語学放浪記(48)

3月30日(月)晴れ

 一般の学校の新学年が始まるのは4月に入ってからであるが、ラジオの語学番組の方は本日(3月30日)から新年度の放送を始めた。昨年度と同様に「ラジオ英会話」、「入門ビジネス英語」、「攻略!英語リスニング」、「ワンポイント・ニュースで英会話」、「実践ビジネス英語」、「まいにちフランス語」、「まいにちイタリア語」を聴くことにしている。昨年度ずっと聴いていた「まいにちドイツ語」に代わって、「アラビア語講座」を聴くにしたのが唯一の、しかしかなり大きな変化である。

 昨年度は後半になって「2014年の2014」を達成するために泥縄式に英語関係の番組を聴きはじめ、結果的に「2014」は達成できなかったが、英語の学習の方はかなりの成果を上げたつもりである。もっともその分、ドイツ語、フランス語、イタリア語の学習がおろそかになったというか、停滞したことは否定できない。今年は何とか、各言語の共存共栄を図っていきたいが、どうなるだろうか。ドイツ語をやめたのは、時間的な余裕を作るつもりからで、その代わりに土曜日にだけ放送があるアラビア語を勉強してみることにした。アラビア語の学習を始めるのはこれで3度目で、どこまで続けられるかはわからないが、何とかやってみるつもりである。とはいうもののアラビア語の時間はまだ聴いていないので、どうなるかは未知数の部分が大きい。そもそもアラビア文字がきちんと覚えられるかが問題である。

 もちろん、ラジオ放送を聴くだけでは上達はおぼつかないので、予習・復習、とくに復習をできるだけ心がけること、それから文法書や簡単な読物を読むことで、学習の補強を図っていきたいと考えている。フランス語、イタリア語についてはこれまでも特に応用編のほうの予習・復習をできるだけ心がけてきたのだが、途中で挫折してばかりであった。この点を何とか克服しようと思っている。各言語ともに語彙力を強化することに主眼を置きたい。「攻略!英語リスニング」の講師の柴原さんが、「語学学習に置いては努力は決して無駄になりません」と繰り返し強調しているが、逆にいうと努力しなければ語学は身につかないと言うことではないか。

 本日は、「ラジオ英会話」を3回、「入門ビジネス英語」、「ワンポイントニュースで英会話」をそれぞれ2回、「まいにちフランス語」(入門編)、「まいにちイタリア語」(入門編)をそれぞれ1回聴いた。このほかに、昨年度の「攻略!英語リスニング」の再放送を聴いている。「ラジオ英会話」は昨年度と同様に、楽しみながら聴いていくつもりだが、理解の精度を挙げていくことが課題となりそうである。「入門ビジネス英語」は講師と番組の進め方が変わったので、しばらくは様子を見る(聴く?)つもりである。「ワンポイントニュースで英会話」は放送時間は短いが、かなり歯ごたえのある番組で、インターネットを活用しながら、理解を深めていくつもりである。あと「毎日フランス語」(初級編)と「まいにちイタリア語」(初級編)は昨年度の前期の放送の再放送なので、特に最初のほうは余裕をもって聴いていられるはずで、余裕の持ちすぎが油断につながらないように気をつけていこうと思っている。

 まだ始まったところで、あれこれ抱負だけを書き記しても仕方がない。これから学習を進めていく中で、感じたこと、考えたこと、その他、いろいろなことを書いていくことにしたい。
 
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『福翁自伝』の行間

3月29日(日)曇り、一時雨

 NHKラジオの朗読の時間で菊池寛の「蘭学事始」を聴いて、幕末の日本で蘭学→洋学が社会に対してどのようなかかわりをもったのかということについて改めて考えてみたくなり、福沢諭吉が晩年に自分のそれまでの人生を振り返って語った談話をまとめた『福翁自伝』を読み返してみた。この書物は若いころから何度も読んできたが、これまでは書いてあることをそのまま受け取って、できるだけ正確に理解することを心掛けてきたつもりである。しかし、それだけでは蘭学→洋学と幕末→明治の日本の社会の関係について十分に知ることはできないのではないかと思い始めた。いかに福澤が偉大な人物であっても、わすれたり、誤って記憶していることや、真相を知っていても黙っていたり、嘘をついたりすることもあるかもしれず、語られている内容についてもう少し立ち入って検討を加えてみようと、気がついたことをいくつか記してみるつもりである。

父百助について
 諭吉の父、百助は豊前中津藩の下士であったが、ひとかどの学問を修め、多くの学者たちと交わっていた。諭吉は父親について、いくつか書き記している。一つは、学問に励む一方で、藩士としての仕事は大阪の金持から藩財政のための借金をすることであったのが不満で仕方がなかったであろうということ。「金銭なんぞ取扱ふよりも読書一偏の学者になつて居たい」(岩波文庫版、18ページ)と父親の気持ちを推察している。父親は倉屋敷の中で手習いを教える師匠が、九九を教えることに反対であったとも記されている。ここで重要なのは、諭吉自身は金銭にも金勘定を含む算術にも無関心ではなかったということである。
 父親は諭吉が幼少の時に死に(父親の死をめぐっては謎があるが、ここでは触れないでおく)、一家は大阪から中津に引き上げるが、中津に戻っても周囲の人々と気風が合わないので、あまりつき合うことをせず、「明けても暮れても唯母の話を聞く許り、父は死んでも生きてるやうなものです」(19ページ)という状態で育つ。しかし、諭吉の兄は父親同様漢学だけを学んでいたが、「豊後の帆足萬里先生の流を汲んで、数学を学んで居ました。帆足先生と云へばなかなか大儒でありながら数学を悦び、先生の説に『鉄砲と算盤は士流の重んず可きものである、其算盤を小役人に任せ、鉄砲を足軽に任せて置くと云ふのは大間違ひ』と云う其説が中津に流行して、士族中の有志者は数学に心を寄せる人が多い。兄もやはり先輩に倣ふて算盤の高尚なところまで進んだ様子です」(27ページ)という。諭吉の兄はこのあたりで止まっていたが、諭吉の方はさらに現実的で、兄からおまえはこれから先何になるつもりだと問われて、「左様さ、先づ日本一の大金持になつて思ふ様金を使ふて見やうと思ひます」(同上)と答えて、兄に苦い顔をさせたと語る。
 学問の世界と金儲けの世界の関係をめぐっては父親と息子では意見が違ってきていることを察知できる。

 その一方で、諭吉が生まれたときに父親が、この子は坊さんにするつもりであると言っていたことを母親から聞き、武士の場合はその家柄によって将来が決まるが、僧侶になれば元の身分にかかわらず出世できる可能性が開けると父親が考えていたのであろうと推測している。僧侶でも、実際のところ、高い家柄の出身の方が出世しやすいと思うのだが、漢学者であった諭吉の父親は別世界である僧侶の世界の方にあこがれを持ったのではないかという気がする。
 それと、諭吉の父親は中村栗園という漢学者と親交があったことが何カ所かで語られているが、この栗園はあまり高い身分の出身ではないのを、諭吉の父親が口をきいたりして、近江の水口藩の藩儒になったのである。諭吉の父親についても、朱子学のように当時の権力と結びつくような学問をすれば、学者としてそれなりの地位につく可能性はないわけではなかったはずである。それを潔しとしなかった理由が何かあるような気がする。
 いずれにしても、封建的な門閥制度への反発は父子に共通している考えである。

 父親の学問について、諭吉は「堀河の伊藤東涯先生が大信心で」(19ページ)と書き記している。これは注目すべきことで、古義学を唱えた伊藤仁斎(1627-1705)ではなくて、その学説を集成し、普及に努めただけでなく、中国の言語や制度についての研究を進めて、漢学の基礎固めをした息子の東涯(1730-1804)の方に傾倒していたのは注目すべきことである。仁斎ではなくて東涯ということの確かな理由は確かめようがないが、東涯の影響は、諭吉の方にも及んでいる可能性がある。
 また野田笛浦(1799-1859)という丹後田辺藩の家老をしていた学者と親交があった一方で、頼山陽とは付き合いがなかったと書いているのも気になるところである。『自伝』の後の方で出てくるが、頼山陽とは付き合いがなかったと書いている一方で、父親の遺品を整理・売却する際に山陽の書いたものもいくらかあったと記されているから、真相はまた別なのかもしれない。気になるというのは、頼山陽と親交があった学者の中に、大塩平八郎(1793-1837)がいて、大塩の乱が起きたのは百助が死んで、一家が中津に移動したその翌年のことだからである。百助と大塩を結び付ける証拠は何もないようであるが、時代の雰囲気を考えるのにはいい材料ではないかと思う。福澤は大塩平八郎については何も書いていないが、行間を読むというのはそういうことではないか。

春は、ぼんやりと

3月28日(土)晴れ

春は、ぼんやりと

春は、ぼんやりとした様子で
やってきて ぼんやりと毎日を送っているから
もっと急いでとか、
もっと自信をもってとか、
もっとしっかりしろとかいわれるが、
みんなから嫌われているわけではない。

のんびりした意見をいうから
おかげでみんなの気分が和むところもある
そして穏やかな気持ちに
同調する人も少なくない

とはいうものの
反発する人もいるし
いろいろ言っても
その性格が直るわけでもないので
なかには悪く言う人もいる

それでも、こういう性分だからという言い訳で
納得してしまう人のほうが多い
春はぼんやり、のんびりしているから
春なのだと納得してしまう人のほうが多い

黒田龍之助『寄り道ふらふら外国語』(4)

3月27日(金)晴れ

 ロシア語の先生であり、スラヴ語派の言語の専門家である黒田さんの寄り道外国語の4番目の、そして最後の言語はスペイン語である。もっとも、黒田さんはスペイン語を勉強したことはまったくないらしい。

 黒田さんが通ったのは四谷にある大学で、ここの外国語学部にはイスパニア語学科というのがあり(なぜスペイン語ではなくて、イスパニア語というかについては大学のホームページに説明されている。その説明の一部が134ページに引用されているので、関心のある方はご覧ください)、黒田さんが学んだロシア語とともに授業が厳しいことで知られていて、「鬼のイスパ、地獄のロシア」といわれていたという。厳しい授業のおかげで『イスパニア語学科の学生は優秀で、語彙や文法をすいすいと身につけ、その語学力を活かして就職していくとの評判だった。/それに引き換えわがロシア語学科ときたら、厳しいわりにちっともうまくならない気がした。学生はぼやきながら、ため息をついていた。/ああ、鬼に習うと上達するけど、地獄にいても苦しむばかりだな。(136-137ページ)
 スペイン語の学生の方が上達度が早い(あるいはそういうふうに見えるだけだったのかもしれない)のは、大学の授業以外で、スペイン語に接する機会が多かったことによるのではないか。この大学はカトリック系の大学なので、スペイン語を母語とする関係者は多かっただろうと思われるし、マナンティアル書店のようなスペイン語書籍を取り扱う書店が近くにあることも好条件であったと思う。最近ではロシア人のお姉さんが多く在籍する風俗店も少なくないようだが、学生はそういう店に行かない方がいいと思うし、やはりロシア語を勉強するほうが困難は大きいようである。

 『屋根裏部屋のマリアたち』と言うフランス映画は、自分の家で働くスペイン人の家政婦が、仕事ではフランス語を話すが、仲間内ではスペイン語を話していることから、スペイン語に興味をもちだす実業家を描くもので、黒田さんはこの映画を見て、ある外国語を学ぶとともに、その他の外国語も学習することが大事ではないかと(どこか議論が飛躍しているようにも思うのだが)呼びかけている。「フランス語を勧めるスペイン語の先生や、スペイン語を勧めるフランス語の先生がたくさんいたら、外国語の世界はもっとにぎやかになるのではないか」(140ページ)。学生時代、中国語の尾崎雄二郎先生の研究室にいるところを、ロシア語の山口巌先生に見つけられ、後で、たんめん君は中国語も勉強しているのですか、いいことですねえとほめられたことについては以前に書いたことがある。実は未だに中国語もロシア語も満足にはできないのだが、山口先生の温かい言葉はずっと記憶に残っている。先生はまだ御健在であろうか。

 スペイン語の発音は簡単だという人がいるが、実際に勉強してみるとそうでもないという話。スペイン語を話す地域はどこかという簡単そうに見えて、実は難しい質問。「小さなことにも目を配りながら、自分の世界を広げていく。外国語学習は単語や文法の知識だけではないはずだ」(158ページ)。
 スペイン語とスペイン語の学習について語りながら、話はしばしば脱線する。しかしその脱線の中で、重要なことが主張されている。「「やさしい言語」とか「難しい言語」というけれど、そんな違いが本当にあるのか。調べるには自分で勉強してみるのがいちばんいい。体験もしないで、勝手なことをいってはいけないのである。/気軽に「世界一」という表現を使う人がいるが、どうもなじめない。世界についてきちんと勉強していないのに、ノリで不正確なことを吹聴するのがイヤなのだ。世界はそんなに簡単に語れるもんじゃない。主要な外国語が読めるだけで、世界を制覇したような気分になっているのは、明らかにおかしい」(169ページ)。

 勉強に行き詰まったらどうするか、旅行の際の会話で何が必要か、文法は怠け者にこそお勧めである、言葉は多義的である(道具には様々な使い方がある)ことなど、経験をもとに機知にとんだ議論が展開される。話がだんだんスペイン語からそれていくが、それはそれでいいのである。スペイン語について本格的に語るとなると、イベリア半島で話されている多の言語についての知識、ラテン語についての知識、中南米についての知識、その他さまざまな知識が必要になってくる。そういう議論はまた別の著者に期待するほうがいいだろうと思う。

 フランス語、イタリア語、ドイツ語、スペイン語というヨーロッパ大陸の主要4言語についての黒田さんの寄り道経験を語るこの書物、それぞれの言語を勉強するきっかけになるかもしれないし、手掛かりになるかもしれないし、そうでなくてただの知識を得るだけかもしれないが、何らかの意味で役に立つように読むことが望まれる。楽しく読める唐といって、それだけで終わらせるべきではなさそうである。

 このブログを始めて以来、読者の方々からいただいた拍手の数が6,000を越えました。ありがとうございます。今後ともよろしくお願いします。

『太平記』(34)

3月26日(木)晴れ

 十津川に潜伏されていた護良親王は、熊野別当の策略で身辺に危険が迫ったため、十津川を出て高野山に向かわれた。途中、芋瀬庄司、ついで玉木庄司が行く手を遮り、とくに玉木庄司の軍勢に出会ったときには、宮はすでに自害を決意され田ほどの危機に直面されたが、野長瀬兄弟の加勢によって救われた。その後、宮は吉野山に入り、城郭を構えて三千余騎の軍勢で立てこもられた。
 玉木は玉置とも書くのではないかというコメントを頂いたが、玉木庄司は奈良県吉野郡十津川村玉置にあった荘園の代官(266ページ)と脚注にあるのを書き落としていた。同じコメントに野長瀬一族の墓が和歌山県田辺市中辺路町近露にあるのを訪問したと記されていたが、この墓のことも校注者である兵藤裕己さんが270ページの脚注に書き留めている。物語に取り上げられている場所について、土地勘のある方々からのコメントを頂くと、具体的なイメージが固まってくるので、今後ともいろいろとご意見を頂きたいと思う。

 さて、第6巻に入り、第5巻の物語を引き継いで、大塔宮の母君である民部卿三位局という女性が登場する。この女性について、岩波文庫版の校注者である兵藤裕己さんは北畠師親(もろちか)の娘親子と記しているが、森茂暁『太平記の群像』(角川文庫)は「『太平記』に「民部卿三位局」として見える女性にはなぞが多い。『本朝皇胤紹運録』は民部卿三位を権大納言源(北畠)師親の娘とし、名は親子とされてきたが、これは誤り。・・・/筆者は、京都府立総合資料館所蔵(東寺旧蔵)の『天台座主記』に尊雲法親王の母として「三品藤原経子」が見えることと、日野氏系図の記載事項とによって、日野経光の娘経子ではなかろうかと推測している。もしそうだとすれば、経子は後醍醐をはるかに上回る年齢だったと考えられる。/『増鏡』によれば、民部卿三位は、はじめ亀山院に仕えて子までもうけた女房で、のち中宮禧子に仕えていた頃に後醍醐天皇の目にとまり、その子を生んだと記されている。彼女が生んだのは、護良親王(尊雲法親王)・妣子内親王などである」(森、33-34ページ)と記す。北畠家の出身と考えるか、日野家の出身と考えるか、また年齢についてもかなり出入りがありそうで、それによって解釈も大きく分かれることになる。森さんは親子説を「誤り」と断定しているが、その根拠が示されていなので、私としてはどちらとも判断を下せない。今のところは、わからないなりに、『太平記』の記述を追っていくことにしよう。

 後醍醐天皇が廃位されて隠岐に移されたことで、その後宮の女性たちの運命も変わったが、そういう女性たちの中に、先帝の寵愛が深かった民部卿三位局がいたと第6巻は語り始める。先帝後醍醐の御身の上の転変を考えるにつけても、心静まらない日々を過ごされていたが、日ごろから信仰されている北野天満宮に7日間にわたり参籠しようというご意向を、神社の社僧に打診された。神社の側としては、幕府に知られるのを、恐れないわけではないが、無情にもお断り申し上げるのもはばかれるので、拝殿の傍らにちょっとした空間を設けて、身分の低い若い女房が参籠しているような様子に見せかけておくことにした。

 民部卿三位局は、大宰府に左遷された菅原道真に、隠岐に配流された後醍醐帝の御身の上を重ねて経文を読まれていた(神様の前で仏教の経文を読むということは、神仏が混淆して信仰されていた時代には奇妙なことではなかった)が、それを暫らく中断されて、
  忘れずは神もあはれと思ひ知れ心づくしのいにしへの旅
(277ページ つらい古えの筑紫への旅をお忘れでないならば、神も先帝をお哀れみください)
という歌を詠み、さすがに疲れが出たのかしばらくまどろまれていると、夢をご覧になった。その夢の中に、衣冠を正しく身にまとった80歳余りに見える老翁が、左の手に梅の花を一枝捧げ持ち、右のてに鳩の杖をとって、苦しそうな様子で局が眠り込んでいる枕元に立った。(梅は天神=菅原道真が愛した植物である。鳩の杖というのは、頭部に鳩の形を掘った老人用の杖で、鳩は食べ物にむせないことにあやかってこのようにしたのである。確かに、年をとってくると、食べ物にむせることが多くなる。)
 局は夢心地ながら、奇怪なことであるとお考えになり「ほんの短い間でも私のもとを訪れる人がいるとは思えないような都を離れた荒れ果てた場所に、不思議にもどなたかが迷ってお立ち寄りになったのでしょうか」と老翁に問いかけられると、この老翁は何か言いたそうな様子であったが、何も言わずにいて、しばらくして帰っていった。その時に、もっていた梅の一枝を局の前に差し出した。局がそれを見ると、一首の歌が書かれていた。
  廻り来てつひにすむべき月影のしばしくもるを何嘆くらむ
(278ページ、日数がたてばやがて澄み渡る月の光が、暫く雲に隠れるのを何の嘆くことがあろう。月影が澄むと、月の都(京)に住むを掛けている。) これは先帝がまた都に戻られることを予言した歌と受け取ることができる。末法の世となっても真心の力は強く、局の参籠が天神の心を動かして、先帝の都への帰還と復位を予告させることとなった。

 前回、『太平記』の作者が大塔宮を天神=菅原道真になぞらえているという読み方を紹介したが、ここではその大塔宮の母親が北野天神に参籠するという経緯が語られている。老翁が天神様ご自身なのか、その御使いなのかなど、わからないことは多い。また、彼が何も告げずに、歌だけを残したのも、大塔宮のその後の運命を考えると意味深長である。あるいは局が菅原道真と後醍醐帝を重ね合わせて歌を詠んだのは、不適切な類推であったのかもしれない。

 物語はここまで護良親王とその周辺の出来事を追いかけてきたが、この後は楠正成の活躍に目を向けることになる。もっともすでにほのめかしたように、正成は後醍醐天皇よりも護良親王と関係が深かったとする学説もあることに留意すべきであるかもしれない。 

日記抄(3月19日~25日)

3月25日(水)晴れ

 3月19日から本日の間に経験したこと、考えたことなど:
3月19日
 NHKラジオまいにちドイツ語応用編「黒猫イクラと不思議の森」にはマレーネ・ディートリッヒが登場し、”Lili Marleen"の歌の一節が歌われた。この歌はドイツ人作曲家ノルベルト・シュルツェが1938年に作曲し、第二次世界大戦中にドイツ軍が占領したユーゴスラヴィアのベルグラードの放送局から毎晩9時57分に流された。歌っていたのは当時の人気歌手ララ・アンデルセンであり、ドイツの兵士だけでなく、英国の兵士にも親しまれるようになった。ディートリッヒは連合国軍の前線の兵士たちの慰問に従事していたが、英国の兵士たちがこの歌を愛唱しているのを知って、自分の持ち歌の一つとした。

 ドイツの生んだ国際的な映画スターであり、歌手でもあったディートリッヒはドイツ出身であったが、反ナチスの立場をとり、1939年にアメリカ国籍を取得、積極的に前線での連合国兵士の慰問に当たっていたのである。彼女の出世作である『嘆きの天使』が京都のゲーテ・インスティトゥートで上映された際に見たことがある(もう40年以上昔の話である)が、解説に当たったドイツ人の関係者が「ディートリッヒは世界一きれいなおばあちゃんになりました」と締めくくられたのが今でも印象に残っている。

 桂米朝師匠死す。私が京都大学に在学していたころ、KBSゴールデン・リクエストという番組の司会をされていたことを懐かしく思い出す。落語家としても一流であったが、落語を越えての話芸の達人であった。
 太平洋戦争を挟む時期に知識層に落語の持つ魅力と意義を知らしめた正岡容の門下で、落語家になった2人のうちの1人(もう1人は都筑道夫の兄さんで若死にした鶯春亭梅橋。この人については都筑のほかに、桂小南による回想がある)。正岡容について、金子光晴が自分の本当の友人は正岡容と佐藤惣之助の2人だけだと書いていたと記憶する。どこかの古書展で正岡の書いた下手な河童の絵を見かけて幻滅したことがある。多分、酔っ払って書きなぐったものだろう。蓮華は泥土に咲く。蓮華をとり、泥土を取るなかれ。
 現在では大学の落語研究会などを経て、本職になる落語家は少なくないが、米朝師匠は正岡の影響のもと、旧制の専門学校を卒業後桂米團治に入門された。その分、話し方に人工的な部分があったような気がする。とはいえ戦後の上方落語の苦難の時期を松鶴、春団治、文枝とともに上方落語四本柱の1人として支えてきたことについては数多くの証言がある。
 いつのことであったか、名人といわれた8代目桂文楽師匠の口利きで、4代目桂三木助襲名(もともと桂三木助は上方の名跡である)の話があったが、米朝師匠が自分は師匠からいただいた名前を大きくしたいと断ったという逸話がある。そういうことは言いたくないが、黒門町の師匠の背後には安藤鶴夫がいたかもしれず、安藤鶴夫と正岡容は犬猿の仲であったことが影響したのであろうか。いや、黒門町の師匠は三代目三遊亭円馬の薫陶を受けた落語家であり、正岡が円馬の門人の1人であったことの方を重く見るべきであろうか。とにかく、米朝師匠が米朝という名跡を大きくしたことは否定できず、そうなったらなったで、後が大変だろうなあと思っている。

3月20日
 NHKラジオまいにちドイツ語「黒猫イクラと不思議の森」ではワイマール時代のドイツ映画とその代表的な映画監督であるフリッツ・ラングについて取り上げていた。富裕層と貧困層が極端に分離された未来社会を描く『メトロポリス』については触れられていたが、もう一つの代表作であるドクトル・マブゼのシリーズについて触れられていなかったのはどういうことであろうか。
 放送でも触れられていたようにユダヤ人であるラングはナチス時代にフランスを経て、アメリカにわたったのだが、そこで監督した作品については言及がなかった。戦後、ドイツに戻ったラングはまたマブゼ博士シリーズを製作している。その週年についての言及があってもよかったように思う。なお、ジャン=リュック・ゴダールの映画『軽蔑』にフリッツ・ラングが彼自身の役柄で出演していることも記憶されてよかろう。

3月21日
 どうも風邪をひいたらしく、墓参りに出かけられそうもない。
 NHKラジオ「攻略!英語リスニング」では英国の作家ジョージ・オーウェルについて取り上げた。彼が影響を受けたといわれるスウィフトの代表作『ガリヴァ―旅行記』についてもつい最近、この番組で取り上げていた。オーウェルの伝記と作品について解説した中で、彼がスペイン市民戦争に従軍したこと、その経験をもとに『カタロニア賛歌』を書いたことについては触れられていなかった。何から何まで紹介するのは難しいのかもしれないが、スペイン市民戦争が同時代の欧米の多くの人々の関心の焦点であった出来事だけに、省かれているのは残念である。

3月22日
 依然として風邪はよくならず。

3月23日
 NHKラジオ「ワンポイントニュースで英会話」は東京都が2020年のオリンピック・パラリンピックに向けて都内の飲食店が日本語以外の言語を使用する顧客の要求に対応できるよう多言語のメニューの見本を作ったと報道していた。調べたところでは、英語、韓国語、中国語、ドイツ語、フランス語、イタリア語、スペイン語、タイ語、インドネシア語、ベトナム語、アラビア語で料理名が記載されているらしい。さらに言語を増やす必要もあるだろうし、料理の名前だけがわかればそれでいいというわけでもなく、イスラム教徒の場合など料理の材料(豚肉が入っているかどうかということなど)が気になることも多いと思うので、さらに改善工夫を重ねることが望まれる。これはあくまでそのための一歩と考えるべきであろう。

3月24日
 風邪がどうやらおさまってきたので、やっと墓詣りに出かけた。春のお彼岸は今日までのはずだが、お寺の方はもう店じまい?をしていた。

 墓参りを済ませて、神保町シアターで「横溝正史と謎解き映画の快楽」特集上映のうち、『三つ首塔』と『七つの顔』を見る。前者は金田一耕助、後者は多羅尾伴内が主人公であるが、ともに片岡千恵蔵主演。貫録十分ではあるが、十分すぎるかもしれない。後者は戦災を免れた京都市街地でロケーション撮影されたらしい場面が多く、そのことが目を引き、さらに自動車による追跡シーンなどはよく頑張っているなと思う。『三つ首塔』で遺産相続人になる中原ひとみ(中原早苗と野添ひとみという同じような名前の女優さんがいるので紛らわしい)の可憐さ、金田一探偵の助手を演じている高千穂ひづるの大人の女性の魅力、『七つの顔』の轟夕起子の美しさなども見どころである。轟というと、裕次郎・芦川いづみの『あいつと私』の裕次郎の母親役で、昔の恋人(裕次郎の実の父)である滝沢修が「君のお母さんはむかしは窈窕たる美女だった」というセリフが忘れられないのだが、その「窈窕たる美女」の面影が『七つの顔』には残されている。宝塚出身という片鱗を見せるべく、歌を歌うシーンが少なくないのだが、録音が悪いのが残念。

 NHKラジオ「入門ビジネス英語」の関谷英里子講師の担当分の放送が終わる。もっともこれは再放送である。これまでのところでは関谷さんの元気のいい話し方がなかなか魅力的であったが、新年度からは新しい講師の担当になるので、どんな放送になるだろうか。

3月24日
 NHKラジオまいにちドイツ語の入門編、フランス語、イタリア語のそれぞれ初級編の放送が一区切りを迎えた。それぞれの言語について初級から中級への前進をどのようにして実現していくかが課題となるところである。4月からはドイツ語を中断、フランス語に重点を置くことにしたい。その一方で、ラテン語の勉強を本格的に再開(これは参考書を使っての独習である)、息抜きとしてイタリア語を続けるほか、アラビア語も手掛けてみる(これで3度目かな)つもりである。新たにテレビ番組の視聴を心掛ける代わりに、全体として放送番組を視聴する時間は減らして、本を読んだり、インターネットを検索する時間を増やすつもりだが、果たしてどうなるだろうか。
 

三浦しをん『舟を編む』

3月24日(火)晴れ

 三浦しをん『舟を編む』(光文社文庫)を読み終える。光文社から出ている雑誌Classyの2009年11月号から2011年7月号にかけて連載され、その後2011年に同社から刊行され、映画化もされた作品であるが、見ようと思っていた映画を見逃がし、やっと文庫本になったのを読んだ次第で、あまり自慢できるつき合い方ではない。すでにご承知の方も多いと思うが、この小説は国語辞書の作成過程を題材にしており、そのことで興味を持ってきたのである。以前から書いているとおり、私は国語辞書よりも英和辞書の方に興味があるという人ではあるのだが、国語辞書にもそこそこの興味は持っているのである。

 大手総合出版社の玄武書房に務める荒木公平は辞書作りに生涯をささげたいと思って入社、37年間この道一筋に仕事をしてきた。辞書編集に情熱を傾けている学者の松本先生と二人三脚で多くの辞書を世に送り出してきたが、間もなく定年で退職という時期を迎えた。もう1人の辞書編集部員である若い西岡はどうも頼りにならない。何とか自分の仕事を引き継いでくれる部員を確保したい。それが社員として最後の仕事だと考えた。辞書編集部員としてうってつけの人材がいるという情報を持ってきたのはフットワークが取り柄の西岡である。

 その社員――馬締(まじめ)は名前通りの変わり者で、言葉についての感覚が鋭く、また物事を整理する才能に長けている。ただ、どうも頓珍漢なところがあり、それまで社内での影は薄かった。荒木、それに松本は、馬締の潜在的な能力に注目し、新しい辞書『大渡海』の企画を進行させようとする。

 物語は、名前通りまじめで、あまり世慣れないが、辞書編纂への適性をもっている馬締光也が、辞書編集者として成長していく過程を、10年以上の年月をかけて国語辞書『大渡海』がやっと出版される過程に重ねて描くものである。その過程で、辞書作りの様々な作業や工程が描きだされ、日ごろ何気なく使っている辞書の裏側にある努力を覗かせてくれる。

 馬締は早雲荘という下宿屋の1階に住んでいるのだが、その住人は彼1人になっていて、大家さんであるタケおばあさんと飼い猫のトラとの暮らしが続いている。もともと他の住人達が住んでいた1階の他の部屋は、すべて馬締の蔵書で埋め尽くされているという本好きである。ところが、タケおばあさんの一人暮らしを心配した、板前修業中の孫の香具矢(かぐや)が上京して同居することになったので、馬締が落ち着かなくなる。

 もともと雑誌連載小説であったためか、登場人物が入れ替わったりして、物語は一区切り、一区切りずつ進んでいく。それほど大きな波乱はないのに、どんどん先を読みたくなるのは、あまり器用とは言えないが、一つのことに一生懸命取り組んでいる人々への作者の温かいまなざしへの共感に加えて、やはり辞書作りの舞台裏への興味からであろうか。もう一つ感じられるのは、三浦しをんさんの作品にはどこか隠れ里的な場が設けられていることである。この作品では、馬締は早雲荘という隠れ里的な下宿屋に住み、職場である辞書編纂部は玄武書房の本館に比べると別世界のような場所であり、そのことがこの作品の人間的な温かみを支えているようにも思われる。

 ただ一つだけ気になったのは、終わり近くにある松本先生の台詞「『オックスフォード英語大辞典』や『康煕字典』を例に挙げるまでもなく、海外では自国の辞書を、国王の勅許で設立された大学や、ときの権力者が主導して編纂することが多いです」(281‐282ページ)で、『オックスフォード英語大辞典』と『康煕字典』の編集過程を同一視できるのかとか、時の権力者が主導して編纂することが多いですと言い切れるのかとか、それぞれについていろいろと反証を考えているところである。

ダンテ・アリギエリ『神曲 地獄篇』(29)

3月23日(月)晴れ後曇り、夕方になって小雨が降りだす

 第28歌ではダンテとウェルギリウスが地獄の第8圏第9巣窟で出会った分裂先導者たちが、その罪のゆえに身体を切り裂かれる罰を受けている姿を描いていた。第29歌は、その異様な姿に茫然とするダンテの様子を描くことから始まる。

無数の人々の異様な傷の数々に心を奪われて
私は目をあまりに赤く泣きはらし、
ただただ涙を流し続けていた。
(424ページ) しかしウェルギリウスは
すでに月は我らの足の下に沈んでいる。
我らに許された時はもはやわずかなのだ。
それなのにまだ見ておらぬ、みるべきものはさらにある。
(424-425ページ)と先を急ごうとする。

 ダンテが立ち止まろうとしたのは、ここで罰を受けている罪人たちの中に自分の親族がいるのではないかと思ったからであるが、ウェルギリウスはダンテの探す人物が自分がそれによって死に至った暴力的な事件への報復を促そうとすることを察して、会わせなかったのだと説明する。ここでダンテは、当時の都市で有力な一族が暴力的な抗争を繰り返していたことを批判しているのである。

 そして2人は第8圏の最後の巣窟である第10巣窟に差し掛かる。
無数の異様な嘆きが私を射抜いた。
その矢は哀れみの矢尻を尖らせていたため、
私は両手で両耳を塞いだ。
(428ページ) 罪人たちは暗黒の中で病苦に苦しみ、彼らの体からは悪臭が漂っていた。
とぼとぼと言葉もなく私達は進んでいった。
耳をそばだてて病人たちを見つめ続けた。
その者どもは己の体を起こすことさえできずにいた。
(430ページ)

 ここで罰を受けているのは偽造者であり、第29歌で主に描かれているのは錬金術師=黄金の偽造者たちである。翻訳者の原さんは次のように解説している。「商業を基盤とする社会には、交換の道具となる金銭の原料である貴金属の信頼性が必要不可欠である。それゆえダンテは、社会生活の基盤を揺るがす偽造に厳しい態度をとり、彼らを病に倒れ、身動きできない姿で描く。錬金術師は黄金がハンセン病にかかり鉛に変じるという当時の思想に従い、ハンセン病患者の姿で描かれている」(601-602ページ)。伝染病に対する偏見は彼の時代の思想の反映であるとはいえ、ダンテの思想の限界が感じられるが、その一方で健全な市場経済の発展を望んでいることにも注目すべきであろう。

 ダンテは2人のイタリア人の錬金術師を見出し、それぞれの生前の悪行についての話を聞く。当時、政治家になるためには何らかの職業組合(ギルド)に入る必要があり、ダンテは医者・薬剤師組合に入ったという説がある。そのために彼は化学を学んだといわれるが、その際の仲間であったカポッキオは1293年にシエナで「化学(錬金術)」を行った罪で火刑に処せられた。2人のイタリア人のうちの1人は次のように言う。
そうすれば私がカポッキオの影であると分かるはずだ。
化学で金属を偽造したものである。
そしておまえは思い出すことになる。私がおまえの正体を見抜いているならば、

私がどれほど素晴らしく自然をまねる猿だったかを。
(436-437ページ) たしかに、カポッキオはダンテと面識があるような話し方をしているが、かれとダンテとの関係については十分にはわからない部分もあるようである。

織田作之助「木の都」(2)

3月22日(日)曇り後晴れ

 大阪の上町と呼ばれる高台の上で生まれ育った語り手は、京都の高校に進学したうえに、その後父母が死んだため、故郷であるこの一帯とは無縁であったが、ある日、区役所に用事ができて、口縄坂を登って自分の生まれ育った町へと戻ることになる。

 少年時代によく利用した本屋が名曲堂というレコード店に変わっているのを見ていた語り手は、まだ区役所に出頭するには時間があるので、店に入ってみることにした。店の主人は、もともとあった本屋の主人とは別人であったが、どこかで顔を見たような気がしてならなかった。何枚かレコードを買って出ようとすると雨が降りだしてきた。主人は語り手が腕時計を見ているので、お急ぎでしたらといって傘を貸してくれた。区役所で用事を済ませて市電に乗ろうとして傘を畳んだ時に、傘に矢野という名が書いてあるのを見つけて、レコード屋の主人が何者であったかを思い出す。

 京都の学生街である吉田に矢野精養軒という洋食屋があった。レコード屋の主人はこの洋食屋の主人と同一人物であったのである。「ポークソテーが店の自慢になっていたが、ほかの料理もみんな美味く、ことに野菜は全部酢漬けで、セロリーはいつもただで食べさせてくれ、なお、毎月新譜のレコードを購入して聴かせていた」(340ページ)。傘を返しに出かけたときにその話をすると、主人のほうでも語り手のことを記憶していて、そのことから自分の身の上話をする。もともと長く船に乗っていて、最後はコックをしていたが、40歳の時に船を降りて洋食屋を始めた。しかし料理の腕に自信があるあまり、商売を考えずに店を続けたために損を重ねて、店はつぶれてしまった。それで家賃の安い場所を探して大阪に移ってきたが、買いためたレコードが残っていたので、この商売を始めたのだという。

 店主には女学校を卒業して今は北浜の会社に勤めている姉と、今度中学校を受験する弟の2人の子どもがいる。弟は無口な性分で、はたして中学校の口頭試問をうまく切り抜けるかと店主は心配している。
「帰ろうとすると、また雨であった。なんだか雨男になったみたいです名と私は苦笑して、返すために持って行った傘をそのまままた借りて帰ったが、その傘を再び返しに行くことはつまりはその町を訪れることになるわけで、傘が取り持つ縁だと私はひとり笑った、そしてあえて因縁をいうならば、たまたま名曲堂が私の故郷の町にあったということは、つまり私の第二の青春の町であった京都の吉田が第一の青春の町へ移ってきて重なり合ったことになるわけだと、この二重写しで写された遠い数々の青春にいま濡れる想いで、雨の口縄坂を降りて行った」(342ページ)。

 長編小説であれば、ここで語り手の少年時代、あるいは高校時代の出来事が回想されることになるのだろうが、語り手はなぜか、この店主が自分の子どもたち、とくに息子に注ぐ愛情の方に関心を寄せていくのである。それは語り手と、すでにこの世を去ってしまった彼の父母との関係を暗示しているのかもしれない。語り手は、新坊と呼ばれる無口で人見知りが強い少年に好意をもっている。あるいは昔の自分に似た何者かを感じているのかもしれない。ところが新坊は中学校の受験に失敗してしまう。この時代、義務教育は小学校の6年間だけだったが、中学校への進学率はかなり高かったはずであるし、高等小学校に進んで、中学校を受験しなおすということもできた。語り手が来年もう一度受けるという手もありますよというのはそういうことである。しかし、父親は彼に学問をあきらめさせて新聞配達を始めさせる。「子供のころから身体を責めて働く癖をつけとけば、きっとましな人間になるだろうというのであった」(43ページ)。(なお、厳密に言うと1941年から小学校は国民学校と改称されていて、この作品が発表された1944年から義務教育は8年に延長されるはずだったのだが、戦局が重大化したためにその実施は延期されることになっていた。が、教育制度をめぐるそのような動きは、庶民の生活にはあまり関係がなかったことがこの小説を読んでいるとわかるのである。)

 語り手はしばしば店を訪れるようになり、新坊が新聞配達を終えて帰ってくるのを見かける。「新坊が帰って来ると私はいつもレコードを止めて貰って、主人が奥の新坊に風呂へ行って来いとか、菓子の配給があったから食べろとか声を掛ける隙をつくるようにした。奥ではうんと一言返辞があるだけだったが、父子の愛情が通う温さに私はあまくしびれて、それは音楽以上だった」(343-344ページ)。語り手が抱いているらしい孤独感や失意がこの父子を見ていることで癒されているようである。

 いろいろな事情で暫く名曲堂に出かけなかった語り手であるが、7月9日の生国魂の夏祭りに出かけようと思いたち、祭の夜店で新坊に何か買ってやろうと、店を訊ねると、彼はつい最近名古屋の工場に徴用されて今はそこの寄宿舎にいるという。それからまた、店を訪問することなく過ごしていると、名曲堂からはがきが来て、お探しのレコードが手に入ったから来店してほしいという。そのレコードは京都時代に自分の下宿を何度も訪れていた女性との思い出のあるものである。「本来が青春と無縁であり得ない文学の仕事をしながら、その仕事に終われてかえってかつての自分の青春を暫らく忘れていた私は、その名曲堂からの葉書を見て、にわかになつかしく、久しぶりに口縄坂を登った」(345ページ)。

 ところが店についてみると、娘さんが一人で店番をしているだけで、新坊が実家を懐かしがって、工場に無断で戻ってきてしまったのに、父親が承服せず、そのまま家に泊めずに、夜行列車に乗って名古屋まで送り届けたという。しかしそのように一見非常に見える父親の愛情を語りては感じる。「主人は送って行く汽車の中で食べさせるのだと、昔取った包丁によりをかけて自分で弁当を作ったという」(346ページ)。

 不器用なりに一生懸命生きてきた父親は、息子をできるだけ早く自立させようと突き放すのだが、未熟な息子はその父親の愛情を理解できず、ただただ甘えたがる。その行き違いが繰り返される。しかも自分で自分を守る逞しさがなければ生き残れないような戦時下のことである。父親の愛情も十分に理解できるが、語り手が息子に対してかなり無条件に肯定しようとしているのもよく分かる。それは戦時下というご時世に対する消極的な抵抗であるのかもしれないからである。

 何度言い聞かせても、何度送り返しても、息子が戻ってくるので、店主は店を閉めて、娘とともに名古屋に移住することにする。ちょっと喜劇的にも思われる結末であるが、語り手にとってはこの一家と別れるのは残念なことであった。自分の少年時代、高校時代の思い出が断ち切られたような気持がするからである。「口縄坂は寒々と木が枯れて、白い風が走っていた。わたしは石段を降りて行きながら、もうこの坂を上り下りすることも当分あるまいと思った。青春の回想の甘さは終り、新しい現実が私に向き直って来たように思われた。風は木の梢に激しく突っかかっていた」(348ページ)とこの小説は結ばれている。

 語り手の思い出が語られているように見えるが、むしろ語り手が出会ったある一家の運命の方に話の重点が置かれている。父子の愛情の行き違いの過程がたんたんと記され、それが父親のほうの思いがけない譲歩で結末を迎えることになる。客観的に見れば、父親の息子への愛情を称賛すべきであろうが、語り手はどうもそういう気分にならないでいる。作者がいて、語り手がいて、語り手が出会う一家がいて、その一家を見つめる町の人々がいる。スケッチ風の作品と受け取れるかもしれないが、作者の意図しているところはもっと複雑であるように思われる。 

吉田健一『汽車旅の酒』

3月21日(土)曇り

 吉田健一『汽車旅の酒』(中公文庫)を読み終える。吉田健一(1912-1977)の鉄道旅行とそれにまつわる酒・食のエッセイを独自に編集し、短編小説2編「東北本線」「道端」、吉田とその師である河上徹太郎が毎年出かけていた金沢→灘という旅行に随行していた観世栄夫による解説的な回想「金沢でのこと」を収録したちょっと贅沢な文庫本である。昨年、吉田についての研究書(大部であり、高価なので残念ながら求めていない)を出版した長谷川郁夫さんがさらに解説を書いている。至れり尽くせりである。

 吉田は日本の戦後の復興と国際的な地位の回復に尽力した吉田茂の長男であり、父親が外交官であった関係から若いころから海外での経験を積んだが、文学を志してケンブリッジ大学を中退、英語、フランス語に堪能であることからと翻訳、評論、創作と多岐にわたって文学活動を展開した。おやじさんが首相をしている時に、息子は闇屋や乞食のまねごとをしたというのは一種のパフォーマンスであろうが、父親とは何かとそりが合わなかった。

 とはいうものの、親子二代にわたり(吉田の岳父である牧野伸顕まで入れれば三代にわたり)英国びいきであった。ただ、父親の茂が英国の工業化の進展や道路の整備に目を奪われたのに対し(そういうことでは現代の日本は英国を追い抜いている)、息子の健一は英国の文化や生活の豊かさ(日本にも独自の豊かさはあるが、この点ではまだまだ学ぶべき点は少なくない)に関心をもったようである。父親は外交官として英国人と表面的な付き合いしかしていなかったのに対し、息子の方は友達付き合いから相手の本音にかなり迫ったということかもしれない。同じものを眺めながら、その表の方を見るか、より中に立ち入ってみるかという違いが感じられる。それが世代差ということかもしれない。

 吉田が生活に窮乏したと言いふらし、闇屋や乞食のまねごとをしたことは既に書いたが、これは一種の贅沢貧乏、めざしと沢庵で頑張れば十分やっていけるところを、ステーキを焼いて食べていたから金がなくなったというようなことらしい。ただし、金のかかる、高いものだけを好んで食べていたということではないようである。「道草」というエッセーでは駅の構内の立ち食い蕎麦を食べる楽しみについて、あるいはスタンドの生ビールを飲む楽しみについて触れている。食べて(飲んで)いるうちに列車が発車しないかというスリルを味わい、さらに食べ(飲み)終わってまだ時間があることがわかったときの楽しさを語る。どうも吉田は時間をぜいたくに使いたがっているように思われる。同じエッセーの中で「どうも、道草をして、旅に出ている気分になるには、飲んだり、食べたりに限るようである」(27ページ)と書いている。さらに、「老後」の楽しみについて予想するエッセーの中で、「酒というものは時をたたせるのに適している」(148ページ)、「酒の次に旅というものがあることになる」(149ページ)と書いていて、酒を飲むこと、旅に出ることが吉田にとって時間を過ごすための最良の方策であったことが知られる。米どころの新潟、山形を旅しながら、酒ばかり飲んでいたためにほとんど米の飯を食べなかったことを残念がって、今度出かけるときは米の飯を食おうと思うのだが、一向に実現しないなどと書いて、それでも少しは食べたと書き添えている(「東北の食べ物」)のは御愛嬌である。吉田が旅先でどのように時間を過ごしていたかについては観世の一文が詳しい。

 そうは言いながら、「日本料理は世界で一番うまいという説をどこかで読んだことがあって、もちろん、これは愚劣である」(「駅弁のうまさについて」、125ページ)とも語る。新鮮な素材がふんだんに得られる日本で発達した料理と、そういう材料の入手が困難なフランスの料理とでは手の掛け方が違う。さらに料理の背後にある文化の違いも考えなければならないと、単純な優劣の比較を戒めている。現在の日本では食材の入手が全く違ってきているから、話はもっと複雑になるかもしれない。その割には単純な比較が行われ過ぎているようにも思われる。吉田がこの現状をどのように考えるか、知りたいものである。

 短編小説「東北本線」で主人公が列車の中で出会う見知らぬ大男はギリシアの話をして、「あの海が葡萄酒の色になるのは夕日に染められてなんですよ」(168ページ)と、ホメーロスの叙事詩の中の海の描写について、自己の見聞をもとに意見を述べる。その見聞はおそらく吉田自身のものであったのだが、時間つぶしの旅行がもたらす見聞がどのような知恵を人間の身につけさせるかを語っているようにも思われる。

 国内旅行も国際旅行も高速化しただけでなく、吉田が書いているように旅に出てしまえば仕事は追いかけてこないのではなくて、通信網の整備により作家は旅先でも原稿を書かなければならないようになってしまった。長距離列車の食堂車は姿をけし、寝台車もまれになった。駅弁の販売の形も様変わりしている。吉田が愛したような時間の過ごし方はますます難しくなっているのだが、それだけにこの本に収められた文章の魅力は増しているのではなかろうか。 

杉山正明『露伴の『運命』とその彼方』

3月20日(金)曇り

 3月19日、杉山正明『露伴の『運命』とその彼方』(平凡社)を読み終える。「歴史屋のたわごと」と題された「歴史語り」シリーズの第2弾。

 幸田露伴が1919(大正8)年に発表した『運命』は中国の明時代の初期、太祖洪武帝の帝位をついだその孫の建文帝に対し、燕王(後の世祖永楽帝)が反乱を起こし、帝位を奪うという内乱=靖難の変)を描く。帝都である南京が落城した際に、建文帝は宮中で自殺せずに僧侶に身をやつして脱出、天寿を全うしたのみならず、その晩年には宮中に復帰したという伝説を取り上げたもので、建文帝の生存が歴史的な事実か否かと関連して、小説か史伝かと議論が続いている一方で、この書物に引用されている谷崎潤一郎の発言のように「まさに小説以上の小説、小説にして叙事詩を兼ね、史伝を兼ねてゐるもの」(13ページ)として、文学的に高く評価されてきた。その一方で歴史学の立場からも無視できない書物と評価する学者がいる。その代表格が旧制新潟高校、戦後は新潟大学で教えていた植村清二であり、この作品が最後の方で中央アジアを拠点にその勢力範囲を広げたティムール(タメルラン)について触れ、彼が明の討伐をくわだてていたこと、そのことと関連して、傅安とシルトベルゲルという東西交渉史上重要な役割を演じた2人の人物についても言及していることを高く評価している。つまり、『運命』は中国の出来事を描くと見せて、実はその背景として中国と中央アジア、さらにはユーラシア全域の歴史的な動きをその視野に入れているというのである。

 杉山さんのこの書物は、歴史家として植村のこの評価を継承し、ティムールによる征服戦争が14世紀末から15世紀にかけてのユーラシアの各地域に及ぼした影響を探り出す。1402年にティムールはアンゴラの戦いにおいて、当時勢力を拡大しつつあったオスマン・トルコのバヤジトⅠ世と戦い、勝利を収めてバヤジトを捕虜とする。このためにオスマン・トルコは11年間にわたる空位期間、事実上の滅亡状態に陥ることになる。この知らせを受けてイベリア半島の新興国カスティーリャ王国の青年王エンリケⅢ世はティムールのもとに2人の下級貴族を派遣、彼らが使命を果たしてティムールからの使者を伴って帰国したことから、側近であるクラビーホのルイ・ゴンザレス(と、杉山さんは書いているが、スペイン語の発音ではゴンサレスになるのではないか)らをティムールのもとに派遣、この使節団による見聞が『ティムール帝国紀行』として今に残っている。

 ティムールによる版図拡大は、オスマン・トルコだけでなく、エジプトを本拠とするマムルーク朝との対立ももたらしたが、この際に「かたや世界史上でも屈指の驍勇にして恐るべき征服王といっていいティムールと、かたや人類史上でも突出した歴史家にして思想家・文明史家というべきイブン・ハルドゥーンのふたり」(68ページ)が会見するという出来事があり、この経緯がハルドゥーンによって書きとめられることになる。

 さらにティムールはフランス王シャルルⅥ世に対して書簡を送り、その第1書簡は現在も国立図書館に所蔵されているが、アラビア文字ペルシャ語で書かれている。書簡を受け取ったときの当時のフランス宮廷の反応については記録が残っていないが、時を隔てて19世紀になって、当時のフランスの指導的な東洋学者であったアントワーヌ・イサーク・シルヴェストル・ドゥ・サシが研究して、論文を発表する(杉山さんも触れているが、サシはエジプト象形文字の解読者として知られるシャンポリオンの師である)。

 ヨーロッパ諸国に対しては友好的な姿勢も見せたティムールであったが、明に対しては挑戦的で、1404年に老齢を押して遠征軍を組織する。しかしその途中で死去し、ティムールと永楽帝とが対決することはなかった。しかし永楽帝は都を北京に移しただけでなく、北方への遠征を繰り返し、モンゴリアの楡木川(ゆぼくせん)で不慮の死を遂げることになる。「主人公ふたりのあいつぐ死もあり、ユーラシア東西二大勢力による正面激突の図式は、ついに実現することはなかった」(196ページ)。

 この後の世界では一方で火薬と火器の普及、他方で大航海時代の到来により、遊牧騎馬軍団が世界を暴れまわる時代は終わることになる。そのような陸上騎馬戦力による征服戦争を成功させた最後の人物がティムールであったといえる。「ティムールは、まさに「時代」というものをきわめて大きなスケールで回した人物であった」(200ページ)。
 
 杉山さんはこの時代の寒冷な気象や疫病の影響などグローバルな天変地異も視野に入れながら、歴史学研究が中国史、西洋史などといった枠に閉じこもって相互の影響関係に関心を向けないことを批判し、独特の語りを展開している。この点は露伴の、また植村の衣鉢を継ぐものであるといえよう。靖難の変は実は日本とも無関係ではなく、露伴はそのことを含めて『運命』を書いているので、未読の方は是非目を通してほしい。本当のことを言うと、私は若いころに勢いに任せて『運命』を読んだことはあるが、年をとってくると露伴の格調の高い文語文がうっとうしくなってなかなか読めないでいる。何事も勢いというのは大事であるのかもしれない。

 杉山さんは歴史学者としての立場から『運命』を出発点としてユーラシア大陸の東西交流史の一局面を語って見せたが、『運命』はいろいろな読み方のできる作品である。私としては文学史・比較文学的な興味から読んでみたいと思うのだが、すでに書いたように、どうもこの作品を読むのが億劫になっていて、口で言うだけに終わる可能性が大きいとあらかじめ言い訳をしておく。

『太平記』(33)

3月19日(木)曇り後雨が降ったりやんだり

 身辺が安全とはいえなくなってきたために、十津川を出て高野山に向かおうとした大塔宮一行は芋瀬庄司に行く手を阻まれたものの、側近の僧侶や武士たちの働きで切り抜けた。ついで、中津川の峠で玉木庄司の軍勢に襲われ、宮はすでに自害を決意されるという危機に陥った。

 押し寄せてくる玉木の兵は700人余り、迎え撃とうと32人が坂を駆け下りてゆく。坂を登りながら攻め寄せる兵たちは楯を撞き並べて頭上にかざして相手の武器を防ごうとし、坂の上を駆け下りながら迎え撃つ兵たちは太刀やなぎなたで上から相手を攻撃しようとする。両者がいよいよ接近して、いざ交戦という時に、北の山の方から6,700人の兵が赤い旗を立てて駆け寄ってきた。彼らは3手に分かれて、玉木庄司の軍勢に戦いを挑もうとする。

 新たに押し寄せた軍勢の先頭に立つ武者が大声で名乗りをあげるところによると、紀伊の国の住人、野長瀬六郎と七郎の兄弟で、3,000騎の部下を引き連れて大塔宮を迎えに参ったという。玉木庄司に向かい、「ただいま滅ぶべき武家の運命に随つて、即時に運を開かせ給ふべき親王に敵対申しては、一転の間、いづれのところにか身を置かんと思ふ。天罰これを行はんこと、われらが一戦の中にあり」(270-271ページ、間もなく滅ぶはずの幕府の運命に従って、すぐにもご運を開くことになる親王に敵対するというのでは、天下のどこに身を置こうと思うのか。この一戦で既に天罰が下ることになるだろう。)といい放って、攻め寄せる。これを見て、玉木庄司の率いる500騎あまりは、形成が悪いと思って四方八方に散らばって逃げてゆく。

 その後、大塔宮が野長瀬兄弟に向かい、危ないところを助けに来てくれて、まだまだ自分が運に見放されていないことがわかった。しかしなぜ、おまえ達は味方に駆けつけたのかとお尋ねになると、兄弟は、昨日の夕方に、14,5歳ばかりの童子が自分の名前は老松であると名乗りながら、大塔宮が明日十津川を出発されて、小原へおいでなされようとするが、途中必ず妨害に会われるだろう。味方しようとするものは、急いで迎えに参れと触れ回ったのを聞いて、これは宮様の御使いであると思い、はせ参じた次第であると申し上げる。

 大塔宮は、これは人智の及ばぬことであると気付かれ、日ごろ肌身は出さず身につけられているお守りを見ると、口が少し空いているので、不思議なことだとお思いになって、あけて御覧になると、北野天神の神体を金銅で鋳造したものの中で、その眷属神(従者の神)である老松明神の像の体中に汗が滴り、足に泥がついているのが見えた。それで、日ごろ信仰されていた北野天神がその従者の神である老松明神を使いとして、援軍を呼び寄せたのだと気付かれ、「佳運神慮に叶へり。逆徒の退治、何の疑ひかあるべき」(272ページ、われらの幸運は神のおぼしめしにかなっている。逆徒の退治が成功するのは、疑いのないことである)と自信をもたれた。

 それから宮は槇野上野房聖賢が拵えた槇城に入られるが、どうも地理的な条件が悪いうえに狭いとして、吉野の僧兵たちを味方に引き入れたうえで、安禅寺蔵王堂に3,000余騎の兵を集めて立てこもられた。当初は高野山を目指されていたはずであるが、還俗されたとはいえ、天台座主までされた方が、真言宗の本山を頼るというのは筋が通らないと思われたためであろうか。このあたりの事情を『太平記』の作者は語っていない。

 八木聖弥『太平記的世界の研究』(思文閣出版、1999)によると、『太平記』の作者は後醍醐天皇=醍醐天皇、菅原道真=護良親王、藤原時平=足利尊氏という構想をもって、この物語を執筆しているという。だとすれば、天神の眷属神が護良親王を助けるというのはごく当然の成り行きということになる。

 『太平記』5巻はこれで終わり、次回より第6巻に入る。一旦は鎮圧されたかに見えた倒幕の動きであるが、わずかながらその勢いを増し始めてきているようにも思われる。さて、どのような展開が待っているだろうか。

日記抄(3月12日~3月18日)

3月18日(水)曇り

 3月12日から本日の間に経験したこと、考えたことなど:
3月12日
 NHKラジオ「まいにちドイツ語」応用編『黒猫イクラと不思議の森』にはエリーザベト・マリー・フォン・エースタライヒが登場した。皇帝フランツ・ヨーゼフと皇妃エリーザベト(シッシー)の孫、帝国皇太子ルドルフとベルギー王女シュテファニーの一人娘として生まれた彼女は、祖母の暗殺、父親の死という不幸な事件を経験して育った。17歳の時に、10歳年上のオットー・ヴィンディッシュ=グレーツ伯爵と舞踏会で知り合い、恋に落ちたが、皇帝フランツ・ヨーゼフは両家の格式の違いを理由に反対、結局、彼女が帝位継承権を放棄することを条件に結婚することができた。ところが第一次世界大戦中に結婚生活が破たんし、1919年に離婚調停が始まる。その過程で知り合ったオーストリア社会民主党の政治家レオポルト・ペツネックと恋に落ち、やがて社会民主党に入党して「赤い皇女(Die rote Erzherzogin)」と呼ばれるようになった。その後、1934年の社会民主党の非合法化と、1938年から1945年のナチスによるオーストリア併合という苦しい時代を2人は乗り越え、1948年にエリーザベトの離婚が裁判所によって認められると、2人は結婚した。エリーザベトは社会民主党員としてその生涯を終え、遺言により財産は国家に「戻され」たが、彼女がヴィンディッシュ=グレーツ伯爵との間に儲けた子どもたちは、彼女に親権があったにもかかわらず、ヨーロッパの旧貴族としてその生涯を送ったようである。

 NHKラジオ「まいにちイタリア語」応用編「雛祭り」を取り上げた。1週間早く放送してもよかったのではないかと思う。Le bambole che si espongono durante lo hina matsuri si chiamano hina ningyô e i loro vestiti imitano i costumi dell'aristocrazia Heian.Non sono però riproduzioni fedeli dello stile di epoca Heian: i capelli sono acconciati in una forma in uso in epoca Edo. (雛祭りで飾られる人形を「雛人形」と呼びます。雛人形の衣装は平安貴族の装束を模しています。ただし平安時代の様式を忠実に再現したわけではなく、髪型は江戸時代に完成された形に結い上げられています。
 最近の若い女性が和装する場合、髪型はそのままにしている例が多いように思われる。バブル経済の時代には、東証の大発会の前など、証券会社の女性社員が早朝から美容院を予約して日本髪姿で出かけるという話がよく聞かれた。そういうふうにして、風俗は変わっていくのかなと思う。

3月13日
 NHKラジオ「実践ビジネス英語」の”Graffiti Corner"に出てきた表現。
As I said before, I never repeat myself.
(前に言ったように、私は決して同じことを繰り返して言わない。)
「言ってるじゃないか!」と突っ込む人がいる一方で、以前に言ったことを忘れてしまっている人もいるのが現実であろう。

3月14日
 NHKラジオ「攻略!英語リスニング」ではポロを取り上げた。4人1組で1チームとなり、馬に乗って木(プラスティック)の球をマレットと呼ばれる木槌で打って、相手のゴールに入れるというスポーツである。スティーヴ・マックィーンとフェイ・ダナウェイが主演した『華麗なる賭け』の中でマックィーンがポロをやっている場面があったと記憶する。
It's actually quite exciting to watch. (実は見ていてかなり燃えるスポーツなんだぜ。)
 講師の柴原さんは「イギリスに滞在していた時にしみじみと感じたのは、階級社会が今も残っていて、スポーツの好みなども階層ごとに明確に分かれている、ということです」と書いているが、そういう意味でポロは上流階級のスポーツであろう。
 そういえば昔、大リーグ野球のジャイアンツがニューヨークに本拠地を置いていたころに使用していたのがポロ・グラウンドで、もともとポロの競技場として使われていたところだったとのことである。ヤンキーズ、ジャイアンツ、ドジャーズという3つの球団がニューヨークにあったころのファン層は、ヤンキーズがミドル・クラス、ジャイアンツがローワー・ミドル・クラス、ドジャーズがローワー・クラスと階級的に分けられていたという。スポーツの好みと社会階層の関係といってもなかなか複雑である。

3月15日
 NHKラジオの朗読の時間の再放送で菊池寛の「蘭学事始」を聞く。この作品についてはまた書くこともあるだろうと思うが、最近、前野良沢について考えていることがあるので、ちょっと書いておく。良沢がオランダ語の勉強に熱中して本業である医師の仕事を顧みないので、同僚である中津藩の藩医たちが藩主の奥平昌鹿に文句を言いに行った。すると、昌鹿が「捨て置け、彼奴はオランダの化け物じゃ。お前たちが医業に務めるのは職務であるが、良沢がオランダ語を勉強するのも仕事のうちであるぞ」というようなことを言って良沢をかばった。それだけでなく、オランダ遊学を援助したり、オランダの書物を買い与えたりした。このことを誉れとして良沢は蘭化(オランダのばけもの)と号した。この話は森銑三の『オランダ正月』で読んだという記憶があるが、定かではない。
 さて、この昌鹿であるが国学者で、田安宗武に師事した。田安宗武は徳川吉宗の次男、松平定信の父親であり、国学を賀茂真淵に学んだ。著書などはあまり残さなかったが、時に鋭い洞察を示したようである。その国学への関心は定信にも伝わったようであるが、その一方で青木昆陽に命じて蘭学を学ばせた父親のオランダへの関心も心のどこかにあったのではないか。宗武が昌鹿に父親のオランダへの関心について語ったと想像するのは自然なことであり、あるいは青木昆陽の晩年の弟子である前野良沢の名も2人の会話の中に登場していたかもしれないのである。

3月16日
 ぎりぎりで国税の確定申告を済ませる。疲れた。

3月17日
 NHKラジオまいにちドイツ語に出てきた表現:
So können Sie Ihre Sorgen vergessen.
(心配事も忘れられますよ。)
そうなると、いいのだけれど、さて、どうなるか。

3月18日
 NHKラジオ英会話で番組がほとんど終わって遠山先生とケイティー、ジェフの2人のパートナーが雑談している部分で、遠山先生がTomorrow is another day.といった。ご存知の方も多いはずであるが、『風と共に去りぬ』の最後を締めくくるスカーレット・オハラの言葉である。日本ではしばしば「明日は明日の風が吹く」と訳されているが、むしろ「忘れて日が暮れりゃあ明日になる」の方がぴったりくるような気がしてならない。

黒田龍之助『寄り道ふらふら外国語』(3)

3月17日(火)晴れ、温暖

 ドイツ語専攻の学生には外国語が好きで、ドイツ語以外の外国語も積極的に勉強している例が多いという。黒田さんはそのことに好感をもっている。その一方で、世間一般のドイツ語に対する見方は偏っているのではないか。「サッカー王国の言語、EU優等生の言語、環境保護に熱心なエコの国の言語。定番中の定番ばかりが前面に押し出され、その視野はごく狭い」(98ページ)。さらにドイツ語の先生についてみると、当たり前の話だがドイツが大好きで、その一方でスイスやオーストリアに関心があることは少なく、「とくに旧西ドイツ地域に熱い視線を注ぐ。その代り、その範囲内のことは徹底的に知り尽くしていて、その知識量はものすごい」(99ページ)という。私もドイツ研究者は何人か知っていて、その徹底ぶりにはいつも感心している。それはそれで結構なことであると黒田さんは考えている(私もそう思う)。

 しかしながらドイツ語の魅力は、「その深さだけでなく、広さにもあるのではないか」(同上)と黒田さんは言う。普通に考えられているよりももっと広い地理的な範囲でドイツ語は話されている。その例として、黒田さんは旧ユーゴのスロヴェニアでの経験を語っている。スロヴェニア語の講習会に参加したときに、週末に見学旅行が行われた。そのガイドがドイツ語だという。しかし講習会の受講者にとってありがたいのはスロヴェニア語のガイドなので、何とかスロヴェニア語のガイドにしてもらい、その説明を先生が英語に翻訳することで話がついた。ところが実際に出かけてみると、ガイドがドイツ語を話したくてたまらないらしい。何かというとドイツ語を使う。どうもスロヴェニア語があまり上手ではないらしいのである。また、そのドイツ語について、同行したオーストリア人にきいてみると「なんていうか、独特で、ドイツ語の変種の豊富さを感じるね」(100ページ)。要するに旅行に出かけたその地方は、スロヴェニア語よりも、ドイツ語の変種を話す人々のほうが多い地域だったのである。

 この経験を踏まえて黒田さんは言う。「公用語としている国は少ないかもしれない。国連公用語ではないかもしれない。それでもドイツ語は広いのである。特に私がつき合っているヨーロッパ東部では、ドイツ語が欠かせないといってもいい。/…ドイツ語はドイツに住むドイツ人だけのものではない。ドイツ以外で使ったり、ドイツ人以外が話したりするドイツ語に、私はドキドキし、強く惹かれる」(100-101ページ)。黒田さんはヨーロッパ東部を取り上げたが、ニューヨーク市の中でもそういうドイツ語の変種が話されている地域があるという記事を私は読んだことがある。

 ドイツ語についてある種の親近感をもっている黒田さんであるが、大学で第3外国語として勉強したとはいうものの、それほど得意なわけではない。「私はドイツ語が全くできないわけではない。ただ苦手なのだ。/それでも必要に迫られれば、ドイツ語で会話することもある」(104ページ)という。

 それでも自分のことだけでなく、自分以外の例も取り上げている。日本ではかなり多くの学生が第二外国語としてドイツ語を学んでいる(かくいう私もそうだった)。「なんか、フランス語は発音が難しいけれど、ドイツ語は文法が英語に似ていて簡単だというウワサを聞いて」(107ページ)ドイツ語を選んだという、現在は英語の教師をしているという元学生。この噂は未だに出回っていて、相当数の学生に影響を及ぼしているのだそうだが、元学生は3年間かかってやっとドイツ語の単位をとった(実は以前別のところで書いたように、私も同じである)。ドイツ語で自己紹介をすることになるのだが、前置詞のところでつまずく。こういう経験が教師として英語を教えるのに役立つかもしれないと、黒田さんは優しくまとめる。

 チェコで手に入れたチェコ人向けのドイツ語教科書の話。「スラヴ系言語にはブルガリア語とマケドニア語を除くと冠詞がないので、そこは丁寧に説明される。それでも何かと共通点の多いドイツ語とチェコ語だから、進むスピードは速い。名詞や動詞だけでなく、前置詞の中にも一対一で対応するものがあるのだから、どんどん進めるわけである」(114ページ)。私にとってみると、ドイツ語とチェコ語に共通点が多いことよりも、ブルガリア語とマケドニア語には冠詞があるという情報の方が興味深い。(そういえば、ロシア語にも冠詞はなかった。)

 さらにドイツ映画『グッバイ、レーニン!』について取り上げて、旧東ドイツで使われていた語彙が集められている根本道也『東ドイツの新語』という本(1981年に発行され、未だに入手できるという)に説き及んでいたり、マレーネ・ディートリッヒのCDに収められている歌曲について触れたり、第二次世界大戦期のチェコを舞台に、ある少年がユダヤ人の教師からドイツ語を習うというヨゼフ・シュクヴォレツキーの短編小説「カッツ先生」を紹介したりする。「やっぱり、ドイツ語はドイツに住むドイツ人だけのものじゃないんだ。最後にもう一度、これを強調したい」(129ページ)と黒田さんは結ぶ。

 ドイツ語はドイツ、オーストリア、スイスでは公用語であるが、その他の少なからぬ国々で少数言語であるということは、社会言語学者によってしばしば指摘され、日本でもそういう研究書が出ているが、そのことを学者の研究の紹介によってではなく、自分自身の経験や文学作品等の紹介によって軽妙に述べつくしているところに、この本のドイツ語について触れた部分の価値があるのではないかと思う。

 ドイツ語の章の終わりに、コラム「おっとりオランダ語」がついていて、朝倉純孝の『オランダ語入門』と朝倉の業績について紹介しているのが、結構印象に残る。朝倉はオランダのインドネシア(蘭印)統治について関心を抱いていたようで、その関係の書物を何冊か残していることについても、触れられている。

 3回でまとめるつもりだったが、まだスペイン語について述べた部分が残ってしまった。その部分の紹介は次の機会に。

ダンテ・アリギエリ『神曲 地獄篇』(28)

3月16日(月)曇り後雨

韻律から解放された言葉をもってしても、何度語ってみたところで、
あのときに私が見た、流れる血とその傷の何もかもを
言い尽くすことが誰にできるであろうか。

私たち人間の言葉と知性には
それだけのものを包み込む余裕はないのだから
どのような語り手であってももちろん力及ばない。
(410ページ) とダンテは第28歌を格調高く歌いはじめる。地上で展開された数多くの戦争の惨禍も、彼が地獄の第8圏第9巣窟で見た死者たちの様子に及ぶものではないという。

脚の間から腸が垂れ、
胸の内臓や汚らわしくも
貪ったもので糞を作る胃が露(あらわ)になっていた。
(412ページ) むごたらしく、また奇怪に切り裂かれているのはマホメットであった。翻訳者である原さんの解説によると、マホメット(ムハンマド)は教皇を選ぶ選挙で負けたために、イスラーム教の創始者となって、キリスト教から多くの信徒を奪ったという伝説が中世にはあり、ダンテはそれに従ってこのような描き方をしているのだという。マホメットは言う:
おまえがここに見る者どもは皆、
生きている時には
不和と分裂の種を蒔いたものだった。それゆえこのように割られている。
(413ページ) 傷はやがて塞がるが、そうするとまた悪魔がやって来て、彼らを切り裂くのである。

 マホメットは去っていったが、ダンテはさらに別の死者たちが、どのようにして生前不和と分裂の種を蒔いたかに応じてその体を切り裂かれて罰を受けているのを目撃する。あるものは舌を、あるものは腕を切り落とされていた。ダンテは自分の良心を頼りとして、そのような姿をありのままに見続けようとする。

 最後に彼は、古プロヴァンス最大の吟遊詩人の1人であったベルトラン・ド・ボルンがさらに奇怪な姿で苦しんでいるのを見る。彼はイングランドの王ヘンリーⅡ世の子であるヘンリーⅢ世が父親に対して謀叛を起こすのをけしかけたことで、地獄に堕ちているのである。
私は確かに見た、そして今もそれを見ている気がする、
哀れな群れの他の者どもが進むのと同じように
首のない胴体が一つ進んでいくのを。

そして切断された頭(こうべ)の前髪をつかんで、
明かりをもつようにそれを手からぶら下げ、
頭は私たちを見ながら呟いていた。「俺は悲惨だ」。

己を己のための明かりとなし、
そして二つのうちに一つがありながら、一つのうちに二つがあった。
なぜこれが可能なのかは、思し召した方(=神)だけが知る。
(422ページ) 
私は父親と息子をたがいに叛かせた。
・・・・・・絆で結ばれた二人を断ち切ったために、
切断された己の頭脳を運んでいる。ああ哀れ、
この胴の中央のつけ根にその繋ぎ目はあるのに。
(423ページ) 詩人としてのボルンは戦争を賛美する作品を作っていた。彼の代表作「私は春の歓びの時が好きだ」では「戦闘の悲劇的な美しさが描かれ、骸に囲まれ戦い続ける負傷者が、さらに傷を負い、手足を切断されても、戦っている」(423ページの訳者注)というが、このような詩を書いていることと、彼の政治的な暗躍とは無関係ではないのである。そして自分が書いた詩の中の登場人物のような姿で地獄の罰を受けている。ここにダンテの平和を希求する詩と政治活動の背景をなす思考が見て取れる。とはいうものの、原さんが指摘しているように、イスラーム教に対する彼の無知が、十字軍を正当化し、ムハンマドを不当に評価することとつながっていることも否定できないだろう。


 

織田作之助「木の都」

3月15日(日)曇り

 織田作之助『夫婦善哉 正続 他十二篇』(岩波文庫)を読み終える。この作品集に収められた短編小説の中で、「木の都」は1944(昭和19)年の『新潮』に掲載されたものであり、この文庫本の「解説」を書いている佐藤秀明さんによれば「淡い水彩画風のスケッチ」(371ページ)だというが、織田作の大阪への思いと旧制高校時代の思い出が重なりながら戦時下の大阪の庶民生活を描く完成度の高い作品である。この小説は同じ年に織田作と親交のあった川島雄三によって彼の監督昇進第1作である映画『還って来た男』の原作の1つとして使われている(もう1つ「清楚」という短編が原作として使われているのだが、こちらの方はこの短編集に収められていない)。「木の都」の完成度が高いのと対照的に映画『還って来た男』は監督の映画作家としての可能性を示している一方で、完成度はそれほど高くなく、散漫な印象を受ける。

 「大阪は木のない都だといわれているが、しかし私の幼時の記憶は不思議に木と結びついている」(333ページ)とこの短編は書きだされている。上町(うえまち)と呼ばれる高台の上にある町で生まれ育ち、高台の上の中学校(高津中学→現在の高津高校)を出て、京都にある旧制高校に進学したという語り手の経歴は、織田作の経歴と重なり合う。だからといってここに語られていることのすべてが彼の経験であるとは考えない方がよかろう。
 高台に富裕層が、低地に貧困層が住むという他の多くの都市とは違って、大阪の東の方の高台を称して言う上町は庶民の町である。「例えば高津表門筋や生玉の馬場先や中寺町のガタロ横丁などという町は、もう元禄の昔より大阪町人の自由な下町の匂いがむんむん漂うていた。上町の私たちは下町の子として育って来たのである」(334ページ)と書かれている。高台の上にあり、貧乏人の住処が並んでいるために路地が多く、その結果として坂が多い。その中で特に語り手が愛着をもっているのは「口縄坂」である。
 「口縄(くちなわ)とは大阪で蛇のことである。といえば、はや察せられるように、口縄坂はまことに蛇の如くくねくねと木々の間を縫うて登る古びた石段の坂である」(同上)。余談になるが、高校の古文で『徒然草』を読んだ時に「くちなは」という言葉を知り、これが古語だと思っていたのが、関西の大学に進学して、まだ生きている言葉だと知った思い出がある。年少だった語り手はこの坂よりも、坂を登り切ったところにある夕陽丘女学校(現在の夕陽丘高校)があることの方に興味を抱いていたと回想する。しかし、両親が死んだあと、家を畳んだために、この一帯とは没交渉になってしまっていた。
 「天涯孤独の境遇は、転々とした放浪めく生活に馴れやすく、故郷の町は私の頭から去ってしまった。その後私はいくつかの作品でこの町を描いたけれども、しかしそれは著しく架空の匂いを帯びていて、現実の町を描いたとはいえなかった。その町を架空に描きながら現実のその町を訪れてみようという気もものぐさの私には起こらなかった」(336ページ)という語り手の独白は作者がどこまで正直に自分自身について語っているものだろうか。

 ところが、長く故郷に帰ることがなかった語り手は本籍地の区役所に用事ができて、そのために故郷の町を通っていくことになった。そして「足は自然に口縄坂へ向いた」(同上)。坂を登り終えて、彼は思い出の町筋を確かめる。「下駄屋の隣に薬屋があった。薬屋の隣に風呂屋があった。風呂屋の隣に床屋があった。床屋の隣に仏壇屋があった。仏壇屋の隣に桶屋があった。桶屋の隣に標札屋があった。標札屋の隣に……(と見て行って、私はおやと思った。)本屋はもうなかったのである」(337ページ)。
 善書堂という少年時代によく通ったその本屋の思い出が語られる。本屋は「矢野名曲堂」という看板を掲げた別の店になっていた。その店の前にたたずんでいると、標札屋の主人がこちらを見る。語り手はその顔をよく覚えているのだが、主人の方はそうではないらしい。挨拶しようと思ったところ、標札屋の主人は店の中に引っ込んでしまった。まだ、区役所に出頭するまでには時間があるので、語り手は矢野名曲堂の中に入る。ここから物語が展開しはじめる。

 実は矢野名曲堂の主人は語り手の旧知であった。どのような知り合いであったかは、次の機会に書くことにする。

金澤正剛『中世音楽の精神史』

3月14日(土)曇り

 金澤正剛『中世音楽の精神史 グレゴリオ聖歌からルネサンス音楽へ』(河出文庫)を読み終える。

 ヨーロッパ中世には大きく分けて4つの種類の音楽があったという。
 第1は一般民衆が楽しんで聴いた音楽で、おそらくは同時代の音楽の大部分を占めていたはずであるが、楽譜に書き記されることもなく消滅してしまった。
 第2はグレゴリオ聖歌に代表される、キリスト教の礼拝で歌われる単声聖歌である。聖書の言葉や聖句を旋律にのせて歌うもので、その他の音楽が発展していく際にその基礎となった。
 第3は貴族、騎士たちが創作した歌曲がある。通常、世俗的な内容の詩に音楽をつけたものであるが、宗教的な内容をもつものもある。騎士たちは単に武勲をあげるだけでなく、詩をよみ、それに節をつけて披露することで知的な教養を示すことが求められた。特に11世紀末から13世紀にかけてフランスや見ないドイツで活躍した十字軍の騎士たちの中から歌人たちが現われることになる。彼らはその言語によって、オク語(南フランス語)を使うトルバドゥール、オイル語(フランス語)を使うトルヴェール、中世ドイツ語のミンネジンガーなどの呼び名を得ていた。
 最後に9世紀中ごろまでには歌われていたものと推測されている多声音楽であるポリフォニーがある。もともとはグレゴリオ聖歌に対旋律をつけて歌うオルガヌムから始まったものであり、最初はその場限りの即興的な歌唱であった。「ところが12世紀に入るあたりから、突然多くのオルガヌムが楽譜に書き残されるようになる。それはひとつには、同時に演奏される旋律のやり取りが次第に複雑化して、即興演奏の領域を越えるようになったためだったのかもしれない。しかしまた一方では、そのような複雑な作品を知的な想像力の産物として記録に残しておきたいという意識が生じたためではないだろうか」(14ページ)と著者は論じている。そしてさらに「中世のポリフォニーが、どのような考え方に基づいて作曲され、演奏されたのであろうか。そのような音楽を生み出した当時の知識人の心とは、一体どのようなものであったのであろうか」(20ページ)という問いを投げかけている。「精神史」というのはこのような意味で言われているのであり、知的で、中世のヨーロッパで発展した大学とも結びついた精神活動として音楽の歴史を探求しているのがこの書物の特色である。

 実際にこの書物の第1章は「中世の音楽教育」と題され、音楽と教会の活動の結びつき、また大学における主要な教科の1つとしての音楽の存在について論じている。第2章では、そのような音楽と音楽教育における理論的な支柱を提供したボエティウス(480頃‐524)とその『音楽教程』について述べている。第3章「オルガヌムの歴史」では、グレゴリオ聖歌からポリフォニーへの発展の経緯を辿り、さらに第4章では「ノートルダム楽派のポリフォニー」について触れている。第5章「アルス・アンティカの歴史的な位置」では、13世紀フランスでのポリフォニーの歴史を考察し、第6章「アルス・ノヴァとトレチェント」では14世紀のフランスとイタリアにおける音楽の動きについて述べている。特に第4章以下では音楽を楽譜に書き残す記譜法の変遷が詳しく述べられているので、興味のある人には面白いだろうと思う。

 正直なところ、実際の音楽を聞かずに音楽の歴史を辿るのは少々退屈するのだが、最初に述べたように「精神史」ということで、その時代の文化や大学を中心とする教育の動きと結びつけて、音楽にかかわる人々の姿を生き生きと描きだしながら話が進められているので、興味をもって読み進むことができる。興味がわいたら、ここで紹介されている音楽作品を捜して聴いてみればよいのである。音楽が生み出された社会の状況を知り、その音楽を作り出し、楽しんでいた人々の心に迫ることにより、さらに音楽を深く理解し、楽しむことができるのだということを改めて考えさせる書物である。

『太平記』(32)

3月13日(金)晴れ

 前回の内容をめぐり護良親王が「切目王子からだと牛廻り越え(現「酷道」425号線)を越えていかれたのでしょうか」という拍手コメントを頂いた。和歌山県日高郡印南町にある切目王子神社から十津川方面に向かう道路というと、国道425号線ということになるのだろうが、この道路は昔からあったものではないし、その近くの山道を時には迷いながら歩いていったということではないだろうか。親王の一行が近畿地方の南部を潜行していたことはおそらく事実であろうが、切目王子で方向転換されたかどうかは確実な史料がないようである。実は切目王子は平治の乱の際に熊野詣に向かっていた平清盛が源義朝挙兵の知らせを聞いて、都に引き返した場所なので、そのことが『太平記』作者の念頭にあったとも考えられる。
 1975年に岡見正雄氏が『太平記』が護良親王の活動を十分に拾い上げなかったために、その事績が十分に吟味されていないという問題提起をされているそうである(市沢哲『太平記とその時代』4‐5ページによる)。岡見氏の校注した角川文庫版の『太平記』は読んでいるのだが、この指摘については見落としていた。とにかく、「十分に拾い上げなかった」にしても、親王の動きについてかなり詳しく述べているのは『太平記』だけであり、同じ時代を描く『増鏡』や『梅松論』にはこれほどの記述はない。コメントを受けて、調べてみたのだが、425号線は日本3酷道の一つであるとか、「死にGO」線であるとかいわれて、危険な道路として知られているようである。正確な道筋はわからないが、それがわからないほど険峻な山と谷の中、道なき道を、進んでいったと、ここは文学的に解釈しておきたい。
 
 一旦は十津川に落ち着かれた親王であったが、熊野の別当の策略で、熊野の八庄司が武家方についたため、親王は十津川を出て高野山に向かわれた。芋瀬庄司が宮の行く手に立ちふさがったが、赤松則祐、平賀三郎、村上義光の働きで難を切り抜けた。

 その夜は樵の家であるか猟師の家かはわからない(あるいはその両方であるかもしれない)が、民家で一泊され、さらに山中を北へと向かわれた。薪を背負って道をゆく山の住人達も、親王の噂を聞き知っており、道を尋ねられると、親王に敬意を表して背負っていた薪を下し、跪いて、これから先の道をゆくと玉木庄司という武家方に忠実な代官がいるので、この人物を味方にしない限り、通り抜けるのは難しいという。それで、一行のうちの1人か2人のものを使いに出して、玉木の意見を聞いたほうがよいとのことであった。親王は「「蒭蕘(すうじょう)の言(ことば)までも捨てざる」(266ページ、卑しい民の意見にも耳を傾ける。蒭は草刈り人。蕘はきこり)と昔の人が言ったのはこういうことだなと思われて、片岡八郎、矢田彦七の2人を玉木のもとに使いに出される。

 玉木庄司は2人に会って、事の次第を聞き、返事をせずに館のうちに入ったが、やがて若党、中間たちに武装させている様子が聞こえてきたので、2人は慌てて引き返そうとするが、玉木の家来たちの追撃に遭う。多勢を頼んでの攻撃であったが、武芸においては2人の敵ではなく、真っ先に進んできた武者が簡単に討ち取られてしまう。そこで、追っ手の者たちは遠巻きにして矢を射かけるが、その矢が片岡に当たり、もはや助かりそうもない様子である。片岡は矢田にこの次第を報告しに戻るように言い、矢田は片岡を見捨てるのは心苦しいとは思ったが、ここで2人とも討ち死にするのはかえってよくないと思い直して親王のもとに戻る。

 親王にこれまでの次第を復命すると「さては、遁(のが)れぬ道に行き迫(つま)りぬ。運の窮達、嘆くに詞(ことば)なし」(268ページ、さては逃げることのできない道に差し掛かってしまった。運がきわまるのと開けるのとは、天命によること絵、嘆いても仕方ない)と、親王だけでなく、御供の者までもあわて騒ぐ様子を見せなかった。とにかく、ここにとどまっていても仕方がない、行けるところまで行ってみようと、合わせて60人余りの者たちが親王を先頭にして、道を探りながら、山の中を進んでいった。

 すでに中津川の峠を越えようとしたところで、向かいの山の両方の峰に、玉木の配下の兵たち五、六百人が用意を整えて待ち構えるのが見え、彼らのあげるときの声が聞こえた。親王は落ち着いた様子で、付き従っている者たちに、最後まで戦い、親王ご自身よりも先に自害しようとは思うなと言われる。いよいよ最後になって助かる見込みがなくなったら自害するつもりであるが、その時は、「面の皮を剥ぎ、耳、鼻を切って、誰が首とも見えぬやうにしなして捨つべし」(269ページ)と命じられた。その理由は、自分の首が見つけられて獄門にかけられてさらされれば、宮方の兵たちの士気を失わせることになるだろう。「死せる孔明、生ける仲達を走らしむ」(269ページ)ということもある。「死して後までも威を残すを、以て良将とせり」(同上)と、その意思を伝えられる。一行はこの言葉に奮い立ったが、峠を登ってくる兵士たちを迎え撃とうと坂を下っていくものわずか32人。一騎当千の兵ばかりとはいうものの多勢に無勢。一行の運命は風前の灯である。

 市沢哲さんは護良親王が鎌倉幕府と戦い続けただけでなく、前後して幕府への戦いを続けていた楠正成、赤松円心らと連携し、また彼らの後方支援を続ける役割を演じたことを強調している。十津川から吉野に至る親王の一行の歩みは、小さな出来事に見えて、大きな意味をもっていたのである。

辰野隆『忘れ得ぬ人々と谷崎潤一郎』

3月12日(木)晴れ

 辰野隆『忘れ得ぬ人々と谷崎潤一郎』(中公文庫)を読み終える。

 「序」に「この集には恩師、先輩、同僚、旧友に関する草々の思い出を書きつづった旧稿を蒐めた」(3ページ)とある。著者辰野隆(1888-1964)は、日本におけるフランス文学研究の最初期の指導者の1人であり、東京大学のフランス文学の教授として、渡辺一夫、中島健蔵、小林秀雄、三好達治らを教え、さらに軽妙洒脱なエッセーの書き手としても知られた。この書物は1939(昭和14)年に『忘れ得ぬ人々』という表題で出版され、その後、内容に多少の変更を加えながら版を重ね読み続けられてきた。私も高校時代から何度か読んできた。

 国木田独歩はその短編小説の中で、「忘れ得ぬ人々」と「忘れてかのうまじき人々」を区別した。ここで辰野が思い出している人々の大半は近代日本文学や文化・教育をになってきたような人々であり、旧制東京府立一中(現在の日比谷高校)、旧制第一高等学校、東京大学という辰野の学歴や、その後のフランス文学者としての歩みを考えると、その経歴や地位が生かされていることがよく分かる。浜尾新からは学長と学生という立場で訓戒を受け、三宅雪嶺は近所に住んでいたのでよく見かけた、結婚披露宴の来賓が夏目漱石だった(その席で落花生を食べたのが、漱石の直接の死因となる)、谷崎とは中学で一緒だった(谷崎の方が年下だったのが、飛び級で一緒になった)というような様々な機縁がこの随筆集の骨格となっている。だから、独歩流に言うと「かのうまじき人々」の方が優勢にも思えるのだが、若くして、志半ばで世を去ったような友人たちの思い出も記されていて、そう簡単には割り切れないのである。

 フランス文学研究によって培った識見が近代日本文学の鑑賞にも役立てられていて、おのずから比較文学的な性格をこの書物に与えている。とはいうものの登場する人物たちには一定の傾向があり、辰野が近代日本文学の四天王だという鴎外、漱石、露伴、潤一郎とその周辺の人物たち、たとえば寺田寅彦や鈴木三重吉、内田百閒などである。注意してみると、漱石の門下の人々は少なからず登場するが、鴎外の周辺の人物はほとんどいない(永井荷風くらいである)。島崎藤村、田山花袋、柳田国男、あるいは白樺派の作家たちにはほとんど言及されていない。さらにまた、その思い出をまとめた文章はないのだが、しばしば回想の中に登場する谷崎の親友であった大貫雪之助(晶川)について、彼が岡本かの子の兄であることに全く触れていないのも、気になる点である。

 中条省平による解説は、辰野が江戸っ子であり、江戸っ子としての好みを貫いていることを強調している。そのことを念頭に置いても、置かなくても、彼が「坊っちゃん」を論じている文章などは、このことがよく表れているのだが、それをどのように評価するかについては、多少言いたいことがある。というのは、辰野は父親の郷里である佐賀県の唐津を子ども時代に訪れた際に、愛国婦人会の創設者であり、教育家でもあった奥村五百子に会ったことなどを、これ以外の書物で書き記している。「坊っちゃん」に描かれたうらなり君の送別会の場面で、坊ちゃんが座敷に置かれている「大きな瀬戸物」について感想を述べたところ、博物の先生にあれは「唐津」ですと訂正されて、その意味が理解できないという個所がある。漱石は、坊ちゃんを一方的に支持するような描き方をせず、彼の無知で粗野な側面もキチンと描いているのであり、その小道具として「唐津」が使われていることを辰野は見逃しているように思われる。

 その一方で、江戸っ子であることへのこだわりが注目すべき観察を導いているのは、長谷川如是閑を論じた文章ではないだろうか。如是閑は夏目漱石を論じながら「江戸ッ児は、憤怒や悲哀の発言にも、往々機智を交へたり滑稽を加へたりする。夫れが為めに、江戸ッ児の憤怒や悲哀は、地方の人には間々不真面目に見られる。此の点に於いて、江戸ッ児には愛蘭(アイルランド)人にそっくりなところがある。」(132ページ) この指摘には玩味すべきものがある。アイルランドといってもけっこう多様な文化をもつ国なので、如是閑の観察がどの程度の妥当性をもっているのか、改めてアイルランドの文人たちの作品を読み直さないといけないのであるが、それを差し引いても、この着目には比較文学的な洞察の深さを感じる。

 辰野は如是閑と吉村冬彦(寺田寅彦)を彼の時代の随筆の名手としてその名を挙げているが、おそらく彼らの随筆を多く読んだことで、彼自身も優れた随筆家になったのであろう。寺田の「地図を眺めて」や「北氷洋の氷の割れる音」などを高く評価する意見は、多くの支持を得てきたし、理研(=理化学研究所)の研究室の壁に「好きなもの苺珈琲花美人/ふところ手して宇宙見物」(92ページ)とローマ字で書いて貼っていたというエピソードを知ったのはこの書物を通じてである。寅彦のこういう芸をまねしたいとは思うのだが、やはり才能が足りないのか、できないのは残念なことである。

 著者が書いていることから多くの示唆を得ることができるし、彼が何を書いていないかを考えてみることも有益である。近代日本文学に興味のある人には見逃せない書物といえよう。

日記抄(3月5日~11日)

3月11日(水)晴れ、やっと晴れ間が広がったが風が強く、肌寒い。

 3月5日から本日までの間に経験したこと、考えたこと:
3月5日
 NHKラジオ「まいにちイタリア語」応用編「ニッポンを話そう」では、「文楽」を取り上げた。
Il bunraku è il teatro tradizionale giapponese di marionette. (文楽は日本の伝統的な人形劇です。)
最近のNHKの語学番組は「発信型」を目指して、日本文化を外国語で紹介する内容のものが多くなってきているが、これもその1つ。イタリアのシチリア地方には操り人形pupiがあるので、イタリア人も興味を持つのではないかということであった。人形劇としての文楽の特色を知るためには、日本や外国の他の人形劇についても多くの知識を持つ必要があり、なかなか大変である。

3月6日
 「ニッポンを話そう」では「平曲」を取り上げた。「平家琵琶」を聞いたことがあるという人は少ないのではないか。それに
Lo Heike monogatari narra in forma drammatica la guerra tra il clan dei Taira e quello dei Minamoto che scoppiò nelⅫ secolo, le conseguenti glorie e rovine delle famiglie aristocratiche e l'ascesa dei samurai.
(『平家物語』は12世紀末に起きた平家と源家の戦いと、それに伴う貴族たちの栄華と没落、武士たちの台頭などを、ドラマとして描いたものです。)
という説明には、歴史的にも、文学史的にも、かなり問題があるのではないか。

3月7日
 NHKラジオ「攻略!英語リスニング」では『アラビアン・ナイト』を話題として取り上げた。
Some of the stories are stories within stories within stories. (お話の中に出てくるお話の中のお話、なんていうのもあるのよ。)という文が、「枠物語」としての『アラビアン・ナイト』の特色をうまく表現していると思った。ここでも語られていたように、この物語集はペルシャのシャフリヤールが妃に裏切られたことから女性に不信を抱き、毎日新しい妃を娶っては夜明けに処刑するということを繰り返していたというところから始まる。やがて宰相の娘であるシェヘラザードが妃となったが、彼女は毎晩面白い話をして、途中で話を打ち切る。シャフリヤールはつづきを聞きたくて処刑を延ばす…ということを続けて、とうとう1001夜がたって、気持ちも変わり、シェヘラザードの処刑を取り消し、2人は末永く暮らすことになったということで終わる。私の好きなフランスの女優のアンナ・カリーナが自分の出演作で一番好きなのは、『シェラザード』(1963)つまり、彼女がシェヘラザードを演じた作品であるといっていること、レバノンの国民的な歌手であるファイルーズがデビューする際に、芸名を「ファイルーズ」(「琥珀」という意味だそうである)にするか、「シェヘラザード」にするかを考えたという2つのエピソードが、「シェヘラザード」という名前の魅力を示している。

 J1開幕。柏の菅野選手、仙台の関選手、FC東京の太田選手、松本の池元選手と、横浜FCにいた選手たちが、それぞれ活躍したようで、少し嬉しい。

3月8日
 J2開幕。横浜FCは今年復帰した大久保選手のゴールで1-0で草津を破って白星スタート。まずまず。

3月9日
 NHKラジオ「まいにちイタリア語」に登場した表現:
Vorrei andare al cinema, solo che sono molto stanco. (映画を見に行きたいんだけれど、ただとても疲れています。)

もう1つ:
Prima o poi ce la fai solo che tu lo voglia. (君が望みさえすれば、遅かれ早かれ成功します。)

3月10日
 NHKラジオ「入門ビジネス英語」では
What are the outstanding issues? (残っている課題は何ですか?)
というフレーズを練習した。outstandingは「傑出した」という意味の方を覚えているが、「未解決の」という意味で使われる場合もあり、その場の状況に応じて、どちらの意味かを判断する必要があるとのことである。

 夕方、春闘で賃上げと労働条件の改善を目指すデモ隊を見かける。かなりの規模だったので、ちょっと驚く。このところ労働運動は低調だと聞いていたので、これがよい兆候になることを期待している。

3月11日
 NHKラジオ「実践ビジネス英語」の”Quote...Unquote"で紹介された言葉:
In rivers, the water that you touch is the last of what has passed and the first of that which comes; so with present time.
―――Leonardo da vinci (Italian polymath, 1452-1519)
川であなたが触れる水は、流れ去る最後のものであり、流れくる最初のものである。今という時も同じである。(レオナルド・ダ・ヴィンチ)
現代に生きる私は、川の水に触れるという経験を、絶えてしたことがない。

ダンテ・アリギエリ『神曲 地獄篇』(27)

3月10日(火)晴れたり曇ったり、なかなか天気がよくならない。

 第26歌ではトロイア戦争の英雄オデュッセウスが偽りの忠告をした罪によって地獄の第8圏の第8巣窟で罰を受けている姿を描いていた。彼は、これまで人間が到達したことのない世界への旅を試みて、地球の南半球にある(とダンテが考えた)煉獄山を見たが、神の助けなしに人間の力だけで到達したことが神意にそむくとして船を転覆させられ、地獄に堕ちたのである。彼が道の世界に旅立とうと、仲間たちに訴える言葉
獣のように生きるために君らは造られてはいない。
徳と知を極めるために造られたのだ。
(393ページ)はルネサンス時代のヒューマニズム(人間中心主義)の先ぶれであるともいえる。しかし、登場人物のそのような言葉をダンテは神意によって否定しているのである。

 第27歌は
すでに炎がまっすぐに立ち上がり、静まりかえって
話をやめていた。そして礼節を知る詩人の承諾を得て
早くも私たちのもとから立ち去っていこうとしていた。
(396ページ)という3行から始まる。誇り高いギリシアの英雄たちは、礼節を知るウェルギリウスとだけ口をきいてきたのであるが、今や物語が終わって、去っていく。なお、ウェルギリウスの『アエネイス』に描かれるトロイアの英雄アエネーアースの軌跡はオデュッセウスの軌跡と交錯するところがあることも念頭に置く必要があるだろう。

 ダンテとウェルギリウスの前には新しい炎が現われ、その中から声が聞こえる。その声はウェルギリウスの話していたロンバルディアの言葉に心を動かされたという。彼は故郷であるロマーニャ地方(現在のエミリオ=ロマーニャ州の一部)が今や平和になったかどうかを問う。ウェルギリウスに促されてダンテは
おまえのロマーニャは今も、そしてかつて一度たりとも、
その僭主どもの心中で戦争が絶えたことはない。
けれども私が離れたときにはその地に見て分かるような戦があった訳ではない。
・・・
(399ページ)と答える。そして炎の中にいる魂の名を訊ねる。声の主はグイド・ダ・モンテフェルトロ(1220-98)、イタリア皇帝党の大立者で、「狐」とあだ名され、その智謀と勇気とで知られていた(智謀と勇気という点ではオデュッセウスと同じである)。古代の英雄に続いて、ダンテの同時代人の登場である。
 歴史的な経緯を辿ってみると彼の活躍に恐れをなした教皇庁は1282年に彼を破門し、後にアスティに幽閉した。しかし彼は1289年にピサの司法長官兼軍司令官となり、トスカーナの教皇党を圧倒、1292年にはロマーニャ地方のウルビーノを征服してモンテフェルトロ宮廷を開いた。1294年に教皇ケレスティヌスⅤ世から赦免され、1296年にはそれまでの権謀術策の生活を後悔しフランシスコ会に入信、この修道会のアッシジの修道院でその生涯を閉じた。ダンテは『神曲』に先立つその作品『饗宴』(1304-07)で彼が出家したことを称賛していた。歴戦の勇士が最後には戦争を嫌い、信仰と教会に身を委ねようとしたことを評価したのである。

 それではなぜダンテは、そのグイド・ダ・モンテフェルトロを地獄においたのか。翻訳者である原さんの解説によると「それは教皇ボニファティウスⅧ世が、ローマの貴族コロンナ家の領地をねらって、教皇のお膝元、ローマ近郊パレストリーナで起こした十字軍の際、敵の城を落とす秘策と引き換えに死後の天国行きを保証するとグイドにもちかけ、彼がその話に乗ってしまったことを知ったためである」(594ページ)。「ボニファティウスⅧ世は狡猾にも、教皇位に属する職務、天国の門の鍵をちらつかせて出家した武人を脅迫し、武人jは熟慮の末、苦渋の決断を下し戦争に加担した。死後、彼は眼前で聖フランシスコと悪魔が自分の魂を奪い合うのを見た。そして論理的なアリストテレス主義者にも似た悪魔によって聖人は論破され、彼は地獄に連れて行かれた。武人は真理=神を探究する精神の騎士になったはずなのに、その探究に失敗し、オデュッセウスと同じように地獄に「失われてしまった」(前歌84行)のである」(同上)。なお、引用の中で、原さんが「フランチェスコ」とイタリア語読みしている個所は「フランシスコ」とより一般的な表記に改めた。「(前歌84行)」というのは390ページに出てくる。ダンテはグイドが戦争の悪を知りながら、教皇庁の世俗権伸張の戦いに加担してしまったことを非難し、彼を地獄においたのである。わたしからすれば、ダンテが唯一正しい戦争であるという十字軍だって決して肯定できる性格のものではない。
 なお、コロンナ家というのは中世からルネサンスにかけて反映し、現在でもその系譜を伝えているローマの名門貴族で、ミケランジェロとの交流で名高い才媛ヴィットリア・コロンナ(1492-1547)はこの一族の出身である。またパレストリーナはルネサンス時代の大作曲家ジョヴァンニ・ダ・パレストリーナ(1525?-1594)の生誕の地であるが、これらはダンテからさらに後の時代のことである。また、マキアヴェッリの『君主論』にはダンテの影響が強くみられるとも原さんは注記している。

 グイド・ダ・モンテフェルトロの魂は自分の生涯と悔恨について語り終えて、離れてゆく。
あの者がこうして自分の話を終わらせた時、
炎は鋭い角をよじり、震わせながら、
苦しみつつ離れた。
(408ページ) ダンテとウェルギリウスはさらに道を進む。

織田作之助「夫婦善哉」

3月9日(月)雨が降ったりやんだり

 織田作之助『夫婦善哉 正続 他十二篇』(岩波文庫)を読んでいるところである。まだ、全部を読み終わってはいないが、気になった作品から取り上げていこうと思う。
 織田作之助(1913-1947)は、大阪で生まれ、大阪を舞台とする多くの作品を残したことで知られる。ただし、最終学歴は京都にあった第三高等学校中退で、私が大学時代に接した先生方の中には直接・間接に三高時代の織田作(しばしばこう略称される)を知っているという人がいた。「夫婦善哉」は1940年の作品で、織田作の死後の1955年に八住利雄脚色、豊田四郎監督、森繁久彌、淡島千景主演で映画化された。この映画は昨年になってようやく観賞している。それでも原作よりも映画の方に早く接したことになる。

 商い下手で貧乏暮らしを続けている天ぷら屋の娘である蝶子は小学校を出てすぐに女中奉公に出たが、雇い主の虐待を親が見かねて、曽根崎新地のお茶屋のおちょぼ(芸者の下地っ子)に出される。もともと陽気好きな気性の上に、環境に染まって、親の反対を押し切って芸者になると、陽気な座敷にはなくてはならない存在として重宝され、はっさい(お転婆)で売り出すようになる。

 そんな蝶子が心を許したのが、梅田新道の安化粧品問屋の若旦那である維康(これやす)柳吉で、病気で寝たきりになっている父親に代わって店を切り回している。ある時、蝶子が店の前を通ると、柳吉は丁稚たちの荷造りを監督していたが、その姿を見て頼りがいのある、賢い男だと思って、妻子ある柳吉にますますほれ込むようになる。もっともそう思っていたのは蝶子だけで、周囲の人々は柳吉が頼りない男であることを見抜いていた。

 「柳吉はうまい物に掛けると目がなくて、「うまいもん屋」へしばしば蝶子を連れて行った。彼に言わせると、北にはうまいもんを食わせる店がなく、うまいもんは何といっても南に限るそうで、それも一流の店は駄目や、・・・本真(ほんま)にうまいもん食いたかったら、「一ぺん俺の後へ随(つ)いて・…」行くと、むろん一流の店へははいらず、よくて高津の湯豆腐屋、下は夜店のドテ焼き、粕饅頭から、戎橋筋そごう横「しる市」のどじょう汁と皮鯨(ころ)汁、道頓堀相合橋東詰「出雲屋」のまむし、日本橋「たこ梅」のたこ、法善寺境内「正弁丹吾亭」の関東煮(かんとだき)、千日前常盤座横「寿司捨」の鉄火巻と鯛の皮の酢味噌、その向い「だるまや」のかやく飯と粕汁などで、いずれも銭のかからぬいわば下手(げて)もの料理ばかりであった」(10ページ)。
 実在する(した)店の名前が並ぶ。今では「一流」になってしまった店が少なくないから、柳吉が単なる遊び好きのグータラ男ではないことが分かる。食べ物屋と食べ物を列挙して、男の性格を描写しているのが、食い倒れの町大阪の作家織田作らしい。遊びの中に自己主張が隠れている。ただ、それがなかなか価値を生み出さないのがじれったくもどかしいのである。

 寝付いている父親が財布のひもを握っているために、2人の中が深くなるにつれて、柳吉は金に困るようになる。さらに蝶子との仲が父親にしれて、とうとう家を勘当される。まだ東京で集金すべき金が四、五百円あることを思い出した柳吉は蝶子に駆け落ちを持ち掛ける。そして8月の末に2人して東京行きの汽車に乗る。東京でようやく集めることができた300円ほどの金を持って2人は熱海に出かける。
「温泉芸者を揚げようというのを蝶子はたしなめて、これからの二人の行く末のことを考えたら、そんな呑気な気ィでいてられへんともっともだったが、勘当といってもすぐ詫びをいれて帰り込む肚の柳吉は、かめへん、かめへん。無断で抱主のところを飛び出して来たことを気にしている蝶子の肚の中など、無視しているようだった」(13ページ)。ところが、2日ほどたって、2人は関東大震災に遭遇する。「お互いの心にその時、えらい駆落ちをしてしまったという悔いが一瞬あった」(同上)。

 大阪に戻った2人は、忽ち生活に苦労する。それでも蝶子がヤトナ芸者として働いたりしてためた金で剃刀屋の店を開くがうまくいかない。しっかり者の女房と遊び好きなぐうたら亭主とは、その後もおでん屋を開いたり、果物屋に商売替えをしたり、さらにはカフェを開業したりする。柳吉は蝶子の甲斐性の上に胡坐をかいているかというと、そうではない。実家に戻りたいという本音を覗かせたり、遊び癖がまたまたうずきだしたりする。

 この作品は男女の愛憎の人情を知るということのほかに、大正から昭和にかけての大阪の風俗を知るとか、今日のB級グルメの先駆けとしてとか、いろいろな読み方ができる。あるいは映画化された作品との比較を試みるのも一興であろう。柳吉を勘当した後、彼の実家では柳吉の妹に養子をとって店を継がせる。小説では、この養子の登場する場面は少ないのだが、映画では森繁の代貸し格であった喜劇俳優の山茶花究が演じていて、その出番は決して少なくなく、しかもねちねちと森繁をいじめる。子分が親分をいじめているという楽屋落ち的な興味がわく…などと長広舌をふるっても仕方がないか。
 結末までを書いてしまうのは本意ではないが、2人の関係がどうやら落ち着きそうだ・・・というところで小説も、映画も終わっているのだが、その結び方にそれぞれの表現形式の特徴が現われている。小説では、蝶子が太ってきたことを書いたうえで、
「蝶子と柳吉はやがて浄瑠璃に凝りだした。二ツ井戸天牛書店の二階広間で開かれた素義(そぎ)大会で、柳吉は蝶子の三味線で「太十(たじゅう)」を語り、二等賞を貰った。景品の大きな座布団は蝶子が毎日使った」(57ページ)と結んでいる。映画の方は、「めおとぜんざい」の店を出て、「おばはん、頼りにしてまっせ」という柳吉に対し、蝶子が「へえ、大きに」と答え、雪のちらつく冬の町を歩いていく。以前、蝶子が運勢を占ってもらった八卦見が声をかけるが、2人は振り向かない(つまり運勢を気にしなくなった)という幕切れである。柳吉と蝶子はちょうど一回り年が違うという設定なので、まだ若い、蝶子に向かって「おばはん」はないだろうという気がしないでもないが、その言い方で、彼が実家に戻ることをあきらめて、二人で生きていこうという決意を固めたことがしられる。なお、「頼りにしてまっせ」というセリフは森繁のアドリブだそうだが、柳吉が蝶子を「おばはん」と呼ぶということは、原作の中にも書かれている。
 天牛書店は実在の古書店で、作者は忘れたが「天牛で咳してたのが作之助」という川柳があるほど、織田作とはなじみのある店だそうである。井伏鱒二原作、川島雄三監督の『貸間あり』という映画の冒頭に、この店の昔の様子が描きだされている。現在は別の場所に移っているらしい。ということで、次の機会には川島の監督昇進第1作『帰って来た男』(1944)の原作の1つとなった作品「木の都」について書きたいと思っている。

黒田龍之助『寄り道ふらふら外国語』(2)

3月8日(日)雨

 この書物の中で、著者である黒田さんはまずフランス語について、「黒田はフランス語に冷たいな」という友人たちの評価が誤りであると釈明するところから始めている。

 まず、フランス語は黒田さんが3番目に取り組んだ外国語であるという事実があるという。(ただし、3番目に取り組んだという人は少なくないというか、英語、ドイツ語、フランス語という順序で外国語を勉強した人はかなりの数に及ぶはずである。かくいう私は、今でこそフランス語が第2外国語のような顔をしているが――いないという人もいるかもしれないが――すでに書いたことがあるように学習した順序は、英語、ドイツ語、中国語、ロシア語、・・・フランス語ということで、…とここで書き表しているような遍歴の過程がある。こういう例はあまり多くないと思う。) どういう勉強のしかたをしたかというと、高校時代に林田遼右先生によるラジオ・フランス語講座を聞いたのが最初だという。これもすでに書いたことだが、私も林田遼右さんのフランス語講座を楽しんで聞いていた1人であるが、どうも一向にフランス語は上達せずに今日に至っている。黒田さんは、2008年に雑誌『ふらんず』誌上で林田さんと対談することになったときの感激を記しているのだから相当なものである。

 黒田さんの専門は、前回も書いたが、スラヴ語学であり、19世紀のロシアの貴族たちの中にはロシア語よりもフランス語のほうがよく話せる人たちが少なくなかったという。それどころか、トルストイの『戦争と平和』などはフランス語で始まっているという。言語学を勉強していく中で、フランス語で書かれた文献が重要な意味をもっていることは確かであるが、黒田さんはジョルジュ・ムーナンの著作に刺激を受けたらしい。言語学は多様な世界である。黒田さんが特に気に入っているのは、ムーナンの次の言葉らしい。
Tous les chemins linguistiques ne mènent pas à Rome.(すべての道がローマに通じるわけではない。) (29ページ)

 さらにこの書物のもとになる雑誌連載を始めるときにフランス語の長編小説を読もうと思い立ったそうである。そこで、選んだのがアメリカのホラー小説の仏訳だというから、かなり変わった選択をしている。その中で、主人公たちを執拗に追いかけてくるいじめっ子に対してある男の子がこんなことを言うそうである。
Some people are too stupid to quit.
小尾芙佐さんによる訳は「すごい馬鹿なやつってさ、あきらめが悪いんだ」
フランス語訳では
Il est plus entêté qu'une mule, cet animal.
となっているそうである。「わたしも負けずに、ラバより頑固にフランス語を追いかけよう。そんなふうに付き合う外国語が、1つくらいあってもいいですよね?」(57ページ)と黒田さんはフランス語とのつきあいをまとめている。

 イタリア語については会話には自信があるが、イタロ・カルヴィーノとか、ナタリア・ギンスブルグなどの作家の作品を原文で読むほどの力はないという。それでも黒田さんの専門に関連して、イタリア語が必要ではないかと思われる事例があるそうである。それはスラヴ語派の南スラヴ語群に属するスロヴェニア語の方言がイタリアのフリウリ=ヴェネツィア・ジュリア州の一部の地域でも話されているからである。この州ではイタリア語のほかに、ロマンス系の言語であるフリウリ語も話されている(20年くらい前にロンドンの本屋でフリウリ語の入門書を見つけ、フリウリ語というのはどういう言語かと思って調べてみたところ、レト・ロマンス語の1方言であることがわかった。レト・ロマンス語はスイスの公用語の1つである――ただし話者はごく限られている――が、イタリアでも話されている地域があるのである)。この本にはご丁寧に黒田さんが買い求めた『星の王子さま』のフリウリ語訳の表紙の写真が掲載されている(77ページ)。Il picul princip とあってフランス語、あるいはイタリア語ができれば、その意味は推測できる。黒田さんはあくまでスロヴェニア語の方言の方に関心をもっているのだが、私は別のことで喜んで読んでいたことになる。(なお、有名なヴェネツィアはヴェネト州にあって、フリウリ=ヴェネツィア・ジュリア州にはない。念のため。)

 それから『ローマの休日』や『ゴッドファーザー』のようなハリウッド映画でも気をつけてみていると、イタリア語がかなり使われているという話。他の映画でもありそうなので、改めて気をつけてみよう。チェーホフの『三人姉妹』に登場する末娘のイリーナはイタリア語ができるという設定になっているが、劇中でイタリア語の基本的な単語を忘れてしまったと嘆く…この箇所は高校から大学にかけてチェーホフを読みふけっていたころのことを思い出させてくれた。マリオ・ペイ『旅と生活のイタリア語』は言語学者の書いたイタリア語入門書として面白すぎるほどに面白い本であるが、これは日本語版の著者である武田正實さんの加筆によるところが大きい。イタリアの言語文化についてはかなり細かいことまで日本語で紹介する書物が出版されている。スラヴ系の言語についてもおなじような紹介の努力をする必要がある。「そのためにも、常に本を読み、映画を見て、あれこれ考えなければ」(93ページ)。

 今回はフランス語、イタリア語と黒田さんの付き合いについて触れた部分の紹介になった。ドイツ語、スペイン語とのかかわりについては、次の機会に紹介することにしたい。

黒田龍之助『寄り道ふらふら外国語』

3月7日(土)曇り

 黒田龍之助『寄り道ふらふら外国語』(白水社)を読み終える。

 黒田さんはロシア語を中心としてスラヴ語派の各言語の研究を専門としながら、英語の先生をしていたこともあるそうだし、さまざまな言語に接し、また学習し、それらの経験について少なからぬ本を書いている。いろいろな言語に興味があって、勉強してきたという点は私も同様である。

 既に一度紹介したことのあるやり取りではあるが、あえてもう一度取り上げると、NHKの黒田さんが講師を務めるロシア語の時間で、パートナーのロシア人女性が黒田先生はいくつ外国語ができるのですか?と質問する場面があった。(私が現在聴いているのは、英語、ドイツ語、フランス語、イタリア語の時間であるが、それらの放送の合間にハングル、中国語、ロシア語、スペイン語などの時間の一部あるいは全部を聞いていることがあるのである。) 黒田さんが答えて、実は私もわからないんですよ。

 黒田さんがこう答えたのは多分、2つの理由からであろうと思う。1つはできるとか、できないとかいうのは相対的な評価であって、どこまでできれば、「できる」と言ってよいという明確な基準がないということ。自分ではできないと思っていても、他人の目から見るとできると判断されるということもあるだろうし、その逆もある。判断する他人の語学力も問題で、全くできない人から見れば、片言で冷や汗かきながら会話している人が、ペラペラに思われるかもしれない。もう1つは言語の境界がはっきりしないということ。フランス語とベルギーのワロン語とか、オランダ語とベルギーのフラマン語とか、同じ言語であるのか、違う言語であるのか議論が分かれる例が少なくない。だから言語の数をどのように数えるかは、常に異論が投げかけられうるということである。

 そういう問題はあっても、いろいろと言語を勉強することは楽しいことであるし、その結果として身につくことも少なくない。それが黒田さんの信念であって、その点には共感できる。気を散らさずにある言語に集中すべきだという意見もあるかもしれないし、ある時点での学習に限ればたしかにその通りである。しかし、もっと長い目で見れば、いろいろと学んでいくことの方が言語の理解を深めるのではないか。日本語にしても、英語にしても、外来語の数は相当多い。もともと多様なものは、多様なものとして理解していく方がいいとも考えられる。

 この本では、ヨーロッパ大陸の主要言語であるフランス語、イタリア語、ドイツ語、スペイン語をめぐる黒田さんの様々な経験について書かれている。「ただし、その距離は微妙に違う」(203ページ)とあとがきに書かれているとおりで、だいたい、この順序で身近に接してきているらしい。それでも大学院の博士課程への進学の際にはドイツ語で受験したというのは、日本の高等教育におけるドイツ語重視の伝統が私よりも20歳くらい若い黒田さんの世代まで続いていたということかもしれない。
 
 これら「主要」4言語のほかに、ポルトガル語、スウェーデン語、オランダ語をめぐるコラムが付け加えられているし、チェコ語やスロヴェニア語についての話題も取り上げられている。フリウリ語というたぶん、多くの人は知らないような言語も登場する。以上のように、ヨーロッパの言語の話題が多いが、カンボジア語やインドネシア語などのアジアの言語についても触れられているし、「ブラジル以外の南米ではスペイン語が話されている」という「常識」の誤りについて指摘されているのも無視しがたい。ヨーロッパ中心であるにせよ、その言語から世界を見ていこうという姿勢がとられているのである。では、より具体的に、どういう話題をめぐりどのような議論が展開されているのということになるが、夜、遅くなってきたので、詳細は次回に譲ることにしよう。

『太平記』(31)

3月6日(金)曇り、時々晴れ

 大塔宮尊雲法親王は幕府の追及を避けて奈良の般若寺に身を隠していらしたが、ここも安全ではなくなったので、9人の供の者と山伏姿で熊野に向かわれた。途中、切目王子で夢の御告げを受けて行き先を変更され、十津川に赴かれた。十津川では土地の有力者である戸野兵衛を頼られ、次いで竹原八郎のもとに身を寄せられた。この間に還俗されて護良親王と名乗られていた。

 さて、護良親王が十津川に潜伏されているという噂を耳にした熊野別当定遍は、十津川は要害の地であり、兵力をもって攻め落とすことは難しい。地域の住民の欲心を利用して、大塔宮を殺害しようと考える。『平家物語』を見ても、熊野別当は全国的な勢力分野に影響を及ぼす有力者である。その地位にある定遍の意向は誰も無視のできないものである。さすがに、この地位にあるものらしく、巧みな計略を考えた。あちこちに高札を立て、大塔宮の命を奪ったもの、またその従者たちを殺害したものには莫大な恩賞を与えると触れ回った。

 このため、十津川の住民たちの気持ちも揺れ動くが、それでも竹原八郎入道は自分がお守りすると宮を引きとめていた。しかし入道の子息である弥五郎が父親の命にそむいて宮の命をつけ狙おうとしたために、宮は高野山に落ち延びようとされた。途中に勢力圏をもっている八庄司と呼ばれる8人の荘園代官たちは、最初は宮に味方しようとしていたのが心変わりをして、定遍に心を寄せ、宮を討ち取ろうと考えていた。その中の1人、芋瀬庄司は自分の館を訪れようとした宮に向かって使者を送り、幕府と定遍の言いつけが厳しいので、宮の一行と一戦交えた形にしたい、ついてはお供の中から1人を選んで身柄をあずけていただくか、一行の錦の旗を渡していただくか、どちらかの要望をかなえていただければお通ししよう、そうでなければ一戦交えるよりほかはないと伝えてくる。

 宮はどちらも受け入れることはできないと逡巡されるが、従者のうちの赤松則祐が自分が命を捨てましょうと言い出し、これを聴いた平賀三郎が味方を1人失うよりも名を捨てる方が被害は少ない、実際に戦場において武器や武具を失うのはありふれたことであると、旗を渡すことを主張する。そこで、宮は月と日の形を金銀の箔で打ち付けた錦の旗を芋瀬庄司に渡して、先へと進まれる。

 後方から遅れて従者の1人である村上彦四郎義光がついてきていたが(折よくか、折悪しくかはその人の立場によって判断がわかれるころであろう)、芋瀬に出会った。芋瀬が下人に錦の旗をもたせているのを見た義光はどうしたことかと尋ね、芋瀬がこれまでの経過を説明すると、義光が怒って朝敵征伐のための旗を粗末に扱うとは何事かと言って、旗を奪い取り、旗を持っていた芋瀬の下人は大男であったのだが、それを4,5丈ほど投げ飛ばす(4,5丈というのは12~15メートルなのでこれは誇張とみるべきである)。その大力に芋瀬は言葉を失って去っていく。

 義光はそのまま旗を肩にかけて宮の一行に追いつく。義光から事の次第を聞かれた宮は大いに喜ばれて、則祐の忠、平賀の智、義光の力は「三傑」というべきで、中国を統一した漢の高祖の「三傑」にも比すべき存在であり、それぞれの力を合わせれば天下を取る事も夢ではないといわれる。(宮ご自身が天下を治めようというお気持ちが背後にあると思われる。)

 前回、護良親王とその従者たちの描き方には義経伝説の影響があるという指摘を紹介したが、今回もそういう特色が窺われる展開となっている。従者たちが時として超人的な力で親王を助けていくからである。ここに紹介された挿話はどこまで歴史的な事実かわからないし、また事実だとしてもその意味をどのように求めるか、議論の分かれるところであろう。ただ、次のように考えることはできる。天下を二分するような争乱の際に、どちらか一方に全面的に協力することは、それなりの危険を伴う。対立の中心にいる人々にはそれぞれの大義があり、大塔宮とその一行の人々、熊野別当定遍の立場は明らかであるが、どちらに協力しても得失がある芋瀬のような在地の武士はどちらに味方するか、大いに迷うところである。大塔宮に対する態度にも、彼の迷いが現われている。しかし、それも歴史的な事実を反映するものなのだと理解しておくことにしよう。 

コリン・ホルト・ソーヤー『老人たちの生活と推理』

3月5日(木)晴れ

 コリン・ホルト・ソーヤー『老人たちの生活と推理』(創元推理文庫)を読み終える。「海の上のカムデン」という高級老人ホームに入居する老人たちが活躍するユーモア推理小説の第1作。最近、出版されたシリーズ第8作である『旅のお供に殺人を』を読もうと思ったのだが、このシリーズは今まで読んだことがないので、どうせなら第1作から読んでみようと思った次第。原題はThe J. Alfred Prufrock Murders、作品の冒頭に引用されているT.S.エリオットの詩「J.アルフレッド・プルーフロックの恋歌」によるものらしい。中村有希さんによる翻訳は2000年に初版が刊行されている。

 カリフォルニア州の大都市サンディエゴから北へ20マイルというところにある「海の上のカムデン」。かつては映画人たちのお気に入りの社交場であったホテルが廃業し、10年間野ざらしの状態に置かれた後、東部の実業家の手によって高級老人ホームに生まれ変わった。老人向けに設備は改善され、病院が付設された。入居者にはお好みの(もちろん老人向きの)食事が提供される。

 海軍提督の未亡人であるアンジェラは、同じく提督の未亡人であるキャレドニアと知り合ったことから、このホームに入居することになる。「誰より自分がすぐれているというプライド、年を経ても変わることのない若く賢くかわいらしい自己イメージ」(20ページ)をもつ彼女はホームの他の老人たちとうまくやっていくのは難しかったが、それでもキャレドニア、元女優で歯科医である夫(アルツハイマー病でホームの附属病院に入院している)とともに入居しているナン、銀行家の未亡人で名門の出であるステラとは仲良く過ごしている。

 ところがある日、入居者の1人常に本を読んで過ごしていたスイーティと呼ばれる元図書館司書の老婦人が死体で発見される。犯人は外部からこの施設に侵入したのだろうという入居者たちの考えに反して、地元の警察から派遣されたマーティネス警部補は内部の犯行だと考えて捜査にあたる。警察の態度に不満を持ったキャレドニアたち4人組は自分たちで独自の捜査を始めようと考える。そしてスイーティの思いがけない姿を発見する。第2、第3の事件が起きるなか、彼女たちはマーティネスから再三にわたり、真相解明は警察に任せて、危ないまねはしないようにと警告を受けるが、それにもかかわらず暴走ともいえる捜査活動を続け、その結果と(特にアンジェラの)推理はマーティネスを唸らせ、そして、次第次第に捜査は事件の真相に近づいていく。

 警察によって施錠されたスイーティ-の部屋に忍び込もうとしてアンジェラは悪戦苦闘する。「地上2メートルの窓から突き出した、ズボンとスニーカーを履いた2本の脚」(129ページ)というドタバタ喜劇は、反面老いの悲しみをたたえている。身軽で、屈強な若い探偵ならば苦も無くやり遂げることがドタバタ喜劇になるのである。ユーモア推理小説と書いたが、笑いはきわめて現実的な苦労と表裏の関係にある。
 よく考えてみると、アンジェラやキャレドニアと私はそれほど年は変わらない。私の周辺にはつい最近まで老老介護を続けてきた、あるいは現在も進行中という同年輩の人たちがいる。そういう意味では介護を受けるだけの彼ら(入居者の大部分は女性であるが、わずかながら男性もいる)は恵まれているのかもしれない。とはいうものの、老いは彼らの肉体にも精神にも大きな影響を与えている。そしてその影響はますます大きくなっている。

 推理の過程よりも、登場人物の個性の描写に重点があるような作品であるが、物語の進行に連れて事態を飲み込んできた老女たち(というよりアンジェラ)の推理は(マーティネス警部補の援助もあるのだが…)次第に冴えてくる。そのあたりに読み応えがある。作者であるコリン・ホルト・ソーヤーは大学講師としてまたミステリ作家として活躍、その後カリフォルニア州の老人ホームに入居し、「趣味のフランス料理を愉しみ、ブリッジを教え、世界じゅうを旅行し、ミニコミ紙を編集、自らの住む老人ホームにオフィスを構えている」(363ページ、訳者解説)という。老人には老人の考え、楽しみがあることを述べながら、その一方で老人が直面する現実もきちんととらえられていて、それがこの作品の厚みを加えている。例えば、ナンがマーティネスに向かって、夫の症状について語る場面:「気難しくなって、それになんだか、不安そうだった。自分がどこにいるのか、どうして家に帰れないのか、理解できないのよ。おかしいでしょ――どこに<家>があるのかも、わからなくなっているのに……それでも泣いて泣いて、家に帰るって駄々をこねるのよ。あたしが誰なのかもわからないのに。それでも私の手にすがりつくの――必死に。そしてただ、”家に連れてってくれ。家に帰してくれ„って何度も何度も……」(227ページ)。100歳を超えて、老人ホームで暮らしていたおばのことを思い出して仕方ない個所であった。

 第1作を読んだので、続編を読み進んでいこうと思っている。

日記抄(2月26日~3月4日)

3月4日(水)曇り後晴れ

 2月26日から本日までの間に経験したこと、考えたことから:
2月26日
 NHKラジオ英会話では比較のための言い回しを取り上げた。形容詞の最上級にはtheをつけるが、他人と比べず、自分として最高に…であるという場合にはtheをつけない。加山雄三さんが作曲、歌った岩谷時子さんの歌詞「僕は君といるときが一番幸せなんだ」は
I'm happiest when I'm with you.
となる。
 happyの比較級はhappier, 最上級はhappiestとなり、happyに否定の接頭辞をつけたunhappyは3音節語であるが、比較級はunhappier, 最上級はunhappiestとなる。(気になったので、本屋で受験参考書のコーナーに出かけて調べたのである。)

2月27日
 森茂暁『足利直義』を読み終える。優柔不断だが、いったん決心すると勇猛果敢な尊氏と、武家政権の復興に理想国家の実現の夢を見て直進しようとする直義、弟が兄を引きずるようにして室町幕府を成立させたが、ある事柄をきっかけとして兄弟は対立することになる。兄弟のどちらを魅力的に感じるか。石原慎太郎氏に足利尊氏、直義兄弟を題材とした戯曲があったと記憶するのだが、自分自身と裕次郎とを、足利兄弟に重ね合わせようとしたのであろうか。

2月28日
 NHKラジオ「攻略!英語リスニング」ではレンブラントを取り上げた。もう30年近く昔、ある学会に出席した際に途中から抜け出して、開催中のレンブラントの展覧会を見に出かけたことがあった。その学会で、「私の話を聴くよりもレンブラントを見に出かけた方がためになる」という発言をした先生がいたらしい。が、実際に出かけた私はというと、同じ時期に別のところでやっていたヴラマンクの展覧会を見に出かけた方がよかったかなぁと後悔しながら、勤務に戻った。美術を教えている職場の同僚にその話をしたら、それはヴラマンクの方がよかったと思いますよと言われたので、その後ずっと機会を窺って、やはり出張で大阪に出かけたときにヴラマンクの展覧会に出かけ、その色彩に圧倒されたことを記憶している。絵の好みは年齢とともに変わるものだが、今の時点でもやはりヴラマンクのような現代の画家の絵の方が、もっと昔の画家の作品よりも好きである。

3月1日
 椎名誠『笑う風 ねむい雲』を読み終える。写真と文章を組み合わせた本で、すぐに読めるはずだが、読み終えるのに2月いっぱいを費やしてしまった。スコットランドのアイラ島に幽霊が出るという話が書かれているが、そこまでいかなくても英国には幽霊屋敷がたくさんある。
 2月が終わり、3月に突入したが、買ったもののまだ読みかけのままの本が残っている:土田美登世『やきとりと日本人』、金澤正剛『中世音楽の精神史』、ジャン・ルフラン『十九世紀フランス哲学』、エスピノーサ『スペイン民話集』。
 いや、買っただけで、ほとんど読んでいない本も何冊かある(恥ずかしいのでここには書名をあげない)。読み散らす癖が抜けないのは困ったことだ。

3月2日
 NHKラジオ「ワンポイント・ニュースで英会話」はEUでは輸入を禁止されているdried bonito(かつお節)がミラノ万博で特例として輸入を解禁されたというニュース(EU TO ALLOW DRIED BONITO AT EXPO)を取り上げていた。
Shavings of dried bonito, known as katsuobushi, are used make soup stock in Japanese cuisene. But the European Union bans imports of this dried fish because of its production method that breaches EU regulations.
(かつお節として知られる乾燥したカツオを削ったものは、日本料理でだし汁をつくるのにつかわれる。しかし欧州連合はその製法がEUの規則に違反しているためにこの乾燥した魚の輸入を禁止している。) 

3月3日
 NHKラジオ「まいにちイタリア語」で「受け身のsi」の例文として登場した文:
Il cucchiaio non si usa per mangiare gli spaghetti. (スパゲッティを食べるのにスプーンは使われません。)
日本ではスプーンを使うほうが一般的ではないか。どこでこうなったのか?

3月4日
 NHKラジオ「まいにちイタリア語」で「sapere:会話で使える便利な表現」として登場した文:
Non perdiamo la speranza. Non si sa mai!
(あきらめないでおこう。何が起こるかわからないから!)

ということで、明日に希望をつなぐことにしよう。

ダンテ・アリギエリ『神曲 地獄篇』(26)

3月3日(火)曇り

 第25歌で、ダンテは地獄の第8圏第7巣窟で5人のフィレンツェ市民の霊が罰を受けているのを見た。それで第26歌は次のように書きだされている:
狂喜せよ、フィオレンツァ、おまえは大国なるがゆえに、
海を越え、地を越え、おまえは翼をはばたかせ、
ついに地獄の果てまでその名が轟きわたるとは、

盗賊どもの中に五名もの、地位ある
おまえの市民を見た。それゆえ私は恥じ入る。
さればこそ、おまえが偉大な栄光にまで昇ることはない。
(382ページ) フィレンツェ共和国最高執政官の居所であるバルジェッロ宮殿の正門には「フィレンツェは海上も、地上も、地球すべてを所有する」と刻まれていたそうである。イタリアの商人たちの活動は彼らの知っている世界のいたるところにその足跡を記したが、経済活動に没頭して強力な統一国家の形成を軽んじたイタリアの都市はその代償に苦しむことになるだろうとダンテは考えているようである。

 故郷の都市に対する複雑な思いを抱えながら、ダンテはウェルギリウスに従ってその歩みを続ける。
そして孤独な道をさらに進むのに
突き出た岩と岩との間、転がった岩塊と岩塊の間をぬって、岩橋に
手をついて足を前に運んでいった。
(383ページ) そのときのことを思い出しながら、彼は次のように歌う:
あの時私は悲しみに暮れた。そして今なお私は悲しみに暮れながら、
目撃した出来事に知性を向けている。
そして徳の導きなしに暴走しないよう、

才能の手綱をこれまでより強く引く、
素晴らしい星の並び、あるいは至高者が
私にこの前を与えているとしても、私がそれを自ら無にせぬように。
(384ページ) 「この時代の思想では、才能は星々の影響により与えられもするが、自分には「至高者」神から与えられた使命があるとダンテは自覚している」、これからダンテが訪れる「第8巣窟で出会う罪人の行為はダンテもする可能性があったことが示されている」(385ページ)と原さんは注記している。

 第8巣窟には偽りの忠告をした罪人たちが閉じ込められている。「彼らが人を動かす言葉と狡知を持っていたことは明らかだが、詩人であり、政治家として生き、外交官だったダンテにとって、その罪は他人事ではなかった」(590-591ページ)と解説される。第8巣窟の罪人たちは炎に包まれ焼かれている。ダンテはウェルギリウスに火の中にいるものが誰かを訊ねる。ウェルギリウスはギリシア神話における重大事件であるトロイア戦争のギリシア方の将であったオデュッセウスとディオメーデースであるという。彼らはトロイア滅亡の原因となった木馬の計略をはじめとする多くの詭計と悪知恵によって地獄で苦しんでいるのである。

 ダンテはこの2人が神話に出てくる英雄であることを知って、彼らと話したいと思う。ウェルギリウスはダンテの望みを受け入れながらも、彼らが誇り高いギリシア人であるがゆえに、ダンテと言葉を交わそうとはしないだろうと考えて、自分が話しかけるという。そして次のように語りかける:
「一つの火の中に二人でいるあなた方よ、
もしも私が生きている間に、あなた方の役に立ったのならば、
もしも現世にあって格調高き詩を著した時に、

私が大いに、あるいはわずかであれ、あなた方の役に立ったのならば、
ここを離れることなかれ。そしてあなた方の一人がどうか話したまえ、
彼はいったいどこを目指した末に、死によって失われてしまったのか」。
(389-390ページ) ウェルギリウスはその作品『アエネーイス』の中で、彼らについても取り上げて歌ったことを引き合いに出して、2人の魂の中のどちらかが、こたえることを願うのである。すると

古代の炎のひときわ大きな片方の角が
崩れはじめた、ざわめきながら、
さながら風が掻き回す炎のように。

そして頂を左右に振りながら、
あたかも話す舌のように、
声を外に解き放って言った。…
(390ページ) 答えたのはオデュッセウスの霊である。

 ダンテの時代に、ホメーロスの叙事詩『オデュッセウス』の原典は西欧から失われていた。「おそらくダンテは、中世に流布した教会説話や騎士物語化されたものによってホメーロスの叙事詩の概要を知っていた可能性が高い」(592ページ)と翻訳者である原さんは推測している。その上で、ダンテは自分なりの物語を組み立てている。

 魔女キルケーのもとを離れたオデュッセウスは、ホメーロスの原典では故郷のイタケーに戻ってその秩序を回復するのであるが、ダンテの物語では故郷や妻子、老父のことを忘れたわけではなかったが、もっと別の情熱に駆り立てられることになっている。
わが心に燃える炎に打ち克つことはできなかった。
私はなりたかった、世界の事物と、
人の悪と、理想の徳を知り尽くしたものに。

だから、私は、飛び込んでいった、果てしなく広がる大海原のまっただ中へ。
ただ一艘の船に乗り、私を見捨てることのなかった
あの数少ない仲間たちを連れ。
(392ページ) そして彼は地中海をその西の果てのジブラルタル海峡まで航海し、さらにそこを越えてこれまで誰も漕ぎだしたことのない海原に真理の探求を続け、月で時間を計りながら大西洋を南下、南半球にある煉獄山(ダンテとウェルギリウスが『煉獄篇』で昇っていくことになる)を見て神の怒りに触れ、海に沈められるのである。

 ダンテの描くオデュッセウスは神の意思に逆らい、自分の意思で真理を発見し、行動規範を定めようとして神の怒りに触れるのであるが、ルネッサンス以後の人々はまさに自分たちの意思で真理を探り、行動規範を求めていったのである。ダンテにおいてはまだキリスト教の秩序の中にとどまっていた人間の情熱が、彼の次の世代以後の人々によってさらなる飛躍を見せることになる。

木々の声

3月2日(月)晴れ

木々の声

常緑の木々もあるし
そろそろ枝から芽が吹き出ようとしている木々もある
大部分は庭木だが
むかしから
このあたりに自生していた木も
まだ残っている

住宅地が開発され
再開発され
大きな家が小さくなり
大きな庭が小さくなり
そのたびごとに
木々は減ってきたが
それでもいくらかは残っている

残った木々が
新しく家を建てるために
運ばれてきた材木を
眺めている

我々はまだ生きているが
彼らは切り倒されて
ここまでやってきた

同じ樹木同士
それぞれの故郷や
その夢について
語り合いたいのだが
彼らの苦労と
心配とを聞きたいのだが
彼らの語ろうとする
声を奪われてしまったようだ

我々は黙って彼らを見ている
彼らは黙って我々の前にいる

それでもどこかで
声が通うことを信じよう
そしてその声が
人間たちに伝わることを願おう

『「個性」はこの世界に本当に必要なものなのか』(5)

3月1日(日)雨

 一種の「思考停止ワード」としてその内容や性格について詳しく吟味されないまま、世間で様々に議論されている「個性」について、東京大学教養学部の各分野の研究者たちがそれぞれの専門的な知見を生かして縦横に「個性」について語ってきた。これまで認知神経科学、文献学、生態学、哲学、物理学、統計学、政治学、天文学の各領域の中から1人ずつの研究者が、それぞれの意見を自由に述べてきた。

 第9講では言語学の立場からトム・ガリーさんが「個性」について論じている。言語学という領域を代表しているだけでなく、発言者中でただ1人のアメリカ人であり、母語が英語であるという点も他の論者と異なっている。言語は人間どうしのコミュニケーションのために使われる記号の体系であるから、共通性を求められている。その一方で言葉の意味についても、発音にしても、それぞれの使い手の間でちがいが生じることは避けられない。その「ちがい」として現れ出ているものこそが、個性なのである。このような個性を消し去ることは難しい。
 それだけでなく、個性が言語の共通性の部分を変えていくこともある。言語の変化はその言語を使っている人々全体の個性の変化を反映するものである。これはどんな言語についても当てはまることであり、英語も例外ではない。「使う人たちの個性にさらされて、英語もまたさまざまに変化しはじめている」(158-159ページ)。英語が国際交流やビジネスのために広く使用されると、英語でコミュニケーションをしていても、そのどちらか、あるいは両方がノンネイティブな英語の話し手である場合が多くなってきている。そうなると、英語は「英語圏外の個性を反映したもの」(159ページ)に変わらざるを得ない。今や世界の英語の種類は数えきれないほどになっていて、いずれは国際共通語として英語を使うことはできなくなるかもしれないほどである。〔かつてのラテン語の運命に似てきたように思われが、英語の使われている範囲はもっとずっと広く、多様性もまた大きいと考えるべきであろう。〕
 日本語も、社会がさまざまなコミュニティーに細分化される中で多様化しており、それを一つの正しい日本語でまとめようとするのは個性を否定するものであろう。一方で、各個人の自由な個性を認めるべきであり、他方で共通なコミュニケーションを成立させていかなければならない。「個性は人間にとって一番重要なことであるのは間違いないだろうと思います。でも同時に、一番問題なことでもあるのではないでしょうか」(163ページ)と結ばれている。

 第10講では広域科学専攻の教授(もともとの出身は化学)の真船文隆さんと博報堂ブランドデザインの代表を務めながら教養学部付属教養教育高度化機構の特任教授でもある宮澤正憲さんがまとめの対談を行っている。それぞれの分野の専門家が、自由に議論をしてきたが、各議論の中で実は「個性」は「共通性」と「固有性」の中で理解されるべきだという認識はかなり一致していたのではないかと指摘される。「個性重視」という場合の「個性」には、「社会にとって価値のある固有性」というような、ある価値判断が含まれていることを見落とすべきではないという。博報堂ブランドデザインでは共通性や規範に即した「だから」という側面と、「固有性」や「革新」を秘めた「なのに」という側面とがバランスよく備わったアイディアの開発を目指している。
 共通性を考えるということは、たとえて言うと、独走ではなく、集団の先頭を走るフロントランナーとして研究開発を進めていくということである。そうはいっても革新的な研究は他人の追随を許さないような発想から生まれる場合が多いことも認めなければならない。ただ、それぞれの居場所で自分の個性を発揮するということも個性の在り方として認められるべきである。
 個性が生かされるためには、個性を発揮するためのトレーニングをしていく必要もある。例えば正解のない課題への取り組みなどを学校教育の中に組み入れていくことも必要ではないか。高等教育においては自発的に学ぶ場を作っていくことが特に求められる。また個人の個性と組織の個性は分けて考える必要がある。個人の個性は生れつきの部分が小さくないが、組織の個性は自分の意思で形成できるものである。
 最後に、個性は革新のための原動力である、他人ではなく自分でなければできないという自覚がなければ研究はできないという指摘と、その一方で共通性とのバランスを大事にすべきだという指摘とが結論的に述べられている。

 結論はかなり常識的なものになっているが、そこにたどりつくまでの議論の中で多くの事例が取り上げられ、さまざまな意見の共通性と独自性に読者は気づいてきたわけで、それだけの裏付けを以て結論されていることを重視すべきであろう。議論の過程に裏付けられた結論の力強さを感じて、読み終えることができたのではないかと思う。

 
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