の現実を反映しているはずであり、日本の状況も視野に入れるとますますいろいろなことを考えさせられる。

ダンテ・アリギエリ『神曲 煉獄篇』(6‐1)

6月9日(火)曇り、時々小雨

賭けの勝負がお開きになると、
敗者は悲しみに打ちひしがれたまま、
再び賽を振っては反芻して悔やむ。

一方で、観衆は勝者に群がって去っていく。
前に出る者、あるいは後ろから引っぱる者、
さらには脇から友達面をして気を引く者。

勝者は立ち止まらず、あちらこちらに耳を貸しては、
施しの手を伸ばすと、その相手はもう近づいてこない。
そうやって人だかりから身を護る。
(88ページ) 煉獄の魂たちは彼らのために祈るものがいれば、その祈りの分だけ煉獄にいる時間が短くなり、天国へと近づく。ダンテが生きている人だと知った魂たちは、自分の縁者たちにあって祈ってほしいと依頼する。ダンテはさながら賭けの勝者のように魂たちに取り囲まれている。冒頭「賭け」と訳されているのは、「ザーラ」といって、賽の目を当てる賭博だそうである。はずれると「ザーラ」と叫ぶのだが、これはアラビア語のゼロの意味だという。神聖な文学のなかに比喩とはいっても、賭博を登場させてよいのかという疑問も出てくるはずであるが、これは文化の問題であると理解しておくことにしよう。

 翻訳者である原さんは「ここでの登場人物たちの何人かは地獄の罪人たちと関係があり、そこから彼らが危うく地獄墜ちになっていたかもしれないことが分かる。だが、彼らは死の瞬間に信仰をとりもどしたとされている。また復讐を望まないマルツッコの態度に見られるように、相手を赦す心が称揚されていることが読者の目を引く」(517ページ)と解説している。ダンテの周囲に群がっている魂は、煉獄にいる時間を短くするために生者の祈りを求めるが、それはなぜかとウェルギリウスに問う:
・・・「空でなされた宣告を祈りが曲げることはないと、
我が光よ、あなたはあの一節ではっきりと
私に断言されているように思えます。

それでもなお、この人々はまさにこのことだけを懇願していますが、
ならば彼らの希望は空しいのでしょうか。
それとも私にはあなたの言葉がはっきりとわかっていないのですか」。
(90-91ページ) しかしキリスト教以前に生きていたウェルギリウスにこの問いに答えるだけの知識はない。ただ
…このような高度な難問においては
お前は努力をやめてはならぬ。真実と知能を結ぶ光となる
あの貴婦人が、おまえにそれを教えるまでは。

おまえが分かっているのかは知らぬが、私はベアトリーチェのことを言っている。
おまえはあの方に上で会うことになる、この山の
頂上で、幸せに微笑む彼女に」。
(92ページ) そういわれたダンテは、先を急ごうとする。だが、ウェルギリウスは
…現実はお前が考えているものとは違う。
(93ページ)と、ベアトリーチェにすぐに会えると勘違いをしているウェルギリウスを諌める。そして、
…あそこにいる魂を見よ。まったくの孤独のうちに
独り座し、、我らをじっと見ている。
あの魂が最も早い道を我らに教えてくれるであろう」。
(93ページ)と、あたらしい魂の存在に注意を向けさせる。

私達はその前まで来た。おお、ロンバルディアの魂よ、
君は何と誇り高く孤高を守って、
その目の動きには重々しい威厳が満ちていたことか。

魂は、私たちに声をかけることもなく
進むに任せていた、休む獅子がするように
ただ凝視しながら。

ウェルギリウスだけが魂に近づき、
私達に最もよい坂を教えてくれるよう頼まれた。
ところが魂はあの方の頼みには応じず、

私達の故郷と境遇を
たずねてきた。そこで心優しき導き手は話しかけはじめた。
「マントア・・・・・」と、するとその影だが、超然としていたはずが、

座っていた場所からあの方に飛びついた。
こう言いながら、「おおマントヴァ人よ、我はソルデッロ、
あなたの都市(まち)の者だ」。そして互いに相手を抱きしめた。
(94-95ページ) 『神曲』中の劇的な場面の1つで、絵画や彫刻の題材ともなっているようである。同郷の大詩人2人がお互いを認めて、抱き合う。ソルデッロと名乗ったのはダンテよりも少し前の時代に活躍した吟遊詩人(トロヴァド-ル)であり、宮廷人でもあったソルデッロ・ダ・ゴイト(Sordello da Goito, 1200? -1269)である。ウェルギリウスの生地として知られるロンバルディア地方の都市はラテン語ではマントゥア、ロンバルディア方言ではマントア、トスカーナ方言ではマントヴァと呼ばれる。すでに触れたことだが、『神曲』はトスカーナ方言で書かれている。ダンテの郷里の言葉であり、現在のイタリア標準語の原型となった方言である。ロンバルディア地方は現在、ミラノ万博で賑わっているが、その中でマントヴァも観光客誘致に熱心に取り組んでいるようである。マントヴァ市にはソルデッロの名を記念する広場があるらしい。

 これまでずっと1歌について1回のペースを守って紹介を続けてきたが、今回は内容が多いので、途中までの紹介で済ませることにする。この後、ウェルギリウスとソルデッロをそっちのけにして、ダンテはイタリアの政治について語り始める。ちょっと唐突な感じがする話題の転換であるが、読み応えがあるので、期待していただきたい。

華氏451

6月8日(月)曇り

 横浜シネマジャックで『華氏451』を見る。レイ・ブラッドベリが1953年に発表した作品を、1966年にフランソワ・トリュフォーが英国で映画化した。原作はブラッドベリの代表作の1つに数えられているが、読んでいない。40年以上昔に2回か3回、観ていて、その時から記憶に残っているシーンが少なくない。

 物語は実現してほしくないような未来の世界を描いている。書物は反社会的な言動を示唆するものとして禁止され、消防士(Firemen)の仕事は、詠むことだけでなくもつことも禁止されている書物を見つけて、焼却することである。文字はほとんど使用されず、数字と絵だけでいろいろなことが伝達されているらしい。映画はこのような世界を描くために、クレジット・タイトルがなく、配役もスタッフもアナウンスされるだけであり、異常な始まり方をする。

 ガイ・モンターグ(オスカー・ヴァーナー)は有能な消防士で、この仕事を6年間続けており、間もなく主任に昇進することを約束されている。ある日、通勤のモノレールのなかで、近所に住んでいるというクラリス(ジュリー・クリスティー)という若い女性から声をかけられる。彼女は、モンターグの妻のリンダ(ジュリー・クリスティー=二役)と驚くほど似ているが、リンダの髪が長いのに対して、短い髪で、若々しい魅力にあふれている。リンダはというと、テレビの家族ゲームに夢中で、夫の話にもあまり耳を貸そうとしない。モンターグは彼女が体調が悪く、いろいろな薬物を服用していることについても心配しているのだが、そのことについてもお互いの気持ちはすれ違っている。
 クラリスと知り合ってからモンターグは自分の仕事について次第に疑問を抱くようになり、没収して焼却するはずの書物を持ち帰り、読み始める。そしてだんだんと読書の魅力を知り始める。夫が本を読み始めたことを知ったリンダは、自分が周囲から仲間外れにされることを恐れて、彼との距離をますます広げるようになる。一方、書物を隠し持ち、読んでいる人々への弾圧はますます進み、クラリスも追及の手を逃れて姿を消すことになる。消防士をやめようと思ったモンターグが最後の仕事として命令されて向かった行く先は自分の家であった…。

 ロケーション撮影を重んじ、セットでの撮影をほとんど使わないヌーヴェル・ヴァーグの映画作りと空想科学映画作りは相性がよくない。しかも、トリュフォーはSFがあまり好きではなかった。にもかかわらず、この作品を手掛けたのは、彼の書物に対する愛着のなせるわざであったといわれている。もともと未来のアメリカを舞台にしているはずの作品を、英国のパインウッド・スタジオを拠点として製作していることに無理があるし、映画で使われているのはトリュフォーが苦手だったはずの英語である。さらにモンターグを演じているオスカー・ヴァーナーとは『突然炎のごとく』以来の仕事になるが、映画撮影中にトラブルが絶えなかったという話である。英語が母語でないヴァーナーをこの作品の主役に起用したことについては疑問が残る。トリュフォーもヴァーナーも神経質そうなタイプなので、周囲のスタッフは大変だったのではないか。
 もう一つ注意してよいのは、(原作を読んでいないので、参考資料を調べただけであるが)、この映画化が原作のかなりの部分を省略しているし、(舞台もアメリカから英国に移している)、主人公の妻の名前をミルドレッドからリンダに変えるというようにいくつかの改変を施しているらしいことである。原作に忠実な映画化がよいとは必ずしも思わないが、原作者と監督(脚本家)の個性の違いは視野に入れておく必要がある。
 この作品の問題点の方をブラッドベリの代表作の映画化だということに加えて、この作品の魅力となっているのは、1965年にジョン・シュレシンジャー監督の『ダーリング』で一躍注目を浴び、アカデミー主演女優賞を受賞しただけでなく、デヴィッド・リーン監督の大作『ドクトル・ジバゴ』でララの役を演じて日の出の勢いであったジュリー・クリスティーが一人二役を演じていることではなかろうか。原作ではクラリスとミルドレッドは似ているという設定ではないようであるが、この映画の初めのほうでモンターグが、クラリスとリンダは髪が短いか長いかの違いだけでよく似ていると一人二役をあからさまにするようなセリフを述べており、トリュフォーにはこの一人二役を通じて自分の女性についての考えを多少なりとも述べようという意図があったように思われる。さらに言えば、ジュリー・クリスティーは青年後期から成人への境界線上にある女性の境界性を表現することに長けた女優であった。したがって、女性の持つ二つの側面を2人の女性を1人の女優が演じることによって表現しようとしていたことは想像できる。問題は、生き生きとして自由に生きようとするクラリスに比べて、社会順応型で薬物に依存しているリンダのほうがどうもジュリー・クリスティの持ち味にはまっているように思えるし、こちらの方が魅力的に見えることである。これは監督にとっても、女優にとっても誤算であったのではないかという気がしてならない。この後、ジュリー・クリスティはハリウッドに進出するが、今一つ成功したとは言い難いのも、これらのことと関連するはずである。

 ブラッドベリがこの作品を書いたのは、執筆当時のアメリカの社会情勢、とくにマッカーシズムの脅威に対する恐れ、社会に対する批判や少数意見が圧殺されることへの抗議の思いがあったと思われる。後年、功成り名遂げたブラッドベリは、執筆の動機として新しいメディアであるテレビが人々の考えを変えてしまうのではないかという危惧の思いを挙げているが、だとすれば、新しいメディアはそれよりもさらに新しいメディアによってとってかわられる可能性をもっていることを視野に入れなかったことを自己批判すべきであろう。むしろ言論や表現の自由への抑圧のほうが常に新しいテーマであると私は思う。実際、この作品は今から50年近く昔に未来を想像して描いた映画なのだが、実際の未来である現在の目から見ると、現実の社会の変化のほうがはるかに急激であったと思う点が少なくない。インターネットもスマートフォンも、この作品では予想されていないのである。あたっているのは大型スクリーンのテレビの出現くらいであろうか。

 ちょっと雑談的に書き散らしておくと、焼却される書物の中に英語だけでなく、フランス語やドイツ語、ロシア語の本なども見られるのだが、どのようにして外国語を習得しているのかということも気になる点ではある。同じく焼き捨てられる本の中に女優のマリー・デュボアについての本があるが、『ピアニストを撃て』に出演し、『突然炎のごとく』にも顔を見せていた初期のトリュフォー映画を語る際には忘れることのできない女優さんの1人である。最後の方に登場するブック・ピープル(集団としてはピープルだが、個人としてはパーソンと呼ばれる。各人が1冊の本を暗記して、その本の内容を後世に残そうとしている)のなかで、『アンリ・ブリュラールの生涯』というのはスタンダールの著作。兄弟でオースティンの『高慢と偏見』の上巻と下巻を暗記しているというコンビが登場して、仲間からは一人が高慢で、もう一人が偏見だと呼ばれているという冗談が飛び出したが、この小説の趣旨からいえば、高慢が男性、偏見が女性でないといけない。一方が高慢、他方が偏見を克服することによって恋愛が成就するという物語だからである。それにしても、1人が1冊の本を暗記するというのは、人間の能力の過小評価であって、やればもっと多くの本を暗記できるはずであるが、本を暗記するということのなかに、人間の個性の発見と実現の過程を見ようとしているということではないかと思う。

 いろいろと文句はあるのだが、その分、考えさせられた映画であった。40年以上前にこの作品を観たときと、現在とを比べると、トリュフォーに対する知識は増え、その分敬意は増しているが、逆に愛着の念は減っているように思う。映画に対するアプローチは多様で、ヌーヴェル・ヴァーグだけが映画ではないと思うようになったからであろうか。それでも、繰り返し見るだけの価値のある映画である。12日(金)まではシネマジャックで上映しているので、興味のわいた方はぜひ見ていただきたいと思う。
 

森福都『ご近所美術館』

6月7日(日)晴れたり曇ったり

 森福都『ご近所美術館』(創元推理文庫)を読み終える。この作者の作品を読むのは初めてである。近所の書店の文庫本のコーナーに平積みになっているのを立ち読みしておもしろそうだと思って、購入。予想は裏切られなかった。ただし、私が面白いと思った理由が、誰にも当てはまるとは限らない。そこのところまで計算に入れてこの文を読んでほしい。

 語り手の「ぼく」(=海老野という姓はわかるのだが、名前はわからない)は医療機器メーカーに勤めるサラリーマン。勤務先の近くのペンシルビルの1階にあるコンビニで名前を知らない漫画家の原画展のチラシを渡される。会場の美術館はこのビルの2階にあるという。長谷川町子と同年代で、地方紙に『エプロンママ』という育児漫画を連載していた西園寺英子という漫画家の子息がその業績を記念するために私費を投じて建てたものだという。港区の泉岳寺近く、国道15号線に面した小さな美術館であるが、そのラウンジでのんびり寛ぐことができ、老館長が淹れるコーヒーは下手な喫茶店のものよりもうまい。この美術館をオアシスあるいはシェルターと心得て足しげく通う常連客ができ始めた。海老野もその一人で、就業時間とともにこの美術館のラウンジにやって来て、コーヒーを飲み、備え付けの漫画雑誌やコミックスを詠んで、また職場に戻って残業という生活スタイルをきずいていった。

 ところが館長が持病のぜんそくの悪化で引退することになり、その後任として遠縁の若い娘=川原あかねが館長職を引き継ぐことになる。美術館も多少変化する。「入館料は相変わらず200円だが、コーヒーは作り置きのものをセルフサービスで紙コップに注ぐだけになり、代わりに月間フリーパスなるものが3000円で売り出されるようになった。コーヒーは諦めてもラウンジに未練のある常連客は、ぼくも含めてみなパスを使っている」(11ページ)ようになる。あかねは「コミケが活躍の舞台のいわゆる同人作家で、しかもその道ではかなり有名な人気作家らしい」(12ページ)。問題は彼女の外見で「ひっつめ髪をしたデブでメガネのオタク女」より正確(?)には「ごわついたひっつめ髪」「体重80kg超のデブ」「全身黒ずくめで黒縁メガネのオタク女」と、いいところを探すのが困難である。それでもなぜか半年ほどするうちに、海老野とあかねはお互いを「海老のん」、「あかねぶー」と呼び合うようになる。「高校時代のノリで呼び合うニックネームは、ときに1杯のうまいコーヒーにも匹敵する開放感をもたらしてくれる」(20ページ)と海老野は考えるようになった。

 しかし、そのあかねから館長職を彼女の姉の董子に引き継いでもらうことにしたと告げられる。あかねの6歳年上だという董子はあかねとは似ても似つかぬ美女である。初めて彼女に出会った海老野は彼女を次のように描く:「色が白く細面で、目も鼻も口も小作りだったが、すべてのパーツが絶妙のバランスで配置され、息を呑むような美しさを作りだしていた。まるで極上品のカメオから抜け出してきたように硬質な透明感のある容貌だ」(23ページ)。その彼女はある大企業に務め、その会社のミスに選ばれたりしていたのだが、同期入社の尾形というゴリラめいたルックスで、三流大学を2年留年して卒業したという学歴の持ち主の同僚の猛アタックに屈して婚約、ところが結婚間近になってその尾形が酔っぱらった挙句にアルバイトの女性と寝てしまい、そのうわさが社内中に広がったためにショックを受けて、引きこもり状態になっていたという。いつまでも引きこもっていてはよくないとあかねが館長職を引き継ぐよう口説き落したというのである。

 董子さんに一目ぼれをした海老野は何とか彼女の関心を引き寄せようとするが、あるとき董子さんの財布を拾って届けに来た南田という古美術商の青年が登場し、こちらの方がどう見ても魅力的な存在である。それでも、なぜかあかねは海老野の恋を後押ししようとするし、美術館の周辺で起きる様々な怪事件の解決に海老野がかかわって「名探偵」ぶりを発揮するので、少しずつ董子さんの関心も引き寄せられていくように思われる。この本はその一連の怪事件の顛末を描いていくのだが、それとともに海老野と董子さん、南田、さらにあかねの人間関係がどのように変化していくかも辿られてゆく。

 題名からすると、美術品泥棒が出没するのかと思ってしまうのだが、実はそうでもない。多彩なキャラクターを登場させた漫画家の仕事を記念するという美術館であるので、美術館を取り巻く人間模様の織り成す事件が主なものだと言っておこう。多くの事件が実は海老野の単独の力というよりも、あかねとの協力で解決されてゆき、2人がお互いに悪口を言いながら解決に向かうのは、クリスティーの『トミーとタペンス』を思わせるところがある。この連作ミステリ集はクリスティーの作品ほどロマンティックではないけれども、それでも別々に育ってきた双子の姉妹が出会った後の出来事を描く「ブックエンド」などはそうした雰囲気を漂わせていて面白く読めた。

 実は私も長い間、海老野と同じく横浜市内から東京の南の方の職場に通う「横浜都民」であり、その職場というのがこのご近所美術館の比較的近くであった。美術館とはいかないがギャラリーを覗くのも好きである。このような憩いの場は現実にはなかなか存在しにくいものであることが分かる半面で、それがかなり正確に描写された現実にはめ込まれていることが分かる、作品の中の現実と非現実とが巧妙に配分されていることが分かるような気がして、どうしても評価が高くなってしまうのである。
 

お隣さんの猫

6月6日(土)晴れたり曇ったり、一時小雨 夕方になりかなり涼しくなる

お隣の猫

我が家では猫を飼っておらず
お隣では猫を飼っていて、
双方のなかがまだまだ
良かったころの話

あちこちを歩き回っていた
お隣の猫がわが家に上がり込み
歓迎ムードの中
尻尾を膨らませて大暴れをした

その活躍ぶりを記録しようと
カメラを持ち出して追いかけたのだが
四方八方を走り回っている猫の
尻尾だけが映像として残された

その後、歩き回り続けていた猫は行方不明になって
お隣さんはまた別の猫を飼い始めた
我が家でも猫を飼うようになり
なぜかお隣さんとの仲も冷却しはじめた

代替わりしたお隣の猫は
我が家の庭を走り抜けてどこかに遊びに出かけているが
猫を表に出さないわが家では
猫たちが時々大騒ぎするのでお隣の猫がいるのかなと思ったりする

手元に残った
尻尾だけが写っている
お隣さんが昔飼っていた猫の写真を
ときどき眺めては

自分の境遇の変化や
ご近所の様変わりや
猫の代替わりについて
取り留めもなく考える
よいこともわるいこともあった
むかしの記憶を
雑然とよみがえらせている


『太平記』(48)

6月5日(金)曇り、夜になって雨

 元弘3年(1333年)、3月、隠岐に配流されていた後醍醐帝は、警護役の佐々木義縄(よしつな)の手助けで、六条(千種)忠顕を供として幽閉されていた御所を脱け出された。とはいうものの、港までの道もわからず、歩きなれていないこともあって、思いわずらわれながら露深い野道をさまよわれていた。

 夜道を歩くうちに時間がたち、人里が近いとわかる寺の夜明けの鐘の音が、月の光に和して聞こえてくるのを道しるべとして、ある民家を訊ねあてた忠顕は、その家の門をたたいて、「千波(せんば)の港へはどちらの方に行けばいいのだろうか」と問うと、家のなかから身分の低い男が出てきて、天皇のご様子を窺い、このような身分の人間であっても高貴な人であることがすぐに分かったのだろうか、「千波の港へは、これからわずかに50町ばかりでございますが、路が南北に分かれて分かりにくいので、迷われることもあるかと思いますので、私がご一緒致しましょう」と申しあげて、天皇を軽々と背負い、間もなく千波の港に着いた。脚注によると1町は約109メートルとあり、50町は5キロ強ということになるから、「わずか」といえる距離ではない。歩きなれている田夫と、めったに歩くことのない貴人との脚力の差が際立つ距離である。

 ここで時間を知らせる太鼓の音を聞いたが、夜はまだ五更の初め(=午前3時か4時ごろ)であった。この道を案内して来た男がかいがいしく港中を走り回り、伯耆の国(鳥取県西部)に戻ろうとする商人たちの船を見つけて、これに一行を便乗させることを頼んで、いとまごいをして去って行った。この人物は只者ではなかったのだろうか、その後、世の中が変わって恩賞をとらせようと探し回ったのだが、名乗り出るものが現われず、ついにどこの誰であったかはわからずじまいであったという。よくある話で、神々が人間の姿を借りて天皇を助けたとも考えられるし、あるいは名利に恬淡とした人物で全く恩賞には興味がなかったのかもしれない。自分は世の中を動かす大きな仕事をしたのだと、心の中で満足しているだけというのもなかなかすごい話ではある。

 夜もすでに明けたので、舟人は纜を解き、帆を上げて、港の外に漕ぎ出した。船頭は天皇のご様子を見て、高貴なご身分の方であると察し、このようなことで船を進めるのは生涯の面目というべきで、どこの裏に舟をつけよといわれてもその通りにいたしますと申し上げる。忠顕はこれを聞いて、自分が同行しているのは後醍醐帝であることを打ち明け、出雲、伯耆のどちらでもいいので、しかるべき港に急いで船をつけるように言いつける。もし、首尾よくいけば、船頭を武士に取り立て、領地を与えるであろうという。船頭は喜んで船を進める。

 海の上、20里、あるいは30里ほど進んだかと思ったところに、同じように追い風に乗って10艘ばかりの船が後を追いかけてきた。筑紫舟と呼ばれる九州からの交易船か、その他の商人の船かと思ってみていると、そうではなくて、後醍醐天皇を幽閉していた隠岐前司清高、その弟の能登守、三河守たちが天皇を追いかけてきたのであった。船頭はこれを見て、こうしてはいられません、隠れてくださいと天皇と忠顕を船底にお移し申し上げ、その上に相物という塩魚・すし魚の類を入れた俵を積み上げて、櫓の漕ぎ手の水夫と梶取の船頭がその上に並んで櫓を押し続けた。そのうちに追っ手の舟が一艘、追いついてこの船の中に追っ手の武士が乗り込んで調べたが、それらしき人物は見当たらない。船頭にあやしい人物を見かけなかったのかと聞くと、もう5,6里先に舟を走らせているはずだと答えたので、その言葉を信じてこの船は離れて行った。

 どうやら虎口を脱したと安心していると、またもや100艘余りの(少し大げさではないか)追っ手の舟が迫ってきたので、船を急がそうとするが、風向きが変わって船がなかなか進まない。後醍醐天皇が肌身は出さず身につけていらしたお守りの仏舎利を1粒取り出して、懐紙に乗せ、波の上に浮かせると、竜神がこれを納受したのであろうか、海の上の風向きがにわかに変わって、一行が乗った船は東に向かい、追っ手の舟は西に吹き戻された。こうして、後醍醐天皇は危ないところを脱して、御舟は間もなく伯耆国名和の湊(鳥取県西伯郡大山町名和)に着いたのであった。

 こうして後醍醐天皇は隠岐を脱出され、しかるべき武士を味方につけて、倒幕の企てを再び進めようとされるのである。天皇の前途にはどのような運命が待ち受けているのであろうか。隠岐からの脱出の経緯を見ても、時代の動きが天皇に味方しているように見える。このような動きを天皇ご自身はどのように御覧になっていたのであろうか。 

脇村義太郎『趣味の価値』

6月4日(木)晴れ

 1967(昭和42)年に岩波新書の青版の1冊として発行された書物であるが、「はしがき」に記されているように、1950年に雑誌『世界』に連載した「主として特種な商品の希少価値を論じた」(ⅰページ)論考を、20年以上たって時代の変化に合わせて書きなおしたり、新たに稿を起こしたりして1冊にまとめたものである。著者が戦前(1935~1937年)にロンドンで過ごした留学生活の中で得たロンドン(とその他の欧米の都市)の商人たちと企業についての知識がまとめられ、葡萄酒や美術品についてのうんちくを傾けた書物という以上に、これら商品にかかわった商人たちの姿を様々に描き分けた人間味に溢れた内容になっているのがこの書物の魅力である。

 私の手元にあるのは1974年6月に刊行された第6刷であり、どういう事情でこの本を買ったのか忘れてしまったし、普通だと書店でくるんでくれるカバーをとって、保存用のフィルムをかぶせて持っているので、どの本屋で買ったかもわからない。大学院の博士課程の3年次にいて、この先どこの学校で採用してくれるのかというようなことを気にしながら過ごしていた中で、多少は気持ちのゆとりを求めてこの書物を買ったのだろうと思う。そして、それから40年以上にわたって、何度も読み返してきただけでなく、ロンドンへのあこがれを育み、またいろいろな雑学を展開する際の出発点として役立ててきた。

 書物は「葡萄酒の経済学」、「スコッチとアメリカン・ウィスキー」、「紅茶物語」、「ダイヤモンドの価値」、「スイスとアメリカの時計――ウォルサム会社の破たんと再建――」、「国際商品としての郵便切手」、「美の商人たち――なぜロンドンが国際美術品市場の中心となったか――」、「ペルシャ絨毯の美――アルメニア商人・マンチェスター商人・ロンドン商人――」、「美術蒐集家としての石油人――蒐集の楽しみ――」の各章からなる。今回は前半の「ダイヤモンドの価値」までを取り上げようと思う。

 葡萄酒はリカード―以来、「国際的分業、比較生産費説の具体的」(7ページ)な例として経済学の議論の中で常に取り上げられてきた(確か、大学の教養部の経済学の講義でも聞いた記憶がある)。「それは18世紀におけるイギリスとポルトガルのような葡萄酒の取引について友好関係が存在しており、ことにポートワインのような海上運送に十分耐えることのできる、すなわち、国際貿易に適した強い性質をもつ特別の葡萄酒があって初めて成り立つ議論なのである」(7-8ページ)という。その後の国際的な交通手段の変化やその他の環境の変化は葡萄酒の国際的な性質を大きく変化・発展させてきたはずである。それでも、戦後の社会の変化と関連して、イギリス人の嗜好がシェリーに傾いていった過程について納得のいく説明をしているのはさすがである。

 「スコッチとアメリカン・ウィスキー」は、「第1次世界大戦は世界的に禁酒や節酒の傾向をもたらして、酒造業に大きな打撃を与えた。ところが第2次世界大戦は、その事業に対し繁栄をもたらした」(21ページ)と書きだされていて、戦争と酒の関係が一通りではないことをまず認識させる。この章ではスコッチ・ウィスキー、アメリカン・ウィスキーの製造法の違いやその醸造・販売をめぐる企業間の競争の歴史などが語られているが、最後に戦後におけるスコッチの品質の低下について触れて、これが古いスコッチ原酒の貯蔵量の低下に起因するのではないかと推測している点が注目に値する。(品質が低下したかどうかが判断できるほど、こちらが経験を積んでいないのが残念である。)

 「紅茶物語」では中国の茶からインドの茶、帆船(ティー・クリッパー)による輸送から汽船による輸送への変化、プランテーションの発展や競売市場の整備、エイジェントやパッカーなどの茶商人の出現などが簡潔に語られている(今では他の書物が出ているから、なにもこの本を探して読むこともないのだが…)。パッカーのなかでも特に成功をおさめ、事業家としてだけでなく、ヨットのアメリカ・カップに5回チャレンジしたことでも知られるトマス・J・リプトンについてかなりの分量が割かれている。リプトンについても最近では少なからぬ評伝が書かれているので、もっと詳しいことはそちらに譲るにしても、この人物に興味をもつ手掛かりにはなりそうである。イギリスの職場生活におけるティー・タイムについての記述、また茶の原産地における植民地的単一耕作型生産の問題について触れているところは、経済学者ならではの目の付け所であろう。

 「ダイヤモンドの価値」では、この宝石の成り立ちに触れたうえで、経済学とダイヤモンドの関係が辿られる。アダム・スミスは『国富論』でその産出が衰えていたインドのゴルコンダの鉱山のダイヤモンドについて触れ、マルクスは『資本論』において18世紀には盛んだったが、19世紀になって経営的に行き詰まってきたブラジルのダイヤモンド鉱業について取り上げた。しかし、その後、南アフリカで巨大なダイヤモンド鉱脈が発見された。ダイヤモンドは宝石としてだけでなく、工業用にも利用され、このことがダイヤモンドの価格の安定に役立っているという。また第二次世界大戦後、価値の退蔵手段として、あるいは投資の目的物としてダイヤモンドの信用は大きくなっているようであるという。

 以上のように経済史、経済学説史のさまざまな場面に嗜好品や宝石、その他の贅沢品がかかわっていることが分かる。それらは経済活動の本筋にかかわることではないかもしれないが、人間の経済生活を考えるうえで無視できない、そしてどこかしら楽しみを与えてくれるものではないかと思うのである。(続く) 

日記抄(5月28日~6月3日)

6月3日(水)雨、夕方になって降り止む。

 5月28日から本日までに経験したこと、考えたことから:
5月28日
 NHKラジオ「まいにちイタリア語」応用編「描かれた24人の美女」はベルニーニの<アポロンとダフネ>を取り上げた。太陽神アポロンがニンフのダフネに恋して、彼女を追いかけ、あと一歩というところで、なぜか彼を嫌うダフネはアポロンの追跡をかわして月桂樹に変身する。その一瞬をとらえた彫刻史に残る名作。ローマの大詩人オウィディウスの『変身譚』(Metamorfosi)のなかのエピソードを描いた作品である。欧米の知識人のなかには自分がいかにも、ギリシア・ローマの古典に通じているというような顔をしているけれども、実はその知識の大部分をオウィディウスに負うているという人が少なくないようである(要するに、ラテン語は多少できるけれども、ギリシア語はまったくだめだということである。お前だって英語は多少できるけれども、それ以外の言語は駄目だろう…ラテン語だってちょっと齧っただけじゃあないか…まあいいたいように、言いなさい)。

5月29日
 NHKラジオ「まいにちイタリア語」応用編「描かれた24人の美女」はレオナルド・ダ・ヴィンチの<ブノワの聖母>を取り上げた。レオナルドが残した手稿のなかに、「1478年~月、2点の聖母子像に着手した」との記述がある。そのうちの1点。依頼主の妻を聖母マリアに、息子を救世主イエスに見立てて、自分の家族を描いてほしいという依頼に答えた作品。レオナルドは絵の描き方だけでなく、勃興しつつあった市民階級の人々の姿を写実的にとらえるという点でも近代を予示する画家であったという。もう1点の<猫の聖母>のための習作は大英博物館に所蔵されているという。実際のところ、この博物館に何度行ったかわからないけれども、レオナルドのこの習作は見たことがない。聖母に抱かれたイエスに抱かれた猫が大暴れをしている。聖母のやさしい表情と、あどけないイエス、そして猫。解説によると、レオナルドはイエスが子羊を抱く画像をイメージしていたのだが、とりあえず、手近にいた猫を子どもに抱かせたのではないかという。ボッティチェッリが当時の植物を詳しく描いたという話を先週紹介したが、レオナルドは子どもに下手な抱き方をされて居心地の悪さに暴れ始めている猫の姿を巧みに描いている。

5月30日
 NHKラジオ「アラビア語講座」では「イスラームの暦゛ヒジュラ暦”が取り上げられた。「ヒジュラ暦の1年は、西暦の1年より11日ほど短いので、西暦を基準にすると、ヒジュラ暦の日付は、どんどん前にずれていきます」という。我が国の「旧暦」も太陰太陽暦であったので、1年は354日であったが、そのため19年に7回、閏年があり、その年には閏月が設けられていた。そういう暦のほうが、便利だという主張をする人がいるが、妄言としか言いようがない。

 NHKラジオ「攻略!英語リスニング」では”Immune System(免疫システム)”を話題として取り上げた。この番組では1月に1回(自然)科学的な内容を取り上げるというのだが、科学といっても範囲は広いからね。phagocyte(食細胞)、 lymphocyte(リンパ球)など、耳慣れない専門用語が飛び出して悪戦苦闘した。

5月31日
 高瀬正仁『人物で語る数学入門』を読み終える。ラグランジュはフランスの数学者だといわれているが、実際はイタリア(ピエモンテ)人であったという。イタリア語とフランス語はかなり違う言葉だと思うのだが、イタリアという国とフランスという国の境界はあいまいなところがある。イタリア王国初代首相カヴールは主としてフランス語を話したという。私も、フランス語のほうが得意だというイタリア人にあったことがある。

6月1日
 病院での診察のために東京に出かけ、その帰りに渋谷のBUNKAMURAでボッティチェッリの展覧会を見ようかと思ったのだが、ふところが多少さびしかったので後回しにする。(結局、BUNKAMURAル・シネマで映画『サンドラの週末』を見ている。)

 NHKラジオ「入門ビジネス英語」の6月の放送は、シドニーが舞台となるのでオーストラリアやニュージーランドの英語が取り上げられることになりそうである。

6月2日
 NHKラジオ「入門ビジネス英語」のテキストの本日の項には「南半球でも役立つイギリス英語」という記事が掲載されている。「役立つ」というほど達者にイギリス英語が使いこなせるわけではないけれども、オーストラリアやニュージーランドの方々の英語に当惑したという経験はあまりない。むしろ「国際共通語」としての英語のほうがよほどハードルが高いという印象がある。

6月3日
 NHKラジオ「実践ビジネス英語」は新しく”Living the American Dream (アメリカン・ドリームを生きる)”というビニェットに入った。登場人物の1人が言う:
Not so long ago there was a widespread beief that if you worked hard and had the freedom to choose your path, you could succeed and give your children a head start in life. (そう遠くないむかしには、一生懸命働き、自分の進路を自由に選べるならば、成功することができ、子どもたちに人生のよいスタートを切らせることができると、広く信じられていました。) これがアメリカン・ドリームである。The high point of the American dream was the late 1940s and '50s. (アメリカン・ドリームの頂点は、1940年代終わりごろと1950年代でした。)というのはその通りではないかと思う。この問題については、また後で論じることがありそうである。

 NHKカルチャーラジオ「私の落語はくぶつ誌」第10回は、「町人のタテ社会」(「タテ社会」の意味が問題なのだが)ということで、主人と奉公人との関係を説明するために先日亡くなった桂米朝師匠の「百年目」の初めの部分を聞いた。舞台となる店の一番番頭がこの物語の主役であるが、もうとっくにのれん分けをして店を構えてもいい経歴の持ち主であるのに、まだ番頭を続けている。そのあたりのことが巧みに描きこまれていて、聞きごたえがあった。しかし、おまえが頼りないから、私は独立しないのだと二番番頭に言って聞かせるあたりの演出は、米朝師匠とは別の解釈があってもよさそうだなあとも思った。

ダンテ・アリギエリ『神曲 煉獄篇』(5)

6月2日(火)晴れ後曇り

私はすでにあの影たちから離れて、
わが導き手の背中につき従っていた。
(74ページ) すると、ダンテの肉体が影を引いていること、生者がここにいることに驚き、心を奪われる人々の声が聞こえた。これは彼らが肉体を伴っていた地上の記憶に執着しているためである。ダンテは心を乱して、
この言葉が発せられた方に私は目を向けた。
(同上) しかしここでウェルギリウスは、彼に対して
「なぜおまえの心は乱れて
――師は言った――歩みを鈍らせてしまうのか。
ここで囁かれていることがおまえにとって何だというのか。

我が後に続け。人々には言わせておけ。
堅固な塔のごとくあれ、それはいかなる風が吹きつけようと
決して頂を揺らすことはない。

というのも、ある思考から別の思考が芽吹き、
自ずと目標から逸れていくのが人の常であるからだ。
新たな思考がもとの思考の力を挫くがゆえに」。
(74-75ページ) と彼を戒める。塔のたとえは、ウェルギリウスの『アエネイス』からの引用だそうである。ダンテは自分の非を認めて、天国へ向かって前進することを誓う。

 ダンテはこの後、暴力により命を絶たれた人々に出会う。彼の同時代人である彼らは悲劇的な死の記憶を語るが、今際(いまわ)の際に己の罪を悔悛し、己を殺した相手を許したのである。
 これらの人々はダンテの同時代人か、彼よりも少し前のイタリア人であったが、彼の直接の知人はいなかった。ダンテと最初に話をするのは、ファーノの貴族で軍人政治家であったヤコポ・デル・カッセロ(1260-1298)であった。彼は1298年にミラノの最高執政官に招聘された際に、政敵であるエステ家のアッツオⅧ世によって暗殺された。彼はアッツォⅧ世を非難しつつも、自身が罪深い人生を送ったことを否定しなかった。
 次に現れたのは傭兵隊長でウルビーノの僭主となったブオンコンテ・ダ・モンテフェルトロ(1250/55-1289)で、1289年にフィレンツェ教皇党とアレッツオ皇帝党の間でたたかわれたカンバルディーノの戦いで戦死した。実はこの戦いにダンテもフィレンツェ教皇党の一員として加わっていた。しかし、神のもとに赴くことを志す煉獄ではかつての2人の敵対関係は解消している。そして生者の祈りにより贖罪の期間を短くしたいという彼の頼みをダンテは受け入れる。最後に、ダンテの前にピア・デ・トロメーイという頼高貴な身分の女性と結婚したいと願った夫に裏切られて殺された女性が現われて、地上に戻ったときは、自分を思い出してほしいと呼び掛ける。

 ダンテとウェルギリウスはまだ煉獄の本格的な旅を始めていないが、それでも出会う霊たちから様々な物語を聞く。地獄で出会った霊は生きている人々に自分たちのことを思い出すように望むだけであったが、煉獄では自分たちが煉獄で過ごす期間が短くなるように祈ってほしいと願う。地獄の旅が地球の中心に向けての下降であったのに対して、煉獄の旅は天に向かっての上昇である。必ずしも明るいものではない現実の世界の記憶を伝えながらも、『煉獄篇』にはどこか希望の明るさが感じられる。
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Author:tangmianlaoren
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