『太平記』(30)

2月27日(金)晴れ

 奈良の般若寺に潜伏されていた大塔宮尊雲法親王は幕府方の探索を受けたが、大般若経の唐櫃に隠れて危うく難を逃れることができた。しかし、長くとどまっていては危険なので、付き従っている僧や武士たちとともに、熊野の方に落ち延びようとされた。宮を始めとして、一同山伏の姿に身をやつし、「田舎山伏の熊野詣でする体(てい)にぞ見せたりける」(251ページ)。

 法親王は高貴の御生まれであるので、長い距離を歩かれるのは定めしご苦労の多いことであろうと、供のものは心配していたのだが、案に相違して元気に歩を進められた。一行は宿場ごとの勤行と神社ごとに幣を手向けて神をまつることを怠りなく続けていたので、道中で出会う修行者たちから正体を怪しまれることもなく、旅を続けることができた。尊雲法親王が仏道の修行よりも武芸の修練に明け暮れていたという話が第2巻に出てくる。父である後醍醐天皇が笠置山の落城後、楠正成の楯籠もる金剛山に向かわれようとして、なかなか先に進むことができなかったと第3巻に書かれているのとは大違いである。

 こうして一行は切目の王子(きりめのおうじ=和歌山県日高郡印南町にある熊野神を分祀した末社)に到着した。ここで法親王は熊野の神に終夜祈りをささげられた(神仏が分離していないのである)。「丹誠無二(たんぜいむに)の御勤め、感応もなどかなからんと、神慮も暗に計られたり」(252ページ、この上ない真心を込めたご祈祷であり、神仏の感応もないはずがないと、神慮もそれとなく予測できた)。夜を徹してのご祈祷の中でお疲れになったので、しばらくうとうとされていると、神を左右に分けて耳のあたりで束ねた天の御使いの童子が夢に現れて、熊野三山の一帯は人心が落ち着かず、安全とは言えない。十津川(=奈良県吉野郡十津川村)の方に向かわれて、そこで時節の到来を待たれるのがよいだろうと告げる。これぞ熊野の神の御告げと法親王は喜んで奉幣をささげ、十津川をさして山道に分け入られた。

 約30里ほどの道のりであったが、人家もなく、険しい山と谷が続き、数日間に及ぶ山道の旅で、一行は疲れ果ててしまう。それでもようやく十津川にたどりつき、法親王を道端のお堂で休ませて、お供の者たちがあたりの民家を訪ね、熊野参詣の山伏が道に迷って難儀をしているというと、人々も同乗して粟飯や橡の粥などを分けてくれた。一行はそれでどうやら飢えをしのぐことができ、2・3日を過ごした。

 一行の中の光輪坊源尊は比叡山から法親王にずっと従ってきた僧侶であるが、このあたりで最も有力な人物の家だと思われるところに出かけて、ここは誰の家かと尋ねると、竹原八郎入道の甥の戸野兵衛という武士の家であるとわかる。かねてから武勇に秀でた武士として聞こえたものである、ぜひ、この人物を頼ろうと、案内を頼むと、この家に物の怪に取り付かれた病人がいるので、何とかしてほしいといわれる。そこで法親王こそ「効験(こうげん)第一の人」であるといって、祈祷をしてもらうと、忽ちにつき物が落ちて、病気が快癒する。戸野兵衛の一家では喜んで、何日でも逗留してほしいと申し出る。田舎山伏に姿をやつしてはいるが、もとは天台宗の頂点にいた僧である、その祈りが通じないわけがないというわけであろう。

 こうして10日以上がたったある夜、主人の戸野兵衛が一行を相手によもやま話をしている中で、大塔宮が熊野の方に落ち延びようとされているという噂があるが、熊野三山の別当(三山を統括する僧)である定遍僧都は「二心(ふたごころ)なき武家方」(257ページ)なので、宮を見つけたらすぐに幕府に通報するであろう。このあたりは要害堅固な土地であり、人々は信頼できるものばかりで、しかも勇猛である。むかし平家の大将であった平維盛もこのあたりに身を隠して源氏の世の中になっても無事に過ごしたほどである(そういう伝説もあったと注記されている)という。宮は喜ばれて、もし大塔宮がこのあたりの人々を頼りにしたら、どうだろうかと質問されると、私が一声かければ、手出しをするものはこのあたりにはおりますまいと答えた。

 それで安心した一行は自分たちの身の上を明かす。始めは信じなかった兵衛も、彼らが本来の山伏ではないことに気付き、慌ててこれまでの無礼を詫びる。そこでさっそく粗末ではあるが、御所となる建物を建てて、宮をお守りする。兵衛の叔父である竹原八郎入道がやがてこのことを知って、宮を自分の館に招き入れてお守りするようになった。宮はここで過ごすうちに安心されて、還俗された。入道の娘が宮の御寵愛を受けるようになり、入道の一族だけでなく地域の人々全体も宮方に心を寄せるようになった。

 南北朝時代の歴史を研究している森茂暁さんの近著『足利直義 兄尊氏との対立と理想国家構想』(角川選書)を読み終えたところである。直義は兄尊氏を助けて室町幕府の基礎を築くのに大きな功績を立てたが、幕政の矛盾が深化する中で兄と対立して殺害され、幕府にとって「不吉な」存在とされた。森さんは「このように考えてくると、直義によく似た歴史的立場の人物として、後醍醐天皇の皇子護良親王が想起される。護良は仏門から俗世間に立ち返り、父後醍醐天皇の片腕として鎌倉獏討伐に大きな功績を残した武人親王であるが、最後は権力闘争に敗れてその輝かしい功績に不似合いな悲惨な最期を遂げている。この護良が背負った歴史も同様に「不吉」として封印された」(同書、20ページ)と直義と護良親王の運命の共通性を指摘しているが、その直義に護良親王が殺されるのはどういう運命の皮肉であろうか。いずれにしても、そうなるのはまだまだ先の話である。今のところ護良親王には悲劇の影はないように見えるが、『太平記』の作者は親王の従者の中に武蔵坊、片岡八郎と源義経に従った郎党と同じ名前の者を入れている。「大塔宮の物語には、義経伝説の影響がみられる」(251ページの脚注)ということは、すでに悲劇を予告しているのであろうか。なお、この書物の41ページには鎌倉市二階堂理智光寺跡の護良親王墓所の写真が掲載されていることも付記しておこう。

 以前、奈良で学会があったときに、時間的な余裕があったので、般若寺か不退寺のどちらかに出かけようと思って、結局不退寺の方に出かけたことを思い出す。そのころは『太平記』よりも『伊勢物語』(不退寺は在原業平ゆかりの寺である)の方に興味があったのである。 
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サイレン

2月26日(木)雨が降ったりやんだり

サイレン

昔の恋人から
人生について
言い聞かされている
夢を見ていた

なかなか
人生の方向が決まらないまま
別れてしまったことを
思い出しているうちに
目が覚めた

寝室の外を
急病人を運んでいるらしい
救急車のサイレンが
遠ざかっていった

人生の方向がわからないまま
人生について教えろという
難題を抱えさせられた時に
駆けこむ場所はなかった
サイレンを鳴らして走りたかったが
行き先がなかった

病人の無事を
願いながらも
今度は
もっと別の夢を見たいと
目を閉じる

日記抄(2月19日~25日)

2月25日(水)晴れたり曇ったり

 2月19日から本日にかけて、経験したこと、考えたことから:
2月19日
 「ピタのつぶやき」というブログの中で、ダスティン・ホフマンについて演技派俳優だという記事があったが、もう少し付け足すことがある。大塚博堂(1944‐1981)の『ダスティン・ホフマンになれなかったよ』(1976)という歌があり、そこではホフマンの初期の出演作である『卒業』(1967)と『ジョンとメリー』(1969)について触れられていたと記憶する。1960年代の後半から1970年代の前半にかけて若者の人生の悩みを描く映画に主演して多くの共感を得ていた俳優だったのである。さらにその後、多くの問題作に出演したことで、新しいイメージが加わったことは否定できないが、彼が時代の雰囲気をよく体現していたのはやはり初期の出演作においてではないかと思う。

2月20日
 NHKラジオ「まいにちイタリア語」応用編『ニッポンを話そう』では「日本神話」を取り上げた。伊弉諾、伊邪那美の男女2神が日本の国土やさまざまな神々を生み出すが、伊邪那美は火の神を産んだためにやけどを負って死んでしまう。伊弉諾は彼女を連れ戻そうと黄泉の国を訪れる。ところが地上に戻る際に彼女の姿を見てはならないという約束を破ったために、彼女の怒りを買って、怪物たちに追いかけられる。何とか地上にたどりついた伊弉諾は、出口をふさいで難を逃れた。この話が、ギリシア神話のオルフェウスとエウリディケの物語に似ているということが話題になった。
 このほか、素戔嗚尊が八岐大蛇を退治する話もペルセウスとアンドロメダの話に似ていると考える人がいる。確か松本清張がそんなのは偶然の一致だと一笑に付していたと記憶するが、神話学者の中には関連性を認める人が少なくない。あるいは学者の中にはどうしても日本と西欧とを結び付けたいという深層心理が働いているのかもしれない。

2月21日
 新設の大学の中には「講義は中学レベル、入試は同意で合格」という驚くべき低水準のものがみられるということがニュースとして取り上げられていた。そういう大学の設置にゴー・サインを出しておいて、後になってから水準が低いのは問題だといっていちゃもんをつけるお役所の姿勢の方が問題ではないかという気がする。低水準の大学は市場原理で淘汰されるはずだと思うのだが、日本の大学を見ていると、市場原理が健全に機能しているように思えないのがどうも気になるところである。
 このニュースで問題になっているのは、大学間の格差であるが、同じ大学の中でもよく勉強している学生とそうでない学生の間にできる格差は相当なものではないかという気がする。自分が学生時代のことを考えてもそうだったし、教師をしていたことのことを考えても同じことが言える。大学で人並みの努力をすれば、学業において相当な前進が得られるはずなのである。強調すべきはむしろこのことではないかと思う。

2月22日
 映画を見に出かけようと思ったのだが、体調が悪くて断念した。月末に映画関係の集まりに誘われているのだが、それまでに回復するだろうか。

2月23日
 竹内薫『素数はなぜ人を惹きつけるのか』(あまがい繁子さん、コメントを有難うございました)の中でラテン語で6はsexというとの個所があり、改めてラテン語の数詞をさらってみようと思った。1~15までを書いておくと: unus, duo, tres, quattuor, quinque, sex, septem, octo, novem, decem, undecim, duodecim, tredecim, quattuordecim, quinquedecim
ということで、11以上は日本語とは逆に1+10,2+10・・・という形になっているが、英語などに比べればわかりやすい。ただし、18はduodeviginti, 19はundevigintiで20-2,20-1という数え方をするので、ここのところは厄介である。

2月24日
 NHK「ラジオ英会話」の時間でクリスティーナ・ロセッティChristina Rossetti (1830-1894)の「思い出せたら」(I Wish I Could Remember)という詩を取り上げた。ケイティ・アドラーさんによる朗読の背景としてチャイコフスキーの『四季』の中の「舟唄」が流されたのだが、アドラーさんも言っていたように、大変効果的であった。ロセッティが英国に移住したイタリア人家庭に生まれたことを考えると、この組み合わせはなかなか面白い。むかし、ピアノをたたいていたころは、『四季』の中の気に入った曲を弾いたりもしたのだが、今では全く指が動かなくなった。考えてみれば惜しいことをした。

2月25日
 NHKラジオ「まいにちドイツ語」ではライン下りが題材になっているが、本日は「ローレライ」が話題として取り上げられた。「ローレライ」というと思いだすのは、『サザエさん』で晩酌でいい調子になっている父親(波平さん)が中学で習った英語の歌を歌う。母親(フネさん)とサザエさんは笑いをこらえるのに必死だったのだが、終わってから素敵だったわとほめて、もう1曲ということになり、フネさんがローレライがいいですわというと、波平さんが今歌ったのがローレライだという。酔っぱらいの調子はずれの歌は、なんだかわからないということだろうが、問題は、「ローレライ」はドイツ語の歌であって、英語の歌ではないことである。

ダンテ・アリギエリ『神曲 地獄篇』(25)

2月24日(火)晴れたり曇ったり

 24歌の終わりでダンテはピストイアの盗賊であるヴァンニ・フッチの霊に出会い、不吉な予言を受けた挙句に、「俺がこれを話したのは貴様をどうあっても苦しませるためだ」(364ページ)と宣言される。第25歌に入っても、引き続き舞台は盗賊たちが閉じ込められている第7巣窟に設定され、フッチの言葉がいよいよ終わる。
己の言葉が終わると盗賊は
指を突き立て拳を固めて両手を高く上げた、
叫びながら「喰らえ、神、てめえのためにしてやってんだぜ」。
(366ページ)

 神の罰を受けているにもかかわらず、その神を悪罵する恐るべき言葉である。忽ち、彼は地獄の蛇によってその首を絞められる。
暗闇に沈む地獄のあらゆる圏を通じて
これほど神に対し高慢な霊を見たことはない、
(367ページ)とダンテは言う。そして蛇による罰のために言葉を失った、フッチの霊はダンテの視界から消えてゆく。

 次に現れたのはカークスという名のケンタウロス(第12歌でも登場した半人半馬の存在)である。彼は自分の兄弟たちの家畜を詐欺を働いて盗んだために、彼らよりも重い罰を受けているのである。「このケンタウロスをこの巣窟の悪魔と考えるか、罪人の一首と考えるかで議論は分かれている。基本的には悪魔も罪人も同じく神の罰を受け、底に近くなればなるほど区別がつかなくなる」(367ページ)と注記されている。

 カークスが通り過ぎた後、ダンテとウェルギリウスの前には3人の霊が現われる。彼らのうちの1人はダンテの妻の実家であるドナーティ一族のチャンファの行方を尋ねていたので、気がかりになったダンテは彼らの会話に耳を傾けようとする。ところが、彼らは六本の足をもつ蛇に襲われ、奇怪な変容を遂げていく。超自然的な現象が、ダンテのペンで生々しく描きだされていく。
・・・
変わり果てた姿は二つでありながら、そのどちらでもなく
みえた。こうしてその姿でゆっくりと歩き去った。
(373ページ) さらに別の蛇が現われて、残された別の2人を襲い、彼らもまた奇怪な変容を遂げる。
 ダンテが地獄でその罰を見届けた5人の人物はすべて彼の故郷であるフィレンツェの関係者であった。
獣と化してしまった魂は、
ヒューヒュー音を立てながら谷を逃げてゆく。
そして片方の者はその後ろから声を出そうとして唾を吐く。
(379ページ)

 (登場する)「各人物たちの来歴が不明なので、変身と彼らの罪との関係は不明だが、ここでも問題は党派間の争い、都市国家の戦争、内乱なのは明白であり、とくにフィレンツェの5人の罪は、分裂に分裂を重ねた市政の凄惨な内乱に深く関係したことにある」(589ページ)と翻訳者の原さんは注記している。ここではあまり詳しくは紹介しなかったが、罪人たちの霊が罰を受けている様子を描きだすダンテの筆致の生々しさは詩文学におけるリアリズムの1つの極致であろう。こうしてダンテとウェルギリウスの旅は、フィレンツェとトスカーナ地方との関係でも容易ならざるものになっていきそうである。

愚問賢答

2月23日(月)晴れ、温暖、17:01頃地震があった。

 もう30年以上昔に死んだ私の父親があるとき、山本七平(1921-1991)の講演を聞きに行ったと話してくれたことがある。講演の内容がどのようなものだったのかについての記憶はない。記憶しているのは、講演の後で客席からこんな質問が出たという話である。「ローマはなぜ滅びたのですか?」 これは愚問である。山本はローマ史の専門家ではないからである。これに対して山本は苦笑していたが、「ギボンの『ローマ帝国衰亡史』でもお読みになったらいいでしょう」と答えたそうである。

 山本七平は好きではないが、この答え方は気に入っている。歴史上のいろいろな問題について、自分の頭で考えることが必要で、他人に結論を教えてもらうのはあまりにもつまらない。自分で本を読んで考えなさい、まさに愚問賢答の一例であろう。

 賢答であるというのには、もう一つ理由がある。ギボンの『ローマ帝国衰亡史』は私も途中まで読んだ記憶があるが、キリスト教のことをよく言っていない、キリスト教のおかげでローマは滅びたといっているような書物である。クリスチャンの山本がその本を読めというのはなかなか奥の深い発言ではないかと思う。

 また、「ローマが滅びた」というのは一面的な見方である。確かに統治機構としてのローマ帝国は姿を消したが、その遺産は様々な形で現在にまで影響を残している。ヨーロッパの中でもローマ帝国の一部であった国々とそうでなかった国々とでは微妙な違いがある。ローマ帝国の言語であったラテン語はフランス語、イタリア語、スペイン語、ポルトガル語、ルーマニア語などに姿を変えて、今でも多くの人々の生活の中で生きつづけている。ギボンが『ローマ帝国衰亡史』を書いたということ自体、ローマ帝国の記憶がヨーロッパの人々の中に鮮明に生き続けていることの証拠である。アッシリアやヒッタイトといった古代の帝国とはその点が違う。「ローマが滅びた」というのは、あくまで一つの歴史観であって、そうでないという歴史観も存在しうる。さらにまた、ローマは滅びてしまってよかったという考えもあるだろう。

 もう一つ注意しておきたいのは、ローマの運命が日本人にとってどんな意味をもつのかを考えてみる必要があるということである。日本の国籍は一般に血統によって決められているが、これは古代ギリシアのポリスの場合と同じで、ローマの場合とは違う。ローマでは一定の財産と教養とがあればだれでもローマ市民になれた。ということは、ローマと日本は国家としての性格がかなり違っているということである。だから、そういうローマの運命になぜ、日本人として興味をもつのかということは、深く考えてみる必要があるのではないかと思うのである。

 歴史の見方は多様であり、その多様さを認識しながら自分の見方を深めていくところに楽しみがある。キリスト教信者であった山本七平が、反キリスト教的な歴史書の意義を認めながら、歴史に接していたことから多くのことを学べるはずである。

『「個性」はこの世界に本当に必要なものなのか』(4)

2月22日(日)雨のち曇り

 さまざまな学問分野において、個性はどのように位置づけられているのか、あるいはどんな役割を果たしているのかを問題にしていくことで、個性の本質を探ろうというのがこの書物の狙いであり、東京大学教養学部に属する各分野の研究者たちがかなり自由に自分の意見を語っている。これまで取り上げた1~6章では、認知神経科学、文献学、生態学、哲学、物理学、統計学の各分野からの意見が述べられた。一方で個性は、生き残りのための可能性を高めたり、新しい領域を開拓するのに貢献するものとして捉える意見があり、かと思うと結果として形成されるものだとか、一種の呪いだとかいう意見も述べられてきた。

 第7講では政治学の立場から鹿毛利枝子さんが個性について語っている。
 政治は社会の欲求にこたえることをミッションとしているので、多様なニーズを反映させていくうちに、その個性を形成するという。欲求は社会の状態によって変化するものであり、政治の個性もどんどん変化していく。しかしすべての欲求が政治に反映されるわけではなく、選挙制度がその中で大きな役割を果たしている。小選挙区制は欲求の多様性を反映しにくく、逆に比例代表制はもっともよく反映する。しかし、選挙制度以外にも、人々の欲求の意思表示を阻む要因がある。政治的な意見の異なる人々が頻繁に交流することになると、各人が自分の意見がよく分からなくなり、その結果多くの人々が投票に行かなくなるという現象が観察されている。逆に、政治的な意見が似通った人ばかりが頻繁に接するようになった場合は、人々は投票行動に積極的になるという。
 これらのことからもわかるように、政治と深いかかわりをもつのは個人よりも団体のレベルでの欲求である。その意味では日本は団体の活動を支える仕組みが十分に整ったものではなく、寄付行為が文化として十分に根付かず、制度的にもまだ整備されていないのが問題である。
 国家の政治制度は、すでに実績のあるものや結果の出ているものを他の国々から取り入れることで作られてきている。日本を含めて多くの国は、それぞれの時代に世界をリードしている大国や、文化的に優れている国を手本にして政治制度を決めてきた。その意味で政治の個性は「いいとこどり」によって形成されてきたといえる。少なくとも、政治の場合には「個性とは、さまざまなアイディアを借りる中ではぐくまれるもの」と言えるのではないか。
 鹿毛さんの話は、これまでとはだいぶ様相が違う内容になっているが、現在の日本の政治や社会の問題を考えるうえで重要な手掛かりが含まれていて、それなりに興味深い。外国の制度を「いいとこどり」しながら自国の個性を形成していくというのは、政治だけのことではないと思うので、この点も参考にしていきたい。

 第8講では天文学の立場から蜂巣泉さんが個性について論じている。
 恒星にせよ、惑星にせよ、星の個性の基本的な部分は、ほとんど生まれたときの初期設定で決まる。中でも大きな決め手となるのは質量である。とはいうものの、惑星の個性についてはわからないことが多い。というのは、惑星には比較の対象がなかったからである。太陽系の外にある惑星のことを「系外惑星」というが、その存在は長く確認されていなかった。そのため、比較のしようがなかったのである。
 しかし1995年にジュネーブ天文台の研究者たちが、ぺガスス座51番星という恒星に系外惑星を発見したことにより、事情は一変した。系外惑星が見つかって、比較の対象が出てくると、惑星について今までわからなかったことがどんどんわかってきたり、今までは当たり前だと思っていたものが、実は特別な個性だったとわかることが出てきた。
 その中で、地球の個性は、それ以上に分かっていないものだといえるかもしれない。地球と厳密に比較できるような系外惑星は、まだ見つかっていないからである。地球がもつ究極の個性ともいえる声明の存在条件についても、まだ確かなことは言えない。もっと惑星同士、惑星系同士の比較を進めていく必要がある。自分だけをサンプルにしてい売るうちは、自分のことは把握できないものである。「外にあるものを見るからこそ、内側のことがわかるんです。少なくとも天体を見るかぎりでは、そういえると思いますね」(147ページ)と蜂巣さんは話を結んでいる。

 今回の2つの話は、これまでの流れとは様相を異にするもののように思われるが、個性は他者からの影響を受容して形成されるという鹿毛さんの議論、個性を理解するためには外に目を向け、比較分析をする必要があるという蜂巣さんの議論はそれぞれ重要な論点を提示するものであるといえよう。選挙の投票率の低さが、政治的な意識の低さの反映ではないという鹿毛さんの議論は、個性の問題とは別に傾聴すべき意見で、そうなると低投票率を前提とした政治的な意思決定の仕組みを考えていく必要もあるのではないかと考えさせられた。

『太平記』(29)

2月21日(土)晴れ後曇り

 異例であるが、2日続けて『太平記』の内容を紹介することにする。

 大塔宮二品親王(=尊雲法親王、後に還俗して護良親王)は、奈良の般若寺に身をひそめながら、笠置山に立てこもられている父=後醍醐天皇の安否を気遣っておられたが、笠置城は落城し、天皇も囚われの身となったことを聞き、自分自身の身の安全もおぼつかなくなった。山野の中に身を隠すことも、どこかの村里に紛れ込むことも安全とは思われず、やむを得ず不安を抱きながらも寺にとどまっておられた。

 そうこうするうちに興福寺の門跡寺である一乗院の僧である好専という僧が、どこからか宮の噂を聞きつけて、500人ほどの部下を引き連れて未明に般若寺へと押し寄せてきた。いつもならば大塔宮につき従うものが何人かいたのだが、この時に限って一人もいないので、防戦して、何とか時間を稼いで逃げるということもできない。押し寄せた僧兵たちが寺の中を固めているので、逃げようにも隙間がない有様である。こうなれば自害をするよりほかはないと、上半身裸になられたが、事態がきわまってから腹を切るのはたやすい、まだ助かる見込みが万が一にでもあるのならば隠れてみようと考え直されて、仏殿の方をご覧になると、般若寺の僧侶が読みかけてそのままにしておいた大般若経を収める唐櫃が3つ並んでいた。唐櫃というのは脚の付いた中国風の長櫃である。

 そのうち2つの櫃には経典が入っていてふたが閉まったままであり、残る1つは半分ほど経典を取り出してあって蓋が空いたままであった。この蓋が空いたままの櫃の中に、体を縮めてお入りになり、その上に経典を引きかぶり、その下に隠れて体が見えなくなる呪いである隠形(おんぎょう)の呪(しゅ)を唱えられた。もし探し出されてしまえば、そのときは自害しようと、氷のような刀を抜いて腹に押し当て、「ここにいたぞ!」という声が聞こえれば、すぐ様刀を突き立てようという覚悟をされていた。その心中は測るべくもない。

 僧兵たちは仏殿に乱入し、仏壇の下、天井の上までもくまなく探したが、宮の姿を見つけることはできない。どうしても見つけることができず、般若経の入っている櫃を開けてみようということになり、蓋の閉まっている2つの櫃を開けて、経典を取り出して、底までも調べたが、宮はいらっしゃらない。蓋が空いている櫃や見るまでもないと、いったん外に出ていった。宮は不思議にも命が助かり、「夢に虎の尾を踏む心地して、なほ櫃の中におはしけるが」(249ページ)、もし僧兵がまた戻ってきて、詳しく探すことがあるかもしれないと思案されて、先に兵たちが探していた櫃の中に隠れ場所を替えてお入りになった。

 案の定、兵たちはまた戻ってきて、「この前は、蓋の空いていた櫃を詳しく見なかったが、気がかりであるぞ」と、この櫃の中の経典を全部出して調べていたが、やはり宮を見つけることができず、からからと打ち笑って、「大般若の櫃の中をよくよく探したれば、大塔宮は入らせ給はで、大唐(おおとう)の玄奘三蔵こそありけれ」(250ページ、大塔宮は入っていらっしゃらず、同じ「おおとう」でも大唐の玄奘三蔵が翻訳した大般若経が入っていたという洒落である)と冗談を言って、みんなで笑いながら、外へと出ていった。こうして命が助かったのも神仏のご加護のたまものであろうと、大塔宮は感涙にむせぶのであった。

 大塔宮の機転が身を守ったという話であるが、宮の身柄を捜し出し損ねた兵たちの飛ばしたしゃれが秀逸で、中世を通じて有数のものとしてよく引用される。大塔宮が助かったのは、宮の機転に加えて、神仏の加護、あるいは時の運が宮方に有利に働いていたためであると作者は言いたいようである。とはいうものの、奈良も安全でないことははっきりしたので、大塔宮は新たな隠れ場所を捜して、般若寺を立ち去ることになる。 

『太平記』(28)

2月20日(金)晴れ後曇り

 前回は、相模入道(北条高時)が田楽に熱中し、田楽師を呼んでは自らも歌い踊っているうちに、天狗が現われて奇怪な舞を舞い、天下の大乱を予言するという出来事が起きたことを取り上げた。高時はそんな目にあっても、依然として行動を改めようとはせず、珍奇なものを愛好する癖をやめなかった。

 或る時、庭先に犬が集まってかみ合っているのを面白い様子だと思い、すっかり夢中になってしまった。そこで諸国に向けて、あるいは国の税や年貢として犬を集め、またあるいは公家や名門の武家に話を通じて犬を集めたので、各国の守護、刻し、一族の大名が犬を10匹、20匹と揃えて、鎌倉に連れていった。その間、エサには魚や鳥の肉を与え、犬をつなぐために金銀の飾りをつけた紐を用いたので、そのために消費した額は少なからぬものであった。犬を輿にのせて通行したので、道を急ぐ旅人も、幕府の業務による通行とあっては下馬して道を譲らざるを得ず、本来ならば田畑の仕事で忙しいはずの農民も、人夫として徴用されて輿を担がなければならないという有様である。このような愛玩ぶりだったので、肉類を餌として散々食べたうえに、豪華な衣装を着た犬が、鎌倉中にあふれ、4,5千匹に達したという。

 月に12回は犬合わせ=闘犬の日として定められ、北条氏一族のほか、北条得宗家譜代の家来たちとそれ以外の御家人たちが集まってそれを見物する。犬たちは2つの陣営に分かれて、それぞれ100匹から200匹が放たれて、戦うことになり、上になったり下になったりしながらかみ合う声が遠くまで聞こえた。心無い人々は、これを見て、戦場の様子のようで面白いといい、心ある人々は荒野で犬が死体を争う様に似て、困ったことだと眉をひそめていた。それはすべて人間の争いや死の前兆を全長を示すものであり、呆れた振る舞いであった。

 北条高時が闘犬を愛したのは本当の話かどうかわからないところがあり、あるいは他の逸話が紛れ込んできたのかもしれない。いずれにしても、『太平記』の作者は北条氏の支配がやがて終わろうとしていることを様々な形で語ろうとしてきた。その一方で、以下のような説話も挿入している。以下、原文をそのまま紹介し、口語訳していく。

 そもそも時すでに澆季に及んで、武臣、天下の権を把る事、源平両家の間に落ちて度々に及べり。
=いったいに時勢は既に末世をむかえて、武士が政権を支配するようになり、源平両家がその支配権を何度か握ってきた。
しかりと雖も、天道満てるを欠くゆゑに、あるいは一代にて滅び、あるいは一世を待たずして失へり。
=とはいうものの、満ちれば必ずかけるという天の道理のために、平清盛、源頼朝は長くその政権を維持することはできなかった。
今相模入道の一家(いっけ)天下を保つてすでに九代に及べる事、故あるべし。
=今相模入道(北条高時)の一家(=北条一族)が天下を保ってすでに9代となることには理由があるはずである。鎌倉幕府の執権になった北条一族の人物として高時は14人目であるが、得宗として、次のように数えて9代目ということのようである。①時政、②義時、③泰時、時氏、④経時、⑤時頼、⑧時宗、⑨貞時、⑭高時(時氏は執権にならず、経時と時頼は兄弟)。

 鎌倉草創の初め、北条四郎時政、榎島に参籠して、子孫の繁盛を祈ること折なり。
=頼朝が鎌倉に幕府を開いた頃、北条四郎時政は江の島に参籠し、子孫の繁栄を一生懸命に祈った。
三七日に当たりける夜、赤き袴に柳裏の衣(きぬ)着たる女房の、端厳美麗なるが、忽然として時政が前に来たつて告げて曰はく、
=21日目にあたる夜に、赤い袴に表は白、裏は白みを帯びた青の襲(かさね)の衣を着た端正で荘厳な美しさを見せる女性が突然時政の前に現れて、次のように述べた。
「汝は、前生(ぜんしょう)に箱根法師にてありし時、六十六部の法華経を書いて、六十六ヶ国の霊地に奉納したる善根によつて、再びこの国に生まるることを得たり。
=「お前は、前世で箱根神社の社僧であったときに、六十六部の法華経を書いて、日本全国の六十六ヶ国の霊地に奉納した善根のために、再びこの国に生まれることを得たのである。この時代、日本は66の国と2つの島とに分けられていた。ここでは2つの島が省かれている。
されば、子孫長く日本の主となつて、栄花に誇るべし。
=この為に、子孫は長く日本の支配者となって、栄華を極めるだろう。厳密に言えば、執権の上には名目的にせよ、将軍がいるわけであるし、京都の朝廷もあるのだから、「日本の主」という表現が適切であるかどうかは疑問である。
但し、その振る舞ひもし違(たが)ふ所あらば、七代を過ぐべからず。
=ただし、その行状に道にそむくところがあれば、7代を過ぎて支配を保つことはできないだろう。
わが云ふ所不審あらば、国々に収めし所の霊地を見よ」と云ひ捨てて、立ち帰りける後ろ質(すがた)を見れば、さしも厳(いつく)しかりつる女房、忽ちに節長(ふしだけ)二十丈ばかりなる大蛇になつて、海中に入りにけり。
=私のいうところに不審を感じたならば、各国の霊地にお前が収めた経文を探してみよ」と言捨てて、帰っていく後姿を見ると、あれほどまでに端正であった女性が、急に全長20丈(60メートル)ほどの大蛇になって海に入っていった。
その跡を見るに、大きなる鱗(いろこ)を三つ落とせり。
=その跡を見ると、大きな鱗が3つ落ちていた。
時政、所願成就しぬと喜びて、かの鱗を取つて、旗の紋にぞ推したりける。
=時政は、参籠して願い事をした願いがかなったと喜んで、鱗を旗の紋にしようと押し付けた。
先代の三鱗形の紋これなり。
=北条氏の三鱗形の紋はこれによるものである。

 その後、弁才天の御告げによつて、国々の霊地へ人を遣はして、法華経の奉納所を見せけるに、俗名の時政の字に替はらず、「大法師時政(じせい)」と、奉納筒の上に書きたりけるこそ、不思議なれ。
=その後、弁才天の御告げを頼りに、国々の霊地へ人を遣わして法華経の奉納所を探してみたところ、(経文を収めた筒が見つかり)俗名の時政という字と同じく、「大法師時政」と奉納筒の上に書かれていたのは不思議なことであった。
されば、今の相模入道の一家、天下を七代に過ぎて保ちけるも、榎島の利生、または過去の善根に感じけるゆゑなり。
=それで、北条氏が天下を7代を越えて支配してきたのも、江の島の弁才天が告げた利生、あるいは時政が過去に積んだ善根(と北条氏の善政)に神仏が感動したためである。
今、高時禅門、すでに七代を過ぎて九代に及ぶ。
=今、高時の代になって、すでに七代を過ぎて九代に達している。
されば、すでに滅ぶべき時分到来して、かかる不思議の振る舞ひをもせられけるかと覚えたり。
=ということで、すでに滅びるべき時分がやって来て、(父祖たちの善政を裏切るような)このような不思議なことが起きるのかと人々は考えていたのであった。

 この話には様々な変形があるようで、時政がまだ若かったころに江の島にお参りしたところ、このようなお告げを受けただけでなく、私の侍女の一人がおまえの娘に生まれ変わるだろうと言われたという話があったと記憶する。あるいは記憶違いかもしれないが、出典を探してみたい。前世は箱根神社の社僧であった時政が江の島に参籠するというのも興味深い組み合わせである。江の島神社、箱根神社のほかにも、三島大社、伊豆山神社など源平ゆかりの神社はこのあたりに多いのである。なぜ、こういう話になっているのかということも、折に触れて考えていきたいものである。

 鎌倉の北条高時の様子を描いた部分はこれで終わり、これからは潜行を続ける護良親王の姿が描かれることになる。
 

竹内薫『素数はなぜ人を惹きつけるのか』

2月19日(木)晴れ後曇り
 竹内薫『素数はなぜ人を惹きつけるのか』(朝日新書)を読み終える。数学の本を読むのは久しぶりである。私にとって数学は理解できる範囲では好きな領域なのだが、理解できる範囲が限られているのが問題である。

 素数とは自然数の積の形に分解できない自然数で、2を除いてすべて奇数である。「自然数の中でも特殊な存在でありながら、…数の究極の単位」(19ページ)であるのが素数であるという(そういえば、19も素数である)。素数には2,3,5といった身近な数から、「2の5788万5101乗から1を引いた数」(21ページ)という今のところわかっている最大の数まで膨大な数が確認されているが、その出没はまさに神出鬼没というべきで、現在のところでは素数が現われる完全な法則は知られていない。

 というわけでは身近な一面はあるものの、謎に満ちた数が素数である。この素数をめぐって多くの数学者がいろいろな考えをめぐらしてきた。例えば、この本の「コラム2」で取り上げられているゴールドバッハ予想=「2よりも大きいすべての偶数は(少なくとも1通りの)素数の和であらわすことができる」。4=2+2,6=3+3,8=3+5,10=3+7=5+5、現在のところ、4000000000000000000(4×10の18乗)まではこの予想が成立していることはわかっているが、ある日、突然これに反する数が出てこないとも限らないという。「ときに予期せぬ結末が待っているのが数学の面白いところ。ゴールドバッハ予想に、いつ、どんな形で決着がつくのか、楽しみですね」(51ページ)と著者は結ぶ。

 3と5,11と13、41と43、857と859のように「差が2の素数」を「双子素数」という。こういう素数の組は無限にあるのだろうか。実はこの問題は未解決なので、やはり予想と呼ばれている。
 ところで素数の逆数を足していくとその和は無限になる。一方、双子素数の逆数の和は有限で、ある決まった数(ブルンの定数)になることが分かっている。そのもっとも精度の高い値は1.902160583104だという(双子素数の逆数をどんどん足していくと精度が高まる)。そのくせ、双子素数が無限にあるのか、有限なのかはまだわかっていない。
 「三つ子素数」というのもある。もっとも差が2ということに限定してしまうと、3と5と7の1組しかなくなるので、5,7,11とか13,17,19のように間隔が2か4である三つ子と定義されている。三つ子素数も無限に存在すると予想されている。
 また3,7とか97,101のように差が4の「いとこ素数」というのもあるし、5,11とか131,137のように差が6の「セクシー素数」というのもある。なぜ「セクシー」というかというと、ラテン語で6のことをsexというからである。

 このように素数を扱っていると、さまざまなことに気付いたり、こうではないかと考えを巡らしたりする。それだけでなく、こうした素数の研究は自然現象を解明するのに寄与したり、情報技術の開発に役だったりするのである。
 アメリカのある地域には17年周期で大量発生するセミと、13年周期で大量発生するセミの2種類しかいない。17も13も素数であり、このようなセミを周期ゼミあるいは素数ゼミという。素数は最小公倍数が大きくなり、他のセミと同時発生する間隔が大きくなるので、その結果、交雑をして発生周期が変化する可能性が少なるので、種の保存が有利になったのではないかという。
 あるいは「原子核のエネルギーがリーマン予想と関係している」(152ページ)という話も出て来る(このあたりになるとついていけない)。要するに素数を理解することは、宇宙の成り立ちを解明するのに役立ちうるということのようである。その一方で素数研究はさまざな情報を暗号化するのに役立てられている。

 最後に、印象に残った話を紹介する。フランスの神学者であり数学者でもあるマラン・メルセンヌ(1588-1648)はデカルトの親友であり、音楽の平均律の研究をするなど多彩な活動を展開した人物であるが、数学においてはすべての素数をみいだすことのできるような公式を探し続けていた。そして2のn乗から1を引いた数が素数であることが多いことに気付く。そこから「2のn乗引く1が素数ならば、nも素数である」(176ページ)ことを証明した。(ただし、nが素数であれば、2のn乗引く1が素数であるとは言えない。) 2の3乗から1を引いた数である7、5乗から1を引いた数である31、7乗から1を引いた数である127は素数である。しかし2の11乗から1を引いた数である2047は素数ではない(本には書いてないので、自分で計算してみたが23×89である)。メルセンヌ自身はnが2,3,5,7,13,17,19,31,67,127,257の場合2のn乗引く1は素数になると考えていたのであるが、61,89,107が欠けており、67と257は合成数であった。
 1903年、ニューヨークで開かれたアメリカ数学会で、フランク・ネルソン・コールが黒板にこう書き記した。
m(67)=193707721×761838257287
つまり、彼は素数だと思われていたm(67)が、合成数であることを証明したのである。黒板に書くだけで発表は終わっていまい、そのとき、会場はシーンと静まり返ったが、そのすぐ後に拍手喝さいに沸き立ったという。
 「たった一行のシンプルな式で、数学界が感動するという事実には、素数というものが秘めている美しさ、そして奥深さを感じずにはいられません」(179ページ)と著者は書いている。門外漢の私も同感である。

 わからない部分もあったのだが、わかった部分だけで十分に楽しみながら読むことができた。楽しく読めたということが、この書物の値打ちではないかと思う。

日記抄(2月12日~18日)

2月18日(水)雨

 2月12日から本日にかけて、経験したこと、考えたことから:
2月12日
 横浜駅西口は、地理がわかりにくい場所で、道に迷っている人をよく見かける。ホテルを探しているという白人男性に出会って、英語の方は何とか通じたのだが、肝心のホテルの場所がわからず、彼の持っている地図があまりにもおおざっぱだったものだから、こっちの方角に歩いていって、また道を訊ねなさいというこれまた大雑把な助言しかできなかったのが残念である。あるいは私の知っているホテルだったのかもしれないが、経営者や名称がよく変わるので、自信をもって教えることができないという問題もある。

 NHKラジオ「実践ビジネス英語」でcountry girlという言葉について、「101 Best Openng Lines by Eric Weber (Harmony Books)という本に収められている文句の一つがYou look like a country girl.である。日本語で「あなたは田舎娘のようだね」といえば、反発を買うのは必至のように思えるのだが、この解説にはAn unusual, nonthreatening compliment.とある。つまり、peaches-and-cream complexion(ピンクがかったクリーム色の[血色がよくてすべすべした」肌)という褒めことばになるそうだ。日本語でなら、リンゴのほっぺたをした素で飾らない、健康そうな女性というところだろうか。ただし、これは女性に呼びかける場合の文句で、country girlをcountry boyに言いかえて、男性に対して使うのはまずいとされている」と説明があった。opening lineというのは、話の前の方で既に登場している言葉で、「出だしの文句、話のきっかけのことば」ということで、エリック・ウェーバーの書物はどんな話のきっかけが活発な会話を呼び起こすかという内容らしい。

2月13日(金)
 NHKラジオ「まいにちドイツ語」応用編「黒猫イクラと不思議の森」ではDas Attentat in Sarajevo(サラエボの暗殺)=1914年6月28日にオーストリア=ハンガリー帝国の帝位継承者で、皇帝フランツ・ヨーゼフの甥、フランツ・フェルディナンド大公とその妻ゾフィーが軍事演習視察のために訪れていたボスニア・ヘルツェゴヴィナの首都サラエボで、セルビア人の19歳の青年ガブリロ・プリンチプが至近距離から発射した2発の銃弾によって暗殺された事件を取り上げた。紹介されたのは、事件の翌日付の『絵入りウィーン号外版』第178号の記事である。実はこの事件に先立って暗殺未遂事件が起きていたために、予定されていたルートを変更することになっていたのだが、そのことが運転手に知らされず、本来のルートを走行し、それに気付いた同乗のボスニア総督が運転手にルートを変更するように指示したために、運転手が徐行を始めたところで狙撃にあったという。もし普通の速度で走っていれば、事件は別の展開を示したかもしれない。偶然というのは恐ろしいものである。

2月14日
 京浜急行の新逗子行きの急行に乗っていたら、向かい側の座席に座っていた中年女性2人がこれからハイキングに出かけるらしい様子で話し込んでいた。この季節、三浦半島の山に登る方々が多いらしいことは、各種のブログの記事からも推測できることなのだが、片方の女性がもっているガイドブックに「三浦アルプス」とあるので、びっくりした。「アルプス」は「白い山」という意味だから、温暖で、雪の降ることはまれな、三浦半島の山を呼ぶのには不適切だと思うのである。

2月15日
 NHKラジオ「攻略!英語リスニング」では、”Potatoes(じゃがいも)”を話題として取り上げている。講師の柴原智幸さんがテキストのこぼれ話の欄に書いているところによると、日本で栽培されているじゃがいもの2大品種は「男爵」と「メークイン」だそうである。「メークイン」というのは英国から輸入されたMay Queenという品種で、May Queenというのは、May Dayの女王に選ばれた少女のことだという。この日、May Poleと呼ばれる柱のてっぺんから伸ばしたリボンをもって、柱の周囲を回りながら踊るという風習があるというのだが、「イギリスで6回迎えたはずの5月1日に、このような催しをしているのに行き当たったことはありません。一度見てみたかったですね」(36ページ)と柴原さんは書いている。

2月16日
 NHKラジオ「まいにちドイツ語」で、ドイツを旅している日本女性がライン川に面したRüdesheimというワインで有名な町を訪れるという設定の会話が放送された。リューデスハイムという町は、これまで知らなかった。大学での第二外国語はドイツ語だったのだが、ドイツには興味があまりなくて、地理についてもよく分からないことが多い。

 同じく「ラジオ英会話」で
I realized that I was inviting drama into my life. (人生をわざと難しくしてた自分に気づいたんだ。)
という表現が出てきた。dramaはcomedyやtragedyを含む演劇の総称なので、いいドラマも悪いドラマもあるわけだが、悪い意味で使われることのほうが多いようである。

 横浜シネマ・ベティで『0.5ミリ』を見た後、伊勢佐木町通りに面した中華料理店で夕食をとり、日ノ出町駅に向かう途中、通りに面して立てられた青江三奈の「伊勢佐木町ブルース」の看板が復活しているのを見つけた。一時期、ゆずの「夜霧の伊勢佐木町」の看板になっていたのだが、復活を要望する声が強かったらしい。

2月17日
 NHKラジオ「まいにちフランス語」の最後の「教えてMadame」のコーナーでフロランス・メルメ=オガワさんが
Tu sais qu'au Baccalauréat, il y a une épreuve de sport? (バカロレア=フランスの大学入学資格試験にはスポーツの試験があるのを知っていますか?)
と話していた。そういえば、フランスは日本よりも人口は少ないが、スポーツの世界での活躍ぶりは日本をしのいでいるという印象がある。それはさておき、日本の大学では体育系のところは別として、体育は受験科目にはならない。それでも、体育の授業が受験生の健康と体力の維持にどの程度貢献しているかは調査・検討に値する問題ではないかと思う。

2月18日
 NHKラジオ「実践ビジネス英語」の”Quote...Unquote"のコーナーで紹介された名言。
You learn to speak by speaking, to study by studying, to run by running, to work by working; in just the same way, you learn to love by loving. --Anatole France (French novelist, 1844-1924)
(人は、話すことによって話し方を、勉強することによって勉強のしかたを、走ることによって走り方を、働くことによって働き方を学ぶ。まったく同様に、愛することによって愛し方を学ぶのだ。)
 このコーナーで紹介される名言は、フランス人の(したがってもとはフランス語である)ものが多いような気がする。 

ダンテ・アリギエリ『神曲 地獄篇』(24)

2月17日(火)雨が降ったりやんだり、寒い。(東京では雪が降っていた。)

一年がまだ若々しいあの時分に、
太陽は灼熱の前髪を水瓶座のもとで穏やかに温め、
そして夜は既に春分に向かって短くなっていき、

大地の上には霜が、
その白い姉妹の姿をそのままに映し出すが、
けれども筆先の鋭さも長くはつづかぬようなその頃に、

飼葉の足りない若い羊飼いが起き上がり、
見渡すと、見えるのは白一面の
平野。そのため自分の腰を叩くと

家に帰り、あたりかまわず不平をこぼす
さながらどうしたらよいか途方に暮れる不幸な人々のように、
その後で再び外に戻ると、わずかな間に

世界が相貌を変えていたのを見て、
希望を心にとりもどし、杖をとって
羊たちを外へと追い立て牧草を食べさせる。
(350-351ページ) 太陽が水瓶座のところから出るのは1月21日から2月21日までと注記されている。冬から春に向かう、ちょうど今自分の時季の田園自体の情景が描かれる。この情景に託して、ダンテの希望に満ちたない面が描かれているが、と同時に、地獄の描写によって暗い気分に陥っているかもしれない読者の気分転換も図られているとみるべきである。下の「白い姉妹」というのは雪のことである。ダンテが中世の水準では数学や天文学について優れた知識を持つ人物であったこと、中世では天文学と占星術が結びついていたことなどを知っておく必要がある。ダンテはウェルギリウスの心中を図りかねて途方にくれながらも次に進もうとする。

 ダンテはウェルギリウスに促されて、第7洞窟へと向かうために岩の崖を上っていくが、その頂の上にやっとたどり着くと、
息は私の肺から絞り尽くされ、
上にたどりついた時には、私はもはや進めなくなっていた。
それどころか着いたとたん座りこんでしまった。
(354ページ) このために彼はウェルギリウスに怠惰の中にいる限り、名声にたどりつくことはないと叱責される。ダンテは力を振り絞って、元気な様子を装いながら、先を進む。
私達は岩橋の上に道をとった。
岩だらけで、狭く、歩きにくく、
これまでよりはるかに険しかった。
(356ページ) やがて二人は崖を降りて、盗賊たちの魂が罰を受けている第7巣窟の蛇の穴へと降りる。
その中に私が見たのは、恐ろしくも密集する
蛇の群れ、しかもあれほどにぞっとする種類であり、
思い出すだけで未だに私の血の気は失せる。
(358ページ)

 蛇は巣窟の中の人々の首と肩との間の場所にくいつき、そうするとくいつかれたものの前身は火がついて、崩れ落ち、灰となってしまう。驚くべきことに、こうして姿を消したはずの人物が、またすぐに元の姿を取り戻す。あたかも伝説の中の不死鳥のように。しかし不死鳥は人々に希望をもたらすが、彼らに希望はない。
おお、神の能力(ちから)よ、どれほど厳しくあらせられるのだ、
これほどの怒りの鉄槌で殴りつけるとは。
(361ページ)

 このような罰を受けているのは、ダンテの同時代のトスカーナ人であるピストイアのヴァンニ・フッチであった。彼はダンテに自分が罰を受けている姿を見られたことに怒り、かれに対して不吉な予言を投げつける。そして
おれがこれを話したのは貴様をどうあっても苦しませるためだ。
(364ページ)とその予言を締めくくる。

 原さんの翻訳には、この段の背景をなしているフィレンツェとトスカーナ地方の政治状況についての詳しい解説がされているので、興味があれば読んでほしい。この24歌では、地獄のむごたらしい光景が描かれている一方で、ダンテが暮らしているイタリアの日常的な生活を美しく描き、また彼の心中の希望が窺われる章句も見られて、変化に富み、読み応えがある。ダンテとウェルギリウスの地獄の遍歴はますます、厳しい劫罰を受けている罪人たちの世界へと進むのだが、そのさらに先には、地獄とは別の世界が待っているわけで、ダンテの気持ちもかなり複雑なものであると考えられる。

0.5ミリ

2月16日(月)曇り

 加齢につきものの物忘れ――事故で、2月16日中にブログの更新ができなかった。それで、17日になってこの記事を書いている次第である。

 横浜シネマ・ベティで安藤桃子監督作品『0.5ミリ』を見る。

 ある日、ヘルパーのサワ(安藤サクラ)は派遣先の主婦から、寝たきり状態になって死期間近のおじいちゃんに一晩添い寝してくれという依頼を受ける。規則やぶりではあるが、多額の金を出すといわれて引き受けた彼女は、当夜、予期していなかった(あるいは予期できたかもしれない)大事件に巻き込まれる。そのため、職を失い、寮も出なければならなくなった彼女は、夜の街をさまよううちに、カラオケルームで押し問答している老人を見つけて、強引に彼の相手として部屋を確保し、はじめのうちは困惑していた老人から感謝されるようになる。

 その後、彼女は駐輪場の自転車をパンクさせたり、自転車泥棒を働いたりしている元自動車整備工の茂じいちゃん(坂田利夫)や女子高生の写真集を万引きする元教師(本人は、今でも教えているといって、出かけてゆくのだが、どこかで時間をつぶして戻るだけらしい)義男(津川雅彦)のような老人を見つけては押しかけヘルパーとしてその面倒を見ながら、彼らの生活に入り込んでゆく。

 老いと言っても、多様であり、個性がある。彼女が出会う老人たちはそれぞれの楽しみや苦しみ、悩みを抱えているし、周囲の人間との関係は一様ではない。元海軍の軍人だった義男は繰り返し戦争の体験を語る。『0.5ミリ』という題名は彼の言葉に基づいている。1人1人の人間はいわば0.5ミリという取るに足りない存在であるが、みんなが自覚をもって団結すれば…ということであろう。しかし、この映画はその団結が極めて難しいことも語っているように思われる。

 サワは最初の老人からもらったオーバーを着続け、茂から譲られた自動車を乗り回す。一種の『わらしべ長者』的なストーリーになるかと思うとそうではない。中盤は笑いに満ちているのだが、必ずしも喜劇として作られているわけではない。老いを題材として取り上げていることも手伝って、この作品が内包する問題は多様である。「老い」を強調してきたが、映画では家庭崩壊や地域の変容などの問題も取り込まれている。ただ、その結果として、原作者であり、脚本も担当している安藤桃子監督は、十分にストーリーを練り上げられなかったという印象が残る。上映時間が196分ときわめて長いのもそのためであろう。

 主演のサワを演じている安藤サクラの生き生きとした演技が魅力的で、老人たちの姿と対照的な彼女の若い力が、ストーリーの弱さを補って映画を見どころのあるものにしている。個々の人間にはできることとできないこととがあり、昔はできたことが年をとってできなくなったり、あるいは経験を積んだことによってできなかったことができるようになったりする。自分ができないことを、若い人間が軽々とやってのけるのは、老人にとってあまり愉快なものではない。そうはいっても、援助してもらわなければ生きるのは難しくなる。そういうジレンマがよく表現されていたと思うのである。

 お笑いの坂田利夫の出演場面もさることながら、どこまでが演技で、どこまでが本性なのかわからないような津川雅彦の演技が何ともおかしい。50年余り彼の演技を見続けているので、感慨もひとしおではあるが、やっぱりおかしい。それでも観客の大部分が年配者だったので、笑いよりも共感の方が強かったようにも思われる。若い人にも見ていただきたい映画である。笑ってみているだけでもいい。それでもどこかに「老い」というものへの関心が残るはずである。

落合敦思『殷――中国史最古の王朝』(2)

2月15日(日)晴れ

 前回はこの書物の第1章から第3章まで、殷王朝の前期・中期の歴史、殷王の権力がどのようにして構築されていたのかについての記述を辿ってみた。今回は、第4章以降、王朝の後期の甲骨文字が発明されたことにより、豊かになった情報をもとに、中興期(紀元前13世紀)、安定期(紀元前12世紀)、動揺期(紀元前11世紀)という年代順に殷王朝の政治的な変化を概観している。

 殷王朝は前期には安定して支配権を拡大したが、中期に混乱が発生した。紀元前13世紀後半になって武丁という王によって分裂していた王統が再統一された。彼の時代を「中興期」と定義できる。彼の時代のものと考えられる甲骨文字は数量的に多く、このことから彼の在位期間は長かったものと考えられる。王統が再統一されたものの、当初はまだ周辺地域に敵対勢力が多く存在しており、戦争が絶えなかったようである。
 武丁の時代には「子某」と呼ばれる人々が戦争に参加したり、地方へ使者として派遣されたりして重要な役割を果たした。これらは王の親族の場合と、それになぞらえた地方領主の場合の2つの事例があるが、支配体制を強化するために暫定的にとられた措置のようである。
 殷王朝では自然神と祖先神が信仰されていたが、武丁の時代にはさらに「帝」という神が信仰された。これは神話上の「主神」であり、その信仰を司ることで、武丁は自らの宗教的な権威を高めようとしていたと考えられる。そしてこの信仰はその後の周代にも継承されることになる。殷王朝においてもっとも重要な宗教儀礼であった甲骨占卜では、事前に「基地」が出るように甲骨に加工が施されていたが、武丁の時代にはそれだけでなく、記録の改竄までが行われていた。そして軍事力だけでなく、帝の主神化や占卜記録の改竄など、信仰を通した支配も活用して、統一した王権の維持に努めたのである。さらに武丁は自らの神秘的な能力がることを人々に示す「カリスマ的支配」によって支配を維持しようとしていた。

 武丁の支配を継承した祖己の時代には対外戦争が減少し、その結果として王朝経営の安定化がもたらされた。この時代、王は王都に近い地域で狩猟を盛んにおこない、軍事訓練をするだけでなく、軍事力を誇示し、また各都市の視察を行って支配力を強めようとしていた。
 依然として占卜における操作は行われていたが、王は自らの神秘的な能力を誇示することを控え、むしろ祖先神の祭祀を強調することによって宗教的な権威を構築しようとするようになった。
 このような支配体制は、祖己に続く祖庚、祖甲の時代にも継承され、殷代の後期では最も安定した時代を実現することになった。

 しかしその後の康丁、武乙の時代になると、再び各地で戦争が発生するようになる。力を増してきた周辺の勢力の反乱がその後の時代までつづく。最後から2番目の王である文武丁は軍事力を強化し、自己の宗教的な権威を高めることによって事態の打開に努めた。このようないわば「集権化」と言える政策は地方の反発を招き、結局反乱の発生と拡大をとめることはできなかったと考えられる。しかし、地方勢力をそのままに放置する分権化政策をとっていても、地方勢力が力をつけて王朝を転覆した可能性はある。最後の王である帝辛は文武丁の政策を継承したが、多くの地方勢力の離反にあって、結局殷は滅亡したのである。

 殷は滅亡したが、甲骨文字はその後の漢字の発展の基礎となり、祖先の祭祀の重視や、暦の作成に必要な天文学の知識、建築や工芸に必要な数学の知識も継承された。殷代に盛んに製作された青銅器は、その後の時代にもつくられ続け、政策が減少した後には、陶磁器のデザインに影響を及ぼした。また都城の建設についても、版築城壁で都市を囲うという工法は、その後も長く用いられることになった。このようなことから殷王朝は中国文明の原点と位置づけられる。その一方で、君主独裁制の基礎を形成するなど、その負の遺産も無視できないものである。

 中国や台湾における中国古代史研究は文献を重視しているために、殷王朝の実態を明らかにしえていないと著者は言う。この書物は、甲骨文字を中心とする考古学資料を基に再構築を試みた殷の歴史であり、まだまだ分からないところが多いとはいうものの、確実にわかることがまとめられていて大いに興味深い内容になっている。特に甲骨文字資料の分析から古代の文献の記述の問題点を洗い出している個所は、この論評ではほとんど紹介を省いてしまったが、読み応えがあるので、ぜひご自分で読んでいただきたい。著者は合理性の衝突という見地から、殷の時代が現代とも通じる問題を抱えているとこの書物を結んでいるが、その点をめぐってもそれぞれの考えがまとめられるはずである。

 

自分自身を語る

2月14日(土)晴れ

自分自身について

語りたくても
語りたくなくても
結局は
語らなければならなくなる
それが自分自身というもの

語らせようとする
周りの人々がいて
それに囲まれる
語りたくない
自分がいる

もちろん、語ろうが
語るまいが
無関心だという人もいるが
そういう人を
味方につけるのは難しい。

できるだけ
好きなことをして生きていきたいが
そう考えるからには
人から意見されたくはない

私が語りたいと思っていることについて
それはよくないと
意見したいと思って
待ち構えている人々がいて
あいにく
彼らとは
違った方向に
事態を進めていかなければ
ならない時もある

だから強いとは言えない
筋力を駆使して
舵をとりながら
自分という船を
進めていかなければならない

時には喧嘩をしながら
自分なりの論理の力を
具体化していかなければならない

そうして
さんざん苦しみ
のたうち回った
軌跡が自分というもの
その跡を大蛇のものと考えるか
ナメクジのものと考えるかは
他人の判断を仰ぐしかないが
そう言いながら
まだまだ這い回り続きたいと
思っている

『「個性」はこの世界に本当に必要なものなのか』(3)

2月13日(金)晴れ後曇り

 「個性」をめぐっては、それぞれの企業の特性を強調することによって現状を打開しようとする肯定論と、個性重視の「ゆとり教育」が学力低下をもたらしたという否定論とが対立しているように思われるが、それぞれが同じ土俵の上で議論していると思えない節もある。それで、東京大学教養学部に属するさまざまな分野の研究者たちにそれぞれの分野で「個性的なもの」について自由に意見を述べてもらって、「個性とは何か」について考え直してみようというのがこの書物の趣旨である。前回から少し間が空いてしまったので、これまでの内容を概観しておく。第1講では認知神経科学の立場から西本裕子さんが「個性とは、無意識のうちに育まれてしまうもの」、第2講では文献学の立場から高橋秀海さんが「個性とは、なにかを求めるなかでおのずと表れ出てくるもの」、第3講では生態学の立場から吉田丈人さんが「個性とは、種の存続可能性を高めるために必要なもの」、第4講では哲学の立場から原和之さんが「個性とは、運命であり、呪いでもある」とそれぞれの議論を展開してきた。

 第5講では物理学の立場から、松田恭幸さんが発言している。ある意味で物理学は個性的なものを極力排除しようとしている学問である。方程式を使って誰が見ても同じように自然を描きだそうとしているからである。とはいうものの自然現象は多様であるからそれぞれの個性を扱おうとしているともいえる。しかしそのように個性的に見えるものを理論という無個性なものの見方で読み解こうとしているのが物理学なのである。個性や多様性の奥ですべてを貫いている、究極の無個性ともいえるものを見つけ出していくことが、物理学者の最大の目標である。
 そう前置きして、「もし物理学の世界で、個性が個性として問われる局面があるとしたら、それは研究者のアプローチの仕方の部分」(89ページ)でないかと松田さんは言う。そうはいっても、そのような個性、独自性は従来から積み重ねられてきた様々な研究の蓄積を踏まえて、それらを理解したうえで、現われてくるものだという。「要するに、適切に個性を発揮するのは、それなりの準備が必要だということ。/ただ、基礎とする部分の知識を得ることが、だんだんと難しくなってきているのはたしか」(92ページ)だとも述べる。これからは分野の垣根を超えた研究協力がどうしても必要になってくるかもしれないとの見解も示されている。
 物理学は日々進化している。逆にいえばそれだけ自然は豊かで、まだまだ多様性に満ちているということである。そういう、日々新しいものに出会う学問の推進力は世界をもっと知りたいという素朴な欲求=好奇心であるという。「lこれまでの理論が使えそうだけれど、でも一工夫しなくてはいけないというような、ちょうどギリギリのところにこそ」(97ページ)個性は必要なのではないかと、松田さんは結んでいる。
 以上、一言でまとめれば、「個性とは、フロンティアに必要なもの」である。

 第6講では統計学の立場から佐藤俊樹さんが発言している。佐藤さんは主として日本社会の計量分析に取り組んできたが、最近では社会科学の方法論への統計学の影響にも関心をもっているとのことである。統計学は平均値ぜったいで、個性を大切にしない学問であるという印象がつよいが、数字だけでなく、生活実感も踏まえて個性的なデータも無視しないというのが本来の姿である。
 とはいうものの、すべてのデータを集めることには事実上無理がある。そこで正規分布を前提として、積分という近似値計算を使っていることが多い。分布の端の方に個性的なデータがあることが分かっていても、それを扱うのはコストの面で難しい。ところが、この数年ビジネス界で注目されているビッグデータは「端の方」を扱うことに成功している。このようなデータ処理のコストパフォーマンスの向上だけでなく、データ収集コストも低下している。社会のシステムの中でいろんなデータがとられているし、ソーシャルメディアなどを通じて、調査対象者自らが、どんどん情報を発信している。その中には個性的なものが多く含まれている。
 佐藤さんが大学で学生たちと接している中で感じていることは、教育していく中で分布の端の方に配慮するのには金か労力かどちらかをかけなければならないということである。この点で日本に比べて資金力に恵まれているアメリカの大学が個性的な人材を育成することに成功しているのは当然のことである。
 分布の端の方に配慮しようという動きは教育以外の分野でも広がっており、一過性のものとは思えない。多様性の喪失は変化への備えを失ったということでもある。最近の個性重視の風潮は、人類が迫ってきている危機を予感している証拠ではないかと思われる。しかし、個性に配慮するには金がかかる。コストパフォーマンスの向上が不可欠である。
 要約すると「個性とは、コストを必要とするもの」である。

 佐藤さんが個性・多様性が変化に対処し、危機を乗り切るために必要であるという考えは、すでに生態学の立場から吉田さんが論じたものである。違うのは、佐藤さんがコストの問題を持ち出してきている点であろう。松田さんがフロンティアでこそ個性が発揮されるというのも、これらから遠くない議論であるが、これまでの研究の成果を踏まえたうえでフロンティアを切り開く道が開けると述べているところを見落とすべきではなかろう。発言者たちがそれぞれの意見を自由に述べているだけではあるが、そのことによって、読者の方が詠みながら自分なりの考えを形成できるという側面もありそうである。

『太平記』(27)

2月12日(木)晴れ

 元弘2年(1332年)、後醍醐天皇廃位の後を受けて、光厳天皇が即位され、11月に大嘗会が行われた(このことは前回書き漏らした)。おりしも、先帝が延暦寺の根本中堂に燈された新常燈が消えるという怪異があった。そのころ、鎌倉では何が起きていたか。今回は、岩波文庫版で「相模入道田楽を好む事」と題されている段を全文見ていくことにする。「田楽」というのは能や狂言の源流の1つになったといわれる平安時代末期から盛んになった曲芸的な要素を伴う歌舞であるが、その由来などわからないことも少なくない。

 また、その比(ころ)、洛中に田楽を弄ぶ事昌(さか)んにして、貴賤皆これに婬せり。
⇒また、そのころ、京の都では田楽を賞玩することが盛んで、身分の上下を問わず皆が夢中になっていた。「また」というのは前段で、都の周辺における怪異を記し、これからは鎌倉で起きた怪異を記すぞということで使っているのであろう。
相模入道、この事を聞いて、新座、本座の田楽どもを喚(よ)び下し、日夜朝暮にこれを弄ぶ事他事なし。
⇒相模入道(=北条高時)は、この事を聞いて、新座、本座の田楽師たちを呼び寄せ、毎日朝となく暮がたとなく、これを賞玩することに余念がない。本座というのは京白河の田楽、新座というのは南都(=奈良)の田楽を言うそうである。〔北条高時が一方では京都の王権を圧迫しながら、他方で京都の文化にあこがれているということ、遊び好き、珍しいもの好きの性格であることが分かる。]
入興(じゅきょう)の余りに、宗徒の大名どもに、田楽一人づつを預けて、装束を飾らせける間、これは誰がし殿の田楽、かれは何がし殿の田楽なんどと云ひて、金銀珠玉を逞(たくま)しうし、綾羅錦繍を飾れり。
⇒興に入るあまり、主だった大名たちに田楽師を1人ずつ預けて、美しい装束を装わせたので、これは誰がし殿の邸にいる田楽、あれは何がし殿の邸にいる田楽などといって(競争になり)、金銀珠玉で盛んに飾り立て、綾、薄絹、錦、刺繍のある織物で作られた豪華な衣装を着せた。〔少しくらいの道楽であれば、大目に見てもよいのだが、ここまで来ると、行き過ぎであり、それをとめられない側近たちにも問題はある。]
宴に臨んで一曲を歌へば、相模入道を始めとして、見物の一族大名、われ劣らじと、直垂、大口を脱いで投げ出だす。
⇒宴会の席に臨んで一曲を歌うと、相模入道を始めとして、見物の一族大名たちが、自分は人には負けまいと、武家の礼服である直垂や、裾の開いた大口袴を脱いで投げつけた。なお、投げるというところで、別の漢字が使われているのだが、あいにくとその字を入力できないので、この字を使っている。
集めてこれを積むに、山の如し。
⇒集めてこれを積むと、山のようになった。
その弊(つい)え、幾千万と云ふ数を知らず。
⇒浪費された額は、数えきれないほどに膨大なものであった。

 或る夜、一献のありけるに、相模入道、数盃を傾(かたぶ)け尽くして、酔(え)ひに和(か)して、立つて舞ふ事やや久し。
⇒ある夜、小宴があったのだが、相模入道は数杯の酒を飲みほして、酔うに任せて、立ちあがって少し長い間舞を舞った。
若輩の興を勧むる舞にもあらず、また狂骨の言を巧みにする戯れにもあらず、四十余りの古入道酔狂の余りに舞ふ舞なれば、風情あるべしとも覚えざりける処に、いづくより来たるとも知らぬ新座、本座の田楽十余人忽然として座席に連なつてぞ舞ひ歌ひける。
⇒若輩者が座を盛り上げるために踊る舞でもなく、またばかばかしい冗談を巧みに織り込んで一座を笑わせようというのでもなく、40歳を過ぎた古入道が酔いに任せて踊っているのだから、風情もなにもあったものではない(とはいっても、目上の人が踊っているので)座が白けてもそのままほおっておくよりほかはなかったのだが、その時どこからやって来たかはわからない新座、本座の田楽たちが十数人、突然宴席に現れて歌い踊り始めた。なお、北条高時はこの時、30歳であった。
その興甚(はなは)だ尋常(よのつね)に勝(すぐ)れたり。
⇒その面白さというのは水準をはるかに超えたものであった。
暫くあつて、拍子を替へて囃す声を聞けば、「天王寺の妖霊星を見ばや」などと囃しける。
⇒しばらくして、拍子を別のものに替えて囃す声を聞くと、「天王寺の妖霊星を見ばや」などと囃していた。〔ここで作者の目が宴席から離れ、その様子を窺っている従者や奉公人たちのほうに向っている。〕
ある官女、この声を聞いて、余りの面白さに障子の破れよりこれを見たりければ、新座、本座の田楽と見えつるもの、一人も人にてはなかりけり。
⇒邸に奉公している一人の女が、この声を聞いて、あまりの面白さに障子の破れたところからこの様子を見たところ、新座、本座の田楽と見えていた者たちは、一人も人間ではなかった。〔障子が破れているというのが気になる。〕
或いは觜(くちばし)勾(まが)りて鳶の如くなるもあり、(或いは身に翅(つばさ)あつて頭(かしら)は山伏の如くなるもあり。)
⇒或いは觜が曲がって鳶のような姿のものや、あるいは体に翔がついていて頭は山伏のような様子のものがいた。
ただ異類異形の怪物(ばけもの)どもが、姿を人に変じたるにてぞありける。
⇒人ではない異様な姿の化け物どもが、姿を人に変えていたというだけのものであった。

 官女、これを見て、余りに不思議に思引ければ、人を走らかして城入道にぞ告げたりける。
⇒官女はこれを見て、余りに不思議なことであると思ったので、急いで人をやって高時の舅である安達時顕が出家して城入道と言っていたのに知らせた。
城入道、取る物も取りあへず、中門を荒らかに歩みける足音を聞いて、かの怪物ども、掻き消すやうに失せにけり。
⇒城入道は取る物も取りあえず、中門を荒々しく足音を立てて歩いてきたのを聞いて、怪物たちは掻き消すように姿を消した。
相模入道は、前後も知らず酔ひ臥したり。
⇒相模入道は、前後不覚の状態で酔って横たわっていた。
燈を明らかに挑(かか)げさせて、遊宴の座席を見るに、天狗の集まりけるよと覚えて、踏み汚したる畳の上に、鳥獣の足跡多し。
⇒燈火を明るく掲げさせて、宴会の席を見ると、天狗が集まっていたらしく、踏み汚された畳の上に、鳥獣の足跡が多く残されていた。
城入道、暫く虚空を睨んで立つたれども、あへて目に遮る物なし。
⇒城入道は、しばらく空を睨んで立っていたが、何も目に映るものはなかった。
やや久しくあつて、相模入道驚き醒めて起きたれども、茫然として更に知る所なし。
⇒やや時間がたってから、相模入道が驚いて目を覚まし、起き上がったが、ぼんやりとして何も覚えていなかった。なお、「茫然」の「ぼう」という字がやはり入力できず、この字で代用している。

 後に、南家の儒者に刑部少輔仲範(ぎょうぶのしょうなかのり)、このことを伝へ聞いて、「天下まさに乱れんとする時に、妖霊星と云ふ悪星(あくしょう)下つて、災ひをなすと云へり。
⇒その後、藤原氏南家の儒者に刑部少輔仲範という人がいて、このことを伝え聞いて、次のように述べた。「天下がまさに乱れようとするときに、妖霊星という悪い星が地上に降りてきて、災いをなすという。〔藤原氏は奈良時代に南家、北家、式家、京家の四流に分かれた。南家は嫡流であるが、北家の繁栄の陰に隠れてしまい、もっぱら学者の家として細々と命脈を保つことになる。保元・平治の乱における重要人物の一人である信西や、この『太平記』にすでに登場している二階堂道蘊は南家の人物である。また、源頼朝の母も南家の出身であることも注意しておいてよい。この仲範は鎌倉に下って暮らしていた学者らしい。〕
しかりと雖(いえど)も、天王寺はこれ仏法最初の霊地にして、聖徳太子、自ら日本一州の未来記を留め給へり。
⇒とはいうものの、天王寺は我が国における仏法の最初の霊地であり、聖徳太子が自ら日本という一国の未来を予言した書物を残された。[天王寺は大阪市天王寺区にある四天王寺のこと、聖徳太子創建と伝えられる。『未来記』は中世に流行した聖徳太子作と伝えられる予言書で、この後6巻の5になると、楠正成が天王寺でこの書物を見る。]
されば、かの怪物どもが、天王寺の妖霊星と歌ひけるは、いかさま天王寺辺より天下の動乱出で来て、国家敗亡しぬと覚ゆる。
⇒だから、かの怪物たちが天王寺の妖霊星と歌ったのは、必ず天王寺の周辺から天下の動乱が起きて、幕府が敗亡することになると思われる。
あはれ、国王徳を治め、武家仁を施して、妖を消す謀を致されよかし」と申しけるが、はたして思ひ知らるる世になりにけり。
⇒どうも困ったことである。国王が徳をもち、幕府が仁を施す政治をして、ばけものたちが姿を消すような方策としてほしいものである」と述べたが、案の定それを思い知らされる世の中になってしまった。〔この時代は院政が行われていたので、国王=治天の君と考えるべきであろう。〕
かの仲範、未然に凶を鑑(かんが)みける博覧の程こそ、あり難けれ。
⇒仲範が凶事を予知したその博識は素晴らしいものであった。

 この話は、かなりよく知られていて、吉川英治の『私本太平記』にも関連する場面が、取り上げられているが、事件が起きたのはもっと早い時期のこととされ、怪異は否定されて合理的な解釈が施されている。しかし、物語の成り行きからすると『太平記』の本来の取り上げ方の方が自然である。『徒然草』に登場する、第5代執権北条時頼の母・松下禅尼が障子の穴を自分で紙を切って貼ってふさいだという倹約ぶり(184段)や、その北条時頼が夜、一族であり側近でもある大仏宣時を邸に招き味噌を肴に酒を楽しんだという質実さ(215段)と比べると、高時が展開する贅沢で、財宝を蕩尽するような生活態度は人々の顰蹙を買うものであったのであろう。高時やその取り巻きには怪物の正体が見抜けなかったのに、官女が気づいているというところも注目しておいてよい。天狗が現われたのは、仲範がいうように、一つの警告とみるべきであるが、そんなことで態度を変えるような高時ではなかった。

日記抄(2月5日~11日)

2月11日(水)晴れ

 2月5日から本日までの間に経験したこと、考えたことなど:
2月5日
 NHKラジオ「まいにちドイツ語」応用編「黒猫イクラと不思議の森」は19世紀末から20世紀初めのウィーンで活躍した画家のGustav Klimtを取り上げた。クリムトは愛猫家Katzenliebhaberで自宅で何匹ものネコを飼っていたそうである。テキストには、クリムトが自らデザインした画家用スモッグを着て、ネコを抱いた写真が掲載されている。

2月6日
 NHKラジオ「まいにちイタリア語」応用編「ニッポンを話そう」では狂言について取り上げた。テキストには、この項に関連して「この狂言で聞かれる擬声語、擬態語が日本人にとってもなかなか面白いので、いくつか覚えて披露すると話が盛り上がること間違いなしです。例えば、犬の鳴き声。イタリア語では”bau bau"ですが、狂言では「びょうびょう」です。現代日本語でポピュラーな「ワンワン」という擬声語よりは、イタリア語に近いかもしれません」(86ページ)とある。江戸時代後期の肥前平戸藩主であった松浦静山の随筆『甲子夜話』に、犬は「びょうびょう」と鳴くものと思っていたが、江戸のほうでは「ワンワン」というと聞いた。しかし、自分の耳で聞いたところでは江戸の犬も「びょうびょう」と鳴いているという個所があるそうである(確認していない)。さらに調べてみると面白くなりそうな話題である。

2月7日
 NHKラジオ「攻略!英語リスニング」ではThe Taj Mahalについて取り上げた。17世紀に北インドを支配していたムガール帝国の皇帝シャー・ジャハーンがその最愛の妻ムムタズ・マハルの死後、彼女のために建設した霊廟だという話は知っていたが、シャー・ジャハーンには他にも妻が大勢いたこと、シャー・ジャハーンとムムタズ・マハルの間には14人もの子どもがいたこと(14人目の子どもを出産した直後に、ムムタズ・マハルは死んでしまったという)は初めて知った。
It was a magnificent building -- a mixture of Islamic, Persian, Ottoman, and Indian styles, finished in 1653 -- that seemed to change color depending on the hour of the day.
(それはそれは壮大な建物で――イスラム、ペルシャ、トルコ、そしてインドの様式が合わさったもので、1653年に完成した――建物の色が、1日の時間の移り変わりによって変わっていくように見える。)
ヒンズー・ナショナリズムの影響力が強くなっているインドでは、タージ・マハルがイスラムの影響を受けた建築物であることが隠されるようになっているという話を聞いた記憶がある。今でもあるかどうかは知らないが、ロンドンのBritish Museumの近くにTaj Mahalというインド料理店があって、よく通ったことを思い出す。コブラというインドのビールをいつも飲んでいたので、ウェイターがだまっていてもコブラを出すようになった。

2月8日
 ある大学の副学長をしている友人と一緒になり、彼から聞いた話だが、最近は第二外国語を廃止する大学が増えてきたそうである。世の中の動きに30年以上遅れているというのが実感。第二外国語を廃止して、何を教えるのかということを問題にすべきである。第二外国語と言わず、外国語をどんどん学習させる大学。他の外国語はどうでもいいから英語だけを徹底して教える大学。英語もおぼつかない学生に生き延びる術を教える大学。いろいろな大学の在り方を追求すべきである。大学が大衆化する流れに沿って、外国語教育を改革すべきであったのに、それを怠ったことの代償はきわめて大きい。

2月9日
 NHKラジオ「ワンポイントニュースで英会話」では少雨の影響でバイカル湖(the Lake Baikal)の水位が下がったという話題を取り上げていた。バイカル湖のような英語が使われていない国の地名を英語でどのように表記するのかというのは、頭を悩ませる問題である。

2月10日
 NHK「ラジオ英会話」の本日のDialogueはTea and Sympathyと題されていた。テキストには「お茶と同情 〔IDIOM ごく些細な人助け〕」と注記されている。むかし、『お茶と同情』という映画があって、デボラ・カーとジョン・カーが主演していた。両者、たまたま姓が同じだったというだけだそうである。

2月11日
 NHKラジオ「まいにちドイツ語」でレストランのメニューが話題として取り上げられ、「ドイツ語では、メニュー、献立表のことをSpeisekarteと言います。Menüというと定食が出てきてしまいますので気をつけましょう」(35ページ)と注意された。実は、もう30年以上前にこの話を読んだことがあり、未だにドイツ語でメニューというのは定食のことだというのが定着していないようである。大学で第二外国語としてドイツ語を履修する学生が多いというのに、これはどうしたことであろうか。
 その一方、今週の「まいにちイタリア語」初級編では
Se ci fossero altri piatti, vi porterei il menù. (もしほかにもお料理のご用意があれば、メニューをお持ちするところなのですが)
という表現が出てきた(提供できる料理が極端に少ないリストランテの話なのである)。ここではmenùは献立表のことなのである。日本でメニューと言うと献立表の意味であるのは、英語の影響である。イタリア語ではmachinaが自動車、cameraが部屋であるというように、同じような言葉が言語によって全く違った意味でつかわれることがある。気をつけて勉強すべきである。 

大倉崇裕『七度狐』

2月10日(火)晴れ

 2月9日、大倉崇裕『七度狐』を読み終える。2003年に発表された著者の初の長編小説。上方落語の「七度狐」がキイになっているところが眼目で、読み応えがある。

 夏のある日、『季刊落語』の編集部員である間宮緑は、編集長である(といっても、編集部には2人しかいない)牧大路の指示で静岡県の大井川上流にある温泉地、戦前はにぎわっていたが、今はすっかりさびれて御前館という旅館が1つ残っているだけの杵槌村に向かう。ここで開かれる春華亭一門会を取材しようというのである。
 初代が明治初期の上方に現われて以来、春華亭古秋という名跡は世襲によって継承されてきた。当代の古秋は六代目であるが、引退の意向を表明しており、全員が落語家となっていて、ひとかどの実力をもっている古市、古春、古吉という3人の息子たちの中から後継者を決めようというのである。本来ならば、大阪で開くべき一門会をこのような場所で開くのは、それぞれの芸をじっくりと吟味するためであると、杵槌村の出身で、一門会の世話役になっている春華亭夢風は説明するが、ほかにも何か因縁があるらしい。

 一門会の前夜、台風の接近で村を豪雨が襲い、バスは運休、外の世界との連絡路も閉鎖されてしまう。そんな中で古春の行方がわからなくなり、捜索の結果、田んぼの中から死体が見つかる。何者かが水門を壊したため、田んぼには大量の水が流れ込んでいたのである。
 そしてその後もさらなる事件が…。死体の様子や、前後の状況は上方落語の「七度狐」をなぞっているようだが、そうだとすると腑に落ちない点がある・・・。
 牧との電話で、緑は1955年に六代目の兄である五代目の春華亭古秋が、杵槌村で行方不明になったことを知る。牧の前に『季刊落語』の編集長であった京(かなどめ)敬哉はそのなぞに興味を持っていたという。

 伊勢参りに出かけた喜六と清八の二人連れが、途中の煮売家(簡易食堂)で水っぽい酒というよりも、酒っぽい水を飲まされて頭に来て、手近にあった<イカの木の芽合え>を鉢ごと失敬して店を飛び出す。食べた後、鉢をもっていると彼らが持ち去ったことが分かるというので、投げ捨てるのだが、それが草むらの中に寝ていた狐の頭を直撃する。この狐が「七度狐」と呼ばれ、一度ひどい目にあわされたら、その相手を七度化かすという執念深い狐であったので、二人はその後災難に見舞われることになる。
 しかし、この作品の中の牧と緑の会話の中に出て来るように、現在演じられている「七度狐」で二人が化かされるのは2回きりである。「七度狐に限らず今に残る話の数々は、先人によって徹底的に練り上げられてきたものである。言い換えれば、最良の形で現代に伝えられてきた財産だ。もし改良すべき点があるなら、とっくに改められているだろう。/七度狐が二度の化かしという縮めた形で演じられてきたのは、それが最良であると皆が判断したためであり、もし長いままだったら、七度狐は現代まで伝わってこなかったかもしれない」(203ページ)と作者はこの間の事情を要約する。ところが、五代目の古秋は「七回化かす完全な七度狐」の構想をもっていたという。そういう昔の記憶も意味をもつのだろうか。

 物語の初めのほうに、いくつかの謎めいた場面が語られ、やがてそれが1955年の出来事であったとわかる。落語家の一門をめぐり、落語「七度狐」を見立てた殺人事件が起こるだけでなく、古秋という名跡をめぐる兄弟の争い、もともと閉鎖的な村が、台風で孤立して密室化するという設定など推理小説のさまざまな趣向が盛り込まれている。ただ、「七度狐」という話が、上方落語の演目であり、東京落語に移入されていないので、その点でわかりにくさを感じる読者が出るかもしれないのが惜しまれるところである。かくいう私は、西日本生まれの東日本育ちに加えて、西日本の大学を出ているので、東京、上方の両方の落語が理解できるつもりではあるが、怪談噺や人情噺よりも笑わせる話のほうが好きである。とはいっても、推理小説も好きだから、そこは我慢しておくか。
 さらに言えば、1955年頃、上方落語はほとんど演じる落語家がいない壊滅状態であったはずで、落語の歴史を踏まえるとやや無理が目立つようにも思われる(大倉さんは1968年生まれだそうだから、上方落語のどん底時代からの再生についてはあまり知らないはずである)のだが、そうしたことは忘れてミステリーとしての出来栄えを楽しむべきなのであろう。

ダンテ・アリギエリ『神曲 地獄篇』(23)

2月9日(月)曇り後晴れ、ひどく寒い。

 第22歌で悪魔たちが地獄に堕ちた魂をめぐって繰り広げた乱闘に乗じて、彼らのもとから逃げ出したダンテとウェルギリウスは
沈黙し、二人きりで、道連れはなく、
一人が先になり一人は後ろになり私達は急いでいた、
小さき兄弟会士が道を行くように。
(334ページ) 小さき兄弟会というのは、当時の教会革新運動の担い手であったフランシスコ会を意味する。同会の修道士たちは2人1組で行動し、また一列で祈り瞑想しながら進む決まりであった。彼ら2人の姿がこの会の修道士たちの姿に重ね合わせて描かれていることは、後で登場する聖マリア騎士団の描き方と対照的である。
 フランシスコ会というと、忘れられない思い出が2つばかりあり、物語の進行とは関係がないが、ここで書き留めておく。アイルランドの第2の都市であるコークを訪れた折、そこのフランシスコ会の修道院の礼拝堂の前で、焦げ茶色の修道士服を着た修道士が、顔見知りらしいケバイ外見の姐ちゃんに話しかけているのを見かけた。お前、近ごろ礼拝に来ないが、どうしたんだ。姐ちゃんのほうが何と答えていたかは忘れたが、聖フランシスコの精神が現代にも息づいていることを実感した。なお、原さんは聖フランチェスコとイタリア語読みをしているが、ご本人たちが聖フランシスコという呼び方をしているおで、その言い方に従うことにしている。コークでの出来事から数年して、今度はダブリンのフランシスコ会の礼拝堂に立ち寄った折に、そこにいた老人からお守りを渡された。お前は中国から来たのか? いや、日本からである。そうか、このお守りをもっていなさい。マリア様が必ずお前をお守りくださるだろう。わたしはカトリック信者ではないが、彼の善意とともにお守りを有りがたく受け取った。真実、そのお守りのおかげで、その後、何度も旅行をしたが、無事に過ごしてきたのである。

 閑話休題、ダンテは第22歌でいったんは振り切った悪魔たちがなおも彼ら2人を追跡してくることを心配し、その気持ちはウェルギリウスにも伝わる。そして2人の後を追って迫ってきた悪魔たちの姿を認めると、ウェルギリウスはダンテを抱きかかえて
険しい崖の頂から下へと
あおむけに身を翻して切り立つ岸壁に身を投じた。
そこには次なる巣窟の片側を区切っていた。
(338ページ) こうして彼らは悪魔たちの追跡を振り切り、第6巣窟に逃げ込む。

 この第6巣窟には偽善者たち、とりわけ聖なる権威のもとで偽善の罪を犯してきた聖職者たちの魂が閉じ込められている。
地底では遅々とした足取りで周回する
化粧された人々を私達は見出した。
苦しみに嘆きつつ疲労困憊している姿だった。
(339ページ) 「マタイによる福音書」23.27には「律法学者たちとファリサイ派の人々、あなた達偽善者は不幸だ。白く塗った墓に似ているからだ。外側は美しく見えるが、内側は死者の骨やあらゆる汚れに満ちている」とある。ユダヤ教の律法を形式的に守ることを重視したファリサイ派の人々を偽善者呼ばわりにするのは、見解の相違の行き過ぎだといえなくもない(聖パウロのようにファリサイ派からキリスト教に合流した人々も少なくないのである)が、ダンテは、当時の一部の修道会における偽善と腐敗をこの言葉に重ね合わせて、この箇所で糾弾しているのである。

 このような罰を受けている魂の中で、ダンテのトスカーナ方言を聴き分けた2人が追いすがってくる。聖マリア騎士団、俗称「享楽坊主会」所属の2人のボローニャ人、教皇党のカタラーノ・デイ・マラヴォルティと皇帝党のロデリンゴ・デッリ・アンダロであった。2人は公職就任を禁じる騎士団の内規にもかかわらず、1266年にフィレンツェ市の最高執政官に迎えられ、教皇党と皇帝党の調停と平和の維持を図るはずであった。しかし彼らは両派の対立を克服するという任務を果たすことができないまま、その年の12月には辞表を提出して、市から逃亡している。「ダンテは、分裂を防ごうとしなかった2人の行動を、善人を装って悪を行う偽善としたのである」(582ページ)と翻訳者の原さんは解説している。さらに「このように偽善に関しても個人的な倫理の問題としてより、社会的側面が重視されている」(同上)と原さんは続ける。「ダンテにとって、社会を腐敗させる汚職と偽善は…人類に対する罪であった。そのためここに強く神の怒りが表現されているのである」(583ページ)。

 ウェルギリウスは彼らとの出会いにより「怒りに少し表情をいらだたせ」(348ページ)ながら、先を急ごうとする。そこでダンテも、その後を追ってさらに先へ進むことになる。

落合敦思『殷――中国史最古の王朝』

2月8日(日)雨、夕方になって晴れ間が広がる

 落合敦思『殷――中国史最古の王朝』(中公新書)を読み終える。

 今を去ること3,000年以上も以前に中国に存在した殷王朝の社会や歴史について、同時代の史料である甲骨文字を手掛かりとして解き明かそうとする書物である。その実態がどこまで詳しく明らかにされるかという問題とともに、殷の文化がその後の中国の文化、さらにはわが日本の文化にどのようにかかわっているのかということも問題になる。

 殷王朝については、司馬遷が著した『史記』の殷本紀に詳しい記述があるが、殷王朝の滅亡から1,000年が経過した後に記されたものであるだけに虚実が入り混じっている(というよりも、いかに司馬遷が明敏な頭脳の持ち主であったとしても、虚実を見分けることが難しくなっていた)。書かれたものをそのまま信じるという伝統が強い中国では、『史記』の記述が大部分はそのまま信じられていたのだが、19世紀末に王懿栄という人物によって甲骨文字が発見されたことによって事態が変化する。王懿栄は清代末期に起こった義和団事件に巻き込まれて自殺したが、その後、羅振玉や王国維らによって甲骨文字の解読が進められた。他の多くの古代文字と違って、甲骨文字は現在の漢字との直接の継承関係があるため、その解読は比較的容易であったという。占卜の記録である甲骨文字を通して、殷の人々がどのような問題に直面し、対処しようとしていたかが不完全ながら推測することができる。

 中国では、紀元前6,000年頃に各地で新石器文化が出現し、その後、数千年をかけて日用品や装飾具などの加工技術が発達し、また土木建築が大規模化した。そして、紀元前3千年紀になると強い権力を持ったリーダーが出現し、貧富の差が拡大したことが窺われ、その中で黄河中流域に最初の王朝が出現したと考えられる。考古学的な分類では二里頭文化に位置づけられるこの時代の王都は現在の河南省偃師市に置かれており、発見された宮殿の規模は新石器時代とは隔絶した規模の巨大建築であるという。この王朝は文献資料に記された「夏王朝」と同一視されることもあるが、内容に食い違いが大きく、直接的な関係を認めることはできない。

 二里頭文化に続く2番目の王朝が殷である。二里頭文化の王朝については、当時の叔父資料が発見されていないため、もっぱら考古学の対象であるが、殷王朝は同時代史料である甲骨文字が大量に発見されているので、歴史学の対象となると著者は論じている。殷王朝は紀元前16世紀に成立して紀元前11世紀に滅亡するまで500年以上も存続した。殷王朝の前期(紀元前16~前14世紀)及び中期紀元前14から前13世紀)については、文字資料がほとんど発見されていないために詳しいことはわからないが、前期は安定して領域を拡大したが、中期には分裂して複数の王統に分かれたと推定される。分裂期は100年ほど続いたが、武丁という王によって王朝が再統一され、それ以降が殷代後期(紀元前13~前11世紀)となる。この時代になると甲骨文字による資料が大量に生み出され、その歴史を比較的詳しく知ることができる。殷代の支配体制は分権的であり、遠方の地方領主は自立的な力を持っており、殷王が強く支配しているのは王都の周辺のみであった。

 こうした軍事力による支配のほか、殷王は盛んに神々を祀っており、精神的な面からも人々を支配していた。王による祭祀は必ずしも純粋な信仰心から行われたのではなく、王の宗教的権威を確立するという意図を以て実施されたのである。殷代においてもっとも重要な宗教儀礼は、家畜の肩甲骨や亀の甲羅を使った占いである甲骨占卜であり、殷王はそれによって王朝の政策を決定していた。殷代の同時代史料である甲骨文字は、このような甲骨占卜の内容を記録したものである。

 ただし、甲骨占卜は、名目上は神意を知るための手段であるが、実際には政治的に利用されていた。事前に甲骨に加工が施され、王が望んだ結果を出せるようになっていたのである。殷王朝の政治は、神への祭祀や甲骨占卜を重視したために「神権政治」と言われるが、その実態は「神に頼った政治」ではなく、「神の名を利用した政治」であったのである。

 殷王朝の前期・中期における政治と社会の姿でわかることは以上のようなものであるが、武丁による中興期以降殷の政治は大きく転換を遂げることになる。そのことについては、さらに機会を改めて見ていくことにしたい。これまでみてきたところから、殷の時代の政治の、占卜によって神意を伺い、政治を進めると言いながら、実際は王の意向に沿って政策を決定しようとするなど、生々しい姿を多少なりとも窺うことができた。現代の政治とは大きく異なる神意という建前を掲げながら、実際には為政者の本音を推進していくというところではあまり変わりがないのではないかという気がするのだが、いかがなものであろうか。

百円の恋

2月7日(土)曇り後雨

 横浜シネマ・ベティで武正晴監督の『百円の恋』を見る。上映開始直前に劇場に到着したのだが、中に入ってみると入場者が多くて、席を捜すのに苦労した。俳優の故松田優作氏の出身地である山口県の周南映画祭で新たに設けられた第1回「松田優作賞」のグランプリを得た同名の脚本(作・足立紳)の映画化。周南市をはじめ、山口県の各地でロケをされているようであるが、舞台が特定されているわけではない。

 ヒロインの斎藤一子(安藤サクラ)は32歳。短大を卒業して10年以上たっているのに、実家の仕事を手伝うでもなく、親に寄生している。ところが妹が離婚して、子どもを連れて戻ってきたことで、そのような生き方を批判されて取っ組み合いのけんかを演じた末、一人暮らしをすることになる。それも母親からもらった金でどうやらアパートを借りるなど、前途多難な成り行きである。

 やっと見つけた仕事は百円ショップの深夜の仕事。店長を始め、同僚はひどく癖のある人物ぞろいで、店の金を着服して首になったのに、ほとんど毎日店に押しかけて食べ物をあさっている女性など、不可思議な人間模様を目の当たりにすることになる。その中で、店の近くにあるボクシング・ジムで黙々と練習に励んでいるボクサー(新井浩文)に魅力を感じる。店の同僚と彼の最後となる試合を見に出かけるのだが、その試合で彼はノック・アウト負けを喫する。しかし、彼女はボクシングにも魅力を感じる。

 風邪をひいて倒れたボクサーを介抱したことでしばらくは一緒に暮らした2人であったが、ボクサーは豆腐を売り歩く女に惹かれて、去っていってしまう。取り残された一子はボクサーが練習していたボクシング・ジムに入門してボクシングを始める。そしてテストに合格するが、32歳という年齢は試合のできる上限である。それでも彼女は試合をすることを熱望する。店長と喧嘩をして百円ショップは首になるが、実家の母が倒れて、父親から戻って店を手伝ってくれと言われる。

 ほとんど何もせずに暮らしていた主人公が何かのきっかけに活動的になるという設定は民話的と言っていいのかもしれない。民話の主人公はたいていは男性であったが、これはその女性版である。しかし、生き方を変えてもそんなに明るい結末が待っているわけではないというのが現実である。そういう人生を生きるヒロインを演じている安藤サクラの存在感が映画を引っ張っている。何か輝くこともなしに暮らしていたのが、ボクシングに出会って、人生が変わり始め、特に後半、試合が決まって練習に励むようになるところに精彩がある。ゆっくりペースを守って走る方がトレーニングとして有効なはずだが、疾走を続けるところにその性格が現われているようである。

 この映画に出て来るほど地元に親しまれているわけではないが、私の身近にも弁当屋は何軒かあるし、たいした選手はいなかったはずだが、ボクシング・ジムもあった。豆腐の行商も回ってきたことがある。というように、この映画に出て来る人物や設定の多くが身近なものである。それぞれにどんなドラマが潜んでいるか、普通は考えても見ないのだが、そこから新しい人生を目指すドラマを映画は描こうとしている。努力はなかなか成果を結ばず、空回りが多い展開となるのだが、そういう主人公の姿を映画は温かく見守ろうとしている。温かく見守ったところで、主人公の運命が好転する可能性は乏しいのだが、その温かさに希望を託しておくことにしよう。

坂道

2月6日(金)晴れ

坂道

七つの丘どころではない
岡がいくつあるかわからない
港町の
丘の上の小学校に通い、
別の丘の上の中学校に通い、
さらにまた別の丘の上の高等学校に通う

坂道を下ったり上ったりしながら
小学生の一団が学校に向かい
それとは別の方向に
中学生たちが歩いていき、
それとも別の方向に
高校生たちが足を運ぶ
昔は 私もその1人だった
そんな眺めが
ずっと続いている

丘の上から
昔は海が遠くに見え
その先にある
対岸の半島までも
見渡せたのだが、
埋立地が広がり
高い建物が目隠しになって
小高いという程度の丘の上からは
海は見えなくなった

むかし学校に通っていたころに
見えていた海を
今の子どもたちは見ないままに
学校に通っている

後輩たちと思い出を共有できないままに
だんだんと年をとり
坂道を元気に
上り下りする子どもたちとすれ違いながら
足取り重く
坂道を行き来し
今は見えなくなった
海の輝きを
心の中で思い出す

『太平記』(26)

2月5日(木)雨(霙)が降ったりやんだり

 今回から、『太平記』第5巻に入る。

 元弘2年(1332年)3月22日、後伏見院の第1皇子量仁(かずひと)親王が19歳で即位された。後に光厳天皇と諡される方である。この方のたどった生涯を描いた飯倉晴武さんによる『地獄を二度見た天皇光厳院』という書物が吉川弘文館の歴史文化ライブラリーに入っている。新帝の母は左大臣西園寺公衡の娘寧子で、後伏見院の女御であったが、後伏見院の弟の花園天皇が即位された際に、その准母となり、広義門院という院号宣下を受けていた。光厳院、広義門院ともに、その後の歴史の展開の中で大きな役割を演じられることになる。
 新帝のもとで関白になったのは鷹司左大臣冬教(ふゆのり)、別当は日野中納言資名である。「いつしか当今(とうきん)奉公の人々は、みな一時に望みを達して、門前市をなし、堂上花の如し」(235ページ、いつしか今上帝に仕える人々は、みな一時に望みをかなえ、一族繁栄することになった)。後醍醐天皇のもとで冷遇されていた貴族たちが、新しい天皇のもとで息を吹き返す。その様子が描かれている。また新帝の弟である尊胤法親王が天台座主となった。

 万里小路大納言宣房卿は古くから後醍醐天皇に仕え、その子息である藤房、季房の2人も後醍醐天皇の側近中の側近として活躍、そのため幕府から流刑の処分を受けることになった。当然、父親にも累が及ぶところであるが、賢才との評判が高かったので、幕府も特段の配慮をして新帝のもとにも出仕するように計らった。

 そこで朝廷は日野中納言資明(すけあきら)卿を勅使として宣房にこの由を伝えた。資明は、俊光の子、資名と資朝の弟である。日野家は持明院統に近い家柄であったが、資朝と一族の俊基は後醍醐天皇の側近として活躍、力及ばずして幕府に捕えられ処刑されたのは既にみたとおりである。これに対して資名と資明は持明院統に仕え続けていた。資名は室町時代における日野家の隆盛の基礎を築き、資明はこの後、実務官僚として活躍、さらに権大納言に進み、柳原家の祖となる。

 宣房は資明に「臣、不肖の身たりと云へども、多年奉公の身を以て、君の恩寵を蒙り、官禄ともに進んで、剰(あまつさ)へ政道輔佐の名を汚せり(畏れ多くも帝の政務を補佐する職についた)」(236ページ)。主君が過ちを犯した際に諌め、三度諌めて入れられない場合には身を退けるのが良臣の節である。諌めるべき時に諌めないのを尸位(しい=いたずらに高位におり、職責を果たさないこと)と言い、退くべき時に退かないことを懐寵(かいちょう=寵愛を頼んで官を退くべき時に退かないこと)という。「君、今不義を行ひおはして、武臣のために辱められ給へり。これ臣が予め知らざるところによつて、諫言を献ぜずと雖も、世の人、豈にその罪なりしことを許さんや」(237ページ、天皇が今、正しくないことをなされて、幕府によって辱めを受けられた。これは私が予知していなかったことで、そのため諫言を申し上げなかったのだが、世の人がそれを許すだろうか)、それに自分の年長の子息2人が流刑に処せられ、自分は70歳となって心身ともに衰えている。2人の天皇の朝廷につかえて、自分の衰老の姿を見せて、恥をかくよりも、野にあって飢え死にするほうがましであると涙ながらにのべた。

 これに対して、資明も宣房の気持ちは十分に理解して、抑えることのできなかった涙を流し、しばらくは物を言わなかったが、次のように述べた。「忠臣必ずしも主を択ばず。仕へて治むべきを見るのみなり」(同上、『後漢書』馬援伝に類似句があるとのことである。中心というのは必ずしも主君を選ぶ者ではない。仕えて政治がしっかり行われているか見守るだけである)という。中国の故事から、もともとの主君の敵に仕えて功績をあげた例を挙げる。さらに幕府からこのように申し入れてきたことであり、新しい朝廷に仕えれば、赦免の可能性が開けるかもしれない。野にうずもれるよりも、朝廷につかえて功績をあげる方が子孫のため、家のためであると説得する。この説得についに宣房卿も折れて、光厳帝にお仕えする旨の回答をする。

 この間、都でも地方でも、世にもまれなあやしい出来事が数多くみられた。特に先帝が延暦寺の根本中堂に燈した新常燈が飛んできた山鳩に消され、その山鳩がイタチに食い殺されるという出来事があった。

 皇位を争っている持明院統と大覚寺統のそれぞれに従う貴族たちがいて、どちらが皇位につくかによって浮沈を繰り返してきたのだが、そんなことよりももっと大きな変化が貴族たちだけでなく、もっと幅広い人々を巻き込んで起きていくかもしれない。そんな中で資明卿の「仕へて治むべきを見るのみなり」という言葉には、時代の変化の中で強く生きようという意欲が感じられる。

日記抄(1月29日~2月4日)

2月4日(水)晴れ

 1月29日から本日までの間に経験したこと、考えたことなどから:
1月29日
 NHKラジオ英会話では比較表現について取り上げた。There's no place like home. (家のような場所はない。)という例文が出てきた。特に解説はなかったが、これはThe Wonderful Wizard of OZの中に出てくる言葉である。原作にも出てくるが、映画の中でさらに効果的に使われている。

1月30日
 NHKラジオ英会話の和文英訳の問題で「私たちの町は私たちの県内で2番目に小さいのですが、その藤の庭園でダントツによく知られています」→”Our town is the second smallest in our prefecture, but it is by far the most well-known for its wisteria garden."というのが出てきた。Wisteriaというとシャーロック・ホームズの「ウィステリア荘の事件」を思い出す。イングランドで藤を見たという記憶はないが、見落としかもしれない。

 同じく実践ビジネス英語で”You can fool some of the people all the time and all the people some of the time, but you can't fool all the people all the time."→「一部の人たちを常に、そしてすべての人たちを一時だますことはできるが、すべての人を常にだますことはできない」ということばが出てきて、これはAbraham Lincolnの言葉とも、アメリカのサーカス王と言われたP.T.Barnumの言葉ともされると解説されていた。岩波文庫の『リンカーン演説集』に、この言葉は収録されているが、Barnumの言葉だという説もあると注記しておくべきであろう。

1月31日
 石井好子『私の小さなたからもの』(河出文庫)読了。ソ連のフルシチョフ時代に文化大臣として活躍したフルツェワと交流があり、琥珀の首飾りをもらったという話がはじめの方に出てくる。フルツェワが作家会議で小説家たちに注文を付けたところ、ショーロホフがユーモアを交えて反論したというエピソードを記憶している。そういえば、大学生の頃、小野理子先生のロシア語の授業で、ショーロホフの『静かなドン』の一部を読んだことがあった。先生がこの長い小説の大まかな流れについて説明してくださったことを思い出す。ロシア文学の中に出て来る女性像への共感が先生のロシア語への取り組みの底流としてあったのだろうと推測している。
 石井さんは彫刻家のジャコメティと交流があり、彼が世界的な名声を得ても、貧乏だったころと同じような暮らしぶりを続けていたという話をかきとめているのが印象に残る。もう40年以上も昔になってしまったが、ジャコメティの展覧会を見ようと、当時の恋人と2人で京都から神戸まで出かけたことを思い出す。

2月1日
 田村隆一『言葉なんかおぼえるんじゃなかった 詩人からの伝言』(ちくま文庫)を読んでいる。借金を申し込むとたいていは値切られる。値切らずに、要求した以上の額を貸してくれたのは金子光晴だけだったという話が面白い。このほか、江戸川乱歩、有吉佐和子など、借金をした相手の顔ぶれがなかなか豪華である。

2月2日
 NHKラジオ「まいにちドイツ語」は舞台をハノーファーからザバブルクに移した。メルヘン街道沿いにあるザバブルク城は、グリム童話Dornröschen(いばら姫、眠り姫)の舞台だといわれているそうだ。この話、シャルル・ペローの童話集にも入っているのではないか。

 田村隆一『言葉なんかおぼえるんじゃなかった』を読み終える。付録の「年譜」がなかなか充実していて読み応えがあった。府立第三商業で北村太郎、加島祥造と同期だったというのは、知っていたが、一級下に鈴木清順がいたというのは初めて知った。

2月3日
 日本サッカー協会が、日本代表のハビエル・アギーレ監督との契約解除を発表した。監督が誰になるかよりも、協会が日本代表にどのようなサッカーを望んでいるのかが、あまりはっきりしていないことが問題である。

2月4日
 NHKラジオ「実践ビジネス英語」に
Americans have developed a serious taste for sushi, shabushabu, ramen, tonkatsu --pretty much any type of Japanese cuisine you'd care to mention. (アメリカ人は、すし、しゃぶしゃぶ、ラーメン、とんかつなど、思いつくほとんどのタイプの日本料理を非常に好むようになりました。) という発言が出てきた。列挙されている料理がその形を整えてきたのが、比較的新しい時代のことであることに留意すべきである。 

不整脈

2月3日(火)晴れ

不整脈

不整脈があると
医者からいわれたのは
いつのことだったのか
正確な記憶はない

気をつけないと
大変なことになりますよとか
心因性だから
気にしないようにしなさいとか
言われながら
不整脈と付き合い続けている

30代の頃に
走ることに熱中し
その後、仕事が忙しくなって
まるで運動をしなくなったのが
原因だとも思われるが
素人診断だから
当てにはならない。

もっと若いころに
学生運動に熱中し
友人たちから
将来を危惧されたが、
何とか就職して
勤務し続け
何とか年金をもらっている
しかし
精神の
不整脈も
どこかで私の心身を
揺らしている

付記:yume-miさんのブログ「ちょこっと*ひとりごと」の「両親と良心」という詩を読んでいて、yume-miさんに不整脈の症状があることを知り、同じ症状がある自分のことを改めて見直すことになった。私のこの詩では私の親子関係については全く触れていない。というのも私の場合、両親に心配をかけないようにしなくてもよくなってしまったからであるが、そのことは、つまり両親がともに他界したということで、それがいいことだとは決して思ってはいない。

繕い裁つ人

2月2日(月)晴れ

 109シネマ川崎で三島有紀子監督作品『繕い裁つ人』を見た。平日の昼間の上映であったが、かなりの観客数で、その大半が年配の客であった。こういうこともあるのだな、と少し心強くなった。

 神戸の山の手の住宅地。住まいを作業場と店にしたらしい南洋裁店は、現在の店主である市江(中谷美紀)の祖母が始めた店で、地域の人々にずっと愛されてきた。市江の主な仕事は、祖母が仕立てた洋服を繕い、店にしばしば顔を見せる地域の常連客のためにオーダーメードの洋服を仕立てることである。旧式のミシンを踏んで、職人技を駆使する彼女の腕は地域の信頼を得てきた。

 そういう彼女の前にデパートの洋服売り場の担当者である藤井(三浦貴大)という男性が現われ、店に足しげく通うようになる。祖母のデザインを踏襲するのではなく、彼女自身のデザインによる洋服を作っていきたいという気持ちが彼女のどこかにあるのだという。市江のデザインによる洋服を独自ブランドとして売り出したいというのである。市江は、自分は顔の見える顧客のためにしか洋服を作らないと頑固にその申し出を拒否し続ける。しつこく彼女のもとに通い続ける藤井には洋服に対するこだわりを産む彼なりの理由があった・・・・。

 物語には起伏がそれほどないのだが、洋服をめぐり、しっかりとした手作り感のある仕事を重視する市江と、ブランド化、大量化を目指す藤井の哲学がぶつかり合う。目に見える激しい諍いはないが、何のために洋服を仕立てるのかをめぐって静かな理論闘争が続く。そしてその背後では、衣類を買ってはすぐに捨てる大量消費の価値観が浸透してきている。
 そういう展開を描くために、坂道の多い神戸の市街地と住宅地の情景が巧みに利用され、特に登場人物が坂道を上ってくるシーンが多用されているのが、効果を挙げている。有名な神戸の夜景も、片鱗だけだが捕えられている。その一方で屋内のシーンは逆光の画面が使われたり、絵画的な効果を狙った場面が多く、市江を演じている中谷美紀があまり表情の変化を見せないことも手伝って、静的だが強い印象を残す。

 映画の展開の中で、市江も藤井も少しずつだが考えを変え、歩み寄り始めるように思われる。しかし、それ以上に大量消費の価値観に毒されかけていた少女たちが、大人たちが洋服を大事にしている姿に接して考えを変え始めるくだりが最も重要なのではないか。三島有紀子監督の作品では『しあわせのパン』がよかったが、そこでも手作りの作業を大量生産・大量消費よりも大事にしようという考えが出ていた。いくつかのエピソードをつないだ『しあわせのパン』に比べて、物語にまとまりのある分、この作品はそれを上回る感動を与えてくれる。このところ、海外で大量生産された衣類しか買って着ていないので、改めて自分の生活について考え直すきっかけになりそうである。

 このブログを始めて以来、読者の皆様から頂いた拍手が5,000を超えました。この場を使いましてお礼申し上げます。

肉食獣

2月2日(月)晴れ

肉食獣

家の近くを飛んでいる
コウモリたちを
餌付けしようと
窓辺に果物を
並べているという人がいた

コウモリは肉食獣なので
果物ではなく
挽肉でも並べておいた方が
近寄ってくると
知った時には
音信は絶えていた

我が家の肉食獣2匹は
書庫の片隅を
ごとごといわせている
ねずみには目もくれず
キャットフードのえり好みばかり
している

そういえば
キャットフードを
コウモリは食べるのだろうか
ネコはコウモリを見て
どんな顔をするのだろうか

さよなら歌舞伎町

2月1日(日)晴れ、寒い

 1月31日、横浜シネマ・ベティで廣木隆一監督の『さよなら歌舞伎町』を見た。

 東京は多くの出会いと別れを内包している都市である。東京のそれぞれの部分に、それぞれの個性に応じた出会いと別れがある。日本有数の歓楽街であり、多国籍的な町でもある歌舞伎町には歌舞伎町なりの出会いと別れがあるはずである。

 主人公の高橋徹(染谷将太)は一流ホテルのフロントマンをしていると嘘をつきながら、実は歌舞伎町のラブホテルの店長をしている。彼とセックスレスの同棲をしている歌手志望の飯島沙耶(前田敦子)のカップルを含めて、徹のホテルを利用する5組の男女とその周辺で展開される人間模様を2日弱の時間帯の中で描いた作品である。後の4組であるが、ホテルを利用しているデリヘル嬢の韓国人女性イ・ヘナ(イ・ウンウ)と韓国料理店で働いているアン・チョンス(ロイ(5tion))、ホテルで働いている中年女性の鈴木里美(南果歩)とそのアパートの部屋でひっそりと暮らす池沢康夫(松重徹)、不倫中の警察関係者である藤田理香子(河井青葉)と新城竜平(宮崎吐夢)、そして行きずりでホテルに飛び込んできた家出娘の福本雛子(我妻美輪子)とスカウトマンの早瀬正也(忍成修吾)という組み合わせ。それに、ホテルでAVの撮影をしている一団の中の女優が徹の妹の美優(樋井明日香)であったり、ヘナにほれ込んでしまう客(村上淳)が現われたりするエピソードが絡まる。

 沙耶は大手のレコード会社のオーディションを受けることになっている。ヘナは韓国で母親と店を出すのに十分な金を貯めたので、帰国しようと考えている。彼女がホステスをして短期間のうちに金を貯めたことに不審を抱くチョンスは彼女がデリヘルに務めていることを知る。いよいよその仕事の最後の日を迎えたヘナであるが、最後まで波乱が付きまとう。そして鈴木里美には思いがけない過去があり、雛子の身の上話に正也が同情してしまうことで、別の波乱が起きる。

 と、書いてみたが、新宿歌舞伎町にはこの30年ばかり足を踏み入れたことがない。とりあえず、映画を見ることが目的で出歩くので、近くまでは出かけるのだが、足が向かないのである。だから、この映画が歌舞伎町の現在をどの程度的確にとらえているのかを論評するだけの経験は持ち合わせていない。ただ、映画全体を通して、多く描かれているのは、出会いも別れも、なんとなくそうなった、別れても、また元の鞘に収まるということもありそうな関係であるように思われる。出会いと別れを通じてそれぞれの登場人物の中で何かが変わり、新しい人生に向かっていくというような展開ではない。確かに登場人物の中で何かが変わっているのだが、先行き不安という思いが付きまとう。詳しく書くわけにはいかないが、最後の方で題名通り、踏んだり蹴ったりの経験をした後、歌舞伎町に別れを告げて(あるいはまた戻ってくるのかもしれないが)徹が高速バスに乗って郷里へと戻っていく場面には、リアリティーを感じた。ただ、車外の風景をもう少し取り上げてみてもよかったのではないか。

 映画の進行に連れて、登場人物が過ごしている時刻をテロップで示すなど、観客に分かりやすいような工夫を凝らしながら丁寧につくられてはいるが、やはりいろいろな材料を詰め込み過ぎたという気がする。その割に沙耶のオーディションがどのような結果になったのかなど、描かれていない部分もあり、もう少し脚本を練ったほうがよかったのではないかと思う。そういえば、最初のほうで徹と沙耶が自転車で目的地に向かう場面があるが、ホテルマンがかなり遠くの職場まで自転車で向かうというのは不自然で、その不自然さに登場人物が気づかないというのが奇妙である。あるいは若いカップルが自転車を走らせるという映像の魅力に執着して、映像以外のことが目に入らなくなっていたのかもしれない。

 出演者では南果歩が物語の進行を支える役どころをしっかりと演じきっていて、実力を示している。この映画、5組の行く末を最後の最後まで追い続けているので、途中で席を立たないようにしてみてください。

2015年の2015を目指して

1月31日(土)晴れ

 1月は31日間ずっと横浜で過ごした。その間に2回、東京に出かけた。
 それで、1月に足跡を記した都県は神奈川県と東京都の2都県、市区は横浜市、渋谷区、新宿区の3市区である。
 東急、東京メトロ、京急の3社、東横線、目黒線、半蔵門線、南北線、(京急)本線の5路線、横浜、渋谷、早稲田、日ノ出町の4駅を利用している。

 この間に書いたブログは32件(この原稿を含む)、いただいたコメントは4件、トラックバックは2件、拍手は587ということである。

 11冊の本を買い、1冊の贈呈を受けた。本はすべて紀伊国屋そごう横浜店で購入した。読んだ本は8冊で、『春香傳』、森正人『四国遍路』、はらだたけひで『放浪の聖画家 ピロスマニ』、市井豊『聴き屋の芸術学部祭』、アガサ・クリスティー『ポアロとグリーンショアの阿房宮』、東京大学教養学部×博報堂ブランドデザイン『「個性」はこの世界に本当に必要なものなのか』、マージェリー・アリンガム『窓辺の老人 キャンピオン氏の事件簿Ⅰ』、石井好子『私の小さなたからもの』というのがその内訳である。

 見た映画は2本、シアター・イメージフォーラム(渋谷)で見たジャン=リュック・ゴダール監督の『アルファヴィル』と、シネマ・ベティ(横浜)で見た廣木隆一監督の『さよなら歌舞伎町』である。

 NHKラジオ「まいにちドイツ語」、「まいにちフランス語」、「まいにちイタリア語」、「ラジオ英会話」、「ワンポイントニュースで英会話」をそれぞれ20回、「実践ビジネス英語」を12回、「入門ビジネス英語」、「攻略!英語リスニング」をそれぞれ8回聴いている。
 またカルチャーラジオ「続シルクロード10の謎」を3回、「『ガリバー旅行記』とその時代」、「富士山はどうしてそこにあるのか」をそれぞれ4回聴いている。

 ニッパツ三ツ沢球技場で全国高校サッカー選手権の2回戦2試合、3回戦2試合を観戦した。

 A4のノート2冊、A5のノート2冊、万年筆(パイロット)のインク・カートリッジ3本、同じくウォーターマンのインク・カートリッジ2本を使い切った。

 酒を全く口にしなかった日が2日といやに少ないのが問題である。富士山を見ることができたのも2日である。

 宝くじのあたり(末等)1枚、お年玉付年賀はがきの3等当選4枚ということである。

 就寝時間が遅くなり、体内時計がうまく動いているか気になるところではあるが、2015年の2015を目指す取り組みはまずまず順調に滑り出したのではないかと思っている。
プロフィール

Author:tangmianlaoren
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