マジック・イン・ムーンライト

5月30日(土)晴れ

 横浜シネマ・ジャックでウディ・アレン監督作品『マジック・イン・ムーンライト』を見る。英語の原題はMagic in the Moonlightである。1920年代の南フランスを舞台にしたロマンティック・コメディ。この時代のファッションや音楽、ダンスがなかなか細かく再現されていて、興味のある人にはそれだけで楽しいのではないかと思われる。

 魔法や超能力などは信じない皮肉屋の英国人マジシャン、スタンリー(コリン・ファース)は中国人になりすまして、人体切断や瞬間移動などのマジックを演じて成功を収めている。ベルリンでの公演中に訪ねてきた友人の頼みで南フランスに住んでいる大富豪の家に最近寄寓しているアメリカ人の若い女性占い師が発揮しているという超能力の正体を見極めに出かける。この占い師が詐欺を働いて、大富豪の財産を乗っ取ろうとしているのではないかというのであるが、実際にあって見ると、この占い師ソフィ(エマ・ストーン)は明るく魅力的な女性で、そんな陰謀を企んでいるようには思えない。スタンリーは次第次第に彼女の魅力に惹かれていく。

 手元にある辞書を見ると、英語のmagicには3つの意味がある。1つはありえないことをやってのける不思議な能力。カボチャを馬車に、ハツカネズミをその馬車を牽く馬に変えるというような力で、これは物語の中には登場するが、実際にそんな能力を身につけている人がいるかどうかは疑問である。2つ目の意味は、なにかのトリックを使ってありえないことが起きたように見せることで、スタンリーがやっているのはこのマジックである。3番目は何か特別な魅力という意味である。ソフィが未来を正確に予見できる力を持っているとすれば、最初の意味と、3番目の意味でのマジックを身につけていることになる。

 我々は最初の意味での魔法は存在しないと思い、現実に行われている魔法には何かの種やら仕掛けやらがあると思っているが、ひょっとして本物の(最初の意味での)魔法もあるのかもしれない。本物の魔法使いが、魔術師たちの町にやってきたというポール・ギャリコの『ほんとうの魔法使い』という小説もある。ソフィは大富豪の家で交霊術の儀式を行う。居合わせた人々は、彼女が本物の交霊術を行っていると信じる…。それまで超能力の類を信じていなかったスタンリーでさえ、その信念を揺るがせ始めるが、皮肉屋でペシミストの彼が、なぜかそのことによって明るくなりはじめる。スタンリーはロンドンのウェスト・エンド育ち、ソフィはアメリカのミシガン州カラマズーという地方都市の出身、出身地も階層も違う2人の男女がなぜか惹かれあう。それもmagicのなせるわざである。

 予想できることだが、この物語は、その後二転三転する。そして、この種のコメディをよく見ている人には結末も想像できるはずである。この映画にはそのような既視感が充満していて、それを批判する人もいるだろうし、その既視感に惑溺する人もいるだろう。どちらの立場をとるかはその人の自由だが、後者の方が見ていて楽しいのではなかろうか。もっともその代わり、新しい映画の世界を切り開くということからは遠ざかるかもしれない。

 物語は1920年代に設定されていて、その後の世界恐慌やファシズムの台頭を知っているものから見れば、嵐の前の静けさ、その中での取るに足りないほどささやかな喜劇という印象をぬぐうことができない。映画からその後の時代の予感をどのように読み取るかを全く観客に委ねてしまっているのは、ウディ・アレンが年をとって批判力を失っているためか、あるいは彼なりの人の悪さの表れなのであろうか。 
スポンサーサイト

『太平記』(47)

5月29日(金)曇り後雨が降ったりやんだり

 元弘3年(1333年)閏2月、播磨の赤松円心は、山陽道・山陰道をさしふさいで西国の軍勢を止め、兵庫の北の摩耶山に城を構えた。四国では土居・得能が挙兵し、長門探題の軍を破ったとの知らせが六波羅に入った。

 「畿内の軍未だ静まらざるに、また四国、西国、日を追つて乱れければ、人の心、皆薄氷を践(ふ)んで、国の危ふき事深淵の如し」(352ページ。畿内の戦いがまだ平定されないうちに、さらに四国、西国が時のたつにつれてさらに不安な情勢になってきたので、人々の心がますます薄い氷を踏むように先行き不透明を感じるようになり、国の将来の危うさもきわめて深刻なものとなってきた)。

 このように天下が乱れてきた原因は、前天皇の後醍醐が幕府を倒そうというお考えを抱かれたことによるものであるから、もしかして、その前天皇を警備の隙をついて隠岐の島に入り込み、奪い取ろうとするものが出てくると大変なことになると、幕府は隠岐の国の御家人たちに警備を厳重にするように通達する。それで隠岐の国を支配していた隠岐前司佐々木清高は隠岐だけでなく、出雲の御家人たちまで招集して厳重に警戒を続けていた。

 ところが、同じ佐々木一族のなかで現在の松江市玉湯町布志名に住んでいた武士である佐々木富士名判官義縄(綱とも)は閏2月に中門の警備にあたっていたが、何を考えたのであろうか、後醍醐帝を奪い取って幕府に謀反を起こそうと思うようになっていた。とはいうものの前天皇に自分の気持ちを伝える機会はなかった。それでどうすればよいのかと思い煩っていると、ある晩、前天皇は自分に仕えている官女をさし向けて盃を下された。盃を下されるだけだったのか、それとも一杯飲みなさいということであったのかはわからない。とにかく、前天皇から接触してきたので良い機会であると思った義縄は使いにやってきた官女を通じて天皇に自分の気持ちを伝えようとした。
 畿内では楠正成が金剛山に城を構えて幕府の大軍を相手に攻防戦を展開し、幕府方は攻めあぐねて次第に兵力を減らしている。備前では伊東大和次郎が、三石というところに城を構えて、山陽道を塞いでそれより西の兵力が京都に向かおうとするのを通さないようにしている。播磨では赤松円心が大塔宮の令旨を頂いて摂津の国まで攻め上り、兵庫の北の麻耶に陣を構えた。その兵力は既に3,000余騎に達し、都に攻めのぼろうとする勢いである。四国では土居、得能が宮方となって挙兵し、長門探題の北条時直が征伐に向かったが敗退して、行方不明になってしまった。四国の武士たちは皆土居、得能に従って、船を集めて隠岐まで前天皇をお迎えに上がろうとしているとも、京都に攻め上ろうとしているともうわさされている。「御聖運開くべき時すでに至りぬとこそ存じ候へ」(354ページ)。義縄が当番の間に、ひそかに脱出されて、出雲か伯耆のどこかの港まで船で行かれ、しかるべき(頼りになりそうな)武士を味方として、お待ちになっていれば、義縄が味方として参上する所存でおりますと自分の気持ちを伝える。

 官女からこの次第をお聞きになった主上(後醍醐)は、義縄の気持ちを量りかねておいでになったが、彼の気持ちがどこまで本当のものであるかを知るために、使いのものとなっていた官女を義縄に下された(官女の人権を無視している――などという発想はこの時代になかったのであるが、ここは現代の小説家なら想像力をめぐらせて、もう少し官女の気持ちや行動を膨らませて描くところではなかろうか)。とにかく、この官女というのが都から随行してきたのか、現地採用かは知らないけれども、いただいた義縄は感激して、彼女を寵愛してやまず、前天皇への忠誠心を募らせるのであった。

 主上は、これで大丈夫だと判断されて、ある夜の宵に紛れて、京都から随行してきた三位殿(阿野廉子)のお産が近づいてきたので、御所を出られるとおっしゃられて、輿をまわすように申しつけられ、六条少将忠顕(千種忠顕)だけをお連れになって、ひそかに御所をお出になった。都を出るときにはお供していた一条行房はすでに都に戻っており、前天皇の御近くに仕えていたのは忠顕だけであった。しかし、輿に乗ったままでは見かけた人々が怪しむに違いないということで、乗り物に乗らず、御自分で歩いて港に向かわれることになった。これは異例の、きわめてもったいないことであると『太平記』の作者は記している。

 それは3月23日のことであり、あたかも月待の夜であたりは暗く、どこを歩いているとも知らず、暗い夜道を辿り港までの遠い道のりを歩いていると、かなりの距離を歩いたつもりでも、まだ山中の瀧の音が聞こえてくるほどなので、先を急ごうとなさるのだが、もともと歩くということをされない御身分の方であっただけに一向に足は進まない。時々立ち止まってはお休みになっているので、忠顕も気が気ではなく、お手を引いたり、お腰を押したりして、この夜のうちに何とかして港の近くにたどりつこうとするのだけれども、忠顕の方もそれほど歩くことに慣れているわけではなく、露深い野道をさすらい続けるのであった。

 何とか隠岐の御所を脱出した後醍醐ではあったが、港にはまだたどりつけそうもない。御所ではそろそろ脱出に気付いているのではなかろうか。果たして、無事に島から抜け出すことができるか。それはまた次回。
 後醍醐天皇の脱出を阻止しようとしている清高も、脱出を勧めた義縄も同じ一族である。鎌倉幕府の御家人のなかでもすでに宮方に心を寄せるものが少なくなくなっていることがこのことによっても見て取れる。事態はかなり流動的で、強い意志をもって行動するものが強い影響力をふるうことができそうである。

須賀敦子『遠い朝の本たち』

5月28日(木)晴れ、暑し

 どうも考えがまとまらないので、17年前の1998年5月に書いた文章を探し出してきた。須賀敦子『遠い朝の本たち』(筑摩書房、1998)の書評(のつもり)である。

 何度もそのエッセーの中に記されてきたように、須賀さんは少女時代からカトリック系の女子校で教育を受け、かなり長い間海外で生活して、外国文化に親しんでこられた。そういう長年の異文化接触の蓄積が控えめながらも強い印象を残す表現でつづられているのが須賀さんの文章の魅力であった。女性が高等教育を受けるのがまだそれほど一般的ではない時代に大学院まで進学し、フランス、イタリアに留学、親友がカルメル会の修道女になったり、イタリア人の夫と死別したりという決して軽くはない経験を重ねて、かなり高齢になってから文筆家として出発された。その比較的短い期間に書き残した随筆賞の輝きを残して、比較的早く亡くなられてしまったのは残念至極である。イタリアとイタリア人の生活についてはやくから達者な筆を走らせてきた塩野七生さんが学習院出身であるのに対し、イタリアでの自分の経験を大事に語る須賀さんが聖心女子大学出身であるのも興味深い対照である。須賀さんの場合単純にイタリアが好きというのではなくて、英文学からフランス文学、イタリア文学とその関心を移し、フランスを経てイタリアに留学されたという経歴からも明らかなように、もっと広い西ヨーロッパ全体を見渡している視野の広さが窺われるのも特徴的である。かくいう私もカトリック系の学校(男子校だが)で6年ほどを過ごしたので、著者とどこかで共通する経験をもっていることも親しみを感じている理由であろう。

 修道女になった後、50歳を過ぎたばかりで死んだ親友の思い出が、一緒に読んだ書物の思い出とともに語られたり、たまたま住んだ家の隣の住人であった俳人原石鼎のこと、私家版で発行されていた松田瓊子の少女小説のことなど貴重な記憶がさりげなくかたっれているのがこの著者らしい。(松田瓊子は野村胡堂の娘で、経済史学者の松田智雄の夫人であったが、早く没した。年配の女性でこの人の作品が懐かしいと書いている人が少なくない。)

 この本の中で須賀さんは詩人になろうと思っていたと告白されているが、文学へのそのような思いがその文章に独特の格調を与えているのではなかろうか。とはいえ、これまでも何冊かの著書の中でいくつかの印象的な詩の翻訳に接してきたのではあるが、須賀さん自身の詩というものを見かけたことがない。私が見落としているだけなのか、あるいはどこかに草稿として眠っている状態なのか。あるいは心の中で温められていた言葉が、とうとう形をとってふき出さないままになってしまったのか。それでももし草稿が残っているのであれば、なんとか詩集としてまとめてほしいと思う。

 若い日々に詩人を目指したことの反映なのであろうが、須賀さんは誌の翻訳者として一流の方であった。ご本人にとってもかなり重要な意味をもっていたはずのダヴィデ・マリア・トゥロルドの詩の翻訳を『コルシア書店の仲間たち』から引用しておきたい。
 ずっとわたしは待っていた。
 わずかに濡れた
 アスファルトの、この
 夏の匂いを。
 たくさんねがったわけではない。
 ただ、ほんのすこしの涼しさを五官にと。
 軌跡はやってきた。
 ひびわれた土くれの、
 石の呻きのかなたから。
(『コルシア』35~36ページ)

 この本を買って最初のページから順繰りに読んでいったのだが、最後の方に思い出したように、「ダフォディルがきんいろにはためいて……」という学生時代に読んだ英語の詩集についての思い出をつづった文章が収められていた:
 イギリスの詩集といっても、そのころの私は、ほんとうのところ「抒情詩」とはどういうものなのか、詩の虚構とはどんなものなのか、詩という表現が散文のそれとはどんなふうに違うのか、なにもわかっていなかった。(いまだって、あまりわかってはいないけれど。) ただ、自分は散文よりも詩が好きだ、という天から降ってきた確信のようなものに振りまわされていて、それが私を詩に駆りたてていた。でも、私のなかにわだかまっていた詩そのものについての百の疑問は、まず英語をとことん教えこもうと日々躍起になっていたシスターたちには通じなくて、私は雲のなかを漂うように、詩を愉しみ、味わっていた。こうして私がはまりこんだ詩のなかにワーズワースの有名な「ダフォディル」があった。
 谷や丘のずっと上に浮かんでいる雲
 みたいに、ひとりさまよっていたとき、
 いきなり見えた群れさわぐもの、
 幾千の軍勢、金いろのダフォディル。
 みずうみのすぐそばに、樹々の影に、
 そよ風にひらひらして、踊っていて。
            (199~200ページ)
 ダフォディルを「ラッパズイセン」と訳さない理由を須賀さんは付け加えている。ひとつひとつの言葉が文化的な、あるいは社会的な背景をもっているという認識が窺われて貴重な発言である。

 クロード・シモンの『人間のしるし』をめぐって様々な議論をした大学院時代を回想する「クレールという女」では「共通の世界観とか、自由なままでいるなかでの愛とか、まだ本当に歩きはじめてもいない人生について流れる言葉は、たとえようもなくかるかった。やがてはそれぞれのかたちで知ることになる深いよろこびにも、どうにもならない挫折にも裏打ちされていなかったから、私たちの言葉は、その分だけ、はてしなく容易だった」(183~184ページ)という思い出と、「人生がこれほど多くの翳りと、そして、それとおなじくらいゆたかな光に満ちている」(185ページ)という現在の思いとが対比されている。そしてこの対比のなかに須賀さんが感じていたことばと経験の関係が要約されているように思われる。

日記抄(5月21日~27日)

5月27日(水)晴れ

 5月21日から本日までの間に経験したこと、考えたことから:
5月21日
 高瀬正仁『人物で語る数学入門』(岩波新書)は西欧近代の微分積分学の発見と数論の創造にかかわった数学者たち、デカルト、フェルマ、ライプニッツ、ベルヌーイ兄弟、オイラー、ラグランジュ、ガウスなどの数学者たちの生涯と心情を掘り下げることで、一人でも多くの人々に数学がわかる楽しみを共有させようと意図する書物であるが、ちょうどこのあたりの数学がわからないもので文科系の進路を選んだ私には、やはり歯が立たない内容ばかりである。まあ、多少わかった個所は、フェルマがおそらくは3世紀にアレクサンドリアで活動していたディオファントスという数学者の『数論』に行った書き込みが、近代の数論の萌芽となったと記されているところである。
 このディオファントスの生涯について詳しいことはほとんどわかっていないが、『ギリシア詞華集』のなかに次のような風刺詩が収められているという。
  ディオファントスは一生の六分の一を少年時代として過ごし、ひげは一生の十二分の一より後にのび、さらに七分の一が過ぎた後に結婚した。結婚して五年後に息子が生まれた。その息子は父の二分の一の長さの人生を生き、父は息子の死の四年後に亡くなった。
 この詩に歌われた人物と『数論』の著者が同一人物であるかどうかは不明だそうであるが、ディオファントスの年齢をxとして方程式を立てると
1/6x + 1/12x + 1/7x + 5 + 1/2x + 4= x
となってこれを解くと、ディオファントスは84歳まで生きたことになる。
 理科系の学校で教えていた時に、出席を記録するために配布しているカードにこの問題の解答を書くように指示したことがあるが、まじめに一次方程式を解こうとする学生はむしろ少数で、なにかうまい解答方法があるのではないかと考えている学生のほうが多かった。

5月22日
 NHKラジオ「まいにちイタリア語」応用編『描かれた24人の美女』は満を持した形でボッティチェッリの『ザクロの聖母』を登場させた。首を傾けたはかなげな聖母の表情はボッティチェッリが描く女性像に共通するものである。
 講師の池上英洋さんの解説によると、ボッティチェッリの有名な作品「ラ・プリマヴェーラ(春)」は草花や木々が詳しく描かれているために、ルネサンス時代のフィレンツェ周辺の植生を知るためによい資料としても役立っているそうである。この画家のあまり知られていない側面を教えられて得をしたような気分になった。

5月23日
 「楽しいスケッチ展」を見に行くために、JR根岸線石川町駅を利用したのだが、この近くにあるフェリス女学院に通う生徒たちが多く通るらしい道路が「リセンヌ小径」と名付けられているらしいことを知った。あちことで女子校の近くには乙女通りとか、乙女坂とか、口が悪いところでは大根坂とか名づけられている場所があるという話を聞くが、そういうのはあくまで非公式の呼び名であるべきである。それにフェリス女学院はアメリカ人が創立した学校なので、フランス風の呼び方をするのは余計におかしいと思う。

 私の知り合いのある女性がこのフェリス女学院の卒業生であるが、この学歴のためにあなたは秀才ですねとか、才媛ですねとかいわれて、自分はこの学校のなかでは成績が悪く、劣等感を抱いて過ごしていたことを思い出し、そういわれるたびにひどく傷ついているそうである。個人の様々な事情を斟酌しないで、出身校を根拠に勝手にレッテルを貼って人を傷つけていることは少なくないようである。

5月24日
 NHKラジオ「攻略!英語リスニング」は昨日、本日と画家のロートレックについて取り上げた。
But he still managed to immerse himself in life and his art, and create some of the most iconic images in Western art.
(それでもなお彼は、人生と芸術をたっぷり味わって、西洋美術の象徴ともいえる作品をいくつも生み出した。)
 むかし見た、『みじかくも美しく燃え』というスウェーデン映画で、ヒロインのエルヴィーラ・マディガン(ピア・デゲルマルク)が、駆け落ちの挙句に金がなくなって、ロートレックの描いた自分の肖像画を売ろうとして安く買いたたかれる場面をなぜか思い出した。

5月25日
 14:30から始まるフランス語の時間を聴こうと思っていたら、その直前に地震が起きて、番組が流れてしまった。来週、再放送があるが、病院に出かける時間と重なるので、この部分は聴くことができない。まあ、昨年放送された分の再放送だからいいか。ということで、なんとなく納得してしまっている。このところフランス語の学習が横ばい状態であるので、これは困ったことである。

5月26日
 NHKラジオ「入門ビジネス英語」の5月放送分は既に述べたようにインドネシアの旅行業者たちを相手に日本への観光客承知を呼び掛けるビジネスマンの活躍を描いていた。アジアでも英語の重要性が増していること、その際に各国の文化的な習慣を尊重することの重要性を説いていたのは正しいと思うが、アジア英語の特徴についても多少触れてくれた方がよかったのではないかという気がする。

5月27日
 NHKラジオ「実践ビジネス英語」の”Quote...Unquote"のコーナーで紹介されたコロンブスの言葉:
You can never cross the ocean until you have the courage to lose sight of the shore.
--Christopher Columbus (Italian explorer and navigator, c.1451-1506)
陸地を見失う勇気をもたなければ、海を渡ることは決してできない。
 子どものころに読んだ絵本で、コロンブスが地球は丸いから、東回りと同様に、西回りでも中国に到達できると考えたと知った。ところで、地球は丸いと考えることと、太陽の周りを地球が回っていると考えることは別のことである。ダンテの『神曲』についてこのブログで書いた際にも触れたが、ダンテは地球が丸いと考えていたが、その一方で地球の周りを太陽が回ると考えていた(200年ほど後のコロンブスも同様である)。と、すると、太陽は毎日ものすごいスピードで地球の周りをまわっていることになる。このことを含めて、天動説にはいろいろな理論的な無理がある。そこにコペルニクスの地動説が入り込む余地があったのだが、太陽の周りを地球が回っているという決定的な証拠がだせなかった(当時の天体観測の水準では無理だったのである)ために論争が長く続くことになった。 

ダンテ・アリギエリ『神曲 煉獄編』(4)

5月26日(火)晴れ

 第3歌でダンテはローマ教会から破門され、それゆえ地獄に落ちていると信じられていたナポリ・シチリア王マンフレーディの魂に出会い、彼が死の間際に神と和解したことにより煉獄に置かれていることを知る。彼は煉獄山を登って罪を清めるために、まだ時間を過ごさなければならないが、それでもその時間が過ぎたのちには天国に入る望みを与えられたのである。喜び、あるいは悲しみを
私達の能力の一つが受け取り、
魂がその能力に集中している間、

魂は決してそれ以外の能力に振り向きはしない様子が認められる。
これが、我ら人間のうちで複数の魂が階層上に燃えていると
主張しているあの誤謬への反証だ。

それゆえ、魂を振り向かせて強く惹きつけ続けるものを
聞いている、あるいは見ていると、
時は過ぎ去り、そして人はそのことに気づかない。

なぜなら時間を計る能力と、
魂全体を支配する能力は、各々別な能力であるからだ。
ゆえにこの場合、後者は魂のほとんどすべてと結ばれ、前者は結ばれていない。

そのことを、その霊の話を聞きつつ驚き見つめているうちに、
私は実際に体験した。
(60-61ページ) ダンテはマンフレーディとの対話に気を取られて、彼らが煉獄山への上り口までやってきたこと、それまでにかなりの時が経過していたことに気付かなかった。第4歌の冒頭はこの状態について、プラトンとアリストテレスの人間の魂についての所説を引き合いに出しながら歌っている。プラトンは、人間の魂がそれぞれ独立した植物的魂(生命維持活動を司る)、動物的魂(衝動・感情を司る)、知性的魂(理性・思考を司る)の3つに分かれて別々に機能しているとした。これに対しアリストテレスはその3つの魂は一体となって1つの魂を形成し、ある1つの「能力」(ここでは感覚)が活動しているうちには、その他の「能力」に集中できないと考えた。
 解説は前回不覚にも通り過ぎてしまった箇所
三位格の中の一実体へと続いていく果てしない道を
我らの理性が踏破し得るなどと
望む者は愚かなるかな。

満足するがよい、人類よ、それが何かを知るだけで。
なぜなら、おまえ達がそのすべてを理解できていたならば、
マリアが御子を生む必要はなかったからだ。
(49ページ、第3歌34~39行、三位一体の神秘を理解することは人知を超えたことである)という個所に改めて触れて、魂の成り立ちについて完全に理解することができないとして、読者に神への畏れと人間の不完全性を思い出させようとするダンテの意図を見ている。

 ウェルギリウスに導かれてダンテは煉獄山の険しい斜面のわずかに開かれた割れ目を伝って登ってゆく。二人はやっとのことで山の周りの踊り場のように平坦な場所にたっどりついて休息し、自分たちが辿ってきた道を振り返るが、そこから見える眺めは(煉獄山鹿南半球にあるので、北半球で)見慣れた眺めとは全く違うものであった。

 ウェルギリウスはダンテに、これからの道のりについて、煉獄山は麓のほうでは険しく上りにくいが、頂上に近づくにしたがって平坦になり、登るのが容易になると告げる。
 すると、
一つの声が近くで響いた。「おそらく
その前に、お前は座って休むことになるさ」。
(69ページ) 声の主は、フィレンツェでダンテの近くに住んでいたリュート製作者のベラックワであった。彼は生前、何事も先延ばしする怠惰な性向の持ち主で、酒におぼれ、「悔悛の溜息を末期まで引き延ばした」(72ページ)ほどの男であるが、煉獄でもその怠惰さを続けているのではなくて、生前の行いの報いとして長い時間、煉獄山に登らずに待機して、忍耐を学ばなければならないのである。ベラックワはこうして、ダンテに向かって神意に従い忍耐するように説き聞かせるのである。(リュートはギターに似た昔の楽器であるが、現在でも演奏する人がいる。)

 神意はダンテが煉獄山を登っていくことを望んでいる。ウェルギリウスはさらに道を進むようにダンテを促す。
 煉獄は来世であるが、地球の南半球にあって、北半球と同じ太陽を見ることができ(見え方は違っている)、同じ時間の支配を受けている。だから、生前の罪の性質によって、煉獄で罪を償う時間が違うということになる。

 この歌では人間の知恵の限界、不完全性が強調され、人間が自力で様々な問題を解決しようとすることが戒められている。また、ダンテの身近な存在であった人物が登場し、彼がダンテに忠告を与えている。「煉獄編」でダンテは翻訳者・解説者である原さんの言葉を借りれば、「異なる考えを持つ他者を受け入れ、その理解、つまり友情をもとにした調和の世界の再構築を目指」そうとしているとも受け取れる。 

誰に似たのだろう

5月25日(月)晴れたり曇ったり

誰に似たのだろう

誰かが玄関に姿を見せると
トコトコと走り寄る
可愛い猫ちゃんですねといってもらって
あわよくば撫でてもらいたいらしい

大きな猫ですねといわれることもあるが
そういわれていることが分かっているかどうか
おとなしい猫ですねといわれることもあるが
文字どおり猫をかぶっているだけ
実はわが家にはもう一匹
もっと大きな猫がいて
こいつが臆病なやつで
人間の姿を避けてばかりいる

だが二匹になると
家の中を走り回ったり
取っ組み合いをしたり・・・
大暴れで
悪の限りを尽くす
お客さんに見せている姿は
全体のごくごく一部分でしかない

それにしても
ペットは飼い主に似るというが
この猫たち
誰に似たのだろう

鹿鳴館と文化接触

5月24日(日)晴れ

 蔵書の整理をしていて、中野好夫『英文学 夜ばなし』(岩波現代文庫)を見つけた。英文学徒でもなく、英語の教師でもない私がこんな本をもっているのは中野の子息の1人と面識があったからである。戦後の日本を代表する文化人の中で、その子息と面識があり、伝手をたどっていけば話を聞けたかもしれないのに、そうしなかったことを後悔している人が2人いる。1人が竹山道雄(1903-1984)であり、もう1人が中野好夫(1903-1985)である。竹山と話ができるほどドイツ文学や思想に造詣があるわけではなく、中野と話ができるほどに英文学や英国の文化を知悉しているわけではなかった。今となってみると不勉強が恨めしいが、まあ過ぎたことは仕方がない。

 この書物は中野の死後少したって1993年に発行されている、ということは所収の論考がさらに古い時期にかかれているということであるが、日本文化がその近代化の過程でヨーロッパ、とくに英米圏の文化と接触することによって生じた問題を論じている部分は、あまり古くなっていないような気がする。特に印象に残っている部分は、鹿鳴館時代についての著者の論考である。引用が少し長くなることを我慢していただきたい。
「…明治20年代あたりを中心にして、いわゆる鹿鳴館時代なるものがあったことは、読者諸氏もすでに御承知であろう。今の千代田区内幸町、旧薩摩藩上屋敷跡に建てられた官設迎賓館、社交場であったわけだが、元をただせば、どうせ田舎者下級武士上りの伊藤博文、井上馨、いや、あの山県有朋、大山巌、等々といったお歴々までが、柄にもない洋風仮装舞踏会や夜会、慈善パーティなどに、さかんにここで憂き身をやつしたものであった。それというのも、明治日本が、文化的にも、風俗的にも西欧風に追いついたことを、なんとかして見てもらいたい、もちろん条約改正なる大問題への道を少しでも切り開きたいという、いじらしいばかりの苦肉策であったのはわかるにしても、どうせ猿真似の模倣文化であったことには間違いない。当時のある新聞(時事新聞)による情景描写を、いささか長くはなるが、珍文だから引いてみよう。
 「天勾践を空しうする莫れ、時に范蠡無きにしも非ずと十文字を、背旗に黒々と筆太に記したるを背負ひ、鎧上に蓑を着け、冠り笠にて備後三郎に打扮(うちいでた)るは、是れなん、三島通庸警視総監にして、腰蓑に汐桶を荷ひて松風村雨に擬したるは、同氏の令嬢姉妹と聞えし、…頭巾鈴懸金剛杖を突き鳴らし、安宅の弁慶かと見紛ふ山伏は、これぞ渋沢栄一氏にして、同氏の令嬢は胡蝶の舞に扮し最も美麗なりき。・・・素袍(すおう)烏帽子の三河万歳は井上(馨)外務大臣にて、才蔵は杉(享二)内蔵頭なり。佐々木(高行)顧問官は上下を着し、頭にはチョン髷の仮髪を戴き、榎本(武揚)逓信大臣は通常の麻上下を着し、大山(磐)陸軍大臣はチョン髷にして大小を腰に構へたり。古き唐服を着て吉備大臣かと思はしきは、山田(顕義)司法大臣にして、行脚飄然たる富士見西行は、渡辺(洪基)帝国大学総長とぞ聞えし。・・・・・・山県(有朋)内務大臣は、其の昔一隊を引率して幕軍を所々に悩ましたる奇兵隊々長の打扮(いでたち)にて、日本服の筒袖に韮山笠の一種を冠り、両刀を横へ、・・・・・・伊藤(博文)総理大臣は伊太利ベニスの貴族に擬し、同令嬢は同国の田舎娘に……三条(実美)内大臣の令嬢は欧州の花売娘に粧ひ・・・・・・松方(正義)大蔵大臣は烏帽子直垂(ひたたれ)を着して、其の令嬢は稚児の姿に扮し……中にも意外に出でたるは、英国公使館附某が紺の法被に紺股引、刺底の足袋を穿ちて別当の姿に扮したると、ラウダー氏が寿老人に擬したるにぞありき(下略)」
 とにかくこの有様で外国使臣たちを前に、洋楽バンドによる舞踏会をやったのだから、いまから見れば百鬼夜行、とうてい正気の沙汰とは思えぬが、それはどうも思えぬ方が無理なので、わが国だけとはかぎらぬ、先進文化と後進文化とが接触し、もっぱら前者が後者を模倣、吸収しようという場合には、えてして起こり勝ちの戯画的風景なのである」(「異文化接触と国語の問題」、181-182ページ)

 日本史の教科書に登場するような有名人が何をやっていたのかが彼らの思考の中身を含めてよくわかる個所である。『時事新聞』とあるが、福沢諭吉が創刊した『時事新報』のことではないかと思う。最初に登場する三島通庸は福島事件で自由党を弾圧した張本人であるが、なぜか児島高徳に扮している。その令嬢の1人が牧野伸顕の妻となり、その娘が吉田茂の夫人であり、さらに吉田健一が生まれたという関係になる。吉田健一が欧米の文化に通じていたのは先祖伝来の年季が入っていたのである。なお、吉田健一が若くして死んだ自分の母が美しく思えたと回想しているが、三島の娘の写真が残っていて、吉田健一の母方の祖母がそこそこの美貌であったことを確認できる。

 この舞踏会が珍妙であるのは、明治の指導者たちが(たとえばアメリカ風とか、日本の王朝風とかいうように)仮装の基準を決めるという発想をもっていなかったからではないかと思う。先ほど述べたように、この舞踏会の写真が残っており、参加者がかなり苦労して真に迫った仮装をしていることが分かる。しかし、それはしなくてもよい苦労であったと思われる(もっともご本人たちはそれなりに楽しんでいたのかもしれず、だとすると庶民サイドから見ればけしからんことである)。例えば欧米の学校ではトーガ・パーティーというのをやるけれども、これはローマ時代の服装をしてラテン語で会話するパーティーである(服装だけはローマ風で、ラテン語をしゃべらない、というよりも喋れない連中が集まるというのもあるようである)。そういうしゃれっ気が日本に伝わってくるのにはだいぶ時間がかかったというのが中野のいいたいことには含まれているようである。

 その一方で、鹿鳴館というと芥川龍之介の短編「舞踏会」を思い出すという人も少なくないのではないか。江藤淳と三島由紀夫が激賞したというこの作品のこれまでの受容のされ方には問題を感じるけれども、日本人の若い貴族の令嬢が、フランスの海軍士官と踊って、その経験が生涯忘れることのできない思い出になるというこの作品の雰囲気は異文化交流が盛んになってきた今でこそ、さらに改めて噛みしめてみる必要があるのではなかろうか。鹿鳴館を作った政治家たちの思惑とは別のところで、新しい時代の動きが芽生えてきたという解釈も可能なのではないかと思っている。

日記(5月23日)

5月23日(土)晴れ

 朝、何度か寝たり醒めたりを繰り返し、結局8時過ぎに起床する。

 9:30~10:00 NHKラジオ「アラビア語講座」を聞く。第7日「たくさんのペンがあります」。現在の日本ではペンはほとんど使わないので、こういう文を覚えても役に立つかどうか。
 1~5の数字を学ぶ。算用数字とはちょっと趣の異なる数字である。算用数字のことを「アラビア数字」というのは、現代のアラビアで使っている数字との関係で好ましくないと吉田洋一『零の発見』に書かれていたことを思い出す。なお、アラビア語では、アラビア文字の数字のことを「インド数字」というそうである。
 また「日曜日」を「ヤウム ル・アハド」、「月曜日」を「ヤウム リ・スナイン」、火曜日を「ヤウム ッ・スラーサーッ」、水曜日を「ヤウム ル・アルビアーッ」、木曜日を「ヤウム ル・ハミース」というがそれぞれ数字の1,2,3,4,5と関連した言い方であるという。金曜日は休日で「ヤウム ル・ジュムア」(集まる日)といい、実際にモスクに集まってお祈りをする日であり、木曜日と金曜日が週末になる。土曜日は「ヤウム ッ・サブト」といい、ヘブライ語の「サバト」に影響を受けた言い方をしている。ユダヤ教では土曜日が安息日で、働いてはいけないけれども、イスラム教の場合はお祈りをすればいいのであって、あとは働いてもいいそうである。キリスト教では日曜日が安息日であるが、最近ではあまり守られなくなってきている。

 10:30~11:00「入門ビジネス英語」の再放送を聴いていた。インドネシアに出かけて現地の旅行代理店に対して日本への旅行を勧誘するプレゼンテーションを行うという話であるが、「ハラル」(イスラム教の教えから見て合法的な)日本料理として焼肉としゃぶしゃぶを話題にしていたのにはちょっと違和感がある。代表的な日本料理というと、懐石料理、あるいは寿司、天麩羅、あるいは焼き鳥あたりを持ち出すべきではなかっただろうか。

 11:00~11:45「実践ビジネス英語」の再放送、11:45~12:00「ラジオ英会話」の金曜日の放送分の再放送を聴く。12:40~12:55「攻略!英語リスニング」を聴く。今回の話題はトゥールーズ=ロートレックであった。

 外出。横浜市中区山手町のブラフ18番館で開催中の『楽しいスケッチ展』を見る。Hudson Terraceさんがそのブログ「楽しいスケッチ」で発表している水彩画のなかから、横浜、鎌倉を取り上げた作品を選んで展示しているものである。ブログで見るよりも絵の描線がはっきりとわかるし、青や緑系統の色彩が多用されているという印象があったのだが、それ以外の色を使った作品もあって、なかなか興味深かった。全体に動きのない画面の方が落ち着いた感じであり、逆にいえば絵の中で人物などの動きがなかなかうまくとらえられていないような気がした。横浜の開港記念会館を描いた作品が一番印象に残り、そのほかでは中華街の媽祖廟を描いた作品も面白いと思った。鎌倉の風景は見たままを描くよりも、多少のデフォルメはあっても、もっと作者の鎌倉に寄せる思いが伝わるような描き方をしてもよかったという気がした。Hudsonさんは思ったよりも若い感じであった。

 その後、横浜駅近くの紀伊国屋、有隣堂で本を立ち読みして帰宅する。

 東京六大学野球で東大が法政を破り、連敗記録を94で止めた。それほど野球には興味がないし、東大の卒業生でもないが、まずはめでたい。大相撲夏場所は稀勢の里が白鵬を破り、優勝争いがまたまた混沌としてきた。こちらもそれほど興味のある話題ではないが、多少は気になる。それにしてもガンバ大阪と稀勢の里の勝敗の予想は難しい。(別にひいきしているわけではなくて、G大阪の場合はこのチームの勝敗だけを外したためにtotoが当たらなかったことがたび重なったということである。)

 今日はテーマを限定せずに、あったこと、思ったことを書き散らしてみた。これからも時々はこのスタイルで書いてみようと思っている。

『太平記』(46)

5月22日(金)曇り後晴れ

 元弘3年(1333年)2月、幕府軍は楠正成の立て籠もる千剣破城(ちはやのじょう)を包囲していたが、正成は智略を用いて撃退、大塔宮護良親王の配下の野伏たちが道を塞いで幕府軍の補給線を絶ったために、包囲から脱落する武士たちが多くなって、さしもの大軍も次第にその勢いを失ってきた。その中で、寄せ手に加わっていた新田義貞は、後醍醐方につく決心をして、執事である船田義昌の働きで大塔宮の令旨を手に入れ、急ぎ本国の上野の国(群馬県)に帰っていった。

 楠が大軍を引きつけて奮戦しているために、京都を守護する兵力が手薄になっているという情報が入ってきたので、赤松入道円心はそれまで本拠としていた播磨の国の苔縄の城から打って出て、山陽道、山陰道の2つの道を塞ぎ、山里(兵庫県赤穂郡上郡町山野里)と梨原(兵庫県赤穂郡神郡町梨ケ原)の間に陣を構えた。

 六波羅からの指示によって中国地方の武士たちが上洛しようとやって来たが、三石の宿(岡山県備前市三石)から東へと進もうとしたのを赤松円心の次男である赤松筑前守貞範が梨ケ原と三石の間にある船坂山で防ぎとめて、主だった20名余りの武士を捕虜にした。しかし、赤松は捕虜を厚遇したので、捕虜になった三石の地頭である伊東大和次郎は武家方から宮方にその旗印を変えた。第6巻に出てくる赤坂城に立て籠もった平野将監以下の宮方の将兵を長崎九郎左衛門がすべて斬首したという話と大変な違いである。
 そして伊東は自分の館の近くの三石の山の上に城郭を構え、さらに西にある熊山にも勢力を伸ばしたので、幕府方と宮方の力関係が変わり、備前の守護であった加治源太左衛門が一度の戦いで敗退して、児島の方に落ち延びていくという結果となった。伊東が西の方から上洛を試みる兵力を食い止めることを確信した円心は赤穂郡上郡の高田台のあたりに住んでいた高田兵庫助の城を攻め落とし、そのまま休むことなく、山陽道を攻め上がろうとする。道々、加わる軍勢があって、間もなく7,000余騎になった。そのまま六波羅を攻略することも可能に思われるほどの勢いではあったが、慎重を期して、現在の神戸市の灘区麻耶山上にある名刹忉利天上寺に落ち着いてここに城郭を構えた。この寺は弘法大師が中国から持ち帰ったという釈尊の母麻耶夫人の像を本尊としており、麻耶夫人を本尊とする日本で唯一の寺だというが、円心はそんなことは頓着せず、おそらくは地理的な理由で城郭を構えたのであろう。

 六波羅では、頼りにしている兵力である宇都宮の軍勢は楠の立て籠もる千剣破に向かい、中国地方の兵力は伊東に阻まれて上洛できない、先ず四国の兵力を集めて麻耶に立て籠もる赤松を討伐しようなどと作戦を練っていた。ところが2月4日に、伊予の国(愛媛県)から早馬による使者が到着し、伊予の武士である土居次郎、得能弥三郎が宮方になって挙兵し、伊予の兵を集めて土佐へと向かおうとしたのを聞きつけて、長門探題の北条上野介時直が300艘余りの船で四国に渡って討伐しようとしたが、星岡(松山市星岡町)で大敗を喫してしまっただけでなく、時直親子も行方がしれないという。これで四国野伏はほとんどが宮方についてしまい、その勢既に6,000騎となって宇多津(現在の香川県)、今張(現在の今治)から船に乗って都に攻め上がろうとしているので、警戒が必要であるとの情報を伝えた。

 争乱はいよいよ全国的な規模に拡大する様相を見せている。物語は次から次へと新しい展開を見せ、新しい人物が登場する。次回は、どんなことになるか。 

松岡享子『子どもと本』

5月21日(木)晴れ

 松岡享子『子どもと本』(岩波新書)を読む。東京子ども図書館の理事長として活躍する一方で、児童文学の翻訳・創作・研究の分野でも業績を上げている著者による、子どもの読書をめぐる論考。こどもへの愛情と信頼とがあふれた書物である一方で、この書物の中で取り上げられている読書が文学に偏りすぎているのではないかという疑問も感じた。

 石井桃子さんの『新編 子どもの図書館』について十分に論じないうちに、その続編を自認して書かれたこの書物を読み、取り上げるのはちょっと性急ではないかとも思うが、私が日頃考えていることと重なる部分が少なくない本なので、こちらをまず論評しておくことにした。

 この書物は5章からなり、「子どもと本とわたし」と題された1章は著者の読書遍歴と、子ども図書館を運営するに至るまでの過程を自伝的に綴っている。2章は「子どもと本との出会いを助ける」と題されていて、著者がこれまでの活動を通じてどうすれば子どもを本好きにできるかについて、記されている。3章は「昔話のもっている魔法の力」と題され、子どもたちがなぜ昔話を好むかを心理学的な知見を交えて考察している。4章は「本を選ぶことの大切さとむつかしさ」と題され、図書館の蔵書選びのなかでの図書館員の役割について論じられている。5章は「子どもの読書を育てるために」と題され、民間の有志の努力には限界があるので、社会が共同して、読書を育てるための仕組みを作り、支えていくことが必要と論じている。

 特に興味深かったのは3章で、図書館員の仕事として子どもたちにお話を語る際に、昔話が子どもたちを強く引き付けるという経験が、意外でもあり嬉しく感じられることであった。昔話をめぐっては民俗学、心理学、文学の3つの領域から研究がなされているが、それらの知見から多くのことを学んだという(どちらかというと心理学と文学に重点があるようである)。昔話は語り物として長い間練り上げられてきたものであり、「くりかえし」や「先取り」などの技法が用いられて子どもたちの興味をそらさないだけでなく、シンボリックな形で展開される物語が子どもたちの成長の過程における不安を解決するような性格をもっているという。ここで名前が挙げられているリュティとか、プロップとかの文学者たちの本は私も読んでいるのだが、また新しい興味をもって読み返してみるのも意義があるかもしれないと思っている。

 「読む」ことが中心になって論じられている書物であるが、「物語を生きる子ども」(76ページ)とか「字が書けないことは力」83ページ)という洞察も見られ、実は「読む」ことが孤立した行為ではなくて、「話す」ことや、その他の子どもの生活と密接にかかわりあっているということが著者の一番言いたいことではないかと思う。だから、そのための条件整備を進める社会全体の取り組みが必要だと締めくくられているのであろう。

 最初にも触れたが、著者が考えている読書が文学作品を読むことに偏っており、(石井さんの『子どもの図書館』だと図鑑類なども視野に入れられている)、アメリカの図書館における「評価用カード」(174-5ページ)の話は興味深かったが、子どもたち自身が読んだ本をどのように記録するかについても関心を広げる必要があるのではないか。さらにデジタル化が進む中で、子ども図書館と読書活動がどのようにその活動を展開していくかについて「あとがき」で多少の不安が述べられているだけであるのが気になるところではある。

 そうはいっても、子どもたちの読書経験に長年付き合ってきた著者が蓄えてきた知見には学ぶべき多くのものがあり、直接子どもや読書とはかかわらないところで生活している人間にとっても有益な内容が含まれている書物である。

日記抄(5月14日~20日)

5月20日(水)晴れ

 5月14日から本日までの間に経験したこと、考えたことなど。本日は夜、外出するので、早めに投稿する。

5月14日
 横浜駅西口ダイヤモンド地下街の有隣堂がコミックスや子ども向けの本の店舗を構えているコーナーで、若い外国人女性が2人コミックスの本を抱えてこれから買おうとしている姿を見た。これから、どのくらいこのような光景を見かけることになるだろうか。

 同じく西口のカフェでコーヒーを飲んでいたら、プレスリーの”Don't Be Cruel"が聞こえてきた。NHK「ラジオ英会話」で取り上げられたことがある歌である。この番組では時々プレスリーの話題が出たり、口真似が出たりする。

 鈴木光太郎『増補 オオカミ少女はいなかった スキャンダラスな心理学』(ちくま文庫)を読み終える。オオカミに育てられたという2人の少女をめぐる話の相当部分が作り話であったという。以前、林竹二が小学校で「人間について」という授業をする様子を撮影した映画を見たことがあり、その中にこの話が出てきた。林はこの話の大部分を実際にあったこととして授業をしていたのだが、この時代でもこの話を疑わしいとする意見はあったはずである。

5月15日
 NHKラジオ「実践ビジネス英語」では”Millennials"(2000年世代)について取り上げてきたが、日本で言うと「ゆとり世代」とか「平成世代」というのと重なる世代であり、その評価についても重なる部分がある一方で、違うところもありそうである。パートナーのヘザー・ハワードさんの知人であるニューヨークに住む20代の女性の意見として
She talked about how Millennials are often criticized for being lazy and living at home, but how are we supposed to do otherwise, she said, when students are graduating from college with enormous amounts of debt and the bad job market forces many of the to work for low wages or take unpaid internships so they can gain experience?
(彼女の話では、怠け者で親元で暮らしているとして2000年世代は批判されることが多いが、大学生は多額の負債を抱えて卒業していて、さらに就職難のためにその多くが、低賃金労働や、経験をえられるようにと無給のインターンシップを強いられる状況では、一体自分たちは他にどうすればいいというのか、とのことだった。)
という発言が紹介されていたが、日本の同じ年齢層と比較して慎重に検討してみる必要がある。

5月16日
 NHKラジオ「アラビア語講座」で出てきた表現で「ザーリカ ジャーミウン」は「あれはモスクです」、「ティルカ ジャーミアトゥン」というのは「あれは大学です」という意味だそうである。「ザーリカ」は遠くのものをさす男性の指示詞、「ティルカ」は遠くのものをさす女性の指示詞だそうである。そういえば、ヨーロッパの言葉でも「大学」はたいてい女性名詞だったと思う。モスクも大学も人が集まるところなので、同じような言葉になったとのことである。

 同じく「攻略!英語リスニング」では「ジーンズ」の話題を取り上げた。
Jean was a heavy, cotton material that, as one theory goes, came out of the Italian city of Genoa, in the 17th century. The French word for Genoa is Gênes. Hence jeans.
(ジーンというのは、丈夫な木綿の織物で、一説によると、17世紀のジェノヴァで生まれた。ジェノヴァはフランス語でジェーヌ。それを英語読みにしたのがジーンズである。)
 ジェノヴァはコロンブスの故郷であるともいわれ、アメリカとは縁の深い町のようである。

5月17日
 ニッパツ三ツ沢球技場で横浜FC対ギラヴァンツ北九州の試合を観戦する。両者ともに相手のゴールを再三脅かすのだが、得点に至らず緊迫した展開が続いたが、後半に横浜がセット・プレーから途中出場の大久保選手のヘディングで得点し、これが決勝点となって、横浜FCはホームでの今季初勝利を飾った。よかった、よかった。

5月18日
 NHKラジオ「入門ビジネス英語」ではインドネシアの旅行業者を相手に、日本への観光旅行について説明・勧誘に出かける旅行代理店の社員が登場している。彼らのプレゼンテーションは、インドネシア語でselamat siang(こんにちは)というところから始まるが、このように現地の言葉を使うのが効果的だという。続いて、You're not here today to test my Indonesian language skills(今日集まっていただいたのは、私のインドネシア語の実力をテストするためではないでしょうから)と、ユーモアを交えて引き取って、英語に移るという点も巧みだなと思った。

5月19日
 「入門ビジネス英語」でHow about prayer rooms? (祈祷室はどうでしょうか?)という質問が出された。ハラルをめぐる説明の途中なので、その点についてはもうすぐ取り上げますといって、質問への回答を待ってもらうという展開だったが、思い出すのは、ムスリムの外国人と話していて、何気なく、東京にもモスクがあるという話をしたら、どこにあるのだ? ぜひ行きたいといわれて返答に困ったことがある。自分は関心がなくても、宗教についてはきちんと調べておく必要があるのだと感じた経験である。

5月20日
 「実践ビジネス英語」に出てきたSwiftの言葉。
He was a bold man that first ate an oyster. (最初に牡蠣を食べた人は勇敢だった。)
 漱石の『猫』の9で、苦沙弥先生のところに来た天道公平(実は彼の旧友の立町老梅)の手紙に「…始めて海鼠を食い出せる人はその胆力において敬すべく、始めて河豚を喫せる漢はその勇気において重んずべし。海鼠を食らえるものは親鸞の再来にして、河豚を喫せる者は日蓮の分身なり」とあるのは、スウィフトのこの言葉を踏まえたものではないかと思う(漱石一流の磨きがかかっていることも確かだが、それ以上に、漱石がスウィフトをよく読んでいたことの方が敬意を払うのに値しそうである)。

ダンテ・アリギエリ『神曲 煉獄篇』(3)

5月19日(火)曇り

 第2歌の終わりで、ダンテはかつての盟友であった音楽家のカゼッラと出会い、懐かしさのあまり彼の歌を聞きたいと頼む。すると、カゼッラはダンテの作品のなかから「知性の中で私に語りかける愛神は」という一節を含む詩を選んで歌いだす。ダンテとウェルギリウス、煉獄での試練を受けようとする人々のすべてがこの詩に聞き入るが、煉獄の番人である小カトーの「これは何たる怠慢、何たる愚図」(43ページ)という叱責にあって四散する。ダンテの詩は彼の未完の作品『饗宴』のなかの章句で人間の到達しうる最高の知恵である哲学によって、地上の世界においてあらゆるものの認識が可能になり、それゆえ人間は独力で至福直観に到達できると主張するものであった。彼は『神曲』ではこの考えを捨てて、哲学ではなく、神学が人間を最高の幸福へと導くと考えているのである。

人々が恐慌をきたして逃げ出し、
平野へと散り散りになり、
私達人類を正義が責めるあの山に向かったにもかかわらず、

私は信頼する道連れのかたわらに身を寄せた。
あの方なしにどうやって私は走れたであろう、
誰が私をその山の上まで導いてくれたであろう。
(46ページ) 煉獄へやって来た人々は散り散りになったが、ダンテはウェルギリウスのもとを離れない。しかし、キリスト教以前の古典古代の人物であるウェルギリウスには、煉獄山の登口がどこにあるのかはわからない。ただ、ダンテの旅行が神の意思に沿うものであることを確認させて、安心させるだけである。

 煉獄の山の急な斜面にたどりついた二人が出会ったのは教皇から破門を受けた人々の群れであった。その群れの中にいた1人は自分がナポリ・シチリア両王国の王であったマンフレーディ(1232-66)であると名乗る。彼はナポリ王位をめぐり、さらにはイタリア統一をめぐって教皇庁と対立、戦闘を繰り返した結果、教会から破門を受け、死後にはその墓を暴かれたけれども、死の直前に悔悛したために、破門による時間の遅れはあったとはいうものの煉獄で罪を清めることができるのである。
私の罪の数々はおぞましいものでした。
ですが無限の善の腕(かいな)は広く、
あの方に向かうものならば迎え入れてくださいます。
(57ページ) 
聖なる教会に反逆したまま死んだ者は、
最後の瞬間に悔悛したとしても、
それまで傲慢のうちに過ごした時間の三十倍もの長きにわたり

この崖の外に居続けねばならないというのは
真実です、善き人々の祈りによって
宣告された期間が短縮されなければ。
(58-59ページ) そうして彼は、地上にいる自分の遺族たちに自分が煉獄にいることを伝えて、その期間を短縮するために祈るよう伝えてほしいというのである。ここには一方で教会の権威を認めながら、より高次の判断は神に委ねられるというダンテの思想を読み取ることができる。こうしてダンテは、煉獄山の険しい山道を登る足がかりを得ることになるのである。

石井桃子『石井桃子コレクションⅢ 新編 子どもの図書館』

5月18日(月)曇り

 石井桃子『石井桃子コレクションⅢ 新編 子どもの図書館』(岩波現代文庫)を読み終える。1965年に岩波新書の1冊として刊行されたものに加筆し、付記を増補したものである。それで、この本の主要部分は40年以上昔に何度か読んだはずであるが、ほとんど記憶している部分がない。わずかに記憶に残っているのは子どもに本の読み聞かせをしている中で、トルストイの「人は何でいきるか」などの話に子どもたちが食いついてくるという個所である。20代後半にはトルストイの思想にかなり興味をもっていたので、それで印象に残ったのであろう。

 今回、この本を読んでみて、全く別のところで強く印象に残った個所がある。まず、そこから書いていきたい。
 石井さんは自宅の一部を改築して、「かつら文庫」という家庭文庫を開設する(この間の事情については、あらためて書くことにしたい)。1958年のことである。この書物は「かつら文庫」の(この本の初版が出た1965年までの)7年間の歩み、通ってきた子どもたちの記録、子どもの本、子どもの図書館という4つの部分からなる。特に印象に残ったのは本を読みに(借り出しに)やって来た子どもたちの記録である。

 中でも杉田さんという小学校5年生の女子の話が注目に値する。彼女は「かつら文庫」に通うようになってからノートにみじかい感想を書きつけるようにしてきた。彼女はつねづね「どうして本屋さんは、いつもおんなじものばかりならんだ全集を出して、自分たちの知らない、あたらしい本をだしてくれないのか」(91ページ)という不満をもっていて、それを聞いた石井さんから直接出版社に投書しなさいと助言されて、行動に及ぶ。とくに面白かったと思う本の感想を列挙して、今後の参考にしてほしいといろいろな意見を書き連ねる。
 みじかい感想というのがいい。それだけ本の特徴についてきちんととらえていないと書けないし、それから長い感想を書こうとすると、途中で苦しくなる。(私自身の経験からそう思う。)

 さて、感心したのはジーン・ウェブスター(1876-1916)の『続あしながおじさん』の感想である。
「正よりおもしろい。手紙の文章だけでできているが、こ児院の改良がおもしろい」(93ページ)。
「正」(篇)というのは「あしながおじさん」(Daddy-Long-Legs)のことで、アメリカ東部の孤児院で育ったジルーシャ(ジュディ)・アボットという少女が孤児院の後援者の1人である紳士に文才を認められて、その好意でカレッジに進学することになる。本の大部分はジュディがカレッジの生活について匿名の紳士に宛てて書いた手紙からなっている。カレッジで彼女は勉学のかたわら、カレッジの行事や活動にも励み、社会問題や婦人参政権の問題に関心を寄せ、友情をはぐくみ、作家としての道を歩み始める。その中でルーム・メートのジュリアの叔父であるジャーヴィス・ペンデルトンという紳士や同じくサリーの兄のジミーとの交際を通じて次第に大人の女性へと成長を遂げていく。とまとめてみると、小学校5年生にはわかりにくいかもしれない。
「続」(篇)はDear Enemyという題名で、ジュディが育った孤児院の院長に彼女の親友であるサリーが指名される。サリーは若い政治家と交際中で、孤児院の問題など眼中になかったのだが、差し迫った問題に直面して次第次第にこの仕事にのめり込んでいく。孤児院の顧問をしている医師が改革に熱心であるが、時としてサリーと対立する。この作品はサリーがジュディや、医師に向けて現況を書き記す手紙からなっているが、その中で医師に対してはDear Enemyと呼びかけるので、医師が当惑する。彼には実は秘密がある(ちょっと『ジェーン・エア』に似ていると書くとヒントの与えすぎになるかもしれない。正篇ではジュディが『ジェーン・エア』を読んでその感想を書きつづっている個所がある)。Dear Enemyという原題が訳しにくいので、『続あしながおじさん』という題名になっているのは察しが付く。
 児童青少年はどのような本を好むのかという問題を考えるのに、続編の方が面白いという小学生の意見は参考になる。もちろん、個々の子どもの個性や環境の違いを考える必要はあるだろうが、続編の方が面白いという意見は貴重である。しかも彼女は「孤児院の改良」というこの作品の主要なテーマの1つを的確に読み取っているから凄いのである。孤児ではなくても、子どもなりに親やその他の大人たちからこのように接してほしいという要求はあるだろう。そういうことが「孤児院の改良」への関心につながっているのではないか。この作品は20世紀初めの社会観をかなりよく反映していて、社会悪と遺伝の問題や、その当時における家庭崩壊の問題なども描きこんでいるが、その点はどうだったのか。

 実際のところ『あしながおじさん』にもジュディの目を通して社会問題への関心が描かれているのだが、見落とされがちである。さらに小学校5年生でも身近に大学生がいたりすると、大学での学生生活は関心事となるはずだが、『あしながおじさん』が描いているのは20世紀初めのアメリカの全寮制の名門女子大学(作者であるジーン・ウェブスターが学んだのはセヴン・シスターズと呼ばれる東部名門女子大学7校のうちの1つであるヴァッサー・カレッジ)の話で、日本の小学生にはあまり身近に感じられないかもしれない。先ほど『ジェーン・エア』の話を出したが、ジュディがカレッジで読む文学作品の多くがまだまだ小学生には縁の遠い作品であることもマイナス材料である。しかし、これが中学生、高校生となってくると話は別になりそうである。

 つまり、『あしながおじさん』正続には様々なテーマが織り込まれており、読者が自分の成長の過程で読み返していくうちに、気付いたり、自分の経験と結びつけることができたりして、読みが深くなるし、評価も変わっていくことが予想できる。だからこの小学生も成長に連れて自分の評価を改めるかもしれないし、そういうことを含めて読書の履歴をきちんと記録していくことは大事なことではないかと思うのである。

 さて、この記事を書くためにヴァッサー・カレッジについて調べていて、思い出したことがあり、本題とは関係ないのだが、書き添えておく。ウェブスターは1901年にこのカレッジを卒業しているが、1930年代に卒業したメアリ・マッカーシーは、その後10年近くの経験をつづった自伝的な小説『グループ』を書いた。この小説はシドニー・ルメット監督によって映画化された。大不況時代に自立の道を探って苦闘する(そうでないのもいる)女性たちをシャーリー・ナイト、ジョーン・ハケット、ジェシカ・ウォルター、キャンディス・バーゲン、ジョアンナ・ペティットといった女優たちが演じていた。懐かしい顔ぶれであり、覚えている場面が多い映画である。とくにシャーリー・ナイトの演技が印象に残っている。

 どうも脱線してしまって、石井さんの書物の内容については書き残したことが多いので、また改めて続きを書いていきたいと思う。

『太平記』(45)

5月17日(日)晴れ

 元弘3年(1333年)2月、楠正成の立て籠もる千剣破城(ちはやのじょう)を幕府方の大軍が囲んで、何度か攻撃を仕掛けたが、正成は智略をもって撃退した。大塔宮配下の野伏たちが道を塞いで兵糧を絶ったため、さしもの大軍も脱落者を出してその勢いを失い始めた。

 包囲軍のなかに上野の国(群馬県)の住人で新田小太郎義貞という武士がいた。源氏の棟梁であった八幡太郎義家の血筋を引く由緒ある家柄の出身であったが、鎌倉幕府の実権を桓武平氏の流れである北条氏が握る世の中となり、不本意ながらその指示に従って、この戦いに参加していたのである。
 
 しかし、思うところあって、執事(武家の家政を取り仕切る家老)である船田入道義昌を呼び寄せて次のように述べた。「古へより、源平両家朝家(ちょうか)に仕へて、平氏世を乱る時は、源氏これを鎮め、源氏上を侵す日は、平家これを治む。義貞、不肖なりと云へども、当家の門楣として譜代弓箭の名を汚せり。しかるに今、相模入道の行迹を見るに、滅亡遠きにあらず。われ本国に帰つて義兵を挙げ、先朝の宸襟を休め奉らんと存ずるが、勅命を蒙らでは叶ふまじ。いかがして大塔宮の令旨を給はつて、この素懐を達すべき」(345ページ、昔から源平の両家が朝廷につかえて、平氏が世を乱すときは、源氏がこれを鎮め、源氏が朝廷に叛くときは、平家がこれを討伐した。義貞は不肖者ではあるが、源氏の棟梁として代々続く武名を継いでいる。ところが現在の相模入道=北条高時の行状を見ると、滅亡は遠くなさそうである。自分は本国に帰って、正義のための兵(鎌倉幕府討伐の兵)を挙げ、先帝の御心をお慰め申し上げようと思うが、天皇のご命令をいただかなければ兵は起こせない。何とかして大塔宮の令旨をいただいて、この年来の志を遂げたいものだ)。
 武士たちの間には源平両家が武臣として朝廷につかえて政治を動かし、もしその政治に非があれば交代すべきであるという考えが浸透していたようである。平家の繁栄の後に源頼朝がこれを倒して鎌倉幕府を開いたが、その後、北条氏が執権として幕府を動かすようになった。(この後の室町幕府は源氏の血を引く足利氏、それを倒した織田信長は平氏を自称し、徳川家康は源氏=新田氏の子孫を称していた。) 新田氏は八幡太郎義家の血を引く名門ではあるが、同系の足利氏が鎌倉幕府で重んじられ、源氏の嫡流扱いをされているので、ここで何とかしなければならないという意識があったのであろうと思われる。相談を受けた船田入道はなかなかの知恵者であった。

 船田は、大塔宮はこの近くに潜行されているので、私が策略をめぐらして連絡をとり、令旨をいただきましょうと請け合う。彼は配下の者を野伏に変装させて夜中に葛城山に登らせておき、自分は戦線から離脱して故郷に帰る武士の様子をして早朝の霧のなかを進んでいき、かねて打ち合わせて置いた通りに、変装させておいた配下のものと小競り合いを演じていた。すると、宇多、内の郡の野伏たちが、これを見て、戦っている野伏たちに加勢しようとやって来たので、それを11人も生け捕りにした。そして、おまえ達を捕まえたのは、討伐するためではなくて、大塔宮と連絡をとるためであると本心を打ち明ける。すると捕虜になった11人のうちの1人が、そんなことは簡単で、令旨を貰ってくるといって去っていく。

 そしてこの男が戻ってきたので見ると、令旨ではなく帝の綸旨(勅旨を受けて蔵人の発給する文書)の形で書かれた文書を携えていた。そして後醍醐天皇のお言葉として、北条高時とその取り巻きたちが朝廷の法規をないがしろにし、好き放題の乱暴を働いている。積み重ねた悪行は頂点に達し、天罰は既に下ろうとしている。ここで、倒幕の兵を起こすことは天皇のご心労を安らげようとして、義兵を起こすと聞いた。このことに天皇は深く感じ入っておられ、成功の暁には多大の褒賞を与えるであろう。すぐに行動を起こすべきであるというようなことが書かれていた。後醍醐天皇(厳密に言えば前天皇)は隠岐の島にいらっしゃるので、大塔宮がこのような文書を発給するのは越権行為であるが、この時はそれほど問題になっていない。とにかく、この文書は義貞の名誉を大いに重んじた体裁と内容であったので、彼は喜んで、仮病を使て陣営から引き上げ、本国へと帰っていった。

 次第に包囲軍の兵力が減ってきたので、六波羅は改めて宇都宮公綱とその配下の紀清両党の約1,000騎の兵力を派遣した。新たに加わった精鋭部隊なので、城の堀の近くまで攻め上り、厳しく攻め立て、城の防備を次第に破壊しはじめる。それどころか、城の立てられている山を少しずつ掘り崩し始めた。もともとからいた兵士たちははじめからこのようにして攻めていればよかったものをと後悔したのだが、それにしても山は大きいので、なかなか掘り崩せないでいた。

 今回はいよいよ、新田義貞というこの物語の主要登場人物が登場した。本拠である上野の国に引き上げた彼は第10巻になってまた登場する。楠が大軍を引きつけて奮闘していた間に、各地で宮方に心を寄せる武士たちが兵を起こし始める。いよいよ物語は大きく動いていくのである。 

『太平記』(44)

5月16日(土)曇り

 元弘3年(1333年)2月、楠正成の立て籠もる千剣破城(ちはやのじょう)を幕府方の大軍が包囲したが、正成は智略を用いて再三敵を撃退し、幕府方は打つ手があまりなくなって長期の兵糧攻めに持ち込もうとした。

 戦闘がなくなったので、包囲を続けている幕府軍は暇を持て余すようになった。それで大将たちはその陣営に、当時、遊女が多くいたことで有名だった江口(大阪市東淀川区江口)、神崎(尼崎市神崎町)から遊女たちを呼び寄せて、さまざまな遊びにふけるようになった。北条一族の名越(なごや)遠江入道(=宗教)は甥の兵庫助と遊女たちの目の前で双六をしていたが、さいころの目をめぐって口論となり、気がたっていたのだろうか、刀を抜いての斬り合いになって叔父と甥が刺し違えて死に、その引き連れていた郎従たちもお互いに斬り合いになって200人余りのものが命を落としてしまった。千剣破城に立て籠もっていた兵士たちはこれを見て、「十善の君に敵し奉る天罰によつて、自滅する人々の有様を見よ」(341ページ、前世で十全会を保ったものが王になるという仏説により、天皇のことを十善の君と呼ぶ。その尊いお方に敵対したことへの天罰によって、自滅する人々の有様をみるがいい)と嘲笑した。「誠にこれただ事にあらず、天魔波旬の所行かと覚えて、あさましかりし珍事なり」(同上、天魔は欲界の第六天にいて仏法を妨げる魔王。波旬というのは天魔の別の呼び方のようである)と作者は記す。

 この年の3月4日に関東から飛脚がやって来て、戦闘をやめて無為に日々を送ることはよろしくないという指示が伝達されたので、主だった大将たちが集まって会議を開き、味方の向かい陣と敵の城との間にある堀に橋を渡して、城に打って入ろうと言う計略を立てる。このために京都から大工を500人余り呼び寄せ、長門国(山口県阿武郡)から幅5寸、厚さ6寸の材木、幅8寸、厚さ9寸の良質の材木を取り寄せ、広さ1丈5尺(4.5メートルほど)、長さ10丈(30メートルほど)の桟(かけはし)を作らせた。

 桟ができたので、それに2000本から3000本の御縄をつけて、滑車を使って、城の切岸の上に倒して懸けつけた。中国の故事に登場する魯の公輸般が、楚王が宋を攻めるときにつくった雲梯を思わせる出来であった(そんなことを書いているが、作者は雲梯を見たことはないのである)。血気にはやる兵士たちが5000人から6000人(どうも多すぎる)も橋の上を渡って、われ先にと城の方に進んだ。これまで守り抜かれてきたこの城もついに落城するのかと思われたが、楠は、こういうこともあろうかと用意しておいたのであろう、投げ松明の先に火をつけて、どんどん投げつけ、橋の上に薪が積まれているようにして、城内の水弾き(消火用のポンプ)に油を入れておいたのを注ぎかけた。それで橋げたに火が燃えついて、折からの他に風にあおられて、桟が炎上し、取り付いていた兵士たちは焦熱地獄の苦しみの中に谷底に落ちたり、そのまま焼け死んだりして全滅してしまった。

 そうこうするうちに吉野、十津川、宇多(奈良県五條市)、内郡(奈良県五條市)の野伏(農民・浮浪民などの武装集団)が、大塔宮の命を含んで集まること7,000人余り、包囲軍の武士たちを攪乱しはじめた。特に兵糧の運送を妨げたので、包囲軍は食糧に窮し、包囲を解いて郷里に帰ろうとすると、土地の地理に通じた野伏たちによる攻撃を受けて身ぐるみはがれ、這う這うの体で逃げることになった。「されば、日本国の武士どもの重代したる物具、太刀、刀は、この時に至って失せにけり」(344ページ、「重代下る」というのは父祖代々受け継いできたということである)というのは大げさに過ぎるかもしれないが、いったんは分離しかけた農民と武士との境界が鎌倉末から南北朝時代の争乱によって、またもやあいまいになったというのはその通りなのであろう。そして信長・秀吉の時代の刀狩までこの状態が続くことになる。

 こうして、千剣破城を包囲した大軍ははじめ180万と呼ばれていたのが、今やわずかに10万騎ほどになってしまった。すでに書いたように幕府は必要以上に大軍を投入した結果、兵站に困難が生じ、拙攻を重ねた包囲戦の失敗によって大きな損害を生み出すことになった。城攻めには籠城する軍の10倍を超える兵力が必要だといわれるが、はじめから10万騎で包囲したとしても、この条件は満たしていたはずである。楠がポンプに油を入れて、これを注ぎかけて火勢を強めたというのは話としては面白いが、この油がどのようなものであったのかが気になるところである。江戸時代においてもまだ菜種油は高価であったし、他にどんな油を使った可能性があるのか、調べてみたいと思う。幕府方は打つ手を打ち尽くしたかというとそうではなくて、まだまだ打つ手はある。

 包囲している将兵のなかには厭戦気分に陥ったもの、戦線から脱落するものが出てきたことは既に述べてきたとおりであるが、これに加えて、幕府に見切りをつけて、宮方に加勢しようと考え出すものが現われてくる。そのことについては次回。

 5月14日に、このブログを始めて以来読者の方々からいただいた拍手の合計が7,000を越えました。遅ればせながら、ありがとうございます。お礼を申し上げるのが遅れてしまったことをお詫びするとともに、これからも引き続きご愛読下さるようお願いいたします。

島村英紀『火山入門 日本誕生から破局噴火まで』

5月15日(金)晴れ

 5月12日、島村英紀『火山入門 日本誕生から破局噴火まで』(NHK出版新書)を読む。

 1月から3月にかけてNHKカルチャーラジオ『科学と人間』は山崎晴雄首都大学東京教授の『富士山はどうしてそこにあるのか~日本列島の成り立ち』を放送していた。時期的にかなり接近して、同じようなテーマで一方では番組が組まれ、他方では出版がされたので、両者が補いあう関係にあるのかと思ったが、そうでもなさそうである。山崎さんの放送は人類の起源や進化についても言及していたが、島村さんのこの書物は地球上のさまざまな火山についても触れてはいるが、日本に住んでいるわれわれが身近にある火山について最低限知っておくべきことは何かということをとにかく語っておこうという姿勢に貫かれているようである。火山については最近の研究によって考え方が変わってきた点が少なくなく、その点で再入門の必要があるというのが書名の由来のように思われる。

 それはこの書物の書きだしの「このところ、日本とその周辺で火山が騒がしい」(3ページ)という認識に支えられているのであろう。山崎さんがまだ今のところ噴火の気配を見せていない富士山を前面に出しているのに対して、島村さんは御嶽山の噴火、西ノ島新島で続く噴火、桜島で繰り返される噴火と、活発な火山活動に目を向けていることにも留意すべきである。

 第1章「こうして火山が日本を作ってきた」ではプレート・テクトニクスの理論を使いながら、日本列島の成り立ちと火山と自信が多い理由を説明している。日本列島は東日本では太平洋プレート、西日本ではフィリピン海プレートという2つの海洋プレート、東日本では北米プレート、西日本ではユーラシアプレートという2つの大陸プレートがせめぎ合う場所にある。とはいうもののプレート・テクトニクスで地震や火山のすべてが説明できるわけではなく、もっと大きな出来事を説明するためには、地球の表面にあるプレートの動きとは別に、もっと地球の深部から上がってきているプリュームの働きを想定するプリューム・テクトニクスの理論が有効だというのである。

 さて、日本列島は4つのプレートがせめぎ合う場所に会うので、地震が起きたり、火山ができたりする。陸上にある火山の7分の1は日本にある(この少し前に、世界の火山の大半は海底にあると説かれている)。地震も、マグニチュード6を超える大地震の22%もが日本に集中しているという。日本の地形のほとんどは火山活動の所産であるが、それだけでなく日本の季節や気候も、これらの地形と大きく関連している。もし地球温暖化がこのまま進むと、これまでの季節の変化の原因となっていた構図が狂い、梅雨の期間や降水量を始めとして、季節の変化が狂うのではないかと思われる。

 第2章は「日本を脅かしてきた噴火と火山災害」が歴史的に語られる。といっても、古い火山災害についてはあまり史料がないので、比較的最近の出来事が多く紹介されている。

 第3章では「どんな大噴火がこれから日本を襲うのか」をめぐり著者の考えが述べられる。火山ごとにマグマの性質は違うし、マグマが出てこなくても噴火することはある。噴火は5つのタイプに分けることができるが、その中で特に大きな災害を引き起こすのはイタリアのストロンボリ火山でよく見られるので、「ストロンボリ式噴火」と名付けられた噴火(日本では2014年に阿蘇山の中岳で起きたものがこれに当てはまる)、イタリアのブルカノ火山でよく見られる爆発に伴って溶岩流、火山灰、火山礫、火山岩塊を大量に噴出する噴火(桜島や浅間山の噴火にこのタイプが多いという)、巨大な火砕流を放出する「プリニー式噴火」(1707年の富士山の宝永噴火、1783年の浅間山の大噴火など)の3つのタイプである。日本では大噴火が何度も繰り返されてきたが、20世紀に入ってからは1914年の桜島の大噴火と1929年の駒ヶ岳の大噴火だけが大規模な噴火であり、その分、21世紀には大規模な噴火が何度か起きても伏木ではないと考える学者が少なくないという。
 
 これら以上の被害をもたらすのがカルデラ噴火であり、大規模なカルデラ噴火は日本では過去10万年間に12回起きたことが知られている。このうち、一番近年のものは7300年前に九州地方で起きた「鬼界カルデラ噴火」だった。カルデラ噴火がこの次いつ起きるかをめぐっては定説がない。ある試算によると、もしこの種の噴火が起きれば、最悪の場合1億2千万人の死者が出るという。ということは日本人のほとんどが死に絶えてしまうということっである。
 気をつける必要があるのはマグニチュード9の巨大地震後に近くの火山が噴火することである。東北地方太平洋土岐自身だけは不可が起きず、例外とされてきたが、2014年9月の御岳山噴火で例外ではなくなった。これまでの霊を見ると、近くにある火山一つだけが噴火するということはなく、すべての例で複数の火山が噴火している。なお、「近く」というのは600キロメートル以内ということで、日本国内のどこの火山がふかしても不思議はないのである。

 第4章では「危ない火山は意外に近くにある」として、とくに富士山と箱根山が挙げられている。「危ない」というのは単純に警戒レベルの問題ではなく、噴火をめぐる情報が少なく、予想が難しいとか、観光客が多いのに避難経路が少ないというような問題も関係している。さらに噴火と地震の予知のむずかしさ(少数だが予知が可能な事例もある)について論じられている。

 そして、第5章「火山とともに生きていく」ではこれまで述べてきたことを踏まえて、「火山国日本に住む覚悟を日本人はもっているべきなのであろう」(198ページ)と結んでいる。

 どうも暗い話が多くなってしまったが、火山の伏流水のおかげで成り立っている農業や工業も多く、鹿児島の桜島大根や群馬のキャベツも火山灰のおかげでできた土によりできる作物であるというプラスの面も考えなければならない。とりあえずこの書物に盛り込まれた知識をもとに、われわれの近くの自然について改めて考え直す時間をとっていくべきではなかろうか。

山本義隆『原子・原子核・原子力』

5月14日(木)晴れ後曇り

 5月13日、山本義隆『原子・原子核・原子力』(岩波書店)を読み終える。2013年3月に著者が務めている駿台予備学校の千葉校で高校生、受験生、そして大学入学予定者に向けて行った特別講演をもとに、その講演の記録を手直しして、ほぼ3倍に加筆したものだそうである。

 著者が「はじめに」で述べているところによると、10年ぐらい前までは大学の入試の範囲に原子・原子核の分野が含まれていたのが、現在では含まれなくなっているという。また2年ほど先に行くと復活するらしいのだが、「この10年間ほどの受験生には、その方面の知識が低下ないし欠落している」(ⅵページ)ということになる。これはちょっと恐ろしい結果を生み出すかもしれない。そこで、この書物は最低限知っておいてほしいことを盛り込んでいるというのだが、難しい――高校時代に習ったかもしれないのだが、忘れてしまったし、それ以上にもともと理解不可能であった――数式などが出てきて、学力低下が叫ばれてはいるけれども、(おそらくは理科系だけの話ではあるが)近ごろの受験生もこの内容が理解できるのであれば、まんざら捨てたものではないなと思ったりした。それで私はこの書物の内容が十分に理解できたとは言えないのだけれども、理解できた限りで思ったことを書き連ねておく。

 著者は予備校教師であるとともに、科学史研究家でもあり、この書物は「原子・原子核・原子力」の問題を軸に、近・現代の物理学の歩みを辿り直すことによって、受講者たちにこの領域への関心を呼び起こし、かつそれなりの知識・理解を植え付けようとするものであるが、実はここで取り扱おうとしている「歴史」には問題があるということが最初の方で述べられている。「歴史のように話していますが、実際の歴史を全て正確に語るわけではありません。実際の科学の歴史はもっと複雑で錯綜しています。その上過去の個々の発見にたいして、現在の常識で理解するものと、それを発見した本人や当時の人たちの理解とは、しばしば異なっています。現代人が現代の物理や化学の理論に基づいて理解しているように、過去の人たちはその時代のものの見方で理解しているわけです。同じ言葉でも、意味が異なる場合もあります。しかし、教育上の目的で歴史に言及すると、どうしても成功した話に話題が偏り、なぜ成功したのかについて現代人の理解による説明、つまり後智恵による説明がなされがちです。実際の科学の歴史は、圧倒的にうまくゆかなかった試みからなり、成功した例でも、現代から見て正しく理解されていたとは限りません」(15ページ)。
 そして著者は20世紀アメリカの物理学者でその独特の個性で今でも人気があるリチャード・ファインマンが一般向けの講演『光と物質の不思議な理論』で、光と物質の相互作用についてのそれまでの考え方を「歴史的に」紹介した後に、次のように語ったという例を引き合いに出す。
「ところでいままでざっとお話してきたことは、私が「物理学者による物理学史」と呼んでいるもので、決して実際に即した正確な歴史とは言い難いのです。いまお話しした歴史は、物理学者が弟子に話し、その弟子がそのまた弟子に語り伝えるといったたぐいの、伝承化された神話のようなもので、必ずしも物理学発展の歩みを実際にたどったものではありません。物理学の歴史的発達が事実どのような道筋を通って来たかなど、本当をいうとこの私にすらわからないのです」(15-16ページ)。
 若者に科学への関心を呼び起こすには、科学者たちの伝記を読ませるのがよいとか、ある学問領域を教えるのにその領域の発展の歴史を辿って教えるのがいいとかいう考えに対して、慎重に対処すべきであると思わざるを得ない(慎重に対処すべきだということは、やめてしまえということではない)。

 その中でいろいろと話を面白く聞かせる(本を面白く読ませる)工夫もされている。登場する物理学者の肖像は切手の図が使用されたり、著者自身のデッサンが使われたりして手作り感があふれている。各事例が受験とどのように関連するかも頻繁に触れられている。例えば1897年にJ.J.トムソンは、電場と磁場によって陰極線が曲がることを示し、その曲がり方から、陰極線の電荷が負であることを確かめ、その比電荷を測定する実験を行った。この実験は昔からよく大学の入試問題に使われているとして、2008年のお茶の水女子大の試験問題を引き合いに出す。個々の物理学者の人物像もエピソード満載で興味深い。ニールス・ボーアについて「ボーアはスポーツマンで、学生時代にはサッカーの選手として国内では知られていたようです。1908年のオリンピックには、デンマークのナショナル・チームの一員として弟ともに参加しています。後に数学者になる弟のハラルはミッドフィルダーのレギュラーでしたが、ニールスはゴール・キーパーの控えだったようです。補欠であったにしろ、オリンピックに出た5年後にノーベル賞論文を発表したのですから、正直、すごいものだと思います。もっとも、オリンピック自体も、商業主義と国家主義が大手を振ってまかり通っている今と違って、本当のアマチュア選手の小ぢんまりとした国際運動会のようなものだったのでしょう」(147ページ、なお、この時代ミッドフィルダーとはいわずに、ハーフ・バックと呼んでいたのではないかと思う。日本が最初にオリンピックに出場したのは1912年のことである)。比喩もなかなか巧みであって、エンリコ・フェルミについて「どこがすごいかというと、野球で言うとエースで4番というか、理論物理学と実験物理学の両方で超一流の仕事をしているということにあります。理論物理学と実験物理学が分離した20世紀には、これは稀有なことなのです」(180ページ)。

 面白く読ませようとしているだけではない。社会的な差別や戦争への科学の利用に対して批判的な目を向けるようにといている個所も目立つ。パリの自然史博物館の教授ポストを世襲してきた家柄に生まれ、エコール・ポリテクニクを卒業したアンリ・ベクレルとエコール・ポリテクニク卒業者ではないために出世が遅れたピエール・キュリーの境遇を対比して、「20世紀になってもフランスの科学界では、エコール・ポリテクニク出身者でなければ極端に冷遇されていたと伝えられます」(74ページ)と記し、キュリー夫人についても彼女が女性であり、ポーランド出身であったためかフランス科学アカデミーの会員になれなかったことを指摘している(77ページ)。さらにまた第一次世界大戦と物理学者たちとのかかわりについて率直に疑問をぶつけている。先ほどその天才ぶりについて触れられたフェルミについても、「政治や哲学の問題における判断の欠如」(180ページ)を指摘する弟子がいたことも付け加えている。さらにこの書物の主題とも大きく関連する原子爆弾の開発にかかわった学者たちの考え方やその後の姿勢についても詳しく記しているだけでなく、次のような書き方をしていることに注目すべきであろう:
「第二次大戦中にアメリカ合衆国で原爆を製造したマンハッタン計画に従事し、初めての原子炉製造を陣頭で指揮したエンリコ・フェルミが53歳という若さで癌により死亡し、そして最初の原爆実験の際に爆心地にかなり接近して観察したリチャード・ファインマンが70歳でやはり癌で死亡しています。戦争中に広島に原爆が投下された2日後に広島入りをして市内をつぶさに調査してまわり、その間に残留放射線を浴び、おそらく体内にも取り込んだであろうと思われますが、その6年後に癌で死亡しています。享年61歳でした。いずれも、放射線障害の疑いは否定できません」(90ページ)。著者は放射線障害が比較的早い時期に現れた例だけを問題にしているが、私が教わった先生で、広島で被爆されて、60年以上たって90歳を過ぎてから白血病で亡くなられた方がいる。こういう例も視野に入れておいた方よいだろう。

 「原爆と原発」をめぐっては、「核分裂の連鎖反応の実用化は、経済性も安全性も度外視した軍事的使用として、きわめて特殊な形で始まりました。軍事目的ですから、倫理性の問題も当然、、棚上げされています」(195ページ)とその発端からの危険な可能性を指摘したうえで、事故の問題、使用済み核燃料の問題(核エネルギーの使用可能期間は高だか200年ほどであるのに、その間に生まれた廃棄物が安全なものになるのには数十万年の時間を要する)、環境汚染・被曝労働の問題、最後に再び放射線の危険の問題について触れて、経済学者である安冨歩の「原子力を使うことの本質的問題は、使っている今、問題が出るばかりではなく、将来にも出ることであり、それが一体、どういう規模のどういう被害なのか、見当がつかない、という点にあります。不確定性が大きすぎるのです」(228ページに引用)という言葉によって締めくくられている。

 最後に、この本を読んでいて思い出したことを付け加えておく。キュリー夫人の長女であるイレーヌと結婚したフレデリック・ジョリオが第二次大戦中には対独レジスタンスに加わったことで知られている(166ページ)と書かれているが、ルネ・クレマンの映画『パリは燃えているか』に1場面だけ彼が登場するのを思い出した。映画を見ていて、ジョリオを演じている背の高い、ちょっと怖い感じの俳優に見覚えがあると思って後で調べてみたら、アラン・レネの映画『去年マリエンバートで』でヒロインの夫を演じていたサッシャ・ピㇳエフであった。この話をアルバイト先の同僚の女性に話したのだが、ちっともおもしろがらないので興覚めをしたことを思い出す。

 この講義を聞いた予備校の生徒たちがどのようなことを理解し、またどのような感想をもったかがわからないのが残念である。「あとがき」で著者はかつて批判した丸山眞男の言葉を引用し、権利は努力しないと失われてしまうのだと書いて、若者たちに自分たちの権利を守るための努力を呼び掛けている。「民主主義には良い点もありますが、面倒なこともあるのです」(233ページ)。著者が丸山をどのような点で批判したかについての説明も興味深いのだが、それ以上に、生徒たちがどのように著者の呼びかけに答えていくか、あるいはこたえようとしないかに関心がある。私の年齢が著者に近く、生徒たちからは遠いのがその点では残念である。

日記抄(5月7日~13日)

5月13日(水)台風(厳密に言うとこのあたりでは温帯性低気圧)一過の晴天

 5月7日~13日の間に経験したこと、考えたことなど:
5月7日
 世間では連休が終わったが、休日が終わって身辺がにぎやかに動き出すようになってくれた方が年金暮らしの人間には有りがたいと思う。

5月8日
 横浜駅西口のカフェでコーヒーを飲んでいたら、ピーター・ポール&マリーの『500マイル』が聞こえてきた。学生時代を思い出して、懐かしかった。

5月9日
 NHKアラビア語講座を聞いていて、”ミン アイナ アンタ?” ”アナー ミナ ル・カーヒラティ”(「あなたはどこの出身ですか?」「私はカイロ出身です」)という会話に出会った。アラビア語圏の地名には、インド=ヨーロッパ語圏の地名と同じように定冠詞がつくものがあるようである。エジプトの首都であるカイロは、アラビア語ではル・カーヒラ(ティ)と定冠詞がつくとのことであるが、インド=ヨーロッパ語のたとえば英語でこの都市を呼ぶ時は定冠詞は省略されてしまう。オランダのハーグとか、フランスのル・アーヴルというようなインド=ヨーロッパ語族の言語の名前をもつ都市の場合は(少なくとも英語でよばれる場合はザ・ヘイグというように)定冠詞が省略されない(日本ではハーグの定冠詞を省略するが、英語では省略してない)というのは奇妙なことである。

 NHKラジオ「攻略!英語リスニング」のLesson 5 であるThe Mayflowerのテキストを眺めていたら、scurvy(壊血病)の予防のために、イギリス海軍はライムジュースを水兵たちに飲ませたという記事に出会った。そういえば、イングランドの主要な港町であるリヴァプールの主要駅はLime Streetであった。

5月10日
 昨日に引き続き、「攻略!英語リスニング」に関連する話題。プリマス植民地を建設することになるPilgrimsがthey had gotten of on the wrong foot with the native people (ネイティブ・アメリカンとうまく折り合いをつけられなかった)という表現が出てきたが、4月27日(5月4日)放送の「NHKラジオ英会話」の”Starting Out on the Wrong Foot"(出だし悪し)にも、同じthe wrong footという言い方が含まれていた。 

5月11日
 NHK「ラジオ英会話」にberriesという語が登場した。手もとにあるLongman Active Study Dictionaryでberryを引くと、a small soft fruit with small seedsとある。この条件に適えば木の実だろうと、草の実だろうとberryということらしい。ちなみに桑の実はmulberryで、桑の木も同じように呼ばれる。

5月12日
 本日のNHKラジオ「入門ビジネス英語」に出てきた表現:
The weak yen is a double-edged sward. It is good for foreign tourits coming to Japan, but bad for the Japanese traveling abroad. (円安は両刃の剣です。日本を訪れる外国人観光客にとってはプラスですが、外国へ旅行する日本人にとってはマイナスです。)

5月13日
 NHKラジオ「実践ビジネス英語」ではthe Millennials(2000年世代)が話題として取り上げられているが、本日のvignetteの中では、この世代の特徴として言われている”immature, selfish and had an unwarranted sense of entitlement"(未熟で自己中心的で正当性のない権利意識をもっている)といわれているが、これは戦後のベビーブーム世代についていわれていたことと同じであると指摘され、結びで
when it comes down to it, the Millennials aren't really that different frm past Americans.
(煎じ詰めれば、2000年世代の人はむかしのアメリカ人と実はそれほど違いはないのです。)
との発言が出てきた。あるいは、そうかもしれないし、そうではないかもしれない。

ダンテ・アリギエリ『神曲 煉獄篇』(2)

5月12日(火)晴れたり曇ったり、夜になって雨が時々強く降りだす

太陽は既に水平線に達し、
その太陽を通る天球の子午線は
頂点でエルサレムを覆っている。

そして夜は太陽の反対側をめぐるため、
天秤座をたずさえガンジス川から出ようとしていた。
夜の方が長くなればそれも夜の手からこぼれ落ちる。

こうして、私のいた場所では、
白から紅(あか)へと染まった麗しい曙の女神の頬は、
成熟したために黄色い輝きになっていった。

私達は、まるで進む道を決めあぐねて
心では歩み、体は留まっている人々のように
まだ浜辺にたたずんでいた。
(32-33ページ) 当時の地理学ではエルサレムは北緯約32度、東西の中央付近にあり、その反対側に煉獄山、東の果てにはインドのガンジス川、西の果てにはスペインのカディスがあるとされていた。新大陸はもちろんのこと、中国も日本もヨーロッパの人々の世界の中には含まれていなかったのである。また春・夏には、太陽は天秤座から登るため、その反対側にある夜も同じ星座から現れると注記されている。地獄の旅を終えて煉獄山の麓に達したダンテとウェルギリウスは、目の前の風景の美しさに目を奪われて、なかなか次の行動に移れないでいる。

 すると、彼らは海をわたって近づいていくる船が見える。この船を操っているのは天使であり、地上のどのような船もかなわないような速さで、天使の翼の力だけで進んでいるのである。
空から遣わされた渡し守は船尾にいらした。
それを写した絵を見るだけで祝福がもたらされるような姿だった。
そして中には百をも越える霊が座っていた。

「イスラエルがエジプトを脱する時に」
それに続けて皆が声を合わせて
讃美歌の書かれている限りを斉唱した。
(36ページ) これらの霊は生前に犯した罪を清め、天国に向かうために、煉獄での試練を受けるのである。「イスラエルがエジプトを脱する時に」は旧約聖書の「詩篇」1113.1の句。この歌はエジプトにとらわれていたユダヤ民族がモーゼに率いられて脱出したことを祝福するものであるが、ここでは、罪に堕ちやすいはかない肉体を離れ、神の祝福に向けて出発した人々の魂を祝福する歌となっている。くしくも、ラブレーの『第四の書 パンタグリュエル物語』の中でパンタグリュエルの一行が航海に旅立つときにこの句を歌う。

 船に乗っていた人々は、ダンテとウェルギリウスに向かって、煉獄の山に向かう道を尋ねる。するとウェルギリウスは自分たちも彼らと同じ巡礼者であると答える。船から降りた人々はダンテがまだ肉体をもつ人間であることを知って驚く。そして彼の近くに集まる。ダンテは人々の群れの中に、旧知の音楽家であるカゼッラの姿を認める。

 二人は旧交を温め、ダンテはカゼッラに自分たちを慰めるために歌を歌うように求め、カゼッラは「知性の中で私に語り掛ける愛神は」(42ページ)とダンテの哲学的な抒情詩に節をつけて歌い、彼の歌に人々が聞き惚れていると、煉獄の番人である小カトーが現われる。そして、一行がすぐに煉獄山に向かうようにと促す。集まっていた人々は散らばって、山のほうに向っていった。

私達の出発もそれに劣らず慌ただしかった。
(44ページ) ダンテの詩がカトーの出現によって中断されたことは、この詩の中に表現されたダンテの「哲学」の力で人間は幸福を得られるというかつて抱いていた思想を彼自身が否定・克服しようとしていることを示す。煉獄の旅は彼にどのような経験と思索を与えるのであろうか。

五月の風を

5月11日(月)晴れ

五月の風を

窓を開けよう
家の中を
五月の風が通り抜けていくように
窓を開けよう

若葉の中を通り抜けてきた
風が
鳥の声を
家の中まで運んでくる

今年の新しい
命の芽生えに触れた
風のおかげで
家の中は明るくなるが

若いということは
世慣れないということであり、
いたずらだということでもあり
風のいたずらで
書類が飛んだり
手紙が散らばったり
混乱に加えて
思いがけない
埃がたったりもする
それも明るくなる――ということの一面だろうか

毎年 毎年
新しい年の風を感じてきた。
明るく 力強い日々がやってくることを願いながら。
今年こそはと思いながら、
今年もいいことばかりではなさそうだが
家の中に風を通そう
そうして新しい年の便りを受け取ろう。

今村啓爾『日本古代貨幣の創出 無文銀銭・富本銭・和同銭』

5月10日(日)晴れ

 今村啓爾『日本古代貨幣の創出 無文銀銭・富本銭・和同銭』(講談社学術文庫)を読み終える。

 教科書的な知識では、日本で最初の貨幣は和銅元年(708年)に発行された和同開珎である。ためしに山川出版から出ている受験用の詳しい日本史参考書を見たところ、このように書かれていた。年号は和銅であり、貨幣の名は和同開珎であること、開珎を「かいちん」と読むか、「かいほう」と読むか、この時代の歴史を記す『続日本紀』には貨幣の名前について記載がないのはなぜかなどなど、さまざまな疑問が投げかけられてきた(山川出版の参考書には「かいちん」と記されている)。さらに言えば、和同開珎の発行以前に貨幣が流通していたのではないかと思わせる記事が『日本書紀』には散見されるし、<無文銀銭>とか<富本銭>とかいう考古学的な発掘物の存在は、和同開珎に先立って貨幣が発行され、流通していたのではないかという疑問を抱かせる。奈良県飛鳥池遺跡で進められていた発掘調査によって富本銭が大量に出土し、和同開珎に先立つ貨幣であることが日本最古の貨幣は和同開珎であるという入学試験の答案を書いて入学した大学で、それを否定する学説に出会うかもしれない。

 この書物では、日本で最初に流通していた貨幣は無文銀銭であったと論じている。『日本書紀』には天武天皇12年(683年)4月15日に「今より以後、必ず銅銭を用い、銀銭を用いることなかれ」(53ページ)という詔が出たと記されているが、この銀銭が無文銀銭であるというのである。今村さんが書いているように、「銅銭鋳造の記事がないのに、いきなり銅銭を使用せよという記事から始まるのであるから、このころの貨幣関係記事は、部分的な記録が残っているに過ぎないと考えなければならないであろう」(53ページ)。銅銭に先立って銀銭が発行・流通したことは日本独自の特色であるという。無文銀銭は天智朝、遅くとも天武朝には存在し、基本的に4分の1両という重さをもつものとして作られている。それで無文銀銭が地金としての価値に基づいて交換財として利用されていたと考えられる。だから実用流通銭と考えてよいというのが著者の意見である。

 この天武天皇の詔にいう銅銭が富本銭であるというのが著者の考えである。無文銀銭が国際的な価値の裏付けのある地金の実体価値で流通していたのに対し、銅で作った名目価値だけの貨幣を無理に流通させようとしたのが詔の意図であったという。銅銭を銀銭と等価のものとして流通させることにより、政府は無限の収入源を確保でいるはずであった。しかし銅銭は不人気で、思ったほどの流通を見ることなく、その一方で銀銭は禁止令にもかかわらず、その後も使われ続けた。

 25年ほどたって、改めて名目価値だけの貨幣を発行し、流通させることが試みられた。それが和同開珎である。古銭研究家は和同開珎を<古和同>と<新和同>に分けている。<古和同>には銀銭と銅銭があり、銀銭のほうが多く残っている(多く発行されたと考えられる)。<新和同>はすべて銅銭である。<古和同>は字体が古拙で、富本銭と同じようにアンチモンを含む銅合金を使用している点が注目される。
 天武天皇の時代には実体価値貨幣の無文銀銭からいきなり名目貨幣の富本銭への転換が図られたのであるが、今回は前回の教訓を学んで、無文銀銭から半名目貨幣の和同銀銭へ、そして完全な名目貨幣の和同銅銭へという計画的な2段階の交換プログラムを組んで実施されていった。なお著者は『続日本紀』の「武蔵国秩父郡和銅を献ず〕という記事について疑っている。この時代の貨幣政策の変遷についての詳しい記述がされているのだが、難しいので省略しておく。
 「きわめて意図的、政策的、計画的に強引な価値の設定が行われたことが、わが国古代貨幣の最大の特徴であろう。といっても政府は望ましい価格の維持に成功したわけではない。古代銭といえども貨幣として使用されたから、市場原理に支配された。望ましい価格の強制と市場原理による変動のせめぎあいの間にあったというのが日本古代銭の真の姿であろう」(209ページ)という。日本の古代貨幣が中国のそれを模して、同じ道を歩んだのではないという指摘は注目されてよかろう。

 経済学、とくに貨幣についての知識・理解が十分ではないし、古代貨幣についても門外漢なので、この書物のごく一部の大筋と思われるところの紹介だけで終わってしまった。しかし、文献の記述と考古学的な知見とを照らし合わせながら、進められていく議論には説得力を感じる。個人的には、貨幣の原料となった金属の出所、対馬の銀山と長門の長登銅山についての記述をもっとも興味深く読んだ。著者が熱望している対馬の銀山の遺跡の発掘が実現することを期待したい。

 蛇足かもしれない感想:この書物のかなりの部分が古代の貨幣をめぐる過去の説の紹介にあてられ、青木昆陽(『国家金銀銭譜続集』)、朽木昌綱(『和漢古今泉貨鑑』、『新撰銭譜』、『西洋銭譜』)、狩谷棭斎、松浦武四郎、成島柳北といった知名人が登場する(野次馬的な読み方で申し訳ない)。柴田実というのは京都大学の教授であった歴史学者と同一人物であろうか(だとするとその講義を聴講したことがある)。小林行雄も懐かしい名前である。著者がその業績を多く取り上げ、批判している栄原永遠男さんは私と同じ時期に京都大学の学生であり、芥川賞作家の高城修三さんたちと『狼星』だったか、記憶は確かではないが、同人雑誌を発行していたのではないかと思う。(名前が変わっているので、うろ覚えながら記憶に残っているのである。)
 

『太平記』(43)

5月9日(土)曇り

 元弘3年(1333年)2月、楠正成の立て籠もる金剛山の千剣破(ちはや)城は幕府の大軍に包囲されたが、正成は智略を用いて再三敵を撃退した。

 包囲軍の大将は阿曽弾正少弼(=北条一門の時治、あるいは治時)であったが、侍大将の長崎四郎左衛門高貞が指揮権を握っていた。高貞は得宗北条高時のもとで勢威をふるっている高資の弟である。彼が千剣破城の有様を見たところでは、力ずくで攻め立てることは、戦死者を多く出すばかりで、成功は期しがたい。ただ、取り囲んで兵糧攻めにせよ」と指示して、戦闘を停止したので、包囲する将兵たちは退屈で仕方がなくなる。そこで、専門の連歌師たちを呼び寄せて一万句の連歌を始めた。

 その最初の日の発句を長崎四郎左衛門の弟の九郎左衛門が
  開きかけて勝つ色見せよ山桜
(338ページ、他の花に先駆けて咲く山桜よ、早くその美しい色を見せてくれ。開(さ)きかけてと先駆けて、且つ色と勝つ色とを掛けている)
と詠んだのに続いて、脇の句に伊豆の国の武士である工藤次郎左衛門(高景)が
  嵐や花のかたきなるらん
(同上、山桜が咲いても、花のかたきの嵐がそれを散らせてしまうだろう)とつけた。「誠に両句ともに、言葉の縁巧みにして、句の体(てい)優なれども、御方をば花になし、敵(かたき)をば嵐にたとへけるは、禁忌なりける表事かなと、後にぞ思ひ知られける」(同上、発句も脇句もともに縁語・掛詞などは巧みで、句の風情も優美だが、味方を花に、敵方を嵐にたとえたのは、口にしてはいけない不吉な前兆であったと、後に思い知らされた)。

 大将の下知に従って、軍勢は戦闘をやめたので、気晴らしの手段がほかになかったのか、将棋、双六などのゲームをして時間をつぶすか、百服の茶(=百服の茶を飲み、京都栂尾の茶や宇治茶などの本場の茶をいう本茶と、その他の茶である非茶とを言い当てる遊び)や褒貶の歌合せ(詠んだ歌の良しあしを批評し合う歌合せ)に日夜興じて時を過ごしたのであった。そうなると、千剣破城内に立て籠もる兵士たちはかえって困惑してしまい、気を晴らす方法もなく、やるかたのない思いをして過ごすことになった。武士らしくない優雅な遊びに興じる包囲軍と、それに当惑する籠城軍の描写はユーモラスだが、幕府と宮方の気分を表しているとも受け取ることができる。

 そうこうするうちに正成は「いでさらば、また寄手に謀して眠り醒まさせん」(339ページ、さあそれならば、寄せ手を欺いて敵の眠りを覚ましてやろう)と藁屑で等身大の人形を2,30体も作り、鎧を着せて武器をもたせ、夜中に城の麓においてその前に畳楯(じょうたて=面が広く、大きい盾)を並べた。その後ろに選り抜きの兵を500人ばかり配置して、夜明けの朝霧の中で、鬨の声を上げさせる。これを聞いて、包囲軍は「それ、城の中から打って出てきた。これこそ敵の運が尽きて死に物狂いでの攻撃だ」と立ち向かおうとする。籠城軍としてはあらかじめ計算していたことなので、矢いくさを少しするように見せかけて、大軍が近づいてくると、人形だけを木の陰に残しおいて、兵隊たちは城へと引き上げてしまう。寄せ手は人形が本物の兵だと思って集まってくるが、そこを狙って上の方から籠城軍は大きな石を落とす。包囲軍はまたもや大量の戦死者、負傷者を出し、強い敵兵だと思っていたのは人形だったので、どう考えても体裁が悪い。「ただとにもかくにも、万人の物笑ひとぞなりにける」(340ページ)。

 この後はいよいよ戦闘状態に入ることなく、諸国の軍勢は何もしないで城を見上げているだけとなり、何か仕掛けようとすることもしない。誰が詠んだのだろうか、新古今和歌集の「よそにのみ見てややみなむ葛城や高間の山の峰の白雲」(あなたをよそにのみ見ては終われないと思いながら葛城の高間の山の峰の白雲を見ている)という歌を翻案して
  余所にのみ見てや休みなむ葛木の高間の山の峰の楠(340ページ、幕府軍は楠を見上げているだけで終わってしまうのだろうか)と詠んで、その歌を大将の前に置いたものがいた。

 鎌倉幕府の御家人たちが北条高時のもとで、都の文化にあこがれるだけでなく、それに染まってしまっている様子がうかがわれて興味深い。これでは大軍で包囲してもなかなか成果が上がらないのは当然かもしれない。その一方で、武略に優れた楠正成の活躍が依然として続く。攻防戦は今後どのような展開を辿るのか。 

ビールという言葉

5月8日(金)晴れ

 昨日の当ブログで取り上げたコリン・ホルト・ソーヤー『旅のお供に殺人を』に登場する(というよりも、『海の上のカムデン』シリーズ常連の1人である)酔っぱらいのグローガン翁がエンセナダのホテルですぐにビールの新しい一杯を満たすサーヴィスの良さに感心して次のように言う:
「新しいビール(セルベイサ)じゃ、みんな見たかね? こりゃ、すごい魔法じゃ! おっと、わしはスペイン語のビールって単語をちゃんと覚えとったぞ、えらいもんじゃろが。いや、こりゃあいい、最高の夜になるわい!」(161ページ)。

 ビールという言葉はオランダ語のbierに由来するそうである。英語ではbeer, ドイツ語ではBierというのは御存じの方も多いと思う。ヨーロッパには田中克彦/ハラルト・ハ―ルマン『現代ヨーロッパの言語』によると67の言語が存在していた。その後、不幸にして絶滅したり、新しく独立の言語として認められた言語があるかもしれないが、だいたい70前後の言語が存在していると考えてよいだろう。世界に存在する言語は5000~7000といわれているから、その中でヨーロッパの言語が占める割合は著しく小さい。とはいっても、その中にはヨーロッパ以外の部分でも使われる世界の有力言語が含まれていることも視野に入れておくべきである。

 ヨーロッパの言語がその形を整えたのちに、ビールという飲み物がそれらの言語を話す人々の生活の中に入ってきたので、ビールは、ヨーロッパの諸言語の中でいろいろに呼ばれ、それどころかそれぞれの比較言語学的な系統とは別の語彙となっているようである。つまり、英語、オランダ語、ドイツ語はインド=ヨーロッパ語族の中のゲルマン語派に属しているが、ロマンス語派に属しているフランス語でもビールのことをbière, イタリア語ではbirraという。ロマンス語派の諸言語のもとになっているラテン語ではビールのことをcervesiaというのだから、ゲルマン語派の言語の影響を受けてこのような言い方をするようになったと考えられる。なお、同じロマンス語派のルーマニア語でもビールのことはbereという。

 しかし、ラテン語の影響はイベリア半島に残っている。スペイン(カスティージャ)語では、すでにみたようにcervezaという言い方をするし、ポルトガル語ではcervejaという。実は私がブラジルに出かけて覚えた唯一のポルトガル語の単語がこのcervejaであったのだから、小説の中のグローガン翁のスペイン語学習を笑えないのである。ちなみに同じイベリア半島の言語であるカタロニア語ではビールのことをcervesa、ガリシア語ではceruexaといい、どちらもやはりラテン語の系譜に連なっている。

 しかし、人口1人当たりのビール消費量では世界上位に位置するチェコの人々はビールのことをpivoといい、これはロシア語のπиво、ポーランド語のpiwoと同系の言葉であることはすぐにわかるだろう。つまりヨーロッパの言語の中ではドイツ語のBierのようにゲルマン語風の言い方が有力ではあるが、ラテン語の影響下にあるスペイン語のcervesaや、スラヴ系のpivoに由来する単語を使う言語もあるのである。

 なお、ギリシア語ではΜπυρα、デンマーク語ではФlというのはインド=ヨーロッパ語族中の例外的な例といえよう。(デンマーク語はゲルマン語派に属するが、この言い方は、ビールの中の1種類である英語で言えばaleが全体を表す言い方になったのではないかと推測している。) ケルト語派に属するウェールズ語でcwrwというのはラテン語の影響を受けているように思われ、アイルランド=ゲール語でbeoirというのはゲルマン語派の影響を受けた言い方のようである。インド=ヨーロッパ語族に属さないハンガリー語ではsörとこれまた別の言い方をするらしい。

 さて、しかし、英国のパブなどでビールくれ‼などと叫んでも、ビールを出してくれるわけではない。"A pint of bitter ,please!"とか、”A pint of pale, please!"というようにビールの種類をいうか、その店に並んでいるビールのブランドを読み取って、”A pint of Tetley, please!"というように言うかしないと通じない。どのビールがいいかは、飲み比べて自分の嗜好を突き止めるべきであろう。とはいえ中華料理店だったら、青島ビールがあれば、チンタオというのが無難だし、インド料理店だったらコブラというのがいいのは、以前に書いたはずである。pintという単位で頼むのは生ビールに限られる。同じビール大国のドイツやチェコでどういうふうに注文をすればいいかは、それぞれの旅行案内書をご覧ください。私は行ったことがないから、わからない。それに実は、尿酸値が気になるので、最近はあまりビールは飲まないようにしているのである。

コリン・ホルト・ソーヤー『旅のお供に殺人を』

5月7日(木)曇り後晴れ

 5月5日、コリン・ホルト・ソーヤー『旅のお供に殺人を』(創元推理文庫)を読み終える。カリフォルニア州南部のカムデンという町にある高級老人ホーム<海の上のカムデン>の住人であるアンジェラ・ベンボウとキャレドニア・ウィンゲイトの老婆2人組が活躍するシリーズ第8作。昨日の「日記抄」でこれまで読んだこのシリーズの作品の中で一番面白いと書いたが、これは一般的な評価らしく、たまたま”Goodreads"というサイトを見たところ、このシリーズを読んだ読者たちの評価で最高得点を得ていた。

 <海の上のカムデン>で行われている娯楽活動がマンネリ化してどうもつまらないという気分が広がってきた中で、入居者の協議会が開かれてさまざまな提案がなされ、アンジェラの発案でスペイン語講座が開かれることになる。ホームの近くの大都市サンディエゴにはスペイン語しか通じない店がたくさんあり、このホームで働いている庭師やメイドたちの中にも日常スペイン語を使っている人が少なくない。そんなこんなでスペイン語講座が始められたのだが、発案者であるアンジェラがいちばんできの悪い₌覚えの遅い生徒であることが、本人にとってはどうも不愉快であった。キャレドニアによると、実際にスペイン語が話されている場所まで出かけて、言葉に慣れることが一番大切なのではないかという。ホームからもののの1時間も車を走らせれば(もちろん高速道路を使ってだが)メキシコに到達する。ということでメキシコ旅行が企画される。しみったれの支配人トゥーガソンが金は出さない代わりに旅行業者との交渉にあたり、マラリン・ウィルソンという地元の旅行業者が旅を担当することになる。老人ばかりの旅行なので、長期のディープな場所を訪ねる旅は無理だということから、10月31日にティファナで2泊、11月11日にエンセナダその10日後にティファナ、合計3回の旅行で8日間という旅行が決められる。20人の参加を予定、最初18人が申し込んだのだが、さまざまな理由から取りやめる入居者が出て、11人で旅行に出かけることになる。

 参加するのはアンジェラとキャレドニアに加えて、心優しい紳士のトム・ブライトン翁、飲んだくれのグローガン翁、新入りではあるがその積極性と協調性からみんなの人気者になり始めているロジャー・マークス翁、そしてこれも新入りだが謎めいた行動が多いジェリー・グリュンケ翁の4人の男性陣、入居者協議会の議長でアンジェラとはそりが合わないトリニタ・ステインズベリ、なにか新しいことがあると混乱するたちの古株の入居者トッツィ・アームストロング、ちょっと見たところでは見分けがつかないドラ・リー・ジャクソンとドナ・ディー・ジャクソンの双子、新入りだが、容赦のないきつい物言いと態度で全く友達のできないエルミラ・ブレインツリーの女性陣であり、それに添乗員として年齢不詳の金髪美人である旅行業者のミセス・ウィルソンが加わり、アンジェラのいうところではタイロン・パワー(古いね)に似たハンサムな青年トニー・ハンロンが運転手として同行する。

 ティファナで泊まるホテルは古く、設備もそれほど良くはないが、料理は一流で、一行はすっかり満足する。ホテルの外では「エル・カルネバル・パラ・トドス・ロス・サントス=オール・セインツ・カーニバル(諸聖人の祝祭)」の縁日が出ている。(厳密に言うと、「諸聖人の祝祭」は11月1日で、10月31日(ハロウィーン)はその前夜である。日本でもハロウィーンの商戦はかなり前から始まっているからね、1日や2日早くお祭りが始まっても文句を言う筋合いはない。) アンジェラとキャレドニア、トム・ブライトン翁とグリュンケ翁、グローガン翁、トリニタ、ブレインツリーが参加、それにミセス・ウィルソンがついてくる。縁日を楽しむ一行であったが、この散策に参加しなかったロジャー・マークスがどうもミセス・ウィルソンにご執心らしいとキャレドニアは観察し、ホームの庭師頭であるファン・サエンスの姿を見かけたとアンジェラは言い張る。縁日の出し物を冷かして歩いた後で、一行は馬車に乗って諸聖人の日のエクストラヴァガンザを見物する。ところが、見世物を見物して馬車から下りたところ、ブレインツリーが死んでいたことが分かる。

 一行は地元警察のロペス警部からかなり厳しい尋問を受けたが、エルミラ・ブレインツリーの死は心臓発作によるものとされたが、アメリカに戻ったアンジェラとキャレドニアは、おなじみのマーティネス警部補の訪問を受け、ブレインツリーの死には不審な点があったとの報告を受ける。それでも、一行は、11月11日になるとエンセナダに向かう。今回泊まるホテルは海の近くにあり、設備は豪華だし、サーヴィスも行き届いている。ところが、翌日になって観光を楽しみ、夕食を済ませたアンジェラが、その夜、買い物に出たところ、またもやファン・サエンスの姿を見かけた。そしてその夜、遅く、一行は起こされる。一行の中でまたも死者が出たらしい・・・・

 この作品がシリーズの他の作品に比べて引けを取らないどころか、それ以上に面白いのは、観光や食事の場面での行動や態度を通じての老人たちの性格の描きわけが見事であること、とくに行動的なアンジェラと慎重なキャレドニアが、アメリカとは生活リズムの違うメキシコにやって来て、それぞれ別の対応をとりながら、自分らしさを発揮しているところであり、一行の荷物をめぐる騒ぎや、運転手の態度など、性格の描きわけだけでなく、それとなく伏線が張られてその後の事件が予示されているところである。その一方で、事件とは関係のない出来事も忍び込ませてあるので、注意が必要である。また登場人物の行動の一方で、警察が着実に捜査を展開していることも視野に入れておいた方がよい。それに作者や作者に多くのヒントを与えたというその妹のメキシコ旅行の経験が大いに生かされていて、これらの場面が実に生き生きと描かれているのが楽しい。さらに北米自由貿易協定(NAFTA)のような時事問題とか、アメリカ先住民の問題などもさりげなく盛り込まれていて、作者が社会の変動にも十分に関心を払っていることを感じさせる点も加点材料となる。メキシコとアメリカの警察の協力ぶりがしっかり描きこまれているのも面白い。観光旅行中に起きた事件を描く小説は少なくないが、地元の警察をどのように扱うかも注目してよい点であろう。

 原題はMurder Ole! 「殺人、オレー」というので、ちょっと不謹慎だが、どこか陽気なこの作品の気分をよく表している。何せ、探偵役が老人であるから、ある時は鋭い観察眼を見せたり、元気な行動力を発揮したりするかと思うと、とんでもない間違いをしたり、混乱した行動をとったりもする。そのあたりにこの作品の独特のユーモアの源があるだけでなく、推理小説としての特色も認められてよい。事件についてあまり詳しく書くと、作品を読んでやろうという気分をそぐから詳しいことは書かないが、推理の過程よりも、登場人物の性格の発露の方に作品の価値を認めるべきではないかと思う。

 なお、翻訳者はこの作品でシリーズは中断していると書いているが、調べてみたところ、この作品発表の2年後の1999年にBed, Breakfast, and Bodiesというシリーズ第9作が発表されているはずである。なぜかその点が言及されていないのが、新たなミステリーとして興味を掻き立てられる。

日記抄(4月30日~5月6日)

5月6日(水)晴れ

 4月30日~5月6日の間に経験したこと、考えたことなど:
4月30日
 NHKラジオ「まいにちフランス語」応用編「ニュースで学ぶフランス語」は”L'agriculture française en perte de vitesse sur le marché mondial"(フランスの農業、世界市場で失速する)という昨年2月28日付のラジオ放送の記事を取り上げた。農業はフランスの対外貿易の強力な手段の地位にとどまってはいるが、外国との競争にだんだんと脅かされているという。農産物加工業はフランスの対外貿易で2番目の黒字項目であるが、その主要部分はワイン(製造業)に由来しているという。そして2013年の数字についていうと、原材料としての農産物の値上がりが大きく影響しており、農産物加工業のパフォーマンスがよかったというわけではないというのが懸念材料のようである。そういえば4月28日のニュースでワイン用のブドウの生産量で中国がフランスを抜いて世界第2位になったと報じられていた(1位はスペインだそうである)。

5月1日
 NHKラジオ「実践ビジネス英語」では”Sizing Up the Millennials"(2000年世代の評価)というトピックを取り上げている。2000年世代とは、おおざっぱに言って1980年代の初めから2000年代の初めに生まれた人々で、自己陶酔型で怠惰で優柔不断というふうに類型的に理解されているという。この世代の多くは、高校時代のあいだずっとボランティア活動をしてきたし、オンラインであるにせよ新聞を読み、社会に影響を与えている大きな問題に関心をもってきたと反論する人々もいる。世代の内部での個人差もあるとはいうものの、この世代がどのような特徴をもっているのか、日本の同世代と対比して考えることも意味があるかもしれない。

5月2日
 NHKラジオ「攻略!英語リスニング」では”The Mayflower"(メイフラワー号)というトピックを取り上げた。1620年にイングランドの国教会とは別の信仰をもつために迫害を受けていた人々をのせて、大西洋を横断し、北アメリカのニューイングランド地方へと運んだ船の話題である。Thanksgiving(感謝祭)はこの船でニューイングランドにわたった人々が1621年に最初の収穫に感謝して始めたといわれているが、実際のところの大本はヨーロッパのお祭りであったという。It's a nice thing to believe is true.(感謝祭はピルグリム=1620年のニューイングランド入植者たちが始めたお祭りであると信じることはいいことだ)と結ばれていたが、はたしていいことなのであろうか? なお、入植者たちがpilgrim(巡礼)と自称していたことも注目しておいてよいかもしれない。

5月3日
 久しぶりに東急東横線の反町駅の近くにあるインド・ネパール料理店エベレストで夕食をとる。衛星放送なのか、VTRなのかはわからないがインドの映像を流していて、女性が色白できれいなのに驚く。他の国の映像に登場するインド人女性とは大変な違いである。

5月4日
 今週は語学番組は前の週の番組の再放送なので、比較的のんびりと聞き流すつもりである。

5月5日
 コリン・ホルト・ソーヤー『旅のお供に殺人を』(創元推理文庫)を読み終える。1997年に発表された作品であるが、その後、このシリーズの新しい作品は発表されていないそうである。次第に調子が出てきてこれからというところでシリーズが中断されているのはどうも残念である。(5月7日の当ブログでこの作品を取り上げるつもりである。) 

5月6日
 ニッパツ三ツ沢球技場でJ2の横浜FC対カマタマーレ讃岐の試合を観戦する。三浦カズ選手は欠場。黒津選手もベンチ入りせず。青木選手はベンチ入りしたが出場せず、野村選手をFWとして先発させた。前半堅く守った讃岐がカウンターから1点を先取、後半、横浜が追いついたが、その直後にセット・プレーから得点を挙げて勝利した。横浜はまたもホームでの勝利を逃した。アウェーであり、順位も下の讃岐が引いて守り、カウンターを狙う試合運びをするのは当然のことであり、それに対する備えが十分にできなかった横浜の敗北の責任は監督・コーチ陣にあるといってよいだろう。もう何年もJ2でゲームをしているのだから、わかってもよいはずのことが分かっていない。わかっていたとしてもそれを選手に徹底できないのだからいいわけは無用である。讃岐の勝利はゲームプラン通りに試合をしての勝利といえるだろう。どうも面白くない。 

ダンテ・アリギエリ『神曲 煉獄篇』(1)

5月5日(火)曇り後晴れ

澄みわたる海原を走ろうと
今、我が才の小船は帆を上げて、
あれほどまでに酷い海を後にする。

あの第二の王国について私は歌おう。
そこで人類の霊は自らを清めて
空へと昇るのにふさわしくなる。

死に伏していた詩よ、ここに再び立ち上がれ、
おお、聖なる詩の女神たちよ、私はあなた方の僕(しもべ)であるゆえ、
そしてカリオペーよ、ここでいくらかでも起きてくれ。
(18ページ) 
 ダンテとウェルギリウスは1日のうちに地獄を通り抜けた。時は1300年の4月10日、復活祭の日の早朝である。彼らは煉獄に向かう。煉獄とは、12世紀の後半以降になって出てきた考え方であると翻訳者である原さんは注記している。キリスト教では本来死後の世界は天国と地獄に分かれていた。それは世界が貴族とそれ以外の人々の2つに分けられていたことを反映するものであるという。しかし、都市と市民階層の勃興によって社会が三分されるようになると、死後の世界も天国、煉獄、地獄に三分されるようになった。市民階層の代表者であるダンテにとって、高貴とは、血統でも、教皇に代表される聖職として神に近いことでもなく、生き方の問題として捉えられるようになった。それゆえ、死後の世界における高貴さの判定も複雑になり、生前に犯した罪を償い、天国への道を開く煉獄という考え方が意味をもつようになる。煉獄という新しい贖罪の場を設けることにより、人間の生前の行為はその複雑さにふさわしい死後の裁きを得ることになり、そして不完全な人間の生は、煉獄によってより完全に近づく可能性を与えられることになる。
 この『煉獄篇』の中で、ダンテは「地獄のような現実の中で、人は個人としていかに生きればよいのかを考察している。このために、『煉獄篇』には彼のよく知る人々が数多く登場し、それゆえに<友情の篇>という別名をもつことになった」(7ページ)と原さんはこの篇の翻訳を始める前に掲げられた文章の中で述べている。
 文中、「酷い海」は地獄、『第二の王国』は煉獄、「死に伏していた詩」は魂の死を扱った地獄の詩と、あるべき崇高な文体から逸脱し、死んでいる詩の両方を意味しているという。そしてダンテは、叙事詩の伝統に従ってギリシャの詩の女神ムーサに自分の詩業の前途の成功を願う。ムーサ(英語ではミューズ)は文芸・音楽・舞踊・哲学・天文学など人間の知的活動を掌る9柱の女神で、そのうちのカリオペーが叙事詩を掌っている。

東洋の青玉の清々しい色が、
水平線まで透き通る大気の
静謐な表情の中に広がり、

私の目に再び喜びを与えはじめた。
それは目と胸を苦しみに塞いでいた死の空気から
私が外へ抜け出してすぐのことだった。
(19ページ) 東洋の青玉(オリエンタルサファイア)は神の怒りを鎮める、邪悪な物の見方を消す、あるいは囚人を牢獄から解放する力を持つと中世には考えられた石であり、この石の色をまとった空が神との和解を示していると注記されている。とにかく、『地獄篇』の重苦しい空気から抜け出した読者にとって安堵を感じさせる詩行である。

 ダンテの世界像では丸い地球の北半球に人間の住む世界があり、南半球はその海の中に煉獄山がそびえたっていると考えられていた。それまで煉獄は地獄と同じく地中にあると考えられていたのを、ダンテは南半球にあるとしたのである。

私のすぐそばに見知らぬ老人が見えた。
ただ一人屹立し、いかなる息子も父に抱くことはできないほどの
大いなる尊敬を受けるに値する容貌だった。
(20-21ページ) この老人は小カトーと通称されるマルクス・ポルキウス・カトー(前95-前46)であった。彼はローマの共和制を守ろうとしてカエサルに対抗し、敗れて自殺したのであるが、多くの部下の命を守り、自分の理想に忠実な生き方(死に方)を選ぶというストア的な信念に殉じたことにより、煉獄の守護者としての地位を与えられているのである。

 彼の質問に対し、ウェルギリウスが彼らに与えられた使命について語り、小カトーはその説明を聞いて、2人に浜辺まで降りて、地獄で汚れた顔と目を洗い、謙譲の徳を示す葦を腰に巻いて煉獄山を目指すように指示して姿を消す。
ちょうど、見失った道へと戻るもの、
そして道に戻るまでの歩みを無益に思うもののように、
私達は人気のない平野を進んでいった。
(29ページ) そしてウェルギリウスは葦を引き抜いてダンテの腰に葦の帯を巻いたが、抜いたそばから葦が生えてきたことにダンテは目を奪われる。 

福原正大『世界のエリートはなぜ哲学を学ぶのか? 桁外れの結果を出す人の思考法』

5月4日(月)晴れ(だんだん雲が多くなってきたが、曇りとは言えないだろう)、風が強い

 5月3日、福原正大『世界のエリートはなぜ哲学を学ぶのか? 桁外れの結果を出す人の思考法』(SB新書)を読み終える。著者のいっていることに賛同する部分は少なくないが、違和感を感じる部分もかなりある。

 日本の教育制度のなかでは、哲学は普通、大学以上の段階で教えられる。哲学を専門とする学科や講座もあるが、教養段階での主要な科目として位置づけられているし、大学や短大を設置する際にその専門領域にもよるが、授業を解説しなければならない科目の1つとなっているようである。その一方で高校では「倫理」はあるが、哲学はない。著者が留学したフランスのリセ(高校)では、その最終学年が哲学級と称せられているように、哲学教育が行われ、それはバカロレア試験の受験科目の1つでもある。そこでは、何を結論したかではなくて、どのような筋道で考えを勧めたかが重視されているという。

 わが国で、受験競争、とくにそれを克服するという大義名分のもとに導入されたセンター試験が「正解はただ一つ」(→真理はただ一つ)という思考の柔軟性の観点からいえば好ましくないイデオロギーを日本中に充満させ、日本人の思考力の低下を結果的にもたらしていることの弊害は識者からしばしば指摘されてきたことである。この書物が正解が必ずしも1つとは限らない、あるいはまったくわからない問題を考えることの必要性を説いていることは大いに評価できる。センター試験体制のもとで、著者が言うとおりかなり多くの場合、哲学(倫理)教育は哲学史の教育になり、固有名詞や学説名をどれだけ正確に記憶しているかが問われることになる。

  この本は、教育制度全般(幼稚園からでも必要だとはいわれているが、特に高校段階)における思考力の教育としての哲学教育の重要性を説く書物である。題名にあるとおり、社会の指導者となるような学生・生徒に対する哲学教育の重要性が強調されている。哲学には大きく分けて、存在論、認識論、実践論(倫理学)の3つの領域があるが、日本の教育制度のなかでは倫理学が強調されてきたのに対し、ここでは認識論つまりはさまざまな領域における思考と思考力の問題が強調されているのである。哲学とは人生について考えることだという伝統的な教養主義が比較的簡単に切り捨てられている。

 先日、朝日新聞の世論調査の結果を見ていたら、日本における教育格差が拡大しているという意見が多数を占めているという結果が出ていた。しかし、「教育格差が拡大している」というのはどういうことだろうか。家庭間の所得の格差がより上級の教育を受ける際の有利・不利に反映されているというようなことであろうか。学校教育というのは基本的には児童生徒個々人の能力・適性によって、その最終段階や種目が決定されるものであって、それにふさわしい能力もないのにいたずらに高学歴を求めたり、逆に勉強したいことがあるのにその専門領域が勉強できないというようなことがあってはならないのである。その意味で、現在の日本の教育には様々な不都合が生じているらしいことは推測できる。しかし、物事を厳密に突き詰めずにムードだけで事態を判断していく姿勢は好ましくないし、それを煽るような世論調査の手法も賛同できない。世論調査というような重要な局面で厳密な思考がなされていないことに、背筋が凍る思いがする。

 私がこの書物に対して賛同できることというのは、哲学の主要な領域を思考力の教育においているということであり、賛同できないのは、哲学の教育はエリートだけに必要だと考えているように思われることである。ブラック企業に就職しない、自分たちの労働者としての権利を守る、政治家の発言のウソを見抜く、おれおれ詐欺にひっからないというようなことは一般庶民にとって必要な哲学的思考力であって、エリートだけが賢明な思考によって庶民を導けばよいなどとは言えるのであろうか。
何歩か譲って、世の中にはエリートと大衆がいるとしても、大衆にはより賢明なエリートを選択する知恵が必要であり、今の日本ではそのような知恵が実現されているとはいいがたいのが実情ではなかろうか。

 ということで、著者が各地で展開している哲学的な思考を広めるための塾の成功を期待する一方で、それだけでは日本の将来は決して明るくならないであろうと危惧するものである。
 

『太平記』(42)

5月3日(日)晴れ

 元弘3年(1333年)閏2月(史実は正月)、幕府の派遣した大軍は3つに分かれて、それぞれが護良親王の立て籠もる吉野、平野将監入道が立て籠もる赤坂、楠正成があってこもる金剛山の千剣破(千早)城を包囲攻撃した。赤坂城は水利を見抜かれ、水に窮して落城し、平野将監以下の降人はすべて見せしめとして斬首された(第6巻)。良しの上は一進一退の攻防のなか、背後から奇襲をかけられた宮方は総崩れとなった。大塔宮は自害を覚悟されたが、村上義光に叱咤されて城を落ち延び、義光は宮の身代わりとして自害し、義光の子義隆は敵を防いで討ち死にした。

 千剣破城を包囲する軍勢はそれまで到着していた180万騎に赤坂、吉野が落城したので新たに加わった兵力を合わせ200万騎を超えたと『太平記』作者は記す。現在の大阪市の人口を考えると、これは途方もない数字であり、誇張があると思われる。兵力が多すぎて身動きが取れないし、兵站も十分には行えないだろうと思う。とはいうものの、大軍であったことは確かなようで、作者は「城の四方2,3里が間は、見物相撲の場の如く打ち囲みて、尺地をも余さず充満したり」(331‐332ページ)と記す。『相撲伝書』という書物によると、鎌倉時代には相撲を見物する人々が直径7~9メートル(4~5間)の輪を作り、これを「人方屋」といったという。相手を倒したり、この人方屋の中に押し込んだりすれば勝ちとなったが、見物人の中には自分のひいき力士を応援したり、ひいき力士が違う見物人同士が喧嘩を始めたりするので、現在のような土俵が工夫されるようになっていったそうである。とにかく、隙間がないくらいに武士たちが押し寄せ、取り囲んだという。

 「大軍の近づくところ、山勢これがために動き、時の声の震(ふる)ふ中、坤軸(こんじく)須臾(しゅゆ)に摧(くだ)けたり。この勢にも恐れず、わずかに千人に足らぬ小勢にて、誰を慿(たの)み、何を待つとしもなく、城中にこらへて防き戦ひける、楠の心の程こそ不思議なれ」(332ページ、大軍が近づいてきたので、山の形が変化し、鬨の声が響く中、大地の字雲一瞬にして砕け散るようである。この勢いにも恐れることなく、わずか1,000人にも満たない小勢で、誰を当てにし、何を待つともなく、城の中に立て籠もって防戦を続ける楠の心中は測りがたいものであった。)

 この千剣破の城は金剛山地の中で孤立した峯の上にあり、高さ2町(200メートル)あまり、周囲は1里もないという小さい城であり、攻囲軍ははじめから相手を呑んでかかって、「向かひ陣」といって城攻めの際に相手の城の向かいにつくる陣も構えず、われ先に崖を登って敵城へと攻め寄せた。場内の兵は少しも慌てず、上から大きな石を投げかけ投げかけ、攻め寄せる敵の防御用の盾を砕いてから、今度は上から矢を射かける。矢にあたって崖を落ちて来る兵士の下敷きになる者も出て、1日のうちに戦死するものが5千人から6千人を数えた。軍奉行の長崎四郎左衛門が戦死者、負傷者の点検をしたところ、書き役が12人がかりで昼夜ずっと筆を走らせて3日間働きづめとなった。そこで、長崎四郎左衛門は今後、大将の命令を待たずに出撃するものは軍紀違反として罪に問うと触れる。それで各軍勢はしばらく戦闘を断念して、人智をきずくことにした。

 攻囲軍の大将たちが集まって会議を開き、赤坂の城を攻め落としたのは、推理を見抜いたためであった。今回も、千剣破の城を見るに、この小さな山に用水があるとも見受けられず、よその山から樋で水を引いてくるような工夫もできそうにない。しかし、城内には水が余っているように見えるのは、夜になってから城の東側の谷川の水を汲んでいるに違いないと推測する。そこで、北条一族の名越越前守を大将として、その配下の3千余騎を谷川の水辺に配置し、敵が山を下りて来た時の用意に柵を構えて待ち受けた。

 楠はもともと勇気に富んでいたうえに、智略並びない武将であったので、城を構える際に、すでに水利について配慮していた。まずこの峰には「五所の秘水(5カ所の人に知られないように秘密にしてある水)」という山伏たちがひそかに利用している水源があり、この水はどんな日照りの時でも枯れることがないので、とりあえず城内の飲料水に困ることはない。しかし、合戦となると火矢が飛んできたのを消す必要も出てくるし、兵士が普通よりも喉が渇くことも考えられるので、200あまりの水槽をこしらえ、また兵士たちの小屋には雨どいを掛けて、雨水も含め水という水は活用できるように準備していた。雨が降らなくてもまずは40日くらいは持ちこたえられるだろうという心積りである。

 それで、谷川に水を汲みに行く必要はないが、幕府方の兵士たちが待ち構えているうちに、次第に油断しはじめたのを見計らって弓の名手をそろえて奇襲をしかける。名越の兵が慌てて逃げ出した後に、旗や幟が遺されているのを拾い集めて、城に持ち帰り、名越殿からこのようなものをいただきましたが、名越の御紋がついているので、われわれのようには立ちません。お返ししますので、取りに来てくださいと、からかいの言葉を発し、これには幕府側も名越殿の不注意による大失敗だわいと苦笑せざるを得ない。

 こうなると面目を失った名越一族は総出で猛攻を仕掛けて名誉を挽回しようとするが、崖が険しくて簡単には登れず、上を見上げていると、城のほうでは崖の上に横たえてあった大木を10本ばかり落としてきた。これに押しつぶされたり、逃げ惑ううちに上から矢を射かけられたりで、籠城軍から思うようにあしらわれて、多くの兵力を失って引き揚げなければならなかった。要害の地に智将が立てこもっているので、うかつに手出しをできないということがわかり、寄せ手はあえて攻め入ろうという元気をなくしてしまった。

 軍勢の数や、日時の記述に一貫性がかけていて、何をどこまで信じていいのかわからないが、楠の智略がいろいろと紹介され、少数精鋭で、地の利を生かして戦う楠軍と、大軍ながら統率がとれていない幕府軍とが対比されている。もちろん、幕府側もそれなりに頭を使ってはいるのだが、正成の方がその上をいっているということである。幕府が大軍を動員しないと安心できないところに、その焦りを認めることができる。しかし、大軍を動員していることがこれから次第に裏目に出ることになる。

コリン・ホルト・ソーヤー『年寄り工場の秘密』

5月2日(土)晴れ

 家の中でのそのそしているのがもったいないような好天。しかし、特に出かけたいと思うような催しもない。窓を開けて、5月の風を呼び込むだけで我慢する。これからの連休をどうやって過ごすか。とりあえず、推理小説を読もう。

 ということで、コリン・ホルト・ソーヤー『年寄り工場の秘密』(創元推理文庫)を読み終える。

 カリフォルニア州にある高級老人ホーム<海の上のカムデン>の近くの丘の上に、<黄金の日々(ゴールデン・イヤーズ)>という名の新しい高級老人ホームが開設される。建物がモダンだからか、価格設定のためか、ペットを連れての入居が認められるためか、この新しいホームは侮れない相手になり、<海の上のカムデン>の住人達の中にも、引っ越していくものが出る。このシリーズの主人公アンジェラ・ベンボウとキャレドニア・ウィンゲイトの友人であるトッツィ・アームストロングも<黄金の日々>に引っ越した1人であったが、ある日、<海の上のカムデン>を訪れて、転居先には幽霊が出る出るらしく、正体を見極めてほしいと2人に依頼してくる。幽霊などというものを信じない2人ではあったが、好奇心も手伝い、入居希望者を装って<黄金の日々>を偵察する。トッツィの不安は他愛のないものであり、<黄金の日々>のサーヴィスは<海の上のカムデン>に全体として劣ることがわかっただけでなく、<海の上のカムデン>に住まいを移そうと考えている住民が少なくないことが分かる。

 新規入居者を増やしたい一心で<海の上のカムデン>の支配人であるトゥーガソンはこれまで認められてこなかったペットの飼育を試験的に認めることを提案する。そして、住人達の激論の結果、犬は認めないが、ネコだけを認めることになる。<黄金の日々>で「事故」が起きたことも影響したのか、<海の上のカムデン>へと転居を希望する老人たちが現われる。一旦、<黄金の日々>に移ったトッツィもまた<海の上のカムデン>に戻ってくる。ホームの空室がほとんどなくなったことで、トゥーガソンは悦に入っていたが、<海の上のカムデン>でまたもや殺人事件が起きる。これまでに起きた事件を担当して、住民たちにも読者にもおなじみのマーティネス警部補とスワンソン刑事が出動。アンジェラとキャレドニアもまた独自の捜査を開始する。

 『老人たちの生活と推理』、『氷の女王が死んだ』、『フクロウは夜ふかしをする』、『ピーナッツバター殺人事件』、『殺しはノンカロリー』、『メリー殺しマス』に続いての、高級老人ホーム<海の上のカムデン>を舞台とするユーモアたっぷりのミステリ・シリーズ第7作。第1作と第2作は当ブログで紹介し、第3~第6作が抜けて、第7作を紹介することになった。第3~第6作、それに第8作もおっつけ紹介していくつもりである。原題はThe Geezer Factory Murdersで、直訳すれば『変人を作る場所の殺人事件』ということになるだろうか。作中で料理はまずく、規則でしばりつけられる<黄金の日々>を「老人工場」と呼ぶ場面があるが、2つの高級老人ホームを股にかけて「活躍」する変人たちが物語に数々の起伏をつける。これまでに比べて、男性の老人の出番が増えているようにも思える。物語の後半はほとんど<海の上のカムデン>が舞台となるので、問題のFactoryはどちらのホームともいえないのではなかろうか。

 推理小説を読みなれた読者ならば、物語の展開の中で犯人の候補者を絞るのは比較的簡単ではあるはずだが、作中人物たちは老人ならではの先入観に取り付かれて推理・行動するので、物語は読者の予想を裏切って思いがけない展開をしていく。新しい入居者は猫を連れてくるし、なぜか警察は麻薬捜索犬を連れて<海の上のカムデン>にやってくる。犬と猫の動きが物語の展開を皿に見えにくくする。特にこの犬が模範生とはいいがたく、とんでもないことをして物語を混乱させるのも一興であるが、最後にはちゃんと事件の解決に貢献することになる(と書くと、結末の一端を明かすことになるが、犯人が誰だというわけではなし、この程度ならいいだろう)。

 アンジェラとキャレドニアのこれまでとは違った一面が垣間見えて、その点もシリーズを読み進んでいる読者にとっては面白いだろうと思う。連休中に、シリーズのまた別の作品を読んでみようかと思っているところである。

『太平記』(41)

5月1日(金)晴れ

 元弘3年(1333年)、鎌倉幕府軍は大軍を派遣して、大塔宮護良親王の立て籠もる吉野、平野将監入道の立て籠もる赤坂城、そして楠正成の立て籠もる金剛山の3つの城砦を攻囲した。このうち、赤坂城は水利を見抜かれて、水不足に陥ったために落城し、平野将監以下、降伏した将兵はすべて見せしめとして斬られた。それを知った吉野、金剛山の軍勢はますます戦意を募らせていた。というところで、第6巻が終わり、第7巻に入る。

 元弘3年(1333年)正月16日、二階堂出羽入道道蘊が6万余騎の軍勢を率いて大塔宮の立て籠もる吉野へと押し寄せたと第7巻は語り始める。史実とも、第6巻の記述とも整合しない。第6巻には閏2月とあり、二階堂道蘊の率いる軍勢は2万3千余騎と語られている。脚注では、史実に即すと2月であるという。どれが真実かにわかには判断しがたい。

 二階堂道蘊はすでに何度か登場しているが、鎌倉幕府の政所執事の職を世襲する家の出身で、朝廷に対しては融和的な態度を主張する穏健派として描かれてきた。山中に立て籠もる護良親王率いる軍勢は地の利を得ており、式も高く、そう簡単に攻略できそうもない。正月18日に戦いの火ぶたが切られたが、籠城する側は地元の地理に通じており、他方、攻め寄せる側は命知らずの坂東武者たちなので、一進一退の攻防が続く。

 しかし、この時点では幕府方に心を寄せていた吉野の金峯山寺蔵王堂の執行(しゅぎょう=寺務を司る僧)が自分たちが幕府に味方をしているのに城を攻略できないのでは面目がたたない。よく考えてみると、この城は正面から責めるのは困難であるが、背面は地形が厳しいので警備が手薄になっている。奇襲戦に慣れているような足軽(軽装備の歩兵)を使って夜、忍び込ませて、鬨の声をあげさせれば、相手は混乱状態に陥るに違いない。その時を狙って、攻め寄せ、城を陥落させて、大塔宮を捕虜にしようと言い出す。それで夕方から150人ほどの兵士を敵方の背後から忍び込ませ、そのまま夜明けまで待機させる。

 夜が明けて幕府方は3方から攻め寄せ、それを吉野方の500人が防ぎとめようとするが、背後から幕府方の歩兵500人が時の声をあげて押し寄せてきたので、籠城軍は混乱状態に陥る。搦手から攻め寄せた兵士たちは、大塔宮のいらっしゃる蔵王堂に攻め寄せ、大塔宮は形勢の不利を悟られたものの、もともと武勇に秀でた方なので、自ら武器をとって応戦され、敵を蹴散らされる。

 敵がいったん撤退したので、大塔宮は最後の酒盛りを催された。「宮の御鎧に建つ所の矢七筋、御頬先、二の腕二所突かれさせ給ひて、血の流るる事斜めならず(血がおびただしく流れている)」(325ページ)。それをかまわずに、杯を交わし、一座の中に加わっていた赤松一族の木寺相模(頼季)がその太刀の切っ先に敵の首を刺し貫いて、勇壮な歌を歌い、舞ったのは漢の劉邦と楚の項羽が対面した鴻門の会の際に活躍した樊噲を彷彿とさせるものであった。

 自害を決意された大塔宮であったが、これまでずっと宮に従ってきた村上義光が多くの手傷を負いながら御前に参り、まだ血路を開いて落ち延びる道はあるので、恐れながら宮の武具をいただき、身代わりになって敵を防いで、時間を稼ぐので、その間に落ち延びてほしいと申し上げる。宮は、どうしてそんなことができようか、死ぬなら一緒に死のうとおっしゃられたが、義光は漢の高祖(劉邦)が危機に陥ったときに部下の紀信が成り代わって高祖を助けた故事を持ち出し、「これ程に云ひ甲斐なき御所存にて、天下の大事を思し召し立ちける事こそうたてけれ」(327ページ、こんなふがいないお考えで、天下統一の重大事を決意されるとはなさけないことです)と宮を叱咤したので、宮も物の具を御脱ぎになって義光に与えられた。そして、南の方に落ち延びていかれたのを見届けると、義光は櫓の上に上って、われこそは大塔宮護良であると名乗りを上げて自害を遂げる。

 義光の子息である義隆も一緒に自害をしようとしたのを、父親がとめて、宮の逃亡を助けるようにと命じたので、吉野から落ち延びようとする宮方の軍勢を吉野の執行の一隊が追撃しようとするのを、義隆が1人とどまって食い止めようとする。重傷を負って命長らえることはできないと知ると、「細道の真ん中に、太刀ずくみに死したりける」(330ページ、立ったままじっと動かずに死んだのであった)。校注者の兵藤裕己さんは大塔宮は源義経に擬せられていると書いているが、村上義光の最後は弁慶の立往生を思わせる。

 こうして、虎口を逃れた大塔宮は高野山に落ち延びられ、宮のものだと思っていた死体は義光のものであったので、二階堂道蘊は高野山を包囲して、宮の行方を捜索したが、ついに見つからず、やむなく、金剛山の攻囲軍に加わることになった。

 敵とは勇猛に戦いながら、自分の従うものには温情を隠さない護良親王は皇族とはいいながら、武士的な気質をあらわにしている。だからこそ、周辺の武士たちは命を捨てて、身やを守ろうとするのであろうが、このような宮の気質を警戒する人も出てくるだろう。大塔宮はひとまず無事に姿を消したとはいうものの、宮方の3拠点のうち2つが陥落し、残るは楠正成の金剛山だけになった。大軍を相手に、正成がどのように戦うか、それがこれからの関心事である。
 
 
プロフィール

Author:tangmianlaoren
FC2ブログへようこそ!

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR