2015年の2015を目指して(4)

4月30日(木)曇り後晴れ

 4月を通じて新しい場所に出かけたり、鉄道路線や駅を利用したりということはなかった。それで2都道府県、8市区町村に足跡を記し、鉄道6社、12路線、12駅を利用したという数字に変化はない。

 投稿したブログは30件、そのうち読書が19件、日記が6件、映画が3件、推理小説と外国語がそれぞれ1件で、やや変化が乏しかったかもしれない。『神曲 地獄篇』を紹介し終えたのが一番印象に残る事柄である。もちろん、まだ『煉獄篇』、『天国篇』を取り上げていくつもりであるが、なんとなく見通しがついてきたように思われる。気分を緩めずにこのまま作業を継続していこうと思う。その一方で『太平記』の方はまだ岩波文庫版の第1分冊の終わりまで達していない。これからが大変である。
 読者の方々からいただいたコメントは4件、拍手は620、拍手コメントは1つで、1月からの通算ではブログが92件、コメントが11件、拍手が2220、拍手コメントが5、トラックバックが3ということである。書くことに精いっぱいでさまざまなコメントに対してなかなか返事を書くことができないのが気になっている。できるだけ回答していくということも今後の努力目標である。

 13冊の本を購入、これまでずっと紀伊国屋横浜店で本を買っていたが、渋谷の丸善ジュンク堂でも本を買った。1月からの買った本の通算は47冊である。読んだ本は10冊で:椎名誠『新橋烏森口青春篇』、コリン・ホルト・ソーヤー『氷の女王が死んだ』、石田英一郎『一寸法師』、東海林さだお『アンパンの丸かじり』,納富信留『ソフィストとは誰か?』、石井桃子『石井桃子コレクション 児童文学の旅』、長谷川洋子『サザエさんの東京物語』、伊藤誠『経済学からなにを学ぶか その500年の歩み』、土田美登世『やきとりと日本人 屋台から星付きまで』、ELジェイムズ『フィフティ・シェイズ・オブ・グレイ〔上〕』の10冊となる。伊藤誠『経済学からなにを学ぶか』はマルクス経済学の立場からまとめられた経済学説史であるが、いわゆる近代経済学について論じた個所の方が面白い。土田『やきとりと日本人』は、内容の割に読み終えるのに手こずった。私自身がそれほど焼き鳥に趣味がないからであろう。『フィフティ・シェイズ・オブ・グレイ』はストーリー・テリングのうまさを感じるものの、内容は俗っぽいと思った。読んだ本の冊数は決して多くないが、内容に多様性があり、納富『ソフィストとは誰か?』のようにいろいろと考えさせられた本もあったので、まずまずの読書であったと思う。1月から読んだ本の通算は38冊となる。

 語学関係では、「ラジオ英会話」を18回、「入門ビジネス英語」を8回、「実践ビジネス英語」を14回、「攻略!英語リスニング」を8回、「ワンポイント・ニュースで英会話」を22回聴いている。1月からの通算は「ラジオ英会話」が80回、「入門ビジネス英語」が34回、「実践ビジネス英語」が50回、「攻略!英語リスニング」が32回、「ワンポイント・ニュースで英会話」が86回ということである。これらの番組をできるだけ繰り返して聴いているほかに、「英会話タイムトライアル」と「エンジョイ・シンプル・イングリッシュ」も機会があれば聞くようにしている。
 「まいにちフランス語」を17回、「まいにちイタリア語」を17回聴いている。1月からの通算はそれぞれ79回で、この外に3月までに「まいにちドイツ語」を59回聴いた。また『アラビア語講座』を3回聴いた。
 英語については読む方の努力を増やす必要を感じている。フランス語、イタリア語については入門編は易しく、応用編は難しすぎるという状態をどう克服するかが依然課題として残っている。アラビア語はこの言語についての知識を得ることで満足すべきであろう。

 新しく始まったNHKカルチャーラジオ「私の落語はくぶつ誌」、「17音の可能性――俳句に賭ける」をそれぞれ4回聴いている。これまで放送されていた「続シルクロード10の謎 流沙に消えた王国・タクラマカン砂漠からの報告」、「富士山はどうしてそこにあるのか 日本列島」を11回分、「風刺文学の白眉『ガリバー旅行記』とその時代」を12回分聞いている。このほか、単発の文化講演会の放送も聴いている。講師と趣味や意見が違うことが少なくないが、教えられたり、気付いたりすることも多く、有意義である。

 映画を5本みた。『くちびるに歌を』、『駅前旅館』、『安藤組外伝 人斬り舎弟』、『阿片大地 地獄部隊突撃せよ』、『本日休診』で、旧作が多かった。井伏鱒二原作作品、淡島千景と安藤昇の出演作が2本ずつあるのが目立つ。今年になってから見た映画の本数は13本、シネマヴェーラ渋谷に出かけたので、映画館の数は5館となった。

 ニッパツ三ツ沢球技場でJ2の公式戦を3試合観戦している。1月に全国高校サッカー選手権を4試合観戦しているので、観戦した試合は7試合ということである。横浜FCが今季に入ってホーム未勝利というのが気になるところである。

 ノートを2冊、万年筆(パイロット)のインク・カートリッジを1本、3色ボールペンの替え芯を1本、黄色の蛍光マーカー(ステッドラーのテクストサーファー)を1本使い切っている。

 アルコールを口にしなかったのは2日にとどまった。気分として酒を飲まずにいられない日が少なくない。これからは気候もよくなるし、できるだけ飲む量を減らすように努力しようと思う。

 ここに出てきた数字の全部ではなくて、一部を選んでたし合わせて2015にしていくつもりであるが、数を追いながらも、できるだけ変化にとんだ項目をそろえるようにしようと思っている。
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日記抄(4月23日~29日)

4月29日(水)曇り時々晴れ
 4月23日から本日の間に経験したこと、考えたことなど:
 ネパールの大地震はまだまだ被害の詳細がわからないだけに、心配なことが多い。国際会議等で知り合った人、日本に多いネパール料理店の関係者、ネパール人の知り合いがいないわけではないので、余計に気になる。

4月23日
 NHKラジオ「まいにちイタリア語」応用編「描かれた24人の美女」は”primo pittore rinascimentale"(最初のルネサンス画家)と呼ばれる名誉を与えられてきた画家Masaccioと、彼のCacciata dall'Eden (楽園追放)を取り上げた。マザッチョはおそらくペストのため27歳という若さで死んだために残された作品が少ないために、それほど知名度が高くないが、フィレンツェのブランカッチ礼拝堂に彼が遺したこの絵は彼に続く画家たちが一人残らず通った”scuola del mondo"(世界的な学校←ヴァザーリのことば)となった。泣き叫びながら楽園を去っていくアダムとエヴァの体は解剖学的に正確であり、マザッチョがモデルを使ったことを推測させる。彼らの足元には影があり、奥行きを作りだしている。そしてアダムとエヴァの剥き出しの感情が絵の中に表現されている。これらの特徴こそ、ルネサンスの美術が新たに創りだしたものであるという。

4月24日
 「まいにちイタリア語」応用編「描かれた24人の美女」はギルランダーイオの「ジョヴァンナ・トルナブオーニ」の肖像を取り上げた。産褥のため20歳の若さで死んだフィレンツェの富豪の妻を記念する肖像画を残したのは、ミケランジェロの師であるギルランダーイオで、その端正な画風が印象的である。そういえば、ミケランジェロを含めて、ルネサンスの絵画にはあまり端正な感じの絵はないように思う。それが時代精神であったのかもしれない。

4月25日
 al-Hamdu li-l-laah(i), 'anaa bi-khayr(m) (おかげさまで(=アッラーに称えあれ)、私は元気です)
 相変わらず、悪戦苦闘を続けながら、NHKラジオ「アラビア語講座」を聞いている。特にアラビア文字がおぼえにくく、書き方も複雑なのに手を焼いている。しかし、アラビア文字は、アラビア語だけでなく、ペルシア語やウルドゥー語の表記にも用いられている。かつてはトルコ語やインドネシア語もアラビア文字で表記されていた。そういうことを考えると、少しでも知識をもっておくことは意味のあることだと思って頑張っているところである。

4月26日
 ニッパツ三ツ沢球技場でJ2第10節横浜FC対徳島ヴォルティスの試合を見に出かけた。ホーム・ゲームであるにもかかわらず横浜の選手の動きが悪く、前半1点を先行され、後半途中から出場した小野瀬選手の活躍で1点を返して引き分けたものの、不満の残る試合運びとなった。三浦カズ選手は故障で前半の終わりの方で退場、どの程度の負傷であるのか、心配である。

4月27日
 NHKラジオ「ワンポイント・ニュースで英会話」の時間では”Chimps vs Drones"(チンパンジー、無人機を撃墜)という記事を取り上げた。オランダの動物園で飼育されているチンパンジーの生態を観察するために、無人機を飛ばしていたところ、それがうるさいと思って腹を立てたチンパンジーが木の枝を折って無人機を撃墜したという。動物園の関係者はチンパンジーの知能の高さを示す行為だと述べたという。たしかに、無人機が落ちているのを見つけて、慌てて騒ぎ出した(隠しておくという選択肢もあったと思われる)どこかの国の首相官邸の職員に比べれば、数等知能の高さを示す行動であると評価する意見もありそうである。
 もう一つ注目していいのは、この動物園の職員がチンパンジーの行動をambush(待ち伏せ攻撃)といっていることである。中東における反政府勢力が、海外からの軍事勢力に対して待ち伏せ攻撃を仕掛けてきたことは何度も報道され、それは否定的なニュアンスで語られてきた。サッカーのオフサイドがなぜ反則とされるかをみるまでもなく、欧米的な倫理基準に即して言えば、待ち伏せ攻撃というのは卑劣な行為なのである。ところがチンパンジーの場合は、それが知能の高さを示すものとされるのは、どういうことであろうか。

 よく考えてみたら、私がよく出かける横浜駅近くの家電量販店で、上空から対象物を撮影できる無人機は販売されているのである。首相官邸の一件があって以来、張り紙をして宣伝に努めているようであるが、買い求めようとする人たちの行列ができているとか、飛ぶように売れているとかいう様子はまったくない。面白い機械だと思うが、買っても使う場面がないというのが正直な印象ではなかろうか。おそらく、ほかの量販店でも事情は変わらないだろうと思う。

4月28日
 NHKラジオ「ワンポイント・ニュースで英会話」はアメリカの週刊誌≪タイム≫が毎年選んでいる世界に影響力をもつ100人に日本から2人が選ばれたことを報じた。日本の国力を考えると、2人というのは少ない。影響力といっても、悪い影響力もあるし、『タイム』というどちらかといえば保守的な週刊誌によって選ばれることがどのような意味をもつのかも考えるべきであろうから、多いのが必ずしもいいとは言えないけれども、日本人の国際的な活躍場面を増やしていくにはどうすればいいのかについて、もう少し考えた方がいいだろう。あるいは、そんな場面には出たくないという本音を語る人が多ければ、それはそれではっきりさせるべきである。

4月29日
 NHKカルチャーラジオ「私の落語はくぶつ誌」、第3回の「江戸っ子のやせ我慢」の再放送を午前中に、第4回の「横町の御隠居さん」の放送を夜になってから聞く。柳家小三治師匠の「茶の湯」、花禄師匠の「高砂屋」のそれぞれの口演の一部を聴く。「茶の湯」はやはり、三代目三遊亭金馬の口演が面白かったとか、その弟子の桂文朝の録音は残っていないのかと思ったりもしたが、落語の面白さを改めて感じる。また寄席で本格的に聞いてみようという気分に誘われる。  

ダンテ・アリギエリ『神曲 地獄篇』(34)

4月28日(火)晴れ後曇り

「地獄の王の軍旗の群れが近づいてくる、
我らを目指し。それゆえ前をよく見るがよい、
――我が師は言った――もしもおまえがそれを見分けられるのならば」。
(498ページ) ウェルギリウスの言葉で第34歌は始まる。この冒頭部分はラテン語で書かれ、典礼に際して創作された祈りの歌の初めの部分をなぞったものであると翻訳者である原さんは注記している。このことによって、この箇所はいわば「悪の聖十字架の歌」となり、魔王ルシフェルが世界に悪を招来し、神に敵対する存在であることを読者に印象付けようとしている。なお、軍旗とは魔王ルシフェルの翼のことである。

 ウェルギリウスに導かれたダンテは地獄の第9圏第4円域に達した。ここに閉じ込められているのは恩人を裏切ったものの霊である。そして、彼の目の前には次第に魔王ルシフェルの姿がはっきりと見えだす。
さながら厚い霧が渦巻く時、
あるいは私達の北半球が夜の闇に沈む時、
遠くに現れる、風に回る風車、

そのような一台の兵器の姿を私はその時見たように思った。
それからすぐに風を避けてわが導き手の
後ろで自分の身を縮めた、そこに岩などはなかったからだ。
(同上) 風車は当時最新の発明であった。ルシフェルの翼は絶えず寒風を吹き送り、ダンテは何とかその風を避けようとしていたのである。

既に私は立っていた。そして今恐怖とともにその光景を詩行の中に封じよう。
すべての影が全身を氷に覆われて
ガラスの中の藁のように透けて見えていた場所に。
(498-499ページ) 恩人を裏切った人々の魂は、人間としての在り方を許されず、この寒冷の世界の中で単なる≪物体≫に変えられているかのようである。

 ウェルギリウスはルシフェルの巨大な姿の前にダンテを導く。「さあこの場所でこそ、/お前は豪気で武装せねばならぬ」(500ページ)。ダンテは恐怖に我を忘れながら、魔王の姿を見る。巨大な姿は、神に反抗して地獄に落とされる以前に美しかったのと同じく醜怪であり、3つの顔をもっていた。そして
どの口でも歯で、
砕麻機のように罪人を1人砕き、
かくて3名の罪人にこの苦しみを与えていた。
(503ページ) 恩人を裏切ったものの魂が単なる物体に化しているように、天地創造後、高慢にも神に反旗を翻し、最初の罪を犯した魔王ルシフェルは、地獄に閉じ込められ、神の正義の執行者である巨大な機械にされているのである。もっとも重い罰を受けている罪人はイエス・キリストを裏切り、売ったイスカリオテのユダであり、その横で噛み砕かれているのはカエサルを暗殺したブルートゥスとカッシウスである。ダンテの目から見ると民衆に権力の基礎を置く帝国を建設しようとしたカエサルを暗殺した2人は、古い寡頭制を守ろうとして、正義の実現を妨げた悪人でしかなかったのである。

「さて、重力が集中する宇宙の中心そのものに位置しているため、滅んでいく物質と罪の象徴となっているダンテの魔王は、頭を北半球の頂点にあるエルサレム、足を南半球の頂点にある煉獄山の頂、地上楽園に向けている」(616ページ、翻訳者による解説)。ダンテは地球が丸いと信じていた数少ない中世人の1人であったが、彼の描く地球の姿は現在の地理的な知識とはかなり違ったものであった。「ダンテとウェルギリウスは、魔王の体を伝ってこの中心点を越え、南半球側に出る。この時点で『神曲』の旅は上昇を開始する」(同上)。

私達は登っていった、あの方が一番目に、私が二番目に続き、
空のたずさえる美しいものが、
円い穴を通じて、私に見えるまで。

そしてついに、私達はそこから出ると、再び見たのだ、星々を。
(510-511ページ) こうしてウェルギリウスに導かれたダンテの地獄の旅は終わる。叙事詩の設定では2人は24時間でこの遍歴を終えるのだが、ダンテがこの34歌を1日で書き上げたわけはなく、「地獄篇」を1日で読み終えることも不可能であろう。それから、地獄の遍歴を終えたダンテが星を見るのは、この叙事詩の前途を示す意味をもっていると思われる。なぜならば、星の世界は「天国篇」の舞台となるからである。

 「地獄篇」を読み終えて、地獄というと罪と罰の問題を想起せざるを得ないのだが、ダンテが彼の時代の制約の中で科学的な思考を展開している一方で、この問題を社会的・政治的な文脈の中でとらえようとして、教会の腐敗を憤る一方で、民衆の正義の実現を神聖ローマ帝国の皇帝の政治に期待していることが印象に残る。もちろん、地獄に閉じ込められた1人1人の姿が決して軽く扱われているのではないが、全体として彼の目は個人よりも社会の方に向けられているように思われる。

 「地獄篇」が終わったので、こんどは引き続き「煉獄篇」を取り上げていくつもりである。これまで同様に、お付き合いいただければ幸いである。よろしく。

長谷川洋子『サザエさんの東京物語』

4月27日(月)晴れ、高温

 長谷川洋子『サザエさんの東京物語』(文春文庫)を読む。著者は『サザエさん』の作者・長谷川町子の妹で、2008年に単行本として刊行されたものを文庫本にしたものである。文庫化にあたって、「先輩たちとのお付き合い」、「それからの7年」の2編が付け加えられたという。単行本も読んだはずなのだが、記憶に残る部分があまりなく、最初に読んだ時とは全く別の印象を受けた。

 著者が老境に入ってから2人の姉と喧嘩別れをしたことは、読んだ記憶があるのだが、その詳しい経緯についてはあまりはっきりと覚えていない。しかし、『サザエさん』を朝日新聞に連載、姉妹社から刊行していたのは間違いなく3人姉妹(厳密には4人姉妹だが、1人は夭折した)の共同作業であった。以前、読んだ時は町子自身が書いた『サザエさん打ち明け話』を裏付けるような書物という感じであったが、今回読み直してみると、長谷川町子の光と影がかなり鮮明に浮かび上がってきたような気がする。

 長谷川町子は小学校時代は相当な悪ガキで、卒業式の日の朝、男の子と喧嘩して、その子を物置に閉じ込めてしまい、自分は式に参加、男の子のことは忘れて帰ってしまい、閉じ込められた男の子はとうとう卒業式に出席できなかったというかなりすさまじいエピソードを残しているが、父親の死後、衆議院議員であった母の兄を頼って上京すると、生活の変化と文化の違いとからすっかり内弁慶になってしまう。そのあたりの経緯や、小学校のクラス会への出席を旧悪を思い出して躊躇したことなどがユーモラスに語られているのは、町子自身の証言と補い合う。

 子ども時代からマンガを書くことが好きだった町子の才能を評価して、田河水泡に弟子入りさせようと思いついたのが姉妹の母親であったことはよく知られている。彼女が初期に描いていたマンガを見れば、田河がその才能を評価して弟子入りを認めたのが実に的確な判断であったことが分かるはずである。田河水泡の漫画における一番弟子は、杉浦茂で、不肖私の「たんめん老人」という自称は、杉浦の漫画『猿飛佐助』で佐助の大活躍に手も足も出ない徳川方が中国と朝鮮から呼び寄せた忍術使いたちの1人に「やきそば老人」というのがいたことに由来するものである。その杉浦が後年回想するところによると、2番弟子の倉金章介と3番弟子の長谷川町子は仲がよくて、二人でいろいろと漫画の研究をしては、新しいマンガを作りましょうなどと話していたが、杉浦の方はそのそばでにこにこしてえぇそうですねぇなどと相槌を打っていただけであったという。倉金も長谷川も戦後の世相を巧みに読み取りながら、新しいマンガの世界を切り開いていったが、杉浦の方がそれ以上に大化けに化けたという印象が否定できない。田河水泡門下のなかでの様々ないきさつについては、町子の『打ち明け話』にその一端が記されているとはいえ、どうも謎が多い。田河夫人の高見沢潤子が書いているように、一人前の漫画家になれず、弟子として認められなかった若者たちが田河の周辺に少なからずいたようである。なお、高見沢潤子がアガサ・クリスティーの『ミス・マープルと13の謎』の最初の翻訳者であったことも記憶にとどめておいてよい(『東京物語』には劇作家であったと記されているが、それ以上にこっちの方が重要ではないかと思う)。

 戦後における長谷川町子の活躍については改めて語る必要もないが、語られている思い出が新聞への漫画の連載に限定されていて、その他の活動については触れられていないのは(町子の『打ち明け話』には多少触れられている)、残念である。長谷川町子が最初期の『漫画少年』を支えた漫画家の1人であったことなど、誰かがその姿について語っておいてよいことではないかと思うのである。

 以下、一般的な感想を記す。3人姉妹の長姉で、姉妹社の社長であったまり子が稽古事が好きなたちで、いろいろと手を出すのだが、一向に上達しない。詩吟を始めて、家の中で大声で練習していたところ、飼っていた猫がギャーと暴れまわったので、家のなかでも一番奥の納戸の中で練習するようになったという話がおかしかった。京都の河井寛次郎の攻防を訪問して思いがけず歓待されてくつろいだという話は、私もその工房を引き継いだ河井寛次郎記念館を2度ばかり訪問しているので、さこそと思った。河井を含めて、先輩たちともっと盛んに交流をしていれば、「町子姉の世界はもっと広がったろうし、『知識と知恵の宝庫』から、おこぼれをいただけば、4コマ漫画のワクから飛び出して、自由な発想や表現を生み出せたのではないだろうか。/家庭という狭い世界に閉じ籠ったまま一生を終わったことは一生を終わったことが、改めて惜しまれる気がする」(117ページ)という意見は、この著者ならでのもので、『サザエさん』を家庭漫画のワクのなかで理解し・評価する意見が多い中で、身内からのこのような評価があることは注目しておいてよい。

 著者の夫の大先輩で一家の友人となっていた人が、姉妹の外国旅行についての便宜を図るつもりで、行き先の大使館にいろいろと手を回して世話を依頼したエピソードは、その親切がしまいにとっては有難迷惑になったようである。国会議員などのなかには、海外旅行に出かけた際に、大使館の館員を顎で使い回しているような人がいると仄聞するが、一般庶民として見れば、そこまで面倒を見てもらうのはかえって気疲れがするということであろう。

 認知症になった母親の介護、姉妹の分裂の原因となった新居の建築、町子の遺産の相続の問題など、いろいろな事柄がかなり率直に記述され、単行本として出版された際には、それがかなりの反響を呼んだとあとがきに記されている。実は、単行本を読んだ時には、そういう部分はほとんど読み落としていたようである。今回、あらためて、長谷川一家の影の部分(といってもそれほど暗い影ではないのだが)にも目が届いたのは、私自身がそれだけ年をとったということだろうか。

コナン・ドイル『シャーロック・ホームズの読書談義』

4月26日(日)晴れ、風強し。

 読書について、「何を、どのように」読むかを教えるのは、それほど簡単なことではない。高校1年の時の国語の教科書に、小泉信三の『読書論』の一部が載っていたのを読んだが、それがその後の読書に役だったとは到底思えない。読書を囲碁や将棋にたとえると、小泉は名人級の人物である。いくらやさしく随想風に書いているとはいっても、名人級の人物が到達した境地を、高校生がどこまで理解できるかは疑問である。

 それから、小泉の『読書論』は読書における良書主義と適書主義という2つの考え方、つまり伝統的に名著と考えられてきた古典的な書物を中心に読書すべきであるという考え方と、とにかくそれぞれの人間の必要に応じて役立つ本を読めばよいのだという考え方のなかで、良書主義を代表するものである。学校における読書指導は良書主義に傾きがちだが、良書主義を採るにしても原則は踏まえたうえで柔軟な指導が望まれる。というのは高校生や大学生の場合、教師の権威に従って古典的な名著を読むということに疑問を抱く傾向が出てくる反面で、そういう古典が歴史のどのような流れの中で評価を確立してきたのかについての知識・理解がまだ不十分なところがある。だから教師が古典Aを勧めると、生徒の方は古典Bを求めたりすることも起こる。それに良書と適書の区別も曖昧である。受験参考書の類は適書であろうが、それも多くの読者に読まれて、さまざまな人から高く評価されていくと、良書に格上げされることだってないとは言えない。

 小泉の『読書論』が高校生にはどうも適切ではないかもしれないということになると、どんな読書論がいいのかということで、思い出したのがコナン・ドイルの『シャーロック・ホームズの読書談義』(大修館書店、1989)である。刊行されてから25年以上たっているので、今でも入手できるかどうかは疑問であるが、とりあえず、面白く読んだ読書論ということで、念頭に浮かんだのである。もう100年くらい昔の英国人の書いた本であり、この中で取り上げられている書物の少なからぬ部分がたやすくは読めなくなっているけれども、どういうふうに読書と取り組むべきかという点では参考になる点が少なくない。

 ホームズ物を読んでみればわかることだが、ドイルは博学多識、しかも彼の伝記を読めばわかることだが、国会議員に立候補したり、冤罪事件をめぐり活動したり、学校給食の実施のための運動をしたり、そうかと思うと心霊術に没頭したりとやることも多様であった。それは1つには彼の受けた教育によるものである。彼は英国屈指のパブリック・スクール(というのはイングランドでは私立の名門校をいうのである)の1つであるストーニーハーストを卒業して、スコットランドのエディンバラ大学に進学するという赫々たる学歴をもっている(もっとも成績はそれほど良くなかったらしい)。エディンバラ大学は、現在でも世界の大学ランキングでは、日本の東大と同じくらいの順位を得ているが、ドイルの時代はすぐれた教養教育と専門教育の両方を授ける超一流の大学であった(その後、順位が下がったのは、エディンバラの研究・教育の水準が下がったのではなくて、ほかの大学の水準が上がったということである)。ドイルはこの大学で医師になるための勉強をしたのだが、医師としてはそれほどの実績を上げることはできなかった。しかし、彼の小説に登場する名探偵ホームズと科学者チャレンジャー教授はともに、エディンバラ大学時代に彼が接した先生をモデルにしているといわれるから、大学で勉強したことはまったく無駄だったとは言えないのである。とにかく、ドイルはこの大学の専門教育を通じて医師の資格を得たのだが、それ以上に教養教育から多くのものを得たように思われる。しかも、大事なことは、彼が医師として開業してからも、職業的な研鑚だけでなく、教養に磨きをかけることも忘れなかったことである。読書はそういう彼の教養形成の重要な部分であったと考えられる。

 さて、『シャーロック・ホームズの読書談義』の原題はThrough the Magic Door (魔法の扉を通って)で、読書が人々を現実の世界から、魔法のような世界へと誘うことを示している。内容はというと、ドイルが自分のそれまでに読んだ書物について縦横に語るというもので、取り上げられている書物が、英国の読書人ならば誰でも読むような古典的な名著が多いというところが注目される。ホームズの著者だから適書主義かというと、そうではないのである。もちろん、エドガー・アラン・ポーとその短編小説について論じたり(『四つの署名』のなかでホームズはデュパンをぼろくそに言っているが、この書物では「あのすばらしいデュパン氏の話から何らかの技法を学ばなかったものが一人でもいるだろうか」(98ページ)と絶賛している)、騎士道小説や、旅行記・冒険記の魅力について語ったりする、ホームズの生みの親であるドイルらしさが発揮されている個所もあるが、「『英国民主革命史』を生んだマコーレイ」とか、「英語辞典の生みの親サミュエル・ジョンソン」とか、「ギボンの『ローマ帝国衰亡史』とピープスの日記」とかいう章には英国人としての正統的な教養を重視する著者の姿勢が認められるといえよう。

 ところで、ドイルはこの本で何を読むかということについて主に語っているのだが、読んだものをどのように書き留め、記憶するかについては記していないのが残念に思われる。小説のなかのワトソンはホームズが手掛けた事件についての記録を作り、その一方でホームズ自身はその自宅の部屋にファイルを保管していたようである。ドイルが実際に読んだ本についてノートを作っていたのか、もっと別の整理法を考案していたのかは興味のある所である。この書物の翻訳者である佐藤佐智子さんは、「ドイルがほとんど参考資料もなしに書いている・・・その引用にはほとんど誤りがない」(ⅵページ)と書いているが、若しその通りだとすると、それはそれで凄いことである。

 また、作家としての目から、(特に同時代の)個々の作家の技術的な特徴について触れているのも興味深い。この点と関連して、ドイルが2度国会議員に立候補したと書いたが、彼の同時代人であるH.G.ウェルズも2回立候補して、それぞれ2回とも落選している。ドイルが保守党、ウェルズが労働党から立候補したというのも両者の性格を示していて面白い。ドイルはポーについて触れている中で、ジュール・ヴェルヌとH.G.ウェルズの作品についても言及しているが、ドイル自身もかなりすぐれたSF作品を残していることを我々は評価すべきであろう。その一方で、ドイルが多くの影響を受けたはずのウィルキー・コリンズについてはあまり多くを語っていないのはどういうことだろうか。読み返すたびに発見と疑問とが見つかる書物であり、また、機会を見つけて読み直そうと思った。

『太平記』(40)

4月25日(土)曇り

 元弘3年(1333年)閏2月、幕府は数十万の大軍を吉野、赤坂、金剛山の城へ向かわせたが、それぞれが要害の地で、籠城する兵たちの士気は高く、なかなか落城しない。河内の豪族平野将監入道が立て籠もった赤坂城は北条氏の一族である赤橋右馬頭が率いる大軍が攻囲したが、本間資頼と人見恩阿が先陣を争って討死し、本間の嫡男資忠も続いて父の後を追った。

 そうこうするうちに右馬頭は8万騎の軍勢を率いて赤坂の城へと押し寄せ、城の四方を取り囲んで、敵を威嚇するときの声をあげた。その響きには城が構えられている山のがけも崩れるのではないかと思われるほどであった。さて、この赤坂の山というのは、東、西、北の3方は高い崖になっていて屏風を立てたようである。南側には、幅は狭いが平地に続いているところがあるが、そこを掘りきって、崖の差し出たところに城柵を作り、上にやぐらを並べたので、そうやすやすとは攻略できないようになっている。
 とはいうものの、寄せ手は大軍なので、相手を呑んでかかり、籠城軍が掘った堀のなかに走りおり、さらにそれを越えて崖を登ろうとする。それを兵の中から弓で狙い撃ちするので、負傷したり、命を落としたりするものが多数に及んだ。それでも兵を入れ替えて、攻撃を続け、13日間にわたり昼となく夜となく攻め続けたが、城は少しも弱らず、いよいよ気勢をあげている様子である。

 この時、播磨の国(兵庫県南西部)の武士で吉川(きっかわ)八郎というものがいて、大将の前に進み出て、次のように述べた:この城の様子を見たところ、何年間せめても落城するとは思えない。もともとこの城を守っていた楠正成はこの一両年にわたって泉、河内に勢力を張っていたので、その間にたくさんの兵糧を城内に運び込んでいたと思われ、そう簡単にそれが尽きるとは思えない。
 この城は3方に谷があって、外部とのつながりが断たれている。一方は平地で山は遠い。だからどこから水を引いているとも思えないのに城内には水が豊かである。攻囲軍が櫓に火矢を射かけても、籠城軍は水弾き(=消火に用いる水ポンプ)を使ってすぐに消し止めてしまう。これだけ水が豊かなのは、おそらく南の山から樋を埋め隠して、城に水を引いているためと思われる。それで、人夫を集めて、山すそを掘らせて確認してみるべきである。
 大将ももっともな提案だと思って、4~5千人の人夫を集めて城に続いた山の裾を一文字に掘りきらせてみれば、考えていたとおり、土の底2丈(約6メートル)あまりの下に樋をかけて、その周辺を石で囲い、上に槇で作った樋の覆いを掛けて、外の方から水を流し込んでいたのであった。この旧水路をたたれてしまったので、城内は水に苦しむことになる。

 それでも4,5日ほどは何とか我慢していたが、雨も降らず、寄せ手はこれに勢いを得て絶えず火矢を射かけ、それで城の正面の櫓2つが焼き落とされてしまった。城内の兵士たちは、13日間も水を飲まず(多分、少しは飲んでいたのであろうが)、すっかり弱り果てて、こうなったら場外に打って出て討ち死にしようと木戸をあけて飛び出そうとする。
 それを見た平野将監入道は兵たちを押しとどめて、ここはいったん降伏して様子を見ようと言い出す。不穏な状況が広がる中で、幕府方は降伏した武士たちを斬るようなことはしないだろうし、そのまま幕府が優勢を保てば、幕府のために一生懸命に戦って功績をあげればよく、もし宮方の方が強いようであれば、また宮方について戦えばよい。「天下の事、未だ知るべからず。ただしばらく命を全うして、時を待つには如かじと存ずる、いかに」(315ページ)といったので、兵たちも命が惜しかったので、これに従う。

 こうして翌日、戦いの最中に、平野入道は高櫓に登って降伏する旨を伝える。攻囲軍からは渋谷十郎がやって来て、平野入道の意思を確認し、戻って大将の赤橋右馬頭に復命すると、赤橋は喜んで、降伏した武士たちの本領を安堵し、特に功績のあったものについては恩賞をとらせるように申し添えようと約束する。それで城内の兵士たちは籠城を解いて、城外に出てくる。

 彼らの身柄を引き取ったのは長崎九郎左衛門(317ページの脚注では師宗)で、降伏した兵たちはしきたりどおりに扱うといって、彼らの武器を奪い取って、高手小手に縛り上げ、すぐに六波羅へと送り届けた。兵たちは、こういうことだとわかっていれば、討ち死にした方がよかったと後悔したが後の祭りである。京都に到着すると、「先づ合戦の事始めなれば、軍神(いくさがみ)に祭つて、人に見懲りさせよ」(317ページ、まず合戦の事始であるから、軍の守護神の血祭りにあげて、見せしめにせよ)と、六条河原に引きだして、1人残らず首を刎ねて、その首をさらした。これを聞いて、吉野、金剛山に立て籠もっている兵たちは、怒り狂い、さらに決意を固めて守りに着いたのであった。

 赤坂攻略の最大の殊勲者は播磨の国の住人である吉川八郎であるが、その功績がどのように称賛されたかは記されていないし、『太平記』の作者も関心がないようである。このあたりに『太平記』の作者の関心や考え方の特徴が窺われる。吉川氏は「藤原南家工藤一族の武士」で、この時代の当主は経盛であるが、彼は安芸の国を本拠として活動していたので、八郎は別の流れの武士なのであろう。
 平野入道が降伏を決心するあたりの思考はこの時代の武士にとってむしろ普通のものであったのだろうが、典型的な日和見主義である。したがって『太平記』作者の目も厳しい。しかし、そういう奇怪主義・日和見主義的な武士の存在を現実的なものとして是認する赤橋の約束は当然のもので、それを反故にした長崎の態度の方がその後の事態の推移を見ると問題が多い。この後に出て来る赤松円心が降伏した幕府方の武士に寛大な措置をとって彼らが心から帰服したという記事とは対照的である。北条高時のもとで権勢をふるう長崎一族の横暴はこれまでも描かれてきたが、それが裏目に出て事態が悪化する可能性があることを、本人たちは気づかないというところまで、『太平記』の作者は見通しているようである。

『太平記』(39)

4月24日(金)晴れ、風、強し。

 元弘3年(133年)閏2月、幕府方は数十万の大軍を派遣し、護良親王の立て籠もる吉野、河内の豪族平野将監入道が立て籠もる赤坂、楠正成の立て籠もる金剛山の城に向かわせた。赤坂城の合戦では本間資頼と人見恩阿が先陣を争って見事に討死を遂げた。(この先陣争いが『平家物語』に描かれた、熊谷直実、平山季重の先陣争いに倣ったものであることは明らかであるが、熊谷も平山も討ち死にどころか、鎌倉幕府成立後まで生き延びて、それぞれの生き方で後世に名を伝えているのに対し、本間と平山は後世に名を伝えようと進んで死地に赴いている、というところに『平家』と『太平記』の違い、あるいはこれら2つの作品が体現している時代の(あるいは一部かもしれないが)精神の違いを感じ取ることができる。)

 さて、本間には彼が帰依していた時衆の聖が随行していて、臨終の際に十辺の念仏を勧めて往生へと導いたのであるが、彼は本間の首を貰い受けて、天王寺に持ち帰り、本間の子息である源内兵衛資忠(すけただ)に、事の次第を物語った。資忠は一言も言わずに涙にくれていたが、何を思ったのか鎧を身にまとい、馬に鞍を置いて、1人で出陣しようとする。聖は、これを不思議に思い、命を大事にして、子孫の繁栄を図るのが何よりの親孝行であると言い聞かせたので、資忠もいったん身につけた鎧を脱いだ。それで安心して、聖は近くで本間を葬ろうと立ち去った。

 ところが、聖が去ると、資忠は四天王寺の聖徳太子を祀る聖霊院(太子殿)に赴き、親の討ち死にした場所で自分も死のうと決めたので、その後は極楽往生させてほしいと泣きながら祈念し、石の鳥居を見ると、父親とともに討死をした人見恩阿が詠んだ歌が記されていた。「これぞげにも、後世までの物語にも留むべき事よ」(308ページ、和歌こそ確かに死後の語り草として留めておくべきことだ)と思ったので、右の小指を噛んで、その血で1首の歌を書き添えて、赤坂へと向かった。

 赤坂の城に近づいたので、馬から下りて、名乗りをあげる。父親が1人で戦死して、あの世を一人で旅させるのも心配なので、自分も討ち死にして父の後を追いたいとその志を述べる。赤坂の城を護っていた兵士たちも、この言葉を聞いて涙を流す(人見と本間がやって来た時に最初は嘲笑ったのと大変な違いである)。そしてしばらくの間、場内の敵と切り結ぶが、ついに父親が討ち死にしたのと同じ場所で、刀を口に加えて、馬からさかさまに飛び降りて、命を捨てる。

 『太平記』の作者は、本間父子と人見について最大限の賛辞を贈っている。「惜しきかな、父の九郎は双(なら)びなき弓馬の達者にて、国のために要須(ようしゅ=重要な人物)たり。また、資忠はためしなき忠孝の勇士にて、家のために栄名(ほまれ)あり。人見は年老い、齢(よわい)傾きぬれども、義を知り命を知ること、時とともに消息す(道義をわきまえ天命を知り、時勢の変化に従って身を処した)。この三人、同時に討ち死に死ぬと聞こえければ、知るも知らぬも押し並べて、嘆かぬものはなかりけり」(310ページ)。

 既にさきがけの兵たちが、抜け駆けをして赤坂の城を攻めて討ち死にしたという情報が伝わったので、大将である赤橋右馬頭が天王寺を出発して赤坂に向かう際に、石の鳥居を見ると、左の柱に、
  花咲かぬ老木(おいき)の桜朽ちぬともその名は苔の下に隠れじ
(311ページ、年老いて花の咲かない桜のような私だが、たとえ朽ち果てようとも、今度の戦功による名は死後も残ることだろう。)と人見の歌が記され、また右の柱には
  待てしばし子を思ふ闇にまよふらむ六(むつ)の岐(ちまた)の道しるべせむ
(同上、しばらくお待ちください。子を思う煩悩の闇に迷っている父上に、私が冥途の六道の辻の道案内を致しましょう)という本間資忠の歌が書かれていた。

 この岩波文庫版の『太平記』の校注者である兵藤裕己さんはその著書である『王権と物語』(岩波現代文庫、2010)のなかで、人見と本間の語る言葉(とそれが表現している考え)と行動とが、あまり理に適っていないこと、にもかかわらず彼らがあえてその理にかなわない行動を選択し、その行為を客観視し、相対化する視点をもっているはずの『太平記』の作者が、なぜか彼らの行為に賛辞を贈る不可思議を述べている。そのようななんとも不思議な性格が『太平記』の特徴であるというのである。これが時代の特徴であるともいえるが、物語の時代的な背景を無視して、ただひたすらに戦死を望むような登場人物の行動を無条件に肯定してしまうことが極めて危険であることは言うまでもない。

石井桃子『石井桃子コレクションⅣ 児童文学の旅』

4月23日(木)晴れ

 児童文学者といってしまえば簡単なのだが、石井桃子(1907-2008)は創作家であり、編集者であり、翻訳者であり、図書館の主宰者であった。これはすごいことである。そして、もし石井に会うことができたら、一度は聞いてみたかった疑問がある。武者小路実篤が創始した「新しき村」の年譜を見ていくと、石井桃子という人物の入会が記録されている。これがご本人なのか、同姓同名の別の人物なのか気になる。

 もし別の人物だとしても、石井は「白樺派」の周辺にいた人物であることは間違いない。彼女は「白樺派」の1人であった後の法務大臣犬養健のところで書生をしていて、そこの令嬢に、「くまのプーさん」を訳してくれとせがまれたことが児童文学者としての出発点となったというのは、かなり有名な話である。(なお、その令嬢というのは犬養道子さんである。これから、何回かこの言葉を使うが、役者が揃っている。) さらに戦後、宮城県の山の中で農業・酪農に従事したという経歴もあって、ますます白樺派の理想主義を思い出すのである。ただ、石井さんは日の当たる場所を歩き続けた人であり、だからこそ、この旅行記にまとめられるような経験もしたのであるが、同じ白樺派の影響のもとで出発しても、戦後長く有楽町の街頭でガリ版刷りの詩集を売り続けていた城米彦造のような生き方をした人もいて、そのあたりを一面的に決めつけてはいけないと思う。(私は、石井桃子も城米彦造も好きで、だから人生の方向が定まらなかったのかもしれないと、多少後悔している。)

 石井さんを創作家と見るか、翻訳者と見るか、編集者と見るか、図書館運動家と見るか、私は創作家だと思っている。しかし、この本の解説を書いている松居直さんは翻訳者として見ている。「『菊池寛をはじめとする文芸春秋社の錚々たる編集者たちに接し、山本有三や当時の一流の著者たちと仕事をされ、また吉野源三郎という大編集者とともに企画にあたられたその経歴は」(316ページ)という書き方には、編集者としての石井さんへの経緯が窺われる。しかし、菊池寛は編集者、出版社の創業者である以上に、まず作家であったし、山本有三は作家、吉野源三郎もまた創作とは無縁ではなかった(これまた役者が揃っている)。創作のためには、周辺的な日常の作業が必要であり、その最大のものが翻訳である(と私は思っている)。石井桃子は、自分の日常生活とその周辺への観察と記憶を怠らなかった人物であるとともに、翻訳に人生の重点の多くを傾けた作家でもあった(つまり、何もしないと、発想が浮かばないし、他人の発想につき合うことは、かなり効果的な発想術の1つなのである)。

  この書物には石井の5回の海外旅行の記憶をまとめたものである。「まえがき」の中で石井は自分が、芽の前に現れたことをそのまままとめることができないタイプの人間であるので、旅行をしてもすぐにその旅行記をまとめることができなかったと述べている。しかし、彼女は自分の記憶に残った出来事を里に触れてまとめて書き、この旅行記を造り上げている。
 著者のそういう性格を反映して、彼女の最初の、最も長い海外旅行である1954-55年のカーネギー財団に招かれてのアメリカ旅行(その後、ヨーロッパを旅行している)について書いた部分はかなり短いし、以下の旅行についても、ほかの国にも出かけているはずなのだが、アメリカ、カナダ、英国の3か国で経験したこと以外には、触れていない。石井さんは英米(特に英国)の児童文学の翻訳・紹介者であったので、やはりこの3つの国の児童文学と児童図書館の状況については専門家として自覚的に紹介しなければならないと思ったけれども、その他は物見遊山の旅行になってしまったので、省いたということであろうか。

 それにしても最初の旅行では船に乗って太平洋を横断しているのに、その後はジェット機で欧米まで飛んでおり、その他利用する交通機関についての記述を読んでも、時代の推移が感じられる。この書物の大部分は英米の児童文学書の作家や編集者との交流、児童図書館の見学の記録に宛てられているが、その中で、石井が特に心がけて周辺の情報を集めた英国の2人の児童文学者:エリナー・ファージョンとビアトリクス・ポッターの住まいと生活圏、経験と生涯の追跡に費やされているのが印象に残る。この2人について石井は「翻訳にかかると、いつもその著者にのめり込んでしまう私の心は2人のあいだでひきさかれたようであった。…1人は、イギリスの風土からうけたものを克明に写しとり、きびしく組み立てて幼児のための絵物語をつくった。1人は、自然のなかにゆらめく虹のような光を紡いで流れるような物語を書いた。2人に共通なところは、彼女たちの作品が、断ち切りがたくイギリスという風土に根付いていることだけだろう」(253ページ)という。実際のところ、イギリス(≒イングランド)といっても、地方による多様性があり、階級やその他の出自による文化的な違いがあって、それぞれの個性に共通するものをあえて求める必要はないのではないかとさえ思える。

 この書物は、英米の児童図書出版や児童図書館事情についての紹介としても読めるが、石井がこの旅行をしたのはかなり昔のことで、現在の状況にどれだけ当てはまるかは疑問であり、むしろ英米の児童文学作品、すでに述べたようにファージョンとポッターの創作活動の背景となった地方の旅行記として読む方が楽しい。英国人は生活について、日本人に比べてはるかに保守的なので、かなり前に書かれたこの本に出て来る事柄が当てはまる場面が今でも少なくはないのである。さらに石井も「付記」で書いているが、この本の原型になった文章が岩波の『図書』に連載されていたのを切り抜いて補完し、英米を旅行する際のガイドブックとして活用したという人が少なくなったそうである。石井は旅行中、メモのようなものをあまりとらなかったというから、その観察力と記憶力の素晴らしさに感謝する必要があるだろう。私も、自分が旅行した英国の様子を思い出しながら、楽しく読み進み、また機会があれば、出かけてみたいなぁと思っていた1人である。

日記抄(4月16日~22日)

4月22日(水)晴れ後曇り後一時雨

 4月16日から本日までの間に経験したこと、考えたこと、今後の予定、その他:
4月16日
 NHKラジオ「まいにちフランス語」応用編「ニュースで学ぶフランス語」は、”Rumeurs et idées reçues sur le baccalauréat” (バカロレアに関して世間で信じられている噂や思い込み)を取り上げた。
 Ces croyances ont la vie dure et sont amplifiées car diffusées par les réseaux sociaux. (これらの迷信は生命力が強く、ソーシャルネットワークで拡散されるため、増強されていきます)という。バカロレア資格はフランスの大学入学のために必要とされる資格であるが、日本でも試験をめぐる都市伝説の類はないわけではない。このニュースでも述べられているように、受験準備が整っているという気持ちを必ずしも抱いているわけではない受験生の不安も、フランスだけのものではないようである。
 この番組でニュースが読みあげられるスピードの速さにしばしば圧倒されている。「ワンポイントニュースで英会話」などで聞く英語のニュースに比べても速いように思われるのは、気のせいであろうか。

4月17日
 「まいにちイタリア語」応用編「描かれた24人の美女」はクリストフォロ・ロマーノ作の<イザベッラ・デステの胸像>を取り上げた。イザベッラ・デステ(Isabella d'Este, 1474-1539) はイタリア半島の小国マントヴァ侯国の侯妃で政治・文化の面で大射に活躍した。「歴史上、名を残した女性は多くいますが、政治的な手腕を発揮したことで有名になった女性はあまりいません。イザベッラ・デステはそのひとりです。男性ばかりの戦乱時代で、イザベッラはいかにして活躍したのでしょう」と語りだされている。「彼女は当時の権力者たちと膨大な数の手紙をやり取りし、戦乱の世にあって、小国マントヴァの命脈を保つことに成功しました。芸術パトロンとしても知られていますが、芸術家に事細かに指定をしたがる、うるさ型のパトロンです」という。レオナルド・ダ・ヴィンチが遺した彼女の横顔のデッサンはよく知られている。彼女の「知性と美しさを今によく伝えて」いるというのだが、ほかの画家の書いた肖像画と比べて違いが目立つので、そのあたりをどのように考えるべきであろうか。

4月18日
 NHKラジオ「攻略!英語リスニング」のLesson3のテーマは「テニス」であった。
It had come from the old French game, played without racquets, where players hit the ball with the palm of their hand.
(それはフランスの古いゲームが原型で、ラケットなしで、競技者たちはボールを手のひらで打っていた。)
 テニスという言葉は、フランス語のtenezに由来するそうである。思い出すのは、中学生のころに、ゴムまりを手のひらで打って遊ぶ、ハンド・テニスというのが学校ではやっていたことである。子どもの遊びには、スポーツの原型を連想させるものがあるという一例であろう。
 番組では触れていなかったが、テニスとスカッシュはもともと同じゲームから分かれたもののようである。そういう例は他にも少なくない。

4月19日
 ニッパツ三ツ沢球技場でJ2第8節の横浜FC対Vファーレン長崎の試合を観戦した。前半、横浜が三浦カズ選手のゴールで1点を先行したが、後半立て続けに2点を失い逆転を許した。しかし、そこから粘りを見せて楠元選手のゴールで同点に追いつき引き分け。後半になってカズ選手と交代で出場した黒津選手の動きがよくなかったのが気になる。それなりの選手なので、次回以後頑張ってほしい。それにしても横浜はFWがこのほかに大久保選手、青木選手と4人だけで、もう少し補強の必要があるのではないかと懸念しているところである。

4月20日
 NHKラジオ英会話では昨年11月8日放送の”Piano that survived atomic bombing returns home"(「被爆ピアノ」が里帰り)というニュースを取り上げた。このピアノは爆心地からおよそ1.5キロ離れた舟入地区に住んでいた男性がもっていたのだが、その後持ち主の男性が同地区から引っ越し、ピアノも一緒にもって行ったのが、8月6日の原爆投下69周年に際して修復されたのだそうである。このピアノの里帰りを記念して舟入地区でコンサートが開かれ、何曲かが演奏された中で、あるピアニストが「故郷(ふるさと)」を弾いたそうである。番組では”Furusato", or Hometown"と紹介していたが、この歌の歌詞を考えると、どうも”Hometown"というのが引っ掛かる。街中で兎は追いかけられないだろうと思うのだが…。

4月21日
 昨日に続いて「ラジオ英会話」からの話題。誰かが会話中くしゃみをすると、その相手がBless you.(お大事に)というのが流れであるが、Gesundheit"(健康!)という言い方をすることもある。思い出すのは、ウォルター・マッソー主演の映画『サブウェー・パニック』でやたらくしゃみをする男が警察に電話を掛けてきて、そのたびにマッソーが”Gesundheit"というくだりである。これはもともとドイツ語で、ところによっては、「乾杯」の意味で使われることもあるという。”Bless you!"とか”Gesundheit!"といわれたら、”Thanks."とか”Thank you."とか答えればよいとのことだが、くしゃみが止まらなかったらどうしようか・・・・

4月22日
 NHKカルチャーラジオ「私の落語はくぶつ誌」の第3回「江戸っ子は口先ばかり」の再放送を午前中に、第4回「江戸っ子のやせ我慢」を夜に聴く。第3回の再放送で、昨年亡くなった桂小金治さんの「三方一両損」の録音の一部が聞けたのが収穫であった。講師の京須さんも言っていたが、小金治さんの口演は8代目の三笑亭可楽の口跡をよくとどめているというのが特徴である。8代目可楽は中・高校時代によくラジオで聞いた落語家で、本人が下谷の経師屋の若旦那であったから下町の職人の生活や気質はよく知っていて、職人たちの描写には実感がこもっていたのと、「三方一両損」の「出世するような災難に遭いたくない」というあたりには、不遇な時期が長かった本人の述懐が感じられたりして、いろいろと聞きごたえがあった。小金治さんの方にはそういう陰影はないけれども、とにかくあまり笑いをとろうとせずに、話を進めていく江戸前の話し方というのは伝わっていたと思う。(お客に媚びない、いわゆる「江戸前」の話し方というのは、8代目三笑亭可楽で終わったといわれるけれども、その残影は感じることができるということである。)
 第4回の放送では京都と大阪の気質の違いが上方落語の中で描かれている例として、桂文珍さんの「愛宕山」が紹介されたが、こちらはとにかく笑いをとりに行く話し方で、これはこれでいいのである。

その他
 4月24日に私の住んでいる地区では小津安二郎の『戸田家の兄妹』を上映する。そのチラシを見ると、『兄妹』が『兄弟』になっていて、出演者として「藤野秀夫、葛城文子」が挙げられているが、これは戸田家の当主夫婦を演じている俳優たちである。兄妹を演じているのは佐分利信と高峰三枝子であり、そう書く方が適切であろう。そういえば、昨年見た渋谷実の『自由学校』では佐分利と高峰が兄妹ではなくて夫婦を演じていた。『自由学校』は松竹と大映で競作になったのだが、大映版の方を監督したのが吉村公三郎で、彼が『戸田家の兄妹』の画面構成の美しさを称賛する論評を残しているのが興味深い。

 4月25日にいつもそのブログを読んでいるシャンソン歌手・別府葉子さんの東京でのコンサートがあるが、会場が遠いので、聴きに行けないのが残念である。

 4月になってから買った本は8冊で、そのうち6冊を読んでいる。まだ読み終えていないのが、4月1日に購入した伊藤誠『経済学からなにを学ぶか その500年の歩み』(平凡社新書)とパトリシア・ハイスミスの『殺意の迷宮』(創元推理文庫) というのはどういうことであろうか。『経済学』の方は間もなく読み終えることになると思うが、『殺意の迷宮』の方はなかなか読み進められないところがある。さて、どうなるか。

納富信留『ソフィストとは誰か?』

4月21日(火)曇り後晴れ

 4月20日、納富信留『ソフィストとは誰か』(ちくま学芸文庫)を読み終える。「明治以降、本格的なギリシア哲学研究に着手し、それを発展させてきた日本の哲学界のいて、20世紀に『ソフィスト』について書かれた単行本は、驚くべきことに、1941年2月に刊行された田中美知太郎著『ソフィスト』1冊に留まった」(38ページ)と著者は言う。解説で鷲田清一さんが書いていることの方が印象がつよいかもしれない。「「哲学」が西欧から輸入されて1世紀半近くになるこの国で、ソフィストについて書かれた、これがまだ2冊目の本なのだというのはなんとも驚きである」(361ページ)。

 この書物は「ソフィストとは、一体誰か? ソフィストは、哲学にどのような意味をもつのか?」(13ページ)を追求している。普通、理解されているように、ソフィストというのは哲学の一流派ではなくて、むしろ哲学と対立する思考を展開した人々であり、それ以上に、「徳の教師」として金をとって自分たちの知を売り歩いた人々である。(だから、それぞれの間に考え方の対立はあったし、お互いに論争を展開することも普通に行われていた。) 彼らを「知を愛する人々」としての哲学者とは異なる、社会に害をなす存在として徹底的に批判し続けたのはプラトンであり、そのプラトン以来の伝統が、ソフィストの影を薄くしてきたというのである。

 私が最初についた仕事は「哲学」を教えることであり(大学の教養部で落第点を取った科目を教えるというのはどうにも皮肉なのだが)、その際に「生き方について教えればいいのだ」といわれたことについては何度か書いた。しかし、生き方を教えることは誰にもできないともいえるし、誰にでもできるともいえる。学校であれば、教師1人1人が生徒に自分の生き方について語ったり、生徒同士が人生について語り合ったりすれば、それでいいのであって、そこに「哲学」が介在する余地はあまりない。むしろ哲学の本を読んで小理屈を並べるようになると、人生について誤った見通しをもつことになりかねない。

 ごく一般的に、健全な生活を送ることを求めるのであれば、家庭と地域社会との信頼関係を築き、学校や職場で規則正しい生活を送ることを習慣化することが大事で、学問としての哲学はそれとは全く別の次元のものである。学問としての哲学は、世界について、自分の人生について、自由に考えることであって、それが社会の期待に沿うものであろうと、沿わないものであろうと、かまわない。近代の哲学にはそれぞれの哲学者の思索の毒が含まれており(カントの思想にはロベスピエールとの共通性があると指摘したのは詩人のハイネであった)、そのような毒をとり去ってしまって処世の飾りとしての当り障りのない哲学的な教養を教える仕事というのは、本来の哲学とは無関係で、むしろソフィスト的な仕事であるともいえる。

 これまた鷲田さんが解説で書いているけれども、道徳を教科化するということがどうも実現しそうな世の中で、哲学者の仮面をかぶったソフィストがますます多くなる恐れがなしとしない(もっともソフィストを悪役と考えるのはあまりにもプラトンに肩入れする思考なのだが…)。そこまで考えなくても、哲学が日本の教育体制を支える学問の1つであるということの意味を、あらためて考え直すために、この書物は一石を投じるものではないかと思うのである。

 この書物の構成は以下の通りである:
序章 ソフィストへの挑戦
第1部 哲学問題としてのソフィスト
第1章 「ソフィスト」ソクラテス
第2章 誰がソフィストか
第3章 ソフィストと哲学者
第2部 ソフィストからの挑戦
第4章 ソフィスト術の父ゴルギアス
第5章 力としての言論――ゴルギアス『ヘレネ頌』
第6章 弁論の技法――ゴルギアス『パラメデスの弁明』
第7章 哲学のパロディー―ゴルギアス『ないについて』
第8章 ことばの両義性――アルキダマス『ソフィストについて』
結び ソフィストとは誰か

 第1部では哲学の側からのソフィスト批判が、第2部ではソフィスト自身の側からの挑戦と反撃とが取り扱われる。ソフィストの中でゴルギアスとアルキダマスが取り上げられているのは、この2人の著作の断片が比較的多く残っていることによるようであるが、第8章の「ことばの両義性」で論じられている書きことばと話しことばの対立の問題は、これまた現代においても重要な問題を投げかけているのではないかと思った。ギリシア哲学についてはもちろんのこと、現代の思想的な状況や教育の状況を考える上でも示唆に富む書物である。

ダンテ・アリギエリ『神曲 地獄篇』(33)

4月20日(月)雨が降ったりやんだり、風が強い

 第32歌の終わりで、ダンテは1人がもう1人の首を噛みちぎる姿で登場する2人の人物を描く。第33歌はこの罪人たちについてさらに詳しく描くことから始まる。彼らは祖国への裏切りの罪のために、地獄の最下層である第9圏コキュートスの第2円域アンテノーラに置かれている。

口を獣の捕食から離して
その罪人は持ち上げたのだ、後ろから貪りつき
噛み砕いていた頭の髪の毛で拭いながら

その後で話しはじめた。「おまえはこの俺に、語る前から、
思うだけですでに我が心を押し潰す絶望の苦しみを
繰り返させたがっている。」
(482ページ) こう語り始めたのは、都市国家ピサで裏切りを重ねたウゴリーノ伯爵であり、彼に食いつかれていたのはピサの大司教であったルッジェーリである。2人はピサの政権をめぐって争った結果、ルッジェーリがウゴリーノとその息子たちを飢餓の塔に幽閉して死に至らしめた。なお、ウゴリーノの語り始めの言葉は、ダンテの旅の導き手であるウェルギリウスの傑作『アエネーイス』の第2歌の最初のほうで、カルタゴの女王ディドーからアエネーアースが祖国トロイアの滅亡の話をするように要請されたときにこたえて言う「女王よ、言葉にしがたい悲しみを新たにせよ、とあなたは命じている」という詩句を踏まえていると注記されている。
 ダンテは、ウゴリーノの罪を糾弾しながらも、その罪を彼の息子たちにも負わせる封建制起源の習慣を否定する。
ウゴリーノ伯が
城のことでお前を裏切ったという声があったからといって
お前は子供らを十字架にかけるなどすべきではなかった。
(490ページ、ここで呼びかけられているのは都市国家ピサである。)

 ダンテは、彼とほぼ同時代の、彼の遍歴の少し前に命を落とした人々の物語を聞いたのちに、客人を裏切った者の魂が閉じ込められている第3円域トロメーアに達する。
・・・そこでは氷原が
さらに別の罪を犯した者どもを厳しく絞めつけている。
その者達は下を向いてはいなかった。逆に限界まで首を後ろに向けていた。
(490ページ) 彼らの涙は凍り付き、顔を涙の氷が覆っていた。彼らは客人への裏切りの罪を犯した瞬間に、その肉体を悪魔に奪われ、魂だけが先に地獄に落ちる。
魂が裏切ると、すぐにその肉体は
一体の悪魔に奪われてしまう。その後はその人間に与えられた時がすべて尽きるまで
それを己のものとする。

魂のほうはこのような溜め池の中に破滅する。
そしておそらくは、この場所の俺の後ろで冬越しをしている影の
肉体は今も地上に姿を見せているのだ。
(494ページ) まだ生きているけれども、魂は地獄にすでにやってきているといわれているのは、ジェノヴァの貴族ブランカ・ドーリアで、彼は現実に、『神曲』が執筆されていた当時、まだ生きていた。「魂を失った悪魔に近いような人物が、血統の高貴という思想ゆえに社会で重要な地位につき、人間を苦しめている」(614ページ)現実を、ダンテは批判しているのであると原さんは注記している。

 こうしていよいよ、ウェルギリウスに導かれたダンテの地獄の旅は終わりに近づくのである。

語学放浪記(49)

4月19日(日)曇り、一時小雨

 NHKラジオ英会話の4月号テキストの裏表紙は桜美林大学の広告を掲載していて、そこでは「世界に通じる人になろう」というスローガンの下、「学べる言語 18ヶ国語」という語学教育の整備ぶりが宣伝されている。

 こういう文言を見るとその18はどのような言語かという興味がわいて、同大学のホームページで調べてみた:
英語、中国語、日本語、アラビア語、イタリア語、インドネシア語、カンボジア語、コリア語、スペイン語、タイ語、ドイツ語、ビルマ語、フランス語、ベトナム語、ポルトガル語、モンゴル語、ラテン語、ロシア語
ということである。日本語は外国からの留学生向けということのようである。

 『20ヶ国語ペラペラ』という本を書いた種田輝豊氏のような例から比べれば、18は少ない(日本語を除けば17になるからもっと少ない)とか、言語と主権国家とは一対一で対応しないので、「ヶ国語」という言い方には違和感があるとかいう文句を言えば、いくらでも言えるのだが、私が大学生だったころに比べれば、外国語の履修の選択の幅が広がっていることは確かであるし、我が国の地政学的な位置を考えてアジアの言語が重視されているのも妥当な選択ではないかと思われる。NHKの外国語教育番組におけるアジアの言語(といっても今のところ中国語とハングルに限られているが)の比重が大きくなっていることもこのことを裏付ける。 

 もちろん、選択の幅が広く設定されているといっても、そのすべてを学習しなければならないということではなく、大学時代を通じて英語と、あともう1つ以上の言語をしっかり習得すればよいということである。大学の広告には例として、「1年生の夏休み、中国で言葉と文化を知る」「2年生の夏休み、モンゴルの研修プログラムに参加して、環境問題について学ぶ」「3年生で半年間アメリカで英語漬けの日々を送る」「留学生のための日本語クラスで学習支援をし、異文化コミュニケーションを体験する」というような学生生活が描きだされているが、学生1人1人の経験と重なって必要な言語の学習が組織されることが望ましい。単に学習の機会が提供されているというだけでなく、教授・学習の内容や方法がどのように工夫されているか、これらの点が実際の大学教育でどのようになっているのかに興味がわく。

 世界には数千という言語があるので(といっても、重要な言語は100に満たないと思うが)、それぞれの大学が自分の大学の個性をどのようにアピールしていくかということとの関連で、アジアの言語を重視するとか、欧米の言語を重視するとか、それぞれの重点を定めていけばよいのではないかと思う。桜美林大学がアジアの言語を重視する方針をとっていることは(もちろん、欧米の主要言語についても学ぶ機会は確保されているのだが)、その意味で敬意が払われるべきである。

 ただアジアの言語といっても、ヒンディー語のような南アジアの言語が含まれていないし、ペルシア語や中央アジアの言語も地政学的に言って無視できないのではないかと思われる。今後の検討課題としてほしい。また、アジアの言語がきわめて多様で、さまざまな語族、語派に分類され、その分布の状態も複雑であり、書きことばを記すのに使われている文字だけをとっても、一筋縄でいかないことをアピールしていくことも必要であろう。さらにもっと重要なことは、ある言語が使われている範囲と国境線が一致するものではないという事実を認識することではないかと思う。現実に、日本国内にだって、さまざまな言語を話す人々のコミュニティーが存在するわけで、そういうことも大学における言語教育の試みの中に位置づけていく必要があるだろう。

 アジアの言語ということばかり書いてしまったが、実際のところ、英語の多様性ということも大学の語学教育の中でもっと配慮されてよいことではないかと思う。第二外国語について議論するよりも、アメリカの南部英語やオーストラリアの英語までも視野に入れて、英語1、英語2・・・というふうに多様な英語の授業を開設していくことも試みられてよいのではないか。そういう試みをしている例があったら教えていただきたいと思う。

東海林さだお『アンパンの丸かじり』

4月18日(土)晴れたり曇ったり

 東海林さだお『アンパンの丸かじり』(文春文庫)を読み終える。『週刊朝日』に連載中のエッセー「あれも食いたい これも食いたい」の2011年2月4日号から10月21日号までの掲載分をまとめたもので、シリーズ第34弾だそうである。

 東海林さんは1937年生まれなので、もう80歳近くになるが、その好奇心、探求心、観察眼、実験精神など、このエッセーを支えている精神は一向に衰えを見せていない。たとえば、「生親子丼」を出す店が渋谷にあるという情報を、テレビで見て知ったという友人の話を聞くと、その店に出かけるのではなく、自分で作ってみる。「知人は番組全体をしっかり見たわけではないので、ところどころ想像の部分もあるが」(24ページ)、とにかく作って食べてみると「もう本当に想像した以上においしい」(26ページ)。さらに、この料理がどのような親子の姿を映し出すものかを想像して見せる。多様な芸が展開されているのである。この自分で作るという試みが壮大な展開を見せるのが巻末の「トッピング、めちゃ乗せカレー」で、どんなカレーが出来上がるのかは読んでのお楽しみ。

 その一方で、長い人生の中での記憶が、郷愁をこめて語られることもある。「さらばハムサラダ」を読むと、確かに昔は洋食屋メニューにあったハムサラダが、いつの間にか姿を消してしまったことに気付かされる。「5,6年ほど前まで、東京駅の丸の内側の構内の有楽町寄りの隅のところに、いかにも昔風のレストランがあって、そこのメニューにはハムサラダがあった。/そこで食べたハムサラダが、ぼくの最後のハムサラダとなった」(39ページ)という観察と記憶は、貴重な記録となるかもしれない。

 他方、年齢に負けない探求心を見せ付けているエッセーもある。「JR渋谷駅の山手線外回りのホームに立ち食いの『どん兵衛』という店がある」(89-90ページ)という、カップ麺を食べさせている店は、私も何度か前を通っているが、入ったことはない。そこを東海林さんは中に入ってカップ麺を食べ、「新しい発見あり。/カップ麺は普通ポットのお湯で作るが、この店のように煮えたぎっている熱湯で作ってフーフー吹きながら食べると3割増ぐらいおいしい」((93ページ)との結論を得る。

 2011年3月11日の大地震のあとでコンビニを訪問したときの「駆け込み買い物」を書き記したものは愉快ならざるものであるが、災害の後の消費者の心理をきちんと分析していて、記憶にとどめるべきものとなっている。

 そうかと思うと「醤油だれか、ゴマだれか」をめぐってなかなか決断ができない心理を記したエッセーは、東海林さんの漫画によく出て来るパターンだなと思って読んでいた。繰り返しになるが、多彩な芸が展開され、多様な読み方ができる本であり――軽く読み流せばよいのだけれども、たぶん、どこか心に残る部分があるはずの書物である。

『太平記』(38)

4月17日(金)晴れ後曇り

 近畿地方の各地で宮方に味方する武士たちが蜂起する事態について宮方からの注進を受けた鎌倉幕府は、討伐のために大軍を派遣する。

 元弘3年(1333年)閏2月3日、鎌倉幕府軍は大軍を3つに分けて、大塔宮の立て籠もる吉野、河内の豪族である平野将監入道が立てこもった上赤坂城、楠正成の立てこもる金剛山へと向かわせた。吉野に向かったのはこれまでも何度か登場した幕府穏健派の智将二階堂道蘊が率いる2万3千余騎。道蘊対大塔宮。ここは政治折衝による打開策を講じほしいところだが、歴史の女神は時として非情である(第7巻をご覧ください)。赤坂に向かったのは赤橋右馬頭を大将とする8万余騎。赤橋は北条一門の支族で、『太平記』の最重要人物の1人足利尊氏の正室赤橋登子はこの家の出身、鎌倉幕府最後の執権となった盛時の妹であるが、この赤橋右馬頭というのが誰かは特定できないそうである。攻める相手は楠正成ではないのだが、とりあえず天王寺、住吉に陣を取る。そして、楠正成が立てこもる金剛山には北条一門の阿曽弾正少弼を大将として20万余騎が向かう。阿曽弾正少弼というのは北条時治(あるいは治時)だという。さらに、北条一門の大仏武蔵将監(これもだれか特定できないそうである)、名越遠江守(北条宗教)、伊具駿河将監(北条時邦)を大将として、30万騎を搦手(後ろ側)から攻撃させた。中でも悪四郎左衛門と呼ばれる長崎高貞は、侍大将に任じられていたが、特別に派手ないでたちで軍勢に加わった。「わが朝は申すに及ばず、唐土、天竺、大元、南蛮にも、未だこれ程の大軍を動かす事はあり難しとぞ見えたりける」(302ページ)。ものすごい大軍による包囲戦であるが、播磨で蜂起した赤松円心の軍は放置されているのはどうしたことであろうか。

 赤坂城に向かった大将赤橋右馬頭は、後から援軍が追いついてくるのを待とうと、天王寺に2日間滞在し、抜け駆けを固く戒める通達を出す。これは理にかなった指示であるが、にもかかわらず、指示の背後にある指揮官の意図を読み取らず、自己流に勝手に解釈したり、わかっていても別の行動をとる者がいたりして、事態を悪化させる恐れがないわけではない。
 幕府方の軍勢の中に武蔵國の住人で人見四郎入道恩阿というものがいたが、同僚の本間四郎資頼に向かっていうことには、兵力を比べてみて味方の軍の有利は動かし難い。とはいうものの、幕府も七代にわたって政権を維持してきて、満ちたるものは欠けるという天の道理を考えると、幕府がどこまでもつかはわからない。しかも臣下であるのに主君である帝を島流しにするような悪行が積み重なって、いつ罰を受けても不思議ではない。自分も幕府の恩を受けて73歳になってしまった。幕府がその悪行の報いとして滅びるのを見るよりも、ここは明日の合戦にさきがけをして死ぬのが武士としての本望であるという。話を聞いた本間はもっともなことだと思ったが、自分も一番乗りの功名を立てたいと思っていたから、つまらないことをおっしゃいますなぁ、大勢の者が入り乱れての乱戦になってしまえば、さきがけの功名などといっても大したことではありますまい、私は人並みに行動するつもりですと受け流す。話を聞いた恩阿は非常に興ざめた様子で本堂の方に出かけたので、本間は不審に思って配下の者に跡をつけさせたところ、天王寺の西側にある石の鳥居に何事か書きつけて、宿舎へと戻っていった。これを聞いた本間は、思ったとおりである、このままでは人見に明日の先陣を抜け駆けされてしまうと用心して、ただ一人、出陣の準備を整える。

 本間は大阪府富田林市の東部を流れる石川の河原で夜を明かし、朝霧の中で南の方を見ると、1人の武士がやってくる。紛れもなく人見恩阿である。人見は本間を見て、昨夜貴殿が言われたことを真に受けていれば、私にとっては孫といえるほどの方に出し抜かれるところでしたなぁと笑い、馬を進めていく。本間はこうなった上は、それぞれの功名を考えることなく、2人でともに討死しましょうといって、その後を追う。人見は、言うまでもないことだと本間の提案を受け入れて、2人は後になり、先になりして赤坂に向かう。そして赤坂の城の近くにたどりつくと、大音声に名乗りをあげる。

 城の中の者たちは、これを見て、いかにも坂東の武士たちらしい振る舞いである。源平の一ノ谷の合戦の際に、熊谷直実と平山季重が先陣を争ったのに倣って、自分たちも同じように武勲をあげようとしている連中らしい。後に続く者もない様子であるし、それほど有力な武士とも思われない。「溢(あぶ)れ者の不敵武者、跳(おど)り合うて、命失うて何かせん。ただ置いて、事の様を見よ」(306ページ、落ちこぼれの無鉄砲な武士と渡り合って、命を失って何の得があろう。このまま放置して、成り行きを見よう)と、全く静観・無視して返事をしない。
 人見は腹を立てて、われわれ2人が朝早くから名乗りを上げて挑戦しているのに、それを無視して矢の1本も射てこないのは、臆病風に吹かれたのであろうか、われわれをバカにしているのか。どれどれその心つもりであれば、手柄の程を見せてくれようと馬から下りて、城を取り巻く堀の上に渡された細い橋を渡り、出塀(射撃や物見のために、城の塀の一部を外へ突き出したもの)の陰に隠れて、城門を破ろうとしたので、城の中の兵たちもこれには驚いて、櫓の上から矢を雨のように射かけた。人見も本間ももともと戦死する覚悟であったので、矢を全身に浴びて、命の限りに戦い、死んでいったのである。
 ここで注意してよいのは、武勇をふるって名を残そうとする坂東武士と現実的な上方武士の気質が対照的に記述されていること、平家物語に記された源平合戦の故事が武士たちに記憶されていることである。既に70を越えた人見は平山季重に、若い本間は熊谷直実になぞらえられている。しかも物語のこの続きには、本間の嫡男が登場し、ますます平山・熊谷の物語が思い出されるのである。 

本日休診

4月16日(木)晴れ後曇り

 4月15日、神保町シアターで『本日休診』を見る。井伏鱒二(1898-1993)の原作を渋谷実が映画化したもの。井伏鱒二の作品は多く映画化されており、それらを列挙することは控えるが、この作品を監督した渋谷の助監督であった川島雄三は井伏の『貸間あり』を、川島の助監督であった今村昌平は同じく『黒い雨』を映画化している。こういう例は、映画史にあまりないのではないかと思う。井伏の文学の持つ魅力と多様性が、その作品の映画化を通して知られる一例であろう。

 戦後間もなくの東京。戦災を受けただけでなく、戦地で一人息子を亡くした三雲八春医師(柳永二郎)は、甥の伍助(増田順二)を院長に迎えて、再び医院を開業してどうやら1年を迎え、再開の記念日を休診と決める。慰安旅行に出かける伍助や看護婦の瀧さん(岸恵子)たちを送り出し、自分はゆっくり寝ていようと思っていたところ、婆やであるお京さん(長岡輝子)の息子で戦地から頭をおかしくして帰ってきた勇作(三国連太郎)が騒ぎ始める。それをどうやら鎮めたと思ったら、近所の警察署の松木巡査(十朱久雄)が大阪から上京してきたものの、行き先がわからないままやくざ者に騙されて暴行された娘悠子(角梨枝子)を連れてやってくる。娘がなかなか診察を受けたがらないので、手こずっていると、20年前にこの医院が開業したときに真っ先に帝王切開の手術を受けて出産したという湯川三千代(田村秋子)という女性が、その時に払えなかった代金をもってくる。彼女は悠子に同情して自分の住まいに連れて帰る。その後も、砂利船の船頭(山路義人)が妊娠中の女房(水上令子)の体調が悪いといって来たり、チンピラの加吉(鶴田浩二‼)が指を詰めるために麻酔をかけてくれといって来たりしてそのたびにいろいろと言い聞かせることができる。

 映画は休診日が過ぎて、伍助や瀧さんが戻って来てからも進んでいく。悠子を襲い、金品を巻き上げた男女2人組は逮捕されるが、片割れの女の方が仮病を使ったりする。医は仁術なりという信念をもつ三雲先生は、湯川三千代の例でわかるように、地域の貧乏人たちの面倒を親切に見ながら、代金はある時払いの催促なしという診療を続けている。しかし病人のかなりの部分は、そんな先生の親切をいいことに勝手なことを繰り返している。慢性の盲腸炎が悪化したという仲間を連れこんできた兵隊あがりの男たちは、手術が済んだらすぐに逃げ出すし、砂利船の船頭も博打をやめようとしない。加吉もいったんは足を洗おうとしたやくざ稼業から抜け出さないし、彼の恋人のお町(淡島千景)の兄の竹さん(中村伸郎)さんも家業に励まずにギャンブルに血道を上げている。狭いところに何人もの人々が住む長屋暮らし。戦災からの復興もまだ進んでおらず、戦争中の記憶が消えない人々も少なくない。お京さんと勇作、湯川母子、そして竹さんとお町さんの兄妹が同じ長屋に住んでいるというのは都合がよすぎる設定に思われるが、物語は医院とこの長屋を主な舞台として、なかなか収拾がつきそうもない展開を見せる。

 井伏の作品には弱者(社会的弱者というよりも、もっと一般的な弱者である)への愛情と、そういう愛情だけでは事態が解決しないという現実の不条理を直視する精神とがあって、それをどのように受け止めるかが読者、そして映画化作品についてみれば観客に課せられる課題である。善意や人情に重きを置かない、いわば乾いた喜劇を得意とした渋谷にとって井伏の作品が手掛けやすい素材であったことは容易に推測できる。
 既に書いたように、社会から落伍しかけているような底辺の連中は、そこから這い上がろうと努力するわけではなくて、むしろ楽に上昇することや、とりあえずその日その日をごまかして生きることを選んで生きている。それでも、長い目で見れば、善意は報われるだろうと三雲先生は楽観的に見ているのだが、その認識が作者自身のものであるとは限らないのである。さらに、世代間の対立も無視できない。夜、診察が終わって、くつろいでいる時に、三雲先生は日本酒を飲んで碁を打っているが、伍助はウィスキーを飲んでチェスをしている(ちょっと戯画化が行き過ぎている)。世代間のギャップは明らかである。それに、伍助は三雲先生とは違う地域医療の在り方を考えているようである。

 終戦直後の社会生活が生々しく描かれているために、描かれた現実の方に目を奪われてしまい、現代の観客は途方に暮れるようである。そう簡単に解決できそうもない困難を、おそらくはかなり強引に乗り越えて戦後の繁栄を築いた人々の逞しさ(必ずしも善意の裏付けがあったわけではない)の方に現代の観客の目は向かないようである。さらにそういう時代の条件とは無関係の人間の醜さや愚かさをどのように見ていくかという問題もある。渋谷実の喜劇は再評価されるべきだという評論家の声もあるが、現状ではそれは困難であるかもしれない。彼の喜劇映画を笑えない観客が多い現状をどのようにとらえるか。観客の映画の見方よりも、われわれを取り巻く現実の方に問題がありすぎるのかもしれない・・・。

 田村秋子、長岡輝子、中村伸郎といった新劇畑の俳優に重要な役割を演じさせ、その一方でまだ若かった佐田啓二、三国連太郎、淡島千景らの映画俳優の個性を掘り起こそうとする演出も見ものの一つである。『自由学校』でも起用されていた佐田啓二の性格表現にはもう一つ納得がいかないのだが、淡島千景の演技は見応えがあった。淡島も渋谷も江戸っ子なので、その点で息があったのかもしれない。

日記抄(4月9日~15日)

4月15日(水)晴れ後曇り、時々天候が急変し、強い風が吹いたり、雨が降ったりした。

 4月9日から本日にかけて、経験したこと、考えたことから:
4月9日
 NHKラジオ「まいにちイタリア語」応用編「描かれた24人の美女」の第3回は、アンドレア・デル・サルトの「カリタス」と、この絵を含めて彼の多くの絵画のモデルとなった彼の妻ルクレツィアについて、アンドレアの弟子であり、画家として活躍する一方で『美術家列伝』という書物を書いて、「最初の美術史家」と言う評価を得ているヴァザーリが次のように書いていることを取り上げた。
”Lei si divertiva a catturare i cuori degli uomini e tra gli altri irretì lo sfortunato Andrea...”(Giorgio Vasari, Le Vite, 1a edizione,1550)
「彼女は男たちをとりこにして楽しんでいたが、その中に不運なアンドレアもつかまってしまった」
 ヴァザーリが師匠の妻についてこのように書いたことをめぐり、彼はおそらく同門の兄弟弟子たちからかなり非難されることになり、その結果として、1568年に出版された増補版では、ルクレツィアへの悪口の大部分が削除されているという。アンドレアは聖母子を扱った作品の注文を多く受けたが、それらのほとんど同じ顔をした聖母のモデルになったのはルクレツィアであったという。
Se davvero Lucrezia era una moglie così cattiva come raccontano le Vite, e possibile che il pittore l'abbia sempre scelta come modella per il volto ella Vegine?
(ルクレツィアがもし、『列伝』で語られているとおりの悪妻だったとしたら、はたして画家はいつも彼女を聖母のモデルに選ぶことなどできたでしょうか)

 アンドレア・デル・サルトというと、漱石の『吾輩は猫である』の最初の章で、苦沙弥がなかなかうまく絵が描けないというのに対して、金縁の眼鏡の友人(その後、迷亭という名前が与えられる)が、「昔し、以太利(イタリー)の大家アンドレア・デル・サルトが言った事がある。画をかくなら何でも自然その物を写せ。天に星辰あり。地に露華あり。飛ぶに禽あり。走るに獣あり。池に金魚あり。枯木に寒鴉あり。自然はこれ一幅の大活画なりと。どうだ君も画らしい画をかこうと思うならちと写生をしたら」という。いかにももっともらしいが、「池に金魚あり。枯木に寒鴉あり」あたりから16世紀イタリアの画家の発言としてはかなり怪しげになる(この時代のイタリアに「金魚」が知られていたかどうかはかなり疑わしい)。この言葉を真に受けた苦沙弥はネコの写生をしたりするのだが、後になって、友人が出まかせをいっていたことが分かる。
 注意深く辿っていくと怪しげな発言でも、なにかの権威がまぶされていると、無批判に受け入れてしまうところがある。そのあたりに着目した漱石の目は鋭い。それで、アンドレア・デル・サルトが出てくるが、漱石は英国留学中、どこかのギャラリーで彼の絵を目にしたことがあるのではなかろうか。さらに、おそらくヴァザーリの『列伝』は(もちろん英訳で)読んでいるのではなかろうか。このあたり、おそらく、すでに研究した人がいるはずである。

4月10日
 NHKラジオ「実践ビジネス英語」のLesson 1は”Bilingual Advantages”(バイリンガルの強み)という題を掲げて、この問題をめぐる様々な話題が語られた。番組パートナーのヘザー・ハワードさんが締めくくりの対話の中で話していた内容の中で、英語が日本ではminority languageだという発言にリアリティーを感じさせられた。ただの外国語ではなくて、日本の社会の一部で実際に使われている言語であるということである。

4月11日
 NHKラジオ「アラビア語講座」の第2回を聴く。講師の榮谷温子さんが話していたが、「アラビア語1つ覚えれば、約20か国で話ができるんだ。凄いなぁ」と思ってアラビア語の学習を始めたのだが、実際には地域ごとの方言があって、それほど問題は単純ではないそうである。現実は事前の予想を裏切ることが多いが、だから楽しみが多くなるということも言えそうである。

4月12日
 NHKラジオ「攻略!英語リスニング」ではBrooklyn Bridge(ブルックリン橋)の話題を取り上げたが、その中に
I cross it every day, and I can’t get enough of it.(毎日渡ってるけど、見飽きるってことがないわね)
という文が出てきた。実は4月2日の「ラジオ英会話」にも
I can’t get enough of it. (いくらでも食べられるわ)
という表現が出てきた(ともに、女性の発言だったので、女性語に訳されているが、もちろん、男性が使っても構わない)。こういうふうに、2つの番組で、同じ表現が出てくると印象がつよくなって、覚えやすくなる。これからも同じようなことが起きることを期待しよう。

4月13日
 NHK「ラジオ英会話」の”Listen for It”のコーナーではSummer campのコマーシャルを聴きこんでいる。チャーリー・ブラウンやスヌーピーが活躍するシュルツの漫画『ピーナッツ』で描かれているように、アメリカの子どもたちの生活に夏のキャンプは欠かせないもののようであるが、日本ではそれほど盛んではないように思う。甘糟幸子の野草をめぐるエッセーの中に、日本でも本格的なキャンプをやってみようと、子どもたちを引き連れて丹沢の山の中に出かけるくだりがあったと記憶する。それなりに成功はしたのだが、翌年以降定着しなかったようである。

4月14日
 NHKラジオ「まいにちフランス語」の時間で11から20までの数詞を取り上げた。昨日はイタリア語の時間で11から上の数詞を取り上げている。
 11はフランス語ではonze, イタリア語ではundici,
 12はフランス語ではdouze, イタリア語ではdodici,
17はフランス語ではdix-sept, イタリア語ではdiciasette,
19はフランス語ではdix-neuf, イタリア語ではdiciannnove
と微妙に違う。特に11と12が違う。

4月15日
 神保町シアターで『本日休診』を見る。井伏鱒二の同名作品の映画化である。井伏の「遥拝隊長」と「白毛」の一部が取り入れられていると思うのだが、『本日休診』の原作を読んでいないので、何とも言えない。渋谷実のこの映画については、また機会があれば触れるかもしれない。 

ダンテ・アリギエリ『神曲 地獄篇』(32)

4月14日(火)雨

 第31歌の最後の部分で、ダンテはウェルギリウスに導かれ、地獄の第8層に置かれている巨人の手によって最下層である第9層へと運ばれたことを歌っている。そこはこれまで以上に憎悪に満ち、怪異な世界であった。詩人としてダンテは、このような世界をどのように描くことができるかを考える。そこから第32歌が始まる。

もしも私に、あらゆる岩盤が圧しかかる
この邪悪な洞穴にまさにふさわしい、
ひび割れた怪異な文体を駆使することができたならば、

この思念の神髄を余すところなく
絞り出すであろう。けれどもそれを持たないので、
不安を覚えずには歌いはじめることができない。

なぜなら全宇宙の最底辺を描くことは
戯れにはじめるような企てではなく
パパやママとしか助けを呼べない言語にできるものではないからだ。
(468ページ) ダンテがやがて歌い上げることになる最高の天の至福の世界とは全く逆の地獄の最底辺をどのように描くか、『神曲 地獄篇』に先立って取り組まれ、アリストテレスの哲学の世界を『神曲』と同じく俗語(ダンテの場合トスカーナ方言)によって描こうとした『饗宴』の中で、この著作の中の哲学的な詩には「難解で苛烈な『音』がふさわしいと述べられている」(469ページ)と原さんは解説している。『地獄篇』の最後の3歌は、このような怪異な文体で記されているという。果たしてこのような世界が、詩人の生まれながら身につけた言語(=母語=ここでは「パパやママとしか助けを呼べない言語」とその特徴を記されている。なお、『神曲』に先立ってダンテは1303-1304年に『俗語論』を著している)である俗語によって描き尽くせるかは、ダンテ自身にとっても不安であったに違いないのだが、彼は果敢にその仕事に取り組もうとしている。

ああ、あらゆる悪の中でも抜きんでて邪悪に造られた卑しい輩よ、
語ることさえ難しい場所に留まるおまえ達は
地上で羊か山羊でいるほうがまだましであっただろうに。
(469ページ) 冷たい、氷に閉ざされた世界の中で裏切り者たちの霊が罰を受けている。ダンテがまず出会うのは近親への裏切りを働いた者たちの霊である。そこは旧約聖書『創世記』の中で、自分の兄弟を殺したカインの名をとってカイーナと呼ばれる場所であり、地獄の第9層第1圏をなしている。そこでダンテは主として彼とほぼ同時代のイタリアの都市国家間の戦いの中で肉親を裏切って殺害した者たちに出会う。
その後に私が見たのは、寒さのために
青黒い犬の鼻面の色に変じた幾千もの顔だった。それは私に怖気を震わせた。
そしてこれからも震わせるだろう、凍りついた水溜まりを見るたびに。

私達があらゆる重量の集中する
かの中心を目指して進んでいるさなか、
永遠の凍気の中で私が震えていた間に、

それは願望か、宿命か、運命か
私には分からない、
(474-475ページ) ダンテはある頭を蹴とばしている脚を見かける。その凄惨な姿は彼の足をとめさせる。ダンテとウェルギリウスが差し掛かったのはアンテノーラと呼ばれる地獄の第9層第2圏、祖国に対する裏切りを働いた者たちの霊が罰を受けている場所である。始めに出会った霊に対して、ダンテは自分がまだ生きていること、地上に戻って彼らの記憶を生者たちに伝えることができることを告げるが、「もうこれ以上俺を苦しめるな」(476ページ)と突き放される。
 そこでは死者たちが互いに憎しみ合い、争っていた。
その時に凍りついている二人の者を一つの穴の中に私は見た。
その有様ときたら、片方の頭がもう片割れの帽子となっていた。

そして、まるでひもじさの中で貪られるパンのように、
上にいる者は相手の脳が脊椎につながる場所に
歯を立てていた。
(480ページ) 凄惨で奇怪な情景である。死者は彼に対して何を語るのであろうか。 

石田英一郎『一寸法師』

4月13日(月)雨

 4月10日、渋谷の丸善ジュンク堂で、1948年からその後約10年にわたり弘文堂から刊行されていたアテネ文庫の復刻版を見かける。何冊か目にとまった本があり、どれを買おうかと迷ったのだが、結局石田英一郎のこの書物を買った。2010年ごろから復刻が始まったようで、だとすればもっと早く気付いてもよかったのだが、なぜか気づかなかった。アテネ文庫はいわば「幻の文庫本」である。その理由は2つある。石田英一郎のこの書物について紹介・論評する前に、アテネ文庫について少し書いておきたい。

 アテネ文庫は私が中学生のころに、伊勢佐木町の有隣堂の本店で見つけ、またこの文庫に見るべき本が少なくないと書いた辰野隆の文章を読んで、何冊か買い集めた思い出の文庫本である。奥付に記された「刊行のことば」に言う:「むかし、アテネは方一里にみたない小国であった。[とはいえ]…人類文化永遠の礎石を築いた。明日の日本もまた、たとい小さくかつ貧しくとも高き芸術と深き学問とをもって世界に誇る国たらしめねばならぬ。…最低の生活の中にも最高の精神が宿されていなければならぬ。…本文庫もまたかかる日本に相応しく、最も簡素なる小冊の中に最も豊かなる生命を充溢せしめんことを念願するものである」。
 「復刊にあたって」には次のように記されている:「はじめ、アテネ文庫は不足する紙を探すところから始まり、64頁の薄い本として、スタートを切った。何ゆえ、64頁であったのか。一枚の紙に一冊の本を凝縮させて、可能な限り多くの読者に本をお届けする。このことが編集子の強い願いであったからである。(因みにA版全紙1枚は、文庫本64頁になる)
 わずかA版全紙1枚の中に、
「最も簡素なる小冊の中に、…」と高潮した文章で念じた編集子の初志や諒たり」。

 アテネ文庫が「幻の文庫本」であるというのは、1つにはその刊行期間が短く、しかも1冊1冊が100ページに満たない小冊子であったために読者の目につきにくく、広く知られることなく姿を消したことのためである。しかし、この文庫はその一方でキルケゴールや西田幾多郎門下の学者たちの哲学書、青木正児の『抱樽酒話』のような良質の随筆、中村光夫の『小説入門』のような文学評論、かと思うとぬやまひろし(西沢隆二)の『編笠』のような多彩な書目をそろえ、読書家にとって見過ごすことのできない文庫となったのである。(これらのために本泥棒の被害が絶えなかったと言われる)

 ということで、現在、私の手元にあるのは、中村光夫の『小説入門』など数冊だけであるが、復刻を見つけたので、さらに何冊か買い足すつもりでいる。全体では300冊前後が刊行されているが、どの程度復刻されているのかはわからない。もともと30円で売られていたものが、復刻されたものは800円という定価になっていて、時間の推移というものを実感させられる。

 さて、石田英一郎(1903-1968)は日本における文化人類学研究の先達として、柳田国男の民俗学研究と欧米の民族学・文化人類学研究の橋渡しを試みた1人である。この『一寸法師』にしても、前半はおとぎ話の一寸法師と関連する民話と、これらの民話をめぐる柳田の「小サ子」物語についての論考の紹介、そして後半になるとユーラシア大陸に分布している類似性をもつ民話との比較により、この物語が大地母神の信仰に発端をもつのではないかとの考察を展開している。少し強引ではないかという気もするのだが、小冊子の中にその一端が紹介されている個々の説話の面白さがこの書物に大著に匹敵する価値を与えているように思われる。

 私は文化人類学を専門としてはいないが、大学に入学したときに米山俊直先生の自然人類学というなぜか、教養科目の中で自然系列に位置づけられていた授業を聴講して以来この分野に興味をもち、また大学院の受験勉強をしていたころの仲間の1人が文化人類学の研究を目指しており、マーガレット・ミードについての卒業論文を書いたが、これからはフィールドに出て研究したいと抱負を語っていたことなど、身近に文化人類学研究への空気を感じて研究生活を送ってきた。したがって、この友人は石田英一郎を尊敬しながらも、すでに古くなった書物だけの研究者として、乗り越えるべき対象と考えていたようである。

 私はというと、大学院受験時代にはあまりはっきりと自覚していなかったのだが、もともと柳田の影響力の強い環境で教育を受け、大学に入学してまず読んだ本が『遠野物語』であるという一方で、マルクス主義に関心をもちということで、この両者が繋がらないままに、というよりも繋げようとしないままに時を過ごしていた。フィールド研究か書物による研究かという選択を迫られるのは、文化人類学研究に限られるわけではなく、ほかの分野にもあてはまるのだが、どうもそこまで考えが及ばなかった(結局、だらだらと書物中心の研究を続けてきた)のは悔やまれることである。

 『一寸法師』の説話の背景をなす問題を大地母神の信仰に帰着させようとする石田の論考はどうも強引に思えてならないのだが、その一方で日本列島の南北に伝わる「炭焼き小五郎」伝説と八幡信仰の関連について示唆したり、各国の女人国伝承を紹介しながら、その中に日本の女護島伝承を位置付けている個所など、細かい考察には見るべきものが多いように思う。みじかい論考の中に様々な説話が要約・紹介され、それぞれの魅力が読者を惹きつける。石田が結論を焦らずに、個々の説話についてその比較検討を試みていった方がよかったのではないかという気がする。それだけ取り上げられた一つ一つの説話の魅力が豊かでさまざまな要素を含んでいるのである。石田の業績を文化人類学の文脈の中で評価することも1つのやり方ではあるが、より文学的な方向、例えば比較説話学とか、比較神話学の文脈の中で再評価していくことも意味があるのではないかと思っている。

コリン・ホルト・ソーヤー『氷の女王が死んだ』

4月12日(日)晴れ後曇り

 コリン・ホルト・ソーヤー『氷の女王が死んだ』(創元推理文庫)を読み終える。3月5日付の当ブログで紹介した『老人たちの生活と推理』に続くシリーズ第2作。1989年に発表され、中村有希さんによるこの翻訳は2002年に刊行された。既に第3作以下も翻訳が出版されているが、当面、順番を追って読んでいくつもりである。カリフォルニア州サンディエゴの近郊のカムデンという町にある高級老人ホーム<海の上のカムデン>を主要な舞台として、このホームの住人である小柄なアンジェラ・ベンボウと大柄なキャレドニア・ウィンゲイトのデコボコ老婆コンビがホームとその周辺で起きた連続殺人事件の解決に活躍する。

 <海の上のカムデン>はエイミー・キンゼスという新しい入居者を迎える。いかにもお金持ちという様子の彼女は、引越し業者一大隊に加えて、室内装飾業者まで引き連れての引っ越しぶりで、まず入居者の度肝を抜く。カムデンの超高級店である<ラシェーズ・ラシェーズ商会>の青年室内装飾家ジャック・ラシェーズを顎で使い、全くその意見を聞き入れようとしない。入居に際して健康診断を行うためにやって来た看護婦のコニー・マドックスを追い払う。「(アイスブルーの髪と揃いの)凍るような青い目から、(瘤だらけで冷酷な心と揃いの)ごつごつのワニ革パンプスの爪先に至るまで、情強(じょうごわ)で、利己的で、まじりっけなしの冷たい鋼でできた、鉄の女だった」(7ページ)。他の入居者たちと打ち解けず、好き勝手を貫く彼女はすぐにホーム一の嫌われ者になる。ところが、その鉄の女が体操用の木の棍棒で撲殺される。

 アンジェラとキャレドニアは、以前このホームで起きた殺人事件の際に知り合ったサンディエゴ警察のマーティネス警部補から事件についての非公式の情報収集を依頼され、張り切って捜査を始める。エイミーの部屋の室内装飾をやり直させられて、大損害を受けたラシェーズにまず容疑がかけられるが、その彼も殺されてしまう。アンジェラはなんらかの秘密をもっていたはずのエイミーの荷物を調べているうちに、何者かによって危害を加えられる。マルティネス警部補は2人に危ないまねはしないように何度も言い聞かせるが、2人は捜査を続けていく。エイミーを嫌っていた関係者はあまりにも多いが、彼女の部屋に立ち入ったりしたものは限られている。その中で外部からやって来た「詩人」のエルロイ・カーマイケルのその肩書きに似つかわしくない下手な詩がなんとなく疑わしい・・・ 
 女性の方が長生きなので、ホームの入居者は女性が多いのだが、その中での異色の存在である飲んだくれのグローガン翁に、2人が禁酒を誓わせたり、マルティネス警部補の部下のチャールズ・<ちびすけ(ショーティ)>・スワンソン刑事がホームの食堂のウェイトレスであるコンチータ(チータ)・キャシディとロマンスを育んだりという脇筋も絡む。

 人生経験は豊かになっているはずだが、その一方で物忘れもひどくなっている、体力が衰えていて、思ったようには行動できないという老人特有のアンバランスさが、アンジェラとキャレドニアそして、その他のホームの住人達の個性をさらに際立ったものにしている。第1作でもT・S・エリオットの詩が引用されていたが、今回はシェイクスピアの詩が使われ、感動よりも笑いを呼び起こす(というところに、作者の並々ならない文学的なセンスが窺われる)。推理小説として見れば、ユーモアに加えて、さりげなく伏線を張りながらも、犯人の意外性を心掛けて執筆されている(とだけ言っておこう)。素人探偵とプロの警察官との関係が良好で、老婆2人が警部補に若いころのあこがれの男性スターの面影を見ているという一方で、彼の警告を一向に聞き入れようとしないというのもこのシリーズの特徴になりそうである。
 さて、第3作以下ではどのような展開があるだろうか。

阿片台地 地獄部隊突撃せよ

4月11日(土)曇り

 昨日、シネマヴェーラ渋谷でこの作品を観たのだが、なかなか感想がまとまらず、「安藤昇伝説」特集上映の他の作品も見てから感想を書くと書いた。しかし、一晩が過ぎて、何とか感想が書けそうな感じになってきたので、思いついたことを書いておくことにした。

 1943(昭和18)年の中国北部の戦場。宇留木陸軍少尉(安藤昇)は護送中の捕虜を無事に送り届けるために多大な犠牲を払ったということで、上官の大野と対立し、階級をはく奪されて囚人兵で構成される地獄部隊に送り込まれる。その途中、八路軍の攻撃を受けて一行は全滅するが、かれだけは不思議な中国娘(ペギー潘)に助けられる。彼女は、助けるのはこの1回限りで、あとは敵として対すると言い放って去っていく。
 地獄部隊といわれるのは、さまざまな罪状で最前線に送り込まれた囚人兵たちの舞台で、八路軍と戦うとともに、芥子を栽培している。芥子は軍の資金源となる阿片を作るために栽培されているのである。宇留木は、囚人兵たちの間で頭角を現す一方で、部隊を統率する辰巳(南原浩治)と対立する。実は軍隊に入る以前に、宇留木は大阪の南の、辰巳は兵庫県の任侠集団の構成員であったという過去がある。
 地獄部隊に協力している中国人の大地主には美雲という美しい娘がいるが、彼女は宇留木を助けた中国娘とそっくりである。宇留木はこの美女の謎を何とか解こうとする。

 この作品は、監督=加藤泰、主演=安藤昇による「戦中派三部作」の第2作として、『男の顔は履歴書』(1966)、『懲役十八年』(1967)の中間に位置づけられている。実は、安藤昇の特集上映を初日(4月4日)に見に出かけたというスギノイチさんのブログ「狂い咲きシネマロード」で「結構な拾い物。/『独立愚連隊』、『兵隊やくざ』などの戦時下アクションとしては、満点に近い面白さ。/だが、監督の加藤泰に言わせると「失敗作」らしい。こんなに面白いのに、作り手の手応えっていうのは観客にはわからんもんだな」という批評が気になって、足を運んだ次第。だから、最初に書いたように、三部作の残りも見てから論評するほうが、内容がより豊かな批評ができるはずであるが、とにかく書けることを書いてしまおうということである。

 映画を普通よりも多く見る観客にとっては、プログラム・ピクチュアの中でどこか見るべきものがある作品を演出している監督や、見せ場を作っている俳優が気になるものである。加藤泰はそういう監督であって、惜しまれるのは、彼の作品が高く評価されるようになったのが少し遅かったということである。彼の代表作の1つである『真田風雲録』は1963年に公開されているが、この年に彼よりも2歳年下の川島雄三が急死している。プログラム・ピクチュアの中で見るべき作品を残した監督の代表といわれるような川島であるが、日本映画全盛期の監督であったから、予算や配役の点ではその後の時期の作家に比べてはるかに恵まれいた。加藤の代表作のかなりの部分は、『真田風雲録』以後、日本映画が衰退期に入った時期に作られているのである。さらに問題とすべきは、加藤の評価が高まるのが遅かったのは、彼の作家としての成熟が遅れたためではなく、世間的な評価の方が遅れていたということである。大映の助監督であった時代の加藤が手掛けた、黒澤明の『羅生門』の予告編が素晴らしい出来であったというエピソードから知ることができるのは、さまざまな事情から加藤が映画監督としての独立と、観客や批評家からの高い評価を遅らされたということであって、その意味で彼は決して遅咲きの作家ではなかったのである。

 さて、『阿片台地 地獄部隊突撃せよ』であるが、「戦中派三部作」の中に数えるのは多少の無理を感じる。『男の顔は履歴書』と『懲役十八年』は戦後の日本を舞台にしているが、この作品は戦中の中国北方を舞台にしているし、全体の雰囲気はむしろ伝奇的である。もっともこの作品には紙屋五郎による原作があり、どこまでが事実に基づき、どこからが創作であるか怪しげなところがある。加藤がこの作品を「失敗作」だと言ったというのは、おそらく彼の戦争体験と映画の伝奇性の不整合についての意見ではないかと思われる。中国東北部で活動した映画会社満映の社員であり、そこから召集を受けた加藤には、戦争の現実に即した映画も、戦争を題材にした娯楽的な冒険活劇も、どちらも自分の本音を語るには欠ける部分があると感じられていたのではなかろうか。「阿片台地」という題名であるが、芥子の花が咲いている場所はごく狭く、「台地」は大げさである。芥子の花の美しさが、ちょっと場違いに感じられる(その後の東映任侠映画全盛期に、季節の情緒を描く小道具として山下耕作の映画で使われる花と、加藤泰の映画の中の果物が、しばしば対比されたものであるが、ここでは加藤の方が花を多用している)。

 やくざの社会で反抗を繰り返していた宇留木は、軍隊でも同じように反抗を繰り返し、次第次第に囚人兵たちを仲間として取り込んでいく。地獄部隊の囚人兵たちが、実は異能集団で、特別な仕事をさせればそれぞれずば抜けた才能を発揮するということだけで、加藤の演出力の片鱗が見えている。とくによかったと思うのは、緊迫した場面で、金庫破りの名人としてのんびりとした雰囲気の左卜全が登場してくるその間合いの面白さである。喜劇的な部分やアクションをもっと膨らませれば、娯楽作品として成功したはずであるが、そうはいかなかったのは、やはり加藤の戦争体験が影響しているのであろうか。
 その一方でこれは戦争映画という男の世界を描く作品だから、仕方がないとはいえ久保菜穂子の演技を除けば女優陣の演技に見るべきものはなく、せっかく香港から参加したペギー潘であるが、日本語が下手すぎて、ストーリーの展開を壊しているように思われる。全体として予算の制約からであろうか配役には恵まれない作品であるが、監督の演出力と俳優の個性により部分的に光る演技が認められるということになるだろうか。壮年期の加藤が、もっと多くの予算と時間を与えられて映画を作っていれば、日本の映画史はより多くの名作を数えることができたのではないかと思う。製作主任にその後、梅宮辰夫の主演作品を多く手がけた内藤誠(石井輝雄の作品の多くで助監督を務めた)が名を連ねていること、チーフ助監督が三村晴彦であることも注意しておいてよいかもしれない。

『太平記』(37)

4月10日(金)雨

 午後からシネマヴェーラ渋谷に「安藤昇伝説」の特集上映の中の『安藤組外伝 人斬り舎弟』(1974、中島貞夫監督)と『阿片大地 地獄部隊突撃せよ』(1966、加藤泰監督)を見に出かけた。上映予定の中には他にも見たい作品があって、それらを見てから感想をまとめようと思う。

 さて、『太平記』。楠正成が四天王寺に伝えられてきた聖徳太子の未来記を読んで、鎌倉幕府の命運がもはや尽きようとしていることを知ったのと同じころ、播磨の国(現在の兵庫県の南西部)に赤松次郎入道円心(俗名は則村)という武士がいた。村上天皇の第七皇子具平親王の6代目の後裔である源季房(季房)の子孫であった(さまざまな流れのある源氏の中の「村上源氏」ということになる)。「元来(もとより)その心闊如(かつじょ)として、人の下風(したて)に立たん事思はざりしかば、この時、絶えたるを継ぎ、廃れたるを興して、名を顕し、忠を抽(ぬき)んでばやと思ひ立ちける処に」(296-297ページ、もともとその心映えは度量が大きく、人の下に立つのを潔しとしなかったので、この時に当たり、絶えた血統を継ぎ、廃れた家を興して名を挙げ、抜きんでた忠義を尽くそうと思い立っていたところに)、この2,3年大塔宮の側近の1人として吉野、十津川と苦労を重ねてきた三男の則祐が、令旨(りょうじ)を携えてたずねてきた。令旨というのは皇太子・親王などが発給する文書で、平安時代の末に以仁王が諸国の源氏に宛てて平氏打倒のための決起を促した令旨がよく知られている。

 円心が令旨を開いてみると、「「不日に義兵を揚げ、軍勢を率し、朝敵を誅罰せしむべし。その功あるに於ては、恩賞宜しく請ふによるべき」由を載せられ、委細の御事書きに、十七ヶ条の恩裁を添えられたり」(297ページ、直ちに正義の兵をあげ、軍勢を率いて、朝敵の罪を攻めて罰を加えるべきである。その功績があれば、恩賞は望むままに与えると記され、詳しい箇条書きで、恩賞の次第が17ヶ条書き添えてあった)。

 かねてから家名の再興を図ろうと思っていた円心にとっては渡りに舟の内容であったので、まず播磨の国の佐用庄(兵庫県佐用郡佐用町と赤穂郡上郡町にまたがる地にあった荘園)の苔縄の山に城を構え、味方する者たちを招いた。その勢威が次第に近くの一帯に及びはじめ、無理に集めようとしなくても、国中の兵が集まってきて、間もなく1,000騎を超えるに至った。それで佐用郡佐用町と岡山県美作市の間の杉坂峠、また赤穂郡上郡町山野里の2カ所に関所を設けて、山陰道、山陽道の通行を遮断した。このために西国から都に通じる道がふさがれ、西国の武士たちが上洛することができなくなってしまった。

 畿内と西国で幕府に反抗する武士たちが勢いを増してきたので、六波羅は鎌倉にこの旨を注進し、幕府は大軍を上洛させることとなった。北条氏一族に加えて、外様の大将たちを合わせて32人、その軍勢は30万7500余騎、9月20日に鎌倉を出発して、10月8日に戦闘の部隊は京都に到着したが、後陣はまだ駿河と相模(静岡県と神奈川県)の国境である足柄山・箱根山でとどまっていた。それだけでなく、河野九郎左衛門尉が四国勢を連れて大船300余艘で上洛、安芸・長門・周防(広島県、山口県)からも200余艘の軍勢が、さらに中山道を経由して甲斐、信濃の源氏7,000余騎、北陸の軍勢が北陸道を進んで3万騎、上洛してきた。大軍が都に集まったので、京都中の寺社は軍勢の宿営しないところはないという状態になった。「日本小国なりと云へども、これほど人の多かりける事よと、始めて驚くばかりなり」(300ページ)と作者は記している。

 畿内・西国の各地で幕府に反旗を翻す武士たちの兵力に比べて、幕府が動員する兵力はけた違いに多いが、人数の多寡だけで決まらない戦いも少なくはないのである。

『太平記』(36)

4月9日(木)晴れたり曇ったり

 北条時益、仲時の二人の六波羅探題は、住吉、天王寺に打って出た楠正成を討伐しようと大軍を率いて向かった隅田・高橋の軍勢が、正成の軍略で手もなく敗退したことを聞き、腹立たしく思い、京都近辺を固める軍勢が手薄であるというので、関東から派遣されていた宇都宮治部大輔(公綱)を呼び寄せて、楠を討伐してほしいと依頼する。公綱は下野の国の豪族、宇都宮一族の惣領で、武勇の誉れ高い武将である。

 これに対し、宇都宮が答えて言うには、大軍による攻撃が敗退した後で、小勢で攻撃するのはどうかとも思うが、関東を出発したときから、このような幕府の一大事に臨んで、命を捨てる覚悟はしておりました。今の時点では、合戦の勝敗をはっきりとは見通せませんので、私どもの部隊だけでもとにかく出かけてみて、合戦が手こずるようでしたら、さらに加勢をお願いしましょう。まことに覚悟を決めた様子での発言である。

 大敵に決死の覚悟で向かう決意を固めている宇都宮は、宿所にも帰らず、六波羅からすぐに天王寺へと向かった。東寺のあたりまでは主従わずかに14騎ほどであったが、洛中にいるすべての配下の兵士たちが知らせを聞いてあちらこちらから掛け寄せてきて、京都の南の四ツ塚、作道のあたりまで来ると、その人数は500騎を超えるようになった。道で出会ったものからは、誰彼となく馬を奪い、人手を徴収して軍備を整えた。このため、噂を聞いて近隣の人々は家の中に閉じこもり、旅人たちは別の道を進んで難を避けた。その夜は柱松(高槻市柱本)に陣をとって、夜明けを待った。「その志、いづれも生きて帰らんと思ふ者はなかりけり」(287ページ)。

 河内の国の住人で楠一族の和田孫三郎が、この情報を得て、楠正成のもとに出かけ、敵は600人か700人の小勢であり、大軍を撃退したことを考えると容易に打ち破ることができるだろう、すぐに夜襲をかけて蹴散らすべきであると進言した。これに対して正成はしばらく思案して、大軍をもって押しかけて敗退した後に、小勢でやってくるのは定めし決死の覚悟であるに違いない、「就中(なかんずく)、その儀分を量るに、宇都宮は既に坂東一の弓矢取りなり。紀清両党の兵、元来(もとより)戦場に臨んで命を思ふ事、塵芥よりなほ軽し」(238ページ、ことに、その器量を考えると、宇都宮は関東一の武士である。紀氏、清原氏を先祖とし、宇都宮氏に従っている武士たちは、戦場において命を惜しむことは塵や芥よりもさらに軽い)と敵を侮ってはいけないと述べる。ここで全面対決をすれば、勝敗に関係なく、味方には相当な被害が出るであろう。「天下の事、全くこの一戦に依るべからず」(239ページ、天下の勝敗は、全くこの一戦にかかってはいない)。したがって犠牲を出さないようにすべきである。「良将は戦はずして勝つ」(同上)というから、ここは天王寺を退いて、面目を立てさせてやったうえで、遠攻めにして疲れさせる作戦を取ろうと、味方の兵を引き連れて、立ち退いてしまう。

 夜が明けて、宇都宮は700余騎の兵を率いて天王寺に押し寄せたが、楠の軍勢は姿を見せない。天王寺から楠の軍勢を追い払ったことを六波羅に報告し、称賛を受けたものの、兵力が足りないので、さらに追撃することはできない。かといってこのまま都に変えるわけにもいかず、進退に迷っていたところ、楠正成は和泉、河内の野伏たちを集めて天王寺の近くで遠篝をたかせ、自分たちの兵力を誇示する。宇都宮は、楠が攻めてくれば、決死の覚悟で戦おうと待ち構えているが、攻めてこないので、だんだん気分が消極的になってきた。配下のものも、この際、引き返してはどうかと言い出したので、兵を収めて都に戻ると、入れ替わってまた楠が天王寺を占領した。

 もし2人の大将が正面衝突すれば、共倒れになる可能性もないではない。楠はさらに先の戦いのことまで智謀をめぐらし、宇都宮は退くことで自分の名誉を保った。「これ皆、智深く慮遠くして、良将たりしゆゑなり」(292ページ)と、『太平記』の作者は両方に花を持たせる結び方をしている。宇都宮公綱はこの後、幕府方の武将として活躍を続けるが、六波羅短大崩壊後は宮方に降伏して、後醍醐天皇のために戦うことになる。このようなその後のことも視野に入れて、作者は筆を進めているものと思われる。兵法を踏まえながら、巧みに戦局を動かす楠の智謀、坂東武士の意地を貫こうとする宇都宮の武勇、『太平記』の作者ならずとも、両者に相応の花をもたせたくなる個所ではある。

 正成は再び天王寺周辺に勢力を回復したが、民家には迷惑をかけず、味方になった兵は手厚くもてなしたので、周囲の人々の支持を集め、その勢いはますます強大になって、六波羅方も容易には手を出せなくなっていった。正成は天王寺に寄進をするとともに、寺僧に頼んで、この寺の開基である聖徳太子が遺された未来記を見せてもらう。巻物を開いてみると、「不思議の記録一段あり。
 人王(にんおう)九十六代に当たつて、天下一度乱れて、主安からず。この時、東魚来たつて四海を呑む。日西店に没すること三百七十余ヶ日、西鳥来たつて東魚を喰らる。その後、海内一に帰すること三年、獼猴の如くなる者天下を掠むること二十四年、大凶変じて一元に帰す」(295ページ)。
 正成が考えるに、先帝は人王が始まって96代に当たり、「天下一度乱れて、主安からず」というのは、まさに今の時のことであろう。「東魚の四海を呑む」は北条高時の一党の所業であろう。「西鳥東魚を喰らふ〕というのは、関東を滅ぼす人物が出現するということであろう。「日西天(に没す)」というのは先帝が隠岐の国に配流されたことであろう。「三百七十(余)ヶ日」とあるから、元弘3年の春には先帝が隠岐から都に戻られて、再び帝位につかれることであろうと予言を解読する。そして幕府の滅亡と先帝の復帰が遠い先のことではないと知り、心強く思うのであった。

 予言というのは、『太平記』の作者が事態の推移を見届けたうえで、事後に作成しているのだから、あたって当然なのである。このことは『太平記』の多くの注釈者たちが指摘してきたことで、いまさら別に目新しいことではない。ただ、そのような不思議な文書が四天王寺および聖徳太子信仰と結びついて登場していることは注目すべきことではないかと思う。

日記抄(4月2日~8日)

4月8日(水)雨が降ったりやんだり、肌寒い

 4月2日から本日にかけて経験したこと、考えたことなど:
4月2日
 NHKラジオ「まいにちイタリア語」応用編の新しいシリーズ「描かれた24人の美女」はイタリア人芸術家の作品の中に姿をとどめている女性たちを紹介するもので、第1回はロレンツォ・ロット(Loreno Lotto)の「受胎告知」(1527年頃)を取り上げた。画像そのものを掲載できないのが残念だが、説明文の一部を引用すると:
 Una graziosa Vergine Maria fa un gesto che ci fa quai orridere, come se stesse dicendo: "Mah... che strano!". destra, l'arcangelo Gabriele sembra avere appena terminato la sua spiegaione; piu in alto Dio Padre allunga le braccia per inviare verso Maria lo Spirito santo. Particolare interessante, un gatto sta correndo al centro della scena: posso immaginare la sua sorpresa all'improvvisas apparizione dell'angelo!
(あらまあ!とおどけるような仕草を見せる、かわいらしい聖母マリア。画面の右側では大天使ガブリエルがどうやらマリアに説明を終えたばかりのようです。その上からは父なる神が手を伸ばして、マリアに聖なる霊を送り込んでいます。そして面白いことに画面中央では一匹の猫が走っています。天使が突然現れたのでさぞかしびっくりしたのでしょう!)

 「受胎告知」というのはイエスがマリアのおなかに宿ったことを天使が伝えることで、この場面は多くの絵画の主題となった。とくに有名なのは、イタリア語のテキストの84ページに紹介されているフラン・アンジェリコの作品(1442-43年)であるが、アンジェリコの作品が秩序正しく描かれているのに対し、ロットの作品はにぎやかで、描かれた人物に動きがあり、その動きに応じてデフォルメされていて、16世紀後半のマニエリスム様式につながる特徴を示しているそうである。

 画面中央下で猫が、本来は見えないはずの天使を見てあわてているのは、当時、ネコが悪魔的な存在と考えられていたためであるという。そういう目で見ると、この猫はニャン相が悪いようにも見える。そうはいっても、全体としてユーモラスで親しみ深い感じがする絵で、これからどのような画家のどのような作品が紹介されるのか、期待させる第1回目の放送であった。

 NHKカルチャーラジオ「風刺文学の白眉 『ガリバー旅行記』とその時代」の第12回₌最終回。3月26日の放送を聞きのがしていたので、再放送を聴く。「『ガリバー旅行記』、その後」として、この作品の評価の歴史、後世の文学作品への影響を論じたのだが、主にジョージ・オーウェルと原民喜に焦点があてられていた。講師の原田さんは『ガリバー』の風刺性、批判的な性格を強調するために、この2人を選んだのだろうが、漱石と芥川の師弟もスウィフトと『ガリバー』の影響を受けており、そちらの方が日本の文学史を考えるうえでは重要ではないかと思ったりした。

4月3日
 「まいにちイタリア語」応用編「描かれた24人の美女」の第2回はラファエッロの「ラ・フォルナリーナ」を取り上げている。「フォルナリーナ」は「若いパン職人」を意味するが、伝統的に「粉屋の娘」とも訳されてきたそうである。ラファエッロの絵は宗教的な題材の作品が多く、その意味で敬遠しているのだが、この絵は世俗的な題材を描き、しかも裸婦像である。この時代の絵は画家単独の作品ではなくて、工房を主宰する画家とその弟子たちの共同作業で描かれているのだが、この絵は小品なので、ラファエッロがほとんどの部分を手掛けているのではないかと思っている。改めて、彼の技量の確かさを知らされる作品である。

 NHKカルチャーラジオ『富士山はどうしてそこにあるのか~日本列島の成り立ち」の最終回は、東海道新幹線の車窓から見える地形を読み解くという内容で、なかなか聞きごたえがあった。最終回がいちばんおもしろかったような気がする。

4月4日
 NHKラジオ「アラビア語講座」の第1回を聴く。アラビア文字を覚えるだけでも相当な努力が必要に思われ、週に1回、30分だけラジオ放送を聴くことで、どの程度のことが身につくだろうか。とにかく、何とかやってみよう。

4月5日
 既に書いたことだが、雨降りにもかかわらずニッパツ三ツ沢球技場でJ2第6節の横浜FC対ジュビロ磐田の試合を観戦、横浜が2-0から逆転負けを喫した。このところ、ホームでは勝っていない。チームができたころは、三ツ沢では不敗だったのにどうして勝てなくなってしまったのであろうか。

4月6日
 病院に出かける。行きがけに乗った電車は冷房を入れていて、寒いと感じる人は、冷房の入っていない車両に移動してほしいというアナウンスが流れていた。その後、予定通り、神保町シアターで『駅前旅館』を見た。この作品に出演した当時はまだ若かった出演者のほとんどが故人になっている。見ているこちらも、中学校に入るか入らないかくらいの年齢だったのだから、当然のことか、などと考えていると疲れが出てきて、その後イタリアブックフェア2015を見るという予定は取りやめた。

4月7日
 昨日、本日と入学式に向かうらしい(あるいは帰りらしい)親子連れをよく見かける。親子3人連れ、母子2人連れ、中には中学生になったらしい娘さんと姉妹のように見える若々しい母親がいたりする。それにしても、天気が悪いのは、気の毒である。人生が晴天続きということはないだろうが、入学式は人生の予告ではないと思ってほしい。

4月8日
 NHKカルチャーラジオ「私の落語はくぶつ誌」の第2回は「名人芸の世界」ということで、5代目の古今亭志ん生、6代目の三遊亭円生、8代目の桂文楽、6代目の春風亭柳橋の録音のそれぞれ一部が紹介された。6代目春風亭柳橋は3代目の柳家小さんによく似た語り口をしていたというのだが、3代目小さんのレコードも多く残っているはずで、そちらも紹介してほしいと思う。

ダンテ・アリギエリ『神曲 地獄篇』(31)

4月7日(火)雨が降ったりやんだり

 第30歌の終わり近く、贋金つくりのアダーモ博士とトロイア城内に木馬を運び込ませることに成功したシノンという歴史に残る(とダンテが考えた)嘘偽りの大家2人が展開する舌戦にダンテは思わず聞き入り、そのことで異界への旅の案内者であるウェルギリウスの叱責を受ける。

同じ声がはじめに私を噛むように叱責し、
そのために私の両頬は朱色に染まったが、
その後では良薬を私に与えた。
(454ページ)と、ウェルギリウスの叱責が彼に与えた効果について述べるところから第31歌は始まる。彼はこの叱責をトロイア戦争の英雄アキレウスにその父親が与えた槍にたとえている。それは「はじめは苦しみを、次には素晴らしい贈り物を/もたらしたという」(同上)のである。

 そして2人はさらに道を急ぐ。
私達は悲惨の谷に背を向け
さらにその内側を取り巻いている断崖の上を、
話すこともなく横切るように進んでいった。

その場所は夜には足らず、さりとて昼にも足らず、
そのため私の視線は前方にほとんど届きはしなかった。
だが、私には角笛が高く鳴り響くのを聞いた。

あらゆる雷鳴をかすれた音にしてしまうほどの凄まじさで、
その音は、私の目にそれが通って来た道を逆にたどらせ、
ある一つの場所に引きつけた。
(454-455ページ) ダンテはその角笛の音を、中世の有名な叙事詩『ローランの歌』の中の敵襲を受けたローランが、自分の率いる軍隊が壊滅状態になって初めて吹いた角笛の音になぞらえている。ローランが敵襲を受けたのは、自軍の中に内通者がいたためで、ローランの角笛が想起されているのは、地獄のこのあたりで裏切りの罪が罰せられていることが暗示されているという。

 角笛の音が示す方向に目を向けると、幾多の高い塔が見えるようにダンテには思えた。彼はウェルギリウスに、自分の前に待ち構えているのはどのような都市であるのかと問う。しかし、ウェルギリウスは塔のように見えているのが巨人たちであると、前途に待ち受ける奇怪な風景について、ダンテが驚かないようにあらかじめ教える。

あたかも霧が晴れわたるとき、
空気を濁らせていた水蒸気が隠していたものの形を
視線が徐々にはっきりと明らかにしていくように

重く暗い大気の中に視線を突き通しながら、
さらにさらに断崖に向かって近づいていくと、
私の心のうちから思い違いが逃げていき、かわりに恐怖が育ってきた。
(457ページ) 彼の目の前に、塔のように巨大な恐怖の巨人たちの姿が見える。彼らはその巨大さと力を頼んで、神に反抗したために地獄のこの場所におかれているのである。

 ウェルギリウスは巨人たちの中で縛られてもいないし、話をすることもできるアンタイオスのところに進み、自分たち2人を地獄の最下層の「あらゆる罪の底辺」(463ページ)に下すように頼む。ウェルギリウスとともにダンテは巨人の手に掴まれて、「ルシフェルとユダを/貪っているあの深淵に私達を置いた」(467ページ)。

 旧約聖書に登場する巨人たちとギリシャ神話に登場する巨人たちが地獄で並んでいる。彼らの姿が霧で、なかなか見えないところなど、イタリアの風土が地獄の描写に影響しているのかもしれない。 いよいよたどりついた地獄の最底辺でダンテは何を見、教えられるのであろうか。

椎名誠『新橋烏森口青春篇』

4月6日(月)晴れ

 東京都内の病院に診断を受けに出かける。横浜駅で電車に乗ろうとしたら、急病になった乗客がいたために電車が8分ほど遅れていると放送があった。それで病院に到着するのが予約時間ぎりぎりになり、先に到着していた患者さんがいたこともあって、いつもよりだいぶ遅れて診察を受けることになった。血液を検査することになり、そのためにまた時間がかかったのだが、採血をしてくれた看護師さんの名札を見ると岩○宏○という、昔の(失礼!)人気歌手と同じ名前で、そのためにわざわざ顔を上げて、どんな顔つきなのかを確かめたのだが、マスクをしていたので大したことはわからなかった。そういえば、最寄り駅で見かけた白人女性が見事な赤毛で、16年前にリヴァプールの坂道で見かけた女性の赤毛に感心して以来のことだなぁと記憶をよみがえらせた。

 その後、神保町に出て、神保町シアターで井伏鱒二の小説を映画化した『駅前旅館』(監督は豊田四郎)を見た。1958年というから、私が中学校に入学した年の作品。上野駅近くの旅館で展開する人間模様を描く喜劇。団体旅行客が多くなってきて番頭によるお客の呼び込みが時代遅れになってきた世相が背景となっている。森繁久彌、フランキー堺、伴淳三郎、淡島千景、淡路恵子、草笛光子という豪華な顔合わせに、森川信、藤木悠、都家かつ江、多々良純、左卜全、藤村有弘、浪花千恵子、若水ヤエ子、山茶花究、小桜京子、沢村いき雄と脇役、端役まで一癖も二癖もある面々が揃っている。市原悦子が女学生の役で登場しているというのがすごい。ということで、ストーリーの展開よりも、個々の出演者の個人芸から目が離せない映画であるが、特にフランキーがロカビリーを演奏・歌う場面が何ともおかしい。旅館の番頭の森繁が女性従業員の三井美奈のスカートをめくる場面がある。スカートをめくって文化勲章をもらったのは森繁くらいのものであろうと思う。

 椎名誠『新橋烏森口青春篇』(小学館文庫)を読む。『哀愁の町に霧が降るのだ』に続く椎名さんの自伝的な小説の第2部。以前、新潮文庫に入っていたが、『哀愁の町に霧が降るのだ』に続いて、この作品も小学館文庫の方に版元を移した。沢野ひとしによるカバーイラストは新潮文庫と同じものを使っているようで、新潮文庫版と違うのは中川淳一郎「特別寄稿エッセイ」が巻末についていることくらいであろうか。新潮文庫版で何度も読んでいるのだが、それでも、改めて買って読み直してみたのは、この作品にはやはり独特の魅力があるからである。

 語り手である「ぼく」(=椎名誠)は新橋烏森口にある百貨店ニュースという会社の求人広告を見て発作的に受験を決意する。彼は弁護士を目指す木村晋介、「大学のウエスタンバンドに青春をそっくり賭けたあという顔をしながら、実際にはごろごろ寝てばかり」(11ページ)いる沢野ひとし、それに「ただ単に自分の勤めている会社が自宅から行くよりも近いから、その分だけ朝余分にねむれる、という理由だけで」加わっているもう1人の男と、小岩のおんぼろアパートで自炊共同生活を送っていた。勤め人が1人しかいないので、4人分の生活費をまかなうために各自がアルバイトをする必要があり、そのアルバイトにつかれてきたので、正社員募集という広告を見て応募する気になったのである。とはいうものの、面接を受け、課題の作文を書いて、アパートに戻って来た時には、合格したとは思っていなかった。それがなぜか、採用されてしまった。面接試験の時に顔を見た高根という、その会社の専務が、彼の作文を見て気に入って強く推薦したのだという。この専務というのが蛇をはじめとする爬虫類や両生類をこよなく愛し、詩や自由律短歌を書くという大変な人物であることを、入社後に彼は知ることになる。

 百貨店ニュース社は社員23人で、デパートに務める人やその関連業界向けの新聞を発行していた。全員が男ばかり、比較的若い社員が多く、「なんとなくブンガク青年が二重三重に屈折したような、悪酔いしたらあとは地獄、というような気配の男が多かった」(30ページ)という大変な会社である。それでも椎名は次第に仕事に慣れ、若い社員同士、一緒に酒を飲んだり、ギャンブルに興じたり、会社のあるビルの地下の純喫茶ムラサキで無駄話をしたりと会社での生活を楽しむようになる。それはアパートでの共同生活から離脱するということでもあった。

 とはいうものの、会社のなかには若手社員の行状を快く思わず、管理を強めようとしたり、若手社員に自分の趣味を押し付け、子分を増やそうとする上司もいて、いらいらすることも少なくない。不満を感じたり、いらいらしたりすることも実は仕事に慣れてきて、やる気が出てきたことの表れかもしれない。そんな中で、蛇の専務も趣味の方が忙しくなって、そちらを本業にするために退社し、ほかにも何人かの同僚たちが退社していく。椎名はムラサキでウェイトレスのアルバイトをしているマイコという女性に惹かれるが、彼女はアルバイトをやめてしまう。久しぶりに会った木村から原田瑞枝という女性を紹介され、会社で何かあったりすると、気分を転換させようと彼女に連絡を取ったりするようになる。

 蛇の専務をはじめとする多くの個性的な人物との出会いを通じて、主人公の生活と考えは変化し、拡大していく。アパートでの共同生活も新しい試みであったが、それまでの生活との連続性も強く残っていた。職場での経験は学校時代の延長というよりも、断絶という側面が全面に出てくる。『哀愁の町に霧が降るのだ』に始まり、『銀座のカラス』へと続く、椎名さんの自伝的小説は、主人公が経験を通して自己を変容させ、成長させるという意味で教養小説的な要素をもっているのだが、その一方でそれぞれ内容的に重なり合う部分があったり、脱線があったり、食い違うところがあったりと、突っ込み所が多いことも確かである。この連作の中で『新橋烏森口青春篇』は新しい職場での経験に焦点を当て、こじんまりとまとまっていて(まとまりすぎているところがないでもないが)、愛すべき作品である。特に、他の作品には書かれていない、現在の夫人とのなれそめの過程が描かれているところが、この作品を大いに親しみやすいものとしている(他の作品では、このあたりのことが伏せられていて、プライヴァシーへの配慮とともに、それが夫人への愛情の表現でもあるのだなと思うのである。なお椎名さん周辺の「有名人」である木村晋介、沢野ひとしは実名だが、それ以外は仮名での登場である。)

 東京ではなく、大阪の小さな会社でサラリーマンのまねごとをしていた時期があり、その会社が入っている建物の地下ではなく1階に喫茶店があって、そこに社員が集まっていろいろな話をしたこと、若い社員が一緒になって昼食に出かけたり、食事をとりながら会社のことや世間話にふけったりしたことを思い出す。椎名さんと私は1歳違いであるうえに、ちょうど同じ時期に似たような経験をしていたという点での親しみも感じているのである。 

『福翁自伝』の行間(2)

4月5日(日)雨が降ったりやんだり

 ニッパツ三ツ沢球技場でJ2第6節の横浜FC対ジュビロ磐田の試合を観戦する。前半横浜が三浦選手のゴールなどで2点を先行したところまではよかったのだが、前半終了間際に1点を失い、後半も終盤になって2点を失って逆転負けを喫した。いい試合をしたし、チームが強くなっていることもわかるが、やはり負けは負け、面白くない。
 三ツ沢公園の桜は、雨で大分散ってしまったが、まだ多少は残っている。明日は東京の病院で診察を受ける。診察が済んだら、神保町に出て、神保町シアターで『駅前旅館』を見るつもりである。その前後に九段下のイタリア文化会館で開かれている「イタリアブックフェア2015」を覗いてみようかとも思う。4月8日(水)には催しの一環として『神曲』の翻訳者である原基晶さんと『ダンテの遺言』という本を書いた谷川悠里さんの対談が行われるということで、聴きに行きたいが、その時間が取れそうもないのが残念である。

 『福翁自伝』の行間を探る試みの続き。今回は福澤が漢学を習った白石照山(1815-83)という学者について探ってみる。
 福澤の家庭は父が死んで、兄が1人、姉が3人、末の諭吉の5人の子どもの面倒を母が一人で見ている。勉強嫌いの性分であった諭吉は、とくに手習いもせず、本も読まずで過ごしていたが、14か15歳くらいになって、他の子どもたちは本を読んでいるのに自分だけは読んでいないのは外聞が悪いと思い始め、「それから自分で本当に読む気になつて田舎の塾へ行始めました」(22ページ)という。同年輩の他の生徒たちがもっと難しい本を読んでいるのに、諭吉は初学者用の孟子の素読をしているというようなこと出会った。素読というのは、教科書として使われている教材を読み下す課業で意味などはまったく説明しない。ところが、諭吉は素読の授業を受けていて、ある程度まで意味が分かり、後になって会読講義と言って本に書かれていることの意味などを何人かで集まって討論しあう課業になると、ほかのものを言い負かすことができたという。そういうことで少しずつ勉強が面白くなっていった。いくつかの塾に通ったが、一番長くいたのは白石という先生の塾であったと記されている。

 白石照山というこの先生は中津藩の藩校である進脩館に学んだあと、江戸に出て亀井昭陽(南冥の子)、古賀侗庵に学び、また昌平黌にも学んで成績優秀、幕府の詩文掛を務めていたこともあるという人物で、1843年に中津に戻って私塾を開き、後進の教育に当たっていた。福澤の父百助と同じく、下士の出身であったために、優れた学識をもちながらも藩では重用されなかった。このため門閥の支配に対して批判的で、このことが福澤にとって好ましく思われたのではなかろうか。
 この先生のもとで福澤は儒学の基本文献を一通り読んだが、その中でも春秋左氏伝(略して左伝)が得意であったと記している。これは中国の古代の王朝である周の勢いが衰えて、諸侯が半ば自立して覇を競い合った時代の歴史を孔子がまとめた歴史書『春秋』を左丘明という人(孔子の弟子だったと言われる)が解説した書物である。福澤の父、百助が中国の歴史について優れた書物を書いた伊藤東涯を尊敬していたという話を前回に書いたが、歴史が好きだというのはあるいは父親からの遺伝であるのかもしれない。
 白石は亀井昭陽に学んだが、むしろその父親の南冥の方に傾倒していたようで、「一体の学風は亀井風で、私の先生は亀井が大信心で」(23ページ)と書いているが、その亀井は南冥のことである。学問的なことはよく理解できていないので、適当に書いておくが、亀井南冥は荻生徂徠の系譜に連なる古文辞学派の学者で、当時の主流の学問の朱子学とは対立していた。息子の昭陽の方は古文辞学と朱子学を折り合わせようとしていたようである。いずれにせよ、諭吉は白石の影響で、朱子学とは一線を画する立場を取るようになっていた。
 面白いのは、白石が咸宜園を開いて多くの門人を教えた同時代の広瀬淡窓について「彼奴は発句師、俳諧師」(同上)と悪く言っているが、広瀬は亀井南冥の弟子の1人であるということ、また頼山陽についてもよくいっていなかったというが、頼山陽と白石の直接の師である亀井昭陽は仲がよかったとされることである。学者の世界では、学問的に似通った傾向をもっていても、さらには師弟関係や兄弟弟子関係にあっても仲が悪かったりよかったりは時と場合によって定まりがない。これは江戸時代でも、現代でも同じことらしい。
 福澤の父である百助が、白石先生同様に頼山陽を重んじていなかったことは前回にも書いた。これは単なる行きがかり上の問題であるかもしれないし、白石照山も福沢百助も実践的な学問の方に興味があって、詩文にはそれほど興味がなかった、重きを置かなかったからではないかという見方もできる。福澤についても、大義名分論よりもより現実的な歴史の方に関心を寄せていたようである。

 白石照山は『福翁自伝』にもう少し後になってまた登場する。彼は福澤が出会った最初の師=教育者であり、蘭学の師である緒方洪庵とともに教育者福澤の形成を語る際に欠かすことのできない人物ではないかと考えている。当時の私塾の教育というのは、漢学塾でも、蘭学塾でも同じような方法で教育をしていたらしく、すでに素読、会読など多少の説明をしたが、この後福澤が大坂に出て学ぶことになる適塾の教育について取り上げる際に詳しく検討してみたいと思っている。

くちびるに歌を

4月4日(土)曇り

 4月3日、横浜駅西口ムービルで『くちびるに歌を』を見る。最終上映日の最終上映での観賞であった。

 長崎県の西、五島列島の中の島にある中学校。出産で休暇に入る音楽の教師に代わって、彼女の友人が代理としてやってくる。同じくこの中学校の卒業生であるというその新しい教師は、音楽大学を出て、ピアニストとして活躍していたのが、ある演奏会で演奏を拒否して、その後ステージには立ってこなかったらしい。

 中学校の合唱部は全国大会(の県予選)を目指して練習中であるが、これまでは女声だけの部活であったのが、新しい教師に対する好奇心からか、男子の新入部員が加入し、男子部員と女子部員、そして新しい教師ともともといる女子部員たちの軋轢が起きる。映画はその中で、部長をしているが、母親を亡くし、父親は家出中という女子生徒と、素晴らしいボーイ・ソプラノの声をもっているが障害をもつ兄の面倒を見るために、自由な時間がなかなか取れない男子生徒の様子を中心に描きながら、自分のコンサートに向かう途中に交通事故で死んだ恋人への思いを断ち切れない教師の自分の音楽は誰のために意味をもっているのかという問いを重ね合わせて物語を進行させている。

 芸術は具体的なものであり、人間はその生涯を通じて、具体的なものを越えたなんらかの理想を実現するために生きている。では、芸術は人生に対してどのような意味をもちうるのか。というのがギリシャの哲人たちの問いであり、トーマス・マンが『ヴェニスに死す』と終わり近く、主人公に自問自答させた問いである。ルキノ・ヴィスコンティによる『ヴェニスに死す』の映画化では、この問いは省かれていたが、この映画は人間が生きるということと、音楽がどのようにかかわるのかという問いに真っ向から取り組もうとしている。

 「くちびるに歌を」というのは生活の中に音楽を絶やさずにということで、単に生徒たちが中学生としての今を生きる中で、常に音楽を意識するということだけでなく、成人して社会生活を送っていく中で音楽とどのように向き合うかを問いかける言葉である。中学生たちはコンクールで歌う歌として「手紙~拝啓十五の君へ」を選ぶ。30歳になった自分が、15歳(現在)の自分に宛ててどのような手紙を書くかを想像させる。どのように生きているか。どのように音楽とかかわっているのか。職場で合唱を続けているかもしれないし、地域のコーラスに参加しているかもしれない。

 中学生というのは、子ども時代から急速に大人に近づいていく時代であり、その結果、先生たちの生の姿が急に見え出す時代でもある。女子だけの部員たちを優しく指導していた産休中の前の先生と、クールだが部員たちの力を的確につかんでいる代理の先生。それぞれの等身大の人間像が生徒たちに次第に見え始める。生徒たちは改めて自分が音楽と取り組むことの意義を考え出す。

 少し先廻りをして(多少のネタバレを許してもらって)書いておけば、映画の終わりの方、コンクールが終わった後、ロビーで(何が起こるかについては見る楽しみを妨害しないように伏せておく)の場面がこの映画の一番の見せ場である。コンクールに出場するとか、勝つとかいうこと以上に、音楽に取り組むことにはその意味があるのだということを、改めて観客に示す場面だからである。

 失意の音楽家を主人公とする映画は少なくないが、その結末は、失意がどのように克服されていくかをめぐり、いくつかに分かれる。以前、『ここに泉あり』と『シベリア物語』を対比して書いたことがあるが、中央と地方の対立が物語の展開に絡むことがしばしばある。この映画にもそのような問題は内包されているのだが、それ以上に音楽と人生の関係を、中学生という人生の転換点にある登場人物たちに問いかける内容をもっているために見応えがあるものとなっているように思われる。

 五島の風景が美しく描きだされているが、そこに住んでいる人々にとってはごく当たり前のものなのだろう。生徒たちがコンクールのために長崎市に赴き、ホテルから市内の夜景を見て大騒ぎをしている場面があるが、確かにそんなものかもしれない。それぞれの土地でそれぞれの人生を送る一人一人の人間を大事にすること、そのことが、人生と音楽について問いかけているこの映画の行間からさらに浮き出てくるテーマなのではないかと映画を見終わって考えたのであった。

『太平記』(35)

4月3日(金)曇り、天気はあまりよくなかったが気温が高くなった

 元弘2年(1332年)のこと、鎌倉幕府は六波羅探題として北条時益、仲時を上洛させたと流布本は記している。史実は元徳2年(1330年)のことだそうであるが、この2人が最後の六波羅探題になると、この時は誰も考えていなかったであろうと思う。岩波文庫版は古写本によっているので、楠正成が前年の1331年に赤坂の城で自害して焼け死んだように見せかけて落ち延びたのを、死んでしまったと思った幕府はその跡に、紀伊の国の武士である湯浅四郎入道定仏(じょうぶつ=変な法名である。和歌山県有田郡湯浅町出身の武士で、俗名は宗藤といったと脚注にある)という武士を地頭として配置した。これで河内の国は大丈夫だと幕府の方は安心していたところが、4月に(実際は12月だったらしい)正成が500余騎を率いて表れ、湯浅の拠っている城へ押し寄せて、間断なく攻撃を加えた。

 この城には兵糧の準備が少なかったので、湯浅は自分の所領である阿瀬川庄から人夫5,600人に兵糧をもたせて、夜を見計らって城中に運び込もうとした。楠はこれを察知して、兵士を道中の難所に派遣して、兵糧をことごとく奪い取ってしまった。その上で、俵に武器を入れて馬に背負わせ、兵士たちを二、三百人ほど人夫として挑発された農民のような姿をさせて、城へと向かわせた。そして楠の部下の兵士たちが農民たちを追い散らそうとする様子を演出していた。これを見た湯浅は兵糧を入れに来た人夫たちが楠の兵士たちと戦っていると誤解して、城から出て、馬に荷物を載せた本当は敵の兵士たちを城の中へと引き入れてしまった。場内に入った楠の部下たちは、俵の中から武器を取り出して、戦闘準備を整えて、鬨の声をあげる。こうなってしまっては湯浅は抵抗するすべもなく、降伏してしまった。

 正成は、さらに勢力を増して700余騎、いよいよ勢力を増して、和泉、河内の両国へと押し寄せていくと、これになびこうとしないものはいない様子であった。次第に人数が多くなってきたので、1332年の4月17日(史実では133年1月)に住吉大社(大阪市住吉区)、四天王寺(大阪市天王寺区)のあたりまで進出し、淀川の河口にあった渡部の端から南に陣をとり、南北の六波羅探題が攻めてくるのを待ち構えていた。和泉、河内の武士で、まだ幕府に忠誠を誓っているものは、次々に六波羅へと注進に及んだので、京都中が一通りではない騒ぎとなった。「武士東西に馳せ散って、貴賤上下周章(あわ)て騒ぐ事きはめなし」(281ページ)という有様である。

 そういうことなので、六波羅には畿内近国の軍勢が多数集まって、楠がいつ攻めてくるかと待っていたが、あえて攻め寄せることもなかったので、楠の勢力はそれほどではないらしいと考えて、こちらから攻め寄せて蹴散らそうと、北条仲時の家来である洲田(隅田)次郎左衛門、高橋太郎を六波羅の2人の探題の軍奉行として、5,000余騎の軍を天王寺へと向かわせた。4月20日に京都を出発し、尼崎、神崎(尼崎市神崎町)、柱松(大阪府高槻市柱本)のあたりに陣をとり、遠くからも見えるようなかがり火を焚いて、その夜が明けるのを待ち構えていた。〔天王寺に待ち構える相手を攻めるための野営地としては遠いのではないかといういう気がする。〕

 楠はこれを聞いて、2,000余騎の兵を3つに分けて、主力を住吉と天王寺とに隠して、わずかに300余騎を渡辺の橋の南に控えさせ、大篝2,3カ所に焚かせて幕府軍方のかがり火に対抗した。これはわざと敵に橋を越えさせ、水際に追い落として、勝敗を一気に決めようと考えたためである。

 明けて4月21日、六波羅勢7,000余騎が集まって渡辺の端に押し寄せてみると、楠の軍は2,300騎を超えるものではないし、その装備も見劣りがする。洲田と高橋がこれを見て敵を侮り、われもわれもと川を渡って攻め寄せてきたので、楠の軍は遠矢を射はするものの、ほとんど戦いらしい戦いもせずに、引き揚げてしまった。六波羅勢は勝ちに乗じて、楠の軍の後を追いかけ、天王寺の民家の立ち並ぶあたりまで追撃した。

 楠は敵の人馬が長い距離を走ってきたので疲れていることを見透かして、2,000余騎を3つに分けて、一手は天王寺の東の外れから、敵を左手に受けて攻め寄せ、一手は西門の石の鳥居から駆け出して、先頭を細くして敵陣を突破する魚鱗型の陣形で敵の真ん中に攻め込み、もう一方の軍勢は住吉の松の影から駆け出して、鶴が翼を広げたように左右に大きく開いて敵陣を包囲する鶴翼立ての陣形で待ち受けた。天王寺の西門は極楽の東門に通ずつと言われ、その意思の鳥居は天王寺信仰の中心の一つであったという。
 六波羅勢は、楠の3倍を超える兵力をもっていたが、陣立てをするどころではなくばらばらであったので、かえって兵力の少ない楠軍に囲まれるような形になってしまった。洲田、高橋は、これを見て、敵は後ろに大勢の兵を隠していたので、だまされてしまった。このあたりは足場が悪いので、うまく戦えそうもない。少し広い場所に出て、敵をおびき出して勝負を決しようと、今度は渡辺の橋をめがけて兵を引き上げる。

 六波羅勢がいったん退却するのを今度は楠軍が追いかける形になったが、幕府方は洲田、高橋が軍勢を踏みとどまらせようとするのを聴かず、われ先に橋をわたって逃げようとし、大きな損害を出して、戦果を挙げないままに京都に帰還することになった。この様子を見て、口の悪い何者かが京都の六条河原に一首の歌を書きつけた札を立てた:
 渡辺の水いかばかり早ければ高橋落ちて洲田流るらむ
(285ページ、渡辺の川の流れがどれほどか速かったために、高橋は落ちて(逃げて)、洲田(川洲の田を掛ける)は流されたのだろう。)
 口さがない京の市中の無頼の若者たちは、例によってこの落書きに節をつけて歌ったり、笑い話として広めたりしたために、洲田と、高橋はすっかり面目を失い、しばらくは病気と偽って出仕しなかったという。

 洲田と高橋は第3巻にも登場していた。そこでも高橋は功を焦って失敗していたので、今回の起用ははじめからメガネ違いであったのかもしれない。それに対して楠は自分が地理をよく知っている場所で戦うことを選んで、無理をせず、少数の兵力で攻略することが無理な場合には、謀を使うなど兵法にかなった戦い方をしている。本当に魚鱗、鶴翼の陣形を組んで戦ったのかどうかはわからないが、物語の中では見事な軍師ぶりを見せている。単にそういう陣形を用いるべき戦局を知っているというだけでなく、兵士たちがきっちりその陣形を組んで戦うことができるところまで軍勢を訓練しているところもすごいと思うが、これがどこまで歴史的な事実であったかをめぐっては、専門家の研究を調べてみることにしたい。 

ダンテ・アリギエリ『神曲 地獄篇』(30)

4月2日(木)曇り

 第30歌は第29歌に引き続き、マレボルジェと呼ばれる地獄の第8圏の第10巣窟の描写に充てられている。第29歌では錬金術師のような偽造者たちが罰を受けていた。第30歌はギリシャ神話を素材として、ローマの詩人オウィディウスによって歌われた『変身物語』の中のテーバイの王家と、トロイアの王家の不敬の罪への罰を物語る逸話がダンテによって書き換えられて再現される(西洋古典文学を少し研究すると、欧米の人々のギリシャの神話・文学への知識のかなりの部分が、ギリシャ語の著作を読むことによってではなく、実はオウィディウスを通して得られていることに気付く。だからとにかく、ラテン語を学ぶ必要があるのだと思うことにしよう)。
しかしテーバイの狂乱も、トロイアのそれも、
人間のうちにあれほどの残虐性を見せたことはなかった。
獣を屠った場合でももちろん人間の肉体を屠った場合であっても。

青く変じた二つの裸の影の中に、私は、それほどの酷さを見たのだ。
あれらは噛みつきながら、豚小屋から放たれた
豚の勢いで走っていた。
(440ページ) 
「二つの裸の影」として登場するのは人格を偽造した罪人たち、ダンテと同時代のフィレンツェ人で他人になりすまして遺言書を偽造したジャンニ・スキッキと、ギリシャ神話中の人物で父王と交わるために他人になりすました王女ミュラーである。
狂乱している二人が向こうに去っていくのを
私は目を離さずに追い続けていたが、
その後で他の悪しき生まれの者たちに視線を向けて観察した。
(442ページ)

 そして彼の視界の中に登場するのは、ダンテの同時代人である偽金つくりのアダーモ博士と、トロイア戦争の際にギリシャ軍に自分を追わせ、逃げたふりをしてトロイア人たちの信頼を得て、ギリシャ人たちが運んで来た木馬を城壁の一部を壊して場内に運び込ませた神話中の人物のシノンである。シノンには旧約聖書の『創世記』に登場するエジプトのファラオの侍従長ポティファルの妻がまとわりついている。彼女は自分の召使いであったヨセフに言い寄り、思いがかなわなかったために彼を誣告したのであった。アダーモ博士とシノンのこの2人は人間性の堕落を表現するような悪口雑言の応酬を展開する。
「忘れてるんじゃねえよ。裏切り者、馬のことをよ。
――ふくらんだ腹をした者が言い返した――
ざまあみろ、世界中にそれが知れ渡ってるんだよ」

「ざまあみろ、は、てめえのことだ。喉が渇いてひびが入ってるんだろ
――ギリシャ人は言いかえした――舌によ。ついでに腐った水が
腹にたまってよ、目の前にひろがって足元が見えねえんだろうが」。
(449ページ)
 このような応酬に聞き入ってしまったダンテはウェルギリウスからの叱責を受ける。
もしも運命により、人々がこれと同様に中傷しあっている場に
おまえが出くわす事態が再び起きたならば、
いつでもお前のかたわらには私がいることを思い出すがよい。

というのも、それを聞こうと欲することは下劣な欲望であるからだ。
(452ページ)
 文学は何を目指し、何を描くべきであるのかをめぐり、ダンテがウェルギリウスからどのようなことを学んだのかがここに示唆されている。文学は、人間性の向上を目指すべきであり、そのことに役立つ描写を心掛けるべきなのである。人生の批評としての文学の意義を考えることをウェルギリウスはダンテに向かって呼びかける。

 このことと関連して、翻訳者である原さんが解説の中で次のようにまとめていることが重要である:
「こうしてマルボルジェの全10巣窟を見終わったが、…この詐欺の者達のカテゴリーは3つに分けられ、最初の3つ――ポン引き、ヒモ・おもねりと売春・聖職売買は愛の堕落、次の4つ――占い・汚職・偽善者・盗賊は愛の欠如、最後の3つ――偽りの忠告、分裂扇動者、偽造者は、愛を憎しみに変える他人の不幸の偏愛に大別される。このようにマルボルジェの罪も他人との関係、換言すれば社会的な関係から考察されているのである」(605ページ)。

 こうしてダンテはウェルギリウスに導かれて、地獄の第8圏を通り抜け、いよいよ最下層に位置する第9圏<コキュートス>を訪れることになる。地獄の最下層へと下った後は上昇の道が待っていることになる。

日記抄(3月26日~4月1日)

4月1日(水)曇り、一時小雨

 3月26日から本日にかけて出遭ったこと、考えたことから:
3月26日
 NHKラジオ「実践ビジネス英語」によると、アメリカ合衆国の飲料水のもっとも重要な水源は五大湖とコロラド川であるが、この2つが近年危機に瀕しているという。
The Great Lakes account for no less than 84 percent of North Amerika's fresh water. And just over 10 percent of Amerikans directly depend on the Colorado. But both the Great Lakes and the Colorado are shrinking, sad to say.
(五大湖は、北アメリカの淡水の84パーセントも占めています。そしてアメリカ人の10パーセントあまりが、コロラド川に直接依存しているのですよ。ところが悲しいことに、五大湖もコロラド川も減水傾向にあるのです。) 
 コロラド川以外にもアメリカには大きな川はあるはずだが、なぜこの川に飲料水を依存する人々が多くなっているのであろうか。Longman Active Study Dictionaryによると、fresh water contains no salt and comes from rivers and lakesということだそうである。

3月27日
 昨日に続き「実践ビジネス英語」に出てきた話題。番組パートナーのヘザー・ハワードさんの体験に基づく話で、かつて一緒に仕事をしていた男性が自信過剰でどうにも手に負えなかった:
This man incredibly inflated view of his own abilities and nothing could burst that bubble.
(この男性は自分の能力を信じられないほど過大評価していて、何をもってしてもその幻想を打ち砕くことができなかった。)
こういう人たちは間違いなく、最も扱いにくいスタッフになるという。
Those are the hardest staff to deal with, definitely: the ones who won't take direction. They listen but then just keep doing things their own way.
(つまり、指示に従わない人たちである。彼らは耳は傾けるが、そのまま自己流でひたすら物事をやり続ける。)
たしかに、自分の経験でもそういう種類の人に出会ったことがあると思うが、考え直してみると、自分自身にもそういうところがあったかもしれない。他人に仕事を任せる場合、どの程度までその人なりのやり方を容認するかということが問題にされてよい。自己流を貫くということについては、自信過剰ということもあるが、不器用ということもあるかもしれない。

3月28日
 NHKラジオ「攻略!英語リスニング」では蒸気機関(Steam Engines)を話題として取り上げた。はじめて蒸気機関に関連する特許を取ったのはスペイン人のJeronimo de Ayanz(1553-1613)であったという。スペイン語とイタリア語はよく似ているが、料理についての語彙が大きく違うという説を読んだことがあるが、イタリアはガリレイやヴォルタなど多くの科学者を輩出したが、スペインには科学技術関係で名前を残した人はいないというのもこの2つの国の文化の大きな違いではないかと思っていた。その意味で、スペインの発明家の名前を目にしたのは一つの発見である。

3月29日
 下川裕司『「裏国境」突破 東南アジア一周大作戦』の中に、カンボジア人と結婚した日本人のこんな言葉が紹介されている:「カンボジアでは、学校でアンコールワットのことをほとんど教えないみたい。…何も知らないんだよ。…だから遺跡は何の興味もない。写真撮って終わり。何が楽しみって、アンコールワットの入り口の左側に、広い発破があるじゃない。あそこで、飯を食うことなんだよ」(50ページ)
 文化遺産の歴史的な意義を教えるというのは教育の根本的な仕事の一つである。辞かしこの役割はそれほど果たされていないように思われる。東急東横線の多摩川駅の近くに古墳がいくつかあるが、かなりの年齢になるまでそれが古墳だとは知らなかった。幼稚園の遠足で当時このあたりにあった多摩川園に出かけた記憶があり、この周辺は子どものころからなじみ深い場所だったというのにである。

3月30日
 NHKラジオ「入門ビジネス英語」は、担当者が代わり、番組の中のメニューも変化した。講師の柴田真一さんが英語にはいろいろな種類があるのだということを強調していたのが、これからの番組の内容にどのように反映されるか、その点にも注目して聴いていくことにしよう。

3月31日
 「入門ビジネス英語」の講師の柴田さんは、英国の職場でしばしば「シバ~タ・サ~ン」と呼ばれることがあったとテキストに書いているが、私にもそういう経験がある。これは日本人としてはあまり面白くない経験なのだが(ファースト・ネームで呼びかけられるほうが、自分を仲間として受け入れてくれているのだという気持ちになる)、相手が親愛の気持ちを込めてそういっているので、「これもありでしょう」と我慢した方がいいのだろう。
 パートナーのハンナ・グレースさんが第一印象を大事にする、いつも笑顔を絶やさない、そして相手を自分より一段上の存在と見ながら会話を進めるよう心がけているというのは傾聴すべき意見であるが、自分に引き寄せて、どこまで実践できるかには疑問が残る。
 
4月1日
 NHKラジオ英会話では、講師の遠山さん、パートナーの1人であるケイティ・アドラーさんがエープリル・フールのジョークを飛ばして、なかなかにぎやかであった。「実践ビジネス英語」の4月号テキストの初めのほうで、講師の杉田敏さんがジャーナリストの池上彰さんの『学び続ける力』(講談社現代新書)を引用して、語学学習には本人のやる気が大事であると強調しているのが印象的である。「かつてNHKの職員食堂で列に並んでいた時に、後ろからコツコツと肩をたたかれたことがあります。そして『欠かさず聞いていますよ』とおっしゃったその方が池上さんだったのですが、『さすが!』と思ったことを覚えています」と記されている。池上さんのように英語に不自由しない方であっても、勉強を欠かさないというのは心に留めておくべきことであろう。

 NHKカルチャーラジオ「私の落語はくぶつ誌」は、テキストなしの放送のようであるが、いろいろな落語家の録音を聴くことができることになりそうなのが、楽しみである。今回は、5代目の古今亭志ん生の録音の一部を聴くことができたが、あまり感心しなかった。実際に高座に接した記憶では、もっと面白かったというのは単なる懐古趣味であろうか。
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Author:tangmianlaoren
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