雪の日

1月30日(金)雪、その後雨、寒い。

雪の日

雪が降り
その後、雨に変わって
屋根の上に残っていた雪も
夕方には姿を消した
それでも
北風が
隙を見つけては
襲い掛かってくるのに
うろたえてしまう。

若いころに
雪国で暮らしたことがある
あのころは
(いやいやではあったけれども)
屋根の上に登って雪下ろしをしたりもした
作業が終わるころには
汗をかくほど体が温まっていた。

少し年をとってから
日本よりもっとずっと北の国の
冬を旅したこともある
一日のほとんどが暗闇の中で
凍り付いた道路の上を歩く毎日だったが、
外国で暮らすたのしさで
寒さは気にならなかったものだ。

暖かいはずの都会で
暖かいはずの冬に
襲ってきた雪と寒さに
戸惑っている。
もっと厳しい寒さを
経験したことを忘れて
溶けかかった雪を眺めながら
放心している。
これも
年をとったことの表れだろうかと
自問自答しながら。
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『「個性」はこの世界に本当に必要なものなのか』(2)

1月29日(木)晴れ後曇り、次第に寒さが厳しくなる。

 第3講では、吉田丈人さんが生態学の立場から、「個性とは、種の存続可能性を高めるために必要なもの」と、これまでのお二人とは全く違った角度からの意見を述べている。生態学では、生物の個体間や種間、生態系、地球環境など、さまざまなレベルの相互作用を扱っているが、個性はそのすべてにおいて存在しているという。ただ、そこで注目されるのは主として行動の部分であり、同じ種の生物の中でも個体によって餌を積極的にとりに行くとか、消極的だとかいう違いがあって、それを個性ととらえている。このような個体の行動傾向は、別の種との関係にも影響を及ぼす可能性があり、種の中にどんな個性をもった個体がいるのか、言い換えると種内の多様性の高低によっても、種間の関係が変化するという。
 自然界では、自分たちがどんな環境下に置かれるのかを、あらかじめ予測することはできない。それでも、種内の多様性が高ければ、突然の環境の変化にも対応できる可能性が高まる。確率論的な話として、多様性を備えている種のほうが持続可能性が高い。
 目を人間に向けると個性は「やはり人間という種にも必要なのではないか」(62ページ)と思われる。個性のもたらす多様性は種の持続可能性を高めるものだからである。人間の社会の持続可能性を高めるために、多様性をもつことは欠かせないという。とすると、社会を画一的な方向にもっていく企ては警戒する必要があるということである。

 第4講では原和之さんが哲学の立場から「個性とは運命でもあり、呪いでもある」と、不景気で物騒に聞こえる議論を展開している。「個性が強い人は付き合いにくい。そう感じたことがある人は少なくないでしょう。そして、おそらくその実感は、決して的外れなものではないだろうと思います」(68ページ)という感想から議論が展開されるのだから、この先どんな話になるのか心配になる。
 西洋の思想史ではもともと、普遍性とか理念とかに価値を置いて、個々の人間はその反映にすぎない、似姿にすぎないと考えることが支配的であった。その後、人間自体の価値が再認識されるようになって、人間の外部にある価値や理念を重視するのではなく、人間性を進歩させることによってある種の普遍的な価値を実現できるのではないかという考えが有力になった。しかし、それも行き詰まってしまい、結果として個性が重視されるようになったという経緯があるという。「いまあるままの私たちに価値を置く」(69ページ)というのが個性重視の根底にある考え方であると思われる。しかし、各個人の中に価値があるということになると、人々はどうやってまとめればいいのかわからなくなってしまう。
 さらに個々人が個性を発揮することだけでなく、それらの個性を社会の側がきちんと受け止める仕組みをもっているかということも問題である。さらに個性をもっているということは、他と違う、他と安易に協調しないということであり、そのための孤立に耐えられるかという問題もある。また個性を認めるという場合、どういう個性をどの程度まで認めるかということも具体的には問題になってくる。
 とはいうものの、近代以降の哲学では人間の在り方は他者との関係の中で決まるという考え方が有力になってきている。個性は何か固有のものとして存在するというよりは、何かに対する解決の仕方であり、対応の仕方にあたるものだと考えられている。そうなってくると個性的な人間になるために努力するなどということは考え方としておかしくなってしまう。ただし、個性を生かすということは、個性が単独で機能するものではなくて、適切な環境に置けば機能するという意味で現実的な可能性をもつ。また適切な環境は他人から与えられるだけでなく、自分で探すこともできる。
 以上の議論を踏まえて原さんは、個性とは「私たちの思考や行動に、そうならざらざるをえないような方向づけをするもの」(79ページ)であり、一種の「呪い」であるとまで言っている。だからこそ、社会の方にそれを受容する仕組みや文化が必要であり、社会に向けてそれぞれの個性を見分けて、その意義を説明できるような「通訳」的な存在と評価の仕組みが必要になる。それでもうまくいかなかったらどうするかという問題は残る。個性重視の結果として生じる否定的な面も含めて、どうするかを考えていく必要がある。

 今回も、個性について手放しでその意義を強調するような意見は展開されず、肯定面も否定面も視野に入れたうえで、それをどのように社会の中で生かしていくかが重要であるという議論が中心になっている。個性を重視していくことの必要性はなんとなくわかってくるが、それを生かす方策について具体的に提言できなければ、その主張の多くが絵に描いた餅になりそうである。これまでのところ、具体的な提言はなく、思い切って提言するというのも一つの個性かな、と思ったりする。

日記抄(1月22日~28日)

1月28日(水)晴れたり曇ったり、寒くなった

 1月22日から本日までに経験したこと、考えたことなど:
1月22日
 NHKカルチャーラジオ:文学の世界「風刺文学の白眉 『ガリバー旅行記』とその時代」の第2回の再放送(午前中)と、第3回(夜)を聴く。『ガリバー旅行記』は1726年に初版が刊行され、その後1735年にスウィフトの著作集3巻におさめられたが、両者の内容に違いがあること、本来の題名は『遠くにある諸国への渡航記(Travels into Several Remote Nations of the World)』 であったこと、スウィフトではなくガリバー自身が書いたという体裁になっていることなどが説明された後に、小人国での冒険について語られた。「奇想天外な冒険を繰り広げるガリバーと作者スウィフトの姿が、重なりつつも微妙に離れている」というのがこの作品の基本的な構造であるという講師の原田範行さんの指摘を今後とも忘れないようにする必要がある。

1月23日
 NHKラジオ「実践ビジネス英語」では”Reading in the Digital Age"(デジタル時代に読む)という話題を取り上げている。IT機器と電子書籍の普及がわれわれの読書習慣を大きく変えようとしている。What does it mean to read in the Digital Age? (ものを読むということは、デジタル時代においてはいったい何を意味するのか)というのが、教育関係者たちの議論の核心にあるという。紙の本をゆっくりと考えながら読んでいくという伝統的な読書法のよさを再認識しようという動きもあるようである。

1月24日
 NHKラジオ「攻略!英語リスニング」は”Coral Reefs "(サンゴ礁)を話題として取り上げた。Corals are like sea anemones.(サンゴはイソギンチャクみたいなものだ)という。辞書で調べてみると、ただanemoneだけでもイソギンチャクを意味する場合もあるようで、さらにイソギンチャクのそばを泳いでいるサカナであるクマノミをanemone fishというらしい。

1月25日
 早稲田大学で開かれた研究会に出席する。大学構内に、この春定年で退職する先生の最終講義について知らせる立て看板が並んでいるのだが、その中に大学時代の知人と同じ名前があった。同一人物かもしれないし、同名異人かもしれない。学生時代にやっていたことと、講義の題目が違いすぎるけれども、40年以上の年月のうちに本人の関心が変化したという可能性もある。帰宅してから調べてみたが、結論は出なかった。

1月26日
 マージェリー・アリンガム『窓辺の老人 キャンピオン氏の事件簿Ⅰ』については、すでに当ブログで触れているが、その翻訳について一言。この中の「怪盗<疑問符>」に登場するサー・マシュー・ピアリングについて「勅選弁護士」という肩書を与えているのは、barristerの翻訳と思われるが、「法廷弁護士」とするべきであろう。英国の司法制度で弁護士にはbarrister(法廷弁護士)とsolicitor(事務弁護士)の2種類があり、前者が上級裁判所における弁論権を独占していると辞書に説明があるが、それほど大げさに考える必要はなさそうである。

1月27日
 NHKラジオ英会話で"Baa Baa Black Sheep"(メーメー、ブラックシープ)という18世紀英国生まれの有名なわらべ歌が取り上げられた。black sheepには「家族の中の変わり者」という意味もあるが、この歌とどんな関係があるのかは定かではないという。
 Sir Arthur Conan Doyle, The Hound of the Baskervillesの最初のほうで、デヴォンシャーで起きたサー・チャールズ・バスカーヴィルの謎めいた死についてモーティモア医師がホームズとワトスンに説明する中で、サー・チャールズの兄弟が2人いたという。3人兄弟の末のロジャーについて、The third, Rodger, was the black sheep of the family.(3番目のロジャーは家族の中の変わり者でした)と述べられている。ここでは、どうも悪い意味で変わっていたということらしい。

1月28日
 NHKラジオ英会話ではエルヴィス・プレスリーの”Don't Be Cruel"という歌を取り上げた。プレスリーはI knew by heart all the dialogues of James Dean's films. (ジェームズ・ディーンの映画の台詞を全て覚えた)という。ジェームズ・ディーンは3本の映画に出演したのちに、交通事故で若くして死んだが、その3本というのがそれぞれ名作で、しかも『ジャイアンツ』は途中でインターミッションのある長い映画なので、3本といっても大したことだと思う。

ダンテ・アリギエリ『神曲 地獄篇』(22)

1月27日(火)晴れ、温暖

 第21歌で地獄の第8圏第5巣窟にやって来たダンテとウェルギリウスは、祖国と市民への裏切りである汚職の罪を犯した罪人たちが生前に犯した罪に対する罰として、タール状の液体の中で煮られている様子を見る。ウェルギリウスは悪魔たちと交渉し、10人の悪魔たちが2人を案内していくことになる。

私達は十体の悪魔とともに歩いていた。
ああ、恐ろしい道連れではある。けれども教会の中では
聖人と、飯屋では穀つぶしと席を並べなければならないのだ。
(319ページ、それゆえ、地獄にいる以上、悪魔が道連れになるのも当然ということになる。) 第22歌では、第21歌に引き続いて第5巣窟の様子が描かれるが、その罪を糾弾されるのは、宮廷人たちとなる。

 悪魔たちが近づいてくるのを見ると、罪人たちは煮えたぎった瀝青の中に姿を隠そうとするが、中には逃げきれずに悪魔の手にする刺す股によってとらえられるものがいる。捕えられた罪人は自分がナヴァ-ラ王国の人間で、収賄の罪を犯したためにこの罰を受けているという。ナヴァ-ラ王国は、現在のスペインとフランスにまたがって存在した小王国である。ここの王様であったアンリ・ブルボンがフランス王アンリⅣ世となったことにより、消滅することになる。日本にキリスト教を広めようとやって来たフランシスコ・ザビエルはこの王国の宰相の家柄の出身であるが、いずれもダンテの時代からかなり後の話になる。

 この巣窟で罰を受けているイタリア人はいないかという問いに答えて、ナヴァ-ラ人は先ほど別れたばかりのイタリア人が瀝青の中にまだ身を潜めているはずだと言う。その人物について
金を懐に入れ、即決で無罪を宣告してそいつらを放免した。
そうあいつは言っている。おまけに他の職務でも
汚職をやったが、小物じゃねえ、その道の王者だった。
(326ページ)という。そういいながら、彼は悪魔たちから逃げ出す策略を考え、彼らが遠ざかるように求める。そして悪魔たちの目を盗んで、瀝青の中に逃げ込む。悪魔たちは慌ててその後を追い、捕まえようとするが、恐怖に駆られているナヴァ-ラ人に追いつくことはできない。そこで、悪魔たちは悔しがるが、
それは鷹が近づいた時に、
アヒルがいきなり深く潜り、
鷹は悔しがり、落胆して再び上へ戻る様子と違わなかった。
(330ページ)

 このために悪魔たちが仲間割れを起こし、2人の悪魔が仲間喧嘩を始め、
…ついに二体とも
煮えたぎる沼の中央に墜落した。
(331ページ) 残った悪魔たちは彼らを助けようとするが、
二体はすでに堅くなった外皮の中で焼き上げられていた。
(332ページ) 

こうして私達は立ち往生している奴らを後にした。
(同上) 混乱する悪魔たちを後に残して、ダンテとウェルギリウスは先を急ぐ。それにしても、焼き上げられてしまった悪魔たちはどうなるのであろうか。あるいはまた生き返るということであろうか。

 第22歌は動きのある展開となっているだけでなく、ところどころ滑稽に思われる描写も見られる。また現実を超えた世界を描くために、われわれが日常目にするような場面がその手掛かりとして使われている個所も目立つ。ここでは、紹介しなかったが、冒頭、ダンテとウェルギリウスが悪魔とともに進む描写の中で、騎士たちの行進の模様が思い出されている。「都市が発達した後の時代の高貴なる宮廷人、騎士たちの戦術は騎士道とは無縁だった」(578ページ)と解説の中で翻訳者の原さんは書いている。このことからわかるように、悪魔は実はダンテの時代における騎士たちの姿を映し出すものであった。ここではダンテの政治の腐敗への怒りや、その腐敗にまみれた騎士に対する嫌悪とともに、平和への希求を読み取るべきなのであろう。

マージェリー・アリンガム『窓辺の老人 キャンピオン氏の事件簿Ⅰ』

1月26日(月)晴れたり曇ったり

 マージェリー・アリンガム『窓辺の老人 キャンピオン氏の事件簿Ⅰ』(創元推理文庫)を読み終える。アガサ・クリスティー、ドロシー・L・セイヤーズ、ナイオ・マーシュとともに英国女流作家のビッグ・フォーと称されたマージェリー・アリンガムの中・短編の中でも優れていると思われる作品を年代順に並べて編集したもの。猪俣美江子さんの翻訳になる。戸川安宣さんの解説の言葉を借りれば、「これからアリンガムを読んでみよう、という読者には格好の入門書となることだろう」(285ページ)。

 「これからアリンガムを読んでみよう」。クリスティーの作品はそのほとんどを読んでいるとはいうものの、セイヤーズになると長編1作品、短編集1冊を読み終えているだけで、あまりなじみがなく、アリンガムとマーシュについては名前を引き合いに出されない限り思い出さないという読者にとっては、思いがけない呼びかけではある。しかし、きっかけがどのようなものであれ、面白い推理小説が読めればよいのである。

 この作品集にはアリンガムがその作品の主人公である探偵の素性について記した「我が友、キャンピオン」というエッセーのほかに、「ボーダーライン事件」、「窓辺の老人」、「懐かしの我が家」、「怪盗<疑問符>」、「未亡人」、「行動の意味」、「犬の日」の7編の小説が収められている。

アリンガムの友人では有るが、確かなことはわからないというアルバート・キャンピオンという探偵。「我が友、キャンピオン氏」その他から、人物像を探ってみると、本名はルドルフ・・・・というらしいのだが、詳しいことは明かされていない。完璧な紳士であるとアリンガムは記すが、自分の本当の身分を明かさないことで、自由に生きていきたいということらしい。1900年生まれ。英国有数のパブリック・スクールであるラグビー校の出身だろうとアリンガムは書いている。ケンブリッジ大学のセント・イグナティウス(英語の発音ではイグネイシャスだろう)・カレッジを卒業して、間もなく探偵を始めた。ロンドン西1地区(W1) ピカデリー、ボトル通り17番地aの警察署の上階に、<従僕>を自任する元夜盗のマーガズ・フォンテイン・ラッグと暮らしている。
 作品中に定期的に登場するもう1人の重要人物であるスコットランドヤード(ロンドン警視庁)犯罪捜査部のスタニスラウス・オーツ警部(「窓辺の老人」で警視に昇進している)と親しく、お互いに自分の捜査能力に自信をもって張り合いながら、事件の解明に努めていく。2人をよく知る人の言葉を借りると「二人の関係はいっぷう変わったものだった。どう見ても、才気あふれる素人探偵と謙虚な警官といった感じではない。むしろ短気な喧嘩っぱやい警官が、無害で友好的な一般市民の代表者に議論を吹っかけているといったところだ」(「ボーダーライン事件」、13ページ)。 

 キャンピオンは変わり者ではあるが、温厚で知り合いも多い。どんな人間とも付き合うことで自分の世界を広げ、捜査に役立てようとしているようである。アルコール類には詳しく、そのためブランデイにまつわる怪しげな事件に絡むことになる(「未亡人」、なお、「未亡人」というのは犯罪者仲間の間での通称ということになっていて、誰かの未亡人が登場するわけではない)。≪ランチに誘うべき若き麗人≫や≪クリスマス・カードを送るべき知人≫のリストを作っている(「怪盗<疑問符>」)ことから女性嫌いでないこともわかる(むしろ好きなために婚期が遅れている節がある)。性格の魅力もあるが、それ以上に(戸川さんが指摘するところでは)彼のつくる人間関係に作品の特色がみられる。

 表題作である「窓辺の老人」は20年間ずっと毎日7時間半も社交クラブの窓辺にすわっている90歳近い伝説の老人が、死んだと思ったら、生き返るという奇怪な事件を追いかける。巻頭の「ボーダーライン事件」は袋小路で起きた射殺事件の謎に迫る。実は題名に手がかりがある。「懐かしの我が家」では各国の警察の追及を受けている詐欺師が何のとりえもない田舎家を高額で借り受けたということからキャンピオンが現地に赴く。事態は二転三転してハラハラドキドキの面白さがある。収録作品のそれぞれに独特の味わいがあり、セイヤーズのような学識は見られない代わりに、読みやすい。これから彼女の作品を読んでいくことを楽しみの一つに付け加えるのは悪くないと思った。

 余計なことを付け加えておけば、キャンピオンという名前は英国におけるカトリックの殉教者の1人、ラグビーは実在する学校の名前であるが、ケンブリッジ大学に聖イグナティウス・カレッジという学寮は存在しない。(イグナティウス→イグナチオ・ロヨラはカトリックの修道会であるイエズス会の創設者の名前。オックスフォード大学にはキャンピオン・ホールというイエズス会の学寮がある。) ラグビーはもちろん、イングランド国教会の学校であるから、物語に現実性をもたせるために、虚構の中にところどころ現実が織り込まれているのは推理小説の常套だとはいっても、話は結構面倒である。もっとも面倒避けていたら推理小説を読む楽しみはなくなってしまうことも否定できないのであるが…。

『太平記』(25)

1月25日(日)晴れ

 元弘2年(1332年)3月、新帝(光厳帝)が即位され、先帝後醍醐の隠岐流罪が決まった。3月8日、先帝は隠岐へ向けて出発された。途中、備前の武士今木(児島)高徳が先帝の奪還をくわだてたが、事ならず、院の庄の宿所に変装して忍び込み、庭の桜の木に詩を書きつけて去った。その詩は、中国の春秋時代に覇を競った呉越2国の故事、越王勾践が賢臣范蠡の助けを得て呉を破って、会稽の恥をすすいだことを踏まえたもので、先帝は詩の意味を悟って笑みを漏らされた。

 『太平記』の作者は「そもそもこの詩、わづかに両句十字の内なりと云へども、その意(こころ)浅きにあらず」(204-205ページ)として、岩波文庫版で229ページまで、25ページ余りにわたって呉越の故事を語る。校注者の兵藤裕己さんは「以下、中国春秋時代の呉越合戦の話は、「史記」越王勾践世家、伍子胥列伝、「呉越春秋」などをもとに、異伝を交える」(205ページ)と脚注に記している。細かく見ていくと、興味深い発見があるかもしれないが、物語の大筋に関係がないので、省略したい。

 しかし、その中で、どうも気になる部分がある。それはこの故事を語っている最後の部分で、功績を挙げた范蠡に対して勾践が恩賞を与えようとすると、范蠡は「大名(たいめい)の下には久しく居るべからず。功成り名遂げて、身退くは天の道なり」(229ページ、大いなる名誉のもとに長くいてはいけない。功績をあげて名誉を得たならば、身を引くのが天の道にかなった生き方である)として、范蠡のもとを辞して、名を陶朱公と改め、五湖(今の江蘇省・浙江省にまたがる太湖を中心とした湖沼地帯)に隠棲して、余生を静かに送ったと結んでいる。これは「呉越春秋」に基づくそうであるが、范蠡のその後については異伝もあり、『太平記』の作者がこのように物語を締めくくっているのは、作者の人生観の表れとみるべきではなかろうか。この後の『太平記』の展開を、果たして范蠡(のような人物)が現われたのか、そして、功成り名遂げたのち、潔く去っていったかという関心をもって見守っていくと、作者の意図がある程度わかるのではないかと思うのである。

 作者は「今木三郎高徳、この事を思ひ准(なずら)へて、一句十字の詩に千般の思ひを述べて、ひそかに叡聞に達したる、智慮の程こそ浅からね」(229ページ)。児島高徳=小島法師と考えるならば、これは自画自賛である。

 そうこうするうちに先帝は、出雲国三尾の湊に逗留されること十余日、ようやく順風が吹いたので、隠岐に向けて出航される。「兵船(ひょうせん)三百余艘、前後左右に漕ぎ並べて、万里の雲にさかのぼる」(230ページ)、まことに厳重な警護の様子である。こうして都を発って26日目に、一行は隠岐の配所に到着し、先帝は佐々木隠岐前司の厳重な監視のもとに置かれた。

 先帝のおそばに伺候するのは六条少将忠顕、一条頭大夫行房、それに女房として三位の御局(阿野廉子)だけであった。粗末な御所での寂しい生活となったが、毎朝の勤行と北斗七星を拝する儀式はつづけられていた。心ならずも譲位される形となったが、自分は依然といて帝位にあるというお気持であったのである。「天地開闢より以来(このかた)、未だかかる不思議を聞かず」(231ページ)と、この流刑について非難しながら、作者は第4巻を終えている。幕府側はこれで一件落着と思ったかもしれないが、動きはじめた事態はその時代に生きる人々の誰もが予想できないような動きを続けることになる。

 昨夜、パソコンがインターネットにつながらず、更新が遅れてしまいました。時々、こういう事故が起こるということをご理解の上、このブログをお読みくださるようお願いします。


 

『「個性」はこの世界に本当に必要なものなのか』

1月24日(土)曇り、一時晴れ間が覗く

 東京大学教養学部×博報堂ブランドデザイン『「個性」はこの世界に本当に必要なものなのか』(アスキー新書)を読む。

 現代日本社会では、各個人についてだけでなく、組織や国についても個性が必要だと考えている人が多いことが、アンケート調査などからわかっている。その一方で、個性よりも基礎学力を重視して教育を進めることが必要であるとか、社会から協調性や秩序が失われてきているのは、個性重視の風潮の影響もあるのではないかという意見も見られる。つまり個性をめぐっては、相反する評価が対立しながら存在しているのである。

 ところが、個性とは何かと改まってその定義を求めてみると、一致した回答が得られるわけではない。一様でないどころか、多様な広がりをもってさまざまにとられているというのが実態である。

 そこでこの書物では東京大学教養学部に籍を置き、認知神経科学、文献学、生態学、哲学、物理学、統計学、政治学、天文学、言語学の9つの分野をそれぞれの専門分野とする研究者にインタビューを行い、広い意味での個性についての意見を述べてもらっている。そして、そこで得られたものをもとに、このプロジェクトの主宰者であり、研究者でもある真船文隆氏(化学専攻)と、同じくプロジェクトを主宰する博報堂のブランドデザイン代表である宮澤正憲氏が総括的な対談を行っている。それらをまとめたものがこの書物の内容である。これらの議論を通じて、個性とはどのようなものなのか、社会や個人にとってどのような意味をもつのかを考える手がかりとなることが意図されている。

 第1講では認知神経学者の四本裕子さんの見解が語られている。四本さんによると個性は脳の使われ方の違いであるという。こうした違いが生まれる要因には遺伝的なものと環境的なものとがある。論理的推論能力や数学的思考力、音楽的才能、運動能力などはそれなりに高い割合で遺伝に依存し、同調性や執着性、社交性、不安気質などは育った環境の影響が大きいと言われている。しかしもって生まれた性格や行動も、覚醒を促されて初めて発揮されるものである。他方環境の影響によってはぐくまれる性格や行動も、刺激の持続によって新たな個性になっていく可能性がある。
 とはいうものの人間にとって自分を客観的に認識することはきわめて難しいという心理学的なメカニズムがあり、個性は意識的には育むことができないものである。「個性はあくまで結果。そこにあまり意味はないのかもしれません」(30ページ)と四本さんの結論は悲観的である。私が大学で教師をした結果を踏まえて、人間が自分を客観的に認識することは難しいというのはその通りであると思う。親や教師、あるいは友人が客観的な意見を伝えても、その頃が本人に肯定的な影響を与えるとは限らないのが、さらに問題を難しくしているように思う。

 第2講で昔中近東でつかわれていたシリア語の文献を研究している高橋秀海さんが人類の文明の基礎となるような偉大な精神の記されている文献に触れてきた経験を踏まえて、個性について語っている。「その経験からいうと、とくに宗教文献のなかには個性という言葉をあまり見かけないように思います。/むしろ、個性を否定するような記述のほうが多い、といってもいいかもしれません。/あくまで私の印象に過ぎませんが、個性は最初から求めるものではなく、何かを求めていく中でおのずと表れ出て来るものではないか。/キリスト教やイスラム教の考え方に触れていると、そう思うことがしばしばあります」(36ページ)という。
 宗教を信じていると、その創始者に似ようと努力する。個性的であろうとするのではなく、ある一つの価値観に沿って生きようとするのである。ところがみんなが同じ努力をしているはずなのに、そこに個性が生まれてくる。イエスの十二使徒を見ればこのことは明らかである。修道院での人間の生き方を見ていても同じことが言える。個性は無理に探し出すものではなくて、「気がつくとおのずと表れ出ているもの」(47ページ)であるという印象をもっているという。

 今回は最初の2人分の意見の紹介でやめておくが、全く違う立場から「個性」について論じているお二人がともに、自覚的、意識的な努力によって個性を形成する可能性には懐疑的もしくは否定的であるように見受けられる点が注目される。これから登場する研究者たちが、どのような意見を述べるのか、これからの展開にご期待ください。

岩元禎について

1月23日(金)曇り後晴れ、朝のうちはまだ雨が残っていたようである

 昨日の当ブログで取り上げた大野晋『日本語と私』の中の、旧制第一高等学校時代の教師たちの思い出を語っている中で、ドイツ語の教師で、厳しい点数をつけることで知られた岩元禎について「我々は明治32年以来つづいた先生の教室の、最後の生徒になった。先生は学年の途中で逝去された。明治時代、ヨーロッパの学問を輸入したころの、横文字を読む学者の権威に満ちた姿を見たように思う」(104ページ)という部分を引用した。

 岩元については、高橋英夫さんによる評伝『偉大なる暗闇 師岩元禎と弟子たち』(新潮社、1984;講談社文芸文庫、1993)がある。その中に『日本近代文学大事典』の長谷川泉の執筆になる岩元の生涯と業績をまことに簡潔にまとめた項目が紹介されている。そのまま紹介すると
 岩元禎 いわもとてい 明治2・5・3~昭和16・7・14(1869-1941) 哲学者。鹿児島県の士族岩元基の長男として生れた。第一高等中学校(のちの一高)をへて明治27年帝国大学文科大学哲学科を卒業、ケーベルに学んだ。高等師範学校から一高教授として哲学や独語を教え、落第点をつけることで有名な名物教授であった。漱石の『三四郎』の広田先生のモデル。『哲学概論』(昭和19・4 近藤書店)の著がある。横浜市鶴見区の総持寺の墓所に哲学碑が建てられている。蔵書は鹿児島大図書館に岩元文庫として寄贈された。(講談社文芸文庫版、91-92ページ)

 この中で、漱石の『三四郎』の広田先生のモデルというのは、大野さんもそのように書き記しているが、一高生の間に広まった伝説であり、高橋さんが書いているように「広田萇のくろぐろとした内面の謎は、作者漱石自身が内部に抱えていた鬱々たる思いの方に近かった、というのが正しい見方だと思う」(同上、37ページ)。とはいうものの、広田の姿には、『三四郎』が書かれた明治41(1908)年頃に出現していた新しい知識人の姿の1つのタイプを認めることができるとも高橋さんは書いている。「漱石にとってすでに広田先生とは、新しい時代の一つの教師像を意味していた。近代国家をめざして休みなく進展を続ける時代から取り残されたような内面性、つまり『偉大なる暗闇』と呼ぶしかない内面性を秘めていることによって、広田萇はその時代の新しいタイプを逆説的に体現していた。草創期の教師には見いだせなかった内面的な精神性がそこにはあった」(同上、33-34ページ)。そして一高生たちは岩元にそのような教師=知識人の典型を見出したのである。一方、高橋さんも書いているが、仙台の第二高等学校の生徒たちはこの学校で英語を教えていた粟野健次郎が広田先生のモデルであるという伝説を造り上げた。

 「偉大なる暗闇」の意味をもう少し掘り下げると、こういうことになる。「ヨーロッパの学問芸術がはるかにも遠い奥行をもっていることを身にしみて知り、他のすべてを犠牲にしてもひたすらその奥の奥に迫りたいと念じた人間の中から、『偉大なる暗闇』と呼ぶしかない存在があらわれたのである。それは明治40年頃になって次第に各地の高校、大学などにその存在を顕著にしていった新しい探究者の像である。外からみればほとんど完全に自己表現の失ってしまった、ただ西洋の学問への沈潜に生きるほかは何もしなかった人間である」(同上、40ページ)。明治時代の初期に活躍した福沢諭吉や西周とは対照的なヨーロッパの文化への態度がある。冒頭に再度引用しておいた大野さんの岩元についての記述はこのあたりのことが抜け落ちているように思う。

 高橋さんの書物にはまた、岩元と同時期に東京大学にまなんだ西田幾太郎の回想が引用されている:
・・・・後に独特の存在となられたのは、近年亡くなられた岩元禎君であつたと思ふ。同君は…、そのころからギリシヤ語を始められ、いつも閲覧室で字引を引いて、少しづつソクラテス以前の哲学者のものを読んで居られた様であつた。あの人は何処かケーベルさんと似たところがあつた。
 ヨーロッパへの探求心が、ギリシャ語を学ぶところまで進んだところに岩元がその師ケーベルに近づこうとした努力を窺うことができる。「偉大なことをなそうとしたことが偉大である」という格言もある。「偉大なる暗闇」というが、少なくとも一部の生徒たちは彼の授業から西洋の古典的な精神の香気を嗅ぎ取り、それを自分の知的な探求の手掛かりとしていったのである。このことは忘れてはなるまい。

 岩元の著書『哲学概論』は彼の死後にその講義をまとめたものであるが、その冒頭の文が鶴見の総持寺の「岩元禎先生哲学碑」に刻まれている。
 哲学は吾人の有限を以て宇宙の無限を包括せんとする企図なり
(同上、93ページ) 名文句だとは思うのだが、気になる点がないでもない。宇宙が無限だというのはデカルト以後の認識であって、それまでのヨーロッパの人々の世界観では宇宙は有限であった。例えば、ダンテは『神曲』の中で地獄を地球の中に、煉獄を南半球に、天国を宇宙にあるものとして描いているが、それはあくまで有限な世界なのである。

大野晋『日本語と私』

1月22日(木)雨が降り続く。寒い。

 大野晋『日本語と私』(河出文庫)を読み終える。1996年から1999年にかけて書き継がれた自伝的エッセーが、1999年に朝日新聞社から単行本として発行され、2003年に新潮文庫に収められたもので、改めて河出書房新社から文庫本として発行されることとなった。2度も文庫化されているだけのことはあって、いろいろな意味で面白い本である。その反面で、もっと面白くできたのではないかという気もする。このあたり、人によって評価の分かれるところであろう。

 東京の下町で商家の息子として生まれ育った大野さんは、生家の没落にもかかわらず、明治小学校、開成中学、旧制第一高等学校、東京帝国大学という輝かしいといってもよい学歴を重ねる。一高の文乙(ドイツ語を第一外国語とするコース)には28人の合格者中28番目で合格したというような経緯はあるけれども、小学校、(旧制)中学校)、(旧制)高等学校と「よき師、よき友」に恵まれる。一高時代の国語の先生であった五味智英に『万葉集』について質問に出かけたことからかかわりをもち、その後一緒に仕事をするというようなめぐりあわせもある。同級の直木孝次郎とともに一高の国文学会の委員を務める(後に古代史学者となった直木も『万葉集』にかかわる著作を残している)。太平洋戦争中に在学した大学では生涯の師、橋本進吉に出会う。橋本の退官後は時枝誠記と遠慮のないやり取りを交わす。

 話を元に戻すが、専門を離れたところでの師友の顔ぶれもなかなかのものである。一高では岩元禎のドイツ語の授業を受けた最後の学年の生徒となり(「我々は明治32年以来つづいた先生の教室の、最後の生徒になった。先生は学年の中途で逝去された。明治時代、ヨーロッパの学問を輸入したころの、横文字を読む学者の権威に満ちた姿を見たように思う」 104ページ、本当にその通りならば、岩元が「偉大なる暗闇」にならなかったのではないかという気がする)、名教頭三谷隆正や一高のプリンスといわれ、戦後の創作である『ビルマの竪琴』の作者として知られる竹山道雄の授業に出席する。戦後、横須賀に開校した清泉女学院の教師をしたときに、『ビルマの竪琴』を教材として使ったという逸話も興味深い。

 橋本進吉は古代の日本語には母音が8つあったということを万葉仮名の研究をもとにつきとめ、その研究を進めるが途中で死去する。大野さんはその研究をさらに進めるためには『日本書紀』の万葉仮名の研究が必要だと考えるようになる。戦後のある時期、天才的な国語学者であった有坂秀世のところに出かけた折にこのことを言うと、「アーソレハ、イケナイ」(246ページ)といわれたために、やめてしまったが、その後、大野さんが考えたのとほぼ同じ道筋を辿って森博達さんが『日本書紀』の万葉仮名の分析から、奈良時代の日本語の母音体系を推定する研究を発表した。なんとなく、残念そうな口ぶりがうかがわれる。

 しかし、国語学者としての大野さんの戦後日本における活躍には目を見張るものがある。定家仮名遣いの研究、国語辞典の編纂、『万葉集』や『日本書紀』の信頼できるテキストの確定作業への参画などなど。一時ジャーナリズムを騒がせた日本語とタミル語との同系説は、今後の研究の展開を見ないと何とも言えないだろう(服部四郎が何とも言えないといったのが、さすがにプロの見解であると吉本隆明が書いていたのを目にした記憶があるが、そういっている吉本はプロではないから、この言葉をもって決定的な意見とするわけにはいかない)。

 大野さん自身の自伝として、戦前の東京の下町の生活の記憶として、旧制の中学や高等学校の実態の証言として、国文学、国語学の研究史、さらには戦後の教育改革・「国語改革」の経緯についての論評として、興味深く、また貴重な内容を含む。しかしながら、それらが雑然と羅列されていて、一貫性、系統性に欠けるところに、著者よりも編集者の努力の不足を感じるのであるが、これは私だけのことだろうか。岩波新書に入っていた高木市之助の『国文学五十年』にも橋本進吉と時枝誠記についての記述があって、読み比べてみると世代の違いによる人物評価の違いを実感することができて興味深いはずである。

日記抄(1月15日~21日)

1月21日(水)曇り後、雨時々小雪、寒い

 1月15日から本日の間に、経験したこと、考えたことなど:
1月15日
 NHKラジオまいにちドイツ語応用編「黒猫イクラと不思議の森」の第27回は、バイエルン王国、ヴィッテルスバッハ家の国王ルートヴィヒⅡ世を取り上げた。若いころからリヒャルト・ヴァーグナーに心酔していた国王は、自分のまわりにヴァーグナーのオペラの世界を再現することを夢みて、その実現に精力を傾け、惜しみなく全財産を注ぎ込んだ。「メルヘン王」(Märchenkönig)と呼ばれる彼であるが、1878年に世界初の発電所を作らせるなど、革新的な技術にも目を向けていたという。その発電機を作ったのは、有名な発明家のヴェルナー・フォン・ジーメンスであった。

1月16日
 渋谷のイメージフォーラムでジャン=リュック・ゴダール監督の『アルファヴィル』とともに上映されていた、フランソワ・トリュフォー監督の『華氏451』を見る時間的な余裕がなかったのは残念である(一時期、ジュリー・クリスティーが好きだったこともある)が、この映画の原作であるレイ・ブラッドベリの小説には多少の思い出がある。
 アメリカから日本に研修旅行にやって来た学校の先生のグループの案内(の手伝い)のようなことをしていた時に、そのうちの一人の年配の女性教師が、自分はハイスクールでSFを教えているといったので、びっくりしたことを覚えている。後で知ったのだが、アメリカにはハイスクールでSFを教える先生の団体があるらしい。彼女は、昨年は授業で『華氏451度』を読んだといっていた。
 『華氏451度』はブラッドベリが1951年に書いた短編小説”Fireman"を1953年に長編に書きなおしたもので、他の小説と合わせて出版された後に、1954年に『プレイボーイ』誌に連載された。この間の事情について、彼自身がカリフォルニア工科大学の卒業式に来賓として招かれたときの記念講演で話しているのを読んだことがある。興味のある方は探してみてください。

1月17日
 NHKラジオの「攻略!英語リスニング」で取り上げた話題は「グレタ・ガルボ」であった。グレタ・ガルボ(Greta Garbo, 1905-1990)はサイレント時代から活躍したスウェーデン出身の映画女優で、番組では取り上げなかったが、ドイツ経由でハリウッドに進出した。彼女の出演作についていろいろと語られたのだが、ドイツ時代の『喜びなき街』については触れられなかったので、番組中で言及された作品で私が見たのは最後から2番目の出演作である『ニノチカ』だけで、これは確かに傑作なのだが、彼女の出演作では珍しい喜劇ということで、私にはこの女優について語る資格はなさそうだと思って聞いていた次第である。彼女は1941年に36歳の若さで引退したのだが、その後なんと1990年まで生きていた。
 番組とは関係のない話になるが、中華人民共和国成立間もない時期の上海における人間模様を描いた周而復の長編小説『上海の朝』の登場人物の一人の女性がガルボの映画が好きだという設定になっていて、こんなところでも彼女の人気が世界的なものであったことを知ることができる。

1月18日
 「攻略!英語リスニング」で「以下の英文を暗誦してみましょう」として提示されたガルボについて語る文:
She is the ultimate screen icon, the epitome of silver-screen glamour, the pinnacle of Hollywood's golden age.
(まさに究極の映画スターで、銀幕の魅惑と呼べる人であり、ハリウッド黄金時代の絶頂といえる。)

1月19日
 NHKまいにちドイツ語入門編「きっと新しい私に出会える”おとなな女”のひとり旅」は、今週から舞台を北ドイツのハノーファーに移した。講師の白井さんはこの市で4年間勉強されたそうである。二―ダーザクセン州の州都であり、観光地というよりも産業とサービス業の中心地ではあるが、豊かな歴史的な伝統と自然もこの市の魅力となっているという。日本ではハノーヴァーという英語式の呼び方の方が一般的ではないかと思うのだが、これは英国の現在の王室がハノーファーに本拠を置くドイツの諸侯の出身であるからである。

1月20日
 アガサ・クリスティーの中編小説『ポアロとグリーンショアの阿房宮』(早川書房:クリスティー文庫)を読み終える。彼女が1954年に地元の教会のチャリティーのために書き下ろした作品であるが、いろいろな事情で発表されないまま、1956年に長編小説『死者のあやまち』に書きなおされて発表された。したがって、両作品を読み比べてみると、クリスティーの創作上のさまざまな工夫の跡をたどることができるはずだが、こちらはそれほど熱心な読者ではないので、『死者のあやまち』のあらすじを思い出しながら、それでも楽しく読み終えることができた。物語の舞台となるデヴォンシャーのグリーンショア邸は、実はクリスティー自身の別邸グリーンウェイがモデルになっていて、違うのは「阿房宮」だけであるという。「阿房宮」と訳されているのはfollyで、「大金をかけた無用の大建築」という意味である。作品を読んでいて、それが大建築だという印象を受けないのは、どういうことだろうか。それでもクリスティーの故郷でもあるデヴォンシャーには一度だけだが出かけたことがあり、英国で訪問した地方の中で最も忘れがたい地方の1つであることも私にとってのこの作品の魅力となっている。

1月21日
 NHKラジオ「実践ビジネス英語」は”Reading in the Digital Age"(デジタル時代に読む)というビニェットが始まった。e-reader (電子書籍リーダー)、タブレット、ノート型コンピューターなどによる読書が普及した結果、読書習慣が大きく変化したという話題から、登場人物の一人が、
My reading ha become terribly fragmentary -- even superficial. More and more, we read in pieces.
(ひどく断片的な読み方、表面的とすらいえる読み方をするようになりました。私たちは細切れに読むことがますます多くなっています。)
という。本当にそうなのか、改めて自分と自分の周囲の読書をめぐる経験について検討してみる必要がありそうだと思った。

 作家の陳舜臣さんが亡くなられた。『景徳鎮からの贈り物』は好きな短編小説集である。ご冥福を心からお祈りしたい。

 訃報といえば、小学校時代の同級生の夫君から寒中見舞いが届いて、同級生が昨年末に亡くなっていたことを知った。年賀状を頂いたので、返事を出したのだが、どういう事情であったのか、投函後に亡くなられたらしい。いつ、身近な人々のなかのだれかの訃報が届いても不思議ではない年齢に達してはいるのだが、その自覚なしに日常生活に追われている。ともあれ心からご冥福をお祈りしたいと思う。

ダンテ・アリギエリ『神曲 地獄篇』(21)

1月20日(火)晴れ

 ダンテはウェルギリウスに導かれて地獄の第8圏の第5巣窟にやってくる。

さながらヴェネツィア人たちの造船所で
冬、痛んだ船を塗り直すために
ぶくぶく煮えている粘々した瀝青、

それは彼らが航海できないその代わりに
新たに自分の船を建造したり、ひときわ多く航海に出た船の
側面を補修したり、

船首をあるいは船尾を打ち直したり、
あるいは櫂を作り、あるいは縄を準備し、
船首三角帆や大檣帆を繕うなどするのだが、

それと同じ有様でどろどろの瀝青が
しかし火によってではなく神の御業によって、地底でぶくぶく煮え、
その崖を覆い尽くし粘りついていた。
(304-305ページ) ここでは祖国と市民への裏切りの罪である汚職が罰せられている。ヴェネツィアにあった当時西欧で最大の造船所アルセナーレの様子が地獄の比喩として使われている。もちろん、そこで働く人々は瀝青の中に落ちないように気をつけて作業しているのだが、現実の人生の中で我々が地獄を意識して罪を避けて日々を送っているかというとそれは別の問題である。多分、ダンテはこの造船所の様子を実際に見たことがあり、その経験が地獄の描写の迫真性を支えていると考えられる。 

 この様子をダンテが見ていると、ウェルギリウスが危険を知らせ、振り返ると罪人を担いで悪魔がやって来ていた。
ああ、どれほど凶悪な姿だったか。
翼を広げ、両足の上に軽々と乗った
その身のこなしが、どれほど獰猛に見えたか。

その肩は盛り上がって尖っており
一人の罪人を両腿からかついでいた
つまり両足の腱をその鋭い爪にかけていたのだ。
(307ページ) 罪人はルッカの市政を預かる有力者で、悪魔は仲間の悪魔たちに、ルッカには汚職が蔓延していると言い残し、罪人を引っ張ってくるため再びそこに戻っていった。

 ウェルギリウスは彼らと交渉し、案内をしてもらう。
…「お前たち、誰も暴虐をなすなかれ。

おまえ達の刺股が我を的にかける前に、
我が言葉を聞く者を一人、前に進ませよ。
しかる後、我を刃にかけるかどうか決めよ」。
(310-311ページ) <理性>ウェルギリウスは安心しているが、ダンテは不安を覚える。最後に悪魔たちは彼らの隊長に意味深長な合図を送り、隊長は屁でそれに答えた。<

すると奴は尻の穴をトランペットにしたのだ。
(317ページ) この場面は猥雑で滑稽でもある。翻訳者である原さんは解説の中で「格調とはほど遠い、リアルで猥雑で下品な会話が特徴となっている」(575ページ)と指摘している。しかし、このことが文学作品としての『神曲』の価値を傷つけず、むしろその民衆文学への接近がダンテの文学世界の多様性を改めて認識させるものとなっていることに注目すべきであると思う。ダンテの文体は、ウェルギリウスが悪魔たちに話しかける言葉の格調の高さとは対照的に、卑俗なものになっているかもしれない。しかし、それが新しい時代の新しい文学の出発点を目指すものの文体上の試みであったのだ。

和辻哲郎『イタリア古寺巡礼』

1月19日(月)晴れ

 和辻哲郎のこの本を取り上げるのは、本日何を話題にしようかと苦しんだ結果、手近なところにあるのを見つけたからで、それ以上の意味はない。どういう理由からか、サラリーマンであった父親がこの本を読んでいて、それを中学生か高校生だった私が拝借して読んでから、55年余りの年月が経っている。現在、私の手元にある本は岩波文庫版であるが、父親がもっていたのは角川文庫ではなかったかと思うが、定かではない。とにかく、私が読んだ和辻の本はこれが初めてあり、そのことはいろいろな影響を私に及ぼしたようである。まず、イタリアという国に興味とあこがれを抱いたし、イタリアルネサンス期を中心とする美術について具体的な知識を得た。それから和辻哲郎という学者の存在を知った。
 もっともその後和辻哲郎の著作は折に触れて読んできたが、しかるべき敬意は払っているつもりだとはいうものの、何から何まで和辻を援用して考えなければ気が済まないというほどに心酔して読んだというわけではない。ある時、思想史関係の研究会の折にキルケゴールの『死に至る病』が話題となり、隣にいた先生に「そういえば、和辻哲郎が若い頃にキルケゴールについて研究していますねと、余計な話を持ちかけたところ、和辻さんのような頭のいい人は哲学には向かないという答えが返ってきたのを覚えている。聞くところによると、和辻は1時間の講義のために15時間の予習をしたといわれる。頭のいい人がそれだけの努力をして、それでも説得できる人の数は限られていることを思うと、いろいろな意味で恐ろしくなる。

 『イタリア古寺巡礼』は1927(昭和2)年2月から、1928(昭和3)年7月まで、当時京都大学の助教授であった和辻がドイツに留学した際に、さらに脚を伸ばしてフランスとイタリアの各地をめぐり、教会堂や美術館などを見て回った記録であり、もともと夫人に宛てて書いた私信を、その後20年以上を経て1950(昭和25)年に本にまとめたものである。この本を私はまだ十代の半ばごろに読んで、その内容のかなりの部分を記憶してきた。それだけ内容が具体的で、対象が生き生きと描かれているということである。これはもともと、著者の資質に加えて、旅が有意義で楽しいものであり、その印象を伝えることが著者にとって楽しい作業であったことによるものであろう。

 著者は有名な教会や美術館を訪れるだけでなく、イタリアの自然や社会についても詳しい観察をしている。さすがに、その後『風土』という書物を書いただけのことはある:「イタリアにはいって著しく目につくのは、農家の汚いこと、村の多いことである。…それに加えてもう2つ、日本と著しく違う点が目についた。/その一つは、農村が山の中腹に位していることである。/もう一つ目についたのは、葡萄畑、桃畑、野菜畑などのまわりに、石の塀がめぐらしてあることである」(38-39ページ)。農村が山の中腹にあることについて、マラリアの蚊を避けるためであろうか、外敵から身を守るためであろうかと推論をめぐらしている。また、畑のまわりに石の塀がめぐらしてあるのは、フランスにもみられるが、その塀の高さが違うと述べているが、英国でも石の塀は時々見られることを思い出した。もっとも英国では生垣(hedge)の方が一般的ではあるが、これは囲い込みenclosureとどのように関連しているのか、この動きが英国では起きたが、フランスでは見られなかったことについてマルク・ブロックが研究を発表するのは和辻の旅行よりも後のことではないか…などと考えるのも興味深いことである。

 本題である教会などの建築物や美術館を訪問した際の感想はまことに率直で、例えば「このごろギリシア彫刻に感心させられているせいか、ミケランジェロの作を見ると、ひどくギリシア彫刻に圧迫されているという気がしてならない」(58ページ)と、ギリシア彫刻とルネサンス彫刻を丁寧に観察比較しながら、ルネサンスの芸術家の労苦を窺い知ろうとする。ミケランジェロについていえば、彼の設計になるサン・ピエトロ寺院の建築を何度も見るうちにその価値を認識するくだりも読み応えがある:「永遠の都ローマの宝冠はサン・ピエトロだといわれている。あの堂を宝冠だなどとは言い過ぎだと思っていたが、そうではない、これこそ宝冠だ、とつくづく思うようになった」(87ページ)。

 またアシシのサン・フランチェスコの寺と、この寺のジォットーの壁画について「ジォットーの作といわれる絵はここには20くらいあるが、後の補修の相当加わったものもあり、必ずしもすべてが好いわけではない。全体として、写真で想像していたほどよくはなかった。写真で想像していたよりも実物の方がよいと思ったのは2ついかない」(164ページ)という。その2作品のうちの1つが有名な「小鳥に説教する図」なのは当たり前すぎる話ではあるが、写真を見たり、関連作品を観たりして、古寺巡礼に際して予習を怠らないところに和辻の面目が現われている。

 イタリアを巡歴しながら、ローマ、さらにはギリシアの美術の面影を探っていること、イタリアの風土と人情・芸術の結びつきを時々日本との比較を交えながら考察していることなどがこの書物の特徴であるが、その中で特に注目されるのがローマのカタコンベ(地下墓地)を見て、ローマ時代のキリスト教徒への迫害と、日本におけるキリシタン迫害の歴史を対比したうえで、「しかし日本では、ローマでのように地下に潜ることができなかった。日本の土地は湿気が多くて到底地下の住居を許さないのである。はなはだ比喩的になるが、日本の湿やかさは人間の争いを深刻ならしめない」(110ページ)と論じている点であろう。ここには風土が国民性に大きな影響力を持つという主張の典型例がみられるのである。

 私自身は残念ながら、イタリアに旅行する機会がないまま年をとってしまったが、単なるあこがれだけでなく、どのようにイタリアの自然と社会・文化を見るかについてこの書物から学んだことは、ほかのことを考える際にも役立ってきたような気がする。私にとってはやはり忘れがたい書物の中に数えられる。

『太平記』(24)

1月18日(日)晴れ

 元弘2(1332)年3月、新たに光厳天皇が即位され、先帝である後醍醐天皇の隠岐への流罪が決まった。中宮(西園寺禧子)が六波羅に行啓して別れを惜しまれた翌日の3月8日に、先帝は隠岐へ向けて旅立たれ、3月13日に出雲国見尾の湊に到着されて、隠岐へと渡ることになった。

 そのころ、備前の国に今木三郎高徳という武士がいた。後醍醐天皇が笠置山に立てこもられていたころに、呼応して挙兵しようとしていたが、準備をしているうちに笠置は陥落し、楠正成も行方がわからなくなったという噂を聞いて、力を落としていた。しかし、後醍醐天皇が隠岐国に流されることになると知って、一族の中でも裏切る恐れのない者たちを集めて議論をした結果、命がけで天皇に忠誠を尽くすべきだという結論に至る。そこで、「義を見てせざるは勇なし」と、先帝を護送する集団を襲撃して奪い返したうえで、倒幕の大軍を起こそうと申し合わせて、道中の難所に待ち受けて、相手の隙をつこうと、備前と播磨(現在の地理で言えば岡山県と兵庫県)の境界にある船坂山の峠に隠れ潜んで、一行の到着を待ち受けた。

 しかし、待てども待てどもそれらしき一行はやってこない。偵察のものを出して情報を集めてみると、警固の武士たちは山陽道を経由せずに、播磨の今宿(姫路市今宿)から山陰道に向かって進路をとったので、高徳の目論見ははずれてしまったのである。しかし、この程度のことで挫けるわけにはいかない。これからの道中で差し掛かるであろう美作の杉坂がことを行うのに好都合の深山であると、杉坂に向かったが、そこでも先帝の一行は既に院庄(岡山県津山市院庄)に到着されたという情報に接する。そこで、仲間のものは力を落として、みな、散り散りになってしまうが、高徳だけは何とか自分たちの気持ちを天皇にお届けしたいと、卑しい身なりに変装して一行の様子を窺っていたのだが、なかなか隙を見つけることができない。

 そこで先帝のお泊りになっている宿の庭に、大きな桜の木が生えているので、その幹を削って、大きな文字で一句の詩を書きつけた。
 天勾践を冗(いたず)らにすること莫かれ
 時に范蠡無きに非ず
(204ページ、天は中国の春秋時代の越の王であった勾践の命を虚しくしてはいけない。勾践を助けた范蠡のような忠臣が必ずやいるのだから。呉と越が戦い、忠臣范蠡の活躍で越王勾践が呉王夫差を破った故事を踏まえ、後醍醐天皇を勾践になぞらえている。なお、岩波文庫版は『太平記』の古い姿を残しているといわれる「西洞院本」を使っているが、一般に読まれている流布本の系統では「天勾践を空しうするなかれ」となっており、私もそのように記憶していた。)

 朝になって、警固の武士たちがこれを見つけて、誰が何のためにこのような落書きをしたのかと、意味が分からないまま騒いでいたのが、後醍醐のお耳に入った。先帝は即座に市の意味を理解されて、晴れ晴れとした表情でにっこりとされていたが、武士たちはその意味が分からなかったので、これ以上の詮索をしようともしなかった。

 今木高徳は、太平記のこの後の箇所では児島(小島)、和田、三宅などという姓で登場する(ふつうは児島高徳として知られる)が、彼の活躍を語る同時代の文書はなく、明治時代の歴史学者重野安釋はその実在を否定した。あるいは何人かの武士たちの事績を一人の人物にまとめたという可能性もないわけではない。鎌倉幕府は東日本では強い勢力をもっていたが、中国地方では京都の朝廷に心を寄せる武士が少なくなかったであろうことは容易に推測できることである。

 また『太平記』の作者だという説のある小島法師が、実は児島高徳と同一人物であるという説もあって、これはこの岩波文庫版の『太平記』の「解説1」に詳しく論じられているので、興味のある方は読んでみてください。確かに、地方の武士である児島高徳が、幕府の武士たちが知らないような中国の故事を知っているのは不自然であるし、『太平記』第4巻のこの後の部分で、呉越の故事が長々と語られるのも奇妙である(ここでは省略することにしたい)。そういう『太平記』の構成の奇妙な点は、児島高徳=小島法師と考えると納得がいくというのであるが、さてどうだろうか。

市井豊『聴き屋の芸術学部祭』

1月17日(土)晴れ後曇り

 市井豊『聴き屋の芸術学部祭』(創元推理文庫)を読み終える。2012年にこの文庫の版元である東京創元社から単行本として刊行された短編集を文庫版にしたもの。表題作を含む4つの短編を収録している。

 4篇すべての語り手であるT大学芸術学部文芸学科の学生、柏木君は<ザ・フール>という文芸サークルの会員であるが、サークル仲間からは他人の話の聞き役となる「聴き屋」としての才能を認められ、さらに心理学の先生の<お墨付き>がついて、学生食堂などで見知らない学生や外部の人間から相談を持ち掛けられるようになった。
 「聴き屋に持ち込まれるのはどれも大した内容の話ではない。きわめて小市民的な世間話ばかりだった。いわく『バイト先の上司が無茶を言う』『姪っ子がかわいくて仕方ない』『最近特殊な性癖に目覚めた』エトセトラ・・・・・・・。
 つらいから口に出したい不満や愚痴、何度でも話したいとっておきの自慢、毒にも薬にもならない、だけど人に聴いてもらいたい話などが集まってくる。
 聴き屋は相談所とは違うので、ぼくの対応は、ふんふんなるほどそういうこともあるんだな、とまさに聴くだけである。こんな生返事しかできないのに、不思議と聴き屋の需要は絶えることがなく、ぼくを訪ねてくる人は増える一方だった。」(15ページ)

 その彼が遭遇する4つの事件。芸術学部祭の最中に会場となっている教室の一つでスプリンクラーが作動し、駆けつけてみると教室の中央で、丸焦げになった人間が、水浸しになって倒れていた。(「聴き屋の芸術学部祭」)
 学生劇団≪ザ・ムーン≫が上演する予定の舞台劇『からくりツィスカの余命』を書き上げた座付作者が、団員のいたずらに腹を立てて、結末の部分を抜き取って姿を消してしまった。作者を探し出さずに、物語の結末を見つけてほしい。(「からくりツィスカの余命」)
 男子部員ばかりだった模型部に入って来た女子部員が制作していた宇宙ステーションの模型が何者かによって壊された。第一発見者である男子部員が、壊したのであろうと疑われたが、本人は潔白を主張する。(「濡れ衣トワイライト」)
 芸術学部祭でのサークル誌の売り上げが予想外に多かったので、それを有効に使うべく温泉地に旅行に出かけるが、その旅行先で2人組の同年輩の泥棒に出会い、それだけならよかったのだが、旅館を舞台にいた殺人事件に巻き込まれる。(「泥棒たちの挽歌」)

 語り手の「聴き屋」柏木君には、女装するとひどく色っぽくなる推理マニアの川瀬という「悪友」がいて、1年生の女子学生からは特別な関係にあるものと邪推されている。(いや、邪推ではないかもしれない…) さらに、美術科の学生だが同じサークルに属していて彼の後を背後霊のように追い回す女性の「先輩」や、同じく美術科だが同じサークルに属していて、こちらはやけに明るい森里さんなどの個性的な登場人物が彼の周囲に出没する。

 作者の市井さんは日大の芸術学部文芸学科出身とのことで、登場人物のそれぞれに奇矯な個性や生活ぶり、自由を通り越して無秩序な学園生活がこれらの作品群の素地となっているようである。「聴き屋の芸術学部祭」と「泥棒たちの挽歌」では殺人事件というめったにない事件に主人公たちは遭遇するが、「濡れ衣トワイライト」は実際に大学のサークル活動の中で起きても不思議がない事件であり、些細に思われるかもしれないが、当事者にとっては深刻な、大学の中での出来事を、詳しい性格描写を交えて描きこんでいる。出来事も登場人物も、作者の学生生活から遠くないところのものであることを推測させるような内容であり、比較的最近の学生たちの姿を知ることができて(もちろん、これがすべてではない)、その意味でも興味がわく作品である。

 大学でどのように学んでいるかではなくて、どのように大学に関連した余暇を過ごしているかの方に、学生生活の重心が置かれているような印象を受けるかもしれないが、大学という枠の中にいる限り、悪からは一応遮断されているはずであると認識すべきである。それでも大学生である登場人物たちの周辺で、殺人事件を含む事件が起きることは、もはや大学が俗世間とは別の楽園ではないことを示しているようでもある。また、大学は世界の一部分であり、学生たちはいずれは大学を出て、社会人にならなければならないことを考えると、、作者がいつまでもこれらの経験にしがみつくわけにもいかないだろうから、今後、どのような作風の転換を見せていくかという点にも興味がわく。


アルファヴィル

1月16日(金)晴れ後曇り

 渋谷のシアター・イメージフォーラムでジャン=リュック・ゴダール監督の1965年作品(日本では1970年に公開された)『アルファヴィル』(Alphaville, une étrange aventure de Lemmy Caution)を見る。1970年に日本で公開された際に、見たはずなのだが、映画の細部についての記憶が全くない。今回は昨年末からトリュフォーの『華氏451』と組み合わせての上映で、トリュフォー作品の方は見たときの記憶がかなりよく残っている。今回、この「ヌーヴェル・ヴァーグSF映画対決」の特集上映のうち、ゴダールの作品だけを見たのは、私の時間の都合であって、個人的な好みを反映したものではない。本日、19時からの『アルファヴィル』の上映は最終日の最終上映となったが、かなりの観客を集め、そのまたかなりの部分が若い観客であったことが心強く思われた。

 いつ頃のことかわからないが、遠くなさそうな未来の話。銀河系の首都であるアルファヴィルに『フィガロ=プラウダ』の記者だというイワン・ジョンソンという人物がやって来てホテルにチェック・インする。『フィガロ』はフランスの右派系の新聞、『プラウダ』は旧ソ連時代の(この映画が作られたのはまだソ連が存在し、フルシチョフが失脚してブレジネフに政権が移ったころである)共産党機関紙、イワンはロシア人に多い名前、ジョンソンは当時のアメリカの大統領の姓、この種の人名や地名が映画には盛んに登場する。

 彼は実はレミー・コーションという名のコードナンバー003を持つシークレット・エージェントで有る。彼は個人的な感情や思想の自由が排除され、人々がアルファ60という人工知能によって支配されているアルファヴィルで、彼の前にこの都市に派遣されたが、音信が途絶えているアンリ・ディクソンを探し出すこと、アルファ60の開発に役割を演じたフォン・ブラウン教授を逮捕するか抹殺すること、そしてアルファ60を破壊することを使命として派遣されたのである。

 到着するや否や、彼の周辺には様々な人物が付きまとうが、その中でフォン・ブラウン博士の娘だという美しい女性ナターシャ・フォン・ブラウンがとくに彼の目を引く。その一方でアルファヴィルの警察は彼に対する監視を続け、彼の周辺では様々な出来事が起きる。

 SF映画というが、このジャンルにつきものの大規模なセットや特殊撮影を使った場面はなく、現実のパリ市街や近郊の高速道路がドイツ表現主義の映画を思わせるように描きだされ、独特の未来世界が構成されている。ドイツ表現主義といえば、フォン・ブラウン(という名前もドイツ的であるが)の本名が吸血鬼映画の主人公と同じノスフェラトゥであるというおまけもついている。あるいは未来のディストピア世界にヒットラー台頭期のドイツの姿をかぶせる意図があったのかもしれない。

 それにしても、ゴダールは商業主義的な大作をつくることを潔しとしなかったので、映画製作の中で予算の制約に付きまとわれていたようである。それで、ハリウッド製の様々な技術を駆使したSF映画になじんでしまうと、その点では物足りなく思うかもしれない。映画製作から50年以上がたって、コンピューター技術の発展を目の当たりにしてしまうと、この作品に登場するコンピューターの古さが滑稽にさえ感じられてしまう。この映画の後でロジェ・ヴァディムがジェーン・フォンダ主演で撮った『バーバレラ』も同じような話であったが、文明批判の性格は弱くなっているものの、ヴィジュアルな面白さでは優っていたのは、予算の関係も大きいのであろう。

 それでも、いろいろ欠点はあっても観客をとらえて離さない不思議な魅力がある作品で、それは多少的外れなところがあるにしても、映画を通じて文明批評を展開しようとする映画作家ゴダールの熱意のたまものである。少し譲って映画の魅力のかなりの部分がナターシャを演じているアンナ・カリーナの美しさに支えられていることを認めるにせよ、その美しさを引き出し、画面にとらえている監督の努力も忘れてはならないのである。

 

小倉美惠子『オオカミの護符』(5)

1月15日(木)午前中から雨が降りだす

 奥秩父の三峰山と三峯神社を訪問した小倉さんは三峯神社の神官である千島幸明さんが子を産むオオカミの叫び声を聞くと伝えられてきた「心直ぐなる」山の百姓である神領民の出身であることを知る。彼らは焼畑や山仕事に従事しながら三峯神社に仕えてきた。そして昭和50年代までは関東の山々で焼畑農業が営まれていたのが、その後急速に農山村の暮らしに変化が起こってきたのである。

 年配の人々の間に山の暮らしの記憶はまだまだ根強く残っているが、その記憶を裏付けているのが秩父出身の写真家清水武甲が撮っていた焼畑が盛んにおこなわれていたころの三峰耕地の姿を写した写真である。彼は「ただ生まれ育った土地」だからという理由で秩父山地の写真をとり続けたという。そのそっけない言葉と裏腹に、秩父を見つめる目の温かさが写真には溢れている。

 清水武甲の写真の中に焼畑が行われていたころの姿が残されている和名倉山は現在では遭難者が出るほど荒れているというが、むかしむかしはオオカミが棲んでいたといい、三峯神社の境内にある三峯山博物館には和名倉山で捕獲されたオオカミの毛皮が展示されている。秩父、上州、信州、甲州の山地に住むオオカミと犬とを交配して生まれた狩猟犬であるといわれる川上犬、秩父犬、十石犬、甲斐犬などが遺されている。

 焼畑をする人々にとって一番困ることは作物がイノシシやシカなどの獣に食べられてしまうことであった。こうした焼畑民たちにとって、イノシシやシカを捕食するオオカミはありがたい存在であった。「『オオカミの護符』は、ここ三峯で猪鹿(いじか)除けの目的で発行されたのが最初だと聞いた。その経緯は享保19(1734)年の『三峯山観音院記録』の中に記されている。『オオカミの護符』に、害獣除け、盗難除けに加え、火難除けの効力もあるとされる背景には、やはり焼畑との関係があるのではないか・・・などとも連想された」(206ページ)。

 小倉さんと由井さんはさらに三峯に暮らす長老格の老夫妻を紹介されて訪ねる。焼畑を実際に行っていた経験から、「春の火入れ」と「夏の火入れ」とがあり、それぞれその後で作る作物が違うなど詳しい話を聞くことができた。「オオカミのお産の唸り声を聞いた獣は山に逃げ、獣の害から作物が守られたことから『オオカミの護符』の信仰が広がったとも語った。なんと大正以前に柳田国男が採集したあの話を、今も身に宿している人と出会えるとは思ってもみなかっただけに、この巡り会いに高揚した」(210・212ページ)。また神社で行われている「お炊き上げ」はもともと山の民の行事だったものが、だんだん時代が下がって社に祀り込んだもので、その一方で山での祀りは途切れてしまったのだとも聞く。

 このように山で暮らす人々の生活と山への信仰に触れて川崎に戻った小倉さんは、多摩丘陵の村々で『雑木山』をさしていう「べーら山」が、やはり神々の居場所と考えられてきたことを思い出す。「神々は、どこにでも祀られていたわけではない。土橋の百姓に経済的な恩恵をもたらした『竹藪』に神々を祀る祠はない。それでは、なぜ『べーら山』に祠が祀られてきたのだろう」(216ページ)。小倉さんは哲学者の内山節さん(この文庫本の解説を書いている)が説く「稼ぎ」と「仕事」の関係からこれを説明しようとする。「土橋の『竹藪』は、換金作物を得るための『稼ぎ』の場であり、一方『べーら山』は、永続的に暮らしを成り立たせるための『仕事』の場といえる。つまり、世代を越えて守り続ける「仕事」の場に、神は祀られているのだ」(218ページ)。そして、「土地の自然と向き合い、神々を祀ってきた人々の言葉や姿には、未来を指し示す手がかりが宿されているはずだ」(220ページ)という結論にたどりつき、自分の生まれ育った土地でそうした人々の暮らしを掘り起こす作業を続けようと決心するのである。

 4回出終えるつもりが、5回に分けて紹介することになった。それだけ、あとの方になって本の面白さが増してきたということである。この本を読んで特に強く印象に残ったのは、明治維新によっても、太平洋戦争によっても山で焼畑を作って暮らす人々の暮らしのおおよそは変わらなかったのが、社会経済の変化に連れて変貌し、昭和50年ごろには関東地方では焼畑が姿を消したということである。昨年秋に見た今井正監督の映画『ここに泉あり』には山で樵や炭焼きをして暮らす人々の姿が描かれていて、こういう生活がこれからも続くのだろうと劇中の人物が語っているのと、それが実際には姿を消したという現実とを対比させて感慨にふけったことを思い出す。とはいうものの、姿を消してしまったはずの生活様式や信仰の痕跡が、私たちの日常生活や意識の中に残っていないとも限らないので、そのあたりのことを掘り起こしてみたいと考えた次第である。

 これは付け足しになるが、子どものころに、大人たちが甲斐犬という犬種の犬がいるという話をしていたことを、今回の読書で改めて思い出した。それがオオカミの血を引いているという言い伝えがあることを初めて知ったが、紀州犬にも同じような話があり、どちらかというと中型の日本犬の方がオオカミに近いということのようである。とすると、ニホンオオカミもそれほど大きな獣ではなかったのかなと思ったりした。日常生活の見直しとともに、想像力を多少は働かせる機会を与えてくれる書物でもある。

日記抄(1月8日~14日)

1月14日(水)晴れ後曇り

 1月8日から本日にかけての間に、経験したこと、考えたことなど:
1月8日
 NHKラジオ「まいにちドイツ語」応用編「黒猫イクラと不思議の森」の第25回は、帝国宰相(Reicheskanzler)であったオットー・フォン・ビスマルク侯爵が登場した。彼は
Ich Gehörte einer Bruschenschaft an und mein Leben wurde von Fechten, Saufen und Duellieren bestimmt. (ある学生組合に属していて、私の生活はフェンシングと大酒と果し合いに明け暮れていた)と語る。古き「よき」ドイツの大学の学生生活の典型例である。

 NHKカルチャーラジオ文学の世界は本日から「風刺文学の白眉 『ガリバー旅行記』とその時代」を放送する。第1回の今回は、この作品が書かれた18世紀に先立って17世紀に英国で展開された「ピューリタン革命」と「名誉革命」の二つの「革命」とそれに伴って起きた社会・文化の変化について概観した。17世紀に起きた2つの革命は、18世紀のフランス革命のように王権と民衆との直接対決という性格のものではなく、国王と有力な貴族の対立という形をとっていたこと、その中でいわゆる市民社会が少しずつ実力をつけていくという形で近代市民社会の形成が進んだこと、またその中で国の在り方をめぐる議論に市民が主体的にかかわる場があり、それがジャーナリズムとして発展していったこと、そしてイギリス国教会の存在が重要な意味をもっていたことが論じられた。さらにこの時代は近代的な書きことばとしての英語をめぐる混乱と論争の時代でもあったことが取り上げられた。

1月9日
 NHKカルチャーラジオ「科学と人間」『富士山はどうしてそこにあるのか~日本列島のなりたち」を聴く。富士山が太平洋プレート、フィリピン海プレート、ユーラシア・プレートの3つのプレートが重なり合う場所にできた単独峰であることが、その秀麗な姿の原因となっていることなど、興味深い話を聞くことができた。

1月10日
 NHK羅時「攻略!英語リスニング」では「ハリウッド」を取り上げた。カリフォルニア州の小さな農村にすぎなかったハリウッドが映画産業の中心になったのは、映画関係の特許を独り占めしていたトーマス・エディソンの手を逃れるために多くの映画関係者がこの土地を選んだからであるとのことである。

1月11日
 昨日の続き。
This is where they made films like The Wizard of OZ, Gone with the Wind, Casablanca, It's a Wonderful Life, Citizen Kane, and King Kong back in the late twenties, thirties, and forties, the Golden Age of Hollywood.(この場所で「オズの魔法使」「風と共に去りぬ」「カサブランカ」「素晴らしき哉、人生!」「市民ケーン」そして「キングコング」などの映画が、1920年代後半、30年代、40年代といったハリウッドの黄金期につくられた。)
 これらの作品について、いちいち語っていたら大変なことになるが、一つだけ書いておくと、「オズの魔法使」
の製作途中で監督のヴィクター・フレミングは「風と共に去りぬ」を監督するためにいなくなってしまった。そこで、クレジットには記されていないが、ジョージ・キューカー、マーヴィン・ルロイ、ノーマン・タウログというそうそうたる面々が演出に加わった。さらに最初と最後の白黒で描かれているカンザスの場面はキング・ヴィドアが手掛けているそうである。ハリウッドの黄金期における映画が集団製作によってつくられていたことがよく分かる。さらに言うと、映画の内容も、それぞれ欠点を持つ者同士だが、それぞれの目的の達成のために力を合わせれば、必ず成功するというのがこの映画の重要なメッセージだということである。

1月12日
 NHKラジオの『入門ビジネス英語』で講師の関谷英里子さんが「私の周りには、思いついたことをどんどん言葉に出してから施行を深めていくタイプと、じっくり考えてある程度自分の中でアイデアが固まってから言葉にするタイプの両方がいるので、どちらのタイプなのかを見極めながら仕事をしています」といっていたのが貴重な示唆であると思う。わたしは思いついたことをどんどん口に出していくタイプであるが、それに対して細かく的確な突っ込みを入れるという人は少なくて、はじめから全面否定をしたり、黙っていてある程度話が進んでから本質的な議論に問題を戻されたりした経験が多かった。もう少し、個々の人間の議論の特性を見極めて議論を進めないと、建設的な成果は得られないと自分の経験を踏まえても思うことである。

 成人の日であるが、例年、見かけるような和服姿の女性をとうとう1人も見かけなかった。私が外出した時間帯や場所の問題もあるのだろうが、流行の変化や経済の影響が反映しているとすれば、注目すべきことである。

1月13日
 NHKカルチャーラジオ「歴史再発見」「続・シルクロード10jの謎~流砂に消えた王国・タクラマカン砂漠からの報告」の第1回の再放送を聴く。スヴェン・ヘディンの有名な探検の経緯やその発見をめぐって改めて議論が展開された。

 はらだたけひで『放浪の聖画家 ピロスマニ』(集英社新書ビジュアル版)を読み終える。この書物でも言及されている小宮山量平さんによる紹介記事を読んでから、もう50年近く「グルジアのアンリ・ルソー」と呼ばれたりするこの画家のことを気にかけてきた。グルジアの首都チフリスの町とその周辺を放浪しながら、幼年時代の思い出やグルジアの昔話を絵にし続けた彼の生涯をおそらくは多少の虚構を交えて描いた映画『ピロスマニ』のことなどもこの書物を読みながら思い出していた。彼の絵の魅力を文章で語るのが難しく、詳しいことが書けないのが残念である。

1月14日
 NHKラジオ英会話でpizzaという語が出てきた。日本で「ピザ」というのはアメリカ経由で、もともと北イタリア風の発音がアメリカに入ったものだという話を聞いたことがあるが、現在の英語では「ピーッツァ」というような発音が一般的らしい。そういえば、このところ本格的だといえるようなピッツァをたべていない。

ダンテ・アリギエリ『神曲 地獄篇』(20)

1月13日(火)晴れ

新たな罰を私は詩行に重ねて
第一曲の第二十歌の主題を
書き表さなければならない。闇に沈んだ者どもをめぐる曲ではあるが。

私は既に全身を緊張させて
視界に広がった地底をよく見ようとしていた。
それは苦悩の涙で濡れていた。

するとこの現世では祈りの列がなす
歩き方で、沈黙のうちに涙を流しながら、円形の深い谷を
進んでくる者どもが見えた。
(290ページ)

 上記2行目で第一曲というのは『地獄篇』のことである。この第20歌で、ダンテはウェルギリウスに導かれて地獄の第8圏の第4巣窟に到着した。ここでは沈黙が支配し、生前に未来を予見した占い師たちが顔を後方に捻られて、想像が及ばないほど奇怪にゆがんだ姿で歩いている。占い師たちは、未来を予見することにより、神慮を無視して自分の運命を捻じ曲げようとしたためにこのような罰を受けているのである。

 ギリシャ神話に登場する占い師や、歴史上の占い師が登場したのちに、ウェルギリウスの生まれたマントゥアの町の起源についての物語がウェルギリウスの口から語られる。彼の叙事詩『アエネーイス』ではこの市を建設する際に占いがかかわっていると述べられているのだが、彼はこのことを否定する。ウェルギリウスの口を借りて、このように述べることで、ダンテは占いの効力を否定しているのである(それよりもまず、占い師たちが地獄の奥深くに置かれていることに彼の考えが現われている)。

 またこの物語と関連して
地上にある美しいイタリアには、
ラマーニャを閉じるアルプスの麓の
チロルのそばに一つの湖が横たわり、名をベナコという。

千もの泉、私が思うにさらに多くの泉のあるおかげで、
ガルダとヴァル・カモニカとアペンニーノの間は
先ほどの湖に流れ込んでいこう水によって洗われている。
(296ページ)と、地上の美しい自然が描かれている。これは、読者を地獄の描写の息苦しさから一時的にせよ解き放つ配慮のように思われる。

 ウェルギリウスは、この第二十歌の最後で、叙事詩の冒頭、暗い森の中でダンテを見捨てなかった月を忘れるなと述べる。月は太陽の光を反射して光るが、太陽は神の<知>を象徴し、月は神の光の反射で輝く<理性>を象徴する。
ところで昨夜すでに月は真円だった。
よくよくおまえはそれを覚えておかねばならぬ。なぜならあの時、
おまえを奥深い森の中で見捨てることはなかったのだから。
(302ページ) ウェルギリウスはこの作品では理性を代表する存在であり、月を忘れるなというのは、結局、彼を忘れるなということである。

このように私に話しながらも、その間、私達は進んでいた。
(同上)


 

森正人『四国遍路』

1月12日(月)晴れ

 森正人『四国遍路』(中公新書)を読み終える。昨年の末に買った本で、読み終えるのに少し時間がかかった。

 一時、四国遍路の旅に出ようと思って、関係図書、とくに遍路の経験をつづった書物を何冊も集めて読んでいたことがある。ところが旅に出かける機会を逃したまま、年をとってしまい、体力的に歩き遍路は無理だと判断して、そういう本のほとんどは整理してしまった。今回、この本を読んだのは知的な関心からであって、四国遍路について確認可能な資料からその歴史の全体像を探るこの書物は、そういう関心にこたえる内容を備えている。著者は「あとがき」で四国遍路について研究するのではなく、四国遍路を通して何かを考えようとしてきたと述べているが、ここでは自分自身の遍路とのかかわりを通じて、四国遍路について考えているといってよいかもしれない。

 資料を基に再点検することによって、著者は四国遍路の記録が実証的に遡れるのは江戸時代中期までであるという。しかも江戸時代における四国遍路は現在、我々が知っているようなものとは違う姿をしていたこと、巡礼の形式が整ってくるのは意外に新しく20世紀に入ってからのことであるという。

 もう一つの重要な点は四国遍路が置かれていた厳しい社会的状況であり、遍路は常に沿道の人々から温かい目で見守られてきたわけではなく、時として取り締まりや差別の対象となっていたということである。この点をめぐっては地方による取扱いの違いなどが詳しく記されていて、興味深かった。

 四国遍路は確固とした教理や特定の宗教的な意義の上に成立したものではなく、特定の社会状況の中で特定の意味を与えられ、徐々に体系化されてきたものである。しばしば弘法大師との結びつきや、その古い伝統が強調されるが、むしろそれは近代的、現代的な性格を強く持つものであると著者は考えている。高群逸枝をはじめとして多くのジャーナリストの旅行記を使っているのは、このことと関連するように思われる。

 資料の選択について思うのは、「はじめに」で遍路が直面していた厳しい社会状況を語るために高浜虚子の
道のべに阿波の遍路の墓あはれ
(ⅱページ)という俳句が引用されているとはいうものの、全体としてみると文学作品や映画に出てきた遍路の姿が十分に活用されていないために、今一つイメージが豊かに膨らんでこないということである。井伏鱒二の「へんろう宿」や田宮虎彦の小説を吉村公三郎が映画化した『足摺岬』などの描く情景は私の脳裏に強く焼き付いている。第1章で十返舎一九の滑稽本『金草鞋』について触れているのは、興味深い個所であるが、作者が主人公に詠ませている
接待に世話を焼きたいはつたいをありがへとて人はたいたい
(47ページ)を「川柳」としているのは「狂歌」の誤りである。(ついでに「ありがへ」というのはというのは「ありがてへ」の誤植ではないかと思う。) このあたり、著者だけでなく編集者もしっかりしてほしかった個所である。

 とはいうものの、全体としてみると、興味深く、あらためて「四国遍路」の文化遺産としての多様な価値について認識させ、考えさせてくれる書物であることに間違いはない。

『太平記』(23)

1月11日(日)晴れ

 元弘2(1332)年、後醍醐天皇の隠岐への配流が決まった。退位した天皇を隠岐に流すというのは承久の変の先例に従う措置であるが、「臣として君を流し奉る事、関東もさすが恐れありとや思ひけん」((195-196ページ)、皇位継承者に決まっていた後伏見院の第一皇子である皇太子を即位させ(光厳天皇)、新しい天皇により「先帝御遷幸」の宣旨を出すという形をとった。後醍醐天皇が厚意に復帰する希望はないということを認識して出家していただこうと、鎌倉幕府のほうでは香染めの御衣を用意したが、出家の意思はないといい放って、天皇の日常の衣服である紅の長袴を依然として着用され、毎朝、行水を使われたうえで、宮中の賢所に向けて拝礼をされていた。このため、「国に両人の王まします心地して、武家も持ちあつかひてぞ覚えける。これも、叡慮に慿(たの)み思し召す御事のありけるゆゑなり」(196ページ、国に二人の天皇がいらっしゃるという気分がして、幕府も持て余し気味であった。これというのも、天皇の心中に帰するところがあったためである。) 

 これより3年前の元徳元年の春に中国から明極楚俊という禅僧が渡来、天皇が外国の僧と御面会になるのは異例のことであったが、後醍醐天皇は禅宗にも関心をもたれていたので、この僧を呼んで話をお聞きになったのであった。問答の後、この僧に国師号を授けられたが、その際に彼は使いのものに向かって「この君亢龍(こうりょう)の悔いありと云へども、二度帝位を践(ふ)ませ給ふべき御相有り」(197ページ、この君主は、高く昇りつめた龍があとは降りるよりほかはないということばがあるけれども、二度帝位につかれる相をされている)と述べた。この言葉が念頭にあって、出家されなかったのである。

 中宮である西園寺禧子は都に残ることとなり、六波羅を訪問して天皇との別れを惜しんだ。別れ際に涙ながらに
  この上に思ひはあらじつれなさの命よさればいつを限りぞ
(199ページ、これ以上の悲しみはないでしょう。無常なわが命よ、それええはいつまえ永らえるのか)とお詠みになった。

 3月8日、幕府から派遣された3,000余騎の警固の武士たちに護送されて先帝は隠岐に向かわれた。付き従うのは、天皇の側近中の側近であった一条行房(蔵人所の頭と京職、修理職などの大夫(長官)を務めていたので頭大夫と呼ばれていた)、六条少将(千種)忠顕、身の回りのお世話をする三位殿の御局(阿野廉子)だけであった。行列を見守る群衆の中からは、武家による天皇の配流を非難し、そのうち幕府も滅亡するだろうという声が聞かれた。このため、警固の武士も心を動かされて涙をこぼすものがいた。

 道中、先帝は桜井の宿から石清水の八幡宮を遥拝され、京都に戻ることを祈念され、平清盛が一時都を移した福原を通り過ぎるときは、その不遜な行為が天の罰するところとなったとの感慨にふけられ、さらに須磨を通り過ぎるときには源氏物語の内容も思い出された。さらに美作の国に達して雲の間から見える高く白い山を見かけられ、山の名を警固の武士にお尋ねになり、伯耆の大山であると知って、心の中で経文を唱えられた。

 「或る時は馬蹄板橋の霜を踏み破り、或る時は鶏声茅店の月を抹過し、行路に日を窮めければ、都を御出であつて、十三日と申すに、出雲国見尾の湊に着かせ給ふ。ここにて、御船を艤(ふなよそい)してぞ、渡海の順風を待たれける」(201-202ページ、ある時は馬の蹄が橋の上の霜を踏み破り、またある時は朝早く田舎家を通り過ぎるなどして、日にちを重ねたので、都をお出ましになってから13日のうちに出雲国見尾(松江市美保関町)の湊に到着、出港の準備をして順風を待ち受けられることとなった)。

 形の上では退位して、新しい天皇に位を譲ったようにしているが、京都に戻る意志を固く心にお持ちになっている後醍醐天皇が隠岐に向かわれる様子が比較的簡潔に記されている。このあたり、吉川英治の『私本太平記』だと『徒然草』の作者が登場したり、様々な人間模様が絡んでくるのだが、本家の方はあっさりしたものである。ただし、劇的な出来事がないわけではなく、それは次回に紹介する部分で描かれている。

 

春香傳

1月10日(土)晴れ、夜空にオリオン座、冬の大三角形がはっきり見えた。残念ながら、オリオン星雲は見えず。

 1月9日、『春香傳』(許南騏訳、岩波文庫)を読み終える。李氏朝鮮時代の韓国文学を代表する文学作品の一つとされる。作者がわかっていないところに、この作品が民間説話として成長してきた経緯と、近世の韓国社会において小説という文学のジャンルが低い評価しか受けていなかった事情を読み取ることができる。

 李朝第19代の国王、粛宗大王(治世1675-1720)の頃、半島南部の全羅道南原府に、月梅(ウォルメ)という名の妓生(キイセン=芸妓)がいた。名妓の誉れ高かったが、すでに引退して、縁あって成という姓の両班の囲い者として暮らしていたが、40歳を迎えて子どもがいないので、智異(チリ)山に登って神霊に祈ったところ、一女を得た。そこで春香(チュンヒャン)と名付けて大事に育て、彼女は美しく、また教養豊かな女性として成長した。

 その頃、大王は忠孝の徳に秀でたものを選抜して地方長官に任命していたが、李翰林という両班がいて、この人物が徳行優れていたために南原府使(知事)に任命する。彼の善政のおかげでこの地方の住民は満ち足りた生活を送ることができた。ところで、彼には夢龍という息子があり、まだ16歳であったが、才能豊かで、5月のある日、南原の風物を見て詩をつくろうと外出する。同じ日に、春香もこの好天の日を無為に過ごすことはないと外出し、鞦韆(しゅうせん=ブランコ)遊びをしているところを夢龍が見初める。(この鞦韆というところがいかにも韓国の伝統を感じさせる。)

 こうして2人は結ばれるのだが、身分の違いが重大な意味をもっていたこの時代、片方は両班の息子、もう片方は父親が両班であった(すでに死去している)とはいうものの庶子で、妓生という身分の女性。正式な結婚は困難である。そのうち、李翰林は中央の顕職に栄転し、夢龍も都に帰らなければならなくなる。南原に残った春香は、新たに赴任してきた卞という好色な府使に言い寄られ、それを拒絶したために投獄されることになる。都に戻った夢龍は科挙の試験に合格し、地方行政を監察する御史の職に任じられ、半島南部の視察に出かける。

 物語はさまざまな要素をもって展開する。恋愛小説であり、二人が結ばれるとエロティックな場面が続き、使用人が登場する場面では滑稽な場面が描かれ、農民の生活を描く場面ではやや観念的ではあるが政治的な議論が展開される。中国や朝鮮の故事が美辞麗句を連ねて列挙されるかと思うと、人々の生活に即したリアルな描写も見られる。人生の様々な場面での知恵を織り込んだ百科全書的な性格もあったようである。そういう雑多な要素が集成されているのは、我が国だと平家物語や太平記のような語り物でもあった文学作品と共通する特徴のように思われる。身分違いの恋というテーマは近代的だといえなくもないが、その描き方は近代的な恋愛というよりも、伝統的な貞節観に貫かれている。

 昨年12月22日付の当ブログで王敏『禹王と日本人 「治水神」がつなぐ東アジア』について取り上げた際に、この作品が韓国の国民に及ぼしている影響を日本の『源氏物語』と比較したきわめて粗雑な議論についてその不適切性を指摘した折に、『春香傳』は短いからすぐにでも読めるというようなことを書いたが、実際は多少の時間がかかってしまった。その理由は、語り物=我が国の講談を思わせる美辞麗句の羅列ですっかり当惑させられたことである。許南騏による翻訳は、当今の読者には難しすぎると思われるので、改訳が望まれる。なお、ほかに平凡社の東洋文庫にも翻訳があるそうだが、こちらは読んでいない。

 比較文学者によると、『源氏物語』は部分的に白居易の「長恨歌」の影響を受けており、東アジア世界における「恋愛」文学という枠内で、『春香傳』と『源氏物語』を比べることは意味のないことではないかもしれない。とはいうものの、「長恨歌」にせよ、『源氏物語』にせよ、宮廷や貴族社会が主な舞台の作品であり、『春香傳』は同じ唐の時代の恋愛文学でも白居易の友人でもあった元禛の「会真記(鶯鶯伝)」とか、白居易の弟の白行簡の「李娃伝」のような才子佳人小説の系譜につながるものと考えるべきである。これらの小説では科挙を受けようとする若者(才子)と美しい女性の「恋愛」が主題となっているが、「会真記」では良家の娘がヒロインになっているのに対して、「李娃伝」では娼妓がヒロインになっているという違いがあり、『春香傳』はその点で「李娃伝」の系譜をひく作品のように思われるが、李娃が客を取る娼婦であるのに対して、春香は母親が妓生であるというだけで、実際にお座敷に出て芸を披露するようなことをしていないので、その点が大きく違うことも注目しておいてよかろう。とにかく登場人物の設定に、作品のさまざまな主張を読み取るべきであり、一筋縄でいかないのである。

 日本では官吏登用のための科挙の試験が発展せず、しかも武士が台頭して文治ではなく武家政治の時代が長く続いたので、才子佳人小説は十分な発達を遂げるに至らなかった。徳川の太平の世の中になって、『朝顔日記』のような作品が現われたが、恋愛文学の主人公は伝統的に貴族の男女であり、そこから武士や町人へと広がっていった。文学がいかに国民に親しまれているかという一点のみに着目した王敏さんの議論は、文学作品の文学としての質や社会的な性格に対する分析を欠いているために粗雑なものというよりほかはないが、禹王が『春香傳』で5回言及されているという指摘は、私も確認したので、そのことを付け加えておく。岩波文庫版で7ページ、25ページ、50ページ、87ページ、99ページの5個所である。ただし、中国古代のその他の聖人や帝王とともに列挙されているだけで、実質的な意味があるようには思えなかった。

日陰ばかりの街

1月10日(土)晴れ

日陰ばかりの街

上の方を眺めれば
青空が広がっているが
街を支配している
ビルに遮られて
低いところからさす
冬の太陽の
日差しは届かない

今日は風がないから
少し楽だとはいうものの
日陰の中を歩くのは
気の滅入ることだ

冷え冷えとした
通りを歩くのが
いやになって
暖房の効いた
地下街に下りる

日陰の街から
人工の光の支配する
人工の街へと
下りてゆく

語学放浪記(47)

1月9日(金)晴れ

 NHKラジオ「英会話」の15:45からの再放送を聴くために、その前に放送される「アンコールまいにちロシア語」上級編(‼)「どこまでもゆっくり~カタツムリの上級編~」の最後の方を聴いていたら、パートナーのロシア人女性が講師の黒田龍之助さんに先生はいくつ言語ができるのですか?と質問していた。黒田さんが答えて、「自分でもわからないんですよ」。こういうセリフを言ってみたいと思うが、私の場合、まあ2つ(日本語と英語)というのが無難な答えであろう。その英語がすらすらと口をついて出ないので苦労することが多いというのが現状である。

 さて、その現状を踏まえて、新しい年を迎えての取り組みについて簡単に述べておく。相変わらずラジオの語学講座を聴いている。最近は就寝が遅いので目を覚ますのも遅くなり、朝の語学番組は聞きのがすことが多くなってきた。それでもうつらうつらしながら、7:30からのフランス語の時間を聴くこともある。初級編が10月から続いている久松健一さんの「Pas à pas~ころばぬ先のフランス語入門」で、再放送ということもあり、多少ゆとりをもって聞いているが、ゆとりが油断になりがちなのが要注意。1月から始まった応用編は清岡智比古さんの「そうだ、中級の準備をしよう! 池袋より愛をこめて」はなかなか中級に進めない私にとっては適切な目標を掲げているように思われるが、実際に聞いてみると現代の若者の会話に重点を置いた内容で、うーん、私のような老人には少しきついかもしれないなぁと思っているところである。

 7:45からのイタリア語の時間は、初級編(入門編よりも少し高度)が10月から続いている「サンタとグイードの物語」の再放送で、2度目とはいうもののやはり少し難しさを感じる。応用編は1月から「ニッポンを話そう Parliamo del Giappone」でこれはさらに難しい。第1回、第2回目の放送は歌舞伎についてで、見たこともない歌舞伎をどうやってイタリア人に説明するのかと思わないでもないが、これからは別の話題も取り上げられることだし、さまざまな日本の文化についてイタリア語でどのように説明するのか、わかったところだけでも参考になりそうなので、ぼちぼちと聞いていこうと考えている。

 12:25からラジオ英会話の2回目の放送があり、英会話の時間は結構楽しんで聞いているのだが、出された問題にすべて正解を出せるというわけではないのが、今後の努力を要する点である。その後12:40から月曜日と火曜日は「入門ビジネス英語」、水曜日から金曜日までは「実践ビジネス英語」の時間を聴いている。「入門」の方はかなりの量の話す練習が課せられているが、「実践」の方は会話を聴いてその内容をとらえることに重点が置かれている。聞いたり話したりすることは比較的苦手なので、それを克服するためにもできるだけ聞きのがさないようにしている。

 14:30から「まいにちフランス語」の再放送があり、朝の放送を聴かずにこちらの方だけを聴くことが多くなってきている。15:10から「ワンポイントニュースで英会話」を聴き、その後、「まいにちドイツ語」を聴いている。こちらは入門編、応用編ともに10月からずっと同じ番組である。さらに15:45から「ラジオ英会話」の3回目の放送を聴く。そして16:45から「まいにちイタリア語」の再放送を聴く。

 夜は21:45から「ラジオ英会話」の4回目の放送を聴き、23:15から「ワンポイントニュースで英会話」、23:20から「入門ビジネス英語」か「実践ビジネス英語」の時間を聴いている。また土曜日、日曜日には「攻略! 英語リスニング」の時間と、英会話、ビジネス英語の再放送をまとめて聴くことが多い。もちろん、ほかに用事があったり、映画を見に出かけたりするときは、番組を聞かないこともあるのだが、それでも1日に1番組を最低1回は聞くことにしている(録音する装置をもっていないのである)。

 いろいろな番組を聴いている効果はまだまだ未確認であるが、1月8日の「ラジオ英会話」の時間に I was tied up at work. (仕事で手が離せなくて)という表現が出てきて、そういえば、1月5日の「入門ビジネス英語」の時間には I'm a little tied up right now. (今はちょっと忙しいのです)という言い方を練習したなと、それぞれの時間で学んだ事柄を結び付け始めているところである。

 最近は英語に力を入れていて、その分、他の言語への関心が薄れているような気もするので、書店に出かけたりすると、できるだけその他の言語についての本も眺めるようにして、関心がなくならないように心がけている。黒田龍之助さんの『寄り道ふらふら外国語』(白水社)という本も出たことだし、これからもできるだけ楽しみながら放浪することを心掛けていきたい。

2014年に見た映画から

1月8日(木)晴れ

 昨年=2014年は66本の映画を映画館で見た。既に書いたことであるが、そのうち2本は2度目の観賞で、始めてみた映画は64本ということである。日本映画が43本、外国映画が23本であった。このように日本映画が多いのは、これまでの私の映画経験の中では異例のことである。

 日本映画の新作をできるだけ見るように心がけているのだが、見落とした作品も多い。そのためか、もう一つ感心した作品というのが思い出せないのだが、中から3本を選ぶと『ぼくたちの家族』、『そこのみにて光り輝く』、それに『ほとりの朔子』ということになるだろうか。それぞれに不満もあり、同じ佐藤泰志の作品の映画化ということで『そこのみにて光り輝く』は『海炭市叙景』に及ばないのではないかと思ったりもするのだが、別の意見もあるだろう。鑑賞する作品の数をもう少し増やしたかったというのが実感である。

 それに対して、日本映画の旧作はこれまでになく見たという感じである。それも神保町シアターとシネマヴェーラ渋谷で見た映画の占める割合が多い。その中で一番古い作品が1941(昭和16)年の小津安二郎監督『戸田家の兄妹』であり、さらに川島雄三の監督昇進第1作である『帰って来た男』(1944=昭和19年)がそれに続く。両作品とも映画製作当時の世相を描きこんでいる(その点では『帰って来た男』の方が興味深い)一方で、戦後の、とくに昭和20年代、30年代の日本映画につながる要素を多く含んでいるように思われる。もう少しこのあたりの時代の映画を見ていこうと思っている。古い時代の日本映画をなぜ見るのか、ということだが、過去の日本の生活を同時代の映像を通して見つめなおすということが、自分の育ってきた環境を見つめなおすということにつながってくるからではないかと思う。

 そうした中で、一番強い感動を受けたのは、原作を読んでいるし、第1部だけだが舞台化されたものも見ている島崎藤村原作の『夜明け前』(吉村公三郎監督)で、これは直接私の個人使途はつながらないのだが、もっと一般的な意味で歴史とは何かについて映画がどのように答えることができるかという一つの例ではないかと思う。そのほか、今村昌平の初期の作品『果てしなき欲望』、溝口健二が戦後すぐにつくった『女優須磨子の恋』が印象に残っている。これらもすでに歴史の一コマになりかけている映画である。

 外国映画では相変わらずヨーロッパや中東の作品の方に関心が向かい、アメリカ映画はあまり見なかった。サウジアラビアの『少女は自転車にのって』、ハンガリー・ドイツ合作の『悪童日記』、イタリアの『ローマの教室』の3本を挙げて置こうと思う。このほかに、英国の『ワールズ・エンド 酔っぱらいが世界を救う』についての記事への拍手が多かったのは、今後の参考にしたいと思った事柄であった。外国映画の旧作では、いまさらという感じではあるけれども『ロベレ将軍』、それから、『アメリカの影』をやっと見て、それぞれにいろいろなことを考えさせられた。

 2014年に見た映画全体を通じて、やはり自分史を軸にした歴史への関心が映画観賞の動機の一つになっているようである。が、思い返してみると、劇映画中心で、もう少しドキュメンタリー映画を見た方がよかったのではないかという気もしている。むかし京都でドキュメンタリー映画や実験映画を中心に見る映画サークルに属していたので、そういう初心を忘れたくないと思うからである。 

日記抄(2015年1月1日~7日)

1月7日(水)晴れたり曇ったり、変わりやすい天気であった

 元日から本日にかけて経験した事柄、考えた事柄など:
1月1日
元日やずいと延びたる木々の枝(芙雀)
 (柴田宵曲『古句を観る』(岩波文庫)、30ページ)
 新しい年を迎えると、なんとなく気分が改まって、周りの景色も改まった様子に見えることがある。「延びたる木々の枝」というのは枝が本当に延びたというよりも、そういう気分になったというところが大きいのではないか。

 さて、新しい年を迎えた。1週間の計画は前の週の金曜日ぐらいに立てるのがいいと聞いたことがある。とすると、1年の計画は前の年の遅くとも12月下旬には立てておく方がいいのだろうか。しかし、何も計画しない、自由奔放な生活にあこがれる気持ちがないわけではない。例えばこんな新年の過ごし方もある。
雑煮ぞと引おこされし旅寝かな(路通)
路通は芭蕉の門弟の1人で旅に生きた人。「『備後の鞆にて』という前書がある。旅中の気楽さは元日といえども悠々と朝寝をしている。もう御雑煮が出来ましたから起きて下さい、といわれて漸く起き出すところである。ものに拘束されぬ旅中の元日、殊に路通のような漂泊的人物の元日を如実に見るような気がする」(柴田、同上、27ページ)。こういう元日の迎え方も悪くない。一方で路通のような怪しげな客にも雑煮を出し、その一方でいつまでも寝ているその客の蒲団を遠慮なく剥いで起こす宿の対応も小説的な興味を感じさせる。「備後の鞆」は現在の広島県福山市の一部である。

1月2日
 すでに書いたが、ニッパツ三ツ沢球技場で第93回全国高校サッカー選手権大会の2回戦2試合を観戦する。昨年こそ引越しの準備のために見逃したが、私の年中行事の一つである。しかも、本日は私の生まれた滋賀県の代表である草津東高校と、現在住んでいる神奈川県の代表である日大藤沢高校が出場するのだから、見ないわけにはいかないのである。それで、草津東高校は、福岡県代表で夏のインターハイで優勝した東福岡高校に0-3で敗れたが、日大藤沢高校は山口県代表の高川学園高校を3-2で破り、3回戦に進出した。
 寒さの中で、何人かの売り子が場内でビールを売っていた。「おいしいビールですよ!」というのだが、そういっているご本人がアルコール飲料を飲める年齢なのかどうか、疑問である。

1月3日
 本日も、ニッパツ三ツ沢球技場で第93回全国サッカー選手権大会の3回戦2試合を観戦する。日大藤沢高校は試合を重ねるごとに強さを増しているようで、新潟県代表の開志JSC高校を3-0で破った。
 高校サッカー選手権の会場でも話題になっていたのだが、箱根駅伝では青山学院大学が総合優勝を果たした。選手とスタッフの皆さんの努力と健闘をたたえたい。また参加した選手、さらには様々な形で大会運営に寄与した方々の労力に対して拍手を送りたい。ただ、気になったのは、昨年の末に青山学院大学で教職員の2割が年末の一時金が一方的に減額されたことに対し、提訴したというニュースが報じられたことである。なかなか八方めでたい出来事というのはないものかもしれない。

1月4日
 初夢に相当する夢は見なかったのだが、昨夜、六角橋の商店街と思しき商店街を歩いている夢を見た。まだ時間が早かったようで大半の店のシャッターが閉まっていたのだが、小学校の時の同級生の店を見つけて、ああ、代替わりをしたのだ・・・と思っていた。目が覚めて気づいたのだが、その同級生の店は六角橋にはなかったのである。

1月5日
 NHKラジオまいにちドイツ語は、今週は舞台をドレスデンからマイセンに移して物語が展開する。
Nicht weit von Dresden liegt Meißen. (ドレスデンから遠くないところにマイセンがあります。)
マイセンのアルブレヒト城が宮崎駿のアニメに出てくるような城だとテキストにも書かれているし、番組中でも述べられていたが、逆ではないか、宮崎さんの方がアルブレヒト城をモデルにしてアニメの画面を構想したということではないかと思った。マイセンは陶磁器で有名な町で、その中の名品はしばしばテレビ東京の番組にも登場している。

1月6日
 NHKラジオまいにちフランス語の時間で
Il fait vraiment un temps de chien! (まったく、ひどい天気だ!←直訳すると、犬の天気だ!))という表現が出てきた。
 これは
Il fait un temps à ne pas mettre un chien ehors. ((外で遊ぶのが好きな)犬を外に出せない天候)という意味合いから生まれたものだそうである。最近のわんちゃんの多くが過保護になっているから、un temps de chienは多くなっているかもしれない。
 
1月7日
 七種や八百屋が帳のつけはじめ(汶村)
正月も七日ぐらいになると、ようやく八百屋に用ができ始める。七草粥の関係もあるが、やはりこのあたりから日常の生活に戻り始める、そうしてこれまで通りの生活のペースを取り戻していくということらしい。消費者のほうも、八百屋さんの方もいつもの生活に戻っていくのである。「つい2、3年前まで、われわれもこういう感じを繰返していたのであった」(柴田、同上、36ページ)と昭和10年代に柴田宵曲は記した。今は、もっと生活のペースは速くなっているが、それは喜ぶべきことなのであろうか。

 NHKラジオ英会話にPenny Laneという名前の女性が登場した。ビートルズの歌の題名にこういうのがあったはずで、私がリヴァプールの駅の近くの坂道の中ほどにあるB&Bで暮らしていた時に、Penny Lane行きのバスが通りを通っていくのを見かけたものである。ということは、もともとは地名らしい。

 2015年の最初の1週間、読み終えた本も、観た映画もなく、2015年の2015を目指すといっても、前途遼遠である。本を読んで見つけた他人の句を評釈するよりも、自分で俳句を詠む方が現在の己を表現する手段としてはより誠実だとは思うのだが、なかなかそうはいかない。

ダンテ・アリギエリ『神曲 地獄篇』(19)

1月6日(火)午前中は晴れたり曇ったり、午後風雨が強かったが、夕方になると雨が止む

 第19歌は善と結びつくべき教会を、世俗的な利得のために利用する聖職売買を指弾するダンテの言葉で始まる。地獄の第8圏第3巣窟は聖職売買の罪を犯したものの魂が閉じ込められている。
今、おまえ達に裁きのラッパが鳴り響くことになる。
(276ページ)

 次いでダンテは、フィレンツェの聖ジョヴァンニ洗礼堂の洗礼に使う陶器の器を壊して、窒息しかけていた人の命を救った自分の体験を語り、
この話があらゆる人を偽りから解放する印とならんことを、
(278ページ)と願う。教会の任務は豪華な聖堂の建立ではなく、人類の救済であるはずである。第3巣窟には彼が壊した聖物にそっくりな穴に罪人たちが逆さにして入れられ、
全員の両足裏に火が燃え盛っていて、
そのために膝関節が激しく震えていた、
(同上) 罪人たちの1人にダンテは話しかけることを許される。中世には殺し屋や暗殺者は逆さ吊りで穴に徐々に生き埋めにされ、聖職者が地面に耳をつけ最後の告白を聞く慣わしであった。ここでは教皇が教会あるいはキリストの暗殺者として罰せられていて、俗人であるダンテが告白を聴くことになったのである。そこで罰を受けていたのはローマ貴族オルシーニ家出身の教皇ニコラウスⅢ世であった。彼は自分の一族のものを教皇庁の重要な役職につけた。それは教皇庁の政治的な自立のための措置であったが、教皇庁を世俗的な一政治勢力にしてしまうことでもあった。

余の頭の下には聖職売買にかけては余の先達となりし
同位の者どもが引きずり込まれ、
岩盤の裂け目の中で平らに潰されている。
(282-283ページ) 教皇位は世襲でないために、教皇庁内の人々は勢力を得ようとしてさまざまな特権を売りに出し、それと引き換えに得た金銭を貯めて自らの力を守る手立てとせざるを得なかった。だから彼らは地獄でコインのように丸く平らに潰されているのである。

 ニコラウスⅢ世はボニファティウスⅧ世とクレメンスⅤ世の罪を語る。ボニファティウスは世俗的な権力である国王の力を利用しながら、神聖ローマ帝国の影響力をイタリア半島から排除することに成功したが、その結果強大になったフランス国王に敗れて教皇の権威を失墜させる。クレメンスは教皇庁をローマからアヴィニョンに移し、結局のところフランス王の言いなりになった。

 ダンテは彼の話を聞き、聖書の黙示文学の言葉を使いながら、聖職売買を非難する詩句を歌う。

あの者に対してこのような詩を私が歌っている間、
怒り、あるいは屈辱があの者を引き裂いたからだろうか、
その両足が激しく空を蹴っていた。
(287ページ)

 ダンテの詩を聞いたウェルギリウスは両腕で彼を抱え、彼をもと来た道に戻すと、さらに先へ進もうとする。

そこからは新たな深い谷が私の前に広がっていた。
(288ページ)

 第19歌はダンテ自身がフィレンツェ市の政治にかかわる中で、教皇庁とも実際に交渉に当たり、その実態をよく見聞きしていたためであろうか、彼自身の発言が目立つように思われる。また、彼が自分の個人的な経験を史の中で語るのも異例のことであったそうである。「ダンテはこれまで、イタリア都市国家群の混乱、絶対王制国家への途上にあったフランス王国の台頭、世界平和の使命を持つ神聖ローマ帝国の凋落を検証してきた。そして、この歌において、彼は聖職売買という概念を梃子に、戦乱の根本的な原因を世俗権(政治権力拡張を目指す教皇庁に見出したように思われる」(570ページ)と原さんは解説している。

歴史のために

1月5日(月)晴れ、温暖

歴史のために
 中国の詩人元好問は12世紀から13世紀にかけて中国の北方を支配していた金王朝に役人として仕えていたが、金が元に滅ぼされた後、金の歴史を書くことに没頭した。中国ではある王朝が滅びると、それに取って代わった王朝に仕える学者たちによって、前の王朝の歴史が編纂されるしきたりがあり、自分が書き残した歴史記録が、新たに編纂される歴史に利用されることを期待しての作業であった。
 彼がそのような歴史編纂の作業を歌った詩である「野史亭雨夜感興」を自由に書き換えてみた。

主役ではなくても
当事者としてかかわった出来事もあるし
目撃した出来事もある
文書で確かめた出来事もあるし
噂で聞いただけの出来事もある

いろいろな出来事の記録が
手元にあって
その一つ一つを
できるだけ細い筆を使って
小さな字で 詳しく
かきとめる

戦乱の中から起こった
金は
戦乱によって滅びた
文字の中から
この時代を生きて、死んだ
できるだけ多くの人々の
喜び、悲しみ、苦しみ、悩みが
浮き上がるように
小さな字のひとつひとつに
心を込める

誰かが
読んでくれるだろう
そして書き写し
書き写して
後の時代に伝えてくれるだろう

そうはいっても
老眼に 小さな字はつらい
手のしびれ、指の痛み
頭痛
戦乱と
つかの間の平和の時代の
人々の暮らしと心を
記録する
私の努力は
どこまで続くのか

筆をとめて
深夜のかすかな雨音を聞く
かすかな、かすかな雨音を聞く

2014年の2014を達成できず

1月4日(日)晴れ

 2014年12月はずっと横浜で過ごした。1年を通じてということになると、横浜で189日、東京で176日を過ごしたことになる。足跡を記した都道府県は3都府県、市区は13である。新たに菊名駅と三ツ沢下町駅を利用した。1月からの累計では、鉄道9社、20路線、34駅を利用している。

 ブログに32件の記事を載せた。読書が17件、日記が5件、詩が5件、推理小説が1件、映画が2件、外国語が1件、未分類が1件という内訳である。12月は詩を載せることが多く、それも書き溜めておいたものではなくて、書き下ろしたものが多かった。これは記事の中でも記したように、他のブログから霊感を与えられた場合が少なくない。
 1月からの通算では372件の記事を載せている。頂いたコメントが2件で、1月からの通算が28件、拍手コメントが、1月からの通算が25件、トラックバックはなしで、1月からの通算では11回ということである。拍手を465いただいた。1月からの通算は計算していないが、相当な数になる。

 15冊の本を買い、1月からの購入書籍の合計は160冊となった。利用した書店は10軒である。
 11冊の本を読んだ。著者と題名を列挙すると:
エドワード・D・ホック『怪盗ニック全仕事』、東海林さだお『ショージ君の「料理大好き!」』、エーリヒ・ケストナー『飛ぶ教室』、小倉美惠子『オオカミの護符』、群ようこ『おやじネコは縞模様』、東直己『探偵ホウカン事件日誌』、中島義道『反<絆>論』、今野真二『辞書をよむ』、王敏『禹王と日本人 「治水神」がつなぐ東アジア』、神永正博 小飼弾『未来予測を嗤え!』、東京大学史料編纂所編『日本史の森をゆく』
ということである。1月からの通算では121冊の本を読んだ。買った本に比べて、読んだ本の割合があまり多くないのが問題ではないかと思っている。椎名誠さんの本を8冊、今野真二さんの本を6冊、東海林さだおさんの本を4冊読んでいる。以前にも書いたことだが、今野さんの本を6冊読んだことが今年の読書の一番の特筆自校ではなかろうか。今年読んだ本の中からこれはというものを3冊選ぶと:
柄谷行人『遊動論 柳田国男と山人』
今野真二『辞書からみた日本語の歴史』
小倉美惠子『オオカミの護符』
ということになろうか。原基晶さんによるダンテの『神曲』の翻訳の完成も見落とせない業績であるが、今のところ『地獄篇』史か読み終えていない。このほかに、
諏訪哲二『「プロ教師」の流儀 キレイゴトぬきの教育論』
諸星裕 鈴木典比古『弱肉強食の大学論 生き残る大学・消える大学』
今津孝次郎『学校と暴力』
の3冊の中で展開された教育についての議論から、考えることが多かった。『弱肉強食の大学論』については当ブログでかなり詳しく論じたが、今津さんの著作については、書評が中断したままで、何とか終わりまでこぎつけたいと考えている。このほかにも何冊か、書評が完了していない書物があり、これまた何とか終わらせたいとは思っている。

 5本の映画を見た。それぞれの題名を列挙すると:『大根と人参』、『戸田家の兄妹』、『ストックホルムでワルツを』、『バンクーバーの朝日』、『ゴーン・ガール』である。1月からの通算では66本の作品を見たことになる。ただし、そのうちで『トキワ荘の青春』と『人も歩けば』は2度目の観賞で、始めてみたのは64本である。全部で19館の映画館に出かけた。そのうち、109シネマズMM横浜がこの1月25日で営業をやめるのは残念である。映画については、また別の機会にまとめの文章を書くつもりである。

 サッカーの試合を2試合、年間では7試合観戦した。そのうちJリーグが4試合、天皇杯が1試合、全国高校サッカー選手権が2試合ということである。すべてニッパツ三ツ沢球技場での試合であった。昨年に比べるとかなり減っているのは、しばらく東京で暮らしていたためである。

 以下は年間についてのまとめということになる。
 NHKラジオの「まいにちドイツ語」を179回(4月から12月まで)、「まいにちフランス語」を239回、「まいにちイタリア語」を239回、「入門ビジネス英語」を24回(10月から12月まで)、「実践ビジネス英語」を36回(10月から12月まで)、「攻略!英語リスニング」を24回(10月から12月まで)、「ラジオ英会話」を40回(11月と12月)聴いている。

 NHKカルチャーラジオ「思想史の中のマルクス」を13回、「聖地エルサレムの歴史」を12回、「シェークスピアと名優たち」を13回、「ヘボンさんと日本の開化」を12回、「蕪村の四季」を13回聴いている。またNHKテレビの「100分de名著」の『遠野物語』と『ファーブル昆虫記』をそれぞれ4回ずつ見ている。放送予定を確認しなかったために、視聴しなかった番組があるのが残念である。

 美術関係では檜画廊で毎年開かれている「丸木位里・俊」展、神奈川県立近代美術館<別館>の「ルオーとベン・シャーン展」、音楽関係では別府葉子さんのシャンソン・コンサート、それに神奈川近代文学館の「須賀敦子の世界展」に足を運んでいる。

 宝くじが33枚当たっていた。下の方の当たりばかりである。昨年は年末ジャンボの6等だったかが2枚当たるという珍しい出来事があったのだが、今年はそういうこともなかった。

 ノートを32冊、万年筆のカートリッジをウォーターマン56本、パイロット16本、セーラー2本、修正液を3本、マーカーを2本使い切った。

 アルコールを口にしなかった日が136日ある。2013年に比べてかなり減っているはずである。

 ということで詳しい計算はしないが、いろいろと足し算をして1900を超えるはずではあるが、2014には届かないようである。数え間違いや誤差はあるが、おおよそのところは動かないと思う。引越しの影響がいろいろなところに出た1年であったが、達成できなかった一番の理由は2013年には数の中に入れていたブログへの拍手が今年はそれだけで2014を超える数にまで増えたことなのでそれほど落胆はしていないのである。  

『太平記』(22)

1月3日(土)晴れ、昨日に比べて雲が少なく、三ツ沢グランドで全国高校サッカー選手権の試合を見たのだが、昨日は行きがけにしか見えなかった富士山が、今日は帰り路でも見ることができた。

 都を脱け出し、笠置山に立てこもったものの武運拙く敗れ、囚われの身となった後醍醐天皇とその側近たちは鎌倉幕府による処分を受けることになる。

 倒幕の計画を進めた後醍醐天皇の側近中の側近とみなされ、第2巻で既に鎌倉幕府から日野俊基や資朝とともに死罪に値すると断罪されていた源中納言(北畠)具行は、佐々木(京極)佐渡判官入道道誉に警護されて、鎌倉に向かうことになる。これは表向きのことで、前例から判断して、道中の途中で処刑されることは容易に推測できることであった。『太平記』作者は、「道にて失はるべき由、かねて告げ申す人やありけん」(190ページ、道中で殺されるはずだと、かねてから知らせる人がいたのであろうか)と記しているが、言われなくてもわかっていたのではないかと思われる。現在の京都市の山科区と大津市の間にある相坂(おおさか)の関を越えるときに、
 帰るべき時しなければこれやこの行くを限りの相坂の関
(同上、生きて帰るときがないので、この逢坂の関を超えるのもこれが最後だ。)と詠んだ。これは後撰和歌集に載っている蝉丸の「これやこの行くも帰るも別れつつ知るも知らぬも逢坂の関」を踏まえた和歌である。
 さらに勢多(瀬田)の橋を渡るときには次のような歌を詠んだ。
 今日のみと思ふわが身の夢の世をわたるもかなし勢多の長橋
(同上、今日を限りの身と、夢のようにはかない世を渡るにつけても、この勢多の長橋を渡るのは悲しいことだ。)
都を離れ、近江の国(滋賀県)に入ったばかりのところではあるが、すでに覚悟は決まっていたのである。これまでの例に照らすと、もう少し旅してから殺害されていたようであるが、現在の米原市の一部である柏原まで来たときに、幕府から処刑の様子を見届けるために派遣された探使がやって来て急き立てるので、道誉もやむを得ず、中納言に自分としては何とか赦免の日を待ちたいと思っていたのだが、鎌倉からはやく処刑せよという通達がやって来たので、これも前世からの業とあきらめていただきたいと告げる。具行はこのほどの貴殿のご配慮には感謝している。天皇が隠岐に配流されることが決まった以上、下々の処分について自分がいうことではないといって、あとは口をつぐむ。

 そして硯と紙を取り寄せ、知人に手紙をしたため、その後、処刑の場へと向かう。辞世の頌は
 生死(しょうじ)に逍遥す
 四十二年
 山河一たび革まつて
 大地洞然(とうねん)たり
(192ページ、この世を思うがままに生きること42年。いま死に臨んで山河は様相を変え、大地は広々としている。)というものであった。さらに
 消えかかる露の命の果ては見つさて吾が妻の末ぞゆかしき
(同上、消えかかる露のようにはかないわが命の終わりは見届けた。それにしてもわが妻の将来と、東(あずま=幕府)の滅び行く末を知りたい。吾が妻と東をかけている。)との歌を記した。処刑されようとする身ながら、気持ちはまったく負けていないのである。
 こうして具行卿は首を刎ねられて命を失い、道誉はその菩提を丁重に弔った。具行卿は後醍醐天皇が帥宮であったころから近侍して忠勤をはげんできた人物であるので、おそらくは天皇もその死を深く悼まれたことであろうと作者は記す。

 ここでは北畠具行の自分の信念を貫き、生死に超然としている態度と、それに対して同情的な佐々木道誉を描くことで、この後の歴史の展開を暗示する内容となっている。なお、北畠氏は村上天皇を祖とする村上源氏の中院家の庶流で、北畠具行はそのまた庶流、有名な北畠親房が嫡流であるが、この当時ある事情から出家しており、その子息でこれまた有名な顕家が当主となっていたが、まだ若年ということで従兄の具行が後見する立場にあったそうである。それを護送する佐々木道誉は「婆裟羅」大名として有名で、足利尊氏の生涯の盟友としてこれから『太平記』で活躍することになるが、宇多源氏の流れをくむ武家である。

 関白二条良実の孫で大塔宮の執事であった殿法印(とののほういん)良忠も捕えられるが、後醍醐天皇やその側近の行動が理にかなったものであり、幕府がそれを弾圧することこそ非道であると弁じたために六波羅のほうもたじたじとなり、しばらく処分が保留される。平宰相成輔は倒幕計画に積極的にかかわった1人であったが、鎌倉に連行される途中の相模国早川尻(早川の河口付近)で殺害される(宰相というのは参議のことを言う)。三条公明と洞院実世は命を助けられたが、監視下に置かれることになった。

 こうして幕府による反対派の公卿たちの処分が進むが、公卿たちも(人によって違いはあるだろうが)決して負けてはいないし、それに同情する武士もいないわけではない。何よりも、鎌倉幕府の政治が民心を失おうとしているのが一番の問題であるが、そうはいっても事態が展開するまでにはしばらく時間がかかりそうである。

小倉美惠子『オオカミの護符』(4)

1月2日(金)晴れ、日差しはかなり暖かかったが、風が冷たかった。三ツ沢公園の入り口付近から雪をかぶった富士山を見ることができた。

 「穀物を炊いて、山の頂にお供えする『お炊き上げ』神事が、オオカミ信仰の神社で行われているということの背景に何があるのか。そこに神事が形作られる以前の原点を感じ」(182ページ)、小倉さんは晩秋の三峰山へと向かう。三峰山とは本来、埼玉県の妙法ヶ岳、白岩山、そして東京都の最高峰である雲取山の3つの山の総称であるが、現在では三峰神社の本殿が建つ山をそう呼んでいる。三峰は「奥秩父」、「奥武蔵」と呼ばれ、荒川の最上流部にある。訪れてみると「これまでとは格段に周囲の山の迫力が違う。山から発せられる力のようなものがじんじんと感じられる」(183ページ)と著者は言う。

 三峰神社は「オオカミ信仰の神社としては、御岳山と並んでその規模が大きく、名も通っているが、御岳山の信仰は主に山を南に下って関東平野一帯に広がりを見せ、三峰の信仰は逆に北に山を伝って甲州、信州、上州を抜け、東北の方角に拡がった」(184ページ)。実は小倉さんの協力者である映画監督の由井さんは、信州の三峰信仰を伝える山村の出身であった。ここまで取材を続けてきた小倉さんと由井さんは不思議な感覚を味わった。

 三峰神社の神域に祭られているヤマイヌ型の狛犬は他の神社に比べて格段に多く、それらが皆講中からの奉納であることを考えていると「お犬さま」に対する篤い信仰を窺うことができる。三峯山博物館では、折よく「幻のニホンオオカミ展」が行われており、そこで小倉さんは『日鑑』という神仏分離以前の江戸時代の日記を見つけ、その中に記されていた「御産立(おぼだて)」という行事に関心を抱く。「そこには実際に山に棲むオオカミのお産の鳴き声を山に暮らす百姓が聞きつけ、寺社に知らせてお産のあった場所に供え物をささげた」(187-188ページ)と書かれていた。

 いったん川崎に戻って御産立について調べてみると、「埼玉から東北、信州の山間部では神社の神事としてはなく、庶民の素朴な行いとして『オオカミの産見舞い』と称し、山に赤飯を供えてきたことがわかった」(188ページ)。さらに柳田国男の『山の人生』の中に「御産立」についての記述を見つける。そこで、オオカミのお産の鳴き声は「心直ぐなる者のみこれを聴くことを得べし」(190ページ)という記述を見つける。「心直ぐなる者」とはどのような人を言うのか。

 三峰には「三峰」と「三峯」という2つの表記があるが、地名としては「三峰」、神社の場合は「三峯」と書き分けるのだそうである。三峯神社の神官である千島幸明さんの配慮で、小倉さんは三峯神社の「御焚上祭」の神事に立ち会うことができた。そこではお供物の「赤めし」が何かを語りかけるように思われた。
 「お供物の『赤めし』は、糯米の『赤飯』ではなく、粳の飯を小豆とともに炊き、その上からお酒がかけてある。宝登山神社では白飯、猪狩神社では糯米と雑穀の赤飯、そしてここ三峯では粳米と小豆の赤めし。それぞれに少しずつ内容が異なるが、山の頂にお供えすることは共通していた。
 『赤』という色は、各地で魔除けに使われると聞いたことがあるが、『赤めし』にも何か意味が込められているように思われた」(192ページ)。

 子を産むオオカミの叫び声を聴くことができる「心直ぐなる者」とは、山の「神領民」のことであり、三峰山の社領に住み、社寺に仕えた百姓をさすが、三峯神社の神官である千島さんその人がまさに神領の出身であることが分かった。現在は神社境内に移築されている千島さんの実家の建物の頂には「ノザス」と呼ばれる千木が置かれている。小倉さんは千島さんから江戸時代まで三峰の耕地は、三峯神社ならびに三峯山観音院の社領で、神領民は三峯の社寺に税金を納めるだけでよく、幕府も朝廷も権力が及ばぬ「守護不入」の治外法権の存在であったという話を聞く。神領民たちは、代々焼畑や山仕事に従事しながら三峯神社に仕えてきたという。伝統的な集落は、土地の持つ「自然の恵みの総量」によって決まっており、そのような集落の規模は互いを親身に気遣うことができ、意思疎通が図れる規模でもあったのではないかと小倉さんは考える。われわれの少し前の時代まで、そういう伝統的な生活が維持されてきたということに思い至るのである。

 小倉さんが取材活動を続けていたころと重なるようだが、5年ほど前に青春18きっぷを使って旅行した帰り道、名古屋と豊橋の間あたりで、各駅停車の電車に乗り合わせた老婆が孫らしい子どもたちに向かって北の方に霞む山々を見ながらいろいろと話しかけている場面に出会った。豊橋で乗り換えて、北の方に行けば、その山々に近づくことになり、たぶん、そのことを念頭に置いて話をしているのだろうが、私にとってはただの山でも、おばあさんにとってはふるさとの山、特別の意味をもつ山なのだろうなぁとその様子を眺めていたことを思い出す。そして、ハイネが『ハルツ紀行』の中で、老婆が孫に向かってその昔は自分の花嫁衣裳の一部であったスカートについて、その生地に描かれた花模様の花を数えている孫に向かって話をするという場面を描きだしていることを思い出していたのである。衣服が消耗品ではなく、子々孫々に記憶とともに継承されているような生活についてハイネが語っていたのはもう150年以上も昔のことである。そのハイネの別の本を読んで、柳田国男が山で暮らす人々の生活の中に昔の生活が残っているのではないかという示唆を受けたのも100年以上昔の話になってしまった。が、とにかく、そういう記憶の尻尾を我々は捕まえているし、捕まえた以上離すべきではないのであると思っている次第である。 
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